カテゴリー「妻への挽歌4」の記事

2008/10/05

■節子への挽歌400:「今日、ママンが死んだ」

「今日、ママンが死んだ」
カミユの作品「異邦人」の書き出しの言葉です。
挽歌340で、この言葉について書こうと思っていたのですが、書いているうちに話がそれてしまいました。
いや、書けなくなって、わざとそらしてしまったのですが。
一周忌も終わり、節子の両親への報告も終わり、少し気持ちが整理できて来ましたので、改めて書きます。

「節子が死んだ」。
今も、私にはかなり勇気がいる言葉です。
この言葉を自分で使うことは、節子の死を認めることになるような気がして使えないのです。
今でもなお、節子の死を受け入れられない自分がいます。
おそらく愛する人を失った人は、同じような感覚を持っているでしょう。
愛する人が、愛している自分を置いて行くことなど、ありえないのです。
それこそ、まさに「不条理な話」。あってはならないことなのです。

「今日、ママンが死んだ」
その死を語れる人は幸せです。
しかし、死を語れない人もいる。

「異邦人」を読めば、たぶんわかるでしょうが、ムルソーは母親を愛していました。
だからこそ、「不条理な事件」を起こして、「不条理な死」を迎えるのですが、それを理解してくれているのは「太陽」だけだったのです。
その「不条理さ」が、静かに、しかし深く理解できます。
「今日、ママンが死んだ」
この言葉は、ムルソーの言葉ではなく、カミユの言葉でしかないのかもしれません。

なぜムルソーの言葉ではないと思うかといえば、ムルソーが母を愛しているからです。
「交流しあう自他、両者を隔てる壁を相対化し、その間に横たわる距離を縮め、自分の中に他者を取り込み、他者の中に自分を見出すことのできる心の状態」(片岡寛光「公共の哲学」)こそが愛だとすれば、他者の死は自らの死でもあり、それは語りえないものだからです。
他者の死は体験でき語れても、自らの死は体験できずに語れないことはいうまでもありません。

「今日、ママンが死んだ」
昨日、湯河原に寄ったので、そこに置いていた「異邦人」を持ち帰りました。
もう一度、「異邦人」を読むことにしました。
今度は、節子と一緒に、です。
最近、なぜか節子に会った頃に読んだ本を読み直したくなっています。

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2008/10/04

■節子への挽歌399:節子を見送った後、初めて湯河原で朝を迎えました


節子
昨日は湯河原で泊まりました。
4度目にしてやっと宿泊できました。

湯河原には私たち2人の仕事場があります。
当初は、私の仕事場として確保したのですが、現場志向の仕事に生き方を変えたので不要になってしまいました。
この2年、宿泊したことがありません。
箱根の合宿の後、毎回、ここによったのですが、節子との思い出が強すぎて、毎回、着いた途端に帰りたくなりました。

部屋の窓から見える山並みが、節子の好きな風景でした。
その一つに、勝手に湯河原富士と命名し、スケッチなどしていたのを思い出します。
節子は自然を遊ぶ人でした。
いつも自然の中に素直に入っていき、それを楽しむ人でした。
お風呂の浴槽の横に、節子が近くの浜辺から拾ってきた小さな石でつくったミニガーデンがあります。
節子はこういう、ちょっとした遊びが好きでした。
私も大好きなのですが、節子のはリアル志向で、私のはファンタジー志向でした。
私のは完成したためしはありませんが。

それにしても、節子のいない朝食は恐ろしいほど殺風景です。
節子がいれば、少なくともトーストに野菜サラダ、目玉焼きはあるのですが、今朝はコーヒーだけです。
しかし、野菜サラダなどはどうでもよく、ただただ話し相手の節子がいないのが殺風景なのです。
コーヒーだけでも節子がいれば、最高に幸せな朝食です。
節子の笑顔と話し声があれば、何もいらないのですが、そのいずれもありません。
しかし、きっと部屋のどこかに節子がいるだろうなと思いながら、節子に呼びかけながら、コーヒーを飲みました。

今朝は、窓から見える「湯河原富士」がとてもきれいです。
節子がいたら、これから箱根に行こうと言い出すでしょう。
見ているといろんなことが思い出されます。
室内にも、節子の記憶がたくさん残っています。
障子には、節子が手作りでもみじ葉をはっています。
節子のあそび心は、どんな空間も楽しくしてくれました。

カレンダーを見たら、2006年7月のカレンダーでした。
その月が、2人で来た最後の日だったのでしょう。
最後に来たときの洗濯物が室内にまだ干してありました。
節子の息遣いが少し伝わってくるようです。
節子はとても生活的な女性でした。
それにどうも甘えすぎてきてしまったようです。

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2008/10/03

■節子への挽歌398:秋の箱根は、無性に悲しかったです

20年以上続けている経営道フォーラムのコーディネーター役で、恒例の箱根合宿に来ました。
節子を見送ってから4回目なのですが、箱根には思い出が多すぎるので、結構辛いです。
どこに行っても、節子との思い出があります。
節子が元気だった頃、いろいろなところにたくさん思い出を残そうと話し合っていました。
しかしそれがどうも今は「裏目」になっているような気がします。
思い出を「共有」する人がいなくなってしまうと、思い出はただ悲しいだけです。
今回の会場は強羅なのですが、ここには幸いなことにあまり良い思い出はありません。
彫刻の森美術館で夫婦喧嘩になったことと強羅公園の花が終わっていて殺風景だったことくらいでしょうか。
良い思い出があるところほど辛いということも節子を送った後、知りました。
不思議なことに、両親の場合は反対なのですが。

まだ紅葉には早いのですが、いつになく観光客が多いような気がしました。
私たちと同世代の夫婦も少なくありません。
しかし、みんな意外と話し合っていないのが、気になりました。。
電車の中で話もせずにただ座っている夫婦を見ると、もっと楽しまれるといいですよと声をかけたくなるほどです。
まあ、話せばいいというものでもないですが、せっかく夫婦で来ているのだから、もっともっと時間を大切にしてほしいと、余計なことを考えてしまいます。
楽しそうな観光客の中に一人でいると、やはり思い出すのは節子です。

私たちは、よく話しました。
私は景色を見るよりも、節子と話すのが好きでした。
景色を見るのは、お互いに話し合う材料をもらうためといってもいいくらいです。
節子はともかく、少なくとも私はそうでした。
景色を見ても、話し相手がいなければ意味がありません。
実は、こうしたことは節子がいなくなってから、はっきりとわかったことです。
もしかしたら、新しいコミュニケーション論のヒントがここにあるような気がしてきているのですが、それは挽歌には相応しくないテーマなので、いつか時評編に書くようにします。
節子は、いなくなった後にも、私にたくさんのことを教えてくれています。
その意味でも、節子は私にとっての真の伴侶なのです。

今回は宿泊しないことにしました。
節子は、せっかく行ったんだからゆっくり温泉につかってきたらいいのに、と言うでしょう。
いつもそうでしたから。
しかし、私にはそうした感覚がほぼ皆無なのです。
それは節子が元気だった時からそうでした。
節子と一緒であれば、どこにいても何をしていても充実しているのですが、節子がいないとどこにいても何をしても虚しいのです。
ですから節子のいない今となっては、人生はすべて虚しくなってしまっているわけです。

今日は湯河原で泊まります。
泊まれるかどうか、いささか心配なのですが。

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2008/10/02

■節子への挽歌397:近所同士が支えあうような暮らし方

節子が残してくれたことはたくさんあります。
その一つが、私たちが気持ちよく暮らせるような状況です。

節子が目指していたのは、近所同士が支えあうような暮らし方でした。
前に住んでいたところでは、しかしあまりうまくいきませんでした。
それでここに転居してきた時には、節子は今度こそ近隣で下町のように付き合える関係を育てたいといっていました。
しかし、その活動ができたのは転居してからわずかでした。
病気になってしまったからです。
病気が少し良くなった2年間も、節子は近所づきあいを試みました。
節子は、私と違って、機が熟すのを待つようにゆっくりと進める人でしたから、節子がやれたことは本当にわずかなことでした。
しかしそのおかげで、私たち残された家族もやさしい近所のみなさんに支えられています。
節子が望んでいた文化はちゃんと残っています。
節子にすごく感謝しています。

節子が見ていたのは、近所づきあいだけではありませんでした。
花かご会の活動の先に、節子はそうした活動の輪を市内各所に拡げていきたいと思っていました。
しかし、節子の感覚では、それはかなり先のことでした。
私がいろいろと意見をいっても、あなたのは頭だけで考えているからダメ、と拒否されました。
それでもいろいろと意見は聞いてくれました。

自らの足元から変えていく、これが節子の生き方でした。
どちらかと言うと、理念先行の私には歯がゆく退屈でしたが、次第に節子のやりかたに共感するようになって来ました。
私の生き方は、たぶんこの6年で大きく変わったはずです。
発病した節子が、しっかりと教えてくれたのです。
私は「いい生徒」ではありませんでしたが、節子は「いい先生」でした。
人の幸せは、気持ちよく過ごせる生活の場に尽きると思いますが、節子は私にそれを残していってくれました。
私がいま元気なのは、節子が残してくれた生活の場のおかげです。

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2008/10/01

■節子への挽歌396:習字の仲間が来てくれましたよ

節子
あなたがいつも楽しみにしていた習字の仲間が節子に会いに来てくれました。
いまでも月に2回、習字を学びながら、楽しく談笑されているようです。
節子の話も時々出ているようですよ。

節子は、病気が再発した後も、身体がちょっと不自由になってからも、できるだけ練習日には出かけていました。
いつもとても楽しみにしていましたから。
皆さんにはちょっと迷惑だったのではないかと言う気もしますが、
みんなとても優しい人たちで、節子を明るく受け入れてくれていたのですね。
節子はいつもやさしい人たちにかこまれていましたね。

節子さんは、いつも前向きで、明るく、話していて楽しかった。
病気になっても、そして最後の最後まで、弱音を聞いたことがない。
それがみなさんの節子評でした。

思ったとおりでした。
節子は、自分の弱みは人には見せず、どんな時も明るく振舞うタイプでした。
たぶん驚くほどあっけらかんと、自分の窮状を明るく話していたのではないかと思います。
節子は、そういう人でした。
その明るさの奥にある誠実で真剣な思いを知っている私としては、胸が痛いほどでした。

先生の東さんが、それに節子さんの字はいつも元気があった、と言いました。
たしかに大きな字で、紙からはみ出しそうな勢いがありました。
節子さんはそういう性格なのよね、と東さんは言いましたが、発病してからの節子の気丈さと前向きの生き方は私も見直したほどでした。
苦境に立った時にこそ、その人の本性が見えてきますが、私はそのおかげで、節子に改めて惚れこんだのです。
そのおかげで、今もなお、悲しさから抜け出られないのです。
いやはや困ったものです。

一緒に旅行したり、食事に行ったりした話もしてくれました。
節子からも時々聞いていましたが、あれはこの人たちと行ったのかとか、いろんなことを思い出しました。
節子は気持ちのいい友だちと、私の知らない楽しい体験をいろいろしているのです。
とてもうれしいです。

帰り際に、先生の東さんが、やっとお参りできてよかったとポツリと言いました。
東さんも体調を崩したりして、大変だったようです。

東さんのご主人のお墓は、節子のお墓のすぐ近くです。
毎月、2回、お墓参りに行っているそうですが、毎回、節子のお墓にもお線香をあげてくださっているようです。
節子は気づいていますか。

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2008/09/30

■節子への挽歌395:マリーがよろこばないから

節子
この半月、テレビで放映された映画「ボーン・アイデンティティ」シリーズをDVDに録画して、3回も繰り返し観てしまいました。
最近、DVDで映画を観る時間が増えてしまいました。
映画館に一人で行く気はほとんどなくなってしまったのですが。

最近のアクション映画はどうも作り方が粗雑ですが、このシリーズはとてもよくできていて、何回観てもあきないのです。
観れば観るほど、ていねいなつくりに感心できます。

この映画で、気になるセリフとシーンがあります。
「マリーがよろこばないから」というボーンのセリフです。
口には出しませんが、目でそのセリフをいうシーンもあります。
マリーとは、主人公のボーンの恋人ですが、2作目の冒頭で殺害されます。
国家によって殺人マシンに改造されてしまったボーンは、常に生命を狙われており、自己防衛のために送られてくる刺客を殺さなければならないのですが、マリーはそれを好みません。
そんなことをやっていても、きりがないとボーンに言うのですが、その思いからの一瞬の迷いが結果的にマリーを守ってやれないことになるのです。
シリーズの2作目は、そこから物語が始まります。
ボーンは、マリーの言葉を守って、極力、人を殺すことはしなくなります。
たとえば、ボーンを利用した悪事のボスの一人を追い詰めて、彼が早く殺せという言葉に対して、ボーンが言うのが、この言葉です。
「マリーがよろこばないから、殺しはしない」。
洗脳と記憶喪失で人間をやめていたボーンが、人間を取り戻していくキーワードです。

ちょっと「くささ」のある、何ということのないセリフですが、この言葉が聞きたくて、私はこの映画のDVDを繰り返し観てしまっているのです。
自分ならそんなことができるだろうか。

しかし実際には、私もこういう言葉をよく使っています。
娘たちと話していて、たとえば「節子ならこうするだろうな」「節子ならそうはしない」というように、です。
言葉にはしませんが、何か迷った時には、節子だったらどうしろと言うだろうかと考えます。
節子の判断は、私にはこれまでもいつも頼りになりました。
私と違って、小賢しくなく、素直に考えられる人だったからです。
もっとも、その節子の意見と私の意見とが違った場合、節子が元気だったころは節子の意見に従わず、私の考えを優先させたことが多かったです。
ですからわが家には借金が残ってしまったり、新築したわが家に構造的な問題があったりしてしまっているのですが、私よりも節子の判断が正しいことの多いことは、節子がいなくなってようやく認められるようになりました。
正確」に言えば、そのことは前から知っていましたが、それを認めたくなかったのです。
今から思うと馬鹿げた話ですが、これは私の悪癖の一つでした。
自分が間違っていても、それを素直に認められなかったのです。

節子がいなくなってから、そうしたことはほぼなくなりました。
それ以上に、「節子がよろこばないことはしない」ということが原則になりました。
最近の私の行動規範は、節子に共感してもらえるかどうかです。

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2008/09/29

■節子への挽歌394:リーダーのいない家族工務店

節子
久しぶりに家族工務店が復活しました。
家族3人で節子の位牌壇を置いている場所の改装工事をしたのです。
住宅のメンテナンスをお願いしている会社に見積もりしてもらったら6万円でした。
見積もりをとってくれた娘が、自分たちでやろうと言い出しました。
私も、節子がいたらきっと自分たちでやるだろうなと思いましたので、賛成しました。

節子は生活上のことは、できるだけ自分たちでやるという人でした。
つまり「百姓的生活」者です。
百姓は決して農業の専門家ではなく、生活のための百の姓(仕事)をする生き方です。
私の理想とする生き方ですが、私にはできなかった生き方でもありました。
節子はそれができる人でした。
節子と結婚して以来、私の生活はほとんどすべて節子に支えられだしたのは、そうした節子の百姓的生活志向によるところが大きいです。

私も一応、日曜大工が好きでしたが不器用なのです。
朝日新聞の連載漫画の「ののちゃん」のお父さんと同じで、私のつくる椅子はすぐ壊れ、棚は不安定なのです。
それに途中で飽きてしまって,やめることも少なくありませんでした.
家電製品は分解して、それで終わりなので、直ったためしがありません。
壊れていないものまでも壊すというのが家族の評価でした。

節子と結婚した当初は、私が修繕担当・工事担当でしたが、そんなわけで、ある段階から節子がリーダーになりました。
子どもたちが小さかった頃、節子がベランダのペンキ塗りをやろうと言い出しました。
4人での大仕事でした。
近所の人もきっと驚いたでしょう。
少し仕上げはムラなどがありましたが、うまくいきました。
室内の壁紙貼りも家族の仕事でした。
それが節子の文化で、わが家ではそうした家族工務店活動が盛んでした。
私の還暦祝いで庭に池をつくったのも、この家族工務店です。
下の娘が節子以上に器用なので、その文化を継承しました。
上の娘は私とほぼ同じ性格なので、途中でやめたくなるタイプですが、協力的です。

昨日の日曜日、急にその工務店が復活しました。
3人で近くのDIYのお店に行って材料を買ってきました。
改装工事といっても、石膏ボードで空間をふさぎ、そこに周辺に合わせて壁紙を貼るだけのことですが、目立つところなので綺麗に仕上げないといけません。
壁紙の貼り方は節子が娘に伝授していました。
「リフォームをプロの人に頼んだ時、お母さんはずっとそのやり方を見ていて覚えたんだよ。その人は仕事がしにくかったろうね」
と娘が教えてくれました。
しかし、そのおかげで壁紙貼りはプロ仕様になりました。

結局、材料費などの現金出費は2000円以下でした。
終わった後のケーキ台を含めても3000円。
節子が居たらケーキも作ったでしょうが。

節子の文化のおかげで、わが家は本当に現金出費が少ないのです。
それに百姓的生活は、私にはとても快適です。
疲れますが。

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2008/09/28

■節子への挽歌393:世界は心の鏡

最近はメソメソしていないね、と先日会った友人が言いました。
そんなことはありません。
最初からメソメソしていないし、今もメソメソしているのです。
つまり私の心情には何一つ変化はありません。
そのことは何回も書いてきました。
しかし、よそから見るとそう見えるのかもしれません。

見られる私が、どう見えているかは私にはわかりませんが、
私が見ている風景の変化は実感しています。
同じ風景のはずなのに、節子がいなくなってからは違って見えることが少なくありません。
最近の体験では、滋賀の観音様たちがみんな元気をなくして見えました
わが家の近くの手賀沼公園の風景は、以前は元気を与えてくれた風景でしたが、最近は寂しさを感じさせます。
わが家の庭の花は心なし寂しそうです。
おしゃれなレストランを見ると目を背けたくなります。
さわやかな青空が心を弾ませなくなりました。
テレビの旅行番組には興味が全くなくなりました。
犬の散歩で近所を歩いてもあまり人の気配を感じなくなりました。
なにか気分が高まった新幹線も飛行機も、気が沈む空間になりました。
病院を直視できなくなりました。
なによりも「がん」という文字に強い拒否反応が出てしまいます。

節子と別れてから、世界の風景はまさに自分の心を映していることを知りました。
節子と一緒に見ていた時の上野と、最近の上野はちがいます。
いまはただただ雑多なだけです。
以前はいつも何か新しい発見がありました。
まさに風景の中に、自分が見えるような気がします。

人は、目で世界を見ているのではなく、心で世界を見ているのかもしれません。
首相になりたての福田さんと最近の福田さんは、私には全くの別人に見えます。

節子と私の関係は大きく3回、変わりました。
それに応じて、3人の節子がいるのかもしれません。
結婚する前の節子、結婚してからの節子、そして会えなくなってしまってからの節子。
一番かわいかったのは結婚する前の節子でした。
一番存在感が無いのは結婚してからの節子です。空気のようでした。
しかし、今の節子は、私には神のような存在です。
その、私に生きる意味を与えてくれていた節子の不在が、私にとっての世界の風景を変えてしまったとしても仕方がありません。

人は自分が見たいように世界を見る。
この頃、改めてそう感じています。
もしそうなら、私の見ている世界がまだ元気になっていないとしたら、私自身も間違いなく元気ではないのでしょう。
いつか抜け出せるのでしょうか。

みんなは、元気になってよかったねといってくれますが、それはきっとみんなの希望的な風景なのでしょう。
以前とは全く違った風景が、まだ私の周りを取り巻いています。
1年経ったのに、その風景は変わっていません。

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2008/09/27

■節子への挽歌392:大浦さんとのメールのやりとり

挽歌390を読んだ大浦さんから、メールがきました。

郁代の気持ちに寄り添って頂いてうれしいです。
有り難うございます。
「前の文章は、節子が私たち家族に残してくれた言葉にそっくりです。」
よくわかります。
節子さんと郁代は魂が似通っていたように、私には感じられてなりません。
「そして後者は、私が節子に伝えたかったことなのです。」
私はここで立ち止まります。いつも私が胸に抱えている事だからです。「私が節子に伝えたかったこと」であり、「私が節子に伝えたこと」ではないからです。

お別れが近づくと、送られる人は遺される者に対し、精一杯の感謝を伝えます。
「私はしあわせだったよ。ありがとう!」と。
けれども、見送る者は感謝を伝えることが、苦しくて、できません。
「郁代と出会えてお母さんの人生はしあわせだったよ」と私は娘に言ってあげれませんでした。
別れを認める事が怖くて、できませんでした。
でも、娘はその言葉を一番言って欲しかったに違いありません。
毎日、そのことを思っています。そして、涙がとまりません。
「郁代と出会えてお母さんの人生はしあわせだったよ」が、わたしの「伝えたかったこと」でした。

私も似たような思いを時々持ちました。
最後にきちんと話さなかったことが悔やまれて仕方がなかった時期がありました。
ですから大浦さんの気持ちは痛いほどわかります。
こんなメールを送りました。
こう考えたらどうでしょうか。
誠実に対応していれば、伝えたかったことは伝わるものだ、と。
人の心は、言葉とは別に、そして言葉以上に、相手に伝わります。
郁代さんは、大浦さんの心身のすべてから、大浦さんが伝えたかったことを受け止めていたと思います。
そして、なぜその言葉がいえなかったのかもわかっていたでしょう。
私の体験を思い出せば、そんな気がします。

私の場合は、妻が病気になる前から、節子のおかげで幸せな人生になれたことを言葉でも伝えていたと思います。
意識はしていませんが、そう思っていたからです。
大浦さんもそうだったのではないですか。

節子が息を引き取る直前に、感謝の言葉をきちんと伝えればよかったと思ったことは何回もあります。
しかし、その時は、最後に「ありがとう」というのが精一杯でした。
別れが確実になるのは、最後の最後の一瞬です。
それまでは、大浦さんも書いているように、別れを認めるようなことは一切、できないのが現実です。
最後に冷静に、「いい人生をありがとう」といえるのは、送られるほうだけで、送るほうはそんなことをいえないのが、現実だと思います。
現実は、ドラマとは違うのです。
少なくとも私の場合は、そうでした。
もしまたやり直すことになったとしても、たぶん同じ対応になるでしょう。
そんな気がします。

私も、節子に言いたかったことが山のようにあります。
節子もたぶん山のようにあったことでしょう。
でもお互いにいえなかった。
いや言わなかった。
その気になれば、言えた時間はあったはずなのに。
でも話さなくても、愛する者同士は通じているように思います。

大浦さんからメールが来ました。
私の「伝えたかったこと」を書くことが出来てよかったです。
佐藤さんにならわかって頂けると思うと、気持ちが落ち着きました。
誰かに聞いて貰えるだけでよかったんだと気付きました。
そして、「伝えたかったこと」を書いたんだから、娘にも必ず伝わった、聞いてくれたと思えました。
佐藤さんのブログのおかげで、このような機会が与えられましたこと、感謝いたしております。

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2008/09/26

■節子への挽歌391:曼珠沙華―とても辛かった幸せ

節子
あなたの滋賀の友人から俳画の絵葉書がまた届きました。
無断で掲載してしまいます。
曼珠沙華の絵ですので。
Higanbana2_5

先日から庭に曼珠沙華が咲いています。
この花は凝視できないくらい、たくさんの、しかも重い、節子の思い出があります。


曼珠沙華の球根は有毒です。
それがお墓の周辺に植えられた理由(お墓を動物から守る)だそうです。
そして、彼岸花といわれるように、秋の彼岸の頃に咲くのです。
曼珠沙華の球根をすって、うどん粉でこねて湿布するという民間療法があります。
腹水をなくす効果があるといわれています。
私たちも一度、漢方の薬局に頼んで仕入れてもらって、トライしてみました。
節子は一度でやめました。
あまりあっていなかったようです。
足の裏が炎症をおこしてしまったのです。
当時、私は毎日、節子の足裏をマッサージしていました。
私と節子の、辛いけれども、悲しいけれども、とても幸せな時間でもありました。

曼珠沙華の球根に限らず、わらをもつかむ気持ちで、私たちはいろんなことをやりました。
あまり効果はありませんでしたが、そして節子も私も、娘たちも、みんな辛かったですが、いろんなことに挑戦できるのは、今から考えると実に幸せだったのです。
奇跡のように小さくはありましたが、希望がありました。
なによりも、節子と世界を共有できました。

看病とは、実はとても幸せな時間なのです。
もちろん肉体的にも精神的にも、過酷なほど辛いです。
しかし、目的があり、希望があり、何よりも世界が共有できるのです。

介護疲れで起きる事件は少なくありません。
そうした報道に接した時には、私も節子も、お互いの気持ちがわかるねとよく話しました。
そうした事件には、被害者も加害者もないのです。
新聞やテレビでの解説には、私たちは同意できませんでした。
どんなに過酷でも、結果がどんなに悲惨でも、その瞬間は、2人とも幸せなのです。
誤解されそうですが、私はそう確信しています。

曼珠沙華療法をやめたので、球根がたくさん余りました。
昨年、節子を見送った後、それを庭に植えました。
毎年、節子と共有した、とても辛かった幸せを思い出そうと考えたのです。

庭の曼珠沙華が咲いたよと娘に教えてもらったのは、もうだいぶ前です。
でも今も曼珠沙華は咲いています。
その花を節子に供えようかどうか躊躇していたのですが、節子の親友からの曼珠沙華の俳画を供えることができて、その難問から解放されました。
友だちというのは、心が繋がっているんだと、改めて思いました。
勝っちゃん、ありがとう。

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2008/09/25

■節子への挽歌390:見送るのも、見送られるのも同じなのですね

このブログの読者の大浦さんも、娘の郁代さんを若くして見送っています。
その追悼の本を出版されました。
「あなたにあえてよかった」
北國新聞社出版社から2006年に出版されています。
私は贈ってもらったのですが、読めずにいました。
本の最初に郁代さんの遺書が載っています。
それを読むのが精一杯でした。
大浦さんからは、読めるときがきたら読んでくださいといわれていました。
まだ読めずにいますが、先日、少し読み出せました。
大浦さんからメールがきて、そこに郁代さんの婚約者への遺書の一部が書かれていました。
それを読んで、何だか節子が書いたような、いや私自身が書いたような不思議な気持ちがして、繰り返し繰り返し読みました。
涙が出て仕方がありませんでした。
一部だけ引用させてもらいます。

人よりは少し短めの人生だったけど、この世にまだ未練はたっぷりあるけど、でもとても充実したいい人生だったと思います。
私の意思を尊重し信頼してくれた両親のおかげで、これまで自分の道は自分で決めてこられたし、やりたいことがいろいろ出来たので、後悔は全く無いんだよ。
前の文章は、節子が私たち家族に残してくれた言葉にそっくりです。
そして後者は、私が節子に伝えたかったことなのです。
もしかしたら、愛する人と別れることになった人は、みんな同じ思いを持つのかもしれません。
そんな気がしました。

愛する人を見送るのも、見送られるのも、実は同じことなのです。
私の気持ちは節子の気持ちだったのです。
大浦さんのメールを何回も読んでいるうちに、そして大浦さんから贈ってもらった本を少し読んでいるうちに、そのことに気づきました。

きっと彼岸の節子も、いまの私と同じ気持ちでいるのかもしれません。
見送るのも、見送られるのも同じであるならば、見送られるほうが平安かもしれません。
そう考えたら少しだけ心の平安を感じられました。

ブログを書いていると、元気づけられることが少なくありません。
そして読んでくださっている人をささやかに元気づけていると思うと、うれしいです。

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2008/09/24

■節子への挽歌389:見えないものを見る心遣い

このブログを読んでくださっている中に、私と同じように「愛する人」を見送った方がいます。そのお一人の米田さんはブログにコメントくださいました。
そのなかに、私と同じように、「主人を褒めていただく事が何と嬉しい事か」と書いてきてくださいました。
「お褒めのお言葉は何より嬉しく励まされます。そして、本当に真面目に真剣に生きた主人は、やはり家族の誇りです」と書いています。
とてもよくわかります。
米田さんもそうでしょうが、自分をほめられること以上に、うれしく元気づけられます。

でも多くの人は、目の前の、愛する人を失った人に目を向けます。
それは当然のことです。
たぶん私もそうしてきたし、これからもきっとそうでしょう。
目の前にいる人を気遣うのは、自然の心の動きです。
それはとてもうれしいことです。

にもかかわらず、当事者になって気づいたのは、自分への心遣いよりも、愛する人への心遣いがこれほどにうれしいことなのだということです。
もちろん、ただ愛する人への形式的なほめ言葉は、心には入ってきません。
そこがまた微妙なのですが、目の前にいる私を意識せずに、節子のことに言及されることがうれしいのです。
私を通して、私の中にいる節子を感じてくれ、思ってくれていることが伝わってくるからです。

亡くなった人は戻ってこないのだから、などといわれると、この人は私とは違う世界の人だと感じます。
その人は、私のためを思い、元気づけようといってくださっているのですから、感謝しなければいけないのですが、どうもそうはなりません。
お互いに不幸なことなのですが。

こうした経験をして気づいたのは、見えないものを見ることこそが、心遣いなのだということです。
障害のある人は「かわいそうに」と同情されることを好まないとよくいわれます。
私も体験的に、それを実感していますが、どこか通ずるものを感じます。

ケアとは、見えることへの心遣いだけではなく、
その奥にある見えないことを一緒に見ることなのかもしれません。
見えないものを見る心遣いに、もっと心がけようと思っています。

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2008/09/23

■節子への挽歌388:胡蝶の夢その2

実は、荘子を思い出したのは、節子の夢を見たからではありません。
大学教授の友人が、私に生命論の試論のスケルトンを送ってきたのです。
そこに、「コトの世界」と「モノの世界」との関係が構造化されて論じられていたのですが、それを見ているうちに、思い出したのがなぜか「荘子」の胡蝶の夢だったのです。
その論文は未完ですが、ぜひ早く読ませてほしいと思っています。

それはともかく、昨日の続きです。
いつもの挽歌とは雰囲気が違いますが、この種のシリーズも結構あるのです。
ずっと読んでいてくださっている方はご存知でしょうが。

斉同なるものの一部が失われ、その失われたものを求めて宇宙を旅する。
そんなショートショートを昔書いたことがあります。
節子と会った頃です。
いまは大学の文学部の教授になっている友人に読んでもらった気がしますが、論評に値しない愚作だったようです。
と、ここまで書いて気づいたのですが、読んでもらった友人も、今回生命論の試論を送ってくれた友人も、何と今は同じ大学の教授です。
何と言う偶然でしょうか。

それはそれとして、その幻のショートショートは、節子も読まされたはずです。
しかし、あの名作「金魚が泣いたら地球が揺れた」と同じく、節子には完全に無視されたのを覚えています。
「なにこれ」と言う感じでした。
全く理解されなかったのです。
天才はいつも孤独です。いやはや。

しかし、今にして思えば、私がなぜ節子と結婚しなければいけなかったのかは、当時、私には明確にわかっていたのです。
自分では全く気づいてはいませんでしたが。
節子は、まさに私だったわけです。
荘子は覚の世界では人間に、夢の世界では胡蝶でしたが、私は同じ世界で節子と私を同時に体現していたわけです。
わかってもらえるでしょうか。
わかってはもらえないでしょうね。
何だか夢のような話ですものね。
しかし、私には何だかはっきりと見えてきたような気がします。

そういえば、節子の位牌の前には、昨年も今年も大きな胡蝶蘭が供えられています。
これも偶然でしょうか。
わけのわからない話に突き合わせてしまいました。
すみません。

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2008/09/22

■節子への挽歌387:胡蝶の夢その1

中国の古典の『荘子』に、荘子が見た夢の話があります。

昔者、荘周夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみ志に適へるかな。
周なるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。
荘周とは荘子の本名です。
「蝶となった夢を見て目覚めたところ、自分が蝶の夢を見ていたのか、 あるいは蝶が今、夢を見ていて自分になっているのかわからなくなった」というような意味でしょうか。

夢の中で、節子に会うことが時々あります。
節子の身体を視覚的に確認できることは少ないのですが、気配は感じます。
電話で話すこともあれば、おかしな話ですが、彼岸の節子に会うこともあります。
夢の世界もまた、次元を超え、論理を超えています。
古今東西のSF小説でも、夢の世界と現実の世界が入れ替わる話はいくつかあります。
だれもが一度は願望することなのかもしれません。

この文章に続いて、こうあります。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。
此れを之れ物化と謂ふ。
荘周と胡蝶は別物ですが、荘子は、万物は一つなりという「万物斉同論」を説いています。
荘周と胡蝶も、つまるところは同じものが、姿を変えて「物化」しているだけです。
万物は一刻もとどまることなく生滅変化している。一切の事物に区別はなく、あるときは蝶となり、あるときは人となる。
いずれも、変移の一様相にすぎず、そうした変化を物化と呼ぶ、というわけです。
荘子にとっては、夢と現実の間にも本来的な区別はありません。

この論を進めれば、私も節子も、斉同なるものが一時的に物化しただけのことです。
その節子が失われることで、私の半分が失われ、半身削がれた状況になっているのです。
半分が抜けた物が存在するのであれば、万物斉同ではないではないかといわれそうですが、そうではありません。
以前書いたボームのホログラフィック宇宙モデル論を思い出せば、説明はつくのです。
それに、万物斉同の世界には量の概念や時間の概念がありませんから、半分も全部も同じことなのです。
その正しさを、私は自分の身体感覚で実感しています。

夢の中で節子に会って、そこから私の人生をやり直せるとしたら、どんなに幸せでしょうか。
そうしたことのできる、ホログラフィーはできないものでしょうか。
あと100年もしたらきっとできるでしょう。
それまで待てないのが残念です。

この項は明日に続きます。

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2008/09/21

■節子への挽歌386:彼岸に単身赴任している節子

節子に会えなくなってから1年以上経ちます。
遠く離れてしまうと、仲が良い友人でも1年に会うか会わずの人もいます。
先週も40年ぶりに会った友人もいますし、先日は3年ぶりの人に2人会いました。
2~3年会うことのない友人は少なくありません。
長いこと会わなくても、そうした友人との関係は変わりません。
それに会わなくとも、とりわけさびしい感情は生まれません。
だとしたら、1年会わなかったくらいで、節子との関係が変わるはずもありません。
節子はいま、彼岸に単身赴任していると思えば、なんでもないはずです。

とまあ、理屈でいえば、そういうことになるのですが、実際にはそうはなりません。
会っていなくても、その気になれば会えるのと、その気になっても会えないのとでは、全く違うのです。
実際に会っているかどうかではなく、会える可能性があるかどうかが大切なのです。
「会える」という保証があれば、会えなくてもさびしさは我慢できるでしょう。
しかし「会えない」ことが確実であれば、我慢などできようがありません。
我慢は「希望」がある場合にのみできることなのです。

「来世で会える」という信仰は、「希望」を与えてくれます。
希望があればこそ、見送った者への供養もできます。
希望があればこそ、前を向けます。
来世信仰は、人が生きていくために埋め込まれた最初の「意識」ではないかと思います。
以前書きましたが、人は「死」を獲得したおかげで、人格を獲得し、「愛」を得ました。
愛と死はセットのものですが、それはまた来世信仰ともセットと考えていいでしょう。

節子はいま、彼岸に単身赴任だと考えると気持ちはやわらぎます。
その発想をさらに進めれば、私が此岸(現世)に単身赴任しているともいえます。
しかも私の場合は、娘まで同行してくれたわけです。
「いつかまた会える」という確信が、いまの私に希望を与えてくれています。
きっと同じ立場のみなさんもそうですよね。
大浦さん、米田さん、上原さん、・・・・
きっといつか伴侶に会えますよ。
会えないはずがありません。

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2008/09/20

■節子への挽歌385:無念さの中での祈り

暑い夏は病気を持つ人には辛い季節かもしれません。
昨年の夏は、節子にとっては大変な月でした。
思い出すだけでまだ動悸が高まり、頭が白くなります。

しばらく連絡がなかった若い友人からメールが来ました。
彼の友人が末期がんで亡くなったのだそうです。
まだ30代。小さい子どももいるそうです。
「これからという時に死ぬ無念さは計り知れません。
いろいろ自分のこれからについて真剣に考えねばと思いました。」
と書いてきました。
「無念さ」
まさに「無念さ」です。
死にあるのは、当事者にとってさえ「恐ろしさ」ではなく「無念さ」です。
節子と一緒にいて、そう感じました。

近くの方が相談に来ました。
お世話になっている人が肝臓がんなのですが、8月になって調子が悪くなったようでどうしたらいいかわからないと相談に来たのです。
彼女は相談相手が近くにはいないのです。
節子を見送る前であれば、治癒力を高めるためにこんなものがあるとか、こういうこともいいかもしれないなどと言ったかもしれません。
しかし、今の私にはとても言えません。
「奇跡を信じて祈るしかない」ことを知ってしまったからです。
何もできない無念さを噛みしめて、祈るしかない。
しかも、奇跡が起こることを強く信じて、です。

「無念さ」はいろいろありますが、死に発する「無念さ」は特別のものです。
悔しいとか残念さとはちょっと違うのです。
なにしろ復元しようのない現実への直面なのですから、文字通り「取り返しようのない喪失」であり、新しい世界への移行です。
これまでのあらゆるものが、一挙に崩れ去ります。
価値も価値観も、です。
つまりこれまで営々と築き上げてきた自分の世界が、一挙に失われるのです。
仏教での「無念さ」は、無心、夢想と同じく、囚われた心がないことです。
もちろんそれとも違いますが、どこかで少しつながっています。

人生は本当に無常です。
無念さの中で、私も祈らせてもらっています。


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2008/09/19

■節子への挽歌384:花は人をつないでいきます

節子の本拠地は、いまもなおわが家と考えていますが、やはりお墓も気になります。
それで毎週、日曜日に娘を誘ってお墓参りに行っています。
行く前に、節子の位牌に向かって、「これからお墓参りに行ってくる」と声をかけて出かけ、戻ったら報告します。
これは論理的ではありませんが、何しろ節子は彼岸に住んでいますので、現世の瑣末な論理など超えているのです。

先週は、節子の出身地の滋賀に行っていましたので、お墓には行けませんでした。
ところが、私に代わって、花かご会の皆さんがお墓参りに行ってくださったのだそうです。
それも花かご会が手入れしている我孫子駅前の花壇で咲いた花を持っていってくれたのです。
節子はとても喜んでいるでしょう。

花かご会の活動は、節子の支えであり誇りでした。
とてもやさしいメンバーに恵まれ、しかも提案者だったこともあり、みんなが節子を立ててくれていたのです。
とてもいい仲間で花かご会に行くと元気が出ると節子はいつも話していました。
そして病気が再発した後も、仕事場に出かけていくこともありました。
もちろん仕事には参加できませんでしたが、みんなに会って、節子はとても楽しそうでした。
花が好きな人は、みんな気持ちのよい、やさしい人です。

先週、私が留守の間に近くの岡村さん家族が庭のランタナの花を献花に来てくださいました。
ランタナは私の大好きな花です。
その前の週には、吉田さんが花を持ってきてくれました。
節子の花好きは、近所のみなさんも知ってくださっています。

花は人をつないでいきます。
節子はそのことをよく知っていました。
旅行中に、見ず知らずの家に、庭の花を見せてくださいととびこんだこともあります。
そこからは花の苗までもらってきました。
節子が元気だったら、その家をまた訪ねていたでしょうが、私一人ではとても行けそうもありません。

花でつながった人たちに、いまも節子はしっかりとつながっているようです。

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2008/09/18

■節子への挽歌383:無意味なことを話せる存在

節子
最近また、いろいろな人と会うことが多くなりました。
節子と同じで、私も友人にはとても恵まれていますし、知人もたくさんいます。
そういう人がいろいろと会いにきてくれます。
半分以上は、特に用事があるわけではありません。
一応、相談などと言っていますが、雑談で帰る人のほうが多いです。
これは昔からそうでした。
あの人は一体何のために来たのだろうかといぶかしく思うことも少なくありません。
長い人は3時間もいます。

おかげで、私は時間をもてあますことはありません。
たくさんのとても気持ちのいい人に囲まれていて、話し相手には事欠かないからです。

しかし、どんなにたくさんの話し相手がいても、その人たちには出来ないことがあります。
それは、私のすべての体験に私と同じように関心を持ってくれることです。
節子はそうでした。
伴侶とはおそらくそういうものでしょう。
そうしたことが意識的にではなく、自然にできてしまう関係が夫婦かもしれません。
お互いに、全生活を共有し、相手の体験に関心を持つ関係といってもいいでしょう。

もちろん夫婦とはいえ、別の人格を持つ2人が生活体験をすべて共有することなどできるはずはありません。
しかし、相手の全生活が自分の生活と繋がっていることを実感できれば、その体験に無関心ではなくなります。
損得や理屈で、関心事が選ばれることはありません。
そういう何でも関心を持ってもらえ、なんでも話し合える存在がいないことはさびしいものです。
伴侶を失って、このことが一番辛いことかもしれません。

小難しい言い方をしましたが、要するに、外で体験してきたことを話す相手がいなくなってしまったということです。

私はいま、2人の娘と同居しています。
2人とも私の話を聞いてくれますし、私にも話してくれます。
しかし、女房のようには関心を持ってくれませんし、私もすべてを話そうとは思いません。
彼女らにとっては全く別の世界の話なのですから。
節子だったら、とても喜んでくれるだろうし、悲しんだり怒ったりしてくれるだろう、と思うことも、彼女たちには関心の埒外のことが多いでしょう。
夫婦とは実に不思議な関係です。

-一切の理屈を超えて、何でも話せて、喜怒哀楽を自然と共有できる人がいることが、どれほど幸せなことであり、心安らぐことなのか。
伴侶がいることのありがたさを、もっと多くの人に知ってほしいです。

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2008/09/17

■節子への挽歌382:2枚の絵手紙

節子
あなたの絵手紙仲間から絵手紙が2枚届きました。
宛先は私になっていますが、間違いなくこの2枚の手紙は節子宛です。
おそらく彼女たちは節子をイメージしながら書いているはずです。
彼女たちの世界には、まだ節子は元気にいるのです。

2人とも滋賀に住んでいますから、これまでもあまり会うことはありませんでした。
毎年、3人で会うようになったのは数年前からです。
ちょうど子どもたちも独立し、時間が出来てくるにつれて、お互いに会う余裕が高まってくるのが、たぶん50代の後半くらいでしょうか。
これからは一緒に旅行もしようねと話していると、節子から聞いたことがあります。
しかし、そうしだした、まさにその時に、節子の病気が発見されてしまったのです。
そういえば、先週、敦賀に行った時、節子の姉も、これからはお互いに行き来し、一緒に旅行しようねと言っていたのに、ちょっとの間しかできなかったと涙ながらに話してくれました。

私がとても不憫に思うのは、これからそういう形で自分の時間をしっかりと楽しめる年齢になった頃に、節子が発病してしまったことです。
それまで、節子は私の勝手な生き方をほんとうによく支えてくれました。
私自身も、その生き方を変えて、夫婦で旅行などをもっとしようと思い出した矢先でもあったのです。

それでも節子は、病気になっても、いや病気になったからこそ、たくさんの友だちと交流を深めました。
その期間はそれほど長かったわけではありませんが、節子は誠実に真剣に付き合ったような気がします。
ですから節子が亡くなったいまも、花が届き手紙が届いているのです。
病気になってからの節子の生き方は見事でした。
私が節子に改めて惚れこんだのは、そのせいでもあります。
病気になってからの節子は、私には輝くような存在でした。

自分で言うのもなんですが、私もその節子の生き方に誠実に寄り添ったつもりです。
とても満点とはいえませんし、かなり節子に甘えていたとは思いますが、当時の私としてはそれなりにがんばりました。
節子の友人たちとも出来るだけ会いました。
ですから、節子の友人も、私宛に節子への手紙を出せるのではないかと思います。
いなくなってしまった節子の受け皿に、もしなれているとしたら、これほどうれしいことはありません。

節子の法事の節目にも、私は節子の友人たちに節子に代わってのつもりで手紙を書いています。
私の心の中では節子とはまだ一体です。
節子ならこうするだろうなというのが、私の行動の出発点です。
そんな私の気持ちが、もしかしたら少しは節子の友人にも伝わっているかもしれません。
そして、それがまた私に返ってきて、私の中にいる節子を元気にしてくれるわけです。

節子の友だちからの2枚の絵手紙。
節子がそうしていたように、節子の寝室の壁に貼っておこうと思います。
節子はいつも友だちの葉書を枕元にたくさん貼っていましたから。

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2008/09/16

■節子への挽歌381:節子がいろいろなところに残している贈り物

節子
敦賀で西福寺に行ってきました。
最後に節子と来た時には阿弥陀堂が改修中だったおかげで、足組みを使って屋根裏まで上らせてもらえました。
節子も初めての経験で喜んでいました
ライトアップされた庭も幻想的でした。
節子も私も、改修が終えたらまた来ようといっていたのに、それが実現できませんでした。
とても無念で、でも敦賀に行ったら、ここだけはもう一度行こうと心に決めていました。

改修は終わっていました。
入り口に参拝者の記帳簿がありましたので、節子の名前を探しましたが、なぜか出てきません。
何回も見直したのですが、出てきません。
一度は諦めたのですが、絶対に署名したはずだと思い、もう一度調べてみました。
念のために前の年を調べてみたら、そこにありました。
080914_22年続けてきていたのです。
最後の時は夜でしたので、記帳しなかったのです。
見慣れた節子の字で、私の名前も一緒に書かれていました。
その文字を見た途端に、不思議なあたたかさが心身を包むような気がしました。
久しぶりに節子に会えたようで、とてもうれしい瞬間でした。

私は寺社でも展覧会でも、名前を残すことに消極的ですが、節子は記帳が好きでした。
そしていつも私の名前も書き添えてくれました。
こういう事態を節子は想定していたのでしょうか。
節子が署名してくれていたおかげで、心があたたかくなりました。
これから節子と一緒に行ったところでは、いつも節子の名前を探してみようと思いました。
節子の名前に出会えると、きっとうれしくなるでしょうね。

たった1行の文字ですが、そこに節子の思い出が凝縮しているのです。
節子と一緒に行ったさまざまなところに、こういう形で私たちの名前が残っている。
そこに行けば、節子の肉筆の文字があり、その日のことが鮮明に思い出せるのです。
そう考えるとうれしくなります。
残されたものへのあたたかな贈り物です。
やはり生きた痕跡は、いろんなところに残した方がいいのかもそれません。

今度はどこで節子の名前に出会えるでしょうか。
私のことを、いつもいつも気遣ってくれていた、本当によい女房でした。

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2008/09/15

■節子への挽歌380:観音の慈悲

節子
今日、自宅に戻ってきました。
昨日帰る予定だったのですが、敦賀の姉夫婦に引き止められてしまったのです。
私自身は節子がいる自宅に早く戻りたかったのですが、姉夫婦の気持ちを考えると帰れなくなりました。
妹をなくした姉にとっては、私がいることで節子のことを感じられるのかもしれません。
それで昨日は、節子の両親の墓に報告に行った後、姉夫婦と節子と一緒によくいっていた高月の観音に会いに行ってきました。

節子の実家は滋賀の高月町です。
高月町は「かんのんの里」として有名です。
井上靖が絶賛した渡岸寺の十一面観音があるばかりでなく、周辺に素晴らしい観音様がたくさんいます。
今回は渡岸寺と石道寺の十一面観音をお参りしました。

ところがです。
2人の観音様のいずれもがなんだか以前と違うのです。
輝いていないというか、とても小さく見えるのです。
こんなに退屈な観音様だったとさえ一瞬思ってしまいました。
私の気が萎えているのかもしれません。
節子が観音の生気を持っていってしまったのかもしれません。
不謹慎ですが、とても失望してしまいました。

実は、私を節子に引き合わせてくれたのは、観音たちだという思いが、私にはずっとあります。
そして節子は何時のころか、私には観音のように感じられるようになりました。
観音が節子に乗り移り、その節子が逝ってしまった。
観音はもう私には無縁の存在になったのかもしれません。
そんな気がしてきました。

節子との暮らしは、観音に恋した私に、観音が見させてくれた一夜の夢だったのかもしれません。
観音の慈悲とは何なのでしょうか。
それを確かめる方法が一つあります。
いつか確かめてみるつもりです。
また報告できるかもしれません。

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2008/09/14

■節子への挽歌379:節子は本当に夫不幸な女房です。

節子
今日はあなたに報告したいことが山ほどあります。
おいおい書くとして、まずは節子の両親への報告の話です。

姉夫婦と一緒に節子の実家にあるお墓にお参りし、節子の両親に報告してきました。
節子と何回もお参りしたお墓です。
まさか私一人でお参りすることになろうとは思ってもいませんでした。
お墓の前に立った途端に、節子のすべての思い出が溢れ出てきて、涙をこらえ切れませんでした。
節子をまもってやれなかったことで、節子の両親との約束を守れませんでした。
ほぼすべての人の反対を押し切って、両親が結婚を許してくれたのは、私を信頼してくれたからです。
その信頼に応えることができなかった。
両親にわびる言葉が見つかりませんでした。

節子の実家にはあまりにたくさんの思い出があり、できればもう来たくないと思っています。
生々しい思い出がありすぎます。
節子と一緒でないと、とてもいたたまれません。
それに、道で人に会っても何と挨拶したらいいでしょうか。
みんなからは、「やさしい夫」と思われていました。
今はそれも地に堕ちました。
女房を守ってやれなかった「弱い夫」でしかなかったのですから。

節子の郷里では、節子はいつも私をかばってくれました。
全くの異邦人である私が、みんなに受け入れられたのは節子のおかげです。
節子がいればこそ、この在所での私の居場所もつくれたのです。
そしてそうした経験が、私の人生観にとても大きな影響を与えたことは間違いありません。
思い出すほどに、節子のやさしさが胸を突きます。

墓参りに前後して、いくつかのお寺と観音様のところにいきました。
節子と一緒にいった中でも、2人がとても好きな、そして思い出のあるところです。
その、どこにいっても節子の笑顔が感じられます。
そして寂しさが募ります。

何でお前はいないのか、
何で私一人なのか、
節子は本当に夫不幸な女房です。
悲しくて、寂しくて、恋しくて、愛しくて、仕方がありません。
やはり滋賀には来るべきではありませんでした。

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2008/09/13

■節子への挽歌378:とても辛かった結婚式

節子
昨日から滋賀に来ています。
今日は節子の姪の結婚式だったのですが、節子がいないので私にはうれしさも半減の結婚式でした。
節子がいなくなってから初めて会う人も少なくなかったのですが、できるだけ節子の話はしないようにしていました。
すれば涙が出てくるに違いありませんので。
先方も触れることがありませんでした。
気のせいでしょうが、なんだかとても落ち着かない気がしました。
もちろんがんばって笑顔をつくっていましたが。

結婚式の最後に、新郎新婦から両親への謝辞が述べられました。
それを聴いていて、節子にこの体験をさせてやれなかったことを心から悔やみました。
節子には母親の喜びを与えられなかったような気がしてきたのです。
まだ私たちの娘たちはいずれも結婚していないのです。
もちろんそれは娘たちの問題ではありますが、節子と私の責任も大きいでしょう。
しかし理由や責任はどうであれ、節子がこの機会をもてなかったことは悔やんでも悔やみきれません。

結婚式は大津の近江神宮でした。
ここも節子との思い出のあるところです。
大津の町も私たちの思い出の多い場所です。よく一緒に歩きました。
そんなこともいろいろと思い出してしまいました。

結婚式の終了後、敦賀にいる節子の姉夫婦の家で泊まらせてもらいました。
節子とよく泊めてもらったところです。
ここにも節子との思い出が、山のようにあります。
姉夫婦と話していると、節子がいないのが嘘のようです。

結婚式でおめでたい日だったにもかかわらず、私にはとても辛い1日でした。

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2008/09/12

■節子への挽歌377:「お元気そうな声を聞いて安心しました」

節子
もう1週間前になりますが、浦和の伊東さんから電話がありました。
昨年、献花に来てくれた時に、たぶん私たち家族から「気」が抜けていたのを感じていたのかもしれません。
以来、ずっと心配していてくれたのです。
電話の最後に、「お元気そうな声を聞いて安心しました」といわれました。
最近、電話でよくいわれる言葉です。
前にも書いたのですが、私自身は感じてはいないのですが、どうも私の言葉の表情は変化しているようです。

伊藤さんは、ある宗教の信徒ですが、その宗教の故人を供養する場でいつも節子を供養してくれているようです。
そういえば、福岡の加野さんも篠栗の大日寺の施餓鬼会で節子を供養してくれたそうです。
いろんな人がいろんなところで、節子を供養してくれています。
うれしいことです。

私もそうした心をもっと高めたいと思っていますが、それはそう簡単なことではありません。
長年の生き方に裏打ちされてこそ、持続できるのです。
生まれながらのものとは思いたくありませんが、その要素もあるように思います。
多くの場合、人は言葉と心は一致しません。
言葉には人の心が現われますが、それは「言葉の内容」とは全く無縁です。
反対のことも少なくありません。
私自身、長い人生で言葉だけか心からの思いからかは、それなりにわかっていました。
しかし、心が弱くなっていると、言葉の奥の心が恐ろしいほどにわかります。
節子がいなくなって1年。そのことを強く感じます。
人に会うのがこわくなったのは、そのためです。
最近はかなり慣れてきましたが、それでも恐ろしいほど見えてしまうのです。
おそらく私と同じ状況にある人はみんな同じなのではないかと思います。

いじめられた子や弱い子が、そうした感受性を強めすぎ、戻れなくなってしまうのがわかるような気がします。
弱い魂には、真実が見えすぎるほど見えるのです。
私は、これまであまり見えませんでした。
病気になってからの節子にはそれがとても良く見えていたような気がします。
だから節子はやさしくなれたのだろうと思います。
節子の、私へのやさしさは言葉では表わせません。
そして、私にもやさしさを教えようとしたのです。
私がそれに気づいたのは、恥ずかしいことに、最近です。
正確にいえば、この挽歌を書き続けてきたおかげです。
それに気づくまでは、私は自分が「心やさしい人間」だと自負していたのです。
全く恥ずかしい話です。

それに気づいたから、私の声に元気が出てきたのかもしれません。
節子にちょっとほめてもらえるでしょうか。
ほめてもらえると、うれしいです。

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2008/09/11

■節子への挽歌376:愛する人を亡くした人に元気を与える秘訣は、愛する人のことをほめること

一周忌の前後に、いろんな方からお手紙をもらいました。
その中に、節子に会ったことのなかった女性の方からの手紙がありました。
とても長い手紙でした。
節子に読んで聞かせたい文章が出てきました。
親馬鹿ならぬ夫馬鹿な行為として、引用をお許しください。

お会いした事は一度もございませんが、いつも頂戴していたお葉書のやさしい文章や達筆な文字に、私がファンにならない筈がありません。
お会いできなかった事は大きな悔いを残してしまったように思います。
節子は病気になってからは字がうまくかけないといつもぼやいていましたが、手紙を書くのが好きでした。
この女性は、私の友人の奥様です。
友人にお世話になった時に、私の代わりに節子がいつも礼状を書いてくれていたのです。
それがわが家の役割分担でした。
その方は、節子の手紙が気に入ってくださったのです。
節子は昨年の春以来、手紙が書けなくなり、その人からの手紙を読むほうにまわっていましたが、今回いただいた彼女からの手紙は節子に読ませたかったです。
ずっと節子の位牌の前に置いておきましたから、きっと読んだでしょうが。

いただいた花にこんなメッセージもありました。
「もう1年、節子さんの笑顔を思いだして」
娘の友人は、「お母様の優しさを思い出します」と書いてくれました。
いろいろな人が、いろいろな形で、節子を偲んでくれているのです。

先日、オフィスに久しぶりに来てくれた若い友人は、
私たち夫婦の関係について、とても興味があるようで、いろいろと質問されました。
彼はまだ夫婦暦は10年強なので、まだ10年早いよと応えましたが、夫婦暦40年にもなると、伴侶の喜怒哀楽はすべて自分のそれと同値になるような気がします。
主体性の弱い私だけのことかもしれませんが。
若い友人は、どうしたらそうなるのか興味を持ったわけです。

このブログを読んで、奥さんに会いたかったという人が何人かいました。
手紙も何通かもらいました。
このブログではきっと節子のことが美化されているのでしょうね。
しかし、私の正直な気持ちは、これでもかなり抑え目に書いているのです。
まあ、娘とはかなり評価はわかれるのですが。

伴侶をほめてもらうことがこんなにうれしいことなんだと、最近改めて思います。
しかし、奥さんのことばかり考えていると奥さんが悲しむよと言う人もいます。
これはたぶん「禁句」です。
生きている人のことを思っての発言なのですが、愛する人を亡くした人は、自分よりも愛する人のことを大切に考えているのです。
ですから、そういってくれる人の思いやりは理解できますが、心は冷えてしまいます。

愛する人を亡くした人に元気を与える秘訣は、愛する人のことをほめることと、その思いに浸っていることを肯定してやることかもしれません。
まあ、人によって違うでしょうが、私の場合はそうです。
これは、当事者になって初めてわかることかもしれません。
人の心は本当に微妙で複雑です。

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2008/09/10

■節子への挽歌375:人生は終わったのに、悲しさは消えないです

今成さんに会いました。
節子には話していませんでしたが、今成さんのパートナーは節子よりも1年先に亡くなりました。
節子と同じ病気でしたので、節子にはとても言えませんでした。
言えないだけではなく、そのことが受け入れられなかったのです。
ですから、それを知りながら今成さんには声をかけられずにいました。
声をかけたら、必ず節子にわかってしまうだろうという奇妙な確信があったのです。
ですから私の中では、そのことは「ないこと」だったのです。

にもかかわらず、今成さんは節子の葬儀に来てくれました。
節子の訃報は私の関係者には原則として伝えなかったのですが、この種の話はまわってしまうもののようです。
落ち着いたら連絡しようと思いながら、なぜか連絡できませんでした。

節子の命日に、今成さんからDVDが届きました。
今成さんの性格を考えると、これは意図されたことではなく、意味のある偶然です。
そのせいか不思議にも自然に会えるような気がしてきました。
DVDは、今成さんが製作した自主映画「おとうふ」です。
奥さんを亡くされた後、今成さんが打ち込んでいた映画だと聞いていました。

そして昨日、今成さんに会いました。
今成さんは、私と同じ意味で元気そうでした。
会うなり、「人生は終わりました」というのです。
私も全く同じ感覚でした。
私たちは、「一つの人生」を終わったのです。

思い出せば、今成さんとの出会いは不思議な出会いでした。
たしか節子には、その話をしたはずです。
今日は2時間半、今成さんと一緒でしたが、なぜかあの最初の出会いを思い出しました。
あの時もこうだったのではないかという気がしました。
もちろんそんなはずはないですが、今回も今成さんは自らの過去と現在と未来のすべてを語りました。
なぜか、彼岸で会っているような気がしました。

別れ際に今成さんがいいました。
「でも悲しさは消えないです」
本当にそうです。
伴侶を亡くした者同士、言葉を介さずとも通ずることがたくさんあります。
一つ肩の荷がおりました。

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2008/09/09

■節子への挽歌374:「そうか君はもういないのか」の連鎖

城山三郎さんの「そうか君はもういないのか」が、先日、NHKテレビで話題にされたせいか、関連記事へのアクセスが増えています。
このブログを読んで、早速、同書を買ったと言ってきた人もいますが、私自身はまだ購入もしていません。
なんだか読めないような気が、まだしているのです。

「そうか君はもういないのか」と言っていた城山三郎さんも、今はもういなくなりました。
今は、城山さんの娘さんがきっと、「そうかもう父はいないのか」と思っていることでしょう。
そうやって人の歴史は続いていく。
「そうか君はもういないのか」は人が生き続ける限り存在する、不滅の連鎖用語なのです。

「節子はもういないのか」と考える私も、いつかいなくなるでしょう。
その時、「修はもういないのか」と言ってくれる人がどれだけいるか。
そこにこそ、私の生きた証があるように思います。
自分が生きた証を残すために立派な作品を残す人もいますが、
私は、そうしたものには全く興味がありません。
それどころか、ついしばらく前までは、生きた証を残すことにはむしろ否定的でした。
証を残すために生きているような人は、私には理解を超える人でした。
しかし、節子がいなくなって、そうした考えが変わりだしました。
生きた証は、本人の思いとは全く関係なく、残ることを知りました。

大切なのは、どこに残るかです。
私が改めてとてもうれしく思ったのは、
「そうか節子はもういないのか」と思っている人が多いことです。
思いも知れない人が、花をもってきてくださったり、手紙をくださったりするのです。
そういう時には、節子は今も生きていると思えて、とてもうれしいです。

人の生きた証は、その人と触れた人の心の中に残ります。
そして、その人の生きた証として、次の人に伝わっていく。
いつか名前は消えていくでしょうが、それと同時にもっと大きな生の証となって、残っていく。
最近、そんな実感がもてるようになって来ました。
すべての人の生が、今の私の生を支えてくれているのです。
一条真也さんが、著書の「愛する人を亡くした人へ」でこう書いています。

現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、
はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きている。
わたしたちは個体としての生物ではなくひとつの生命として、過去も現在も未来も一緒に生きるわけです。
まさにそうだなと、改めて実感できました。

その証を伝えるのは、しかし、女性たちかもしれないという気も強くなっています。
それは、子どもを生むことのできる女性に埋め込まれた生命の伝承のシステムかもしれません。
城山さんは「そうかもう君はいないのか」と言っていたそうですし、私も毎日、そう思い続けています。
しかし、本当は、江藤淳さんのように、城山さんも後を追いたかったのではないかと思います。
少なくとも私はそうでした。
それができないから、半身を削がれたまま生きているわけですが。

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2008/09/08

■節子への挽歌373:倉敷市で語られた節子の名前

節子
一周忌に来てくれた倉敷市の友澤さんからきいた話には驚きました。

先月、倉敷市で前我孫子市長の福嶋さんの講演会があり、友澤さんご夫妻は聴きに行ったのだそうです。
講演後、福嶋さんのところに挨拶に行き、節子のおかげで我孫子市にも縁ができ、昨年,我孫子に行ったと話したのだそうです。
そうしたら、福嶋さんが顔色を変えて、「節子さんは亡くなったのですか」と驚いたのだそうです。
驚いたのは友澤さんご夫妻のほうもで、まさか節子のことを市長が知っているとは思ってもいなかったのです。
それがうれしくて、今回、ぜひとも私に伝えたかったのだそうです。
私もその話にはいささか驚きを感じました。

節子は福嶋前市長とは何回か会っています。
民生委員をしていましたし、我孫子駅前の花壇整備の活動にも取り組んでいました。
でも福嶋さんが節子の名前を覚えていたとは驚きでした。

私も当初は福嶋さんを応援していました。
我孫子市で総合計画を策定する時には、福嶋さんが指名してくれて、私も審議委員になりました。
しかし、次第に福嶋さんの市政は私には違和感のあるものになっていきました。
3期目になってからはあまり良い関係ではありませんでした。
そして2年ほど前に関係は決裂してしまいました。
最後の話し合いに行く時、節子は私に興奮して喧嘩にならないようにと注意しました。
しかし、その注意を私は守ることができませんでした。
そのことを思い出しました。

そんなこともありましたので、この話に私はとても複雑な気持ちになりました。
節子の訃報に驚いて反応してくれた。
ただそれだけの話ですが、何だか急に福嶋さんに会いたい気持ちになりました。
人間は本当に勝手な生き物です。

しかしこの話には節子のメッセージが込められているのかもしれません。
節子は今もなお、私のことを心配してくれているような気がします。
ちょうど友澤さんからこの話を聞いた翌日、我孫子市のNPOの人たちから呼び出され話をしていたら、市議の人たちもやってきてくれました。
そろそろ戻って来いといわれた感じです。
これも節子の差し金でしょうか。

節子
今度福嶋さんに会ったら仲直りするようにします。

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2008/09/07

■節子への挽歌372:しんじゃうまえ おうちのまえのおはなをありがとう

一周忌に献花に来てくださった人のなかに、近所の6歳のかおりちゃんがいます。
私はその時、別の方と話していたのですが、後で仏壇の前に折り紙で折った犬の顔が置いてあり、そこにメッセージが書かれていました。
表題は、その一部です。
「おばちゃん しんじゃうまえ かおりのおうちのまえのおはなをありがとう」
なんかとてもリアルですね。
でも子どもの言葉だと素直に心にはいるのが不思議です。
節子が喜んで大笑いしながら、彼女に話している姿が目に浮かびます。

かおりちゃんの家の前の花の一部が枯れてしまいました。
花好きの節子は、そこに花を植えて、水をやっていたのです。
節子のよけいなお世話の一つです。
そういえば、節子は家からかなり離れたところの電柱のまわりにまで花を植えて水やりに行っていました。
今は娘がやっていますが、ともかく花とお世話が好きでした。
でもそのおかげで、今回もたくさんの人たちが来てくれました。

節子は、かおりちゃんの心の中に、花のおばちゃんとして生きつづけるでしょう。
私は、死んじゃうまえに何ができるでしょうか。
これは結構難しいことです。
花は、人と人をつなげる大きな力を持っていますね。

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2008/09/06

■節子への挽歌371:仏花にバラはダメなのか

私は、いわゆる「仏花」があまり好きになれません。
今回の一周忌にもたくさんの花をいただいたのですが、一周忌ということもあり、仏花らしい花も少なくありませんでしたので、こんなことを言うと送ってくれた人に大変失礼になるかと思いますが、また書くことにします。
お許しください。

一周忌の供養に、お寺の本堂に供える花を娘に頼みました。
いつもお願いしている花屋さんが臨時休業だったので、違う花屋さんに行きました。
一周忌の花だといったら、まず相場は5000円ですといわれたそうです。
そして花もほとんど決まっているそうです。
娘は、それを無視して、バラを入れてくださいと頼んだのです。
節子が赤いバラが好きだったからです。
そうしたらお店の人は、仏花にはバラは入れられませんと言うのだそうです。
それで私に電話がかかってきました。

私は娘と同じく、バラを希望しました。
もしダメなら仏花としてではなくアレンジしてもらえばいいといったのです。
花屋さんも、お寺との関係で「非常識」のことはできないのでしょう。
いろいろと応酬があったようです。
どこのお寺かとも聞かれたようです。
幸いにわが家は、自分流を通すことをご住職も知っていますし、
娘と若住職は小さい時からの知り合いでもあるのです。
それで娘は花屋さんの意見を押し切って、可愛い花束を完成させてくれました。
そこに義理の姉が持ってきてくれた、自分で育てた蓮のつぼみを入れました。
お寺の奥さんがとてもうまく活けてくれたので、5000円の相場以下でもわが家的な花束になりました。
もちろんお寺はバラがダメなどとは一切言いませんでした。

仏花にバラはつかわない。
葬儀の時に、私も葬儀社ともめましたので、私もそれをよく知っています。
しかし、なぜ仏事にバラを使わないのか。
それが常識だという人もいますが、それこそ自分勝手な非常識だと思います。
トゲのないバラは最近仏事でも使うようになっているはずですが、トゲがあっても故人が好きなら使えるようにするべきです。
故人に合わせてこそ、供養に心が入ります。
葬儀社やお寺のためにやるわけではありません。

私より数年先に、伴侶を見送った竹澤さんは、葬儀の時、みなさんにバラをお渡ししたそうです。

夫の好きなウイーンの公園にあったピンクのト音記号を白の花の中に書きました。
お帰りに夫の好きだったバラを一本ずつラップして頂きお持ち帰り頂ました。
バラは葬儀には使用しないそうで葬儀屋さんから断られ、お花屋さんに頼んで。
法事というとなぜかみんな「仏花」イメージに拘束されがちです。
白と紫色が基調です。
しかしお寺は決して無彩色の世界ではありません。
暖色もふんだんに使った、暖かな賑やかな色の世界です。
有名なチベットの砂マンダラを思い出せば納得してもらえるでしょう。

法事の主役は故人と遺族です。
仏教関連の産業界が勝手に創りあげた「常識」に拘束されることはありません。
花屋さんも、献花や供花の意味を考えてほしいものです。

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2008/09/05

■節子への挽歌370:1年をしのがれたこと、パートナーは評価されますよ

「1年をしのがれたこと、パートナーは評価されますよ。」

先日、15年ぶりに会った友人がこんなメールをくれました。
彼女も伴侶を4年前に亡くしています。
彼女に久しぶりに会った時には、そんな話は全くしなかったですし、お互いに15年前と同じように元気に話しあいました。
その後、メールが届いたのです。

ある薬局の薬剤師の女性が言ってました。
「3回忌過ぎるまでは……」
遺された連れ合いは、元気が出ないというか、前の状態に近づけないということなのでしょう。
3回忌といえば丸2年だけれど、わたしはもうすぐ丸4年です。
仕事がなかったら生きている意味がみつからなかったし、
今もその状態はあまり変わっていません。
そう書かれていました。
胸を突かれました。
彼女のその心の中を、私は全く見ようとしていませんでした。
彼女のこの数年の活動ぶりを漏れ聞いていましたが、その理由が少しわかったような気がします。
このメールに返事が出せないまま、1週間経ってしまいました。

「生きている意味がみつからない」
心に染みる言葉です。
彼女に返信する代わりに、このブログに書いておくことにしました。
それで少し気持ちが楽になります。

それにしても、「生きる」ということは一体何なのでしょうか。
この頃、またわからなくなりました。

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2008/09/04

■節子への挽歌369:勢至菩薩へのバトンタッチ

一周忌から、節子に同行する菩薩が替わることを、一周忌供養の講話で知りました。
これまでは観音菩薩だったのが、一周忌からは勢至菩薩に担当が替わったのです。

私がむかし、衝撃を受けた三千院の阿弥陀堂の阿弥陀如来は、観音菩薩と勢至菩薩を伴っています。
三千院の阿弥陀堂は、昔は堂内に入れ、そこは船底天井のタイムマシンを思わせる空間でした。
当時は間違いなくタイムトリップできたはずです。
静かな動きのある空間で、阿弥陀三尊が動いているのを感じ、衝撃を受けたのです。
時間軸を仏教世界基準にすれば、1年や2年の時間は瞬時に過ぎません。
10年後にきたら、きっと変化を実感できると確信していました。

そして20年くらい経ってからまた訪ねました。
驚きました。
時間が逆行していたのです。
立ち上がりつつあった脇侍の両菩薩の腰が少し下がっているのです。
もうみんなを救うことを諦めたのでしょうか。
その気持ちが分かるような気もします。

脇侍のひとりが勢至菩薩です。
勢至菩薩は知恵をつかさどる菩薩と言われていますが、そのことに魅かれて、観音菩薩の次に好きな菩薩です。
仏教の知恵には、昔からとても魅力を感じています。
この勢至菩薩の真言は、「オン・サンザン・サンサク・ソワカ」だそうです。
この真言を唱えると、煩悩が消え、知恵が得られそうですが、煩悩を消そうなどとは思っていないので、私はこの真言は唱えません。
私が唱えているのは、節子がいつも唱えていた光明真言です。
節子は寝る前にいつも5回、光明真言を唱えていました。
普通よりも2回多いのですが、そこに節子の思いを私は感じていました。
そうしたちょっとした節子の仕草の意味が、私にはいたいほどよくわかりました。
でも何もしてあげられませんでした。

節子の人生における脇侍の勢至菩薩は。まちがいなく私でした。
その私が、実はあまり知恵がなかったのです。
知識はそれなりにありますが、知恵がないのです。
加えて常識が少し欠落していました。
節子がそれに気づいたのは、結婚して20年くらい経ってからでしょうか。
そこから私たち夫婦の主導権は、節子に移りました。
知識は知恵には勝てないのです。

私にもっと知恵があり、賢明であれば、もしかしたら節子はこんなに早く旅立たなくてもよかったかもしれません。
節子がある時、「知恵の有無が生死を決めるのね」とつぶやいたことがあります。
自分への反省のような口ぶりでしたが、私への不満だったかもしれません。
そんなようななんでもない一言や仕草を、時々思い出します。

これからは本物の勢至菩薩が節子の同行者です。
安心していいでしょう。
私に同行してくれる勢至菩薩は、これまで通り節子ですので、少し頼りないです。

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2008/09/03

■節子への挽歌368:花で囲まれた節子にたくさんの友人が会いに来てくれました

今日は節子の命日です。
昨日までのくもりがちな天気が一変して、雲一つない快晴です。
30度を超す暑さですが、風があるのでさわやかでもあります。

節子の仏壇の周りは、またすっかり花に囲まれてしまいました。
Hana080903

あなたの好きなカサブランカや胡蝶蘭をはじめ、いろいろな花で埋め尽くされています。
こんなに花が集まるのは、やはり驚きです。
この花の中に入ると、1年前を思い出させられますが、できるだけ思い出さないようにしています。
いつも前を見ているのが、私たちの生き方でした。

今日もまたあなたが大好きだった人たちが来てくれました。
朝一番には会社時代の同僚だった木村俊子さん、そして花かご会のみなさん。
続いて長沼さん。午後にはヨーロッパ旅行の仲間が来ました。
なんで節子の友だちなのに、私が相手をしなければいけないのか、
この日くらいこの世に戻ってきて、みんなの相手をしろといいたいですが、どうもまだそれは無理のようです。
夕方、坂谷信雄さんも来てくれました。

今日、来てくださった方は13人です。
その一人ひとりが、節子の思い出を少しずつ持っていてくれます。
私が知らない節子の話も出ました。
なんだか今日は、たくさんの節子に会ったような気もします。
しかし疲れました。
この疲労感は何なのでしょうか。

この挽歌で、節子に報告したい話もあるのですが、
今日はちょっと頭が疲弊していて、書けそうもありません。
また日を改めて、書かせてもらいます。

ちなみに、大日如来像の評判はなかなか良かったです。
キスケもがんばっていました。

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2008/09/02

■節子への挽歌367:節子のことを思い出してくれる人たち

節子
あなたはとても幸せな人ですね。
一周忌にあわせて、節子のことを思い出してくれている人がこんなにいるとは驚きです。
私だけで独占したい気もしますが、たくさんの人が節子を思い出してくれているのは、何だか少し誇らしい気もして、うれしいです。
人の絆は、時間の長さでも利害関係でもなく、心の響きあいで決まります。
私が会社を辞めた時に感じたことですが、改めてそのことを感じました。

昨日から、花がたくさん届きだしています。
節子の友人たちからです。
私の場合は届かないでしょうね。
男性と女性の違いかもしれないのですが、
みんな花にある思いを託してくれていることが私にさえ伝わってきます。

女性たちの絆は、私には見えない世界です。
こんなに届いてどうするのと私自身はちょっと不安ですが、
節子が花になって戻ってきているのかもしれません。
この3日間は、娘も含めてみんな自宅にいることにしましたが、
こんなに花が来るとは思っていなかったので、いささかてんやわんやです。

何人かの方に電話させてもらいました。
電話嫌いの私には結構つらい仕事なのです。
節子の友人の女性ですので、どう話していいかわからず、
相手もたぶん妻を亡くした傷心の男にどう対応すればいいか悩ましいのではないかという気もします。

でも電話で話すと必ずといっていいほど、節子へのライブな思いが伝わってきます。
男性とはどうも違うのです。
少なくとも私にはない情感を感じます。

うまくいえませんが、女性は生命的にみんなつながっているのかもしれません。
女性は生命の本流、男性は支流。そんなふうに思えてなりません。
節子との絆においては、私は誰よりも強いと思っていますが、
そうでないもっと大きな生命的な絆が女性たちにはあるのかもしれないと、
送られてきた花を見ながら思っています。

節子
君はどの花の中に隠れているのでしょうか。

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2008/09/01

■節子への挽歌366:夜来香(いえらいしゃん)

庭に夜来香があります。
もう咲き終わっていますが、今年の夏はよく咲きました。
香りがとても強い花です。

節子は我孫子の女性合唱団「道」に入らせてもらっていましたが、
そこで「夜来香(いえらいしゃん)」の歌を練習していたことがあります。
節子が生まれる1年前に中国で作曲された歌で、日本でも山口淑子(李香蘭)が歌って有名になりました。
夜になると香りを強く発します。

今朝、庭で娘から、この木はコーラスで習っていた時に節子が花屋さんで見つけて買ってきたのだと教えてもらいました。
昨年の夏、節子の病室の外で初めて咲いたのだそうです。
昨年は、あまり余裕がなく、はっきりとは覚えていませんが、
そういえば、あけた窓から香りが少し届いていたような気がします。
ベッドから見えるところに、ジュンが持ってきてくれていたのです。

そんな話をしながら、コーラスの誰かが来るかもしれないねなどと娘と話していました。
でももう1年も経つし、まさかこないだろうと思っていました。
ところが、です。、
午後、来客がみんな帰ってだらっとしていたら、女声合唱団「道」のメンバーが献花に来てくれたのです。
しかも12人もの大勢です。
熟女がこれだけそろうといささか狼狽します。
いささかあわててしまいましたが、とてもうれしくて、
献花だけではなく、昨日、開眼供養してもらったばかりの大日如来をお引き合わせさせてもらいました。
大日如来も毎日、こんなにたくさんの人たちが拝んでくれるので、驚いているかもしれません。
いえ、不思議なことに、この大日如来がやってきてから、
いろんな人が来てくれますから、
これこそまさに大日如来のお心遣いかもしれません。
あるいは、夜来香の香りのおかげでしょうか。
みなさんにも夜来香の話をしました。

それにしても、みなさんが節子のことを気にしていてくださるのが、なによりもうれしいです。
節子からは、皆さんのお名前もお聞きしているのですが、
いつも大勢で来てくれるので、お名前と顔が結びつきません。
いつもうまく感謝の気持ちが伝えられずに、節子がきっと気にしているだろうなと思います。
節子は本当にやさしい仲間に恵まれていました。
うらやましいほどです。

道のみなさんは、鉢付きの赤いミニバラを中心にしたパケットを持ってきてくれました。
節子のことをよく知っていてくれているのだなと、それもまたうれしくなりました。
赤いバラは節子の好きな花ですし、鉢付きの生きた花が好きでした。
このミニバラは、きっとわが家の庭に根づくでしょう。

それにしても、どうしてみんな、こんなにやさしいのでしょうか。
歌を歌っているからでしょうか。

今日は2回も挽歌を書いてしまいました。
いつか1回、挽歌休刊日ができそうです。

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■節子への挽歌365:仏の生みの親のジュンのこと

昨日、魂を入れていただいた、わが家の大日如来は、むすめのジュンの作品ですが、
彼女はリアルな人形が好きではありません。
そこに魂を感じるのか、子どもの頃から怖いと言っていました。

実はこんなことがありました。
同居していた私の父が病気になりました。
ジュンは、紙粘土で父の像をつくりました。
それをジュンは、父の誕生日にプレゼントしました。
とてもユーモラスに父の特徴をうまく捉えていて、それをもらった父はとてもうれしそうでした。
家族のみんなが、私のも創ってほしいと言い出すほどでした。
ところが、その人形を仕上げてから3ヵ月後、父は息を引き取りました。
父も胃がんで、実はもう医師の宣告期間をすぎていたのです。
もう20年以上前の話です。

ジュンは、それ以来、人形をつくるのをやめました。
私も人形をつくってくれないかと頼みましたが、つくってはくれませんでした。
人形をつくったことで、父が死んだのではないかという思いがどこかに生まれてしまっていたようです。
父の人形は、その後もわが家で母と一緒に過ごしていました。
父の人柄を見事に表現している、その人形を、私は大事にしたいと思っていました。
しかし、母が亡くなった時に、ジュンは父の人形も一緒に送ろうと言い出しました。
誰も反対しませんでした。
父と一緒に旅立てれば、母も心強いだろうと思いましたし、その時はそれが当然のように思ったからです。
しかし、きっとジュンの思いは少し違っていたのかもしれません。
子どもは、大人よりも彼岸に通じていますから。
その後、わが家からほとんど人形はなくなりました。

母の葬儀の時、その父の人形を菩提寺の住職も見ています。
それがよほど印象深かったのでしょう、節子の葬儀を終わって、住職にみんなで挨拶にいったら、最初に出てきた話題が、その人形の話でした。

節子の仏壇に合う仏様をみんなで探しました。
節子も含めて、家族みんなが納得できる仏様ですが、そんな仏はありませんでした。
そのうちに、ジュンが私がつくってもいいならつくるよ、と言い出しました。
そして生まれたのが、この大日如来なのです。

私にとっては、この如来像の後ろにたくさんの物語がついているのです。
そうした物語を思い出しながら、これから毎朝、拝んでいくつもりです。
私にとっては、ジュンは運慶よりも優れた仏師です。

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2008/08/31

■節子への挽歌364:失敗続発の一周忌

節子の一周忌の法要を菩提寺でとりおこないました。
この1年の私は、節子に明け暮れました。
いえ、これからの人生もそうかもしれません。

昨日書いたように、一周忌は家族と兄姉夫婦だけでやることにしました。
最初、葬儀もそんな形で静かにやるつもりだったのですが、結局はたくさんの人たちに来てもらいました。
そのおかげで、私も娘たちも、何とか元気を維持できたのだろうと思いますが、
そうそう甘えてばかりはいられません。
覚悟を決める意味でも、今回は家族だけでと考えたのですが、いかにも家族だけではさびしいので、節子の姉夫婦と私の兄夫婦には声をかけました。
みんなが来てくれると、悲しさを克服できますが、身内だけだと悲しさは増幅されます。
ご住職がお経をあげてくださっている間、節子のさまざまな笑顔が思い出されて、悲しさがこみ上げてきます。

菩提寺のご住職にお願いして、私たちがつくった大日如来に魂も入れてもらいました。
これでわが家にも守り本尊ができました。
節子も安堵したかもしれません。
節子は、私と違ってモダンでしたので、実家にあるような大きな仏壇や正統的な仏像はなくてもいいといっていました。
ですからジュンが手づくりした、この大日如来はきっと気にいっていると思います。
私もとても気にいっています。
本当にわが家らしい如来です。

供養が終わったあと、みんなで節子を偲んで会食しましたが、
私は、こういう場できちんと挨拶をするのが苦手で、いつも節子に叱られていましたが、
今回は生まれて初めて、親族相手にきちんと話をさせてもらいました。
節子の写真したのですが、卓上に出すのを忘れてポケットに入れたままでした。
やはり修はどこか抜けているわね、と節子は苦笑していたでしょう。
そういえば、お寺での供養後、お布施などを渡すのを忘れて帰りかけました。
兄に注意されて、それに気づき、慌ててご住職に挨拶に戻りました。
やはり節子のことで頭が一杯で、ミスばかりの1日でした。

親戚などの会食では、いつも場づくりは節子の役割でした。
その節子がいたらもっと盛り上がったろうなと思いますが、みんなの気遣いで楽しい2時間でした。
しかし、節子が果たしていた役割は、本当に大きかったのだと改めて思います。
ほんとうに、私には過ぎた女房でした。
私が、おかしな人生を送らずにすんだのは、間違いなく節子のおかげです。

戻ったら花かご会から花が届いていました。
近くの坪田さんも大きな花輪を届けてくれました。
節子はまた、たくさんの花に囲まれています。

ところで、よけいなことですが、お知らせです。
何人かの方から一周忌の法要にもお伺いしたいと連絡をいただいたのですが、今回はわがままを通させてもらい、内輪だけで行いました。
その代わりというのもなんですが、まさに一周忌にあたる9月3日とその前後の両日は自宅の献花台の前で、節子が大好きだった庭の花を愛でながら、日長1日、お茶でも飲みながらぼんやりしていようと思っています。
もし近くに来る機会があればお立ち寄りください。
珈琲だけのおもてなししかありませんが。

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2008/08/30

■節子への挽歌363:節子のやさしさと健気なさ

節子
敦賀のお姉さんとお義兄さんが来てくれましたよ。
間もなく節子の一周忌なのですが、今回はお寺とも相談して、家族と節子の姉夫婦、それに私の兄夫婦だけで、法要をやらせてもらうことにしました。

節子は、私と結婚したために、滋賀の実家から遠い東京で生活をすることになりました。
そのため、節子はなかなか親孝行ができず、年に1~2回しか実家に帰れずにいました。
節子の姉は、実家からそれほど遠くない福井の敦賀市に嫁ぎましたので、節子の分まで両親によくしてくれました。
それで節子は、姉夫婦にとても感謝していました。
そしていつかお返ししなければと、よく話していました。

しかし、まさか自分が姉よりも早く逝くとは思っていなかったでしょう。
節子が再発した後、私に幾度か涙ながらに話したことがあります。
自分は娘が2人いて、看病をしてもらえるのでとても幸せだが、姉は息子しかいないので何かあれば私が看病してやらなければいけない。
それができなくなりそうで、姉に申し訳ない、と。
節子は病気になってからも、いつも誰かのことを気遣っていました。
そのやさしさと健気さが、節子の魅力でした。

節子たちの姉妹は、とても仲がよく、お互い思いでした。
母親を亡くしてからは、節子は実家よりも敦賀の姉のほうに行くことのほうが多くなりました。
私もだいたい同行しました。
節子と私の最後の旅は、姉夫婦との芦原温泉への旅行でした。
これは姉が企画してくれたのです。
節子にとって、とても楽しい旅だったでしょう。
その時は節子はまだ元気でしたが、そこから戻ってから、急速に体調が悪化したのです。

あのときの節子の笑顔を、今でも時々思い出します。
きっと身体的には辛かったのでしょうが、私にはそれを見せませんでした。
思い出すだけで、節子のやさしさと健気なさに胸が熱くなります。
その健気さは、私には真似できませんが、やさしさだけは少しだけ節子にほめてもらえそうな気がします。

節子と一緒に人生を築き上げることができたことを、心からうれしく思っています。
本当に、やさしく健気な人でした。
ちょっと私に似て、性格の悪いところもありましたが。

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2008/08/29

■節子への挽歌362:夫婦の会話、親子の会話

節子
節子がいなくなって、節子と会話する時間がほとんどなくなったので、最近は家庭内で話す時間が少なくなっています。
これって、結構ストレスになりますね。
それでも食事は娘たちと一緒ですし、親子の会話はあるのですが、
この頃、改めて感ずるのは、夫婦の世界と親子の世界の違いです。

夫婦の場合は、お互いに相手の世界を知ろうとすることから関係が始まり、2人で新しい世界を創りだしてきたわけですから、相手の体験は多少とも自分の世界のことなのです。
ですから、話すほうも聞くほうも、自分たちの世界と思えます。
しかし、どうも親子の場合は違います。
親は子どものことを知っていると思っていますし、子どもは親から離れることを目指しているからです。
子どもの体験は親にとっては自分の世界につながるのですが、子どもたちには親の世界のことはいつか消えていくものでしかありません。
時間軸がずれているというか、次元が違うというか、ともかく違うのです。
夫婦と親子の関係は、明らかに違います。
そこを勘違いして起こる不幸もきっとあることでしょう。

節子との会話は、何一つ気を使うことなく、素直に自然に話していましたが、わが娘とはいえ、娘にはそれなりの気遣いや配慮が必要です。
もちろん伴侶にも、最初は気遣いや配慮はありましたが、いつかそれは消えていきます。
親子の場合は、むしろ、気遣いや配慮が増えていくといってもいいかもしれません。

それにしても、私たちはよく会話しました。
まあ、喧嘩も含めてですが。
20年程前には夫婦の会話時間が少ないことが時々話題になりましたが、
私たちの会話時間は長く、顔を合わせればいつも話していました。
レストランで、隣の夫婦が会話なしで食事をしている風景は、私たちには全く理解できずに、それがまた私たちの話題になりました。
世界はすべて、私たちの会話のためにあったような感じでした。
その話し相手がいなくなってしまったことは、私には結構辛いことです。

私たち親子の会話も決して少なくはありません。
私が娘たちに好かれているかどうかはともかく、彼女たちはよく話しかけてくれますし、食事もほとんど一緒に話し合いながら食べています。
しかし、節子がいなくなってからは、話も少し途絶えがちです。
息子だったら、もっと話しやすいかもしれませんが、娘なので話題も少しずれています。
母親は、父と娘の話の媒介者であることを最近改めて感じます。
4人で話しながら食卓を囲んでいた時には、それが最高の幸せであることに気づいていませんでした。
今となっては、その愚かさを悔やんでいます。
人は本当に愚かです

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2008/08/28

■節子への挽歌361:節子への執着心

先日、偏在する節子と遍在する節子のことを書きました。
私にはとても納得できていることなのですが、体験者でない読者にわかってもらえたかどうか心配です。
特に遍在するという意味合いが実感できないかもしれません。
これは、物理学者のデビッド・ボームのホログラフィック宇宙モデル論に出てくる「暗在系」に関する論考に刺激された言い方です。
体験した人には、こんな説明は不要だと思いますが。

ボームは、宇宙は、目に見える世界としての「明在系」と目には見えない「暗在系」で構成されているといいます。
「暗在系」は、次元が異なるために人間には感知できませんが、そこでは時空間を超えて、あらゆる物が渾然一体となって畳み込まれているとされています。
時間も空間もありませんから、現世の次元で考えれば、すべてが「遍在」しているといえます。
ボームは「暗在系」こそが「明在系」を支える源であるといいます。
そして、この「暗在系」を「あの世」に重ねて考えている人は少なくありません。
たとえば、玄侑宗久さんや天外伺朗さんです。
たしかに、そう考えれば、あの世のことがわかったような気になります。
それに、華厳経のインドラの網や「一即一切 一切一即」にもつながっています。

ここでは、般若心経に絡めて少し書いてみます。
般若心経に出てくる「色即是空 空即是色」は、簡単にいえば、色(この世にあるもの)は、すべて縁起(空)から生じている一時的な形象であり、その縁起の世界には、この世のすべての存在が、時空間を超えてたたみ込まれているというような意味ではないかと思います。
「色」を明在系、「空」を暗在系と置き換えれば、見事にボームの理論に重なります。

空の世界は時空間を超えているため、時間も空間的な広がりもなく、したがって現存する色の世界の感覚でいえば、あらゆる存在があらゆる縁起と隣接しているわけです。
つまり、空の世界の節子は、この世のあらゆるところの向こうに、遍く、そして常に存在していることになります。
それが「遍在する節子」の意味なのです。
愛する人が、いつも自分と一緒にいると感じられるようになるのは、このためです。

「色即是空 空即是色」は、現世現物への執着を解き、空に囚われる絶望からも自由にしてくれる呪文。
仏教者は、そのように説くかもしれません。
執着もせず、絶望もせず、精神の安定を保つことの呪文。
しかし、般若心経を何度読んでも、私には、執着や絶望を捨てよとは聞こえてきません。
執着や絶望とともにあれ、と読めるのです。
正確に言えば、執着や絶望を超えよということです。
これは、節子がこの1年、私に教えてくれたことです。
いまの私はそういう生き方になっているように思います。

ここで終われば、私も少し悟ったように思われる気もするのですが、実は終わらないのです。
愛する人といつも一緒ならば、現世での再会に執着することなどないはずですが、残念ながら、私は今でも節子の写真に向かって、「会いたい」と話しかけています。
煩悩のなせる業か、今でも無性に節子に会いたいのです。
しかも、いつか会えるかもしれないという思いを捨てられずにいるのです。
執着以外の何物でもありません。

しかし、執着すればこそ、遍在している節子が存在化するのです。
誰かが思い続けている限りにおいて、節子はこの世界で生き続けられるのです。
執着とは「縁起」を起こす縁のひとつではないか、と私は最近考えるようになりました。
この執着が、いつか節子を顕現させるような、奇妙な感覚を拭えずにいるのです。
「色即是空 空即是色」の呪は、まだ私を「迷い」から救ってはくれません。

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2008/08/27

■節子への挽歌360:1年も一日も休まずメソメソしていたとは、節子さんも幸せ者

挽歌164(「小さくて不要になったものを送ってください」)に出てきたYTさんからメールが来ました。
久しぶりに送った私からの手紙が届いたようです。
こう書かれていました。

手紙が届きました。
形見に頂いたリンゴのオルゴール、いつも机の隅に置いていますが、
久々にメロディーを聴いて、そのすぐ後に届いたので更に驚きました。
YTさんに私が送った「小さくて不要になったもの」は、
節子のコレクションだったリンゴの置物の中から選んだ小さなオルゴールだったのです。
YTさんのお心遣いに合わせて、それを送らせてもらっていました。
そのオルゴールが、きっと私からの手紙(実際には節子からの手紙でもあったのですが)の届くことを伝えてくれたのです。
節子もたまには気がききます。

YTさんは、それに続けてこう書いています。

もう、1年経ちますか? 
その間、旦那は一日も休まずメソメソしていたとは、節子さんも幸せ者ですね。
ずっとそうしていてください。
メソメソなどしていないつもりですが、どうしてもそう感じさせるのでしょうね。
元気な私を彼に見せなければいけません。
秋になったら会いに行きましょう。
彼は大阪在住なので、ちょっと気は重いのですが。
私は東海道新幹線が、どうも好きになれないのです。
節子とあまりにも何回も乗りましたので。
あっ! やっぱりメソメソしていますかね。

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2008/08/26

■節子への挽歌359:立ち直りのための3年間

訪ねてきた友人に、「妻を亡くした男性は立ち直りに3年はかかるそうだ」と話したら、
彼は黙り込んでしまいました。
どうしたのだろうかと心配していたら、少したってこう言うのです。
「私もそういえば3年くらいはダメだった」
思ってもいないリアクションです。

彼は奥さんと5年ほど前に離婚していたのです。
そのことは知っていたのですが、離婚のショックなどこれまで微塵も感じさせたことはありません。
滅多に会わないのですが、会った時にはいつも新しい仕事に取り組んでいて、忙しそうでした。
仕事が好きなあまり、奥さんよりも仕事を選んだのかと、そんな感じで彼のことを考えていました。
ですからその反応は、まさかの反応だったわけです。
彼のことを何も理解していなかったわけです。

もっとも彼の場合、4年目にはまた人を愛せるようになったというので、少し気が楽になりました。
ちなみに彼は私よりもかなり若いのです。
きっとそのうち新しい伴侶が見つかるでしょう。
そう思いたいほどの、これまで見たこともないような寂しそうな顔でした。

「愛する人を失う」には、2つの種類があります。
「愛」を失う場合と「人」を失う場合です。
両者では、失うものが違うように、残るものも違います。
私が失ったのは、愛する「人」でした。
彼が失ったのは(間違いかもしれませんが一般的には)、「愛」です。
愛し合う関係を失ったといってもいいでしょう。
失われた「愛」は取り戻せますが、失われた「人」は取り戻せません。

一方、私には「愛」は残りました。
節子への愛は、節子が不在になった以上、変わりようがないわけです。
つまり永遠の存在になったわけです。
しかし、彼の場合、残ったのは「人」です。
「人」は変化しますから、それに応じて、愛もまた変化するかもしれません。

愛する人と死別して1年たって思うことは、立ち直りという概念の無意味さです。
立ち直ることなく、きっとこのまま行くでしょう。
でも傍目からみれば、やはり3年くらいは「おかしく」見えるのかもしれませんね。
離婚した友人は、きっと新しい愛を得て、立ち直れるでしょう。
そう念じています。

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2008/08/25

■節子への挽歌358:愛する人を見送る覚悟

節子
あなたが大好きだった滋賀の勝っちゃんと美っちゃんから先週、電話をもらいました。
2人とも元気そうでした。よかったですね。

美っちゃんは、私のブログを読んでから、私に手紙も電話もできなくなったと話してくれました。
これは美っちゃんに限ったことではなく、そう思っている人は少なくないでしょう。
私のためと思って声をかけても、それを素直に受け取らずに、
ついつい反発してしまう気持ちを私はこのブログで何回か書いていますから。
気を悪くした人も、決して少なくないでしょうね。
腫れ物にさわるようなものだったかもしれません。
たぶん実際に、私はしばらく腫れ物だったのでしょう。
いまは少し腫れはひきましたが、まだ完治していないかもしれません。
すみません。

個人情報侵害ですが、美っちゃんのお兄さんも、私と同じように昨年、奥さんを亡くされたそうです。
美っちゃんはこういいます。
女性のDNAには、親や夫、時には子どもですら見送るという覚悟が埋め込まれているように思いますが、
男性にはそれがないのかもしれませんね。
こういう言い方をすると、誤解されそうですが、美っちゃんは実に繊細で感情豊かな女性です。
というよりも、良い意味で、伝統的な日本女性なのです。
これは節子から聞いていることですが。

今回の電話でも、涙ぐんで話しているのが伝わってきました。
その人から、「愛する人を見送る覚悟」という言葉を聞くと、奇妙に納得できてしまいました。
人はいつか「愛する人」を見送るものです。

考えてみると、私は節子と結婚して以来、節子に「見送られる」前提で人生を生きていました。
きっと節子も、私を見送る覚悟を持っていたはずです。
それができなかったことが、節子の最大の無念さだったような気がします。
そして、それをさせられなかったことが私の最大の無念さでもあります。
しかし、人を愛するということは、その人を見送る覚悟を持つということかもしれません。
そのことに気づかないまま、節子を愛し、節子を看取ったことを心から反省しています。
見送る覚悟があれば、もう少し節子をやさしく送れたような気がします。
節子、ごめんなさい。悪かったね。

愛するとは見送る覚悟を持つこととわかっていれば、こんな挽歌など書かなくてすむかもしれません。
覚悟が不足していましたが、いまさらどうにもなりません。
「会うは別れの始まり」という言葉の重さに、今ようやく気づいた気がします。
困ったものです。

読者の方には、ぜひこんな後悔をさせたくありません。

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2008/08/24

■節子への挽歌357:施餓鬼供養

今日は施餓鬼会でした。
わが家の菩提寺は、真言宗豊山派ですが、毎年8月24日が施餓鬼会と決まっています。
両親が亡くなってからは、兄にお墓を守ってもらっていますので、この10年近くは参加したことがなかったのですが、今年からは毎年参加するつもりです。

施餓鬼会と言っても、これまでは先祖代々の供養儀式程度にしか理解していなかったのですが、もう少しきちんと理解しようと思い、真言宗豊山派のサイトで調べてみました。
こう説明されています。

お釈迦さまの弟子の阿難尊者がある夜瞑想していると、飢えて鬼のようになってしまった精霊(餓鬼)が現れ、「お前の命はあと3日だ。3日後には餓鬼の仲間に引き入れる」と告げました。尊者はさっそくお釈迦さまに餓鬼に施しをする作法を授かり、食物を供え、ご真言を唱えて回向(えこう)したところ、たいそう長生きをしたということです。このことから、施餓鬼会は、春秋の彼岸やお盆と共に、大切な行事になりました。
私たちは、知らず知らずのうちに殺生をして毎日を過ごしています。それは、生き物のいのちをいただき食事をすることで、私たちは、つつがなく生きていくことができるということです。
私たちは、このことに感謝し、供養をつくすことによって三界萬霊(さんがいばんれい:この世のあらゆる精霊)や無縁仏への回向とし、また、この供養が巡って先祖に届くのです。
以前も本で調べて、あんまり意義を見出せなかったことを思い出しました。
しかし、まあ節子とつながれる場があるのであれば、何でも参加しようというのが今の気持ちです。
身勝手でいい加減な話ですが、まあそれが私なので仕方がありません。

新盆なので新盆燈明料としてお布施させてもらいました。
これで節子は、私亡き後も永代供養してもらえることになります。
施餓鬼供養は、12人ほどの僧侶で営まれました。
今年は日曜日だったこともあり、たくさんの人が集まりました。
供養終了後、卒塔婆をお墓に立てて、節子と両親に声をかけてきました。
終了後、お寺から新盆の掛け軸をもらいました。
こうやってだんだん節子は向こうの人になってしまうのでしょうか。

施餓鬼会は、どうもまだ私の心には響いてきません。
どこかで何かが違うのです。
まだまだ信仰心が不足しているようです。

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2008/08/23

■節子への挽歌356:手づくりトマトのお供え

節子
昨日のことの報告です。
直接、報告したので節子は知っているでしょうが、やはりの挽歌に残しておきたくなりました。

昨日は自宅にいたのですが、お昼前にチャイムがなりました。
出てみると、近くの高城さんの子どもたちでした。
5歳と2歳くらいでしょうか。
小さな手にミニトマトが4つのっていました。
そして、これをおばちゃんにあげてくださいというのです。
下の子もなにやらむにゃむにゃと話しかけてくれます。
庭で作ったトマトが実ったので持ってきてくれたのです。
とても幸せな気持ちになりました。
少しだけ2人と話しました。
節子だったらもっと楽しく話したろうなと思いますが、
妹のバッグの中身まで、なぜか見せてくれました。
もちろん頼んだわけではありません。

お姉さんのほうは昨年も、節子の見舞いに来てくれました。
妹は節子のことはあまり覚えていないかもしれません。
でもこうやって彼女たちの世界に、節子が生きていることはとてもうれしいです。
「おばちゃんにあげて」という言葉は、涙が出るほどうれしいです。
子どもの言葉には嘘がありませんから。

まだ赤味が十分ではないミニトマトでしたが、
明日から家族旅行に行くと聞いていたので、その前にと思って収穫してくれたのでしょう。
うれしくて、すぐに節子に報告し、供えました。

節子
あなたのことはいろんな人が心にかけてくれています。
私も、そういう人になるように、心がけようと思います。

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2008/08/22

■節子への挽歌355:なくなりようのない喪失感

「それでも私は元気です」(挽歌353)と書いてきたOMさんが、私のブログを読んでメールしてくれました。
彼女の了解を得て、その一部を、かなり長いですが、紹介させてもらいます(原文をちょっと変えたところもあります)。
私の気持ちを、私以上に的確に表現しているからです。
私が書いた文章と言ってもいいほど、同感できます。

ブログを読んで、不覚にも涙がこぼれました。
その現象に、自分でも驚いてしまいました。
佐藤さんが仰るように、自分はまだ「父の死を克服できずにいる」んだなぁと思いましたが、
でも私は、これは「克服する」ものではない、と前々から思ってもいます。

「大切な人を失う」ということによる喪失感は、決して埋まるものではないと思っています。
例えるなら、
植木鉢に咲いていた花や雑草を抜いたとき、そこにできる穴のようなもので、
新しい花を植えたり、その穴に土を加えれば、その鉢は満たされるのですが、
けれど、その鉢は決して前と同じではないのです。
また、その穴を埋めることなく放置しておいても、
長い時間が経てば、やがてそれは風雨にさらされて、どこに穴があったのかわからない状態になります。
一見その鉢は満たされたように見えますが、
でもやはり、かつてあった物がなくなったという質量の絶対的な減少が生じているわけです。
要するに、私が持っている喪失感は、決して無くなったりはしないのだと思っています。

私の母は、父が無くなってから3年ほど平穏な日常を失っていたように思いますが、
今ではどうやら穏やかな日常を取り戻しているように見えます。
でも、それは「取り戻した」とは言っても、もちろん以前の日常とは違います。
以前とは異なる日常を、彼女は新しく得ることができたということです。

悲しみを持っているということと、日常を生きるということは、共存できるものなのだと思います。
胸にどうしようもない喪失感を抱えたまま生きているのが、人間なのだと思います。

誰かの死、誰かの悲しみ、自分が生きること、自分が笑うこと
これらはすべて共存できるものだと思います。
うまく言えませんが、それぞれ相互につながっているものではあるけれど、
何かが無くなったからと言って、同時に消滅してしまうものでもない。
それらは、個々の事象として、そこにただあるだけです。

ドラマなどでよく「お父さんはあなたの心で生きている」なんて台詞がありますが、
これは以前、私は非常にくさい台詞だと思っていました。
いや、今でも「くさい」とは思いますし、これが正しいとも思いませんが。
でも、言いたいことは何となくわかるような気はしています。
常に父のことを考えているので、いなくなったという感じがしないのです。
まぁ、でも現実にはいないわけなんですが。
そのギャップが喪失感なのかもしれませんね。

全く同感です。
OMさんは最後にこう書いています。
「それでも私は元気です」は、
出過ぎていると思いながらも、私なりに佐藤さんを応援したつもりでした。
OMさん、ありがとう。
だから私も元気です。

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2008/08/21

■節子への挽歌354:節子の文化

節子
最近、わが家では「節子の文化」なる言葉がよく飛び交っています。
「それは節子の文化だ」とか「節子の文化に反するよ」というような使われ方においてです。
ところが、その評価が全く正反対になることがあります。
節子が聞いていたら、きっと異議申し立てをしそうな時も少なくないです。

たとえば食事のとき、食後の食器洗いを節約するために、私が同じ小皿に複数のものをとりながら「節子の文化だ」といったら、娘は「お母さんはそういう取り方を注意していたよ」というのです。
食器を洗う人のことを考えて無駄に食器は汚さないというのが節子の文化だと思っていましたが、娘によれば、味が混ざるので料理した人に失礼だと考えるのが節子の文化だったというのです。
そういえば、私はよく節子に注意されていました。
人間は、自分に都合のいい場面だけを覚えているのでしょうね。

家族の誰かが外出する時、玄関まで送るのも「節子の文化」だったので、今は私も在宅の時はそうしています。
包装紙や容器などを大切に保存するのも「節子の文化」でしたが、節子の残した包装紙などはこの1年でほぼ捨てられました。
娘たちの名誉のために言えば、ただ捨てたのではなく、きちんと選別して使うものと捨てるものを分けたのです。
あんまり選別せずにただ残しておくのが「節子の文化」だったわけです。

ちょっとした隙間に花を一輪飾るのも「節子の文化」でしたが、時々、それを枯らすのも「節子の文化」でした。
廃物利用に時々意欲的になるのも節子の文化でしたが、すぐ廃棄物になるような無駄なものを買うのも節子の文化でした。
腕時計をいつもしているのも節子の文化でしたが、時間感覚が乏しいのも節子の文化だったかもしれません。

こうやっていろいろと書き出してみると、実は節子の文化と私の文化はかなり似ています。
違うのは、私が腕時計が大嫌いだったことくらいでしょうか。
「似たもの夫婦」という言葉がありますが、私たちは似たもの夫婦でした。
きっとどちらかがどちらかを洗脳してしまったのでしょうね。
ですから今となっては、どれが「節子の文化」で、どれが「修の文化」か区別しにくいです。
しかし私は、都合のいい時だけ「これは節子の文化だ」といって娘たちを説得しています。
マア、彼女たちは「はいはい」と聞き流して、面従腹背を決め込みがちですが。

さて、節子の文化、私の文化は、娘たちにどの程度継承されるのでしょうか。
どうも全く継承されないような不安があります。
なにしろ娘たちは2人とも、まだ結婚していないのですから。
私たち夫婦は、彼女たちにとってはモデルにはならない存在だったわけです。
私たち夫婦の、これが最大の反省点でした。
娘たちには内緒ですが、だれかいい人はいないでしょうか。

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2008/08/20

■節子への挽歌353:それでも私は元気です

返事を出せずにいた暑中見舞いのハガキが机の上にずっとありました。
いつもそのハガキをみながら、でも何もできずにいました。
昨日、ようやくメールを出しました。
全く内容のない、単なる暑中見舞いありがとうメールでしたが。

そのハガキには、手書きで次の一文が書き添えてありました。

暑くなると父が亡くなった夏を思い出します。
それでも私は元気です。
「それでも私は元気です」
ジーンとくるのは私だけでしょうか。
彼女はまだシングルです。
親しいというわけでもないのですが、ある時に突然、悩みを打ち明けてきたことがあります。
的確なアドバイスができずに、ただ聞いてやることしか出来ませんでした。
とても個性的で、よい意味での現代っ子です。
いえ、もう「子」と言う年代ではありません。
悩みながら、自分の人生をしっかりと生きている人でもあります。
その彼女が、もう数年もたっているはずの父の死を克服できずにいるのです。
「それでも私は元気です」
いろんな受け止め方はあります。
私へのエールとも受け止められます。
彼女らしいエールではあります。

しかし、これは反語と受け止めるべきでしょう。
元気といっておかないと元気を維持できないのです。
そして、その元気の奥にある気持ちを伝えたいという気持ちを感じます。
実は私が、全くそうなのです。
元気であって、元気でない。
元気でなくて、元気である。
そういう複雑な心境なのです。

「それでも私は元気です」
毎日、この言葉に悩まされていたのですが、メールを送ってようやく解放されました。
人の元気の後ろにある、さまざまな悲しさや悩みを理解できる人間になりたいと思いますが、まだまだなれない自分にがっかりします。

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2008/08/19

■節子への挽歌352:人が一番孤独でないのは、一人でいる時

「人が一番孤独でないのは、一人でいる時」という言葉があります。
大勢の集まりで突然に孤独感を味わった経験は、私にはよくあります。
特に節子がいなくなった後は、数人の友人たちの集まりでさえ、それを感ずることがあります。
前にも一度、書きましたが、突然に周囲の会話が遠くに聞こえだし、この人たちはいったい何を話しているのだろうという気分になってしまうのです。
まさに「異邦人」になった気分です。
周りの人たちが楽しそうであればあるほど、孤独感が高まります。
みなさんは、そういう経験はないでしょうか。

私は、とりわけ「さびしがりや」なのですが、一番、孤独でなかったのは、いうまでもなく節子と一緒の時でした。
節子はそれを知っていましたから、できるだけ私に付き合ってくれました。
私がいなくなったらどうするの、と節子はよく言っていましたが、節子の病気がわかって、それが現実味を帯びてからは、節子はそういわなくなりました。

「人が一番孤独でないのは、一人でいる時」という言葉は、私には全く理解できない言葉でした。
いまはこの言葉の意味がよくわかります。
一人の時こそ、不思議なことに、節子と一緒にいるような気分になれるからです。
しかし、もしかしたら、それは節子を実感できるからだけではないようです。
現実に周りにいる人たちとの断絶感から解放されて、むしろ周りにあるさまざまな人とのつながりが確信できるからかもしれません。
周りの人たちが、私が望む理想形で、私の世界を豊かにしてくれる気がするのです。

インドラの網のように、ホロニックに世界はすべてつながっているとしたら、まわりに人がいるかどうかは瑣末な話です。
早稲田大学の片岡寛光さんは、「公共の哲学」の中でこう書いています。

大方の人間が本人的生活圏で孤独を感じずにすんでいるのは、それが「存在の大いなる連鎖」の中にあり、何時にでも生活圏を拡げ他者と出会い、交流し得るというかなり確実度の高い期待可能性を持っているからである。
本人的生活圏とは、自分だけの空間と言ってもいいでしょうか。
家族、近隣社会、職場仲間、友人たちなどといった、いわゆる親密空間の基本になる生活圏です。
私たちの生活空間は、個人が直接構成しているのではなく、個人を中心にした、さまざまな種類の「人のつながり空間」が幾重にも組み合わさりながら、拡がっています。
「存在の大いなる連鎖」という言い方もされますが、これのほうが「インドラの網」よりはわかりやすいかもしれません。
いずれにしろ、私たちは宇宙とつながっているのです。
だから一人になっても孤独感は出てきません。
しかし、その連鎖(つながり)を実感できていないと、一人になることは恐ろしいほどに孤独なのかもしれません。
私はいま、宇宙に遍在する節子といつも一緒なので、孤独感はありません。

愛する人を失った人が、私の周りにも何人かいます。
その人たちは、こうした「つながり」に気づいているでしょうか。
気づいているといいのですが。
お盆は、そうしたことに気づくためのものかもしれません。

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2008/08/18

■節子への挽歌351:物語のはじまり

節子
あなたが彼岸に戻った翌日は、肌寒いほどのさびしい日になってしまいました。
明け方はさわやかさもあり、節子が「暑さ」を持っていてくれたのだと思っていましたが、どうもそうではなく、午後から雨になり、とても悲しい1日になりました。
前日までとのあまりの違いに、節子を思い出さずに入られませんでした。
あなたは、もっと長く自宅にいたかったのでしょうか。
そんなことはないですよね。
あなたはいつも自宅にいるのですから。
もちろん彼岸にも、ですが。

昨日は家族みんなが少し放心していたような気がします。
私はだらしなく夏風邪を引いてしまったようで、のどをやられてしまいました。
今月は、まだ施餓鬼会があり、一周忌もあります。
それが終わるまではしゃんとしていなくてはいけないのですが、まあ、私の場合は、しゃんとしたところで高が知れていますので、適度に風邪を引いているほうが私らしいかもしれません。

今日はまた、昨日とは打って変わってよい天気です。
暑くなりそうです。
それもまた節子につなげて解釈すると、いろいろな物語が創れます。
自然の動きや人の動きは、見事なほどに「物語」になることを、最近感じています。
もちろん、節子につながる物語です。
私の頭の中には、最近は節子のことしかないからでしょうが、どこかでみんな節子につながるのです。
人間はこうやって、自分の主観で世界を解釈し、物語を創っていくのだと、つくづく思います。

節子でさえそうですから、たとえばイエスやシッタルダの場合は、多くの人がたくさんの物語を創りだしていったことでしょう。
しかもそれらは共振しながら、大きな物語へと育っていた。
聖書も経典も、生まれるべくして生まれたことがよくわかります。
そしてそこに書かれていることのすべてが、ある人の小さな体験や思いから始まったのでしょう。
そう思うと、聖書や経典にも親しみを感じます。

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2008/08/17

■節子への挽歌350:それぞれの初盆

初盆が終わりました。
今年、初盆を迎えた人は私の周りにも少なくありませんが、それぞれどんな初盆だったのでしょうか。
愛する人とゆっくりと語り合えたでしょうか。
静かな時を過ごせたでしょうか。

私の場合は、娘たちがとても気遣ってくれました。
彼女たちも母親の初盆でしたが、私への気遣いを強く感じました。
こうした文化を育ててくれた節子に感謝しています。

思わぬ人が来てくださったことも驚きでした。
節子の友人たちも、節子の初盆に思いを馳せていてくれていたでしょう。
節子の初盆を体験するまで、私は新盆見舞いという言葉すら知りませんでした。
初盆といっても、いままでは「言葉」だけで終わってしまっていました。
しかし、今回、自分が当事者になって、日本の文化の優しさを、改めて知りました。
その文化は残念ながらもうほとんど忘れられてしまっているのかもしれません。
自分がその立場になって、初めて自らの不義理さを痛感します。
恥ずかしい限りです。

昨日、送り火でお墓に行きましたが、とてもにぎわっていました。
提灯とやかんを持った数組の三世代家族も見かけました。
わが家の菩提寺は以前住んでいたところのお寺なのですが、数年前に転居してきた現在の家の近くにも、昔からの立派なお寺があります。
この地域は、我孫子でも古いところですので、地域とお寺のつながりも深いようです。
迎え火、送り火に来る人が道をふさぐほどです。
昔見た風景を久しぶりに見た感じです。
こうした風景はこれからだんだん少なくなっていくのでしょうか。

日本の仏教は葬式仏教などといわれ、お寺と地域とのつながりはあまりありません。
しかし、地域とのつながりを切ったのは、日本人の信仰心の問題ではなく、核家族化のせいではないかと思います。
葬式仏教でもいいではないか、と思います。
ただその葬儀があまりにも形式的になってしまっているのが問題なのです。

節子のおかげで、改めて日本の葬儀文化のことを実感させてもらっています。
葬儀は、通夜と告別式だけではありません。
そこから始まる大きな流れの中で、私たちは愛する人のことを考えながら、自らの生き方を問い直す機会を得られるのです。
同時に、人のつながりを子どもたちにも伝えていけるのです。
私は、数年前まではそうしたことにむしろ無頓着でした。
節子からはいろいろと教えられましたが、むしろ節子任せでした。
この1年、たくさんの気づきをもらいながら、改めて葬儀の意味を考えさせられました。

この挽歌の読者にも初盆を迎えた方がいらっしゃいます。
まだ会ったこともない人もいます。
その人たちは、どんな初盆を過ごされただろうか、そんなことも気になります。
まだ会ったことのない人の初盆に、私が思いを馳せることができるように、死者への思いはすべての人の心に拡がっているはずです。

初盆は、私たち家族だけのものではありません。
節子を送った今朝の般若心経は、そんな思いでまだ会ったことのない人たちの顔も意識しながら、あげさせてもらいました。

今日は昨日までとは打って変わって、秋を感じるような涼しさです。

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2008/08/16

■節子への挽歌349:節子がまた戻っていきました

節子が戻る日です。
まあ遍在する節子にとっては、あんまり意味があるとも思えませんが、わが家も送り火で節子を送りました。
4時過ぎにちょっと曇ってきたので、少し早いけれどもと思いながら送り火を焚いたのですが、お寺に行く途中、雨が降りそうになって来ました。
きっと節子を送り終わったら、雨がドッと降ってくるね、と娘たちと話しながらお寺に行ったのですが、まさにその通りになりました。
東風に乗って雨が急に降り出したのです。
節子を送るように、です。

まあ、こんなふうに、いろんな自然現象や人との付き合いを、節子につなげて解釈するといくらでも「物語」は創られるものです。

帰宅して、節子の位牌壇を元の形に戻していたら、近所の小野寺さんが来てくれました。
郷里に戻っていたと、節子が好きだった萩の月を持ってきてくれました。
帰宅していた節子には間に合いませんでしたが、ここにいる節子は喜んでいるでしょう。

そんなこんなで、節子の初盆も終わりました。
なんとなく気持ちが寂しいのは、節子が戻ってしまったからでしょうか。
ひとしきり強く降っていた雨が小降りになりました。
また明日から普通の生活が始まります。

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2008/08/15

■節子への挽歌348:節子の人生収支バランス

私に対する節子の収支バランスはどうなっているでしょうか。
そんなことをふと考えました。

私が節子にしてあげたことはいくつかあります。
エジプトに一緒に行きました。
アブシンベルとピラミッドは、とても気に入ってくれましたが、遺跡はみんな同じだと言っていました。
ベトナム戦争の意味を教えました。
いささか反米的な方向で、節子の常識を変えさせたかもしれません。
そのせいか、私以上にラディカルになりました。
節子のやりたいことに関しては、すべて賛成し、応援しました。
節子を心底愛しました。

しかし、してあげられなかったこともたくさんあります。
カナダには連れて行けませんでした。
節子は私と違って、エジプトの遺跡よりも広大な自然が好きでした。
吉野家の牛丼を食べに連れて行くこともできませんでした。
節子は牛丼を食べたことがなく、行きたいといっていましたが、私は食べたことがあるので行きたくなかったのです。
一緒にスポーツをやりたいという希望には応えようとはしませんでした。
そして、なによりも節子を守ってやれませんでした。

収支は赤字でしょうか。
しかし、私が節子にしてあげたことで、一番大きなことが、まだあります。
節子を一人ぽっちにしなかったことです。
一人ぽっちに残される辛さを、節子に体験させないですんだということです。
私でもこれほど辛いのですから、節子にはきっと耐えられなかったでしょう。
私はそう思います。
このことで、節子の収支バランスは、間違いなく黒字です。
私は「良い夫」だったわけです。

でも娘たちは、全くそうは思っていません。
お父さんが先に行ったら、お母さんはますます幸せになったかもしれないよ。
本当に親のことがわかっていない娘たちです。
わかっていないのはあなたよ、という節子の声が聞こえるような気もしないではありませんが。
いやはや。
節子がわが家に偏在しているのも、あと1日です。

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2008/08/14

■節子への挽歌347:若住職への如来像お披露目

節子が戻ってきたからといって、何かが変わったわけではありませんが、いつもよりも何か節子を身近に感じます。
今朝は節子と一緒にコーヒーを飲みました。

今日は、昨日の話を書きます。
昨日、迎え火で節子を迎えて、挽歌を書き終えたら、お寺からこれから棚経に行っていいですかという電話が来ました。
今日は来ないだろうと気を抜いていたので、いささか慌てました。
出かけたばかりの娘に電話で至急戻るようにいい、ご住職を迎える準備をしました。
ジュンが位牌壇の周りをきちんとこしらえてくれていましたので、それはよかったのですが、座布団もお布施も、何も用意していなかったのです。
押入れから座布団を出したら、湿気くさいので30度以上の暑い日当たりで干しました。
一方、部屋はクーラーで急冷し、準備を整えました。
電話から20分後にお寺の自動車が到着です。
幸い、出かけていたむすめも間に合いました。
座布団は少し熱かったでしょうが、まあ湿気のにおいはありませんでした。

てんやわんやしている家族を見て、節子はどう思ったでしょうか。
やはり自分がいないとダメだなと思ったかもしれません。
お布施は袋がなかったので、郵便用の封筒に入れましたが、それがまたしわくちゃでした。
ちょっと間に合わなかったので、と断りましたが、まあ、普通はもう少し早くから用意しておくのでしょうね。
私はすべて直前でないと準備しないタイプなのです。
節子はそのことをいつも注意してくれていましたが、そういう節子もたぶんにそういうタイプでした。
他人の欠陥は、往々にして自分の欠陥であることが多いものです。

お布施には名前も書かず、くしゃくしゃのままでしたが、中身はきちんと入れました。
たぶん。
まあ、万一入れ忘れても、名前も書かなかったので、誰が入れ忘れたかはわからないでしょう。

来てくださったのは若住職でしたので、わが家の如来像を見てもらいました。
みんなで心を込めてつくってくださって、ありがとうございますといわれました。
その言葉に感心しました。
仏僧は、ほとけたちの世界から私たちのことをみてくれているのだと改めて気づきました。

午後、節子が大好きだった梨を分けてもらおうと近くのすぎの梨園に行きました。
もっと早く予約しておけばよかったのですが、今ちょうどお盆のため、個々に分けてもらえる梨はまだありませんでした。
ここでも直前まで動かない私の悪癖が災いしてしまいました。
それでも杉野さんは、奥さんに供えてくださいと少し分けてくださいました。
杉野さんの梨は、自然のままの梨なのです。
杉野さんの奥さんに、わが家の如来像の写真を見せてしまいました。
ちなみに、杉野さんからとてもいい話を聴きましたので、時評編に書かせてもらいます。

夕方、兄夫婦が来てくれましたので、2人にもご開帳です。
なかなか好評ですが、まあ無理やり見せているので、みんな「いいですね」としか言いようがないのでしょうね。

こうして少しずつわが家の如来像は認知されだしています。
まだしばらくは魂が入っていないのですが、この如来像もわが家の文化を吸収してくれていることでしょう。
一周忌の時までには、きっと表情が変わっているはずです。
そういえば、今日、来てくださった若住職とこの如来像はとても似ているような気がしました。

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2008/08/13

■節子への挽歌346:偏在する節子から遍在する節子へ

今日は彼岸の入りです。
節子が久しぶりに帰省しました。
とまあ、これは世間一般的な表現です。
わが家では節子の本拠を、節子が大好きだったわが家においていますし、彼岸とわが家は通じていると考えていますので、いつも節子は自宅にいると信じています。
にもかかわらず毎週、お墓参りに行きます。
お墓参りに行く前に節子の位牌に、ちょっとお墓に行ってくると挨拶し、戻ったらまた花が枯れてたよなどと報告するわけです。
これはおかしいのではないかと娘はいっていましたが、今は誰も違和感なくそうしています。
3次元を超えた世界に移った節子は、いまや3次元的宇宙に遍在する存在になっていると考えれば、問題はまったくないわけです。

しかし、私が生きている3次元世界では、故人はお盆に彼岸から戻ってくることになっていますので、わが家もそれなりの仕方で、迎え火で先導しながら節子を帰宅させました。

3次元的宇宙に「遍在」する節子は、この数日はわが家に「偏在」しています。
「遍在」と「遍在」。同じ発音ですが、意味は全く違います。
節子の心身に偏在(偏って存在)していた節子の魂が、いまや心身を離れて宇宙に遍在(あまねく存在)するようになったわけですが、節子の心身に偏在していたからこそ、節子は私の愛の対象になれたわけです。
宇宙に遍在してしまったら、節子を愛しようもなく、ましてや独占などできるはずがありません。
困ったものです。

私が愛していたのは、節子の心身と魂でした。
それらは不可分の存在であり、魂があればこそ、心身が輝いていたのです。
そして心身があればこそ、魂が3次元世界で可視化でき、私と出会えたのです。
あんまりややこしく書いても退屈ですね。

心身を離れた節子は、いまや宇宙に遍在しているわけです。
もう私だけのものではないということです。
しかし1年に1回は、私だけのものになるために戻ってくるわけです。
どうせなら心身も一緒に戻ってきてほしいものですが、あまり欲を出すのはやめましょう。
これからの数日は、戻ってきた節子と一緒に、ゆっくりと過ごしたいと思います。

今日は節子の夢を見るでしょうか。

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2008/08/12

■節子への挽歌345:2年前の節子を思い出しました

高須さん家族が献花に来てくれました。
高須さんは、私たち夫婦が仲人をさせてもらいました。
しかし、私も節子も、高須さんと以前から親交があったわけではありません。
仲人を頼まれた経緯は、私たちにも驚きの経緯でした。

ある人の紹介で、ある若者が私を訪ねてきました。
実は高須さんは、その人についてやってきたのです。
そして、私とその人とのやり取りを聴いて、帰っていきました。
それが最初の出会いです。
その場に節子がいたかどうか記憶がありません。

ところがです。
それからしばらくして、高須さんから電話がありました。
そして、突然に、結婚するので仲人をしてほしいというのです。
私もかなり主観的に生きていますが、この電話には度肝を抜かれました。
高須さんのことも相手のことも、全く知らないのですから。
ともかく一度会って、ということで、たぶん節子と2人で高須さんたちに会ったのです。
後のことは全く記憶にないのですが、結果的には仲人をさせてもらったわけです。
節子がいたらもう少し経緯を覚えているでしょうが、私は過去のことはほとんどすべて忘れてしまいますので、ただ仲人だった記憶しかありません。
高須さんとは、そういう人です。

その高須さんが子どもたちと一緒にやってきてくれました。
2人の子どもたちが、それぞれに小さな花輪を持ってきてくれましたので、献花台に供えさせてもらいました。
それぞれが選んだかわいい花束です。

高須さん夫妻は、とてもうれしい心遣いをしてきてくれました。
上の子どもに節子が昔、プレゼントした洋服を、下の子が着てきてくれたのです。
上の娘さんはもう小学校3年なのですが、2年前にやってきた時のことを覚えていました。
その時は、節子は調子がよくて、みんなでケーキをつくったのだそうです。
その日は朝、近くの手賀沼でトライアスロンがあり、そこに節子の主治医が参加していたので、節子が自分で旗をつくって家族みんなで応援に行った話もしていたそうです。
そういえば、そうでした。
その時の節子のことを、鮮明に覚えています。

それがわずか2年前。
私にとっては、世界戦争があったよりも大きな変化のあった2年でした。

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2008/08/11

■節子への挽歌344:大仏開眼

わが家の大日如来に目をいれました。
大仏開眼、いや小仏開眼です。
素焼き段階はうまくいきましたので、
娘たちが、左右の目をそれぞれ入れ、私は第三の目を額に入れました。
写真を見てもらうとわかるのですが、開眼といえないほどの小さな目です。
ポンと点を書くだけですが、それなりに緊張しました。
なにしろ大日如来なのですから。
目を入れてから、仕上げの焼成です。
うまくいくといいのですが、明日にならないと窯は開けられません。
新盆には間に合いそうですが、
新盆に戻ってきた節子に見てもらい、節子が気に入れば、一周忌にこの仏に魂を入れてもらう予定です。
気に入らなければ、たぶんひびが入るか壊れるかするでしょう。

わが家の仏壇にはまだ正式の仏はいません。
タイのお土産屋で娘が買ってきた小さな仏像が鎮座していますが、それは仮のもので、今はまだ位牌が中心の位牌壇です。
一周忌を契機に、位牌壇を仏壇にしようと考えているわけです。

さて、わが家の大日如来はいかがでしょうか。
スペインタイルをやっている娘にとっても、テラコッタからの作成は初めてです。
仕上げはマヨリカ焼きですが、いつものタイルとは違うようで、初めての挑戦です。
ですから、明日、窯をあけたら割れている可能性もゼロではないそうです。
この写真だけが残る「幻の仏さま」になるかもしれません。
節子が気に入って、守ってくれるといいのですが。

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2008/08/10

■節子への挽歌343:金魚が死んだらどうなるか

先週、ホームページのほうにも書いたのですが、
暑さのせいか、金魚が次々と死んでしまいました
今年の暑さは金魚にもこたえたようです。
長年元気だったタナゴまでがほぼ全滅なのです。
わが家の庭の池は、私の還暦祝いに節子と娘たちが贈ってくれたものです。
節子は庭に穴を開けるのはよくないという考えを持っていましたし、娘は池の手入れが大変なのを知っていたため、みんな池は作りたくなかったのです。
しかし、私の還暦祝いに池をプレゼントしてくれました。
そういう池なのです。

その池の金魚やなぜか続けて死んでしまいました。
金魚が死んだらどうなるか。
金魚が泣いたら地球が揺れることを思い出しました。
挽歌56の「結婚前は毎日詩を贈っていました」で書きましたが、
私の気に入っている詩の一つが、
「金魚が泣いたら地球が揺れた」なのです。
この詩は、残念ながら世に出ませんでしたので、その詩を読んだのは節子だけでした。
節子は感動しませんでした。
残念ながら節子には詩というものがわからなかったのです。
困ったものです。
しかし、この題名を読んだだけで、笑ってしまったという「不届き者」も、
このブログの読者にもいますので、詩人にとっては生きにくい時代です。

金魚シリーズ第2作に挑戦してもいいのですが、今回はやめておきましょう。
あの「名作」を汚すわけにはいきません。
しかし金魚が死んだらどうなるか。
それは結構明確なのです。
私の池の一つ(今は2つあります)が壊されるのです。
生前、節子まで池は一つでいいんじゃないの、と不届きな発言をしていたので、池反対派の家族によって池の埋め立てが始まるのです。
それは何としても避けねばいけません。
自然は一度壊すともう元に戻りません。
まあわが家の池は、30分もあれば復元できますが、大切なのは「思想」です、
家族は誰も理解しませんが。
しかし、以前は、たとえ反対派であろうと節子は必ず最後は私の味方でしたが、その節子はいませんから、今度は勝ち目がないのです。

それで壊れていた水の循環を行うモーターを買うことにしました。
娘たちの反対の理由の一つは、私が手入れをしないからなのです。
自然は、人が適度に関わることによって、人との関係を良好にしていきます。
我が家の畑を見れば、それは一目瞭然です。

何を書いているのか、わからなくなってきました。
すみません。
要は、節子はいつでも最後は私の味方だったということです。
いや、そんなことを書くつもりではなかったはずですね。
困ったものです。
今日は久しぶりに涼しいです。
突然気温が変わると調子が狂います。

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2008/08/09

■節子への挽歌342:元気を送るか、悲しさを振りまくか

昨日、根本さんのことを書きましたが、根本さんから教えられたことはたくさんあります。
あまり個人的な話を書くべきではないでしょうが、根本さんは実はたくさんの苦労を背負い込んでいるのです。
にもかかわらず、根本さんは明るいです。
昨日の挽歌を書いた後、そのことを少し考えてみました。
根本さんは苦労も多いのに明るさを伝えてくれる。
私は悲しさを振りまいているのではないか。

根本さんは以前、私よりもずっと落ち込んでいた時期がありました。
その時、私はささやかに元気づけさせてもらったことがありますが、
節子の件では、根本さんからたくさんの元気をもらっています。
考えてみると、最近はどうも私自身がまわりから元気を吸い取る存在になっているのではないか、そんな気がしてきました。

節子のことをとても心配してくれていた鈴木さんから暑中見舞いが届きました。
そこにこう書かれていました。
「どうことばをかけて良いのかわからないうちに1年たってしまいました」
きっと鈴木さんにも、私の悲しさの気分が届いているのでしょう。

静岡のHMさんに最近のことを少し報告しました。
そうしたらこんなメールをくれました。

お元気にお過ごしのご様子で、うれしく感じました。
やはり佐藤さんはお元気そうでないと困ります。
たいへんでしょうが、なんといっても周りの人に力や勇気を与えてくれる存在ですから・・

「周りの人に力や勇気を与えてくれる存在」
そういえば、少し前まではそういう生き方を目指していましたし、それなりにそれを実行してきたつもりです。
しかし、伴侶だった節子にさえも、力や勇気を与えてやれなかったという挫折感が、どこかで私の心身に沈殿してしまったのかもしれません。
私自身は今も元気ですし、やってきた人たちには元気を与えるようにしているつもりなのですが、たぶん相手の人にはそれが伝わらないのでしょうね。
自分に力や勇気を与えられずに、他者に与えられるはずがありませんから、それは当然のことでしょう。

HMさんや鈴木さんに今度会ったら、悲しみではなく勇気と力を振りかけたいと思います。
根本さんを見習わなければいけません。
それに、節子も私の大きな力と勇気を与えてくれているはずですから。

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2008/08/08

■節子への挽歌341:新盆お見舞いの朝顔の写真

根本賢二さんから「新盆お見舞い」が届きました。
「新盆お見舞い」
私は、この言葉さえも知りませんでした。
実は根本さんも、つい先ほどまで知らなかったのだそうです。
手紙にこう書いてありました。

60歳に近い私は今まで恥ずかしながら“新盆お見舞い”と言う事を知りませんでした。
先日“某メルマガ”で知りました。
知った以上、“私の気持ち”だけはお伝えしたいと思いました。
奥様が、ことのほか「花」がお好きだったことを思い出しました。
私の部屋は、西からの陽射しが断わりもなく遠慮知らずにバッチリと入ってきます。
そこで、今年こそは「朝顔の棚でブロック」してやろうと思い、種を蒔きました。
まだ6分咲き程度で、「日よけ」にはなってくれませんが、これまで殺風景だった通路に、緑が生まれ花が咲き、「住まい」と言う感じが出てきました。
お隣のご主人は、「夜勤明けの朝に楽しみに見に来て『ああっ!綺麗に咲いた』と言っています。
「花のお好きだった奥様」が、こよなく「癒しを与えてくれる花」を「慈しむ方」だったのが、私にも強く伝わってきます。
その朝顔の写真を、もしかしたらその朝、咲いていたすべての朝顔の花をていねいに写真にとって送ってくれたのです。9枚ありました。
しかも額付です。
早速、節子に報告し、写真を供えさせてもらいました。
しゃれっ気のある根本さんの楽しい手紙も供えました。

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2008/08/07

■節子への挽歌340:異邦人

昨夜は暑くてあまり眠れませんでした。
今日も暑きなりそうです。
殺人の動機について問われて、「それは太陽のせいだ」と答えたムルソーを思い出します。
カミユの「異邦人」は、同じカミユの「ペスト」と並んで、私の生き方に大きな影響を与えた小説です。
「不条理」という言葉を知ったのも、カミユのおかげです。

ところで、いま気づいたのですが、私の読書傾向は節子と出会ってから一変したような気がします。
一番大きな変化は、小説を読まなくなりました。
節子と結婚してからは、カミユもカフカも読まなくなったような気がします。
結婚してからも読んでいたのは、光瀬龍の未来年代記くらいでしょうか。
それも次第に読まなくなり、結局、小説はほとんど読まなくなりました。
きっと読む必要がなくなったからでしょう。

この暑さに誘われたせいではないのですが、最近、なぜかカミユが読みたくなりました。
そういえば、カミユの「異邦人」は、「今日、ママンが死んだ」という有名な文章で始まります。
母親の葬儀に行ったムルソーが、そこで思わぬ事件に巻き込まれ、人生が一変していくのです。
手元に「異邦人」がないので、うろ覚えなのですが、母を失ったムルソーの複雑な気持ちは、誰にもわかってもらえません。
ムルソーの不条理な気持ちをだれもわかってくれないという不条理さ。
カミユはそこに「異邦人」をみるのです。

前にも書きましたが、節子がいなくなった世界では、私はまさに「異邦人」だったような気がします。
いや、いまもそうかもしれません。
時に「同邦の人」に会うことはありますが、やはりほとんどが異邦人に感じます。
つまり私自身が「異邦人」になったということです。
そして、異邦人になると、自分を囲んでいる世界の本質が見えてきます。
言葉の裏にある実体も不思議なほどに見えてきます。
もっともそれが真実なのかどうかは大いに疑問があります。
異邦人の目に映る世界は、いささかゆがんでいることは、自分でもよくわかります。

節子との別れは、もしかしたら「異邦人」を読んだ時に、もうわかっていたのではないか。
ふと、そんな気がしてきました。
これも「太陽のせい」かもしれません。
今日の暑さも、尋常ではありません。

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2008/08/06

■節子への挽歌339:愛する人を失った人同士につながる心のパイプ

節子
新潟からの帰りの新幹線です。
新潟水辺の会のみなさんと「信濃川にサケを遡上させるプロジェクト」について意見交換してきた帰りなのです。
いつか節子と一緒に新潟に来るという計画もついに実現しませんでしたが、独りでの新潟行きの新幹線はとても寂しかったです。
でも新潟でいろいろの方にお会いし、元気をもらいました。
新潟水辺の会は以前も一度参加させてもらいましたが、とても元気なオープンプラットフォーム型NPOです。
代表の大熊孝さんのお人柄が出ているのでしょう。
今日は1日中、新潟に本拠を移した金田さんのお世話になりました。

サケ遡上プロジェクトの話は改めてCWSコモンズに書きますが、ここでは昔からの友人のSYさんのことを書きます。
私が新潟に来ることを知って、ともかく顔を見たいと会いに来てくれたのです。
実は私もとても会いたかった人です。
すべての予定を組んでくれた金田さんに無理を言って、SYさんとの時間を少しだけつくってもらいました。

SYさんも最近、愛する家族との別れを体験したのです。
私と違って、一番の支えである伴侶ではありませんが、親と子の双方を亡くされたのです。
その上、ご自身も狭心症を体験されたのです。
「正直言って、どう生きたらいいかわからないという感じでした」とSYさんはいいます。
よくわかります。本当にわからなくなります。
私もそうでした。「どうしていいのかわからない」ほどに、意識が弛緩し、おろおろとうろたえていた時期があります。

そうした大変な状況の中で、SYさんは私のブログを読んでいてくださったのです。
SYさんの大変な状況に関して、私はおそらくその気になれば知りえる立場にいたはずです。
しかし、私にはSYさんのことまで思いを馳せる余裕がありませんでした。

先日、SYさんと電話をしました。
そうしたらSYさんが電話で、そうした話をとても自然に話しだしたのです。
その後、こんなメールをくれました。
「お電話で、すらすらお話できたので自分でもびっくりです」

会わないわけにはいかない、と思いました。
愛する人を失った人は、お互いに不思議な心のパイプが通ずるのです。
そのことを、この半年、何回も経験しています。
心が通ずれば、言葉などどうでもいいのです。

節子
SYさんの心が私の心につながっているのを感じます。
SYさんと会えたことで、今日の新潟行きは私には忘れ難いものになりました。
今度、節子に会ったら、話したいことがたくさんあります。

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2008/08/05

■節子への挽歌338:人を幸せにする最高のものは理解者の存在

節子の友人だった長沼さんから2回、聞かされた話です。
節子さんは、修さんの活動が自慢でしたよ。

私には自慢できるほどのことはないので、節子が何を自慢していたのかわかりませんが、
節子が私の生き方に共感していたことは間違いありません。
具体的にいえば「人を差別しない生き方」です。
それが十分にできているかどうかは不安ですが、少なくともそうありたいと思っています。

私と一緒に湯島で仕事をしていると、いろんな人に対する私の対応が見えてきます。
湯島のオフィスには、実にいろんな人がやってきました。
テレビや新聞で見る人も来ましたが、直接会うと、必ずといっていいくらい、人の本質は見えてきます。
節子もそれを感じたはずです。

あまりにいろいろな人が来て、私がいとも簡単に相談に乗って時間破産するのを見て、最初の頃は、節子からよく「あなたは利用されているだけよ」といわれました。
たしかにそういう面はありました。
時には不愉快な思いをすることもないわけではありません。
しかし、利用されてもその人に役立てるのであればいいじゃないか、と思っていました。
それに、人を利用する人にはそれなりの事情があるのです。
騙す人と騙される人と、どちらが不幸かといえば、間違いなく騙す人でしょう。
騙される人には、騙される余裕がありますが、騙す人にはその余裕さえないのです。
もちろん例外はあるでしょうが、そう思います。

節子も私と一緒に仕事をしているうちに、少しだけ私の考えに近づきました。
肩書きや世評がどれほどのものかも理解してきたように思います。
そうして、私の生き方を理解し、共感し、支えてくれるようになったのです。
私が騙されることにも、理解してくれるようになった気がします。

しかし考えてみると、そういう生き方は、実は私よりも節子のものだったのです。
私が節子から学んだ生き方かもしれません。
節子は、人を差別することなく、素直に生きていました。
いや、そうしたことは、女性の生き方なのかもしれません。
人を差別するのは、もしかしたら男性の文化かもしれません。
もっとも、最近はそうした女性(差別力を持った女性)も多くなってきましたが。

それはともかく、節子は私の良き理解者でした。
理解してくれる人がいることの安堵感はとても大きいです。
節子もまた、私という理解者を得て、安堵していたと思います。

最近、若者たちが起こす悲しい事件が多いですが、
もしまわりに1人でも自分のことを理解している人がいることを実感できたら、事件を起こさずにすんだのではないかと思われることが多いです。
私が実に幸せだったのは、私のことを心底理解してくれる節子が、いつもそばにいてくれたことです。
私のようにわがままに生きていると、その真意を理解してもらえないことは少なくありません。
私のことを中途半端に知っている人ほど、私を決め付けることが多いような気もします。
時に、その発言に悲しくなることもありますが、節子が私の真実を理解してくれていると思えば、どんな中傷も批判も超えられました。

その最高の理解者だった節子がいなくなったことが、私の行動の持続力や勢いを削いでいることに最近やっと気づきました。
人を幸せにする最高のものは、たぶん理解者の存在です。

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2008/08/04

■節子への挽歌337:不死か愛か、不死も愛も、か

節子
ちょっとまた「死」についての話です。

ジャン・ボードリヤールの「不可能な交換」という本を読んだ時に、まさに「目からうろこが落ちた話」です。
ボードリヤールは、こう呼びかけます。

生命は本来、不死の存在だったが、進化によって「死すべき存在」になったのだと考えてみよう。
つまり、生物の進化とは、単一の生命からある部分が「独立」し、種を構成し、個性を生み出すことだというのです。
いまでも「ウイルスのような不死の存在」はありますが、高度に進化した人間は、一人ひとりの生命が意識を持ち出したおかげで、個の死が発生したというわけです。
「死は進化のおかげで人間が獲得した能力」。
「不死」は人間の古来からの夢と考えてきた私には、衝撃的な指摘です。
「死」は「個人としての主体性」を得るための代償だったのです。
しかし、そう考えてみれば、実にさまざまなことが納得できます。

節子を愛せたのは、節子という個人と私という個人が存在しているおかげです。
それらが一つの生命として繋がっていれば、私が愛する節子も、節子を愛する私も存在しないのです。
そこでは「愛」もなければ、「別れ」もない、そして「死」もないわけです。
死も不死もない連続した生命現象があるだけです。

生が死を伴うように、愛することには必ず別れがついています。
不死を手に入れれば、愛を手離さなければいけません。
いうまでもありませんが、「不死か節子か」と問われたら、私は節子、つまり愛を取ります。

さて問題はそこからです。
死を手に入れることによって、愛を手に入れた。
そこで「奇跡」が起こるのです。
生には死がつきまといますが、愛には「永遠の愛」という言葉があるように、死は必ずしもつきまとわないのです。
さらに、愛する人の死は、愛を永遠のものにすることを可能にします。
そこでは、「死」が「不死」に転ずるというわけです。

つまりこうです。
人間は、生を得るために死を呼び込んだが、愛によってふたたび不死を得たのです。
死は生物進化の成果ですが、さらにその先に愛があることで、物語は完結します。
ボードリヤールは、全く違った発想で不死を展望していますが、そこに近代西欧人の限界を感じます。

節子
死が私たちを分かったのではなく、死が私たちのつながりを完結させたのです。
だから、きっとまた会えるでしょう。
でも早く会いたいね。節っちゃん。

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2008/08/03

■節子への挽歌336:11回目の月命日

節子
11回目の月命日です。
昨日の花火大会に来てくれた人たちが花を持ってきてくれましたので、そのお裾分けをしようと娘たちとお墓に行きました。

夏の間は、造花と生花を組み合わせて、墓前に供えています。
造花は退色するといけないので注意していますが、今のところ生き生きとしてくれています。
生花も枯れてもドライフラワーになるような種類を選んでいますので、まあ、暑い割には墓前の花はきれいです。
節子にはきっと合格点をもらえるでしょう。

節子はいつも、わが家の献花台や位牌壇にいると思っているのですが、なぜか時々お墓に来ないと落ち着きません。
たぶんむすめたちもそうのようで、最近は誘わなくても一緒に来てくれます。
墓前で私は般若心経をあげます。
娘たちはあまりお経が好きではありません。
私も若い頃はそうでしたが、60数年も生きていると昔は全くの記号にしか感じられなかった経文の意味がそれとなくわかってきて、読経すると安堵します。

お墓の花は、わが家ではいわゆる仏花にこだわっていません。
むしろ仏花らしくない花を好んで供えています。
それを知ってか、昨日、娘の友人たちが持ってきてくれたお花も仏花ではなく、とてもあったかな暖色系の花の組み合わせでした。
赤い薔薇が入っていましたから、もしかしたらこのブログを読んでくれたのかもしれません。
もしそうであればうれしいことです。

今日は風がとても強いです。
うだるような暑さですが、風がとても心地よいです。
午後からは娘たちも出かけましたので、今は自宅で1人です。
パソコンに向かって、挽歌を書き出したので、なぜか急に涙が出てきました。
最近は、一人になってもそう簡単には涙が出なくなったはずなのですが。

不思議に思ったのですが、いま理由がわかりました。
何気なくかけていたCDから、さだまさしの「精霊流し」が流れていたのです。
あまりにも悲しい歌詞なので、節子がいなくなってからは聴いていなかった曲です。
この部屋にあるのは、複数のCDを自動セットしておくプレイヤーです。
先ほど、ジョージ・ウィルソンの「サマー」をセットしたのですが、なぜか前から入ったままになっていたCDが誤動作でかかってしまったようです。
あれあれ。今度は、さだましの「勇気を出して」です。
できすぎていますね。
節子のいたずらでしょうか。

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2008/08/02

■節子への挽歌335:節子のいない花火大会

節子
今日は手賀沼の花火大会でした。
自宅の目の前が花火会場なので、わが家からは花火を満喫できます。
水上花火も高いところから見下ろせますので、水面に映った全景を見ることができます。
しかし、考えてみると、節子とゆっくりとこの花火を満喫したことがなかったですね。
いつもお客様があったので、節子はばたばたしていたような記憶があります。
節子はいつも「おもてなしの人」でした。

初めて節子と一緒に花火を見たのは、滋賀県の瀬田川でした。
一緒に暮らし始めた年の夏だったと思いますが、瀬田川のすぐ近くに家を借りていましたので、2人で花火会場まで歩いて行った記憶があります。
熱海の花火にも行きました。
しかし、節子が一度行こうといっていた隅田川の花火は、結局、行かずじまいでした。

手賀沼の花火は目の前ですから、迫力があります。
音がともかく凄いのです。
まさに「腹に響く」のです。
犬のチャッピーは、それに耐えられないので、花火の日はいつも外泊です。
昨年のことは思い出したくないですが、自宅療養していた節子にはかなり身体に応えたはずです。
ベッドから隣家の屋根越しにわずかに見える花火を少しだけ見ましたが、辛そうでした。
お客様は何人か来てくれていましたが、私と節子は花火を見ることもありませんでした。
もうこれ以上、思い出したくありませんが。

今年はむすめの友人夫婦をはじめ10人ほどの人がやってきました。
私の友人は来なかったので、今年はゆっくりと花火を見られるはずでしたが、
節子がいないので、見る気にもなりません。
見ていても楽しくないのです。
何をするのも、いつも隣に節子がいたのが私のこれまでの人生でした。
たとえ1人だったとしても、帰宅したら節子と体験をシェアできました。
体験をシェアできる伴侶がいないいま、生きることの虚しさを痛感します。

花火が昨年のことをあまりに生々しく思い出させてしまったためか、今日はとても気持ちが沈んでしまっています。
花火がこんなにも悲しいものなのかと驚かされました。
同じ風景も、状況が違うと正反対に見えることがよくわかりました。

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2008/08/01

■節子への挽歌334:人の数だけ幸せがあるように、人の数だけ不幸もある

節子
節子がいなくなってから、どうも思考が自分の世界に閉じこもる傾向が出てきてしまいました。
節子とのおかげで、悲しさとか寂しさ、痛みや辛さなどは、以前よりもわかってきたつもりなのですが、どうも自分だけが「不幸な状況」にいるという無意識の意識が抜けないようです。
頭と心身がずれてきているような気もします。
いろんな人と話していて、そうしたことに気づくことがあります。
昨日も、です。

久しく会っていない友人に電話しました。
あることで確認したいことがあったからです。
用件の話が終わった後、実は私のほうもいろいろありました、と言うのです。
その話をお聞きして、自分だけが悲劇の主人公のように思っている自分が少し恥ずかしくなりました。
と言っても、その思いは変えようはないのですが。

節子はいつも言っていました。
どんなに幸せそうに見える家族でも、それぞれの問題を抱えているものね。
人の数だけ幸せがあるように、人の数だけ不幸もある。
これが節子の哲学でした。
脳天気な私は、どんな不幸も幸せの裏側と思えばいい、などと言っていましたが、節子を見送った後、決して不幸と幸せはコインの裏表などではないと気づきました。
どう考えても、節子のいない私には二度と幸せは来ない、つまりコインは裏返せないと知ったのです。

しかし、節子がいっていたように、どんな家族にも悩みはあるのでしょう。
家族とはそういうものです。
家族とは重荷を背負いあう関係なのですから、当然そうなります。
家族を持たなければ重荷を背負いあわないですむから、悩みも少なくなるというわけでもありません。
そもそも人間は、重荷を背負いあうようになっているのです。
人は1人では生きていけませんから、友人や知人の悩みを必ず背負うことになるでしょう。
しかも自分の悩みをシェアしてくれる人が誰なのかまで悩まないといけませんから、悩みは加重されます。
悩みは、関係性の中で生まれるのです。
そして、家族は悩みを縮減するための仕組みだったのです。
家族がいなければ重荷は減るというのは、大きな誤解だろうと思います。
重荷が見えなくなるだけなのです。

いまその家族の仕組みが危機に瀕しています。
また挽歌の範疇を越えそうですね。
それに長くなりました。
またつづきを後日書きます。

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2008/07/31

■節子への挽歌333:死者を送る涙の大海

ギャラリー葬送博物館を主宰されている出口明子さんから久しぶりにメールが来ました。
出口さんと知り合ったのは8年ほど前、コムケアの集まりでした。
当時はまだ今ほどには「死」や「葬送」に正面から取り組むNPOは少なかったように思いますが、その活動の異色さに強い印象を受けました。
出口さんからのメールは、ある相談事だったのですが、その返信に節子を見送ったことを書きました。

その返信です。

奥様が亡くなられたことは存じておりました。
しかしその喪失感による心身のダメージが余りにも大きいことを漏れ伺っていて、あえて触れず、失礼をしました。
奥様の魂はきっとお喜びだと思います。心と心でふれあって共鳴できることは死者にとって何よりの供養だと私は信じてます。

今薔薇を育ててます。亡くなった人々の魂を慈しむおもいで、育ててます。
死者がいつでも羽を休めるように。

人が亡くなっても誰一人悲しまない、あえて言うと、喜んでいることが伝わってくる、こういう死は虚しいです。
涙を多くの人が流し、それが大海となって、その涙の海を魂は船に揺られて、精霊の国に旅立つのではないでしょうか。
どうか悲しみを閉じこめず、逝った人を慈しんで差し上げてください。

涙の海を渡っていく船。
涙をもっと流さないといけません。

今朝、節子がいつも今頃になると決まって果物を注文していたお店に電話しました。
いつもと違い、節子ではなく、私からだったので、奥さんはいかがですか、と訊かれました。
昨年、娘から節子の具合が悪いことを聞いていて、気にしていてくださったのです。
不覚にも胸がつまって、すぐに返事を返せませんでした。
久しぶりに電話の前で涙を出してしまいました。

私の知らないところで、いろんな人が私たちのことを覚えていてくれているのです。
感謝しなければいけません。
しかしこれは決して私たちだけではないでしょう。
声をかけてこないかもしれませんが、みんなお互いに気遣っているのです。
テレビで報道された秋葉原にもたくさんの人が献花に行きました。
「生命が粗末にされる時代」といわれますが、しっかりと生きている私たち庶民に限っていえば、そんなことは決してありません。
会ったこともない人の死にも涙する心情は、すべての人に宿っています。
死者を送る大海の水は、決して枯れることはないでしょう。

ところで、
出口さんのメールに「喪失感による心身のダメージが余りにも大きいことを漏れ伺って」とあったのが気になりました。
たしかに、心身のダメージは甚大です。
でも不思議なことに、元気でもあるのです。
このブログを読んでいてくださる方も、もしかしたら打ち萎れた私をイメージしているかもしれません。
もしそういう方がいたら、時評編の「ハンマーカンマー」をお読みください。
そこに出てくる私も、同じ私です。
人は、ダメージを受けた分、どこかで強くなるのかもしれません。

ギャラリー葬送博物館のサイトも見ていただければと思います。

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2008/07/30

■節子への挽歌332:節子、黒岩さんの講演を一人で聴きに行きました

節子
黒岩比佐子さんの講演を聴きに行ってきました。
よみうりホールで開催されている、日本近代文学館主催の「夏の文学教室:東京をめぐる物語」の1セッションを黒岩さんが受け持ったのです。
テーマは、「1905年 戒厳令下の東京」です。
黒岩さんが最近関心を向けている日露戦争後の話です。

ちょっと早めに着いたのですが、なんと偶然にも入り口で黒岩さんとぱったり会いました。
講演前に余計なノイズを入れたくなかったので、一言挨拶しただけですが、あまりのタイミングのよさに驚きました。
会場は1100人の大会場ですが、参加者が多いのにも驚きました。

私の隣に、私たちよりも少しだけ若い夫婦が座りました。
それで気付いたのですが、夫婦で来ている人が少なくありませんでした。
不思議なことに、私たちよりも少し若い世代の夫婦が多かったような気がします。
シニアの方は、男性も女性もむしろシングルでした。
そして私も、その一人でした。
そんなことを考えていたら、急に節子のことを思い出しました。
なぜ隣に節子がいないのだろうか。
黒岩さんの講演中は、おかしな話ですが、隣に節子がいるような気がしていました。
しかし、黒岩さんの話が終わったら、急に何だか寂しくなってしまいました。
次のセッションも聞こうと思っていたのですが、急に会場を出たくなってしまいました。
外に出ると、すごい暑さでした。
何だかいつもと違う風景を感じて、急いで帰りました。
どうもまだ精神的安定感を得られずにいます。
節子
ともかく君の旅立ちは早すぎたよ。

黒岩さんの話はとてもわかりやすく面白く、節子にも聴かせたかったです。
黒岩さんは私たちが湯島でやっていたオープンサロンの常連でした。
どうしてあんなに次から次へと話が出てくるのだろうか、と節子はいつも感心していました。
たしかに黒岩さんの話はよどみなく出てきます。
ともかく頭の中にあふれるほどの情報、それも自分で確認した情報があるのです。

きっと大活躍する場が与えられる人だろうけど、あんなにがんばって心配だともいっていましたが、その節子がこんなに早く旅立ってしまうとは、私も黒岩さんも思ってもいませんでした。
今の黒岩さんの活躍ぶりを見たら、節子はきっと喜ぶでしょう。
その黒岩さんの講演を一緒に聴けないことが、とても残念でした。

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2008/07/29

■節子への挽歌331:お別れサロンの早とちり

節子
どうも世の中には「早とちり」の人がいて困ります。
まあ時々私の周りでは起こる話なのですが、今日はまあ公開しても誰の迷惑にもならないだろう話なので、節子への報告をかねて書きましょう。

朝、電話がありました。
また「あの武田さん」です。
節子がいなくなった後、私が後を追うのではないかと心配してくれた人です。
電話に出るなり、質問されました。
8月に急にサロンを開くことにしたというが、どうしてなのか。

どうしても何もなくて、ただ思いつきなのですが、理由を聞くのです。
ブログを読んでくれている人と会いたくなったからだといっても、しつこく畳み込んできます。
しかし少しして、納得したのですが、こんなことを言うのです。
私はてっきり、みんなへのお別れサロンかと思った。
そうやってみんなと少しずつ別れを行い、その後で、節子さんのところへ行くのかなと思った。
「早とちり」も度がすぎていると思いませんか。
困ったものです。

こういう「おかしな人」が、私の周りには多いので、節子もきっと心配していたことでしょう。
今のところ、私にはその気は皆無なのですが、「早とちり」した「親切な友人」に、いつか節子のところに送られてしまいそうな気がしてきました。

節子
武田さんのおかげで、意外と早く節子に会えるかもしれませんね。
これは喜ぶべきか悲しむべきか。
いやはや、友人はしっかりと選ばなければいけません。

ところで、節子は、そちらからこちらに来る予定はありませんか。
ぜひそのルートを見つけてください。
世の中には不可能なことはないのですから。
いや、そちらは「世の中」に入るのでしょうか。
暑さのせいで、私もいささかおかしくなりそうです。はい。

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2008/07/28

■節子への挽歌330:花のように枯れていてはいけませんね

敦賀にいる節子のお姉さんから花が届きました。
自宅の庭で咲いた花を時々送ってくれるのです。
最近は暑いので花もすぐ元気をなくします。
それで最近は控え目にしていましたが、今日はまた節子はたくさんの花に囲まれています。

今年の暑さは応えます。
花もそうですが、私もすぐに枯れそうになります。
どうも気力が持続せずにいます。

スタンピング平和展という活動に取り組んでいるアーティストの松本さんからメールをもらいました。

佐藤さん、これほど辛いことがあったのですから
(世の中で一番辛いことは、愛する人に先立たれたこと、と聞いています)
無気力になるのは当たり前です。
そのことに比べたらとても小さいことですが、
14年間住んだ名古屋を離れただけで、
私は体調を崩して、持ち直すのに半年も
かかりました。
他人からしたらどうということもないでしょうが、
仲の良かった友人たちと離れて13年働いた職場を離れることはとても辛かったです。
だから、佐藤さんの悲しみがどれだけ深いか想像できます。

でも、どうぞそのことのために、
佐藤さんが病気にならないでほしいと願っています。

悲しみは去らなくても気分転換はとても必要です。
(節子さんに代わるものはたとえなくても。。。)

松本さんは、今度、人身売買で保護された人たちのカウンセリングの仕事にも取り組まれるそうです。
ほかにも、笑いヨガもやりだしたとお聞きしました。
一時、ちょっと元気をなくしていた松本さんもどんどん活動を広げだしています。
私も、夏枯れになっていてはいけません。
少し元気を出しましょう。

節子さん
元気が出るように私に水をくれませんか。

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2008/07/27

■節子への挽歌329:仕事の秘書としての節子

先日、節子の友人の長沼さんが来たときに、このブログのことが話題になりました。
同席していた娘のジュンが(彼女はこの挽歌は読みません)、お父さんはお母さんをきっと美化しすぎているでしょうと発言しました。
いささかムッとしましたが、実はそれは正しいのです。
会えなくなると、その人は途端に美化されるか悪者になるかのどちらなのです。
いつかも書きましたが、節子の場合は、美化されました。
きっと節子が読んでも、「これ私のことかしら」と思うところがあるかもしれませんし、私も、節子が元気の時に読んだら「こんな女房だったらいいのになあ」と思うかもしれません。
そこが挽歌の挽歌たる所以なのです。はい。
今の私にとっては、節子の「あばた」は「えくぼ」であり、欠点も愛すべきところになってしまっているわけです。
誤解のありませんように。

しかし、その時も娘と長沼さんに弁解しましたが、嘘は全くないのです。
あえて言えば、私の「表現力」の巧みさなのです。はい。
いいところをちょっと増幅させ、欠点は表現を変えているわけです。
もし、それでも大して「魅力的な人には感じられない」というのであれば、節子はかなり愚妻ということですね。
いえ、その場合は、私の「表現力」のまずさのせいだと信じましょう。はい。

真実はたぶん、私にとっては魅力的でしたが、世間一般からすれば、よくある普通の人でした。
まあ、「中の中」というところでしょうか。
私がいればこそ、輝いたのです。
いや、節子が怒っていそうです。
「中の中」だった修を輝かせたのは、私なのよといっているかもしれません。
まあ、節子がいなければ、そうだったかもしれません。はい。

まあ、いずれにしろ、節子は、少なくとも私には魅力的な女性だったのですが、それを少しだけ着飾らせるのは許してもらえるでしょう。
それに、私の耳に入っている節子へのほめ言葉もないわけではないのです。
一緒に仕事をしていた時に、四国の経済団体の方から講演の依頼がありました。
窓口はすべて節子がやってくれました。
当日、講演会場で先方の担当の方にお会いしたら、「すばらしい秘書ですね」と絶賛されました。
実は妻なのです、と話したのですが、その方はとてもいい印象をもたれていたようで、とてもうれしかったです。
まさか節子がそんな風に思われたとは思いもしませんでしたので。
まあ、そんな話もいくつかあるのです。

もっとも、私にとっては、節子の秘書業務は最悪でしたが。
いつも喧嘩になっていましたから。
夫婦で仕事をするのは、結構難しいものです。
特に途中からは。
でも節子は、それを引き受けてくれました。
やはりいい女房だったのです。
節子、ありがとうね。

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2008/07/26

■節子への挽歌328:誰のために挽歌を書き続けるのか2

昨日のつづきです。
実は、書いた後、どうもすっきりしないのです。

挽歌を書き続けるのは、節子のためでも私のためでもなく、私たちのためです。
ただ、この「私たちのため」と言うのがややこしい。
私と節子は、いまや切り離せない存在になっています。
私の半身は節子に持っていかれ、節子の半身が、私に残っている、という意味もありますが、それ以上に、私と節子の間にある「なにか」がとても大きくなってきているような気がするのです。
つまり、私と節子を取り巻くさまざまな「もの」や「こと」、そういうものすべてを含めて、今や「私たち」になってしまっているのです。
その「私たち」が、この挽歌を書かせているのかもしれません。

とまあ、そう考えていたのですが、
しかし、昨日、犬の散歩をしながら、
急に上原さんの言葉が気になりだしました。
「誰のために泣いているのか 亡くなった人のためか 自分のためか」

節子のための涙なのか、自分のための涙なのか。
節子が不憫で哀しいのか、自分が不憫で悲しいのか。
節子は幸せではなかったのか、なぜ節子が不憫だと思うのか。
不憫なのは取り残された自分ではないか。
いや、やはりどんなに辛くても残されたもののほうが幸せなのではないのか。
考えれば、考えるほど分からなくなってきます。
ですから、私と節子は一体なのだと考えれば解決するのですが、
それって「言い訳」ではないかと思い出したのです。
上原さんが到達したことに、ようやく気づいたのです。

泣くと楽になります。
心が癒されるのです。
だとしたら、やはり自分のための涙なのです。
節子のためではありません。
節子はきっと私の泣き顔などは求めていないでしょう。
だんだんそんな気になってきました。
このことは、私の周りの人たちがこれまで私に言っていたことです。
元気を出さないと奥さんが悲しむよ。
私には腹立たしい言葉でしたが、それが正解かもしれないのです。
ちょっと私にはやりきれないことなのですが。

この挽歌は、私自身のためなのかもしれません。
でもきっと、節子はそれを喜んでくれるかもしれません。
節子は、私の最高の理解者でしたから。

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2008/07/25

■節子への挽歌327:誰のために挽歌を書き続けるのか1

節子
この挽歌ブログを書きながら、いつも、節子のことを思い出しています。
自宅のパソコンの周りには3枚の節子の写真があります。
高尾山、木曽駒ケ岳の千畳敷カール、そして赤城山のつつじ平の写真です。
パソコンに向かって、その写真を見ると自然に書き出せることもあれば、何を書こうか思いつかずに時間を過ごすこともあります。
私にとっては、この挽歌を書くことが、今は会えなくなった節子と話し合う時間でもあるのです。

しかし、節子の写真の前で、節子と語り合うだけではなく、
なぜわざわざ書いて、しかもブログで公開しているのでしょうか。
書くことが思いつかない時には、「書くために書く」こともあります。
無理に題材を見つけてくるわけです。
そんな時には、ブログを書き続ける意味はあるのだろうかと思うこともあります。
それに、節子が読んでくれるわけではなく、誰のために書いているのか。

先日コメントしてくださった上原さんが、こういうメールをくれました。

ある時 誰のために泣いているのか 亡くなった人のためか 自分のためか・・・。  
自分ために泣くことのほうが多いことに気づかされました。
前向きに自分に残された時間を生きてゆくのが、ちゃんと生きてゆくのが、亡くなった夫は安心するのじゃないか・・・。
ただ無性に悲しくて、涙が出るだけなのですが、確かに時々、こうした思いにぶつかることがあります。
愛する人を亡くした者の気持ちは、日々、揺れ動くのです。
頭では、「亡くなった人のためでも、自分のためでもない」と私は断言できます。
この挽歌で何回も書いてきたように、私にとって意味があるのは、節子でも修でもなく、私たちなのです。
上原さんの涙も、その方と伴侶のお2人のための涙でしょう。
しかし、それは理屈でしかありません。
私も、いったい誰のために悲しんでいるのかと思うこともあります。
そしてそれがまた、いろいろと複雑な思いを引き起こし、涙を出させるのですが。

同じことはこの挽歌にも言えます。
誰のために書いているのか 亡くなった人のためか 自分のためか・・・。
目の前で笑っている節子は、どう思っているのでしょうか。

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2008/07/24

■節子への挽歌326:エキザカム・バイオレットの節子

節子
今年の夏も暑いです。
挽歌を書いている私の部屋にはクーラーはありません。
暑いと頭がまわりません。
暑さに負けるようでは、節子への私の思いも危ないですね。

今日は昨日オフィスに持っていったエキザカムのことを書きます。
節子は30年ほど前に、とても優雅なヨーロッパ旅行をしてきました。
ハウス食品の懸賞論文に入選したご褒美でした。
浜美枝さんと一緒の食文化の旅でした。
その時に、スイスで宿泊したホテルの出窓に、このエキザカムが咲いていたのだそうです。
私も、節子とは別に、ユングフラウには行きましたので、たぶん似たような風景を見ています。
私の場合はそれだけの話ですが、節子はその花をずっと覚えていたのです。
そして日本に帰ってきてから、その花を探し当てたのです。
今では花屋さんによく見かける花ですが、その時はまだめずらしかったのかもしれません。

もっとも本当にそうかどうかは危ないところがあります。
節子と一緒にトルコのベルガモンに行ったときに、遺跡の周りにきれいな赤い花が咲いていました。
そのタネをこっそりと持ってきて自宅の庭に蒔きました。
芽が出てきて、ベルガモンで見たままの花が咲いたので2人で大喜びしました。
当時、私はギリシアの会をやっていたのですが、そのメンバーにもおすそ分けしました。
ところが、その少し後に、近くを散歩していたら、なんとその花がいっぱい道の横に咲いているのです。
よくよく見たら、よくある花でした。
まあ、そんなこともありますから、節子の花の知識はさほど信頼はできません。

それはともかく、エキザカムはわが家ではそれ以来、よく見るようになりました。
事務所にまた花を置きたいと娘に話したら、娘が選んできたのがこのエキザカムでした。
お母さんが好きだった花だから、というので、改めて節子が好きだったことを知りました。

実は、この花と節子とは、私のイメージの中でも重なります。
エキザカムの花の紫色のセーターか服を節子は着ていました。
節子のファッションセンスは、ちょっと私のセンスには合いませんでしたが、時々、私の好きな服を着ることがありました。
その一つが、たしかこの色でした、
この小鉢を見ていると、節子の笑顔が浮かんできます。
娘が、この花を選んでくれたことに感謝しています。

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2008/07/23

■節子への挽歌325:湯島のオフィスにまた節子が戻ってきますように

湯島の私たちのオフィスも、必ず生花が飾られていましたが、
節子が行けなくなってからは生花ではない人工の花になりました。
オフィスのドアを開けた時の雰囲気が全く違います。
毎回、もう節子はいないのだと実感します。
だから湯島に行くのは、それなりに勇気が必要なのです。

最近、湯島に行く回数が減ったこともあって、ベランダの植物も元気がありません。
節子があまりいけなくなってからは、手入れの簡単なものだけにしていますが、それらも最近の酷暑のせいか元気がありません。
それに私はどうもこまめに掃除するタイプではないので、
最近は見た目もいささか汚くなっています。
これには節子も失望しているかもしれません。

室内の鉢物はもう全滅ですし、ベランダの鉢もいまや5つしかありません。
ですから手入れというほどのこともないのですが、問題は「思い」を向けているかどうかです。
節子は、いつもオフィスに来ると、最初に鉢の草花の手入れをしていました。
花への思いが私とは全く違うのです。

節子がいつ戻ってきてもいいように、少し草花の手入れをしようと思い直しました。
今日、枯れてしまっていた葉を整理しました。
節子が好きだったエキザカムの小鉢も机の上に置くことにしました。
オフィスの雰囲気が、ちょっとだけ変わりました。

そういえば、オフィスを開いた時は、観葉植物がいろいろとありました。
見事なブーゲンビリアが長いことその真ん中にあったのを今も覚えています。
私たちの寝室に湯島のオフィスを開いた時の写真が貼ってあります。
仲間たちから贈られたたくさんの花に囲まれて、
まん丸に太った節子とまだ疲れてしまっていない私が並んで撮った写真があります。
当時の湯島のオフィスは「気」に満ちていました。
実にさまざまな人たちが集まりました。
だから実にさまざまな人たちが集まってきました。
しかし、いまはその「気」が消えてしまっています。
節子には不満でしょうね。

また湯島に「いのち」を少しだけ戻そうと思います。
そうすれば、節子もまたきっと戻ってきてくれるでしょうから。

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2008/07/22

■節子への挽歌324:兄に誘われて胃がん検診に行きました

節子
今日は近くに住む兄に誘われて、胃がん検診に行きました。
行く気はなかったのですが、むりやり兄に連行されました。
娘たちのことを考えるのであれば、健康診断くらいには行けというのです。
節子の病気のことを思い出すようなことはできれば避けたいのですが、まあ、自分のわがままだけを貫くわけにはいきません。
節子がいる時は、節子が私のわがままを守ってくれましたが、
節子がいなくなると、あまりわがままもできなくなりました。

節子は本当に、私が生きたいように生きることを心から支援してくれました。
まあ、けっこう文句は言っていましたが。
もっとも私の「わがまま」はたいしたものではありませんでした。
ちょっとだけ「非常識」なだけのことかもしれません。
でもまあ、親戚づきあいではそれが結構重要な時もあります。
特に節子の親元のほうはそうしたことが大切だったかもしれません。
しかし、節子は私の「非常識さ」にはたぶん共感していたはずです。

今日は健康診断の話でした。
何を書いても節子のことが思い出されて、話がそちらに言ってしまいます。
検診後、兄と久しぶりに2人で食事をしました。
この歳になると、お互いにいつ別れが来るともかぎりません。
歳の順では私が一番遅くなるはずなのですが、
私よりももっと年下の節子が最初に逝ってしまったので、いささか予定が立てにくくなりました。
困ったものです。

私たち兄弟は会うと論争になるので、いつも節子が心配していましたが、今日も案の定、環境問題でもめてしまいました。
困ったものです。

午後は節子の友人の長沼さんが来てくれました。
今日はジュンの誕生日だったのです。
節子の代わりにケーキを持って来てくれました。
節子の話も出ていましたが、聴いていましたか?

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2008/07/21

■節子への挽歌323:早く夏が終わりますように

節子
今年も暑い夏になりそうです。
夏になる前から、もう暑いですから。
彼岸には「四季」はあるのでしょうか。

節子との夏の思い出はいろいろありますが、やはり、毎年、節子の実家に帰った時のことが一番思い出されます。
夏のお盆は節子の実家で過ごすことも多かったです。

郷里に帰ると節子は先ず言葉遣いが変りました。
滋賀弁というのがあるかどうかわかりませんが、大きな意味では関西弁なのでしょうか、ともかく言葉の表情が変るのです。
最初の頃は、なにかちょっと私から離れてしまうような気もしましたが、郷里に戻っていろんな人と気さくに話をする節子が、私は大好きでした。
毎年帰っていると私もそれなりにみんなに顔を覚えられましたが、1人で歩いていても声をかけられることもありました。
節子の両親の墓参りも、その後していないので、気になっているのですが、節子と一緒ではなく一人で節子の郷里を訪れる気にはなかなかなれないのです。
もちろん今年のお盆は自宅で節子を迎えます。

節子がいた時には、いくつかの夏の恒例行事もあったような気がしますが、なにも考えないまま、もう7月も下旬を迎えました。
私がいなくてもわかるようにノートにきちんと書いておいたからと、節子にいわれたことがあるような気もしますが、そのノートを開く気にはなれません。
そういうことを思い出すだけで、胸がこみあげてきてしまいます。

今年の夏は、何もしないままに終わってしまうのでしょう。
早く終わってほしいです。
私には、夏はとても辛い季節になってしまいました。

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2008/07/20

■節子への挽歌322:好きな人がいるとエコライフできるという話

最近のリサイクル運動に厳しい批判をしている武田邦彦さんの本を読んでいたら、

「リサイクルが始まる前には、ペットボトルの生産量は一年に15万トン程度でしたが、リサイクルが開始されると生産量は55万トンに増加しています。その55万トンは、ほとんど「再生したペットボトル」はなく、「石油から新しく作ったペットボトル」です」
という文章に出会いました。
武田さんは、リサイクルよりも、もともとの生産量を減らさなければいけないと主張している人です。
言い換えれば、リサイクル論は生産拡大のための仕組みだというわけです。
私も同感で、20年前からリサイクル産業論には批判的な人間です。
論理的にどう考えても引き合いません。
それにリサイクル関連の法律を読めばすぐわかりますが、この法律は経済拡大を目指しているものですから、環境面ではどう考えても真面目に取り組む姿勢は感じられません。
議論の時から、私は経団連トップたちのエゴ(エコではなく)を感じています。
私もゴミの分別にはかなり真面目に取り組んでいますが、虚しい限りです。

それはともかく、その本を読んでいたら、こんな文章が出てきました。

「好きな人がいれば、1杯のコーヒーでも夢のような2時間を過ごすことができる」
そして武田さんはこう続けます。
「もし好きな人がいなければ電気街に行ってパソコンを山ほど買ってきて自宅で遊ぶしかない」
ちょっと意味不明ですが、要するに好きな人がいれば何がなくても幸せになれるが、いなければ、物がなければ幸せになれない、ということでしょうか。

好きな人がいるかいないかで。時間の使い方や消費行動が変わってくる。
つまり、「好きな人の存在と物量消費量」は反比例するというわけです。
とても面白い話です。
時評編で改めてもう少し書いてみようと思います。

私の場合、武田さんの第1原則「好きな人がいれば、1杯のコーヒーでも夢のような2時間を過ごすことができる」は極めて納得できます。
節子と一緒だと、どんなところでも楽しかったですから、高価なレストランなど必要ありませんでした。
私たちが高級レストランや高級ホテルに行ったことがないのは、きっと愛し合っていたからなのですね。
いえこれは冗談で、お金がなかったからだけの話です。

ところで、「好きな人がいないと物をたくさん買うことになる」という武田さんの第2原則はどうでしょうか。
孤独な女性が買物でストレスを発散するという報告もありますので、ある意味では当たっているのかもしれません。
しかし、私の場合は、どうも当てはまりません。
節子がいなくなって以来、物欲はさらに低下しました。
出張してもお土産を買う気も起こりませんし、ちょっと美味しそうな和菓子屋の前を通っても買おうという気にはなりません。
しかし、これはたぶん、愛する人と会えなくなったことの反動作用です。
節子がいない現在、どんなものがあろうと「夢のような2時間」は過ごせなくなってしまいました。
だからもう何も必要ないというわけです。

私はどうしたらいいのでしょうか。
好きな人と一緒にコーヒーも飲めないまま、しかし物を買って満足することもできず、なんだかとても中途半端な毎日になってしまっているのかもしれません。
1杯のコーヒーは10分ともたないので、今日は朝からもう4杯目のコーヒーです。
胃腸の調子があまりよくありませんが、手持ちぶたさで、家にいるとどうもコーヒーばかり飲んでいます。

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2008/07/19

■節子への挽歌321:時の癒し

「ブログの論調が変わってきているね、やはり時が変えてくれているんだね」と武田さんが電話してきました。
CWSコモンズに「国家論」を寄稿してくれている武田さんです。
彼はなぜかこのブログを読んでくれているのです。

このブログの文章の雰囲気は変わっているかもしれません。
しかし、時が癒してくれているとは全く思いません。
悲しさはある意味ではむしろ強まっていますし、節子への思いは募るばかりです。
でもたしかに涙はあまり出なくなりました。
節子のいない人生になれてきたのかもしれません。
そういうことが「時が癒す」という意味であれば、その通りかもしれません。
しかし、どうも「癒す」とか「忘れる」とかいうこととは違うように思います。
「癒す」とか「癒さない」とか、そういうことではないのです。

正確にいえば、世界が変わったのです。
節子がいる世界と節子がいない世界は、全くといっていいほど、異質です。
その世界に慣れてきたというわけです。
そして、どんなに慣れようとも、「寂しさ」や「悲しさ」は変わりようがありません。

間主観性という言葉があります。
複数の主観の共創によって世界は現出するという考え方です。
世界は個人の主観によって成立するのでも、客観的な事実によって成立するのでもなく、さまざまな人たちの主観の関わりの中に成立するという考えです。
まあ、かなり粗っぽい言い方ですが、実感できる考え方です。

この数十年、私にとっての世界に最も大きな影響を与えていたのは、自分自身を除けば、伴侶だった節子の主観でした。
私と節子の主観が、私の世界の基本的な核を構成していたわけです。
その節子の主観や存在がなくなったいま、私の世界は大きく変わったわけですが、その非連続な変化になかなか対応できずにいるのだろうと思います。
そのため、「寂しさ」や「悲しさ」はもちろんですが、「不安」や「居心地の悪さ」。あるいは価値観の揺らぎなどを感じているのです。

「癒す」というのは、「なおす」という意味ですが、今の私に必要なのは、「なおす」ことではなくて、「創る」ことなのかもしれません。
それに、「癒す」という言葉には、節子のことを忘れるというようなニュアンスを感じますので、どこかに「癒されたくない」という意識があるのです。
彼岸に行ってしまった節子も含めて、新しい間主観的な世界に、次第に慣れていくでしょうが、「寂しさ」や「悲しさ」はたぶん、彼岸で節子に再会するまでは消えることはないでしょう。
私の周りにも、10年たってもなお、癒されることなく、しかし元気に人生を楽しんでいる方がいます。

ブログの論調が変わってきているとすれば、きっと私も、新しい世界にだいぶ慣れてきたのでしょう。

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2008/07/18

■節子への挽歌320:節子がいなくてもいろんなことがあります

節子
今日はうれしい報告です。
節子の姪のYさんが結婚します。
私たちの娘たちがまだ結婚もせずにいるのが気がかりではありますが、でもまあ姪が結婚するニュースは節子にもうれしいニュースでしょう。

節子がいなくなってから、まだ一度も節子の実家に行ったことがありません。
節子と一緒にではなく、独りで実家に行く勇気はまだ出ないのです。
思い出せば、節子の実家では実にいろいろなことがありました。
私たちの結婚そのものが、いささか常識外れでしたし、
若い頃は私自身が世間の常識に抗って生きていく姿勢が強かったので、
昔ながらの考えを大事にしている親戚との関係では節子も苦労したはずです。
幸いに、節子の両親はとても柔軟な発想の持ち主でしたから、私たちを応援してくれましたが、節子がどのくらい私をカバーしてくれていたかは、いかに脳天気の私でも感じていました。
そんな思い出がいっぱい詰まった節子の実家にはどうも気が重くて行く勇気が起きないのです。
在所の人は、みんなとても良い人たちですから、なおのこと気が重いです。

幸いに結婚式は郷里ではなく、大津の近江神宮で行われます。
ですから節子の郷里には行かなくていいのですが、近江神宮周辺もまた節子との思い出がある場所です。
もし時間があったら、節子と何回か行った三井寺によってこようと思います。
夕方、節子と聴いた三井寺の鐘の音は絶品でした。
そんなことを思い出すと、一人で行けるかどうか心配になりますが。

私は結婚式も法事も、あまり好きではありません。
儀式が基本的に不得手なのです。
今までは節子がいつも隣にいてくれたので、安心でしたが、今回は節子がいません。
おめでたい場なので、涙が出なければいいのですが。

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2008/07/17

■節子への挽歌319:世界中の花が節子のお墓

花の話が続いたのですが、もう一度だけ、
先日書いたお墓の話と米田さんの「節子の花の輪」という言葉が、
どこかでつながるような気がしていたのですが、
昨日、節子の献花台を見ていて、ハッと気づきました。
そうか、節子が望んでいたのは、花を自分のお墓にすることだったのだと。

何回か書いたように、
花や鳥になって、チョコチョコ戻ってくる、と節子は書き残しました。
そして、家族は献花台をつくり、献花に来てくれた人にはできるだけ花をお渡ししました。
その花が咲いたといって、いろんな人が連絡をくれます。
庭に花が咲く度に節子のことを思い出します。
節子は花と一緒にいるのです。
風になりたいという人もいます。
しかし節子はきっと花になったのです。

世界中の花が節子のお墓(住処)。
そう考えればいいのだと思ったのです。
その節子のお墓はどんどん広がっている。
節子はまるでブラウン運動をしているように、
同時にさまざまなところに存在しているわけです。
そして、さまざまな節子に、私はいたるところで会えるわけです。
そう考えると何だか気持ちが落ち着きます。

花になって戻ってくる。
どの花が節子なのだろうか、などと考える必要はないのです。
すべての花が節子なのですから。

お墓のイメージが一変しました。
お墓とは「場所」ではなくて、「不滅の生命の場」なのかもしれません。

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2008/07/16

■節子への挽歌318:花よりやさしい節子

昨日、花の輪のことを書きながら思い出したことがあります.
節子と会った頃、つまり昭和39年(1964年)ごろですが、「花よりやさしいマリア」で始まる歌がありました。
日本の歌ではありません。
それほど流行した歌ではないと思いますが、私は好きで時々歌っていました。
どんな歌だったのか、ネットでいろいろと調べてみましたが、出てきませんでした。

みんなに愛されているのに、まだそれに気づくことのない無邪気なおとめのことを歌った歌です、
歌詞はたしかこんなものでした。

花よりやさしいマリア
花よりきれいなマリア
でもそんなことなど気がつきもしないで、
あの街角、あるいている。
何ということのない歌です。
でも私にはとても気に入っていた歌なのです。
2行目と3行目の間に何か入ったような気もします。

節子はマリアと違って、「花よりはやさしく、花よりきれい」ではありませんでしたが、花が似合う人でした。
そして何よりも花が好きでした。
家の中でも、ちょっとした片隅に小さな花を一輪、飾っておくというのが好きでした。
そうした小さな気遣いが、私の大好きなことでした。
誰にも気づかれることのない気遣い。
それこそが節子と私の理想でした。
まあ、しかし全く気づかれないと少し残念に思うのも、私と節子の共通点でした。
節子は、花をうまく活かすのが好きでした。
いろんな思い出がありますが、思い出そうとすると涙が出てきますので、やめます。

私の節子の思い出は、節子のまわりにあった花のおかげでかなり美化されているかもしれません。
節子の思い出というよりも、節子の花の思い出というべきでしょうか。
いやもしかしたら、節子は枯れやすい花の妖精だったのかもしれません。
それを枯らしてしまった自分が、とても情けないです。。

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2008/07/15

■節子への挽歌317:節子の花の輪

先日、突然献花に来てくださった米田さん に、庭に咲いていたヤマホロシとディモルホセカの苗木を持って帰ってもらいました。
いずれも節子の献花台のそばで咲いていたものです。

米田さんからメールが来ました。

戴いたお花のうち ヤマホロシが先に生き生きしてきました。
大きくなりましたら、お花の好きな知人の庭にも植えてもらい、奥様のお花の輪を広げさせていただきます。
奥様のお花、どんどん増やして広めて永遠に命をつないで行きます。
ありがとうございました。
米田さんがお住まいの東武動物公園の近くにも、節子の花が広がって行くと思うと、とてもうれしくなります。
米田さん
ありがとうございます。

献花に来てくださった方には、できるだけ何か花をさしあげるようにしています。
一番遠くはネパールのカトマンズのチューリップですが、他にもいろんなところできっと咲いてくれていることでしょう。
花を通して、節子がいろんなところに出かけていると思うと、とても心が和みます。

梅雨なのに、最近は夏日が続いています。
庭の草花が元気をなくさないように注意しなければいけません。
花に水をやる時には必ず節子と会話するようにしています。

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2008/07/14

■節子への挽歌316:墓前の花

昨日、お墓参りに行きましたが、最近は暑いため生花はすぐに枯れてしまいます。
それで鉢物にしようと思っていましたが、これも結構管理が難しそうです。
そこで人工の花を置くことにしました。
一昨日、上の娘のユカがいいものを見つけてきてくれたのです。
ちょっと見には生花と見間違います。
毎日、日光を浴びていると退色しないか心配ですが、まあ夏場なので仕方ありません。
それでも娘たちがいろいろ工夫してくれているようです。

わが家のお墓は、何の変哲もない普通の墓です。
菊の花が自生していますが、あんまり周囲を乱してはいけないので、そう勝手には草木は植えられません。
毎日来られるのであれば、お花畑にできるかもしれませんが、今の私にはとても無理です。

今のように樹木葬が広がらない20年ほど前に、樹木葬と里山保全をつなげられないかと考えた時があります。
節子も関心を持っていました。
その後、湯河原で、死後に向けて自分の桜の木を植える公園がありました。
樹木葬ではありませんでしたが、ちょっとそれにつながるような仕組みです。
2人で偶然、そこに出会ったのですが、なぜか2人とも乗り気にはなりませんでした。
あの時に申し込んでおかなくてよかったと思います。
もし申し込んでいたら、節子を湯河原に閉じ込めてしまうことになったかもしれません。

わが家の庭の樹のどれかを。私と節子の樹にしようと提案したことがありますが、これは家族みんな賛成ではありませんでした。
理由はいろいろありますが、昔のように子孫代々が同じ家に住む文化のもとではいいのですが、そうでない文化のもとでは問題が多すぎたのです。

お墓をどうするかは、私にも節子にも、大きな関心事でした。
しかし時間切れで、節子とゆっくり話し合って、私たち風の納得できる墓のかたちが創りだせなかったのはとても残念です。
節子が結局、私の両親の墓を選んだので、私もその墓に入ることにしています。
でも、どこかに私たちだけの別荘墓をつくろうと思っています。
それはきっと私たち2人だけの墓になるでしょうから、できた途端にだれにも知られずに忘れられることになるでしょう。

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2008/07/13

■節子への挽歌315:夢からのメッセージ

節子と旅行をしている夢を見ました。
きれいな景色をみながら、
節子、また一緒に来ようね
と言いながら、
でも節子はもういないから無理だね
とお互いに屈託もなく話しているのです。

もういないのに、なぜ今は一緒に旅行に来ているのか。
とてもおかしな話なのですが、
それに気づいて、会話が途切れ、目が覚めてしまいました。
まあ、それだけの夢なのですが、
この夢に一体どんな意味があるのだろうかと考え出してしまい、それからもう眠れなくなりました。

節子がいる。
そしてその節子と、節子のいないことを話している。
実は、こうした奇妙な夢を時々見ます。
そして目が覚めるのです。
目覚めの時には、とても「あたたかな気持ち」を感じます。
しかし、いろいろと「論理的」に読み解こうとすると、頭がこんがらがってしまい、目が覚めます。
今朝もそんなわけで、5時すぎからパソコンに向かっています。
節子が、もう起きるの、もう少し寝ていたら、と言っているのを感じながら。
節子はいつもそう言っていました。
私が早起きだったからです。
節子が病気になって以来、私は早起きになりました。

フロイトの「夢判断」にはどうも違和感がありますが、私自身は夢には何かメッセージがあるのではないかと考えています。
節子が彼岸にいった後は、節子が何か託してきているのではないかという期待もあります。
でもいつも難解で、読み解けません。

節子を送った後、それまで夢で出てきた場所が出てこなくなったような気がします。
現実的な場所ではなく、夢の中に時々、出てきた場所です。
いま具体的に書こうと思ったのですが、なぜか思い出せません。
それと飛行機に乗る夢をよく見るようになりました。
実際に乗るところまでは行かず、飛行場に向かう夢ですが、行き着いたことはありません。
もう一つは迷子になる夢です。
それもいつも通っている場所なのにが、なぜかとんでもないところに出てしまうのです。
こう書いてくると、何かのメッセージを感じてしまうのもわかってもらえるかもしれません。

夢の中に私自身が何か「救い」を求めているのかもしれません。
しかし、節子が一生懸命に何かを伝えてきてくれているのかもしれません。
死別してもなお、心を通わせあうことは、私たちの約束でしたから。
その具体的な方法をきちんと話し合っておかなかったことが悔やまれてしかたありません。

今日はお墓に行って、節子に訊いてみることにします。

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2008/07/12

■節子への挽歌314:初盆への準備

節子
お盆の季節です。
帰省の準備は進んでいますか。

わが家は旧暦でお迎えすることになっていますので8月がお盆ですが、九州の蔵田さんから供物が届きました。
関東のほうは新暦だと思っていたようですが、そういう人は少なくありません。
私自身は、こうした行事にはこれまであまり関心がなく、考えてみると周りで亡くなった方がいても、その時だけで、その後のことへの気遣いがなかった自分を恥ずかしく思います。
いざ自分が当事者になって、そうした心遣いの文化がきちんと残っていることを知ると、これまでの無関心さを改めて反省させられます。

日本の文化とか、人のつながりの大切さを口にしながら、行動はそれについていっていないのです。
どこかで「わずらわしさ」から逃げたい気持ちがあるのです。
「煩わしさ」と「支え合い」とは、コインの裏表ですから、支え合いをいうのであれば、煩わしさを疎んじてはいけません。
どうも私自身の言動には矛盾があります。
これまでは、その「煩わしさ」をほぼすべて節子任せにしていました。
それで私自身は、のびのびと都合のいいことだけを話し、良いとこ取りをしていたわけです。
節子がいなくなって、いかに節子が私を支えていてくれたかがよくわかります。
改めて頭が下がります。

その節子がいなくなって、たとえばお寺へのお布施をどうしたらいいかなどもよくわかりません。
そのあたりの常識が、私にはかなり欠落しているのです。
節子の日記などを読めばきっと書いているでしょうが、まだ読む気にはなりません。
それで手っ取り早く今回はお寺からいろいろと教えてもらいましたが、私一人だと不安なので、娘に同行してもらいました。
基本を踏まえながら、私たち風に取り組むつもりです。

それにしても、加野さんも蔵田さんも、妻を亡くした私以上に、いろいろと考えてくれているのではないかと思うほどで、反省させられました。
私自身があんまり信頼されていないのかもしれません。
あいかわらず修さんは口だけだね、と笑っている節子の顔が目に浮かびます。
決して口だけではないのですが、私はどうも面倒なことは「まあ、いいか」と手抜きしてしまう傾向が強いのです。
いえ、それが「口だけ」ということですね。
それに、死者を悼む儀式を面倒だと思うことは間違いですね。
はい、反省します。

初盆は、わが家の家庭菜園で採れたナスとキュウリで牛と馬をつくります。
提灯はどうしようかまだ検討中ですが、どうも葬儀関係のお店で売っている提灯はわが家の気分には合いません。
たぶん節子もきっとそう思うでしょう。
家族みんなでわが家風のものをインテリアショップなどで探していますが、なかなか見つかりません。
お墓からの迎え火の提灯は、なんとヴェネチアンガラスのランプが採用されそうです。
仏壇の前の提灯は、まだ見つかりませんが、100円ショップで購入してきた提灯を素材にしてわが家風にデザインする計画もあります。
初盆はご住職も来るので、あんまり羽目を外せませんが、節子の意向も踏まえて、楽しい雰囲気を創りだしたいと思っています。

まあ、そんなわけで、初盆の準備もそれなりに進んでいますので、節子も安心してください。

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2008/07/11

■節子への挽歌313:手づくりの万華鏡

昨日、TYさんのことを書きましたが、
節子の位牌壇のちかくに、TYさんのテディベアと並んで、万華鏡があります。
病床の節子が時々、のぞいていた万華鏡です。
これはたしか寿衣を縫う会の嶋本さんからのプレゼントです。
手づくりの万華鏡です。

節子の枕元にはたくさんの人たちからのエールの品々がありました。
元気になって、その一つひとつを「ありがとう」と言って返していくのが私たち2人の願いでした。
そうした品々が、もう返すこともできず、いまもなお私たちの周りにいます。
返さなくてもいいではないかと思うかもしれませんが、私たちは返却の旅をしたかったのです。

寿衣を縫う会の嶋本さんに私が出会えた時には、節子はすでに闘病中でした。
ですから私たちは「寿衣」の話を避けがちでした。
闘病中であれば、むしろきちんと受け止められたのではないかと思うかもしれませんが、元気な時であればこそ、「死」はこだわりなく語れるのです。
節子と私は、意識的に「死」に関する話は避けていた気がします。
いまとなっては、「逃げていた」と言われても否定できません。
それもまた私の中では融けることのない「悔いの念」です。

節子が逝った後、嶋本さんからは「般若心経」の本が送られてきました。
万華鏡と般若心経が、いまも節子を包んでいてくれています。

ちなみに節子はお気に入りのカジュアルな服装で旅立ちました。
胸に四国八十八か所のお札を懐に入れて。

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2008/07/10

■節子への挽歌312:時々ふと、そばにいる気配を感じます

節子
最近、また節子にとても会いたい気持ちが高まっています。
たぶん現世では会えるはずはないのですが、頭のどこかで、きっとまた会えるという確信のようなものが依然として残っています。
愛する人を失った人は、きっとみんな同じなのだろうと思います。
その確信があればこそ、愛する人がいない現世を生きていけるのかもしれません。

私よりも数年前に伴侶を見送った高崎のTYさんのメールをなぜか思い出しました。
節子を見送ってから何通かのメールをもらっていました。
読み直してみました。
いろいろなことに気づきました。
改めてメールを読んで、TYさんの心遣いの深さに気づかなかったことがたくさんあったことにも気づきました。
当時はきちんと受け止められていなかったのです。

TYさんは、夫の存在を実感できると書いていました。

誰もいないのに空気が動いたり、足音が聞こえます。
体調が悪いときはすごく嬉しくなります。
こうも書いています。
時々ふと、そばにいる気配を感じます。
良いことがあったときは、写真が微笑んでいます。
子どもたちにも見えるそうです。
最近、私もそう感じます。
時間の経過とともに、逆にそうした感じが強まっている気もします。
思いの強さが、そうさせているのかもしれません。

TYさんは、ご自身の体験を踏まえて、いろいろと私たち家族を気遣ってくださいました。
1年近くたって、そのことにやっと気づくとは恥ずかしい話ですが、そうした不義理をたくさんしているのでしょうね。

TYさんはこうも書いてきてくれていました。

佐藤さん
ゆっくりゆっくり歩いてください。
節子様が、いま佐藤さんにしていただきたい事を、メッセージを送ってこられると思います。
節子様との楽しかったこと、良かったことをお話して下さい。
ポジティブなお考えの持ち主に心配かけないように・・・・
心おきなく旅立たれるようにとお祈りしております。
そうやっていただろうか、いささか不安です。
TYさんからはお手紙も何回かもらっています。
そういえば、当時もらったいろんな人たちからの手紙もきちんと消化しないままになっているのかもしれません。
節子を見送ってからの半年は、「心ここにあらず」だったのかもしれません。
少しずつ当時の手紙やメールを読み直してみようかと思います。
きっと節子はそれを望んでいるでしょう。
節子はそれなりに義理を大切にする人でした。
ちゃんとやらないと怒られてしまいます。

ちなみに、いま気づいたのですが、節子の位牌壇のそばにTYさんの手づくりのテディベアがいます。
TYさん
ありがとうございました。
TYさんの少し後ろを追いかけながら、私も活動を回復させていくようにします。

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2008/07/09

■節子への挽歌311:節子さんがいないせいか家が小さくなりましたね

節子
今日は河島さんご夫妻が献花に来てくださいました。
早くきたいと思っていてくださったようですが、人生はいろいろあります。
ご主人が1か月ほど入院されていたそうです。
ご主人は昔気質の江戸っ子ですが、昔から粋なおとぼけジョークが好きなのです。
それが歳とともに、もっと自然になって、磨きがかかりました。
いささかプライバシーにも関わるので、書くのをやめますが、今日はもう大爆笑の事件が起こったのです。
きっと帰宅後も河島夫妻は笑い続けていたことでしょう。
ハンマーカンマーにも勝る、実におかしなやり取りが展開したのです。
具体的に書けないのがちょっと残念です。
人は素直に老いると、楽しい存在になることを改めて知りました。

奥さんは油絵をやられていますが、
この度、自宅を改造してなんと16畳のアトリエをつくったのだそうです。
節子もちょっとだけ油絵をやっていましたが、河島さんの足元にも及びませんでした。
私も時々、節子と一緒に河島さんの展覧会を見に行ったことがあります。

ところで奥さんがわが家に入ってくるなりこう言うのです。
「節子さんがいないせいか、何だか家が狭くなったようね」
意外な言葉です。
節子がいなくなった分だけ、少し寒々し、むしろ広くなったと思っていたのですが、
河島さんのその言葉にハッとさせられました。
そうか狭くなってしまったのだ。
たしかにそういわれるとよくわかる気がします。

家は単なる物理的な空間ではありません。
そこに住む人と一緒に生きています。
節子がいることで、家の暖かさや華やかさがあり、それが空間の広がりをつくっていたのでしょう。
節子がいなくなったいま、わが家の空間も少し元気をなくし、萎縮しているのかもしれません。
目から鱗の発言でした。

もっと元気で華やかで、広々した家にしなければいけません。
せっかく、節子が選んだ場所に、節子の思いも入れて建てた家です。
節子を失望させないように、家が小さくならないようにしようと思いました。
どうすればいいのかは、まだわかりませんが。

帰り際に河島さんたちが言いました。
散歩で時々、お墓にも行かせてもらいます。
仲の良いお2人を見送りながら、
私たちもきっとあんな夫婦になったのだろうなと思ったら、急に涙が出てしまいました。
節子
やっぱり節子に会いたいです。

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2008/07/08

■節子への挽歌310:節子を守護する大日如来が生まれつつあります

節子
節子の一周忌を目指して、大日如来に来てもらうことになりました。
私ではなく、娘のジュンの発願です。
わが家の仏壇にはまだ仏様がいませんので、節子の位牌が中心です。
落ち着いたら、ジュンが仏像をつくることになっていたのです。

10回目の月命日に当たる今月の3日に、大日如来像づくりが始まりました。
テラコッタの塑像です。
わが家は真言宗なので、大日如来。
印相は智拳印にしました。

節子と最初に奈良を歩いた時に、阿弥陀仏の九品来迎印を話題にしたのを思い出します。
初めてのデートの話題にはあまり相応しいとは思いませんが、なぜか節子はそれを真剣に聴いてくれました。
ちなみに、私たちのまわりには、なぜかいつも「ほとけたち」が居たような気がします。
いつかそのことも書こうと思います。

阿弥陀如来は信仰の程度によって、衆生を9つに分けます。
そして、阿弥陀如来は臨終の人を迎えに来る際、その人にふさわしい印を示すとされています。
節子の場合は、どの印で迎えに来たのでしょうか。
その時は、節子を呼び戻すのに夢中で、阿弥陀仏など全く思いもしませんでした。
もしかしたら、阿弥陀仏と節子の取り合いをしていたのかもしれません。
勝てなかったのが残念です。

それにしても、阿弥陀はなぜ人を分けるのか。
今では深く考えるでしょうが、節子に会ったころは、そんなことよりも仏像に関するわずかばかりの知識をきっと節子にひけらかすのに夢中だったのでしょう。
そのせいか、節子は私の「物知り」発言に幻惑され、その後、長く私は何でも知っていると思い込んでいました。
しかし、だんだんとそれが間違いであり、私が単なる「知ったかぶり」でしかないことに気づきました。
私の知識のいい加減さもばれてしまい、人生後半は、「はいはい、そうですか」と聞き流すようになりました。
ただ、私の思いから出てくることには、いつも真剣に耳を傾けてくれました。

仏像はいま乾燥中です。
ひびが入らなければいいのですが。
乾燥したら、焼成します。
開眼の日には私に目を入れさせてくれることになっています。

節子
もう少し待っていてください。
ジュン風の、ちょっと楽しい、しかし素直な仏が誕生します。

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2008/07/07

■節子への挽歌309:完全に無防備な関係

昨日、自分の素直な思いを素直に話しても素直に聴いてくれる人が、周りに1人でもいれば、人はどんな苦境でも踏みとどまれます、と書きました。
そう書きながら、節子の顔を思い浮かべていました。
節子が私にとって、生きる力を与えてくれたのは、そういうことだったのだと気づいたのです。
昨日も書きましたが、素直になれるということは、無防備になれるということです。
無防備でいられるということは、癒されるということでもあります。
節子は私にとっては、究極の安息を与えてくれる存在だったわけです。

すべての夫婦が、そういう関係にあるわけではないでしょう。
私たち夫婦も、最初からそうだったわけではありません。
いろいろな事件もありました。
しかし40年も一緒に生きていると、その絆は親子よりも強くなります。
とても運が良かったのは、私たちは2人とも最初からそれなりに「素直」でした。
そして、お互いに適度の依存志向があったのです。
いいかえれば、自立心が弱かったということです。

相手に対して、お互い、素直になり無防備になると、とても生きやすくなります。
しかし、さまざまな価値観と利害がうずまく世間では、素直にも無防備にもなりにくいのが現実です。
そうした世間での疲れを癒してくれるのが、夫婦であり家族でした。
最近はそうした「家庭」の役割は失われ、夫婦も家族も安息の場ではなくなってきているのかもしれません。
それどころか、夫婦や家族にまつわる事件が増えているようにも思います。
いまや夫婦や家族といえども、素直で無防備になっていないのかもしれません。

かけがえのない夫婦、かけがえのない家族。
その世界での事件に触れるたびに、完全に素直になり無防備になれた節子とめぐり合えたことに感謝します。
相手に素直になれ無防備になれるということが、愛するということなのかもしれません。

私たちは、完全に無防備な関係でした。大互いに。
2人でいる時の無重力世界のような居心地の良さをもう体験できないことが悲しいです。

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2008/07/06

■節子への挽歌308:突然の献花者

昨日、わざわざ埼玉から米田さんという方が献花に来てくださいました。
ネット検索をしていて、私のブログの挽歌に出会ったそうです。
読み始めたら、どう表現していいかわからなかった自分の気持ちが書かれているような気がして、居ても立ってもいられなくなったのだそうです。
そして、娘さんに同行してもらってやってきてくださったのです。

米田さんは昨年10月にご主人を亡くされました。
節子と同じ病気でした。
私たち夫婦と同じように、お2人で音響機器の会社をやっていたのです。
アドバンスオーディオという会社です。
http://www.advance-audio.com/
ご主人が心をこめて製作した真空管アンプのオーディオキットは、その分野では有名のようです。
ネット上の「オーディオニュース」というサイトに、「米田英樹氏が逝去」という記事が掲載されていました。

米田家も、わが家と同じく、家族全員が絶対治ると最期まで確信していたそうです。
そして突然の、信じられない別れ。
米田さんも、おそらく私と同じような状況になってしまったでしょう。
誰に話してもわかってもらえない、でもこの気持ちはそとに出したい。
どう表現したらいいのか。

そんな時、私の挽歌に出会ったのです。
一昨日のことです。
そして娘さんに頼んで、私の挽歌をプリントアウトしてもらったのだそうです。
山のような厚さになってしまったそうです。
なにしろ300回を超えていますので、たぶん50万字以上です。
内容も内容ですので、勢いがないととても読めない分量です。
でも米田さんは私の挽歌を読んで気が少し晴れたそうです。
自分の気持ちを代弁してくれていると思ったそうです。
私は書くことで心を安定させ、米田さんは読むことで心を安定させるというわけです。

別れの様子も少しお聞きしました。
米田夫妻は私たちよりわずかばかり年下ですが、お子さんが3人、いるそうです。
それが支えで、もしいなかれば後を追ったかもしれないといいます。
しかしいまは、ご主人と一緒にやってきた会社(アドバンスオーディオ)を、少しでも長く維持し、ご主人が精魂込めて生み出した品々を一人でも多くの方々にお届けすることで、ご主人の命が未だ燃え尽きていないと信じたいと、応援してくださる方々に支えられながら、活動を続けていきたい心境だといいます。
オーディアマニアの方たちから早すぎる逝去を惜しまれた米田英樹さんが一生懸命育ててきた真空管アンプのオーディオ機器ですから、きっとやわらかなあったかい音で聴く人を包み込んでくれるのでしょう。
今もなお、たくさんの人たちが米田さんのやさしさに包まれていることでしょう。
そして米田家族の中では、いや、英樹さんを知っている方のあいだでは、いまなお英樹さんは生き続けているのです。
それがよくわかります。
*この部分は、米田さんからのコメントにそって、当初の表現を一部変更させてもらいました(7月9日)。

庭の献花台に、庭のダリアを献花してもらいました。
私自身もあまり心の準備ができておらずに、突然の怒涛が押し寄せてきたような感じで、いささかの戸惑いもありましたが、帰り際に米田さんが「今日は来てよかった、気持ちがすっきりした」といってくれました。
挽歌も少しは誰かの役になっていることを知って、私もちょっとすっきりしました。

同じ立場にある人たちには、多くの言葉は要りません。
それに自分が発する言葉が決して誤解されない安心感があるので、素直に話せます。
だからきっとすっきりできるのです。
自分の素直な思いを素直に話しても素直に聴いてくれる人がいるということのありがたさを、改めて実感しました。
そういう人が周りに1人でもいれば、人はどんな苦境でも踏みとどまれます。
秋葉原事件を起こした加藤さんも、間違わずに済んだような気がします。

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2008/07/05

■節子への挽歌307:遠離 Pavivitta

日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ師の講話が評判のようです。
佐藤さんもぜひ読んでくださいと、若い友人が著書を持ってきてくれました。
「偉大なる人の思考」です。
偉大なる人とは、仏陀のことです。
スマナサーラ師は、スリランカの上座部仏教の僧侶で、上座部仏教の教義や瞑想を普及させる活動に取り組んでいます。
本を持ってきてくれた若い友人も、僧籍をもっているのですが、企業人に呼びかけて、最近、瞑想活動を始めたのです。

その本を読み出したのですが、第3章で止まってしまいました。
読む気がしなくなったのです。
というよりも、憤りを感じてしまったのです。
一時的な憤りかもしれないと2週間、頭を冷やして読み直しました。
怒りはなくなりましたが、やはり違和感があります。
そこで、この挽歌に書くことにしました。

第2章のタイトルは「遠離」(Pavivitta)です。
こう書かれています。

「遠離」とは「あれこれと束縛がない」という意味です。
関わりを持たないことなのです。
束縛がないことと関わりを持たないこととは違います。
華厳経にあるインドラの網に象徴されるように、あるいは空即是色・色即是空に示されているように、関わりこそが仏教の真髄だと私は思っていますので、違和感が拭えないのです。
般若心経に「遠離一切顛倒夢想究竟涅槃」とありますが、これはすべての妄想(顛倒夢想)を打ち破って悟りの境地に入る、というように、「遠離」とは自由になるという意味であって、関わりを持たないというのとは全く違います。
関わりを持つとか持たないという段階では、まだ色即是空の境地にすら達していない、と私には思えます。

さらにスマナサーラ師はこう続けます。

子供がいるから楽しい。充実感があって、元気溌刺に生きていられる。だから幸福なのだ、と言えますね。そこで私は、「それはほんとにかわいそうなことですね」と言う。それは、子供に依存して楽しみを感じているからです。子供が自分に楽しみを与えているのです。その子供が亡くなったら、どれほど落ち込むことになるか、どれほど苦しむことか、知っていますか。自分の楽しみ、幸福を、子供に持っていかれるのです。かわいそうでしょう。
とても違和感がありますが、さらにまだまだ続きます。
きりがないのでやめますが、こういう言葉がなぜ共感されて受け入れられているのかに、違和感をもつわけです。
伴侶に関しても延べられていますが、私には全くなじめません。
その章の最後はこうです。
ポイントは、誰にも依存しないことです。人がいないと寂しいとは、決して思わないことです。人々がいると楽しいとも、決して思わないことです。人がいてもいなくても、こころには揺るぎない安らぎがあるのです。人に依存しないで、執着もしないで、人々を助けてあげるのです。仏教徒はたとえ一人で生活しても、孤独ではないのです。
私は、仏教徒を自認していますが、いささかの「ゆらぎ」を感じてしまいました。

私は妻に依存し、いまなお悲しんでいます。
煩悩の最中にいます。
しかし、決して、自分の楽しみ、幸福を、妻に持っていかれたとは思っていません。
むしろ、妻が与えてくれた「幸福」があればこそ、悲しみの中にも喜びがあります。
そして何よりも、妻はまだ私の暮らしの中にいます。
それこそが「遠離一切顛倒夢想究竟涅槃」であり、生きた安らぎではないかと思っています。
この本を持ってきてくれた若い僧と、また一度ゆっくりと話してみようと思います。

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2008/07/04

■節子への挽歌306:一気に咲いたハスの花

10回目の月命日だった昨日の話です。前日に敦賀にいる節子の姉から、家で咲いたハスの花が届きました。
以前も送ってもらっていましたが、咲かずにつぼみのまま終わってしまっていました。
ところが、今回は命日の朝に、ほぼすべてのつぼみが見事に開花しました。
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お墓に持って行こうと思って、何本かの花を持ち上げたら、
とたんに花びらがわっと散りました。
節子の位牌から離れたくなかったのかもしれません。

そういえば、昨日、もう一つわっと開いた花があります。
庭のムクゲの花です。
ムクゲは生命力の強い木です。
私は花そのものよりも、まっすぐと元気で育つムクゲの木が好きですが、
節子はムクゲの花が好きでした。
そのムクゲが、昨日わっと咲いたのです。
命日を待っていたように。

昨日は風が強く、ちょっと高台にあるわが家は風当たりがかなり強かったです。
庭の献花台の前でしばらく本を読んでいたのですが、風が強くて10分しかもちませんでした。
節子が、本など読んでいないでちゃんと献花しなさいといっているようです。
やっぱり節子もいま流行の風になってしまったのでしょうか。
困ったものです

以前は献花台の代わりに、花の手入れをしている節子がいました。
私が読書に退屈して(まあいつも10分程度でした)、
お茶でも飲もうよと、声をかけても節子は土いじりのほうが好きでした。
でも結局、節子は、いつも付き合ってくれただけではなく、
珈琲に合うケーキやお菓子をいつも用意してくれていました。

もう声をかける人もいません。
一人で飲む珈琲は苦いだけでした。
娘に頼んでまたケーキを作ってもらわなければいけません。

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2008/07/03

■節子への挽歌305:自分の愚かさに腹が立ちます

今日は10回目の月命日です。
最近、自分の愚かさに腹がたっています。
節子にいくら謝っても謝りきれません。

何回も書きましたが、私は節子が絶対に治ると思い込んでいたのです。
その「思い込み」が取り返しのつかない結果を引き起こしたのかもしれません。
そう思うといたたまれなくなります。

私も節子も友人に恵まれました。
沖縄から北海道まで、心あたたかな友人たちがいます。
節子が元気を回復したら、全国の友人知人を訪ねる旅に出ようと思っていました。
節子の再発が確実になるまで、節子は少しずつ元気になり、短い旅行は可能になっていました。
なぜその時に、全国を回る旅に出なかったのでしょうか。
節子に提案したのに、節子があまり積極的ではなかったような気もしますが、強く勧めたら、節子は賛成したかもしれません。
事実、節子は四国に行きたいと言ったこともありました。
あの時ならば、飛行機にも乗れたはずです。

もう少し元気になったら、などという馬鹿げた理由で、旅行を先延ばししていたことを心から後悔しています。
無理をしてでも行くべきでした。

先日、テレビで四万十市の番組がありました。
なぜ四万十市の宅老所えびすに行かなかったのか。
先日、広島の折口さんから電話がありました。
なぜ広島に行かなかったのか。原さんにも会えたのに。
新潟の金田さんからも電話がありました。
なぜ新潟に行かなかったのか。節子は一度も行ったことがなかったのに。
山形の友人とも電話で話していて突然に思いました。
山形にも結局、行けなかった。

何かあると、そこにいる友人知人の顔を思い出します。
節子に会わせたかった友人知人がたくさんいます。
みんなに会ったら、節子は元気をもらって治ったかもしれません。

やれることはやれる時にやっておくこと。
これは節子がよく言っていたことでした。
にもかかわらず、私は節子との旅を先に延ばしてしまっていたのです。
悔やんでも悔やみきれません。
絶対に治る、治ってからにしよう、などと考えていた自分に腹が立ちます。

みなさんは決してそんな馬鹿なことはされませんように。
やれることは、いますぐにでもやらなければいけません。
いますぐに、です。

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2008/07/02

■節子への挽歌304:おばけのQ太郎

昨日、ドラえもんが出てきたので、今日はおばけのQ太郎です。
いまでは忘れられてしまったキャラクターですが、私はおばけのQ太郎が大好きでした。
そして、そのQ太郎が私と節子をつなげてくれる大きな役割を果たしてくれたのです。

節子と初めて奈良を歩いたことは書きました。
偶然に電車であって、誘ったら節子が付き合ってくれたのです。
まさか、それが縁で結婚するとは夢にも思っていませんでした。
実は当時、私には付き合っていた女性もいたのです。
結局、後日、その女性には振られてしまいました。
但し、ただ振られただけではなく、ドラマティックな物語があるのですが、挽歌にはあまり似つかわしくないので書くのはやめます。

ところで、前にも書いたように、節子との最初の奈良散策はとてもあたたかな楽しいものでした。
その途中で、たぶん私が、真っ白なタートルネックのセーターがほしいというような話をしたのです。
市販のもので気にいるものがなかったのです。
節子はその話を覚えていて、セーターを編んでくれる人を探してくれました。
そして編んでもらえることになりました。
そこで追加のお願いを節子にしたのです。
そのセーターに、私のデザインしたおばけのQ太郎を大きく刺繍してほしいと。
なにしろ当時、私はおばけのQ太郎が大好きだったのです。
嘘を絶対につかず、困っている人がいるとついつい余計なお世話をし、でも必ずしも感謝されるわけでもなく、逆に騙されることが多く、報われることがなく、その上、大雑把でいい加減な、おばけのQ太郎の性格は、私の理想だったのです。

節子は、だれかに刺繍を教わりながら、Q太郎を完成してくれました。
当時は、そうした大きなQ太郎の刺繍のあるセーターを大の大人が着て歩くのは結構勇気が必要でした。
私は、そのタートルネックのセーターの上に、私好みに仕立ててもらった紺のスーツを着て外出しました。
ボタンをしているとQ太郎が見えないように工夫していたのです。
そのQ太郎が、節子と私の距離をぐっと近づけてくれたのです。
もっとも、そのお礼に、Q太郎の投げ輪ゲームを節子に贈りましたが、節子は全く喜びませんでした。
しかしわたしはQ太郎のセーターがうれしくて、毎週着ていました。
残念ながら自転車で転んで紺のスーツを破ってしまってからは、外出用にはいささか恥ずかしくてそのセーターも内着になり、いつかタンスの奥にしまわれてしまいました。
そしてある日、気づいたら節子が廃棄してしまっていたのです。
ショックでしたが、私には宝物でも節子にはできの悪い刺繍の思い出でしかなかったのです。
探せば当時の写真がどこかにあるはずですが、Q太郎が空を飛んでいる姿なのです。

ちなみに娘が小さな頃、等身大のQ太郎がわが家には時々いました。
娘たちをQ太郎のような理想の子どもに育てたかったのです。
しかし、残念ながら子どもたちはQ太郎のようにはなりませんでした。
子育ては難しいものです。
いやきっと節子がQ太郎のようにはしたくなかったのでしょう。

そんなわけで、いまのわが家には、ドラえもんもQ太郎もいないのです。
あえていえば、私自身が少しだけ彼らに似ているかもしれません。
何しろ彼らは私の憧れのキャラクターなのです。
みんなが彼らのようになったら、世界中がほんとうに平和で豊かになるでしょう。

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2008/07/01

■節子への挽歌303:ドラえもんだった節子

節子
むすめたちとロールケーキをつくりました。
ケーキづくりは、節子が残してくれた文化の一つです。
先週末倒れてしまったジュンもだいぶ良くなりましたが、まだ完全ではなく、手があまり使えないので、私も参加したわけです。
節子もそうでしたが、みんな私に料理やケーキづくりを教えようとしますが、どうも私には不得手な世界です。

節子がいなくなってから、私も家事を少しずつ分担するようになりました。
そして家事の大変さを身体で感じています。
とりわけ料理が不得手です。
子どもたちが小さい頃、夏休みに節子が子どもたちと滋賀の生家に帰省する時は、いつも2~3日分の食事を私に用意しておいてくれましたが、それが尽きると後はほぼ菓子類と果物だけで過ごしました。
節子が戻ってくる頃は、餓死寸前でした。
それくらい料理は嫌いでした。
私は絶対に単身赴任はできないと思っていましたし、もしそうなれば躊躇なく会社を辞めたでしょう。
だから節子がいくら勧めても男の料理教室には行きませんでした。

嫌いなのは料理だけではありませんでした。
それを知ってか、身の回りのことは節子が本当に良くやってくれました。
私がいつも気持ちよく仕事などに専念できたのは、節子のおかげですが、
そのありがたさがほんとうにわかってきたのは、つい最近です。
季節が変れば、クローゼットの中身は自然に替わっていましたし、出張の朝にはすべてがきとんと準備されていました。
なにか必要なものがあれば、節子に頼んでおけば、手に入りました。
家庭内でこうなったらいいなという思いをちょっと口にすると、数日後にはそうなっていました。
節子は私にとっては、ドラえもんのような存在だったのです。
そのドラえもんの節子がいなくなってしまいました。
もし娘たちがいなければ、間違いなく私は路頭に迷ったでしょう。

ところで、ケーキはとてもうまく出来上がりました。
むすめたちは、お母さんのよりよくできたといっていますが、
私には節子のケーキの足元にも及ばないような気がします。
節子のケーキは、結構失敗作が多かったのですが、私にはいつも「絶品」でした。
もう一度、節子のケーキが食べたいです。
節子
ケーキを作りに戻ってきませんか。
今度はまじめに手伝いますから。
そして、出来が悪いなど、決して言いませんから。

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2008/06/30

■節子への挽歌302:節子、ジャケットを買ってしまいました

節子
娘たちが、私にジャケットやシャツを買うように勧めます。
今の着ているのはもう生地が擦れていると言うのです。
私は目が悪いので気にはならないのですが。
そしてついに彼らのおかげでジャケットを買ってしまいました。
節子からもいつももう少しちゃんとした服を買ったらと言われていました。
私にはその気は全くなかったので、節子の要請はほとんど受けませんでしたが、娘には断りきれません。
いずれにしろ節子が病気になって以来、衣服を購入したのは初めてです。
節子がいなくなってからわかったことですが、
肌着類などは、私の性格を見越してか、節子が私の一生分を買ってくれていました。

私の消費活動はいささか偏っており、お金を使うのはわずかな書籍代だけでした。
酒も煙草も、ゴルフもギャンブルもやりません。
お金のかかる趣味も全くありません。
衣食住のうち、衣服と食にはほとんどお金をかけません。
ファッションにもグルメにも全く関心はありません。
ですからお金がなくても生きていけるのです。

にもかかわらず、家族は私のことを無駄遣いが多いといいます。
確かに、レーザーディスクのプレイヤーを突然2台購入したり、断るはずのリゾートマンションを買ってしまったり、見もしない絵画全集や文学全集を注文してしまったり、以前はそんなこともありました。
お金があるとついつい無駄なものを買うため、最近はお金を持たないようにしていますので、衝動買いはなくなりました。
それに最近は書籍もあんまり購入しなくなりました。
そんなわけで、ともかくお金は使わないのです。

ですから真面目に働けばわが家は大金持ちになれたはずです。
節子と結婚する時、酒も煙草も飲まないのならお金がたまって仕方がないねと節子側の親戚の人からいわれました。
しかし、不思議なもので、入ったお金は自然と出て行くものです。
それに、いろいろあって、ほどほどのお金が入ったり入らなかったりする人生でした。
ですからお金持ちにはならず、わが家は幸せを維持できたのかもしれません。
節子もたぶんそれを歓迎していました。
節子もまたブランド品や貴金属などにはほとんど関心がなく、それにお金がたくさんあったら管理できないタイプでした。

会社を定年前に辞めた時、3000万円の退職金をもらいました。
そんな大金は手にしたこともなく、そのせいで数年後にはほぼ同額の借金に変っていました。
お金で不幸になることはありますが、たぶん幸せになることはないでしょう。
まあ、お金を持ったことのない者の偏見かもしれませんが。

また書かなくてもいいことを書いてしまいました。
節子に笑われそうですが、節子も私と同じく、言わなくてもいいことを言うタイプでした。

ジャケットを購入してからもう1か月以上たちましたが、まだカバーに入ったままです。
着るシーズンが終わってしまいました。
買わなくても良かったなという気もします。
それに、佐々木さんと約束した「本来無一物」指向と反します。
主体性がない人の生き方は矛盾だらけです。はい。

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2008/06/29

■節子への挽歌301:家族の絆

今日は節子への報告です。
家族を失うと、遺された家族にはさまざまなストレスが生まれます。
このブログでは、私のことしか書いていませんが、
わが家には同居している娘が2人とチビ太くんという犬がいます。
そうした私以外の家族にもそれぞれ大きなストレスはかかっています。
もっともチビ太はあんまり感じていないのかもしれません。
節子がいなくなってからも、特に大きな変化はありません。
動物のスピリチュアリティには大きな関心を持っていますが、チビ太にはどうもスピリチュアリティを感じません。
彼は、薄情な近代犬なのです。いやはや困ったものです。

節子がいなくなってから、一番、精神的にダウンしたのは私です。
それまでは一応、私たち夫婦が家族の中心でしたが、それは節子がいればこそでした。
その家族の中心がなくなってしまったのです。
節子のいない私は、いわゆる「腑抜け」のような存在になっていたはずです。
私がなんとか踏みとどまれたのは、同居していた娘たちのおかげです。
私は実に幸運だったのです。
娘たちに感謝しています。

しかし、私が支えられた分、逆に娘たちのストレスはさらに上乗せされたでしょう。
それはわかっていましたが、娘たちに甘えることにしました。
彼女らも、自分自身の問題もいろいろと抱えているはずですから、大変だったと思います。

最近、漸く、そうした状況を受け止められるようになってきました。
つい先日、3人で食事に行きましたが、節子のいない意味を改めて実感しました。
お互いに精一杯支え合いながら、私のように寂しさや悲しさをストレートに出せない性格なのです。
その分、内部に蓄積されるはずです。
それをもっと思いやらねばならないと改めて思いました。
このままだと、誰かが倒れかねないと思いました。
愛する人を失った人の思いは複雑で、たとえ親子といえども理解などできませんが、思いやることはできます。
大切なのは、理解できないことを認識した上で、何ができるかを考えることかもしれません。

そんな思いになりだしていた矢先、一昨日、わが家一番の頑張り屋の次女が倒れてしまいました。
積もり積もったストレスが引き起こしたことだったのでしょう。
幸いに長女が在宅でした。
おろおろする私とは別に、彼女がてきぱきと状況を仕切ってくれました。
そのおかげで、大事には至らず、次女も回復しつつあります。
今回は、長女の適切な行動に助けられました。

病院からの帰路、長女が、最近、ちょっとギスギスしていたね、と言いました。
節子がいなくなってから、家族はお互いのことを気遣いしあいすぎて、それが逆にお互いのストレスを高めあっていたのかもしれません。
長女もそれを感じていたのです。

節子がいなくなった後、私と節子が入れ替わっていたほうが娘たちには良かっただろうにと、何回も思いました。
しかし、それは無責任な逃避的発言だったのです。
現実をもっと見据えなければいけません。
最近は、「節子だったらどうしただろうか」と考えるようにしています。
しかし今はまだ、その度に節子との思い出が出てきてしまい、判断できなくなります。

次女が身体で表現してくれた事件のおかげで、ちょっと意識しあいすぎていた家族の関係が変りそうです。
今日は、静かに自宅で3人、過ごしています。

節子
娘たちは、本当によくしてくれますし、それぞれ少しずつですが、前進しています。
安心してください。
まあ、私もだいぶしっかりしてきました。はい。

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