カテゴリー「妻への挽歌5」の記事

2009/01/14

■節子への挽歌500:年賀状の返事

節子
たくさんの方から年賀状をもらいました。
宛先にまだ「節子」があるものも3枚ありました。
私のほうの友人ですが、伝えていなかったようです。
この年賀状が正しくて、節子の不在は私たちの勘違いだったらどんなにいいでしょうか。
その人たちに伝えようかどうか、迷っています。

ところで、今年は年賀状を1枚も出しませんでしたし、年賀メールも出しませんでした。
世間的には喪はあけたのですが、どうしても賀状を書く気にはなれなかったのです。
しかし、黙っているのも失礼です。
思い切って、メールと手紙を書くことにしました。
あまり気分は乗りませんが、これから1週間かけて出していくつもりです。

こんなことをいうと笑われそうですが、おそらくこれからずっと年賀状は書けなくなるような気がしています。
心理的には、ずっと喪に服していたい気分なのです。
節子がいない今、たとえ何であれ、祝う気分にはなれないからです。
正確にいえば、「祝う気分」と同時に、節子と一緒にそれを味わえない「悲しい気分」が生じてしまい、結局、本心から祝えなくなってしまっているのです。
困ったものです。
付き合いにくい人間にならなければいいのですが。
そうならないように努力しなければいけません。

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2009/01/13

■節子への挽歌499:一緒に暮らすということは、学びあうこと

プラトンは『饗宴』のなかで、愛についてこう語っているそうです。

愛の目的は、美しさではなく、美しさを生み出すことである。
生殖は命に限りあるものにとって不死を獲得する唯一の方法である。
ある本からの間接的な引用ですので、不正確かもしれませんが、考えさせられる言葉です。
その本(「生命をつなぐ進化の不思議」ちくま新書)の著者の内田亮子さんは、こう書いています。
これは、生物の命のつながりのことである。
さらに、生産には繁殖とは別に精神を介したものがあるとプラトンはいう。
これが知のつながりであり、これによっても人間は不死を獲得することができる。
「魂によって懐妊し出産することができるすばらしい詩人や発明家たちが存在する」と。
産み出された知は、脳を介して伝わっていく。
節子との40年の暮らしの中で、私たちがお互いから学んだものはたくさんあります。
もっとも、一緒に暮らすということは、学びあうことだと気づいたのは、私の場合はかなり遅くなってからです。
たぶん会社を辞めて、節子と一緒に湯島のオフィスを拠点に活動を拡散するようになってからです。
それまでに節子からたくさんのことを学んでいたことに気づかされたのです。

私は主に知識を節子に提供し、節子は私に生きることの意味を教えてくれました。
私は言葉で、節子は行動で、です。
しかし、次第に学びあうことから育てあうことに変化したように思います。
私も知識だけではなく、行動を主軸にするようになりました。
私たちの世界観や生活文化は、かなりシンクロナイズしていったように思います。
詩や発明にはつながりませんでしたが、私たちの文化はささやかながら娘たちに継承されていますし、私の周囲の人たちにも少しだけ伝わっているかもしれません。

会社を辞めてからの私の仕事のすべては、その意味で節子との共同作品です。
何気ない節子の一言が、私の創造力にどれほど刺激を与えてくれたことか。
何気ない節子の反応が、私にどれほどの勇気を与えてくれたことか。
そんななかから、要するに知的成果というのはすべて個人のものではないことにも気づかされました。
私が知的所有権という概念に反対するのは、そのせいです。
知的成果は個人が独占すべきことではありません。

プラトンがいうように、生命はつながっており、個別の生命を超えて考えれば死はきわめて個別の現象でしかありません。
生命のつながりの確信があれば、大仰に嘆き悲しむことではないのかもしれません。
それはわかっているのですが、にもかかわらず、やはりまだ煩悩から抜け出られずにいます。
「愛の目的は美しさを生み出すこと」
これも最近、何となく理解できるような気がしています。

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2009/01/12

■節子への挽歌498:「幸せ」を共有することの難しさ

節子の夢を見ました。
目覚めた時にはかなりはっきりと覚えていたのですが、いざ書こうとパソコンの前に座ったら思い出せないのです。
たしか2人で観劇をしていたような気がしますが、それがなぜか突然電車の席に変わり、まあいつものようにかなりシュールな夢でした。
しかし一緒にいることが、とても幸せに感じられる夢だったように思います。

私が一番幸せだったのは、やはり節子と一緒にいる時でした。
夫婦喧嘩をしている時でさえ、私は節子といるのが好きでした。
顔もみたくない、などということは、どんなに激しい喧嘩をしている時にもありませんでした。
もっとも、節子は必ずしもそうではなかったかもしれません。

それはともかく、昨日も書いたように、幸せの大きさは失った時にしか気がつかないものです。
愛する人と一緒に笑ったり泣いたり、怒ったり喜んだりできることがどれほど幸せなことか。
しかしそれはあまりにも当たり前すぎて、その幸せとは違う幸せを目指しがちです。

節子が病気になってからよく口にしたのは、今日も昨日と同じに無事過ごせたという言葉でした、
節子はいつもそのことに感謝していました。
私は、節子がもっと元気になって病気を克服することばかり考えていたような気がします。
「元気になったら台湾に行こう」
「治ったら応援してくれたみんなのところを回ろう」
今の幸せではなく、明日の幸せしか視野になかったのです。
今をしっかりと生きようとしている節子には、もしかしたら「さびしい」話だったかもしれません。
今から考えると、私と節子とは「幸せ」を共有していなかったのです。
そう思うと節子が不憫でしかたがありません。

節子は私の性格をすべて知っていましたから、もしかしたら私の価値観に合わせてくれていたのかもしれません。
全く違った人格を持つ2人が、そもそも価値観を共有することなど出来るはずがありません。
どちらかが、大きな寛容さをもって、相手を包み込まないと、そうはならないでしょう。
私がその寛容さを持っているといつも思っていましたが、そうではなかったようです。
私は、節子にとってあまりいい伴侶ではなかったのかもしれません。

いま私が一番幸せなのは、夢の中で節子と一緒にいるときです。
いまは素直に節子に従いながら、その時々の幸せを受け容れるようにしています。
目覚めてしまうと、その内容が思い出せなくなってしまうのが残念ですが。

しかし考えてみると、節子と一緒に暮らした40年間も、昨日見た夢とどこが違うのでしょうか。
今の私には、いずれもが同じに感じられます。

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2009/01/11

■節子への挽歌497:幸せは失った時にしか気がつかない

節子
寒さが厳しくなってきましたが、昨日からまた天気が回復し、青空が続いています。
今日は3連休の真ん中でしたが、どこにも行かず自宅に引きこもっていました。
娘が風邪でダウンしてしまったのと、私もちょっと風邪の予兆を感じているからです。
節子がいなくなってから、風邪を引かないように注意しています。
看病してくれる節子がいないのでは、風邪はひきたくありません。
それまでは年始の風邪は恒例行事だったのですが。

今朝は快晴で、気温は下がりましたが、ガラス越しの日差しのなかにいるととても快適でした。
最近の習慣で、午前中の1時間はそこで読書です。
今日は「山口組概論」を読みました。
読書の合間に何気なく外を眺めていたら、わずかに見える手賀沼の湖面が、日差しを受けてきらきらと輝いていました。
この風景は節子が好きだったのを思い出しました。
見ているとまぶしいほどで、とても心があたたかくなる風景です。

ところが、見ているうちにだんだんとさびしさが強くなってきてしまいました。
以前は元気をもらえた風景なのに、今では元気を吸い取られそうです。
節子がいなくなってから、同じ風景が全く正反対の意味になってきたことはたくさんなります。
本当に不思議です。
節子がいなくなっただけで、こんなにも世界は変わるものかと思うほどです。
世界は本当に自分の心の鏡です。

そういえば、3連休さえも意味が全く変わってしまいました。
昔は3連休ならば節子と一緒に必ず何か計画を立てました。
ところがいまは計画など全く立てる気になりません。
自宅で無為に過ごすことは、寂しさを感ずる時間が増えることでしかないのですが、無為にしか過ごせなくなったのです。

屋上に行って手賀沼の写真を撮りました。
Kira_4

残念ながら乱反射する情景は私の腕では写せませんでしたが、こんななんでもない風景さえもとても幸せな風景だったのだと改めて思いました。
私たちの周りにはきっとたくさんの「幸せな風景」があるのです。
しかし、その中にいるときにはそれに気づかない。

言い換えれば、「幸せは失った時にしか気がつかない」のかもしれません。
だとしたら、いまもなお私は幸せなのでしょう。
いつかまた、いまの毎日が幸せだったことに気づくのかもしれません。

今日はちょっと「哲学的な1日」をすごしました。
最近、私はかなり「哲学者」なのです。

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2009/01/10

■節子への挽歌496:「運命は事前には書き記されていない」

「運命はそれがつくられるにつれて書き記されるのであって、事前に書き記されているのではない。」
生物学者のジャック・モノーが「偶然と必然」のなかで書いている文章です。
私はどちらかというと、偶然を大切にして生きています。
節子もそうでした。
私たちの共通点は、「計画的」でないとともに、「既存のルール」に拘束されなかったことです。
「計画」を立てるのが好きでしたし、既存のルールも大事にはしたのですが、そのくせ、それらに拘束されるのは苦手でした。
うまく書けないのですが、わかってもらえるでしょうか。

以前、 「赤い糸」のことを書きましたが、その一方で、そうした「定め」のようなものも受け容れられるのも、私たちの共通点でした。
節子は病気になってから、よく「これが私の定めなのね」と話していました。
いま思うと不思議なのですが、その言い方は淡々としていて、驚くほどでした。
おそらく私もまた同じ立場になったら、同じだったと思います。
にもかかわらず、私たちは2人ともどこかで「治る」と確信していました。
運命があるとしても、それはいくらでも書き換えられる。
そう思っていたのです。
反省すべきは、そう思っていながらも、それに向けての努力を怠っていたことです。

上記のモノーの言葉は、最近読んだ「偶然を生きる思想」の中で出会いました。
それで昔読んだモノーの「偶然と必然」をまた読み直したのです。
驚いたことに、その本の上記の文章にマーカーペンで印がついていたのです。
私は本を読む時に、印象に残ったところに線を引くのですが、その線が引かれていたということです。
35年前に本書を読んだ時にも、この文章にこだわっていたのです。

節子との偶然の出会いは、その後、必然的な出会いだったと思えるほどに、私たちの人生を変えました。
おそらくそう思えるまでには、20年以上の時間が必要だったように思います。
そして、2人ともが「必然的な出会いだった」と確信できたところで、またもや偶然の別れがもたらされたのです。
そこで混乱が生じます。
この別れは「必然的」なものだったのではないか、と。

しかし、モノーがいうように、運命は事前に書き記されてはいないのです。
だとしたら、節子との別れは、私たち自身が書き記したことなのかもしれません。
いつどこで、こんな展開が決まってしまったのか。
なぜ私たちはそれに気づかなかったのか。
偶然を大事にして生きるのであれば、もっと自覚的にならなければいけません。
そのことを改めて思い知らされました。

運命を自らが書き記していくことは辛いことです。

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2009/01/09

■節子への挽歌495:読書の冬

節子
こちらは寒くなってきました。
今年の冬は暖かく、庭の花がいつまでも咲いていて、植え替えられないとジュンが言っていましたが、さすがに秋の花は咲き終えたようです。
庭から色目が少なくなり、少しさびしい気がします。

しかし快晴が続いています。
幸いにわが家のリビングは日当たりがよく午前中は暖かいので、自宅にいる時はそこで本を読んでいます。
自宅で読書をするという習慣は私にはあまりなかったのですが、昨年末から今年にかけてかなりの本を読みました。
こんなに集中して読書をしたのは、20年ぶりくらいでしょうか。
とても久しぶりです。
それに、それなりにハードな本です。
基礎情報学とか社会論とか経済学です。
かなり頭が固くなっていて、読書のスピードが我ながら落ちています。
しかし、ずっと考えてきて、この30年取り組み続けてきたことが間違いではなかったという確信を強められました。

塩野七生さんの地中海シリーズや山折さんの「空海の企て」のような、柔らかな本も何冊か読みました。
ところで、不思議なのですが、いずれもなんだか以前読んだような気がしてなりません。
もちろん再読した本も何冊かありますが、ほとんどは新たに読んだ本なのです。
でもなんとなく親しみがあり、自分で書いたのではないかと思ったりするほどです。
そのせいか、読書速度はかなり落ちていますが、素直に心に入ってくるのです。
空海が時空間を超えたすべての知識がつまった虚空蔵につながっていたという話がありますが、なんだかそんな気分もしなくもありません。
節子のおかげで、彼岸と繋がったせいでしょうか。

節子がいた時には、本で読んで気づいたことを節子によく話したものです。
節子に話すことで、読んだことが消化できましたが、いまは話す人もいません。
それがちょっとさびしいです。

もっともまだ読めない本が何冊かあります。
最近また話題になっている城山三郎さんの本もまだ読めません。
一時、読めそうになったのですが、やはりまたストップがかかっています。
この種の分野は、読むのではなく、書くのが私には向いているようです。

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2009/01/08

■節子への挽歌494:海外からの便り

節子
エジプトの中野ご夫妻から、恒例の年賀状が届きました。
今年の写真は、サン・アル・ハガルにあるラムセスⅡ世神殿跡のレリーフでした。
サン・アル・ハガルには行ったことはありませんが、エジプトを満喫している中野ご夫妻がうらやましいです。
エジプトは魅力的です。

私が会社を辞めた時に、わがままを言って、家族でエジプトに旅行しました。
その時にガイドしてくださったのが、中野さんです。
それが縁で、ささやかなお付き合いが始まりました。
中野さんご夫妻はカイロにお住まいですが、毎年、日本に帰国されており、湯島のオフィスにも来てくださいました。
ご夫妻は、カイロを拠点にいろいろな活動もされているのです。
バレンボイムのDVDを教えてくださったのも、中野ご夫妻です。

エジプト旅行はたくさんの思い出があります。
ルクソールからカイロに向かう列車から見た、日の出の美しさは今でも覚えています。
いつかまた行きたいと思っていましたが、節子がいなくなったいま、果たせぬ夢になってしまいました。

中野さんからの手紙には、節子のことに関して、
「ご連絡をと思いながら、思うに任せず、ご連絡できませんでした」
と書いてありました。
そうですよね、
訃報が届いたらどう返事を書いていいか、悩みますよね。

同じ日に、マレーシアのチョンさんからメールが来ました。
昨年、電話で、節子のことを話した時、チョンさんは絶句してしまい、以来、連絡が途絶えていました。
奥様が亡くなってから、どんなふうに言葉をかけたらよいのか、ずっと悩んでいましたが、佐藤さんも昔のように一日も早く元気になれればと思います。
チョンさんは、この挽歌も少し読んでくれていますが、ようやく声をかけられる状況になったのかもしれません。

どんなふうに言葉をかけたらいいか。
その気持ちはよくわかります。
私もそうですが、意を決して声をかけた後に、あれでよかったのかな、などと悩んでしまうこともあります。

チョンさんは前に書いた呉さんと同じく、日本に来ていた頃、留学生サロンに来てくれた人です。
チャンさんの博識と明るさが、節子はとても好きでした。
いまはインドネシアで仕事をしています。

海外からのメールといえば、ジュネーブの矢野さんからも年始のメールをもらいました。
ブログを拝見していて、少しずつお元気になられているご様子で、
良かったーと思っているところです。

いろんなところで、私たちを支えてくれている人がいると思うだけで、元気が出てきます。
そろそろ私も、心遣いされる側ではなく、心遣いする側にまわらないといけません。
節子がいなくなってから、どうも心遣いされることに慣れきってしまっていますが、そろそろそこから抜け出ないといけません。

節子さん
後押ししてくれませんか。

イスラエルのガザ空爆とバレンボイムのコンサート


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2009/01/07

■節子への挽歌493:キスケの従者が汗をかいていました

昨日の挽歌に節子にお願いを書いたのですが、
なんと節子を守っているキスケの従者がまた汗をかいていました。
節子が示した「お印」でしょうか。

「また」と書きましたが、実は今年初めにも一度起こったのです。
わが家の仏壇は、中心に手作りの大日如来がいますが、
その横に節子を守っているキスケ3人組がいます。
汗をかいていたのは、キスケの両側の従者だったそうです。
ユカも確認していますので、間違いない事実です。
仏壇の中には水分を発散させるものはなかったそうですし、他のところには異常はなかったそうです。
なぜキスケの従者たちが汗をかいていたのか、謎でした。

ところがそれがまた今朝、起こったのです。
どう考えるべきでしょうか。

古今東西を問わず、世界にはたくさんの「奇跡」が伝えられています。
ルルドの奇跡もありますし、空海の奇跡もあります。
最近でもいろいろとありますが、奇跡とは「起こすもの」ではなく「感ずるもの」なのかもしれません。
同じ風景を見ても、ある思いを持った人にとっては、とても不思議な意味を持つ現象と受け止められるのです。
節子がいなくなってから、私はさまざまな「奇跡」を感じますが、たぶん他の人にとっては気づきもしなければ、気づいても無意味なことと思うでしょう。
まあそんなものです。
キスケの従者の汗も、普通なら見過ごします。
なにしろとても小さいですから、私には言われても、そうかなと思う程度です。

昨年、篠栗大日寺の庄崎良清さんのところに行った時に、加野さんが言った言葉を思い出します。

「佐藤さん、事実かどうかよりも、あなたがどう受けとるかが大切なのですよ」
私もそう思います。
今日はとても雲の多い朝でしたが、
この挽歌を書きおえたら、太陽が見えてきました。
私の部屋の窓がサッと明るくなったのです。
それさえも節子のメッセージだと思えなくもありません。

私たちは、無数の「奇跡」がとりかこまれているのかもしれません。
それに気づくかどうか、それは自分自身の問題かもしれません。
そんな気がしてきました。

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2009/01/06

■節子への挽歌492:節子もこの挽歌を読んでいるのでしょうか

節子
昨日の東京は、午後から雲が出てきました、
その雲が3つの層からなっていて、
しかも水平軸と垂直軸、連続と断片の組み合わせで、
何かのメッセージを伝えたがっているような気がしました。
そして、そう思っているうちに垂直軸の断片の雲が消えてしまい、また太陽の光が戻ってきました。
そして雲が、「火の鳥」のような形になって、空一面に広がりだしました。
雲の形の変化は実に見事です。

まあ、何を言っているのかわかりにくいと思いますが、
昨日の記事をアップした後、オフィスで体験したことなのです。
そして、その時、全く脈絡はないのですが、
節子がいなくなった自分のことばかりを考えていたけれど、
節子の立場に立ったら、どうなるのだろうかという思いが突然頭をよぎったのです。

修がいなくなった節子。
私と節子は対称形ですから、そういう節子もいるわけです
伴侶がいなくなって寂しがっているのは私だけではないことに、ようやく今、気づいたのです。
節子もまた、私に会えなくなって寂しがっているはずですね、たぶん。

そう思わせてくれたのは、実はこのブログの読者の方です。
伴侶がいなくなった寂しさを書いている私がいて、
伴侶がいなくなった寂しさを読んでいる人がいる。
だとしたら、節子もまた、このブログを読んでいるのではないか。

あんまり論理的ではありませんね。
しかし、節子は知っていますが、
私は「論理」が語られる言説の論理は、「小さな論理」でしかないと昔から考えています。
私にとっては、小賢しい私たちの論理などは、宇宙の前には小さな論理でしかないのです。
彼岸と此岸がつながっていると考える発想からは、瑣末な論理です。
すみません、横道にそれすぎました。

私と会えなくなった節子は、このブログを読んでどう思っているでしょうか。
やはり私がいないとだめね、と思っているでしょうか。
もしそう思ったら、そろそろ戻ってきてください。
戻れないのであれば、せめて読んでいる合図を送ってくれませんか。
メッセージは明日の朝、我が家の位牌壇にお願いします。

節子さん
頼みましたよ。

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2009/01/05

■節子への挽歌491:湯島で節子と話しています

節子
今年は元日から良い天気が続いています。
今日、久しぶりにオフィスの近くの湯島天神に行きました。
節子がいなくなってから、初めてです。
今までどうしても行けませんでした。

お店も出てにぎわっていました。
節子と一緒に飲んだ甘酒屋さんも出ていました。
みんな楽しそうでした。
まだここにはお正月が残っています。

私たちのオフィスは湯島天神のすぐ近くです。
今日はそこで半日を過ごしています。
このオフィスは私たちの人生の再出発の場所です。
いろいろな思い出が、ここには込められています。
目の前の壁には藤田さんのリソグラフがかかっています。
節子はこの「萌える季節」が好きでした。
このオフィスを開いたのは、平成元年でした。
その春、私は会社を辞めて、節子と2人で新しい生き方を選びました。
働くでもなく遊ぶでもなく、時代のなかで自分たちの生き方を探しながら、一緒に人生を創っていくというのが、その時の私たちの思いでした。
オフィスを開いた1週間、100人を超える人たちが来てくれました。
それが私たちの、いや私の生き方を決めてしまったように思います。
節子が思っていたのとはちょっと違っていたかもしれません。
しかし、節子は時々、不満を口にしたとはいえ、私についてきてくれました。

考えてみると、私の生き方はたぶん非常識な生き方です。
節子が苦労したことはよくわかっていますが、節子もまた、そうした私に生き方にいつしか共感してくれるようになりました。
私が節子に一番感謝しているのは、そのことです。
そして、節子に一番すまないと思っていることもそのことです。
節子には、世間的な意味での優雅な暮らしを体験させてやれませんでした。
ブランド品はひとつもなく、高級レストランでの食事もなく、旅行も庶民的な旅館だけでした。
私が、そうしたものがすべて嫌いだからです。
しかし、女性である以上、節子はたまにはちょっとした「ぜいたく」を楽しみたかったかもしれません。
なぜかそうしたものに生理的に反発してしまう私と結婚したために、少なくとも私と一緒には、節子は贅沢を味わうことはありませんでした。
私たちは、いつかも書きましたが、6畳一間の「神田川」の生活から始まり、質素で贅沢とは無縁の暮らしを続けてきたのです。
但し、お金で苦労したことは、節子もなかったでしょう。
お金がなくても豊かな暮らしができる術を私たちは持っていたからです。
愛があればお金などいらないというのは、少なくとも私たちには真理でした。

何だかおかしな方向に文章が進んでいますね。
湯島のオフィスで、節子の好きだった「萌える季節」を見ていたら、ついつい昔を思い出してしまいました。
ここにはともかくたくさんの節子が息吹いているのです。

今日はホームページで湯島でのんびりしていることを書いたので、夕方までいる予定ですが、まだ誰も来ません。
ホームページだけに書いたので、みんな気がつかなかったのかもしれません。
まあ、だれも来なくても、節子と話せるので退屈はしませんが。
でも誰かに来てほしい気もします。

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