カテゴリー「妻への挽歌6」の記事

2009/04/24

■節子への挽歌600:真実に生きる

節子
人生は実にさまざまです。
この数日、改めてそのことを実感しています。
毎日、さまざまなメールや電話がきます。
しかし、一番心が動揺するのは、「がん」にまつわる話です。

先週、友人からちょっと話があると言われました。
思いもかけず、「実は検査の結果、手術することになりました」というのです。
がんが発見されたのだそうです。
節子が闘病中に、毎朝、節子の回復を祈願してくれた人です。
なかなかまわりには公言できずに、私に話してくれたのです。
驚きました。
全く健康そのもので、私にもいろいろと健康法を伝授してくれていた人なのです。
ただただ聴くだけしかできません。
不用意な言葉は避けなければいけません。
なにしろ感受性がとがっているはずですから。
翌日、「話してよかった」とメールが来ました。
いま、毎朝、節子への挨拶の後、彼にために祈っています。

節子も知っている友人から、ちょっと症状が悪化している、という電話を受けたのは2週間ほど前でしょうか。
いつもは軽口を叩き合っている仲ですが、数日経ってから、その電話がとても気になりました。
しかしなぜか電話できずに、今日、やっと電話しました。
元気そうな声でホッとしましたが、また意外なことを聴いてしまいました。
人生は、まさにいろいろあります。

それとは別に、彼がこう言いました。
「佐藤さんは人が変わってしまった。もう心ここ(現世でしょうか)に在らずだよね」
とんでもない、そんなことはなく、何も変わっていないと言ったのですが、挽歌を読んでいるとそう感ずるのだそうです。
私にとっては、現世も来世も繋がっているのですから、「ここに在らず」などということは起こりえないですし、昨日も書いたように、けっこう、自己の遍在を実感しているのですが、挽歌の読み手にはそれは伝わらないようです。

人は、結局は変わりようがないのです。
そして、ある状況に置かれると、自分と周りが恐ろしいほどによく見えてきます。
そして、「関係性」が変わるのです。
節子と一緒にいて、そのことを強く実感しました。
人は真実に生きだすとまぶしいほどに輝きだします。

そういえば、今日、ある人を紹介したいというメールをもらいました。
「死」を間近に垣間見た人だそうです。
紹介した人はこう書いてきました。 

○○さんのこと、私から佐藤さんにバトンを渡します。
彼によい「影響者」となって本物の世界へと導いてあげてください。
「本物の世界」とは何なのでしょうか。
彼女は、私が「本物の世界」に生きていると勘違いしているようですが、真実を生きたいという思いは、私にも最近少しずつ強まっています。
節子が教えてくれた生き方なのです。

人生はほんとうにいろいろです。

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2009/04/23

■節子への挽歌599:遍在転生の死生観

節子
今週の土曜日に、東尋坊の茂さんたちと「自殺ストップ!緊急集会」を開催します。
その準備でいささか最近疲れ気味なのですが、このプロジェクトへは節子の誘い(いざない)があるような気がしています。
いろいろとそう思う節があるのです。

私の性癖は、どんなことでも単に事務的には関われないことですが、今回もいろいろと考えることが多いのです。
それで精神的に疲れてしまうのですが、先日、茂さんから「ストレスチェック」のカードをもらいました。
ある部分を指で押していると変色するのですが、その変色度合いを見て、ストレス度がわかるのです。
それでやってみたら、なんと「要注意」を越して「ストレス有り」の段階でした。
たしかに最近疲労とストレスがたまっているようです。
ストレスはすべて節子に解消してもらっていた頃は、いつも元気だったのですが。

まあそんなわけで、今日は脳疲労もちょっと起こしています。
資料づくりの合間に節子のお墓参りに、いま行ってきたのですが、まだ頭がすっきりしません。
困ったものです。

それで今日の挽歌は、いささか難しい話です。
遍在転生論というのがあります。
この世界における過去・現在・未来を通じたありとあらゆる自己意識を持つ主体は、唯一の「私」が転生したものに他ならないのだ、という考え方です。
ユングの集合的無意識の考えに通じますし、いつか書いたような気もしますが、心のマルチネットワークの考えにも通じています。
いや、そういうものをつなげていくと、結局、この宇宙には「一人の私」しかいないということになるのです。

先日も、「死は存在しない」というようなことを書きましたが、遍在転生論の立場ではもちろん「死」などは瑣末な話です。
「生」そのものが一時のアワのようなものなのですから。
節子がいたら、この話を図解しながら私は得意気に話し、節子は真剣に聴いてくれているようで「またか」と受け流していることでしょう。

実は、節子がいなくなってから、遍在転生論も捨てたものではないなと思うこともあります。
しかし、真面目すぎるほど真面目に生きていた節子は、多分受け容れないでしょうね。
「死」は決して「瑣末なこと」ではないと怒るでしょう。
瑣末なことではないからこそ、瑣末なことなのだ、という私の論理は節子には受け容れられないでしょう。
受け容れられなくても、受け容れてくれた節子が、今こそ居て欲しいですが、それも適わぬことです。

何だか支離滅裂ですが、私の中では極めて論理的なのです。
わかってもらえないでしょうね。
超論的な節子なら、わかってもらえるのですが。

節子も知っていた清水由貴子さんが父上の墓前で自殺しました。
やりきれない話です。
「自殺」をテーマに関わっていく自信が、実はちょっと萎えています。
私には向いていないのかもしれません。
しかし動き出してしまいました。

節子に助けて欲しいです。
お墓に向かって、そう願ってきました。
清水さんのテレビを見ると、悲しさがこみ上げてきます。
どうも感情移入が大きすぎます。
やはり遍在転生している結果でしょうか。

やはり今日の挽歌は支離滅裂ですね。
すみません。

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2009/04/22

■節子への挽歌598:寄り添う2人

節子
昨日の挽歌の牡丹の写真を見た人が、
「2つの牡丹、私には仲むつまじく寄り添う佐藤修さんと節子さんご夫婦のように映ります」
とメールしてきてくれました。
同じ風景も、いろいろに見えてくるのですね。

改めて今朝、2つの牡丹の花をゆっくりと見てみました。
ところがです。
2つの花がどうもそっぽを向きだしているのです。
今日の牡丹は、「仲むつまじく」寄り添っているようには見えません。
夫婦喧嘩している2人のようです。

私たちは、夫婦喧嘩においても自慢できるほど喧嘩をしました。
節子は「実家に帰ります〕とは言いませんでしたが、離婚しようと思ったこともあるそうです。
鈍感な私は、後で節子から教えてもらったのですが。
喧嘩はいつも、私が謝ることで終わりましたが、後半は節子が私をかわす知恵を身につけましたので、私が腹を立てるだけで喧嘩にはなりませんでした。
節子が病気になってからも、もちろん喧嘩はしましたが、年に1度くらいでしょうか。
節子はどうせ修が反省して謝ってくるからと、相手にしないようになったからです。
女はしたたかです。

今日の我孫子はとても快い春の日です。
25日にある集会をするので、自宅でその資料づくりなどをしていますが、あまりの快適さに庭の池の手入れをちょっとだけしました。
小さな池なのですが、節子と娘たちが私の還暦の祝と称してつくってくれたのです。
そこに毎年沢蟹を話すのですが、残念ながら棲みついてくれません。
でも毎日、どこかにいないかと沢蟹を探しています。
そういう私を見て、節子が郷里の滋賀に帰った時に、私と一緒に沢蟹を捕獲に行ってくれたことを思い出します。
この池にも、節子の思い出が山のようにあるのです。

思い出は、うれしくもあり悲しくもあり、複雑なものです。

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2009/04/21

■節子への挽歌597:美野里町の牡丹

節子
2006年5月4日に、美野里町の花木センターで買ってきた牡丹が咲きました。
なぜ日付がわかるといえば、この日のことが私のホームページの週間記録に掲載されているのです。
その日、家族で那珂湊のさかな市場に行き、その帰りに美野里町に寄ったのです

翌年の2007年、見事な花を4つ咲かせました。
節子はとても喜んでいました。
その翌年はなぜか花は3つしか咲きませんでした。
節子がいなくなったことへの弔意の現われだったのかもしれません。
そう話していたら、今年はなんと2つしか咲きません。
Botan_3

花の数と家族の数がそろっているとしたら、もしかしたら私が今年はいなくなるのかもしれません。
いえ、実はもう私はいないのかもしれません。
落語に自分が死んだことに気づかない粗忽者の話がありますし、映画「シックスセンス」もそうですが、自分が死んだことを確認する方法は実際にはありませんから、気づかずに過ごしていることがないとはいえません。

節子はどうだったのでしょうか。
自らの死を体験したのでしょうか。
体験するはずはありません。
なぜなら体験したのであれば、まだ生きているということですから。
人は自らの死は体験できないのです。

言うまでもありませんが、他者の死もまた私たちは体験できません。
だとしたら、死は存在していないことなのかもしれません。
存在していない死の問題を考えるのは難しい問題です。

節子が元気だったら、きっと今年も見事な花が4つ咲いたことでしょう。
花はきっと愛している人のために咲くのでしょうね。
今年2つになってしまったのは、私の「気」が牡丹に伝わらないほどに弱々しく沈んでしまっているからかもしれません。
牡丹はプライドの高い花ですから、悲しんでいるのなら節子に続けよと言っているような気もします。
牡丹の花を見ていると、いろんなメッセージが伝わってきます。

節子は、牡丹ほど美しくはありませんでしたが、牡丹もまた、節子ほど美しくはありません。
でも、花を通して節子の世界とつながれることは、せめてもの幸せです。
来年は、3つの花が咲くように、気を取り戻さないといけません。

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2009/04/20

■節子への挽歌596:この挽歌は誰が書いているのか

この挽歌で紹介した「あなたにあえてよかった」の著者の大浦さんは、この挽歌を読んでくださっているのでが、時々、メールやコメントをくれます。
先日のメールの最後に、こんなことが書かれていました。

ところで「挽歌」は、間違いなく「作者は節子さん」だと私は思っています。
佐藤さんはお気づきになっていないでしょうが。
「共作」というのが普通なのですが、大浦さんは節子が書いていると言い切ります。
それは、大浦さんの体験からのようです。
「あなたにあえてよかった」も、
著者を「大浦郁代」にしたかったくらい、郁代が私を動かして書かせたのです。
納得しました。
しかし、私の場合は、たぶん節子が書いているのではないのです。
私が書いています。
ただ、何回も書いているように、私の半分は節子なのですから、まああまりこだわることもないのですが。

挽歌はもちろんですが、実は時評編のほうも、節子の思いがかなり強く出ているような気がします。
40年も生活を共にしていると、どちらが自分でどちらが節子か、あんまり区別がなくなってしまうのです。
それが、ある日、その伴侶がいなくなる。
信じられないことなのです。
まさに半身がそがれた気分

人間は環境との相互関係の中で、考え行動しています。
その一番の支えだった伴侶が不在になると心身が動けなくなるのは当然のことです。
私はそうした環境の変化に慣れるまで1年はかかりました。
いや慣れるというよりも、心身が動けるようになるまで1年といったほうがいいでしょう。
しかも疲労感が大きいのです。

ところが不思議なのですが、挽歌を書いている時には疲労感がないのです。
パソコンに向かうと自然と指が動き出します。
だから大浦さんが言うように、「節子が書いている」といえないこともないのですが、そうではなく節子と会話しているような感じが戻ってきて自然と指が動きだすのです。

内容はいろいろですが、共通しているのは、話し手はいつも節子なのです。
大浦さん
もしかしたら、それが親子と夫婦の違いかもしれません。

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2009/04/19

■節子への挽歌595:節子が出した2枚のハガキ

節子
岡山の友澤さんから、節子が2005年と2006年に出したハガキが送られてきました。
書類を整理していたら、出てきたのだそうです。
いずれも闘病中の手紙です。
闘病中の節子の生き方が目に浮かびます。

2004年5月の手紙には、こう書いています。

次の検査は6月です。
それまでの3か月は「行動の月」と決め、帰省や小旅行など多忙で充実した日々を過ごすことができました。先日は夫と初めての上高地へ行き、清らかな水と空気、残雪の穂高に感動できたことがとても嬉しく思います。
5月23日はミニコンサートで「万葉集」を歌います。
また皆さんとお会いできる事を祈っています。
翌年の5月は、検査が増えてきたこと、そしてその結果があまり良くないという内容で、いま読み直すと1年前とは違い、その先を少し予感させるような内容です。
でも節子はせいいっぱい元気に書いています。

2枚とも、節子らしく切手は花の切手です。
2枚のハガキを見ていると、節子の健気さとやさしさが伝わってきます。

上高地には節子とは2回行きましたが、宿泊したことはありませんでした。
3回目は宿泊の予定で、節子は宿泊するホテルも決めていました。
でも実現しませんでした。
私ももう訪れることはないでしょう。

久しぶりに節子のことを思い出して涙が出ました。
いつになっても悲しさは同じです。
節子も彼岸で涙しているでしょうか。

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2009/04/18

■節子への挽歌594:節子、私は友人たちに守られています

節子
最近、私も活動が持続性を持ち出しました。
それで、いくつかのプロジェクトにもコミットしはじめたのですが、
いずれも予想以上に広がりだしてしまっています。
そのため、最近は土日がすべて埋まってしまっています。
午前も午後も別の集まり、などという日もあります。
いささか活動しすぎではないかという気もしますが、やりだすとコミットしすぎる癖は直りません。
節子がいた頃は、節子との行事が最優先で、それを理由に活動をセイブできましたが、いまや頼まれたことを断る理由が全くなくなってしまったのです。
自分の行動を制約する条件がなくなってしまうと、自分で自分を管理できなくなってしまいます。
困ったものです。

山口の東さんがメールをくれました。

ホームページを拝見しますと、いろんなことに取り組まれている様子、嬉しいような、また無理をされるのではないかといった心配な気持ちとが輻輳します。
くれぐれも無理をされいなように(とても難しいことではありますが)、よろしくお願いします。
節子の代わりに、ちゃんとセイブしてくれる人がいるので安心です。
でもこんなメールもきました。
某テレビ局のKさんに、あるイベントの取材協力のお願いを送ったのですが、それへの返事です。
佐藤さんが元気になられて本当に良かったです。
Kさんにまで心配させていたのかと、いまさらながら気がつきました。
短い文章に込められたKさんの思いに胸が熱くなりました。
むかし、Kさんも関わったドキュメンタリー番組を見て感動した記憶があります。
そのことをなぜか思い出しました。

いろいろな人が、知らないところで気にしていてくれる。
それに気づかされる私はとても幸せですが、
いつかも書きましたが、それに気づかないことが多いのです。
そこで、ひそかに気にしているのでではなく、気遣っていることをむしろ伝えたルことが大切なのだと気づきました。

まあまた余計なお世話なのですが、
この数年、全く連絡がなくなってしまった人に声をかけることにしました。
これもまた節子が教えてくれたことかもしれません。
皆さんも、ぜひ気になっている人に声をかけてみてください。
それが広がれば、世界は平和になるかもしれません。
なにしろ世界中の人たちが、6~7人の仲立ちを通して、みんな友だちなのだそうですから。

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2009/04/17

■節子への挽歌593:「愛こそすべて」の幻想

節子
ヘーゲルの入門解説書「人間の未来」を読んでいたら、こんな文章に行き当たりました。

恋愛とは、絶対の一体化だという幻想的な情熱と、男女は結局別々の人間だという自覚との行ったり来たりであり、結局のところ、「愛こそすべて」という「幻想」は過酷な現実の前に挫折することになる。
ヘーゲルは、若者が求める人生の目標の一つとして「快楽と必然性」をあげているのですが、入門書の著者の竹井さんは、それを「恋愛のほんとう」と呼び換えて説明してくれています。
そして、こういうのです。
「恋愛のほんとう」が「自己意識の自由」に対してもつ優位は、それが自己関係ではなく「相互関係」をもち、しかもある場合は、これをつかめば他の一切を失ってもよいという生の絶対感情をもたらすほどの「ほんとう」として現れる点にある。
つまり、恋愛を通して、若者は自分の世界から抜け出し、自由を開いていくのです。
これは私にはとても納得できる話です。

しかし、「恋愛のほんとう」は、たいていは挫折する運命を持つ、とヘーゲルは続けます。

2人が恋愛の道行きの途上で見るのは厳しい現実(必然性)であり、ここには絶対的な「ほんとう」が存在しなかったことを知る。
恋愛は、自らの閉じられた世界を超えたとしても、所詮は二者間の承認関係でしかなく、社会的な普遍性の広がりを欠くからです。
こういうと難しいですが、要は、恋愛が創出する世界は自分の世界の延長でしかなく、価値観の複数性は体験できますが、多様性を体験できないために、結局は自分中心の世界に陥って破綻してしまうということでしょう。
これもとても納得できます。

そして、若者は「正義のほんとう」へと目標を変えていくとヘーゲルはいうのです。
それもまた挫折していくというのですが、この部分だけでヘーゲルの人間性と人生を推察すると、なにやら親しみさえ感じます。
もしかしたら、だからこそあれほど難解そうな哲学体系を打ち立てたのかもしれません。

自分の問題として考えると、ヘーゲル流に言うと、私はいまな迷える青年期から抜け出られないでいるのかもしれません。
私の場合は、こうです。
「恋愛のほんとう」に関しては、ヘーゲル(竹井さん)の言うとおり、「他の一切を失ってもよいという生の絶対感情」を体験しました。
その一方で、「でも結局別々の人間だ」という思いも何回も持ちました。
節子とは、こういう話を何回もしました。
節子も私とほぼ同じでした。
そして節子も私も挫折することはありませんでした。
心を開いた話し合いを重ねたからです。

では社会的な広がりにまで行かなかったかといえば、むしろ逆でした。
相手を愛する「恋愛のほんとう」が確信できれば、その対象は広がるのです。
いささか大げさに聞こえるかもしれませんが、私たちの愛の対象は、お互いを超えて広がって言ったように思います。
そういう視点から考えると、「正義」などは虚しい言葉です。

もしヘーゲルが、私にとっての節子のような存在に出会えたら、ヘーゲル哲学は違ったものになり、世界の歴史は変わっていたかもしれません。
ソクラテスも、そうでした。
伴侶の存在は大きいのです。

ヘーゲルは、どんな「恋愛」を体験したのでしょうか。
そう思いながら哲学を学ぶと、面白くなってくるかもしれません。

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2009/04/16

■節子への挽歌592:「やっぱ、自分自身がそうしたかったとよね」

節子
福岡の西川さんからもメールをもらいました。
先日の挽歌588を読んでの励ましメールです。

私は、「人は、自分が望むようにしか生きることができない」
又は、「人は、自分が望むように生きる」と思っています。
又は、結局それは「自分自身が望んだことなのだ」と。

私は、自分に合った生き方をすることで、
たくさんの人を巻き添えにし、辛い思いもさせたと思っています。
そのために、私自身も傷を負ったということも。

でも、やはり、それもこれも、それぞれが、
「自分が望んだこと」だったのだと思うのです。
そして、だからこそ、人は幸せになる可能性もあると…。

根っからこういう楽天家(?)だったわけではありませんが、
でもみんな、「やっぱ、自分自身がそうしたかったとよね」と。
西川さんは、私が書いた
>節子を、無理やり私の生き方に合わさせていたことはないでしょうか。
>時々、思い出しては、少しだけ後悔することもあります。
>どう考えても、私たちの生き方は、私寄りでした。
>節子は、楽しんでくれたでしょうか。
という愚問に対して、
「楽しんでいたに決まっているでしょう」
と元気づけてくれたのです。
西川さんは、昨日の武井さんと違って、この挽歌を読んでくださっていますが、きっとよろよろしている私が心配なのでしょうね。
すみません。

節子もきっと、この西川さんの言葉に共感するでしょう。
「私たちの生き方は、私寄りでした」などと勝手に言わないでよ、と節子は笑っているかもしれません。

「人は、自分が望むように生きる」
節子はたしかに、自分をしっかりと生きました。
そして、人生を楽しんでいました。
「節子は、楽しんでくれたでしょうか」などと言うのは愚問ですね。
後悔などして損をしました。

節子が、周囲の反対を押し切って、私を人生の伴侶に選んだのは、
「やっぱ、自分自身がそうしたかったとよね」なのでしょうね。
喜怒哀楽、すべては自分が引き寄せるものなのですよね。

とわかってはいるのですが、
節子はもっともっと人生を楽しめたはずなのに、それをかなえてやれなかったことの、罪の意識はどうしても消せません。
裏返せば、節子と一緒に人生をもっと楽しめたはずなのにという、自らの未練なのかもしれません。
私自身の自業自得なのでしょうね。

西川さん
せっかくのエールに、素直に反応できずにすみません。

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2009/04/15

■節子への挽歌591:薄れるものでも乗り越えるものでもなく、深くなり、日常になる思い

先日、お花見に誘っていただいた武井さん からメールが来ました。
武井さんはおそらくこの挽歌を読んでいないですから、こっそり引用します。

最愛の人を失って1年半のお気持ちはいかばかりかと拝察いたし、やっぱり佐藤さんはエライんだ、と改めて感激しました。
喪失感は、どんなに総明、賢明な人でも、太刀打ちできるものではなく、時間の中に心を委ねるしかありませんものね。
ただひとつ、失った場合に言えることは、愛する人がゆっくりと心奥に、新たに育まれ、最も好ましい姿で宿ってくれます。
そして、生ある限り、励まし、いたわり、和ませてくれ、「共に生きていける」、ということです。
「生きる」ということは、ある意味ではシンプルですが、ある意味では、とても深くて複雑、難解。
佐藤さんには、釈迦に説法ですが、しかし、改めて、言われてみると、案外、新鮮に思えるときがありますから、わたくしが教えてあげます(笑)。
はい
新鮮でした。
それに、他の人から言われると安堵します。

実はこのメールをいただいた前日に、挽歌の読者の田淵さんが同じ主旨のコメントをくれました。

多分こういう思いは薄れるものでもなく、乗り越えるものでもなく、
深くなり、それが日常になるのでしょうか。。。
最近は悲しみも自分の一部になりつつあり、とても主人を近くに感じます。
武井さんがいうように、まさに「時間の中に心を委ねる」ということでしょうね。
田渕さんのコメントを読みながら、武井さんもまた「愛する人を見送った」立場からのアドバイスなのだと、改めて気がつきました。
作家の想像力ではなく、体験の言葉なのです。

武井さんの人生は、それなりにお聞きはしていましたが、知っているのと感ずるのとでは全く違います。

田淵さんのコメントも、深いところで理解できたような気がします。
この頃、いろんな人からメールや電話をもらいます。
そうした言葉が、心に深くしみてきます。

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2009/04/14

■節子への挽歌590:ナニワイバラ(浪花茨)の北斗七星

節子
節子が好きだったナニワイバラが咲きだしました。
この花は、節子がジュンと近くを散歩中に、剪定していたお宅があって、その枝をもらってきて挿木したのだそうですが、今は大きくなっています。
成長が早く、いまはわが家の東側の壁面に広がっています。

先週末、熊本に出かける前に咲き出したのですが、昨日戻ってきたら、7つの花がちょうど北斗七星のように咲いていました。
ジュンが写真にとってくれました。
Naniwaibara


北斗七星に関しては、古今東西、さまざまな話があります。
しかし、そこに共通しているのは「死」と「絆」です。
目の悪い私は、とても大熊座やオリオン座の姿は見ることができませんが、
北斗七星は、とてもわかりやすいので、昔からいろいろと思いを馳せた星座です。
今でも、駅からの帰路、よく見かけることがあります。

その北斗七星が、わが家に出現したわけです。
節子のいたずらでしょうか。

そういえば、昨日、駅前の花壇の隅に咲いている白雪姫も見かけました。
節子の季節がやってきました。
いろんな花に乗って、節子が春を楽しんでいるのかもしれません。

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2009/04/13

■節子への挽歌589:熊本城での節子の「浮気」

昨日の集まりの会場は、熊本城のすぐ近くでした。
残念ながら城内には入れなかったのですが、宮田さんにぐるっと周りを案内してもらいました。

その時に、思い出したことがあります。
昨日、書いたとおり、熊本には節子と一緒に来たのですが、宿泊した翌日の午前中、私は仕事がありました。
その間、節子は一人で熊本城に行ったのです。
午後に節子と落ち合ったのですが、そこで節子がうれしそうに話したことを思い出しました。
熊本城で男性に声をかけられて珈琲を一緒に飲んできた、というのです。
節子にしてはめずらしい話なのです。
節子は、どんな話をしてきたのでしょうか。
たぶんその時、話を聞いたのでしょうが、いま覚えているのは、男性にお茶を誘われたのよ、と笑いながら話す節子の笑顔だけです。
今にして思えば、もっと真剣に話を聞けばよかったような気もします。
なにしろ節子にとっては、たぶん最初にして最後の体験だったでしょうから。

節子には「浮気」という言葉は、全く無縁でした。
しかし、その理由は、私を愛していたからではありません。
「男の人と付き合うのはめんどくさい」
それが、節子が私だけを相手にしていた理由です。
私と付き合うのはかなり「めんどうだった」ことの結果かもしれません。
カウンタカルチャーかぶれの若い頃の私との生活は、それなりに苦労したはずです。
今のような、きわめて「常識的な人間」になったのは、たぶんに節子のおかげなのです。

それにしても、熊本城で、見知らぬ男性と珈琲を飲んでいる節子。
全く想像できない情景です。

ちなみに、そんなことで、私と節子とは一緒に熊本城に行ったことはないのです。
今回、その気になれば熊本城内にも行けたのですが、止めました。
来世に、節子と一緒に行くことにしたのです。

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2009/04/12

■節子への挽歌588:熊本でのコンサート

節子
久しぶりに熊本に来ています。
熊本の仲間が企画してくれた集まりに参加させてもらったのです。
福岡のハーモニカの西川さんも来てくれました。

熊本には何回か来ていますが、最後にきたのは節子と一緒でした。
私は仕事で、たしか保育園関係の集りで講演させてもらったのですが、その時、節子も同行し、翌日、阿蘇山に行ったのです。
地獄温泉に宿泊しました。
道路沿いの川辺の露天風呂に入浴したのも思い出の一つです。

宿泊した朝、旅館の庭を掃除していた60歳くらいの男性と少し話をしました。
その人は生まれてずっとここで生活していて、熊本市にも下りたことがないと言うのです。旅館の庭掃除をするのが日課であり、ほぼすべての人生なのだそうです。
感動しました。
節子に、2人でこういう生き方をするのは最高だねと話したら、節子はあなたには無理でしょう、といわれました。
おそらく、節子にも無理だったでしょう。
人には、それぞれ自分に合った生き方があるものです。
しかし、だからこそ自分にはできない生き方に憧れるのかもしれません。

ところで、私たちはそれぞれ自分たちに合った生き方をしてきたでしょうか。
節子を、無理やり私の生き方に合わさせていたことはないでしょうか。
時々、思い出しては、少しだけ後悔することもあります。
どう考えても、私たちの生き方は、私寄りでした。
節子は、楽しんでくれたでしょうか。

今回の集まりは、コムケアフォーラム in 熊本ですが、第1部は持ち寄りコンサートでした。
元ツイストのメンバーだった作本さんが、みずからの人生を振り返って創ったという「フォー ユー」を熱唱してくれました。
なぜか涙が出ました。
なぜでしょうか。
音楽は不思議です。

西川さんのハーモニカは、いつものことながら心に沁みますが、今日は涙の世界に陥りそうだった私を、いつもとは逆に救いだしてくれました。
本当に音楽とは不思議なものです。

8歳から90歳まで、今日はいろんな人に会いました。
みんなとても幸せそうで、とてもいい集まりでしたが、それが私にはなぜか悲しさを呼び込んでしまいました。
思っても意味のないことですが、ここに節子がいたらと思わずにはいられませんでした。
いつまでたっても、節子から離れられない自分がいます。

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2009/04/11

■節子への挽歌587:伴侶が残してくれた目に見えないもの

もう一度だけ、挽歌にメールをくださった方の話を書かせてもらいます。挽歌583「桜のお誘い」に「ききょう」さんからコメントをもらいました。
全文はコメントを読んでください。
ききょうさんも、やはり、お花見はまだだめのようです。
「私も桜の花は楽しむどころか、ちょっと視界からはずしています」と書いています。

そして、ききょうさんはこうも書いています。

最近やっと気がついたのですよ、
夫が残してくれた目に見えないものがたくさんあるということを。
そうなのです。
先に逝く人は、ほんとうにたくさんのものを残していってくれるのです。
そして、それが残されたものにとっての大きな支えになるのです。
いささか大げさに聞こえるでしょうが、いまある私は、すべて節子が残したもので成り立っているのかもしれません。
それほど愛する人と一緒に生きた意味は大きなものなのです。
時間がたつほどに、その残してくれたものが見えてきます。
それが、いまの私を形づくってくれているのです。
そのことに気づくと、いまも節子と一緒だという、安堵感さえでてくるのです。

しかし、そのことと全く矛盾するのですが、
残していったものに気づけば気づくほど、寂しさが募るのです。
一緒にいるはずの節子の声が聞こえず、温もりが感じられない寂しさが、不安感を引き起こすことさえあるのです。
全く矛盾した話なのですが。

人は、他者との交流の中で、自らの人格を形成していきます。
ですから、どのような人と付き合ってきたかが、その人のアイデンティティに大きな影響を与え、人生を決めていくわけです。
一番交流の深かった伴侶のアイデンティティは、かなりシェアされているのかもしれません。
自分のなかに残っている節子に気づいて安堵し、いるはずの節子の不在に不安になる。
私もまだそんな毎日を過ごしています。
ですから、ききょうさんの書いていることが、とてもよくわかります。

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2009/04/10

■節子への挽歌586:伴侶とは、自らの心を開いてくれる存在

昨日紹介したメールは、挽歌581「惨めなほど、ひがむこともあります」を読んでのメールだったのですが、同じ記事に、カモミールさんがコメントしてくださいました。
カモミールさんは、とても素直に、自分の気持ちを書いてくださっています。
カモミールさんのコメントをぜひ読んでみてください。
私は何回も何回も読ませてもらいました。

カモミールさんはこう書いています。

ひがむからか、ますますひねくれてくるのが自分でもわかります。
人の幸せを願う気持ちも勿論嘘でなく持っているのですが、身近な周囲に対しては素直に思えず、母もますます頑なにひがみっぽくなり・・・の悪循環です。
とてもリアルに感じます。
私も、そうではないとは言い切れません。
感謝と反感は並存するものです。

カモミールさんが書いているように、「悪循環」に陥ってしまうとそこから抜け出すのは難しいのです。
風景が変わってきてしまうからです。
そうした悪循環から抜け出すにはどうしたらいいでしょうか。
私にはまだその妙薬は見つかっていません。
ただ、そうした「思い」を溜め込まないほうがいいということです。
私は、この挽歌でそれを放出しています。

放出しなければいけないのですが、実際にはなかなか放出するところがないのも事実です。
なかなか話す気にはなれません。
それに、話す相手がいなくなったからこそ、実は悪循環に入り込んでしまったのですから。

伴侶とは、自らの心を開いてくれる存在なのです。
その存在がなくなってしまうと、次第に心は閉じがちです。
私はそうならないように、この挽歌を書き続けているのかもしれません。
でもたまには、口を使って、声に出したい気もします。

声に出したい人が、もしいたら、湯島に遊びに来てください。
心を閉じてはいけません

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2009/04/09

■節子への挽歌585:桜祭りに行けない人

桜の花が伝えるメッセージはいろいろです。
ちょうど「お花見のお誘い」を受けた日に、挽歌の読者からもらったメールです。

今日は暖かかったですね。私の地元では昨日今日と桜祭りでした。
もちろん私は行きませんでしたが。
とてもよくわかります。
この方には、私はまだお会いしたことがないのですが、いつもいただくメールに書かれた思いが自分の思いのように感じられることが少なくありません。
今回のメールで初めて年齢を知りましたが、私よりも一回り若い方です。
愛する人を失って3年が経っているそうです。
その、いわば私の先輩がこう語っています。
自分の残された人生、たぶんずっとこのような感覚は消えないのでしょうね。
このような感覚とどう付き合っていくか、訓練する必要がありそうです。
「このような感覚」
体験した人でないとなかなかわからない「感覚」だと思いますが、それはなかなか消えないようです。
昨日お会いした武井さんは10年以上かかっています。
この方は、環境を変えようと会社まで辞めてしまいましたが、結局は同じでした。
「どうすごしても何もかわらない」
その言葉がよくわかります。

しかし、ここにきて新しい仕事に向かうことになったそうです。
新しい世界は「介護福祉」の世界です。
きっととても人間的な介護福祉士になることでしょう。
介護福祉士は、介護するだけでなく、自らもまた介護されるようなヴァルネラビリティ(弱さ)を持っていることが大切だろうと、私は思っています。

実は、この方が愛した人も「節子」という名前だったそうです。
不思議な縁です。
きっとそのうち、お会いできるでしょう。
同じ思いにある人が前に向かって進みだすことは、私にも元気をくれます。
私もみんなに元気を分かち合えるように、もっともっと前に進もうと思います。

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2009/04/08

■節子への挽歌584:花を見ない花見

上野の桜を見に行きました。
ピクニック気分で来て下さいといわれたので、本心を気取られないようにしようと思ったのですが、残念ながら私は、心がそのまま顔や身体に出てしまうタイプなのです。
伝わってしまったかもしれません。

花見に誘ってくれたのは、武井さんです。
以前、挽歌で書いた「魂の雫」の手紙をくれた人です。
武井さんは節子には会ったことがないと思いますが、節子の病気を知って、四国のおいしいミニトマトを送ってきてくれました。
節子は、そのトマトを食べたときに、こんな美味しいミニトマトは初めて食べたといいました。
節子はお世辞を言わない人でしたから、本当に美味しかったのです。
そのことが今でもはっきりと覚えています。
そのトマトの礼状を受け取ったのをTYさんは覚えていました。

武井さんはルポライターです。
私のホームページでも2冊ほど紹介させてもらっていますが、テーマは家族や親子です。
いまも3年越しの作品を書いているところだそうで、来月からはいよいよその執筆にかかるのだそうです。
その作品に行き着くまでのお話をいろいろとお聞きしました。
そもそもの始まりは、中学1年生の時の、学校での事件だったようです。
人にはみんなドラマがあります。

武井さんとの接点は、何だか忘れてしまいましたが、彼女の取り組むファムケーションという活動に共感したのが契機だったと思います。
ファミリー・コミュニケーションの武井さんの造語です。
いま取り掛かっている本が完成したら、またその活動を再開するそうです。
家族と親子。
私がこれから取り組もうとしているプロジェクトのひとつとつながりそうです。

帰り際に武井さんが言いました。
3年とか5年とかみんなはいうけれど、10年はだめよ。
愛する人を失って立ち直るまでのことです。
武井さんは私が落ち込んで落ち込んで、死にそうになっているように思っていたようです。
涙を流さなかったのが不満そうでしたが、まあそれなりに元気なので安心したようです。
彼女は私よりも若いのですが、土佐の女なので親分肌なのです。

桜の花はあまり見ませんでしたが、満開の桜からの花吹雪がすごかったです。
花を見ない上野の花見も、無事終わりました。
上野は花見客でごったがえしていましたが。

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2009/04/07

■節子への挽歌583:桜のお誘い

節子
手賀沼沿いの道の桜が満開です。
わが家の庭の花も華やいできました。

節子がいなくても、花は毎年開花します。
私がいなくなっても、同じことでしょう。
本当に不思議です。
人とはいったい何なのでしょうか。
ソクラテスに成り損ねた私にとって、これは大きなテーマです。

風に散る桜の花と私たちは大きな自然にとっては同じ存在なのでしょうか。
散る花を、桜の樹は、あるいは隣に咲いている桜の花は、悲しんでいるのでしょうか。
自らの一部と考えているのであれば、そしてそれが時の「めぐり」だと考えていれば、悲しむこともなく受け容れられるのでしょうね。
発想の次元を変えれば、悲しみもまた喜びになるのかもしれません。

しばらくお会いしていない人からメールが来ました。

春がやってきました。その後、ご気分はいかがですか。
よろしければ、2~3日中に、桜見物に出かけませんか。

節子がいなくなってから、桜をゆっくり見たことがありません。
さてどうしたものか。
花見を楽しめないままに、お誘いを受けていいものかどうか。
断るのも受けるのも失礼なのですが、お気持ちに感謝して、出かけることにしました。
桜の花が見られるといいのですが。

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2009/04/06

■節子への挽歌582:幻の花ブログ

幻のブログ「私の花日記」というのがありました。
節子が書き込むはずだったブログです。
枠組みができて、たしか2回ほど試験的に書きましたが、その直後に節子の再発が判明してしまいました。
そのためブログは実現しませんでした。
その材料のために、わが家の花の写真はかなり撮っていましたが、使われることはありませんでした。

わが家の庭にたくさんの「白雪姫」が咲いているのを娘から教えてもらいました。
節子の好きな花のひとつでした。
Sirayuki_2

クレマチスの一種のようです。
我孫子駅南口前の花壇の片隅に、花かご会のみなさんに頼んで植えていただいた花です。
その花も咲いているかもしれません。

わが家の庭には、節子の思い出を背負った花がいろいろとあります。
花好きな節子は、そのひとつひとつに思い出がありました。
これは○○さんからわけてもらったもの、
これはどこそこで記念に買ってきたもの、
これは散歩中に見つけて、枝をもらってきて挿し木したもの、
これはあの時、実生の芽を見つけてもらってきてしまったもの、
などなど、です。
節子の心の中には、すべての花の思い出がつまっていました。
残念ながら節子がいなくなったいまは、その「いわく」がわからなくなってしまったものもあります。
しかし、私にはすべてが節子につながるものです。

花を見ていると、そこに節子がいるような気がします、と書きたいのですが、
いくら花を見ていても節子の姿が見えてきません。
欲張りすぎているのかもしれません。

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2009/04/05

■節子への挽歌581:惨めなほど、ひがむこともあります

一昨日から、箱根と湯河原に行っていました。
仕事の関係なのですが、季節柄、大勢の観光客でにぎわっていました。
中高年の夫婦も多く、それがとても心に残りました。
やはりどこかに羨望の念があります。
仕事とはいえ、一人であることになぜか「負い目」を感ずるほどでした。

子供の頃、片親だけの友人がいました。
当時は何も感じませんでしたが、なぜかこの頃、その友人のことを思い出します。
父を見送った後の母のことも思い出します。
私には当時、その意味がまったくわからなかったことがとても気になっています。

前にも一度書いたのですが、どこかで敗北感を持っている自分がいます。
人生の敗者のような感覚が時々首をもたげます。
こんなことを書くとまた友人は心配するでしょうが、たぶんこれは感受性の高まりであり、私にとっては歓迎すべきことなのです。
なぜなら、そうなってから見えてきたこと、気づいてきたことがたくさんあるからです。
もっとも、人生は気づくことが少ないほど「幸せ」なのかもしれません。
生きやすいのかも知れません。
しかし、幸せでなくとも、生きにくくとも、新しい体験と世界の深さを知ることは、人生を豊かにしてくれます。

テレビで、高齢者の健康をテーマにした番組があります。
その種の番組に拒否感が出てしまいます。
元気な老後を過ごすために健康に気をつけましょうなどという話が一番だめなのです。
自分が責められているようにさえ思ってしまいます。
惨めなほど、ひがみっぽくなっているのです。
節子は、私よりは格段に健康に注意していました。
にもかからず病気になってしまいました。
だとしたら、隣にいた私の責任なのでしょうか。
そう思うと節子への申し訳なさや自分の不甲斐なさが襲ってくれるのです。

「善意」や「幸せ」がこうして、感受性の高い人や特定の立場にある人をさいなむのです。
私自身、そうしたことをこれまでどれだけたくさんやってきたことでしょうか。
そう思うと自らの罪深さにおののきます。
時々そうした感情に襲われてしまうのです。

他者の幸せを見ることが自分の幸せに通ずる、と宮沢賢治はいいましたし、私もそう信じています。にもかかわらず、それに矛盾するような気持ちが時々起きてくるのはなぜでしょうか。
自分の卑しさを、時に呪いたくなります。

春なのに、ちょっと暗い話をしてしまいました。
節子
きみのいない桜の季節は、ただたださびしいだけです。

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2009/04/04

■節子への挽歌580:ソクラテスの妻

節子
箱根の帰りにまた湯河原によりました。
節子がいなくなっても、湯河原の街は何も変わりがありません。
将来の住人を湯河原は一組失ってしまいましたが、そんなことなど街にとっては小さな事件なのでしょう。

窓から節子が好きだった山並みを見ながら、ソクラテスを思い出しました。
いささか唐突なのですが、こういう話です。
もし節子と会うことがなかったら私はどうなっていただろうか。
おそらくかなり違った人生になっていたでしょう。

節子がいなくなってから私は昔のような読書家になりました。
昔は毎月数十冊の本を読んでいました。
読むといっても流す程度のものもありますから、実際に読むのはせいぜい10冊くらいでしたが。
本だけではなく雑誌もかなり講読していました。
しかし、次第に雑誌は読まなくなり、本も読まなくなりました。
本ばかり読んでいる私を節子は好きではありませんでした。
だからというわけではないのですが、本を読むよりも節子と話したり、節子と行動することのほうが、刺激の多いことを学んだのです。

節子が見抜いたように、私は「文系」でした。
議論と思索が好きでした。
節子と旅行に行って、節子が風景に感激しているのに、隣で「この風景を見て、どういう意味があるのかなあ」と節子に言って、よく怒られました。
実は感激すると、ついついそういう思いが私には出てくるのです。
よくいえば、感動するのはなぜだろうかなどと論理思考が作動してしまうのです。
節子はせっかくの雰囲気が壊されると、時々は本気で怒りました。
私は迷惑で無粋な「哲学者」だったのです、
もし、節子がソクラテスの妻のように、私に厳しい「悪妻」だったら、きっと私はソクラテスのような哲学者になっていたかもしれません。

逆に節子が「賢妻」だったらどうだったでしょうか。
山内一豊のように、今ごろは社会的に成功して有名な資産家になっていたかもしれません。
しかし、いつか書いたように、節子はへそくりもできない人でしたから、資産家にならずにすみました。

悪妻でも賢妻でもなく、節子は何だったのでしょうか。
少なくとも「良妻」でもありませんでした。
良妻だったら、私を置いては逝かないでしょう。
中途半端に置いていかれてしまった私として、いまさら山内一豊にもソクラテスにもなれずに、困っています。
さて、余生をどうしましょうか。

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2009/04/03

■節子への挽歌579:景色は私たちの外部にではなく、私たちの心の中にある

節子
また箱根に来ています。
いつものように、企業の経営幹部の人たちの合宿に参加しています。
あれほど好きだった箱根も、最近は何となく来るのが気が重いのです。
節子がいなくなってから何回も来ましたが、いつも用事が終わるとそのまま帰っています。
今日も強羅ですが、芦ノ湖まで足をのばす気にはなりません。

桜が各地で開花しだしていますが、桜の花も含めて、そうした華やかなものを見ると、逆に気分が沈んでしまいます。
こうした状況からいつになったら抜け出せるのでしょうか。
これは多分に考え方次第です。
その気になれば、たぶん今にでも抜けられそうです。
私の人生を「悲劇仕立て」ではなく「喜劇仕立て」にすれば、きっと見えてくる風景の意味も違ってくるのでしょう。

人を元気にする風景が、人を沈ませる風景になる。
このことに気づくと、これまたいろいろなことが見えてきます。
日本には自殺多発現場といわれるところがあります。
いわゆる「自殺の名所」です。
東尋坊が有名です。
しかし、自殺を誘発する場所はまた、生命に元気を与える場所でもあります。
節子の再発が明らかになる直前に、私たちは東尋坊に一緒に行きました。
節子も私も、その美しさに元気をもらいました。
しかし、もしかしたら、今、私が一人で東尋坊に行ったらどうでしょうか。

景色は私たちの外部にあるのではなく、私たちの心の中にあるのです。
節子がいなくなってから、そのことを知りました。
ですから、もはや私には昔のような「観光」という概念がなくなってしまいました。

どんなに美しい風景も、節子がいない今、私には退屈な風景でしかありません。

蛇足ですが、「観光」ということの意味が最近やっとわかってきました。

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2009/04/02

■節子への挽歌578:人生は流れるように過ごすのがいい

節子
節子も良く知っているひげのマーケターのKYさんからメールが来ました。

私が好きだった3人のマーケターの一人ですが、みんなかなり「はめをはずした」存在でした。
一人は節子よりはやく逝ってしまいました。
突然死でした。
今でも彼の不在は信じられずにいます。

KYさんは、湯島のオープンの時に彼が輸入する手配をしたフランスの紅茶をどっさり持ってきました。
節子と紅茶を飲むたびに、彼の話が出ました。
なぜなら今度は美味しく紅茶を入れられる専用の紅茶ポットを持ってくるといいながら、持ってこなかったからです。
そのため、私たちは、一生紅茶を美味しく飲めることがなかったのです。

彼の人生はドラマティックでした。
ある時、自分の会社をたたんで、自己破産でもするかと電話してきたのです。
節子には話しませんでしたが。
愛すべき若者も、いまでは破天荒なおじさんになってしまっていますが。
彼からのメールです。

ブログは時折拝見し、佐藤さんが、少しずつ元気を取り戻している様子を感じています、という書き出しですが、まあ彼のことですから、この挽歌もかなり斜め読みでしょう。
いや本当は読んでいないのかもしれません。
彼のような破天荒なマーケターになると、読まずして内容がわかるのです。
メールはこう続いています。
仕事は楽しみながら、私生活は慎ましく、
会社運営は堅く・・・そして、これまでは考えたこともなかった
残る人生の設計も少しは考えながら、と思っています。
そんなことができるはずがありません。
本人もよくわかっていて、こう書いています。
もっとも、小生に人生設計・目標設定などという技があれば、
こんな感じの人生にはなっていないような気もするのですが・・・。

さて、私にもしくは私と節子には、人生設計とか目標などというのがあったでしょうか。
これに関しては即断できるのですが、私たちには2人とも、そういうものは全くなかったのです。
私も節子も「偶然を大事にする」生き方をしていました。
その「偶然」は決してただの偶然ではなく、大きな必然だと知っていたからです。
節子がいなくなった今も、私は「残る人生の設計」など、全く考えていないことに気づきました。
あのKYさんが人生設計を考えるのであれば、私も考えた方がいいかもしれませんが、おそらく彼は考えもしないでしょう。
人生は流れるように過ごすのがいいのです。

KYさんは最後にこう書いています。

ニート生活の時も何度か「佐藤さんの所に遊びに行って見るかなぁ」などと思っていましたので、
近い内にランチでも食べに寄らせて戴きたいと思います。
こういう友人が、私たちを支えてくれていたのです。

節子
あのひげの小難しいKYが来たら、何を話せばいいかねえ。

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2009/04/01

■節子への挽歌577:現実逃避したい気分

節子
なにやらまた忙しくなってきました。
心身は相変わらず重いのですが、活動は始めると際限なく広がっていきます。
ますます「偏屈」に「怠惰」になっているのですが、人は多分そんな変化にはお構いなく、昔のイメージで私に働きかけてきます。
明らかに私の言葉は、その人の心には届いていません。
私がそうであるように、人は本当に「聴きたいこと」しか聴かないものです。
今の私の言葉は届かずに、すでに形成されている私が、その人の前にいるのです。
とても不思議な感覚ですが、昔の私と今の私と、両者を見ている私がいます。
これを「アイデンティティ・クライシス」というのでしょうか。

忙しいとは「心を失う」ことだそうです。
だから私は「忙しい」という言葉をあまり使わないようにしていましたが、最近はまさに「忙しい」のです。
時間はあっても心がないので、仕事ができないのです。
そんな状況に陥っています。
いつも「やるべき課題」をメモにして、手元においていますが、それがなかなか減りません。
その気になって誠実にこなせば、たぶん1日で終わるでしょう。
節子がいるときはそうでした。
どんな難しい課題でも1日徹夜すればできる。それが私の姿勢でした。
節子は、そんなに無理しなくても、もっとゆっくりしなさいよとよくいってくれました。
しかし寝食を忘れるほどに、熱中するのが私の悪癖でした。
私が寝食を忘れようと忘れまいと、世界は変わりなく動いていることはわかっていたのですが。
おかしな話ですが、節子が隣にいる幸せの中では、寝食を忘れるほどのエネルギーがもらえたのです。
仕事のしすぎだと、節子はいつも言っていましたが、それが私への不満のようには聞こえませんでした。
しかしもしかしたらあれは「不満」だったのかもしれません。
そう思い出してからは、もう寝食を忘れることはなくなりました。
なぜなら寝食こそが節子とともにある時間だからです。
気づくのがあまりに遅すぎました。

それに最近は、最初に「面倒くさいな」「億劫だな」という思いが頭に浮かびます。
昔は解けにくそうな「難題」こそが魅力的でした。
しかし、今はあえて難問に取り組むよりもできれば楽をして逃れたい、という気持ちが育っています。
もう節子はいないのだから、苦労することもない、と脈絡なく思ってしまうのです。

今日も朝からいろいろありました。
そのおかげで、やらなければいけないことに取り組めませんでした。
これから取り組むつもりですが、まずはその前に、やらなくてもいいことをやりたい気分です。
まあ、手はじめに挽歌を書きました。
さて、これから何をするかです。
リストには緊急課題が4つ挙げられていますが、まあ明日に延ばしても、何とかぎりぎり間に合うでしょう。
こうやって、ますます心を失う忙しさの世界に陥っていくわけです。

まずはコーヒーをいれることにします。
節子はいませんが、ケーキもありませんが、現実から逃げられます。
最近、私の好きなモカコーヒーがないのがいささか残念ですが。

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2009/03/31

■節子への挽歌576:幸福と不幸はいつも隣合わせ

節子
3年前の今日は再開したオープンサロンの日でした。
元気を回復してきた節子も参加してくれて、久しぶりににぎやかなサロンになりました。
あの頃は、1年先のことなど思いもつかず、節子は元気に回復するとばかり思っていました。
そのためか、私には「大きな油断」があったのです。

「幸福の真っ只中」に「不幸のはじまり」があることに、私たちはなかなか気づきません。
それは、自分の幸福に目が行き過ぎて、まわりにある「不幸」に気づかなくなっていることと同じことなのかもしれません。
私たちは、それなりにまわりにも気遣っていたつもりですが、まだまだ不足していたのでしょう。
節子がいなくなり、一人になって、心細さが高まるにつれて、まわりのことはよく見えてきましたが、3年前にはまだ私にはあまり見えていなかったのかもしれません。

3年前のサロンのときの写真は節子が撮ったものです。
節子の目線を少し感じながら、あの時の節子の心情はどんなものだったのか、それさえももしかしたら私は見落としていたかもしれないと不安になります。
元気になりだした節子の前で、私は現実を「見たいようにしか見ていなかった」のかもしれません。
節子の撮った、この写真を見ていると、とても落ち込んでしまいます。
その一方で、元気だった節子の笑顔もはっきりと思い出します。

ところで、「幸福の真っ只中」に「不幸のはじまり」があるのであれば、「不幸の真っ只中」には「幸福のはじまり」があるのかもしれません。
いまの私は「不幸の真っ只中」にいるわけではありませんが、幸福と不幸はいつも隣合わせなのかもしれません。

宮沢賢治は「みんなが幸福にならないと自分も幸福にならない」といいました。
それは言い換えれば、「自分が幸福にならないとみんなも幸福にならない」ということです。
私はそう思って生きてきていましたが、最近どうも私のまわりに「自分の不幸」をばら撒いているのではないかという気がしないでもありません。

愛する節子を失った「不幸さ」を嘆きたくなる自分が、いつもどこかにいます。
その一方で、これだけ嘆き続けられるほどの愛を得ていることの「幸せさ」も感じます。
「不幸」を嘆くことは、まさに「幸せ」を発していることなのかもしれません。
今の私は、そうした「幸せと不幸せ」の両方を実感しています。

節子が参加していたオープンサロンは、もう二度と開かれることはありません。
節子がいなくなってから、何回かオープンサロンを試みてみましたが、どうしても「気」が起こってこないのです。
今日は、湯島で節子がいない集りを開きます。
3年前とはかなり違う趣きのサロンなのですが、節子も同行しているつもりで会に臨もうと思います。

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2009/03/30

■節子への挽歌575:話し相手がいないと偏屈になりかねません

活動がいろいろと広がっていくほど、節子がいない寂しさがつのります。
話を聴いてもらえないのと、相談に乗ってもらえないからです。
いろいろとやっている割には充実感がありません。
充実感がないと疲労感が強まります。
ふと、なんでこんなことをしているのだろう、と思ってしまうこともあるのです。

最近、時評編が「感情的すぎる」のも、もしかしたら聞き役がいないせいかもしれません。
以前は節子がいつもフィルター役でした。
私のいささか偏った考えを、節子はいつも正面から受け止めてくれました。
人は話しながら考えるものです。
ですから節子と話しながら、私の考えは熟成されていきました。
しかし昨今は熟成される前に、書き込んでしまいますから、後で読むと支離滅裂なことも少なくありません。
それだけならまだいいのですが、どうも一人で考えていると「偏屈」になってしまいます。
最近の時評は、自分でもいささか「偏屈」だと感じています。
注意しなければいけません。

もちろん話し相手がいないわけではありません。
娘たちもいますし、友人知人もよく訪ねてきてくれます。
私も家に引きこもっているわけではないので、人と話す機会はたくさんあります。
しかし、節子のいたころに比べれば、話す量は大幅に減っていますし、完全に無防備に思いを吐き出すことは激減しているでしょう。
私たちは、本当によく話し合いました。
お互いの心情は、心の奥底まで通じていたように思います。

ですから偏屈になりようがありませんでした。
もっとも2人共が「偏屈」になっていた恐れはありますが、まあそれでも自分の考えを相対化する場は多かったように思います。
それがなくなったいま、注意しなければいけません。

和室にある節子の大きな写真をみていると節子の声が聞こえてくるようです。

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2009/03/29

■節子への挽歌574:フラメンコ

節子
昨夜、テレビの世界遺産の番組でアンダルシアとフラメンコの話を見ました。
スペインは、ついに行くことのできなかった憧れの地のひとつです。
スペインほどさまざまな血が入り混じっているところはないのではないかと思っていたのですが、その番組も「血(知)の混じりあい」がテーマでした。

スペインには15年程前に行く計画を立てたのですが、私の両親の関係で直前に行けなくなってしまいました。
節子が望んでいて実現できなかったことのひとつがスペイン旅行でした。
節子が元気になったら最初に行こうと決めていました。

私と節子と違うことのひとつが、踊りに対する反応でした。
節子は音楽や自然に合わせて自然と身体が動きましたが、私はどうも身体が動かないのです。
簡単にいえば踊れないのです。
節子から一緒にダンスでもできれば楽しいのに、と何回かいわれましたが、私はダンスのようなものが全くだめなのです。
踊れないだけではありません。
踊りを見るのも全く興味がわかないのです。
ですから盆踊りもだめなのです、
節子は盆踊りなどが大好きでした。

踊りどころか私は太極拳も苦手です。
近くの手賀沼公園に散歩に行っていたころ、日曜日の朝、太極拳をやっている人たちがいました。
早速、節子はいっしょにやろうといい、私も誘ったのですが、私は1回目でこりてしまいました。
身体が動かないのです。

フラメンコを見ていて、そんなことを思い出しました。

そういえば、節子とフラメンコの発表会を見に行ったこともありました。
私の知人がフラメンコをやっていて、その発表会の招待状が送られてきたのです。
私は乗り気ではありませんでしたが、節子が行こうと言い出して、見に行きました。
そうした音楽芸術の場に誘うのはいつも節子でした。

身体は動きませんが、音には心を揺さぶられます。
私の心と身体は連動していないのかもしれません。
そう思うことが時々あります。

番組で流されたモロッコのアル・アンダルス音楽の演奏に感激しました。
望郷の音楽だそうです。それが見えて気がします。
番組の後半に、フラメンコのプロの家族パーティが延々と流されていました。
歌いあい、踊りあう家族。家族の絆。世代を超えた継承。
見ていて涙が出てきました。
最後にピアノフラメンコの演奏もありました。

身体は動きませんでしたが、心には深く響きました。

なぜ節子とスペインに行かなかったのだろうか。
悔やまれてしかたありません。
みなさんも、できる時に行動しておいてください。
節子も、いつもそう言っていたのですが。

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2009/03/28

■節子への挽歌573:話を聴いてくれる人の存在の大切さ

節子
今日は報告です。
たまには元気さを書いておかないと読者に誤解されそうですので。

昨年末から活動がようやく持続的になってきました。
まだ仕事にまではたどりつけませんが、さまざまな相談事には対応できるようになってきました。
まだまだ私が役立たせてもらえることはあるようです。
節子と一緒だったころに比べれば勢いはありませんが、広がりは前と同じように出てきそうです。
個別テーマに深入りせずに、できるだけ多様な問題に、しかも多様な視点で関わっていくという、私のわがままな姿勢も回復できそうです。

ホームページのほうにも日曜日に書く予定ですが、5つほどのプロジェクトに取り組むことを決めました。
地元の我孫子ではプロジェクトT。
柔らかなメタNPOネットワークに向けて、しかし当面は秋のイベントに向けての取り組みです。
新しい出会いも広がっています。
節子がいたら一緒に出来たのにと、とても残念です。

節子も知っている東尋坊の茂さんたちと一緒に、全国の自殺多発地域で活動している人たちの柔らかなネットワークづくりにプロジェクトもスタートしました。
4月25日には、最初の公開フォーラムを開催します。
節子がいたら、これも一緒に事務局を引き受けられたプロジェクトです。

3つ目は、孤独死防止のテーマにつなげて、コミュニティ回復のプロジェクトです。
これはまだこれからですが、上のふたつがほぼ目処がついてきたので、少しきちんとコミットしていく予定です。
節子と長年取り組んできたオープンサロンは再開できずにいますが、少しスタイルを変えて、支え合いサロンをスタートさせようかと思っています。
これが4つ目ですが、これも何とか方向性が見えてきました。

5つ目は、まだ全く見えてこないのですが、子育て支援の分野です。
これが一番難題のようです。
10年前までは、この分野はそれなりに関わっていたのですが、時代は私が思っている方向に行きませんでした。
むしろ子育て分野は、少子化が話題になるにつれて市場経済化に向かっているように思います。
そこで私は興味を失ってしまいましたが、社会のすべての基本は子供をどう考えるかです。
スウェーデンの歴史が示唆に富んでいます。

こうしたプロジェクトに取り組むためには費用もかかりますし、何よりも生活のための収入が少し必要になりますので、おまけとして収入のあるプロジェクトにも取り組もうと思っています。
まあ、割ける時間があれば、ですが。

そんなわけで、毎日、めそめそしているわけではないのです。
節子がいたら、それぞれのプロジェクトの話がいろいろとできるのに、それができないのが最大のさびしさです。
できることは、まあこんな感じで挽歌やホームページに書くことくらいなのです。
人は話を聴いてくれる人がいるとやる気が高められるものだということを改めて実感しています。
持続力がなくなっていたのは、きっと話し相手の節子がいなくなったせいですね。
話を聴いてくれて、活動をシェアしてくれる人の存在は大きいです。
そうした存在を大切にする社会になってほしいと、心底思います。

今日は近況報告でした。

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2009/03/27

■節子への挽歌572:春の眩しさは心を乱します

昨日紹介したメールにこんな言葉もありました。

春が近づいてきましたね。
季節の変わり目はやっぱり心が辛くなるような気がします。
そういえば、先日、コメントを書いてくれた田淵さんも書いています。
サクラの開花も間近ですね。
春は周りが明るくなってきますので、それはそれで少し置いてきぼりの感があります。
サクラの花もまぶしすぎるかもしれません。
たしかに、春の眩しさは複雑な気持ちを起こさせます。
せっかく心はずむ春になっても、心はずまない自分の居心地の悪さ。
世界は自らの心の中にあることを思い知らされます。

先日、偶然にですが、テレビで放映されていた「フォーゴットン」のラスト部分を観てしまいました。
以前、観た映画なのですが、子供を失った親たちの記憶が消されるという話です。
愛する人を失った記憶がなくなるとどうなるのか。
これはこの映画のテーマではないのですが、テレビをつけた途端に出てきたのが、そういう会話のシーンでした。

悲しい記憶は消えたほうがいいのか。
いえ、その前に、記憶がなくなれば、人間は生まれ変われるのか。
またそんな意味のない思考の世界に引きずり込まれそうです。

悲しい記憶がなくなれば、悲しさがなくなる。
その映画では、息子を亡くした母親の記憶は結局、消せませんでした。
彼女は悲しい事故を信じずに、息子への愛を大事にし、結局、息子を取り戻します。
なかなかうまく説明できませんが(映画のネタを書いてしまうのはルール違反でしょうから)、母親は悲しさを消すことよりも悲しくても息子への愛を大事にしたのです。
「悲しさから抜け出ること」と「悲しくても愛を守ること」と、どちらを優先するかは、人それぞれです。
人というよりも、愛の関係によるのかもしれません。
私は、悲しさから抜け出るつもりは全くありません。
悲しさと喜びとは同じものだと思っているからです。

ところで、もし記憶がなくなれば生まれ変われるのであれば、
記憶が人間の実体ということになります。
そうであれば、節子の実体は記憶の中にいるわけです。
悲しいのは、さびしいのは、ただ実体としての節子と会話もできず、抱きしめることもできず、喧嘩もできないことだけです。
それ以外のことでは、節子は存在するわけです。
もしかしたら、いつか、映画のように、実体としての節子が戻ってくるかもしれません。
戻る前に、私がたぶん節子のところに行くことになるでしょうが。

春の眩しさは、心を乱します。

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2009/03/26

■節子への挽歌571;挽歌を書くことの効用

挽歌の読者からメールをもらいました。
私と同じく、数年前に愛する人との別れを体験した人です。

ここのところの佐藤さんの”妻への挽歌”は、また辛そうな表現がなされていますね。
風邪も召されたようで、そのへんも影響しているのかなぁと思ったりしているのですが。

きょうの思い(挽歌569)はまさに私の感じているところにピッタリでした。
何にも感動できないし、世界はまさに灰色です。
私の心情を吐露したところで、何の意味があるのか、と時々思うことがあります。
しかし、こうして同じような思いで彷徨している者がいることを知って、少しでも自分だけではないと思ってくれる人がいるだけでも書く意味があるかもしれません。
それに、こうしたメールには私自身がとても元気づけられます。

昨日、ある人に頼み事をしました。
頼んだ途端に、彼はいいですよ、と快諾してくれました。
私が関わっている、あるNPOの活動支援の話です。
私が頼んだ人は、まだ付き合いだしてから1年も経っていませんし、そんなに何回もあったわけではありません。
感激しました。
今日、早速彼に会いに行きました。
用件が終わった最後に、この挽歌の話になりました。
私の娘よりも若い彼に、私の心情がすべて読まれていることを知っていささか慌てました。
自分でもわかったのですが、赤面していたはずです。
「オープンすぎるほどオープンですね、でもそれを読んで、この人には血が通っていると思って、会いに行ったのです」
彼がそういいました。
そういえば、彼は湯島に来てくれたのです。

この挽歌は、私にも大きな効用を与えてくれているのです。
節子がいろんな人と引き合わせてくれているようで、とてもうれしいです。

最初に書いたメールは、こう続いていました。 

「喪失の先に存在する自由」はよくわかりませんでした。
元々自由そのものがわかりません。
確かに行動は何も制限されなくなりましたが、これが自由だとしたら、私は自由は要りません。
色々な制限があってこそ、少しの自由が欲しくなるような気がします。
もっとも私はその少しの自由も欲しがっていなかったと思います。
 「自由」とはなんだろうか。
実は私も昨年末から、このことが気になって、少し考えています。
E.フロムを読み直したりしたのもそのせいです。

その方は、最後にこう書いています。

お体をお大事に。
心には声を掛けようもないのですが、どうか穏やかにお過ごしください。
はい、お互い様です。

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2009/03/25

■節子への挽歌570:節子を通して、私は世界を愛していたのかもしれません

昨日の続きです。

節子が、私の周りの世界に意味を与えてくれていたのだ、と昨日、書きました。
一般化すれば、人は愛するものによって、世界の意味を与えられるといっていいでしょう。
同じものでも、そこにちょっと意味がこめられると全く違ったものになります。

節子の闘病中に、隣りの高城さんの小さな子どもたちが、折り紙に母親でなければ読めない文字らしきもので、おばちゃんげんきになってね、と書いて、見舞いに来てくれました。
事情を知らない人にとっては、それは単なる紙くずでしかありません。
しかし、節子にとっては、涙が出るくらいうれしいものだったと思います。
その「紙くずのような折り紙」には、「愛」が込められています。

世界に意味を与えるのは、「愛」なのです。
それが時に、「憎しみ」になるかもしれませんが、「憎しみ」もまた「愛」から生まれたものなのです。
愛と憎しみはコインの裏表です。

「愛」が世界に「いのち」を吹き込んでくれる。
そして世界は、生き生きと意味を生み出していくのです。

「愛」は、具体的にいえば、「愛するもの」です。
私の場合は、それが「節子」でした。
人によっては、伴侶ではなく、子どもだったり、あるいは物だったり、記憶やビジョンだったりするかもしれません。
要するに「愛するもの」です。
「愛するもの」こそが、世界に意味を与え、人生をドラマのある喜びに変えてくれるのです。

言い換えれば、節子を通して、私は世界を愛していたといってもいいでしょうか。
節子がいなくなってしまったために、世界への愛が確信できなくなってしまっているのです。
そのため、世界から意味が消え、時間が平板になってしまったのかもしれません。

ここまで書くと、挽歌編ではなく時評編へと論調を変えたくなります。
というのは、昨今の社会の生き辛さは、「愛するもの」をもてなくなってきているからかもしれません。
なぜそうなったか。
それはそうしないと経済成長ができなかったからです。
話が難しくなりそうです。
この続きは、時評編に譲ります。

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2009/03/24

■節子への挽歌569:私の環境世界に意味を与えていた節子

節子
風邪で少しダウンしていました。
いつものように、こじらせてしまい、3日ほど自宅で休養をとっていました。
考えるでもなく、考えないでもなく、ぼんやりとしている時間が多かったのです。
そして、ひとつ気づいたことがあります。
人生は、もともと退屈で平板なものなのではないのか。

節子がいなくなってから、私にとっての世界は一変しました。
日の出をみてもわくわくしないのです。
夕陽を見ても感傷的にならないのです。
テレビで景色の良い風景を見ても行きたいとも思いませんし、
上野で阿修羅展があると知っても、行こうと思わないのです。
日々の生活もなぜか平板です。
昨日と同じ今日があり、今日と同じ明日がある。
そこには、なんの物語もなく、ただ時が平板に過ぎていく。

節子がいた頃は、全く違いました。
日の出には元気をもらい、夕陽からはドラマを感じました。
テレビで見た場所には節子と一緒に行きたくなり、
退屈な美術展でも節子に誘われれば、あるいは節子となら行く気になる。
今日は昨日よりも充実していて、明日にはわくわくする夢を感じました。

私の周りの世界は、節子がいようといまいと変わりません。
しかし、なぜこんなにも変わってしまったのか。
そこで気づいたのです。
世界は、もともと白いキャンバスであり、意味のない舞台なのだ。
そこに絵を描き、物語を育て、意味を与えるのは、愛なのではないか。
それがこの3日間の風邪の中での放浪の結論です。
なんだか夢多き中学生の妄想のような話ですね。

しかし、そう考えると、いろいろなことが私には理解できます。
私自身と節子と世界が、三位一体となって、物語を創っていたわけです。
何の変哲のない景色が、節子との関係の中で、意味のある舞台や素材になってくれわけです。
たとえ美味しくない料理でも、美味しくないねと言い合うことで、物語を豊かにしてくれます。
節子との関係において、世界は生き生きとしてくるわけです。
節子がいなければ、世界は全く無意味な存在なのです。

私はなぜか、いつのころからか記憶はないのですが、私の人生の意味を与えてくれているのは節子だと思うようになっていました。
友人知人にも、そういう話をしていましたし、節子にももちろんそう話していました。
その意味がようやくわかったのです。

私にとっての世界にいのちを与えてくれていた節子がいなくなった途端に、世界は再び灰色になってしまい、意味が失われてしまいました。
そのために最近どうも時間が平板で、変化が感じられないのかもしれません。

最近、少しずつ「愛」の意味がわかってきたような気がします。

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2009/03/23

■節子への挽歌568:喪失と自由

妻を失った怯えと自由の喪失。
一昨日の挽歌の最後に書いた、私の体験感です。

「喪失」に関しては、2度ほど書きました。
「対象喪失」では、愛する人との別れは喪失ではないと書きました。
愛が終わることと愛する人と別れることは違います。
「なくなりようのない喪失感」では、
喪失と喪失感との違いについての友人の言葉を紹介しました。

内山さんは、「喪失の先に存在する自由」を問題にします。
そして、現代は「自由を得るために自由を喪失する必要がある」と、その本(「怯えの時代」)で議論を展開していきます。
自由を得るためには、自由を捨てなければいけない、というのです。
この言葉の意味はよくわかりますし、共感できます。
疑問のある方はぜひ同書をお読みください。

E.フロムは消極的自由がファシズムにつながっていることを「自由からの逃走」で示しました。
フロムが「自由への逃走」として評価した積極的自由も、結局は連帯を通して自由の制約につながるといわれます。
自由は、パラドックスを内在させた言葉です。

韓国の法頂師は、無一物になれば、すべてが自分の物になると言っています(ちょっと不正確な紹介ですが)。
所有の概念を捨てれば、すべてがみんなのものになることは自明のことです。
大気も地球も、個人が所有できないがゆえにみんなのものです。

所有と自由とは深くつながっています。
だとすれば、喪失と自由も深くつながっています。

内山さんの「怯えの時代」はわかりやすく現代社会の状況を整理してくれています。
私には異論はないのですが、なぜ最初の2頁に、一昨日の挽歌で紹介した文章を載せたのでしょうか。
おそらく、単に「載せたかった」だけでしょう。
その気持ちもわかるような気がします。
どこかで吐露したい。それが喪失した者の感情です。

内山さんは、妻を失って「自由」を得ましたが、
私は妻を失って、「自由」も失いました。
この2日間、なんとなくその違いを考えていたのですが(風邪でダウンしていたので時間がありました)、失ったり得たりするような「自由」は自由ではないと気がつきました。
それに、節子と出会い、節子を愛した、その時から、自由などなかったのかもしれません。
自由とは制約の同義語だというのが、この2日間の結論です。
全く無意味な2日間の思考だったかもしれません。
節子だったらきっと笑いとばしながら、でも感心してきいてくれるでしょうが。

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2009/03/22

■節子への挽歌567:心地よい借金

佐藤さん 前回会ったときより、ずっと元気になりましたね。
一昨日、大阪から会いに来てくださったMさんが、帰り際に行った言葉です。 みんなが私の元気を気にしてくれている。 そう思うと、いつまでもこの挽歌を書き続けていてはいけないという気もします。

Mさんと知り合ったのはたぶん1年ほど前ですから、私はおそらく失意のどん底にいたのかもしれません。
もっとも、その時、Mさんを連れてきてくださったIさんは、Mさんにそろそろ佐藤も元気になってきたので会いにいこうと言ったそうです。
Iさんも、私のことを気にしていてくれたのです。
こういう話を聞くたびに、感謝の気持ちでいっぱいになると共に、どうしてこんなに良い人ばかりなのに、社会は快適にならないのかが不思議です。

節子がいなくなった後、どれほど多くの人たちから元気をもらったことでしょう。
どれほど多くの人から声をかけてもらったことでしょう。
おかげで、人はみんなつながっていて、支えあっているのだということが確信できました。
「元気になったね」「おかげさまで」
この短いやりとりが、人の絆をどれほど強めることか。
それは体験したものでないとわかりません。

心から気遣ってくれた人のためであれば、いつかお返ししようと思うのは当然です。
人に気遣ってもらうということは、たくさんの「借金」を背負うのと同じような気がしますが、その借金は心地よい借金です。
たとえ今生で返せなくとも、来世で返す機会はあるだろうと思うと負担にもなりません。
それに、会ったことのない人も含めて、人はつながっていると思えると人生はとても生きやすくなります。

無理をして元気を装おうこともありません。
私の嘆きに辟易している人もいるでしょうが、嘆きはその人にもいつか降りかかるでしょう。その時には、私はその人の聞き役になれるはずです。
嘆きは聞き役がいてこそ、嘆き甲斐があるのです。

もしかしたら、嘆き役こそが最高の聞き役かもしれません。
みんな無理して元気を装おうのはやめましょう。
人はみんな多かれ少なかれ、嘆きの種を抱えています。
人の数だけ幸せも不幸もある、と節子と話したことを思い出しました。
嘆きながら聞いてやる、そんな関係がもっともっとひろがるといいと思っています。

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2009/03/21

■節子への挽歌566:怯えの時代の自由

内山節さんという人がいます。
まだ会ったことはないのですが、彼の書いたものにはほぼ100%共感していました。
その生き方もすばらしく、その実践にも敬意を感じていました。
直接の知り合いではないですが、私の周りにはなぜか内山さんと付き合いのある人が少なくありません。
たぶんいつかお会いできるだろうなと思っていた一人です。
人は会うべき人には、必ず会えることを、私は体験的に実感しています。

内山さんの最近の著作である「怯えの時代」を、若い友人が紹介してくれました。
先週届いていたのですが、昨夜、寝る前に本を開いてみました。
一瞬、心が凍りつきました。
こういう書き出しです。

2006年6月22日。妻が死んだ。ほんの5分前まで心地よさそうな寝息をたてて眠っていたというのに、突然息をとめた。受け入れるしかない現実が私の前で展開していた。
この挽歌に突然出会った人の気持ちが少しわかりました。
予期しない言葉は、人の心に深く突き刺さります。

そこから先へと読み進めたのですが、2頁読んだところで、読めなくなりました。
文章はこう続いています。

それから数日が過ぎ、私は自由になった自分を感じた。すべての時間が自分だけのためにある。すべてのことは自分で決めればよい。何もかもが「私」からはじまって「私」で終わるのだ。私だけがここにいる。自由になった私だけが。
それは現代人の自由と共通する。
喪失の先に成立する自由。受け入れるしかない現実が生み出した自由。妻の死によってもたらされる現実に、私は怯えることはなかった。私は「また会おうね」と言った。妻は「うん」と言った、と思った。
どこか違うのです。
私が思っていた内山さんの世界と、どこかが違う。
そのため頭が混乱して、その先に読み進めなくなったのです。

朝起きて、読み直しましたが、やはり違和感が残ります。
内山さんらしい文章であり、その内容に異論があるわけではありません。
まだ2頁しか読んでいないので、この後、どのような話が展開されるのかわかりませんが、この2頁で、なんとなく内山さんは私とは違う世界の人だと感じてしまいました。
もしこれも「喪失」だとしたら、そこからどのような「自由」が現れてくるのでしょうか。

愛する人との別れは、人それぞれです。
内山さんの思いなど、私にはわかるはずもありません。
しかし、「また会おうね」「うん」という会話は、内山ご夫妻のすべてを語っているようにも思います。
とても静かであたたかで、それだけに深く長い愛を感じます。
しかし、どうしても「喪失」とか「自由」とかいう言葉に違和感を持つのです。

だからなんだと言われそうですが、このわずか数行の文章は、最近封印していた私の心情をまた開いてしまいそうです。

ちなみに、
妻を失った後の自由感。怯えることのない自分。
私にとっては、理解できない言葉です。
妻を失った怯えと自由の喪失。
これが私の体験感です。

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2009/03/20

■節子への挽歌565:花より節子

節子
きみが好きだった花の季節がやってきました。
わが家の庭の花もにぎやかになってきました。
その狭い庭で、土作りや花の移植などをやっている節子がいないのがうそのようです。
節子が好きだったミモザも今年は元気に咲きましたし、パピルスも元気に育っています。
節子は、また花や鳥になってチョコチョコ戻ってくると書き残しましたが、どの花が節子なのか、探すのが大変です。

今日はお彼岸です。
彼岸に花見に行きたい気分ですが、此岸の花も今年はとても華やかです。
暖冬だったせいでしょうか。
花が咲き出すと不思議にこころもはなやぎます。
昨年はそんな気分にはなれませんでしたが、今年は少しだけ花を愛でる気分がでてきました。
それに、もしかしたら節子が戻ってきている花かもしれません。

いまでも節子の位牌は花に囲まれています。
花好きのジュンが毎日手入れしてくれているのです。
それに花がなくなりそうになると、不思議に誰かが花を届けてくれるのです。
「花になって戻ってくる」という節子の言葉が本当だと思えてしまうほどです。
いえ、疑っているわけではないのですが。

でも正直な気持ちとしては、たとえわが家の花がすべて枯れてしまってもいいから、節子に戻ってきてほしいです。
森山良子の歌に、「この広い野原いっぱい咲く花をひとつ残らずあなたにあげる」というのがありましたが、もし節子を返してくれるのであれば、私もそうしたい気分です。
世界中のすべての花よりも、たった一人の節子のほうが、私を元気にしてくれるでしょう。
世界から花がなくなっても、節子のほうがいいです。
みなさんにはご迷惑でしょうが。

どんなに庭の花が華やかでも、なにかが欠けている感じです。
節子がいてこその、わが家の花なのです。
節子が元気だった頃は、そんなことなど思ったこともなく、
カサブランカの花のほうが節子よりきれいだなと思ったりしていました。
しかしいまでは、どんな花も節子には勝てません。
節子の笑顔は、私には輝くように魅力的でした。

人間も多年草や木の花のように、季節が来るとまた華やかに戻ってくることができたらどんなにいいでしょうか。

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2009/03/19

■節子への挽歌564:ひとつの財布

節子
むすめたちと話していて、夫婦別財布が多いという話になりました。
私の周りにも、夫婦別財布の人は少なくありませんが、私には全く理解できない話です。
私たち夫婦は完全に「ひとつの財布」でした。
もっとも、節子は「夫に内緒のへそくり」に憧れがあったようで、へそくり口座をつくったことがありますが、私にまで自慢したので、すぐにばれてしまいましたが。

結婚以来、わが家には「家計」はひとつでした。
私の収入は、すべて節子のものでした。
節子の収入もまた、すべて節子のものでした。
ですから節子にとっては、「へそくり」は全く意味がなかったのです。

そんなわけで、私はお金から全く解放されていました。
お金が必要になれば、節子にいえばよかったのです。
家族で旅行に行っても食事をしても、お金の担当はすべて節子でした。
私は自分で支払ったことがありません。
これはいたって楽なことです。

それに、財布が一つになるということは、お互いの生活を夫婦で共有できるということです。
それがわずらわしいと言う人もいるかもしれませんが、徹底してしまうと楽になります。
相互の信頼関係も高まりますし、お互いの性格もよく見えるようになります。
ですから、夫婦が別々の財布を持つことが、私には全く理解できません。
もしこれを読んでいる方が結婚されていないのであれば、ぜひ「ひとつの財布」をお勧めします。
ちなみに、社会全体が「ひとつの財布」になれば、もっと楽になります。
その時にはお金はいらなくなるはずです。
私にとっては理想の社会です。
お金がなくなれば、格差も戦争もなくなるかもしれません。

お金を管理しなければならなくなった節子は大変だったのではないかと思うかもしれません。
大変ではなかったのです。
なぜなら節子は家計簿などつけることなく、簡単なルールで対処したからです。
ルールは2つ。
「出て行くものは出て行く」「なくなれば出なくなる」
それは私と共有していましたから、お金がなくなれば働くか節約すればいいわけです。
最近はいささか状況が厳しいですが、私たちの時代は、まじめに働けば、いかようにもやっていけました。
それに、節子も私も質素でしたし、2人とも普段はお金を使いませんでした。

私たち夫婦がこんなに仲良く信頼しあえる関係になったのは、そしていつも誠実に生きられたのは、「ひとつの財布」のおかげだったのかもしれません。

もっとも節子には一つだけ不満がありました。
私から「意外な贈り物」をもらえなかったことです。
私の節子へのプレゼントのやりかたは、何かほしいものがあるかと節子に訊いて、じゃあそれを買っておいてというだけでしたので、節子はプレゼントをもらった気にはなれず、いつも買わずに済ませてしまっていたことです。
今から思うと、「ひとつの財布」も欠点がありますね。
もしかしたら、節子は喜んでいなかったかもしれませんね。
気づくのが遅すぎました。
いやはや。

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2009/03/18

■節子への挽歌563:能天気夫婦

節子
ジュンがお母さんは能天気だったね、と言っています。
もっとも「能天気」だと言っているジュンも、かなりの能天気ですから、あんまりどうということはないのですが。

最近、わが家ではユカが一番、まともなのではないかと思うことがよくあります。
わが家ではユカはいつも少数意見で、みんなから「変わっている」と思われていたのですが、もしかしたら「変わっている」のは他の3人だったのかも知れません。
今頃気づいたのか、とユカにまた怒られそうですが、節子がいないのでいまさら私も反省はできません。
困ったものです。

先日、ジュンと話していて、ジュンの能天気さは私の遺伝かなと話したら、お母さんも能天気だったよ、と言うのです。
節子が能天気?
私には、自分が好き勝手に生きてきたために、節子には多大な負担や苦労をかけただろうと言う罪悪感があるのです。
節子は私に愚痴をこぼしたことは一度もありません。
私の両親との同居も、私が知る限り、一度も愚痴をこぼしませんでした。
そのことに感謝していたわけですが、ジュンの考えでは、大変さなど感じていなかったのです。
つまり、単に私と同じく能天気だっただけなのです。
思い直すと、たしかに節子は能天気でした。

親が脳天気だったぶん、子どもたちは苦労しているようです。
私たちはあまり良い親ではなかったのです。
どうもそれは間違いない事実です。
娘たちには本当に申し訳ないと思っていますが、いまさらどうにもできません。
しかし、その責めを私だけが負うのはいささか不公平です。
恨めしい気がしないでもありません。

いま、むすめたちのことで苦労しています。
困ったものです。

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2009/03/17

■節子への挽歌562:「あばたもえくぼ」と「もの悲しい感情」

「だめ節子」第4弾を書き出しました。
今回は、金銭感覚のなかった節子を書き出したのですが、どうも「だめ節子」にならないのです。
書いているうちに、金銭感覚がなかったことがとてもいいことだったような内容になってしまうのです。
「あばたもえくぼ」とはよく言ったものです。
だめな部分が、今となってはとても魅力的に見えてくるのです。
節子のすべてが魅力的に思えるのです。
だから、逆にここで書くことのすべてに、きっと「もの悲しい感情」が表れてくるのでしょうね。

先日、ある友人からこんなメールが来ました。

本当に偶然のクリックだったのですが、佐藤さんの妻への挽歌を読ませていただきました。
本当に、そばにいらっしゃるのだと思いました。
ただ、読んでいて、今までに抱いたことのないような複雑な、もの悲しい感情にみまわれ、最後まで読むことができませんでした。
彼女は節子にも何回か会っています。
葬儀にも来てくれました。

偶然にネット検索をしていて、私の挽歌に出会ったらどう思うでしょうか。
どの挽歌を読むかによって、印象はかなり違うかもしれませんが、時に「重苦しい雰囲気」を背負い込むことになるのでしょうね。
書いている私自身もそうなのです。
それで少し気分転換に「だめ節子」シリーズを書いてみようと思ったのですが、なかなかうまくいかないものです。

彼女は今日、湯島にやってきました。
いろいろと話しての帰り際に、またポツリと言いました。

挽歌を毎日書かれているのですね。
とてももの悲しい感情に見舞われて、読み続けられませんでした。
人を元気にするのが私の生き方なのですが、
この挽歌だけはそれと正反対のことをしているのかもしれません。
もっと読む人を元気にする挽歌にしなければいけませんね。

今日、彼女は私に会って少し元気になったようです。
よかったです。
私も元気になってきている証拠です。

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2009/03/16

■節子への挽歌561:ファッション感覚がずれていた節子

だめ節子シリーズその3です。

節子のファッションセンスはいささかずれていました。
私は、基本的にシンプルなスタイルとわかりやすい色が好きですが、節子はちょっと昭和的なファッションが好きでした。
そのくせ、オップアートのような目がチカチカするようなものも好きでした。
最先端のブランドファッションには往々にしてその種のものもありますが、
私の稼ぎの関係で節子はブランド物などは縁がありませんでしたので、ただ単にちょっと風変わりなファッションが好みだっただけなのです。
節子がいなくなった後、クローゼットなどを見たら、まだ袖を通していないものも含めて、節子にとっては「ちょっとおしゃれな」、しかし私にとっては「ちょっと奇妙な」衣服がみつかりました。
たぶん私が嫌いなのを知って、私と一緒の時には着なかったのでしょう。
そのため私には見覚えもないものもありました。

ファッションセンスは個性的なものですから、どれが「おしゃれ」で、どれが「奇妙」かは一概に言えません。
それに私自身、おしゃれなどには一切興味がありません。
ですから、節子のファッション音痴は私の偏見だと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
わが家では節子の趣味の「悪さ」は合意された常識なのです。
今でもテレビで時々、昭和的な人が出てくると、誰からともなく節子みたいな服だという声が出てきます。
たしかに、そこに節子を感ずることもあります。

女性にとっては、おしゃれはとても大切なのでしょうが、私には全く理解できない世界です。
節子が新しい服を買ってきて私に見せても、またそんなおかしな服を買ってきたのかと、私はけちをつけることが多かったような気がします。
今となってはもはや後悔先に立たずです。
私がもっと誠意を持って応えていたら、節子のファッション感覚はもう少し良くなっていたのかもしれません。

とまあ、ここまで書いてきて、気がついたのですが、私のほうが先に逝って、節子が私の思い出を書いたら、きっと「ファッション感覚ゼロの修」と書くでしょうね。
修からファッションのことをとやかく言われたくないといわれるかもしれません。
節子からはいつも、もう少し身だしなみをきちんとしたらといわれ続けていました。
歳が歳なのだからもう少し良い物を身につけなさいというのが節子の口癖でした。
でも着る物にお金を使うくらいなら、稼ぐお金を減らしたいと思うのが私だったのです。

結局、ファッション感覚がずれていたのは私なのかもしれません。
「だめ節子」を書くのは難しいです。
いつも自分に戻ってきてしまいます。
まあ、夫婦なんていうのはそんなものなのでしょうか。

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2009/03/15

■節子への挽歌560:失敗するとso-soといって笑ってごまかす節子

だめ節子シリーズその2です。

節子は私と同じで、さまざまな矛盾の塊でした。
慣習や定型的な前例に拘束されることなく、自分の判断を大事にする合理主義者でありながら、奇妙に慣習の形を気にする人でもありました。
どういう時に慣習を重視し、どういう時にそれを無視するか、あんまり私には基準が理解できませんでした。
節子自身もあんまり基準はなかったのかもしれません。

節子の実家の法事に行った時、挨拶の仕方にうるさくて、たとえば上座から挨拶したとか腰が浮きすぎだとか注意されたこともありました。
ですから、最初の頃は私もそれなりに緊張して、節子の実家での法事に出席しました。

ところがです。
次第に自分の判断を大事にする合理主義者へと、節子はどんどん変わってきました。
私の狭い付き合いからの感想ですが、女性はみんなそうのようですが。
それはともかく、節子は私以上に私になり、ついには私を追い越すほどの「形式からの自由主義者」になりました。

節子の実家の先祖の50周忌に出席した時のことです。
最近は田舎の法事も簡素化されてきたので、今回は平服でいいんじゃないかと節子が言い出しました。
しかも、今回は黒のネクタイもいらないよと言うのです。
法事に関しては、節子は私の先生ですから、ついつい私もその気になってっしまいました。
ところが親元についてみると、みんな正装で黒ネクタイなのです。
節子は実家の喪服があったので対応できましたが私はノーネクタイです。
さてどうするか。
私はいいとしても、節子に恥をかかせるわけにはいきません。
車で来ていた義兄に頼んで、ネクタイを買いに行き、何とか間に合わせることが出来ました。

なんだか、忠臣蔵の吉良上野介と浅野内匠頭のような話ですが、節子は慌てることなく、so-so などと意味不明な言葉で笑ってしまっていました。
小心者の私は慌てますが、能天気な節子はそういう時にはお腹をこじらせて笑いのです。
そういう時の節子は、実に魅力的なのですが、浅野内匠頭としては腹立たしくもあるのです。

そういえば、節子はよくso-soと言ってました。
辞書を引いてみたら、「良くも悪くもない、まあ、まずますの」というような意味のようですが、節子は「まあ、いいんじゃないの」というような意味に勝手に使っていたような気がします。
たしかラジオか何かで一度聴いて気にいったのでしょう。
それ以来、勝手に拡大解釈もしくは誤用して、愛用していました。
まあ、so-soですが。

「だめ節子」にさえ魅力を感じてしまうようでは、なかなか「だめ節子」シリーズは難しいですね。
困ったものです。

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2009/03/14

■節子への挽歌559:片づけが苦手の節子

いよいよ、予告していた「だめ節子シリーズ」第一弾です。

節子は「片付け」が不得手でした。
と言うと怒られそうです。
本人はきっと片づけが好きで得意だと思っていたかもしれませんから。
実際、整理整頓の知恵を出すのは好きでした。
今もなお、節子が書いた「小見出し」などがいろんなところに残っています。
書類などを保管するクリアファイルに小見出しをつけるのも好きでした。
写真を整理して、コメントをつけながらアルバムを整理するのも好きでした。
旅行に行く時にバッグに荷物を詰め込むのも節子が得意でした。
私が勝手に詰め込むと怒られました。

しかし、どう考えても片づけがうまかったとは思えないのです。
なぜそう思うかと言うと、節子は「捨てる」のが下手だったからです。
まあよく言えば、「物を大切にする」のです。
本当にいろんなものを捨てずに残していました。
お菓子などもらうと箱はもちろんですが、包装紙まで丁寧に残していました。
物を捨てない割には、使いもしないの、これはいつかきっと役に立つと面白そうなものがあるとすぐ買ってきました。安いものばかりでしたが。

病気になってからは、持ち物整理に入りましたが、それを私が止めてしまいました。
整理するとなんだか先がないような気がするからです。
節子が病気になってからは、私がむしろ節子の物を買いだしました。
これを使い切るためにも元気にならなければいけないと節約家の節子に「圧力」をかけたのです。
小賢しい知恵ですが、まあ当事者になると、そんなものです。

まあ、そんなわけで、節子が逝った後にはたくさんのものが残されました。
かばんやポーチもたくさんありました。
それをあけると、必ず出てくるものがあります。
駅前でもらったポケットティッシュ、短い鉛筆(節子は鉛筆が好きでした)とメモ、小銭、そしてなぜかキャンディ。
関西人は、誰かに会うと「あめ」をあげると以前テレビでやっていましたが、関西人の節子らしく、いつもアメかチョコレートを持ち歩いていたようです。
もっとも彼女自身は、そうしたお菓子類をふだんはあまり食べない人でした。

節子が残していったもの片付けるのは大変です。
ですから今もほぼそのままです。
ということは、もしかしたら、片づけが下手なのは私のほうかもしれませんね。
しかしまあ、残されてしまったら最大の粗大ごみになりかねない夫(つまり私です)を片付けないうちに彼岸へと自分だけ旅立ってしまったのは許せません。
夫くらいきちんと片付けてから、自らの身を片付けてほしかったです。

なんだかわけのわからない話になってしまいました。
明日は、きちんとだめ節子第2弾を書くことにします。

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2009/03/13

■節子への挽歌558:幸福を呼び寄せる胡蝶蘭

福山さんが、奥様が花になって戻ってくると書いてありましたから、と言って、胡蝶蘭を届けてくれました。

胡蝶蘭の花言葉は「幸福が飛んでくる」なのだそうです。
私のまわりは本当に良い人ばかりで、これ以上の幸福は望みうべきもありませんが、幸福はいくらあっても不都合はありません。
宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」といいましたが、人の幸福と自分の幸福は別々のものではありません。
ですから幸福は大歓迎です。

節子は福山さんに会ったことはありません。
福山さんとのつながりは、東尋坊の茂さんつながりなのです。
まさか私自身が茂さんの活動に巻き込まれるとは思ってもいなかったのですが、節子と一緒に東尋坊に行ったのがたぶん契機になって、茂さんとのつながりがいろいろと多層的に生まれてきたのです。
その関係で、福山さんにもお願いして、新しいプロジェクトに取り組みだしました。
節子がいたら、事務的なバックアップをしてくれたでしょう。
節子は、いつかそういうことをしたいと思っていましたから。
コムケア活動を始めた時に、節子と一緒にいろいろなことができるだろうなと思っていましたが、残念ながらそれは実現できませんでした。
しかし、どこかで節子なら賛成するだろうなというプロジェクトを無意識のまま選んでコミットしだしているような気がします。

奥さんだと思って、愛でてくださいと福山さんは言ってくださったのですが、湯島には定期的に来ていないのでせっかくの胡蝶蘭が枯れてしまわないか心配なので、福山さんにお断りして、少ししたら自宅に持っていくことにしました。
湯島はマンションの一室なので、換気も悪く、生花はなかなか持続させられないのです。
花にも声をかける習慣は、私にもあるのですが、1週間も湯島に行かないこともあるので、花も孤独になってしまうのでしょう。
節子が通っていた頃は、室内もベランダも花が元気でしたが、いまはほとんどなくなってしまいました。
玄関の花も、いまは生花ではなく、造花です。
でも、この1週間は胡蝶蘭がいます。
もしよかったら、湯島に遊びに来てください。


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2009/03/12

■節子への挽歌557:若い友人からのメール

今朝、2つのメールが届きました。
今日から、「だめ節子」シリーズをはじめようかと思っていたのですが、そのメールのことを書きたくなってしまいました。
予定変更です。

一人は、節子も会ったことのある、若いSTさんからです。
年賀状をもらったので、返信メールを出した、そのまた返信です。
私の生き方へのエールなので、いささか気恥ずかしいですが、一部を引用させてもらいます。

いただいたメールを拝見していて、奥様に対するとても大きな深い愛情を感じました。
思わず、自分自身の経験してきた恋愛と比較してしまい…。また、感じたことをどう表現してよいのか分からず、メールの返信が書けずにいました。
いま僕が感じることですが、修さんの生き方はとてもステキだと思います。

修さんの大きく暖かな愛情に包まれて、今尚奥様は存在し続けていらっしゃるように感じています。
修さんは『会えなくなってから、時間は止まってしまっているよう』だと、前回のメールでお話されていましたが、僕には奥様と共に歩まれているように感じてしまいます。
それは修さんのメールにあった『奥様のおかげで新しい出会いを得たり、生きる意味について思いを深められたりした』というお話から感じています。

例え肉体がこの世に存在していなくても、愛した伴侶の心の中にいつまでも存在し続けることができたなら、きっとすごく幸せだと僕は感じます。
僕も結婚を考える人を持ち、2人で人生を歩む時が来るとしたら、修さんのような生き方をできたらいいなって思っています。

長い引用ですみません。
最後の一文がとてもうれしかったのです。
共にお互いの心の中に「住み込み合う」関係、それが夫婦の意味ではないかと、私は思っています。
そうした伴侶を得たことの幸せと、そうした伴侶とのいささか早い別れを余儀なくされたことの寂しさを、改めて感じています。
STさん、ありがとうございました。


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2009/03/11

■節子への挽歌556:節子は美化されているのではないか

節子
むすめたちから、この挽歌の節子は「美化」されているのではないかといわれました。
おそらくそうでしょう。
節子自身も、たぶん「美化」されている自分を感じているかもしれません。

しかし、その一方で、不満な表現もあるでしょう。
修は、私の本当にいいところをちっとも理解していないわね、と思っているかもしれません。
それはまあ、お互い様なのです。

夜中に目が覚めると、必ずといっていいほど、節子のことをまず思い出します。
以前は、夜中に目が覚めると、隣に節子がいつもいました。
目が覚めて眠れない時は、わがままな私は必ずといっていいほど、節子を起こしました。
節子と一言二言話すだけで、気が静まってなぜか眠れたのです。
時には代わりに、起こされた節子のほうが眠れなくなってしまうこともありました。
私は、迷惑をかけあうのが夫婦なのだという考えなので、節子にも目が覚めたら起こしていいよといっていましたが、節子に起こされたことはありませんでした。
節子は一時、寝つきが悪かったことがありますが、一度眠るとよく眠る人でした。
その上、私と違って寝相がよく、寝た時とほぼ同じスタイルで朝を迎えるタイプでした。
私の寝相の悪さはかなりのもので、節子はいつも、よく動くわねといっていました。

話がまた全くそれてしまっていますが、昨夜、夜中に目覚めた時、なぜか娘たちから言われている「美化」の話を思い出しました。
本当に節子のことを美化しているのだろうか。
たしかに「良いところ」だけを書いており、あんまり悪いところは書いていません。
しかし、「良い悪い」は、人それぞれです。
それに、私の心の中に残っている節子の良いところは、とても言葉には書き表せないのです。
ですから、ここで書かれているのは、節子の良いところの一部でしかないともいえるのです。
いやいや、こう思うところが、すでに節子を美化しようとしているのでしょうね。

逃がした魚は大きい、という言葉があります。
失った妻はどうでしょうか。
悪い妻だったと思うようにすれば、きっと悲しみも半減するでしょう。
しかし、美化し続けていると、悲しみはますます高じていくでしょう。
思い切って、節子のだめさ加減を書いていくのもいいかもしれません。
さてどうすべきか。

一晩、だめな節子シリーズを書き出すかどうか考えてみます。

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2009/03/10

■節子への挽歌555:東京の空にも節子がみえます

節子
今日はあたたかな、そしておだやかな日です。
今日は何人かの友人が会いに来るので、湯島に来ました。
週に2,3回は湯島に行こうと思っているのですが、なかなかそうなりません。
何となくおっくうなのです。

今日は少し早めに来たのですが、穏やかな空をぼんやりと見ていると節子がいた時とどこがいったい違うのだろうかという気がしてきます。
私は湯島のオフィスから空を見るのがとても好きです。
子どもの頃から、空や雲を見るのが好きでしたが、会社に入ってから空を見る習慣がなくなってしまっていました。
東京の空をゆっくりと見るようになったのは、このオフィスで過ごすことが始まってからです。
東京の青空がとてもきれいで穏やかなのに気がついたのです。

もっとも、空の青さのすばらしさを思い出したのは、エジプト旅行でした。
エジプトの空の青さは、感動的でした。
きれいな空を見るといつも、私たちはエジプトの空の話になりました。

日本で見た一番印象に残っている空の青さは、節子と一緒に行った、千畳敷カールでした。
あの時は、節子はとても元気でした。
私のホームページにも掲載されていますが、あの時の空の青さは感動的でした。
あの時、もしかしたら節子の「いのち」は青空に吸い込まれてしまったのかもしれません。

学生の頃書いた私の詩に、こんなのがあります。
私の詩の中では最も短い作品です。

空の青さがあまりに深かったので、思わず死んでしまった
私はこの詩がとても気に入っていました。
節子に会うずっと前の詩ですが、この頃から「金魚が泣いたら地球が揺れた」的な作風だったようです。

湯島から見る夕陽もきれいでした。
そんなことを考えていると、そこに節子が居るような気がしてきます。
節子がいなくなって、いったい何が変わったのだろうか。
この頃、そんなことをよく考えるようになりました。
どこにでも、最近は節子が見えるような気がしてきています。

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2009/03/09

■節子への挽歌554:「私らしい生き方」を支えていた「節子の存在」

佐藤さんは、何でもポジティブに考えるので元気をもらえます。
昨日、久しぶりにお会いした人からそういわれました。

その言葉を聞いて、節子との別れだけはどうしてもポジティブに受け入れられない自分に、改めて気づきました。
以前ほど、後ろ向きに考えることはなくなりましたが、まだ前向きに考えることができません。
節子の不在を思い出すと、今でもとたんに気が沈んでしまうのです。
その時の私の周辺には、きっと重苦しい雰囲気が漂っているのでしょうね。
そのせいか、最近は私に会いに来る人も少なくなったような気もします。

3日前に、記憶は脳と環境の間にあるということを書きましたが、
節子の不在への思いを実感するのは、会う人の言動に触発されることが多いのです。
しかし、不思議なのですが、その人が節子の知り合いであるかどうかとか、会話や行動が節子につながっているかどうかとか、そういうこととは全く無関係なのです。
ある状況が、突然、節子の不在を実感させるのです。
そうなると、ブラックホールに引き込まれたようになってしまいます。
普段は、実のところ、不在を実感しているわけではなく、むしろ節子と一緒にいるような気がしているのです。

節子との別れは、私にたくさんのことを気づかせてくれました。
そう考えるのは、ポジティブ発想なのかもしれません。
しかし、その一方で、節子との別れによって、大きなダメッジを受けました。
その大きさが計りしれないのは、今なお時々、新しいダメッジに気づかされることがあるからです。
ですから、どうしてもポジティブには考えられません。

こう書いてきて、気づいたことがあります。
私らしい生き方ができたのは、節子がいたからであって、節子がいなくなると、私らしい生き方ができなくなるのではないかということです。
言い換えれば、私が物事をいつもポジティブに考えられたのは、節子がいたからだったのではないか。
いざとなったら一緒に取り組む同士がいれば、こわいものなどあるはずもありません。
だからいつでもポジティブになれたのです。

私が私らしく生きていくためには、節子の存在は不可欠なのです。
そんなわけで、今なお節子との別れは現実として受け入れられないでいるのです。
受け入れてしまうと、私らしい生き方ができなくなってしまいかねないからです。
つまり、「私らしい生き方」とは、実は「私たちらしい生き方」だったのです。
ですから、「節子の不在」そのものが存在しないのです。
したがって、ポジティブであるかどうかを超えてしまっているのです。

なんだかややこしい話になってしまいました。
読んでいる人には「たわごと」に聞こえるでしょうが、私にとっては、「目からうろこ」なのです。
私もだんだん「彼岸」が見えるようになってきているような気がします。

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2009/03/08

■節子への挽歌553:「21世紀は真心の時代」

節子
今日は群馬県の高崎市に行ってきました。
ぐんまNPO協議会で話をさせてもらったのです。
タイトルは「21世紀は真心の時代」です。
節子は覚えているでしょうが、1982年に書いた私の論文のタイトルです。
この論文が、私たちの生活が大きく変わっていく契機になりました。

1980年前後から日本の社会は大きく変質し始めたように思います。
とりわけ企業の文化は変わりだしました。
現在の社会の状況は、既にそのときに見え出していたように思います。
それを防ぐには「心をこめた対話」しかないというのが、この論文の趣旨でした。
今から読めば子供の作文でしかありませんが、私たちのその後の人生を変えたのです。

その考えを具現化するための、私の会社での取り組みは挫折しました。
その体験から、自分の生き方が問題なのだと気づかされました。
そして、節子と一緒に、心を大切にすることを目指して、生き方を変えたのです。
それからの節子と一緒の20年弱は、私にとっては幸せに満ちた時期でした。
2人で、湯島にオフィスを開き、たくさんの人がやって来てくれた時の興奮は、今でも覚えています。
節子も、とても張り切ってくれていました。
しかし、まさか、パートナーとしての節子との別れがこんなに早く来るとは思っていませんでした。

私の思いは、なかなか他の人にはわかってもらえませんでした。
理解できずともわかってくれたのは、いつも節子でした。
私自身でもうまく消化できないことまでも、節子は共感してくれました。
21世紀は真心の時代の主旨にも共感してくれました。
この論文は毎日新聞社の懸賞に入選したのですが、「真心の時代」などと何を宗教くさいことを言っているのか、と友人知人からは言われました。
昨今では「心の時代」は流行り言葉ですらありますが、1980年代初めには人気のない言葉だったのです。
しかし、節子は共感してくれました。
それが私の行動をいつも支えてくれました。

講演を終えた帰りの新幹線でそんなことを思い出しながら、この挽歌を書きました。
改めて節子には感謝しています。
いつも私を支えてくれる存在でした。

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2009/03/07

■節子への挽歌552:鎌倉五山のお線香

節子
鎌倉の宮澤さんから、温古堂のお線香が送られてきました。

宮澤さんは私たちより一回り年上の3人組の仲間の一人でした。
そこに、なぜか私も入っていましたが、私以外は実に個性的な3人でした。

一人は大の飛行機好きの稲村さんです。
人力飛行機を実現したいという相談を受けたのが付き合いの始まりでした。
飛行機の夢を追いすぎてしまい、いささか失意の晩年でしたが、最後までお元気で自称万年青年を絵に描いたような人でした。
湯島にもよく来てくれましたので、節子も何回も会ったことがありましたね。
館山に転居された後、なかなか会う機会がないまま、ある日、息子さんから突然の訃報が届きました。
稲村さんの夢は叶えませんでしたが、ある意味では夢を追い続けた幸せな人でした。
稲村さんのおかげで、私もいろいろな体験をしました。
M資金(といっても今では知る人も少ないでしょうが)関係らしき人にも引き合わせられましたし、渋沢栄一さんのひ孫とも知り合いになりました。

もう一人は、これも昔の人ですが、森繁久弥さんのヨットの船長をやっていた鈴木さんです。
私が出会った頃は某銀行の調査部長でしたが、話が壮大で夢か幻かの話が多かった人です。
ある研究会でお会いしましたが、なぜか付き合いが始まってしまいました。
企業の枠を超えた人で、その後、外資系銀行の社長をやっていましたが、ともかく破天荒な人なので、なかなかついていけませんでした。

稲村さんを鈴木さんに紹介したお返しに、鈴木さんが紹介してくれたのが宮澤さんでした。
宮澤さんは上場企業の社長でしたが、私が知り合った頃はもうほぼ引退されていました。
これまた常人の枠を超えた人で、大企業の社長をやっていたとは思えない、人間的な人でした。
2回ほど、正月に湯島に酒を持ち込んで、4人で新年会をやりました。
飲めない私は、3人の大言壮語を聞くだけでしたが。
残念ながら、そこで語られていた大構想はいずれも夢のままになってしまいました。
コムケアの集まりにも3人で応援に来てくれました。
私の知り合いの中では、もっとも時代をはみ出した人たちでした。

その宮澤さんから、思いもかけず線香が届きました。
鎌倉の温古堂が創業135周年を記念してつくった「鎌倉五山」です。
早速、節子に供えさせてもらいました。
ちょっとシナモンを感じさせる、今までにない香りでした。

これまでもいろいろな方からお線香をいただきましたが、香りは場所を思い出させます。
高野霊香は火をつけなくても高野山のイメージが広がります。
節子と一緒に宿坊で一泊し、真っ暗なお堂で市川覚峯さんに護摩をたいてもらった記憶が浮かんできます。
どなたから送ってもらったかわからなくなってしまったのですが、法隆寺の線香もあります。
法隆寺は、節子とは何回か行きましたが、もう一度行きたかったお寺です。

節子との最後の旅行になった東尋坊近くの吉崎坊で、たしか節子はお線香を買っていたはずです。
それもどこかにまだあるでしょう。
これまではどこのお線香かなど気にせずに供えていましたが、お線香もそれぞれに節子の思いがつながっていることに、今日、やっと気づきました。
鎌倉五山は、節子とは一度しか歩きませんでしたが、建長寺で永六輔さんを見かけた思い出があります。

久しぶりに電話でお話した宮澤さんはお元気そうでした。
「鈴木さんから、佐藤さん夫婦はとても仲が良いといつも聞かされていた。仲が良かったぶん、さびしさも大きいでしょうね」といわれました。
そうなのです。
地球の重さよりも大きいさびしさに今もつぶされそうです。

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2009/03/06

■節子への挽歌551:記憶は脳と環境の相互作用

節子
朝から雨です。
節子がいなくなってからのことですが、雨の日は胸が痛みます。
痛むというか、とても不安になるのです。
節子に抱きしめてほしい気がします。

そういえば、昨年、福岡の篠栗大日寺に行った時も雨でした。
今日の雨は、あの時を思い出させるような雨です。
あの日、祈祷師の庄崎さんが彼岸にいる節子との橋渡しをしてくれました。
その時の会話がボイスレコーダーに入ったままです。
娘たちに聴かせようと思って録音してきたのですが、なぜか1年近くたちますが、私自身が聴く気になれません。
娘たちも聴きたいとはいいません。
いまもそのレコーダーが目の前に転がっていますが、どうも気が向きません。

家の所々に、節子のものがまだあります。
娘が、時々、片付けようかというのですが、その気になれません。
片付けてしまうと、節子までいなくなってしまうような気がしているのかもしれません。
止まったままの時間の中にいつまでも居続けることは出来ないのかもしれませんが、居続けられるのかもしれないと最近思うようになりました。

ある場所への道順を言葉では説明できないのに、実際にそこにいくと自然に目的地に向かって行けてしまうということはよくあります。
記憶を誘ってくれるものがあれば思い出せなかったことも思い出せるということです。
認知症予防の一つの処方として回想法なるものもあります。
記憶の世界は奥が深く、無意識や前意識など、さまざまな層で構成されているようです。
そして、記憶というのは各人の脳の中で完結しているのではなく、脳と環境の相互作用の中にあるとも言われます。
生命体はすべて文節化されずにつながっているというゾーエの概念に重ねて言えば、記憶もまた本来は分節化されずにつながっているのかもしれません。
しかも時間軸を超えて、すべてが存在しているわけです。
空海の虚空蔵やシュタイナーのアカシックレコードは、そのことを示唆しているのかもしれません。
こんな言い方をすると、いささか非論理的に聞こえるかもしれませんが、三次元的な(あるいは時間軸もいれて四次元的といってもいいですが)感覚では形象化できない記憶が個人の脳の内部で完結していると考えるほうがおかしいでしょう。
脳は、脳外のものやこととふれることで実体化するのです。
だとしたら、節子のものをそのまま残しておくことの意味はあります。

雨や青空もそうです。
すべての環境が節子との記憶を想起させるのは、当然のことでしょう。
彼岸にいる節子ともまた、そうした環境を介して、つながっているのです。
雨を見ながら、ついついそんなことを考えてしまいました。

実はこの2週間、ちょっと時間破産しています。
そんなことを考えている余裕はないのですが、雨を見ていたら、そんなことを思い出してしまいました。
さて、また仕事に戻りましょう。
まあ節子と話すことに比べたら、取るに足らない仕事ではあるのですが。

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2009/03/05

■節子への挽歌550:大阪から浜口さんが献花に来てくれました

節子
今日は大阪から浜口さんが、我孫子のわが家まで献花に来てくれました。
浜口さんには節子は会っていませんが、名前は知っていますね。
サイモントン療法を教えてくれた人です。

あれから間もなく2年です。

しかし人の縁とは不思議なものです。
おそらくオープンサロンで節子に何回も会っているにもかかわらず、一言も弔意を伝えてこない人がいる一方で、会ってもいないのにわざわざ自宅にまで献花に来てくれる人がいるのです。

私が会社を辞めた時もそうでした。
仕事だけで付き合っていた人は、会社を辞めた途端に疎遠になりました。
その一方で、たった15分しか立ち話しなかった人がオフィスを開いたときにやってきてくれました。
その時に、人間というものをかなり理解したように思いましたが、節子がいなくなってから、改めて人のやさしさやかなしさを知りました。
節子がいなくなった後、付き合いが途絶えた「私の友人」もいるのですが、それもとても不思議です。
付き合いが途絶えたとか、弔意が伝わってこなかったとかを問題にしているのではなく、その不思議さに気づいたということですので、誤解しないでください。
節子がいなくなったら途絶えてしまった付き合い、節子がいなくなったのに、節子がつなげてくれて始まった付き合い、人のつながりは本当に不思議です。

話がそれましたが、浜口さんはまだ20代の若者です。
好奇心が旺盛で、さまざまな知識が頭に充満しています。
それも単なる「知識」ではなく、実際の行動で体感している知識なのです。
話していると教えられることが少なくありません。
がん治療に関する話題も出ました。
節子は聴いていたでしょうか。

もう少し早く浜口さんに会っていたら、なにかが変わっていたかもしれません。
そう思うと気持ちが沈んでしまい、浜口さんと話すのが辛くなってきてしまいました。
がんの話になると、いまだに精神が揺れてしまいます。
困ったものです。

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2009/03/04

■節子への挽歌549:久しぶりに東尋坊の茂さんに会いました

節子
東尋坊の茂さんと川越さんが湯島に来ました。
茂さんは最近、テレビなどで引っ張りだこなのですが、東尋坊で自殺防止のための見回り活動をしています。
茂さんの声かけで、たくさんの人が救われています。
昨今の経済状況の中で、茂さんはますます大忙しのようです。

その茂さんから昨年末に、こんな活動をしたいと思っていると「夢」が送られてきました。
普通なら、それで終わる話です。
この挽歌にも書いた記憶がありますが、節子と一緒の最後の遠出の旅は、福井と滋賀の旅でした。
足を伸ばして東尋坊に立ち寄った時に、茂さんにお会いしたのです。
そんなことがあったので、茂さんの夢は見過ごすわけにはいかないような気がしました。
それで、茂さんの夢を実現するための構想を起案し、関係者で会ってみることにしたのです。
茂さんと一緒に活動している川越さんやライフリンクで知り合った福山さんも一緒です。
南紀白浜で同じような活動に取り組んでいる藤藪さんも参加してくれました。
新しいプロジェクトがスタートできそうです。

私自身は、このプロジェクトに参加するつもりは全くなかったのですが、茂さんとメールや電話をしているうちに、なんとなく当事者の一人になってしまっていたのですが、その理由の一つは節子です。
茂さんと話していると、いつも隣に節子が居るような気がするのです。

節子と一緒に見た、東尋坊の美しさは、今もなお忘れられません。
私たちに「生きる力」を与えてくれたのです。
その夜は、芦原温泉に宿泊しましたが、体調が良くなかったにも関わらず、節子は温泉手形を使って隣のホテルの温泉にまで出かけました。
その時の、節子のことを思うと、やはり涙が出てきます。
隣のホテルの温泉に行こうと、節子が言い出したのです。
私よりも、同行した節子の姉夫婦よりも、節子は元気だったのです。
いや元気を装っていたのです。
そんな健気な節子が、私にはいつも誇りでした。

私が、節子に惚れ直したことは、発病以来、何度もありました。
私には、できすぎた女房でした。
死と闘っていた節子のことを思うと、当時、私には自殺するような人は許せませんでした。
しかし、いまは違います。
茂さんがいつも言うように、みんな生きつづけたいのです。
それを打ち破る理由がどこかにあるのです。
病気も恨めしいですが、人を自死に追いやる社会も恨めしいです。

茂さんの夢は実現されなければなりません。
いつかまた、その構想や動きはホームページ(CWSコモンズ)のほうで報告させてもらいます。
今回は、節子への報告です。

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2009/03/03

■節子への挽歌548:個人の体験は他の人には理解できない

昨日も書いたように、個人の体験は、きわめて個人的なものであり、言葉にはしにくいものです。
おそらくこの挽歌を客観的に読むと、支離滅裂で、気持ちが乱高下しているように感じるでしょう。
私自身、言葉にしてしまうとちょっと違うなと思うこともあります。
できるだけ思いつくままに書くように心がけていますが、
書いているうちに、何を書こうとしたかったのかもわからなくなることもあります。

ところで、「個人の体験はきわめて個人的だ」と書いていて、気づいたことがあります。
節子の体験は節子のものであり、私にもわかっていなかったのではないかということです。
節子の悲しみ、節子のつらさ、節子の幸せ、節子のさびしさ、それは私にはわかりようのないものです。
しかし、なんとなくそれがわかっているような気になっていたのではないか。
そんな気がしてきたのです。
まあ、冷静に考えれば、当然のことなのですが。

他の人の立場になるという姿勢が一番問題なのは、自分の価値観で相手の思いを読み替えてしまうことです。
福祉の世界で、よく起きる悲劇がそこにあります。
とりわけ自己主張しにくい子供たちや高齢者、あるいは障害を持つ人たちは、意識的にせよ無意識にせよ、自らの思いを抑制する傾向があります。
そうした相手の思いを「わかった」ように思うことは、第三者的に見ているとわかるのですが、自分が当事者になってしまうと見えなくなりがちです。
節子との闘病生活の中で、私は節子からそのことをたくさん教えてもらっていたはずですが、それを自覚できたのは節子を見送ってから1年ほどたってからです。
今でも、思い上がっていた自分に、時々、気づいて、呆然とします。

私がこの挽歌を書き続けているのは自分のためなのです。
当初は、自分の鎮魂のためでしたが、最近は書かずにはいられないという贖罪の意識もあります。
こんな挽歌を書いていても、節子は喜ばないかもしれません。
その程度の自覚は私にもあるのですが、どこかに自分だけが節子のことを一番よく知っているという気持ちがあることも事実です。
それがなくなってしまうと、私の支えは瓦解し、この状況を続けられなくなるかもしれません。
まあ、そんなわけで、まだまだ挽歌は書き続けるつもりです。

今日もまた、何を書こうとしていたのかわからなくなりましたが、
要は、個人の体験は他の人には理解できない、ただひとつの体験だということを書きたかったのです。
私の体験と節子の体験も、またそれぞれに違っていたということを受け入れるのは、私にはかなりつらいことだったのですが。
節子が、どう思っていたか、最近少し気になりだしています。

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2009/03/02

■節子への挽歌547:時間がたつと悲しみの感情は薄れるか

昨日、「時間がたつと遺族の被害感情は薄れる」というタイトルで司法時評を書いたのですが、これを書いたときの気持ちは、むしろ挽歌編を書くときに気持ちでした。
そこにも書いたのですが、愛する人を失った場合、「時間が癒してくれる」などということは決してないのです。
節子を見送って明日で1年半ですが、節子に関していえば、時間さえ止まっているのです。
「時間が忘れさせてくれる」などという人さえいましたが、「忘れること」が一番に避けたいことであることなど、そういう人には思いもよらないことなのでしょう。
昨日、飯島愛さんの「お別れの会」の様子がテレビで放映されていましたが、そこで大竹しのぶさんが「今日はお別れの会となっているけれど、私はお別れなどしないから大丈夫だよ」というようなことを話していました。
まったくその通りなのです。
「言葉」はとても難しいです。

私も節子との別れを体験するまでは、「相手の立場に立って考え行動すること」が大事だとずっと思ってきました。
さまざまなNPO活動に関わらせてもらうときの、それが基本姿勢でした。
いつも、同じ目線で同じ世界で考えたいと思ってきました。
しかし、そんなことが出来ると思うことの傲慢さを、最近は痛感しています。
もちろん「相手の立場に立って考え行動すること」は重要なことですし、今もそういう姿勢を基本にしています。
しかし同時に、決して相手の深い思いにはたどりつけないことを意識しておくことに心がけられるようになりました。
そう思うことで、実は相手のことが今まで以上にわかるような気がしてきました。
同時に、私のことを気遣ってくれる人たちのこともわかるようになってきました。

正直に言えば、以前は、「時間が癒してくれる」などといわれると腹が立ちました。
当事者でもないのに、わかったようなことを言ってほしくないとついつい反発してしまったのです。
実は、そうして「反発」してしまうことこそ、相手と同じく、相手の気持ちや思いを無視していることだと1年ほどたって気がついたのです。
それに関しては、すでに挽歌のどこかで書いたつもりです。

妻を失ってホッとしている人もいるでしょうし、妻の後を追いたいと思っている人もいるでしょう。
まさに同じ現象に見えても、人によってその意味合いは全く別個のものです。
そうしたさまざまな人の思いを、自分の思いで受け止めてしまうことで、世界は見えなくなってしまうものだということを実感したのです。
個人の体験は、きわめて個人的なものであり、言葉にはしにくいものです。
しかし、時間がたてば消えるような悲しみは、悲しみではないのです。
節子を失った悲しみは、私にとっては「初めての悲しみ」だったのだと、最近ようやく気づきました。
そして「悲しみ」を体験すると、人はやっと人の「悲しみ」もわかるものだと気づかされました。
できれば「悲しみ」など体験したくなかったのですが。

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2009/03/01

■節子への挽歌546:どこが間違っていたのだろうか

久しぶりに真夜中に目が覚めて、眠れなくなりました。
以前はそれが毎日のように続きましたが、最近は月に1~2回程度です。
しかし、時に突然ひとつの問いが頭にうかびます。
「どこが間違っていたのだろうか」
その問いを意識すると、それから頭が冴えてしまって眠れなくなります。
昨夜がそうでした。
目が覚めて、また寝ようとしたら、その問いかけに襲われてしまったのです。

節子をなぜ治してやれなかったのだろうか。
治すと約束していたではないか。
節子は、その私の約束を信じていたはずです。
しかし私は、その約束を果たすために全力を注がなかったのです。
注いでいれば、節子は治ったはずですから。
私の取り組みのどこかに「間違い」があったのです。
いやもしかしたら、発病の前に、私の「間違い」があったのかもしれません。
そう思って考え出すと、たくさんの分岐点に気づきます。
その時々の私の取り組み方は、今から思えば決して誠実ではなかったのです。
私としては、自分がそうなったら取り組むであろう以上のことはしたつもりですが、それはなんの慰めにもなりません。
私にとっては、私自身の不在よりも、節子の不在のほうが、辛いことなのですから、それは当然のことです。

「どこが間違っていたのだろうか」
この問いに対する答えは、山のようにあります。
その答の山が、私の平常心を崩し、後悔の念を引き起こします。
それに対しての言い訳は何の役にもたちません。
頭の中がどんどんと白くなり、広がっていくのを、ただじっと耐えることしか出来ません。

人生には誰しも間違いはあるでしょう。
しかし間違ってはいけないことを間違えてはいけません。
それを犯してしまった罪悪感は拭いようもありません。
ただシジフォスのように、繰り返し責め苦に耐えるだけなのです。

救いは、おそらく節子もまた、私と一緒に、その責め苦に耐えていることです。
だから私も耐えられるのですが。

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2009/02/28

■節子への挽歌545:愛と執着

前にも書いたE.フロムは、「愛」と「執着」とは違うといいます。

フロムは、愛というものは、「人間のなかに潜むもやもやしたもの」であり、それがさまざまな形で表出すると考えます。
対象によって引き起こされるものではなく、自らから溢れ出るものだと考えるのです。
ですから人は、さまざまなものを愛することが出来ます。
たまたま現在の日本のような一夫一妻文化の中では、複数の異性とは夫婦になることはできませんが、それは「愛」の話ではなく「制度」の話です。
そうした考えからフロムは、「ただ一人にだけ向けられた愛が、排他的なものになってしまえば、それは愛ではなく、執着である」といいます。

挽歌を書き続けている私は、フロムからみると、愛ではなく執着ではないかと思われそうな気もします。
しかし、冒頭に書いたように、節子と私は決して「執着し合う関係」ではなく、正真正銘「愛し合う関係」でした。
それぞれの相手だけではなく、自らのなかにある「もやもやした愛」をさまざまなものに向けてきました。
浮気とかそんな話ではないことはわかってもらえると思いますが、相互に愛し合う関係が閉じられてしまうと、その関係は深まりもせず豊かにもなりません。
節子と私は、お互いにそのことをよく知っていました。

節子がいなくなった後、私はどうなったでしょうか。
私のなかにある「もやもやした愛」が、一番の行き場をなくして、他のところに向かったでしょうか。
そうはなっていないのです。
節子がいなくなってから、「もやもやした愛」の全体量とその動きが低下したような気がします。
あまり的確なたとえではないのですが、ドライアイスを水に入れると白い蒸気が容器から溢れるように盛り上がってきますが、その状況で、水の中のドライアイスがなくなってしまったような感じなのです。
なにか頼りなく、消えるような不安があります。
最近、持続力がないと何回か書きましたが、それはこういうことなのです。

もちろん、新たなものを愛することができないというわけではありません。
いまでも節子がいた頃と同じく、人を見ると愛したくなり、事物に接すると愛したくなります。
もっとも、私の愛とは、「この人、このことのために何かできることはないか」という程度のものなのですが、その思いがなかなか持続し、行動につながらなくなってきてしまったのです。

私の「愛」は、実は節子の「愛」とのつながりのなかで、「創発」されていたのではないか。
最近、そんな気がしてきました。
「半身を削がれる」ということは、そういうことなのかもしれません。
もしフロムのいう「もやもやした愛」が、人の生きる力の源泉であるとすれば、私のそれはかなりの部分、節子と一緒に彼岸に吸い込まれてしまったようです。
「もやもやした愛」がなくなってくると、人生はあまり面白いものではなくなってきます。
どうしたらこの流れを反転できるでしょうか。
まあ、そのうちきっと反転するでしょう。
もし私にまだ彼岸に行くまでの時間がかなりあれば、ですが。

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2009/02/27

■節子への挽歌544:節子に言えば何とかなるだろう

節子
山のように「やらなければならないこと」が溜まっています。
今日は、それをこなそうと外出をやめ、取り組みだそうとしたのですが、もう半日過ぎたのに、ほとんど「やるべきことの山」は減っていません。
何もやっていなかったわけではなく、一応、パソコンには向かっていたのですが、まあ「急がなくてもいい」「やらなくてもいい」ことばかりやっていたのです。
やらなければいけないことが増えるほどに、やらなくてもいいことに気が向いてしまうのは、私の性格です。
まあ言ってしまえば、「逃げるタイプ」なのでしょう。
もう間に合わないぞ、というくらいまで、自分を追い込まないと「やらなければいけない」ことに着手できないのです。
困ったものですが、この性格は直りません。

節子は、反対でした。
まず「やらなければいけないこと」からはじめ、それも「できる時にやってしまっておく」という姿勢でした。
もっとも、それは建前でしたので、私から見れば、必ずしもそうではないような気もしますが、節子はいつもそう言っていました。
「今日やれることは今日やる」節子と、「明日でもいいことは今日はやらない」私とは、そのライフスタイルはまったく違いましたが、まあそれぞれに自分側に引きづり込もうと相互に働きかけあっていました。
しかし、節子がいない今、私は目いっぱい、ぎりぎりまで延ばします。
度胸があれば平然と延ばすのでしょうが、気が小さいので、大丈夫かな、やらないとだめだなとストレスをためながら延ばしているわけです。

不思議なのですが、それをストレスと感じ出したのは、この1年です。
節子がいた頃は、ストレスにはなっていなかったのです。
たぶんいざとなったら「節子」に言えば何とかなると思っていたのです。
もちろん節子に「何とかできる」はずなどありません。
節子とはまったく無縁な仕事が多かったからです。
でも不思議なことに、そう思えるのが伴侶なのです。
さて、こんなことを書いているよりも、仕事をしなければいけません。

それにしてもやることがたくさんありすぎて、やる気が起きません。
節子がいたら、一緒にお茶など飲んで、やる気を出してもらえるのですが。

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2009/02/26

■節子への挽歌543:「場所なき人々」

伴侶を失うことの最大の辛さは、自らの拠り所の喪失かもしれません。
それは、とりもなおさず、自らの居場所に関わってきます。

最近、「場所なき人々」(displaced persons)が増えています。
世界的にいえば、いわゆる「難民」の増加ですが、国内でも増加の一途です。
一見、しっかりした居場所を持っているように見えても、それがとてももろいものであることが最近見えてきました。
大企業に属していても、いつ職場を追い出されるかわかりません。
職場を追い出されても、家庭があればそこに戻れましたが、そこからも追い出されることさえ起こっています。
こうした現象は、決して他人事でないことを最近痛感しています。

居場所とは必ずしも「物理的空間」を意味しません。
精神の拠り所もまた、居場所に深く関わっています。
場所を失った人にとっての最大の辛さは、「住み慣れた場所で親しい人々の間で暮らすことを否定されること」(齋藤純一)なのです。

私にとっての「住み慣れた場所」は、わが家であり、そこを中心とした地域社会です。
幸いに、私はいまもその住居に娘たちと住んでいます。
これ以上の贅沢はいえたものではないでしょう。
私にとっては、とても暮らしやすく好きな住まいです。
しかし、節子がいなくなってから、そのお気に入りの住まいがどうも違うのです。
何かが欠けているのです。

最近、齋藤純一さんの「政治と複数性」という本を読みました。
「公共性」に関する本なのですが、私の生き方を振り返る意味でとても親しみの持てる本でした。
上述の、「住み慣れた場所で親しい人々の間で暮らすことを否定されること」という言葉は、その本で出会った言葉です。
その箇所を読んだ時、私もまた「場所を剥奪された」のではないかと感じました。
それ以来、ずっと気になっています。

今日、友人がやってきました。
彼の高齢の義母が骨折し、生活が不自由になってしまったのだそうです。
そのため、子どもの誰かが同居して世話するか、施設に入れるかで、子どもたちが話し合っているという話が出ました。
話しながら、何となく「場所なき人々」の話を思い出しました。
人は、歳をとり、いつか「居場所」を失うのでしょうか。

節子は、最後まで「住み慣れた場所で親しい人々の間で暮らすこと」ができました。
しかも、その住み慣れた場所の中心にいたのです。
私には、そのことがとてもうれしいです。
しかし、私自身には、それは果たせぬ夢になってしまいました。

愛する人のいない住み慣れた場所は、時に辛い場所にもなるのです。

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2009/02/25

■節子への挽歌542:「死者を忘れてはいけない」

節子
今年のアカデミー賞で、『おくりびと』が外国語映画賞を受賞しました。
またつい先日には、直木賞では『悼む人』の受賞が話題になりました。
この世界には造詣の深い佐久間さんから、お話をお聞きしていたのですが、まだ観る気にも読む気にもなれずにいます。
とりあげるつもりはなかったのですが、いまこの時期に、この2つの作品が、これほど話題になるのは、もしかしたら何かのメッセージがあるのではないかという気がちょっとしてきました。

『おくりびと』の映像の一部を最初に見たのも、今から思えば衝撃的な事件でした。
1年ほど前に、箱根の合宿に参加した時のことです。
箱根は節子との思い出が多すぎて、会場のホテルに行くのがやっとでした。
でも、長年引き受けている仕事でしたので、休むわけにはいかなかったのです、
部屋に入って、節子のことを思いながら、無意識にテレビをつけました。
そうしたら、まさに「納棺」の場面が飛び込んできたのです。
映画の話は知っていたので、すぐわかったのですが、あわてて切りましたが、私にとっては衝撃的な出来事でした。
そのことがあったため、『おくりびと』という言葉を聞いただけで、実は心がどきどきしてしまうようになってしまいました。

『悼む人』に関しては、佐久間さんが雑誌に寄稿した感想を送ってきてくれました。
それを読んで、読めそうだと思いました。
佐久間さんは、自分が常日頃から考え続けていることがこの小説に書かれていると書いています。
それは、「死者を忘れてはいけない」ということだそうです。
そうであれば、読めるどころか、読みたい気もします。
しかし、この小説もまだ読めていません。
本の装丁に大きな抵抗があり、アマゾンでも申し込めなかったのです。
装丁が悪いといっているのではありません。
なぜかすごくリアルな感じが伝わりすぎて、ドキドキしてくるのです。
この本は部屋には置けそうもありません。

そんなわけで、私はどうも世間の動きについていけずにいます。
佐久間さんには、まだだめですかと笑われそうですが、だめなのです。
しかし、「死者を忘れてはいけない」という言葉は、私の心にずっと残っています。
私にとって、節子は忘れようもありませんが、それは節子がいまでも私にとっては「死者」ではないからです。
でもその一方で、節子に関して、「死者は忘れられていく」という悲しさも感じます。
とても矛盾しているのですが、それが正直な私の気持ちなのです。
「愛するひと」との別れは、なかなか乗り超えられないのです。

この2つの作品が話題になっていることは、私へのエールなのでしょうか。

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2009/02/24

■節子への挽歌541:白洲正子さんの十一面観音巡礼

節子
一昨日のETV特集は「もう一度会いたかった ~多田富雄、白洲正子の能を書く~」でした。
うっかり忘れてしまっており、最後の30分ほどしか見られませんでした。
それでも、多田さんの思いは伝わってきましたし、いろいろと考えさせられることがありました。
番組中、とても印象になる「言葉」がありました。
それをテーマに、昨日、挽歌を書こうと思っていたのですが、朝、目が覚めて、さて書こうと思ったら、その「言葉」が出てこないのです。
それで、昨日は違う話を書いたのですが、今日になっても思い出せません。
どうも最近は、記憶が危うくなってきています。
もしかしたら、昨日番組を見ていた時に、私もまた幽界を漂っていたのかもしれません。
そんな感じもする30分でした。

番組の最後は、多田さんの新作能「花供養」のダイジェストでした。
昨年12月に白州正子没後10年の節目に、一夜限りで上演された「花供養」は、多田さんは、死者である白洲正子さんに「再会」したいという願いを込めた作品だそうです。

白洲正子さんの名前は、私にとっては、実は節子とつながっているのです。
学生時代から愛読していた雑誌のひとつが、「芸術新潮」でした。
白洲さんは同誌に「十一面観音巡礼」を連載していました。
実は、それにまつわる私の記憶がかなりおかしいのです。
私には、時間が乱気流しているような気がしてなりません。

以前も書きましたが、私は奈良の佐保路が好きでしたが、その起点が法華寺でした。
そこの十一面観音が、私が十一面観音を意識した最初ですが、そこに行ったきっかけは白洲さんの連載記事だったように記憶しています。
そして行き着いたのが渡岸寺の十一面観音。その近くで育った節子。

私が十一面観音に魅せられだしたのは、白州さんのこの連載でした。
白洲さんの文章を読んでいると、観音像ではなく、観音が生きている世界が伝わってきます。
一緒に巡礼した気分になれるのです。
しかもそこには時間や空間を超えた物語が詰まっています。
十一面観音の始まりを知ったのも、若狭のお水送りを知ったのも、この連載でした。

と、実はずっと思い込んでいました。
いえ、いまもそう確信しているのです。
佐保路を節子と歩いた時にも、その話をした記憶があります。
ところが、白洲さんが芸術新潮に「十一面観音巡礼」を連載していたのは、後に出版された本によると、1974年になっています。
私の記憶とちょうど10年、差があるのです。
このことに気づいたのは、節子がいなくなってからです。
ですから佐保路での会話は確認のしようがありません。
どうでもいいような話なのですが、私にとっては実に不思議な話で、もしかしたらそこだけ時間がひずんでいるのではないかと思えてなりません。

多田さんは「花供養」で白洲さんに「再会」したでしょう。
とてもうらやましいです。
私はどうしたら節子に「再会」できるでしょうか。
十一面観音巡礼と白洲正子さんが創りだす時空間のひずみがもう一度発生して、どこかでまた「生身」の節子と会えないものでしょうか。
今度、花屋さんで白椿を見つけたら、それをわが家の大日如来に供えて、時空間のひずみを念じてみようと思っています。
白洲正子さんは、白椿の精といわれているそうですので。

ちなみに、節子と出会ってから法華寺の十一面観音には一度しかお会いしていません。
節子と一緒に行ったはずですが、その記憶も全くありません。
これも私には不思議なことなのです。

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2009/02/23

■節子への挽歌540:リモージュでの節子

昨日書いた雑誌「ミセス」には、論文の紹介に併せて、
浜美枝さんの「ローマ、パリ、リモージュ、テーブルセッティング体験旅行」という記事が掲載されていました。
改めて読んでみました。
文中には、同行した受賞者の発言も紹介されていますが、浜さんらしく、全員を少しずつ登場させています。

節子の言葉は、あんまり知性を感じさせませんが、こんな内容です。
テーブルセッティングに用意されたキャンドルを見て、
「紺色のキャンドルなんて、ブルーの灯がともりそう」
また講習会の感想を言い合っている時に、「みんな雰囲気を楽しんでいるのね。ミラノの、フルコースで料理が24種類も出てきたレストランの食事が楽しかったこと、店中にユーモアがあふれて・・・」と同行の杉山さんと話しているのが紹介されています。
いずれもいかにも節子らしい発言です。
写真も何枚か掲載されています。
20年ほど前ですから、みんなまだ若いです。
朝市で、みんなが露店で買い物をしている写真もありました。
節子が、たぶん一番好きな時間だったでしょう。

浜さんの記事から想像するに、このツアーはかなり贅沢な旅行だったようです。
記事には、リモージュのレイノー家に招待されての昼食の様子が書かれていますが、そういえば、節子はレイノー家のご夫妻からのお土産といって、リモージュ焼きのお皿をもらってきたのを思い出しました。
わが家のどこかにあるはずです。とてもきれいな小皿でした。

この旅行は、節子にとっては非日常的な旅行だったのだろうと思います。
私たちは、個人的にはいつも質素な旅行でしたから。
その旅行の話をあまりシェアしなかったことは、いまさら後悔しても仕方がありませんが、夫婦といえども別々の体験の喜びはなかなかシェアできないものです。
むしろ一緒に旅行したみなさんのほうが、私よりもシェアしていることは間違いありません。
昨年の節子の一周期には、みなさんがわが家まで来てくれましたが、その気持ちが浜さんの文章を読んでいて、少しわかったような気がしました。

浜さんは、以前、箱根でレストランを開いていました。
節子は何回か友だちと行っていますが、私は残念ながら体験できませんでした。
一度、思い立って急に節子と箱根に行ったときに、レストランまでは行ったのですが、予約していなかったのでだめでした。
あの時、もし節子と食事をしていたら、もっともっとこのヨーロッパの旅の話を聞けたかもしれません。

夫婦は、お互いにすべてを知っているようで、知らないことがたくさんあるものです。
雑誌に載っている節子の写真をみながら、節子と喜怒哀楽を共有しだしたのは、もしかしたら私が会社を辞めてからだったかもしれないと思いました。

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2009/02/22

■節子への挽歌539:「あなたのためのディナー」の日

海外旅行編をもう一度だけ書きます。
節子は、私とは別にちょっと贅沢なヨーロッパ旅行をしたことがあります。
しかし、これもまた懸賞論文のおかげなのです。
ハワイの旅行がとても良かったのか、今度はハウス食品の懸賞論文に投稿したのです。
それもなぜか入選し、5人の入選者がヨーロッパの食文化旅行に招待されたのです。
入選者の他に、浜美枝さんが同行されました。
このときの入選者たちとは、その後もお付き合いがあり、節子の一周忌にもみんなでわが家まで来てくれました。
この挽歌にも何回か登場しています。

それを改めてまた書いたのは、その時の節子の作品が掲載された雑誌が出てきたからです。
「ミセス」の昭和58年11月号です。
ホームページの方に掲載しました。
よかったら読んでください。
次をクリックするとでてきます。
「あなたのためのディナーの日」
私も完成品をきちんと読むのは今回が初めてかもしれません。
わが家が一番賑やかだった頃の話です。
当時はたぶんまだ私は勤めていた会社の仕事にのめりこんでいて、終電車に乗り遅れて深夜に帰宅したりしていたこともあった頃です。
いろいろと思うことがありすぎて、何も書けませんが。
節子のあたたかさが思い出されて、感傷に浸ってしまいそうです。
節子への感謝の気持ちが改めて強くなりました。

その時の旅行で、節子が一番気に行ったところが、どうやらフィレンツェです。
残念ながら私はフィレンツェに行ったことがないのですが、節子はその後、フィレンツェの油絵を描きました。
それがわが家の玄関を今も飾っているのです。

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2009/02/21

■節子への挽歌538:エジプト家族旅行

海外旅行編の2回目です。
私は47歳で会社を辞めました。
会社生活は面白かったのですが、会社のあり方にいささかの疑問を感じていたのです。
そして当時も私の生活信条だった「自分に正直に、自分らしい生き方」を目指して、辞めてしまいました。
ところが、早期退職制度が適用されたため、予想以上に退職金をもらえました。
わが家にはそれまで縁のなかったまとまったお金が入ってきました。
そこで決行されたのが、エジプト家族旅行です。
家族の迷惑など一切考えずに、私が決めてしまいました。
みんなとても迷惑したようで、後々まで娘からは非難され続けています。
無理やり会社を1週間以上休ませてしまったからです。

しかしエジプト旅行はいい旅でした。
そのガイド役がホームページ(CWSコモンズ)に時々出てくる中野正道さんです。
中野さんの案内はとても楽しいもので、遺跡には興味のない節子も楽しんでいました。
いつかもう一度エジプトに一緒に行こうという、節子との約束は実現できませんでしたが。

エジプト旅行で知り合った人に金沢の八田さんご夫妻がいました。
帰国後、節子と2人で金沢まで会いに行きました。
旅行で知り合った人との付き合いも、節子が好きなことの一つでした。
しかし、その八田さんたちももう彼岸に行ってしまいました。
節子と再会していることでしょう。

旅行中、娘たちが一緒だったにも関わらず、2回、夫婦喧嘩をしてしまいました。
その頃は、まだ私は自分本位のわがままな自信家だったのです。
私が今のように、少しだけ周りの世界が見えるようになったのは、会社を辞めてから節子と過ごす時間が増えたおかげです。

寝室にスフィンクスを後ろにして撮った家族の写真があります。
その頃の節子は、まだぽっちゃりと太っていました。
それにまだ幼ささえ残っています。
もしかしたら、節子が苦労しだしたのは、その後、つまり私が会社を辞めて自由気儘な生活に節子を引きずりこんでからかもしれません。
写真を見ていると、当時のことが思い出されてきます。
古代エジプトといえば、蘇生信仰の文化です。
オリシスのように、節子も蘇生してこないものでしょうか。

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2009/02/20

■節子への挽歌537:ハワイのキラウェア火山

海外旅行の話が出たので、テーマを少しそれに移します。
あまり行けませんでしたが、節子は海外旅行が好きでした。
私たちが最初に海外に旅行したのはハワイでした。
しかし新婚旅行でも個人旅行でもありませんでした。
何しろ私たち夫婦はお金にはあまり縁がなかったので、個人で海外などという発想がなかったのです。
にもかかわらず、なぜハワイに夫婦そろって旅行できたのか。
これは以前書いたような気もしますが、懸賞論文のおかげなのです。
日経サイエンスという雑誌で、科学技術に関するエッセーの募集がありました。
半分冗談で、出してみないかと誘ったのです。
節子は新聞への投書が好きでしたので、2人でそれぞれ出そうということになりました。
私は当時それなりに科学技術には関心がありましたので、すぐに書き上げましたが、科学技術など全く無縁の節子は数日かけて書き上げました。
お互いに読みあって、コメントしましたが、
節子のは中学生の作文のようなので、まあ入選するはずがないと思っていました。

数日後、雑誌の編集部から会社に電話がありました。
私への入選の知らせです。
節子も応募していたことも忘れて、自慢の電話を節子に入れました。
なんと節子にも入選の電話があったというのです。
しかも私よりも早く。
ちなみに、事務局はまさか私たちが夫婦だとは気づかなかったのだそうです。

そのご褒美がハワイにキラウェア火山を見に行くツアーだったのです。
10人のツアーでした。
私たち夫婦は例外的な存在でした。
ほかはみんなそれぞれ専門を持ったエンジニアでしたから。
メンバーで一番若かったのが、まだ高校生だった茂木健一郎さんでした。
最年長だったのが、杉本泰治さんです。
杉本さんは、節子の訃報を聞いて、すぐさまわが家まで来てくれました。

キラウェア火山のボルケーノハウスで宿泊しましたが、その夜、同行の中村東大教授のレクチャーがありました。とても豊かな旅でした。
最終日に観光があり、ポリネシアンセンターに行ったら、そこでぱったりと私の大学の同級生家族に会ったという思い出もあります。

まあこれが節子との海外旅行の始まりでした。
その時の溶岩のかけら(たしか「ペレの涙」と言いました)が、どこかに残っているはずです。
いつかその時の記録をきちんと整理しようといいながら、どこかに詰め込んだままです。
そういう点は、私も節子も似ていました

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2009/02/19

■節子への挽歌536:ロッキー山脈と三陸海岸

節子とは何回か海外旅行に行きました。
しかし、行き先はいつも私の好みで決めましたので、地中海の遺跡周りばかりでした。
エジプト、ギリシア、トルコ、イラン。
残念ながらそこでストップでしたが。

節子は、遺跡周りはそんなに好きではありませんでした。
崩れ落ちた廃墟を見て、何が楽しいのという感じでした。
私には廃墟から歴史の声が聞こえてくるのですが、節子はみんな同じ茶色のレンガよ、というのです。
たしかに、そういわれるとそうかもしれません。

節子もそれなりに楽しんではいましたが、本当はカナディアンロッキーやナイアガラのような、壮大な自然が、節子の好みだったのです。
地中海をひとわたり回ったら今度は私が付き合うよ、と節子には言っていましたが、結局、付き合うことはできませんでした。

病気になってから、三陸海岸に行こうと節子が行ったことがありますが、その時、なぜか私は行く気がしませんでした。
もちろん節子の体調もあったのですが、その旅行は実現できませんでした。
私はまた行けると思っていたのですが、節子はもしかしたら今行かないともう行けないと予感していたのかもしれません。
なんであの時行ってくれなかったのと節子から後で言われました。
しかしその言葉は私への恨みではありません。
修にはいろんなところに連れて行ってもらったというのが、病気になってからの節子の口癖でした。
本当は、私が連れて行ったのではなく、節子が私を連れて行ってくれたのですが。

連れて行く、連れられて行く。
今から思うと、私たちにとっては、それは同じことでした。
しかし、節子がいなくなってから1年半、私はどこにも旅行しなくなってしまいました。
次の旅行は、もしかしたら節子のいる彼岸かもしれません。
彼岸に行ったら、今度こそ節子に付き合って、ロッキー山脈とナイアガラ、そして三陸海岸に行こうと思います。

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2009/02/18

■節子への挽歌535:吉野家の牛丼

昨日に続いて、節子の希望をかなえてやらなかったことシリーズの2回目です。

節子は吉野家の牛丼を食べたいといっていましたが、ついに食べることができませんでした。
1回ならず、何回か吉野家の牛丼を食べてみたいといっていましたので、本当に食べたかったにちがいありません。
食べたらたぶんいろいろ酷評しただろうと思いますが、
今となっては、一度、食べに行けばよかったと悔いています。

わが家はみんな「グルメ」ではありませんが、それなりに料理にはうるさいのです。
よく言えば、主張があるということでしょうか。
悪く言えば、感謝の気持ちが薄いのかもしれません。
特に、節子はうるさいタイプでした。
自分の料理の腕は棚に上げて、いろいろと論評が好きでした。
ですから、有名なお店に行っても、わが家の家族はほとんどの場合、満足しません。
まあ、あんまり高いお店に行ったことがないからかもしれませんが、グルメ評判のお店も見掛け倒しのことが多いというのがわが家族の共通の意見と言っていいかもしれません。
吉野家の牛丼を食べに行きたいなどと言うのでは、味覚も危ないものだなどと思われそうですが、まあそうかもしれません。
しかし、食材に関する味覚はそれなりにしっかりしていると、みんな自負しています。
もちろん私もです。
それもまた節子の影響です。

牛丼ではないのですが、節子はすき焼きが好きでした。
結婚する前に節子の実家に挨拶に行った日の夕食はすき焼きでした。
今でも覚えていますが、飲み物はビールに加えて、コーラが用意されていました。
当時、私がコーラ好きだったことを節子は実家に伝えていて、両親がわざわざ用意してくれていたのです。
たぶん節子の実家がコーラを買ったのは、それが最初で最後だったかもしれません。
節子は両親から、コーラは歯を溶かすから飲まさないようにいわれていたそうです。
そのせいかどうか、コーラばかり飲んでいた私は、その後、コーラをやめました。
おかげで、歯は今でも溶けていません。

何だか、また無意味なことを書いてしまっていますが、吉野家のことでわかるように、節子はその時々の話題は体験しようというタイプだったのです。
東京の八重洲のミレナリオにもつき合わされましたし、新装した丸ビルにもつき合わされました。
私も好奇心が旺盛だと思っていますが、節子のそれに比べれば、底が浅いです。
なにしろ私のは知的な好奇心で、節子にいわせれば、頭だけで実がないからです。
そういう、時に辛らつなアドバイスをしてくれる節子がいないのが、とてもさびしいです。
最近、読書をするようになりましたが、実際に話題の現場にいくことがなくなりました。
やはり節子は私の世界を大きく広げてくれていたのです。

吉野家の話が、全く別の話になってしまいました。
ちなみに、最近、わが家ではすき焼きが少ないです。

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2009/02/17

■節子への挽歌534:実現できなかった節子の座卓

昨日、近くの材木屋さんの前を通ったら材木置き場がきれいに整理され、何もなくなっていました。ご主人はご高齢ですから、廃業するのかもしれません。
この材木屋さんにも、節子の思い出がひとつあります。

わが家を新築した時、節子は自然木でできた素朴な座卓をリビングにほしがっていました。
座卓というと、たとえば屋久杉でできた加工された座卓などをイメージしますが、節子がほしがっていたのはそうではなくて、大きな自然の材木の1枚ものに、ただ素朴な脚がついたものでした。
節子は、私と一緒で、コテコテした人工的な装飾や細工は好きではないのです。
しかし平板な機能的なものも好きではなく(ここが私と少し違います)、自然が自然に作りこんだ個性的な表情が大好きでした。
お金を出せばそういうものも買えたのですが、新築当初、わが家にはお金がありませんでしたので、あまり高価なものは手が出ませんでした。
限られた予算ではいいものはなく、予算を超えてもほしくなるようなものには出合えませんでした。
私と節子の意見が少し違っていたことにも一因がありました。
希望する大きさが違っていたのです。
お互いの好みの違いを言い合うことも、私たち夫婦の楽しみの一つでした。

なかなか見つからないので、手づくり好きのわが家では、1万円の加工木板を買ってきて、ニスを塗って脚をつけて当座をしのぐことにしました。
そのうち、節子の病気が発見されてしまい、座卓どころではなくなりました。
もし私がもっと節子思いだったら、節子好みの座卓を探して節子にプレゼントしたでしょうが、私はそういうのが全く不得手なのです。

節子は少し元気を回復し、散歩を一人で出来るようになってから、その材木屋さんの入り口においてあった1枚板を見つけました。
それを使って座卓にしてもらったらどうかと思ったのでしょう。
ある時、私もそれに気づき見てみたら、そこに「予約済み」と書いてありました。
節子に1枚板を見つけたけれど、もう予約されていたよと話すと、その予約は私かもしれないというのです。
座卓にできるかどうかを木材屋のご主人と雑談したのだそうですが、きっと節子がほしそうだったのでご主人が予約として確保してくれていたのです。
もっとも節子にとっては、十分に満足できるものではなかったようで、結局、その板はわが家には来ませんでした。
ですから、わが家にはまだ座卓はなく、1万円の手づくりの退屈な座卓しかないのです。

そんなことを思い出したら、節子の希望をかなえてやらなかったことがまだまだいろいろとあることに気づきました。
しばらくそんな話を書こうかと思います。

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2009/02/16

■節子への挽歌533:一期一会

節子
最近、「老い」を感ずることが多くなりました。
前にも書きましたが、家の近くのなだらかな坂で息が切れます。
それに以前のように気楽に動けずに、行動する前に少し考えてしまうようになりました。
にもかかわらず、最近また、いろいろなことを引き受けだしてしまっています。
それも勝手に申し出て引き受けてしまうこともあります。
節子がいたら、相変わらずねと笑うでしょう。

今日、坂を上りながら、果たして大丈夫だろうかと、ふと思ってしまいました。
いずれをとってもいい加減にできるようなテーマではありません。
まあ、私のことですから、かなりいい加減ではあるのですが、いつもそれなりの覚悟はするのです。
いざとなったら、それなりのがんばりをするのが、一応、私の文化なのです。
がんばっていると、必ず誰かが手を貸してくれます。

しかし、最近、時々、先のことを考えて不安になります。
先のことを考えるのは「老い」の始まりです。
先の時間が無限ではないということへの心配ですから。
若いころは、先のことなど考えずに、まっすぐ前を見て生きていました。
いえ、節子が病気になって、手術をするまでは、私には先しか見えませんでした。
それも無限の時間のある「先」です。
おかしな言い方ですが、「来世」までが私の視野にはありました。
今生で完結する必要などない、というのが私の意識でした。
友人は冗談だと思っているようですが、私にとっては確信でした。
ですから私の時間軸は、無限に近くゆっくりしていました。

しかし、節子の手術、そしてその後の一緒の生活。
それが私の意識を大きく変えました。
今この時点での時間の大切さが、実感としてわかってきました。
節子が好きだった「一期一会」です。
私には、それまでほとんど関心のない言葉でした。
いつでも、そしてまた、会えるではないか。人はすべてつながっているのだから。
人が会うなどということは瑣末なことでしかない、と私はどこかで思っていました。
そして、事実、不思議なことですが、会うべき人には会えました。
電車の中で、街の中で、そして会いたくなる頃に不思議にやってくる。

それなのに、この1年半、節子に会えなくなりました。
来世では会えるかもしれませんが、時々、無性に今生で会いたくなります。
でも会えない。
節子のように、一期一会を大事にしてこなかった罰を与えられているのでしょうか。。

先のことを考え出すと、人は動けなくなるものです。
最近、そのことを痛感しています。
黒沢明の「生きる」の主人公は全く正反対に、残された時間を知ったときから大きな仕事に取り組み成功させました。
その話が以前はとても納得できたのですが、最近は全く理解できなくなってしまいました。
なぜでしょうか。
節子ならきっとその答を教えてくれるでしょう。
節子は私の人生の先生でした、自分では何も話しませんでしたが、私には伝わってきました。
その先生がいない今、先が見えるととても不安になるのです。

老いのせいでしょうか。

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2009/02/15

■節子への挽歌532:困った時の節子頼みはもうできません

今日は節子と話す時間があまりありませんでした。
昨日書き出した原稿に難航しているためです。
ずっと書き続けているわけではないのですが、節子がいてもたぶん怒られそうなほど今日はパソコンに向かい続けていました。
その合間にメールも届きますし、今日はホームページ(CWSコモンズ)の更新日でもありました。
もちろん家事もありますし、家族との「付き合い」もあります。

それに今日はちょっとした「事件」が自宅の近くで起こりました。
誰かが騒いでいると思ったら、警察官と若者が激しく言い合っていました。
その話も面白いのですが、挽歌編にはなじみませんね。
そういう事件があると、物見高い私は野次馬になりたくなります。
まあ今回は、我が家からも見えたのですが、近くに何かあると昔はすぐにとんで行ったものです。
節子はそうした私には少しばかり批判的でしたが(火事や水害などの他人の不幸を見にいくのはよくないと節子は考えていました)、その節子もけっこう野次馬的でした。
まあ、そんなことを思い出しながら、自宅近くの「騒動」を見ていたわけです。
原稿が進まないわけです。

まあ、いろいろとあったわけですが、なぜか今日は、節子のことがうまく頭に浮かんでこないのです。
いつもは、さて節子と話そうかとパソコンに向かうと自然に書くことが出てくるのですが、今日は出てこないのです。
やっと私も節子から卒業できるのでしょうか。
まあ、そんなことはないでしょうね。

それにしても、以前は原稿書きなどで行き詰ると節子がその頭の壁をブレイクスルーしてくれたのです。
困った時の節子頼みは、もう出来なくなりました。
今日はもう原稿はやめて、夜はテレビで映画を観ることにしました。

内容のない挽歌ですみません。
ちょっと疲れてしまっています。困ったものです。

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2009/02/14

■節子への挽歌531:私たちは「他愛のない」ことにあたたかくつつまれています

節子
昨夜は春一番の強風が吹いていました。
うるさくて眠れないほどでした。
昨日咲いた河津桜は花を落としたかもしれないと心配しましたが、今朝もしっかりと咲いていました。
今日は初夏のような暖かさでしたが、気がついたらたくさんのつぼみが開花していました。この調子だと来週は満開です。

庭の花も次々と咲き出しました。
今日はディモルフォセカが咲きました。
これも例年より1か月くらい早いようです。
自然は本当に正直です。

春のような1日でしたが、今日は自宅でパソコンに向かっていました。
久しぶりに原稿を書いています。
久しぶりのせいか、なかなか進みません。
テーマは「事業創造への新しい発想」です。久しぶりに企業関係の文章を書きたくなったので、引き受けたのです。
2日で書き上げられると思っていたのに、今日、1日かけてやっと1/3しか書けませんでした。
それもどうも満足できる内容ではありません。
節子がいた頃は、途中で節子に読んで聞かせるとコメントをくれました。
「わかりやすい」とか「くどい」とか、そんな程度のコメントで、内容に関するコメントはあまりなかったのですが、節子に聞いてもらえると何だか安心して先に進めました。
それに書けなくなると、待っていたかのように、「お茶でも飲まない」と声をかけてくれました。

そんな他愛のないことが、実はとても大きな意味を持っていたのだと最近気づくことがよくあります。
私たちの生活は、こうした「他愛のない」ことであたたかくつつまれているのです。
それがなくなった時に、そのありがたさに気づくのです。
私たちはもっともっとそうした「他愛のないこと」に感謝しながら生きていかなければいけないと最近つくづく思いますが、それを娘たちにさえうまく伝えられずにいます。
でも私自身は、感謝の気持ちで生きることに慣れてきたように思います。
これも、節子のおかげかもしれません。
節子には感謝することが山のほうにあるのです。

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2009/02/13

■節子への挽歌530:今年も河津桜が咲きました

庭の河津桜が一輪咲きました。
Sakura4_2
寒い日が続いていましたが、春もすぐそこまで来ているようです。
この桜は、節子と一緒に4年前に河津で買ってきたものです。
河津に行った時は、2月の下旬でしたが、寒い日でした。
昨年、咲いたのも下旬でしたから、今年は早く咲いたことになります。
今年は暖冬なのでしょう。

節子は桜がとても好きでした。
再発する前の年、節子と各地の桜を見てまわりました。
あれほど桜を見た年はありませんが、節子がいなくなってからは桜を見た記憶がありません。

節子がいなくなっても、わが家の花は次々と咲いていきます。
私がいなくなっても、そうでしょう。
そういえば、母が育てていたシンピジウムも咲いています。
ジュンが手入れをしてくれたおかげで、今年は去年よりも元気です。
愛でる人が多ければ多いほど、花は元気に咲いてくれます。

しかし、花は誰のために咲くのでもなく、自らのために咲いているのです。
だからこそ、花はすべての人を癒してくれます。
しかも花は毎年生き返ったように咲くのです。
まるで彼岸から此岸に戻ってくるように。
人間もそうやって季節と共に戻ってくることができればいいなあと思います。

節子は、花になってチョコチョコ戻ってくると言っていました。
この桜の一輪は節子なのでしょうか。
元気を出さなければいけません。

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2009/02/12

■節子への挽歌529:元気が出たり出なかったり

この挽歌には、私の精神的な不安定さが現われているのではないかと思います。
まさに元気になったり元気がなくなったりしています。
昨秋からかなり安定してきたと自分では認識しているのですが、どうもそう簡単ではないようです。
やはり3年は、いや5年はかかるのでしょうか。
しかし、5年もかかったらむしろそれが常態だということになるでしょうね。

ということを考えていて気づいたのですが、そもそも人間の精神状態は不安定なものなのだということです。
ちょっとしたことに一喜一憂するのは、なにも今に始まったことではなく、子どもの頃も、そして節子と一緒だった頃も、よくあった話です。
でもたぶん、その振れ具合は今とは違っていたような気がします。
それはきっとその振れを安定化させるスタビライザー(安定化装置)があったからです。
子どもの頃は親が、そしてその後は節子が、その役割を果たしていたのかもしれません。

そこから少し話は飛躍し、時評に近づくのですが、
そうしたスタビライザー役がだんだんなくなってきているのが現代の社会なのかもしれません。
そして逆に、安定させるスタビライザーに代わって、
むしろ増幅させるレバレッジ(てこ)が広がっているのかもしれません。
共同体的社会にはスタビライザーがいろいろと組み込まれていますが、
昨今のような金銭優先社会ではレバレッジが仕組まれているというわけです。
ですから、個人も社会も不安定になりやすい。
いささか発想を飛ばしすぎかもしれませんが、そんな気がしてきました。
一昔前までは社会の基本単位は家族でしたが、いまは個人かもしれません。
嫁姑問題でさえ、ある意味でのスタビライザー機能を果たしていたように思います。
自己責任とか自立などといわれると、私のような弱い人間は生きづらくなります。
しかも、いまやその弱さを支えてくれていた節子がいなくなってしまったのですから、社会のレバレッジ作用をもろに受けざるを得ないわけです。

さてスタビライザー役としての節子のことです。
いまから考えると、まさに節子は単純な私の言動をいつも安定させてくれていました。
過剰な喜びや自信には時に冷や水をかけてくれましたし、
不安や自信喪失にはそこから抜け出すきっかけを与えてくれました。
一人で考えているとどんどん思考が過剰になるのが人の弱さです。
なかなか中庸を得ることはできません。
伴侶がいるということは、そういうことだったのだと、最近痛感しています。
伴侶のおかげで、自らを相対化できたのです。
ソクラテスも、松下幸之助もそうだったのでしょう。

そんなわけで、もうしばらくは私の精神状態は不安定を続けそうです。
しかし均(なら)せば、結局は以前と同じなのでしょう。
そのことにも気づきました。
今日は独り言でした。

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2009/02/11

■節子への挽歌528:家族が減っていくさびしさ

節子
今日は父の命日です。
私たちは途中から私の両親と同居していましたので、私たち家族にとっては父の葬儀は最初の家族を見送る体験でした。
父も自宅で看病していました。
まだ母も元気だったので、母が中心になって看病していましたが、節子もいろいろと大変だったと思います。
私は会社勤めをしており、しかもかなり忙しかったので、あんまり看病には参加していませんでした。

父を見送った後、私は会社を辞めました。
父の残された時間がそう長くないことを知りながら、会社の仕事の忙しさに時間を向けてしまい、ゆっくりと話す時間さえとらなかったことも、会社を辞めた理由の一つでした。
もっとも会社を辞めると、それ以上に忙しくなることに、その時はまだ気づいていませんでした。
父の葬儀は、とても寒い日でしたが、私が会社勤めをしていたこともあって、たくさんの人が見送りに来てくれました。

父の看病をしてくれていた母も、今はいません。
母の看病は節子がよくしてくれました。
当時、節子も体調はあまりよくなかったのですが、とてもよくしてくれました。
家族が減っていくことは寂しいことです。
しかし私には節子がいましたから、葬儀にも涙を流すことはありませんでした。

次は私ですから、もう家族を見送ることはないなと思っていたのですが、そうはなりませんでした。
思ってもいなかったことで、今でも納得できていないのです。
どこかで何かが間違っているとしか思えません。
家族が減ることの寂しさはとてつもなく大きいです。
伴侶がいなくなることは、さらにそのさびしさとは別のさびしさがあります。

こどもが結婚して家を出る場合は、同居家族は減りますが、家族が増える感じもあるでしょう。
しかし、彼岸への旅立ちはさびしさだけです。
それにどう立ち向かえばいいのか。
世代が継承されていく大家族制度が、もしかしたらその解決策かもしれません。

父を見送った日のように、今日もどんよりとした寒い日です。
節子は彼岸で父母に会っているでしょうか。
今日はとてもさびしい気分で、なかなか元気が出てきませんでした。

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2009/02/10

■節子への挽歌527:年賀状への返事は反省です

節子
先月末に、年賀状の返事を書いたのですが、塚谷さんから丁重なお手紙とお線香が届きました。
私の手紙のせいで、よけいなお気遣いをさせたようで反省しました。
節子がいたら、ストップをかけるか、手紙の内容をもっと元気よいものに変えるか、いずれかだったでしょうね。
どうも節子のことになると自分しか見えなくなるようです。
自分だけが悲劇の主人公だという気分が、どこかに残っているのです。
恥ずかしい限りです。

塚谷さんは、東レ時代の先輩です。
といっても、東レ時代にはあまり接点はありませんでした。
私が東レを辞めて10年以上たった時、突然、湯島に来てくれました。
そして仕事を頼まれたのです。
当時、塚谷さんはある会社の社長でしたが、最後の仕事として会社の変革に取り組みたいというのです。
東レ時代、私は会社の企業文化変革活動に取り組ませてもらいました。
それが、私の人生を変え、もしかしたら節子の人生も変えました。
その活動を知っていて、塚谷さんは私のところに来てくれたのです。
塚谷さんは、湯島に来た時に、節子に会っています。
そのせいか、いつも会うたびに、奥さんによろしくと言ってくれました。
人間は単純なもので、仕事関係であろうとも、そうした人間的な一言が大きな動機づけになります。
塚谷さんの会社の仕事は塚谷さんの満足する結果になり、喜んでもらいました。

たまたまその仕事の窓口が、東レ出身者でしたが、私も節子も良く知っている人でした。
それで節子と一緒に京都に行く機会があったので、彼と3人で食事をしました。
節子とは30年以上ぶりの再開だったと思います。
塚谷さんのおかげでした。

塚谷さんは、今は会社を引退して、ご自身のことをまとめられた本を出版されるなど、ご自分の世界を悠々と楽しまれています。
奈良にお住まいですが、お寺も好きなので、充実した毎日なのでしょう。
その会社は京都の東寺の近くなのですが、京都駅から東寺を見ると、いつも塚谷さんを思い出します。

その塚谷さんから、お線香が届きました。
とても不思議なのですが、節子には一度しか会っていない人から節子の話を聞くことが時々あるのです。
一方、何回も会っているのに、節子の話が全く出てこない人もいます。
人の縁は、回数でも時間でもありません。
またまた自分中心の話ですが、節子の話がでるだけで、元気が出てくるのです。
恥ずかしいですが、それが現実なのです。

塚谷さんは、こう書いてきてくれました。

最愛の奥様とお別れになった貴兄のことを考えず無神経に賀状を出してしまいました。
申し訳ありません。
いやいや、謝るべきは私のほうですね。
私こそ、なんという無神経なことか。注意しなければいけません。

塚谷さんはこうも書いてきてくれました。湯

島の事務所でお会いしたことがありますが、本当に素晴らしい奥様でした。
これも恥ずかしいのですが、こういう節子への褒め言葉はすべて真に受けるようにしています。
たとえ事実に反していようともです。

塚谷さん
ありがとうございました。
心から感謝します。

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2009/02/09

■節子への挽歌526:節子がいればこそ身軽に生きられた気がします

今日もまた、挽歌編と時評編を絡み合わせながら書きます。

昨日、時評編に「妻(伴侶)がいればこそ、身軽に生きられることを実感として知ってしまった」と書きました。
これはおそらく常識に反します。
家族がいればこそ、慎重にならざるを得ないというのが一般の考えです。
それが真実であることは確かですが、しかし1人よりも2人の方が行動しやすい場合もあります。
節子がいなくなって、私の行動力は間違いなく低下しました。
人は一人では生きていないことを、節子がいなくなってから痛感しています。

私は47歳で会社を辞めました。
次の仕事があったわけではありません。
生き方を変えたかった、ただそれだけです。
多分私一人であったら、決断できなかったように思います。
仕事は一人になってもできますが、生きる基盤である生活には私は全く自信がなかったからです。
辞める時、経済的な心配がなかったわけではありません。
しかし、節子と一緒に汗と知恵を出したら、生活費くらいはどうにかなるだろうと思っていました。
新聞配達を2人ですることも考えていました。

一人だとお金がないと不安ですが、不安を分かち合える人がいれば、お金はなくても立ち向かえるのではないかと思います。
現実を知らない甘い発想だといわれそうですが、いざとなれば「仕事がない」といわれる過疎地に行けば、稼ぐ仕事はなくても、生きる仕事はあるはずです。
いま都会では仕事がなくて、住まいまでなくて、困っている人が少なくありませんが、少し発想を変えれば、いろいろな生き方があるように思います。
やはり、発想が甘いでしょうか。

さて時評編的な話はこのくらいにして、挽歌編的話を書きます。

私が生き方を大きく変えたり、お金と無縁な仕事にのめりこんだりしてきたのは、節子の支えがあったからです。
楽観主義の私も、時に不安で眠れない夜もありましたが、その時は隣に節子がいるのが支えでした。
節子が何かをやってくれるわけでもないのですが、いざとなったら助けてくれるという安心感があったのです。
それに、何よりも、私の生き方を全面的に信頼してくれている人がいることはどれほど心強いことか。
それは節子がいなくなった今、よくわかります。

伴侶とは、相手を拘束する存在ではなく、自由度を高める存在ではないかと思います。
少なくとも、節子は私にとって、そういう存在でした。
節子がいなくなったために、最近の私の心身はとても重い気がします。

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2009/02/08

■節子への挽歌525:一番大切なのは「愛」

節子
昨日、ボランティアフォーラムTOKYO 2009に行ってきました。
私が参加したのは、「それぞれのプライスレス」。
お金も大切だけれど、もっと大切なものがあるのではないかというワークショップです。
そこで参加者のみなさんが、話し合いながら何が大切かを議論して発表してくれました。
グループによって違いはありましたが、いずれのグループも「愛」が1位か2位でした。
私はゲストとして呼ばれていたのですが、同じゲストの姜咲知子さんも私も、「愛」が1位でした。
参加者の中には、契約社員やそれを切られた人も何人かいましたが、順位づけの議論はかなり白熱したようです。

「愛」と「お金」とどちらが大切かは比較しようのないことかもしれませんが、今の時代は、あまりに金銭信仰が広がっているのが残念です。
私の論理は極めて簡単です。
愛でお金は買えますが、お金で愛は買えませんから、愛のほうがお金よりも価値があるはずです。
こんな言い方をすると誤解されそうですが、節子と会えなくなった今、心底そう思います。

しかし、「愛」とはいかにも抽象的な言葉で多義的です。
愛の対象や愛し方によって、愛には「排除」の要素がありますから、愛の裏には憎しみや冷たさも同居しているのです。
「愛」が引き起こす悲劇も決して少なくありません。
その意味では、「愛」も「お金」も同質なのかもしれません。
まあこれは書き出すと長くなりますのでやめますが、「愛」とか「平和」という言葉の持つ両義性の落とし穴には気をつけなければいけません。

ワークショップを終えて、帰りの電車の中で、
私の人生にとって、何が一番大切だったかと聞かれたら、何と答えるだろうかと自問しました。
答は明確で、「節子」です。
「愛」でも「お金」でもなく、伴侶である節子です。
では、節子がいない今は、どうだろうか。
これは難問です。
いろいろと考えたあげく、やはりそれでも「節子」だなと思いました。
そして、私が息を引き取る時に、その節子に「ありがとう」と言えないことが急に悲しくなりました。
「愛」というのは楽しくもあり、悲しくもあるものです。

ところで、お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない、という人が少なくありません。
そうでしょうか。
これに関しては、時評編に少し書かせてもらいました
今回は時評編と合わせて読んでもらえるとうれしいです。

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2009/02/07

■節子への挽歌524:準備なく発話できることの価値

節子
人は話しながら考えるものだと、私は思っています。
心の中で考えている場合も、心の中にいるたくさんの「自分」が話し合っているように思いますが、最近、「発話」することの大切を感じています。

節子も知っているように、私は話をするのが大好きです。
沈思黙考ということが不得手なのです。
思いを口に出すことで、考えられ動けるようになるというタイプなのです。

最近どうも動きが悪いのは、節子との会話がなくなったからかもしれません。
いろんな人から相談があると、私は必ず節子に話しました。
私自身、何かをやろうと考えると、必ず節子に話しました。
いずれも相談というよりも、ただ話しただけといったほうがいいでしょう。
しかし、それを聞いた節子の反応は私の行動の方向性に大きな影響を与えました。
そしてそれに続く雑談的会話の中から、それにどう取り組めばいいのかの方策が自然と湧くように出てきたのです。
考えてみると、それが今は無いわけです。

私が山のような相談事に対応できてきたのは、もしかしたら節子への「発話」と「雑談」があったからかもしれません。
伴侶を亡くした方から、独り言が多くなったという話をよく聞きます。
私もそうです。
「発話」しても実際には返事はないのですが、発話すると返事が聞こえるのです。
私はそうです。
しかし、まあ日常生活のちょっとしたことであれば、それでいいのですが、ちょっと大きな話になると独り言も結構難しいです。
位牌に向かって語りかけることも、そう簡単ではありません。

無防備に、準備なく発話できる伴侶。
響きあうような夫婦の会話。
もしかしたら、それが私の生きるエネルギーの源だったのかもしれません。

失って初めてわかる「大切なもの」はたくさんあります。

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2009/02/06

■節子への挽歌523:「どんな時も人生には意味がある」

ユダヤ人であるが故に、ナチスによるアウシュビッツ収容所という極限の体験をした精神心理学者のフランクは、「どんな時も人生には意味がある。あなたを必要とする『何か』があり『誰か』がいて、必ずあなたを待っている」と書いています。
彼のこうした考えが、アウシュビッツでの彼を支えたのでしょう。

節子
いろいろと活動を再開したのですが、どうもまだ何かが欠けている感じです。
それが何なのかはよくわかりませんが、やはり「生きている意味」がまだ見えていないからかもしれません。
もちろん「生きている意味」などわからなくても生きてはいけるのですが、そしていろいろと活動もできるのですが、どこかで充実感がないのです。
節子がいてもいなくても、大きな違いはないはずなのですが、どこかに虚しさがあるのです。
節子は私にとって生きる意味を与える存在だったと、書いたり言ったりしてきましたが、その意味は一体なんだったのでしょうか。
今はそれもわからなくなってきました。

フランクルは、「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである」と、著書の中で書いています。
フランクルのように、「私がなすべきこと、使命を実現していくのが人生だ」などとは思いたくないのですが、彼が提示している「態度価値」という考え方は、時々、頭に浮かびます。
「態度価値」とは、ウィキペディアによれば、「人間が運命を受け止める態度によって実現される価値」です。

人生にはさまざまな事件が山積みされています。
うれしい事件もあれば、悲しい辛い事件もあります。
すべての事件には、何がしかの自分の責任もありますが、自分の意志とは無関係に、向こうからやってくる事件も少なくありません。
そうした「与えられた幸運や試練」に対して、どういう態度をとりながら生きるかによって、その人の人生は変わってくるとフランクルは言います。
そして、どんな状況であろうとも、態度価値だけは存在する、というのです。
平たく言えば、どんな状況においても「希望」があるというわけです。

そう考えると、人生から意味が無くなることはありません。
「人生の意味」は、当人が気づくかどうかとは無縁に、当人のすぐ近くに存在しているわけです。
だから、「どんな時も人生には意味がある。あなたを必要とする『何か』があり『誰か』がいて、必ずあなたを待っている」とフランクルは言い切るのです。

頭では理解できますが、「人生の意味」を一人で見つけることに慣れていなかったせいか、どうもうまくいきません。
私を待っている「何か」や「誰か」の候補が、最近、周辺に山積みされだしました。
しかし、どれが私の人生に意味を与えてくれるものか、見極めがつきません。
春を感じるようになってきましたが、春が来る前に、それを見つけたいと思っています。

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2009/02/05

■節子への挽歌522:ゆったりした時間

友人知人から節子の話を聞くのは、とてもうれしいものです。
久しぶりにメールをくれた方が、メールの最後にこう書いてくれました。

一度コムケアのフォーラムでお目にかかりましたが、
ゆったりと包み込む雰囲気をお持ちの方だなという印象をもったことを記憶しております。
その時はまだ節子は病気の前だったのではないかと思いますが、その頃の時間軸も、「ゆったり」していたのかもしれません。
私の時間軸は、若い頃から少し常識から外れていました。
若い頃はパラレルワールドにあこがれていましたし、しかも時間は前後するものだという奇妙な意識がありました。
結婚した頃、節子はそのおかしな時間感覚に翻弄されたはずです。
しかし、常識的な時間感覚を持った節子と一緒に暮らす中で、私の時間感覚もかなり矯正されました。
時計的な時間感覚もかなり強くなりました。
この人の言葉を借りれば、節子に「ゆったりと包み込まれた」のかもしれません。

手術後の節子の時間は、さらにゆったりと流れるようになりました。
一緒に歩いていると、たくさんの人に追い抜かれました。
一緒に何かをやっていても、そんなに急がないでと、時々言われました。
しかし、そのおかげで、私に見える世界が少し変わりました。
後で気づいたのですが、それでも節子は私の時間軸に近づけようとしていた気がします。

会社時代に私の仕事を補佐してくれていた女性から手紙が来ました。

春の気配が強くなりましたね。
お宅の庭では奥様が丹精した花々が次々と咲いてくるでしょう。
と書いてありました。
節分が来ると、彼女は節子のことを思い出してくれるのだそうです。
節子はいまもみんなの思いの中にいることを思うと、とても気持ちが温かくなります。

庭の花が咲き出す季節も、もうそこまで来ています。
節子がいなくなってから、時間の足は速くなっているようです。
節子が急がしているのでしょうか。

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2009/02/04

■節子への挽歌521:節子の誕生日

節子
今日は節子の誕生日です。
あと何回、誕生日を迎えることができるだろうと、節子は一度だけ言ったことがあります。
62歳になる前の秋でした。

62歳の誕生日は、私たちにとってはとてもうれしい誕生日でした。
しかし、だからといって特別の記憶が残っているわけではありません。
矛盾しているのではないかといわれそうですが、まさかそれが節子と一緒に祝える最後の誕生日になるなどとは、誰一人考えていませんでした。
逆に、みんなそういう特別の誕生日にならないように、無意識に何もしなかったのかもしれません。

どう過ごしたのだろうかと私のホームページ(CWSコモンズ)を見てみました。
私のホームページには、私の生活のほとんどが記録されているのです。
だれもプレゼントも用意していない誕生日だったようです。
いつもは必ずユカが用意しているのですが、どうもそれもなかったようです。
節子は薄情な家族に囲まれていたと思われそうですね。
しかし、節子の友人は薄情ではなく、
滋賀の友人たちと近くの友人から、2つ、花が届きました。
家族がやったのは、一緒にケーキを食べることだけだったようです。

でも節子はとても幸せだったと思います。
なぜそう思うのかと問われると答えられませんが、間違いなくそう思います。
家族みんなから愛され、家族みんなといつものように、一緒に手づくりのケーキを食べられたからです。
節子はみんなが好きでした。
好きな人たちと一緒に、普段と同じ生活ができる。
それこそが節子の理想だったのです。

今となっては、その時、どんな会話がなされたのか思い出せません。
節子の日記(「いいことだけ日記」)を開けば、それが書いてあるかもしれませんが、節子がいなくなってから、私はその日記を開くことができません。
節子の残したものは、まだなかなか読み直す気にはなれません。

さて今日はどう過ごせばいいでしょうか。
まあ今日もいつものように、私らしく過ごそうと思います。

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2009/02/03

■節子への挽歌520:節子と過ごす月命日

節子
昨日、「記念日」の話を書きましたが、今日は節子の17回目の月命日です。
そして明日は節子の誕生日。
意識すると、毎日が記念日ですね。

今日はまた節分です。
朝、娘から「今日は豆まきをやるの」と訊かれました。
実は今日はめずらしく私ひとりなのです。
いつもは自宅でスペインタイルをやっているジュンも出かけていますので、今日は一人でのんびりとしています。
月命日は原則として出かけないことにしているからです。

豆まきは一人でやるのはいささか寂しいので、迷っています。
節子は豆まきが好きでしたが、我が家には、鬼も福もいますので、あえて豆などまかなくてもいいでしょう。
それに今気づいたのですが、豆がありませんね。

豆がない。
私は、井上陽水の「傘がない」が好きでした。
傘がなくても行かなくちゃいけないところがある時は幸せです。
いまの私は、傘があろうと時間があろうと、行かなくちゃと思えるところがありません。
いや、行かなくちゃと思えるところは、一か所だけありますが、
そこは傘があろうと時間があろうと、私の意志では行けるところではありません。

先ほどまで、気持ちの良い日差しの中で、ぼんやりと外を見ていました。
気のせいか、彼岸まで見えるような、そんな幻覚さえ感じながら、です。
こんなに平安な時間を過ごせることに、感謝しなければいけません。
私がこのごろ、好きなのは、こうした「無為」の時間です。

しかし、お腹がへってきたので、気がついたのですが、昼食を食べなければいけません、
そういえば、今日は、娘たちもなぜか昼食の用意をしていってくれませんでした。
そろそろ自立したらということでしょうか。
どうも節子が心配していた通りになってきているのかもしれません。
節子との支えあいに浸っていたために、私の自立心は育たなかったのです。
何だか、一昨日時評編に引用した今田さんの言葉が思い出されます

。「支援によって被支援者を甘やかし、かえって本人のためにマイナスの結果をもたらす危険性を持つことに注意が必要である」
節子の優しさは、私をだめにしてしまったのですね、きっと。

仕方がないので、ポップコーンをつくることにしました。
これでお腹は満たせるでしょうか。
ところが、あいにく、コーヒーもないのです。
昨日の来客に最後のコーヒーを出してしまったのを思い出しました。
以前だと、「節子、コーヒーが無いぞ」といっておけば、魔法のように翌日にはコーヒーがあったのですが、そんなことももうなくなりました。

伴侶のいることの幸せ。
伴侶のいないことの寂しさ。
今日は、そんなことを思いながら、節子と時間を共有しようと思います。

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2009/02/02

■節子への挽歌519:沢山想い出すことをプレゼントしてくれた連れ合い

節子
数年前に伴侶を見送ったNKさんからもメールがきました。

昨日は、連れ合いと出会った記念日でした。
初めて会ったのは38年前でした。
彼がいたら、ご馳走を食べに出かけたかなとか、いいお酒を開けたかなと思ったりしました。

佐藤様にもいっぱい記念日があることと存じます。
私の場合、そんな日が来るたびにまた涙して、気持ちを洗って暮らすしかない……。
沢山想い出すことや楽しかった時間をプレゼントしてくれた連れ合いに改めて感謝することになります。

寒いですね。
どうぞどうぞお大切に。

最後の2行が心に迫ってきます。
本当に寒い冬です。

「いっぱいの記念日」
実は、私にはそれがあまり実感できないのです。
明後日は、節子の誕生日なのですが、私にはそうした「記念日」意識があまりないのです。
これは節子が元気だった時からです。
記念日を祝うという発想が、私にはあまりないような気もします。
もしかしたら、節子はそれが不満だったかもしれませんね。

節子は病気になってから、いつも言っていました。
いろいろの思い出を残しておきたい、と。
思い出は残りましたが、それがカレンダーの月日につながらないのが、私の欠点かもしれません。
そういう点でも、私はいささか常識が欠落していたのでしょう。

それに、NKさんのメールを読んで気づいたのですが、2人で何かを祝ったという記憶があまりないのです。
もちろん喜びを分かち合うのは、いつもでしたが、改まって祝膳を囲むとか、記念日につなげて旅行をするとかいうことがありませんでした。
思い出してみると、節子はそういうのが好きだったような気がします。

結婚式でさえ、私にはただ煩わしいだけで、やりたくなかったのです。
結局、節子の両親や親戚のために節子の実家のほうでやったのですが、そういう儀式やあらたまったことがとにかく嫌いだったのです。
今にして思えば、よくまあ節子はそれについてきてくれました。
でもきっと、節子の「女心」には不満だったのでしょうね.

記念日ではないですが、いまは毎月の月命日だけはしっかりと意識しています。
気づくのが遅すぎました。

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2009/02/01

■節子への挽歌518:魂の雫

節子
書けずにいた年賀状の返事を、やっと昨日までに送り終わりました。
電子メールをされている方にはメールにさせてもらいました。
こういう形で返事を出すことには迷いもあったのですが、月を越える前にともかく出しておこうとふんぎってしまいました。
「迷ったら行動」というのが、私たちの文化でもありましたが、なかなかその気にはなれなかったのです。

しかしやはり行動するといろんなことがまた始まりだします。
最初に届いたのが、ライターのTYさんからです。

魂の雫にも似た、よいお便り、ありがとうございました。
直接、生の声で、現在の胸中を語っていただきたいと願っているですが、なかなか約束ができない状態にあります。
でも、必ず、どこかでお会いしたいと思っています。桜が咲く頃がいいですね。連絡します。
寒いですから、体に気をつけてくださいますように。 
実は、この返信が最初に届いたので、後の人への返事もできたのです。
人は励まされるとがんばれるものです。
私は、節子を励ましてきただろうか、やはり悔いが残ります。

「魂の雫」
ものを書くことをお仕事にされている方だけに、はじまりの一言で、心を開かれます。
TYさんには、私もしばらくお会いしていませんが、家族のテーマに深く思いをもっている方です。
「生の声で、現在の胸中を語る」ことはたぶん私にはできないでしょうが、やはり妻を失った人と会うのは何がしかの心の覚悟が必要なのでしょうね。
そういえば、私より10歳近く年上の方は、会うなり、奥さんを亡くされて佐藤さんは人が変わったのではないかと心配してましたよ、といいました。
その方とはある偶然でお会いする羽目になったのですが、その偶然の事故がなければ、まだお会いできていなかったかもしれません。
みんなきっと会うのが「不安」なのです。
私も、同じような体験があります。
私が変わってしまったかどうかは、私には判断のしようもありませんが、変わりもしたし、変わらないままでもあるし、というのが現実でしょうか。

北海道に転居した飯沼さんの返信にも心洗われました、
直接的な言及は全くありませんが、気持ちが深く伝わってきました。

佐藤さん
厳寒の夜はシーンという音が聞こえます。
で、全身を耳にして、その音を探る。
するとどうやら身体の深奥から聞こえてくる。
身体の深奥には音があるようです。
それは宇宙の音なのかもしれない。
そんなことを感じています。

日が伸びてきました。嬉しい限りです。
やっぱり、人間は光合成している動物、
そんなことを実感しています。
少しだけ怖いものがなくなってきました。
早い機会に、お会いしたいと思っています。

最後の1行がとても大きく心に残りました。
気楽にみなさんが(みなさんに、ではありません)会えるようになりたいと思いました。
この挽歌を書き続けている以上、無理なのでしょうか。
そんなことはないと思っているのですが、さてどうでしょうか。

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2009/01/31

■節子への挽歌517:地球が爆発してすべてがなくなってしまえばいい

いささか不謹慎なタイトルです。
昨日の挽歌を書いた後、心の中にずっと潜んでいた気持ちを解き放すことにしました。

節子が再発して以来、そして節子を見送った後、一度ならず、地球が爆発してすべてがなくなってしまえばいいと思ったことがあります。
さすがに最近はそういう思いはなくなりましたが、心のどこかに今なお、そうした気持ちがうずくまっているような不安がないわけではありません。

通り魔事件のような、とんでもない惨劇を起こしてしまう人がいます。
そういう報道に触れるたびに、自分にもその可能性は皆無ではないなといつも思います。
ゲーテは「自分がその犯人となることを想像できないような犯罪はない」と言っているそうですが、私も同感です。
人の心の中にはたくさんの悪魔もまた棲んでいるのでしょう。

節子との暮らしの終わりは、私にとっては世界の終わりのように感じたこともありました。
だからといって、地球とその世界を道連れにするのはどう考えてもおかしいのですが、このまますべての世界がなくなればどんなに安堵できることかという、不条理な妄想を描いてしまう心境になってしまうこともあったわけです。

人を愛することの恐ろしさが、そこにあります。
この挽歌は、基本的に愛を肯定的に考えています。
私自身の生き方が、愛を基本においているからです。
私にとっては、平和やまちづくりはもちろんですが、企業経営も愛が基本なのです。
私の頭の中では、愛がない世界も愛のない現実も成り立たないのです。
キリスト教では、愛を3つに分けています。
エロス、フィリア、アガペです。
どの次元で「愛」を考えるかが大切だと言う人もいますが、私にとっての「愛」は一つです。
私にとっては、愛は分析の対象にする概念ではないからです。

最近も無理心中の報道がありましたが、無理心中は愛の歪んだ現れではなく、「愛の不在」の現れです。
「愛」を支えているのは、「生きる喜び」です。
ですから、ある日突然に「愛」(の行き場)の不在に気づいた時に、人は不条理な誘惑に負けてしまうわけです。
「愛」の不在は「死」を誘ってしまうわけです。
すべての愛をある対象に注ぎ込んでしまうことの恐ろしさを認識しなければいけません。
私はどうも節子に愛を注ぎ込みすぎていたのかもしれません。
しかし、それにもかかわらず節子を救うほどの愛には達しませんでした。
地球が爆発してすべてがなくなってしまえばいいなどと思うようでは、「愛」を語る資格はなかったのかもしれません。
いろいろと考えることの多い最近です。

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2009/01/30

■節子への挽歌516:人生は変わりながら続いていくもの

節子
あなたがいなくなって、私の生活は大きく変わってしまいました。
私の生活において節子の存在は大きな比重を占めていたから、それは当然のことです。
節子がいなくなった空隙が、私の人生を大きく変えてしまっているわけです。

人生を変えてしまったのは、私だけではありません。
1か月ぶりに、以前、何回かメールをいただいたSBさんからメールが来ました。
SBさんは一緒に暮らしていた妹さんを亡くされたのです。
1か月前に会社を辞められ、今は以前弾いていたギターをまた弾きだしたのだそうです。
SBさんは挽歌512を読んでの感想を送ってきてくれたのです。

きょうの挽歌読ませていただきました。
その通りだと思います。
ロビタさんも言っておられましたが、子供がいなかったら会社を辞めていた‥‥‥と。
その通りで私は会社を辞めましたね。

私も今ケアする相手が誰もいないので、きっとギターを始めたのだと思っています。
まぁ猫はうちにたくさんいて、ケアはしていますが‥‥‥。

約1ヶ月たって、失業生活も落ち着いてきました。
すべてが自分の自由の時間になると、返って大変です。よほど自分がしっかりしないとメ チャクチャな生活になってしまいますね。
自分で自分をコントロールする。結構大変なことです。

しばらく連絡がなかったので気になっていましたが、文面から少し元気さを感じホッとしました。
もっともこうした文面の元気さはあまり当てにはなりません。
私自身のことで、それはよくわかっています。

この挽歌を読んで、連絡を下さった方は何人かいますが、その後、連絡のない方も少なくありません。
まあ当然といえば、当然です。
お互いに全く面識はなく、ただ同じような体験をしただけですし、それに同じような体験をした人と会うよりは、そうでない人に会ったほうが、たぶん気が晴れることでしょう。
同じ体験をした人に会うと、なぜか少しホッとする一方で、自分の体験を思い出してしまい、辛くなることもあるからです。
しかし、一度、接点を持った人のことは気になり続けるものです。
これは私だけの習癖かもしれませんが。

考えてみると、愛する人との別れが人生を変えるだけではありません。
愛する人との出会いもまた人生を変えますし、愛する人との暮らしによって人生が変わることもあります。
再発してからは、明日もまた今日のままでいたいと、節子は時々話していました。
私もどれほどそれを望んだことでしょう。
しかし、同じ状況を続けることはできません。
良くも悪くも、人の人生は変わりながら続いていくものなのです。

愛する人を失った後の人生の変化は、外に現れる以上に、当人には大きなものです。
それを実感しているがゆえに、余計なお世話ですが、同じような体験をした人たちのことが気になるのです。
これも不思議な感覚ですが、どこかでそうした人たちと人生をすでに分かち合っているからかもしれません。
ひとたびの関わりを持たせてもらった人たちの平安を祈ることで、私自身の平安が得られるのを感じます。

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2009/01/29

■節子への挽歌515:ニーバーの祈り

節子
なかなか節子のいない生活に慣れずにいますが、
昨夜、ニーバーの祈りの言葉を思い出しました。
最近、なぜか忘れていた言葉です。

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
この言葉は私の人生訓の一つでした。
ですから、どんな時にでも私は楽観主義でいられたのです。
この知恵さえあれば、すべてのことが私の味方になるのです。
変えられることは、変える課題を与えてくれるという意味で、
変えられないことは、それを味方にしなければいけないという意味で、
すべて私に元気を与えてくれるものでした。

ただ常識が欠落しており、いささか独りよがりの傾向にある私は、それらを識別する知恵にはあまり恵まれていませんでした。
ですから、節子の病気を治せると思い込んでいました。
節子が私よりも先に逝ってしまうということは、私には決して受け入れられることではなかったのです。
知恵も、そして冷静さも無かったのです。

節子は、そのいずれをも持っていました。
自分のことなのに、いや、自分のことだからかもしれませんが、
ニーバーの祈りにある3つを持っていました。
勇気、冷静さ、そして知恵。
しかも、それを私に押し付けることなく、私にも思いを重ねてくれていたのです。

節子の仕草の一つひとつを、時々、思い出すことがあります。
そのたびに目頭が熱くなりますが、その私の誇りだった節子の笑い顔にもう会えないかと思うと、悲しくて悲しくて仕方がありません。
その「変えられないこと」を、私はまだ受け入れる冷静さをもてずにいるのです。

ニーバーの祈りは、節子がいなくなってから、私の世界からなくなっていました。
勇気も冷静さも、そして知恵も、無残にも飛散してしまっていたからです。
明日から、般若心経に代えて、時々、ニーバーの祈りを念ずるようにしようと思います。
今の現実を受け入れられるかどうかは、あまり自信はないのですが。

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2009/01/28

■節子への挽歌514:無私:selflessness

メイヤロフの「ケア観」を一昨日、書きましたが、メイヤロフのキーワードの一つに「無私」というのがあります。
「無私」と言うと、仏教用語かと思いがちですが、仏教の根本は「無我」にあります。
しかし、日本では「無我の思想」はあまり定着せずに、むしろ「無私」が目指されました。そのため、日本の仏教は「無私の仏教」だと言う人もいます。
たしかに、空海にしろ道元にしろ、滅私無私の心境を目指していました。
しかし、メイヤロフのいう「無私」はそれとは別の意味ですが、私にはとてもなじめます。

メイヤロフによれば、無私(selflessness)とは、「純粋に関心を持ったものに心ひかれること、すなわち、より自分自身に近づくことができる」ことだといいます。
そして、「このような無私の状態とは、最高の覚醒、自己と相手に対する豊かな感受性、そして自分独自の力を十分に活用することを意味する」というのです。

何かに夢中になった時のことを「我を忘れて」といいますが、その状態を「無私」と言っているように、私は受け止めています。
ケアの対象が自分以上に自分になる、自分と一体化する、そのひと(こと)のためであれば、自分のすべてを投げ出すことに何の抵抗もなくなる、自分の問題として考えるようになる、まあそんなところでしょうか。
私の中途半端な理解なので間違っているかもしれませんが、私自身はメイヤロフの「無私」をそう理解しています。
そして、常にそれを意識して生きているつもりです。

「相手の立場になって考える」という言葉もありますが、それとはたぶん「似て非なる」ものではないかと思います。
「相手の立場になって考える」のはあくまでも理性の次元です。
しかし、相手と同一化するのは理性や意思を超えた感性や心身の話なのです。
したがって、時に「理性」のレベルでは、その人(こと)のためにならないようなことをしてしまうことも起こりうるのです。

節子と私の関係は、メイヤロフのいう「無私」の関係でした。
夫婦や親子は、大体においてそうなのだろうと思いますが、それが行き過ぎるとまたおかしなことになります。
私たちも、決して理想的な「無私」関係であったわけではありません。
ですから、よく喧嘩もしましたし、行き違いもありました。
しかし、お互いに心は一つだという思いは強く持っていました。
もう少し時間が与えられれば、お互いに涅槃の心境に達せたのではないかと思えるほどです。

私たちは2人で一人だから、と節子はよく言っていました。
それは、多分に私が自立していないことへの皮肉でもあったのですが、お互いの「信頼関係」はだれにも負けなかったでしょう。
念のためにいえば、たぶん、節子は私が先に逝ったならば私と違って、もっとしっかりと自立した自分の生を実現したでしょう。
こんな挽歌に逃げ込むようなことはしなかったはずです。
女性と男性は、その生において、全く異質の存在だと私は思っています。

それはともかく、お互いに、完全に素直になれて、安心できる人がいることは、どんな苦難に直面しても大丈夫だと思うほど、心強いことです。
昨今、不安が世上に蔓延していますが、それは心を開けるパートナーがいないからです。
パートナーを得るには、まず自らが「無私」になることです。

「無私」になれるほどに愛した節子がいなくなって、
私も、これまであまり体験したことのない「不安」を感じることがあります。
節子がいなくなることで、無になっていた「私」が戻ってきたのかもしれません。

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2009/01/27

■節子への挽歌513:初対面の若者からのメール

節子
今日は自画自賛の内容です。
節子がいたら、みっともないからやめなさいと、きっと削除させられそうです。
でもたまには自画自賛もさせてください。

先週、初めて会った若者からメールが来ました。
名刺に書いてある私のサイトから、この挽歌のブログを読んでくれたのです。
とてもうれしい内容のメールです。
無断で一部を引用させてもらいます。

私事で恐縮ですが、実は来月入籍します。
自分も佐藤さんと同じ年齢になっても、佐藤さんと同じような妻を大事にする気持ちでいたいと感じることができました。
本当にありがとうございます。
この挽歌が、そういうメッセージも発していることがわかり、とてもうれしいです。
悲嘆にくれた暗いメッセージばかりでは、社会的な価値がありません。
何か前向きの示唆が少しでも提供できれば、私としてはとてもうれしいです。
そうやって前向きの価値を読み取ってくださる読者には感謝しなければいけません。

この若者は、大きな志を持って活動しています。
時評編では、いつも社会に対して批判的な記事が多いですが、私の回りの若者たちの活動には「思い」を込めた活動に取り組む人も少なくありません。
「現場から遠くなるほど、人は不誠実になる」というのが、私の経験則の一つです。
私は、不誠実な生き方はしたくないので、現場の人とできるだけ繋がっていたいのです。

社会をおかしくしてきてしまったことに関しては、私たちの世代は大きな責任があります。
その反省の元に、そうした若者たちをささやかに応援したい、これが最近の私の生き方の基本です。
天下りや「渡り」を繰り返している同期の友人からみれば、無意味な生き方かもしれません。
しかし、21年前に会社を辞めた時に、そう決めたのです。
節子は何も言わずに賛成し、協力してくれました。

メールをくれた若者は、こう書いてきました。

次世代の子どもたちの心の成長に貢献したいと考えておりますので、
意味のある人生を送る豊かな心を持った若者を増やすためにもよろしくお願いいたします。
さて、私に何ができるでしょうか。
最近いささか疲労気味なので、少し気が重いのも事実です。

最後にこう書いてありました。

佐藤さんとお話ができて、ご縁があってブログを読ませていただいて、温かい気持ちになれましたことを本当に感謝しています。
私の長所は、こうした言葉を素直に真に受けて喜んでしまうことなのです。

悲嘆にくれている背後にある、温かい気持ち。
それを感じてもらえて、とてもうれしいです。
この挽歌も少しは役に立っているのです。

節子がいたら自慢できるのですが、その節子がいないのがやはりさびしいです。
せめてブログで自画自賛です。はい。

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2009/01/26

■節子への挽歌512:ケアの本質は「生きることの意味」の確認

昨日、「ケアすべき娘たち」がいると書きました。
「ケアしてくれる娘たち」と書くべきではないかと言う人がいるかもしれません。
この挽歌を読んだら、娘もそういうかもしれません。
しかし、ここは「ケアすべき娘たち」で正しいのです。

ミルトン・メイヤロフの「ケアの本質」という本があります。
この本のおかげで、私はケアという言葉の意味を深く考えるようになりました。
そして、コムケア活動に取り組む気になったのです。
その本に、こんな言葉が出てきます。

他の人々をケアすることを通して、他の人々に役立つことによって、その人は自身の生の真の意味を生きているのである。
メイヤロフは、ケアの本質とは「生きることの意味」を確認することだといいます。
誰か(何か)をケアすることによって、人は自分の生の意味を、生きている実感を獲得する、というのです。
一時期、流行した「アイデンティティ」という言葉がありますが、アイデンティティもまた他人との関わりの中で成り立つ言葉です。
そのアイデンティティを確立するためには、ケアの対象になる誰か、もしくは何かが必要なのです。
自分一人でアイデンティティを確立することはできませんし、また自分一人で生きることもできません。
メイヤロフが書いているように、私たちは「ケアを通しての自己実現」できる存在なのです。
ケアは一方的な行為を意味するのではなく、双方的な関係を意味する行為なのです。

節子と一緒に、ある人をお見舞いに行った時に出合ったことですが、交通事故で意識がなくなったまま入院している孫のところに毎日やってきて世話をしているおばあさんがいました。
彼女にとっては、孫のケアが自分の生きる証であり、自分の生きがいなのだと、その時に節子と話したことを思い出します。

「ケアの対象を欠いた状態は、人生における最大の苦痛である」と言っている人もいますが、ケアするという行為は、それほどに人間にとって大切な行為なのです。
子どものいない夫婦が、ペットを飼う心理もこのことから説明できますし、ドメスティックバイオレンスもその視点で考えるとよく見えてきます。
先日、自分の子どもの点滴に腐敗水を混入した母親の事件がありましたが、周囲の関心を引くため子どもに意図的に危害を加える「代理ミュンヒハウゼン症候群」の疑いがあると報道されていました。
まさにこれは「ケア願望」が引き起こした悲劇かもしれません。
人は誰かのためにケアするのでなく、自らのためにケアするのです。

私にとっては、その一番の対象が、節子でした。
節子は私にとって生きる意味を与えてくれる存在だったと何回か書きましたが、これがその一つの意味なのです。

ちなみに、昨日の挽歌にロビタさんがコメントをくれましたが、ロビタさんも同じ体験をされているようです。

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2009/01/25

■節子への挽歌511:生命を支える生きがい

「母が亡くなったら、後を追うように、父が4か月後に亡くなりました」
昨日、ある集まりで会った人から聞いた話です。
おそらくご両親は70代だったのだろうと思います。
たぶんとても幸せなご夫婦だったのでしょう。
そういう話は時々聞くのですが、いつも感ずるのは若干の羨望です。

私たちは愛し合っていることにおいては、それなりの自負がありました。
しかし、もしそうであれば、なぜ伴侶を失ってまでものめのめと生き続けられるのか。
時々、そう思うことがあります。
実は自分が伴侶を見送るという体験をする以前には、妻を見送った人が仕事をしている姿がどうにも理解できなかったのです。
自分ならきっと仕事などできなくなり、社会への関心も失ってしまうだろうと思っていたからです。

ところが節子を見送って1年半近く経ちますが、私もまた活動を再開しだしました。
幸か不幸か、私もまた伴侶のいない「半身を削がれた」人生に慣れてきているのかもしれません。
もっともまだ1年半弱ですので、これからどうなるかはわかりません。
私が部屋で静かにしていると、むすめが時々、「生きている?」と声をかけるのですが、彼女たちも少し気にしているのかもしれません。

伴侶を失うと、やはり「生きがい」が大きく失われることは事実です。
「生きがい」は、まさに生命の支えですから、生きる基盤が弱くなるといっていいかもしれません。
幸か不幸か私の場合は、2人の娘がまだシングルです。
ですから私の親としての使命が残っているわけです。
私がたぶん生き続けているのは、「ケアすべき娘たち」がいたからです。
しかし、いずれ彼女たちはいなくなります。

伴侶を失って、なお生きる定めならば、やはり「生きがい」の補強が必要なのでしょう。
だから活動を再開するという意識が作動しているのかもしれません。
生命は、それがたとえ自分の生命であっても、勝手に操作することはできません。
節子が、それをしっかりと示してくれました。

しかし、欲を言えば、節子も私も後10年生きて、一緒に人生を終わりたかったと思います。

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2009/01/24

■節子への挽歌510:自我はたくさんの我の集合

南方熊楠は、自我は「単我」ではなく、複数の我の集合であると書いています
最近は多重人格ということがかなり一般的にも認識されだしていますので、このことにはそう違和感を持つ人はいないでしょう。
「心のマルチ・ネットワーク」という考えもあります。
これはとてもわかりやすいです。
私流の表現をすれば、人の心の中にはたくさんの心がいて、状況にあわせてそのだれかが主役になるという考えです。
まさに、南方熊楠の表現そのものです。
実はこの構造は、ユングの集合無意識や唯識論の構造とフラクタル(相似形)と考えれば、とても合点がいきます。

アメリカの社会心理学者ジョージ・ハーパート・ミードは、自己(self)は、I(主我)とme(客我)から成っていると言っているそうです。
meとは、自己の中に取り入れられた他者です。
「自己の中の他者」って何だ、と思われるかもしれませんが、おそらく感覚的にわかってもらえると思います。
自分の心の中には、「見ている自分」と「見られている自分」がいますが、見られている自分の中には、自分でないような自分もいます。
しかし、いつの間にか、その「自分でない自分」が自分の主役になってしまうこともありえます。
生命はオートポイエーシスという「自己創成」のシステムだという考えがあり、私はその考えがとても気にいっているのですが、

私たちは、他の人と付き合うことで、自分を変えていきます。
いや変わっていくというべきかもしれません。
それが年を重ねるということであり、「成長」です。
しかし、他の人と付き合うということは、その人とつながる要素がなければいけません。
つまり、つきえる他者の分身は、すでに自らの中にいるということなのです。

長々とまた書いてしまいましたが、私の中にはたくさんの自分に混じって、最近、節子の姿が見えていることを書きたかったのです。
私の言動に対して、たくさんの「自分」が意見を言ってきます。
そのたくさんの「内なる声」との会話の中から、私は実際の言動を選んでいきます。
ところが最近、そこに「節子の声」が聞こえるのです。

そして、それによって、気づかなかった節子に出会うこともあります
今もなお、私の人生の伴侶は節子です。

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2009/01/23

■節子への挽歌509:久しぶりに岡田クリニックに行きました

節子
今朝は節子が迎えに来たのかもしれないと思いました。
起きて歩こうとしたら、めまいがして歩けないのです。
吐き気までしてきました。

実は節子がいなくなってから2回目です。
一昨年の大晦日に、同じような症状になりました。
どこも休みだったので、救急病院を回りましましたが、ストレスのせいではないかといわれて、4日ほど安静にしていたら治りました。
まあ、その体験があったので、そう心配ではなかったのですが、その時、後で病院できちんと検査するように言われていたのを思い出しました。
もちろん治った途端に、そんなことは忘れてしまっていました。
節子がいたら必ず検査に行かされていたでしょうが。

半日、ベッドで寝ていました。
その時思ったのは、こういうことがこれから増えていくのだろうなということです。
節子のいないことが、急に現実感を持って迫ってきました。
今は娘が同居していますからいいのですが、この先、どうなるのでしょうか。
もう一つ思ったことは、体調が悪くなったときの辛さのことです。
節子の辛さを、私はわかっていたのだろうかと、少し不安になりました。
いや、節子だけではなく、病気の人の辛さを理解できていただろうか。

半日寝ていたのに治らないので、岡田クリニックに行くことにしました。
岡田さんは、節子が最後までお世話になったお医者さんです。
毎週自宅に往診に来てもらっていましたが、単なる治療処置(cure)ではなく、ケアしてくれていました。
節子がもう少し早く岡田さんのお世話になっていたら、もしかしたら何かが変わっていたかもしれません。
その岡田さんに、私たち家族が元気になったことを知らせたいという気がしてきて、少し遠いのですが、岡田さんのところに行くことにしました。
岡田さんは、以前と同じく、患者さんたちと親しく話しながら、院内を動き回っていました。
結局、私のは疲れなどからくる内耳関係の機能障害でした。

岡田さんが、ホームページに奥さんのことを書かれていましたね、と言ってくれました。
この挽歌のことでしょうか。
読んでくれたのです。
帰り際に、覚えてくれていた看護師さんたちに「女房が呼んだのかと思いました」と話したら、「急がなくても奥さんはずっと待っていますよ」と言われました。
いやいや、もしかしたら待っていないかもしれませんね。

クリニックを出たら、なんだか急に普通に歩けるようになりました。
もしかしたら、節子が、岡田さんのところに報告にいかせたのかもしれないと思いました。

戻って少し休んだらパソコンまでやれるようになりました。
もっともいまもまだ胸のむかつきと心身の違和感は残ってはいますが。

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2009/01/22

■節子への挽歌508:自然の一部として、自然に生きる

節子
小雨の降る寒い1日でした。
どんよりした空、そして身体を凍えさせるような寒さ、そのためかどうも元気が出てきません。
人の生命は自然とつながっていることがよくわかります。

節子が手術をしてから4年半。
私たちは寄り添いながら暮らしていましたが、節子を通して自然を強く感じるようになりました。
暑さ寒さ、空の雲の広がり、気温や風、そうした自然に人間の心身は素直に反応することを、節子から教えてもらったわけです。
もっとも当の本人である節子自身は、必ずしも自覚していませんでしたので、おそらく今の私自身も、そう敏感に自覚できているわけではないでしょう。
しかし、節子の変化の様子が思い出されて、それにむしろ影響されてしまっているのかもしれません。
そのせいか、自然と節子の思い出と私の気分がなんだかワンセットになってしまっているのです。
真っ青な快晴の空を見ると節子の元気な笑顔を思い出しますし、今日のような寒空を見ると首を縮めて暑いお茶をすすっている節子を思い出します。
そして、重苦しい雲の向こうに、ついつい節子を感じてしまいます。
そうしたイメージが私の行動に大きな影響を与えているのです。

先日、おいしいと評判の高いブランド品のコーヒーをもらいました。
早速いただいてみました。
私はいつものとそう違わないような気もしましたが、一緒に飲んだ、「ブランド」通の人は「やはり美味しい」と言ってくれました。
まあそれはともかく、私たちは「ブランド」などの情報によって、物事を判断しがちです。
今日もゴヤの「巨人」の画はどうやらゴヤの弟子の作品だという報道が新聞に出ていましたが、絵画にしても誰が描いたかによって私たちの印象は変わってしまいます。
知識のおかげで、私たちは芸術作品を素直に見られなくなってしまったと、スーザン・ソンダク(以前、Comfort isolatesのところで紹介しました)は嘆いていますが、同感です。

私自身は、ブランドにも権威にも意識的にはとらわれない自信はある程度ありますが、最近の自然の受け止め方のことを考えると、どうも危うい気がしてきます。
自分の心身で世界をみることの難しさは、この頃、痛感します。

ところで、東洋の思想の根底にあるのは、生命は自然の一部だということです。
自然と人間とを対立させて考える西洋の思想とは全く違います。
しかし、西洋の思想にしても、たとえば聖書では、神様は土から人間を創ったとされていますから、本来は人間が自然の一部であると意識していたはずです。

自然の一部として、自然に生きる。
それが最近の私の理想なのですが、どうも小賢しい知識と無意味な私欲を吹っ切れずにいます。
節子がいた時は、そうしたことの無意味さを節子がその生き方において教えてくれていたのですが。

それにしても今日は寒いです。
あたためてくれる節子もいませんので、なおさらです。

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2009/01/21

■節子への挽歌507:エラン・ヴィタール

昨日は「死」について書きましたので、気分を変えるために今日は「生」です。

「エラン・ヴィタール」
何だかとてもいい響きの言葉です。
フランスの哲学者ベルグソンは学生時代に挑戦しましたが、消化できませんでした。
しかし、その著作はいずれも魅力的です。
「エラン・ヴィタール」は、そのベルグソンの「創造的進化」に出てくる言葉です。
ベルグソンは、生命は自らの内に、自らを進化させる躍動的な力を秘めていると考えました
その躍動の源、「生の躍動」を「エラン・ヴィタール」と名づけたのです。

生命とは不断に変化するものです。
それも自分で変化する。
荒っぽく言えば、それが「創造的進化」というわけです。
ダーウィンが言うように、外部からの働きかけで淘汰され進化するのではなく、自らのエラン・ヴィタールで進化するのです。
そうやって絶えず躍動し続けているのが生命なのです。
ある視点で見ると、そこに「進化」と呼んだほうがいい躍動があるのでしょう。
しかし、「進化」などという発想は、進歩主義の枠の中での発想でしかありません。

前にも書いたように、生命は時空間を超えてつながっています。
そう考えれば、進化もまた、そうした「大きな生命体」の状況の一つでしかありません。
ダーウィンの進化論は私には全く無意味で退屈なのですが、エラン・ヴィタールの考え方は魅力があります。
それに響きがいいです。
そう思う人が多いのか、この言葉には時々出会いますが、私はその意味を充分に咀嚼できていません。
ですから勝手な使い方になっていると思います。

その勝手な使い方によれば、エラン・ヴィタールが、個々の人間を創りだすとも考えられるわけです。
つまり、大きな生命体を分節してしまうわけです。
それが私であり、節子であるわけです。
そう考えると、私と節子の40年は、2つのエラン・ヴィタールの躍動の一瞬だったのかもしれません。
そして、節子のなかに在ったエラン・ヴィタールの炎が、ある時に「進化」して、彼岸に飛躍した。
なんだかちょっとロマンティックではあります。
さて私の中に在る、エラン・ヴィタールの次の躍動はいつでしょうか。

死もまた生の躍動の一つの現われと考えれば、死生観は大きく変わります。
しかし、それにしてもやはり「死」と言う文字の侘しい呪縛からは離れられないのが現実です。

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2009/01/20

■節子への挽歌506:死にまつわる3つのプロジェクト

17日に私が関わっているコムケア活動の新年交流会を開催しました。
各地でさまざまな活動に取り組んでいる人たちが集まってくれました。
節子の賛成もあって、私は本業の仕事をやめて、このコムケア活動にのめりこんだのですが、そのおかげで、私たちの人生は大きく変化してしまいました。
しかし、節子がいなくなった今、この仲間に大きく支えられているのです。

そこで「死」にまつわる話題がいくつか出ました。
挽歌504にも書きましたが、今年はどうも死に関するプロジェクトに引き寄せられています。

ひとつは、孤独死です。
今でも阪神大震災の被災者の方の中には仮設住宅倉逸されている方もあり、そこでの孤独死は少なくないのです。
その防止に取り組まれているのが松本さんが参加してくれたのですが、何とかして松本さんの構想を拡げていきたいと思っています。
もう一つは、新しい葬送文化に向けての活動です。
寿衣を縫う会の代表の嶋本さんがやはり参加してくれました。
嶋本さんは昨年、友人の葬儀に関わった体験から、もっと心を込めた葬儀を実現したいと思い立ったのです。
それで相談を受けたのですが、私も節子の時の体験から嶋本さんの問題意識に共感しました。
しかし、どうせなら「葬儀」ではなく、「葬送文化」を考えたいと思ったわけです。

サラリと書いていますが、実際にそうした議論をするのはかなりつらい話です。
写真などは、実は目を覆いたくなるほどです。
その辛さを気取られないようにしようとがんばったのですが、一度だけ、少し感情を出してしまいました。
まだまだ簡単には「死」を考えられない自分に気づかされました。

もう一つは「自殺」問題です。
東尋坊の茂さん から、ある構想に関して応援して欲しいと頼まれているのです。
茂さんからの頼みは断れません。
節子も会っていますし。

そんなわけで、今年は「死に関係するプロジェクト」に取り組むことになりそうですが、果たして大丈夫でしょうか。
いささかの心配はあるのですが、いずれも自分から呼び寄せたプロジェクトではなく、先鋒からやってきたプロジェクトです。
それに、これを乗り切れたならば、節子に近づけるかもしれないという思いもあるのです。

しかし、この記事を書いただけでも少し胸がドキドキしています。
気が小さいというか、だらしないというか、節子に笑われないようにしないといけません。
節子は、その先にいるのですから。

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2009/01/19

■節子への挽歌505:「見かけは元気」

節子
昨日、思わぬ人からの電話です。
先日電話をくれたマレーシアのチョンさんが日本に来たので会いたいというのです。
日本にくるかもしれないと言っていたので、もしかしたらとは思っていましたが、あまりに突然でした。
幸いに在宅だったので、自宅に来ないかと言ったのですが、仕事の関係で時間がとれないというのです。
それで上野まで会いに行きました。
全く変わっていませんでした。
そして、節子がいつも言っていたように、「陽気なチョンさん」ぶりも変わっていませんでした。

前にも書きましたが、アジアからの留学生の集まりの場を提供し、私たちとして何かできることを考えたいという思いで始めた留学生サロンは、あまりうまくいきませんでした。
最初の集まりで感じたのは、留学生たちの「疑いの目」でした。
日本人に対する不信感のようなものを感じました。
それはそうでしょう。
見ず知らずの人が急に声をかけてもどこか胡散臭い感じです。
実際にいろいろとひどい目に会った人もいるようでした。
みんな日本人に対して、あまり良い印象を持っていませんでした。
そういう場に、しかし節子がいることで雰囲気はかなり変わりました。
節子がいることで、安心感を与え雰囲気を和らげる場面は、留学生サロンに限らず、いろいろとありました。
私のさまざまな活動は、そういう意味でも節子に支えられていました。

当時、私はあまりにもたくさんのテーマに取り組みすぎており、留学生サロンもその一つでしかありませんでした。
問題に出合うとすぐに何かやりたくなってしまい、みんな中途半端に終わってしまう私の性格は今もあまり変わっていませんが、留学生サロンは節子はたぶんもう少し続けたかったのではないかと思います。
しかし同居していた私の母の介護や節子自身の体調不振が起こり、しかも、私が時間破産に陥ったりして、2年ほどで終わってしまいました。
その後も何人かの留学生はやってきてくれていました。
チョンさんはその一人でした。

チョンさんは会うなり、佐藤さん、元気になってください、と言いました。
元気だよと応えると、見かけは元気ですね、とすぐ反応しました。
「見かけは元気」
そうなのかもしれません。

チョンさんはいまインドネシアで仕事をしていますが、最近、40代の友人を病気で突然失ったのだそうです。
医療環境の遅れから、インドネシアで病気になると大変なのだそうです。
若い友人を失うことの辛さを、陽気なチョンさんは笑いながら話しましたが、きっとそれは「見かけ上の陽気さ」だったのでしょう。
彼自身、いろいろと不安や悩みを抱えています。
しかしそんなことは全く表情に出さずに、いつものように陽気に笑います。

奥さんは佐藤さんの同志だったのですよね、というようなことも言ってくれました。
昔の話をいろいろとしてくれました。
節子が元気だったころの話をしているうちに、私も元気をもらったような気がします。

別れ際にチョンがまた言いました。
「佐藤さん 元気になってくださいよ」
見かけ上の元気では、彼はどうも安心できないようです。
今度来日したらわが家にくることを約束して別れました。

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2009/01/18

■節子への挽歌504:精一杯生きる

挽歌501にお2人の方からメールとコメントをいただきました。
コメントしてくださったのは、田淵さんです。
一部を再録させてもらいます。全文はコメントをお読みください

私も先日出した寒中見舞いに
「・・・・過酷な闘病でしたが主人は最期まで投げ出すことなくひたむきに生き抜きました。・・・・」
と書きました。

 そうですね。死ぬために生きているのではありません。

友人たちが慰めのために「ご主人はもういいと思われたときもあった筈だけど、あなたのために頑張られたのよ」と言ってもらっても違和感を感じたのは、私はやはり主人はもういいとは一度も思わなかったと確信しているからです。
生きたいと思っていたに違いありません。
真摯に生き抜きました。
そういう人間もいることを知ってほしいですよね

「そういう人間もいることを知ってほしいですよね」
というところに、田淵さんの思いが伝わってきます。

もう一人は、挽歌287で紹介した大浦さんです。
むすめさんを見送った大浦さんからも、(私も)そのことを伝えたくて、「あなたにあえてよかった」を書いたのだと思いだしました、とメールをもらいました。

郁代もまた、他に選ぶことが出来ない、逃げ場のない生を、最期まで精一杯生きようとしたのでした。
周りの人ができることは、精一杯生きようとしている人と共に生きることなのかもしれません。
最近、テレビに時々登場しますが、東尋坊で自殺予防活動に取り組んでいる茂さんが「本当はみんないきたいんや」と言っていたことを思い出します。

昨日、ある集まりで、「死」が話題になりました。
私にはかなり辛いテーマですが、今年は少し「死」に関するプロジェクトに関わることになりそうです。
自分で決めたことではなく、流れの中でそうなってきたのです。
これもきっと何かの必然性があるのでしょう。
しかし、「死」を語る時には、いつもこのことを忘れないようにしたいと思っています。

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2009/01/17

■節子への挽歌503:坂道をのぼりながら考えたこと

節子
最近、坂道を登るのに息が切れてしまうようになりました。
老いを身体で実感できるようになってきたのです。
ポジティブシンキングを目指す私としては、身体の感受性が豊かになってきたと受け止めていますが、その坂道をのぼりながら思い出すのは節子のことです。

節子が病気になってから、2人で散歩などしていると、私には気づかないようななだらかな坂道でも、疲れるからもっとゆっくり歩いてよ、といったものです。
最初の頃は、こんな坂でそんなにもつらいの、と私は無情にも反応してしまったものです。
元気な時にはなかなか実感できないもので、ついつい急がせてしまっていたこともあるような気がします。

これは坂道だけではありません。
歩く速度じたいも昔と違ってゆっくりになりました。
いや生活すべてにおけるスピードが変わっていったのです。
私はそれを理解しても、なかなか身体的な反応にはつながらず、節子には申し訳ないことをしたと今でも思っています。
頭での理解と身体的な反応は時間のずれがあります。
しかし、一度身体に刷り込まれた時間リズムは定着し、節子のリズムが今の私のリズムになっているような気がします。
そして、坂道をのぼるときに、節子が教えてくれた生活リズムをいつも思い出すのです。

「人を愛するとは、その人間と一緒に年老いるのを受け容れることにほかならない」とアルベール・カミユは書いています。
私たちは一緒に暮らし始めた時に、そのことをかなり意識していました。
しかし、節子が私より早く旅立ってしまい、年老いた暮らしを共にできなくなってしまいました。
節子は、私に対してそのことを時々わびていました。
まさか関係が逆転するなどとは私たちは思ってもいなかったのです。
年老いて、2人の人生の苦楽を思い出しながら、語り合う。
それがある意味での私たちの人生の目標だったのです。
過去は、未来においてはじめて意味を持ってくる、と私は考えていました。
ですから、2人とも過去のことなどには無関心に生きてきました。
しかしもはや過去を語ることもなくなってしまったのです。
私たちの未来が消えてしまうと共に、過去もまた消えてしまったのです。

昨日、坂道をのぼりながら、少し息切れしている自分に気づきました。
その時にハッと気づきました。
病気になってからの節子は、その後の人生を凝縮させて生きていたのではないか。
私に年老いた自分を体験させてくれたのではないか。
そして私に年老いた時の生き方を教えてくれていたのではないか。

いささか馬鹿げた考えですが、そう思えてきたのです。
私たちが目指していた、年老いて寄り添いながら暮らす生き方を、節子は体験させてくれていたわけです。

「人を愛するとは、その人間と一緒に年老いるのを受け容れることにほかならない」
カミユの言葉の意味が、ようやくわかったような気がします。
節子、ありがとう。

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2009/01/16

■節子への挽歌502:「父ちゃんが逝って1か月がたちました」

節子
高崎で「ゆいの家」の活動をされていた、コムケア仲間の高石さんから毎月送られてくる「風の大地」が届きました。
コムケア仲間からのニューズレターなどは最近あまりきちんと読んでいないのですが(読む余裕がなくなっていました)、今年からきちんと読んでいこうと思い、開いてみて驚きました。
「父ちゃんが逝って1か月がたちました」とあるのです。

高石さんのことは一度書いたことがあります
高石さんのご主人もまた、節子の再発と同じ頃にがんが再発したのです。
しかし、時折届く高石さんの「風の大地」を通じて、危機を乗り越えて、回復し元気になったと思い込んでいたのです。
節子の訃報を伝えた時にも、几帳面にぎっしりと書き込んだ返信をもらいましたが、その時にも高石さんたちは危機を乗り越えたんだなと感じたことを覚えています。
ところが、思わぬ記事に出会ってしまいました。

高石さんのパートナーは、発病以来、しっかりとご自分でノートを書いていたそうです。
そのノートの一部を「風の大地」に引用されています。
そして、高石さんはこう書いています。

父ちゃんのノートの内容をたどりながら、「父ちゃんの死」に対して、きちんと向き合いたいと思います。

それに続いて、代替医療を信ずる高石さん、しかし医者から提案される抗がん剤治療に迷う夫、その2人のそれぞれの思いなどが語られています。
とても身につまされる話で、最後までは読めませんでした。
今回はいつもよりも、とても長い「風の大地」でした。

「父ちゃんが逝って1か月がたちました」
高石さんらしい言葉です。
夫婦の関係は実にさまざまです。
私たち夫婦と高石さん夫婦はかなり違っているのですが、高石さんがとても素直に気持ちを披瀝されているところは私と全く同じです。
愛する人との別れは、人をとても素直にするのかもしれません。

私は高石さんのパートナーには会ったことはありませんが、ご冥福をお祈りいたします。
高石さんからの「風の大地」を、これから読めるかどうか、ちょっと不安です。

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2009/01/15

■節子への挽歌501:「生き方」と「死に方」

今日の読売新聞の記事です。

がん患者の8割以上は、最後まで病気と闘うことを望みつつも、死を意識せずに普段通りに過ごしたいと考えていることが、東京大によるアンケート調査で明らかになった。
逆に、がん診療に当たる医師や看護師は、将来の病状の変化や余命を知って、死に備えることを重視する割合が多く、患者と医療関係者の間で価値観のギャップがあることが浮き彫りになった。
節子のことで知人の医師に相談した時に、問題は「死に方」ですね、といわれたのはショックでした。
その医師は、統合医療研究会の中心人物だったこともあり、違った答を期待していたからです。
その後も医師に限らず、同じようなことを言われたこともありました。

日本の武士道でも「死に方」が問題にされますが、私には全く理解できない発想です。
人間は死に向かって生きているわけではありません。
生きているから死があるのです。
さもわかったように、「死に方が大切です」などという人を見ると、正直、私は蹴飛ばしたくなります。
生きようとしている人に対して、わかったようなことをいうな。
自分の生き方も少しは考えろ、といいたくなるわけです。

少し言葉がすぎたかもしれませんが、真剣に生きている人に、「死に方」などということが、どれほど残酷なことかわかってほしいものです。
「死に方」は、所詮は「生き方」の問題ですから、わざわざ言い換える必要はありません。
それに、生命はすべてつながっていると考える私にとっては、「死に方」は自分でどうこうできる問題ではありません。

こうしたことに関して書き出すと長くなってしまいますのでやめますが、節子は最後まで見事な生き方をしました。
節子は最後の最後まで、生き方を考え、生きることを放棄はしませんでした。
死への恐怖や不安は見事なほど、克服していました。
肩に力を入れて、そう思っていたわけではありません。
死から解放され、素直に、自然に、最後まで誠実に生きたのです。
弱音も愚痴も一切口にしませんでした。
告別式の挨拶で話したように、最後の1か月は凄絶な闘病生活でしたが、それはそれは見事な生き方でした。

それを「死に方」という人がいるかもしれませんが、断じてそうではありません。
心のある人であれば、決して死に方などという言葉は使わないでしょう。
一緒に体験しているとわかりますが、「生き方」なのです。
「死に方」で発想している医師には、生命への畏れが欠落しています。
病気は治せても、病人は治せないでしょう。
そういう人たちが、きっとイリイチの言う「病院社会」をつくってきたのです。
また言葉が激しくなりそうですね。
この件では、医師に言いたいことが山ほどあるので、どうしても感情的になってしまいます。
節子に怒られそうなのでやめましょう。

見事な生き方をした節子。
あまりに見事だったので、私は節子が死んだとは今でも思えないのです。
その節子に比べると、今の私の生き方はいささか弱々しいかもしれません。
しかし、私もまた、素直に、自然に、誠実に生きています。
でも誰もほめてくれません。
節子だけはきっと彼岸からエールを送ってくれているでしょう。

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