カテゴリー「経済時評」の記事

2019/05/19

■自動車に甘いのは経済成長のため?

87歳の公益財団法人評議員会議長で旧通産省工業技術院の幹部だった人が起こした池袋での母子殺傷事件の遺族が、再度行った運転者に呼びかける記者会見を見ました。
その行動に感動します。
当日は、加害者は任意での事情聴取に出かけましたが、途中、記者団への問いかけにほぼ無言でした。
私には信じがたい情景で、この人は謝罪や反省などとは無縁の人なのだなと感じました。

この事件を契機にして、高齢者の運転免許返納が増えているそうですし、マスコミでも盛んに取り上げられています。
しかしたぶん何も変わらないような気がします。
新聞の投書欄でも、高齢者の運転に関する議論が盛んですが、すぐにまた収まるでしょう。
そして事態は何も変わらない。

数年前に、飲酒運転事故が騒がれて、大きな問題になったことがあります。
その結果、危険運転致死傷罪もできて、処罰が厳しくできるようになりました。
しかし、その後、果たして飲酒運転は減ったのか。
私には相変わらず事態は何も変わっていないように思えます。

なぜなのか。
基本的な発想の問題だろうと思います。

私の感覚では、飲酒運転で殺傷事件を起こした人の免許は未来永劫はく奪すべきだと思います。
高齢者の運転免許は、人によって違いはあるでしょうが、80歳(たとえばですが)で免許停止にすべきだと思います。
年齢で制限するのはおかしいという意見がありますが、だとしたら3歳の子どもにも運転する権利を与えるべきですし、ましてや基本的人権を年齢で制限するべきではありません。
自分はまだ大丈夫だなどというばかげた主張がありますが、今回の加害者もそう思っていたのです。
そう主張する人は、今回の加害者と同じ世界にいる人でしょう。

しかし、なぜそんな簡単なことができないのか。
そこに経済成長志向の思考があるからではないかと私には思えます。

これは、自動車に限ったことではありません。
日本の経済成長を支えている「産業」すべてに言えることです、
その典型はやはり「原発」でしょう。
あるいは「医療」や「教育」もそうかもしれません。
明らかにおかしいと思われることがあっても、「医療」や「教育」に関しては、なかなか事態は変わりません。

さらにそれを支えている文化の問題もあります。
私たちは、いまは生活者ではなく消費者であり、労働者です。
未だに消費者運動や労働者運動が残っていることに、私は大きな違和感がありますが、その運動に大義を与えている経済の論理から言えば、交通事故は「顧客の創造」でもあるのです。

そろそろ「顧客の創造」が経済の出発点であるなどという発想を反転させるべきではないかと思います。

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2019/04/03

■「金額に応じた報酬」という発想

成年後見制度の報酬に関する見直しを促す通知が最高裁から全国の家庭裁判所に出されたと今朝の朝日新聞に報道されていました。
朝日新聞によれば、「認知症などで判断能力が十分ではない人を支える成年後見制度を巡り、最高裁判所は、本人の財産から後見人に支払われる報酬を業務量や難易度に応じた金額とするよう、全国の家庭裁判所(家裁)に促す通知を出した。財産額に応じた報酬となっている現状に批判があることを踏まえ、制度利用を増やす一環として見直しを目指すものだ」そうです。
ようやくこういう発想が出てきました。「制度利用を増やす一環として」というところに、「何も変わっていない」意図を感じはしますが。

 こうした「金額に応じた報酬」という発想が社会を覆っていることへのおかしさをずっと感じていました。
たとえば、不動産売買業務の手数料も売買金額に応じて決まってきます。
裁判の弁護士報酬もそうです。
活動価値の判断基準が「金額」に依拠しているわけです。

専門家が、次第に卑しくなっていく危険性が、そこに内在されているように思います。
まあ、それは言い過ぎとしても、こういう発想が社会を金銭依存に導いていることは間違いない。
そうしたことの弊害は、改めて説明することもないでしょう。
結果的にはみんな「お金」を価値判断の基準にしてしまうわけです。

私は、お金とは人との関係性で意味を持ってくると考えています。
お金持ちにとっての1万円と金銭的に恵まれない人の1万円の価値は全く違うでしょう。
むかしの「赤ひげ先生」のように、お金のない人には無料で、お金持ちには高価で、医療対価を設定するのは、きわめて理にかなっています。

「金額に応じた報酬」社会は、お金に支配される社会に直結していきます。
そして、人の価値まで金銭基準になっていく。
そして、自分の市場価値を高めることが大切だなどということが言われるような、本末転倒な社会になってしまったわけです。

仕事の価値はお金とは無縁です。
仕事の捉え方を改めなければいけません。
そうすれば、働き方も変わってくるでしょう。

 5月6日に、「過労死問題」につなげて、「働き方」をテーマにしたサロンを予定しています。
4月から働き方改革関連法が施行されましたが、そもそもの発想を変えなければ、むしろ状況は悪い方向に向かうのではないかと危惧しています。
よかったら参加してください。

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2019/02/12

■カフェサロン「種子法がなくなって、日本の野菜は大丈夫なのか」の報告

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「タネと内臓」(築地書館)の著者、吉田太郎さんのサロンには、有機農業に取り組んでいる霜里農場関係者も含めて、20人を超える参加者がありました。
新潟からわざわざ参加してくれた方もいます。
食の安全性に関する生活者の関心の高さがわかりますが、昨今の日本の状況を見ると、政府やマスコミの関心はどうも真反対の方向を向いているのではないかと、改めて気づかされたサロンでした。

吉田さんのお話は、なんと4億年前のデボン紀からはじまり、人類の未来にまでわたる長い時間の中で、いまの私たちの食の問題を、さまざまな話題を通して、わかりやすく、面白く、解説してくれました。
詳しい内容はとても紹介しきれませんが、たとえばこんな話題が出ました。

いまの食生活だと、あの知的で精悍だったホモ・サピエンスは太った豚のように進化していくのではないか、
遺伝子組み換えのコーンは、「カス」どころか、いまや「毒」といってもいい。
究極のデドックスは腸内細菌だ。
私たちが毎日食べている食べものが、体内の善玉菌を殺し、その腸内細菌の活動を抑えてきている。
土中微生物を消滅させる除草剤グリホサートは、世界的には追放されつつあるが、そうした動きも含めて、日本ではあまり報道されず、今も使われている。
ヨーロッパでは、地域と地球の生態系維持を目指すアグロエコロジーが広がっており、公共調達で取得する食材の6割を有機農産物にしなければならないことがルール化された。デンマークなどでは学校給食は有機野菜と決められている。
国連でも、2014年に「国際家族農業年」宣言をし、小規模な家族農業を重視する呼びかけを行っている。
日本ではメディアは、こうした問題をほとんどとり上げない。
世界各地で、子どもたちにまともなものを食べさせたいという母親たちの動きが社会を変えつつある。
アメリカ人は、食生活も大きな理由になって、短命になり、不妊になってきている。
ちょっと私の拡大解釈や誤解があるかもしれませんが、これはほんの一部です。
そして最後は、マネーでは幸せになれないという話や贈与経済の話にまでいきました。
興味のある方は、ぜひ吉田さんの著書「タネと内臓」をお読みください。

こうした状況にどう対処したらいいか(これに関しても吉田さんは話の中で言及されました)ということも含めて、話し合いが行われました。
食育活動に取り組んでいる参加者の方が、有機野菜とそうでない野菜を比べると栄養価が全く違うという話をしてくれました。
要は、量的には同じでも生命にとっての価値は全く違うというわけです。
栄養価や美味しさ基準で価格を評価したら、有機野菜のほうがずっと割安になるのですが、今の経済システムでは有機野菜は高いと思われてしまうわけです。
有機野菜はなぜ高いのかということに関しては、霜里農場の金子友子さんは流通の問題が大きいと言います。
生産者と消費者とを結ぶ活動をしている方も参加していましたが、有機野菜がもっと広がっていけば、価格問題はむしろ有機野菜のほうにとって有利になることは十分考えられます。
工業型生産野菜を主軸にしていこうという、現在の農政や経済政策を見直すことで、変えられる問題かもしれません。

価格だけではなく、味覚の問題も話題になりました。
有機のおいしい野菜を食べたら、味覚が戻ってくるという人もいますが、最近の子どもたちの味覚はもしかしたら、不可逆的に変わりつつあるのかもしれません。
急いで取り組むべき問題だと思いますが、日本では一部の母親たちを除いて、ほとんど無関心です。
せめて学校給食を変えていかなければいけません。
いずれにしろ、私たちは食やそれを支える農への関心をもっと高め、知識を増やしていくことが大切です。

吉田さんは、種子法廃止に関連して、長野県で「長野県主要農作物等種子条例(仮称)」制定の動きが出てきていることも紹介してくれました。
こうした伝統野菜を守ろうという動きが、これから広がっていくことが期待されます。
長野には「信州の伝統野菜」という制度もあるそうですが、行政に限らず市民活動として、その土地の中で育ってきた「地の野菜」を守ろうという動きも各地で始まってきています。
食を守るのは、やはり住民や市民が主役でなければいけません。
そのためにも、このテーマは引き続き、サロンで話し合えればと思っています。
話題(問題)提起したい方がいたら、ぜひご連絡ください。

霜里農場の友子さんが完全有機のイチゴとケーキを、柏のすぎのファームの杉野さんがなしジュースと食用ひまわり油とそれを塗って食べるためのフランスパンを持ってきてくれました。
いずれもとてもおいしかったです。
私の味覚はまだ、辛うじて大丈夫かもしれません。

最後にいささかの暴言を。
今回のサロンを聞いていて、私は、日本の政府が、少子化を促進していると改めて感じました。
表面的には、「少子化対策」を表明していますが、実際に行っているのは「少子化推進」ではないのか。
これは少子化に限りません。
認知症の問題にもささやかに関わっていますが、政府は認知症を増やしたいと思っているようにしか思えません。
これはかなりいじけた私の暴言ですが。


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2018/12/18

■官民一体となって原発輸出を進めてきた?

三菱重工や日立製作所は、政府と一体となって進めてきたトルコの原子力発電所の建設計画を断念する方針を固めたという報道がありました。
日本の原発輸出事業は、よく「官民一体」で進められていると表現されます。
官民一体で進めてきたとしたら、その「民」には少なくとも私は入っていません。
私は、日本においては「民」、つまり「国民」ではないのです。
これまで何回もこのブログでは書いてきていますが、改めて書きたくなりました。

社会は「公」と「私」で構成されているといわれていました。
「公」と「私」は時々、「パブリック」と「プライベート」とも表現されます。
しかし、「公」はパブリックなのか。「私」はプライベートなのか。

「公」の主役は政府で、「私」の主役は企業です。
であれば、「公私」などいわずに、「官民」というのが適切でしょう。
となると、官民で社会が構成されているとは言えません。
なぜならそこに私たちの生活社会がないからです。
つまり「官民」とは民を統治する側の概念であり、しかも「官尊民卑」という言葉があるように、要するに「官」のことなのです。
そこには「人民」という意味での「民」はもちろんですが、「国民」という意味での「民」すら含まれません。
アメリカ憲法はpeopleという言葉を使っていいますが、日本国憲法の英語表記のpeopleをなぜか日本政府が「国民」と訳してしまいました。
“people”と「国民」とは、全くと言っていいほどの違いがあると思います。

「官民」とは違う私たちの現実の「生活社会」は公でも私でもない「共」の社会です。
平たく言えば地域社会、近代西欧の言葉を使えば「市民社会」です。
私は、それを「コモンズ」と呼んでいますが、要は、peopleが支え合いながら暮らしているリアルな社会です。
それが、大きな政府や大きな企業によって、縮小され片隅に追いやられていたのが、明治維新から最近までの日本かもしれません。
地域社会の主役であるべき自治会は行政の下請けの端末組織になり、期待のNPOもまた、同じように行政の下請けや企業の類似物になってきているというのが、私の現状認識です。
もちろん、主体的に活動している自治会やNPOもたくさんありますが、大きな流れはどうもそういう感じではないかと思っています。
これに関しては、かなり前のものですが、小論があります。
○コモンズの視点から発想の流れを逆転させよう
http://cws.c.ooco.jp/commonnsronbun1.htm
○私の視点「NPO支援 資金助成よりも活動支援を」
http://cws.c.ooco.jp/npo-toukou2.htm

ところで、日本の原発輸出が各地で頓挫している理由は、採算が取れないことです。
まともに考えれば、原発事業は経済的に成り立ちません。
日本でもそういうことは、私が知っている限りでも1980年代にはかなり明らかになってきています。
原発事業が保険の対象にならなかったことを考えれば、最初から分かっていたことです。
しかし、「官」が「民」(大企業)には有無を言わさずに、「安全神話」を、それこそ「官民一体」となって広めてきたのです。

官民だけで社会や世界は構成されているわけではないのです。

「民営化」とか〔〈介護の〉社会化」とかいう言葉に騙されてはいけません。
それらはすべてpeopleの資産を誰か個人に貢ぐことを意味しているのかもしれません。
社会を構成している主役は、people、私たち生活者なのです。
少なくとも現在は、という意味ですが。

官民一体には私は断じて入っていません。
官民が横暴な行為をするようなことがあれば、沖縄の人たちを見習って、それに抗わなければいけません。

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2018/12/14

■なぜ制度は複雑になるのか

怒りをぶつけるついでに、もう一つだけ。
まあ氷山の一角的なものですが。

消費税増税のイメージを緩和するために政府は様々な制度を考えだしています。
もしかしたら私のような低所得者には得になるような制度ができるかもしれないなどという思いが、時に一瞬、頭に浮かびますが、そういうことは絶対にないのです。
たとえ10万円のばらまきの対象になったとしても、喜んではいけません。
一見得になるようなものこそが危ういのです。

それは極めて簡単なことでわかります。
制度ができるたびに、その運用コストがかかるのですが、それは私たちの生活を豊かにしてはくれません。
いわゆる「行政コスト」が余計にかかるだけですが、行政コストには必ず業者が寄生していますから、その業者の利益もまた、私たちの生活を豊かにすることには使われません。
いずれにしろ、税金が無駄な使われ方をされ、私たちに役立つことには使われなくなるのですから。

消費税は極めて複雑になりそうですが、複雑にすればするだけ、消費者は得をしたか損をしたかわからなくなります。
これもおそらく大きな目的でしょう。
しかし間違いないことは、複雑になるだけ無駄な仕事やコストがかかるということです。
そして無駄なものでも、それが何かの生産につながれば、経済成長率を高めるという効果もありますから、政府にとっては好都合なのです。

これは政府だけの話ではありません。
私のところには、世界の困っている人を支援するためにチョコレートや絵葉書やCDを買ってほしいという話がよく来ます。
なかには当然私がそういうものを買うだろうと思っている人もいます。
私は、むしろそういう行為には極めて否定的です。
確かにその売上金の一部は困った人のところに届くかもしれません。
しかし、その少なくない部分は、そうした「商品」を生産するために、またそういう活動を知らせ販売していくために、使途されます。
しかしそういう「商品」はほとんどの場合、「無駄なもの」が多いのです。
それに、生産するためにどれほどの資源を無駄にし、エネルギーを浪費したか。
そういう無駄なものをつくる世界の経済構造が、飢餓を生み出し難民を生み出しているのです。
それに加担する気にはなれません。
むしろそうした活動をしている人を見ると、こういう「善意の人」が一番罪深いとさえ思えてしまいます。
もっと本当に実のある活動をしてほしいと思ってしまうわけです。

ふるさと納税も無駄の極みです。
行政職員がそんな活動をするのは、私に背任行為としか思えません。
税金ってなんだかわかっているのでしょうか。

それにしても消費税増税は迷惑な話です
欧州の先進国の事例を少しは学んでほしいです。
無駄をなくすだけで、純粋の税収は増えるかもしれません。
ますます税金を払いたくなくなってしまう人が増えるかもしれません。
しかし節税が奨励されるお国柄ですから、こんなことを言っても始まらないでしょうね。
喜んで税金を負担する国になってほしいです。

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2018/10/21

■第3回有機野菜の旬を楽しむ会の報告

霜里農場金子友子さん主催の「有機野菜の旬を楽しむ会」も3回目になりました。
今回は、この1年間、霜里農場で実習し、来月福岡に帰る「たなちゃん」こと棚町弘一郎さんがゲストで、棚町さんの新たな門出の祝いを兼ねての、「たなちゃん送別会サロン」でした。
そのおかげで、たなちゃん世代の若い人たちがたくさん参加してくれ、いつもとは違う雰囲気でした。
旬の有機野菜は「枝豆」。
「枝豆」ということもあって、参加者からビールの差し入れもありました。

最初に、たなちゃんから、なぜ農業を志したのか、そしてなぜ実習の場所が霜里農場だったかの話があり、それから福岡に戻ってからの活動の構想が紹介されました。
たなちゃん手作りの紙芝居的イラストを使っての話は、とても共感できるものでした。

たなちゃんは作物科学というのを大学で専攻したそうですが、そこでいくつかの疑問にぶつかったようです。
そして自分は研究ではなく実際の農業の現場で活動しゆと決断したそうです。
その背景にはたなちゃんの生き方に関わる3つの信条がありました。
「自然を大切にすること」「人の役に立つこと」「身近な人を大切にすること」です。
もしかしたら、いまの農業は自然を壊しているのかもしれません。
しかし、自然を豊かにする農の営みもあるはずです。
それがたなちゃんの思いだったようです。
また「農業」を通して、みんなの、特に身近な人の役に立ちたいと思っているたなちゃんは、農業への取り組みがその地域全体を豊かにすることにつながっていけばいいなと思っています。
ですから、霜里農場のように、そこから地域全体に広がっていくスタイルに、たなちゃんは惚れ込んだわけです。
そこで霜里農場での1年間の実習を決めたそうです。
こうしたたなちゃんの生き方に私はとても共感しました。

福岡に帰ってどうするか。
まずは引き続きもう少し有機農業を地元で学ぶそうですが、並行して福岡市の郊外に自分の農場をつくるそうです。
場所も大体決まっていて、室見川の上流の、まだあまり有機農業が行なわれていないところのようです。
その場所を選んだ理由もとても共感できるものでした。
そして、3つのことをやりたいと話しました。
「寺小屋」「引き売り」「室見川流域の生活つなぎ」です。
内容は省略しますが、これは私が理想としている構想にも通じますので、とても感心しました。

何やらとても明るい未来を感ずる話でした。
それにたなちゃんを応援する若者たちもみんな農業に関心を持っているようで、とても元気をもらえました。

枝豆を味わう前に、少しだけ話し合いをしました。
いろんな話がありましたが、「有機野菜」の対語が「慣行野菜」だと知りました。
私は「有機野菜」や「有機農業」という言葉に違和感がありますが、「慣行野菜」という言葉には拒否感を持ちました。
ネットで調べたら、化学肥料を主に使って栽培した野菜を「慣行野菜」というようです。
化学肥料を使用するのが「慣行」?
一体どうなっているのでしょうか。
どう考えてもおかしい。
日本の農の営みは、自然との循環の中で、土や自然とともにあったはずです。
化学物質で土を殺し、野菜を追いやる農は断じて日本の「慣行」ではなかったはずです。
そうした用語を許している農業関係者にがっかりしました。
たなちゃんの話に元気をもらったはずが、そのことで一挙に元気を失いました。
ここから少し怒りを感じて、草取りが大変だなどという考えを捨てようとか機械を使っても有機農業といえるのかなどと、ついつい暴言を吐いてしまいました。
あとでたぶん友子さんに叱られるでしょう。

それはそれとして、たなちゃんのこれからの活動が楽しみです。
たなちゃんの友人で、短期間ですが、やはり霜里農場で実習した田中さんが、実家でつくっているという無農薬のリンゴを持ってきてくれました。
私も食べさせてもらいましたが、彼も農家を継ぐ思いがあるようです。
無農薬のリンゴ。
その彼も、後で「皆さんの前で話せるような立派な農家になれるように頑張ります!」とメールをくれました。
また元気になれました。

とてもいいサロンでした。
農業は、いや正確には、「農の営み」は、人を誠実にし、素直にし、元気にしてくれることを改めて確信しました。

たなちゃんのこれからの活動が楽しみです。


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2018/10/08

■消費することも「仕事」です

昨日、「個人と組織の関係を考える研究会」でした。
さまざまな分野で活動している人たちで始めた研究会ですが、いまはそのシーズン2で、会社を切り口にして話し合っています。
昨日のいろんな話題が出ましたが、その一つが「AIによって人間の仕事がなくなっていくことと高齢者の増加」が話題になりました。
たまたま昨夜、NHKテレビの「マネー・ワールド」で、AIによって仕事が激減することとベーシックインカムが話題にされていました。
ベーシックインカムも、昨日の研究会やサロンでも話題になったことです。

これに関しての私の考えは、極めて明快なのですが、なぜかほかの人が語っているのを聞いたことがありません。
昨日の研究会でも話しましたが、多分冗談だと思われてスルーされています。
しかし、たぶん間違いないでしょう。
遅くも30年後には常識になっているでしょう。

それは「仕事」の捉え方が変わるということです。
ブログでは何回も書いていますが、私の仕事観からすれば、今でも地方にはたくさんの仕事があります。
昨日もこれも発言しましたが、まだ受け入れられませんでした。
私が実行しだしてから30年ですので、多分これは間もなく受け入れられるでしょう。
AIが発達してきたおかげで、私の仕事観はようやくリアリティを持ってきました。
簡単に言えば、「消費」も「仕事」だということです。
何だそんなことはわかりきっていると言われそうですが、まだまだ「仕事」とはお金をもらうことだと考えている人がほとんどですから、「消費も仕事」という時の「仕事」は、私の捉え方とは違っていると思います。
会社を辞めた直後に、日本能率協会の雑誌に「脱構築する企業経営」という連載をしました。
そこで「生産」と「消費」はコインの裏表と書きましたが、その頃はまだ経済の捉え方が私にはできていませんでした。
しかし会社を辞めて30年近く、報酬と仕事は別のものという働き方をしてきたおかげで、ようやく確信が持ててきました。
消費も立派な生産的な仕事なのです。
生産と消費は対立語ではなく、消費は生産のサブシステムであり、消費によって生産は完結するのです(さらにいえば、循環させるための「還元」も必要ですが)。
生産とは金銭を得ることではなく、価値を創りだすことなのです。

AIが人のする仕事を奪うようになってきたので、このことがわかりやすくなってきました。
AIと共存できる仕事、それが「消費」なのです。
いくら生産しても、消費する人がいないと、経済は動きません。
セイが言うような、供給が需要を創りだす「物不足時代」は終わりだしています。
現に日本では今、供給力過剰で、実体経済が停滞し、「失われた30年」がつづいています。
その事態を打破するのは簡単で、お金をばらまいて、消費したいのにできないでいる人たちに「消費する仕事」に取り組んでもらえばいいのです。
つまり景気対策としてのベーシックインカムです。

長くなってしまったので、もうやめますが、「消費することは生産を助ける経済的な仕事」なのです。
「働き方改革」ではなく「仕事の捉え方改革」をする段階に来ました。

それで、私も、今年の春にフェイスブックで予告していた新しい仕事を始めることにしました。
その新しい仕事は、お金を持っている人の代わりにお金を使ってやる仕事です。
但し、そうむやみに引き受けるわけではありません。
いまのところ、最低で3億円以上で、消費する料金は1~2割。

お金を燃すだけでもいいというお客様の場合は費用はかなり高目の特別料金になります。
社会的な価値はあるかもしれませんが、仕事としては面白くないからです。
各地にお金を落として回るというのは、各地の観光旅行でできるので、料金は少し安くなります。
生活に困っている人に喜んでもらえる施設づくりの場合は、料金はとても安くなります。

ブラックなお金は引き受けられませんし、使用目的は私が納得するものでなければ引き受けません。
詳しい仕事募集の案内は、間もなく始める予定です。
上手くいけば、同業者が増えるかもしれません。
AIたちもきっと喜んでくれるでしょう。

そしてその先どうなるか。
それもサロンなどでは話していますが、あんまり真剣には聞いてもらえません。
しかし、きっとそうなるでしょう。
私にはちょっと悩ましい問題が、それによって発生するのですが。

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2018/06/24

■第1回「有機野菜の旬を楽しむ会」報告

霜里農場の金子友子さん主催の「有機野菜の旬を楽しむ会」がスタートしました。
金子さんご夫妻がやっている埼玉県小川町の霜里農場は、全国から有機農業を志す人たちの学びの場です。
http://www.shimosato-farm.com/
そこから巣立っていた人たちを毎回、ゲストにお呼びし、そこでできた旬の野菜を味わいながら、有機農業や私たちの生き方をちょっと考えてみようというサロンです。
隔月くらいで開催、時には農場を見に行く企画も金子さんは考えています。

第1回目は、船橋市で山田農場を経営している山田勇一郎さんに来てもらいました。
定員の15人を超える参加者がありました。
まだ0歳の乳幼児を連れた若い夫婦の方が参加されました。
湯島サロンの最年少記録が更新されました。

話はまず山田さんの農場の様子の紹介から始まり、ついで「有機農業」に関するわかりやすい説明がありました。
「有機農業」という言葉をなんとなく使っている人も多いと思いますが、山田さんと金子さんの話で、その意味がよくわかりました。
山田さんの有機農業は、科学的な知見を大事にしています。
今回は「光合成」の仕組みから説明してくれたのですが、私などは光合成そのものの意味さえきちんとわかっていなかったことを、恥ずかしながら、この歳になって知りました。
また、有機野菜を「安全性」という視点で捉えていましたが、むしろポイントは「おいしさ」にあるということにも気づかせてもらいました。
その「おいしさ」がどこから来るのかも教えてもらいました。
そして大切なのは、昔よく言われた「作物をつくるのではなく土をつくるのだ」ということを思い出しました。
工業型の農業とは全く違う、もっと大きな「科学性」がそこにはあります。
大げさに言えば、自然科学もそろそろ枠組みを変えるべき時期に来ています。

山田さんが10年かかってつくりあげてきた山田農場の、事業としての、「起業」と「経営」の話もとても示唆に富むものでした。
新規就農されたい方は、ぜひ山田さんのところで一度、教えを乞うといいと思います。
山田さんのところでは、講座もやっているようですが、農法だけではなく、実践的な経営の話も聞けると思います。

農業の持つ「教育力」や「福祉力」は、湯島でも時々話題になりますが、今回は、農業に取り組むことで「経営力」が身につくことに気づきました。
改めて「農営」や「農法」ということを考えなすべき時期かもしれません。
安直な「儲かる農業発想」ではなく、自らの生き方に重なるような農業の可能性を改めて考える時期に来ているようにも思います。
山田さんの実践は、そうした視点で大きな示唆を与えてくれているような気がします。

そういえば、金子さんが、農法に込められた日本古来の知恵についても言及され、有機農業はそうした知恵を再発見していくことだというようなことを話されていたのに共感しました。

ほかにも、たとえば堆肥づくりとか土壌づくりなど、実際の有機農業に関する話もありましたが、いろんな意味で、いろんな発見のあるサロンでした。
話の後、山田農場の新鮮野菜(今回はトマト、キュウリ、トウモロコシ)を味わいました。
今朝もぎたてのトウモロコシを生で食べさせてもらいましたが、ほとんどの人が初めてだったと思います。
参加者が多かったので、分かち合いになりましたが、これも実によかったです。
最後は、みんなお土産に野菜ももらいました。

次回は8月25日の予定です。
米作りをやっている有機農業実践者がゲストの予定です。
Yuukiyasai180623


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2018/04/13

■カフェサロン「社会インフラとしてのお金と仮想通貨を考える」報告

仮想通貨という「時の話題」ということもあって、遠方からの参加者も含めて、14人のサロンになりました。
渡辺さんは、まず前半で「社会インフラとしてのお金」がどう変化しつつあるかを、近未来に焦点を合わせて、具体的な事例を紹介しながらていねいに説明してくれました。
そして後半では、いま話題の仮想通貨について、その投機性も含めて、これもまた具体的に説明してくれました。
参加者は、それぞれ関心の置き所が違っていることもあって、話し合いは難しかったように思いますが、新しい知識を含めて、それぞれ世界を広げたことは間違いないと思います。

「社会インフラとしてのお金」の部分では、私は「預金封鎖」という歴史が日本でもあったこと、その目的が財産税につながっていたことを知りました。
改めて「社会インフラとしてのお金」のパワーを知りましたが、同時に、これまでの枠組みから抜けることのむずかしさもわかり、逆説的に言えば、お金はもはや「社会インフラ」ではなく、ますます管理のための仕組みになってしまっているように思いました。
そうであれば、そこに「投機性」が入り込んでくることは避けがたいような気がします。

産業としての金融業の収益の過半が手数料収入になっているということも、改めて教えてもらいました。
これは経済の変質を象徴しています。
手数料も、もちろん「社会価値」を生み出していますが、仮想通貨のメリットの一つは、そうした「手数料」を縮減することだといわれると、なにやら大きな矛盾を感じます。
そのあたりから、仮想通貨の存在意義が、私にはなかなか見えなくなってしまいました。
しかし、海外送金の手数料が高いために社会的な活動に困っていた人からは、その手数料が減少することで、公益的な活動がやりやすくなるという話が出ました。
そういう点ではたしかに、仮想通貨の効用も認めざるを得ません。

渡辺さんも指摘されましたが、そもそも「仮想通貨」という呼び方に、ある胡散臭さがあります。
海外では一般的には「暗号通貨」と呼ばれているそうです。
私は「デジタル通貨」でいいと思っています。
名は体を表すと言いますが、呼称をどうするかは非常に重要で、その実体がどう育っていくかにも大きな影響を与えるはずです。

後半では、これから広がっていくであろう新しい通貨システムの話が出ました。
今回は、その説明会ではなかったので、詳しい話を聞きたい人は、改めて渡辺さんのセミナーなどを受けてもらうことにしました。
ちなみに、渡辺さんも、新しい通貨が投機手段に使われることには否定的ですが、デジタル通貨が安定した通貨システムに育っていくためには、投機的な要素を持つ段階があることは認めています。
そして、いまの紙幣通貨は、早晩、デジタル通貨に代わっていくという見通しの中で、個人としてしっかりと対策を取っていかなくては、その流れからはじき出されて、場合によっては被害をこうむりかねないと考えているようです。
たしかに、通貨システムが大きく変わる状況の中で、損をする人と得をする人が生まれる恐れは否定できません。
そもそも、そんなことが起きないようにするのが、社会インフラとしての通貨システムだろうと私は思いますが、この辺りをどう考えるかが、「仮想通貨」に対する姿勢の違いになるのかもしれません。

あんまり基礎的な知識がないため、渡辺さんのメッセージを正確に報告することはできないのですが、私はやはり「信用システム」の話と「通貨という媒体」の話が混同されているような気がしました。
渡辺さんが言うように、たぶん世界的に見たら、日本の信用システムは遅れていて、それが、経済のグローバル化の中では問題なのかもしれません。
しかし、だからといって、その唯一の解決策が「仮想通貨」というわけでもなく、もっとシンプルでフェアな信用システムは創案できるように思います。
サロンでも、たとえば、「SUICA」の話も出ました。

お金を使う仕組みと同時に、お金を生み出す、つまり社会価値を生み出す経済のあり方を真剣に考えるべきだとも思いました。
今回のサロンでの話の中心は「消費」の局面でしたが、経済の大本の価値を創り出すための「お金」の側面も大切だと思います。
地域活性化の話も少し出ましたが、むしろこの側面は地域通貨などで考えるのがいいように思います。

投機というのは、価値を生み出すのではなく、価値の移転で利益を上げていくということですから、一方ではとんでもない損害を受ける人がいるわけです。
損をするのも避けたいですが、私自身は得をするのも避けたいです。
みなさんはいかがでしょうか。
そこに「生き方」の本質があるように思います。
通貨の機能としては、教科書的には「価値の尺度」「価値 の保存」「交換の手段」の3つが挙げられますが、私はこれに加えて、「価値の創造」と「価値の移転」があると考えています。
これについて詳しく書いた本を私は知りませんが、もしご存知の方がいたら教えてください。
これは、経済システムの本質につながっている問題です。

AI(人工知能)の話に絡んで、人間ってなんだろうか、という問題まで話が進んだところで、時間オーバーになりました。
お金の問題を考えることは、生き方を考えることでもあると、改めて感じたサロンでした。

話題提供してくださった渡辺さんに感謝します。
社会インフラとしてのお金シリーズは、不定期に継続させてもらいます。

Okane180412


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2018/04/01

■カフェサロン「霜里農場の金子友子さんの生き方」報告

有機農業に取り組む霜里農場の金子友子さんの「お金に縛られない生き方」をテーマにしたサロンには、20人を超す人が参加してくれたため、時間を1時間延長したにもかかわらず、発言できない人がいたほどの盛況でした。
最初は申し込みがあまりなかったので、テーマを有機農業にすればよかったなと思ったほどでしたが、やはりお金に呪縛されない生き方への関心は高いようで、サロン企画者としては、それだけでもうれしい結果になりました。
ただしサロンそのものは、人数が多くて、話の交通整理で大変で、疲れました。

金子さんの話は、なぜアナウンサーから農家に嫁いだのか、ということからはじまりました。
金子さんがアナウンサーとして社会で活躍しだしたのは1960年代の半ばです。
私も同年齢ですが、その頃から少しずつ高度経済成長の矛盾の予兆が出始め、1970年代になると、日本の社会は大きく変わりだしました。
有吉佐和子さんが朝日新聞に『複合汚染』を連載しだしたのが1974年。
水俣病などが大きな話題になり、環境問題や食の安全への関心が高まっていた時期です。

アナウンサーとして、時代の先端の情報に触れる中で、彼女の世界も変わりだしていったようです。
いろいろなドラマティックなエピソードもありますが、そこで出会ったのが、埼玉県の小川町で、化学肥料や農薬を使わずに、自然の有機的な循環を活かした農業に取り組んでいた、「変わり者」の霜里農場の金子美登さんだったのです。
そこで結婚。生活は一変しました。
その後、時代の大きな流れの中で、有機農業への関心は高まり、霜里農場もテレビや新聞などでも取り上げられ、全国(海外も含めて)から実習研修生も集まるようになってきました。
「変わり者」は「時代の先駆者」へと変わり、霜里農場は有機農場のメッカになっていったわけです。

しかし、そこからが、やはり「変わり者夫婦」なのでしょう。
時流が変わったからといっても、金子夫妻の生き方は変わることはありませんでした。
2014年には天皇・皇后が霜里農場に行幸され、翌年金子美登さんは黄綬褒章を受けられましたが、2人の生き方は全く変わっていないのだろうと思います。
有機農業ブームのおかげで、経済的にも成功した人も少なくないでしょうが、金子夫妻にはたぶん「縁のない話」で、有機農業ビジネスやアグリビジネスという発想はないのです。
これまで通り、共感してくれている消費者に丹精込めた野菜を直接届けながら、地産地消で自給型地域生活を目指した活動に地に足つけて取り組んでいます。
金子夫妻にとっては、農業と生活はしっかりとつながっているように思います。

いろんなエピソードも紹介されました。
アレルギーで長年薬を飲み続けていた人が、農場に実習に来て薬を飲み忘れているうちに、気がついたらアレルギーが治ってしまった話、火事で自宅が全焼した時には、全国から70~80人の仲間が来てくれて、2日間で片づけが終わった話、お金を介さない物々交換や事々交換の話など、いろいろとありました。
お金の話も何回か出ましたが、誰かに役立つためのお金の話だったように思います。
老後のためにお金をためていますかと私は不躾な質問をしましたが、どうもその意味さえ伝わらなかったようでした。
たぶん彼女にとっての老後の蓄えは、お金ではないのでしょう。

話し合いの中から出てきた、「お金に縛られないためのヒント」を2つだけ紹介します。
まずは、「人のつながり」の大切さです。
お金を介さずとも、人の支え合いで解決する問題は少なくないばかりでなく、人とのつながりが生活の安心感の拠り所になるということです。
もう一つは、人にあげられるものはあげまくるという、友子流の生き方です。
彼女がつくっているのが野菜だということもありますが、余った野菜はみんなに挙げてしまうのが、彼女のやり方です。
たとえば、道の駅に野菜を売りに出していますが、売れ残ったものは持ち帰らずに、店舗のスタッフの人などに挙げてしまうのが彼女のやり方です。
いや余ったものだけではありません。
彼女が関わっている加工品もあるのですが、それを買いに来た人にまで、たとえば子育て中の若い人だと、どうもあげてしまっているようです。
それがいろんな形でまた返ってくるので物々交換だと彼女は言いますが、私が思うには、彼女にはそもそも「交換」という発想さえないのだろうと思います。
ともかく、あげられるものはあげてしまうわけです。
あげるものがなければ、笑顔だけでもいいわけです。

3時間にわたる長いサロンでしたので、いろんな話が出ましたが、たぶん参加されたみなさんは、彼女のさりげない話や表情から、いろんなことを考える刺激をもらったように思います。
少なくとも私はそうです。
小学校時代の同級生なのですが、これまで気づかなかったこともありました。
金子さんが持参してくれたイチゴやケーキなども美味しかったです。

有機農業に関した話もありましたが、これに関してはまた改めて企画したいと思います。
湯島ではなく、むしろ小川町の霜里農場でサロンをやるのがいいかもしれません。
どなたか実行委員になってくれませんか。

今回は、湯島のサロンが初めての方も数名参加してくれました。
はじめてだったのに、ちょっと窮屈だったうえに、発言の時間があまりなくてすみませんでした。
これに懲りずに、またぜひ遊びに来てください。
頭は疲れましたが、たくさん元気をもらいました。

Tomoko201803312


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