カテゴリー「経済時評」の記事

2024/02/02

■政治とお金の問題の立て方

パーティー裏金問題に端を発して、また「政治とお金」が話題になっています。

それに関して、政治にどうして巨額なお金がかかるのかが問題ではないかという問い方がよくされています。
その問い方にこそ、問題があると私は思っています。
問題の立て方を間違えてしまえば、実態の本質は全く見えなくなってしまいます。
そういう問い方は、問題の本質を覆い隠すために仕組まれた問いでしかありません。
政治に金がかかるのではなく、政治に金がかかるようにしたのですから。

資本主義は、汎金銭市場化を進めています。
芸術もスポーツも、教育も福祉も環境も、次々と市場化され、資本の増殖目的に取り込まれてしまいました。
「政治」や「選挙」もまた、その流れに沿っているだけの話です。
お金がかかるようにすることこそが、選挙や政治の本質になってきているのです。

アメリカの大統領選挙を見ればわかることですが、アメリカでは選挙そのものが「収益事業」化されています。強大な収益イベント事業と言ってもいいでしょう。オリンピックや万博の比ではありません。

アメリカでも1970年代には選挙につぎこむお金が多額すぎるとの議論もありましたが、その後、アメリカ最高裁判所は、政治に対するお金の自由な流入は何人によってもさまたげられてはならない、との判決を出したのです。
つまり選挙も政治も、今や「お金稼ぎの仕組み」なのです。
ですから、お金がかかるのではなく、お金をかけることによってお金がもうかる仕組み、あるいは多くの貧しい人たちからお金を広く刈り取る仕組みになっているのです。

同じことは税金にも言える話です。つまり消費税は、本来の税金とは全く違った発想での制度なのです。「税金」という文字に惑わされてはいけません。

こうした風潮にどう抗うか。
それは難問です。
何しろ今やほとんどの人が、お金に依存するしか価値を見出せなくなってきているからです。
こういう理由で、私は、大谷選手にもあまり好感が持てないのです。

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2024/01/18

■デヴィッド・ハーヴェイの『反資本主義』をお薦めします

いまの社会の流れを変えたいと思っている人に、ぜひ読んでほしい本に出合いました。
デヴィッド・ハーヴェイの『反資本主義』(作品社)です。
https://sakuhinsha.com/politics/28393.html

書には、なぜ新自由主義的資本主義が広がり、いまそれがどういう状況に置かれているか、そして、そうした状況を打開し、新しい道を切り開いていくためにはどんなシナリオがあるのか、が示唆されています。
類書は少なくありませんが、時代の流れを大きく把握し、先を実践的に展望するために、大きな示唆をもらえる本です。

特に私が共感したのは、コロナパンデミックで大きく変わってしまった状況にあるいまこそ、ある意味での「好機」ではないかとの著者の指摘です。
たとえば、著者は「この緊急事態のまっただなかにおいて、われわれは実にさまざまな代替的体制を実験している。貧しい人や被災地域や被災集団に対する基礎食品の無償提供であり、無料の医療処置であり、インターネットを通じた別種の通信交流環境などだ。実際、新たな社会主義社会の輪郭はすでに明らかになりつつあり、だからこそおそらく右翼や資本家階級も不安のあまり、以前の状態に人々を連れ戻そうとしている」というのです。そして、「今という瞬間は代替的社会を築くために、この社会主義的想像力を駆使できる時ではないのか? これはユートピアではない」とはーヴェイは呼びかけます。
さらに、この好機を活かすために、民衆教育としての社会運動の必要だというのです。

残念ながら、しかし現実は、ハーヴェイも危惧している通り、むしろ以前の状況に戻そうという動きの方が大きいように思います。多くの人の意識も、それに同調していますし、むしろ以前よりもさらに新自由主義的資本主義の流れに身を任せようとしているようにも感じます。
新自由主義的資本主義は、明らかに破綻指定と思うのですが、その一番の被害者こそが、その流れを守ろうとする。これはこれまでも繰り返された歴史の教訓でもありますが。

それはともかく、本書はぜひ多くの人に読んでほしい気がします。
できれば、以前お薦めした『資本主義の次に来る世界』も併せて。

ちなみに、本書には、ウクライナ戦争勃発時の論考「ロシアのウクライナ侵攻をどう見るか-暫定的な声明」が付録として併載されています。
いまなお示唆を与えてもらえる小論です。よかったらこれだけでもぜひ。

 

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2023/12/14

■一条真也さんの「資本主義の次に来る世界」紹介

7月にジェイソン・ヒッケルさんの「資本主義の次に来る世界」(東洋経済新報社)を紹介しましたが、たまたまその頃、友人の佐久間庸和さんとのやり取りの中で、この本を紹介させてもらいました。そのことはもうすっかり忘れていました。

佐久間さんは会社の経営者ですが、「読書の達人」として知られる、私が知る限りの最高の読書家にして蔵書家であり、しかもご自身も「一条真也」のペンネームで毎年数冊の本を著作されている人です。
ですから佐久間さんの目に留まっていなかったのが不思議ですが、まあ私が紹介しなくても必ず佐久間さんの目にはとまったはずです。

その佐久間さんからラインが届きました。
「紹介していただいた本を、ようやくブログで取り上げました」と書いてありました。なんだろうと思い、佐久間さんのブログを開いてみました。そこに、「資本主義の次に来る世界」のていねいな紹介がアップされていました。たくさんの関連動画を添えての紹介です。
https://shins2m.hatenablog.com/entry/2023/12/13/000000

「資本主義の次に来る世界」は、現代が「Less is More」(少ないほうが豊か)ですの、その内容は推測していただけるでしょう。
私も以前、ブログで紹介しましたが、ぜひ多くの人に読んでほしい本です。
でも厚いのでなかなか読んでもらえないでしょう。

佐久間さんは、ブログでその本をわかりやすく要約し、そこに関連した動画までつけてくれました。これなら多くの人にも読んでもらえる。
そこで佐久間さんにお願いして、そのブログを紹介させてもらうことにしました。
ぜひ多くの人に読んでもらいたいです。

ちなみに佐久間(一条真也)さんも100冊を超える本を執筆出版しており、ブログでも紹介していますが、いずれも読みやすく、示唆に富んでいます。私も最近、「古事記と冠婚葬祭」を読ませてもらったところです。
また一条真也の名前でのサイトには圧巻されます。
よかったら覗いてみてください。
http://www.ichijyo-shinya.com/home/

 

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2023/10/10

■資本主義社会の次の社会

最近読んだ3冊の本を多くの人に読んでほしいと思い、紹介させてもらうことにしました。私も友人知人からの紹介で読みました。
3冊に共通するテーマは、現在の「資本主義社会」をどう超えていくか、です。
いささか冗長で読みにくいきらいはありますが、主張していることははっきりしています。

1冊目は、ナンシー・フレイザーの『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(ちくま新書)です。読んでいていささか気が重くなるほど、資本主義社会の問題が鋭く指摘されています。資本主義を単なる経済の問題として捉えていないために、経済学者の資本主義論とは全く違っています。一言で言えば、資本主義社会は、ウロボロスのように己まで食べてしまう大食漢だというのです。時間のない人は第1章と第6章だけでも。

大澤真幸さんの『資本主義の〈その先〉へ』(筑摩書房)には、資本主義の次の社会の骨格が語られています。具体的ではありませんが、枠組みとしては具体的なイメージがつかめます。この本は最後の第5章だけでもぜひ。

ふたりのアプローチは違いますが、資本主義社会をパラダイムシフトするということでは共通しています。その社会原理は、ありきたりの言葉を使えば、社会主義とコミュニズムですが、言葉に捕らわれずにしっかりと読めばとても共感できます。

この2冊はいずれも今年出版されましたが、それと一緒にもう一冊紹介したいと思います。ちょっと古い本ですが、『グローバリズムの終焉』(農文協)です。
これも友人から教えてもらったのですが、関曠野さんの10年ほど前の著作です。
関曠野さんの本は久しぶりに読みましたが、とてもわかりやすいです。
考え方において、前の2冊につながっているように思います。

今日は家で一人でしたので、読書三昧してしまいました。
朝から夜まで読書でした。

 

 

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2023/07/24

■「資本主義の次に来る世界」

なぜか2人の友人から、ある本を読みましたか、とメールがありました。
こんなことはめずらしい。
しかもおひとりはしばらくお会いしていない古い友人です。

問題の本は、ジェイソン・ヒッケルの「資本主義の次に来る世界」。
先月、日本でも邦訳が出版されました。
私もすぐに読んだのですが、私が40年ほど前から考え行動してきたこととあまりにも重なっていたので、何の抵抗も、何の新鮮さもなく、読んだままになっていました。
ただ一度だけ、ある人たちに勧めたことがあるだけでした。

「資本主義の次に来る世界」は、邦訳の書名で、原初のタイトルは「Less is More」。
Less is More」は、湯島のサロンでも時々、話題になっています。

先日、湯島のサロンで、私があることを発言したら、「リアリスト」の人が「佐藤さんが言うのでおかしく聞こえるが、それは事実だと思う」と言って、別の説明をしてみんなの納得を得たようなことがありました。
その時、私の言葉はみんなにはあまり信頼されていないのだなと気づきました。
そういえば、よく「佐藤さんの発言はきれいごとだ」と言われることも時々あります。

私としては、私ほどのリアリストはそうはいないと思っているのですが。
どうも私の表現力はかなりレベルが低いようです。
困ったものです。

そこでこの本を皆さんに読んでもらえば、もう少し私の世界がわかってもらえるかもしれないと思い、遅まきながら紹介させてもらうことにしました。
前半はともかく、最後の第6章の「すべてはつながっている」だけでも読んでもらえるとうれしいです。
そして私の発言は決して、きれいごとでも冗談でもないことに気づいてもらえれば、もっとうれしいです。

今日も朝、畑に行って、野菜や野草たちと話してきました。

 

 

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2023/07/06

■「ペットボトル水現象は現代のチューリップ・バブル」

ペットボトルの水は、私は原則飲みません夏になるとともかく水分補給しろとみんなから言われます。
私は脳神経外科に定期的にかかっていますが、医師からは1日2リットルを目指すようにと言われています。脳神経が2本ほど危ういからです。
それで水分をできるだけとるようにしていますが、基本はのどが乾いたら飲む姿勢は変えていません。むやみやたらに水分をとればいいとは思っていないからです。

まあそれはいいのですが、気に入らないのはあまりのペットボトル依存の風潮です。
娘もよくペットボトルの飲料を出先で買っていますが、私は自動販売機は使いませんし、小さなペットボトル飲料は買いません。だから娘がペットボトルの飲料を飲んでいるのはあまり歓迎できません。水筒を持てよと言っていますが、忘れることもあると娘は言います。困ったものです。

しかし、娘も家ではペットボトルの水やお茶は使いません。非常時用は保管されていますが、私は水道水に比べてペットボトル飲料はとても危険だと思っているからです。
それにそもそも水に価格をつけて「商品」にしてしまう発想には共感できません。

湯島のサロンでは毎回コーヒーを用意しますが、水道水を使います。
なかにはそれが心配で、ペットボトルの水をわざわざ買ってきてくれる人もいますが、ペットボトルの水も所詮はほとんどが水道水のはずですし、余計な人工処理をしているだけ私には有害に感じます。それに、そもそもペットボトルの廃棄も含めて、それにかかる手間がどれほど自然環境負荷を高めているか考えれば、だれでも水道水とペットボトル水のどちらが人間に有害であるかはわかるはずです。にもかかわらず、逆イメージを創り出しているのが、水を商品化したメーカーの詐欺的行為だと私は思っています。

「ペットボトル水現象は現代のチューリップ・バブルだ」とアメリカの心理学者のトッド・ローズは言っていますが同感です。環境意識の強い人ほど、水道水よりもペットボトル飲料を好むような気がしますが、まさに今の経済の本質を象徴しています。環境そのものが、汎市場化の題材にされているのです。

ペットボトル飲料水をつくるには、水道水の2000倍のエネルギーが必要だと、先のトッドは書いていますが、その数字も私は信じていません。これもまた「チューリップ・バブルだ」と同じようないい加減な学者の無責任な数字だと思うからです。いまや誰も信頼できない状況ですが、でも信頼しないと生きにくい。
私が信頼するのは、何も知らない私自身です。そして間違いをする人間です。

ちなみに、湯島では今もペットボトルのお茶は使っています。これも水道水で沸かす麦茶に替えればいいのですが、残念ながらそこまではできていないので、私もみんなと同罪なのです。
困ったものですが、せめてできるだけ水道水を使おうと思います。
プラスチックの消耗品はできるだけ使わないようにしています。まだ不十分ですが。

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2023/03/28

■読書の3冊目は「マルクス」

先週読んだ本のなかには経済の本もあります。

白井聡さんの「マルクス」(講談社の現代新書100)です。このシリーズは、100頁強で、字も大きいので、ちょっとした合間に気楽に読めます。しかもそれぞれにメッセージがある。
本書も、しっかりとしたメッセージが込められていて、経済のありようや私たちの生き方に関心のある人にはお薦めの一書です。

最初に出てくる次の言葉が印象的です。

マルクスが明らかにしたのは、不況は恒常化し貧富の格差が止めどもなく拡大してもなお、あるいは、恐慌が社会を襲い職にあぶれた人々が街中に忘れてもなお、あるいは、資本の増殖欲求を満たすために戦争が仕掛けられ罪なき人々の血が流され遺体が積み上がってもなお、あるいは、企業活動が公害を発生させ地球環境の危機が生態系そのものの存続を危機にさらしてもなお、それでも資本主義は終わらない、という真実である。

「資本論」は、こう読まなければいけない。そう思います。
この認識を欠く軽い資本論関係の本が流行っていますが、いま求められているのは、資本主義の改善ではなく、資本主義克服に向けてのパラダイム転換ではないかと、私は思っています。延命のために「道具」にされるのは、もう終わりにしたい。

マルクスの疎外論も簡単に紹介されています。

「われわれは自分を豊かにするために働き、何かをつくり出しているはずなのに、逆にそのつくり出されたものによって支配されてしまうという逆説的な状況を資本主義社会は生み出す」。
「人間にとっての働くことの在り方全般が、資本主義のもとで全面的につくり変えられ、その結果、人間がその生産物によって支配されるようになった」。

これに関しても安直な「働き方改革」が広がっているのが残念です。

そして白井さんは、マルクスにおける資本主義社会とは、「物質代謝の大半を、商品の生産・流通(交換)・消費を通じて行なう社会」であると定義できると言います。
私が恐ろしいのは、いまや自然さえもが「商品」かされつつあることです。

また、「(不断で無制限の増殖志向を持つ)資本は、人間の道徳的意図や幸福への願望とはまったく無関係のロジックを持っており」、人間の幸福が価値増殖の役に立つ限りにおいてはその実現を助けるかもしれないが、逆に人間の不幸が価値増殖の役に立つのならば、遠慮なくそれを用いる」といいます。いわゆる「資本の他者性」です。

そして、「物質代謝の過程の総体を資本が呑み込み、価値増殖の手段にしようとする。このような傾向の進展こそ、グローバリゼーションの内容にほかならなかった」とつづけます。

白井さんは、経済成長や生産性向上、あるいは技術革新や発明は、人間の幸福を目的としたものではない、と言い切ります。が、私もまったく同感です。
こういう大きな流れの中で、宗教も政治もすべて資本主義に流れに巻き込まれ、経済活動になってしまい、人間は単なる「労働力」そして「消費力」に貶められようとしている。そんな恐れを感じています。

こうした風潮に抗うのはそう難しいことではありません。
お金の呪縛から抜け出せばいいだけですから。
まずは経済成長や生産性向上は、決して人間の生活を豊かにしないことに気づくべきです。

いささか身近な話を一つ。

委託仕事をしている友人が、頑張って生産性を向上させたところ、対価が大幅に削減されてしまったそうです。雇用主は時間給発想を「悪用」したわけです。生活するための対価を得る必要労働時間をがんばって短縮しても、雇用関係下では、そうして生み出される剰余価値は資本に吸い取られてしまうのが資本主義なのです。

資本にとっては、コストがかかる人間を労働力として使うのは合理的ではないのです。
だからどんどんAI化されていく。
こんな社会に明るい未来があるはずがありません。

とまあ、この本を読むと少し気が滅入りがちですが、怒りが生まれてくれば、元気が出てくるでしょう。
いまの時代、取り組むべき課題はたくさんあるのです。
滅入っている余裕などないのです。

これが3冊目からのメッセージです。

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2023/02/15

■ドラマ「ガラパゴス」を観て心が揺さぶられました

久しぶりにNHK制作のドラマを観ました。
「ガラパゴス」です。
https://www.nhk.jp/p/ts/BNYM78ZK64/list/

自殺と処理されていた労働者の死に疑問を抱いた刑事が真実を探り出していくドラマです。
題材は、派遣労働者の実態であり、コストダウンにより収益向上を図る日本企業の実態であり、政治と行政と司法の癒着の実態であり、そのメッセージは「人間の弱さ、悲しさ」、でも同時に「人間の優しさと強さ」です。

NHKの良心を感じました。
ぜひ多くの企業の経営者に見てほしいものです。

私は企業勤務時代、「コストダウン」発想に異論を唱えていました。
コストダウンではなく「バリューアップ」に経営の方向を変えなければいけないと思っていたのです。副社長に話したこともありますが、でも何もできなかったのは、その「バリュー」への考察が不足していたからです。
その頃のことを思い出しました。

地上波テレビではまだ放映されないようですが、もし放映されたらぜひ見てほしいです。
最近の表層的なドキュメンタリーやニュースよりも心が揺さぶられます。
登場人物が、私には実際の政財界の特定の人の顔に見えてしまいました。

 

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2023/01/25

■You tubeを金儲けの手段にしてほしくありません

回転寿司の店舗での横取りやワサビ乗せの動画が話題になっています。

You tubeでの閲覧者を増やすために、こうした動画づくりに取り組むyou tuberが増えているようです。
こういう事件がなぜなくならないのか、どうしたら減らせるのか、は簡単です。でもだれもとめようとしませんし、むしろ増やそうという動きの方が多いような気もします。その根底にあるのは、こうした行為の深刻さへの認識が足りないからだと思います。

犯罪と言われる行為の評価基準に関しては、私と日本の司法界とでは全く違うようなのですが、私自身は時には「ある種の殺人」(例えば介護疲れややむにやまれずの結果)よりもこうした行為の方が社会を壊す意味では重罪だと思っています。
ですから、たとえば今回の横取りやワサビ乗せ行為者は、少なくとも1年以上の実刑としての懲役刑と罰金刑を重複で課すべきかと思っています。無期懲役刑もあってもいいと思うくらいです。なぜなら、被害は社会そのものを壊すことであり、特定の人たちに留まらないからです。
まあ、あまり賛成は得られないでしょうが。

幸いに今回は、被害を受けた会社(はま寿司)側が、当事者からの謝罪で許すことなく、訴えると言っています。そう決断したはま寿司に拍手したいです。
テレビでも映像が出ていますが、顔が隠されています。これもいつも不満で、本人がyou tubeで顔を出しているのであれば、テレビでも顔を出すべきです。無人販売所からお金も払わずに商品を持ち出す映像も時々テレビで流れますが、この場合も顔を出しません。そうしたマスコミの「過剰な気づかい」にもいつも違和感を持ちます。
まあそれはそれとして、みんななぜ「加害者」にこんなに気を遣うのか、私には理解できません。もしかして加害者の仲間なのでしょうか。

話がずれました。戻します。

こうした行為を過熱させる原因の一つは、you tubeへのアクセス数が多ければお金が入るからです。たしかにネットのおかげで、すべての人が情報発信者になれる時代です。それはとてもいいことだと思いますが、それを金儲けの手段にするのは問題が多すぎます。

近代社会の産業は「問題解決」型であるがゆえに、市場を拡大するためには問題を創り出せばいいという構造になっていますが、私はそれを「産業のジレンマ」と呼んでいます。ドラッカーがいったように、顧客を創造すれば、つまり必要もない人に必要性を感じさせれば、経済はいくらでも成長するのです。私はそんなことは「経営」だなどとはどうしても思えないのですが、you tubeは顧客創造の手段としては実に好都合なツールのような気がします。でもそれでいいのか。そろそろドラッカーの弊害に気づくべきではないのか。

また書きすぎました。
しかし、今回の横取り・ワサビ乗せ動画の投稿者のような人は、社会を壊す存在です。千丈の堤も蟻の一穴より崩れることを忘れてはいけません。そういう人が生まれる素地を広げているYou tubeの課金システムにはどうしても批判的になってしまいます。

もちろんYou tubeそのものを批判しているのではありません。社会を豊かにし、安心したものにしていくために活動しているYou tuberも決して少なくありませんから。
私が批判的なのは、安直にお金を稼ぐ仕組みと生き方です。

 

 

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2023/01/10

■ふるさと納税制度の罪深さ

私は日本の税制度には大きな違和感があります。
まるで江戸時代の悪代官の悪行のような気がしてなりません。
その証拠に、節税や脱税が後を絶ちません。節税講座さえ行われている状況です。
納税へのモチベーションは、私にはほとんどありません。

消費税に関しては前にも何回か書いたことがありますが(私の思考の中では究極の悪税です)、もう一つ拒否感があるのが、「ふるさと納税制度」です。
はじまる前はむしろ、そういう制度づくりに賛成していたのですが、どうもまったく私が思っていたものとは違ったものができてしまった気がします。

今朝の朝日新聞に、『ふるさと納税 町村15%「赤字」』という記事が出ていました。
この見出しでもわかるように、「ふるさと納税」は収益を目指す事業で、NPM(ニューパブリックマネジメント)ブームの中で生まれてきた制度です。

「税」という言葉があるので、税制と勘違いする人もいるかもしれませんが、寄付の一種で、日本の税制の寄付金控除を活用した事業です。ただ、赤字に関しては、私たちが政府に支払っている税金から補填されますので、税金の「使途」のひとつと考えていいでしょう。その意味では税制度と無縁ではありません。

今のふるさと納税は、各自治体の返礼品競争になっているため、寄付額の一部は寄付者と地元の企業に向かい、行政費用には向かいません。つまり税としては使えないということです。しかもそこで発生した「赤字」は税金で補填されますから、自治体にはリスクはほとんどないのです。

それはまあいいとしても、ふるさと納税でほかの自治体にどう勝つかに行政職員は頭と時間をつかうわけです。職員には、もちろん私たち国民の税金が仕事をお願いするために給与を払っているわけですが、その貴重な頭と時間が、なないやらバカらしい見返り品競争へと向いているわけです。それが本来の仕事だとは私には到底思えません。もっとやるべき仕事があるでしょう。
もちろんそれによって地場産品が育ったり、地域の魅力が磨かれたりすることもあるでしょう。しかし、そのための制度としてはいかにもお粗末だと思います。
だからこういう赤字結果が多くなるのです。

日本では「民営化」というと、「お上」から「民」が取り戻したという肯定的なイメージが強いですが、そこでの「民」は国民ではなく、「企業の株主」なのです。
そこを勘違いしては行けません。

国鉄の民営化も郵貯の民営化も介護の民営化も、その実は市場化であり、資本に主権を譲りわたしただけの話で、私たち「民」からはむしろ遠い存在になったのです。
言葉に騙されてはいけません。

日本の税制は、ますます「富裕者」のための制度に向かっているような気がします。
ふるさと納税制度も、その例外ではなく、表向きの理念とは別に、社会の汎市場化、金銭社会化に向けてのまやかしの制度のように思えるのです。
日本の主権は、日本政府になく、アメリカ軍にあるという意見もありますが、状況はもうそんな段階をとおに越しています。

故郷のために寄付したいのであれば、見返りを求めてはいけません。
ただ寄付すればいい。それだけの話です。
新しい制度は必ず誰か富裕者が入り込んで、「中抜き」の仕組みを作りますから。

たくさん反論がきそうですが、この件に関してはコメントへのリコメントは行いませんので、あしからず。文字のやりとりは最近疲れてしまいます。
もしどうしてもいう方は湯島に話しに来てください。

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