カテゴリー「経済時評」の記事

2017/03/23

■カフェサロン「コスタリカのマイクロミル革命から学ぶこと」報告

昨日もまた刺激的なサロンでした。
コスタリカを訪問してきた熊本の宮田喜代志さん(熊本地域協働システム研究所所長)に、コスタリカではじまっている「マイクロミル革命」を切り口に、さまざまな話を聞かせてもらいました。
コスタリカのコーヒーのファンの方も参加してくれました。

コスタリカといえば、軍隊のない国として有名ですが、治安のいい観光立国の国です。
コーヒーはコスタリカの基幹産業の一つですが、宮田さんがとてもおいしいコーヒーだというように、高品質で人気の高いコーヒーです。
今回も、宮田さんからいただいたコスタリカのコーヒーを愉しませてもらいました。

コスタリカのコーヒーは200年の歴史がありますが、大量生産型の産業化の中に飲み込まれ、生産者の多くはコーヒーの実(コーヒーチェリー)のまま大量処理する農協や企業に販売しているため、実際に汗している生産者の手にはあまり利益は残らない構造(これが最近の経済システムの実態です)になってきています。
そうした経済システムのなかでは、収穫後そのまま天日で乾燥させる手間暇かかるナチュラルコーヒーや標高の高い小規模の農園の生産者は、さらに不利な状況に置かれていました。
そうした状況のなかから、生産者自身(家族やグループ)で、小規模なミルを作り、栽培から乾燥まで一貫して、高品質なコーヒーを高い価格で売ろうという「マイクロミル」という動きが今世紀に入って広がりだしたのだそうです。
そうした動きを可能にしたのは、市場の変化もありますが、IT技術によって、消費者と生産者を直接結びつける仕組みが生まれたことが大きな要因でしょう。
実際に、日本でも最近はコスタリカ・コーヒーの愛好者は増えているようですし、函館でコスタリカのコーヒーを輸入販売している田中さんはコスタリカに農園をお持ちだそうです。
今回、宮田さんは、その田中さんの農園も訪ねて来られました。
消費者の好みに対応できるような、ブランディング化も進んでいるように思いました。
そういえば、宮田さんは、コスタリカではありませんが、ブラジルの「すずきさんちのコーヒー」をブランド化して輸入販売していますが、これもまたとてもおいしいので、ファンは多いでしょう。
「すずきさんちのコーヒー」がブランド化されるほどに、今や世界中の小さな需要を束ねる、いわゆる「ロングテイル戦略」が可能になってきているのです。

私の好みで長々と書いてしまいましたが、私はこうした動きに、世界の経済の大きな流れが反転する兆しを感じています。
経済は、これから大きく変わっていくでしょうが、多くの日本の大企業は私にはそうした動きとは真逆な方向に向かっていますから、ますます低迷していくでしょう。

ところで、昨日のサロンですが、珈琲の話からコスタリカの話はもちろんですが、フェアトレードや食料自給率の話、さらには「働き方」や「障がい者の生きづらさ」の話にまで広がり、とても刺激的なサロンになりました。
もっと聞きたいことがたくさんあったのですが、気がついたら予定の時間を大幅に過ぎてしまっていました。

宮田さんは参加者へのお土産に、熊本復興珈琲ドリップパック(コスタリカ・コーヒー)と熊本産の有機の柚子胡椒をお土産にくれました。
http://www.natural.coffee/items/3250909
湯島のサロンは、話に来てくれた人まで会費を払い、お土産までくれる不思議なサロンです。

宮田さん、
新たに参加してくださった4人のみなさん、ありがとうございました。

Miyata20170322


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2016/10/05

■働き方と働かせ方

「働き方改革」が話題になっています。
霞が関も都庁も、経団連も、みんな「働き方」を改革しようと動き出しています。
これって、おかしくないでしょうか?
言葉の使い方が間違っている、あるいは、問題の捉え方が間違っている。
私には、そう思います。

もし、働く人たちがそう言っているのであれば納得できますが、なぜか「働き方改革」を熱心に説いているのは、働く人たちではなく、働かせる人たちです。
問題の所在の捉え方と意識が違っているように思うのですがいかがでしょうか。

正しくは、「働かせ方改革」でしょう。
そうであれば、改革宣言も納得できますし、実効性も感じられます。
しかし、「働かせ方」を変えずして。働く人たちに「働き方」を変えろと言うのは、どう考えても、私にはおかしく感じます。

よく言われるように、変えられるのは自分だけです。
にもかかわらず、多くの人は、他者を変えようとする。
つまり、本気ではないのです。
自らが変わろうとしないで、他者を変えることなど、できるはずもない。
逆に、みずからが変われば、他者は変わっていくものです。

こうしたおかしなことが、たくさん、あります。
単なる言葉遣いの問題だと思われるかもしれません。
しかし、言葉遣いにこそ、思想や目的が現れるものです。
そうした視点で、気を付けていくと、以下に本末転倒したことが多いかが見えてくるかもしれません。

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2016/08/16

■「時間かせぎの資本本主義」をお勧めします

もう3週間ほど前になりますが、ヴォルフガング・シュトレークの「時間かせぎの資本本主義」を読みました。
久しぶりに世界の大きな動きを考えさせられる経済書でした。
気になっていたことのいくつかの展望が開かれたような気がします。
それで多くの人にも読んでほしいと思い、ブログなどで紹介することにしました。
専門書とまでは言いませんが、気楽に読めるほどの本でもありませんが。
しかし,いまの経済の流れやEUの動きに関心のある人には、特にお勧めです。

極めて簡単に、私の主観的な要約です。
戦後資本主義の成長停滞を克服したかに見える、いわゆる新自由主義は実のところ、この危機を「解決」したのではなく、「先送り」してきたにすぎない、というのが本書のメッセージです。
そして、この先送りのために利用されたのが「貨幣」で「時間を買う」という手段だったと著者は言います。

シュトレークによれば、戦後経済が限界を示しだした1970年代以降、貨幣的手段を用いた時間かせぎがすでに3度にわたって繰り返されてきました。
最初は、国家による紙幣増刷(インフレ)。次が国債発行による債務国家への転換、つづいて国家債務の家計債務への付け替えともいうべき「クレジット資本主義」です。
それも2008年のリーマンショックにより破綻し、いまや国家を超えたインターナショナルな財政再建国家への移行過程にあると言う。
こうした4度にわたる貨幣マジックはその都度、経済危機を先延ばしにして政治危機の表面化を防いできたことは事実だとしても、それはもはや限界に達している、というのが著者の主張です。

そして、そうしたことが世界の質を変えてきています。
租税国家から債務国家への移行に伴い、社会的公平性を担ってきた国家機能の多くが、民営化に象徴されるように、次第に市場経済へと移ってきているのです。
事実上の国家主権の縮小過程が始まっているとも言えます。
市民によって統治され、租税国家として市民によって財政的に支えられている国家が、その財政的基盤を債権者の信頼に依存するようになるにつれて、債権者がいわば現代国家の第2の選挙民として登場してきます。
「国民」と並ぶ「市場の民(債権者)」が、国家のガヴァナンスに関わりだすというわけです。
これによって資本主義と民主主義の関係が新しい段階に入ると著者は指摘します。
「そこでは民主主義が市場を飼いならしているのではなく、逆に市場が民主主義を飼いなしている。これによって歴史的に新しい種類の制度構造が出現した」。
そして、「「市場」は人間に合わせるべきであり、その逆ではないというあたりまえの考え方が、今日ではとんでもない夢物語だと思われている」と言うのです。
資本主義と民主主義の両立の難しさについても、著者は言及しています。

ではどうすればいいか。
著者は直接的には言及していませんが、行間には著者のビジョンを感じます。
具体的な提案ももちろんあります。
たとえば、各国の通貨主権を回復です。

問題は、資本主義ではなく、民主主義なのかもしれません。
ちなみに、著者は債務国家がいかに富裕層に利するものであるかも語っています。

とても示唆に富む本です。
ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思います。
なお、併せて、最近話題の「〈詐欺〉経済学原論」(天野統康 ヒカルランド)や「保守主義とは何か」(宇野重規 中公新書)も読まれると本書の理解も深まると思います。

コモンズ書店からも購入できます。
よかったらどうぞ、
いささか高い本なのですが。

コモンズ書店から購入
http://astore.amazon.co.jp/cwsshop00-22/detail/4622079267


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2016/07/26

■障害の所在

前の「事件を見る視点」の補足です。

障害者という言葉には、違和感を持っている方もいます。
「害」という文字に抵抗があるようです。
「障害者」ではなく、「障碍者」とか「障がい者」と書く人もいます。
私にはいずれも同じように感じますが、相手の思いを大事にして、使い分けるようにしています。
しかし、ある時、障害者の息子さんを持つ人から、そんなことはどうでもいいと言われたことがあります。
話す場合は、私は基本的には「障害を抱えている人」という表現を使うことも多いのですが、これもなんだか言い訳めいていて、自分でもすっきりしていません。

なぜすっきりしないのか。
それは、「障害」が人に置かれているからです。
そうなれば、人が「障害」になってしまいかねません。
その視点を変えなければいけません。

昨日の事件の加害者は、「障害者のいない社会」がいい社会だと発言しています。
これは危険な発想です。
なぜなら、障害のない人などこの世にはいないからです。
その範囲をどうやって決めるのか。

この言葉から、「者」と「い」という、2つの文字を削除して、「障害のない社会」と置き換えたら、誰も反対しないでしょう。
加害者が、そこまで思いを深めてくれたら、悲劇は起こらなかったかもしれません。
問題の本質は、そこにあるように思います。
彼が問題提起した時に、誰かがそのことを指摘してほしかった気がします。
いや、こうして事件が起きたいま、テレビで解説する誰かが、一人でもこういう指摘をしてほしいです。

障害の所在は個々の人にあるのではなく、人が生活する社会環境にあるのです。
そう考えると、障害福祉の捉え方は一変するはずです。
これは、障害者問題に限りません。
生きにくくなったのは、社会が「障害」を増やしているからなのです。
そして、そうした「障害」を増やしているのは、私たちかもしれません。

福祉の概念を一変させなければいけません。
それが行われないと、福祉は市場化の餌食になりかねません。
市場とは「問題」のあるところに生まれます。
障害を人に置いてしまうと、福祉産業という市場が生まれるのです。
私はこれを「近代産業のジレンマ」と呼んでいます。
近代産業は、問題解決型の発想ですから、人が障害を持つほどに市場は拡大します。
でもそれはどう考えてもおかしい。
人を基軸にして考える発想が、私には納得できます。

15年ほど前に、福祉や環境を産業化するのではなく、産業を、福祉化。環境化するようにベクトルを反転させなければいけないと書きましたが、残念ながらそういう方向にはまったく来ていません。
悲しい話です。

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2016/06/06

■カフェサロン「ベーシックインカムを考える」の報告

昨日のカフェサロン「ベーシックインカムを考える」は15人の参加がありました。
最初から異論反論が噴出し、サロン初参加の話題提供者の三木さんは驚いたかもしれません。
三木さんは、ベーシックインカムの本質を話題にするために、いまの経済のおかしさを、信用論や需給構造の話から話し出したのですが、その段階で議論が噴出しだしてしまったのです。
三木さんの話をきちんとお聞きしてから話し合いを始めればよかったのですが、交通整理する私自身が議論に入り込んでしまい、サロンを議論の場にしてしまいました。
それに参加者があまりに多彩で、話し合いの視点があまりにも多核的でした。
あまりに話し合いが広がり紛糾したため、いつも以上に報告が難しく、どうしたものかと悩んでいるのですが、今回はサロンの報告はやめて、私が感じたことを一つだけ報告させてもらうことにしました。

ベーシックインカムとは、wikipediaによれば、「最低限所得保障の一種で、政府がすべての 国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に 支給するという構想」ですが、私は、基本的には社会の成員みんなが生きていける状況を保証して、自分らしい生活をできるようにする考えを具現化する仕組みと捉えています。
そして、大切なのは、その基本にある思想ではないかと思います。
それは、所得配分の問題や経済の問題ではなく、社会をどうとらえるかという問題です。
わかりやすく言えば、「社会とは働くものがつくっているものではなく。そこに存在する者すべてによって成り立っている」と捉えるということです。
昨日も、労働だけが「価値」を生み出すという議論がありましたが、その発想こそ、問題にされなければいけません。
労働はともかく、「働く」ということを「社会に役立つ行為」と捉えれば、それは「対価」とは無縁のことです。
働いて対価を得られない人にベーシックインカムを「恩恵的に」支給して、生きていけるようにするというベーシックインカムは、現状の経済スキームと何ら変わりません。
そうではなく、存在するだけで「社会に役立っている」という考えが、ベーシックインカムの一つの捉え方です。

こう書いてくるとわかりにくいかもしれませんが、その実例は私たちの身近にあり、しかも、それによってたぶん人類はこれまで大きな存在になってきたのです。
その実例とは、「家族」です。
家族の一員である乳幼児は対価を得る労働はあまり出来ませんが、存在するだけで家族に役立っています。
身体が不自由になった高齢者も同じかもしれません。
しかし、家族の一員は、「労働」しなくても生きていけます。
家族の一員であることによって、「ベーシックインカム」は保証されているのです。
家族を超えて、「同族集団」もまた、大きな意味でのベーシックインカムが保証されていたように思います。
かつては、リーダーの使命は、民を飢えさせないことでした。

もし「ベーシックインカム」をそういう視点で捉えると、それは現代の社会や経済のあり方への代替案の提案になっていきます。
改善案ではないのです。
したがって、単に制度を導入するという話ではなく、制度づくりの理念や方法を考え直すということです。

ちなみに、若い参加者から、もし数万円の生活支援費がもらえたら、金銭に呪縛されずに自らの能力を発揮させられる仕事に取り組めるかもしれないというような話がありました。
いまの日本社会は、みんな生活を維持するための労働に呪縛されているため、せっかくの「能力」を発揮できずにいる人が多いでしょう。
そう言う人たちが、自らの能力を発揮できるようになれば、社会は活力を取り戻し、後ろ向きの社会コストは削減できていくでしょう。
それこそが、本来的な「お金」の使い方だと私は思いますが、そこにどういう思想を盛り込むかによって、効果は「両刃の剣」になるでしょう。

ベーシックインカムを所得配分政策と捉えてしまうと、相変わらず金銭呪縛の社会から解放されない気がします。
何もしなくても餌を与えられて生きている家畜のような存在になっていいのか。
そうなってしまえば、社会はむしろ停滞していくでしょう。

19世紀初頭のアメリカを旅行したフランスの思想家トクヴィルが、自由の有無がいかに人間の生活を変え、自由の侵害がどんな社会的・経済的な状況をもたらすのかを報告しています。
当時、まだアメリカの南部では奴隷制が残っていました。
トクヴィルは、奴隷の少ない州ほど、人口と富が増大しているという点に注目します。
そして、奴隷制のない北部と奴隷制度が残っている南部を見て周り、北部では黒人も白人も生き生きと働いているのに対して、南部では働いている人が見つからないと報告しています。
彼は、「奴隷の労働の方が生産性が低く、奴隷の方が自由な人間を雇うより高くつく」と言っています。
ベーシックインカムと、まったく無縁でもない話のような気がします。

サロンはいささか混乱したかもしれませんが(私の責任です)、三木さんのおかげで、いろんな論点が見えてきたような気がします。
参加者のお話も気づかされることが多かったです。

ちなみに、昨日は、スイスで成人の国民全員に毎月30万円、子供に7万円を支給するベーシックインカムの国民投票が行われたそうです。
また、フィンランドでも試験的な導入が決まっています。
昨日参加してくださった大野さんから、国連が支援して、以前ナミビアの寒村でのベーシックインカム社会実験が行われたことも知りました。
そうしたことからも、いろいろと気づかされることがたくさんありました。

三木さん、参加者のみなさん
ありがとうございました。
いつかまたパート2を開催したいです。


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2016/03/03

■二宮金次郎をご存知ですか

数年前に、埼玉県の熊谷市で活動されている埼玉福興の新井さんのところにお伺いした時、近くの民家の庭に、小さな二宮金次郎の石像があるのに気づきました。
学校でもない、普通の民家の庭先にあるのがめずらしく、つい写真を撮ってしまいました。

Photo

先ほど、テレビを見ていたら、二宮金次郎は忘れられつつあり、その像も撤去されてきているようです。
さらに歩きながら本を読むのは、歩きスマホ禁止の世相の中で好ましくないということで、椅子に座って本を読む二宮金次郎像につくりかえられたところもあるそうです。
いまこそ、二宮尊徳に学ぶことが多いと思っている私としては、とても残念です。

東日本大震災の後、南相馬を訪れた時に、仮設店舗の一画に、「報徳庵」という食堂がありました。
震災の後、小田原の報徳会のひとたちがやってきて、つくってくれたのだそうです。
いまなお報徳活動は続いていることを知りました。

昨年、「相互扶助の経済」という本を読んで、改めて二宮尊徳の経済観に教えられました。
その本を読みながら、これから必要な知恵が、尊徳の思想のなかにはたくさんあるように思いました。
いまの日本の経済政策も地方創生政策も、二宮尊徳の報徳経済から学べば、まったく違ったものになるでしょう。
アメリカ大統領選で、トランプ候補の暴言が話題になっていますが、私には最近の安倍政権の暴挙の方も気になります。

二宮金次郎というと、どうも戦前の臣民教育のイメージがあるのですが、二宮尊徳の思想や実践活動から学ぶことはたくさんあります。
ちょっとハードな本ですが、「相互扶助の経済」を多くの人に読んでほしいと思います。
次の更新時に、ホームページで紹介させてもらう予定です。
いつか報徳経済のサロンもやりたいです。
どなたか話してくださる方はいないでしょうか。

Houtokuan


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2016/02/21

■マイナス金利とお金依存症

しばらくかかないでいたため、かなりのストレスがたまっています。
それを抜く意味でも、今回は少しうっぷん晴らしです。

今朝のテレビ「報道新2001」を見ていて、やはり私は違う世界にいるなと思わざるを得ない発言ばかりでした。
テーマは、「初のマイナス金利始動効果は?アベノミクス逆風暮らしは」です。
ゲストの稲田自民党政調会長の発言は問題外として、それなりの見識をお持ちだろうと思う人たちの発言も、どうも基本から違和感があるのです。
たとえば、進行役の須田さんは、こういうのです。
「70歳に近づくにつれて、やはりお金は大切だと思うようになった」
この人は、おそらく貧しい生き方をしているのだろうなと憐憫の情を感じましたが、こういう人に経済を語る番組の編集役をやってほしくないなと思いました。
慶應大学教授の片山善博さんは、「マイナス金利はわけがわからない」というような発言をされましたが、わけがわからないのであればコメントしてほしくないと思いました。
デフレとインフレの話も少し出ましたが、これも違和感が大きいです。

私は、お金への過剰依存から抜けるべきであり、そのためにはデフレをもっと進めるべきであり、金利はマイナスであることを原則とすべきだと思っています。
ただそれらを個別に議論すべきではなく、総合的に考える必要があります。
つまり、「経済のパラダイム」を問い質すべき時期に来ていると思うのです。
パラダイムの転回を考える時には、先入観は捨てなければいけません。
素直に考えれば、生命を持った存在でない人工物(仕組みも含めて)は、放置したら「減価」します。
その基本を知っていたら、人工物である「貨幣」は保管していたら、減価、すなわちマイナス金利は当然のことです。

シルビオ・ゲゼルが提唱するゲゼル経済学は「減価する貨幣」を基本にしていますが、金利がつく貨幣という考え方は、経済の一つの考え方でしかありません。
というか、むしろ「減価する貨幣」を基本に考えるべきであって、それを「利益を生む貨幣」にしたが故に、さまざまな問題が発生していると考えるべきでしょう。
基本は大事にしなければいけません。
もっとも、そうした本来は経済の基本に置くべき考えの一部を、手段的に「いいとこどり」をしようとしたのが、今回の黒田日銀総裁の暴挙だと思いますが、目先しか見えないお金依存症の人たちには、わけがわからないのでしょう。
もちろん黒田さんも理解はしていないでしょう。
理解していたら、もう少しまじめに考えたはずです。

デフレはどうでしょうか。
経済のパラダイム転回の視点から考えた場合、デフレとインフレはどう位置づけられるべきでしょうか。
この問題は、私自身よく理解できていませんが、デフレの究極が、すべてのものが限りなく無料になるとしたら、歓迎すべきです。
しかし、それは同時に、人工物をつくるための労働の価値(つまり働く人たちの金銭収入)を減らすことだといわれます。
しかしそれは、働く価値がお金に強くリンクされているために起こることです。
その関係を見直すのも、経済パラダイムを変えるということです。
そういう大きな視点から、経済を考え直すことが求められだしているように思います。
経済成長は、いまや人間の生活を侵食する存在になってきているからです。

せめて70歳に近づいたら、お金の限界に気づく知性がほしいです。
そういう生き方をしてほしいです。

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2016/01/21

■賞味期限切れ間近の食品の横流し事件に思うこと

CoCo壱番のカツ横流し事件を発端にして、他にもたくさんの廃棄食品が横流しされて、再び市場に乗ってしまっている事例が次々と報道されています。
何をいまさらと言いたい気分もありますが、不思議なのはこういう事件が起こると似たようなことが次々と記事になることです。
それはおそらく、そういう事実や状況を、業界の人たちは知っているからではないかと私には思えてなりません。
知っていてなぜ変えられないのか。
そこにこそ、問題の本質があると思うのです。
そう考えると、今回の横流し事件報道に関しても、「問題の捉え方」が違うのではないのか。
ダイコーだけを責めていいのか。
もっと奥深いものがあるのではないかと思うのです。

昨年、CoCo壱番屋の創業者の宗次徳二さんの講演をお聞きしました。
宗次さんは、道端の草を食べるほどの貧しさの中で育ったという自らの子ども時代のことを話されました。
それが実に心に響くもので、「CoCo壱番屋」に行かなければと思っていました。
食材や「食べるということ」を大切にしているお店だと思ったからです。
残念ながらまだ行っていないうちに、こんな「事件」が起きました。
そして、やはり行くのをやめることにしました。
悪いのは、CoCo壱番屋ではなくて、横流ししたダイコーではないか。
CoCo壱番屋はむしろ被害者ではないかと、多くの人は思っているのかもしれません。
私は、そうは考えていません。
CoCo壱番屋にも大きな責任がる。
それはまた次回書くとして、今回は大量の食品ロス問題について書こうと思います。
それは、私の問題でもあるからです。

私は、お金を無駄にすることには大して問題を感じませんが、食材を無駄にすることはどうしても許せません。
お金は単なる「手段的なもの」であって、日銀が印刷した無価値のものですが、食材は多くの人たちが自然の恩恵をもらいながら汗を流して創り上げてきた「価値あるもの」です。
お金を払って自分のものにしたから廃棄してもいいだろうということにはならないと思います。
ですから、賞味期限切れで食品を廃棄することを許容している、食品産業に関わる人たちが理解できないのです。
彼らは、自らが扱っている商品への愛着や誇りはないのでしょうか。
賞味期限切れ近くになると消費者は買ってくれないので廃棄するしかないのかもしれません。
しかし、そこで納得していい問題ではないでしょう。

もし私が廃棄を頼まれた産廃処理業者だとしたら、まだ食べられるたくさんの食材を前に本当に捨てられるだろうかと考えてしまいます。
何とか無駄にしない方法はないだろうか、と考えるのは、人として当然のことではないかとさえ思います。
もちろん、だからと言って、それを横流ししていいということではありません。
読み違ってはほしくありません。念のため。

日本での大量の食品ロスは問題にはなりますが、一向に解消されません。
なぜなのか。
そこにこそ議論の焦点を向けなければいけないのではないか。
大量の食品ロスを出しても、利益が上がる事業構造に問題があります。
いやむしろ大量の食品ロスを出すことによって、利益を極大化させる構造になっているのかもしれません。
そこを見直すべきではないかと思います。

食品ロスの発生は、いうまでもなく過剰生産の結果です。
機会ロスをなくすために、過剰供給しているわけでしょうが、その結果、大切な食材が廃棄させられることになる。
どこかおかしくはないでしょうか。
事業を行う企業は利益を上げるかもしれませんが、食材を廃棄してしまうことは社会にとっては明らかに損失です。
今回の事件で明らかになったのは、日本の食産業と食文化の欠陥ではないかと思います。
供給側もお粗末ならば、消費者側もお粗末です。
食品が、まさに「餌」になっているような気がします。
和食文化が世界遺産になって騒いでいる場合ではないでしょう。
和食文化の真髄を思い出したいものです。

食品ロスを減らす方法はいくらでもあります。
過剰生産を防ぐためには、たとえばトヨタによって広げられたカンバン方式、ジャストインタイムシステムが参考になります。
お客様の注文に合わせて、食材を仕入れ、過剰な食材在庫を持たない、過剰な供給はしないという発想です。
食関連でも、そうした発想で事業に取り組んでいるところはあります。
それが広がれば、膨大な量の食材や食品の廃棄処分はなくなるでしょう。
しかし、残念ながら時代はそれとは正反対の方を向いています。

そして、因果関係はわかりませんが、そうした食品ロス体質の食産業を支えているのが、利便性を追求する賞味期限意識の高い消費者です。
食べていいかどうかさえ教えてもらわないといけなくなった「消費者」たちが、食品ロスを支えているのではないかと思います。
日本人の食文化はこれでいいのか。

みのりフーズの経営者の方が、少しくらい古いものでも洗って食べた世代だと話していましたが、私はその人にとても共感しています。
私は賞味期限切れのものも、もちろん捨てずに食べています。
食材は買った以上は、きちんと食べる責任があるからです。
外食産業の経営者には、そういう責任感を持ってほしいと思います。

いずれにしろ、現在のような食品ロス状況は、変えていかなければいけません。
どうしたら変えられるか、そういう視点で、今回の事件を活かしていきたいものです。
私も、外食も含めて、食については、改めて無駄を避けるようにするつもりです。

長い割には、何か書ききれなかった気がします。
やはり記事の書き直しは、難しいです。

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2015/11/18

■カフェサロン「TPPと共済」の報告

昨日の「TPPと共済」をテーマにしたサロンは、参加者は7人と少なかったのですが、議論は実に刺激的で、かなりの激論になる場面もありました。
というのも、「共済」に関してほとんど知らない参加者もいたおかげです。
知らないが故に気づくことの大切さを改めて実感しました。
関係者だけではなく、さまざまな人が参加する話の場は、やはり学ぶことが多いです。

問題提起者の佐々木さんの話はかなり「根本問題」に触れるもので、「成長」とは何か「生産性」とは何かということまで言及されました。
佐々木さんは、TPPによって日本の風景が変わってくるのではないかと指摘されましたが、もしかしたらすでにもう変わりつつあるのかもしれません。
しかし、変わることが悪いことなのか、という問題も出されました。
これも悩ましい問題です。

共済と保険はどこが違うのかに関しても、いろいろな視点が出されました。
共済は、金融事業か社会制度かという話もありました。
TPPも単に経済問題ではなく、ましてや関税の話ではなく、文化や生き方の話だろうと思いますが、TPPの実体がブラックボックスに入ったままに、議論が進んでいるというのが実状です。
不思議な話ですが、考えてみれば、最近はそういうことがたくさんあるように思います。
「共済」も、保険との違いさえあまり議論されないままに、保険の世界に取り込まれつつあります。

予定の時間をかなり超えましたが、次々と発言が出てきて、これはもう合宿でもしないといけないなという感じでした。
最後に、「で、どうしたらいいでしょう」ということになったのですが、残念ながら妙案は出てきません。
できるところで、各自が前に進むしかないのかもしれませんが、伊藤さんの生活クラブ共済連の取り組みなどに期待するとともに、「共済」という考えをもっと多くの人に知ってもらうことが大切ではないかと思います。
ちなみに、昨日も話題になりましたが、生活クラブには「エッコロ共済」というのがあります。
http://kanagawa.seikatsuclub.coop/care/kyosai/post_2.html
同時に、共済に取り組む人たちには、もっと「誇り」を持ってほしいと思います。

「共済の思想」は、人々の暮らしの中から生まれ育ってきたものです。
現在の日本の保険や共済は、明治期以前の無尽講や頼母子講、もやいなどとはつながっていない近代のものだと言う人もいますが、そんなことはありません。
経済はその地域の中で育っていくものですし、その主役は普通の生活者でなければいけません。
幸いに、日本では、その「共済の思想」や「仕組み」がまだ残っているように思います。
最近、「助け合い」とか「支え合い」、あるいは「共助」などということがよく言われますが、日本の歴史や文化の中にある「共済の思想」に学ぶことはたくさんあります。
それをつぶそうとしているのが、TPPかもしれません。
そもそも「自由貿易」などというのは、多様な生活文化を無視した話です。

話し合いの内容がきちんと報告できないのが、ちょっと残念ですが、湯島のサロンは、情報ではなく、ライブに話し合うことに価値を置いていますので、いつもながらの雰囲気的な報告になってしまいました。
それもかなり主観的な。

このテーマは、継続していきたいと思いました。
どなたか問題提起したいという方がいたら、大歓迎です。
ご連絡いただければ、うれしいです。

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2015/10/31

■疑念4:TPPへの危惧-もう一つの戦争

安保法制を整備し、日米軍事同盟を強化しないと他者からの攻撃を受ける恐れが高まっていると考えている必要が私のまわりにも少なくありません。
その場合、「他者」はかなり具体的な「他国」のイメージがあるようです。
一方、そうしたことが、たとえばイスラム過激派の攻撃を誘発するという意見も少なくありません。
アフガニスタンや中東で活動している人たちはそう感じているようです。
軍事的・暴力的攻撃に関しても、このように正反対の意見があります。
「戦争」が新しい局面に変質(対立構造が国家間から組織間に変質)してきていることも考慮に入れながら、総合的に考えなければいけません。

しかし、私たちの生活が攻撃されているという意味では、まったく違う局面での「もう一つの戦争」が進んでいるように思います。
私にはその問題の方が、もっと大きな「私たちの生活の安全保障問題」ではないかと思うのです。
それは、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)問題です。
昨年亡くなられた宇沢弘文さんは、TPPは万物を私有化し利潤追求の対象にしようとする市場原理主義の現れであり、各国がその固有の歴史の中で構築してきた社会的共通資本を破壊すると言っていました。
宇沢さんがいう、「社会的共通資本」とは、人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的制度のことです。
たとえば、日本の国民皆保険制度と組み合わさった医療制度や自然と調和した農業の営み、里山などの自然環境です。
あるいは、経世済民のための商慣行や無尽講のような相互扶助の経済の仕組みも、そこに含めてもいいかもしれません。
それらは「誰かのもの」というよりも、「みんなのもの」と言っていいでしょう。

最近の新自由主義的経済は、すべてのものの市場化(金銭化)を目指して「暴走」しています。
そうした「汎市場化」の動きに違和感を持ったことが、27年前に私が会社を辞めた理由の一つです。
少なくともそれには加担したくなかったからです。
当時は、環境や福祉の分野がこれからの成長産業だなどと言われていた時代です。
そうしたことへの異論は、当時私も話をしたり書いたりしていましたが、流れは加速されるだけでした。
最近も、その種のことを話させてもらうこともありますが、相手にはまったくと言っていいほど、その意味が伝わらなくなってきています。
フロンティアが不可欠な資本は、あらゆるものを「市場化」し、あらゆるものが金銭利益追求の対象になってきていますが、人間さえもがいまやその「部品」あるいは「商品」へと化しているのかもしれません。

TPPの報道では、関税が話題にされますが、関税はその「氷山の一角」でしかありません。
世界が単一の市場になってしまえば、地域固有の文化である「社会的共通資本」は失われていくでしょう。
それは、とりもなおさず、私たちの生活が壊れていくということです。

TPPを主導しているのは、いまやアメリカを掌中にするほど巨大化してきた資本だろうと思います。
その資本が目指すのは、徹底した自由化と市場競争化を目指した、新しいルールです。
しかも、そのルールを運営する主体は、悪評のISD条項に示されているように、国家というよりも、投資家です。
国家主権から投資家主権への変化だという人さえいますが、私もそう思います。

そのTPPに日本は参加しました。
郵政民営化の悪夢が、また繰り返されることになりかねません。
問題は「経済」ではなく「文化」です。
「金融ビッグバン」が、日本の社会をどう劣化させたかを思い出すと恐ろしくなります。
つまり、日本はいま、資本による侵略を受けているとも言えるでしょう。
私には、「もう一つの戦争」のように思えてなりません。
軍事力のやりとりで見える戦争だけではないのです。
そして、その「戦争」では、ほぼ「敗戦」は見えてきました。
70年前のように、大本営発表にだまされているような気がしてなりません。

近隣諸国との関係や平和のための「安保法制」に目を奪われているうちに、日本はすっかり「他者」に侵略されてしまうかもしれません。
いやもうかなりの部分が、壊されてしまったような気もします。

「無意識のアメリカヘの自発的従属」という、「戦後レジーム」の完成が、「戦後レジームからの脱却」を掲げている安倍政権によって成し遂げられようとしているのは、実に皮肉な話です。

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