カテゴリー「経済時評」の記事

2018/02/04

■コインチェック事件とフィンテックの陰謀

コインチェック騒動で、仮想通貨(奇妙な名前ですが)への関心が高まっています。
フィンテック関係者はきっとほくそえんでいるでしょう。
金融業者たちの貧しい夢は実現に近づいているようです。

しかしどうしてみんな投機の意味しかない「仮想通貨」に取り込まれるのでしょうか。
不思議でなりません。
みんなが欲しがっているのは、お金ではなく(お金は単なる手段ですかありません)、生活の安定や豊かさのはずです。
勘違いしてはいけません。
そもそもお金に利子がつくことさえ理解できない私には、通貨を投機手段に使うことの意味がまったくわかりません。
投機や蓄財に使う通貨は、交換手段としての通貨とは、全く違うものだろうと思います。

私は、価値は労働が生み出すという、古典派経済学の労働価値説にも違和感はありますが、少なくとも通貨は本来、価値を生み出すものではないと思っています。
もし生み出すとしたら、それは価値の移動でしかありません。
つまり通貨への投機で利益をあげたとしたら、それは誰かの持っている「価値」を奪っただけの話です。
ゼロサムゲームからは価値は生まれてきません。
そうかたくなに信じています。

もちろん価値の移動が、価値を生み出すことはあります。
お金がなくて困っている人にお金を提供することで、困っている人が助かることはあります。
しかし、それを投機につなげることには賛同できません。

価値を生み出さないところから、価値を得ようとすることが投機です。
それはマネーゲームであっても、生活につながる本来的な意味(経世済民)での経済活動ではありません。
今朝のテレビで、FPでもある生島さんが、少額のお金を運用するには仮想通貨は面白いと話していましたが、みんなの生活を支え、社会の秩序を維持するための社会的インフラ制度である通貨を、ゲームに使うこと自体に問題があります。
最初はゲームで、遊んでいたとしても、それがいつか枠を超えて、私財を投入していかないとは限りません。
そこにマネーが絡んだゲームの恐ろしさがあります。
しかし、まもなく仮想通貨で億万長者になった中学生、などというニュースが話題になりそうで、心配です。
きっと藤井さんより話題になるでしょう。

仮想通貨が、お金に支配された資本主義の社会を変えていくかもしれないという話もよく聞きます。
今朝のテレビ「新報道2001」でもそういう話が語られていました。
たとえば、冷蔵庫を無償で各家庭に配布し、実際の冷蔵庫使用のための扉の開閉ごとに僅かの費用(たとえば0.7円)を徴収すれば、メーカーは採算がとれると、出演していた関係者が話していました。
時代はまさに今そういう方向に向かっていますが、これこそがフィンテックの目指すところでしょう。
いまの携帯電話にも象徴されますが、一見、無料でもらえたと思っていたら、長い期間(冷蔵庫の場合は13年だそうです)、なにかに隷従しなければいけなくなりかねないのです。
お金を見えなくして、生活を縛っていく。
なにやら江戸時代の農民支配制度のような気がしてきます。
そこで変わるのは資本主義という経済システムではなく、人間の意味であることに、気がつかねばいけません。

そもそも投機からは何も価値は生まれません。
投機と強盗と詐欺は同じだとは言いませんが、私にはみんな同じように思えてなりません、

私もかなり時代から脱落してしまっているようですが、注意しないと時代の流れに吸い込まれそうで心配です。
なにしろ目の前にあるものに、ふらふらと引き寄せられるタイプですので。
困ったものです。

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2018/01/15

■ポリティカル・エコノミーからエコノミカル・ポリティクスへ

1月12日の「2つの政治」の続きです。
今回は、市民性について書こうと思ったのですが、その前に、「お金=投票券」という稲垣さんの言い方にはやはり違和感を書いておきたくなりました。
もしかしたら、その発想こそが、一番の問題かもしれないからです。
かつての金権選挙、つまり「投票券=お金」と同次元だからです。
稲垣さんもまた、お金を軸にした世界で育ってきていることから自由ではないのかもしれません。
稲垣さんが、ここを「行動=投票権」と言ってくれれば私には違和感はないのですが。

かつて、経済学は「ポリティカル・エコノミー」と呼ばれていました。
politicsの語源は古代ギリシアのポリス(polis)につながっているように、ポリス、つまり社会にあり方につながっています。
いささか古い定義ですが、永井陽之助は「考え方の違う個人が集まって,いかに安定した社会をつくり出せるか,多年にわたって苦心のすえ造型した作品(秩序)が「政治」である」と、私がむかし読んだ本に書いていました。
「ポリティカル・エコノミー」とは、したがって、本来、安定した社会を構築するための「稀少資源の権威的配分」をめぐる学問だったわけです。
それを日本では、「経世済民」の意味で「経済」という訳語があてたと言われます。
つまり、限られた資源と富の、適切な配分と運用を意味していたわけです。
それが、いまでは「ポリティカル」という言葉は削除され、経済学は「エコノミクス」ということで語られるようになり、それとともに、金銭の投資や増殖のための学問になってしまいました。
そして現実も、マネタリー・エコノミーというべき実態に変わってきています。
極端に言えば、経済は「民の苦しみを救う」どころか、「民を収奪する」仕組みへと変質してきているとさえ思えます。

それに応じて、というべきか、先んじて、というべきか、政治もまた変質してきています。
安定した社会を目指すべき「まつりごと」の政治が、むしろエコノミクスの下に置かれてしまった。
つまり、政治が「エコノミカル・ポリティクス」へと変質してしまったのです。
アメリカのトランプ政権は、見事なほど、それを正直に表明しています。

これはある意味では当然の結果かもしれません。
政治学はさまざまな意見や生き方を持つ多様な人が納得できる全体的な決定をするための仕組みとして、投票制度を活用していますが、これは経済における市場制度に通じています。
そこで志向されているのは、政治過程における「論理」的な合理性ですが、その行き着く先は、ジョージ・オーウェルの『1984年』やオルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』かもしれません。
経済も政治も、そこから人間的要素を抜き取れば、うつくしい合理的世界が描けますが、そこで邪魔になるのは人間の非「合理」的な多様性ですから、人間のためではなく、人間の排除がはじまるでしょう。
実際にも、ヒトラーの「ジェノサイド」やスターリンの「クラーク」という恐ろしい歴史を私たちは体験しています。

投票制度と市場制度の発想の根底にあるのは同じものです。
稲垣さんの発想は、まさにそのことを示唆しています。
私が違和感を持ったのは、その点です。

いささか長くなってしまったので、今回はこれでやめておきます。

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2018/01/12

■金銭のための経済と生活のための経済

「ダブル・インカムの意味」の続きです。
ダブル・インカムは「豊かさ」の象徴なのか「貧しさ」の象徴なのか、それは一概には言えませんが、経済成長率に象徴される経済成長もまた生活向上とは必ずしも正のリンクはしていません。
そのことをしっかりと認識しないといけません。

現在の経済成長の測定基準は、金銭換算の生産額です。
金銭基準の生産は金銭消費に支えられています。
とすれば、経済成長は金銭消費で測定されていると言ってもいいでしょう。
金銭消費額が増えれば、経済は成長したといわれるわけです。
テレビでもよく、経済が成長するには、国内(家計)消費が増えないといけないと言われます。
お金を使うことによって、豊かさを感ずる人も最近は少なくないでしょう。
お金を使うことが豊かさ?
これってどこかおかしくはないでしょうか。

たとえば、交通事故を起こしたとします。
それによって金銭の授受が発生します。
壊れた自動車や建物を直すためにも「生産活動」が発生します。
つまり、自動車事故を起こすことは経済成長に貢献します。
その行き着く先が、戦争を起こして市場を拡大する戦争経済です。
ちょっと拡大しすぎかもしれませんが。

しかし、経済成長のためには、市場をつくりださなければいけません。
生活のためではない、生産のための市場です。
そこから「過剰と浪費の経済」がはじまります。
そして「消費主義症候群」が広がっていきます。

市場創出のために、それまで金銭とは無縁であった分野が次々と「市場化」されてきています。
家事や近所付き合いもどんどん市場化され、福祉や環境問題までもが金銭化されてきています。最近、問題になっているスポーツも、いまや完全に金銭市場化しています。
さまざまな問題が顕在化してきていますが、私には市場化の当然の結果のように思えます。
そしてそうした問題がまた、次の市場へと広がっていく。

無限の市場をつくりだすのも簡単です。
壊しながら創ればいいのです。
アメリカのベストセラーは、いつの時代も2種類の本だと言われます。
グルメを勧める本とダイエットを勧める本です。
「新たな」欲望に火をつけ、煽り立てることで、「顧客を創造する」ことが経営だという、私には信じがたい専門家もいます。

こういう経済の捉え方では、とても生活の向上には向かいません。
「経世済民」の経済が、いまや「金銭蓄積」の経済になってしまっています。

その結果、何が起こるか、言うまでもなく、汗を吸い取る仕組みです。
昔は働くことで金銭も稼げましたが、いまは働けど働けど、生活は豊かになりません。
働かない人に金銭が集まるようになってしまったのです。
そして格差が広がり固定化してきています。

いささか極端に書きましたが、経済には2つあるのです。
金銭のための経済と生活のための経済。
そこをきちんと分けて考えていかないと、おかしなことになりかねません。


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2018/01/08

■ダブル・インカムの意味

湯島での新年サロンで、ダブル・インカムの話題が出ました。
最近は、夫婦共稼ぎで、ダブル・インカムになって、経済的には豊かになってきたという話が出たのです。
以前、書いたことがありますが、私は共稼ぎは「別稼ぎ」であって、「共稼ぎ」でも「ダブル・インカム」でもないと考えていますが、それはそれとして、ダブル・インカムというのは豊かさの象徴なのか、貧しさの象徴なのかは、見方によって変わってくるように思います。
そこで、私は、ダブル・インカムはむしろ貧しさの象徴、さらに言えば、ますます貧しくなっていく象徴ではないかと発言しました。
ここで「貧しくなる」というのは、個人の家計だけではなく社会の貧困化も意味しています。

その日の夜、テレビをつけたら、ドキュランド「みんなのための資本論」で、ちょうどロバート・ライシュがその話をしていました。
ダブル・インカムにしなければならないほど、みんな貧しくなったのだという話でした。

同じ現象に関して、まったく正反対の解釈ができることの一例です。
というよりも、ある事象をどう解釈するかで、その人の生きている世界が見えてきます。
どの解釈が正しくて、どの解釈が間違っているということではありません。
いずれの解釈も、その人の生きている世界では正しいのです。
ダブル・インカムが豊かさをもたらすこともあれば、貧しさをもたらすこともある。
そこが悩ましいところです。

しかし、そもそもインカムってなんでしょうか。
さらにいえば、人が生きるために必要な「インカム」とはなんでしょうか。
お金の収入のことでしょうか。
最近、お金とは「信用」だと言われてきていますが、だとすれば、インカムとは「信用」とか「信頼」を得ることでしょうか。
こうかんがえてくると、どこかで論理が破綻しているように思えてなりません。

経済は、考えれば考えるほどわかりません。
困ったものです。

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2017/11/08

■「豊島にメガソーラー、自然を壊す建設反対」

Change. orgから「豊島にメガソーラー、自然を壊す建設反対」が回ってきました。
https://www.change.org/p/%E8%B1%8A%E5%B3%B6-%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%BE-%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E6%B5%B7-%E3%81%AB%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC-%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%82%92%E5%A3%8A%E3%81%99%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E3%81%AB%E5%8F%8D%E5%AF%BE

豊島はかつて、産業廃棄物の不法投棄で問題になった瀬戸内海の島ですが、その事件に私の友人が深くかかわり、その記録を本にしています。
「豊島 産業廃棄物不法投棄事件」
http://cws.c.ooco.jp/book-kiroku.htm#tesima

最近ようやく豊島の環境は回復されたと聞いていましたが、今度はメガソーラーです。
ソーラー発電には反対はないのですが、それを大規模化するところにある不安を感じます。
先日、東海村の原発再稼働反対の集まりに参加した時に、ソーラーに関わっている人にお会いしましたが、少し話しただけですが、少し違和感を持ちました。
メガという発想をまずは捨てないといけないのではないかと思います。

湯島のサロンでいつか、メガソーラーをテーマにしたいと思っています。どなたか問題提起して下さる人はいないでしょうか。

エネルギー問題に関しても、世界は1980年代に比べると大きく後退しているような気がしてなりません。
経済や政治はもちろんことですが。

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2017/08/24

■「信用」ではなく、「好意」こそ「通貨」ではないのか

今日はなぜか「通貨」と縁のある日で、3つの通貨と出会いました。

朝、起きて、昨日から読みだした「BORN to RUN 走るために生まれた」を読みました。
そこにとてもいい話が載っていましたので、フェイスブックで紹介しました。
書いたことの要旨はこんなことです。

メキシコの西シエラ・マドレの山岳に住んでいるタラウマラ族の生活の基盤にあるのは“コリマ”という文化です。
コリマとは、「あなたが分けることができるものは何でも、即座になんの見返りも期待せずに分け与える義務がある」ということだそうです。
タラウマラ族には通貨制度がなく、コリマにしたがって取引がおこなわれるそうです。
好意の交換としての経済。
「信用」ではなく、「好意」こそ「通貨」ではないのか、という気がしてきました。

そのことをふぇすブックに書いて、約束の人に会いに出かけました。
我孫子まで訪ねてきてくれた人がいて、駅前のドトールで会うことにしていたのです。
何か相談が有るような話でしたが、用件は聞きませんでした。
用件を聞くと会うのがつらくなることもあるので、私は基本的には用件をあまり聞かずに人と会います。
全く思いもしていなかった、仮想貨幣「クローバーコイン」の話でした。
私に勧めに来てくれたようですが、私が一番嫌いな話です。
もちろんお断りしただけではなく、かなり激しく否定的な私見をお話しました。
1時間半かけて。
人は状況によって世界の見え方がこんなにも違うのかといささか虚しい気分になりました。

3つ目はビットコインに絡んだ話です。
友人がある政治家の講演の動画を送ってきてくれました。
その政治家の考えは私とはかなり違うことを知っている人ですが、考えが違っても誠実に政治に取り組んでいるのであれば、私がきちんと聞くことを知っているので、送ってきてくれたのだと思います。
長い動画で苦労しましたが、なんとか一つだけ見ました。
そこにベーシックインカムやビットコインなどの話が出てくるのです。

さらに言えば、もう一つ、貨幣がらみの話にいま関わっています。
公共貨幣の話ですが、メーリングリストに参加させてもらいましたが、そのやりとりにまだついていけていません。
今日も数通のメールのやりとりを読ませてもらいましたが、理解できるところまでもいきません。

素人論議で、金融を語ることのむずかしさと虚しさに襲われています。
私にはどうも、通貨は理解を超えた世界のようです。
私にとっての理想的な通貨は、15年ほど前に挑戦したコモンズ通貨「ジョンギ」です。
あれはとても私になじめる通貨でした。
途中でやめてしまったことを後悔しています。

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2017/05/28

■マイナス給料の発想

昨日、高齢者の生活支援を1時間1000円で引き受けるようなネットワークづくりをしている人に会いました。
私が知っている人だったこともあり、正直、大きなショックを受けました。
市民活動やボランティア活動が市場化されていることに違和感を持って、それとは別の視点で生きているものにとっては、心が乱された気分で、すっきりしませんでした。
どうしてみんな「働くこと」をお金と結びつけるのでしょうか。
お金がないと生きていけないなどと言いますが、お金がなくても豊かに生きていたほうが、人類の歴史としては長いのです。
ましてやお金をもらうこと「稼ぐこと」を「働くこと」と考えるようになったのは、つい最近のことでしか、ありません。

私自身は、お金のために働くという意識を変えてから30年近くになります。
お金とは無縁な生き方をしてきたわけではありませんが、意識的にはお金の呪縛から自由になろうという生き方は、最近はかなり身についてきました。
この10年は、お金をもらうことを条件に仕事をしたことはありません。
結果としてお金をもらったことはありますが。
それでもなんとか生きてこられたのは、多くの人に支えられたからですが、それまでの人生で得たお金の支えがあったからかもしれません。

しかし、多くの人はやはり仕事とお金は切り離せないのでしょう。
頭がすっかりそうなっているからです。
ですから、悪意など全くないのに、ボランティア活動にまで時間給という発想を持ってしまうのです。
ボランティアで小遣い稼ぎもできるという人もいますが、この言葉にもずっと違和感を持っています。
念のために言えば、ボランティアの謝礼としてお金をもらうことに違和感があるのではありません。
対価と謝礼は違いますし、小遣い稼ぎをモチベーションにすることにも違和感があるのです。

そして一晩寝て、妙案に気づきました。
マイナス給与という発想です。
ボランティア活動の場合、1時間働いたら、働かせてもらったお礼になにがしかのお金を相手に支払うというのはどうでしょうか。
つまりマイナス給与制度です。

以前、マイナス原稿料方式で2冊の本を出版したことがあります。
原稿を書いた人にはマイナス原稿料を払う、つまり実際にはお金を出して原稿を書くのです。
自費出版を思い出せば、これはそうおかしなことではないでしょう。
ではそれと同じで、仕事をしたら対価を負担するというのはどうでしょうか。
実は以前、コモンズ通貨というのをやっていた時に、同じようなことが起こったのです。
ある人がテーマパークのチケットを購入したのですが、行けなくなった。
そこで誰か活用してくれる人はいないかと呼びかけて、ある人がそれを活用したのです。
その時のコモンズ通貨(地域通貨のようなもの)は、チケットを買った人から、ではなく、チケットを売った人から相手に渡されたのです。
私のホームページのどこかに記録が残っているはずですが、私は感激しました。

そんなことを思い出しながら、ボランティア活動の場合、お金を絡ませるのであれば、流れを逆転させたらどうかと思いついたのです。
実に妙案ではないか、と自画自賛したくなっています。
もう少しきちんと説明しないとわかってもらえないかもしれませんが、まずは自分でできることからはじめようと思います。
問題は、いまの私にはお金がないことですが、お金がなかったら、自分でお金を発行すればいいだけかもしれません。
コモンズ通貨を復活させたくなりました。
http://cws.c.ooco.jp/jongi.htm

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2017/04/09

■カフェサロン「二宮金次郎(尊徳)の実像から見えてくるもの」報告

昨日の二宮尊徳サロンは、実に刺激的でした。
15人が参加しました。

露木さんの思いは、レジメにこう書かれています。

戦前に置いて二宮金次郎は、刻苦勉励の金次郎少年のイメージのみを国家によって抽出された理想の国民増に祭り上げられた。 再び見直されつつある二宮金次郎に再び同じ役割を担わせてはならない。 いまこそ必要なことは二宮金次郎の実像を知り現代に活かせる手がかりを探ること。

そして、露木さんは、二宮金次郎の遺書の言葉から、二宮金次郎が後世に残したかったことを読み解いていきます。
この部分は、「謎解き」のような面白さがあり、露木さんの発見に思い切りひき込まれてしまいました。
露木さんは、荻生徂徠や丸山眞男の論考などを紹介しながら、「人道は作為である」という、尊徳の思想の根本を紹介し、単なる道徳家ではなく、社会を変革していく実践者だった二宮金次郎の姿を浮き彫りにしていきます。
そして、金次郎が後世に残したかったことは、「俺は厳しい時代にいろいろとやってきた、そのやってきたことをきちんと学んでほしい、大切なことはやったかどうかだ」という実践の勧めではないか、と言います。
そのためには、尊徳の弟子が書いた書物ではなく、金次郎が残した分度や仕法のメモを、きちんと学ぶことが大切だ。
そして、地方創生が叫ばれているいまこそ、二宮金次郎の実像から学び、それを応用していくべきではないか、と露木さんは呼びかけました。

露木さんの呼びかけに説得力があるのは、露木さん自身が開成町で町長として、それを実行してきたことがあるからです。
露木さんは、こう呼びかけました。
まずは市町村レベルで社会を変えていく。
それが各地に伝播して国が変わっていく。
草の根からの社会革命です。

二宮金次郎は、農村のリーダーたちにそうした実践を強く求め、そのために分度や仕法の考え方やノウハウを提供してきたわけです。
しかし、そうした報徳思想は広がったにもかかわらず、残念ながら実際に社会を変えるとこにまではなかなかたどりつきませんでした。
その理由は、社会の支配層が、それを妨げたからです。
こうした状況は、いまの日本社会にも当てはまるような気がします。
そうした状況を打破していくためにも、露木さんは改めて二宮金次郎から学べと呼びかけているわけです。

ささやかにこれまで各地の「まちそだて活動」にも関わらせてもらってきた私も、そう思います。
社会は現場から変わっていきます。
そして各地ではいつもさまざまな変革活動が取り組まれている。
しかし、それがどうもつながっていかず、また持続も難しい。
そこをどうしていくかが、課題かもしれません。

露木さんは、他にもたくさんの示唆を与えてくれました。
私が興味を持ったのは、沖縄にある二宮金次郎像の話です。
これはまた別の意味で、これからの日本を考えていく上での大きなヒントを与えてくれるように思います。
5月27日に、開成町でわらび座によるミュージカル「KINJIRO!本当は面白い二宮金次郎」の公演の紹介もありました。
サイトをご紹介します。
また開成町に最近開所した、あしがり郷瀬戸屋敷「みんなの我が家」でサロンをやったらというお誘いもありました。
湯島サロンも、時にはどこかに出かけてのサロンも面白いかもしれません。

話し合いで出た話題も紹介したいのですが、長くなってしまいましたので、それはまたこのシリーズのサロンで深めていければと思います。

道徳家としての二宮金次郎ではない、社会革命実践者としての二宮金次郎に触れて、それぞれいろいろと気づきのあったサロンになりました。
露木さん
ありがとうございました。


Tuyuki20160408


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2017/03/31

■世界の対立軸が変わってきた気がします〔2〕

このシリーズを続けて書こうと思っていましたが、間があいてしまいました。
最初に書こうと思った時の思いが少し薄れているのですが、再開しようと思います。

モハメド・アリの話から再開したいと思います。
先日、NHKテレビの「映像の時代」を見て、世界の対立軸の変化の象徴的な事件が示唆されていたからです。

よく知られているように、モハメド・アリは、ボクサーとしての絶頂期だった24才の時(1967年)にベトナム戦争のための徴兵命令を拒否します。
国家に対する命令拒否で、モハメド・アリは裁判で有罪となり、チャンピオンベルトもボクシングライセンスも剥奪されてしまいます。
当時、彼はこう語っています。
「戦争はひたすら何の罪もない人を殺して殺して殺し続けるだけだ」
「おれはベトコン(北ベトナム)にうらみはねえ」と言ったという話もあります。

アリの徴兵拒否をどう思うかと質問されたキング牧師は、こう答えています。

私も徴兵制度に反対だ。 アリが言うように、われわれは弾圧してくる体制の被害者なのだ。

そこから、アメリカでは徴兵礼状を焼き捨てる動きが広まっていきます。
時代はまさに、1960年代の対抗文化が広がりだした「緑色革命」の時代です。
チャールズ・ライクの書いた「緑色革命」に影響された若者は世界中にたくさんいたでしょう。
その本で、ライクは、世界の構造が変化しつつあることを語っています。
キング牧師が言っているように、人間と体制(システム)の対立が、世界の基軸になってきていたのです。
ベトナム戦争も、アメリカという国とベトナムという国が戦っていたのではなく、国家システムと人間が戦っていたのです。
アメリカという国家は、ベトナム戦争から多くのことを学んだはずでした。

当時、日本では宇井純さんが、そういう枠組みで活動を始めていました。
科学技術の世界では、高木仁三郎さんが、やはり科学技術というシステムに異議申立てしていました。
ヨーロッパでも若者たちが大きなパワーを発揮していました。
しかし、残念ながら、ほとんどすべての新しい波は、システムの攻勢の前に鎮められてきたような気がします。
システムはますます巨大化し、人間を弾圧しだします。
そして、9.11が仕組まれ、21世紀は再び「システムの時代」となっていきます。

アレントが懸念していた全体主義的風潮が、また世界を覆い出したのです。
1960年代の、あの若者たちの人間的なつながりはバラバラにされ、金銭つながりの人間たちがシステムの走狗として世界を牛耳だしました。
経済的な格差が政治的な格差を生み出し、システムから追い出されだした低所得者たちが声を上げだしました。
アメリカで、ヨーロッパで、アジアで。
しかし、低所得者は、高所得者と、結局は同じ種族です。
お金にこだわっている限り、新しい生き方はできないのですから、勝負は最初から決まっています。

しかし、そうでない、まさに新しい対立軸を示唆する動きもあります。
その動きがいま、沖縄で起こっている。
そんな気がします。

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2017/03/23

■カフェサロン「コスタリカのマイクロミル革命から学ぶこと」報告

昨日もまた刺激的なサロンでした。
コスタリカを訪問してきた熊本の宮田喜代志さん(熊本地域協働システム研究所所長)に、コスタリカではじまっている「マイクロミル革命」を切り口に、さまざまな話を聞かせてもらいました。
コスタリカのコーヒーのファンの方も参加してくれました。

コスタリカといえば、軍隊のない国として有名ですが、治安のいい観光立国の国です。
コーヒーはコスタリカの基幹産業の一つですが、宮田さんがとてもおいしいコーヒーだというように、高品質で人気の高いコーヒーです。
今回も、宮田さんからいただいたコスタリカのコーヒーを愉しませてもらいました。

コスタリカのコーヒーは200年の歴史がありますが、大量生産型の産業化の中に飲み込まれ、生産者の多くはコーヒーの実(コーヒーチェリー)のまま大量処理する農協や企業に販売しているため、実際に汗している生産者の手にはあまり利益は残らない構造(これが最近の経済システムの実態です)になってきています。
そうした経済システムのなかでは、収穫後そのまま天日で乾燥させる手間暇かかるナチュラルコーヒーや標高の高い小規模の農園の生産者は、さらに不利な状況に置かれていました。
そうした状況のなかから、生産者自身(家族やグループ)で、小規模なミルを作り、栽培から乾燥まで一貫して、高品質なコーヒーを高い価格で売ろうという「マイクロミル」という動きが今世紀に入って広がりだしたのだそうです。
そうした動きを可能にしたのは、市場の変化もありますが、IT技術によって、消費者と生産者を直接結びつける仕組みが生まれたことが大きな要因でしょう。
実際に、日本でも最近はコスタリカ・コーヒーの愛好者は増えているようですし、函館でコスタリカのコーヒーを輸入販売している田中さんはコスタリカに農園をお持ちだそうです。
今回、宮田さんは、その田中さんの農園も訪ねて来られました。
消費者の好みに対応できるような、ブランディング化も進んでいるように思いました。
そういえば、宮田さんは、コスタリカではありませんが、ブラジルの「すずきさんちのコーヒー」をブランド化して輸入販売していますが、これもまたとてもおいしいので、ファンは多いでしょう。
「すずきさんちのコーヒー」がブランド化されるほどに、今や世界中の小さな需要を束ねる、いわゆる「ロングテイル戦略」が可能になってきているのです。

私の好みで長々と書いてしまいましたが、私はこうした動きに、世界の経済の大きな流れが反転する兆しを感じています。
経済は、これから大きく変わっていくでしょうが、多くの日本の大企業は私にはそうした動きとは真逆な方向に向かっていますから、ますます低迷していくでしょう。

ところで、昨日のサロンですが、珈琲の話からコスタリカの話はもちろんですが、フェアトレードや食料自給率の話、さらには「働き方」や「障がい者の生きづらさ」の話にまで広がり、とても刺激的なサロンになりました。
もっと聞きたいことがたくさんあったのですが、気がついたら予定の時間を大幅に過ぎてしまっていました。

宮田さんは参加者へのお土産に、熊本復興珈琲ドリップパック(コスタリカ・コーヒー)と熊本産の有機の柚子胡椒をお土産にくれました。
http://www.natural.coffee/items/3250909
湯島のサロンは、話に来てくれた人まで会費を払い、お土産までくれる不思議なサロンです。

宮田さん、
新たに参加してくださった4人のみなさん、ありがとうございました。

Miyata20170322


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