カテゴリー「経済時評」の記事

2017/05/28

■マイナス給料の発想

昨日、高齢者の生活支援を1時間1000円で引き受けるようなネットワークづくりをしている人に会いました。
私が知っている人だったこともあり、正直、大きなショックを受けました。
市民活動やボランティア活動が市場化されていることに違和感を持って、それとは別の視点で生きているものにとっては、心が乱された気分で、すっきりしませんでした。
どうしてみんな「働くこと」をお金と結びつけるのでしょうか。
お金がないと生きていけないなどと言いますが、お金がなくても豊かに生きていたほうが、人類の歴史としては長いのです。
ましてやお金をもらうこと「稼ぐこと」を「働くこと」と考えるようになったのは、つい最近のことでしか、ありません。

私自身は、お金のために働くという意識を変えてから30年近くになります。
お金とは無縁な生き方をしてきたわけではありませんが、意識的にはお金の呪縛から自由になろうという生き方は、最近はかなり身についてきました。
この10年は、お金をもらうことを条件に仕事をしたことはありません。
結果としてお金をもらったことはありますが。
それでもなんとか生きてこられたのは、多くの人に支えられたからですが、それまでの人生で得たお金の支えがあったからかもしれません。

しかし、多くの人はやはり仕事とお金は切り離せないのでしょう。
頭がすっかりそうなっているからです。
ですから、悪意など全くないのに、ボランティア活動にまで時間給という発想を持ってしまうのです。
ボランティアで小遣い稼ぎもできるという人もいますが、この言葉にもずっと違和感を持っています。
念のために言えば、ボランティアの謝礼としてお金をもらうことに違和感があるのではありません。
対価と謝礼は違いますし、小遣い稼ぎをモチベーションにすることにも違和感があるのです。

そして一晩寝て、妙案に気づきました。
マイナス給与という発想です。
ボランティア活動の場合、1時間働いたら、働かせてもらったお礼になにがしかのお金を相手に支払うというのはどうでしょうか。
つまりマイナス給与制度です。

以前、マイナス原稿料方式で2冊の本を出版したことがあります。
原稿を書いた人にはマイナス原稿料を払う、つまり実際にはお金を出して原稿を書くのです。
自費出版を思い出せば、これはそうおかしなことではないでしょう。
ではそれと同じで、仕事をしたら対価を負担するというのはどうでしょうか。
実は以前、コモンズ通貨というのをやっていた時に、同じようなことが起こったのです。
ある人がテーマパークのチケットを購入したのですが、行けなくなった。
そこで誰か活用してくれる人はいないかと呼びかけて、ある人がそれを活用したのです。
その時のコモンズ通貨(地域通貨のようなもの)は、チケットを買った人から、ではなく、チケットを売った人から相手に渡されたのです。
私のホームページのどこかに記録が残っているはずですが、私は感激しました。

そんなことを思い出しながら、ボランティア活動の場合、お金を絡ませるのであれば、流れを逆転させたらどうかと思いついたのです。
実に妙案ではないか、と自画自賛したくなっています。
もう少しきちんと説明しないとわかってもらえないかもしれませんが、まずは自分でできることからはじめようと思います。
問題は、いまの私にはお金がないことですが、お金がなかったら、自分でお金を発行すればいいだけかもしれません。
コモンズ通貨を復活させたくなりました。
http://cws.c.ooco.jp/jongi.htm

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2017/04/09

■カフェサロン「二宮金次郎(尊徳)の実像から見えてくるもの」報告

昨日の二宮尊徳サロンは、実に刺激的でした。
15人が参加しました。

露木さんの思いは、レジメにこう書かれています。

戦前に置いて二宮金次郎は、刻苦勉励の金次郎少年のイメージのみを国家によって抽出された理想の国民増に祭り上げられた。 再び見直されつつある二宮金次郎に再び同じ役割を担わせてはならない。 いまこそ必要なことは二宮金次郎の実像を知り現代に活かせる手がかりを探ること。

そして、露木さんは、二宮金次郎の遺書の言葉から、二宮金次郎が後世に残したかったことを読み解いていきます。
この部分は、「謎解き」のような面白さがあり、露木さんの発見に思い切りひき込まれてしまいました。
露木さんは、荻生徂徠や丸山眞男の論考などを紹介しながら、「人道は作為である」という、尊徳の思想の根本を紹介し、単なる道徳家ではなく、社会を変革していく実践者だった二宮金次郎の姿を浮き彫りにしていきます。
そして、金次郎が後世に残したかったことは、「俺は厳しい時代にいろいろとやってきた、そのやってきたことをきちんと学んでほしい、大切なことはやったかどうかだ」という実践の勧めではないか、と言います。
そのためには、尊徳の弟子が書いた書物ではなく、金次郎が残した分度や仕法のメモを、きちんと学ぶことが大切だ。
そして、地方創生が叫ばれているいまこそ、二宮金次郎の実像から学び、それを応用していくべきではないか、と露木さんは呼びかけました。

露木さんの呼びかけに説得力があるのは、露木さん自身が開成町で町長として、それを実行してきたことがあるからです。
露木さんは、こう呼びかけました。
まずは市町村レベルで社会を変えていく。
それが各地に伝播して国が変わっていく。
草の根からの社会革命です。

二宮金次郎は、農村のリーダーたちにそうした実践を強く求め、そのために分度や仕法の考え方やノウハウを提供してきたわけです。
しかし、そうした報徳思想は広がったにもかかわらず、残念ながら実際に社会を変えるとこにまではなかなかたどりつきませんでした。
その理由は、社会の支配層が、それを妨げたからです。
こうした状況は、いまの日本社会にも当てはまるような気がします。
そうした状況を打破していくためにも、露木さんは改めて二宮金次郎から学べと呼びかけているわけです。

ささやかにこれまで各地の「まちそだて活動」にも関わらせてもらってきた私も、そう思います。
社会は現場から変わっていきます。
そして各地ではいつもさまざまな変革活動が取り組まれている。
しかし、それがどうもつながっていかず、また持続も難しい。
そこをどうしていくかが、課題かもしれません。

露木さんは、他にもたくさんの示唆を与えてくれました。
私が興味を持ったのは、沖縄にある二宮金次郎像の話です。
これはまた別の意味で、これからの日本を考えていく上での大きなヒントを与えてくれるように思います。
5月27日に、開成町でわらび座によるミュージカル「KINJIRO!本当は面白い二宮金次郎」の公演の紹介もありました。
サイトをご紹介します。
また開成町に最近開所した、あしがり郷瀬戸屋敷「みんなの我が家」でサロンをやったらというお誘いもありました。
湯島サロンも、時にはどこかに出かけてのサロンも面白いかもしれません。

話し合いで出た話題も紹介したいのですが、長くなってしまいましたので、それはまたこのシリーズのサロンで深めていければと思います。

道徳家としての二宮金次郎ではない、社会革命実践者としての二宮金次郎に触れて、それぞれいろいろと気づきのあったサロンになりました。
露木さん
ありがとうございました。


Tuyuki20160408


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2017/03/31

■世界の対立軸が変わってきた気がします〔2〕

このシリーズを続けて書こうと思っていましたが、間があいてしまいました。
最初に書こうと思った時の思いが少し薄れているのですが、再開しようと思います。

モハメド・アリの話から再開したいと思います。
先日、NHKテレビの「映像の時代」を見て、世界の対立軸の変化の象徴的な事件が示唆されていたからです。

よく知られているように、モハメド・アリは、ボクサーとしての絶頂期だった24才の時(1967年)にベトナム戦争のための徴兵命令を拒否します。
国家に対する命令拒否で、モハメド・アリは裁判で有罪となり、チャンピオンベルトもボクシングライセンスも剥奪されてしまいます。
当時、彼はこう語っています。
「戦争はひたすら何の罪もない人を殺して殺して殺し続けるだけだ」
「おれはベトコン(北ベトナム)にうらみはねえ」と言ったという話もあります。

アリの徴兵拒否をどう思うかと質問されたキング牧師は、こう答えています。

私も徴兵制度に反対だ。 アリが言うように、われわれは弾圧してくる体制の被害者なのだ。

そこから、アメリカでは徴兵礼状を焼き捨てる動きが広まっていきます。
時代はまさに、1960年代の対抗文化が広がりだした「緑色革命」の時代です。
チャールズ・ライクの書いた「緑色革命」に影響された若者は世界中にたくさんいたでしょう。
その本で、ライクは、世界の構造が変化しつつあることを語っています。
キング牧師が言っているように、人間と体制(システム)の対立が、世界の基軸になってきていたのです。
ベトナム戦争も、アメリカという国とベトナムという国が戦っていたのではなく、国家システムと人間が戦っていたのです。
アメリカという国家は、ベトナム戦争から多くのことを学んだはずでした。

当時、日本では宇井純さんが、そういう枠組みで活動を始めていました。
科学技術の世界では、高木仁三郎さんが、やはり科学技術というシステムに異議申立てしていました。
ヨーロッパでも若者たちが大きなパワーを発揮していました。
しかし、残念ながら、ほとんどすべての新しい波は、システムの攻勢の前に鎮められてきたような気がします。
システムはますます巨大化し、人間を弾圧しだします。
そして、9.11が仕組まれ、21世紀は再び「システムの時代」となっていきます。

アレントが懸念していた全体主義的風潮が、また世界を覆い出したのです。
1960年代の、あの若者たちの人間的なつながりはバラバラにされ、金銭つながりの人間たちがシステムの走狗として世界を牛耳だしました。
経済的な格差が政治的な格差を生み出し、システムから追い出されだした低所得者たちが声を上げだしました。
アメリカで、ヨーロッパで、アジアで。
しかし、低所得者は、高所得者と、結局は同じ種族です。
お金にこだわっている限り、新しい生き方はできないのですから、勝負は最初から決まっています。

しかし、そうでない、まさに新しい対立軸を示唆する動きもあります。
その動きがいま、沖縄で起こっている。
そんな気がします。

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2017/03/23

■カフェサロン「コスタリカのマイクロミル革命から学ぶこと」報告

昨日もまた刺激的なサロンでした。
コスタリカを訪問してきた熊本の宮田喜代志さん(熊本地域協働システム研究所所長)に、コスタリカではじまっている「マイクロミル革命」を切り口に、さまざまな話を聞かせてもらいました。
コスタリカのコーヒーのファンの方も参加してくれました。

コスタリカといえば、軍隊のない国として有名ですが、治安のいい観光立国の国です。
コーヒーはコスタリカの基幹産業の一つですが、宮田さんがとてもおいしいコーヒーだというように、高品質で人気の高いコーヒーです。
今回も、宮田さんからいただいたコスタリカのコーヒーを愉しませてもらいました。

コスタリカのコーヒーは200年の歴史がありますが、大量生産型の産業化の中に飲み込まれ、生産者の多くはコーヒーの実(コーヒーチェリー)のまま大量処理する農協や企業に販売しているため、実際に汗している生産者の手にはあまり利益は残らない構造(これが最近の経済システムの実態です)になってきています。
そうした経済システムのなかでは、収穫後そのまま天日で乾燥させる手間暇かかるナチュラルコーヒーや標高の高い小規模の農園の生産者は、さらに不利な状況に置かれていました。
そうした状況のなかから、生産者自身(家族やグループ)で、小規模なミルを作り、栽培から乾燥まで一貫して、高品質なコーヒーを高い価格で売ろうという「マイクロミル」という動きが今世紀に入って広がりだしたのだそうです。
そうした動きを可能にしたのは、市場の変化もありますが、IT技術によって、消費者と生産者を直接結びつける仕組みが生まれたことが大きな要因でしょう。
実際に、日本でも最近はコスタリカ・コーヒーの愛好者は増えているようですし、函館でコスタリカのコーヒーを輸入販売している田中さんはコスタリカに農園をお持ちだそうです。
今回、宮田さんは、その田中さんの農園も訪ねて来られました。
消費者の好みに対応できるような、ブランディング化も進んでいるように思いました。
そういえば、宮田さんは、コスタリカではありませんが、ブラジルの「すずきさんちのコーヒー」をブランド化して輸入販売していますが、これもまたとてもおいしいので、ファンは多いでしょう。
「すずきさんちのコーヒー」がブランド化されるほどに、今や世界中の小さな需要を束ねる、いわゆる「ロングテイル戦略」が可能になってきているのです。

私の好みで長々と書いてしまいましたが、私はこうした動きに、世界の経済の大きな流れが反転する兆しを感じています。
経済は、これから大きく変わっていくでしょうが、多くの日本の大企業は私にはそうした動きとは真逆な方向に向かっていますから、ますます低迷していくでしょう。

ところで、昨日のサロンですが、珈琲の話からコスタリカの話はもちろんですが、フェアトレードや食料自給率の話、さらには「働き方」や「障がい者の生きづらさ」の話にまで広がり、とても刺激的なサロンになりました。
もっと聞きたいことがたくさんあったのですが、気がついたら予定の時間を大幅に過ぎてしまっていました。

宮田さんは参加者へのお土産に、熊本復興珈琲ドリップパック(コスタリカ・コーヒー)と熊本産の有機の柚子胡椒をお土産にくれました。
http://www.natural.coffee/items/3250909
湯島のサロンは、話に来てくれた人まで会費を払い、お土産までくれる不思議なサロンです。

宮田さん、
新たに参加してくださった4人のみなさん、ありがとうございました。

Miyata20170322


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2017/03/12

■世界の対立軸が変わってきた気がします〔1〕

地震の前にはナマズが騒ぎ出すと言われていました。
3.11大地震の前にも、大量のクジラが浜に上がったり、馬たちが騒ぎ出したり、ということが確認されているそうです。
余計な知識に呪縛されずに、素直に生命が生きていたら、時空間を超えて、たぶんいろんなことを感ずるのだろうと思います。
人間においても、子どもたちは自然に素直に反応しているのでしょう。
彼らには邪気は感じられません。

私が、世界の地殻変動を感じだしたのは、1980年代に入ってからです。
年賀状などで、そのことを書いた記憶もありますし、当時、雑誌などに寄稿した文章にもたぶん残っているでしょう。
もちろん、それは予兆などではなく、世界経済や世界政治においては、大きな枠組みの変化がだれの目にも見えるようになっていた時代です。
しかし、どうもそうした制度的な変化ではない、パラダイム転換を感じていました。
「21世紀は真心の時代」という小論を書いたのは、そんな思いからですが、当時はまだ見えていませんでした。
http://cws.c.ooco.jp/magokoro.htm
大きな会社にいては、世界は見えてこないという思いもあって、会社という船から降りたのが1989年でした。
偶然なのですが、その年に、日本は昭和から平成に変わり、世界ではベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造は終わりました。
ちなみに、中国での天安門事件もこの年ですし、環境問題に火をつけたバルディーズ号の原油流出事故もこの年です。

東西冷戦構造は世界の構造原理の変質を示唆し、天安門事件は新しい対立軸を可視化しました。
バルディーズ号事件は、一株運動を広げました。
私の認識では、近代国家を要素にした世界の枠組みが変わりだしたのです。
対立軸は、国家対国家ではなく、国家を含む制度対個人としての人間へと変わりだしました。
同時に、人間にとっての自然の意味が変わりだした。

一つの象徴的な事件がアメリカで起こっています。
20年にわたって繰り広げられていた「オゾン戦争」の終結です。
1989年、世界最大のフロンメーカーだったデュポンが、フロンガスによるオゾン層の破壊を認め、フロン事業からの撤退を宣言したのです。
こうしたことに関しては、「広報・コミュニケーション戦略」(都市文化社)に寄稿した「企業変革のためのコミュニケーション戦略」に少し書いたものをホームページにアップしています。
http://cws.c.ooco.jp/communication1.htm

むかしのことを長々と書いてしまいましたが、私が会社を辞めて、社会への溶融を目指したのは、素直な生命的な反応だったような気がします。
以来、生き方は大きく変わりました。
そのおかげで、素直な生命力を、わずかばかりにせよ、取り戻せた気がします。
世界が素直に見えるようになってきたのです。
蛇足を加えれば、妻から学んだことも大きかったです。

世界の対立軸が変わりだしている。
その確信はさらに強くなりました。
しかし、世界はそうした流れに抗う揺り戻しや、対立軸の変化に伴う秩序の混乱によって、まさにさまよっている感があります。
そうした混乱の中では、さまざまな邪気がうごめきだします。
いまの世界を見ていると、まさにそんな感じがしてなりません。

世界がこのまま壊れることはないでしょうが、大きな転機にあるように思います。
そんなことを少し書いていこうと思います。

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2016/10/05

■働き方と働かせ方

「働き方改革」が話題になっています。
霞が関も都庁も、経団連も、みんな「働き方」を改革しようと動き出しています。
これって、おかしくないでしょうか?
言葉の使い方が間違っている、あるいは、問題の捉え方が間違っている。
私には、そう思います。

もし、働く人たちがそう言っているのであれば納得できますが、なぜか「働き方改革」を熱心に説いているのは、働く人たちではなく、働かせる人たちです。
問題の所在の捉え方と意識が違っているように思うのですがいかがでしょうか。

正しくは、「働かせ方改革」でしょう。
そうであれば、改革宣言も納得できますし、実効性も感じられます。
しかし、「働かせ方」を変えずして。働く人たちに「働き方」を変えろと言うのは、どう考えても、私にはおかしく感じます。

よく言われるように、変えられるのは自分だけです。
にもかかわらず、多くの人は、他者を変えようとする。
つまり、本気ではないのです。
自らが変わろうとしないで、他者を変えることなど、できるはずもない。
逆に、みずからが変われば、他者は変わっていくものです。

こうしたおかしなことが、たくさん、あります。
単なる言葉遣いの問題だと思われるかもしれません。
しかし、言葉遣いにこそ、思想や目的が現れるものです。
そうした視点で、気を付けていくと、以下に本末転倒したことが多いかが見えてくるかもしれません。

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2016/08/16

■「時間かせぎの資本本主義」をお勧めします

もう3週間ほど前になりますが、ヴォルフガング・シュトレークの「時間かせぎの資本本主義」を読みました。
久しぶりに世界の大きな動きを考えさせられる経済書でした。
気になっていたことのいくつかの展望が開かれたような気がします。
それで多くの人にも読んでほしいと思い、ブログなどで紹介することにしました。
専門書とまでは言いませんが、気楽に読めるほどの本でもありませんが。
しかし,いまの経済の流れやEUの動きに関心のある人には、特にお勧めです。

極めて簡単に、私の主観的な要約です。
戦後資本主義の成長停滞を克服したかに見える、いわゆる新自由主義は実のところ、この危機を「解決」したのではなく、「先送り」してきたにすぎない、というのが本書のメッセージです。
そして、この先送りのために利用されたのが「貨幣」で「時間を買う」という手段だったと著者は言います。

シュトレークによれば、戦後経済が限界を示しだした1970年代以降、貨幣的手段を用いた時間かせぎがすでに3度にわたって繰り返されてきました。
最初は、国家による紙幣増刷(インフレ)。次が国債発行による債務国家への転換、つづいて国家債務の家計債務への付け替えともいうべき「クレジット資本主義」です。
それも2008年のリーマンショックにより破綻し、いまや国家を超えたインターナショナルな財政再建国家への移行過程にあると言う。
こうした4度にわたる貨幣マジックはその都度、経済危機を先延ばしにして政治危機の表面化を防いできたことは事実だとしても、それはもはや限界に達している、というのが著者の主張です。

そして、そうしたことが世界の質を変えてきています。
租税国家から債務国家への移行に伴い、社会的公平性を担ってきた国家機能の多くが、民営化に象徴されるように、次第に市場経済へと移ってきているのです。
事実上の国家主権の縮小過程が始まっているとも言えます。
市民によって統治され、租税国家として市民によって財政的に支えられている国家が、その財政的基盤を債権者の信頼に依存するようになるにつれて、債権者がいわば現代国家の第2の選挙民として登場してきます。
「国民」と並ぶ「市場の民(債権者)」が、国家のガヴァナンスに関わりだすというわけです。
これによって資本主義と民主主義の関係が新しい段階に入ると著者は指摘します。
「そこでは民主主義が市場を飼いならしているのではなく、逆に市場が民主主義を飼いなしている。これによって歴史的に新しい種類の制度構造が出現した」。
そして、「「市場」は人間に合わせるべきであり、その逆ではないというあたりまえの考え方が、今日ではとんでもない夢物語だと思われている」と言うのです。
資本主義と民主主義の両立の難しさについても、著者は言及しています。

ではどうすればいいか。
著者は直接的には言及していませんが、行間には著者のビジョンを感じます。
具体的な提案ももちろんあります。
たとえば、各国の通貨主権を回復です。

問題は、資本主義ではなく、民主主義なのかもしれません。
ちなみに、著者は債務国家がいかに富裕層に利するものであるかも語っています。

とても示唆に富む本です。
ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思います。
なお、併せて、最近話題の「〈詐欺〉経済学原論」(天野統康 ヒカルランド)や「保守主義とは何か」(宇野重規 中公新書)も読まれると本書の理解も深まると思います。

コモンズ書店からも購入できます。
よかったらどうぞ、
いささか高い本なのですが。

コモンズ書店から購入
http://astore.amazon.co.jp/cwsshop00-22/detail/4622079267


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2016/07/26

■障害の所在

前の「事件を見る視点」の補足です。

障害者という言葉には、違和感を持っている方もいます。
「害」という文字に抵抗があるようです。
「障害者」ではなく、「障碍者」とか「障がい者」と書く人もいます。
私にはいずれも同じように感じますが、相手の思いを大事にして、使い分けるようにしています。
しかし、ある時、障害者の息子さんを持つ人から、そんなことはどうでもいいと言われたことがあります。
話す場合は、私は基本的には「障害を抱えている人」という表現を使うことも多いのですが、これもなんだか言い訳めいていて、自分でもすっきりしていません。

なぜすっきりしないのか。
それは、「障害」が人に置かれているからです。
そうなれば、人が「障害」になってしまいかねません。
その視点を変えなければいけません。

昨日の事件の加害者は、「障害者のいない社会」がいい社会だと発言しています。
これは危険な発想です。
なぜなら、障害のない人などこの世にはいないからです。
その範囲をどうやって決めるのか。

この言葉から、「者」と「い」という、2つの文字を削除して、「障害のない社会」と置き換えたら、誰も反対しないでしょう。
加害者が、そこまで思いを深めてくれたら、悲劇は起こらなかったかもしれません。
問題の本質は、そこにあるように思います。
彼が問題提起した時に、誰かがそのことを指摘してほしかった気がします。
いや、こうして事件が起きたいま、テレビで解説する誰かが、一人でもこういう指摘をしてほしいです。

障害の所在は個々の人にあるのではなく、人が生活する社会環境にあるのです。
そう考えると、障害福祉の捉え方は一変するはずです。
これは、障害者問題に限りません。
生きにくくなったのは、社会が「障害」を増やしているからなのです。
そして、そうした「障害」を増やしているのは、私たちかもしれません。

福祉の概念を一変させなければいけません。
それが行われないと、福祉は市場化の餌食になりかねません。
市場とは「問題」のあるところに生まれます。
障害を人に置いてしまうと、福祉産業という市場が生まれるのです。
私はこれを「近代産業のジレンマ」と呼んでいます。
近代産業は、問題解決型の発想ですから、人が障害を持つほどに市場は拡大します。
でもそれはどう考えてもおかしい。
人を基軸にして考える発想が、私には納得できます。

15年ほど前に、福祉や環境を産業化するのではなく、産業を、福祉化。環境化するようにベクトルを反転させなければいけないと書きましたが、残念ながらそういう方向にはまったく来ていません。
悲しい話です。

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2016/06/06

■カフェサロン「ベーシックインカムを考える」の報告

昨日のカフェサロン「ベーシックインカムを考える」は15人の参加がありました。
最初から異論反論が噴出し、サロン初参加の話題提供者の三木さんは驚いたかもしれません。
三木さんは、ベーシックインカムの本質を話題にするために、いまの経済のおかしさを、信用論や需給構造の話から話し出したのですが、その段階で議論が噴出しだしてしまったのです。
三木さんの話をきちんとお聞きしてから話し合いを始めればよかったのですが、交通整理する私自身が議論に入り込んでしまい、サロンを議論の場にしてしまいました。
それに参加者があまりに多彩で、話し合いの視点があまりにも多核的でした。
あまりに話し合いが広がり紛糾したため、いつも以上に報告が難しく、どうしたものかと悩んでいるのですが、今回はサロンの報告はやめて、私が感じたことを一つだけ報告させてもらうことにしました。

ベーシックインカムとは、wikipediaによれば、「最低限所得保障の一種で、政府がすべての 国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に 支給するという構想」ですが、私は、基本的には社会の成員みんなが生きていける状況を保証して、自分らしい生活をできるようにする考えを具現化する仕組みと捉えています。
そして、大切なのは、その基本にある思想ではないかと思います。
それは、所得配分の問題や経済の問題ではなく、社会をどうとらえるかという問題です。
わかりやすく言えば、「社会とは働くものがつくっているものではなく。そこに存在する者すべてによって成り立っている」と捉えるということです。
昨日も、労働だけが「価値」を生み出すという議論がありましたが、その発想こそ、問題にされなければいけません。
労働はともかく、「働く」ということを「社会に役立つ行為」と捉えれば、それは「対価」とは無縁のことです。
働いて対価を得られない人にベーシックインカムを「恩恵的に」支給して、生きていけるようにするというベーシックインカムは、現状の経済スキームと何ら変わりません。
そうではなく、存在するだけで「社会に役立っている」という考えが、ベーシックインカムの一つの捉え方です。

こう書いてくるとわかりにくいかもしれませんが、その実例は私たちの身近にあり、しかも、それによってたぶん人類はこれまで大きな存在になってきたのです。
その実例とは、「家族」です。
家族の一員である乳幼児は対価を得る労働はあまり出来ませんが、存在するだけで家族に役立っています。
身体が不自由になった高齢者も同じかもしれません。
しかし、家族の一員は、「労働」しなくても生きていけます。
家族の一員であることによって、「ベーシックインカム」は保証されているのです。
家族を超えて、「同族集団」もまた、大きな意味でのベーシックインカムが保証されていたように思います。
かつては、リーダーの使命は、民を飢えさせないことでした。

もし「ベーシックインカム」をそういう視点で捉えると、それは現代の社会や経済のあり方への代替案の提案になっていきます。
改善案ではないのです。
したがって、単に制度を導入するという話ではなく、制度づくりの理念や方法を考え直すということです。

ちなみに、若い参加者から、もし数万円の生活支援費がもらえたら、金銭に呪縛されずに自らの能力を発揮させられる仕事に取り組めるかもしれないというような話がありました。
いまの日本社会は、みんな生活を維持するための労働に呪縛されているため、せっかくの「能力」を発揮できずにいる人が多いでしょう。
そう言う人たちが、自らの能力を発揮できるようになれば、社会は活力を取り戻し、後ろ向きの社会コストは削減できていくでしょう。
それこそが、本来的な「お金」の使い方だと私は思いますが、そこにどういう思想を盛り込むかによって、効果は「両刃の剣」になるでしょう。

ベーシックインカムを所得配分政策と捉えてしまうと、相変わらず金銭呪縛の社会から解放されない気がします。
何もしなくても餌を与えられて生きている家畜のような存在になっていいのか。
そうなってしまえば、社会はむしろ停滞していくでしょう。

19世紀初頭のアメリカを旅行したフランスの思想家トクヴィルが、自由の有無がいかに人間の生活を変え、自由の侵害がどんな社会的・経済的な状況をもたらすのかを報告しています。
当時、まだアメリカの南部では奴隷制が残っていました。
トクヴィルは、奴隷の少ない州ほど、人口と富が増大しているという点に注目します。
そして、奴隷制のない北部と奴隷制度が残っている南部を見て周り、北部では黒人も白人も生き生きと働いているのに対して、南部では働いている人が見つからないと報告しています。
彼は、「奴隷の労働の方が生産性が低く、奴隷の方が自由な人間を雇うより高くつく」と言っています。
ベーシックインカムと、まったく無縁でもない話のような気がします。

サロンはいささか混乱したかもしれませんが(私の責任です)、三木さんのおかげで、いろんな論点が見えてきたような気がします。
参加者のお話も気づかされることが多かったです。

ちなみに、昨日は、スイスで成人の国民全員に毎月30万円、子供に7万円を支給するベーシックインカムの国民投票が行われたそうです。
また、フィンランドでも試験的な導入が決まっています。
昨日参加してくださった大野さんから、国連が支援して、以前ナミビアの寒村でのベーシックインカム社会実験が行われたことも知りました。
そうしたことからも、いろいろと気づかされることがたくさんありました。

三木さん、参加者のみなさん
ありがとうございました。
いつかまたパート2を開催したいです。


20160605_2


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2016/03/03

■二宮金次郎をご存知ですか

数年前に、埼玉県の熊谷市で活動されている埼玉福興の新井さんのところにお伺いした時、近くの民家の庭に、小さな二宮金次郎の石像があるのに気づきました。
学校でもない、普通の民家の庭先にあるのがめずらしく、つい写真を撮ってしまいました。

Photo

先ほど、テレビを見ていたら、二宮金次郎は忘れられつつあり、その像も撤去されてきているようです。
さらに歩きながら本を読むのは、歩きスマホ禁止の世相の中で好ましくないということで、椅子に座って本を読む二宮金次郎像につくりかえられたところもあるそうです。
いまこそ、二宮尊徳に学ぶことが多いと思っている私としては、とても残念です。

東日本大震災の後、南相馬を訪れた時に、仮設店舗の一画に、「報徳庵」という食堂がありました。
震災の後、小田原の報徳会のひとたちがやってきて、つくってくれたのだそうです。
いまなお報徳活動は続いていることを知りました。

昨年、「相互扶助の経済」という本を読んで、改めて二宮尊徳の経済観に教えられました。
その本を読みながら、これから必要な知恵が、尊徳の思想のなかにはたくさんあるように思いました。
いまの日本の経済政策も地方創生政策も、二宮尊徳の報徳経済から学べば、まったく違ったものになるでしょう。
アメリカ大統領選で、トランプ候補の暴言が話題になっていますが、私には最近の安倍政権の暴挙の方も気になります。

二宮金次郎というと、どうも戦前の臣民教育のイメージがあるのですが、二宮尊徳の思想や実践活動から学ぶことはたくさんあります。
ちょっとハードな本ですが、「相互扶助の経済」を多くの人に読んでほしいと思います。
次の更新時に、ホームページで紹介させてもらう予定です。
いつか報徳経済のサロンもやりたいです。
どなたか話してくださる方はいないでしょうか。

Houtokuan


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