カテゴリー「経済時評」の記事

2009/12/17

■半農生活と農的生き方

昨日、半農生活をテーマにしたサロンを開催しました。
20人ほどの人が集まりました。
農業への関心の高さを改めて感じました。

一昨日、NHKのクローズアップ現代で「農業ビジネス」が取り上げられていました。
イオンが茨城県に農園をつくったとか、自治体が地域活性化のために企業を誘致して農業に取り組んでもらうというのがテーマでした。
いわゆる儲かる農業、アグリビジネスです。
これに関する私の意見は前にも書きましたが、儲かる農業という発想自体に限界を感じます。

番組では牛久市の市長が、もう10年もしたら農業をやる人はいなくなるといっていました。
以前からずっと言われ続けている警告です。
だから企業に農業の担い手になってもらうということでしょうか。
それこそ農業をなくすことではないかと私は思います。
農業は決して「産業」ではないのです。
文化です。
その文化がなくなるはずはありません。

業は「農」と「業」のどちらに重点を置くかで全く違ったものになります
業としての農業ではなく、農としての農業は、人間がいる限りなくなくなりはしないでしょう。

昨日のサロンは実にさまざまな人たちが集まりました。
小作料を増やしたい、相続した農地を有効活用したい、農業分野で起業した人を応援したい、企業の社会貢献活動として農業にかかわりたい、地域史の研究の関係で農業を学びたい、職位句を考えるためにも農業を知りたい、まちづくりの切り口に農業を活かしたい、などなど実にさまざまな動機で集まっています。
実際に農業活動をして、その魅力に取り付かれた人も少なくありませんでした。

思いや動機はさまざまですが、話を聴いていて、基本的なところでは通底していることを感じます。
みんないまの生き方を変えたいのです。

ここが重要なポイントです。
業としての農業を考えていては、それは実現しません。
発想の基点を変えなければいけません。
そして発想の基点を変えれば、別に農業をしなくてもいいのです。
大切なのは、農的生き方ということです。
そこをあいまいなままにした「農業ブーム」は百害あって一利なしです。
この私の考えが間違っていればいいのですが、

私の今の生き方は、かなり「農的生き方」なのですが、なかなかみんなにはわかってもらえません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/29

■なぜ飢饉が起こるのか

アマルティア・センは、インドの実態を克明に調査した結論として、飢饉は、利用可能な食物が社会的に不足していたためというよりも、合法的・合理的に取得できる財の範囲が極端に狭まったことが最も主要な原因だったと考えました。
そこから、彼の主要な経済や政治を見る概念が生まれてきたわけです。
思い込みを捨てると、全く違った風景が見えてくるということです。

日本の今の状況は、もしかしたらセンの指摘するような「飢饉状況」なのではないかと、最近、思うようになりました。
物財もお金も住居も、ありあまるほどある。
にもかかわらず、ホームレスや生活苦が発生しているのです。
センの議論からもっと学ばなければいけません。

日本の国家財政の赤字は巨額になっており、国民一人当たりにすると700万円を超えているそうです。
自治体財政まで含めると、さらに大きくなります。
そうしたなかで、もうこれ以上、借金を増やすべきではないという議論が多いです。
しかし、そうした議論は、お金を価値基準にしている人の発想かもしれません。

お金は私たちみんなの生活を良くするための手段です。
センの議論につなげれば、世の中にあり余っている財の合法的・合理的な活用につなげていくための手段だと考えれば、違った風景が見えてきます。

それに国家が巨額な借金をしているとして、私にはなんの不都合も感じません。
統計的には3人家族のわが家では2000万円の借金をしているということになるのでしょうが、そんな実感はありません。
お金がもっとあれば、マニフェストが実現でき、みんなの暮らしが良くなるのであれば、この際、無限にお金を増刷して100兆円程度の財政出動をしたらどうでしょうか。
おそらくインフレが起こり、円安が進行し、多くの人たちの借金は解消されるでしょう。
そんなことになったら大変だと専門家は言うでしょう。
でも何が大変なのでしょうか。
そうした変化が一挙に来たら経済や社会は混乱しますから、確かに大変です。
しかしそれを10年かけてやれば、どうでしょうか。

そんなに借金して将来世代に申し訳ないという意見もあるでしょう。
でも、たかが紙幣です。
ダムや高速道路を造るために自然を壊したら、将来世代には影響を与えるでしょうが、紙幣をどんなに増刷したところで、なんの影響があるというのでしょうか。
お金は単なる紙でしかないのです。
大切なのは、その意味と使い方です。

相変わらずの暴論ですが、そろそろお金信仰の呪縛から抜け出ないといけません。
もっとも、私が一番良いと思うのは、全ての借金を無効にする徳政令です。
トポラッチの効用を思い出すのもいいかなと思うのですが。
借金は一切返さなくてもいいということになれば、私の生活もだいぶ楽になりそうですし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/21

■経済状況をマクロに把握するための仕組みの見直し

政府の月例経済報告で日本は再びデフレ状態に陥ったと認定されました。
確かにさまざまなところでの価格低下がみられます。
ともかく商品が売れないという商業関係者からの話もよく聞くようになりました。

今日は自宅にいたので、娘と一緒に近くのスーパーに買い物に行きました。
これまで通っていた近くのライフというお店が、道路拡幅のために閉店したので、ジャスコ系のお店に行きました。
価格帯があまりに違うので驚きました。
たとえばUCCのレギュラーコーヒーは300gで100円以上の差があります。
私が毎日飲んでいるアセロラジュースも1割以上高いです。
と、私でも比較可能な商品(工場で製造されている商品)が総じて1~2割高いのです。
ジャスコ系のお店も低価格化を進めているといわれていますが、それでもこんなにも違うのです。

テレビなどでは小売店が価格を下げるために大変な努力をしていると報じています。
しかし、こうしてライフとジャスコの価格差を見ると、実際にはもっと安くなるのだろうと思います。
商品の価格とは何なのでしょうか。

そう思うようになったのは、100円ショップの出現です。
工業製品の価格は、あってないようなものだと思うようになりました。
そう思って考え直すと、商品の価格というものが全くわからなくなりました。
たとえば農産物。
複雑な経路でスーパーに並ぶ農産物と生産者が直接販売する産直店の野菜の価格が同じなのが全く理解できません。

職人が心と時間をかけてつくったものもどうやって価格をつけるのか不思議です。
私の娘は職人的な仕事をしています。
娘は2~3日、根をつめて1枚の絵皿を完成させます。
それが1万円というのは、安いのか高いのか。
材料費や電気窯での焼成、デザインのための細かな打ち合わせ、時に焼成がうまくいかずにやり直したりしている姿を見ると、私が2時間講演して10万円をもらうことに比べると安すぎます。
しかし、1日中それこそ食事をする暇なく働き、1円ももらえないばかりか電話代や交通費さえ自己負担しながら働いている、もう一つの私の仕事の立場からすれば、3日で1万円近くもらえる仕事は高給取りに感じます。

昨日、熊谷で乗ったホテルの送迎車の運転手さんは、私もよく知っている有名企業の社員でしたがリストラにあったそうです。
それから就職しようにも仕事がなく、給料などいくらでもいいからともかく働きたいと今の仕事についたそうです。
同じく退職させられた仲間たちは、今も仕事を見つけられない人も多いそうです。
給料の多寡ではなく、やはり仕事はしたいと彼はいっていましたが、給料とは何なのでしょうか。

話が広がってしまいましたが、要は商品の価格とか仕事の報酬に関して、これまでの固定観念で考えることをやめてみることも大切かもしれません。

経済状況をマクロに把握するための仕組みが大きく変わってきているような気がします。
消費者物価指数などで社会の実態がわかるはずもないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/16

■「世の中を治め」る経済と「人民を救う」経済

7~9月期の国内総生産(GDP)は年率換算で4.8%増となったそうです。
4~6月期に続き2期連続のプラス成長です。
経済は着々と良くなっているそうです。
でも、そうでしょうか。

経済統計は果たして実態を反映しているかどうか、などという問題提起をするつもりはありません。
そもそもどんな「実態」も、視点や見方によっていかようにも変貌するからです。
それに、そもそも経済という概念そのものも多義的です。

ウィキペディアによれば、経済という語は、「世の中を治め、人民を救うことを意味する経世済民を略したもの」とされています。
しかし、「世の中を治め」と「人民を救う」とは、決して同質な概念ではありません。

最近、さまざまなところで、生活目線の視点での仕組みづくりが進んでいます。
たとえば市民ジャーナリズムの試みや市民バンクの試みがあります。
生活のための通貨の試みもあります。
そうしたものは必ずしもうまくいっているわけではありませんが、一定の成果を出していることは否定できません。
さほど成功していないとしても、じわじわと広がっているからこそ、「世の中を治め」る立場の人たちからは目の敵にされるようになっているともいえます。

経済指標に関しても、幸福指標の試みはありますが、今のところまだ「世の中を治め」る視点が強いようにも思えます。
ブータンの国民総幸福量(GNH)も、そんな感じを受けてしまいます。
もっと私たち住民の暮らしやすさを示すような指標を考えることが大切なのかもしれません。

そもそも経済や暮らしやすさを数字量で示すこと自体がおかしいのかもしれません。
そんな気もするのですが、しかし、そうしたことを考えるプロセスはとても重要です。
私たちの(私の、ではありません)暮らしやすさこそが経済の中心となるべきテーマであれば、その構造を考えることこそが、経済の出発点でなければいけません。
私たちの暮らしぶりが一変してしまっているいま、経済学は根本から見直されるべきではないか。
そして生活ぶりを示す経済指標も、根本から考える時期にきているのではないか。
そんな気がします。

生活につながった、新しい経済指標づくりはとても魅力的なテーマです。
どこかでそうした議論は始まっていないでしょうか。
もしどなたかご存知であれば、教えてくれませんか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/08

■罪を償わない政治家と経済学者の厚顔無恥

今朝、テレビの時事放談に自民党議員だった野中広務さんが出ていました。
日本の政治を私物化して破壊した張本人の一人ですが、よくまあこんなことが言えるなと思うことを毎回発言しています。
彼は警察官僚ですから、自らが正義で、敵を執拗に破壊する姿勢をもつと同時に、自らの正義を実現するためには手段を選ばない狡猾さに長けています。
細川政権の攻撃の際の姿勢は、国のことなど全く考えない暴力団の抗争のようなやり方でした。

とまあ、時評を再開しだした途端に、過激になってしまいましたが、国会での議論などで、議論されているさまざまな問題を起こし、解決するどころか問題を増幅させてきて、破綻直前まで持ってきた自民党の政治屋たちが、熱心に問題解決に取り組もうとしている新政権の行動を、自らのしたこと、してこなかったことを棚にあげて、お気楽に非難している無責任佐藤修ぶりに、心底、腹が立っています。
まさに「盗人の開き直り」。自民党の政治家は全員、罪を償えと言いたい気分です。
しかし、ジャーナリストも有識者も、そうした罪の片割れを担っていますから、そういう発言をする人は少ないです。
テレビのコメンテーターに関しては、もうどうしようもありません。

金儲け主義で経済をダメにしたことに加担した経済学者や経営学者も、私には腹立たしい限りです。
要領のいい中谷巌さんのような小賢しい人はともかく、多くの人はだんまりを決めていますが、今なお自分のやったことの意味などわかっていないのかもしれません。
まあ、人ごとではなく、私も偉そうなことは言えませんが、一応、1980年代に会社にいて、このままではどうやらおかしな方向に行きそうだと感じて、会社を辞めて以来、それなりに少しは自らの生き方を変え、活動もその方向でやってきました。
おかげで、自分自身の生き方にはあまり悩むことはありません。

人は間違いを犯すものです。
ですから政治家も経済学者も、この30年をきちんと総括して、もし間違いがあれば(間違いがなければ今のような日本にはなっていないはずです)、そこを正し、これからの視点で、新たな努力をしている人に加担していくべきです。
野党だから与党に反対しなければいけないわけではありません。
間違いを犯した経済学者や経営学者も、私欲を捨てれば、新しい状況を生み出す働きはできるはずです。

時評を書くのは、やはり精神健康上、よくありません。
しかし、誠実にがんばっているように思える長妻さんや岡田さんを見ていると、やはり時代から離脱するのは恥ずべきことだと思います。
自分のできることをやっているだけではなく、
時代の動きにはきちんと対峙していくべきだろうと思います。
そうしないと、生きている意味がありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/10/21

■国家が破産しないのはなぜなのでしょうか

ちょっと疲れたので、無意味な無駄話です。はい。

予算編成に関連して、景気対策か財政の健全化という問題がまた浮上しています。
私自身は将来世代の資源を使い込むような財政赤字制作は反対ですし、借金をしてまで楽をしようなどと思わない生き方をしていますので、赤字国債を発行する発想には賛成できません。

しかし、景気対策にも賛成できません。
このブログの経済時評の基調には、景気対策発想から抜け出ようという、経済に対する私の考えがあることを読んでくださっている人には伝わっているかと思います。
お金で測定する景気には全く興味がありません。

一応、そういうことを前提にして読んでもらえればうれしいのですが、最近、財政赤字は何で悪いのだろうか、わからなくなってきました。

財政赤字と景気対策とは対立するものでないことはいうまでもありません。
企業で考えれば簡単にわかります。
業績が停滞していた企業が、銀行から巨額な資金を借金して、業績を建て直して、それによって借金を返済していくことは、よくある話です。
赤字埋め合わせの国債ではなく、もっと積極的な国債を出したらどうでしょうか。
銀行券をどんどん印刷して、国民にばらまいたらどうでしょうか。
1万円程度の給付金ではなく、国民一人当たり3億円ずつ配ったらどうなるのでしょうか。
要するに国民全員が当たる3億円ジャンボを発行するわけです。
とんでもないインフレになるのでしょうか。
でもその前に、みんなとても幸せでうれしい気分を味わえるでしょう。
3億円も当たったら、もうお金などほしいと思わずに、ついつい隣人に大盤振る舞いをしたくなるでしょう。
意外とインフレにならないのではないか。
ただお金に対する信仰が消えるだけかもしれません。
でもまあ、とんでもないハイパーインフレの悪夢で混乱するかもしれませんね。

代わりに全ての借金を返済無用にしたらどうでしょうか。
亀井さんの案どころではなく、全ての借金を返さなくても良くするのです。
国家の赤字も自治体の赤字も帳消しです。
だれがこまるのでしょうか。
銀行やローン会社が困りますか。
でもまあそれらはこれまで異常に儲けてきたのですからもういいでしょう。
それでもそこでまじめに働いている人はどうなるのか。
やはりこの案もだめそうですね。

しかし私は不思議に思うのです。
これほど巨額な赤字を生み出しながら、国家はなぜ破産しないのか。
そいえば、巨額な借金をしたカエサルはローマを豊かにしたのです。
なぜでしょうか。
お金の活かし方を、つまり使い方を、私たちは間違っているのではないか。
最近、そんな気がしてならないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/10/01

■日本航空再建への懸念

前原国土交通相の迅速な対応で、JAL再建に向けて専門家らによる特別チーム「JAL再生タスクフォース」が設置されました。
まず徹底した資産査定を行い、早急に再建計画の骨格を固めるという動きは私にもまあ納得できるものです。
しかしタスクフォースのメンバーや基本姿勢には、少し違和感があります。

タスクフォースのメンバーには、旧産業再生機構OBがずらりと並んでいます。
産業再生機構はカネボウ、ダイエーなどの再建に取り組んだチームですが、このブログで私はかなり酷評した記憶がありますが、彼らはいったい何を「再生」したのか、要するに金融工学と権力を駆使して、かたちを整えただけではないかという気がしてならないのです。
カネボウもダイエーも再生したでしょうか。
「企業再生」ではなく「産業再生」だというのかもしれませんが、産業再生とは一体なんでしょうか。
要するに彼らは私欲のためにしか働かなかっただけではないのか。
庶民にとってはかなり巨額なお金が動きましたが、そのかなりに部分はかなり不透明で、いろいろと裁判まで議論されたほどです。
またカネボウやダイエーで誠実に働いていた人たちの多くは、かなりの苦労を強いられたはずです。

私もほんのささやかにですが、少しだけそうした実態を垣間見る機会がありました。
なぜ彼らがあれほど評価されるのか。
そこにこそ、大きな問題があるようにさえ思います。
彼らは要するにこれまでの新自由主義経済の掃除屋なのではないのか。
その存在を否定するつもりはありませんが、つまるところ、今のような社会をつくってきた考えの申し子たちなのです。
その掃除の仕方は「友愛」精神とは無縁のものです。
彼らにとっての価値は「お金」です。

真の再生ができるには、その現場にいる人たちだけです。
もちろん現場の人、つまり当事者だけでは再生はできないでしょうが、再生の中心に当事者がいなければ、再生などは意味のないことです。
再生せずに、新しいものをつくればいいのです。
企業の再生とは、企業の機能の存続とそれを支えている人たちの生活の持続が目的でなければいけません。
企業の再生は、そう難しい話ではありません。
徹底した資産査定という場合、その「資産」には何が含まれるのでしょうか。
そこが問題ですが、企業にとっての最大の資産はいうまでもなく「そこで働く人」ではないかと思います。
しかし旧産業再生機構OBたちには、そんな発想は微塵もないでしょう。
お金のことしか関心のない人たちですから。

いささか極端に書きましたが、JAL再生タスクフォースには民主党の経済政策理念が象徴されているとしたら、これまでの自民党の経済政策理念と全く同じなのかもしれません。
新しい経済理念は、やはり次の政権の仕事なのかもしれません。

ちなみに、前原さんの言動を批判するつもりは全くありません。
むしろとても好感をもっていますが、これはそうした次元を超えた話です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/15

■温室効果ガス25%削減で家計負担36万円増?

温室効果ガス25%削減が話題になっていますが、これによる家計負担が36万円などという数字までが話題になっています。
誰が出した数字でしょうか。
こうした各論的な数字の操作で世論を誘導するのは最も悪質な情報操作です。

温室効果ガスの排出を削減することは、経済成長の質的転換をはかるか、あるいはこれまでのような経済成長路線を見直せば実現できるはずですが、それはおそらく家計負担も軽減することになるだろうと私は思います。
要は、過剰な工業依存をやめるということですから、これまでのような意味での経済成長路線は見直されるべきです。
これまでのやりかたを続けながら、持続可能な社会づくりなどできないのです。
それに気づくかどうかの岐路に、いま私たちはいます。
「環境規制は、技術革新をもたらし、生産性向上にも寄与する」という、ハーバード大学のポーター教授の主張です。
事実、それによって日本の自動車メーカーは世界の勝者になりました。
しかし、技術革新は実現しましたが、経営革新は実現できませんでした。
ポーターが言っているのは、正確には「適切に設計された環境規制こそが産業を進化させる」ということですが、「進化」はできなかったのです。
いえ、その意志がなかったというべきでしょうか。

環境を考えるということは、私たちの生活を見直すということです。
単に産業を見直すことではないはずです。
これまでの産業の枠組みから抜け出ようとせずに、環境問題までをも市場化しようとしている財界人の発想からはとても出てこない発想です。

この時評編でも度々書いていますが、お金基準の生活をやめるだけで、温室ガスは削減できるでしょう。
でもそれでは企業活動は拡大していかないわけです。
しかし、言うまでもなく、企業は生活あってのものです。
生活を壊すようになった企業の経営者たちの意見に惑わされてはいけません。
ましてやその寄生者たちがつくりあげた「36万円負担増」などという無意味な数字に驚かされてはいけません。
みなさんの金銭出資を1割抑えて、自らの汗をかき、あるいは我慢すれば、その目標はそう遠い先のものではないように思います。
それに健康にもいいので、メタボ症候群などというおかしなレッテルもはられないですむかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/10

■お金は家畜の餌なのか

リーマンショックから1年。
また金融経済学者たちが動き出しているようです。
彼らが変質させた「お金」を元の形に戻していかなければいけません。
もしそれができないのであれば、その「お金」から離脱していくのがいいかもしれません。
私は10年ほど前から、その路線を選び出しています。
心理的には呪縛から解き放されましたが、まだかなりお金のお世話にはなっています。

金融経済学者たちは、お金をどう「変質」させたか。
それに関してはさまざまな議論がなされていますが、一番重要なことは、実体物や人間の労働との「つながり」を切ったことではないかと思います。
その始まりは、金本位制から離脱したニクソンショック(1971年)です。
当時、私は東レという会社にいましたが、その影響を調べるためにアメリカに出張しましたが、まだ問題意識が乏しく、その意味さえ理解できませんでした。
金本位制を捨てた意味がおぼろげながら理解できたのは、会社を辞めて土地投機に関わる人と出会ってからです。

工業は自然を克服し、自然から経済を自由にしました。
しかし、それもまた「環境問題」という手厳しい反発を受けています。
ローマクラブがそのことを警告したのは1972年です。
1970年代は、歴史の岐路が見えてきた時期だったように思いますが、その後の実際の政治や経済の動きはむしろその「見えたもの」を封じ込める方向で動いてきたように思います。

私は、人が生きるとは「働くこと」ではないかと思います。
働くとは社会につながることであり、機会の部品が果たすような作業の意味ではありません。
ましてや、対価としての「お金」をもらうことではありません。
しかし、なぜかみんな「働くこと」でお金をもらうことに喜びを感じます。
女性たちは、家事労働を働くことと実感できなかったのでしょうか、それを捨てて、お金をもらう作業に向かっていきました。
そこでは、「お金」と「働くこと(労働)」が過剰なほどにつながっていました。

つまり、金本位制を離れて自由に作りだすことができるようになった「お金」も、まだ「労働」を通して、「実体」の制約を受けていたのです。
ところが、金融経済学者は労働の対価としてのお金を労働から切り離し、別の世界をつくりだしてしまいました。
すべての制約から自由になったお金は天井のない増殖を始めました。
1995年以来の15年ほどで、世界の金融資産は100兆ドルも増えたといわれます。
おそらく倍増以上の増加です。
ですから年収何百億などという馬鹿げた高給取りが生まれたわけです。
それを促進したのが、いわゆる新自由主義者たちです。

また長くなってしまいましたが、要するにいまや「お金」と「労働」が切り離されようとしているということです。
それはどういうことかといえば、主客が変わるということです。
「お金」を生み出す主役だった労働は、いまや「お金」のためのものになったということです。
高給取りたちは、そのうちに、家畜に餌をばらまくようにお金をばらまきだすでしょう。
すでにベーシック・インカムの議論が広がりだしています。
そこに潜む罠に、私たちは気づかねばいけません。

リーマンショックの意味を私たちはもっとしっかりと総括すべきです。
日本の経済学者は、そうしたことにあまりに無関心なのが気になります。
みんなお金に絡めとられてしまったのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/09

■友愛は空疎な理念か

昨日の日経新聞のコラム「大機小機」に、民主党に対して「友愛などと空疎な理念をもてあそばずに」という文章がありました。
おそらく書き手は「お金という空疎な私欲」にうずもれた経済人でしょうが、まだお金の空疎さに気づかない人が財界を仕切っていることにため息がでます。
アメリカではすでに「強欲な」金融人が復活してきているようです。
理念のない手段ほど、空疎なものはありません。

お金がないと生きていけないというみんな思いこんでいますが、お金がなかった時代にも人は生きていました。
名前はともかく、最近のような権力をもたらすような、そして自己増殖するような「お金」が生まれたのは、そう遠い昔ではありません。
そのことを、みんなもっと思い出してほしいものです。

毎月、湯島の私のオフィスでやっている「支え合いサロン」では、支え合う生き方を取り戻すことで、お金の役割を見直すことが時々話題になります。
9月24日には、「結い」をテーマにした話し合いをする予定です。
関心のある方はご連絡ください。

いまの日本の社会に欠けているのは、「友愛の精神」です。
民主党はこの理念を大事にしてほしいと思っています。
もちろん、私も大事にしていますし、実践しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧