カテゴリー「経済時評」の記事

2020/07/01

■ふるさと納税制度の主旨はなんだったのか

ふるさと納税制度には私は反対でしたし、いまも反対です。
創設のときから、これは税金の商品化を進め、税金の意味をおかしくするものだと思っていました。

しかし、財政に対する国民主権意識を高める上では一時的な効果はあるかとささやかな期待もしていましたが、返礼が地域の特産品ではなく、商品券のようなものになったり、還元率が3割になったりするようになれば、これはもう税制度をこわす方向に行くだろうと思っていました。
ですから総務省が、泉佐野市の還元率の高い「ふるさと納税」制度をふるさと納税の対象から外したことは当然のことだと考えていました。
そんなことのために仕事をする自治体行政は解散してほしいとさえ思いましたし、市長の行為は違法ではないかとさえ思っていました。

大阪高裁は、総務省を支持しましたが、泉佐野市の控訴を受けて行われた最高裁は、昨日、逆転判決を出し、泉佐野市の制度はふるさと納税に対象になるとしました。

国民の税金の3割が納税者に私的に還元され、しかもそのための費用もかかるのですから、どう考えても納得できません。いまのバブルなふるさと納税を巡っては、おかしな事件も起こっています。まさに行政もお金まみれになってしまっている気さえします。
アメリカの行政革命から始まったニューパブリックマネジメントは、そんなことを目指していたのではないでしょう。そんなはずはないと思いたいですが、いまから考えれば、それが目的だったのかもしれません。つまり市場至上主義による「汎市場化」の一貫だったとも考えられます。

法(制度)の趣旨を理解せずに、法の条文でしか判断できない裁判官と制度の悪用(私物化)に知恵を働かす自治体首長に、怒りを感じます。
税金というのはいったいなんなのか。
ふるさと納税制度は、本旨に戻り、泉佐野市もまじめな自治行政に取り組んでほしいです。

 

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2020/04/23

■コロナ危機が可視化してくれた3つの岐路

今回の新型コロナウイルスのパンデミック(コロナ危機)は一過性の危機ではなく、これによって、社会は大きく変わっていくだろうと言われています。
何がどう変わるかに関しても、さまざまな指摘が行われていますが、私なりに少し考えてみたいと思います。

コロナ危機は私たちにとってのいくつかの「岐路」を可視化してくれているような気がしますが、いまここで、どの道を選ぶかで、これからの社会の方向が決まっていくはずです。
それは、決して他人事ではないばかりか、自らの人生にもつながってきますし、ひとりの行動が社会を変えていくことにつながっていくかもしれません。
ただ単に「コロナ危機」を乗り越えた、で終わるのではなく、この「危機」を契機にして、未来を良いものに変えていくことができれば、いまの苦労も報われます。

ではどういう岐路に立っているのか。

第1の岐路は、「取り合いか分かち合いか」です。
これまでの経済や社会の基調は「取り合い」でした。
政治は利益の配分でしたし、経済は利益の取り合いでした。
今回のコロナ騒ぎでも、まさにそうした動きがさまざまなところに見えています。

しかし、その一方で、支え合う政治や分かち合う経済の動きも広がっています。
たとえば、経済でいえば、市場を中心としたマネタリーエコノミー(資本主義経済)は依然、支配的ではありますが、生活(コモンズ)を中心としたソーシャルエコノミーへの動きも静かに広がりだしています。これまでの経済観に囚われているとそうした動きはなかなか見えてきませんが、コロナ危機は、そうした動きを可視化し、加速しているように思います。
経済の枠組みそのものが大きく変わりだしてきているのです。

第2の岐路は、「自由か安全か」です。
リベラル・デモクラシーの矛盾が顕在化し、民主主義か自由主義かという選択においては、少なくとも欧米や日本では、自由主義へと重心が向いていました。
そのため「民主主義の危機」が叫ばれてきています。

しかし、それと合わせて、「リスク社会」化を背景に、「自由か安全か」が大きな問題になってきています。
民主主義か自由主義か、と、自由か安全かは、深くつながっています。
コロナ危機状況の中で、日本では、多くの人が、自由よりも安全を選択していますが、その安全が将来的には不安全を内包していることにはあまり意識が向いていません。
また、民主主義や自由にどう影響を与えるかも、あまり考えられているとは思えません。

この問題は、さらに、「同調か自律か」という第3の岐路につながっています。
民主主義を「個人の尊重」ととらえれば、その基本には「自分で考える」個人という主体的な存在が不可欠ですが、少なくとも最近の日本においては、「自分で考える」ことは生きにくさにつながってきています。
組織の中で「自分の考え」にこだわっていると、うまくいかず、最悪の場合は死に追いやられます。

そこまでいかなくとも、自分を殺して組織のために行動することが多くの人の生きる基準になってしまっています。
組織の力と個人の力ではいまや勝負にならない関係になってしまっています。

そのために、自分で考えることが人間である条件だと思っている私には、いまや日本から人間がどんどん消えてきていると思っていますが、もしかしたらコロナ危機がそれを反転させてくれるかもしれないと根拠もなしに思い出しています。
なぜなら、結局、自分でしっかりと考えていかないと安全は守れないことにみんな気づくのではないかと思うからです。
コラテラル・ダメッジがはびこる組織では、個人の安全は本来は守られないのです。

ほかにもいろいろな岐路があります。
小さな国家か大きな国家か、あるいはグローバリゼーションのスタイル。
ソーシャルディスタンスに象徴される、人間の関係性に関する岐路。
いろいろあります。

新型コロナウイルスが恐ろしいのではありません。
それにどう対処するかが大切なのです。
対処の仕様では恐ろしい状況を生み出しますが、私たちの未来にとって、幸いをもたらしてくれるかもしれません。
恐ろしがってばかりいるのでは、未来は開けてきません。

このシリーズはブログで少し書き続けようと思います。
5月にはこれをテーマにサロンもやりたいと思っています。

 

 

 

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2020/04/09

■奪い合いか支え合いかのどちらを選ぶか

新型コロナウイルス騒ぎで、いろいろなことが可視化されてきていますが、そこに真反対の動きが見てとれます。

たとえば、マスク騒ぎ。一方で買占めに走ったり、高く売ったりする人がいる反面、なけなしのマスクを困っている人に提供したり、工夫して手作りマスクを作ってみんなに提供したりする人もいます。
ショックドクトリン的におかしなことをする人もいますが、災害ユートピア的な人のつながりも生まれてきています。

ソーシャルディスタンスとか外出禁止とか、会う人を減らせとか、という風潮が広がっていると同時に、こういう時だからこそお互いのことを気遣って電話をしたり、注意して会いに行ったりすることも行われています。
私のところにも、思ってもいない人から電話が来たりメールが来たりしています。
それも海外の、もしかしたら日本よりも大変ではないかと思われるところからもです。

政府の政策を否定するつもりは全くないのですが、経済的な救済策が、注意しないと「奪い合い関係」を生み出すのではないかと心配です。
みんなが一体になってというのであれば、小賢しい条件や手続きは逆効果になりかねません。支援策が人間関係をこわし、復興を妨げたであろう3.11の時を思い出さなければいけません。
奪い合いにつながらなければいいのですが。

政府による経済的な支援ももちろん大切ですが、「支え合い」による支援も大切です。
それにそれなら誰にでもできることはあります。
人はお金だけで生きているわけではありません。

昨日の朝日新聞の「インタビュー」で、社会学者の大澤真幸さんが、「ポジティブな道とネガティブな道、どちらに進むかという岐路に私たちは立っています」「破局へのリアリティーが高まり、絶望的と思える時にこそ、思い切ったことができる。この苦境を好機に変えなくては、と強く思います」と話していますが、私も心底、そう思います。

奪い合いを基軸にする最近の市場中心のマネタリーエコノミー(資本主義経済)から支え合いを基軸にする生活を中心としたコモンズエコノミーへと軸足を移す大きな契機になればと思っています。
そうしたことを考えるサロンを、できるだけ早く始めたいと思っています。

 

 

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2020/03/06

■「脱原子力 明るい未来のエネルギー」(新評論)をお薦めします

湯島サロン仲間の折原利男さんの新著「脱原子力 明るい未来のエネルギー」(新評論)が出版されました。ドイツの脱原発倫理委員会メンバーのミランダ・シュラーズさんを日本にお迎えし、各地で行った講演会や市民との話し合いなどの記録をまとめたものです。折原さんが、随所に最新の情報や注釈をていねいに補記してくれています。
脱原発政策に転じたドイツが、実際にどう変わってきているかが具体的に伝わってきます。
自らの生き方にも実践的なヒントがもらえる本なので、多くの人に読んでいただきたく、紹介させてもらいます。

書名は、3.11の福島原発事故後話題になった、福島原発のある双葉町にあった大きな看板「原子力 明るい未来のエネルギー」という標語をもじったものです。
単に「脱原子力」ではなく、未来に向けてのビジョンが具体的に語られています。
副題が『ミランダ・シュラーズさんと考える「日本の進むべき道筋」』となっていますが、道筋だけではなく、その進め方に関しても具体的に語られています。
とりわけ、高校生との対話で呼びかけられているミランダさんのメッセージは実践的で、私たち大人も傾聴し実践すべき内容です。

環境NGOの満田夏花さんが推薦文で、「原発をどうするのか。それは単なるエネルギーの問題だけでなく、民主主義の問題であり、私たちの暮らしや生業、環境の問題であり、私たちや未来の世代に何を残すかという選択の問題であることを、この本は、決して押しつけがましくなく、平易だが確固とした言葉で指し示してくれている」と書いていますが、まさにその通り。ともかく、ぜひ読んでいただきたいと思います。

蛇足になりかねませんが、私が特に印象的だったことを3つだけ紹介します。

ドイツでは、いま、「エネルギー自給村」や「エネルギー協同組合」が広がっています。自然エネルギーに投資するということは、地域の生活の未来を考えることであり、脱原発というエネルギー転換は雇用の創出につながっているそうです。
それは、循環型・持続型の経済へと経済や産業の枠組みを変え、人々の働き方を変えることにもつながっているようです。

また、ある地域は風力、ある地域はソーラーというように、自然立地の差を生かした自然エネルギーの支え合いが展開されることで、表情ある地域整備が始まっているようです。これまでのような地域開発とは発想が全く違います。

政治の進め方に関しても、大きな変化があるようです。ミランダさんは、それを「ドイツのもうひとつの革命」と表現しています。
脱原発が決まった後、それを推進していくために、政府と国民をしっかりとつなぐ仕組みがつくられたそうです。そして、国民の信頼を得るには市民たちとの交流が必要であるという考えで、直接、国民に呼びかけて政治への参加を実現したそうです。
ミランダさんは、「脱原発は民主主義のあり方とも結びついている」と言っていますが、脱原発を通して、ドイツではデモクラシーが問い直されているようです。

経済パラダイム、地域開発パラダイム、そして政治パラダイム。
この3つのパラダイムシフトが読み取れますが、さらにミランダさんは「倫理」とか「プロテスト(抗議行動、反対運動)」という人間としての生き方にも言及されています。

学ぶことが盛りだくさんの内容ですが、それらがとても平易な生活言葉で書かれています。
そして、ミランダさんの「前向きに目の前の状況を一つひとつ改善し、明日に向かってより良く変革していく」姿勢から大きな元気がもらえます。

最後にちょっと長いですが、ミランダさんがフクシマの高校生たちとのトークセッションで高校生たちに話したメッセージを引用します。

「今世のなかを見ると、民主主義が危ないんですよ。あなたたちの時代は大変なことが始まっている。民主主義を助けてあげないといけない、自分たちの未来を強くするためにも」
「皆が自分の考えていることを言う[のが民主主義]」
「いろんな意見があるから、それをちゃんと発言しないと、民主主義が消えてしまう」
(高校生たちから、自分たちにできることはあるかと問われて)「自分の地域の政治家に手紙を出したことありますか? 自分だけでなくて高校のみんなが政治家に手紙を書いて送る。安倍首相に手紙を書いたことありますか。書いたらどうでしょうか。そしてその手紙を新聞社やジャーナリストに送ったらどうですか」

機会があれば、折原さんに湯島でサロンをやってもらおうと思いますが、まずはぜひ本書を読んでもらえればうれしいです。
もし本書を入手されたい方は、折原さんに直接ご連絡いただければ、税、送料込みで1800円で送ってくれるそうです。
私にご連絡いただければ折原さんの連絡先をお伝えします。

9784794811462

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2019/11/27

■「資本主義と闘った男-宇沢弘文と経済学の世界」

「経済学者や政治哲学者の思想は、それらが正しい場合も誤っている場合も、通常考えられている以上に強力である。実際、世界を支配しているのはまずこれ以外のものではない。誰の知的影響も受けていないと信じている実務家でさえ、誰かしら過去の経済学者の奴隷であるのが通例である」。

これはケインズが『雇用、利子および貨幣の一般理論』の結び近くで放った警句だそうです。
とても納得できる言葉です。
私もまた、そうした意味では「奴隷」であることは間違いありません。
最近、改めてそのことに気づかされています。

この言葉に出合ったのは、今日、読み終えた「資本主義と闘った男-宇沢弘文と経済学の世界」です。
日経の経済部記者だった佐々木実さんが時間をかけて取材してきた大作です。

ずっと違和感を持っていたいくつかのことが少し納得できました。

たとえば、なぜ宇沢さんはシカゴ大学などにいたのか。
そしてなぜ日本に戻ってきたのか。
また、なぜアメリカではケインズ経済学が評価されないのか。
さらにどうして私が経済学を好きになれないのかも。

まあそれはそれとして、この本は実に面白いです。
政治と経済に関心をお持ちの方にお勧めします。
ちょっと厚いのが問題ですが。

宇沢さんが編著した社会的共通資本シリーズはほぼすべて読んでいますが、惜しむらくは、「報道」問題が取り上げられないままに宇沢さんが亡くなったことです。
できれば「社会的共通資本としての経済学」も書いてほしかったです。

 

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2019/11/01

■2日間、悩み続けています

東京か札幌か、英語の試験制度は導入すべきかどうか、など世間は現場知らずの人たちによって振り回されていますが、私のこの2日間の関心はまったく別のところにあります。

私が、この2日間、いくら考えてもわからないのは郵便局員による切手不正換金問題です。
「料金別納」郵便の支払いで使われた切手を、廃棄せずに金券ショップで換金したという事件です。
2人で行ったというその額がなんと5億円以上というのには驚きましたが、私の悩みは、これによって「損をした人」は誰なのかということです。

要は、廃棄すべき切手を勝手に換金したら5億円になったということですから、ごみの再利用とも考えられます。
まあいくらでも「おかしい点」は指摘できますが、しかし、これによって「損害」を受けた人が見当たりません。
もし受けたとしたら、その行為によって懲戒解雇になった2人の郵便局員ではないかとさえ思えます。
実に悩ましい問題です。

さらにこれによって、世間的には流動性が増加し、経済成長にも寄与したでしょう。
黒田日銀総裁の手助けにもなっているかもしれません。
2人の郵便局員は賞賛されてもいいかもしれません。
なにしろゴミから5億円を生み出したのですから。

まあやり方や生み出したお金の使い方には少し問題があったような気もしますが。
でもそれで、何か社会に実害を与えたわけでもありません。

どなたかこのことで生じた損害についてご教示いただけないでしょうか。
この2日間、この答えが気になって、ずっと考え続けていましたが、救いを求めることにしました。
よろしくお願いします。

ちなみに、こうしたことが起こったのは制度が悪いと思いますが、そういう話にはあまり関心がありません。
制度には必ず欠陥はつきものですから、それはまた別の問題ですので。

 

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2019/05/19

■自動車に甘いのは経済成長のため?

87歳の公益財団法人評議員会議長で旧通産省工業技術院の幹部だった人が起こした池袋での母子殺傷事件の遺族が、再度行った運転者に呼びかける記者会見を見ました。
その行動に感動します。
当日は、加害者は任意での事情聴取に出かけましたが、途中、記者団への問いかけにほぼ無言でした。
私には信じがたい情景で、この人は謝罪や反省などとは無縁の人なのだなと感じました。

この事件を契機にして、高齢者の運転免許返納が増えているそうですし、マスコミでも盛んに取り上げられています。
しかしたぶん何も変わらないような気がします。
新聞の投書欄でも、高齢者の運転に関する議論が盛んですが、すぐにまた収まるでしょう。
そして事態は何も変わらない。

数年前に、飲酒運転事故が騒がれて、大きな問題になったことがあります。
その結果、危険運転致死傷罪もできて、処罰が厳しくできるようになりました。
しかし、その後、果たして飲酒運転は減ったのか。
私には相変わらず事態は何も変わっていないように思えます。

なぜなのか。
基本的な発想の問題だろうと思います。

私の感覚では、飲酒運転で殺傷事件を起こした人の免許は未来永劫はく奪すべきだと思います。
高齢者の運転免許は、人によって違いはあるでしょうが、80歳(たとえばですが)で免許停止にすべきだと思います。
年齢で制限するのはおかしいという意見がありますが、だとしたら3歳の子どもにも運転する権利を与えるべきですし、ましてや基本的人権を年齢で制限するべきではありません。
自分はまだ大丈夫だなどというばかげた主張がありますが、今回の加害者もそう思っていたのです。
そう主張する人は、今回の加害者と同じ世界にいる人でしょう。

しかし、なぜそんな簡単なことができないのか。
そこに経済成長志向の思考があるからではないかと私には思えます。

これは、自動車に限ったことではありません。
日本の経済成長を支えている「産業」すべてに言えることです、
その典型はやはり「原発」でしょう。
あるいは「医療」や「教育」もそうかもしれません。
明らかにおかしいと思われることがあっても、「医療」や「教育」に関しては、なかなか事態は変わりません。

さらにそれを支えている文化の問題もあります。
私たちは、いまは生活者ではなく消費者であり、労働者です。
未だに消費者運動や労働者運動が残っていることに、私は大きな違和感がありますが、その運動に大義を与えている経済の論理から言えば、交通事故は「顧客の創造」でもあるのです。

そろそろ「顧客の創造」が経済の出発点であるなどという発想を反転させるべきではないかと思います。

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2019/04/03

■「金額に応じた報酬」という発想

成年後見制度の報酬に関する見直しを促す通知が最高裁から全国の家庭裁判所に出されたと今朝の朝日新聞に報道されていました。
朝日新聞によれば、「認知症などで判断能力が十分ではない人を支える成年後見制度を巡り、最高裁判所は、本人の財産から後見人に支払われる報酬を業務量や難易度に応じた金額とするよう、全国の家庭裁判所(家裁)に促す通知を出した。財産額に応じた報酬となっている現状に批判があることを踏まえ、制度利用を増やす一環として見直しを目指すものだ」そうです。
ようやくこういう発想が出てきました。「制度利用を増やす一環として」というところに、「何も変わっていない」意図を感じはしますが。

 こうした「金額に応じた報酬」という発想が社会を覆っていることへのおかしさをずっと感じていました。
たとえば、不動産売買業務の手数料も売買金額に応じて決まってきます。
裁判の弁護士報酬もそうです。
活動価値の判断基準が「金額」に依拠しているわけです。

専門家が、次第に卑しくなっていく危険性が、そこに内在されているように思います。
まあ、それは言い過ぎとしても、こういう発想が社会を金銭依存に導いていることは間違いない。
そうしたことの弊害は、改めて説明することもないでしょう。
結果的にはみんな「お金」を価値判断の基準にしてしまうわけです。

私は、お金とは人との関係性で意味を持ってくると考えています。
お金持ちにとっての1万円と金銭的に恵まれない人の1万円の価値は全く違うでしょう。
むかしの「赤ひげ先生」のように、お金のない人には無料で、お金持ちには高価で、医療対価を設定するのは、きわめて理にかなっています。

「金額に応じた報酬」社会は、お金に支配される社会に直結していきます。
そして、人の価値まで金銭基準になっていく。
そして、自分の市場価値を高めることが大切だなどということが言われるような、本末転倒な社会になってしまったわけです。

仕事の価値はお金とは無縁です。
仕事の捉え方を改めなければいけません。
そうすれば、働き方も変わってくるでしょう。

 5月6日に、「過労死問題」につなげて、「働き方」をテーマにしたサロンを予定しています。
4月から働き方改革関連法が施行されましたが、そもそもの発想を変えなければ、むしろ状況は悪い方向に向かうのではないかと危惧しています。
よかったら参加してください。

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2019/02/12

■カフェサロン「種子法がなくなって、日本の野菜は大丈夫なのか」の報告

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「タネと内臓」(築地書館)の著者、吉田太郎さんのサロンには、有機農業に取り組んでいる霜里農場関係者も含めて、20人を超える参加者がありました。
新潟からわざわざ参加してくれた方もいます。
食の安全性に関する生活者の関心の高さがわかりますが、昨今の日本の状況を見ると、政府やマスコミの関心はどうも真反対の方向を向いているのではないかと、改めて気づかされたサロンでした。

吉田さんのお話は、なんと4億年前のデボン紀からはじまり、人類の未来にまでわたる長い時間の中で、いまの私たちの食の問題を、さまざまな話題を通して、わかりやすく、面白く、解説してくれました。
詳しい内容はとても紹介しきれませんが、たとえばこんな話題が出ました。

いまの食生活だと、あの知的で精悍だったホモ・サピエンスは太った豚のように進化していくのではないか、
遺伝子組み換えのコーンは、「カス」どころか、いまや「毒」といってもいい。
究極のデドックスは腸内細菌だ。
私たちが毎日食べている食べものが、体内の善玉菌を殺し、その腸内細菌の活動を抑えてきている。
土中微生物を消滅させる除草剤グリホサートは、世界的には追放されつつあるが、そうした動きも含めて、日本ではあまり報道されず、今も使われている。
ヨーロッパでは、地域と地球の生態系維持を目指すアグロエコロジーが広がっており、公共調達で取得する食材の6割を有機農産物にしなければならないことがルール化された。デンマークなどでは学校給食は有機野菜と決められている。
国連でも、2014年に「国際家族農業年」宣言をし、小規模な家族農業を重視する呼びかけを行っている。
日本ではメディアは、こうした問題をほとんどとり上げない。
世界各地で、子どもたちにまともなものを食べさせたいという母親たちの動きが社会を変えつつある。
アメリカ人は、食生活も大きな理由になって、短命になり、不妊になってきている。
ちょっと私の拡大解釈や誤解があるかもしれませんが、これはほんの一部です。
そして最後は、マネーでは幸せになれないという話や贈与経済の話にまでいきました。
興味のある方は、ぜひ吉田さんの著書「タネと内臓」をお読みください。

こうした状況にどう対処したらいいか(これに関しても吉田さんは話の中で言及されました)ということも含めて、話し合いが行われました。
食育活動に取り組んでいる参加者の方が、有機野菜とそうでない野菜を比べると栄養価が全く違うという話をしてくれました。
要は、量的には同じでも生命にとっての価値は全く違うというわけです。
栄養価や美味しさ基準で価格を評価したら、有機野菜のほうがずっと割安になるのですが、今の経済システムでは有機野菜は高いと思われてしまうわけです。
有機野菜はなぜ高いのかということに関しては、霜里農場の金子友子さんは流通の問題が大きいと言います。
生産者と消費者とを結ぶ活動をしている方も参加していましたが、有機野菜がもっと広がっていけば、価格問題はむしろ有機野菜のほうにとって有利になることは十分考えられます。
工業型生産野菜を主軸にしていこうという、現在の農政や経済政策を見直すことで、変えられる問題かもしれません。

価格だけではなく、味覚の問題も話題になりました。
有機のおいしい野菜を食べたら、味覚が戻ってくるという人もいますが、最近の子どもたちの味覚はもしかしたら、不可逆的に変わりつつあるのかもしれません。
急いで取り組むべき問題だと思いますが、日本では一部の母親たちを除いて、ほとんど無関心です。
せめて学校給食を変えていかなければいけません。
いずれにしろ、私たちは食やそれを支える農への関心をもっと高め、知識を増やしていくことが大切です。

吉田さんは、種子法廃止に関連して、長野県で「長野県主要農作物等種子条例(仮称)」制定の動きが出てきていることも紹介してくれました。
こうした伝統野菜を守ろうという動きが、これから広がっていくことが期待されます。
長野には「信州の伝統野菜」という制度もあるそうですが、行政に限らず市民活動として、その土地の中で育ってきた「地の野菜」を守ろうという動きも各地で始まってきています。
食を守るのは、やはり住民や市民が主役でなければいけません。
そのためにも、このテーマは引き続き、サロンで話し合えればと思っています。
話題(問題)提起したい方がいたら、ぜひご連絡ください。

霜里農場の友子さんが完全有機のイチゴとケーキを、柏のすぎのファームの杉野さんがなしジュースと食用ひまわり油とそれを塗って食べるためのフランスパンを持ってきてくれました。
いずれもとてもおいしかったです。
私の味覚はまだ、辛うじて大丈夫かもしれません。

最後にいささかの暴言を。
今回のサロンを聞いていて、私は、日本の政府が、少子化を促進していると改めて感じました。
表面的には、「少子化対策」を表明していますが、実際に行っているのは「少子化推進」ではないのか。
これは少子化に限りません。
認知症の問題にもささやかに関わっていますが、政府は認知症を増やしたいと思っているようにしか思えません。
これはかなりいじけた私の暴言ですが。


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2018/12/18

■官民一体となって原発輸出を進めてきた?

三菱重工や日立製作所は、政府と一体となって進めてきたトルコの原子力発電所の建設計画を断念する方針を固めたという報道がありました。
日本の原発輸出事業は、よく「官民一体」で進められていると表現されます。
官民一体で進めてきたとしたら、その「民」には少なくとも私は入っていません。
私は、日本においては「民」、つまり「国民」ではないのです。
これまで何回もこのブログでは書いてきていますが、改めて書きたくなりました。

社会は「公」と「私」で構成されているといわれていました。
「公」と「私」は時々、「パブリック」と「プライベート」とも表現されます。
しかし、「公」はパブリックなのか。「私」はプライベートなのか。

「公」の主役は政府で、「私」の主役は企業です。
であれば、「公私」などいわずに、「官民」というのが適切でしょう。
となると、官民で社会が構成されているとは言えません。
なぜならそこに私たちの生活社会がないからです。
つまり「官民」とは民を統治する側の概念であり、しかも「官尊民卑」という言葉があるように、要するに「官」のことなのです。
そこには「人民」という意味での「民」はもちろんですが、「国民」という意味での「民」すら含まれません。
アメリカ憲法はpeopleという言葉を使っていいますが、日本国憲法の英語表記のpeopleをなぜか日本政府が「国民」と訳してしまいました。
“people”と「国民」とは、全くと言っていいほどの違いがあると思います。

「官民」とは違う私たちの現実の「生活社会」は公でも私でもない「共」の社会です。
平たく言えば地域社会、近代西欧の言葉を使えば「市民社会」です。
私は、それを「コモンズ」と呼んでいますが、要は、peopleが支え合いながら暮らしているリアルな社会です。
それが、大きな政府や大きな企業によって、縮小され片隅に追いやられていたのが、明治維新から最近までの日本かもしれません。
地域社会の主役であるべき自治会は行政の下請けの端末組織になり、期待のNPOもまた、同じように行政の下請けや企業の類似物になってきているというのが、私の現状認識です。
もちろん、主体的に活動している自治会やNPOもたくさんありますが、大きな流れはどうもそういう感じではないかと思っています。
これに関しては、かなり前のものですが、小論があります。
○コモンズの視点から発想の流れを逆転させよう
http://cws.c.ooco.jp/commonnsronbun1.htm
○私の視点「NPO支援 資金助成よりも活動支援を」
http://cws.c.ooco.jp/npo-toukou2.htm

ところで、日本の原発輸出が各地で頓挫している理由は、採算が取れないことです。
まともに考えれば、原発事業は経済的に成り立ちません。
日本でもそういうことは、私が知っている限りでも1980年代にはかなり明らかになってきています。
原発事業が保険の対象にならなかったことを考えれば、最初から分かっていたことです。
しかし、「官」が「民」(大企業)には有無を言わさずに、「安全神話」を、それこそ「官民一体」となって広めてきたのです。

官民だけで社会や世界は構成されているわけではないのです。

「民営化」とか〔〈介護の〉社会化」とかいう言葉に騙されてはいけません。
それらはすべてpeopleの資産を誰か個人に貢ぐことを意味しているのかもしれません。
社会を構成している主役は、people、私たち生活者なのです。
少なくとも現在は、という意味ですが。

官民一体には私は断じて入っていません。
官民が横暴な行為をするようなことがあれば、沖縄の人たちを見習って、それに抗わなければいけません。

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