カテゴリー「経済時評」の記事

2023/07/24

■「資本主義の次に来る世界」

なぜか2人の友人から、ある本を読みましたか、とメールがありました。
こんなことはめずらしい。
しかもおひとりはしばらくお会いしていない古い友人です。

問題の本は、ジェイソン・ヒッケルの「資本主義の次に来る世界」。
先月、日本でも邦訳が出版されました。
私もすぐに読んだのですが、私が40年ほど前から考え行動してきたこととあまりにも重なっていたので、何の抵抗も、何の新鮮さもなく、読んだままになっていました。
ただ一度だけ、ある人たちに勧めたことがあるだけでした。

「資本主義の次に来る世界」は、邦訳の書名で、原初のタイトルは「Less is More」。
Less is More」は、湯島のサロンでも時々、話題になっています。

先日、湯島のサロンで、私があることを発言したら、「リアリスト」の人が「佐藤さんが言うのでおかしく聞こえるが、それは事実だと思う」と言って、別の説明をしてみんなの納得を得たようなことがありました。
その時、私の言葉はみんなにはあまり信頼されていないのだなと気づきました。
そういえば、よく「佐藤さんの発言はきれいごとだ」と言われることも時々あります。

私としては、私ほどのリアリストはそうはいないと思っているのですが。
どうも私の表現力はかなりレベルが低いようです。
困ったものです。

そこでこの本を皆さんに読んでもらえば、もう少し私の世界がわかってもらえるかもしれないと思い、遅まきながら紹介させてもらうことにしました。
前半はともかく、最後の第6章の「すべてはつながっている」だけでも読んでもらえるとうれしいです。
そして私の発言は決して、きれいごとでも冗談でもないことに気づいてもらえれば、もっとうれしいです。

今日も朝、畑に行って、野菜や野草たちと話してきました。

 

 

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2023/07/06

■「ペットボトル水現象は現代のチューリップ・バブル」

ペットボトルの水は、私は原則飲みません夏になるとともかく水分補給しろとみんなから言われます。
私は脳神経外科に定期的にかかっていますが、医師からは1日2リットルを目指すようにと言われています。脳神経が2本ほど危ういからです。
それで水分をできるだけとるようにしていますが、基本はのどが乾いたら飲む姿勢は変えていません。むやみやたらに水分をとればいいとは思っていないからです。

まあそれはいいのですが、気に入らないのはあまりのペットボトル依存の風潮です。
娘もよくペットボトルの飲料を出先で買っていますが、私は自動販売機は使いませんし、小さなペットボトル飲料は買いません。だから娘がペットボトルの飲料を飲んでいるのはあまり歓迎できません。水筒を持てよと言っていますが、忘れることもあると娘は言います。困ったものです。

しかし、娘も家ではペットボトルの水やお茶は使いません。非常時用は保管されていますが、私は水道水に比べてペットボトル飲料はとても危険だと思っているからです。
それにそもそも水に価格をつけて「商品」にしてしまう発想には共感できません。

湯島のサロンでは毎回コーヒーを用意しますが、水道水を使います。
なかにはそれが心配で、ペットボトルの水をわざわざ買ってきてくれる人もいますが、ペットボトルの水も所詮はほとんどが水道水のはずですし、余計な人工処理をしているだけ私には有害に感じます。それに、そもそもペットボトルの廃棄も含めて、それにかかる手間がどれほど自然環境負荷を高めているか考えれば、だれでも水道水とペットボトル水のどちらが人間に有害であるかはわかるはずです。にもかかわらず、逆イメージを創り出しているのが、水を商品化したメーカーの詐欺的行為だと私は思っています。

「ペットボトル水現象は現代のチューリップ・バブルだ」とアメリカの心理学者のトッド・ローズは言っていますが同感です。環境意識の強い人ほど、水道水よりもペットボトル飲料を好むような気がしますが、まさに今の経済の本質を象徴しています。環境そのものが、汎市場化の題材にされているのです。

ペットボトル飲料水をつくるには、水道水の2000倍のエネルギーが必要だと、先のトッドは書いていますが、その数字も私は信じていません。これもまた「チューリップ・バブルだ」と同じようないい加減な学者の無責任な数字だと思うからです。いまや誰も信頼できない状況ですが、でも信頼しないと生きにくい。
私が信頼するのは、何も知らない私自身です。そして間違いをする人間です。

ちなみに、湯島では今もペットボトルのお茶は使っています。これも水道水で沸かす麦茶に替えればいいのですが、残念ながらそこまではできていないので、私もみんなと同罪なのです。
困ったものですが、せめてできるだけ水道水を使おうと思います。
プラスチックの消耗品はできるだけ使わないようにしています。まだ不十分ですが。

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2023/03/28

■読書の3冊目は「マルクス」

先週読んだ本のなかには経済の本もあります。

白井聡さんの「マルクス」(講談社の現代新書100)です。このシリーズは、100頁強で、字も大きいので、ちょっとした合間に気楽に読めます。しかもそれぞれにメッセージがある。
本書も、しっかりとしたメッセージが込められていて、経済のありようや私たちの生き方に関心のある人にはお薦めの一書です。

最初に出てくる次の言葉が印象的です。

マルクスが明らかにしたのは、不況は恒常化し貧富の格差が止めどもなく拡大してもなお、あるいは、恐慌が社会を襲い職にあぶれた人々が街中に忘れてもなお、あるいは、資本の増殖欲求を満たすために戦争が仕掛けられ罪なき人々の血が流され遺体が積み上がってもなお、あるいは、企業活動が公害を発生させ地球環境の危機が生態系そのものの存続を危機にさらしてもなお、それでも資本主義は終わらない、という真実である。

「資本論」は、こう読まなければいけない。そう思います。
この認識を欠く軽い資本論関係の本が流行っていますが、いま求められているのは、資本主義の改善ではなく、資本主義克服に向けてのパラダイム転換ではないかと、私は思っています。延命のために「道具」にされるのは、もう終わりにしたい。

マルクスの疎外論も簡単に紹介されています。

「われわれは自分を豊かにするために働き、何かをつくり出しているはずなのに、逆にそのつくり出されたものによって支配されてしまうという逆説的な状況を資本主義社会は生み出す」。
「人間にとっての働くことの在り方全般が、資本主義のもとで全面的につくり変えられ、その結果、人間がその生産物によって支配されるようになった」。

これに関しても安直な「働き方改革」が広がっているのが残念です。

そして白井さんは、マルクスにおける資本主義社会とは、「物質代謝の大半を、商品の生産・流通(交換)・消費を通じて行なう社会」であると定義できると言います。
私が恐ろしいのは、いまや自然さえもが「商品」かされつつあることです。

また、「(不断で無制限の増殖志向を持つ)資本は、人間の道徳的意図や幸福への願望とはまったく無関係のロジックを持っており」、人間の幸福が価値増殖の役に立つ限りにおいてはその実現を助けるかもしれないが、逆に人間の不幸が価値増殖の役に立つのならば、遠慮なくそれを用いる」といいます。いわゆる「資本の他者性」です。

そして、「物質代謝の過程の総体を資本が呑み込み、価値増殖の手段にしようとする。このような傾向の進展こそ、グローバリゼーションの内容にほかならなかった」とつづけます。

白井さんは、経済成長や生産性向上、あるいは技術革新や発明は、人間の幸福を目的としたものではない、と言い切ります。が、私もまったく同感です。
こういう大きな流れの中で、宗教も政治もすべて資本主義に流れに巻き込まれ、経済活動になってしまい、人間は単なる「労働力」そして「消費力」に貶められようとしている。そんな恐れを感じています。

こうした風潮に抗うのはそう難しいことではありません。
お金の呪縛から抜け出せばいいだけですから。
まずは経済成長や生産性向上は、決して人間の生活を豊かにしないことに気づくべきです。

いささか身近な話を一つ。

委託仕事をしている友人が、頑張って生産性を向上させたところ、対価が大幅に削減されてしまったそうです。雇用主は時間給発想を「悪用」したわけです。生活するための対価を得る必要労働時間をがんばって短縮しても、雇用関係下では、そうして生み出される剰余価値は資本に吸い取られてしまうのが資本主義なのです。

資本にとっては、コストがかかる人間を労働力として使うのは合理的ではないのです。
だからどんどんAI化されていく。
こんな社会に明るい未来があるはずがありません。

とまあ、この本を読むと少し気が滅入りがちですが、怒りが生まれてくれば、元気が出てくるでしょう。
いまの時代、取り組むべき課題はたくさんあるのです。
滅入っている余裕などないのです。

これが3冊目からのメッセージです。

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2023/02/15

■ドラマ「ガラパゴス」を観て心が揺さぶられました

久しぶりにNHK制作のドラマを観ました。
「ガラパゴス」です。
https://www.nhk.jp/p/ts/BNYM78ZK64/list/

自殺と処理されていた労働者の死に疑問を抱いた刑事が真実を探り出していくドラマです。
題材は、派遣労働者の実態であり、コストダウンにより収益向上を図る日本企業の実態であり、政治と行政と司法の癒着の実態であり、そのメッセージは「人間の弱さ、悲しさ」、でも同時に「人間の優しさと強さ」です。

NHKの良心を感じました。
ぜひ多くの企業の経営者に見てほしいものです。

私は企業勤務時代、「コストダウン」発想に異論を唱えていました。
コストダウンではなく「バリューアップ」に経営の方向を変えなければいけないと思っていたのです。副社長に話したこともありますが、でも何もできなかったのは、その「バリュー」への考察が不足していたからです。
その頃のことを思い出しました。

地上波テレビではまだ放映されないようですが、もし放映されたらぜひ見てほしいです。
最近の表層的なドキュメンタリーやニュースよりも心が揺さぶられます。
登場人物が、私には実際の政財界の特定の人の顔に見えてしまいました。

 

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2023/01/25

■You tubeを金儲けの手段にしてほしくありません

回転寿司の店舗での横取りやワサビ乗せの動画が話題になっています。

You tubeでの閲覧者を増やすために、こうした動画づくりに取り組むyou tuberが増えているようです。
こういう事件がなぜなくならないのか、どうしたら減らせるのか、は簡単です。でもだれもとめようとしませんし、むしろ増やそうという動きの方が多いような気もします。その根底にあるのは、こうした行為の深刻さへの認識が足りないからだと思います。

犯罪と言われる行為の評価基準に関しては、私と日本の司法界とでは全く違うようなのですが、私自身は時には「ある種の殺人」(例えば介護疲れややむにやまれずの結果)よりもこうした行為の方が社会を壊す意味では重罪だと思っています。
ですから、たとえば今回の横取りやワサビ乗せ行為者は、少なくとも1年以上の実刑としての懲役刑と罰金刑を重複で課すべきかと思っています。無期懲役刑もあってもいいと思うくらいです。なぜなら、被害は社会そのものを壊すことであり、特定の人たちに留まらないからです。
まあ、あまり賛成は得られないでしょうが。

幸いに今回は、被害を受けた会社(はま寿司)側が、当事者からの謝罪で許すことなく、訴えると言っています。そう決断したはま寿司に拍手したいです。
テレビでも映像が出ていますが、顔が隠されています。これもいつも不満で、本人がyou tubeで顔を出しているのであれば、テレビでも顔を出すべきです。無人販売所からお金も払わずに商品を持ち出す映像も時々テレビで流れますが、この場合も顔を出しません。そうしたマスコミの「過剰な気づかい」にもいつも違和感を持ちます。
まあそれはそれとして、みんななぜ「加害者」にこんなに気を遣うのか、私には理解できません。もしかして加害者の仲間なのでしょうか。

話がずれました。戻します。

こうした行為を過熱させる原因の一つは、you tubeへのアクセス数が多ければお金が入るからです。たしかにネットのおかげで、すべての人が情報発信者になれる時代です。それはとてもいいことだと思いますが、それを金儲けの手段にするのは問題が多すぎます。

近代社会の産業は「問題解決」型であるがゆえに、市場を拡大するためには問題を創り出せばいいという構造になっていますが、私はそれを「産業のジレンマ」と呼んでいます。ドラッカーがいったように、顧客を創造すれば、つまり必要もない人に必要性を感じさせれば、経済はいくらでも成長するのです。私はそんなことは「経営」だなどとはどうしても思えないのですが、you tubeは顧客創造の手段としては実に好都合なツールのような気がします。でもそれでいいのか。そろそろドラッカーの弊害に気づくべきではないのか。

また書きすぎました。
しかし、今回の横取り・ワサビ乗せ動画の投稿者のような人は、社会を壊す存在です。千丈の堤も蟻の一穴より崩れることを忘れてはいけません。そういう人が生まれる素地を広げているYou tubeの課金システムにはどうしても批判的になってしまいます。

もちろんYou tubeそのものを批判しているのではありません。社会を豊かにし、安心したものにしていくために活動しているYou tuberも決して少なくありませんから。
私が批判的なのは、安直にお金を稼ぐ仕組みと生き方です。

 

 

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2023/01/10

■ふるさと納税制度の罪深さ

私は日本の税制度には大きな違和感があります。
まるで江戸時代の悪代官の悪行のような気がしてなりません。
その証拠に、節税や脱税が後を絶ちません。節税講座さえ行われている状況です。
納税へのモチベーションは、私にはほとんどありません。

消費税に関しては前にも何回か書いたことがありますが(私の思考の中では究極の悪税です)、もう一つ拒否感があるのが、「ふるさと納税制度」です。
はじまる前はむしろ、そういう制度づくりに賛成していたのですが、どうもまったく私が思っていたものとは違ったものができてしまった気がします。

今朝の朝日新聞に、『ふるさと納税 町村15%「赤字」』という記事が出ていました。
この見出しでもわかるように、「ふるさと納税」は収益を目指す事業で、NPM(ニューパブリックマネジメント)ブームの中で生まれてきた制度です。

「税」という言葉があるので、税制と勘違いする人もいるかもしれませんが、寄付の一種で、日本の税制の寄付金控除を活用した事業です。ただ、赤字に関しては、私たちが政府に支払っている税金から補填されますので、税金の「使途」のひとつと考えていいでしょう。その意味では税制度と無縁ではありません。

今のふるさと納税は、各自治体の返礼品競争になっているため、寄付額の一部は寄付者と地元の企業に向かい、行政費用には向かいません。つまり税としては使えないということです。しかもそこで発生した「赤字」は税金で補填されますから、自治体にはリスクはほとんどないのです。

それはまあいいとしても、ふるさと納税でほかの自治体にどう勝つかに行政職員は頭と時間をつかうわけです。職員には、もちろん私たち国民の税金が仕事をお願いするために給与を払っているわけですが、その貴重な頭と時間が、なないやらバカらしい見返り品競争へと向いているわけです。それが本来の仕事だとは私には到底思えません。もっとやるべき仕事があるでしょう。
もちろんそれによって地場産品が育ったり、地域の魅力が磨かれたりすることもあるでしょう。しかし、そのための制度としてはいかにもお粗末だと思います。
だからこういう赤字結果が多くなるのです。

日本では「民営化」というと、「お上」から「民」が取り戻したという肯定的なイメージが強いですが、そこでの「民」は国民ではなく、「企業の株主」なのです。
そこを勘違いしては行けません。

国鉄の民営化も郵貯の民営化も介護の民営化も、その実は市場化であり、資本に主権を譲りわたしただけの話で、私たち「民」からはむしろ遠い存在になったのです。
言葉に騙されてはいけません。

日本の税制は、ますます「富裕者」のための制度に向かっているような気がします。
ふるさと納税制度も、その例外ではなく、表向きの理念とは別に、社会の汎市場化、金銭社会化に向けてのまやかしの制度のように思えるのです。
日本の主権は、日本政府になく、アメリカ軍にあるという意見もありますが、状況はもうそんな段階をとおに越しています。

故郷のために寄付したいのであれば、見返りを求めてはいけません。
ただ寄付すればいい。それだけの話です。
新しい制度は必ず誰か富裕者が入り込んで、「中抜き」の仕組みを作りますから。

たくさん反論がきそうですが、この件に関してはコメントへのリコメントは行いませんので、あしからず。文字のやりとりは最近疲れてしまいます。
もしどうしてもいう方は湯島に話しに来てください。

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2023/01/09

■とてもいい話を聞いてわずかな時間幸せになりました

誰にでもいると思いますが、私にも完全に信頼できる友人が何人かいます。
そういう友人のひとりから昨日、とてもうれしい話を2つ聞きました。
昨日は、そのおかげで少しだけですが、幸せな時間を過ごせました。

その一つを紹介します。
その友人は夫婦で農業に取り組んでいます。
牛(肉牛)を飼っていますが、子どもが生まれました。
それを知った彼女の友人が、その牛をくれないかと言ってきたそうです。

彼女は、夫に訊いてみたらと答えたそうですが、夫は「いいよ」と言ったそうで、牛はその友人のものになりました。
数日して、その人は鶏のひよこを30羽持ってきたそうです。
その人は養鶏業を営んでいて、これから牛も買いたいと考えているようです。

牛一頭とひよこ30羽が同価値かどうかなどと考える文化は、私の友人たちにはないようです。というか、彼らには、そもそも「交換」とか「贈与」という経済概念で語られるような関係もないのでしょう。柄谷行人さん風に言えば、そこにあるのは「交換様式D」かもしれません。

さらにこの話は続きもあるのですが、それはともかく、友人が言うには、友人夫婦と養鶏業の人との間には、こうしたやりとりはあるものの、そこに金銭は一切入ってこないのだそうです。
私があこがれている人と人とのつながりのスタイルです。

ちなみに、この話は1年ほど前の話のようですが、件の牛はまだ友人の農場にいるそうです。養鶏場にはまだ牛を飼う場所ができていないので、預かっているようです。
つまり、彼らには所有の概念もないのかもしれません。
こんなことが私の身近にもまだあることを知って、昨日はとても幸せになったのです。

しかし、すぐそのあと、湯島で「陰謀論サロン」がありました。
そこで私の「幸せな気分」は壊されてしまいましたが、でもまあ自然にも「陰謀」、つまり見えない謀、言い換えれば人智では察しえない力があるのですから、陰謀が悪いわけではありません。みんなよかれと思ってやっているのですから。

でもなぜ人は、自分は信じられても他者は信じられないのか。
さびしい話です。

農場をやっている友人も、養鶏業の人も、幸せでしょうね。
見習わなければいけません。

養鶏業の人に引き取られた牛の母牛には、数年前に私も会いました。

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2022/11/13

■仕事と生活のどちらに基軸をおくのか

昨日、湯島で「在宅ワーク」を切り口にした「働き方を考えるサロン」の2回目を開催しました。1回目は「企業で働くこと」を切り口にしたのですが、この時にも大きな示唆をもらったのですが、今回は、私には「目から鱗」の気づきがありました。
問題提起してくださった山本紀与さん(株式会社キャリア・マム)に感謝です。

サロンの報告は改めて行いますが、その気づきについて少しだけ書き残しておこうと思います。と言ってもたぶん文字にしたら、なにが「気づき」なのかと思われるでしょうが。

私は近代産業革命以来の経済や社会のあり方に違和感を持ち続けてきています。
その基本にあるのは、金銭労働だからです。人間にとって楽しいはずの「働くこと」が、金銭を得るための退屈な「作業労働」に貶められてしまったからです。
生活の場と働く場が切り離され、工場(あるいは事務所)に9時から5時まで集められて、生活から切り離された「仕事」をするのが、そこでの働き方の基本モデルです。
盛んに言われていた日本での「働き方改革」も、その発想の枠の中での取り組みでした。
そこでは、「働くこと」が生きるための目的になっていて、苦肉の策として、ワークライフバランスというおかしな言葉が出てきましたが、所詮は、働くために生きる「生き方」が基本になっていました。

ところが、昨日のサロンで「在宅ワーク」の話をしていて、在宅ワークの発想には、この近代労働モデルを変えていく力があることに気づきました。
つまり、定められた勤務時間に一か所に集められて、生活を忘れて働くのではなく、自分の生活の拠点をホームベースにして、働く時間も生活を基軸に自分で割り振りできる働き方が可能になってきたと言うことです。

私は、「シャドウワーク」とか「アンペイドワーク」という言葉にも違和感を持っています。そうした発想は、金銭経済の思想を基本に考えているからです。
まえに、「お茶くみ仕事」にこそ価値があるということを書きましたが、ほとんどの人はそれに反対していました。私にとっては、そう言う人こそ、金銭至上主義の流れに加担しているように思えているのですが、なかなかそのことは通じ合えません。

働き方を考えていくと、生き方や社会のあり方につながっていきます。
このテーマのサロンは、来年もさらに続けていきたいと思っています。

中途半端な書き込みですみません。
ただ私は、働くことが楽しい社会になってほしいのです。
学ぶことが楽しい社会にも。

 

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2022/07/26

■玉野井芳郎さんをご存知でしょうか

先日、新しい経済に関心を持っている2人の若者に会いました。
会うきっかけになったのは、私が大学で学んだ経済学の教授のおかげです。

玉野井芳郎さんがその人ですが、私が受講していた時はまだ玉野井さんは、教授になったばかりで、経済学史中心の講義だったため、私には退屈でした。以来、経済学への関心を失い、大学時代には経済学関係の授業は全く受けませんでした。
しかし、玉野井さんの話し方や動き方はなぜかとても印象的で、人間としては、記憶に残っている先生の一人です。

私が経済学に興味を持ち始めたのは会社に入ってからです。
1970年代には経済が大きく変わりだそうとしているのが、私にもわかりました。
それが結局は、私が会社を辞める遠因になっているのですが、当時、私が関心を持っていた本を読んでいて、そこに意外にも玉野井さんの名前を見つけました。
学陽書房の「いのちと農の論理」あるいは「地域主義」です。
当時、私が関心を持っていたテーマで、玉野井さんとは関係なく読んだ本です。。
いずれも玉野井さんは編者のひとりでしたが、学生時代の印象が強く、玉野井さんよりもほかの編者に興味を感じ、影響を受けていました。

ところが玉野井さんが亡くなった後、1990年になって、玉野井芳郎著作集全4巻が学陽書房から出版されました。その頃は、私は経済や企業に大きく失望し、せめて自分だけは納得できる生き方をしようと会社を辞めてしまっていました。
ただし逃げたわけではなく、ささやかながら企業の変革にはしばらく関わっていました。

玉野井さんの著作集を読んで、地域主義やエントロピーや農業経済への玉野井さんの思いと実践を知りましたが、それに気づくのがいささか遅かったのは、大学での授業のせいかもしれません。残念なことをしてしまいました。

玉野井さんの全集を契機に、日本の経済の方向が変わるかと期待しましたが、そういう方向への経済の動きは見当たらず、ますますマネタリー・エコノミーやエコノミカル・ポリティクスへと日本の社会は変わりだしました。1980年代に広がりだした再生エネルギーへの動きも、原発中心へと変わってしまいました。
「失われた30年」とよく言われますが、私は「逆戻りした30年」だと思っています。

時代の反転の中で、玉野井さんの経済学も、その後またあまり話題にならなくなりました。宇沢さんの社会的共通資本論にも期待してむさぼるように読みましたが、同じように思ったほどの動きにはなりませんでした。
金融中心のマネタリー・エコノミーはますます加速され、もう行き着くところまで来てしまったような気もします。

しかし最近、あきらめることはないという動きに出会い始めました。
冒頭の2人の若者や、今月初めに湯島でサロンをしてもらった農に取り組んでいる若者は、どうも私が生きている世界とはかなり違う世界を見ているようです。
それに最近、日本でも翻訳が出版されたネグリとハートの「アセンブリ」(岩波書店)によれば、マルチチュードによる新しい政治や経済の時代への条件が生まれだしていると言います。すべては両刃の剣なのです。

そんなこともあって、もういいかと思っていましたが、もう少し現世で生きてみようと思いだしています。
ちなみに、9月11日には、玉野井さんの生命系の経済を修論でまとめた岸本さんに、湯島でサロンをやってもらう予定です。
ぜひ多くの人に参加してほしいと思っています。

ネグリとハートの「アセンブリ」もお勧めです。

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2022/07/11

■サニーレタス1袋78円が3袋100円

娘たちと一緒に、近くのお店に久しぶりに歩いて出かけたのですが、帰りに娘がよく利用している八百屋さんに寄るというのでついていきました。
そこにサニーレタスがあったので買ってもらおうと思って、よく見たら、「1袋78円 3袋100円」と書いてありました。
見間違えかなと思ってお店の人におかしくないですかと訊いたら、それでいいというのです。どうも納得できなかったのですが、結局、3つ買ってもらいました。

 後で娘たちに訊いたら、おかしくないというのです。
イタリアンのお店をやっている娘の連れ合いも一緒だったのですが、彼が言うには、葉物はどんどん鮮度が落ちるので早く売らないといけないので、こういう値付けは理に適っていると説明してくれました。
娘も、こういう値段のつけ方をこの八百屋さんはよくしているよと言います。

 たしかにそう思いながら店内の商品の値段を見たら、スーパーとはかなり値段のつけ方が違います。いや商品そのものも違う。
手づくりのナスの漬物があったので、それも買ってもらいました。

 しかし、「1袋78円 3袋100円」というのは実に新鮮です。
考えてみると実に理に適っている。
「1袋78円 3袋500円」というのもあっていいし、「1袋以上いくつでも100円」というのもいいかもしれない。

 イタリアンのお店をやっている娘の連れ合いには、そういうことが体験的にわかるのでしょう。物やサービスの値段は、論理的ではありえないという当然の事実に、今日は改めて気づかせてもらいました。

 私は、サニーレタスが好きなので、一袋などすぐ食べてしまいます。
しかし畑やブランドで育ててうまくいったことはまだ一度もありません。

よく野菜の価格は安すぎるという人もいますが、そもそも野菜に価格をつけることが間違っているのかもしれません。
いや、そもそも物やサービスに価格をつけることの意味を、もっと考え直してみる必要があるのかもしれません。少なくとも私は誰かに価格をつけられたくありませんが、野菜もそう思っているかもしれません。
霜里農場の金子夫妻の考えが、ようやく少しわかったような気がします。

 単に暑さのために、思考力が鈍っているだけのことかもしれませんが。

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