■政治とお金の問題の立て方
パーティー裏金問題に端を発して、また「政治とお金」が話題になっています。
それに関して、政治にどうして巨額なお金がかかるのかが問題ではないかという問い方がよくされています。
その問い方にこそ、問題があると私は思っています。
問題の立て方を間違えてしまえば、実態の本質は全く見えなくなってしまいます。
そういう問い方は、問題の本質を覆い隠すために仕組まれた問いでしかありません。
政治に金がかかるのではなく、政治に金がかかるようにしたのですから。
資本主義は、汎金銭市場化を進めています。
芸術もスポーツも、教育も福祉も環境も、次々と市場化され、資本の増殖目的に取り込まれてしまいました。
「政治」や「選挙」もまた、その流れに沿っているだけの話です。
お金がかかるようにすることこそが、選挙や政治の本質になってきているのです。
アメリカの大統領選挙を見ればわかることですが、アメリカでは選挙そのものが「収益事業」化されています。強大な収益イベント事業と言ってもいいでしょう。オリンピックや万博の比ではありません。
アメリカでも1970年代には選挙につぎこむお金が多額すぎるとの議論もありましたが、その後、アメリカ最高裁判所は、政治に対するお金の自由な流入は何人によってもさまたげられてはならない、との判決を出したのです。
つまり選挙も政治も、今や「お金稼ぎの仕組み」なのです。
ですから、お金がかかるのではなく、お金をかけることによってお金がもうかる仕組み、あるいは多くの貧しい人たちからお金を広く刈り取る仕組みになっているのです。
同じことは税金にも言える話です。つまり消費税は、本来の税金とは全く違った発想での制度なのです。「税金」という文字に惑わされてはいけません。
こうした風潮にどう抗うか。
それは難問です。
何しろ今やほとんどの人が、お金に依存するしか価値を見出せなくなってきているからです。
こういう理由で、私は、大谷選手にもあまり好感が持てないのです。
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