カテゴリー「妻への挽歌7」の記事

2009/10/20

■節子への挽歌779:ゆっくりと歩くことを教えてくれた節子

秋らしくなりました。
久しぶりに湯島で一人なので、ゆっくりと空を見ています。
雲がゆっくりと流れる空が好きなのです。

私の生き方はあまりゆっくりではありませんでした。
節子はいつももっとゆっくりと生きたらといっていました。
私自身は、それでもかなりゆったりと生きているつもりなのですが、節子から見るとまだまだ急ぎすぎだったのです。
食事もお風呂も早いのです。
その上、ビデオの映画まで早送りで見るほどでした。
私と会った人はご存知でしょうが、早口なのです。
講演ではよくもっとゆっくり話してくださいといわれました。

人はそれぞれに自分の時計をもっているような気がします。
私のはちょっと時間の進み方が早いのかもしれません。

節子が病気になってから、一緒に散歩をしました。
一時、元気が出てきた時には、一緒にハイキングもしました。
それ以前も早さが違っていたのですから、その違いはもっと大きくなっていました。
節子は私に合わせるのに大変だったかもしれません。
しかし、そのうち、私のほうが節子の速さに合わせるようになってきました。
いかにわがままの私でも、節子の状況が理解できるようになってきたのです。
そして節子と一緒に歩くようになって、私はたくさんのことに気づきました。
いや、気づいたはずでした。
もっとゆっくりと生きなくてはいけない。
そうしないと周りの風景も周りの人の表情も見えてこない。

ところが最近また、急いで歩いている自分に気づきます。
久しぶりに空の雲の流れを見ていて、そう思いました。
思ったら少し涙が出てきました。

もうすぐ人がやってきます。
涙はとめなければいけません。
空を見るのはやめましょう。

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2009/08/02

■節子への挽歌700:「節っちゃんはきつかったね」

福井に来た帰りに、敦賀にいる節子の姉夫婦の家に寄りました。
節子と一緒に、年に1~2回は私もお世話になっていました。
西と東に別れていましたので、若い頃はなかなか会う機会も少なかったのですが、それぞれが子育ちから解放され、仕事からも解放されるにつれて、節子たち姉妹の交流は増えてきていました。
性格はかなり違うように思いますが、仲の良い姉妹でした。

和食のお店を予約していてくれたのですが、節子の気に入りそうなお店でした。
魚三昧でしたが、とても美味しい鯛の兜煮が出ました。
節子は金目鯛の煮物が大好きでしたが、私がそう思っていたら、やはりその話になりました。
みんな思うことは同じなのでしょう。

義兄が「節っちゃんはきつかったね」といいました。
姉が、「私にはとても言えないことを言ってくれていた」と同調しました。
知らない人が聴いたら、節子の悪口に聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
節子は、自分の身内や関係者には遠慮せずに物言う人だったという意味です。
まあいつもは遠くにいるので、言えたという面もありましたが、節子は思ったことをわりとはっきりと言う人でした。
身内だけではありません。
たとえば、近所に悪さをする子供がいれば注意するということもありました。
もっとも誰にでも言えたわけではなく、私の関係の親戚や友人にはほとんど何も言いませんでした。
その理由は簡単で、私のほうが「きつかったから」です。
後で、節子から言いすぎだと怒られることはしばしばでした。

しかし、その一方で、相手の親族や友人には、逆にかなり寛容で受容的でした。
ですから、節子はわが両親からは「良い嫁」であり、私は節子の両親からは「良い婿」だったのです。
念のために言えば、「仮面」をかぶって装っていたのではありません。
身内に厳しいことと、他者に優しいこととは、同じコインの裏表です。
そして、そうした生き方が、とても生きやすい生き方であることを私たちはよく知っていました。

そうした点で、私たちは「似た者夫婦」だったわけです。
どちらかがどちらかに影響を与えたのではなく、最初からそうした性格でした。
鯛の兜煮を食べながら、そんなことを思っていました。

それにしても美味しい兜煮でした。
福井県のJR敦賀駅の商店街にある「建」というお店だったと思います。

節子が戻ってきたら、連れて行きたいと思います。

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2009/08/01

■節子への挽歌699:死と向き合う

昨夜は六呂師高原温泉で泊まりました。
一度、死に向かいあった人たちの集まりは、最初は重い感じでの始まりでしたが、話しているうちにみんなの心も開けだしました。
心が開きだせば、むしろ絆は一挙に深まります。
それにしても、この2日間は気づくことの多い集まりでした。
頭での知の気づきではありません。
心身での生の気づきです。
テレビや新聞の取材関係者もかなり来たのですが、彼らも含めてすべて一緒に扱うことにしました。
こういう集まりもめずらしいでしょう。
しかし、みんな同じ人間なのですから、当然といえば当然です。
私の好きなスタイルです。

しかし、こうした大勢での集まりが苦手な人もいます。
会場に座っているだけでもストレスがかかるのです。
それに、参加者のリズムがそれぞれ大きく違います。
状況にあわせて、それこそ「カジュアル」に進行させなければいけません。
思いもしなかった事態も起こりましたが、そうしたことに慣れている人も何人かいましたので、結果的にはすべていい方向に向いたように思います。
またホームページや別のサイトでもう少し詳しく書くつもりですが、私には刺激的な2日間でした。

私は参加者の全員と話すことができました。
長く話した人もいますし、一言二言だけのやり取りだった人もいますが、それぞれに心に残る人たちばかりでした。
人生を誠実に生き、一度は死を試みた人の語りは、言葉の奥にたくさんの思いが詰まっています。
それが、私にも強く響きます。
節子のことがなかったら、その響きは頭にしか入ってこなかったかもしれません。
私も単なる一方的な「善意の支援者」になってしまったかもしれません。
しかし、節子のおかげで、一人ひとりの思いが痛いように伝わってきます。
涙にも冷静に対応できます。
そして遠慮せずに、軽口もたたける自分に気づきました。
人は一度、死に直面すると変わるものです。
そんなことをつくづくと思いました。

職人のHさんは、最初話もできませんでしたが、最後にはとてもたくさんのことを話してくれました。
彼にはまた数年後に会いたいと思いました。
料理人のTさんにはいつか料理を食べさせてもらう約束をしました。
Sさんは、自分の苦しさにもかかわらず、誰か同じような人がいたら応援したいと最後に言ってくれました。

たくさんの感動と喜びの2日間でした。
節子にじっくりと話を聴いてもらえないのが、とても残念です。
喜びと同時に、実は悲しさやさびしさも背負い込んできたのです。
一人でいいから、私にすべて任せていいと言ってくれる人がいてほしい、と言った人がいました。
その言葉は、心に深くしみこみました。
節子は、私のとっての、そういう人でしたから。

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2009/07/31

■節子への挽歌698:任侠の世界の人との奇妙な一晩

節子
今日は福井に来ています。
節子との最後の旅になった芦原温泉近くの六呂師高原温泉です。
昨日の時評編に書きましたが。昨夜、このブログにも時々、登場する daxさん(daxさんと書くと何だか彼のイメージと違うので以下「さん」なしにします)の運転する自動車でやってきたのです。
この歳で、夜行の自動車はいささか辛いですが、daxと同行することにはちょっと魅力がありました。
それでdaxの誘いに乗ったわけです。

ところでなぜ福井に来たのか。
しかも任侠の世界の人だったdaxと同道したのか。
これは書き出すと長くなりますが、私たちをつなげたのは東尋坊の茂さんです。
今日と明日、一度は自殺を考えた人たちの集まりをここでやるのです。
私は当事者ではないのですが、会を企画した「自殺のない社会づくりネットワーク準備会」の事務局を引き受けた関係で来ざるを得なくなり、しかも私が行かないと俺は行かないというわがままなdaxの誘いに屈してしまったために、こういうことになったわけです。

節子がいたら話したいことが山ほどあります。
節子ならきっと笑い転げるほど面白がるでしょう。
しかし奇妙な組み合わせです。
ひ弱な私と迫力のある彼とが並んでいるだけでアンバランスです。
しかし、節子なら、そのアンバランスの向こうにある私たちの共通点をきっと見通したことでしょう。
まあ、daxはそんな人なのです。

久しぶりの高原ですが、あまり来たくなかった理由は、節子を思い出すからです。
daxにそんな弱みを見せるわけにはいきません。
彼の言葉を使えば、ここは「男前」を守らなければいけないのです。
しかしまあ、daxはお見通しでしょう。
なにしろさまざまな場を体験し、人生の機微を肌身で知っている人ですから。
daxからはいろいろな気づきをもらえます。

肝心の合宿の話はまたどこかで書くようにします。
これも実にたくさんのことを気づかせてくれました。
誠実に、しっかりと自分の人生を生きてきた人たちからは教えられることがたくさんあります。

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2009/07/30

■節子への挽歌697:「人は幸せになる権利があるし、みんなを幸せにする権利もある」

数日前に、「人は幸せになる権利はあるが、人を不幸にする権利はない、だから死んではいけない」ということを書きました。

その後、ある人から、「人を不幸にする権利はない」という表現に違和感があるとメールをもらいました。
節子との体験のなかから実感していた、そこに込めた私の思いをお伝えしましたが、そのやりとりの中で、この言葉の持つ「トゲ」に気づきました。
「人を不幸にする権利はない」という表現は、批判の要素を持っています。
ですから、感受性の高い人や当事者に近い人は、ドキッとさせられるのかもしれません。
捉えようによっては、節子を批判することにもなりかねないわけです。
私の先のブログをきちんと読んでもらえれば、そうした誤解は避けられるかもしれませんが、それは書き手の勝手な要望ないしは弁明でしかありません。

こうした間違いを、この挽歌でもこれまで何回も繰り返してきているのでしょう。
まだまだ配慮が足りません。
自分の勝手な「言葉の世界」に安住しているのかもしれません。

ところで、先の言葉ですが、トゲを抜くにはどうしたらいいか。
「人を不幸にする権利はない」ではなく、「人を幸福にする権利もある」というほうがいいですね。
ですから、こういう表現になります。
「人は幸せになる権利があるし、みんなを幸せにする権利もある、だから死んではいけない」。
ちょっとイメージが曖昧になって、意味不明になりそうですが、繰り返しこの言葉を声に出して読んでください。
きっと元気が出てきます。
そして、人は本来周りの人を幸せにしてくれる存在であることを思い出させてくれます。
生まれたての赤ちゃんがみんなを幸せにしてくれたように。

節子はいなくなってしまったけれど、今も死んではいないのです。
私や娘たちに、幸せを送り続けていてくれるのです。
節子が、私を幸せにするために、どんなにがんばったか、私にはよくわかっています。
私もがんばらなくてはいけません。

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2009/07/29

■節子への挽歌696:オフィスとサロンの復活

節子
思い切って湯島のオフィスを片付けだしました。
とりあえず電話を開通させたのですが、そこでストップしていました。
今日、何となく湯島で空の雲の流れを見ていたら、節子だったらきっともう動き出しているだろうなと突然思いました。
今日の雲の動きは、穏やかに、しかし速いのです。
それで複写機の修理を頼むことにしました。
メンテナンス会社の人が来て、複写機を持ち帰りました。
持ち帰った後のがらんとした様子を見ていたら、無性にさびしくなりました。
そういえば、こうしたがらんとした部屋を2人で掃除をして荷物を運び込んだのです。
急に掃除をする気が出てきました。
書類を整理しだしました、
山のような書類を捨てることにしました。

しかし一人でやっていると疲れます。
案の定、途中でダウンしました。
節子がいないと何をやっても続きません。
でもオフィスを復活させる気力が出てきました。

実は今日は「支えあいサロン」をやる予定です。
毎月やっているサロンの一つですが、久しぶりに節子の知っている、昔のオープンサロンの常連が何人か来ます。
昨日までは10人弱の申し込みでしたが、今日になって4人も申し込みがありました。
久しぶりに賑やかなサロンになりそうです。
節子がいたら花を活けてくれ、軽食を用意してくれるのでしょうが、花もなく、軽食も近くのコンビニで買ってきたものです。
節子は、サロンの時には上野から汗をかきながらいろんなものを買ってきてくれました。

そういえば、あの頃は会費もありませんでした。
初めてやってきた人が会費もなくてビールが飲み放題と言うのはおかしいといいました。
私たちはやはりどこかで常識を欠いていたのです。
しかし、提供できる人が提供するのは、理に適った行為です。
最近は貧しくなったので、500円、会費をもらうことにしました。
そのくせ、ビールはなくて、お茶とコーヒーです。
またあの人が来たらおかしいというでしょうか。
私のルールは、払える人が500円置いていくというルールなのですが、これもおかしいという人がいました。

節子と私の常識は、どうも世間の常識から少し外れていたのかもしれません。
一人になると、何だか自分が間違っているような不安に襲われます。
困ったものです。

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2009/07/28

■節子への挽歌695:自分をさらけ出すことの効用

節子
根本さんにもらった朝顔が部屋の窓のところまで伸びてきました。
そういえば最近根本さんから連絡がありません。
どうしたのでしょうか。
「便りがないのは元気な証拠」という言葉がありますが、実際には「便りがない」ことは心配の材料です。
元気だといいのですが。

インターネットの普及で、「便り」はコストも時間もかけずに送れるようになりました。
ですから、「便りがないのは元気な証拠」とは必ずしも言えなくなってきたように思います。

私の場合は、このブログやホームページで自らのライブな状況をさらしていますので、個別の便りはほとんどしなくなってしまいました。
自分をさらけ出しておくことで、気分的にはとても生きやすくなります。
いささか自分勝手な発想ですが、みんなが見ていてくれて、いざとなったら支えてくれるだろうと思えるからです。
実際に、そうしたことは時々起こります。
支えられていることを実感できることは、とても幸せなことです。

私の周りには、私と同じように自分の生活をブログに書いている人もいます。
そうした人に関しては、時々、そのブログを読むと状況がわかりますので、便りがなくとも安堵できます。
ということは、自分の生活をさらけ出すということは、周りの友人知人に安心させるという効用があるということになります。

私の大きなテーマは「支え合いの文化の回復」です。
節子はそのことをとても理解してくれていましたから、私が会社を勝手に辞めても、借金が増えても、いつも何も言わずに応援してくれていました。
病気になってからでさえも、修さんのやりたいことの邪魔をして悪いわね、と言うほどでした。
節子は、まさに身をもって私の支え合いづくりを支えてくれていたのです。
それが、私のモデルになっています。
つまり、自らを相手にさらけ出せば、自ずと支え合いの芽が育ちだすというわけです。

根本さんはどうしているでしょうか。
メールを出してみました。
そうしたら、他にも気になる人が出てきました。
今日は用事があって在宅なので時間があります。
たまにはこうやって、気になる人にメールすることも大事ですね。
そういえば、これも節子がよくやっていたことです。
節子はメールではなく、ハガキでしたが。

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2009/07/27

■節子への挽歌694:惑うことなく、惑えた幸せ

誰しも心の中には何人かの自分がいます。
心の中にある「思い」のネットワークが、バランスしながら、日々の言動を具現化しているのだろうと思いますが、そのバランスをとる要(かなめ)は多くの場合、自分の心の外にあります。
自己同一性とも訳される「アイデンティティ」という言葉がありますが、これも「社会のなかでのポジショニング」と考えられ、関係性の概念であることはいうまでもありません。
そこを勘違いしてしまうと、アイデンティティはわかりにくい概念になってしまいます。

私の場合、アイデンティティを具現化させる基準は「節子」でした。
節子との距離感や会話(価値観)のやりとりの中から、自分の言動を相対化させ、私の心身に内在する多様な価値観を構造化できていたように思います。
踏み外れるほどに大きく外側に揺れても、戻ってくる目印があったのです。
ですから私は思い切り自分の考えを飛躍させられました。
戻るところは、節子と共有できている世界でした。
節子が許容できる世界と言ってもいいでしょう。
道がなくなったら、そこに戻ってくればよかったのです。
ですから、惑うことなく、惑えたのです。

ところが、その節子がいなくなりました。
とても些細なことでも、自分だけでは判断に迷うことがあることに気づきました。
人生にはさまざまなことがあります。
一つひとつは些細なことなのですが、これまでずっと節子との話し合いの中で決めてきたために、「決める」と意識することもなかったのです。
それに、ただ「決める」だけでは終わりません。
決めたらそれに沿った行動をしなければいけません。
つまり行動が決めることと一致していたのです。
節子がいなくなったために、決めたら自分でやらなければいけません。
そのため決定を延期し、やるべき作業が溜まっていくわけです。
そしてある時、面倒だからもうやめようと言うことになってしまう。
そして自己嫌悪に陥り、滅入ってしまうのです。

日常の暮らしの中で、私たちは周りの人たちとたくさんの問題をシェアしています。
シェアしていればいるほど、私たちの暮らしは安定します。
しかしシェアしにくい問題もあります。
そうしたことが、これまで何気なく(無意識のまま)節子とシェアできていたことが、私の言動を安定させていたことに最近気づきました。
ということは、最近はそれができていないので、あんまり安定していないということです。

最近またどうも精神が安定しません。
これはどうも「暑さ」のせいではなさそうです。

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2009/07/26

■節子への挽歌693:怠惰でもないのですが時間破産です

節子
今日はついに時間破産に陥ってしまいました。
なぜこんなにいろんなことをしなければいけないのだろうかと、つくづく思います。
節子がいつも、修さんは何でそんなに引き受けてきてしまうのと言っていたことを思い出します。
まあ自分の能力以上のことを引き受けてしまうのは私の昔からの悪い癖です。
節子や家族は、そのためにどれほど迷惑を受けたことでしょうか。
この頃、ようやくそのことを反省しだしていますが、最近、またそうした悪癖が出てきてしまっています。

と言っても、節子が元気だったころに比べれば、引き受けている量は桁違いに少ないだろうと思います。
要は私の処理能力が低下したのと、怠惰に過ごす時間が増えただけなのです。

今日はホームページの更新日でもありましたので、なんとか更新しました。
この2年、手抜きの更新になっていますが、更新だけは毎週やっています。
挽歌は毎日です。
さぼるわけにはいきません。
さて今日は何を書きましょうか。
もう少し待てばきっと書くことが浮かんできますが、実は今日中にまだやらなければいけないことがいくつかあります。
それで今日はここまでで挽歌にしてしまいましょう。

こうした状況になった時の私の状況を知っている節子は、許してくれるでしょう。
大変ね、といいながら、相変わらず要領が悪いわね、と笑っている節子の顔を思い出します。
困ったものです。

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2009/07/25

■節子への挽歌692:人は幸せになる権利はあるが、人を不幸にする権利はない

節子
今日は、自殺のない社会づくりネットワークの交流会でした。
今回はテーマなしで、気楽に話し合ったのですが、とても刺激的で本質的な話し合いになったような気がします。
いつものように多彩なメンバーでしたし。

初めて参加した「若い僧侶」(もっとも彼は今は全く違う仕事をしています)が、「なぜ死んではいけないのか」という根本的な問題提起をしたのです。
いろいろと意見が出ましたが、ある人が「人には幸せになる権利がある」と言われて、死んではいけないことに気がついたと話しました。
彼女は、自らもまた自殺を試みたことのある女性です。

その言葉に刺激されて、ついつい私も話してしまいました。
節子のことを、です。
一人の人が亡くなると、周りの人たちがどれほど不幸になることか。
人は幸せになる権利はあるが、人を不幸にする権利はない、だから死んではいけないのだと話してしまったのです。
話しおわった後、話さなければよかったと思いました。
話してしまうとなにか私の実感とは違うものになってしまうのです。

おそらく同じ体験をした人でなければ意味がわかってもらえないでしょう。
私は、コムケアの活動を通してさまざまな福祉活動に関わってきましたが、当事者と支援者との微妙な気持ちの違いが、このころとても強く感じるのです。
いわば、彼岸と此岸の違いですが、最近、私自身が彼岸に来ているのを実感します。
自らの弱さに気づいた時に初めて、人は強くなれるのかもしれません。

初対面の人もいる人たちの前で(節子を知っている人は一人しかいませんでした)、節子の話をしたのは、もしかしたら初めてかもしれません。
もちろん妻を見送ったとしか話しませんでしたが、あやうくまた涙が出そうでした。
やはり人前で節子の話をするのはタブーにしなければいけません。

節子
私を不幸にさせないために、節子がどんなにがんばったか、よくわかっています。
生きるために、節子が壮絶な時間を過ごしてくれたことを私は決して忘れません。
それに、私を不幸にしてしまいましたが、それを数倍上回る幸せを節子は私に与えてくれましたので、相対的にいえば今も私は幸せです。
でも幸せでなくてもいいから、やはり節子がいたほうがいい、というのが本音ではありますが。

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2009/07/24

■節子への挽歌691:愛する人との別れは世界を一変させます

節子
今日はちょっと重い話です。

昨日からあるトラブルに巻き込まれていたのですが、そのおかげで、ある人と知り合いになりました。
知り合いといっても、電話で何度か話しただけです。
その人、田中さんといいますが、田中さんは、数年前に息子さんを亡くされました。
過労死に近い話かもしれません。
それが契機になって、同じような立場の人たちの集まりを始めたのだそうです。
それが、藍の会(仙台自死遺族の会)です。
そして、さらに全国各地の自死遺族の集まりのつながりとして、全国自死遺族連絡会が生まれたのだそうです。

そのホームページを見てほしいといわれたので、見せてもらいました。
そこに、田中さんがお書きになった「息子への手紙を書いてから」という文章がありました。
そこに書かれている田中さんの思いは、私の思いにつながっていました。
もしよかったら、田中さんの文章を読んでください。
藍の会のホームページの項目の冊子「会いたい」に出ています。
田中さんは、その文章の中で、「二度とあの頃の感覚ではなくなっています」と書いています。
世界は一変したのです、
私もそうです。

昨日も書きましたが、事情はどうであれ、愛する人との別れは世界を一変させます。
おそらく愛する人との出会いもまた、世界を一変させるのでしょうが、それとは全く異質な変わり方のような気がします。
田中さんの文章を繰り返し読みながら、いろいろと思うことがありました。

いつかきっとまた田中さんにも会うことがあるでしょう。

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2009/07/23

■節子への挽歌690:生と死は対語ではありません

節子

昼食を、10年ぶりに訪ねてきてくれた弁護士の友人とご一緒しました。
死刑制度の話になりました。
彼は死刑制度肯定の立場、私は否定の立場です。
彼に、死刑を執行する立場に立たされたら、私にはボタンが押せないので死刑制度に反対だ、といいました。
彼は押せると言いました。
ほんとうでしょうか。
彼はとても心やさしい人ですし、自分の人生を大切にしている人です。
もしかしたら、まだ大切な人を失ったことがないのかもしれないと思いました。
大切な人を失うことがないと、問題を論理で考えがちなのです。
しかし大切な人との別れを体験すると、論理など瑣末に感じます。
問題を極めて個別に考えられるようになるのです。

実は、今朝、自死遺族関係の組織の方から電話がありました。
「自殺のない社会づくりネットワーク準備会」のホームページに関して、あることでお叱りを受けました。
明らかに非はこちらにあることがわかりました。
すぐに対応させてもらいましたが、その過程で当事者意識への配慮不足を強く感じました。
当事者の感受性に関しては、私も最近それなりにわかってきているつもりでしたが、問題がちょっと違うと見えなくなるのかもしれません。
心しなければいけません。

この2つは、たまたま同じ今日の出来事というだけで、関係のない話です。
しかし、このおかげで今日は改めて、死について少し考えさせられました。
自死、事故死、病死、死刑による死、それらは同じものなのかもしれません。
すべて「不条理」です。
なぜ節子は私よりも早く死に行き着いたのか。
それは私にとっての「条理」を超えています。
しかし、最初から組み込まれている生のサブシステムと考えれば納得できます。

と、考えてきて、生と死は次元の違う言葉(概念)であることに気づきました。
生と死はよく対で語られますが、この2つは対語ではないのです。
なぜ今まで気づかなかったのでしょうか。

死は生の一局面なのです。
「死」を超えていき続ける「生」。
以前、「死は進化のおかげで人間が獲得した能力」ということを書いたことがあります。
まさに、「死」とはもっとも進化した「生」の局面なのです。
だからなんだ、それで愛する人は戻ってくるのか、と言われそうですが、戻ってはこないのです。
なぜかといえば、行っていないのですから戻りようがない。

話がだんだんややこしくなってきました。
でも、死もまた生、と考えると、少し気がやすまります。

節子
君がいたら、もう少しこの考えを消化できるような気がしますが、いまの節子は返事をしないので、だんだん話が固まってきてしまい、発展できません。
ややこしくなってきたので、今日はこれでおしまいです。
はい。

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2009/07/22

■節子への挽歌689:「愛する人の死~あなたはどう乗り越えますか?」

節子
今朝のNHKテレビ生活ホットモーニングで、「愛する人の死~あなたはどう乗り越えますか?」を放映していました。
私はこの種の番組にどうも違和感があり、いつもは見ないのですが、今回はついつい見てしまいました。
番組の中で話があったのですが、東京都の調査では、夫や妻を亡くした人の8割が、不眠や疲労・食欲不振など何らかの症状を訴えているそうです。
8割というのは驚きでした。
その症状の中に、「肩こり」というのが確かかなり高位に出ていました。
実は、私は節子がいなくなってから、尋常でない肩こりを体験しています。
今はだいぶよくなりましたが、夜中に目が覚めるほどの痛さを感ずることもあります。
もしかしたら、節子が肩に乗っているのではないかなどと冗談に思ったことがありますが、もしかしたら冗談ではなく事実なのかもしれません。
医者に行こうと思っているのですが、なぜか行く気にならないのです。
おかしな話ですが、直前になって、行くのをやめてしまっているのです。

番組の中で、生活の変化に伴うストレスの度合いが紹介されていました。
伴侶の死が最高でした。
それに比べて、親密な家族の死は、その三分の2だそうです。

番組では、伴侶との別れをさまざまなかたちで乗り越えてきている人たちの紹介がありました。
すべて納得できましたが、すべてが私とは違いました。
伴侶との関係が人それぞれであるように、その越え方もそれぞれなのでしょう。
しかし、何よりも言葉にしてしまうと、どこかに違和感が生まれるのです。

一番こたえるのが、友人知人からの言葉だという人もいました。
ゲストのペギー葉山さんも、そういっていましたが、善意の無神経な言葉ほど傷つけられることはありません。

実は、私は、「伴侶の死を乗り越える」という言葉にも、その「無神経さ」を感じます。
なぜ乗り越える必要があるのかと思うのです。
乗り越えるとは、そもそもどういうことなのか。
過去ばかり見ていないで、前に向かって進めということでしょうか。
前に進むためには、伴侶の死を乗り越えないといけないのでしょうか。
そんなことはありません。
私は、節子との別れを乗り越えるつもりなど全くありません。
乗り越えてしまった先の人生には、全く興味がないからです。

いささかひねくれていますが、それがこの番組を見ての私の感想でした。
登場していた人たちと、私は、やはり異質の世界にいるのかもしれません。

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2009/07/21

■節子への挽歌688:「神と一緒に過ごす豊かな時間」

節子
昨日、NHKテレビの特集番組で『神と人が出会う日~京都・葵祭一千年の神事』を観ました。
この祭りに埋め込まれている「神を迎え、ともに遊び、供物をささげて敬意を表す」という大きな流れが描かれていました。
観ていて、私自身が最近何か大きな忘れ物をしている気分になりました。
そして、なぜかよくわからないのですが、節子のことを何回も思い出しました。

特に思い出した場面が2か所ありました。
まず、下賀茂神社の御陰祭で、森の中をみんなが歩く場面があったのですが、その時、森から精気を得るというようなナレーションがありました。
こうした場面をみると、いつも罪の意識に襲われます。
なぜ節子と一緒に、この道を歩かなかったのだろうかと。

もう一つは、宮司が警蹕(けいひつ)を発する場面です。
警蹕(けいひつ)とは、辞書には「天皇の出入り、行幸、食事の時などに、人に注意を促し、また邪気を祓うために「おー」と唱えること」とありますが、番組で「言葉が生まれる前の発声」と説明していました。
You-Tubeで、実際にその声も聞けます
その説明がとても納得できました。
その場面でなぜ節子のことを思い出したのかといえば、私と節子を今つなぐものもまた警蹕(けいひつ)なのではないかと思ったのです。
般若心経などよりも、光明真言よりも、警蹕のほうがいいのではないか。
そんな気がしたのです。

私は、言葉の有無が、人(此岸)と神(彼岸)を分けるものだと思っています。
もしそうであれば、そこをつなぐものは警蹕です。
神には小賢しい言葉は不要です。
人は、バベルの塔の神話が物語っているように、言葉を持ったが故に小賢しくなり、死を体験するようになったのです。

番組の最後に、とても心に残る字幕が画面に出ました。
「神様と一緒に過ごせた豊かな時代の記憶」
心に強く響きました。
この字幕をみて、ふと思いました。
節子は、私にとっての「神様」だったのかもしれない。

葵祭の神事の時間の流れは、ゆったりしています。
節子と一緒の時、私たちの時間の流れもゆったりしていました。
無意味のような時間が、一番充実していたのです。
節子は、私にとって生きる意味を与え、生き方を考えさせてくれる存在でした。
それは、いまもなおそうです。
「神と一緒に過ごす豊かな時間」
私がいま、欠いているのは、それなのかもしれません。

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2009/07/20

■節子への挽歌687:「月への送魂」

節子
40年前の今日は、茨城に海水浴に一緒に行っていました。
どこだったか覚えていませんが、その時の節子の真っ白な水着姿ははっきりと覚えています。
節子は丸々と太っていて、とても魅力的でした。
つまり、まだ何の苦労もなく、私たちが若さを謳歌していた時代です。
2人とも、世間の何たるかなどは全く眼中になく、ともかく一緒に暮らす歓びや面白さを満喫していたように思います。
娘が生まれた1年後ですが、その時は娘を母に預けて、2人だけで行ったのです。
子どもたちと一緒に海水浴に行った記憶はたくさんありますが、節子と一緒に海に行った記憶はこれだけです。

なぜその日が、40年前の今日だとわかるかといえば、その日の夜、テレビでアポロの月面着陸の番組を見たからです。
今日は、人類が月面を歩いてから40年目です。
月に人が立つ、というのは、私にはあまり好ましいイメージではありません。
その日、節子とどんな話をしたのでしょうか。

私にとっての月のイメージは、「女性」と「死」です。
ギリシアやエジプトの神話では、月は「善き人たちの死後の住処」でもあります。
ですから、今も夜空の月を見ると節子を思い出します。
もしかしたら、節子はあそこにいるのかもしれません。

九州で冠婚葬祭の事業に取り組んでいる佐久間さん(一条真也さん)は、「月への送魂」を提唱し、実際にも行っています。
佐久間さんの「月」への想い入れはかなりのものです。
佐久間さんのサイトは、月への想いが全編を覆っています。
「月への送魂」について言及している「月を見よ、死を想え! 魂のエコロジーを取り戻せ!」はとても示唆に富んでいます。

月を見ると、いつも節子を思い出すのは、もしかしたら佐久間さんの影響かもしれません。
「月への送魂」の話を聞いたのは、もう10年以上前だと思いますが、聞いた瞬間からすごく納得してしまっていたのです。

明後日は皆既日食です。
節子に出会う2年前に、私は皆既日食を体験しました。
そして節子がいなくなって2年目、また皆既日食です。

追記
佐久間さんから、「月への送魂」の動画がYouTubeにもアップしているとの連絡を受けました。
よろしければ御覧下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=tV_rcc22Sfk

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2009/07/19

■節子への挽歌686:家事で大忙しの1日でした

節子
今日は疲れました。
私にしてはめずらしくいろいろと家事をしたのです。

朝5時過ぎに起きて、パソコンをチェックし、それから近くの「さとう農園」に雑草刈りに行きました。
ともかく雑草がすごく、手に負えないほどです。
畑とはとてもいえない状況です。
今日で3日目ですが、この作業はめずらしく怠惰な私一人でやっています。
節子が知ったら驚くことでしょう。

30分で切り上げて帰宅、まだ娘たちは寝ていましたので、庭で新聞を読みながらコーヒーを飲みました。
朝食を終えて、近くのお店に買物に行く娘に付き合いました。
飲料水が安いのでカートンで買うというので、運搬役です。

その後、娘たちが出かけましたので、一人で留守番でしたが、今日は久しぶりにちょっと難しい本を読みました。
今田高俊さんの「自己組織性と社会」です。
ちょっと「訳あって」読む羽目になったのですが、とても共感できます。
今田さんは、私に「リゾーム」概念を教えてくれた人です。
本は面白かったですが、頭は少し疲れました。

読み終えて、一休みしようと思っていたら、戻ってきた娘たちが、床のワックスがけを始めました。
参加しないわけにはいきません。
わが家では大きな家事は全員参加なのです。
これは、節子が残した文化です。
かなりのことを節子は家族みんなでやるのが好きでした。
自称「さとう工務店」です。
もちろん、節子が社長です。
ベランダのペンキ塗りから壁紙の張替え、節子の指示で全員が動くのです。
ベランダのペンキ塗りは大変でした。もう2度とやりたくないです。
今回は、その社長役の節子がいないのですが、節子の文化は破るわけにはいきません。
私は、せいぜいが家具の移動や下拭きくらいしかできませんが、久しぶりに汗をかきました。
終わったら、今度は庭の草花に水やりです。

というわけで、今日は早朝から夕方まで、身体も頭脳もそれなりに汗をかいた1日でした。
節子がいた時は、こういうことも実に楽しかったのですが、いない今は、ただ疲れるだけでした。
作業終了後の、ケーキもありませんでしたし。

それにしても、節子がいた時の家族みんなでの家事は、どうしてあんなに楽しかったのでしょうか。

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2009/07/18

■節子への挽歌685:心の安定

maronさんが早速、挽歌に呼応するようにコメントを投稿してくれました。
重複してしまいますが、とても共感できる文章なので、転載させてもらいます。

私はとても良い人々に恵まれて生きてきたのだと思います。
心の中で、頼り切って、何時も私のそばに居てくれるものだと思っていた人々との分かれ、会者定離の世と知りながら不条理と嘆きました。 
私が自由に良い人生を過ごせたのはその人々のお陰です。
故人が私にしてくれたように、私も人々に安心と笑顔を与えてあげられたらと思います。
今日も事故で脊椎を痛めた友人を見舞って帰ると直ぐ知人が待っていました。 
コーヒーを入れてお話をききました。
心の安定を失う人の多い世の中です。
私の身体が続き、心が萎えない限り、周りの人々の盾になりたいと思っています。
それは人生を知ること、自分の生の確認でもあると思っています。
なんだか私自身の文章を読んでいるような気がしました。
私もとても似たような生活をしています。

節子が隣にいた時には、私の心は常に安定していました。
しかし、節子がいなくなった途端にその安定を失いました。
心の安定を失うと、活動が持続できなくなります。
気が萎えてしまい、突然にすべてを止めたくなるのです。
いまでも心が揺らぐことはないわけではないのですが、活動は持続できるようになりましたし、maronさんのように人の相談にも乗れるようになりました。
私にとっては、唯一の頼り切れる存在だった節子がいなくなったままなのに、なぜ心が安定してきたのか。

maronさんのコメントを読んでいて、その答に気づきました。

私には、節子という、頼り切れる伴侶がいました。
しかし、本当に節子は頼りになったのでしょうか。
それはかなり疑問です。
にもかかわらず、節子がいるおかげで、私はいつも安心でした。
なぜでしょうか。
それは、私が節子に頼り切られる存在だったからです。
もちろん、節子と同じように、私も節子にとって本当に頼れる存在だったかどうかは疑問です。
しかし、私は頼り切られていたという確信がありました。
節子に何か問題が起これば、命を捨ててでも節子を守るだろうという確信です。
それは実際には実現できなかったのですが。

頼ると頼られるは、双方向的な関係なのです。
言い換えれば同値と言っても良いでしょう。
よく言われるように、ケアと同じ概念です。

私が最近、心の安定を得られだしたのは、頼られているという実感を回復したからなのです。
頼れる人が、一人でもいれば、心は安定します。
そして、頼ってくる人が一人でもいれば、心が安定します。
そのことに、maronさんのコメントは気づかせてくれました。

文句を言わずに、明日もまた相談を受けに出かけて行くことにしましょう。
私のために、頼ってきてくれる人がいることの幸せを疎かにしてはいけません。

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2009/07/17

■節子への挽歌684:生きるということの意義

maronさんからまたコメントをもらいましたが、最後にこう書いてありました。

様々な人を失い、生きると言う事の意義も考えました。
節子との別れを体験するまで、私は「生きる」ことをしっかりと意識したことがありませんでした。
両親をはじめ、親しい人を何人も見送りましたし、親しい友人も見送りました。
私より若い友人の突然死も2回経験しましたし、自死した友人もいました。
衝撃的な別れもありますし、自分の人生を変えてしまう別れもあります。
しかし、私は人の死に関しては、かなり淡白でした。
たぶん人の死で心底泣いたことはありません。
同時に、生きることについても、淡白でした。
貪欲に生きようなどと思ったことはありません。
人の生き死には、定められているというような思いがどこかにあります。
ですから自分の生死に関しても、さほどこだわりはないのです。

とまあ、そんなふうに考えていたのですが、
節子に関しては、淡白どころではなく、取り乱すほどでした。
もちろん、心底、涙しました。
涙が枯れるという言葉がありますが、枯れることなどなく、いまもいつでも涙は出ます。

そうした体験の中で、私が生死に淡白でいられたのは、節子のおかげだったと気づいたのです。
すべての生死を、節子が引き取ってくれていたのです。
両親を見送った時、支えてくれたのは節子です。
節子がそばにいたからこそ、両親の死を私は冷静に受け止められました。
親しい友人の死は、節子に話すことで心を落ち着かせられました。
私の哀しさも喜びも、辛さも後悔も、すべて節子が引き取ってくれていたのです。

そういえば、節子と一緒に暮らすようになるまで、私はむしろ生死には敏感だったような気がします。
私は、気の弱い子どもでした。
戦後、わが家は新潟の父の実家に疎開していました。
食糧難の時代でしたが、当時、疎開先ではウサギを食料用に飼っていました。
そのウサギを殺すのを止めてくれと、私が泣きながら父に頼んだ話を母が節子や娘たちに話してしまったので、私の気の弱さはみんなの知るところになってしまいました。
家族でエジプトに行った時にも、鳩料理は私だけ辞退させてもらいました。
子どもの頃から、生命にはある種の畏れを感じていたのです。

そうした気弱な私が、生死に対して動じなくなったのは、間違いなく、節子と一緒になってからです。
なぜでしょうか。
私のすべての人生を節子に託すことで、そうした私の最も弱いところから抜け出られたのかもしれません。
以来、誰がいなくなろうと、私には節子がいたのです。
生きるとか死という問題から解放されれば、人は思い切りわがままになれます。
そして、本来ならば、このまま私は静かに生きることを終えられるはずでした。

節子がいなくなった今、生きることの哀しさや退屈さに、押しつぶされそうになることがあります。
幸いに娘たちがいますので、少しは緩和されますが、残念ながら節子と違って、私の生死を引き取ってもらうわけにはいきません。

maronさんが考える「生きるということの意義」とはどんなものでしょうか。
訊いてみたいようでもあり、みたくないようでもある、気になる言葉です。

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2009/07/16

■節子への挽歌683:朝の畑仕事

節子
朝早く起きたので、畑に行ってきました。
と言っても、最近は誰も手入れに行かないので雑草があふれかえっています。
今日は暑いので、早朝の30分だけ草刈をしました。
いつかのように、倒れると悪いので30分で止めました。

節子が元気だったころは時々節子と一緒に来ていましたが、私の取り組み方は節子には気にいらないものでした。
たとえば雑草刈りにしても、私はまずは大きなものを刈り取りましたが、節子は場所を限定して少しずつしっかりと雑草をなくしていきました。
私のやり方だと、やったかどうかもわかりませんし、第一、単に荒らした感じで終わった後の達成感がありません。
それに目標設定が曖昧になりますので、いつでもやめられるのです。
節子の場合は、最初にきちんと今日はこの区画と決めますので、途中ではやめられず、しかしやった後は達成感を味わえます。
下の娘が節子のやり方を継承し、上の娘がわたしのやり方を継承しています。
これは単に雑草刈りだけの話ではなく、生き方そのものにつながっています。

修はすぐに飽きてしまうのと、後片付けをしないので、手伝ってもらわない方がいい、と節子は言っていましたが、それはその人の性格なので仕方がありません。
どうせまた明日やるのならば、片付けることもないだろうというのが、私の文化でした。
これが、節子や下の娘には気にいらないのです。

さて、今朝は一人で畑に行きました。
最初からがんばると1日で終わるおそれがあるので、今日は30分で、しかも適当にやって戻ってきました。
その畑地はわが家から見下ろせる場所にあるのですが、戻ってきて上から見たら、何の変化も感じられませんでした。
それほど雑草が凄いのです。
まあ気分的にいろんなところを少し荒らしてきただけという感じです。
節子がいたら、きっと笑うでしょう。
私の30分の努力は報われていないのです。

しかしまあ、このやり方を少し続けましょう。
1週間続ければ、少しは地面が見えてくるかもしれません。

節子は、土いじりが好きでした。
この畑は宅地の空地ですので、土壌がよくありませんでした。
それを節子と下の娘が開拓し、土壌をよくしました。
節子は道沿いに花壇をつくって、散歩する人に楽しんでもらおうと考えていました。
畑ではじゃがいもをつくって、近くの子どもたちと一緒に芋ほりをして、カレーライスパーティをしようと思っていました。
そのためにがんばっていたのです。
そんなことを思い出したら、少し私もがんばろうと思い出しました。
もっとも、節子のやり方ではなく、私のやり方で、ですが。

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2009/07/15

■節子への挽歌682:季節の移ろいに感動しなくなっています

節子
梅雨があけて、今日はまさに夏到来です。
空の色が変わりました。

節子がいなくなってから、私はもちろんですが、わが家から「季節」の感覚がなくなっています。
時間が止まったわけではないのですが、季節を楽しむ気分が薄れてしまっているのです。
しかし、去年に比べれば、今年はだいぶ違います。
今年は、わが家にも「夏」がくるかもしれません。

節子は、季節の変わり目を感じさせる小さな工夫が好きでした。
室内のインテリアも、季節によって気づかないうちに替わっていました。
それに気づいて、季節の到来に気づいたこともありました。
その文化は、娘たちに今も引き継がれています。

夏が来たので、私の仕事部屋の窓のところに、朝顔のプランターを持ってきました。
この挽歌にも出てきたことのある根本さんが、昨年、自分の部屋の窓のところに蒔いたタネをお裾分けしてくれたので、根本さんの指示通り蒔いていたのです。
忘れていたため、ちょっと遅れましたが、順調に育っています。
わが家は、節子も私も、むすめたちも冷房が好きではないので、家族のゾーンである2階にはクーラーはないのです。
今年は、この朝顔が日除けになってくれるでしょう。
節子がいたら、気づかないうちに、やってくれたでしょうが、今年は自分で朝顔が伸びていけるように紐を張りました。
水やりを忘れないようにしなければいけません。

季節の移ろいを一緒に楽しむ人がいなくなってしまうと、季節の意味も大きく変わってしまうものです。
どんな夏になるのでしょうか。

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2009/07/14

■節子への挽歌681:エンディングという言葉

昨日の続きです。

私が「エンディング」という言葉に出会ったのは、2003年8月です。
節子が胃の摘出手術をした1年後でした。
大阪のNPO大蓮寺・エンディングを考える市民の会の事務局長の田中さんから相談があるのでということで、名古屋でお会いしました。
ホームページに記録が残っていますが、私は「エンディング」という言葉にかなりの違和感がありました。
言葉は、第三者と当事者では全く違った風景を生みだします。
そのことも田中さんに話しましたが、田中さんには伝わりませんでした。
エンディングノートという言葉を創りだしたのは、多分「つめたい心」の持ち主でしょう。
福祉の世界に少し関わって感ずるのは、そうした「つめたい心」で語る儲け主義者たちが少なくないことです。
哀しい話です。

その後、エンディングに関わる人たちに会うようになりました。
というよりも、すでに私の周りにはいろいろといたのですが、「エンディング」という言葉を意識したことで、そうした世界が見えてきたというべきかもしれません。
少し変わったところでは、コミュニティアートに取り組んでいる知人から、エンディングをテーマにしたイベントをやりたいと相談されたこともあります。
私自身の思いをぐっと押さえ込んで、協力することにしましたが、なぜかその後、音信が途絶えました。
私の本意が伝わってしまったのかもしれませんが、これも哀しい話です。
本意の奥には、さらなる本意があることは伝わらなかったのでしょう。

この挽歌を読んでくださっている方にはわかってもらえるかもしれませんが、エンディングという言葉は、愛しあう人の世界にはありません。
終わりのある愛などあるはずもないからです。
個体としての生命の終わりを克服するためにこそ、愛がある。
それが最近の私の心境です。

人は「死に向かって」生きているという人もいます。
私はやはり、人は「生」に向かって生きていると思いたいです。
生に向かって進み続け、そして次の生へと移っていく。
ですからエンディングなどないのです。

なにやら肩に力のはいった文章になってしまい、佐久間さんや嶋本さんが読んだら気を悪くしそうですね。
念のために言えば、私は佐久間さんや嶋本さんの本意を良く知っているつもりです。
お2人も、たぶん私の本意を知っていてくださいますので、安心して思いを書いてしまいました。
気を悪くされなければいいのですが。

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2009/07/13

■節子への挽歌680:「心のリレーを実現するノート」

冠婚葬祭事業に取り組んでいる株式会社サンレーの社長の佐久間さんからエンディングノートが送られてきました。
佐久間さんは、節子には会ったことはありませんが、闘病中の節子をとても気にしてくださっていました。
韓国に出張した時には、私が関心を持っていた灌燭寺(アンチョクサ)の弥勒仏にまで足を延ばし、そこで節子のためにお守りまで買ってきてくれました。
節子もとても感謝していました。

節子がいなくなってからも佐久間さんはいろいろと心配りをしてくれています。
節子がいなくなってから佐久間さんとは私もお会いしていないのですが、著書が送られてきたり、メールが来たりで、会っていない感じはあまりしません。
不思議に身近にいる感じなのです。

その佐久間さんが今回、自作のエンディングノートを送ってきたのです。
添えてあった手紙にはこう書かれていました。

このたび、究極のエンディングノートを作成いたしました。
エンディングノートとは、自分がどのような最期を迎えたいか、どのように旅立ちを見送ってほしいか‥‥それらを自分の言葉で綴ったものです。
高齢化社会の昨今、かなりのブームとなっており、各種のエンディングノートが刊行されて話題となっています。
しかし、遺産や財産のことなどを記すだけの無味乾燥なものがほとんどあり、そういったものを開くたびに、もっと記入される方が、そして遺された方々が、心ゆたかになれるようなエンディングノートを作ってみたいと思い続けてきました。また、そういったノートを作ってほしいという要望もたくさん寄せられました。
「HISTORY(歴史)」とは、「HIS(彼の)STORY(物語)」という意味です。
すべての人には、その生涯において紡いできた物語があり、歴史があります。
そして、それらは「思い出」と呼ばれます。
自らの思い出が、そのまま後に残された人たちの思い出になる。
そんな素敵な心のリレーを実現するノートになってくれることを願っています。
佐久間さんらしい思い入れです。
ただ残念ながら今の私には、あまり手に取る気にはなれません。
思い入れのあるエンディングノートを自作した知人がもう一人います。
寿衣を縫う会の嶋本さんです
彼女からもいただいていますが、実はきちんと開けずにいるのです。

エンディングノートのことはまた改めて書こうと思いますが、その名前が私には好きになれません。
嶋本さんは、名前を「サクシードファイル」と替えました。
でも何かピンと来ません。
ところが、佐久間さんの手紙の中にとても心に響く言葉がありました。
「心のリレーを実現するノート」です。
こういう名前ならば、あるいはこういう行為であるならば、イメージは一変します。
そして気づきました。
この挽歌は、節子の心を、次の世代につなげるノートなのだと。

この続きはまた近いうちに書きます。

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2009/07/12

■節子への挽歌679:愛する人との出会いは、奇跡以外の何ものでもない

また読者からあったかいコメントが届きました。
再録させてもらいます。

はじめてメールします。ずーとブログを読ませて頂いています。
私も5年前に夫を亡くしました。
片翼を失った鳥のように飛べなくなりました。
通り過ぎた道は、二度と振り返らないと強い決意で居ながら、ぺしゃんこで立ち上がれない時が時折りあるのです。
事業をたたみ、生活の場を変えました.そうしないと、生きてゆけなかったからです。
子ども達は自立していたので(両方の親も看取りました)一人暮らしをはじめました。

夫は寡黙な人でした。自分の思いを吐くのも余程のときでした。
妻への晩歌を詠ませて頂いて、男性が女性に抱く、静かで熱い想い、細やかな心配り、全編に流れている愛おしさ!
黙って泣きながら読んでいる読者が居ることを、ふと伝えたくなりました。
人を愛する苦しみ、哀しみ、喜び、愛しさ。月や太陽、花や,星に周期や又生まれる年度があるように人間の出会いにも、2500万年したら逢えるのだそうです。

愛する人との出会いが、奇跡以外の何ものでもないというのは、真実だと思います。
どうぞ頑張って書き続けてください。
迸る想いに、封印しながら明日に向かって生きてゆきたいと願っています。

何回も読ませてもらいました。
「愛する人との出会いは奇跡以外の何ものでもない」
朝からこのコメントを前に、何かを書こうと思いながら、結局、書けませんでした。
「奇跡」という言葉に、圧倒されてしまっているのです。
節子に会えたのは「奇跡」だったのだ、と思うと、とても腑に落ちるのです。
どう考えても論理的でないことがたくさんあるからです。
奇跡は悲しむよりも、感謝すべきですね。
なんだか節子が天使のように輝いて思いだされます。

井原さん
昨日は疲れが溜まって少しへこんでいましたが、またこのコメントに元気が出ました。
ありがとうございました。

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2009/07/11

■節子への挽歌678:今週はまたいろいろなことがありました

節子
今週はまたいろいろなことがありました。
どうしてこんなにいろいろなことがあるのでしょうか。
いささか疲れます。
今日もある集まりの準備会で、本当はこんなことに参加しないで自宅でのんびりしていたいんだけれど、と言ってしまいました。
すかさずある人から、佐藤さんにはそんなことは絶対無理、と言われてしまいました。
たしかに無理かもしれません。
だれかの抱えている「問題」に余計なお世話をしたくなるのが、私の生き方なのですから。

節子が手術をするまでは、私は毎日、実にたくさんの人に会っていました。
しかも、そのうちの何人かは、初めてお会いする人でした。
多い時は毎日、4~5組の人たちが、湯島にやってきました。
人が人を呼ぶという漢字で、仕事などする暇がないほどでした。
食事をする時間もなく、次々と入れ替わりに誰かが来るのです。
会っている時には元気なのですが、最後の人と別れた途端に、疲労が心身を襲ってきます。
自宅に帰りつくのがやっとだったこともありました。
節子は、なんでそこまでして、そんなに人に会ってばかりいるの、と不思議がっていました。
私自身、そういう思いがなかったわけではありませんが、そこから抜けられませんでした。

節子は、私のそうした生き方はあまり好きではありませんでした。
そこで、6年前に私は少し生き方を変えようと思ったのです。
疲労が溜まったせいか、私の体調があまりよくなかったのも、理由の一つでした。

さまざまな人が集まってくるオープンサロンが、私の生き方の象徴的な場でした。
オープンサロンをやめて、節子と一緒に、私たちの生き方を見直すことにしたのです。
最後のオープンサロン(2003年4月25日)を終えた後、私たちの生活は変わるはずでした。

ところが、その直後に予期しなかったことが起こりました。
私にではなく、節子に、がんが発見されたのです。

いまとなってはあまり思い出せないのですが、その後の私の生き方は、必ずしも節子が望んでいたものではなかったような気がします。
今だからそう思えるのですが、当時はもちろん、そんなことには気づきませんでした。
節子と一緒に困難を乗り来るために、仕事はやめて、在宅が基本になりました。
しかし、節子の奇跡的な回復につれて、私はまたいろんな人と会う時間が増えてしまっていたのです。
会う人たちは変わりました。
節子の協力も得ながら、その数年前に手がけだした、全国のさまざまなNPOに関わる活動がまた増えてきたのです。
節子の病気のおかげで、それまで以上に、人の痛みに引き寄せられるようになってしまったのです。
しかも、節子までもがそういう私の生き方に、今度は共感し、前以上に応援してくれだしたのです。

節子を見送った後、そうした自分の生き方に無性に腹が立ちました。
なぜ病気のなかにいた節子に、すべての時間を向けなかったのだろうか。
私にとっては、宇宙全体よりも節子のほうが大切だったのではなかったのか。
節子はかけがえのない存在だと口に出して言っていたのは何だったのか。
事実、伴侶を見送った知人から、活動などすべてやめて家にいろと言われたこともあったではないか。

しばらくは自宅から出られませんでした。
人に会うことに罪悪感さえ持ちました。
愛する人を失った後、隠棲する人の思いが少しわかりました。
でも、人が来ないとさびしくて仕方がないのです。

そして気がついてみたら、また昔のように、人に会う生活に戻ってきていたのです。
節子が元気だったころに比べれば少なくなりましたが、それでも毎週10人前後の人には会っているでしょう。

繰り返しますが、私は会いたくて会っているのではありません。
会わなければいけなくて会っているのでもありません。
成り行き上、会っているというのが、私の実感です。
その生活に戻ってしまったという感じです。
違うのは、昔はどんなに疲れても、家に帰れば節子が癒してくれました。
今は、癒してくれる人がいないということです。
癒してくれるのは、机の上にある節子の笑顔の写真だけです。
写真を見ていると、今でもそこに節子がいるような気がします。
いないのが嘘のようです。

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2009/07/10

■節子への挽歌677:余呉湖

昨日の予告通り、余呉湖のことを書きます。
節子と人生を共にしようと決めた後、節子の両親に会いに行きました。
その時、義父が近くの賤ヶ岳を案内してくれました。
そこから余呉湖が見えました。
余呉湖といえば、羽衣伝説です。
私には、それだけの知識しかありませんでしたが、山に囲まれてひっそりとしている余呉の湖は、なぜかとても哀しく感じました。
そのせいか、節子の親元のすぐ近くにありながら、なぜかそこに行こうという思いにならずにいました。

節子の親元には私も一緒に毎年帰りましたが、余呉湖に行ったのは1度きりです。
もしかしたら最後に帰った時かもしれません。
その時の写真があるはずですが、なぜか見つかりません。
その時の余呉湖も、とても静かでさびしかったです。
私の記憶の中には、音が全くない余呉の海のイメージだけが浮かんできます。
いろいろなことを書き残している私のホームページも、なぜか「余呉湖」で検索しても何も出てこないのです。
本当に行ったことがあるのだろうかと思って、その時、同行してくれた節子の姉に電話してみました。
ところが義姉も覚えていないのです。

余呉湖は羽衣伝説の舞台です。
羽衣伝説というと一般には静岡県の三保の松原を思い出しますが、日本最古の羽衣伝説の舞台は余呉なのです。
しかも、余呉の羽衣伝説には菅原道真がからんでいます。
羽衣を盗まれた天女と人間の間に生まれたのが菅原道真だというのです。
それが何だと思われるでしょうが、私にはとても意味があることなのです。

道真を祀る天神様は、私には何かとても強い縁を感ずる存在です。
以前、大宰府の観世音寺のことを書きましたが、大宰府にはいうまでもなく天満宮があります。
大宰府から観世音寺、そして天満宮。
最初に訪れた時、はるかな昔、ここを歩いたという確信を持ちました。
観世音寺の諸仏を見ていると、心和みます。
節子と一緒に開いた私たちのオフィスは湯島天神のすぐ前です。
節子に奇跡を起こしかけてくれた加野さんは、天満宮のすぐ近くにお住まいです。
ますます、それが何だと言われそうですね。

余呉湖と金子みすずは関係があるでしょうか。
少しネットで調べましたが、つながりが見えません。
ところがなぜか、私には金子みすずと余呉湖がつながって記憶されているのです。
なぜなのかわかりませんが、節子と会った直後からそういう記憶が私の中にはあるのです。
おぼろげな記憶では、節子の生家の法事で地元の人から聴いたような気がします。
実はそれもあって、余呉湖は私には想像の中の存在にしていたかったのです。

天女、道真、金子みすず。そして静寂な水面。
それが私の余呉湖のイメージなのです。
その先にあるのは、いうまでもなく「死」です。
いつの頃からか、私のなかの余呉湖は彼岸の入り口になっているのです。
私にとっては、そこにいくともしかしたら節子に会えるかもしれない、そんな気もする神秘な場所なのです。

節子と一緒に余呉湖にいったのは、未来の話なのでしょうか。
彼岸から余呉湖を訪ねたのだとしたら、私の心に残っている風景はとても納得できるものです。

maron さん
おかしなことを書いてすみません。
他意はなく、余呉湖という文字を見た途端に、ワッとこうした思いが噴き出してきたのです。
脈絡がないのですが、今でも節子が元気なような気がして、昨日は落ち着けない1日でした。
ありがとうございました。

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2009/07/09

■節子への挽歌676:元気を運んでくれたコメント

節子
このブログを読んで時々コメントを投稿してくださる maron さんという方がいます。
主に時評編にコメントを下さっています。
このブログは、挽歌と時評とが混在しています。
分けたほうがすっきりするのですが、それらを重ねるところに意味があると思っているため、同じブログに混在させています。
しかし、実際には時評と挽歌は読者が別のようです。
書き手と読み手の考えは、同じではありませんから、それは仕方がありません。
maron さんも、てっきり時評編の読者だとばかり思っていました。

ところが、そのmaron さんが今日、こんなコメントを投稿してくれたのです。

節子さまへの挽歌は私達の心に喜びも悲しみも心に染み込んでまいります。
しかし、会話は2言、3言で終わったと言う事は、それぞれ言葉にするにはあまりにも深い絆で表現が難しいのでは無いでしょうか。
節子様に話しかけられる挽歌だから純粋に表現できるのだと思います。
何時かの挽歌に節子様のお里の高月町の渡岸寺の11面観音像のことが書いてあり、とても懐かしく感じました。
何度かそのお寺にゆきました。私は琵琶湖も余呉湖も大好きです。
この文章からmaron さんの実像がかなりイメージできました。
私のイメージしていたmaron さんとはかなり違うのです。
どこでどう間違ったのでしょうか。
実はmaron さんのブログも何回か読ませてもらっていたのですが、ブログを読めば、maron さんがどういう人かは伝わってきていたはずです。
しかし、なぜか今日までの私のmaron さんイメージは全く違うものでした。
人は、第一印象で相手のイメージを構築します。
そして、そのイメージにどうも呪縛されてしまっていたようです。

私が先入観を打ち破れたのは、今回の投稿の最後の文章です。
私は琵琶湖も余呉湖も大好きです。

余呉湖が好きな人は、おそらく女性です。
それまでなぜかmaron さんが男性だとばかり思っていたのです。
思いなおして、過去のコメントやmaron さんのブログを読み直してみました。
今にして思えば、なぜ男性だと思ったのか不思議です。
maron さん、大変、失礼いたしました。

前置きが長くなってしまい、肝心のことが書けなくなりました。
今日は余呉湖のことを書こうと思ったのですが、明日にします。

ところで、maron さんは、「節子さまへの挽歌は私達の心に喜びも悲しみも心に染み込んでまいります」と書いてくださいました。
時々、挽歌を書き続けている自分に疑問を感ずることもあるのです。
いったいなぜ個人的な挽歌を公開のブログで書くのか。
公開であることで、無意識に粉飾する意図が入り込んでくるのではないか。
節子に向けての真実の思いを果たして吐露しているのか。
まあどうでもいいことなのですが、そうした思いが浮かぶことがあるのです。
もちろん答は明らかなのですが、ではなぜ公開するのか。

実はまさに昨日の挽歌を書いている時に、少し迷いがでてきていたのです。
それをmaron さんは感じてくれたのでしょうか。
このコメントを読んで、救われた気分です。

maron さんが書かれている「私達の心」という文字がとても気になるのですが。
maron さん、ありがとうございました。
パートナーはもうお元気になられましたか。
くれぐれもお大事にしてください。
夫婦は、かけがえのない、大切な関係です。

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2009/07/08

■節子への挽歌675:聴き手のいない話せる場があればなあと思います

節子
私と同じように、奥さんを見送った同世代の知人がいます。
しばらく会っていなかったのですが、先日、ある集まりで偶然にお会いしました。
それで一度ゆっくり話をしようということになり、今日、お会いしました。
同じ状況の人と会うと何となく心安らぐのではないかという思いがどこかにあったのです。

いろいろと話しましたが、伴侶との別れにつながるような話には全くなりませんでした。
おかしな話ですが、これからの社会のあり方のような話で終始しました。
本音を吐露し合う、それなりの激論ではありましたが。

私たちが知りあったのは、お互いに伴侶を見送った後でした。
私は、その悲しさや寂しさを恥ずかしげもなく露出していますが、そのことを話題にするのは難しいのかもしれません。
いや、話題にしたがっているのは、私だけかもしれない、と思いました。

もうかなり前ですが、伴侶を失った人が2人、わざわざ新幹線でやってきました。
一人は以前からお付き合いのある方(私より先に伴侶を見送っていました)ですが、もう一人は最近夫を見送った、彼女の友人でした。
伴侶を亡くした人が3人集まってどんな話になるのだろうかと思っていましたが、最初の二言三言で、その話は終わりになりました。
少しだけ伴侶を見送ることにおいては先輩だった私としては、何か話したいという思いはあったのですが、両者をつないでくれた一番年長の人がきっと気をきかせて話題を変えたのです。

昨日、節子の友人が3人来てくれましたが、節子の話はほとんど出ませんでした。
私には少し残念でしたが、みんなきっとどう話していいのかわからなかったのかもしれません。
伴侶との別れのことを話すのは、それなりにいろいろと考えてしまうのでしょう。
しかし、みんなもっと大らかに悲しみ合い寂しがり、懐かしんだりしたら、いいと思います。
でもそれが難しいのでしょうね。

今朝、この挽歌に「私も個人的な「妻のメモリアルサイト」を作っています」というコメントが寄せられました。
伴侶への思いを書き続けている人は少なくありません。
話すのと書くのと、どこが違うのか。
少なくとも私の場合、誰かに読んでもらうために書いているのではありません。
ただ、書くために書いているのです。
もし書くのではなく、話す場があれば、書くよりも話すほうが私にはずっといいです。
しかし、その場合、話を聴いてもらいたいのではないのです。
ただ、話すために話したいだけなのです。
聴き手がいると、きっと素直には話せなくなるでしょう。

告別式の挨拶の時、私はたぶん節子に話していました。
だからすごく自然に、素直に話せたのです。
もし聴き手を意識したら、とてもあんな話はできなかったと、今も挽歌に再録した文章を読んで思います。
あの時は、とても不思議な気持ちだったのです。

やはり、節子への挽歌は、話すのではなくて書くのがいいと思いなおしました。
挽歌は、これからも書き続けようと思います。
読み手は、間違いなく節子なのだと、今日、改めて気がつきました。

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2009/07/07

■節子への挽歌674:節子の友人たちが突然やってきてくれました

節子
梅雨真っ只中なのに、今日は夏のような暑さです。

娘が小学校の頃、よくご一緒していた節子の友だちが3人、お花を持ってやってきてくれました。
お一人は私もよく存じ上げていますが、ほかのお2人はたぶん直接お話しするのは初めてです。
でも、お名前は節子からよく聞いていました。
私もそうですが、節子も自分の世界のことを私にみんな話していました。
ですから私たちは、友人知人も、それなりに知っているのです。

ただ今日はあまりに急だったので、対応にいささか慌ててしまいました。
天気が良かったので、庭の献花台の前の椅子でコーヒーを飲んでもらったのですが、どれほど引き止めていいものか、何の話をしたものか、いささかの戸惑いがありました。
こういう時には、節子がいないと本当に困ります。
私の友人知人の場合は、ある程度、私のことを知ってくれていますから、多分何をやっても失礼にはならないのですが(つまり私の非常識さはみんなよく知っていますので)、節子の友人たちにはそれが通じないでしょう。
失礼があっては、節子に申し訳がありません。

節子が逝ってしまってから間もなく2年です。
でもこうやって思いもかけない人がやってきてくれるのです。
節子はなんと幸せな人だろうと思います。
もし私ならどうでしょうか。
みなさん、来てくれますか。
まあ、あんまり来ないでしょうね。

献花台をつくって、よかったと思っています。
夏は花が持たないので、献花台には鉢物を置いていますが、

節子に関係したことが何かあると、その日は少しうれしいです。
不思議なもので、なにか節子と通ずるものを感ずるのです。

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2009/07/06

■節子への挽歌673:太子(大師)堂

節子
昨日は節子の友だちの雨森さんから写真が届いたことを書きましたが、その中に太子(大師)堂の写真がありました。
今日は、その太子(大師)堂のことを書きましょう。
Taishido_2

太子堂は節子の生家のすぐ近くです。
この地域には太子信仰が根強くあり、これは住民たちがみんなで寄付を集めてつくったものです。
節子もささやかながら寄進させてもらい、太子堂内に名前が刻まれています。
こうやって民間信仰は昔から守られてきたのでしょう。
信仰の厚い人が、その太子堂をお守りしていて、いつも行くたびに少しずつ整備が進んでいました。
節子は、いつもその人の名前を言って、感謝していました。

節子と一緒に生家に戻った時には、私も必ず1回は節子に連れられて、その太子堂にお参りにいきました。
時にお参りにしてきている人に会うことがありましたが、節子は必ずその人に話しかけました。
小さな集落ですから、話していると必ず共通の知人が出てくるのです。
私にはとても新鮮な体験でした。

節子のお母さんは、節子以上に苦労した人ですが、夜、電話すると太子堂に行っていることが少なくありませんでした。
太子堂は、みんなのたまり場にもなっているのでしょうか。

節子の生家があるところは、何回か書いていますが、滋賀県の高月町というところです。
「観音の里」と言われていますが、素直な観音仏が周辺のお寺にたくさん居ます。
有名な渡岸寺の十一面観音もすぐ近くです。
しかし、行くたびごとに、なんとなくその雰囲気が変わってきているような気がします。
昔は大好きだった渡岸寺の十一面観音も、今では人(仏?)が変わったように私には感じます。
ホームページで以前書きましたが、とてもさびしそうなのです。

節子と結婚していなかったら、私にとっては、渡岸寺の十一面観音も結局は鑑賞の対象でしかなかったかもしれません。
しかし、地域の人たちがみんなで守っている様子やその人たちの日頃の生活、日常生活につながる信仰、自分たちのまちは自分たちで創ろうとしている姿勢、そうしたさまざまなことを少しだけ当事者的に考えられるようになったのです。
今から考えると、それが私の価値観や仕事観に大きな影響を与えたように思います。
不思議なのですが、しかし、影響を与えられたはずの私の考えは、節子に会うずっと前から、おそらく私が小学生の頃から、私の中にあったことも間違いありません。
本当の私が、節子によって守られた、というのが私の実感です。

太子堂の写真を見ていると、節子のあの笑みが見えてきます。
節子は、不思議な人でした。

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2009/07/05

■節子への挽歌672:「この世の無常を痛感します」

節子
節子の幼馴染みの雨森さんから久しぶりにメールが来ました。
実名を出してしまいましたが、許してくれるでしょう。
雨森さんは最近、健康のためにウォーキングを始めたそうです。
そのルートは、節子と私も何回かあるいた道で、その途中に節子の親元の家があるのです。
それで、その周辺の写真を送ってくれたのです。
そういえば、雨森さんは節子が元気だったころも定期的に故郷通信として写真を送ってきてくれていました。
節子はそれを楽しみにしていました。

たしか雨森さんは小学校の時の同級生です。
雨森さんの話は、私も節子から何回か聞いていました。
長年お付き合いが途絶えていたのが、なぜかある時から交流がまた始まりました。
闘病していた節子にとっては、幼馴染からのメールはきっと元気付けられるものがあったのです。
ところが、とても残念なことに、雨森さんの奥様も、節子と同じように病気が発見されてしまいました。
節子には衝撃的だっただろうと思います。
自分のような悲しさは他の人には体験させたくないと、節子はいつも言っていました。
ですから節子はとても雨森さんの奥さんのことを心配していました。
そういうところが、節子の不思議なところです。
自分のほうが重症な時でも、節子は他者のことを思いやることができる人でした。
節子から私が学んだ生き方の一つです。

ある年から実家に帰った時に、雨森ご夫妻と私たちは会食をするようになりました。
もっと続けられればよかったのですが、それはそう長くは続きませんでした。
最後に一緒に食事をした時は、たぶん私たちが雨森さんたちにご馳走になったような気がします。
そのお返しは、できずに終わりました。

節子がいなくなってから、雨森さんは私の挽歌を読んでいてくれるようです。
それでこういうメールが来たのです。

お元気のようでなによりです。
なぜお元気かわかるかといいますと、節ちゃんの挽歌を拝読しているからです。
7月3日で670回 すごいことですね。
難しい文章になってくると斜め読みして、最後は必ず節ちゃんのことにつながっているので最後は読みます。
確かに時には、難しいというか、支離滅裂な挽歌もあります。
にもかかわらず、読んでくださっている方がいることに感謝しなければいけません。
そういえば、娘の友だちも読んでくれているそうです。
昨日、電話があったそうです。
「薄情者」の私の娘自身は読んではいませんが。

雨森さんのメールの続きです。

3年連続日誌を書いているのですが、日誌の間から小さな紙がぽろっと落ちたので開いてみると、朝日新聞のひとときの「いいことだけ日記に」の切り取りでした。
やはり修さんがよく書かれているように早すぎですね。

「この日記を書き終えて、いつか「無罪放免になったわ」と、お世話になった人たちに電話しようと頑張っている」

この世の無常を痛感します。

思わず涙が出てきてしまいました。
正直に言えば、とまらなくなってしまいました。
本当にこの世は無常です。
久しぶりに、節子がいないのが嘘のように思えてなりません。
今も隣室で節子が雨森さんにメールを書いているような気がしてなりません。
できるものなら、時間を3年前に戻してほしいものです。
そこで歴史が止まっていたら、どんなによかったことでしょうか。

ちなみに、このメールをもらったのは7月3日です。
書こうかどうか迷っているうちに、5日になってしまいました。
今日、気づいたのですが、7月3日は節子の22回目の月命日でした。
その月命日の日に、雨森さんの日記帳から、「いいことだけ日記に」の切り抜きが落ちたのです。
節子がそうしたに違いないという気がして、2日も経過していましたが、書くことにしました。

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2009/07/04

■節子への挽歌671:道で声をかけられました

節子
昨日、自宅からちょっと離れた道を歩いていたら、声をかけられました。
どなたか思いだせずに、お名前をお尋ねしたら、花かご会の黒武者さんでした。
黒武者さんというのは印象的なお名前なので、節子の話からも時々お聞きしていたお名前でした。
それに、何回かお会いしているのですが、いつもと違う状況だったので全く思い出せなかったのです。
とても失礼なことをしてしまいました。
私は男性の顔は覚えられるのですが、女性の顔を覚えるのが不得手なのです。

一昨日、三沢市の「花いっぱい新聞」のことを書きましたが、それを読みながら、ちょうど花かご会のことを思い出していたところです。
しかも、黒武者さんにお会いする直前にも、花かご会を思い出していたのです。
不思議なつながりでもあります。

最近立ち上げたLLPコモンズ手賀沼では、秋に開催される日本女子オープンゴルフ大会を我孫子の元気にどうつなげられるかを考えています。
そのため、昨日は会場を見ながら打ち合わせをしていたのです。
その帰りだったのですが、黒武者さんも、まさかそんなところで私に会うとは思ってもいなかったでしょう。

実は、ゴルフカントリーの隣の空地に雑草などを刈り取ったものが堆肥になって山積みされているのですが、それをどうやって処理するかというような話をその打ち合わせでしていたのです。
三沢でも同じような話があったことを思い出して、住民に知らせたら喜んで取りに来る人もいるのだろうなどとメンバーと話していたところなのです。
節子に相談したら、きっと良い知恵を出してくれただろうとも思っていました。
そんな話をしていた直後に、花かご会の人に会ったわけですが、なんだか単なる偶然とは思えません。
この偶然の重なりには、意味があるのでしょうか。

まあ、それはそれとして、
節子のおかげで、こうしていろんな人から声をかけてもらえるのです。
節子が、どこかで私を見守っているのかもしれません。
不思議なのですが、最近また、我孫子の人たちからいろいろと声がかかってきます。
もっと我孫子にいろと言うことでしょうか。

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2009/07/03

■節子への挽歌670:三沢市の「花いっぱい新聞」

節子
青森県三沢市の「みさわ花と緑の会」から「花いっぱい新聞」の創刊号が送られてきました。

CWSコモンズのサイトでは紹介したことがありますが、この活動が立ち上がるに関して、私はささやかに関わらせてもらいました。
節子が再発する半年ほど前に、三沢市の花いっぱい活動の相談を受けたのです。
当時、節子は奇跡的な快方に向かって元気になってきていたのと、住民主役の「花いっぱい活動」というテーマに魅かれて、アドバイザー役を引き受けました。
いつか節子と一緒に三沢にも行こうという思いもありました。

このプロジェクトに関しては、前にも一度書きましたが、それを読んでいただくとして、なかなかいい展開をしたと思っています。
途中、節子に経過報告したり、取り組みのDVDを一緒に見たりして、アドバイスなどももらいました。
いつか、私たちの住んでいる我孫子でも、こうした活動ができればいいね、などと話したことを思い出します。
ところが、関わっている最中に節子が再発してしまったのです。
思ってもいなかったことで、結局、節子は三沢には行けませんでした

プロジェクトは何とか最後まで関わることができました。
住民たちが開催したフォーラムは大成功で、それが新しい動きの契機になったように思います。
その後、節子のこともあって、私の頭から三沢のこの運動は遠のいていました。
三沢市でも、市長の交替もあって、市役所の組織も変わりました。

節子を見送ってからしばらくして、思いだして、三沢市のホームページを開きましたが、以前掲載されていた住民主役のフォーラムの記事が削除されていました。
首長が替わったので姿勢も変わったのだろうなと、残念に思っていました。
私が知る限り、とてもいい活動だったからです。

ところが先週、三沢の花いっぱい活動を最初に提案した一人でもある齋藤さんからメールが来ました。
齋藤さんは、このブログを読んでいてくれて、実は時々、投稿もしてきてくれているのです。
齋藤さんのメールには、次のように書かれていました。

三沢では今年の事業として先生の提案なさった花苗販売を今年から始めました。
6月第一土曜に行った配布・販売には多くの方が花を買い求めにきてくれました。
今年から新聞も発行することになり、本日仕分け作業を終えてきました。
先生にもぜひ送りたいと思うのですが、届け先を教えていただけるでしょうか。
火付け役をしていただいた先生に感謝しています。
とてもうれしい話です。
そして、その新聞が届いたのです。
それによれば、三沢駅前にもミニダリアが植えられたようです。

このプロジェクトは、節子がいればこそのプロジェクトでした。
節子たちがやっていた我孫子の「花かご会」の話をいろいろと見聞していたことからの学びもありましたが、それ以上に、節子の「自分たちのまちに花を広げていきたい」という思いに共感していたことから、私自身も少し思いを入れ込めたのです。
そのプロジェクトが、順調に広がっていることが、とてもうれしいです。
なんだか、節子の思いが三沢市にも広がったような気さえしてきます。
節子にもちょっと自慢させてもらえるかもしれません。

節子と一緒に三沢に行けなかったのはとても残念ですが。
節子がいなくなってからは、うれしいニュースは、必ずといっていいほど、哀しさも引き起こします。

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2009/07/02

■節子への挽歌669:スペインタイル工房開所5周年

むすめのジュンのスペインタイル工房Taller de JUN(タジェール・デ・ジュンと読みます)が、わが家の庭に工房をオープンしてから5年目です。
とても小さな工房ですが、開所した時には、節子はとても喜んでいました。
お客様があると必ず工房を案内していましたし、ジュンが地元の手づくり散歩市に参加することになった時には、ケーキを焼いてお客様に振舞ったりしていました。
タジェール・デ・ジュンには、もしかしたら節子はたくさんの夢を描いていたかもしれません。

その工房が5周年を迎えたわけです。
早いものです。
しかし、だれもそれに気づきませんでした。
今日、パソコンに向かって、さて何を書こうかと思って、たまたま5年前の今日のことをホームページで調べたら、工房のオープンが書かれていたのです。

節子
タジェール・デ・ジュンは順調に広がっています。
安心してください。
もっともジュンが自立できるほどではありません。
職人の世界はそもそも仕事の報酬の概念が違いますから、まあ経済的な自立はまだ遠い先の夢でしょう。
それでもくちコミやホームページで注文は途切れずに入っているようです。
先週はなんと結婚式の引き出物にしたいと100個近い大口注文があったようですが、それに対応できるかどうか検討中だそうです。
なにしろ手づくりですから、1枚の作品ができるまでに、かなりの日数がかかります。

職人の仕事は、工業時代の仕事とは全く違っています。
好きでなければやっていられないでしょう。
ジュンは、いつも深夜まで作業をしていますが、それでも楽しそうにやっています。
一番の理解者だった節子がいたら、ジュンももっとやりがいが高まるのでしょうが、私では節子の役割は果たせません。
それでも今日はなにか5周年のお祝いをしようと思います。

ちなみに、節子の献花台も仏壇の大日如来もタジェール・デ・ジュンの作品です。
私が彼岸にいったら、何をつくってもらえるでしょうか。

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2009/07/01

■節子への挽歌668:ノウセンカツラの花が次から次へと咲きます

節子
今日もちょっと元気が出ません。
困ったものです。
今日から7月です。
それもあって、この頃、元気が出ないのかもしれません。
私にはとても嫌な思い出のある季節の始まりです。

7月になると庭のノウセンカツラが咲き出します。
今年はもう1週間以上前から咲いていますが、この花も節子の好きな花でした。
ノウセンカツラが咲き出すと夏がもうすぐよ、と節子が言っていたと娘から聞きました。
節子は、梅雨の向こうの夏を見る人でした。

今、ノウセンカツラは満開です。
毎日、100輪以上の花が咲いて散っています。
蜜があるせいか、ムクドリが花にやってきて、そのために花が落ちてしまうのです。
地面に落ちた花には、アリが蜜に吸い寄せられて集まってきます。
ですから掃除も大変なのです。
Nousen2_2

わが家では、小さな藤棚と同じ場所をノウセンカツラがシェアしているのですが、集まってくるのはムクドリだけではありません。
ちょうどこの時期になると、その藤棚に鳩が巣を作ろうとするのです。
一度、その巣から卵が落ちて割れてしまったことがあります。
以来、鳩には申し訳ないのですが、巣をつくらせないようにしています。

鳥になって戻ってくると節子は言っていましたが、節子は鳩にはならないはずです。
と言うのは、私もですが、節子は鳩が好きではありませんでした。
ですから鳩(カラスもです)はわが家では歓迎されないのです。

それにしても、毎日、100輪も花を落として、なおも花が咲き続ける元気さには感心します。
しかもかなり長い期間、花が咲き続けるのです。
次々と花を咲かせる生命力はいったいどこから生まれてくるのでしょうか。
節子がノウセンカツラだったらよかったなあ、と思います。
そうであれば、節子は毎日のように生まれてきているわけです。
まあ、しかしそれもわずらわしい話です。
毎日枯れてしまった節子の面倒を見なければいけないのですから。

節子は、かけがえのない一輪だったからこそ、よかったのでしょうか。
でもちょっと散るのが早すぎました。

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2009/06/30

■節子への挽歌667:夫婦が仲良しならば社会は平安になります

節子
最近またちょっと自己嫌悪に陥っています。
相変わらず精神的に不安定なのかもしれません。
それにしても、毎日、どうしてこんなにいろんなことがあるのでしょうか。
自分ではあまり気づかないのですが、それがストレスになって溜まっていることが最近少しわかってきました。

私は、自分はストレスのたまらないタイプの人間だとずっと思いこんでいましたし、事実、あまりストレスを感じたことがなかったのですが、この頃、どうもだれかに「八つ当たり」している自分に気づくことがあるのです。
八つ当たりされた相手が、それに気づいていないことがほとんどだと思いますが、八つ当たりした後の自分がとても嫌になります。

今日もそうしたことがあり、今も何だか気分がすぐれません。
70歳になろうとしているのに、なんという「未熟さ」でしょうか。
恥ずかしい限りです。

私が、ストレスを溜めないですんだのは、間違いなく、節子のおかげです。
私は、心のすべてをいつも節子に開いていました。
いろんなことがあっても、自宅に帰って節子に話すと、すべてが解消されました。
だから、誰とでも、結構、深く付き合っても大丈夫だったのです。
人は、付き合いが深くなるにつれて、良い面ばかりではなく嫌な面も見えてきますし、それ以上に、お互いにわがままになって不満が発生しやすくなります。
しかし、わかってくれている人がいると思うと、どんな辛さにも屈辱にも不満にも耐えられます。
感情的な私が、人を嫌いにならないですんだのは、たぶん節子のおかげです。
そのことは、節子がいなくなってから、改めて痛感しています。

と言うことは、今では私が「人を嫌いになる」ことがあるように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
基本的に、私は人が好きなのです。
だから、ある人の嫌いな面が見えてしまうと辛くなります。
そのことを節子に話すと、それで嫌な気持ちが解消し、嫌いな面を忘れることができていたのです。
それができなくなると、つまりは「ストレス」となって、いつかどこかに発散させてしまうわけです。
そして自己嫌悪に陥ってしまうのです。
さらに、注意しないと、本当に人嫌いになってしまわないとも限りません。

仲のよい夫婦は、ストレスを解消しあいながら、他者と仲良く付き合っていくための「仕組み」なのかもしれません。
夫婦というものの社会的効用。
最近、改めてそんな視点で、昨今の社会を見るようになってきています。
節子が元気だったころに、こういうことに気づいていたら、と思うことが最近よくあるのです。

もし伴侶と仲の良くない読者がいたら、ぜひ思い直してください。
壊れてから、あるいは失ってから、いくら後悔しても、役に立ちません。
夫婦は仲良くないといけません。
仲が良ければ、どんな苦難も超えられるはずです。
それに、他者への八つ当たりなど、なくなるでしょう。
そして、人生は豊かになっていくでしょう。
私には、叶わぬ夢になってしまいましたが。

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2009/06/29

■節子への挽歌666:姿は見えないけれどサワガニがきっといるのです

節子
私の還暦祝いに、家族みんなでつくってくれた小さなビオトープがなかなか言い雰囲気になってきました。
自然らしくなってきたという意味です。
私は、どちらかというと手入れされた庭よりも、自然のままの雰囲気が好きなのですが、今の状況はとても気にいっているのです。
とても小さな池がふたつあり、めだかや金魚、エビが棲息しています。
タナゴもいます。
一時、ゲンゴロウやミズスマシなどもやってきていましたが、最近は見かけません。
草が覆い茂ったせいかもしれません。
写真では単なる雑草の塊にしか見えないかもしれませんが、私にはとても思いのある空間です。
Bio092

ここに、実はサワガニが棲息している可能性があります。
昨年秋に放したのですが、残念ながらその後、姿を見かけませんが、いまのうっそうとした雰囲気であれば、仮に棲息していたとしても、たぶん見つからないでしょう。
昨年までは石をどけたりして時々サワガニ探しをしていましたが、今年からやめました。
なぜならば、見つけるかどうかよりも、そこに私の好きなサワガニが棲んでいると思っていることのほうがいいと思い出したのです。
今年はまだサワガニを放してはいないのですが、夏にまたどこかで探してきたいと思っています。
節子がいたら付き合ってくれるのですが、現実主義者の娘たちには頼めませんし、一人で行くのは私のスタイルではないのです。
ショップで購入するのもいいのですが、最近、あまり見かけません。
まあショップには滅多に行かないのですが。

サワガニの姿は見えなくても、そこにいると思えばうれしくなる。
節子の姿は見えなくても、隣にいると思えば幸せになる。
こじつけのようですが、そんなことなのかもしれません。

さて、今日も節子が一緒だと思ってオフィスに出かけましょう。
今日は、3年以上会っていなかった人が2人、会いたいと言ってきたのです。
一人はビジネスの世界の人、一人はまちづくりの世界の人です。
長いこと音信がなかった人が、なぜか会いたいとこの頃、言ってくることが多いのです。
不思議です。

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2009/06/28

■節子への挽歌665:「ともに白髪のはえるまで」

私たちは、いわゆる「職場結婚」でした。
職場の仲間たちが色紙を書いてくれました。
そこに、私と同年齢の山本さんが、「ともに白髪のはえるまで」と書いてくれました。
イラストまでついています。
それは、私たちの合い言葉になりましたが、私がいささか早く白髪になってしまったので、もしかしたら節子が勘違いして、もう目標は達成できたと思ってしまったのかもしれません。
Siraga_3

昨日、人生の長さについて書いていて、この色紙を思い出しました。
もう45年ほども前のものなので、色紙の色が変色していますが、久しぶりのそれぞれのメッセージを読んでみました。
すでに亡くなってしまった人が3人もいますが、その一人ひとりにたくさんの思い出があります。
思い出は語り合える人がいれば楽しいでしょうが、一人ではいささかの辛さがあります。
健在の方とは幸いなことにすべて今もお付き合いがあります。
一人を除いてはみんな滋賀県にお住まいですので、会う機会は少ないのですが、みんな私たちの結婚を祝福してくれた仲間です。
節子がいたら、この人たちを訪ね歩く旅もできたでしょうが、残念です。

私は滋賀の工場で4年ほど過ごしました。
私にはすべてが新鮮で、そこでの体験が私の人生に与えた影響はとても大きいです。
労務関係の職場に配属されましたが、「おまえは思想的に問題がある」と言われて、お客様扱いされていたこともあります。
当時の私は少し「跳んでいました」ので、上司にとっては扱いにくくて頼りない存在だったでしょう。
多くの人に迷惑をかけましたし、お世話になりました。
当時の課長は、今でも私のことを「おさむちゃん」と呼びますが、きっと頼りない新人だったのです。

その「おさむちゃん」も、今では白髪の老人です。
しかし、その色紙を見ていると、当時のことが鮮明に思い出されます。
あの頃の私は、「頭」で生きていたのでしょう。
そんな時に出会ったのが、節子でした。
まさか私と節子が結婚するとは誰も思ってもいなかったでしょう。
節子は生真面目で、現実的な人でしたから、私には合うはずもなかったのです。
とらえどころのない私に、節子はきっと振りまわれ、気がついたら結婚していたのではないかと思います。

節子は幸せだっただろうか。
色紙を見ながら、そんなことを考えていたら、また涙が出てきてしまいました。
いつになっても、節子の呪縛から解放されません。
困ったものです。

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2009/06/27

■節子への挽歌664:人生の長さ

昨日、ちょうど50歳を迎えた人が、こう言いました。

私の父母はいずれも50代でなくなりました。だから私も、ともかく50代を悔いのないように過ごすように、できること、やりたいことは、先に延ばさずにやろうと思います。
その言葉を聞いて、思い出したのが、マレーシァ出身のチョンさんの言葉です。
マレーシァでは日本と違って平均寿命が短いんです。
だから日本人ほど人生はゆっくりできないのです。
そのチョンさんも、もう40代です。
今年の初めに日本に来た時に会ったことは書きましたが、この言葉を聴いたのは節子がまだ元気なころでした。
その時から、心にずっと引っかかっていた言葉です。

人の人生の長さには限りがあります。
しかし、それを意識して生きることは、なかなかできることではありません。
最近、私は少しだけ意識するようになりましたが、その意識と日々の行動は必ずしもつながっていません。
本当につながっていたら、今のような時間の使い方はしないでしょう。

そう思う一方で、意識していればこそ、今のような時間の使い方になっているのかもしれないとも思います。
限られた時間を、急いで生きるよりも、限られた時間を無限にゆっくりと生きるほうがいいような気もします。

節子が彼岸に行ったのは62歳でした。
若すぎる、と多くの人は言ってくれました。
節子も、もう少し此岸にいたいと思っていました。
もちろん、私にとってもあまりに早すぎて、その事実が理解できないほどでした。

しかし、考えようでは、人生は「時間の長さ」ではないのかもしれません。
適切な表現が思い浮かばないのですが、「生きた意味の深さ」と言ってもいいかもしれません。
短い人生で、大きなことを成し遂げた人もいますが、そういう意味ではありません。
あくまでも、その人にとっての「人生の意味」です。
人は必ず、ある意味をもって、この世に生まれてきます。
どんな人にも、どんな人生にも、意味があります。
その意味に気づかずに、生きている人が少なくないように思いますが、
節子はその意味を見つけていたような気がします。
なぜそう思うかというと、節子は厳しい闘病の時ですら、基本的にはとても肯定的に生きていたからです。
そして、「とてもいい人生だった」と言ってくれていたからです。

いまの人生を、肯定的に、素直に生きる。
私は、残念ながら、まだその心境には達せずにいますが、意識だけはそう思って生きています。
節子が教えてくれた、一番大きなことかもしれません。

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2009/06/26

■節子への挽歌663:自分らしい老い方

節子
最近、元気が吸い取られてしまいそうな話がいろいろと耳に入ってきます。
そのうちの半分は、社会状況や本人の行動に原因を求められるのですが、半分は老いに関連しています。
人は「老い」と共に、さまざまな問題を抱え込んでいくことがよくわかります。
しかし、その老いをしっかりと自覚して人生設計を立てることは意外と難しいようです。
社会的に華やかに生きている人ほど、難しいのかもしれません。

人の生き方は、当然、歳とともに変化しますが、ある段階に到達して、それなりの生き方が実現すると、それがずっと持続していくような錯覚に陥りがちです。
だれも、自らの老いや衰えは認めたくないのです。
しかし、老いは例外なくやってきますし、それに伴って世間からの見方も変わっていきます。
自ずと生き方も仕事も変わらざるを得ません。
同じ仕事を続けていたいと思っても、それはよほどの場合以外は難しいでしょう。
いまなお現役を続けている森光子さんは、例外中の例外ですが、しかし、私には森さんのような生き方は、全く共感できません。

いずれにしろ、歳とともに、人は生き方を変えざるを得ないのです。
それを考えずに、これまでの延長で生きているといろいろと不都合が起こりかねません。
こんなことを書いたのは、今日、友人から、節子も知っている、私たちよりも年上のご夫妻が最近、いろいろと大変だという電話をもらったからです。
まさかそんなと思うような話ですが、冷静に考えると、むしろ当然とさえ思えます。

こういう電話は、今日に限ったことではありません。
実は最近よくこうした話が耳に入ってくるのです。
その都度、改めて自らの老いとともに、人の「老い方」の難しさを感じます。

老いは自分だけではなく、当然に周辺の老いも伴っています。
親の介護のために人生を変えた友人は何人かいますし、私のように伴侶を失って生き方が変わることもあります。
老いは、誰にもやってきますから、同じように生き続けることは無理なのです。
しかし、その当然のことを、人はなかなか気づきません。
私は、全くと言っていいほど、そんなことは考えていませんでした。
私の人生設計は、常に前に向かって進む、発展系だったのです。
今にして思えば、なんと馬鹿げた生き方だったでしょうか。

昨日と同じような生き方ができることが、どれほど幸せなことなのか、私は節子に教えてもらいましたが、同時に、それは決して続かない夢なのだということも教えられました。
しかし、そうしたことに気づかない人は、決して少なくありません。
そこから始まる不幸が、私の周りにも少なくないのです。

老いを意識しながら、自分らしい老い方ができれば、豊かな人生になるのでしょう。
節子と一緒なら、楽しい老い方ができたのでしょうが、一人になってしまった今は、賢い老い方しかできないのが、少し残念です。
賢い老い方ができるかどうかも、いささかの不安はありますが。

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2009/06/25

■節子への挽歌662:愛する人を失うことで試される自分の人間性

節子
昨日はいろんな人から電話がありました。
私が自宅にいるということが伝わったのでしょうか。
前にもこんなことがあったような気がします。

深刻な相談もありましたが、うれしい電話もありました。
Kさんからの電話で、心配していた大腸がんは内視鏡でうまく摘出できたという報告でした。
Kさんは節子のことも、そして私のこともとても気にしてくださっていた方です。
元気そのものだったKさんから、がんの話を聞いた時は驚きましたが、うまく摘出できてホッとしました。
退院してすぐ電話してきてくださったのです。
朗報は人を元気にしてくれます。
今日、Kさんに会うつもりですが、ほんとうによかったです。

Kさんは、節子が闘病中、ずっと祈っていてくださった方です。
そのお返しに、毎朝の節子への読経の後、Kさんの安寧を祈りました。
節子も祈ってくれていたでしょう。
自分がどんなに辛い時でも、節子は他者への思いやりを失わない人でした。
私が節子に惚れきっているのは、そうした節子を知っているからです。

Kさんの祈りには報えられませんでしたが、Kさんへの祈りは報われました。
感謝しなければいけません。

もっとも、祈りは、祈ることそれ自体が目的ですから、報われるとか報われないとか、ということはありません。
祈りはいつも報われているのです。
節子への、たくさんの人たちの祈りは、必ずや節子に伝わっているはずです。
節子は、そうしたたくさんの「祈り」に支えられて、彼岸へと旅立ったのです。

Kさんの節子への祈りが報われなかったという表現は撤回します。
Kさんだけではなく、たくさんの人たちが、それも思いもかけぬ人が、節子のために祈ってくれたことを私は知っています。
もちろん、すべての人が祈ってくれたわけでもありません。
不思議なことに、そうしたことは当事者になると、何となくわかるのです。
言い換えれば、言葉の後ろが見えてくるということです。
それは、とてもいやなことです。
被害妄想は、そういう形で始まっていくのでしょう。
そういう自己嫌悪に陥るようなことを何回か味わっています。

愛する人を失うことは、まさに自分の人間性が試されることでもあるのです。
それに耐えていくことは、それなりに辛いことでもあります。
そんなわけで、私は時々、落ち込んでしまうわけです。
困ったものです。

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2009/06/24

■節子への挽歌661:節子との対面が1日のはじまり

先日、パソコンを修理してくれた坂谷さんがメールをくれました。

パソコンのデスクトップの奥様を拝見して、むしろ、私のためにご自宅に奥様が誘われたような気がしています。
私のパソコンの壁紙には、千畳敷カールに行った時の、節子の写真を使っているのです。
これが最後のハイキングでしたが、節子は元気に千畳敷カールを歩いて一巡したのです。
かなり体力は落ちていたと思いますが、とても元気に、歩きました。
空が見事な青さで、遠くに富士山まで見えたのです。
あの空の青さは、今でもはっきりと覚えています。

その日からちょうど1年目が、節子の命日になりました。
思ってもいなかったことでした。
あの時も、予兆はあったのですが、私はそれよりも目の前にいる節子の元気さしか見ていなかったのです。
人間は、自分に都合のいいものしか見ないものです。
つくづくそう思います。
もっと私に誠意があれば、そして賢さがあったならば、節子はパソコンにではなくて、隣の部屋に今でもいたかもしれません。
私も節子も、あまり賢くはなかったのです。

いつもパソコンを開けると、その時の節子が笑いかけてきます。
私は起きると先ず、パソコンを開き、メールチェックをします。
ですから、私の1日はその節子に話しかけることから始まります。

坂谷さんには、私のパソコン画面を見られてしまったわけです。
きっとパソコン周りにあった節子のほかの写真も見られたことでしょう。
私には、家族の写真をデスクに置く習慣はありませんでした。
節子がいなくなってからは、しかし、そういう文化が芽生えました。
枕元にも、デスクにも、笑顔の節子がいるようになりました。

節子は、決して私の愚かさをなじるようなことはしませんが、私自身は慙愧の念から抜けられません。

今日は雨です。
大雨のようなので、出かけるのをやめて、今日は自宅で仕事をすることにしました。

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2009/06/23

■節子への挽歌660:生きることと生きる意志

カナダの極北に住むヘヤー・インディアンと一緒に生活をしたことのある文化人類学者の原ひろ子さんは、その書「子どもの文化人類学」のなかで、その地域の病院の医師の言葉を紹介しています。

「ヘヤー・インディアソは、ちょっとしたことで、すぐ生きる意欲とか執着心とかを失ってしまいます。白人なら絶対死なないような軽度のやけどや肺炎でも、コロリといくんですからね」。
今から20年ほど前に読んだのですが、そのことがずっと気になっていました。
何の本で読んだのか思い出せなかったのですが、今日、その本を書棚から見つけて、この文章を探し当てました。
私は、「ヘヤー・インディアンは生きる意欲を失ったら、自ら生命の灯を消すことができる」と記憶していましたので、かなり意味合いは違いますが、生きるということは生きる意欲に支えられているという点ではつながっています。

この文章が気になりだしたのは、節子の闘病の最後の頃です。
もし、私や娘たちがいなかったら、節子はたぶん1か月早く旅立っていたはずです。
後から思うと、そのことがよくわかります。
もしかしたら、2年前の8月の節子は、彼岸と此岸を往来していたのかもしれません。
そのことに関しては、かなり心当たりがあるのです。

先日、テレビを見ていたら、生活保護を受けながら3人の子どもを育てている母子家庭の母親が出てきました。
彼女は、「もし子どもたちがいなければ生きてはいないだろう」というようなことを話していました。
言葉はちょっと違ったと思いますが、私にはそう聞こえました。
その言葉が、20年前に読んだ本のことを思い出させ、書棚を探し出したのです。

私も、もし2人の娘がいなかったら、ヘヤー・インディアンのように、きっと生命の灯が消えていたような気がします。
それができるかどうかには、あまり自信はありませんが、それもまた豊かな人生だったはずです。

68歳という年齢のせいでしょうか、節子との40年間がとても豊かだったせいでしょうか。あるいは今の社会に、そしてそこに生きている人たちに、心底辟易しているからでしょうか。
私自身は今生き続けることにはほとんど執着はありませんが、2人の娘のことを考えると、そう勝手に、自分の人生を止めるわけにもいきません。
彼らはまだ結婚していないので、親としての責務を果たしていないという思いがあります。
娘にとって、母親であればともかく、父親はあんまりプラスの存在価値はないような気もしますが、それでもいたほうが彼女たちも心強いだろうと思っているわけです。

節子が元気だったころ、人は何かのためではなく、誰かのために生きていると書いたことがあります
私の拠り所だった節子がいなくなったのに、いまなお、生き続けている自分が、とても不思議に思えることがあるのです。
特に、今日のように、とてもさわやかな気持ちのいい日には。

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2009/06/22

■節子への挽歌659:「花よりきれいなマリア」

一昨日、庭の花のことを書き:ましたが、節子のおかげで、わが家の庭にはいつも花が咲いています。
とてもきれいで、気持ちを和ませてくれるのですが、今日は「花よりきれいなマリア」の話です。

私が節子に出会ったのは1964年でした。
今から45年ほど前のことです。
当時、流行ってはいませんでしたが、時々ラジオから流れていた歌に「花よりきれいなマリア」という歌詞で始まる歌がありました。
たしか海外の歌で、しかし日本語に訳されて、日本人の歌手が歌っていました。
私が節子に恋をしだした頃の話です。

なぜか私はこの歌がとても好きでした。
当時は独身寮に入居していましたが、よく歌っていたような気がします。
今の私はカラオケが大の苦手ですが、子どもの頃はクラスを代表して、それなりにみんなの前でも歌ったこともあるのです。
大学時代にはコーラスグループにも入部したことがあります。
もっともいつもながらたぶん1か月くらいで辞めたと思いますが。
何事も続かないのが私の性格なのです。
ですから、この挽歌は例外中の例外です。
なにしろ節子に約束したのですから、やめるわけにはいきません。

さて「花よりきれいなマリア」です。
なぜか節子がいなくなってから、時々、歌っているのです。
もっとも、歌詞も曲も正確に思い出せません。
たしか、「花よりきれいなマリア 花よりやさしいマリア でもそんなことなど気がつきもせず 今日も街を歩いている」とまあ、そんな感じの歌なのですが。
最近、気になりだして、この歌に関する情報をネットで調べてみましたが、見つかりません。
読者の方で、この歌をご存知の方はいないでしょうか。
それがわかったからといって、どうということはないのですが、わからないとなると知りたくなるのは、人の常です。
ご存知の方がいたら教えてください。
コーヒーをご馳走します。

マリアはともかく、節子は花よりもきれいで、やさしいでしょうか。
幸いのことに、あまりきれいでない花もありますし、やさしくない花もありますから、この問いかけには誰であろうといかようにも答えられます。
要は、その人の主観の問題なのです。
いいかえれば、花はそれほど多様で多彩なのです。

女性も同じです。
たくさん女性がいるのに、なんで私にそんなに一途なの、と節子は時々、私に訊きました。
私にさえわからない難問ですが、人の関係とはとても深遠で、難解なものです。
なぜ、これほどに節子なのか。
節子よりもきれいでやさしい花がたくさんあるように、節子よりも魅力的な女性もたくさんいました。
他に好きになった女性がいなかったわけではありません。
しかし、私には、なぜか節子でした。

私には、「花よりきれいなマリア」と節子が重なっていたのです。
この歌は、本当に実在したのでしょうか。
節子がよく言っていました。
修は現実と夢の世界がつながっているので、どこまで信じていいかわからない、と。

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2009/06/21

■節子への挽歌658:両親の法事

今日は私の両親の13回忌と23回忌でした。
私の両親は、いずれも節子が看病し、見送ってくれました。
両親との同居は、節子が申し出てくれたのです。
途中からの同居だったので、節子は苦労したのではないかと思いますが、節子は一言も愚痴をこぼしたことはありませんでした。
両親も、節子との関係はとてもよく、第三者が見たら節子の実の親のように感じたかもしれません。
むしろ私と両親の関係は、いささか「他人行儀」だったと節子も私たちの娘たちも感じていたようです。
おばあちゃんはお父さんに敬語を使っていたよ、と娘たちは今でも冷やかしますが、私も両親には、それなりの敬語を使っていました。

しかし、その反動でしょうか、私は自分の娘たちには友達付き合いを呼びかけたのです。
なぜそうした矛盾した行動をとったのか、自分でもわからないのですが、今から考えるととても不思議です。

両親は、私以上に、節子に心から感謝していました。
特に私の母親にとっては、節子は自慢の「嫁」だったのです。

両親と同居した時に、私が決めたことがあります。
それは、もし両親と節子の意見が分かれた時、私は無条件に節子の側に立つ、ということです。
幸いに大きな問題ではそういう状況は起こりませんでしたが、いつも節子の側で言動していたことだけは自信があります。
両親は少し不満だったかもしれませんが、そのおかげで、節子は誠心誠意、私の両親に尽くしてくれたのですから、結局は満足していたはずです。

節子は、自分から望んで、私の両親と同じ墓に入ることを希望しました。
ですから今日の供養にも、節子は向こう側で参加していたはずです。
ご住職のお経を聴いていて、それを感じました。
生前の節子は、法事ではこうしたことの不得手な私を支えてくれていたのです。
隣にいないのが嘘のようです。

今年は節子も3回忌です。
3回忌は、命日当日の9月3日にやろうと思います。
これまで法事は親族だけでお寺でやっていましたが、3回忌は気楽なかたちで、ホームパーティ的に楽しくやろうかと思い出しています。
まあ、節子ともう少し相談するつもりですが。

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2009/06/20

■節子への挽歌657:ヤマホロシ

庭のヤマホロシがよく咲いています。
ヤマホロシについては、一度書いたことがあります

元気な花です。
節子も私も好きな花です。
そのヤマホロシがどんどん広がって、元気に咲いています。
この花は元気もよく挿木も簡単ですので、いろいろの方に差し上げました。
きっと今頃、いろんなところで咲いていることと思います。
Yamahorosi_2

ヤマホロシは、山を一面に覆ってしまうほどに元気なつる草ですが、花はとても静かでやさしいです。
節子が一時期、この花と同じ色調のニットシャツを着ていたせいか、この花を見ると何となく節子を思いだすのです。

ヤマホロシが満開になるのを待っていたように、今朝、ムクゲが咲きました。
これも私たちが好きな花です。
とても素直な花で、しかも1日しか咲いていません。
私は白いムクゲが好きでしたが、節子はピンクのムクゲが好きでした。
いま咲いているのは、節子がこだわっていたちょっとピンクのムクゲです。

花の色といえば、昨日、娘が節子に供えてくれたのが、アロエの花です。
節子がどこかでさんご色のアロエの花を見つけて、それと同じものを買ってきたのだそうですが、翌年、咲いたのはさんご色ではなく普通の色のアロエだったようです。
私はさんご色のアロエを見たことはりませんが、ヤマホロシやムクゲと違って、私好みではありません。

節子はいろいろなところから、いろいろな花を呼びよせてくれていました。
おかげで、私もその恩恵をたくさん受けています。


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2009/06/19

■節子への挽歌656:お医者さんの友達がいたらなあ

節子
今日もパソコン修復に追われた1日でした。
この騒動は、あっけない幕切れになってしまいました。
この挽歌の読者でもある坂谷さんが、救いの手を差し伸べてくれたのです。
ホームページのほうに書くつもりですが、わざわざわが家まで来て直してくれたのです。
今日1日、部品を買いに走り回っていたのが全く無意味でした。
むすめたちにも迷惑をかけてしまいました。

ほとんど何も分からずに、壊れたパソコン(電気製品)を直そうとして分解してしまうのが、私のやりかたです。
こうしてこれまで壊してきたものは少なくありません。
今回もパソコンを分解してしまいました。
危なく壊すところでしたが、パソコンの構造をよく知っている坂谷さんは、そんな無駄なことはせずに、要所を押さえながら見事に修復したのです。

お医者さんの友達がいたらなあ、と節子が言っていたのを思い出しました。
私もそう思いました。
医師の知人はいますが、医師の友人はいなかったのです。

パソコンのことをよく知らずに、直そうとしてしまう私の行動と、
病気や医学のことをよく知らずに、治そうとした私の行動が、重なってしまいました。
そうしたら疲れがドッと出てきてしまったのです。
節子への不憫さが募ってしまい、いささか滅入ってしまいました。

パソコンが無事修復できて、一瞬、とても元気が出たのですが、
坂谷さんが帰ったら、元気がうせてしまいました。

節子
医者でなくてわるかったね。
来世では医師になって、同じ過ちは繰り返さないようにします。
でも私にはたぶん無理な職業でしょう。
なにしろ血を見ただけで動けなくなるほど気が弱いですから。
来世では、この性格は変わるのでしょうか。

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2009/06/18

■節子への挽歌655:ヘシコと栗むしきんつば

節子
パソコンはやはり直りませんでした。
今年になってパソコンを2台ダメにしてしまいました。
くよくよしていても仕方がないので、今日はまったく別の話題です。

昨日、岐阜の佐々木さんがやってきました。
お土産に「栗むしきんつば」を持ってきてくれました。
私は苦手ですが、節子は好きでした。
今日は東尋坊の茂さんと川越さんが来たのですが、お土産が「へしこ」でした。
これまた、私は苦手ですが、節子は好きでした。

まあそれだけの話なのですが、私には苦手の、しかし節子の好物が、偶然にも続いたのです。
もちろんみなさん、節子を意識したわけでは全くありません。
まさに偶然なのです。

とても不思議なのは、節子がいた時に節子の好物をもらってもさほどうれしくありませんでした。
何しろ私はダメなのですから。
しかし、節子がいなくなってからは、私の好物をもらうよりも、節子の好物をもらったほうがなんだかうれしいのです。
食べられないので、結局はどこかに回ってしまうこともあるのですが、それでも一晩、節子の位牌の前が賑わうのがうれしいわけです。
愛する人を失った者は、そんなものなのです。

明日は少し落ち着けそうですので、ヘシコときんつばにチャレンジしてみましょうか。
節子のためにがんばってみます。
まあ、それ以上にパソコンの修復にがんばらないといけないのですが。

挽歌に穴をあけたくないので、今日もまた少し無理をして書きました。
メインのパソコンは壊れたままです。
おかげでいつもの倍の時間がかかります。
困ったものです。

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2009/06/17

■節子への挽歌654:パソコンを壊した節子、パソコンを直した節子

節子
大事件です。
私が使っているメインのパソコンがフリーズしてしまいました。
最近、作成したデータはもしかしたら、救出不能です。
こういう時に限って、バックアップをこの半年近くしていなかったのです。
メーカーの人と電話で1時間以上話しながら、いろいろとトライし、メーカーの人がデータは諦めて修理に出してくださいとさじを投げたのですが。
幸いに大きな仕事には、いま取り組んでいないので、誰かに迷惑をかけることはありませんが、いささかショックではあります。

幸いにパソコンは複数台使っていますので、インターネットやメールは使えるのですが、すべてのデータを保管していたパソコンのダウンは被害甚大です。
そんなわけで今日は、その修復に追われ、挽歌どころではありません。
パソコンと私とどっちが大事なのと、節子に言われそうですね。

そういえば節子が元気だった時にも同じようなことがありました。
そして、そんな皮肉を言われたことがあったような気がします。
節子は、私がパソコンに向かう時間が多すぎるといつも嘆いていました。
もしかすると、今回のフリーズ事件は節子の呪いかもしれません。
外出から戻っても、パソコンは動こうとしないので、そんなことを思いながら、フリーズしたパソコンのキーボードを強くたたいてしまいました。
そうしたら、なんとパソコンが動き出したのです。
おかげで、データをすぐにメモリーで他のパソコンに移すことができました。
メール関係は救えないかもしれませんが、まあそれは仕方がありません。
パソコンはとても不安定で、使えそうもありませんが、リカバリー処理すれば大丈夫かもしれません。
ホッとしました。

節子に祈ったおかげでかもしれません。
節子の呪いだとか節子のおかげだとか、いかにも勝手な話ですが、
まあそんなわけで、今もって、私の喜怒哀楽には節子が影響しているのです。
神様、仏様、節子様なのです。

ありがとう、節子さん。

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2009/06/16

■節子への挽歌653:見送るよりも見送られる方になりたかった

節子
画家のMさんからのメールです。
訃報でした。

先週大阪の叔母が亡くなりました。
脳溢血でしたが、同居家族がいなかったため、発見が2日後でした。
大阪の個展のときは常宿にさせていただき、とても仲良かったので、大変なショックでした。
人生はいつ終わりが来るかわからないから、なるべく悔いのないように周りの人と仲良くやりたいことはやるようにしようと思いました。

一人で死んでいった叔母を思うと、佐藤さんの奥様はお若かったとはいえ、ご家族に囲まれお幸せでした。
私の最後はどうだろうかと、ふと思いました。
はっきりわかっていることは、見送ってくれる人がもしいたとしても、その中に節子はいないことです。
節子がいなければ、たとえ世界中の人に囲まれていたとしても、幸せではありません。
運よく娘たちがいるかもしれませんが、私が見送ってもらいたいのは節子でした。
どんなに愛していようとも、娘たちには節子の代わりは果たせないのです。
それを思うと、少しだけ死が憂鬱になります。

しかし、ものは考えようです。
見送る側には節子はいませんが、迎えてくれる側には節子はいるかもしれません。
そう思うと、死はそれほど悪いものでもないような気がしてきます。
昨今の仏教の教えには反しますが、人は一人で生きているのではない、と私は思っています。
もしそうであれば、人は一人では死ねないのです。
いつも誰かに見守られているはずです。
いつも誰かと共にある、と言ってもいいかもしれません。

これは、私の場合は、節子を見送った後から大きくなってきた考え、いや、感覚です。
しかし、実際には、家族に見守られたいと思うのは、人の常です。
私の母は孫である私の娘が病床にたどりついた途端に息を引き取りました。
その経験から、人は自分の最後の時間を自分で決められるのだと知りました。
節子は、私たち3人が現実を受け容れられるまで、がんばって生き続けてくれました。
節子がどれほど家族思いだったか、よくわかります。

人生はいつ終わりが来るかわかりません。
しかし、本人にははっきりとわかるのかもしれません。
節子のことを思い出すと、そう思えてなりません。

節子が、家族に囲まれて幸せだったかどうか確信はありませんが、少なくとも私は節子をしっかりと見送れて幸せでした。
しかし、見送るよりも見送られる方になりたかったと、今でも心底思っています。

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2009/06/15

■節子への挽歌652:3人の人からの電話

節子
昨日はのんびりしていたのですが、それが相手に伝わったかのように、何人かの人から電話をもらいました。
新潟のKさんは、先月、奥様が緊急入院され大変だったのですが、少し落ち着かれたようです。
Kさんは、佐藤さんの気持ちが少しわかったような気がします、と言っていましたが、伴侶に何かあると男性は予想以上におたおたしてしまうものです。
Kさんの場合は、しかし奥様は元気に向かっていますので、もう大丈夫でしょう。
夫婦には、時にはちょっとした難事が押し寄せてくるのがいいかもしれません。
そうすれば、お互いの大切さに気づくはずですから。

やはり節子がよく知っているTさんからも電話がありました。
Tさんもいろいろと身体に爆弾を抱えている状況なのですが、いまは元気です。
Tさんはこの挽歌を読んでくれていますが、
このブログを読むと、どうも私が貧乏のように思えるようで、私に会うと、お金に困ったら言ってくれといつもいうのです。
ありがたいお言葉ですが、実は私はお金には困っていないのです。
人生をきちんと生きてくれば、必要になればお金はどこかから回ってくるものなのです。
それが本当かどうか、節子は少し疑っていましたが、Tさんの言葉を聞かせたいものです。
Tさんには、私に回すお金があるんだったら、奥さんに指輪でも買ってやったらと逆提案しましたが、Tさんももっと奥さんを素直に大事にしなければいけません。
その気になっても、それができなくなった立場からすると、もっともっとみんな伴侶を大事にしなければいけません。

Nさんからの電話はちょっとした相談でした。
私に相談しても、答が出てくるとはNさんも思っていないでしょうが、まあ話をしているうちにいつもNさんは自分で答を見つけるのです。
その代わり時間は、それなりにかかります。
しかし、一番の相談相手は、いつも伴侶なのです。
友人ではありません。
そのことをいつか教えなければいけません。

電話ではないですが、Iさんからは久しぶりに彼が書いた文章が届きました。
久しくご無沙汰でしたが、活動は順調のようでうれしいです。
Iさんも、決して体調はよくないのです。
Iさんも仕事をほどほどに奥さんとの時間をもっと大事にすべきですが、大きなミッションに突き動かされているので、今は何を言っても聞き届けられないでしょう。
困ったものです。

とまあ、そんなこんなで、手持ち無沙汰ではない1日を過ごしました。
節子のお墓参りにも、ちゃんと庭の花を持って行ってきました。

今日はいろんな人が湯島にやってくるので、湯島で1日を過ごそうと思います。

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2009/06/14

■節子への挽歌651:手持ち無沙汰の1日を過ごそうと思います

節子
先週はちょっとばたばたしてしまいました。
来週もまたいろいろと予定が込んでいるのですが、今日はのんびりと1日を過ごそうかと思います。

節子がいなくなってからの1年は、何かをするでもなく、しないでもなくの1年でした。
私にはほとんど記憶のない1年です。
昨年末から活動を持続的に再開しましたが、精神的に軌道に乗ってきたのは4月くらいからでしょうか。
4月は少し活動をしすぎてしまいましたが。

節子がいなくなってから、私がやることといえば、自分の活動だけです。
ですから、実は時間はタップリあります。
短期的には「時間破産」状況に陥りますが、まあ間に合わなければ、明日にのばせばいいだけの話です。
時間の取立てはありませんし、それほど大きな約束はしていませんので、どうにでもなります。
せいぜいが、間に合わなければ一晩徹夜すればいいだけの話です。

私のホームページを読んだ人が、私はきっと「多忙」なのだろうなと考えてくれますが、実のところは時間はタップリあるのです。
節子と一緒に過ごす時間がなくなったのが、その理由です。
ということは、節子が一緒にいた頃には、節子との時間がいかに多かったかということでもあります。
月に数回は、節子と一緒に旅行などに出かけていましたし、節子と一緒にお茶を飲んだり、夫婦喧嘩をしたり、いろいろとありました。
それが全くなくなったいま、私の時間はタップリあるわけです。

手持ち無沙汰の時さえ、あるのです。
節子がいたら、そんな時には声をかけて必ずどこかに出かけました。
私の人生の時間には、暇や退屈さは皆無だったのです。
節子も、いつも動いている人でしたから、暇や退屈さとは無縁の人でした。
私たちは、いつも何かをしていました。

節子がいなくなってから、はじめて私は「手持ち無沙汰」を体験しました。
そんな時には、庭の花を見たり、空の雲を見たりすればいいと思うのですが、それさえができないのです。
なにか無性に空虚な時間の前にさらされているようで、その時にはたとえ何をやっても「手持ち無沙汰」感は消えません。
奇妙に不安で、罪悪感さえあります。

今日はどんよりした曇り空です。
考えてみれば、やるべきことは山のように積まれています。
でもまあ、今日はそれを忘れて、「手持ち無沙汰」を嘆きながら1日を過ごそうと思っています。
半身を削がれた者にとっては、暇さえも堪能できる時間ではありません。

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2009/06/13

■節子への挽歌650:夫育てがうまかった節子

節子
ようやく地元の我孫子での活動仲間の組織が実現しそうです。
節子がいたら、いろいろと一緒にできたはずなのですが、そのシナリオは全く違うものになってしまいそうです。

新しい組織の名前は「コモンズ手賀沼」です。
「コモンズ」は、この20年来、私が取り組んできたテーマです。
しかし、私がむりやりつけた名称ではなく、ほかの方が付けてくれた名前です。
時代は、まさに「コモンズ」が流行語にさえなりだしています。
もっとも、その言葉に期待する意味は人によってかなり違ってはいますが。

私の「コモンズ」発想を、たぶん最初に理解してくれたのも節子でした。
20年以上前に私が「真心の時代」などと言い出して、みんなからひんしゅくをかっていた時も、節子は一番の理解者でした。
そこに実体を与えてくれる上でも、節子は力強い同志でした。
私がなにか新しいことを始めようとする時、いつも節子に相談しました。
相談と言うよりも、節子に話すことで、私の考えが整理され、そして何だか実現できるような気になれるのでした。
そして、どんな小さなことでも、私の思いが実現すると、節子は私と一緒に喜んでくれました。
それが私には最大のモチベーションになりました。
だから、私は新しいことに取り組むのがとても楽しかったのです。
節子は、子育てはうまくなかったかもしれませんが、夫育てはうまかったのかもしれません。

節子がいなくなった今、そのモチベーションがなくなってしまいました。
そのせいか、最近は何をやっても充実感がありません。
それどころか、こんなことをやっていていいんだろうかなどと思ってしまうことさえあります。
私がやっていることは、世間的に見れば、いずれもとても小さなことです。
それに、自分から何かをやるという生き方は、もうだいぶ前にやめてしまいましたので、ほとんどは誰かの話を聞いて、余計なお世話をするのがせいぜいです。
それもたいしたことはできません。
私と話しているうちに、元気がなかった人がちょっと元気になるというようなことが、私の最大の喜びなのです。
節子は、そのことをよく知っていました。
そして私と同じように、それを喜んでくれました。

地元の我孫子の活動はこれからどう展開するかわかりませんが、節子がいたらいろいろと楽しいことができたはずです。
でも、私一人ではあまりやろうという気にはなれないのです。
組織がほぼ立ち上がったので、興味は急速に冷えだしてしまっています。
困ったものです。

地元での活動は、それ以外の活動とは全く違い、節子の不在を思い出させます。
どこかで、節子との接点が必ず出てくるからです。
それに、メンバーにご夫妻で参加してくださっている人もいます。
その人たちと話していると、どうしても節子のことを思い出してしまいます。

地元の活動は、やめればよかったと思うことさえあるのです。
続けられるでしょうか。
最近ちょっと不安になってきています。
節子には笑われそうですが、それが正直な最近の気持ちです。
節子がいればこその、私の地域活動だったのかもしれません。

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2009/06/12

■節子への挽歌649:ルソーの不安

節子
今日はルソーの話です。
画家のルソーではなく、ジャン・ジャック・ルソーです。
といっても、社会契約などといった話ではありません。
ルソーが言語や文字を恐れていたという話です。
なぜ恐れていたかといえば、文字や言語は、生きている現実の死せる残骸だからだというのです。
これは今村仁司さんの本からの、ちょっと不正確な受け売りなのですが。

ルソーは、『言語起源論』という著者の中で次のように述べているそうです。

「欲望が大きくなり、商売が複雑になり、理性が拡大するにつれて、言語は性格を変える。それは一層正確になるが、情熱を失う。それは感情を観念に置き換える。それはもう心では語らず、理性で語る。まさにそのゆえにアクセントは消え去り、分節化が広がる。言語は正確で明瞭になるが、それだけ長たらしく、重く、冷たくなる」

ルソーのこの指摘に、私は全面的に賛成します。
全くその通りです。
節子は私よりも強くこの考えに共感するでしょう。
私が節子から批判されてきたのは、まさにこのことに通じています。
節子はいつも言っていました。
「言葉では必ず修に言い負かされる」
この言葉が含意しているのは、言葉の世界では修が正しいが、現実の世界では私が正しい、
そして、言葉の世界では生きられないよ、と言うことです。
私たちが、共にそう思えるようになったのは、たぶんお互いが50歳代になってからでしょう。
もっとも、その後も私は「言葉の世界」で節子を言い負かしていましたが。

この挽歌に関しては、娘たちはフィクションが含まれているといいます。
私にはそうした意図は全くありませんが、文字はすべてフィクションなのです。
文字や言葉にしてしまうと、現実とは違う物語になってしまうのです。
そのことは書いている私自身が時々そう感じます。
節子はもっと素敵な人だったとか、もっとダメな人だったとか、そういう気がすることは多いのですが、どうしてもそれは文字にならないのです。
真実にどのくらい迫れるかは文章力の問題ですが、そういう話ではありません。
文字にしてしまうと、どこかで私の中に生きている現実と離れていってしまうということです。
文字が一人歩きするといってもいいでしょう。

そのことは話していても起こります。
節子のことを話していると、いつの間にか私の感覚と違った節子を語っていることに気づくことがあるのです。
後で後悔することもあります。
後悔するのなら話さなければいいのですが、その時はなぜか心の中の節子と言葉で語ってしまう節子とが、私の中ではそれぞれに生きているのです。

文字で書かれた節子、言葉で語られた節子、そして私の心身に今尚生きている節子。
それらは微妙にずれているのですが、どれが本当の節子なのか、判断はできません。
だからルソーは文字や言葉を恐れたのです。
自分の心身を離れて、思考は一人歩きしだすのです。

私は、しかしたくさんの節子に出会えることを選びます。
だから、文字や言葉を恐れることなく、不安など一切無く、この挽歌を書き続けているのです。
私の心身を離れて、一人歩きする節子が育っていったら、どんなにうれしいことでしょう。
その節子に、もしかしたらいつか会えるかもしれないと思っただけで、心がわくわくしてきます。
きっとルソーほど私は賢くないのでしょう。
まあ、あんまり賢いとは思えない節子とお似合いだったのですから。

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2009/06/11

■節子への挽歌648:世界に寄りかかって生きること

某研究所の研究員から子育て主夫に転じた若い友人が、松田道雄さんの「われらいかに死すべきか」という本を読んで考えさせられたというメールをもらいました。
研究者から主夫への転身はたぶん刺激的でしょう。
世界政治や国際経済などは、子育てや生活現場で起こっていることに比べたら、知識さえあれば対応できる退屈な話でしかありませんから。

松田道雄さんとは懐かしい名前です。
節子が子育ての指南書として読んでいたのが、松田さんの「育児の百科」でした。
核家族の中で、節子は子育てには苦労したと思います。
普通は、家元に帰って最初の子どもは産むのでしょうが、私がそれに反対したので、節子はほぼ一人で娘を育てたのです。
頼りは、松田さんのこの本でしたが、読書が好きではなかった節子が果たして読んでいたかどうかは疑問です。
私も読んだ記憶があまりありません。
私たちの娘たちが普通に育たなかったのは、そのせいかもしれません。
いやはや困ったものです。

今回紹介された本を、私も読んでみました。
年齢のせいでしょうか、私にはあんまり新鮮ではありませんでした。
知的な世界で活躍してきた研究者にとっては、新鮮なのかもしれません。
しかし、人間も70年近く生きていると、生活世界の実相はだいたい見えてくるものです。
そうした実感が文字になっていると、逆にとても空虚に感じてしまいます。
同世代が書いた人生論などは読むものではありません。

共感できるところはたくさんありましたが、面白かったのは言葉の端々から見えてくる松田さんの人生でした。
こうした文章からは、その人の生き様と心情が見えてきます。
たぶん、この挽歌にも私の人生が露出されているのでしょう。

本書を読んで、松田さんは私とは違う世界の人のように感じました。
自殺の自由を認めていることに、それは象徴されています。
最後の章は「晩年について」ですが、そこにもこんな文章がでてきます。
「自分以外の人間によりかかって生きることを、なるべく少なくすることが第一である」
私とは正反対の意見です。

そのことを一番よく知っていたのは、節子でした。
だれかに寄りかかっていないと生きていけないのが、私の本性であることを節子は見抜いていました。
それが節子の大きな心残りだったのです。
しかし、節子がいなくなった今、私は生き続けられているのはなぜでしょうか。
気がついてみたら、私が寄りかかっていたのは節子ではなく、すべての人たち、すべての生命だったのです。
もしかしたら、節子がそう仕向けていたのかもしれません。
私を支えてくれる世界の入り口に、節子がいただけなのです。
いいかえれば、節子が私を世界につなげてくれていたのです。
いえ、過去形ではなく、今もなお節子は私を世界につなげてくれているように思います。
生命は個々に完結していないことを、節子は身をもって教えてくれたのです。
だから個人には、自殺をする権利などあるはずもないこともです。

松田さんとは全く違う世界を、私はどうも生きているようです。

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2009/06/10

■節子への挽歌647:「家族は自己を滅する場」

節子
昨日、家族に言及したので、今日は家族にことを少し書いてみます。
節子がいなくなってから、わが家の家族にもいろいろなことがありましたが、節子のいた頃と基本的には同じです。
少しさびしさはありますが、それぞれにまあ元気です。
そして、今もなお、節子は私たちにとってはとても大きな存在です。

私たちの家族は、常識的に考えると少し変わった家族だったような気がします。
私にとっては理想的な家族環境でしたが、娘たちや節子にとっては、必ずしもそうではなかったかもしれません。
むすめたちには、ちょっと申し訳ない気がしており、最近は反省しています。
私の家族観が少し、いやかなりおかしいのかもしれません。

いささか右翼の福音主義者のスティーヴン・カーターという人は、「家族とはわれわれが自己を滅する場」だといっていますが、彼の思想的な立場はともかく、この言葉には私は納得できます。
もっとも、この言葉からいわゆるドメスティック・バイオレンスのような危険なにおいがしてこないわけでもありません。

彼とは違ってバランス感覚があると思われる市民社会論者のマイケル・エドワーズは、著書「市民社会とは何か」の中で、次のように書いています。

家族とは、もっとも深いレベルで、他者のための犠牲とケアといった特徴をもつ最初の「市民社会」であり、またそうあるべきだといっても差し支えないだろう。信頼、協力、その他のより明確な政治的態度は皆、家庭内でのさまざまな関係の中で形成される。
そして、彼は、「愛情に満ち、互いに支えあう家族関係を形成し育むことは、礼儀正しい社会の建設に不可欠である」とも書いています。
こうした考えは、私の考えとほぼ同じです。
しかし、人は成長する存在ですから、「愛情に満ち、互いに支えあう家族関係」を固定化させることはできません。
娘たちの愛情は親にではなく、外の他者に向かわなければいけないのですが、どうもわが家ではそうならず、今もって2人の娘は結婚もせずに自宅にいます。
だからといって、親をとりわけ愛しているわけではなく、うざったい存在という思いが、年々高まっているように感じます。
にもかかわらず、なぜ結婚もせずにいるのか。
これは私たちが一番気にしていていたことですが、こればかりは親といえども何ともしがたい問題です。
私たちは決してむすめたちを溺愛していたわけではなく、むしろ夫婦の関係が強すぎて、娘たちへの配慮が行き届かなかった面のほうが強いように思います。
もしわが家に問題があるとすれば、娘を溺愛したのではなく、私が節子を愛しすぎたことかもしれません。
もっとも娘たちに言わせると、彼らが子どもの頃は、私は子育てを、したがって家庭のことをすべて節子にまかせっきりだったという思いを持っています。
そんなことは全くないように思いますし、節子が元気だったころ、節子もそうした娘たちの印象を否定していたのですが、子どもの記憶は正しいことが多いので、たぶん彼女たちの言い分が正しいのでしょう。
つまり、私が良き夫になったのは、そして節子に深く惚れ込みだしたのは、私が会社を辞めてからなのかもしれません。
それ以後の私たち夫婦は、おそらく誰にも負けずに愛し合う夫婦になっていたように思います。
いつも一心同体で、そこでは、間違いなく私は「自己を滅して」いました。
そういう場に支えられていたが故に、いまの私の生き方が育ってきているような気がします。
最近は、社会そのものが、私にとっては「自己を滅する場」になってきています。
こうした生き方を目指したいと、21年前に勤めていた会社を辞めた時に、みんなに手紙を書いたのですが、それが実現できてきているわけです。

私の今の生き方は、節子のおかげで実現できたのです。
最近、そのことが実感できるようになってきています。
節子に感謝しなければいけません。
その礼を、直接、言葉で節子に聞かせられないのがとても残念です。

節子、私の思いは届いていますか。

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2009/06/09

■節子への挽歌646:「人間は夫婦に後悔がなければ死ねる」

もう一度だけ、中野さんの話について書かせてください。
実はまだ中野さんの本は読んでいないので、テレビで聞いた話です。

中野さんはがんで死に直面したことがあります。
その時に、いろいろと考えたそうですが、一番の気になったのは奥さんのことだったそうです。
誤解されそうな言い方ですが、そこで中野さんの辿りついた結論を聞けば、その意味がわかってもらえると思います。
中野さんはこういいました。
「人間は夫婦に後悔がなければ死ねる」

この言葉は、とても共感できるのですが、同時にとてもそんなことなどありえないとも思いました。
私の場合で考えてみましょう。
とても後悔がないとはいえませんが、それでもたしかに節子と愛し合えてきたことを考えるといつ終わっても「悔い」は残らない人生で、たぶん静かに自らの死を迎え入れられたような気がします。
もちろんやり残したことはたくさんありますし、私にとっては節子と会えなくなることは寂しいことですが、たぶん辛いという気持ちはさほど起きないかもしれません。
節子はどうだったでしょうか。
私との関係には後悔はなかったように思いますから、その点に関しては心安らかだったかもしれませんが、私の節子への思い入れの深さを知っていましたので、自分がいなくなった後の私のことは気にしていました。
さらにいえば、まだ結婚していない娘たちへの心配は大きかったと思います。

中野さんは「夫婦」と言っていますが、ここは「家族」と言ってもいいでしょう。
たしかに「家族に後悔がなければ」、人は心安らかに人生を終えられるはずです。
このことの意味は、とても大きいような気がします。

中野さんは「亡き人を覚えているのは家族の役割」と言いましたが、それは、「家族に後悔がなければ人は死ねる」という言葉とセットになっています。

最近、家族が壊れだしているように思いますが、それは心安らかに人生を終えられなくなるということかもしれません。
終えられない人生は、おそらく始められない人生でもあります。
家族とは何なのか、節子のおかげで、その意味をいろいろと考えさせてもらっています。
今となっては、もうあまり意味のないことかもしれないのですが。

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2009/06/08

■節子への挽歌645:死者の眼差しを引き継ぐ

昨日の挽歌を読んで、娘さんを見送った大浦さんからメールが来ました。
大浦さんも、同じ思いで娘さんの本(「あなたにあえてよかった」)を書き上げたのです。
以前、大浦さんから、あの本は娘が私に書かせたのだと書いてきてくれたことがあります。
それはよくわかったのですが、私自身の挽歌は、節子ではなく私が書いていると私は思ったのですが、今から思うと大浦さんの思いのほうがどうも正しかったようです。
大浦さんは、私よりも長く、愛する人との別れを体験していますから、きっと私よりも真実が見えるのでしょう。

大浦さんは、私が書いた昨日の挽歌を「節子さんをそっくり郁代に置き換えて読ませて頂いてよろしいでしょうか」と書いてきました。
この気持ちもよくわかります。
私も誰かの文章を読んでいて、いつの間にか登場する人を節子や自分に置き換えて読んでいることがあります。
自分ではない人の書いたものに、自分に気持ちが素直になじんでしまうことがあるのです。
生死は、個々の人間の思いを越えて、広がっていることの現われかもしれません。

ところで、昨日紹介した中野東禅さんは、「死者の眼差しを引き継ぐ」ことが大切だとお話になりました。
節子がいなくなってから、私も節子の眼差しをいつも思っていました。
節子の眼差しを感ずるのではなく、節子が発していた眼差しを心身に取り込むということです。
友人や知人が来たときにも、「節子だったらどうもてなすだろうか」を意識しました。
それだけでなく、私のすべての生き方において、節子の眼差しを私の眼差しに重ねようと思っています。
おそらくこの4年ほどの間に、私の生き方は微妙に変わったはずです。
それはもしかしたら、この眼差しのおかげかもしれません。
眼差しが変わると世界の風景は変わってきます。
どう変ったのかと問われると、明確には答えられないのですが、間違いなく私の世界観や人生観、とりわけ人を見る目は変わりました。
もちろん自分ではっきりと説明できるほどの変わり方ではありませんが、眼差しに戻ってくる世界が微妙に変わっているような気がするのです。

考えてみると、これはなにも節子を見送ってから始まったことではありません。
節子と生活を共にすると決めた時に、そして節子との生活を育て上げる中で、私たちの眼差しはお互いに交差し合ってきたのです。
眼差しを重ねることこそが、愛なのかもしれません。

昨日、時評編で「友愛の社会」について書きました。
私が「愛」を抽象論ではなく、実践論にできたのは、節子のおかげかもしれません。

話が拡散してしまいましたが、
私は今でも「節子の眼差し」を意識しながら、行動しています。
しかし、節子がやりたかったであろうことには、まだ着手できていませんが。

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2009/06/07

■節子への挽歌644:亡き人を覚えていることが家族の役割

いつものように早朝に目が覚めました。
見るでもなくいつもの習慣で、寝室にあるテレビのスイッチを入れました。
節子がいなくなってから、テレビを寝室に持ち込み、眠れない時にかけています。
必ずしも見るわけではないのですが、人の声がすると落ち着くのです。

「こころの時代」で、中野東禅さんという方がお話されていました。
心に響くお話で、ついつい聴き入ってしまいました。

中野さんは、竜宝寺というお寺のご住職で、仏教の立場から死生学を究めてきた方だそうです。
私が聴き入ったのは、中野さんご本人が死の淵に立たされた経験を語ったことと、その後、奥さんを見送ったお話があったからです。
そのせいか、お話の一つひとつが、とても共感できました。
節子を見送って以来、頭で考えたような「死生学」といわれるものに、どうも距離をおきたくなっていたのですが、中野さんの死生学の本なら読めそうだと思いました。

中野さんが話したなかで、一番、心に響いたのが、
「亡き人を覚えていることが家族の役割」
という言葉です。
なんでもない言葉なのですが、私には心の奥底まで響きます。
私がこの挽歌を書き続けようと思ったのも、まさにそうした思いからです。
誰かが覚えている限り、その人は生きつづけている、という思いがあります。
私にとっては、節子は今もなお生き続けていてほしいのです。
それが私の生きる拠り所だからです。

私が節子のことを忘れないで毎日思い続けていることは、
実は自分が生き続けていく支えがほしいからでもありますが、
節子にもずっと生き続けてほしいからでもあります。
同時に、娘たちにも友人知人にも、節子のことを覚えていてほしいという気持ちがあります。
それが自分たち本位の勝手な思いであることはわかってはいるのですが、
ついつい過剰に期待してしまうのです。
ですから思わぬ人から節子の名前を聞くと内心とてもうれしくなります。

生きている証を残したいと思う人は少なくありません。
後世に残るような作品や仕事をしたいという人は私の周りにも少なくありません。
しかし、私にはそうしたことは全く興味のないことでした。
むしろ、自分が生きていたことの証を残すというような思いには否定的でした。
人は、その生命と共に、忘れられるのがいいという思いがありました。
しかし、節子を見送った後、そう思っていない自分に気づいたわけです。
節子を忘れたくないということは、私も忘れてほしくないということにつながっているからです。

「亡き人を覚えていることが家族の役割」
この言葉の意味はとても大きいです。
家族の代わりに、友人や仲間という言葉を置いてもいいでしょう。
人の支え合いは、現世だけの話ではなく、生死を超えてあるものだとようやく気づきました。
きっと彼岸の節子も、現世の私を忘れることなく、覚えていてくれるでしょう。
そう思うと、心がやすまります。

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2009/06/06

■節子への挽歌643:朝顔のタネを蒔きました

節子
今日は朝顔を蒔きました。
私の部屋の窓の下のプランターに、です。
この挽歌の読者でもある根本さんが、自分の部屋の窓の下に蒔いた朝顔のタネの残りを送ってきてくれたのです。
根本さんは、咲いた朝顔の写真をたくさん送ってきてくれたので、節子の位牌壇の横にずっとかざっていました。
気づいた人は、なぜ朝顔なのか不思議に思ったでしょうね。
季節が来たらタネを蒔くのを忘れないようにと、写真を置いていたのですが、ずっと置いておくと意識の世界から外れてしまい、存在すらも見えなくなるものです。
完全に、朝顔のことを忘れていました。

今朝、なぜか急に根本さんのことを思い出しました。
根本さんから、最近メールも手紙も全く来ないことに気づいたのです。
そして、朝顔のタネのことも思い出したのです。

2つのプランターにタネを蒔きました。
節子の応援もなく私一人で朝顔を咲かせられるでしょうか。
いささかの心配はありますが、まあがんばってみます。

そういえば、明日から我孫子はあやめまつりです。
節子がいたら、一緒に出かけたでしょうが、ここにも深い思い出があり、今年も結局は行けないでしょう。
今年は、植木祭りにもさつき祭りにも行きませんでした。
どうも私がいろいろと地域の行事に参加していたのは、節子のおかげだったようです。
節子がいなくなってから、我孫子の市内のさまざまなところには、足が遠のいてしまっています。

いま我孫子の友人知人たちと新しいネットワーク組織を立ち上げようとしており、明日もその集まりをするのですが、そうした動きの支えになっているのは、節子の思いかもしれません。
節子は、我孫子を花のたくさんある、みんなが気持ちよく暮らせるまちにしたいと、願っていました。
その一歩は、自分の家の周りに花を咲かせることでした。
朝顔の花が、私の花そだてデビューの第1歩です。

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2009/06/05

■節子への挽歌642:パウサニアス・ジャパン

節子
今日、湯島にパウサニアス・ジャパンの店網さんと庵さんがやってきました。
2人とも大学時代の友人ですが、私が抜けたのと前後して、パウサニアス・ジャパンに入会したのです。

パウサニアス・ジャパンは、古代ギリシアをテーマにした集まりですが、この発足にはささやかながら節子が関係していることを思い出しました。
ギリシアのスニオン岬に行った時に、そのしばらく前の火災で植生が乱れていました。
その時に節子がここに日本のサクラを移植したらいいのにね、と言ったのです。
帰国後、たしかギリシア大使館に節子は手紙を書いたはずです。
何らかの理由でそれが無理だという返事が来たような記憶がありますが、あんまり覚えていません。
しかし、その話を友人に話したら、それが回りまわって、ギリシアの会を創りたい人がいるので会ってくれないかとある人からいわれたのです。
それでお会いしたのが、吉田さんと金田さんでした。
吉田さんは高校時代からの古代ギリシアファンでした。
会の名前は決まっていました。
パウサニアス・ジャパンです。
パウサニアスは古代ギリシアにはよくある人名で、「ギリシア案内記」を書き残した人の名前もパウサニアスです。
数日後に湯島で発起人会を開催し、パウサニアス・ジャパンが発足、気がついたら私が事務局長になっていました。
節子の関心は花なので、古代ギリシアの遺跡に行っても、そこに咲いている花のほうが遺跡よりも興味がありました。
ですから節子はパウサニアス・ジャパンには入会しませんでした。
そのため、スニオン岬にサクラの花を移植する話は全く途絶えてしまいました。

パウサニアス・ジャパンは古代ギリシア研究に取り組む人を応援するパトロネージに取り組んでいますが、その最初の派遣フェローは、「イリアス」を古代ギリシア語で朗誦する明神さんでした。
明神さんは、一度、パウサニアスの集まりで、イリアスを朗誦してくれたことがあります。
たしかその時には節子も参加したような気がします。
不思議な時間でした。

節子が発病したために、私は事務局長を辞めさせてもらいましたが、この会にはいろいろと思いがあります。
私のさまざまな活動には、こんなわけでいつも節子がどこかでつながっています。

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2009/06/04

■節子への挽歌641:「命の保証はない」

節子
節子もよく知っているNさんの娘さんが先月脳卒中で倒れ、駆けつけたNさんは、医師から「命の保証はない」と言われたそうです。
幸いに娘さんは、医師も驚くほどの回復ぶりで、Nさんから安堵のメールが届きました。
そのメールの最後に、
「ごめんなさい。
一人では、抱えるのがきつくって…。」
と書かれていました。

私も、一人で抱えるのがきつくて、この挽歌を書き続けています。

私たちも、娘のことで医師から同じようなことを言われた経験があります。
ジュンがまだ誕生日が来なかった時に、急性肺炎になったのです。
かかりつけの医師から大丈夫だといわれて帰宅したのですが、節子がやはりおかしいと救急車を呼んだおかげで、最悪の事態を避けることができました。
医師よりも、母親の目が正しかったのです。
それでも休日だったため、緊急病院に内科の医師がいなくて、医師が来るまではまさに地獄のような時間でした。
ようやくやってきた医師からは手遅れで命は保証できないと言われました。
そして、後はこの子の生命力に期待するしかないと言われたのです。
酸素吸入してもらいながらも、次第に生命の灯が弱くなっていくのが、目の前で実感できるのです。
私たちにできたのは、祈ることだけでした。
3日ほどしてからでしょうか、奇跡的に回復に向かいだしました。
私たちの祈りが通じたのです。

Nさんからのメールを読んで、その時のことを思い出しました。
そして、最近、ちょっと気になっていることも思い出しました。
それは、その時に、医師の言葉ではなく、人間の生命力を信じようという奇妙な信念が生まれてしまっていたことです。
節子と病院通いしていた頃、私は医師よりも節子の生命力と私たちの祈りの力のほうを信じていたような気がします。
節子は治る、節子を治す、そういう思いがどこかで私の視野を狭くしていた可能性があります。
その結果、今から思えば、病気への対応も、誠実さに欠けていたような気がします。
もっともっと真剣に節子を守るための努力をするべきでした。

それにしても、「命の保証はできない」という言葉は聞きたくない言葉です。
医師も、たぶん発したくない言葉でしょうね。
保証などできないのは当然なのです。
生命力も、祈りも、医療と同じで、万能ではありません。
それを前提にして、みんなが誠実に取り組むようになれば、医療の世界も少し変わるかもしれないような気がします。

思い出すたびに、反省点が浮かんできて、少しやりきれない気持ちになってしまいます。

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2009/06/03

■節子への挽歌640:医療と私情

これは、医療時評で取り上げるべき話なのですが、ことの成り行き上、挽歌として書くことにします。

先日、引用させてもらった節子の主治医だった先生からのメールに、「医師と患者さんの関係は微妙であり、時に私情が過ぎるとうまくいきませんよ」という言葉が出てきます。
私も同じような言葉を、このブログでもかいています。

節子と一緒に、病気と付き合いながら、次第にこの考え方は私の意識の中からは消えていきました。
いまでは、むしろ「医療とは私情に裏付けられるべきではないか」という思いさえあります。
この場合の「私情」とは、「利己的な気持ち」ではなく「公の立場を離れた表情のある人間的な感情」という意味です。
いいかえれば、医師という肩書きではなく、その根底にある人間の気持ちということです。
病気を診ずに患者を診るということは、そういうことなのだろうと考えるようになりました。

医療と医学、医術は違います。
医療の「療」とは、いうまでもなく「いやす」ということです。
「いやす」ためには、人間的な要素が不可欠です。
こう考えていくと、医師と患者の間に一番大切なのは、ある種の「私情」ではないかと思います。
薬よりも、医師の心のこもった一言が、患者を元気にするのです。

病院におけるコミュニケーションの問題に関心を持っている人が、私の周りには少なくありません。
コミュニケーションを「論理」の世界で考えるか、「感性」の世界で考えるかは、重要な視点だと思いますが、人間が生命をかけて出会っている病院においては、後者の次元におけるコミュニケーションこそが大切ではないかと思います。

ちなみに、メールを下さった節子の主治医の先生は、節子にも私にも、とても人間的に接してくれました。
私たちも、人間として自然に付き合ったつもりです。
節子が元気になったら、患者と医師としてではなく、家族づきあいもできたような気がします。
それが実現できなかったのが、節子にはとても残念だったでしょう。

先生からのメールは、節子には届いているでしょうか。
一応、位牌には報告しておきましたが。

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2009/06/02

■節子への挽歌639:花は彼岸と此岸をつなぐもの

節子を見送った直後、弔問に来てくれた友人からメールが来ました。

一昨年、伺ったとき貰った鉢植えのミニ薔薇が今盛んに咲きだしていて、花好きだった奥さんのことも併せて思い起こさせます。
弔問に来てくださった方に、ともかく花や球根をお渡ししていたのですが、そのおかげで、こうしたうれしいメールや手紙が今もまだ届きます。
花の力は大きいですね。

最近、もしかしたら花は彼岸と此岸をつなぐものではないかという思いが強くなりました。
花を見ていると、向こうの世界を感じられるような気がするのです。
節子は、何であんなに花が好きだったのでしょうか。
病気になってから、特に花が好きになって、手入れに入れ込んでいたような気もします。

イラク北部の洞窟で発見されたネアンデルタール人の化石の近くに、数種類の花粉が発見されたことから、「ネアンデルタール人には死者に花を添える習慣があった」という説が広がったことがあります。
最近ではどうも否定されているようですが、私は今もなおそのことを信じています。
花には、不思議な魔力があるような気がしてなりません。
節子を送る時に、もっともっとたくさんの花を添えればよかったと、今頃気づきました。
節子が好きだったカサブランカやバラの花で、もっと賑やかにしてやればよかったですね。
花の精に取り囲まれて、節子はきっと喜んだでしょう。
花を見ていると、そんな思いが次々と浮かんできます。

わが家では、節子が好きだった、ガクアジサイの隅田の花火が咲きだしています。
アジサイも、なんとなく霊界に通じているような雰囲気があります。
節子がいなくなってから、アジサイの季節はちょっと私には不得手な季節になってしまいました。
悲しすぎるのです。
バラの季節とは全く違うのです。
花からのメッセージは、痛いほど心に突き刺さります。

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2009/06/01

■節子への挽歌638:なかなか枯れなかったバラの花

節子
しばらく初夏を感じさせるような毎日だったのですが、この数日、一転して肌寒い日がつづいています。
天気が悪いとやはり気分がふさぎます。

もう3週間前の話ですが、ジュンが大きな赤いバラの鉢植えを買ってきました。
とても元気で見事な一輪だったのですが、次の花が元気にまた咲き出すように、切花にして節子の位牌壇に飾りました。

ところが、その一輪の花がなかなか枯れないのです。
おそらく2週間近く、元気に咲いていました。
節子の好きな真紅のバラです。
なぜこのバラは枯れないのだろうかとジュンが不思議がっていました。
大輪の花で小さな花びんに入れていたのでいつも倒れそうでした。
咲き盛りの時に切り取ったのに、10日ほど見事に咲き続いてくれました。
毎朝、節子に般若心経をあげながら、そのバラの花にも声をかけていたのです。

その咲き続けるバラの花のことを先週書こうと思っていたのですが、なぜか忘れてしまっていました。
今朝、位牌壇にそのバラの花がないことに気づきました。
私が軽井沢に出張した翌日、枯れてしまったのだそうです。
悪いことをしてしまいました。

植物も心を持っていて、声をかけていると長持ちすると言われます。
私もオフィスの花でそれを体験していますので、花にはできるだけ声をかけるようにしています。
もしかしたら、位牌の前のバラの花には、節子が毎日声をかけていたのかもしれません。

花は枯れてしまいましたが、花を切った元のバラの木は新芽が伸びだして、また2輪、花が咲くようです。
枯れてもまた新芽が育ち、花も戻ってくる植物がうらやましいです。

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2009/05/31

■節子への挽歌637:68歳と62歳

節子
今日は昨日の続きではなく、別の話題を書きます。
昨夜、節子の夢を見ました。

昨日は私の68歳の誕生日でした。
昼間は「支え合いネットワーク」の交流会をやっていたのですが、夕方帰宅したら娘たちがお祝いの用意をしてくれていました。
私の好きなサザエと節子伝来の手づくりケーキが用意されていました。
プレゼントはないのかと督促したら、何と「肩たたき券」をくれました。
最近、私がかなりの肩こりになっているのをよく知っているのです。
いずれも、節子の文化を継承した、お金ではなく誠意のこもったお祝いです。
節子は、やさしい娘たちを残してくれました。
まあ、彼女たちがまだ家にいるのが問題ですが、今日はそんなことも忘れて、ただただうれしく思いました。
しかし、いつか書いたように、うれしい出来事は同時に、節子がいない寂しさを思いだせもするのです。
いささか浴が深すぎるかもしれません。

私は68歳になりましたが、節子は今なお私の中では62歳です。
節子とだんだん歳が離れていくような気がしないでもありません。
節子が彼岸へいってしまった時点で、節子は私にとっては永遠の存在になってしまいました。
もう歳はとらないのです。

人は不思議なもので、自分の年齢さえも相対的な目で考えます。
小学校の同級生と一緒にいると、相変わらずみんな小学生時代に気持ちになってしまいます。
節子と一緒だと、自分が年老いてきていることをあまり感じませんでした。
2人とも歳をとっているので、年齢の関係は変わらないからです。
時々、老いを感ずることはありましたが、普段は感じませんでした。
ところが、節子がいなくなった途端に、私の場合は、老いていく自分を認識できるようになりました。
娘たちとの関係も変わりました。
節子と一緒だった時は、私たち夫婦の子どもという位置づけは動きませんでしたが、節子がいなくなり一人になってしまってからは、娘に養われる老人という自覚が生まれてきました。
伴侶を亡くすと、人は一挙に歳をとってしまうのかもしれません。

その逆の話も時々聞きます。
若返る事例もあるようですが、いずれにしろ年齢感覚が変わってしまう気がします。
私の場合は、老いを強く意識するようになりました。

節子が祝ってくれる誕生日と娘たちが祝ってくれる誕生日とは、全く異質なような気がします。
こんなことをいうと娘たちには申し訳ないのですが、やはり妻に祝ってもらう場合は若さを感じますが、娘たちに祝ってもらうと何となく老いを感じてしまうわけです。
まあ、実際にはそれが正しい感覚なのですが、伴侶がいると「老い」さえも感じないですむということかもしれません。
「横断歩道、一緒に渡ればこわくない」という話と、どこかでつながっているかもしれません。

それにしても、娘たちはよくしてくれます。
すべては節子のおかげです。
娘たちや節子のやさしさに報いるためにも、老いを活かしていかなければいけません。
68歳らしい生き方は私にはできませんが、私らしい生き方で68歳を過ごそうと思います。
62歳の節子が応援してくれているはずですから。

ところで、冒頭に書いた、昨夜の節子の夢です。
節子はよく夢に出てきますが、いつもはさりげない形で日常的に出てきます。
昨日は違いました。
夢の中で、節子と久しぶりに唇を重ねました。
滅多にない夢です。
節子からの久しぶりのプレゼントです。

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2009/05/30

■節子への挽歌636:医師と患者の関係の悩ましさ

節子
私も68歳になりました。
そのことをどう節子に報告しようかと先週から思っていたのですが、今日は全く違う話を書きます。
昨日の話です。

節子の主治医だった先生からメールをもらいました
何回も読んだのですが、先生の許可を得ずに掲載することにしました。
許可を得てないので匿名にさせてもらいます。

昨年の手賀沼エコマラソンの次の日に書かれた日記を先ほど見る機会を得ました。
正直動揺してしまいました。

佐藤さんが「がんセンターにはいけなくなってしまいました。
近くに行くことはあるのですが、入れません。」と書かれていた気持ちは非常によく分かる気がしたのです。
「医師と患者、そして患者の家族の関係はとても微妙です。」という事も含めてです。

今でこそ白状いたしますが、節子さんが亡くなられる少し前(正確には覚えていませんがおそらく1ヶ月くらい前だと思います)に、2人の娘を連れて佐藤さんの家の前まで行ったことがあります。
もちろん節子さんに会ってお話ししたいと思ったことと、うちの娘を節子さんに会わせたかったからです。
どうしてそのように思ったのかはうまく説明できませんが、とにかく娘と共に会いたかったのです。
いろいろとお菓子を作ってくださったこともありましたし、家で佐藤さん方の事は話ししていたこともありましたが、本当のところはうまく説明できません。
その時僕は車を止めて、呼び鈴を押すかどうかしばらく迷い、やめて帰りました。
子供にもどうして折角きたのに会わないの?と言われましたが
その時の僕はそのような判断をしました。

その数日前に僕の妻に、節子さんに会おうか迷っているのだけどと相談したところ、
彼女より「医師と患者さんの関係は微妙であり、時に私情が過ぎるとうまくいきませんよ」とアドバイスされました。
彼女の言葉が大きかったのは事実ですが、その後もあの時会っておけば、と何度か思ったのも事実です。

佐藤さん方と同じように、ずいぶん深く関わっていながら内科治療に移っていったある患者さんが今入院しています。
内科の主治医に状態がすぐれないことを夕方聞きました。
そのあと偶然、佐藤さんのホームページを久しぶりに見たのです。
今日は当直なのですが、先ほどその患者さんに会いに行きました。
もう意識はなく僕が来たことがわかってもらえたか自信がありませんが、
僕ははっきりと、僕が呼びかけたときにうなずいたと分かりました。
その患者さんがずっと僕に会いたがっていたと家族の方々に教えて頂きました。

今日僕がこのような行動をとることができたのは、佐藤さんのおかげです。
急にこんな事を言われて変だと思わないでください。
とても偶然なことなのですが、
もしあの文書を読むことがなかったら、
勇気が出なかったというのが正しい言い方なのかもわかりません。
そして2年前の8月には、その勇気が出せませんでした。

これについて、少し私の気持ちを書こうと思いましたが、やはり涙が出てきて書けません。
1日、間を置いたので大丈夫かと思っていたのですが、今読み直したら、また胸が痛くなりました。
明日か、明後日、つづきを書きます。たぶん。

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2009/05/29

■節子への挽歌635:節子の主治医だった先生からのメール

節子
仕事で昨日から軽井沢に来ています。
とても快適なシーズンのはずですが、昨日から雨です。
それも冷たくて強い雨です。

子供たちが小さい頃、夏休みにはよく家族で長野には来ましたが、軽井沢に来たことはたぶんないですね。
思い出がないおかげで、軽井沢に来るのはあまり抵抗はないのです。
しかし新幹線に乗ると、いつもとなりに節子がいたらいいのにと今でもつい思ってしまいます。
節子とはたくさん一緒に旅行もしたような気もしますが、もっともっと旅をしておけばよかったと思います。
節子との旅は、いつも本当に楽しかったです。

最近、朝早く目が覚めます。
今朝も5時には目が覚めてしまいました。
いろいろと節子のことを思い出しながら、持ってきたモバイルでメールを開いてみました。
思ってもいなかった人からのメールが届いていました。
節子の手術をしてくださった先生からです。
メールを読ませてもらって、涙が止まらなくなりました。
節子は手術後、その先生にずっと診てもらっていましたが、再発後は内科の医師に主治医が変わったのです。
しかし、最後までずっとその外科医の先生は相談に乗ってくれていました。
その先生が、このブログを読んでくれていたのです。
思ってもいなかったことです。

今日は思い出のない軽井沢と節子の話を書こうと思っていたのですが、それどころではなくなりました。
1日、時間を置いて、明日、この話を少し書かせてもらおうと思います。
うまく書けるかどうか、全く自信はないのですが。
でも節子にはぜひとも知らせておきたい話です。
正直、今は少し気が動転しています。
今日の仕事はうまくいくかどうか心配です。

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2009/05/28

■節子への挽歌634:私の周りの人間関係が変わってしまいました

節子
最近、私のブログやホームページから、私の元気が少し感じられだしたようです。
それを読んだ人たちが、もう大丈夫と思うのか、会いに来てくれるのです。

節子がいなくなって、いろいろな変化が起こりましたが、予想していなかったのは、私の交友関係が変わってきたことです。
それも節子との共通の友人知人ということではありません。
節子とは関係のない、私の友人知人との関係が微妙に変わってきたということです。
人は、一人では生きていませんが、人のつながりというのは、広範囲に影響しあうものだということを実感させられました。

たとえばこういうことです。
伴侶を失った後、何となく疎遠になった友人知人がいます。
何かがあったわけではないのですが、お互いに何となく会う気がしなくなったのでしょう。
そこにはそれなりの理由があるのでしょうが、会わないことで人間関係は変化します。
逆に、伴侶との死別を意図的に意識することなく、以前と同じように付き合ってくれる人もいますが、私自身が変わっていますので、たとえその人が前と同じように振舞っても、これもまた人間関係に微妙な変化を起こさせるのです。
自らの「半身」が削がれただけではなく、自分を取り巻く世界のバランスが崩れてしまうのかもしれません。

私自身の生きる基準が変わってしまったことが、その大きな理由でしょうが、気がついてみたら世界は一変してしまっていました。
節子がいなくなった後に、出会った人や世界もありますが、それらはなにかとても白々しくて、まだリアリティがないというか、それ以前の世界とうまく整合しないのです。
まあ、こんな理屈っぽいことを考えるのは私くらいかもしれませんが、これはただ理屈っぽく書いただけであって、実際にはシンプルな、もっと生々しい実感があるのです。
おそらく私と同じような体験をされた方は、私同様に友人知人との関係が大きく変わってしまっているのではないかと思います。

非日常的なことが起こると、人の素顔が見えてきます。
おそらく節子を見送るという、非日常を体験した私の素顔は、多くの人に見えてしまったことでしょう。
私自身にも、私が意識していなかった自分の素顔がいろいろと見えてきました。
そこには、私自身があまり好きになれない自分もいます。
でもまあ、そんな私の素顔を見ながら、会いに来てくれる人がいるのは感謝しなければいけません。

節子がいたおかげで、私はたくさんの人たちとのつながりを育てることができました。
その多くは、節子がいなくても育ってきたつながりだと思っていましたが、そうではないことに最近気づきました。
人のつながりは、とても微妙です。
人は、一人では生きていないことを、最近改めて痛感しています。

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2009/05/27

■節子への挽歌633:深い信頼関係があれば、生きるも死ぬも同じかもしれない

節子
私たちは、お互いを信頼するという点では、一点の曇りもなかったですね。
まあお互いに頼りなさは感じていましたが、自らの生命ですら、相手の決断に託すことができるほどの、信頼関係があったといってもいいでしょう。

節子は、私に自らの生命のすべてを託しました。
それを、私ははっきりと実感していました。
だからこそ、それを守れなかった自分自身の不甲斐なさから、いまなお私は立ち直れないのですが、節子はそのことを微塵も後悔していないでしょう。
そのことには、自信があります。
立場が逆であったとしても、同じだったでしょう。
節子は私のために最善を尽くし、尽くしてもなお悔いを残したはずです。

人を、それも大人になってから初めて出会った他者を、これほど信頼できるということは、おそらく幸運としかいいようがありません。
私たちは、一度として、相手を裏切ることはありませんでした。
いや、そう言い切るのはわずかばかりの迷いがないわけではありませんが、節子も私も、相手に自らの生命をゆだねることにおいては、全くの躊躇がなかったと思います。
裏切られることはないという確信が、私たちには間違いなくあったのです。

人は他者を完全に信頼できるものだという体験があれば、生きるのはとても楽になります。
素直に自分を出すことにも躊躇がなくなります。
生きるためには、お金よりももっと効果的なものがあることも確信できます。
私の楽観主義も、節子の楽観主義も、お互いに伴侶を信頼できる関係をもてたからではないかと思います。
信頼する伴侶がいれば人は生きられる、と私は思っていました。

唐突にこんなことを書いたのは、理由があります。
今日、東尋坊で自殺防止活動をしている茂さんから電話をもらいました。
電話で話していて、突然思い出したのが、茂さんがこの活動にのめりこんでいった契機になった不幸な事件です。
テレビや新聞などで時々取り上げられるので、ご存知の方も多いでしょうが、茂さんの働きかけで、一度は死を思いとどまった仲の良いご夫婦が、その後、結局は死を選ばざるを得なかった話です。
いまでも茂さんは、その人たちからの最後の手紙を大事にとっています。
お互いに、心底、信頼しあっていたご夫婦がなぜ死ななければいけなかったのか。
以前から、そのことがずっと気になっていました。
今日、茂さんとの電話が終わった後、なぜか急にそのことが思い出されました。
そして、その疑問が氷解したのです。
心底信頼しあっていたからこそ、一緒の死を選んだのだ、と。
茂さんに話したら、そんなことはないといわれそうなので、内緒にしておこうと思いますが。

なぜそう思ったのか。
実は、昨日、書きかけてややこしくなってしまった記事は、「生きること」と「死ぬこと」とは同じことなのだという話なのです。
昨日も書きましたが、書いていてまとまらなくなっていたのです。
「生きること」と「死ぬこと」とが同じ、そんなはずはないからです。
でも、もしかしたらそれは正しいのかもしれません。
そんな気がしてきたのです。

もう少しまとまったらこの挽歌に書いてみたいと思います。
まだまだ未消化で、支離滅裂ですが、最近、生きることの意味が何となくわかってきたような気がしてきました。
死が近いのかもしれません。
節子が呼んでいるのでしょうか。

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2009/05/26

■節子への挽歌632:今日は挽歌が書けませんでした

節子
今日は挽歌が書けませんでした。
といいながら、まあ書いているわけですが、夕方書こうと思っていたら、来客があり、話しているうちに時間がなくなってしまいました。
彼が帰った後に書き出したのですが、昨日の続きを書き出したら、かなりややこしい話になってしまいました。
疲労している今日の頭では、どうもうまくまとまりません。

違う話題を書こうと思ったのですが、眠くなってきてしまいました。
今日は実にいろいろなことがあったのです。
まあ、いずれもたいしたことではないのですが、変化に富んでいたのです。
変化は、昔は元気の素でしたが、最近は疲労の素になるようです。
いやはや困ったものです。

今週はまだいろんなことが予定されていますが、週末の5月30日は私の誕生日です。
67歳最後の1週間は、なぜかいろんなことが集中してしまったようです。
67歳のうちに決着をつけておけということなのでしょうか。

まあこうやって、何かを書いていると話題が浮かんでくるのではないかと思っていましたが、今日はただ眠いだけです。
そういえば、なぜ最近眠いのかを書けばよかったですね。
これはやはり節子にかなりの責任があるからです。
でもまあ、今日は眠ることにしましょう。
明日はまた、いろんな人が湯島に来ます。
なんの相談に来るのでしょうか。
また何かに巻き込まれなければいいのですが。

そういえば、最近、時評編も時々書けていません。
決して忙しいわけではないのですが、なぜか時評編はモチベーションが下がっています。
その上、気ぜわしさが最近、私を覆いだしています。
能力以上のことを約束してはいけませんね。
節子がいたらきっとセイブしてくれたのでしょうが。

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2009/05/25

■節子への挽歌631:関係の自立

節子
今日は、節子が嫌いで、私が好きな、いささか「ややこしい話」です。

今村仁司さんは、「貨幣とはなんだろうか」という本の中で、人間関係の媒介形式が崩壊した時にどういうことが起きるのか」について、アンドレ・ジイドの「贋金つくり」やゲーテの「親和力」を題材にして語っています。
私は、どちらも読んだことがないのですが、いずれにおいても、家族を軸にした物語が展開されているようです。
今村さんが人間関係の媒介形式と言っているのは、たとえば「夫婦」であり「親子」です。
節子と私は、節子が退出するまでは、真実そのものの夫婦でしたし、娘たちとの関係においても、間違いのない親子でした。
たとえばその夫婦関係や親子関係のなかに、ある意味での「裏切り」、夫婦でいえば浮気とか不倫、親子でいえば家出とか騙しあいが起こることを、今村さんは「媒介形式の崩壊」と呼ぶのですが、それによって「贋物の夫婦や親子」が生まれてくるわけです。
しかし、本物と贋物の違いは、さほど明確ではないように思います。

この本の主題は、貨幣とは何かであり、貨幣にはそもそも「本物と贋物」があるのかという問いかけがあるように思います。
私はお金はすべて「贋物」であると考えていますので、偽札に対してもさほど違和感がありません。
北朝鮮が国家で偽札をつくっているのと、米国が大枚のドルを世界に垂れ流しているのと、どこが違うのか、私にはほとんど理解できません。
ちなみに、私が村長を務めていた(務めている?)コモンズ村の通貨である「ジョンギ」は、みんなに偽札作りを推奨しています。

時評のような内容になってきてしまいましたが、今日は挽歌のつもりで書き出したのです。
でもまあ、たまには、どちらでもいいような記事があってもいいでしょう。
それがこのブログの特徴と言っているわけですから。

私と節子の夫婦関係という「媒介形式」は節子がいなくなった今も、まだ存続しています。
しかし、「関係」は存続していても、お互いが彼岸と此岸とに離ればなれになってしまい、会うことができなくなってしまった場合、どうなるのでしょうか。
今村さんの本はいささか難解なのですが、その本を読んでいるせいか、そうした「さらに難解な問題」を考えたくなってしまいました。
媒介すべき主体の一方がいなくなったのに「媒介関係」があるということは、媒介関係が自立しているということです。
私たちは、「関係」は、その両側に「要素」があってこそ成り立つと思いがちですが、「関係」があってこそ「要素」が意味を持つことは少なくありません。
もしそうなら、要素がなくても「関係」が存在することは十分考えられることなのです。

媒介としての貨幣を考えてみるとわかるのですが、最近では、貨幣は単なる媒介ではなく、それ自体が目的や主体になってきています。
「関係」が自立し、「意味の世界」が実体を影響しだしたのです。
それが、社会を壊しだしているわけですが、では人間関係の媒介関係の場合はどうでしょうか。
自立してしまった「関係」のもとで、夫婦を演じたり親子を演じたりしているような話もあるようですが、「関係」がそれぞれの生き方を壊してしまっている例も少なくありません。
いえ、「創造」と「破壊」は、コインの裏表でしかなく、同じものなのかもしれません。

話が拡散しそうですので、しぼりましょう。
全く無縁に育っていた私と節子が、ある時出会って、夫婦になった。
そこで私たちは、2人とも人生を一変させたわけです。
それまで存在しなかった「媒介形式」が生まれたからです。
今から考えると、私たちは2人とも、「夫婦」という新しい生き方に自らの、おそらくほとんどすべてを投げ入れました。
そこで、関係の「主役」になれたのです。

貨幣の本を読んでいて、こんなことを考える読者は私くらいかもしれません。
しかし、こうした話は、私の大好きな世界なのです。
長くなりそうなので、今回はこの辺でやめますが、いつか続けたいと思います。

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2009/05/24

■節子への挽歌630:中途半端な楽しさは、悲しさも引き出します

節子
今日はめずらしく家族3人でイタリアン・レストランに行きました。
むすめの友達がやっている、柏にあるイタリア田舎料理の「まがーり」です。
シェフの佐藤峰行さんは、23歳の時に料理人になることを決意して、イタリアに修業に行き、そこからまあいろいろとあって、2003年に「まがーり」を開店したのだそうです。
むすめから話は何回か聞いていたので、一度、みんなで食べに行くことにしていたのです。

「まがーり」では、毎月、イタリアの特定の地方の料理メニューにしているのですが、今月はアブルッツォ州でした。
と言っても、私は名前も知らなかったのですが、そこの料理では仔羊のミートソース和えがおいしいのだそうです。
肉が不得手で、しかもミートソースも不得手な私としては、残念でしたが、メインは魚にしてもらいました。
魚はヒラメでしたが、とても素直な仕上げでおいしくいただきました。
野菜の味付けも私の好みにぴったりでした。
田舎料理だからでしょうか、とても素朴で素直で、イタリアンのイメージがちょっと変わりました。

食事をしていて、思いだすのはやはり節子のことです。
節子がとても喜びそうなお店だったからです。
実にアットホームで、素朴で、いろんな意味で「すき」のあるお店なのです。
最近のレストランは、なにやらきれいすぎて退屈ですが、このお店には表情が感じられます。
それが、たぶん節子が気にいることなのです。
まあ、節子のことですから、いろいろと批判をし、改善点をあげることでしょう。
しかし、それこそが、会話を育てるお店なのです。

料理も間違いなく、節子好みです。
味付けがとても素直なのです。
おそらくシェフの人柄が出ているのでしょう。
人柄が感じられないような味は、節子も私も好きではありません。
デザートに手づくりケーキが出てきましたが、そば粉と卵白で作ってみたそうです。
これも美味しかったです。
ちょっと素朴に硬すぎる感じもしましたが、そこが田舎料理の良さかもしれません。
節子なら早速、レシピを訊いて家で作ったことでしょう。
そうした会話が弾みそうな雰囲気のレストランです。
久しぶりに3人でのイタリアンでしたが、節子がいたらもっともっと楽しい食事になったことは間違いありません。

わが家では、時々3人で外食するのですが、節子がいた4人の時と今の3人では、雰囲気が全く違います。
楽しさが全く違うといってもいいかもしれません。
そして、いつも必ず、節子のことが話題になります。
時に、私は涙が出そうになります。

家族にとって、やはり妻であり母親である人の存在は大きいです。
なにかある度にそう思います。
家族で最初に抜けるのは、やはり父親であるべきだと、今日も娘たちと話していて思いました。
妻のいない夫は抜け殻のようであり、母親のいない家族は空気の抜けかけたボールのようです。
食事は楽しかったのですが、節子のことを思い出したら、何だかとても悲しくなってしまいました。
中途半端な楽しさは、悲しさを引き出す役割を果たすものなのです。

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2009/05/23

■節子への挽歌629:花を見ながら思い出すこと

節子
玄関のバラがみごとに咲いています。
節子は残念ながらこのバラをみることができませんでした。
Bara_2

節子のおかげで、わが家は今も花が絶えません。
花を見るたびに節子を思い出します。

湯島のオフィスのミニバラも元気ですが、元気をなくして枯れたかと思った昨年のミニバラも、一輪だけですが、黄色の花を咲かせてくれました。
それが、とても健気に見えて、節子を思いだせます。
そのミニバラを枯らせないためにも、最近は湯島に行かねばならなくなってきました。

そういえば、我孫子のサツキ展でもらったツツジも小さな花を咲かせています。
その花をくれたのは、茨城に住んでいる松崎さんという人です。
サツキ展の入り口で、みんなに小さなツツジを配っていたのですが、節子はその人からツツジの育て方をいろいろと訊いていたのです。
その人から家にはもっと大きなツツジがあるから見に来ないかと誘われていました。
一度、一緒に行こうといっていたのですが、節子の体調が悪くなったために実現できませんでした。

節子は土になじんだお年寄りと話すのが好きでした。
節子の母親も滋賀で農業を少しやっていたからです。
松崎さん(確かそういうお名前でした)の家に行って話をしたかったのでしょう。
行けませんでしたが、松崎さんのお名前は時々出てきましたので、私も覚えてしまったわけです。

節子と私の、人のつながりの育て方はちがっていましたが、世界も違っていました。
節子の付き合う人たちの世界は、みんな「生きている」香りがしました。
こんなことをいうと、私の友人たちには失礼になるかもしれませんが、私の友人知人の多くは、私と同じく、知で生きているような気がします。
節子は違いました。
良い意味でも悪い意味でも、心で感覚的に生きていましたし、自然とつながっていました。
ですから節子は私の知識に敬意を持ちながらも、そうした生き方をしようなどとは思ってもいませんでした。
理屈でいくら言い負かせても、真実は変わらないと、節子は時々私に言いましたが、私もそれを知っていました。
理屈は、弱いもの、自信のないものの、悲しい言い訳でしかありません。

節子は、花や土から多くのことを学んだのかもしれません。
書や人から学んだ私には、とても太刀打ちできるはずがなかったのだと、最近やっと気づきだしました。
節子が、やっと気づいたの、そのうちわかるだろうと思っていたけど、と言っているのが聞こえるような気がします。
節子は、知識もなく頭も悪いと自分でよく言っていましたが、私の人生の師の一人なのです。
その意味をわかってくれる人は少ないかもしれませんが、私には最高の師だったのです。
私の世界観や人生観は、節子が育ててくれたものなのです。
まあ、それなりの素地もあったと少しは自負してはいるのですが。はい

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2009/05/22

■節子への挽歌628:会社の経理の仕事

節子
株式会社コンセプトワークショップはまだ倒産せずに健在です。

といっても、この会社はこの4年ほど、ほとんど休業状態なのです。
最近の年間収入は事務所経費を賄うのがやっとの状況ですので、会社の解散も考えたのですが、借金もあり簡単には廃業できません。
それに、節子と一緒にやってきた会社ですので、私が元気な間は続けることにしました。
私の給料はこの3年間ゼロですが、3年前からは税理士へ支払う余裕もなくなったので、昨年から私が自分で決算書類を作成しています。
節子が元気だったころは、会社の経理は節子が窓口になって税理士に頼んでいましたので、私はそうしたことからは全く解放されていました。
お金のことを気にせずに、やりたいことだけをやるという幸せはなくなってしまいました。

節子も税理士もいなくなって、自分でやってみるとけっこう面倒です。
この面倒なことを節子に任せていたことを悔やんでいます。
節子も、決して向いているとはいえない種類の仕事でしたから。
昨日1日、1年分の経理処理をしていたのですが、途中で嫌になってしまい、まあだれもみないだろうし、どうせ赤字なのだから税務的にもそう正確でなくてもいいだろうとかなり手抜きをしてしまいました。
私は手抜きがうまいのです。
人生においてもかなりの手抜きで生きてきました。

しかし、節子は手を抜くのが不得手でした。
私から言えば要領が悪いのですが、手を抜けない節子が会社の経理の仕事をいつも負担に感じていたのを思い出します。
節子はそれが自分の仕事だと決めていました。
そこが節子の健気なところなのですが。

経理の仕事で、楽しいこともなかったわけではありません。
お金がなくなったけどどうしようか、という相談は実のところ楽しかったです。
足りないといってもたかが知れていますので、切実感はありませんでした。
何しろ2人だけの会社ですから、お金がなくなれば給料をもらわずに、不足分をどこかで稼いで充当すればいいだけの話です。
なにしろ私たちの会社は、仕事をすればするほど出費が増えて、収入は増えない傾向があったのです。
まあいつも質素に、小さく活動していましたから、不足してもせいぜい事務所の家賃を払えない程度の話です。
身の程に生きていれば、破局など起こらない、と私たちはいつも考えていました。
もっとも、そこまで来るには、それなりの苦労もあり、私の25年間の会社生活があったわけですが。

事務所家賃を払えずに、むすめたちの定期預金を解約させたこともあります。
しかし、家族とはそんなものでしょう。
それがわが家の文化でした。
でも、こうやってお金を気にせずに生きていけることはとても恵まれているのでしょう。
こうした状況を残していってくれた節子にとても感謝しています。

さて、肝心の会社の経理ですが、一瞬、黒字かと思ったのですが、やはり計算違いで、かなりの赤字でした。
今年度も1円ももらえませんでした。
本気でお金がもらえそうな仕事を探さなければいけなくなりそうですが、問題はそうした仕事をする時間があるかどうかです。
そうした相談をする相手の節子がいないのが、残念です。
2人だと楽しいことも、一人だと辛いことになるものです。

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2009/05/21

■節子への挽歌627:星の王子さまとバラ

バラと旅の話がつづきましたが、サン・テグジュペリの「星の王子さま」もいろいろな星を旅しながら最後に地球に着きました。
そのせいか、久しぶりに「星の王子さま」を読みたくなりました。
私の記憶におぼろげ残っている話が出てきました。

王子さまが自分の星を旅立って、7番目に着いたのが地球です。
そして最初に出会ったのがヘビでした。
次がたくさんのバラの花、3番目がキツネでした。
テグジュペリがこの本で言いたかったことは、ここでキツネが語っていることだと思いますが、その一部を少し編集して引用させてもらいます。
ちなみに、王子さまは、自分の星に残してきた1本のバラのことをとても大事に思っているのです。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
「あんたが、あんたのバラの花をとても大切に思ってるのはね、そのバラの花のために、時間をむだにしたからだよ」
「人間っていうものは、この大切なことを忘れてるんだよ。だけど、あんたは、このことを忘れちゃいけない。面倒みた相手には、いつまでも貴任があるんだ。守らなけりゃならないんだよ、バラの花との約束をね」
これだけ切り離して取り出すことはあまりフェアではないかもしれませんが、それぞれに含蓄を感じます。

「かんじんなことは目に見えない」。
いまの私たちが忘れていることです。
「目に見えないこと」の意味はとても広いのですが、その世界を私たちは小賢しい知識と科学で狭くしてしまっているように思います。
有識者といわれる人たちと現場で汗している人たちと、私はそのいずれにも友人知人がいますが、そのどちらが「かんじんなこと」に気づいているかは明らかです。

誰かや何かを大切に思う、つまり愛するのは、その対象のために時間を無駄にしたからだ、というのは、すごい発言です。
思い出すのは、ミヒャエル・エンデの「モモ」ですが、メッセージ力の強さは、その比ではありません。
これは逆ではないのかという人もいるでしょうが、それこそが小賢しい近代の知なのです。

そして3つ目は、面倒をみた相手にはいつまでも貴任がある、ということです。
これも私たちが忘れていることの一つです。
この掟をこわしたのが、「お金」ではないかと、私は思っています。

私は、節子とたくさんの「無駄な時間」を過ごしました。
それに関してはかなりの自信があります。
ですから私は、節子を愛して結婚したのではなく、結婚したから愛したのです。
結婚でもしてみないという言葉でプロポーズしたことの、それが意味でもあるのです。

ところで、節子にこの言葉を伝えた時に、私はまだ「星の王子さま」を読んでいなかったような気がします。
ですから思うのです。
このキツネの言葉は真実ではないかと。

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2009/05/20

■節子への挽歌626:海外旅行で知り合った人たち

イラン旅行は、私と節子との最後の海外旅行でした。
ツアーで行ったのですが、同じツアーに小林さんと岡林さんという、私たちよりも一回り年上の女性2人組がいました。
とても元気なのです。
旅行期間中に、節子はそのお2人と仲良くなりました。
いろいろと話しているうちに、なんと岡林さんと私には共通の友人がいることがわかりました。
世界は狭いもので、そうしたことは時々起こります。

帰国後、ぜひまたお会いしたいというので、一緒に食事をすることになりました。
湯島の私のオフィスに来てもらい、近くのレストランで久しぶりに会食しました。
私も同席させてもらいました。
私が会社を辞めて、節子と二人三脚で仕事を始めてからは、一緒に行動できる時はできるだけ一緒にいようと言うことにしていたのです。
そうやって誰かに会う時、節子はいつもちょっとしたプレゼントを用意していました。
お金にすれば、それこそ高くても数百円のものだったように思いますが、そうした小さなプレゼントを用意するのが節子の文化でした。
その文化はなかなか私には真似できない文化です。
私が思うに、そんなものをもらったら結局は「ごみ」になるんじゃないかと思うようなものもありましたが、節子のその気持ちはとても私には魅力的でした。

エジプト旅行で知り合ってお付き合いが始まったのは、金沢に住む八田ご夫妻でした。
帰国後も交流が続き、私たちはわざわざ金沢まで八田さんに会いに行きました。
たぶんこれも節子が行こうと言い出したはずです。
八田さんご夫妻とお会いしたら、八田さんの奥さんが私たちに言いました。
暑いエジプトで遺跡を歩くのがとても疲れていた時に、佐藤さんたちからそれぞれ声をかけてもらったのがとてもうれしかったのです。
後で、ビデオで撮影したものを見ていたら、たまたま私が「暑いですけど大丈夫ですか」と八田さんの奥さんに声をかけているのが録音されていました。
きっと節子も、同じような声を別の場面でかけていたのでしょう。
八田さんたちからは、私たちがそれぞれ別々に、しかし同じように接したのが印象的だったようです。

その八田さんたちももう今はいません。
節子と彼岸で会っているでしょうか。

私と節子との海外旅行は回数は多くはありませんが、いずれにもとてもあったかい記憶があります。
遺跡周りの後は、節子の好きな自然まわりの予定でしたが、それが始まる前に、節子は一人で彼岸に旅立ってしまったのです。
向こうで、どんな人たちとの出会いを楽しんでいるのでしょうか。
ひとついえることは、節子は私がいればこそ、新しい出会いを楽しめたのだと思います。
一人の時の節子は、意外に消極的だったはずです。
なぜそうかといえば、私もそうだからです。
私たちは、2人でいる時と、別々に1人でいる時とでは、人格が違っていたような気がします。
2人でいると2人とも、心底、素直になれたのです。
もう私も、心底、素直になれることがなくなってしまったのかもしれません。

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2009/05/19

■節子への挽歌625:待っているのに手紙が来ない

節子
旅先で会った人シリーズをちょっと続けたくなりました。
いろんな人たちに会いました。
今回は、節子を失望させた人たちの話です。

海外旅行で会った人から手紙が来ると期待していたのに、結局は来なかったことが何回かあります。
まず思い出すのが、トルコで会った若者たちでした。
イズミールだったでしょうか、夕方のホテルの近くを散歩していたら、日本語を学んでいるという学生たちのグループに会いました。
そこで例によって、節子との会話がはじまりました。
みんなで記念写真まで撮って、後で送るからと住所を聞きました。
みんなで手紙を書いて、写真もたくさんプリントして送ったのに、その後、音沙汰がありません。

イラクのペルセポリスでは、私が若者たちに捕まってしまいました。
先生が引率していたのですが、その先生からも何か訊かれたのです。
ペルセポリスは私のとても行きたかったところだったので、そんな相手をしたくなく、ゆっくり見物したかったのですが、いろいろと訊かれているうちに時間が集合時間になってしまいました。
慌てて、バスまで節子と走った記憶がありますが、そうまでして写真を送ったのに、その先生からは何の連絡もなしです。
届かなかったのでしょうか。

イランのダリウス大王の墓の近くでは、イラク人と日本人のカップルに会いました。
その人たちはまもなく日本に転居するといい、日本に行ったら連絡しますといっていたのですが、その後、連絡がありません。

こうして考えると、旅先での出会いが付き合いの始まりになるのはそう多くないのかもしれません。
娘たちは、旅先での出会いはそんなものだといいます。
でも私も節子も、そうした偶然の出会いからはじまる物語をいつも楽しみにしていました。
そのため、節子はいつもなにかお土産まで持っていっていましたが、それを渡したのを見たことはありません。

私は遺跡を観に、節子は人に会いに、地中海に行っていたのかもしれません。
まあここで書いた3組の人たちからは期待して待っていたのに結局手紙は届きませんでした。しかし、手紙を待っていたおかげで、その人たちとの記憶ははっきりと覚えています。
その一つひとつに、節子の楽しそうな笑い顔も重なっています。

さて、いまの話なのですが、私は節子からの手紙を待っています。
もしかしたら来るかもしれない、とそんな気がしてならないのです。
いつになっても来ない手紙を待つことには、少しだけ慣れていますし。


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2009/05/18

■節子への挽歌624:最初の東京では高尾山でスイカを食べました

節子
昨日、湯河原のことを書いたら、続いて高尾山のことを思い出してしまいました。
やはりCWSコモンズの活動記録に書かれていました。
2005年11月です。
紅葉のまっさかりでした。
しばらくその見事な効用の前で撮った節子の写真が私のパソコンの画面になっていました。

頂上から見えた富士山を今でもはっきりと思い出します。
その頂上で、鍋をつくっている3人組に話しかけたのが縁で、その仲間に入ってコーヒーまでご馳走になってしまあったのですが、これもまた私一人ではとてもできない話です。
節子はいつもそうやって私たちの世界を広げていってくれました。
小さいですが、みんなで撮った写真もそこに掲載されています。

ところで高尾山といえば。もうひとつ思い出があります。
結婚する以前でしたが、節子と2人で私の両親の家に挨拶に来た時にも、翌日、高尾山に2人で出かけたのです。
はじめての2人の東京旅行が、なんで高尾山なのか不思議ですが、それが私たちのたぶん「好み」だったのだと思います。
今でも覚えていますが、高尾山の駅前でスイカを買って、それだけを持って山頂に行きました。
ナイフも持っていなかったので、そのスイカを手で割って2人で食べた記憶があります。
その写真もきっとどこかにあるのでしょうが、まだ2人とも20代でした。
その時の記憶は、私にはそれ以外、何もありませんが、今から考えてみると、それが私たちの生き方を示唆しているのかもしれません。

ホームページに記録されている、鍋をご馳走になった人たちですが、
残念ながらその後の交流はありませんでした。
住所をお聞きせずに、メールアドレスしか交換しなかったのですが、私からは写真を送りましたが、その返事が来たのですが、それで終わってしまいました。
旅先で出会った人たちとの交流を、節子も私も大事にしていますが、なかなか続くことはありません。

みんな忙しいのかしらね、と節子は言っていました。
1回の出会いを発展させることは、そう簡単ではないのかもしれません。
でも私たちは、一度でも会えば、もう永遠の友だちのような気になるところが似ていました。
もっともっとみんなが出会いを大事にすれば、世界は楽しくなるのにね、と私たちはいつも話していました。
私たちが楽しい生活を送れたのは、いろいろなところで出会った、さまざまな人に支えられていたからだということを、私も節子も、よく知っていましたから。

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2009/05/17

■節子への挽歌623:湯河原の幕山で出会った鈴木さん

湯河原の梅園(幕山公園)といえば、もう一つ記憶に残る体験があります。
2004年4月9日のことです。
その頃は、節子もだいぶ元気を取り戻し、治るという確信が生まれだしていた頃です。
私のホームページ(CWSコモンズ)に記録(「豊かな生活2」)が残っていたので、日が特定できました。

その時はバスで出かけたのですが、バス停から公園まで30分ほど歩きます。
その時の記録を引用します。

途中で、道をゆっくり歩いている一人のお年寄りに出会いました。
私たちは、途中、道の横の小川に寄り道したりしていたので、
追いついたり抜かれたりの繰り返しをしているうちに、交流が始まりました。
目的地の幕山公園はシーズンオフのため、出店も無く少し寂しい雰囲気でした。
女房がおにぎりを持ってきていましたので、そのお年寄りに一緒に食べませんかと声をかけました。
女房はお年寄りに声をかけるのが好きなのです。
その方は鈴木さんといいます。
なんと間もなく90歳だそうです。
湯河原の駅の近くにお住まいです。
家族がみんな出かけたので、昔、来たことがある幕山公園に行きたくなって、歩いてきたそうです。
自宅を出たのが10時半頃、着いたのが1時過ぎ。
2時間半以上、歩いてきたのです。
失礼ながら、歩くのもやっとの感じなのですが。
おにぎりを食べながら、公園のベンチで1時間ほど話しました。
そのうちに昔の話をされだしました。
後はホームページのほうの記事をお読みください。
最後の部分だけをまた一部引用させてもらいます。
のどかな自然の中での1時間。
とてもいい時間を過ごさせてもらいました。
女房と鈴木さんは、実の親子のようでした。
女房に惚れ直した1時間でした。
この記事の文章を読んでいて、久しぶりに涙が出てしまいました。
節子はほんとうにやさしい人でした。
そして、私の生き方に、とても大きな影響を与えてくれました。
私が人生を踏み外さずにすんだのは、間違いなく節子のおかげです。

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2009/05/16

■節子への挽歌622:ばんまつり

節子
玄関で、ばんまつりが咲いています。
Banmaturi

「ばんまつり」のことは、一度書いたことがあるかもしれません。
この花には思い出があります。
節子と2人で季節はずれの湯河原の梅林に行った時だったと思うのですが、途中で庭のきれいなお宅がありました。
ちょっと待っててね、と言い残して、節子はその家に入っていってしまったのです。
なかなか出てこないので、仕方なく私も入っていくと、庭を見せてもらいながらその家の奥さんと話しこんでいます。
いやはや、節子の得意芸です。
ちょっと高台にあるので道路からは見えませんでしたが、立派な庭で、たくさんの花が咲いていました。

私も庭を見せてもらいました。
その奥さんからお土産にもらったのが、「ぼんまつり」の苗だったのです。
残念ながら、その後、そこにもう一度行くことはなく、お付き合いは発展しませんでしたが、節子がもし元気だったら、湯河原に行ったらきっとそこに立ち寄ったでしょう。
節子は、そうした出会いがとても好きだったからです。

ばんまつりはナス科の花ですが、咲いた時は明るい紫色(節子の好きな色でした)で、次第に白くなるのです。
バラもいいですが、私はどちらかというとこういう静かな花が好きです。
もっともこの花の原産地は南アメリカだそうですが。

この花が咲くと、湯河原での節子の生き生きした顔を思い出します。
節子は見ず知らずの家にも屈託なく入り込んでしまう、不思議な人でした。

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2009/05/15

■節子への挽歌621: 80円のタケノコ

昨日、タケノコを食べ過ぎてしまいました。

節子も知っているように、私はタケノコが大好きです。
最近は、私のタケノコ好きを知ってくれた節子の姉が毎年タケノコをどっさりと送ってきてくれます。
今年もどっさりと送ってくれましたので、お近くにもお裾分けしましたが、わが家もタケノコ三昧でした。
節子がいなくなっても、むすめたちがタケノコ料理を作ってくれるのです。
タケノコご飯、タケノコの煮物、タケノコスープ、焼きタケノコ、まあいろいろと工夫してくれます。
しかし3日も食べているとさすがに食べられなくなります。
タケノコは季節がとても短いので、タケノコ三昧の2日間はせいぜい3~4回しか楽しめません。
今年はもうわが家の周辺のお店からはなくなりました。
ところが、12日に茨城に行っていた娘が、そこで80円のタケノコを買ってきてくれました。
もう終わりなので、小さくて硬いので安いのでしょうか。
それにしても80円とは、ちょっと安すぎます。
タケノコの価値が過小評価されているのは、いささか不満です。
豚の餌ではないのですから。

まあそれはともかく、私がしばらく自宅で食事をできないでいたので、そのタケノコを昨日、夕食に用意してくれました。
感謝しながら食べようとしたら、いやはや、とても硬いのです。
かなり育ってしまったタケノコのようで、まるで竹そのものを食べているようです。
しかし10日ぶりのタケノコですので、食べてしまいました。
食べながら、これが食べられるのであれば、成長した竹だって食べられるかもしれないとさえ思いました。

ところがです。
寝ようと思った頃になって、お腹の中で食べたタケノコが成長しているような感じで、お腹が張ってきてしまいました。
タケノコは食べすぎてはいけないと、節子が言っていたことを思い出しました。

80円のタケノコは食べてはいけません。
いえ、そうではなくて、やはり季節が終わったものを食べたいなどと思ってはいけないのです。
節子と食材に関していろいろと議論していたことを思いだします。

節子
節子の料理をもう一度食べたいですね。

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2009/05/14

■節子への挽歌620:モダンな都市風景も好きだった節子

節子
今日はユカと乃木坂の国立新美術館でやっている「ルーヴル美術館展」に行ってきました。
節子がいなくなってから、美術展からは足が遠のいていますが、時々ユカが誘ってくれます。

国立新美術館は節子もきっと楽しみにしていたところだったのでしょうね。
今日は美術館のカフェでランチをしたのですが、その時にユカが節子とここに一緒に来たことを話してくれました。
もっとも、その時はまだ完成しておらず、工事中だったので建物の外観だけ見たそうですね。
完成した時には、節子は再発してしまっており、もう来ることは適いませんでした。
でも、ユカに連れてきてもらったことがあるというので少しは心も安らぎます。

美術館のアウトドアのカフェからの風景は六本木ヒルズも見えるモダンな雰囲気です。
私と違い、節子はモダンな風景も好きでしたから、このカフェでゆっくりとお茶を飲ませたかったです。
節子は自然も好きでしたが、こうした都市風景にも憧れがあったような気がします。
もっともそこに緑や水がなければだめなのですが、ここのカフェには緑があって、落ち着きます。
ユカの話では、その時は神宮外苑の銀杏並木を見にいったのだそうですが、その後、六本木ヒルズにも行こうということになったようですね。
節子はとても行動的な人でしたから、その時の様子が想像できます。
その帰りに、乃木坂まで歩いて、国立新美術館の概観を見たのだそうです。

節子は意外とそういうところも好きでしたし、行動的でした。
私も、汐留とか新丸ビルとか、いろいろとつき合わされました。

いつぞや節子のお母さんと羽田空港に行った時に、途中でまだできたばかりの浜松町の駅からつながっている高層ビルの展望台に連れて行ったことがありました。
実はそのビルは確か東芝かどこかのビルで、節子が行ったのはその受付か社員食堂の階だったのではないかと思いますが、ともかく母親を見晴らしのいいところに連れて行きたいという一心で、勝手に入り込んでいってしまったようです。
景色を楽しんだ後で、節子は会社のオフィスだったことに気づいたようですが、まあ節子の面目約如たるものがあります。
そういう時に節子は、私が驚くほどに堂々としていました。
当時はまだ警備があまり厳しくなかったから良かったのでしょうが、今ならきっと怒られていたことでしょう。
会社の人に、何か案内までしてもらったようなことを話していたことを記憶しています。

節子は眺望が楽しめる場所なら誰にでも開放するのが当然だという、奇妙な常識を持っていたのです。
その「常識」を非常識と言うべきか、「見識」と言うべきか、わかりませんが、私にはとても大好きな考え方でした。
結局、わが家のど真ん中にいたのは節子だったのでしょうね。

今回のルーヴル美術館展のテーマは「子ども」や「家族」でした。
人々の生活の中心には、やはり女性がいるのだ、ということを改めて実感したのが、私の感想です。
節子ならどう思ったでしょうか。

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2009/05/13

■節子への挽歌619:見る人もいないたくさんのアルバム

節子
昨日、イランのシラーズの写真を探そうと写真のアルバムを久しぶりに開きました。
たくさんの写真がアルバムにきちんと整理されていました。
私は写真を撮るのが好きでしたが、整理は全くしませんでした。
写真の整理は節子の仕事でした。

わが家にはたくさんのアルバムが残されています。
しかし、このアルバムはいったい誰が見るのでしょうか。
そう思うととても悲しい気持ちです。
私は過去にほとんど興味がないので、写真を見る文化はありません。
これは今に始まったことではないのですが、いまはなおのこと、節子の写真を見る元気もありません。
たぶんこれからもずっとそうでしょう。
娘たちも、私に似て写真にはあまり興味を持ちません。
私以上に過去に関心がないようにも思えます。

そう考えていくと、この膨大な写真は結局はゴミでしかないのです。
写真だけではありません。
ビデオ映像や思い出の記念品なども、そのほとんどはおそらく残された者には何の価値もないのでしょう。
何のために撮ってきたのでしょうか。
おそらくそれは老後の夫婦生活ためだったのです。
しかしそれはもう私たちにはなくなってしまいました。
ですからもはや意味のない存在なのです。

節子が残したものの一つに日記帳があります。
節子は日記が好きでしたので、子どもの頃からの日記がきちんと残されています。
まさに中学生の頃からの日記です。
私との出会いも日記に残されているでしょう。
節子は、子ども時代の日記も含めて、私にすべて公開していました。
不思議なほど、節子は私にはあけっぴろげでした。
おそらく私もまたそうだったからだと思います。

私に出会う前に、節子が好きだったボーイフレンドの話も日記には出てくるでしょうし、私の第一印象も日記に書かれているかもしれません。
節子はある時までは、記録大好き人間でしたので、いろんなことが記録されているはずです。
私と会うまでは几帳面だったようで、こづかい帳まで残っているのです。
私と結婚してからは、家計簿などつけたことがないのが不思議なのですが。
私のずぼらさが影響したのかもしれません。

まだまだ節子が残したものはいろいろあります。
さてどうしましょうか。
私が元気なうちに捨てなければいけないのでしょうが、今はまだ捨てる気にはなれません。
捨てられないでいるうちに、私がいなくなってしまうかもしれません。
そういえば、節子は病気になってから、身辺整理をしだしました。
それを私はやめてほしいと頼んでいましたが、節子の気持ちが最近よくわかるようになりました。

節子はいつも私よりも先を歩いていたのかもしれません。
私よりも年は下でしたが、私にとっては人生の先生でもありました。
残されたたくさんの写真や日記帳などを前にすると、そのことがよくわかります。
たぶん誰にもわかってはもらえないでしょうが。

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2009/05/12

■節子への挽歌618:バラがたくさん咲き出しました

節子
庭のバラがいろいろと咲きだしました。
北斗七星のナニワイバラのことは前に書きましたが、わが家には10種類を超えるバラがあります。
バラが好きだった節子が、いろいろなところから集めてきたのです。
バラは挿木でも増えますので、節子が挿木していたバラもたくさんあります。
節子がいなくなった後も、バラの種類は増えています。

節子の弔問に来てくださった人たちにも一時、小さなミニバラの鉢を持って帰ってもらった時があります。
以前、あるお宅を訪問したら、そのバラが見事に咲いていました。
とてもうれしかったのを覚えています。
その小さなバラがとても気にいったので湯島のオフィスにも持っていきましたが、昨年はあまりオフィスに行かなかったので、結局、ダメにしてしまいました。
自宅にあったものが元気に咲き出しましたので、改めて持っていきました。
今度はだめにしないようにできるだけオフィスに行こうと思います。

節子とバラ園に行った記憶は何回もありますが、いつも少し開花時期に外れていて、感動的なバラ園には出会えた記憶がありません。
一度、まさにいいシーズンに節子と出かけた京成バラ園は、自動車で行ったのですが、自動車の中で夫婦喧嘩になってしまいました。
それで行き先を変えてしまい、今では思い出せないような小さな公園で持参のおにぎりを食べて帰ってきた記憶があります。

バラの原産地は、たしかイランでした。
イランには節子と一緒に旅行したことがあります。
シラーズのバラ園は有名ですが、残念ながらあまり感動はしませんでした。
節子もちょっと期待はずれだったと言っていたような気がします。
しかしシラーズの町はとてもきれいでした。
Iran

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2009/05/11

■節子への挽歌617:弱音を少し

節子
たぶん走り続けているといいのでしょうが、少し気を抜いてしまうと、どうも気が萎えてしまうようです。
4月はかなりいろいろなことに取り組んだのですが、連休後半から、また心身が重くなってしまいました。
どうも周期的なそううつ循環が生じているようです。
そういえば、昨年もそうでした。

もっとも、気分が落ち込むというわけでもないのです。
やらなければいけないことがわかっているのに、身体が動かないのです。
たとえば電話です。
一言だけの電話で終わる用件なのですが、電話をかける気にならないのです。
なぜなのでしょうか。
まだどうも精神的には不安定状態のようです。
こればかりは自分ではコントロールできません。

気が萎えた時、たとえばこの数日がそうなのですが、「人間嫌い」になります。
一番嫌悪感を持つのは、言うまでもありませんが、自分自身に、です。
自分が嫌になるのも、うつの典型的な症状でしょうが、それとはちょっと違う気もします。

私は自分の感性を基本にして生きています。
時評編を読んでいる方は感じているでしょうが、かなり世間的な標準からははずれています。
しかも物事をかなり断定的に捉えます。
私と反対の考え方に対する理解力も一応はあるつもりなので、実際には自分の考えを相対化はしているのですが、書いたり話したりする時には断定しないとわかりにくいと思っています。
そうした生き方は、自分では素直に生きていると思っていますが、実はどこかで力んでいるのでしょう。
ですから、気が萎えてくると、世の中の大勢に合わせたら楽だろうなと思ってしまうのです。
世間の常識に合わせて生きていれば、こんな苦労もしないだろうと思ってしまうわけです。
そういう自分が情けなくなります。

節子も「正義感」の強い人でした。
もっとも、その「正義」も、私と同じでかなり独りよがりでしたが、私よりも直感的でした。
知識や情報からの帰結ではなく、暮らしやいのちからの反応でした。
そこから気づかされることも多かったです。

私が大勢に流されてしまったら、節子は嘆くことでしょう。
動かない身体を動かして、今日は3人の人に電話しようと思います。
今週は毎日湯島に出かけることにします。
怠惰になりがちな私を諌めてくれる人はもういませんので、自分で自分を鼓舞しなければいけません。
なんでそんなことをしなければいけないのか、という思いは消えないのですが。

節子
1年前と似てきているのがいささか気になります。
節子がひっぱっているんじゃないでしょうね。

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2009/05/10

■節子への挽歌616:苦楽を共にしていれば相手の痛みはわかる

節子
滋賀や奈良など、関西にいるコムケア活動の仲間たちが「農業と福祉」をテーマにした集まりを企画しています。
その関係で、農業関係の本を読んでいるのですが、佐賀の山下惣二さんが、「百姓が時代を創る」という本の中でこう書いていました。

農家の亭主は女房にいちばんやさしい。
どうしてかというと、女房の苦労を毎日みているからですよ。
苦楽を共にしているから、相手の痛みがわかるのです。

私は47歳で勤務していた会社を辞めました。
その頃は、家のことはすべて節子に任せていました。
私たちは途中から両親と同居したのですが、まあ、とてもいい嫁姑の関係だったと思います。
節子は、私には一言も愚痴らしきことを話したことはありませんでした。
しかし、会社を辞めて在宅の時間が長くなると、節子の苦労が少しはわかってきました。
どんないい嫁姑関係でも、お互いそれぞれに苦労はあるものです。
私が節子のことを心から理解できたのは、会社を辞めて一緒の時間が多くなってからです。

私は勝手に会社を辞めてしまい、節子まで巻き込んで個人オフィスを開きました。
世間的な意味では仕事もせずに、共感したプロジェクトに時間を割いていましたので、収入は極めて不安定で、給料をもらえないことのほうが多かったかもしれません。
こんなに忙しいのになぜ収入がないの、と節子に言われたこともありますが、一緒に働いているうちに、節子は私の生き方を心から理解してくれました。

つまり、私が会社を辞めて、お互いに一緒にいる時間が増えたことで、私たちは深く理解し、支え合える関係になったといっていいでしょう。
「苦楽を共にしているから、相手のことがわかった」のです。

私にとっては、実に刺激的な20年でした。
しかし、不安定な収入のなかで、節子には世間的な贅沢は味わわせることはできませんでした。
おいしいお店にも連れて行ったこともなく、おしゃれな服も買ってやったこともありません。
もちろん宝飾品など無縁であり、旅行もいつも格安ツアーでした。
仕事ばかりしている私に、少しはゆっくりしたらと節子はよく言いましたが、それはもっと夫婦の時間を持とうよということだったかもしれません。

しかし苦楽だけは共にしましたから、お互いの本当のよさがよくわかりました。
お互いの悲しみや喜びも、一緒になって実感できるようになったのです。
ですから、私は妻へのやさしさにかけては、農家の人以上だと自負しています。
夫へのやさしさにかけては、節子もまた世界1でした。
会社を辞めて、私が一番良かったと思うのはこのことです。

しかし、お互いに本当に理解しあえたにもかかわらず、あまりにも早い別れでした。
節子は、私のために苦労し続けて、報われることもなく逝ってしまった、そんな気がします。
決してそうではなく、節子は私との「苦楽」を20年は楽しんだと確信はしているのですが、私よりも早く逝ってしまったことが、不憫でなりません。
私が先に逝けなかったことが、悔しくてならないのです。
この痛みを、節子はもちろん知っていましたが。

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2009/05/09

■節子への挽歌615:節子、書くことがなくなってしまいました

節子
最近、いささか平板な生活をしているせいか、今日はパソコンの前に座ったのですが、書くことが思い浮かびません。
先ほどから、パソコンの前の節子の写真を眺めているのですが、この写真はあまりよくないなとか、闘病中なのにこの時の節子は明るかったな、などとどうでもいいことしか思いつきません。
まあ、そこから書き出すと書けるのでしょうが、なんだかあまり明るい話になりそうもないので、書く気が起きません。
今日は久しぶりに雨が上がり、気持ちのいい日になりましたので、明るい内容を書きたいという思いが強いのです。

娘たちに、何か書くことはないかといったら、そういう時はいつも節子に相談していたのにね、と皮肉られました。
そうなのです。
私は、仕事などで知恵が出なくなったリ、行き詰まったりした時は、いつも節子に相談していました。
相談したからといって節子が良い知恵を出してくれるわけでもないのですが、ちょっとした雑談や、時には感想が、壁にぶつかっていた私の発想を解き放ってくれました。
人は、話しながら考えるものだと、私はいつも思っていますが、とりわけ心開いて話す節子の存在は、私には自らの発想を引き出すためにはとても効果的だったのです。
節子は。私とは全く違った論理回路と基礎情報を持った人でしたから、ともすると袋小路に入りがちな私の発想を柔らかにしてくれました。
おかしな言い方ですが、私たちはお互いの思考回路をも、自分のものとしてシェアできていたように思います。
それに長年一緒に生活していると、相手の心情が自然と伝わってきて、的確なヒントをお互いに与えることができるようになります。
ですから、相談しなくても、ヒントになるような一言があることもあるのです。
壁にぶつかっていると、お茶でも飲まないと誘ってくれたのも、そうしたことの一つです。

そういえば、最近、自宅での発話数は節子のいた頃に比べると大幅に減っているように思います。
これはよくないことです。
幸いに娘たちが同居していますので、彼女たちと話すことは少なくないのですが、そうそう話が合うわけでもありません。
そういえば、彼女たちも自宅での会話数は少なくなっているはずです。
これはいささか問題ではあります。
少し考えなければいけません。

ところで、残されたのが私ではなく、節子だったらどうだったでしょうか。
わが家の家族の会話数は、私がいた時よりも増えるかもしれませんね。
そして節子にとって、今頃はもう、私は過去の人になっているかもしれません。
まあ、毎朝、お経はあげてくれるでしょうが。
節子の写真を見ていると、そんな気がしてなりません。
いやはや、やはり明るくない話になってしまいました。

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2009/05/08

■節子への挽歌614:何かしていないと心が落ち着きません

初夏のようだった数日前とはうってかわって肌寒い日が続いています。
あまりけじめのない連休を過ごしていたせいか、ここに来てちょっと疲れが出てきてしまいました。
予定を変えて、今日は自宅で少し気を抜こうと思い、予定をすべてキャンセルしてしまいました。

考えてみると、節子がいなくなって以来、ゆっくりとした時間を過ごしたことがないような気がします。
何もしないでぼんやりしていたり、自宅でだらっとしていることはあるのですが、積極的な意味で「ゆっくりした」気分にはなれていないのです。
心を通い合わせた人と一緒にいることの意味はとても大きいのです。
これは、その人がいなくなってはじめてわかることかもしれません。

人は、所詮は一人で生まれてきて、一人で死んでいくという人がいます。
教団宗教には、洋の東西を問わず、そうした思想が色濃くあります。
仏教も同じです。
本質的に人間は孤独だというのです。
そう思えばこそ、煩悩から離脱できるというのですが、そうやって離脱することに何の意味があるのか。
仏教書を読んでいて、私が一番抵抗を感ずるのは、そうした「孤独観」です。

私は、人はいつも一人ではなく、みんなの中に生まれ、みんなと共に育ち、みんなとつながりながら死んでいく、と思っています。
煩悩があればこそ、人生は豊かになっていくのです。

2人で生きることは、生きるための問題を複雑化させます。
2人の主体性を調整するための努力も必要ですし、自分の主張を断念しなければいけないことも少なくないでしょう。
しかし、ひとたび、そうした生き方の良さを体験してしまうと、その煩わしさは煩わしさではなくなり、喜びに変わります。
そして、人は孤独ではないことを実感できるのではないかと思います。
節子は最後まで決して孤独ではありませんでした。
そうしたことが、なぜ仏教を初めとした宗教に理念化されなかったかはとても興味ある問題です。
しかも、最近はむしろそうした孤独観を強調した仏教が人気だということに、大きな違和感を持ってしまいます。

話が大きくなってしまいましたが、一緒に人生を歩んでいた節子と一緒に、つまり心を完全に開いたまま、だらっとしている時間が持てないことが、私の最近の疲労感の原因かもしれません。
だとしたら、これからずっと心やすまることがないということでしょうか。
それはちょっと辛いなと思いながら、いま朝から4杯目の珈琲を淹れました。
さて、次は何をしましょうか。
節子、あなたがいないと何かしていないと心が落ち着きません。
困ったものです。

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2009/05/07

■節子への挽歌613:私の生き方を2度変えさせた節子

節子
先日お会いした方からメールがきました。

私の生き方を変えた友が3年前に亡くなりました。
大切な人がいなくなって
心に大きな穴があきました。
穴が大きすぎてやり場がなくて
目の前にあることに夢中になりました。
そして3年が過ぎ・・・
心の穴が塞がり灯りが灯るようになりました。
そんな時、自分の内に友の存在を感じて元気になります。
心に生じた「大きな穴」。
私の場合は、その穴の中に自らが落ちてしまった感じで、何かに夢中になることさえありませんでした。
最近、いろいろなことを始めましたが、やはり「夢中」にはなれません。
しかし、いろいろとやりだしたことは、もしかしたらこの方と同じかもしれません。

3年が過ぎて、ようやく灯りが見え出した。
もう少ししたら私にも灯りが見えてくるでしょうか。

私の生き方を変えた節子は、いなくなることで、私の生き方をまた変えました。
もちろん生き方が昔に戻ったということではなく、さらにその先に変わったのです。
節子は私の生き方を、前に前にと進めてくれたのです。

おそらく今日、メールを下さった方も、そうでしょう。
その、さらに新しい生き方を照らす灯りが見えてきたのかもしれません。
そして、自分のなかに存在する「友」と一緒にまた歩き出したのでしょう。
その感覚は、とてもよくわかるような気がします。

心に大きな穴ができると、人は思索家になるのです。
今まで気づかなかったような自分にも出会います。
そして、そのおかげで、それまでとは違った人たちとの出会いが起こってくる。
節子がいなくなって、私の周りの友だちの風景が少し変わってきたように思います。
もちろん変わることのない友人は少なくありませんが、会うことの多い人たちは一変したようにも思います。
決して私が意図してそうしているわけではないのですが。

私にもきっともうじき灯りが見えてくるのかもしれません。
どんな灯りなのでしょうか。

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2009/05/06

■節子への挽歌612:この頃、ちょっと後悔することが多いのです

有名人の葬儀の様子をテレビのニュースなどで目にすることがあります。
喪主を務めた残された人は健気にみんなに感謝の気持ちをいいます。
葬儀の時には、みんな不思議なほどに気が強まるのです。

そんな映像を見ると、私も節子を見送った日のことを思い出すことがあります。
告別式で挨拶などできるはずがないと思っていたのに、立ち上がって話し出したら、すらすらと言葉が出たのです。
そして話し終わった後も、何を話したのかしっかりと記憶されていました。
それを書き留めて、ホームページの挽歌の総集編に入れました。
一度だけ、読み直したことがありますが、その前の夜のことを思い出しました。
まるで他人事の映像のような感じでした。
リアリティが全くなかったのです。
不思議なほどに涙が出なかったのを思い出します。
それはそれは、不思議な体験でした。

娘たちには挨拶は一言だけにしようと言っていました。
彼女たちも、まさか私があんなにすらすらと話せるとは思ってもいなかったでしょう。
あまりにすらすら話せたので、参会者は私があまり悲しんでいないのではないかと思ったかもしれません。
事実、話している時には、笑顔とまではいかないにしても、明るい顔で話していたように思います。

挨拶に立ち上がった時に、一瞬、涙があふれそうになり、言葉が出ませんでした。
ところが、それを乗り越えたら、後は不思議なほど言葉が滑らかでした。
明らかに誰かによって話させられていたような気がします。
節子が話させてくれたのだと思います。
節子はそういう場では、しっかりと話さないといけないと思う人でしたから。

私はきちんとした集まりの時に、形式ばった話をするのが全く不得手でした。
節子はそのことをよく知っていました。
企業時代も全く権威のない上司だったでしょう。
家庭でもそうでした。
元日の朝、家族が集まって最初の食事をする時くらい、一家の主人として、ちゃんと挨拶をしなくてはいけないと、節子はいつもよく言っていました。
そういう場をつくり、はい、お父さん、始めてください、と言うのです。
私にそんなことが出来るはずがありません。
なにごとも「カジュアルに」が、私の生き方なのですから。
ですから、わが家ではみんなが一斉に「おめでとうございます」と言って、年が始まるのです。
節子はそれが不満でした。

こうして思い出すと、私に対する不満を、もしかしたら、節子はたくさんもっていたかもしれません。
来世でまたやり直すことになったら、もう少ししっかりした夫になろうと思います。
でも無理かもしれませんね。
来世では節子は私を選ばないかもしれませんから。
私は間違いなく、節子を選びますが。
今頃になって、悔やむことが思い出されます。
みなさんはそういうことのないように、伴侶を大事にしてください。

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2009/05/05

■節子への挽歌611:3人のミュージシャンの出前コンサート

初夏のような昨日と違い、今日は雨です。
あいにくの天気だったのですが、我孫子に住んでいる3人のミュージシャンが、わが家に出前コンサートに来てくれました。
ギタリストの宮内さんの計らいです。
宮内さんは、私に少しゆっくりしろと気遣ってくれているのです。

宮内さんが手賀沼の近くで演奏していて、何となく知り合ったのがコカリナ奏者の鈴木さんと二胡奏者の中村さんです。
これまた不思議な組み合わせですが、それぞれの演奏に取り組むきっかけの話も、いずれも魅力的です。
それを書き出すとそれだけでまた長くなってしまいますので、それはまたホームページのほうに譲ります。
みなさん、とても気持ちのやさしい人で、しかも我孫子が大好きのようです。

鈴木さんは、宮内さんからこの挽歌のことを聞き、その夜、読み始めて気がついたら明け方になっていたそうです。
節子と同じがんセンターに通っていた友人を、見送ったばかりだったのだそうです。
もしかしたら、その方と私たちとは病院ですれ違っていたかもしれません。
そんなこともあって、まずは節子に線香をあげてくださいました。
そして、節子の位牌の前で、演奏をしてくれました。
Kiko_4

私はコカリナも二胡も、直接、演奏を聴くのは初めてです。
今日はジュンが不在だったので、ユカと2人で、贅沢なコンサートを楽しませてもらいました。
聴きながら、節子がいたらどんなに喜ぶだろうかと思いました。
たぶん演奏に合わせて、歌いだしたかもしれません。
節子がいたら、きっとコンサートも開いたにちがいない、そんな気がします。
Niko_2

二胡もコカリナも、心にとても沁みる音色です。
お2人の人柄も伝わってきました。
宮内さんの「なだそうそう」も久しぶりに聴きました。
節子のおかげで、いろいろな人との出会いがまだ続いています。
節子、あなたも聴いていましたか。

宮内さん
ありがとうございました。

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2009/05/04

■節子への挽歌610:むすめたちの「孝行」

節子
大型連休も残すところ2日ですが、娘たちのおかげで、節子がいたころを思い出す連休の恒例行事が終わりました。

まずは湯島のオフィスに自動車で行くことです。
5月の連休には、季節の模様替えをしに湯島に自動車で行くのが、私たち夫婦の恒例行事でした。
私は自動車の運転には不向きのようで家族から運転を禁じられてからもう10年以上ですが、節子は運転が好きでした。
それで湯島に行く時は、いつも節子の運転でしたが、混まないうちにと早朝に出かけることが多かったのです。
今日は上の娘が付き合ってくれました。
今日は、自宅から自転車を運び、オフィスからは昔の資料を持ち帰りました。
往復の自動車の中で娘と話しながら、節子のことを思い出していました。
この道を節子と通いだしてから20年以上往復していますが、いろんなところに節子の思い出があります。
節子がいないのが本当に不思議です。

下の娘とは、節子の開墾した節子農園を耕して、野菜の苗を植えました。
といっても、主役は娘で、私は節子のいた時と同じく、手伝い人でしかありません。
私も雑草を刈ったりしましたが、30分もやっていると疲れてしまいます。
また倒れるといけないからいいよと娘から言われてしまいましたが、この風景も節子がいた時と同じです。
私の雑草刈りは、かなりいい加減なので、仕上がりが中途半端なので、娘は気に入らないのです。
修はいい加減だからと、いつも節子は笑っていましたが、まあどうせすぐ雑草は生えてくるのですから、完璧にやることなどあまり意味がありません。
それに雑草だって一生懸命生きているのだからすべて抜くのはよくないなどと勝手な講釈をするために、節子にとっては良き手伝い人ではなかったのです。
節子なら笑ってかわしてくれますが、娘にはそんな会話は受け容れてもらえません。
私は1時間で家に帰りましたが、娘は暗くなるまで畑仕事をし、おかげで荒れ放題だった節子農園は畑らしくなりました。
一時はやめようかと言っていましたが、再開です。
節子がやりだしたことを辞めるのは、私にはできないことなのです。

かといって、私が中心でがんばるわけでもないので、娘たちからの私の評価は極めて低いのです。
お父さんは口だけだから、といわれますが、まあ事実だから仕方がありません。
でも嫌味を言いながらも、結局は私のためにいろいろとやってくれるのです。

夜、2人の娘たちがケーキをつくっています。
これも節子の文化でした。
明日の来客のためにがんばってくれているのです。

節子
あなたがいなくても、わが家の連休の恒例行事は続いています。
家族みんなで出かけたりする行事はなくなってしまいましたが。

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2009/05/03

■節子への挽歌609:時間とともに積み重なっていく辛さ

節子
世間は大型連休の行楽シーズンですが、わが家は残念ながらどこにも行かずに、ひっそりと暮らしています。
別に、悲しみに打ちひしがれているわけではなく、なんとなく世間が華やかな時には、逆に気持ちが華やがないのです。
節子がいなくなってから今日で609日目、20回目の月命日ですが、気分は自分には素直になれても、世間にはなかなか素直になれません。
すねているわけでもないのですが、世の中に華やいだ気分が広がるのと反比例するように、なぜか気持ちが沈んでしまうのです。

気持ちは華やがないのですが、節子が育てていたわが家の庭の花は華やいでいます。
昨日も近くの人がやってきて、この庭にいると心が癒されますねと言ったそうですが、癒され半分、落ち込み半分というのが、偽らない私の心情です。

ある集まりで、私と同じように気を沈めている友人に久しぶりに会いました。
娘さんを3年前に亡くした話は以前から聞いていました。
みんなが楽しそうに話し合っている片隅で、彼は黙って座っていました。
声をかけようかと思いながらも、自分の話に気が向いてしまっているうちに、ふと気づいたら彼の姿がなくなっていました。
帰ったのかなと思っていたら、しばらくして戻ってきました。
ちょっと他の場所で時間をつぶしていたのだそうです。

はっと気づきました。
場の話が盛り上がるほどに、なにか自分の居場所がなくなってしまう、そういう経験を私も何回かしているではないかと。
にもかかわらず、なぜ彼のことをしっかりと気遣えなかったのか。
自分のことしか考えていない自分がいやになりました。
それ以上に、盛り上がってしまっている話し合いの中に違和感なく溶け込んでいた自分にもいささかの嫌悪感を持ちました。

彼の辛い体験は3年前です。
私は1年半前。
多くの人は、たぶん彼の方が立ち戻れているはずだと考えるでしょう。
しかし違うのです。
彼は辛い世界を3年間も生きている、私はまだその半分です。
そう考えれば、時間が忘れさせてくれるなどと言えないことがわかってもらえるでしょうか。
時間とともに消えていく辛さもあるでしょうが、時間とともに積み重なっていく辛さもあるのです。
愛する人を失うのも辛いですが、愛する人のいない人生を過ごすことも、辛いことです。

一度、彼と会ってみようと思いました。
私でも、何かできることがあるかもしれません。

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2009/05/02

■節子への挽歌608:シルシフロラム

節子
2005年の世界蘭展で、節子が買ってきていたシルシフロラムが咲きました。
Ran2

シルシフロラムはもともとビルマ原産ですが、節子が買ってきたのは、タイの蘭園キーリー・オーキッズからのものでした。
節子は、東京ドームで毎年開かれる蘭展に行くチャンスがなかなかなかったのですが、この年は娘のジュンと行ってきたのです。
私はどうも同行できなかったようです。
いかにも節子らしく、蘭展のお店からもらってきた説明書などが、「洋ラン12ヶ月」という本に挟み込まれて残されていました。
そこに、手書きで「黄色、ふじのような花付き」と書いてありました。
まさにそんな感じで咲いています。
節子はメモをするのが好きな人でした。
いつもメモと鉛筆をバッグに入れて、忘れないうちに書き留めていました。
お店の人と話している節子の様子が目に浮かびます。

蘭は自宅で毎年花を咲かすのは難しいのですが、シルシフロラムは2回目の開花です。
わが家ではまだ、胡蝶蘭を咲かせたことはないのですが、デンドロビウムやシンピジウムの種類はよく咲いているようです。
私はどちらかといえば、日本の和名の花が好きだったのですが、最近はどうも和名の花よりもカタカナの名前の花が多くなってしまいました。
それに、昔は「てっせん」と呼んでいたのに、最近は「クレマチス」の名前が広がってしまうようなことも増えています。
花好きの人はカタカナが好きなのでしょうか。

たしかに和花と洋花とは雰囲気が違います。
最近の人には洋花が好まれるのもわかります。
しかし、私にとっては、日本の昔からの花のほうが子供の頃の風景がよみがえってきて、捨て難いものがあります。
近代主義者の節子と葉、そこが違っていました。

わが家の庭も、いまではほとんどが洋花です。
節子もどちらかといえば洋花が好きでしたので、節子の墓前の花はいつも洋花です。
法事も洋花中心なので花屋さんによってはあまりいい顔をされません。
幸いにわが家のお寺のご住職は、どんな花でも受け容れてくれるので、安心ですが。

例年より暖かいせいか、庭の花が次々と咲き出しました。
どの花に、節子は乗っかっているのでしょうか。


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2009/05/01

■節子への挽歌607:「時間がとまる」

昨日は元やくざのdaxさんのことを書きましたが、
ブログに書き上げた直後、世田谷一家殺人事件の特別捜査本部の刑事から電話がありました。
時評編にも書いてしまいましたが、今日は湯島に2人の刑事がやってきました。
湯島には、相変わらずいろんな人がやってきます。

事件の被害者である宮澤みきおさんは私の知人です。
ですから、事件のあった翌日の元旦、新聞社からも電話がありました。
節子は、宮澤さんとは面識はありませんでしたが、せっかくの元日の集まりの時に長電話があったので、この事件はわが家ではよく話題になりました。

宮澤さんのお父さんは時間が止まってしまっているんですよ、と刑事が言いました。
「時間がとまる」
その感覚はよくわかります。
家族のだれかがいなくなると、一瞬そこで時間は止まってしまうのです。
ましてや息子家族全員がいなくなってしまった隙間を埋めるためには、未来永劫、時間を止めたくなるのでしょう。
その気持ちがよくわかります。
不謹慎ですが、私は今も時々、私の時間だけではなく、宇宙の時間を止めたくなります。
いえ、もっと正直に言えば、宇宙を壊したくさえなることがあるのです。

昨日は、その後、ある集まりに出かけたのですが、そこでもまた「時間が止まってしまった人」に会いました。
娘さんを失ったのですが、3年たってもまだ動けずにいるようです。
みんなと話していて、彼のことがとても気になりました。
いささかの危険ささえ感じました。
時間を止めてしまったもの同士でなければ通じ合わない何かが作動してしまったのです。
彼と一度会うことにしました。
古い友人ですが、それほど親しくなく、2人で会ったことなど一度もありませんし、たぶん私とは生き方が正反対だった人です。
価値観が全く違っても、生き方が正反対であろうとも、愛する人、愛するものを失ってしまうと、人間は同じになってしまうのかもしれません。

節子が教えてくれたことはたくさんありますが、
最大のことは私の生き方をエンパワーしてくれたことかもしれません。
私の生き方は、いささか非常識でしたが、
その生き方をすべて受け容れ、一緒に歩き、元気づけてくれたのは節子でした。
隣に悩んでいる人がいたら声をかけることを当然だと支えてくれたのも節子でした。
もう節子には支えてもらえませんが、節子のおかげでそうした生き方を続けてこられたことを、ほんとうに幸せに思います。

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2009/04/30

■節子への挽歌606:自分の心の供養が充分でない

節子
この挽歌の読者にはいろんな人がいます。
節子が知らない人のほうが、むしろ最近は多いかもしれません。
節子と一緒にやっていたオープンサロンにも、実にさまざまな人たちがやってきましたが、それに劣らずさまざまです。

その一人に、元やくざの dax さんがいます。
daxなどいうと可愛げもありますが、夜、突然目の前に現れたら、私も間違いなく身を縮めるほど迫力ある風貌をしています。
しかし、その笑顔は、誠実に生きてきた人でないと見せられない無邪気さが溢れています。
daxの名前の由縁を聞いていませんでしたが、彼のことですからいろいろと意味があるのでしょう。
daxさんは博識ですが、インテリやくざではありません。
正真正銘の真正やくざです。
もっとも私はやくざとは付き合いがないので、勝手な解釈なのですが。

彼は、私のブログを読んで、時々、文字の間違いを知らせてくれます。
私は書いたものを読み直す習慣があまりないので、誤植が多いのです。
それがdaxさんは気にいらないのです。
余計なお世話でうるさいなあ、と思っていたら、彼からこう言われました。

自分で書いた文章は、自分の子どものようなものだから、責任を持たないといかん。
そういわれると返す言葉がありません。
彼は昔、中絶相談サイトを独自に創り、多くの女性の相談に乗っていたことがあるのです。
以来、彼に読まれそうなときには読み直すことにしています。
これも読み直して、完璧にしないといけませんね。

もっとも、先の言葉は、実はdaxさんもパートナーから言われたのです。
dax のブログ「手垢のついた日記」を読んでの注意らしいです。
このブログは面白いですので、お薦めです。

話が長くなりましたが、そのdaxさんが私の娘に書いてきたメールです。
なぜか彼はわが娘と波長が合うようです。
それに娘のスペインタイルのお客様になってくれているようです。

さて、肝心のメールですが、こういう内容です。

今日もブログの「文字間違い」と、「変換間違い」のチェックを入れましたが、大丈夫でした。いつも思うのですが、あれほどいつも「節子さん」の事を想うと言うことは、見方を変えれば、節子さんは今でも佐藤さんの中に生きている・・・、居なくなってはいない・・・と言うことだと思うのですが、佐藤さん自身の、自分の心の供養が充分でないのでしょうね。
供養とは、逝った人に向けながら実は自分の心を供養して、自分の心が整理できて始めて立ち上がる気力が湧くのだと思います。
「自分の中にいる大事な人の存在」に気付けば、佐藤さんの(陰り)の部分も払拭されるのではと、期待しつつ彼とのお付き合いをこれからも楽しみたいと思っています。
はい、そのとおりなのです。
この挽歌は、私自身の鎮魂歌であり、自分の供養なのです。
自分自身を逃げずに、正面から修羅場を生きてきた人の言葉は真実味があります。

しかし、daxさんから期待されても、なかなか私の「(陰り)の部分」はなくなりません。
期待にこたえないとどうなるか。
彼から「指のつめ方」を教えてもらいましたが、それだけは絶対にやりたくないですね。

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2009/04/29

■節子への挽歌605:生あるものを所有することはできない

昨日、イザナギやオルフェウスの話を書きました。
愛する人を取り戻すために、「死の国」に出向いた2人は、いずれも、あと一歩のところで、成功しなかったわけですが、成功しなかった理由は明確です。
自分を基準にして考えているからです。
彼岸と現世はつながっているとはいえ、違う世界、異界です。
それを受け容れない限り、一緒にはなれません。

言い換えれば、愛する人を取り戻そうなどと思ってはいけないのです。
もし一緒になりたければ、愛する人のもとに行けばいいだけの話です。
しかし、人にはたとえ自らの生命であろうと、生命を人為的に終わらせることはできません。
それが「生を受けた者の責務」だろうと思います。
ですからこちらから彼岸に行くのはままならないのです。

最近、このブログに何回も書いているのですが、自殺のない社会づくりネットワークの設立準備会を立ち上げました。
こうして何かを立ち上げると、関連した話がいろいろと入ってきます。
気が重くなることもあれば、うれしくなることもあります。

節子が必死に生きようとしていた時期、私の友人から自殺するというメールが届きました。
少し前に生活相談を受け、節子のアドバイスである対応をしていた人からです。
正直に言えば、その時ほど腹立たしく思ったことはありません。
一生懸命に生きようと思っている私たちにとって、自らの命を自らで断ち切ろうなどと思うことは許されない行為です。
彼は、私たちのこと、節子の状況も知っていました。
だからなおのこと腹立たしい思いがしました。

節子が逝ってしまった後、彼からメールがきました。
彼は結局、みんなのアドバイスにしたがって、自己破産し再出発することにしたのです。
彼からのメールは、私たちの状況は知っていたけれど、それを考える余裕がなかったこと、そしていつか必ずお返しすると書かれていました。
彼もまた私たちと同じように、必死に生きようとしていたのだと、やっとわかりました。

生きるということの責務を果たすことは、そうやさしいことではありません。
最近、自殺を考えた人と話す機会が増えていますが、自殺は病死と同じだという気がしてきました。
私の「自殺観」は大きく変化しつつあります。

こうしたことも、節子との別れを体験したからこそ、わかってきたことかもしれません。
現世的な意味では、節子は取り戻せませんが、節子は今もなお私の中に生きています。
願わくば、早く彼岸に行って、お互いのその後のことをゆっくりと話し合いたいものです。

ところで、イザナギやオルフェウスの失敗は、自分を基準にして考えているからだと書きました。
もしそうであれば、彼らは生前もまた、自分を基準にしていたはずです。
つまり、イザナギにとってのイザナミ、オルフェウスにとってのユーリディスは、所詮は自分のものでしかなかったのです。
だからこそ、取り戻そうなと考えたのでしょう。
そこには「愛」はないのかもしれません。
イザナギやオルフェウスのような愚挙は起こしたくないものです。
生あるものは、たとえ自らであっても、所有することなどできないのですから。

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2009/04/28

■節子への挽歌604:「愛する人」と「愛」

節子
「オーシャンズ11」という映画があります。
学生の頃観た「オーシャンとその11人の仲間」のリメイク版ですが、なかなか面白く、何回も観ているのですが、11人のグループがラスベガスのカジノの金庫から莫大なお金を盗むという話です。
その計画を立てた主人公の真の狙いは、実は別れた恋人をカジノのオーナーから取り戻すことなのですが、映画では見事にお金と元恋人の両方を手に入れます。
元恋人を取り戻すための策は、お金と「女」のどちらを選ぶかをカジノのオーナーに言わせ、それを元恋人に見せることです。
その本音を言わせるために、生命をかけた資金奪取計画を実行するわけです。

愛する人を失ったらどうするか。
妻を取り戻すために彼岸に行った神話は各地に残っています。
日本では、黄泉の国にイザナミを迎えに行ったイザナギの話がありますし、ギリシア神話には有名なオルフェウスの話があります。
いずれも、しかしあと一歩のところで、成功しない悲劇として語られています。
失ってしまった、愛する人を取り戻すのは難しい話です。

「オーシャンズ11」の主人公のダニーが取り戻したのは、「愛する人」ではなくて、実は「愛」でした。
この2つは混同されがちですが、少なくとも日本の少し前までの文化では別物でした。
最近、社会が壊れだしている一つの要因は、「愛する人(もの、こと)」と「愛」を混同していることかもしれないと、最近、思うようになりました。

「愛」を失っていないが故に、「愛する人」を取り戻したくなる。
これが1年前の私の気持ちでしたが、今は違います。
「愛」を失っていないのであれば、「愛する人」もまた失っていないのではないか。

映画「オーシャンズ11」を観ながら、こんなことを考える人はいないでしょうね。
まあ、人生の支えを失ってしまうと、思考の迷走に陥ってしまうものなのです。

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2009/04/27

■節子への挽歌603:床屋の井戸

「王様の耳はロバの耳」という話をご存知でしょうか。
子どもの頃、イソップ物語で読みましたが、最近はむしろ寺山修司のミュージカルの方が有名でしょう。
王様がロバの耳をしていることを知っているのに口止めされている床屋が、黙っていることに耐えかねて、井戸の奥に向かって「王様はロバの耳」と大声を出して叫ぶという話です。
まあ、その前後に面白い話があるわけですが、人間は誰にも言えないことを心に溜め込んでしまうことはできないのです。
ですから、誰かにその話を聴いてもらいたいわけです。
まあ、このブログは、私にとっての「床屋の井戸」のようなものですが、ここには書けないこともたくさんあります。
節子がいた40年間は、節子が私の愚痴から何まですべての聞き役になっていましたから、私はストレスがあまりたまらなかったのです。
しかし最近は、どうもストレスがたまります。

最近、どうも溜まりに溜まっているようで、昨日、実はついに爆発してしまいました。
いわゆる「八つ当たり」ですが、昨日、会った数十人の人たちにいささか恥を残してしまいました。
困ったものです。

それにしても、社会的な常識が欠落している人が多すぎます。
だいたいにおいて社会的に立派な肩書きを持っている人には、まともな常識を持っている人はあまりいません。
肩書きなど、名刺なども持たず、誠実に汗している人たちはこれまたほとんど例外なく常識をしっかりと身につけていますので、付き合っていて気持ちが和らぎます。
肩書きで生きている人は、誠実に生きなくても生きていけるのでしょう。
腹立たしいほどに常識がありません。

あまり書くと問題が起こりかねませんが、まともな挨拶もできない教育者や社会性などない社会活動家が、何と多いことか。
言葉だけ見事に対応しながら、約束を履行もしない人も嫌になるほど多いです。
こう書いてくると、待てよ、これは自分のことではないかとも思いますが、自分のことは棚にあげて、他人のことが気になります。
これがまた、名刺など持っている人の共通点なのですが。

いずれにしろ、不快なことが鬱積してしまっていたので、今日はいろいろと恥ずべき言動をしてしまいました。
もちろん発散してしまった相手と鬱積させた相手とは、必ずしも重なっていないのですが。

節子は、そうした私のダメさ加減やこらえ性のなさを知っていましたから、溜まっているとわかると抜いてくれましたし、また危ない時には、今日は冷静に話して来なさいよと注意してくれました。
まあそうした注意がいつも役に立つわけではないのですが、それで一見、「温厚で物分りのいい佐藤さん」が維持できることも少なくありませんでした。
その節子がいなくなった今、鬱積した思いはどこにはかせたらいいのでしょうか。
もしかしたら、伴侶の最大の役割は、床屋の井戸役なのかもしれません。

鬱積していたストレスを発散してしまった後味の悪さで、今日はストレスが倍増です。
不惑の年はもうとっくに過ぎていますが、人間はますます偏屈に偏狭になってきているような気もします。

節子の位牌を、私の「井戸」にしようかとも考えましたが、床屋の井戸は、その底から世界につながっているという落ちがあるので、やめておいた方がよさそうです。
なにしろ彼岸は、現世のすべてに繋がっているそうですので。

何かいい方法を見つけなければ、また誰かに八つ当たりしそうです。
節子
なにかいい知恵はないですか。

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2009/04/26

■節子への挽歌602:元気であることへの期待

昨日、ある集まりをやったのですが、節子の発病以来、全く会う機会のない友人が参加してくれました。
最後のオープンサロンの時に、節子に花束をくれた石本さんです。

開口一番、なんだ元気じゃないですか、というのです。
顔色もいいし、むしろ太ったようですね。

節子がいなくなった後、なぜか私に会いに来なくなった人たちがいます。
まあ用事がなければ会いに来なくて当然なのですが、もともと私のところに来る人は別に用事などない人が多いのです。
ではなぜこなくなったのでしょうか。
たぶん、「元気」ではない私には会いたくなかったのでしょう。
ですから、みんな私の「元気」に出会えてホッとするわけです。

しかし、こういわれると、なんだか元気なのを咎められているような気もします。
それに、私の内部にも、元気になったしまうことに対する罪悪感もあるのです。

伴侶や家族を亡くした時に、残されたものがどうあるべきか。
そんな「社会的期待」があるのかもしれません。
言い換えれば、私たちは、そうした「社会的めがね」を通して、人を見ていることが多いように思います。
それだけでなく、当事者もまた、そうした「社会的通念」の期待に応じてしまうように、無意識に反応してしまいがちなのです。
少し大げさな言い方をすれば、それが福祉問題を考える時の一番の障害になっているのです。

私はただ、心のなすがままに、自分を生きていますから、いつも元気です。
それがなかなかわかってもらえません。
元気ですが、悲しみ涙ぐみ、落ち込み、気力を失い、嘆き、呆然とし、混乱し、思いにふけり、我を忘れてしまうことは、あるのです。

節子
最近また活動がどんどん広がってしまってきました。
みんなは、「それでこそ佐藤さん」「以前の佐藤さんに戻ってきてうれしい」と言ってくれます。
でも私のことを一番よく知っているのは、いうまでもなく節子です。
節子はどう思っているでしょうか。
時々、そのことを思います。
世界中の人が喜ぼうとも、節子が喜ばなければ、私には全く意味がありません。
私がどうあろうと、私らしく生きていれば、節子は喜んでくれていることは、もちろん知っているのですが。

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2009/04/25

■節子への挽歌601:指の魅力

動物行動学の竹内久美子さんの書いた「遺伝子が解く!男の指のひみつ」という本に、薬指の長い男性はよくモテると書いてあるそうです。
そのことを紹介している本に、女性はどうも男性の指に魅力を感ずるようだということが書いてありました。
女性にも持てるための本などという種類の本ではありません。
「雇用はなぜ壊れたのか」(ちくま新書)という本に出てくる話です。
それを読んで思い出したのが、節子のことでした。

節子は、私にそう惚れ込んでいたわけではありません。
節子が惚れたのは、前にも書きましたが、唯一、私の指だったのです。
残念ながら私の指の薬指は長いわけではありません。
そうきれいな指でもないのです。
しかし、なぜか節子は私の指が大好きだといつも言っていました。
まあ、それ以外ほめるところがなかったのかもしれませんが。
節子にほめてもらっ