カテゴリー「社会時評」の記事

2019/06/28

■「話す(放す)社会」と「語る(象る)社会」

最近、改めて気になることがあります。

フェイスブックでは、いろんな人が巻き込んでくれるおかげで、いろんなFBコミュニティ(グループ)に登録させてもらっています。
そのおかげで、いろんな人の発言を目にすることが多くなったのですが、その多くが「話す」ことで終わっているような気がしてなりません。
ツイッターがその典型だと思いますが、自らの思いを「放つ」ことで満足する人が多いようです。
私も時に、自分の思いを放ちたくなり、放つことも多いのですが、放した後、つまり話した後いつもちょっと後悔します。

話すとは「放つ」ことで、完結した行為。
むしろ問題に関する自らの思いは弱まりやすい。つまり「消費的な行為」。
語るとは「象る」ことで、創造的な行為。
それによって、新たな思いを背負うことにあり、思いは強まりやすい。つまり「創造的な行為」。
そういう整理をすることもできるように思います。

 それに、世の中にヘイトスピーチが多いですが、話すことはどこかでヘイトにつながりかねません。
私が国会デモに行けなくなったのは、あの空間に憎しみに支えられたヘイトを感ずるようになってきたからです。
もちろん、時には「怒り」が大きな力になることはあります。
しかし、日常的に怒りや思いを放っていたら、そこで思いが消費される恐れもある。

 ツイッターはもちろんですが、フェイスブックにも怒りや不満を放す(話す)コメントが多いのが、私には気持ちがよくありません。
それに、安倍首相の批判をする人と安倍首相とは、言動がとてもよく似ているような気もします。

 こんなことを書くと、また「批判することを否定するのか」と叱られそうですが、批判はっても大切だと思っています。
「怒り」もとても大切です。
ただ「怒りの活かし方」や批判のルールもあると思います。
怒りも批判も新しい価値を生みだすことにつなげていきたいと思っています。

 私の基本姿勢は、批判の矛先に自分を含めるようにしています。
それでは勢いが出ないだろうと思われるかもしれませんが、私の場合は逆です。
なぜなら批判することは常に自らの生き方を問い直すことと無縁ではないからです。

言い換えれば、批判によって、自分の世界が広くなる、あるいは新しい地平が象られていく。
語るとはそういうことだろうと思っています。

 私の投稿は、いつもそんな思いで書いています。

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2019/06/27

■百田尚樹現象

家族みんながお世話になっている、いしど歯科クリニックから帰ってきた娘が、私にと石戸さんから雑誌を預かってきました。
雑誌は、64日号のNewsweekでした。
特集が、「百田尚樹という社会現象」。表紙は百田尚樹さんの顔。

百田さんには大変失礼なのですが、この顔を見たとたんに拒否感が生じます。
むかし私は朝日新聞社のアエラを購読していましたが、表紙に麻原彰晃の写真が載ったのを契機にアエラの購読をやめました。
雑誌や書籍の表紙は、そのくらい私には大きな影響を与えます。
ですから、石戸さんからでなければ、私はこの雑誌を読むことはなかったはずです。

なぜ石戸さんは私にこの本を届けたのかは、すぐ察しがつきました。
前回私が治療に行った時に、石戸さんの息子さんがノンフィクションライターとして活躍していることを初めて知ったのです。
たぶんどこかに石戸諭さんの寄稿が載っている。
そう思って雑誌を開くと、その特集記事が石戸諭さんによってまとめられていました。
19ページにわたる大特集です。
最後には石戸さんによる百田さんへのインタビューもありました。

正直に言えば、百田さんの記事を読む気にはすぐにはなれませんでした。
しかし、石戸さんのデビュー作『リスクと生きる、死者と生きる』のまえがきとあとがきを読んだ時に、その誠実な人柄が感じられたので読むことにしました。
読み出せるまで1日かかりましたが。
ただ、なぜ石戸さんが百田さんを取材しようと思ったのかにも関心がありました。

読み応えのある特集記事でした。
石戸さんの取材姿勢は、冒頭の「百田現象から見えるのは、日本の分断の一側面であり、リベラルの「常識」がブレイクダウン(崩壊)しつつある現実である」という文章で理解できました。
そして、「百田尚樹とは「ごく普通の感覚を忘れない人」であり、百田現象とは「ごく普通の人」の心情を熟知したベストセラー作家と、90年代から積み上がってきた「反権威主義」的な右派言説が結び付き、「ごく普通の人」の間で人気を獲得したものだというのが、このレポートの結論である」と石戸さんはまとめています。

「普通の人」という表現には違和感がありますが、その趣旨には共感できます。
ただ、「普通」という言葉は、思考を停止させるマジックワード的効果があるので気をつけなければいけません。

それはともかく、石戸さんの誠実な報告には共感したり気づかされたりすることも多かったのですが、この現象、あるいはリベラルな常識の崩壊(私はむしろ「保守」の崩壊と考えています)が、何をもたらしていくのかの展望がもう少し知りたくなりました。
これからの石戸さんの発言に耳を傾けたいと思います。

石戸さんは記事の最後にこう書いています。
長いですが、引用させてもらいます。
とても大切なメッセージだと思いますので

リベラル派からすれば、このレポートは「差別主義者に発言の場を与えたもの」と批判の対象になるかもしれない。だが、そうした言説の背景にあるもの、異なる価値観を緩やかにでも支える存在を軽視すれば、あちら側に「見えない」世界が広がるだけだ。

リベラルが「百田尚樹」を声高に批判しているその裏で、「ごく普通の人たちの憤り」が水面下で根を張りつつある。

「敵」か「味方」かが第一に闘われるようになるとき、分断は加速する。二極化の先にあるのは、先鋭化した怒りのぶつけ合いだ。問題は残り続ける。不都合な現実から目を背けてはいけないのだ。

いささか目を背けがちにしている自分を反省しました。
と同時に、先日の岡和田さんのサロンで、「チッソは私であって」という考えに関連して、岡和田さんから「佐藤さんは、安倍首相は私であった」という考えも受け入れるのですか?」と鋭く追及され、つい「はい、少なくとも否定はできない」と応じてしまったことを思い出しました。

私は映画「永遠のゼロ」も観ましたが、いささか複雑な気分でした。
百田さん原作と言われなければ、もしかしたら受け入れられたかもしれません。
私自身、思い込みの強い人間ですので、百田さんや小泉さん(親子ともども)や野田さん(元首相)や安倍さんの言動には、生理的に拒否感があるのです。
それぞれに理由は違うのですが、百田さんの場合は、その不誠実さ(ヘイト発言に象徴されています)が私には決して受け入れられないのです。
そうした偏狭さの危険性を、石戸さんはメッセージしてくれているように思いました。
「敵」か「味方」、「嫌い」か「好き」かに呪縛されていると、世界は見えなくなります。
そういう人をたくさん知っているのに、自分もそうなっていることに気づかされました。

百田さんの書籍を読む気にはまだなれませんが、映画「永遠のゼロ」をもう一度、観てみようと思います。
併せて、石戸さんの『リスクと生きる、死者と生きる』もきちんと読んでみようと思います。

若い世代から学ぶことはたくさんあります。

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2019/05/02

■ミッション・クリープ

先日、挽歌で「ミッション・クリープ」に少し言及しました。
それについて、時評編でも書いておこうと思います。
この風潮は、やはり戒めておきたいと思ったからです。
戒めの対象は、もちろん私自身ですが。

「ミッション・クリープ」という言葉があります。
当初対象としていた範囲を拡大したり、いつ終わるか見通しが立たないまま人や物の投入を続けていかなくてはならなくなった軍事政策を批判するアメリカの軍事用語でしたが、
「終わりの見えない展開」という意味で、広く使われてきています。

たとえば、人権概念の広がりにも使われることがあります。
どんどん対象を拡大している人権運動が、動物や自然にまで広がっているのはその一例です。
最近のパワハラやセクハラの捉え方も、そうかもしれません。

そういう動きを否定するつもりはありませんが、いささかの行き過ぎを感ずることもあります。
前にも時評編では「ゼロ・トレランス」への懸念を書いたことがありますが、とまることのないミッション・クリープにも危惧を感じています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/12/post_ffbe.html

特に最近は私たちが生きる拠り所にしてきた家族が攻撃対象になっているのは残念です。
「攻撃」するのではなく「改善」していきたいものです。
そういう意味で、私は「家族という呪い」とか「家族という病」とかいう言葉を軽軽に使う人の見識を疑いますが、しかしそういうほうが多くの人の関心を呼んで、問題意識を持ってもらうのには効果的なのでしょう。
ですから一概に否定すべきではないのですが、どうしても好きになれません。
「言葉」は「実体」を創っていくからです。

大切なのは「病の家族」を健やかにし、「家族を苦しめる呪い」を祓っていくことです。
伴侶を亡くしたものにとって、病であろうと呪いであろうと家族も親子もとても価値のあるものです。
そして、それがあればこそ、家族のような仲間も生まれてくる。

ちなみに、私が考える家族は、血縁でも異性を軸にしたものでもありません。
一緒に暮らす(生きる)人の暮らし方くらいの意味です。
その基本モデルが、現在の「家族」制度ですが、その制度に制約される必要はないでしょう。
制度はあくまでも「手段」ですから、状況によって変わらなければいけません。

有識者の呪いや病を直してやりたい気もしますが、私の方が呪いにかかり、病を得ているのかもしれません。
それにしても、家族とは不思議なものです。

 

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2019/04/29

■多様性を受け入れるとはどういうことか

昨年、テレビ朝日で放映されていたドラマ「未解決の女」のドラマスペシャルが昨日放映されました。
わずかな文章から書き手の性格や思考を言い当てる能力を持つ警部補が、未解決の事件を解決していくという物語です。
言葉から事件を解いていくというのが、このドラマの面白さです。
「言葉の神様」は私にはあまり降りてきませんが、その存在は私もかたく信じています。

今回は、現場に品字様の文字が遺された連続殺人事件の物語でした。
品字様の文字とは「品」のように同じ漢字が3つ連なる文字のことです。
品字様の文字も面白いですが、今回書こうと思ったのは、ドラマを見ながら最近特に感じていることです。
ネタバレになりますが、ドラマの連続殺人は、恋人を過労死に追い込んだ会社の上司や関係者への「復讐劇」でした。
最後に犯人が、なぜ犯罪に至ったかを告白するのですが、私はこういう話に弱くて、いつも共感のあまり涙が出てしまうほどです。
そこでは、心情的には、加害者と被害者が逆転してしまうわけです。

そうした告白に対して、どんな事情があろうとも、人を殺めるような犯罪を起こしてはいけないと刑事が戒めるのが、このパターンのドラマの定型ですが、私はこういうセリフが好きではありません。
他人のことだからそんなきれいごとが言えるのだと内心思ってしまうのです。
それに、あなたは何の根拠をもって、加害者と被害者を決めるのか、と問いたくなるわけです。
ちゃんと自分で考えているのか、というわけです。
こういうやり取りの意味は実に大きいと思いますが、そうした言葉の洗脳には抗わなければいけません。

話は変わりますが、先日のスリランカの連続自爆テロは、IS の悪夢が決して「夢」ではなく、終わりがないことを教えてくれているような気がします。
なぜ終わらないかは、明白です。
終わりようがないのです。
もちろん終わらせる方法はあります。

最近読んだ「暴力の人類史」に紹介されていたのですが、法学者のドナルド・ブラックは、私たちが犯罪と呼ぶもののほとんどは、加害者の視点から見れば正義の追求だと主張しているそうです。
ブラックは膨大な犯罪データを解析した結果として、こう書いているそうです。

殺人のもっとも一般的な動機は、侮辱されたことへの報復、家庭内の争議がエスカレートしたもの、恋人の裏切りや失恋、嫉妬、復讐、自己防衛など、道徳的なもので、大部分の殺人事件は実質的には、ある一般市民が自ら判事、陪審員、そして執行人となった「死刑」である。

つまり、殺人の多くの実態は、「正義のための死刑(リンチ)」だというわけです。
ブラックはさらにこう書いているそうです。

「殺人を犯す者は、しばしば、自らの運命を当局の手に委ねているように見える。警察が到着するのをじっと待つ者も少なくないし、自分から通報する者もいる。このような場合には、殺人を犯した者は見方によっては殉教者といえるかもしれない。殺人を犯す者は自分が正しいと思っており、その帰結としての処罰を甘んじて受け入れるのだ」。

とても考えさせられます。

「正義」を語る人を私は好きになれませんし、「法律」に呪縛されている人も好きにはなれませんが、しかしISの悲劇を聞くたびに、ではどうしたらいいのかと自問します。
それで決めたのが、「正義」と「法律」から自らを解放しようということです。
「正義」も「法律」も、私にとっては、きわめて多義的なものになってきています。

「社会のため」とか「正義のため」という言葉は、軽々に使うべきではないでしょう。
その前にまず、自らの世界の広さをこそ顧みることが大切です。

今回、言いたかったのは、多様性を受け入れるとはどういうことかという問題提起なのです。
いつも誤解されるので、蛇足ながら。

 

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■年齢は捨てられません

挽歌編に書いたのですが、少しだけリライトして時評編にも書きました。

20年ほど前、アンチエージングが話題になった事があります。
高齢化が問題になっていたころです。
以来、年を取ることへのマイナスイメージは定着しました。
当時、私もそうした考えに大きな違和感を持っていませんでした。
もっとも「高齢化」に関しては私自身はプラスの評価をしていました。
「早く来い来い、高齢社会」などという小論を書いたりしてもいました。
http://cws.c.ooco.jp/siniaronnbunn2.htm

最近、下重暁子さんが「年齢は捨てなさい」という本を出版しました。
新聞広告には「年にしばられると人生の面白さが半減する」「年齢という「呪縛」を解き放て!」と書かれていました。
こういう風潮に最近やはり強い拒否感があります。

いろんなものに「呪縛」されているのに、よりによって、捨てる対象が「年齢」とは、どうも納得できません。
私は、最近は年齢に素直に従っていますが、それが「呪縛」とは思えません。
すなおに加齢を受け入れ、それを前提に生きています。
「老人」という言葉も好きですが、実際には「老人」になれずに、意識はむしろ年齢に追いつけずにいます。
しかし、身体は素直に年齢を重ねています。

最近、高齢のドライバーの交通事故で、親子が死傷する事件が起きました。
それを契機に、高齢者ドライバーへの批判が高まり、自動車運転免許も年齢制限する必要があるのではないかという意見も出てきています。
それに対して、年齢で制限するのはおかしいとか、憲法違反だという声もあります。
自動車免許をとれるようになる年齢も含めて、いろんな分野で年齢制限されているのに、こんな論理は成り立つはずもないでしょうが、そんなご都合主義が相変わらずまかり通っています。

みんな「年齢」を捨てたがっているようです。
不老不死の世界に入るのは、そう遠い先ではないでしょう。
しかし不老不死とは、命のない世界でもあります。

私は70に近付いた段階で免許は返納しました。
基本的には年齢制限をつけるべきだと思っていますし、それがなくても自分のことは自分で決めるくらいの良識は持っています。

たしかに人によって状況は違い、高齢でも運転できる人はいるでしょう。
しかしそうした個別事情を認めていたら、年齢は社会的判断の基準にはならず、社会は成り立ちません。

年齢を捨てるという発想にはやはりなじめません。
私自身は、素直に年齢(生命)に従う生き方をしたいと思っています。

その本の新聞広告に、「年齢を封印するだけで出来ることが10倍増える!」と書かれていました。
私はむしろ、「年齢を受け入れるだけで出来ることが10倍増える!」と揶揄したいですが、それはともかく、「自分を素直に受け入れるだけで出来ることがたくさんある」と思っています。
しかし、自分を素直に生きることはとても難しい。
まだまだ年齢相応の生き方ができない未熟さに、時に自己嫌悪に陥ります。

それでも私は、年齢を大事にした生き方をしていこうと思います。

 

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2019/03/12

■湯島サロン「東京で感じたこと、米子で見えたこと」報告

久しぶりに、まだ日本には救いがあるなと実感できたサロンでした。
これはきわめて主観的な感想ですが。

今回の話題提供者の矢辺さんは、鳥取の米子で育ちました。
東京で大学卒業後、障害者に特化した人材系会社に入社。
活動を通して、「障害者」の捉え方が変わり、本人が不自由を感じていたらそれはすべて障害なのではないか(その逆もある)、そうした生きにくさを抱えている人の問題を解決したいと思うようになったそうです。
その後、生活困窮者支援を行う国のモデル事業(パーソナルサポーター制度)の就職担当相談員に転身。
その制度がなくなったため、そうした活動のための会社を自ら起業しました。
しかし、2014年に父親から事業を引き継いでほしいといわれ、両親に「ものすごく感謝」をしていたこともあり、実家のある鳥取県の米子に帰郷しました。
たまたまその会社は、電力提供に関わる会社なので、そこで将来は、エネルギーの大量生産大量消費から地産地消ができないかという活動にも取り組みたいと考えています。
会社経営のあり方に関しても、ティール組織も参考にしながら、変革に取り組んでいるようです。

これが矢辺さんのこれまでの人生ですが、お話を聞いていて、さまざまなことを考えさせられました。
10年以上前に、大学時代の矢辺さんとはいろいろと話し合ったこともあるのですが、自らの志を軸にして、時流に流されることなく、しっかりと実践しているのに感心しました。

矢辺さんは、会社に就職しないと生活できない現在の社会に問題を感じています。
企業で働かなくても生きていける手段があれば良い。
企業だけに頼らずに、他者と支え合いながら、自然と調和した生き方を広げていきたいといいます。
そのためのいくつかの具体的な手だても矢辺さんは考えています。

個人の生き方に関しては、「おりる生き方」を提案しました。
それは、「企業で働いていなくても、福祉のお世話にならず、生きること」を目指す生き方です。
経済状況によって変化する企業業績に左右されず、財政事情によって変化する福祉制度に左右されず、「今日が来たように明日を迎える暮らし」、そして「つながりで生きづらさを解決する暮らし」というのが、矢辺さんが目指す生き方の基本です。
具体的な提案もありましたが、一言で言えば、「問題をお金で解決しない」生き方です。
お金を「稼ぐ」仕事は、週3日程度にし、後は「働く」仕事をし、顔が見える範囲の150人までの地域コミュニティとその核になる生活基盤となる家族をしっかりとつくっていきたい。
お金は家賃やライフライン代が払える程度あればいい。
できないことはみんなでフォローし合えるコミュニティがあればいい。
それが、矢辺さんが提唱する「おりる生き方」です。

最後に矢辺さんはみんなに問いかけました。

正しさとは?
生命力とは?

その問いかけから話し合いが始まりました。
話し合いは省略して、矢辺さんの考えだけ紹介しておきます。
「正しさは生命力を高めること」
「生命力とは自らの持つ良い部分を出し続けられること」

ちなみに、米子と東京に違いは何か、という話も出ました。
矢辺さんは、今回も羽田を降りた途端に、なぜか自分もせかせかと「速足」で歩いていたと話しました。
米子と東京とでは、時間の進み方が違うのかもしれません。

矢辺さんは、家族に頼れることのすごさについても語り、そうした「安心できる生活基盤」の大切さも語ってくれました。

「せかせかした生活環境」そして「安心できる生活基盤」。
この2つについて、私たちはもう少ししっかりと考え直す必要があるのではないかと、改めて考えさせられたサロンでした。
参加者は矢辺さんを含めて7人。ちょっと少なかったのが残念でした。

いま、時代の大きな分かれ目に来ているように思いますが、若者のメッセージの眼差しから、そして参加者の発言から、私としてはちょっと元気をもらいました。

矢辺さんのメッセージにつながるようなサロンを、4月5月と予定しています。
またご案内させてもらいます。

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2019/03/07

■名前がなくなっていく?

今朝の朝日新聞の投書欄に、昨年、掲載された郵便局員の方からの投書「表札それでも出しませんか?」への反響の投書が掲載されていました。
郵便局員の方からの投書は添付しますが、こんな文章が含まれています。

人や物や場所や建物などは、名前があることで区別・認識され、それで社会生活が成り立っています。表札を出すリスクはあるかもしれませんが、誤配や遅配、不着などを回避するために表札は欠かせません。表札を出さないのも各自の勝手だと思われるかもしれませんが、それで他のお客の配達が遅れることだってあり得るのです。
とても大切なメッセージがいくつか含まれているように思います。

表札を出さない人も増えていると聞きます。
昔はみんなの住所や電話番号も掲載された電話帳も配布されていました。
もう15年ほど前ですが、自治会の会長をやった時に、名簿も作成して配布してはいけないといわれました。

この郵便局員の方が言うように、人や物や場所や建物などは、名前があることで区別・認識され、それで社会生活が成り立っています。
その名前が隠されていく。
名前のない人や物で構成される社会とはどんな社会でしょうか。

ちなみに、この投書への意見のひとつに、配達のための「番号」があればいいという意見もありました。
その方は、表札に名前を書くことには反対ではないのですが、同時にこうも書いています。


最近は病院で名前ではなく番号で呼ばれることがある。個人情報を気にする方向けには配達番号をつくったらどうか。

そういえば、私たちにはすでに番号がついています。
どう使われているのか知りませんが、そのうち名前がなくなるような気がしています。
名前よりも「番号」の方が、管理効率はいいでしょうから。

2012年の自民党「日本国憲法改正草案」は、現憲法第13条の「すべて国民は、個人として尊重される」を「全て国民は、人として尊重される」と変えています。
「個人」には名前がありますが、「人」には名前がありません。
「個人」を基本として考えるか、「人」を基本として考えるかは、全く別のものです。
「個」という文字があるかないかで、人民や民衆は、国民や大衆、あるいは臣民になってしまいかねません。

表札を出さない生き方やそうさせてしまう社会は、息苦しい管理社会につながっているような気がします。

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2019/02/21

■目先の問題解決のために大切な文化をないがしろにしていないか

「24時間はもう限界」、セブン-イレブンFC加盟店が時短営業で本部と対立、という話題がテレビや新聞で報道されています。
人手不足が、その大きな理由です。
そして、海外の労働力を日本に持ち込もうという考えを、多くの日本人は受け入れてきているようです。

前に「移民と移住」について書いたことがありますが、個人レベルでの「移住」の受け入れと、国家としての「移民」政策は、似て非なるものだと思います。
昨年、話題になった、ダグラス・マレーの「西洋の自死」を読んで、この問題の私の理解はまだまだ不十分だったと反省しましたが、日本もまた「自死」に向かっているという、解説者の中野剛志さんの指摘を思い出しました。
それが、どんどん真実味を増しているからです。

ダグラス・マレーは、個人としての移民(イミグラント)と集団としての移民(イミグレーション)とは違うといっています。
私は、それを「政策としての移民」と「個人としての移住」と分けて考えて、「移住支持」「移民反対」の立場です。
最近の労働力視点で「移民」や「移住受け入れ」を考えることは、無責任であり、日本の文化をさらに変えてしまうだろうと懸念しています。
それに、そもそも人の生活を労働で考えてはいけません。
「人は人を手段にしてはいけない」というカントの言葉に反するからです。

その奥にあるのは、24時間営業を便利だと思う文化です。
いや24時間営業などという「例外」を「ルーティン」にしてしまってきた文化というべきかもしれません。
ちなみに、昔はどこの店も24時間営業などと言わずとも、万一真夜中にどうしても薬が必要になったら、店の戸を叩いて店主を起こすこともできたのです。
それが薬でなくて醤油だったら、隣の家に分けてもらいに行けたかもしれません。
まあそれはともかく、人手不足であれば、人手を減らす社会をつくればいいだけの話です。
その根底にあるのは、「成長信仰」です。

電力を無尽蔵に使いたいので原発を稼働させたことの問題を私たちは知りました。
にもかかわらず、懲りずに労働力を無尽蔵に使いたいので外国労働力を導入する。
労働力の担い手は人間です。

ダグラス・マレーの「西洋の自死」は、あまりに反イスラムなのであまり薦めたくはないのですが、この本を読んだら、今の風潮には疑問を抱く人も増えるかもしれません。

大切なのは経済ではなく文化なのです。

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2019/02/18

■不適切の流行

最近、「不適切」という言葉をよく耳にします。
「不適切動画」「不適切指導」「不適切処理」……。
しかも、その不適切動画なるものがテレビでも盛んに流されます。
流す必要などないでしょうが、テレビ関係者もまた「不適切動画」を広める活動に熱心です。
「不適切動画をスマホやユーチューブで流すのが「不適切」なのであれば、公共性がより高いテレビで流すのは、もっと「不適切」だと私は思います。
いまや公共メディアこそが「不適切」な存在ではないかと思いたくなります。

そもそも飲食店やコンビニなどで働いている人が、なぜ「不適切映像」を流すのか。
そこにこそ私は関心があります。
何も好き好んで、自らの解雇のリスクのある行動を行っているわけではないでしょう。
その背景には、そういう行動をしたくなってしまうような、「不適切環境」があるのではないかと思います。
当該企業のことだけではありません。
社会そのもののことを言っています。

言うまでもなく、「不適切」なのは「動画」ではなく「行為」です。
そうした「不適切」な行為を従業員が行ってしまうような環境をこそ正さなくてはいけません。

「不適切な指導」を行う親や先生も同じ捉えた方が必要です。
なぜ「不適切な指導」や「不適切なしつけ」が行われるのか。
問題をもっと大きな視野でとらえない限り、事態は変わっていかないように思います。

それ以上に問題なのは、世間の風潮そのものが「不適切さ」への感度を鈍らせていることです。
それを象徴し、それを促進しているのが、私たちが選んだ政治家たちです。
政治家の不適切な行動こそ、もっと問題にしなければいけません。
その「不適切度」を考えれば、テレビで報道されている「不適切動画」などは、私にはあまり気にはなりません。
むしろ「不適切な社会」や「不適切な生き方」への警告のようにも感じます。

政治や行政の世界から「不適切動画」がでてこないことにも疑問を感じています。
飲食店やコンビニよりは、働く環境がいいのでしょうか。
あるいは、人間的な感性が弱まってしまっているのでしょうか。

もちろん私は、「不適切動画」や「不適切指導」を肯定しているわけではありません。
私の投稿は、読み違えられることも多いので、念のために。

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2019/02/17

■カフェサロン「留学生の目からの来日前の日本、来日後の日本」の報告

留学生支援企業協力推進協会の太田さんにお願いして「留学生は日本をどう感じているだろうか」というサロンを開催しました。
最初に、太田さんがなぜ留学生支援に取り組んだかという話をされた後、韓国の温ビチャンさんとスリランカのJ.ラッセルさんからお話をお聞きしました。
関心のある人が多いようで、12人の参加者がありました。

留学生のふたりはいずれも、日本に来て、日本が以前より好きになったようですし、日本での留学生活にはあまり不満はないようでした。
ただ、来日前と来日後の印象は大きく変わったようです。

温さんは、学校教育の中で、日本のイメージをつくっていましたので、日本にはあまりいい感じを持っていなかったのですが、日本に来てイメージが変わったといいます。
特に感心したのは、日本では世界中の書物が翻訳されていて図書館でそれが読めるということだったようです。
そこに日本の強さの理由とこれからの可能性を感じたといいます。
これは意外と日本人は認識していないことかもしれません。

ラッセルさんが日本に来たいと思った理由は2つあったそうです。
小さなころから父親が日本をほめていたこととテレビの「おしん」の影響でした。
そこで日本への留学を決めたのですが、来日して、「おしん」の日本との違いに驚いたそうです。
「おしん」の世界はなくなっていましたが、今の日本も生活しやすく、別の意味での日本の良さも実感してもらっているようです。

ふたりとも来日して、日本がますます好きになったそうです。
参加者から、不満はないのかと何回か質問がでましたが、2人とも不満はないといいます。
日本の批判をすることへの遠慮があったのかもしれませんが、基本的には日本のファンになったようです。

ただ、ラッセルさんは今年卒業して日本で就職しますが、昨年の就職活動ではちょっと苦労したようで、その過程でちょっと違った日本も感じているようです。
来年日本で就職予定の温さんがどう感ずるかは興味深いです。

おふたりの話を聞いた後、質疑中心に自由に話し合いました。
家族関係の話、学校教育の話、経済的豊かさと生活の豊かさの話、便利さの話、政治の話…。

韓国は儒教の国であり、スリランカは仏教の国です。
いずれも「家族」を大切にしている国です。
そうした視点からは、どうも日本の「家族」のイメージにはちょっと違和感があるそうです。
スリランカでは、親は子どもの生活への関心が高いようですが、日本の場合、親は子どもの生活にあまり関心がないのではないかとラッセルさんは感じているようです。
コミュニケーションの問題もでました。
ラッセルさんは、日本には自動販売機が多いが、あれも人とのコミュニケーションの機会を奪っているという話をしました。
買い物は、お金の世界と人のつながりを育てる世界をつなげていく場ですが、ラッセルさんの指摘はとても大切な視点を気づかせてくれました。
私はもう長いこと、自動販売機は利用していませんが、コミュニケーションの視点で考えたことはありませんでした。

温さんは韓国の現代の話もしました。
日本人はあまりに現代史に無関心ではないかという指摘とも受け取れます。
温さんは、政治学を専攻されていますので、地政学的な話もされました。
この話は、できれば改めて温さんに頼んでサロンをしてもらいたいと思っています。

プレゼンテーションの仕方や内容も、国柄を感じさせました。
参加者の反応も、日本の実相を感じさせて興味深かったです。

お2人の話を聞いて、私は留学生に見える日本の姿と実際の日本の姿のギャップを感じました。
日本の表層だけではなく、便利さや豊かさや安全さの裏にあるさまざまな問題の現場にも触れる機会を留学生には持ってほしいと思いました。
留学生は、基本的には、学校と住まいとアルバイト職場を通して、日本と触れていますが、概して恵まれた環境で日本と接しています。
留学生ではなく、働きに来ている外国の人たちの話も聞きたくなりました。
どなたかそういう人を紹介してくれないでしょうか。

お2人は、サロンの場ではまだ十分に本音が出せなかったかもしれません。
終了後、有志の人たちと居酒屋で話し合ったそうです。
私は参加できなかったのですが、そこでどんな話が出たか、興味があります。
どなたかよかったら、さしさわりのない範囲で、教えてください。
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Ryuugakusei2_2


Ryuugakus3_2


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