カテゴリー「社会時評」の記事

2018/10/28

■安田純平さんに心から感謝します

シリアで消息を絶っていたジャーナリストの安田純平さんが、2018年10月に無事帰国しました。
久し振りの、とてもうれしいニュースです。
しかし、さまざまなバッシングが行なわれていて、テレビの報道を見ていて、哀しくなるというよりも、実にいやな気分になります。
昨日も多くのテレビで、コメンテーターやキャスターのほとんどが、私には極めて不快な発言をしていました。
そういう人たち(たとえば北野たけしさんですが)の名前も出したいほどですが、きりがないのでやめることにします。
しかし、この人がと思うような人が、私には聞くに堪えない発言をしていて、驚きます。

その根底に感ずるのは、弱い者いじめと国や政府の視座です。
つまり、全体の方針に従わない者は、いじめられ、保護されないということです。
学校でも会社でも、地域でも、そして家庭でさえ、そういう風潮は広がってきているような気がします。
それは私の生活にも無縁ではありません。
国の方針に逆らう人は殺されてもいいというところにつながっているように思います。
そもそも国境を越えて移動することにおかしさを感じない近代人は、私には理解できません。

昨日のテレビでは、安田さんは目的に失敗したという人もいました。
しかし、安田さんが明らかにしてくれたことは、私にはたくさんあります。
ジャーナリストは、記事だけで情報を発信しているわけではありません。
安田さんが書いたであろう記事や動画よりも、私には大きなものが伝わってきています。
書かれたり撮られたりしたものだけで、ジャーナリストは情報発信しているわけではありません。
もちろん受け身でしか物事を考えていない人には伝わらないでしょうが、そうしたものの背景にこそ、私は価値を感じます。
安田さんの今回の不幸な事件は、決して無駄ではありませんし、無駄にしてはいけないと思います。

身代金も話題にされています。
もし身代金に私の税金の一部が使われたとしても異論は全くありませんし、むしろうれしいです。
オリンピックに使われるよりも、私には価値のあることですから。
それに、人の生命をお金とつなげて語る人たちは、私には唾棄すべき存在です。
念のために言えば、身代金が使われたかどうか、またそれをだれが負担したかどうかなど、私は知りませんし、身代金支払いを肯定しているわけでもありません。
そうではなく、こんな時でさえ、お金の話ばかりする人たちの気が知れないのです。

こう書くとまた反論が来ると思いますが、せっかくのうれしいニュースが、なぜか後味の悪いニュースになってしまっているのが、ともかく残念です。

私は、安田さんの勇気と志と実践に感謝しています。
そして、安田さんが無事帰国されたことに、無条件に喜びを表明したい。
安田さんを非難する人も、安田さんほどの「自己責任」意識を持ってもらえるといいのですが。
他者に自己責任を求める前に、まずは自らの自己責任を考えてほしいものです。


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2018/10/27

■ハロウィンよりもお盆でしょう

ハロウィンで世間はにぎわっているようです。
私の地元でも、友人が長年近隣の家庭で楽しむハロウィンのイベントをやっています。
私が住んでいるところからはちょっとだけ離れているので、それを知ったのは今年のはじめでした。
商業主義ではない、そういう活動が広がってきていることには異論はありません。
私の孫も、何やら魔女の服装をして喜んでいましたし。

しかしながらやはり違和感があります。
ハロウィンの起源であるケルトと日本文化のつながりの話もとても興味深くあるのですが、渋谷の仮装イベントにはいささかの嫌悪感さえあります。

死者との交流ということで言えば、日本にも「お盆」や「お彼岸」があります。
日本の伝統行事も、最近いささか商業化しつつあるのを感じますが、それはともかく、大事にしたいと思っています。
そこに、私の生き方の根っこを感ずるからです。
ハロウィンを批判するつもりは全くありませんが(バレンタインには極めて拒否的ですが)、日本の仏教を生きる拠り所としている私としては、お盆をもっと楽しいものにしたいです。

昨今の日本人の生き方がちょっと乱れてきていて、社会におかしな風潮が広がりだしているのは、やはり「宗教」や「信仰」がないがしろにされてきているためではないかと思っています。
日本には、たくさんのお寺や神社があります。
そうしたところがその気になれば、社会のあり方や人々の生き方を変えていけるはずです。
寺社による祭事は、人々の生き方に大きな影響を与えます。
祭事を、ショービジネスやイベントビジネスと勘違いしてはいけません。
祭事は、あくまでも祭事なのです。
そうした取り組みがあまり感じられないのですが、寺社の人たちは何を考えているのでしょうか。

もっとも、いまのような人の生き方や社会のあり方がいいという人もいるのでしょう。
しかし、私には、いまの社会はどうも自分が生きる社会から遠のいているような気がしてなりません。

私は祭事は「子育て」「人育て」という教育の仕組みでもあると考えています。
子どもを育てるのは、学校だけではありません。
そして、社会には子ども育て人を育てる仕組みが内在されていたように思います。
文化人類学に取り組む人たちの本を時々読みますが、そうした本を読むたびに、そう言うことを感じます。
同時に、人類は滅びに向かって進んでいるような気がします。

半年ほど前に読んだ奥野克巳さんの「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」(亜紀書房)で紹介されているボルネオのプナンの人たちの話はとても感動的でした。
この週末は湯島のサロンがないので、ちょっと古いですが、アマゾンの奥地で暮らしているピダハンを紹介した「ピダハン」(D・L・エヴェレット著)を読もうと思います。
本の紹介文には、ピダハンの人たちは無神論と書かれていますが、そんなはずはないでしょう。
たぶんキリスト教徒の基準で神を論じているために、無神論に見えるのではないかと思います。
まあそれを確かめたくて読むのですが。
ちなみに著者はキリスト教の布教活動のためにピダハンと共に暮らし始めて、結局、自らが棄教したと、これも本の紹介に書かれていました。

余計なことまで書いてしまいました。
11月22日に、ちょっと遅れていた「宗教」シリーズのサロンを企画しています。

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2018/10/22

■カフェサロン「『子どもNPO白書2018』を刊行して」報告

日本子どもNPOセンターが出版した「子どもNPO白書2018」をテーマに、執筆者の交流会もかねてのサロンを開催しました。
白書に関しては、既に紹介させてもらいました。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#180923

今回は、白書の編集代表でもある日本子どもNPOセンター理事長の小木さんが名古屋から参加、大坂からも日本こども未来研究所所長の川野さんも参加してくれました。
日本子どもNPOセンターのメンバーでない人も数名参加し、総勢15人ほどになりました。
社会保障を専門にされている本間先生も参加してくれました。
東京新聞の飯田さんも取材に来てくれました。
編集委員の金さんは子連れ参加で、場の雰囲気も変わりました。
異分野の人ができるだけ接点を持つというのが湯島の精神ですので、うれしいことです。

私も白書は読ませてもらいましたが、さまざまなところでさまざまな活動が行われているのがよくわかります。
子どもたちは、大人と同じように、さまざまな問題の絡み合いの中で生きています。
子どもが生きているのは、決して「子どもの世界」ではありません。
無防備な子どもたちこそ、社会全体の縮図を体現しながら生きている面がある。
ですから、子どもの世界からは大人たちの社会の実相がよく見えてきます。
子どもの世界に現れている問題は、実は大人の問題の写し絵でもあり、そこから私たち大人の生き方が鋭く問われているわけです。

同時に、子どもの世界だけを見ていると見えなくなってしまうことも少なくありません。
今回の白書では、子どもたちを取り巻く法的環境の変化がていねいに解説されています。
それは、子どもたちにとっては逆風の流れのように思いますが、その流れに抗うためにも、あるいは新しい流れを創りだしていくためにも、さまざまな現場の人たちが横につながっていくとともに、実践者と研究者とのつながりがますます大切になってきています。
これだけさまざまな現場で実践している人たちがつながって、研究者と一緒になって動き出せば、法的環境を能動的に変えていけるように思います。
いやそれこそがNPOの大きな使命ではないかと改めて思いました。
この白書の継続的な出版活動は、そうしたつながりを育てる場にもなっていくでしょう。
実践者たちの交流や問題をシェアしあう場が、もっともっと必要だと話し合いを聞いていて感じました。

もう一つ感じたのは、白書もそうなのですが、総じて「大人の視点」で語られていることです。
もっと子供たちが主役として登場してほしい。
子どもたちを語るのではなく、子どもたちの思いを聞きたい。
私は障害のある人や高齢者の問題にもささやかに関わらせてもらっていますが、当事者とそれを支援する人の見ている世界はかなり違うのが、いつも気になっています。
そもそも支援するという一方向的な活動ではなく、お互いに学び合っていくことが必要ですが、子どもから学ぶことは山のようにあるはずです。
子どもたちは何を困っているのか、そうしたことをもっと聞きたかった気がします。

話し合いではいくつかの話題が出ました。
たとえば、福祉と教育の関係、あるいはNPOと行政の関係。
また「地域施設」という領域の立て方の是非も議論されました。
いずれも湯島のサロンで時々話題になるテーマですが、子どもの視点で、そうした課題を話し合うことは大切です。

もう一つの大きな課題は、この白書をどうやって社会に広げていくか、言い換えればたくさんの人たちに購入してもらうか、です。
読んでもらって何かの行動につながっていくことが白書の目的です。
どうしたら広げられるかについても、いろんな意見が出されました。
みなさんも、もしよかったら購入して読んでみてください。
そしてできればまわりの人たちに紹介していただければ嬉しいです。
湯島でも購入できるようになりましたので、読んでみようという方がいたら、湯島に来た時に声をかけてください。

せっかくの機会なので、私もいくつか提案させてもらいました。
たとえば「子どもNPOラウンドテーブル会議の発足」です。
執筆者である、領域を超えたたくさんの実践者や研究者たちが、子どもたちが置かれている現状の問題を可視化し、公開フォーラムのスタイルで、ぜひ社会に発信していってほしいと思います。
そして、さまざまな立場の人を巻き込んで、時には子どもたちも巻き込みながら、全国各地で定期的に公開のラウンドテーブル会議を展開し、問題を解決していく実践につなげていく。
それは同時に、大人や高齢者も含めて、みんなが住みやすい社会になることにつながっていくでしょう。
子ども世界は大人の社会の写し絵なのですから。

子どもたちの直接の声を社会にしっかりと伝えていく活動も必要です。
NPO活動の一つの落とし穴は、問題の当事者と問題解決を支援するNPO関係者との思いが「ずれていくこと」です。
問題を観察者的あるいは支援者的に捉えるのではなく、当事者(この場合は子どもたちですが)と一緒に活動していく。
白書でもそうした事例はいくつか紹介されていますし、最近そうした活動も増えていますが、子どもたちがいまの社会を、あるいは今の大人たちの生き方を、どう見ているのかは、必ずしも社会に発信されていないように思います。
子どもたちが見ている社会の姿を、私たちはもっと学ばなければいけません。
これは子どもに限りません。
高齢者も障害のある人たちにも、すべてに言えることです。

日本子どもNPOセンターの「白書活動」の価値を、改めて実感したサロンでした。
書店や図書館に注文したりして、ぜひみなさんも、この白書の存在を広げていってください。
子どもたちの育ち方が、私たちの未来を方向づけていくのですから。

報告というよりも、思いを書きすぎてしまいました。
すみません。
引き続き、具体的なテーマについてのサロンもやってみたい気がします。
どなたか問題提起したい方がいたらご連絡ください。


Kodomo181021


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2018/10/15

■信頼し合って支え合う関係をシェアするコミュニティづくりへ

湯島のサロンからまたひとつプロジェクトが生まれつつあります。
それもかなり湯島のサロンのビジョンにつながるプロジェクトです。
湯島のサロンは、最初オープンサロンから始まりましたが、途中からもう一つの活動のコムケアサロンと合流しました。
コムケアサロンは、コムケア活動の一環として始めたものでしたが、コムケアはコミュニティケアの略でした。
住友生命から委託されたNPOへの資金助成プログラムの一貫でしたが、当時、日本では「コミュニティケア」は「施設福祉から地域福祉へ」、それもその背景に福祉財政削減の意図を感じました。
そうした潮流への反発もあって、あえて「コミュニティケア」という言葉を使用しました。

ビジョンは、「大きな福祉」を目指す「共創型相互支援」ネットワークづくりでした。
その構想は、住友生命の関係者の全面的な支援を受けて、自由に取り組ませてもらいましたが、私がいささか活動にのめり込みすぎて体調を崩したこともあり、頓挫してしまいました。
その精神をコンセプトワークショップの活動として、いま引き継いでいます。
今のビジョンは、コミュニティケアではなく、ケアコミュニティです。
これに関しては、ブログなどで書いたことがありますが、取り組む気力が萎えたままでした。

今回のプロジェクトは、その時のことを思い出させてもらうようなものです。
これまで3回ほどやった「安心して死を迎えられる生き方」をテーマにしたサロンのなかから、思いをシェアした人たちで、ゆるやかなコミュニティづくりに取り組もうということになったのです。
私も参加させてもらいました。
その1回目のキックオフミーティングが昨日開かれました。
私も含めて9人の人が参加しました。
みんな、ご自分の活動をされていたり、取り組みたい活動を持っていたりする人たちです。
全体として目指す方向のたたき台を話し合った後、それぞれの活動や思いが披瀝されました。
その中で、それぞれができることも紹介されました。

まだゆるやかでゆる~いコミュニティですが、具体的な事業にも(それぞれが中心になって)取り組みながら、コミュニティを実体化させていくことになりました。
さまざまなタレントがつながっていくことで、 “ゆりかごから墓場、そして死後の世界まで”をつなげたコミュニティが育っていくといいなと、私は勝手に期待しています。
家族や地域や組織の“縁”とはまた違った、“第4の縁”を育てていきたいという、このプロジェクトのきっかけをつくってくれた中下さんの思いも、ぜひ実現したいと思います。
関心のある人はご連絡ください。
このコミュニティも、ゆっくりと広げていく予定です。

Lsc20181014


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2018/10/02

■「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」をお薦めします

「反ヘイト・反新自由主義の批評精神(岡和田晃 寿郎社 2000円)を先週、読みました。
「批評の無力が叫ばれて久しい。だが、本当にそうであろうか? 否、と大声で言いたい」という、岡和田さんの熱いメッセージから本書は始まります。
出版社からは、「文学界・思想界からの反響・反発が必至の〈禁断〉の文芸評論集」と紹介されていますが、著者の岡和田晃さんが「2008年から2018年まで書いてきた「純文学」とポストコロニアルな問題を扱う評論を、現代日本の閉塞状況を少しでも打破せんとする視座から精選」した評論集です。
副題は「いま読まれるべき〈文学〉とは何か」。
ほとんどの作品を読んでいない私としては、少し罪の意識を持ちながら本書を読みました。
岡和田さんは、作品を呼んでいない人への心配りをしているのですが、それでも時に取り上げられた作品を読みたくなります。
まあ、それが評論の一つの使命と効用なのでしょうが。

切り口は、アイヌ民族・沖縄・原発など、いわば「現代日本の辺境」からの「渾身の〈一矢〉」ですが、向けられている矢先は、東京界隈で無機的に生かされている私たちです。
その鋭い矢先は、私にもかなり鋭く刺さってきました。
岡和田さんの深い知と強い思い、そして「冷えた怒り」さえ感ずる「熱い本」です。

岡和田さんの批評精神への視線は、なかなか厳しいです。
「既存の権威におもねらず、単独者の観点から風穴をあける行為が批評」だと言い、「批評という境界解体的な知のスタイル」を縦横に駆使して、「虚飾とシニシズムが積み重なり、閉塞に満ちている」現代社会の実態を解き明かしていかねばならない、と言います。
しかし、現在の批評は岡和田さんの期待に応じていない。
「かつて批評とは、アカデミズムとジャーナリズムの谷間に位置し、両者を架橋する言説」として、新しい物語の創発を働きかけていたが、昨今の批評は、アカデミズムとジャーナリズムと一緒になって、「同調圧力を高める類の願望充足的な物語」の提供に頽落したと、厳しく指摘します。
しかも、批評は「無力」どころか、積極的な「旗撮り役」を担っている。
そうだそうだ!と、年甲斐もなく、思わず声を出したくなってしまいます。

文学や思想の根本に根ざす「どこからか不意にやってきて人間を揺さぶるような発想」から生まれる言葉が、真空に掻き消える前に把捉し、あらゆるカテゴライズの暴力を拒むダイナミズムを起こしていくことが、文芸批評だと、岡和田さんは言います。
言葉の力を、「こちら側」で、主体として確信している。
「批評とは、常に死との対話であり、終わりのない格闘でもある」とも言っています。
これもまた心に響きます。

しかし最近の私は、文学や評論から遠のいてきています。
20年ほど前から、そうしたものがうまく受け止められなくなってきているのです。
「現代文学は政治性や社会性から目を閉ざし、他者を意識することなく衰退の道を辿ってしまった」という岡和田さんの指摘に、自らの怠惰さが救われるような気がしましたが、その状況においてもなお、岡和田さんは文学や批評の意義を確信している。
そして、「このような知的風土に息苦しさを感じ、そこを切り拓く言葉、すなわち〈文学〉とは何かを模索」し、劣化しつつある現実を穿つために、本書に取り組んでいる。
我が身を省みて、大いに反省させられました。

本書の理論的な屋台骨は「ポストコロニアリズム」、それも「ポスト=終わった」植民地主義ではなく、まさに「いま、ここ」にある植民地主義です。
自分ではそう思いたくないのですが、もしかしたら私もすでにその十分な住人なのかもしれない。
それが最近の、私の厭世観や不安の根因かもしれません。
生き方を問い質さなくてはならない。

本書で取り上げられている作品のかなりの部分が、「北海道文学」です。
なぜ岡和田さんは北海道にこだわるのか。
それは、そこが日本の「辺境」だからです。
「辺境とは、近代国家が発展を遂げる際に、民族差別や「棄民」の発生など、切り捨てられた矛盾が露呈する場所。『北の想像力』が目指すのは、その矛盾から目をそらさず、できるだけ精緻に思考をめぐらせていくことだ」と岡和田さんは言います。
辺境では、埋められた過去に後押しされて現在の本質が露呈してくる。
そして、そこから未来の道が二手に分かれて見えてくる。
そこに岡和田さんは新しい地平を感ずるのでしょう。
ちなみに、私も、ある意味での「辺境の住人」を意識していますので、未来はそれなりに見えていると思っています。

しかし、辺境はまた、独善にも陥りやすい。
本書では、最後に「沖縄」がわずかに取り上げられています。
そこに私は大きな意味を感じました。

最初に会った時、岡和田さんは「SF評論」に取り組んでいると言ったような気がします。
そのSFは、「“思弁=投機”(スペキュレーション)性を軸に現実とは異なる世界を希求するSF(=スペキュレイティヴ・フィクション)」を、たぶん意味しています。
現実に埋没し安住するのではなく、思弁の世界にも遊ばなければいけない。
そこに岡和田さんのメッセージがあったのでしょうが、その時には気づきませんでした。
私も老いてしまったものです。
若いころ、私もSFの世界を楽しんでいましたが、どうもその頃の余裕を失ってきています。
自らの、いろんな意味での「老い」にも、本書は気づかせてくれました。

剥き出しにされた個としての人間を制度的に絡め取っていく国家に、どう対峙すべきか。
数字と金銭とシステムで構成された管理社会をどう生きていくか。
岡和田さんは、たとえばそう問いかけてきます。
そして、もっと悩めと追い込んでくる。
それが人間というものだろうと、いうのです。
反論のしようもありません。
老人には、酷な話なのですが、逃げてはいけない。
そういう意味では、生きる元気を与えてくれる本でもあります。

かなりハードな本だと思いますが、社会をよくしたいと思っている方には読んでほしい本です。
未消化の紹介で申し訳ないのですが、いのちと希望のこもった評論集です。


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2018/09/30

■前の記事の補足です

岡和田晃さんの「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」(寿郎社)を先週読み終えました。
久し振りに読書で苦闘しました。
苦闘したのは、なにしろこの本でとりあげられている作品のほとんどを私が読んでいないからです。
しかし、苦闘した甲斐は十分にありました。
本書は、「批評の無力が叫ばれて久しい。だが、本当にそうであろうか? 否、と大声で言いたい」というメッセージから始まりますが、批評や評論のパワーを見直しました。
岡和田さんのメッセージも、十分ではないと思いますが、それなりに受けとめられました。

衝撃的なことも知りました。
私が「アイヌ民族問題」に関心を持ったきっかけは、新谷行さんの「アイヌ民族抵抗史」(1972年)でした。
実は昨年も、この本を書庫から探し出してきて、読み直したところなのですが、本書によれば、新谷さんは、志半ばに斃れ、葬儀費用もなく密葬されたそうで、今では新谷さんの遺族とさえ連絡がとれなくなっているそうです。

本当は、この本の紹介をすべきなのですが、残念ながら、私には紹介する能力が欠けています。
そこで、この本を読むきっかけになった、岡和田さんの3年前の書籍を紹介させてもらうことにしました。
それは、「アイヌ民族否定論に抗する」(河出書房新社)です。
岡和田さんの評論のパワーを感じた本です。
この本は読みやすいですし、しかも面白い。
多くの人に読んでほしい本です。
アイヌの問題が、私たちの生き方や社会のあり方のおかしさを気づかせてくれる、そんな本です。
多くの人たちに読んでほしくて、私のホームページやブログなどで紹介させてもらうことにしました。
読んでもらえるとうれしいです。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#180930
それでフェイスブックでも紹介させてもらうことにしました。

肝心の「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」ですが、まだ十分に消化できずにますが、批評精神の大切さや、そうした活動にしっかりと取り組んでいる人がたくさんいることを知りました。
文芸評論のイメージも変わりました。
この本も、また紹介させてもらおうと思っています。

岡和田さんに湯島でサロンをしてほしいと思っていましたが、よほどの覚悟がないとお願いできないなとちょっと気が弱くなっています。


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■「アイヌ民族否定論に抗する」をお薦めします

「アイヌ民族否定論に抗する」(岡和田晃 マーク・ウィンチェスター編 河出書房新社)を読みました。2015年、つまり3年前に出版された本です。
いまさら紹介するのはどうかとも思いましたが、昨今の社会状況からして、その内容はますます価値を持ってきていると思い、紹介させてもらうことにしました。
著者は文芸評論家の岡和田晃さん。
私は一度しか会っていませんが、なぜか岡和田さんがその後、送ってきてくれたのが本書です。
しばらく置いていたのですが、読みだしたら、中途半端な姿勢では読めない本だとわかりました。
編著者の岡和田さんの思いも、強く伝わってきました。
読み終えたのはかなり前ですが、今回また要所要所を読み直しました。
改めて、「読まれるべき本」だと思いました。

書名通り、「アイヌ民族否定論に抗する」というのが、本書の内容ですが、編集のコンセプトは、「アイヌ民族否定論へのカウンター言説の提示をベースにしつつ、現在、第一線で活躍している作家と研究者たちが、自分たちの専門分野/関心領域に引きつける形でアイヌについて語ることで、現代を読み解いていこう」というものです。
ていねいに書かれているので、アイヌについてあまり知識のない人にも読みやすい内容になっています。
同時に、アイヌにまつわるヘイトスピーチの現状やアイヌの置かれている状況を、広い展望のなかで、概観できるようにもなっています。

最初に、編者(岡和田晃 vsマーク・ウィンチェスター)の対談が置かれていますが、そこで本書の全体像と方向性としての軸が示されています。
つづいて23人の人が、それぞれの関心領域から、自由な議論を展開しています。
そのおかげで、「アイヌ問題」が、非常に立体的に、あるいは私(読者)の生活とのつながりも感じられるほど具体的に見えてくると同時に、私たちの社会が抱えている問題や先行きの懸案課題が可視化されてきます。
つまり、アイヌを語りながら、私たちの生き方が問われている内容になっています。

視野はとても広がっています。
たとえば、香山リカさんは、ナチス時代のドイツの精神医学から優生学や民族衛生学の危険性を語りながら、それにつながるような形で、「国家」とは何かを示唆してくれています。
テッサ・モーリス=スズキさんは、視野を世界に広げ、経済のグローバル化の進む中で、世界各地でも排外主義と人種差別に基づく誹誘中傷が驚くほど増大してきているが、日本のインターネット上において、人種差別による誹誘中傷、威嚇や脅迫の言葉が野放図に拡大していることは、世界各地の傾向に逆行していると指摘します。
さらに、日本のヘイトスピーチの特徴は、差別的なレトリックがターゲットとする範囲が広がり続けていることを指摘し、「最初は北朝鮮と韓国、中国、今度はアイヌ…。次に来るのはいったい誰でしょう?」と問いかけてきます。
寮美代子さんは、私がなんとなく感じていたことを言葉にしてくれました。「私がはじめて「先住民文化」を意識したのは、アメリカ先住民だった。野蛮で残忍なのは、むしろ征服者側の白人のほうだったという認識が生まれた」。アメリカで生活して得た感覚だそうです。
さらに、寮さんはこんなことも書いています。「比較的好戦的なナヴァホ族は、戦いを好まないホビ族をさらに乾いた土地へと追いやっていた」。テッサ・モーリス=スズキさんの問いかけに重ねて考えると不気味です。
ちなみに、寮さんは「Chief Seattle's speach」を翻訳編集して、絵本(『父は空母は大地』)にした人ですが、その絵を描いたのが友人の篠崎正喜さんです。素晴らしい絵です。

結城幸司さんは、ヘイトスピーチについて、「言葉は人を殺すし、人を生かす」と書いていますが、「私たちアイヌは言葉の民であるからこそ、言葉の力を知っている」とも書いています。
結城さんの文章を読んで、私はヘイトスピーチだけではなく、反ヘイトスピーチにおける言葉の乱れを思い出します。
どこかで間違っている気がしますが、本書の書き手はみんな言葉を大事にして書いていますので、安心して読んでいられます。

こんな感じで内容について書いていったら切りがありません。
ともかく23人からのメッセージは、いずれも思いがこもっています。
そしてそれらが共振しながら、読者に問いかけてくるのは、そんな社会に生きていていいのですか、ということです。
問題はアイヌにあるのではありません。
アイヌの問題が、私たちの生き方や社会のあり方のおかしさを問い質してくれている。
それを気づかせてくれるのです。

ぜひ多くの人に読んでもらいたくて、3年前の本ですが、紹介させてもらいました。

なお、なぜ本書を紹介したくなったかの理由は、最近出版された岡和田晃さんの「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」(寿郎社)を読んだからです。
岡和田さんの若い情熱に圧倒されたのと、文芸評論という仕事の意味に気づかせてもらいました。
その「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」は、読み終わるのに1週間以上かかってしまったうえに、十分消化できたとは言えませんが、何かとても大切なことを思い出させてくれました。
岡和田晃さんの世界についていく力はありませんが、こういう若者がいるのだと感動しました。
この本も、また紹介させてもらおうと思います。
十分に咀嚼できていないので、紹介する能力はないのですが。

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2018/09/28

■カフェサロン「宗教をどう考えるか」の報告

「宗教をどう考えるか」というテーマでのサロンは、15人の人が集まりました。
最初に自己紹介を兼ねて、それぞれの宗教観のようなものを話してもらいました。
いろんな立場の方がいましたが、自らが特定の宗教の信徒だと明確に宣言された方はおらず、逆にむしろ無宗教的な発言をされた方は何人かいました。

その後、高林實結樹さんのご自身の宗教観(体験)を話してもらいました。
厳格なクリスチャンの家で育ち、しかし若くして内心「棄教」したという高林さんの話をもう少しきちんと聴くべきだったのですが、むしろ参加者のみなさんがどういう宗教観をお持ちなのかという高林さんの問いかけを受けて、宗教や信仰の話になり、そこから、死とか死後の世界とかに話がいきました。
そういう話になると、いろんな意見が出て、まさに放談会になりました。

途中で、宗教と死の話は同じ話なのかという指摘もありましたが、私の進行のまずさもあって、宗教論議よりも死んだらどうなるかなどといった話が中心になってしまいました。
話はとても盛り上がりましたが、高林さんの宗教観や生きる上で宗教はどんな意味があるのかといった、本来予定していたテーマの話とはちょっとずれてしまいました。
「宗教」をどう定義するかをもう少しきちんとしてから、話し合いにはいるべきでした。
進行役としての私の不手際でした。
そんなわけで、「宗教」を話し合うサロンは、改めてもう一度、企画させてもらいたいと思います。

宗教には「教団宗教」と「自然宗教」があると言われています。
どちらに基軸を置くかで、まったく違った議論になります。
前者に基軸を置くと日本人は「無宗教」になり、後者に基軸を置くと日本人ほど宗教心の篤い人たちはいないということになります。
日本人の信仰心や宗教心は、明治憲法で政府権力に絡め取られたという人もいますが、食事前の「いただきます」という言葉も含めて、日々の生活の中に今なおしっかりと残っているようにも思います。
ただ最近はあまり「お天道様」という言葉が聞けなくなっているのは残念ですが。

信教の自由を演出するために、神道は宗教ではなく習俗だとされましたが、個人の視点に立てば、神道を信仰している人はいまもいます。
政府の統治視点で考えるか、個人の生活視点で考えるかで、「宗教」の意味合いは全く変わってくると思いますが、いま必要なのは、生活視点で改めて「宗教」の意味を考え直すことではないかと思います。
そういう視点でサロンを開いたつもりが、まったく話は別の方向に向かってしまいました。
一部の人には、たぶん期待外れになったかと思います。すみません。

話し合いは、しかしいろいろと広がりました。
人は死んだら「モノ」になってしまうという意見には、最近、飼っていた猫を亡くした2人の女性から強い異議申し立てがありました。
そこから魂魄の話も出てきました。
中国では、肉体を支える気(魄)と精神を支える気(魂)とがあって、それが分離すると人は死ぬと言われていますが、分離した後、魂は天に、魄は土に戻ると言われます。
魂があるのかないのか、も議論になりましたが、高林さんは「土」に戻るとお考えのようでした。
その一方で、話し合いの中で、高林さんが「天命によって生きている」ことに改めて気づいたと発言されました。
明確に「棄教」し、以来、別の信仰を得ていないという合理主義者の高林さんも、天と土からは自由になっていないことに、私は宗教の本質を感じました。

翌日、高林さんから「勝手な放談がオモシロイですね。結構よれよれになった自分の来し方を
反省することができました」とメールが来ました。
もしかしたら、宗教とは自らの生き方を問い質すためのものなのかもしれません。
坪田さんは、宗教は「リファレンス=参照」だと割り切っているようです。

杉本さんが、科学技術の安全問題に関連して、「神」の話を出されましたが、科学技術と宗教の問題もいつか議論したいテーマです。
神を殺したことで、科学技術の暴走が始まったと私は思っています。

宗教をテーマにしたサロンははじめてでした。
いろんな気付きがありましたが、少し整理してサロンするのがよさそうです。
改めて企画しますので、よろしくお願いいたします。

報告が遅れてすみませんでした。
高林さん
ありがとうございました。
Takabayashi1809232


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2018/09/26

■だれでもスピーチができる場がほしいです

貴乃花はなぜ記者会見をしたのでしょうか。
しかし記者会見できる人は幸せです。
誰にも知られずに、つぶされている人は少なくないでしょう。
また、誰にも知られることなく、忘れられていく「知恵」や「意見」も多いことでしょう。

40年ほど前にロンドンのハイドパークに行った時、そこに「スピーカーズコーナー」があり、誰でもがスピーチできることを知りました。
その時はそこを通り抜けただけですが、その時も一人の人がスピーチしていて、数人の人が立ち止まって聞いていました。
これこそ「公園」だと思いました。

いまはSNSで、だれもがネット上ですが「スピーチ」できるようになりました。
しかしネットのスピーチではなく、やはり今回の貴乃花のように、誰もが思い切り話せる場があるといいなと思います。
それに今回のような記者会見では、貴乃花でさえも素直に話すことはできないでしょう。
見ていて、辛そうな感じでした。
もっと「苦渋の選択」といったおかしな決意なしに、気楽に、しかし誠実に話をする「スピーカーズコーナー」があるといいなと思いました。
選挙で立候補すると社会に向けてスピーチすることが可能になりますが、誰でもができるわけではありません。
時々、駅前で政治家が「朝立ち」をしていますが、私自身はあの活動には批判的です。
政治家ではない人が演説し始めたら、もしかしたら駅からストップをかけられるかもしれません。
政治家であれば、街頭ではなく、きちんと場所を創って、話す(放す)のではなく語る(象る)べきだと思います。
そこにきちんと人が集まってくる仕組みを、努力して育てていくべきです。
そうした場を広げ育てていくのが政治家の大切な役割だと思います。
民主主義は、「広場」から育っていくはずですが、そこにはやはりきちんと「話し合う」場がなければいけません。

記者会見でのスピーチも私はあまり好きではありません。
その場所のガバナンスの問題があるからです。
自由で多様なスピーチは、やはり自由な場で行われないといけません。

ロンドンのハイドパークでスピーチを行った人のなかには、マルクスやジョージ・オーウェル、ウィリアム・モリスといった人もいたそうですが、事前手続きは不要で、誰もが、ほぼあらゆるテーマについて語ることができるのだそうです。
もちろん批判も少なくありません。
それにハイドパークのスピーカーズコーナーですら、制約はあります。

日本でも最近、公園の使用がいろんな面で規制され始めていますが、公園の最大の価値は、そこがコモンズ空間であることではないかと思います。
日本の公共空間は、「公」が強く「共」が弱いので、つまるところ言論の自由ではなく言論の規制の空間になりやすいのですが、それでは市民社会は育ちません。

私が取り組んでいる湯島のサロンも、そうしたものを意識しているのですが、部屋の中でやっていてはどうしても閉鎖的になります。
それに集まりを「企画」する必要があり、企画者や運営者(つまりは主に私のことなのですが)の狭い料簡が紛れ込みやすいです。
投げ銭サロンも一度やってみましたが、その後、希望者は現われません。

もし資金があれば、どこかの開かれた空間を購入して、そこをすべての人に開放して、スピーカーズコーナーを確保したいですが、残念ながら資金的に不可能です。
宝くじを買って当たったらそういう空間を創りたいと思っていましたが、なかなか当たりません。

昨日、貴乃花の記者会見をライブでずっと聞いていて、改めて「誰でもが話せる場」の大切を感じました。ジャーナリストの人たちがその気になれば、そう言う場は作れるはずですが、維持が難しいのでしょう。
金銭面での資産家のどなたかが、3億円くらい出資して、誰もが話せる「アゴラ基金」でも作ってくれるといいのですが、希望者はいないでしょうか。
私がいま積み立てている基金は、時に私が使い込んでしまうので、何しろまだ10万円にも達していないのと、最近は別の用途に使いたくなっているので、何か違う方法を考えないといけません。
いい知恵はないでしょうか。

そうした広場ができるまでは、湯島のサロンは、一種のスピーカーズコーナーとしても考えています。
何か話したい人がいたら、ご連絡ください。
基本的には、誠実な人ならだれにでも開放しています。
場合によっては、ユーチューブ配信などもこれからきちんと考えていこうと思います。

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2018/09/20

■なぜ交番にいる警察官は拳銃を所持しているのか

仙台の交番でまた不幸な事件が起きました。
これに関連して、いつも不思議に思っていることがあります。
それは、なぜ交番勤務の警察官が拳銃を所持しているのかということです。
街中のパトロールも含めて、私には拳銃はふさわしくないものだと思っています。

警官が所持する拳銃を奪いたくて事件を起こした事例もあります。
拳銃の使用が過剰防衛だと言われたこともあります。
そういう事件が起こるたびに思うのは、拳銃は殺人を誘発するのではないかということです。

核兵器抑止論に私が違和感を持つのも、そうしたこととつながっています。
核抑止論と警官の拳銃所持は、発想の根源が同じものではないか。
それは、暴力で秩序を維持しようという発想です。
それはたしかにある状況では有効だったでしょうが、一度、秩序化ができた後も有効なのか。
無秩序の状況で有効だったものが、秩序化された状況のなかでは、機能が反転することもあるのではないか。
とりわけ「暴力の象徴」的存在(核兵器や拳銃)は、秩序の強制的維持か秩序破壊には効果的な道具です。
マックス・ウェーバーは、「暴力の独占」が近代国家を支えているといいましたが、思想としての「暴力」は独占できても、実際の道具(核兵器や拳銃)を独占することは不可能です。
ですから「暴力の独占」は理念でしかありません。

たとえ国家によって独占されるとしても、暴力が肯定されている社会では、実際の暴力は根絶されることはなく、私益や私欲につながっていきます。
国家に寄生している人たちは、つまるところ「暴力」に寄生している。
そしてそこから金銭という果実の配分を受けている。
暴力に対しては暴力と考えるのは、必然的な結論でしょう。
想像力のない人間や国家は、暴力の象徴である核兵器や拳銃を手に入れたくなる。
それは「暴力の独占」を脅かす「暴力の拡散」を引き起こす。

ですから、武器は争いを誘発しこそすれ、抑止はしないように思うわけです。
過剰な抑圧は、被抑圧者の暴発を招きますし、武器を奪うための行動も誘発しかねません。
核武装の使用は、国家間で行われるとは限りません。
北朝鮮の核武装化などは大きな問題ではなく、むしろテログループや個人の核武装化に、私は不安を感じます。

日本が長いこと平和を維持できたのは、「刀狩」のおかげではないかと思います。
日常から武器が見えなくなることは、なんと心の安らぎをもたらしてくれることか。
刀や武器をコレクションしている友人知人もいますが、その気持ちが私にはわかりません。
私も過去に、実際の日本刀に触れたことはありますが、手にした途端に気持ちが少し変わるのを感じました。
武器の所有は、人の心を変えかねない。
お金と同じです。
そして、その武器を持ってみたいという気持ちも誘発しかねません。

交番のシステムは、海外からも評価され、一時は交番システムが広がっていたこともあったと聞きます。
しかし、その交番システムには、拳銃は不要のはずです。
警官の日常の見回りなどには拳銃を所持する必要などないはずです。
携行しなければ、拳銃を落としたとか置き忘れたとか、そんなことも起きません。
日常生活を見守ってくれている警官には、拳銃所持など不要の話です。
拳銃による警察官の自殺もなくなるでしょう。
なによりも警察官のストレスは解消されるはずです。

特別の状況の中で拳銃を所持することまで、今の状況のなかでは否定しませんが、せめて交番勤務の警察官には拳銃は不要だと思うのです。
交番や警察官が襲われる理由は他にもあるでしょうが、それもたぶん、拳銃所持と無縁ではないでしょう。
交番のセキュリティが話題になっていると報道されていますが、おかしな話です。
そろそろ「暴力」で秩序を管理する発想を見直す時期ではないか。
「昭和の頭」で発想するのは、やめた方がいいような気がします。

そこから「核抑止」の問題も考えてみるのはどうでしょうか。

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