カテゴリー「社会時評」の記事

2018/04/20

■哀しい風景

財務省の福田事務次官をめぐる話は滑稽なほどおかしな方向に展開していますが、実際に起こっている事実としては、私にはそう異常な話ではなく、まあよくある話の一つではないかと思います。
そうした話は、特に官庁に限った話ではなく、企業においても、つい最近まではさほど異常ではなかったのではないかと思います。
いや、いまもいろんなところで起こっているのではないかとさえ思います。

そもそも、女性はいまだ人権を認められていないような気がしてなりません。
私がそう思うのは、そもそも「男女共同参画」とか「女性活性化」とか、そんな言葉が、当の女性からもさえ、受け入れられているからです。
ついでに言えば、人権が認められていないのは女性だけではありません。
男性もまた人権を認められず、自らも権力に寄生する生き方を選択しているように思います。
そうした構造の中で、自らよりも下位に置く、弱い者をつくりだすというスタイルがいまなお続いている。
まあこんなことを書くと非難ごうごうでしょうが、セクハラなどという言葉にさえも、私はそうした意識が感じられます。
セクハラではなく、人権侵害であって、女性だけの問題ではないだろうと私は思います。

土俵に女性を上げないのがおかしいという話は、私には笑止千万です。
そういう相撲界を国技としていたのは、女性も含めて、私たちでしょう。
問題は、女性を土俵に上げるかどうかなどという問題ではありません。
問題の立て方が間違っているのではないか。

話は少し広がりますが、たとえば貴乃花事件における貴乃花は、私にはいかにも暴力的な存在でした。
ビール瓶で叩くよりも、問いかけや呼びかけを無視する方が、私には暴力的だと思うからです。
まあこれはさらに非難を受けそうな発言ではありますが。
貴乃花が、結局、自分の部屋で暴力事件を越したのは、私には当然のことだと思っています。

財務省の対応がおかしいと思う人は多いでしょうが、あそこまで極端ではないとしても、多かれ少なかれ、組織はあんなものではないかと思います。
自分の組織の常識が、社会の常識だと思っていますから、矢野官房長にしても、自分がおかしいとは思っていないのでしょう。
財務省の場合、あまりに強い組織ですから、自分の組織の常識を相対化できないために、あまりに無防備に素直に露呈しているだけだろうと思います。
同じような「非常識な常識を持つ組織人」に私はこれまでたくさん会ってきています。
しかしここまであっけらかんと自らの考えを素直に出す人は、よほどのナルシストか自信家です。
彼らは、佐川さんも含めてですが、自分が悪いことをしたなどとは思っていないのでしょう。
小野寺さんも林さんもそうでしょう。
でも私には、彼らの言動はおかしく見えます。

さらに言えば、自民党だけが女性蔑視ではないように思います。
テレビで垣間見る野党の男性政治家の反応も、どこかで苦笑いしたりしていて、誠実さを感じません。
いや男性議員だけではなく女性議員も、誠実さを感じません。
今日の財務省訪問での映像も、私には奇妙にしか見えません。
問題はもっと深く、あなた自身もこれまでずっとそうした常識に迎合してきたのではないかと、つい思いたくなります。
訴えるべき相手は、国民でしょう。
反省すべきは自らでしょう。
そう思えてならないのです。

何か事が起こると、それに乗じて、力を失ったものを寄ってたかって叩きのめす。
私には、とても哀しい風景です。

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2018/04/16

■カフェサロン「日本の神道文化にまなぶ“神さまのいる暮らし”」報告

「神さまのいる暮らし」サロンは、17人という大人数のサロンになりました。

話題提供者の平井さんは、最初に、基礎知識編として、神様の話から始めました。
神道、というよりも、神(儒教からの言葉だそうです)以前の「ヒ・チ・タマ・モノ」といった、やまとことばから捉えるカミの話や、罪穢れや禊祓いなどの「かんながらの道」の話で、すなおに心にはいるお話でした。

つづいて、そうしたことが日常生活のなかにしっかりと組み込まれていて、私たちの日常は、まさに神さまとともにあるのだという話をとても具体的に話してくれました。
たとえばこんなことです。
朝目覚めて、身体を動かすことで、身のうちの魂(たま)が振られて(たまふり)、清浄な状態になる。
つまり、誰もが毎日、魂を清浄にすることから1日をはじめているのです。
そして朝食では、食べ物(給べ物)を賜り、掃除で自らの身と身の回りを祓い清め、働くことや遊ぶことでたまふりを重ね、そして夜には入浴で禊(みそぎ)をする。
私たちの日常は、まさに神様と共にあるわけです。
神様は神社だけにいるわけではないようです。
そう思っただけで、日常生活の捉え方が変わってくる。

起きている時だけではありません。
眠っている間に、魂が身体に留まってばかりいては、停滞による穢れ(気枯れ)が起きかねません。
それで寝ている時に、魂は外在魂に入れ替わってもらって、身体を遊離して、朝には元気になって戻ってくるのだそうです。
神様は年中無休の重労働なのです。

そして、平井さんの師匠で日本の神道文化研究会を主宰されている神道学者の三橋健さんの、「神を畏れて、人を恐れず」の言葉で、話をまとめてくださいました。
「神への畏れ」が、生きる力を与えてくれて、生きやすくなる。

ちなみに、平井さんは、数年前から毎日、神棚に手を合わせているそうですが、そのおかげで、平井さん自身も変わってきたそうです。
神様を信ずると、良いことがあるのです。
年に一回、神社でお願いするよりも、毎日の暮らしの中に神様を意識することのほうがご利益はあるようです。

話し合いでもいろんな話題が出ました。
最初に出たのが、「神教」ではなくどうして「神道(しんとう)」になったのか、という質問でした。
そこから宗教と信仰のような話が出て、一神教と多神教の話になりました。
いわゆる「宗教」と、そもそも呪的信仰から始まった神道とは、本来違うものでしょうが、その素朴な信仰がいまもなお近代生活の中に調和して存在しているのは、とても興味のあることです。
私は、それこそが日本文化の一番の特徴ではないかと思っています。

古事記の話や、天岩戸神話の話、そしてなぜかかぐや姫の話も出ました。
京都からわざわざ参加してくださった「記紀」の研究者だった高林さんは、天岩戸神話でなぜ岩戸が開かれたかの理由を話してくれました。
そこからアートや芸能、音の話も広がりました。
ちなみに平井さんの研究テーマは、「音」だそうですが、地鎮祭などで発せられる警蹕(けいひつ)の話も出ました。

神社などの神域には、そこに行くだけで心身が清められる気がするという話も出ました。
お神札(ふだ)は、まわりの邪気を吸い取る効果があるそうですが、自己浄化することはできないため、1年ごとに神社に戻し、新しいお神札に替えるわけですが、神様をよく知っている人によると働かせすぎだそうです。
1年も祀っていると神札は邪気を吸い込んで、力尽きてしまうので、長くて6か月、できれば3か月で、新しい神札にバトンタッチさせた方がいいそうです。
最近の社会は穢れが進んでいるため、そうなってしまったのでしょう。
私は、この話が一番面白かったです。
神様を働かせすぎては、それこそ罰が当たります。

最後は、「神さまとどう出会うか」という話で盛り上がりました。
生きにくさから抜け出せないという人の切実な質問から始まったのですが、私自身は、神様とは毎日出会っていることに気づくと元気が出るというメッセージを、今回は平井さんからもらった気がします。
ですから、会おうなどとは思わずに、ただただ「祈る」だけでいいのではないか。
邪気に満ちた世界で神様を頼る人が増えてしまうと、神様が過労死しかねません。
宝くじに当たりますようになどといって、神様頼みするのは我慢して、神様が元気でいられますようにと、神様のために自分に何ができるかを考えて、祈るのがいいと思っています。

今回も、実に多彩な方々が参加してくださいましたので、参加者みなさんの発言からも、たくさんの気づきをもらいました。
平井さんはじめ、参加されたみなさんに感謝します。

報告が遅れてすみませんでした。

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2018/04/05

■「ないはず」のイラク派遣日報の「発見」に思うこと

「ないはず」のイラク派遣日報がまた「発見」されました。
同じような「犯罪」が繰り返し行われていますが、そうしたマスコミ報道に出てくる人たちの反応は、いつもできの悪い「茶番劇」のようです。
その分野のことをもし少しでも知っているのであれば、たとえば、イラク派遣日報が本当にないと思っていた人などいないはずですし、もし思っていたとしたら、それこそ社会のことを何も知らないというべきだろうと思います。
日報がないと言われても、本気で追及するジャーナリストも専門家もほとんどいないのには、笑うしかありません。
最近のテレビでのキャスターやコメンテーターたちの議論の、すべてとは言いませんが(信頼できるキャスターは私にも、たとえば井上貴博さんなど数人います)、多くはフェイクな世界の上で構築された議論のように感じています。
火事で発見された焼死体が、その家に住んでいた高齢者だと思われるとか、ほぼ現行犯逮捕に近いのに「容疑者」という言葉が使われるとか、そういう動きも同じですが、みんな知っているのに言葉でごまかすことに慣れ切っています。
その一方で、相変わらず冤罪事件は頻発しています。

公文書を廃棄したという事実があるのであれば、その関係者は即刻解雇して、訴追すればいいだけの話です。
公文書は、私たち国民の財産なのですから。
そうしたら、だれも「廃棄した」とか「公文書がない」などという、つきたくもない嘘をつく人はいなくなるでしょう。
そうした「やるべきこと」をやらないから、「ないこと」にすればいいと思う人も増えてくる。
逆に、おかしいと思った人は、悩みぬいて離職や自殺をしてしまう。
グラシャムの法則に従って、官僚には良識が失われていくというわけです。
いや、新しい「良識」文化が生まれてきているのかもしれません。

森友学園事件で言えば、安倍昭恵さんの名前を聞いて、「忖度」をしなかった人などいないはずですが、「忖度」があったかどうかなどという無意味な議論が国会でされている。
人間はロボットではないのですから、みんな「忖度」で生きている。
その「忖度」が、どういう方向を向いて、何をもたらすかは、その社会や組織の文化による。

オリンピックも、一部の人のお金儲けのための壮大な税金の無駄遣いだと思いますが、最近の国会の議論を見ていると、なんとまあ無駄なことをやっているのかと、税金を払うのが嫌になるほどです。
所得の半分を税金で納めながら、幸せを享受できているというデンマークの人たちがうらやましいです。

デンマークといえば、アンデルセンの「裸の王様」を指摘した、子どもの心を取り戻したいです。
それにしても、今回のイラク派遣日報の「発見」事件は、いまの自衛隊が国民に牙をむく本性をもっていることを明らかにしてくれたように思います。
歴史から言えることは、国家の軍隊の力は、外国にではなく、自国の国民に向けられることが多いのですが、その本性が露呈されたわけです。
それにしてもまことに見事なほどに、お粗末な形で、ですが。

社会から緊張感や誠実さが失われてきているとしか思えません。
であればこそ、私は誠実に生きたいと思います。
ただ「緊張感」はあんまり持ちたくありません。
疲れますので。

もう茶番劇はやめて、現場で本当に苦労している人はみんな知っていることを公開したらどうでしょうか。
匿名で、どこかに投稿できる、「ロバの耳」ネットバンクはできないものでしょうか。

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2018/03/24

■カフェサロン「まわりにちょっと気になることはありませんか」報告

社会が茶色一色で染まっていって、気がついたら自由のない生きづらい社会になっていたという寓話「茶色の朝」を読んでの感想を言い合うことからはじまった「茶色の朝」サロンがスタートしました。
それぞれが、生活のまわりにある「気になること」を出し合って、いまの社会のあり方や自らの生き方を、みんなでちょっと考えてみようという主旨のサロンです。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトから無料で入手できます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf

お花見に絶好な、お出かけ日和の土曜日にもかかわらず9人の人が集まりました。
サロン初参加の方もいました。

それぞれが「ちょっと気になっていること」を話すことから始めました。
「街中でのマナーやルール-の話」「本音で話し合う場が少なくなっているようだ」「弱いものへのバッシングが多い」「なんとなく将来への不安がある」「人のつながりがよわくなっている」「マニュアル化が進んでいる」「人に声をかけることが少ない」「みんな忙しくて余裕がない」「政治につながる話は話題にしたがらない人が多い」などいろいろと出ました。
「誰かが良いことを始めるとみんなそれに従うが、その人がいなくなるとみんなまたやめてしまう」という、具体的な話も出ました。
言い換えれば、みんな「はみ出したくない」のだというわけです。
「みんなどんなことが気になっているのかが気になって参加した」という人もいました。
何か気になるが、その実体が必ずしも見えてきていないのかもしれません。
どうもみんな「モヤモヤ」している。
実はそれがこのサロンを始めた理由の一つでもあります。
一方で、高円寺駅の駅長が毎朝、乗客に挨拶しているのがうれしいというような、「ちょっといい話」も出ました。

それからみんなで自由に話しだしましたが、話題はかなり学校教育の話になりました。
子どもたちはまさに社会の鏡ですが、子どもたちの学びの場への関心がみんな高いようでした。
学校での目標は何なのか、自分をしっかりと育てることなのか、社会の中で波風立てずに自分をなくしていくことなのかというような、学校教育の本質にまでつながる話もありました。
学校の先生たちが忙しすぎて、子どもたちの学びの場を豊かにする余裕がないのではないかという話もありました。
話していて、次の社会を創っていく子どもたちの学びの場が、あまり見えていないことに改めて気づかされたような気がします。
これは改めて、サロンを企画することにしました。

沖縄や福島の話も出ましたが、現地に触れている人からは、現地の実状とマスコミ報道との違いも話題になりました。
学校現場だけではなく、私たちはまだまだ知らないことがたくさんある。
もっといろんなことを知っていくことが、社会を豊かにしていく出発点かもしれません。

ちょっと気になるどころか、大いに気になることとしては、日本の政治のリーダーが言葉を壊しているという指摘もありましたが、いろんなところで信頼が揺らぎだしている。
信頼がない世界では、やはり不安がぬぐえない。
なんとなくみんなが「不安」に陥り、モヤモヤしてしまうことの背景には、そうした「信頼関係」が失われてきている状況があるのかもしれません。

それにもつながるかたちで、「マナーとルール」について少し話し合いました。
このテーマは、改めて時間をかけて話し合いたいと思いました。

政治には「統治権力のなかでの権力闘争」と「生活をよくするための政治」とがあるように思います。
前者が政治として捉えられがちですが、本来の政治の目的は後者のためであるはずです。
そして、後者の主役は国民一人ひとりです。
政治は国会議事堂や霞が関だけにあるわけではありません。
自分の生活に影響を与えるような社会のあり方に関心を持ち、ちょっと気になることがあれば、まわりの人と話し合ってみる。
「おかしいこと」があれば、「おかしい」という。
それも大切な「政治活動」です。
引き続き、肩に力を入れて政治を語るのではなく、まわりの気になることを題材に、少しずつ政治とのつながりや社会のあり方を話し合えるようなサロンをつづけたいと思います。

ちなみに、2つの政治に関して、前にブログで書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2018/01/post-7079.html

このサロンと並行して、日本の政治や国家のあり方をテーマにしたサロンも引き続き企画したいと思っています。
こんなテーマで話し合いたいというテーマがあればご連絡ください。
主権者である私たちの手に、政治を取り戻したいと思います。
批判するだけではなく、できることから始める行動への広がりを意識しながら。

お花見にもいかずに参加してくださったみなさんに感謝します。
このサロンの出発点になった主原さんの「モヤモヤ感」に感謝します。
少しずつ晴らしていければうれしいです。

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2018/03/21

■「隠れ病む身」を支えることの大切さ

日曜日に放映されたEテレ「こころの時代」を今日、改めて見ました。
小浜市明通寺の中嶌哲演住職の「隠れ病む人々と歩む」です。
明通寺には2度ほど行ったことがありますが、そこのご住職が長年托鉢をしながら『鈴音』という手作り通信で、社会に呼びかけていたことは知りませんでした。

「隠れ病む人々」とは、広島や長崎で被爆した後、自らを「隠れ病む身」と呼び、世間の目から逃れるように故郷に帰って戦後を生きて来た人々を指しますが、原発銀座とも言われる福井では、原発で事故に合い、同じように「隠れ病む身」の人がいることも知りました。
原発の事故(3・11の福島の事故ではありません)で亡くなった人の話はこれまでも聞いていましたが(公開はされていませんが)、「隠れ病む身」の人がいることを初めてテレビで知りました。
とても心に響くお話でした。
次に簡単な番組紹介があります。
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2018-03-11/31/4430/2008300/

中嶌さんの話を聞きながら、私は最近の財務省や文科省の事件を思い出しました。
「隠れ病む身」の人たちを生み出しているのは、原発だけではないのでしょう。
最近の官庁や企業には、「病」が蔓延しているのかもしれません。
政治の世界もそうかもしれません。
いや、社会そのものに「病」が蔓延している。
にもかかわらず、多くの人は「隠れ病んで」いる。
前川さんのように、しっかりしたご自分をお持ちの方は「隠れる必要」も無いのでしょうが、多くの人にはそんな強さはありません。
しかし、前川さんには及びもしませんが、私も自らをしっかり生きていこうと改めて思います。

「病」は、それがどんなものであれば、隠すことはありません。
病は隠すものではなく支え合うものではないかと思います。
そして、人をつないでいく力も持っています。
官僚の皆さんには、ぜひカミングアウトしてほしいです。
それが社会の「病」をただす出発点になるでしょうから。
「病」に負けてはいけません。

「隠れ病む身」の人たちに、石を投げるのは止めたいです。
支えることこそが、社会を健やかにすることではないかと思います。

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2018/02/28

■コムケアサロン「成年後見制度ってご存知ですか」報告

成年後見制度をテーマにしたサロンには15人の参加者がありました。
最初に、広い視点で成年後見制度にも関わっている、一般社団法人コレカラ・サポートの千葉晃一さんに、制度の概略などのお話をいただき、そこから参加者から出された事例なども含めて、いろんな視点から話し合いが行われました。
http://www.koresapo.com/

千葉さんの話が終わった後、最初に私から問題提起的な質問をさせてもらいました。
この制度は、誰のためにあるのか、そして対象となる人の判断能力の評価は誰がするのか。
制度ができて良かったことと悪かったことは何か。

もちろん建前は、「判断能力が不十分となった成年者のための財産保護と生活支援」となっていますが、今ある制度を受け身的に理解し、利用の方法を考えるだけではなく、制度の利用状況やそこから生ずる問題点などを知ることで、形だけではない福祉のあり方や私たちの生き方を問い直そうというのが、コムケアサロンの目指していることです。
そこであえて、そういう問題提起をさせてもらいました。
参加者の中には、後見人を実際にやっている人や制度利用者の方もいらっしゃいましたし、制度利用を考えている人やまだ関心を持っているだけの人など、いろいろでした。
そうしたいろいろな立場の人が、話し合うのが湯島のサロンの大きな意味です。

千葉さんのお話によれば、成年後見制度を必要とする人は約800万人に対して、現在の利用者累計は18万人(わずか3%弱程度)だそうです。
これは、制度設計に問題があるのか、制度の理解が進んでいないのかいずれかだと思いますが、そのために成年後見制度を利用したことで、逆に問題を抱え込んでしまった人の話も少なくありません。

そうした状況を変えていくには、予備的にこの制度のことを理解するとともに、利用者側からの不備の点を変えるように働きかけていくことが必要です。
そうした動きはないわけではないでしょうが、なにしろこの制度の「受益者」は「判断能力が不十分となった成年者」ですから、問題は悩ましいわけです。
ここに、この制度設計の根本的な問題があるように私には思いますが、しかしすでに制度ができているのですから、それを効果的に活かしていくと同時に、「当事者視点」で不都合なことは問題として顕在化していかなければいけません。
それに、可能性としては誰もが「当事者」や「関係者」になり得ることですから、誰も関係がないとは言えません。

弱い立場の人たちを守る制度が、注意しないと、かつての精神病院制度のように、弱い人たちの人権が損なわれることにもなりかねませんし、さらには、生活支援のための手段だった財産管理が目的になってしまい、生活は二の次というような本末転倒も起こらないとは限りません。
もっと言えば、この制度は、家族のあり方にも大きく関わってきます。
そうしたさまざまな「落とし穴」があるような気がします。

もちろんこの制度で救われた人は少なくないでしょう。
しかしどんな制度も、当事者が効果的に活用して、はじめて生きてきます。
そして、当事者が制度改善に取り組んでこそ、制度は生きたものになっていきます。
その意味では、この制度はまだ「当事者からは遠いところ」に置かれているなというのが、私の今回の感想です。

千葉さんは、救急車なら、どういう時にどうしたらいいかが、誰にも伝わっているが、この制度に関してはそれが難しく、たとえば制度の解説パンフレットなども、制度運営者側の視点が強いために、なかなか社会に浸透しないと話されました。
そういう利用者視点での制度活用の仕組みや場をもっと増やしていくことが大切かもしれません。
ちなみに、コムケアの仲間でもあるNPO法人ユニバーサル・ケアの内藤さんたちは、「市民後見センターきょうと」を運営して、そういう活動に取り組んでいます。
http://www.kyoto-koken.net/about/
今回も、そこで制作した制度案内の小冊子を活用させてもらいました。
内藤さん、ありがとうございました。

いつも以上に主観的な報告になってしまいました。
サロンでは、実際には具体的な体験や事例の紹介やこの制度の活用の仕方などが話されましたが、それを報告するわけにはいきませんし。
千葉さんは、「成年後見制度の利用ありき」ではなく、当事者や関係者の立場に立って、生活支援に取り組まれている方ですが、内藤さんや千葉さんのような人たちが増えていくことが、一番求められているのかもしれません。

なお、成年後見制度に関しては、みなさんからの要望が集まれば、また情報交換や体験交流会のようなものを企画したいと思っていますので、ご要望のある方はご連絡ください。

コムケア活動を始めた時の「大きな福祉」の理念や共創型の相互支援の輪づくりの大切さを改めて思い出したサロンになりました。
千葉さん、そして参加されたみなさん、ありがとうございました。

Seinenkouken18022


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2018/01/05

■新年オープンカフェを開催しました

昨日、新年オープンカフェを開催しました。
昨年は3日に開催しましたが、4日であれば、仕事始めの人も午後は休みではないかと思って、4日にしましたが、最近は仕事始めの日もフルに働くので、参加できないと言われました。
どうも私の認識は、時代から取り残されているようです。
それでも10人の人が立ち寄ってくれました。

4時間の長丁場のサロンでしたので(出入り自由なので入れ替わりはありました)、参加者の自己紹介からいろんな話題が出ました。
思い出すままに、話題を書き上げてみます。

行動観察、保険制度と社会保障、原子力損害保険の目的、原子力事故と自動車事故の異同、自動車事故保険はきちんと支払われているか、井戸掘りの話、エネルギー問題、IOTという言葉の誕生と限界、クリエイティブコモンズ、老後の心配、話し合いしないのは若者だけか日本人の生き方か、思いを引きだす方法、格差の実相、外国人労働者、経済成長と人口減少問題、社労士の話、「茶色の朝」などなど。
一見バラバラのようですが、実はつながって一つの物語を生み出しているのです。
どんな物語か、みなさんぜひ考えてみてください。

それにしても、貴乃花問題や北朝鮮問題などの「時の話題」はまったく出ませんでした。
私が言うのもなんですが、不思議なサロンです。

来年は、できれば最初の土曜日か1月3日に開催します。
私が参加できるようであればですが。
Sinnensalon20181


Sinnensalon20182


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2018/01/02

■価格が価値を決める時代

昨日、テレビで「芸能人格付けチェック」を見ました。
テレビで活躍している人たちが、ワインや料理は楽器を品定めするのですが、たとえば、100万円のワインと5000円のワインを目隠しで飲んで、どちらが100万円のワインかを当てるのです。
なかにはフカヒレを使った料理とハルサメを使った料理を見分けるというのもあります。
それがけっこう、当たらないのです。
意外な人がとんでもない評価をしてしまうことが多いのです。
これを見ていると、別に高級な食材などにこだわることはないと思ってしまいます。

ダニエル・ブアステインが、昔、「売れっ子とは、有名であることで有名な人間である」と定義したそうですが、それを思い出させます。
ピカソのひまわりは、ピカソが描いたからこそ、感動できるのだ、というわけです。
かくして価格が価値を決める時代になってしまった。
価格がわからないと、評価できなくなってしまったというわけです。

要は、みんな価格がなければ区別できないようになってきているのです。
生活者というよりも消費者として、しつけられてきているというわけです。
そう考えると、価値ということがわからなくなってきます。

「価値」は「価格」では決まるわけではなく、本来は「価格」は「価値」で決まるはずです。
そもそも1億円の楽器と10万円の楽器とどちらがいい音色を出すかも難しい問題です。
しかし改めて考えてみると、そもそも「価値」とは何でしょうか。
今回の番組では、100グラム17,500円のステーキと100グラム 680円のスーパーの肉を使ったステーキとを比べるゲームもありましたが、外した人は多かったです。
しかし、17,500円のステーキよりも680円のステーキのほうがおいしいという人もいるでしょう。
そういう人を、味覚音痴だということはできません。
味覚にしろ感動にしろ、人によって違うでしょうし、そもそも価値とは極めて主観的なもののはずです。
多様な価値を基準にしていたら、なかなかコミュニケーションはなりたないかもしれませんが、そもそも多様な価値観がなければ、コミュニケーションっていったい何なのか。
考えていくとだんだん訳が分からなくなってきます。

ところで、ミュージシャンのGACKTは、外したことがないのです。
味覚だけではありません。
たとえば、高級の楽器を使っての演奏と入門者用の普通の楽器を使っての演奏を聴いて、確実に当てるのです。
その判断の理由を聞くと、私もなぜか納得したくなってしまうのです。
その結果、私は今はすっかりGACKTのファンです。

でもその一方で、GACKTのようにいろんな違いがわかるようにはなりたくはありません。
私の味覚は、「おいしい」と「まずい」と「また味わいたい」の3種類しかないほど鈍感ですが、それでも不満はありません。

1秒以下の記録を競うスポーツも、私にとってはばかげたことですが、どうも時代はますますそういう方向に向かっているようです。
みんな機械になりたがっている。
これはもしかしたら、「不死へのあこがれ」にもつながっているのでしょうか。
死ぬことがなくなったら、人間は人間でなくなるような気がしているのです。

GACKTほどにはとてもなれませんが、与えられた価格ではなく、自らの感覚で価値を判断する生き方をこれからも心がけていきたいと思っています。

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2017/12/29

■隠し立ては諸悪の根源

久しぶりに貴乃花問題のことをモーニングショーで見ました。
論調がどうも変わって来ているような気がします。
しかも、何を論じているのかが全く分からない議論が行われていました。

しかし、相変わらず貴乃花人気はなくなっていないようですし、相撲協会も公益法人として扱われているようです。
私には相撲協会はブラック企業とは言いませんが、金銭目的のショービジネスとしか思えません。
勝負に100万円もの賞金をつけていることがすべてを語っています。
勝負の勝ち負けがお金でやりとりされているという話があるそうですが、それは当然の帰結でしょう。
ショービジネスとはそういうものです。

貴乃花を応援するコメンテーターが多いですが、貴乃花は人の道に反しているように思います。
約束も果たさずに、自分の弟子だからと公職の任よりも身勝手な行動を正当化する。
知っていることも語らず、謝罪に来た人を無視し、声をかけてくれている人も無視する。
なぜ「今は話せない」という一言が発せられないのか。
子どもたちに、人を無視することを奨励してしまうような行動です。
信念があるのであれば、もっと正々堂々と行動できるはずです。
見ていて私には不様にしか見えません。

貴乃花は、相撲協会の改革に取り組もうとしていると報道されていますが、もし本気であれば、改革の内容を社会に公言すべきです。
公言する勇気もなく、しかもその組織の役員に就任しているのであれば(それは「改革すべき組織の責任」を負うということです)、自らこそが一番の元凶ではないのか。
内部告発者になる勇気さえないのでしょうか。

まずは潔く、組織の役員を辞任し、問題を明らかにするのが筋ではないかと思います。
そしてそうした組織の役員であったことを、まずは謝罪すべきです。

もし協会に問題があるのだとすれば、協会の問題を隠蔽しているという点では、貴乃花も同罪です。
関係者がテレビでよく「問題を公言したら大変なことになる」ともったいぶって話していますが、知っているのであれば明らかにすべきです。
知っていて明らかにしないということは、自らもその問題に荷担しているということなのです。
知ったものの責任を果たす勇気もない貴乃花には失望です。
それをかばう人たちには、哀しさを感じます。
どうしてみんなもっと堂々と生きないのでしょうか。

評議員の池坊委員長の素直な姿勢に共感を持ちます。
隠し立ては諸悪の根源です。
この問題は、単に相撲協会の問題ではなく、いまの日本の社会を象徴しているように思います。

また貴乃花ファンからお叱りのメールが届くでしょうが、やはりここは私の意見を書いておくことにしました。
お許しください。

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2017/11/30

■地元我孫子の公開フォーラムの報告

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先週の土曜日(11付き25日)、我孫子市の「市民のチカラ」まつりで、「世代を超えた「人のつながり」がまちをゆたかにしていく」というフォーラムを開催しました。
並行してさまざまなイベントが開催されていたので、人の集まりが心配でしたが、60人を超えた参加者がありました。
隣りの市から来てくださった方からは、とてもよかったという感想をもらえました。

キースピーチは、学校と地域の融合教育研究会の宮崎さんにお願いしました。
宮崎さんの活動はご存知の方も多いと思いますが、まちづくりや社会教育の世界に新しい風を吹き込んだと私は思っています。
前にも他のところでお話をしていただいたことはあるのですが、我孫子で話をしてもらうのは、今回が初めてです。

宮崎さんのお話は、子どもたちの教育の場である学校に、「まち」を引きこむことによって、学校をみんなの学びの場、そしてまちづくりの拠点にしていったという物語でした。
それは同時に、教える教育を超えた、大きな学びを子どもたちにもたらし、子どもたちとまちの人たちの、世代を超えたつながりを育てることで、未来に向けてのまちづくりの芽を育てたという話でもあります。
まちづくりとは、立場や世代を超えた人のつながりを豊かにしていくことだと思いますが、
宮崎さんは、学校を使って、それを見事に実現したのです。

いうまでもなく、人のつながりを育てる場は、学校だけではありません。
我孫子でも、いろいろな場を活かしながら、人のつながりを豊かにしている人たちがたくさんいます。
今回は、そうした3人の人に、宮崎さんのお話の後、少しパネルディスカッション風に話してもらいました。
その話を聞いていて、我孫子の市民活動も少しずつ変わってきているなと実感しました。
特に若いおふたりからは、壮大なビジョンも飛び出しました。
若者と高齢者の違いは、もしかしたら「ビジョン」の有無かも知れないと思いました。

このフォーラムをキックオフイベント位置づけ、つづけて「我孫子を舞台に面白いことを始めよう」というミニワークショップを開催し、ゆるやかなネットワークを立ち上げるはずだったのですが、今回の実行委員会メンバーの合意が得られなかったので、改めて年明け後に取り組みたいと思っています。
すでにこんなことをしたいと提案したいという方も何人かいます。

今回のフォーラムは、私にとっても、久しぶりの出会いがいくつかありました。
我孫子の市民活動の草分け時に活動されていた佐藤祐子さんにも、10年ぶりにお会いできました。
しかし、ゲストの宮崎さんは私どころではありません。
なんと50年ぶりに大学の同窓生、それも宮崎さんにとっての「マドンナ」にお会いできたのです。
人のつながりは、まちづくりだけでなく、個人の人生も豊かにしていきます。
いや、個人の人生が豊かになることが、「まちづくり」なのかもしれません。

我孫子界隈にお住いの方で一緒にやりたいという方がいたら、ご連絡ください。

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