カテゴリー「社会時評」の記事

2023/09/15

■時代の劣化をつくづく感じます

昨日は、体調がもう一つだったので、約束をキャンセルさせてもらって、自宅で過ごしていました。
体調はだいぶ良くなってきてはいましたが、思考力や気力が出てこないのです。
それで、ついつい録画していた西部劇を3本も続けて、というか並行してというか、時に早送りして、3本も見てしまいました。
学生の頃は、映画館でも3本建てなどというのがあって、通っていましたが、3本の映画を続けて観るのは久しぶりです。

問題はその3本の映画です。なぜ3本を一緒に観たか。
その3本は次の作品です。
「誇り高き男」「リオ・ブラボー」「エル・ドラド」。

西部劇が好きな方ならすぐわかるでしょうが、3本とも同じ筋書きの作品です。
いずれも何回も見ているのですが、あきません。
高校・大学生時代は西部劇が好きだったのです。

最初に西部劇を見たのは、小学校6年の時でした。
作品は「ブラボー砦の脱出」が最初で、次が「シェーン」でした。
それ以後は何を見たか覚えていませんが、その2作品ですっかり西部劇ファンになってしまったのです。しかし、マカロニウェスタンが出てきてからは、映画館で西部劇を見ることはなくなりました。私の好みではなくなったからです。

昨日は久しぶりに、若いころに戻って、西部劇に浸ってしまっていました。
あの頃は、いまよりもずっといい時代でした。映画にそれがはっきりと表れています。
映画は、まさに制作時の社会状況が映し出されています。

最近の映画もテレビドラマも好きになれません。面白くはあるのですが。
私にはとても乱れてしまった時代に思えてなりません。観ていると、気持ちがすさんでくるような気がするのです。そしてそれを面白がる自分に気づくと、なんだか古い映画を観たくなる。
昔の映画は何と穏やかだったでしょうか。犯罪や悪人にも文化がありました。

1960年代までの西部劇は、基本的には勧善懲悪でした。
だから私は好きなのです。

 

https://moviewalker.jp/mv9604/

https://eiga.com/movie/6042/

https://www.youtube.com/watch?v=rRvhjEqPA0g

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2023/09/13

■ジャニーズ問題への私見

連日、ジャニーズ問題がテレビをにぎわしています。
私には、解決に向けて何も動き出しておらず、またいつものように、マスコミが新しい金儲け素材として取り上げているようにしか思えません。
ですからこの関係の報道には辟易しています。

そもそも問題は簡単で、当たり前の当然の話を、もったいぶって解説しているような話ではない。統一教会の話題と同じように思えてなりません。
もっと取り上げてほしい材料はたくさんある。
あまりに乱暴で粗雑な語り方ですみませんが。

そもそも問題の会社の社名存続に、会社側の姿勢は明確に出ています。
問題を全く恥じていないのです。悪いと思っていない。
名前は体を表す重要な存在です。それを存続させるということは、これまでも同じ理念で行くということです。体質はたぶん全く変わらないでしょう。新社長の東山さんは、なぜ自分の考えを通せなかったのか。要するに彼は変わっていないのです。悪い意味での忖度しているだけの話でしょう。
私には東山さんは、もう同罪の加害者側に加担した存在にしか見えません。鬼畜に加担したらダメでしょう。鬼畜に見えてしまっても仕方がない。
そもそもここまでずっと放置してきたジャニーズ関係者は、みんな同罪でしょう。
ビッグモーターの社員と、どこが違うのか。

おかしな組織は、経営者だけで成り立っているわけではありません。
社員がみんなで作っているのが会社です。
いまだに社員の中から、なぜ経営者への異議申し立てが起きないのか、そこにも問題の本質を感じます。ジャニーズ所属のタレントは、全員、加害者です。ジャニーズの恩恵を受けてきているのですから。
そもそも自分が所属している組織がどんな組織なのかに無関心でその恩恵を受けていること自体が、私にはありえない話です。

人は間違いを犯します。
でも間違いに気づいたらしっかりと向き合って、自らを正さないといけない。
私には、事態は解決ではなく、さらなる悪化に向かっての次のステップへと進んでいるようにしか見えないのです。

 

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2023/08/26

■「助けてと言える社会」か「助けてと言わないでいい社会」か

今朝の朝日新聞の読書ページに『「助けて」と言える社会へ』が紹介されていました。

私はまだ読んでいませんし、いまはあまり読もうとは思っていませんが、その書名が気になって、少し書きたくなりました。
一言でいえば、「助けてと言える社会」がまだ死語になっていないことへの違和感です。

以前も書いたことがありますが、「助けてと言える社会」という考えには私は違和感を持っています。その根底に、問題を他者のせいにする意識が感じられるからです。
そういう意識こそが、社会をおかしくするのだと私は思っているのです。

助けを求めている人に「助けて」と言わせるのはむずかしい。
それが言えないからこそ苦境に陥っているのです。
そもそも「助けて」と言える人は言っている。
問題は、それに耳を傾ける人、聞こうとする人が少ないだけの話なのではないか。
にもかかわらず、まるで「助けて」と言わないことが悪いような、あるいは、むりやり「助けて」といわせようとしているような、そんな印象をどうしても受けてしまう。

そもそも問題は、「助けて」と言わなければいけないような状況をつくりだすことだと思いますが、知らず知らずのうちに、私たちは、他者をそういう状況に追い込むような生き方をしてしまっていることもあります。そうしたことにこそ、気を付けるべきではないか。
そもそも、「助けてと言える社会」をめざそうなどという発想そのものがその一つではないのか。そんな気さえします。

その気になってまわりを見てみれば、助けを求めている人に気づくはずです。
もしそうした余裕がない生き方をしているのであれば、まずは自らが「助けて」と声をあげればいい。そう思うのです。

あまりに雑駁に語ったので、またまた反論をもらいそうですが、「助けてと言える社会」ではなく、「助けてと言わないでいい社会」をつくることに意識を向けたいと思います。

 

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2023/08/23

■汚染水を薄めて放出する発想が認められたらなんでもありでしょう

いよいよ明日から、福島原発の汚染水の海洋放出が始まります。
汚染水を希釈して放出するのであれば、私にもできますし、汚染水を貯水槽にため込んでおくことも私にも思いつきます。
しかし、事故後、これだけの時間がたつのに、誰にでも思いつく方法でしか対処できないとは、全く驚きます。
科学技術者や管理責任者は何をしていたのでしょうか。

もしこの方法が認められるのであれば、原発のごみ問題も解決です。
薄めて捨てればいいのですから。
いや、すべての不都合は、希釈して捨てていけばいい。

そもそも希釈して廃棄は、あの有名なエントロピー則に反すると思います。
フクシマ事故の後、私の知人が汚染水を希釈するのではなく、重イオン水をつかって濃縮する方向で対策を考え、その実験をしたいので協力してほしいと言われたことがあります。
我孫子市のクリーンセンターに協力してもらって実験もしましたし、検査結果の評価も専門機関から証明してもらいました。
しかし、その知人がそれをもって、政府をはじめいろんなところに働きかけましたが、残念ながらその先に進めませんでした。

汚染は「希釈」ではなく「濃縮」し、問題を封じ込めることから始めるべきだという思いは今も変わりません。
しかしどうも社会の常識はそういう方向ではないようです。
アントロポセン時代とは、恐ろしい時代なのだと改めて感じます。

またわが家から魚の料理が減りそうで、心配です。
意に反することには行動で抗議しなければいけませんから。

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2023/08/08

■自動書記の体験談を話してくれる人はいませんか

中矢伸一さんの「日月神示 完全ガイド&アップデート」(徳間書店)を一応通読しました。
私に興味があると知った友人が1か月ほど前もってきてくれたのです。
岡本天命が自動書記したものを解読・解説した本です。

一気に通読するような本ではないので、時々、ゆっくりと読んでいましたが、あまりに違和感がないので、自動書記されたことにも納得しました。ここに書かれていることの多くは、私も何となく感じていることだからです。文字で読むのははじめてですが、私を包んでいるメッセージのような気もします。

 自動書記に関しては、私自身は経験してはいませんが、私の友人に降りた啓示を自動書記したものも以前何回か見ていますので、自動書記ということそのものには違和感は全くないのです。

自動書記の世界について、どなたか話をしてくださる人はいないでしょうか。
小賢しい人知の話を超えたサロンができないかと思っています。
天からの啓示には学ぶことが多いですから。

 

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2023/07/27

■生成AIへの期待

生成AIが、教育界や産業界で問題になっています。

大学では論文作成などでの生成AIの使用制限が、産業界では生成AIによるクリエーター業務への影響などが話題になっているようですが、まるで産業革命期の機械打ち壊し運動(ラッダイト運動)のような気がします。いまなお歴史から学ばない人たちが、なんと教育界や産業界には多いことか。
まあ専門家というのは、えてして墨守に傾きがちですから、仕方がないのかもしれません。

しかし、最近の議論のあまりのお粗末さには笑えます。
生成AIを危惧する教育者は、教育していなかったのではないかと思いますし、生成AIに脅威を感ずるクリエーターには、創造していなかったのではないかと思えてしまうほどです。
まあみんな正直で、どんな馬脚も憎めませんが。

私自身は、生成AIの見事さには感心しますが、全く次元が違う世界のような気がしています。
ですから生成AIの発展は無条件に歓迎ですし、それによって私たち人間がさらに人間らしさを目指せる可能性(真逆な危険性もありますが)があるように思っています。
AIがやってくれる範囲が広がるのであれば、それをベースに考えればいいだけの話です。

私自身、生成AIの成長を見たいので、最近はもう少し生き続けたいという思いが強まっています。
そのうちに、彼岸と此岸も往来できるようになるかもしれません。此岸にいるうちに彼岸に行ってみたいとずっと思っているのです。
まあ彼岸から此岸に来るのは、いずれ実際に体験できるでしょうから、あまり関心はないのですが。

 

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2023/07/09

■手塚治虫の「地球の悪魔」と「大洪水時代」

昨日は元の仕事場に行って、ある資料を取りに行ってきました。
ついでに書籍の整理をしてきました。
昨日は200冊ほど廃棄し、20冊ほど持ち帰りました。
気になっている本はだいたいすでに自宅に送付してあるのですが、まだ何冊かは懐かしい思い出のある本があります。

今回持ち帰った本に「地球」が署名に着いた本が2冊ありました。
手塚治虫の「地球の悪魔」と広瀬隆の「地球のゆくえ」です。
帰路、前者を読みなおしました。
同書には同じころの作品「大洪水時代」も載っています。

いずれも現代を見通しているようです。
というよりも、手塚治虫の警告にもかかわらず、みんな生き方を変えなかったということでしょう。反省しました。

広瀬さんの「地球のゆくえ」は、国際金融を操作する人に焦点を当てた現実の政治経済を解説してくれていますが、まだ「陰謀論者」に操作される前のしっかりした内容のような気がします。現代とは違い、まだ主体的な判断ができていたんでしょう。
久しぶりに読み直そうかと思っています。

ついでに、隣にあった浅井隆さんの「金が世界を救う」という本も持ち帰りました。
まあ最近のこの種の議論はすべて1080年代から90年代にかけて語られたことの繰り返しのように思えてなりません。だから最近の陰謀論関係の書物は、私には退屈なのです。
発掘の時代から編集の時代に入ってしまったからでしょう。

文字ではなく、もっと情報量が多く直接身体に働きかけてくる、映像の時代になったので、私にはついていけなくなったのかもしれません。

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2023/07/08

■『「集団の思い込み」を打ち砕く技術』をお薦めします

今日、6時間、電車に乗っていました。
おかげで先日読みだした本を読みおわりました。
読みやすい、軽い本ですが、とても示唆に富んでいて、とても共感できました。
ぜひ多くの人に読んでほしいなと思いました。
そうしたら世界が変わるかもしれませんので。

アメリカの苦労人心理学者のトッド・ローズの本です。
邦訳の書名は『「集団の思い込み」を打ち砕く技術』ですが、原題は”Collective Illusions”。
副題は「なぜ皆が同じ間違いをおかすのか」です。

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彼は、誰もが勘違いしている「みんなの意見」を「集合的幻想」と呼びます。
そしてそこから離れために、次のような提案をしています。

・所属する集団を増やす
・アイデンティティが感じられる場を複数確保する
・他者をまねる前に「なぜ」を問う
・おかしいことには沈黙せずに疑問を呈する

そして、ほとんどの人は価値観に共通したところがあるのだと認識し、思い切って信頼してみようと勧めます。
私の生き方と重なっています。

以前一度書いたことがありますが、この本の最後にチェコの初代大統領だったヴァーツラフ・ハヴェルの言葉を引用しています。
何回読んでもいつも自然とうなずいてしまう自分がいます。
ここにも引用させてもらいます。

人間として当然の尊厳、道徳的高潔さ、存在を表現する自由、実在世界からの超越感への願望を誰しも持っている。しかし同時に、偽りのうちに生きることを大なり小なり甘受する傾向もある。どういうわけか本来の人間性を不敬にも矮小化し、功利主義に屈してしまう。名もなき大衆に合流し、心地よい流れに乗って偽りの生活という川を下ろうとする気持ちが、一人ひとりのなかにある。

明日は湯島でオープンサロンです。
よかったらどうぞ。

湯島のサロンは、まさにトッドの提案を広げようと思って取り組んでいるのです。

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2023/03/29

■山野浩一さんの「花と機械とゲシタルト」の世界

先週は寒さと雨のおかげで在宅での読書時間が多かったのですが、そこで読んだ本のほとんどは、その前の週に岡和田晃さんが送ってくださった本がきっかけでした。
その本は、岡和田さんが再刊に尽力した山野浩一さんのSF小説「花と機械とデシタルト」です。

岡和田さんが送ってくださったのには理由があります。
私が久しぶりに中国のSF小説「三体」を読んで面白くなかったとFBで書いたのですが、それを知った岡和田さんが、佐藤さんはこういう本を読んだほうがいいと、この本をわざわざ送ってきてくれたのです。

岡和田さんからは、これまでも文芸評論とは何かということをはじめ、いろいろなことを気づかせてもらっていますし、こと文学に関しては(生き方もですが)頭が上がらないので、ここは読むしかないのですが、いささか敷居が高くて読みだすのに時間がかかってしまいました。しかし思い切って、先々週読みました。
私にはやはりハードで、4日かけてようやく読み終えたのです。

読んだ後、そこからのメッセージがまだ読み取れないまま、1週間ほどいろいろと考えていましたが、その間に気分転換も込めて先週は4冊の本を読んでしまったわけです。
そういう本はいとも簡単に紹介できるのですが、岡和田さんが解説している「花と機械とデシタルト」はそう簡単には紹介できません。間違いなく、岡和田さんからは、なんだこの程度にしか読んでくれなかったのかといわれることは明らかだからです。
岡和田さんよりかなり年上の私としては、見栄もありますし、期待を裏切りたくないという思いもあるからです。

でもまあそんなことは瑣末なことです。そもそもそんなことは見透かされていることでしょう。大体において隠したいと思うことは、すでに相手には伝わっているものです。

というわけで、少し紹介させてもらうことにしました。
もし興味をもって、読んでくれる人が増えれば、それはうれしいことです。

この作品は、40年前に出版されていますが、当時の文壇からはあまり歓迎されなかったようで、「知る人ぞ知る」の作品という貴重な存在になっているようです。
それを岡和田さんが、ていねいな解説をつけて再刊してくれたのです。

40年前といえば、私があまりSF小説を読まなくなってから10年近くたっていますので、私が知らなかったのは仕方がありません。しかし、もちろん著者の山野浩一さんのその前の作品は一部読んでいますし、とても好きでした。
しかし、この作品は、私の好きな山野浩一さんの初期の短編作品とは全く異質です。

ちなみに、SF小説といえば、私はまだ「空想科学小説」というイメージですが、この作品の頃から「思弁小説」と言われだしていたようです。
この小説は、まさに思弁小説で、よほど思考を柔軟にしないと入っていけませんが、一度入ってしまうと、まさにメタバースに入ったように自由に読み込めていけます。
若いころなら、私も思い切り飛び回れたのでしょうが、いまの重い身心では、ついていくのにやっとでした。

しかし、岡和田さんがなぜ私に勧めたのかはわかりました。誤解かもしれませんが、いま私が生きている世界や私の関心事につながっているからです。
読みだしてすぐそれには気づいたのですが、確信したのは、先日の湯島でのサロンの時です。飛び込んできた自閉症の若い女性の言動に触れて、ハッと気づいたのです。湯島のサロンはあの小説の舞台になっている「反精神病院」そのものではないか、と。

この小説の舞台は、反精神医学理論の唱導者である「博士」が、仮想存在としてのという概念を外部に実体化させ、それを核にして、みんなで自主的に運営していくためにつくり上げた反精神病院、今様に言えば「コミュニティ」です。
そこで暮らす人たちは、自らを「彼」「彼女」と呼びますが、実に多様で多彩な人たちです。最初は、思弁的なめちゃくちゃさを感じますが、読んでいくうちに、実に生々しくリアルになっていく。まるで、いまの日本の社会を見ているようです。これは読んでみないとわからない。

湯島のサロンには、この話に登場するほどではないものの、統合失調症や躁鬱の人、あるいは長いこと引きこもっていた人、いまも引きこもりをつづけている人などもやってきます。時に人を殺しかねないような人も来て、しばらくは不安に苛まれることもありますし、自殺が心配で眠れないこともある。もしかしたら、そうしたサロンに長年参加しているおかげで、私はこの話に奇妙に親近感をもったのかもしれません。そして同時にそう簡単には読み進めなかったのかもしれません。

「我」と「彼・彼(女)」(話は逸れますが、よく使われるこの表現は私には違和感があります。「彼(女)」と書くならなぜ「彼(男)」と書かないのか)へと自らを預けてしまい、その抜け殻のなかに残った3人目の「わたし」と「あなた」が、最近の私の関心事なのですが、どうも昨今は、その「わたし」と「あなた」がいなくなってきているような気がしています。もうそんな人間は不要なのかもしれません。

湯島で長年サロンをやっていて、そういうことを最近強く感じているのですが、まさにこの作品の舞台である「反精神病院」が広がっているのかもしれません。いやその反対かもしれない。

いま湯島では隔月で万葉集サロンをやっていますが、そこでのテーマは、「我」と「汝」と「多・他」です。山野さんの作品の「我」は、私にはむしろ「多」に重なるのですが、そこでの関心も、「多」が「他」になり、そこに「我」を託す大きな流れを私は意識していますので、山野さんの話とも通じています。

そして今回気づいたのは、「多」が「他」となり、そこから「彼」が生まれるということです。そしてそこから「表情を持った彼」も生まれてくる。それを何と表現するのか、まだわかりませんが。
というわけで、最近のサロンのテーマもまた、この話につながっている。

サロンで時々話題になる二分心にもつながっていく。また以前話題にした「オメラスの寓話」や天皇制の問題にもつながっています。
言うまでもなく、それは湯島のサロンの世界を超えて、広がっていく。

前にも紹介しましたが、岡和田さんは昨年、山野浩一発掘小説集「いかに終わるか」も編集して再刊しています。
岡和田さんのこうした地道な活動はただただ頭が下がるだけですが、この2冊には未来を占うヒントもたくさん含意されているのでしょう。残念ながら私にはまだ十分には読み取れていないのですが。

しっかりと未来を考えたいという人は、いや、現代社会を読み解きたいという方は、ぜひ読んでみてください。なにか示唆が得られるかもしれません。

ちなみに前に紹介した「あかあかや明恵」を読んでいて感じたのですが、明恵の世界もまた反精神病院なのかもしれません。いや、そもそも寺院や教会は、みんな反精神病院だったかもしれない。
この10日程、いつもこの小説が頭にあったせいか、社会そのものがもう「反精神世界」になってしまったような気さえしだしています。

気分を変えないといけません。

 

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2023/01/26

■「嘘つきは政治家のはじまり」にしてはいけません

統一教会との関係が問題になっている細田衆院議長が、24日に行われた与野党の代表者への説明会の中で、2019年に旧統一教会の友好団体が開催した会合に出席し「安倍首相(当時)に早速報告したい」と挨拶したことについて、「この団体が安倍元首相に近い団体というのは知っていたので、リップサービスとして言った。ただ安倍元首相には報告していない」と述べたそうです。

多くの新聞が、そのことをさらっと流しているのが、とても気になります。とても聞き流せるような話ではない。しかも発言者は立法の長たる衆議院議長です。

リップサービス。要するに嘘をついたということです。リップサービスなどという表現に騙されてはいけない。リップサービスは嘘とは違います。言葉は正確に使わなければいけません。まあそのこと自体も、いまや軽んじられていますが。

単なる私人なら嘘も時には許されるかもしれませんが、公人としての政治家は嘘をついてはいけません。残念ながら政治家とは嘘をつくものだという「常識」が広がっていますが、責任ある人が嘘をついたら社会は成り立たなくなります。どんな犯罪さえも否定できなくなる。「嘘つきは泥棒のはじまり」という教えがあるように、犯罪のほとんどは、嘘から始まりますから。
いまは「嘘つきは政治家のはじまり」と言い換えたほうがいいかもしれません。嘘にまみれた政治家が社会を統治していると思えば、最近の犯罪の広がりや経済の劣化もまた、「時代の流れ」かと諦めてしまいたくもなります。

しかし、一昔前の政治や経済では嘘は現に戒められていた。その基本になったのは、「信頼」であり「誠実」だったと思っています。
でもそれが今や失われようとしている。
いや失われてしまった。

嘘が見逃される風潮の中では、嘘つきが主流になっていく。
そのうちに、学校で「嘘のつき方を教えるようになるかもしれません。
そんな悪い冗談さえ、なんだか真実味をもってきてしまう。

その流れに巻き込まれないようにしないといけません。

 

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