カテゴリー「社会時評」の記事

2017/11/01

■出る杭を打つ社会にはあきあきです

立憲民主党の議員たちがどうも「ターゲット」にされだしたようで、次々と「不祥事」がマスコミによって問題にされだしています。
今朝は初鹿議員が問題にされています。
こうしたことを暴き出すことで、政治はどんどん矮小化されてしまうことに大きな危惧を感じます。
もちろん今回も問題にされているような事件が瑣末な事件であるとは全く思っていませんが、その採りあげ方に大きな危惧を感ずるのです。

そこで思い出すのが、一時期、世界を覆いだした「ゼロ・トレランスの嵐」です。
はじまりはジュリアーニ時代のニューヨーク。
地下鉄の駅の落書きを消すことから安全が戻ってくるという話です。
いわゆる「割れた窓理論」には私もとても共感しますし、講演などでも話題にしたこともあります。
かつて、ささやかにではありますが、安全なまちづくりに取り組むガーディアン・エンジェルスの活動を支援したこともあります。
しかし、それらと「ゼロ・トレランスの嵐」とをつなげて考えていなかったことにある時、気づかされ、少し反省しています。

私にとって大切な価値の一つは「寛容」ですので、ゼロ・トレランス発想には大きな違和感があります。
10年前に書いたブログ記事があります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/12/post_ffbe.html
久しぶりに読み直してみました。
そして忘れていたことをいろいろと思い出しました。

ロイック・ヴァカンの「貧困という監獄」という本があります。
世界はいま福祉社会から刑罰社会へと流れを変えつつあるという警告の書です。
それを思い出しました。
古い本ですが、お時間があればお読みください。
いまの世界の状況が、たぶん少し見えやすくなると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/24

■時代に生きるのではなく、自分を生きたい

最近、英国のテレビドラマに興味を持っています。
最近面白かったのは「Unfogotten」です。

「Unfogotten」は、日本では英国クライムサスペンス「埋もれる殺意」としてテレビで放映されましたが、偶然に発見された遺体から、39年前や26年前の事件が掘り起こされていく話です。
http://www.wowow.co.jp/detail/111321
腕時計に残っていた職人のサインから被害者が特定されたり、26年間水没していたポケベルから交流のあった人たちの通話データが復元されたり、ともかく記録が社会システムとして残っていることがわかります。
時計職人が30年前の修理の記録を残しているという文化は、いまの日本では極めて限られたものになってしまっているでしょう。
なにしろ1年前の行政上の重要な記録さえ廃棄され復元が拒まれる社会なのです。
企業も同じです。
最近の大企業の醜態をみれば、もはや記録を残す文化はなくなってしまっているように思います。
消費型になってしまった日本社会では、もう30年前の事件を掘り起こすことなどできないでしょう。
歴史を大事にしない国(組織・都市)には未来がないような不安があります。
このドラマを見る限り、イギリスは違うようです。
長い時間軸で生きている英国社会の蓄積制というか、システム性というか、そういうことにも圧倒されます。
最近はどうなっているかはわかりませんが、このドラマの時代設定は現在です。

このドラマは、サスペンスとありますが、むしろ物悲しい人間ドラマです。
さまざまな人間の生活が時間軸も含めてていねいに描かれています。
だれもが過去を背負って生きている人間であることもさりげなく語られています。
主役の警部や警部補さえも、それぞれ家族にも自分にも、日常的な問題を抱えています。
人の哀しさや素晴らしさがじわじわと伝わってくるドラマです。
イギリスという国の文化やイギリス人の思考も伝わっていきます。
英国人の生きる時間軸も、いまの私たちとは違うようです。

第2シーズンの最終回のなかで、私の心に深く響いた言葉があります。
過去(26年前)のことを調べる警部に関係者がこう言って協力を拒もうとします。
「もう大昔の話じゃないか」
そこで警部(女性です)が語気を強めます。
「昔々って、もううんざりです。
でも昔と言って片づけられないんです。
そのような人間のせいで、被害者は今でも苦しんでいます。
彼らは死ぬまで癒えない傷を抱えるんです」

事件は、10代の時に性的暴行を受けた事件に絡んだ物語です。
26年前当時は社会の価値観が違っていたと、関係者は言います。
「時代は変わった、おれたちも変わった。今はああいう人間を見過ごすことはない」

警部は怒りを抑えてこう言います。
「そうだといいんですけど。でも10年前に見過ごした人も時代のせいにするんです。今の人たちが将来、同じ言い訳をしないことを願います」

Unfogottenとfogotten。
時代に生きるのではなく、自分を生きたいと、改めて思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/18

■サロン「呼吸器の子・重い障害を生きる意味」のキースピーチ動画

先日、湯島で開催したサロン「呼吸器の子・重い障害を生きる意味」での松永医師のキースピーチの部分を、近藤さんと松永さんのご尽力で動画に記録しました。
ぜひご覧ください。

https://youtu.be/UiAHRcwsNUA

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/15

■カフェサロン「今を生きる先住民族」報告

アイヌ民族との交流を重ねている写真家の井口康弘さんにお願いしたサロンには、アイヌ民族の島田あけみさん(チャシ アン カラの会代表)も参加していただき、13人のサロンになりました。

井口さんは、2013年に行われた、ニュージーランドのマオリ民族とアイヌ民族との草の根交流活動の映像をまず紹介してくれました。
ニュージーランドでは1970年代からマオリ民族の文化復興と権利回復が進んでいます。
そして、マオリの文化がニュージーランド社会や経済に大きな貢献をしているそうです。
その一方で、日本でアイヌ民族が先住民族として認められたのは2008年。
アイヌがアイヌとして生きる社会にはまだなっていないようです。
それを知った、マオリの人たちがこの交流活動を呼びかけてくれたのです。
それ以前から、島田さんはマオリと交流がありました。

2013年、マオリの呼びかけで、若者を中心に15人のアイヌが1か月にわたりニュージーランドを訪れ、マオリの歴史・文化・教育制度などを学びました。
そのときに、マオリの人たちから、「40年前にはマオリは一つになれなかったが、いまは団結して立ち上がれるようになった。きっとアイヌもそうなれる。私たちが持っている経験・知識はすべて皆さんと分かち合いたい」と言われたそうです。
その時の映像を井口さんは見せてくれたのです。

映像からは、マオリの人たちの生き生きした表情と豊かさ、そして誇りが伝わってきます。
参加したアイヌの若者たちが、大きなエネルギーをもらったことがよくわかります。
マオリとの出会いが、変化の芽を育てはじめ、帰国後、研修参加者によって、マオリの取り組みをモデルにした新しいプロジェクトが立ち上がりました。

島田さんは、45歳からアイヌになったと言います。
アイヌとして誇りを持って生きはじめたということでしょうが、そのきっかけの一つが、マオリとの交流のようです。
井口さんの映像のおかげで、そうした島田さんの言葉が素直に理解できました。

Ainusalon

後半の話し合いではいろんな話が出ましたが、きちんとした話し合いをするには、私はあまりにアイヌを知らないことに気づきました。
学生の頃からアイヌには関心があり、それなりにアイヌ関係の本は読んでいますし、知里幸恵さんがまとめたユーカラから選んだというアイヌ神謡集も読んではいるのですが、それらはまったくの知識でしかありません。
訊きたいことは山のようにあるのですが、どう訊いていいかさえわからないことに気づかされました。
それに私の中で浮かんできた質問などは、もしかしたら瑣末な話かもしれないという気がしてしまいました。
マオリとアイヌの交流の映像が、あまりに大きなメッセージを与えてくれたからかもしれません。
そこに出てきたマオリやアイヌの人たちの表情は、あまりに明るく、豊かでした。

いずれにしろ、私たちが知っているアイヌ像は、かなり現実とは違うようです。
たぶん多くの人は、アイヌの人たちの写真を見たことがあるでしょう。
それはもしかしたら、創られた映像だったかもしれません。
それに関しては、西坂さんが具体的な材料を示しながら話してくれました。

島田さんに言わせれば、アイヌに対する差別意識はまだ残っているようです。
日頃アイヌとの接点のない私は、具体的に差別をイメージすることさえできません。
しかし、まだ生きづらさはなくなっていないようです。
そうした状況を変えていくためには、子どもたち若い世代に、アイヌの誇りを取り戻すことが大切だと島田さんは言います。
マオリの人たちとの交流がそれを育ててくれると島田さんは考えています。
アイヌを生きることの楽しさや喜びを体験することが大切だと言うのです。
とても共感できます。
ですから、マオリから勇気と希望を受け継ぐために、第2回交流プログラムを開催したいと、今その準備に取り組んでいます。
資金的な支援を現在クラウドファンディングで呼びかけています。
ぜひみなさんも協力してくれませんか。
https://readyfor.jp/projects/ainu-maori
アイヌ文化の復興を目指していくことが、日本がもっと多様で、調和のある、平等な社会になることにつながっていくと島田さんたちは考えているのです。
問題はアイヌだけではなく、私にもつながっている「みんなのプロジェクト」なのです。

小田原からわざわざ参加してくれた露木さんは、最近の中国の少数民族同化政策につなげて、話をしてくれました。
日本も同じようなことをやっていたら、中国に対抗できないのではないかと言うことです。
世界各地で少数民族の問題が広がっていますが、日本の国内にも同じ問題があることに私たちは気づかなければいけません。

同時に、これはまた、少数民族問題だけではなく、障害者やハンセン病、さらには福島の被災者などにもつながる話です。
つまり、私たちの社会のあり方に関わっているのです。
今回のサロンで、アイヌ問題から見えてくることの大きさと深さを改めて感じました。
今回も自分の無知さを改めて思い知らされるサロンでした。

井口さんは、このサロンの打ち合わせをしていた時に、「後から住みだした人々(和人)が何を奪ってきたのか、という点は明らかにしておきたい」と言っていました。
それは実は、私たちの生き方から失われていること、あるいは最近の社会の生きづらさにもつながっていることに気づかされました。
それに関してひとつだけ紹介します。
島田さんは、死者の送り方について、お金のかかる和人の葬式と死者と共にあるアイヌの人たちの送り方を少しだけ話してくれました。
とても共感しました。
そこにもしかしたら、すべてが象徴されているのかもしれないと思いました。

東京オリンピックの開会式で検討されているというアイヌのパフォーマンスも話題になりました。
魂の入らない商業主義的なものにならなければいいのですが。

島田あけみさんが身心から発する「深い思い」、「生命の躍動」の刺激があまりに大きかったので、今回もまた消化不足で、うまくまとめられず、不十分の報告ですみません。

井口さんが紹介してくれた映像をもっと多くの人に見てもらいたい。
アイヌの文化にもっと多くの人に触れてもらいたいと思いました。
なお、10月21日、島田さんが代表を務めるチャシ アン カラの会の主催で、横浜のスペース・オルタで、「アイヌ感謝祭」が開催されます。
チラシを添付します。

Img2443


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/11

■富山には悪い人はいない

富山市の路面電車ライトトレールが「信用降車方式」を採用したそうです。
いわゆる信用乗車方式と同じですが、後者の際に支払う乗車賃の確認を省略することによって、降車時間を減らしスムーズな運行を可能にするためです。
テレビで報道されていましたが、取材された富山市民は口をそろえて、富山には悪い人がいないので無賃乗車など誰もしないと言っていました。
このテレビを見た直後に、友人から電話がかかってきたので、富山には悪い人がいないそうだという話をしたら笑われてしまいました。
でも私は富山には悪い人はいないと信じます。
いや世界には本来は悪い人などいるはずもない。
悪事を働く人はいるかもしれませんが、それはそれぞれに事情があるのでしょう。
しかし、悪事に手を染めてしまうと、いつの間にか「悪い人」になってしまうおそれがないとは言えません。

ところで、「悪い人がいない」という前提で仕組みをつくるのと、「悪い人がいる」という前提で仕組みを作るのかで仕組みは全く違ってきます。
悪い人がいることを前提にして仕組みをつくると、たぶん仕組みは複雑になり、管理コストも大きなものになるでしょう。
そのコストは、何ら価値を生み出すことのないコストとも言えます。
つまり「無駄」が発生するわけです。
そのコストを負担する料金も高くなりますから、料金を支払わないという思いを持つ人も増えるかもしれません。
負担能力のない人で、どうしても電車に乗る必要がある人は、もしかしたら「やみなく」無賃乗車をしてしまうかもしれません。
そして悪循環が回りだしてしまう。
いまの日本の社会は、そんな方向で、無駄なコストがどんどん膨れ上がり、それに便乗して不当に利益を得る人も生まれてきます。
そして、生活には無縁な「経済成長」が実現していきます。
最近の「経済成長」は、いかに無駄を多くするかで実現される面が大きくなっています。
幸いに富山市はまだ、そうした悪循環に飲み込まれずに、悪い人がいない社会を維持しているのでしょう。
言い換えれば、無駄の少ない社会と言ってもいい。

社会の仕組みの設計は、人を、善い人にも悪い人にもします。
政治の対立軸に関連して、社会構造原理の話を書きましたが、私が考える「システム vs 人間」の「人間」は、すべて「善い人」です。
つまり、「善い人」を基点にして政治を考え、社会や組織を構築していくということです。
そうしたベクトルからは、地方分権などという発想は出てきません。
分権は、人間からシステムへの、あるいは人間から中央に向かう方向ですから、むしろ「中央分権」です。
言葉の意味が全く変わってしまう。
つまり私が使っている言葉の意味は、ほとんどが誤解されてきたのかもしれません。
そのことに最近ようやく気づきだしました。

今日も友人と電話していたら、私が白を黒と言いくるめると言われてしまいました。
私にとっては最初から黒は白なのですが、どうもそれが伝わりません。
困ったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/06

■見えないものを見ようとすることの大切さ

小説は、見えないものへの気づきを与えてくれます。
昨日、ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロさんの作品には、そういうメッセージを感ずることが多いです。
そこで描かれている未来やあるいは創作された世界、あるいはもう忘れられてしまった過去が、いま現実的に存在していることに気づかせてくれるのです。
フェイスブックには先日書きましたが、ブアレム・サンサルの『2084 世界の終わり』にもそれを感じました。

30年以上前に、「非情報化社会」という小論を書いたことがあります。
http://cws.c.ooco.jp/antiinfo.htm
当時は情報化社会の到来が盛んに言われた時代でしたが、私には逆に、時代が「非情報化」に向かっているように感じたのです。
創られた情報、つまりフェイクニュースが横行しだすだろうと思ったのです。
そうした「喧噪の時代」から「対話の時代」へと向かう可能性を感じたのも、その頃でした。
http://cws.c.ooco.jp/taiwa.htm

しかし、時代は逆方向に向かい、まさにポスト真実の時代が到来しました。
多くの人は「見たいもの」をますます見るようになり、「見たくないもの」への関心を捨てだしました。
社会を統治する人たちが「見せたいもの」を見せようとするのは仕方がないとしても、マスコミ、さらにはジャーナリストの多くさえもが、そうした動きに同調し、しかも「見せたい」ように「見える」状況づくりを加速してきています。
それに抗って、「見たいもの」を見ようとする運動もありますが、それも所詮は同じ土俵での抗いであって、自らもまた「見たいもの」しか見えなくなるという落とし穴に落ち込んでいることが少なくありません。
まさに相手と同じ過ちを犯しているとしか思えません。

どうしたら「見えないもの」や「見たくはないけれど存在するもの」が見えるようになるか。
それは簡単なことです。
「裸の王様」の寓話にあるように、子どもになればいいのです。
しかし、いささか悩ましいことがあります。

現実を見るためには、知識や言語が不可欠です。
言語があるから世界は理解できます。
知識があればあるほど、世界はよく見えてきます。
言語は事象を区別し可視化してくれますし、知識は見えるものに意味を与えてくれます。
しかし、その一方で、知識や言語は世界をせばめ、ゆがめる力も持っています。

一昨日のサロンで、発達障害が話題になりました。
発達障害という知識がなければ、そういう人たちの言動が理解できずに誤解してしまうかもしれません。
しかし、逆に発達障害という知識が、相手を型にはめてしまい、その人の生き生きした実体を見えなくしてしまうかもしれません。
北朝鮮やイスラムに対しても、同じことが言えるかもしれません。
私たちは、言葉や知識で、それらを理解しようとしますから、与えられた言葉や知識でしか、見ることができません。
知識や言葉は、世界を見えるようにする一方で、見え方を方向づけてしまうことで、事実とはずれていく恐れがあります。
知っていることが知らないことになるという、おかしなジレンマが起こってくるわけです。

親鸞が88歳の時に書いた和讃のなかに、「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり」という言葉があるそうです。
善し悪しという文字で物事を判断しない人は、すべて、真実の心をもっているというのです。
知れば知るほどに「まことのこころ」を見失ってしまうと、自らの姿を戒め、慚愧した言葉と言われています。
人が獲得できる知識など、たかが知れています。
そんなわずかな知識で、わかったような気になってしまい、現実が見えなくなってしまう。
恥ずかしながら、私がたびたびおちいってしまうことです。

しかし、親鸞がそうであったように、素直に生きていると、少しずつですが、知識の向こうにある「見えないもの」が見えてくることがあります。
しかし、それはやはり、私が「見たいもの」でしかないのかもしれません。
なぜなら、どうも昨今の風潮は、私の考えとは真反対に動いているからです。
世間の多くの人たちと見える世界の風景が違うような気がしてなりません。
それが最近の私の生きづらさです。

「見えないけれど見えるもの」をブログで少しずつ書いていこうかと思い始めています。
元気があればですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/05

■10月の「みんカフェ」の報告

フェイスブックの効果がでてきたのか、なんと初めての方も含めて20人を超えるサロンになりました。
テーマのない「ゆる~いカフェ」を予定していましたが、これだけ集まると、なかなかゆるくはなりません。
ゆるいどころか、「当事者」という言葉をめぐっての深い議論になりました。
途中から参加した人が、ゆる~いと思って来たのにゆるくないと笑いながら言ってくれましたが、まあ「何でもあり」という意味でのゆるさだと考えてもらえればと思います。
何が起こるかわからない。
そこにも湯島サロンの特徴があります。

最初に参加者に自己紹介をしてもらいましたが、ある人が「発達障害の当事者です」と話すのを聞いた初参加の人が、「当事者であることを自己表明するのはなぜか」という問いかけをしてくれました。
そこから「当事者」とは何か、さらには発達障害とは何か、などと話は広がり深まりました。
なにしろ20人を超す参加者なので、視点もいろいろで、刺激的でした。

実は今回は長年社会教育などに関わってきた人が複数参加されたので、その話を少ししてもらおうと思っていたのですが、発達障害や引きこもり体験者の方が多かったこともあって、そうした人たちの思いや体験が次々と出てきて、話題も自然とそちらに向かいました。
初めて参加したビジネスの世界にいる人にとっては、こんな集まりははじめてだったかもしれません。
翌朝、「私のあまり知らない世界のお話をお聞きして大いに考えさせられました」というメールをもらいましたが、同じ社会を生きていても、なかなか触れ合うことのないことはたくさんあります。
最近は、同質の人たちで集まりやすい傾向が強くなっているような気がしますが、湯島のサロンはできるだけさまざまな人たちが、しかし同じ立場で話しあい何かを分かち合えればと思っています。
さまざまな人と触れ合って自分の世界を広げていけば、差別とか障害などということの無意味さがわかってくるかもしれません。
あるいは、人は誰もが違うのだということがわかれば、そして違いには優劣などないということに気づけば、とても豊かな社会、豊かな生き方ができるようになると思います。
こういう場を広げていけば、もしかしたら60年後には誰もが住みやすい社会になっているかもしれません。
だから私は来世が楽しみなのです。

具体的な話をひとつ紹介します。
発達障害だという人が話してくれたことがとても示唆に富んでいます。
彼は子どもの頃、母親に「テレビをきって」と言われて、のこぎりで切ろうとしたという体験があるそうです。
あるいは電車のホームで「白線の内側で待ってください」というアナウンスを聞いて、20センチほどの白い白線の上で待つのだと思い、大変苦労したということもあったそうです。
いずれも冗談だろうと思われたそうですが、彼はまじめにそう考えたのです。
そうした事例がたくさんあるそうです。
同じ言葉でも受け止め方や解釈は実にさまざまです。
ここまで大きく解釈がずれているといつか間違いに気づくでしょう。
しかし、小さなずれはなかなかお互いに気づかない。
そして、そうした小さなずれはたぶんすべての人の間にあるはずです。
発達障害の人だけが、コミュニケーション不全にあるわけではありません。
改めてそのことを実感しました。

ちなみにこの話を聞いて、私はこうした話し手と受け手のずれの事例をたくさん集め、それを「辞書」にして出版したらどうだろうと考えました。
発達障害に限らずに、いろんな意味でコミュニケーション環境を改善できるかもしれません。
どなたか一緒にやりませんか。

ところで、「当事者」ですが、「当事者」表明をすることで誤解されないですむという「当事者」からの発言もありました。
逆に「当事者」を意識するとそれが逆に自分を縛って、ますます「当事者」らしくなる危険性もあるのではないかという話もありました。
私は、みんなそれぞれ自分の人生の当事者になって生きれば、つまり、社会や組織や常識に合わせるのではなく、もっと素直に自分の人生を生きることが、長い目で見れば生きやすさにつながっていくと思っています。
目先の生きやすさのために自分に嘘をついたり、自分を抑え込んでしまうと、いつかその反動がくるばかりか、社会そのものがおかしなものになっていくのではないかと考えているのです。
当事者という言葉を概念的に使った「当事者主権」とか「当事者主義」という概念もありますが、当事者はそれぞれ多様な存在であって、一括りにはできません。
ですから当事者主義とは、多様性を認め合うということでもあります。
そんな話も合ったような気がします。

いろんな話が出ましたが、いつものように極めて主観的な報告でした。
発言したりなかった人が多かったと思いますが、お許しください。
ゆる~いサロンどころか、たくさんの気づきをもらった、「濃いサロン」でした。

201710mincafe_2


201710min2_3


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/09/25

■「亜由未が教えてくれたこと 障害者の妹を撮る」


昨夜のNHKスペシャルで「亜由未が教えてくれたこと 障害者の妹を撮る」というドキュメントが放映されました。
NHKの26歳のディレクター(坂川裕野さん)が、自分の妹を1か月介助して感じたことを映像で見せてくれました。
「障害者は不幸をつくるだけ」という、あの忌まわしい相模原市の事件を起こした青年の発言への、一つの回答です。
坂川さん自身はもちろんですが、家族みんなが実に素直に、その思いを見せてくれました。

障害者をテーマにした番組は、その多くがどこか肩に力が入っている気がして、見ていて疲れることも多いのですが、この番組はとても素直に、そしてとても共感を持ってみることができたばかりでなく、押しつけの姿勢が全くなかったので、素直に反応しながら、いろいろと思いを広げることができました。

再放送があります。
9月27日午前0時10分から、つまり26日の深夜の放映です。
簡単な番組紹介は下記にあります。
ぜひ多くの人に見ていただきたいです。
いつか坂川さんに会いたいです。
http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2017-09-24&ch=21&eid=09352&f=46

という内容をフェイスブックに書きこみました。
そうしたらなんと友人から、こんなコメントが来ました。

亜由未ちゃんのお母さんが、わたしの大学時代の同級生で!!、仲良くしていたのですが、30年近く前に連絡が途絶えていて、もう会えないのかと思っていました。昨夜テレビを見ていた西川さんから連絡が入り、めでたくつながることができました。深夜までおしゃべりしていました。^^ お母さん、ぜひ呼んでください。めっちゃパワフル&楽しい方です!!

そして、「あゆちゃんち」というFBページをおしえてもらいました。
さらにそこに書きこまれた亜由未ちゃんのお母さんのコメントを教えてくれました。
ぜひ読んでみてください。
これだけでも多くの人に読んでほしいです。
https://www.facebook.com/ayuchanchi/photos/a.489864241116030.1073741829.488057837963337/1039002972868818/?type=3&theater


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/09/11

■目黒のさんま祭の報道を見て、いつも思うこと

毎年、目黒のさんま祭の報道を見ていて、2つの思いを持ちます。
一つは美味しそうで食べたいなという自然な気持ち。
もう一つは、ちょっと工夫するだけで社会的な活動になるのになという思いです。

テレビでは、昨日は7000匹が無料で提供されたとあります。
いつも思うのですが、なんで無料なのかというところが以前からまったく理解できないのです。
たとえば、1匹100円で提供したとすれば、70万円が集まります。
70万円集まれば、社会的な活動ができるでしょうし、フードバンクや子ども食堂的な活動に支援できます。
障害者支援にも環境保全活動にも、その使途はいろいろとあります。
いや70万円が重要なのでなく、みんなが楽しみながら、社会をよくしていくことにちょっと役に立てる場になるということです。

100円といえども払えない人もいるでしょう。
しかしテレビで見ている限り、集まっている多くの人は、楽しみたいのではないかと思います。
であれば、そこにちょっとでも「だれかの役に立てる」という要素が入れば、楽しみは倍増するでしょう。
100円で買うということに抵抗感を持つ人もいるかもしれません。
そうであれば、会場のどこかに箱を置いて、お金が払える人はお金を自由に入れるのはどうでしょうか。
基本は100円にしてもいいですが、実際には1円でも、「ありがとう」と書いたメモでも、100万円でも、その人の気持を布施するのはどうでしょう。
お祭りは、富の再配分の機能を持っていたはずですので、ますますお祭り気分は高まるような気がします。

食べ物を無償で配布するという感覚が私にはどうしてもなじめないのです。
無料でもらったさんまが粗末に扱われないかも気になりますが、もっと食べ物を大事にしたいと思うのです。
いつもそんなことを考えながら、このニュースを見ています。

似たような思いを持つニュースは少なくありません。
もっと食べ物を大事にしたいといつも思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/09/05

■大衆の時代の憂鬱

先月、久しぶりにオルテガの「大衆の反逆」を読み直しました。
前にも2回ほど読んでいますが、今回が一番共感できました。
私もだいぶ保守的になってきたのかもしれません。

オルテガの大衆観をいくつか書き出してみます。

大衆とは、自分に対して特別の要求を持たない人々、生きるということが現在の自分の姿の繰り返し以外のなにものでもなく、自己完成への努力を自ら進んではしようとしない人々のことである。

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずること喜びを見出しているすべての人のことである。

大衆人は他の人々が建設し蓄積してきたもの否定しながら、いまだにその自分が否定しているものによって生きている。

なんだか自画像とも重なってくるような気がして、心が滅入ります。
以前読んだ時には、かなりの反発もあって、自分はオルテガが言うところの「大衆」ではないと勝手に思っていたものです。
しかし、まあ今にして思えば、典型的な大衆人です。

オルテガを引き合いに出すまでもなく、近代は大衆が豊かになった時代です。
しかし、大衆の豊かさは、政治の自己中心化を進め、短期志向を生み出します。
それはまた、経済優先から金銭重視へと生活を変質させてきました。
豊かさの概念が、そこでは大きく変質していますが、みんなどこかで少しは気にしているものの、その流れから抜け出そうとはしません。
お金がないからできない、理想はともかくお金がなければ生きていけない、とみんな言います。
パンよりもバラだろうという人はめったにいません。
しかし、パンだけの人生に何の意味があるのか。
ウィリアム・モリスは、「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」と言いましたが、バラでなくとも、野の花でもいい。
それに野の花は独占しなくてもいいのです。
気をつければ、まわりに見えてくる。

オルテガの「自分が否定しているものによって生きている」という指摘にも身が縮みます。
原発を否定しながら、電力の恩恵を手放せてはいません。
安倍政権には批判的ですが、その恩恵も受けています。

大衆の時代は、いかにも憂鬱です。
オルテガなど読まなければよかったと後悔しています。
困ったものですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧