カテゴリー「社会時評」の記事

2022/01/17

■クイズは楽しいのに入学テストはなぜ楽しくないのか

大学入学共通テストの日本史Bをやってみました。
新聞に載っていたものでやったのですが、字が小さいので大変で、途中でやめてしまいました。後日、改めてチャレンジするつもりです。

毎年ではないですし、科目も毎年違いますが、これまでも時々やっています。
いま学校教育ではどんな試験が行われているのかを知りたいからです。
まあ1~2科目やったところでわかるはずもありませんが、感ずることはいろいろあります。
私が学校教育に違和感を高めているのは、まあそういう中途半端な体験知のせいかもしれません。一言で言えば、なんでこんな形で学力を評価するのかという疑問を毎年強めています。

私が試みるのは国語や歴史が多いのですが(英語や数学や自然科学は歯が立ちません)、毎年、点数は下がってきています。
今年は1科目、それもまだ途中ですが、辛うじて60点台。これでは不合格でしょう。
問題は年々、頭をかしげるようなおかしな問い方が増えている気がします。
ともかくやっていて楽しくない。何か瑣末な問いしかなされていない気がするのです。
でもいろんなことに気づかされます。

お暇な方は、ぜひトライしてみてください。点数などはどうでもいいので、ただどんな試験が行われているのかを知ることができますから。
学校教育や大学の位置づけが何となくわかるような気もしますし、文科省の使命もわかるような気がします。
私のように、いつか、学歴主義の意味が反転し、‟educated incapability”という考え方が見直されるかもしれないという懸念まで生まれてくるかもしれません。

クイズやテストが、こんなにはやっているのに、どうして学校教育の世界ではテストが楽しくないのでしょうか。
学ぶことの楽しさが、戻ってくるといいのですが。

 

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2022/01/13

■医療関係者によるワクチン賛否議論を聞きたいものです(2022年1月13日)

オミクロン株の流行のニュースが多いですが、どうも意味がよくわかりません。
ワクチンのリスクの報道も増えていますが、これもよくわからない。
知識が増えれば増えるほど、わからなくなる。困ったものです。

テレビの専門家の話を聞いていても、私にはほとんど何も語っていないようにしか聞こえてこない。また、ワクチンによる死者の数が増えてきたと聞いても、その評価ができません。薬や医療行為によって死者が出ることは当たり前だからです。死者だけ語っても意味もなく、それによって救われた命と一緒に語ってもらわなければ私には意味がわからない。

その上、いまや日本の官庁や「公的機関」が作成するデータは私には全くと言っていいほど意味がない。改ざんや捏造があってもきちんと説明や謝罪もないような状況を放置しているシステムには信頼性が置けないからです。データに信頼が置けない国家は実に居心地が悪い。しかし、ワクチン賛成派はもちろん、ワクチン反対派も、そうしたデータに基づいて議論していることが多く、どうも私には聞く耳を持ちにくい。

医療関係者によるワクチン反対論や新型コロナ「風邪」説などもかなりありますが、そういう疑問や意見があるのであれば、医療関係者によるきちんとした話し合いの場があってもいいと思うのですが、それがあまり行われていないような気がする。
テレビでは毎日、同じような医療専門家による同じような解説が行われていますが、そんなことより、反対意見と賛成意見をしっかりと話し合うような番組がなぜないのか、不思議です。

ちなみに私は、オミクロンウイルス感染症もインフルエンザも脳梗塞もみんな同じように危険なので、罹患しないように可能な範囲で注意していますが、人生においてもっと大切なことが多いので、コロナ騒ぎで自分の行動を変えることはできるだけ避けています。
コロナ感染が心配で、会いたい人に会えないような生き方はしたくないからです。

 

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2021/12/27

■東尋坊から今年もお餅が届きました

東尋坊で長年、見回り活動をしている茂さんたちは、今年も大変だったようです。

コロナ騒ぎは、マスコミからは伝わってきにくい、いろいろな問題を起こしています。
コロナ感染を心配するのはもちろん大切なことですが、コロナのために、見えないところでさまざまな問題が起きていることへの想像力も高めていきたいものです。

茂さんによれば、今年は今日現在で45人の人に声をかけ、全員が再出発を果たしているそうです。若い人も増えてきていて、今年は中高生が4人いたそうです。
以前紹介させてもらいましたが、今年は、自殺を考え岩場でたたずむ人の姿を声掛けする前に写真撮影し、承諾を得て写真集にした「蘇る」の写真集を出版し、NHKやヤフ一などで取り上げられ話題になりましたが、そんな報告も書かれた新聞記事も同封されていました。

送られてきたお餅は、茂さんや川越さんたちが、東尋坊で遭遇した自殺企図者だった人たちと一緒に、感謝の気持ちを込めてついてくださったものです。
早速、みなさんにもおすそ分けさせてもらいました。
私は大好きなので、その前に一ついただいてしまいましたが。

今年は湯島ではサロンは開けませんでしたが、来年はぜひ自殺がなぜまた増えているのかを話し合ってみたいと思っています。
写真集は湯島にもありますので、声をかけてくれたらご覧いただけます。

誰もが自殺に追い込まれない社会ネットワークの活動はほぼ休眠していますが、いまは私も個人としてできることに取り組んでいます。来年はもう少し開かれた活動ができればと思っています。

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2021/12/06

■「いいニュース」

今朝の新聞にGoogleが一面広告で、「いいニュースって、なんだろう?」と呼びかけています。こう書いてありました。

ニュースを読むことは、世界の今日を考えることにつながる。
それは、未来をよくすることに、きっとつながる。

いいニュースを読んだら動き出したくなる。それが私にとっての「いいニュース」です。

膨大なニュースが毎日飛び交っていますが、メディアに載っているニュースを選ぶ目がどこにあるかが気になります。Googleも、それをもっと開かれた透明性のあるものにしたら、「いいニュース」の発信源になるでしょう。もし本気で、未来を(みんなにとって)善くしたいのなら、ですが。

仕事で多くの新聞を毎日読んでいる人とちょうど一昨日話したところですが、複数の新聞を読んでいると、その違いがよくわかり、特定の一紙だけを読んでいると世界を見違えかねないと、その人は言っていました。

新聞にしろテレビとネットにしろ、媒体によっていずれもかなりの偏りがありますので、それを受け取る自分の世界をできるだけ現実に立脚して広くしようと私は心がけています。どんなニュースも、受け手によって、その意味(与えるメッセージ)は違ってくるからです。書き手の意図とは真反対に解釈することも、時にあります。

ニュースに関しては、とても共感できる本を最近読みました。
石戸諭さんの「ニュースの未来」(光文社新書)です。

石戸さんは、「インターネット時代の良いニュースとは、事実に基づき、社会的なイシュー(論点、争点)について、読んだ人に新しい気づきを与え、かつ読まれるものである」と定義しています。そして、良いニュースを成立させている5大要素として、「謎」「驚き」「批評」「個性」「思考」をあげています。
私の感覚にぴったり合っています。
私は、多くの場合、ニュースを読んで「何かを知る」のではなく、「何かを考える」「行動につなげる」ようにしています。知っただけでは意味がない。そこから自分事を考えるのが私の姿勢です。

ニュースの「ニュー」の新しいことに関して、石戸さんは「知らないことを知ること=新しいこと」だと書いています。それを読んで、私の新聞の読み方はちょっと変わりました。最近の新聞には「ニュース」が少ないなと思っていましたが、それは私の読み方の問題だったことに気づかされました。もうすでに知っていることに関する情報が、私にとってのニュースになることも少なくありません。知っていると思っていたことが、実は何も知ってはいなかったことに気づかされることもあります。

マスコミが毎日送り込んでくる情報に埋没してしまうと、しかし、何も考えずに与えられた情報に振り回されかねません。そうならないように、ましてや支配されないように、自分で世界を見つけていくようにしたいと思っています。

石戸さんの「ニュースの未来」はお薦めです。

 

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2021/11/28

■性善説は「楽観」ではなく「希望」

今朝の朝日新聞の「日曜に想う」で、論説委員の郷富佐子さんが「新自由主義の終わりと性善説」と題して、ルトガー・ブレグマンの「希望の歴史」を紹介しています。
その最後に、ハラリとの対談で、ハラリから「楽観的すぎる」と指摘されたブレグマンの反論が紹介されています。

楽観と希望は異なる。楽観主義は一種の自己満足で、人を怠け者にする。でも希望は、物事を変える可能性を示す。私が歴史を好きなのは、いまの社会や経済の仕組みが宿命などではなく、大きく変えられると教えてくれるからだ。

同書は、前にも紹介したとおり、人間は生まれながらに利己的だという「常識」を崩し、性善説を証明しようとしているのですが、この「性善説」というのが実に癖ものです。

昨日の湯島サロンでも、大学生の一人が性悪説で社会を見ているというような発言があったのですが、前にサロンの報告で書いたように、善か悪かは基準によって反転します。

結局は、いまの自分と同じ人がデファクトかどうかということではないかと思いますが、そう解すると、性悪説論者は社会の多くの人と自分の価値観が違うと表明していることになります。なぜなら社会は性悪説が基本と思っている人も、自分は性悪とは思ってはいないでしょうから。となれば、性善説と思っている人は、さぞかし生きづらいことでしょう。他者は信じられないわけですから。

ブレグマンの発言を改めて読んでみて、性善説は「楽観」ではなく「希望」を持つことにつながることに気づきました。
性善説や希望がデファクトになれば、困るのは誰か。
そう考えると、生き方が変わるのではないかと思うのですが、逆にそう思わない限り、新自由主義はますます強固になっていくでしょう。

やはりこう考えるのは理想主義で、現実的ではない発想でしょうか。
ちなみにブレグマンは、「希望の歴史」の最後に、読者にこう呼びかけています。

現実主義になろう。勇気を持とう。自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。白日の下で良いことをし、自らの寛大さを恥じないようにしよう。最初のうちあなたは、だまされやすい非常識な人、と見なされるかもしれない。だが、今日の非常識は明日の常識になりえるのだ。

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■昨日はサロンで厳しく糾弾されました

昨日は「能力主義社会は生きにくい」というテーマのサロンでした。
若者の参加(20代が4人)が多く、その上、引きこもり体験者(現在もなおの人も)が4人も参加し、久しぶりに若者主導のサロンになりました。

サロンの報告はまた別途書く予定ですが、私はかなり厳しく糾弾されました。
一流大学を出て有名企業に入った佐藤さんの意見は、安住した立場で理想を述べているだけではないかというのです。
意外なのは、60代の参加者たちもそれに合意したことです。

しかし、「一流大学を出て有名企業に入った」ことで人を評価することこそ、罠に陥っているとしか思えません。それでは現実は何も見えてこない。そもそも「一流大学を出て有名企業に入った」ことに何の価値があるのか。そこには「個人の尊厳」を尊重する意識がまったくない。そういう人は、自分もまた見えないでしょう。多くの人がそういう状況にあるとすれば、もう人間の社会は終わったとしか言いようがない。しかし、そう思ってしまえば、私も今日の参加者の多くと同じになってしまいます。

私は、社会の常識や通説には極めて懐疑的に接していて、自分が見聞・体験したことを基本に社会像を組み立てている現実主義者だと思っていますので、いささかむきになって反論しましたが、多勢に無勢、流れをひっくり返せませんでした。
みんな与えられた情報でしか社会を見ていないのでしょう。
まさに昔書いた「非情報化社会」が実現しているようです。

「能力社会」の対語は「身分社会」と言ってもいいと思いますが、今の多くの人には、能力社会は新しい身分社会のように固定的に受け止められているのかもしれません。
ということは、自分の視点で考えなくなってきているということでしょう。
「できることが能力」と考えるのではなく、「ない能力」を口実に自分の「身分」を決め込んで引きこもっていくわけです。

それにしても多くの人がテレビやネットや本から与えられた社会像を真に受けて、それに呪縛されて、何とかそれに合わせて生きようとしている状況がここまで進んでいるのかと驚きました。知は今や「監獄」への誘い水になっている。
そういう社会をつくってきたのは私たち世代なのでしょう。

昨日のサロンでのやり取りの言葉は、岸田さんの手帳には、たぶん書かれていないでしょう。立憲民主党の党首選に出ている人たちにも、こういう生の声が飛び交う現場に足を運んでほしいものです。
もっとも表面的な発言を聞いているだけでは、何も聞こえてこないかもしれません。
サロンを長年やっているおかげで、発声される言葉と発声させている思いとには大きなずれがあることがようやく少しわかるようになった気がします。

サロンから気づかされることはたくさんあります。
こういう場がもっと増えるといいのですが。

ちなみに、私は昨日のサロンで悲観的になったわけではありません。
むしろ逆です。
20代の若者たちの発言に、改めて大きな光を感じたからです。
新しい世代が育ち始めている。
そんな思いを強く受けました。

サロンの報告をどう書けばいいか。
まあ今日は全く忘れて、明日以降に書こうと思います。
私には「つづき」をやりたいくらいのサロンでした。

参加者の数名は、サロンの後に二次会に行ったようですが、私は二次会が必要なようなサロンはやりたくないので、基本的にはいつも参加しません。
その点からだけでも、私の思いはあまり参加者には伝わっていないようです。
困ったものです。

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2021/10/19

■地域で起こっていることに触れると未来が見えてきます

我孫子の南地区社会福祉協議会では毎年、1月に「福祉フェスティバル」を開催しています。

コロナで開催も心配されていたのですが、開催できそうな状況なので、今日、その実行委員会のようなものが開催されました。
自治会の会長になると、必ず社会福祉協議会の委員になるのですが、先週、私は福祉フェスティバルの委員で、当日も役割を担当するスタッフとして参加することになっていることを知りました。
そもそも私はこの福祉フェスティバルに参加したこともなく、どうして寒い時期に開くのだろうといつも疑問に思っていました。
私のイメージでは、フェスティバルは春か夏なのです。
しかも開演が12時からなのです。
私には全く理解できない時間割ですが、その理由も今日お聞きして理解しました。

そんなわけで大きな違和感を持っていたのですが、まさか自分が実行側で参加するとは思ってもいませんでした。
いくつか思うこともありましたが、ともかく今回は割り当てられた役割をきちんと果たすことにしようと思います。
終わった後、いろいろと意見を出そうと思っていますが、楽しみにしている人も多いようです。すでに出しものは8演目決まっていました。

しかし、コロナ対策の影響の大きさは、こうした実際の活動に関わると改めて驚きます。
思うことの多い会合でした。
生活を支えている地域で何が起こっているかを知ると、未来が見えてくるような気がします。

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2021/10/04

■監視カメラ映像の管理者はだれなのか

名古屋出入国在留管理局で3月、スリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんが死亡した問題で、被害者家族の要求や署名運動を受けて、ようやく収容中の監視カメラ映像が全面開示されることになりました。

そんな当然のことが、どうして実施されるまでにこんなに時間がかかるのか、不思議でなりません。この国では、国家政府につながっている人たちは、異常に保護されていることが、こうしたところにも明らかです。
こうした日本の実態がいろんな形で露呈してきたことはいいことだと思いますが、気になることもあります。

これだけ開示までに時間がかかるのであれば、ディープフェイク映像技術による映像の改竄もあるのではないかということです。
むしろそのためにこんなに開示が遅れたのではないかとさえ思ってしまう。
もちろんそんなことはないでしょうが、そういう疑念を持ってしまう。
40年ほど前に、私は非情報化社会論を書いたことがありますが、まさにいまや情報が現実と乖離してしまい、現実がどんどん消去していく不安を感じます。

その一方で、「監視資本主義」(ショシャナ・ズボフ)はますます広がっています。
先日も私たちの自治会で、防犯カメラの増設を話題にしたことがありますが、意外だったのは増設に対してあまりみんな抵抗がないというか、むしろ安心のよりどころにしていることでした。

しかし映像はいかようにも改竄できる時代において、映像を特定の人が独占的に管理できる方式にはどうしても不信感があります。
ちなみに今の私の属する自治会においては、防犯カメラの映像を見ることができるのは、会長である私だけなのです。これを知ってから、自治会での防犯カメラには私は否定的になりました。

名古屋出入国在留管理局で収録しているカメラ映像を管理するのが、入管当局であるとしたら、私にはそれは全く信じられないものに思えます。
誰がその種のカメラの管理するのかがしっかりと議論される必要があるように思います。
誰が誰を、何のために、どういう時間にカメラで記録するのか。
無闇に監視カメラを増やすのではなく、むしろそうした基本的なことをみんなで考えたいものです。

それにしても、サンダマリさんの事件は、私には恐ろしい事件です。
無関心ではいられません。

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2021/08/30

■粗探しがはびこる時代には明日は来ない

この週末は暑さに負けずに都心に行きました。
少しいいことがありました。

電車は始発駅から乗るので、いつも座れます。
いつものように、優先席に座っていましたが、うつらうつらしているうちに混んできました。
そのうちに目が覚めたのですが、なんとなく前に立っている人のカバンをみたら1枚の缶バッチがぶら下がっていました。
そこに「おなかにあかちゃんがいます」と書いてありました。

反射的に立ち上がって席を譲ろうとしましたが、私が高齢者であるせいか、彼女は辞退しました。
でもほかの人は誰も立ち上がろうとせずに、結局、座ってくれました。
冷静になって考えたら、ちょっと反省しました。
高齢者を立たせてしまったと彼女は負担を感じたかもしれません。
しかし、私としては、高齢者でも役に立てることを実感して、疲れがちょっと消えました。

昨日は大した話ではないのですが、湯島のビルに着いたら、ちょうど自転車でビルに入ろうとする人がやってきました。
ドアが閉まっているので大変だなと、自分の体験を思い出して、彼を待ってドアを開いてやりました。
そんな小さなことなのに、その人は大きな声で2回もお礼を言ってくれました。
まあそれだけの話なのですが、私も元気をもらえました。

フェイスブックもそうですが、人の悪口によく出合います。
私も、つい書いてしまうこともあります。
でも誰かを非難したり、否定したりすることは何も始まりません。
生きているとそういうことがよくわかります。

逆に言えば、元気になるのは難しいことではありません。
誰かの小さな役に立つだけも、自分が元気になれます。
誰かのちょっとした行動をほめるだけでも元気がでます。

しかし最近はどうもみんな粗探し探しばかりする。
自分が粗探しをしているので、誰かの言葉も「粗探し」だと誤解してしまうこともあるでしょう。
粗探しがはびこる時代には、たぶん明日は来ない。

私も注意しなければいけません。

 

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2021/08/14

■少しでも命が助かる(可能性が高い)行動をとってください??

西日本を中心にまた大雨被害が広がっています。

そんな時に不謹慎かもしれませんが、報道を聴いていて、どうも気になる言葉があります。
「少しでも命が助かる(可能性が高い)行動をとってください」という言葉です。
今回に始まったことではなく、少し前からこういう言葉をよく聞くようになりました。

少しでも命が助かる?
命を守るではないのか?

文法的には正しいのかもしれませんが、どうもこの言葉には違和感があります。
自分が主体的な存在として扱われていないような、そんな気がしてしまうのです。
コロナがらみでの「人流」という言葉も不快ですが、あれと同じ違和感があります。

この言葉に限らず、最近はどうも、危険を煽るような刺激的な呼びかけが増えています。
しかも、自分で意志をもって行動することも、なんとなく否定されているような気さえします。自分の目や耳で危険を確認するよりも、テレビやネットの情報がたくさんあるので、それにむしろ頼るようにとも言われます。
しかし、行政による警報がもし間違っていたとしたら、どうなるのか。

私はやはり自分の身心で危険を察知し行動を自分で判断することを基本にしようと思っています。
コロナ感染症対策も、そう務めていますので。

自然の猛威から学ぶことはたくさんあります。
「少しでも命が助かる行動」ではなく、「自分でしっかりと命を守る行動」こそが、大切なことだと思っています。

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