カテゴリー「社会時評」の記事

2020/10/08

■信ずる者は報われる

コロナ禍もあって在宅時間が増えていますが、それに伴い、テレビを観る時間が増えました。当初はコロナ関連もあってニュース番組や報道番組、あるいはドキュメンタリーをよく観ていましたが、8月頃からその種の番組はほとんど観なくなりました。送られてくるメッセージが画一的で、なにやら洗脳番組のような気がしてきたからです。

代わりに増えたのが、昔のテレビドラマです。
多かったのが事件もののドラマですが、こんなにたくさんのものがあったのかと改めて認識を新たにしました。
しかし、そこで扱われている事件の多くは、やむにやまれず起こした事件が多く、犯人、つまり加害者に同情したくなるものが多かったです。こういう番組を観て育った人が多いはずなのに、どうして最近の犯罪加害者は、やむにやまれぬどころか、やらなくてもいい犯罪を犯してしまうのでしょうか。テレビに洗脳されるのは私くらいなのでしょうか。困ったものです。

いま一番気に入っているのは、「浅草ふくまる旅館」シリーズです。
https://www.bs-tbs.co.jp/drama/DRT1100400/

2007年に放映されたものの再放送です。
義理人情に篤く、人を信じやすく、他人の世話をやく事で知られるふくまる旅館の3代目主人福丸大吉の物語です。
福丸大吉役は西田敏行さん。番頭役が渡辺いっけいさん。いずれも私の好きな俳優です。

ともかく観ていて気持ちがあったかくなります。
そして、こういう社会で生きたいなあと痛感します。
私の生き方もまんざらではなかったと思いつつ、しかしまずは福丸大吉さんの生き方に、少しでも近づきたいと思って、毎日観ています。
近づけるといいのですが。

 

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2020/09/18

■貶(けな)し合う社会から支え合う社会へ

STAP細胞と小保方晴子さんの「事件」にかかわる、ある人のネット記事をシェアさせてもらったおかげで、さまざまな人からコメントやアドバイスをもらいました。
https://www.facebook.com/cwsosamu/posts/10208037474490549

そのコメントの一部は、STAP細胞の存在の是非を問うものであり、私がシェアした記事は「デマ情報」に基づくものだというものもありました。また具体的な問題を指摘し、この記事の拡散は注意した方がいいというアドバイスもありました。
みなさんのご好意に感謝する一方で、戦前の日本もこうだったのだろうなとふと思いました。
まあ、それは仕方ないとして、どうも私の思いは伝わっていないなと改めて思いました。そこで、特に、情報に関する私の考えを少し書いておきたくなりました。

どんな情報にも「嘘」と「真実」が含まれているというのが私の考えです。
いわゆる「デマ情報」や「フェイクニュース」にも、です。
言い換えれば、すべての情報はデマであり、フェイクとも言えます。
逆に絶対の真理と言える情報などありません。
「1+1=2」とか「人は必ず死ぬ」というのは絶対的な真理ではないかという人がいますが、そんなことはありません。
「1+1=2」は、ある前提での思考体系のなかでの「仮定」でしかありませんし、実際に私は1+1が0になったり、5になったりする事実を体験しています。あるいは人は必ず死ぬというのも、いまの世界の中での話であり、死ななかった時代があったり、あるいはこれから人は死ななくなったりするかもしれません。いや、いまでもどこかに死なないで生きている古代人がいるかもしれませんし、もしかしたら私は未来永劫死なないかもしれません。

まあこんなことを言うと、馬鹿にされると思います。事実、以前、我孫子のクリーンセンターに協力してもらい放射能汚染された土壌の処理実験をしたことがありますが、そこで質量保存の法則に反する結果が出たため参加者のほとんどは納得しませんでした。結果を肯定的に受け止めたのは、私とその実験者(重水素水の専門家)、そしてもう一人松戸在住の人だけでした。そのおかげで、私は実験参加者の行政の人や市議会議員の信頼をかなりそこなってしまいました。しかし、どんな命題も明白な否定根拠がない限り、否定しないのが私の姿勢です。だから、来世や前世も否定しないでいるのです。

話がそれてしまいましたが、STAP細胞の話です。
私自身は、生物学にはあまり知識がないので、STAP細胞とは何かさえ理解していませんし、ましてや小保方さんがどういう経緯で、それを発見し、その存在を証明したか、その方法が適切だったのかどうか、さらに、どういう経緯でそれが否定され、どう処理されたかなどに関しても理解できていません。
新聞や雑誌情報、あるいはネット情報に書かれているのはかなり読みましたが、いろんな議論があり、私にはあまり評価能力がないので、よくわからず判断ができませんでした。

ただ言えるのは、そのいずれにも嘘もあれば真実もあるということです。
ですから、その情報の個々の真偽にはあまり興味はないのです。
しかし、一連の事件からのメッセージは私自身の生活につながっていると思うので関心は高いのです。

それに、どんな情報も、「デマ情報」という言葉で一括りに否定するのは私の信条には合いません。情報や人を「カテゴライズ」して、そのなかにあるメッセージを読み取るのがデジタル化時代の文化かもしれませんが、私にはまったく馴染めません。どんな情報にも嘘もあれば真実もある。要は、その情報から何を読み取り、自分の生き方につなげていくかが大切だと思っているのです。つまり「自分の問題」なのです。

話が長くなってきてしまいました。
一挙に私の思いに行けば、小保方さんのSTAP細胞発見発言には問題はいろいろとあったのでしょうが、まったく嘘ばかりだったのか。そこになにか新しい価値はなかったのか。もし問題があれば、なぜみんなでその問題を肯定的に補い合い、活かそうとしなかったのか。活かそうにも活かすものが全くなかったのか。そう思うのです。

私たちは、「貶(けな)すこと」や「非難」は得意ですが、支援し補う発言をする人はあまりいません。最近よく使われるようになった「支え合い」は、言葉の広がりの割には、まだまだ実践にはたどり着いてはいない。

貶(けな)し合う社会から支え合う社会へ。
そのことを小保方さんの事件から私は学びたいと思うのです。
ちなみに、貶(けな)すとは貶(おとし)めることです。念のため。

繰り返しますが、情報はそれに呪縛されるものではなく、そこから何を学び自らの行動につなげていくかが大切です。その際、情報の真偽のほどはあまり重要ではありません。
どんな情報からも学べるし、学ばないこともできます。
情報の真偽の議論ももちろん大切ですが、そこで終わっては何も変わらない。情報そのものに意味があるのではなく、その情報から何を学び何に気づくのかに意味がある。

私自身は昨今の状況は「非情報化社会」と位置づけていますので、情報の呪縛から自由になろうと心がけています。

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2020/09/14

■インベージョンの恐怖ー生きるべきか死ぬべきか

相変わらず新型コロナが話題になっています。

私にはとうの昔に終わった話なのですが、いまでもマスク着用がニューマナーだそうですし、マスクを拒否した乗客のおかげで飛行機が途中で緊急着陸したり出発が遅れたりしたりという話がつづいています。
政府は相変わらずコロナ対策を前面に出して「最優先課題」化し、国民を管理していますし、国民のほとんどもそれに便乗して、生きるのを放棄しつつあるように思います。

コロナ感染者数は発表されても、その実体はなかなか発表されません。
私が住んでいる我孫子でも、感染者数の累計と新規感染者数は発表されますが、その内容やその後の経緯などが発表されるようになったのは先週からです。
現在の入院者数は2人だそうですが、その程度がわかる内容発表です。

私が今回の新型コロナウイルスに一番注意していたのは2月から3月ですが、その後、次第に新型ウイルスのことがわかってきたので、いまではインフルエンザ程度の注意にしています。という意味は、罹ったら諦めるという程度の心配です。

しかし半年以上も、コロナ対策が最優先課題になってしまい、経済も教育も文化も、そして生活も、コロナ対策基準で制約され続けて、それが「新しい生活」などという風潮がこうまで広がってしまうとは思ってもいませんでした。
気がついてみたら、私もまたマスクを着用することが増えてきました。

幸いに湯島のサロンに集まる人たちは、さほどマスクを気にしません。
だからといって、感染に無頓着であるとも思えません。
「感染予防」問題と「マスク着用」問題とを分けて考えているだけの話です。

映画「インベージョン」を思い出します。
エイリアンの侵略を描いたSF小説を映画化した何度目かの作品ですが、今回のエイリアンはウイルスで、人体に感染し、人間の精神だけを変えていくという物語です。
一見見分けにくいのですが、感情が現れにくくなるのです。
なんだかマスクをしている人を見ると、その映画のエイリアン感染者のように思えてしまいます。

飛行機で暴れたというマスク拒否者に、いささかの共感を感ずるのは、そのせいでしょうか。その人は、エイリアンに囲まれたような恐怖感を持ったのかもしれません。
私も時々、そういう幻想に襲われることがあります。
これほど簡単に行動変容してしまうのは、エイリアン化が進んでいるに違いない。

人間はもうじき滅んでしまうと思っていましたが、すでにもうみんなエイリアンになってしまったのかもしれません。
最近どうも元気が出ないのは、そのせいなのではないか。
人間は、他者から幸せをもらって元気になる生き物だと私は思っていますが、他者がみんなエイリアンに乗っ取られてしまい、幸せがもらえなくなっているのかもしれません。
湯島のサロンに来る人たちは、まだ人間のような気がしますが、気は許せなくなりました。

「インベージョン」のエイリアンに乗っ取られた人が言うように、「お前もこちらに来れば幸せになれる」という誘いに乗った方がいいでしょうか。
ハムレットのように、迷うところです。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」
「生きる」とはいったいなんでしょうか。

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2020/09/02

■コロナ管理社会の先にある世界

最近文庫本になって出版された半藤一利さんの「世界史のなかの昭和史」を読みました。
2か所、とても印象的だったところがあります。
一か所は「愛国心」についてですが、それにつながるような話として、半藤さんはナチス・ドイツと同じような道を日本人は歩んでいるのではないかという懸念を話しています。
こんな風にです。

 “自主的な通報、密告のネットワーク”の脅威。戦争というものはそういう国民の協力があって推進されるものです。それがいいことだと、思考を停止し、信じこむ。集団化された人びとは熱にうかされやすい。画一的で、異質を排除する不寛容の傾向をもち、ときには暴力性をはらむ。共謀罪という法律が、「核兵器もアベノミクスも」と主張する人びとに想像以上に妙な力を与え、危機克服のためにナチス・ドイツと同じような道を日本人に選ばせるようなことが…いやいや、まさかとは思うのですが。

安倍政権への支持率が急上昇し、ナチス路線をとるグループによって、安倍政権の継続がほぼ決められました。「まさか」と思いたいですが、かなり現実感があります。現政権によるナチスの研究はかなり進んでいるようですし。

半藤さんの友人のドイツ国防軍研究の第一人者の大木毅さんは、その著書で、こう書いているとの紹介もありました。

国民の多くの『自主的』な通報、密告のネットワークが、ゲシュタポ(国家警察)の捜査活動を支えたのであった。この例が端的に示すように、ヒトラーは彼の戦争を遂行するにあたり、さまざまな問題をはらみながらも国民の支持を獲得しうる国内体制を固めていたといえる。だとするならば、『ヒトラーの戦争』は、ドイツ人の戦争としても読み解かねばならないだろう。(『灰緑色の戦史』)。

ますます自分の生き方をしっかりと考えなければいけなくなりました。

半藤さんの「世界史のなかの昭和史」は面白いです。
安倍首相にだけ目を奪われていると、世界が見えなくなります。

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■コロナウイルスに行動の判断基準の座を与えたくない

友人がFBにこんな投稿をしていました。

コロナ禍で友人と直接会うことが極端に減りました。
最初は寂しいなと思いましたが、今ではすっかり慣れてしまいました。
会うのが億劫で面倒くさいなとさえ思うようになりました。
会わないのが当たり前になっています。
慣れは怖いですね。
一種の「自閉症」かもしれません。
「いつか」「そのうちに」なんて言っていたら、生きているうちにもう会えないかもしれません。
「いつまでも」いのちがあるわけではありません。

よくわかります。
「今ではすっかり慣れてしまいました」というところに恐ろしさを感じます。
慣れてしまった、という意識さえも消えてしまいそうなのが心配です。
言うまでもありませんが、この投稿者は決して慣れてなどはいませんが。

私も、週2回は湯島や地元などでの集まりを続けていますが、以前に比べれば、人に会う機会は激減しました。特に夜の集まりはほとんどなくなりました。
私自身はコロナウイルスは風邪と同じだと思っているのですが、他者にうつしてはいけないという思いはあって、ついついこちらからの誘いは自重してしまいます。

同級生が病気で入院しました。すぐに見舞いに行きましたが、コロナの関係で面会はできないと言われました。
しかし、これには納得できずに、医師に頼んで面会させてもらいました。たまたま彼は個室だったのと命の危険があったので許可がもらえましたが、その時につくづく思いました。
何が大切かは、やはり自分で決めなければいけないと。
同級生にも声をかけて、その後何回か病院で、退院後は彼の自宅で、数名で集まりました。
彼は1か月ほど前に亡くなりましたが、悔いのない見送りができました。

コロナのために死に水もとれないというのは、どう考えても、おかしいです。
そういうことの積み重ねが、人間をおかしくしていく。
人生にはリスクはつきものです。
しかし行動の優先順序を決めるのは、自分です。誰かが決めたルールや世間の空気であってはなりません。もちろん自分勝手ではなく、他者のことも考えた上での話ですが。

コロナウイルスに、そうした行動の判断基準の座を与えてしまうことは私にはできません。それでは、いつも誰かのせいにして責任逃れしてきた安倍首相と同じになってしまう。
最近の国民の多くは、みんな安倍さんのようになってきてしまったと思えてなりません。
そろそろコロナウイルスのせいにする生き方から抜け出てほしいと思います。

また病気のせいにして責任放棄した安倍さんの生き方を見て、絶対にそうならないようにしようと思っています。

 

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2020/07/25

■生活者としての目覚め

最近のマスク顔だらけの風景を見ていると、ヴァーツラフ・ハヴェルの「力なき者たちの力」に登場する青果店の店主のことを思い出してしまいます。

共産党支配下のチェコで、「全世界の労働者よ、一つになれ!」という党のスローガンを店先に貼っていた店主のことです。彼は、別に主張があったわけではなく、そうしないと目立つからという理由で、スローガンを貼ったのですが、その行為こそが、社会の「ゲーム」を生みだし、ゲームのプレイヤーとなり、ゲームの継続を可能にし、つまりゲームを本物にした、とハヴェルは言います。
社会を成り立たせているのは、安倍首相のような権力者ではなく、そうした青果店の店主たちだとハヴェルは言います。

ハヴェルは、体制を変えるのは、野党や「反体制知識人」ではなく、そうした店主たちが、真実の生に目覚めて、スローガンを貼るのをやめれば、それで社会は変わっていく、いやそれ以外では変わらないと書いています。
実際に東欧は、そうして、「自発的の全体主義」から抜け出したのです。

与えられた「嘘の生」から抜けて、自らの尊厳を思い出して、「自らの生」を自由に生きる「生活者」になる。何も考えずに従うのではなく、おかしいと思ったら、自分で考えて行動する。裸の王様を見たら、「王様は裸だ!」と言えばいい。そうした人たちが、社会を変えたのです。
日本人は同調圧力に弱いなどと物知り顔に解説するのではなく、あるいは政府をこきおろすのではなく、自分はどうしたいのかを考えて、自分を生きればいい。

Go-Toトラベルがいいとか悪いとか東京都と国の政策が違うとか、そんなことはどうでもいい話で、大切なのには自分がしっかり考えて行動することです。そうすれば、新型コロナも、たくさんあるリスクのひとつでしかないことに気づくでしょう。マスクも、必要だと思う時にするようになるでしょう。

私には、いまの日本人は、北朝鮮の国民と同じように思えてなりません。
いやハヴェルが「力なき者たちの力」を書いた時代のソ連統治下のチェコと同じ。
だから、ハヴェルの書いた「力なき者たちの力」(人文書院 2200円)を多くの人たちに読んでほしいと思います。

チェコを民主化し、大統領になったハヴェルは、こう書いています。

政治的な力は、体制の変化を行なう点にあるのではなく、「ここと今」という、より良い生を賭けた日々の現実の戦いの中にある。

そして、ハヴェルはその戦いを実現したのです。
政治は国会議事堂や政党の中にあるのではありません。
いまだに「野党統一戦線」とか言っているようでは、何も変わりません。

立派なイデオロギーやビジョンよりも、いまここで直面している問題に誠実に直面して、自分で考え自分で納得した行動をとればいい。それこそが、「下からのイニシアティブ」が生まれてくる起点です。政治は「生活」から始まり、生活で終わるのです。
山本太郎さんは、そういう政治を目指しているように、私には思えます。
だから、日本の政治状況を変える唯一の希望に思えるのです。

私は「生活者」という言葉は、誰にでも通ずる言葉だと思って、説明も付けずに使っていましたが、複数の人たちから「生活者」ってなんだと質問されました。
どうも「生活者」という言葉は、まだなじみにくい言葉のようです。
消費者や労働者、生産者という言葉は、説明なしで通ずるのに不思議です。

それで81日に「生活の視点で政治や経済を考えるサロン」を開くことにしました。
私が考える生活者とは、自分の生活を大事に生きている人という程度のことなのですが、ハヴェルが言う、「真実の生」を求める「ディシデント」につながるところがあります。
もっとわかりやすく言うと、財務省の赤木さんの奥さんのような人です。

よかったらサロンにご参加ください。

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2020/07/17

■問題の捉え方

東京でのコロナ感染者が増えています。
その一方で、観光支援のための助成金制度が動き出しています。
あまりにちぐはぐな感じで、みんな振り回されているようです。

私の生活スタイルは変わっていません。
県外移動自粛は意に介していませんが、3月以降は生活圏からの移動は避けています。
電車には以前どおり乗っていますが、友人以外の人との会食は避けています(一度だけ結果的に受けてしまいましたが)。
病院に入院している友人にも面会に行きますし、エアタッチのようなばかげた仕草はしません。
湯島のサロンのスタイルもほとんど変えていません(換気には気を付けていますが)。

私が気になっているのは、感染者数ではなく、感染後の症状と重症化した人の条件です。
残念ながらそれがほとんど報告されていません。
検査結果の陽性率は上昇していますが、市中への感染者の広がりは当然のことだろうと思いますので、まったく心配していません。
しかし、感染した場合、どうなるのか、あるいはどうしたらいいのかの情報が相変わらず出てきません。
さらには、どう感染したらいいかの情報も見当たりません。

問題の捉え方が間違っているような気がしてなりません。
感染予防策をいくら繰り返しても、何も変わらない。
大切なのは、予防策からそろそろ卒業したいものです。

 

 

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2020/07/16

■知っているのになぜ隠すのか

最近は新型コロナ関係の報道番組はあまり見ていないのですが、今日は久しぶりに少しだけ羽鳥さんのモーニングショーを見ました。
岡田さんと玉川さんと羽鳥さんの茶番としかいえないやり取りがありました。
今朝、ノートにアップしたことにつながるのですが、以前から不快に思っていたことなので、書くことにしました。

話題は、なぜPCR検査が広がらないのかということです。
それに関して、岡田さんが「PCR検査をやりたくない人が政府にいる」というような発言をしたのですが、それに対して羽鳥さんが「それ誰ですか?」と質問しました。
岡田さんは、その人の名前は「電波にはのせられないですよ」と笑いながら答えました。

こういうやり取りは、テレビではよくあります。
物知り顔にいろいろと話し、でもその人の名前は言えないという人は少なくありません。
すぐにも思い出すのは、貴乃花の母親です。
有名な評論家や政治解説者にもいます。

そういう発言をするような人は、私にはまったく信頼できません。
そういう一言を聞いてしまうと、その人への信頼を持てなくなります。
嘘や隠し事が、私は生理的にだめなのです。

今朝、前の記事に書いたように、「知った者の責任」をとれないような人は、まともな社会人ではないと思うからです。
しかも、自分だけは知っているということに優越感を持つような勘違いをしているのですから、救いようがありません。
知っていて、しかも知っていることを公言したのならば、最後まで話すべきでしょう。
話す気がないのなら、せめて知っていることを話すべきではありません。
人に話せないことは、知らないことと同じだからです。

「このことは墓場まで持っていく」という言葉が、好意的に使われることがありますが、私にはそれはとんでもない無責任な生き方です。要は、問題から逃げるだけの卑劣でみじめな生き方でしかありません。偉そうに公言する言葉ではないでしょう。

もし名前を公開したら、どうなるのでしょうか。
もう2度と情報が取れなくなるとか、当事者に迷惑がかかるとか、いろいろと理由はあるでしょうが、たぶんどんな理由も正当化はされないでしょう。

「知った者の責任」は大きいです。
「知った者」は、知り得る立場にあることの意味を認識しなければいけません。
そして、「知る」ということは、「知るべきして知る」のであり、それにはきちんと意味があるのです。自分だけで秘蔵してはいけません。
赤木さんのメッセージをしっかりと受け止めてほしいです。

そういう人がもう少し増えていたら、この半年のコロナ騒ぎはかなり違ったはずです。

 

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■知った事実をしっかりと説明できる公的な場がない

森友学園を巡る公文書改ざんに加担させられたとして自死した財務省職員の妻、赤木雅子さんの大阪地裁で意見陳述をテレビで観てから、新聞で全文を読みました。
日本の官僚にも、まだこういう人がいたのかと改めて思いました。
日本の官僚たちの変質は、1980年代から90年代にかけて、なまなましく私も体験していますから、まだこんな誠実な人がいたのかと感激したのです。

私の印象に強く残ったのは、「この事実を知り、抵抗したとはいえ関わった者としての責任」、そして「事実を、公的な場所でしっかりと説明することができません」という言葉でした。

前者に関しては、私が以前からずっと言ってきたことです。
知った以上は無縁とは言えないと思っています。知っただけではなく、関わった人たちが財務省にはたくさんいるはずですが、誰からも大きな声が聞こえてきません。
他の官庁の官僚たちからも聞こえてこない。
私の考えでは、まったく無縁の官僚はほとんどいないはずですが、みんな自分の問題とは受け止めていないようなのが不思議です。自らを貶めているのでしょうか。

私の友人たちはもうみんな退役していますが、同窓会に参加して聞いてみたい気もしますが、もう過去の話なのでしょう。それに官僚の世界は、私が生きている世界とはまったく別のようなので、話が通じないかもしれません。

しかし、今回、気になったのは、「関わった者としての責任」ではありません。
知った事実をしっかりと説明できる公的な場がない、という赤木さんの指摘です。
果たしてそうなのか。それこそ自閉的な「思い込み」ではないのか。

事実、赤木雅子さんは問題を「公的な場」に提示しました。たしかに、ここまで来るのは大変だったでしょう。赤木さんご自身がもし動いたら、抹殺された可能性もあるでしょう。そうやって「消されてしまった」事例も少なくないのかもしれません。
「知った事実」を「公開」することは誰にもできるはずです。しかし、赤木さんは「公開」しても取り上げられないと思っていたのかもしれません。つまり、新聞やテレビを信頼していなかったと言ってもいい。

こう考えてくると、日本には今や、信頼できる公的な情報空間がなくなってしまっているのかもしれません。これこそが大きな問題です。

ネット空間はどんどん広がっていますが、ほとんどが「私的所有空間」化してきていて、誰にでも公正に開放されている公共空間がなくなってきているとしたら、それを改めて創り出し育てていく必要があるのではないか。
それを育てるのは、パブリックではなく、コモンズでなければいけません。

公共空間としてのサロンが広く広がっていくことが大切です。

赤木さんのような人が、自らの命を断つ前に、話をしに来られるような場に、湯島のサロンをしていきたいと改めて思っています。

 

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2020/07/02

■こういう時だからこそ読んでほしい本があります

企業の社長という激務のかたわら、社会への働きかけを目指した著作活動にも積極的に取り組んでいる一条真也さんが100冊目の本「心ゆたかな社会」を現代書林から出版しました。これからの社会ビジョンと私たちの生き方を考える示唆が盛り込まれた本です。
新型コロナで社会のあり方が改めて問われているいま、まさに時宜を得た出版だといえます。多くの人に読んでいただきたいと思い、紹介させてもらうことにしました。

15年前、一条さんは、ドラッカーの遺作『ネクストソサエティ』の問いかけに応じたアンサーブックとして『ハートフル・ソサエティ』を出版しています。
http://cws.c.ooco.jp/book-kiroku.htm#1jou3

しかし、最近の日本は、一条さんのビジョンとは反対に、心を失った「ハートレス・ソサエティ」になってきていることを一条さんは活動の現場で実感しているようです。さらに、コロナ騒ぎで、人と人とのつながりさえもが難しくなってきている。だからこそ、「心ゆたかな社会」としてのハートフル・ソサエティを改めて目指すべきだと考え、前著を全面改稿した『ハートフル・ソサエティ2020』として本書を出版したのです。

ハートフル・ソサエティとは、「あらゆる人々が幸福になろうとし、思いやり、感謝、感動、癒し、そして共感といったものが何よりも価値を持つ社会」だと一条さんは定義しています。平たく言えば、「人と人が温もりを感じる社会」です。

最近の日本の社会は、どこかぎすぎすしていて、楽しくありません。フェイスブックのやり取りでも、ネガティブな意見や人の足を引っ張るものが多く、「温もり」どころか「寂しさ」に襲われることも多いです。そこで、「人と人が温もりを感じる社会」を目指して生きている私としては、本書を多くの人に読んでほしいと思い立ったわけです。

社会のビジョンは、これまでもさまざまな人たちが語っていますが、そういう人たちのビジョンや思いが、とてもわかりやすく整理・解説されているのも本書の特色です。この一冊を読めば、社会について語られた主要な考えに触れられます。
しかも、一条さんらしく、たとえば、「超人化」「相互扶助」「ホスピタリティ」「花鳥風月」「生老病死」といった視点から議論が整理されていて、それを読んでいるうちに自然と一条さんの「ハートフル・ソサエティ」の世界に引き込まれていきます。

つづいて、その社会の根底ともなる哲学や芸術、宗教が語られ、「共感から心の共同体へ」というビジョンへと導かれていきます。宗教嫌いの人にはぜひ読んでほしいところです。宗教を語らずに社会を語ることはできないでしょう。

最近、社会の全体像が見えにくくなっていますが、本書を読むと、社会というものが捉えやすくなると思います。少なくとも、社会と自分の生き方を考えるヒントが見つけられるはずですし、「心ゆたかな」とは一体何なのかを考える材料もたくさんもらえると思います。

一条さんの個人的な夢が語られているのも親近感がもてます。一条さんにとって「ハートフル・ソサエティ」の象徴の一つは月のようです。ご自分でも書いていますが、一条さんはルナティック(月狂い)なのです。
ちなみに、私はフェイスブックも時々書いていますが、お天道様信仰者ですので、私にとってのハートフル・ソサエティの主役はお天道様です。
まあそんなことはどうでもいいですが、一条さんの提唱するハートフル・ソサエティをベースに、自分にとってのハートフル・ソサエティを構想してみるのも面白いでしょう。

いつか一条さんに湯島でサロンをやってもらえるように頼んでみようと思っています。
九州にお住まいなのでなかなかお会いする機会も得られないのですが。
もし読まれたら、ぜひ感想を聞かせてください。

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