カテゴリー「社会時評」の記事

2018/09/20

■なぜ交番にいる警察官は拳銃を所持しているのか

仙台の交番でまた不幸な事件が起きました。
これに関連して、いつも不思議に思っていることがあります。
それは、なぜ交番勤務の警察官が拳銃を所持しているのかということです。
街中のパトロールも含めて、私には拳銃はふさわしくないものだと思っています。

警官が所持する拳銃を奪いたくて事件を起こした事例もあります。
拳銃の使用が過剰防衛だと言われたこともあります。
そういう事件が起こるたびに思うのは、拳銃は殺人を誘発するのではないかということです。

核兵器抑止論に私が違和感を持つのも、そうしたこととつながっています。
核抑止論と警官の拳銃所持は、発想の根源が同じものではないか。
それは、暴力で秩序を維持しようという発想です。
それはたしかにある状況では有効だったでしょうが、一度、秩序化ができた後も有効なのか。
無秩序の状況で有効だったものが、秩序化された状況のなかでは、機能が反転することもあるのではないか。
とりわけ「暴力の象徴」的存在(核兵器や拳銃)は、秩序の強制的維持か秩序破壊には効果的な道具です。
マックス・ウェーバーは、「暴力の独占」が近代国家を支えているといいましたが、思想としての「暴力」は独占できても、実際の道具(核兵器や拳銃)を独占することは不可能です。
ですから「暴力の独占」は理念でしかありません。

たとえ国家によって独占されるとしても、暴力が肯定されている社会では、実際の暴力は根絶されることはなく、私益や私欲につながっていきます。
国家に寄生している人たちは、つまるところ「暴力」に寄生している。
そしてそこから金銭という果実の配分を受けている。
暴力に対しては暴力と考えるのは、必然的な結論でしょう。
想像力のない人間や国家は、暴力の象徴である核兵器や拳銃を手に入れたくなる。
それは「暴力の独占」を脅かす「暴力の拡散」を引き起こす。

ですから、武器は争いを誘発しこそすれ、抑止はしないように思うわけです。
過剰な抑圧は、被抑圧者の暴発を招きますし、武器を奪うための行動も誘発しかねません。
核武装の使用は、国家間で行われるとは限りません。
北朝鮮の核武装化などは大きな問題ではなく、むしろテログループや個人の核武装化に、私は不安を感じます。

日本が長いこと平和を維持できたのは、「刀狩」のおかげではないかと思います。
日常から武器が見えなくなることは、なんと心の安らぎをもたらしてくれることか。
刀や武器をコレクションしている友人知人もいますが、その気持ちが私にはわかりません。
私も過去に、実際の日本刀に触れたことはありますが、手にした途端に気持ちが少し変わるのを感じました。
武器の所有は、人の心を変えかねない。
お金と同じです。
そして、その武器を持ってみたいという気持ちも誘発しかねません。

交番のシステムは、海外からも評価され、一時は交番システムが広がっていたこともあったと聞きます。
しかし、その交番システムには、拳銃は不要のはずです。
警官の日常の見回りなどには拳銃を所持する必要などないはずです。
携行しなければ、拳銃を落としたとか置き忘れたとか、そんなことも起きません。
日常生活を見守ってくれている警官には、拳銃所持など不要の話です。
拳銃による警察官の自殺もなくなるでしょう。
なによりも警察官のストレスは解消されるはずです。

特別の状況の中で拳銃を所持することまで、今の状況のなかでは否定しませんが、せめて交番勤務の警察官には拳銃は不要だと思うのです。
交番や警察官が襲われる理由は他にもあるでしょうが、それもたぶん、拳銃所持と無縁ではないでしょう。
交番のセキュリティが話題になっていると報道されていますが、おかしな話です。
そろそろ「暴力」で秩序を管理する発想を見直す時期ではないか。
「昭和の頭」で発想するのは、やめた方がいいような気がします。

そこから「核抑止」の問題も考えてみるのはどうでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/09/19

■「昭和の人」

少し前の話なのですが、ある問題解決のために関係者にヒアリングしたことがあります。
そこで、若い女性が言った言葉が今でも忘れられません。
「昭和の人がいくら新しいことを目指してもダメです」
あまり正確ではないですが、彼女はこう言いました。
私も「昭和の人」なのですが、即座に彼女に共感しました。
そして、私も昭和の人なのでダメですね、と、皮肉ではなく、素直に言いました。
彼女は慌てて、そう言う意味ではないと言いましたが、たぶんそういう意味も含まれていたのでしょう。

最近起こっているさまざまな組織の不祥事を見ていると、この「昭和の人」という言葉に、実に説得力を感じます。
スポーツ界や行政や企業で展開されている「トップ」と「メンバー」の食い違いは、この「昭和の人」論で説明できそうです。
つまり、「昭和の頭」で生きている人と「平成の人」とは、明らかに「常識」も「判断基準」も違うのです。
そこに齟齬が生じ、「昭和の人」にとっては理解できない批判を受けることになる。
昨今のパワハラもセクハラも、昭和の頭で考えていては、多分理解できないでしょう。
一方、マスコミの現場にいる人たちは、少なくとも「昭和の頭」では生きていないのです。
しかし、彼らは独自に論を展開するだけのエネルギーも努力もしようとしません。
つまり、「昭和の頭」に寄生しながら、「反昭和の頭」なのです。
ですからマスコミ報道も、所詮は内容のない、「昭和の人」批判で終始しています。
事態はなにも変わらない。
ちょうど、アメリカ政府に依存しながら、反米言動を繰り返す、右翼や左翼と同じです。
アメリカがもしなければ、日本共産党ですら存立の基盤が揺らぐほどに、いまの政治家や政党には主体性が感じられません。

今の20~40代の人は、それ以前の世代の人に比べると育った環境も社会活動での体験もかなり違うでしょう。
そういう人たちは、「昭和」を自らとつなげながら懐かしむ世代と違い、「昭和」を自分とは無縁な世界として受け取っているような気がします。
しかし、それを壊すまでにはいっていない。
なぜなら彼らもまた、「昭和の人」によって作られた「豊かさ」に依存していて、自らの世界を構築するに至っていないからです。
そこから離脱していく勇気がないのです。
平成の人には、思考停止と隷属習性の文化があるというと、いささか言いすぎでしょうが、どうもそう感じてしまう。
「失われた30年」とも言われる平成時代が失ったものは何かを、しっかりと考えなければいけません。
それが何かわからないうちは、失われたものを回復することなどできないからです。

いずれにしろ、「昭和の頭」の役割は終わってしまった。
もし私がもう少し生き続けるのであれば、「昭和の頭」の呪縛から自由になった「昭和の人」として生きるしかない。
それができるかどうかいささか悩ましいですが、そう言う生き方をもう一歩進めていこうと思っています。
「平成の人」たちにも、ぜひとも自らの生き方を問い質してほしいといつも思っています。
「昭和の人」と同じ間違いはしてほしくないからです。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/09/18

■カフェサロン「見守りと支えあいの住宅 福祉シェアハウス構想」報告

2回にわたる「安心して死を迎えられる生き方」のサロンを受けて、具体的な実践につなげていく方向でのサロンやプロジェクトがはじまりました。
その第1回目のサロンでは、実際に「福祉シェアハウス構想」に取り組んでいる小畑さん(NPO法人ハーモニー虹代表)に、その構想を紹介してもらいました。
小畑さんは、なぜそうした構想に取り組みだしたかの背景をていねいにお話してくれましたので、その構想の意味が参加者には生き生きと伝わったと思います。
小畑構想は、「問題を抱えた当事者及び当事者家族の限界」と「自らがソーシャルワーカーであることを活かして何ができるか」を試行錯誤してきた結果です。
ですから単なる机上論ではないと同時に、小畑さんにとっては自らの生活と深くつながった切実な構想でもあるのです。

その構想は、案内にも書きましたが、一言でいえば、住み慣れた地域で、住居というハードの面と専門職による支援と支えあいというソフトの両面から、生活に生じる困難を乗り越え、暮らし続けられる住宅を指しています。
それは同時に、生活のなかでの看取りの場でもあり、また死の学びの場でもあります。
かつては「家族」がその役割を果たしていたかもしれませんが、核家族化が進んだ現在、それは難しく、さらに家族そのものが変質してきています。
小畑さんの構想は、そういう状況を踏まえて、「家族の保護からの自立」を意図しています。

話し合いのなかでは、小畑構想は既存の福祉型のシェアハウスとどこが違うのかという点が問題になりました。
いくつかの視点が出されました。
たとえば、小畑さんのシェアハウス構想には、音楽を楽しめる空間とか外部の人を誘い込む空間が構想されています。
福祉というと何か障害を補う仕組みをまずイメージしますが、小畑さんはむしろ「楽しく暮らせる場」であることを大切にしています。

また、福祉を「支援される」という受け身で考えるのではなく、自らも役割を果たすという「支援する」という要素も大事にしています。
役割をシェアするという意味も込められているのです。
話し合いでは、その「役割」をどう考えるかの議論も少しありました。
これは、福祉とは何かということにまでつながるような気がします。
この構想も、「福祉」という言葉を外して発想したほうが、小畑さんの思いにつながっていくのではないかという意見もありました。

そうした「施設」を実現し、持続していくかに関しては資金的なことも無視できません。
コーポラティブハウスやコレクティブハウスに関わっている人も参加していたため、それに関してもいろんなアイデアが出ました。
小畑さんの構想の実現には、施設をシェアするだけではなく、この構想自体を複数の人たちでシェアしていくことが大切なのかもしれません。

「家族」をどう捉えるかも少し話題になりました。
私自身は、昨今の家族観はいまだに「血縁」に強くこだわりすぎているように思いますが、むしろそうした「血縁家族の呪縛」から自由になって、新しい縁を育てる場から生まれる、新しい家族の概念があっても言いように思います。

ほかにもいろいろと話は出ましたが、今回、湯島のサロンに初参加してくれた方から、ともかく動きだすことが大切だという元気が出る提案がありました。

このサロンは大きくいえば、「安心して死を迎えられる生き方を支援する仕組みづくり」を目指しています。
そのためには、今回のような「福祉シェアハウス」の他にもいろんなプロジェクトが想定されます。
湯島のサロンから生まれたいくつかの動きもつながっていくかもしれません。
しかし、話しているだけでは何も始まりません。
それで、そういう個別プロジェクトが生まれ、つながるような、プラットフォームもつくろうということになりました。
これは、このサロンのきっかけをつくった、中下さんの思いでもあります。

考えてみれば、これはかつて構想し挫折してしまっている「コムケア構想」につながっています。
私も改めて、もう少し頑張ってみようかという気になりました。
個別プロジェクトとプラットフォーム的な集まりを引き続き開催していく予定です。
ご関心のある方は引き続き(あるいは新たに)にご参加ください。
次回は10月14日(日曜日)の午前中を予定しています。
また別途ご案内させてもらいます。

Obata1809_2


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/09/04

■第三者委員会という無責任な仕組み

昨日書いた日本体操協会の不祥事の決着は、またまた「第三者委員会」に判断が回されました。
最近は、何かがあるとすぐに「第三者委員会」です。
そしてすべてはうやむやになるというのが、これまでの繰り返しです。

「当事者」は一体どこに行ったのか。
それに、「第三者」とはいったい何なのか。
この仕組みを考えた人の狡猾さを呪いたくなります。

いつの場合も、第三者とは「加害者」もしくは「権力が優位な立場のある人」の代弁者でしかありません。
価値中立な第三者がもしいるとしても、問題が起きている時の価値観の中心点は、いうまでもありませんが、加害者側に近いはずです。
特に、社会の大きな流れに抗って起きるような、今回のような体制批判的な問題に関しては、必然的にそうなるはずです。
それに、「第三者」がもし、その事件の利害に無縁な立場を意味するのであれば、そういう人には当該の問題は判断できないでしょう。
問題の意味を理解し、価値観を含めて解決できるのは、当事者を置いてはあり得ません。
ただ、そうした「第三者」が、いわゆる既存の社会体制のなかで、それなりの地位を得ている人ではなく、裁判員制度のように、ランダムに選ばれた生活者であれば、「第三者委員会」はかろうじて成り立つかもしれません。
しかし、それはデータ入力によって結論を出すAI(人工知能)の計算結果でしかありません。
それに、第三者委員会の委員に指名されたとたんに、その人は第三者ではなくなります。
ですからそもそも「第三者委員会」などというのは、実体のない虚構に過ぎません。
にもかかわらず、第三者という言葉が、公正さをイメージさせてしまう。
むかしは、「第三者」とは無責任の象徴だったはずなのに、うまく言いくるめられたものです。
そんなことに気づいてほしいものです。

要するに第三者委員会とはマネーロンダリングのような罪悪浄化システムでしかありません。
これまでのさまざまな第三者委員会の実績を思い出せば、わかる話です。
第三者委員会のメンバーになる人は、それによって得た情報を開示できない仕組みになっていると思いますが、そうした巧みな仕組みに荷担する人は信頼できません。
第三者であれば、知り得た情報は自由に開示しなければいけません。
まともな生き方をしている人なら、第三者委員会の委員にはならないでしょう。

それにしても、責任ある立場にある大人が、自らのやったことの責任は第三者委員会の判断を待って決めますなどと未成年の子どものようなことを、恥じることもなく言える社会には、ほとほと失望します。
塚原夫妻は、スポーツ界のために尽力してきた人でしょうし、私欲もそんなにはなかった人かもしれませんが、人間としては残念ながら未熟すぎます。
こんな人たちが、社会を背負っていたのかと思えば、情けないというか、呆れるというか、疲れがどっと出てきます。
最近活躍しているチコちゃんに、「ボーっと生きてんじゃない!」と喝を入れてほしいものです。

第三者と当事者。
その意味をもっとしっかりと考えるべきではないのか。
「当事者主権」という言葉が流行したことがありますが、最近は、多くの人が「当事者」から逃走しだしています。
そのくせ、他者には当事者責任を押し付けます。
そしてもし自らに「当事者責任」が問われそうになると、今度は「第三者」に判断を委ねてしまう。
責任のない当事者などあり得ないことを、なぜ気づかないのか。

私は、責任ある当事者としていきたいと思っています。
そしてそうできることに、幸せを感じています。
社会から責任ある当事者が消失してきていることが、さびしいです。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/09/03

■言語とは生活のかたちの一部

日本体操協会の塚原夫妻のパワハラ問題はますますおかしな方向に動いていますが、昨今のスポーツ界の不祥事は、どれもこれも同じで、しかも前から多くの人がわかって来ていたはずのことでしょうから、語る起きなかったのですが、やはり語りたくなってしまいました。
昨日、突如公表された塚原夫妻の謝罪文なるものが、まさに現代を象徴していると思えるからです。
それに、このおぞましい文書には強い怒りを感じます。

「言語とは生活のかたちの一部」と言ったのは、ウィトゲンシュタインだったそうですが、まさにこの謝罪文には、塚原夫妻の生活のかたちが示されています。
相手が謝罪を受け入れてくれるのであれば謝罪する。
少なくとも、その言葉に、彼らに謝罪の意図がないことが明白です。
いや、謝罪の意味さえ分かっていない。
自らが謝罪することなど存在しない世界に生きているのでしょう。
謝罪は相手の問題ではなく、自らの問題ですが、そう言う意識は全くありません。
謝罪する気になれば、すぐの謝罪に行けばいい。
会ってもらえなければ、会ってくれるまで行けばいい。
それが誠実さであり、謝罪するということです。
謝罪まで駆け引きする生き方が、塚原さんたちの生き方なのでしょう。
そこに、すべての真実が見えてくるような気がします。

ジョージ・オーウェルは、現在を予告した小説「1984年」で、言葉を選び取る責任を言っています。
人は、どんな言葉を選ぶかで、生活や真情をメッセージできますし、露呈させてもしまいます。
これまでスポーツ界の不祥事で記者会見した権力を持つ人たちの発言をきちんと聞けば、事件の真相はおおむね見えてきます。
言葉は嘘をつきますが、その嘘もまた、言葉の後ろに見え隠れしています。
不誠実なマスコミやコメンテーターはだまされても、誠実に生きている生活者はたぶんそこから嘘を感ずることができるでしょう。

古田徹也さんの「言葉の魂の哲学」(講談社選書メチエ)という本を読みました。
1世紀前のオーストリアの作家カール・クラウスの言語論が紹介されています。
クラウスは、ナチスの台頭する状況の中で、「誰しも自分の話す言葉に耳を傾け、自分の言葉について思いを凝らし始めなければならない」と呼びかけていたそうです。
多くの人が、わかりやすいヒトラーの呼びかけ(小泉元総理が真似をしたと思われる呼びかけスタイル)に引っ張られていく中で、それに抗う方法を提唱していたのです。
古田徹也さんは、上記の本のなかで、「クラウスの呼びかけは、他のどの時代よりも、まさにいま現在の我々に突きつけられていると言えるだろう」と書いています。
他者の言葉にも耳を傾けるとして、しかし、それ以前に先ず、自らの言葉に耳を傾けるべき時だと、私も最近痛感しています。

塚原夫妻の生き方(生活の形)は、今や大きく広がっている生き方の典型例だろうと思います。
スポーツ界だけの話ではなく、政治も経済も行政も芸術も医療も、そして福祉さえも。
そんな気がしてなりませんが、まずは自らを質さなければいけません。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/09/01

■東京都自閉症協会の「声明文~相模原障害者支援施設での殺傷事件から2年を経て~」

東京都自閉症協会が、「声明文~相模原障害者支援施設での殺傷事件から2年を経て~」を発表しました。
前文に、「私たちは次のことを目標に活動していきます」と明言されているところに、協会の姿勢を感じます。
理事長の今井さんから、「当事者団体なので、主張と言うよりも自分たちがなにをしていくかを役員で話し合って声明にしました」とお聞きしました。
一人称自動詞で考えることを大事にしている私としては、その姿勢に共感します。

この声明に関しては、先日の相模原事件のアフターサロンでも話題になっていましたので、みなさんにもお伝えしたいと思います。
短いですので、ぜひお読みください。
http://www.autism.jp/news/2018/08/000889.html

最後に「障害者の幸せはあらゆる人の幸せにつながっている」と書かれていることに同感します。
しかも、それを「実際の活動を通して示していきたい」と表明しています。
私は、「大きな福祉」という理念で、これまで15年以上、NPOやいくつかの当事者団体ともささやかな接点がありますが、こういう姿勢の声明ははじめてです。

ぜひ多くの人に読んでいただきたいです。
この声明を中心にサロンを開きたくなっています。

声明文を、念のために貼り付けます。

<本文>
2016年7月26日に19名の利用者が殺害され、27名の方が重軽傷を負った事件から2年が
経ちました。

お散歩が楽しみだったAさん、お買い物が大好きだったBさん、みんなそれぞれ安心な
日々を送っていたはずです。そのかけがえのない毎日が一瞬で奪われてしまいまし
た。どんな場所で生活しようと二度とこのようなことがあってはなりません。誰もが
安心して暮らせる世の中を実現するために、私たちは次のことを目標に活動していき
ます。

1. 人の存在は経済的な価値ではかられるものではなく、生きていること・その存
在自体に価値があることを引き続き訴えていきたい
2. 重度知的障害者の支援施設での生活は管理が中心ではなく、楽しさや笑顔のあ
る毎日になるようにしたい
3. 自傷・他害リスクがある、生理三原則の達成に困難をかかえるというような要
支援度が極めて高い重度知的障害者を支援する職員の経済的、社会的地位を改善し、
その仕事に求められる人格や能力を有する人材を確保しやすくしたい

被告の行為は、名を成さんがために抵抗すらできない弱い者を殺傷した卑怯なもので
した。その背景には、人を経済的価値で考える世の中の傾向や、社会問題を暴力的に
片付けるという傾向が投影されているのではないでしょうか。

私たちは英知で、障害者の幸せはあらゆる人の幸せにつながっていることを、実際の
活動を通して示していきたいと思います。

2018年8月
NPO法人 東京都自閉症協会 今井 忠
------------------------------------------------------------------

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/08/28

■スマホをなくすという罪を犯してしまいました

昨日、携帯電話をなくしてしまいました。
落したのは、電車の中か、乗換駅か、です。
ちょっとパニックで、交番に届けたりスマホの会社に電話したり、JRに問いあわせたり、もうそれだけで疲れてしまいました。

最近のスマホは、携帯電話機能だけではなく、そこにさまざまな生活記録が残っているので、問題は自分だけではありません。
私のスマホには私の記録だけではなく、他者の言動の記録や個人情報(電話番号など)が記録されていますから、他者にも迷惑をかけかねないということです。

こう考えると、スマホとは私物であって、私物ではないということに気づかされます。
物としては私物なのでしょうが、それを通して様々な人たちが交流していて、その痕跡が残っていることを考えれば、友人知人との共有物です。
とすれば、スマホをなくすということは、犯罪といってもいいのかもしれません。
そう考えているうちに、罪の意識が強まって、真夜中にまたJRの遺失物センターに電話しました。
残念ながらまだ見つかりませんでした。

近代は個人をバラバラにしたと言われます。
そうして生まれたバラバラの個人(個我)を要素にして、社会を再構築したといってもいいと思いますが、その大きな動きがどうやら次のステップに移り出していることを、スマホをなくしたことで気がつきました。
私のいささか飛躍した展望に基づけば、それを進めているのはAIだと思いますが、もはや私たちは、ひとりの人間として生きることが許されなくなってきているのかもしれません。
バラバラの個人がデータ的に繋がれて、AIが管理する「平安な社会」のモジュール端末になりつつあるわけです。
そこには「個人」は不在です。
人間が部品に変質しているというのが私の認識なのですが、どうも単なる部品ではないようで、部品の材料でしかないのです。
世界観が少し変わりました。
いや、一変したと言えるかもしれません、

こうした流れにどう抗うか。
最近読んだ本に出てきた。ラッセルの「幸福論」の一節を思い出しました。

どう考えようと、わたしたちは大地の子である。わたしたちの生命は大地の生命の一部であり、わたしたちは植物や動物と同じく大地から生きる糧を得ている。

畑で土を耕すとき、いつも、大地と対話しているような幸せを感じます。
私たちがつながるとしたら、AI志向の科学技術に依存することによってではなく、大地とそこに根差して生きている生命同士の心や魂によってでなければいけないと、改めて思います。

スマホをなくしてしまうことは、罪深いことです。
認識を新たにしました。

これから畑に行って、大地とまた話してきます。
そして少し頭を冷やしてきます。
懺悔しながら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/08/07

■反社会的勢力との付き合いがなぜ問われるのか

日本ボクシング連盟の山根会長に関して、元反社会的勢力との付き合いが問題にされています。
これは私にはなかなか理解できないことです。
第1に、付き合いが問題にされるような組織、つまり「反社会的勢力」などと規定されるような組織がなぜ存在できているのか。
第2に、そこにいるメンバーやそこにいたメンバーとの付き合いはなぜ非難されるのか。

私も、元暴力団員との付き合いがありました。
その人はそこをやめて、福祉施設で働いていました。
私が関わっていた「自殺のない社会づくりネットワーク」の集まりに参加したのを契機に、彼との付き合いが始まりました。
友人たちからはやめた方がいいと言われましたが、なぜ付き合ってはいけないのかがわかりませんでした。
彼は突然わが家まで来たこともありますが、障害を持った人たちを旅行に連れていきたいという夢を持っていました。
しかし、その夢は果たせませんでした。
すい臓がんになって急逝したのです。

彼との関係では、実は私もトラブルに巻き込まれてしまいました。
彼の苦境を救うために借金までしてお金を工面したこともありますし、彼にコーヒーをご馳走になったこともあります。
もし私が、山根さんのような有名人だったら、非難されるのでしょうか。
しかし、その人の属性や過去によって、付き合うかどうかを決めるのは私の信条に反します。
いや、人間としてそんなことをやるべきではないでしょう。

さらに言えば、「反社会的勢力」とはいったい何なのでしょうか。
そもそも「暴力団」なる言葉がいまもなお存在することさえ私には理解できません。
規制する法令はありますが、規制法令があるということは存在を認めているということです。
それにどんな組織にも「反社会性」は存在します。
行政組織の反社会的行動も、最近は日常的と言えるほど、話題になっています。
そもそも立場によっては、政府そのものも「反社会的」な存在になり得ます。
そういう状況では「革命」や「クーデター」も起こります。
ですから、社会的かどうかを白黒で二分することは危険です。
「反社会的組織」とは、反社会性が大きい社会的組織のことなのかもしれません。
これに関して書きだすとまた話が広がりそうですのでやめますが、簡単に「反社会的勢力」と言ってしまっていいのかは疑問です。
ましてやそこに関わったことのある人の付き合いは非難されるべきという風潮にはもっと大きな疑問を持ちます。

それよりももっと大切なことは、自らが所属している組織には「反社会的」な行動がないのかを、それぞれがしっかりと考えることではないかと思います。
そしてもし、そのようなことがあれば、それを変えていくように、自分でできることを考え行動していくことです。
自らの生き方において、「反社会的」な言動はないかを問い質すことも大切です。

見方によっては、私のこの意見もまた「反社会的」なのかもしれません。
ことほどさように、「反社会的」などという言葉は多義的です。

ところで、山根さんにちょっと好感を持ってきました。
邪気を感じません。
私の感覚がおかしいのかもしれませんが、山根さんとは正反対の人たちが、山根さんに寄生しているような気がしています。
私が嫌いなのは、嘘と邪気なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/08/02

■見えやすい巨悪に寄生する小悪にこそ目を向けたい

日本ボクシング連盟の問題がテレビをにぎわせています。
スポーツ業界は見事なほど、同質化していますね。
どこかにきっとモデルがあるのでしょう。
日本ではもう、スポーツにおけるフェアプレイ精神など残っていないのでしょうか。
スポーツの世界は人を育てる世界ではなくなったのでしょうか。
それぞれの分野ごとではなく、スポーツに関わる人たちが、種目を超えて、スポーツとは何かを改めて問いただす動きが出てくるのを期待したいです。
私は、以前も書いたように、スポーツにはあまりいいイメージを持っていなので、すべてのスポーツ協会組織は一度解散したほうがいいと思っていますが。
オリンピックなどはもう一度、原点に帰るべきでしょう。
今回の事件は山根会長が悪者になっています。
もし報道が事実だとしたら、たしかにひどい言動を重ねていると思いますが、しかしもっと悪いのは、そうした会長を生み出した「業界のリーダーたち」だろうと思います。
会長は、そう言う人たちの象徴だろうと思います。
岐阜のインターハイでの、岐阜県ボクシング連盟の四橋会長のあいさつは、部外者の私には違和感もなく共感できます。
というよりも、当然のことを言っているだけの話ですが、それがこれほど話題になることもまた、日本ボクシングの世界はもう腐っているとしか言えない気がします。
山根会長は、ただその全体の実態を可視化しているだけの、哀れな存在でしかないのでしょう。
地位や権力や見栄えにしか頼れない、いつの心の安まることのない、さびしい哀れな人なのだろうと思います。
山地会長の椅子にふんぞり返った写真がテレビでよく出てきますが、あの写真は多くのことをメッセージしてきます。
あの写真を見たら、多くの人は悪いのは山地会長と思うでしょう。
しかし、と、私は思います。
あの写真とは違う、山根さんの写真は、別のメッセージを伝えてくれるかもしれない。
大きな悪者をつくれば、そこに寄生できるたくさんの小さな悪者が見えにくくなります。
問題が起きたら、その大きな悪者を切れば、何も変えなくても世間の目はかわせるかもしれません。
これはスポーツだけではありません。
政治でも経済でも、すべてにおいてそういう傾向がある。
それにしても、あまりに同じような事件が、実にタイミングよく、顕在化されます。
それもまた、とても気になることです。
いま考えるべき、もっと大切な問題があるのではないか。

スポーツを道具にしてはいけない。
スポーツを道具にされてはいけない。
スポーツ音痴の私が思うのは、それだけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/07/29

■「慾を捨てよ、とプナンは言った」

一昨日開催したサロンの報告を書きましたが、それを書いていて思い出した本があります。
文化人類学者の奥野克巳さんが、ボルネオの少数民族プナンの話を書いた「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」(亜紀書房)という本です。
私は「所有」とか「競争」という概念から自由になりたいと思っていますが(実現はできていません)、そうしたことを見事に日常化しているプナンの人たちの生き方は実に見事です。
ただし、私は絶対に彼らの仲間にはなれそうもありませんが。

特にこの本の第7章「慾を捨てよ、とプナンは言った」は、みなさんに読んでいただきたいところです。
30頁ほどの短いものなので、あまりお勧めはできませんが、書店での立ち読みも可能です。
もし読んで関心を持ったら、購入してください。
ちなみにその章の冒頭には、ニーチェの次のような文章が引用されています。

「或る程度までなら、所有は人間を独立時にし、いっそう自由にする。もう一段進むと、所有が主人になって、所有者が奴隷になる。彼はかかる奴隷として、所有のための己れの時間を、己れの省察を犠牲にしなければならない。そして以後は、自身が交際に拘束され、場所に釘づけにされ、国家に同化されてしまったように感じる、それも、すべてはおそらく彼のいちばん内面的な、またいちばん本質的な欲求に反して」。

そして、生産性至上主義の社会になってしまい、相模原のような事件が起き、飛躍しますが岸田さんは安倍さんに魂を売ってしまった。
そこで住む人たちのほとんどは奴隷たち、と言ったらまた顰蹙を買うでしょうね。
困ったものですが。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧