カテゴリー「社会時評」の記事

2018/01/05

■新年オープンカフェを開催しました

昨日、新年オープンカフェを開催しました。
昨年は3日に開催しましたが、4日であれば、仕事始めの人も午後は休みではないかと思って、4日にしましたが、最近は仕事始めの日もフルに働くので、参加できないと言われました。
どうも私の認識は、時代から取り残されているようです。
それでも10人の人が立ち寄ってくれました。

4時間の長丁場のサロンでしたので(出入り自由なので入れ替わりはありました)、参加者の自己紹介からいろんな話題が出ました。
思い出すままに、話題を書き上げてみます。

行動観察、保険制度と社会保障、原子力損害保険の目的、原子力事故と自動車事故の異同、自動車事故保険はきちんと支払われているか、井戸掘りの話、エネルギー問題、IOTという言葉の誕生と限界、クリエイティブコモンズ、老後の心配、話し合いしないのは若者だけか日本人の生き方か、思いを引きだす方法、格差の実相、外国人労働者、経済成長と人口減少問題、社労士の話、「茶色の朝」などなど。
一見バラバラのようですが、実はつながって一つの物語を生み出しているのです。
どんな物語か、みなさんぜひ考えてみてください。

それにしても、貴乃花問題や北朝鮮問題などの「時の話題」はまったく出ませんでした。
私が言うのもなんですが、不思議なサロンです。

来年は、できれば最初の土曜日か1月3日に開催します。
私が参加できるようであればですが。
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2018/01/02

■価格が価値を決める時代

昨日、テレビで「芸能人格付けチェック」を見ました。
テレビで活躍している人たちが、ワインや料理は楽器を品定めするのですが、たとえば、100万円のワインと5000円のワインを目隠しで飲んで、どちらが100万円のワインかを当てるのです。
なかにはフカヒレを使った料理とハルサメを使った料理を見分けるというのもあります。
それがけっこう、当たらないのです。
意外な人がとんでもない評価をしてしまうことが多いのです。
これを見ていると、別に高級な食材などにこだわることはないと思ってしまいます。

ダニエル・ブアステインが、昔、「売れっ子とは、有名であることで有名な人間である」と定義したそうですが、それを思い出させます。
ピカソのひまわりは、ピカソが描いたからこそ、感動できるのだ、というわけです。
かくして価格が価値を決める時代になってしまった。
価格がわからないと、評価できなくなってしまったというわけです。

要は、みんな価格がなければ区別できないようになってきているのです。
生活者というよりも消費者として、しつけられてきているというわけです。
そう考えると、価値ということがわからなくなってきます。

「価値」は「価格」では決まるわけではなく、本来は「価格」は「価値」で決まるはずです。
そもそも1億円の楽器と10万円の楽器とどちらがいい音色を出すかも難しい問題です。
しかし改めて考えてみると、そもそも「価値」とは何でしょうか。
今回の番組では、100グラム17,500円のステーキと100グラム 680円のスーパーの肉を使ったステーキとを比べるゲームもありましたが、外した人は多かったです。
しかし、17,500円のステーキよりも680円のステーキのほうがおいしいという人もいるでしょう。
そういう人を、味覚音痴だということはできません。
味覚にしろ感動にしろ、人によって違うでしょうし、そもそも価値とは極めて主観的なもののはずです。
多様な価値を基準にしていたら、なかなかコミュニケーションはなりたないかもしれませんが、そもそも多様な価値観がなければ、コミュニケーションっていったい何なのか。
考えていくとだんだん訳が分からなくなってきます。

ところで、ミュージシャンのGACKTは、外したことがないのです。
味覚だけではありません。
たとえば、高級の楽器を使っての演奏と入門者用の普通の楽器を使っての演奏を聴いて、確実に当てるのです。
その判断の理由を聞くと、私もなぜか納得したくなってしまうのです。
その結果、私は今はすっかりGACKTのファンです。

でもその一方で、GACKTのようにいろんな違いがわかるようにはなりたくはありません。
私の味覚は、「おいしい」と「まずい」と「また味わいたい」の3種類しかないほど鈍感ですが、それでも不満はありません。

1秒以下の記録を競うスポーツも、私にとってはばかげたことですが、どうも時代はますますそういう方向に向かっているようです。
みんな機械になりたがっている。
これはもしかしたら、「不死へのあこがれ」にもつながっているのでしょうか。
死ぬことがなくなったら、人間は人間でなくなるような気がしているのです。

GACKTほどにはとてもなれませんが、与えられた価格ではなく、自らの感覚で価値を判断する生き方をこれからも心がけていきたいと思っています。

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2017/12/29

■隠し立ては諸悪の根源

久しぶりに貴乃花問題のことをモーニングショーで見ました。
論調がどうも変わって来ているような気がします。
しかも、何を論じているのかが全く分からない議論が行われていました。

しかし、相変わらず貴乃花人気はなくなっていないようですし、相撲協会も公益法人として扱われているようです。
私には相撲協会はブラック企業とは言いませんが、金銭目的のショービジネスとしか思えません。
勝負に100万円もの賞金をつけていることがすべてを語っています。
勝負の勝ち負けがお金でやりとりされているという話があるそうですが、それは当然の帰結でしょう。
ショービジネスとはそういうものです。

貴乃花を応援するコメンテーターが多いですが、貴乃花は人の道に反しているように思います。
約束も果たさずに、自分の弟子だからと公職の任よりも身勝手な行動を正当化する。
知っていることも語らず、謝罪に来た人を無視し、声をかけてくれている人も無視する。
なぜ「今は話せない」という一言が発せられないのか。
子どもたちに、人を無視することを奨励してしまうような行動です。
信念があるのであれば、もっと正々堂々と行動できるはずです。
見ていて私には不様にしか見えません。

貴乃花は、相撲協会の改革に取り組もうとしていると報道されていますが、もし本気であれば、改革の内容を社会に公言すべきです。
公言する勇気もなく、しかもその組織の役員に就任しているのであれば(それは「改革すべき組織の責任」を負うということです)、自らこそが一番の元凶ではないのか。
内部告発者になる勇気さえないのでしょうか。

まずは潔く、組織の役員を辞任し、問題を明らかにするのが筋ではないかと思います。
そしてそうした組織の役員であったことを、まずは謝罪すべきです。

もし協会に問題があるのだとすれば、協会の問題を隠蔽しているという点では、貴乃花も同罪です。
関係者がテレビでよく「問題を公言したら大変なことになる」ともったいぶって話していますが、知っているのであれば明らかにすべきです。
知っていて明らかにしないということは、自らもその問題に荷担しているということなのです。
知ったものの責任を果たす勇気もない貴乃花には失望です。
それをかばう人たちには、哀しさを感じます。
どうしてみんなもっと堂々と生きないのでしょうか。

評議員の池坊委員長の素直な姿勢に共感を持ちます。
隠し立ては諸悪の根源です。
この問題は、単に相撲協会の問題ではなく、いまの日本の社会を象徴しているように思います。

また貴乃花ファンからお叱りのメールが届くでしょうが、やはりここは私の意見を書いておくことにしました。
お許しください。

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2017/11/30

■地元我孫子の公開フォーラムの報告

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先週の土曜日(11付き25日)、我孫子市の「市民のチカラ」まつりで、「世代を超えた「人のつながり」がまちをゆたかにしていく」というフォーラムを開催しました。
並行してさまざまなイベントが開催されていたので、人の集まりが心配でしたが、60人を超えた参加者がありました。
隣りの市から来てくださった方からは、とてもよかったという感想をもらえました。

キースピーチは、学校と地域の融合教育研究会の宮崎さんにお願いしました。
宮崎さんの活動はご存知の方も多いと思いますが、まちづくりや社会教育の世界に新しい風を吹き込んだと私は思っています。
前にも他のところでお話をしていただいたことはあるのですが、我孫子で話をしてもらうのは、今回が初めてです。

宮崎さんのお話は、子どもたちの教育の場である学校に、「まち」を引きこむことによって、学校をみんなの学びの場、そしてまちづくりの拠点にしていったという物語でした。
それは同時に、教える教育を超えた、大きな学びを子どもたちにもたらし、子どもたちとまちの人たちの、世代を超えたつながりを育てることで、未来に向けてのまちづくりの芽を育てたという話でもあります。
まちづくりとは、立場や世代を超えた人のつながりを豊かにしていくことだと思いますが、
宮崎さんは、学校を使って、それを見事に実現したのです。

いうまでもなく、人のつながりを育てる場は、学校だけではありません。
我孫子でも、いろいろな場を活かしながら、人のつながりを豊かにしている人たちがたくさんいます。
今回は、そうした3人の人に、宮崎さんのお話の後、少しパネルディスカッション風に話してもらいました。
その話を聞いていて、我孫子の市民活動も少しずつ変わってきているなと実感しました。
特に若いおふたりからは、壮大なビジョンも飛び出しました。
若者と高齢者の違いは、もしかしたら「ビジョン」の有無かも知れないと思いました。

このフォーラムをキックオフイベント位置づけ、つづけて「我孫子を舞台に面白いことを始めよう」というミニワークショップを開催し、ゆるやかなネットワークを立ち上げるはずだったのですが、今回の実行委員会メンバーの合意が得られなかったので、改めて年明け後に取り組みたいと思っています。
すでにこんなことをしたいと提案したいという方も何人かいます。

今回のフォーラムは、私にとっても、久しぶりの出会いがいくつかありました。
我孫子の市民活動の草分け時に活動されていた佐藤祐子さんにも、10年ぶりにお会いできました。
しかし、ゲストの宮崎さんは私どころではありません。
なんと50年ぶりに大学の同窓生、それも宮崎さんにとっての「マドンナ」にお会いできたのです。
人のつながりは、まちづくりだけでなく、個人の人生も豊かにしていきます。
いや、個人の人生が豊かになることが、「まちづくり」なのかもしれません。

我孫子界隈にお住いの方で一緒にやりたいという方がいたら、ご連絡ください。

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■状況と行為

日馬富士事件は、日馬富士の横綱引退表明という、私にとっては一番想定されていた、しかし一番避けたかった結果になってしまいました。
日馬富士という若者の無念さを思うと、私自身も無念になります。
彼がまだ33歳の若者であることをみんな忘れているのではないかとさえ思います。

「暴力が悪い」という言葉ほど、暴力的な言葉はありません。
もし本当にそう思っているのであれば、国家に戦争という暴力を認めることはおかしいはずです。
集団安保法制や北朝鮮への圧力支持者は、みんなそういう自覚があるのでしょうか。
暴力はたしかに悪い。
しかしすべての暴力が悪いのか。

念のために言えば、私は、すべての暴力が悪いと思っています。
ですから、先日のサロンでも話しましたが、もし戦争に駆り出され相手を殺害せざるを得なくなっても私は殺害せずに相手に殺害されることを選びたい。
鶴見俊輔さんの考えに共感します。
http://cws.c.ooco.jp/blog7.htm#150630
しかし、その時も笑われましたが、鶴見さんの考えに賛同する人は私のまわりにはほとんどいません。
つまりみんな「暴力」を条件付きで認めている。
だとしたら、状況もわからないまま、「ともかく暴行は悪い」というのはおかしいのではないか。
そういう「ジャスティス・ハラスメント」には違和感を覚えます。

日馬富士の「暴力する行為」をみんな非難します。
しかし、「暴力する行為を起こした状況」をきちんと知っているのか。
それを知らないで、行為だけを問題にするのはどう考えてもフェアではありません。
状況から切り離して暴力「行為」だけを議論することなどできるはずはありません。
大切なのは、行為ではなく状況であるというのが、私の信条ですが、「行為」だけで議論する最近の風潮にはあやうさを感じます。

大切なのは、「行為」という事実から「状況」を読み解くことです。
そして正すべきは「状況」です。
それをしないから、同じようなことが繰り返し起こってくる。
念のために言えば、ここで言っている「状況」は、今回事件が起こった飲み会の「状況」ではありません。
彼らが生きている相撲界の状況であり、それを見ている世間一般の状況であり、それを介在するマスコミの状況です。

マスコミがつくる「事件」は、加害者と被害者がいつも明確です。
でも実際の社会は、加害者と被害者は紙一重の違いであり、少し視点や基準を変えると立場が逆転することもあります。
行為だけをみれば、加害者と被害者は見えやすくなりますが、状況次第ではそれも逆転しかねません。
そのために、裁判でも情状酌量という仕組みがありますが、しかしそれは「行為を裁く」という近代の思想にとっては補助的なものでしかありません。

さらに、状況に関して大切なことは、状況は主観的な要素が強いということです。
しかし、加害者や被害者が状況をどう捉えているかなどは当事者以外にはわかりません。
であればこそ、状況を構成している人たちが、みんなで状況を見えるようにしていく必要がある。
その努力なしに、行為はもちろん、人を罰することはできません。

その意味では、事実を隠している貴乃花親方の暴力性は極めて大きな問題です。
正装して謝罪に来た伊勢が濱親方や日馬富士を無視して走り去った貴乃花親方の行為は「暴力」といえないのか。
子どもたちのいじめの世界で、「無視」することがいかに人を気づつける暴力行為なのかが盛んに言われたことをみんな忘れているのでしょうか。
そういう行為が、いかに多くの人の精神を傷つけ死にまで追いやることをみんな忘れたのでしょうか。

貴の岩や日馬富士の思いが抑圧されているような状況こそが、そもそもの問題です。
伊勢が濱親方の気持はわかりますが、日馬富士の発言を制するのはフェアではありません。
貴乃花親方の信念はわかりますが、たとえ「自らの子」であろうと貴の岩を世間と遮断しているのは非難されるべきです。
そんな権利は、たとえ親といえどもありません。
貴乃花親方は自らが批判している相撲協会の他の理事たちと同じことをやっているとしか私には思えません。

私は、自殺の問題やケアの問題にささやかに関わってきていますが、そこで学んだのは「行為」よりも「状況」だということです。
時に、被害者よりも加害者のほう被害者に見えることもある。
事件の報道によって、被害者がさらなる被害者になることもある。
さらに部外者が、加害者になることもある。

私はこれまで以上に、「行為」よりも「状況」を見ていきたいと思っています。
他者の行為は私の関われないことですが、他者と共に生きている状況であれば、私も少しは、自らの影響を通して、影響を与えることができるかもしれません。
いまの社会がこのまま続くのであれば、来世は人間ではない存在に生まれたい気分です。

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2017/11/28

■日馬富士事件の報道に思うこと

つづけて書きたくなりました。

あいかわらず日馬富士の暴力行為がテレビで語られています。
相撲協会の世界とは切り離して、これは純然たる暴力行為(犯罪)だという人が圧倒的に多いです。
でもそうでしょうか。

フランスの社会学者ブルデューは、「およそ教育的働きかけは,恣意的な力による文化的な恣意の押しつけとして、客観的には、一つの象徴的暴力を為すものである」と、教育を恣意性による押しつけという象徴暴力的行為としてとらえています。
教育は「暴力行為」だなどと言うつもりはありませんが、教育に「暴力性」があることは否定できません。
そもそも、社会の秩序を維持していくためには、「暴力性」は不可欠なのです。
問題は、どういう場合にどういう「暴力」がゆるされるかです。
それは時代によって変わってきましたし、これからも変わっていくでしょう。

ともかく「暴力が悪い」という人が多いですが、果たしてそうなのか。
たしかに「暴力のない社会」を目指したいですが、時に暴力が必要なこともある。
そう考えれば、事件の背景や状況や関係者と切り離して、純粋に「暴力行為」を評価すべきではないと私は思います。

日本はまだ、近代を超克していない。
そう思いながら、コメンテーターたちの「正論」を苦々しく聞いています。


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2017/11/27

■私は蒼国来を応援しています

白鵬が「場所後、真実を話し、膿を出し切って、日馬富士関、貴ノ岩関を再びこの土俵に立たせたい」と発言したことが物議を起こしています。
白鵬も、一言話せば非難され、異議申し立てをすれば非難される。
私は白鵬の素直な生き方に共感しています。
横綱も人間であってほしいと思うからです。

矛盾しているように思われそうですが、日馬富士にも、貴乃花にも、共感します。
みんな自分を生きていると思うのです。
たしかに日馬富士が行なった暴力行為には共感はできませんが、人は過ちを犯すものです。
それに、たぶんモンゴルの文化と日本の、さらには大相撲の文化は違います。
郷に入らば郷に従え、などという言葉もありますが、多文化共生の時代でもあります。

私が一番おかしいと思うのは、あまりに部外者が騒ぎ立てることです。
もっと騒ぎ立てることがあるだろうと思うのです。
それに「暴力」という点では、もっと大きな暴力が日本政府によっても行われています。
原発だって大きな暴力です。
そちらの方に私は関心があります。

この騒ぎを見ていて、まさに現代はフェイクニュースの時代、ポスト真実の時代だと思います。

私は蒼国来を応援しています。
大相撲八百長事件で一度は解雇され、裁判で勝訴し土俵に戻ってきた力士です。
相撲協会には不祥事も多いですが、責任を取るべきは若い力士ではなく協会の役員ではないかと思っています。
今回も理事長以下の役員が責任を取るべきだと思っています。
いつも切り捨てられるのは現場の人たちという、現代のフェイク責任論に怒りを感じています。

日馬富士も貴の岩も、土俵に戻ってきてほしいです。

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2017/11/23

■語らせないことの罪

「語らないことの罪」があれば、「語らせないことの罪」もあるのではないか。
ある人から、そう言われました。

私は基本的には、人間は一人では生きていない存在だと思っています。
ですから犯罪を起こした「個人」に対しても、寛容さが大切ではないかと思っています。
犯罪行為は、よほどのことがない限り、だれも起こしたくはないはずでしょう。
ですから、語りたくても語れない状況に多くの人が追いやられている最近の状況に危惧の念を持っているはずだ。
そうならば、「語らないこと」を問題にするのではなく、「語らせない社会」こそを問題にするべきではないかというわけです。
たしかにそうなのです。

もう5年近く前になりますが、友人の楠秀樹さんが友人たちと本を出版しました。
「〈社会のセキュリティ〉は何を守るのか」という本です。
その本の副題は「消失する社会/個人」です。
その序論にこう書かれています。

「個人」が理性的で自由な主体である限りで,すなわち,ともに議論し,決断し,共感し,相互批判し,関係性を確認して信頼し合う限り,連帯を結ぶことによって成り立つのが「社会」である。 したがって,諸個人が議論せず,決断を奪われ,共感せず,互いを率直に批判せず,ただうやむやに同調し,自分たちの関係性を顧みず,ダイナミズム(力強さや躍動感)を失い,互いを信頼しない事態に陥る時,すなわち理性を使用せず,自発的に行動する自由を失うとき,そこに連帯としての社会はない。

楠さんは自分の担当した章で、「個人」を解消する時、「社会」も消失すると書いています。
この視点に共感します。
私もまた、最近の日本には、個人も社会もなくなってきていると感じているのです。

昨日、某大学の教授と雑談をしていた中で、その方がいまや「関係性の時代」になったが、それは同時に主体性ある個人がいなければ、成り立たないと言われました。
私は、イヴァン・イリイチのコンヴィヴィアリティの考え、つまり自立共生を基本として生きてきました。
そして、関係や関係を生み出す場を大事にしてきています。
ですから楠さんたちが言うように、社会/個人の消失に大きな危惧の念を持っていますが、その一方で関係性論議の中で、大きな流れが反転しそうな気配も感じています。

なにか難しいことを書いたかもしれませんが、そういうわけで、「語らない個人」こそが「語らせない社会」をつくりだし、「語らないこと」を正当化しているということを、「語らないことの罪」で言いたかったのです。
ただ中途半端な書き方をしたので、誤解を与えたかもしれません。

正直に言えば、最近、時評編のブログを書く気力が萎えているのです。
困ったものですが。

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■語らないことの罪

日馬富士の「暴行」事件が連日、テレビを賑わせています。
私自身は、日馬富士にとても同情的です。
テレビが盛んに煽り立てているような気がしてなりません。
たしかに「暴力」はいけないかもしれませんが、スマホを見ながら相手を無視するのも「暴力」の一種です。
ビール瓶と聞いた時にはさすがに私も揺らぎましたが、平手でも力士の平手は「凶器」になるという発言を聞いて、逆に考えれば、ビール瓶も力士には「凶器」にならないかもしれないとも思いました。
一方で、元貴の花親方が協会を相手にせずに、警察に届けたという行動にもとても共感します。
しかし、その後の沈黙にはまったく共感できません。

今日、書きたかったのは、日馬富士事件ではありません。
「語らないことの罪」です。
私の数少ない信条の一つは、「嘘をつかないこと」です。
自らに嘘をつかないという意味ですが、他者への嘘もよほどの事情がなければついてきませんでした。
そのために、逆に「嘘をついている」と思われたこともあります。

嘘をつかないことはとても難しいことですが、それ以上に難しいのは、語るべき時に語らないことかもしれません。
幸いなことに、私自身は「語るべき時」にあまり出合したことがないのですが、今回の事件に限らず、語るべき時に語らない人があまりに多いことが気になっています。

いままた話題が再燃している森友学園事件で言えば、語るべき人で語ったのは前川さんと籠池さんくらいで、後の人はほとんど「語るべきこと」を語っていないように思います。
語らないことのほうが、たぶん生きやすいのでしょう。
語らないまま、そして証拠物件を隠ぺいしたとさえ思われながらも、国税庁長官に抜擢された佐川さんのような人もいます。
彼は、語らないまま人生を終えるのでしょうか。
私には実に惨めな人生のような気がします。

安倍首相夫人の昭恵さんは、付き合いのある友人たちからは、とても素直な善なる人だとお聞きしていましたが、その昭恵さんもまた「語るべき時」に「語るべきところ」で語っていません。
とても残念です。

語らないといえば、前の太平洋戦争のことを体験者はあまり語りたがらなかったようです。
それほど強烈な体験だったのでしょう。
しかし、少しずつ、語りだす人が増えています。
私も何人かの方から体験談を書籍にしたものをもらっています。
それを読むと、語りたくなかったことがよくわかります。

でも語らなければいけない。
私はそう思います。
体験した当事者が、辛いだろうが語ることが大切だろうと思います。
そしてその内容がどんなものであろうが、感情的にではなく、冷静に聞いて判断していく寛容さを聞き手は持たなくてはなりません。

当事者たちがもっと素直に語りだしたら、いい方向に解決していくことはとても多いように思います。
語るべき人が語らなかったために、真珠湾攻撃も実行され、避けたかった日米開戦に至ってしまった。
語るべき人が語らなかったために、チャレンジャー号は爆破し、福島原発は悲惨な事故を起こした。

「語らないことの罪」を、私も改めて心に留めようと思います。
語るべきことを、語らないまま墓に持っていくことは、決して美徳ではない。
みんながもっと語りだせば、社会はきっといい方向に向かっていくでしょう。
ますます語らない時代に向いているなかで、改めてそう思います。

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2017/11/01

■出る杭を打つ社会にはあきあきです

立憲民主党の議員たちがどうも「ターゲット」にされだしたようで、次々と「不祥事」がマスコミによって問題にされだしています。
今朝は初鹿議員が問題にされています。
こうしたことを暴き出すことで、政治はどんどん矮小化されてしまうことに大きな危惧を感じます。
もちろん今回も問題にされているような事件が瑣末な事件であるとは全く思っていませんが、その採りあげ方に大きな危惧を感ずるのです。

そこで思い出すのが、一時期、世界を覆いだした「ゼロ・トレランスの嵐」です。
はじまりはジュリアーニ時代のニューヨーク。
地下鉄の駅の落書きを消すことから安全が戻ってくるという話です。
いわゆる「割れた窓理論」には私もとても共感しますし、講演などでも話題にしたこともあります。
かつて、ささやかにではありますが、安全なまちづくりに取り組むガーディアン・エンジェルスの活動を支援したこともあります。
しかし、それらと「ゼロ・トレランスの嵐」とをつなげて考えていなかったことにある時、気づかされ、少し反省しています。

私にとって大切な価値の一つは「寛容」ですので、ゼロ・トレランス発想には大きな違和感があります。
10年前に書いたブログ記事があります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/12/post_ffbe.html
久しぶりに読み直してみました。
そして忘れていたことをいろいろと思い出しました。

ロイック・ヴァカンの「貧困という監獄」という本があります。
世界はいま福祉社会から刑罰社会へと流れを変えつつあるという警告の書です。
それを思い出しました。
古い本ですが、お時間があればお読みください。
いまの世界の状況が、たぶん少し見えやすくなると思います。

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