カテゴリー「社会時評」の記事

2009/11/14

■農的に生きることへの思い

この頃、なぜか「農」の話が私の周りでとても増えています。
まあ農業ブームですから当然なのですが、どこに行っても出てくるのです。

たとえば、今日、地元のある集まりがありましたが、そこのメンバーからも「地産地消の事業」に取り組もうという提案がありました。
昨日は、子育て支援の関係のグループと話をしていたのですが、京都の丹波に大きな土地があり、そこに「新しい村」のようなものができないかという話が出てきました。
つい先ほどは、私が自殺のない社会づくりネットワークに関わっていることを知った友人が、「人間らしい、生き方を求めて、コンクリートから土と、ともに生きる。そんな生き方をすれば、自殺願望者も、減ることでしよう。ぜひ提案を聞いてくれ」とメールが来ました。

火曜日には「半農生活をはじめよう」の著者がやってきましたが、彼のところには問い合わせがたくさん来ているようです。
ぜひ「農的に生きる」をテーマにしたフォーラムをやろうと提案しました。
来週の土曜日には、埼玉の浦和で「農と食、そして居場所」をテーマにしたコムケアフォーラムを開催します
認知症にも少し接点が生まれだしていますが、その関係の話をしていたら、土とのつながりや農的生活の話が出てきましたし、ともかくいろんなところで、農の話が出てくるのです。

みんな土が恋しくなってきたのでしょうか。
私も来年のテーマの一つに「農」を置こうと思っています。
しかし、昨今のブームには乗りたくありません。

今年の春に、支え合いサロンで農をテーマに2回ほど話し合いをしたのですが、どうも思うような方向には持っていけませんでした。
農とは何か、を一度、じっくりと考えてみたいと思っています。
どなたかそうした話し合いの相手になってくれませんか。
そして、来春にでも「農的に生きる」をテーマにしたフォーラムを一緒にやりませんか。
「百姓として生きる」でもいいのですが。

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2009/10/30

■「1人だったらダメだった。3人だから生きられた」

八丈島近海で転覆した漁船「第1幸福丸」の真っ暗な船内で4日間をがんばった船員の一人、宇都宮さんが、
「1人だったらダメだった。3人だから生きられた」。
と語っていました。
とても考えさせられる言葉です。

転覆事故のあった24日、私は「自殺のない社会づくりネットワーク・ささえあい」のキックオフを兼ねた「自殺多発場所での活動者サミット」を開いていました。
この半年、準備を重ねてきたものですが、このテーマへのかかわりを深めれば深めるほど、自殺のない社会とはやはり「大きな福祉」の実現ではないかと思うようになりました。
「自殺対策」はもちろん大切ですが、自殺を引き起こすような「真っ暗な社会」での私たち一人ひとりの生き方こそを問題にしなければいけないという思いを強くしました。

真っ暗な社会でも、そして希望が見えにくい時でも、3人いれば支えあえる。
この事件は、そのことを教えてくれています。
「1人だったらダメだった。3人だから生きられた」。
すべての人に聴いてほしい言葉です。

人は決して一人では生きていません。
たくさんの人に支えられています。
そのことに気づけば、先ず自らが周りの人を支えようという気が起こってきます。
支えることは一方的な行為ではありません。
誰かを支えれば、必ずそのことで自らが支えられるのです。
支えることは必然的に支え合う循環を生み出します。
そのことに気づけば、とても生きやすくなり、世界は平和になるでしょう。

「1人だったらダメだった。3人だから生きられた」。
これは真っ暗な船室だけの話ではありません。
私たちの日常生活にとっても、大きな示唆を含んでいます。
私たちも、ちょっとだけ生き方を変えましょう。
それが、「自殺のない社会」「孤独死のない社会」「子どもの笑顔の溢れる社会」「だれでもが気持ちよく暮らせる社会」につながっていくはずです。
そうした、大きな「支え合い社会」は、まずは自らの小さな一歩から始まる。
そのことを、今回の宇都宮さんの言葉で改めて確信しました。

最近疲れたので、コムケア活動をやめたいと思い出していますが、元気がまた出てきました。

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2009/10/29

■モンスターの悲劇

「モンスターペアレンツ」が学校を徘徊しているという話はかなり前から聞いています。
理不尽な要求を学校に突きつける父兄のことを「モンスターペアレンツ」と呼ぶようです。
しかし、理不尽な要求を突きつけるのは、何も学校の父兄だけではないようです。

福祉の世界でも、そうした「モンスター」に悩まされている行政は少なくないようです。
企業のお客様にも「クレーマー」と呼ばれるモンスターがいるようです。

先日、介護保険関係の研究調査プロジェクトの集まりがありました。
介護保険の自己作成をもっと広げたいという思いをもった人たちの研究会なのですが、そこで介護保険の世界でもモンスターといわれる人たちに窓口が振り回されて、それが健全なケアプラン自己作成者の広がりを妨げているのではないかというような議論がありました。

私自身は、そもそもモンスターなどという発想には大きな違和感があるのですが、福祉の世界も少しだけ知っている立場からいえば、モンスター議論に関しても、さもありなんと納得してしまっていました。

私は、住民主役のまちづくりにささやかながら関わっています。
一昨日も、あるまちで住民たちと行政との話し合いの場に同席する機会がありました。
そこでいろいろと話を聴いていて、そうした「まちづくり」の場にも、モンスター発想が行政にあることに気づきました。
さらに気づいたのは、モンスターを生んでいるのは行政だということです。

ゴジラはモンスターでしょうか。
もしそうであれば、ゴジラを生み出した核爆弾をもった世界はモンスターの生みの親ということになります。
モンスターを生み出すスーパーモンスター。
大企業や行政こそ、実はモンスターの源なのです。

モンスターが悪者扱いされる風潮が広まっていますが、モンスターを生み出す状況こそが問題なのだとやっと気づきました。

かつてはモンスターだったゴジラは、次第に世界の救い手に変化してきました。
これは実に象徴的な話です。
モンスターは何も好き好んでモンスターになったのではありません。
そういう視点でさまざまなことを見ていくと、もしかしたらモンスターはモンスターを非難している私たちなのかもしれません。

自らがモンスターなのに、誰かをモンスターと呼んで、自らは健全だと思い込んでいるのは、喜劇ではなく悲劇です。
私はこれからはもう2度とモンスターなどという言葉は使わないようにしようと思います。
人をモンスターなどと称することの傲慢さは、持ちたくないものです。
あやうくその傲慢さを身につけるところでした。
まさにモンスターを生み出す世界に私たちは生きているのです。

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2009/10/17

■支え合いと思いやり

このブログでも何回か書いてきていますが、10月24日に、自殺のない社会をめざして「自殺多発場所での活動者サミット」なる集まりを開催します。
ところがなかなか参加者が伸びません。
まだ50人ほどですが、このお誘いをしていていくつかのことに気づきました。

まず「自殺」という問題は、日常生活とは離れた「特別の問題」だと考えている中高年者が多いということです。
あるいは拒否的に反応してしまうのかもしれません。
それに対して、若い世代はむしろ生活とのつながりを感じて、比較的関心を持ってくれるということを知りました。
タイトルに「自殺」の文字を2度もつかい、しかもチラシには大きな文字で「自殺」をうたったのは後から考えると失敗でした。
世間の人たちが、これほどまだ「自殺」の問題に距離を置きたがっていることは予想外でした。

それとは別に感じ入ったことがあります。
参加者が少ないので、友人知人に誘いのメールを送りました。
そうしたら数名の人たちが即座に反応して、それぞれの参加しているメーリングリストや自分のブログなどで次々と紹介してくれるのです。
その見事な展開ぶりに感激しました。
10年近くも会ってもいない人が、自分の主催するメーリングリストで流してくれ、それがまた回りまわって私にも届くと言うわけです。

今回の集まりの基本テーマは「支え合い」です。
今の社会には「支え合い」の文化がなくなってきているという意識からの取り組みですが、支え合いの文化や心遣いは、まだたくさんあることを実感しました。
何人かの方は、わざわざメールや電話をくださり、告知に協力してくれています。
私は時々、こうした集まりを主宰していますが、考えてみるといつもこうした「支え合い」によって実現してきたことを思い出しました。
準備がなかなか進まないので、いささか気分が沈んでいたのですが、何だかとてもうれしくなってきました。
当日はどういうことになろうと、もうこれで私は十分にやって良かったと思えそうです。

誰かが行動を始める。
それに共感する人が、自発的に動き出す。
そしてそれが次第につながっていって、大きな波になっていく。
そうやって社会は動いてきているのでしょうね。
まずは動き出すこと。
それが気持ちよく生きていく秘訣なのだと改めて思いました。
私も、見習わなければいけません。
できることはたくさんあるはずです。
もっともっと心身を軽くしなければいけません。

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2009/10/05

■国民の自由な声を抑圧する国家とは何なのか

読まれた方もあるかもしれませんが、昨日、このブログに寄せられたコメントにこんな文章が書かれていました。

>本当のことを言うと、このコメントはウェブ上に公開されてしまいますので、
>ちょっと怖い気がしたのですが、敢えて小さな声として発信します。

みなさんはどう思われるでしょうか。
考え過ぎではないかと思う人もいるかもしれません。
でも、そう思っている人も少なくないでしょう。
実際にこのブログを読んでくださっている人から、私信としてそういう思いを伝えられたこともありますし、ネットでの発信はすべてチェックされているから注意した方がいいといわれたこともあります。

以前書きましたが、私が友人に送ったメールを読んだ警察の人から電話があった時にはさすがに私もゾッとしましたが、後でそれは友人の遺品の中のパソコンから読み取られたものであることを知って少し安心しました。
しかし、実際にはネット上でのやりとりは、おそらく監視されているのでしょうから、その気になれば、権力をもつ人はいかようにも利用できることは否定できません。

一時期、共謀罪が話題になっていましたが、最近はどうなったのでしょうか。
今の情報環境で共謀罪が成り立つようになれば、映画「マイノリティ・レポート」の世界が現出しかねないと危惧していましたが、実は既にもうそういう社会は実現しているのかもしれません。
私たちはいまや見事に自己規律化されてきているのです。
オーウェルの「1984年」やザミャーチンの「われら」の世界は、すでに現実のものになってきているのです。

しかし、意見を素直にいうことが「怖い」社会は決して健全ではありません。
そうした「会社」が、問題を起こして破綻してしまった実例を、私たちは最近、何社も見てきていますが、「社会」そのものがもしそうなっているのであれば、これは由々しき問題です。
社会が壊れだしているとしかいえません。

そんな社会で、どう生きていけばいいのか、悩ましい話です。

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2009/09/30

■「待て」と「お手」

わが家にはチャッピーという老犬がいます。人間にたとえたらおそらく70過ぎの老犬で、散歩に行ってもちょっと長くなるとくたくたになって自宅にたどり着くのがやっとです。
まあ老人の私といい勝負ですが。

そのチャッピーが、いまなお守っていることがあります。
ご飯やおやつの時に、「待て」というと待っていることです。
あるいは手を出すとお手をしてくることです。
その姿を見ていて、最近、何だか自分を見ているような気がしてきたのです。
いえ、正直に言えば、自分というよりも、多くの日本人というべきでしょう。
私もその仲間だと思うのはかなり辛いことではありますが、認めざるを得ないでしょう。

チャッピーに「お手」を教えた記憶はあるのですが、「待て」はあまり教えたことがありません。
もしかしたら、チャッピーがわが家の養子に来る前にしつけられていたのかもしれません。
それにしても、そのあまりの従順さに哀れさを感じます。
なぜ哀れさを感ずるのだろうかと不思議に思って気がついたのが、自分たちの生き方との類似性だったのです。

私たちはどこで誰に「待て」とか「お手」とか教えられたのでしょうか。
私はあまり記憶にありません。
でも周りを見ているとみんな本当に忠実です。
偉そうなことをいっている私も、かなり忠実です。
私の人生は、かなりわがままそうに見えても、所詮は「待て」と「お手」の人生でした。

「待て」と「お手」を身につけた人が、たぶん大人なのかもしれませんが、最近はどうもかなり若い世代まで、その躾が進んでいるような気がします。
一見、勝手気ままにやっているようで、所詮は家畜のような生き方をしています。
先日、渋谷や原宿を歩いた時の光景を思い出しました。
みんなよく飼いならされています。
そういえば、原宿では家畜が餌を求めるように、餌場のようなお店の前はいつも行列です。
わが家のチャッピーよりも「お行儀」はかなり悪いですが。

さて私もその一員なのでしょうが、小賢しい学びよりも、チャッピーに学ぶべきかもしれません。
そういえば、チャッピーは一見待っているような振りをして、時々、飼い主の目をごまかします。
見習わなければいけません。

人生すべて師ですね。はい。

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2009/09/26

■新しい頼母子講「みんなの貯金箱」の提案

頼母子講の話の続きです。
頼母子講がダメになりそうであれば、ますますやる価値があります。

たとえばこんなのはどうでしょうか。
毎月1万円ずつを2年間出資する仲間を募ります。
24人集まると毎月24万円集まります。
出資した人は2年間に1回だけ、そのお金を購入する権利を持ちます。
そして毎月集まった24万円の買い手を募ります。
おかしな言い方ですが、24万円をいくらで買うかの入札をします。
一番安い価格で購入する申し出をした人が購入します。
但し、一度、購入した人は以後購入権を履行できません。
つまり、2年間で24万円出資した分を2年間に1回だけ取り戻せるというわけです。

急いでまとまったお金が欲しい人は、1万円の出資で24万円近いお金を入手できます。
但しその後、毎月、1万円ずつ返却することになります。
24万円を買う時の対価は24万円以下になりますが、その差額はいわゆる手形割引のようなものです。
もし買う人がいない時はどうするか。
これはさまざまな仕組みが考えられます。
2年後の満期時にはどうするか。
これもいろいろ考えられるでしょう。

こんな仕組みをぜひ実現したいと思っています。
興味のある方はご連絡ください。
信頼関係がないといささか不安がありますので、発足は1年後です。
1年間、付き合えば信頼関係は育つでしょうから。
毎月の出資額や参加人員数によって、金額規模は変わります。
困った時の、みんなの貯金箱のような話です。
どうですか、やってみませんか。

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■ものわかりのよすぎる国民

先日開催した「支え合いサロン」でお呼びした方が、以前、頼母子講を検討していたのでそれがどうなったかにとても興味がありました。
ところが、法制度的にこれからは難しくなりそうだということで止めてしまったということでした。
とても残念です。

共済制度ですら存続が難しくなってきています。
この30年くらいで、「通貨」の意味が大きく変質しましたので、通貨が中心にある仕組みは軒並み影響を受けています。
ですから、その世界から自らを抜け出させないといけません。
その試みの一つが、もう一つの通貨である「地域通貨」です。

期待していた頼母子講の動きが、実施の前で中止になったのは私にはとても意外でした。
なぜなら、法制度の世界から抜け出ようというのが住民の活動ではないかと思っているからです。
無茶な議論に聞えるかもしれませんが、法制度を絶対視する必要はありません。
所詮は人間がつくったものです。
であればこそ、おかしな法制度には抗って行動しなければいけません。
住民の支え合いの文化は、そうした表の経済とは違った文化を志向しなければ、単なるサブシステムに終わります。
ですから規模などは別にして、志向においては法制度を利用するという姿勢が大切で、法制度に従ってはいけないというのが、私の考えです。

たとえば、私が裁判員制度に指名されたら、私は拒否します。
拒否が受け容れられずにやることになったら、私が知ったことは私の判断で公開します。
法制度で罰せられたらそれは仕方がありません。
私もこの社会のおかげで平安を維持できているのですから、罰は受けねばなりません。

さて頼母子講の話です。
私たちは少し「ものわかり」がよすぎるのではないかと感じました。
お上が頼母子講がダメだと考えているようなので、頼母子講は止めよう、といっていたらなにもできなくなりはしないか。
共済制度の関係者の動きを見ていると、どうも法制度を前提に動いているように見えます。そこから自由になって、まずは自分たちが取り組んでいることの価値を自信を持って世に問うことです。
ロビー活動で社会が変わる時代はもう終わりにしなければいけません。
そんな気がします。
自分たちの独自の仕組みを考え出す時期かもしれません。

具体的な頼母子講の提案は項を改めます。

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2009/09/13

■見えてくるものをしっかりと見て、考えましょう

■見えてくるものをしっかりと見て、考えましょう(2009年9月13日)
政権が交代することで、これまで見えてこなかったことがいろいろと見えてきました。
そこには驚くようなことも含まれています。
政権交代によってこれからできなくなってしまうことを「駆け込み」でやってしまおうという動きもいろいろと報道されていますが、そこからもこれまで見えていなかったことが見えてきます。
もっとも「見えるか見えないか」は、その人の価値観にもよります。
私が見ていることも、すべての人が見ているわけではありませんし、見えるはずなのに私には見えていないこともたくさんなるでしょう。
しかしこういう時ですから、できるだけ先入観を捨てて、見えてくるものを素直に見ていくことが大切です。
また、問題の渦中にいる人にとっては、あまりに日常的なことなので見えているのに「意識」していないこともたくさんなるでしょう。
新聞やテレビで問題になることにより、問題が意識化されることも少なくないでしょう。
企業不祥事や行政不祥事の多くは、そうではなかったかと思います。
自分が「渦中」にいる問題については、一度、「常識」を捨ててみることも大切です。

たとえば、数日前の朝日新聞にこんな記事がありました。

厚生労働省所管の独立行政法人「高齢・障害者雇用支援機構」が、同省OBの天下り先の公益法人「雇用開発協会」に対し、天下りOBらの年収額を決め、事業の委託費から支払うよう指示していたことがわかった。朝日新聞が入手した同機構の作成文書などで判明した。

この記事はトップ記事でした。
ということは、マスコミにとっては「大発見」だったわけです。
しかし、ここで書かれていることは関係者にとっては日常業務だったわけです。
だれも「おかしい」などとは思わなかったでしょう。
いえ、いまでもおそらくおかしいとは思っていないでしょう。
天下りがこれほど大きな問題になっていても、誰も何とも思わなかったわけです。
これは決して他人事ではなく、おそらくほとんどの人が、自らが渦中にいることに関しては、そう大きくは違わないようなことをやっているように思います。

次々と見えてくるものを、素直に見ていくことが、とても大切なような気がします。
多くの国民が選んだ民主党政権を、せめて半年は肯定的に見ていきたいと思います。
民主党や民主党政権は、まだまだ批判の対象となるほどの位置にはたどりついていないような気がします。

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2009/09/05

■手賀沼が好きな人たち

私が住んでいる近くにある手賀沼は歴史のたくさんある沼です。
行政区で言えば、主に我孫子市と柏市で囲んでいます。
行政区単位にこだわらずに、手賀沼を軸にした発想したら、いろんなことができるはずです。
そんな思いから、SCALE DesignというNPOとコモンズ手賀沼というLLPの立ち上げに関わらせてもらいました。
その仲間でもある松清さんが、手賀沼ガイドボランティアというグループの世話役をやっています。
そのグループが満月を水上で満月をめでながら手賀沼産のうなぎを食べる会を企画しましたので、そこにこの2つのメンバーにも参加してもらうように声をかけました。
今日は満月。先ほどまで、みんなで満月を満喫させてもらってきました。

みんなとてもボランティアを楽しんでいるのがよくわかります。
もしかしたら、NPO法はこうしたボランティア文化を壊してしまっている面もあるのではないかという気がしました。
とてもいい会でした。
もっとも、手賀沼のうなぎは収穫不足で、みんなで少しずつ分かち合って食べましたので、あんまり食べた気がしませんでしたが。
でも湖上に浮かぶ満月は素晴らしかったです。

社会の変革は、国会からではなく、こうしたところから始まっていくのでしょうね。
改めてそう思いました。

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2009/08/30

■「会話が成立していないことに対する鈍感さ」

タイトルは、このブログも読んでくださっている福岡の西川さんの言葉です。
心しなければいけないという自戒の言葉として、この言葉に出会ってから日に何回かは心の中で反復するようにしていますが、これは情報社会の落とし穴かもしれません。
私だけではなく、多くの人が、その鈍感さに陥っているような気がします。

西川さんがこの言葉を送ってきてくれた契機はちょっとした事件のおかげです。
西川さんをある人に紹介させてもらい、2人の間でメールのやりとりが始まりました。
ところがしばらくして、紹介した人から西川さんからの返信がないのだがという連絡がありました。
西川さんから、その人への返信の一部は私にもCCで入っていたので、そんなはずはないと不思議に思いながらも西川さんに確認したら、メールのやりとりがどうもかみ合っていない気がしているというのです。
調べてみたら、紹介した人のパソコンが、なぜか西川さんからのメールを迷惑メール扱いにして受信排除していたのです。
しかし、お互いにそれに気づかずに、それぞれにメールしていたのです。
海外との交流だったこともあり、お互いにおかしいと思いながらもやり過ごしてしまっていたわけです。

実は、私も同じような体験を最近2回しています。
1回は私が受信排除、1回は相手が受信排除で、トラブルが起こりそうになった体験です。
たしかに、メールは相手に必ず届いているとは限りません。

西川さんはこう書いてきました。

相手からメールが来ます。
私が返信します。
コミュニケーションが成立しているという前提に立っています。
良く考えてみれば、当然、色々な原因で相手に届いていない場合があるのですね。
(中略)
超近代のマシーンで、言語や文字だけで、コミュニケーションが成立していると思い込んでしまうことに、危うさがあるなと思いました。
そして、
そういう意味で、改めて振り返ると、
「会話が成立していないことに対する鈍感さ」を痛感しています。
と書いてきました。

もう30年ほど前になりますが、「非情報化革命論」というのを書いたことがありますが、情報社会はどうやら大きな落とし穴を用意しているようです。
会話が成立していないのに成立していると思い込んでしまうことに注意しなければいけません。

今日は衆議院選挙です。
この選挙でも、多くの人たちが「会話が成立していないことに対する鈍感さ」のなかで悲喜劇を重ねているのかもしれません。
せめて新しくできる政府には、国民との「会話が成立していないことに対する鈍感さ」だけには気をつけてもらいたいと思いますが、あまり期待できないでしょう。
もしかしたら、情報社会とは会話が成立しないことを特徴とする社会なのかもしれません。
この数日、この言葉を反芻しているうちに、何だかそんな気がしてきました。

蛇足ですが、皆さんも一度、迷惑メールボックスを調べてみたらどうでしょうか。
私は毎週、1~2件、誤って迷惑メール処理されているメールを発見します。
パソコンは、時に恣意的に反逆もするものです。

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2009/08/14

■障害者虐待防止法に反対する施設団体

福祉実践に関わっているOさんから久しぶりにメールが来ました。
そこに書かれていることが気になりました。
「どうも障害者虐待防止法に対して親の会や施設団体が反対しているようだ」
その人が福祉現場の大先輩から聞いた話だそうです。
Oさんは、「とうとう本性を現してきたなという感じです」と書いています。

Oさんのメールにかかれていたサイトから、日本知的障害者福祉協会が反対を表明していることを知りました。
反対理由の最後にこう書かれています。「

障害をもつということのみで、障害者と差別して、保護しなければならない弱き者として障害者を捉え、安易に法律案を作成したことには納得できません。」
これだけ読むとなかなかわかりにくいですが、いろいろ現場で体験されてきているOさんには、この言葉の意味はすぐわかったのでしょう。
Oさんのメールから少し引用させてもらいます。
過去の福祉現場においては、親や施設や行政がいくらハンディを持つ人達に実力行使をしようとしても、どこかに歯止めとなる人材がいて均衡を保っていたようにも思うのですが、小泉改革以降は社会保障全てがなし崩し的となり施設経営の名の下に次第に障害者を商品化してきたように感じています。
この2つの文章をつないでいただければ、Oさんが懸念する「施設団体の本性」の意味がわかってもらえるかと思います。

20年ほど前に福祉の世界に関わった時には、私は驚きを感じました。
福祉とは金儲けの世界なのかと思ったほどです。
同じことは環境問題に関わった時にも思いました。
ですから、当時、これからは福祉や環境の分野が成長産業の分野だなどと言う経済エコノミストに反発を感じていました。
もちろん今でもそうした輩は少なくありませんが、残念なことです。
いくつかの小論でもそうしたことを書きましたが、最近はそれがさらに露骨になってきたような気がします。

もっとも今回は、そうしたことを書きたいのではありません。
私自身が「障害者虐待防止法」のことをほとんど知らなかったので、もしかしたら知らない人も多いのではないかと思い、書いておこうと思ったこともあるのですが、それ以前に、今時「虐待防止」などということを法律にしなければいけないということに改めて驚きを感じたのです。
情けなくなったというのが正直な気分です。

防止法が検討されるということは、虐待が日常化しているということです。
法律によらなければ虐待を防止できない社会に、自分が住んでいることに気づいたのです。
覚せい剤もたぶんかなり日常化しているのでしょうね。
事ほど左様に、私は今、自分がどんな世界に住んでいるのかあまり知らないのではないかという気がしてきたのです。
幸いにまだ、殺人防止法などというのは聞いたことがありませんが、まもなくできるのでしょうか。
そういえば、そんなニュースも昨日テレビでやっていましたね。
どうやら私は、社会からやはりかなり脱落しているようです。

法律は、その社会の実相を象徴しています。

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2009/08/12

■先生たちがつくる奨学金制度と新しい無尽講

とても良い話を朝日新聞の夕刊で読みました。
深刻な不況の中、独自の奨学金制度をつくろうと、私立高校の教員が各地で事業団を立ち上げているのだそうです。
すでに北海道や熊本で設立、新潟でも計画が進んでいるといいます。
そして、生徒も加わって募金を集め、早いところは年末から無利子で貸し付けを始める計画だそうです。
大口の寄付を申し出る企業も出てきていると新聞に書かれています。

とてもうれしい動きです。
政治の世界でも奨学金の拡充や学費の無償化などが話題になっていますが、それとは全く違った意味で、私にはとてもうれしい動きです。
何がうれしいか。
問題を一番良く知っている現場のみんなが動き出したということです。
まさに「コモンズの回復」です。
10年以上前に書いた「コモンズの視点から発想の流れを逆転させよう」がようやく動き出したうれしさなのです。
世界を変えるのは政治ではなく、こうしたコモンズのかぜなのだろうと思います。

何回かここでも書いていますが、保険法の改正により、日本古来の「共済の文化」が壊されてきているなかで、こうした動きが出てきたことに大きな希望を感じます。
日本にはまだ「ケアコミュニティ」の文化がしっかりと残っているようです。

実は私も最近、ささやかな「無尽講」をつくれないかと思い出しています。
幸いに私はお金持ちではありませんので、その必要性を実感できます。
みんなが可能な範囲で、少しずつお金を出し合って、コモンズ基金をつくり、メンバーの誰かが必要な時に無担保で活用できる制度があれば、と思うことがあります。
それを少し考えてみようと思い出しています。
コモンズ通貨(ジョンギ)で構想したこともあるのですが、中途半端に終わってしまい、メンバーには迷惑をかけてしまいましたので、今度はそうならないようにしなければいけません。

まずは周りに呼びかけて、毎月1万円程度を積み立てる無尽からはじめてもいいのですが、最近の私の状況では、集まったお金を使い込んでしまう惧れがありますので、ちょっと躊躇しています。
どなたか使い込む気のない人で、胴元をやってみようという人はいませんか。
関心のある人は、ご連絡ください。
秋には、これをテーマにした「支え合いサロン」も開催する予定です。

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2009/08/08

■芸能界も株式投資の世界も基本から間違っているのではないか

今朝の朝日新聞の朝刊に「ネット投資家、ひっそり株価操作 摘発相次ぐ」という記事が大きく出ていました。
その記事がどうも気になっています。
読んだ方もいるかもしれませんが、リード部分だけ引用させてもらいます。

安く買い、高く売る。株式投資で利益を上げるための基本だが、値動きを予想して買い時・売り時を見極めるのは難しい。こっそり株価を動かせたら――大勢の投資家が参加する株式市場を舞台に、たった1人で上場企業の株価を不正に操作したとされる事件が、証券取引等監視委員会に相次いで摘発された。

どうして気になったかといえば、株価操作はその世界の日常だろうという気がしているからです。
なぜ一人でやっている個人が摘発されるのか。
それに一人で動かせるような仕組みそのものが問題だとどうして思わないのか。
「株価を不正に操作」と書いてありますが、「不正」の基準は何なのだろうか。
こうした疑問が次々と浮かびます。

話はとびますが、酒井法子さん事件です。
芸能界における覚せい剤の使用実態などはもっと広範囲で知られているように思いますが、実際にはあまり問題化してきません。
なぜかといえば、多分、日常化しすぎて、あまり犯罪行為意識がないからではないかと思います。

ゴキブリを1匹見つけたら50匹はいると思えという言葉がありますが、芸能界における覚せい剤使用状況はどんなものでしょうか。
50匹どころではないでしょう。

さて、ネット投資家のほうはどうか。
投資という行為は、本来、株価操作の要素を持っています。
嘘の売買操作はよくないという言葉には反論しにくいのですが、そもそも先買い先売りなどの行為はどこまでが実体につながっているのでしょうか。
そもそも株の売買そのものが、私には嘘の行為にさえ感じます。
あまりに粗雑な議論なので怒られそうですが、株式売買の世界は虚構の世界、つまり嘘の世界とも言えるように思います。
どこまでが不正の株価操作なのかは悩ましい問題です。
投機的な株式投資の世界がある以上、それはなくなるはずがありません。

さて芸能界の覚せい剤事件です。
芸能界の番組と覚せい剤の世界とどこが違うのか。
私にはよくわかりません。
スポーツの世界のドーピングも私にはよくわかりません。
どこまでが許されてどこまでが不正なのか。

何を書いているのかわかってもらえないかもしれませんが、
私が言いたいことは、昨今の芸能界やスポーツ界、そして投資の世界は、いずれもその基本から間違っているということです。
そこに関わっている人たちが悪いのではなくて、その文化が間違っているのではないか。
それが私の考えです。

かなり独善的で、それこそ間違っている考え方なのかもしれませんが。

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2009/08/07

■パソコンはただの部品の組み合わせた箱

ノートパソコンのキーボードが一部、動かなくなってしまいました。
キーボードを外して掃除したら直るかもしれないと、パソコン通の坂谷さんが教えてくれました。
坂谷さんは、先月、私のパソコントラブルを解決してくれた恩人です。

坂谷さんに教えてもらって、パソコンのキーボードを取り外してみましたが、今回は残念ながら直りませんでした。
しかし、どうも病み付きになってしまい、今日も2台のノートパソコンのキーボードを外してみました。
パソコンを分解するのは気分がいいものです。
いま使っているメインのパソコンも一度分解してみましたが、万能に思えるパソコンも分解してみれば、何のことはないただの箱でしかありません。
それがわかるだけで、パソコン信仰はなくなります。
これから時々、意味もなく、パソコンを分解したくなりそうです・

パソコンはモジュール化していますから、その構造を知ってしまえば、組み立てや改造もできるのでしょう。
誘惑的な魅力を感じます。
もちろん今の私にはそれは無理ですが、そうやっている人の気持ちが少しわかったような気がします。
そうした魅力に勝てずに、以前はいろんなものを壊してきましたが、パソコンは極めてシンプルな構造なので壊しようがないかもしれません。

まあどうでもいい話なのでが、実はこういう行為にとても大きな意味があるような気がしています。

私たちはいろいろな制度や専門家に関わりながら生活を成り立たせていますが、そうした制度や専門家も要するに中身を知ったらたいしたことはないということを言いたかったのです。
そもそも大昔は、そんな制度もなく、専門家もいませんでした。
百姓的な生活に憧れる私としては、自分でできることは自分でしたいと思っているのです。
それが、昔からのわが家の文化でもありました。
必要なことを市場から調達せずに、自分たちで対応すれば、前にも書いたように経済成長にはつながりません。
ですから、私の生き方は、極端に言えば、反経済成長路線の生き方なのです。

制度もそうです。
制度は、それに関わる人が気持ちよく生きるための仕組みですから、制度に合わせなければいけないなどと発想する必要はありません。
制度をつくる人は、難しい制度をつくりたがりますが、その制度も分解してみたら、わずかなルールで成り立っているのです。
有名なボイドの話を思い出します。
しかし、私たちは多くの場合、複雑さを装う目くらましの制度にがんじがらめにされているような錯覚に陥りがちです。

今回の裁判員裁判は、裁判官も検事も弁護士も、所詮は普通のおじさん、おばさんなのだということを見せてくれた効用はあったのかもしれません。
普通以下ではないかと気づいた人も少なくないでしょうから、その弊害もまた大きいのですが。

時にパソコンを分解するのは、そうした錯覚的人生の呪縛から解き放たれる効果があるように思います。

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2009/08/05

■「自殺予防対策」という言葉になじめません

先週、福井で、自殺を試みたことのある人たちの集まりに参加しました。
テレビでもよく報道されている東尋坊の茂さんたちに出合い、思いとどまった人たちが中心でしたが、南紀白浜の三段壁や青木が原樹林で自殺を考えた人も参加していました。
こうした集まりは、たぶん、初めての試みだと思いますが、どういう展開になるか、正直、少し不安はありました。
最初は、私自身のなかに少し「自殺を試みたことのある人」という特別視する意識があったのですが、時間が経つにつれて、一緒の仲間と実感できるようになりました。
そのせいか、実に気持ちの良い2日間を過ごさせてもらいました。

ところで、私は「自殺予防対策」という言葉にどうしてもなじめません。
自殺を対象化し、目的概念にしているからです。
もちろんそうした取り組みが大切であり、功を奏していることも理解していますし、そうした活動をこれまでもささやかに支援してきました。
しかし、「自殺予防対策」という言葉の意味がうまく理解できないのです。
否定しているとかそういうことではなく、ただ理解できないでいるということです。

私の関心は、「自殺」ではなく「だれもが気持ちよく暮らせる社会」です。
「だれもが気持ちよく暮らせる社会」では、自殺は起こらないような気がします。
「自殺のない社会」とはどんな社会だろうか。
そうした社会での生き方はどんなものだろうか。
それが私の関心事であり、それを目指した活動に長年取り組んでいます。
そうした活動の流れの中で、4月に「自殺のない社会づくりネットワーク」を仲間と一緒に立ち上げました。
それに関しては、何回かここでも書いてきました。

「自殺のない社会」での生き方は、そう難しいことではありません。
今回の集まりでも改めて確信を得たのですが、隣の人と仲良くしようということです。
それができれば、気持ちよく暮らせるはずです。
なぜそれが難しくなっているのか。
たまたまいま話題になっている裁判員裁判の事件も、「隣人殺人事件」です。
なぜ隣人を殺めてしまうようになってしまったのか、
みんな(犯人だけではありません)の生き方のどこかに、問題があるのです。

政府は今、100億円以上の予算を自殺予防活動に助成しようとしています。
しかしなかなか効果的な対策は見えてこないようです。
先週の集まりで、みんなの話を聴いていて、この人たちが中心になってその資金の活用を考えたら、きっと効果的な仕組みをつくるだろうなと思いました。
みんなでシンクタンクをつくろう、と提案したかったほどですが、まあそういう仕組みを作ると、また「識者」や「業者」が集まってきてしまうので、失敗するでしょう。
世の中をおかしくしているのは、「識者」や「業者」かもしれません。

この集まりの後、敦賀の小さな集落で3日過ごしました。
いつもながら、集落の人たちの支え合う関係にとても幸せな気分になりました。

自殺は今年も3万人を越えるでしょう。
実際には、統計には現れない自殺も少なくないはずです。
それはおそらく「病んでいる社会」の一つの現れです。
社会が病んでいるのは、私たちの生き方が病んでいるからです。
だとすれば、私にも出来ることはいろいろとあるはずです。
そして、みなさんにも。

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2009/07/25

■ネット情報の広がりの恐ろしさ

一昨日から昨日にかけて、ネットでの情報伝達の効用と恐ろしさを体験しました。
4月に仲間たちとあるイベントを企画しました。
その案内文をつくり、メーリングリストやホームページで告知しました。
ところが、そこに1か所、ミスがあったのです。
後援の許可をとっていなかった組織の名前が掲載されていたのです。
その情報は、当日の配布資料にも「後援」として掲載されました。
その人は、終了後、確認が十分ではなかったことに気づいたようなのですが、終わったことなのでいいだろうと思ってしまったようです。

イベント終了後、3か月して、突然、私のところに苦情の電話が届きました。
そのイベントの連絡先に私の携帯電話の番号が掲載されていたのです。
相手の人は「私は許可したことはない、すぐ掲載されているものからすべて削除してほしい」と厳しい口調で要求されました。
怒りはよくわかります。
私は、ほとんどすべてにおいて「まあ良いんじゃない」と受容するタイプですが、名前を勝手に使われることだけは絶対に許せません。
ですから、その方のお怒りはよくわかります。
すぐ対応することにし、私が掲載したネット上のものからはすべて削除しました。

ところが、翌日、また電話です。
消えていない、というのです。
話しているうちにわかったのですが、私が書いた記事が私の管理範囲を超えて、転載されていたのです。
グーグルで調べてみたら、確かにまだいろんなところに残っていました。
気が遠くなる気分でした。
一つずつ調べて、その関係者に電話して事情を話して削除してもらいました。
冷や汗が出つづける1日でした。

この事件で、改めてネット環境での情報の伝達の広がりの凄さに気づかされました。
まさに、リゾーミックな広がりです。
しかも、その広がりの過程で少しずつ変質し、他の要素を取り込みながら創発していくことがよくわかりました。
こんなところにまで引用されているのかという、驚きもありました。
情報社会とは、まさに情報のガバナンスが社会に移行してしまう社会なのだとわかりました。

ネットに掲載する時は、慎重にしなければいけません。
私には一番苦手のことなのですが。

もっとも、この事件でよかったこともあります。
訴えるとまで怒っていたその方と仲良くなれたことです。
その方は、メールでこう書いてきてくれました。

今回のご縁も、何か必然性があるかも、等と勝手に考えてます。
人の出会いは不思議です。

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2009/07/17

■コンビニ強盗が急増している社会

先月、防犯活動に長年関わってきた人から、これからコンビニ強盗が増えていきますよ、と聞いていましたが、昨日の警察庁の発表によれば、今年前半のコンビニ強盗は、前年同期比65・6%増の487件だったそうです。
まさに、彼が言っていた通りの状況になってきているようです。
万引きや引ったくりも増えているようですが、「素人でもできる犯罪が増えている」のだそうです。
社会が壊れつつあることの、ひとつの現われかもしれません。
これまで、このブログやCWSコモンズなどで、繰り返し書いているように、こうした状況は政府が先導してきたのではないかとさえ思いますが、それを支えてきたのは私たち国民一人ひとりの生き方です。
私は、運よくコンビニ強盗をしたことはありませんが、大きな目でみたら、そうした状況を生み出す動きに全く無縁だったとはいえません。
郵政民営化には反対でしたし、ビジネスを潤すだけの環境対策にも反対でした。
そして、せめて自分の生き方だけは変えていこうと務めてきたつもりです。
しかし、大きな動きに対しては、デモをするわけでもなく(2回ほど参加しましたが)、運動に投ずるでもなく、自分の小さな生活に安住してきてしまっています。
経済的格差の進展にさえ、何もできずにいるわけです。
ですから、コンビニ強盗にまで追いやられた人に対しては、なにやら申し訳ない気持ちはしますが、咎める気分にはなれません。
咎めたいのは、今なお税金を私的に流用している、私の友人知人たちです。
しかし彼らも決して悪意があるのではなく、社会を良くしようとがんばっていることも事実です。
そのあたりが、とても悩ましいのです。

ところで、コンビニ強盗ですが、その話をしてくれた冒頭の知人は、その防止策として、強盗が外部に持ち出せないレジスター金庫をすでに実用新案までとっているようです。
方法は簡単です。
自動車のエアバッグのように、金庫を移動させようとするとエアバッグが開いて持ち運べないようにするのです。
金庫メーカーに提案したそうですが、金庫が盗まれないと金庫は売れないということで、取り上げてもらえなかったそうです。
金庫メーカーが、本当にそんなことを言ったのかどうか、少し疑わしいですが、真剣に考えようとしなかったのは間違いないような気がします。
なにしろ企業の論理は、顧客の創造なのですから。
本当に馬鹿げた話ですが、経営学者はそれを推奨しているのです。

社会のひずみは、いろいろのところに現れてきます。
個別の動きの背後に、大きな構造的な問題、原理的な問題が存在しています。
この数年、増加している事件や事故を見ていくと。問題の本質は見えてくるでしょう。
私たちの社会の根幹が崩れだしていることに、不安を感じます。

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2009/07/08

■なぜ不特定多数の人への殺意が生まれるのか

大阪のパチンコ店放火事件は4人の死者を出してしまいました。
やりきれない思いがします。
やりきれなさは、もちろん、この事件の「表象」に対してもですが、むしろ事件の「深層」にある社会状況に対してです。

犯人は、「仕事も金もなく、人生に嫌気がさした。通り魔みたいに誰でもいいから人を殺したいと思い、人が多数いるところにマッチで火をつけた」と供述しているそうです。
本来、生命はお互いにつながりあって支えあって成り立っているはずです。
他者の生命は、自らの生命に深く関わっていますし、他者(人間に限りません)の生命なくして、自らの生命は存在しないことは、おそらくすべての生命(人間に限りません)に埋め込まれている本性だろうと思います。
したがって、自らの生命との直接的なつながりを感ずる時以外、他者(しつこいですが人間に限りません)を殺したいという思いは、本来、生まれるはずがないと私は思っています。
つまり、不特定多数の人に対する殺意は成り立たないのです。

オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした時、私のこうした考えは見事に打ち破られましたが、あれは「戦争」だったのだと思えば、納得もできました。
だが、その後も、そうした「不特定多数の殺人」は、むしろ広がってきています。
国家がそれを遂行するのであれば理解できるのですが、国家権力とは全く対極にある個人が、「不特定多数の殺意」を抱き、それを現実のものにしてしまうということの意味は、考えれば考えるほど恐ろしくなってきます。
これが広がれば、社会は成り立たなくなるでしょう。
前項の「表層と深層」につなげていえば、もしかしたら、すべての他者が「不特定多数」になってしまっているという社会の実態が、その深層に感じられるのです。

この50年、私たちは「つながり」を壊すことで、経済を発展させ、生活の利便化をはかってきました。
かつては濃密に張り巡らされていた「支え合い」の仕組みは壊され、「セーフティネット」などというわけのわからない機能主義的な仕組みが人為的につくられようとしています。
人為的につくったセーフティネットは、これまでの近代発想の延長にしかありませんから、結局は、さらなる「つながりこわし」になっていくでしょう。
つながりを失った個々の生命は、「自分」対「不特定多数」の世界に投げ出されるわけです。
言い方を変えれば、個人が見えなくなることでもあります。
そんな社会状況に、やりきれなさを感じてしまうわけです。

いささか考えすぎかもしれませんが。

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2009/07/04

■あんまり問題が多すぎて、思考停止したい気分です

人の慣れとは恐ろしいものです。
あれほど騒いでいた年金問題もかんぽ問題も、派遣切り問題も裁判員制度問題もいつの間にか静かになってきました。
散発的に話題にはなりますが、かつてのような「国民の怒り」はなくなりました。
こうして私たちは、さまざまな問題を勇ましく糾弾しながら、許してきたわけです。
そのことをどう考えればいいのでしょうか。
政府に問題解決能力がなくなったと考えるべきなのでしょうか。
いや、問題があまりにも多すぎて、問題が問題ではなくなったのかもしれません。

問題が解決されたと思っていても、ある時、突然また問題が噴出することがあります。
アスベスト問題が再燃した時には驚きました。
もう終わったかと思っていた熊本水俣病の認定問題もまだ終わっていないのです。
基本的な原則さえ決めれば、現場が問題を解決するというほど、問題が簡単でないことはわかりますが、どこかに仕組み上の欠陥があるような気がしてなりません。
仕組み上の欠陥を直すのは仕組みを直す方法もありますが、仕組みを構築する理念を見直すほうが効果的でしょう。
しかし、そう思う人はあまりいないようです。
これも、あまりに問題が多すぎるからでしょうか。

政策の財源問題が相変わらず議論されていますが、私には馬鹿げた議論のように思えます。
財源を問題にする人たちは、要するにお金を使うことが政策や事業と考えている人です。
財源があれば、サルでも善政はできるでしょう。
問題は財源ではありません。
何をやるか、本気でやるのか、です。
言い換えれば、ビジョンであり目指すべき社会の理念です。
それが国民に理解され支持されたら、その財源を得ることはそう難しくないでしょう。
発想の順番を間違えているのは、金銭至上主義におかされているからでしょうか。

問題が多すぎるのは、問題の設定の次元が間違っているからではないかと思います。
これは、自らの生き方においてもそうです。
私は最近、自らのビジョンや信条に迷いがあるため、過重な問題に潰されそうになっています。
今の日本の社会も、そうなのかもしれないと、ふと思いました。

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2009/07/01

■「お手伝いしてください」

近くのTさんの子どもが、スモモを届けてくれました。
小学校に上がったばかりのその子は、こういってスモモを届けてくれました。
「(スモモを)たくさんもらったのでお手伝いしてください」
彼女はいつもそういって、お裾分けしにきてくれるのです。
スモモよりも、その気持ちがいつもうれしいです。

かつての日本の文化が象徴されている言葉です。
小さな頃からそうした文化の中で育てば、きっと「分かち合う精神」が育つでしょう。

分かち合うことは、双方を幸せにします。
取り合うことは、双方を惨めにします。
そんなことは誰も知っているはずですが、世間からは「分かち合う生き方」は失われ、「取り合う生き方」が広がっています。
経済的に豊かになるほどに、分かち合う文化よりも取り合う文化が広がってきているといってもいいかもしれません。
そこに、今の経済のおかしさがあるように思います。

今の経済システムでは、取り合う関係を基本にすることによって経済は発展し、分かち合っていたら経済は停滞するのです。
まさにおかしな話ですが、そうしたことを前提にして、経済の論理や仕組みが組み立てられていることにほとんどの人は違和感を持ちません。

今日のテレビで、どこかのスーパーの「10円セール」を報道していました。
その10円商品を取り合う主婦たちの映像が流れていましたが、それを見ていて、「10円」に意味があるのではなく、「取り合い」に意味を見出しているのではないかという気がしてきました。
小さな頃から「取り合い競争」の文化の中で育ってきたことの結果を、そこに感じてしまったのです。
そして、その人たちの子どもたちも、きっとまた「取り合い競争」に追いやられているのだろうなと思いました。
そうした親たちが多い中で、「お手伝いしてください」という文化を守っている家庭があることが、私にはとてもうれしいのです。
まさにホッとする感じです。

「お手伝いしてください」
とてもいい言葉だと思いませんか。
私もその精神を守りたいと思っていますが、時に「取り合い競争」の思考の中にいる自分に気づいて恥ずかしくなることがあります。
心しなければなりません。

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2009/06/27

■行政の不作為犯

現場で汗している人の言動を私はほぼ無条件に信頼します。
なぜなら現場から見えてくる世界は、確かだからです。

今日は、自殺のない社会づくりネットワーク準備会の交流会でした。
テレビなどで最近良く紹介されている、東尋坊の茂さんと川越さんが参加してくれて、とても示唆に富むお話をしてくれました。
また交流会には若い世代の医療関係医者もたくさん参加してくれました。
いつも感ずるのは、まさに自殺が増えている層の参加が少ないことです。
実はそこにこそ問題の本質があるのだろうと思いますが、まあそれはまたいつか書かせてもらいます。

茂さんや川越さんの話は何回聞いても、その都度、いろいろな示唆を受けます。
しかしそれ以上にいつも私が共感できるのは、茂さんが指摘する「不作為犯」の話です。
茂さんが自殺防止活動に入ったきっかけは、まさにそこにあります。
その話は有名ですので、ご存知の方も多いでしょう。
詳しくは既にいろいろと報道されていますので、それを読んで欲しいですが、簡単に言えば、こういうことです。

警察官だった茂さんは、自殺を図ろうとしていた年配の男女を保護し、自殺を思い留めさせて、その後を行政の福祉部門に託しました。
警察は自殺の恐れのある人を思い留めさせられますが、規則により、その人をしかるべき行政部門に引き渡し、あとはそこに任せるというのが責務です。
しかし、残念ながら福祉行政は2人を救えなかったのです。
警察官だった茂さんは、それまでも問題が起これば、警察官としての責務を果たし、その後の問題解決はそれぞれの役割を担うところにお願いしていたのです。
ところが、信頼していたはずの他の行政部門は、形だけの対応しかしてくれなかったのです。
茂さんは、そこで、「行政の不作為」の現実を思い知らされます。
役割分担しながら、国民を守っているとばかり思っていた行政への不信が高まったのです。

茂さんは、こういうのです。

過度のストレス障害をもった人が東尋坊の岩場にやってくる。
そうした「自殺多発場所」であっても、何の対策も講じずに放置されている現状は、まさに「保護責任者遺棄罪」の不作為犯そのものであって、地方自治体は、殺人犯の行為を組織的・構造的に敢行している被疑者ではないか。

私もかなり過激な発言をしてしまう人間ですが、茂さんの過激さは私の比ではありません。
しかし、茂さんは批判するだけでなく、自らがその不作為の補償に取り組んでいるのです。
あまりうまく書けませんでしたが、茂さんの本や茂さんの講演などには、そうした茂さんの思いがよく出ていますので、ぜひ読んでください。

今日、あえてこのことを書いたのは、茂さんが指摘している「不作為犯」は、行政だけではありませんし、自殺問題だけでもありません。
そのことを書きたかったのです。
私も含めて、今の社会は不作為犯が多すぎます。
作為犯と不作為犯。
果たしてどちらが罪深いものか、考えてみる必要がありそうです。

茂さんはいつもとても明るいです。
それは、彼が不作為犯ではなく、いつも心が晴れているからではないかと、私は思っています。

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2009/06/23

■白浜バプテスト基督教会

一昨日、アメリカのアポストル教会のことを書きましたが、今日は日本の教会の話です。
たまたか今朝のテレビ番組で、和歌山県にある白浜バプテスト基督教会の活動が紹介されていました。
この教会があるのは、自殺多発場所でもある白浜の三段壁です。
牧師の藤藪さんは、そこで自殺防止活動に取り組んでいます。
藤藪さんに会って、自殺を思いとどまった人は少なくありません。
藤藪さんは、自殺を思いとどまったものの行き場のない人たちに、自分の教会を提供し、そこでみんなで共同生活をしているのです。
藤藪さんの活動はホームページブログで公開されています。
ぜひ読んでみてください。

日本では宗教があまり肯定的に受け取られていない文化がありますが、宗教界ができることはたくさんあります。
そして、やっていることもたくさんあります。
自殺防止活動に取り組んでいるお寺も少なくありません。
そうした活動がなかなか広がっていかないという面はありますが、教会や寺社は社会のコモンズ空間として、大きな意味を持っているはずです。

藤藪さんは、「自殺のない社会づくりネットワーク」準備会のコアメンバーのお一人でもあります。
東尋坊の茂さんもそうですが、各地で行われている、こうした活動がもっとつながっていくことで、問題の本質が見えてくるように思います。
もし皆さんの周りで、そうした「自殺多発場所」があれば、ぜひご連絡いただけないでしょうか。
また、そこで活動している人たちがいたら、ぜひ教えてください。
お伺いしたいと考えています。

ちなみに、6月27日の1時から3時の予定で、ネットワーク準備会の交流会があります。
自殺防止に取り組んでいる寺社の方も参加してくださっています。
もしよかったらご参加ください。
そしてこの活動に参加してください。

自殺問題は、個人の問題ではなく、社会の問題であり、私たちの生き方の問題です。

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2009/06/17

■どうも気になること

不正確なDNA判定で有罪と結審されていた菅谷さんの無罪がほぼ決定されました。
事実確認もないままの無罪判決が予想されていますが、なんだかとても気になります。
きちんとした事実審議もなく有罪にした判決と、同じではないかと思います。
裁判官の恣意的な判断で、人を有罪にできるということの現われです。

栃木県の県警の責任者が菅谷さんに謝罪しました。
テレビで見ましたが、やはり違和感があります。
菅谷さんたちからの申し出とはいえ、謝罪するのに呼びつける姿勢は、どう考えても常識的ではないです。
形だけの謝罪であることは、実際に事件に関係した人たちの発言から明らかだと思いますが、形だけの謝罪は社会の規範を壊します。
菅谷さんは「許す」といいましたが、とても違和感が残ります。
警察の基本はなんら変わっていないように思います。

国会での党首討論で、麻生さんは民主党の財源について切り込みました。
マスコミの識者も、財源不足をいつも繰り返します。
しかし、財源がなくなれば、赤字国債を出し、増税し、というのが果たして財源論として正しいのでしょうか。
民主党と自民党と比較したら、財言論を考えているのは民主党のほうだと、私はこの1年ずっと思っていますが、これはどうも非常識な考えのようです。
しかし気になって仕方ありません。
赤字になったら五等をするというのとは違うかもしれませんが、なんだか私には同じに見えます。

日本郵政の社長人事に政府は口を出すべきでないと麻生首相は反論しました。
各論としてはいいかもしれませんが、税金をこれだけ不明朗に使い込んだ人を批判できないほうがおかしいです。
国家は市場と無縁ではありません。
まあしかし、それはそれとして、私が気になるのは西川社長です。
普通の民間企業であれば、とっくの昔に辞任し、いまごろは背任罪で告発されているかもしれません。
普通の常識があれば、自分で辞任すべきでしょう。
なぜ辞任しないのか気になります。

とまあ、最近は気になることがたくさんあります。
でもまあ、こんなことはいずれも瑣末のことなのかもしれません。
何しろ社会が壊れだしているのですから。
社会を再構築する理念が議論されるべき時期に来ているように思いますが、その有力な候補である「友愛」理念はどうしてこうもみんな冷ややかなのでしょうか。
友愛は理想であって現実ではないと、昨日の報道ステーションでは語られていました。
そうでしょうか。
どうも気になります。
報道ステーションは、以前は共感していましたが、いまはもう見るに耐えません。
まさに視点が大きくぶれてきているように思います。


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2009/06/14

■怒りが鬱積している時代

鳩山総務大臣の辞任は、予想していたとはいえ、いささか失望しました。
郵政民営化路線はなかなか揺るぎません。
民営化とは私益化のことであり、税金を特定の個人もしくはグループに勝手に分け与えることであることが(つまり税金の恣意的な割り振りです)、なかなか認識されないようです。
かんぽの宿を1万円で購入して、福祉施設に6000万円で転売したという事例がありましたが、これはすべてに当てはまることなのです。
年金保険料を勝手に私的に浪費した構造と同じです。

それを許すのは、寛容な国民の知恵かもしれませんので、最近はまあいいかと思うようにしていますが、いまなおあまりいい気持ちがしないのが、こうした事件が起こるとみんな寄ってたかって悪口のいい合いをすることです。
このブログも、そんな側面があると指摘されそうですが、そしてされたことも何回もありますが、私としては一応節操を持って批判しているつもりです。
時々、勢いあまって口汚く個人をののしってしまいますが、反省しなければいけません。

いくつかのメーリングリストで、鳩山批判が飛び交っています。
現状の体制を批判している人たちのメーリングリストでも、です。
同じメーリングリストで、麻生首相が批判され、小沢元民主党代表が批判され、まあ批判の風が噴出すると、恐ろしいほどに批判は増幅していきます。
批判の内容は、実にさまざまです。
昔のことが批判されることも少なくありません。
対象は誰でも何でもいいのかもしれません。
その時に、目立つ行動をした人が、ともかく批判されることが多いです。
みんなきっと「怒り」を鬱積させているのです。
相手は誰でもいいのでしょうか。
しかし、そこには大きな危険性が潜んでいます。
つまり、批判は批判を削ぎあって、結局、現状を維持するようになっていくということです。

権力が自らの権力を持続させるためには、社会の外部に大きな批判の対象をつくることです。
ブッシュ政権はまさにその戦略をとりました。
体制維持のために、あるいは体制壊しのために、権力志向者が使う手法です。

もう一つの権力維持策は、批判を封じるのではなく、批判を巻き起こすことです。
これはむしろ不満を持つ側の人たちが、自らの暴発を回避する手段として、広げていく自衛策のような気がします。
四方八方に批判の嵐が起これば、社会に内在する不満は横の関係でエネルギーを解消していきますから、時に権力者も使いますが、持続はできません。
むしろ体制に不満を持っている人たちが、この手法を取りがちです。
そして、それぞれの怒りや不満を、相対化させ、自己納得してしまうわけです。
誰もが批判しあうことを許しあう文化。
一種の「寛容の文化」と言ってもいいでしょう。
これは、中途半端に豊かさを得た、いじましい人たちの知恵なのかもしれません。

どこか自虐的で、元気の出ない見方ですが、いろんなメーリングリストでのさまざまな批判メールを読んでいると、何だかそんな気がしてきます。
これもまた情報社会の落とし穴の一つかもしれません。

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2009/06/13

■「お上」依存意識からの脱却

いま、地元の仲間たちと新しいLLP(有限責任事業組合)を立ちあげようと準備を進めているのですが、その設登記書類を作っていて感じていることがあります。
規則通りにやろうと実に几帳面な人が少なくないということです。
私は、規則とか法規は、「善意を支援し、悪意を防ぐ」ためにあると考えている人間ですので、規則に書かれた文字の一字一句にはほとんど興味がありません。
たとえば、住所表示の仕方で、私の住所は「我孫子市白山1-27-6」ですが、ある人が「1丁目27番6号」と書かないとだめだと指摘してくれました。
たしかにその通りで、略式表記は契約書などでは嫌われます。
ですから住所表記を全部書き換えたのですが、そうした議論を通じて、日本人は徹底的に「統治される民意識」埋め込まれていることを実感しています。
民がきちんと忠実に従っていても、年金で見られるように、「お上」は全くいい加減に処理していることをこれだけ見せられても、国民の意識は変わらないのです。

私は21年前、自分の会社の設立登記を自分でやりましたが、登記所の人から書き直しや捨て印を押すことを強制されました。
書き直しは拒否しましたが、捨て印は結局、受けてしまいました。
捨て印を押すということは、「お上」に勝手にやってもいいという恭順の意の表明だと当時は考えたのですが、面倒になって受けてしまいました。
今から思えば、恥ずかしい話です。

最近、つくづくと思うのですが、資格をもった専門職というのは、お上に寄生する職業です。
その人たちの仕事を保証するのが法規(行政手続法)なのかもしれません。
昨年から、収入がないので、私の個人会社の決算作業や税務申告手続きを自分でやるようにしました。
それまでは税理士に頼んで月額5万円と決算手続き費用を負担してきました。
ところが自分でやってみたら、2日もあれば出来ることが分かりました。
但し、減価償却とかいろいろとややこしいことをやろうとするとわかりません。
幸いに最近は会社の売り上げがほとんどないため、まあ簡単にやれるのですが、いかにも難しい様式になっています。
大企業であればともかく、売上高の小さな企業であれば、もっと簡単に税務申告できる仕組みはいくらでもできそうです。
複雑にしているのは、税務署の権威を高め、税理士や会計士の仕事を創出するためではないかとさえ、思うほどです。
何でこんなことまで専門職に費用を払って頼まなければいけないのかと思うことは決して少なくありません。

私の友人知人にも、税理士や会計士や行政書士などもいますので、いささか言いよどみますが、本当にそうした職業は必要なのでしょうか。

そう考えると、私が会社時代にやっていた仕事は価値があったのだろうかという反省も起こってきます。
私は入社後6年くらいして、企画部門に配属されました。
そこで全社的な経営計画を立てたり、事業戦略のための調査活動をしたりする仕事に取り組んでいました。
いわゆる「戦略参謀業務」ですが、これって果たして会社に必要だったのだろうかという気がしています。
その疑問が当時から少しあって、ボスには現場に出してくれといっていたこともありますが、お前には無理だといわれて出してもらえませんでした。
つまり私にはお金を稼ぐ能力がないと評価されていたのかもしれません。

私が当時やっていた仕事は、いまの言葉を使えば「知識労働」です。
ところが最近は、その「知識労働」が主役になっていく時代なのだそうです。
「知識社会」なる言葉もあります。
これからは創造性をもった知識労働者が新しい事業を起こしていくとも言われています。
しかし、「知識労働」って何だか分かりにくい言葉ですね。
汗して生きている人が、ますます報われない社会にならなければいいのですが。
そのためには、私たちもそろそろ「お上」依存意識から抜け出さないといけません。
それは、結構むずかいいことなのですが。

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2009/06/12

■遊ぶ人が働く人を邪魔する時代

福島でタクシーに乗りました。
その運転手さんから聞いたのですが、タクシー運転手の収入はこの半年で3割前後減ったそうです。
この数年、収入は減り続けているそうですが、いまでは手取り月額が10万円に達するのが難しいようです。
それで運転手はお金の困っていない人か年金をもらっている高齢者でないとやっていけないというのです。

日本全国不景気なので、まあそれは仕方がないとしても、許せないのは高速道路の1000円制度だというのです。
なんで遊びに行く人だけが1000円で、仕事で高速道路を利用する人は高い料金を取られるのか。
反対ではないか。
おかげで飯坂温泉には観光バスが来なくなり、二本松の老舗温泉宿も倒産したし、と怒っていました。

そういえば、先月軽井沢でも同じような話をタクシーの運転手さんから聞きました。
高速道路が1000円になったおかげで、マイカーでの観光客が激増し、休日は仕事にならないと怒っていました。

いずれも、働く人よりも遊ぶ人のほうが優遇されることへの怒りです。
その怒りはよくわかりますが、それが消費主導の経済の本質なのです。
このブログで繰り返し書いてきたように、市場を創ること、つまり顧客の創造こそが経済の原動力になっているのです。
そのことが私自身は全く納得できないわけですが、ほとんどの人は納得してきたはずです。
福島の運転手さんには、自民党を応援してきたあなたたちが、そういう社会をつくってきたんじゃないのと言ってしまいました。
ちなみにまた、各地で建設業者が少しずつ仕事を増やしているようです。
昨日の運転手も、政治家につながっている土建業は最近元気になってきたようだと言っていました。

こうした経済文化は社会を壊す危険性を秘めています。
先進国の中でいまや最も働く意欲が低いのが日本だという調査結果もありますが、遊ぶ意欲を煽られてきた結果かもしれません。

遊ぶ面白さと働く面白さと比べたら、どちらが面白いでしょうか。
あるいは持続し発展していくでしょうか。
いうまでもなく、働く面白さだと思います。
しかし、働く面白さが奪われてしまい、遊ぶ面白さを強制されてきているのが昨今の日本かもしれません。
働くことも遊ぶことも、ともに強制されているような気がします。
まもなく、遊ぶことの面白さも失われていくでしょう。
それは、生きることの面白さや感動を失うことなのかもしれません。

地方に行って、タクシーに乗ると、いろんなことを感じます。
社会は相変わらず壊れ続けているようです。

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2009/06/09

■ラビエンヌスの信義

「友愛」の話を何回か書きましたが、NHKの大河ドラマ「天地人」では、「義」と「愛」がテーマのようですので、「義」の話も書いておきます。
「愛」とともに「義」が失われてきているのが、いまの私たちの社会だという気がするからです。

私はそれなりに「義」を大事にしています。
「不義理」もたくさんしていますが、一応、意識的には「義」に生きたいと思っています。
「友愛」を語っているジャック・アタリは「義」(フィデス)に関してはあまり語っていませんが、彼の「21世紀事典」には「信頼」(confiance)の項はあります。
そこには、信頼こそがすべての分明の支柱だが、市場や契約の文化は信頼の倫理の価値を低下させ、信頼は徐々に権利と裁判制度に置き変わっていくだろうと書かれています。
「義」と「信頼」は別物ですが、義が失われていけば、自ずと信頼関係は成り立ちにくくなります。

塩野七生さんの「ローマ人の物語」によれば、ローマ人は義を大切にしたようです。
契約よりも法よりも、人間同士の義が優先されたようです。
しかし、これは何もローマ人に限ったことではありません。
日本でもしばらく前まで存在していた文化です。
武士道の話ではなく、庶民の世界の話です。
10年ほど前ですが、山梨に転居した人から聞いた話ですが、講のような組織があって、そこの行事が何よりも優先されるので、会社を休まなければいけないこともあるのだそうです。
その根底には、たぶん「義」につながるものがありそうです。

「ローマ人の物語」には、カエサルとラビエンヌスの話が出てきます。
カエサルがルビコンを渡ろうとした時、彼がもっとも信頼していた副官のラビエンヌスが、渡河の前夜、カエサルのもとから去ったのです。
ラビエンヌスは、カエサルの敵になるであろうボンベイウスと義を交わしていた関係柄だったのです。
ラビエンヌスがカエサルの許を去ったのは、ポンペイウスへの義からでした。
それを知っていたカエサルは、自分を裏切ったラビエンヌスを非難するどころか、彼の荷物をわざわざ送り届けさせたそうです。
私が大好きな種類の話なのですが、個人間の義よりももっと大きな儀があるはずだという意見もあるでしょう。
理屈では、私もそう思います。
小さな義のために自死する政治事件や経済事件の報道に接すると、私はいつもそう思って、死者は犬死ではないかなどと思ってしまいます。
しかし、もしかしたら、瑣末に思える個人間の「義」こそが、人のつながりの根源であり、社会の基本なのかもしれないと、いう気もするのです。
大きな義よりも小さな義のほうが大切だということです。

この話を書き出すとそれこそ、社会とは何かという大命題にまで至ってしまうのですが、義のない社会は存続できません。
つまり壊れるしかないのです。

大きな義が失われだしてからもうだいぶ経ちますが、私の周りでは、小さな義も急速になくなってきています。
おそらく自分では気づいていないのですが、私もまた「義」を欠いた生き方にどんどんなってきているのでしょうね。
今日はどうも自己反省、自己時評になってしまいました。

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2009/06/07

■友愛の社会

最近の社会の壊れ方に、私自身それなりに危機感を持っています。
もっともそうした意識を持ったのは中学生の頃からですから、この半世紀、一体何をしてきたのかと反省しなければいけません。
何もしなかったわけではなく、それなりにやってきたこともありますが、物事、成果が出なければ意味がないと最近は感ずるようになって来ました。
そうであれば、もっと活動しなければいけないのですが、根が怠惰なのとどこかに覚めた自分がいるのです。
困ったものです。

今日、地元の仲間たちとの集まりがありました。
地元に新しい風を起こしたいと、もう半年くらいやっているのですが、毎回のように少しずつ仲間が増えてきます。
みんな「何かをしなくては」という思いがあるようです。
怠惰な私は、本当はあまりやりたくなく、ある人から相談を受けたので断れずに参加しているので、本当はどこかで抜けたいのですが、新たに参加してくる人の話を聞いていると、抜けるわけにもいかなくなってしまうのです。
みんな地域を愛しています。

ホームページに書きましたが、元大企業の経営者だった友人と話していて、あまりにも私と同じ考えを持っているのに驚きました。
大企業の経営者も、もしかしたらまだ捨てたものではないかもしれません。
希望を感じました。
企業経営幹部の集まりにもコーディネーター役で関わっているのですが、これも最近は退屈でやめたいのですが、やはり続けようかと思いなおしてしまいました。
実は、そこでも最近、「愛」が語られることが増えているのです。

自殺のない社会づくりネットワークを立ち上げるために準備会を発足させました。
新聞やネットで知った方から参加の申し出があります。
若い人も決して少なくありません。
みんな、今の社会に違和感を持っているようで、何かしたいと思っているのです。
そういえば、これもホームページに書きましたが、先週は、60代から70代の数名の人にお会いしましたが、みんなそれぞれのテーマで無私の思いで、おかしくなってきた社会をどうにかしたいとがんばっています。
その根底には、隣人への愛を感じます。
怠惰な私としては、どれもこれも関わりたくないのですが、気がつくと勝手にコミットしている自分がいます。
どうしようもなく、困ったことなのですが。

テレビや新聞で報道される事件を見ていると社会はどんどん壊れるだけだと思ってしまいますが、そうした動きの一方で、さまざまな「希望の動き」も広がっているのです。
そんな動きには関わりたくないのですが、不思議なもので、希望は私のような怠惰な人間も引き込んでいくのです。

今日の「天地人」では、直江兼続が自らの「義」を表わすものとして「愛」を選んだ話でした。
この「天地人」はシナリオがめちゃくちゃで毎回イライラしてしまいますが、まあそれはそれとして、「義」と「愛」はつながっています。
勝手な解釈かもしれませんが、それらは「友愛」と置き換えてもいいように思います。

友愛の政治、友愛の経済、について書きましが、社会の根底にあるのも「友愛」です。
怠惰な私にさえ、それが見えるのですが、怠惰だからこそ見えるのかもしれません。
みんな忙しくなりすぎました。
友愛と忙しさは、両立しないのかもしれません。

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2009/05/23

■家族が新型インフルエンザにかかったらどうしますか

今日の朝日新聞の夕刊に、次の見出しの記事が出ていました。

家で「隔離」1週間 感染の高校生、
電話でつながる家族
記事によるとこんな話です。
新型インフルエンザに感染した神戸市の女子高校生が、1週間、自分の部屋から出ないよう病院と保健所から指示され、同居の家族とも、電話の子機だけでのつながりだったというのです。
わが家では絶対にありえない話です。
と言うか、常識的に考えても、あってはいけない話ではないかと思うのですが、どう考えても恐ろしい話です。
念のために、わが家の娘たちに確認したら、やりすぎだろうというので安心しました。
ハンセン病を思い出すといったら、批判されそうですが、どこかに通ずるものを感じます。

家族の誰かが病気になったら、私は自らがたとえうつる恐れがあったとしても、生身で看病しますし、看病してほしいと思います。
もちろん伝染しないように細心の注意は払いますが、それでもうつってしまったら、それは仕方がありません。
法的に決められている伝染力の強い病気で、病院に隔離されるのであれば、それは受け入れますが、「隔離」の発想の恐ろしさを感じます。

大変失礼ですが、その家族の親たちの見識を疑います。
そうした発想が自然と出てくる人たちが増えていることに対して、不気味さを感じてしまいます。
鳥インフルエンザにかかった鳥を大量廃棄処分にする発想と同じではないでしょうか。
いや、これ以上、恐ろしい妄想を発展させるのはやめましょう。
しかし、こうした話は、決して笑い話ですますべきではありません。

私は家族からは必ずしも同意されていませんが、風邪菌にも場を与えていくことが必要ではないかという思いを持っており、毎年、風邪を引いています。
風邪を引いたら3日ほど、彼らに活躍してもらいますが、4日目からは彼らに退出してもらうようにしています。
今は亡き妻は、そうした私の発想をいつも笑っていましたが、私はかなり真面目にそう考えています。
大げさに聞こえるでしょうが、もし生物多様性論を口にするのであれば、それくらいの自己犠牲は甘んじて受け容れるべきでしょう。
まあ、あまり論理的ではなく、たぶん支離滅裂なのでしょうが、私は本能的にそう思っています。

今回のインフルエンザ対策はもちろんですが、最近の病気予防対策には違和感があります。
風邪が怖くて、生きていけるか、という気がします。
インフルエンザに罹るのも、また人生なのです。
風邪を引いたことのない人生よりも、私は引いたことのある人生が豊かなような気がします。
また支離滅裂になってきましたので、やめましょう。

みなさん
家族が新型インフルエンザにかかったら、親身に看病しましょう。
それでこそ家族です。
人間というものがわかっていない医師の言いなりになってはいけません。
治る病気も治らなくなりかねません。
但し、その結果、問題が起こっても私は責任は取りません。
それは皆さんの家族の問題だからです。

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2009/05/21

■社会の組み立て方のパラダイム転換

昨日、市民社会フォーラムというのに参加しました。
増田元総務大臣が「地方自治と市民社会」をテーマにお話しし、その後会場との質疑応答がありました。
お話を聴いていて、問題はやはり社会の構造原理をどうとらえるのかということではないかと、改めて思いました。
簡単にいえば、社会の構造を「統治の視点」で考えるか、「暮らしの視点」で考えるかです。

自治というのは、本来、「暮らしの視点」での発想ですが、明治以来の日本の「自治」は「統治」の視点で考えられているように思います。
増田さんの話はとても誠実でしたが、やはりこれまでの「統治の枠組み」で語られていたように思います。
そこからは市民社会の論理は出てきません。

ところが、質問に応えながら、最後に増田さんは、これからはコミュニティをベースにして社会を組み立てていくのがいいというお話をされたのです。
コミュニティ、つまり「暮らし」から組み立てる社会像と「統治」のための分権型の社会像は、まったく正反対のところに位置するものだと思っている私にとっては、仰天するような話です。
もし近隣コミュニティを起点にして社会を構想するのであれば、まさにパラダイム転換しないと制度は構築できませんし、生活次元に向けての「分権」発想は出てこないでしょう。
選挙マニフェストも、いまのような目線の高いものにはなりません。
増田さんは、マニフェストを「住民との契約」と定義しましたが、これは統治、あるいは王様の論理です。
近代政治思想の出発点はいうまでもなく、社会契約論にあるわけですが、その契約を縦軸で捉えるか横軸で捉えるかによって全く違ったものになります。
昨今の「協働のまちづくり」は縦軸ですから、分権論議と同じく、構造を変えるものではありません。
行政内部の横の協働、住民同士の横の協働がないままに、各論的な縦軸の協働ができても、パラダイムは変わりません。
長年続いた「住民参加」と同じく、住民の暮らしの視点からは無意味な取り組みです。

増田さんの誠実なお人柄とビジョンをベースにしたら、おそらく新しい市民社会論が構想されるように思いましたが、やはり発想のパラダイムが近代の呪縛、あるいは統治の呪縛に陥っているような気がしました。

フォーラムには若い学生がたくさん参加していました。
若い行政職員も参加していました。
彼らが、いま育ちつつある、住民同士の横のつながり、市民同士の横のつながりの動きに気づいていくことを願っています。
アタリやネグリが展望している新しい動きが、少しずつですが、動き出していることに、救いを感じます。
分権論議が、それを邪魔しなければいいのですが。

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2009/05/19

■コンフォーミティ社会ではマスクをしないと異端者になりかねません

今日、降圧剤をもらいに近くのクリニックに行きました。
いつもは混んでいるのに、何と誰もいませんでした。
窓口に人に、新型インフルエンザの報道のせいですかね、と訊いたら、それもあるかもしれませんね、という答でした。
まあ、たまたま私が行った時だけすいていたのかもしれませんが、毎月、通っているのにはじめてのことでした。

昨日、テレビで、街頭でマスクをしている人へのインタビューで面白い回答がありました。
最近はマスクをしていたほうが、「異端」にはなりませんので。
まさにコンフォーミティ社会の到来です。

アッシュの実験という、社会心理学の古典的な話があります。
数名のサクラの中に一人だけ本物の被験者をまぜたグループをつくり、そこに長さの違う3本の直線をみせて、それとは別の1本の直線と同じ長さのものを選ばせます。
普通の人であれば、かんたんに見分けられるような問題です。
しかし、サクラたちはわざと間違った答、しかし全員が同じ答をし、最後に被験者に答えさせると、被験者はサクラたちと同じ答をしてしまうことが多いという結果が出たそうです。
「同調(コンフォーミティ)効果」と呼ばれる現象です。
この観察から、他人に同調しない人はかなりのストレスを持つだろうことが示唆されています。

この実験は有名な話で、私も何回かホームページで紹介していますが、これと似た話に、フェスティンガーの実験というのがあります。
グループの中にサクラを一人だけ入れて、他のメンバーと違った判断をさせると、みんなの関心はそこに向かい、サクラに意見の転換を迫った、そうなのです。
「異端者」は組織の、つまり社会の安定を壊しかねないために、排除されなければならないというわけです。

こうした理論は、すべて安定的な秩序を志向する近代の知なのです。
しかし時代は、ホメオスタシスからホメオカオスの時代に動いていますから、最近ではまあそんなことはなく、組織ではむしろ「異端者」が評価される時代になってきていますが、実体のないふわふわした「社会」全体では、まだまだコンフォーミティ信仰が大勢を占めているのでしょう。

みなさんはマスクをして外出しますか。
マスクをしていなければ不安な社会には、私は生きていたくないので、マスクはしません。
もちろん自分が風邪を引いたりしたら、マスクはしますが。

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2009/05/18

■ゼロサムゲームの世界の中での過剰対応の危険性

新型インフルエンザの患者数が日本でも100人を超えました。
きちんと検査したら、その数倍はいるという意見もあります。
学校が1週間休校になるなどという動きも出ています。
それにしてもどこもかしこも大騒ぎです。
騒ぎすぎではないかとある人に話したら、用心にこしたことはない、と怒られました。

でも、そうでしょうか。
みんな大切なことを忘れています。
それは、あることに限られた資源を注入すれば、必ずどこかで誰かがしわ寄せを受けるのです。
いささか極端のことを言えば、いまの新型インフルエンザへの大騒ぎでの対応の影響で、だれかが十分の対応を受けられずに、病気を悪化させ、差異枠の場合は生命を落としていることがないとは限りません。
まあそれは考えすぎだとしても、医療資源や検疫資源は限られていますから、どこかで被害を受けている人がいることは間違いありません。

その反面で、新しいことをやるわけですから、誰かが大もうけすることも間違いない事実です。
念のために言えば、マスクが跳ぶように売れているのでマスクを売っている人が儲ける、などという話ではありません。
もっと大きなところで、誰かが儲けているはずです。
と言うのは、それがこの半世紀の資本主義の本性だからです。
ビジネスとは市場を創造すること、つまり「問題(不幸)」を起こすことなのです。
アメリカの映画の観すぎではないかといわれるかもしれませんが、映画で描かれるようなことは実際にはどこかで行われているような気がします。
「事実は小説より奇なり」なのです。

いずれにしろ、私たちは限られた資源の中で生きています。
それを忘れてはいけません。
政治の世界もそうです。
まあ、最近の私たちは「朝三暮四」の話のサルのレベルに落ちていますから、まあ新型インフルエンザもがんばって十分に対策すればいいでしょう。
豚インフリエンザや鳥インフルエンザが最近、ヒトにうつるのは、もしかしたら私たちがサルに近づいているからかもしれません。
そう考えるといろんなことが納得できます。
いや、いささか失言が過ぎたかもしれません。
困ったものです。

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2009/05/16

■原宿の賑わいは何も変わっていませんでした

2年ぶりに原宿に行きました。
といっても、BS朝日に行くために通っただけなのですが、地下鉄の明治神宮前駅から外に出たら、若者たちで歩けないほどごった返していました。
こういう若者の街にはこの数年ほとんど足を踏み入れていないので、歩くのが大変です。
朝のラッシュ時の駅構内以上の混み具合なのです。
この世界にはもうとてもついていけなくなっています。
交差点近くでは若者の一段が勝手にダンスをしています。
最近はこらえ性がないので、そうした一団を避けることなく、私はそのど真ん中を歩くようにしていますが、まっすぐ歩けませんので、だんだん不快になってきます。
それにしても人が多いので、車道を歩くことにしました。

そうしたら今度は歩道に長い行列です。
フォーエヴァー21という店に入るのに並んでいるのだそうです。
その長さがまたすごいのですが、たかが安物(値段ではありません)の服を買うのに長い行列に並ぶような若者が惨めに思えてきます。
まあ私はあまりファッション感覚がないので、最近の若者の流行の服は全く好きではないのです。
もちろん猫も杓子も着ている黒いビジネススーツよりはましですが。
黒いビジネススーツを着ている若者を見るとほんとうに哀れに感じます。
まあ彼らは私を哀れに感じるかもしれませんが。

余計な話を書いてしまいましたが、用事を終えて4時間後にまたその道を通ったら、何と行列はまだ同じ長さで続いているのです。
消費文化はまだ健在なのです。
こうした社会のどこが100年に一度の不況なのでしょうか。
こうした連中になんで私たちの税金の中から浪費のための給付金をださなければならないのか。
理解に苦しみます。

道路を歩けないほどふさいでいるのに、警官は交通整理もしていません。
デモ行進の規制をするくらいのエネルギーは割いてほしいものです。

消費大国日本の状況は、まだ何も変わっていないような気がしてきました。
最近またエコポイントなどという、わけのわからない浪費刺激策が登場していますが、そんなことをやるんだったら消費税など論外ではないかと思います。
ちなみに私は「高消費税論者」です。
消費を抑制することにこそ、持続可能な経済があると考えているからです。
経済とは何かを考えて見なければいけない時期になっています。

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2009/05/10

■マスクつけず観光地巡ることは非難されることなのか

とても嫌な感じの報道が最近は少なくないのですが、今朝の朝日新聞の次の見出しにはいささかの恐怖感を感じました。

マスクつけず観光地巡る
記事はこう書いています。
大阪府教委などは9日、感染が拡大するカナダで生徒らがマスクを着用せず、観光地などを巡っていたことを明らかにした。
語学研修でカナダに行っていた高校生たちが、昨日帰国し、新型インフルエンザに感染していたことが判明したのですが、それに関連した報道です。
テレビでも学校側がこの点を記者から追及され謝罪していましたが、とてもとても気になる風潮です。
マスクしなかったことがそんなに大きく取り上げられるほどのことかと思うわけです。
恐ろしい予兆を感じます。

マスクをしないことが非難される時代になってきた。
国旗に対して敬意を表しないと処罰され、国家を歌わないと非難される。
そうした時代気分は、どんどんと広がっているようです。

その一方で、電車の座席で化粧している女性を放任し、泥酔して電車に乗ることを禁ずることもない状況ですから、まあ何が非難され、何が許容されるのかが、よくわかりません。
しかし、マスクをしなかったことで非難するような文化は、いささかぞっとします。
こんな見出しをつける新聞社の意識を疑います。

もちろん、感染は防ぐにこしたことはありません。
それに誰だって病気になりたいなどと思ってはいないでしょう。
しかしだからといって、完全防御の生活をしなければいけないわけでもありません。
顰蹙をかいそうですが、ほどほどに感染し、ほどほどに病気になる社会のほうが、健全であり、健康であるような気がします。
パンデミックがどういうものなのかよくわかりませんが、かつてペストが流行したにはそれなりの理由があったように思います。
それが問うているのは、決して、一国の水際で病原菌が入ってくるのを食い止めれば事が済むというような話ではないような気がするのです。
水際で食い止めることにどんな意味があるのか、私には理解できません。

やはり私の常識は、どこかでずれているのかもしれません。
私は、もちろん時代のほうがずれていると思ってはいるのですが。

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2009/05/06

■危険から逃げる社会と危険を克服する社会

新型の豚インフルエンザの情報が連日、マスコミから大量に放出され、パンデミックの危機を煽っているような気がしてなりません。
もちろん十分な対策をとるために情報を積極的に出すことは必要ですが、その出し方やマスコミの取り上げ方にどうも扇動的なイメージを感じます。
「パンデミック」という言葉も、何か不気味さを感じさせます。
流行を食い止めるのは大切ですが、その反面で何かが犠牲にならなければいいのですが。

発熱症状のある患者が医療機関から診療を拒まれるという状況がすでに発生しています。
東京都の発熱相談センターには、すでに100件近い報告が寄せられているそうです。
海外への修学旅行の中止や延期も報道されています。

危機管理体制が整っている証拠という見方もできるかもしれませんが、どこかに「危険から逃げる社会」を感じてしまいます。
危険から遠ざけた環境に育った子どもたちのひ弱さや「無菌社会」の落とし穴が話題になったこともありますが、どこかそれに似たものを感じてしまいます。

こうした不測の事態に対しては、「逃げる」か「立ち向かう」かですが、いまの対応はどちらでしょうか。
報道を見ていると、どうもこれまでは危険から逃げてきたのではないか、という気がします。
なぜそう思うかといえば、これまでもサーズだとか鳥インフルエンザだとか、同じような体験があったように思いますが、その体験があまり活かされずに、同じような慌て振りをしているように感ずるからです。
特にそう感じたのは、医療機関の対応に関する厚生労働省の方針です。
テレビでしか見なかったので誤解があるかもしれませんが、一般の医療機関では対応しないことのほうが流行を防止するというようなメッセージを感じました。
机上論では間違いなくそうでしょう。
しかし、実際の現場の対応を考えるとそんな話は絵空事でしかありません。
現場から発想して取り組んでいる、たとえば仙台市のように、現実に立脚して、危険に立ち向かう真剣さを感じません。
現場に立脚すれば、危機を煽り立てることなど考えられません。
現場での選択肢は、危機に立ち向かうしかないからです。
そして、その体験は必ず体験知として社会に蓄積されていくでしょう。

今回の豚インフルエンザ流行の報道をみていて、「危険から逃げる社会」と「危険を克服する社会」があることに気づきました。
それはもしかしたら、「危険から逃げる企業」と「危険を克服する企業」というように、「社会」の部分を「企業」や「行政」や、「生き方」に変えてもいいでしょう。

私自身、若い頃は、危険を克服する生き方を少しは意識していましたが、最近はどうも、危険から逃げる生き方だけになっているのではないか、そんなことを気づかされています。
生き方を変えなくてはいけないと思いなおしました。

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2009/05/03

■自己実現の落とし穴

先日、地元のNPOネットワークの集まりに出たことはCWSコモンズに書きましたが、そこで千葉県のNPO担当の人が、NPO活動には「サービスの提供」と「参加する人の自己実現」という2つの役割があると話しました。
NPOの2つの役割。
前に紹介した田中弥生さんは「サービスの提供」と「参加する人の市民性の向上」と言っていますが、「自己実現」と「市民性の向上」には雲泥の差があります。
その集まりでも、私は一言述べておきましたが、真意は伝わったでしょうか。

「自己実現」
よく使われる言葉であり、私も一時期、それにプラスの価値を与えていました。
しかし最近、その言葉にどうも抵抗を感ずるようになってしまっています。
大切なのは、「自己実現」ではなく「実現しようとしている自己」なのだと気づいたからです。
たとえば先日裁判が行われたJR荒川沖駅周辺での通り魔殺人事件の犯人の行動も、自己実現といえないことはないでしょう。

たばこ総合研究センターが出している「談」という雑誌がありますが、その最新号に芹沢一也さんが次のように語っています。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

生活世界の喪失を補償しようとするセキュリティは、それを実践する過程で一種の快楽を生み出しています。
たとえば、防犯パトロールに勤しむ住民たちは、そうした実践に参加することによって、生きがいや人とのつながりといった、とても具体的な生の充実感を手にすることができる。
その愉悦に満ちた振る舞いが、結果として弱者を排除していくわけですが、しかしながら現在にあっては、そうした住民もいつまで「内部」にとどまれるかはわかりません。
内部と外部を隔てている境界線は、住民たちが信じ込んでいるほど、現在にあっては堅固なものではないのです。
「外部」へと放り出された時、そこは生存への配慮が枯渇した不毛地帯です。
そして、善意と快楽に満ちた監視の眼差しに取り巻かれる。皮肉としか言いようがありません。
この15年間、私はさまざまな市民活動にささやかに関わってきていますが、ずっと感じてきたことを見事に表現しています。
こうした、自分の世界に浸ってしまっている「市民活動家」にたくさん出会ってきました。
彼らが一様に言うのは、しかし、「社会のために」と言う言葉です。
私は「社会のために」とか「社会貢献」などという言葉を自分の行動の説明に使う人にはとても違和感を持ちます。
それは、他者に言われる言葉であって、自分で言う言葉ではないだろうと思うのです。
しかし、私のところに来る人はなぜか、この種の言葉をよく使います。

もっとも、「市民性の向上」という言葉も、「社会のため」とそう変わらないような気もします。
私にとっては、そもそも「市民」などという言葉さえ、まだしっかりと理解できていないのです。
このことに関しては、これから時々書いていこうと思います。
とりあえず、「自己実現の落とし穴」だけを今日は問題提起しておきたいと思います。
その落とし穴に陥っている人が多すぎることに、最近、辟易しているのです。

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2009/05/01

■パンデミック?

「パンデミック」と言う言葉を頭に刻んだのは、辺見庸さんのテレビ番組でした。
今年の2月1日のETV特集です。
彼は、カミユのペストの医師について語りました。
この小説は、私もかなりの影響を受けた小説ですので、思い出して読み直しました。
あまりの重苦しさに、実は途中を読み飛ばして、希望が見えてきたところを2回ほど繰り返して読みました。
歳のせいか、最近は思い内容の小説は読めないのです。
その時、辺見さんが使っていた「パンデミック」という言葉は、象徴的な意味だと受け止めていました。
まさかペストが再流行するはずもないと思っていたのです。

ところがそれから3か月しかたっていないのに、まさに言葉そのものの意味での「パンデミック」です。
マスコミ情報だけではなく、私の周辺でさえ、その騒ぎに巻き込まれている有様です。
恐ろしいほどの広がりです。
しかも、それが日本では一番の行楽シーズンに発生したのです。
そこに天の啓示をどうしても感じてしまいます。

しかし、どこかで「本当なのか?」という疑念もあります。
これまでも似たような話は何回かありましたが、いつもたいしたこともなく、75日で消えてしまう噂のような結末でした。
今回は、どうなのでしょうか。
テレビでは異常に感ずるほどの報道が続いていますし、薬局の店頭からはマスクが消えているようです。

でも、なんだかどうもおかしいです。
テレビで思い切り不安を高めているわりには、現実の対応策にはおかしさも感じます。
仙台方式、つまり熱が出たらいつものかかりつけに行くということを前提にした対策は効果的でしょうが、論理演算的に講じた国の対策は、どうも現実的ではありません。
絵空事にしか感じません。
リアリティが感じられないのです。

みんなが深々とマスクをしている風景も、違和感があります。
なんだかどこかで基本的に何かが違うような気がしてなりません。
何が違うのか、わからないのですが、テレビを観ていてともかく違和感があるのです。
なぜでしょうか。

流行しているのはインフルエンザではなく、違うものなのではないのか。
そういう疑念から抜け出られずにいます。

でもまあ、手洗いとうがいはちゃんとしています。
心は洗えませんし、うがいもできませんが。

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2009/04/29

■自殺企図者という言葉

その世界には、その世界の言葉があるものですが、そうした言葉からその世界の本質が見えてくることは少なありません。
人は言葉によって、思考が大きく影響されますし、外部とのコミュニケーションにおいても言葉の役割はとても大きいです。
言葉は文化や生き方を規定します。

私は20年近く前に保育の世界に関わりましたが、その時にショックを受けた言葉が「措置」でした。
保育にかける子供を「措置」する、といった表現が保育者から出てくると、その人の人格さえもが疑われましたが、当時の福祉の世界ではほとんどの人があまり違和感なく使っていました。
私が違和感を表明すると賛成はするのですが、やはり次もまたその言葉を使います。
私が、それぞれのタコツボの中で問題解決していても限界があると感じたのは、そういうことの積み重ねでもありました。
しかし、措置などという発想で扱われる子供たちが不幸に思えました。

自殺関係のNPOに関わりだしてからもう5年ほど経ちますが、最初に違和感をもった言葉は「自殺企図者」です。
自殺を企てる人という、文字通りの意味なのですが、私にはなじめない言葉でした。
しかし自殺防止に取り組んでいる人たちには違和感がなさそうです。
今回、「自殺のない社会づくりネットワーク」に向けての集まりをやったのですが、その案内などにはみんなの意向もあって「自殺企図者」という文字をそのまま使っていましたが、どうにもやりきれない気持ちがしてきて、最後の資料づくりの段階では勝手に「自殺を考えたことのある人」という表現に変えました。
たぶん、「自殺企図者」という言葉は、私の辞書からはなくなりました。

自殺とは無縁な福祉活動に取り組んでいる人たちに、「自殺企図者」という言葉の印象を聞いてみたのですが、ある人は「ドキッとしました」と言いました。
だからこそ効果のある言葉なのかもしれませんが、その人は私と同様にこんな言葉を使われると、このテーマには距離を感じて関わりたくないと思ったそうです。

私にとっては、「自殺企図者」は人間性を感じない冷たい言葉です。
こういう言葉を語っている限り、自殺問題の本質は見えてこないのではないかと思うほどです。
ちなみに、福祉の世界にはそういう言葉が少なくないように思います。

ある人と話していて、自殺は「するもの」か「させられるもの」か、という議論になりました。
彼は、自殺を企図するのであれば、それを止められるはずがないのではないかと言いました。
私は、自殺は「する」ものではなく、「させられる」ものだから止められるし、止めないといけないといいました。
私にとっては、自殺は「企図」の対象にはなりません。
「自殺問題」をどう考えるかの、本質的な問題がそこにあるように思います。

誤解のないようにいえば、私は「自殺企図者」という言葉を否定しているのではありません。
私には違和感があると言っているのです。
今でも「措置型福祉」を望んでいる人も少なくありませんし、行政の基本発想は法が変わろうと制度が変わろうと、措置発想が今なお強いように思います。
私は反対ですが、それはあくまでも私の個人的意見でしかありません。
様々な考えがあっていいのです。

この時評編では、私は自分の考えを断定的に言い切ることが多いので、誤解されがちなのですが、ここで言い切っている考えは、あくまでも私の個人的な意見であり、普遍性があるわけではありませんし、これが正解だなどというつもりもありません。
コメントやメールで時折私の考えを否定してくる人がいますが、そんなに買いかぶってもらう必要はありません。
いろいろな考えがあればこそ、社会は豊になるのです。

自殺の問題も非常に微妙な問題なので、考えを言い切ることへの反発があるでしょうから、あえて蛇足的にいいわけを書いてしまいました。
最近、不快な批判に答えるのが疲れてきましたので。

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2009/04/26

■草彅剛事件

非常識だといわれることをまた書きます。
俳優の草彅剛さんが自宅近くの公園で、深夜裸になって騒いでいたことが大きな問題になってしまいました。
当初のテレビの報道は「わいせつ事件で逮捕」でした。
鳩山大臣は「最低な人間」だと吐き棄てるように言いました。
どうも最初から違和感がありました。
地デジのCMに起用していた人物を、そう言い切りました。

もう25年以上前の話ですが、日本IBMの宣伝担当の人と話していて、なぜ日本IBMはテレビ宣伝にタレントを使わないのかという話になりました。
その人は、会社のイメージを一人の人物に託するのは、よほどの注意が必要で、慎重な飢えに慎重にするのがIBMの方針だと説明してくれました。
その言葉で、私は日本IBMが好きになりました。
ちょっと人気が出たからといって、お金に任せて宣伝の起用する企業の姿勢にはとても違和感があります。
人気を利用するのであれば、それなりの覚悟をすべきです。
「最低の人間」を起用した最高責任者の鳩山さんは、最低以下の人間だと反省すべきです。
その認識がなくて、人を最低呼ばわりしてはいけません。
そう思いました。

それにしても、テレビの報道はあまりにセンセーショナルです。
瑣末な事件とはいえませんが、もっと大きな事件があるだろうにと思います。

ここまでは、さほど「非常識」ではないと思いますが、
さらに私は思います。
彼が言ったように、「裸になって何が悪いのか」
電車の中や街中での日中の行為であればともかく、夜の誰もいない公園です。
騒いだのは問題ですが、騒いだだけでは「わいせつ」などという言葉は使われないでしょう。
テレビで「わいせつ行為」と流されてしまうと、後では修正できないようなダメッジを受けてしまうでしょう。
本人が起こした事件だから仕方がないというかもしれませんが、やはり私には納得できません。

どうも割り切れない、嫌な報道事件です。
どうも最近、こうした違和感のある犯罪事件づくりが多いような気がします。
お前も公園で裸になりたいのかと怒られそうですが、私の場合は、その勇気もありませんし、お酒も飲めないので酔うこともないのです。
でも、なにか嫌な感じが残る事件です。
みなさんはいかがでしょうか。

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2009/04/17

■「自殺ストップ! 自殺多発現場からの緊急集会」

今朝の朝日新聞に、こんな小さな記事が出ていました。

水俣病の未認定患者の救済問題で、今国会に提出された与党の救済法案に反対する11の患者団体が15日、斉藤環境相と面会し、補償費用を確保するために原因企業チッソを分社化することや、患者認定の審査窓口を閉じることが法案に盛り込まれたことに抗議する声明を手渡した。
12日に熊本のNPOの集まりに参加したのですが、その主催者から、今日は水俣で水俣病関係の集まりがあるので、そこの人たちは来られなくなったという話を聞いていました。
そうか、まだ水俣病は動いているのだと思い出しましたが、もしその会話がなければ、この小さな記事は見落としていたでしょう。
水俣病の未認定患者の救済問題では、元水俣市長の吉井さんが異論を持って関係委員会を辞めてしまったというところまではフォローしていましたが、その後、頭からすっかり抜け落ちていました。
新潟水俣病患者救済の動きは、これも地元の知人が集まりに参加して、ライブな情報を提供してくれていたので認識してはいたのですが。

さまざまな問題が中途半端に対応されているために世の中は問題山積みで、とても追いかけておられず、ついつい報道がないと忘れてしまいます。
おそらく全国各地では、さまざまな問題が取り組まれていますが、全国ベースではそれらが見えなくなってしまっているわけです。
逆に言えば、全国ベースでは見えにくくなっている問題も、それぞれの地域では意識されて顕在化しているわけです。
熊本の人たちにはまだ水俣病は終わっていないわけです。
現場の世界とマスコミ情報の世界は大きく違います。

最近、自殺問題がかなり社会的関心を高め、マスコミでも話題化されてきました。
NPOライフリンクの活動もあって、自殺対策基本法もでき、行政の取り組みも大きく変化してきました。
ライフリンクの清水さんの働きは驚異的ですし、その成果もまた驚異的です。
しかしながら、自殺者の数は依然として3万人を超えたままです。
昨今の景気低迷の中で、今年はさらに増える恐れさえあります。
自殺多発現場といわれるところで、日々、自殺防止に取り組んでいる人たちにとっては、これはとても心外なことでしょう。
現場から見える社会の実相は、このまま放置できないようです。
そこで、現場に立脚した取り組みをスタートすることにしました。
私も、ささやかながらそれに関わらせてもらうことにしました。

4月25日、「自殺ストップ! 自殺多発現場からの緊急集会」を開催します。
これを皮切りに、現場起点での実践的な、しかしやわらかなネットワークを育てていく計画です。
現場活動者のネットワーク、自殺未遂体験者のネットワーク、そうした人たちを支援するネットワーク、そうした3つのネットワークを育てながら、「支え合い元気ネットワーク(仮称)」づくりをめざしていければと思っています。
緊急集会の案内は次のところにあります。
http://homepage2.nifty.com/comcare/kickoffevent.htm

またこうしたネットワークづくりの準備委員会も発足させます。
一緒に取り組んでいってくれる人たちを募集中です。
協力してくださる方がいたらご連絡ください。
このままでは、社会が壊れ続けそうです。

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2009/04/15

■痴漢逆転判決が示唆するセキュリティ社会の落とし穴

昨日の朝日新聞で大きく取り上げられていた記事です。

車内で痴漢をしたとして強制わいせつ罪に問われた名倉正博・防衛医大教授(63)=休職中=の上告審判決で、最高裁は懲役1年10カ月の実刑とした一、二審判決を破棄し、無罪を言い渡した。
21世紀に入り、犯罪に対する日本社会の意識は大きく変わったといわれます。
被害者視点が一挙に高まり、ゼロリスク志向が高まったのです。
前に教育に関してゼロ・トレランスに関して書いたことがありますが、同じ流れです。
犯罪被害者支援の動きも広がってきました。
それに関しては、私も共感しています。
しかし、それに伴う落とし穴にも留意しておかねばなりません。
落とし穴とは、過剰なセキュリティ社会への動きです。

リスク社会議論は確率論の世界です。
リスクをミニマイズすることで、みんなが安全安心に暮らせる社会が目指されます。
しかし、私たち個人の視点に立てば、重要なのは確立ではなく、実際に起こるかどうかです。
つまりそこでは、ゼロリスク発想になるわけです。
そこで何が起こるのか。
少しでもリスクを感じさせるものには排除の圧力がかかります。
やや極端に言えば、「疑わしきは罰する」社会の到来です。
しかも厳罰が求められます。
犯罪者の更生よりも犯罪者の排除や隔離が重視されます。
そうした流れの中で、少年法は変えられましたし、心神喪失者に対する保安処分さえ制度化されました。
いや、心神喪失者に限りません。
すべての人を監視する監視カメラも広がっています。
監視社会化に関しても以前書きましたが、私自身の意識も当時とはかなり変わってきています。
セキュリティ社会はいまや大きなうねりになってきており、そこでの生活に慣れてしまうと、さらなるゼロリスクを求めたくなります。

社会的排除が問題になっている、その根底のところで、実は社会的排除の流れが強まっているのは、いかにも皮肉な話です。
しかももっと皮肉なのは、排除する方がいつ排除される方に追いやられるかわからないということです。
社会的排除の理論は、常にその可能性をもっているからです。

今回の痴漢逆転判決は、そうしたことを考える上で大きな示唆を与えてくれます。
セキュリティ社会におけるセキュリティとは何かを考えてみるべき時期のように思います。
過剰なセキュリティ状況にある子供たちの未来は、間違いなく安全ではありません。

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2009/04/11

■「自らの考えを善と主張する悪」

友人からのメールに面白い話がありました。
息子さんが就職し、バイク通勤することになったのだそうです。
それまでつかっていたバイクを使用するというので、
せめてもの親心という思いで、汚れていたバイクを雑巾で綺麗に拭いてあげたのだそうです。
そうしたら、息子さんから「余計なことしないでよ」と怒られたというのです。

そのつづきは、その人から来たメールを引用させてもらいます。

彼らしからぬ物言いに、ちょっと驚いたのですが、
きれいな車やバイクだとイタズラされるとのこと。
わざと汚れるままにしていたのです。
子ども達をとりまく現場の厳しさは承知していたはずなのに、
あらためて現実を突きつけられた思いでした。
いろいろ考えさせられる話です。
おそらく私たちは、自分では気づかないままに、こうした「余計なこと」をいろいろとしてきているのでしょうね。

ヘーゲルは、近代の啓蒙社会には、それまではなかった新しい「悪」が現われたといいます。
「自らの考えを善と主張する悪」です。
神から解放された主体性をもった人間は、自らの考えを持つことができるようになりました。
ということは、世の中に多様な考えが発生したということです。
いわゆる価値の多様化ですが、そのことは自分の考えと違う考えを尊重するということが重要になってきたということです。
まあ、ヘーゲルを持ち出すほどの話ではないではないかと言われそうですが、私はこの話を聞いて、すぐにヘーゲルと多文化共生に取り組んでいる友人の顔を思い出しました。

自分の考えで人と関わるのではなく、人とのかかわりの中から自分の考えを育てていくことがますます大切になってきているような気がします。
私自身の直すべき点を教えてもらったような気がします。

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2009/04/07

■機械的につながってしまった社会の脆さ

オフィスに出かけようと我孫子駅に着いたら、またダイヤが乱れていました。
実は先週のダイヤの乱れた日に、あわてて電車に乗って、回送の電車に乗ってしまった経験があるので、今度はゆっくりと状況を判断しました。
原因は、代々木公園駅の信号トラブルでした。
人身事故でなくてホッとしました。
そのため、千代田線は我孫子と松戸の区間往復運転でした。
細かく言うと、途中の松戸・綾瀬間と表参道・代々木上原間の2区間が不通になっていたのです。
千代田線に並行して走っている常磐線は正常でした。

まあそれだけの話なのですが、こうしたことからもいろいろなことがわかります。
千代田線に乗ったこともない人には、場所の感覚がわからないでしょうが、代々木公園駅は千代田線の我孫子と反対側の終点の手前の駅です。
そこの信号トラブルにもかかわらず、なぜ遠く離れた松戸・綾瀬間(これは相互乗り入れのJR区間です)が不通になるのか、不思議です。
まあ、そんなことに頭を働かせていると、この厳しい社会は生きていけないような気もしますが、逆にそうしたことに気づかないために、みんな生きにくくなってしまっているのかもしれません。

遠く離れた東京メトロ管区の信号トラブルが、それとつながっているJR管区の電車の不通を引き起こしているということは、象徴的です。
社会はいまや実に複雑に絡み合っています。
関係は見えなくとも、すべてが連動しているのです。
世界にはもはや、自分の日常の暮らしと無縁なことはないのです。
いつ見えないつながりを通して、自分の暮らしに津波が押しよせてくるかもしれません。
北朝鮮のミサイル事件は、見えているだけ安全なのかもしれません。

さらにいえば、さまざまな仕組みのつながりは、それこそ自己創成的に、リゾーミックに成長しているのです。
したがって、もはや管理不能になりつつあります。
もちろん、その管理不能な仕組みを意図的に操作することは可能ですが、そのリスクは大きいです。
昨今の金融の混乱は、その現われだろうと思います。

ところで、今回は千代田線と並行して走っている常磐線が正常運転をしていたのですが、実はこれは珍しいことなのです。
いつもはどちらかがトラブルに会うと、他方もそれに付き合う構造なのです。
そうしたダブル不通に出会っていつも感ずるのは、JRの「安全」観への疑問です。
これは書き出すと長くなるので、また機会を改めます。

第一、千代田線の事故なんて、皆さんの関心事ではないでしょうし。

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2009/04/05

■世界を見る枠組み

昨日の話です。
JRの小田原駅のホームで、中年の男性が怒って、隣のたぶん知り合いでない男性に話していました。
「次の電車の発車まで15分もあるので、ゆっくり歩いてきたら、階段を下りたら前の電車のドアが閉まった。まだ前の電車がホームにいるのに、改札口の表示ではもう発車済みになっていた。まだホームにいたことを知っていたら、急いでホームに着て乗れたのに、15分もホームで待たないといけない。むかしはこんなことはなく、ホームの駅員が階段の上を見て下りてくる人がいないか確認したものだ。」

怒りが止まらなかったのか、次の電車が来るまでの15分近く、ずっと怒りをぶちまけていました。
私も似たような体験がありますが、最近は駆け込み乗車を避けるために少し早目に表示を替えるようです。

まあどうでもいいような話なのですが、その人の話を聞きながら(大きな声で話していたので耳に入ってきたのです)、私も最初内心で賛成してしまいました。
私も全く同じ行動をしていたからです。
表示がもし替わっていなければ私も十分間に合いました。
正直、ちょっとムッとしました。
もし彼が私に話してきたら、同調してしまったかもしれません。
しかし、やはりこれはJRの対応が正しいように思います。
むしろ、急いで乗ろうとして怪我をする危険から守ってくれたことを感謝すべきです。

この話はいろいろと考えさせられました。
まず、私たちはどうしてこうもせわしなくなってしまったのかということです。
次に、私たちはどうしてこうもわがままになってしまったのかということです。
まあ、これは私自身の生き方への反省ですが、もうひとつ気づいたのは、
みんなのために親切な仕組みをつくればつくるほど、みんなの不満は高まるということです。
つまり、満足と不満とは反比例の関係にあるのではなく、比例関係にあるということです。
これはとても示唆に富むことです。
満足も不満も同じことだということを示唆しているのですから。

私たちは往々にして、いわゆる対立概念は反対のものだと考えがちです。
しかし、もしかしたら、私たちが考える「対立構造」は根本から間違っているのかもしれません。
つまり私たちが世界を見る枠組みが大きく変わってきていることに気づいていないのかもしれません。
枠組みを変えると、きっと私たちの生き方も変わっていくでしょう。

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2009/03/25

■愛が奪われるとどうなるのか

今日の挽歌編との二部作です。

「死刑になりたくて殺傷事件を起こした」
驚くべき動機を口にする加害者が増えています。
毎年自殺者が3万人を超えている世相とどこかでつながっています。

その世相とはどんなものか。
企業は利益を減らしたくなくて、非正規雇用者を解雇しました。
利益をあげたくて、非正規雇用者を増やしたのと同じ発想です。
そうした思いの根底には、「人の情」が欠落しています。
経済は「情の世界」ではないと思いがちですが、たとえば労働生産性を決めるのも顧客満足を決めるのも「人の情」、つまり「愛」です。
その認識が昨今の企業からは欠落しています。
それが、いまという世相を象徴しています。

世相を覆っているのは、「愛の不在」ではないか。
社会から「愛」がなくなってきている、そんな気がしてなりません。
働く人に対する「愛」があれば、業績が悪くなったからといって、簡単に解雇できません。
商品に対する「愛」があれば、偽装とか安全性軽視など起こるはずもありません。
会社を愛していたら、会社の不正を許してはおけません。
原材料を愛していたら、無駄な廃棄物などだしはしません。

社会のあり方を主導し、私たちのライフスタイルに大きな影響を与えてきた企業や職場から、愛がなくなってきてしまったのは、いつからでしょうか。
温かな第二の家庭とも言われていた職場は、もはや完全な利益社会になってしまいました。
そこを覆っているのは、金銭的損得や勝ち負けの論理です。
愛など考えている余裕はなくなってしまいました。

その文化は企業や職場に留まってはいませんでした。
家庭にも学校にも、地域社会にも友だち関係にも、急速に広がりました。
「愛」がないほうが、生きやすいのではないか、とみんな思い出したのです。
いえ、そう思うように仕向けられたのです。
そして、「愛」が商品になり、教材になったのです。

愛があればこそ、無味乾燥な環境世界が躍動してくるのですが、
愛がなければ単なる生活を閉じ込める壁や床でしかありません。
愛がなければ隣人の悲しさも辛さも読み解けません。
愛がなければ、生きている意味が見えなくなりかねません。
生きようとする元気さえも交換できないかもしれません。

いまの時代の生き辛さは、私たちが「愛」をおろそかにして、あまつさえ「愛」を商品にしてしまったからなのではないか。
そんな気がしてなりません。
もっと「愛」を取り戻さなければいけません。
そうしなければ、自殺者も殺傷事件も、減ることはないでしょう。
まず、家族や隣人を愛することから始めたいものです。

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2009/03/24

■NPO法人「彩経会」が背負わされたこと

入所者10人の犠牲者を出した群馬県渋川市の高齢者向け住宅「静養ホームたまゆら」の火災は、実にさまざまなことを考えさせられる事件でした。
施設を運営しているNPO法人「彩経会」の理事長(84)が、今日、記者会見で陳謝していましたが、見ていて複雑な気持ちでした。
この事件だけをみれば、もちろん悪いのは理事長をはじめとした施設運営者たちでしょう。
彼らをとがめるのは簡単です。
こうした状況は、「たまゆら」だけの特殊事情なのでしょうか。
私にはそうは思えません。
問題はもっと根深く、社会のあり方そのものが象徴されているように思います。
私たちの生き方と言ってもいいかもしれません。
決して他人事とは思えません。
NPO法人「彩経会」が背負わされたことの重さは、かみしめてみることが必要かもしれません。

そうしたこととは別に、もうひとつ感じたのは、NPO法人というものに対する複雑な思いです。
NPO法人は、市民の自発的な組織のように思われていますが、必ずしもそうではありません。
政府は法人化という資格を与えている以上、その活動に関しては当然責任を持つべきですが、私が知る限り、行政が財政支出削減のための事業委託先として創設を働きかけたNPOもあります。
今回のNPO法人がそうだとはいいませんが、NPO法人があまりに安直にもつくられ、しかも大きな責任を付与されていることに違和感があるのです。
私もいくつかのNPOに関わっていますし、あるNPOの理事長も引き受けています。
しかし、NPOの組織原理や事業活動はどうあるべきかが、まだよくわかりません。
今回のような福祉施設の経営は、企業でもできるわけですが、なぜNPO法人として取り組むのかも理解できません。
NPOで取り組みのであれば、その基本には「人のつながり」といった、企業で行なうのとは違ったものになるはずだと思いますが、そうはなっていないようです。

最近は社会起業家とかコミュニティビジネスとかいう言葉が広がり、そうした事業体も増えていますが、これまでの収益志向の企業とどこが違うのだろうかと思ってしまうものが少なくありません。

NPO法人の法律ができたのは10年前ですが、その法律に目的は何だったのでしょうか。
そんなことも、理事長の会見を見ながら考えせられました。
どこかに間違い、もしくは不整合があるような気がしてなりません。

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2009/03/14

■「対立」から価値を創発させる第三者の役割

先日、東京で行われたあるシンポジウムに参加した人たちと会ったら、NPOの人たちはとてもいい活動をしてくれているのだが、現場で活動している自分たちにはどうも違和感があると嘆いていました。
その言い方の後ろに、たくさんの思いがあるのを感じて、改めて当事者たちの活動を外部から支援することの難しさを感じました。

多くの場合、現場外の活動をしている人たちも、善意で真剣に取り組んでいますから、良い関係ができるといいのですが、おそらく現場で見える風景とマクロ的な見地から見えてくる風景はかなり違っているのでしょう。
だからこそ、それぞれの取り組みに価値があるわけですが、そのつながり方が難しいようです。
どうしても現場よりも、マクロ的に活動するほうが大きな力を得やすいからです。
現場をどう支援できるのかが、マクロ的に活動する人の基本姿勢でなければいけません。
それさえ忘れなければ、マクロ的な視点での活動は、必ず現場を力づけることになるでしょう。

しかし、時に現場の人たちを邪魔したりすることも起こります。
たとえば、都立七生養護学校「こころとからだの学習」事件です。
新聞でもかなり大きくとりあげられましたので、ご存知の方が多いと思いますが、知的障がいを持つ子どもたちの養護学校で教員たちが創意工夫を積み重ねて行っていた性教育の実践が、東京都の都議会議員や教育委員会の介入によって壊滅に追い込まれ、教員が大量処分されたという事件です。
詳細については、「こころとからだの学習」裁判支援サイトをご覧ください。
この事件については、私自身はあまり関心をもっていなかったのですが、友人から話を聞かされて、その意味を改めて考えさせられました。
私が一番残念だったのは、都議会議員の言動ではなく、その際にも同席していた教育委員会のその後の行動です。
新聞によれば議員の攻撃が起こる前までは、七生養護学校の事例は高く評価されており、東京都教育委員会でも、そこの教員を講師に招く研修会も開いていたそうです。
議員の介入が行われた後は、態度が一変したといいます。
現場の人たちが営々と築き上げてきたものを「権威ある部外者」が壊してしまうことは少なくありません。
そして、それを守る人が最近はめっきり少なくなってしまいました。

ゼロか100か。
「権力ある人」が、ある判断をすると、とたんにみんな言動を豹変させる状況が急速に社会を覆いだしています。
いずれの側に対しても、当事者とは違った視点で評価できる「第三者」がますます必要になってきているように思いますが、そうした「第三者」がいなくなりだしているのです。
それでは社会はもろくなってしまいます。
社会をもろくしないためには、第三者の存在を大事にしていくことが大切です。

これからはそうした「対立」をつなぎ、そこから新しい価値を「創発」する存在を増やしていかねばなりません。
そういう人こそが、これからの時代を造りだしていく人だろうと思います。

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■緊張感のない毎日

政治的にも経済的にも大変な状況なのに、なぜか緊張感のない毎日です。
政治も経済も、瑣末な話ばかりがニュースになっています。
結局、今はあんまり大変ではないのでしょうか。

先週、南紀白浜の三段壁で自殺防止活動に取り組んでいる人から、今日は2人の人を保護しましたとメールをもらいましたが、そうした現場では今の社会の実相を感ずることができるのでしょうが、どうもマスコミからは深刻感が伝わってきません。

定額給付金をもらった人が、テレビカメラに向かって、刺身を買って食べた、1万円なんかすぐなくなってしまった、と話していましたが、今日の生活をどうするかに直面している人の気持ちは逆なでされるのではないかと心配になりました。
私でもいやな気分でした。
1万円あれば、3人家族の我が家では1週間の食事が十分に賄えるでしょう。

政治は相変わらず小沢さんと西松建設の話題です。
検察はさすがに気が引けたのか、自民党議員に対して形だけの捜査を行いましたが、相変わらずターゲットは小沢さんですし、マスコミはほとんどがそれに迎合しています。
報道ステーションの古館さんは、果敢に抵抗していますが、彼にもかなりの圧力がかかっているでしょう。
どこまで持ちこたえるかは、日本のジャーナリズムのこれからに大きく関わっています。

小沢さんが西松建設をはじめとしたゼネコンと関係があったことを否定するつもりは全くありません。
関係があったに違いありませんし、小沢さんの古い政治体質を肯定するつもりも全くありません。
しかし卑劣な権力のやり方と権力に尻尾を振るマスコミには虫唾がはしります。
寄ってたかって不二家を追い詰めのとは違うかもしれませんが、手のひらを返したようなキャスターやコメンテーターの発言には、気が萎えてしまいます。
それに、小沢さんのそうした体質や行動を知りながら、自分たちの代表にしていた民主党議員の、いまさらの小沢批判にも不快感があります。
マスコミは民主党が壊れだすのをなぜかあおっています。
マスコミは、要するに問題が広がれば広がるほど、いいからでしょう。

毎日、とてもやりきれない気持ちです。
それにしても、緊張感がありません。
どこかに間違いがありそうですね。

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2009/03/09

■「人の幸せは自分の幸せ」

昨日、ぐんまNPO協議会の集まりに参加させてもらいました。
そこでお2人の方からとてもうれしいお話を聞かせてもらいました。

おひとりは会社を定年退職された後、病院などで患者さんに楽しんでもらう活動を始めたのだそうです。
最初は、果たしてみんな喜んでくれているのだろうか、とても心配だったそうです。
ところがある人から、相手を楽しませるのではなく、自分が楽しむことが大切だといわれたのだそうです。
それ以来、気が楽になり、その活動がとても楽しくなったそうです。
もちろんみんなも楽しんでいることが伝わってくるようになったでしょう。

もうおひとりはこれまで13年間、カンボジアの学校の改築活動をされている方です。
ご自分で会社をやっているため、年金は生活には必要ないので、もらった年金を投入して、この活動を続けているのだそうです。
13年前には300万円あれば、校舎が改築できたそうです。
今は500万円かかるそうですが。
毎年1校が目標だそうです。
最初は、カンボジアの子供たちのためと考えていたそうですが、ある時に、これは自分のためなのだと気づいたそうです。
そこからますます楽しくなり、13年も続いてきたのです。
今では仲間も増え、NPOの代表も別の人がやっていますが、その人も含めて、お二人ともとても幸せそうでした。

「人の幸せは自分の幸せ」
私もそんな話をさせてもらったのですが、実際に活動されている方たちは、そんなことなどよくわかっているのです。
しかも心身で実感しています。
NPOの中間組織の人や行政のNPO支援部署の人たちとの温度差をいつも感じますが、「人の幸せは自分の幸せ」だと気づく人が増えてくれば、きっともっと住みやすい社会になっていくでしょう。
しかし、まだ現実は、「人の不幸が自分の幸せ」と勘違いしている人も少なくないのが残念です。

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2009/02/13

■「過剰反応社会」

昨日の夕刊の記事から2つの話題です。
時津風部屋の力士暴行死事件の初公判で、前親方は「暴行を指示したことはない」と述べたそうです。
キャノンの大分工場建設に関連して御手洗会長の友人が下請業者などを指示した事件で、鹿島建設側は「キャノン側の意向と理解し尊重せざるを得なかった」と言っているそうです。

いずれも「権力に迎合するための過剰反応」ですが、権力は、本質的に、そうした「過剰反応」で自らを支えています。
多くの場合、過剰反応するほど権力に近づけますから、よほど注意していないと過剰反応が日常化してしまいます。
権力に過剰反応することは、私も身近で結構体験してきました。
過剰反応させるほうが悪いと私はいつも思っていますが、自らに関しては過剰反応しないように注意してきました。

時津風部屋の事件で言えば、「暴行の指示」は言葉で行われなくても、指示がなかったとはいえません。
言葉などは、指示の一部であるのが日本の文化です。
とりわけ「言葉の少ない相撲界」では、すべてが過剰反応で成り立っているともいえます。

鹿島の事例は、3人が見事に「権力迎合文化」に悪乗りしています。
御手洗会長は、そうした権力支配ではすでにいろいろと不正が取りざたされている人ですが、だからこそ大久保被告は利用できたのでしょうし、鹿島も信じてしまったのでしょう。
悪い人には悪い人と悪事が集まるものです。
そして権力もまた集まってくるものです。

こうした事件は、毎日の新聞をよく読んでいると、本当に多いように思います。
その背景には、思考停止する生き方の広がりを感じます。

過剰反応は権力迎合に限ったわけではありません。
広義では権力にもつながっているのかもしれませんが、その広がりは広範囲です。

たとえば、弱者救済や顧客サービスのための過剰反応も少なくありません。
最近は少なくなりましたが、専門店などでの過剰対応で買う気をなくすこともありますし、押し付け的な弱者支援が行われることもあります。
企業やサービス機関などへの電話で、相手があまりに丁重すぎて説明過剰な体験も時々します。
まさにマニュアル通りにやっていると感じますが、遮断するのも申し訳なく思い、当方が気兼ねをしてしまうという逆サービスが生じることもあります。
さらに、日常生活でもないわけではありません。

「過剰反応社会」
そこから抜け出るのはよほどしっかりした自分を持つ必要があります。
私もまた「過剰反応」しないようにしたいですが、その反動で、「過少反応」になっていなければいいのだがと、いささか心配です。

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2009/02/11

■漢字検定ビジネス問題に思うこと

漢字検定で高収益を上げてしまった公益法人が問題になっています。
まあ国家行政機関の高収益に比べれば、たかだか数百億円でしょうから高がしていますが、資格検定制度はまさに働かずに稼ぐバブル事業モデルだと思っています。
しかも、この事業モデルは華道や茶道のような、日本の伝統文化の中で育てられてきています。

私は「資格」の類を一切持っていませんが、子ども頃から資格に関しては生理的に馴染めませんでした。
それに資格を得るために努力することの出来ない人間でした。
高校と大学は受験しましたから、10代の頃までは徹底していませんが、20代以降は怠惰を決め込んできました。
同時に、資格ビジネスには大きな違和感を持っていました。
資格を与えてお金をとる。つまり資格の売買のようなイメージが私には強すぎるのです。
何だか、人間の豊かさ(個性や能力)が貶められているようで、嫌な気がします。

弁護士や公認会計士などの専門家としての資格は、信頼関係構築のための社会の複雑性の縮減のために必要ですし、それらは「資格」が目的ではなく、「仕事」をするための要件ですから、意味合いは全く違います。
しかし、漢字検定だとか英語検定とかいう話になると、どうも違和感があるのです。
ましてやそれがビジネスになるというのは不思議です。
まあ一種の化粧ビジネスと思えばいいのかもしれませんが、その化粧ビジネスも私には違和感がありますので、どうもだめなわけです。

検定ビジネスは「事業利益」という点では魅力的でしょう。
うまくいけば、働かずに定期的に利益が入ってくる仕組みが構築できるからです。
違和感はありますが、その一方で、私も不労所得が継続的に入ってくる「資格提供者」の立場になりたいと思わないわけではありません。
まあ、そこが私のいやしいところですが、もしそうなれば、その利益でいろいろなことができるでしょう。

それにしても最近は驚くほどさまざまな資格検定があります。
私の友人知人も、なんだかさまざまな資格を持っている人が多いです。
そういう話を聞くと、資格制度に違和感を持っているといいながらも、どこかで感心したりしてしまう自分に気づいて、やはり人間は資格には弱いものなのだと思ってしまうこともあります。
どうも私は、いやしいだけではなく、同調主義者でもあるようです。

しかも、こんな資格認定制度を作って儲けようなどという誘いがあると、ついついその儲け話に乗りたくなりさえします。
幸いに今のところは、実際には乗ったことはありませんが、それは主義のためよりも怠惰なためです。困ったものです。

時評のつもりが、懺悔になってしまいましたが、こうした資格検定ビジネスを強力に支援してきたのが政府であることを忘れてはなりません。
「検定」などの仕組みに飼いならされてはいけません。

そのことの意味を書こうと思っていたのですが、懺悔が長くなってしまいました。
また機会を改めます、

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2009/02/09

■節子への挽歌526:節子がいればこそ身軽に生きられた気がします

今日もまた、挽歌編と時評編を絡み合わせながら書きます。

昨日、時評編に「妻(伴侶)がいればこそ、身軽に生きられることを実感として知ってしまった」と書きました。
これはおそらく常識に反します。
家族がいればこそ、慎重にならざるを得ないというのが一般の考えです。
それが真実であることは確かですが、しかし1人よりも2人の方が行動しやすい場合もあります。
節子がいなくなって、私の行動力は間違いなく低下しました。
人は一人では生きていないことを、節子がいなくなってから痛感しています。

私は47歳で会社を辞めました。
次の仕事があったわけではありません。
生き方を変えたかった、ただそれだけです。
多分私一人であったら、決断できなかったように思います。
仕事は一人になってもできますが、生きる基盤である生活には私は全く自信がなかったからです。
辞める時、経済的な心配がなかったわけではありません。
しかし、節子と一緒に汗と知恵を出したら、生活費くらいはどうにかなるだろうと思っていました。
新聞配達を2人ですることも考えていました。

一人だとお金がないと不安ですが、不安を分かち合える人がいれば、お金はなくても立ち向かえるのではないかと思います。
現実を知らない甘い発想だといわれそうですが、いざとなれば「仕事がない」といわれる過疎地に行けば、稼ぐ仕事はなくても、生きる仕事はあるはずです。
いま都会では仕事がなくて、住まいまでなくて、困っている人が少なくありませんが、少し発想を変えれば、いろいろな生き方があるように思います。
やはり、発想が甘いでしょうか。

さて時評編的な話はこのくらいにして、挽歌編的話を書きます。

私が生き方を大きく変えたり、お金と無縁な仕事にのめりこんだりしてきたのは、節子の支えがあったからです。
楽観主義の私も、時に不安で眠れない夜もありましたが、その時は隣に節子がいるのが支えでした。
節子が何かをやってくれるわけでもないのですが、いざとなったら助けてくれるという安心感があったのです。
それに、何よりも、私の生き方を全面的に信頼してくれている人がいることはどれほど心強いことか。
それは節子がいなくなった今、よくわかります。

伴侶とは、相手を拘束する存在ではなく、自由度を高める存在ではないかと思います。
少なくとも、節子は私にとって、そういう存在でした。
節子がいなくなったために、最近の私の心身はとても重い気がします。

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2009/02/08

■お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない

昨日、ボランティアフォーラムTOKYO 2009に参加しました。
お金も大切だけれど、もっと大切なものがあるのではないかというワークショップです。
そこでの話は、挽歌編に書きましたので、よかったら読んでください。
一番大切なのは「愛」。
「愛」と「お金」は同じ類の言葉かもしれないということも、そこに書きました。
今回は挽歌編とワンセットです。

私と一緒にゲストで参加した姜咲知子さんの生き方は見事です。
9月から3か月近い韓国巡礼に出向くのですが、そのためには「仕事も家も邪魔になる」と、会社を退職し、借家契約を解約し、いまは茨城県の八郷の有機農園で住み込みの生活をして、韓国巡礼の準備をしています。
「仕事も家も邪魔になる」生活。
会場にいた契約社員の人たちはどう思ったでしょうか、

姜さんはまだ30代のシングルですから、こうした身軽な生き方ができるのだと思う方がいるかもしれません。
私も数年前まではそう思っていました。
しかし、いまはそう思っていません。
妻(伴侶)がいればこそ、身軽に生きられることを実感として知ってしまったからです。

お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない、という人も少なくありません。
今回も、無所有とか本来無一物とかの言葉がでたのですが、それに対して契約社員の方から、そんな甘くはないのが現実だと指摘されました。
それはよくわかります。
何しろ明日の食事代もなければ、今夜宿泊するところもない状況が起こりえるのですから。

たしかにお金があれば、食事や宿泊の問題は解決できます。
しかし、なぜ毎日、そうした問題に悩まされなければいけないのか、です。
バラバラの生き方の中で、自己責任や自立が基準になってしまえば、いざと言うことを考えるとお金が不可欠になってきます。
しかし、大家族の中で隠居した高齢者はお金がないと生きていけなかったでしょうか。
自分では稼ぐ事のできない乳幼児はどうでしょうか。
そうした人たちは、ほかの家族に支えられてお金などなくても生きていけたのです。
その大家族を地域社会にまで広げた、下町生活は貧しいながらもお互いに支えあって生きてきました。
お金を稼げない人もいたでしょう。
稼げない時期もあったでしょう。
しかし地域共同体の中で、生きていけたのです。
その地域社会を、さらに広げていったらどうでしょうか。

しかし、今の世界はそれとは逆方向に行っています。
大家族は核家族に変えられ、夫婦は支えあうのではなく稼ぎあう関係になり、男女共同参画などという経済主義に汚染されたまま、支え合いの関係は金銭主義の中で競い合いの関係へと変質していきました。
地域社会は、市町村合併という「自治壊し」の動きによって、生活から切り離されていきました。
つまり、「お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない」社会が着々と構築されだしているのです。
そのために、みんな「お金の奴隷」へとならざるを得なくなっているのです。
「お金があれば生きられるが、愛だけでは生きられない」などという幻想をすてなければいけません。

また言葉が走りすぎていますね。
長くなったので、また明日続きを書きます。

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2009/02/04

■相撲界の不祥事から感ずること

大麻所持で逮捕された若麒麟の解雇処分をめぐって、また相撲界への批判が高まっています。
なぜこうも同じことが繰り返されるのか不思議ですが、その根幹は、相撲界がお金に浸りきってしまったからではないかと思います。
相撲界に限りません。
スポーツ界全体が、そうなっているような気がします。

十両の若麒麟の月給は100万円強ですが、おそらく後援会にいる、スポンサーからの資金などを合わせると、これを大きく上回るものと思われます。
一方で、幕下になるまでの下積みの過酷な状況に比べるとあまりの格差に驚きますが、そうした「格差構造」は権力支配型の組織構造の特徴といっていいでしょう。
この点からも相撲協会の本質が見えてきます。
そうした体質の権力志向体質が、一連の事件の根底にあるように思います。

それはともかく、25歳の若者が毎月100万円を超える給与をもらうことの意味を考えるべきだろうと思います。
一方で、寝る時間を惜しんで過酷な条件で働きつめても、1か月20万円にも満たない人たちがいます。
所得の格差こそが、新自由主義経済の柱であり、それがあるから競争を刺激し経済が活性化するという考えもあるわけですが、やはり私には所得格差の限界というものがあってしかるべきではないかと思います。

力士の働きを考えれば、もっと給料を増やしてもいいのではないかという議論もあります。
給与の水準が適正かどうかは、考え方によって違うでしょうから、それを指摘するつもりはありません。
2つの価格方程式については書いたことがありますが、給与に関しても同じようなことがいえます。
つまり、投入負担の視点から考えるか、それが稼ぎ出した金額から考えるかです。
稼ぎ出した金額と市場側から考えた価格方程式を組み合わせると、まさに金融工学者の出番となり、バブル経済が実現します。
スポーツ経済は、まさにその先駆的な役割を果たしたのだと、私は思いますが、それは当然のことながら、金に文化を売ってしまったことになります。

この議論もとても大切だと思いますが、今回の事件で素朴に思ったのは、25歳の若者に毎月100万円も支給したらお金に振り回されるのではないかという危惧です。
お金は、人を幸せにしますが、また不幸せにもすることができます。
そして、その文化で育った人たち、たとえば相撲協会の親方たちも、たぶん金銭感覚は汗して働いている人たちとは違うでしょう。
パトロンであるタニマチ筋の文化も影響しているかもしれません。
タニマチ筋の人たちの金銭感覚は、自分自身の額に汗して働く庶民のそれとは全く違います。
税金や保険料を使うことに慣れている政治家や官僚ほどではないにしても、お金の価値は一桁も二桁も違うはずです。

若麒麟の言動は、私には日本相撲協会の役員たちの言動に重なってみえますし、さらにいえば、他のスポーツ界や芸能界の人たちの言動にも重なってみえます。
格差社会がもたらした、もうひとつの悲劇かもしれません。
おそらくその広がりはすでにかなりのものでしょう。
そのお金に汚染された社会を、若者たちがモデルにして生きているとしたら、未来は私が思うような世界にはならないでしょうね。
いささか悲しい話です。

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2009/02/03

■辺見庸とカミユとシジフォス

一昨日のテレビのETV特集でみた、辺見庸さんの話し方が、どうも気になっています。

辺見さんは、現在進みつつある“破局”は、経済だけのものではない。
人間の内面性も崩壊しつつあるのではないか、といいます。
そして、
「奈落の底で人智はどう光るのか、光らないのか、それが早晩試されるだろう」と語ります。
辺見さんの語り口は、静かに迫ってきます。
しかし、共感しながらも、どこかに違和感があります。
以前、読んだエッセーのような、強い波動が伝わってこないのです。

辺見さんは、後半でカミユの「ペスト」に言及します。
大学時代、私が最も感動した小説であり、私の生き方に少なからぬ影響を与えた小説です。
昨年、「異邦人」を読んだ後に読み直しましたが、なぜ学生の頃、あんなに感動したのか、不思議な感じがしたほど、静かに読めました。

「ペスト」のあらすじはこうです。
はじまりは、医師のリウーが階段でつまずいた一匹の死んだねずみでした。
やがて、死者が出はじめ、町はパニックになっていきます。ペストが流行りだしたのです。
町の司祭は、ペストを人間に反省と自覚の機会を与える神の恩寵だと考えます。
しかし、悲惨と苦痛を前にして、何もしないのは「狂人か卑怯者」だと考える医師リウーは、敗北を繰り返しながら、シジフォスのように全力でペストと戦いつづけるのです。
そのリウーに協力したのが、無神論者のタルーでした。
やがて多くの犠牲者を出したペストは、突然潮が退いたように終息します。
しかし、そのとき、タルーは感染し、息を引き取るのです。
そして、残されたリウーのところに、地方で療養中だった妻の死の知らせが届くのです。

こうまとめてしまうといかにも平板ですが、印象的なのはリウーの誠実さなのです。
辺見さんは、番組でもそれを強調していました。
私がこの本から学んだのは、無駄を誠実に生きる生き方と負け戦(いくさ)の価値です。
私が失敗の可能性の大きなプロジェクトが好きなのは、そのせいです。

学生の時読んだ本をまた読んだのですが、最後のほうに、赤線が引いている部分がありました。
赤線を引いたのはずっと覚えていたのですが、予想していた内容ではありませんでした。
その部分を引用します。

リウーには、究極においてタルーが果たして平和を見出したかどうかはわからなかったが、しかし少なくともこの瞬間、自分自身にとってはもう決して平和などありえないであろうこと、同様にまた、息子をもぎとられた母親や、友の死体をうずめた男にとって休戦などは存在しないことだけは、わかっているような気がした。
当時私は、この文章に何を感じて線を引いたのでしょうか。
それが全く思い出せませんが、今日突然に、一昨日テレビで感じた辺見さんのイメージと重なっているのに気づきました。
リウー医師も辺見さんも、平和、希望を失ってしまったのではないか。
しかし、誠実に生きるしかない人生に安堵してしまったのではないか。
それは、巨岩を山頂まで運んでは落とされるシジフォスを思わせます。
テレビで見る辺見さんの言動は、まさにシジフォスそのものでした。
それが、今回、鼓舞されなかった理由かもしれません。

ちなみに、
人智が試されているのは、「早晩」どころではなく、もう試され終わったのかもしれない。
そんな気がしてなりません。

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2009/02/02

■誠実に生きることを阻害する社会

昨日、あるメーリングリストで「右派政治団体によるデモを撮影中に妨害される」という体験が投稿されました。
あまりにもうるさいデモ行進を路上で撮影していたら、「公安刑事(と思われる人)から取り押さえられた」のだそうです。
本人のブログで映像も紹介されていますので、ご覧ください。
同じブログに、新宿東南口広場での街頭演説に対する警察の介入のことも紹介されています。

最近、金泰明(大阪経済法科大学教授)の「欲望としての他者救済」を読みました。
読み終えた時に、なぜか涙が出ました。
本を読み終えて、涙が出たのは初めての体験です。
その本の最後の「そのような自由な市民になりたいと、わたしは心から願う」という1行に、感動したのです。
著者の金泰明さんは、この本の中で、「ふとしたことで、苦境に陥った知人を助けたために、思わぬ難儀にあった」ご自身の体験を紹介しています。
もし書店で本書を見つけたら、その部分(185~188頁)だけでも読んでみてもらえるとうれしいです。

「そのような自由な市民」
それは本書を読んでもらわないとわかってはもらえないでしょうが、誤解を覚悟で、最後の1行の前に書かれている文章を引用させてもらいます。

人に頼まれたからでもなく、いやいやするのでもなく、気がついたら、いつでも気持ちよく因っている他人を手助けできる、そんな「私」であるために、わたしは、つねに自分への配慮から出発し、良心にもとづき判断・行動し、市民としての自覚をもち続けたいと思う。

私が常々意識している生き方に重なっています。
私には「社会のために」という意識は全くありませんが(「社会のために」という意味が理解できないのが理由ですが)、自分を誠実に生きることが、みんなが快適に過ごせる社会に繋がっていくと考えています。
また、そうなるように、いつも自分の生き方を問い直しています。

誠実に、素直に生きている人が、事件に巻き込まれることは決して少なくありません。
事件に巻き込まれはしないとしても、あまり「いい目」にあうことはありません。
それに、今の時代は、誠実に生きることがとても難しいような気がします。

しかし、やはり、誠実に、素直に生きていかないと生まれてきた意味がありません。
残念ながら、私自身、そうした誠実さを最近失ってきているような気がしています。
なぜか以前のように心身が動かないのです。

昨夜、NHK教育テレビのETV特集で、辺見庸さんの独白が放映されました。
そこでもカミユの「ペスト」の主人公の「誠実さ」が言及されていました。
「誠実さ」とは何なのだろうか。
そのことがとても気になりだしました。
偶然にも昨年、40年ぶりに「ペスト」を読んだのは、何かの意味があるのかもしれません。

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2009/01/29

■仕事とお金の関係の見直し

地元で活動している(私以上に)シニアなTさんから相談があるので会いたいという連絡があったので、今日は出かけずに在宅していました。
たまたまスペインタイル教室をやっている娘のところに、その方とは別の(私以上に)シニアのBさんが来ていましたので、教室が終わった後、少し話させてもらいました。
お2人とも以前からの知り合いで、いずれもさまざまな活動をされています。

Bさんは、まさに遊学的生活を楽しまれています。
スペインタイル教室通いもまさにその一つで、タイル作りに専念している時は至福の時間だそうです。
Bさんのもう一つの至福の時間はアッカド語です。
アッカド語を学びながら、書き写しているそうですが、1行をマスターするのに1時間以上かかるのだそうです。
テキストを見せてもらいましたが、1冊を仕上げるにはかなりの時間がかかりそうです。
その時間感覚はまさに非日常的です。
ちなみにBさんは現役時代ある大企業の経営者でしたので、当時の時間とは全く違った世界にいるわけです。
Bさんは、しかし自分のためだけにそうしたことをしているのではありません。
地元の集まりの世話人もやっていますし、何よりもそうやってしっかりと学んでいる姿を次につづく世代の人たちに見せたいという思いがあるのです。

Aさんも現役時代は自分の企業を経営していた人です。
引退後、それまで培った豊富な知見を活かしながら、地元(我孫子市)のまちづくりに積極的に関わっています。
私が長らく関わっていた山形市の出身であることもあって、親しくさせてもらっていますが、ビジョンと夢をしっかりと持った方です。
今日はまた新しい構想を聞かされ、協力を要請されました。
面と向かって頼まれると断れないのが私の性格ですので、またまた引きずり込まれそうです。

(私以上に)シニアな人たちからの要請は、お2人に限ったことではありません。
先週も、先々週も、別のCさん、Dさん、Eさんから相談を受けています。
近くのFさんも相談したいと言っていましたので、近々相談に来るでしょう。

実は、社会には仕事が山ほどあるのです。
時間を持て余したシニアの人たちは、そうやって「仕事」を見つけ出し、創りだしているのです。
それはお金に余裕のある人の道楽だと言われるかもしれません。
それに対価ももらえず、むしろ持ち出しの活動は仕事とはいえないだろうという人もいるかもしれません。
しかし、そうでしょうか。

お金はなくても生きていけるが、仕事はないと生きていけない。
そして誠実に仕事をしていたら、お金は後からついてくるものだ。
これが私の信念です。
残念ながら、確信を持って誰にでもお勧めできるまでには至っていませんが、私はこの20年、その信念のもとに何とか生かせてもらっています。
まさに、信ずるものは救われる、です。

シニアの方たちが、なぜお金目的ではなく、活動をするのか。
そこに大きな示唆があります。
仕事とお金の世界を分けて考えるべき時代が来ているような気がしてなりません。

ガンジーは、「すべての人の必要を満たすに足るものが世界には存在するが、すべての貪欲を満たすに足るものは存在しない」と言ったそうですが、私もそう思います。
本来、人の数だけ仕事はあるはずなのです。
たしかに、子育てなどでお金が無いとやっていけないライフステージはありますが、それこそ社会の仕組みで対応できる話ではないかと思います。
これに関してはいつかまた書くようにします。

ガンジーが指摘しているように、貪欲と浪費が欠乏につながっているのです。
2006年に公表されたデータによると、「OECDにおける相対性貧困率ランキング」は、日本はアメリカに次いで第2位だそうです。
どこかで私たちの意識を変えないと、この状況から抜け出せません。

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2009/01/11

■やくざを生み出す構造

「山口組概論」(ちくま新書)を読みました。
こういうくだりが出てきました。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

組(注:山口組などのやくざの集団をさす)がなくならないのは、組を生み出す土壌があるからだ。
組に身を寄せるしかない若者を生む市民社会の構造を変えない限り、組だけを弾圧しても意味はない。
経済的貧困や愛情の欠如、差別や社会不信といった市民社会のなかにやくざを生み出す構造があるのであって、反対に組はつくろうとしてできるものではない。
幼少のころに父母を失い、貧しさが生む悲しみを身にしみて知っていた田岡一雄は、山口組のもとに集まる身内(家族)に対して、家長として彼らを守らねばならなかった。
そこから導かれたのは、若い衆に正業を持たせること、それで最低限の生活が保証されれば人間は悪事へ走らずに済むことであった。
貧しさが生む社会悪を最小限にくいとめる努力は、田岡にとって侠客の条件であった。
日本の高度経済成長期には、山口組などのヤクザの世界と政治家(政党)や財界人(企業)とのつながりが深いことはよく知られていることですが、この文章を読みながら、昨今の企業による不条理な従業員解雇や政治家の無策を思い出して、ついつい比較してしまいました。
もしかしたら、日本の大企業や政治がダメになってきたのは、後ろ盾のやくざ集団がいなくなったからではないか、とまでは思いませんが、

山口組3代目組長の田岡一郎は、巨大組織に成長した山口組の現状に対して、組をつなぎとめるものは何かと訊かれて、こう答えたそうです。

「ぼくからいわすと愛情ですね。それよりほかに、ちょっといいかたないんじゃないですか。お互いの思いやりというか、仮に正業持っても、心の奥で寂しいときがありますからね。そういうときの相談にものれますし、一緒に悲しんでもやれる。そういう心と心のつながりというもんじゃないですか」
麻生さんや御手洗さんに、聞かせたい言葉です。


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2009/01/10

■早く来い来い高齢社会

今朝のテレビで、会社を定年退職された方が札幌で無料の英語学習塾をやっているのが放映されていました。
動きながら聴いていたので、正確ではないのですが、とてもいい活動だと思いました。
高齢社会とは、こうした活動がどんどん広がっていくということかもしれません。
高齢者ができることはたくさんあるはずですから。
こうした高齢者のボランティア活動が広がっていくと、企業の収益活動にも影響が出てくるかもしれません。
いや、それに類したことは既にこれまでにもありました。

たとえば、リサイクルに関して、ボランティアグループがリサイクルに取り組むために、リサイクル産業が育たないということがいわれた時期があります。
ボランティアグループの金銭感覚と企業の金銭感覚が違っていることが、その一因でした。
当時、ボランタリー経済という概念で、金銭優位な経済システムと別の枠組みを提案する動きもありました。

もう少し想像力を拡げてみましょう。
途上国の給料は安いので、生産基地を海外に移す企業が増えました。
女性労働者が増えたので労働需給関係が変化し、給料が相対的に低くなったということもありました。
こうした動きも、どこかで最初の話に繋がっています。
最近話題の派遣労働者の労働需給市場への影響も、そうした枠組みで考えることもできます。

ボランタリー経済の広がりが挫折したのは、やはり金銭の力の大きさだと思います。
ボランティア活動さえもが、金銭主義の企業経済に飲み込まれてしまったのです。
NPO関係者も、残念ながらその枠から自由ではありませんでした。
NPOセクターは、金銭市場社会のサブシステムとして、その一画をしっかりと担う存在になってしまったのです。

しかし、今朝のテレビを観て、やはり高齢社会は金銭社会を超えていくのではないかと言う気がしてきました。
むかし書いた「早く来い来い高齢社会」の拙文を思い出しました。

未来はそう暗くはないのです。

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2009/01/03

■「舌の記憶」とFOOD ACTION NIPPON

身の丈にあった農作業を生活に組み込む動きをもっと広げたいと、自らも畑を借りて、菜園インストラクター講座などを手がけている、環境クラブ代表の増山康雄さんから年初めのメールマガジン「E-news」が届きました。
増山さんは、その生き方において、またそのパーソナリティにおいて、私には共感の持てる人物の一人です。

増山さんは、このお正月にレストランで「米粉のパン」を食べました。
研究熱心な彼は、小麦粉のパンと米粉のパンをいろいろな食べ方で比較したようです。
その結果、米粉のパンの方がちょっと「もっちりしているかな」と思ったそうです。
まあ、そんな比較実験しなくても、すぐわかることですが、そこが「科学者増山」のこだわりなのです。
それはともかく、その時、思い出したのが、ある本で読んだ東南アジアのモチ米文化の話だそうです。
増山さんはこう書いています。

何でもタロイモみたいな「もっちり感」のある食べ物を食べてきた人達が「稲作」に出会った時、モチ米の食感がやっぱり「もっちり感」を持っているので、受容されたみたいなことが書いてありました。考えてみれば、人間、何か新しいものが入ってきた時、無意識のうちに、今までの自分の感覚とか、経験とかと照合してしまうものですよね。
そうなのでしょうね。
増山さんは、こう続けています。
最近、自給率向上の議論の中で、米粉のパンも注目されているが、それが売れるかどうかに大きな影響を与えるのは、人々の「舌の記憶」ではないか。
「舌の記憶」。
これはとても興味があります。
食は文化の基本ですから、「舌の記憶」は単に食文化の問題だけではないでしょうから。

私自身は一時はパン派でしたが、50歳頃から米派に回帰しました。
おいしいご飯と漬物とお味噌汁があれば、ほかは何もいりません。
娘の一人はお米が嫌いですが、なぜか米粉のパンが好きなのです。
そういうことを考えると、やはり長年の食文化が国民の「舌の記憶」になっているのかもしれません。

増山さんは、こう書いています。

米粉と小麦粉の配合具合とか、
小麦粉も国産なのか、輸入なのか、
コメや小麦の品種の組み合わせとか、
「どんな米粉のパンが売れるか」と想像してみると、
ちょっと考えただけで相当奥行きが深い問題があるなと
新年早々、レストランで感慨にふけってしまいました。
いかにも増山さんらしいです。
増山さんは、科学者であると同時に、哲学者でもあるのです。
1月中旬にも、菜園インストラクター講座を3回やるそうです。
ほかにもいろいろな講座があります。
関心のある方は、増山さんの日本リトルファーミング協会のサイトをぜひご覧ください。

昨年10月に、食料自給率向上に向けた国民運動「FOOD ACTION NIPPON」推進本部が設置されたのはご存知でしょうか。
農水省のサイトによれば、その目的は「世界の食料事情の変化や近年の食料自給率が低い水準にあることを踏まえ、国民の皆様が問題意識を共有し、食料自給率向上に資する具体的な行動を起こしていくため」だそうです。

私たち一人ひとりが、自分の食文化を変えるところから変えていくべきでしょう。
いまの状況の中でも、できることはたくさんなります。
食文化を変えさせた人たちがまた元に戻すような運動を推進することには、いささかの抵抗はありますが、まあ否定する必要はありません。
もっとも、この推進本部は電通のなかにあるのが、ちょっと気になりますが。
私としては、増山さんのような人に推進本部をやってもらいたいと思いますが、まあ増山さんは嫌がるでしょうね。

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2009/01/02

■お正月の風景を壊したのはだれでしょうか

元日の風景は一変しました。
私が子どもの頃は、いえ30歳くらいまでもそうだったと思いますが、元日に営業をしていたお店はほとんどありませんでした。
お年玉をもらっても、買いに行くお店が開いていなかったのです。
それがいつの間にか、今では元日からスーパーも百貨店も営業をしています。
便利といえば便利ですが、おかげで正月の静けさは感じられなくなりました。
24時間営業のお店もそうですが、ともかく季節とか曜日とか、祭日とか時間とか、そういうものの意味がなくなってしまってきています。
それは社会そのものの文化の否定に繋がっていくでしょう。

実は、私自身は15年前までは、そうした時間制約を克服することに価値を感じていました。
21年前に会社を辞めた時に、これからは「働くでもなく、遊ぶでもなく、休むでもなく」暮らしていきたいと友人知人に書いた時の思いは、時間の制約を越えて、自分基準での生活を目指そうとしていたのです。
24時間営業のお店は、当時の私には望ましい姿ですらありました。
考えが変わったのは、会社を辞めてしばらくしてからです。
沖縄から青森まで、各地の実態に少しだけ関わらせてもらった影響です。
東京の生活の貧しさを実感したのです。
これまでの生活はいったい何だったのか。
そこから考え方が大きく変わりだしました。

それはともかく、お正月の風景が大きく変わってしまいました。
最近、やっとその意味がわかってきたような気がします。
取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという気がしています。

生活文化は築き上げるのには時間がかかりますが、壊すのは簡単なようです。
女性の「社会」進出や男女共同参画社会の動きが、日本に育っていた家族の文化を壊してしまったことをとても残念に思います。

妻を失って、そのことがますますはっきりと見えてきました。
男女共同参画社会の意味をもっと真剣に考えて欲しいと思います。
女性の社会進出」と同じで、男女共同参画の向かう先は、家族の「社会」化かもしれません。
もしそうなら社会を壊すお先棒を担っているとしか思えません。
女性の社会進出が、そうだったように。

今年も話が非論理的に飛躍してしまいそうです。
それに、年初早々、誤解されそうなことを書いてしまいました。
今日、書きたかったのは、お正月の風景が変わってしまったことへの寂しさだったのですが。

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2008/12/30

■「やさしさ」と「つめたさ」

今年も余すところ1日です。
私にとってだけでなく、今年はさまざまなことがクロスし、
状況が大きく変わっていく「せめぎ合い」の年だったように思います。

このブログの時評編では、社会が壊れてきていると何回も書きました。
しかし、それは新しい社会のはじまりなのかもしれません。
派遣切り問題から広がりだした、支え合いの輪は実に感動的です。
世界が変わりだしたようなイメージさえあります。

私が会社を辞めたのは1984年、平成元年です。
会社を辞めて、独りで活動を開始して体感したのは、時代が大きく変わりだそうとしている風でした。
その頃の年賀状に、よく「地殻変動の予感」とか「地殻変動の確信」とか書いていたことを思い出します。
しかし残念ながら1990年代の後半になるにつれ、その地殻変動の動きは変質してしまいました。
以前の延長に戻りだしたのです。
社会が壊れだすような感じでした。
そしてその流れから見ると、社会はまさにかなり壊れてしまったように思います。

ところがそうした壊れだした社会の中から新しい動きが出始めているのを、最近また感じられるようになりました。
それは社会現象からだけではなく、私自身の少し特殊な体験からも、です。
いや、それがあればこそ、その変化を心から実感できるのかもしれません。

挽歌編で書いていますが、私は昨年、妻を亡くしました。
私にとっては思ってもいなかった体験であり、いまだその事実を受け入れられない状況にあります。
しかし、そのことを通して、人の「やさしさ」や「いのちのつながり」を深く実感させてもらいました。
世界はなんと「やさしさ」で満ち満ちているのかということに改めて感激しました。

一昨日、こんなメールが来ました。

佐藤さんにお元気になっていただきたいと願って居ましたら、いつのまにか私のほうがはげまされている状態でした。
この方は、相談と称して何回も湯島に来てくれました。
その相談の内容がよくわからなかったので、いささかの苛立ちさえ感じていたのですが、
彼女は私を励ましに来てくださっていたのです。
なんと鈍感なことでしょうか。
恥ずかしい話です。

「鈍感さ」とは正反対に、最近、人の「情」に関する「ひがみっぽさ」は敏感になっていました。
自分でもいささか嫌悪したくなるほど、「言葉」に過剰に反応し、人への不信感をもったこともあります。
しかし、みんなそれぞれの事情を抱えていることを思いやる余裕が最近ようやく戻ってきました。
結局、不信感は自らの気持ちの現われでしかありません。
世界は自分のこころの鏡像なのです。

マスコミ報道でみると、社会の冷たさのニュースが多すぎて、いささか気持ちが沈みます。
しかし、もしかしたら、実はさまざまな「あたたかなエピソード」がたくさんあるのではないかと思うのです。
私自身がそうだからですが、これはなにも私のまわりに限ったことではないでしょう。
その証拠が、派遣切り問題から始まった支え合いの輪の広がりです。
自分の心が変われば、世界は違った様相を見せてくれるかもしれません。

年末に友人から教えてもらった、サティシュ・クマールの「君あり、故に我あり」を読みました。
「インド思想が説く平和をめざす新原理」と本の帯に書いてあります。
書かれていることのすべてに共感しました。
ガンジーに対する私自身の偏狭な見方も反省させられました。
この歳になって、やっと自らの卑しさを思い知らされるのは辛いことですが、
もっと「やさしさ」をもって、社会を見ることにしたいと思います。
まず自らのうちにある「つめたさ」を克服しなければ、社会の「あたたか」に気づくことはないでしょう。
サティシュはこう書いています。

「人は平和であるとき、平和を発散するのだ」
最近、やっとこの意味がわかってきました。

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2008/12/26

■「君あり、故に我あり(Estis, ergo sum)」

挽歌462で、プライベートの語源は「奪う」にあるという話を紹介させてもらったところ、友人から、ジャイナ教の「5戒」でも「アパリグラハ(蓄えないこと、所有しないこと)」があげられているというメールをもらいました。
ジャイナ教の「非所有(アパリグラハ)」も、法頂師が書いているように、否定的意味合いではなく、すべてを分かち合うという積極的意味があるようです。
人間が自然のなかで素直に暮らしていくためには、非暴力と非所有が大事であり、それができれば、それは同時に、魂の解放につながるというわけです。
この「非所有」の思想からいまの社会を見ていくと、いろいろなことに気づきます。
日本にはもともとそうした発想がありましたし、今もなおいろいろなところにそれが残っています。
いつかそれに関しても書ければと思っているのですが、それを書くにはまだ私自身が「所有の文化」に埋もれてしまっていますので、気恥ずかしさが残ります。。
法頂さんのように、思いのまま、書ける生き方をしている人が時にうらやましいこともあります。

それはともかく、その人から「君あり、故に我あり」と言う本を教えてもらいました。
シューマッハー・カレッジに関わっているサティシュ・クマールというジャイナ教の元僧侶の人の本です。
それにしても、とても気になる書名です。
少し調べてみたら、インドで良く知られている格言「ソー・フーム(So Hum)」の訳なのだそうです。
そのまま訳すと、「彼は我なり」となるようですが、それをサティシュは「君あり、故に我あり」と言い換えているのです。
西洋近代の出発点は、デカルトの有名な「我思う、故に我あり」です。
それと対照的な世界観を予感させます。

早速、読んでみました。
心にとても素直に入ってきました。
貫いているのは「関係を見る哲学」。まさにシューマッハーです。
こういう文章があります。

デカルト的二元論の帰結は、個人をお互い及び世界全体と対立させ、人生を戦場とする。
各個人は自力で生きていかねばならず、自らの利益のための行動に没頭する。
個人主義が強者による弱者の搾取を生み、権力や富のための争いを生む。
まさに昨今の日本社会の状況です。
それを克服する知恵が、「君あり、故に我あり」の世界観にあります。
サティシュはこう書いています。
私たちは、自分自身だけで存在することはできない。
これは私たちの存在は他者の存在があって初めて可能である。
それに気づけば、突然の派遣切りなどは起こらないでしょう。
派遣切りの動きに対して、各地で広がりだした住宅や仕事の支援の動きに、「関係を見る哲学」の文化はまだ消えずに残っていることを確信できました。
その文化を支えているのは、やはり大企業経営者や政治家ではなく、やはり現場で汗している人たちであることも見えてきました。
文化が大きく変わる予兆が見えてきたような気がします。

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2008/12/12

■元気な町

島根県隠岐海士町。
いま話題の町のようです。
明日もテレビの、早朝のみのもんたの番組で取り上げられるそうです。

その海士町に来ています。
久しぶりに元気な町と町役場職員に出会い、元気をもらいました。
町長も魅力的な人で、久しぶりに町長らしい町長に会いました。
海士町に関するシンクロにシティの話は先に書きましたが、
出発の2日前に、私も以前出演していた朝日ニュースターの番組にも町長は出演したことがわかりました。
その司会をしている安藤さんもはるばる海士に取材に来たそうです。
町長をはじめ、昨日お会いした人たちの多くが彼女のことをよく覚えていました。
おかげで話もしやすくなりました。
シンクロ二シティはさらに広がっています。
ところが転居していた宮崎さんは行き違いで東京に出張していました。
実に皮肉です。
ところが、町長と話していたら、東京にいる宮崎さんから私に電話がかかってきました。
結局、宮崎さんには会えずじまいの海士訪問になりました。

海士の産業起こしは、新しい産業パラダイムを示唆しているように思います。
それはいつかここにも書くつもりですが、それ以上にうれしかったのは、市町村合併という愚策にのることなく、信念を通した町長の見識とその後の物語です。
財務的な危機を乗り越え、海士町の未来は開きつつあるように感じました。
いろいろなことが、ここでは好循環に回りだしているようです。
さまざまな立場の住民たちの間に、信頼関係が育ってきており、支えあいの関係が広がっているようにもお見受けしました。
海士に惚れて転居した人たちも、この数年で100世帯を超えているそうです。
そこにも大きな希望を感じます。

書きたいことがたくさんありますが、また徐々に描いていこうと思います。
市町村合併に背を向けて、自立しようとしている町村が、まだあることを多くの人に知ってほしいです。
平成の市町村大合併の愚は、10年もしたら明確になるでしょう。

企業にしろ自治体にしろ、合併して大きくなる愚策から、そろそろ抜け出ないと私たちの未来はないでしょう。
企業も同じかもしれません。

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2008/12/09

■責任放棄の時代

日本経団連の御手洗会長(キヤノン会長)が昨日の記者会見で、

国内の大手メーカーで非正規従業員の削減が相次いでいることについて「景気の急激な落ち込みで各社は減産に追い込まれ、苦渋の選択で雇用調整を行っている。やむを得ない事情がある」と述べ、理解を求めた。そのうえで「景気を回復させることが大事だ」と語り、雇用環境の改善には政府による早期の景気対策が不可欠だと強調した
と新聞で報じています(毎日新聞)。

この10年の政治の基調にあるのは「責任放棄」でしたが、経済界も「責任放棄の時代」に入ったようです。
経済界の誇りはどこに行ったのでしょうか。

利益が減少すれば雇用を切って、組織を守るという哲学は、1995年に当時の日経連が打ち出した「新時代の日本的経営」から推進されだしました。
アメリカからの圧力があったとしても、日本の財界も誰一人、異を唱えませんでした。
そこから労働者の権利が壊されていく方向に動き出したわけです。
キャノンの御手洗さんやトヨタの奥田さんは、その当時の財界のリーダーでした。
私は、彼らが日本の経済を最終的に壊した張本人だと思っていますが、そのツケを今受けているわけです。
しかし、彼らは、今なおしゃあしゃあと、「やむを得ない事情がある」と弁解し、「雇用環境の改善には政府による早期の景気対策が不可欠だ」と述べているわけです。
この人たちは、恥と言うものをしらないのでしょうか。
経済界のリーダーが、政府の責任にしているわけです。
その点においては、厚顔無恥な麻生さんと同じ仲間です。

これは日本だけの話ではありません。
アメリカでは、自動車メーカー3社の経営者がそろって、政府に「お助け」を哀願しているわけです。
何という恥知らずか。
麻生さんばかりを笑っていられません。
世界中が責任放棄の時代になっているのです。

そもそも企業のコンプライアンス論議は、そうした責任放棄の時代への対策として議論されだしたわけですが、現実的には逆にそれが責任放棄あるいは責任回避の仕組みになりだしています。
ちょっと考えれば、いたるところで責任放棄の動きが加速しているのに気づくでしょう。
責任放棄は生活面にも広がっています。

それにしても、大企業経営者による、あくどい派遣切りは、触れ込み詐欺以上に悪質です。
40年前までの日本には、そんな卑劣な発想はありませんでした。
経営者の最大の誇りは雇用を守ることでした。
困った時は従業員も一丸になってがんばりました。
そうした信頼関係が日本の経済を発展させてきたのです。
御手洗さんや奥田さんは、その文化を壊しました。
おそらく彼らは「経営」というものを知らないのでしょう。
能力以上の役割を与えられてしまったのでしょう。

ところで、派遣切りは決して企業を守ることにはならないでしょう。
トヨタやキャノンの時代は終わりました。
いや、人間を忘れてしまった大企業の時代は終わったのです。
IBMももはや先はないと思います。
あと10年持つでしょうか。

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2008/12/08

■私的復讐を許せるか

「ブレイブワン」が突きつけている問いかけも 少し考えてみたくなりました。
エリカは、恋人を殺した犯人を警察に逮捕させ、裁判で処罰する方法を選びませんでした。
警察に嘘を言ってまで、自らの手で処罰しようとしました。
エリカの心情を知った刑事も、最後にエリカに加担してしまいます。
そして、エリカの私的復讐は成就しました。
この映画は観客に、そうした私的復讐を許しますか、と問いかけてきます。

おそらくこの映画を観た人のほとんどが、この結末でホッとしたでしょう。
アメリカでは議論が盛り上がったということですが、論理はともかく、感情的には、多くの人はエリカと刑事に拍手を送るはずです。
それが自らを守る本能を持っている生命体としての素直な反応だと思います。

加害者を裁く権利を放棄することによって近代国家は成立しました。
私自身は、そこに大きな問題があると考えています。
生命体としての素直な感情にはそぐわないからです。
ビオス的な立場からは肯定してしまいますが、いざ自分が被害者になったら、その解決を国家にゆだねられるかどうか。
もし、その国家が、そして司法が信頼できるものであれば、状況は少しは違うかもしれませんが、少なくとも今の日本の国家や司法界には任せたくない気もします。
もし私が天涯孤独の存在であったら、エリカと同じ方法を選ぶかもしれません。
そしてきっとムルソーのように、死刑を選ぶでしょう。

議論を飛躍させます。
いま始まろうとしている「裁判員制度」の、裁判員に「事件の被害者」を含ませるのはどうでしょうか。
事件の当事者は客観的な判断ができないという理由で、そんなことは論外だとみんな考えるでしょうが、なぜ「客観的な判断」でなければいけないのでしょうか。
いや、そもそも「客観的な判断」などというのがあるのでしょうか。
そこに「制度化」の罠を感じます。
裁く側に被害者がいてこそ初めて、秩序維持のための無機質な裁判を克服できるという論理も成り立ちます。
もちろん、裁かれる側の弁護に、加害者自身がいてもいいでしょう。
要は、人を裁く権利は他人にはないというのが、私の考えです。
ですから、近代の第三者による裁判とは違った裁判制度もあるはずです。

さて肝心の、この映画の問いかけへの回答です。
私は、この事件に関しては「許したい」です。
しかし、これを許したら、際限なく私刑が広がるでしょう。
現実の事件は、映画ほど単純ではないからです。
ですから、結論的には「許さない」が、私の答えです。

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2008/12/07

■「人は愛する何かを失う度に、自分の一部を失う」〔時評編〕

挽歌編に同じタイトルの記事を書きました。
それに絡ませながら、社会時評編を書くことにしました。

こちらの話題は、最近発生した元厚生次官連続襲撃事件の犯人の動機です。
犯人は、子どものころ、飼い犬を殺された復讐だと弁明しています。
後付けの理由だという人もいますし、そんなことで30年近くたってから人を襲うかという人もいます。
私もそう思っていました。
そんな理由が納得できるわけがないからです。
しかし、挽歌編で「ブレイブワン」のエリカのことを書いているうちに、この事件の犯人の顔を思い出しました。
もしかしたら、彼の言っていることは本当かもしれない。

この事件は悲劇ですが、社会的な意義はないと思っています。
テロなどではありませんし、そこから大きな教訓も得られない、特異な事件です。
マスコミは盛んに取り上げますが、追随者を生み出す恐れのほうを危惧します。
事故的事件として、犯人も無視すべきではないかと思います。
最近のマスコミは、こうした事件に関して、詳細な経緯や犯人の過去を報道することが多いですが、そうした姿勢には疑問を感じます。
あまり意味のないものに過剰な意味を与えるのは危険です。

しかし、そう思いながらも、愛する飼い犬を失ったことが、彼の人生を大きく変えてしまったということが、とても気になりだしました。
人の生き方には、常に「危うさ」が付きまとっています。
ちょっとした事件が、人生を大きく変えていくのです。
バタフライ効果を体験した人は決して少なくないでしょう。
ですからこの事件の犯人の言っていることも、事実と思うべきではないかと思いだしました。

エリカの他に、もう一人思い出した人がいます。
カミユの「異邦人」の主人公ムルソーです。
ムルソーもまた、愛するママン(母親)を亡くします。
それが彼の人生を一変させます。
それも極めて特殊な方向へと人生を変えていくわけです。
彼は殺人事件を起こし、自らも死刑になります。
彼がそうなったのは、なぜでしょうか
もしかしたら、彼を素直に受け入れる人がいなかったからです。
そこで、今回の事件の犯人と重なってきてしまいます。

エリカもムルソーも、今回の事件の犯人も、みんな「愛する何か」を失いました。
その時に、その衝撃をわかってくれた人がいたかどうか。
そうした衝撃を緩和してくれる仕組みが、どうも社会からなくなりつつあるのかもしれません。
そこをこそ、考えたい気がします。

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2008/12/04

■豊かになる出発点は、「ありがとう」の一言

アフリカのケニヤのある地域では、相手に何かをしてあげた人が「ありがとう」と言う文化があるそうです。誰かに何かしてあげることができる自分を感謝するとともに、その善行を拒否せずに可能としてくれる相手に感謝するのだそうです。
とても共感できます。

先日の支えあいサロンで、ボランティアの人にお礼をすることの是非が少しだけ話題になりました。
そのときに思い出した話です。
日本では無償行為がボランティアだと考える人が多いです、
そのため、ボランティアの人にお礼をすると怒り出す人さえいます。
お金をくれるようなら、もうやりたくないというわけです。
こういう人は、「お金のため」にやっている人と同じ類の人だろうと、私は思います。
お金に囚われているわけですから。

それに素直な感謝の気持ちとしてお礼を差し出した人に対して、かたくなに断るなどということは相手に対して失礼な態度としか言いようがありません。
ケアマインドが全くないというべきでしょう。
言い換えれば、相手より自分を上に置いていることになります。
そうした人の施しは、目線の高い施しであり、決してボランティアとはいえないと私は思っています。
人からの施しをもらうこともまた施しなのです。

うまく伝わったかどうか心配ですが、ケアとかボランティアとかは、一方的な行為ではなく、双方向的な関係概念だと思います。

最近中断していますが、以前やっていたコモンズ村の通貨ジョンギでこんなことがありました。
ある人がテーマパークのチケットを購入したのに行けなくなってしまいました。
それで誰か行く人はいないかと呼びかけました。
幸いに村民の一人が、孫と一緒に行きたいと言ってくれました。
そこでチケットはその人に譲られたのですが、その取引において、通貨はどちらからどちらに動いたと思いますか。
チケットと一緒に通貨も動いたのです。
つまり、「チケットが無駄になるところだったのに使ってくれてありがとう」というわけです。
そして、同時に、チケットを譲ってもらった方の人も、「使わせてもらってありがとう」と同額の通貨をその人に送ったのです。
詳しくは私のホームページを読んでください。

この取引は、まさに上のケニアの話に通じています。
そして、そうした文化においては、いつか通貨は不要になっていくはずです。

取引手段としての通貨は、本来、貧しい時代の過度的な手段なのです。
目指すのは、「ありがとう」を言い合う文化でした。
しかし、残念ながらその過度的な取引手段が、主役になってきました。
それに伴って、「ありがとう」がなくなってきたのかもしれません。

私は、目線を同じくする人からの施しは進んでもらうようにしています。
そのせいかいろんな人がいろんなもの(こと)をくれます。
ですからお金がなくても、私はいつも豊かなのかもしれません。
豊かになる出発点は、「ありがとう」の一言なのです。

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2008/12/03

■どの掟に従うか

最近、リンクさせてもらったブログで読んだ記事がずっと気になっています。
daxさんという、5年前までヤクザだった人の「手垢のついたメモ帳」というブログです。

俺は日本の法律をたくさん犯したが、ヤクザの法律はきちんと守ってきた。
ヤクザの法律を守るということは、日本の法律に背く事になるのだが、
その部分については、日本の法律に決められた方法に従って、責任を果たしてきた。
「服役」という責任の取り方で・・・。
ヤクザの法律は、「ヤクザの掟」と言ってもいいでしょう。
そもそも人が集まれば、集団を秩序化するために掟(ルール)が生まれます。
掟があることで、メンバーは行動しやすくなります。
しかし、集団の掟は、その集団の実状に合わせて創られますから、ほかの集団の掟とは同じになるとは限りません。
その組織集団が結束力を高めようとすればするほど、掟も特殊化しかねません。
会社には会社の、役所には役所の、学校には学校の、掟が生まれるでしょう。

掟違反に対しては罰則が適用されます。
しかし、そうした罰則にも、かつては救いの仕組みが用意されていました。
その典型が「村八分」の知恵です。
掟を破って村人が絶縁した人にも、葬式と火事の際には付き合いが保証されていました。
しかし、掟が明文化され、近代的な法律に整備されるとともに、救いの仕組みは消える傾向があります。

ちなみに、ヤクザの掟と日本の法律の、どちらが正しいかというのは無意味の質問です。
そもそも法とか掟は秩序化のための判断基準でしかありませんから、それ自体が正しいかどうかとは無縁の存在です。
内容がどうであろうと、その秩序の内部では守ることが正しいということになります。
ですから「悪法もまた法」なのです。

しかし、ヤクザの世界もまた日本の中に存在する以上、上位の世界のルールには従わなければいけません。
それが秩序というものだからです。
自分の属する社会の掟とその社会を包括する上位の社会の掟とが食い違った時に、人は悩みます。
上位の社会の掟を守ることを是とする人もいるでしょうし、より身近な社会の掟を守ることを是とする人もいるでしょう。
少し前までの日本には、後者の文化がかなり残っていました。
しかし、どちらに従っても、もう一つの掟から罰せられることになります。
daxさんは、ヤクザの掟を守ったために、服役することになったわけです。

長々書いてしまいましたが、こうした視点で昨今のさまざまな事件をみていくと考えさせられることが多いです。
また社会がどう変質してきているかも見えてくるような気がします。
掟の構造化は社会を見る場合の大きな基準になります。

人の行動は、すべて何らかの「掟」に従っているはずです。
個人の信条も、ある意味では心の中に決めた通時的な掟です。
各人の心の掟(信条)から宇宙的な自然の掟(摂理)にいたるまで、さまざまな掟がありますが、それらが有機的につながっているかどうかは重要な問題です。
近代国家システムは、そんなことに配慮することなく、ある視点で作られた掟を「国家の法律」とし、それを最優先することにしたわけです。
それが「法治国家」の理念です。

社会が成熟してきたいま、そうした「掟の階層構造」を見直していくことが必要になってきているような気がします。
つまり掟の階層化のベクトルを反転させることが検討されてもいいような気がしますが、どうでしょうか。

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2008/11/29

■支え合いサロンの報告

先日、このブログでご案内した「支えあう生き方を考える気楽なサロン」の報告です。
参加者は私を別にして8人でした。
このブログを見て参加して下さった方が3人いました。
その一人が、男前に生きているdaxさんでした。
daxさんの話が面白く、それにdaxさんはどうも話好きなので、なかなか終われませんでした。

今回の気づきは、ヤクザの世界はまさに「結い」「支え合い」の世界だということです。
そもそも組織の原型は「支え合い仲間」だと思っている私としては、なぜもっとヤクザ組織に関心を持たなかったのだろうと反省したほどでした。
しかし、ヤクザの世界には「血」が出てくるので、気の弱い私は、そこから学ぶ前に失神しそうで、あんまり学びたくはないのですが。

最近の暴力団の世界は企業に似てきていますが、その企業にしても、30年ほど前までは「支え合い仲間」的要素がかなりありました。
dax さんは、いまは福祉の世界で働いていますが、それはとても納得できます。
「福祉」の世界も結いや支え合いの世界だからです。
ヤクザの世界と福祉の世界は同じだったのです。

同じだった、と過去形で書きましたが、福祉の世界も最近はお金の世界へと変質しつつあるように思います。
ヤクザの世界も企業の世界も、福祉の世界も、みんな足並みをそろえて、お金の世界になってしまっているのです。
宗教の世界も、医師の世界も、教育の世界も、スポーツの世界も、芸術の世界もそうです。
まあ、そうしたところが先鞭をつけたというべきでしょうが。
もちろん政治の世界がそうであることは言うまでもありません。

daxさんは、お金の世界になってしまったヤクザの世界にはいられないよとやめてしまったのですが、残念ながら、そうした純粋の志を持っている人にとっては、どこもかしこも生きにくくなっているのです。
だからといって、生きないわけにはいきません。
時勢に抗いながら生きるのもまた、「男前」です。
daxさんは、青木が原樹海に向かったことがあったそうですが、「男前」に生きるのであれば、そんな選択肢はありません。

なんだかサロンの報告にはなっていませんね。
すみません。

このサロンを思い立ったのは、実はITベンチャーの経営者からの相談を受けたのがきっかけです。
お金中心の世界から抜け出ないと、本当に「いい仕事」などできませんし、「大きな福祉」など実現できません。
抜け出るためには、やはり表情ある個人のつながりとそこから自然と育ってくる「支え合い」だと思ったのです。
支え合いサロンの第1回は、まさにそうした話題からスタートしました。
その意味では、私にとっては、とてもいいスタートでした。
参加者の皆さんがそう思ったかどうかは分かりませんが。

サロンでは、とても大事な話もいろいろと出ました。
支えあうの「あう」が大事だ
支える時の距離感が大事だなどなど。
でもまあ、そんなことを断片的に書いても無意味でしょう。

dax さんが「不思議な集まりだ」といいました。
ギタリストの宮内さんは「なんだかみんな以前会ったような気がする」といいました。
ほとんどが初対面なのに、不思議なつながりを感ずる場になりました。
支えあいの始まりは、つながりなのです。

さてこのサロンはこれからどう発展していくのでしょうか。
次回は12月17日に予定です。
案内は私のホームページ(CWSコモンズ)のお知らせのコーナーで毎回ご案内しますが、毎月、原則として第3水曜日の夜です。
気が向いたら遊びに来てください。

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2008/11/28

■気づかなかったことを気づくことの是非

電車の中で、近くの人のヘッドフォンから流れてくる金属音がとても気になります。
最近は以前に比べると少なくなりましたが、それでも時々体験します。
若者ではなく、それなりの年齢の人だと腹が立つこともあります。

しかし、ある本でこんな文章に出会いました。

「通勤途中、ヘッドフォンをつけて音楽なしではいられなくなった」
昨日、記事で引用させてもらった湯本さんが、
心療内科から薬をもらいながら、校長の理不尽な転勤命令と戦っていたときのことです。

全く気が付かなかったことです。
最近はメンタルダメージを受けている人が増えてきていますから、もしかしたら私が体験した人の場合もそうだったのかもしれません。
そう考えれば、少しくらいの金属音は我慢しなければいけません。
その人にとっては、外部に漏れるほどの過剰な人工音環境がなければ、精神が安定しないのでしょうから。
たぶん今度そうした状況に出会ったとしても、腹が立つことはないでしょう。

ヘッドフォンだけの話ではありません。
相手に関する知識がわずかばかり増えただけで、世界の意味が変わってきます。
お互いに理解しあうことがいかに大切かを教えてくれます。
相手のことを少しだけ思いやる気持ちを持てば、世界は違って見えてくる。
言い換えれば寛容になれるというわけです。
そうなれば、きっと生きやすくなるでしょう。

しかし、その一方で、そうなってすべての行為を受け入れてしまうと、社会はどうなってしまうのだろうか、という不安もあります。
極端な例で言えば、人を殺すことさえ、当事者にとっては「それなりの事情」があることになります。
しかし、そこまで寛容になるわけにはいきません。

どこで折り合いをつければいいのでしょうか。

そんなことを考えていくと、やはりヘッドフォンから漏れ出してくる金属音には、またイライラしてしまいそうです。
人生は難しいものです。

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2008/11/26

■糾弾よりも創りだすことへ

このブログの時評編を読んでくださっている方は、私が批判や糾弾ばかりしていることに辟易されているかもしません。
いつもそうならないように心がけていますが、結果的には単なる批判や糾弾の記事が多いかもしれません。
反省しなければいけません。

そういう私がこんなことをいうのはおかしいかもしれませんが、どうも世の中、糾弾することにエネルギーを向ける人が多すぎるような気がしています。
自分の言動を顧みて、なかなか書けずにいたのですが、自戒の意味も含めて、やはり書いておこうと思います。

平和のメーリングリストにいくつか参加していますが、「抗議」「糾弾」などの呼びかけが少なくありません。
共感できるものには私も賛同し、署名したり行動に参加したりしていましたが、最近どうも参加する気力を失いだしました。
気力の衰えと言ってしまえば、それまでなのですが、そうした一方的な情報発信にいささかの疑問を持ち出してしまったのです。
現場を確認もせずに、間接情報で抗議や糾弾に乗ってしまうことへの危惧もあります。

最近のテレビの報道番組は、「抗議」「糾弾」「批判」「問題提起」が大流行です。
年金問題にしろ天下り問題にしろ、何度取り上げられたことでしょうか。
しかし、何も変わっていないのが現状です。
つまり、「抗議」や「糾弾」や「批判」が、目的化しているといってもいいでしょう。
テレビには大きな力がありますから、もし本気でやる気ならば、もう少し違った展開が考えられるはずです。
「ほっとけない」などと声高に叫びながら、結果的にはほっておいているわけです。

それに論調があまりにもぶれすぎます。
小選挙区制を主張していたマスコミや有識者が、実際に動き出すと小選挙区制度反対を言い出します。
郵政民営化も、もうじき反対論者が増えだすでしょう。
国民の信を問う選挙より経済政策だなどと言っていた人たちが、最近、まずは信を問うべきだと言い出します。
政治評論家の日和見主義は驚くほどです。
信念というものが感じられません。

輿論と世論とは似て非なるものらしいですが、世間の声に迎合して、糾弾する人が多すぎます。
いや、そういう人がテレビでは受け入れられるのでしょう。

糾弾するのと並行して、自分でできることに取りくむことが大切です。
糾弾し抗議するよりも、できることから取り組んでいくことが、遠回りのようで近いのかもしれません。
この2年、いろいろなことから離れていて、そんなことがよく見えてきました。
価値を創りだすことが、運動の出発点なのであろうと思います。

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2008/11/25

■「自殺防止に取組むべき者は誰か」

昨日、テレビで東尋坊で自殺予防の活動をしている茂幸雄さんの活動を見ました。
先週も報道番組で特集されていましたから、2週続けて、元気な茂さんの活動振りを拝見したことになります。
実は、事前に茂さんからメールで、
今回の番組では、「自殺防止に取組むべき者は誰か」ということを訴求したいとお聞きしていました。
残念ながら、茂さんのその思いは、今回の番組ではあまり読み取れませんでした。
これは勝手な推測ですが、元厚生次官宅襲撃事件の犯人出頭のため、そちらに時間がとられ、予定されていた内容がかなりカットされたのではないかと思います。

それでも、茂さんたちの思いは充分に伝わってきました。
現場で汗して取り組んでいる活動の迫力は大きいです。
しかし、こうした水際での地道な活動にも関わらず、自殺者は毎年3万人を越え続けています。
茂さんたちが、時に「落ち込む」こともよくわかります。
ですから、茂さんからの、「自殺防止に取組むべき者は誰か」というメッセージにはとても関心がありました。

その答は、たぶん、「周りにいる人たち」ではないかと思います。
茂さんは、5年にわたる活動で、そのことを実感されているからです。

私が取り組んでいるコムケア活動は、「人のつながり」を育てることこそがすべての解決策の出発点であり、目標であると考えています。
だれか一人でも気にしてくれている人がいれば、人は自らを死に追い込むことはないはずです。
その「一人」さえもがいなくなってしまった人が増えているのかもしれません。

昨日、もう一人のコムケア仲間と電話で話しました。
大阪で高齢者の孤独死をなくそうと「おたっしゃコール」という仕組みを開発し、全国に広げようとしている松本さんです。
松本さんは、最近、自分たちの活動を「Com2(Communication & Community)再生モデル事業」と表現し始めました。
詳しくは松本さんたちのやっているデイコールサービス協会のサイトを見ていただきたいですが、松本さんも「人のつながり」が孤独死をなくしていくことを知っています。

自殺も孤独死も、それを防止するのは茂さんでも松本さんでもありません。
私たちみんななのです。
周りの人への関心を少し高めていく。
それだけで社会は変わっていくのかもしれません。

11月26日の夜、支え合う生き方を考える気楽なサロンを開催します
よかったら参加してください。
気楽な雑談会です。

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2008/11/19

■現場の声にこそ歴史を変える力がある

神奈川県立神田高校が入試で服装や態度がおかしい受験生を不合格にした問題で、同校の校長が現場を外されてしまいました。
それに対して、生徒や卒業生、父母、神田高校をよく知っている人たちから、学校現場への復帰などを求める嘆願書が県や教育委員会に出されました。
卒業生や父母が中心になって、駅前での署名運動も行われ、3000人を超す署名が集まっているそうです。

事の良し悪しは現場を知らない者として、軽々に判断できませんが、一部の高校の状況を友人の高校の先生から聴いていますので(彼も果敢に改革に取り組んでいます)、事の大きさはよくわかります。

それはともかく、今回、とても感激したのは、現場の人たち、つまり生徒や卒業生、あるいは父母や地域の人たちが声を上げたことです。
新聞やネット記事を読む限り、同校の先生たちが声を上げていないのがとても気になりますが(批判するつもりはありません。理由は推測できますので)、当事者が異議申し立ての声をあげていく文化がまた少し動き出してきたことを知って、とてもうれしく思います。
20世紀の後半に高まるかに見えた、「異議申し立て」の動きは、その後の経済成長主義に絡め取られてしまい、無残にも現場を軽視する時代が広がってしまったことに、失望していたからです。

学校のことは学校現場の人が一番良く知っています。
地域のことは地域の住民が一番良く知っているのと同じです。
住民から市民へ」などという、現場を具体的に知らない「有識者」たちの標語に騙されてはいけないと、私は思っています。
ですから、どんなに綺麗に語られようと、「関さんの森」騒動のような事件には疑問を感じてしまうわけです。

在校生からも「校長先生を戻してください。これは生徒みんなの願い」(1年女子)という声があったそうです。
どんな理屈よりも、こうした現場の人の声に迫力を感じます。

「レストラティブ・ジャスティス(Restorative Justice」という言葉があります。
日本語では、損害回復的正義とか修復的司法とか訳されています。
いまのところ、日本では主に刑事司法の分野で広がっている考え方です。
私は、もっと広義なパラダイムだと受け止めています。
提唱者のハワード・ゼアもそう考えているように思います。
この考え方は、関係の強い当事者同士がしっかりと向き合って話し合うことで、問題が解決するだけではなく、状況がさらに前に向かって改善されていくというものです。
司法時評で一度きちんと書こうと思っていましたが、忘れていました。
しかし、今回の神田学校事件で、思い出しました。
長くなるので、改めて書くことにします。

ちなみに、私はRestorative Justiceを「共創的正義」と訳しています。
私の言動の基本パラダイムは「共創」なのです。
「コモンズの共創」が私の関心事であり、同時に「コモンズとは共創のプロセス」だと、最近考えるようになっています。
一生に1冊だけ本を書きたいと思っていました。
そのタイトルは「コモンズの回復」です。
だいぶ中身が見えてきましたが、どうも今世では書けそうもありません。
来世に先延ばししようと思っています。
こまったものです。

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2008/11/17

■法律と現実のギャップ

今日はいつも以上の暴論です。

大麻問題が広がっています。
大学生や主婦や医師など、普通の生活をしている人たちに広がっているようです。
しかし、大麻は日本では法律で禁止されています。
したがって大麻を吸引したり、売買したりすると犯罪になります。
その犯罪が年々増えているということです。

この問題にどう対応するか。
方法は2つあります。
法治国家として、法律を基本に考えれば、取締りを強化することになります。
事実、その方向で動き出しています。
もう一つの方法は、現実を基本に考えて、法律を変えて大麻の使用を認めていくことです。

後者の方法への賛成者は多くはないでしょうが、いないわけでもありません。
以前、ホームページには書いたのですが、私のオフィスに、大麻の使用を認めるべきだといいに来た人もいます。
そういう活動をしているグループもあるようです。

ほとんどの人は、後者の選択肢などは考えもしないでしょう。
もちろん私もそうです。
しかし、それは「大麻」に対するイメージのためかもしれません。
私は、大麻を体験したことがありませんから、それがいかなるもので、どういう効用と弊害があるのか、見聞した知識しか持っていません。
だから大麻を規制するのがいいのかどうかわからないのですが、規制することになんの異論もありませんし、むしろ当然だと思っています。

さて、問題を少し一般化してみましょう。
法律と現実に違いがある時に、法律に合わせるのか、現実に合わせるのか。
いささか荒っぽいですが、そういう問題に置き換えることができます。
法治国家であれば、当然、現実を法律に合わせるべきでしょう。

では憲法9条と自衛隊はどうでしょうか。
多くの人は、憲法を変えろといいます。
なぜでしょうか。
その人たちは、大麻の使用を認めるのでしょうか。

大麻と自衛問題を一緒にするなと怒られそうですね。
だから「暴論」だと断って書き出したのです。
私の考えは、ここに書いたことから読み取ってもらえると思いますので、あえて繰り返すことはしません。

私は自分の信念を大事にしています。
ですから私と意見が違っていても、信念を大事にしている人には敬意を持ちます。
しかし、信念を通せないのであれば、職を辞し、仕事も断ります。
そうやって生きてきました。

信念は問題ごとに変えていいわけではありません。
信念とはすべての物事を決める判断の根底にあるものです。

その社会が大事にしている価値観が、その社会を構成する人の信念に影響しているはずです。
価値観の多様化などという言葉が流行した時代がありますが、それは多様化ではなく消滅と言うべきだったように思います。
社会から価値観が消滅し、さらに個人からも価値観が消滅しつつある。
そんな気がします。
生きづらい時代です。

田母神さんや麻生さんには、信念は感じられません。
与えられた職責を果たすのではなく、職責を私物化しているからです。
職責を活かすのと、職責を私用するのとは全く違います。

時々、しっかりと自分の信念で生きている人に出会うことがあります。
その時はとてもうれしいです。

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2008/11/14

■「マスコミに報復してやろうかな」

言葉尻を捉えるのはあまりいいことではないですが、言葉には本音が必ずと言っていいほどでるものです。
田母神発言に関しては、このブログもかなりのパッシングを受けましたが、それにしてもどうしてこうも次々とおかしな発言が出てくるのでしょうか。
さびしくなります。

「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」の奥田碩座長(トヨタ自動車取締役相談役)が12日の会合で、「テレビが朝から晩まで年金や厚労省の問題をあれだけ毎日やるのはちょっと異常な話。正直言ってマスコミに報復してやろうかな」と発言したそうです。
驚いた発言ですが、もっと驚いたのはその後の発言です。
「ああいう番組のスポンサーは大きな会社じゃない。パチンコ屋とかサウナとかうどん屋とか」とまくし立てたのだそうです(日経新聞)。
私は奥田さんという人の発言には、トヨタの社長時代から違和感をもつことが多かったですが、最近の言動には怒りを感ずることが多いです。
今回は怒りを超えて、あきれました。

大企業こそが社会を支配しているとでも思っているのでしょうか。
大企業を支えているのは、言い換えれば大企業が大きな利益を得ているのは、中小企業の汗と努力のおかげです。
パチンコ屋とかサウナとかうどん屋をバカにする前に、自分の会社でどれほどの問題が起こっているかを考えろといいたいくらいです。
まあ、そこまでいうと、奥田さんと同じレベルの品のない発言になるのでやめましょう。

しかし、「報復」とは驚きです。
日本のテレビを支えているのは自分たち大企業だと思っているかもしれません。
もしそうであれば、それもまた大きな問題です。
それに、「気に食わないから報復」などといいますが、スポンサー費用は奥田さんのポケットマネーではありません。
トヨタの社員が汗を流して獲得したお金です。
そこにはもちろん派遣社員も入ります。
企業を私物化している奥田さんの実態が見事に露出しています。
こういう人たちが、日本の政治を動かしていると思うと気が重くなります。

しかし、もっと気になることが、日経新聞の記事には続いていました。

関係者は「マスコミ公開の会議であることを忘れていたのでは」と奥田氏をかばったが、経済界の大御所の発言だけに波紋を呼ぶ可能性もある。
つまり、公開でない場ではこうした発言がよく行われていることを感じさせる書き方です。
ここでいう「関係者」というのは誰なのかわかりませんが、いやな世界です。
そうした世界とは全く無縁の世界に暮らしていることを喜びたいと思います。

いずれにしろ「報復」はいけません。
奥田さん、いかに自分に自信がなくても、報復してはいけません。
そこまで堕ちることはないでしょう。

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2008/11/13

■ブログから見えるネット社会の病理

このブログに関する限りでは、田母神事件はようやく山を越しました。
テレビで話題になった直後からアクセスが急増し、コメントや個人宛のメールもかなりありました。
毎日のアクセスの半分くらいが田母神関係でした。
コメントもありましたが、その多くは偽装アドレスです。
一応、偽装ではないと思われるものは掲載しましたが、ほとんどは一度だけの「ひやかし」です。
コメントを読んでもらえればわかりますが、私以上に「鬱積」しているようです。
しかし、こうした事件が起こるとネット検索する人が増えているのは不気味です。

気分を悪くするようなコメントも少なくありません。
もちろん考えが違うから不快になるということではありません。
いがみ合うことの寂しさです。
私が批判しているのは、権力をもつ強い「公的な存在」や制度や組織です。
個人を批判することもありますが、それはその個人の立場を問題にしています。
しかし、そのことはなかなかわかってもらえません。
若い知人から、佐藤さんのブログは「悪者」をつくる二元論だと批判されたこともあります。
信頼していた若者だったので、その時はとても残念でした。

私のようなマイナーなブログでさえこうなのですから、アクセス数の多いメジャーなブログは大変でしょうね。
どうやって対応しているのでしょうか。
私の友人の中には、その煩わしさを懸念してブログをやらないといっている人も数名いますが、その気持ちはよくわかります。
見たくもない人間の卑しさ(自分の卑しさも含めてですが)を見せられます。

子どもたちの世界でもこうしたブログ的なことが広がっているわけですが、そのことの意味をもっと真剣に考えなければいけないと思います。
やっている人だけでなく、そこに反応する子どもたちも含めて、非常に大きな影響を与えているはずです。
学校教育よりも大きな「教育効果(マイナスの効果も含めてです)」を発揮しているはずです。

昨夜、テレビで韓国や中国におけるネット社会の病魔を報道していました。
韓国では自殺者が、中国ではネット中毒が発生しているそうです。
いずれもとてもよくわかります。
私もその周辺にいたことがあるからです。
インターネットを使いこなすには、まだまだたくさんの犠牲を払わなければいけないのかもしれません。

ちなみに、不快なことも多いですが、気づかされることも少なくありません。
自分の意識や性格についても、思い知らされることがあります。
人の卑しさと弱さが、この頃よくわかるようになりました。
これはブログで自分を露出したおかげです。
それに、失った友人は一人ですが、得た友人はたくさんいます。
だからブログはやめないのです。

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2008/11/02

■見えないところで起こっていることの恐ろしさ

テレビで放映されていましたから見た人も多いと思いますが、10月26日、市民団体の企画によって「リアリティアー 62億ってどんなだよ。麻生首相のお宅拝見!」という催しが行われ、そこで3名の参加者が逮捕されるという事件が起きました。
テレビで見た時には、世相を反映する面白い事件だと思った程度で、あまり気にはしていませんでした。
ところが、実はこの事件はまだ終わっていないことを今朝知りました。

そもそもこのツアーの呼びかけは、私のところにも流れてきていました。
こんな呼びかけでした。

第二回のツアー目的地は、このたび「かしこくも」内閣総理大臣に就任された麻生太郎首相のお宅です。45年間にわたり一着30万円のスーツを年間10着仕立てるおしゃれな首相。たった一日で大卒初任給の2倍の弾を撃ちまくって鍛えた射撃はオリンピック級の腕前。敷地だけで6,200,000,000円。大久保利通、牧野伸顕、吉田茂に連なる「華麗なる一族」の東京宅を見に行きましょう。
集合地点は、渋谷駅ハチ公前広場で、主催は反戦と抵抗の祭<フェスタ>08・RTB(Reality Tour Bureau)となっています。
ちなみに、反戦と抵抗の祭<フェスタ>08は、こフリーター全般労働組合が企画しているイベントで、11月29日に渋谷勤労者福祉会館で開かれ、翌日、デモをすることが予定されています。
このリアリティツアーは、そのプレイベントとして企画されたようです。
事件が起きた後、すぐに流されたメールの一部を引用します。
ハチ公前に集合して、いざ麻生宅へと歩き出してほどなく、ただ歩いていることを持って「集団的示威行為」だとの言いがかりをつけられて「公安条例違反」で一人が逮捕、逮捕の邪魔をして警察に暴行を加えたとのデッチ上げで参加者二人が「公務執行妨害」で逮捕されました。現在計3名が勾留されています。
そして今朝、こんなメールが流れてきました(メールの一部です)。
10月29日に呼びかけを開始してからわずか4日。288の個人・団体から声明への賛同が寄せられました。救援会へのカンパも50万円を超えています。
そして、そのメールで、3人は今も代用監獄に監禁されていることを知りました。
驚くべきというか、おそろしい話であり、しかも他人事ではありません。
私も時間があったら行ってみようかとさえ思っていたのですから。

テレビや新聞では、「警察官に暴行」「警察官を殴る」などの表現もありましたが、そんなことはなかったという証言もあります。
私はどちらが正しかったかはわかりませんが、YouTubeに逮捕の瞬間や地元警察とグループ代表の事前交渉とみられる動画がアップされていますので、ご覧ください。
そのイベントの本来の雰囲気がわかると思います。
逮捕前後の映像
集合地点での地元警察との話し合い

それにしても恐ろしい話です。
立川のビラ配り事件を思いだします。
日本の社会はどうしてこんなに劣化しているのでしょうか。
国民に信を問えない政権の実態を垣間見る気がします。
じわじわと私たちの生活は追い詰められているようです。

ちなみに、日経BPサイトでも森永卓郎さんがコメントされています
詳しくは森永さんの記事をぜひ読んでほしいですが、一箇所だけ引用させてもらいます。

いやしくも日本は民主主義国家である。権力が言論の自由を抑圧しようとすることは絶対に許されるものではない。もし、こんなことがまかり通るようであれば、日本は中国のことを批判できないではないか。また、この問題をまったく追及しようとしないメディアにも大きな問題があるとわたしは考えている。
「麻生でてこい!!リアリティツアー救援会ブログ」では、いろいろなやり取りも含めて、その後の動きが報告されています。

救援会へのカンパ宛先
郵便振替 00110-6-317603
口座名 フリーター全般労働組合
※通信欄に「asou」または「あそう」と大きくお書きください。

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2008/10/23

■ワーク・ライフ・バランスへの違和感

最近、「ワーク・ライフ・バランス」を口にする人が増えました。
昨年には、仕事と生活の調和推進官民トップ会議で、「ワーク・ライフ・バランス」憲章なるものも策定されました。
人によって自分の立場に合わせて都合よく語っていますので、よほど注意して聞かないと危険です。
流行語になったり、政府が予算をつけたりすると、途端に口にする人が増えるのが、日本の特徴ですが、生半可の思いで、「ワーク・ライフ・バランス」を語ってほしくないものです。
いまや、介護問題も少子化問題も、メンタルダウンも、企業の経営不振や不祥事までが、ワーク・ライフ・バランスをとれば解決するのではないかという勢いです。
ワークシェアリングも、寄ってたかって、みんなでせっかくの理念を壊してしまったことを思い出します。

「ワーク・ライフ・バランス」憲章は、「仕事と生活の調和が実現した社会」を目指すと書いています。
仕事時間が多すぎて、自分の生活時間が持てない人が多い現状では、「仕事と生活の調和」はいいことだとみんな思うでしょう。
でも、どこかおかしいと思いませんか。
私にはとても違和感があるのです。
「仕事」と「生活」は対立する、別のものなのでしょうか。

20年前、会社を辞めた時、私は友人たちに、これからは「働くでもなく遊ぶでもなく、生きることにしました」と手紙を書きました。
そしてそれをかなり忠実に実現してきたつもりです。

「仕事」と「生活」を二元的に捉える。
それはまさに「近代の論理」です。
生活から切り離された「仕事」が、工業の発展を支えてきたのです。
そして、いま、それが大きな問題になっているのではないかという気がします。
ワークとライフを別のものと捉え、その時間バランスをとろうというのは、まさにこれまでの工業の発想です。
それでは問題は解決しないように思います。

そうした発想から抜け出さないと、
「仕事」は「生産」、「生活」は「消費」として捉えてしまう危険性さえあります。
つまり、経済をさらに拡大していくための「ワーク・ライフ・バランス」論になりかねないのです。
事実、昨今のワーク・ライフ・バランス議論にはそういうニュアンスを感じます。

ちょっとひねくれているのではないかといわれそうですが、
労働時間短縮の議論と同じく、発想の起点が間違っているように、私には思えます。
もちろんワーク・ライフ・バランスを語ることに意味がないというのではありません。
それはそれでいいことです。
しかしそれはとりあえずの処方であって、本当の問題はもっと奥にあるといいたいのです。

ワークとバランスさせるものは、ライフではないのではないかと思います。
ワーク、もしくはライフの捉え方に、どうも違和感があるのです。

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2008/10/21

■ワーキングハードとワーキングプア

ワーキングプアが問題になっています。
いくら働いても収入が少なく、自立さえ難しいという話です。
私の周辺にも、そうした人は少なくありませんので、その深刻さは実感しています。
しかし、そこに含まれている重要なことは、「プア」にあるのではなく、働き方にあるような気がします。

これに関しては、これまでも何回か書きました。
たとえば、「ワーキングプア、あるいは働くことの意味」では、
ワーキングプアは、これまでの発想の枠組みで考えていては限界がある。
一歩進んで、働くことの意味を問い直す契機に出来ないものか。
と書きました。
残念ながら反応は誰からもありませんでした。
まあ、あんまり読まれていないブログですから、仕方がありませんが。

ワーキングプアには二つの要素が含まれています。
「プア」と「ハード」です。
ハードに働いてもプアというわけです。
そしてみんな「プア」に目を向けます。
それはまさに「金銭基準社会」の落とし穴のような気がします。

「金銭基準社会」とは私の造語ですが、昨今の社会の中心にある評価基準は金銭といっていいでしょう。
昨今の日本社会は、価値を測る基準や行動の基準、コミュニケーションの手段など、すべて金銭なのです。
豊かさの基準も、当然のように金銭で語られますし、感謝の気持ちも金銭で測られがちです。
何かを考える時に、私たちは「金銭」を拠り所にして発想するようになっています。
そんなことはないと自信をもって答えられる人は少ないでしょう。

ワーキングプアは、生活のプアではなく、金銭のプアが問題にされているのだと思います。
お金がなければ生きていけないと、みんな思い込まされているわけです。
そこでみんなハードに働くことになるわけですが、これは中学校で習った産業革命が始まった頃のイギリスやフランスを思い出させます。

プアなのは、金銭ではなく、生活だと考えたらどうなるでしょうか。
かなり違った展望が開けます。
お金がなくても、プアでない生活は可能なはずです。
そもそも貧しいからこそ、貧しさを補完しあうために生まれたのがお金なのです。
みんなが豊かな社会ではお金など必要ないでしょう。
その基本的なことをみんな忘れています。

自分の時間もなくハードに働いている人には、金銭収入の多い人も金銭収入もわずかばかりの人もいます。
後者がワーキングプアといわれるわけですが、金銭収入が多いワーキングハードな人はどうでしょうか。
生活がプアなことにおいては、そう違わないような気もします。
高給取りのワーキングハードは、「もうひとつのワーキングプア」かもしれません。

高給取りに対する、私の「やっかみ」もないわけではありませんが、今、問われるべきはワーキングハードな社会ではないかと思います。
みんながワーキングハードをやめたら、失業率も低下するでしょうし、メンタルダウンも減るでしょうし、何よりも少子化などはなくなります。
これからはワークハードではなく、ワークツギャザーだという人もいます。

対処療法的なワーキングプア対策はもちろん大切ですし、もっと真剣に取り組むべきですが、同時に、ワーキングハード社会や金銭基準社会を変えていくという発想も持たなければいけないのではないかと思います。

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2008/10/20

■もうひとつのEQ:倫理指数

最近はあまり言われなくなりましたが、一時期、IQ(知能指数)と並んで、EQ(emotional quotient)という言葉が話題になりました。
EQは心の知能指数ともいわれ、情動知能指数と訳すのが正しいでしょう。
知能指数と対立するものではなく、むしろ補完するものです。

そもそもこの言葉は、「ビジネスで成功する人に必要な能力はどこにあるのか」というテーマでの研究から生まれたといわれます。
1980年代に米国でかなり広まり、日本にも入ってきました。
この概念を提唱した米国の心理学者は、ビジネスの成功者は、単にIQが高いわけでなく、「対人関係能力」が優れていることに気づき、その調査結果を基にEQ理論をまとめたそうです。
その後、企業の人材教育の目玉になり、さらには行政や教育現場などにおける人材育成などにおいても広く取り入れられるようになってきています。

「対人関係能力」は、決して小手先の技術の問題ではありません。
それはその人の「生き方」の問題です。
ですから、EQは「人間的魅力」にもつながっていきます。
そうした視点から考えると、昨今のEQ研修プログラムにはいささかの違和感はあります。

私は、企業関係の講演では、「みなさんの生き方が企業のあり方を決めていくのですから、まずは自らの生き方を問い直しましょう」と呼びかけてきました。
しかし、そうした呼びかけに対する手応えを感ずるようになったのは、最近です。

ところで、1980年代にEQ理論が提唱される10年ほど前に、もうひとつのEQを提唱した人がいます。
先日、名前を出した「成熟社会」の著者、D.ガボールです。
彼が、「成熟社会」の中で、IQと並んで重視したのが、Ethical Quotient(倫理指数)としてのEQでした。
彼は、経営者が人を雇う場合、Ethical Quotientを評価することが重要だと書いています。
しかし、昨今では、その経営者自身のEthical Quotientが危うくなっています。
経営者だけではありません。
いわゆる社会のリーダーといわれる層の人たちのEthical Quotientが低下しているのです。

同じEQでも、Ethical Quotientとemotional quotientは、発想の基盤とベクトルが違っています。
1980年代から2000年にかけての20年は、その視点から考えても、時代の岐路だったように思います。
私たちは、Ethic(倫理)ではなく、emotion(情動)を選んだわけです。

ガボールは、Ethical Quotientの評価尺度を概念的に例示しています。
それによれば、「自分を表面に出さず、自己を犠牲にしてまでも、良い仕事や他人への奉仕に献身すること」ができれば、EQは130以上です。
標準的な100~110の人は、「正しい環境の下では、責任ある、信頼できる態度をとるが、自分の所属集団の基準には付和雷同しやすい」とされています。
80~90になると、「監督されている限り、社会的な存在として行動する。しかし時々不正なことをする。倫理的な価値を尊ぶ感覚に乏しい。低い倫理水準に流れやすい。スリルを好む」とあります。
みなさんのEthical Quotientはどのあたりでしょうか。

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2008/10/19

■自宅に投函されていた「DV冤罪」小冊子

先日、わが家の郵便受けにおそらく個人が投函したであろう小冊子が入っていました。
「私は、我孫子市役所(男女共同参画:フェミニスト)に家族を破壊されました」というタイトルの8枚の3色刷りの小冊子です。
しかも、一部には蛍光ペンでマークが手書きされています。
『わたしは「DV冤罪」を受けています』という書き出しで、市長とのやり取りの文面や、奥さんからのメール文などがセットになっていました。

あまりにも厚く、手書きもあったので、私の家だけに投函されたのかと思うほどでした。
個人による投函は時々ありますが、内容が内容だけに、少し気持ちが悪い気がしました。
しかしわが家だけではなく、隣近所にも投函されていたようです。
投函した人の名前はわかりませんが、どうも少し離れた地区に住んでいる人のようです。
もしそうならかなりの家に配布されたことになります。
費用もエネルギーもかなりのものでしょう。

内容の紹介はやめますが、その小冊子を読む限りでは、DV冤罪を感じさせるものではなく、むしろDV事実を感じさせるものでした。
こうしたやり方自体にも暴力的なものを感じます。
たぶんこの小冊子でちょっと怖くなった人もいるのではないかと思います。
配布した人は、自分でDV事実を露呈しているような気もします。
それもまた奇妙な話なのですが、おそらく事件の当事者には全く状況が見えなくなってしまうのでしょう。
そのため、意図した行為が逆効果になってしまっているのです。

DV被疑者の中には、まさか自分の行為がDVに当たるなどと思っていない人も少なくないはずですし、この人が言うようにDV冤罪も無いわけではないでしょう。
私自身は、男女共同参画を推進する行政の動きには違和感があります。
そうした「分離・対立」の発想とDV冤罪と騒ぐ人の発想とは同じなのかもしれないなどと思ってしまいます。
誤解があるといけませんが、もちろんDVは予想以上に多いでしょうし、それは厳として戒めなければいけません。
事実があるのであれば、もっと厳罰で対処すべきだとさえ思います。
しかし一抹の不安もあります。
昨今の風潮の中には、ひとつ間違えば、弱いものが強者になる仕組みが内包されているからです。
痴漢冤罪事件はそうした現われの一つです。
行政や大衆が「正義」を語りだすことの危険性を意識しておく必要があるでしょう。

家庭の問題を社会化するのはそう簡単ではありません。
それぞれに働いている論理が違うからです。
昔から、夫婦喧嘩は犬でも食わないという言葉がありました。
もちろん、昨今は状況が大きく変わっていますから、家庭の問題と放置しておくわけにはいきません。
日本相撲協会ですら、各部屋で責任を取るべきなどと言えなくなっている時代なのです。

前に「介護の社会化」について書いたことがありますが、
社会化ということは、実に悩ましい問題です。

問題は、家族のあり方、人と人の繋がり方にあるのだろうと思います。
制度をつくればいいわけではありませんし、家庭の問題を社会の問題として断ずることが常に正しいわけではありません。
投函されていた小冊子を読んで、なぜこんな小冊子を配布しなければいけないような社会になってしまったのか、いろいろと考えさせられました。
昨今の制度化指向は、問題の所在を間違っているような気がしてなりません。

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2008/10/18

■記者に質問されたら、堂々と応えてほしい

テレビで気になる風景があります。事件や問題などに関連して、取材を受けても何も語らずに、無言で通り過ぎたり、自動車に乗ったりしている風景です。
最近の取材者は、不躾で質問の内容も意味のないものが多いですし、相手にしたくない気持ちもわかりますが、やはり無視はよくないでしょう。
被害者の家族にしつこく質問するような不心得な取材者もいますが、
そうした例外的なことを除けば、質問されたら応えるのが人間としての最低限の良識です。
無言で無視することには大きな違和感があります。
多くの事件は、「無言で無視すること」から始まるからです。

向けられた質問を無視するのは、政治家も企業人も、公務員も役人も、スポーツ界の人も、分野を限りませんが、有名な人や組織人に多い態度です。
単なる市民は、マイクをむけられると一瞬腰を引くとしても、うれしそうに話し出します。
それがたぶん現代人の多くの対応かもしれません。
にもかかわらず話してほしい人は、無言で逃げるように去っていくことがあるのです。
語れない何かがあると思われても仕方がありません。
語らないことが大きなメッセージになっているのですから、語っているのと結果的には同じなのですが。

人に問いかけられて返事をしないのは良くないことだと私は教えられました。
しかし、子どもたちに「知らない人に声をかけられても返事をするな」と教えることが行われたこともありました。
その文化が今も続いているのかどうか知りませんが、私にはとんでもない話だと思えてなりませんでした。
話しかけられたら応じなければ、喧嘩になってもおかしくないはずです。
そもそも人間は、他の人に反応して生きているのですから。
私の友人が私の問いかけを無視したとしたら、付き合っていられないでしょう。

無言を通す人は、ほとんど例外なく、フェアに生きていない人です。
そうでなければきちんと話せるはずです。
それにそれなりの地位にいる人には、語る責任があります。
アカウンタビリティなどとわけのわからない言葉を持ち出すまでもなく、
社会的な影響力のある立場の人は、語ることは、その地位に含まれているのだと思います。

応えられない事情が仮にあったとしても、無言はよくありません。
テレビで、有名な人が取材に無言で通す映像は、子どもたちに悪い影響を与えるようにも思います。
都合が悪くなったら、黙って押し通せばいいと教えているようなものです。
考えすぎでしょうか。
記者に質問されたら、堂々と応えてほしいです。

そういう生き方をしたいと思いますし、しているつもりですが、
なぜか私には誰も問いかけてくれません。
問いかけるほど意味のある社会的な役割を果たしていないからでしょうね。
いやはや、それもまた問題かもしれませんね。

それはともかく最近、ずっと気になっていることを書きました。

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2008/10/06

■現実と非現実は連続しています

メラミン検出食材がさらに広がりを見せ、食への不安は高まる一方です。
私自身は、現代社会の「工業的食材」(工業化された農産品も含みます)には、程度の差はあれ、例外なくそうした危険性もしくは問題が内在していると思っていますので、何をいまさらという気がしないでもありません。
それは自分で選んだ道だろうと、つい思ってしまいます。

ところで、問題が起きて、みんなの意識が高まると問題が解決するどころか広がっていくことは食の安全性の問題に限りません。
年金の問題もそうでしたし、国会議員の事務所経費や行政職員の不正の問題もそうです。注意すべきは、そのほとんどが過去に起こった問題が顕在化してきているということです。
つまり、問題が顕在化する以前に、状況はすでに蔓延しているということです。
1会社、1職員、1議員の問題ではないのです。

現実とは何か。
それは、言葉によって表現されるか、マスコミによって情報化されることによって、顕在化します。
実際にどこかに存在していても、誰もそれに気付かなければ、存在しないのと同じです。
つまり、現実と非現実は連続しています。
決してデジタルの世界ではないのです。
どこまで見ることができるか、意識できるかで、その境界は変化します。

人の意識が関わってこそ、現実は現実になります。
いささかややこしいですが、現実を構成するものを「原-現実」と呼びましょう。
私たちに周りには、多様で異質で、矛盾しあう「原-現実」があります。
それをどう読み取るか、どう編集するかで、現実は全く違ったものになります。
そして、その現実に生きる私たちの意識は、それによって形成されます。
私たちは、「原-現実」の世界に生きているのではなく、私たちが創りあげた「現実」の世界に生きています。
意識と現実は、再帰的な関係にありますが、「原-現実」はその外部にあります。

食の安全問題の広がりは、そうしたことを教えてくれます。
私たちは、この50年、たくさんの「メラミン的なもの」を食べてきました。
その世界から抜け出すためには、原産地がどこかとか、原材料の信頼性とかを議論するだけでは限界があるでしょう。
問題はすでに普遍化し、まさに私たちの身体や生活と深くリンクしているからです。
抜け出す方法は一つだけです。
「現実」を再編集することです。
「原-現実」は、それに対応するだけの多様性を含んでいるでしょう。
新しい世界への移行には時間がかかるでしょうが、もしそれを決意するのであれば、急がねばなりません。
運がよければ、ひ孫の時代には間に合うかもしれません。

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2008/10/03

■「自分の理性を使う勇気を持て」

ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。 というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。
「牧師に頼り」というところがなければ、現在の日本社会の状況のことを言っているのではないかと思うような文章です。 しかしこれは、今から200年以上前に書かれた文章です。 カントの「啓蒙とは何か」です。 さらにこうも書いています。
それに人々は、理性を使う訓練すら、うけていない。そして人々をつねにこうした未成年の状態においておくために、さまざまな法規や決まりごとが設けられている。
ますます最近の日本と同じです。

連日、可能な範囲で国会中継を見、それへの反応をマスコミで読んだり見たりしています。
それで思い出したのが、この文章です。
カントは、「知る勇気を持て」「自分の理性を使う勇気を持て」と言っています。
飼いならされた先入観の中で、生きている人が多すぎます。
せめて自民党と民主党の論争をテレビできちんと見てほしいと思いますが、そんな時間などなくされているのが、日本の「民」の現状かもしれません。

とても生きにくい時代です。

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2008/10/01

■悲しみの共有、痛みの共有

多田富雄さんと鶴見和子さんの書簡のやり取りをまとめた「邂逅」(藤原出版)という本があります。
このブログに多田さんのことを少し書いたこともあって、思い出して再読してみました。
この本は考えさせられることの多い本ですが、今回、特に心に残ったのが、多田さんの次の文章です。

私は、異なるものは異なるままに、助け合って共に生きるということが、この地球上に人類が長く生きていくためには必要な原理だと考えておりますが、それは今とてもむずかしいことになっております。
その途を開くのは何か、ということを考えてみますと、悲しみの共有ではないか、痛みの共有ではないか。
悲しみの共有、痛みの共有の意味は、私もずっと気になっていることです。
しかし、妻を見送ったこの1年、悲しみや痛みを共有することの難しさを痛感しています。
ビオスとして、つまり理性的に共有することはできますが、たぶん多田さんが考えているのは、もっとゾーエ的な、つまり生命的な、あるいは自然と湧き出すような共有ではないかと思います。
いつか挽歌編で書こうと思いますが、私の場合、「悲しみや痛みの共有」よりも、「共有できないことの悲しみと痛み」を実感させられました。
小泉元首相の「痛みを分かち合おう」などという言葉には、怒りさえ感じます。

多田さんの文章を読みかえれば、異なるものは異なるままに、助け合って共に生きる、ということが難しくなったのは、悲しみの共有、痛みの共有がなくなってきたからということになります。
私もそう思います。
私が取り組んできたコムケア活動は、「重荷を背負い会う関係」の復活でした。
ある集まりで、その話をしたら聴いていた若者が共感して声をかけに来てくれました。
今でもはっきりと覚えていますが、しかし、彼とも結局は重荷を背負いあう関係は育てられませんでした。
彼が悪いわけではなく、たぶん「悲しみ」や「痛み」が多すぎる社会になってしまったのです。
NPOも、その例外ではありません。

しかし、もし誰かと「共に生きる」のであれば、当然、「悲しみ」や「痛み」を共有することになります。
ということは、「悲しみ」や「痛み」の共有がなくなったのではなく、「共に生きる」ことがなくなってしまったということです。
そしてそれこそが、近代の落とし穴だったのではないかと、最近、思い出しています。
ゲーテは「ファウスト」で、そのことを予告していたのでしょうか。

母親の子ども殺害事件に感ずるのは、「共に生きる」ことのなかった親子の悲しさです。
企業不祥事には、「共に生きる」場でなくなった会社が見えてきます。
世界に拡がりつつある金融不安も、「共に生きる」ことのない人たちが起こしているのかもしれません。
今日の国会の代表質問のやりとりも、「共に生きる」ことを好まない人たちのやりとりでした。

北朝鮮の映像を見た感想でも書きましたが、「共に生きる」世界であれば、貧しくてもみんな平安に過ごせます。
その「地球上に人類が長く生きていくためには必要な原理」を捨ててしまったことが、人類の悲劇の始まりだったのかもしれません。
その正否がはっきりするのは、どのくらい先でしょうか。
100年後か、1万年後か、わかりませんが、「共に生きる」ことのない生命の一員であることが、とても残念でなりません。

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2008/09/26

■茶番劇で構成されている社会

今朝の朝日新聞によれば、琴三喜が、「勝ち越したのであとは優勝を目指すしかない」と発言したそうです。
最近は少し変わってきましたが、力士はなにを質問されても、「ただ一番一番を真剣に闘うだけです」という、退屈な返事がほとんどでした。
昔から、これには大きな違和感がありました。
機械じゃあるまいし、感情や意志はないのかと思ってしまうわけです。
ですから私の力士像は、素直に気持ちを言ってはいけない職業というイメージです。
つまり、力士は「嘘つき」であることを強要されているという気が、ずっとしていました。
それがたぶんさまざまな不祥事の大本だと思っています。

そうした「嘘つき」が、世の中には多すぎます。
嘘が「マナー」になっているのが、政治家や経済人かもしれません。
官僚もそうです。
その結果、何が起こるか。

水俣病が問題になりだした頃、通産省や熊本県や水俣市の役人は嘘を言い続けました。
嘘が嘘を生み、どうしようもなくなり、悲劇が起きました。
そのことはすでに、昭和40年代には明らかにされだしていました。
チッソ関係者も問題ですが、歴史的事実は、通産省や大学教授が加担していたことを明らかにしています。
通産省や加担した大学教授がいればこそ、チッソは暴挙を継続できたのです。
通産省はいくらでもストップできました。
しかし企業関係者以外は、おそらく誰も処罰されなかったように思います。
むしろそれを防止しようとした人がいじめられて、追いやられるほどでした。
その経験は、しかし正されることなく、いまなお繰り返されています。

フィブリノゲン薬害肝炎事件はどうでしょうか。
厚生労働省の役人と大学教授と製薬会社が嘘をついていたことは否定できません。
そのせいで、何人の人が死んだのでしょうか。
年金問題はどうでしょうか。
社会保険庁の組織的取り組みだったことは、いまやあまりにも明確です。
そして最近の事故米事件。
犯人は農水省の役人たち(個人ではありません)であることは、私には明らかに思えます。
まともな感覚を持つ人なら、だれでもわかるはずです。
それをしらばくれる政治家や官僚やマスコミは、嘘をついているだけです。
文部科学省はどうでしょうか。
学校の現状を日教組のせいにする大臣が今なおいますが、日本の教育を壊したのは、文部省です。
もし日教組に問題があるとしたら、それも含めて文部省の責任です。

社会のほとんどの大事件は、例外なく「」権力を持つ中央官庁とそこに寄生している「有識者」が絡んでいます。
個人や企業で起こせる事件は、規模の点ではそう大きいものにはなりえません。
大きな犯罪は、ほとんど例外なく組織犯罪です。
個人で起こせる被害者の数は、せいぜいが100人規模でしょう。
政府が加担すれば、それが100倍以上に拡大します。
マスコミが、それをさらに拡大します。

もちろん政府は最初から犯罪を起こそうとは思っていなかったでしょう。
最初はちょっとした嘘(方便)や手抜きだったかもしれません。
しかし一度やってみると、その味は忘れられません。
そして、政府が持つ絶大な権力が、個人のちょっとした悪意をテコの原理のように増幅させ、しかも見えなくしてしまったのです。
組織の持つレバレッジ効果です。
その文化が、いつのまにか根づいてしまったのです。
嘘をついても罰せられない社会になってしまったのです。
昨日、引退を表明した小泉元首相は、それをほめたてました。

耐震偽装もそうでしたが、みんな嘘をついているのです。
検査をしたといいながら検査もせずに、許可を与えてしまう。
そうした「嘘の文化」が日本を覆ってしまっているのです。
しかも、関係者みんなそれを知っている。
なんともまあ、茶番の国です。
国技の相撲の文化は、それを象徴しているのかもしれません。

麻生内閣の茶番劇には何をかいわんやです。
閣僚全員が嘘つきに見えて仕方がありません。
少しは真実をもってほしいものです。

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2008/09/21

■支え合いの文化があればお金などなくても生きられるはず

北朝鮮ジャーナリストによる北朝鮮の実状映像をテレビで見ました。
こうした状況を放置している隣国の国民として、複雑な思いを持ちました。
政府にもし、人道支援なる考えがわずかにでもあるのであれば、先ずは隣国の惨状を正すことです。
それができずにイラクやアフガンに関わることはできないような気がします。
しかし、では自分に何ができるかと問えば、何もできない現実があります。
北朝鮮支援に関わっているNPOへの寄付くらいでしょうか。

その映像を見ながら、思ったことがもう一つあります。
もし彼らに支えあう関係が存在していたら、こんな悲惨な状況にはなっていないだろうということです。
生活を分かち合うことは生きるものの本能の一つだったはずです。
アダム・スミスもこう書いています。
「いかに利己的な人間であっても、彼の本性には、他人の運命について思いを馳せ、その幸福を、自分にとってはそれを見ることの楽しさ以外は何の関係も無いのに、大切にしようとする衝動が備わっている」。
西田幾多郎は、人間から愛他心を除けば、何も残らないといいました。
隣に問題を抱えている人がいたら、自然と手を出すのが人間です。
そしてそのことによって、社会は成り立ってきたのです。
しかし、そうした状況があれば、強権支配はできません。
「分断」こそが支配の基本なのです。

この数十年、日本の社会もそうした自然な支え合いの関係や構造を壊してきました。
それを壊すことが、まさに産業にとっての市場を拡大することであり、政府にとっては従順な僕、民を増やすことだったのです。
西田幾多郎がいうように、愛他心のない人間は人間とはいえません。
そうした人間もどきが、今の社会を構成しているとしたら、まさに金銭が猛威をふるうことになるでしょう。

一見した状況は全く対極にあるように見えて、もしかしたら北朝鮮と日本の現実は、同じものなのかもしれません。
そうならないように、お金や物を超えた、人のつながりをもっともっと育てていきたいと思います。
たまたま昨日、共済研究会で「共済の心」について少しだけ話をさせてもらう機会がありました
支え合いの文化があればお金などなくても生きられるはず、というのが私の考えですが、たぶん「たわごと」に聞こえたことでしょう。
しかし、今の時代は「たわごと」にもしかしたら真理がある時代ではないかと思います。
お金があっても、人とのつながりがなければ生きていくのは楽しくないでしょう。
いや、それどころかもしかしたら突然にお金が紙くずになることもあることを考えれば、お金に依存する生活の脆さは分かるはずなのですが。

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2008/09/18

■home lifeとlife with family

先日、某シンクタンクの研究者と話していて、話題が家族のことになりました。
私が社会の基本は家族だというようなことを言ったのがきっかけでした。
そうしたら、その人がアメリカでは、従業員の多様な生き方を認めるということで、家族という言葉は注意して使われているようだというのです。
つまり、家族とともにある従業員の生き方は、いまや所与のものではないというのです。

私も30年ほど前、「家族」というものが大きく変質するだろうと思っていました。
20年ほど前に「住まい方研究」というプロジェクトに参加した時には、「核家族」ならぬ「拡家族」と称して、血縁から解放されたミニコミューンのようなものが社会の基本単位になるのではないかと提案したこともあります。
しかしたとえミニコミューンが拡がったとしても、さらにその基本になる「家族」はやはり大事だと思い出してきました。
その「家族」の本質は、血縁ではなく親子です。つまり「育児」が社会の基本ユニットになるという考えです。
育児あるいは親子関係は、結婚を前提にはしません。
里親関係もありますし、養子関係もある。
場合によっては、師弟関係でもいいかもしれません。
しかし少なくとも時間の要素が入った関係がダイナミックな社会の基本単位としては望ましいと思います。

話を戻して、アメリカの話です、彼が言うには、アメリカの企業に関するマニフェストなどでは、home lifeという言葉やfamilyと言う言葉はよく出てきても、life with familyと言う言葉はあまり出てこないというのです。
home lifeとlife with familyは、明らかにニュアンスが違います。
家庭生活と家族生活でしょうか。
話を膨らませてしまえば、home based societyかfamily based societyか、家庭社会か家族社会か、です。

まだ整理できていませんが、この話にはなんだかとても大きな意味が含まれているような気がしています。

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2008/09/10

■過剰な同調現象の不気味な広がり

自民党総裁選挙のお祭りに乗せられてはいけないとテレビのキャスターたちは口で言いながら、完全に乗っています。
みんな自民党の広報マンになったように、楽しそうに宣伝しています。
マスコミの報道姿勢には、とても違和感があります。
そこであえて政治のテーマはやめて、今回は全く瑣末な話を書きます。

この2週間、ある必要があって、A4版4つ折り用の白い角封筒を探しています。
200枚くらい必要なのですが、その封筒がなかなかみつからないのです。
いつもは近くの100円ショップで購入していました。
ところが近隣の4つの100円ショップのどこにもなくなっています。
スーパーにも行きましたが、なぜかないのです。
今日、自動車で10分ほどのショッピングモールのショップでようやく入手しました。
但し、そこでも入手できたのは100枚ほどです。

まあそれだけの話なのですが、
この状況が私の知る限り2週間続いています。
どこかで大量に使用されたのでしょうか。
不思議な話です。

テレビで話題になった食材がスーパーから姿を消すという話はよく聞きます。
物余りの時代ですが、なにかちょっとしたことで物不足が起こりえます。
かつてはトイレットペーパー騒動もありましたが、人々の行動が同調するととんでもないことが起こるわけです。

そして今、何かとんでもないことでの「同調」現象が起こっているような不安があります。
みなさんの周りで、そういう兆しはありませんか。
社会を構造化していたさまざまなものが壊れだしているように思います。
社会が持っていたホメオスタシスの仕組みも、
多様な意見や行動が新しいものを創発していく仕組みも、
いずれもがどうもおかしくなってきているような感じがぬぐえ切れません。

同調現象は、集中豪雨などの自然界だけではありません。
生命現象としての人間の心も、
無機的にプログラミングされた組織行動も、
情報を扱うマスメディアも、
すべてが過剰な同調志向を強めているようです。

どうすれば止められるのか、わかりませんが、
しかし、こうした危機感を持っている人がいないことの方が、私には恐ろしいです。

社会は間違いなく崩壊に向けて、ある閾値を超えだしているように思えてなりません。
自民党総裁などでお祭りをしている時ではありません。
5人には、そうしたことは全く見えないのでしょうか。

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2008/09/09

■弱いものをいじめる社会のさびしさ

昨日のテレビニュースでの若の鵬の謝罪会見は見ていてつらかったです。
家族や友人と離れて外国で暮らす20歳の若者を、みんなで駄目にしてしまっているような気がして、しかもそのダメにしている側にいる自分が、なんともやり切れませんでした。
白露山と露鵬も解雇されましたが、この若者たちもたぶんわけのわからないままに人生を踏みにじられたような気がしているかもしれません。
大麻を吸ったかどうかは、私にはわかりませんが、もし吸ったとしてもなんだか私たちが吸わせたような気がしてなりません。
彼らの気持ちを少しでも考えてやる人がいれば、心も休まりますが、関係者はみんな「科学万能主義者」ばかりで、心を感じさせません。
なぜ彼らの心を汲み取れる人がいないのでしょうか。
弱いものいじめはいい加減にしてほしいものです。
飲酒運転をして事故を起こすことに、これほど寛容な社会が、なぜ今回はこれほど冷酷なのか、私には理解できません。

大阪では橋下知事が、「クソ教育委員会」とまたひとも揉めしているようですが、学校の教育力も問題ですが、それ以前の問題として、教育のあり方自体が問われるべきなのかもしれません。
教育のあり方とは、つまるところは社会のあり方です。
教育委員会に、なぜ自己反省の動きが起きないのか不思議ですが、まあ北の湖前理事長と同じく、自分のことは見えてこないのでしょうか。

その明らかな証拠が、大分県の教育委員会です。
自らが犯罪(不正合格に加担もしくは黙認)を行いながら、被害者(合格した教師)を犯罪者に仕上げる姿勢は、まさに弱いものいじめです。
それが最近の学校教育の実態なのでしょう。
不正に合格させたことのない教育委員会が、日本のどこかにあれば教えてほしいものです。

昨日のテレビを見ていて、日本は弱いものいじめの社会になってしまったような寂しさを感じました。
私が子どもの頃は、反対でした。
弱きを助け、強きをくじく、のが奨励されていたように思います。
そういう文化はどこにいったのでしょうか。

教育というのは、いったい何なのか。
私たち一人ひとりの生き方こそが、教育の出発点であることを忘れたくはありません。

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2008/09/07

■人間を信ずるか、機械(科学)を信ずるか

露鵬と白露山の大麻疑惑は専門機関の検査結果でも陽性の判定になりました。
世界的にも権威あるところの判断なので、2力士の大麻疑惑も黒と考えるのが普通かもしれません。
しかし、これは悩ましい問題です。

2力士は、自分は大麻を吸ったことはないと断言しています。
その顔や目からは、私自身は嘘を感じませんでしたが、私の目はこの種のことに関しては全くの節穴ですので、当てにはなりません。
しかし、一般論として、
「本人が否定している事実」と「客観的な検査結果(科学)が肯定している事実」と、どちらを信ずるかといえば、心情的には私は前者を信じたい人間です。
企業不祥事や行政不祥事などで、権力を持つ人が嘘を言うことは少なくありませんが、状況証拠から見て「本人の否定」が明らかにおかしい場合は別ですが、権力などの利害関係がない場合には、まずは本人を信ずるところから考えていきたいものです。
人間の社会は「信ずること」を基礎にして、なりたっていますから、そうでなければ、人間の社会など成り立ちません。

今回の事件は、2力士が嘘をついているかどうかは、もちろん私にはわかりませんが、先ずはその発言を信ずるところからスタートしたいのです。
但し、親方は別です。
親方は先ずは、弟子の言葉を疑うところからスタートすべきです。
それは子育てと同じです。
子どもを信ずることと、子どもの発言を信ずることとは違います。
自分の子どもを盲目的に信ずることは、子どもをだめにすることにつながります。
それはたくさんの事例があります。
自分の子どもにはどうしても肩入れしがちだからです。
自分の子どもを信ずるためには、言葉ではなく、ふだんからしっかりと子どもを見ていなければいけません。
ですから、今回2力士の両親方が、弟子が吸っていないといっているからそれを信ずるなどというのは、まさに子どもをダメにするバカな親と同じです。
そういう文化を相撲の世界にはびこらせた今の相撲界のトップが、問題なのです。
ここでも問題の設定を間違わないようにしなければいけません。

人間を信ずるか、機械(科学)のよる判定を信ずるか。
答は私には明確です。
みなさんはどうでしょうか。
機械(科学)の判定結果などは参考資料でしかありません。
特に生命現象が機械にわかるはずもありません。
ですから私は、人間と機械(科学)とが違った答をだしたら、たぶん多くの場合、人間を信じます。

しかし、ことはそう簡単ではないでしょう。
だから今回の事件は悩ましいのです。
最大の問題は、こうした状況を生み出してしまう協会のあり方です。
そして、こうしたことに巻き込まれる状況に置かれた両力士の不運さに同情します。
あえていえば、相撲界から追放された若ノ鵬も、不運だったと思っています。
悪いのは彼らではないような気がしてなりません。

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2008/09/02

■教員採用不正事件に関する大分県教育委員会の鉄面皮な犯罪

最近の様々な事件には、分野を超えて何か奇妙な相似性があります。
昨日の福田首相の辞任は、まさにその象徴のよう事件でしたが、記者会見を聞いていて、いつもは腹立たしく見ているタレントの無知のひけらかし番組以上のやりきれなさを感じました。
一生懸命生きているのが、虚しくなるほどの憤りを感じます。

昨日、書こうと思っていたことを今日は書きます。
大分県の教員採用不正事件に伴う教師への対応です。
これにも大きな怒りを感じます。
私の怒りの対象は、解雇宣告された教師ではありません。
それを決めた大分県の教育委員会です。

たとえば昨日の朝日新聞には「今年度の教員採用試験で、得点改ざんにより不正に合格したとされる教員21人の採用取り消しを決めた大分県教育委員会は31日、自主的に退職するかどうかの回答を9月3日までに求め、退職しない教員は5日をめどに採用を取り消す方針を明らかにした」と、昨日の朝日新聞は報道しています。

どうも私には理解できません。
教員が「不正合格」したのではなく、教育委員会が「不正合格」させたというべきです。
加害者と被害者の関係が逆転しています。
合格した人たちに、何の罪があるのでしょうか。
自分の知らないところで、不正が行われただけなのに、なぜ「不正」と非難されなければいけないのか。

それに権威あるところが、一度、合格させたのであれば、それは当事者に不正がなければ、取り消しはできないはずです。
契約を何と心得ているのでしょうか。
このやりかたがビジネスや日常生活にも適用されれば、社会は維持できなくなるはずです。
一度決めた合格を当事者には無縁の理由で一方的に取り消すことは、まさに「不正」であり「犯罪」です。
大分県の教育委員会は、二重の犯罪を重ねています。
この構図も、最近の政治や行政、企業に見られる共通の構造です。

でも試験に合格する得点を得ていないのだからと言う人がいるかもしれません。
そういう人には問いたいのですが、試験の点数がそんなに大事でしょうか。
試験の点数で教育が出来るのであれば、コンピューターに任せればいいでしょう。
それに試験の点数が良くて、出世した人が、何をやっているか良く考えましょう。
優等生は、首相になれても国政などできないことが、この数年、いやと言うほど知らされたのではないでしょうか。
官僚も、企業人も、試験の点数で選んできたために、みんなおかしくなっているのではないかとさえ、私は思っています。
知識や試験が不要だというのではありません。
現在の試験で問われていることの内容がおかしいと思っているのです。念のため。

しかも大分県の教育委員会のやり方は「いじめ」のようなやり方です。
先ずは自分たちが辞職すべきでしょう。
親や関係者を断罪すべきでしょう。
相手を間違ってはいないでしょうか。
被害者は生徒と先生です。

資格試験は利権に繋がっています。
大分のみならず全国で、多かれ少なかれ抗した「不正」は行われているでしょう。
そして、たぶん多い他のようなやり方で、本当の加害者はいつも安泰なのでしょう。
ほんとうにやりきれない話です。

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2008/08/25

■名前の大切さと匿名の文化

私が参加している平和関係のメーリングリストで、
時々、気が重くなるような攻撃メールの交換が行われることがあります。
平和のメーリングリストですから、とりわけ気が重くなるのですが、
多くの場合、きっかけは「匿名」の人の書き込みです。
メールでのやり取りは、たとえ名前を書いていても、それが実名かどうかわかりませんから、
ネット上の名前はほとんどの場合、匿名と大差ないのですが、
それでもニックネームなどという、わけのわからない文化がネットの世界では大手を振るっているのは私には違和感があります。

私のホームページや、このブログも、そうした匿名の人に攻撃されたことはありますし、
私自身不快な思いをしたこともあります。
ですから、私はネットであろうと匿名やニックネームは使いませんし、
自らが何者であるかの情報は極力出すようにしています。
まあ、それもあまり意味のないことではあるのですが。

今日の朝日新聞の夕刊に、ネットでの匿名使いのビジネスの危うさが大きく報道されています。
ビジネスを匿名でするということ自体、私には理解できかねますが、
よく考えてみるとこれまでのビジネスを支えてきたのは、「匿名の文化」だったのかもしれません。
匿名化が、産業を発展させてきたとすれば、その劣化は起こるべくして起こったわけです。
最近は、その弊害を克服するために、作り手の顔が見える仕組みが拡がりだしています。
そろそろ「匿名の文化」を考え直す必要があるようです。

人の心には、天使も悪魔も住んでいます。
もし発言者としての自分が特定されたら、言動には慎重になるでしょう。
しかし、特定されないことが保証されていれば、人は悪魔になる魅力に勝てるでしょうか。
「お天道様」がにらみを聞かせていた時代はよかったですが、そのお天道文化も消えつつあります。
しかも昨今は、個人情報保護法などというおかしな制度がまかり通り、匿名が大手を振って闊歩しだしています。
しかし、人から名前を取ったら、何が残るのでしょうか。
堂々と自分の名前も言えずに、こそこそと卑屈な人生を歩むことは避けたいものですが、
そうした風潮を助長する文化や制度が多すぎます。

せめて私は、自分の名前を大事にし、その名前のもとで言動したいと思います。

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2008/08/18

■人さまを大切にする文化、知的崩壊が進む文化

今朝の朝日新聞の「夏に語る」で、作家の石牟礼道子さんが話しています。
見出しは『「人さま」思いやる心取り戻して』です。

石牟礼さんの「苦海浄土 わが水俣病」を読んだときの衝撃は覚えています。
「公害」というものの実態を生々しく実感しました。
それが、私が近代産業システムに問題を感じ出した最初の契機だったかもしれません。
石牟礼さんは、その後ずっと水俣と係わりながら、社会に向けての発信を続けています。

石牟礼さんは、この記事でこう語っています。
長いですが、ぜひみなさんに読んでほしいと思い、引用させてもらいます。

共同体には問題がいろいろありますけれど、小さな共同体が失われ、きずなが断ち切れましたね。そうなると「他人のことはどうでもいい」と助け合わなくなった。人を殺しても平気な世の中になった。肉親でさえも殺すことになった。
近代化された標準語では他人、他者ですが、私が生まれた天草では「人さま」と言います。人さまを大切にする、隣人を大事にする、ゆきずりの人であっても縁を感じて大事にする。それが地方や村でもなくなってきていますね。
結果的に勝ち抜き社会を目指してきたでしょう。そしてお金がこの世で一番、位が高いものとみんなが思うようになった。負けた人たちはどうなるのか。生きる意味がないのか。心の問題は置き去りにされてしまいました。悩みを持った人がたくさんいる。人さま方の苦しみをわかる人が増えてほしい。
「水俣病はのさり(たまもの)」と語っていた杉本栄子さんについても言及しています。
栄子さんは「今夜も、祈らんば生きられんとばい」「許さんことには生きられんとばい」と言っていました。「(自分たちを差別した人たちを)呪う、憎むのはもうきつか。苦しくて生きられん」と。言葉でただ許すのではなくて、許した分を、向こうの罪を、自分が背負う。もう菩薩さまですね。
石牟礼さんは、誰かのせいにはせず「たまわりもの」ととらえる考え方が庶民の中にあったいいます。
共感します。そしてそれこそが日本文化の核心ではないかという気がします。
究極のポジティブシンキングです。
それを壊したのは誰なのか。
もちろん私たち自身です。

そして、石牟礼さんはこう続けます。水

俣は日本の近代化のマイナスを引き受けたんですよ。それを日本人に忘れてほしくないと思います。
教養がなくなりましたね。教養をひけらかす必要はないけれど、今は「バカ」を売りものにするのが受けているようです。あんなテレビを見ていたら、子どもはみんなバカになりますよ。教養は品性をつくるものですが、品性がなくなりました。
心から共感します。
まあ、私も「ハンマーカンマー」などと「バカ」を露呈してしまっていますので、いささか心が痛みますが。

「苦海浄土』と同じく私の生き方に影響を与えた本が、岩波新書の「水俣病」(原田正純)です。
この本は、それこそ心身のふるえがとまらなくなるほどのすごい本でした。
その中に、ずっと記憶から離れない記述がありました。
それを思い出して探してみました。
こういう記述です。

(水銀汚染が)微量な場合は粗大な身体症状がみられず、一般の精神薄弱と鑑別診断が困難なような例が生まれるであろう。これは、水銀だけの問題でないから、人類は徐々に知的機能のレべル低下をきたすであろう。そのほうが人類にとってかえって幸せかもしれないなどうそぶいているわけにはいかない。事態は今まさにそこまで来ているのである。(同書238頁)
今から35年以上前に、原田さんには見えていたのです。
35年後の社会も、きっと見えているでしょう。
いえ、私たちにも見えるはずです。
見ようとしていないだけなのかもしれません。

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2008/08/16

■人間を壊すオリンピック

最近の企業は人間を壊す場になっていると以前書いたことがあります。
いま盛り上がっているオリンピックもまた、人間を壊す仕組みになってきていることも何回か婉曲に書きました。
オリンピック報道はあまり見ていないのですが、見る度に気になることが起こります。

柔道の石井選手が金メダルを取りました。
その試合を見ていましたが、前に向かって進む石井選手の姿勢にとても好感を持っていました。
ところが、その後の石井選手の発言を聞いて、恐ろしくなりました。
「自分はスポーツをやっていない。戦いだと思っている」
「自分は殺し合いのつもりでやってる。プレッシャーというか恐怖感があった」
こんな考えで柔道をしていたのか、と悲しくなったのです。
柔道を始めた加納治五郎はどう思っているでしょうか。
これが事実であれば、石井選手には柔道をやる資格はないように思います。

「残り30秒でリードしてたら、自分は絶対に逃げる」とも話しています。
柔道もここまで堕ちたのでしょうか。

同じ日に、女子柔道の塚田選手の決勝戦もありました。
娘と見ていましたが、あと20秒というところで、それでもここで一本取られたら逆転だから気が抜けないね、と話した途端に、一本取られてしまいました。
しかし、塚田選手は石井選手と違い、逃げることなくどうどうと最後まで前に出て行っていました。
石井選手の金よりも、塚田選手の銀のほうが、私には輝いて見えました。
終わった後の彼女の発言も好感が持てました。

テレビ番組で石井選手は「優勝できなかったら腹を切るつもりだった」と言ったそうですが、そこまで若者を追いやる状況は、堂考えても狂っています。
若者を壊すことのないよう、関係者は考え直すべきではないかと思います。

石井選手にとっては、柔道はスポーツではなく、戦いであり、オリンピックは平和の祭典ではなく戦場だったのです。
なぜ彼はそう考えるようになったのか。
恐ろしい話だと思いませんか。

オリンピックはやはり人間を壊す仕組みになっているのではないかと、とても気になります。
金だ銀だと喜んでばかりはいられません。

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2008/08/09

■オリンピック開会式とチベットへの祈り

オリンピックにほとんど意義を感じていない私も、
チベットへの祈りのキャンドルを横にしながら、開会式を何とな見てしまいました。
ますますオリンピックへの不快感がわきました。
要するに「国家の暴力儀式」であり、「人間の破壊装置」だとさえ思いました。
オリンピック話題で盛り上がっているのに、こんなことを書くとまたひんし