カテゴリー「社会時評」の記事

2022/04/15

■言葉に管理される人間から言葉を活用する人間へ

前の記事を書いていて、蛇足的に書いておきたくなったことがあります。
湯島のサロンの宣伝のようなものですが。

人は4000年ほどまえに、ようやく「意識」や「心」を創り出したと言われています。
それまでは、ただただ「自然の存在」として音を発し、行動していた。
音や行動の発信源は、自然現象であり、それを五官を通して、「放し」「離し」「話し」ているうちに、外部のものを「欠き」「描き」「掻く」「書く」ことを身につけ、言葉や文字が生まれてきた。
そして文化や文明が起こってきたわけですが、どうもそれもそろそろ終焉するようです。

「話」も「文字」も、いや「言葉」そのものがすべて、AIの管理のもとで、再び人間の手を離れていくように思います。
つまりかつてそうだったように、言葉がまた人間を管理しだしていく。
第二次バベルの塔革命です。

4月23日に、湯島で「二分心」をテーマにしたサロンを近藤さんがやってくれますが、こういうところまで話が行くかもしれません。
明日予定されている升田さんの万葉集サロンでのテーマも、こういう話を根底において、もう20回目です。升田さんは、万葉集の歌は文字でなく音声で読むことを勧めます。
30日に予定されている細菌学者の益田サロンの今回のテーマは「ものの力と言葉の力」。益田さんは書筆にも興味をお持ちのようで、時々白川静さんの「字通」が話題になります。

そんなわけで、湯島のサロンでは、「言葉に管理される人間から言葉を活用する人間へ」というのが、表には出ていない大きなテーマのひとつなのです。

 

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■「人新生の時代」か「人消失の時代」か

JR東日本の恵比寿駅のロシア語の案内表示が紙で隠されていたことがわかり、SNS上で話題になっていたそうです。JR東日本の経営陣がそんなバカげたことをやるはずもなく、一部の乗客の批判の声を受けて駅長が決断し、それに対するまたまた利用者の声を受けて、駅長が紙をはがしたのだと思います。

こうした事例はいろんなところで起きているのかもしれません。
問題は、誰も何も考えずにただただ目先の問題解決だけに目をやっている状況があまりに拡がっている。
私は、サロンで時々、もう人間はいなくなりつつあるのではないかと口にしてしまいますが、ますますそんな気がしてきています。
「人新生の時代」などとはしゃいでいる人たちも多いですが、「人消失の時代」ではないかと思います。

そういえば、以前にも、ウクライナの人が経営しているロシア料理のお店の看板が壊されたりしたこともありました。
ロシア国家やロシア政府とロシア人やロシア語とはまったく別のものです。
人間として考えれば、そんなことはすぐにわかるでしょう。

私の感覚では、両者はむしろ対立概念ですが、両者の主客関係がどうも逆転し、それにすっかりなじんでしまった人が圧倒的に多くなってしまったのかもしれません。
昨今のワクチンやマスクの状況を見ていると、日本も今やロシアと同じだなと言う気がしてなりません。
いやロシア以上かもしれません。

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2022/02/17

■「これがスポーツか」

毎日、テレビをつけるとオリンピックばかりです。
オリンピックに大きな違和感を持っている私としては、いささかうんざりです。
しかし多くの人は、選手の活躍に感動しているようです。
娘も感動してテレビを見ています。
何の感激も持てない私は、よほどおかしいのでしょう。

昨日、見る番組もなかったので、録画していた映画「ポンペイ」をテレビで観てしまいました。そこに、剣闘士がローマの兵士たちに襲われるシーンが出てきました。
ポンペイに派遣されたローマの元老院議員が目当ての剣闘士を殺すために命令させて行うのですが、その剣闘士の恋人が、「これがスポーツか」と元老院議員に言うのです。

これがスポーツか!

そうか、私の最近のオリンピックへの違和感はこれなのだと、気づきました。
最近のオリンピックには古代ローマのサーカスと剣闘士のイメージをいつも重ねていたのですが、一番の違和感は「これがスポーツか」という違和感だったのです。
こんなことを言うと、ごうごうたる非難を受けそうですが。

メダルの多寡を競うのもとても嫌な感じでした。
それにやはり「金」がいいという選手を見るととてもがっかりします。
ますます避難ごうごうでしょうね。

しかし、いま話題のカミラ・ワリエワさんのドーピング騒ぎを見ていると、こんなことが行われている世界が「スポーツ」などとはどうしても思えないのです。
剣闘士を使ったショーとどこが違うのか。

苦労してがんばっている選手たちへの冒瀆ではないかといわれそうです。
誤解されそうですが、オリンピック選手を非難しているのではありません。
ついでに言えば、私は剣闘士も非難はしていません。

「スポーツができない者」のひがみなのかもしれません。
しかし、どうしても昨日聞いた言葉が耳を離れません。
「これがスポーツか!」

さらに思うのです。
「これがスポーツか」の「スポーツ」に、違う言葉を入れてみると当てはまることが少なくない。
「これが教育か」「これが政治か」「これが事業か」「これが福祉か」…
際限がない。

長生きしすぎて、時代についていけなくなってしまったようです。

 

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2022/02/16

■コロナ感染不安症に私もかかってしまっているようです

私はいつも娘から「常識がない」と注意されています。
たしかに自分でもそう思うことがありますが、そのために誰かに迷惑をかけていることもあるでしょうが、それになかなか気づきません。気づくくらいなら常識がないとは言えないでしょうから。

いまさらと笑われそうですが、今日は、いまはできるだけ人と会うことを避けるのが、「新しい生活様式」なのだと思い知らされました。
自治会会長役を4月で引き継ぐ準備を始めています。
すでに来年度の新会長も決まり、一度、引継ぎの打ち合わせをしたいと思い、メールで連絡を取っていますが、なかなか返信がありません。気になって私が引き継ぐ前にやったことを連絡しました。しかしそれでも連絡がありません。
近くなので訪問しようかとも考えましたが、念のため返事が欲しいとメールしました。
そうしたら返信がありました。

そこに書かれていたことを読んで、返信のなかった意味がわかったような気がしました。

コロナもあるため極力訪問や相対は避けたいと思います。

そういえばその人からもらった以前のメールに、オンラインで打ち合わせできないかと書かれていたことがあるのを思い出しました。
自治会活動までオンライン? 私にはその発想が理解できなかったのですが、コロナ感染を心配してくれていたのです。
なにしろ私は高齢者なので、みんな気遣ってくれているのでしょう。
いやその人がお仕事の関係で、他者に迷惑をかけてはいけないので、感染予防に心がけなければいけないのかもしれません。
いずれにしろ、「極力訪問や相対は避ける」のは「新しい生活様式」になっているのでしょう。それに気づかない私は、非常識と言われても仕方がない。娘が言う通りです。

それにしてもみんなこれほどまでにコロナ感染が心配なのだとは思ってもいませんでした。電車でマスクをしていないと注意される時代なのです。いや間もなくワクチンを接種していないと相手にされなくなるかもしれない時代なのです。
もしかしたらメールのやりとりさえも感染のリスクがあると思っているのではないかと思ってしまうほどです。さびしい時代になりました。
もう自治会などやめた方がいいとつい言ってしまたくなる気分です。
まあそう思うのもまた、私のストレスがたまっているからでしょう。
これもまた「コロナ感染不安症候群」の変異症の一つかもしれません。

しかし新しい常識によって、よくなったこともあります。
コロナ感染以外は、みんなきっと怖くなくなったのでしょう。
ただただコロナ感染を防止すればいいのです。
それ以外の不安はみんなとんでしまった。

いやいやそう考えるようでは、私のコロナ感染不安症もかなり重症のようです。
困ったものです
少しは「常識」を身につけなければいけません。

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2022/01/24

■コロナ恐怖症候群の脅威

アメリカ軍普天間基地の移設計画への対応が争点となった沖縄県名護市の市長選挙は、自公推薦の現職の渡具知さんが、移設計画の中止を訴えた岸本さんを破って当選しました。
投票率は前回よりも1割近く低かったようです。
やはりお金の力は大きい。

コロナ騒ぎのなかで、どんどん日本という国家が崩れていっているようです。
コロナコロナと騒いでいる時ではないような気がしますが、今回は何もしなかった自分を悔いています。
コロナの恐ろしさを改めて実感しました。

新型コロナ感染症は、私には脅威ではありませんが、コロナ恐怖症候群は脅威です。

 

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2022/01/17

■クイズは楽しいのに入学テストはなぜ楽しくないのか

大学入学共通テストの日本史Bをやってみました。
新聞に載っていたものでやったのですが、字が小さいので大変で、途中でやめてしまいました。後日、改めてチャレンジするつもりです。

毎年ではないですし、科目も毎年違いますが、これまでも時々やっています。
いま学校教育ではどんな試験が行われているのかを知りたいからです。
まあ1~2科目やったところでわかるはずもありませんが、感ずることはいろいろあります。
私が学校教育に違和感を高めているのは、まあそういう中途半端な体験知のせいかもしれません。一言で言えば、なんでこんな形で学力を評価するのかという疑問を毎年強めています。

私が試みるのは国語や歴史が多いのですが(英語や数学や自然科学は歯が立ちません)、毎年、点数は下がってきています。
今年は1科目、それもまだ途中ですが、辛うじて60点台。これでは不合格でしょう。
問題は年々、頭をかしげるようなおかしな問い方が増えている気がします。
ともかくやっていて楽しくない。何か瑣末な問いしかなされていない気がするのです。
でもいろんなことに気づかされます。

お暇な方は、ぜひトライしてみてください。点数などはどうでもいいので、ただどんな試験が行われているのかを知ることができますから。
学校教育や大学の位置づけが何となくわかるような気もしますし、文科省の使命もわかるような気がします。
私のように、いつか、学歴主義の意味が反転し、‟educated incapability”という考え方が見直されるかもしれないという懸念まで生まれてくるかもしれません。

クイズやテストが、こんなにはやっているのに、どうして学校教育の世界ではテストが楽しくないのでしょうか。
学ぶことの楽しさが、戻ってくるといいのですが。

 

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2022/01/13

■医療関係者によるワクチン賛否議論を聞きたいものです(2022年1月13日)

オミクロン株の流行のニュースが多いですが、どうも意味がよくわかりません。
ワクチンのリスクの報道も増えていますが、これもよくわからない。
知識が増えれば増えるほど、わからなくなる。困ったものです。

テレビの専門家の話を聞いていても、私にはほとんど何も語っていないようにしか聞こえてこない。また、ワクチンによる死者の数が増えてきたと聞いても、その評価ができません。薬や医療行為によって死者が出ることは当たり前だからです。死者だけ語っても意味もなく、それによって救われた命と一緒に語ってもらわなければ私には意味がわからない。

その上、いまや日本の官庁や「公的機関」が作成するデータは私には全くと言っていいほど意味がない。改ざんや捏造があってもきちんと説明や謝罪もないような状況を放置しているシステムには信頼性が置けないからです。データに信頼が置けない国家は実に居心地が悪い。しかし、ワクチン賛成派はもちろん、ワクチン反対派も、そうしたデータに基づいて議論していることが多く、どうも私には聞く耳を持ちにくい。

医療関係者によるワクチン反対論や新型コロナ「風邪」説などもかなりありますが、そういう疑問や意見があるのであれば、医療関係者によるきちんとした話し合いの場があってもいいと思うのですが、それがあまり行われていないような気がする。
テレビでは毎日、同じような医療専門家による同じような解説が行われていますが、そんなことより、反対意見と賛成意見をしっかりと話し合うような番組がなぜないのか、不思議です。

ちなみに私は、オミクロンウイルス感染症もインフルエンザも脳梗塞もみんな同じように危険なので、罹患しないように可能な範囲で注意していますが、人生においてもっと大切なことが多いので、コロナ騒ぎで自分の行動を変えることはできるだけ避けています。
コロナ感染が心配で、会いたい人に会えないような生き方はしたくないからです。

 

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2021/12/27

■東尋坊から今年もお餅が届きました

東尋坊で長年、見回り活動をしている茂さんたちは、今年も大変だったようです。

コロナ騒ぎは、マスコミからは伝わってきにくい、いろいろな問題を起こしています。
コロナ感染を心配するのはもちろん大切なことですが、コロナのために、見えないところでさまざまな問題が起きていることへの想像力も高めていきたいものです。

茂さんによれば、今年は今日現在で45人の人に声をかけ、全員が再出発を果たしているそうです。若い人も増えてきていて、今年は中高生が4人いたそうです。
以前紹介させてもらいましたが、今年は、自殺を考え岩場でたたずむ人の姿を声掛けする前に写真撮影し、承諾を得て写真集にした「蘇る」の写真集を出版し、NHKやヤフ一などで取り上げられ話題になりましたが、そんな報告も書かれた新聞記事も同封されていました。

送られてきたお餅は、茂さんや川越さんたちが、東尋坊で遭遇した自殺企図者だった人たちと一緒に、感謝の気持ちを込めてついてくださったものです。
早速、みなさんにもおすそ分けさせてもらいました。
私は大好きなので、その前に一ついただいてしまいましたが。

今年は湯島ではサロンは開けませんでしたが、来年はぜひ自殺がなぜまた増えているのかを話し合ってみたいと思っています。
写真集は湯島にもありますので、声をかけてくれたらご覧いただけます。

誰もが自殺に追い込まれない社会ネットワークの活動はほぼ休眠していますが、いまは私も個人としてできることに取り組んでいます。来年はもう少し開かれた活動ができればと思っています。

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2021/12/06

■「いいニュース」

今朝の新聞にGoogleが一面広告で、「いいニュースって、なんだろう?」と呼びかけています。こう書いてありました。

ニュースを読むことは、世界の今日を考えることにつながる。
それは、未来をよくすることに、きっとつながる。

いいニュースを読んだら動き出したくなる。それが私にとっての「いいニュース」です。

膨大なニュースが毎日飛び交っていますが、メディアに載っているニュースを選ぶ目がどこにあるかが気になります。Googleも、それをもっと開かれた透明性のあるものにしたら、「いいニュース」の発信源になるでしょう。もし本気で、未来を(みんなにとって)善くしたいのなら、ですが。

仕事で多くの新聞を毎日読んでいる人とちょうど一昨日話したところですが、複数の新聞を読んでいると、その違いがよくわかり、特定の一紙だけを読んでいると世界を見違えかねないと、その人は言っていました。

新聞にしろテレビとネットにしろ、媒体によっていずれもかなりの偏りがありますので、それを受け取る自分の世界をできるだけ現実に立脚して広くしようと私は心がけています。どんなニュースも、受け手によって、その意味(与えるメッセージ)は違ってくるからです。書き手の意図とは真反対に解釈することも、時にあります。

ニュースに関しては、とても共感できる本を最近読みました。
石戸諭さんの「ニュースの未来」(光文社新書)です。

石戸さんは、「インターネット時代の良いニュースとは、事実に基づき、社会的なイシュー(論点、争点)について、読んだ人に新しい気づきを与え、かつ読まれるものである」と定義しています。そして、良いニュースを成立させている5大要素として、「謎」「驚き」「批評」「個性」「思考」をあげています。
私の感覚にぴったり合っています。
私は、多くの場合、ニュースを読んで「何かを知る」のではなく、「何かを考える」「行動につなげる」ようにしています。知っただけでは意味がない。そこから自分事を考えるのが私の姿勢です。

ニュースの「ニュー」の新しいことに関して、石戸さんは「知らないことを知ること=新しいこと」だと書いています。それを読んで、私の新聞の読み方はちょっと変わりました。最近の新聞には「ニュース」が少ないなと思っていましたが、それは私の読み方の問題だったことに気づかされました。もうすでに知っていることに関する情報が、私にとってのニュースになることも少なくありません。知っていると思っていたことが、実は何も知ってはいなかったことに気づかされることもあります。

マスコミが毎日送り込んでくる情報に埋没してしまうと、しかし、何も考えずに与えられた情報に振り回されかねません。そうならないように、ましてや支配されないように、自分で世界を見つけていくようにしたいと思っています。

石戸さんの「ニュースの未来」はお薦めです。

 

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2021/11/28

■性善説は「楽観」ではなく「希望」

今朝の朝日新聞の「日曜に想う」で、論説委員の郷富佐子さんが「新自由主義の終わりと性善説」と題して、ルトガー・ブレグマンの「希望の歴史」を紹介しています。
その最後に、ハラリとの対談で、ハラリから「楽観的すぎる」と指摘されたブレグマンの反論が紹介されています。

楽観と希望は異なる。楽観主義は一種の自己満足で、人を怠け者にする。でも希望は、物事を変える可能性を示す。私が歴史を好きなのは、いまの社会や経済の仕組みが宿命などではなく、大きく変えられると教えてくれるからだ。

同書は、前にも紹介したとおり、人間は生まれながらに利己的だという「常識」を崩し、性善説を証明しようとしているのですが、この「性善説」というのが実に癖ものです。

昨日の湯島サロンでも、大学生の一人が性悪説で社会を見ているというような発言があったのですが、前にサロンの報告で書いたように、善か悪かは基準によって反転します。

結局は、いまの自分と同じ人がデファクトかどうかということではないかと思いますが、そう解すると、性悪説論者は社会の多くの人と自分の価値観が違うと表明していることになります。なぜなら社会は性悪説が基本と思っている人も、自分は性悪とは思ってはいないでしょうから。となれば、性善説と思っている人は、さぞかし生きづらいことでしょう。他者は信じられないわけですから。

ブレグマンの発言を改めて読んでみて、性善説は「楽観」ではなく「希望」を持つことにつながることに気づきました。
性善説や希望がデファクトになれば、困るのは誰か。
そう考えると、生き方が変わるのではないかと思うのですが、逆にそう思わない限り、新自由主義はますます強固になっていくでしょう。

やはりこう考えるのは理想主義で、現実的ではない発想でしょうか。
ちなみにブレグマンは、「希望の歴史」の最後に、読者にこう呼びかけています。

現実主義になろう。勇気を持とう。自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。白日の下で良いことをし、自らの寛大さを恥じないようにしよう。最初のうちあなたは、だまされやすい非常識な人、と見なされるかもしれない。だが、今日の非常識は明日の常識になりえるのだ。

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