カテゴリー「社会時評」の記事

2026/06/04

■ダン・ブラウンの最新作『シークレット・オブ・シークレッツ』を読みました

昨日は台風のため、サロンを延期したので、まる1日、読書に充ててしまいました。
読んだのは、一昨日から読み出していたダン・ブラウンの最新作『シークレット・オブ・シークレッツ』です。
ご存じ、ラングドン・シリーズの6作目です。

今回の舞台はプラハ。節回しの主役は、なんとゴーレム。そして話題のテーマは「非局在型意識」。
ダン・ブラウンの作品の予見性は評判があります。2013年の『インフェルノ』ではパンデミックを、2017年の『オリジン』ではAIエージェントを話題にしていますが、いずれも数年後に現実化しています。

正直、今回の作品は物語としてはいささか退屈ですが、意識や死に関する記述、とりわけ「非局在型意識」に関してはとても共感できます。
もちろん今話題のASI(超知能)にもつながっていますが、もしこれまでと同じく、予見性を持っているとしたら、数年後はどうなっているのか。残念ながら私には社会は現実体験できそうもありませんが、個人体験はできるでしょう。
私の考えていることととてもつながっているので、とても共感が持てました。

物語は、私にはあまり面白くはありませんでした。やはり第1作の『ダ・ヴィンチ・コード』が面白すぎた。
この作品は、うまさは感じますが、ワクワクはしない。
ただ、最初に出てくる節回しの主役のゴーレムが誰なのかを解く謎解きはおもしろいです。
私の最初の予想は全くの的外れで、上巻を読み終えてやっと正体がわかったと思ったのもつかの間、下巻に入ってそれも見事に外れていました。
かなり最後になるまで正解に辿りつけませんでした。あとで考えれば、実に簡単な話なのですが。自分の頭の固さに気づかされました。
考えさせられる指摘もいろんなところにちりばめられています。
たとえば最後に近い当たりで、主役の一人の純粋知性科学者がこう言うのです。

「全人類の精神が互いにつながっているという証拠が明らかになれば、世界は恐怖と競争ではなく、共感と理解でつながることになる。その世界では、国家の安全保障という概念は過去の遺物と化しているだろう」。

全く同感で、いまでさえも、私はそうできるはずだと思っています。

ラングドン・シリーズは全作読んでいますが、本作品もやはりお薦めの作品です。
ゴーレムが誰か。上巻の半分まででわかった人はすごいです。いやそれがわからなかった私が、やはり脳の衰えが進んできているのかもしれません。

 

| | コメント (0)

2026/05/03

■「共」を「公」から取り戻さないといけません

昨日、Hongo22515で少し話させてもらったことを書きます。

私は「公共」という言葉が大嫌いです。
「公」と「共」とは全く違った概念なのに、それをつなげてしまい、「公」が「共」を飲み込んでしまったところに、大げさに言えば、富国強兵から戦争への道が開かれたと思っているからです。

「公」は全体から発想するのに対し、「共」は個人から発想します。ベクトルが真逆なのです。「公」の関心は「全体秩序(統治)」であり、「共」は「自立共生(協治)」です。要するに、真逆な概念であるはずです。
1_20260503084101

この発想の違いは、AI時代をまったく別のものにしていくはずです。
私の見る限り、いまは残念ながら「公」の視点で進められています。
それが「シンギュラリティ」の世界です。それに対しオードリー・タンたちのビジョンは「プルラリティ」です。言い換えれば、「単一性」と「多様性」です。昨日は「モナーキー」「アナーキー」という言葉も出ました。

「共」の発想が近代国家を目指す明治政府によって、「お上」の「公」に絡めとられ、人が支え合う共同体社会は前近代的なものとしてつぶされてきました。
しかし、幸いに今なお、各地にはその文化が残っている。
それをベースに「ケア・コミュニティ」を回復したいというのが私のかつてのテーマの「コモンズの回復」でした。

その取り組みは思わぬことで20年前に頓挫してしまいました。
以来、私の小さな身の回りでの「コモンズの回復」にとどまっています。

 

| | コメント (0)

2026/03/15

■「正直なことは性格の悪さ」のこともある

昨日、孫とのやりとりを投稿しました。
受け取り方はさまざまでいろんなコメントをもらいました。
少しだけ補足したくなりました。孫のためにも。

言葉は両義的です。
たとえば「正義」を明言する人は、大体において、自らもその行為を「正義」だと確信していないことが多いと思います。自分を納得させるために、「正義」を声高に唱えるわけです。本当に正しいことだと確信していれば、「正義」などと言葉にすることはないでしょう。
それに、そもそも「正義」などという事実は存在しません。どういう視点に立つかで、正義は真逆な意味にもなるからです。

事ほど左様に、言葉は両義的です。
私が「性格が悪い」と孫に言うときの意味は、孫への誉め言葉でもあります。但しそこにちょっとした注意も込めています。

孫は、見事に私に「正直に言うことこそ性格が悪い」と返してきました。
その言外に私が受け取った意味は、「正直に話すのは、自分の視点でしか考えていないからで、相手の立場を考えていない身勝手なこと」です。
いささか読みすぎだと思うでしょうが、子供の言葉にこうした深い意味が含意されていることが多いのです。
もちろん本人が意識したり意図しているわけではないでしょう。でも子供の感覚や言葉の使い方は、実に見事です。
時に試験的に使っているのではないかと思うこともありますが、大体において直感的に言葉を身心で理解しているように思います。

相手のことを考えながら、しかし正直に話すのは難しい。
正直と自分本位な判断でとは違いますが、つながっている。
でも大人は子供に対して、ついつい自分本位に話しますから、子供を傷つけることもあります。
家庭でのDVの話を聞いているとそういうことが少なくありません。
だいたいにおいて、親子の話し合いは、子供のほうに客観的正当性があるように思います。それにきちんと対応できないために、親の立場を利用して命令的な言葉で制したり、時には暴力を使ってしまう。
しかし、そうした状況で育った子どもたちは、大きくなると反逆します。ただあまりにひどい扱いを受けた場合、子供は親を捨てていく。でも残念ながら親子のつながりは、子供を縛っていくように思います。だからこそ、子育ては大切なのです。

長々と中途半端なことを書いてしまいました。
子どもから学ぶことはとても多い。親が子どもを育てるのではなく、実は子供が親を育てているのではない。と私は常々感じています。
これは同時に、学校教育にも当てはまります。
学校での先生と生徒の関係も逆転した方がいいと、子供の頃から思っていました。
もっと先生は生徒に学ばなければいけません。もちろん相互に学び合うということですが。
しかし今の学校の先生には、そういう余裕はないようです。

ちなみにこれは家庭や学校だけではありません。
病院も会社も、すべてにおいて当てはまるような気がします。
社会構造原理のパラダイムを反転させたいと思っているのはそのためです。
まあ挫折の連続でしたので、果たしてそれが正しいかどうかはわかりませんが、私の信念なのです。

| | コメント (0)

2026/03/12

■3.11で想いだすのは津波か原発事故か

東日本大震災から15年が経ちました。
午後2時46分。ひとりで黙禱しました。そしていろいろ考えました。
気がついたら3時を過ぎていました。
思うことがあまりにも多い。

新聞もテレビも大きく報道しています。
でもなぜか原発事故のことはあまり取り上げられていない気がします。
もちろん社説や論考記事では取り上げられていますが、多くの人は読まないでしょう。

一般記事やテレビでは、私の気のせいか、自然災害のことばかりが目立ちます。
原発事故は言及されてはいますが、原発事故の悲惨さはほとんど書かれていません。
たしかに地震や津波などの自然災害は恐ろしい。
でも、私にはもっと恐ろしいのが原発です。
原発事故は回避できるにもかかわらず、放置している人間が恐ろしいのです。
自然災害と原発災害は、違う災害です。

原発事故が回避できるというのは、事故が起きないように運転するという意味ではありません。そんなことができるはずはありません。
私が回避できるという意味は、原発を無くするという意味です。
自然災害と原発事故は、違うものです。

フクシマの事故を起こした原発周辺の住民調査によれば、いまなお「暮らしが回復していない」と答えた人が4割だそうです。
この数値を見て、なぜみんな恐れないのでしょうか。

原発再開を決めて野田政権以来、原発はまた動き出しています。
そして今やむしろ原発への期待は高まっています。
どうして人は懲りないのでしょうか。

フクシマのことを私たちはもっと知らなければならない。
それこそが、3.11の被災者への追悼になると、改めてそう思います。

 

| | コメント (0)

2026/02/10

■選挙が終わっても相変わらずの罵り合いにはうんざりですね

ネットの世界でさかんにコメントしている人は、どうして自分がないのでしょうか。
それとも自信がないのでしょうか。
自信がないから、ついつい過剰の強い表現になるのでしょうか。
誰かの言動に非難ばかりで、自分の主張はほとんどない人が多いですね。

みんな勝ち馬に乗りたいだけの貧しい(経済的ではないですよ)人なのかもしれませんが、落選した政治家や予想を間違えて評論家、あるいは敗北した政党の人にまで、ここぞとばかり悪口を突くのは実に不快です。そこまで自分を貶めなければいけない状況には、まあ同情はしますが。
私の記事にさえも、非難してくる人がいるのですから、よほど、心が荒れている人が多いのでしょうね。
そういう社会をだれがつくったのか。80代の私も、その責任の一端を担っているのでしょうね、反省しなくてはいけません。

しかしこれからますますそういう人が増えていく恐れがあります。
子どもたちや若い世代がそういう状況の中で、情報に接していきますから。

この殺伐とした社会。
貧しいのはお金ではなく、心でしょう。
働かされて働かされて働かされてしまっているからでしょうか。
ちょっと余裕をもって他者に接すると、悪いところばかりではなく良いところも見えてきます。他者の良いところが見えてくると、自分の良いところにも気づきやすくなる。

まずは誰かを罵倒するのをやめるといい。
言葉遣いひとつで、人は変わりますから。
良いところを見つけて、それを真似るといい。

選挙は闘いであって、戦いではないのですから。

| | コメント (0)

2025/07/16

■昨日は上流社会の人の話を聞きました

昨日は久しぶりに「上流社会」の人に会いました。
やはり「上流社会」の人は気持ちがいい。たぶんいつも良い空気を吸い、自然に恵まれているからでしょうか。ともかく交流している仲間に恵まれているのでしょう。
しかし、最近は上流社会でも付き合いが難しくなってきているようです。
さらにそのまた上流からの来客が増えているようです。
たとえば、昨日会った「上流社会」の人の場合は、鹿との付き合いに困っているようです。

昨日お会いした「上流社会の人」は森と棚田に囲まれた水俣の愛林館の沢畑さんです。
https://kumamoto.guide/spots/detail/3229
標高約200メートル、水俣湾に流れ込んでいる水俣川の上流に位置しているのです。
昨日は、その「上流社会」に住んでいる沢畑さんにサロンを開いてもらいました。
多くの人に聞いてほしいお話でした。
サロンの報告はまた別途させてもらいますが、上流の人にはやはり世界が見えている。

私は「下流の人」とも付き合いがあります。
東尋坊で長年、見回り活動をしている茂幸雄さんです。
茂さんは、川の下流にいますが、流れてくるのは水だけではないようです。
「上流社会」で人生に疲れて、やってくる人が多い。
だから茂さんからは、上流の人たちがもっと暮らしやすい社会にしないと見回りが忙しくなると言われています。

社会はすべてつながっています。
さまざまな流れが社会をつないでいる。
どこかの社会が「自分たちファースト」と言い出したら、どうなるか。

自然と少しでも触れ合っていると、すべての存在は支えっていることがよくわかります。

 

| | コメント (0)

2025/06/25

■湯島サロンのアフォーダビリティ

最近、湯島のサロンの持つアフォーダビリティを実感しています。
「アフォーダビリティ」という言葉はあまり聞きなれないかもしれません。
たとえば、アメリカなどで「アフォーダビリティ」といえば、「購入できるか否かの値ごろ感」という意味でつかわれていますが、私が使う意味は全く違います。

もう20年以上も前になりますが、一応、企業の経営コンサルタント的な仕事をしていた時に、導入した私の勝手な言葉ですが、そのもの(存在)がもつ意味のような意味で使っていました。私の役割は、社会にとっても社員にとっても、その企業の存在がそれを豊かにしてくれるようにするにはどうしたらいいかを提案することでした。
残念ながらそうした私の思いや姿勢は、共感してもらえずに、仕事につながることはほとんどなく、結局、赤字続きの会社になってしまい、いまなお借金を抱えています。

湯島サロンのアフォーダビリティというのは、したがって、湯島サロンが引き起こすことにつながっています。ここで「サロン」とは空間の意味もあれば、そこで行われている話し合いのサロンという活動の意味もあります。

私が経営コンサルタントして企業に関わる場合は、その企業が引き起こす価値を高めることにありました。いうまでもなく、その価値は「マイナス価値」も考慮に入れての純粋の創出価値です。もちろん金銭価値ではありません。当時はキャッシュフローとしての価値が全盛の時代でしたから、それに抗う存在意義としての価値など、なかなか受け入れてもらえませんでした。

しかし、湯島のサロンは、活動としても空間としても、いろんな価値を引き起こすアフォーダビリティが育ってきた気がします。
湯島ではいろんなことが起こります。
なんでもない空間ですが、そこに来るとなぜかホッとして心を開いてしまうと言う人がいます。思ってもいなかったことも起こる。
私も今は、湯島のサロンのおかげで元気を維持しているのかもしれません。
湯島から始まった物語もあります。

ちなみに、私が「アフォーダビリティ」と言うことを勝手にい出したきっかけは、アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンの造語「アフォーダンス」に依拠しています。ギブソンは、動詞 afford(与える、もたらす)の名詞形として「アフォーダンス」という言葉を作り、環境が動物に対して与える「意味」あるいは「価値」を指す言葉として提唱したのです。

実は最近、この「アフォーダンス」が私の意図したことではない価値を引き起こすことを体験させられました。
価値とはまさに人によって真逆にもなるものなのです。
自分の視野の狭さを、まざまざと感じさせられて、この数日、いささか混乱していました。
幸いにその「事件」は大ごとにならずになんとか解決しましたが、学んだようで私は全く学んでいないことを思い知らされました。

湯島は閉じようかとさえ思ったのですが、やはり継続していこうと思います。

| | コメント (0)

2025/03/31

■個人情報保護という発想への違和感

この数日、改めて人のつながりの面白さを実感しています。
数日前に40年程ぶりに、かつてあるプロジェクトの相談を受けていた人がやってきました。その頃、私はまだ企業関係の仕事もやっていましたので、その人も企業の人で、プロジェクトも企業がらみでした。
そのプロジェクトは残念ながら企画段階で終わってしまいました。もし実現していたらまさに今の時代にも大きくつながるおもしろい構想でしたが。

40年ぶりにやってきた人とは最近フェイスブックでつながったのです。
それで再会となったのですが、その人はビジネスマンだとばかり思っていましたが、画家であり演劇人でした。それで話していたら、意外なことがわかりました。
先日、演劇関係の講演会に友人に誘われて行った時に、偶然隣に座った人と話したら私と共通の友人がいたことをフェイスブックに書いたのですが、その宮城さんと知り合いだと言うのです。まあそれもあって今回、久しぶりに訪ねてきてくれたのかもしれません。
それだけではありません。
私が一度話してみたいなと思っている人とも、その画家の人は知り合いでした。
人の輪はどんどん広がっていく。

そんなことが最近よく起こっているのです。

昨日は令和の百姓一揆のデモに参加したのですが、以前、ピースウォークに参加した時に、定刻に誰も集まらず、2人だけで歩いた人がいますが、その人のこと思い出して昨日一緒に行った人に話したら、なんとその人とは活動を共にしたことがあるそうで、その人の伴侶とは学校の同級生だったと言います。まさかのまさかです。

こうやって話していくと、人はたぶんみんなつながっているのでしょう。
80億人というと、いかにも膨大な人数のような錯覚を持ちますが、兆単位でつながっている微生物に比べればわずかな数の集団です。
まさに「スモールワールド」で、みんな6~7人を介してつながっているのです。

にもかかわらずいまだに地球からは戦争がなくならない。
人のつながりがもっと可視化されれば、世界は変わるかもしれません。
だから、みんなもっと自らの世界を開いていけばいいなと思っています。
そして、私は思い切り自分のことを開示する生き方をしているのです。

個人情報保護という発想にも、私は違和感を持っているのです。

| | コメント (0)

2025/03/18

■マイホカードの拾得電話に気をつけましょう

昨日、私は「マイホカード」を落としたそうで、我孫子の警察者の落し物が借りの安田さんから電話がかかってきました。私は留守だったので留守電に入っていました。

「マイホカード」というのを私は知りませんが、パソコンをやっているうちにどこでどう間違ってクリックしてしまったのか、時々、なんで送られてきたなのかなあと思うようなカードが届きます。
しかしそうしたカードを持ちあるくことはないので落とすはずはありません。
でもまあ最近の警察は親切で、落としていないものも拾ってくれるのかなあという気にもなります。そう思わせるほど、電話の主は、とても「いい人」らしさのある声でした。

みなさんのところには、安田さんから電話はないでしょうか。
もちろんこれは「詐欺電話」です。
最近こうした電話が多いです。
そのためわが家の固定電話は常に留守電になっています。
そろそろもう固定電話はなくしたいのですが、Wi-Fiを使いたいので、なくせません。

みなさんも「マイホカード」拾得の知らせにはお気を付けください。

 

| | コメント (0)

2024/12/16

■脳の腐敗 brain rot

日本は今年の漢字に「金」を選びましたが、オックスフォード英語辞典の出版社は今年の単語に「脳の腐敗」(brain rot)を選んだそうです。今朝の朝日新聞の天声人語で紹介されています。「取るに足らない、特にオンラインコンテンツの過剰消費による精神状態や知的能力の低下」と定義されているそうです。
知識は、脳を腐敗させると、私もこの頃、痛感しています。

私の脳も、かなり腐敗しているのでしょうね。

困ったものです。

Dsc_29140000

| | コメント (0)

より以前の記事一覧