カテゴリー「社会時評」の記事

2018/12/29

■おまけサロンの報告

今年はたくさんのサロンを開催しましたが、おまけのサロンまでやってしまいました。
参加の連絡は2人しかなかったので、人が来ない間は年末大掃除でもしていようと思っていたのですが、意外にも10人を超える人が来てくれました。
おかげさまで、定刻よりも早く予定より遅くまで、サロンができました。
メンバーは入れ替わりましたが、最初から最後までほぼ5時間をお付き合いしてくれた方もいました。
おかげで、年末大掃除は年越しになりました。
困ったものです。

話し合いは案内の通り、「社会はよくなっているのか、住みやすくなっているのか」を基調にいろいろと広がりました。
自分には生きやすくなっていない、社会はちょっとおかしい方向に行っているのではないかという意見が多かったように思います。
その根本には、みんな「余裕がなくなってきている」ということがあるのではないかという話も何回か出ました。
もちろんちょっといい話もありましたが。

私にとっては非常にいい話がありました。
今年からサロンに来てくれだした人が、「このサロンを知ったことが今年の事件のひとつ」と(たしか)言ってくれたことです。
サロン主催者としては最高に元気づけられる言葉です。

今回、私にとって初対面の人も2人参加しました。
そのおひとりは、今年の春頃に掲載された東京新聞の記事を読んでこのサロンに関心を持ってくれていたそうですが、やっと参加できたと言ってくれました。
もうひとりの初参加の人は、友人に教えてもらい、どんなサロンかわからなかったが参加してよかったと(たぶん)言ってくれました。
いずれも大いに元気づけられました。

そして、その3人の言葉で、私の考えは変わりました。
社会はいい方向に向かっているのです。
というわけで、おまけのサロンのおかげで、いろいろなことがあって、心身ともにめげることの多かった私にも、今年は「いい年」になりました。

社会がよくなっているか、自分にとって住みやすくなってきているか。
この問題設定が間違っていたかもしれないと、5時間近い話し合いを聞きながら、思い直しました。
社会をよくしたい、もっと生きやすい社会にしたいと思って、自分に何ができるかを考えることの方が大切だと考えなおしたのです。

そしてまた、誰かのちょっとした一言が、人を幸せにするものであるということも、改めて実感しました。
来年から、私も誰かを幸せにできるような話し方と知らない人にも話しかける姿勢をもっと身につけようと思います。
社会をよくするために、それが私にできる出発点のようです。

自分本位の報告になってしまいました。
これで今年の湯島サロンは終わりですが、参加されたみなさん、いつも長い報告を読んでくださったみなさん、ありがとうございました。
来年もまたサロンを続けますので、気が向いたら遊びに来てください。
みんなが生きやすい社会に向かうことを信じながら。

ちなみに、正月に悪性の風邪をひいたり、交通事故に合わなかったりしない限り、1月7日の午後、新年最初のおまけサロンを開く予定です。
湯島天神や神田明神に来る方がいたら、その真ん中ですので、お立ち寄りください。
先延ばしした大掃除をしている最中かもしれませんが。

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2018/12/20

■人がつながっていけば社会は変わっていくでしょう

先日の私のサロン(「なぜ私は湯島でサロンをしているか」)の報告を読んだ、NPOファミリーステーション・SACHIの高橋雅栄さんからメールをもらいました。
もう15年ぶりほど前にサロンをしてくださった方です。
高橋さんは、長年、子育てサロンの活動を続けています。
ご自身の子育てを終わってからも、です。

以下、その内容の一部を紹介させてもらいます。

私の思いも、かなりの確率で佐藤さんに共感します。
特に、みんな「自分」をしっかりと生きるのがいいのではないかと思っています。
というところは、私が今日みんなと語って来た主軸となるところです。

自分を生きることをママがやって見せることが子育てで、子どもは子どもの人生を生きるのだから、ああしろ、こうしろなんて必要ない。
親は言うほど偉いわけではないのに、親になったら子どもに指図するのが親だと思うのは違うと思う。
ましては、支援者の立場にある私たちは、もうただただ利用者さんの不安や、悩みに耳を傾けて必死で話を受け止めるのが務め。寄り添って、共感することが精一杯です。
の、はずです。

喜んで人さまの土台となる。
それが出来ない日は、利用者さんの側になって支えてもらえるからこのサロンを始めたんだよ、という話を今日の集まりでしてきました。

22年の子育てサロンの活動を通してエンパワメントされて元気になったママは2500組以上、年、市の出生数の10%の方が私たちと出会っています。
毎年新たに支援団体が生まれています。
元気になって、自分らしく生きる道を見いだして、起業した方は10組以上。
サロンにブースを出して、起業を考え中の方が15組います。
子育て支援の分野は、20〜25年前には、子育て支援という概念すらなかったほどですが、今は、自治体が子育てサロンを運営しています。
私は、サロンで、社会はちょっとは変わるよなぁと思う一人です。
こうあるベキ!とか言って
何かと闘って生きるより
隣の人と知り合って、助けて!と言える関係を作った方が、子育てしながら自分らしく生きていくことが出来るなぁと思います

以上です。
こういう活動が少しずついま広がっていると思います。
社会はきっと変わっていくでしょう。
来世が楽しみです。

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2018/12/18

■官民一体となって原発輸出を進めてきた?

三菱重工や日立製作所は、政府と一体となって進めてきたトルコの原子力発電所の建設計画を断念する方針を固めたという報道がありました。
日本の原発輸出事業は、よく「官民一体」で進められていると表現されます。
官民一体で進めてきたとしたら、その「民」には少なくとも私は入っていません。
私は、日本においては「民」、つまり「国民」ではないのです。
これまで何回もこのブログでは書いてきていますが、改めて書きたくなりました。

社会は「公」と「私」で構成されているといわれていました。
「公」と「私」は時々、「パブリック」と「プライベート」とも表現されます。
しかし、「公」はパブリックなのか。「私」はプライベートなのか。

「公」の主役は政府で、「私」の主役は企業です。
であれば、「公私」などいわずに、「官民」というのが適切でしょう。
となると、官民で社会が構成されているとは言えません。
なぜならそこに私たちの生活社会がないからです。
つまり「官民」とは民を統治する側の概念であり、しかも「官尊民卑」という言葉があるように、要するに「官」のことなのです。
そこには「人民」という意味での「民」はもちろんですが、「国民」という意味での「民」すら含まれません。
アメリカ憲法はpeopleという言葉を使っていいますが、日本国憲法の英語表記のpeopleをなぜか日本政府が「国民」と訳してしまいました。
“people”と「国民」とは、全くと言っていいほどの違いがあると思います。

「官民」とは違う私たちの現実の「生活社会」は公でも私でもない「共」の社会です。
平たく言えば地域社会、近代西欧の言葉を使えば「市民社会」です。
私は、それを「コモンズ」と呼んでいますが、要は、peopleが支え合いながら暮らしているリアルな社会です。
それが、大きな政府や大きな企業によって、縮小され片隅に追いやられていたのが、明治維新から最近までの日本かもしれません。
地域社会の主役であるべき自治会は行政の下請けの端末組織になり、期待のNPOもまた、同じように行政の下請けや企業の類似物になってきているというのが、私の現状認識です。
もちろん、主体的に活動している自治会やNPOもたくさんありますが、大きな流れはどうもそういう感じではないかと思っています。
これに関しては、かなり前のものですが、小論があります。
○コモンズの視点から発想の流れを逆転させよう
http://cws.c.ooco.jp/commonnsronbun1.htm
○私の視点「NPO支援 資金助成よりも活動支援を」
http://cws.c.ooco.jp/npo-toukou2.htm

ところで、日本の原発輸出が各地で頓挫している理由は、採算が取れないことです。
まともに考えれば、原発事業は経済的に成り立ちません。
日本でもそういうことは、私が知っている限りでも1980年代にはかなり明らかになってきています。
原発事業が保険の対象にならなかったことを考えれば、最初から分かっていたことです。
しかし、「官」が「民」(大企業)には有無を言わさずに、「安全神話」を、それこそ「官民一体」となって広めてきたのです。

官民だけで社会や世界は構成されているわけではないのです。

「民営化」とか〔〈介護の〉社会化」とかいう言葉に騙されてはいけません。
それらはすべてpeopleの資産を誰か個人に貢ぐことを意味しているのかもしれません。
社会を構成している主役は、people、私たち生活者なのです。
少なくとも現在は、という意味ですが。

官民一体には私は断じて入っていません。
官民が横暴な行為をするようなことがあれば、沖縄の人たちを見習って、それに抗わなければいけません。

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2018/12/17

■カフェサロン「私はなぜ湯島でサロンをやることになってしまったのか」報告

「私はなぜ湯島でサロンをやることになってしまったのか」をお話しさせてもらうサロンには20人を超える方が参加してくださいました。
私のことを、「新興宗教の人」とか「某国の諜報機関の人」とか、「謎の人」と思っている人もいたようで、私の正体を見極めるために来たという人も複数いて、私としては大いに反省させられました。
私ほど自らを開示していて、「謎」とは無縁な人はいないと自負しているのですが、疑いをもたれるような生き方をしていたようで、反省しなくてはいけません。
念のために言えば、もちろん私は新興宗教や諜報機関とは無縁です。

テーマに関していえば、いろんな人が一人の人間として心を開いて触れ合う場こそが、私が目指している、「誰もが気持ちよく暮らしていける社会」を実現するためには、「一番効果的」だと思っているので、サロンを続けているという話をさせてもらいました。
サロンを始めた経緯も含めて。
デモや革命や壮大な思想よりも、信頼し合える人のつながりが育っていくことが効果的だというのが、私が50年以上かかってたどり着いた結論なのです。
それで社会は変わるのか、という指摘も受けましたが、むしろ、それ以外では変わらないというのが私の考えなのです。
もっともそんな「ゆるい方法」ではすぐには変わらないでしょう。
でも50年か100年たてば、変わるかもしれませんし、それでも変わらなければ、その方法は間違っていて、きっと誰かが別の方法で変えていってくれるでしょう。
そう確信していることが、「私が湯島でサロンを続けている」理由なのです。
残念ながら、参加者のみなさんにはあまり納得してもらえなかったかもしれません。
しかし、社会は「変えるもの」ではなく、「変わるもの」なのです。
そして社会は私も含めてみんなでつくっているものですから、たとえばその一部である私が「変われば」当然ながら私が変化した分だけ社会は間違いなく変わるのです。
その信念で私はこの30年生きてきています。

最近の私の活動を紹介しながら、こうした話をさせていただきましたが、そこにいろんな問題提起を含ませてもらいました。
たとえば、みんな「たこつぼ」生活をしていませんか。
たとえば、社会は「公と私」で構成されているわけではなく、もうひとつの社会があること。
たとえば、「コモンズ(共有地)の悲劇」は問題の捉え方が間違っていること。
たとえば、社会問題を各論的に解決しようとするところに問題があるのではないか。
たとえば、稼ぐこと(労働)と働くこと(仕事)は違うのではないか。
たとえば、働き方改革ではなく生き方を問いなすことが必要なのではないか。
たとえば、自分にできる「変える」対象は、自分だけではないのか。
そして、過去生や来世を想定して生きれば、子孫や先祖のことが視野に入ってきて、目先の私欲に惑わされるような生き方ができなくなるのではないか。
などなどです。

どれか一つにでも引っかかってもらえればと思いながら、全体としては、全体を起点に考える時代は終わり、個人を起点にした社会や組織を目指す時代が来たことを伝えたかったのです。
そしてそのためには、みんな「自分」をしっかりと生きるのがいいのではないかと。

最後に私の未来の話とサロン以外の話もほんの少しだけ話させてもらいました。
これは私にはとても重要な話ですが、参加者には蛇足だったでしょう。

話し終わった後に3つの問いかけをさせてもらいました。
Q1:みなさんの仕事はなんですか? (稼ぐ労働のことではありません)
Q2:みなさんの一番の資産はなんですか? (お金だけが資産ではないです)
Q3:いま幸せですか? いつ幸せになるつもりですか? (明日はないかもしれません)

これに関して話し合ってほしかったのですが、むしろ違う話に転じてしまいました。
まあそれが湯島のサロンの特徴なのですが。

厳しい指摘も受けました。
内容が盛りだくさん過ぎて、受け止めにくかった。
佐藤さんは社会を変える意図はないのだと思った。
いずれも正しいですが、こういう発想をやめていこうというのが私の姿勢なのです。
簡単に言えば、一人称自動詞で生きようというのが私の信条です。
佐藤さんは犬型ではなく猫型だという人もいましたが、犬にもたぶん私型の犬もいるでしょう。
私は猫も犬も一括して捉えることができないのですが(血液型や国民性も私にはあまり受け入れられません)、犬も猫も、外国人も、それぞれに個性がありますので、そうした「個性」と付き合う生き方を大切にしています。
参加者の一人は、私のことを「我慢強い人」と言ってくれましたが、一方で、私は「わがままな人」だと言った人もいるような気がします。
たぶんいずれも、その人にとっては正しいでしょう。
でも私は、いずれでもないと思っています。

小学校時代の同級生の女性や会社時代の後輩から私に関するエピソードが紹介されました。
一つは私の悪い性格、一つは私の良い性格のようでしたが、いずれも私の記憶には全くない話でした。
人間の過去はどうも自分と他者とでは違うようです。

最後に、このサロンの報告は本人がまとめるのかと質問がありました。
サロン主催者としての責務であり特権かなと思っていましたので、「はい、私が自分に都合のよいようにまとめます」と答えましたが、参加者でもし報告をしてくれる人がいたら、もちろん大歓迎です。
まったく違った報告になるかもしれません。

それにしても長い私の話を我慢強く聞いて(読んで)くださったみなさんに感謝します。
なお当日の話はいつものように近藤さんが録画してくれましたので、メーリングリストのメンバーには公開させてもらうかもしれません。
そこにたぶんパワーポイントが出てきますので、お時間が許せば、それを見てもらえればと思います。
よほどお暇であればですが。

少なくともあと3年は湯島のサロンは続けたいと思っています。
まだ買っていないですが、明日にでもたぶん宝くじを買う予定なので、当たったら「みんなの喫茶店」を開いて、そこで最期を迎えたいと思っています。
葬儀を頼む人ももう決めました。

ちなみに言い忘れましたが、今回のサロンは熊本の宮田さんがわざわざ送ってくれたコスタリカのコーヒーでした。
宮田さん、ありがとうございました。
Osamu181


Osamu183


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2018/12/14

■なぜ制度は複雑になるのか

怒りをぶつけるついでに、もう一つだけ。
まあ氷山の一角的なものですが。

消費税増税のイメージを緩和するために政府は様々な制度を考えだしています。
もしかしたら私のような低所得者には得になるような制度ができるかもしれないなどという思いが、時に一瞬、頭に浮かびますが、そういうことは絶対にないのです。
たとえ10万円のばらまきの対象になったとしても、喜んではいけません。
一見得になるようなものこそが危ういのです。

それは極めて簡単なことでわかります。
制度ができるたびに、その運用コストがかかるのですが、それは私たちの生活を豊かにしてはくれません。
いわゆる「行政コスト」が余計にかかるだけですが、行政コストには必ず業者が寄生していますから、その業者の利益もまた、私たちの生活を豊かにすることには使われません。
いずれにしろ、税金が無駄な使われ方をされ、私たちに役立つことには使われなくなるのですから。

消費税は極めて複雑になりそうですが、複雑にすればするだけ、消費者は得をしたか損をしたかわからなくなります。
これもおそらく大きな目的でしょう。
しかし間違いないことは、複雑になるだけ無駄な仕事やコストがかかるということです。
そして無駄なものでも、それが何かの生産につながれば、経済成長率を高めるという効果もありますから、政府にとっては好都合なのです。

これは政府だけの話ではありません。
私のところには、世界の困っている人を支援するためにチョコレートや絵葉書やCDを買ってほしいという話がよく来ます。
なかには当然私がそういうものを買うだろうと思っている人もいます。
私は、むしろそういう行為には極めて否定的です。
確かにその売上金の一部は困った人のところに届くかもしれません。
しかし、その少なくない部分は、そうした「商品」を生産するために、またそういう活動を知らせ販売していくために、使途されます。
しかしそういう「商品」はほとんどの場合、「無駄なもの」が多いのです。
それに、生産するためにどれほどの資源を無駄にし、エネルギーを浪費したか。
そういう無駄なものをつくる世界の経済構造が、飢餓を生み出し難民を生み出しているのです。
それに加担する気にはなれません。
むしろそうした活動をしている人を見ると、こういう「善意の人」が一番罪深いとさえ思えてしまいます。
もっと本当に実のある活動をしてほしいと思ってしまうわけです。

ふるさと納税も無駄の極みです。
行政職員がそんな活動をするのは、私に背任行為としか思えません。
税金ってなんだかわかっているのでしょうか。

それにしても消費税増税は迷惑な話です
欧州の先進国の事例を少しは学んでほしいです。
無駄をなくすだけで、純粋の税収は増えるかもしれません。
ますます税金を払いたくなくなってしまう人が増えるかもしれません。
しかし節税が奨励されるお国柄ですから、こんなことを言っても始まらないでしょうね。
喜んで税金を負担する国になってほしいです。

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2018/12/04

■コムケアサロン「家族の介護・相続に向き合う」報告

高齢社会の中で、私たちはもっと高齢期に起こりうるさまざまな問題にしっかりと向き合っていくようにしないといけません。
子育てへの関心は高まっていますが、高齢期の生活に対しては、老後の蓄え意識はあるものの具体的な課題に関する準備に取り組んでいる人はあまりいないような気もします。
そもそも問題が顕在化するまでは、問題さえ見えていない人も少なくありません。
老後の蓄えも、多くの人はお金で考えていますが、お金にできることには限界があります。
むしろ大切なのは、お金ではなく、たとえば人のつながりだったり、健康だったり、趣味や仕事(対価を得る仕事という意味ではありません)ではないかと思います。
問題が起こってからお金を使うと考えている人が多いですが、お金はむしろ問題を起こさないためにこそ使うべきです。
それにお金は、たとえば遺産相続に見るように、生活を乱す不幸を引き起こすことさえ、あります。

以上は私の私見ですが、こうした視点で地道な活動に取り組んでいる千葉晃一さん(一般社団法人コレカラ・サポート代表理事)に、高齢者を取り巻く様々な問題やそれを支援するさまざまな社会資源を紹介していただき、高齢者が生きやすい社会に向けてのヒントをたくさんいただいたサロンでした。
千葉さんは、高齢者の抱える問題の相談に乗る活動をしながら、一緒に問題解決に当たる仲間を増やそうとコーピング講座を広げていますが、お会いするたびに、千葉さんの考えや活動が進化しているのを感じます。
それは机上論ではなく、千葉さんが現場での実践を、問題に直面している当事者と伴走しながら考えているからでしょう。
高齢者の問題は、それぞれに人によって全く違いますので、理屈では対応できません。

冒頭にとても示唆に富む話がありました。
迷惑をかけたくないという相談者に対して、それは自分の視点であって、迷惑かどうかは相手が決めることではないかと千葉さんはお話しすることがあるそうです。
とても共感できます。
その一言に、私は千葉さんの相談の基本姿勢が象徴されているように感じました。
千葉さんが取り組んでいるコーピングとは「課題に向き合うこと」ですが、誰の視点で課題を捉えるかで全く違ってきます。

高齢者の生活の問題を千葉さんは5つに分けて捉えています。
経済的問題、健康の問題、住まいの問題、人間関係の希薄、そして生きがいの問題です。
コレカラ・サポートでは、こうした5つの面を踏まえて、高齢者と伴走しながら支援しています。
大切なのは、それぞれの問題を各論的に捉えるのではなく、全体をつなげながら捉えていくことです。
しかし、ひとりの人間ですべてに対応することは難しい。
それでそれぞれに得意な人たちのゆるやかなネットワークを活かしながら、伴走支援をしているのですが、そのためにはある特別の問題に詳しいだけではなく、5つの問題を含む全体がある程度見えていることが大切です。
そして問題に応じて、その人に一番ふさわしい相談相手を見つけていくという、コーディネーター的な役割を果たせる人を増やしてくことが、千葉さんの望んでいることです。
場合によっては、問題を抱えている人が、自分の体験を誰かの問題解決のために活かしていくことができれば、まさに「支え合う社会」へと近づきます。

こう考えていくと、千葉さんたちが目指しているのは「信頼できる人のつながり」を育てていくことと言えるでしょう。
これはまさにコムケア活動や湯島のサロン活動の理念でもあります。

千葉さんは、もうひとつ、すでにある様々な社会資源や社会制度を活用するためにも、そうした知識を身に着けておくことが大切だといいます。
問題が発生してからでは遅いので、日ごろからアンテナを張っておくこと、あるいはそうしたことをよく知っている人とのつながりをつくっておくことが大切だというわけです。

こういう話をしてもらった後、参加者での話し合いが始まりました。
今回とてもよかったと私が思ったのは、ある特定の人の具体的な問題が開示されたのを契機に、千葉さんだけでなく、参加者みんながその人の問題を一緒に考えアドバイスし合ったことです。
いつかまたその人から報告があるかもしれません。

高齢社会は、みんなが支え合う社会ではないかと私は考えていて、25年ほど前に「早く来い来い、高齢社会」という小論をいくつかの研究所の機関誌に掲載したことがあります。
みんながコーピングの力をつけていけば、社会はとても住みやすくなる。
今回のサロンで、改めてそう思いました。

なお千葉さんたちがやっているコーピング講座については千葉さんにお問い合わせください。
また今回のサロンの話は、改めて映像記録を制作することも考えていますので、またもし制作できたらご案内させてもらいます。


Coping181202


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2018/11/30

■人を評価する基準

ゴーンさんに関して、相変わらず日産をV字回復させた名経営者という評価が繰り返されます。
経営者たちや資本家たちがそういうのは納得できますが、会社で働く従業員までがそういうのがどうも不思議でなりません。
私が会社に入った時(1964年)には、経営者の役割は「雇用の場を増やすこと」だと会社の役員から繰り返し聞かされました。
それにとても共感していました。
それがある時に裏切られたために、私の人生観は変わりだすのですが、1970年代まではそうした「常識」がつづいていたように思います。

ゴーン経営を高く評価する人の企業経営観の基軸は、「人」ではなくて「金」にあります。
日本的経営観ではなく、アメリカ型の経営観に、いつのころから日本でもかわってしまったのです。
金のために人を切るのではなく、人のために金を活かすことが経営だと思っている私には、とてもついていけません。

先日、久しぶりに参加した企業のパーティで、アメリカで働いているアメリカ人から、「トランプ大統領は人間的には最悪だが、アメリカ経済をよくした点では最高だ」という話を聞きました。
その人はそれをとても喜んでいたように感じました。
どこかに違和感はあったのですが、パーティでのことなので、笑いながら同意してしまいました。
しかしどうも心に引っかかっています。
同意してしまった私にです。

人間よりも経済を大事にする。
ここにも本末転倒があるように思います。

どうも人の価値観は大きく変わってしまったようです。
いや、私自身が社会の変化についていけていないだけかもしれません。
困ったものです。

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2018/11/28

■「1%と99%の戦い」の幕が上がった?

日産のゴーンさんの逮捕には興味はなかったのですが、最近の報道を見て、これはもしかしたらとてつもなく大きな事件になるかもしれないという気がしてきました。
一言で言えば、「1%と99%の戦い」の始まりです。
日本の検察がもしそれを意図的に始めたとしたら驚くべき話です。

ゴーンさんはまだ1%の人たちの仲間ではないとしても、1%側の人を目指しているだろうと思います。
その人を起訴することになれば、「1%と99%の戦い」になる可能性は否定できません。
すでに報道されていますが、アメリカでの最高の弁護士の一人が弁護することに決まったようです。
企業事件の裁判の本場はアメリカでしょうから、日本の弁護士などとは格段に強力な力を持っていると思われます。
私たちはともすれば、裁判に正義や真実を期待しますが、現在の裁判は正義や真実を問う場ではありません。
客観的なデータを材料にして、法に合っているかどうかを争う場です。
この種の裁判に手馴れているアメリカの弁護士とあまり手馴れているとは思えない日本の検事とでは、最初から勝負は見えているような気もします。

しかしよほどの自信がなければ日本の検察もこうしたドラマティックな宣戦の仕方はしなかったでしょう。
私がイメージしている検察は、勝つ方法がわかっていることしか起訴しない体質を感じます。
だから最初は、検察の後ろに日本政府やフランス政府がついているとばかり思っていました。
ですから前のノートに書いたように、私にはまったく興味がなかったのです。
ところがどうもその後の報道では、フランス政府もルノーも了解していないようです。
とすれば、これはとんでもない物語の始まりかもしれません。
日本の検察が1%族に戦いを挑んだというわけです。

しかしもう一つの解釈もあります。
これは99%族の成り上がり者が1%族になろうとしていることに対して、1%族が見せしめで、誘発させた事件かもしれません。
たかだか100億円足らずの小銭で、小賢しい細工をするような人は1%族の文化とは違う種族だと思われたのかもしれません。
それにそもそもゴーンさんの生き方は庶民的すぎます。
文化が合うはずがない。
そう考えると、この事件はどこかにおかしさがある。
そもそも「司法取引」などということが使われていることにも違和感があります。
報道の仕方も、ちょっと理解できないこともある。
もしそうだとすると、アメリカ最高の弁護士がゴーンさんについたことの意味を考え直さなければいけません。

この事件の筋書きを描いているのがどちらの人かはわかりませんが、いずれにしろ、「1%と99%の戦い」につながっていく可能性はある。
こう考えると、これまでまったく関心がなかったこの事件への興味がわいてきました。
西川日産社長の勇気に拍手を送りたいです。
西川さんも1%族の下っ走りでいれば、日本の多くの大企業の社長のように、あるいは多くの官僚や政治家のように、これまでのような暮らしができたでしょうに。

何が西川さんに起こったのか、それへの興味も出てきました。

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2018/11/19

■カフェサロン「過労死など起こらない働き方の未来を考える」報告

「過労死など起こらない働き方の未来を考える」のサロンは、7人の参加者がありました。
「働き方」が問題になっているので、もっとたくさんの人が参加すると思っていたのですが、意外でした。
今回、問題提起してくださった小林さんは、過労死は、突然誰に起こってもおかしくないのではないかと話してくれましたが、私も同感です。
多くの人にとって、決して「無縁」ではありません。
しかし、まだまだ「過労死」は特別の「事件」と位置付けられているのかもしれません。
私は、そこにこそ問題の本質があるような気もします。
本気で「働き方」(生き方)を変えようとみんな思っているのでしょうか。

小林さんは、15年前の40代の時に企業で働いていた夫を過労死で亡くされました。
小林さんと3人の子供たちの生活は大きく変わってしまったでしょう。
企業での過労死の場合は、会社の上司や経営者への怒りも起きがちで、憎悪におそわれることもあります。
小林さんは、しかし、憎悪の世界に引き込まれることなく、悲しみのなかで、なぜ夫は過労死に追い込まれたのか、そしてどうしたら過労死をなくすことができるのか、に取り組んできました。
医療や福祉の分野で仕事をしていた小林さんの使命感もあったでしょうが、それが小林さんの支えになってきたのかもしれません。
そして、いまは過労死家族の会に参加して、同じ立場になってしまった家族の支援や過労死防止のための活動に取り組んでいます。
小林さんは、そうした15年を語ってくれました。

小林さんはこう話してくれました。
過労死は社会問題となって既に30年近くになるのに、いまもなお、過労死・過労自殺は年齢、性別、職種を超えて広がり続けている。
毎年2万人以上の自殺者の中には、相当数の過労自殺が含まれている。
疲労の蓄積をもたらす最も重要な要因として、「長時間にわたる過重な労働」が考えられるが、相変わらず長時間労働の実態は改善されず、最近話題になったように、裁量労働制などでむしろ長時間労働を是認するような動きさえも見られる。
長時間労働は、脳や心臓疾患との関連性が強いという医学的知見が得られているし、業務における強い心理的負荷による精神障害により、正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、自殺に至る場合もあると考えられている。

そして小林さんは、残業時間をせめて月45時間以内にすれば、過労死をかなり減少させることができるはずだ、とデータで示してくれました。
厚労省が発表している「過労死等の労災補償状況」(平成29年度)によれば、時間外労働時間が45時間以内の場合は、該当者がゼロになっています。
1998年には、月45時間を限界とする行政指導基準が労働大臣の告示として出されているそうですが、法的拘束力がないばかりか、適用を回避する条件も示されています。
時間がすべてではないだろうが、せめてこの45時間基準に法的拘束力をつけるだけでも、かなりの過労死は避けられるはずだ、と小林さんは考えています。
そしてそうした活動に、仲間と一緒に取り組んでいるのです。

小林さんは、最後に2つの文章を読み上げてくれました。
ひとつは亡くなった夫が残した家族あての遺書。
もうひとつは、国際労働機構(ILO)が昨年スタートさせた「仕事の未来世界委員会」で確認された次の方針です。
「仕事の未来は、既に運命的に決まっているものではなく、われわれの主体的な意思や行動で
より良いものに変化させることのできるものだ」。
いずれも心に響くものがあります。

小林さんの話を受けて、いろんな視点での意見が出されました。
「個人と組織の関係」や「働くとは何か」。
みんな時間に追われているという意味でも「時間」が「人」を追い込んでいるのではないか。
過労死に追い込まれるような会社よりも、みんなが楽しく働けるような会社のほうが業績を上げている事例も多いのに、なぜそうした会社が増えていかないのか。
ほかにもいろいろと出たはずなのですが、なぜかいつも以上に、思い出せません。
この問題には私も少し思い入れが強すぎるからかもしれません。
参加された方、できれば話し合いのところを補足してください。

過労死は、小林さんが言うように、いまのような社会においては、誰にでも起こりうることです。
過労死までいかなくても、精神的にダウンしてしまっている人も少なくありません。
過労死の問題は、まさに私たちの生き方、さらには社会のあり方につながる問題です。

それはまた、現代の組織の本質につながる問題かもしれません。
人間にとっての仕組みだったはずの「会社」や「組織」が、いつの間にか人間を追いやってしまう存在になっているのかもしれません。
そこで、湯島のサロンでは、「個人と組織の関係」をさまざまな視点から考えるサロンを時々開催していこうと思います。
それが、「過労死がなくなる社会」に向けて私のできることのひとつだと思うからです、
案内はまた別に投稿させてもらいますが、その第1回を12月5日に開催します。


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2018/11/13

■カフェサロン「ナチュラリストが見る社会の危うさ、あるいは自然界の面白さ」報告

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日本で暮らしているゴキブリは52種類もいて、しかもよく見かける室内のゴキブリは外来種だということをみなさんはご存知でしょうか。
そして日本に昔からいるゴキブリは、とても大切な仕事をせっせとやっていることを知っているでしょうか。

木村さんの「ナチュラリストが見る社会の危うさ、あるいは自然界の面白さ」は、ちょっとゆるいサロンと言いながら、とても充実した内容で、いろいろと目からうろこの話も多く、しかも日本の社会のあり方への、まさにナチュラリストからならではの本質的な問いかけがあったように思います。

印象に残っている話をいくつか紹介します。
人口の多い都市部の自然からは、ホトケドジョーが少なくなり保護の対象になっているが、少し離れた千葉の集落には今でもいくらでもいて、むしろ人口がいなくなってしまうとホトケドジョーもいなくなってしまうかもしれないという話は、とても示唆に富んでいます。
日本では自然と人間がうまく支え合って暮らしていることを象徴しています。

木村さんは、自然の保護と管理は表裏一体だと言います。
「自然」か「開発」か、ではなく、その「折り合い」が大切なわけです。
そんなことはわかっていると言われそうですが、実は私たちは頭ではそう思っていても、実はその「折り合い」において、小さな相手は軽視しがちのようです。
ダンゴムシの話で、木村さんはそれを教えてくれました。
この話はとてもいい話ですが、紹介すると長くなるので、これは参加者だけの特典として報告はなしです。

アフリカの動物保護には関心があるが、地元の自然にはあまり関心のない人が多いのではないかという木村さんの指摘にもとても共感しました。
木村さんは、環境保全は地元を愛することから始まるといいます。
その地元には、たぶんダンゴムシも入っているのです。
ちなみに私は昨日、わが家の庭で、ダンゴムシのミニ観察をしました。
みんなまだ、いわゆる「外来種」で、日本での暮らしはまだそう長くはないようです。

ところで、外来種と在来種に関しても、テレビ番組などで簡単に区別されて、外来種は悪者だ、駆除すべきだなどと扱われがちなことも木村さんはおかしいと言います。
そもそも外来種と在来種をどういう基準で分けるのか。
それに国家の枠組みに規制されて生きている人間と違って、そもそも生物は自由に移動し自然交配しているのですから、勝手に国籍を決めてもらいたくはないでしょう。
在来種に有害な外来種を殺処分するという発想は、その根底で、移民排斥にもつながる思想ではないかという話もありましたが、私自身そこまで深く考えたことがなかったので、はっとさせられました。

ちょっと似た話で恐ろしい話もありました。
最近は犬の「雑種」が「市場」で高値を呼んでいるそうです。
それは飼い犬が管理されすぎて、自然交配が行われないので、雑種が産まれにくいのだそうです。
生物の進化にまで介入しているわけです。
生物多様化を主張する人は多いのですが、本当にみんな生物多様化を望んでいるのか、と木村さんは問いかけます。

鳥獣害の話も出ましたが、これはそもそも日本から聖域がなくなってきたことと無関係ではないと木村さんは言います。
そして「聖域」と「人間界」の結界を守っていた「年寄」がいなくなったことも影響しているのではないかと木村さんは(たぶん)言ったような気がしますが、これは私にはとても興味のある話でした。

そもそも日本人は、生き物との付き合いが深い暮らしをしてきました。
日本に住む動物の名前もたくさんあります。
最近読んだ本には、アマゾンのある部族は、鳥はみんな「鳥」と呼ぶのだそうですが、日本にはたくさんの鳥の名前があります。
そうした多様な生物たちとの付き合いが、私たちの暮らしを豊かにしてきたのではないかと私は思っていますが、最近は、自然の中での生き物との付き合いが減っているのかもしれません。
実際に目にする小動物も少なくなってきました。

環境保全に取り組んでいるNPOの高齢化の話も出ました。
NPO活動の世代交代に関しては、とても大きな問題ですが、一度、サロンのテーマにしたいと思います。
もしかしたら、ここにこそ、個人と組織の問題、さらには社会のあり方や私たちの生き方を考える大きなヒントがあるように思っています。
ちょっと今回のテーマと離れますが。

木村幸一郎さんは「ハイパー・ナチュラリスト」です。
そもそも「ナチュラリスト」とは何者かという関心でサロンに参加された方もいます。
なかには、「ヌーディスト」と勘違いされた人もいましたが、木村さんのお話をお聞きして、私は「ナチュラリストは、自然と一緒に、お互いウィンウィンに生きている人」だと思いました。
木村さんはとても幸せそうです。
私も少しは「ナチュラリスト」的な生き方を目指していますが、小村さんほどにはまだ幸せにはなれていません。

他にも、マムシとの付き合い方とかSDGsの話とか、いろいろとありましたが、最後に一つだけ蛇足を書きます。
ゴキブリの話ですが、日本にずっと前からいたモリチャバネゴキブリは、森の枯葉を小さく噛み砕いて、それを微生物が食べやすいようにし、還元活動に寄与しているそうです。
家に棲む、あの嫌われ者の「チャバネゴキブリ」はどういう仕事をしているか木村さんに質問したら、人間には役立っていないので、見つけたら退治してもいいと言われました。
私もこれまでそうしていましたが、もしかしたらなにかとても大切な仕事をしているのではないかと思い直しました。
わが家のキチンも時々夜に出ているようですが、私が寝ている間に何かしているのではないか、そんな気がしてきました。
人間の見えないところで、人間に役立つ仕事をしてくれているのかもしれません。
ゴキブリもかわいそうな存在です。
今度、ゴキブリに出会わしても、バシッと叩き潰せないかもしれません。
さてどうなるでしょうか。

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