カテゴリー「社会時評」の記事

2020/07/02

■こういう時だからこそ読んでほしい本があります

企業の社長という激務のかたわら、社会への働きかけを目指した著作活動にも積極的に取り組んでいる一条真也さんが100冊目の本「心ゆたかな社会」を現代書林から出版しました。これからの社会ビジョンと私たちの生き方を考える示唆が盛り込まれた本です。
新型コロナで社会のあり方が改めて問われているいま、まさに時宜を得た出版だといえます。多くの人に読んでいただきたいと思い、紹介させてもらうことにしました。

15年前、一条さんは、ドラッカーの遺作『ネクストソサエティ』の問いかけに応じたアンサーブックとして『ハートフル・ソサエティ』を出版しています。
http://cws.c.ooco.jp/book-kiroku.htm#1jou3

しかし、最近の日本は、一条さんのビジョンとは反対に、心を失った「ハートレス・ソサエティ」になってきていることを一条さんは活動の現場で実感しているようです。さらに、コロナ騒ぎで、人と人とのつながりさえもが難しくなってきている。だからこそ、「心ゆたかな社会」としてのハートフル・ソサエティを改めて目指すべきだと考え、前著を全面改稿した『ハートフル・ソサエティ2020』として本書を出版したのです。

ハートフル・ソサエティとは、「あらゆる人々が幸福になろうとし、思いやり、感謝、感動、癒し、そして共感といったものが何よりも価値を持つ社会」だと一条さんは定義しています。平たく言えば、「人と人が温もりを感じる社会」です。

最近の日本の社会は、どこかぎすぎすしていて、楽しくありません。フェイスブックのやり取りでも、ネガティブな意見や人の足を引っ張るものが多く、「温もり」どころか「寂しさ」に襲われることも多いです。そこで、「人と人が温もりを感じる社会」を目指して生きている私としては、本書を多くの人に読んでほしいと思い立ったわけです。

社会のビジョンは、これまでもさまざまな人たちが語っていますが、そういう人たちのビジョンや思いが、とてもわかりやすく整理・解説されているのも本書の特色です。この一冊を読めば、社会について語られた主要な考えに触れられます。
しかも、一条さんらしく、たとえば、「超人化」「相互扶助」「ホスピタリティ」「花鳥風月」「生老病死」といった視点から議論が整理されていて、それを読んでいるうちに自然と一条さんの「ハートフル・ソサエティ」の世界に引き込まれていきます。

つづいて、その社会の根底ともなる哲学や芸術、宗教が語られ、「共感から心の共同体へ」というビジョンへと導かれていきます。宗教嫌いの人にはぜひ読んでほしいところです。宗教を語らずに社会を語ることはできないでしょう。

最近、社会の全体像が見えにくくなっていますが、本書を読むと、社会というものが捉えやすくなると思います。少なくとも、社会と自分の生き方を考えるヒントが見つけられるはずですし、「心ゆたかな」とは一体何なのかを考える材料もたくさんもらえると思います。

一条さんの個人的な夢が語られているのも親近感がもてます。一条さんにとって「ハートフル・ソサエティ」の象徴の一つは月のようです。ご自分でも書いていますが、一条さんはルナティック(月狂い)なのです。
ちなみに、私はフェイスブックも時々書いていますが、お天道様信仰者ですので、私にとってのハートフル・ソサエティの主役はお天道様です。
まあそんなことはどうでもいいですが、一条さんの提唱するハートフル・ソサエティをベースに、自分にとってのハートフル・ソサエティを構想してみるのも面白いでしょう。

いつか一条さんに湯島でサロンをやってもらえるように頼んでみようと思っています。
九州にお住まいなのでなかなかお会いする機会も得られないのですが。
もし読まれたら、ぜひ感想を聞かせてください。

81jfw7ofrol

| | コメント (0)

2020/07/01

■共感と差別

山本太郎さんを支持した投稿をFBに書いたのを契機に、FB上でレイシズムに関する論争まで起こしてしまいました。それを読みながら考えたことを書いてみました。

レイシズムは、人種差別主義と訳していいでしょうが、その起点にあるのは、人間に優劣をつける発想だと思います。私には一番なじめない意識です。
しかし、私の心身にも、そういう発想が全くないとは言えません。
人間は、共感すると同時に、差別することが埋め込まれているのかもしれません。

私の子どものころ、日本にはレイシズムが横行していました。白人を崇拝し、朝鮮人や中国人をばかにする空気がまだ残っていました。子どもの世界にも、そういう風潮(弱者を差別する風潮)があったような気がします。そもそも学歴主義は、そういう文化から生まれたとも言えます。

レイシズム論争とは別に、私が信頼していた知人が、山本太郎さんを暗に指して「輩」という表現を使いましたが、これはまさにレイシズムにつながる発想です。本人はさほど意識していないと思いますが、だからこそとても残念でなりません。

こういうことは湯島のサロンでも時に起こります。とりわけ「権力者」に対して、差別的な表現がなされたり呼び捨てにされたりすることがあります。権力者の名前は一種の「記号」ですから、呼び捨ては許されるのかもしれません。ある人からは、じゃあ、トランプさんと言わなければいけないのかと反論されたこともあります。呼び捨てが問題なのではなく、個人名を言う時に込められる感情の問題なのかもしれません。そう考えると、私も同罪かもしれません。FBへの私の投稿記事にも、差別意識が出ているかもしれません。たしかに、悪意をこめながら書いていることがないとは言えません。

人種ではありませんが、障害を持つ人や生活困窮者にも、同じような視線を感ずることもあります。私が特に気になるのは、そういう人たちを観察的に見て、一見、同情的な姿勢をとる人です。そういう人は、自分は別の世界にいると無意識に位置づけているように思います。これは私にはレイシズムにつながる発想のような気がします。
サロンでのあまりの発言には注意を喚起しますが、私自身も時にそういう表現を使っていないとは言えません。

Black lives matter運動が世界中に波及していますが、日本でなぜ高まらないのかは、レイシズム意識が日本人には心身に埋め込まれてしまっているからかもしれません。つまり、レイシズムであることを意識できない人がとても多いような気がします。そのため、ヘイトスピーチも、どこかで見逃してしまっているような気がします。

昨日、旧優生保護法のもとで不妊手術を強制された70代の男性の賠償請求裁判の判決が東京地裁で出されました。賠償請求は退けられ、旧優生保護法の違憲性への判断は出されませんでした。これがいまの日本の実情かもしれません。

私の中にある、こうした差別主義意識を克服したいと思っていますが、私の周りに山のようにある、そうした意識や無意識と付き合うだけで、へとへとになります。
人と付き合いは、本当に疲れます。

差別する付き合いから共感する付き合いへと、生きる主軸を変えなければいけません。

 

| | コメント (0)

2020/06/24

■コロナ通れば道理引っ込む

昨日、闘病中の友人に会いに行きました。
彼は靴屋さんでお店をやっていますが、独り暮らしの高齢者です。

そのお店に行ったのですが、お店で1時間以上話していました。
しかし、コロナの話も給付金の話もほとんど出ませんでした。
彼にはほとんど関心のないことだからです。
コロナよりも、実際に抱えているいまの病気の方のリスクが現実的ですし、お店を持続させる給付金のような「お上の施し」にはまったく関心のない生き方をしてきた人です。

評判の高い靴職人の父親の家業であるお店を手伝い、継承し、それを今なお続けています。
しかし時代の変化の中で、お店を継ぐ人もなく、彼と共にお店は消滅するでしょう。
彼の使命は、いま在庫している商品を出来るだけ廃棄せずに使ってもらうことです。
それでいまもお店をやっているのですが、お店を維持していくためには新たな仕入れも必要ですから、困ったことに実際には商品は減らないのです。
給付金にはまったく関心がないようです。

世間はコロナとその対策の話ばかりですが、こういう人もいるのです。
いやもしかしたら、こういう人の方が多いのではないか。たくさんの不安と苦労を持て余して、「コロナ騒ぎ」に逃げ込んでいる人もいるのではないか。
お酒やギャンブルに逃げたくなる人もいるでしょう。皮肉なことに、「コロナ」はそうした「逃げ場」を非難し、いまや「逃げ場」の頂点に立ってしまった。そんな気もします。
「コロナ通れば道理引っ込む」の社会になってしまいました。

問題は、「コロナ」のおかげで、何か大切なものがまた見えなくなってしまったことです。
世間は「コロナ」で覆われてしまった。

「コロナ」の禍は、死と同じように、一見、すべての人にとって平等に見えますが、そんなことはないでしょう。そうしたことも含めて、コロナは私には呪わしい人災です。
花粉症でマスクをする人が増えていましたが、いまやコロナでほぼ全員がマスクをするようになった。花粉症も人災だと思いますが、コロナはその延長上にあるとも言えます。
花粉症と同じく、対症療法しかみんな考えずに、それを経済成長の材料にしてしまっているようにも感じます。

マスクをしている人たちを見ると、病んだ人に見えます。私自身、マスクをしていると自分が病んでいるように感じます。
ほとんどの人が感染していないと言われながら、マスクが社会を覆ってしまった。どう考えても私には理解できませんが、マスクやソーシャルディスタンスが新しいモラルと言われる。社会が病んでいるとしか思えない。
病んだ社会に生きるには、健康であってはいけないのかもしれません。

長生きしすぎてしまった。
困ったものです。

 

| | コメント (0)

2020/06/19

■コロナ感染症の捉え方のあまりの差に驚いています

長い愚痴なので、よほどお暇な方のみお読みください。

新型コロナウイルス感染症に対する捉え方が、人によってこんなにも違うのかと、改めて最近驚いています。それは同時に、政府や専門家への信頼感がこんなにも強いのかという驚きでもあります。

たしかに私も1月から3月にかけてはかなり不安がありましたが、4月にはいろいろと実態も見えてきましたし、専門家の発言や政府・自治体の意図もかなり明らかになってきましたので、普通に注意していれば、感染する恐れは、インフルエンザほどにもないと思うようになりました。

4月初めまでは、基本的にみんなの生活は大きくは変わらず、満員電車もつづいていましたが、感染者はほとんど出ていませんし、いまでさえ抗体検査での陽性率は1%以下なのであれば、国内にはパンデミックいう事実もなかったわけですが、にもかかわらず、状況は過剰に増幅され、不安感というよりも恐怖感が植えつけられました。

そして、いまなお、マスクと「ソーシャルディスタンス」、さらには移動自粛や3密回避がルールになっています。公共施設も閉鎖され、外食文化は壊され、夜の街やパチンコは批判の的にされています。
緊急避難的な初期対応がこんなに長く続く理由を考えないといけません。

ウイルス陰謀論がありますが、ディープステイト論はともかく、この動きを利用したさまざまな「陰謀」があることは間違いありません。しかし、「荒唐無稽な陰謀論」という埋め込まれた知識で、陰謀と聞くだけで思考停止する友人も少なくありません。陰謀のない社会などあるはずもなく、陰謀論アレルギーこそが真の危険なのですが。

全国民あてのマスクと10万円でほとんどの国民が懐柔されてしまったのも驚きです。
そもそも給付金というのは「奉公人に支給する給金」(日本国語大辞典)という意味ですが、その名前にいやなものを感じます。1億円を超す給金をもらった河合夫婦と同じ仲間のような気分もしてきて暗い気持ちにもなりますが、受け取ってしまった私自身(実際にはまだ受け取ってはいませんが)、いまやもう奉公人であることを胸を張って否定できないのが残念です。

いまの外出自粛や集会自粛の風潮は、まさに国政に関心を持つな、選挙に行くな、デモはするなというお達しのように聞こえますが、私の周りでさえ、その信仰はゆるぎないもののように存在しているのにあらためて唖然としています。この状況が窮屈だという声も聞こえてきますが、自分で窮屈を甘んじているだけのことに気づいてはいないのがなおさらおそろしい。窮屈だったらとび出せばいいだけの話ですが、縛られていなくても飛び出せない状況にあるわけです。それこそが400年近く前に「自発的隷従論」を書いたラ・ボエシの「隷従」という意味でしょう。

まさにフーコーの生政治が、人間を滅ぼしてしまったようです。
少し考えれば、いまの状況がいかにおかしいかはわかると思いますが、私の友人の多くは、そういう私の方がおかしいと思っているかもしれません。孤独感に襲われます。

私は、自然免疫力こそが大切だと思っていて、コロナが大きく話題になりだした2月から、睡眠と体力維持につとめるとともに、大量のウイルスは避けるとしても、少量のウイルスにはむしろ接触するのがいいのではないかと考えてきました。感染してくるウイルス量と自然免疫力のバランスで、新型ウイルスに対する自然免疫力も高めていこうというわけです。

ですから、むしろ生活スタイルはできるだけ変えないようにしていましたが、なかなかそうもいかずに、3月中旬あたりから湯島のサロンをお願いしていた人たちも延期したいというので、湯島のサロンは私がホスト役のスタイルで毎週続けてきました。
ZOOM対応の希望もあったのですが、私にとっては本末転倒というよりも、むしろそういう流れに抗うのがサロンなのですが、それはなかなか分かってはもらえないようです。

多くの人が、感染防止というよりも、逃避を選んだのと違って、私はむしろ予防に努め、起床時のうがいや外出から帰宅した時の手洗い・うがい、十分の睡眠と栄養バランス、さらには朝型生活への移行に努めていました。
感覚的には、5月にはすでに自然感染して抗体も出来ているのではないかと考えていましたが、それはどうも楽観的過ぎたようで、まだ抗体はできていないようです。しかし、適度に外出し、人にも会っていますから、自然免疫力は高まっているのではないかと思っています。

しかしどうも多くの人はまだ、感染をおそれて、政府の指導に従っているようです。そのさなかに行われる都知事選は、明らかに現職が有利です。選挙で風を起こすのであれば、まずはコロナへの不安を捨て去るところから始めなければいけにかもしれません。

社会を維持していくために不可欠とされる仕事に取り組む人たちは、外出自粛もテレワークもできずに、きちんとした情報も与えられないまま、生きるために感染の危険をおかしながら、誠実に働いているように思います。自宅でのうのうとテレワークと称しながらテレビに出ているタレントやコメンテーターを見ていると、彼らの仕事がいかに無駄なものであるかがわかります。私は2か月ほど、録画までして、いろいろとみてきましたが、その間、コメンテーターがどう変化してきたかもよく伝わってきます。今はもう全くといっていいほど見ていませんが、彼らもまた田崎さんと同じ仲間になってしまっているように思います。テレビは人を変えていくようです。

何となく孤独感が強まって、愚痴をこぼしたくなったのですが、愚痴が長くなってしまいました。すみません。
自らもまた世間の風潮に合わせているところがあることも実感していますし、10万円の給付金も断ることなく申請してしまいましたが、この愚痴はそういう自分に対する批判なのです。愚痴の矛先は自分なのです。

自発的隷従から抜け出ないといけません。怠惰な私には隷従が楽なのですが、言行不一致ではお天道様に嫌われかねません。
さてさて困ったことです。

 

 

| | コメント (0)

2020/06/11

■お天道様の試練

早速、自分が試されているようなことが起こりました。

夕食を食べようとテーブルに着いた途端に、番号に覚えのない人から携帯電話が入りました。
女性の声でした。前に自殺のことで湯島に相談に行ったことがあります、というのが第一声でした。まさにいま精一杯といった状況を感じました。

少し話をして、まずはお名前を教えてくださいと、問いかけました。
名前を教えてもらって、話をしているうちに少しずつ思い出しました。たぶん4,5年前に友人が連れてきてくれた人です。その時はむしろ、自殺防止の活動を手伝いたいというような話だった気がします。
実際には彼女自身も問題を抱えていたようです。いろんな人に相談しているようですが、どうも八方ふさがりのようで、ちょっと精神的に危うくなっているようです。

ゆっくりと話を聞かせてもらいました。
少しずつ落ち着いてきたようなので、湯島に出て来られますかと訊いたら今は無理だというのです。コロナのせいかと思ったら、まったく別の理由でした。
彼女が陥っている状況がそれでまた少しわかりました。
コロナウイルス感染症などは彼女にとっては大きな問題ではないのです。

こうした状況にあるのは、彼女だけではありません。
私の身近にも同じような人は何人かいます。
そういう人にとっては(私もそれに近いですが)、コロナは有閑マダムの話題のように見えているかもしれません。
もっと大きな問題があるのに、世間はコロナコロナばかりです。
そういう風潮に私はいまかなり不機嫌です。

さて私にできることはあるのか。
たとえ自分が精一杯でも、見つけなければいけません。

今朝、読んだ知人のメールに返信しておいたのですが、それが早速試されているような気がします。
お天道様はなかなか見逃してはくれないようです。

 

| | コメント (0)

■あなたは「毎日が精一杯の人」なのですか?

普段はほとんど読まないメーリングリストの記事をふと読んでしまいました。
タイトルが「砂浜にさく薔薇のように」だったからです。
イランの孤児だったサヘル・ローズさんのことだなとわかったからです。
投稿者も私の知っている人です。
しかし書かれていることが心に鋭く突き刺さりました。

 (このメーリングリストの参加者の中に)毎日が精一杯の人があるかもしれないことは 認めましょう。(中略)でもあなた自身は精一杯の人なんですか そうなんですか。

 これを書いた人は私と一度だけ高校でクラスを同じくしています。
もう60年以上前のことですが、卒業後、まったく付き合いはなく、高校卒業生のメーリングリストで数年前に彼の投稿に出合ったのです。それから1.2回のメールのやり取りがありましたが、それだけの付き合いで終わっていました。

しかし今日読んだ投稿記事に書かれていた、「あなた自身は精一杯の人なんですか」という問いかけにはたじろいでしまいました。
最初は、精一杯の人がいるのにお前は余裕があるのに何をしているのかと受け止めてしまいました。もっとできることがあるだろうと責められたような気がしたのです。
しかし、繰り返し読んでそうではないことに気づきました。
どんなに精一杯でも、他者への眼差しを忘れるなという問いかけなのです。

投稿記事のタイトルの「砂浜にさく薔薇のように」は、昨年放映されたEテレ「こころの時代」のタイトルです。その番組では、毎日を精いっぱいで生きてきたサヘル・ローズさんが取り上げられていました。私もその番組を見て、ブログで紹介した記憶があります。ローズさんは「死から生が生まれる」と話していたような気がします。

毎日が精一杯の人との付き合いは私もこれまで何回か経験していますが、毎日が精一杯の人と付き合うと、自分もまた精一杯におちいることもあります。しかし、自分が精一杯になってしまうと、他者に迷惑をかけることはあっても、救いにはなれません。そこが微妙なところです。

しかし、これまでのささやかな体験で、「精一杯の人こそ、他者へのやさしいまなざしを持っている」ことは実感しています。まさにサヘル・ローズさんのまなざしです。精一杯に生きている人ほど、他者へのまなざしがやさしい。知人の投稿を読んで、改めてそのことを思い出しました。

いまコロナウイルス感染症で、いろんな問題が可視化されてきています。
私たちの生き方もまた問われているように思います。
こういう時だからこそ、自分の世界に閉じこもることなく、他者や自然へのまなざしを大切にしたいと思いました。

怒りや憎しみや非難は、他者へのまなざしを歪めかねません。
最近私のまなざしも少し歪んできているかもしれません。
ちょっと反省しました。

| | コメント (0)

2020/06/05

■無意味の議論をやめて健やかに生きたい

新型コロナウイルス感染症に関しては、相変わらず「数字の世界」での議論が盛んですが、その数字に対する信頼感がどうも失われているようです。
感染者の発表数字への不信感も広がっています。

しかし、そうした数字のほかに、事実を確認する術がないので、信頼はしていないものの、その数字に影響されてしまっているわけです。
政府や行政で行われている検討内容も、議事録さえないと言われて、手も出せないのが現実です。
もちろん議事録も録音データもあるでしょうが、政府が「ない」といえば無くなるのがいまの日本の状況です。
中国や北朝鮮となんら変わらない状況ですが、なぜかみんな中国や北朝鮮は非難しても自分の国は特別視しています。
たぶん北朝鮮の国民も同じなのでしょう。

昨今のコロナ報道には、肝心な健康問題が二の次になっているような気がします。
毎日、変化のない同じ話が繰り返されています。

そもそも「健康か経済か」という捉え方自体がおかしいですが、経済はそもそも「経世済民」といわれるように、健康な生活のためにこそあるのです。
コロナだけが病気ではありませんし、人との接触を避ける生き方などつづくかないでしょう。「新しい生活様式」などと本気で語っている人がいるとしたら、そこにこそ、現在の状況が象徴されていると思います。
それに人生には病気はつきものですし、コロナだけが怖い病気ではありません。
マスクをすればいいという話でもないでしょう。

人生にはいつも「危機」が伴っている。
その事実から逃げる生き方よりも、むしろその事実を踏まえた生き方を、私は選びたいと思います。
もういい加減、コロナ感染症の数字遊びを止めて、生きることに目を向けたい。

今日は天気がいいので、マスクなしに出かけようと思います。
もちろん電車には乗らず、店舗にも入らずに、ですが。

 

| | コメント (0)

2020/05/26

■人は「いいとこどり」はできません

延び延びになっていた、孫の幼稚園(4月に入園)が始まるそうですが、当面は「分散登園」だそうです。
通園バスではマスクをして会話は禁止、給食時もアクリル板で仕切られるそうです。
幼稚園という初めての集団生活のはじまりのスタイルは、子どもに大きな影響を与えるでしょうが、いささか心配です。
コロナ感染よりも、むしろ私にはそちらのほうが気になります。
人が生きている以上、病気に感染することは正常なことです。それは「支え合い」の一つのスタイルです。

昨日も書きましたが、そして以前から書いていますが、人と距離を取るとか、直接のタッチは避けるとか、マスクに加えてフェースシートをかぶるとか、私にはなじめません。
そういう環境や「生活様式」のなかで育った人間はどうなるのか心配です。
人工的に育成された動植物のような、弱さを感じてしまいます。感染症にもかかりやすくなるでしょう。

先月、古代インダス文明のモヘンジョダロに関する森本哲郎さんの話を書きました。
清潔に整備されたモヘンジョダロは、戦争の痕跡もないまま、突然滅んでしまった。
それは、清潔な都市を完成させるために、邪魔な人間が自ら退場したのではないかと森本さん(正確にはその本に登場する人)は言うのです。
コロナ対策でいつも思い出すのがこの話です。
コロナ感染をなくすためには、人間がいなくなればいいのです。

在宅のテレビ会議で済むのなら、たぶんその仕事は人間でなくてもやれるはずです。
人間は本来、たくさんの病原菌を含む生命体の塊であり、非論理的で感情的な、いろんなものの感染源的な存在です。
人と付き合うといろんなトラブルに巻き込まれますし、身体的な病気や精神的な病までうつされることもある。しかし、それが人間ではないかと思います。

死はできれば避けたいですが、死があってこその生です。
死にたくなければ生まれなければいい。
感染したくなければ、生活をやめればいい。

昨日紹介した本の著者の一条さんは、「死は不幸ではない」と言います。
もし死が不幸ならば、死を避けられない生もまた不幸ではないかというのです。

人は「いいとこどり」はできません。
死や感染も含めて、豊かな人生を生きたいと思います。

| | コメント (0)

2020/05/25

■何かが大きく間違っているような気がします

新型コロナ感染症に関わる正確なデータはなぜかまだ公開されていません。
センセーショナルな情報は、映像も含めてたくさん出ていますが、実態がまだ見えてきません。実態が隠されているので、「不安感」どころか「恐ろしさ」さえ感じている人も少なくないでしょう。それで陰謀論がいま社会にあふれ出てきているようです。

マスク不足も含めて、すべては「人為的に意図された実体のない虚像」だと私は思っていますので、私自身には不安はありません。
しかし、実際に新型コロナ感染症にどのくらいの人がかかったのか、実際の死亡率はどうなのか、毎年のインフルエンザとの違いはどうなのか、等は知りたいと思っています。

テレビで、異論を唱えていた人たちも、最近はほぼみんな大きな流れに飲み込まれつつあるような気がして、テレビ録画してチェックしていたのをやめました。
もはや信頼できるのは、自分の直観力と実際の体験だけです。

しかし、外出にマスクは必携になってしまいましたので、外出意欲が失われてきています。
それに他者との接触を回避する姿勢にはどうもなじめません。自分を感染源と考えたり、他者を感染源と考えたりすることが、どういう結果をもたらしていくか、心配です。
何かが大きく間違っているように思えてなりません。

 

 

| | コメント (0)

2020/05/22

■一人称自動詞で考え行動したい

新型コロナウイルスの流行が新聞などで話題になりだしたのは1月の後半頃からでした。2月上旬に京都旅行を申し込んでいたのですが、それをキャンセルしようかどうか迷ったので、はっきりと覚えています。
私がコロナ関連情報をテレビで毎日チェックするようになったのは、その頃からです。当時は、しかし、これほど日本でも問題になるとは思っていませんでした。それで旅行は直前まで迷いましたが、出かけました。

その時に、ホテルで読んだ京都新聞の記事が出てきました。
中国からの旅行客は激減して、嵐山も金閣寺も空いていました。
当時から観光地ではかなりの注意が行われていましたし、マスク不足も問題になっていました。にもかかわらず、その後、対策はなかなか進みませんでした。

あれから4か月近くたっているのです。
今週から、テレビのコロナ関連の報道はもう見るのをやめました。全くと言っていいほど繰り返しで内容がありません。

2月上旬の京都旅行中、京漬物を買うため、娘に付き合って錦市場に寄りました。
寺社仏閣と違って、そこは中国人観光客も含めてとても混んでいました。
いささかのリスクを感じて、娘に頼んで、漬物屋さんに寄るだけにして、そこを離れましたが、漬物屋さんもすでに客は少なくなっていると言っていました。そのときも客は私たちだけでした。

実は旅行から帰ってきてから体調がちょっと悪くなりました。
1日だけ熱も37度を超えましたが、すぐさがりました。しかし、念のために1週間ほど自宅待機しました。その後、少しでも体調に違和感があるときには外出を控えました。
そうした状況から抜け出した頃から、世間では外出自粛が叫ばれ出しました。

そんな体験から私は市中感染者は1~2割いるのではないかと1か月ほど前にFBに書いてしまったのですが、どうもそれは過大評価だったようです。しかしもしそうなら、これからがいささか心配です。

外出自粛とか新しい生活様式とか言われていますが、そんなことに全く関心はありません。そういう呼びかけをしている人たちの多くは、自分ではそうしていないでしょう。その一例が黒川検事長の麻雀であり、国会議員や官僚たちの行動です。

一方、真剣に自分を生きなければ生きていけない、個人事業者や若者たちは、感染せずに生活できるような生き方を考えて行動しているように思います。飲食店のテイクアウトはその一例です。
パチンコ店もいろいろと苦労して工夫しているのに、一斉に休業を要請し、それを受けないと世間を味方にして圧力をかけるのは私には納得できません。安心して営業もしくは休業できる仕組みを一緒に考えるのが行政ではないかと思います。

誰かに「自粛」や「行動変容」を呼びかけるだけではなく、自分で出来ることを、それぞれが考えることが求められています。個人営業主やパチンコ店経営者も考えているのですから、議員も官僚も、目的実現のために自分でできることを考えてほしいものです。

いまこそ、一人称自動詞で考えることが必要ではないかと思います。
「一人称自動詞で考える」は、私の信条ですが、湯島のサロンのルールでもあります。

この4日間、部屋の大掃除をしているのですが、3か月半前の京都新聞が出てきたので、読み返してみました。そして、あまり変わっていない、この4か月は何だったのだろうかと改めて驚きました。
 この先の4か月はそうならないでほしいものです。

20200202_20200522164201 20200205

| | コメント (0)

より以前の記事一覧