カテゴリー「社会時評」の記事

2020/04/05

■「不要不急の活動」

昨日、湯島でオープンサロンをしました。

家を出る直前まで娘からはやめたらと言われましたが、2時から湯島でコーヒーを飲んでいるのでという案内を出した以上は、誰も来なくても行っていようと思い、湯島に行きました。
他者から見たら、まさに「不要不急の活動」でしょう。

サロンには3人の人がやってきました。
たわいもない話(不要不急の話題)が多かったのですが、この騒ぎを契機に、仕事の意味や生き方の問い直しが起こるといいというような話もありました。
さらに最後に来た、IT関係の専門家の人から、IT関係の仕事こそ「不要不急」だという過激な発言がありました。

その人は、いまもIT関係の仕事をしていて、自他ともに認めるITのプロだと私は思っているのですが、まさかその人からそういう発言があるとは思ってもいませんでした。
その人の発言は、まさに我が意を得たりというものだったので、これまで書かなかったことを書くことにしました。

私の昨日のサロンは、私にとっては大切な活動です。
私の「不要不急」の基準は、たぶん世間とは真反対です。

昨今のほとんどの経済活動や政治活動は、私には「不要不急の活動」に見えます。
国民全員にマスクを配布する活動を考えれば、わかってもらえるかもしれません。
あれは実に現在の日本の政治と経済を象徴しています。
私には、現在の国会での活動もほぼすべて「不要不急」ですし、大企業の仕事のほとんども、いまこの時期には「不要不急」のように思えます。

経済活動が止まったらトイレットペーパーがなくなるではないかと言われそうですが、もちろん価値ある仕事もたくさんあります。しかし、そういう大切な仕事や働き手が、割を食わされているのが現在の経済活動のように思えます。

3か月くらい先に延ばしても困らない大企業の経済活動(例えば自動車生産)を一斉に止めれば、満員電車は解消されるでしょう。
ビジネス化した観光地を閉めれば、多くの人はもっと身近な観光地に気づくでしょう。
ブランド化した行列のできるレストランとは違った、近くの小さなレストランをみんなで育てていこうと思えるようになるかもしれません。
ライブハウスやスポーツジムは、私にはまったく理解できないので、コメントはできませんが。

 資金の流通も3か月止めても、困るのは金融経済での不労所得者だけでしょう。
それでも資金繰りがつかずに倒産することがないように、国庫からの支援で対応する必要はありますが、お金の流れを一時止めれば大きな問題は起きないでしょう。

いずれにしろ、3か月生産や活動を止めても、大丈夫の経済活動はたくさんあるでしょう。
その間に、社会から無駄な贅肉や悪さをする経済・政治活動が顕在化されるでしょう。

文化活動やスポーツ活動は、微妙ですが、むしろ巨大化(産業化)した今の文化活動やスポーツ活動を見直す機会になるでしょう。
私は昨今のような産業化した文化活動やスポーツ活動にはなじめません。
私の感覚ではあれは文化でもスポーツでもなく、単なる産業です。
スポーツ選手には申し訳ありませんが、彼らはなにかをはき違えているとしか思えません。
ここまで書くとまた叱られるでしょうが、彼らを非難しているのではありません。
パスカルではありませんが、生きるためにはパンだけではなく、バラも必要だとは思っていますが、バラは私たちの周りにはたくさんあります。

子どもの育て方や学校教育の在り方も再考されれば、うれしいです。

私が休日にしか外出しないのは、休日の外出が人との接触が管理できるからです。
昨日、サロンに参加した一人も、平日は出歩けないが今日は電車に乗れるから来たと言っていました。
外出自粛ではなく、感染可能性の高い場所の改善や封鎖を考えるのが先決です。
個人は、外出自粛ではなく、感染予防に取り組むべきです。

生活支援の給付金が話題になっていますが、月20万円では生活できないのではないかと言う人が多いのには驚きます。
私には着ぶくれている生活をしているのではないかと思えてなりません。
私もそういう生活をしていたことがあるので偉そうなことは言えませんが、住宅費さえ抑えられれば、10万円もいらないでしょう。
住宅が余っているのですから、住宅は無償で提供するようにすれば、生活費の感覚は変わるでしょう。

私が思うには、最近は人間の生活を維持していくためにはなくてもいいことが多すぎます。
経済活動が止まったらどうなるかと言われそうですが、いまは着ぶくれた経済活動になっていて、生活のためではなくお金のための経済活動になっているように思えてなりません。

人生にとって、何が大切か。
社会にとって、何が大切か。
ぜひ今回のウイルス騒ぎを契機に、考えたいことです。

お金のためから考えるのではなく、自らの人生を基準に考えたい。
お金を稼ぐために私たちは生まれてきたのではありません。
そして、自分にとって「不要不急の活動」とは一体何なのかを考えると、たぶん生き方は変わっていく。
社会も変わっていく。

そういう契機になればいいなと思っています。

 

 

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2020/04/02

■こんなにも社会はもろかったのか

こんなにも社会はもろいものかと驚く毎日です。

ドイツがナチス社会になり日本が戦争に向かった時も、こんな感じだったのでしょうか。
多くの人が、非常事態下に早くいきたいと言っているのは、本当に驚きです。
緊急事態宣言がなくても、やれることはたくさんあるはずですが、なぜかみんな誰かに命令してもらいようです。
自分たちで克服しようという思いが広がってほしいです。

新型ウイルス感染症に関して、テレビでいろんな人が「若い世代に危機意識がない」と嘆いています。
「危機意識」ってなんでしょうか。
いつも不思議に思うことです。
私も、危機感がないのではないかと思われているような気もします。
しかし、私は逆に世の中の多くの人に危機意識がないように思えてなりません。

新型ウイルスの感染が広がってきていると感じたのは2月ですが、以来、私の行動様式は変化しました。
できるだけ不特定多数の人の集まりにはいかないようにしていました。
ウイルスも生きていますから、閉じ込めることなどできるはずがありません。

テレビでクルーズ船の報道をきちんと見ていたら、船内に隔離できるはずがないことは誰にでもわかる話です。
むしろクルーズ船は、私にはウイルス培養器に感じました。

2月末に市中感染が広がりだしたというのは、テレビで在野の専門家は話していました。
政策立案の基礎になるべき調査もしない政府や厚労省を見ていて、彼らは新型ウイルスを危機などとは考えておらず、政争の具にしようとしているのではないかと不安になりました。
とすれば、自らで守るしかない。

私が選んだのは、繰り返し書いてきましたが、感染しても克服できるだけの体力と状況を維持しようということでした。
ウイルスから自分だけ逃れられるはずはありません。
2月から3月前半までは毎朝、体温を計りましたし、ちょっと体調が悪い時には外出せずに在宅で休養を取るようにしました。

過剰に考えたためもあって、2月から3月前半は、何となく体調不良が続きました。
サロン以外の外出はほとんどやめていました。
私にとっては、サロンが大切だったからです。

最近の感染者の急増の数値は、私にはまったく脅威ではありません。
実状はあんなものではなく、操作された数字だと思っているからです。
それに今の数字でさえも、ちょっと工夫すれば、実状がもう少しわかるようにできるはずです。

ちなみに今日の東京都の感染者数97人は、あまりに正直にそうした背景を示しているように思えてしまいます。
いささか勘繰りすぎかもしれませんが、2枚のマスクで国民が満足すると思っている人たちのやることですから、まああながち否定はできません。

この騒ぎの終息は、集団免疫の成立しかないと考えています。
それは意外と早いかもしれません。
~3か月で終息するかもしれませんが、世界的に見れば、そう短期的には解決しないでしょう。
グローバル化とは、そういうことですから。

仮に感染者数は落ち着いたとしても、この後遺症はそう簡単には回復しないでしょう。
社会が落ち着くには、2~3年はかかると思っています。
リーマンショックや3.11とは全く違うのではないかと思います。
そして、社会の枠組みが変わるかもしれません。

もしそうならば、いい方向に(政権にとってではなく国民にとって)変わることを祈ります。
最近の多くの人の反応を見ていると悲観的になってしまいますが。

 

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2020/04/01

■生きるためには死をもいとわない生き方

新型ウイルスの広がり状況を見ていて、ポール・メイソンが「ポスト・キャピタリズム」で書いていたことを思い出して、発想を少し飛ばしてみました。

メイソンは、資本主義世界がいま次の世界へと移りつつあることを示唆しているのですが、そこで「封建主義世界から資本主義世界」への移行について簡単に紹介しています。
メイソンは、封建主義とは「義務を基盤としたシステム」だといいます。小作人が、地主に自分たちが作った農作物の一部を義務として差し出す。地主の代わりに兵役に服することもある。地主は王に税金を支払う義務を負い、要求されれば軍隊に物資を支給する、…というわけです。
そうした世界に、金融を基盤とした新しいシステムが生まれてきた。そして、大きく転換していくのですが、その移行過程をこう書いています。

農業を基盤とした封建モデルは、最初に環境上の限界にぶち当たり、それから黒死病という甚大な外的ショックに直面した。その後、人口動態ショックが起こった。つまり、農地での働き手があまりにも少なくなり、賃金が上がり、封建制度の旧システムでは人々に義務を押し付けることが不可能になった。労働人口の不足により必要となったのが技術的な革新だ。

何やら現代とそっくりのような気がします。
とりわけ不気味なのが環境上の限界と黒死病(ペスト)です。

ちなみにヨーロッパの人口の4分の1の命を奪ったペストは、イタリアとスペインから始まりました。そのいずれも、社会の仕組みが劣化していたからだとも言われます。
これも現代の世界の状況との類似性を思ってしまいます。

さらに発想を飛ばすと、次の世界(未来)はまた「封建世界」かもしれないということです。
最近の日本はすでに「義務(従順)を基盤としたシステム」になってきています。
みんな王様に命令をお願いしている状況です。
自分を生きるよりも、生物的生命を生かせてもらうことをみんな目指しだしている。
生きるためには死をもいとわない生き方です。
これはAI世界につながります。

ここでの「生きるためには死をもいとわない生き方」には真逆な意味が含意されています。
そういう視点で考えれば、私が理解する意味とたぶん現代日本のほとんどの人たちが考える意味とは真逆だと思います。
だから私がサロンを続ける姿勢もわかってもらえないのでしょう。

私にはもうほとんどの日本の人たちは生きることをやめているのに、どうして新型ウイルスが怖いのかが理解できません。
こんな言い方をするとまた叱られそうですが。

ところで、メイソンは未来を展望してこう書いています。

次の50年に外的ショックが起こらなければ、私たちはゆっくりと物事を進めていける。穏やかな移行のプロセスでは、国家が規制を通じて変化の進行役として機能するだろう。しかし、甚大な外的ショックが起これば、中には集中して迅速かつ猛烈に進めなくてはならないときもある。

新型ウイルスは、もしかしたらこの「甚大な外的ショック」なのかもしれません。
ちなみにメイソンが例示していた「外的ショック」は地球温暖化と人口増加です。
第3の「外的ショック」かもしれない新型ウイルスは、あまりにも荒っぽいやり方なので、私は「戦う」のではなく「共存の道」を探るべきだと思っていましたが、どうもみんなはそう思っていないようです。
いまだに1年後にはオリンピックができるなどと思っているのが不思議です。
日本の若者世代よりも「危機感」がないとしか私には思えません。

新型ウイルスの問題は、時間的に数か月程度の問題でもなければ、空間的にクラスターで起こっている問題ではないように思います。
社会の基礎条件が変わろうとしているのではないかと私は思っています。
この2~3か月、生き方を変えれば危機を乗り越えられるような話ではないと思います。
乗り換えるためには、一人ひとりが生き方を考えるべきであり、感染者数の発表数が増えてきたからといって、外出を自粛するようなことでいいとは私には思えません。

すでに感染は社会に広がっているはずですから、そこでの生き方(日常)を自らで考えていくことが大切だと思っています。

 

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2020/03/23

■士農工商は序列ではない?

子どものころからずっと疑問に思っていたことがあります。
「士農工商」は本当に上下関係の序列なのかということです。
今朝の朝日新聞を見て、それを思い出しました。

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「士農工商は序列じゃない?」という見出しで、支配者である「武士」と被支配者である「社会一般の人びと」の「農工商」のイラストが描かれていました。
そして、明治新政府が目指した「四民平等」に対比させるイデオロギーを象徴するために、士農工商を社会的序列としたというようなことが書かれていました。
これまたひどい「イデオロギー操作」だと思います。

たぶん「士農工商」は「士」を含めてみんな横並びで、序列などではないでしょう。
「序列」は実は見えないところにある。
「士農工商」という被支配者層とその外部にいる支配者層です。

支配者層は表面には出てきません。
そして被支配者層を階層化し、相互に対立構造を生みだします。
というよりも、被支配者層は自分たちで勝手に横の関係を上下関係に作り替え、自らの優位性を作り出していきます。
そうなれば支配層は「支配」などしなくても支配できるようになります。

前に湯島でインドのカーストを話題にしたサロンをやりましたが、その時もインドのカーストは誰が何のために作ったのかを考えてみました。
カーストって、そんなに悪いものなのか。
カーストの外にいる人たちが作ったと考えると別の世界が見えてきます。

敵はいつも見えないところにいる。
実際に敵対している同士は、実は仲間である。
こう考えるといろんなことが見えてきます。

ちなみに、新型ウイルスは「見えない存在」ではありません。
そして決して「敵」ではない。
明日24日、湯島で新型ウイルス騒ぎから、こんなことも考えるヒントが得られるかもしれません。
争いの外にこそ、実は争いから利益を得る人がいるのです。
「争わされる存在」にならないように気をつけたいと思います。

ちなみに、最近の日本の政治を見ていると、同じような構造を感じてしまいます。安倍政権や佐川さんの向こうにあるものを見なければ、結局は何も変わらないように思います。

 

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2020/03/13

■社会をどちらの方向に変えましょうか

相変わらず毎日、新型ウイルス感染症の感染者人数の詳細な報告が続いています。
加えてマスク不足と不当な販売のニュースもつづいています。
いずれも不安をあおり、マスクによる不当利益を得やすい環境づくりに努めているとしか思えません。

マスクは今でも日本国中に余っていると思いますが、ますます暴利商品にしているので、公開の場に放出されないでしょう。本当にその気があれば、即時に通販サイトでの販売を禁止すべきですが、それをやらないのはそうした闇ルートと政治がつながっている証拠です。
静岡の県議がマスク転売で話題になりましたが、そんな小さな話に騙されてはいけません。

感染者の感染ルートをせんさくすることで、いらぬ疑心暗鬼を引き起こしているのも腹立たしい。むしろ問題解決への関心から目を背けさせています。
不安状況をつくるためにも、ウイルスは実態データはあいまいにしながら、ひっ迫感を煽るデータは作り続けているのかとついつい勘ぐりたくもなります。
だれが「意図」しているのだと思いますが、そこに明らかに「意図」を感じます。
それを「陰謀」という人もいますが、まさに今はいたるところに、「陰謀」は張り巡らされている気がします。
表面的に見えることと裏に隠されていることとは違いますが、先入観から自由になれば、いずれからもそれなりに真実は見えてくるものです。

「陰謀」という言葉で、隠されてしまうことをこそ、気にしなければいけません。
この視点は、湯島のサロンでも時々話題にしていますが、「陰謀」という言葉にこそ「陰謀」が含意されているというのが、サロンを時々やってくれている中嶋さんの考えです。
「陰謀」という言葉に騙されてはいけません。
陰謀は、単に隠された謀(はかりごと)であって、日常的な現実のことなのです。

ちなみに、私は新型ウイルス騒ぎには特別の不安を感じていません。
誰かの陰謀、あるいは意図に踊らされることのない、自分の素直な心身で事実を見て、素直な対応を取れば、ウイルスも怖くはありません。

だからと言って、完全にウイルスから自由であるとは思っていませんが、生命は時に病むこともあり、回復できないこともあります。
それは別に新型コロナウイルスに限ったことではありません。
生命を脅かすものは、新型コロナウイルスだけではないのです。
政府やマスコミなどの情報に振り回されることなく、自分をしっかりと生きるのがいいです。

オリンピックに関しても、関係者の多くは、延期も中止も全く考えていないという、驚くべき発言をしています。
これも現在の新型ウイルス騒ぎとまあったく同じです。
感染状況を調べようとせずに、砂上の対策を立てつづけるのと同じように、事実を踏まえて、あらゆる可能性を視野に置いて、オリンピックを成功させようという姿勢は感じられません。
もし本当に実現したいのであれば、中止のしなりをも含めて吟味しなければ、うまくいく桃の喪うまくいかないでしょう。
つまりやる気がないということです。
IOCがWHOに、責任を投げたように。

ただ今回のウイルス騒動で一つだけ私にはよかったと思えることがあります。
たぶんこれを契機に、私たちの生き方が変わるだけでなく、制度疲労していたいろいろな制度が、たとえば学校や企業が変わることでしょう。
人々の意識も変わる契機が与えられたようにも思います。

だとした、これからどんな社会を目指すのか、その方向性は私たちで決められるかもしれません。
私は、時代の方向性をしっかりと決めていますが、もしかしたらその方向に向かわせられるかもしれません。
私には、新型コロナウイルスには感謝しこそすれ、「ウイルスが悪い」などという思いはまったくありません。

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2020/03/07

■新型コロナウイルスよりも恐ろしいもの

娘と歩いていたら、すれ違う方向で歩いてきた高齢の女性に笑顔であいさつされました。
自然と返事をしてしまいましたが、通り過ぎてから、娘から知り合い?と訊かれました。
単なるすれ違いのあいさつよりも親しみがこもっていたので、私も少し考えたのですが、知った顔ではありませんでした。

まあそれだけの話なのですが、「あいさつした彼女」も「あいさつを受けた私」もちょっと少し心が和んだことは間違いありません。

最近、新型ウイルスのせいで、マスクが流行っていますが、マスクは新型ウイルスを回避するかもしれませんが、人間も回避します。
話をすると飛沫が飛ぶので距離をとれとも言います。
これこそ人間同士の中を引き裂く陰謀ではないでしょうか。
私には新型コロナウイルスよりもおそろしい。

今日もマスクをせずに湯島に出てきました。
一応、いつもマスクは持ち歩いていますが、幸いに咳も出ないで今のところ使ったことがありません。

 

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2020/02/20

■嘘つきに囲まれていると嘘つきになっていく

森友問題はどうも結局、国民受けのする茶番劇で終焉してしまいました。
いまや司法の独立性は、夢のまた夢といった感じです。

もはや日本は法治国家ではないことを私たちは認識しなければいけません。
事実が「現実」から引き離されて、誰かによって構築されてしまう。
まさに、いまの社会は、だれかが勝手に構築した嘘の上に成り立っている。
「判決は冤罪、日本は冤罪だらけです、不公平な司法」という、籠池さんの奥さんの姿に、ちょっと共感してしまいます。

国会での野党の追及は、一見するとそうした「つくられた現実」の虚構性を暴こうと頑張っているように見えますが、そもそも、相手が構築した「嘘の上」の現実を基盤にして取り組んでいますから、勝負は最初から決まっています。
いや、捉えようによっては、相手の嘘づくりに加担しているようにさえ見えてきます。

嘘は素直な目で見れば、おのずと見えてきますから、証明などする必要はありません。
その嘘の上に論理や批判を構築していたら、すでにもう嘘の世界で生きていることになってしまいます。
「王様は裸だ」と言えばいいだけの話です。
籠池さんの奥さんのように。

桜を見る会の話で言えば、安倍政権が嘘を言っているのはだれの目にも明らかでしょう。
あるいは森友問題でも行政文書が廃棄されたなどという話は、素直な目を持っていれば、誰にも明明白白としか言いようがない。
素直に考えたら、明確な話が、なぜか難しくなり、嘘を証明しなければいけないような、無法国家になってしまったような気がします。
しかし、多くの国民はそれに唯々諾々と従って、身を任せている。

心理学者のユングが、その著書でこう書いているそうです。

ローマ人はだれもが奴隷に囲まれていた。奴隷とその心理が古代のイタリアに氾濫していた。そして、ローマ人はだれもが、心のなかで、もちろん無意識にだが、奴隷となった。たえず奴隷の雰囲気のなかに生きていたから、無意識を通じて奴隷の心理に冒されたのであった。このような影響から自己を防衛できる人などいなかった。

まさに今の日本の社会はこうなってしまっているのではないか。
そんな気がしてしまうほどに、昨今の日本はおかしくなっているような気がします。

嘘だけはつくまい。
誰かの言葉や書物からではなく、自らの目や体験を大切にしていこうと、改めて思いなおしています。
新型コロナウイルス騒ぎにも、踊らされないようにしようと思います。
安倍首相を見習って、次々と同じような人が育っているのが恐ろしいです。

 

 

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2020/02/18

■不謹慎な思いから抜け出せません

今朝、フェイスブックに書いたら、意外と肯定的な人が多かったので、ブログにも転載することにしました。

最近、世間の動きに対する反応拒否症に陥っていました。
新聞やテレビの報道にもほとんど関心がなくなっていました。
ほとんどが「意味のない報道」のように思えるからです。
安倍首相の「意味のない質問」という発言は、いまの時代を象徴している「名言」のような気がします。
自ら「意味のない答弁」をしている人でなければ言えない言葉です。

しかし、「意味がない」ということは、別の意味で「大きな意味」を持っているということです。
そういう意味では、「意味がある報道」が増えてきていて、世界を覆い尽くさんとしています。

新型コレラウイルス感染症が、いよいよ“パンデミック”状況を呈し始めました。
政府による健康管理が加速され、生政治がはっきりと見える形になってきました。
国民は自らの健康まで、政府に依存しだしました。
この2週間の報道をみていると改めてここまで来たかと驚きます。

豚コレラの殺処分の報道とクルーズ船での隔離の報道は同じように見えてしまいますし、その先には私たちもきっと殺処分に向かっているのだろうなどと妄想してしまいます。
こんな言い方は不謹慎ですが、豚や鶏の殺処分報道のたびに見えていたことが現実になってきました。
家畜の大量殺処分に違和感を持たなくなれば、次は自分たちであることは当然の結果です。
あの時に、声をあげなかった責めは受けなければいけません。

そんなわけで、数日前からテレビ報道をまた見るようになりました。
テレビを見ていると、来週以降、日本は大変な状況になりそうですね。
〈不要不急の行為〉は差し控えなければいけないようです。
その方針に反対ではありませんが、〈不要不急の行為〉にこそ価値を認めてきた私としては、ますます生きづらくなりそうです。

いや、もしかしたらそうではないかもしれません。
2週間前の京都観光のように、むしろ生きやすくなるかもしれません。
東京国立博物館の「出雲と大和」もすいているかもしれません。
もちろん感染症の拡散媒体にはならないように万全の注意を払いますが、ますます不要不急の活動に精出そうと思います。

まあ、私自身が「不要不急の存在」ですから、消えた方がいいのかもしれませんが。

 

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2019/12/29

■東尋坊からのお餅に込められたメッセージ

東尋坊で見回り活動をしている茂さんたちから、今年も「お餅」が送られてきました。
年末に、毎年、茂さんや川越さんたちが東尋坊で遭遇した自殺を思いとどまった人たちと一緒に、心を込めてつき、みんなで丸めたお餅です。
茂さんがいつも言っているように、「形は不揃いでも、味は何処のお店屋さんにも負けない絶品」です。

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茂さんたちの見回り活動は、もう16年近くになりますが、これまで672人の人を思いとどまらせてきています。
今年も32人の人に出会い、全員が見事に再出発を果たしているそうです。
私は、その活動が始まったころに、ささやかに応援させてもらった関係で、こうして今もお餅が毎年届くのです。

お餅と一緒に、「東尋坊の見守り人形 人生標語集」という小冊子が送られてきました。

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聞いた人が元気になるような、「短い力強い言葉」に、茂さんたちの活動を支援している仙台在住の「じぞうもじ書家」後藤夕深さんが「じぞうもじ」を添えた、心があったかくなる小冊子です。

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茂さんや川越さんのあったかい心が伝わってきます。
川越さんたちが一針一針手縫いした「見守りお地蔵さま人形」とこの小冊子を遭遇した人たちに渡しているそうです。

お餅に添えられていた手紙に、茂さんはこう書いています。

私たちの活動は、今までは「水際対策」に重点を置いてきましたが、来年からは「上流対策」(東尋坊での自殺者の8割は県外者です)に、もっと目を向け「これ以上、東尋坊に自殺企図者を送りこまないで下さい…!」と訴える活動にも力を入れていきたいと思っています。

以前からお聞きしていた茂さんの次の目標の一つです。
しばらく茂さんの活動に関わらずにいましたが、来年はこの茂さんの思いの実現に何かできることはないかを考えたいと思います。

一緒にやろうという方がいたらご連絡ください。
日本の自殺者は減少しているという統計もありますが、少なくとも私の周辺では減っているという実感は得られません。
私にも誰にでも、できることは必ずあるはずですので。

 

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2019/12/19

■不登校や引きこもり体験者と話して思ったこと

昨日、ブログの「挽歌編」に書いたのですが、むしろ「時評編」の内容だなと気づき、その一部をリライトして、時評編にも載せることにしました。

湯島では、私の主催ではない集まりがいくつかあります。
たとえばほっとスマイルプロジェクトという世界に笑顔を広げていこうという集まり。ちょっと霊的な要素が入っている地上の楽園を目指す集まりなどです。
そうしたものの一つに、引きこもり体験者などを中心とする集まりがあります。
これはオープンハートを主宰する阿部さんがやっています。
以前から私にも声がかかっていたのですが、なかなか参加できずに、昨日、初めて参加しました。
わたしを入れて、6人ほどの集まりでした。
かつて引きこもっていたり不登校だったりしていた人です。
それもかなり長期にわたってです。
不登校や引きこもりに、なぜか多くの人はコンプレックスを持っています。
世間も、それがおかしいと考えています。
私自身も、かつてはそうでした。
しかし、不登校や引きこもりにコンプレックスを持つ必要などあるはずもありません。
問題は、コンプレックスや罪悪感を持ってしまうことから始まります。
はじめてなので、それぞれにどんな人かをお聞きしました。
ちなみに、私のことはたぶん阿部さんからみんなには伝わっているようです。
「いまは働いていない」と言った人がいました。
そこで、「稼いでいないだけではないですか」と問い返し、生きている以上、働いていない人はいないと言付け加えました。
人は、そこに存在するだけで必ず誰かの役に立っています。
もちろん誰かに迷惑をかけているともいえるのですが。
役に立つことと迷惑をかけることは、私には同じことのように思えます。
稼いでいないと価値がないと考えるようになったのは、いつのころからでしょうか。
私が、そのことのおかしさに気づいたのは3年ほど前ですが、その呪縛から解き放たれると生きやすくなります。
同じように、学校に行かなければいけないという思いからも自由になるのがいい。
「学校だけが学びの場」ではありません。
いや学校こそが学びをワクワクさせない場所になってしまっています。
学びはわくわくする面白いものでなければいけません。
学校に行きたくないのは自分をしっかりと生きているからだともいえます。
私は子ども時代、あまりしっかりしていなかったので学校には行きました。
学校に行かないことができるということに気づいたことがないのです。
ただ高校時代には学校が嫌いでしたので、不登校ではありませんでしたが、嫌いな授業はさぼって図書室で本を読んだりしていました。
いまの子どもたちには、学校と家庭しかないと思わせているところに問題があります。
ちなみに塾や学童保育の場は、もう一つの学びの場ですが、いずれも大人たちに管理されている場であることには変わりはありません。
子どもたちが自分たちの場が作れないところに問題を感じます。
ネットのようなバーチャルな場は、私には別の世界のように思えます。
みんなと話していて、やはり社会そのもののおかしさを改めて感じます。
ここに集まっている人たちのエネルギーや思いを束ねたら、みんな生き生きしてくるでしょう。
いつもこういう人たちと話していると思うことです。
いろいろなことを気づかせてもらいました。
不登校や引きこもりを体験した人たちの素直さにはいつも感心しますが、いろんな世界に触れてこなかったが故の視野の狭さも感じます。
現在のさまざまな対策や相談に取り組む活動には、やはりどうしても共感できません。
基本的な捉え方が、すでに間違っているように思えてなりません。
やはりだれをも区別(差別)しない、サロンを続けることが大切だと改めて思いました。

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