カテゴリー「社会時評」の記事

2025/03/31

■個人情報保護という発想への違和感

この数日、改めて人のつながりの面白さを実感しています。
数日前に40年程ぶりに、かつてあるプロジェクトの相談を受けていた人がやってきました。その頃、私はまだ企業関係の仕事もやっていましたので、その人も企業の人で、プロジェクトも企業がらみでした。
そのプロジェクトは残念ながら企画段階で終わってしまいました。もし実現していたらまさに今の時代にも大きくつながるおもしろい構想でしたが。

40年ぶりにやってきた人とは最近フェイスブックでつながったのです。
それで再会となったのですが、その人はビジネスマンだとばかり思っていましたが、画家であり演劇人でした。それで話していたら、意外なことがわかりました。
先日、演劇関係の講演会に友人に誘われて行った時に、偶然隣に座った人と話したら私と共通の友人がいたことをフェイスブックに書いたのですが、その宮城さんと知り合いだと言うのです。まあそれもあって今回、久しぶりに訪ねてきてくれたのかもしれません。
それだけではありません。
私が一度話してみたいなと思っている人とも、その画家の人は知り合いでした。
人の輪はどんどん広がっていく。

そんなことが最近よく起こっているのです。

昨日は令和の百姓一揆のデモに参加したのですが、以前、ピースウォークに参加した時に、定刻に誰も集まらず、2人だけで歩いた人がいますが、その人のこと思い出して昨日一緒に行った人に話したら、なんとその人とは活動を共にしたことがあるそうで、その人の伴侶とは学校の同級生だったと言います。まさかのまさかです。

こうやって話していくと、人はたぶんみんなつながっているのでしょう。
80億人というと、いかにも膨大な人数のような錯覚を持ちますが、兆単位でつながっている微生物に比べればわずかな数の集団です。
まさに「スモールワールド」で、みんな6~7人を介してつながっているのです。

にもかかわらずいまだに地球からは戦争がなくならない。
人のつながりがもっと可視化されれば、世界は変わるかもしれません。
だから、みんなもっと自らの世界を開いていけばいいなと思っています。
そして、私は思い切り自分のことを開示する生き方をしているのです。

個人情報保護という発想にも、私は違和感を持っているのです。

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2025/03/18

■マイホカードの拾得電話に気をつけましょう

昨日、私は「マイホカード」を落としたそうで、我孫子の警察者の落し物が借りの安田さんから電話がかかってきました。私は留守だったので留守電に入っていました。

「マイホカード」というのを私は知りませんが、パソコンをやっているうちにどこでどう間違ってクリックしてしまったのか、時々、なんで送られてきたなのかなあと思うようなカードが届きます。
しかしそうしたカードを持ちあるくことはないので落とすはずはありません。
でもまあ最近の警察は親切で、落としていないものも拾ってくれるのかなあという気にもなります。そう思わせるほど、電話の主は、とても「いい人」らしさのある声でした。

みなさんのところには、安田さんから電話はないでしょうか。
もちろんこれは「詐欺電話」です。
最近こうした電話が多いです。
そのためわが家の固定電話は常に留守電になっています。
そろそろもう固定電話はなくしたいのですが、Wi-Fiを使いたいので、なくせません。

みなさんも「マイホカード」拾得の知らせにはお気を付けください。

 

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2024/12/16

■脳の腐敗 brain rot

日本は今年の漢字に「金」を選びましたが、オックスフォード英語辞典の出版社は今年の単語に「脳の腐敗」(brain rot)を選んだそうです。今朝の朝日新聞の天声人語で紹介されています。「取るに足らない、特にオンラインコンテンツの過剰消費による精神状態や知的能力の低下」と定義されているそうです。
知識は、脳を腐敗させると、私もこの頃、痛感しています。

私の脳も、かなり腐敗しているのでしょうね。

困ったものです。

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2024/12/14

■使っていないパソコンがあったら寄付してくれませんか。

湯島のパソコンが古いため動きが遅くなってしまいました。
プロジェクター映写などに使う程度なのですが、最近はいささか不便になってきました。

それでお願いなのですが、組織で使っているパソコンなどで、更新のため廃棄処分するようなパソコンが発生したら、湯島に寄付してもらえないでしょうか。
主にプロジェクター映写時などに使うため、オフィスなどのソフトは入っていなくてもいいです。

急ぎませんので、もし廃棄処分PCが出たら、よろしくお願いします。

 

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2024/12/13

■今年の漢字が「金」とは!

今年の漢字がまた「金」になったそうです。

嘆かわしいというよりも、実に腹立たしい気がします。
テレビで、巨大な和紙に揮毫している清水寺の森貫主が、悪魔の強欲僧に見えてしまいました。あの書き方も気に入りませんが。森貫主には信念というものがあるのでしょうか。宗教者としては、あるまじき行為ではないかといつも思っています。

 こんなことを言うと、偏狭者と言われるでしょうが、日本漢字能力検定協会もこんな「世論」をあおるようなイベントではなく、しっかりした「輿論」を育てるような活動にしてほしいものです。

 私は、「金銭」や「金メダル」が好きではありません。
金銭からできるだけ自由な生き方をめざしていますし、金メダルのような評価制度には背を向けていきたいと思っています。
ますます偏狭者と嫌われそうですが。

 もちろん色としての「金色」も好きはなれません。
そんなわけで、「金」が象徴する世相は、私にはまったく合っていません。

困ったものですが。

 

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2024/09/20

■「仕事とは生きること。お金に換えられなくてもいい」

今朝の朝日新聞に千葉県の長南町で活躍している木原さんご夫妻の紹介記事が出ていました。
おふたりには昨年、湯島でサロンをやってもらいましたが、こういう生き方をしている人が湯島のサロン仲間にも少しずつ増えています。

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「仕事とは生きること。お金に換えられなくてもいい」。
サロンの時にも木原千賀子さんは話していましたが、今回の記事の最後にも紹介されています。これこそ私が考えている「仕事」であり、社会の理想です。
最近こういう記事を時々見ることができるようになりました。
湯島のサロンを長く続けていて、本当によかったです。

今日も午後2時から湯島でサロンです。
テーマは「私たちは外国の人たちをどう扱っているのか」。
体験知からのお話が聞けます。
お時間が許せば、ぜひどうぞ。

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2024/06/02

■世界がますます見えなくなってきています

5月31日、「WHOから命を守る国民運動」が呼び掛けて、日比谷で集会をし、銀座にもデモ行進をしました。
https://anti-who.jp/

台風襲来が予想されていたにもかかわらず、たくさんの人が集まりました。
私は天気と疲れを口実にさぼってしまいましたが、友人たちが参加し、集会風景などを教えてきてくれていました。現場にはいませんでしたが、ちょっとだけ、臨場気分も味わいました。

しかし、マスコミはこうした動きを報道していません。
問題の存在さえも報道しない。

マスコミ報道では、私にはほとんど些末としか思えない「大事件」ばかりが取り上げられています。その一方で、ネットでは過剰に膨らまされた言説が飛び交っている。
私はいずれもからもいろんなことを学ばせてもらっていますが、信頼するのは、私が直接触れるか、あるいは私の知っている信頼できる人が直接体験した情報だけです。だから、最近のように行動範囲が狭くなると、世界がなかなか見えてこない。それでがんばっていろんな立場の人と会うように努めていますが、正直、会うたびに、つまり新しい世界に触れるたびに、さびしくなることの多いほうが多い。

見ない方がいいなと思うことの方が多いのです。
でもそれではやはり無責任です。
最近いささか逃げていましたが、やはり湯島でのサロンでも話題にしていこうと思います。

昨日は5.31日比谷デモに参加した人や沖縄南西諸島の実状を追いかけている人に会いました。詳しい話を聞いたわけではありませんが、会っただけで伝わってくるものがある。
おふたりにはそれぞれサロンをお願いしました。

サロンはますます多くなる。
世界は、あまりに平和ではない。私も平和でいられない。困ったものです。

 

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2024/05/09

■人間がいなくなった廃墟の中で生きていませんか

伊藤環境相と水俣病患者を中心とする関係8団体との懇談会で、環境省の事務方が複数回、参加者の発言中にマイクを切ったことが話題になっています。それを知りながら、伊藤環境相は注意もせずに、そのまま終わってしまった。

あまりに大きな騒ぎになったせいか、伊藤環境相は昨日、水俣市に出かけて、水俣病関係者に謝罪したようです。「今回のことを深く反省し、しっかり環境行政を進めたい」と。
それにしても、この間、1週間以上たっています。それにこういう言葉で「謝罪」になるのかどうか。環境相の行動も「いかにも」という感じですが、残念なのは環境省職員の言動です。環境庁ができたころは、こうではなかった。湯島にやってきた環境庁職員もいました。みんな前を向いていた。

今朝の朝日新聞の天声人語の最後にこう書かれていました。

語り部だった杉本栄子さんが患者に向けて遺した言葉を思い出す。「苦しくても、のさり(賜りもの)と思うて暮らしてくだまっせよ」。

あまりにも違う言動です。どうして伊藤環境相や環境相職員のような言動ができるのか。

杉本栄子さんには一度お会いしたことがあります。ご夫妻で、朝、獲ってきたシラス(寝坊して、私はその船には乗れなかったですが)を処理しながらの合間に、少しだけ話させてもらいました。とても優しく、穏やかな心が伝わってきたのを覚えています。
そのシラスも、とてもおいしかったです。

あるいは水俣病訴訟の中心的な立場から突然身を引いた緒方正人さんの本のタイトル「チッソは私であった」。緒方さんの本には気づかされることが多かった。
伊藤さんも、ぜひ緒方さんに会いに行くといいと思いました。
もし会ってお話ししたならば、あんな態度は生まれるはずもない。

政治家や官僚のみなさんは、いまや人間がいなくなった廃墟の中で生きているのかもしれません。
この連休には、海外ではなく、人間のいる世界で、人間と会ってほしかったです。
伊藤さんや環境相職員にとって、水俣病とは一体何なのでしょうか。

いや、彼らだけではない。私たちにとって、水俣病とは何なのか。
決して他人事ではありません。伊藤さんのようにならないように注意しなければいけません。
水俣病は決して過去のものでありません。

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2024/04/17

■共同親権が国会で議論されることの意味

離婚しても子どもの親権を両親に認める共同親権制度を盛り込んだ民法の改正が進められています。

共同親権に関しては両親にとっても子どもにとっても大きな意味を持っている問題ですが、意見は一致することはないでしょう。そもそも現実は多様過ぎて、当事者の視点からは問題として設定できないからです。逆に、当事者ではなく、社会秩序を管理する視点に立てば、問題はそう難しくはありません。まあ政治というのは、得てしてそういう枠組みの中で議論されていますが、それで悩む人が減るわけではないでしょう。ただ経済的に利得を得る人が出るだけです。そういう意味で、昨今の政治は、エコノミカル・ポリティクスになってしまっています。かつてはポリティカル・エコノミクスとは、政治と経済が反転しています。
それに関しては以前何回か書いたことがありますが。

そもそも、親子関係や家族関係は、政治が割り込んでくるような話ではないと私は思いますが、残念ながら政治に依存しないと収拾できないような親子関係あるいは家族関係が広がっているということでしょうか。

それにしても、「親権」という言葉には違和感があります。
そういう発想こそが最大の問題ではないかとさえ思います。
「親権」を認めるのであれば、「子権」も認めるべきでしょう。
子どもは親の所有物ではありませんし、そもそも他者(物)に対する支配を正当化する「権利」という概念を人間の関係に持ち込むことへの違和感があります。

最近、本田真隆さんの『「家庭」の誕生』(ちくま新書)を読みました。面白かったです。
気軽に読める新書ですので、よかったらぜひ。
夫婦別姓もそうですが、私にはみんなあまりに法律に依存しすぎているように思えてなりません。国民であると同時に、私は一人の人間として、生きていますので、親権や別姓などといった制度に保証され管理されるような発想は持っていません。

家族や家庭、あるいは親子や友人は、これからどう変質していくのでしょうか。
自分がどんどんそういう変化から取り残されていくのを実感しています。

 

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2024/04/04

■なぜみんな地域活動が嫌いになるのか

昨日、自治会の年度会計監査の集まりがありました。
私は昨年度の会計監査の一人なのです。

私たちの自治会では、16ある班が順番に会長役を引き受け、班のなかで会長などの役員を決めます。任期は1年ですが、会長は翌年は副会長、そしてそのあと2年は会計監査を務めることになっています。私は2年前に会長の役をさせてもらったので、昨年度と今年度が会計監査なのです。

昨年度の会長から丁寧な説明を受け、監査は無事終了しました。
その時に話題になったのが、会長職の大変さです。
そして一度会長職をやった人は、もう2度とやりたくないと言う人が多いという話になりました。
たしかに会長職は大変で、あまり意味があるとは思えないような会議によく参加しなければいけないのです。仕事をしている世代の人にはなかなかできることではありません。

そういう話をしていて、気づいたのですが、もしかしたらこうした自治会活動が、多くの人の地域活動嫌いを引き起こしているかもしれません。さらに勘ぐれば、そこにこそ「自治会活動」の狙いはあるのではないか。

私の体験からも、多くの場合、「自治会」と言っているものの、行政などの下請け的な活動が多く、私の感覚でも「住民活動」というよりも「市民活動」「公民活動」と言った方がいいようなものが多いのです。自分たちから自主的に行う、本来的な意味での「自治活動」はその気にならなければ何もしなくても終わります。

私が会長だった時には、幸いに私たちの班のみなさんが自発的にいろいろな役割を自主的に引き受けてくれました。ですから私はとても楽でしたし、出席を求められた会議も、意味がないものは欠席し、そこで何か主張できることがある場合には参加して意見を言いました。しかも私が会長をさせてもらった時期は、コロナの関係で地域のお祭りもなく、仕事量が少なかったこともありますが、あまり負担には感じませんでした。防災活動も副会長に一任でした。
また、会計も会計監査もすべて、会計役の人に一任していました。ですから、今回、初めて詳しい内容の説明を聞かせてもらったのです。

自治会としてやろうと思えばできることはいろいろとあります。ただ私たちの自治会の場合、任期は1年ですので、注意しないと次年度の会長役に負担をかけてしまうので、あまり勝手なことはできません。事実、私は20年ほど前に会長をやったときに、自治会の顧問的な長老役の人から、余計なことをやり過ぎないようにとお達しを受けていました。今回もそのことは、それなりに頭にあり、結果的には、独自の活動はしませんでしたが、それなりに楽しい会長仕事だった気がします。
でも多くの人には、自治会の仕事は負担でしかないようです。

私自身は、これから社会を変えていくのは、いわゆる「地域主義」的な住民活動だと思っています。期待していたNPO活動はどうも経済にからめとられたような気がしますが、逆に自治体行政のレベルでの地域主義は広がりだしています。
若い世代の意識も変わりだしている。

高齢世代が主役の「自治会」活動は、そろそろ役割を終わったのかもしれません。
昨日はそんなことを考えていました。

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