カテゴリー「社会時評」の記事

2021/01/19

■「生きている人間」の時代は終わったのでしょうか

最近はあまり評判がいいとは言えないイタリアの政治哲学者ジョルジェ・アガンベンはCOVID-19パンデミックが世界中に広がった背景に関して、最近の2つの「傾向」を指摘しています。

2つの傾向とは、「例外状態を通常の統治パラダイムとして用いるという傾向」と「人々の意識のなかに恐怖状態が拡散されている傾向」です。
そしてこう書いています。

「諸政府によって課される自由の制限はセキュリティへの欲望の名において受け容れられるが、当の諸政府こそがセキュリティへの欲望を駆り立て、その欲望を充たすべくいまや介入をおこなう」。

緊急事態宣言に関して、多くの人がもっと早く出すべきだったというようになり、野党さえもがそういう主張をするのを見ていると、アガンベンの指摘にうなづかざるを得ません。

日本には野党というような存在はほとんどありませんが(二大政党制度とは野党を追い出す仕組みですから)、それでもまさか政府に緊急事態宣言をせかせるとは思ってもいませんでした。しかし、それ以上の驚きは、国民の多くがこんなに簡単に自らの人生を政府に預けてしまったことです。
日本はまさに家畜国家になってしまったとしか思えません。
何のための人生か。さびしい限りです。

そんなわけで、最近はいろんな人に八つ当たりしています。まるで「あおり運転」しているようだと気づいて反省しています。迷惑を受けた人には謝ります。

ところで、アガンベンはこうも書いています。

「最近の措置は事実上、それぞれの個人を潜在的なペスト塗りへと変容させている。これはちょうど、テロに対する措置が、事実上も権利上も全市民を潜在的なテロリストと見なしていたのと同じである」。

そしてこうも言っています。

「この措置のうちに暗に含まれている自由の制限よりも悲しいのは、この措置によって人間関係の零落が生み出されうるということである。それが誰であろうと、大切な人であろうとも、その人には近づいても触ってもならず、その人と私たちのあいだには距離を置かなければならない」。

 

もう「生きている人間」の時代は終わったのでしょうか。
生きていれば、病気にもかかり、事故にも合う。
昨年話題になったアレッサンドロ・マンゾーニの「いいなずけ」を1年遅れで読んでみようと思います。

 

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2021/01/18

■疫病とも共生しようという文化

With コロナ」といった言い方もありますが、COVID-19との付き合い方はますます「戦闘」的になっているような気がします。それはとりもなおさず、社会に不安や怒りを広げ、「戦争」気分を高めることにつながっているような気がします。
いまや「ヘイト」の刃は、自らにまで向けられ始めているようにも思います。

昨年夏に出版された岩波新書の「コロナ後の世界を生きる」を最近になって読みました。
この時代を生きるたくさんの示唆が込められていて、たくさんのことに気づかせてもらいましたが、これまでの私の生き方を改めて肯定してもらったような気がして、少し疎外感が消えました。

そのなかで、ヤマザキマリさんが疫病に対する日本と西欧との違いを書いています。
ヤマザキさんによれば、「パンデミックを巨大な鎌を振り上げる恐ろしい骸骨の姿に置換えて気構える」キリスト教世界のヨーロッパと違って、日本には疫病とも共生しようという文化があったというようなことを書いています。

その例として、平安時代後期に描かれた融通念仏縁起を紹介しています。
ヤマザキさんは、「妖怪のような姿で描かれた疫病が念仏を唱える寺院の門に押し掛けているという情景が描かれている。彼らは門番から念仏を唱えている人の名簿を渡され、そこに名前が記されている人には悪さはしないとサインをして立ち去っていくのであると説明しています。
そして、「ウイルスとのなるようにしかならない共生という考えが、もしもこうした非常時の対策を考案する人々の意識下にあるのだとわかれば、国民も不安感や不平不満をため込むかわりに、自分で自分の命を守る判断力を強く持つことができるようになるのではないか」と書いています。

融通念仏縁起の絵は紹介されていなかったので、もしかしたらと思い、リフォームで倉庫状況にある書庫から「妖怪草子」を探し出しました。
そこに、たぶんヤマザキさんが紹介している絵が出てきました。
それにしても、疫病は多彩な姿をしています。
いま毎日のようにテレビで見せつけられているCOVID-19の姿とは大違いです。
話しかけたくなる表情の疫病もいます。
こうしたウイルスを見る能力も、現代の私たちは失ってしまったのかもしれません。

ヤマザキさんはこう書いています。

「融通念仏絵巻の門番に説得され、納得して退散していく物分かりの良い疫病は、自然現象との共生を諭す日本的な表現だと言えるかもしれない」。

とても共感できるのですが、残念ながら今の日本の、少なくとも都会には、こうした文化は消えてしまったようです。
私は、念仏は唱えていませんが、初詣にも行きましたし、COVID-19とも仲良くしたいといつも表明していますので、COVID-19も「悪さをしない名簿」に名前が書かれていると思います。

もしそれでも「呼ばれたら」行かないわけにはいかないでしょう。そういう人生を送りたいと思っているので、自分だけ逃げきろうなどとは一切思ってはいません。

ヤマザキさんは、この絵を見ていたら、「国民も不安感や不平不満をため込むかわりに、自分で自分の命を守る判断力を強く持つことができるようになるのではないか」と書いていますが、そうあってほしいものです。

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2021/01/14

■疑いのまなざし

COVID-19感染症に関して、私が一番気になるのは、「疑いのまなざし」を広げていることです。

私はマスクをすることに抵抗があるのですが、それは自分も感染しているということも含めて、「他者は感染しているのではないか」という疑いを前提にしているからです。
感染を拡大させないために、常に感染の可能性を踏まえて行動するのがいいとは思う一方、そういう生活を続けていると、他者を疑うことが基本的な他者を見るまなざしになってしまうのではないかという不安があるのです。

私は、基本的に「他者を信頼する」という生き方をずっと続けています。
そういう生き方をしてきた者にとっては、これは生理的に耐え難いことなのです。
しかし昨今の状況では、マスクをしないで電車に乗ったりお店に行ったりするわけにはいきません。いまやそれが社会のルールになってきていますし、なによりもそれがおかしいわけではないからです。

しかし、やはりマスクをすることにはストレスを感じます。
周りへの、あるいは自分への「不信」を表明しているような気がしてしまうからです。
加えて、マスクをすることで、何やら「安心」してしまうことにも違和感があります。

私は自宅や湯島の私のオフィスではマスクはしません。
まったく知らない人と会うことはほとんどありませんので、会うのはほとんどが友人や知人です。友人や知人に「疑いのまなざし」を持つことは、私にはできません。
それに感染させる可能性を持っている人は、会いには来ないと信じています。
私もそういうときは外出はしません。それは今に始まったことではありません。
しかし、相手はどう思っているでしょうか。マスクをしないことは昨今にあっては相手に失礼なのかもしれません。実に悩ましいのです。

そんなわけで、最近は次第にマスクをすることが増えてきました。
それはとりもなおさず、あなたや自分を信頼していませんというメッセージなのだと思うと、やはり気が重い。

ソーシャル・ディスタンスにも居心地の悪さを感じます。
私は感染したくないので、あなたとは近づきたくないというメッセージですから。
もちろんあなたに感染させたくないからという意味合いもありますが、もし相手に感染させる恐れがあるのなら、そもそも会わなければいい。
自分では気づいていなくても、その可能性はあるのだからと説明されても、すっきりしません。
ソーシャル・ディスタンスのマナーも、知らず知らずに、人の心に「疑いのまなざし」を植え付けていくのではないか。

しかし、ソーシャル・ディスタンスに関して、逆の受け止めをする人もいます。
たとえば、ロバート・キャンベルさんは、「ソーシャル・ディスタンスは、社会の中の自分自身の位置づけを知る、自分の居場所から他者との関係を見つめ直すことだとも捉えたい」と言います。そして、「それぞれが、その人に合った適切なソーシャル・ディスタンスを保持しつつ、他者の喜びや痛みをフェイクではなく確かな事実として理解するような連帯感に溢れた社会、そういう未来を是非迎えたい」と言うのです。

人の考えや感じ方はさまざまです。
ですから、マスクやソーシャル・ディスタンスが一概に「疑いのまなざし」を生み出していくと考える必要はないかもしれません。

しかし、私にはどうしても、マスクとソーシャル・ディスタンスには居心地の悪さが残ります。
それがどんな社会を育てていくのか。
気になって仕方がありません。
疑いのまなざしが、世界を覆い尽さねばいいのですが。

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2021/01/13

■COVID-19ウイルスとの付き合い方をまったく間違えているのではないか

日本医師会の中川会長の記者会見をテレビで観ていたら、途中にニュース速報で東京都の感染者数が発表されました。1433人でした。3日前の検査日数は2684人と非常に少なかったので、推定陽性率は50%を超えていそうです。ちょっと驚く数字です。
その受け止め方はいろいろとあるでしょうが、コロナ不安で世の中はいささか異様です。

そんな中で、こんなことを言うと不謹慎ですが、今日の陽射しは輝くほどのまぶしさと気持ちよさと輝きです。温度は低いのですが、あまりに気持ちのいい陽射しなので、ついついそこに浸ってしまっていました。
空の青さもとてもきれいで、久しぶりに吸い込まれそうな透明な青さです。

202101131 20210132 新型コロナ感染防止の呼びかけに応じての、人間の行動、とりわけ経済活動が縮小しているおかげだろうと思いますが、この青空と陽光の輝きを見ると、不謹慎ですが、とても幸せな気持ちになります。
コロナ騒ぎにおびえている世間とどうもつながりません。

今日また7府県の緊急事態宣言が出ましたし、日本医師会の中川会長の呼びかけも、緊迫感のあるものでした。
私自身は別の意味で、強い危機感を持っています。
私からすれば、世の中の多くの人は新型コロナしか恐れていないようで、いかにも能天気に思えてなりませんが、もっと大きな深い危機が迫っているような気もします。

4時を過ぎたら、陽射しが一挙に弱まりました。
自然のすごさを思い知らされます。

こうして自然を感じていると、私たちは、COVID-19ウイルスに対して、捉え方をまったく間違えているのではないかという気がしてなりません。

 

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2021/01/07

■「生命か経済か」ということの意味

今日は東京の新規感染者が2447人と発表されました。
緊急事態宣言も今日出されるようです。
テレビを見ていると、コロナ不安に吸い込まれそうです。
在宅時間が増えて、テレビのコメンテーターや「専門家」からの「煽り」を受け続けていると、おかしくなってしまうのもよくわかります。
年明けに読んだ佐藤卓己さんの『メディア論の名著30』を読んだこともあって、メディアに対する対抗力はそれなりに持っているつもりですが、注意しないと絡めとられてしまいそうです。

そんな中、湯島でのサロンの案内を出しているわけですが、娘からはやめたほうがいいと言われています。
実は明日は、私は病院でMRI検査なのですが、サロンをやめるよりもこの検査をやめたほうが医療界への負担を減らせるのでいいのではないかと娘に提案しましたが、拒否されました。というわけで、明日は朝から病院です。きっと空いているでしょうが。

サロンは予定通りやるのかという問い合わせは幸いにほとんどなくなりましたが、みんなどうもまだ「判断は他人任せ」です。緊急事態宣言への抵抗感がないのがとても不安です。
現在の日本はまだ「個人の判断」が尊重される社会だと思っていましたが、実際にはどうもそうではなく、ルールがないと判断できない人の群れになっているのかもしれません。

緊急事態というのであれば、まずは国民みんなが「稼ぎ仕事」をしなくても生活を維持できる仕組みづくりでなければいけません。稼ぎ仕事の持続が問題なのではなく、個人の生活の持続が問題なのではないのか。その視点が弱いのがとても寂しいです。

組織や事業を起点に考えるのではなく、個人の生活を起点に考えれば、発想は全く変わってきます。それに生活の維持が保証されれば、ほとんどの人は感染の危険性を最小化するように自分で判断するようになるでしょう。
国民が規範意識を持つべきだと、今もテレビで「識者」が発言していますが、大切なのは「安心感」ではないでしょうか。
危機感や不安感や緊張感ではなく、安心と信頼を高めることが大切と思いますが、どうも最近は、安心と信頼とは真逆な呼びかけが社会を覆っていて、残念です。

私には、コロナよりも大雪のほうが心配です。
昨日も新潟の友人が、雪で屋根がつぶれても大丈夫のように、家の中に「シェルター」を作るようにしていると電話がありました。
こんな状況の中で株価は値上がりしているそうですが、経済と生活の関係にみんなそろそろ気づいても良さそうなのですが。

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2021/01/03

■改めて「地産地消と地消地産」

最近、時評ブログをあまり書いていないのですが、昨夜、久しぶりにコメントが書かれていました。
2008年610日の記事「地産地消と地消地産」です。コメントしてくれたのは、スマート・テロワールに取り組んでいる安江さんです。
その問いかけに応えるために、私も記事を読み返しました。

昨年、斎藤幸平さんの「大洪水の前に」という本を読みました。
斎藤さんは、「人新世の資本論」という本で話題になりましたが、マルクスを読み直している人です。湯島でも「人新世の資本論」を題材にしたサロンをやりました。
その書名に違和感があり、私は読んでいませんでしたが、「大洪水の前に」は読んでいました。それによれば、マルクスは、資本主義経済が自然を攪乱していることをとても危惧していたそうです。私は生半可の知識でマルクス嫌いでしたが、マルクスがそう考えていたことを知って、ほっとしました。

それはともかく、私は自然に支えられてこそ、人の生活は豊かになると考えています。ですから基本は自然に恵みを素直に生かすことであり、人の知恵や欲望だけで、自然を変えてはいけないと思っているのです。
それで「地消地産」という発想に違和感を持って記事を書いたようです。

「地消地産」は、「地域で消費するものは地域で生産しよう」ということですから、素直に賛成してもいいのですが、そこに「暴走の危険性」を感じてしまうのです。なにしろ人間の欲望は際限がないからです。
最近の「お金の餌付けされた」日本人をみていると、そう思わざるを得ないのです。
なにしろSDGsさえ、収益事業のネタにしてしまうのですから。

私が会社を辞めたのは、そういう企業の動きに違和感を持ったからです。
当時、これからの成長市場は「環境」と「福祉」だといわれていました。
それに抗いながら30年生きてきましたが、時代の流れは加速されこそすれ、変わりませんでした。

気が向いたら昔の私の記事をお読みください。
コメントももしよろしければ。

地産地消と地消地産: CWS private (cocolog-nifty.com)

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2020/11/22

■新型コロナウイルスへの感謝

新型コロナの第3波到来という報道がテレビをまた覆いだしました。
生活スタイルの指導はますます強まっています。
その一方で、お金をばらまいての旅行や外食が勧められています。
おかしな状況ですが、そうしたダブルバインドにも、みんな違和感を持ちながらも否定せずに従順に生きられるようになってきているようです。
矛盾したルールに従って生きるのが「大人」なのかもしれません。

私が住んでいる我孫子でも毎日感染者の発表がされていますが、昨日現在で130人でした。13万人の人口で130人ですから、どうでもいい話のような水準ですが、毎日、数名ずつ増えるデータに接していると、もしかしたら新型コロナウイルス感染症が自分にも及んでくるかもしれないという気にさせられます。

しかし冷静に考えれば、それはばかげた話です。
もっと現実性のあるリスクは、他にも山のようにあるはずですから。
むしろそのリスクが見えなくなっていることを恐れたほうがいいでしょう。

もっといやなのは、Go Toキャンペーンの話です。
これは「小銭持ちのお金持ち」優遇施策であることは間違いありません。
旅行やちょっと贅沢な外食とは縁遠い生活をしている人にとっては、たぶん腹立たしい話でしょう。
キャンペーンでこんなに節約できたなどという話を聞かされると私の場合は蹴飛ばしたくなるほどの違和感をもってしまいます。
しかし、そうした話に接していると、何やらキャンペーンを利用しないと損をしたような気になってきて、利用したくなってくる。自らの弱さというか、いやしさを思い知らされて、ますますいやな気分になってしまうのです。

コロナのおかげで、自分のいやしさに思い知らされています。
これで少しは私の性格もよくなればいいのですが。

 

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2020/10/08

■信ずる者は報われる

コロナ禍もあって在宅時間が増えていますが、それに伴い、テレビを観る時間が増えました。当初はコロナ関連もあってニュース番組や報道番組、あるいはドキュメンタリーをよく観ていましたが、8月頃からその種の番組はほとんど観なくなりました。送られてくるメッセージが画一的で、なにやら洗脳番組のような気がしてきたからです。

代わりに増えたのが、昔のテレビドラマです。
多かったのが事件もののドラマですが、こんなにたくさんのものがあったのかと改めて認識を新たにしました。
しかし、そこで扱われている事件の多くは、やむにやまれず起こした事件が多く、犯人、つまり加害者に同情したくなるものが多かったです。こういう番組を観て育った人が多いはずなのに、どうして最近の犯罪加害者は、やむにやまれぬどころか、やらなくてもいい犯罪を犯してしまうのでしょうか。テレビに洗脳されるのは私くらいなのでしょうか。困ったものです。

いま一番気に入っているのは、「浅草ふくまる旅館」シリーズです。
https://www.bs-tbs.co.jp/drama/DRT1100400/

2007年に放映されたものの再放送です。
義理人情に篤く、人を信じやすく、他人の世話をやく事で知られるふくまる旅館の3代目主人福丸大吉の物語です。
福丸大吉役は西田敏行さん。番頭役が渡辺いっけいさん。いずれも私の好きな俳優です。

ともかく観ていて気持ちがあったかくなります。
そして、こういう社会で生きたいなあと痛感します。
私の生き方もまんざらではなかったと思いつつ、しかしまずは福丸大吉さんの生き方に、少しでも近づきたいと思って、毎日観ています。
近づけるといいのですが。

 

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2020/09/18

■貶(けな)し合う社会から支え合う社会へ

STAP細胞と小保方晴子さんの「事件」にかかわる、ある人のネット記事をシェアさせてもらったおかげで、さまざまな人からコメントやアドバイスをもらいました。
https://www.facebook.com/cwsosamu/posts/10208037474490549

そのコメントの一部は、STAP細胞の存在の是非を問うものであり、私がシェアした記事は「デマ情報」に基づくものだというものもありました。また具体的な問題を指摘し、この記事の拡散は注意した方がいいというアドバイスもありました。
みなさんのご好意に感謝する一方で、戦前の日本もこうだったのだろうなとふと思いました。
まあ、それは仕方ないとして、どうも私の思いは伝わっていないなと改めて思いました。そこで、特に、情報に関する私の考えを少し書いておきたくなりました。

どんな情報にも「嘘」と「真実」が含まれているというのが私の考えです。
いわゆる「デマ情報」や「フェイクニュース」にも、です。
言い換えれば、すべての情報はデマであり、フェイクとも言えます。
逆に絶対の真理と言える情報などありません。
「1+1=2」とか「人は必ず死ぬ」というのは絶対的な真理ではないかという人がいますが、そんなことはありません。
「1+1=2」は、ある前提での思考体系のなかでの「仮定」でしかありませんし、実際に私は1+1が0になったり、5になったりする事実を体験しています。あるいは人は必ず死ぬというのも、いまの世界の中での話であり、死ななかった時代があったり、あるいはこれから人は死ななくなったりするかもしれません。いや、いまでもどこかに死なないで生きている古代人がいるかもしれませんし、もしかしたら私は未来永劫死なないかもしれません。

まあこんなことを言うと、馬鹿にされると思います。事実、以前、我孫子のクリーンセンターに協力してもらい放射能汚染された土壌の処理実験をしたことがありますが、そこで質量保存の法則に反する結果が出たため参加者のほとんどは納得しませんでした。結果を肯定的に受け止めたのは、私とその実験者(重水素水の専門家)、そしてもう一人松戸在住の人だけでした。そのおかげで、私は実験参加者の行政の人や市議会議員の信頼をかなりそこなってしまいました。しかし、どんな命題も明白な否定根拠がない限り、否定しないのが私の姿勢です。だから、来世や前世も否定しないでいるのです。

話がそれてしまいましたが、STAP細胞の話です。
私自身は、生物学にはあまり知識がないので、STAP細胞とは何かさえ理解していませんし、ましてや小保方さんがどういう経緯で、それを発見し、その存在を証明したか、その方法が適切だったのかどうか、さらに、どういう経緯でそれが否定され、どう処理されたかなどに関しても理解できていません。
新聞や雑誌情報、あるいはネット情報に書かれているのはかなり読みましたが、いろんな議論があり、私にはあまり評価能力がないので、よくわからず判断ができませんでした。

ただ言えるのは、そのいずれにも嘘もあれば真実もあるということです。
ですから、その情報の個々の真偽にはあまり興味はないのです。
しかし、一連の事件からのメッセージは私自身の生活につながっていると思うので関心は高いのです。

それに、どんな情報も、「デマ情報」という言葉で一括りに否定するのは私の信条には合いません。情報や人を「カテゴライズ」して、そのなかにあるメッセージを読み取るのがデジタル化時代の文化かもしれませんが、私にはまったく馴染めません。どんな情報にも嘘もあれば真実もある。要は、その情報から何を読み取り、自分の生き方につなげていくかが大切だと思っているのです。つまり「自分の問題」なのです。

話が長くなってきてしまいました。
一挙に私の思いに行けば、小保方さんのSTAP細胞発見発言には問題はいろいろとあったのでしょうが、まったく嘘ばかりだったのか。そこになにか新しい価値はなかったのか。もし問題があれば、なぜみんなでその問題を肯定的に補い合い、活かそうとしなかったのか。活かそうにも活かすものが全くなかったのか。そう思うのです。

私たちは、「貶(けな)すこと」や「非難」は得意ですが、支援し補う発言をする人はあまりいません。最近よく使われるようになった「支え合い」は、言葉の広がりの割には、まだまだ実践にはたどり着いてはいない。

貶(けな)し合う社会から支え合う社会へ。
そのことを小保方さんの事件から私は学びたいと思うのです。
ちなみに、貶(けな)すとは貶(おとし)めることです。念のため。

繰り返しますが、情報はそれに呪縛されるものではなく、そこから何を学び自らの行動につなげていくかが大切です。その際、情報の真偽のほどはあまり重要ではありません。
どんな情報からも学べるし、学ばないこともできます。
情報の真偽の議論ももちろん大切ですが、そこで終わっては何も変わらない。情報そのものに意味があるのではなく、その情報から何を学び何に気づくのかに意味がある。

私自身は昨今の状況は「非情報化社会」と位置づけていますので、情報の呪縛から自由になろうと心がけています。

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2020/09/14

■インベージョンの恐怖ー生きるべきか死ぬべきか

相変わらず新型コロナが話題になっています。

私にはとうの昔に終わった話なのですが、いまでもマスク着用がニューマナーだそうですし、マスクを拒否した乗客のおかげで飛行機が途中で緊急着陸したり出発が遅れたりしたりという話がつづいています。
政府は相変わらずコロナ対策を前面に出して「最優先課題」化し、国民を管理していますし、国民のほとんどもそれに便乗して、生きるのを放棄しつつあるように思います。

コロナ感染者数は発表されても、その実体はなかなか発表されません。
私が住んでいる我孫子でも、感染者数の累計と新規感染者数は発表されますが、その内容やその後の経緯などが発表されるようになったのは先週からです。
現在の入院者数は2人だそうですが、その程度がわかる内容発表です。

私が今回の新型コロナウイルスに一番注意していたのは2月から3月ですが、その後、次第に新型ウイルスのことがわかってきたので、いまではインフルエンザ程度の注意にしています。という意味は、罹ったら諦めるという程度の心配です。

しかし半年以上も、コロナ対策が最優先課題になってしまい、経済も教育も文化も、そして生活も、コロナ対策基準で制約され続けて、それが「新しい生活」などという風潮がこうまで広がってしまうとは思ってもいませんでした。
気がついてみたら、私もまたマスクを着用することが増えてきました。

幸いに湯島のサロンに集まる人たちは、さほどマスクを気にしません。
だからといって、感染に無頓着であるとも思えません。
「感染予防」問題と「マスク着用」問題とを分けて考えているだけの話です。

映画「インベージョン」を思い出します。
エイリアンの侵略を描いたSF小説を映画化した何度目かの作品ですが、今回のエイリアンはウイルスで、人体に感染し、人間の精神だけを変えていくという物語です。
一見見分けにくいのですが、感情が現れにくくなるのです。
なんだかマスクをしている人を見ると、その映画のエイリアン感染者のように思えてしまいます。

飛行機で暴れたというマスク拒否者に、いささかの共感を感ずるのは、そのせいでしょうか。その人は、エイリアンに囲まれたような恐怖感を持ったのかもしれません。
私も時々、そういう幻想に襲われることがあります。
これほど簡単に行動変容してしまうのは、エイリアン化が進んでいるに違いない。

人間はもうじき滅んでしまうと思っていましたが、すでにもうみんなエイリアンになってしまったのかもしれません。
最近どうも元気が出ないのは、そのせいなのではないか。
人間は、他者から幸せをもらって元気になる生き物だと私は思っていますが、他者がみんなエイリアンに乗っ取られてしまい、幸せがもらえなくなっているのかもしれません。
湯島のサロンに来る人たちは、まだ人間のような気がしますが、気は許せなくなりました。

「インベージョン」のエイリアンに乗っ取られた人が言うように、「お前もこちらに来れば幸せになれる」という誘いに乗った方がいいでしょうか。
ハムレットのように、迷うところです。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」
「生きる」とはいったいなんでしょうか。

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