カテゴリー「社会時評」の記事

2019/12/29

■東尋坊からのお餅に込められたメッセージ

東尋坊で見回り活動をしている茂さんたちから、今年も「お餅」が送られてきました。
年末に、毎年、茂さんや川越さんたちが東尋坊で遭遇した自殺を思いとどまった人たちと一緒に、心を込めてつき、みんなで丸めたお餅です。
茂さんがいつも言っているように、「形は不揃いでも、味は何処のお店屋さんにも負けない絶品」です。

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茂さんたちの見回り活動は、もう16年近くになりますが、これまで672人の人を思いとどまらせてきています。
今年も32人の人に出会い、全員が見事に再出発を果たしているそうです。
私は、その活動が始まったころに、ささやかに応援させてもらった関係で、こうして今もお餅が毎年届くのです。

お餅と一緒に、「東尋坊の見守り人形 人生標語集」という小冊子が送られてきました。

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聞いた人が元気になるような、「短い力強い言葉」に、茂さんたちの活動を支援している仙台在住の「じぞうもじ書家」後藤夕深さんが「じぞうもじ」を添えた、心があったかくなる小冊子です。

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茂さんや川越さんのあったかい心が伝わってきます。
川越さんたちが一針一針手縫いした「見守りお地蔵さま人形」とこの小冊子を遭遇した人たちに渡しているそうです。

お餅に添えられていた手紙に、茂さんはこう書いています。

私たちの活動は、今までは「水際対策」に重点を置いてきましたが、来年からは「上流対策」(東尋坊での自殺者の8割は県外者です)に、もっと目を向け「これ以上、東尋坊に自殺企図者を送りこまないで下さい…!」と訴える活動にも力を入れていきたいと思っています。

以前からお聞きしていた茂さんの次の目標の一つです。
しばらく茂さんの活動に関わらずにいましたが、来年はこの茂さんの思いの実現に何かできることはないかを考えたいと思います。

一緒にやろうという方がいたらご連絡ください。
日本の自殺者は減少しているという統計もありますが、少なくとも私の周辺では減っているという実感は得られません。
私にも誰にでも、できることは必ずあるはずですので。

 

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2019/12/19

■不登校や引きこもり体験者と話して思ったこと

昨日、ブログの「挽歌編」に書いたのですが、むしろ「時評編」の内容だなと気づき、その一部をリライトして、時評編にも載せることにしました。

湯島では、私の主催ではない集まりがいくつかあります。
たとえばほっとスマイルプロジェクトという世界に笑顔を広げていこうという集まり。ちょっと霊的な要素が入っている地上の楽園を目指す集まりなどです。
そうしたものの一つに、引きこもり体験者などを中心とする集まりがあります。
これはオープンハートを主宰する阿部さんがやっています。
以前から私にも声がかかっていたのですが、なかなか参加できずに、昨日、初めて参加しました。
わたしを入れて、6人ほどの集まりでした。
かつて引きこもっていたり不登校だったりしていた人です。
それもかなり長期にわたってです。
不登校や引きこもりに、なぜか多くの人はコンプレックスを持っています。
世間も、それがおかしいと考えています。
私自身も、かつてはそうでした。
しかし、不登校や引きこもりにコンプレックスを持つ必要などあるはずもありません。
問題は、コンプレックスや罪悪感を持ってしまうことから始まります。
はじめてなので、それぞれにどんな人かをお聞きしました。
ちなみに、私のことはたぶん阿部さんからみんなには伝わっているようです。
「いまは働いていない」と言った人がいました。
そこで、「稼いでいないだけではないですか」と問い返し、生きている以上、働いていない人はいないと言付け加えました。
人は、そこに存在するだけで必ず誰かの役に立っています。
もちろん誰かに迷惑をかけているともいえるのですが。
役に立つことと迷惑をかけることは、私には同じことのように思えます。
稼いでいないと価値がないと考えるようになったのは、いつのころからでしょうか。
私が、そのことのおかしさに気づいたのは3年ほど前ですが、その呪縛から解き放たれると生きやすくなります。
同じように、学校に行かなければいけないという思いからも自由になるのがいい。
「学校だけが学びの場」ではありません。
いや学校こそが学びをワクワクさせない場所になってしまっています。
学びはわくわくする面白いものでなければいけません。
学校に行きたくないのは自分をしっかりと生きているからだともいえます。
私は子ども時代、あまりしっかりしていなかったので学校には行きました。
学校に行かないことができるということに気づいたことがないのです。
ただ高校時代には学校が嫌いでしたので、不登校ではありませんでしたが、嫌いな授業はさぼって図書室で本を読んだりしていました。
いまの子どもたちには、学校と家庭しかないと思わせているところに問題があります。
ちなみに塾や学童保育の場は、もう一つの学びの場ですが、いずれも大人たちに管理されている場であることには変わりはありません。
子どもたちが自分たちの場が作れないところに問題を感じます。
ネットのようなバーチャルな場は、私には別の世界のように思えます。
みんなと話していて、やはり社会そのもののおかしさを改めて感じます。
ここに集まっている人たちのエネルギーや思いを束ねたら、みんな生き生きしてくるでしょう。
いつもこういう人たちと話していると思うことです。
いろいろなことを気づかせてもらいました。
不登校や引きこもりを体験した人たちの素直さにはいつも感心しますが、いろんな世界に触れてこなかったが故の視野の狭さも感じます。
現在のさまざまな対策や相談に取り組む活動には、やはりどうしても共感できません。
基本的な捉え方が、すでに間違っているように思えてなりません。
やはりだれをも区別(差別)しない、サロンを続けることが大切だと改めて思いました。

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2019/12/17

■熊沢さん家族に教えられたこと

元農水省事務次官の熊沢英昭さんが自宅で44歳の長男を殺害した事件の裁判はたくさんのことを考えさせてくれました。
同時にしかし、これほど気の重くなる事件もありません。

判決は実刑6年でした。
これをとやかく言う気にはなれませんが、関係者はみんな不幸だったと思います。
とても悲しくてさびしくて、やり切れません。
せめてテレビではいじくりまわしてほしくないと思いますが、いじくりまわしやすい事件なのでしょう。
しかも誰もが、身近に感じられる事件とも言えるでしょう。
だからみんな生々しい意見を持ってしまうのです。

この事件や判決へのコメントを聞いていると、発言者のこれまでの人生やいまの生活が垣間見える気がします。
そしてみんな同じように悲しくさびしく生きているような気がしてなりません。
この事件は、人の生き方を問いかけているのです。
もちろん私も問われている一人です。

愛する人に殺されるのと愛する人を殺すのとどちらがつらいでしょうか。
もちろん後者でしょう。
しかし、愛する人に殺させないために殺すという論理も成り立ちます。
ですから、この問いはまったく意味をなさない気もします。

殺すのも殺されるのも同じことなのであれば、怒りの持って行き場はありません。
でもちょっとだけ世界を広げれば、事態の見え方は一変します。
一番の問題は、熊沢家族が閉じられた小さな世界に生きていたことかもしれません。
もう少し広い世界に思いを馳せられれば、事態は変わったかもしれません。

私たちは現在、情報化のおかげで、一見、広い世界に生きているように思いがちです。
しかし、実際にはとてもとても小さな世界に生きているのではないか。
今回の事件と裁判は、私にそんなことを改めて気づかせてくれました。

テレビでは、事務次官まで勤め上げた人が、と言われることがありますが、たぶん事務次官まで勤め上げた人だからこその世界の狭さ、知性の欠如だったのかもしれません。

学校で学べば学ぶほど、世界は狭くなる。
それが私のこの数十年の体験からの結論です。
いまの教育は「知性」や思考力を奪う仕組みではないか。
そんな気がしてなりません。

熊沢さん家族から教えてもらったことを、少しでも活かしていければと思います。
やはり湯島のサロンは、趣旨が理解されなくても続けようと思います。

熊沢さんにとって、実刑だろうと執行猶予だろうと、たぶん瑣末の話でしょう。
むしろ熊沢さんと奥さんが、自らの生命を断つことが心配です。
熊沢英昭さんはじめ、熊沢さん家族の心の平安がおとずれることを深く祈ります。
私はおふたりには面識はありませんが、どなたかがきっと支えてくれることを信じています。

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2019/12/15

■今年の漢字は「怒」でしょう

先日、今年の漢字が発表されました。
「令」でした。
社会の風潮を示しています。
それはそれとして、今年を漢字一文字で表すとすれば、私は「怒」です。
今年ほど、「怒」を感じた年はありません。
いささか感情的ですが、怒の矛先はすべてに向かっています。
もちろん自分にも、です。

怒りが行動を引き起こすとよく言われますが、高齢になると、怒りは行動ではなく、心筋梗塞や体調不良を起こします。
困ったものですが。

今年の漢字が「令」になったことを知って、「怒」は「諦」に転じました。

相変わらず「お上」の命令に従って生きることを選んでいるのです。

「諦め」は行動には通じませんが、心身の健康にはよさそうです。
健康に年を超せそうです。
いささか落ち込んではいますが。

 

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2019/12/04

■嘘を前提にして議論する社会

国会では相変わらず「桜を見る会」での与野党のやり取りが続いています。
テレビでもその関連の話が話題になっています。
私がこの問題で驚いているのは、官邸や与党の反応ではありません。
みんなが「嘘」を前提に思考し議論していることです。

これは最近の風潮ですが、こうしたことが繰り返されると「嘘」という概念さえなくなっていくのではないかと気になります。
いやもうなくなってしまっているのかもしれません。
最初にこうした風潮をつくった小泉政権からもうかなり経ちますから。

「桜を見る会」問題での嘘は、たとえば、参加者名簿がないという嘘です。
本当にないと思っている人がいるのでしょうか。
手書きで名簿をつくる時代ならともかく、パソコンでデータ作成する時代に、プリントアウトした名簿をシュレッダーにかけることで名簿はなくなりません。
万一すべてのパソコンのデータを消去しても、復元は可能でしょう。
そういう時代に、相変わらず、紙媒体の名簿を廃棄したことで、名簿がないなどと騒いでいることの滑稽さをだれも指摘しない。
しかもつい最近、同じようなことを体験しているはずなのに。
アンデルセン童話の「裸の王様」を思い出します。

嘘を認めての野党の追及は時間の無駄でしかありません。
テレビのキャスターやコメンテーターもみんな、嘘の上に構築された問題の上で、政権に忖度しながら発言しています。
一人くらい「王様は裸だ!」と素直に発言する人はいないものでしょうか。
ばかげた国会論争やテレビ報道はやめてもらいたいものです。

「私人」と言われている首相夫人が招待者になっていることについてさえ、「私物化したと思われても仕方がない」などとバカなコメントをしています。
なんでもっと端的に「私物化だと思う」と言えないのか。
それはその人が多分テレビを「私物化」しているからでしょう。

腐ったリンゴはどんどん広がります。
私もまた腐っていくのは避けようがないのでしょう。
困ったものです。

 

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2019/11/12

■「守る」ことは大切ですが、そこからは何も生まれてきません

私が住んでいる我孫子市はいま市議選の最中です。
昨日、帰宅時に我孫子駅でNHKから国民を守る党が選挙運動をやっていました。
黄色いジャンパーを着た若者たちがチラシを配っていました。

私はアニメの「ミニオン」が大好きで、黄色い服を着た集団が好きだったのですが、昨日から黄色い服を着た集団が嫌いになりました。
駅から自宅への道々、なんだか悲しい気分になり、暗い夜を過ごしました。
どうしてこんなかわいそうな若者たちが増えているのでしょうか。
香港の若者のように、ビジョンを持って立ち向かえないのか。
若者たちがもはや主体性を持たなくなってしまった時代になってしまったのだろうか。

N国党が目指しているのは国民からNHKを守ることではないかと私は思っていますが、なにやら「自民党をぶっ潰す」といって自民党を守った小泉さんを思い出します。
小泉政権から日本は奈落の底へと向かいだしていると思っている私は、こういう動きがますます広がることの先を思うと暗たんたる思いになります。

 これから「朝日新聞から国民を守る党」や「共産党から国民を守る党」など、「〇〇から国民を守る党」といった群れが増えてくのでしょうか。
そのうち、「先生から子どもたちを守る党」とか「親から子どもを守る党」も出てくるかもしれません。

「守る」ことは大切ですが、そこからは何も生まれてきません。
そして「守る」姿勢で生きている先にあるのは、守れなかった世界しかないでしょう。
まさに「茶色の朝」がやってくる。
そう思うと黄色も茶色も似ています。

「NHKから国民を守る党から国民を守る党」をつくらないといけないのかもしれませんが、それではミイラ取りがミイラになってしまい、もはや流れは変えられなくなる。
知性がどんどん失われていく世界に生きていると、やはり人類は退化局面に入ったとしか思えません。
今西錦司さんやミシェル・フーコーのことばを思い出さずにはいられません。

12月の「茶色の朝」シリーズのサロン(BMSサロン)は22日(日曜日)を予定しています。
また案内させていただきます。
社会を黄色、いや茶色一色にしないように、忙しい人にはぜひ参加してほしいです。

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2019/11/05

■「怒らなくなったら人間は堕落します」

松原泰道さんが参加したフォーラムの進行役を務めさせてもらったことがあります。
もう15年以上前の話です。

「腹が立たなかったら人間は堕落します」とは、その松原さんのことばです。
その話をされる時、松原さんは白隠禅師の有名なエピソードを紹介します。

いつもにこにこしている白隠禅師に、ある人が「腹が立つことはないのですか」と訊いたそうです。そうしたら、「人形じゃないから腹は立つよ」と白隠禅師は答え、そしてつづけたそうです。「腹は立つけど怒らんだけだ」と。

そして、松原さんはこういうのです。

「腹が立たなかったら人間は堕落する。たとえば社会の悪に対しては義憤を感じなかったら社会は堕落するでしょう。ただ、そのときに感情のままにキレて怒ってしまうか、あるいは教え諭すべきか、それを考えることが大事だ」と。
これは、松原さんと五木寛之さんの対談に出ている話です。

オリンピックのマラソンが札幌で行われることになりました。
だれかが怒らないのだろうかと思っていましたが、さすがにみんな大人なのか、怒りません。
小池都知事はかなり怒っていたような気もしますが、いささかショー的でした。

マラソン関係者は腹を立てているのがよくわかりました。
しかし結局はみんなものわかりがいいのにいささか失望しました。
そして、松原さんのこの話を思い出して、本を探しだして読み直してみました。

松原さんが否定しているのは、「キレて怒ってしまうこと」です。
しかも「社会の悪に対しては義憤を感じなかったら社会は堕落する」とも書いています。

そして改めて、社会は堕落に向かっているなと思いました。
腹を立てたら冷静に怒らなければいけません。
そうでないと人間は堕落し、社会も堕落する。

松原さんはもう亡くなっていますが、この文章は、「怒らなくなったら人間は堕落します」と直すべきではないかと思います。
松原さんも、いつもにこにこしている人だったように思います。
幸せな時代に、幸せな環境で生きていたのでしょう。

 

 

 

 

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2019/10/31

■「都合のいい現実」が作られる非情報化社会

「さんまの内臓はやはり私には向いていません」の話をフェイスブックにも書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2019/10/post-e352c5.html

そしたらいろんなコメントをもらいました。
それでまとめて、返信コメントを書きました。
ブログにも書いておきます。
もともとのコメントが書いていないので、わかりにくいかもしれませんが。

サンマの話に関して、いろんな人からコメントをもらいました。
みなさん、ありがとうございます。

私もサンマの不漁と高値はテレビで知っていました。
昨日、サンマを買った近くのスーパー(「カスミ」です)でも一時期は200円でした。
それも小ぶりでした。
その時も食べましたが、今週になって安くなりました。
私の考えでは、サンマの不漁と市場への出回りや価格とは、絶対的な関係はないのです。

私の懸念は、自分で実際に確認する前にテレビなどで知ってしまったことが「現実」に大きな影響を与えることです。
スーパーで、今年はサンマが高いと気づく前に、今年はサンマが高いと思い込んでしまうことです。
一度、テレビで情報をインプットされると、それに呪縛されて、現実が見えなくなることが少なくないのはないか。
そして誰かが意図した「都合のいい現実」を作り上げていってしまう。

サンマの例ではさほど問題は起きないでしょう。
でもそれが、原発の安全性だったり、原発の危険性だったりすると、どうでしょう。
あるいは自殺者が減ったとか増えたとかいう話はどうでしょう。
前川文部次官(当時)についてはどうでしょう。
もっと身近で言えば、5人に1人が認知症になるという言説はどうでしょう。

私は、自分で確かめられないことにはできるだけ疑問を持ち続けるようにしています。
だから二酸化炭素による地球温暖化も長く受け入れられませんでした。

前に書きましたが、放射能で汚染能で汚染された土壌の除染の実験をやった時、その結果に関して、質量不変の法則に反するから信じられないと参加者のほとんどから言われました。
私は、質量不変の法則も「絶対視」していませんので、その実験の結果に興味を持ちました。
そのために多くの人からは信頼を失ってしまったかもしれません。

サンマの話からやけに大きな話題になってしまいましたが、それが私の今回の関心事でした。
娘に訊いたら、今日は同じお店で、サンマは128円だったそうです。
サンマもキャベツも、高いときもあれば安い時もある。
それが経済です。

ところでhashidaさんが, 気仙沼が近い仙台なのに、東京の方が安いのは何故でしょうね、と書いていますが、そこに現在の経済システムの問題があるように思います。
気仙沼で遠洋漁業をやっている臼福本店の臼井壮太朗さんから前に聞いた話ですが、気仙沼で撮れる魚を地元の小学校で給食に使っていないのに違和感を持って、働きかけて給食で食べるようになったそうです。
その話を聞いて、私は一度しか会ったことのない臼井さんのファンになりました。

地産地消の出発点は、こどもたちにきちんと地のものを食べる文化を取り戻すことです。
一番良いものは、その地域を背負う子どもたちに食べてもらうべきで、赤坂の料亭に卸すような不埒なことは、たとえ金のため出世のため、あるいは地域活性化や地域のブランディングのためになろうとも、やってはいけません。

 

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■さんまの内臓はやはり私には向いていません

「チコちゃんに叱られる」を、見ている人は多いようです。
一昨日も、2人の人からあることを訊かれました。

サンマの内臓がおいしいのはなぜか知っていますか?
薬が苦いのはなぜか知っていますか?

私も、それを取り上げた「チコちゃんに叱られる」を見ていたので、知っていました。

 まあ、私がチコちゃんの答えに納得しているわけではありませんが、それはともかく、テレビの影響のすごさにはいつも驚きます。
それで急にサンマの内臓を食べたくなって(私は基本的に食べません)、昨日、娘たちと出かけていた帰りに、近くのスーパーで買ってきました。
今年は生サンマが不漁というテレビを見ていた人から、先週、生サンマが最近はスーパーにない上に高いという話を聴いていましたが、わが家の近くのスーパーでは例年のように98円で売っていました。
もちろん「生サンマ」です。
テレビ情報のほうが現実よりもみんなには影響を与えていることを、ここでも感じました。
私に生サンマが少ないという話をしてくれたのは男性で、たぶん自分ではスーパーに入っていないのでしょう。
彼の世界はテレビやネット情報で構築されているのです。

まさに私がかつて考えていた「非情報化革命」によって、みんな現実界から遠ざかられてしまったのです。
http://cws.c.ooco.jp/antiinfo.htm

ところで、サンマの内臓です。
私の結論はやはり「おいしくない」です。
娘も内臓は嫌いだそうですが、酒飲みではないからではないかというのが娘の意見でした。
これからも私はたぶんサンマの内臓は食べないでしょう。

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2019/10/23

■廃棄物の山の向うに見えること

同じ情景を見てもどうも、少し違う世界を見てしまうことがあります。
正確に言えば、見ている世界の向こうに見えてきてしまうことがある。

この頃、むしろその「向こうの世界」のほうが強く見えてしまうようになってしまいました。
困ったものです。
そうなると、被災者や被害者、あるいは当事者に、なかなか「寄り添う」ことができなくなってくる。
いや、そもそも「寄り添う」と一体何なのだろうかとわからなくなってくる。
昨日また「寄り添う」という言葉を何度か聞いていて、考えてしまいました。

たとえば、台風の被災者が出す廃棄物の山がテレビによく出てきます。
被災者は大変だなという思いと同時に、どうしてみんなこんなにいとも簡単に捨ててしまうのかという思いが出てきてしまう。

こんなことを言ったら、実際に被災した人にはとても「寄り添えない」し、みんなからもひんしゅくを買うでしょう。
そんなことを考えている暇があれば、現地に行って、かたづけを手伝えと言われそうです。

でも、廃棄物の山を見ていると、廃棄されたものたちの悲しさが伝わってきます。
もっと生かしてやれないものなのか。
いや、きちんと大事に使われていたのだろうか。

たとえば、水につかった畳の山がある。
乾かして燃やして畑に戻してやれないのか。
なんで水につかっただけで壊れてしまう家電製品を大量生産しているのか。
むかしの人もこんな感じで、物と付き合ってきたのか。

「断捨離」とか「捨てる技術」などということがはやっているようですが、私にはとても共感できる言葉ではありません。
「物との関係性」を大事にしない人は、たぶん「人との関係性」も大事にはしないでしょう。
それに気づけば、そう気安く、「断捨離」とか「捨てる技術」とか言えないのではないか。
前から書いているように、私はそろそろみんな「消費者」から卒業して「生活者」になっていく必要があるのではないかと思うのです。

廃棄物の山を見ていると、何とも情けない。
これでまた「経済成長」のタネが生まれたと思っている人の顔まで見えてきてしまう。
台風襲来の前にスーパーから食料がなくなった写真をアップしましたが、廃棄物の山は、それとつながっているような気がします。

生き方を問い直したいです。

 

 

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