カテゴリー「社会時評」の記事

2018/07/06

■改めて「魂の殺人」を紹介したくなりました

過労死家族の異論のある中で、働き方改革法が成立しました。この法制度がいい方向で機能していくことを願っています。
しかし、私には大きな違和感があります。
「働く」ことの意味が問われることがないまま、制度論だけが進んでいることに、です。

脱時間給制度(高度プロフェッショナル制度)に関しては、過労死につながるのではないかという意見もあります。
しかし、これに関しても、「過労死」がなぜ起こるのかの問い方に違和感があります。
子どもを過労死させた遺族の方の意見には共感しますが、その姿勢には違和感があります。

微妙な問題なので、また本意が伝わらずに批判されそうですが、問題の捉え方が、私には間違っているように思えてなりません。
実は、このことは当事者の方のことを思うとていねいに書かないと傷つけることになりかねないため、書くのをいつも躊躇してきました。
先日、ある人に会って、やはり書いておこうと決意しました。

もう25年ほど前のことですが、生活者と企業のパイプ役を担う日本ヒーブ協議会の周年事業のフォーラムに呼んでもらいました。
そこで、働き方の問題を提起させてもらったのですが、企業役員の女性の方(その方はたしか協議会の役員でもありました)から「女性は過労死するほど働くチャンスがない」という指摘を受けて、驚くというか、唖然としたことがあります。
以来、日本ヒーブ協議会とは縁を切りましたが、そう指摘した彼女は昨今の状況をどう思っているでしょうか。
すべては、私たちの自己呪縛から始まっている。
制度や法律だけでは、状況は変わらないのではないか。

かなり古い本ですが、アリス・ミラーという人の「魂の殺人」という本があります。
日本に紹介されたのはもう30年以上前ですが、最近、新装版(新曜社)が出版されました。
副題は「親は子供になにをしたか」。
著者は、親のしつけや教育にひそむ暴力性を容赦なくえぐり出した3部作で有名ですが、「魂の殺人」はその2作目です。
私は、この作品しか読んでいませんが、内容は極めて衝撃的です。

子ども時代の体験が大人になって社会的な問題を起こしていくというようなよくある精神分析の本のように思われるかもしれませんが、もっとラディカルな「反教育」「反しつけ」論が展開されています。
中途半端な紹介をするのはやめますが、いまの社会の問題の根源につながる示唆を得られると私は思っています。
そこから得られるメッセージは、「すべての問題の解決はまず自ら始めるしかない」ということで、それが私のこの30年の生き方になっています。
あんまり論理的な説明ではないので、伝わらないでしょうが。

著者はポーランド人です。
そのためか、なぜナチスの悲劇は起こったかに関しても、いたるところで、論究されています。
かつてのドイツ人の勤勉さと従順さが、それを可能にしたというのです。
それは、いまの日本社会の実状にもつながっていく話です。
そこから考え直さないと状況は変わらない。

若者の自殺や世代を超えたモラルハザードが広がっています。
湯島にもいろんな人が相談に来ますが、問題の解決策はそう難しくはありません。
誰かや何かのせいにしているだけでは、状況は変わらない。
まずは自らの呪縛を解いて、自らの生き方を変えていく。
教えられた「常識」を問い質していく。
そもそも過労死とか自死は、生命本来のものではないはずです。
生命体には、必ずホメオスタシスという生命維持機能があるのです。
それが素直に作動するようにすればいい。

話がまた広がり過ぎそうなのでやめますが、もしお時間があれば、「魂の殺人」を読んでみてください。
自分は、親として子どもになにをしたか、親から何をされたか。
子どもだけではなく、次の世代に何をしているか、あるいは前の世代から何を学んだか。
時に、自分の生き方を問い質すのも、辛いけれども必要かもしれません。

事例も多く、冗長で長いので、読みやすい本ではありませんが、新装版はたぶん改善されているでしょう。
もし読まれる場合は、ぜひとも最後まで読んでみてください。
途中はとばしてもいいですが。

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2018/06/24

■カフェサロン「柳兼子をご存知ですか?」報告

民藝運動を起こした柳宗悦の伴侶で、声楽家としても有名な柳兼子をテーマにしたサロンは、16人が参加しました。
話題提供者は、我孫子在住の海津にいなさん。
海津さんは30年ほど前に千葉県の我孫子に転居してきましたが、かつてそこに住んでいた白樺派の人たちの活動に関心を深め、今はどうやらすっかり柳兼子さんにほれ込んでしまっているようです。
数年前から、柳兼子を主人公にしたNHK朝ドラを実現したいと考えています。
今回のサロンも、そうした思いも会って、改めて柳兼子の魅力を多くの人に知ってもらうきっかけになればということで開催しました。

柳夫妻は、我孫子には7年ほど住んでいましたが、柳夫妻の縁で、当時の我孫子には白樺派の文人たちが集まってきていました。
柳宗悦は民藝運動の創始者として有名ですが、柳宗悦を支えたのは伴侶の兼子であり、また宗悦の思想を実践していたのは兼子であると言われています。
兼子は、本場のドイツでも聴衆を驚愕させたようで、「声楽の神様」とさえ言われ、85歳まで公式のリサイタルをつづけていたそうです。
柳兼子は、まさに今の日本において、見直される人だと海津さんは考えていますが、たぶん今回のサロンに参加した人はそういう思いを持ったのではないかと思います。
NHK朝ドラにするとしたら、こういうのがいいという提案も参加者から2つも出ました。

白樺派と言えば、文芸活動というイメージを持っている人も多いと思いますが、その底にある理想主義や人道主義を踏まえた社会活動の側面はなかなか伝わっていません。
柳宗悦の民藝活動も、生活文化のなかに「用の美」を見出すというような美術活動の側面に焦点が当てられ、声楽と言えば、これまた芸術活動と考えてしまいますが、白樺派にしろ民藝運動にしろ、そして柳兼子の声楽活動にしろ、もっと広い社会性を持ったものだったようです。
今回のサロンでは、海津さんはそういう広がりを意識しながら、さまざまな「テーマ」を示唆してくれました。
途中で、柳兼子の80歳を超えた時の歌声も聴かせてくれました。
その声の力に驚きました。
ただし、私がとりわけ興味を持ったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチとのつながりです。

海津さんのもう一つのメッセージは、戦争に向かって全体主義化が進んでいた当時の時代状況のなかでの兼子や白樺派の人たちの動きです。
私たちが、いまそこから学ぶことはたくさんあります。
これもサロンでは少し話し合いがありました。

沖縄在住のジャーナリストでもある緒方さんや日本韓国・朝鮮関係史研究会のメンバーの方も3人参加してくれました。
沖縄や朝鮮とのつながりも柳夫妻の活動の本質を示唆してくれています。
ほかにも参加者からも興味ある話が紹介されました。
今回は柳兼子の入り口だけでしたが、たくさんのテーマがちりばめられていたような気がします。
海津さんのフットワークのいい調査と自由な想像力に裏付けられたとても面白い発表でした。

これを契機にして、海津さんに「柳兼子研究会(仮称)〕の立ち上げと柳兼子我孫子ツアーを企画してもらおうと思います。
関心のある方はご連絡ください。
また当日配布された、海津さんのレジメ「手賀沼湖畔で大発展した白樺派と柳兼子」をご希望の方はご連絡ください。
海津さんの了解を得て送らせてもらいます。

ところで、柳兼子を主人公にしたNHK朝ドラの実現に力を貸して下さる方がいたらぜひよろしくお願いします。
面白いものになることは、間違いありません。

Kaneko


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■第1回「有機野菜の旬を楽しむ会」報告

霜里農場の金子友子さん主催の「有機野菜の旬を楽しむ会」がスタートしました。
金子さんご夫妻がやっている埼玉県小川町の霜里農場は、全国から有機農業を志す人たちの学びの場です。
http://www.shimosato-farm.com/
そこから巣立っていた人たちを毎回、ゲストにお呼びし、そこでできた旬の野菜を味わいながら、有機農業や私たちの生き方をちょっと考えてみようというサロンです。
隔月くらいで開催、時には農場を見に行く企画も金子さんは考えています。

第1回目は、船橋市で山田農場を経営している山田勇一郎さんに来てもらいました。
定員の15人を超える参加者がありました。
まだ0歳の乳幼児を連れた若い夫婦の方が参加されました。
湯島サロンの最年少記録が更新されました。

話はまず山田さんの農場の様子の紹介から始まり、ついで「有機農業」に関するわかりやすい説明がありました。
「有機農業」という言葉をなんとなく使っている人も多いと思いますが、山田さんと金子さんの話で、その意味がよくわかりました。
山田さんの有機農業は、科学的な知見を大事にしています。
今回は「光合成」の仕組みから説明してくれたのですが、私などは光合成そのものの意味さえきちんとわかっていなかったことを、恥ずかしながら、この歳になって知りました。
また、有機野菜を「安全性」という視点で捉えていましたが、むしろポイントは「おいしさ」にあるということにも気づかせてもらいました。
その「おいしさ」がどこから来るのかも教えてもらいました。
そして大切なのは、昔よく言われた「作物をつくるのではなく土をつくるのだ」ということを思い出しました。
工業型の農業とは全く違う、もっと大きな「科学性」がそこにはあります。
大げさに言えば、自然科学もそろそろ枠組みを変えるべき時期に来ています。

山田さんが10年かかってつくりあげてきた山田農場の、事業としての、「起業」と「経営」の話もとても示唆に富むものでした。
新規就農されたい方は、ぜひ山田さんのところで一度、教えを乞うといいと思います。
山田さんのところでは、講座もやっているようですが、農法だけではなく、実践的な経営の話も聞けると思います。

農業の持つ「教育力」や「福祉力」は、湯島でも時々話題になりますが、今回は、農業に取り組むことで「経営力」が身につくことに気づきました。
改めて「農営」や「農法」ということを考えなすべき時期かもしれません。
安直な「儲かる農業発想」ではなく、自らの生き方に重なるような農業の可能性を改めて考える時期に来ているようにも思います。
山田さんの実践は、そうした視点で大きな示唆を与えてくれているような気がします。

そういえば、金子さんが、農法に込められた日本古来の知恵についても言及され、有機農業はそうした知恵を再発見していくことだというようなことを話されていたのに共感しました。

ほかにも、たとえば堆肥づくりとか土壌づくりなど、実際の有機農業に関する話もありましたが、いろんな意味で、いろんな発見のあるサロンでした。
話の後、山田農場の新鮮野菜(今回はトマト、キュウリ、トウモロコシ)を味わいました。
今朝もぎたてのトウモロコシを生で食べさせてもらいましたが、ほとんどの人が初めてだったと思います。
参加者が多かったので、分かち合いになりましたが、これも実によかったです。
最後は、みんなお土産に野菜ももらいました。

次回は8月25日の予定です。
米作りをやっている有機農業実践者がゲストの予定です。
Yuukiyasai180623


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2018/06/11

■「小さな被害者」と「大きな被害者」

新幹線車内で起こった殺傷事件は衝撃的でした。
止めようとした若者が抵抗する間もなく殺害されたのは、実に悲しい。

最近、こうした不条理とも言うべき事件が起こるたびに思うのは、たぶん多くの人と違って、加害者の人のことです。
加害者に怒りを感ずる人も多いでしょうが、私には被害者以上に、加害者およびその周辺の人たちのことが気になります。
私の好きな言い方を使えば、「小さな被害者」「大きな被害者」です。
今回も、テレビに出てきた、加害者の若者とその祖母や父親のことを思うと、心が痛みます。

私たちは、多くの場合、「小さな被害者」、この言い方は誤解されそうなので、「直接の被害者」と言った方がいいかもしれませんが、そちらだけに目が行きがちですが、「加害者と呼ばれる被害者」(「大きな被害者」)にも、心を向けることが大切ではないかと、最近痛感しています。
そして、そういう「加害者と呼ばれる被害者」が生まれてしまうことに、まさにこの社会をつくっている一人である、私にもまた、大きなかかわりがあることを、いつも思い知らされます。

私は、社会のための貢献活動などには関心がありませんし、社会貢献などと自分でいう人の活動は信頼できません。
社会に役立ちたいなどとも思ったこともありません。
しかし、私は社会の一部であり、私の言動が良くも悪くも社会に影響を与えていることは、いつも自覚しています。
宮沢賢治がいったように、「世界みんなが幸せにならないと自分の幸せはない」と思っていますし、私たちの中に私があり、私の中に私たちがある、と実感していますので、社会と私は深くつながっている。
私が存在することそのものが、社会に影響を与えているのであって、私自身が住みやすい社会になるように、ただただ自らの生き方を問い直しているだけです。
貢献するなどという発想は、出てくるはずもありません。
そして、もし社会に不条理な事件が増えているならば、それは私の生き方に無縁であるはずがない。
同じ空気を吸って生きている以上、今回の事件の加害者も被害者も、私と無縁であるはずがない。
そう思うと、加害者がなぜ心を失ってしまったのか、そこに思いを馳せないではいられません。

明日の午後、湯島で、生活のまわりにある「ちょっと気になること」を話し合うサロンを開きます。
よかったら来てください。
私のなかでは、そうしたサロンと今回の事件が強くつながっているのです。

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2018/06/06

■宮田喜代志さんを囲むコムケアサロンの報告

久し振りに熊本の宮田喜代志さん(小規模多目的ホーム明篤館館長・農福連携研究者)のサロンを開催しました。
宮田さんは、さまざまな分野で活動していますので、大きくは「福祉と農業」を基軸に最近の活動の紹介をしてもらいました。
10人の参加者がありました。
今回は思いきり主観的な報告をさせてもらいます。

宮田さんは、大きくは5つの話題をたくさんの資料を使って話してくれました。
大学新設、農福連携、フェアトレード、熊本地震と障害者支援、西本省三。
いずれも宮田さんが当事者として取り組んでいるお話ばかりです。

それらはバラバラの話題のようですが、宮田さんはそれらがしっかりとつながっていることを最近改めて実感してきた、とお話になりました。
たしかに5つの話題は、それぞれに完結してもいるのですが、人や社会を育てる大学を創る話からはじまった宮田さんの話は、最後に、中国研究者の西本省三は中国人をリスペクトしていたという話で、5つの話のループを完成させました。
キーワードは、人と人の関係性です。
宮田さんの人柄と生き方が、見事につながった話だったと思います。

大学を創る話や西本省三(宮田さんの縁戚の人)の記録をまとめるという話は、今回初めてお聞きしましたが、とても宮田さんらしい話だと納得しました。

そうした話題の中で、ご自身が対応しているケーススタディ的なお話もあり、そこでは「中動態」発想を活かして関係性を立て直していく最新のカウンセリングの体験なども、とても具体的に紹介してくれました。
その一方で、なぜ日本は日清戦争に勝利したのかというような話もあり、退屈しませんでした。

もっとも話題があまりにも多いので、私自身必ずしも消化できたわけではありません。
しかし宮田ワールドが目指していることや、それが今何を引き起こしているはなんとなく伝わってきました。
宮田さんの話は注意深く聞いていると、実に深い含意があります。
それを肩に力を入れることなく、さらっというので、聞き流すこともあるのですが、宮田さんにはラディカルさとリアリズムが、矛盾なく混在しています。
今回の話も、まさにそうした多様なものが混在しながらも、宮田さんの核はまったくぶれることなく、だからといって呪縛されることもない柔軟な生き方が語られていました。
それもあって、話し合いのところでは、農業の教育力とか農福連携の実状とか、福祉の世界の話とか、経済と社会の関係の話とか、いろいろと示唆に富む具体的な話題もでました。

公開は避けますが、宮田さんの個人的なビッグニュースもいくつか紹介されました。
これからは少し時間ができそうと言っていましたが、たぶん時間ができたら、さらに新しいことに取り組んでいく人ですから、むしろますます多様で多用な人生になって行くでしょう。
また時々、宮田さんの活動から社会の状況を垣間見るサロンをやってほしいと思います。

宮田さんが持ってきてくれたスリランカのインクルーシブコーヒーもみんなで楽しませてもらいました。

参加した人にだけしか伝わらない報告ですみません。
Miyata180605


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■解釈の違い

文化の違いは解釈の違いを生みだします。
ですから同じ言葉が、違う意味や使われ方をしがちです。

昨日、国会で佐川前国税局長官の任命責任を問われた麻生財務大臣は、「適材適所の任命」だったと応えています。
麻生さんにとっては、適材が責任を果たした事例なのだろうと思います。
適材適所の意味するところが違いますから、議論は成り立ちません。
改ざんすることこそが、麻生さんは「適切な行為」と考えているかもしれません。
但し自分に迷惑をかけないように、ですが。

日大アメフト部の選手たちと監督・コーチも、同じ言葉を使いながら、その意味合いは違っていたと思います。
それを踏まえて事実を解析していく必要があります。

文化の違いなどというと大げさになりますが、視点の違いと言ってもいいでしょう。
視点によって、言葉の意味は違ってきます。
麻生さんと海江田さんの視点は違いますから、質問と回答はかみ合いません。
文化の違い、視点の違いを超えた、設問が求められます。
国会の議論を聞いていると、ほとんど言葉がかみ合っていない気がします。

ソクラテスは産婆術的な問いかけを繰り返し、相手の視点で問うことを大事にしたと言われます。
相手は、ソクラテスの問いに答えるのではなく、自らの問いに答えるように仕向けられます。
ですから防衛的な回答はできません。
なにしろ問いかけも答も自分で完結するわけですから。
そのために、ソクラテスは民衆によって死刑を宣告されたのでしょう。
私も基本的には、そうした問いかけを大切にしています。
他者に対しても、自らに対しても、です。

柳瀬さんも佐川さんも、大谷さんも矢野さんも、みんな「適材適所の適任者」なのです。
立派な官僚なのでしょう。
その構造を変えなければ、いけません。
しかし残念ながら最近の日本では、多くの人たちが(若者も含めて)、麻生さん的な「適材適所の適任者」を目指しているような気がしてなりません。

昨日、「マルクス・エンゲルス」という映画を岩波ホールで観ました。
https://eiga.com/movie/88435/
友人に勧められたのといくつかの映画評も読んでいたのですが、正直に言えば、まったく退屈な映画でした。
なんでいまさらこんな映画がヨーロッパで生まれるのだろうかと考えてしまいました。
そこに大きな示唆があることに気づかされました。

しかし、筋書きは退屈でしたが、もし若い人がこの映画を見たら、右脳的に影響を受けるような気がしました。
コモンズだったはずの森で枯れ木を取ることさえ許されずに殺害される風景が、視聴覚的な効果を活かして展開されるシーンから映画ははじまります。
まだ「人間」が左脳を持っていなかったような扱いに、私は違和感がありますが、導入部の演出としては見事です。
期待が膨らみ、そこにマルクスたちのすべてのメッセージを感じてしまう人もいるでしょう。

つづいて、エンゲルスの父親が経営している工場での労働者たちの怒りの集会が映し出されます。
経営方針に異議申し立てした女性が解雇され、そこからエンゲルスが、その労働者の女性と恋に落ちる展開は、いかにも現代流ですが、たぶん右脳的には効果的です。

ちなみにマルクスの妻は、貴族の娘です。
貴族とユダヤ人、ブルジョアの息子と貧しい労働者。
マルクス夫婦とエンゲルス夫婦の組み合わせは、20世紀の世界を象徴しています。
階級や所有や犯罪に関する問いかけが、そこには含意されています。

映像は書物とは違って、人間の心身に響いてきます。
もし私が若かったら、動き出したくなる情念を植え付けられたかもしれません。
ヨーロッパでは、たぶんまだその可能性があるのでしょう。
いや、その可能性が生まれだしたというべきでしょうか。

しかし今の日本ではどうか。
適材適所から外れた自らの生き方を志向するよりも、適材適所に合わせた生き方を志向する方が快適だと思う文化が広がりだしているように思います。

そうした社会では、「言葉」は人を呪縛しだします。
言葉から自由になって、改めて映像や音からのメッセージを大切にしなければいけなくなってきたのかもしれません。
私は活字人間ですが、どうも活字の時代(言霊の時代)は終わりつつあるようです。
そうは思いたくはないのですが。

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2018/05/31

■嘘がまかり通る社会になってしまいました

以前、まだブログを始める前ですが、私のホームページに「メッセージ」というコーナーがありました。

そこで書いたことを再録します。

〔メッセージ2:嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう(2002年2月7日)〕
今回の田中外相の更迭事件は「嘘をつくことをとがめてはいけない文化」の範を首相が示してくれた「歴史的な事件」でした。
子どもたちには大きな影響を与えるのではないかと思います。
リーダーとしての責任のとりかたについても、たくさんの影響を与えていくことでしょう。
子どもたちは学校の先生から何かを学ぶのではなく、大人たちの生き方から多くのことを学ぶのです。
影響力の大きいモデルの一人が、総理大臣です。
そして、彼を支えているのは私たちです。
私たちの生き方です。

重要な問題であるにも関わらず、誰が嘘をいっているかも明確にしようとしない人でもリーダーがつとまるわが国の政治は、いったい何なのだろうかと、いささか哀しく思います。
まあ、今に始まったことではないのでしょうが、ここまで明確にみんなに見えているにも関わらず、よくやるなあ、と感心してしまいます。
いずれにしろ、事実に基づかなくとも政治ができてしまうのです。

嘘をついても嘘をつかれても、どちらも罰せられるのであれば、嘘をついたほうが賢いともいえます。
実際、今回の結果はそうなったような気もします。
もしそうであれば、嘘の勧めというお裁きだったわけです。

小泉さんは日本の未来を2回変えたと私は思っています。
前回は、私は国会デモに参加して、自己満足的な抗議を行いましたが、今回はもっと本質的な問題を含んでいますので、デモ程度では対応できそうにありません。
そこで、一度、政治ってなんだろうか、という集まりをやりたいと思っています。
関心のある方はご連絡下さい。

それはともかく、今回の事件を皆さんはどうお考えでしょうか。
言った言わないよりも予算を早く決めるほうが大切だ、という人もいますが、嘘を奨励する人が作る予算など何の役に立つのでしょうか。
NGOの正しい評価や構造改革も大切ですが、それ以上に嘘を正さないことのほうが問題ではないかと私は思います。
子どもたちでもわかるような、基本的な問題こそが大切なのです。
言葉に惑わされて、感覚を麻痺させてはいけません。
私たちの生き方の根幹が問われているのです。

あなたは、嘘をつくことに呵責を感じない人たちがつくる予算を信じますか。
雪印食品の事件にも現れていますが、私たちは「嘘をつくこと」にあまりにも寛容になってしまっているのかもしれません。
政治も経済も嘘(虚像)の上に成り立っている。これが現在の姿です。
このことのおかしさを、少し考えてみることが必要なような気がします。

以上が16年前に書いたことです。
読み返してみると、その時の不安が現実化してしまいました。
すべてはこの時から始まった。
私はそう考えていますので、小泉さんの「脱原発」など一切信頼できません。

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■誕生日に「おめでとう」のメッセージを送ること

私は、儀礼的な挨拶が苦手です。
そういう挨拶をするのはなんとかできますが、応えるのが特に苦手です。
困ったものですが。

昨日、喜寿の誕生日でした。
フェイスブックには、誕生日にメッセージを送ることが仕組みとして組み込まれています。
最初はそれがいい仕組みだと思っていました。
年賀状も同じですが、年に1回、普段あまり交流のない人に、安否もかねて交流することに大きな意味があると思っていました。

しかし、最近は、基本的には誕生日に「おめでとう」というメッセージを送るのをやめました。
というのは、そういうメッセージが私のところにも来ることで感ずることがあったからです。

もちろん、うれしいメッセージは少なくありません。
昨日も、そういううれしいメッセージも少なからずありました。
しかし、フェイスブック仕込みの画像などが送られてくるのは、私の趣味ではありません。
年賀状や何かの記念日の時に、メールで既成の動画ハガキが添付されてくるのも同じですが、これほど味気ないものはありません。
あまり交流もなく、パーティなどで数回お会いした人から、人生の意味などを説かれると、相手を間違っているのではないかと、その人の姿勢に違和感を持ちます。
きっと誰にでも出すパターン文章なのでしょう。
あんまり書くと、人を非難することになりかねないのですが、挨拶とはもっと「心を込めて、相手に寄り添う形で(つまり標準パターンではなく)」送るものだと思います。
だからと言って何も長いメッセージである必要はありません。
同じ「おめでとうございます」の一言であっても、その人との関係性で、言葉の裏にある「気持ち」が伝わってくることもあります。

「誕生日にどうしておめでとうというのか」という、ひねくれた問いかけを昨日書いてしまいました。
いろんなアドバイスをいただきました。
私が言いたかったのは、「おめでとう」という言葉を、フェイスブックで「いいね」を押すような気持ちで送ることへの問いかけでした。
なんでこの人に「おめでとう」というのだろうかと、ちょっと考えるだけでもいいかもしれません。
機械的に、ただ「符牒」として、「おめでとう」と声をかけることに疑問があるのです。
人によっては、また時期によっては、「おめでとう」と言われたくない誕生日の時もあるのです。
それに、「おめでとう」ではなく、誕生日ですね、というだけでもいいでしょう。

どうして私はこの人に「おめでとう」と声をかけるのだろうか。
それをしっかりと考えた上での「おめでとう」は、それでも私には少し違和感はありますが、素直に受け入れることはできます。
しかし、FBから「今日は誰それさんの誕生日なのでメッセージを送信しよう」などといわれて発信するような風潮には、いささかの違和感があります。
バレンタインデイにチョコレートを送ろうという風潮がかつてはかなりありましたが、そうした風潮にしたがうことは私が一番嫌いな行為でした。
従って、チョコレートは嫌いだなどと嫌味を言ったりしてしまいましたが、実はチョコレートは好きなのです。
最近は幸いに誰からもバレンタインデイのチョコレートは届きません。

また余計なことを、しかも誤解されそうな書き方で書いてしまいました。
また友だちが減りそうです。
困ったものです。

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2018/05/30

■日大アメフト事件のその後の動きにまたまた思うこと

日大アメフト事件は、やはりいつもの通り、安直なところに落ち着いてしまった気がします。
日大アメフト部の部員の声明文は、大きな救いですが、
結局は、内田さんと井上さんと森さんが、切られただけで終わってしまいそうです。

この事件が起きた時、私はフェイスブックにも書きましたが、宮川選手の身を挺した内部告発行為だと感じました。
そしてそれは成功し、大きな話題になりました。
しかし、それが日大アメフト部の3人のリーダーにとどまったのは、私にはちょっと残念です。

私のフェイスブックに、友人が宮川選手に対して痛烈な意見を書き込みました。
オウムの場合、実行犯は死刑になったのに、宮川選手はみんなから同情された。
その違いは何なのかは、考えてみる価値があります。

私は、内田監督のような人には強い拒否感があります。
しかし、内田さんを厳しく非難するアメフト関係者やスポーツジャーナリストには、もっと強い拒否感があります。
これも以前よくブログに書いたことですが、組織が起こした問題は組織全体の責任だと私は思っています。
誰か一人に責任を押し付けたり、「反論できる状況ではなかった」などという言い訳が、私の最も嫌いなものです。
なかには「連帯責任」を否定している人もいますが、組織で起こった不祥事は組織にいる人は誰もが無縁ではありえません。
さらに言えば、その実態を知っていたり、知りうる立場にある人もまた、無縁ではありません。
原発事故の責任が、それを許していた日本人すべてにあるように、です。

日大の荒っぽいやり方は、アメフト関係者であれば、たぶん多くの人は知っていたはずです。
あそこまで「ひどい」とか「反則是認」と思っていなかったかもしれませんが、反則行為は全て連続しています。
薄々かもしれませんが、みんな知っていたでしょう。
だからこそ、最初の頃、多くの人が、SNSで広がらなかったらこんなに大きな問題にはならなかったと言われていたわけです。
そうした風潮の中で、内田さんは自らのやった行為が、自らの「除名」にまでつながるとは思ってもいなかったでしょう。
内田さんには、自分のやっていることがそんなに大きく逸脱しているとは思っていなかった。
そんな気がしてなりません。

関東学生連盟の関係者処分には、関東学生連盟関係者が含まれていなかったことに私は失望しました。
日大アメフト部の部員たちの声明文とは全く違います。
当事者意識がまったくない。
それでは内田監督や日大関係者と全く同じです。
だから、今回の事件で、日本のアメフトやスポーツ界はあんまり変わらないだろうと思った次第です。

日大アメフト部だけが例外だったのか。
私にはそうは思えません。
内田監督の反撃はないでしょうが、そして反撃しないような状況は作られるでしょうが、どうも「特別の事件」にされてしまっているのが、気になります。

アメフトを知らない者の妄想かもしれません。
しかし、事件解決の標準モデルのスタイルのような気がして、どうもすっきりしません。

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2018/05/28

■日大アメフト反則行為事件に、改めて思うこと

日大アメフト反則行為事件に関しては、「追い込まれた状況」が焦点になってきて、宮川選手はむしろ「被害者」として支援されてきているような空気を感じます。
それに関連して、ちょっと思いだしたことを書きます。

「乖離」という日大アメフト部側の言葉も問題にされていますが、「乖離」など当然のことで、コミュニケーションとはそれを前提にして行われる行為です。
乖離をなくすことなどできるはずがなく、乖離を前提に共通の思いをどのくらい増やすかが大切なことです。
その出発点は、相手を変えることではなく、自らが変わることです。
これに関しては以前書いたことがあります。
http://cws.c.ooco.jp/communication1.htm
「コミュニケーション」という言葉が、あまりに安直に使われている風潮には違和感があります。

「追い込まれる」ということに関しては、以前、「自殺のない社会づくりネットワーク」を立ち上げた時に、自死遺族の人から、この表現では「自殺者」が責められているように感ずると言われました。
以来、「自殺に追い込まれることのない社会」という表現を使うようにしています。
それを思い出しました。

もうひとつ思い出したのは、たとえば、「秋葉原通り魔事件」の加藤さんのことです。
彼もきっと「追い込まれていた」のでしょう。

人はだれも、他者に迷惑などかけたくないはずだ、ルールも守りたいはずだと私は確信していますが、そのルールが破られる理由は2つあります。
ルールが悪いか、追いやられるかです。
そして、それは重なっています。
絶対のルールなどありませんから、どのルールに従うかは、時に矛盾します。
ISの行為がいかに理不尽に見えても、その世界の人には、理に合ったルールなのでしょう。
日大アメフト部のルールがあって、それが宮川選手を追い込んだ。
世間一般のルールと日大アメフト部のルールの、どちらを守るべきか。
そこで、自分が見えなくなる。
加藤さんもそうだったのかもしれません。
宮川選手と加藤さんを並べることには異論を持つ人が多いでしょうが、私にはつながって見えてしまいます。
さらに言えば、そういう人はたくさんいる。

だからこそ、宮川選手へのシンパシーは高まるのでしょう。
しかし、そこにも私は危うさを感じます。

念のために言えば、宮川さんの記者会見直後に書いたように、私は宮川さんの記者会見に感激しましたが、それはこういうことを明らかにしてくれた勇気にです。
宮川選手がやったことは、やはり彼自身が自覚しているように、きっちりと償われなければいけません。
宮川さん自身のためにも。

さらに加えれば、世界には多様なルールがあります。
しかし、一番大切なのは、自らのルールです。
納得できないルールに、毅然として「ノー」というためには、自らのルールが必要です。
ルールは思考停止の道具ではなく、よりよく生きるための思考を支援する道具です。
ですから、ルールは時には破られてこそ、意味がある。
マニュアルと同じように。

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