カテゴリー「社会時評」の記事

2019/08/29

■チョ・グクさんの疑惑問題は日本では日常的なことでしょう

テレビでは、GSOMIA破棄報道が終わったかと思ったら、今度は韓国の文大統領側近のチョ・グクさんの疑惑問題がにぎやかです。

私には、日本ではすでに日常化しているような話題なのに、どうしてこんなに詳しく熱心に報道するのか理解できないのですが、日本の同様な事件を報道できないので、その代償行為として報道しているのだろうと考えると、ちょっと納得できます。

しかし、チョ・グクさんの疑惑問題などは、たとえば、総理大臣夫妻による森友疑惑に比べれば、銅でもいいような話としか思えません。
それにしても、日本のテレビは韓国が嫌いですね。

日本のテレビが嫌いなのは韓国だけではなく、トランプ大統領も嫌いのようです。
私は、これまでの大きな歴史の流れに異議申し立てしたトランプ政権には好意的です。
ほとんどの人が、トランプの発言をおかしいと思っているようですが、素直に考えればほとんどが納得できる話です。
最大の功績はTPPつぶしだったと思いますが、あれで金融資本の世界支配の流れはちょっと止まったような気がします。

思考の枠組みや基準を変えると世界はまったく違って見えてきます。
世情に出回っている知識が多すぎると実際はその年企業をまき散らしているマスコミとそれを牛耳っている政権と同じ世界から抜け出られません。
安倍政権を批判する私の友人たちも、結局は安倍さんの同じ価値観で世界を見ていると思えることが少なくありません。

先入観を捨てて世界を見ることは、とても難しいです。
たとえばマスコミの価値評価を反転させて世界を見ると、気づかされることは少なくありません。
間接的な報道はむやみに信じないことも大切です。
私は基本的に自分で直接見聞したことを基準にして考えるようにしています。

しかし、それよりも効果的なのは、自らの素朴な価値観や日常生活を大切にすることです。
もっともこれが一番難しいかもしれません。

 

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2019/08/22

■病院の待合室は実に面白い

前の記事で、病院のことを書きましたが、その時の待合室での体験です。
病院の待合室は実に面白いです。

中年世代の夫婦が親の付き添いで来ていました。
私の後ろでよく話していました。
仲の良い夫婦なのでしょう。
職場の話のようです。
女性は、立場のある人の考えや姿勢を気にしていましたが、男性は「偉くなる人は信頼できない」と言い切りました。
この夫婦はいつか破綻するかもしれません。

スタッフの方が、時々、待合室に出てきて、患者の方と問診票の内容を確認することがあります。
たとえば、こんなやり取り。
「食事ではどんなものを食べていますか?」
「いいものを食べています」
とても感心しました。
実にいい答えです。

眠れないので心配で病院に来たという高齢の女性。
9時に寝るそうですが、2時半に目が覚めてしまう。
そこからなかなか眠れなくて、3時半には起きてしまう。
5時には朝食、6時にはボランティア活動で家を出るそうです。
昼間はまったく眠くないと言いますが、朝早く目が覚めるので、病院に来たそうです。
受け答えしていた病院のスタッフは、6時間近く寝ているので大丈夫ですよと言っていましたが、本人は不安だそうです。
ちなみに、前回は耳のところにちょっとできものができたので耳鼻科に来たが、先生から心配ないですよと言われたと言っていました。
来週はまた別の科に行って、先週は不眠を訴えたが、大丈夫だと言われたと言っている様子が想像できました。
それにしても、朝6時からの「ボランティア」活動はなんだろうかと気になりましたが、スタッフの方は質問しませんでした。
私なら訊いたのですが。

病院では呼び出しなどは番号で呼ばれます。
しかし、番号で読んでも反応しない人が多く、「失礼ですがお名前で呼ばせてもらいます。〇〇さん」と呼ぶと「はい」と手を挙げる人が多い。
幸いにまだ多くの人は番号で呼ばれるのに慣れていない。
それはいいとして、「失礼ですがお名前で呼ばせてもらいます」というのに違和感を持ちました。個人の名前は「個人情報」に属するからですが、番号で呼ぶ方がよほど「失礼」と思いますが。

それにしても、あれだけ大勢の人が次々とバスでやってきたのに、実に見事に流れに乗って、よどみなく「処理」されていく様子は感動的でした。
まもなく「社会」全体も、こういう感じになるのかなあとちょっと思いました。

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2019/07/24

■自分たちファーストで芸をやっている人たち

吉本興業にまつわる騒動は関係者がどんどん増えてきて、問題もなんだか仲間内の「芸人」たちによって歪曲されてしまい、事の本質とは違った展開になってきています。

その一方で、日本の「芸人」たちの本質が見えてきたような気がします。
それは「芸人ファースト」という言葉に象徴されています。
まさか、こんな言葉が出て来るとは思ってもいませんでした。

反社会性勢力との交流は、芸人ファーストのためにもし必要であれば、是認されるようなのです。
「悪いことは悪い」という原点を失った「笑い」に、私は価値を感じません。
「笑い」の芸は、強烈な社会性を持っていたと思っていたからです。

もっとも、私は、最近の日本の笑いの芸人たちにはずっと『笑い』を感じていません。
北野たけしさんの笑いも理解できませんし、最近の笑いにはほとんどついていけません。

ちなみに、たとえば北海道テレビの「水曜どうでしょう」などは、とても好きな番組でしたし、大泉洋さんは見ているだけで、快い「笑い」が出てきて、幸せになります。

どこが違うのかわかりませんが、漫才もかつての漫才は笑えますが、この40年近くの漫才は腹が立つことのほうが笑うことより多いです。
困ったものです。

涙ながらに記者会見した2人は、自らの責任にきちんと対処していません。
せっかく「真実」を話したら、それ相応の責任を取らねばいけません。
そうでなければ、何のために記者会見したかわかりません。

そんな基本的なことをだれもきちんと諭さないのか、と思っていたら、逆に彼らを弁護する芸人仲間が出てきました。
そして、そこから「芸人ファースト」などという、驚くべき言葉が出てきたのです。

芸人のためなら反社会的行動も許されると、彼らは暗に言っているように思います。
優先すべきは、自分たちの利益ではないでしょう。
そんな人の「笑い」は笑えません。

それにして「自分たちファースト」がはやります。
安倍政権の思想がどんどんと社会に広がっているのでしょうか。

以前も書きましたが、いわゆる『反社会勢力』がなぜ存在するのかにも、こうしたことにつながっています。
「自分たちファースト」であれば、時に『反社会勢力』の存在も必要だから残しているのです。
社会の仕組みや規範は、それぞれの「自分ファースト」の調整で決まってきます。

それが悪いわけではありませんが、だからといって、「錦の御旗」のように掲げていいものでもないでしょう。
大切なのは、それぞれが「社会性」を大事にし、ともすれば陥りがちの自分ファーストを常に戒めていくということです。
そうでなければ、自らが反社会的勢力になってしまいかねません。

それにしても、「反社会的勢力」って不思議な言葉です。
私には、いまの安倍政権も「反社会的勢力」なのではないかという気がしないでもないですが。

いやこれはもちろん「冗談」です。
「録音してないだろうな」という「冗談」と同じく、あんまり適切な冗談ではありませんが。

 

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2019/07/22

■真実の波及

今日のテレビは、昨日の選挙結果よりも吉本興業のタレントの記者会見から始まった話を取り上げています。
民放は、宮迫さんと田村亮さんの記者会見を繰り返し、放映しています。

 見た方も多いと思いますが、実は私は当日の夜のテレビを偶然に見てしまったら、目を離せなくなり、田村亮さんの態度を見て、そこに「真実」を感じてしまいました。
芸能界のニュースには、スポーツ界と同じく、ほとんど興味を持たないのですが、ついつい引き込まれてしまいました。
久しぶりに人間の「真実」に出会った気がしました。

 今朝は、昨日の選挙結果をみんなはどう感じているのかを知ろうと思っていましたが、テレビをつけたら、民放はどこも宮迫・亮記者会見の続きでした。
また引き込まれてしまいました。

普段は見たこともない日本テレビの「スッキリ」にチャンネルを切り替えたら、司会役の加藤浩次さんが心情を語っていて、このままだったら自分は吉本興業を辞めると語っていました。
つづいて近藤春菜さんが涙ながらに語りだしました。
「真実」(真情)はどんどん波及していくのです。

嘘のない「真情」の吐露は人を引き込みます。
加藤さんと春菜さんの、感情に流された発言もなぜか見続けてしまいました。
彼らは演技、つまり「真情」を表出しないことを「仕事」にしていますが、「演技」以上に「真情」は大きな力を持っています。
それに目覚めれば、もっと大きな役割を果たせるのでしょうが。
「生身の真実」の持つ力の大きさも、改めて思い知らされました。

最近では、「真実」よりも「仮想真実」のほうが社会を動かしていますが(今回の選挙結果にもそれは現れています)、やはり「生身の真実」(真情)の力は大きい。
「真実」は、すべての問題を解決する起点です。
そして、「嘘」は、すべての問題を引き起こす起点です。
改めてそう思いました。

 「生身の真実」(真情)を基軸にした社会になってほしいと思います。
「嘘」(真実の隠蔽)の恐ろしさを、私たちはもっと警戒すべきです。
真実の隠蔽を党是にする自民党がなぜ多くの人の支持を受けるのかが不思議ですが、支持者もみんな「嘘」「真実の隠蔽」に守られているのでしょうか。

 

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2019/06/28

■「話す(放す)社会」と「語る(象る)社会」

最近、改めて気になることがあります。

フェイスブックでは、いろんな人が巻き込んでくれるおかげで、いろんなFBコミュニティ(グループ)に登録させてもらっています。
そのおかげで、いろんな人の発言を目にすることが多くなったのですが、その多くが「話す」ことで終わっているような気がしてなりません。
ツイッターがその典型だと思いますが、自らの思いを「放つ」ことで満足する人が多いようです。
私も時に、自分の思いを放ちたくなり、放つことも多いのですが、放した後、つまり話した後いつもちょっと後悔します。

話すとは「放つ」ことで、完結した行為。
むしろ問題に関する自らの思いは弱まりやすい。つまり「消費的な行為」。
語るとは「象る」ことで、創造的な行為。
それによって、新たな思いを背負うことにあり、思いは強まりやすい。つまり「創造的な行為」。
そういう整理をすることもできるように思います。

 それに、世の中にヘイトスピーチが多いですが、話すことはどこかでヘイトにつながりかねません。
私が国会デモに行けなくなったのは、あの空間に憎しみに支えられたヘイトを感ずるようになってきたからです。
もちろん、時には「怒り」が大きな力になることはあります。
しかし、日常的に怒りや思いを放っていたら、そこで思いが消費される恐れもある。

 ツイッターはもちろんですが、フェイスブックにも怒りや不満を放す(話す)コメントが多いのが、私には気持ちがよくありません。
それに、安倍首相の批判をする人と安倍首相とは、言動がとてもよく似ているような気もします。

 こんなことを書くと、また「批判することを否定するのか」と叱られそうですが、批判はっても大切だと思っています。
「怒り」もとても大切です。
ただ「怒りの活かし方」や批判のルールもあると思います。
怒りも批判も新しい価値を生みだすことにつなげていきたいと思っています。

 私の基本姿勢は、批判の矛先に自分を含めるようにしています。
それでは勢いが出ないだろうと思われるかもしれませんが、私の場合は逆です。
なぜなら批判することは常に自らの生き方を問い直すことと無縁ではないからです。

言い換えれば、批判によって、自分の世界が広くなる、あるいは新しい地平が象られていく。
語るとはそういうことだろうと思っています。

 私の投稿は、いつもそんな思いで書いています。

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2019/06/27

■百田尚樹現象

家族みんながお世話になっている、いしど歯科クリニックから帰ってきた娘が、私にと石戸さんから雑誌を預かってきました。
雑誌は、64日号のNewsweekでした。
特集が、「百田尚樹という社会現象」。表紙は百田尚樹さんの顔。

百田さんには大変失礼なのですが、この顔を見たとたんに拒否感が生じます。
むかし私は朝日新聞社のアエラを購読していましたが、表紙に麻原彰晃の写真が載ったのを契機にアエラの購読をやめました。
雑誌や書籍の表紙は、そのくらい私には大きな影響を与えます。
ですから、石戸さんからでなければ、私はこの雑誌を読むことはなかったはずです。

なぜ石戸さんは私にこの本を届けたのかは、すぐ察しがつきました。
前回私が治療に行った時に、石戸さんの息子さんがノンフィクションライターとして活躍していることを初めて知ったのです。
たぶんどこかに石戸諭さんの寄稿が載っている。
そう思って雑誌を開くと、その特集記事が石戸諭さんによってまとめられていました。
19ページにわたる大特集です。
最後には石戸さんによる百田さんへのインタビューもありました。

正直に言えば、百田さんの記事を読む気にはすぐにはなれませんでした。
しかし、石戸さんのデビュー作『リスクと生きる、死者と生きる』のまえがきとあとがきを読んだ時に、その誠実な人柄が感じられたので読むことにしました。
読み出せるまで1日かかりましたが。
ただ、なぜ石戸さんが百田さんを取材しようと思ったのかにも関心がありました。

読み応えのある特集記事でした。
石戸さんの取材姿勢は、冒頭の「百田現象から見えるのは、日本の分断の一側面であり、リベラルの「常識」がブレイクダウン(崩壊)しつつある現実である」という文章で理解できました。
そして、「百田尚樹とは「ごく普通の感覚を忘れない人」であり、百田現象とは「ごく普通の人」の心情を熟知したベストセラー作家と、90年代から積み上がってきた「反権威主義」的な右派言説が結び付き、「ごく普通の人」の間で人気を獲得したものだというのが、このレポートの結論である」と石戸さんはまとめています。

「普通の人」という表現には違和感がありますが、その趣旨には共感できます。
ただ、「普通」という言葉は、思考を停止させるマジックワード的効果があるので気をつけなければいけません。

それはともかく、石戸さんの誠実な報告には共感したり気づかされたりすることも多かったのですが、この現象、あるいはリベラルな常識の崩壊(私はむしろ「保守」の崩壊と考えています)が、何をもたらしていくのかの展望がもう少し知りたくなりました。
これからの石戸さんの発言に耳を傾けたいと思います。

石戸さんは記事の最後にこう書いています。
長いですが、引用させてもらいます。
とても大切なメッセージだと思いますので

リベラル派からすれば、このレポートは「差別主義者に発言の場を与えたもの」と批判の対象になるかもしれない。だが、そうした言説の背景にあるもの、異なる価値観を緩やかにでも支える存在を軽視すれば、あちら側に「見えない」世界が広がるだけだ。

リベラルが「百田尚樹」を声高に批判しているその裏で、「ごく普通の人たちの憤り」が水面下で根を張りつつある。

「敵」か「味方」かが第一に闘われるようになるとき、分断は加速する。二極化の先にあるのは、先鋭化した怒りのぶつけ合いだ。問題は残り続ける。不都合な現実から目を背けてはいけないのだ。

いささか目を背けがちにしている自分を反省しました。
と同時に、先日の岡和田さんのサロンで、「チッソは私であって」という考えに関連して、岡和田さんから「佐藤さんは、安倍首相は私であった」という考えも受け入れるのですか?」と鋭く追及され、つい「はい、少なくとも否定はできない」と応じてしまったことを思い出しました。

私は映画「永遠のゼロ」も観ましたが、いささか複雑な気分でした。
百田さん原作と言われなければ、もしかしたら受け入れられたかもしれません。
私自身、思い込みの強い人間ですので、百田さんや小泉さん(親子ともども)や野田さん(元首相)や安倍さんの言動には、生理的に拒否感があるのです。
それぞれに理由は違うのですが、百田さんの場合は、その不誠実さ(ヘイト発言に象徴されています)が私には決して受け入れられないのです。
そうした偏狭さの危険性を、石戸さんはメッセージしてくれているように思いました。
「敵」か「味方」、「嫌い」か「好き」かに呪縛されていると、世界は見えなくなります。
そういう人をたくさん知っているのに、自分もそうなっていることに気づかされました。

百田さんの書籍を読む気にはまだなれませんが、映画「永遠のゼロ」をもう一度、観てみようと思います。
併せて、石戸さんの『リスクと生きる、死者と生きる』もきちんと読んでみようと思います。

若い世代から学ぶことはたくさんあります。

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2019/05/02

■ミッション・クリープ

先日、挽歌で「ミッション・クリープ」に少し言及しました。
それについて、時評編でも書いておこうと思います。
この風潮は、やはり戒めておきたいと思ったからです。
戒めの対象は、もちろん私自身ですが。

「ミッション・クリープ」という言葉があります。
当初対象としていた範囲を拡大したり、いつ終わるか見通しが立たないまま人や物の投入を続けていかなくてはならなくなった軍事政策を批判するアメリカの軍事用語でしたが、
「終わりの見えない展開」という意味で、広く使われてきています。

たとえば、人権概念の広がりにも使われることがあります。
どんどん対象を拡大している人権運動が、動物や自然にまで広がっているのはその一例です。
最近のパワハラやセクハラの捉え方も、そうかもしれません。

そういう動きを否定するつもりはありませんが、いささかの行き過ぎを感ずることもあります。
前にも時評編では「ゼロ・トレランス」への懸念を書いたことがありますが、とまることのないミッション・クリープにも危惧を感じています。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/12/post_ffbe.html

特に最近は私たちが生きる拠り所にしてきた家族が攻撃対象になっているのは残念です。
「攻撃」するのではなく「改善」していきたいものです。
そういう意味で、私は「家族という呪い」とか「家族という病」とかいう言葉を軽軽に使う人の見識を疑いますが、しかしそういうほうが多くの人の関心を呼んで、問題意識を持ってもらうのには効果的なのでしょう。
ですから一概に否定すべきではないのですが、どうしても好きになれません。
「言葉」は「実体」を創っていくからです。

大切なのは「病の家族」を健やかにし、「家族を苦しめる呪い」を祓っていくことです。
伴侶を亡くしたものにとって、病であろうと呪いであろうと家族も親子もとても価値のあるものです。
そして、それがあればこそ、家族のような仲間も生まれてくる。

ちなみに、私が考える家族は、血縁でも異性を軸にしたものでもありません。
一緒に暮らす(生きる)人の暮らし方くらいの意味です。
その基本モデルが、現在の「家族」制度ですが、その制度に制約される必要はないでしょう。
制度はあくまでも「手段」ですから、状況によって変わらなければいけません。

有識者の呪いや病を直してやりたい気もしますが、私の方が呪いにかかり、病を得ているのかもしれません。
それにしても、家族とは不思議なものです。

 

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2019/04/29

■多様性を受け入れるとはどういうことか

昨年、テレビ朝日で放映されていたドラマ「未解決の女」のドラマスペシャルが昨日放映されました。
わずかな文章から書き手の性格や思考を言い当てる能力を持つ警部補が、未解決の事件を解決していくという物語です。
言葉から事件を解いていくというのが、このドラマの面白さです。
「言葉の神様」は私にはあまり降りてきませんが、その存在は私もかたく信じています。

今回は、現場に品字様の文字が遺された連続殺人事件の物語でした。
品字様の文字とは「品」のように同じ漢字が3つ連なる文字のことです。
品字様の文字も面白いですが、今回書こうと思ったのは、ドラマを見ながら最近特に感じていることです。
ネタバレになりますが、ドラマの連続殺人は、恋人を過労死に追い込んだ会社の上司や関係者への「復讐劇」でした。
最後に犯人が、なぜ犯罪に至ったかを告白するのですが、私はこういう話に弱くて、いつも共感のあまり涙が出てしまうほどです。
そこでは、心情的には、加害者と被害者が逆転してしまうわけです。

そうした告白に対して、どんな事情があろうとも、人を殺めるような犯罪を起こしてはいけないと刑事が戒めるのが、このパターンのドラマの定型ですが、私はこういうセリフが好きではありません。
他人のことだからそんなきれいごとが言えるのだと内心思ってしまうのです。
それに、あなたは何の根拠をもって、加害者と被害者を決めるのか、と問いたくなるわけです。
ちゃんと自分で考えているのか、というわけです。
こういうやり取りの意味は実に大きいと思いますが、そうした言葉の洗脳には抗わなければいけません。

話は変わりますが、先日のスリランカの連続自爆テロは、IS の悪夢が決して「夢」ではなく、終わりがないことを教えてくれているような気がします。
なぜ終わらないかは、明白です。
終わりようがないのです。
もちろん終わらせる方法はあります。

最近読んだ「暴力の人類史」に紹介されていたのですが、法学者のドナルド・ブラックは、私たちが犯罪と呼ぶもののほとんどは、加害者の視点から見れば正義の追求だと主張しているそうです。
ブラックは膨大な犯罪データを解析した結果として、こう書いているそうです。

殺人のもっとも一般的な動機は、侮辱されたことへの報復、家庭内の争議がエスカレートしたもの、恋人の裏切りや失恋、嫉妬、復讐、自己防衛など、道徳的なもので、大部分の殺人事件は実質的には、ある一般市民が自ら判事、陪審員、そして執行人となった「死刑」である。

つまり、殺人の多くの実態は、「正義のための死刑(リンチ)」だというわけです。
ブラックはさらにこう書いているそうです。

「殺人を犯す者は、しばしば、自らの運命を当局の手に委ねているように見える。警察が到着するのをじっと待つ者も少なくないし、自分から通報する者もいる。このような場合には、殺人を犯した者は見方によっては殉教者といえるかもしれない。殺人を犯す者は自分が正しいと思っており、その帰結としての処罰を甘んじて受け入れるのだ」。

とても考えさせられます。

「正義」を語る人を私は好きになれませんし、「法律」に呪縛されている人も好きにはなれませんが、しかしISの悲劇を聞くたびに、ではどうしたらいいのかと自問します。
それで決めたのが、「正義」と「法律」から自らを解放しようということです。
「正義」も「法律」も、私にとっては、きわめて多義的なものになってきています。

「社会のため」とか「正義のため」という言葉は、軽々に使うべきではないでしょう。
その前にまず、自らの世界の広さをこそ顧みることが大切です。

今回、言いたかったのは、多様性を受け入れるとはどういうことかという問題提起なのです。
いつも誤解されるので、蛇足ながら。

 

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■年齢は捨てられません

挽歌編に書いたのですが、少しだけリライトして時評編にも書きました。

20年ほど前、アンチエージングが話題になった事があります。
高齢化が問題になっていたころです。
以来、年を取ることへのマイナスイメージは定着しました。
当時、私もそうした考えに大きな違和感を持っていませんでした。
もっとも「高齢化」に関しては私自身はプラスの評価をしていました。
「早く来い来い、高齢社会」などという小論を書いたりしてもいました。
http://cws.c.ooco.jp/siniaronnbunn2.htm

最近、下重暁子さんが「年齢は捨てなさい」という本を出版しました。
新聞広告には「年にしばられると人生の面白さが半減する」「年齢という「呪縛」を解き放て!」と書かれていました。
こういう風潮に最近やはり強い拒否感があります。

いろんなものに「呪縛」されているのに、よりによって、捨てる対象が「年齢」とは、どうも納得できません。
私は、最近は年齢に素直に従っていますが、それが「呪縛」とは思えません。
すなおに加齢を受け入れ、それを前提に生きています。
「老人」という言葉も好きですが、実際には「老人」になれずに、意識はむしろ年齢に追いつけずにいます。
しかし、身体は素直に年齢を重ねています。

最近、高齢のドライバーの交通事故で、親子が死傷する事件が起きました。
それを契機に、高齢者ドライバーへの批判が高まり、自動車運転免許も年齢制限する必要があるのではないかという意見も出てきています。
それに対して、年齢で制限するのはおかしいとか、憲法違反だという声もあります。
自動車免許をとれるようになる年齢も含めて、いろんな分野で年齢制限されているのに、こんな論理は成り立つはずもないでしょうが、そんなご都合主義が相変わらずまかり通っています。

みんな「年齢」を捨てたがっているようです。
不老不死の世界に入るのは、そう遠い先ではないでしょう。
しかし不老不死とは、命のない世界でもあります。

私は70に近付いた段階で免許は返納しました。
基本的には年齢制限をつけるべきだと思っていますし、それがなくても自分のことは自分で決めるくらいの良識は持っています。

たしかに人によって状況は違い、高齢でも運転できる人はいるでしょう。
しかしそうした個別事情を認めていたら、年齢は社会的判断の基準にはならず、社会は成り立ちません。

年齢を捨てるという発想にはやはりなじめません。
私自身は、素直に年齢(生命)に従う生き方をしたいと思っています。

その本の新聞広告に、「年齢を封印するだけで出来ることが10倍増える!」と書かれていました。
私はむしろ、「年齢を受け入れるだけで出来ることが10倍増える!」と揶揄したいですが、それはともかく、「自分を素直に受け入れるだけで出来ることがたくさんある」と思っています。
しかし、自分を素直に生きることはとても難しい。
まだまだ年齢相応の生き方ができない未熟さに、時に自己嫌悪に陥ります。

それでも私は、年齢を大事にした生き方をしていこうと思います。

 

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2019/03/12

■湯島サロン「東京で感じたこと、米子で見えたこと」報告

久しぶりに、まだ日本には救いがあるなと実感できたサロンでした。
これはきわめて主観的な感想ですが。

今回の話題提供者の矢辺さんは、鳥取の米子で育ちました。
東京で大学卒業後、障害者に特化した人材系会社に入社。
活動を通して、「障害者」の捉え方が変わり、本人が不自由を感じていたらそれはすべて障害なのではないか(その逆もある)、そうした生きにくさを抱えている人の問題を解決したいと思うようになったそうです。
その後、生活困窮者支援を行う国のモデル事業(パーソナルサポーター制度)の就職担当相談員に転身。
その制度がなくなったため、そうした活動のための会社を自ら起業しました。
しかし、2014年に父親から事業を引き継いでほしいといわれ、両親に「ものすごく感謝」をしていたこともあり、実家のある鳥取県の米子に帰郷しました。
たまたまその会社は、電力提供に関わる会社なので、そこで将来は、エネルギーの大量生産大量消費から地産地消ができないかという活動にも取り組みたいと考えています。
会社経営のあり方に関しても、ティール組織も参考にしながら、変革に取り組んでいるようです。

これが矢辺さんのこれまでの人生ですが、お話を聞いていて、さまざまなことを考えさせられました。
10年以上前に、大学時代の矢辺さんとはいろいろと話し合ったこともあるのですが、自らの志を軸にして、時流に流されることなく、しっかりと実践しているのに感心しました。

矢辺さんは、会社に就職しないと生活できない現在の社会に問題を感じています。
企業で働かなくても生きていける手段があれば良い。
企業だけに頼らずに、他者と支え合いながら、自然と調和した生き方を広げていきたいといいます。
そのためのいくつかの具体的な手だても矢辺さんは考えています。

個人の生き方に関しては、「おりる生き方」を提案しました。
それは、「企業で働いていなくても、福祉のお世話にならず、生きること」を目指す生き方です。
経済状況によって変化する企業業績に左右されず、財政事情によって変化する福祉制度に左右されず、「今日が来たように明日を迎える暮らし」、そして「つながりで生きづらさを解決する暮らし」というのが、矢辺さんが目指す生き方の基本です。
具体的な提案もありましたが、一言で言えば、「問題をお金で解決しない」生き方です。
お金を「稼ぐ」仕事は、週3日程度にし、後は「働く」仕事をし、顔が見える範囲の150人までの地域コミュニティとその核になる生活基盤となる家族をしっかりとつくっていきたい。
お金は家賃やライフライン代が払える程度あればいい。
できないことはみんなでフォローし合えるコミュニティがあればいい。
それが、矢辺さんが提唱する「おりる生き方」です。

最後に矢辺さんはみんなに問いかけました。

正しさとは?
生命力とは?

その問いかけから話し合いが始まりました。
話し合いは省略して、矢辺さんの考えだけ紹介しておきます。
「正しさは生命力を高めること」
「生命力とは自らの持つ良い部分を出し続けられること」

ちなみに、米子と東京に違いは何か、という話も出ました。
矢辺さんは、今回も羽田を降りた途端に、なぜか自分もせかせかと「速足」で歩いていたと話しました。
米子と東京とでは、時間の進み方が違うのかもしれません。

矢辺さんは、家族に頼れることのすごさについても語り、そうした「安心できる生活基盤」の大切さも語ってくれました。

「せかせかした生活環境」そして「安心できる生活基盤」。
この2つについて、私たちはもう少ししっかりと考え直す必要があるのではないかと、改めて考えさせられたサロンでした。
参加者は矢辺さんを含めて7人。ちょっと少なかったのが残念でした。

いま、時代の大きな分かれ目に来ているように思いますが、若者のメッセージの眼差しから、そして参加者の発言から、私としてはちょっと元気をもらいました。

矢辺さんのメッセージにつながるようなサロンを、4月5月と予定しています。
またご案内させてもらいます。

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