カテゴリー「社会時評」の記事

2022/11/20

■「かんたん」とはどういうことですか

使っていたスマホの具合がよくありません。

まあ基本的にスマホは使っていないに等しいので、不都合はないのですが、娘に言われて先日、買い替えました。
その仕組みにいささか疑問を感じましたが、それはそれとして、スマホに関して「かんたんモード」がいいですかと訊かれました。
それで「かんたんってどういう意味ですか?」と質問しました。
一緒に付き添ってくれていた娘も、あきれたようで、あとで、「お父さんも偏屈になってきたね」と言われてしまいました。

しかし、「かんたん」と言われても何のことかわかりません。
画面の文字が大きくなるとか機能がシンプルになるとか、そんなことと簡単とは関係ないと思うのです。
「かんたん」とは、余計な判断をしなくとも私の思いが実現していくことだと思うのですが、私の思いとは私固有の思いですから、私にとっての「かんたん」と他者にとっての「かんたん」は全く違うはずです。

 もう30年以上前ですが、ある論考で、21世紀の技術思想の一つとして、「デディケーテッド・テクノロジ」という言葉を作ってみました。その時に同じく使った「ナノテクノロジー」はいま普通用語になっていますが、「デディケーテッド・テクノロジ」はまったく使われることはありませんでした。
「デディケーテッド・テクノロジ」に込めた思いは、「かんたん」です。つまり、使い手に取って使いやすいような個人使用の技術、使い手視点の技術という意味です。

作り手が勝手に、これはあなたにとって「かんたん」ですよというのは、傲慢な押し付けでしかありません。そういう発想が、人間を技術に合わせる社会を育ててきてしまっています。技術に合わせて生きることを潔しと思わない私には、とても不快なことなのです。
だからむっとして質問したのですが、娘はそれを知って「偏屈」だと注意したのです。

もっともその時のお店の若者は、そんな私の意図などは気にせずに、非常に素直に受け止めてくれました。最近の若者たちは、実に素直に技術社会を生きているのです。
その姿勢がとてもよかったので、とても気にいって、その後はすべて彼に任せました。
しかし、その結果ですが、新しいスマホには使いにくさがいろいろあります。どうやったら問題が解決するか、お店に訊きに行ったのですが(購入時の人は不在でした)、原因がわからず、電話で問い合わせるように言われて電話しましたが、問題は解決しません。
あの若者がいるときにまた聞きに行かなければいけません。
困ったものです。

 機能が増えればだれにとっても操作が簡単になる方向(ユニバーサルデザイン)で考えるべきですが、いまの技術者や商品開発者にはそういう発想はなく、あまりにプロダクトアウトなのにあきれます。経営の基本はまったくわかっていないと思いますが、「顧客を創る」というドラッカー経営の基本には合っているでしょう。日本企業が落ちこぼれていく理由がわかるような気がします。

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2022/11/17

■大谷選手や大坂なおみ選手には反省してほしいです

暗号資産の大手交換所FTXトレーディングの経営破綻で損害を受けた投資家たちが、FTXの広告に登場していた大谷選手や大坂なおみ選手に対して、損害賠償を提訴したとテレビで報道していました。

大谷選手や大坂なおみ選手に限りませんが、そうした有名人が私企業にしろ政府にしろ、その事業の内容をしっかりと理解せずに「広告塔」として加担する風潮に私は大きな違和感をもっています。

そのことは、統一教会の広告塔になっていた政治家にもつながっていることですが、何かを支援する時には、しっかりと内容を確認したうえで行動してほしいです。

社会的に有名になれば、それなりの「責任」が発生します。
有名であることは、それなりの社会的価値を生み出しますが、その価値は当の個人が勝手に利用できる性格のものではありません。有名人が、何を好み何を応援するかは、社会に大きな影響を持っているからです。
ですから、仮に何かの商品やサービス事業の広告宣伝に登場する場合は、それなりの責任を覚悟すべきだと思います。
「有名」を利用するほうも悪いですが、利用される方はもっと悪いように思います。

スポーツ選手がユニフォームに企業名を入れているのを見るたびに、私は悲しくなりますが、それ以上にやはり、安直に自らを広告手段にせざるを得ないスポーツ選手の現状に恐ろしさを感じます。
私がスポーツ嫌いな理由の一つです。

 

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2022/11/13

■仕事と生活のどちらに基軸をおくのか

昨日、湯島で「在宅ワーク」を切り口にした「働き方を考えるサロン」の2回目を開催しました。1回目は「企業で働くこと」を切り口にしたのですが、この時にも大きな示唆をもらったのですが、今回は、私には「目から鱗」の気づきがありました。
問題提起してくださった山本紀与さん(株式会社キャリア・マム)に感謝です。

サロンの報告は改めて行いますが、その気づきについて少しだけ書き残しておこうと思います。と言ってもたぶん文字にしたら、なにが「気づき」なのかと思われるでしょうが。

私は近代産業革命以来の経済や社会のあり方に違和感を持ち続けてきています。
その基本にあるのは、金銭労働だからです。人間にとって楽しいはずの「働くこと」が、金銭を得るための退屈な「作業労働」に貶められてしまったからです。
生活の場と働く場が切り離され、工場(あるいは事務所)に9時から5時まで集められて、生活から切り離された「仕事」をするのが、そこでの働き方の基本モデルです。
盛んに言われていた日本での「働き方改革」も、その発想の枠の中での取り組みでした。
そこでは、「働くこと」が生きるための目的になっていて、苦肉の策として、ワークライフバランスというおかしな言葉が出てきましたが、所詮は、働くために生きる「生き方」が基本になっていました。

ところが、昨日のサロンで「在宅ワーク」の話をしていて、在宅ワークの発想には、この近代労働モデルを変えていく力があることに気づきました。
つまり、定められた勤務時間に一か所に集められて、生活を忘れて働くのではなく、自分の生活の拠点をホームベースにして、働く時間も生活を基軸に自分で割り振りできる働き方が可能になってきたと言うことです。

私は、「シャドウワーク」とか「アンペイドワーク」という言葉にも違和感を持っています。そうした発想は、金銭経済の思想を基本に考えているからです。
まえに、「お茶くみ仕事」にこそ価値があるということを書きましたが、ほとんどの人はそれに反対していました。私にとっては、そう言う人こそ、金銭至上主義の流れに加担しているように思えているのですが、なかなかそのことは通じ合えません。

働き方を考えていくと、生き方や社会のあり方につながっていきます。
このテーマのサロンは、来年もさらに続けていきたいと思っています。

中途半端な書き込みですみません。
ただ私は、働くことが楽しい社会になってほしいのです。
学ぶことが楽しい社会にも。

 

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2022/10/18

■旧統一教会の存在に対して宗教界からの動きがなぜ出ないのか

政府はようやく、統一教会の解散を視野に入れて動き出すようです。
そもそも統一教会を宗教法人として承認していること自体が私には理解できませんが、統一教会のお世話になってきた政府がどこまでやるかは、あまり期待はできませんが。

しかし、私が一番不思議なのは、宗教界からの動きがほとんど見えてこないことです。
統一教会を宗教法人と捉え、その活動を宗教活動として捉え続けてきたと言うことは、日本の仏教法人やキリスト教法人も同じようなことをやっているということなのだろうと思わざるをえないからです。
いうまでもなく、創価学会も幸福の科学もそうなのでしょう。
もしそうでなければ、もうとっくの昔に、統一教会の宗教法人の是非を問題提起していたはずです。それができなかったのは、あるいは今なおできないのは、自らがそうだからなのだと私には思えてなりません。
金に身を売った宗教ほど醜いものはありません。

日本の宗教界の人たちは、いったい「宗教」をどう定義しているのでしょうか。
知りたいものです。

ちなみに私は、宗教も政治もとても大切なものだと認識していますが、いまの日本の政治組織や宗教組織には共感が全く持てません。

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2022/10/16

■メディアこそメッセージ

書類を整理していたら、40年前の新聞記事の切り抜きが出てきました、
それを見て驚いたのは記事の内容ではなく、文字の小ささです。
新聞の文字の大きさは、何回かにわたって少しずつ大きくなってきていますが、昔はこんなに小さい字だったのかと驚いたのです。
昨日の新聞と比較してみたら、同じ大きさの記事でも文字数は60%の減少です。

私の記憶では、新聞の文字が大きくなるたびに、なんだか情報が荒くなってしまうようで、あまりいい印象は持っていなかったのですが、いまはもうすっかり慣れてしまい、むしろこうした小さい活字記事だと読む気が起きてきません。
慣れというのは意識や感情を大きく変えてしまうわけです。
しかし、6割も文字数が少なくなっているのは驚きです。

私たちに入ってくる間接情報は、新聞だけではなく、ラジオやテレビやネットもありますが、そうしたメディアもどんどん変化してきています。
他者からの情報も、体面での直接の話し合いからネット経由のリモートでの話し合いに変りだしています。
そうしたことが私の意識や無意識に大きな影響を与えているはずです。

メディアこそメッセージという言葉が一時はやりましたが、まさにそうだなと奇妙に納得させられました。
それにしてもこんな小さな文字の新聞を毎日よくまあ読んでいたものだと驚きました。

そういえば書籍の文字も大きくなってきています。
最近でも時々、古い岩波新書を読むのですが、正直、かなり疲れます。

 

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2022/09/21

■大衆の反逆は狂気に向かうか共和に向かうか

私はいま「CWSコモンズ村村長」を勝手に自称しています。
と言っても実体はなにもなく、いまは私の思いだけがあるだけです。
かつて一度、CWSコモンズ村づくりに動き出して、村民も30人近くなったことがあるのですが、村長だった私が離村してしまい、頓挫してしまいました。
http://cws.c.ooco.jp/outline.HTM

CWSはいろいろな意味があるのですが、その一つは「コモンウェルスソサイティ」の略です。CWSコモンズ村が目指していたのは、脱貨幣的なゆるやかな支え合い共同体です。
今もその構想には未練がありますが、一度、村長として失敗、というよりも村民を裏切って投げ出してしまったので、再起を呼びかける勇気がありません。

CWSコモンズ村を構想した背景には、オルテガの「大衆の反逆」がありました。
オルテガは、大衆の可能性と危険性を論じていたと思いますが、私が生きているこの時代は、まさに大衆は岐路にいるようです。

村長から逃げ出していた時に、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの「マルチチュード」を読みました。その後、「コモンウェルス」も。
時代はいい方向に向かいそうだと安堵していました。

ところが、最近、ダグラス・マレーの「西洋の自死」や「大衆の狂気」も読みました。安堵はどうも早とちりだったようです。未来は決して明るくはない。どうも大衆の狂気は、ネット社会と相性がいいようです。

そんなわけで、やはりもう一度、小さくてもいいので、CWSコモンズ村に取り組みたくなりました。しかし、構想力も体力・気力も、あるいは活動資源も、20年前とは大違いです。さてどうしたものか。
でも最近の「生きにくい社会」は変えていきたい気がしています。

一度、サロンをさせてもらおうかと思いだしています。
その節はよろしくお願いします。

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2022/08/12

■「どんな人であれ、殺されていい人なんていません」

アルカイダの指導者アイマン・アルザワヒリ容疑者(71)が731日、アメリカのミサイル攻撃で殺害されました。
この種のニュースが流されるたびに、どうしてこんなことが許されるのか不思議に思います。とりわけ安倍元首相の狙撃事件の後に、こういうニュースが流れると、なぜ一方は「犯罪」で、一方は「犯罪」にならないのか、頭が混乱します。

先日、日本での死刑執行のニュースが流れた時にも、頭が混乱しました。
「どんな人であれ、殺されていい人なんていません」と杉下右京や天樹悠がテレビドラマでよく話していますが、彼らは死刑制度をどう考えて、刑事などの職業をつづけているのでしょうか。彼らの論理で言えば、彼らも「犯罪」に加担しているとは言えないのかとさえ思います。

気のせいか、テレビの犯罪ドラマでは、加害者の犯人に同情したくなるような話が最近多いような気がします。いま放映されている「遺留捜査」では時に涙が出そうになるほど、犯人には哀しい事情があるのです。単純な私としては、刑事よりも犯人に同情したくなることさえありますが、でも、だからと言って、誰かを加害していいわけではありません。
しかし、それを延長していくと、やはり私にはどう考えても、ウクライナ戦争はプーチンだけを責める気にはなれません。

どんな形であれ、人が人を殺めることのない社会になってほしいと思っています。

 

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2022/07/09

■安倍元首相銃撃事件にまず思ったこと

昨日は在宅で、午前中、なんとなくテレビを見ていたのですが、突然に安倍元首相が銃弾に倒れたというニュースが流れました。
以来、テレビはほぼこのニュースで覆われていましたが、午後の予定を変えて、私もずっと見ていました。

阿部元首相の行ってきたことはともかく、政治家を殺める行為は賛成できません。
これまでもなかったわけではありませんが、テレビでその映像が流れるというのは衝撃的です。大学生の頃にテレビで見ていたケネディーのダラス事件を思い出しました。

凶弾に倒れた安倍さんへの心よりの冥福を祈るとともに、日本社会がまた分水嶺を越えてしまわなければいいなと念じました。

半日、テレビを見ていて、感じたことが山のようにあります。
しかし、それはともかく、なぜこうした事件が起こるのか。その背景や理由をしっかりと考えなければいけません。それは私たちの生き方と決して無縁ではありません。

民主主義に対する暴挙は許してはいけないという意見には賛成ですが、だからといって、単に一人の狂人の異常な行為と決めつけることには賛成できません。銃撃者には友人はいなかったのでしょうか。もし不満があれば、それを話す(放す)場はなかったのか。

今朝の朝日新聞で御厨さんが、民主主義を守るためには暴力ではなく言葉でと話していますが、権力者の言葉は時に「暴力」そのものになることもわすれてはなりません。
また、守るべき「民主主義」の実体もしっかりと考えなければいけません。
思考の矛先を間違えてはいけません。
いずれにしろ、「言葉遊び」に終わらせてはいけません。
安倍さんの死を無駄にしないためにも、なぜこんなことが起きたのかをしっかりと考えなければいけないと思います。

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2022/04/15

■言葉に管理される人間から言葉を活用する人間へ

前の記事を書いていて、蛇足的に書いておきたくなったことがあります。
湯島のサロンの宣伝のようなものですが。

人は4000年ほどまえに、ようやく「意識」や「心」を創り出したと言われています。
それまでは、ただただ「自然の存在」として音を発し、行動していた。
音や行動の発信源は、自然現象であり、それを五官を通して、「放し」「離し」「話し」ているうちに、外部のものを「欠き」「描き」「掻く」「書く」ことを身につけ、言葉や文字が生まれてきた。
そして文化や文明が起こってきたわけですが、どうもそれもそろそろ終焉するようです。

「話」も「文字」も、いや「言葉」そのものがすべて、AIの管理のもとで、再び人間の手を離れていくように思います。
つまりかつてそうだったように、言葉がまた人間を管理しだしていく。
第二次バベルの塔革命です。

4月23日に、湯島で「二分心」をテーマにしたサロンを近藤さんがやってくれますが、こういうところまで話が行くかもしれません。
明日予定されている升田さんの万葉集サロンでのテーマも、こういう話を根底において、もう20回目です。升田さんは、万葉集の歌は文字でなく音声で読むことを勧めます。
30日に予定されている細菌学者の益田サロンの今回のテーマは「ものの力と言葉の力」。益田さんは書筆にも興味をお持ちのようで、時々白川静さんの「字通」が話題になります。

そんなわけで、湯島のサロンでは、「言葉に管理される人間から言葉を活用する人間へ」というのが、表には出ていない大きなテーマのひとつなのです。

 

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■「人新生の時代」か「人消失の時代」か

JR東日本の恵比寿駅のロシア語の案内表示が紙で隠されていたことがわかり、SNS上で話題になっていたそうです。JR東日本の経営陣がそんなバカげたことをやるはずもなく、一部の乗客の批判の声を受けて駅長が決断し、それに対するまたまた利用者の声を受けて、駅長が紙をはがしたのだと思います。

こうした事例はいろんなところで起きているのかもしれません。
問題は、誰も何も考えずにただただ目先の問題解決だけに目をやっている状況があまりに拡がっている。
私は、サロンで時々、もう人間はいなくなりつつあるのではないかと口にしてしまいますが、ますますそんな気がしてきています。
「人新生の時代」などとはしゃいでいる人たちも多いですが、「人消失の時代」ではないかと思います。

そういえば、以前にも、ウクライナの人が経営しているロシア料理のお店の看板が壊されたりしたこともありました。
ロシア国家やロシア政府とロシア人やロシア語とはまったく別のものです。
人間として考えれば、そんなことはすぐにわかるでしょう。

私の感覚では、両者はむしろ対立概念ですが、両者の主客関係がどうも逆転し、それにすっかりなじんでしまった人が圧倒的に多くなってしまったのかもしれません。
昨今のワクチンやマスクの状況を見ていると、日本も今やロシアと同じだなと言う気がしてなりません。
いやロシア以上かもしれません。

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