カテゴリー「社会時評」の記事

2019/11/12

■「守る」ことは大切ですが、そこからは何も生まれてきません

私が住んでいる我孫子市はいま市議選の最中です。
昨日、帰宅時に我孫子駅でNHKから国民を守る党が選挙運動をやっていました。
黄色いジャンパーを着た若者たちがチラシを配っていました。

私はアニメの「ミニオン」が大好きで、黄色い服を着た集団が好きだったのですが、昨日から黄色い服を着た集団が嫌いになりました。
駅から自宅への道々、なんだか悲しい気分になり、暗い夜を過ごしました。
どうしてこんなかわいそうな若者たちが増えているのでしょうか。
香港の若者のように、ビジョンを持って立ち向かえないのか。
若者たちがもはや主体性を持たなくなってしまった時代になってしまったのだろうか。

N国党が目指しているのは国民からNHKを守ることではないかと私は思っていますが、なにやら「自民党をぶっ潰す」といって自民党を守った小泉さんを思い出します。
小泉政権から日本は奈落の底へと向かいだしていると思っている私は、こういう動きがますます広がることの先を思うと暗たんたる思いになります。

 これから「朝日新聞から国民を守る党」や「共産党から国民を守る党」など、「〇〇から国民を守る党」といった群れが増えてくのでしょうか。
そのうち、「先生から子どもたちを守る党」とか「親から子どもを守る党」も出てくるかもしれません。

「守る」ことは大切ですが、そこからは何も生まれてきません。
そして「守る」姿勢で生きている先にあるのは、守れなかった世界しかないでしょう。
まさに「茶色の朝」がやってくる。
そう思うと黄色も茶色も似ています。

「NHKから国民を守る党から国民を守る党」をつくらないといけないのかもしれませんが、それではミイラ取りがミイラになってしまい、もはや流れは変えられなくなる。
知性がどんどん失われていく世界に生きていると、やはり人類は退化局面に入ったとしか思えません。
今西錦司さんやミシェル・フーコーのことばを思い出さずにはいられません。

12月の「茶色の朝」シリーズのサロン(BMSサロン)は22日(日曜日)を予定しています。
また案内させていただきます。
社会を黄色、いや茶色一色にしないように、忙しい人にはぜひ参加してほしいです。

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2019/11/05

■「怒らなくなったら人間は堕落します」

松原泰道さんが参加したフォーラムの進行役を務めさせてもらったことがあります。
もう15年以上前の話です。

「腹が立たなかったら人間は堕落します」とは、その松原さんのことばです。
その話をされる時、松原さんは白隠禅師の有名なエピソードを紹介します。

いつもにこにこしている白隠禅師に、ある人が「腹が立つことはないのですか」と訊いたそうです。そうしたら、「人形じゃないから腹は立つよ」と白隠禅師は答え、そしてつづけたそうです。「腹は立つけど怒らんだけだ」と。

そして、松原さんはこういうのです。

「腹が立たなかったら人間は堕落する。たとえば社会の悪に対しては義憤を感じなかったら社会は堕落するでしょう。ただ、そのときに感情のままにキレて怒ってしまうか、あるいは教え諭すべきか、それを考えることが大事だ」と。
これは、松原さんと五木寛之さんの対談に出ている話です。

オリンピックのマラソンが札幌で行われることになりました。
だれかが怒らないのだろうかと思っていましたが、さすがにみんな大人なのか、怒りません。
小池都知事はかなり怒っていたような気もしますが、いささかショー的でした。

マラソン関係者は腹を立てているのがよくわかりました。
しかし結局はみんなものわかりがいいのにいささか失望しました。
そして、松原さんのこの話を思い出して、本を探しだして読み直してみました。

松原さんが否定しているのは、「キレて怒ってしまうこと」です。
しかも「社会の悪に対しては義憤を感じなかったら社会は堕落する」とも書いています。

そして改めて、社会は堕落に向かっているなと思いました。
腹を立てたら冷静に怒らなければいけません。
そうでないと人間は堕落し、社会も堕落する。

松原さんはもう亡くなっていますが、この文章は、「怒らなくなったら人間は堕落します」と直すべきではないかと思います。
松原さんも、いつもにこにこしている人だったように思います。
幸せな時代に、幸せな環境で生きていたのでしょう。

 

 

 

 

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2019/10/31

■「都合のいい現実」が作られる非情報化社会

「さんまの内臓はやはり私には向いていません」の話をフェイスブックにも書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2019/10/post-e352c5.html

そしたらいろんなコメントをもらいました。
それでまとめて、返信コメントを書きました。
ブログにも書いておきます。
もともとのコメントが書いていないので、わかりにくいかもしれませんが。

サンマの話に関して、いろんな人からコメントをもらいました。
みなさん、ありがとうございます。

私もサンマの不漁と高値はテレビで知っていました。
昨日、サンマを買った近くのスーパー(「カスミ」です)でも一時期は200円でした。
それも小ぶりでした。
その時も食べましたが、今週になって安くなりました。
私の考えでは、サンマの不漁と市場への出回りや価格とは、絶対的な関係はないのです。

私の懸念は、自分で実際に確認する前にテレビなどで知ってしまったことが「現実」に大きな影響を与えることです。
スーパーで、今年はサンマが高いと気づく前に、今年はサンマが高いと思い込んでしまうことです。
一度、テレビで情報をインプットされると、それに呪縛されて、現実が見えなくなることが少なくないのはないか。
そして誰かが意図した「都合のいい現実」を作り上げていってしまう。

サンマの例ではさほど問題は起きないでしょう。
でもそれが、原発の安全性だったり、原発の危険性だったりすると、どうでしょう。
あるいは自殺者が減ったとか増えたとかいう話はどうでしょう。
前川文部次官(当時)についてはどうでしょう。
もっと身近で言えば、5人に1人が認知症になるという言説はどうでしょう。

私は、自分で確かめられないことにはできるだけ疑問を持ち続けるようにしています。
だから二酸化炭素による地球温暖化も長く受け入れられませんでした。

前に書きましたが、放射能で汚染能で汚染された土壌の除染の実験をやった時、その結果に関して、質量不変の法則に反するから信じられないと参加者のほとんどから言われました。
私は、質量不変の法則も「絶対視」していませんので、その実験の結果に興味を持ちました。
そのために多くの人からは信頼を失ってしまったかもしれません。

サンマの話からやけに大きな話題になってしまいましたが、それが私の今回の関心事でした。
娘に訊いたら、今日は同じお店で、サンマは128円だったそうです。
サンマもキャベツも、高いときもあれば安い時もある。
それが経済です。

ところでhashidaさんが, 気仙沼が近い仙台なのに、東京の方が安いのは何故でしょうね、と書いていますが、そこに現在の経済システムの問題があるように思います。
気仙沼で遠洋漁業をやっている臼福本店の臼井壮太朗さんから前に聞いた話ですが、気仙沼で撮れる魚を地元の小学校で給食に使っていないのに違和感を持って、働きかけて給食で食べるようになったそうです。
その話を聞いて、私は一度しか会ったことのない臼井さんのファンになりました。

地産地消の出発点は、こどもたちにきちんと地のものを食べる文化を取り戻すことです。
一番良いものは、その地域を背負う子どもたちに食べてもらうべきで、赤坂の料亭に卸すような不埒なことは、たとえ金のため出世のため、あるいは地域活性化や地域のブランディングのためになろうとも、やってはいけません。

 

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■さんまの内臓はやはり私には向いていません

「チコちゃんに叱られる」を、見ている人は多いようです。
一昨日も、2人の人からあることを訊かれました。

サンマの内臓がおいしいのはなぜか知っていますか?
薬が苦いのはなぜか知っていますか?

私も、それを取り上げた「チコちゃんに叱られる」を見ていたので、知っていました。

 まあ、私がチコちゃんの答えに納得しているわけではありませんが、それはともかく、テレビの影響のすごさにはいつも驚きます。
それで急にサンマの内臓を食べたくなって(私は基本的に食べません)、昨日、娘たちと出かけていた帰りに、近くのスーパーで買ってきました。
今年は生サンマが不漁というテレビを見ていた人から、先週、生サンマが最近はスーパーにない上に高いという話を聴いていましたが、わが家の近くのスーパーでは例年のように98円で売っていました。
もちろん「生サンマ」です。
テレビ情報のほうが現実よりもみんなには影響を与えていることを、ここでも感じました。
私に生サンマが少ないという話をしてくれたのは男性で、たぶん自分ではスーパーに入っていないのでしょう。
彼の世界はテレビやネット情報で構築されているのです。

まさに私がかつて考えていた「非情報化革命」によって、みんな現実界から遠ざかられてしまったのです。
http://cws.c.ooco.jp/antiinfo.htm

ところで、サンマの内臓です。
私の結論はやはり「おいしくない」です。
娘も内臓は嫌いだそうですが、酒飲みではないからではないかというのが娘の意見でした。
これからも私はたぶんサンマの内臓は食べないでしょう。

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2019/10/23

■廃棄物の山の向うに見えること

同じ情景を見てもどうも、少し違う世界を見てしまうことがあります。
正確に言えば、見ている世界の向こうに見えてきてしまうことがある。

この頃、むしろその「向こうの世界」のほうが強く見えてしまうようになってしまいました。
困ったものです。
そうなると、被災者や被害者、あるいは当事者に、なかなか「寄り添う」ことができなくなってくる。
いや、そもそも「寄り添う」と一体何なのだろうかとわからなくなってくる。
昨日また「寄り添う」という言葉を何度か聞いていて、考えてしまいました。

たとえば、台風の被災者が出す廃棄物の山がテレビによく出てきます。
被災者は大変だなという思いと同時に、どうしてみんなこんなにいとも簡単に捨ててしまうのかという思いが出てきてしまう。

こんなことを言ったら、実際に被災した人にはとても「寄り添えない」し、みんなからもひんしゅくを買うでしょう。
そんなことを考えている暇があれば、現地に行って、かたづけを手伝えと言われそうです。

でも、廃棄物の山を見ていると、廃棄されたものたちの悲しさが伝わってきます。
もっと生かしてやれないものなのか。
いや、きちんと大事に使われていたのだろうか。

たとえば、水につかった畳の山がある。
乾かして燃やして畑に戻してやれないのか。
なんで水につかっただけで壊れてしまう家電製品を大量生産しているのか。
むかしの人もこんな感じで、物と付き合ってきたのか。

「断捨離」とか「捨てる技術」などということがはやっているようですが、私にはとても共感できる言葉ではありません。
「物との関係性」を大事にしない人は、たぶん「人との関係性」も大事にはしないでしょう。
それに気づけば、そう気安く、「断捨離」とか「捨てる技術」とか言えないのではないか。
前から書いているように、私はそろそろみんな「消費者」から卒業して「生活者」になっていく必要があるのではないかと思うのです。

廃棄物の山を見ていると、何とも情けない。
これでまた「経済成長」のタネが生まれたと思っている人の顔まで見えてきてしまう。
台風襲来の前にスーパーから食料がなくなった写真をアップしましたが、廃棄物の山は、それとつながっているような気がします。

生き方を問い直したいです。

 

 

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2019/10/14

■大型台風襲来で考えたことの一部

大型台風が連続して関東に上陸しています。
とりわけ15号台風の被害は深刻で、今なお生活に苦労している被災者も少なくありません。
そこにさらに大型の19号台風。
千葉の教訓もあるのか、報道の対応も政府の対応も、そして国民の台風も大きく変化したような気がします。
そしてそうしたことに、国家のあり方を考える材料がたくさんあるように思います。

私は今回の台風に関しては、危惧と疑問を強く感じています。

一番残念だったのは、相変わらずこの国は「自己責任」主義国家なのだということです。
自らの命は自分で守ってください、台風の備えは自分でしたくださいと繰り返し叫ぶテレビにおそらくほとんどの人は洗脳されて、前に書いたようにパンとラーメンを買いあさったのでしょう。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2019/10/post-be31de.html
これはある意味での国家責任の放棄ではないかと思いますが、まだ多くの人は自己責任に疑問を待っていないような気がするのです。

また誤解されそうですので、蛇足を追加すれば、自己責任は当然のことです。
しかし、「自己責任」だけでは生きていけないので、私たちはそれ(自己責任)をベースに社会や国家をつくっているわけです。
自己責任ですべてがうまくいくなら、国家など不要です。
国民の自己責任を言うなら、まずは自ら(政府、行政、マスコミ)の責任を考えろと言いたくなります。

強く感じた疑問は、それにつながります。
これほど強く自己責任を国民に問いながら、政府や行政はどれだけの備えをしているのだろうかという疑問です。
マスコミは、それをほとんど伝えてきませんし、それを政府に問うこともない。
15号台風の千葉の被災に関して、その後もほとんど何も変わっていないのではないかと思えるほど、マスコミは問題を明らかにしていません。

今回、私が一番疑問に思ったのは、城山ダムの放流の件です。
放流がずるずると遅らされていましたが、これだけの大雨予測がかなり前から報道されていたのに、どうして事前にダムを空にしておかなかったのかという疑問です。
すでに台風が近づき雨が降り始めているので、まだ放流時間を議論している。
まだやっていないのであれば、すぐに放流しろよと思いました。
早ければ早いほど貯水能力を高められるし、河川流域の住民にも危険を実感させられるうえに、その気になれば河川決壊の危険個所も探知できるかもしれません。
テレビを観ていて、これほどいらいらしたことはありません。

もう一つの疑問は、河川決壊に関する備えを行政はきちんとやっていなかったのではないかということです。
多摩川の決壊で、すぐ近くの福祉施設やマンションが水浸しになり死者まで出ました。
1週間近く前から今回の大型台風が予想されていたのであれば、河川決壊の可能性はわかっていたはずですから対策は立てられたでしょう。
堤防を補強するのは難しいとしても、そのおそれがあるところは把握できているはずです。
できていないとすれば、先年の常総市の体験を無駄にしているとしか言えません。

もし危険性の高い場所がわかっていたのであれば、その周辺の人に周知するだけではなく、シミュレーションによって1階まで水没しそうなところに関しては、万一に備えての対策をとれたはずではないかという疑問です。
当日、自衛隊などが危険性の高いところに事前に機材を持ち込んでの配備をしていたような様子もテレビで見ましたが、もっと前から準備ができたはずです。
もちろんあまりにも広域ですから、そんなことはできないと言われそうですが、「できない」といったとたんにすべては終わります。

国家の最大の使命は国民の安全を守ることだと思っている私は、今回の大型台風に関しては、政府は国民に危険を煽るのには熱心でしたが自らはあまり熱心に取り組んでいなかったのではないかと思えて仕方ありません。
相変わらずの各地での河川決壊も「数十年に1度の大型台風」だからといって、行政や政府の対応がまたきちんと検討されずに終わってしまっては、また次回も同じことになりかねないのではないか、と危惧しています。

フクシマの原発事故が「想定外の津波」だったというわけのわからない理由で見過ごされたような構造が、今回も繰り返されているような気がします。
国家の目的は何かを、もっとみんな真剣に考えるべきです。

*昨日フェイスブックに投稿しましたが、反論も多かったので、ブログにも載せることにしました。

 

 

 

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2019/10/11

■台風特需

大型台風襲来で、テレビは昨日から関東地区では明日は外出はやめるようにと呼びかけが続いています。
私も12日に予定していたサロンを1日延ばしましたが、この2日間の、いささか異常なほどのテレビ報道には逆に何か嫌な気がします。
外出までもテレビの指示を仰ぐようになってしまったのかと思うわけです。

でもまあ、そのおかげで、事前に会社やお店が休業しやすくなり、交通機関も運転中止になるというのであれば、それはいいことです。
しかし、テレビが買い物まで煽るのには違和感があります。
そんな「煽り」に乗る人は少ないだろうと思っていました。
ところが、夕方、近くのスーパーに買い物に行った娘からパン売り場の写真が送られてきました。
写真を見て愕然としました。
食料品はほとんどなくなっているそうです。
こんな風景は見たことがありません。

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そういえば、今日は外出していたのですが、帰宅の車の中でどこのガソリンスタンドも長い列なのに驚きました。
そしてこの写真。
大昔の、トイレットペーパー騒ぎを思い出します。
日本人は相変わらず貧しい時代を生きているようです。
みんな大きな不安の中で生きているのでしょうか。

ちなみに、わが家は、2~3日は何も食べなくてもどうにかなるだろうという考えなので、特に食料の買いだめはしていません。
物を蓄えるよりも、生きる力をふだんから蓄えるようにしています。

娘も、テレビが「煽りすぎ」と書いていました。
めずらしく娘と意見が一致しましたが、この写真のような売り場の風景を見たら、不安に駆られて、残っている物を買ってしまうのが人の常かもしれません。
まあ私の娘は、決してそんな行動はとらないでしょうが。
しかし、いつかそれが命取りになるかもしれない社会が来るかもしれません。
貧しい社会はますます貧しくなっていくのでしょうか。

 

 

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2019/10/04

■贈与の暴力性

湯島のサロンでは「贈与」をテーマにしたサロンも何回か行ってきましたが、基本的には「贈与」に好意的なイメージをおきながらサロンしてきました。
ところが、むしろ問題は「贈与の暴力性」かもしれないと思いださせたのは、今回の関西電力の事件でした。

事件の概要は改めて書く必要はないと思いますが、高浜町の元助役が関西電力の経営幹部に巨額な「贈与」を行い、その贈与を断りきれずに関西電力の経営者たちが元助役に使役されてきたという事件です。

その事件の釈明を求められての関西電力経営陣の記者会見は、こうしてみんな人間を辞めていくのだろうなと思わせるものでした。
彼らの発言は、自らを失った抜け殻の人間もどきの発言でしかありませんでした。
自分たちが何をやったのかがわかっていないのです。
私には同情を禁じ得ませんでした。

たとえば、「金品を渡された者は受け取る理由はないと考え、返却を申し出たが、『ワシを軽く見るなよ』などと激高されてしまった」、と彼らは言っています。
つまり彼らは元助役を重く見ていたわけです。
だから家族の安全までも驚かされながらも、彼らを裏切ることができないほど、元助役グループに服従していたわけです。

私の判断基準からすれば、明らかな「ゾンビ族」です。
昨今の日本ではゾンビ族はめずらしい存在ではないので、驚きはしませんが。

たった数億円、時には数十万円のお金で自分を売ってしまうほど人間は弱いのでしょうか。
たぶん弱いのです。
その理由を、マルセル・モースやモーリス・ゴドリエは、その著書で解き明かしています。
私はしかし、今まで「贈与論」や「贈与の謎」を、暴力の持つそうした暴力性を逆にうまく活かしてきたし、さらにこれから活かしていけるというメッセージと受け止めてきました。
しかし、どうもそれは考え直す必要がありそうです。

モーリス・ゴドリエは「贈与の謎」で、暴力ほどではないが贈与もまた階層制の中での地位の変更に力をもっていると指摘した後で、「この世紀未の状況にあって、今や再び、今度は社会問題の解決の援助手段として気前のよい贈与、《返報なき》贈与が必須とされている」と20世紀末に書いています。
さらに、モースが贈与は「それを受けとる人々の心を傷つける」と判断していたが、現在では隣人愛組織は数を増している」と書いていることにも注目しています。
それは、贈与の脱暴力性を示唆しています。

そもそも贈与の語源につながるギフト(gift)という言葉には、「贈り物」という意味に合わせて「毒」という意味もあります。
そしてモースもまた、「贈与」には平和性と暴力性とが混ざり合っていると警告していました。
「贈ること、贈られた物をもらうことは、贈る側にとっても、もらう側にとっても賭けなのだ。そのような危険な賭けを通じて、集団どうしは「つきあう」ことになる」とモースは書いていますが、常に「危険」があるからこそ平和があるという私の考えから言えば、とても納得できます。
しかし、暴力性が強くなり、人間を過剰に貶めるようなことがあれば、話は別です。

今回の関西電力に象徴されている現象は、たぶんもう私のすぐ隣にまで展開されているのでしょう。
いつ私が感染するかもしれません。

私は一方的な贈与、つまり交換と切り離された贈与を素直に受ける生き方を選んでいます。
理屈っぽくいえば、お布施の論理のように、贈与を受け取ることこそが相手への私の贈与行為と考えているのです。
そして自分では背負いきれない贈与は、ていねいにお断りしているつもりです。
しかし、とはいうものの、贈与が生み出す義務意識から完全に解放されているわけでもありません。

もちろん私に贈与してくれる人たちは、元助役のような悪意は微塵も持っていません。
にもかかわらず、積み重なるとなぜか負担感が生まれてしまう。
これはどうしようもありません。
それが人間の弱味であり、社会を生み出す力なのでしょう。

ゾンビにならないように、言行不一致にならないように、自分を生きなければいけません。

 

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2019/10/03

■権力は腐敗などしません

関西電力、全日本テコンドー協会などがマスコミをにぎわせています。
私には、いずれも「事件」ではなく「日常」「常態」にしか思えないので、そんな話を今さら大仰に取り上げたり、騒いだりしている世間のほうにこそ驚きを感じます。

そもそも報道関係者やその世界の人には周知のことでしょうし、関西電力に限らずすべての電力会社やテコンドー協会に限らずすべてのスポーツ団体に多かれ少なかれ存在していることはこの数年で明らかになってきているはずです。
などというと、反発されそうですので、個別問題への言及はやめて一般論を書きます。

『自由の歴史』を著したイギリスの歴史家ジョン・アクトンは、「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する」と言いました。
いまでもよく「権力は腐敗する」という言葉はよく聞きます。
私は、この言葉にみんなだまされているように思っています。

権力は腐敗などせず、どんどん強固になっていきます。
権力は腐敗するのではなく、腐敗が権力を生み出すのです。
発想を変えなければいけません。

権力を持つと精神が堕落し、悪徳に抵抗を感じなくなるということが、権力は腐敗する意味だとされますが、これも逆だと言えば、もう少しわかりやすいと思います。
悪徳にマヒし、精神が堕落することから権力が生まれていくと考えればそう違和感はないでしょう。
話題になっている「事件」の関係者は、たぶん自らが腐敗しているなどとは思っていなかったでしょう。
悪徳にマヒし、精神は堕落、というよりも、失っていたのです。
だからどうして自分が責められているか理解できないでいるでしょう。

今回の関電事件は、そうしたことをとてもわかりやすく教えてくれます。
腐敗がなければ権力は生まれません。
ではなぜ腐敗が是認されるのか。
それは、人は腐敗に惹かれるからではないかと思います。
そして、多くの人は権力を望み、それが無理ならそのおこぼれに預かろうと思う。
「おこぼれ」は、多くの場合、割には合わないはずですが、罪悪感をあまり持たずに済むところで、人はだまされてしまう。

権力は腐敗しません。
腐敗はさらに強固になり増殖していく。
その汚染から身を守るのは権力に近づかないことかもしれません。
決して黄金の入った菓子箱などを欲しいなどと思わないことです。

しかし、うっかり受け取ってしまうことがあるのが現代です。
「贈与」の恐ろしさを、改めて考えなければいけません。

 

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2019/08/29

■チョ・グクさんの疑惑問題は日本では日常的なことでしょう

テレビでは、GSOMIA破棄報道が終わったかと思ったら、今度は韓国の文大統領側近のチョ・グクさんの疑惑問題がにぎやかです。

私には、日本ではすでに日常化しているような話題なのに、どうしてこんなに詳しく熱心に報道するのか理解できないのですが、日本の同様な事件を報道できないので、その代償行為として報道しているのだろうと考えると、ちょっと納得できます。

しかし、チョ・グクさんの疑惑問題などは、たとえば、総理大臣夫妻による森友疑惑に比べれば、銅でもいいような話としか思えません。
それにしても、日本のテレビは韓国が嫌いですね。

日本のテレビが嫌いなのは韓国だけではなく、トランプ大統領も嫌いのようです。
私は、これまでの大きな歴史の流れに異議申し立てしたトランプ政権には好意的です。
ほとんどの人が、トランプの発言をおかしいと思っているようですが、素直に考えればほとんどが納得できる話です。
最大の功績はTPPつぶしだったと思いますが、あれで金融資本の世界支配の流れはちょっと止まったような気がします。

思考の枠組みや基準を変えると世界はまったく違って見えてきます。
世情に出回っている知識が多すぎると実際はその年企業をまき散らしているマスコミとそれを牛耳っている政権と同じ世界から抜け出られません。
安倍政権を批判する私の友人たちも、結局は安倍さんの同じ価値観で世界を見ていると思えることが少なくありません。

先入観を捨てて世界を見ることは、とても難しいです。
たとえばマスコミの価値評価を反転させて世界を見ると、気づかされることは少なくありません。
間接的な報道はむやみに信じないことも大切です。
私は基本的に自分で直接見聞したことを基準にして考えるようにしています。

しかし、それよりも効果的なのは、自らの素朴な価値観や日常生活を大切にすることです。
もっともこれが一番難しいかもしれません。

 

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