カテゴリー「社会時評」の記事

2017/09/25

■「亜由未が教えてくれたこと 障害者の妹を撮る」


昨夜のNHKスペシャルで「亜由未が教えてくれたこと 障害者の妹を撮る」というドキュメントが放映されました。
NHKの26歳のディレクター(坂川裕野さん)が、自分の妹を1か月介助して感じたことを映像で見せてくれました。
「障害者は不幸をつくるだけ」という、あの忌まわしい相模原市の事件を起こした青年の発言への、一つの回答です。
坂川さん自身はもちろんですが、家族みんなが実に素直に、その思いを見せてくれました。

障害者をテーマにした番組は、その多くがどこか肩に力が入っている気がして、見ていて疲れることも多いのですが、この番組はとても素直に、そしてとても共感を持ってみることができたばかりでなく、押しつけの姿勢が全くなかったので、素直に反応しながら、いろいろと思いを広げることができました。

再放送があります。
9月27日午前0時10分から、つまり26日の深夜の放映です。
簡単な番組紹介は下記にあります。
ぜひ多くの人に見ていただきたいです。
いつか坂川さんに会いたいです。
http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2017-09-24&ch=21&eid=09352&f=46

という内容をフェイスブックに書きこみました。
そうしたらなんと友人から、こんなコメントが来ました。

亜由未ちゃんのお母さんが、わたしの大学時代の同級生で!!、仲良くしていたのですが、30年近く前に連絡が途絶えていて、もう会えないのかと思っていました。昨夜テレビを見ていた西川さんから連絡が入り、めでたくつながることができました。深夜までおしゃべりしていました。^^ お母さん、ぜひ呼んでください。めっちゃパワフル&楽しい方です!!

そして、「あゆちゃんち」というFBページをおしえてもらいました。
さらにそこに書きこまれた亜由未ちゃんのお母さんのコメントを教えてくれました。
ぜひ読んでみてください。
これだけでも多くの人に読んでほしいです。
https://www.facebook.com/ayuchanchi/photos/a.489864241116030.1073741829.488057837963337/1039002972868818/?type=3&theater


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/09/11

■目黒のさんま祭の報道を見て、いつも思うこと

毎年、目黒のさんま祭の報道を見ていて、2つの思いを持ちます。
一つは美味しそうで食べたいなという自然な気持ち。
もう一つは、ちょっと工夫するだけで社会的な活動になるのになという思いです。

テレビでは、昨日は7000匹が無料で提供されたとあります。
いつも思うのですが、なんで無料なのかというところが以前からまったく理解できないのです。
たとえば、1匹100円で提供したとすれば、70万円が集まります。
70万円集まれば、社会的な活動ができるでしょうし、フードバンクや子ども食堂的な活動に支援できます。
障害者支援にも環境保全活動にも、その使途はいろいろとあります。
いや70万円が重要なのでなく、みんなが楽しみながら、社会をよくしていくことにちょっと役に立てる場になるということです。

100円といえども払えない人もいるでしょう。
しかしテレビで見ている限り、集まっている多くの人は、楽しみたいのではないかと思います。
であれば、そこにちょっとでも「だれかの役に立てる」という要素が入れば、楽しみは倍増するでしょう。
100円で買うということに抵抗感を持つ人もいるかもしれません。
そうであれば、会場のどこかに箱を置いて、お金が払える人はお金を自由に入れるのはどうでしょうか。
基本は100円にしてもいいですが、実際には1円でも、「ありがとう」と書いたメモでも、100万円でも、その人の気持を布施するのはどうでしょう。
お祭りは、富の再配分の機能を持っていたはずですので、ますますお祭り気分は高まるような気がします。

食べ物を無償で配布するという感覚が私にはどうしてもなじめないのです。
無料でもらったさんまが粗末に扱われないかも気になりますが、もっと食べ物を大事にしたいと思うのです。
いつもそんなことを考えながら、このニュースを見ています。

似たような思いを持つニュースは少なくありません。
もっと食べ物を大事にしたいといつも思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/09/05

■大衆の時代の憂鬱

先月、久しぶりにオルテガの「大衆の反逆」を読み直しました。
前にも2回ほど読んでいますが、今回が一番共感できました。
私もだいぶ保守的になってきたのかもしれません。

オルテガの大衆観をいくつか書き出してみます。

大衆とは、自分に対して特別の要求を持たない人々、生きるということが現在の自分の姿の繰り返し以外のなにものでもなく、自己完成への努力を自ら進んではしようとしない人々のことである。

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずること喜びを見出しているすべての人のことである。

大衆人は他の人々が建設し蓄積してきたもの否定しながら、いまだにその自分が否定しているものによって生きている。

なんだか自画像とも重なってくるような気がして、心が滅入ります。
以前読んだ時には、かなりの反発もあって、自分はオルテガが言うところの「大衆」ではないと勝手に思っていたものです。
しかし、まあ今にして思えば、典型的な大衆人です。

オルテガを引き合いに出すまでもなく、近代は大衆が豊かになった時代です。
しかし、大衆の豊かさは、政治の自己中心化を進め、短期志向を生み出します。
それはまた、経済優先から金銭重視へと生活を変質させてきました。
豊かさの概念が、そこでは大きく変質していますが、みんなどこかで少しは気にしているものの、その流れから抜け出そうとはしません。
お金がないからできない、理想はともかくお金がなければ生きていけない、とみんな言います。
パンよりもバラだろうという人はめったにいません。
しかし、パンだけの人生に何の意味があるのか。
ウィリアム・モリスは、「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」と言いましたが、バラでなくとも、野の花でもいい。
それに野の花は独占しなくてもいいのです。
気をつければ、まわりに見えてくる。

オルテガの「自分が否定しているものによって生きている」という指摘にも身が縮みます。
原発を否定しながら、電力の恩恵を手放せてはいません。
安倍政権には批判的ですが、その恩恵も受けています。

大衆の時代は、いかにも憂鬱です。
オルテガなど読まなければよかったと後悔しています。
困ったものですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/09/02

■カフェサロン「食はしあわせのたね」報告

「食」を切り口に、「人がつながるしあわせ」をテーマにした高石さんのサロンは、気づかされることがとても多かったです。
福祉の原点を問い直される気がしました。
食は生きることの基本ですが、文化の起点でもあります。
たくさんの人に聞いてほしいお話がたくさんありました。

高石さんは、学校の先生を辞めて、「ゆいの家」という活動に取り組まれだしたのですが、先生時代に体験した「食の大切さ」の話から、いま取り組んでいる活動まで、具体的な事例も交えてとてもわかりやすく話してくれました。
現在は、「食」からしあわせの種まきをするために「食からの未病学」を立ち上げて、料理教室や講演活動などをされていますが、未病のための陰陽講座のさわりの話もしてくださいました。

高石さんは、食のあり方次第で、生活や言動が変わってくること、食を通じて人の関係が変わり、まさに食は「幸せ」につながっていることを、たくさん体験されています。
「食」は単に栄養補給だけではなく、もっと大きな意味をもっています。
しかし、昨今の状況は、そうした「食」のもつ豊かな意味が軽視されているのではないかと高石さんは言います。
運動会での給食の話や、子どもたちが自分たちで食事をつくるという学校の活動の話なども出ましたが、お聞きしていて、食を通して、学校での「いじめ」や不登校などの問題も、あるいは先生たちの悩みの多くも、解決できるのではないかと思いました。

学校に限りません。
家庭においても職場においても同じことかもしれません。
一緒に食事をすることの意味はとても大きいですが、最近は「孤食」も増えてきています。
とてももったいない話だと思います。
せっかくの「食」の役割を、活かせていない社会になってきているのではないか。
「食」を通じて、社会の実相が高石さんには見えているのでしょう。

高石さんは食の意味を3つあげました。
「料理も食もほんらいとても楽しいこと」
「食は自分にとっての最高の主治医であること」
「食を通して人は豊かにつながれること」
お話を聞いていて、とても共感しました。

福祉分野で活動している参加者の方たちも、食の効用を話してくれました。
企業に関わっている人は、食を通じてコミュニケーションが豊かになった事例を話してくれました。
食の効用はたくさんあります。
ただ「食べるだけの食」にしておくのはもったいない。
時間の都合で遅れてきて参加してくださったのがマクロビオティックに取り組んでいるおふたりです。
一度、湯島でもサロンをしてもらったことがありますが、いよいよ京都で活動を開始するそうです。
今回は、たまたま東京に来ていた青森の薬剤師の方も参加してくださいましたが、サロンの始まる前に聞いた「薬剤師」のお仕事のお話はとても共感できるものがありました。
薬も食と深くつながっていますが、薬剤師の人にもぜひサロンをやってほしくなりました。
どなたかやってくれませんか。

高石さんのメッセージは、高石さんのブログでも読み取れます。
http://www.at-ml.jp/70023/%E3%80%8C%E9%A3%9F%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E6%9C%AA%E7%97%85%E5%AD%A6%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%AF/
ご関心のある方はお読みください。

ゆっくりしたサロンでしたが、考えさせられることが多く、私自身少し食のあり方が変わりそうです。
Takaishi20170902


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/08/28

■8・26原発いらない茨城アクション‎に参加しました

茨城県の東海村で行われた「8・26原発いらない茨城アクション」に一昨日参加しました。
私にとっては、久しぶりにデモ参加です。
暑い日でしたが、なんとか無事に戻ってきました。

最近、デモという活動にいささかの疑問を持ち出しているのに、今回行こうと思ったのは、友人が行くというので一緒なら大丈夫だろうと思ったからですが、実はもう一つ理由がありました。
東海原発が私の反原発の起点だったことです。

東海原発のたぶん2号機が建設されている時に、見学に行ったことがあります。
当時は私はまだ会社にいて、新事業の企画などのためにいろんな情報を集めていた活動の一環でした。
まだ大江健三郎さんでさえ、原子力の平和利用に期待を表明していた頃です。
しかし東海原発を見せてもらって、大きな違和感を持ちました。
正確には覚えていませんが、ある作業は被曝状況下で作業しなければいけない場所があり、その作業は「季節工」がやっているという話でした。
話の内容から、明らかに「人の使い捨て」という印象を受けました。
私が反原発になった起点です。

そこから原子力の平和利用について本を読みだしました。
それ以前から、パグウォッシュ会議などでの動きは関心を持っていましたのですが、原子力の平和利用への疑問が大きくなってきました。
原爆と原発は、所詮は同じではないかと気づいたのです。
いずれも人間の管理下には置けないものです。

そんな思いもあって、東海村に出かけて行ったのです。
現地で折原さんに会い、一緒に参加しました。
折原さんは、川内原発にも2度ほど行っていますし、巻町の原発に関わる住民投票のことも調べられています。

会場に着いたら、ちょうど集会が始まるところでした。
参加者は思ったよりも少なく、主催者の発表によれば1100人でした。
福島からも「原発いらない福島の女たち」の方が参加し、スピーチをしてくれました。
とても共感できる内容で、もっとたくさんの人に聞いてほしかったです。
集会の後、日本原電に向かい、その敷地を囲んだ人間の鎖をつくり、原電に向かってコールしました。
そこに向かう途中、何人かの人と話しました。
北茨城から参加した遊座さんはソーラーに取り組んでいる方ですが、ソーラーのほうがコストが格段に安いのがなぜ伝わらないか残念だと嘆いていました。
取手から来た寺田さんは安保法制デモ以来、いまも国会デモに参加しているそうです。
安倍政権を支持する人がなんで多いのか不思議がっていました。
土浦で放射線測定活動をしている村上さんは、罪滅ぼしです、と言っていました。
昔、動燃にいたのだそうです。

若い世代の人が少なかったのが残念でしたが、個人的に参加している中高年世代の人たちが多かったのが、まさに現実を象徴しているような気がしました。
若い世代の人たちは、余裕がないのかもしれません。
それが一番恐ろしいのですが。

東海村でこうした活動が行われるのは5年ぶりだそうです。
事務局によれば、1000人を超える反原発活動は東海村では初めてなのだそうです。
茨城県で住民主役のまちづくりに関わっていた時に、東海村は原発があるために財政が豊かで住民運動が起こらないという話を聞いていました。
その東海村で、住民たちが中心になって起こしたアクションです。
とても手づくりっぽくて、それがまた私には好感が持てました。
とても穏やかなデモでしたが、とても暑く、同行した折原さんが熱中症対策で私に水を飲めと時々言ってくれたので、なんとかしのげました。
たまにはデモもいいものです。
でもやはり国会前のデモには行く気はまだ起こりません。

帰ってきたら、我孫子は駅前でカッパ祭りの踊りをやっていました。
なんだか「ソドムとゴモラ」を思い出してしまいましたが、それはやはり「ひがみ」というべきでしょう。
若い世代は、デモどころではなく、生きるのが精いっぱいで、休日はデモではなく、カッパ祭りの方を優先するのも、残念ながら現実です。
たぶん私たち世代の生き方が、間違っていたのだろうと、思わざるを得ません。

疲れましたが、いろんなことに気づかせてもらえました。
その気にさせてくれた折原さんに感謝しなければいけません。
Toukai01


Toukai02


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/08/10

■居場所をテーマにした「みんなのゆる~いカフェ」報告

久しぶりに平日の夜開催した「みんなのゆる~いカフェ」(みんカフェ)は、18人のにぎやかなサロンになりました。
今回は、自分の居場所を実感できるような「ほっとできる場」を探しているモモさんからのリクエストで開いたので、「居場所」をテーマにしました。
湯島が初めての人も数名参加してくれました。
居場所など山のように持っているだろうと思われる人も来てくれましたが、おかげで「居場所」に関する私のイメージもとても広がりました。

最初は自己紹介も含めた雑談をしていましたが、だいたい集まったところで、モモさんから、「こんな場所があったらいいな」という話をしてもらいました。
そこから「居場所」や「生きづらさ」などをそれぞれが話し出しました。
みんな自分の問題として語ることを、湯島では大切にしていますが、今回は見事なほどにみんな自分を語っていたように思います。
改めて感じたのは、みんな実に誠実に生きているということです。

いろんな意味で「生きていくうえでの障害」の度合いの高い人にとって住みやすい社会になってきているかどうかに関しては、インフラや人々の意識という点では、いい方向に向かっているという話がある一方で、人のつながりが弱くなっていることや社会の流れに「優生思想」を感ずるという話も出ました。

モモさんは、みんなに迷惑をかけてはいけないという思いが強くて、なかなか外出できない人なのですが、迷惑をかけるということについても、いろんな話が出ました。
そもそも誰かに迷惑をかけないで生きられる人などいるはずもないのですが、もしかしたら「迷惑をかけてはいけない」という思いが、「障害」の原因なのかもしれません。
「障害」とは、そうした意識が生み出すものかもしれません。

湯島のサロンは、いろんな人が比較的に素直になれる場だと思いますが、今回は自らが、あるいは家族が「発達障害」「LGBT」だと話す人も多く、それがまたまったく違和感なく語られていました。
自助グループ(self-help group)の価値は私も理解していますが、それだけではむしろ社会が分断されていきます。
障害者と健常者、マイノリティとマジョリティという捉え方にも、私は大きな違和感があります。
人間はつまるところ、みんなそれぞれに生きづらさをかかえている弱い存在です。
自らの弱さに気づけば、他者の弱さを思う気持ちも生まれます。
世の中には障害者も健常者もいない。
言い方を変えれば、みんな障害者で健常者なのです。
そういう意味で、障害を持つ人たちに画一的なレッテルを張ることで問題を捉えるのではなく、それぞれの多様な問題を分かり合えることが大切だと思います。
さまざまな人が集まる湯島のサロンを長年続けているのは、そうした思いからです。

こうした意見に関して、「生ぬるい」という指摘もありました。
たしかに「生ぬるい」。
現実はとても厳しく、障害を持つ人にとっては生きにくく、不快な思いをすることは少なくないでしょう。
でもそれは障害の有無にかかわらないのかもしれません。
だれもかれもが生きにくい社会に向かっているのかもしれません。
しかし、だからこそ、私は「障害」を「障害」として閉じ込めておくのではない生き方をしていくことが大切だと思います。
ほんの少しだけ「青い芝の会」の話もさせてもらいました。

看取りや介護に関わっている人たちの話もとても考えさせられましたし、テーマがあれば居場所は見つかるというような話もありました。
農業や環境の話も出ましたし、長い人生での居場所のような話も出ました。
もし時間があれば、久しぶりに参加してくれた冠地さんに、「イイトコサガシワークショップ」のさわりをやってもらおうかとも思っていましたが、3時間が過ぎてもなかなか話し合いはとまらず実現できませんでした。
居場所があれば、みんな話しあいたいのです。
だとすれば、そうしたサロンの場をどんどん増やせばいいのです。

長くなってしまいましたが、その割には話し合いの内容が報告できていませんね。
でもまあ、なにしろ「ゆる~いサロン」ですから、報告など不要かもしれませんね。

今回の言い出しっぺのモモさんはなかなか定刻に会場に到達することが難しい人なのです。
数日前から出かける準備をしていても、いざ出ようとすると、なぜか出られない。
でもそのモモさんが参加してくれました。
そして、いろいろとヒントをもらったと言ってくれましたので、サロンをやってよかったです。

最近、平日の夜のサロンはやめていましたが、むしろ夜のほうがいいという人も多いことがわかりました。
次回の「みんカフェ」も夜にしようと思います。

Momocafe


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/08/08

■ほっとスマイルプロジェクトがスタートしました

ご案内の通り、「スマイル記念日」とされている8月8日、ホットなスマイルを広げていこうという、壮大な思いをもって、ゆるやかなネットワーク「ほっとスマイルプロジェクト」が立ち上がりました。
台風が心配されていましたが、幸いに台風の影響もなく、14人の人が集まりました。

「ほっとスマイルプロジェクト」は、NPO法人認知症予防ネットを中心にして全国に広がってきている「みんなの認知症予防ゲーム」の実践者の交流会のなかから、生まれたものです。
これまでの何回かの交流会の中で、単に認知症予防のためのゲーム活動だけではなく、「だれもが気持ちよく暮らせる明るい社会」に向けて、実践者がゆるやかにつながりながら、活動分野も少しずつ広げていけないかという意見が出てきました。
これまでも何回か産まれそうになったことはありますが、いつもどこかで曲がってしまいましたが、ようやく大きな方向での合意が育ち、今日、スタートにたどり着きました。

しかし、みんな忙しい時間の合間を活かして、活動している人たちばかりですから、新たに新しい組織を立ち上げたり、そのために時間を取られたりするのは難しい。
そこで、
・それぞれが取り組んでいる現在の活動を、そのまま活かしたカタチでつながっていく。
・他の人の活動をシェアしながら、ゆるやかな協力関係を育てていく。
・定期的に集まる場をつくる。
ということを基本にし、さらに、
・みんなの認知症予防ゲームを核におきながらも、ほかの活動ともつながっていけないか。
・認知症予防だけではなく、子どもも含めて、社会全体を元気にしていくことはできないか。
といったことを目指そうということになりました。

そこでまずは、「笑顔を世界中に広げよう」という主旨に共感してくれる人たちの、ゆるやかなネットワークをつくることになったわけです。

そうした経緯から、今回は「みんなの認知症予防ゲーム」の実践者が中心でしたが、徐々にネットワークを広げていくことになりました。
活動の内容も、これからみんなでゆっくりと育てていくことになりました。

参加者それぞれの活動内容の紹介の後、ネットワークとしてどんなことがあればいいかなどの話し合いを行い、これからの方向性がなんとなく見えてきました。
それぞれの体験を話し合うだけでも、大きな気づきや刺激をそれぞれ受けたのではないかと思います。
当面は、フェイスブックを中心にそれぞれの活動をシェアしながら、なかまをふやしていくことになりました。
ご関心のある方は、ぜひフェイスブックのコミュニティに参加してください。
https://www.facebook.com/groups/1607233655975417/
ご自分の簡単な紹介や参加の意図などを送ってもらえればと思います。
みんなの認知症予防ゲームを実践されている方はそのことをお書きください。

また定期的に、交流会や勉強会も行っていく予定です。
ネットワーク全体として活動するというよりも、当面はメンバーそれぞれがいろんなプロジェクトやプログラムを起こしていくというスタイルです。

まだスタートしたばかりですが、ゆっくりと、小さく、しかし大きなビジョンを持って、仲間が広がっていけばと思います。
内容に関する問い合わせなどは、フェイスブックのコミュニティにお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/08/04

■世の中には「おかしいこと」が多すぎます

ちょっと考えると「おかしい」と気づくことはよくあります。
たとえば、内閣への信頼感が失われた状況を打破するために、一部の大臣を変えることで信頼が回復すると囃し立てているテレビの報道バラエティ番組はどう考えてもおかしく、そのおかしなことを視聴者に植え付けているのはますますおかしい気がします。
そういう番組に出ている、政治ジャーナリストは口では内閣改造では信頼感は回復しないと言いながら、実際にやっていることは問題を矮小化し、視聴者をはぐらかしているだけです。
まともな政治ジャーナリストのやることではないでしょう。
彼らはみんな道化役のタレントでしかありません。

国会での審査会での官僚の回答は、これもどう考えてもおかしいです。
小学校に戻って国語の勉強をして来いと言いたいですが、もうたぶん遅いでしょう。
彼らの下で働いている人たちに同情しますが、たぶんその人たちもまた同じようになるでしょう。
なにしろ人は先輩を真似て育っていくからです。

おかしなことが山のようにあっても、みんな「王様は裸だ!」などとは言いません。
そんなことを言えば、仲間外れにされかねません。
しかし、「おかしなこと」に目をつぶって生きていると、いつの間にか自分の「おかしなこと」をやってしまうことにもなりかねません。

トランプのアメリカファーストを悪くいいながらも、小池都政の都民ファーストは支持するのも、おかしい話です。
ついでに都政についていえば、有害物質の埋められた場所に生鮮食材の市場を置くなど、あり得ない話です。
でもそれがいつの間にか決まっていました。
それが「おかしい」と改めて声をあげたにもかかわらず、結果的には何も変わりませんでした。
どう考えても私には納得できません。
昨日の火事は、土地の神様のメッセージではないかと思ったほどです。

原発は、要するにそこから出てくる極めて有害な廃棄物の処理ができない技術です。
そんなものをつくって良い訳がありません。
技術としても不完全で、誇りある技術者であれば、受け入れがたいはずではないかと思います。
そんな不完全な技術は、原発でないとしたら、だれも認めないでしょう。
それがかつての公害の原因だったわけですが、それを知っているのに、まだやめようとしない。
中小企業が廃棄物を排出していたら、操業停止になるでしょう。
でも国家がやると止まらない。
これもどう考えてもおかしいです。
原発はそもそも核兵器開発のために必要だから国策として取り組まれたことが文書などでもだんだん明らかにされてきていますが、私はそれよりも、ただ廃棄物処理の目途が立っていないのに続けられていることにおかしさを感じます。
すなおにただ、「おかしい」と思うだけです。
自分で廃棄物も処理できない技術は、技術と言えるのかと思うほどです。
それを認めている技術者に、私は不信感を持っています。

とまあ、こんなように、おかしなことが横行していることにおかしさを感じています。
それはたぶん私たちみんなが「おかしくなってきている」からでしょう。

今日、FBで「ちょっといい話を集めよう」というコミュニティを開設し、呼びかけを始めましたが、それと並行して、「おかしいことをおかしいというコミュニティ」をつくろうかと考えました。
つまり「王様の耳はロバの耳」という倉庫づくりです。
そこに向かって、みんなが言いたいけれど言えないことを投げ込んでいく。
もしかしたら、原発廃棄物の貯蔵庫よりも、危険な倉庫になるかもしれません。

でもやはりそれは、ちょっと暗い人生を支援することになりそうなので、やめました。

さて今日は、「おかしなこと」に出会わないことを祈ります。
今日こそ、心温まる1日でありますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/07/02

■「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」

昨日、ケソン工業団地で働いていた人が語った北朝鮮のことを書きましたが、その本を読んで、渡辺京二の「逝きし世の面影」を思い出しました。
昨日湯島に行く電車の中で、最初のところだけを読み直しました。
読んでいる人も多いと思いますが、2つの話を紹介させてもらいます。
昨日私が言いたかったことを補足する意味で。

スイスの通日使節団長として1863年に来日したアンベールは、農村を歩き回っていると、人びとは農家に招き入れて、庭の一番美しい花を切りとって持たせてくれ、しかも絶対に代金を受けとろうとしなかったそうです。善意に対する代価を受けとらないのは、当時の庶民の倫理だったらしいと、彼は書いています。

イザベラ・バードの話からも一つ。バードは東北・北海道の旅の後、関西から伊勢に向かう途中でこんな体験をしています。奈良の三輪で、3人の車夫から自分たちを伊勢への旅に傭ってほしいと頼まれた。推薦状ももっていないし、人柄もわからないので断わると、一番としかさの男が言った。「私たちもお伊勢詣りをしたいのです」。この言葉にほだされて、体の弱そうな一人をのぞいて傭おうと言うと、この男は家族が多い上に貧乏だ、自分たちが彼の分まで頑張るからと懇願されて、とうとう3人とも傭うことになった。ところが「この忠実な連中は、その疲れを知らなぬ善良な性質と、ごまかしのない正直さと、親切で愉快な振る舞いによって、私たちの旅の慰さめとなったのである」。

また、「日本で貧者というと、ずい分貧しい方なのだが、どの文明人を見回しても、これほどわずかな収入で、かなりの生活的安楽を手にする国民はない」という、アメリカ人イライザ・シッドモアの言葉も紹介されています。
彼女はこうも書いているそうです。日本人は「木綿着数枚で春、秋、夏、冬と間に合ってしまうのだ」。そんな極限の状態でも、春と秋の素晴らしさを堪能するのに差し障りはない。「労働者の住、居、寝の三要件」は、「草ぶき屋根、畳、それに木綿ぶとん数枚」がみたしてくれる。穀類、魚、海草中心の食事は、貧しいものにも欠けはしない。

日本通だったチェンバレンは、日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言ったそうですが、現代の日本はどうでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/06/14

■立ち上がる勇気

武蔵越生高校サッカー部の体罰映像がユーチューブに流れて話題になっています。
たしかにひどい暴力事件だと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=KmzXOXW0ZyE

ただ私がこの映像を見ていて恐ろしさを感じたのは、コーチの暴力ではありません。
暴力を振るわれている高校生とコーチの間には、ある特別の信頼関係もあったような報道もありましたし、コーチのインタビューも聞きましたが、あまり一般論で考えたくはありません。
私が恐ろしさを感じたのは、映像に見るように、サッカー部員の誰もが座ったまま動かないことです。
これほどの暴力を目の当たりにしても、動かない部員。
その姿に、私も含めていまの日本の国民の姿を感じたのです。
こういう風景が、いまも文科省や内閣府で展開されているのでしょうか。

この映像を撮影したのはサッカー部員のようです。
それがせめてもの救いですが、同時にこういう手段しかなかったことにやりきれなさを感じます。
ちなみに学校側には、この暴力的な指導はアンケートなどで届けられていたそうですが、学校側は無視していたため、サッカー部員はこうした手段をとったのでしょう。
コーチだけが悪者になっていますが、一番悪いのは学校の校長だと私は思います。
権力をもつ者は、責任を持つべきです。
JR西日本の福知山事件の判決にも、そういう思いを持ちました。

立ち上がる勇気をもちたいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧