カテゴリー「政治時評」の記事

2018/10/26

■カフェサロン「地方政治の現場から考える日本の政治の未来」報告

「女子高生」、正確には「女・子・高・生」つまり「女性・子ども(若者)・高齢者・生活者」が政治を変えていくというテーマのサロンは、自治体の女性議員3人を含め、16人とにぎやかなサロンになりました。
河野さんは、これまでもそうした「女・子・高・生」の活躍できる場づくりにも取り組んできていますが、それは、地元宇部での実践活動の中で体験的に女性や若者のパワーを実感し、経験的に「女・子・高・生」への期待が高まったそうで、最近はやりの「女性活用の発想」などとは全く違ったものだと、話の中でも強調されていました。
最近の女性活用などの掛け声は、政治のみならず経済の分野でも広がっていますし、制度面での整備は進んでいますが、上滑りなものも多く、実体はむしろ逆行ではないかと思うようなものもありますが、河野さんは実践からの提案なので、私にはとても安心して聴ける話でした。

直接的・具体的に話すというよりも、聴く人に考えさせるのが河野さんのスタイルなので、今回もさまざまな話を含ませながら、さまざまな示唆を出してもらったように思います。

参加者の中には、30年以上前から女性議員を増やす活動に取り組んでいる松戸市の市会議員の中田さんをはじめ、市議や県議として今の政治を変えていこうと健闘されている2人の女性議員たちも参加して下さっていましたが、そのみなさんの話を聴く限りでは、残念ながらまだまだ「昭和の男性」たちが中心になっている地方政治の現実は変わってきたとは言えないようです。

横浜市の行政職員の方が参加して下さっていましたが、市長が女性になったら変わってきたというお話がありました。
そういう意味では、女性議員が増えたり、首長に女性がついたりすることが、政治を変えていくことにつながっていくことはたしかです。
しかし、河野さんの住んでいる宇部市も女性市長ですが、首長だけでは限界があるようです。
それに関しては、首都圏などの大都市部と地方とでは住民意識も違い、地方の政治体質はまだまだ変わっていないという話もありました。
たしかに首長の力は大きいですが、それだけでは政治は変わらないでしょう。
「住民視点の政治」や「生活のための政治」を目指すのであれば、変わるべきは政治家ではなく、住民の政治意識(生活意識)でなければいけません。
その意味で、まずは議会で女性が活躍できる状況をつくりだすことが不可欠です。
しかし、そのためにも、住民の意識や行動が変わっていく必要がある。
それは同時に、「政治」をどう捉えるかという問題につながります。

今回のサロンにも女性の方が数名参加してくださいましたが、ひとりの方(いわゆる「専業主婦」の方)が、河野さんの話の後の話し合いは、自分が期待していたようなものではなかったという素直な感想を述べてくれました。
湯島では時々政治をテーマにしたサロンを開催していますが、男性が語る政治と女性が語る政治は、まったく視点が違うような気がします。
男性はすぐに安全保障とか財政赤字を話題にしがちですが、女性は生活の不安や家計の心配を問題にします。
いずれも大事な問題で、深くつながっていますが、視点が全く違うのです。
権力や統治という視点から考えるか、個人の尊厳や生活という視点で考えるかで、政治はまったく別のものになります。
サロンの翌日、湯島に別件で来た女性は、昨日のサロンに参加しようかどうか直前まで迷っていたのだが、やはり参加しなかったと言いました。
たぶん、男性の政治論議になるので自分には居場所がないだろうと思ったのでしょう。
そうしたことにこそ、やはり日本の「政治」の問題があるような気がします。

河野さんのメッセージには、「生活者」も主役の一つに挙げられています。
これに関しても「生活者」とは誰なのかという指摘もありました。
「生活者」という概念はかなり古くからありますが、「消費者」と違ってなかなか定着しません。
この議論は今回はあまり深入りしませんでしたが、一度、このテーマでサロンをしようと思いました。
「生活者」という言葉は、経世済民とつながるもので、経済の変質を考える上でもとても重要な切り口です。
同じように、政治の世界もまた、生活とのつながりがとても重要だろうと思います。
政治家は、政治家である前に、生活者でなければいけません。
戦争が起こったら、自らが戦場に行く気概で、あるいはオリンピックの予算が増えたら自分の家計から補てんしていくくらいの責任感をもって、つまり自らの生活とつなげて、憲法論議やオリンピック招致、あるいは海外援助をしてほしいです。
あまりに税金を気楽に使っているので、税金は「取られている」という気にさえなってしまいます。
首長や議員と行政職員の関係も少し話題になりました。
それも含めて、議員と住民の関係や首長と議員の関係、さらには地方議員と国会議員(政党)の関係など、政治のあり方を考える上では、そうした関係のあり方を考え直す必要があるように思います。

ほかにもいろいろと話題はでましたが、サロンですので、いろんなところに飛び火して、にぎやかな話し合いになりました。
政治や戦争に関するボードゲームの話にまでなりました。

河野さんは、これから自分の考えを実践に移していくことを考えています。
今回は、それをどう進めていくかも少し話してくれました。
その進め方は、住民たちが話し合いながら、「女・子・高・生」のエネルギーを地方議会に顕在化させていこうという「運動型」の活動です。
政治は「プロセス」だと考えている私としてはとても共感できます。
政治は「国会」や「地方議会」の中にあるのではありません。
生活の場での日常生活の中にこそある。
日本の野党は、それを軽視しているために国民の意見を力にできずにいます。
政治の構図の捉え方を変えていくべき時期だろうと思います。

河野さんのプロジェクトがどう展開していくか、とても期待しています。
具体化したらまた差しさわりのない範囲で紹介したいと思いますので、みなさんにもぜひ関心を持ってもらい、もし共感できたら、応援してもらえればうれしいです。
宇部市民でなくても応援する方法はたくさんあります。
それも今回参加された中田さんから教えてもらいました。

ちなみに、今回のサロンには、河野さんが宇部市民であることを知って、宇部出身者が2人も参加しました。
宇部の人たちは、政治意識(郷土意識〉が高いことに感心しました。
私も一時、少しだけ関わらせてもらいましたが、改めて宇部市が好きになりました。

また長い報告になってしまいましたが、政治は私たちの生活の土台です。
しばらく開いていない「茶色の朝」シリーズのサロンも11月に開催したいと思っています。
Kawano181024


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2018/10/18

■国家の本質

サウジアラビアのジャーナリスト、ジャマル・カショギさんがトルコ・イスタンブールのサウジ総領事館を訪問後に失踪した事件で、サウジアラビア国家政府による殺害の可能性が報道されています。
この事件を、とんでもない事件と思うか、常識的な事件と思うかは、国家をどう捉えるかで別れるでしょう。
私は、ある意味で、国家による「コラテラル・ダメッジ」として、驚くほどのことのない事件だと思っています。
http://cws.c.ooco.jp/katudoubannku2.htm#1013
ただこうしてそれが、あまりにもはっきりと報道されると恐ろしくもなりますが、そもそも国家とはそういう存在なのではないかと思います。それを改めて思い知らされる事件だろうと思います。
ただやり方がお粗末で、殺害の仕方が異常だったとはいえますが、もしかしたら、むしろこういうやり方こそが、巧妙なやり方なのかもしれません。
いずれにしろ、そこからのメッセージは大きいです。
国家というものを考え直す、いい材料かもしれません。
しかし、この事件を、イスラムと結びつけることだけは避けなければいけません。
ひとりの生命が失われたという意味では、最近日本でも起こった官僚の自殺と同じです。

国家による「犯罪」は、犯罪とはされません。
国家防衛のための正当化が与えられるのです。
その最たるものが「戦争」です。
そして、そのために暴力装置としての軍隊を持つことの危険性を認識しなければいけません。
国家の軍隊の戦力が主にどこに向けられていたかは、歴史が示唆しています。

国家は、国民を守るための仕組みと言われますが、国民を守るためには、多少の犠牲は認めらます。
それがコラテラル・ダメッジの論理ですが、国民は守られても個人は守られないという、おかしな話がそこにあります。
「守る対象」があいまいですから、いかようにも論理は組み立てられるでしょう。
軍隊は、一体「何」を守るのか。
私が守られている時にはいいですが、いつ、守るために排除される立場になるかに関しては、私は関与できません。
サウジの国家と国民を守るために活動してきたカショギさんは、排除される立場になってしまったわけです。

ここで国家政府の意思決定の透明性や国民の参画が大きなテーマになります。
しかし、それもまた問題がないわけではありません。
そこで出てくるのが、人間を単一のデータ処理システムとして捉えてAIに意思決定させるというアイデアです。
今朝のNHKテレビに、最近話題の「ホモ・デウス」の著者、ユヴァル・ノア・ハリスさんが出ていました。
彼の問題提起はとてもわかりやすく、システムと人間との闘争においては、人間には勝ち目がないという指摘もとても説得力があります。
しかし、私はやはり、20世紀人として、システムも国家も、個人を支えるものであってほしいと思っています。
もし、「ホモ・デウス」になるのであれば、私は取り残される立場になりたいと思っています。

「ホモ・デウス」のサロンも企画したいと思っています。
一応、読了した人(できれば前作の「サピエンス全史」も)を対象にしたいと思っていますが、5人以上、参加者がいたら開催したいです。
ご関心のある方はご連絡ください。

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2018/10/11

■かなりハードなカフェサロン「近代国家幻想を考える」報告

台風で一週間伸びましたが、湯島初の「かなりハードなカフェサロン」を開催しました。
テーマは、「近代国家幻想を考える」。
話題提供者は柴崎明さん。
参加者は、いずれも一家言ある難しそうな人たち6人と平均人の私の7人。
柴崎さんは、トランクいっぱいの書籍を持参しました。
それで「ハードカフェ」の雰囲気は整いました。

柴崎さんの話は経済人類学のポランニーと古事記の神話から始まりました。
そして、フロイト、フーコー、ラカンなどの話を経由して、国家幻想に関する話へと広がり、近代国家を超えるものへの問題提起で終わりました。
間奏曲として、柴崎さんが地元で調べた地域の神様の話はとても面白かったですが、それと国家幻想とは深くつながっているような気がします。

「幻想」は、与えられた幻想と生まれてきた幻想があります。
地域の神様は、そこで住んでいる人たちの生活の中から生まれてきた共同幻想の象徴であり、そこからコミュニティやアソシエーションが育っていきます。
一方、近代国家は、そうした幻想を上手く利用しながら、もっと強力な幻想を創りだし、それをそこで住んでいる人たちに与えていきます。
草の根的に生まれ育った地域社会の幻想は、そうした大きな幻想に絡め取られ、地域の神様は国家の神様や宗教教団の神様に敗退していき、従属させられていく。
それが近代の大きな流れだったような気がします。

さらに、2つの神が両立しないように、国家体制は一元化されていく。
それを見事に達成したのが、明治政府かもしれません。
こうなると、ここで先の「宗教サロン」ともつながっていく。
そんな気がします。

あんまりサロンの要約報告にはなっていないような気がします。
映像記録をユーチュブでアップしますので、関心のある方はそれをご覧ください。

ちなみに、この柴崎サロンシリーズは不定期に開催します。
なにしろ柴崎さんの頭の中にある知識と論考は、一度くらいでは引きだせませんので。

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2018/10/09

■ブック「日本列島「法」改造論(阿部泰隆 第一法規 3000円)のご紹介

本書は、「逆転の発想による法改革」によって日本を変えるための処方箋です。
というと何やら難しそうですが、普通に生活している人であれば、誰でも「ふんふん」とうなずきながら楽しく読める処方箋が満載された本です。
「漫談」的な要素も込められていて、読者はあきることがありません。

著者の阿部さんは、私の大学時代の友人ですが、毒舌・名言でも有名な、そして具体的な提案活動もしっかりとしている、曲がったことの嫌いな、国士的な学者です。
時に、阿部さんは「変人」とも評されますが、ご自分は「変人」を「変革の人」と読み替えて、変人であることを受け入れています。
「政策法学」という新しい分野の創始者で、その分野でもたくさんの専門書を書いています。

「政策法学」というのは、現在問題となっている法制度を具体的に取り上げ、その立法政策的な改善策を提言する学問だそうです。
公共政策にもつながる具体的な提言や問題提起につながる実践法学と言ってもいいでしょう。
法学というと、私には敷居が高いですが、それであれば私にも関心があります。
というか、その姿勢は、「法とは何か」という、私の基本的な関心課題につながっていますので、まさに私の関心事でもあります。

ちなみに、私自身は、最近「法」というものに、ほとんど関心を失ってきています。
私が法学部で学んだのは「リーガルマインド(法の精神)」ですが、その視点で考えると、最近の法には「心」があるのかと、つい思ってしまうのです。
日本はほんとうに法治国家なのだろうかという疑問さえ、時に感じます。

そんな私のような世捨て人的なひねくれた姿勢ではなく、現実に果敢に取り組んでいるのが、阿部さんです。
専門書を書くかたわら、阿部さんがさまざまなところで発表してきた、日本社会を覆いだしている病魔の法的処方箋の集大成が本書です。
本書の帯に「病魔に苛まれている法と政策を蘇生させよ Dr.阿部の執刀開始!」と書かれていますが、その快刀乱麻ぶりは、時にはちょっと共感できないものもありますが、そこにこそ、本書の真価があります。
誰もが違和感なく読めるようなものは、読む価値も聴く価値もありません。

阿部さんは、日本の法律学に関して、こんなことも書いています。

法律学では、そもそも、「疑え」という研究方針や指導方針がないと感ずる。
判例通説を整理せよ、外国法を整理せよ、そしてまとめよというものが多い。
そこから新学説は出てくるが、それでも、新規の考え方は少ない。

まったくもって同感です。
そして阿部さんは言います。

筆者は、法律家として、日本の法制度がうまくいっているのか、不備をどうすれば改善できるのかを念頭に、何事にも疑問{?}を持って、半世紀以上研究してきた。

こうした視点で、まとめられたのが本書です。
もう少し阿部さんの言葉を引用させてもらいます。

そして、問題を発見したら、解決策としては、通り一遍ではなく、逆転の発想で、あるいは、一手しか読まないのではなく、せめて二手読むとか、二者択一ではなく、合理的な中間案をつくるとか、あるいは強行着陸ではなくソフトランディングを試みるというものである。
このような研究は、法学界では前例がない新しい道を開拓してきたもので、いまだ十分な評価はされていない(それどころか、四面楚歌かもしれない)が、これこそが日本の法学者の使命であると信じている。

どうですか。法律嫌いの人も、ちょっと読みたくなるでしょう。
目次だけでも15頁もあるほど、Dr.阿部の手術のメスは、社会すべてに向けられています。
第1章は「国会・内閣・裁判所のありかた」。つづけて「社会問題・国民生活」「税制改革」「医療福祉」「環境保護」「大学」「その他身辺雑記」と広い分野にわたって論が展開されています。
しかも、そこには、与党独裁体制を許さない法システム、「国旗国歌は作り直せ」とか「オリンピックは無駄」とか、祝日も休日にするな(来年の10連休は大反対)、「命を大切にせず、医療費を無駄使いする厚労省」、さらには「バカほど儲かる医師・弁護士システム」、未亡人の再婚を邪魔する遺族年金、文科省は廃止せよなどといったことが書かれています。
Dr.阿部の、快刀乱麻ぶりがわかるでしょう。

できれば、まずは「はじめに」を読んでもらい、後は関心事に合わせて拾い読みしてもらうのがいいと思います。
「はじめに」に、阿部さんの生き方がわかる文章があるので、引用させてもらいます。

社会科学者仲間では、福島の原発事故にもかかわらず相変わらず「原子力村」で、原発は安全であるという枠内の研究をしたり、阪神・淡路大震災や東日本大震災が身近に起きても我関せず、自分の「学問」に没頭したり、広島原爆の被災地にいながら、被爆者に寄り添うことなく、平和な学問をして偉くなっている人が少なくない。
筆者には、彼らは民の苦しみなど知る余地もないように見える。(中略)
筆者の専攻の行政法学関係者は、役所からお座敷がかかるので、どうしても役所寄りの発想になりがちである。

そうだそうだ!と拍手したいです。
阿部さんの人柄がかなり伝わってくるでしょう。
彼自身は、「とうの昔に御用学者を総撤退し、大学にも縁がないので、「しがらみ」がなく、文科省批判も含め、信念に従った発言をしている」と言っています。
まあ、しがらみがあっても発言してきたと思いますが(そのために社会の主流派から外されたと本人は言っています)。

ちょっと高価なのが気にいりませんが、現代日本の「法的欠陥事典」と考えれば我慢できそうです。
しかし、個々の問題の処方だけが本書のメッセージではありません。
「逆転の発想」で頑固な法律さえも、活かし方が変わってくること。「学問」とは何か、学ぶとは何か、社会をよくしていくためにできることは何か、などということへのヒントも、その気になれば読み取れます。
アジテーションも含意されているかもしれません。
これを読んだ読者が、身近な病魔にDr.阿部流の執刀作業を始めると、日本ももっと住みやすくなるかもしれません。
法の精神が蘇ってくるかもしれません。
ですから本書は、ある意味で、Dr.阿部の執刀術学習講座でもあるのです。

多くの人に読んでもらい、多くの人に執刀をはじめてほしい。
そんな意味で、本書を推薦します。

ちなみに、Dr.阿部の湯島サロンを10月12日の夜開催します。
まだ少し余席があります。
参加ご希望の方は私あて、ご連絡ください。
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2018/09/11

■カフェサロン「自民党政権政治を変えていくためには」の報告

9月8日開催のカフェサロン「自民党政権政治を変えていくためには」には11人の人が集まり、かなり激しい論争が展開しました。
いつものサロンとはちょっと違って、いささか感情的なやり取りが多かった気がします。
もっともそうなった原因は、私の最初の問いかけが不適切だったからなのですが。
その反省もあって、報告を書くのも遅れてしまいました。

最初に問題提起者の武田さんから、いま書いている本の目次に沿って、「自立・抗不安国家論」の概要が紹介され、つづけて、現在の自民党政権の何が問題なのか、そしてそれを変えていくためにはどこから取り組みどう進めていけばいいかのお話がありました。
武田さんは、ただ問題点だけを指摘するだけでは何も変わらない、目指すべき国家像を明確にして、その実現のために現状をこう変えていくべきだという考えに基づいて、目指すべき国家像を「自立・抗不安国家」と表現しました。
つづいてその内容として、「国民主導型統治機構の確立」「国民の命を供することは許されない絶対平和主義」「戦争に巻き込まれないための核武装」「再配分型増税による財政再建」「国家の自立度を高めることを主軸にした政策展開」「新経済政策としての重脳主義」などを提案しました。
武田さんは、それを実現するためには、革命的な取り組みが必要だとし、それを「第3革命」と称しています。

そして議論が始まりました。
最初に私がちょっと気になったことを口走ってしまいました。
私が引っかかったのは、「新経済政策としての重脳主義のために教育において科学技術教育を最優先にしよう」という点です。
科学技術と人間文化の主従関係が逆転してしまったことに、昨今の政治経済状況の根因があるのではないかと思っている私としては、大いに違和感があったので、ついつい口を滑らしてしまったのです。
この点にこそ、これからの国家像を考えるポイントがあるような気がしたのですが、どうもそれがうまく表現できずに、議論が少し迷走してしまいました。
大いに反省です。
参加者のみなさんにはお詫びしなければいけません。

どうしたら今の政治状況を変えるための具体策を聞きたいという質問に対しては、武田さんは、そのためにもしっかりした国家像を共有化していくことが必要だと応えました。
その姿勢には賛成ですが、国家像とは何かということを共有すること自体が難しいことを改めて思い知らされました。

その後、議論はいろいろと出ましたが、私自身がいささか「感情的」になってしまっていて、記憶がとんでしまっています。
困ったものですが、そんなわけでうまく報告できません。

しかし、最近、コスタリカに行ってきた折原さんからのコスタリカの紹介やビタミン和子さんの韓国などの報告は示唆に富んだものでした。
いずれもまたいつかそれぞれにサロンをしてほしいと思います。
また「民主主義と民主政治」の違いや、「個人の尊厳の尊重という民主主義の理念と革命とは矛盾しないか」といった議論もありました。
これもまた大事な論点だと思います。

議論はいささか混迷し、ちょっと雰囲気も悪くなりましたが、私には理想的なサロンでした。
お互いに気づかいあいながらおだやかに話し合う場はどこにでもありますので、湯島のサロンでは「過剰に相手を傷つけない範囲」での論争は大歓迎なのです。
ただ今回はどうも私の判断がゆるすぎて、一部の人が少しだけ気分を害したようでもあります。
でもまあ、それが湯島のサロンだと思ってもらうのがいいでしょう。
 
みんながとても熱心に思いを込めて、ちょっと感情的にもなって話し合いをしているサロンは実にいいです。
初めて参加した人もいましたが、帰り際にとても面白かったと言ってくれました。
私は自分の主張があんまり賛成してもらえなかったので、いささかムッとしていましたが、反省しなければいけません。

サロンではかなり険悪な関係になってしまった人たちもいましたが、その後の二次会で関係は修復され、なんと10時までのロングランの懇親会になったそうです。
私は参加できなかったのですが、2人の方から「懇親会のほうが盛り上がってよかった」と連絡がきました。
サロンのホストとしては反省しなければいけません。

なおこのシリーズは継続します。
論争しに来たい人は大歓迎です。
武田さんの問題提起の各論展開も考えたいと思います。

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2018/08/12

■サロン「新・十七条憲法をつくる」の報告

サロン「新・17条憲法をつくる会」は、男性6人、女性1人の7人の参加でした。
各人がそれぞれ考えてきた条文あるいは項目を出し合ってから話し合いに入りました。
全9憲法案や新十七条憲法をつくってきた人もいます。
いろんな視点が出され、議論はとても刺激的でした。

ただ今回は、聖徳太子の17条憲法がそうであるように、焦点が必ずしも絞り込めず、「為政者の制約事項」に限定したものではない議論になりがちでした。
そこで、最後の30分ほどで、今回の呼びかけに応じて、「為政者の制約事項」を改めて出し合い、いわゆるKJ法もどきで整理しました。
大まかに整理すると、次の5項目になりました。
〈人権の尊重〉〈憲法の厳守〉〈独裁の禁止〉〈情報の公開〉〈特権の禁止〉

内容はかなり具体的なものがいろいろ出されました。
そのいくつかも紹介できればいいのですが、まだ十分に整理できていないので、今回は項目だけでお許しください。
決断したことへの厳しい責任を問うという意見もありましたが、それも含めて、今回出された意見をこの5項目に応じて整理し、フェイスブックで公開することにしました。
できればそこに書きこんでいき、また第2回目を開催することも考えたいと思います。

政治制度に関する話題もいろいろとでました。
熟議民主主義やミニパブリックスの話題も出ました。

また、為政者への制約と同時に、非統治者である国民にも守るべきことがあるのではないかということから、今度は「主権者としての国民の心がけること」をテーマに、憲法条項を考えてみるのもおもしろいのではないかということになりました。
これはまさに市民社会の熟度と仕組みの問題です。
それで少し涼しくなったら、そんなサロンも開催しようと思います。
こうなってくると、だんだん事務局が欲しくなってきますが、どなたかこれを運動的に展開していく作業事務局を引き受けてもいいという方がいたらご連絡ください。
3人集まったら、プロジェクトチームを立ち上げます。

ちなみに、まだ案内は出していませんが、これに関連したサロンとして、9月8日にリンカーンクラブ代表の武田さんに、「自民党政権政治を変えていくためには」をテーマにしたサロンを予定しています。
お時間が許せばご参加ください。
Kenpo17


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2018/07/15

■カフェサロン「日本は核武装するべきか」の報告

30度を超す暑さのなか、しかも3連休の初日、「日本は核武装するべきか」というテーマに13人の参加者がありました。
それだけでもうれしかったのですが、議論も盛り上がりました。
最初に、参加者それぞれが日本の核武装に関する自説を簡単に紹介し、つづいて「文藝春秋」7月号でエマニュエル・トッドが提唱した「日本は核を持つべきだ」という論は自分の考えとほぼ同じだという武田文彦さんが問題提起してくれました。

トッドは、日本が依存している「米国の核の傘」はフィクションにすぎない、しかし、核とは戦争を不可能にするもので、第二次大戦以降、欧州で大きな戦争が起こっていないのも核の存在のおかげだ、だから日本は核武装すべきだというのです。

武田さんは、それも踏まえて、2つの問題(太田さんによる整理)を提起しました。
対米従属の日本が真の独立を得るためには、「日米安保条約の解消」とそれに代わる「対外的パワー(侵略抑止力?)としての核武装」が必要だというのです。
この前提には、いまの日本はアメリカに従属していて、独立国家とは言えないという認識がありますが、これに関しては参加者からの特に大きな異論はありませんでした。
日米安保条約に関しても、ほぼ全員がなくていいという意見でした。
問題提起者の武田さんが驚いたように、今回のサロンは昨今の日本の社会では特異な人の集まりだったかもしれません。
日米安保条約がなくてもいいと思っている人は、そう多くはないでしょう。
永続敗戦論や米国属国論はいわば流行的な現象にさえなっていますが、日米安保条約の恩恵を捨てようとは思っていない人が多いはずです。

次の問題は、核兵器は戦争(侵略)抑止力を持つかです。
ここでのポイントは、戦争に勝つ力ではなく、戦争を起こさない力を、核兵器は持っているかどうかです。
ちなみに、限定核兵器の話も出ましたが、そもそも核の力は人間が管理できるものではありませんから、私自身は限定核兵器などというのは概念的にありあえないと思っています。
一時期流行した「核の平和利用」と同じレベルの話です。

核兵器の抑止効果の有無に関する意見は別れましたが、核兵器は実戦には使えないにもかかわらず抑止力があるというのは、私には理解できません。
それは抑止力ではなく、暴力的な威圧であり、プロのボクサーとは喧嘩はできないという話なのではないのか。
しかしプロのボクサー自身はいつでも喧嘩はできます。
プロのボクサーには喧嘩がしかけたれないというだけの話で、それは非対称の抑止力ですから、戦争そのものの抑止効果とは違います。
いわゆる行動的な戦争ではない構造的な暴力戦争は、核兵器を持つ国によって引き起こされ続けていることは歴史が示しています。
古代ローマの歴史家タキトゥスは、ローマの皇帝たちは荒廃を生み、それを平和と呼ぶと書いているそうですが、平和とは誰にとっての平和なのかをしっかりと考えなければいけません。
私自身は、核兵器を持つことは、核クラブのメンバーになって、世界中の生活者を恐喝する側になることですので、まったく与することはできません。

それに関して、武田さんから核兵器抑止力と並んで、たとえば日本が病院を周辺国に無償供与することも戦争抑止につながるという話をしました。
核兵器による抑止と生活支援による抑止とは、理念が全く違いますが、そこをもう少し掘り下げると戦争とは何かがもう少し整理できるでしょう。
今回は「核兵器」がキーワードでしたので、その話は掘り下げられませんでした。

核武装する「日本」とは誰なのかの議論はあまりできませんでした。
核武装した時にだれが核兵器の発射のボタンを押すのかという問題です。
つまり核武装の主語は国家ではなく、個人として考えなければいけません。
あるいは少なくとも、核兵器のガバナンスの問題を抜きには考えられないということです。

戦争の意味が20世紀になってまったく変わったという認識が大切です。
30年ほど前に出版された「戦いの世界史」という本が4年ほど前に日本で翻訳出版されました。
人類は、どう戦ってきたかの詳しい報告で、面白い本です。
そこにこんな指摘があります。
「20世紀最初の10年が終わるころには、戦争において人間が主役だった時代は終わり、機械が主体となる時代が目前に来ていた。」
その後、戦争の変質に関してはさまざまな論考がありますが、戦場からどんどん人間がいなくなってきていることは間違いありません。
そうなると何が起こるか。
映画「ターミネーター」の世界です。
つまり対立の構図が全く変わってしまうわけです。
となると、誰に対する「抑止」なのかが改めて問われることになります。
それはとりもなおさず、「政治の捉え方」の変化につながります。
以前、サロンでお話した「統治の政治から生活の政治へ」というテーマです。
今回は残念ながらそこまでは行きませんでした。

コスタリカの話も出ました。
コスタリカに関しては以前ブログに書いた記事があります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/03/post_2.html
そこからコスタリカの情報にリンクしています。
日本では軍隊のないことばかりが有名ですが、問題の核心はたぶん国家のあり方です。

核兵器は開発されてしまった以上、もうなくすことはできないのではないかという議論もありました。
となると、核兵器の管理をどうするかということが重要になります。
そこで出てくるのが、国境をなくす世界国家論です。
方向としてそういう方向を目指すべきだという話も出ました。
まさに憲法9条が生まれた時の、日本人側の思想であり、日本国憲法の前文の理念です。

なお、核兵器はいかに管理しても、原発がそうだったように必ず誤爆が起こるという指摘もありました。
その危険性は日々高まっている気がします。

核武装にはほとんどの人が反対でしたが、日本安保条約は不要と考える人が多かったということは、核不要論と言えるでしょう。
つまり、核などなくても自立できるということです。
逆に日本安保条約を破棄し、核武装するという人は、核兵器が独立国家の必須要件と考えているのかもしれません。
核がなければ自立できない、というわけです。
よく考えればわかりますが、両者の「自立」の意味は全く違います。

となると「国家(の独立)」とは何かということが問題になる。
核武装するべきかどうかという切り口から、いろんなことが見えてくるように思います。

今回はもっと核武装論支持者がいると思ったのですが、ほとんどいなかったのが驚きでした。
マスコミで接している日本人の考え方とサロンに集まる人たちの考え方の乖離なのか、現実とマスコミ報道によって作られる第二次情報との乖離なのか、それが改めて気になったサロンでした。

もう少し問題を絞ったサロンをまたやってみたいと思います。
たとえば、視点を変えて、世界の人々が平和であるために何をやったらいいか、というようなテーマのサロンです。
最初の問題提起をしてくれる人がいたらご連絡ください。

今回は報告がとても長くなってしまいました。
すみません。


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2018/06/24

■カフェサロン「柳兼子をご存知ですか?」報告

民藝運動を起こした柳宗悦の伴侶で、声楽家としても有名な柳兼子をテーマにしたサロンは、16人が参加しました。
話題提供者は、我孫子在住の海津にいなさん。
海津さんは30年ほど前に千葉県の我孫子に転居してきましたが、かつてそこに住んでいた白樺派の人たちの活動に関心を深め、今はどうやらすっかり柳兼子さんにほれ込んでしまっているようです。
数年前から、柳兼子を主人公にしたNHK朝ドラを実現したいと考えています。
今回のサロンも、そうした思いも会って、改めて柳兼子の魅力を多くの人に知ってもらうきっかけになればということで開催しました。

柳夫妻は、我孫子には7年ほど住んでいましたが、柳夫妻の縁で、当時の我孫子には白樺派の文人たちが集まってきていました。
柳宗悦は民藝運動の創始者として有名ですが、柳宗悦を支えたのは伴侶の兼子であり、また宗悦の思想を実践していたのは兼子であると言われています。
兼子は、本場のドイツでも聴衆を驚愕させたようで、「声楽の神様」とさえ言われ、85歳まで公式のリサイタルをつづけていたそうです。
柳兼子は、まさに今の日本において、見直される人だと海津さんは考えていますが、たぶん今回のサロンに参加した人はそういう思いを持ったのではないかと思います。
NHK朝ドラにするとしたら、こういうのがいいという提案も参加者から2つも出ました。

白樺派と言えば、文芸活動というイメージを持っている人も多いと思いますが、その底にある理想主義や人道主義を踏まえた社会活動の側面はなかなか伝わっていません。
柳宗悦の民藝活動も、生活文化のなかに「用の美」を見出すというような美術活動の側面に焦点が当てられ、声楽と言えば、これまた芸術活動と考えてしまいますが、白樺派にしろ民藝運動にしろ、そして柳兼子の声楽活動にしろ、もっと広い社会性を持ったものだったようです。
今回のサロンでは、海津さんはそういう広がりを意識しながら、さまざまな「テーマ」を示唆してくれました。
途中で、柳兼子の80歳を超えた時の歌声も聴かせてくれました。
その声の力に驚きました。
ただし、私がとりわけ興味を持ったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチとのつながりです。

海津さんのもう一つのメッセージは、戦争に向かって全体主義化が進んでいた当時の時代状況のなかでの兼子や白樺派の人たちの動きです。
私たちが、いまそこから学ぶことはたくさんあります。
これもサロンでは少し話し合いがありました。

沖縄在住のジャーナリストでもある緒方さんや日本韓国・朝鮮関係史研究会のメンバーの方も3人参加してくれました。
沖縄や朝鮮とのつながりも柳夫妻の活動の本質を示唆してくれています。
ほかにも参加者からも興味ある話が紹介されました。
今回は柳兼子の入り口だけでしたが、たくさんのテーマがちりばめられていたような気がします。
海津さんのフットワークのいい調査と自由な想像力に裏付けられたとても面白い発表でした。

これを契機にして、海津さんに「柳兼子研究会(仮称)〕の立ち上げと柳兼子我孫子ツアーを企画してもらおうと思います。
関心のある方はご連絡ください。
また当日配布された、海津さんのレジメ「手賀沼湖畔で大発展した白樺派と柳兼子」をご希望の方はご連絡ください。
海津さんの了解を得て送らせてもらいます。

ところで、柳兼子を主人公にしたNHK朝ドラの実現に力を貸して下さる方がいたらぜひよろしくお願いします。
面白いものになることは、間違いありません。

Kaneko


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2018/06/15

■「パラノイア ハイプログラマーズ」を体験しました

アメリカで開発された政治風刺ゲーム「パラノイア ハイプログラマーズ」を体験させてもらいました。
http://chihosho.neil.chips.jp/?eid=360
何人かでやるアナログゲームですが、以前、ウォーゲームを体験させてもらった蔵原さんのアレンジです。
前回のウォーゲームが、思った以上に退屈だったので(蔵原さん、すみません)、いささか不安がありましたが、今回は退屈どころか、なかなかついていくのが大変でした。
何しろゲームに入る前の、頭に入れておかなければいけないルールがたくさんあって、私のように老化した頭にはすんなり入っていきません。
しかし、始まる前からなにやらワクワクするようなものを感じました。
それに、その段階からすでにゲームははじまっていて、目に見えない駆け引きが行なわれていることを、今回のゲームマスターの岡和田さんに教えてもらいました。
この仕組み、というか、進め方が実に面白い。

ゲームは、 “アルファ・コンプレックス”というディストピアを支配する、親愛なるコンピューター様に仕える「ハイプログラマー」というエリートとして、コンピューター様の問いかけに応じて、コンプレックスを経営していくことです。
ゲーム参加者は、それぞれ「大臣」となって、「閣議」をもちながら、国家経営に取り組みます。
私は、最初、2つのポストをお金を使って獲得したのですが(一つはライバルと競り合って高い代償を払いましたが)、あまりの事態の目まぐるしさになかなかついていけずに、結局、一つのポストはライバルに奪い取られ、さらにコンピューター様の機嫌を損ねて、死刑の憂き目にあってしまいました。
お抱えシェフのおかげで、贅沢な食事を堪能し、市民の食糧まで取り上げようとしたのが、よくなかったかもしれません。
しかし、「食事」などという原始的な習慣は市民には不要で、それはエリートだけの特権にすべきというのが私の提案だったのですが、同僚からは無視されました。
もっとも、“アルファ・コンプレックス”のエリートは、みんなクローンなので、抹殺されても、すぐに復活できるのですが。
まあ、そんな形で、ささやかにゲームに参加させてもらいました。
みんなの足を引っ張ったとはいえ、なんとか落伍しなかったのは、ゲームマスター役の岡和田さんのリードのおかげです。
岡和田さんやすでにゲーム体験のあるみなさんのおかげで、このゲームの考え方の効用や可能性も実感できました。

蔵原さんからは、なぜ政治が良くならないか、憤慨するだけではつまらなくないですか。いっそ政治のしくみを笑い飛ばしながら、その原因をつきとめませんか、とメールをもらっていました。
現在の政治に憤慨するのは、自らに唾することですから、私も憤慨しているだけの人には共感はまったくと言っていいほど持てないのですが、このゲームでガス抜きしてしまうのも、賛成はできません。
しかし、政治のメカニズムに気づき、政治を見る目を変えていくには、一つの方策だろうと思います。
しかし、私はむしろ、企業や自治体行政や、さらには子どもたちの考える力を引き出すために、こうしたゲームは大きな効用があるように思いました。
今回は、ゲーム好きな人たちに会えて、ちょっとまた世界が広がりました。


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2018/06/14

■カフェサロン「いまの政治でいいのだろうか」の報告

「茶色の朝」サロン(BMS)の4回目は、3人の子どもの母親で、専業主婦の方に日頃思っている疑問などを話してもらうことを入り口に、「いまの政治でいいのだろうか」を話し合おうという呼びかけをさせてもらいました。
11人があつまりました。

最初のお話は、母親であるという立場もあって、学校や教育の関係のお話から始まりました。
そして、いろんな生活体験から、なにか「見えないもの」が社会を動かしているような気配を感じていること、そこで、生活者として、1人でもできる活動をはじめたら、そこからいろいろなことが「見えてきた」一方、さらなる「見えないもの」も感じだしたことなど、日常生活からのとても具体的なお話で、茶色の朝サロンにふさわしい問題提起が込められていました。

そこから話し合いが始まりましたが、男性が多かったせいか、やはり「生活感覚」ではなく、「知識」ベースの話し合いになってしまった気がします。
最初に話題になったのは、ハンナ・アレントのアイヒマン裁判の話でした。
凡庸(忠実に命令に従う)、あるいは「自分で考えないこと」が、あのユダヤ人殺害を支えていたという話ですが、まさに今の日本にも、こうした「思考停止」や「凡庸志向」が広がっているという話になりました。
学校を含む教育の問題も出されましたが、ここでもイヴァン・イリイチの「脱学校の社会」にまで話が広がりました。
茶色の朝サロンの主旨はなかなか実現できません。

もちろん、話し合いは示唆に富む内容も多いのですが、たぶんそれでは社会は変わっていかないような気がします。
1960年代から70年代の学生運動が挫折したのは、「生活」とつながっていなかったからではないかという、当時活動していた人からの「反省」も出てきました。
だから「茶色の朝」サロンを始めたのですが、どうもやはりそこから抜け出られないのが男性たちかもしれません。
いまの若い男性は全く違うと思いますが、残念ながら今回は、その世代の男性は誰もいませんでした。

話題提供してくださった母親は、おかしいと思ったら行動しています。
教科書検定が気になったら、実際に教科書が展示されている場に行って、いろんな教科書を読む。
気になったことがあれば、関係者に電話して意見を言う。
それがたぶん「茶色の朝」が私たちにメッセージしていることです。
気になったら考える、そして動く。

翌日、話題提供者からメールが来ました。
そこにとても大切なことが含まれているように思うので、その一部を紹介させてもらうことで、今回は報告に変えたいと思います。

午前中に自宅で、たくさん溢れる「伝えたい思い」を無理やりまとめる作業をしましたが、これにより、自分の抱えた不満を整理することが出来たように思います。
予想外のありがたい効果でした。

皆様のご意見から、たくさんの「気づき」がありました。

息子から「お母さん、俺はどうして勉強するんだろう」としょんぼりと問いかけられた出来事。
息子の心からの問いに即答できずに「何でだろう…」と言ってしまい、翌日息子に自分なりの返事を伝えても、「もういいよ」とあしらわれてしまいました。
子供のなぜ?が、もう心の奥に仕舞われてしまったのです。
日頃から、「今年は受験だから頑張ろう」と息子に話していたのに、なぜ学ぶのか、なぜ受験勉強をするのか、大事なことをよく考えていない母親だったと、ひどく後悔していました。
でも、サロンのあと、新たな考えが浮かびました。
もしかすると、私の答えなんかどうでもよかったのではないか。
私がサロンのあとで「自分なりの着地点」を見つけたように、「それなら自分で考えるか・・・」とか「他の人に聞くか」とか「調べるか」とか。
何でもいいから、自分で答えを見つけ出してくれるのではないか、そんな希望が生まれました。

自分の意見を考え、整理する。人に伝える。他の人の意見も聞いてみる。
これって生きていくのに本当に大切なことだと思いました。
人間はロボットではない。思いがあり、考える人間である。だから悩みも苦しみも生まれる。
子供達にはそこから逃げず「自分なりの答え、着地点」を考え、探し求めながら歩んで欲しいなと思います。

そう考えると、子どもこそ「サロン」が必要ですね。
とりあえず、自宅で「サロン」をやってみようと思います。

このメールを読んで、とても報われた気持ちになりました。
懲りずに「茶色の朝」サロンは続けたいと思います。

Bms4


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