カテゴリー「政治時評」の記事

2019/05/23

■善く統治されるか悪しく統治されるかによって、我々の生活は違ってくる

政治家たちの暴言がつづいています。
そこに現在の日本の政治状況の実相を感じますが、最近読んだデイヴィッド・ミラーの「はじめての政治哲学」の冒頭に、14世紀に描かれた「善き統治と悪しき統治の寓意」と呼ばれているフラスコ画の話が出てきます。
ウィキペディアでその絵を探してみました。
1枚は「善き統治」、もう1枚が「悪しき統治」です。

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デイヴィッド・ミラーは、政治哲学とは何であり、なぜ政治哲学が必要なのかを理解するには、この絵をじっくりとみる以上にいい方法はないといっています。
この図から、善き統治と悪しき統治が人間の生活の質に深く影響を与えることが読み取れると、ミラーは書いています。
なるほどと思い、今朝もこの絵をじっくりと眺めていたのですが、私にはあんまり読み取れません。
やはり14世紀のヨーロッパとは異質な文化に生きている私には、理解できないのでしょう。

ミラーはこの絵からいささか強引と思えるのですが、次の結論を引き出します。

我々が善く統治されるか、もしくは悪しく統治されるかによって、我々の生活は本当に違ってくる。政治に背を向け、私的な生活へと退却し、我々が統治される仕方は自分の私的な幸福に大した影響を与えないだろう、と思い描くことはできない。

そういわれれば、納得できます。
「我々が統治される仕方」は、私たちの生活を大きく決めているのです。

ちなみに、この絵は、シエナ市庁舎内のサラ・デイ・ノーヴェ(9人の間)の壁画だそうです。
当時、シエナは9人の裕福な商人からなる評議会が統治する共和主義政体でしたが、評議会の人々はシエナの民衆に対する責任を思い起こさせるために、そして自らが行う共和制への誇りのために、この絵の前で統治を行っていたのです。
間違いなく、当時のシエナには、善き統治が行われていたのでしょう。
そして、それを支えていたのが、シエナの民衆だったのでしょう。

政治家たちの暴言がつづいているのは、日本の現在の政治状況、つまり統治の実相を象徴しています。
日本の政治家にも、この絵をじっくり見てもらいたいですが、その前にまず、私たちも私的な生活に退却して、政治に背を向けることだけは避けたいものです。
日常化してしまった政治家の暴言の根っこは、たぶん私たちの政治感覚にあるのでしょう。
「令和」であんなに騒いでいる人たちを見ると、つくづくそう思います。

シエナでは、評議員のためにフラスコが置かれましたが、いまの日本では国民のために「令和」と言う言霊がかぶせられてしまいました。
なんだか先行きが決められたようで、さびしいです。
しかし、ミラーはこうも言っています。
統治の形態は大衆にも選択の余地がある、と。

政治を語り合う「茶色の朝」シリーズのサロンをまた再開しようと思います。

 

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2019/05/05

■湯島サロン「憲法ってなんなのだろうか」報告

年に1度の「憲法サロン」は、今年は自由な憲法談義にしました。
12人が参加。湯島サロンの初参加者も2人いました。
日本国憲法の条文が直接語られるというよりも、憲法とは何かを考える、いろいろな話が出ました。

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最初に、憲法と法律との違いを話題にさせてもらいました。
日本国憲法には「この憲法は国の最高法規」と書かれているので、憲法は最上位の法律と思っている人は多いでしょう。
しかし、「憲法」と「法律」とは、全く別のものだと私は考えています。

どこが違うかと言えば、「憲法」は国家を統治する権力者に向けてのものであり、「法律」は権力者が統治する国民に向けてのものなのです。
また、憲法は国の形や目的を決めていますが、法律はその形をつくるルールを決めています。
つまり両者は全く別のものなのですが、学校でも社会でもそういうことは教えてくれません。

権力を信託された権力者が「憲法」の理念に従って「法律」をつくるという意味で、憲法は法律を規制しますが、規制しているのは法律というよりも、法律を制定する権力者なのです。
対象が全く違うのですが、ここを理解しておくことが大切です。

しかし、最近の日本の憲法論議は両者を混同していますから、憲法は私たちの生活にはつながらないと思ってしまうのです。
昨今の憲法論議は、すでにして「権力者の政治」の舞台に乗せられてしまっているような気がしてなりません。

これに関しては、湯島サロンの常連の折原さんが、昨年、コスタリカに行ったときの報告で、とても示唆に富む話を紹介しています。
ちょっと長いですが、折原さんの報告(「AMAZON 20192月号「今日のコスタリカを築いた方々を訪ねて」」から要旨を引用させてもらいます。

コスタリカの国民にとっては、憲法は極めて身近なところにあって、憲法を使って自分たちの権利を主張して、簡単に裁判に持ち込める。その実例として、町役場が学校のサッカー場の隣に溝を掘り始めて、溝が非常に臭かったため、小学生が憲法裁判所に「これはぼくたちのレクリエーションの権利を侵害している」と訴え、裁判所が町役場に「1週間以内に溝を塞ぐように」との判決を出したことを紹介してくれました。

コスタリカでは憲法の役割と国民主権の意味がしっかり認識されているわけです。

日本国憲法が中心に置いている価値はなんなのか。
平和や人権と考える人が多いと思いますが、「平和」も「人権」も時代によって大きく変わってきています。
それに、アメリカの平和はイスラムにとっては平和でないかもしれませんし、自らの人権を守るために他者の人権を踏みにじることで格差社会の人権が成り立つこともある。
いずれも「相対的」な概念なのですから、価値原理にはなりえません。

「個人の尊厳の尊重」こそが日本国憲法の中心価値ではないかと私は思っていますが、これに関しても少し議論がありました。
しかし、その「個人の尊厳」は、自民党の憲法改正案では否定されています。
個人である前に「国民」でなければならないとされているのです。
そういう発想がかつての戦争を可能にしたわけですが、平和とは反転する概念であることをしっかりと認識しなければいけません。
国家は国民のためにあるのであって、国民が国家のためにあるわけではありません。

「国民」とは何かの議論もありましたが、国民は近代国家を支える3要素の一つとして生まれた国家のための要素です。
しかし、国家の3大要素と言われる「領土(領域)」「国民」「主権」のうち、グローバル化の進展で、領土も国民も意味を弱めている中で、国家の意味は失われてきているのではないかという意見も出ました。
もし領土と国民が意味を失ったとしたら、国家はそれこそ支配権力の「主権」を正当化する概念でしかありません。
そうなれば、法律とは全く違うものとしての憲法の意味は大きくなってきます。

ところで、憲法は統治者を制約するもの、法律は被統治者を制約するものと捉えると、どうしても統治者と被統治者の二元対立構造の問題が生じます。
最近の日本ではまさにそういう状況が顕在化しつつります。
そこで重要になってくるのが、第3の存在としての「象徴天皇」です。

私は、天皇は古来象徴だったと思っているのですが、その象徴性こそが「政治性」そのものなのではないかと感じています。
問題は、権力に利用されることもあれば、被統治者の守護神になることもある、それが第3の存在の意味でしょう。
今回のサロンでも、天皇制や天皇に対する好感度は高かったような気がしますが、世間的にもいささか驚くほどに天皇への期待は大きくなっているように思います。

湯島のサロンでは、日本国憲法の最初に「天皇」の規定があることに違和感を持つ人が多いのですが(私もそうでした)、私は最近、その認識が変わりました。
統治者と被統治者が対立した時、革命でも起こさない限り、勝敗は明確です。
権力者と国民の二元対立構造をバランスさせる存在としての象徴天皇の価値はとても大きいのではないか、それこそが日本国憲法の最大の要ではないかとさえ思えるようになってきています。
天皇制に関するサロンをしたらどうかと提案したら賛成する人が少なからずいました。
一度考えたいと思います。

サロンで話されたいくつかのことを主観的にまとめてしまいました。
まとまりはあまりありませんでしたが、私にはとてもいいサロンだったような気がします。
来年の憲法サロンが待ち遠しいです。

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2019/04/08

■今回の地方統一戦に思うこと

地方統一戦は現状承認の方向に終わったような気がします。
やはり多くの日本人は、安倍政権を支持しているようです。
この75年間は一体なんだったのか、と思わざるを得ないような選挙結果でした。

投票率も低く、ますます地方政治は、中央政府に組み込まれていくような気がします政治の対立軸を、権力 vs生活者と捉える私にとっては、21世紀に入ってから生じた政治の逆行はますます進みそうです。
テレビ報道などでの印象ですので、まちがっているかもしれませんが。

北海道の石川さんが敗れたのが、私には一番の衝撃でした。
あれだけ野党が共闘したにもかかわらず、です。
北海道知事選には、日本の状況が象徴されているようです。
沖縄と北海道から新しい風は起こると期待していましたが、実現しませんでした。

大阪での維新の勝利はいささか複雑ですが、松井さんが「万歳しなかった」(らしい)のはほっとします。
選挙で当選した人たちが万歳する風景をテレビはいつもしつこく流しますが、あれほど私の癇に障る映像はありません。
お上に仕える政治家やその取り巻き(あるいは寄生者)の本心が見えてくるようで、私にはやりきれない風景です。
神奈川県の黒岩さんが喜びを「笑い」で表現していましたが、それにもやはり不快感を持ちました。

いささかストイックすぎるかもしれませんが、政治への真剣なまなざしがどうも感じられない政治家がやるべきことは、投票率を高めることでなければいけません。
生活者が心がけるべきことは政治批判ではなく投票に行くことでなければいけません。

 そんなことを考えさせられる選挙結果でした。

 

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2019/03/17

■原発の対価

昨日、NHKテレビで、毎年放映している、「廃炉への道2019」を見ました。
昨年より廃炉作業が進んでいるのかどうか、私にはにわかに評価しがたいですが、ここでも何か「真相」が隠されているような気がしてなりません。
辺野古もそうですが、当初の予定は常に先送りされ、しかも予算はどんどんと積み増されていきます。
今年の番組でも、40年とされていた廃炉作業期間は、さらに伸びるかもしれないと操作的とさえ思えるような形で繰り返し語られていました。

廃炉作業に降り組んでいる人たちへの感謝の気持ちと敬意は、こうした番組を見るたびに高まりますが、それに反して、現場から遠いところにいて廃炉を進めながらも原発稼働を進めている人たちには憤りを感じます。
それに、作業現場で、果たして被爆者や健康障害などが起きていないのか、いつも気になります。
いいところだけ放映されているようで、見た後、いつもすっきりしないのです。
廃炉作業の厳しい実態やそこから見えてきたことをもっと公開していってほしいですし、そこから原発政策そのものに影響を与えていってほしいと思います。

廃炉や原発事故にまつわる補償や環境回復などの資金はすべて税金で賄われています。
東電という会社が負担しているという人もいるでしょうが、そもそも東電の資金は基本的には国民の電気代と税金投入が基本です。
それに、電気代というと、一般商品やサービスと違い、生活を支える必需性が強く、しかも消費者としての選択の余地はほとんどありません。
もちろん最近の電力自由化で、形の上ではいろんなメニューがあるように見えますが、基本は電力会社(あるいは政府)の管理下に置かれており、電気代も供給側で設定されます。
原発事故の補償費にしても、実質的には(当然ですが)国民が税金と電気代で負担しています。
しかも、その国民負担を東電の判断で、十分な補償に回さないという現実もあるようにも思います。
それも含めて、原発にまつわるお金の状況は、私には見えにくくなっています。
その気になれば、明確なお金の流れは見えるようにできるはずですが。

いろんな問題がありますが、一番の問題は、果たして原発を継続していくためにはどのくらいのお金が必要なのかが、明確になっていないことです。
廃炉費用もすべて本来的には電気代に乗せるべきですが、その費用も全く見えていない。
本来的にコスト計算するときには、そうした費用もきちんと考慮すべきはずですが、電気代に関しては、いわゆる外部コストは違うところに賦課される仕組みになっています。
そうしたことがはっきりと理解されれば、原発による電力コストが安いなどという人はいなくなるでしょう。

原発被害者の補償ですが、東電などを通さずに、国民一人あたりから原発税として徴収したらどうかと思います。
そうすれば、国民も原発に依存しようなどとは思わなくなるでしょうし、被災者の苦労も共有できるはずです。
どこに使われるかわからない税金は払いたくなくとも、原発被害にあっている人たちの生活支援に使われるのであれば、払いたいと思う人も少なくないでしょう。

原発に関連したテレビ番組を見ると、いつも元気が吸い取られます。
廃炉作業で死者が出ないことを祈ります。

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2019/03/02

■国民意思と統治者意思

統治権シリーズは、2回でストップしてしまいましたが、また書き出します。
2回目で書いた「国民投票」について考える前に、考える枠組みを少し整理しておきます。

国民の意思(これもまた曖昧な言葉です)と統治者の意思との関係は図のようになります。


Photo


日本は、代表民主制を採用していますので、国民の意思は代表である国会議員に託されています。
その信託に基づいて、三権分立体制の仕組みにのっとって、統治が行われます。
問題は、統治は機械的に行われるわけではなく(そういう仕組みもありますが、今の日本はその体制をとっていません)、人が行っています。
その人が「統治者」ということになり、日常的な問題では政府の代表である総理大臣がその役割を担います。
そして、もし統治者である総理大臣が主権者の意思を法文化した憲法に反することをした場合は、三権分立の一翼である「司法」がそれを正すことになります。
しかし、そうした「日常政治」に属さない問題は、三権分立の統治体制には属さずに、違ったところで「誰か」が統治しています。
ここを問題にするのが、このシリーズのひとつの論点です。

国民意思と統治者意思がずれたとき、どうしてそのほころびをつくろうか。
代表民主制、あるいは間接民主主義の限界をどう超えていくか。
それもう一つの論点です。


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2019/02/26

■主権者の思いと統治者の思い

統治権とは、国土と国民を治める権利のことで、国家の最高権力です。
大辞林には「主権者が国土・人民を支配し、治めること」と書かれていますが、日本憲法のもとでは、国民が主権者とされていますので、「国民が人民を支配する」ということになります。
近代国民国家は、基本的に国民主権を標榜していますので、いささかややこしくなってしまいます。
「国民」と「人民」とは、全く違った概念だと私は思いますが、ここではあまり厳密に考えずに、日本国憲法が両者を同一視しているように、同じだと考えれば、大辞林の定義は「国民が国民を支配する」ということになり、頭はこんがらがってしまいます。
そうしたところに、実は大きな落とし穴があり、統治者という支配者を見えなくしてしまっているのです。

法治国家という言葉もややこしいです。
「法治」とはいうまでもなく、「法が治める」ではなく、「法で治める」ですが、恣意的な人の要素が排除されると思いがちです。
たしかに恣意的な要素を減らすことは間違いありませんが、法というのは解釈が行われて実際に執行されない限り意味はありませんので、人の要素が排除されるわけではありません。
つまり、法が統治するのではなく、法を基準にして「統治者」が統治するのです。
このあたりも、私たちが騙されやすいところです。
大切なのは、法文ではなく、法を活かす精神です。

たくさんの人々で構成される国家を統治するのは、2つの方法しかありません。
最終的な統治権を非論理的な人に託すか、論理的な機械に託すか。
しかし、論理的な機械に託する政治にしたとしても、人の要素を完全に排除することはできません。
政治は、最後まで「人の要素」からは解放されません。
極端の言い方をすれば、統治には必ず最終決定者が存在します。
もしそれをなくそうとすれば、責任回避の疑似統治体制が育ってしまいます。
そもそも「制度」や「組織」は、責任回避の仕組みなのです。
もちろん、それによって、私たちの暮らしは豊かになってきました。
それが悪いわけではありません。
しかし、そうしたことの向こうにいる、「統治者」の存在を忘れてはいけません。
「お客様」だとか「主権者」だとかいう、実体のない言葉に満足していてはいけません。
突然「お客様」という言葉を出しましたが、これはビジネスの世界と似ているからです。
「顧客の創造」などという経営学が広がっていることと、今の日本の政治状況は、つながっています。

余計な事ばかり書いてしまいましたが、主権者である国民の思いとは別に、統治者が存在するのであれば、どうしたら、国民の思いを統治権者(統治者)の統治に合わせられるのか、が問題です。
その一つの方法は「国民投票」です。
もちろんこれは「両刃の剣」ですが、統治者と国民(主権)をつなぐ一つのルートであることは間違いありません。
この問題を少し考えてみたいと思います。

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2019/02/25

■国民主権に従わない「統治権」

沖縄県民投票によって、沖縄県民の「辺野古埋め立て反対」の思いは明確になりました。
しかも沖縄の場合、沖縄県という地方自治体も同じ意見です。
にもかかわらず、実際の政治は、それとは別の方向に向かっています。
県民の多数派の意向も、地方自治体の意向も知りながら、政府による辺野古の埋め立ては止まることはありません。
住民の意思とは別の政治が展開されているわけで、民主主義国家においては、きわめておかしな事態です。

しかし、全くおかしいわけではありません。
住民が暮らす地域をどういう範囲で考えるかによって、住民意思と政治の動きは食い違うことはよくあります。
たとえばごみ焼却場などの迷惑施設の設置に関しては、近隣住民からの反対にもかかわらず、推進されることが、長期的かつ社会的な視点から承認されることはあります。
それに、地方自治体は国家の一部であり、その地域の自治を限定的に認められているだけです。
「国民主権」という言葉はあっても、「住民主権」という言葉はありません。

しかし、今回の沖縄の県民投票は、主権者と統治者の構図を分かりやすく可視化してくれています。
沖縄県民や沖縄県がどんなに希望しても、「政治性の高い問題」は、県や県民の上にある日本政府が決定し、施行することになっているのです。
自治権が制約されるのは仕方がないことです。
辺野古の問題は沖縄の地域問題であるわけではありませんが、現在の制度上ではそうなっているだけです。
いやむしろ地域を超えた問題であればこそ、政府の意向が優先されてしまっているわけです。

もう60年以上前のことですが、日米安保保障条約の合憲性が裁判になったことがあります。
その裁判では、最高裁は「高度に政治性のある国家行為」に関しては司法の対象から外すとして、違憲性の評価をしませんでした。
後になって判明したのですが、当時、日米両国政府から最高裁に圧力がかかっていたのです。

日米安保保障条約は、日本の国民の生活にとっては極めて重要な問題です。
そもそも「高度に政治性のある問題」こそ、国民にとっては死活につながる問題なのです。
そうした問題を司法から外す、つまり統治権を持つ政府にゆだねるということは、主権者たる国民から統治者である政府が「主権」を取り上げるということになります。
主権者たる国民が、政府に自らを「統治」することを信託したのは、三権分立の統治体制の中で、統治者である政権の独走を抑制するためなのですが、司法が外されてしまうことは、統治を信託する前提を否定することになります。

つまり国民主権に従わない「統治権」があるということです。
しかしその実体は、法治国家や権力分立型の統治体制に組み込まれた民主的な政府という幻想によって、覆い隠されてきました。
主権者の選挙で信託された政権が統治権を施行しているという幻想もありました。
しかし、日本の政権を超える「統治権」の存在が少しずつ見えてきています。
そして、政治と国民の思いが大きくずれてきている現実があります。

県民や県知事がどう思おうと、それとは別の論理で沖縄は統治されています。
高度に政治性のない問題に関しては、自治が与えられていますが、肝心の問題は沖縄の外で決められてしまう。
高度に政治性のある問題は既存の統治体制の枠外で決められているのは、日本全体においても同じなのです。

つまり、統治権者たる政府とは別の統治者が存在するということです。
それが米国の産軍複合体なのか、金融資本なのか、有徳の政治家なのか、は別にして、高度な政治性のある問題にこそ、統治の主軸があるのです。
「誰が日本を統治しているのか」
主権者たる国民は統治者にはなりえません。
国民主権とは、統治者を監視し制約できるという意味です。
統治者の存在を、私たちは意識し、その可視化を進める必要があると思っています。

沖縄の県民投票は、そのことをとても分かりやすく可視化してくれています。
もちろん内容は国政とは違いますが、かたちは相似形になっています。

ちょっと長くなったので、続きはまた明日に。
少しこのシリーズを続けてみます。

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2019/02/24

■湯島サロン「国民主権と統治行為論」の報告

沖縄で辺野古新設に関する県民投票が実施される前日に、「国民主権と統治行為論」のサロンを開催しまました。
奥にあるテーマは、「国民投票制度」です。
10人を超える方が集まったばかりでなく、初めて参加してくださった方も何人かいました。

最初に私から、統治行為や砂川事件の資料などを紹介させてもらった後、リンカーンクラブ代表の武田さんが、テーマに沿った話をしてくれました。
現在の日本の政治が主権者たる国民から大きく乖離していること、しかも砂川判決以来、「国家統治の基本に関する高度な政治性を有する国家の行為」に関しては司法の対象にしなくなったこと、国会で議論している政治の外にそうした「統治」分野があるとされていること、それに、そもそも議会制民主主義は国民の意思を反映させられる民主主義なのか、といった話をチャートに合わせて、説明してくれました。
そして、そこから、「高度な政治性を有する国家の行為」というのがあるのであれば、それこそそうした問題を国民投票の対象にして、高度な政治性のある統治行為を国民主権で決定することが考えられると提唱したのです。
これまで、三権分立の世界から「特別扱い」されていた「高度な政治性を有する国家の行為」を、逆に国民に取り戻すという提案です。

ここから「国民主権」と「統治権」の「ずれ」を解消するための話し合いが行われる予定だったのですが、論点を整理しようとしだした途端に、話が混乱しだしてしまい、残念ながら、内容の話ではなく、言葉遣いや「統治権」そのものへの異論などの議論になってしまい、なかなか内容的な議論にはたどり着けませんでした。
それでも最後のほうでは、「高度な政治性を持つ国家行為」に関する国民発議権や、主権を現実化するためには立法と同時にその法を実行するということの2つを伴わなければ完成しないという話にまではたどり着けたと思います。

途中で、参加者から「沖縄の県民投票の話」が出ましたが、残念ながら、国民主権と統治権という話にまで深める時間がありませんでした。
今回の県民投票には、「統治権」がわかりやすく可視化されているので、まさに統治の実態を考える事例でしたが、それだけではなく、「自治権」と「主権」との対比で考えるとさまざまな論点が出てきたと思います。
今回は参加者の一人の方が問題提起してくれましたが、逆に話が混乱するという人もあり、議論は深められませんでした。
そうならないために、事前にチャートまで書いて説明したのですが、私の説明不足と進行のまずさで、内容の議論をする時間がなくなってしまい、申し訳ないことをしました。
今回は、私も意見を言いたかったのですが、進行役として、言葉や論点の整理で終わってしまい、かなりの欲求不満が残りました。

しかし、武田さんの問題提起には、いろんな示唆が含意されています。
私が大学で学んだころから、砂川判決に端を発する「日本版統治行為論」は議論されていましたが、むしろ、そのことで「統治権」あるいは「主権」があいまいにされていたように思います。
私が日本の憲法学者を全く信頼しないのは、そのためです。
最近になって、ようやくそうしたことが議論されるようになってきていますが、多くの人は「統治行為」はともかく「統治権」というとらえ方にさえ視野が行っていない気がします。

「人の支配」から「法の支配」の確立への移行が近代国家だという人もいますが、理論的にはともかく、実際に複数の人々を統治していくためには、最終的には「人の意思」が不可欠です。
学者はともかく、数名の組織に関わったことがある人であれば、すぐわかることです。
法は基準であって、行為主体にはなりえないからです。
法治国家においても、当然のことながら卓越した権力を持った「統治者」が必要です。

世界初の成文憲法典は、17世紀の「統治章典」だといわれますが、これは統治者に対する「統治行為への制約」と言えるでしょう。
しかし悩ましいのは、国民主権国家となると、憲法が制約する対象は複雑になります。
素直に考えれば、憲法は主権者たる国民を制約するのではなく、「統治者」を制約することになりますが、もしそうならば、主権者である「国民」を(制約がなければ)自由に統治できる存在があるということです。

とまあ、こういう話に広げたかったのですが、今回はその入り口で時間切れでした。
ちなみに、日本は「主権国家」というようないささか過激な話が出ましたが、「国家主権」と「国民主権」の関係も刺激的なテーマです。

沖縄の県民投票の結果もそろそろ明らかになりだしていますが、その結果の動きなどももう少し見えてきたら、またこのテーマでのサロンを開催したいと思っています。
関心のある方はご連絡ください。

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2019/02/08

■統治行為と統治権

昨日は久しぶりにリンカーンクラブ代表の武田さんと「統治行為と統治権」について激論をしました。
いま武田さんが、この問題を論考し、まとめているのです。
武田さんは、小林直樹さんの「憲法講義」を議論の一つの材料にしていますが、小林直樹さんは私が学生時代、しっかりと講義を聞いた数少ない教授です。
ちょうど私が大学に入ったころに、この「憲法講義」の原型がテキストになりました(当時はまだ上巻だけでした)。
大学時代のテキストはほぼすべて廃棄しましたが、3冊だけ捨てずにまだ持っている本がありますが、その1冊がその「憲法講義」です。
そこに、統治行為に関する短い指摘がありますが、残念ながら「統治権」への明確な言及は見当たりません。

私は三権分立が統治の基本的な枠組みだと、学んでしまいました。
しかし、実際に会社に入り、社会の仕組みが少しずつわかってくるにつけ、三権分立では統治はできないということに気づきました。
三権分立は「仕組み」ですから、その上に「意志」がなければいけません。

国民主権という概念も理念であって、統治の精神でしかないことも気づきました。
さらに言えば、古代ギリシアが民主主義であるはずがないことにも気づきました。
デモクラシーを民主主義と訳したのが基本的な間違いだったように思います。
デモクラシーと民主主義は違うものだということは、リンカーンクラブでご一緒した政治学者の阿部斉さんに気づかせてもらいました。

砂川判決は、統治の構造を露呈してくれました。
高度な政治性を有する問題は、三権分立には馴染まないとして、司法の対象から外したのです。
言い替えれば、司法とは権力に抗うのではなく、権力に加担するということを明らかにしたわけです。
同じように、安全保障の意味もかなり可視化してくれました。
しかしその後も、言うまでもなく憲法学者や法学者は統治権を隠そうと頑張りました。
学者とは基本的に権力に加担するのがミッションですから、それは仕方がありません。
悪意があったわけではないでしょう。知性がなかっただけです。

統治とは、本来は「高度の政治性」が主舞台です。
それを見えなくしているのが、「近代国家」かもしれません。
そうしたことが最近どんどん見え出してきています。
それが露呈しだしたのは、小泉政権だったと思います。
露呈というよりも、開き直りといったほうがいいかもしれません。
それがその後、どんどん加速され、見えない統治権者のために政治はどんどん劣化しました。
嘘が見逃され、嘘が正道になり、よりどころのない政治が広がりだしました。
小泉さんは自民党を壊したのではなく、日本の政治(社会)を壊したのです。
小泉さんにも悪意があったわけではないでしょう。知性がなかっただけです。

統治権という概念とその正体については、最近、在野のジャーナリストや一部の政治学者が広く発言しだしました。
しかし長きにわたって見えない統治者に依存する生き方に慣れてしまうと、構造が見えてもそれに抗う気が、私も含めて国民にはなかなか起きてきません。
言い換えれば、みんな「国民」に育てられてしまったのです。
ではどうすればいいか。

武田さんは今日から温泉宿に缶詰めになって、論考をまとめるそうです。
その論考がまとまったら、湯島でサロンを開いてもらおうと思います。
関心のある方はご連絡ください。

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2019/01/29

■カフェサロン「沖縄の辺野古県民投票を考える」報告

沖縄県民投票を材料にしたサロンは、5人の集まりになりました。
県民投票にしても、辺野古問題にしても、もっとたくさんの人が集まると期待していましたが、結局はいつもの常連のメンバーでした。
風邪気味で体調がよくなかったのですが、関心を持っている人があまりに少ないことを知って、一挙に風邪が悪化してしまった気がします。
以来、まだ立ち直れていません。
困ったものです。

沖縄住民投票に関しては、添付の新聞記事を読んでもらいそれに関しての意見交換をしたかったのですが、これもあんまり盛り上がりませんでした。
私の気になった点を紹介しておきます。

・投票すること自体への住民の不安が大きいことに問題の本質があるのではないか。
・考えていることで差別される社会の未熟さが相変わらず変わっていない。
・国と都道府県と基礎自治体という3つの政府の関係の複雑さに何かが隠されてしまっている。
・基地問題より「お金を福祉に回した方がよい」という民の福祉観への疑問。
・辺野古以外でもいろいろと基地をめぐる問題が起こっているが、それさえも分断されている。
・県民投票結果が無視されるということへのあきらめ(行政への不信感)。
・県民投票結果は工事に関して全く『影響はない』と言い切る政府官房長官の異常さ。
・生活と政治とは別物という政治観の広がり。
・この問題は沖縄だけではなく全国で国民投票すべきではないか。

それに合わせて、こうしたことから見えてくる「統治権」と「統治行為」の関係も問題提起させてもらいました。
しかしこれも不発に終わったので、これに関しては改めてサロンを開催したいと思います。
国民主権である以上、統治権と国民意思をしっかりとつなぐ仕組みがなければいけませんが、国民意思を代表することになっている「国会」には統治権はありません。
あるのは「立法権」です。
ではだれに統治権はあるのか。
そのあたりが見えなくなっているところに大きな問題がありますが、誰も大きな問題にしません。
最近は米軍こそがかつての天皇に代わっての統治者ではないかという話が出てきていますが、統治者が見えない状況での政治は気持ちがよくありません。
そろそろ「政治のパラダイム」を変えなくてはいけません。
しかし、統治者への関心は今回の参加者にはあまりありませんでした。

というわけで、今回のサロンは「不発」に終わりました。
体調を整えて、リベンジしたいと思っています。

ちなみ昨日また、辺野古では新たな埋め立てが始まりました。
辺野に新基地は多分完成しないでしょうが、残念なことに環境破壊は修復できません。
後悔はいつも先に立ちません。


Okinawa19011


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