カテゴリー「政治時評」の記事

2017/09/23

■お互いに知り合えば、戦争などなくなるでしょう

トランプさんと金正恩さんとのチキンゲームはますますお互いの弱さを露呈してきていますが、それに拍手する安倍首相のような人もいて、さらにはそれをはやし立てるテレビタレントもいて、このままだと事故の暴発にさえつながりそうな気配を見せています。
暴発は運に任せるしかありませんが、もっと恐ろしいのは日本核武装論が現実化しそうなことです。

何回も書きますが、改めてオスグッドの勇気に感心しています。
当時は日本もアメリカも、エスカレーション戦略論者のハーマン・カーンが大人気でした。
その潮流には、オスグッドは決して乗りませんでした。

オスグッドも引用していますが、アインシュタインは、かつてこう書いています。

我々の世界は、善悪いずれを問わず主要な決定を下すことのできる権力者の手に負えぬほどの、一大危機に見舞われている。解き放された原子の力は、我々の思考以外のすべてを変えてしまった。もし人顆がこれから先も生き残ろうとするならば、我々は事実上、全く新しい思考の方法を必要とするであろう。

オスグッドは、「本当に災難が訪れた時、それを非常識な学者たちや、ワシントンのバカどもや、クレムリンの悪魔のせいにすることは容易いことです。しかし、それでは我々はどうにもならないでしょう」と「戦争と平和の心理学」で書いています。
まさにこの言葉は、いまの状況にも当てはまります。
批判してもどうにもならない。

アインシュタインは、その後、パグウォッシュ宣言などに見られるように、行動を変え、世界に働きかけていきます。
パグウォッシュ会議が始まった1950年代からオスグッドの提案が出た1960年代にかけて、世界は大きく方向を変えそうな時代でもありました。
しかし、なぜか1970年に入ると歴史はまた回帰してしまいました。

なぜそうなってしまったのか。
たぶんそれは、世界の構造原理の変化に無関係ではないような気がします。
システム同士の対立からシステムと人間との対立になったというのが私の考えです。
私には、世界の構造ははっきりと見えているのですが、それはイメージ的なものなので、文字で書くのはたぶんできません。
そういえば、小林秀雄さんが、岡潔さんとの対談で、「アウグスチヌスは、時というものを説明しろといったらおれは知らないと言う、説明しなくてもいいというなら、おれは知っていると言うと書いていますね」と話していましたが、まあ偉そうに言えば、そんなことです。
人が言葉にできることは、自分の世界のほんの小さな一部でしかありません。
世界が見えていると不安は小さくなります。

本論に戻れば、人間はみんな平和を欲しているのです。
その点では、アメリカの人たちも北朝鮮の人たちも同じです。
私もそうです。
昨日のテレビの報道ステーションで、仲代達矢さんがどうしてあの2人はあんなに言い合うのかと話していましたが、まったく同感です。
そしてそれに波長を合わせている人が多いのにも私は不思議でなりません。

権力たちは、もしかしたら「平和」を望んでいないのかもしれません。
言い方を変えれば、「争い」で自らの「平和」が得られると思っているのかもしれません。

問題を解決したいのであれば、違いから入るのではなく、同じところから入るのがいいでしょう。
大切なことは、平和を望んでいるのは誰であり、争いを望んでいるのは誰かということを見極まることです。

友だちを増やしましょう。
世界を広げましょう。
お互いに知り合えば、戦争などなくなるでしょう。
そんな思いで、湯島ではサロンを続けています。
百年河清を俟つのも、またいいものです。


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2017/09/21

■ソクラテスの嘆き

20日の国連総会で、安倍首相は北朝鮮について、「脅威はかつてなく重大で、眼前に差し迫ったものだ」と述べ、「必要なのは対話ではなく圧力だ」と強調したと報道されています。

いま、50年前に出版されたチャールズ・オスグッドの「戦争と平和の心理学」を読み直しているのですが、ちょうど昨日読んだところに、アメリカとソ連の冷戦関係の時に、アメリカ人とソ連人にソクラテスがインタビューした話(もちろんフィクションです)が出てきます。
それぞれにインタビュー後、ソクラテスは嘆いて言うのです。

「神よ。他人の立場に立って自分の立場が眺められるような能力を、我々すべてに授け給え」
ソクラテスはさらに続けます。
「神よ。自分の立場に立って他人の立場を眺められるような能力を、同じく我々すべてに授け給え」
両国民とも、自分たちはまったく責める気がないのに、相手が攻めてくることを恐れているのです。
オスグッドは、これを普通の生身の人間に要求するということは容易なことではないと書いています。
しかしもし平和を望むのであれば、相手を信頼して「緊張緩和の漸進的交互行為」に踏み出す勇気(GRIT)を持つことだと言っています。
緊張緩和の漸進的交互行は、Graduated and Reciprocal Initiative in Tension-reduction の訳語ですが、頭文字を取ればGRITになります。
核抑止力に関する強力なアンチテーゼとして提案された考えです。

ついでにもうひとつ。
一度紹介したことがあるキム・ジヒャンさんの「開城工団の人々」(地湧社)に出てくる話です。
開城工団(ケソン工業団地)は、北朝鮮が韓国の企業を誘致して北朝鮮国内につくった工業団地で、そこでは韓国の人と北朝鮮の人が一緒に働いていました。
韓国の人も北朝鮮の人も、最初は、お互いに相手を角の生えた鬼くらいに思っていたそうです。
同じ国家の国民だった人たちが、50年もたてば、そうなってしまうのです。

相手を信頼する勇気こそ、私が大事にしていることです。
相手も自分と同じ人間であることに気がつけば、その勇気は出てきます。
時に裏切られるとしても、自分もまた時に裏切ることがないとは言えないことを思えば、許せます。
相手を信頼できない人は、私からすれば、よほど性悪な人なのでしょう。
性悪で弱虫のチキンレースがどんな結末になるのか、思うだけでもおぞましいです。

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■森友・加計学園問題は「小さな問題」?

今朝の朝日新聞の社説に、「森友・加計 どこが「小さな問題」か」と題して、自民党の二階幹事長の記者会見が批判されていました。
臨時国会冒頭での解散について、森友・加計学園の「疑惑隠し」ではないかと問われて、二階さんが、「我々はそんな小さな、小さなというか、そういうものを、問題を隠したりなどは考えていない」(朝日新聞社説の表現)と答えたことへの批判です。
たしかに、森友・加計問題は「小さな問題」などではないことは同感です。

しかし、二階さんの記者会見をテレビで見ていた者としては、ちょっと違和感があります。
二階さんは、森友・加計問題が「小さな問題」だとは言っていないように感じています。
たしかに文字にしてしまうと、そう思われるかもしれません。
しかし、二階さんが言ったのは、野党が非難するような具体的な理由からの解散ではなく、国政の大きな方向を国民に問うための大義に基づいての判断だということだと思います。
少なくとも私にはそう聞こえました。
二階さんは失礼ながら口下手ですが、その朴訥とした発言からいつも感ずるのは大きな視点からの判断です。
もちろん私はその判断そのものに、いつもほとんど否定的なのですが、それは価値観やビジョンの違いです。
そのレベルで批判するのはいいのですが、言葉をあえて都合よく解釈しての批判は、私には賛成できません。

そうした形の批判がいま蔓延しています。
野党の批判が常に私には腹立たしいのは、本質を突くのではなく、表層的な批判に堕しているからです。
要するに批判する基準がないとしか思えません。
なぜなら民進党も小池新党も、要はその基本理念において、安倍政権となんら変わらないため、そういう些末な批判しかできないのではないかと思います。
前原さんの発言も、なんだか借り物のような発言ばかりで信念を感じません。
小池新党に至っては、内容が全くありません。
だからこそ何も考えていない大衆に受けるのでしょうが。

ちなみに、森友・加計学園問題を「小さな問題」にしてしまったのは、野党とマスコミだと思います。
野党は国会であれだけの時間をかけながら、週刊誌での話題のレベルに問題を矮小化してしまいました。
マスコミへの話題提供のサービスとしか思えません。
方針は揺らぐことなく、森友学園は抹消され、加計学園は認可前だというのに校舎の建設はすでにかなり進んでいます。
首相によって憲法が無視される国ですから、国会の議論などどうでもいい話なのです。
野党が分裂と言いますが、要するに野党などないのです。

こんなことは書くつもりはなかったのですが、私の書いた別の記事のコメントについつい徴発されて、またいささか過剰に書いてしまいました。
ついでに言えば、テレビの報道番組はみんな安倍政権支持のキャンペーンを張っているように思えてなりません。
みんなよほど安倍さんが好きなのでしょうね。
だから解散を喜んでいないのではないかと思えてなりません。

久しぶりに書きすぎてしまいました。
困ったものです。
はい。

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2017/09/20

■解散はいつでも大歓迎です

ルソーの「社会契約論」に、「イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる。自由であるこの短い期間に、彼らが自由をどう用いているかを見れば、自由を失うのも当然と思われる」と書いています。
これは国民主権を謳う憲法のもとで生活している日本人にも当てはまります。
主権を行使できるわずかな時間が、選挙の時期なのです。
そういう視点から考えれば、今回の解散は喜ばしいことではないかと私は思います。
なにしろ自らの意思を表明できるのですから。

大義名分がないとか、対抗勢力が弱い状況だとか、問題隠しの解散だとか、野党は言っていますが、そういう発想は私にはまったく共感できません。
自らのだらしなさとやる気のなさを露呈しているだけの話です。
相手を責めるだけの存在では、野党とは言えません。
寄生党というべきでしょう。
民進党も小池新党も、私には亜流自民党にしか見えません。
つまり自民党の一派閥です。

国民も、反安倍の受け皿がないと言います。
そんなことはありません。
受け皿はその気になれば見えてくるものです。
それに投票で白紙を投ずるのも選択肢でしょう。
いくらでも行動できることはあります。
先の都知事選挙の時には、最初から受け皿があったわけでもありません。
もっとも国民の半数は安倍政権を支持しているわけですから、反安倍政党が生まれないのも当然かもしれません。
みんな口では批判しながら、それに甘んじて寄生しているとしか思えません。
まあ私もそうなのかもしれません。

しかし、そうであっても、私は解散は大歓迎です。
自分の意思を政治に反映できるチャンスなのですから。
投票する対象ももちろん決まっています。
それに、解散選挙であれば、それぞれの政治家が考えていることが見えてきますし、政治論議も広がります。
主権者にとっては歓迎すべきことなのです。
大義のない解散などと言っている人の考えがわかりません。
野党にとって解散は大きなチャンスです。
そのチャンスを活かすことなく、解散することを非難している野党は、民主主義をなんだと思って言うのか。
恥を知れ、無知を知れ、と、私は思います。

前原さんは、呼びかける相手を間違っています。
共産党にもがっかりです。
彼らにも、恥を知れ、無知を知れ、と、私は言いたいです。

この機会を活かそうではありませんか。
ルソーが言うように、奴隷状況から解放される、僅かばかりの好機なのですから。

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2017/09/13

■憲法を考えるサロン「元軍国少女が語る憲法への思い」報告

「元軍国少女が語る憲法への思い」には20人を超える参加者がありました。
男性女性半々でした。

元軍国少女を自称されている85歳の高林さん(NPO法人認知症予防ネット理事長)のお話は、ご自身の体験に基づくものなので、説得力があり、とてもわかりやすいお話でした。
高林さんは、京都の宇治にお住まいですが、NPO法人認知症予防ネットの理事長として、長年、認知症予防活動に取り組んでいる方です。

高林さんが憲法への関心を持ったのは、地元の宇治中学校で戦争に関わる体験談をお話になったのが契機だそうです。
高林さんの話を聴いた中学生たちの感想文を読んで、自分には「軍国教育をもろにうけた者」としての視点で語り部的責任があるのではないかと考えるようになったといいます。
思ったら実行するのが、高林さんの生き方です。
そして憲法がないがしろにされている最近の政治状況への憤りもあって、憲法に関しても改めて読み直し、自らの憲法前文を自分でつくってしまいました。

案内文にも書きましたが、高林さんの思いを引用します。

敗戦の経験がなければ、憲法に注文をつけたくなるなど思いもしなかった筈です。 戦争体験と憲法は、私にとりましては表裏一体で、同学年の女学生達の中で、突出した思想の持ち主だったと思いに至ります。 怨霊のような軍国少女にも、1ミクロンの魂が残っています。

憲法と聞くだけで、何時も欲求不満がくすぶります。
私も自分なりの憲法を書いてみようと思った途端、目の前が明るくなりました。
言論の自由の前に、自分の要求を書いてみることが先だと気が付きました。

Takabayashi170912


高林さんの新憲法前文の内容は極めて明快です。
なぜ憲法を変えるのか、そして新しい憲法の理念は何かを明確に示しています。

まず、戦後、日本は「皇国史観」を否定し、主権在民、民主主義、平和憲法を軸にした、新しい憲法を制定したにもかかわらず、恣意的解釈によって9条に違反し、さらには皇国史観の残影の出没を許している現実があることを正さなければいけない、そのために、平成今上天皇の退位が定められたこの転換期に際して、再び憲法の改定を行うべきだと主張します。
そして、改めて政教分離を明確にし、天皇制についても「始めあれば終わりありという天地の公道に従うべき」と主張します。

そして、「国策」理念が、次のように、具体的に明記されます。

「明治以来の富国強兵策は、昭和20年の敗戦までの78年間に、8度の外征を行い、諸外国に多大の被害を与え、我が国もまた甚大な損害と苦難に落ちた。世界で唯一の原爆被災国の責任として、戦争絶対反対、非戦、非武装を世界に誓い、一切の武力による抵抗も行わないことを宣言し、世界平和を追求することに於いて、世界の礎となるべきことを誓う。」
したがって、「自衛隊は解散し、災害救助隊を設立する。兵器は所有しない。害獣に対する麻酔銃に限って所有することを得。世界中からの要請に応えて援助に赴くものとする」としています。
「害獣に対する麻酔銃に限って所有することを得」というのは、高林さんらしいお茶目さです。

以上が前文に明記されている内容です。
個々の条文までは高林憲法案はできていませんが、個人の尊厳を基本とする民主主義理念で一部コメントをしています。
たとえば、「子女」というような「差別用語」が憲法に使っていることを問題提起しています。
そこにこそ、憲法の理念が象徴されると高林さんは指摘するのです。


ちなみに、この「子女」という言葉はだいぶ議論の話題になったのですが、男性と女性とはまったく受け取り方が違っていました。
私は男性ですが、「子女」という日常言葉(最近はあまり使われないでしょうが)にこそ、民主主義をどう捉えているかの本質が現れると思います。
言葉は思考を露呈し、同時に指向を規定します。

皇国史観に関しては、この説明では少しわかりにくいかと思いますが、実はここには高林さんの深い思いもあるのです。
残念ながら今回は、そこまでは踏み込んだ話し合いはできませんでした。
ここには高林さん一流の遊びや余裕も含意されているので、遊び心のある人たちで話し合うと面白いサロンになりそうです。


国策としての「非武装」主義に関しては、反論も多かったです。
最近の国際政治状況を踏まえて、核武装論まで出ましたが、武装によって平和が実現した国家などないという指摘と、逆に非武装で平和を維持した国家があるのかという、「男性」たちの論争がありました。
まあいずれもないというのが正解だと思いますが、大切なのはどちらの生き方を望むかです。
もっとわかりやすくいえば、あなたは誰かを殺さないと生き残れない場合、殺す方を選びますか殺される方を選びますか、ということです。
私は、鶴見俊輔さんが「教育再定義への試み」(岩波現代文庫)で書いていた文章を思い出しました。
ちょっと長いですが、一部省略して、引用させてもらいます。

私の息子が愛読している『生きることの意味』の著者高史明の息子岡莫史が自殺した。 息子は動揺して私のところに来て、「おとうさん、自殺をしてもいいのか?」とたずねた。私の答は、「してもいい。2つのときにだ。戦争にひきだされて敵を殺せと命令された場合、敵を殺したくなかったら、自殺したらいい。(以下略)」

他にもいろんな話が出ました。

高林さんから今朝メールが届きました。

一生涯の決算を、あのような方たちの前で させていただいて、感激しました。 自衛隊を無くして、一億丸腰で、海岸線に一億が仰臥して、北朝鮮からの原爆を丸浴びする覚悟を、世界の人々に示すのが、良いと思っていますが、そこまでは時間不足で口に出せませんでした。 本当に闇夜でなくても棒で殴られても甘受する覚悟でしたが、意外と似たような御意見も聞かせて頂いて、嬉しい思いに膨らんで帰りました。

サロンに参加した人たちからもメールなどをいただきました。
男性たちはあんな感じで政治を語っているのかという女性の感想も聞けました。
こういう話をもっとしていかないといけないですねという人もいました。


高林さんは、学校で話したことなどをまとめて小冊子にしたいと考えています。
私は勝手にまた応援することにしました。
高林さんの了解は得ていませんが、断られても応援するつもりです。
資金集めもしたいですし、出版につなげて読者を広げたいです。
一緒に取り組んでくれる人がいたらご連絡ください。
よろしくお願いします。


なお、高林さんが宇治中学校で話された話の概要は下記にあります。
お時間があればお読みください。
http://cws.c.ooco.jp/takabayashi2017.pdf


憲法サロンはつづけます。

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2017/09/02

■民進党の代表選で感じたこと

民進党の代表が前原さんに決まりました。
総会を見ていて残念だったのは、新しい出発という高揚感を全く感じられなかったことです。
政権交代という言葉がむなしく響くような気がしました。
たぶん民進党の人たちの多くが、自らの社会的な位置づけをきっちりと評価できていないのではないか。
つまり、彼らは外に出てくるよりも、反安倍という機軸にしがみつきながら、安倍政権に寄生しているように感じました。
そこからは、躍動感も期待感も生まれない。

しかし、反対するという形で権力に寄生するというのは、民進党に限りません。
小池新党と言われる人たちの動きも、同じに感じます。
いや、自民党そのものもまた、ある意味で「反対」が主軸になっている。
つまり現在の日本の体制への反対です。
維新に関しては、大日本国憲法時代に戻ろうと明言しています。
ただ「反対」の大合唱です。
今や日本の政治からは「大きな物語」が消えてしまった。
というよりも、もしかしたら私たち現代の日本を生きる人たちから、それが消えてしまったのかもしれません。

先月、久しぶりにオルテガの「大衆の反逆」を読みました。
そこでの指摘は、いまもなお示唆に富んでいます。
昨日の朝日新聞の「異論のススメ」に、佐伯啓思さんが「現代文明の没落 貨幣で思考、衰える文化」と題して、シュペングラーのことを書いていました。
オルテガは、シュペングラーの「没落」論には異を唱えていますが、それはともかく、シュペングラーの指摘も、いまますます現実感を強めています。

日本に力のある野党ができないのは、政治家の責任ではないように思います。
国民が求めていないのではないのか。
政治には野党が不可欠だという常識の中に私たちはいますが、果たしてそうなのか。
自分たちが寄生している安倍政権への未練がましい愚痴として、受け皿がないなどと言っているとしか、私には思えません。
そもそも自民党と民進党とどこが違うのか。
原発にお墨付けを与え、米国依存に賛成し、生活のための財政から国家維持のための財政をめざし、文化よりも経済優先のTPPを持ち込んだのは、菅民主党政権と野田民主党です。

いま必要なのは、受け皿づくりではなく、国家形成原理としての理念です。
日本がどこを目指すのか、それをこそ議論するべき時期ではないか。
いやそうした議論を国民の中に起こすべき時期ではないか。

民進党の総会の報道を見ながら、そんなことを考えていました。
生き方を見直すべきは、わたしたち一人ひとりです。
成熟社会においては、政治は私たちの生き方の鏡でしかありません。
せめて自分だけは、後悔のない生き方をしたいと改めて思いました。

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2017/08/06

■戦後使われていた社会科の教科書をお薦めします

先日のサロンで参加者の濱中さんから、1948年から1953年の間に実際に使われた中学・高校社会科教科書のエッセンスを編集した「民主主義」(幻冬舎新書)という新書を教えてもらいました。
早速、読んでみました。
当時の政府や教育界の真摯な姿勢に、改めて感心しました。
この教科書よりもずっと試用期間は短かったですが、1947年に中学校で使われた「あたらしい憲法のはなし」を読んだ時にも感激しましたが、それからさらにこうした教育が行われていたことを初めて知りました。
改めて日本の教育界の劣化(民主主義を目指すという視点からの評価ですが)を残念に思います。

たとえば、こんな文章が出てきます。

多くの人々は、民主主義とは単なる政治上の制度だと考えている。民主主義とは民主政治のことであり、それ以外の何ものでもないと思っている。しかし、政治の面からだけ見ていたのでは、民主主義をほんとうに理解することはできない。 政治上の制度としての民主主義ももとよりたいせつであるが、それよりももっと大切なのは、民主主義の精神をつかむことである。なぜならば、民主主義の根本は、精神的な態度にほかならないからである。 それでは、民主主義の根本精神はなんであろうか、それは、つまり、人間の尊重ということにほかならない。 人間が人間として自分自身を尊重し、互に他人を尊重しあうということは、政治上の問題や議員の候補者について替戎や反対の投票をするよりも、はるかにたいせつな民主主義の心構えである。

私は、民主主義とは個人の尊厳の尊重であり、それをできるだけ実現することが民主政治の課題であると考えています。

それに続いて次のような文章が出てきます。

これまでの日本では、どれだけ多くの人々が自分自身を卑しめ、ただ権力に屈従して暮らすことに甘んじて来たことであろうか、正しいと信ずることをも主張しえず、「無理が通れば道理引っこむ」と言い、「長いものには巻かれろ」と言って、泣き寝入りを続けて来たことであろうか。それは、自分自身を尊重しないというよりも、むしろ、自分自身を奴隷にしてはばからない態度である。

これを読んで愕然としました。
まさに今もなお、私たちの社会はこうなっていないか。
つまり、戦後70年間、私たちは民主主義に関しては進歩していないのではないかと思ったのです。

編者の西田亮介さんも、「民主主義とは何かという、ときに青臭くも感じられる問いを、真剣に吟味する作業を怠ってきたこの社会は、今、何から始めればよいのだろうか」と問いかけています。
そして、「現代の大人が読んでも気づきが多数あるはずだ。何より、当時どのように民主主義が語られたかという「論調」に目を向けてほしい」と書いています。
「近い将来訪れるかもしれない大きな政治的選択の場面において、いやそれにかぎらず、日常生活における政治的選択の場面において、日本の民主主義がどのように発展し、固有性を確立し、あらためてそれらを「自分たちのもの」にできるのかどうか。あとは読者各位の判断と議論に委ねたい」という西田さんのメッセージが、私の心に深く響きました。
さて何かやらないわけにはいきません。

まずはこの本を多くの人に読んでもらおうと、この文章を書きました。
読むのは結構大変ですが、ぜひ手に取ってみて下さい。
ついでに、「あたらしい憲法の話」なども、お薦めしたいです。

コモンズ書店
http://astore.amazon.co.jp/cwsshop00-22/detail/4344984102

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2017/07/27

■政治が瓦解していくような気がします

政治家の役職辞任ブームです。
いずれも早晩辞任せざるを得ない人たちだと思っていた人たちなので、個別には意外性はないのですが、それが集中して起こったことに、何か不吉な予兆を感じます。

2日間の国会審査会は録画してほぼすべてを見ましたが、見世物としては面白い場面もないわけではありませんでしたが、些末な議論ばかりでした。
こういう「政治」は瓦解しても嘆かなくてもいいのでしょうが、問題は、そうした「政治の空白」に何かよからぬことが起こってしまうのではないかと不安です。
ただ、私の偏見だろうとは思うのですが、救いは前川さんや籠池さんの表情でした。

民進党は瓦解し、できるならばまた鳩山さんと小沢さんの民主党が復活してほしいですが、まあそれはあり得ない話でしょう。
しかし、小池新党などが反安倍の受け皿などになってしまうと、それこそ私の不安は的中してしまいます。
もうひとりの小池さん(共産党)は、相変わらず「共産党」という党名にこだわっていますから、これまた国民の声などには無関心で、結果的には自民との味方だと私は位置づけています。
二大政党政治においては、第三局の存在は、一番強い政党には好都合でしょう。

さてさて先が見えません。
やはり私は、政治思想において尊敬する鳩山友紀夫さんと嫌悪する政治思想の持ち主ですが政治家としては信頼できる小澤さんに組んでほしいです。
まあこれこそ真夏の夜の夢でしょう。

民進党は、どうして国民の声に耳を傾けなかったのでしょうか。
とても残念です。

でもこれだけたくさんの政治家が役職辞任するならば、新しい政治が見えてくるでしょうか。
そうだとうれしいのですが。
どうせならもっと多くの人が辞任してほしいです。
辞任すべき大臣や役職政治家はたくさんいるのですから。

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2017/07/25

■憲法を考えるサロン「元軍国少女が語る憲法への思い」

憲法を考えるサロンは、この2回、個人が起案した新憲法案を材料に話し合ってきましたが、今回はそれに触発されて、憲法私案づくりに取り組んだ、元軍国少女を自称されている85歳の高林さんに、ご自身の体験と後世に残したいメッセージを語ってもらう会にしました。
高林さんは、京都の宇治にお住まいですが、NPO法人認知症予防ネットの理事長として、長年、認知症予防活動に取り組んでいる方です。

高林さんは、今年、地元の中学校で40分ほど戦争の話をされましたが、その話を聴いた生徒の感想文を読んで、憲法問題に関しても、「軍国教育をもろにうけた者」の視点で語り部的責任があるのではないかと考えるようになったそうです。
京都新聞に、添付のような「9条 民意で生まれた「宝」」も投稿されました。

高林さんはこう言っています。
ちょっと長いですが、ぜひお読みください。

敗戦の経験がなければ、憲法に注文をつけたくなるなど思いもしなかった筈です。 戦争体験と憲法は、私にとりましては表裏一体で、同学年の女学生達の中で、突出した思想の持ち主だったと思い至ります。 いびつな女学生がなぜ出来たか、オモシロイ命題かもしれません。 怨霊のような軍国少女にも、1ミクロンの魂が残っていて、面白いものです。 今日まで、生きていて良かったです。

ミミズの戯言かもしれませんが、戦前の日本人の生き残りの義務として、敗戦まで連綿と続いた日本独特の神観・宿神の弁解もしたいです。
明治維新が成功した理由は、2000年来続いた国学が基礎だったからと、思っています。
国学の精神が、何度も歪み、曇りながらも日本の国是でした。それを敗戦で止めるのですから、憲法で一言の挨拶が必須だと思います。
それが無いから、政府要人が靖国神社に参拝したり、皇族が伊勢神宮を参拝したり、旧来の陋習を引きずるのだと思います。
ケジメの思想がないので乱世を招くと思います。

憲法と聞くだけで、何時も欲求不満がくすぶります。
私も自分なりの憲法を書いてみようと思った途端、目の前が明るくなりました。
言論の自由の前に、自分の要求を書いてみることが先だと気が付きました。
有り難うございました。
1分の虫にも1ミクロンの魂です。

高林さんの思いの一端が伝わってくる気がします。
高林さんに語る責任があるのであれば、後世には聴く責任がある。
それで、急遽、このサロンを企画することにしました。

どういう話になるかわかりませんが、高林さんが起案した新憲法の前文も紹介されます。
これまでのサロンの話し合いとは、かなり異質なものになりそうですが、ぜひ多くの人たちに聴いてほしいと思っています。
憲法サロンに敷居の高さを感じていた人も、ぜひ、高林さんの積年の思いを聴くつもりで、気楽にご参加ください。
きっと新しい何かを見つけられると思います。
これを機会に、憲法シリーズのサロンも、世界を広げられればと思います。
まわりの人もぜひお誘いください。

〇日時:2017年8月8日(火曜日)午後4時~5時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「元軍国少女が語る憲法への思い」
〇話題提供者:高林實結樹さん(NPO法人認知症予防ネット理事長)
〇参加費:500円
○参加申込み:qzy00757@nifty.com

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2017/07/21

■安倍政権は詐欺集団か認知症集団ですね

稲田防衛相や山本地方創生相をめぐる疑惑の新事実がまたまたマスコミを賑わわせています。
先ほどのテレビで、伊藤惇夫さんがもう「お笑い」ですねと言っていましたが、稲田さんも山本さんもできの悪い芸人か脳みそのない操り人形にしか見えません。
それにしても、最近の状況を見ていると、安倍内閣は素直に考えれば、明らかに詐欺集団と言ってもいいように思います。
おれおれ詐欺集団とどこが違うのか。
ひどい内閣です。
多くの人はそれに気づいているのでしょうが、やはりはっきりとは口にしませんでしたが、ここにきてそういう主旨で話す人が増えてきました。
いまとなっては詐欺集団を詐欺集団と言っても、抹殺されることもないでしょうから、おかしいことをおかしいと言い出す機運ができて来たようです。
でもまあ、政治評論家の田崎さんのように、相変わらず安倍内閣を弁護する人もいますが、筋を通すという点では私はむしろその素直さを評価したいです。
それにしても、素直に考えればおかしいことがすぐわかることを、国会でのらりくらりと議論するようなことをしなければいけないような政治は、詐欺集団にはとても好都合でしょう。

彼らは詐欺などとは思って思おらず、憂国の士と思っているのかもしれません。
それにしても、同じ詐欺集団に牛耳られるのであれば、もう少しまともな詐欺集団にだまされたいものです。
しかし、日本語の意味も理解できていない山本さんや稲田さんでも大臣が務まるのは、とても平等ないい国なのでしょう。
それにまもなく日本は5人に1人が認知症になるらしいですので(私はまったく信じていませんが)、認知症の人が大臣になる実験をしているのかもしれません。
いや、大臣になると認知症になるのかもしれません。
以前、議員会館で認知症予防ゲームの体験フォーラムをやった時に、議員の人たちにこのゲームをやってほしいとついつい発言してしまったことを思い出します。

ところで、企業で働いている人やNPO活動をしている人たちは、きちんと政治の動向を見ているでしょうか。
せめてテレビの報道で彼らの言動を映像で見てほしいです。
それだけでたぶん詐欺だと気づくでしょう。
経済活動や市民活動も大事ですが、もっと大事なこともある。
忙しいからといって、大切なことをないがしろにしてはいけません。
それに、忙しいという人に限って、暇な人が多いのです。

日本に比べれば、アメリカも北朝鮮も、しっかりした政府であり、国民だと思います。
そう思うとますます暑さが襲ってきます。

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