カテゴリー「政治時評」の記事

2019/01/11

■徴用工訴訟問題で思うこと

徴用工訴訟問題がまた日韓関係を悪くしています。
この問題に関しては、いろんな意見や解決策はあるでしょうが、私にとっての関心は、「国家主権」と「三権分立」の問題です。

組織(社会)を統治するためには、最終的に責任をとるべき1点がなければいけません。
三権分立体制では、統治はできません。
三方三すくみになるからです。
組織活動を少しでもやったことのある人なら、そんなことは常識です。
統治には、主権を総括する立場が不可欠です。
最終的な意思決定は一つでなければいけません。
三権分立は統治概念ではなく、統治権力の運用のためのサブ概念です。

となると、三権の上にある統治権が問題になります。
三権分立概念によって、巧みに隠されている統治権を可視化するうえで、今回の韓国政府の対応は示唆に富んでいます。
いや、示唆に富むというよりも、隠されたヴェールをはがしてくれる契機というべきでしょうか。

日本の場合は、有名な砂川判決で、田中最高裁長官が、あまりにもお粗末に「日本版統治行為論」を論じました。
つまり、日本の統治権は米国にあることを露呈させたのです。
にもかかわらず日本では三権分立論から議論を進めることは、政治学者も憲法学者も取り組みませんでした。
そしていま、安倍首相が、司法や立法を超えた行政の長として自らを位置づけています。

三権分立議論で、時々、第4の権力存在(たとえば情報権)を提唱する人がいます。
それはそれでいいですが、問題はそこにあるわけではありません。
統治にとって一番大切なものは、「教育(情報と言語)」と「通貨(経済)」と「暴力」です。
それらはいずれも三権の下位概念に位置付けられていますが、私たちが三権分立が日本の最高の権力だと思い込んでいる(つまり統治権力の姿を機にしないでいる)のは教育と言語の結果であり、日々の行動は「通貨」と「暴力」の無意識な「意識」に呪縛されています。

そんなことを、私は文在寅大統領の記者会見で感じました。

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2019/01/06

■「タネと内臓」(吉田太郎 築地書館 1600円)をお勧めします

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湯島のサロンで、種子法や遺伝子組み換えのサロンを開こうと思い、霜里農場の金子友子さんに話題提供者の相談をしました。
友子さんはすぐに吉田太郎さんがいいと即答され、吉田さんの新著を紹介されました。
読んでみて、世界では各地でいま、食の視点から農業が変わりだそうとしていることを知りました。
私が思っていたのとは逆の方向です。
諦めていたことが世界では始まっている。
子どもたちは救われるかもしれない。
ちょっと元気が出てきました。
早速に吉田さんにサロンをお願いしました(2月10日に開催予定)。
あわせてこの本を、多くの人に読んでほしくなりました。

本の内容は、同書の裏表紙に書かれている文章が簡潔で分かりやすいですので、ちょっと長いですが引用させてもらいます。

遺伝子組み換え大国アメリカはもちろん、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、ロシア、中国、韓国まで、世界中の母親や家族が、農薬漬けの農業を見直して種子を守り、農産物や加工食品の質を問い直す農政大転換が始まっている。
なぜ、日本だけ主要農産物種子法が廃止され、発がん物質として世界が忌避する農薬の食品への残留基準が規制緩和されていくのか、緩和の事実がなぜ日本の大手メディアでは報道されないのか。
世界の潮流に逆行する奇妙な日本の農政や食品安全政策に対して、タネと内臓の深いつながりへの気づきから、警笛を鳴らす。一人ひとりが日々実践できる問題解決への道筋を示す本。

ちなみに本書の副題は、「有機野菜と腸内細菌が日本を変える」です。
これは、吉田さんの体験を踏まえたメッセージでもあります。
吉田さんは、自らの大病を有機野菜で克服したのです。

ついでに同書の表表紙の文章も引用させてもらいます。

世界中で激増する肥満、アトピー、花粉症、学習障害、うつ病などが、腸内細菌の乱れにあることがわかってきている。けれども、日々私たちと子どもたちが口にする食べものが、善玉菌を殺し「腸活」の最大の障壁になっていることは意外と知られていない。

吉田さんも自らの病気を通して、そのことに気づき、食生活を変えることによって大病を克服したのです。
農と食、そして生命は深くつながっている。
そのことを多くの人に知ってもらいたくて、吉田さんは本書を書いたのでしょう。

本書には2つのメッセージが込められています。
一つは、世界でいま農政大転換が始まっているが、その主役は母親を中心とした普通の生活者たちだということ。
つまり、農政の変革は政治や専門家ではなく、生活者である私たちにこそ起こせるのだということです。
残念ながら日本ではそういう動きはまだ顕在化してきていません。
種子法が廃止され、遺伝子操作によって農業が変えられそうなのに、マスメディアも生活者もまだ大きな問題としてとらえていないということです。
でも逆に言えば、私たち生活者が動き出せば、農政は変わるということでもあります。

もう一つは、農政変革を待たずとも、それぞれの生活者でもできることがあるということ。
吉田さんは最後の「あとがき」で、その具体的な方法をていねいに説明しています。

本書の根底にはもう一つの大きなメッセージが流れています。
現在の工業型社会への懸念です。
それを抽象的にではなく、たとえば「生産性」や「経営」という概念がいかに偏った理解をされているか、というように具体的に語っています。
企業型農場が生産しているのは「農産物」ではなく「商品」だ、と吉田さんは書いていますが、農業とは何なのか、を根源的に問うているのです。
それは言うまでもなく、私たちの生き方への問いかけでもあります。
そしてそれが、たぶん前に書いた2つのメッセージにつながっているのです。

本書はそう簡単に読める本ではありませんが、そこに込められた吉田さんのメッセージは生々しく伝わってきます。
それをしっかりと受け止めて、まずは自分でできることをしっかりと実践していく。
そんな決意を起こさせてくれる本です。

多くの人に読んでいただきたくて、紹介させてもらいました。
2月10日には湯島で吉田さんのサロンを開きます。
本書を読んで、ぜひご参加ください。

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2018/12/23

■ローラさんの辺野古基地に関する発言騒動

タレントのローラさんが辺野古基地に関して発言したことが話題になっています。
今朝もテレビのワイドショーで、タレントたちが話題にしていましたが、こんなこと自体が話題になること自体が私にはおかしく感じます。

これに関しては、同じくタレントの高木美保さんの反応が、私の気持ちに一番合います。
ちょっと長いですが、ネットからの記事を引用させてもらいます。

そろそろ日本もやっぱり有名人とかね、芸能人とかの政治的発言はタブーっていう、その発想を変える時代なんじゃないかと。 つまり、インターネットで今回のもそうですけど、世界と繋がるわけですよね。「世界の中で、日本だけが鎖国状態になる考えかたでいていいのかな」と思うし。 政治的発言は別に「政治家を倒そう」とかいうことではなくて、「この国をよくしたい」それから「政治家にもよくなってもらいたい」…そういう純粋さを、私はローラさんから感じるんですね。

それから、ローラさんの今度の発言は「辺野古の自然を守りたい」っていうメッセージだけではなくて、もう1つの大事なメッセージとして「自分が勇気をもっていうべきこと、伝えたいことをちゃんと伝えようよ」「ハッピーに伝えようよ」って。

「それはとっても自分を強くするし、幸せな気分にするよ」っていうことを伝えているわけで、1つは環境のため、1つは生きかたを…パワーをみんなに注入してるっていうのかな。両方の…私は素晴らしさがあると思っていて。

私も同じように感じます。

もう一つ、共感した発言がありました。
爆笑問題の田中さんが、同席していたタレントのローラ発言批判に対して、「タレントの活動にはすべて何らかの政治性が含まれている」と明言しました。
これもまったく同感です。
私たちの日常の行為は、すべて政治に繋がっています。
同時に美しい海を残したいというローラさんの思いは、難しい理屈以上に大切なことだと思います。
政治の原点は、そういうところにこそ、置くべきだと私は思います。

芸能人は、芸能人である前に人間なのです。
立場上、自由にものが言えないなどということがあってはなりません。
それはすべて「言い訳」であって、誠実な生き方ではありません。
誠実であることの対象は、職務にではなく,人間としてでなくてはいけません。

タレントという言葉もは嫌いですが、まだ人間でいつづけている人がいて、ほっとします。

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2018/12/18

■官民一体となって原発輸出を進めてきた?

三菱重工や日立製作所は、政府と一体となって進めてきたトルコの原子力発電所の建設計画を断念する方針を固めたという報道がありました。
日本の原発輸出事業は、よく「官民一体」で進められていると表現されます。
官民一体で進めてきたとしたら、その「民」には少なくとも私は入っていません。
私は、日本においては「民」、つまり「国民」ではないのです。
これまで何回もこのブログでは書いてきていますが、改めて書きたくなりました。

社会は「公」と「私」で構成されているといわれていました。
「公」と「私」は時々、「パブリック」と「プライベート」とも表現されます。
しかし、「公」はパブリックなのか。「私」はプライベートなのか。

「公」の主役は政府で、「私」の主役は企業です。
であれば、「公私」などいわずに、「官民」というのが適切でしょう。
となると、官民で社会が構成されているとは言えません。
なぜならそこに私たちの生活社会がないからです。
つまり「官民」とは民を統治する側の概念であり、しかも「官尊民卑」という言葉があるように、要するに「官」のことなのです。
そこには「人民」という意味での「民」はもちろんですが、「国民」という意味での「民」すら含まれません。
アメリカ憲法はpeopleという言葉を使っていいますが、日本国憲法の英語表記のpeopleをなぜか日本政府が「国民」と訳してしまいました。
“people”と「国民」とは、全くと言っていいほどの違いがあると思います。

「官民」とは違う私たちの現実の「生活社会」は公でも私でもない「共」の社会です。
平たく言えば地域社会、近代西欧の言葉を使えば「市民社会」です。
私は、それを「コモンズ」と呼んでいますが、要は、peopleが支え合いながら暮らしているリアルな社会です。
それが、大きな政府や大きな企業によって、縮小され片隅に追いやられていたのが、明治維新から最近までの日本かもしれません。
地域社会の主役であるべき自治会は行政の下請けの端末組織になり、期待のNPOもまた、同じように行政の下請けや企業の類似物になってきているというのが、私の現状認識です。
もちろん、主体的に活動している自治会やNPOもたくさんありますが、大きな流れはどうもそういう感じではないかと思っています。
これに関しては、かなり前のものですが、小論があります。
○コモンズの視点から発想の流れを逆転させよう
http://cws.c.ooco.jp/commonnsronbun1.htm
○私の視点「NPO支援 資金助成よりも活動支援を」
http://cws.c.ooco.jp/npo-toukou2.htm

ところで、日本の原発輸出が各地で頓挫している理由は、採算が取れないことです。
まともに考えれば、原発事業は経済的に成り立ちません。
日本でもそういうことは、私が知っている限りでも1980年代にはかなり明らかになってきています。
原発事業が保険の対象にならなかったことを考えれば、最初から分かっていたことです。
しかし、「官」が「民」(大企業)には有無を言わさずに、「安全神話」を、それこそ「官民一体」となって広めてきたのです。

官民だけで社会や世界は構成されているわけではないのです。

「民営化」とか〔〈介護の〉社会化」とかいう言葉に騙されてはいけません。
それらはすべてpeopleの資産を誰か個人に貢ぐことを意味しているのかもしれません。
社会を構成している主役は、people、私たち生活者なのです。
少なくとも現在は、という意味ですが。

官民一体には私は断じて入っていません。
官民が横暴な行為をするようなことがあれば、沖縄の人たちを見習って、それに抗わなければいけません。

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2018/12/14

■唯一の解決策なんて政治にはありません

今日は非常に機嫌がよくありません。
自宅のパソコンが壊れて困っているからかも知れませんが、今日はテレビを見ていると、蹴とばしたうなるくらい腹が立つ言葉遣いが多いのです。

辺野古土砂投入が始まりました。
作業をしている人を見ていて、この人たちは何も考えないのだろうかと思いますが、まあ人はそれぞれですから、その人たちの立場も理解しなければいけません。
そうしなければ、安倍さんと同じことになりますから。

私が腹立たしいのは、菅官房長官が記者会見で、「辺野古が唯一の解決策」と言ったことです。
「唯一」の解決策などということは政治の世界にはありません。
そもそも唯一の解決策があるのであれば、政治など不要です。
政治というものを知らない人が官房長官にいることに腹が立っているわけです。

もう一つ腹が立つことがあります。
根のこの話をしているのに、いつも「普天間」の問題をだし、それがセットであると説明することです。
これは一種の恫喝だと私は思いますが、それはそれとして、それをそれぞれ解決していくのが政治です。
つまり問題の捉え方が、いかにもご都合主義的です。
これと「唯一の解決策」発想はつながっています。

時間がないので、急いで書いたので、これまた漏れが多いでしょう。
あとで書き直すかもしれませんが、まあ憤懣の少しを吐き出しました。

しかし取り返しのつかないことが始まってしまった。
なんでこんなに急ぐのか。
自民党には、まともな人はいないのでしょうか。

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2018/10/26

■カフェサロン「地方政治の現場から考える日本の政治の未来」報告

「女子高生」、正確には「女・子・高・生」つまり「女性・子ども(若者)・高齢者・生活者」が政治を変えていくというテーマのサロンは、自治体の女性議員3人を含め、16人とにぎやかなサロンになりました。
河野さんは、これまでもそうした「女・子・高・生」の活躍できる場づくりにも取り組んできていますが、それは、地元宇部での実践活動の中で体験的に女性や若者のパワーを実感し、経験的に「女・子・高・生」への期待が高まったそうで、最近はやりの「女性活用の発想」などとは全く違ったものだと、話の中でも強調されていました。
最近の女性活用などの掛け声は、政治のみならず経済の分野でも広がっていますし、制度面での整備は進んでいますが、上滑りなものも多く、実体はむしろ逆行ではないかと思うようなものもありますが、河野さんは実践からの提案なので、私にはとても安心して聴ける話でした。

直接的・具体的に話すというよりも、聴く人に考えさせるのが河野さんのスタイルなので、今回もさまざまな話を含ませながら、さまざまな示唆を出してもらったように思います。

参加者の中には、30年以上前から女性議員を増やす活動に取り組んでいる松戸市の市会議員の中田さんをはじめ、市議や県議として今の政治を変えていこうと健闘されている2人の女性議員たちも参加して下さっていましたが、そのみなさんの話を聴く限りでは、残念ながらまだまだ「昭和の男性」たちが中心になっている地方政治の現実は変わってきたとは言えないようです。

横浜市の行政職員の方が参加して下さっていましたが、市長が女性になったら変わってきたというお話がありました。
そういう意味では、女性議員が増えたり、首長に女性がついたりすることが、政治を変えていくことにつながっていくことはたしかです。
しかし、河野さんの住んでいる宇部市も女性市長ですが、首長だけでは限界があるようです。
それに関しては、首都圏などの大都市部と地方とでは住民意識も違い、地方の政治体質はまだまだ変わっていないという話もありました。
たしかに首長の力は大きいですが、それだけでは政治は変わらないでしょう。
「住民視点の政治」や「生活のための政治」を目指すのであれば、変わるべきは政治家ではなく、住民の政治意識(生活意識)でなければいけません。
その意味で、まずは議会で女性が活躍できる状況をつくりだすことが不可欠です。
しかし、そのためにも、住民の意識や行動が変わっていく必要がある。
それは同時に、「政治」をどう捉えるかという問題につながります。

今回のサロンにも女性の方が数名参加してくださいましたが、ひとりの方(いわゆる「専業主婦」の方)が、河野さんの話の後の話し合いは、自分が期待していたようなものではなかったという素直な感想を述べてくれました。
湯島では時々政治をテーマにしたサロンを開催していますが、男性が語る政治と女性が語る政治は、まったく視点が違うような気がします。
男性はすぐに安全保障とか財政赤字を話題にしがちですが、女性は生活の不安や家計の心配を問題にします。
いずれも大事な問題で、深くつながっていますが、視点が全く違うのです。
権力や統治という視点から考えるか、個人の尊厳や生活という視点で考えるかで、政治はまったく別のものになります。
サロンの翌日、湯島に別件で来た女性は、昨日のサロンに参加しようかどうか直前まで迷っていたのだが、やはり参加しなかったと言いました。
たぶん、男性の政治論議になるので自分には居場所がないだろうと思ったのでしょう。
そうしたことにこそ、やはり日本の「政治」の問題があるような気がします。

河野さんのメッセージには、「生活者」も主役の一つに挙げられています。
これに関しても「生活者」とは誰なのかという指摘もありました。
「生活者」という概念はかなり古くからありますが、「消費者」と違ってなかなか定着しません。
この議論は今回はあまり深入りしませんでしたが、一度、このテーマでサロンをしようと思いました。
「生活者」という言葉は、経世済民とつながるもので、経済の変質を考える上でもとても重要な切り口です。
同じように、政治の世界もまた、生活とのつながりがとても重要だろうと思います。
政治家は、政治家である前に、生活者でなければいけません。
戦争が起こったら、自らが戦場に行く気概で、あるいはオリンピックの予算が増えたら自分の家計から補てんしていくくらいの責任感をもって、つまり自らの生活とつなげて、憲法論議やオリンピック招致、あるいは海外援助をしてほしいです。
あまりに税金を気楽に使っているので、税金は「取られている」という気にさえなってしまいます。
首長や議員と行政職員の関係も少し話題になりました。
それも含めて、議員と住民の関係や首長と議員の関係、さらには地方議員と国会議員(政党)の関係など、政治のあり方を考える上では、そうした関係のあり方を考え直す必要があるように思います。

ほかにもいろいろと話題はでましたが、サロンですので、いろんなところに飛び火して、にぎやかな話し合いになりました。
政治や戦争に関するボードゲームの話にまでなりました。

河野さんは、これから自分の考えを実践に移していくことを考えています。
今回は、それをどう進めていくかも少し話してくれました。
その進め方は、住民たちが話し合いながら、「女・子・高・生」のエネルギーを地方議会に顕在化させていこうという「運動型」の活動です。
政治は「プロセス」だと考えている私としてはとても共感できます。
政治は「国会」や「地方議会」の中にあるのではありません。
生活の場での日常生活の中にこそある。
日本の野党は、それを軽視しているために国民の意見を力にできずにいます。
政治の構図の捉え方を変えていくべき時期だろうと思います。

河野さんのプロジェクトがどう展開していくか、とても期待しています。
具体化したらまた差しさわりのない範囲で紹介したいと思いますので、みなさんにもぜひ関心を持ってもらい、もし共感できたら、応援してもらえればうれしいです。
宇部市民でなくても応援する方法はたくさんあります。
それも今回参加された中田さんから教えてもらいました。

ちなみに、今回のサロンには、河野さんが宇部市民であることを知って、宇部出身者が2人も参加しました。
宇部の人たちは、政治意識(郷土意識〉が高いことに感心しました。
私も一時、少しだけ関わらせてもらいましたが、改めて宇部市が好きになりました。

また長い報告になってしまいましたが、政治は私たちの生活の土台です。
しばらく開いていない「茶色の朝」シリーズのサロンも11月に開催したいと思っています。
Kawano181024


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2018/10/18

■国家の本質

サウジアラビアのジャーナリスト、ジャマル・カショギさんがトルコ・イスタンブールのサウジ総領事館を訪問後に失踪した事件で、サウジアラビア国家政府による殺害の可能性が報道されています。
この事件を、とんでもない事件と思うか、常識的な事件と思うかは、国家をどう捉えるかで別れるでしょう。
私は、ある意味で、国家による「コラテラル・ダメッジ」として、驚くほどのことのない事件だと思っています。
http://cws.c.ooco.jp/katudoubannku2.htm#1013
ただこうしてそれが、あまりにもはっきりと報道されると恐ろしくもなりますが、そもそも国家とはそういう存在なのではないかと思います。それを改めて思い知らされる事件だろうと思います。
ただやり方がお粗末で、殺害の仕方が異常だったとはいえますが、もしかしたら、むしろこういうやり方こそが、巧妙なやり方なのかもしれません。
いずれにしろ、そこからのメッセージは大きいです。
国家というものを考え直す、いい材料かもしれません。
しかし、この事件を、イスラムと結びつけることだけは避けなければいけません。
ひとりの生命が失われたという意味では、最近日本でも起こった官僚の自殺と同じです。

国家による「犯罪」は、犯罪とはされません。
国家防衛のための正当化が与えられるのです。
その最たるものが「戦争」です。
そして、そのために暴力装置としての軍隊を持つことの危険性を認識しなければいけません。
国家の軍隊の戦力が主にどこに向けられていたかは、歴史が示唆しています。

国家は、国民を守るための仕組みと言われますが、国民を守るためには、多少の犠牲は認めらます。
それがコラテラル・ダメッジの論理ですが、国民は守られても個人は守られないという、おかしな話がそこにあります。
「守る対象」があいまいですから、いかようにも論理は組み立てられるでしょう。
軍隊は、一体「何」を守るのか。
私が守られている時にはいいですが、いつ、守るために排除される立場になるかに関しては、私は関与できません。
サウジの国家と国民を守るために活動してきたカショギさんは、排除される立場になってしまったわけです。

ここで国家政府の意思決定の透明性や国民の参画が大きなテーマになります。
しかし、それもまた問題がないわけではありません。
そこで出てくるのが、人間を単一のデータ処理システムとして捉えてAIに意思決定させるというアイデアです。
今朝のNHKテレビに、最近話題の「ホモ・デウス」の著者、ユヴァル・ノア・ハリスさんが出ていました。
彼の問題提起はとてもわかりやすく、システムと人間との闘争においては、人間には勝ち目がないという指摘もとても説得力があります。
しかし、私はやはり、20世紀人として、システムも国家も、個人を支えるものであってほしいと思っています。
もし、「ホモ・デウス」になるのであれば、私は取り残される立場になりたいと思っています。

「ホモ・デウス」のサロンも企画したいと思っています。
一応、読了した人(できれば前作の「サピエンス全史」も)を対象にしたいと思っていますが、5人以上、参加者がいたら開催したいです。
ご関心のある方はご連絡ください。

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2018/10/11

■かなりハードなカフェサロン「近代国家幻想を考える」報告

台風で一週間伸びましたが、湯島初の「かなりハードなカフェサロン」を開催しました。
テーマは、「近代国家幻想を考える」。
話題提供者は柴崎明さん。
参加者は、いずれも一家言ある難しそうな人たち6人と平均人の私の7人。
柴崎さんは、トランクいっぱいの書籍を持参しました。
それで「ハードカフェ」の雰囲気は整いました。

柴崎さんの話は経済人類学のポランニーと古事記の神話から始まりました。
そして、フロイト、フーコー、ラカンなどの話を経由して、国家幻想に関する話へと広がり、近代国家を超えるものへの問題提起で終わりました。
間奏曲として、柴崎さんが地元で調べた地域の神様の話はとても面白かったですが、それと国家幻想とは深くつながっているような気がします。

「幻想」は、与えられた幻想と生まれてきた幻想があります。
地域の神様は、そこで住んでいる人たちの生活の中から生まれてきた共同幻想の象徴であり、そこからコミュニティやアソシエーションが育っていきます。
一方、近代国家は、そうした幻想を上手く利用しながら、もっと強力な幻想を創りだし、それをそこで住んでいる人たちに与えていきます。
草の根的に生まれ育った地域社会の幻想は、そうした大きな幻想に絡め取られ、地域の神様は国家の神様や宗教教団の神様に敗退していき、従属させられていく。
それが近代の大きな流れだったような気がします。

さらに、2つの神が両立しないように、国家体制は一元化されていく。
それを見事に達成したのが、明治政府かもしれません。
こうなると、ここで先の「宗教サロン」ともつながっていく。
そんな気がします。

あんまりサロンの要約報告にはなっていないような気がします。
映像記録をユーチュブでアップしますので、関心のある方はそれをご覧ください。

ちなみに、この柴崎サロンシリーズは不定期に開催します。
なにしろ柴崎さんの頭の中にある知識と論考は、一度くらいでは引きだせませんので。

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2018/10/09

■ブック「日本列島「法」改造論(阿部泰隆 第一法規 3000円)のご紹介

本書は、「逆転の発想による法改革」によって日本を変えるための処方箋です。
というと何やら難しそうですが、普通に生活している人であれば、誰でも「ふんふん」とうなずきながら楽しく読める処方箋が満載された本です。
「漫談」的な要素も込められていて、読者はあきることがありません。

著者の阿部さんは、私の大学時代の友人ですが、毒舌・名言でも有名な、そして具体的な提案活動もしっかりとしている、曲がったことの嫌いな、国士的な学者です。
時に、阿部さんは「変人」とも評されますが、ご自分は「変人」を「変革の人」と読み替えて、変人であることを受け入れています。
「政策法学」という新しい分野の創始者で、その分野でもたくさんの専門書を書いています。

「政策法学」というのは、現在問題となっている法制度を具体的に取り上げ、その立法政策的な改善策を提言する学問だそうです。
公共政策にもつながる具体的な提言や問題提起につながる実践法学と言ってもいいでしょう。
法学というと、私には敷居が高いですが、それであれば私にも関心があります。
というか、その姿勢は、「法とは何か」という、私の基本的な関心課題につながっていますので、まさに私の関心事でもあります。

ちなみに、私自身は、最近「法」というものに、ほとんど関心を失ってきています。
私が法学部で学んだのは「リーガルマインド(法の精神)」ですが、その視点で考えると、最近の法には「心」があるのかと、つい思ってしまうのです。
日本はほんとうに法治国家なのだろうかという疑問さえ、時に感じます。

そんな私のような世捨て人的なひねくれた姿勢ではなく、現実に果敢に取り組んでいるのが、阿部さんです。
専門書を書くかたわら、阿部さんがさまざまなところで発表してきた、日本社会を覆いだしている病魔の法的処方箋の集大成が本書です。
本書の帯に「病魔に苛まれている法と政策を蘇生させよ Dr.阿部の執刀開始!」と書かれていますが、その快刀乱麻ぶりは、時にはちょっと共感できないものもありますが、そこにこそ、本書の真価があります。
誰もが違和感なく読めるようなものは、読む価値も聴く価値もありません。

阿部さんは、日本の法律学に関して、こんなことも書いています。

法律学では、そもそも、「疑え」という研究方針や指導方針がないと感ずる。
判例通説を整理せよ、外国法を整理せよ、そしてまとめよというものが多い。
そこから新学説は出てくるが、それでも、新規の考え方は少ない。

まったくもって同感です。
そして阿部さんは言います。

筆者は、法律家として、日本の法制度がうまくいっているのか、不備をどうすれば改善できるのかを念頭に、何事にも疑問{?}を持って、半世紀以上研究してきた。

こうした視点で、まとめられたのが本書です。
もう少し阿部さんの言葉を引用させてもらいます。

そして、問題を発見したら、解決策としては、通り一遍ではなく、逆転の発想で、あるいは、一手しか読まないのではなく、せめて二手読むとか、二者択一ではなく、合理的な中間案をつくるとか、あるいは強行着陸ではなくソフトランディングを試みるというものである。
このような研究は、法学界では前例がない新しい道を開拓してきたもので、いまだ十分な評価はされていない(それどころか、四面楚歌かもしれない)が、これこそが日本の法学者の使命であると信じている。

どうですか。法律嫌いの人も、ちょっと読みたくなるでしょう。
目次だけでも15頁もあるほど、Dr.阿部の手術のメスは、社会すべてに向けられています。
第1章は「国会・内閣・裁判所のありかた」。つづけて「社会問題・国民生活」「税制改革」「医療福祉」「環境保護」「大学」「その他身辺雑記」と広い分野にわたって論が展開されています。
しかも、そこには、与党独裁体制を許さない法システム、「国旗国歌は作り直せ」とか「オリンピックは無駄」とか、祝日も休日にするな(来年の10連休は大反対)、「命を大切にせず、医療費を無駄使いする厚労省」、さらには「バカほど儲かる医師・弁護士システム」、未亡人の再婚を邪魔する遺族年金、文科省は廃止せよなどといったことが書かれています。
Dr.阿部の、快刀乱麻ぶりがわかるでしょう。

できれば、まずは「はじめに」を読んでもらい、後は関心事に合わせて拾い読みしてもらうのがいいと思います。
「はじめに」に、阿部さんの生き方がわかる文章があるので、引用させてもらいます。

社会科学者仲間では、福島の原発事故にもかかわらず相変わらず「原子力村」で、原発は安全であるという枠内の研究をしたり、阪神・淡路大震災や東日本大震災が身近に起きても我関せず、自分の「学問」に没頭したり、広島原爆の被災地にいながら、被爆者に寄り添うことなく、平和な学問をして偉くなっている人が少なくない。
筆者には、彼らは民の苦しみなど知る余地もないように見える。(中略)
筆者の専攻の行政法学関係者は、役所からお座敷がかかるので、どうしても役所寄りの発想になりがちである。

そうだそうだ!と拍手したいです。
阿部さんの人柄がかなり伝わってくるでしょう。
彼自身は、「とうの昔に御用学者を総撤退し、大学にも縁がないので、「しがらみ」がなく、文科省批判も含め、信念に従った発言をしている」と言っています。
まあ、しがらみがあっても発言してきたと思いますが(そのために社会の主流派から外されたと本人は言っています)。

ちょっと高価なのが気にいりませんが、現代日本の「法的欠陥事典」と考えれば我慢できそうです。
しかし、個々の問題の処方だけが本書のメッセージではありません。
「逆転の発想」で頑固な法律さえも、活かし方が変わってくること。「学問」とは何か、学ぶとは何か、社会をよくしていくためにできることは何か、などということへのヒントも、その気になれば読み取れます。
アジテーションも含意されているかもしれません。
これを読んだ読者が、身近な病魔にDr.阿部流の執刀作業を始めると、日本ももっと住みやすくなるかもしれません。
法の精神が蘇ってくるかもしれません。
ですから本書は、ある意味で、Dr.阿部の執刀術学習講座でもあるのです。

多くの人に読んでもらい、多くの人に執刀をはじめてほしい。
そんな意味で、本書を推薦します。

ちなみに、Dr.阿部の湯島サロンを10月12日の夜開催します。
まだ少し余席があります。
参加ご希望の方は私あて、ご連絡ください。
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2018/09/11

■カフェサロン「自民党政権政治を変えていくためには」の報告

9月8日開催のカフェサロン「自民党政権政治を変えていくためには」には11人の人が集まり、かなり激しい論争が展開しました。
いつものサロンとはちょっと違って、いささか感情的なやり取りが多かった気がします。
もっともそうなった原因は、私の最初の問いかけが不適切だったからなのですが。
その反省もあって、報告を書くのも遅れてしまいました。

最初に問題提起者の武田さんから、いま書いている本の目次に沿って、「自立・抗不安国家論」の概要が紹介され、つづけて、現在の自民党政権の何が問題なのか、そしてそれを変えていくためにはどこから取り組みどう進めていけばいいかのお話がありました。
武田さんは、ただ問題点だけを指摘するだけでは何も変わらない、目指すべき国家像を明確にして、その実現のために現状をこう変えていくべきだという考えに基づいて、目指すべき国家像を「自立・抗不安国家」と表現しました。
つづいてその内容として、「国民主導型統治機構の確立」「国民の命を供することは許されない絶対平和主義」「戦争に巻き込まれないための核武装」「再配分型増税による財政再建」「国家の自立度を高めることを主軸にした政策展開」「新経済政策としての重脳主義」などを提案しました。
武田さんは、それを実現するためには、革命的な取り組みが必要だとし、それを「第3革命」と称しています。

そして議論が始まりました。
最初に私がちょっと気になったことを口走ってしまいました。
私が引っかかったのは、「新経済政策としての重脳主義のために教育において科学技術教育を最優先にしよう」という点です。
科学技術と人間文化の主従関係が逆転してしまったことに、昨今の政治経済状況の根因があるのではないかと思っている私としては、大いに違和感があったので、ついつい口を滑らしてしまったのです。
この点にこそ、これからの国家像を考えるポイントがあるような気がしたのですが、どうもそれがうまく表現できずに、議論が少し迷走してしまいました。
大いに反省です。
参加者のみなさんにはお詫びしなければいけません。

どうしたら今の政治状況を変えるための具体策を聞きたいという質問に対しては、武田さんは、そのためにもしっかりした国家像を共有化していくことが必要だと応えました。
その姿勢には賛成ですが、国家像とは何かということを共有すること自体が難しいことを改めて思い知らされました。

その後、議論はいろいろと出ましたが、私自身がいささか「感情的」になってしまっていて、記憶がとんでしまっています。
困ったものですが、そんなわけでうまく報告できません。

しかし、最近、コスタリカに行ってきた折原さんからのコスタリカの紹介やビタミン和子さんの韓国などの報告は示唆に富んだものでした。
いずれもまたいつかそれぞれにサロンをしてほしいと思います。
また「民主主義と民主政治」の違いや、「個人の尊厳の尊重という民主主義の理念と革命とは矛盾しないか」といった議論もありました。
これもまた大事な論点だと思います。

議論はいささか混迷し、ちょっと雰囲気も悪くなりましたが、私には理想的なサロンでした。
お互いに気づかいあいながらおだやかに話し合う場はどこにでもありますので、湯島のサロンでは「過剰に相手を傷つけない範囲」での論争は大歓迎なのです。
ただ今回はどうも私の判断がゆるすぎて、一部の人が少しだけ気分を害したようでもあります。
でもまあ、それが湯島のサロンだと思ってもらうのがいいでしょう。
 
みんながとても熱心に思いを込めて、ちょっと感情的にもなって話し合いをしているサロンは実にいいです。
初めて参加した人もいましたが、帰り際にとても面白かったと言ってくれました。
私は自分の主張があんまり賛成してもらえなかったので、いささかムッとしていましたが、反省しなければいけません。

サロンではかなり険悪な関係になってしまった人たちもいましたが、その後の二次会で関係は修復され、なんと10時までのロングランの懇親会になったそうです。
私は参加できなかったのですが、2人の方から「懇親会のほうが盛り上がってよかった」と連絡がきました。
サロンのホストとしては反省しなければいけません。

なおこのシリーズは継続します。
論争しに来たい人は大歓迎です。
武田さんの問題提起の各論展開も考えたいと思います。

Takeda20180908_2


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