カテゴリー「政治時評」の記事

2018/07/15

■カフェサロン「日本は核武装するべきか」の報告

30度を超す暑さのなか、しかも3連休の初日、「日本は核武装するべきか」というテーマに13人の参加者がありました。
それだけでもうれしかったのですが、議論も盛り上がりました。
最初に、参加者それぞれが日本の核武装に関する自説を簡単に紹介し、つづいて「文藝春秋」7月号でエマニュエル・トッドが提唱した「日本は核を持つべきだ」という論は自分の考えとほぼ同じだという武田文彦さんが問題提起してくれました。

トッドは、日本が依存している「米国の核の傘」はフィクションにすぎない、しかし、核とは戦争を不可能にするもので、第二次大戦以降、欧州で大きな戦争が起こっていないのも核の存在のおかげだ、だから日本は核武装すべきだというのです。

武田さんは、それも踏まえて、2つの問題(太田さんによる整理)を提起しました。
対米従属の日本が真の独立を得るためには、「日米安保条約の解消」とそれに代わる「対外的パワー(侵略抑止力?)としての核武装」が必要だというのです。
この前提には、いまの日本はアメリカに従属していて、独立国家とは言えないという認識がありますが、これに関しては参加者からの特に大きな異論はありませんでした。
日米安保条約に関しても、ほぼ全員がなくていいという意見でした。
問題提起者の武田さんが驚いたように、今回のサロンは昨今の日本の社会では特異な人の集まりだったかもしれません。
日米安保条約がなくてもいいと思っている人は、そう多くはないでしょう。
永続敗戦論や米国属国論はいわば流行的な現象にさえなっていますが、日米安保条約の恩恵を捨てようとは思っていない人が多いはずです。

次の問題は、核兵器は戦争(侵略)抑止力を持つかです。
ここでのポイントは、戦争に勝つ力ではなく、戦争を起こさない力を、核兵器は持っているかどうかです。
ちなみに、限定核兵器の話も出ましたが、そもそも核の力は人間が管理できるものではありませんから、私自身は限定核兵器などというのは概念的にありあえないと思っています。
一時期流行した「核の平和利用」と同じレベルの話です。

核兵器の抑止効果の有無に関する意見は別れましたが、核兵器は実戦には使えないにもかかわらず抑止力があるというのは、私には理解できません。
それは抑止力ではなく、暴力的な威圧であり、プロのボクサーとは喧嘩はできないという話なのではないのか。
しかしプロのボクサー自身はいつでも喧嘩はできます。
プロのボクサーには喧嘩がしかけたれないというだけの話で、それは非対称の抑止力ですから、戦争そのものの抑止効果とは違います。
いわゆる行動的な戦争ではない構造的な暴力戦争は、核兵器を持つ国によって引き起こされ続けていることは歴史が示しています。
古代ローマの歴史家タキトゥスは、ローマの皇帝たちは荒廃を生み、それを平和と呼ぶと書いているそうですが、平和とは誰にとっての平和なのかをしっかりと考えなければいけません。
私自身は、核兵器を持つことは、核クラブのメンバーになって、世界中の生活者を恐喝する側になることですので、まったく与することはできません。

それに関して、武田さんから核兵器抑止力と並んで、たとえば日本が病院を周辺国に無償供与することも戦争抑止につながるという話をしました。
核兵器による抑止と生活支援による抑止とは、理念が全く違いますが、そこをもう少し掘り下げると戦争とは何かがもう少し整理できるでしょう。
今回は「核兵器」がキーワードでしたので、その話は掘り下げられませんでした。

核武装する「日本」とは誰なのかの議論はあまりできませんでした。
核武装した時にだれが核兵器の発射のボタンを押すのかという問題です。
つまり核武装の主語は国家ではなく、個人として考えなければいけません。
あるいは少なくとも、核兵器のガバナンスの問題を抜きには考えられないということです。

戦争の意味が20世紀になってまったく変わったという認識が大切です。
30年ほど前に出版された「戦いの世界史」という本が4年ほど前に日本で翻訳出版されました。
人類は、どう戦ってきたかの詳しい報告で、面白い本です。
そこにこんな指摘があります。
「20世紀最初の10年が終わるころには、戦争において人間が主役だった時代は終わり、機械が主体となる時代が目前に来ていた。」
その後、戦争の変質に関してはさまざまな論考がありますが、戦場からどんどん人間がいなくなってきていることは間違いありません。
そうなると何が起こるか。
映画「ターミネーター」の世界です。
つまり対立の構図が全く変わってしまうわけです。
となると、誰に対する「抑止」なのかが改めて問われることになります。
それはとりもなおさず、「政治の捉え方」の変化につながります。
以前、サロンでお話した「統治の政治から生活の政治へ」というテーマです。
今回は残念ながらそこまでは行きませんでした。

コスタリカの話も出ました。
コスタリカに関しては以前ブログに書いた記事があります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/03/post_2.html
そこからコスタリカの情報にリンクしています。
日本では軍隊のないことばかりが有名ですが、問題の核心はたぶん国家のあり方です。

核兵器は開発されてしまった以上、もうなくすことはできないのではないかという議論もありました。
となると、核兵器の管理をどうするかということが重要になります。
そこで出てくるのが、国境をなくす世界国家論です。
方向としてそういう方向を目指すべきだという話も出ました。
まさに憲法9条が生まれた時の、日本人側の思想であり、日本国憲法の前文の理念です。

なお、核兵器はいかに管理しても、原発がそうだったように必ず誤爆が起こるという指摘もありました。
その危険性は日々高まっている気がします。

核武装にはほとんどの人が反対でしたが、日本安保条約は不要と考える人が多かったということは、核不要論と言えるでしょう。
つまり、核などなくても自立できるということです。
逆に日本安保条約を破棄し、核武装するという人は、核兵器が独立国家の必須要件と考えているのかもしれません。
核がなければ自立できない、というわけです。
よく考えればわかりますが、両者の「自立」の意味は全く違います。

となると「国家(の独立)」とは何かということが問題になる。
核武装するべきかどうかという切り口から、いろんなことが見えてくるように思います。

今回はもっと核武装論支持者がいると思ったのですが、ほとんどいなかったのが驚きでした。
マスコミで接している日本人の考え方とサロンに集まる人たちの考え方の乖離なのか、現実とマスコミ報道によって作られる第二次情報との乖離なのか、それが改めて気になったサロンでした。

もう少し問題を絞ったサロンをまたやってみたいと思います。
たとえば、視点を変えて、世界の人々が平和であるために何をやったらいいか、というようなテーマのサロンです。
最初の問題提起をしてくれる人がいたらご連絡ください。

今回は報告がとても長くなってしまいました。
すみません。


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2018/06/24

■カフェサロン「柳兼子をご存知ですか?」報告

民藝運動を起こした柳宗悦の伴侶で、声楽家としても有名な柳兼子をテーマにしたサロンは、16人が参加しました。
話題提供者は、我孫子在住の海津にいなさん。
海津さんは30年ほど前に千葉県の我孫子に転居してきましたが、かつてそこに住んでいた白樺派の人たちの活動に関心を深め、今はどうやらすっかり柳兼子さんにほれ込んでしまっているようです。
数年前から、柳兼子を主人公にしたNHK朝ドラを実現したいと考えています。
今回のサロンも、そうした思いも会って、改めて柳兼子の魅力を多くの人に知ってもらうきっかけになればということで開催しました。

柳夫妻は、我孫子には7年ほど住んでいましたが、柳夫妻の縁で、当時の我孫子には白樺派の文人たちが集まってきていました。
柳宗悦は民藝運動の創始者として有名ですが、柳宗悦を支えたのは伴侶の兼子であり、また宗悦の思想を実践していたのは兼子であると言われています。
兼子は、本場のドイツでも聴衆を驚愕させたようで、「声楽の神様」とさえ言われ、85歳まで公式のリサイタルをつづけていたそうです。
柳兼子は、まさに今の日本において、見直される人だと海津さんは考えていますが、たぶん今回のサロンに参加した人はそういう思いを持ったのではないかと思います。
NHK朝ドラにするとしたら、こういうのがいいという提案も参加者から2つも出ました。

白樺派と言えば、文芸活動というイメージを持っている人も多いと思いますが、その底にある理想主義や人道主義を踏まえた社会活動の側面はなかなか伝わっていません。
柳宗悦の民藝活動も、生活文化のなかに「用の美」を見出すというような美術活動の側面に焦点が当てられ、声楽と言えば、これまた芸術活動と考えてしまいますが、白樺派にしろ民藝運動にしろ、そして柳兼子の声楽活動にしろ、もっと広い社会性を持ったものだったようです。
今回のサロンでは、海津さんはそういう広がりを意識しながら、さまざまな「テーマ」を示唆してくれました。
途中で、柳兼子の80歳を超えた時の歌声も聴かせてくれました。
その声の力に驚きました。
ただし、私がとりわけ興味を持ったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチとのつながりです。

海津さんのもう一つのメッセージは、戦争に向かって全体主義化が進んでいた当時の時代状況のなかでの兼子や白樺派の人たちの動きです。
私たちが、いまそこから学ぶことはたくさんあります。
これもサロンでは少し話し合いがありました。

沖縄在住のジャーナリストでもある緒方さんや日本韓国・朝鮮関係史研究会のメンバーの方も3人参加してくれました。
沖縄や朝鮮とのつながりも柳夫妻の活動の本質を示唆してくれています。
ほかにも参加者からも興味ある話が紹介されました。
今回は柳兼子の入り口だけでしたが、たくさんのテーマがちりばめられていたような気がします。
海津さんのフットワークのいい調査と自由な想像力に裏付けられたとても面白い発表でした。

これを契機にして、海津さんに「柳兼子研究会(仮称)〕の立ち上げと柳兼子我孫子ツアーを企画してもらおうと思います。
関心のある方はご連絡ください。
また当日配布された、海津さんのレジメ「手賀沼湖畔で大発展した白樺派と柳兼子」をご希望の方はご連絡ください。
海津さんの了解を得て送らせてもらいます。

ところで、柳兼子を主人公にしたNHK朝ドラの実現に力を貸して下さる方がいたらぜひよろしくお願いします。
面白いものになることは、間違いありません。

Kaneko


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2018/06/15

■「パラノイア ハイプログラマーズ」を体験しました

アメリカで開発された政治風刺ゲーム「パラノイア ハイプログラマーズ」を体験させてもらいました。
http://chihosho.neil.chips.jp/?eid=360
何人かでやるアナログゲームですが、以前、ウォーゲームを体験させてもらった蔵原さんのアレンジです。
前回のウォーゲームが、思った以上に退屈だったので(蔵原さん、すみません)、いささか不安がありましたが、今回は退屈どころか、なかなかついていくのが大変でした。
何しろゲームに入る前の、頭に入れておかなければいけないルールがたくさんあって、私のように老化した頭にはすんなり入っていきません。
しかし、始まる前からなにやらワクワクするようなものを感じました。
それに、その段階からすでにゲームははじまっていて、目に見えない駆け引きが行なわれていることを、今回のゲームマスターの岡和田さんに教えてもらいました。
この仕組み、というか、進め方が実に面白い。

ゲームは、 “アルファ・コンプレックス”というディストピアを支配する、親愛なるコンピューター様に仕える「ハイプログラマー」というエリートとして、コンピューター様の問いかけに応じて、コンプレックスを経営していくことです。
ゲーム参加者は、それぞれ「大臣」となって、「閣議」をもちながら、国家経営に取り組みます。
私は、最初、2つのポストをお金を使って獲得したのですが(一つはライバルと競り合って高い代償を払いましたが)、あまりの事態の目まぐるしさになかなかついていけずに、結局、一つのポストはライバルに奪い取られ、さらにコンピューター様の機嫌を損ねて、死刑の憂き目にあってしまいました。
お抱えシェフのおかげで、贅沢な食事を堪能し、市民の食糧まで取り上げようとしたのが、よくなかったかもしれません。
しかし、「食事」などという原始的な習慣は市民には不要で、それはエリートだけの特権にすべきというのが私の提案だったのですが、同僚からは無視されました。
もっとも、“アルファ・コンプレックス”のエリートは、みんなクローンなので、抹殺されても、すぐに復活できるのですが。
まあ、そんな形で、ささやかにゲームに参加させてもらいました。
みんなの足を引っ張ったとはいえ、なんとか落伍しなかったのは、ゲームマスター役の岡和田さんのリードのおかげです。
岡和田さんやすでにゲーム体験のあるみなさんのおかげで、このゲームの考え方の効用や可能性も実感できました。

蔵原さんからは、なぜ政治が良くならないか、憤慨するだけではつまらなくないですか。いっそ政治のしくみを笑い飛ばしながら、その原因をつきとめませんか、とメールをもらっていました。
現在の政治に憤慨するのは、自らに唾することですから、私も憤慨しているだけの人には共感はまったくと言っていいほど持てないのですが、このゲームでガス抜きしてしまうのも、賛成はできません。
しかし、政治のメカニズムに気づき、政治を見る目を変えていくには、一つの方策だろうと思います。
しかし、私はむしろ、企業や自治体行政や、さらには子どもたちの考える力を引き出すために、こうしたゲームは大きな効用があるように思いました。
今回は、ゲーム好きな人たちに会えて、ちょっとまた世界が広がりました。


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2018/06/14

■カフェサロン「いまの政治でいいのだろうか」の報告

「茶色の朝」サロン(BMS)の4回目は、3人の子どもの母親で、専業主婦の方に日頃思っている疑問などを話してもらうことを入り口に、「いまの政治でいいのだろうか」を話し合おうという呼びかけをさせてもらいました。
11人があつまりました。

最初のお話は、母親であるという立場もあって、学校や教育の関係のお話から始まりました。
そして、いろんな生活体験から、なにか「見えないもの」が社会を動かしているような気配を感じていること、そこで、生活者として、1人でもできる活動をはじめたら、そこからいろいろなことが「見えてきた」一方、さらなる「見えないもの」も感じだしたことなど、日常生活からのとても具体的なお話で、茶色の朝サロンにふさわしい問題提起が込められていました。

そこから話し合いが始まりましたが、男性が多かったせいか、やはり「生活感覚」ではなく、「知識」ベースの話し合いになってしまった気がします。
最初に話題になったのは、ハンナ・アレントのアイヒマン裁判の話でした。
凡庸(忠実に命令に従う)、あるいは「自分で考えないこと」が、あのユダヤ人殺害を支えていたという話ですが、まさに今の日本にも、こうした「思考停止」や「凡庸志向」が広がっているという話になりました。
学校を含む教育の問題も出されましたが、ここでもイヴァン・イリイチの「脱学校の社会」にまで話が広がりました。
茶色の朝サロンの主旨はなかなか実現できません。

もちろん、話し合いは示唆に富む内容も多いのですが、たぶんそれでは社会は変わっていかないような気がします。
1960年代から70年代の学生運動が挫折したのは、「生活」とつながっていなかったからではないかという、当時活動していた人からの「反省」も出てきました。
だから「茶色の朝」サロンを始めたのですが、どうもやはりそこから抜け出られないのが男性たちかもしれません。
いまの若い男性は全く違うと思いますが、残念ながら今回は、その世代の男性は誰もいませんでした。

話題提供してくださった母親は、おかしいと思ったら行動しています。
教科書検定が気になったら、実際に教科書が展示されている場に行って、いろんな教科書を読む。
気になったことがあれば、関係者に電話して意見を言う。
それがたぶん「茶色の朝」が私たちにメッセージしていることです。
気になったら考える、そして動く。

翌日、話題提供者からメールが来ました。
そこにとても大切なことが含まれているように思うので、その一部を紹介させてもらうことで、今回は報告に変えたいと思います。

午前中に自宅で、たくさん溢れる「伝えたい思い」を無理やりまとめる作業をしましたが、これにより、自分の抱えた不満を整理することが出来たように思います。
予想外のありがたい効果でした。

皆様のご意見から、たくさんの「気づき」がありました。

息子から「お母さん、俺はどうして勉強するんだろう」としょんぼりと問いかけられた出来事。
息子の心からの問いに即答できずに「何でだろう…」と言ってしまい、翌日息子に自分なりの返事を伝えても、「もういいよ」とあしらわれてしまいました。
子供のなぜ?が、もう心の奥に仕舞われてしまったのです。
日頃から、「今年は受験だから頑張ろう」と息子に話していたのに、なぜ学ぶのか、なぜ受験勉強をするのか、大事なことをよく考えていない母親だったと、ひどく後悔していました。
でも、サロンのあと、新たな考えが浮かびました。
もしかすると、私の答えなんかどうでもよかったのではないか。
私がサロンのあとで「自分なりの着地点」を見つけたように、「それなら自分で考えるか・・・」とか「他の人に聞くか」とか「調べるか」とか。
何でもいいから、自分で答えを見つけ出してくれるのではないか、そんな希望が生まれました。

自分の意見を考え、整理する。人に伝える。他の人の意見も聞いてみる。
これって生きていくのに本当に大切なことだと思いました。
人間はロボットではない。思いがあり、考える人間である。だから悩みも苦しみも生まれる。
子供達にはそこから逃げず「自分なりの答え、着地点」を考え、探し求めながら歩んで欲しいなと思います。

そう考えると、子どもこそ「サロン」が必要ですね。
とりあえず、自宅で「サロン」をやってみようと思います。

このメールを読んで、とても報われた気持ちになりました。
懲りずに「茶色の朝」サロンは続けたいと思います。

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2018/05/27

■カフェサロン「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいのでしょうか」報告

湯島では、憲法議論はこれまで何回もやりました。
でもどうもすっきりしません。
そこで今回は、抽象的な議論ではなく、「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいか」について、それぞれの意見を出し合おうという呼びかけをさせてもらいました。
休日にもかかわらず、また国会前でのデモなどもあったにもかかわらず、12人の人が集まりました。
残念ながら女性は1人だけでした。
生活保護家族の子どもたちに関わっている女性です。
こういう人が参加してくれるのが一番うれしいです。

呼びかけの主旨を受けて、最初に意見を述べてくださった方は、「天皇条項」を最初の1条に置いたことを問題にしました。
そして、先の戦争では同じ敗戦国だったドイツとイタリアの憲法が、それぞれ「人間の尊厳」や「国民主権」を第1条に掲げていることを紹介してくれました。
それと12条も問題にしました。
憲法で保障する自由および権利は、「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という条文です。
同時にその条文は、公共の福祉のために(自由と権利を)利用する責任を負うということを決めています。
福祉に関わっている女性は、生存権を規定している25条を守りたいと指摘しました。
「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文です。
その2項では、それを保障するための国の責任が明記されています。
彼女は、12条の「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」には肯定的な意見でした。
私は、第11条を一番守りたいと言いました。
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」というところです。
その基本は、13条の「すべて国民は、個人として尊重される」ことではないかと、自分で憲法改正を書いて出版している人が補足してくれました。
これに関連して、日本国憲法には、人権原則と統治原則が献愛しているという指摘もありました。

憲法の一番大切なのは「前文」だと思うという指摘もありました。
それに関連して、日本国憲法は理念とルールが混在しているという話も出ました。
アメリカ憲法はルール的な内容であり、理念は独立宣言などに謳われているという話も出て、「憲法とは何か」というような議論もちょっと出ました。
英米法の世界では、「国のかたちを規定する理念」と「統治のためのルール」を合わせて、「憲法」であり、条文としての成文憲法だけが憲法ではないとされますが、「日本国憲法」をそういう意味で、もう少しゆるやかに捉えることも必要かもしれません。

9条に関しては、もちろん議論の対象になりました。
自衛隊は憲法違反かどうか、戦争をする権利は国にあるのか、自衛戦争ではない戦争はあるのか、などという議論はありましたが、みんな「平和」でありたいという思いは一緒だと思います。
しかし、平和を実現するための方法がまったく正反対なわけです。
私自身は、それはそもそも「平和」の捉え方が間違っているからだと思っていますが、今回はあまり深入りしませんでした。

司法の問題も出ました。
司法の頂点にいる最高裁長官は内閣の指名により天皇が(形式的に)任命すると憲法6条で規定されています。
つまり行政が司法のトップを決めることができますから、日本では三権分立にはなっていません。
そのために、砂川判決のような「統治権最優先」が可能になり、政府による違憲行為を止める法あくがなくなったわけですが、そこをただすべきだという指摘がありました。

98条の「憲法は国の最高法規」であって、その条規に反する法律、命令などは、その効力を有しないという条項も議論の対象になりました。
条文にはないですが、憲法違反者は厳罰に処せられることを明記すべきだという指摘もありました。

具体的に条文が出てきたのはこのくらいでしょうか。
メールでは、地方自治や財政原則などに関する意見ももらっていましたが、紹介はさせてもらいましたが、地方議員がいなかったこともあり、話題にはなりませんでした。

そもそも今の日本国憲法は文章が整理されていなくて、読んでもわからないことが多い。
もっと誰でもわかるような平明な文章に治してほしいという指摘がありましたが、これはたぶん参加者みんなの意見でもあるようでした。
しかし、だからと言って、いまの憲法を変えなければいけないということでもないと思っている人も半分くらいいたように思います。

まだまだいろんな意見が出ましたが、話題の選択も含めて、以上の報告は私の主観的判断がかなり入っていると思います。
参加者によっては、受け取り方も違っていると思います。
しかし、改めて、こういう憲法を話し合う場が、広がっていくといいなと改めて思いました。

憲法をテーマにしたサロンは、誰かやりたい人がいたら、随時開催していこうと思います。
話したい人がいたら、気楽にご連絡ください。

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2018/05/17

■明日、5月18日に、「九条俳句訴訟」の高裁判決が出されます

明日、5月18日に、「九条俳句訴訟」の高裁判決が出されます。
これからの私たちの社会を方向づける、大切な判決だと思います。
それに合わせて、訴訟関係者たちによって「九条俳句訴訟と公民館の自由」(佐藤一子/安藤聡彦/長澤成次編著 エイデル研究所)が緊急出版されました。
ぜひ多くの人に読んでいただきたいとともに、18日の判決にも関心を持っていただきたくて、ホームページやブログで本の紹介をさせてもらいましたが、フェイスブックでも紹介させてもらうことにしました。

さいたま市のある公民館の俳句サークルで選ばれた秀句が、いつもなら掲載されるはずの「公民館だより」への掲載を拒否されるという事件(2014年6月)は、覚えている方も多いでしょう。
その対象になった俳句は、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」。
その句が、「社会教育の政治的中立性」という理由で、行政から掲載拒否されたのです。
俳句の作者と仲間たちは行政に異議申し立てし、その支援者も広がりだしました。
しかし、市民と行政との話し合いは、うまくいかずに、訴訟にまで発展し、「九条俳句事件」として今なお争われているのです。
一審で敗訴した行政は控訴し、高等裁判所による控訴審の判決が、明日の5月18日に出されます。

俳句サークルの人たちやその応援団の人たちは、この数年、社会教育法をはじめ、さまざまなことを学びながら、「おかしなことをおかしい」と主張してきました。
問題を広く知ってもらうための公開イベントなども開催してきました。
新聞やテレビでも取り上げられましたので、湯島のサロンでも話題になったことはありますが、私は、そんな動きが広がっていることさえ知らずに、最近では忘れてしまっていたことを大いに反省しました。

本書は、こうした「九条俳句訴訟」事件のドキュメタリーです。
自治体から突然、理不尽な圧力を受けた女性たちが、それに抑えられることなく、正面から対峙し、公民館で住民が学び続ける意味を再確認するとともに、表現の自由を守る活動へと広がっていった経緯が、事件に関わったさまざまな人たちの「思い」も含めて、立体的に紹介されています。
本書から、この事件から見えてくる最近の日本の社会の「あやうさ」と、実践活動を通してのメッセージが伝わってきます。

原告作者は「もう70年前の様な時代に逆戻りは絶対ごめんです」と、2015年7月の提訴にあたっての呼びかけ文に書いています。
また、かつて公民館職員だった方が、ある事件に関連して、かつて社会教育と政治の関係について次のように述べていたことが紹介されています。
「私たちの生活に関する話題は、そのほとんどが政治にかかわることだといっても過言ではありません。政治にかかわる事柄が、政治的だという理由で公民館活動のなかで禁止されるとしたら、人間の自己教育活動としての社会教育は成立しなくなってしまうのではないでしょうか。」

まったく同感です。
俳句の掲載拒否の理由はいうまもなく『九条守れ』が問題視されたのです。
そもそも憲法を遵守しなければいけない行政職員が、憲法を守れということに否定的という、それだけも公務員の倫理責任に反するようなことが堂々とまかり通るようになっている現実は、変えていかねばいけません。
一人でも多くの人に本書を読んでいただきたいと思います。
6月には、本書をテーマにしたサロンを湯島で開催する予定です。

ちなみに、私は、昨今の「社会教育」のあり方に大きな違和感があります。
時代状況が変わる中で、「社会教育」(学校教育もそうですが)の捉え方を変えていくことが必要だと思いますが、一度できた枠組みはそう簡単には変わりません。
いまだに、統治視点からの行政主導の「与える社会教育・与えられる社会教育」、「国民の意識を高める(国民教化)ための教育型の活動」が中心か、もしくは自分の趣味を広げる(つまりある意味での社会性を抑え込む)「生涯学習型の社会教育」になっているような気がしてなりません。
しかし、社会がここまで成熟し、人々の意識や生き方が変わってきている中で、そろそろそうしたあり方を見直し、むしろ方向性を反転させて、私たち生活者一人ひとりが主役になって、「お互いに学び合う社会教育」「まちや社会を自分たちで育てていく社会創造型の活動」にしていく段階に来ているのではないかと思います。
それは同時に、私たち一人ひとりの社会性や市民性を高めていくことでもあります。

そこで、3年ほど前に、「みんなの社会教育ネットワーク準備会」を友人たちと立ち上げました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2016/02/post-04b2.html
しかし残念ながら、その試みは挫折したまま、今もって動き出せずにいます。
本書を読んで、改めてまた、社会教育のベクトルを反転させた「みんなの社会教育ネットワーク」も、再挑戦しようと思い出しています。
共感して下さる人がいたら、ぜひご連絡ください。


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2018/05/11

■嘘をつく人に振り回されたくありません

昨日、柳瀬さんの国会での参考人発言が中継されていましたが、見ませんでした。
そもそもなぜ「嘘をつく人」を国会にまで呼んで大騒ぎしなければいけないのか。
一度嘘をついた人は、謝罪して嘘を認めない以上、さらに嘘を重ねていくしかありませんし、そもそも嘘をつく人の意見に耳を傾けること自体に、意味はないと思います。
佐川さんの証人喚問の時、テレビの報道をずっと見ていて、残念ながらそのことを再確認しました。
だから今回は見ませんでしたし、録画もしませんでした。
柳瀬さんが嘘をついていることは、子どもであれば誰もわかるでしょう。
認めないのは、自らも嘘をつくことを知った大人だけでしょう。
柳瀬さんには、親身になって諭してやる家族や友人はいないのでしょうか。
佐川さんの時もそうでしたが、柳瀬さんの写真を見るといつも同情を禁じ得ません。

テレビのサンデーモーニングで先週、田中秀征さんが、柳瀬さんは誠実な人で、自分のために発言しているとは思えない、というようなことを話されていました。
この発言には驚きました。
「自分のためではない?」
田中さんも同じ穴のムジナなのかと、がっかりしました。
柳瀬さんの言動は、どう考えても保身のためとしか思えませんが、そうは見えてない人もいるわけです。

嘘をつく人を相手にするのは、もうやめたほうがいい。
嘘をつく人たちから、政治を取り戻したいですが、いまや政治の世界は嘘つきしか活躍できないのかもしれません。
保身のための嘘で、どれだけの国税が浪費されていることか。
嘘をついたおかげで国税庁長官になれるような社会では、嘘をつくことが奨励されるようになっていくでしょう。
税金を払いたくなくなる人も増えかねません。
脱税とか税務申告漏れも「嘘つき行為」でしょうが、官僚や政治家たちの「脱税的嘘」が、もっと厳しく糾弾されないと、嘘が美徳の社会が来てしまいかねません。

15年ほど前に、ホームページに「嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう」というメッセージを書きました。
その頃の危惧がまさに現実になってしまったのがさびしいです。
http://cws.c.ooco.jp/messagefile/messagekiroku.htm#m2

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2018/05/03

■憲法記念日のお薦めの3冊

今日は憲法記念日です。
私は毎年、この日には日本国憲法を読むことにしています。
必ずしもすべてを読むわけではありませんが、前文だけは必ず読みます。
私は、日本国憲法は前文だけでいいのではないかと思っていた時もあります。
前文は文章的には、あんまり美しくはありません。
内容もいささか整理されていない気もします。
しかし、そこには、国家は人々が幸せに暮らせるための仕組みでなければいけないという精神を感じます。
「人々」というのは、国民だけではなく、世界中の人々という意味です。
そこには心底共感します。

いま、憲法改正が話題になっています。
しかし、「護憲」とか「改憲」という言葉ほど、わからない言葉はありません。
何を守り、何を改めるのかが、わからないからです。
憲法は「条文」ではなく「理念」だと思うのですが、その理念の議論があまりありません。
いま、私たちが考えるべきは、何を変え、何を守るのかであって、「憲法」を変えるか守るかではないように思えてなりません。
しかし、実際には、そこから本質を変えられていくのでしょう。
ですから「護憲か改憲か」という問題が成り立つのだろうと思います。
でも、もし私が「護憲か改憲か」とか「憲法改正に賛成か反対か」と問われても、応えられません。
「国家は人々が幸せに暮らせるための仕組み」でなければいけないか、と問われたら、即座に「はい」と答えられますが。

今年になって2冊の憲法関係の本を読みました。
篠田英朗さんの「ほんとうの憲法」(ちくま新書)と中島岳志さんの「保守と立憲」(スタンド・ブックス)です。
前者は発想の空間を広げてくれ、後者は発想の時間軸を広げてくれる本です。
もう1冊。私の友人が15年ほど前に書いた本も推薦したいと思います。
武田文彦さんの「赤ペンを持って「憲法」を読もう」(かんき出版)です。

憲法を読んで、そこからいまの日本の社会の状況を考えるといろんな気付きがあるはずです。
連休中に、憲法をテーマにしたサロンを開こうかどうか迷いましたが、他でもたくさんの集会があるので、今年は企画しませんでした。

しかし今日、改めて前文を読み直して、日本国憲法の理念とは何なのか、そして、「何を守り、何を改めるのか」について、サロンを開きたくなりました。
できれば5月中に開催しようと思います。
よかったら参加してください。

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2018/04/20

■哀しい風景

財務省の福田事務次官をめぐる話は滑稽なほどおかしな方向に展開していますが、実際に起こっている事実としては、私にはそう異常な話ではなく、まあよくある話の一つではないかと思います。
そうした話は、特に官庁に限った話ではなく、企業においても、つい最近まではさほど異常ではなかったのではないかと思います。
いや、いまもいろんなところで起こっているのではないかとさえ思います。

そもそも、女性はいまだ人権を認められていないような気がしてなりません。
私がそう思うのは、そもそも「男女共同参画」とか「女性活性化」とか、そんな言葉が、当の女性からもさえ、受け入れられているからです。
ついでに言えば、人権が認められていないのは女性だけではありません。
男性もまた人権を認められず、自らも権力に寄生する生き方を選択しているように思います。
そうした構造の中で、自らよりも下位に置く、弱い者をつくりだすというスタイルがいまなお続いている。
まあこんなことを書くと非難ごうごうでしょうが、セクハラなどという言葉にさえも、私はそうした意識が感じられます。
セクハラではなく、人権侵害であって、女性だけの問題ではないだろうと私は思います。

土俵に女性を上げないのがおかしいという話は、私には笑止千万です。
そういう相撲界を国技としていたのは、女性も含めて、私たちでしょう。
問題は、女性を土俵に上げるかどうかなどという問題ではありません。
問題の立て方が間違っているのではないか。

話は少し広がりますが、たとえば貴乃花事件における貴乃花は、私にはいかにも暴力的な存在でした。
ビール瓶で叩くよりも、問いかけや呼びかけを無視する方が、私には暴力的だと思うからです。
まあこれはさらに非難を受けそうな発言ではありますが。
貴乃花が、結局、自分の部屋で暴力事件を越したのは、私には当然のことだと思っています。

財務省の対応がおかしいと思う人は多いでしょうが、あそこまで極端ではないとしても、多かれ少なかれ、組織はあんなものではないかと思います。
自分の組織の常識が、社会の常識だと思っていますから、矢野官房長にしても、自分がおかしいとは思っていないのでしょう。
財務省の場合、あまりに強い組織ですから、自分の組織の常識を相対化できないために、あまりに無防備に素直に露呈しているだけだろうと思います。
同じような「非常識な常識を持つ組織人」に私はこれまでたくさん会ってきています。
しかしここまであっけらかんと自らの考えを素直に出す人は、よほどのナルシストか自信家です。
彼らは、佐川さんも含めてですが、自分が悪いことをしたなどとは思っていないのでしょう。
小野寺さんも林さんもそうでしょう。
でも私には、彼らの言動はおかしく見えます。

さらに言えば、自民党だけが女性蔑視ではないように思います。
テレビで垣間見る野党の男性政治家の反応も、どこかで苦笑いしたりしていて、誠実さを感じません。
いや男性議員だけではなく女性議員も、誠実さを感じません。
今日の財務省訪問での映像も、私には奇妙にしか見えません。
問題はもっと深く、あなた自身もこれまでずっとそうした常識に迎合してきたのではないかと、つい思いたくなります。
訴えるべき相手は、国民でしょう。
反省すべきは自らでしょう。
そう思えてならないのです。

何か事が起こると、それに乗じて、力を失ったものを寄ってたかって叩きのめす。
私には、とても哀しい風景です。

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2018/04/13

■「記憶の限りでは会ってない」

内容のないつまらない話なのに長いので、よほど暇の方以外はスルーしてください。
まあこんな注記をしなくても、スルーされるでしょうが。

いま話題になっている、柳瀬首相秘書官の「記憶の限りでは会ってない」という言葉は、言葉としてはよくある言葉だと思いますが、それをめぐる政局がらみのやり取りを踏まえて考えると、面白い言葉です。
たとえば、私が「会っている」と言葉にした時、それは「会った記憶がある」ということです。
過去形の話はすべて「記憶」の中にある話です。
ですから、「記憶の限りでは会ってない」というのであれば、それは会っていないのです。
柳瀬さんの記憶力はそんなに病的ではないでしょうから、記憶にない以上はそう信じざるを得ません。
嘘をついていると思う人がいるかもしれませんが、そんな誰にでも嘘とわかるような嘘をつく人が官僚のトップに立てるはずはありません。
となれば、事実は次のように考えるのがいいでしょう。
愛媛県庁の職員は柳瀬さんに「会った」のすが、柳瀬さんはその職員には「会っていなかった」のです。
どういうことか?
両者の言葉遣いが違うのです。

たくさんの家来を持つ権力者は、毎日、たくさんの家来や外国からの来客に謁見することがあって、その一人ひとりと「会っている」とは考えていないかもしれません。
仮に、言葉をかけたとしても、それは「会話」ではなく、言葉を「放した」のであって、「話した」のではないかもしれません。
私は、かなりの平等主義者ですが、今朝、庭の花に水をやった時に小さな虫がいましたが、その虫に会ったという感覚はありませんし、おはようと声をかけましたが、会話した記憶は残りませんので、数日後には記憶の世界から消えるでしょう。
「会う」という行為には、「意志」が伴います。
謁見の場に次々と賓客が通り過ぎていっても、王様に「会う」という自らの意志がなければ、記憶は残らない。
言葉を発しても、相手が意志のある存在だと受け止めていなければ、「会った」という記憶は残らない。
幸運に恵まれて、王様に会えた家来や賓客は、「会えた」という記憶と共に、王様から放たれた「意志のない」儀礼的な言葉に感激し、記憶に残るでしょうが、王様にとってはルーチン作業の一つでしかありませんので、記憶には残らない。
柳瀬さんは嘘を言っていないのです。
本当に会っていないのです。
柳瀬さんにとっては、愛媛県の職員は人間には見えなかったのです。
ですから「陳情者を見ましたか」「彼らに言葉を授けましたか」ととえば、きっと柳瀬さんは思い出すでしょう。
なにしろ「優秀な人」だそうですから。
私は、人を優秀だとか賢いとか評価するような「レイシスト」思考はありませんが、そういう人に会ったことはあります。
そういう人のなかには、人を人を思わずに、物扱いする人もいます。

もうひとつの解釈は、柳瀬さんはシステムの部品に見事に組み込まれていると考えることです。
柳瀬さんは、主体性を拠り所にした人間をやめて、システム(官僚機構)の部品になってしまった。
つまり、物になってしまっている。
ですから悩んで自殺することも周囲の人への心遣いもしないですむ。
佐川さんのように、堂々と国会証人喚問に対応できるでしょう。
正確には、証人喚問ではなく、証物喚問ですが。
国会議員が物言わぬ「物」にまじめに問いかけている風景は滑稽な気さえしました。
もしこの解釈の場合は、システムのバグという捉え方もできます。
それも不要なバグではなく、必要なバグ、コラテラル・バグです。
たぶんようが終われば切り捨てられる。
それがコラテラル・バグの定めです。
いま奮闘している大谷さんも、コラテラル・バグと捉えれば、どうしてあんなに頑張れるのか。が理解できます。

ある事実、ここでは「会ったかどうか」に関しては、「否定」か「肯定」しかありませんが、当事者の捉え方がいずれかに分かれるのは理解できることです。
しかし、社会的な意味では、あるいは人間社会の関係性においては、柳瀬さんは、会ったことを認めているとしかいいようはないでしょう。
にもかかわらず、みんなしつこく追いつめる。
喜劇でしかありません。

いま、国分功一郎さんの「中動態の世界」を読んでいますが、そのプロローグにこんな隊泡が出てきます。
一部の引用なので、わかりにくいでしょうが、私はよく経験することです。

「いろいろがんばって説明しても、ことごとく、そういう意味じゃないって意味で理解されてしまう」 「ああ、たしかにいまは日本語で話をしているわけだけれど、実はまったく別の意味体系が衝突している、と。僕なんかはその2つの狭間にいるという感じかな」

「中動態の世界」は面白いです。

ちなみに、土俵に女性を上げないという話も、論点がかみ合っていません。
だからこそ、「事件」になり、テレビネタになるのでしょう。
いずれの問題も極めてシンプルな話です。
議論すべきことはもっと別にあるように思います。

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