カテゴリー「政治時評」の記事

2018/04/20

■哀しい風景

財務省の福田事務次官をめぐる話は滑稽なほどおかしな方向に展開していますが、実際に起こっている事実としては、私にはそう異常な話ではなく、まあよくある話の一つではないかと思います。
そうした話は、特に官庁に限った話ではなく、企業においても、つい最近まではさほど異常ではなかったのではないかと思います。
いや、いまもいろんなところで起こっているのではないかとさえ思います。

そもそも、女性はいまだ人権を認められていないような気がしてなりません。
私がそう思うのは、そもそも「男女共同参画」とか「女性活性化」とか、そんな言葉が、当の女性からもさえ、受け入れられているからです。
ついでに言えば、人権が認められていないのは女性だけではありません。
男性もまた人権を認められず、自らも権力に寄生する生き方を選択しているように思います。
そうした構造の中で、自らよりも下位に置く、弱い者をつくりだすというスタイルがいまなお続いている。
まあこんなことを書くと非難ごうごうでしょうが、セクハラなどという言葉にさえも、私はそうした意識が感じられます。
セクハラではなく、人権侵害であって、女性だけの問題ではないだろうと私は思います。

土俵に女性を上げないのがおかしいという話は、私には笑止千万です。
そういう相撲界を国技としていたのは、女性も含めて、私たちでしょう。
問題は、女性を土俵に上げるかどうかなどという問題ではありません。
問題の立て方が間違っているのではないか。

話は少し広がりますが、たとえば貴乃花事件における貴乃花は、私にはいかにも暴力的な存在でした。
ビール瓶で叩くよりも、問いかけや呼びかけを無視する方が、私には暴力的だと思うからです。
まあこれはさらに非難を受けそうな発言ではありますが。
貴乃花が、結局、自分の部屋で暴力事件を越したのは、私には当然のことだと思っています。

財務省の対応がおかしいと思う人は多いでしょうが、あそこまで極端ではないとしても、多かれ少なかれ、組織はあんなものではないかと思います。
自分の組織の常識が、社会の常識だと思っていますから、矢野官房長にしても、自分がおかしいとは思っていないのでしょう。
財務省の場合、あまりに強い組織ですから、自分の組織の常識を相対化できないために、あまりに無防備に素直に露呈しているだけだろうと思います。
同じような「非常識な常識を持つ組織人」に私はこれまでたくさん会ってきています。
しかしここまであっけらかんと自らの考えを素直に出す人は、よほどのナルシストか自信家です。
彼らは、佐川さんも含めてですが、自分が悪いことをしたなどとは思っていないのでしょう。
小野寺さんも林さんもそうでしょう。
でも私には、彼らの言動はおかしく見えます。

さらに言えば、自民党だけが女性蔑視ではないように思います。
テレビで垣間見る野党の男性政治家の反応も、どこかで苦笑いしたりしていて、誠実さを感じません。
いや男性議員だけではなく女性議員も、誠実さを感じません。
今日の財務省訪問での映像も、私には奇妙にしか見えません。
問題はもっと深く、あなた自身もこれまでずっとそうした常識に迎合してきたのではないかと、つい思いたくなります。
訴えるべき相手は、国民でしょう。
反省すべきは自らでしょう。
そう思えてならないのです。

何か事が起こると、それに乗じて、力を失ったものを寄ってたかって叩きのめす。
私には、とても哀しい風景です。

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2018/04/13

■「記憶の限りでは会ってない」

内容のないつまらない話なのに長いので、よほど暇の方以外はスルーしてください。
まあこんな注記をしなくても、スルーされるでしょうが。

いま話題になっている、柳瀬首相秘書官の「記憶の限りでは会ってない」という言葉は、言葉としてはよくある言葉だと思いますが、それをめぐる政局がらみのやり取りを踏まえて考えると、面白い言葉です。
たとえば、私が「会っている」と言葉にした時、それは「会った記憶がある」ということです。
過去形の話はすべて「記憶」の中にある話です。
ですから、「記憶の限りでは会ってない」というのであれば、それは会っていないのです。
柳瀬さんの記憶力はそんなに病的ではないでしょうから、記憶にない以上はそう信じざるを得ません。
嘘をついていると思う人がいるかもしれませんが、そんな誰にでも嘘とわかるような嘘をつく人が官僚のトップに立てるはずはありません。
となれば、事実は次のように考えるのがいいでしょう。
愛媛県庁の職員は柳瀬さんに「会った」のすが、柳瀬さんはその職員には「会っていなかった」のです。
どういうことか?
両者の言葉遣いが違うのです。

たくさんの家来を持つ権力者は、毎日、たくさんの家来や外国からの来客に謁見することがあって、その一人ひとりと「会っている」とは考えていないかもしれません。
仮に、言葉をかけたとしても、それは「会話」ではなく、言葉を「放した」のであって、「話した」のではないかもしれません。
私は、かなりの平等主義者ですが、今朝、庭の花に水をやった時に小さな虫がいましたが、その虫に会ったという感覚はありませんし、おはようと声をかけましたが、会話した記憶は残りませんので、数日後には記憶の世界から消えるでしょう。
「会う」という行為には、「意志」が伴います。
謁見の場に次々と賓客が通り過ぎていっても、王様に「会う」という自らの意志がなければ、記憶は残らない。
言葉を発しても、相手が意志のある存在だと受け止めていなければ、「会った」という記憶は残らない。
幸運に恵まれて、王様に会えた家来や賓客は、「会えた」という記憶と共に、王様から放たれた「意志のない」儀礼的な言葉に感激し、記憶に残るでしょうが、王様にとってはルーチン作業の一つでしかありませんので、記憶には残らない。
柳瀬さんは嘘を言っていないのです。
本当に会っていないのです。
柳瀬さんにとっては、愛媛県の職員は人間には見えなかったのです。
ですから「陳情者を見ましたか」「彼らに言葉を授けましたか」ととえば、きっと柳瀬さんは思い出すでしょう。
なにしろ「優秀な人」だそうですから。
私は、人を優秀だとか賢いとか評価するような「レイシスト」思考はありませんが、そういう人に会ったことはあります。
そういう人のなかには、人を人を思わずに、物扱いする人もいます。

もうひとつの解釈は、柳瀬さんはシステムの部品に見事に組み込まれていると考えることです。
柳瀬さんは、主体性を拠り所にした人間をやめて、システム(官僚機構)の部品になってしまった。
つまり、物になってしまっている。
ですから悩んで自殺することも周囲の人への心遣いもしないですむ。
佐川さんのように、堂々と国会証人喚問に対応できるでしょう。
正確には、証人喚問ではなく、証物喚問ですが。
国会議員が物言わぬ「物」にまじめに問いかけている風景は滑稽な気さえしました。
もしこの解釈の場合は、システムのバグという捉え方もできます。
それも不要なバグではなく、必要なバグ、コラテラル・バグです。
たぶんようが終われば切り捨てられる。
それがコラテラル・バグの定めです。
いま奮闘している大谷さんも、コラテラル・バグと捉えれば、どうしてあんなに頑張れるのか。が理解できます。

ある事実、ここでは「会ったかどうか」に関しては、「否定」か「肯定」しかありませんが、当事者の捉え方がいずれかに分かれるのは理解できることです。
しかし、社会的な意味では、あるいは人間社会の関係性においては、柳瀬さんは、会ったことを認めているとしかいいようはないでしょう。
にもかかわらず、みんなしつこく追いつめる。
喜劇でしかありません。

いま、国分功一郎さんの「中動態の世界」を読んでいますが、そのプロローグにこんな隊泡が出てきます。
一部の引用なので、わかりにくいでしょうが、私はよく経験することです。

「いろいろがんばって説明しても、ことごとく、そういう意味じゃないって意味で理解されてしまう」 「ああ、たしかにいまは日本語で話をしているわけだけれど、実はまったく別の意味体系が衝突している、と。僕なんかはその2つの狭間にいるという感じかな」

「中動態の世界」は面白いです。

ちなみに、土俵に女性を上げないという話も、論点がかみ合っていません。
だからこそ、「事件」になり、テレビネタになるのでしょう。
いずれの問題も極めてシンプルな話です。
議論すべきことはもっと別にあるように思います。

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2018/04/07

■一強体制に反対な人への疑問

日本レスリング協会のパワハラ騒動に進展があり、告発されていた強化本部長が辞任しました。
やはりここでも「一強体制」が生まれていたようです。
一強体制に寄生している関係者が、真実を覆い隠しているという構図はここにも見られます。

権力は腐敗するという言葉はよく聞きます。
しかし権力が腐敗するのではなく、権力に寄生する人たちが腐敗するのでしょう。
権力とは、もともと腐敗しているものですから。
であれば、権力を担う人は、新鮮なうちに権力を手放す仕組みをつくればいいのですが、そういうことを望む人はたぶんほとんどいないでしょう。
しかし、権力を担う当事者にとっても、それが合理的です。
なにしろ、権力は寄生する人を腐敗させるのですから。
一番の被害者は、権力の中枢にいる人です。
韓国の歴代の大統領のゆくえを見ればよくわかります。

10年ほど前の日本は、毎年のように首相が変わっていました。
私はブログなどにも書いた記憶がありますが、とても正常なことだと思っていました。
しかし、多くの人はそれを好まず、湯島のサロンでも嘆く人がほとんどでした。
しかし、権力が腐敗すると思うのであれば、嘆くべきではないでしょう。
そう思っていたら、多くの人が望んでいた長期政権ができました。
そして出てきたのが、一強批判。
まさに度し難いのは、身勝手な国民です。
みんなが何を望んでいるのか、私にはよくわかりません。

日本の官僚制度は、権力が滞留しないように仕組まれています。
上級官僚は、時間も含めて長くは居座れません。
官僚の天下りは批判されますが、「天下り」という言葉を使うからおかしいのであって、官僚経験者が野に下り、社会の視点で活動するのは、悪いことではありません。
私は40年以上前に、ある提言書で、「公務員就労義務制度」を提案させてもらったことがあります。
行政職は、もっとみんなが体験すべき仕事だと思っています。
天下りという言葉で象徴されるように、官尊民卑の風潮が広がり、そこに「権力」が入り込んできたのが不幸でした。

これも前に書いた記憶がありますが、ヨーロッパにあるサンマリノ共和国では、元首に当たる執政の任期は半年で、しかも2人で構成されています。
立法機関は比例代表制選挙で選ばれた国民が務め、任期は5年です。
しかも驚かされるのは、司法を担う裁判官は外国人です。
小さな国だからそんなことができるのだと言われますが、理念は規模の大小には関係ありません。

権力に寄生する生き方をやめなければいけません。
一強批判をしている人は、もし自分が、その「一強」側だったらどうするでしょうか。
私は、もしそうなったら、自らを律する自信はありません。
幸いに、権力も肩書きも、無縁な状況で生きていけるので、幸せですが。

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2018/04/05

■「ないはず」のイラク派遣日報の「発見」に思うこと

「ないはず」のイラク派遣日報がまた「発見」されました。
同じような「犯罪」が繰り返し行われていますが、そうしたマスコミ報道に出てくる人たちの反応は、いつもできの悪い「茶番劇」のようです。
その分野のことをもし少しでも知っているのであれば、たとえば、イラク派遣日報が本当にないと思っていた人などいないはずですし、もし思っていたとしたら、それこそ社会のことを何も知らないというべきだろうと思います。
日報がないと言われても、本気で追及するジャーナリストも専門家もほとんどいないのには、笑うしかありません。
最近のテレビでのキャスターやコメンテーターたちの議論の、すべてとは言いませんが(信頼できるキャスターは私にも、たとえば井上貴博さんなど数人います)、多くはフェイクな世界の上で構築された議論のように感じています。
火事で発見された焼死体が、その家に住んでいた高齢者だと思われるとか、ほぼ現行犯逮捕に近いのに「容疑者」という言葉が使われるとか、そういう動きも同じですが、みんな知っているのに言葉でごまかすことに慣れ切っています。
その一方で、相変わらず冤罪事件は頻発しています。

公文書を廃棄したという事実があるのであれば、その関係者は即刻解雇して、訴追すればいいだけの話です。
公文書は、私たち国民の財産なのですから。
そうしたら、だれも「廃棄した」とか「公文書がない」などという、つきたくもない嘘をつく人はいなくなるでしょう。
そうした「やるべきこと」をやらないから、「ないこと」にすればいいと思う人も増えてくる。
逆に、おかしいと思った人は、悩みぬいて離職や自殺をしてしまう。
グラシャムの法則に従って、官僚には良識が失われていくというわけです。
いや、新しい「良識」文化が生まれてきているのかもしれません。

森友学園事件で言えば、安倍昭恵さんの名前を聞いて、「忖度」をしなかった人などいないはずですが、「忖度」があったかどうかなどという無意味な議論が国会でされている。
人間はロボットではないのですから、みんな「忖度」で生きている。
その「忖度」が、どういう方向を向いて、何をもたらすかは、その社会や組織の文化による。

オリンピックも、一部の人のお金儲けのための壮大な税金の無駄遣いだと思いますが、最近の国会の議論を見ていると、なんとまあ無駄なことをやっているのかと、税金を払うのが嫌になるほどです。
所得の半分を税金で納めながら、幸せを享受できているというデンマークの人たちがうらやましいです。

デンマークといえば、アンデルセンの「裸の王様」を指摘した、子どもの心を取り戻したいです。
それにしても、今回のイラク派遣日報の「発見」事件は、いまの自衛隊が国民に牙をむく本性をもっていることを明らかにしてくれたように思います。
歴史から言えることは、国家の軍隊の力は、外国にではなく、自国の国民に向けられることが多いのですが、その本性が露呈されたわけです。
それにしてもまことに見事なほどに、お粗末な形で、ですが。

社会から緊張感や誠実さが失われてきているとしか思えません。
であればこそ、私は誠実に生きたいと思います。
ただ「緊張感」はあんまり持ちたくありません。
疲れますので。

もう茶番劇はやめて、現場で本当に苦労している人はみんな知っていることを公開したらどうでしょうか。
匿名で、どこかに投稿できる、「ロバの耳」ネットバンクはできないものでしょうか。

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2018/03/28

■佐川元理財局長の国会証人喚問報道に感ずること

昨日、佐川元理財局長の国会証人喚問がありました。
4時間すべてを見ましたが、あまりのひどさに驚きました。
そこで、フェイスブックに書きました。

佐川さんに同情的だったのですが、まったく期待を裏切られました。日本の官僚の誠実さはもう失われたのでしょうか。カントを読んでほしいです。
それにしても、あまりのひどさに驚きました。
官僚の言動は、私たち国民の言動を象徴しているのでしょう。

しかし、今朝の新聞やテレビを見て、佐川バッシングのすごさにまた驚きました。
みんな麻生さんみたいになっています。
こうなると、私としてはついつい「待てよ」とも思いたくなります。
佐川さんをこれほどひどく批判することができるのは、もしかしたらそこに自らを感じているからではないのか。
いつもに似合わず、そういう「自省的」な自分を感じます。
こうしたバッシングの動きも、またおそろしい。

ダーウィンのgroup selectionという理論があります。
一時期は人気がなかったようですが、最近また見直されているとも聞きます。
その考えによると、自らが所属するある集団が存続の危機に陥ると、メンバーは自らの利得、つまり自己を捨てて、その集団の構成要素である小さな細胞になる本性(能力)を生まれながらにして持っているというのです。
つまり、所属集団のために働く一匹のミツバチのようになるというわけです。
そして、集団維持意識のため以外の判断基準(たとえば社会的な常識や道徳観念)に盲目になってしまう。

集団への献身は人間が最も大切にする、生活の一断面だ、という心理学者もいます。
そうした、人間の本性が、英雄的な行為を生むとともに、戦争や集団殺戮も引き起こす、というのです。
ここには「利己主義」と「利他主義」の錯綜があります。
大切なのは、自らがどの「グループ(集団)」に所属していると思っているかです。

私は、できるだけ広い、理想的に言えば、時空を超えた世界を、自らの所属集団と考えたいと思っています。
できることならば、私にとっての利己主義は、利他主義などと言う排他的な「他の存在」をもたない利己主義でありたいと思っています。
もちろんそれは達成できておらず、時に、異質な判断への怒りを禁じえないわけですが。

しかし宿主を殺して、自らの世界を失う細菌やウィルスのような過ちは犯したくありません。
佐川さんの世界が、もう少し広くなれば、佐川さんも財務省も政府も社会も、みんな幸せになるのではないかと思います。


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2018/03/24

■カフェサロン「まわりにちょっと気になることはありませんか」報告

社会が茶色一色で染まっていって、気がついたら自由のない生きづらい社会になっていたという寓話「茶色の朝」を読んでの感想を言い合うことからはじまった「茶色の朝」サロンがスタートしました。
それぞれが、生活のまわりにある「気になること」を出し合って、いまの社会のあり方や自らの生き方を、みんなでちょっと考えてみようという主旨のサロンです。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトから無料で入手できます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf

お花見に絶好な、お出かけ日和の土曜日にもかかわらず9人の人が集まりました。
サロン初参加の方もいました。

それぞれが「ちょっと気になっていること」を話すことから始めました。
「街中でのマナーやルール-の話」「本音で話し合う場が少なくなっているようだ」「弱いものへのバッシングが多い」「なんとなく将来への不安がある」「人のつながりがよわくなっている」「マニュアル化が進んでいる」「人に声をかけることが少ない」「みんな忙しくて余裕がない」「政治につながる話は話題にしたがらない人が多い」などいろいろと出ました。
「誰かが良いことを始めるとみんなそれに従うが、その人がいなくなるとみんなまたやめてしまう」という、具体的な話も出ました。
言い換えれば、みんな「はみ出したくない」のだというわけです。
「みんなどんなことが気になっているのかが気になって参加した」という人もいました。
何か気になるが、その実体が必ずしも見えてきていないのかもしれません。
どうもみんな「モヤモヤ」している。
実はそれがこのサロンを始めた理由の一つでもあります。
一方で、高円寺駅の駅長が毎朝、乗客に挨拶しているのがうれしいというような、「ちょっといい話」も出ました。

それからみんなで自由に話しだしましたが、話題はかなり学校教育の話になりました。
子どもたちはまさに社会の鏡ですが、子どもたちの学びの場への関心がみんな高いようでした。
学校での目標は何なのか、自分をしっかりと育てることなのか、社会の中で波風立てずに自分をなくしていくことなのかというような、学校教育の本質にまでつながる話もありました。
学校の先生たちが忙しすぎて、子どもたちの学びの場を豊かにする余裕がないのではないかという話もありました。
話していて、次の社会を創っていく子どもたちの学びの場が、あまり見えていないことに改めて気づかされたような気がします。
これは改めて、サロンを企画することにしました。

沖縄や福島の話も出ましたが、現地に触れている人からは、現地の実状とマスコミ報道との違いも話題になりました。
学校現場だけではなく、私たちはまだまだ知らないことがたくさんある。
もっといろんなことを知っていくことが、社会を豊かにしていく出発点かもしれません。

ちょっと気になるどころか、大いに気になることとしては、日本の政治のリーダーが言葉を壊しているという指摘もありましたが、いろんなところで信頼が揺らぎだしている。
信頼がない世界では、やはり不安がぬぐえない。
なんとなくみんなが「不安」に陥り、モヤモヤしてしまうことの背景には、そうした「信頼関係」が失われてきている状況があるのかもしれません。

それにもつながるかたちで、「マナーとルール」について少し話し合いました。
このテーマは、改めて時間をかけて話し合いたいと思いました。

政治には「統治権力のなかでの権力闘争」と「生活をよくするための政治」とがあるように思います。
前者が政治として捉えられがちですが、本来の政治の目的は後者のためであるはずです。
そして、後者の主役は国民一人ひとりです。
政治は国会議事堂や霞が関だけにあるわけではありません。
自分の生活に影響を与えるような社会のあり方に関心を持ち、ちょっと気になることがあれば、まわりの人と話し合ってみる。
「おかしいこと」があれば、「おかしい」という。
それも大切な「政治活動」です。
引き続き、肩に力を入れて政治を語るのではなく、まわりの気になることを題材に、少しずつ政治とのつながりや社会のあり方を話し合えるようなサロンをつづけたいと思います。

ちなみに、2つの政治に関して、前にブログで書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2018/01/post-7079.html

このサロンと並行して、日本の政治や国家のあり方をテーマにしたサロンも引き続き企画したいと思っています。
こんなテーマで話し合いたいというテーマがあればご連絡ください。
主権者である私たちの手に、政治を取り戻したいと思います。
批判するだけではなく、できることから始める行動への広がりを意識しながら。

お花見にもいかずに参加してくださったみなさんに感謝します。
このサロンの出発点になった主原さんの「モヤモヤ感」に感謝します。
少しずつ晴らしていければうれしいです。

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2018/03/21

■「隠れ病む身」を支えることの大切さ

日曜日に放映されたEテレ「こころの時代」を今日、改めて見ました。
小浜市明通寺の中嶌哲演住職の「隠れ病む人々と歩む」です。
明通寺には2度ほど行ったことがありますが、そこのご住職が長年托鉢をしながら『鈴音』という手作り通信で、社会に呼びかけていたことは知りませんでした。

「隠れ病む人々」とは、広島や長崎で被爆した後、自らを「隠れ病む身」と呼び、世間の目から逃れるように故郷に帰って戦後を生きて来た人々を指しますが、原発銀座とも言われる福井では、原発で事故に合い、同じように「隠れ病む身」の人がいることも知りました。
原発の事故(3・11の福島の事故ではありません)で亡くなった人の話はこれまでも聞いていましたが(公開はされていませんが)、「隠れ病む身」の人がいることを初めてテレビで知りました。
とても心に響くお話でした。
次に簡単な番組紹介があります。
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2018-03-11/31/4430/2008300/

中嶌さんの話を聞きながら、私は最近の財務省や文科省の事件を思い出しました。
「隠れ病む身」の人たちを生み出しているのは、原発だけではないのでしょう。
最近の官庁や企業には、「病」が蔓延しているのかもしれません。
政治の世界もそうかもしれません。
いや、社会そのものに「病」が蔓延している。
にもかかわらず、多くの人は「隠れ病んで」いる。
前川さんのように、しっかりしたご自分をお持ちの方は「隠れる必要」も無いのでしょうが、多くの人にはそんな強さはありません。
しかし、前川さんには及びもしませんが、私も自らをしっかり生きていこうと改めて思います。

「病」は、それがどんなものであれば、隠すことはありません。
病は隠すものではなく支え合うものではないかと思います。
そして、人をつないでいく力も持っています。
官僚の皆さんには、ぜひカミングアウトしてほしいです。
それが社会の「病」をただす出発点になるでしょうから。
「病」に負けてはいけません。

「隠れ病む身」の人たちに、石を投げるのは止めたいです。
支えることこそが、社会を健やかにすることではないかと思います。

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2018/03/14

■理性の公的な利用と私的な利用

以前、まだブログをやっていなかった頃ですが、私のホームページに「メッセージ」というコーナーがありました。
公文書改ざん犯罪事件の報道に触れて、その2回目で書いた記事を思い出しました。

○メッセージ2:嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう(2002/2/7)
http://cws.c.ooco.jp/messagefile/messagekiroku.htm#m2

私は、日本の政治が大きく変質したのは、森内閣成立時だったと思っていますが(当時はまだ私のホームページもなかったので、メールで発信しただけですが)、小泉内閣になって、完全に政治は変質してしまったと思っていました。
以来、私の懸念した方向にどんどんと進んでいます。

今回の事件は実に世相を反映した事件です。

それにしても、残念なのは、官僚の人たちがなぜ声をあげないのか、ということです。
イマヌエル・カントの「啓蒙とは何か」にこういう記述があります。
ちょっと長いですが、引用します。
一部、変更や削除などしています。

◇理性の公的な利用と私的な利用 人間の理性の公的な利用はつねに自由でなければならない。理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。 理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。 公的な利害がかかわる多くの業務では、公務員がひたすら受動的にふるまう仕組みが必要なことが多い。それは政府のうちに人為的に意見を一致させて、公共の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的の実現が妨げられないようにする必要があるからだ。この場合にはもちろん議論することは許されず、服従しなければならない。 しかしこうしたマシン(機構)に所属する人でも、みずからを全公共体の一員とみなす場合、あるいはむしろ世界の市民社会の一人の市民とみなす場合、すなわち学者としての資格において文章を発表し、そしてほんらいの意味で公衆に語りかける場合には、議論することが許される。そのことによって、この人が受動的にふるまうように配置されている業務の遂行が損なわれることはないのである。

財務省の官僚たちには、これ以上、自殺したり犯罪者になってほしくはありません。
間違ったルールの呪縛から、ぜひ解放されてほしいです。

ちなみに私は学生の頃からずっと、日本社会では「公」と「私」の捉え方が、逆ではないかと思っています。
改めてまた、アレントを読みたくなりました。

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2018/02/23

■リンカーンクラブ研究会がスタートしました

日本の現実をもっと民主主義に近づけていこうという活動に取り組んでいるリンカーンクラブでは、目指すべき国家像、国家体制を議論していく研究会を立ち上げることになり、今日はそのプレミーティングでした。
月に1回、平日の午後に開催する予定です。
いずれも一家言持っているメンバーが集まったため、なかなか議論に入れないので、昔ながらのKJ法的アプローチで、みんなの関心事を整理しました。

次回から具体的な議論に入っていきますが、最初のテーマは「平和」が選ばれました。
国家は戦争をしていいのかというところから議論することになりました。
たぶん9条問題や自衛隊の位置付け、さらには米軍基地の問題などが話題になるでしょう。
ちなみに、戦争放棄は日本だけだと思っている人が多いですが、そんなことはありません。
1928年の不戦条約で戦争はそもそも禁止されていますし、国連憲章2条4項には、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と明記されています。
軍隊のない国などたくさんあります。
「国連憲章2条4項を、国内法でも裏書きしているのが、9条1項だと考えるべきだ」という人もいます(篠田英朗さん「ほんとうの憲法」ちくま新書)。

それはそれとして、しかし相変わらず、「戦争ができる普通の国家になろう」などという言葉が広く受け入れられているいまの状況を考えれば、このテーマから入ることで、国家のあり方が見えてくるかもしれません。

研究会にご関心のある方はご連絡ください。

研究会の成果は、11月に予定しているリンカーンクラブ年次大会で何らかの形で発表できればと思っています。

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2018/02/14

■「釣りにでも出かけるとするか」

以前、「誰が第二次世界大戦を起こしたのか」(渡辺惣樹 草思社)のことを書いたことがあります。
これは渡辺さんが翻訳した、ハーバート・フーバーの「裏切られた自由」の紹介書なので、まあこれを読めばフーバーの原書は読まないでいいと思っていました。
なにしろものすごい厚い上下本なのです。
ところが先日会った友人から、面白いと勧められました。
それで図書館から借りてきて読んでみました。
思った以上に読みやすく、たしかに面白い。

本書は、第二次世界大戦前にルーズベルト大統領に反対して、戦争回避に向かっていたフーバー元大統領が、ライフワークとしてさまざまな資料を集め、整理した大事業の成果です。
結局、フーバーは出版せず、死後も遺族が出版を止めていました。
それが状況の変化の中で、2011年に出版されたのです。
編者は歴史家のジョージ・H・ナッシュ。
最近もトランプ大統領批判で活躍しています。
そのナッシュが本書の冒頭に「編者序文」を書いていますが、これだけでもなんとA5版ぎしっしりの130頁もあり、一冊の本になります。
タイトルは「ハーバート・フーバーのミステリアスな「大事業」」。
これだけでも読む価値があります。

そこに私がとても気にいった言葉が出てきました。
それが今回のタイトルの「釣りにでも出かけるとするか」。
フーバーは対抗馬の妨害にあい、共和党予備選大会に敗れて、大統領への復活はなくなったのですが、大会を終えたフーバーは、「釣りにでも出かけるとするか。政治のことは忘れたい」と、記者に語ったそうです。
時代を憂いて誠実に活動してきた結果の言葉として、とても共感できます。
しかし、フーバーは、釣りには行けませんでした。
ヒトラーが、西ヨーロッパへの侵攻を開始したからです。

フーバーは、日米開戦に関しても、スターリンの戦略に関しても、いまから考えると時代が見えていたと思います。
だからこそ、釣りには行けなかったのです。

もしフーバーが大統領に戻ってきたら、世界の歴史は全く変わってきていたように思います。
そして今、私たちは、そういう大きな転換点に立ってる。
フーバーのような全体を見ている人がいないのが残念です。
政治への無関心の代償の大きさを忘れてはいけません。

1月にキックオフした「茶色の朝」サロンのを3月からスタートさせたいと思います。
周りで起こっている気になる動きを、気楽に話し合うサロンです。
日程が決まったらまた案内します。

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