カテゴリー「政治時評」の記事

2020/03/06

■「脱原子力 明るい未来のエネルギー」(新評論)をお薦めします

湯島サロン仲間の折原利男さんの新著「脱原子力 明るい未来のエネルギー」(新評論)が出版されました。ドイツの脱原発倫理委員会メンバーのミランダ・シュラーズさんを日本にお迎えし、各地で行った講演会や市民との話し合いなどの記録をまとめたものです。折原さんが、随所に最新の情報や注釈をていねいに補記してくれています。
脱原発政策に転じたドイツが、実際にどう変わってきているかが具体的に伝わってきます。
自らの生き方にも実践的なヒントがもらえる本なので、多くの人に読んでいただきたく、紹介させてもらいます。

書名は、3.11の福島原発事故後話題になった、福島原発のある双葉町にあった大きな看板「原子力 明るい未来のエネルギー」という標語をもじったものです。
単に「脱原子力」ではなく、未来に向けてのビジョンが具体的に語られています。
副題が『ミランダ・シュラーズさんと考える「日本の進むべき道筋」』となっていますが、道筋だけではなく、その進め方に関しても具体的に語られています。
とりわけ、高校生との対話で呼びかけられているミランダさんのメッセージは実践的で、私たち大人も傾聴し実践すべき内容です。

環境NGOの満田夏花さんが推薦文で、「原発をどうするのか。それは単なるエネルギーの問題だけでなく、民主主義の問題であり、私たちの暮らしや生業、環境の問題であり、私たちや未来の世代に何を残すかという選択の問題であることを、この本は、決して押しつけがましくなく、平易だが確固とした言葉で指し示してくれている」と書いていますが、まさにその通り。ともかく、ぜひ読んでいただきたいと思います。

蛇足になりかねませんが、私が特に印象的だったことを3つだけ紹介します。

ドイツでは、いま、「エネルギー自給村」や「エネルギー協同組合」が広がっています。自然エネルギーに投資するということは、地域の生活の未来を考えることであり、脱原発というエネルギー転換は雇用の創出につながっているそうです。
それは、循環型・持続型の経済へと経済や産業の枠組みを変え、人々の働き方を変えることにもつながっているようです。

また、ある地域は風力、ある地域はソーラーというように、自然立地の差を生かした自然エネルギーの支え合いが展開されることで、表情ある地域整備が始まっているようです。これまでのような地域開発とは発想が全く違います。

政治の進め方に関しても、大きな変化があるようです。ミランダさんは、それを「ドイツのもうひとつの革命」と表現しています。
脱原発が決まった後、それを推進していくために、政府と国民をしっかりとつなぐ仕組みがつくられたそうです。そして、国民の信頼を得るには市民たちとの交流が必要であるという考えで、直接、国民に呼びかけて政治への参加を実現したそうです。
ミランダさんは、「脱原発は民主主義のあり方とも結びついている」と言っていますが、脱原発を通して、ドイツではデモクラシーが問い直されているようです。

経済パラダイム、地域開発パラダイム、そして政治パラダイム。
この3つのパラダイムシフトが読み取れますが、さらにミランダさんは「倫理」とか「プロテスト(抗議行動、反対運動)」という人間としての生き方にも言及されています。

学ぶことが盛りだくさんの内容ですが、それらがとても平易な生活言葉で書かれています。
そして、ミランダさんの「前向きに目の前の状況を一つひとつ改善し、明日に向かってより良く変革していく」姿勢から大きな元気がもらえます。

最後にちょっと長いですが、ミランダさんがフクシマの高校生たちとのトークセッションで高校生たちに話したメッセージを引用します。

「今世のなかを見ると、民主主義が危ないんですよ。あなたたちの時代は大変なことが始まっている。民主主義を助けてあげないといけない、自分たちの未来を強くするためにも」
「皆が自分の考えていることを言う[のが民主主義]」
「いろんな意見があるから、それをちゃんと発言しないと、民主主義が消えてしまう」
(高校生たちから、自分たちにできることはあるかと問われて)「自分の地域の政治家に手紙を出したことありますか? 自分だけでなくて高校のみんなが政治家に手紙を書いて送る。安倍首相に手紙を書いたことありますか。書いたらどうでしょうか。そしてその手紙を新聞社やジャーナリストに送ったらどうですか」

機会があれば、折原さんに湯島でサロンをやってもらおうと思いますが、まずはぜひ本書を読んでもらえればうれしいです。
もし本書を入手されたい方は、折原さんに直接ご連絡いただければ、税、送料込みで1800円で送ってくれるそうです。
私にご連絡いただければ折原さんの連絡先をお伝えします。

9784794811462

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2020/01/21

■報道が仕えるべきは、国民であって統治者ではない

昨夜、DVDで映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を観ました。
ワシントン・ポスト社主のキャサリン・グレアムの決断に感動して涙が出ました。
事実とは異なるのかもしれませんが、当時のアメリカの新聞人の生き方を象徴していることは間違いないでしょう。

ペンタゴン・ペーパーと言われる、アメリカ国防総省の「ベトナム戦争秘密報告書」が、ダニエル・エルズバーグによって暴露されたのは1971年です。
ニクソン大統領からの圧力にもかかわらず、ワシントン・ポスト紙が公開します。
そこから、国民の知る権利と国家秘密の保持をめぐる、アメリカ政府と新聞人たちとの法廷闘争が始まります。
しかし、その事件が引き起こしたもう一つの事件、ウォーターゲート事件もあって、エルズバーグもワシントン・ポストも敗訴することはありませんでした。
そして、国民のデモも広がり、アメリカはベトナム戦争から手を引くことになります。

当時私はまだ企業で働いていましたが、その衝撃はいまでも記憶に残っています。
私の生き方にも、ささやかな影響を与えたことは間違いありません。

エルズバーグは、むしろ保守的な国防総省職員で、ペンタゴン・ペーパー作成のスタッフの一員でした。
自分でも手記で書いていますが、高給取りでした。
にもかかわらず、自分が荷担していることの重大さに気づき、刑務所に入ることまで覚悟して、政府の欺瞞を暴いたのです。
キャサリン・グレアムは、会社の倒産まで覚悟して、公開に踏み切ったのです。

「知った者の責任」ということを、私は時々、ブログで書いていますが、エルズバーグもキャサリンもまさにその責任を果たしたのです。
私が感激したのは、そのことです。

事件の2年後に、エルズバーグの手記「ベトナム戦争報告」が翻訳出版されました。
そこには驚愕の事実が書かれていました。有名なトンキン湾事件です。
ベトナム戦争が本格化する一因となった事件は、アメリカが仕組んだものだったのです。

今回、映画を観て、改めて報道メディアの役割の大きさを考えさせられました。
ジャーナリストも大切ですが、メディアこそが大切なのかもしれません。
タイトルの「報道が仕えるべきは、国民であって統治者ではない」という言葉は、その裁判の判決での判事の言葉です。
日本のメディア関係者に聞かせたい言葉です。

ワシントン・ポストの現在のスローガンは「Democracy Dies in Darkness(暗闇の中では民主主義は死んでしまう)」だそうです。
しかし、大手メディアのオーナーの多くは、キャサリン・グレアムとは違って、メディアの存続を目的にしてしまっているようで、期待はできません。
いまや暗闇が、日本を覆い尽くそうとしています。

であればどうするか。
市民たちによる市民のメディアの動きもありますが、なかなか広がりません。
一度、このテーマで湯島のサロンをやってみようと思います。
関心のある方はご連絡ください。

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2020/01/08

■ゴーンさんへの評価が好転しました

保釈中だったカルロス・ゴーン元日産会長が、なんと国外逃亡を図りました。
それを知って、私のゴーンさんへの評価は反転しました。
評価が変わった人は多いでしょうが、ほとんどの人は悪くなったようです。
しかし、私はこれまで好きになれなかったゴーンさんが好きになれそうなのです。

日産をV字回復した名経営者として評価されていた頃のゴーンさんを私は全く評価できませんでした。
むしろ経営というものを全く知らない無能な経営者だと思っていました。
当時、私はまだ仕事をしていて、講演などもさせてもらう機会もありましたが、その頃にもそう公言していました。
なぜそう思ったのかと言えば、経営の視点が株主や組織拡大にあり、人間の視点がなかったからです。
私にとっては、それは「経営」ではありません。

しかし、当時、日産に関わっている人に尋ねても、私の意見に賛成する人はいませんでした。
辞めさせられた人たちへの思いはないのか、とさびしくなりました。
その頃から日本の経営者は大きく道を踏み外していったと思っています。
まあそうした動きが始まったのは、たぶん1980年前後からだったと思いますが。
ちなみに、私にとっての企業経営再建の名経営者は、スカンジナビア航空のャン・カールソンです。

ゴーンさんが保釈された時に変装して出てきた時に、ちょっと印象が変わりました。
もちろん「良い方向」にです。
そして今回の国外逃走ドラマ。
かなり好きになりました。
理由を書くと長くなりますが、そこに権力や制度に抗う「人間」を感ずるからです。

さらにゴーンさんへの期待もあります。
今日、ゴーンさんはレバノンで記者会見をするそうです。
どういう話が出るのかわかりませんが、そこでまた私の評価が反転する可能性はゼロではありません。
しかし、ゴーンさんが置かれていた状況は、私でさえもおかしいと思っていました。
新聞報道でしか知りませんが、人権無視もはなはだしい気がしていました。
日本の警察や検察、さらには行政のあり様は、どう考えてもおかしい。

そうしたことに、世界の目を向けてくれることに期待があります。
私たちにももっとそうした実態が見えてくるかもしれません。

もっともゴーンさんは、日産時代、いま自らが抗っている日本の警察や検察(末端のお巡りさんや現場の人たちは別)と同じ生き方をしてきていました。
彼には、自分以外の人間は見えていなかったように思います。
だからこそ、今日のゴーンさんの発言に大きな期待をしているわけです。
失望させられないといいのですが。

それにしても、今回の事件は、いろんなことを気づかせてくれました。
ゴーンさんに感謝したくなります。

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2019/12/20

■テレビドラマ「チェルノブイリ」の真実味

2人の友人から、テレビドラマ「チェルノブイリ」を勧められていました。
しかも一人からはこのドラマを見てのサロンまで提案されました。
しかし全編を観るには5時間かかるというので無理だろうと思っていました。
自分だけで見るのも、有料チャンネルでの放映なので、簡単には見られません。

 ところが、先日、小学校時代の女子会に巻き込まれた時に、なぜかこのドラマをDVDにして持参してくれた人がいました。
湯島のサロンに来たことがある人でもなく、卒業後、ずっと会ったこともなく、今年になって久しぶりにあった人です。
なぜDVDにしてまで持ってきてくれたのか、あまり気のりはしなかったのですが、もらった以上は観ないわけにはいきません。

それで、数日前から観始めました。
まだ3回までしか観ていませんが、ドラマとはいえ、真実味があります。

真実味というのは、過去に起こったチェルノブイリ原発事故の真実味という意味ではありません。
いまここでの真実味、つまり今ここで起こっても不思議ではないという意味での真実味、さらに言えば、私自身の人生に繋がっているという真実味です。

 ネットでの説明によれば、「チェルノブイリ原子力発電所で起こった、未曾有の原発事故の発生に冷戦下の旧ソビエト政府が事態の深刻さを隠ぺいしようとする中、被害の拡大を抑えようと必死に戦った英雄たちがいた。あの時現場で何が起きていたのか?!ソビエト政府に調査を委任された科学者、現場の対応を任されたシチェルビナ副議長、事故の謎解明に奔走した核物理学者の活躍を中心に当時を再現した実録ドラマ」と紹介されています。

「隠蔽する政府」と「被害を最小限に食い止めた科学者」という2つの物語によって構成されているドラマのようですが、少なくとも前者に関して言えば、過去の話ではなく、いま私が生きているここで進んでいる事実を重なってしまうのです。
https://www.star-ch.jp/drama/chernobyl/

もしかしたら、福島事故もまた同じように事態は進んでいるのではないかという思いに襲われてしまいます。
そして日本には、残念ながら、事実を解明し被害を食い止めようとしている科学者はいないのではないか、とも思ってしまうのです。

 このドラマを多くの人が見たら、流れは変わるでしょう。
5時間は長すぎて、サロンは難しいですが、工夫して、パブリックビューができないものか。
「できない」と思ってしまったら、何も始まりません。
反省しました。

来年は、新たなサロンの試みを考えているのですが、やりたいことが多すぎて、困っています。
やはり毎日オープンしているサロンがほしいです。
そのためには数千万円は必要でしょう。
それで思い立って今日、宝くじを買いました。
もし当たったら、毎日サロンを開けるオープンカフェを手に入れようと思います。
あるいはどなたかそういうカフェを寄付してくれないでしょうか。

 

 

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2019/11/12

■「守る」ことは大切ですが、そこからは何も生まれてきません

私が住んでいる我孫子市はいま市議選の最中です。
昨日、帰宅時に我孫子駅でNHKから国民を守る党が選挙運動をやっていました。
黄色いジャンパーを着た若者たちがチラシを配っていました。

私はアニメの「ミニオン」が大好きで、黄色い服を着た集団が好きだったのですが、昨日から黄色い服を着た集団が嫌いになりました。
駅から自宅への道々、なんだか悲しい気分になり、暗い夜を過ごしました。
どうしてこんなかわいそうな若者たちが増えているのでしょうか。
香港の若者のように、ビジョンを持って立ち向かえないのか。
若者たちがもはや主体性を持たなくなってしまった時代になってしまったのだろうか。

N国党が目指しているのは国民からNHKを守ることではないかと私は思っていますが、なにやら「自民党をぶっ潰す」といって自民党を守った小泉さんを思い出します。
小泉政権から日本は奈落の底へと向かいだしていると思っている私は、こういう動きがますます広がることの先を思うと暗たんたる思いになります。

 これから「朝日新聞から国民を守る党」や「共産党から国民を守る党」など、「〇〇から国民を守る党」といった群れが増えてくのでしょうか。
そのうち、「先生から子どもたちを守る党」とか「親から子どもを守る党」も出てくるかもしれません。

「守る」ことは大切ですが、そこからは何も生まれてきません。
そして「守る」姿勢で生きている先にあるのは、守れなかった世界しかないでしょう。
まさに「茶色の朝」がやってくる。
そう思うと黄色も茶色も似ています。

「NHKから国民を守る党から国民を守る党」をつくらないといけないのかもしれませんが、それではミイラ取りがミイラになってしまい、もはや流れは変えられなくなる。
知性がどんどん失われていく世界に生きていると、やはり人類は退化局面に入ったとしか思えません。
今西錦司さんやミシェル・フーコーのことばを思い出さずにはいられません。

12月の「茶色の朝」シリーズのサロン(BMSサロン)は22日(日曜日)を予定しています。
また案内させていただきます。
社会を黄色、いや茶色一色にしないように、忙しい人にはぜひ参加してほしいです。

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2019/11/06

■我孫子市の市議会議員選挙における私の投票方針

来週から私が住んでいる我孫子市の市議会議員選挙が始まります。
そのおかげで、毎日のように自宅のポストに立候補予定者のチラシが入ります。
今日も外出から帰宅したら、ちょうどポスティングしていた立候補予定者に会いました。
私の知らない現職の人でした。
選挙の直前になってやってきても、まったく意味もないし、チラシなど無駄の極めです。
直接会いに来る人も少なくありません。

知り合いも何人かいますので、誰かに荷担するのも難しいので、市議選は態度をあいまいにしています。
事務所開きにもお誘いを受けても行きません。

しかし明確な方針は2つあります。
まずは国政の政党の支援を受けている人は絶対に私は投票しません。
これまでもせっかく応援していたのに、結局は国政政党に入ったために支援をやめたこともあります。

日本の基礎自治体の議員制度は、私にはまったくおかしく思えます。
一昨日、「行動する田舎」というフランスで行われたシンポジウムに参加した金子友子さんからフランスの基礎自治体の議員や市町の話を聞きましたが、報酬にしても議会のあり方にしても日本は実に異様です。
まして、そこに国政政党にぶら下がった人(というよりも手先でしかありません)が立候補するなどは私には論外です。
もう少し基礎自治体とは何かを勉強しろと言いたいです。
しかし、国家政党につながれば選挙は非常に有利になるのです。

今回の我孫子の市議選には、N国党からの立候補もあります。
とんでもない話だと思いますが、隣の柏市では当選してしまいました。
市民の意識もおかしくなっているともいえますが、しかしそれも市会議員があまりに何もしていないからでしょう。
市議会や市会議員がどんな状況になっているのかの証左でもあります。

もう一つの私の投票方針は、選挙の時だけ挨拶にやってくる人は除外するということです。
そういう人は当選した後、音信不通になりがちです。
選挙とは関係ない期間には、メールを送っても、何の返信もない人も少なくありません。

その2つの基準からすると、今回の投票対象者は2人しかいません。
そうなると、1票ではなく2票欲しい気がします。
さて悩ましい問題です。

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2019/10/30

■雨男発言と身の丈発言

またまた国家議員の発言が問題になっています。

議員の失言に国民の関心を向けることで、肝心のことから目を反らさすのは、与野党を問わず国会議員の好きなことですが、野党党首の発言を聞いていて、ほんとうに彼らの政治感覚を疑いたくなります。
そもそも国会は本来、「知恵を出し合う」場であって「言い争い」の場ではありません。
そんなことに大事な時間を使ってほしくはありません。

またそれに乗じて、問題を「表層的な」次元で終止させてしまうマスコミにもいつもながら失望します。
問題は、「言葉」ではなく、それが表象している政治の原状です。

雨男発言は、確かに被災された人には不快感を与えたかもしれませんが、私がもし被災者だったら、そんなことよりも実際の支援活動の遅れや責任逃れに終始する森田知事の発言のほうこそ不快に思うでしょう。

身の丈発言は、30年前から講演などで、「分をわきまえる」生き方から抜けでましょうと話していた私としては、賛成はできませんが、それ以上に私が話していたころもほとんどの人は私の発言には共感してくれていませんでしたから、「言葉」はともかく、多くの大人たちはみんなそう思っているのだろうと感じていますので、与党の政治家が相発言しても、まったく違和感はありません。

それに今でも、「身の丈に合った生き方」を勧める人は人生の「先達」は少なくありません。
それにそもそも、そういう考えの政治家を選んで評価していながら、そんな発言を大問題にする人の無責任さにこそ怒りを感じます。

また誤解されそうな表現不足の文章ですが、問題は「言葉」ではなく、たとえば今回は発言の契機になった大学入試制度の設計思想です。
さらにはその根底にある「政策思想」であり、政策立案を担っている人たちの人生観です。
そこに焦点を向けなければ、何も解決しません。

いや、萩生田発言は、その制度設計の思想を言語化し可視化してくれたと捉えるべきであり、「失言」ではなく「名言」と捉えるべきではないかとも思えます。
野党も国民も、むしろ萩生田さんに感謝して、制度をよくする方向に変えていく契機にすべきなのです。

ついでに言えば、「雨男発言」も、雨男を大臣にしてはいけないという教訓にして、雨男は大臣にしないような教訓にすべきです。
これはちょっと蛇足でしたが、でもいろんなことを示唆しているようにも思います。

身の丈発言は、まさに現在の政治の思想を象徴しています。
つまり格差を是認し、社会階層を固定化する教育をしていこうということですから、萩生田文部科学大臣は素直にそれを発言し、世論を誘導しているわけで、決して「失言」などではないのです。

こういうことはこれまでも何回か繰り返され、失言問題として謝罪と時に辞任さえありましたが、世論を誘導し国民を教育するうえでは効果を発揮していると私には思えます。
一方でタテマエのスローガンを掲げ(一億総活躍、女性の活躍…)、一方ではこうした形でその意図を無意識のうちに繰り返し働きかけて世論を誘導するのは、いまの政治の常道です。

言葉論争に巻き込まれるような愚は避けるべきであり、むしろ失言問題ではなく、肝心の入試問題や文科行政方針を問題にする政策論争にしてほしいです。
そこまでいかなければ、結局は安倍政権の意図に利用されるだけでしょう。
立憲民主党もまた結局は自民党の応援政党になってきていると思えてなりません。
安倍政権を倒したいなら、基本的な姿勢を変えなければいけません。

道化役の政治家の「失言」の向こうにあるものに、目を向けて、それを可視化し、国民に呼びかけてほしい。
高校生たちがせっかく立ち上がっているのですから、高校生たちと共に共闘してほしい。
大切なのは、萩生田さんを問い詰めることではなく(以前の大きな問題でさえ問い詰められなかったのですから)、政策や利権がらみの教育制度を変えることです。
そのためには、国民の力が不可欠です。
そこに呼びかけることをしなければ新しい政治は始まりません。
いまの野党にはその気はないのでしょうか。

人の失言をあげつらう国会にはもうあきあきです。

 

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2019/10/15

■「こんな国にしたい」スケッチ

一昨日開催したリンカーンクラブ研究会で、参加者各自が自分の思う「こんな国にしたい」を出し合いました。
そこで私が発表した内容を紹介します。

スローガンは「安民豊国」。
そこに住む人の表情が明るく輝いていて、国土が豊かなこと、そして世界に向けて、開かれていること、という意味です。
日本の明治政府は「富国強兵」を国是にしましたが、それをもじっての、そしてそれへのアンチテーゼとしての「安民豊国」です。

「豊」は、経済的豊かさではありません。
多様性を活かし合う寛容さと他者や他国を支える余裕を意味しています。

その理念を支える、あるいは現実化する具体策の一部を例示します。

ベーシックインカムによって誰でもが生活を保障されている。
国民の所得格差は一定限度(たとえば5倍以内)を設け、それを超える部分は税としてみんなで活用する。
義務教育制度は廃止する。
原発は可及的速やかに廃止し、地域単位でのエネルギー自給体制を基本とする。
消費税は廃止し、所得を基本にした応分税制にする。
国会議員は1期(4年)が限度で、毎年定期的に1/4を入れ替える。
国民は20代に1年間の行政職就任を経験する。
政党制度は廃止する。
統治権者としての総理大臣は直接投票で選ぶ。

ルーティン的な政治課題はできるだけAI化を進め、人間の価値観が大きく影響する課題は国民投票によって決める。
基礎自治体の議会は廃止市、誰もが参加できる公開タウンミーティングを基軸に置く。
基礎自治体は3万ユニット以上に区分する。

行政文書は原則公開。
土地所有権の制限(総有制の導入)。
労働の義務の廃止。

米国基地は認めない。
自衛隊は生活安全のための活動(たとえば災害救助)に従事し、万一の時(実際に誰かに攻撃された場合を指す)は国防軍の核になる。
ある基準以上の飲酒運転者は免許永久剥奪。
賭博類一切禁止。
NHKは税金で賄うが、放送内容も含めて国民参加をとりれた経営を行う。

公職のマイナス給与化。
NPOへの公的補助の廃止。

それぞれきちんと説明しないと誤解されそうなこともあると思いますが、私の考える「安民豊国」をイメージしてもらうためにランダムにあげてみました。

 

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2019/09/24

■日本に共和党が誕生したのをご存知ですか

元民主党議員だった首藤信彦さんと鳩山友紀夫さんが書いた「次の日本へ 共和主義宣言」(詩想社新書)を首藤さんからもらいました。
新たな政治システムを実現するための実践宣言の書です。
こうした動きが出てきたことに大きな期待を感じます。
しかも、その理念が「共和主義」というのはうれしい話です。

私は、以前から書いているように、共和主義者です。
そのきっかけは大学4年の時に見た映画「アラモ」です。
テキサス独立運動の中で行われたアラモの砦の攻防戦を描いた映画です。
そこで、ジョン・ウェイン演ずるデビー・クロケットが、「リパブリックと聞いただけで心が躍る」というセリフに感動したのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/05/post_b721.html

以来、そういう生き方を大事にしています。
トクヴィルの「アメリカの民主主義」にも、リパブッリクの精神を感じます。
残念ながら、いまは大きく変質していますが。

2016年に民主党が解体した時の新しい名前に、「民主共和党」を提案したことがありますが、残念ながら「共和」は誰も使いませんでした。

http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2016/03/post-f9c1.html

そんなこともあったので、大きな期待を持って、早速読ませてもらいました。
首藤さんは、前書きでこう書いています。

民主党政権の蹉跌と崩壊を身をもって経験し、その後に襲来した時代錯誤のような保守復古路線と、無策な経済運営を続ける自民党安倍政権そして、それをただ傍観しながらひたすら自己の保身に終始する野党勢力のつくり出す、劣化した政治カオスのなかで7年間考え続けた成果である。

そして本編は、次の文章から始まります。

令和元年9月吉日 我々は停滞、腐敗、無力の既存政党、旧態政治を離れて、新しい政治活動集団を組織する。其の名称は「共和党」とする。

つづいて、共和党の国家目標やそれを実現するための新たな政治システムが紹介されています。
共和党は、国家の目標として、国民の幸福の実現を掲げます。
そしてその実現のために、正義・美徳・卓越・友愛の4つの公準を提案しています。
国家目標や国家体制につづいて、具体的な政策が体系的に紹介されています。
さまざまな問題や議論への目配りがされていて、しかも実践的でわかりやすく、共和党の目指すことがよくわかります。
いまの政治状況の問題を踏まえて考えられているので、新しい政治を考えるテキストとしてもお薦めできます。
気軽に読める本(新書)ですので、ぜひ多くの人に読んでほしいと思います。

と、こう書いたうえで、勝手な私見を書きます。
期待が大きかった反動かもしれませんが、私にはいささかの物足りなさが残りました。

私が共感したのは、次の文章です。

日本を窮状に追い込んでいるのは「富国」にある。
その富国を可能にするものこそが、「成長」である。

これまでの日本は、明治維新以来の「富国強兵」を国是にしてきましたが、それこそが問題だと指摘しているわけです。
とても共感できますし、ここから政治の議論を始める姿勢にも共感します。
明治維新時にも、「富国強兵」に対峙して「富国安民」が議論されていましたが、この共和党は「富国有徳」を標榜しているようです。
それを読んで、ちょっと腰が引けてしまいました。

政治のパラダイム転回の時期に来ていると考えている私には、やはり従来型の「近代国家」スキームでの議論にいささかの物足りなさを感じてしまったのです。

せっかく、「富国」や「成長」が問題だと指摘しながら、「富国有徳」と「富国」を第一に語っています。
せめて「安民富国」と発想を変えてほしかった気がします。
成長に関しては定常経済を「健全」としていますが、そこでもやはり基準は金銭経済のようであり、新しい「成長」概念への発想の転回はあまり語られていません。

私は、そろそろ「国家」から発想する政治や経済ではなく、生活者個人を起点として発想する政治や経済へと視点とベクトルを180度転回すべきだと思っていますが、本書で言う共和政治はどうもそこまでは想定していないようです。

さらに、「政治の目標を人間第一主義(ピープル・ファースト原理)に定める」とあるように、時代錯誤的なものも混在していて、現在の政治との違いがあまり見えてきません。
正義・美徳・卓越・友愛の4つの公準も、「友愛」をのぞけば、いずれも私には危険な「プラスチックワード」です。

こう書くと私は本書の提案に反対しているように感ずるかもしれませんが、そうではありません。
現実の政治状況を変えるには、改善型の活動もあってしかるべきですし、革命的な活動があってもいいと思っています。
これまで湯島で、新しい政治や経済をテーマにしたサロンもやっていますが、パラダイム転回のような話はほとんど伝わらないことも体験しています。

本書にはさまざまな論点や具体的な提案が含まれています。
現在の政治状況を概観し、問題意識を高めるには、いい材料が山積みです。
こういう、新たな提案の書がどんどん出版され、そうした本に基づいて議論が広がることで、政治は変わっていくはずです。

ネットには、「共和党の広場」ができていて、広く参加者をもとめています。
http://kyowa-to.jp
本書を読んで、もし共感したら、参加してみてください。

首藤さんには叱られるような紹介になってしまったかもしれませんが、まあ私の性分としては仕方がありません。
これを読んで、毎年1回だけやっている私のサロンは、今年はまた政治を取り上げようと思いました。

 

 

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2019/09/13

■社会保障への懸念

こんな記事が目につきました。

安倍首相は第4次内閣発足の記者会見で、社会保障改革について「社会保障全般にわたる改革を進める。令和の時代の社会保障の制度を大胆に構想していく」と述べ、全世代型社会保障検討会議検討会議の初会合を来週にも開催する考えを示した。

社会保障制度の構想変革を安倍政権の手に任せることに、大きな不安を感じます。

それはともかく、最近、社会保障政策にもいささかの懸念を感じています。
湯島では、「贈与」をテーマにしたサロンを継続的にやっていますが、「贈与」の概念が大きく変わりだしているのが気になっているのです。

フランスの人類学者のモーリス・ゴドリエが20年以上前に書いた「贈与の謎」と言う本があります。
難解で、私にはあまり消化できないのですが、その本を最近また読み直しました。
その本にこんな文章が出てきます。

日本では、贈与交換の慣行が千年紀にもわたって伝統的に社会のあらゆる階層で尊重され、各人の人生で重要な役割を演じてきた。人生の大事件(誕生、結婚、家の新築、死亡等)や新年、中元、歳暮には、贈り物が欠かせなかった。

つまり、贈与は「人のつながり」と一体なのです。
私がイメージする贈与の基本はこういうことなのですが、最近はこの慣行もなくなりつつあります。
代わって盛んになっているのが、社会保障です。

社会保障は、国家による国民への贈与です。
それは国民によって形成されている国家の重要な役割です。
しかし、注意しなければいけないのは、それは個人の事情とは無縁に脱人格的に行われがちなことです。

モースの「贈与論」以来、贈与は返礼を義務化するとされています。
ゴドリエは、「受贈者は、贈与者の債務者となり、ある程度まで、少なくとも与えられた物に《お返し》をしない間は従属していることになる」と書いています。
つまり、贈与は「負債」を創出するのです。

いいかえれば、社会保障は国民を負債者にしていくというわけです。
とても考えさせられる話です。
負債者は、なかなか主体的・自立的に言動できなくなりがちです。

NPO活動をしている友人からこんな主旨のメールをもらったことがあります。

昨今の社会では、統治者から評価されることを自らの地位の向上や実利と考えて、統治側に寄ることをいとわないことが多い。NPOでも同じことが起こります。行政の末端(委託事業、委員会メンバー等)になったほうが有名になり経済的に安定します。

その方は、そうした誘惑に抗いながら、真摯に活動されていますが、個人としてはともかく、組織としては難しい問題でしょう。

「贈与の謎」にはこんな文章もあります。

社会を再構成し、溝を埋め、亀裂を修復するのが国家の役目のはずだが、国家はその仕事を十分に果していない。まさにこの矛盾と無能の結節点から、今日新たにあちこちで、だんだんと贈与に訴える状況が生じてきている。
この状況から、広く贈与と分配の的となる《住所不定の》個人が増えている。贈与の需要が供給を呼びおこし、ついで組織化されはじめる。思いやり食堂からスーパーマーケットの募金まで、寛大で連帯愛に満ちた潜在的贈与者に、直接現金ではないまでも、そのお金で買ったものや自分の消費に予定していたものの分配を要請する無数の《慈善》組織が現われてきた。

そういう状況は、いまの日本でも広がっています。
そして、それは政府による「社会保障制度」とも深くつながっています。

社会保障といわれると、その内容も吟味せずに、多くの人は歓迎します。
しかし、それによって失うものも忘れてはいけません。

ちなみに、私が大切にしている「布施」は、「純粋の贈与」とも言われています。
私の理解では、贈与と布施は主体が違います。
「贈与」は贈与者が主役ですが、「布施」は受贈者が主役です。
行為の意味は真逆なのではないかと思いますが、なかなか見えてこないことが多いのです。



 

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