カテゴリー「政治時評」の記事

2019/04/08

■今回の地方統一戦に思うこと

地方統一戦は現状承認の方向に終わったような気がします。
やはり多くの日本人は、安倍政権を支持しているようです。
この75年間は一体なんだったのか、と思わざるを得ないような選挙結果でした。

投票率も低く、ますます地方政治は、中央政府に組み込まれていくような気がします政治の対立軸を、権力 vs生活者と捉える私にとっては、21世紀に入ってから生じた政治の逆行はますます進みそうです。
テレビ報道などでの印象ですので、まちがっているかもしれませんが。

北海道の石川さんが敗れたのが、私には一番の衝撃でした。
あれだけ野党が共闘したにもかかわらず、です。
北海道知事選には、日本の状況が象徴されているようです。
沖縄と北海道から新しい風は起こると期待していましたが、実現しませんでした。

大阪での維新の勝利はいささか複雑ですが、松井さんが「万歳しなかった」(らしい)のはほっとします。
選挙で当選した人たちが万歳する風景をテレビはいつもしつこく流しますが、あれほど私の癇に障る映像はありません。
お上に仕える政治家やその取り巻き(あるいは寄生者)の本心が見えてくるようで、私にはやりきれない風景です。
神奈川県の黒岩さんが喜びを「笑い」で表現していましたが、それにもやはり不快感を持ちました。

いささかストイックすぎるかもしれませんが、政治への真剣なまなざしがどうも感じられない政治家がやるべきことは、投票率を高めることでなければいけません。
生活者が心がけるべきことは政治批判ではなく投票に行くことでなければいけません。

 そんなことを考えさせられる選挙結果でした。

 

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2019/03/17

■原発の対価

昨日、NHKテレビで、毎年放映している、「廃炉への道2019」を見ました。
昨年より廃炉作業が進んでいるのかどうか、私にはにわかに評価しがたいですが、ここでも何か「真相」が隠されているような気がしてなりません。
辺野古もそうですが、当初の予定は常に先送りされ、しかも予算はどんどんと積み増されていきます。
今年の番組でも、40年とされていた廃炉作業期間は、さらに伸びるかもしれないと操作的とさえ思えるような形で繰り返し語られていました。

廃炉作業に降り組んでいる人たちへの感謝の気持ちと敬意は、こうした番組を見るたびに高まりますが、それに反して、現場から遠いところにいて廃炉を進めながらも原発稼働を進めている人たちには憤りを感じます。
それに、作業現場で、果たして被爆者や健康障害などが起きていないのか、いつも気になります。
いいところだけ放映されているようで、見た後、いつもすっきりしないのです。
廃炉作業の厳しい実態やそこから見えてきたことをもっと公開していってほしいですし、そこから原発政策そのものに影響を与えていってほしいと思います。

廃炉や原発事故にまつわる補償や環境回復などの資金はすべて税金で賄われています。
東電という会社が負担しているという人もいるでしょうが、そもそも東電の資金は基本的には国民の電気代と税金投入が基本です。
それに、電気代というと、一般商品やサービスと違い、生活を支える必需性が強く、しかも消費者としての選択の余地はほとんどありません。
もちろん最近の電力自由化で、形の上ではいろんなメニューがあるように見えますが、基本は電力会社(あるいは政府)の管理下に置かれており、電気代も供給側で設定されます。
原発事故の補償費にしても、実質的には(当然ですが)国民が税金と電気代で負担しています。
しかも、その国民負担を東電の判断で、十分な補償に回さないという現実もあるようにも思います。
それも含めて、原発にまつわるお金の状況は、私には見えにくくなっています。
その気になれば、明確なお金の流れは見えるようにできるはずですが。

いろんな問題がありますが、一番の問題は、果たして原発を継続していくためにはどのくらいのお金が必要なのかが、明確になっていないことです。
廃炉費用もすべて本来的には電気代に乗せるべきですが、その費用も全く見えていない。
本来的にコスト計算するときには、そうした費用もきちんと考慮すべきはずですが、電気代に関しては、いわゆる外部コストは違うところに賦課される仕組みになっています。
そうしたことがはっきりと理解されれば、原発による電力コストが安いなどという人はいなくなるでしょう。

原発被害者の補償ですが、東電などを通さずに、国民一人あたりから原発税として徴収したらどうかと思います。
そうすれば、国民も原発に依存しようなどとは思わなくなるでしょうし、被災者の苦労も共有できるはずです。
どこに使われるかわからない税金は払いたくなくとも、原発被害にあっている人たちの生活支援に使われるのであれば、払いたいと思う人も少なくないでしょう。

原発に関連したテレビ番組を見ると、いつも元気が吸い取られます。
廃炉作業で死者が出ないことを祈ります。

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2019/03/02

■国民意思と統治者意思

統治権シリーズは、2回でストップしてしまいましたが、また書き出します。
2回目で書いた「国民投票」について考える前に、考える枠組みを少し整理しておきます。

国民の意思(これもまた曖昧な言葉です)と統治者の意思との関係は図のようになります。


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日本は、代表民主制を採用していますので、国民の意思は代表である国会議員に託されています。
その信託に基づいて、三権分立体制の仕組みにのっとって、統治が行われます。
問題は、統治は機械的に行われるわけではなく(そういう仕組みもありますが、今の日本はその体制をとっていません)、人が行っています。
その人が「統治者」ということになり、日常的な問題では政府の代表である総理大臣がその役割を担います。
そして、もし統治者である総理大臣が主権者の意思を法文化した憲法に反することをした場合は、三権分立の一翼である「司法」がそれを正すことになります。
しかし、そうした「日常政治」に属さない問題は、三権分立の統治体制には属さずに、違ったところで「誰か」が統治しています。
ここを問題にするのが、このシリーズのひとつの論点です。

国民意思と統治者意思がずれたとき、どうしてそのほころびをつくろうか。
代表民主制、あるいは間接民主主義の限界をどう超えていくか。
それもう一つの論点です。


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2019/02/26

■主権者の思いと統治者の思い

統治権とは、国土と国民を治める権利のことで、国家の最高権力です。
大辞林には「主権者が国土・人民を支配し、治めること」と書かれていますが、日本憲法のもとでは、国民が主権者とされていますので、「国民が人民を支配する」ということになります。
近代国民国家は、基本的に国民主権を標榜していますので、いささかややこしくなってしまいます。
「国民」と「人民」とは、全く違った概念だと私は思いますが、ここではあまり厳密に考えずに、日本国憲法が両者を同一視しているように、同じだと考えれば、大辞林の定義は「国民が国民を支配する」ということになり、頭はこんがらがってしまいます。
そうしたところに、実は大きな落とし穴があり、統治者という支配者を見えなくしてしまっているのです。

法治国家という言葉もややこしいです。
「法治」とはいうまでもなく、「法が治める」ではなく、「法で治める」ですが、恣意的な人の要素が排除されると思いがちです。
たしかに恣意的な要素を減らすことは間違いありませんが、法というのは解釈が行われて実際に執行されない限り意味はありませんので、人の要素が排除されるわけではありません。
つまり、法が統治するのではなく、法を基準にして「統治者」が統治するのです。
このあたりも、私たちが騙されやすいところです。
大切なのは、法文ではなく、法を活かす精神です。

たくさんの人々で構成される国家を統治するのは、2つの方法しかありません。
最終的な統治権を非論理的な人に託すか、論理的な機械に託すか。
しかし、論理的な機械に託する政治にしたとしても、人の要素を完全に排除することはできません。
政治は、最後まで「人の要素」からは解放されません。
極端の言い方をすれば、統治には必ず最終決定者が存在します。
もしそれをなくそうとすれば、責任回避の疑似統治体制が育ってしまいます。
そもそも「制度」や「組織」は、責任回避の仕組みなのです。
もちろん、それによって、私たちの暮らしは豊かになってきました。
それが悪いわけではありません。
しかし、そうしたことの向こうにいる、「統治者」の存在を忘れてはいけません。
「お客様」だとか「主権者」だとかいう、実体のない言葉に満足していてはいけません。
突然「お客様」という言葉を出しましたが、これはビジネスの世界と似ているからです。
「顧客の創造」などという経営学が広がっていることと、今の日本の政治状況は、つながっています。

余計な事ばかり書いてしまいましたが、主権者である国民の思いとは別に、統治者が存在するのであれば、どうしたら、国民の思いを統治権者(統治者)の統治に合わせられるのか、が問題です。
その一つの方法は「国民投票」です。
もちろんこれは「両刃の剣」ですが、統治者と国民(主権)をつなぐ一つのルートであることは間違いありません。
この問題を少し考えてみたいと思います。

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2019/02/25

■国民主権に従わない「統治権」

沖縄県民投票によって、沖縄県民の「辺野古埋め立て反対」の思いは明確になりました。
しかも沖縄の場合、沖縄県という地方自治体も同じ意見です。
にもかかわらず、実際の政治は、それとは別の方向に向かっています。
県民の多数派の意向も、地方自治体の意向も知りながら、政府による辺野古の埋め立ては止まることはありません。
住民の意思とは別の政治が展開されているわけで、民主主義国家においては、きわめておかしな事態です。

しかし、全くおかしいわけではありません。
住民が暮らす地域をどういう範囲で考えるかによって、住民意思と政治の動きは食い違うことはよくあります。
たとえばごみ焼却場などの迷惑施設の設置に関しては、近隣住民からの反対にもかかわらず、推進されることが、長期的かつ社会的な視点から承認されることはあります。
それに、地方自治体は国家の一部であり、その地域の自治を限定的に認められているだけです。
「国民主権」という言葉はあっても、「住民主権」という言葉はありません。

しかし、今回の沖縄の県民投票は、主権者と統治者の構図を分かりやすく可視化してくれています。
沖縄県民や沖縄県がどんなに希望しても、「政治性の高い問題」は、県や県民の上にある日本政府が決定し、施行することになっているのです。
自治権が制約されるのは仕方がないことです。
辺野古の問題は沖縄の地域問題であるわけではありませんが、現在の制度上ではそうなっているだけです。
いやむしろ地域を超えた問題であればこそ、政府の意向が優先されてしまっているわけです。

もう60年以上前のことですが、日米安保保障条約の合憲性が裁判になったことがあります。
その裁判では、最高裁は「高度に政治性のある国家行為」に関しては司法の対象から外すとして、違憲性の評価をしませんでした。
後になって判明したのですが、当時、日米両国政府から最高裁に圧力がかかっていたのです。

日米安保保障条約は、日本の国民の生活にとっては極めて重要な問題です。
そもそも「高度に政治性のある問題」こそ、国民にとっては死活につながる問題なのです。
そうした問題を司法から外す、つまり統治権を持つ政府にゆだねるということは、主権者たる国民から統治者である政府が「主権」を取り上げるということになります。
主権者たる国民が、政府に自らを「統治」することを信託したのは、三権分立の統治体制の中で、統治者である政権の独走を抑制するためなのですが、司法が外されてしまうことは、統治を信託する前提を否定することになります。

つまり国民主権に従わない「統治権」があるということです。
しかしその実体は、法治国家や権力分立型の統治体制に組み込まれた民主的な政府という幻想によって、覆い隠されてきました。
主権者の選挙で信託された政権が統治権を施行しているという幻想もありました。
しかし、日本の政権を超える「統治権」の存在が少しずつ見えてきています。
そして、政治と国民の思いが大きくずれてきている現実があります。

県民や県知事がどう思おうと、それとは別の論理で沖縄は統治されています。
高度に政治性のない問題に関しては、自治が与えられていますが、肝心の問題は沖縄の外で決められてしまう。
高度に政治性のある問題は既存の統治体制の枠外で決められているのは、日本全体においても同じなのです。

つまり、統治権者たる政府とは別の統治者が存在するということです。
それが米国の産軍複合体なのか、金融資本なのか、有徳の政治家なのか、は別にして、高度な政治性のある問題にこそ、統治の主軸があるのです。
「誰が日本を統治しているのか」
主権者たる国民は統治者にはなりえません。
国民主権とは、統治者を監視し制約できるという意味です。
統治者の存在を、私たちは意識し、その可視化を進める必要があると思っています。

沖縄の県民投票は、そのことをとても分かりやすく可視化してくれています。
もちろん内容は国政とは違いますが、かたちは相似形になっています。

ちょっと長くなったので、続きはまた明日に。
少しこのシリーズを続けてみます。

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2019/02/24

■湯島サロン「国民主権と統治行為論」の報告

沖縄で辺野古新設に関する県民投票が実施される前日に、「国民主権と統治行為論」のサロンを開催しまました。
奥にあるテーマは、「国民投票制度」です。
10人を超える方が集まったばかりでなく、初めて参加してくださった方も何人かいました。

最初に私から、統治行為や砂川事件の資料などを紹介させてもらった後、リンカーンクラブ代表の武田さんが、テーマに沿った話をしてくれました。
現在の日本の政治が主権者たる国民から大きく乖離していること、しかも砂川判決以来、「国家統治の基本に関する高度な政治性を有する国家の行為」に関しては司法の対象にしなくなったこと、国会で議論している政治の外にそうした「統治」分野があるとされていること、それに、そもそも議会制民主主義は国民の意思を反映させられる民主主義なのか、といった話をチャートに合わせて、説明してくれました。
そして、そこから、「高度な政治性を有する国家の行為」というのがあるのであれば、それこそそうした問題を国民投票の対象にして、高度な政治性のある統治行為を国民主権で決定することが考えられると提唱したのです。
これまで、三権分立の世界から「特別扱い」されていた「高度な政治性を有する国家の行為」を、逆に国民に取り戻すという提案です。

ここから「国民主権」と「統治権」の「ずれ」を解消するための話し合いが行われる予定だったのですが、論点を整理しようとしだした途端に、話が混乱しだしてしまい、残念ながら、内容の話ではなく、言葉遣いや「統治権」そのものへの異論などの議論になってしまい、なかなか内容的な議論にはたどり着けませんでした。
それでも最後のほうでは、「高度な政治性を持つ国家行為」に関する国民発議権や、主権を現実化するためには立法と同時にその法を実行するということの2つを伴わなければ完成しないという話にまではたどり着けたと思います。

途中で、参加者から「沖縄の県民投票の話」が出ましたが、残念ながら、国民主権と統治権という話にまで深める時間がありませんでした。
今回の県民投票には、「統治権」がわかりやすく可視化されているので、まさに統治の実態を考える事例でしたが、それだけではなく、「自治権」と「主権」との対比で考えるとさまざまな論点が出てきたと思います。
今回は参加者の一人の方が問題提起してくれましたが、逆に話が混乱するという人もあり、議論は深められませんでした。
そうならないために、事前にチャートまで書いて説明したのですが、私の説明不足と進行のまずさで、内容の議論をする時間がなくなってしまい、申し訳ないことをしました。
今回は、私も意見を言いたかったのですが、進行役として、言葉や論点の整理で終わってしまい、かなりの欲求不満が残りました。

しかし、武田さんの問題提起には、いろんな示唆が含意されています。
私が大学で学んだころから、砂川判決に端を発する「日本版統治行為論」は議論されていましたが、むしろ、そのことで「統治権」あるいは「主権」があいまいにされていたように思います。
私が日本の憲法学者を全く信頼しないのは、そのためです。
最近になって、ようやくそうしたことが議論されるようになってきていますが、多くの人は「統治行為」はともかく「統治権」というとらえ方にさえ視野が行っていない気がします。

「人の支配」から「法の支配」の確立への移行が近代国家だという人もいますが、理論的にはともかく、実際に複数の人々を統治していくためには、最終的には「人の意思」が不可欠です。
学者はともかく、数名の組織に関わったことがある人であれば、すぐわかることです。
法は基準であって、行為主体にはなりえないからです。
法治国家においても、当然のことながら卓越した権力を持った「統治者」が必要です。

世界初の成文憲法典は、17世紀の「統治章典」だといわれますが、これは統治者に対する「統治行為への制約」と言えるでしょう。
しかし悩ましいのは、国民主権国家となると、憲法が制約する対象は複雑になります。
素直に考えれば、憲法は主権者たる国民を制約するのではなく、「統治者」を制約することになりますが、もしそうならば、主権者である「国民」を(制約がなければ)自由に統治できる存在があるということです。

とまあ、こういう話に広げたかったのですが、今回はその入り口で時間切れでした。
ちなみに、日本は「主権国家」というようないささか過激な話が出ましたが、「国家主権」と「国民主権」の関係も刺激的なテーマです。

沖縄の県民投票の結果もそろそろ明らかになりだしていますが、その結果の動きなどももう少し見えてきたら、またこのテーマでのサロンを開催したいと思っています。
関心のある方はご連絡ください。

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2019/02/08

■統治行為と統治権

昨日は久しぶりにリンカーンクラブ代表の武田さんと「統治行為と統治権」について激論をしました。
いま武田さんが、この問題を論考し、まとめているのです。
武田さんは、小林直樹さんの「憲法講義」を議論の一つの材料にしていますが、小林直樹さんは私が学生時代、しっかりと講義を聞いた数少ない教授です。
ちょうど私が大学に入ったころに、この「憲法講義」の原型がテキストになりました(当時はまだ上巻だけでした)。
大学時代のテキストはほぼすべて廃棄しましたが、3冊だけ捨てずにまだ持っている本がありますが、その1冊がその「憲法講義」です。
そこに、統治行為に関する短い指摘がありますが、残念ながら「統治権」への明確な言及は見当たりません。

私は三権分立が統治の基本的な枠組みだと、学んでしまいました。
しかし、実際に会社に入り、社会の仕組みが少しずつわかってくるにつけ、三権分立では統治はできないということに気づきました。
三権分立は「仕組み」ですから、その上に「意志」がなければいけません。

国民主権という概念も理念であって、統治の精神でしかないことも気づきました。
さらに言えば、古代ギリシアが民主主義であるはずがないことにも気づきました。
デモクラシーを民主主義と訳したのが基本的な間違いだったように思います。
デモクラシーと民主主義は違うものだということは、リンカーンクラブでご一緒した政治学者の阿部斉さんに気づかせてもらいました。

砂川判決は、統治の構造を露呈してくれました。
高度な政治性を有する問題は、三権分立には馴染まないとして、司法の対象から外したのです。
言い替えれば、司法とは権力に抗うのではなく、権力に加担するということを明らかにしたわけです。
同じように、安全保障の意味もかなり可視化してくれました。
しかしその後も、言うまでもなく憲法学者や法学者は統治権を隠そうと頑張りました。
学者とは基本的に権力に加担するのがミッションですから、それは仕方がありません。
悪意があったわけではないでしょう。知性がなかっただけです。

統治とは、本来は「高度の政治性」が主舞台です。
それを見えなくしているのが、「近代国家」かもしれません。
そうしたことが最近どんどん見え出してきています。
それが露呈しだしたのは、小泉政権だったと思います。
露呈というよりも、開き直りといったほうがいいかもしれません。
それがその後、どんどん加速され、見えない統治権者のために政治はどんどん劣化しました。
嘘が見逃され、嘘が正道になり、よりどころのない政治が広がりだしました。
小泉さんは自民党を壊したのではなく、日本の政治(社会)を壊したのです。
小泉さんにも悪意があったわけではないでしょう。知性がなかっただけです。

統治権という概念とその正体については、最近、在野のジャーナリストや一部の政治学者が広く発言しだしました。
しかし長きにわたって見えない統治者に依存する生き方に慣れてしまうと、構造が見えてもそれに抗う気が、私も含めて国民にはなかなか起きてきません。
言い換えれば、みんな「国民」に育てられてしまったのです。
ではどうすればいいか。

武田さんは今日から温泉宿に缶詰めになって、論考をまとめるそうです。
その論考がまとまったら、湯島でサロンを開いてもらおうと思います。
関心のある方はご連絡ください。

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2019/01/29

■カフェサロン「沖縄の辺野古県民投票を考える」報告

沖縄県民投票を材料にしたサロンは、5人の集まりになりました。
県民投票にしても、辺野古問題にしても、もっとたくさんの人が集まると期待していましたが、結局はいつもの常連のメンバーでした。
風邪気味で体調がよくなかったのですが、関心を持っている人があまりに少ないことを知って、一挙に風邪が悪化してしまった気がします。
以来、まだ立ち直れていません。
困ったものです。

沖縄住民投票に関しては、添付の新聞記事を読んでもらいそれに関しての意見交換をしたかったのですが、これもあんまり盛り上がりませんでした。
私の気になった点を紹介しておきます。

・投票すること自体への住民の不安が大きいことに問題の本質があるのではないか。
・考えていることで差別される社会の未熟さが相変わらず変わっていない。
・国と都道府県と基礎自治体という3つの政府の関係の複雑さに何かが隠されてしまっている。
・基地問題より「お金を福祉に回した方がよい」という民の福祉観への疑問。
・辺野古以外でもいろいろと基地をめぐる問題が起こっているが、それさえも分断されている。
・県民投票結果が無視されるということへのあきらめ(行政への不信感)。
・県民投票結果は工事に関して全く『影響はない』と言い切る政府官房長官の異常さ。
・生活と政治とは別物という政治観の広がり。
・この問題は沖縄だけではなく全国で国民投票すべきではないか。

それに合わせて、こうしたことから見えてくる「統治権」と「統治行為」の関係も問題提起させてもらいました。
しかしこれも不発に終わったので、これに関しては改めてサロンを開催したいと思います。
国民主権である以上、統治権と国民意思をしっかりとつなぐ仕組みがなければいけませんが、国民意思を代表することになっている「国会」には統治権はありません。
あるのは「立法権」です。
ではだれに統治権はあるのか。
そのあたりが見えなくなっているところに大きな問題がありますが、誰も大きな問題にしません。
最近は米軍こそがかつての天皇に代わっての統治者ではないかという話が出てきていますが、統治者が見えない状況での政治は気持ちがよくありません。
そろそろ「政治のパラダイム」を変えなくてはいけません。
しかし、統治者への関心は今回の参加者にはあまりありませんでした。

というわけで、今回のサロンは「不発」に終わりました。
体調を整えて、リベンジしたいと思っています。

ちなみ昨日また、辺野古では新たな埋め立てが始まりました。
辺野に新基地は多分完成しないでしょうが、残念なことに環境破壊は修復できません。
後悔はいつも先に立ちません。


Okinawa19011


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2019/01/11

■徴用工訴訟問題で思うこと

徴用工訴訟問題がまた日韓関係を悪くしています。
この問題に関しては、いろんな意見や解決策はあるでしょうが、私にとっての関心は、「国家主権」と「三権分立」の問題です。

組織(社会)を統治するためには、最終的に責任をとるべき1点がなければいけません。
三権分立体制では、統治はできません。
三方三すくみになるからです。
組織活動を少しでもやったことのある人なら、そんなことは常識です。
統治には、主権を総括する立場が不可欠です。
最終的な意思決定は一つでなければいけません。
三権分立は統治概念ではなく、統治権力の運用のためのサブ概念です。

となると、三権の上にある統治権が問題になります。
三権分立概念によって、巧みに隠されている統治権を可視化するうえで、今回の韓国政府の対応は示唆に富んでいます。
いや、示唆に富むというよりも、隠されたヴェールをはがしてくれる契機というべきでしょうか。

日本の場合は、有名な砂川判決で、田中最高裁長官が、あまりにもお粗末に「日本版統治行為論」を論じました。
つまり、日本の統治権は米国にあることを露呈させたのです。
にもかかわらず日本では三権分立論から議論を進めることは、政治学者も憲法学者も取り組みませんでした。
そしていま、安倍首相が、司法や立法を超えた行政の長として自らを位置づけています。

三権分立議論で、時々、第4の権力存在(たとえば情報権)を提唱する人がいます。
それはそれでいいですが、問題はそこにあるわけではありません。
統治にとって一番大切なものは、「教育(情報と言語)」と「通貨(経済)」と「暴力」です。
それらはいずれも三権の下位概念に位置付けられていますが、私たちが三権分立が日本の最高の権力だと思い込んでいる(つまり統治権力の姿を機にしないでいる)のは教育と言語の結果であり、日々の行動は「通貨」と「暴力」の無意識な「意識」に呪縛されています。

そんなことを、私は文在寅大統領の記者会見で感じました。

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2019/01/06

■「タネと内臓」(吉田太郎 築地書館 1600円)をお勧めします

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湯島のサロンで、種子法や遺伝子組み換えのサロンを開こうと思い、霜里農場の金子友子さんに話題提供者の相談をしました。
友子さんはすぐに吉田太郎さんがいいと即答され、吉田さんの新著を紹介されました。
読んでみて、世界では各地でいま、食の視点から農業が変わりだそうとしていることを知りました。
私が思っていたのとは逆の方向です。
諦めていたことが世界では始まっている。
子どもたちは救われるかもしれない。
ちょっと元気が出てきました。
早速に吉田さんにサロンをお願いしました(2月10日に開催予定)。
あわせてこの本を、多くの人に読んでほしくなりました。

本の内容は、同書の裏表紙に書かれている文章が簡潔で分かりやすいですので、ちょっと長いですが引用させてもらいます。

遺伝子組み換え大国アメリカはもちろん、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、ロシア、中国、韓国まで、世界中の母親や家族が、農薬漬けの農業を見直して種子を守り、農産物や加工食品の質を問い直す農政大転換が始まっている。
なぜ、日本だけ主要農産物種子法が廃止され、発がん物質として世界が忌避する農薬の食品への残留基準が規制緩和されていくのか、緩和の事実がなぜ日本の大手メディアでは報道されないのか。
世界の潮流に逆行する奇妙な日本の農政や食品安全政策に対して、タネと内臓の深いつながりへの気づきから、警笛を鳴らす。一人ひとりが日々実践できる問題解決への道筋を示す本。

ちなみに本書の副題は、「有機野菜と腸内細菌が日本を変える」です。
これは、吉田さんの体験を踏まえたメッセージでもあります。
吉田さんは、自らの大病を有機野菜で克服したのです。

ついでに同書の表表紙の文章も引用させてもらいます。

世界中で激増する肥満、アトピー、花粉症、学習障害、うつ病などが、腸内細菌の乱れにあることがわかってきている。けれども、日々私たちと子どもたちが口にする食べものが、善玉菌を殺し「腸活」の最大の障壁になっていることは意外と知られていない。

吉田さんも自らの病気を通して、そのことに気づき、食生活を変えることによって大病を克服したのです。
農と食、そして生命は深くつながっている。
そのことを多くの人に知ってもらいたくて、吉田さんは本書を書いたのでしょう。

本書には2つのメッセージが込められています。
一つは、世界でいま農政大転換が始まっているが、その主役は母親を中心とした普通の生活者たちだということ。
つまり、農政の変革は政治や専門家ではなく、生活者である私たちにこそ起こせるのだということです。
残念ながら日本ではそういう動きはまだ顕在化してきていません。
種子法が廃止され、遺伝子操作によって農業が変えられそうなのに、マスメディアも生活者もまだ大きな問題としてとらえていないということです。
でも逆に言えば、私たち生活者が動き出せば、農政は変わるということでもあります。

もう一つは、農政変革を待たずとも、それぞれの生活者でもできることがあるということ。
吉田さんは最後の「あとがき」で、その具体的な方法をていねいに説明しています。

本書の根底にはもう一つの大きなメッセージが流れています。
現在の工業型社会への懸念です。
それを抽象的にではなく、たとえば「生産性」や「経営」という概念がいかに偏った理解をされているか、というように具体的に語っています。
企業型農場が生産しているのは「農産物」ではなく「商品」だ、と吉田さんは書いていますが、農業とは何なのか、を根源的に問うているのです。
それは言うまでもなく、私たちの生き方への問いかけでもあります。
そしてそれが、たぶん前に書いた2つのメッセージにつながっているのです。

本書はそう簡単に読める本ではありませんが、そこに込められた吉田さんのメッセージは生々しく伝わってきます。
それをしっかりと受け止めて、まずは自分でできることをしっかりと実践していく。
そんな決意を起こさせてくれる本です。

多くの人に読んでいただきたくて、紹介させてもらいました。
2月10日には湯島で吉田さんのサロンを開きます。
本書を読んで、ぜひご参加ください。

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