カテゴリー「政治時評」の記事

2018/02/14

■「釣りにでも出かけるとするか」

以前、「誰が第二次世界大戦を起こしたのか」(渡辺惣樹 草思社)のことを書いたことがあります。
これは渡辺さんが翻訳した、ハーバート・フーバーの「裏切られた自由」の紹介書なので、まあこれを読めばフーバーの原書は読まないでいいと思っていました。
なにしろものすごい厚い上下本なのです。
ところが先日会った友人から、面白いと勧められました。
それで図書館から借りてきて読んでみました。
思った以上に読みやすく、たしかに面白い。

本書は、第二次世界大戦前にルーズベルト大統領に反対して、戦争回避に向かっていたフーバー元大統領が、ライフワークとしてさまざまな資料を集め、整理した大事業の成果です。
結局、フーバーは出版せず、死後も遺族が出版を止めていました。
それが状況の変化の中で、2011年に出版されたのです。
編者は歴史家のジョージ・H・ナッシュ。
最近もトランプ大統領批判で活躍しています。
そのナッシュが本書の冒頭に「編者序文」を書いていますが、これだけでもなんとA5版ぎしっしりの130頁もあり、一冊の本になります。
タイトルは「ハーバート・フーバーのミステリアスな「大事業」」。
これだけでも読む価値があります。

そこに私がとても気にいった言葉が出てきました。
それが今回のタイトルの「釣りにでも出かけるとするか」。
フーバーは対抗馬の妨害にあい、共和党予備選大会に敗れて、大統領への復活はなくなったのですが、大会を終えたフーバーは、「釣りにでも出かけるとするか。政治のことは忘れたい」と、記者に語ったそうです。
時代を憂いて誠実に活動してきた結果の言葉として、とても共感できます。
しかし、フーバーは、釣りには行けませんでした。
ヒトラーが、西ヨーロッパへの侵攻を開始したからです。

フーバーは、日米開戦に関しても、スターリンの戦略に関しても、いまから考えると時代が見えていたと思います。
だからこそ、釣りには行けなかったのです。

もしフーバーが大統領に戻ってきたら、世界の歴史は全く変わってきていたように思います。
そして今、私たちは、そういう大きな転換点に立ってる。
フーバーのような全体を見ている人がいないのが残念です。
政治への無関心の代償の大きさを忘れてはいけません。

1月にキックオフした「茶色の朝」サロンのを3月からスタートさせたいと思います。
周りで起こっている気になる動きを、気楽に話し合うサロンです。
日程が決まったらまた案内します。

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2018/01/31

■憲法9条を考えるもうひとつの視点

今日はちょっと体調がすぐれないので自宅で休養していたのですが、ついつい机の上に積んであった本を読んでしまいました。
国際関係論を専門にしている篠田英朗さんの「本当の憲法」(ちくま新書)です。
副題が、「戦後日本憲法学批判」となっていますが、とても刺激的で示唆的です。
憲法学者の憲法論とは視点が全く違いますが、私がこれまで違和感を持っていたことが、ほぼすべて解消した気がします。
もっと早く読めば、と悔やまれます。

前回のリンカーンクラブの集まりでも、「国民主権」という概念がどうもすっきりしないことを話したのですが、それもすっきりしました。
みなさんにも、ぜひ第1章「日本国憲法をめぐる誤解を解く」だけでも読んでほしいと思います。
たとえば、こんなことが書かれています。

日本国憲法の3大原理といわれる「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」は、目的あって、原理ではない。原理は「国政は国民の厳粛な信託による」と「国際協調主義」。
憲法9条は、日本独自のものではなく、その価値は、例外性にあるのではない。その国際標準的な性格にある。
あるいは、
日本憲法の根底にある英米法思想の起点は、諸個人の権利である。つまり「国民主権」ではない。

ちょっと私の考えに合わせて解釈しているかもしれませんが、こう考えれば、日本憲法9条をノーベル賞平和賞候補にといった考えが、いかに視野の狭い「日本ファースト」的発想かがわかります。
私がなんとなく感じていた疑問が氷解します。
不戦条約ですでに戦争は否定され、軍隊のない国は日本以外にいくらでもあり、むしろ日本は軍隊に守られている。
自衛隊の存在は違憲だと思いながらも、なぜか存続を認めたい。

今日はあんまり調子がよくないので、まだ整理できていませんが、頭痛がなくなったら、少し整理しようと思います。

でも多くの人に読んでほしいです。

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2018/01/29

■リンカーンクラブ学習型サロンの報告

「究極的民主主義」をテーマにした連続学習型サロンをスタートしました。
テキストは武田さんの『無党派市民の究極的民主主義宣言』。
今回は、その第一部を話し合いました。

まずは、『「究極的民主主義宣言」の概念の共有化から始めました。
しかし、概念の共有化でさえ、みんなからさまざまな意見が出ました。
言葉で定義したとしても、その意味解釈においては、どうしても多義性が残ります。
そのため、「学習型」というよりも、「討議型」になりそうな気配でしたが、まあ、お互いの理解の「多様性」を実感できることに意義を置くことにしました。
それに、言葉だけのやり取りでは、自らの思考には至りにくいですから。

結論として、議論の起点としての「究極的民主主義」が目指す政治制度を、「すべての主権者は自分が希望したときには、すべての政治課題についての賛否を表明することができ、その決定に関与できる政治制度」と定義することにしました。
厳密に言えば、主権者とは何か、決定に関与できるとはどういうことかなど、議論はありますが、少なくとも、議会民主主義の下における主権の信託制度とは別次元の制度です。
そのため、「議会制代議政治」は「民主主義」かどうかという議論もありましたが、「議会制民主主義は民主主義にあらず」という表現は正確ではなく、むしろ、議会制政治も直接デモクラシーも、そのいいところを取り込んで、民主主義の理念を極限まで近づけるための政治制度を考えていくことが大切だということで合意ができたと思います。

しかし、日本語の民主主義には、「イズムとしての民主主義」と「統治制度としてのデモクラシー(大衆の支配)」という次元の違う意味が含まれているので、議論が混乱しがちなのです。
その点での合意は少し時間がかかりそうなので、まずはもう少し先に、改めて話し合うことになりました。

今回の該当部分のテキスト第2章は「選挙をすれば民主主義ですか」というタイトルなのですが、選挙制度に関して話し出すとどうも各論的な話か理念的な話になってしまうので、次回のテーマにしました。
究極的民主主義が実現できる選挙制度を具体的に考えることで、改めて「究極的民主主義」とは何か、という理解が深まるだろうと思います。

話していると、同じ言葉を使っていても、その意味内容は違っていることもありますが、話し合っているうちに、その違いが可視化されるとともに、新しい気付きが得られる。
これが、今回の「学習型」の意味です。
なにかを学ぶだけではなく、学びながら新しいものを創り上げていくことに、これから挑戦していければと思っています。

こう書いてしまうと難しい知識がないと話し合いができないように思われるかもしれませんが、むしろ白紙の状況で、新しい考えや提案に触れることで、自らの考えを確認し、豊かにしていくという意味での「学習」でもありますので、ぜひ気楽にご参加ください。

次回は、2月17日(土曜日)の午後2時からを予定しています。
今回参加されなかった方にも、最初に要点を整理したうえで話し合いを始めますので、今回参加できなかった方も、ご関心があれば次回からご参加ください。
参加される方には、あらかじめテキストをお届けできるようにしたいと思っています。

今回はリンカーンクラブのサロンやフォーラムに参加したことのない母親の方も参加してくださいました。
女性の方が参加してくれると、話し合いの幅が広がります。
女性のみなさんの参加を事務局としては期待しています。

今回の参加者は10人でした。

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2018/01/24

■第2回「茶色の朝」サロン報告

第2回目の「茶色の朝」サロンには寒い中を12人の参加者がありました。
男女半々でした。
今回は少しだけですが、生活につながるような話もいくつか出ました。
ただやはり時間の関係もあって、話し合いになるところまで行きませんでした。
話し合いは、やはり何回かつづけていかないと難しそうです。

今回は最初に、参加者のおひとりが、この寓話から感じた3つのことを整理して話してくれました。
「2つのおそれ」「作者からのメッセージ」「物語のその後」です。
彼女は、警告だけではなく希望を感じたと言います。
しかし、そのためには、「わたし」をしっかり取り戻せって言っている、と感じたそうです。

せっかく整理してくれたので、ここから議論する方法もあったのですが、今回もまだオープニングサロンですので、ともかく全員それぞれに感想を話してもらいました。
いろいろと示唆に富む気づきが語られました。

ある人は、子どもでつながっている母親仲間とは、政治がらみの話はしにくいし、なにか行動を起こして目立つのも勇気がいるというような話をしてくれました。
今回も、どうして戦争を食い止められなかったのだろうかと自分の親に問いかけた話を複数の方がしてくれました。
前回と違ったのは、今回お話された方たちは、自分が子どもたちに同じ思いをさせないように行動している、あるいは行動しようと思っているということでした。

すでにさまざまな活動を長年されている女性の方も参加してくれました。
彼女も、こういう話し合いのサロン活動を7年もしてきたが、なかなか流れは変わらない。
もっと大きな構想を踏まえて、具体的な目標に向かって行動しないといけないと思い出していると話しました。
口だけではなく、彼女は実際にさまざまな取り組みを実践しています。
しかし、私自身は、むしろ迂遠なようでも、一人ひとりの意識が変わっていくような、こういうサロンが大切だという思いを、ますます強めています。
いろんな活動や取り組みがあることが大切ですし。

教育が大切だという人もいました。自分が学んだ教科書と子ども使っている教科書の違いを紹介してくれた人もいます。
これはできれば、サロンで取り上げたいテーマです。

まだいろんな話が出ましたが、実は私が前夜、あまり寝ていなくて、いささか頭がダウンしていて、話し合いの内容をまだ思い出せません。
参加者のみなさん、どなたか気が向いたら補足してください。

みなさんの感想が一巡した後で、参加者のみなさんに、日本は現在どんな状況だと思っているかお訊きしたところ、まだ半数の方は、「茶色の社会」への懸念を感じだしているような感じでした。
もちろん朝を過ぎた、もう行くところに来ているというような思いを持っている人もいました。
私自身は、もう日本の社会は「茶色」に埋め尽くされつつあると考えています。
もっとも私が考える「茶色」は、ファシズムを象徴する茶色でもありますが、そのもっと根本にある茶色、「金銭」です。
これに関しては、また改めて話し合えればと思います。

最後に、政治問題どころではなく、今日をどう生きようかと一生けんめいに自分と闘っている人が、遅れて参加してきました。
彼女は、こういう場に出てくるだけでも大変なのです。
たまたま心理カウンセラーの参加者がいたので、いつの間にかその2人の話になってしまいました。
横道に外れすぎではないかと思われた方もいたと思いますが、進行役の特権で、少し流れに任せました。
問題提起した若い女性のような人とは接点のなかった人もいたかもしれません。
しかし、「政治などに気を向ける余裕がないほど」生きにくい状況を生きている人もいるのです。
そういう人のことを知ることも、私は大切な「政治活動」だと思っています。
湯島のサロンは、そういう横道体験が、偶発することに一つの異議があります。
さすがに途中で、その話は終わらせてもらいましたが、その2人を主役にした、「生きる意味を考える」サロンを2月7日5時から8時の予定で開催することにしました。
よかったら参加してください。

2回の「茶色の朝」オープニングサロンを行いましたが、結局当初予定していた、「気になることの話し合い」にさえ行き着きませんでした。
でも何人かの方からは継続を要請されました。

そんなわけで、次回から、いよいよ本格的な「茶色の朝」サロンがはじまります。
日程が決まり次第ご案内させてもらいます。
あるいは、こんな話をしたいという方がいたら、ご連絡ください。
その人の都合を優先してサロンを設定することも考えたいと思います。

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2018/01/15

■ポリティカル・エコノミーからエコノミカル・ポリティクスへ

1月12日の「2つの政治」の続きです。
今回は、市民性について書こうと思ったのですが、その前に、「お金=投票券」という稲垣さんの言い方にはやはり違和感を書いておきたくなりました。
もしかしたら、その発想こそが、一番の問題かもしれないからです。
かつての金権選挙、つまり「投票券=お金」と同次元だからです。
稲垣さんもまた、お金を軸にした世界で育ってきていることから自由ではないのかもしれません。
稲垣さんが、ここを「行動=投票権」と言ってくれれば私には違和感はないのですが。

かつて、経済学は「ポリティカル・エコノミー」と呼ばれていました。
politicsの語源は古代ギリシアのポリス(polis)につながっているように、ポリス、つまり社会にあり方につながっています。
いささか古い定義ですが、永井陽之助は「考え方の違う個人が集まって,いかに安定した社会をつくり出せるか,多年にわたって苦心のすえ造型した作品(秩序)が「政治」である」と、私がむかし読んだ本に書いていました。
「ポリティカル・エコノミー」とは、したがって、本来、安定した社会を構築するための「稀少資源の権威的配分」をめぐる学問だったわけです。
それを日本では、「経世済民」の意味で「経済」という訳語があてたと言われます。
つまり、限られた資源と富の、適切な配分と運用を意味していたわけです。
それが、いまでは「ポリティカル」という言葉は削除され、経済学は「エコノミクス」ということで語られるようになり、それとともに、金銭の投資や増殖のための学問になってしまいました。
そして現実も、マネタリー・エコノミーというべき実態に変わってきています。
極端に言えば、経済は「民の苦しみを救う」どころか、「民を収奪する」仕組みへと変質してきているとさえ思えます。

それに応じて、というべきか、先んじて、というべきか、政治もまた変質してきています。
安定した社会を目指すべき「まつりごと」の政治が、むしろエコノミクスの下に置かれてしまった。
つまり、政治が「エコノミカル・ポリティクス」へと変質してしまったのです。
アメリカのトランプ政権は、見事なほど、それを正直に表明しています。

これはある意味では当然の結果かもしれません。
政治学はさまざまな意見や生き方を持つ多様な人が納得できる全体的な決定をするための仕組みとして、投票制度を活用していますが、これは経済における市場制度に通じています。
そこで志向されているのは、政治過程における「論理」的な合理性ですが、その行き着く先は、ジョージ・オーウェルの『1984年』やオルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』かもしれません。
経済も政治も、そこから人間的要素を抜き取れば、うつくしい合理的世界が描けますが、そこで邪魔になるのは人間の非「合理」的な多様性ですから、人間のためではなく、人間の排除がはじまるでしょう。
実際にも、ヒトラーの「ジェノサイド」やスターリンの「クラーク」という恐ろしい歴史を私たちは体験しています。

投票制度と市場制度の発想の根底にあるのは同じものです。
稲垣さんの発想は、まさにそのことを示唆しています。
私が違和感を持ったのは、その点です。

いささか長くなってしまったので、今回はこれでやめておきます。

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2018/01/14

■第1回「茶色の朝」サロンの報告

20年前にフランスで出版されて「反ファシズムの寓話」と話題になった「茶色の朝」を読んで話し合う「茶色の朝」サロンの第1回目を開催しました。
予想をはるかに超えて、16人の人が集まりました。

「茶色の朝」の話は、「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。
おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく、そんな話です
日本もそうなってきていないか、もしそうであればどうしたらいいかというのが、このサロンを始めた理由です。

サロンでは、まず各自から「茶色の朝」を読んでの感想を話し合いました。
立場によって、かなり感想が違う気がしたのと、まだ日本では「茶色の朝」への不安は、現実化していないのではないかという気がしました。
具体的な「おかしな体験や不安」がもっと出てくると思っていたのですが、あまりなかったのが意外でした。

女性の方から、自分の母親(なぜか父親ではなく母親でした)に、どうして戦争なんかしたのかと質問したことがある、という話がありました。
その答えは、わからないうちに戦争になっていたというようなことだったそうです。
1946年に書かれた映画監督の伊丹万作さんの文章を思い出しました。
「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみなロを揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。」
まさに、それへの警告が「茶色の朝」の話だと思いますが、ある方が話したように、「ゆでガエル現象」が進んでいるのかもしれません。

子どもや家族のために、おかしなことへの異議や周囲とは違う異論もなかなか言えずに押さえてきたこともあるというような女性の発言もありました。
こう言う話はよく聞きます。
これもまた、「茶色の朝」と同じ思考に陥っているのかもしれません。
ちなみに、その方は今は自分の意見を言う生き方に変わっているようです。

海外生活が長かった男性の方が、数年前に日本に戻ってきたが、あまり「茶色の朝」のような状況は感じられないと話されました。
しかし、参加者の多くは、むしろなんとなく「茶色の朝」への懸念をお持ちの様でした。
でもそれがどうも形として見えていないのもまた事実のようです。

政治とは何かの話もちょっとだけ出ました。
「茶色の朝」は2つの政治を語っていると私は思っています。
これはこれからのサロンの中で少しずつ掘り下げたいテーマです。

最後に私から「ニーメラーの教訓」と稲垣えみ子さんが2年ほど前に朝日新聞に書いた「日常の生活が政治につながっている」という記事を紹介させてもらいました。
ニーメラーのことを知っている人が少なかったのは、私には衝撃的でした。

今回は予想以上に参加者が多かったこともあり、感想の紹介で終わってしまいました。
そこから、それぞれが感じている「ちょっとおかしいこと」や「気になること」をだしあってもらう予定でしたが、そこまでたどり着きませんでした。
そこで次回は、それをメインにサロンを開きたいと思います。
今回参加された方も、参加されなかった方も、ぜひご参加ください。

「茶色の朝」現象は、気づかないうちに私たちを虜にします。
ですから、できるだけたくさんの目と頭と感覚で話し合わなければいけません。
「気づかないうちに戦争がはじまっていた」というようなことを子どもたちや孫たちに言いたくはありません。

ちなみに、「茶色の朝」ですが、著者も訳者も、同書に関しての印税権を放棄し、ネットで公開しています。
次のサイトから本文をダウンロードできます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf

なお、休日は参加できないという方のために、同じサロンを次のとおり開催します。
もしお時間があればご参加ください。
今回は参加者が少ないので、「ちょっとおかしいこと」や「気になること」の話もできると思いますので、13日に参加した方もよかったらどうぞ。

○日時:2018年1月24日(水曜日)午後1時~3時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○内容(あくまでも目安)
  ・自己紹介を兼ねて、「茶色の朝」を読んで考えたことを各自発表
  ・「最近気になっていること」の自由な話し合い
  ・「茶色の朝」サロンをこれからどう続けていくかの話し合い
○会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/01/12

■2つの政治

経済時評で、経済には2つあると書きましたが、政治にも2つあります。
今回はそのことを書きます。

政治とは何かと訊かれたらみなさんはどうこたえるでしょうか。
これが意外と難しい問いです。
手元にある政治関係の書籍を20冊ほど調べましたが、まともな定義づけがあまり見つかりません。
そこで大辞林を調べたら、3つの定義が書かれていました。

①統治者・為政者が民に施す施策。まつりごと。
②国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動。
③諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整すること。

簡単にいえば、①は支配のあり方であり、②と③は社会や政治のあり方です。
つまり、政治には「支配のための政治」と「生活のための政治」があります。
私は、前者を「小さな政治」、後者を「大きな政治」と呼んでいます。
前者の政治は関心の対象として位置付けられますが、後者はすべての人にとっての日常の活動といえます。
政治への関心が話題になりますが、その場合の「政治」は前者の政治です。

以前、NPO活動への資金助成プログラムの事務局を委託された時、自由にやっていいけれども、政治関係と宗教関係の活動だけは資金助成の対象から外してほしいと言われました。
政治と宗教こそが、一番大事な「市民活動」だと思っている私には違和感がありましたが、「政治」「宗教」の定義が違っていることをその時も痛感しました。
日本では、「政治」は「お上」、宗教は「反お上」の文化がいまなお根強く残っているのです。
そこには、「市民」など活動する余地はないのです。

ところで、お上の政治と生活者の政治をつなぐルートが「選挙投票」です。
ルソーは、選挙の日だけ自由でその後は奴隷となるといってイギリスの議会民主政を嘲笑したそうですが、それでも支配者の世界の人たちに影響を与えられるのは、代表者の選挙投票です。
それ以外は、支配者の政治には関心を持つなと言われて、日本人は育ってきたわけです。

しかし、政治をもっと広義に捉えれば、まったく違った世界が見えてきます。
アフロヘアで話題になった朝日新聞記者の稲垣えみ子さんが、戦後最低の投票率で終わった2014年末の総選挙の直後、新聞にこんな記事を書いています。

近所のおしゃれな雑貨店でこんな貼り紙を見たのです。 「お買い物とは、どんな社会に一票を投じるかということ」 ハッとしました。 買い物=欲を満たす行為。ずっとそう思っていた。 でも、確かにそれだけではありません。 お金という対価を通じて、それを売る人、作る人を支持し、応援する行為でもある。ささやかな投票です。 選挙は大事です。でも選挙以外のこと、すなわち、一人一人が何を買い、日々をどう暮らし、何を食べ、どんな仕事をし、だれに感謝を伝え…ということは、もっともっと大事ではないか。 逆に言えば、そうしたベースを大切にし尽くして初めて、意味のある選挙が行われるのではないか。 投票しさえすれば、誰かがよい社会、よい暮らしを実現してくれるわけじゃない。 当たり前のことですが、どうもそこを忘れていたことに気づいたのです。 以来、「お金=投票券」というつもりでお金を使っています。

つまり、私たちの日々の行動そのものが、実は大きな政治そのものであり、小さな政治にもつながっているのです。
そのことを意識すれば、たぶん日々の生活も変わってくるはずです。

稲垣さんは、「お金=投票券」と書いていますが、投票権は「お金」だけではありません。
言動のすべてが、投票行為なのです。
しかし、稲垣さんが言うように、お金の意味は大きいかもしれません。
なぜなら政治もまた、いまや金銭によって動き出しているからです。
ここから、経済と政治がつながってくるという話にもなっていきますが、それはまた改めて。

ちなみに、川崎修さん(立教大学教授)は、政治をこう定義しています。

政治とは,さまざまな社会的現実に対して,公共性をもった権力関係として見たり関わったりする,社会に対する私たちの見方・関わり方である。

政治への関心を持つということは、権力者たちの内輪話に関心を持つということではありません。
公共的なことがらに当事者として関わっていくという市民性を持つということ。
私はそう考えています。

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2017/12/17

■政治を考えるサロン「統治から協治へ」報告

今年最後の政治サロンのテーマは「統治から協治へ」。
政治のパラダイム(捉え方)を転回させようという提案です。
政治改革の話ではなく、政治概念の話です。

ポイントだけの問題提起にしようと思い、2枚のチャートを用意しておいたのですが、始まる前の約束がキャンセルされ時間ができたので、ついつい追加したくなってしまい、10枚を超すパワーポイントになってしまいました。
困ったものです。
あんまり内容を欲張ったので、30分の問題提起を早口で話しすぎて、あんまり伝わらなかった気がします。
話し終わったらすぐに突込みが来るはずなのですが、一瞬の間がありました。
大いに反省しなければいけません。
暇があると、俗人は余計なことをしてしまい、元も子もなくしてしまうことを体験しました。

話の内容は省略しますが、どんな話をしたかは、次のところにパワーポイントがありますので、もしご関心があれば、見てください。
http://cws.c.ooco.jp/lcsalon20171216.pptx
もし開かないようであれば、連絡いただければ、別途送ります。
最初に映画「マトリックス」と「もう一つの彼岸移住プロジェクト」という意味不明の文字が出てきますが、これはスルーしてください。
はじまる30分前に、魔がさして追加してしまったものです。
実際には、これが常日頃、私の一番言いたいことではあるのですが。

話の枠組みだけ書きますと、現在の「国家統治権力(ガバメント)の内部の政治(「小さな政治」)」を超えて、そろそろ「国民主体の協治(ガバナンス)政治(「大きな政治」)」に移りませんか、という話です。
その先に「国家を超えた協調政治(「もっと大きな政治」)」、そしてさらにその先には「自然を含めたエコロジー政治(「さらに大きな政治」)」がありますが、今回はそこまではさすがに広げませんでした。

理念は良いとして、それをどう具現化するのかという指摘がありましたが、理念が定まれば、具現化は必ず可能になるはずで、それは時間をかけてみんなで考えればいいというのが私の考えです。
そもそも理念のない改革はあり得ませんし、理念が間違っていたら、改革は単なる「変化」でしかありません。

他にも、法治国家とか、ベーシックインカムとか、税金の話とか、いろんな話し合いがありましたが、今回は私が質問の「受け手」だったため、応えるのに精いっぱいで、記憶が残っていません。
ですから報告がいつも以上に書けません。
すべて省略。

私が言いたかったのは、自分の生活につなげる形で政治を考えようということだったのですが、参加者の女性のおひとりから、もっと生活の言葉で話し合わないのかとお叱りを受けました。
返す言葉もなく、まさにその通りなのです。
そこに今の政治の一番の問題があるようにも思います。

民主主義の古典の一つ、トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」によれば、アメリカの政治は仲間の話し合いから積み重ねっていったのが出発点です。
あるいは民主主義といえばスイスを思いだしますが、スイスの政治もまた生活からの積み重ねです。
政治の起点をどこにおくか。
国民主権を実現したいのであれば、いまの政治体制は根本から変えなければいけません。

ところで、映画「マトリックス」は、システムと生きた人間の戦いの物語です。
その世界は、「生きた人間」よりも思考しない機械の部品的な「人間もどき」がほとんどなのですが、もしかしたらこの世界も「マトリックスの世界」になっているのではないかという気が時々します。
目を覚まして、システムに挑みましょう。
来年からリンカーンクラブはもう少ししっかりと活動します。
関心のある人はぜひご連絡ください。

報告にならずにすみません。


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Hosokawa201712


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2017/11/18

■「政府が進める「地域共生社会」ビジョンは、監視国家へ変貌する危険性を孕んでいる」

「高齢期社会保障改革を読み解く」(社会保障政策研究会編 自治体研究社)を読みました。

先日、湯島のサロンで、福祉環境は改善されている一方で、社会保障政策の劣化を感ずるという発言をしたら、福祉の現場の真っただ中にいる参加者にたしなめられました。
現場から見ると、福祉環境も福祉行政も大きく改善されているというのです。
たしかにそういわれると反論はできません。
でもどこかに違和感を強く持っています。
そういう状況の中で読んだせいか、とても共感できるメッセージの多い本でした。

本書は、安倍政権の社会保障政策を高齢者に焦点を当ててその本質を読み解くとともに、高齢期に発生する生活問題を整理したうえで、それを変えていくためには市民による改革が必要だと主張しています。
私にはとても共感できる内容です。
念のために言えば、福祉行政も大きく改善されているという現場の人の意見に異論はないのです。
どちらが正しいという問題ではなく、たぶんどちらも正しいと思います。
その上で、しかし、多面的な視点を持たないと現実や未来は見えてこないのではないかと思うのです。
私たちは、二者択一の○×で判断しがちですが、いずれも○の異論が両立することはよくあることです。
その意味で、本書はできるだけ現場の人に読んでほしい本です。
「現場の人」という言葉には、すべての高齢者も含めています。

数名の執筆者が高齢期社会保障の問題をさまざまな具体的な切り口から論じ出ていますが、本書の基本姿勢は第1章の「高齢期社会保障に潜む課題と地域共生社会の本質」(芝田英昭)で示されています。
たとえば、こんな風に現在の政策は厳しく批判されています。

安倍政権の下では復古主義的・保守主義的政策が一気呵成に実施されているが、社会保障分野においても、家族主義、コミュニティヘの依存を強める自助・自立・相互扶助を基本とした社会保障切り捨て政策が全面的に打ち出されている。 例えば、厚生労働省に置かれた「『我が事・丸ごと』地域共生社会実現本部」(2016年7月設置)が、社会保障切り捨ての先導役を務めていると言える。 しかし、実現本部は、「地域共生社会」の名の下に、地域に生起するあらゆる課題・問題を地域住民が自助・共助を基本に解決していくとしているが、この方向性は、生存権を公的責任のもと具現化した社会保障制度の基盤を揺るがす重大な誤謬を犯しかねない。

「地域共生社会」という、私も目指したビジョンさえもが、「社会保障を崩壊させ、監視国家へ変貌する危険性を孕んでいる」と見事なまでの指摘です。
私自身、「『我が事・丸ごと』地域共生社会」のビジョンを聞いた時には、共感を持ちながらも、政府がそんなことを言い出すことに違和感を持っていました。
本書を読んで、その違和感が理解できました。
芝田さんは、「国家が監視しているだけでは、国民を完全には統制できないことから、一段進んだ形態として、「住民相互の監視システムと密告」装置を構築させようとしている。それが、まさしく「現代版隣組制度」としての「地域共生社会」ではなかろうか」と書いていますが、それほどの厳しい目が必要なのだと気づかせてもらいました。
違和感は放置していてはいけないのです。

もう一つ共感したのは、「健康長寿社会の形成に資する新たな産業活動の創出及び活性化、(中略)それを通じた我が国経済の成長を図る」こととし、「健康・医療」分野を、経済成長の道具と位置づけている。人間の生命・生活の根幹をなす分野を産業化することは、商品としての健康・医療分野を購入できる者とできない者との格差を拡大させ、国民の健康破壊を推し進めることにしかならないし、健康・医療における人権思想・倫理観が欠如しかねないといわざるを得ない」という指摘です。
そしてこの問題は、第5章の「高齢者福祉「改革」と市場化・産業化」(曽我千春)へと引き継がれます。
ここでの主張は私がずっと前から思っていたことで、20年ほど前に雑誌などでも書いたこともあります。
http://cws.c.ooco.jp/siniaronnbunn1.htm
私が一番危惧しているのは、「汎市場化」の流れです。
介護保険制度は介護の社会化と言いながら、介護を市場化してしまいました。
それによって、介護環境は「改善」されたかもしれませんが、失われたものも大きいように思います。
この章は、我が意を得たりと思いながら読みました。

本書の最後は、「市民による改革の必要性」(本田宏)です。
実は本書は、執筆者のおひとりでもある本田さんにいただいたのですが、医師だった本田さんは医師を辞めてまで、社会をよくしようという活動に取り組んでいます。
本田さんは、「いま高齢期の社会保障を直撃する「社会保障費抑制と市場化・産業化」の流れを止めるためには、市民による改革が不可欠である」と書いています。
本章は読んでいて、本田さんの熱い思いが伝わってきます。
お時間がない人は、この本田さんの怒りの章だけでもぜひ読んでほしいです。
そして2020年のオリンピックなどには騙されないようにしてほしいです。
私はオリンピックに出場する選手に対してさえも、不快感を持っているほど、オリンピックは嫌いです。
この文章は、蛇足でしたね。
不快な気持ちにさせたらお許しください。
すみません。

それはともかく、本書はいろんなことを考えさせられる本です。
細かな制度論や技術論的なところも多いですが、多くの人に読んでほしい本です。
そして、本田さんのアジテーションに乗って、市民による改革にぜひ加わってほしいです。

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■民主主義の真価は、絶えず必要な改革を促すこと

先日福岡で様々な活動をしている友人が湯島に久しぶりに立ち寄ってくれました。
彼がいま興味を持っているのがスイスです。
数年前にスイスに調査に行って、関心を深めたようです。
私は、スイスにはしたたかな悪の顔としなやかな善の顔を感じています。

その友人が面白いよと言って、1冊の本を紹介してくれました。
スイス政府編の「あらゆる危険から身をまもる民間防衛」(原書房)という本です。
早速取り寄せてみました。
手に取ってすぐ思い出したのが、2年前に都民に配られた「今やろう。災害から身を守るすべてを。東京防災」です。
この本もだいぶ話題になりました。
スイスのは赤い装丁。東京は黄色でした。
交通信号で言えば、注意と止まれです。

しかし、一番の違いは、内容です。
スイスのは平和と戦争にどう対処するかです。
かなりのページを割いて、そのための国民の責務が説かれています。
たとえば、こんな文章です。

わが民主主義の真価は、絶えず必要な改革を促すことである。どのような制度も、生きものと同じように、それ自体の生命力によって変化することからのがれるわけにはいかない。すべては進化する。思想も、風俗や経済情勢と同様に進化する。だから、国民や、国民を代表する議員が、常に注意深く制度を見守ることは、どうしても必要である。この注意深く見守ることによって、制度の改革が求められてくる。それは、改革であって、めくら滅法の破壊ではない。革命は、しばしば、益よりも害となる。 しかしながら、権力が、ある個人に集中し、抑圧された人々が、その独裁者を追放するために立ちあがるほかなくなったときに、革命が必要となる。 民主主義は、何も生み出さないでじっとしていることと、破壊的に転覆することとの間に通じる、狭い、山の背のような道を、用心深くたどらねばならない。各人の義務は、この法則に従って生き生きと生きることである。公けの問題に無関心であることは、この義務に忠実でないことを意味する。

明日11月19日は、リンカーンがゲティスバーグで、「人民の、人民による、人民のための政治」のスピーチをした日です。
その11月19日、午後2時から湯島で「国民投票と究極的民主主義」をテーマに集まりをやります。
もしお時間とご関心があれば、ご参加ください。
スイスの話も出るはずです。
もしかしたら、そこから「国のかたち」の話に広がるかもしれません。
憲法問題は、いまの日本では「憲法条文問題」に矮小化されていますが、大切なのは「国のかたち」です。
そしてそれは、国民の意識の問題でもあります。

寒いですが、よかったら明日、湯島に足をお運びください。

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