カテゴリー「政治時評」の記事

2017/03/23

■森友学園籠池理事長の証人喚問を見つづけてしまいました

森友学園の籠池理事長の証人喚問を朝からずっと見ていました。
なぜか籠池さんが好きになってきました。
この人は嘘はついていないのではないかと思い出しました。
マスコミの報道からはとんでもない人だと思っていましたが、どうもそうではなさそうな気がします。

ただし、籠池さんの教育方針や子どもたちへの対応にはまったく賛成できませんが、しかしそれを支持している人もいるわけです。
なによりも総理大臣でさえ支持しているわけですし、たぶん現在の政権を支持している国民も、本当は支持しているのでしょう。
私は籠池さんの考え方には生理的に体が震えるほどに嫌悪感を持ちますが、だからと言って、籠池さんの考えを抹殺したいなどとは思いませんし、ましてや籠池さんの見識をとやかくいうことはしたくありません。
社会はさまざまな考えの人がいてこそ、社会ですから。
ただ、こういう人が支持される社会は恐ろしいと思います。
つまり、籠池さんではなく、籠池さんを支持する人たち、例えば子供を園学園にいれる親たちやそういう学校を応援する政治家や資産家やオピニオンリーダーたちに嫌悪感を持ちます。

安倍首相や首相夫人が巻き込まれていますが、問題は安倍首相の名前を上手く活用して立ち回っている人たちや、安倍首相の名前にひれ伏して自らの我欲を果たそうとしている人たちが、たくさんいることに問題を感じます。
私も直接ではありませんが、かなり身近にそうしたことを見聞しています。
ある有力政治家の講演会の人は、その人に話をすると制度はすぐ変わるのでありがたいと言っているという話を聞いたこともあります。
そういう視点で考えると、籠池夫妻は、もしかしたらそうした邪悪な動きに振り回されたのかもしれません。

もちろん私は籠池さんは犯罪者だと思います。
詐欺とかそんな話ではなく、憲法違反者です。
憲法違反とも言える教育勅語を子どもに教え込むのは犯罪だと思います。
しかし、それをほう助していた人たちもまた裁かれなければいけません。
それをせずに、籠池さんだけを裁くのは、私には違和感があります。

証人喚問やその報道を聴いていて面白かったのは、質問者の人柄やテレビ局や解説者や国会議員の姿勢が伝わってきたことです。
自分で自分の首を絞める人もいましたが、それに比べて、なぜか籠池さんの表情は最初から最後まで、ずっと同じだったような気がします。
今日は、籠池さんと議員のやりとりを聞きながら、いろんなことを考えることができました。

EU、アメリカ、韓国につづいて、いよいよ日本にも大きな嵐が来るような気がします。

今日は1日、テレビを見てしまいました。
虚しい1日でした。

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2017/02/21

■巻町原発誘致住民投票をテーマにしたサロンの報告

2月19日のリンカーンクラブサロン「原発を葬った市民のスクラム 巻町住民投票をめぐって」は10人のサロンになりました。
今回は、あらかじめ折原さんの報告書を読んでもらっての参加でしたので、ちょっとバリアが高かったかもしれません。
その反面、関心の高い人が多かったので、それぞれいろんな示唆を受けたのではないかと思います。

折原さんは、巻町原発誘致住民投票の顚末を3ページの表にまとめたレジメで説明してくれました。
とてもわかりやすい表です。
改めてこの顚末を俯瞰するといろんなことが感じられます。

そもそも巻町で住民投票が行われるきっかけは、1994年の町長選挙で、原発推進派の人が当選したことでした。
選挙には、推進派、慎重派、反対派の3人が立候補したのですが、慎重派と反対派の投票数を合計すると、推進派への投票数よりも多かったのです。
そこで、町民はむしろ原発には反対なのではないかという思いを持った、巻町に長年住んでいる有志たちが、「住民投票で巻原発をとめる連絡会」を立ち上げ、自主管理の住民投票に取り組んだのです。
そうした取り組みの過程は、折原さんの論文に詳しいですが、住民が主役になれば、いろんなことができることがわかります。

しかしなぜ巻町ではこうしたことが成功したのか。
そこが昨日の話し合いの論点の一つでした。
私は、その最大の理由は、巻町にはまだしっかりしたコミュニティ、人の繋がりと自然とのつながりがあったことだと思っています。
そのことは、折原さんの報告からも読み取れる気がします。

他にもさまざまな要因が考えられます。
折原さんの報告には、住民たちが「事実」を知るにつれて変わっていったことが書かれています。
それも大きな理由だったと思います。
事実を知ることで、人の意識と行動は変わってきます。
それが、私が湯島のサロンを続けている理由の一つです。

原発という大きな問題だったから、住民投票にまで行ったのかという問いかけもありました。
巻町では、その後も、新潟市への合併を巡って住民投票が行われたそうです。
近隣に葬儀場やごみ処理場ができることで住民が動き出すことは、むしろ多いですから、原発という大きな問題だったことよりも、原発誘致と自分たちの生活の繋がりを見えるようにしていったことが、住民運動を実現した理由のような気がします。
集団的自衛権のような問題は、なかなか私たちの生活とのつながりが見えてきませんから、当事者意識を持ちにくいという意見も出されました。

巻町の住民投票は、原発問題として取り上げられることが多いのですが、私はむしろそうではなくて、住民が当事者意識を持って動けば、大きな流れでさえ変えられるということを示した事例として捉えています。
「与えられたまちづくり」から「創りだすまちづくり」へと変えていけるのです。
これに関しては、3月19日に「まちづくり」の公開フォーラムを予定していますので、関心のある方はぜひご参加ください。
継続してフォーラムを開催していく予定です。
http://cws.c.ooco.jp/info1.htm#170319

巻町の住民投票活動は、たぶん巻町の住民たちに大きな変化を起こしたと思います。
私の関心はそこにあります。
当時、巻高校の高校生は、生徒会で原発誘致に関しての投票までやったそうです。
それを体験した高校生は、いまどうしているか。
そこに大きな関心があります。

まちづくりも、国政も、どんどん住民や国民の手を離れだしているような気がしますが、それは自治体や政府が悪いからだけではないはずです。
その気になれば、そして動き出せば、流れは変えられる。
その貴重な体験をした巻町の教訓から、私たちはたくさんのことを学べるはずです。
いつか、巻町の元高校生を呼んで、公開フォーラムができないかと思っています。
あるいは折原さんに頼んで、一度、巻町訪問ツアーを企画できないかと思っています。
そしてそうしたことの中から、実践的な活動が始められないかと思っています。

いつものように、偏った報告になりましたが、西坂さんが記録してくれていますので、もしかしたら報告の記録はお伝えできるかもしれません。

折原さんの誠実な報告に感謝します。
なお、折原さんは「脱原発社会への展望」と題した4部作を同人誌に載せています。
もし読まれたい方がいたら、ご連絡ください。
折原さんと相談したうえで、PDF版をお届けします。
できれば、折原さんはそれを出版したいと考えていますので、どこか出版の相談に乗ってくれそうなところがあればご紹介ください。


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2017/02/04

■世界をどう認識するか

前にも何回か書いたことですが、世界の構造をどう認識するかで、世界の風景は変わってきます。
最近のトランプ現象も、たぶん少し変わって見えてくるでしょう。
TPPの問題もそうですが、世界の構造の把握によって、その評価基準は反転します。
非常に荒っぽい言い方をすれば、1%の視点で見るか99%の視点で見るかということです。
あるいは、マネタリー経済の視点で見るか、サブシステンス経済の視点で見るかです。

昨日の朝日新聞の「異論のススメ」で、佐伯啓思が「グローバリズムの時代に保護主義は本当に悪か」と書いていましたが、私もかなり共感できるところがあります。
世界の経済環境がこれほど大きく変わっているのに、なぜかまだ「自由貿易」信仰が多いのは不思議です。
そもそも「保護」とは「何かを何かから守ること」ですが、その2つの「何か」をきちんと理解して、保護貿易を語っている人はいるのでしょうか。
しかも、世界の構造は変質しています。
人々の生活を豊かにするための経済の成長や発展は、いまや資本の増殖のための経済成長になってきています。
貿易障壁をなくすことが、人々の生活を豊かにするとは限らなくなっています。
それは、経済行為がいまや文化や生活と切り離されてしまったからです。
自由貿易という時の「自由」とは、誰にとっての「自由」か。
そうしたことをわかりやすく可視化してくれたのがトランプ大統領です。
もっともトランプ大統領もまた、自由貿易主義者でしょうが。

自由貿易論も、保護貿易論も、その目的は人々の生活を豊かにすることだったはずです。
その原点に戻って考えなければいけません。

世界を、個人を主体として考えるか、客体として考えるかで、その構造は全く違って見えてくるでしょう。
私たちは、そろそろ、「個人の尊厳」を起点にして、世界を構想する時代に来ているように思います。
そういう思いでトランプの発言を受け止めると、そこに時代の流れへの大きな異議申し立てを感じます。
多くの報道はトランプの言動を「人権無視」と捉えているように思いますが、ほんとうにそうなのか。
これまでのオバマ政権はほんとうに「人権尊重」だったのか。
トランプ騒動は、そういうことを考える絶好の機会ではないかと思います。
これまでの枠組みで考えずに、枠組みそのものを考えることも、時に必要ではないか。

私の場合、その起点は常に個人の尊厳です。

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2017/02/01

■都政とトランプ政治よりも安倍政治をしっかりと報道してほしいです

最近のテレビ報道は、都政とアメリカの話題に覆われています。
日本の国政の問題は、中心にはなっていないようです。
都政もアメリカの国政も大切でしょうが、私にはそれ以上に国政の動きが知りたいです。
しかし、多くの人は、そうではないのかもしれません。
そこから感じられるのは、いまや政治さえもが消費されるべき事件でしかないのだということです。

豊洲問題や小池知事と都議会の対立はドラマのように面白い話ではあります。
しかし、豊洲などは最初から本来築地の転居先にはなり得ないところですし(だから面白い物語になったわけですが)、議会と首長の対立はよくある瑣末な話です。
しかし、そうした話題が、ニュースショー的な番組で面白おかしく。詳細に報道されていて、しかもそこにコメンテーターという人たちが事情通のような解説をしていますが、それがどうしたという話ばかりです。

アメリカのトランプ発言はどうでしょうか。
相変わらずマスコミやコメンテーターは、反トランプの偏見に基づいて、酷評していますが、私には、トランプ大統領がやっていることは、日本の国政に比べて、それほど大きくおかしいとは思いません。
むしろ、問題の原点に戻って考えるという意味では、健全ささえ感じます。
たしかに人種差別的な大統領令には、共感できないものも多いですが、それとて今の日本の安倍政権やかつての野田政権がやっていたことと、そう大して違わないように思います。
沖縄や福島を見ていると、そう思わざるを得ません。
トランプ政権を批判する前に、まずは自分の国の国政をきちんと報道してほしいものです。

アメリカの最高裁判事の人事まで、日本では大きく取り上げられていますが、そもそも日本の最高裁の判事のことなどきちんと報道したり話題にしたことなどほとんどないのに、何でアメリカの新しい判事の良し悪しまで評価するのか、私には理解できません。
まあそうした都政とアメリカの政治に多くの人たちの目を向けさせている裏で、日本の国会は何を議論し、政権は何を進めているかが心配です。
沖縄はどうなっているのでしょうか。
共謀罪はどうなるのか。
安倍首相は海外に大盤振る舞いを続けていますが、国内の低所得者層にも少しは振舞ってほしいものです。
大学の学費の高さを知っているのでしょうか。
仕事がない若者たちの実態を知っているのでしょうか。
テレビももっとしっかりとした問題意識をもって取材し報道してほしいです。
ニュースはショーではないのです。

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2017/01/31

■2つのリーダー

塩野七生さんの「ギリシア人の物語Ⅱ」を読みました。
第2巻のテーマは「民主主義の罠」。
本の帯に書かれているように、「黄金時代を迎えたアテネの崩壊の足音を手繰り寄せたのは、民主制に巣食うポピュリズムだった」ということが、とてもわかりやすく書かれています。
まるで、いまの世界を描いているような話になっています。
非常に面白かったのですが、なにか割り切れないものが残りました。
本書を読んだ多くの読者は、民主主義に対する評価を大きく減じてしまうのではないかという気がしたのです。
民主主義への信頼感を強く持っている私も、いささかアテネ市民の身勝手さにうんざりしました。

しかし、問題は、市民そのものではなく、市民を扇動する人です。
なぜ人は、人を扇動するのか。

私もある時、一緒に講演した人から、佐藤さんはアジテーターですね、と言われました。
意外な指摘でしたが、たしかに私は、議論よりも行動が大切だと思っていますし、同時に行動するためには議論が必要だと思っていますので、私の話はいささかアジテーションになっているのかもしれません。
ちなみに、その時のテーマは、ソーシャル・キャピタルの話でした。

先日、企業関係者の研究発表会に参加しました。
私がとても共感できる発表があったのですが、隣で聴いていた大学教授がその発表者に関して、アジテーターですね、と感想を話してくれました。
私には、思ってもいなかったコメントでしたが、こういう話もアジテーションなのかと思い知らされました。

塩野七生さんは、「ギリシア人の物語Ⅱ」でこう書いています。
「デモクラツィア」(「民主(衆)政治」)と「デマゴジア」(「衆愚政治」)。いずれもギリシア人の発明になる言葉だが、一見するだけならば別物の政体のように見える。だが、この2つともが「衆」が主役であることに御注意を。
最高決定権は「民」(demos)にあるという点では、民主政治も衆愚政治もまったく変わらない。
「デモクラシー」と「デマゴジー」とは同じコインの裏表で、簡単にひっくり返る。

たしかに、「デモクラシー」と「デマゴジー」を区別するのは難しい。
さらに塩野さんは、民主政でも衆愚政でもリーダーは存在するが、そのリーダーの性質は違うと言います。
民主政のリーダーは民衆に自信を持たせることができる人。
衆愚政のリーダーは民衆が心の奥底に持っている漠とした将来への不安を、煽るのが巧みな人。
つまり、前者は「誘導する人」、後者は「扇動する人」。
コインの表になるか裏になるかは、リーダーによって決まるというわけです。

プラス面に光を当てながら先導していくリーダー。
マイナス面をあばき出すことで不安を煽るアジテーター。
現在のリーダーである、トランプ大統領と安倍首相はどちらでしょうか。

ちなみに、塩野さんは、「今日ならば、デモの指導者もマスコミもウェブも、自覚していようがいまいが、には関係なく、立派に「デマゴーグ」(扇動者)になりうる」とも書いています。
さて、私はどちら的な生き方をしているのでしょうか。
本書を読んでから、少し悩んでいます。


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2017/01/29

■2つのエピソード

塩野七生さんの「ギリシア人の物語Ⅱ」がやっと発売されました。
毎年年末の恒例行事が、塩野さんの本を読むことですが、今年は年初発売になり、今朝届いたので、読みだしました。
読み終えたかったのですが、いろいろあって、残念ながらまだ第1部しか読めていません。
しかし、その第1部の最後にあるペリクレスのエピソードは、とても示唆に富んでいます。
簡単に紹介するとこんな話です。

ある時、公務中のペリクレスに付きまとって、口汚く非難を浴びせつづける市民がいた。彼は、夜遅くになって公務が終わって、灯りで道を照らす召使を一人連れているだけのペリクレスに向って、批判・非難・中傷の数々を浴びせつづけた。家に帰り着いたペリクレスは初めて口を開いた。それは、男に向けられたのではなく、召使に命じた言葉だった。「その灯りを持って、この人を家まで送り届けてあげるように」。

ペリクレスはいうまでもなく、民主政治と言われる時代のアテネのリーダーで、「ギリシア人の物語Ⅱ」のテーマである「民主制の成熟と崩壊」の、成熟時代の主役です。
この話を読んで、もう一つ思い出した話があります。
韓国の禅僧の法頂さんが書いていた話です。

ある日、人里離れた山寺の老和尚が、夜中に用を足し、戻りがけに後ろの方に人の気配を感じた。みると、そこに、米蔵からお米を一俵盗み出して背負ったものの、その重さで立ち上がれない泥棒がいた。老和尚は後ろに回って泥棒がもう一度起き上がろうとした時、そっと押してあげた。やっと起き上がった泥棒がひょいと後ろを振り返った。 「何も言わずに背負っていきなさい」 老和尚は泥棒に低い声で諭した。翌朝、僧たちは昨夜泥棒が入ったと大騒ぎをしていた。でも老和尚は何も言わなかった。 それ以来、その夜のお客様はその山寺の熱心な信者になったという話である。

私が考える民主主義の理念は、老和尚の生き方です。
ペリクレスにもあこがれますが、私にはアテネには民主政治はあっても、民主主義はなかったと思っています。
ペリクレスは、ソクラテスと会いながらも友人になれなかったことも、塩野さんは本書で説明してくれています。
それを読んで、法頂さんの本を思い出したのですが。

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2017/01/28

■自分ファーストの風潮

昨日のブログの最後に、

アメリカファースト、都民ファースト。
貧しい時代になってきました。
と書きました。
そういう風潮に合わせて、「取り戻し」の動きが高まっていることが不安です。

私は、人の本質は、他者をおもんばかることにあると考えています。
それは、人に限らず、生命の本質だと思っていますが、その本質の揺らぎは、人が「死」を認識した時から始まったのかもしれません。
つまり、個体の死が、生命の個体化を意識化させ、そこから私利意識が始まった。
人が、その「死」をむしろ支え合いや思いやりにつなげてきたのは、これもまた生命の本性から出たことだと思っています。

それはともかく、生物的にはひ弱な人類が、生き残れてきたのは、「支え合い」によるものだということは、多くの人が語っていることです。
いま話題の「サピエンス全史」の著者は、アフリカ大陸の一隅で捕食者を恐れてほそぼそと暮らしていた「取るに足りない動物」だった現生人類が、地球を支配するに至ったのは、多数の見知らぬ者どうしが協力し、柔軟に物事に対処する能力を身につけたからだ、と書いています。
もしそうであれば、「支え合いの知恵」こそが、私たちの拠り所です。
そして、私たちはその知恵を時間をかけて制度化し、社会化してきました。
しかし、それを最近の「ファースト志向」は壊そうとしている。
トランプ大統領と小池都知事は、私には同じに見えていますが、それを多くの人が支援していることは、驚きです。

「○○ファースト」ブームです。
「アスリートファースト」という言葉が象徴していると思いますが、だいたいにおいて、「○○ファースト」と言っている人は、その「〇〇」ではなく、それを利用している「よこしま」人が多いように思います。
しかし、その「○○ファースト」に、「○○」の人たちはだまされてしまう。
そして、時代の風潮として、「○○ファースト」、つまり、自分たちのことだけしか考えていないという、生命らしからぬ考え方が広がりだしたということです。
いささか大仰に言えば、ホッブスの「万人の万人に対する闘争」が始まったのです。
まさに、余裕のない、貧しい時代を象徴しています。

自然は、すべての生命に自らを提供している。
最近の異常気象が引き起こす自然災害を見ると、自然は恐ろしいと考えてしまいましが、それは「人間ファースト」発想によって、私たちの生活を成り立たせてしまっている結果かもしれません。
自然には、悪意があるとは思えません。
支援災害を起こす、その自然のエネルギーが、同時にまた、私たち生命に、あるいは人間に恩恵ももたらしてくれます。
東北の津波被災地に、防波堤を造り上げるのと、メキシコとの国境に壁をつくるのと、私には同じ行為に見えてしまいます。

「自分ファースト」志向は、物事の一面しか見ない、短絡的な姿勢です。
一昔前に、「啓発された自己利益 (Enlighten Self-Interests)」という言葉がはやったことがありますが、利己と利他は時間軸や空間軸を広げていけば、結局は同じものに行きつくはずです。

他者をおもんばかる生き方が、どれほど豊かなものであるか。
私たちは、それを忘れているような気がしてなりません。

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2017/01/27

■“you, the people”と “we, the people”

また少し時間に追われてしまい、書き込みが滞っていました。
前回、書き残したトランプ大統領のスピーチの “to you, the people”という言葉に関連して少しだけ書きます。
国民を,“you, the people”と捉えるか、“we, the people”と捉えるか、という問題です。
ここにはトランプ大統領の大きな世界観を感じます。

トランプ大統領は、こう話しました。
We are transferring power from Washington, D.C. and giving it back to you, the people.
政権を、ワシントンD.C.から、あなたたち人民に取り戻している、という意味でしょうか。
その文脈の中で、トランプ大統領はどこにいるのか。
私にはそれがとても気になるのです。
トランプさん自身は、the peopleには入らない。
もうひとつ気になるのは、では「だれから」取り戻したのかということです。
アメリカには、the peopleではない、誰かがいるということでしょうか。

アメリカで一時期、「オキュパイ・ウォールストリート(「ウォール街を占拠せよ」)」という動きがありました。
1%と99%の対立です。
これは、アメリカ国内を超えて、世界的に広がっている構図ではないかと思います。
かつては、水平的な国家間の対立構造が、今ではグローバルな空間の中での、1%と99%の垂直的な対立構造へと、世界の構造が変わってきていると私は考えていますが、そういう見方からすると、トランプ演説は政権の主役を1%から99%の人民に取り戻したという意味合いにも感じられます。
私は、トランプさんは今は大金持ちであろうとも、たぶん本性においてはまだ99%から完全には抜け出ていない人だと思えるのですが、そう考えると、トランプ大統領のスピーチはなんとなく納得できるのです。
そして、彼が“we, the people”と言わなかったことにいささかの哀れさを感じてしまうのです。
彼は、“we, the people”といわなかったことにおいて、まさに99%の人であることを示唆しているような気がします。

取り戻すということでは、安倍首相も似た言葉を発していました。
「日本を取り戻そう」です。
これは、トランプ演説以上に、主語も目的語もありません。
ですから意味不明ですが、しかし実際には明確な意味を示唆しています。

いずれにしろ、安倍首相やトランプ大統領の関心は、取り戻しです。
アメリカファースト、都民ファースト。
貧しい時代になってきました。

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2017/01/23

■リンカーンクラブサロン「わたしたちの声を政治に届けるにはどうしたらいいかパート2」の報告

昨日、「わたしたちの声を政治に届けるにはどうしたらいいかパート2」のリンカーンクラブサロンを開催しました。
参加者は10人でしたが、議論は盛り上がりすぎて、3時間たっても終わりませんでした。
今回は、普通の人の声を集めて社会に発信していく仕組みをつくりたいというニコさんの呼びかけから話し合いが始まりましたが、話題は広がり、現在の日本の政治の裏話のような話まで出てきました。
私には驚愕するような話もありましたが、納得できる話もありました。

最初に問題になったのは、「電力自由化の後、原発の電力を新電力会社にも請け負わせようという経産省の提案」の話です。
ニコさんは、原発事故によって生じたコストまで新電力会社に負担させるのはおかしいと考えていますが、これに関しては賛否両論がありました。
話しているうちに、結局は、原発をどうするかという話ではないかということになり、ドイツや台湾・ベトナムの話も出ました。
まだまだ私には知らないことがたくさんあります。

そこからなぜか、日本政治の裏話のような話題になってしまい、私には少しついていけなくなったのですが、予定調和などとは無縁のサロンですから、それがまた刺激的でした。
いろんな話がありましたが、何しろあまりに刺激的な話が多かったもので、うまく報告できません。

私の関心事で言えば、「主権者教育」ってなんだという問題提起に共感を持ちました。
主権者を教育するのは、一体誰なのか?
どう考えても私には理解できない話ですが、そもそも「主権者教育」などという言葉が使われている風潮に違和感を持っています。
かつての消費者教育の時にも感じた違和感です。
この言葉をいつか話題にしてサロンをしたいものです。

ちなみに、問題提起者の小室ニコさんは、みんなの声を書名で集めて、ネットで世界に発信していきたいという思いをお持ちですが、ご自分がネットが得手でないので、ネットの得意な人に応援してもらえないかと希望しています。
もし一緒にやろうという人がいたら、あるいはそういうことに関心を持ってくれそうな人がいたら、ぜひ小室さんに連絡してください。
私に連絡してもらえれば、つなげます。

なお次回のリンカーンクラブは、2月19日(日曜日)、新潟巻町での原発建設を巡る住民投票をテーマに、折原さんに報告してもらい、住民投票(国民投票)の意味を考えられればと思っています。
詳しい連絡は別途させてもらいます。

20170122


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■2つの民主主義

先日のリンカーンクラブのサロンでも話したのですが、リンカーン大統領の「人民の、人民による、人民のための政治」という理念には、2つの考え方が包含されていると思います。
「人民の、人民による政治」と「人民のための政治」です。
それが一致するのが一番望ましいでしょうが、実際にはそれはとても難しい。
なぜなら「人民」という概念が、あまりに包括的であいまいだからです。
そこで、私は2つを別に考えたほうがわかりやすいと考えています。

「人民の、人民による政治」は、政治を執行する主体が「人民」ということです。
いわゆる直接的民主主義で、これこそが、本来的な民主主義の理念ではないかと思います。
衆愚政治とかポピュリズムという言葉が、最近は否定的に使われますが、人民が主役であるならば、まさにそれこそが「人民の、人民による政治」です。
そもそも衆愚という言葉自体が、人民を対象化した捉え方で、人民とは違った「賢い存在」があるという前提に基づいています。
先日のリンカーンクラブの公開フォーラムで、「愚民」という言葉が「学者」や「有識者」から発せられましたが、そうした発想を持つ人には、「人民の、人民による政治」は恐ろしい発想でしょう。
もし民主主義に価値を少しでも置くのであれば、人民を信頼しなければいけません。
不都合な人民を「愚民」と言って排除する発想は、民主主義とは真逆な発想です。

「人民のための政治」は、政治の目的が「人民の幸せ」だとする政治です。
政治の主体は、そこでは問題になりません。
王が民衆の幸せを目指す善政を行うのであれば、それは「人民のための政治」です。
民主主義の理念を、個人の尊厳の尊重と捉えるのであれば、これもまた民主主義の一つと言っていいと思います。

「人民の、人民による政治」が、必ず「人民のための政治」になるとは限りません。
多様な価値観を持ち、多様な立場にある「人民」は、まさにその多様性のゆえに、政治の主体(主役)と客体(対象)はそう簡単にはつながらないからです。

おそらく多くの人は、「人民のための政治」を求めているように思います。
自らが政治の主体になるよりも、自らを幸せにしてくれる人に政治を託したいと思うのは、合理的な判断です。
それは決して「愚民の判断」ではありません。
そしてそれもまた立派な民主主義だと思います。
ただ代表になった政治家が、「人民のための政治」から逸脱しないようにする仕組みが必要であることは言うまでもありません。

しかし、ここにも大きな落とし穴があります。
「人民のため」とは何か、「人民の幸せ」とは何かという問題です。
この点に関しての議論はあまりありませんが、最近話題になっているユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」には、その問題意識があります。
著者は、その本の最後にこう書いています。

私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。

私はその問いかけに全面的に共感します。

私自身は、「人民の、人民による政治」のほうに民主主義の本質を感じています。
それは「幸せ」ということをどう捉えるかということにもつながっています。

トランプ大統領の就任演説にこんな言葉がありました。

We are transferring power from Washington, D.C. and giving it back to you, the people.

私は、この最後の“to you, the people”という言葉が、とても気になりました。
これについては明日また書こうと思います。

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