カテゴリー「政治時評」の記事

2019/11/12

■「守る」ことは大切ですが、そこからは何も生まれてきません

私が住んでいる我孫子市はいま市議選の最中です。
昨日、帰宅時に我孫子駅でNHKから国民を守る党が選挙運動をやっていました。
黄色いジャンパーを着た若者たちがチラシを配っていました。

私はアニメの「ミニオン」が大好きで、黄色い服を着た集団が好きだったのですが、昨日から黄色い服を着た集団が嫌いになりました。
駅から自宅への道々、なんだか悲しい気分になり、暗い夜を過ごしました。
どうしてこんなかわいそうな若者たちが増えているのでしょうか。
香港の若者のように、ビジョンを持って立ち向かえないのか。
若者たちがもはや主体性を持たなくなってしまった時代になってしまったのだろうか。

N国党が目指しているのは国民からNHKを守ることではないかと私は思っていますが、なにやら「自民党をぶっ潰す」といって自民党を守った小泉さんを思い出します。
小泉政権から日本は奈落の底へと向かいだしていると思っている私は、こういう動きがますます広がることの先を思うと暗たんたる思いになります。

 これから「朝日新聞から国民を守る党」や「共産党から国民を守る党」など、「〇〇から国民を守る党」といった群れが増えてくのでしょうか。
そのうち、「先生から子どもたちを守る党」とか「親から子どもを守る党」も出てくるかもしれません。

「守る」ことは大切ですが、そこからは何も生まれてきません。
そして「守る」姿勢で生きている先にあるのは、守れなかった世界しかないでしょう。
まさに「茶色の朝」がやってくる。
そう思うと黄色も茶色も似ています。

「NHKから国民を守る党から国民を守る党」をつくらないといけないのかもしれませんが、それではミイラ取りがミイラになってしまい、もはや流れは変えられなくなる。
知性がどんどん失われていく世界に生きていると、やはり人類は退化局面に入ったとしか思えません。
今西錦司さんやミシェル・フーコーのことばを思い出さずにはいられません。

12月の「茶色の朝」シリーズのサロン(BMSサロン)は22日(日曜日)を予定しています。
また案内させていただきます。
社会を黄色、いや茶色一色にしないように、忙しい人にはぜひ参加してほしいです。

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2019/11/06

■我孫子市の市議会議員選挙における私の投票方針

来週から私が住んでいる我孫子市の市議会議員選挙が始まります。
そのおかげで、毎日のように自宅のポストに立候補予定者のチラシが入ります。
今日も外出から帰宅したら、ちょうどポスティングしていた立候補予定者に会いました。
私の知らない現職の人でした。
選挙の直前になってやってきても、まったく意味もないし、チラシなど無駄の極めです。
直接会いに来る人も少なくありません。

知り合いも何人かいますので、誰かに荷担するのも難しいので、市議選は態度をあいまいにしています。
事務所開きにもお誘いを受けても行きません。

しかし明確な方針は2つあります。
まずは国政の政党の支援を受けている人は絶対に私は投票しません。
これまでもせっかく応援していたのに、結局は国政政党に入ったために支援をやめたこともあります。

日本の基礎自治体の議員制度は、私にはまったくおかしく思えます。
一昨日、「行動する田舎」というフランスで行われたシンポジウムに参加した金子友子さんからフランスの基礎自治体の議員や市町の話を聞きましたが、報酬にしても議会のあり方にしても日本は実に異様です。
まして、そこに国政政党にぶら下がった人(というよりも手先でしかありません)が立候補するなどは私には論外です。
もう少し基礎自治体とは何かを勉強しろと言いたいです。
しかし、国家政党につながれば選挙は非常に有利になるのです。

今回の我孫子の市議選には、N国党からの立候補もあります。
とんでもない話だと思いますが、隣の柏市では当選してしまいました。
市民の意識もおかしくなっているともいえますが、しかしそれも市会議員があまりに何もしていないからでしょう。
市議会や市会議員がどんな状況になっているのかの証左でもあります。

もう一つの私の投票方針は、選挙の時だけ挨拶にやってくる人は除外するということです。
そういう人は当選した後、音信不通になりがちです。
選挙とは関係ない期間には、メールを送っても、何の返信もない人も少なくありません。

その2つの基準からすると、今回の投票対象者は2人しかいません。
そうなると、1票ではなく2票欲しい気がします。
さて悩ましい問題です。

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2019/10/30

■雨男発言と身の丈発言

またまた国家議員の発言が問題になっています。

議員の失言に国民の関心を向けることで、肝心のことから目を反らさすのは、与野党を問わず国会議員の好きなことですが、野党党首の発言を聞いていて、ほんとうに彼らの政治感覚を疑いたくなります。
そもそも国会は本来、「知恵を出し合う」場であって「言い争い」の場ではありません。
そんなことに大事な時間を使ってほしくはありません。

またそれに乗じて、問題を「表層的な」次元で終止させてしまうマスコミにもいつもながら失望します。
問題は、「言葉」ではなく、それが表象している政治の原状です。

雨男発言は、確かに被災された人には不快感を与えたかもしれませんが、私がもし被災者だったら、そんなことよりも実際の支援活動の遅れや責任逃れに終始する森田知事の発言のほうこそ不快に思うでしょう。

身の丈発言は、30年前から講演などで、「分をわきまえる」生き方から抜けでましょうと話していた私としては、賛成はできませんが、それ以上に私が話していたころもほとんどの人は私の発言には共感してくれていませんでしたから、「言葉」はともかく、多くの大人たちはみんなそう思っているのだろうと感じていますので、与党の政治家が相発言しても、まったく違和感はありません。

それに今でも、「身の丈に合った生き方」を勧める人は人生の「先達」は少なくありません。
それにそもそも、そういう考えの政治家を選んで評価していながら、そんな発言を大問題にする人の無責任さにこそ怒りを感じます。

また誤解されそうな表現不足の文章ですが、問題は「言葉」ではなく、たとえば今回は発言の契機になった大学入試制度の設計思想です。
さらにはその根底にある「政策思想」であり、政策立案を担っている人たちの人生観です。
そこに焦点を向けなければ、何も解決しません。

いや、萩生田発言は、その制度設計の思想を言語化し可視化してくれたと捉えるべきであり、「失言」ではなく「名言」と捉えるべきではないかとも思えます。
野党も国民も、むしろ萩生田さんに感謝して、制度をよくする方向に変えていく契機にすべきなのです。

ついでに言えば、「雨男発言」も、雨男を大臣にしてはいけないという教訓にして、雨男は大臣にしないような教訓にすべきです。
これはちょっと蛇足でしたが、でもいろんなことを示唆しているようにも思います。

身の丈発言は、まさに現在の政治の思想を象徴しています。
つまり格差を是認し、社会階層を固定化する教育をしていこうということですから、萩生田文部科学大臣は素直にそれを発言し、世論を誘導しているわけで、決して「失言」などではないのです。

こういうことはこれまでも何回か繰り返され、失言問題として謝罪と時に辞任さえありましたが、世論を誘導し国民を教育するうえでは効果を発揮していると私には思えます。
一方でタテマエのスローガンを掲げ(一億総活躍、女性の活躍…)、一方ではこうした形でその意図を無意識のうちに繰り返し働きかけて世論を誘導するのは、いまの政治の常道です。

言葉論争に巻き込まれるような愚は避けるべきであり、むしろ失言問題ではなく、肝心の入試問題や文科行政方針を問題にする政策論争にしてほしいです。
そこまでいかなければ、結局は安倍政権の意図に利用されるだけでしょう。
立憲民主党もまた結局は自民党の応援政党になってきていると思えてなりません。
安倍政権を倒したいなら、基本的な姿勢を変えなければいけません。

道化役の政治家の「失言」の向こうにあるものに、目を向けて、それを可視化し、国民に呼びかけてほしい。
高校生たちがせっかく立ち上がっているのですから、高校生たちと共に共闘してほしい。
大切なのは、萩生田さんを問い詰めることではなく(以前の大きな問題でさえ問い詰められなかったのですから)、政策や利権がらみの教育制度を変えることです。
そのためには、国民の力が不可欠です。
そこに呼びかけることをしなければ新しい政治は始まりません。
いまの野党にはその気はないのでしょうか。

人の失言をあげつらう国会にはもうあきあきです。

 

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2019/10/15

■「こんな国にしたい」スケッチ

一昨日開催したリンカーンクラブ研究会で、参加者各自が自分の思う「こんな国にしたい」を出し合いました。
そこで私が発表した内容を紹介します。

スローガンは「安民豊国」。
そこに住む人の表情が明るく輝いていて、国土が豊かなこと、そして世界に向けて、開かれていること、という意味です。
日本の明治政府は「富国強兵」を国是にしましたが、それをもじっての、そしてそれへのアンチテーゼとしての「安民豊国」です。

「豊」は、経済的豊かさではありません。
多様性を活かし合う寛容さと他者や他国を支える余裕を意味しています。

その理念を支える、あるいは現実化する具体策の一部を例示します。

ベーシックインカムによって誰でもが生活を保障されている。
国民の所得格差は一定限度(たとえば5倍以内)を設け、それを超える部分は税としてみんなで活用する。
義務教育制度は廃止する。
原発は可及的速やかに廃止し、地域単位でのエネルギー自給体制を基本とする。
消費税は廃止し、所得を基本にした応分税制にする。
国会議員は1期(4年)が限度で、毎年定期的に1/4を入れ替える。
国民は20代に1年間の行政職就任を経験する。
政党制度は廃止する。
統治権者としての総理大臣は直接投票で選ぶ。

ルーティン的な政治課題はできるだけAI化を進め、人間の価値観が大きく影響する課題は国民投票によって決める。
基礎自治体の議会は廃止市、誰もが参加できる公開タウンミーティングを基軸に置く。
基礎自治体は3万ユニット以上に区分する。

行政文書は原則公開。
土地所有権の制限(総有制の導入)。
労働の義務の廃止。

米国基地は認めない。
自衛隊は生活安全のための活動(たとえば災害救助)に従事し、万一の時(実際に誰かに攻撃された場合を指す)は国防軍の核になる。
ある基準以上の飲酒運転者は免許永久剥奪。
賭博類一切禁止。
NHKは税金で賄うが、放送内容も含めて国民参加をとりれた経営を行う。

公職のマイナス給与化。
NPOへの公的補助の廃止。

それぞれきちんと説明しないと誤解されそうなこともあると思いますが、私の考える「安民豊国」をイメージしてもらうためにランダムにあげてみました。

 

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2019/09/24

■日本に共和党が誕生したのをご存知ですか

元民主党議員だった首藤信彦さんと鳩山友紀夫さんが書いた「次の日本へ 共和主義宣言」(詩想社新書)を首藤さんからもらいました。
新たな政治システムを実現するための実践宣言の書です。
こうした動きが出てきたことに大きな期待を感じます。
しかも、その理念が「共和主義」というのはうれしい話です。

私は、以前から書いているように、共和主義者です。
そのきっかけは大学4年の時に見た映画「アラモ」です。
テキサス独立運動の中で行われたアラモの砦の攻防戦を描いた映画です。
そこで、ジョン・ウェイン演ずるデビー・クロケットが、「リパブリックと聞いただけで心が躍る」というセリフに感動したのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/05/post_b721.html

以来、そういう生き方を大事にしています。
トクヴィルの「アメリカの民主主義」にも、リパブッリクの精神を感じます。
残念ながら、いまは大きく変質していますが。

2016年に民主党が解体した時の新しい名前に、「民主共和党」を提案したことがありますが、残念ながら「共和」は誰も使いませんでした。

http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2016/03/post-f9c1.html

そんなこともあったので、大きな期待を持って、早速読ませてもらいました。
首藤さんは、前書きでこう書いています。

民主党政権の蹉跌と崩壊を身をもって経験し、その後に襲来した時代錯誤のような保守復古路線と、無策な経済運営を続ける自民党安倍政権そして、それをただ傍観しながらひたすら自己の保身に終始する野党勢力のつくり出す、劣化した政治カオスのなかで7年間考え続けた成果である。

そして本編は、次の文章から始まります。

令和元年9月吉日 我々は停滞、腐敗、無力の既存政党、旧態政治を離れて、新しい政治活動集団を組織する。其の名称は「共和党」とする。

つづいて、共和党の国家目標やそれを実現するための新たな政治システムが紹介されています。
共和党は、国家の目標として、国民の幸福の実現を掲げます。
そしてその実現のために、正義・美徳・卓越・友愛の4つの公準を提案しています。
国家目標や国家体制につづいて、具体的な政策が体系的に紹介されています。
さまざまな問題や議論への目配りがされていて、しかも実践的でわかりやすく、共和党の目指すことがよくわかります。
いまの政治状況の問題を踏まえて考えられているので、新しい政治を考えるテキストとしてもお薦めできます。
気軽に読める本(新書)ですので、ぜひ多くの人に読んでほしいと思います。

と、こう書いたうえで、勝手な私見を書きます。
期待が大きかった反動かもしれませんが、私にはいささかの物足りなさが残りました。

私が共感したのは、次の文章です。

日本を窮状に追い込んでいるのは「富国」にある。
その富国を可能にするものこそが、「成長」である。

これまでの日本は、明治維新以来の「富国強兵」を国是にしてきましたが、それこそが問題だと指摘しているわけです。
とても共感できますし、ここから政治の議論を始める姿勢にも共感します。
明治維新時にも、「富国強兵」に対峙して「富国安民」が議論されていましたが、この共和党は「富国有徳」を標榜しているようです。
それを読んで、ちょっと腰が引けてしまいました。

政治のパラダイム転回の時期に来ていると考えている私には、やはり従来型の「近代国家」スキームでの議論にいささかの物足りなさを感じてしまったのです。

せっかく、「富国」や「成長」が問題だと指摘しながら、「富国有徳」と「富国」を第一に語っています。
せめて「安民富国」と発想を変えてほしかった気がします。
成長に関しては定常経済を「健全」としていますが、そこでもやはり基準は金銭経済のようであり、新しい「成長」概念への発想の転回はあまり語られていません。

私は、そろそろ「国家」から発想する政治や経済ではなく、生活者個人を起点として発想する政治や経済へと視点とベクトルを180度転回すべきだと思っていますが、本書で言う共和政治はどうもそこまでは想定していないようです。

さらに、「政治の目標を人間第一主義(ピープル・ファースト原理)に定める」とあるように、時代錯誤的なものも混在していて、現在の政治との違いがあまり見えてきません。
正義・美徳・卓越・友愛の4つの公準も、「友愛」をのぞけば、いずれも私には危険な「プラスチックワード」です。

こう書くと私は本書の提案に反対しているように感ずるかもしれませんが、そうではありません。
現実の政治状況を変えるには、改善型の活動もあってしかるべきですし、革命的な活動があってもいいと思っています。
これまで湯島で、新しい政治や経済をテーマにしたサロンもやっていますが、パラダイム転回のような話はほとんど伝わらないことも体験しています。

本書にはさまざまな論点や具体的な提案が含まれています。
現在の政治状況を概観し、問題意識を高めるには、いい材料が山積みです。
こういう、新たな提案の書がどんどん出版され、そうした本に基づいて議論が広がることで、政治は変わっていくはずです。

ネットには、「共和党の広場」ができていて、広く参加者をもとめています。
http://kyowa-to.jp
本書を読んで、もし共感したら、参加してみてください。

首藤さんには叱られるような紹介になってしまったかもしれませんが、まあ私の性分としては仕方がありません。
これを読んで、毎年1回だけやっている私のサロンは、今年はまた政治を取り上げようと思いました。

 

 

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2019/09/13

■社会保障への懸念

こんな記事が目につきました。

安倍首相は第4次内閣発足の記者会見で、社会保障改革について「社会保障全般にわたる改革を進める。令和の時代の社会保障の制度を大胆に構想していく」と述べ、全世代型社会保障検討会議検討会議の初会合を来週にも開催する考えを示した。

社会保障制度の構想変革を安倍政権の手に任せることに、大きな不安を感じます。

それはともかく、最近、社会保障政策にもいささかの懸念を感じています。
湯島では、「贈与」をテーマにしたサロンを継続的にやっていますが、「贈与」の概念が大きく変わりだしているのが気になっているのです。

フランスの人類学者のモーリス・ゴドリエが20年以上前に書いた「贈与の謎」と言う本があります。
難解で、私にはあまり消化できないのですが、その本を最近また読み直しました。
その本にこんな文章が出てきます。

日本では、贈与交換の慣行が千年紀にもわたって伝統的に社会のあらゆる階層で尊重され、各人の人生で重要な役割を演じてきた。人生の大事件(誕生、結婚、家の新築、死亡等)や新年、中元、歳暮には、贈り物が欠かせなかった。

つまり、贈与は「人のつながり」と一体なのです。
私がイメージする贈与の基本はこういうことなのですが、最近はこの慣行もなくなりつつあります。
代わって盛んになっているのが、社会保障です。

社会保障は、国家による国民への贈与です。
それは国民によって形成されている国家の重要な役割です。
しかし、注意しなければいけないのは、それは個人の事情とは無縁に脱人格的に行われがちなことです。

モースの「贈与論」以来、贈与は返礼を義務化するとされています。
ゴドリエは、「受贈者は、贈与者の債務者となり、ある程度まで、少なくとも与えられた物に《お返し》をしない間は従属していることになる」と書いています。
つまり、贈与は「負債」を創出するのです。

いいかえれば、社会保障は国民を負債者にしていくというわけです。
とても考えさせられる話です。
負債者は、なかなか主体的・自立的に言動できなくなりがちです。

NPO活動をしている友人からこんな主旨のメールをもらったことがあります。

昨今の社会では、統治者から評価されることを自らの地位の向上や実利と考えて、統治側に寄ることをいとわないことが多い。NPOでも同じことが起こります。行政の末端(委託事業、委員会メンバー等)になったほうが有名になり経済的に安定します。

その方は、そうした誘惑に抗いながら、真摯に活動されていますが、個人としてはともかく、組織としては難しい問題でしょう。

「贈与の謎」にはこんな文章もあります。

社会を再構成し、溝を埋め、亀裂を修復するのが国家の役目のはずだが、国家はその仕事を十分に果していない。まさにこの矛盾と無能の結節点から、今日新たにあちこちで、だんだんと贈与に訴える状況が生じてきている。
この状況から、広く贈与と分配の的となる《住所不定の》個人が増えている。贈与の需要が供給を呼びおこし、ついで組織化されはじめる。思いやり食堂からスーパーマーケットの募金まで、寛大で連帯愛に満ちた潜在的贈与者に、直接現金ではないまでも、そのお金で買ったものや自分の消費に予定していたものの分配を要請する無数の《慈善》組織が現われてきた。

そういう状況は、いまの日本でも広がっています。
そして、それは政府による「社会保障制度」とも深くつながっています。

社会保障といわれると、その内容も吟味せずに、多くの人は歓迎します。
しかし、それによって失うものも忘れてはいけません。

ちなみに、私が大切にしている「布施」は、「純粋の贈与」とも言われています。
私の理解では、贈与と布施は主体が違います。
「贈与」は贈与者が主役ですが、「布施」は受贈者が主役です。
行為の意味は真逆なのではないかと思いますが、なかなか見えてこないことが多いのです。



 

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2019/08/28

■老後の生活費が2000万円不足するという発想

公的年金の将来の見通しを示す年金財政検証の結果が、昨日、厚生労働省から発表されました。
テレビや新聞でその内容が報道されていますが、それを聞いたり読んだりしても、何がなんだかさっぱりわかりません。
というよりも、わからないように発表したり報道したりしているのではないかとさえ勘ぐりたくなります。

今回の消費税増税のやり方もそうですが、何が何だかわからなくしてしまって、考えたり反論したりするのをあきらめさせるのが、最近の政府のやり方です。
それを未消化のまま、報道するマスコミやキャスターには驚きます。
話していて、書いていて、おかしいと思わないはずはないのですが。

それはともかく、私が一番気になっているのは、金融庁審議会報告書をきっかけに騒がれ出している「老後の生活費が2千万円不足する」という世間の動きです。
テレビでもそれを前提に番組が組まれ、多くの人がそう考えてきているようですが、そこにこそ、私は大きな違和感を持ちます。

老後の生活費が不足するのであれば、その格差をどう埋めればいいのか
その問題が、すぐに「不足する2000万円をどうやって確保していくか」という問題にすり替わってしまうことに違和感を持つのです。
これではまるで、餌をもらって生きている家畜の発想です。
そういう生き方を変えればいいだけの話なのではないか。

そもそもお金がなければ生きていけないようになったのは、たかだかこの数十年の話です。
私はそういう社会こそがおかしいと思っています。
お金がすべてのいまの社会はおかしいという人は、私の周りにも少なくありません。
そうであれば、その「おかしな生き方」を捨てればいいだけの話ですが、そういう論を説く人に限って、生き方を変えようとはしていないようにも感じます。

最近では、人間が、生活者ではなく「(お金の)消費者」になってしまった。
これに関してはこれまで何回か書いてきていますので、繰り返しませんが、そういうお金を基準にした生き方から抜け出さない限り、生活は取り戻せません。

そもそも、本当に不足するのは2000万円なのでしょうか。
お金があれば、老後の生活は安心なのでしょうか。
解決すべきは、老後の生活をどう豊かにするかであって、2000万円をどう確保するかではないでしょう。
問題は、2000万円不足するということではなく、保証された年金額でどう豊かな生活を維持できるかではないでしょうか。

豊かな生活は、金銭だけでは実現しません。
にもかかわらず、金銭だけに依存している今の生活を見直すことの方が大切ではないか。
多くの人がそういう考えを持ち出せば、社会もまた変わっていくでしょう。

大切なことは、金銭への生活依存度を最小化していくような生き方の見直しではないのか。
問題は老後の生活ではなくて、いまの生活なのです。

お金から自由になると、たぶん生活は豊かになります。
しかし、時間はかかるでしょう。
私の場合は、20年以上かかってもまだお金からは自由になれていません。
しかし、不十分でも自らが納得できる方向に向かって、少しでも動き出さねば、何も変わりません。

ちなみにいま2000万円あれば、湯島のサロンもずっと続けられるので、2000万円は欲しい気もしますが。

 

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2019/08/23

■韓国のGSOMIA破棄に素朴に思うこと

韓国がGSOMIA(日韓軍事情報包括保護協定)の破棄を発表したことが大きな話題になっています。
軍事で平和を目指そうという考えに拒否感がある私には、素朴に共感できる話ですが、どうもそういう捉え方は非常識のようです。

北朝鮮と韓国の関係は、たぶん当事者でなければ分からない話でしょう。
自分たちが望みもしなかった代理戦争で、分断国家にされて、北と南とで生き別れになった家族にとっては、一番の「平和」は、家族一緒に暮らせることだと思います。
南北の戦争が起こらないことが確信できれば、軍事など無駄な話です。
南北の戦争が起こらなければ(あるいはその危機がなければ)困る人もいるでしょうが、私は、自分は部外者であるとしても、起こってほしくありません。

昨今の日韓関係の報道情報は、やはり私には違和感があります。
日韓政府関係と日本人と韓国人の関係とは全く違う話ですが、それがいつも混同されてしまい、前者が後者に大きな影響を与えるのが残念です。

逆にもっと日本人と韓国人が往来しあい交流を深めたら、状況は変わるでしょう。
むかしは、日本と韓国は同じ生活圏にありました。
そもそも同じ生活圏で生きていたことを思い出したいものです。

 

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2019/07/22

■政治に新しい風は吹き出すか

昨日の選挙は、投票率の低さから状況は変わらないのかと思っていましたが、まさかこれほど「変わらない」とは思っておらず、投票結果が報じられだして30分でテレビを見るのをやめました。

今朝、早く起きて、テレビをみていましたが、まあ全く変わらなかったわけでもありません。
感じたことを2つだけ書きます。

まずNHKから国民を守る党が議席を得たのには驚きました。
ここまで来たかという感じです。
今朝のNHKでは、各党の代表が選挙結果に関する意見表明を報道していましたが、2人の当選者を出したれいわ新選組の代表の山本太郎さんが取り上げられなかったのにも、ここまでやるかと思いました。
N国党の立花さんはちゃんと登場して感想を述べていました。
もう一つは、やはり山本太郎さんが起こした風のことです。

香港やアラブやフランスと違って、マスコミは一切無視したこともあって(中国の報道と同じです)、大きな風にはなりませんでしたが、間違いなく、風は起こりました。
原発反対や安保法制反対の時の国会前の動きとは全く違います。
ともかくも「政党」という持続的な仕組みとして動き出せるようになったということです。
生活者が主役になり、生活が起点になる政治が始めて動き出すということです。
立憲民主党も、生活者を主軸にした政治と呼びかけていますが、所詮はいわゆる「参加型」であって、政治家主役の統治起点の枠組みの中にあります。
活動の主舞台は国会ですから、要するに政権与党と本質的には変わりません。
与党に対する野党であって、言い換えれば、いまは与党ではないだけの話です。
それが何を意味するかは、先の民主党への政権交代ではっきりと示されました。
唯一、鳩山さんだけが、政治を変えようとしていたと思いますが、政権交代と政治の転回を十分に整理できていなかったのだと思います。

しかし、山本太郎さんの活動は、政権交代ではなく、政治のコペルニクス的転回です。
「れいわ」とか「維新」とかいう概念に呪縛されてしまったのは、山本さんの限界でしょうが、新しい動きにはそうした「失態」は必然的に付随してきます。
しかもそれにもまた価値があるともいえます。

 私は最初、山本太郎さんが議席を失うとこの政党は無力化するだろうと思っていましたが、むしろ政治のコペルニクス転回を前提にして考えれば、代表は議席を持たない方がいいのかもしれないとやっと思い至りました。
山本太郎さんは「限界」などなく、もっと大きなものに動かされているのかもしれません。

 風が大きくなるかどうか。
これからです。
あんまりがっかりせずに、関心を持ち続け、できることを見つけて、めげずに生きようと思います。

 

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2019/05/23

■善く統治されるか悪しく統治されるかによって、我々の生活は違ってくる

政治家たちの暴言がつづいています。
そこに現在の日本の政治状況の実相を感じますが、最近読んだデイヴィッド・ミラーの「はじめての政治哲学」の冒頭に、14世紀に描かれた「善き統治と悪しき統治の寓意」と呼ばれているフラスコ画の話が出てきます。
ウィキペディアでその絵を探してみました。
1枚は「善き統治」、もう1枚が「悪しき統治」です。

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デイヴィッド・ミラーは、政治哲学とは何であり、なぜ政治哲学が必要なのかを理解するには、この絵をじっくりとみる以上にいい方法はないといっています。
この図から、善き統治と悪しき統治が人間の生活の質に深く影響を与えることが読み取れると、ミラーは書いています。
なるほどと思い、今朝もこの絵をじっくりと眺めていたのですが、私にはあんまり読み取れません。
やはり14世紀のヨーロッパとは異質な文化に生きている私には、理解できないのでしょう。

ミラーはこの絵からいささか強引と思えるのですが、次の結論を引き出します。

我々が善く統治されるか、もしくは悪しく統治されるかによって、我々の生活は本当に違ってくる。政治に背を向け、私的な生活へと退却し、我々が統治される仕方は自分の私的な幸福に大した影響を与えないだろう、と思い描くことはできない。

そういわれれば、納得できます。
「我々が統治される仕方」は、私たちの生活を大きく決めているのです。

ちなみに、この絵は、シエナ市庁舎内のサラ・デイ・ノーヴェ(9人の間)の壁画だそうです。
当時、シエナは9人の裕福な商人からなる評議会が統治する共和主義政体でしたが、評議会の人々はシエナの民衆に対する責任を思い起こさせるために、そして自らが行う共和制への誇りのために、この絵の前で統治を行っていたのです。
間違いなく、当時のシエナには、善き統治が行われていたのでしょう。
そして、それを支えていたのが、シエナの民衆だったのでしょう。

政治家たちの暴言がつづいているのは、日本の現在の政治状況、つまり統治の実相を象徴しています。
日本の政治家にも、この絵をじっくり見てもらいたいですが、その前にまず、私たちも私的な生活に退却して、政治に背を向けることだけは避けたいものです。
日常化してしまった政治家の暴言の根っこは、たぶん私たちの政治感覚にあるのでしょう。
「令和」であんなに騒いでいる人たちを見ると、つくづくそう思います。

シエナでは、評議員のためにフラスコが置かれましたが、いまの日本では国民のために「令和」と言う言霊がかぶせられてしまいました。
なんだか先行きが決められたようで、さびしいです。
しかし、ミラーはこうも言っています。
統治の形態は大衆にも選択の余地がある、と。

政治を語り合う「茶色の朝」シリーズのサロンをまた再開しようと思います。

 

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