カテゴリー「NPO時評」の記事

2009/07/15

■ボランティアとは権力や金銭に惑わされない姿勢

会社を辞めてNPOを創りました、という人が時々やってきます。
でもよくよく聞いてみると、会社で取り組んだ方がいいのではないかと思うようなことも少なくありません。
あえてNPO法人にしなくてもいいと思うことも多いですが、なぜかみんな法人格を目指します。
手段である法人格が、目的になっていることが少なくありません。
私は、法人格を取得することは純粋さの放棄だとさえ思っていますので、相談があってもよほどのことがなければ法人格取得は勧めません。
国家のお済付けをもらうような姿勢がある限り、現状維持のためのサブシステムにしか成れません。
そういう人は、ミッションが曖昧ですから、所詮は時間つぶしでしかありません。

「ボランティア」という言葉も、その使い方に違和感があります。
「ボランティアでやっています」という言葉は、「無償でやっています」という意味であることが多いようです。
そもそも「ボランティア」とは「自発的」という意味であって、無償かどうかは無関係のはずですが、日本ではどうも「無償=ボランティア」というイメージがあります。
ボランティアの人に謝礼をやろうとすると、怒る人がいるという話を聞いたことがあります。
そういう人もまた、お金を基準に考えているわけで、私には卑しい金銭主義者に見えます。
「ボランティア」という言葉を発する人は、現状維持のために奉仕しているだけなのかもしれません。
それは悪いことではなく、むしろ評価すべきだろうとは思いますが、私にはほとんど興味はありません。
その姿勢では、私的行為の世界を超えることはないからです。

以上は、私の独断的考えです。
ボランティアとかNPOとかに、どういう役割を見出すかは、人によって全く違うでしょう。
しかし、いずれの言葉もあまりに安直に使われている現状には反発を感じます。
だからあえて意地悪く、上記のように考えたくなるのです。
私の考えは、特異かもしれません。

ある本で、「ボランタリーということは、権力からも営利発想からも自由であるということだ」と読んで、とても共感しました。
それ以来、私のボランティアの定義は、権力や金銭に惑わされない姿勢ということにしています。
NPOに関しても、この考えを延長させて考えています。

政党も、広義にはNPOだといわれることがあります。
しかし、少なくとも日本の政党は、権力と金銭がその組織原理のすべてかもしれません。
国民もまたそれを受け容れています。
ですから、「友愛」という理念を打ち出した民主党をみんな馬鹿にしたのです。
友愛は、権力や金銭とは別の次元のものです。
しかし、今回の無様な政局の動きを見ていると、権力と金銭に呪縛された政治家の惨めさが良く見えてきます。
そして、その向こうに、権力と金銭に汚染されつつある市民活動の姿が見えてくるような気がします。
法人格の目指すところは、友愛に支えられたコンヴィヴィアルな世界ではないのです。
そんな組織に、未来は託せません。

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2009/05/21

■社会の組み立て方のパラダイム転換

昨日、市民社会フォーラムというのに参加しました。
増田元総務大臣が「地方自治と市民社会」をテーマにお話しし、その後会場との質疑応答がありました。
お話を聴いていて、問題はやはり社会の構造原理をどうとらえるのかということではないかと、改めて思いました。
簡単にいえば、社会の構造を「統治の視点」で考えるか、「暮らしの視点」で考えるかです。

自治というのは、本来、「暮らしの視点」での発想ですが、明治以来の日本の「自治」は「統治」の視点で考えられているように思います。
増田さんの話はとても誠実でしたが、やはりこれまでの「統治の枠組み」で語られていたように思います。
そこからは市民社会の論理は出てきません。

ところが、質問に応えながら、最後に増田さんは、これからはコミュニティをベースにして社会を組み立てていくのがいいというお話をされたのです。
コミュニティ、つまり「暮らし」から組み立てる社会像と「統治」のための分権型の社会像は、まったく正反対のところに位置するものだと思っている私にとっては、仰天するような話です。
もし近隣コミュニティを起点にして社会を構想するのであれば、まさにパラダイム転換しないと制度は構築できませんし、生活次元に向けての「分権」発想は出てこないでしょう。
選挙マニフェストも、いまのような目線の高いものにはなりません。
増田さんは、マニフェストを「住民との契約」と定義しましたが、これは統治、あるいは王様の論理です。
近代政治思想の出発点はいうまでもなく、社会契約論にあるわけですが、その契約を縦軸で捉えるか横軸で捉えるかによって全く違ったものになります。
昨今の「協働のまちづくり」は縦軸ですから、分権論議と同じく、構造を変えるものではありません。
行政内部の横の協働、住民同士の横の協働がないままに、各論的な縦軸の協働ができても、パラダイムは変わりません。
長年続いた「住民参加」と同じく、住民の暮らしの視点からは無意味な取り組みです。

増田さんの誠実なお人柄とビジョンをベースにしたら、おそらく新しい市民社会論が構想されるように思いましたが、やはり発想のパラダイムが近代の呪縛、あるいは統治の呪縛に陥っているような気がしました。

フォーラムには若い学生がたくさん参加していました。
若い行政職員も参加していました。
彼らが、いま育ちつつある、住民同士の横のつながり、市民同士の横のつながりの動きに気づいていくことを願っています。
アタリやネグリが展望している新しい動きが、少しずつですが、動き出していることに、救いを感じます。
分権論議が、それを邪魔しなければいいのですが。

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2009/05/03

■自己実現の落とし穴

先日、地元のNPOネットワークの集まりに出たことはCWSコモンズに書きましたが、そこで千葉県のNPO担当の人が、NPO活動には「サービスの提供」と「参加する人の自己実現」という2つの役割があると話しました。
NPOの2つの役割。
前に紹介した田中弥生さんは「サービスの提供」と「参加する人の市民性の向上」と言っていますが、「自己実現」と「市民性の向上」には雲泥の差があります。
その集まりでも、私は一言述べておきましたが、真意は伝わったでしょうか。

「自己実現」
よく使われる言葉であり、私も一時期、それにプラスの価値を与えていました。
しかし最近、その言葉にどうも抵抗を感ずるようになってしまっています。
大切なのは、「自己実現」ではなく「実現しようとしている自己」なのだと気づいたからです。
たとえば先日裁判が行われたJR荒川沖駅周辺での通り魔殺人事件の犯人の行動も、自己実現といえないことはないでしょう。

たばこ総合研究センターが出している「談」という雑誌がありますが、その最新号に芹沢一也さんが次のように語っています。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

生活世界の喪失を補償しようとするセキュリティは、それを実践する過程で一種の快楽を生み出しています。
たとえば、防犯パトロールに勤しむ住民たちは、そうした実践に参加することによって、生きがいや人とのつながりといった、とても具体的な生の充実感を手にすることができる。
その愉悦に満ちた振る舞いが、結果として弱者を排除していくわけですが、しかしながら現在にあっては、そうした住民もいつまで「内部」にとどまれるかはわかりません。
内部と外部を隔てている境界線は、住民たちが信じ込んでいるほど、現在にあっては堅固なものではないのです。
「外部」へと放り出された時、そこは生存への配慮が枯渇した不毛地帯です。
そして、善意と快楽に満ちた監視の眼差しに取り巻かれる。皮肉としか言いようがありません。
この15年間、私はさまざまな市民活動にささやかに関わってきていますが、ずっと感じてきたことを見事に表現しています。
こうした、自分の世界に浸ってしまっている「市民活動家」にたくさん出会ってきました。
彼らが一様に言うのは、しかし、「社会のために」と言う言葉です。
私は「社会のために」とか「社会貢献」などという言葉を自分の行動の説明に使う人にはとても違和感を持ちます。
それは、他者に言われる言葉であって、自分で言う言葉ではないだろうと思うのです。
しかし、私のところに来る人はなぜか、この種の言葉をよく使います。

もっとも、「市民性の向上」という言葉も、「社会のため」とそう変わらないような気もします。
私にとっては、そもそも「市民」などという言葉さえ、まだしっかりと理解できていないのです。
このことに関しては、これから時々書いていこうと思います。
とりあえず、「自己実現の落とし穴」だけを今日は問題提起しておきたいと思います。
その落とし穴に陥っている人が多すぎることに、最近、辟易しているのです。

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2009/04/27

■「自殺のない社会づくりネットワーク」設立準備会がスタートしました

このブログでもご紹介した、「自殺ストップ!自殺多発現場からの緊急集会」が4月25日に開催されました。
予想以上に参加者が増えましたが、さまざまな人が参加してくれたおかげで、とてもいい集まりになりました。
その報告は、私のホームページにも掲載しました。
そこにも書いたのですが、自分の居場所から本音で話せてよかったと言ってくれた参加者が何人かいました。
私たちが取り組んでいるコムケアの集まりは、取り組んでいるテーマが違ったり、立場や職場が違ったりする人たちが、同じ目線で、お互いにケアマインド(共感)をもちながら自由に話し合えることを大切にしています。
それぞれの異質性を尊重しながら、少し無駄な時間も我慢しながら、気楽に本音で、楽しく話しえる場は基調です。
そうした場所が、いま一番求められているような気がします。

コムケアの集まりに参加してくれた人が、ここでは安心して何でも話せるからうれしいといってくれたことがあります。
逆に言えば、そういう場が少なくなっているわけです。
そういえば、昨日はあるNPOネットワークの集まりに呼ばれて参加させてもらいましたが、いささか私の発言が過激すぎたせいか、終わった後、いつもは声をかけてくれる人が何人か声もかけてもらえませんでした。
また友人を何人か失いました。
もっともその反面、新しい人とのうれしい出会いもありましたから、世界は広がりましたが。

緊急集会の後、希望者16人で居酒屋で懇親会をやりました。
実に面白かったです。
元やくざの人や元刑事の人、幽体離脱までしてしまった重篤のうつ患者、看護師やNPO支援プログラムのオフィサー、伴侶を亡くして夢を失った人(私です)やライフワークが見つかって夢をふくらませている若者、就職したてで疲れている人や疲れて休職しだした人、まあ実に多様な人たちが、年齢や立場を超えて、話を弾ませていたのです。

こうした場がもっともっと広がっていけば、社会はきっと暮らしやすくなるでしょうね。
集会でも話させてもらったのですが、「自殺」というとなにか特殊な問題と考えてしまいがちですが、自殺を引き起こすのは、私たちの生き方であり、それが支えている社会のあり方なのです。
自殺問題だけを見ていては、自殺はなくなるはずもありません。
これは、なにも自殺問題に限りません。
すべての問題は、私たち一人ひとりの生き方に繋がっているのです。
私は、そうした考えで、「大きな福祉」の理念の基に、コムケア活動に取り組みだしたのですが、今回のネットワークも結局は、そのコムケア活動と同じことなのです。
人は何をやっても、所詮は一つのことしかできないものなのです。

今回呼びかけた「自殺のない社会づくりネットワーク」は、自殺問題にあまりこだわることなく、私たちの生き方につながる問題として、誰にも開かれたネットワークをめざそうと思います。
誰でも歓迎です。
ホームページに設立準備会へのお誘いがありますので、もしなにかやりたいということがあればご参加ください。
特にすぐにでも参加してほしいのは、ホームページを作成してくれる人です。
お金は手に入りませんが、それとは違う何かあたたかなものが手に入るかもしれません。
どなたかホームページを作ってくれる人はいないでしょうか。
また、お金の使い方がわからないで困っている方がいたら、使うお手伝いはできるかもしれません。

いずれにしろ、秋には、このネットワークを正式に発足させる計画です。
そして、60年後には、だれもが気持ちよく暮らせる社会を実現したいと思っています。
その頃はきっと、私にとっては、来世あたりでしょうから、楽しみです。

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2009/04/20

■NPOの2つのミッション

昨日、討議型コムケアフォーラムというのを開催しました。
私のホームページに案内が出ていますが、
テーマは「NPO活動(市民活動・住民活動)が育む市民性を考える」でした。
3時間にわたる熱心な議論で、私もたくさんの刺激を受けました。

問題提起者は田中弥生さん(「NPO新時代」の著者)です。
田中さんは昨今の日本の社会にかなりの危機感を持っており、その話しぶりにも「思い」を感じました。
田中さんは、NPOの役割には2つあるといいます。
「社会サービスの提供」と「市民性創造」です。
そして最近の日本のNPOの動きは、市民性創造の面が弱くなっているのではないかといいます。
その現われの一つが、寄付活動とボランティア参加者の停滞です。
社会的企業が最近話題になってきていますが、
それに関しても考えるべき点があるのではないかと、いろいろと具体的に話してくれました。
そして最後は、社会サービスとともに「市民性創造」という重要な使命をもった民間非営利活動(市民活動・住民活動)こそが、これからの日本社会を支えていくと締めくくりました。

とてもわかりやすくて、説得力がありました。
田中さんの問題提起に続いて、参加者が自らの体験者を踏まえながら話し合いをしました。
参加者が20人を超えてしまったために、じっくりと議論するまでには至りませんでしたが、刺激的な3時間でした。
田中さんの考えを詳しく知りたい方は、ぜひ「NPO新時代」をお読みください。

田中さんは講演者としてではなく、みんなの話に誠実に耳を傾けてくれました。
コムケアはみんな同じ目線で考えるということを大切にしていますが、
田中さんのような研究者と現場での実践者が仲間として交流できる場がもっともっとあるといいと思いました。

コムケア以外の参加者の方から、NPO活動になかなか人が集められないという発言もありましたが、多分、「集める」という発想に原因があるような気がしました。
価値のある活動は、人を集めなくても、人は集まるのです。
NPO活動、とくにNPO支援活動やネットワーク活動をしている人たちは、ともかく人を集めたがりますが、その発想こそが今の社会を創ってきたことに気づかなければいけません。
そうした拡大成長や形を整える社会で育ってきたシニア世代が、日本の住民活動を壊していかなければいいのですが。

人が集まらないのは、その活動に価値がないだけのことなのです。
それに気づかずに、唯我独尊の活動をしているNPOがいかに多いことか。
気づかないのはいいのですが、集まらないのは住民の意識が低いからなどと考える人が多いのが気になります。
この15年、各地のNPO活動にささやかに関わっていますが、市民性とか社会性が欠落しているところが多すぎます。
人としての付き合いの基本常識さえ欠落しているところも少なくありません。
そんなわけで、NPOに関われば関わるほど、NPO嫌いになってきていますが、それにも関わらずNPOに期待しなければいけないのも事実です。
そんなわけで、私もNPOを創ったりしているわけですので、悩ましいです。

市民性や社会性を育てていくこと。
私もそこにこそ未来を感じています。
昨今のNPOが、それとは違う方向に向いているような気がして、少し心配です。

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2009/04/08

■4つのNPOタイプ

昨日、介護と子育ての分野で活動している人たちをお引き合わせしました。
いろいろな議論がでてきたのですが、一方は子供から、一方は介護から、活動に取り組んでいるのですが、その目指すところはほぼ同じであることをお話を聴いていて改めて感じました。
おそらくそれが「市民活動」の意味なのでしょう。
個別問題に取り組んでいると、必ずその問題を起こしている社会に目が行きますから、問題は近づいていくわけです。
実は、それこそが私が「大きな福祉」で考えていたことです。
しかし、現実のNPOの中には、個別問題に埋没してしまい、社会が見えなくなってしまっているものもあるように思います。

昨日の2つのグループは、ひとつは30年以上前から、もうひとつはできてからまだ10年弱のところです。
その違いも議論を聞いていて面白かったです。
私は第1世代、第3世代と呼んでいますが、目線や社会観が全くといっていいほど違うのです。
どちらがいいとか悪いとか言うつもりはありませんが、その違いはなかなかかみ合わないでしょう。
私は第1世代は「慈善活動」、第3世代は「コモンズ活動」と考えています。
ちなみに、第2世代は「翼賛活動」といっていいかもしれません。
行政が下請けとして作り育ててきたNPOです。
1970年代に広がったコミュニティ政策の中からたくさんのそうした活動が生まれました。
私が一番苦手とする活動です。

市民活動や住民活動は、いま大きな岐路にあるように思います。
金銭至上主義のながれのなかで、自立していくのはとても難しいのです。

昨日の集りには、もう一人、若い社会起業家も参加しました。
その人の考えも、上記のそれぞれと違います。
社会起業家の活動(まだ日本にはあまりないように思います。マスコミが紹介しているもののほとんどは従来型の企業ベンチャーがほとんどです)は、私は第4世代と位置づけていますが、そうした視点からこれまでのNPOの活動を見ると、たぶんその限界と可能性が整理できます。

そうした4つの活動の違いは、たぶん、社会をどう捉えるかに関わってきます。
4時間以上の長い議論でしたが、いろいろなことに気づかされました。

もしかしたら、ここから新しい子育ての動きが起こるかもしれません。
話だけで終わるかもしれません。
少子化が問題になっているのに、誰も真剣に取り組む人はいませんが、誰か取り組む人はいないでしょうか。
昔考えた、ソーシャル・フォスターリズムを思い出しました。

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2009/04/01

■「生活世界の植民地化」

地元のNPOネットワーク関係の方から電話がありました。
大会で行なうシンポジウムへの参加の打診です。
他のパネリストは県と市の職員の方だそうです。
私が入ると混乱するのではないかとお応えしましたが、そのやり取りの中で気になる発言がありました。
まさに昨今のNPOの実情を象徴しています。
念のためにいえば、電話を下さった方はとても誠実な方で、長年の企業勤務を卒業して、地元のNPOのネットワーキングの活動に取り組んでいます。

気になった言葉は次の二つです。
「最近は手弁当で参加してくれる人が少なく、何がしかの報酬がないとなかなか人が集まらない。それで佐藤さんが話していた事業型NPOの話をしてほしい」
「NPO活動の集りなどの動員をしても最近は集りが悪い」

実は以前も別の方から同じような話を聞きました。
こうしたことに関してはもう10年程前に各地で話題になったことでもあります。
我孫子の市民活動は行政主導できていますから、かなり遅れている感じがします。

最初の意見には、5年前に話した事業型NPOと昨今の事業型NPOとは、似て非なるものと思っていますので、何をいまさらといささか感情的に反応してしまいました。
「手弁当で参加するのが地元での市民活動の基本ではないでしょうか」
「昨今の事業型NPOと地場企業とはどこが違うのでしょうか」
後者に関しては、「動員などという発想を捨てないといけないのではないでしょうか」
「面白ければ、あるいは活動に意義があると思えば、自然と人は集まりますよ」

電話を終えた後、自己嫌悪に陥りました。
せっかく電話してきてくださったのに、失礼な対応をしてしまいました。

私には日本のNPO法への不信感があります。
NPOが開く市民社会は、市場経済や国家統治の世界とは別の活動原理を大事にしなければいけません。
行政の傘下にいる限り、NPOは育ちません。
「社会貢献」などと発想することは、所詮は国家行政(国益)への奉仕でしかありません。
そこには主体性が見えてきません。
ハーバーマスは、自発的な生活世界のなかに、国家の法システムや市場経済をとおした貨幣が浸透してくる状況を、「国家と市場の複合システムによる生活世界の植民地化」と呼びました。
昨今の日本のNPOの実情は、まさに植民地化されたサブシステムのような気がします。

しかしながら、今の社会状況をどうブレイクスルーしていくかと考えれば、私が違和感を持っているNPOにしか期待できないのかもしれません。
少なくとも違和感をもってイジイジしている私よりも、昨今のNPOは大きな役割を果たしています。
批判よりも行動、なのです。
そう思って、いろいろと活動を始めましたが、どうも疲れます。
最近どうも生き方を間違えているのではないかという気がして仕方がありません。

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2009/03/24

■NPO法人「彩経会」が背負わされたこと

入所者10人の犠牲者を出した群馬県渋川市の高齢者向け住宅「静養ホームたまゆら」の火災は、実にさまざまなことを考えさせられる事件でした。
施設を運営しているNPO法人「彩経会」の理事長(84)が、今日、記者会見で陳謝していましたが、見ていて複雑な気持ちでした。
この事件だけをみれば、もちろん悪いのは理事長をはじめとした施設運営者たちでしょう。
彼らをとがめるのは簡単です。
こうした状況は、「たまゆら」だけの特殊事情なのでしょうか。
私にはそうは思えません。
問題はもっと根深く、社会のあり方そのものが象徴されているように思います。
私たちの生き方と言ってもいいかもしれません。
決して他人事とは思えません。
NPO法人「彩経会」が背負わされたことの重さは、かみしめてみることが必要かもしれません。

そうしたこととは別に、もうひとつ感じたのは、NPO法人というものに対する複雑な思いです。
NPO法人は、市民の自発的な組織のように思われていますが、必ずしもそうではありません。
政府は法人化という資格を与えている以上、その活動に関しては当然責任を持つべきですが、私が知る限り、行政が財政支出削減のための事業委託先として創設を働きかけたNPOもあります。
今回のNPO法人がそうだとはいいませんが、NPO法人があまりに安直にもつくられ、しかも大きな責任を付与されていることに違和感があるのです。
私もいくつかのNPOに関わっていますし、あるNPOの理事長も引き受けています。
しかし、NPOの組織原理や事業活動はどうあるべきかが、まだよくわかりません。
今回のような福祉施設の経営は、企業でもできるわけですが、なぜNPO法人として取り組むのかも理解できません。
NPOで取り組みのであれば、その基本には「人のつながり」といった、企業で行なうのとは違ったものになるはずだと思いますが、そうはなっていないようです。

最近は社会起業家とかコミュニティビジネスとかいう言葉が広がり、そうした事業体も増えていますが、これまでの収益志向の企業とどこが違うのだろうかと思ってしまうものが少なくありません。

NPO法人の法律ができたのは10年前ですが、その法律に目的は何だったのでしょうか。
そんなことも、理事長の会見を見ながら考えせられました。
どこかに間違い、もしくは不整合があるような気がしてなりません。

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2009/03/21

■定額給付金の使い方

テレビを見ていると、麻生政権はかなりの善政を行っているような錯覚に陥ります。
定額給付金をもらって嬉しそうにしているお年寄りや有料道路が1000円になったことを喜んでいる若い家族などが繰り返し報道されると、麻生さん本人でなくとも、なんとなく国民は喜んでいるという気になってしまいます。
何しろ国民からの税金を好き勝手に使えるわけですから(三分の二条項の乱用によってですが)楽な仕事です。集めたお金のわずかを大判振る舞いすればいいわけですから。
その一方で、与党の無責任な散財ぶりを批判している民主党に対しては、厳しい目を向けてしまいます。
やはりお金を持っていないとみんなからは好かれないのでしょうか。
昔は「勝てば官軍」などといわれましたが、今は「持てば官軍」なのです。
お金の威力はすごいです。

定額給付金に関しては、早速に詐欺事件が発生し、被害にあったお年寄りもありますが、詐欺まがいのような動きはこれからたくさん出てくるでしょう。
大学教授やNPOの有志が、定額給付金基金なるものを発足させたと言う話もあります。
すでにもう募金した人たちが出ており、マスコミでも取り上げだしていますので、きっとどんどん集まるでしょう。
しかし、ささやかにNPOなどに関わっている私としては、その胡散臭さを強く感じます。
呼びかけ人には私の面識のある人が2人もいるのに驚きますが、やはりそうかと思わざるを得ません。
どこが胡散臭いかは、ホームページを読んでみてください。
胡散臭いと思うのは、私だけかもしれませんが。

NPOにお金が絡みだすといいことはありません。
それはグラミン銀行のユヌスさんがいうように、「堕落への道」を開いていくからです。
投げ銭するように寄付をしてはいけません。
それに最近のNPOの多くは、金銭まみれで付き合っていて楽しくありません。
寄付をするのであれば、きちんと相手の目を見て、効果的に使ってもらえるかどうか見極めなければいけません。
たしかに定額給付金は降って湧いたような「あぶく銭」でしょうが、お金を使う倫理観は失ってはいけません。
そうやって規律を壊していくのが、ばらまき施策の目的だからです。

定額給付金をもらったら燃やすのが一番良いような気もしますが、私は最近、収入がないのでいささかいじましくなっており、燃やす元気がありません。
ちょうどいま関わっているNPO関係のプロジェクト費用が数万円ほど足りないので、それに充当しようかとも思いますが、もし私が充当すると同じく参加している人たちにもそこに寄付しないといけないと思わせるかもしれません。
誰にも知られずにこっそりどこかに寄付する方策もありますが、それもなんとなく抵抗があります。
受け取り辞退という案もありますが、昨今の政府の状況を見ていると、税金さえも払いたくない気分ですので、それも避けたいです。
そう考えていくと、結構、難問ではあります。
さて、みなさんはどうされますか。

なんだか自分の生き方を問われているような気がしますね。
麻生さんが自らの「さもしさ」を露呈したように、私も自らの「さもしさ」に気づかされそうです。

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2009/03/16

■ベンジャミン・バーバーの市民観

「労働から価値をしぼりとる長い期間が続いたため、民主主義をこっそりと盗まれ、姿が見えなくなっていた市民」
市民社会に関して示唆に富む論考を展開しているベンジャミン・バーバーは、国家と企業の狭間で、市民社会を創出していくためにはどうすればいいかをテーマにした著書「<私たち>の場所」で、こういう表現を使っています。
そして、そうした市民が、会社を退職し、自らのための人生を回復した時に、民主主義はようやく彼らを、その担い手として迎えられるのだというのです。
市民社会の主役になれるのは、経済資本への貢献を期待されている人たちではなく、むしろそうした世界からはもはや「必要とされていない」人たちだというわけです。
この視点に立てば、国家や企業に仕えている人たちは、市民社会の担い手ではないことになります。
逆に、シャドーワークの担い手である主婦(主夫)や企業を退職した(解雇された)人たちこそが市民社会を創出していく可能性を持っているというのです。
私が昔から持っていた思いに重なっています。
そうした思いから、私は安直な「女性の社会進出」論には批判的ですし、最近でいえば「女性活用」論にも違和感を持っています。
子供や学生たちはどうでしょうか。
いまや彼らもまた学校や教育産業に取り込まれてしまい、「経済資本への貢献」メンバーになってしまいました。
若い女性たちは携帯電話とブランドファッションに飼われだしているので、これまた民主主義や市民社会には無縁になってきています。
麻生人気や小泉人気は、そうした人たちが支えているように思います。

まただんだん言葉が走りすぎてきましたので、戻しましょう。
「生涯現役」ということがありますが、以上の視点から言い換えれば「生涯隷属」というような意味あいをもっています。
いささか表現がきついですが、要するに視点を変えるとさまざまなものの意味が反転するということです。

政治に関する最近の世論調査を見て、いつも感ずるのは、この数字の意味は一体何なのだろうかということです。
隷属者の意見と主体性を持った市民の意見とは、多くの場合、対立します。
それを足したところで、何の意味があるのかと思うわけです。

国家や企業を支える存在と社会を支える存在の分断は、どこかで逆転するのでしょうか。
最近の私の人間嫌いは、こうしたところに一因があります。

4月19日に、「NPO活動がはぐくむ市民性」をテーマに討議型フォーラムを開催します。
よかったらご参加ください。
定員がありますので、もし参加いただける場合は私にメールください。

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2009/03/09

■「人の幸せは自分の幸せ」

昨日、ぐんまNPO協議会の集まりに参加させてもらいました。
そこでお2人の方からとてもうれしいお話を聞かせてもらいました。

おひとりは会社を定年退職された後、病院などで患者さんに楽しんでもらう活動を始めたのだそうです。
最初は、果たしてみんな喜んでくれているのだろうか、とても心配だったそうです。
ところがある人から、相手を楽しませるのではなく、自分が楽しむことが大切だといわれたのだそうです。
それ以来、気が楽になり、その活動がとても楽しくなったそうです。
もちろんみんなも楽しんでいることが伝わってくるようになったでしょう。

もうおひとりはこれまで13年間、カンボジアの学校の改築活動をされている方です。
ご自分で会社をやっているため、年金は生活には必要ないので、もらった年金を投入して、この活動を続けているのだそうです。
13年前には300万円あれば、校舎が改築できたそうです。
今は500万円かかるそうですが。
毎年1校が目標だそうです。
最初は、カンボジアの子供たちのためと考えていたそうですが、ある時に、これは自分のためなのだと気づいたそうです。
そこからますます楽しくなり、13年も続いてきたのです。
今では仲間も増え、NPOの代表も別の人がやっていますが、その人も含めて、お二人ともとても幸せそうでした。

「人の幸せは自分の幸せ」
私もそんな話をさせてもらったのですが、実際に活動されている方たちは、そんなことなどよくわかっているのです。
しかも心身で実感しています。
NPOの中間組織の人や行政のNPO支援部署の人たちとの温度差をいつも感じますが、「人の幸せは自分の幸せ」だと気づく人が増えてくれば、きっともっと住みやすい社会になっていくでしょう。
しかし、まだ現実は、「人の不幸が自分の幸せ」と勘違いしている人も少なくないのが残念です。

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2009/02/01

■NPOへの資金助成の甘味な罠

一昨日、書き出したのに全く違った記事になってしまったので、もう一度、書きます。

前回、書いたように、「NPOの集まりでは、どこから助成金をもらおうかとかいうお金の話がよくでるのに、コムケアの集まりってそういう話が全く出ないのでホッとします」という感想は、私にとっては最高にうれしい感想でした。
CWSコモンズの方に書きましたが、
私は、お金につかりきった最近の社会から抜け出したいと思っています。
お金から発想している限り、事業型NPOとか社会起業家、コミュニティビジネスなどと言ってみたところで、これまでの企業(企業が悪いというわけではありません)と何も変わりません。
住民活動や市民活動は、そうした金銭の呪縛から解放されないといけないと思っています。
もちろんNPOにしろボランティア活動にしろ、「お金」は大切ですが、お金に振り回されてしまっては、何のための活動かと言うことになります。
お金がなくてもできることはたくさんありますし、お金があるためにできなくなることもたくさんあります。
ですから、NPO中間組織や行政の資金調達講座などには違和感があります。
日本のNPOにはファイナンスがわかるスタッフが不足しているという意見があります。
私もそう思いますし、ファイナンスは大切だと思っています。
しかし、だからといって、資金調達がファイナンスのすべてではありません。

私も数年間、NPOに対する資金助成プログラムの事務局長をやったことがあります。
そこで感じたのは「資金助成の甘味」です。
資金助成したNPOを、私が訪問すると、まるで私が資金援助したように感謝されます。
私たちの助成資金額はそう多いものではありませんでしたが、10万円でも助成されると感謝されてしまうのです。
しかし、私の発想は全く反対です。
助成した資金を効果的に活かしてくれた資金先にこそ、資金提供者は感謝すべきです。
その関係は、本来、その資金を出してくれたスポンサー企業と私たち資金助成事務局との関係でもありますが、それを理解してくる企業はそう多くはありません。

「貧者の銀行」といわれるグラミン銀行の創始者、ムハマド・ユヌスは施しについて次のように語っています。

施しをすることは、貧しい人たちの抱えている問題を無視し、ただ彼らを堕落させるだけだ。
施しをすることは彼らをますます惨めな立場にし、やる気や、もっと大切な、自尊心を奪ってしまうのである。
支援学を提唱している今田高俊さんは、次のように書いています。
支援によって被支援者を甘やかし、かえって本人のためにマイナスの結果をもたらす危険性を持つことに注意が必要である。支援はヒューマニズムに基礎づけられるべきものではない。安易なヒューマニズムは支援にとって邪魔になる。ヒューマニズムは人間の心に訴える力を持っており、慈善活動そのものは賞賛されるべきことがらだが、社会運営の基本原理とはならないことを認識すべきである。
彼は、支援が成立する条件として、「被支援者が支援を当てにして自助努力を損なってはならず、支援者はそのような状況に至らしめる過剰支援を与えてはいけない」をあげています。
今田さんがいうように、支援はエンパワーのためであって、救済のための慈善行為であってはなりません。
支援するほうも、される方も、お金の魔力に負けてしまう恐れがあるのです。

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2009/01/30

■中谷巌教授の懺悔がもし本物であれば

先々週、私が関わっているコムケア活動というNPO関係の人を中心にした集まりをやりました。
その報告はCWSコモンズ(ホームページ)のほうに書きましたが、
群馬から参加してくれた方が帰り際にこういいました。
NPOの集まりでは、どこから助成金をもらおうかとかいうお金の話がよくでるのに、コムケアの集まりってそういう話が全く出ないのでホッとします。

お金を基準に考えるのは企業だけではありません。
今のNPOの多くは、NPOの「有識者」たちの指導を得て、補助金をどう確保するかにばかり気がいっています。
そのことをコムケアのメーリングリストに投稿しました。
そうしたら、よく知っている人からこんなメールをもらいました。
私だけにとどめておくのはもったいないので、一部を紹介させてもらいます。

長年私学に勤めていましたが、助成(私学助成)は私学の教育を縛るもので、本当に良い教育をしようとすると、助成金は減らされることになるんです!
だから日本では本当に良い教育をしようと考えるなら私学助成に頼らないことを考えるしかない。
私は一時期「榛名山麓みどりの大学」構想を打ち出し、大学設立を考えていましたが、真っ先に考えたことは私学助成を必要としない・・・計算に入れない大学を構想していました。ホントの教育をするためでした。この計画は見事に破綻しましたが、今でもこの考えは変わっていません。
NPOを始めて、色々な企画を立ち上げたり構想したりしてきましたが、やはり助成を受けようとすると本当にやりたい・・・必要と思われる活動を薄めて助成団体の意向に沿う企画を作成するしかない。
それをしても助成を受けられるとは限らない。
今では助成金を受けることは念頭外に活動を考えています。
助成を受けるのではなく、同感していただける方々からの寄付を受けられることを中心に考えています。
「榛名山麓みどりの大学」構想。
以前、ホームページでご紹介しましたが、惚れ惚れするような構想です。
同じように、学びたい人たちがみんなで資金を出し合って学びの場を創ろうというプロジェクトも、日本構想学会で話題になったことがありますが、これも残念ながらストップしています。
情報発信力のある教育関係者たちの数名が、本当にその気なれば、いずれもできないことではないはずです。

いま日本の経済政策を主導してきた一人の中谷巌さんが、自らの間違いの気づき懺悔を始めたのが話題になっています。
中谷さんたちのやり方にはかなり学者仲間でも批判がありましたし、ましてや日本の企業経営や経済を少しでも学んだ人から見れば、馬鹿げた発想だと思いますが、今でもその発想に疑問を持たない人が少なくないのが驚きです。
中谷さんたちの影響力は絶大だったわけです。

中谷さんの懺悔は、何をいまさらという気がしますが、その勇気は評価したいと思います。
しかし、ただの懺悔で終わるのではなく、「榛名山麓みどりの大学」構想のような本当の学びの場づくりに取り組んでほしいと思います。
それがなければ、懺悔もまた時流に乗ったパフォーマンスでしかないことになります。

今こそ、しっかりした「学びの場」が構想されなければならない時代になっています。
「榛名山麓みどりの大学」構想がまた動き出すのを期待しています。
どなたかポンと私財を出す人はいないでしょうか。
たかだか数十億で、日本を支える人材が育てられるのですから、安いものです。
中谷さんは出してくれないでしょうかね。
一応、依頼の手紙を出す価値があるかもしれませんね。

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2008/12/04

■豊かになる出発点は、「ありがとう」の一言

アフリカのケニヤのある地域では、相手に何かをしてあげた人が「ありがとう」と言う文化があるそうです。誰かに何かしてあげることができる自分を感謝するとともに、その善行を拒否せずに可能としてくれる相手に感謝するのだそうです。
とても共感できます。

先日の支えあいサロンで、ボランティアの人にお礼をすることの是非が少しだけ話題になりました。
そのときに思い出した話です。
日本では無償行為がボランティアだと考える人が多いです、
そのため、ボランティアの人にお礼をすると怒り出す人さえいます。
お金をくれるようなら、もうやりたくないというわけです。
こういう人は、「お金のため」にやっている人と同じ類の人だろうと、私は思います。
お金に囚われているわけですから。

それに素直な感謝の気持ちとしてお礼を差し出した人に対して、かたくなに断るなどということは相手に対して失礼な態度としか言いようがありません。
ケアマインドが全くないというべきでしょう。
言い換えれば、相手より自分を上に置いていることになります。
そうした人の施しは、目線の高い施しであり、決してボランティアとはいえないと私は思っています。
人からの施しをもらうこともまた施しなのです。

うまく伝わったかどうか心配ですが、ケアとかボランティアとかは、一方的な行為ではなく、双方向的な関係概念だと思います。

最近中断していますが、以前やっていたコモンズ村の通貨ジョンギでこんなことがありました。
ある人がテーマパークのチケットを購入したのに行けなくなってしまいました。
それで誰か行く人はいないかと呼びかけました。
幸いに村民の一人が、孫と一緒に行きたいと言ってくれました。
そこでチケットはその人に譲られたのですが、その取引において、通貨はどちらからどちらに動いたと思いますか。
チケットと一緒に通貨も動いたのです。
つまり、「チケットが無駄になるところだったのに使ってくれてありがとう」というわけです。
そして、同時に、チケットを譲ってもらった方の人も、「使わせてもらってありがとう」と同額の通貨をその人に送ったのです。
詳しくは私のホームページを読んでください。

この取引は、まさに上のケニアの話に通じています。
そして、そうした文化においては、いつか通貨は不要になっていくはずです。

取引手段としての通貨は、本来、貧しい時代の過度的な手段なのです。
目指すのは、「ありがとう」を言い合う文化でした。
しかし、残念ながらその過度的な取引手段が、主役になってきました。
それに伴って、「ありがとう」がなくなってきたのかもしれません。

私は、目線を同じくする人からの施しは進んでもらうようにしています。
そのせいかいろんな人がいろんなもの(こと)をくれます。
ですからお金がなくても、私はいつも豊かなのかもしれません。
豊かになる出発点は、「ありがとう」の一言なのです。

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2008/12/01

■NPO法施行10周年と新公益法人制度のスタート

今日はNPO法が施行されてから10年目です。
そして今日から新公益法人制度がスタートしました。
公益法人制度改革では一時、NPOも含めての議論が行われていましたが、NPOサイドから反発が起こり、別建てでの議論になりました。
私も当時、公益法人改革オンブズマン活動にささやかに参加しましたが、やっている途中でどうもその動きにも違和感を持ち出してしまい、脱落してしまいました。

私もささやかですが、NPO活動や住民運動などにも関わっていますが、こうした動きにどうも関心を持てないのです。
なぜでしょうか。
自分でもわかりませんでした。
しかし、その答が少しわかったような気にさせられるメールを昨日、もらいました。

法人格をとらずに、任意団体で市民活動に取り組んでいる人からのメールです。
ある人から、法人格をとらずに活動しているグループを教えてくれと言われて、彼女を紹介したのですが、その時の感想です。

どうしてNPO法人にならないのか、というご質問でした。
「する必要がなかったから」とお答えしました。
どういう条件があれば、法人格を取りますか? と聞かれ、「思いつかない」とお答えしました。

かえって考えてしまいました。
法人格をとらないということが、そんなにビックリされることなのか…。
何もやらない、めんどくさがりというだけなのに。

事の本質が示唆されているように思います。
私もいま取り組んでいるコムケア活動の事務局をNPO法人にしようかどうか迷った時期があります。
しかしめんどうなので法人化しないままにきています。
法人化したら、もう少ししっかりした活動を展開できたかもしれませんが、組織維持のために苦労したかもしれません。

しっかりした活動をするためには、法人化しなければいけないということはないはずですが、私たちはどうもそう思いがちなのです。
それに一人の市民として、活動するのに、法律などは関係ありません。
そもそも法律に準拠する生き方が蔓延したが故に、コンプライアンス主義とか偽装問題がはびこってきたのかもしれません。
法治国家などというと聞こえはいいですが、要するに自律していない人たちの寄せ集めを秩序化するのが法律ですから、そこにはある種の責任放棄があるわけです。
法律を守っていれば、非難されないなどと言うのは、いかにもだらしない社会です。

それに、そろそろ「公益」などという発想から抜け出なければいけないような気もしますし、NPO、つまり「非営利」などという金銭主義発想からも抜け出たいものです。

またまた暴論めいたことを書いてしまいました。
NPOブームが社会をいい方向に変えてきていることは否定しませんが、何かとても大切なことを見えなくしてしまっているのではないかという懸念があるために、よけいな事を書いてしまいました。
NPO活動に取り組んでいる友人知人から、また怒られそうです。

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2008/10/01

■悲しみの共有、痛みの共有

多田富雄さんと鶴見和子さんの書簡のやり取りをまとめた「邂逅」(藤原出版)という本があります。
このブログに多田さんのことを少し書いたこともあって、思い出して再読してみました。
この本は考えさせられることの多い本ですが、今回、特に心に残ったのが、多田さんの次の文章です。

私は、異なるものは異なるままに、助け合って共に生きるということが、この地球上に人類が長く生きていくためには必要な原理だと考えておりますが、それは今とてもむずかしいことになっております。
その途を開くのは何か、ということを考えてみますと、悲しみの共有ではないか、痛みの共有ではないか。
悲しみの共有、痛みの共有の意味は、私もずっと気になっていることです。
しかし、妻を見送ったこの1年、悲しみや痛みを共有することの難しさを痛感しています。
ビオスとして、つまり理性的に共有することはできますが、たぶん多田さんが考えているのは、もっとゾーエ的な、つまり生命的な、あるいは自然と湧き出すような共有ではないかと思います。
いつか挽歌編で書こうと思いますが、私の場合、「悲しみや痛みの共有」よりも、「共有できないことの悲しみと痛み」を実感させられました。
小泉元首相の「痛みを分かち合おう」などという言葉には、怒りさえ感じます。

多田さんの文章を読みかえれば、異なるものは異なるままに、助け合って共に生きる、ということが難しくなったのは、悲しみの共有、痛みの共有がなくなってきたからということになります。
私もそう思います。
私が取り組んできたコムケア活動は、「重荷を背負い会う関係」の復活でした。
ある集まりで、その話をしたら聴いていた若者が共感して声をかけに来てくれました。
今でもはっきりと覚えていますが、しかし、彼とも結局は重荷を背負いあう関係は育てられませんでした。
彼が悪いわけではなく、たぶん「悲しみ」や「痛み」が多すぎる社会になってしまったのです。
NPOも、その例外ではありません。

しかし、もし誰かと「共に生きる」のであれば、当然、「悲しみ」や「痛み」を共有することになります。
ということは、「悲しみ」や「痛み」の共有がなくなったのではなく、「共に生きる」ことがなくなってしまったということです。
そしてそれこそが、近代の落とし穴だったのではないかと、最近、思い出しています。
ゲーテは「ファウスト」で、そのことを予告していたのでしょうか。

母親の子ども殺害事件に感ずるのは、「共に生きる」ことのなかった親子の悲しさです。
企業不祥事には、「共に生きる」場でなくなった会社が見えてきます。
世界に拡がりつつある金融不安も、「共に生きる」ことのない人たちが起こしているのかもしれません。
今日の国会の代表質問のやりとりも、「共に生きる」ことを好まない人たちのやりとりでした。

北朝鮮の映像を見た感想でも書きましたが、「共に生きる」世界であれば、貧しくてもみんな平安に過ごせます。
その「地球上に人類が長く生きていくためには必要な原理」を捨ててしまったことが、人類の悲劇の始まりだったのかもしれません。
その正否がはっきりするのは、どのくらい先でしょうか。
100年後か、1万年後か、わかりませんが、「共に生きる」ことのない生命の一員であることが、とても残念でなりません。

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2008/08/27

■自分の関心事以外にも目を向けたら世界は豊かになります

昨日、コムケア仲間の喫茶店でのサロンをやりました。
コムケア活動は私が8年前から関わっている「大きな福祉」を理念にした、暮らしやすい社会に向けて活動している人のつながり育ての活動です。
今様にいえば、NPOのネットワーキングといえますが、私の思いはそうではありません。
組織ではなく人のつながりが、私の基本的な関心事なのです。
この仲間の多くは、NPO活動に取り組んでいます。
昨日も半分はNPOをやっている人たちが集まりました。
とても刺激的な集まりでした。
これに関しては、また私のホームページCWSコモンズに書くつもりです。

コムケア活動を通して全国のたくさんのNPOと知り合えました。
しかし、知れば知るほど、私はどうもNPOが好きになれなくなってきました。
そもそもNPO法案が議論されている時から、NPOの制度にはなじめなかったのですが、実際の活動が始まり、どんどん活動が広がるにつれて、違和感は高まる一方です。
その一つの理由は、金銭発想から抜け出られずにいることです
そのために、現体制のサブシステムになってしまい、社会を変革するどころか逆効果になっているようにさえ思います。
昨今、社会起業家なる言葉がようやく市民権を獲得しつつありますが、悪しき企業経営をモデルにしているようなものも少なくありません。
それが悪いわけではないのですが、もっと新しい発想が求められているように思います。

まあそうしたことを書き出すときりがありませんし、
そうした認識は少しずつですが生まれてきているように思います。

私が、NPOが自分たちのテーマに目が行き過ぎてしまっていることも嫌いな理由です。
その上、目一杯がんばっていますから、余裕もないのです。
そうした生き方が、社会を壊してきたと私は思っています。

コムケア活動は、自らを開き、横とつながることを大事にしています。
それぞれのNPOが蓄積してきたノウハウや知見は、できるだけ社会に公開し、他のNPOにも役立ててもらうのがいいと思っています。
しかし、この活動を始めた時に、あるNPOから自分たちが苦労して蓄積してきたノウハウは開示できないと怒られました。
当時も今も、とてもいい活動をしているNPOです。
これまでの相手を潰す競争原理の企業と同じではないかと思ったわけです。
切磋琢磨のための競争はいいですが、勝ち負けを目指す競争は、私は克服したいと思っています。

そこまで利己的ではなく、自らの活動を公開しているNPOも、自分たちを支援してほしいという思いが強すぎるのが、私にはさびしいです。
NPO活動をしている人が、よく相談に来ます。
しかし、多くの人が自分たちの組織や活動の相談ばかりです。
当然といわれそうですが、組織や活動はみんな手段です。
それによって目指すことに立脚して、相談に来る人は残念ながらほとんどいません。

NPOに関わっている人は、発想を変えてほしいです。
自分たちは社会に何ができるのだろうか、を基本にしているのであれば、自分たちの活動から考えるのではなく、社会の視点で考えるのが当然です。
そのために、意識や時間の1割でいいですから、ほかのテーマや活動のために割いてほしいです。
コムケアはそうした人たちの仲間です。
現実は必ずしもそうではないかもしれませんが、コアになっている人たちの意識はそうなのです。
機能の集まりは、そうしたことを少し感じて、とてもうれしかったのです。

自分の時間の1割を自分の活動以外に割く。
そうしたことが、どれだけ自分たちのテーマの活動に役立つか、それに気づいてほしいのです。

偉そうなことを書いてしまいました。
書きたかったことの入り口にやっとたどりついたところですが、長くなったので今回は入り口どまりです。

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2008/06/22

■「千軒あれば共過ぎ」

数日前に、鹿児島県立短期大学の斉藤悦則准教授の論文を読んでいたら、
「千軒あれば共過ぎ(せんげんあればともすぎ)」という言葉が出てきました。
家が千軒もあれば、ひとつの経済圏として、外に頼らなくても自立していける社会になる、
というような意味だそうです。
ネットで調べたら、司馬遼太郎の「以下、無用のことながら」というエッセー集にも出てくるようです。
広島県の福山市は昔「草戸千軒(くさどせんげん)」といわれたそうですが、
千軒とは「まち」を表わす言葉のようです。
共過ぎとは友過ぎとも書くようですが、持ちつ持たれつ世渡りをすること。
つまり、お互いに支え合いながら(需要と供給を完結させながら)生活していくことだそうです。
経済的に言えば、千軒もあれば、商工業もなりたつというわけです。
ちなみに、これは核家族化が進む前の話ですから、
千軒とは人口にすれば、5000~6000人という感じでしょうか。
生活圏としては理想的な規模ではないかと、私は思います。
大雑把に言えば、小学校学区規模でしょうか。
まちづくりに関わってきた体験からも、顔が見える人間的な規模だと思います。
市町村合併ではなく、私は全国を千軒単位の地域社会に分けて、それを下からつなげていくことで、生活立脚の自治体構造ができるのではないかと思っています。
統治のためには市町村合併ですが、生活のためには市町村分割が効果的です。

昨今の日本社会の根本問題は、地域と生活とのつながりの弱まりです。
それを仕組み加速させているのが資本の論理です。
資本の論理などというと、何やら古めかしい印象がありますが、
いままさにそれが人間の世界を壊そうとしているような気がします。
資本というよりも、金融資本というべきでしょうか。
お金は、表情もなくわかりやすいので、結集しやすく合意しやすいのです。
同時に、地域(自然)を超えていますから、文化の違いなどとは無関係にグローバル化してしまうわけです。
いまそうした金融資本が世界を支配しているような気がします。
そこから抜け出るためには、もう一度、土に根ざした暮らしに立脚した、人間のための経済を考えなければいけません。
まずは千軒から発想していくのが効果的です。
社会もまた千軒から脱構築していくべきではないかと思います。

CWSコモンズの週間報告に、昨今の金融商品化社会の流れについての衝撃的な話を紹介しました。
「スモール・コミュニティ」からの社会の脱構築が、そこから抜ける方策に関する私の考えです。

たまたま今日、社会起業家の実践者にして研究者の田辺大さんが、女房への献花にわが家にきてくれました。
田辺さんと久しぶりに社会起業家論を話しているうちに、「千軒あれば共過ぎ」を思い出しました。
社会起業家という場合の「社会」って何なのでしょうか。
その議論が抜けている風潮がとても気になります。

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2008/04/06

■お金がなければ活動ができないNPO

昨日、大阪のNPOの集まりに参加しました。
開催前に発表する団体の人やスピーカーの人たちと打ち合わせも兼ねて食事をしました。
私もその集まりを応援していたため、そこにも参加しました。
集まったのはしっかりした活動をしているNPOに関わっている人たちでした、
一人を除いて、私は初対面でした。

ところがです。
最初に出てきたのが、お金の話でした。
一つの団体が助成金を獲得したので、それが話題になってしまったのです。
NPOとお金の関係には嫌なものを感じている私としては、ちょっと引いてしまう話でした。
休日に自費で大阪にまできたことを後悔しました。
気分が滅入ってしまい、たぶん初対面の人たちに対して冷ややかな会話をしてしまったのではないかと反省しています。

ところで、またところで、なのですが、
その人たちがスピーカーになってのフォーラムは、実に面白かったのです。
お金との関係もきちんと距離感をもって議論が進んでいきましたし、自分たちの活動体験から助成金頼みは駄目だということが説得力を持って語られたのです。
始まる前のお金談義は、大阪ならではの話であり、本当はだれも助成金頼みなど思っていなかったのです。
最近、金銭志向の強いNPO関係者の話に触れることが多いので、私が過剰反応してしまっていたのです。

NPO関係者の集まりには私は基本的に参加しません。
なぜかと言うと、お金の話ばかり出てくるからです。
こから助成金をもらえるか、どうしたら助成金をもらえる申請書が書けるか、そんな話が飛び交う場は、本当にいたたまれないのです。
お金に依存している限り、市民活動は期待できません。
現在のような金銭至上主義の社会のあり方にこそ、ほとんどすべての問題が起因すると思っている私にとっては、市民活動は金銭からいかに自由になるかが発想の根底になければならないのです。
お金がなければ活動できないNPOは、現在の社会を補強する機能しか果たせない。
極端にいえば、私には有害無益の存在です。

それに助成金で活動している組織と付き合っていて感ずるのは、お金の使い方が「自分の財布」とは違うような気もします。
税金を使っている官僚や政治家と同じ匂いを感じます。
そしてそこに奇妙な企業や似非社会起業家が入り込んでくるのです。

かなり過激なことを書いてしまいましたので、NPOに取り組んでいる仲間たちからはまた嫌われそうですが、それが正直な気持ちです。
お金から自由になる活動をめざさなければいけません。
そんな非現実的なことを笑われそうですが、具体的なシナリオはもちろんあります。
いわゆる地域通貨、コモンズ通貨を使えばいいのです。
悪貨は良貨を駆逐する流れの中で、それは繰り返し挑戦し失敗してきた歴史を持っています。
私もその小さな実験に取り組んだことはありますが、入り口で止まっています。
ジョンギです。どなたかやってくれる人はいないでしょうか。
しかし、たぶんまもなく市民セクターは自分たちのコモンズ通貨を持ち出し出すでしょう。そうしなければ市民セクターは自立できないはずですから。

その時にはお金がないからなどという市民はいなくなるでしょう。
昨日のフォーラムで、みなさんの話を聞いていて、改めてそう思いました。
実際に活動していくと、助成金などがどれほど「麻薬効果」を持っているかに気づくのです。
ですから、お金論議をしているNPO関係者はまもなくお金から卒業できるでしょう。
そうなって困るのは、誰であるかは少し考えればわかります。
金融資本主義は早晩破綻するでしょう。
お金がお金を生みだすなどいう不条理が長続きするはずがありません。

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2008/03/25

■新しい公共空間としての喫茶店ルネッサンス

このブログでも案内させていただいた、テーマもゲストもない、参加者がみんなで創りあげるフォーラム(コムケアフォーラム2008)は70人を越える参加者があり、イスが足りなくなってしまうほどの盛況でした。
しかも、参加してくださった方々が、とても居心地が良く、自分の居場所のあるフォーラムだったと言って下さいました。
コムケアセンターのホームページをみていただくとわかりますが、9つのセッションはそれぞれに刺激的で、新しい出会いがたくさん生まれました。
新たな物語も生まれました。

2週間前に決めて動き出した時、本当にやれるのかと心配していた知人は、参加して、こんな形のフォーラムもあるのだと感心してくれました。
そして参加者はみんなともかくよく話していた、まさにこういう場をみんな求めていると思ったそうです。
いま社会から失われているのは、こうした気楽に集まれて話し合える「コモンズ空間」です。

私は15年以上、オフィスを開放したオープンサロンをやっていましたが、そうした全く意味のない空間が社会には不可欠ではないかと思っています。
私がやっている会社の定款には「喫茶店の経営」が事業目的として書かれています。
単にコーヒーを飲める喫茶店ではなく、イギリスやフランスで、近代社会を切り開く拠点になったコーヒーハウスをイメージしていたのです。
少しずつ準備は進めていたつもりですが、5年前に思わぬ人生の変化で、取り組みを中断、昨年、完全に諦めました。

ところが、今回のフォーラムをみんなで考えているうちに、この思いが蘇ってきてしまいました。
そんなこともあって、今回のフォーラムは、最初は喫茶店を借りる計画でした。
それが実現できなかったのは、そうした喫茶店に出会えなかったからです。

今回、このフォーラムを応援してくれた人から、自分たちで喫茶店をやったらどうかと言われました。
お金が無いしと言ったら、それは理由にならないと言われました。
全くその通り、お金を理由にしない生き方を目指しているのに、全くお恥ずかしいことです。

そんなわけで、喫茶店を目指すことにしました。
今回のフォーラムの参加費が約3万円集まったので、それを基金にして喫茶店開店プロジェクトを立ち上げたいとみんなに提案しました。
まだみんなの同意も得られていませんし、3万円で基金とはおこがましい気もします。
しかし最初の一歩は、いつもこんなものでしょう。
もちろん資金の目処はないですが、きっと時代が後押ししてくれるでしょう。

「新しい公共空間としての喫茶店ルネッサンス」プロジェクトのスタートです。
開店の目標は3年後です。
共感してくださる方はぜひ参加しませんか。
お店を提供してくれる方がいたら、教えてください。

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2008/03/12

■NPOの枠を超えたNPOフォーラムへのお誘い

今日は3月23日に開催するNPO関係のフォーラムのお誘いです。
私が取り組んでいるコムケア活動では毎年フォーラムを開催していますが、
いつもそれまでにないような新機軸に挑戦しています。
以前も一度、ご紹介したことのあるコムケアフォーラムです。
これまでも、バザール型やインキュベーション型などいろいろとやってきましたが、
今回はテーマのないフォーラムを、2週間先に開催することにしました。
今回の新機軸は、2週間で創りあげていくスタイルです。

会場は友人が協力して提供してくれましたが、内容は参加者が育てていくというスタイルです。
参加してくれる人がどのくらいいるかわかりませんが、参加者が自由にセッションを企画し、運営するわけです。
こんな無責任なフォーラムはないと、友人たちは全く呆れていますが、
それでも実行委員会のメンバーだけでも10人を超えました。
開催の案内は先ほど、メーリングリストなどで流し出しましたが、内容はまだつまっていないものです。
こうしたやり方は、私の基本的なスタイルですが、これほど日数もなく準備もしないフォーラムは初めてです。
さてどのくらい集まるでしょうか。
スリルがあります。

フォーラムの案内を下記します。
詳しくはコムケアセンターのホームページをご覧下さい。
たぶん毎日変わっていくと思いますが。

もしお時間とご関心があれば、遊びに来てください。
ちなみに、これから全国各地で、コムケアフォーラムを開催していく予定です。
パートナーを探しています。

<コムケアフォーラム2008のお誘い>

誰もが誇りを持って気持ちよく暮らせる社会に向けて、さまざまな活動に取り組む人を応援しているコムケアセンターでは、今年のテーマを「人のつながり」と決め、そのキックオフイベントとして、さまざまな出会いを生み出すフォーラムを開催いたします。

いくつかのテーマにそった「話し合いの場」やミニセッションが用意されていますが、参加された方が自由に情報発信したり、話し合えたりできるような場も用意しています。
このフォーラムから始まる、誰でもが参加できる新しいプロジェクトも発表される予定です。

フォーラムというと「テーマ」が設定されているのがふつうですが、このフォーラムはまさに古代ローマの広場での話し合いのように、集まった人が自由にテーマを選んで話し合い、思いを同じくする人との出会いを生み出すような、テーマのない広場型フォーラムです。
何が起こるかわかりませんし、何も起こらないかもしれません。

多様な人が参加してくれるほど、広場は豊かになります。
NPOやボランティアに取り組んでいる人、
企業の人や社会起業家を目指す人、
学生や研究者など、誰でも参加歓迎です。
何が起こるかわかりませんが、同じ思いを持った人同士の出会いを支援するコンシェルジェもいますので、新しい出会いと新しい物語が生まれるかもしれません。

場所は、東京のど真ん中の日比谷のオフィスビルのなかにある「相創の場」です。
ここは、「多様な人々が集い、相互に刺激し合い、相互に協力し、ビジネス、社会活動を創出する場」として昨年オープンしたところです。
その場所を体験するだけでも刺激を受けるかもしれません。

急なお誘いですが、ぜひご参加ください。
会場でお会いできるのを楽しみにしています。

■日時
2008年3月23日(日曜日)午後1時~5時
■会場
「相創の場」日比谷オフィス

■主なプログラム(スタイルやプログラムはホームページを見てください)
いま予定されているプログラムは下記の通りです。
それぞれのプログラムは基本的に30分、60分単位です。
・企業のCSRって何でしょう(ワークショップ)
・ケアプランから考えるライフデザイン(ワークショップ)
・最近の若者の悩みを知ってますか?(世代間トークセッション)
・アートとまちづくりミニ報告会
・スタンピング平和展(ワークショップ)
・NPOのコミュニケーション問題を解決するSNS
・「きっさろん」(喫茶店サロン)へのお誘い
■参加費
500円
■実行事務局(照会先)
コムケアフォーラム2008実行委員会

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2007/04/24

■コミュニティケアからケアコミュニティへ

このブログでも書きましたが、22日にコムケアフォーラム2007という、
全国の表情を持った全国のNPOの集まりを開きました。
急に決めたにもかかわらず、150人近くの人が集まってくれました。
その準備から当日の様子、またその後の動きなどは、
コムケアフォーラム2007のブログに書かれています。
これからも書き込みがある予定です。
よかったら読んでいただき、ぜひコムケアの輪に入ってください。

私は、その活動の事務局を6年やっていますが、
そこで全国の述900のNPOやボランティアグループの活動にささやかに触れてきました。
そのおかげで、日本の社会の実相を垣間見ると共に、日本のNPOの問題点も見えてきました。
数は増えましたが、9割のNPOは自立していませんし、
自立しようともしていないという気もします。
しかし、新しい社会を創り出そうと健闘している人たちも決して少なくありません。

この活動を始める時に、キーコンセプトを「つなぐ」に決めましたが、
6年間の活動を通して、ケアとはつなぐことだと確信しました。
それも表情のあるつながり方、遠心力を持った開かれたつながり方です。
いまの福祉行政には、そうした視点が弱いですし、多くのNPOもまたそういう発想をもっていません。
それはこの半世紀以上の経済至上主義のせいかもしれません。

かつての日本は「つながりの深い」社会でした。
人と人のつながりだけではありません。
自然とのつながり、文化とのつながり、物とのつながり、過去とのつながり、未来とのつながりです。
その「つながりの文化」は、近代化には不都合な側面がありました。
そのために、私たちはみんなで「つながりこわし」をしてきたわけです。
そして核家族社会や企業社会が生まれてきました。
社会は荒廃し、少子化が進みだしました。
そして、そうした状況に中で、産業はますます広がっているわけです。

そういう時代の流れに、棹をさしたい、というのが、
私がコムケア活動を始めた思いでした。
その活動拠点が、コミュニティケア活動センター(コムケアセンター)です。
しかし、最近、コミュニティケアではなく、ケアコミュニティという発想を軸にすべきだとようやく気づきました。
ケアコミュニティ。
ケアしあう文化の社会。
つながり、支えあう社会。
コミュニティケアとは視点や視野が全く違ってきます。第一、目線が違います。

いま私たちの周りで欠けているのは、ケアの仕組みや行為ではなく、ケアの文化です。
改めて私たちの先代たちが育て守ってきた「つながりの文化」を復活させることが必要です。
それができるかどうか、それによって、私たちの未来は大きく変わっていくような気がします。
全国のさまざまな実践者と話し合って、改めてその思いを強くしました。

今回のフォーラムで、コムケア活動から少し離れたいと思っていましたが、どうもそれは無理のようです。
人生はなかなか思うようにはなりません。

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2007/04/16

■わくわくするほど気に入っている参加費方式

前回、ご紹介したフォーラムに関する話をもう一度させてもらいます。
ちょっと気に入っている新機軸をご紹介したいのです。
この記事はコムケアフォーラム2007のブログにも書いたのですが、ちょっとだけ修正して再録します。

22日のフォーラムの参加費は1000円なのです。
最初は無料の予定だったのですが、実行委員会で無料はだめだとある人が主張しました。
そこで1000円の参加費になったのですが、単なる参加費ではコムケア的ではありません。
そこで新機軸を出そうということになり、会場で出会った共感できる活動に取り組む人に、その1000円を提供できるようにしたのです。
ですから、参加することで、ささやかに「社会参加」できる仕組みになっています。
この仕組みは、ケアップカードで行います。

参加費と引き換えにケアップカードをもらい、それが寄付の金券になるわけです。
しかし、これでは前回の公開選考会の時と同じです。
ちなみに、前回の反省を踏まえて、今回はコムケアセンターへの提供は禁止です。
前回は元締めのコムケアセンターへの寄付が多かったのです。

そこで新機軸の登場です。
もし共感できる人に出会えず、自分のほうが良い活動をしていると考えたら、自分に提供することも可能にしたのです。
つまり「自分への寄付」です。
平たく言えば、参加費は取り戻せるのです。

自分への還元が多いと問題ではないかと思うかもしれません。
そんなことはありません。
自分に資金を提供すると、その分、責任が発生しますので、これからコムケア活動をしたくなるかもしれません。
そうすればコムケアの仲間が増えるのです。
こんな良いことはありません。

そんなわけで、自分に提供する人が多いといいなと思っていますが、たぶんそうはならないでしょう。
何しろ魅力的な活動がたくさん集まるからです。

私は、この仕組みがすごく気にいっています。
みなさんはいかがでしょうか。
1000円を自分に寄付できるかどうか、試しに来ませんか。

いまこのアイデアにほれ込んでいます。
すべての入場料や参加費がこういうようになると、きっと楽しくなるでしょうね。
そう思いませんか。

いや、社会の経済システムが壊れてしまうかもしれませんね。
しかし、NPOはそういうことも含めて、イノベーティブでなければいけない、と私は思っています。
社会を壊すほどに。

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2007/04/15

■新しいNPOのつながり育ての集まりがあります

今日はちょっと趣向の違う記事です。
とても長いですが、ぜひお読みください。

日本のNPOの世界の動きには、当初から違和感がありました。
私は企業と行政が主役の管理主義、経済主義の社会、言い換えれば「公民の社会」から「共(コモンズ)の社会」に向けて、社会は変わっていくことをビジョンにしている人間です。
その視点からすると、日本のNPOは官が育て、経済主義をベースにした、公民の端役になりがちだという気がしていたのです。
そういう状況に、ささやかに新しい風を吹き込みたいと思って始めたのがコムケア活動です。
NPO(その名称が一番違和感のある言葉ですが)の役割や行動原理は別の所にあると思っているのです。
これに関しては、コムケア活動のホームページCWSコモンズにあるコムケア理念をお読みください。

そのコムケア活動も7年目を迎えました。
そこで、改めてコムケアの仲間と一緒に、これからのNPOや市民活動のあり方を考えるフォーラムを開催することにしました。
といっても難しいフォーラムではなく、いろいろな活動に取り組む人たちの、それぞれの「表情」を交換しあうフォーラムです。
そこに企業や行政の人たちにも参加してもらい、新しいつながりを生み出していきたいという思いもあります。
そんなことで1か月前に決断し、4月22日に東京の上野近くの廃校になった小学校の体育館でコムケアフォーラム2007を開催することにしました。
詳しい案内は次のサイトにあります。
http://homepage2.nifty.com/comcare/ccf2007.htm

開催を決意してから全国のコムケア活動の仲間に呼びかけました。
急なことだったので、どれだけの人が参加してくれるか不安でした。
ところが、福岡や山口、福井や大阪など、遠方からの参加も含めて、20を超えるグループが展示に参加。30人近い人が会場で呼びかけを行ってくれることになりました。
うれしい話です。
会場では、ミニセッションもいろいろあります。
スタッピング平和展もあれば駄菓子屋もでますし、対話法のミニセッションもあれば、遠隔地介護のミニサロンもあり、ケアプランづくり体験や異文化体験などのコーナーもあります。
まだまだいろいろあります。

参加者による呼びかけもいろいろ出てきそうです。
昨年、「NPOが自立する日」を出版し、NPOの自立を問題提起した日本NPO学会副会長の田中弥生さんも呼びかけに参加します。
事業型NPOで話題になり、団塊世代問題でもテレビなどで活躍のイーエルダーの鈴木さんも来ますし、新しい社会事業モデルに取り組む田辺大さんも来ます。
交流時間もタップリありますので、いろいろとつながりを広げることができると思います。

参加するのはNPO関係者だけではありません。
大企業の部長も、中堅企業の社長も参加してくれます。
学生も主婦もホームレスも社会起業家も、ともかくいろいろです。

ともかく面白い場になりそうです。
できるだけたくさんの人に参加してもらいたいと思い、このブログでも紹介させてもらいました。
このブログを読んで、もし関心をもたれたらぜひ参加してください。
きっと目からうろこがおちます。

もし参加されたら、会場でぜひ声をかけてください。
一応、私はこの活動の事務局であるコムケアセンターの事務局長なのです。

だれでも歓迎ですので、気楽にご参加ください。まわりの人にもぜひお誘いください。
参加団体の一部を下記します。
もしお会いしたい人がいたら、当日お引き合わせさせてもらいます。

 ○日時 2007年4月22日(日)13:00~17:00
 ○会場 台東デザイナーズビレッジ(新御徒町近く)

<参加予定者の一部>
福祉ビジネス・手がたりの会:新しい事業モデルを創出しだしています
コミュニティアートふなばし:アートのパワーを活かして社会活動をしています
日本対話法研究会:コミュニケーション力を高めるための方法を広げています
NPO法人パオッコ:離れて暮らす親のケアを考える会です。
龍の子学園:先日朝日新聞トップで紹介されたろう者の学校に取り組んでいます
全国マイケアプラン・ネットワーク:介護の世界に新しい風を起こしています
市民活動情報センター・ハンズオン!埼玉:新しいコミュニティビジネスモデル
NPO法人エルマーの会:発達障害児の家族の会です。
NPO法人ふぁっとえばー:障害を持つ人たちが自分たちで働く会社を作りました
NPO法人カドリーベア・デン・イン・ジャパン:ベアドールを活用した活動です。
NPO法人感声アイモ:独特な発声法で、病気や障害の克服を応援しています
共生支援センター:九州で新しい地域コミュニティづくりを進めています
団塊世代プロジェクト:団塊シニアのインキュベーションを支援する活動です
NPO法人デイコールサービス協会:孤独死や独居老人支援の活動です
NPO法人イーエルダー:事業型NPOのモデルを確立しました。
東尋坊で自殺予防活動に取り組んでいる茂さん:ともかく人間的な人です
NPO法人ライフリンク:マスコミで自殺問題が取り上げられる契機を作りました。
ホスピタルアート:病院をもっと元気が出る空間にしようとしています
日本NPO学会副会長田中弥生さん:今のNPOを革新したいと思っています
ビッグイッシュー:ホームレス支援の活動をしています
GLI:世界中の社会起業家のネットワークづくりをしています
その他いろいろです。

22日、会場で会えるとうれしいです。
申し込みは次のサイトからお願いします。
http://homepage2.nifty.com/comcare/ccf2007m.htm
ありがとうございました。

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2007/02/11

■団塊シニアの地域デビューで思うこと

ボランティアフォーラム2007TOKYOにパネリストとして参加してきました。私が出た分科会は「第二の人生 あなたはどう描く」で、定年を迎える人たちのボランティア入門編です。いわゆる「シニアの地域デビュー問題」です。
時々、こういうセッションでの話を頼まれますが、いつも参加者のほとんどが当事者ではなく、団塊シニアの社会活動を仕組む側の人たちなのです。
今回もそうでした。
行政や社会福祉協議会、あるいはNPO支援組織などが、NPOやコミュニティビジネスに関わる研修セミナーを開催する場合も、集まるのは当事者というよりも仕掛ける側の人のほうが多いような気もします。
その多くは行政の助成金で行われますから、参加者を集めるために動員すら行われています。
これが多くの自治体で行われているNPO支援活動です。
税金の無駄遣いとしか思えないのですが、もしかしたら今度は価値のあるプログラムかなと期待して、時に参加を引き受けることがありますが、いつも失望して、また当分は参加したくなくなるわけです。
今回は行政ではなく、東京ボランティア・市民活動センターの主催ですから、ちょっと違うかなと期待していたのですが、残念ながら今回もまた、参加者の多くは「仕掛け側」の人でした。
まあ、それが悪いわけではありません。
ただそうであればテーマやスタイルを変える法が効果的でしょう。そういう意味では、ちょっと残念でした。
2時間のセッションのあと、何人かの人がやってきました。
いろいろとやっているが参加者が集まらない。どうしたらいいか。
これが多くの人の悩みです。
この問題は解決するのは極めて簡単です。
面白くなく、役に立たないから、参加しないのです。
それにそもそも「集めよう」などと思う姿勢が間違っています。
だいたい、あなたが企画側でないとしたら参加しますか?
と質問したいのですが、それでは実も蓋もありませんから、さすがの私も初対面の人にはいえません。
それにそういうひとたちはみんな誠実でまじめなのです。
ではどうするか。
自分がやりたいことをやるか、誰か楽しそうに遊んでいる人を見つけて、彼もしくは彼女を支援すればいいのです。それが出来なければやめたらいいだけです。実に簡単な話なのです。
小賢しい仕掛けや小手先の技法など約にはたちません。
団塊シニアを馬鹿にしてはいけません。
企画者たちよりも、よほど厳しい状況の中で仕事をしてきた人たちです。
甘言で騙されるような人たちではないのです。
しかし、みんなどうしたら人が集まるのかという技法論に走ってしまうのです。
昨今のボランティア活動やNPO活動のセミナーなどで話している人たちのほとんどが、そういう発想の持ち主のような気もしますが、それでは効果があがらないのではないかと心配です。
ともかく企画する本人が楽しいと思うことをやればいいのです。
参加者が集まるかどうかなど気にすることは全くありません。
その結果、誰も集まらなくても自分が楽しめればそれでいいのです。
そもそも「社会のため」とか「団塊シニアの第二の人生のため」などという発想自体、目線が高い「お上発想」なのです。
団塊シニアをお客様と考えるのは、行政が住民をお客様と考えるような傲慢さの延長なのです。ちょっと挑発的な言い方ですが。
とまあ、こういうことを伝えたいのですが、私の発想はちょっと論理的でないためになかなか伝わりません。
しかし、長野市のある若い男性が、「誰も集まらなくてもいい」という、私の言葉に感心してくれました。
今日はこの若い人に少し理解してもらえたことで、半日を費やした価値がありました。
ところで、こういう発想でありながら、私自身もこれから「団塊シニアインキュベーションコンソーシアム」のような緩やかな仕組みを創りたいと思っています。
どこかに自己矛盾がありそうな気もするのですが、そうでないような気もします。
この構想はCWSコモンズのサイトで時々書いていますが、仲間を探しています。
関心のある方はぜひご連絡ください。

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2006/11/15

■貸金業法改正とNPOバンク

また書いておきたいことが出てきました。
すでに話題になっているので、私が書くまでもないのですが、
出来るだけ多くの人に知ってほしいと思ったのです。
それに加えて、ちょっと私の私見も書きたいと考えたのです。

以前も一度書き込みましたが、「貸金業法」の改正が国会で審議中です。
これについては、相変わらずの胡散臭さを感じていますが(つまりその後ろにいる金融業界の思惑です)、
それとは別に、NPOバンク関係者からの問題提起が行われています。

NPOバンクとは、簡単に言えば、
市民事業の支援や顔の見える範囲での助け合いのために、
市民がお金を出し合い、無担保低金利で融資をしている小規模な非営利金融です。
頼母子講や結いにつながるものであり、私のビジョンにもつながりますが、
念のために言えば、私の思いとは似て非なるものです。
私のビジョンには「利子」という概念は皆無です。
利子を埋め込んだ途端に産業のジレンマを呼び込むことになるからです。

ちなみに、今年度ノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行もNPOバンクの一種だそうです。
私自身はNPOもNPOバンクも、過渡的なものと位置づけていますが、
もしそうであっても、利権型の産業界や政治の世界からは歓迎されないだろうとは予想していました。
それは「地域通貨」と同じく、権力構造に管理される世界には大きなノイズになるからです。
しかも危険なノイズです。見過ごすわけにはいかないでしょう。

その走りとしての市民バンクを支援した永代信用組合は強制破綻させられてしまいましたが、
もしかしたら、市民バンクのせいだったのではないかとさえ思いたくなります。
まあ、さすがにそんなことはないと思いますが、この事件は訴訟になり、私の友人たちも関わりました。
私は参加していませんが、訴訟原告団のサイトをご覧ください。

ところで、貸金業法の改正がなぜNPOバンクに関係しているかですが、
それは、財産が5000万円以下しかない貸金業は認めないということになりそうだからです。
「みんなで少しずつお金を出し合って、自分たちの周りを豊かにしていこう」
というNPOバンクにとって5000万円の財産要件は大きな壁になりかねません。
詳しくは次のサイトを読んでください

そこで、問題になり出したのです。国会でも審議されだしています。
また、全国NPOバンク連絡会では今度の土曜日に緊急フォーラムを開催しますので
ご関心のある方はご参加ください。

この問題は昨今の「改革」の本質を象徴するとても重要な問題提起をしていますし、
「貸金業者」とNPOバンクとは全く別のものという、
全国NPOバンク連絡会の主張には与したい気もするのですが、
その主張には完全には共感できずにいます。

どう共感できないか。
それは、いつまでもなぜ今の経済パラダイムの枠の中に安住しつづけようとしているのか、という疑問があるからです。
「利子」という発想を捨てられない以上、今の拝金主義からは抜け出せないでしょう。
利子が高い低いなどというのは同じパラダイムの内部の話です。
利子はゼロかマイナスにしてこそ、NPOバンクは新しい世界の主役になっていけるでしょう。

金を貸すのではなく、提供すれば良い話です。
もしそれで成功したのであれば別の困っている活動に提供すればいいだけの話です。
そんな夢物語を語るなと怒られそうですが、夢が無いのであれば、NPOなどに取り組む必要はありません。
パラダイムを変えられないNPOは、企業の変形でしかないのではないかと私は思っています。

そろそろ既存社会のサブシステムとしてのNPOから卒業すべき時期ではないでしょうか。
少なくともビジョンとしては。

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2006/06/04

■「悪しき企業の経営」モデル

NPO学会の大会が新潟でありました。
私は学会メンバーではありませんが、コムケアのパートナーである住友生命の井上さんからコムケアの体験を発表するのでセッションに参加するように連絡がありました。
コムケアは井上さんのおかげで実現した仕組みですから、参加しないわけにはいきません。30分のセッションのために2時間かけて新潟まで行きました。
この学会には友人知人がたくさんいます。私の参加したセッションにも数名の知り合いの顔が見えました。私は発表してすぐ退室したので、残念ながらお話はあまりできませんでした。
発表で余計な修飾語をつけてしまいました。それもやや「感情」を込めてです。
事業型NPOが増えていることに言及して、しかし、それらがモデルにしている経営発想は「悪しき企業の経営」をモデルにしているので心配だと発言してしまったのです。質疑応答で思ったとおり質問がありました。「悪しき企業の経営とは何を意味するかお聞きしたい」というのです。余計な言葉は反発を生み、メッセージを拒否されてしまうものです。その経験を私は山のようにしていますが、いまだに治りません。これは一種の病気です。困ったものです。
「悪しき企業の経営」に込めた意味は、金銭経済至上主義の経営です。昨今の企業の経営の多くは、目的と手段が履き違えられています。
最近の村上ファンドやトヨタの経営がその典型です。
また余分な一言がありますね。村上ファンドはともかく、トヨタは入れないほうがいいでしょうね。しかし間もなくトヨタの経営の非人間的な実態は理解されるでしょう。人間を基本にしない経営は手段を目的化した金銭経済至上主義の変形でしかありません。経営の出発点は「愛」ですが、金銭への愛であってはいけません。まあ資本主義とは金銭への愛から始まったのかもしれませんが。
行政でも経営発想が必要だといわれています。
NPOもそうです。
私も同感です。当たり前のことですから。
しかし、昨今の動きには違和感があります。
NPOや行政の経営と企業の経営が違うということではありません。
むしろ私は、いま経営が一番必要なのは企業だと思っています。日本の企業はこの数十年、経営を放棄しているとしか思えないのです。その経営を放棄した企業の行動を「経営」と考えて、NPOや行政が「悪しき風潮」を身につけようとしているのが現状だというのが私の認識です。罪深い経営学者がそれに加担しています。
しかし希望はあります。NPOや町村の中に、しっかりした経営に取り組みだしたところが出てきているからです。そうした経営モデルが、企業を変えていく時代が間もなく来るのではないかと思います。
ベクトルは、企業からNPOではなく、NPOから企業です。それも脆弱なまだ法人にもなっていないようなNPOから。
但し、そのNPOの実態認識において、おそらくNPO学会のメンバーと私とは全く違うでしょうが。
私が間違っていればいいのですが。

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2006/01/21

■NPOと企業のコミュニケーション

この5年、NPOと企業の世界に並行的に関わりながら、そこを win-win でつないでいくメディエーター役が果たせないかと考えています。
視点はもちろんコモンズ(社会)です。
現在の企業にもNPOにも大きな違和感を持ちながらの活動なので、それぞれを革新するような契機を意識しています。ただつなげれば良いわけではありません。そういう活動はたくさんのNPO中間組織やコンサルタント会社がやっていますので、私には全く興味がありません。
社会のリフレーミングにつながらなければ、
あるいは昨今のような金銭経済至上主義からの離脱につながらない限り、
NPOががんばってもほとんど意味がないというのが私の意見です。
しかし、残念ながら時代の方向は必ずしもそうはなっていません。
ところで、時々、NPOから企業の支援要請があります。新しい物語が生まれそうなものは企業にも働きかけることがあります。
今回もあるテーマで企業に支援を頼んだところ、次のようなメールが来ました。

正直、様々なNPOからの支援要請が毎日の様にあり、基本的には判断が難しく対応出来ていない現実がありますが、佐藤さんが関係しているということであれば是非一度関わりを持たせて戴きたいと存じます。

とてもうれしいメールです。
この会社は理念がしっかりしており、社会性の高い企業文化を持っているところです。だからこそNPOからの要請も多いのでしょうが、こういう会社にしても、なかなかNPOはつかみにくいのが現実です。
むしろNPOへのアレルギーを持っている企業のほうが圧倒的に多いでしょう。
企業の経営幹部の人とはかなり付き合いがありますが、なかなかNPOの実態は伝わっていないような気がします。その責任の過半はNPO側にあるように思いますが。

どちらに問題があるかはともかく、NPOと企業のコミュニケーションはまだあまり成り立っていないのが現実です。
上記のメールのように、間に誰かが入ることでやっとつながるのです。
会社の中にいる人にとっては、そもそも論理が違うこともあり、実態はつかみにくいでしょうから、基準を「紹介者」に置きたくなるのはよくわかります。
しかしこれがまた曲者です。
私だからといって信頼はできません。

私はかなりNPOと企業の双方の実態を身体的に知っていると自負しています。そして、今はあるビジョンにしたがって、社会も含めた「三方良し」の基準で動いていると自負しています。その評価眼にもそれなりの自負があります。今は少なくとも、利得を得ようなどとは全く思っていません。
しかし、それは私の独り善がりでしかありません。
いつ変節するかわかりませんし、評価眼が維持できるとも限りません。
個人を介することには怖さがあります。

もうひとつのよくある形は、トップとのつながりです。
これがとても多いですが、残念ながら日本の企業のトップが付き合う世界はそれほど広くはありません。
ある人が取り入って、利己的に動くこともないとはいえません。
その結果、かつての企業メセナ活動のようなひどい話になってしまうのです。

私自身は、企業とNPOとの付き合いから生まれる社会的価値はとても大きいと確信しています。
その前提には、社会のビジョンへの関心と共有できる価値がなければいけませんが、逆にNPOと企業が付き合うことの中から、そうしたビジョンや共有価値が育っていくように思います。
昨今のような経済状況の中ではこうしたことは難しいですが、CSR報告書の作成費用の一部をそうした活動に向けるだけで、小さな一歩は踏み出せるかもしれません。

今年から、私もこうした活動に少し踏み出そうかと思い出しています。
まだ少し早いかもしれませんが、考え出してからもう20年がたちました。
そろそろいい頃かもしれません。

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2005/12/22

■「市民から住民へ」

最近ボランティア活動に取り組んでいるご年配の女性の方がよく相談にきます。その人たちにとって、NPOとはなかなか理解しがたい存在のようです。
一方、今週、2人のNPOに関わっている人と話していて、異口同音にNPOの目線と敷居の高さが話題になりました。2人ともNPO活動にかなりしっかりと関わっている人たちです。
NPOって一体何なのか、最近私はますますわからなくなってきています。
NPOと言う言葉がやはり良くないですね。これは金銭市場主義の世界の言葉のような気がします。利益を分類基準にする段階でまず間違っています。
そういえば、日本ではボランティアが無償行為と認識されていました。今もなお、そういう意識は払拭されていません。ボランティアなどと言う言葉は行為者が軽々に使う言葉ではないと思いますが、私にはとても嫌な言葉です。他の活動はボランティアではなく、強制されてか、あるいは金のためにやっているという意思表示なのですから。

NPOの目線の高さは「市民」発想だからかもしれません。
私が昔感激した言葉に「住民から市民へ」と言うのがありました。武蔵野市などで始まったまちづくりの基本姿勢です。
しかし、その後、社会の実相や現場に少し関わりながら、私はこの言葉に違和感を持ち出しました。市民発想の根底にある目線の高さに違和感を持ったのです。
今では「市民から住民へ」を私は標榜しています。
ですから、住民の意識を高めるとか市民意識を育てるなどと行政の人やまちづくりに関わる人が発現するとそれだけでその人を信頼できなくなるほどです。これに関しては、CWSコモンズでもこのブログでも何回も書いていますが。
制度としてのNPOが発展するのはいいことかもしれませんが、それで失われるものがあるようでとても気になります。どこかで私たちは間違っているのではないかという不安が拭えません。

その一方で、安直にNPOだとかコミュニティビジネスだとかいう風潮にも疑問があります。そう思う理由の一つは、NPOの中間組織や行政の市民活動支援関係の窓口の人とつきあっていて感ずるアマチュアリズムです。コミュニティビジネス支援を標榜しながら、コミュニティビジネスの何たるかはもちろん経営に関してもアマチュアの人が多すぎます。企業ですら通用しないメソッドを持ち込んで、NPO経営を研修で語っていることも少なくありません。相手は何も知らないことが多いですから、大学で何も知らない学生に教えている経営学者と同じくらいアマチュアでも通用してしまうのです。しかも、行政は評価能力がないので、丸投げです。その結果、次第に受講生が集まらなくなり、電話で集めることも良くあります。税金の無駄使いはともかく、その欺瞞性に腹が立ちます。

腹立ちついでにNPOに対する「もう一つの失望」を書きます。
私がとても高く評価している、そして社会に大きな風を起しているNPOのいくつかに関することです。
NPOの中心人物は活動が忙しくて、なかなか他の活動には関わる余裕がありません。そればかりか本当に忙しくて、過労死しかねない企業人と同じくらい睡眠時間や「生活」時間を減らしてがんばっています。ある時期はそれでも仕方がありませんが、そういう姿を見ていると、結局、いまの企業社会での生き方と同じではないかと思えてしまいます。いまの社会のあり方を変えていこうというビジョンで始めた活動であるはずが、いつの間にかその社会のあり方に馴染んでしまっているのです。残念でなりません。それはきっと彼らが当事者ではないからかもしれません。それでは話題は作れても、イノベーションは起こせません。
その人たちは忙しくてこのブログは見ていないでしょうから、いつか直接言わなければいけません。言っても伝わらないかもしれませんが。

社会を変えるのであれば、まず自らの生き方を変えなければいけません。
ちなみに私は忙しそうですが、実は忙しくありません。それにいたって自分の気分を大切にしています。今日もある委員会がありましたが、急に疲れを感じたので、欠席の連絡をして帰宅してしまいました。そして前から観たいと思っていた「夜盗風の中を走る」の映画をテレビで見てしまいました。40年ぶりです。実は今週中にやらなければいけない宿題がたくさんあるのですが、それよりも気分を大切にするのが私の生き方です。そういう意味では、私はいわゆるシニアニートかもしれません。実は今日の委員会はニートの委員会でした。はい。
関係者の方には読まれたくない書き込みですが、彼らもまたこうした無意味なブログは読まないので大丈夫でしょう。はい。

忙しくないため、また冗長な書き込みになりました。
すみません。

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2005/06/17

■NPO法人やまびこ会の事件 

NPO法人がまた事件を起こしました。今回は詐欺事件です。

NPO法人はいまや2万を超えています。しかし、実際に活動しているのはそのうちのどのくらいでしょうか。そして、自立しているのはどのくらいでしょうか。
私はNPOをささやかに応援するコムケア活動に関わっていますので、いろいろとNPOとの接点もあります。さまざまな体験もしています。不愉快なことも少なくありません。もちろんうれしいことが圧倒的に多いですが。
またNPOに対して、行政も企業もかなりの不信感を持っていることも体験しています。

私はNPO法ができるときに、どちらかと言えば、否定的でした。NPOが既存の枠組みに絡めとられてしまう危惧を感じていましたし、なによりも上からのNPOづくりが進むのではないかと思ったからです。違った育ち方があったような気がしますが、代替案もだせずに、ただ批判しているだけでは意味がありません。反省しなければならないのですが、どうも感覚的に今のNPOのあり方には共感できません。そのためもうひとつ、自分が取り組んでいる込むケア活動も完全にははまれないのです。

今のNPOのなかには、行政の下請けであったり、企業の逃げ場だったりするものも少なくありません。また今回のように、犯罪の舞台に使われることも当然あります。登録で社会的保証を与えると言う発想に、私は権力者の傲慢さと市場主義者の社会観を感じてしまうのですが、多くのNPOは経済市場主義社会のサブシステムになっているように思えてなりません。
これに関しては以前小論を書きました。

いうまでもなくNPOは企業と同じく「仕組み」です。犯罪者も営利企業も使い込める仕組みです。一方では社会起業家や生活者も使い込めます。誰が使い込むかで組織は価値が決まってきます。組織に価値観はありません。しかし、なぜか企業というと利益追求の権化とみなされ、NPOというと社会正義の集まりと看做されます。いずれも危険な「常識」ですが、組織で発想する時代にはそうした常識が横行します。

私は今の経済システムはパラダイムシフトすべきであると思っていますので、NPOのみならず企業もパラダイム転換すべきだと思っていますが、とりわけNPOに関して、お上が信頼性のお墨付きや公益性の判断をすることに、論理矛盾を感じています。せっかくの新しい芽をつぶしかねないからです。

法人格やNPOというタイトルに信頼性を与える時代は終わりました。信頼性は実践の中から当事者が積み上げていくべきものです。安直に権力によって与えられた信頼性は実体がないが故にもろいものであり、悪用されやすいでしょう。
ついでにいえば、ISO14000が流行したことがありますし、いままたISO絡みでCSRが流行になっていますが、これらも同じ間違いを犯しているように思います。

やまびこ会の活動は許されないものですが、もしかしたら同じようなことをさまざまな法人格組織はやっているのかもしれません。社会保険庁や雇用促進協会の実態とどこが違うのか、説明できますか。
どこかで組織の作り方や信頼システムの作り方が間違っているように思います。
もちろん国の作り方も、です。

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2005/01/08

■日本のために働くということ 

福岡にあるグループホーム縁側の梅川さんは、私が信頼する若者の一人です。
1度しかあったことはありません。しかも、福岡空港であわただしく、です。
なぜ信頼するかといえば、現場につながりながら、自分の視点と信念で行動しているからです。実体のある言葉で語る人は、私は無条件で信頼します。
彼が年賀状に、「日本のために働きます」と書いてきたので、

「日本のために働く」のではなく、みんなのために働く」のがいいです。 この違いはとても大きいです。 私が日本の福祉政策に批判的なのは、日本(国家)のためであって、みんな(そこに住む人/日本国民に限りません)のためではないからです。
とメールしました。

その返事に、とても共感しました。
梅川さんの許可を得て、転載します。
長いですが、ぜひ読んでください。
現場の真っ只中で汗している人の真摯な発言です。

本当にそうですね。日本の福祉にしろ、イラクの復興にしろ、そこに住む人のことを考えない政策ですし、そこに基準を置かない政策や権力は近いうちに崩壊する(お客様のことを考えない会社が潰れるように)のが世の定石ではないかと最近僕は勝手にそう考えています。それに「国家とかいう小さい枠組みで考える時代じゃない」という方が最近、増えていらっしゃるようにも思います。

でも、僕はあえて「日本」にはこだわってみようと思います。

徳川家康にしろ幕末の名を残す志士達にしろ、何も戦いに明け暮れて、ライバルを潰していった結果、そうなったのではなく、「そこに住む民衆を慈しむ心に裏打ちされた国家観」というものがあり、そのことに対して自ら「矜持」を持っていたからこそ民衆が悲しまないようにするための大事業をなしえたのだと考えております。

またそれと同じ比重で、その時代、そこに住む民衆が、その政策(現在批判される士農工商にしろ)を了解し、支持したからこそ、事業の成功がありえたのだと思います。
いくら家康や大久保利通が信念をもっていて、事業をおこしても、民衆の要望(または潜在的要望)に応えていなければ、どんな小さな政策でも実現しなかったのではないかとも思います。

だからやっぱり「渡る『世間』は怖い!」
世の中には「世間知」(各民衆の良心とでもいいましょうか)というものがあって、それに適わない事業は、おそかれはやかれ潰れてしまう。

日清戦争の時の話です。

日本艦隊の発砲した弾が、清の有名な武功を持つ艦長にあたり即死したのを、日本側が知り、日本側も(国や人種を越え)一目おく人物だったので、相手の死を悼み、全軍に発砲を止めさせて、その艦長のために黙とうを捧げたとの話を知ったとき(それまで日本の戦争といえば昭和陸軍の南京大虐殺のイメージしかなったのですが)「自分が矜持をもつからこそ、相手の矜持も尊重できる」(またそうできることが本当の矜持・プライドなのかな)と考えるようになりました。まだこの「矜持」を自分なりにもつことは出来ていませんが。

僕の父は昭和の戦争を経験していますが、よく私は「何で本当のに国(国民・家族)のことを思って戦うのなら銃口を大本営に向けなかったのか」と父にいいます。父の返答は「憲兵がこわか(怖い)ろーもん」ですが。
これが幕末の坂本竜馬たちなら「この国(国民・民衆・そこに住む異国人)が危ない」と思えば、自分の命を賭してでも、たとえ「非国民」になろうが、なんだろうが道を誤らせる者と戦うでしょうし、その相手方もまた「これが正しい道なんだ」と思えば、これも命を賭けて応戦することになるでしょう。本当に自分が正しいと思うことのためになら血みどろになったっていいのではないでしょうか?

しかし、この「血みどろ」がこの戦後、「自分の命を一番大事にしなさい」といって育てられてきた僕には、なかなか出来そうありません。今のところは(情けないですが)せめて雰囲気というか、そんな風な気概だけでも持ちたいと願っております。

「国・国家」といえば昭和の戦争のなごりがあるので、「国民・そこに生きる者」を何か抑圧するもののようなイメージがありますが、僕の「日本(国家)のために」は「地域社会(人さま)のために」と同義です。(国家=日本=地域社会)

この「国家」は今、官僚のものか、マスコミのものか、アメリカのものか、分かりませんが、僕は「国家」は本当はいつの時代もそこに住み、そこにささやか幸せを求めて暮す、愛すべきひとたちのものだと思っています。

ほんと、自分なりにこの地域に役立てるように働きます!
命をどーんと賭けることはできませんが、人生の一部分はかけてみようと決意しております。(そして出来るならあとからたくさんお金がついてくればいいなと思うのですが。)


感動しました。歳をとるとすぐ涙が出るのです。
こういう若者に、私の未来は預けてもよさそうです。

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2004/12/17

■NPOの信頼性

今日の朝日新聞の記事です。
マンション建設大手「長谷工コーポレーション」などから現金計3300万円を脅し取ったとして、恐喝の罪に問われた特定非営利活動法人(NPO法人)「消費者問題研究会」会長で、元暴力団組員の榎原一吉被告(56)に対し、東京地裁は17日、懲役6年(求刑懲役7年)の実刑判決を言い渡した。

2つのタイプの組織が出てきます。NPO法人と暴力団です。

「暴力団」という組織が存在を認定されていることを、私は以前から不思議に思っています。
法律(暴対法)によれば、暴力団とは、「その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員を含む)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体」と定義されています。そんな団体は存在しないようにすればいいと思うのですが、法的に存在が認められているということです。しかも、指定暴力団というのまであります。すごいネーミングです。

それとは逆に、NPO法人、正確には特定非営利活動法人は、実態に関係なく、非営利活動に取り組む組織というかたちで、組織の公益性や信頼性を保証されています。最近の社会風潮もまた、NPOの公益性を強調する方向にあります。
しかし、その二つが、実はほぼ同じ活動ができることを、この記事の事件は示しています。
組織や制度は人間が使うものですから、それは当然起こり得ることですが、名前は組織の印象を大きく変えます。言葉にだまされてはいけません。

暴力団とNPOが同じものというつもりはありませんが、
同じこともありうることをしっかりと認識しておくことが大切です。
マフィアは企業になり、NPOになっていけるのです。

昨今の安直なNPO設立ブームに、いささかの違和感をもっています。
本当にNPOは信頼できるものなのでしょうか。
NPO支援にささやかに関わりながら、いつも頭から拭えないでいる悩ましい問題です。

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