カテゴリー「生き方の話」の記事

2018/08/16

■お金を払ってボランティアをする

山口県周防大島町の山中で行方不明になっていた2歳の子供が、捜索のボランティアに来ていた大分県日出町の尾畠春夫さんによって、発見されました。
尾畠春夫さんの話を聞いていて、実にさわやかなものを感じました。
尾畠さんのこれまでの生き方やボランティアの捉え方は、これからいろんなところで採りあげられるでしょうが、「ボランティア」という言葉を使う人は、ぜひ尾畠さんの生き方を学んでほしいと思います。
尾畠さんの仕事は、いわゆる「恩送り」。
金銭的な面でいえば、尾畠さんは「お金を払って」ボランティアしているのです。
無償とか有償とか、そんな話とは次元が違います。

先日読んだ「ティール組織」という本に、こんな文章がありました。

「(これからは)お金を払ってボランティアをするケースもあり得る。人々が時間外にさまざまな多くの部署や組織で活躍するようになると、組織の境界も曖昧になる。」

とても共感できる表現です。
私は、30年前に会社を辞めた時に、仕事の概念を「対価を得ること」ではなく「費用がかかること」と捉え直しました。
その代わりに、仕事は自分で価値を見いだせるものに限ろうと考えました。
実際には、必ずしも厳守できませんでしたが、基本的な姿勢だけはそれを目指してきました。
私が考える「働き方改革」とは、そういうものです。

もちろん、仕事をしたおかげで、お金をもらったことは多いです。
その場合は、もちろん素直にいただきました。
また自分にお金がない時には、お金を出してくれる人を探しました。
ですから30年も、この生き方ができているわけです。
しかし、仕事の対価は、金銭ではないという考えは大事にしています。

対価のための仕事よりも、自発的に取り組む仕事の方が、価値を生み出すことが多く、関係者にとってはいい結果を生みだすような気もします。
もちろん仕事をする者にとっても、それは働く喜びにつながります。
価値が生まれれば、その享受者からは、喜びのお礼の一部として、お金も払いたくなるでしょう。
そういう関係が育っていけば、経済の質が変わっていくでしょう。
社会も変わるでしょう。

尾畠さんの生き方から学ぶことはたくさんあります。
これからでも遅くないので、私もまた少し生き方を見直そうと思います。
尾畠さんに感謝します。

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2018/08/07

■反社会的勢力との付き合いがなぜ問われるのか

日本ボクシング連盟の山根会長に関して、元反社会的勢力との付き合いが問題にされています。
これは私にはなかなか理解できないことです。
第1に、付き合いが問題にされるような組織、つまり「反社会的勢力」などと規定されるような組織がなぜ存在できているのか。
第2に、そこにいるメンバーやそこにいたメンバーとの付き合いはなぜ非難されるのか。

私も、元暴力団員との付き合いがありました。
その人はそこをやめて、福祉施設で働いていました。
私が関わっていた「自殺のない社会づくりネットワーク」の集まりに参加したのを契機に、彼との付き合いが始まりました。
友人たちからはやめた方がいいと言われましたが、なぜ付き合ってはいけないのかがわかりませんでした。
彼は突然わが家まで来たこともありますが、障害を持った人たちを旅行に連れていきたいという夢を持っていました。
しかし、その夢は果たせませんでした。
すい臓がんになって急逝したのです。

彼との関係では、実は私もトラブルに巻き込まれてしまいました。
彼の苦境を救うために借金までしてお金を工面したこともありますし、彼にコーヒーをご馳走になったこともあります。
もし私が、山根さんのような有名人だったら、非難されるのでしょうか。
しかし、その人の属性や過去によって、付き合うかどうかを決めるのは私の信条に反します。
いや、人間としてそんなことをやるべきではないでしょう。

さらに言えば、「反社会的勢力」とはいったい何なのでしょうか。
そもそも「暴力団」なる言葉がいまもなお存在することさえ私には理解できません。
規制する法令はありますが、規制法令があるということは存在を認めているということです。
それにどんな組織にも「反社会性」は存在します。
行政組織の反社会的行動も、最近は日常的と言えるほど、話題になっています。
そもそも立場によっては、政府そのものも「反社会的」な存在になり得ます。
そういう状況では「革命」や「クーデター」も起こります。
ですから、社会的かどうかを白黒で二分することは危険です。
「反社会的組織」とは、反社会性が大きい社会的組織のことなのかもしれません。
これに関して書きだすとまた話が広がりそうですのでやめますが、簡単に「反社会的勢力」と言ってしまっていいのかは疑問です。
ましてやそこに関わったことのある人の付き合いは非難されるべきという風潮にはもっと大きな疑問を持ちます。

それよりももっと大切なことは、自らが所属している組織には「反社会的」な行動がないのかを、それぞれがしっかりと考えることではないかと思います。
そしてもし、そのようなことがあれば、それを変えていくように、自分でできることを考え行動していくことです。
自らの生き方において、「反社会的」な言動はないかを問い質すことも大切です。

見方によっては、私のこの意見もまた「反社会的」なのかもしれません。
ことほどさように、「反社会的」などという言葉は多義的です。

ところで、山根さんにちょっと好感を持ってきました。
邪気を感じません。
私の感覚がおかしいのかもしれませんが、山根さんとは正反対の人たちが、山根さんに寄生しているような気がしています。
私が嫌いなのは、嘘と邪気なのです。

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2018/07/29

■「慾を捨てよ、とプナンは言った」

一昨日開催したサロンの報告を書きましたが、それを書いていて思い出した本があります。
文化人類学者の奥野克巳さんが、ボルネオの少数民族プナンの話を書いた「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」(亜紀書房)という本です。
私は「所有」とか「競争」という概念から自由になりたいと思っていますが(実現はできていません)、そうしたことを見事に日常化しているプナンの人たちの生き方は実に見事です。
ただし、私は絶対に彼らの仲間にはなれそうもありませんが。

特にこの本の第7章「慾を捨てよ、とプナンは言った」は、みなさんに読んでいただきたいところです。
30頁ほどの短いものなので、あまりお勧めはできませんが、書店での立ち読みも可能です。
もし読んで関心を持ったら、購入してください。
ちなみにその章の冒頭には、ニーチェの次のような文章が引用されています。

「或る程度までなら、所有は人間を独立時にし、いっそう自由にする。もう一段進むと、所有が主人になって、所有者が奴隷になる。彼はかかる奴隷として、所有のための己れの時間を、己れの省察を犠牲にしなければならない。そして以後は、自身が交際に拘束され、場所に釘づけにされ、国家に同化されてしまったように感じる、それも、すべてはおそらく彼のいちばん内面的な、またいちばん本質的な欲求に反して」。

そして、生産性至上主義の社会になってしまい、相模原のような事件が起き、飛躍しますが岸田さんは安倍さんに魂を売ってしまった。
そこで住む人たちのほとんどは奴隷たち、と言ったらまた顰蹙を買うでしょうね。
困ったものですが。


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2018/07/24

■カフェサロン「安心して死を迎えられる生き方のために パート1」の報告

死という、誰もが避けがたい現実を、積極的に捉えた生き方を支える「社会的な仕組み」をテーマにした、2回にわたるサロンのパート1は、猛暑の中、15人の参加者がありました。

今回は、ホスピス勤務経験もある僧侶の中下さんが、これまでのさまざまな死の現場体験から感じていることや考えていることを、自らの人生にもつなげながら、ありのままに話してくれました。
中下さんの活動を見ていて、どうしてこんなにエネルギーがあるのだろうかと、いつも不思議に感じていたのですが、今回改めてお話をお聴きして、これまで中下さんが関わってきたたくさんの人たちの思いが、中下さんを動かしていることに気づかされました。
生きる力の源泉は、自分の心身の外からやってくるのかもしれません。

今回も、当日の朝まで中下さんは、西日本豪雨で被災した広島で活動されていたそうですが、悲惨な現場での「辛さ」とともに、たくさんの人たちから託された「ちから」が中下さんを動かしているのでしょう。

中下さんの心身には、どうもたくさんの人たちの思いが詰まっているようです。
それは、死者からだけではありません。
いま話題になっている大口病院の看護師による殺人事件にも少し言及してくれましたが、中下さんの祈りの対象は、すべての生きている者や社会そのもの、あるいは時代の流れなどにも向いているような気がしました。
だから「仕組み」が必要なのかもしれません。

なにやら抽象的なことを書いてしまいましたが、中下さんの話はとてもわかりやすく、とても具体的、実際的なお話でした。
たとえば、死に直面した時、人は何を想うのか、という問いかけしながら、中下さんは自分に残された印象的な言葉をいくつか紹介してくれました。
そして、「生まれてきてよかった」と最期に言える人生や生きる意味、あるいは、人間の幸せとは何かという問いかけをしてきてくれました。

中下さんが最初に示した1枚のグラフがあります。
人が死を迎える場所のグラフですが、日本では1970年代中ごろに、自宅で死を迎えるよりも医療機関で死を迎える人の割合が多くなりました。
このことの意味は極めて大きいでしょう。
そしてそれに伴って、死が次第にビジネスの対象になっていく。
ビジネスの対象になるにつれて、死の意味は大きく変わります。
そしてそれは必然的に生き方を変えていく。
なぜなら「死に方は生き方」の象徴だからです。

そうした風潮に、中下さんは違和感を持ち、これまでもさまざまな実践に取り組んできています。
しかし、それが必ずしも好意的に受け入れられたわけでもないでしょう。
だからこそもっと大きな「仕組み」の発想が必要だと考えだしているようです。
その仕組みの話はパート2で取り上げられる予定です。
今回は中下さんが体験してきたいろんなことを少しシェアさせてもらうことで、中下さんが考える「仕組み」への理解を深める準備サロンでしたが、今回のサロンでの中下さんの問題提起はそれだけでも参加者には自らの生き方を考えるたくさんの示唆があったように思います。

いつも思うのですが、サロンの報告は、私の主観的な報告になってしまい、サロンで話し合われた、大切なものが失われてしまうような気がしてしまっています。
話し合いの具体的な内容の報告がうまくできずに申し訳ありません。
いくつかの話題を項目だけ紹介しておきます。
ホスピスや病院や介護施設で働く人たち(死に寄り添い生を支援する人たち)への支援の仕組みがないことは中下さんから問題提起されました。
お盆や葬儀の価値やビジネス化の状況なども話題になりました。
インドの聖地バラナシで絶えることなくつづく火葬の場に子どもと一緒に行ってきたという女性の方から、死とは何か、という話題も出されました。
人称による死の捉え方の違いも話題になりました。
他にもいろいろとあったと思いますが、私は「死の持っている価値」を考えたいと話させてもらいました。
死を意識した時に、人は生き方を考えだします。
もしそうであれば、それだけでも「死」には大きな価値がある。
これに関しては、パート2でも話題になっていくと思います。

次回パート2は8月26日に開催します。
今回参加できなかった方も、もちろん歓迎です。
最近どうもサロンの報告がうまく書けません。
困ったものですが、お許しください。
Nakashita18071


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2018/07/14

■死を分かち合うよりも生を分かち合いたい

今朝のテレビで、5人の人が一室で練炭自殺をしたことが報道されていました。
死を分かち合えるのであれば、もっと豊かな生も分かち合えたはずです。
とても残念でなりません。
湯島に来てくれていたら、という気がちょっとしますが、私自身、最近はそうした気力がちょっと萎えてきています。
分かち合うことは、それなりにエネルギーが必要ですから。
しかし、死を分かち合うくらいなら、取り組んでみる価値はある。
それに、生を分かち合うことができれば、死への誘惑から抜け出せるかもしれません。

7月22日と27日に湯島で「生きる」につながるサロンをやります。
湯島に来たことのない人も歓迎です。
8月6日には、分かち合う場のない人をイメージして始めた縁カフェもあります。
またできれば、8月のどこかで、死よりも生を分かち合うことを目指すサロンをやろうと思います。
生を分かち合うことを目指せば、きっと人生は開けます。
そう思って、私はいま生き続けています。

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2018/07/13

■自分のことは自分で解決するという精神

西日本豪雨で被災した広島の友人から今朝、こんなメールをもらいました。

田舎の人達は自分のことは自分で解決するという精神で生活しているので、修復も個人で済ませ行政が遅まきに支援の手を差し伸べるころには、手遅れということが多いように思います。

テレビで盛んに報道されている地域を外れたところでも、さまざまな被害が生じているのでしょう。
テレビでは見えないところでも、たくさんの人たちが、この暑さの中でご苦労されていることを思うと、複雑な気持ちになります。
ボランティアが集まるところと集まらないところが、当然出てくるでしょう。
メールをくれた友人のところは、テレビでは一度も報道されなかったところです。

今回のような自然災害が起こった時の報道を見ていて、この数年、ちょっと気になっていることがありました。
報道に出てくる人たちに、あまり「リアリティ」を感じないのです。
見せ場になるような場面が繰り返し報道されるのも、いささか気になっています。
たくさんの人たちが被災されている状況で、こんなことを言うのは極めて不謹慎であり、噴飯ものでしょうが、ずっと気になっているのです。
たとえば今回の例でいえば、橋に木材がひっかかって、そこから川が氾濫した瞬間の映像がありましたが、それに気づいた人が逃げずに立ち止まってそれを見ていたシーンが忘れられません。
もしかしたら、もし現場にいたら、私も同じ行動を取ったかもしれません。
でも、それって、おかしくないでしょうか。
もちろん私自身の感度がおかしくなっているだけかもしれませんが、もしかしたら人間の感度が平均的にマヒしてきているのではないかと不安になるのです。

何かがおかしくなってきている。
そんな気がしていたのですが、友人のメールを見て、その理由がわかった気がします。
「自分たちのことは自分たちで解決するという精神」が薄れてきているのではないか。
このことをもう少ししっかりと考えたいと思います。
私には、とても大きな宿題です。
「コモンズの回復」という、私の最大の関心事につながっていますので。

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2018/07/06

■改めて「魂の殺人」を紹介したくなりました

過労死家族の異論のある中で、働き方改革法が成立しました。この法制度がいい方向で機能していくことを願っています。
しかし、私には大きな違和感があります。
「働く」ことの意味が問われることがないまま、制度論だけが進んでいることに、です。

脱時間給制度(高度プロフェッショナル制度)に関しては、過労死につながるのではないかという意見もあります。
しかし、これに関しても、「過労死」がなぜ起こるのかの問い方に違和感があります。
子どもを過労死させた遺族の方の意見には共感しますが、その姿勢には違和感があります。

微妙な問題なので、また本意が伝わらずに批判されそうですが、問題の捉え方が、私には間違っているように思えてなりません。
実は、このことは当事者の方のことを思うとていねいに書かないと傷つけることになりかねないため、書くのをいつも躊躇してきました。
先日、ある人に会って、やはり書いておこうと決意しました。

もう25年ほど前のことですが、生活者と企業のパイプ役を担う日本ヒーブ協議会の周年事業のフォーラムに呼んでもらいました。
そこで、働き方の問題を提起させてもらったのですが、企業役員の女性の方(その方はたしか協議会の役員でもありました)から「女性は過労死するほど働くチャンスがない」という指摘を受けて、驚くというか、唖然としたことがあります。
以来、日本ヒーブ協議会とは縁を切りましたが、そう指摘した彼女は昨今の状況をどう思っているでしょうか。
すべては、私たちの自己呪縛から始まっている。
制度や法律だけでは、状況は変わらないのではないか。

かなり古い本ですが、アリス・ミラーという人の「魂の殺人」という本があります。
日本に紹介されたのはもう30年以上前ですが、最近、新装版(新曜社)が出版されました。
副題は「親は子供になにをしたか」。
著者は、親のしつけや教育にひそむ暴力性を容赦なくえぐり出した3部作で有名ですが、「魂の殺人」はその2作目です。
私は、この作品しか読んでいませんが、内容は極めて衝撃的です。

子ども時代の体験が大人になって社会的な問題を起こしていくというようなよくある精神分析の本のように思われるかもしれませんが、もっとラディカルな「反教育」「反しつけ」論が展開されています。
中途半端な紹介をするのはやめますが、いまの社会の問題の根源につながる示唆を得られると私は思っています。
そこから得られるメッセージは、「すべての問題の解決はまず自ら始めるしかない」ということで、それが私のこの30年の生き方になっています。
あんまり論理的な説明ではないので、伝わらないでしょうが。

著者はポーランド人です。
そのためか、なぜナチスの悲劇は起こったかに関しても、いたるところで、論究されています。
かつてのドイツ人の勤勉さと従順さが、それを可能にしたというのです。
それは、いまの日本社会の実状にもつながっていく話です。
そこから考え直さないと状況は変わらない。

若者の自殺や世代を超えたモラルハザードが広がっています。
湯島にもいろんな人が相談に来ますが、問題の解決策はそう難しくはありません。
誰かや何かのせいにしているだけでは、状況は変わらない。
まずは自らの呪縛を解いて、自らの生き方を変えていく。
教えられた「常識」を問い質していく。
そもそも過労死とか自死は、生命本来のものではないはずです。
生命体には、必ずホメオスタシスという生命維持機能があるのです。
それが素直に作動するようにすればいい。

話がまた広がり過ぎそうなのでやめますが、もしお時間があれば、「魂の殺人」を読んでみてください。
自分は、親として子どもになにをしたか、親から何をされたか。
子どもだけではなく、次の世代に何をしているか、あるいは前の世代から何を学んだか。
時に、自分の生き方を問い質すのも、辛いけれども必要かもしれません。

事例も多く、冗長で長いので、読みやすい本ではありませんが、新装版はたぶん改善されているでしょう。
もし読まれる場合は、ぜひとも最後まで読んでみてください。
途中はとばしてもいいですが。

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2018/06/14

■カフェサロン「いまの政治でいいのだろうか」の報告

「茶色の朝」サロン(BMS)の4回目は、3人の子どもの母親で、専業主婦の方に日頃思っている疑問などを話してもらうことを入り口に、「いまの政治でいいのだろうか」を話し合おうという呼びかけをさせてもらいました。
11人があつまりました。

最初のお話は、母親であるという立場もあって、学校や教育の関係のお話から始まりました。
そして、いろんな生活体験から、なにか「見えないもの」が社会を動かしているような気配を感じていること、そこで、生活者として、1人でもできる活動をはじめたら、そこからいろいろなことが「見えてきた」一方、さらなる「見えないもの」も感じだしたことなど、日常生活からのとても具体的なお話で、茶色の朝サロンにふさわしい問題提起が込められていました。

そこから話し合いが始まりましたが、男性が多かったせいか、やはり「生活感覚」ではなく、「知識」ベースの話し合いになってしまった気がします。
最初に話題になったのは、ハンナ・アレントのアイヒマン裁判の話でした。
凡庸(忠実に命令に従う)、あるいは「自分で考えないこと」が、あのユダヤ人殺害を支えていたという話ですが、まさに今の日本にも、こうした「思考停止」や「凡庸志向」が広がっているという話になりました。
学校を含む教育の問題も出されましたが、ここでもイヴァン・イリイチの「脱学校の社会」にまで話が広がりました。
茶色の朝サロンの主旨はなかなか実現できません。

もちろん、話し合いは示唆に富む内容も多いのですが、たぶんそれでは社会は変わっていかないような気がします。
1960年代から70年代の学生運動が挫折したのは、「生活」とつながっていなかったからではないかという、当時活動していた人からの「反省」も出てきました。
だから「茶色の朝」サロンを始めたのですが、どうもやはりそこから抜け出られないのが男性たちかもしれません。
いまの若い男性は全く違うと思いますが、残念ながら今回は、その世代の男性は誰もいませんでした。

話題提供してくださった母親は、おかしいと思ったら行動しています。
教科書検定が気になったら、実際に教科書が展示されている場に行って、いろんな教科書を読む。
気になったことがあれば、関係者に電話して意見を言う。
それがたぶん「茶色の朝」が私たちにメッセージしていることです。
気になったら考える、そして動く。

翌日、話題提供者からメールが来ました。
そこにとても大切なことが含まれているように思うので、その一部を紹介させてもらうことで、今回は報告に変えたいと思います。

午前中に自宅で、たくさん溢れる「伝えたい思い」を無理やりまとめる作業をしましたが、これにより、自分の抱えた不満を整理することが出来たように思います。
予想外のありがたい効果でした。

皆様のご意見から、たくさんの「気づき」がありました。

息子から「お母さん、俺はどうして勉強するんだろう」としょんぼりと問いかけられた出来事。
息子の心からの問いに即答できずに「何でだろう…」と言ってしまい、翌日息子に自分なりの返事を伝えても、「もういいよ」とあしらわれてしまいました。
子供のなぜ?が、もう心の奥に仕舞われてしまったのです。
日頃から、「今年は受験だから頑張ろう」と息子に話していたのに、なぜ学ぶのか、なぜ受験勉強をするのか、大事なことをよく考えていない母親だったと、ひどく後悔していました。
でも、サロンのあと、新たな考えが浮かびました。
もしかすると、私の答えなんかどうでもよかったのではないか。
私がサロンのあとで「自分なりの着地点」を見つけたように、「それなら自分で考えるか・・・」とか「他の人に聞くか」とか「調べるか」とか。
何でもいいから、自分で答えを見つけ出してくれるのではないか、そんな希望が生まれました。

自分の意見を考え、整理する。人に伝える。他の人の意見も聞いてみる。
これって生きていくのに本当に大切なことだと思いました。
人間はロボットではない。思いがあり、考える人間である。だから悩みも苦しみも生まれる。
子供達にはそこから逃げず「自分なりの答え、着地点」を考え、探し求めながら歩んで欲しいなと思います。

そう考えると、子どもこそ「サロン」が必要ですね。
とりあえず、自宅で「サロン」をやってみようと思います。

このメールを読んで、とても報われた気持ちになりました。
懲りずに「茶色の朝」サロンは続けたいと思います。

Bms4


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2018/06/11

■「小さな被害者」と「大きな被害者」

新幹線車内で起こった殺傷事件は衝撃的でした。
止めようとした若者が抵抗する間もなく殺害されたのは、実に悲しい。

最近、こうした不条理とも言うべき事件が起こるたびに思うのは、たぶん多くの人と違って、加害者の人のことです。
加害者に怒りを感ずる人も多いでしょうが、私には被害者以上に、加害者およびその周辺の人たちのことが気になります。
私の好きな言い方を使えば、「小さな被害者」「大きな被害者」です。
今回も、テレビに出てきた、加害者の若者とその祖母や父親のことを思うと、心が痛みます。

私たちは、多くの場合、「小さな被害者」、この言い方は誤解されそうなので、「直接の被害者」と言った方がいいかもしれませんが、そちらだけに目が行きがちですが、「加害者と呼ばれる被害者」(「大きな被害者」)にも、心を向けることが大切ではないかと、最近痛感しています。
そして、そういう「加害者と呼ばれる被害者」が生まれてしまうことに、まさにこの社会をつくっている一人である、私にもまた、大きなかかわりがあることを、いつも思い知らされます。

私は、社会のための貢献活動などには関心がありませんし、社会貢献などと自分でいう人の活動は信頼できません。
社会に役立ちたいなどとも思ったこともありません。
しかし、私は社会の一部であり、私の言動が良くも悪くも社会に影響を与えていることは、いつも自覚しています。
宮沢賢治がいったように、「世界みんなが幸せにならないと自分の幸せはない」と思っていますし、私たちの中に私があり、私の中に私たちがある、と実感していますので、社会と私は深くつながっている。
私が存在することそのものが、社会に影響を与えているのであって、私自身が住みやすい社会になるように、ただただ自らの生き方を問い直しているだけです。
貢献するなどという発想は、出てくるはずもありません。
そして、もし社会に不条理な事件が増えているならば、それは私の生き方に無縁であるはずがない。
同じ空気を吸って生きている以上、今回の事件の加害者も被害者も、私と無縁であるはずがない。
そう思うと、加害者がなぜ心を失ってしまったのか、そこに思いを馳せないではいられません。

明日の午後、湯島で、生活のまわりにある「ちょっと気になること」を話し合うサロンを開きます。
よかったら来てください。
私のなかでは、そうしたサロンと今回の事件が強くつながっているのです。

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2018/05/28

■日大アメフト反則行為事件に、改めて思うこと

日大アメフト反則行為事件に関しては、「追い込まれた状況」が焦点になってきて、宮川選手はむしろ「被害者」として支援されてきているような空気を感じます。
それに関連して、ちょっと思いだしたことを書きます。

「乖離」という日大アメフト部側の言葉も問題にされていますが、「乖離」など当然のことで、コミュニケーションとはそれを前提にして行われる行為です。
乖離をなくすことなどできるはずがなく、乖離を前提に共通の思いをどのくらい増やすかが大切なことです。
その出発点は、相手を変えることではなく、自らが変わることです。
これに関しては以前書いたことがあります。
http://cws.c.ooco.jp/communication1.htm
「コミュニケーション」という言葉が、あまりに安直に使われている風潮には違和感があります。

「追い込まれる」ということに関しては、以前、「自殺のない社会づくりネットワーク」を立ち上げた時に、自死遺族の人から、この表現では「自殺者」が責められているように感ずると言われました。
以来、「自殺に追い込まれることのない社会」という表現を使うようにしています。
それを思い出しました。

もうひとつ思い出したのは、たとえば、「秋葉原通り魔事件」の加藤さんのことです。
彼もきっと「追い込まれていた」のでしょう。

人はだれも、他者に迷惑などかけたくないはずだ、ルールも守りたいはずだと私は確信していますが、そのルールが破られる理由は2つあります。
ルールが悪いか、追いやられるかです。
そして、それは重なっています。
絶対のルールなどありませんから、どのルールに従うかは、時に矛盾します。
ISの行為がいかに理不尽に見えても、その世界の人には、理に合ったルールなのでしょう。
日大アメフト部のルールがあって、それが宮川選手を追い込んだ。
世間一般のルールと日大アメフト部のルールの、どちらを守るべきか。
そこで、自分が見えなくなる。
加藤さんもそうだったのかもしれません。
宮川選手と加藤さんを並べることには異論を持つ人が多いでしょうが、私にはつながって見えてしまいます。
さらに言えば、そういう人はたくさんいる。

だからこそ、宮川選手へのシンパシーは高まるのでしょう。
しかし、そこにも私は危うさを感じます。

念のために言えば、宮川さんの記者会見直後に書いたように、私は宮川さんの記者会見に感激しましたが、それはこういうことを明らかにしてくれた勇気にです。
宮川選手がやったことは、やはり彼自身が自覚しているように、きっちりと償われなければいけません。
宮川さん自身のためにも。

さらに加えれば、世界には多様なルールがあります。
しかし、一番大切なのは、自らのルールです。
納得できないルールに、毅然として「ノー」というためには、自らのルールが必要です。
ルールは思考停止の道具ではなく、よりよく生きるための思考を支援する道具です。
ですから、ルールは時には破られてこそ、意味がある。
マニュアルと同じように。

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