カテゴリー「生き方の話」の記事

2017/09/25

■「亜由未が教えてくれたこと 障害者の妹を撮る」


昨夜のNHKスペシャルで「亜由未が教えてくれたこと 障害者の妹を撮る」というドキュメントが放映されました。
NHKの26歳のディレクター(坂川裕野さん)が、自分の妹を1か月介助して感じたことを映像で見せてくれました。
「障害者は不幸をつくるだけ」という、あの忌まわしい相模原市の事件を起こした青年の発言への、一つの回答です。
坂川さん自身はもちろんですが、家族みんなが実に素直に、その思いを見せてくれました。

障害者をテーマにした番組は、その多くがどこか肩に力が入っている気がして、見ていて疲れることも多いのですが、この番組はとても素直に、そしてとても共感を持ってみることができたばかりでなく、押しつけの姿勢が全くなかったので、素直に反応しながら、いろいろと思いを広げることができました。

再放送があります。
9月27日午前0時10分から、つまり26日の深夜の放映です。
簡単な番組紹介は下記にあります。
ぜひ多くの人に見ていただきたいです。
いつか坂川さんに会いたいです。
http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2017-09-24&ch=21&eid=09352&f=46

という内容をフェイスブックに書きこみました。
そうしたらなんと友人から、こんなコメントが来ました。

亜由未ちゃんのお母さんが、わたしの大学時代の同級生で!!、仲良くしていたのですが、30年近く前に連絡が途絶えていて、もう会えないのかと思っていました。昨夜テレビを見ていた西川さんから連絡が入り、めでたくつながることができました。深夜までおしゃべりしていました。^^ お母さん、ぜひ呼んでください。めっちゃパワフル&楽しい方です!!

そして、「あゆちゃんち」というFBページをおしえてもらいました。
さらにそこに書きこまれた亜由未ちゃんのお母さんのコメントを教えてくれました。
ぜひ読んでみてください。
これだけでも多くの人に読んでほしいです。
https://www.facebook.com/ayuchanchi/photos/a.489864241116030.1073741829.488057837963337/1039002972868818/?type=3&theater


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2017/09/05

■大衆の時代の憂鬱

先月、久しぶりにオルテガの「大衆の反逆」を読み直しました。
前にも2回ほど読んでいますが、今回が一番共感できました。
私もだいぶ保守的になってきたのかもしれません。

オルテガの大衆観をいくつか書き出してみます。

大衆とは、自分に対して特別の要求を持たない人々、生きるということが現在の自分の姿の繰り返し以外のなにものでもなく、自己完成への努力を自ら進んではしようとしない人々のことである。

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずること喜びを見出しているすべての人のことである。

大衆人は他の人々が建設し蓄積してきたもの否定しながら、いまだにその自分が否定しているものによって生きている。

なんだか自画像とも重なってくるような気がして、心が滅入ります。
以前読んだ時には、かなりの反発もあって、自分はオルテガが言うところの「大衆」ではないと勝手に思っていたものです。
しかし、まあ今にして思えば、典型的な大衆人です。

オルテガを引き合いに出すまでもなく、近代は大衆が豊かになった時代です。
しかし、大衆の豊かさは、政治の自己中心化を進め、短期志向を生み出します。
それはまた、経済優先から金銭重視へと生活を変質させてきました。
豊かさの概念が、そこでは大きく変質していますが、みんなどこかで少しは気にしているものの、その流れから抜け出そうとはしません。
お金がないからできない、理想はともかくお金がなければ生きていけない、とみんな言います。
パンよりもバラだろうという人はめったにいません。
しかし、パンだけの人生に何の意味があるのか。
ウィリアム・モリスは、「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」と言いましたが、バラでなくとも、野の花でもいい。
それに野の花は独占しなくてもいいのです。
気をつければ、まわりに見えてくる。

オルテガの「自分が否定しているものによって生きている」という指摘にも身が縮みます。
原発を否定しながら、電力の恩恵を手放せてはいません。
安倍政権には批判的ですが、その恩恵も受けています。

大衆の時代は、いかにも憂鬱です。
オルテガなど読まなければよかったと後悔しています。
困ったものですが。

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2017/09/02

■カフェサロン「食はしあわせのたね」報告

「食」を切り口に、「人がつながるしあわせ」をテーマにした高石さんのサロンは、気づかされることがとても多かったです。
福祉の原点を問い直される気がしました。
食は生きることの基本ですが、文化の起点でもあります。
たくさんの人に聞いてほしいお話がたくさんありました。

高石さんは、学校の先生を辞めて、「ゆいの家」という活動に取り組まれだしたのですが、先生時代に体験した「食の大切さ」の話から、いま取り組んでいる活動まで、具体的な事例も交えてとてもわかりやすく話してくれました。
現在は、「食」からしあわせの種まきをするために「食からの未病学」を立ち上げて、料理教室や講演活動などをされていますが、未病のための陰陽講座のさわりの話もしてくださいました。

高石さんは、食のあり方次第で、生活や言動が変わってくること、食を通じて人の関係が変わり、まさに食は「幸せ」につながっていることを、たくさん体験されています。
「食」は単に栄養補給だけではなく、もっと大きな意味をもっています。
しかし、昨今の状況は、そうした「食」のもつ豊かな意味が軽視されているのではないかと高石さんは言います。
運動会での給食の話や、子どもたちが自分たちで食事をつくるという学校の活動の話なども出ましたが、お聞きしていて、食を通して、学校での「いじめ」や不登校などの問題も、あるいは先生たちの悩みの多くも、解決できるのではないかと思いました。

学校に限りません。
家庭においても職場においても同じことかもしれません。
一緒に食事をすることの意味はとても大きいですが、最近は「孤食」も増えてきています。
とてももったいない話だと思います。
せっかくの「食」の役割を、活かせていない社会になってきているのではないか。
「食」を通じて、社会の実相が高石さんには見えているのでしょう。

高石さんは食の意味を3つあげました。
「料理も食もほんらいとても楽しいこと」
「食は自分にとっての最高の主治医であること」
「食を通して人は豊かにつながれること」
お話を聞いていて、とても共感しました。

福祉分野で活動している参加者の方たちも、食の効用を話してくれました。
企業に関わっている人は、食を通じてコミュニケーションが豊かになった事例を話してくれました。
食の効用はたくさんあります。
ただ「食べるだけの食」にしておくのはもったいない。
時間の都合で遅れてきて参加してくださったのがマクロビオティックに取り組んでいるおふたりです。
一度、湯島でもサロンをしてもらったことがありますが、いよいよ京都で活動を開始するそうです。
今回は、たまたま東京に来ていた青森の薬剤師の方も参加してくださいましたが、サロンの始まる前に聞いた「薬剤師」のお仕事のお話はとても共感できるものがありました。
薬も食と深くつながっていますが、薬剤師の人にもぜひサロンをやってほしくなりました。
どなたかやってくれませんか。

高石さんのメッセージは、高石さんのブログでも読み取れます。
http://www.at-ml.jp/70023/%E3%80%8C%E9%A3%9F%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E6%9C%AA%E7%97%85%E5%AD%A6%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%AF/
ご関心のある方はお読みください。

ゆっくりしたサロンでしたが、考えさせられることが多く、私自身少し食のあり方が変わりそうです。
Takaishi20170902


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2017/08/27

■自分の問題と他者の問題とでは判断基準が変わるようです

また北朝鮮がミサイルを3発発射しました。
そんなことをやればやるほど北朝鮮はむしろ自らを滅ぼすのではないかと思う人は少なくないでしょう。
そんなことをやっても米国の核兵器には勝てるはずがないので、抑止力は高まらないと思う人は多いでしょう。
金正恩体制の政策に共感する人はあまりいないと思います。

しかし、その同じ人が日本では核抑止力を信奉しています。
人は立場によって、思考を反転させることができることがよくわかります。
自分のことは見えなくなるのかもしれません。
前にも書きましたが、核抑止力を信奉し、日本の軍事力強化や米軍基地が日本の平和に寄与すると考える人は、金正恩と同じ思考をしているように思います。
だとしたら、北朝鮮を非難するのは自らを非難していることにならないのか。
同じ仲間、同志であることを自覚したほうがよいように思います。
昨日からの報道を見ていて、改めてそう思います。
テレビのキャスターやコメンテーターも、どこが金正恩やトランプとちがうのかもわかりません。
みんな「日本ファースト」「自分ファースト」でしか考えません。
視野の狭さよりも、私欲の深さを感じます。
それを党名にするような人がいるのは驚き以外の何ものでもありません。
でもヒトラーはそれで一時の成功を収めました。
日本でも小池さんが、それで知事になりました。
ここでも私は感じます。
ナチスを支えたドイツ人たちと、いまの日本人のどこが違うのか、と。
私の生き方はこれでいいのだろうか、と。

昨日、茨城県の東海村で行われた「8.26原発いらない茨城アクション」に参加してきました。
東海原電を人間の鎖で囲もうというアクションです。
その前の集会で、「原発いらない福島の女たち」の方が話をしてくれました。
原発事故を体験した人たちは、それを何とかして他の人にも伝えたいと活動していますが、原発再稼働の動きは止まりません。
そこにも立場の違いでのコミュニケーションのむずかしさを感じます。
なぜか「体験者」の話は特別のものになってしまい、自分の問題になりません。
困っている人を支援するというNPOの人たちと付き合っていて感ずるのも、同じことです。

私もそうでしょうが、人の判断基準は、自分に関することと他者に関することでは違ってしまうようです。
気をつけなければいけません。

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2017/08/04

■世の中には「おかしいこと」が多すぎます

ちょっと考えると「おかしい」と気づくことはよくあります。
たとえば、内閣への信頼感が失われた状況を打破するために、一部の大臣を変えることで信頼が回復すると囃し立てているテレビの報道バラエティ番組はどう考えてもおかしく、そのおかしなことを視聴者に植え付けているのはますますおかしい気がします。
そういう番組に出ている、政治ジャーナリストは口では内閣改造では信頼感は回復しないと言いながら、実際にやっていることは問題を矮小化し、視聴者をはぐらかしているだけです。
まともな政治ジャーナリストのやることではないでしょう。
彼らはみんな道化役のタレントでしかありません。

国会での審査会での官僚の回答は、これもどう考えてもおかしいです。
小学校に戻って国語の勉強をして来いと言いたいですが、もうたぶん遅いでしょう。
彼らの下で働いている人たちに同情しますが、たぶんその人たちもまた同じようになるでしょう。
なにしろ人は先輩を真似て育っていくからです。

おかしなことが山のようにあっても、みんな「王様は裸だ!」などとは言いません。
そんなことを言えば、仲間外れにされかねません。
しかし、「おかしなこと」に目をつぶって生きていると、いつの間にか自分の「おかしなこと」をやってしまうことにもなりかねません。

トランプのアメリカファーストを悪くいいながらも、小池都政の都民ファーストは支持するのも、おかしい話です。
ついでに都政についていえば、有害物質の埋められた場所に生鮮食材の市場を置くなど、あり得ない話です。
でもそれがいつの間にか決まっていました。
それが「おかしい」と改めて声をあげたにもかかわらず、結果的には何も変わりませんでした。
どう考えても私には納得できません。
昨日の火事は、土地の神様のメッセージではないかと思ったほどです。

原発は、要するにそこから出てくる極めて有害な廃棄物の処理ができない技術です。
そんなものをつくって良い訳がありません。
技術としても不完全で、誇りある技術者であれば、受け入れがたいはずではないかと思います。
そんな不完全な技術は、原発でないとしたら、だれも認めないでしょう。
それがかつての公害の原因だったわけですが、それを知っているのに、まだやめようとしない。
中小企業が廃棄物を排出していたら、操業停止になるでしょう。
でも国家がやると止まらない。
これもどう考えてもおかしいです。
原発はそもそも核兵器開発のために必要だから国策として取り組まれたことが文書などでもだんだん明らかにされてきていますが、私はそれよりも、ただ廃棄物処理の目途が立っていないのに続けられていることにおかしさを感じます。
すなおにただ、「おかしい」と思うだけです。
自分で廃棄物も処理できない技術は、技術と言えるのかと思うほどです。
それを認めている技術者に、私は不信感を持っています。

とまあ、こんなように、おかしなことが横行していることにおかしさを感じています。
それはたぶん私たちみんなが「おかしくなってきている」からでしょう。

今日、FBで「ちょっといい話を集めよう」というコミュニティを開設し、呼びかけを始めましたが、それと並行して、「おかしいことをおかしいというコミュニティ」をつくろうかと考えました。
つまり「王様の耳はロバの耳」という倉庫づくりです。
そこに向かって、みんなが言いたいけれど言えないことを投げ込んでいく。
もしかしたら、原発廃棄物の貯蔵庫よりも、危険な倉庫になるかもしれません。

でもやはりそれは、ちょっと暗い人生を支援することになりそうなので、やめました。

さて今日は、「おかしなこと」に出会わないことを祈ります。
今日こそ、心温まる1日でありますように。

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2017/07/02

■「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」

昨日、ケソン工業団地で働いていた人が語った北朝鮮のことを書きましたが、その本を読んで、渡辺京二の「逝きし世の面影」を思い出しました。
昨日湯島に行く電車の中で、最初のところだけを読み直しました。
読んでいる人も多いと思いますが、2つの話を紹介させてもらいます。
昨日私が言いたかったことを補足する意味で。

スイスの通日使節団長として1863年に来日したアンベールは、農村を歩き回っていると、人びとは農家に招き入れて、庭の一番美しい花を切りとって持たせてくれ、しかも絶対に代金を受けとろうとしなかったそうです。善意に対する代価を受けとらないのは、当時の庶民の倫理だったらしいと、彼は書いています。

イザベラ・バードの話からも一つ。バードは東北・北海道の旅の後、関西から伊勢に向かう途中でこんな体験をしています。奈良の三輪で、3人の車夫から自分たちを伊勢への旅に傭ってほしいと頼まれた。推薦状ももっていないし、人柄もわからないので断わると、一番としかさの男が言った。「私たちもお伊勢詣りをしたいのです」。この言葉にほだされて、体の弱そうな一人をのぞいて傭おうと言うと、この男は家族が多い上に貧乏だ、自分たちが彼の分まで頑張るからと懇願されて、とうとう3人とも傭うことになった。ところが「この忠実な連中は、その疲れを知らなぬ善良な性質と、ごまかしのない正直さと、親切で愉快な振る舞いによって、私たちの旅の慰さめとなったのである」。

また、「日本で貧者というと、ずい分貧しい方なのだが、どの文明人を見回しても、これほどわずかな収入で、かなりの生活的安楽を手にする国民はない」という、アメリカ人イライザ・シッドモアの言葉も紹介されています。
彼女はこうも書いているそうです。日本人は「木綿着数枚で春、秋、夏、冬と間に合ってしまうのだ」。そんな極限の状態でも、春と秋の素晴らしさを堪能するのに差し障りはない。「労働者の住、居、寝の三要件」は、「草ぶき屋根、畳、それに木綿ぶとん数枚」がみたしてくれる。穀類、魚、海草中心の食事は、貧しいものにも欠けはしない。

日本通だったチェンバレンは、日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言ったそうですが、現代の日本はどうでしょうか。

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2017/07/01

■競争の社会から共創の社会へ

最近読んだ「開城工団の人々」は、北朝鮮と韓国の共同事業として行われていたケソン(開城)工業団地で働いていた韓国の人たちの体験談を集めたものです。
とても示唆に富む話が多いのですが、こんな話は皆さんどう受け止めるでしょうか。
チーム長として、北朝鮮の人たちが働くチーム長として働いてきた人の発言です。

あちらは社会主義なので一生懸命働いてもインセンティブがありません。 いい加減に仕事をしても、我々に人事権がないために制裁できないのです。 それだから仕事ができない人ができる人に合わせるのではなく、できる人ができない人に合わせるようになります。 こんな状態が続くと生産が落ちる場合が出てきます。 我々が望む生産力に到達しようとすれば、人員を補充するしかありません。 一つのラインに南側では12名が必要だとすれば、開城では15名を入れるというふうにです。 そうやって生産性を100%に合わせています。

組織の生産力を高めるには、各自の生産性を高めるか、働く要員を増やすか、の2つの方法があります。
私たちのいまの社会では、前者が目指されています。
生産性をあげられない人は、職場には居場所がなくなる社会かもしれません。
その結果、組織の生産性は高まり、経済的な競争に勝ち抜いてきたわけです。

でも確かに、後者の発想があります。
一番ゆっくり働く人を基準にして、必要な生産力を実現するための要員数を決めていくわけです。
そんなことをやっていたら、激しいコスト競争にさらされている企業としてはやっていけないと思いがちです。
でもそうでしょうか。
要員数と人件費とは同じではありません。
限られた人件費を、みんなでなかよくシェアすれば、人件費をあげなくても大丈夫です。
できる人の給料は下がるかもしれません。
でも給料以外の何かが獲得できるような気がします。
無理してお金を消費しなくてもよくなるかもしれません。
そして組織全体の雰囲気が変わっていくかもしれません。

人工知能が、人の働く場を奪っていくという話があります。
2045年のシンギュラリティ仮説危機など、私にはまったくばかげた話だと思いますが、それはそれとして、人工知能に限らず機械化や自動化は人の職場を奪ってきました。
だから景気が良くなっても仕事は増えていきません。
しかし、発想を変えたらどうか。
そもそも「職場が奪われる」という発想は、まさに機械と人間を同じ次元で考える競争の発想です。
その時点で、たぶん発想を間違えているのです。
機械が職場を奪っているのではありません。
職場を奪っているのは、機械を使って私欲を得ようという人間です。
仕事を機械が代行してくれるのであれば、そこから生まれた時間をみんなでシェアし、働く時間を減らせばいいだけの話です。

ケソンの話は、いろんなことを示唆してくれます。
そろそろ「常識の呪縛」から抜け出たいと思っています。
そうすれば、いまもそれなりに生きやすい時代です。

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2017/06/14

■立ち上がる勇気

武蔵越生高校サッカー部の体罰映像がユーチューブに流れて話題になっています。
たしかにひどい暴力事件だと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=KmzXOXW0ZyE

ただ私がこの映像を見ていて恐ろしさを感じたのは、コーチの暴力ではありません。
暴力を振るわれている高校生とコーチの間には、ある特別の信頼関係もあったような報道もありましたし、コーチのインタビューも聞きましたが、あまり一般論で考えたくはありません。
私が恐ろしさを感じたのは、映像に見るように、サッカー部員の誰もが座ったまま動かないことです。
これほどの暴力を目の当たりにしても、動かない部員。
その姿に、私も含めていまの日本の国民の姿を感じたのです。
こういう風景が、いまも文科省や内閣府で展開されているのでしょうか。

この映像を撮影したのはサッカー部員のようです。
それがせめてもの救いですが、同時にこういう手段しかなかったことにやりきれなさを感じます。
ちなみに学校側には、この暴力的な指導はアンケートなどで届けられていたそうですが、学校側は無視していたため、サッカー部員はこうした手段をとったのでしょう。
コーチだけが悪者になっていますが、一番悪いのは学校の校長だと私は思います。
権力をもつ者は、責任を持つべきです。
JR西日本の福知山事件の判決にも、そういう思いを持ちました。

立ち上がる勇気をもちたいです。

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2017/06/05

■ワークショップ「大災害に備えるために~東日本大震災の実例から教訓を得る」報告

上原さんによるワークショップ「大災害に備えるために」は定員ぴったりの10人が参加しました。
東北被災地で活動している方も3人参加してくださいました。
女性の参加がなかったのがとても残念でした。

上原さんは、まずある状況において、「あなたならどうしますか」というイエス/ノーの問いかけをしてきました。
たとえば、「あなたは9歳の娘と一緒に自動車で避難中に、歩いて避難している娘の同級生を見かけて自動車に乗せましたが、その子が家に祖母がいるのを思い出し、その子から戻って一緒に避難させてほしいと頼まれました。あなたは祖母を助けにその子の家に戻りますか?」というように問いかけるのです。
参加者は、それぞれ一斉に、イエスかノーのカードを出します。
そして、そういう判断をした時に最も重視したことを書いて、それを順番に発表するのです。
それからみんなで3分ほど話しあいます。
そして次の問いに行きます。
これが基本形ですが、そこから発展した、さまざまな問いかけや話し合いの仕組みが考えられています。
そういう判断を迫られることのないようにするには、普段から必要なことは何か、というような問いかけもありました。

上原さんの狙いは、正解を見つけることではなく、価値観の多様性を知り、それぞれがより適正な判断力を身につけることです。それが大災害での「生き残る確率」を高めることにつながると上原さんは考えています。
問いかけは、すべて実際にあったことを材料にしていますので、リアリティがあります。報道を見て、いろいろと批判することは簡単ですが、実際にその場に立ったとして考えれば、その場での判断がいかに難しく、また「正解」などないことが実感できます。

3.11の後、女川などで活動してきた宮崎さんは、東日本大震災の教訓を風化させないためにも、この種のテーマでのサロンの企画は大切だと言ってくれましたが、単なる事例を学ぶのではなく、自らがその立場になって一人称自動詞で考えることで、教訓を刻み込むことの意味を、私も実感しました。

テーマは、大震災に備えてでしたが、このワークショップから気づかされたことはたくさんあります。
上原さんの、今回のワークショップのベースにあるのは、クロスロード防災ゲームだと上原さんから教えてもらいました。
クロスロード。
分岐点というような意味ですが、それはさまざまな活動に関して、出会うところです。
上原さんは、防災のほかにもいくつかのテーマでこのワークショップに取り組んでいます。
私が最近体験したワークショップの中では一番気付きが多かったです。
参加者もとても面白いと言っていました。

自治会や行政や、あるいはさまざまな問題に取り組むNPOにも、有効な手法だと思いました。
もし自分のところでやってみたいという方がいたら、上原さんをご紹介しますので、ご連絡ください。

最後に、上原さんは一番判断が困難だったことや驚いたことなどを全員に問いかけました。
私は、社会的な役割と家族関係のどちらを優先するかに少し迷いがありました。
驚いたのは、最後の問いかけへのイエス/ノーが私だけ違っていたことでした。
私は自分がとても人間的な、常識的な考え方をすると自負していましたが、10人中、私だけが違う判断をしたことに正直驚きを感じました。
その問いかけは、そう難しい問いではなかったのですが。
こんな形で、自らの判断基準や他者との違いにも気づかせてくれるワークショップでした。

今回の私の教訓は、自らの生き方の原理原則を明確にしておくことの大切さです。
それはそんなに難しいことではないのではないかというのも、今回改めて実感しました。

とてもいいワークショップをしてくださった上原さんに感謝します。
遠方から参加してくださった実践者のみなさんにも。
いつかパート2を開催したいと思っています。


20170604


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2017/06/03

■書籍を買わずに図書館から借りていたことへの反省

私はこの十年余り、月15万円の年金以外収入はあまりありません。
時々、仕事などの関係でお金をもらうことがありますが、それは活動費に充てますので、生活費にはなかなかまわりません。
と言っても自宅のため家賃は不要ですし、私はほとんどお金を使わないので、生活費に困ることはありません。
しかし、節約できるところは節約することとしたため、書籍の購入をほとんどしなくなっています。
昨年1年間で、驚いたことに書籍代は5万円ほどでしかありませんでした。
以前の十分の一以下です。

会社時代や私が対価をもらう仕事をしていた頃には、私が使うお金は喫茶店でのコーヒー代と書籍代くらいでした。
お酒も飲まないし、とりわけお金のかかる趣味もない、無粋の生活をしていたからです。
ところで、なぜ書籍代が不要になったかと言えば、近くの図書館を利用するようになったからです。
先月もたぶん10冊以上の本を借りていますが、かなり高価な本が多いので、自分で購入したら、3万円以上になったでしょう。
図書館で借りると期間内にきちんと読まないといけないので集中的に読破できますし、何よりもいいのは、読後の書籍管理が不要になります。
それにシェアリングの価値を高く感じているものとしては、よい仕組みだと思っていました。

しかし、今朝の朝日新聞で、角川春樹さんとから佐伯泰英さんへの書簡を読んで、間違いに気が付きました。
その一部を引用させてもらいます。

昨年の11月に、2600館の図書館に複本(2冊以上)の購入を控えて欲しいという嘆願書を日本書籍出版協会の文芸書小委員会から送付しました。佐伯さん、私はアマゾン等のネット書店よりもリアルな書店を大切に思っています。町から本屋がなくなれば町ではないからです。 人間は2度死ぬけれど、本屋さんが1度潰れたら、2度目はありません。リアルな書店がなくなれば、出版社も本の取次店も小説家も、この日本からなくなります。現在(いま)のままでは10年以内に現実になります。

たしかに最近の図書館はベストセラーを数冊購入しています。
私もそれには大きな疑問を持っていましたが、そのほうが私には好都合なので、見過ごしていました。
しかし角川さんが危惧されているように、みんなが図書館で本を読みだしたら、書籍はますます売れなくなってしまうでしょう。
そのことを忘れていました。

以前、平和のためにできることの一つとして、『地球的平和の公共哲学』を購入することで意思表示ができますという呼びかけをしたことがあります。
私のホームページにまだ残っていますが、2003年のことです。
http://cws.c.ooco.jp/heiwa-net.htm
少なくとも4人の方が賛同して下さって購入してくれました。
著者のお一人の小林さんも喜んでくれました。
そういう呼びかけをしていたにもかかわらず、最近、お金がないことを理由に、書籍を購入せずに図書館に頼っていたことを、いささか反省しました。
私も以前は、多くの人に読んでほしい本をまとめて購入して配布していた時期もあります。
今もその残りの本が残っています。
青学の名誉教授の本間さんは、書籍を出した人を支援するためにも、積極的に購入しようという姿勢を強くお持ちで、それを実践されています。

とりあえず、やはり本の文化を終わらせないために、これからはこれはと思う本は購入しようと思います。
価値のある本を購入することは、それなりの意思表示にもなるでしょう。
自分のことだけを考えていると、見えなくなってしまうことがあるものです。
気をつけなければいけません。

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