カテゴリー「生き方の話」の記事

2019/05/09

■湯島サロン「過労死問題が問いかけるもの」報告

過労死をテーマにした2回目のサロンには10人を超える人が参加しました。
小林康子さん(東京と神奈川の過労死を考える家族の会世話人)は問題の背景などを話してくれた後、参加者に3つの問いかけをしました。

「業務における過重な負荷」
「業務における強い心理的負荷」
「そのような就労環境」

これに関して話し合おうということになりました。

ところが最初から、過労死問題の捉え方に関する根本的な問いかけが出されました。
昨今の過労死問題や働き方改革は「雇用労働」に焦点を絞りすぎているのではないのか、過労死は個人営業やフリーワーカーの人たちにも発生している、というのです。
そして波乱万丈のサロンになっていきました。
そんなわけで、さまざまな話題にとびましたが、そのおかげで、「労働」を超えた社会のあり方や私たちの生き方へと視野は広がり深まったと思います。
そして、小林さんの問いかけにも深い意味でつながっていったように思います。

少し具体的な話を紹介すれば、時間以外の要素にもっと目を向けるべきではないかという意見が多かったです。
納得できていない仕事と納得して取り組んでいる仕事とでは同じ労働時間でもまったく違うのではないか。
個人で仕事をしている人たちの労働時間は場合によっては雇用労働者の残業時間よりも長い場合もあるが、だからといって過労死が問題にならないのはなぜか。
働かされているのか、働いているのかで違うのではない。
ILOが取り上げているディーセントワーク(働きがいのある人間らしい仕事)や雇用労働と協同労働の話もでました。

日本には、組織を辞める自由が少ないし、辞めることを恥と思う文化もある。
本人が自分に負荷をかけている面もあるのではないか、といった日本人の考え方や生き方の話も出ました。
組織のため、会社のために働いていることが問題ではないか。
かつては、会社のためと自分のためとがつながっていたが、いまは切り離されてしまった。
もっと自分の生活を起点に考えることが大切ではないか。

お金に縛られすぎているのではないかという話もありました。
そうならないように、いろいろな人のいろいろな生き方を知ることが大切だという指摘もありました。

過労死に向かってしまう人は、自分が見えなくなってしまう。
家族などのまわりの人が忠告してもわかってもらえない。
そういう時に、相談に乗ってくれる人や、気づかせてくれるような場や仕組みがほしい、と遺族の方からの体験談もありました。
企業でもカウンセラーや相談窓口をつくっていますが、当事者目線での仕組みがまだ不十分のようです。
これは過労死に限ったことではありません。

働き方改革の動きが、逆に労働条件が悪化させる危険性もあるという指摘やそもそも「正規」「非正規」という働く人たちを分断しているのが問題ではないかという指摘もありました。

過労死問題の原因は3つ。90年代に外資系コンサルが日本人の働き方を変えたこと、日本人の好きなスポ根文化、そして日本人の帰属意識重視文化だという指摘もありました。

さらには、教育の問題やセイフティネットまで、書き出していったらきりがないほど、いろんな話が出ました。
「過労死問題が問いかけるもの」は労働や企業だけにはとどまらないのです。

私は、経済ではなく生活を基本にした社会に変わっていくことが必要ではないかと思いますが、そのためにはまず私たち一人ひとりが自分の生活を大切にしていくことではないかと思います。
過労死は、社会のあり方を象徴している表現の一つです。
制度的な対策も必要でしょうが、私たちの生き方や社会のあり方に根差している。
そのためにはまず、いろんな生き方があることやいろんな世界があることをもっとみんなに知ってほしいと思います。
それが湯島でサロンを続けている理由の一つなのです。

生き方として何に価値を置くか。自分が価値があると認められることのために働くことは楽しいことです。
働くことは楽しくなくてはいけないと思っている私としては、働くことは生きることなので、過労死という捉え方にはそもそも違和感があります。
私たちはいったい「何のために」働いているのか。
そこから問い直さないと「働き方改革」は、事態をさらに悪化させていきかねない。
改めてそう思わされたサロンでした。

最後に小林さんが、こういう議論を広げていくためにも、秋に公開フォーラムを開催したいという提案をしました。
有志で実行委員会を立ち上げることを検討したいと思います。
一緒に取り組みたい方は、ぜひゆるやかな実行委員会のメンバーになってください。
ご関心を持っていただけたら、私にご連絡ください。

Karoushi190506

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2019/04/29

■多様性を受け入れるとはどういうことか

昨年、テレビ朝日で放映されていたドラマ「未解決の女」のドラマスペシャルが昨日放映されました。
わずかな文章から書き手の性格や思考を言い当てる能力を持つ警部補が、未解決の事件を解決していくという物語です。
言葉から事件を解いていくというのが、このドラマの面白さです。
「言葉の神様」は私にはあまり降りてきませんが、その存在は私もかたく信じています。

今回は、現場に品字様の文字が遺された連続殺人事件の物語でした。
品字様の文字とは「品」のように同じ漢字が3つ連なる文字のことです。
品字様の文字も面白いですが、今回書こうと思ったのは、ドラマを見ながら最近特に感じていることです。
ネタバレになりますが、ドラマの連続殺人は、恋人を過労死に追い込んだ会社の上司や関係者への「復讐劇」でした。
最後に犯人が、なぜ犯罪に至ったかを告白するのですが、私はこういう話に弱くて、いつも共感のあまり涙が出てしまうほどです。
そこでは、心情的には、加害者と被害者が逆転してしまうわけです。

そうした告白に対して、どんな事情があろうとも、人を殺めるような犯罪を起こしてはいけないと刑事が戒めるのが、このパターンのドラマの定型ですが、私はこういうセリフが好きではありません。
他人のことだからそんなきれいごとが言えるのだと内心思ってしまうのです。
それに、あなたは何の根拠をもって、加害者と被害者を決めるのか、と問いたくなるわけです。
ちゃんと自分で考えているのか、というわけです。
こういうやり取りの意味は実に大きいと思いますが、そうした言葉の洗脳には抗わなければいけません。

話は変わりますが、先日のスリランカの連続自爆テロは、IS の悪夢が決して「夢」ではなく、終わりがないことを教えてくれているような気がします。
なぜ終わらないかは、明白です。
終わりようがないのです。
もちろん終わらせる方法はあります。

最近読んだ「暴力の人類史」に紹介されていたのですが、法学者のドナルド・ブラックは、私たちが犯罪と呼ぶもののほとんどは、加害者の視点から見れば正義の追求だと主張しているそうです。
ブラックは膨大な犯罪データを解析した結果として、こう書いているそうです。

殺人のもっとも一般的な動機は、侮辱されたことへの報復、家庭内の争議がエスカレートしたもの、恋人の裏切りや失恋、嫉妬、復讐、自己防衛など、道徳的なもので、大部分の殺人事件は実質的には、ある一般市民が自ら判事、陪審員、そして執行人となった「死刑」である。

つまり、殺人の多くの実態は、「正義のための死刑(リンチ)」だというわけです。
ブラックはさらにこう書いているそうです。

「殺人を犯す者は、しばしば、自らの運命を当局の手に委ねているように見える。警察が到着するのをじっと待つ者も少なくないし、自分から通報する者もいる。このような場合には、殺人を犯した者は見方によっては殉教者といえるかもしれない。殺人を犯す者は自分が正しいと思っており、その帰結としての処罰を甘んじて受け入れるのだ」。

とても考えさせられます。

「正義」を語る人を私は好きになれませんし、「法律」に呪縛されている人も好きにはなれませんが、しかしISの悲劇を聞くたびに、ではどうしたらいいのかと自問します。
それで決めたのが、「正義」と「法律」から自らを解放しようということです。
「正義」も「法律」も、私にとっては、きわめて多義的なものになってきています。

「社会のため」とか「正義のため」という言葉は、軽々に使うべきではないでしょう。
その前にまず、自らの世界の広さをこそ顧みることが大切です。

今回、言いたかったのは、多様性を受け入れるとはどういうことかという問題提起なのです。
いつも誤解されるので、蛇足ながら。

 

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■年齢は捨てられません

挽歌編に書いたのですが、少しだけリライトして時評編にも書きました。

20年ほど前、アンチエージングが話題になった事があります。
高齢化が問題になっていたころです。
以来、年を取ることへのマイナスイメージは定着しました。
当時、私もそうした考えに大きな違和感を持っていませんでした。
もっとも「高齢化」に関しては私自身はプラスの評価をしていました。
「早く来い来い、高齢社会」などという小論を書いたりしてもいました。
http://cws.c.ooco.jp/siniaronnbunn2.htm

最近、下重暁子さんが「年齢は捨てなさい」という本を出版しました。
新聞広告には「年にしばられると人生の面白さが半減する」「年齢という「呪縛」を解き放て!」と書かれていました。
こういう風潮に最近やはり強い拒否感があります。

いろんなものに「呪縛」されているのに、よりによって、捨てる対象が「年齢」とは、どうも納得できません。
私は、最近は年齢に素直に従っていますが、それが「呪縛」とは思えません。
すなおに加齢を受け入れ、それを前提に生きています。
「老人」という言葉も好きですが、実際には「老人」になれずに、意識はむしろ年齢に追いつけずにいます。
しかし、身体は素直に年齢を重ねています。

最近、高齢のドライバーの交通事故で、親子が死傷する事件が起きました。
それを契機に、高齢者ドライバーへの批判が高まり、自動車運転免許も年齢制限する必要があるのではないかという意見も出てきています。
それに対して、年齢で制限するのはおかしいとか、憲法違反だという声もあります。
自動車免許をとれるようになる年齢も含めて、いろんな分野で年齢制限されているのに、こんな論理は成り立つはずもないでしょうが、そんなご都合主義が相変わらずまかり通っています。

みんな「年齢」を捨てたがっているようです。
不老不死の世界に入るのは、そう遠い先ではないでしょう。
しかし不老不死とは、命のない世界でもあります。

私は70に近付いた段階で免許は返納しました。
基本的には年齢制限をつけるべきだと思っていますし、それがなくても自分のことは自分で決めるくらいの良識は持っています。

たしかに人によって状況は違い、高齢でも運転できる人はいるでしょう。
しかしそうした個別事情を認めていたら、年齢は社会的判断の基準にはならず、社会は成り立ちません。

年齢を捨てるという発想にはやはりなじめません。
私自身は、素直に年齢(生命)に従う生き方をしたいと思っています。

その本の新聞広告に、「年齢を封印するだけで出来ることが10倍増える!」と書かれていました。
私はむしろ、「年齢を受け入れるだけで出来ることが10倍増える!」と揶揄したいですが、それはともかく、「自分を素直に受け入れるだけで出来ることがたくさんある」と思っています。
しかし、自分を素直に生きることはとても難しい。
まだまだ年齢相応の生き方ができない未熟さに、時に自己嫌悪に陥ります。

それでも私は、年齢を大事にした生き方をしていこうと思います。

 

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2019/04/27

■初原的同一性

最近2冊の本を読みました。
1冊はもうだいぶ前に出たスティーブン・ピンカーの「暴力の人類史」。
もう一冊は最近出た煎本孝さんの「こころの人類学」です。

前者は1000頁を超す大著ですが、後者は新書です。
まったく意識せずに読んだのですが、2冊には共通しているテーマがあります。
人間の本性です。

「暴力の人類史」ではこう書かれています。

人間の本性は、私たちを暴力へと促す動機(たとえば捕食、支配、復讐)をもちあわせているが、適切な環境さえ整っていれば、私たちを平和へと促す動機(たとえば哀れみ、公正感、自制、理性)ももちあわせている。

ピンカーは、人間には「内なる悪魔」と「善なる天使」が内在しているといいますが、どうもこの本を読むと、人間の本性は暴力好きな悪魔のように思えます。
これでもこれでもかというほどの人間の暴力性の事例、たとえば幼児殺しがいかに日常的だったかの記載を読んでしまうと、親子関係に関する常識さえ壊されてしまいます。

一方、「こころの人類学」の煎本さんは、「慈悲、わかちあい、おもいやり、いつくしみは、人類に普遍的に見られる自然的宇宙観」だといいます。
こんなことも書かれています。

「トナカイは、人が飢えているときに自分からやってくる」と、カナダ・インディアンは考えていたという。

煎本さんは、原始の人類は、人間と動物や自然を同一視していて、トナカイは飢えた人間のために施しとしてやってきたのだと考えたというのです。

仏教のジャータカ物語に出てくるような話ですが、トナカイは人間の仲間であり、つまりは人間もまたトナカイのように行動するということを示唆しています。
人間と動物とは異なるものであるが本来的に同一であるとする思考を、煎本さんは初原的同一性とはいい、人間性の起源は、この初原的同一性にあると言います。

私は「初原的同一性」という言葉を初めて知ったので、初原的同一性は、人間と動物だけではなく、あらゆる存在に関して成り立つはずです。
すべては一つだったと考えれば、世界がとても理解しやすくなります。
たとえば、「内なる悪魔」と「善なる天使」もつまるところ同じことなのです。
そして、内なる悪魔もまた、自らのものだと考えれば、他者に対して寛容になれます。

「暴力の人類史」だけを読んでいたら、たぶん世界が広がっただけでしたが、偶然にも同時に「こころの人類学」も読んでいたので、人間嫌いにはならずにすみました。

今回、2冊の本を同時に読んだのは、偶然とは思えません。
誰かに読まされているのではないかと思えてなりません。

最近他者への寛容さを少し失ってきているような気がしていましたが、踏みとどまれそうです。

 

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2019/04/16

■10連休の過ごし方

今朝のテレビで、10連休を活かして収入につながる起業や副業開発のセミナーやイベントの紹介が報道されていました。
日本人は、休暇は消費活動としてのレジャー活動をしなければいけないと思いこんでいますが、さすがに10連休では余暇消費を続けられないので、収入につながる仕事探しをはじめるようです。

そもそも休暇とは、暇を休むことであり、消費活動からも休むことではないかと思っている私には、滑稽にしか思えません。
生産者として経済を支え、消費者として経済を支えている生き方を前提にしていては、金銭に呪縛された生き方から抜け出るどころか、ますますそれを支える10連休になりそうです。
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連休は、新しい「働かせ方」の仕組みとさえ思えます。

しかし、実際には10日間、休める人がそう多いとも思えません。
むしろ、仕事ができずに収入減になる人もいるでしょうし、連休とは無縁の人もいるでしょう。
10
連休で、生活面で困っている人も少なくないでしょう。
10
連休で病院が休みになったらおれの健康はどうなるのかと嘆いていた友人もいます。
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日間、いつもの労働から解放されたとしても、過労で心身両面で限界に来ている人に、また過酷な労働に立ち向かうしばしの回復の機会を与えるだけのケースもあるでしょう。
そうやって心身はさらにおかしくなっていきかねません。

この10連休は、「働き改革」の関係で出てきたことに示唆されているように、さらなる「働かせ方強化策」にもつながっているような気がします。
相変わらず、「休暇は雇い主から与えられるもの」という意識からみんな抜け出られないでいるわけです。
「休みは与えられるもので、自らで休むものではない」とは、考えてみれば、おかしな考えです。

財界や政府の甘言にまどわされずに、この10日間はレジャーの誘いになどのらずに、もちろん「新しい労働」への準備などに取り組むことなく、家族や友人とゆったりと過ごし、無駄に過ごすのが一番無駄でないようにも思います。

私は10連休に挑発されて、10連サロンも考えてみましたが、それはやはり疲れるので、10連休後半に3回、サロンを開くことにしました。
最後の56日は、「過労死」がテーマです。
それ以外は基本的に、無駄に過ごすつもりです。
「過休死」にならないように、休まずに、きちんと生きていようと思います。

そろそろ「休暇はご主人様から与えられるもの」という発想から自由になりたいものです。
そもそも政府が10連休を呼びかけるのはおかしいと思うのですが。
自由な人間であれば、休みたいときに休める生き方をしたいものです。

 

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2019/04/04

■ハネツルベの逸話

昨日、久しぶりに畑に行って、「小作人作業」に精出してきました。
野草や篠笹に譲っていた場所を耕して畑にする作業などを1時間半。

笹竹の根っこがすごいので、鍬と鎌だけの手作業だと1畳ほどの畑をつくるのに1時間近くかかります。
耕運機などを使ったらどうかという人もいますが、小さな畑を自然から借りるのにそんなものを使うのは私の感覚ではフェアではありません。
もちろん除草剤などは論外です。
地中に張り巡っている竹の太い根を切るのに力を入れすぎて、手がおかしくなって、しばらく作業ができなくなることもありますが、それは当然の代償でしょう。

そういう作業をしながら、思い出したのが、「荘子」に出てくる「ハネツルベの話」です。
こんな話です。

孔子の弟子の子貢があるとき、畑仕事をしている老人に出くわしました。
老人は、井戸の底まで穴を掘って、井戸のところまで下って、水がめに水を入れ、それを抱えて穴から出てきては畑に注いでいました。
その大変さに同情した子貢は、老人に「ハネツルベ」という水揚げのための便利な機械があることを教え、それを使ったらどうかと勧めたのです。
すると老人は笑いながら、自分の師匠から教わったことだと言って次のように話したそうです。

「仕掛けからくり(機械)を用いる者は、必ずからくり事(機事)をするようになる。からくり事をする者は、必ずからくり心(機心)をめぐらすものだ。からくり心が芽生えると心の純白さがなくなり、そうなると精神も性(もちまえ)のはたらきも安定しなくなる。それが安定しなかったら、道を踏みはずすだろう。ワシも『ハネツルベ』を知らないわけじゃない。ただ、恥ずかしいから使わんのじゃよ」。

私の好きな話です。
今日もこれから、畑に汗をかきに行きます。
いろんな生き物に会えるのが楽しみです。

 

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2019/04/03

■「金額に応じた報酬」という発想

成年後見制度の報酬に関する見直しを促す通知が最高裁から全国の家庭裁判所に出されたと今朝の朝日新聞に報道されていました。
朝日新聞によれば、「認知症などで判断能力が十分ではない人を支える成年後見制度を巡り、最高裁判所は、本人の財産から後見人に支払われる報酬を業務量や難易度に応じた金額とするよう、全国の家庭裁判所(家裁)に促す通知を出した。財産額に応じた報酬となっている現状に批判があることを踏まえ、制度利用を増やす一環として見直しを目指すものだ」そうです。
ようやくこういう発想が出てきました。「制度利用を増やす一環として」というところに、「何も変わっていない」意図を感じはしますが。

 こうした「金額に応じた報酬」という発想が社会を覆っていることへのおかしさをずっと感じていました。
たとえば、不動産売買業務の手数料も売買金額に応じて決まってきます。
裁判の弁護士報酬もそうです。
活動価値の判断基準が「金額」に依拠しているわけです。

専門家が、次第に卑しくなっていく危険性が、そこに内在されているように思います。
まあ、それは言い過ぎとしても、こういう発想が社会を金銭依存に導いていることは間違いない。
そうしたことの弊害は、改めて説明することもないでしょう。
結果的にはみんな「お金」を価値判断の基準にしてしまうわけです。

私は、お金とは人との関係性で意味を持ってくると考えています。
お金持ちにとっての1万円と金銭的に恵まれない人の1万円の価値は全く違うでしょう。
むかしの「赤ひげ先生」のように、お金のない人には無料で、お金持ちには高価で、医療対価を設定するのは、きわめて理にかなっています。

「金額に応じた報酬」社会は、お金に支配される社会に直結していきます。
そして、人の価値まで金銭基準になっていく。
そして、自分の市場価値を高めることが大切だなどということが言われるような、本末転倒な社会になってしまったわけです。

仕事の価値はお金とは無縁です。
仕事の捉え方を改めなければいけません。
そうすれば、働き方も変わってくるでしょう。

 5月6日に、「過労死問題」につなげて、「働き方」をテーマにしたサロンを予定しています。
4月から働き方改革関連法が施行されましたが、そもそもの発想を変えなければ、むしろ状況は悪い方向に向かうのではないかと危惧しています。
よかったら参加してください。

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2019/03/14

■腎臓透析中止に思うことを話し合いたいと思います

腎臓透析を中止したために死亡したというニュースに接した方の投書が、数日前の朝日新聞に載っていました。

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この報道に接した時には、なぜか最初に恐怖感と嫌悪感を持ったのですが、次第に、とても大切な問題提起をされているのではないかと思うようになりました。
そんな時に、この投書を読みました。
気づかされることが多く、改めて、生命とは何だろうと考えずにはいられません。

私の周りにも若くして腎臓透析を受けている人がいます。
本人はもちろんですが、家族の大変さも実感しています。
今回の件で、何もできずにいる負い目を感じながらも、いつのまにか傍観者になってしまっている自分に、改めて気づかされた感じです。
恐怖感と嫌悪感を持ったのは、こうした自分への非難と感じたからかもしれません。
他者の生命に対して、できることの少なさに、今回もまた襲われています。

投書した透析専門医の方は、数多くの事例を体験されているでしょう。
その方が、最後に、「ただ、善悪で結論を出して終わり、ではなく、死生観と医療のあり方について議論のきっかけになればと願う」と書かれているのに共感しました。

言葉で「死生観」というのは簡単ですが、実際には死生観を語ることは難しい。
昨日も、湯島で「お墓」をテーマにしたサロンをやったのですが、なかなか「死生観」を語り合うのは難しい。

そこで今朝、思いついたのですが、この事例をただ傍観しているのではなく、この事例を踏まえて、それぞれの死生観を語り合う場を持つことなら、私にもできそうです。
そんなわけで、急なのですが、記憶がまだ冷めないうちに、「腎臓透析中止の報道に接して考えたこと」を話し合うサロンを開くことにしました。
できれば、投書された方のメッセージを受けて、死生観と医療に絞って、批判的な議論ではなく、自らの生き方につなげる形での、肯定的で建設的な話し合いにしたいと思います。

急ではありますが、ぜひご参加ください。

〇日時:2019年3月24日(日曜日)午後1時~3時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:腎臓透析中止の報道に接して考えたこと
〇スタイル:肯定的で建設的な話し合い(できればそれぞれの死生観を話し合いたい)
〇会費:500円
〇申込先: 佐藤修(qzy00757@nifty.com)
今回は必ず事前に参加のご連絡を下記にください。参加者がいない場合は中止しますので。

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2019/03/13

■水俣病を知らない人も増えてきているのでしょうか

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NHKテレビの100分de名著で「苦海浄土」が取り上げられていたようですが、この番組はあまり見ていないので気がつきませんでした。
「苦海浄土」は50年以上前に読んでいますが、きちんと読めたのは最初の1冊だけです。
その番組がベースになって、NHK出版から「悲しみのなかの真実」という本が出版されていました。
若松英輔さんの著作です。
図書館で見つけて借りてきたのですが、読み出したらすぐに引きずり込まれてしまいました。

そしてぜひ多くの人に読んでほしいと、強く思いました。
「苦海浄土」を読むのは大変ですが、この本はとても読みやすく、静かに読み続けられます。
それがいいのかどうか迷いますが、自分でも考えながら読めます。

実はここまでのことを書いたのは、先月です。
アップする段階になって、ふと思いました。
水俣病の話は、いま、どれだけの人がどのくらい知っているのかと。
私は比較的早く水俣病のことを知り、書籍もかなり読んできました。
水俣にも行く機会があり、本書にも出てくる杉本栄子さんにもお会いしました。
まだお会いしたことはありませんが、緒方正人さんの本も読ませてもらっています。
そうしたことがあるので、この本のメッセージが素直に入ってきたのかもしれないと思ったのです。
そして、ふと不安に思ったのは、水俣病のことをいまいったいどれだけの人が知っているのだろうかということです。
あの福島原発事故でさえ、いまの状況です。

3.11関連の報道をみていて、なぜか水俣のことを思い出してばかりいました。

それでもやはり、この本は多くの人に読んでほしいと思い直しました。
まだ読まれていない方がいたら、ぜひお薦めです。
余計なお世話ですみません。

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2019/03/12

■湯島サロン「東京で感じたこと、米子で見えたこと」報告

久しぶりに、まだ日本には救いがあるなと実感できたサロンでした。
これはきわめて主観的な感想ですが。

今回の話題提供者の矢辺さんは、鳥取の米子で育ちました。
東京で大学卒業後、障害者に特化した人材系会社に入社。
活動を通して、「障害者」の捉え方が変わり、本人が不自由を感じていたらそれはすべて障害なのではないか(その逆もある)、そうした生きにくさを抱えている人の問題を解決したいと思うようになったそうです。
その後、生活困窮者支援を行う国のモデル事業(パーソナルサポーター制度)の就職担当相談員に転身。
その制度がなくなったため、そうした活動のための会社を自ら起業しました。
しかし、2014年に父親から事業を引き継いでほしいといわれ、両親に「ものすごく感謝」をしていたこともあり、実家のある鳥取県の米子に帰郷しました。
たまたまその会社は、電力提供に関わる会社なので、そこで将来は、エネルギーの大量生産大量消費から地産地消ができないかという活動にも取り組みたいと考えています。
会社経営のあり方に関しても、ティール組織も参考にしながら、変革に取り組んでいるようです。

これが矢辺さんのこれまでの人生ですが、お話を聞いていて、さまざまなことを考えさせられました。
10年以上前に、大学時代の矢辺さんとはいろいろと話し合ったこともあるのですが、自らの志を軸にして、時流に流されることなく、しっかりと実践しているのに感心しました。

矢辺さんは、会社に就職しないと生活できない現在の社会に問題を感じています。
企業で働かなくても生きていける手段があれば良い。
企業だけに頼らずに、他者と支え合いながら、自然と調和した生き方を広げていきたいといいます。
そのためのいくつかの具体的な手だても矢辺さんは考えています。

個人の生き方に関しては、「おりる生き方」を提案しました。
それは、「企業で働いていなくても、福祉のお世話にならず、生きること」を目指す生き方です。
経済状況によって変化する企業業績に左右されず、財政事情によって変化する福祉制度に左右されず、「今日が来たように明日を迎える暮らし」、そして「つながりで生きづらさを解決する暮らし」というのが、矢辺さんが目指す生き方の基本です。
具体的な提案もありましたが、一言で言えば、「問題をお金で解決しない」生き方です。
お金を「稼ぐ」仕事は、週3日程度にし、後は「働く」仕事をし、顔が見える範囲の150人までの地域コミュニティとその核になる生活基盤となる家族をしっかりとつくっていきたい。
お金は家賃やライフライン代が払える程度あればいい。
できないことはみんなでフォローし合えるコミュニティがあればいい。
それが、矢辺さんが提唱する「おりる生き方」です。

最後に矢辺さんはみんなに問いかけました。

正しさとは?
生命力とは?

その問いかけから話し合いが始まりました。
話し合いは省略して、矢辺さんの考えだけ紹介しておきます。
「正しさは生命力を高めること」
「生命力とは自らの持つ良い部分を出し続けられること」

ちなみに、米子と東京に違いは何か、という話も出ました。
矢辺さんは、今回も羽田を降りた途端に、なぜか自分もせかせかと「速足」で歩いていたと話しました。
米子と東京とでは、時間の進み方が違うのかもしれません。

矢辺さんは、家族に頼れることのすごさについても語り、そうした「安心できる生活基盤」の大切さも語ってくれました。

「せかせかした生活環境」そして「安心できる生活基盤」。
この2つについて、私たちはもう少ししっかりと考え直す必要があるのではないかと、改めて考えさせられたサロンでした。
参加者は矢辺さんを含めて7人。ちょっと少なかったのが残念でした。

いま、時代の大きな分かれ目に来ているように思いますが、若者のメッセージの眼差しから、そして参加者の発言から、私としてはちょっと元気をもらいました。

矢辺さんのメッセージにつながるようなサロンを、4月5月と予定しています。
またご案内させてもらいます。

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