カテゴリー「生き方の話」の記事

2019/12/04

■嘘を前提にして議論する社会

国会では相変わらず「桜を見る会」での与野党のやり取りが続いています。
テレビでもその関連の話が話題になっています。
私がこの問題で驚いているのは、官邸や与党の反応ではありません。
みんなが「嘘」を前提に思考し議論していることです。

これは最近の風潮ですが、こうしたことが繰り返されると「嘘」という概念さえなくなっていくのではないかと気になります。
いやもうなくなってしまっているのかもしれません。
最初にこうした風潮をつくった小泉政権からもうかなり経ちますから。

「桜を見る会」問題での嘘は、たとえば、参加者名簿がないという嘘です。
本当にないと思っている人がいるのでしょうか。
手書きで名簿をつくる時代ならともかく、パソコンでデータ作成する時代に、プリントアウトした名簿をシュレッダーにかけることで名簿はなくなりません。
万一すべてのパソコンのデータを消去しても、復元は可能でしょう。
そういう時代に、相変わらず、紙媒体の名簿を廃棄したことで、名簿がないなどと騒いでいることの滑稽さをだれも指摘しない。
しかもつい最近、同じようなことを体験しているはずなのに。
アンデルセン童話の「裸の王様」を思い出します。

嘘を認めての野党の追及は時間の無駄でしかありません。
テレビのキャスターやコメンテーターもみんな、嘘の上に構築された問題の上で、政権に忖度しながら発言しています。
一人くらい「王様は裸だ!」と素直に発言する人はいないものでしょうか。
ばかげた国会論争やテレビ報道はやめてもらいたいものです。

「私人」と言われている首相夫人が招待者になっていることについてさえ、「私物化したと思われても仕方がない」などとバカなコメントをしています。
なんでもっと端的に「私物化だと思う」と言えないのか。
それはその人が多分テレビを「私物化」しているからでしょう。

腐ったリンゴはどんどん広がります。
私もまた腐っていくのは避けようがないのでしょう。
困ったものです。

 

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2019/11/13

■市町村選挙は自分たちの住んでいる町の未来を考える機会です

私が住んでいる我孫子市ではいま市議会議員選挙が行われています。
選挙になると、普段は音信不通の議員からも連絡があったり、あるいはチラシが投函されたりします。
チラシには公約が書かれていますが、何か空しい言葉の羅列にしか見えません。
私がいつも知りたいのは、この我孫子をどんなまちづくりにしたいと思っているのかですが、それが見えてこない。

 そこで、公示日の前日、あることを思いついて、知り合いの立候補者の数名に次のようなメールをしました。

突然のことなので、選挙期間中には無理かとは思いますが、どんな我孫子を目指すのかを話し合うかをテーマにしたミニフォーラムを事務所で開いたらどうでしょうか。

顔見知りの、そしてかつて応援したこともある6人に絞りました。
一人からすぐ、同じようなことを考えているという返信がありました。

また今日、別の立候補者から、事務所開きの日にそれをやったとお聞きしました。
うれしい話です。

もちろん私が提案したからということではありません。
ご本人たちも、それが必要だと考えていたのだと思います。

 市議選が終わったら、我孫子の政治を考えるようなサロンを定期的に開くような場を考えたいと思います。

 

 

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2019/11/05

■「怒らなくなったら人間は堕落します」

松原泰道さんが参加したフォーラムの進行役を務めさせてもらったことがあります。
もう15年以上前の話です。

「腹が立たなかったら人間は堕落します」とは、その松原さんのことばです。
その話をされる時、松原さんは白隠禅師の有名なエピソードを紹介します。

いつもにこにこしている白隠禅師に、ある人が「腹が立つことはないのですか」と訊いたそうです。そうしたら、「人形じゃないから腹は立つよ」と白隠禅師は答え、そしてつづけたそうです。「腹は立つけど怒らんだけだ」と。

そして、松原さんはこういうのです。

「腹が立たなかったら人間は堕落する。たとえば社会の悪に対しては義憤を感じなかったら社会は堕落するでしょう。ただ、そのときに感情のままにキレて怒ってしまうか、あるいは教え諭すべきか、それを考えることが大事だ」と。
これは、松原さんと五木寛之さんの対談に出ている話です。

オリンピックのマラソンが札幌で行われることになりました。
だれかが怒らないのだろうかと思っていましたが、さすがにみんな大人なのか、怒りません。
小池都知事はかなり怒っていたような気もしますが、いささかショー的でした。

マラソン関係者は腹を立てているのがよくわかりました。
しかし結局はみんなものわかりがいいのにいささか失望しました。
そして、松原さんのこの話を思い出して、本を探しだして読み直してみました。

松原さんが否定しているのは、「キレて怒ってしまうこと」です。
しかも「社会の悪に対しては義憤を感じなかったら社会は堕落する」とも書いています。

そして改めて、社会は堕落に向かっているなと思いました。
腹を立てたら冷静に怒らなければいけません。
そうでないと人間は堕落し、社会も堕落する。

松原さんはもう亡くなっていますが、この文章は、「怒らなくなったら人間は堕落します」と直すべきではないかと思います。
松原さんも、いつもにこにこしている人だったように思います。
幸せな時代に、幸せな環境で生きていたのでしょう。

 

 

 

 

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2019/10/31

■「都合のいい現実」が作られる非情報化社会

「さんまの内臓はやはり私には向いていません」の話をフェイスブックにも書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2019/10/post-e352c5.html

そしたらいろんなコメントをもらいました。
それでまとめて、返信コメントを書きました。
ブログにも書いておきます。
もともとのコメントが書いていないので、わかりにくいかもしれませんが。

サンマの話に関して、いろんな人からコメントをもらいました。
みなさん、ありがとうございます。

私もサンマの不漁と高値はテレビで知っていました。
昨日、サンマを買った近くのスーパー(「カスミ」です)でも一時期は200円でした。
それも小ぶりでした。
その時も食べましたが、今週になって安くなりました。
私の考えでは、サンマの不漁と市場への出回りや価格とは、絶対的な関係はないのです。

私の懸念は、自分で実際に確認する前にテレビなどで知ってしまったことが「現実」に大きな影響を与えることです。
スーパーで、今年はサンマが高いと気づく前に、今年はサンマが高いと思い込んでしまうことです。
一度、テレビで情報をインプットされると、それに呪縛されて、現実が見えなくなることが少なくないのはないか。
そして誰かが意図した「都合のいい現実」を作り上げていってしまう。

サンマの例ではさほど問題は起きないでしょう。
でもそれが、原発の安全性だったり、原発の危険性だったりすると、どうでしょう。
あるいは自殺者が減ったとか増えたとかいう話はどうでしょう。
前川文部次官(当時)についてはどうでしょう。
もっと身近で言えば、5人に1人が認知症になるという言説はどうでしょう。

私は、自分で確かめられないことにはできるだけ疑問を持ち続けるようにしています。
だから二酸化炭素による地球温暖化も長く受け入れられませんでした。

前に書きましたが、放射能で汚染能で汚染された土壌の除染の実験をやった時、その結果に関して、質量不変の法則に反するから信じられないと参加者のほとんどから言われました。
私は、質量不変の法則も「絶対視」していませんので、その実験の結果に興味を持ちました。
そのために多くの人からは信頼を失ってしまったかもしれません。

サンマの話からやけに大きな話題になってしまいましたが、それが私の今回の関心事でした。
娘に訊いたら、今日は同じお店で、サンマは128円だったそうです。
サンマもキャベツも、高いときもあれば安い時もある。
それが経済です。

ところでhashidaさんが, 気仙沼が近い仙台なのに、東京の方が安いのは何故でしょうね、と書いていますが、そこに現在の経済システムの問題があるように思います。
気仙沼で遠洋漁業をやっている臼福本店の臼井壮太朗さんから前に聞いた話ですが、気仙沼で撮れる魚を地元の小学校で給食に使っていないのに違和感を持って、働きかけて給食で食べるようになったそうです。
その話を聞いて、私は一度しか会ったことのない臼井さんのファンになりました。

地産地消の出発点は、こどもたちにきちんと地のものを食べる文化を取り戻すことです。
一番良いものは、その地域を背負う子どもたちに食べてもらうべきで、赤坂の料亭に卸すような不埒なことは、たとえ金のため出世のため、あるいは地域活性化や地域のブランディングのためになろうとも、やってはいけません。

 

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2019/10/30

■雨男発言と身の丈発言

またまた国家議員の発言が問題になっています。

議員の失言に国民の関心を向けることで、肝心のことから目を反らさすのは、与野党を問わず国会議員の好きなことですが、野党党首の発言を聞いていて、ほんとうに彼らの政治感覚を疑いたくなります。
そもそも国会は本来、「知恵を出し合う」場であって「言い争い」の場ではありません。
そんなことに大事な時間を使ってほしくはありません。

またそれに乗じて、問題を「表層的な」次元で終止させてしまうマスコミにもいつもながら失望します。
問題は、「言葉」ではなく、それが表象している政治の原状です。

雨男発言は、確かに被災された人には不快感を与えたかもしれませんが、私がもし被災者だったら、そんなことよりも実際の支援活動の遅れや責任逃れに終始する森田知事の発言のほうこそ不快に思うでしょう。

身の丈発言は、30年前から講演などで、「分をわきまえる」生き方から抜けでましょうと話していた私としては、賛成はできませんが、それ以上に私が話していたころもほとんどの人は私の発言には共感してくれていませんでしたから、「言葉」はともかく、多くの大人たちはみんなそう思っているのだろうと感じていますので、与党の政治家が相発言しても、まったく違和感はありません。

それに今でも、「身の丈に合った生き方」を勧める人は人生の「先達」は少なくありません。
それにそもそも、そういう考えの政治家を選んで評価していながら、そんな発言を大問題にする人の無責任さにこそ怒りを感じます。

また誤解されそうな表現不足の文章ですが、問題は「言葉」ではなく、たとえば今回は発言の契機になった大学入試制度の設計思想です。
さらにはその根底にある「政策思想」であり、政策立案を担っている人たちの人生観です。
そこに焦点を向けなければ、何も解決しません。

いや、萩生田発言は、その制度設計の思想を言語化し可視化してくれたと捉えるべきであり、「失言」ではなく「名言」と捉えるべきではないかとも思えます。
野党も国民も、むしろ萩生田さんに感謝して、制度をよくする方向に変えていく契機にすべきなのです。

ついでに言えば、「雨男発言」も、雨男を大臣にしてはいけないという教訓にして、雨男は大臣にしないような教訓にすべきです。
これはちょっと蛇足でしたが、でもいろんなことを示唆しているようにも思います。

身の丈発言は、まさに現在の政治の思想を象徴しています。
つまり格差を是認し、社会階層を固定化する教育をしていこうということですから、萩生田文部科学大臣は素直にそれを発言し、世論を誘導しているわけで、決して「失言」などではないのです。

こういうことはこれまでも何回か繰り返され、失言問題として謝罪と時に辞任さえありましたが、世論を誘導し国民を教育するうえでは効果を発揮していると私には思えます。
一方でタテマエのスローガンを掲げ(一億総活躍、女性の活躍…)、一方ではこうした形でその意図を無意識のうちに繰り返し働きかけて世論を誘導するのは、いまの政治の常道です。

言葉論争に巻き込まれるような愚は避けるべきであり、むしろ失言問題ではなく、肝心の入試問題や文科行政方針を問題にする政策論争にしてほしいです。
そこまでいかなければ、結局は安倍政権の意図に利用されるだけでしょう。
立憲民主党もまた結局は自民党の応援政党になってきていると思えてなりません。
安倍政権を倒したいなら、基本的な姿勢を変えなければいけません。

道化役の政治家の「失言」の向こうにあるものに、目を向けて、それを可視化し、国民に呼びかけてほしい。
高校生たちがせっかく立ち上がっているのですから、高校生たちと共に共闘してほしい。
大切なのは、萩生田さんを問い詰めることではなく(以前の大きな問題でさえ問い詰められなかったのですから)、政策や利権がらみの教育制度を変えることです。
そのためには、国民の力が不可欠です。
そこに呼びかけることをしなければ新しい政治は始まりません。
いまの野党にはその気はないのでしょうか。

人の失言をあげつらう国会にはもうあきあきです。

 

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2019/10/04

■二酸化炭素による地球温暖化に関する私の変節

国連気候行動サミットで温室効果ガス排出問題に対するグレタさんのスピーチに関して、反省を含めて、やはり書いておくことにしました。

私は、二酸化炭素による温室効果が地球の温暖化を進めていると、つい最近まで全く信じていませんでした。
いまもちょっと懐疑的です。
そもそも「温暖化」という捉え方も、正直まだ納得はしていません。

この問題では、10年以上前に兄と激しい議論をしたため、兄はまだ私を非難しているようで、先日、一緒に食事をしたときにも、それとなく嫌味を言われました。
ゴア元副大統領のドキュメンタリー「不都合の真実」は2本とも見ていますが、どうもこれもわかりやすすぎて疑いたくなります。

地球温暖化説への否定的意見は、このブログでも何回か書いていますが、グレタさんの話に影響されたわけではありませんが、もしかしたら私が間違いだったと最近思い直しだしています。
少なくとも、絶対否定はしないように「変節」しました。
兄にはまだ謝ってはいませんが。

私の反対の理由は2つありました。
まず二酸化炭素犯人説が、原発推進を背景に政財界の人たちからまことしやかに強調され出したことへの不信感です。
地球環境問題が高まる契機になったローマクラブの「成長の限界」は話題になりだしてからすぐ読んで感動し、以来それなりに生活態度も改め関係情報も集めてきました。
エイモリー・ロビンスの「ソフトエネルギー・パス」やシューマッハーの中間技術などには共感し、その頃はまだ会社にいたので、調査して情報を社内にも流しました。
1980年代の動きが、もしそのまま加速されていたら、今頃日本は自然エネルギー活用先進国になっていたでしょう。

しかし、時間がたつにつれて、むしろ持続可能な発展とか開発とか、結局は経済成長と植民地支配が隠された形で進む勢いはむしろ加速され、話もだんだんややこしくなり、少しずつ疑問が生まれだしました。
日本でも「二酸化炭素汚染しない」原子力発電はクリーンだと言われる状況に向かい、そのなかで3.11福島事故が起きました。
つまり、二酸化炭素地球温暖化論は、さらなる経済成長のための目くらましの言説ではないかと思ってしまったのです。

もう一つは「温暖化」という捉え方への疑問でした。
温暖化ではなく、自然が乱れだし、地球が活性化しだしたという捉え方がいいのではないかと思っていたのです。
過剰すぎるほど人口は急増していますが、地球は人間の所作ごときではそう変わらないのではないか。
むしろ地質学、あるいは地球生命論的に、いま大きな激変期がはじまったと捉えるべきではないかと考えていたのです。
温暖化はその一つの現象でしかない。
最近起こっている現象は、むしろそう捉えると私には納得できます。
もしそうなら問題の捉え方を根本から変えなければいけません。

以上の2点で、私は二酸化炭素原因説や地球温暖化説に異論を持っていたのです。
しかし、最近もしかしたら地球は温暖化していて、その大きな一因は人間による二酸化炭素の過剰な生産かもしれないと思い直したくなってきたのです。
それに、もしそれが間違いや経済成長主義者による脅しだとしても、グレタさんの言うように、何もしないよりはいいのではないか、とも考えました。
そのためには、疑うよりも、まずは信ずるのもいいかもしれない。
そしてつい少し前に「変節」しました。

AIにとっては、地球温暖化も気候異常化も、大した問題ではないばかりか、好都合な話でしょう。
しかし、人間であればそうも言っていられません。

先日の那須のサロンで、50年前に今西錦二さんが言っていた「人類は22世紀まではもたんような気もするんやけどな」という言葉や、私の意見は時々ガラッと反転してしまうという話を話題にしたこともあって、それに関してこんな記事を書いてしまいました。

いまも私がパソコンに向かっている部屋の外では、強風が大きな声で吠えている感じです。
自然に抗って生きるのは、私の性分ではありませんが、さらに自粛したいと思います。

 

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■贈与の暴力性

湯島のサロンでは「贈与」をテーマにしたサロンも何回か行ってきましたが、基本的には「贈与」に好意的なイメージをおきながらサロンしてきました。
ところが、むしろ問題は「贈与の暴力性」かもしれないと思いださせたのは、今回の関西電力の事件でした。

事件の概要は改めて書く必要はないと思いますが、高浜町の元助役が関西電力の経営幹部に巨額な「贈与」を行い、その贈与を断りきれずに関西電力の経営者たちが元助役に使役されてきたという事件です。

その事件の釈明を求められての関西電力経営陣の記者会見は、こうしてみんな人間を辞めていくのだろうなと思わせるものでした。
彼らの発言は、自らを失った抜け殻の人間もどきの発言でしかありませんでした。
自分たちが何をやったのかがわかっていないのです。
私には同情を禁じ得ませんでした。

たとえば、「金品を渡された者は受け取る理由はないと考え、返却を申し出たが、『ワシを軽く見るなよ』などと激高されてしまった」、と彼らは言っています。
つまり彼らは元助役を重く見ていたわけです。
だから家族の安全までも驚かされながらも、彼らを裏切ることができないほど、元助役グループに服従していたわけです。

私の判断基準からすれば、明らかな「ゾンビ族」です。
昨今の日本ではゾンビ族はめずらしい存在ではないので、驚きはしませんが。

たった数億円、時には数十万円のお金で自分を売ってしまうほど人間は弱いのでしょうか。
たぶん弱いのです。
その理由を、マルセル・モースやモーリス・ゴドリエは、その著書で解き明かしています。
私はしかし、今まで「贈与論」や「贈与の謎」を、暴力の持つそうした暴力性を逆にうまく活かしてきたし、さらにこれから活かしていけるというメッセージと受け止めてきました。
しかし、どうもそれは考え直す必要がありそうです。

モーリス・ゴドリエは「贈与の謎」で、暴力ほどではないが贈与もまた階層制の中での地位の変更に力をもっていると指摘した後で、「この世紀未の状況にあって、今や再び、今度は社会問題の解決の援助手段として気前のよい贈与、《返報なき》贈与が必須とされている」と20世紀末に書いています。
さらに、モースが贈与は「それを受けとる人々の心を傷つける」と判断していたが、現在では隣人愛組織は数を増している」と書いていることにも注目しています。
それは、贈与の脱暴力性を示唆しています。

そもそも贈与の語源につながるギフト(gift)という言葉には、「贈り物」という意味に合わせて「毒」という意味もあります。
そしてモースもまた、「贈与」には平和性と暴力性とが混ざり合っていると警告していました。
「贈ること、贈られた物をもらうことは、贈る側にとっても、もらう側にとっても賭けなのだ。そのような危険な賭けを通じて、集団どうしは「つきあう」ことになる」とモースは書いていますが、常に「危険」があるからこそ平和があるという私の考えから言えば、とても納得できます。
しかし、暴力性が強くなり、人間を過剰に貶めるようなことがあれば、話は別です。

今回の関西電力に象徴されている現象は、たぶんもう私のすぐ隣にまで展開されているのでしょう。
いつ私が感染するかもしれません。

私は一方的な贈与、つまり交換と切り離された贈与を素直に受ける生き方を選んでいます。
理屈っぽくいえば、お布施の論理のように、贈与を受け取ることこそが相手への私の贈与行為と考えているのです。
そして自分では背負いきれない贈与は、ていねいにお断りしているつもりです。
しかし、とはいうものの、贈与が生み出す義務意識から完全に解放されているわけでもありません。

もちろん私に贈与してくれる人たちは、元助役のような悪意は微塵も持っていません。
にもかかわらず、積み重なるとなぜか負担感が生まれてしまう。
これはどうしようもありません。
それが人間の弱味であり、社会を生み出す力なのでしょう。

ゾンビにならないように、言行不一致にならないように、自分を生きなければいけません。

 

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2019/10/03

■権力は腐敗などしません

関西電力、全日本テコンドー協会などがマスコミをにぎわせています。
私には、いずれも「事件」ではなく「日常」「常態」にしか思えないので、そんな話を今さら大仰に取り上げたり、騒いだりしている世間のほうにこそ驚きを感じます。

そもそも報道関係者やその世界の人には周知のことでしょうし、関西電力に限らずすべての電力会社やテコンドー協会に限らずすべてのスポーツ団体に多かれ少なかれ存在していることはこの数年で明らかになってきているはずです。
などというと、反発されそうですので、個別問題への言及はやめて一般論を書きます。

『自由の歴史』を著したイギリスの歴史家ジョン・アクトンは、「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する」と言いました。
いまでもよく「権力は腐敗する」という言葉はよく聞きます。
私は、この言葉にみんなだまされているように思っています。

権力は腐敗などせず、どんどん強固になっていきます。
権力は腐敗するのではなく、腐敗が権力を生み出すのです。
発想を変えなければいけません。

権力を持つと精神が堕落し、悪徳に抵抗を感じなくなるということが、権力は腐敗する意味だとされますが、これも逆だと言えば、もう少しわかりやすいと思います。
悪徳にマヒし、精神が堕落することから権力が生まれていくと考えればそう違和感はないでしょう。
話題になっている「事件」の関係者は、たぶん自らが腐敗しているなどとは思っていなかったでしょう。
悪徳にマヒし、精神は堕落、というよりも、失っていたのです。
だからどうして自分が責められているか理解できないでいるでしょう。

今回の関電事件は、そうしたことをとてもわかりやすく教えてくれます。
腐敗がなければ権力は生まれません。
ではなぜ腐敗が是認されるのか。
それは、人は腐敗に惹かれるからではないかと思います。
そして、多くの人は権力を望み、それが無理ならそのおこぼれに預かろうと思う。
「おこぼれ」は、多くの場合、割には合わないはずですが、罪悪感をあまり持たずに済むところで、人はだまされてしまう。

権力は腐敗しません。
腐敗はさらに強固になり増殖していく。
その汚染から身を守るのは権力に近づかないことかもしれません。
決して黄金の入った菓子箱などを欲しいなどと思わないことです。

しかし、うっかり受け取ってしまうことがあるのが現代です。
「贈与」の恐ろしさを、改めて考えなければいけません。

 

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2019/09/29

■ネット時代の人とのつながりの脆さを補完する場としてのサロン

湯島で開催しているサロンの参加者のメーリングリストをつくっています。
2015
5月に立ち上げたので、それ以前の参加者は含まれていませんし、最初は全員ではなく、数回来た人だけを対象にしていました。

現在、登録者は400人強で、投稿数も1300件を超えています。
ところがこのメーリングリスト・サービスが年内で終了というので、別のメーリングリストに移行しなければいけなくなり、1週間かけて移転作業をしていました。

移転途中に、無効になったアドレスを見つけたり、なぜか移行できないアドレスが見つかったり、システム上の理由で配信が止められていたりしているのが見つかりました。
ネット時代の人のつながりの脆さを感じました。

昨年末、自宅と湯島のパソコンが同時にクラッシュしてしまいました。
友人に修理してもらい、いまは2つとも復元していますが、メールアドレス帳がうまく修復できませんでした。
そのため今もとても不便をしていて、アドレスがすぐには見つからないことがあります。

2台のパソコンがいつまたクラッシュするかの不安があるので、今月安全のためにもう1台、新しいパソコンを購入しました。
ところがまたシステムが変わっていて、メールソフトを変えなければいけないようです。
いまはwindows liveを使用していますが、パソコンがoutlookを薦めているのです。

ネット通信はワープロ通信以来始めてから35年ほど経過します。
次第にネットつながりの交流が主軸になり、メールをやらない人との付き合いは疎遠になりました。
つまり付き合う人が変わってきてしまいました。

ネットでの交流は気軽に維持できますが、パソコンを変えたり、相手がアドレスを変えたりして、気づかないままに付き合いが切れていることも少なくありません。
フェイスブックができたとき、ようやく、人とのつながりを永続できると思いました。
ところがフェイスブックをやる人が意外と増えませんでした。
それにフェイスブックでも、縁が切れることを知りました。
いまも毎月1人くらいがいつの間にか友だちつながりから消えています。
誰がいなくなったのか、わからないのがちょっと気になります。

ネットのつながりは極めて便利で負担もなく、私の好きな「ゆるやかなつながり」を維持できます。
しかし、その一方で、とても脆いものだとも思い知らされています。
その脆さを補完するために、リアルなみんなの空間もつくりたいと思い始めたのが湯島のサロンです。

私はメールアドレスも30年以上変えていませんが、湯島のオフィスの場も30年以上動いていません。
そのおかげで、20数年ぶりに訪ねてくる人もいます。
コミュニティには、変わらない存在が不可欠です。

湯島を維持する資金繰りのめどはまだ立ちませんが、ネットコミュニティのためのリアルな空間を目指したいと思っています。
ネットでのつながりの脆さを補完するリアルな場は、やはり大切です。

10月から湯島のサロンの名称を「CWSサロン」に改称し、そこから生まれるコミュニティを「CWSコモンズ村」と呼ぶことにしようと思います。
CWSコモンズ村は一度、立ち上げたことがありますが、妻の病気もあって頓挫してしまいました。
立ち上げ時に徴収した入村税も、村長の私がお金に困って勝手に使ってしまったので(一応、村の維持のための使途ですが)、またゼロからの再出発です。

CWSコモンズ村をどう展開していくか、いまはまだ模索中です。
一度、これをテーマにサロンをしてみようかと思っていますが、まだ私自身の覚悟ができていません。
困ったものですが。

 

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2019/09/26

■大切なのは感動することではなく、生き方を変えること

国連の温暖化対策サミットで、16歳のグレタさんが、空っぽの言葉で語り合っているあなた方を信じないとスピーチをしたことが、世界中で話題になっています。

私もテレビで見て、ネットでスピーチを読みました。
以前からグレタさんの発言には共感していましたが、実際にグレタさんの表情を見て、これまでとは全く違ったものを感じました。
そう感じた人は少なくないようで、フェイスブックでもグレタさんがたくさん取り上げられています。

しかし、この光景はこれまでも何回も見てきたような気がします。
にもかかわらず何も変わっていない。
どこかに問題がある、と私はつい思ってしまうのです。

グレタさんは、感動を与えたくてスピーチしたわけではないでしょう。
彼女は自らの生きる世界を変えたいと思っている。
感動してもらっても彼女はよろこばない。

彼女が望んでいるのは、空っぽの言葉だけで生きている私たちが、生き方を変えることでしょう。
「空っぽの言葉」で生きている人たちやジャーナリストが、グレタさんの言葉までも「空っぽの言葉」にしてしまうことは避けたいです。
これまで繰り返し私たちがそうしてきたように。

彼女が呼びかけているのは、「誰か」にではなく「私」になのです。
そうであれば、彼女のスピーチに「感動」するのではなく、「反省」し、生き方を変えるべきでしょう。
彼女が信じていないのは、トランプさんや安倍さんだけではなく、空っぽの言葉で語り合っている私たちなのです。

同情するよりも金をくれという言葉がはやったことがありますが、グレタさんもまた、感動するよりも生き方を変えてくれと言っている。
彼女の鋭い呼びかけは自分に向けられている、ということに気づかない人たちがいくら感動しても世界は変わらない。
ましてや、感動を他者に伝えても何も生まれない。
感動をする前に、私たちは、自らの生き方を顧みることが大切です。

まずは自らでしっかりと受け止めなければならない、と私は思います。
そして、できることから始めようと思います。
できることは山のようにありますから。

 

 

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