カテゴリー「生き方の話」の記事

2021/04/10

■近隣ボランティアの難しさ

今日も自治会の活動で始まりました。
まずは班長の仕事で、町会費集め。
私の班は13世帯です。不在の方はお一人だけで、1回でほぼ終了。
近くなのに、なかなか普段はお話しする機会もありませんが、いい機会になりました。

 つづいて会長の仕事で、役員会に参加できない方の家に行きました。
町会費や名簿を持ってきてくださるというのですが、どうもお忙しいようですし、もしかしたら伴侶が病院通いの高齢者夫婦のようなので勝手ながらお伺いすることにしました。
これまでも何回かお伺いしていますが、いつもお留守です。

きっといろいろと大変で庭の整理などもできていないようです。
できることならこういう家にも自治会ボランティアを募ってお伺いして庭掃除などをするというのはどうだろうかとふと考えました。
帰宅して娘に話したら、その前に自分のところをきちんとしたほうがいいのではないかと叱られました。
たしかに、そうです。お隣さんにも迷惑をかけてしまったこともありますし。
以前、見るに見かねて知人が草刈りに来てくれたこともありました。
困ったものです。

自治会は約170世帯ですが、いろいろと困っている人もいないとは限りません。
近すぎると逆にボランティアを提供するのも難しい。
しかし、高齢者世帯も多く、独居の方もいます。
困っている人もいるかもしれません。

しかし日常時の近隣ボランティアはなかなか難しい。
役員会で、相談してみようかと思いますが、また余計なことをやると誰かに迷惑をかけてしまうかもしれない。
思いつきで動くなといつも娘に叱られているのです。

夕方から会計の引継ぎです。
私には一番苦手なことですが、会計の引継ぎも一応、会長経由なのです。
うまくいくといいのですが。

 

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2021/03/31

■「贈与」と「交換」

自然界ではいろいろな変化があり、そのせいで、私たちの食生活の食材も大きく変わってきています。

子どもの頃の好物が今ではもう食べられなくなっているものも少なくありません。
地球温暖化などというと何やら大きすぎてよくわかりませんが、身近なところでもさまざまな変化が起きています。しかし、そうしたことはグローバル化した市場社会では、新たなビジネスの発生によって、むしろ利用され、問題が見えなくなっているような気がします。

「変化」は必ずビジネスチャンスにしていくのが、資本主義のあり方ですが、もしかしたらそれは問題を先延ばしにしているだけかもしれません。
経済や産業のパラダイムを変えなければいけないと私は思い、できるだけそういう意識で行動しています。

福岡に住んでいる友人が、毎年、わざわざ椎田の浜まで潮干狩りに出かけて行って、おいしいアサリを送ってきてくれます。
椎田のアサリは、大きくてともかくおいしくて、椎田のアサリを一度食べてしまうと他のアサリは食べたくなくなるほどです。
しかし、年々、アサリが見つけにくくなってきたということはお聞きしていましたが、今年はついに潮干狩り禁止になったそうです。

その代わりにと、今年は合馬の筍が送られてきました。
友人といっても、私より少し年上の方なのですが、「春の挨拶」をしないと落ち着かないというのです。本来は私の方こそ、挨拶すべき立場なのですが、なぜか長年、その方の方が挨拶してきてくれるのです。
それに対して「返礼」するような「失礼」なことは、私はしません。
お返しもしないのは失礼ではないかと思う人が多いでしょうが、お返しなどしたら、商品交換と同じくなってしまい、その方の「挨拶」の気持ちに応えられないような気がするのです。
もちろん受け取ったお知らせの電話はしますが、お返しはしないまま、こういう関係が長いことつづいています。

先日、湯島のサロンで、こういうことが少し話題になりました。
金銭取引と贈与とはどこが違うのか、という話題です。
贈与を意味する「ギフト」には贈り物ということ以外に「毒」という意味があります。

贈与を受けてしまうと意識的にも無意識的にも、「借り」の気分が生まれます。
なにかでお返ししたくなる。
それで贈収賄が成り立つわけです。
先日話題になった総務省官僚の会食事件は、どんな言い訳をしようが、政策決定に影響を与えていますし、菅首相も無関係ではありません。
贈与はそれほど大きな力を持っているのです。

贈与ほど恐ろしいものはないのですが、多くの現代人は贈与で自らの身を守ろうとしているようにさえ思います。
今回、筍を送ってくださった友人は、そういう気持ちが全くない方ですので、返礼など考えては失礼なのです。長年もらいっぱなしですが、そんなことは微塵も気にはされないでしょう。おかしなお返しをすれば、もしかしたら2度とアサリは届かなくなるし、私たちの関係も変わるかもしれません。

ところでなぜアサリが取れなくなってしまったのか。
これも実は「贈与」が関係しています。
自然の贈与に甘えすぎて、アサリをとりすぎてしまったのでしょう。
最近は養殖した貝をまくところもありますが、それでは単に浜辺を利用しているだけに過ぎません。
自然からの贈与に対する「お返し」を考えると、もしかしたらこれまでの贈与交換経済とは違った「贈与」概念がわかるかもしれません。

改めてまた最近、贈与について考えだしていますが、考えれば考えるほど、贈与は難しい。

ところで、合馬の筍というので、刺身で食べてみましたが、残念ながらちょっと時間がたっていたのでえぐみがあってだめでした。
それであく抜きをして今日は煮物にしてもらいます。

筍は私の好物なのですが、筍もまた食べられなくなるのでしょうか。
自然から贈与される食べ物が大好きな私としては、やはりもっと自然との付き合いを深めようと改めて思います。
それこそが一番の「お返し」ではないかと思うのです。
贈与のお返しではなく、一方的な贈与こそが大切なのではないかと思います。

そういえば、「挨拶」も、贈与ですね。

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2021/03/05

■これまで読んだすべての本を読み違えていたのかもしれない

ミャンマーでの政府に対するデモの様子をテレビで見て、いつも考えてしまいます。
もし日本で同じような動きが起こったら、私は生命の危険を感じながらもデモに参加するだろうか、と。
あるいは、日本とミャンマーの政治状況とで何が違うのだろうか、と。
香港でのデモはその後、どうなったのか。
それも気になります。
もう日本のようになってしまったのだろうか。

そういうことを考えていると、コロナ感染症の話題などには興味を失います。
あるいは、緊急事態宣言とは何なのだろうかと考えてしまいます。

世界的にいま、民主主義に背を向けた動きが広がっているようです。
おかしな言い方ですが、民主主義(個人の尊厳の尊重)とは無縁なデモクラシー(大衆による統治)が広がりだしている。
その時の、デモス(大衆)とはいったいどういう存在なのか。

最近ようやく自分の楽観主義に疑問を感ずるようになりました。
オルテガの「大衆の反乱」をもう一度読み直そうと思います。
というよりも、これまで読んだすべての本をもしかしたら、読み違えていたのかもしれない。そんな気が最近してなりません。
いまさらもう読み直すことはかないませんが、見えていた世界が最近大きく崩れだしています。

だから元気が出ない。
困ったものです。

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2021/02/11

■森さんはすごい人だからなかなか意見を言えない?

森発言に関して、調子に乗ってもう一つ。

「森さんはすごい人だからなかなか意見を言えない」という意見も少なくありません。
これもとても違和感があります。
こういう「すごい人」観は私の考えとは全く真反対です。

言いたいことも言わせない雰囲気を持っている人は、私には「ダメな人」です。
私にとってのすごい人は、思いを引き出してくれる人、むしろ持論に対する異論反論に積極的に関心を持つ人です。
周りの人が意見を言えない人は、リーダーやプロジェクト責任者としては全く不適切なのではないかとさえ思います。

これは文化の問題でしょうが。

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■「思っていても言ってはいけない」のでしょうか?

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長による女性蔑視発言は、ますます大きな話題になってきています。
それ自体に私は大きな違和感を持っています。
これはオリンピックを中止させたい人たちの陰謀だという説もあるようですが、前にも書いたように、何をいまさらというのが私の気持ちです。
森さんは日本初の「密室から生まれた首相」ですし、「オリンピックの精神」などもうとっくに失われていると思っているからです。

まあそれはそれとして、2つのことがますます気になってきています。
今日はまずひとつのことを書こうと思います。
昨夜も娘と話し合いましたが折り合いがつかなかったことです。

いろんな人がテレビで「思っていても言ってはいけない」というような発言をしています。これが私には非常に気になります。
素直な私は、その発言は「嘘を推奨する」発言に聞こえるのです。
従って、そう発言した人の発言には「思ってもいないことが含まれている」と思うので、そういう発言者は人として信頼できなくなってしまうのです。

「思っていても言ってはいけない」ということは「思っていても、それが問題になるような内容だったら言わずに隠せ」、つまり「本音は隠して嘘を言え」ということにつながっていく気がするのです。
娘に話したら、「思っていても言ってはいけない」ことはたくさんあるでしょう、そのどこが悪いのかと言われ、説得できず、そのあげくに、「だからお父さんはバカなんだよ」とまで言われました。

それこそ「思っていても言ってはいけない」ことではないかというのが社会の常識かもしれませんが、私の場合は、「思っていることは素直に言うのが誠実な生き方だ」と考えていますので、その言葉は素直に「誉め言葉」として受け止めました。
父親をバカだと言い切る娘は信頼できます。

みなさんはどう思われますか。
「思っていても言ってはいけない」のでしょうか。
そうではなくて、「言ってはいけないことは思ってもいけない」ですし、「思ったことはしっかりというべきだ」ではないでしょうか。

ところでもうひとつの気になることは、「女性だから・・・」という発言に対する否定的な意見です。そう言っている議員たちが昨日はみんな白い服で国会に出席していましたが、これこそ「女性だから・・・」という発言を支持しているように思います
言っていることとやっていることが違う。
これが現代の日本の「常識」なのでしょうか。
思っていることは「言葉」では隠せても行動には出るものなのです。

見え透いた嘘の蔓延する今の社会が、どうしても好きになれません。
私はこれからも「思っていることは素直に言う」生き方をしていきますが、自分が思っていることだけが正しいという思いは皆無ですので、その点は寛容に受け止めてもらえるとうれしいです。
でもまあ、時々、私の発言は友人を怒らせてしまっているようです。
困ったものですが。

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2021/01/30

■マンゾーニの「いいなづけ」からのメッセージ

マンゾーニの「いいなづけ」からの感想の続きです。

 「いいなづけ」のなかでは、ミラノのペストが終焉したのは、突然降りだした大雨です。
映画や小説の世界では、新たな細菌や宇宙人などの突然の襲来に対して世界が慌てふためく事件が、あっけないほど突然に終焉する話が少なくありません。
パンデミックやパニックだけではありません。
たとえば、「ベンハー」という映画では、突然の大雨(キリストの生命と引き換えにもたらされた設定になっていますが)によってハンセン病が完治するシーンが出てきます。

人は「説明できないこと」に出合うと、「奇跡」に答えを求めます。
大雨が人の間違いを流してしまう発想は、ノアの洪水神話にも見られます。
いずれにしろミラノのペストは人知に基づく人工的な対策で終焉できたわけではありません。

一言でいえば、自然(人間のもその一部です)を維持していくためのホメオスタシスが働いたということです。自然は、というよりも、すべての存在は、バランスを大切にしていて、バランスをとるために必要な場合はとんでもないことが起こる。バランスをとるというのは同時に、ダイナミズムを発揮させることです。つまり、保守とは革新なのです。
すべてをお天道様(神様)にゆだねるというのは、自己を放棄することではなく、自己を信ずるということなのです。

なにやら自分勝手なことを書いていて、わけがわからないでしょうね。
すいません。
でも私がこの小説から受けた大きなメッセージです。

 さてもう一つ「いいなづけ」から受けたメッセージは、ペストの治療は医療関係者と宗教関係者の献身的な働きによって行われていたということです。
「いいなづけ」での宗教関係者はカソリックの枢機卿や司祭などですが、医療行為は身体的なことばかりではなく、精神的な要素が強いと考えている私にはとても納得できました。ひるがえって現在の状況を見ると、宗教関係者があまり行動していないのが気になっています。
湯島のサロンでも、COVID-19と宗教(信仰)というテーマでのサロンをしたのですが、まだ話し手が見つかりません。どなたかいないでしょうか。

カミユとデフォーとマンゾーニの3つの作品を読みましたが、いずれも主人公はペストの時代を生き抜きます。それぞれに共感するものがありますが、「いいなづけ」の主人公のレンツォは、ペストよりも自らのいいなづけを見つけることにすべてをかけています。ですから彼にとっては、ペストの位置づけはそう大きくはないのです。もっと大きな価値がある、ということです。
私が今回一番強く受けた共感は、そのことです。

自分にとって一番大切なことは何か。
そして、その時の「自分」とはいったい何なのか。
「いいなづけ」からもらったメッセージを思い出して、昨夜は夜中に目が覚めてしまい、1時間ほど考えてしまい、眠れませんでした。
今日は寝不足です。
午後から湯島でサロンですが、眠くならなければいいのですが。

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2021/01/29

■自然の力の偉大さと信仰の大切さ

先日、紹介したアレッソロ・マンゾーニの「いいなづけ」を昨日と今日とで読み終えました。800頁を超える大長編をまともに読んでいたら1週間近くかかりそうでしたので、読み方を工夫しました。
詳細な目次があるので、まずはそれを読んで流れをつかみ、結局、1章と8章と31章から最後までです。ページ数にしたら200ページほどですので、1/4ということになりますが、その間は挿絵を見ながら頁を繰ったので流れはだいたいわかりました。

それは小説の読み方ではないだろうと言われそうですが、私の関心事は、ミラノにおけるペストの状況を知りたかったのです。
あわせて、この小説がなぜイタリア国民の必読書になっているのかの理由も知りたかったのですが、それも少しわかったような気がします。
全編を通して、マリア信仰と性善説と明るさが覆っているのです。
それに権力者への批判も含まれた勧善懲悪のハッピーエンドです。

まあそれはともかく、意外なことに出合いました。
ミラノでペストについての噂が立った当初から、ペスト説を否定するドン・フェルランテという人が登場しますが、彼の考えが長々と紹介されています。それが面白い。
彼は、伝染病は存在せず単なる妄想上の怪物でしかないというのです。
そしてその妄想を引き起こした理由として、土星と木星の運命的なる接近こそがその真因だと主張するのです。

先月、400年ぶりに木星と土星の接近が話題になりました。
私も見ましたが、400年前と言われた前回が、なんとこの小説で語られているミラノのペスト流行の「真因」だったとは驚きです。
そんな些末なところに関心するようでは、笑われそうですが。
しかし、COVID-19の流行も、木星と土星の接近のためだったのかもしれません。
もちろんその背後には、大きな自然の摂理があるのです。

ちなみにこの木星土星接近説のドン・フェルランテさんは、とりわけ予防策をしなかったので、ペストに罹って死んでしまいます。
信仰がたりなかったのでしょう。
やはり信仰は大切です。

自然の力の偉大さと信仰の大切さ。それが私の読後感です。

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2021/01/21

■新しいコミュニティづくりの応援のお願い

湯島のサロンでも話してくれたことのある、カシュカシュこと内藤明子さんが、その時に予告していた「新しいコミュニティづくり」のことをまとめて、アマゾンからキンドル本として公開しました。
価格はワンコインの500円ですが、明日までは無料でダウンロードできます。

本のタイトルは「宇宙人になるための3つのステップ  自分を癒すためのスピリチュアルの教科書」です。

「宇宙人?」、ちょっと自分とは縁がないかなと思うかもしれませんが、「宇宙人」には「うちゅんちゅ」とルビがふられていますので、内藤さんの思いをうまく受け止めてもらえると嬉しいです。

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第3章に書かれている「宇宙人による和文化平和村構想」を実現し、宇宙人も降りてきたくなるような場所を地上に実現することが内藤さんの目標なのです。
名称にもあるとおり、その理念は日本の伝統文化「和文化」です。
そしてどうしてこうした構想に行きついたかを内藤さんは自らの生い立ちと経験をさらけだしながら、説明しています。

もしよかったら、内藤さんの構想を応援する意味でも、ダウンロードしてもらえるとうれしいです。
ちなみに、キンドルリーダーをお持ちでない方は次のところから無料でダウンロードできます。
https://www.amazon.co.jp/kindle-dbs/fd/kcp

また、本の注文画面は次のところです。
https://amzn.to/3bQjraX

内藤さんには一度またサロンをお願いしたいと思っていますが、和文化平和村構想の基地である埼玉県寄居の「エルモットカフェ」でも、一度サロンをやることも考えたいと思っています。

宇宙人も集まる和文化平和村構想実現のために、ぜひこのキンドル本のダウンロードをお願いします。

 

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2021/01/18

■疫病とも共生しようという文化

With コロナ」といった言い方もありますが、COVID-19との付き合い方はますます「戦闘」的になっているような気がします。それはとりもなおさず、社会に不安や怒りを広げ、「戦争」気分を高めることにつながっているような気がします。
いまや「ヘイト」の刃は、自らにまで向けられ始めているようにも思います。

昨年夏に出版された岩波新書の「コロナ後の世界を生きる」を最近になって読みました。
この時代を生きるたくさんの示唆が込められていて、たくさんのことに気づかせてもらいましたが、これまでの私の生き方を改めて肯定してもらったような気がして、少し疎外感が消えました。

そのなかで、ヤマザキマリさんが疫病に対する日本と西欧との違いを書いています。
ヤマザキさんによれば、「パンデミックを巨大な鎌を振り上げる恐ろしい骸骨の姿に置換えて気構える」キリスト教世界のヨーロッパと違って、日本には疫病とも共生しようという文化があったというようなことを書いています。

その例として、平安時代後期に描かれた融通念仏縁起を紹介しています。
ヤマザキさんは、「妖怪のような姿で描かれた疫病が念仏を唱える寺院の門に押し掛けているという情景が描かれている。彼らは門番から念仏を唱えている人の名簿を渡され、そこに名前が記されている人には悪さはしないとサインをして立ち去っていくのであると説明しています。
そして、「ウイルスとのなるようにしかならない共生という考えが、もしもこうした非常時の対策を考案する人々の意識下にあるのだとわかれば、国民も不安感や不平不満をため込むかわりに、自分で自分の命を守る判断力を強く持つことができるようになるのではないか」と書いています。

融通念仏縁起の絵は紹介されていなかったので、もしかしたらと思い、リフォームで倉庫状況にある書庫から「妖怪草子」を探し出しました。
そこに、たぶんヤマザキさんが紹介している絵が出てきました。
それにしても、疫病は多彩な姿をしています。
いま毎日のようにテレビで見せつけられているCOVID-19の姿とは大違いです。
話しかけたくなる表情の疫病もいます。
こうしたウイルスを見る能力も、現代の私たちは失ってしまったのかもしれません。

ヤマザキさんはこう書いています。

「融通念仏絵巻の門番に説得され、納得して退散していく物分かりの良い疫病は、自然現象との共生を諭す日本的な表現だと言えるかもしれない」。

とても共感できるのですが、残念ながら今の日本の、少なくとも都会には、こうした文化は消えてしまったようです。
私は、念仏は唱えていませんが、初詣にも行きましたし、COVID-19とも仲良くしたいといつも表明していますので、COVID-19も「悪さをしない名簿」に名前が書かれていると思います。

もしそれでも「呼ばれたら」行かないわけにはいかないでしょう。そういう人生を送りたいと思っているので、自分だけ逃げきろうなどとは一切思ってはいません。

ヤマザキさんは、この絵を見ていたら、「国民も不安感や不平不満をため込むかわりに、自分で自分の命を守る判断力を強く持つことができるようになるのではないか」と書いていますが、そうあってほしいものです。

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2021/01/17

■今日も厳しい非難の目を受けながら、不謹慎にも湯島に出かけてサロンです

新型コロナの感染者の発表数が相変わらず少ないのが気になっています。

というと、「少ない」ではなく「多い」の間違いではないかと言われそうですが、私はそろそろ5000人の数字が出されるだろうと思っていたから、最近の発表数字の少なさに驚いています。
もっとも私は、こうした数字にはほとんど「事実」を感じていません。
しかし、発表数字の「意味」には大きな関心があります。
そこからさまざまな「意図」が読み取れるからです。

最近の首相は記者会見もせずに(それらしきことはやりましたが、あれは記者会見といえるようなものではありません)、覚悟をもって何かを決めることもできずにいますが、幸いにそうした政府に自らの人生を預けている(期待している)人が多いので、何とか政府の体をなしています。
しかしこの先の展開がとても気になります。

COVID-19パンデミックがさまざまな問題を可視化させてきてくれていますが、そのほとんどは、なにをいまさらということばかりです。
みんな「意図」されていたことではないかと思ってしまうのです。
不幸にして生命を落としてしまった人もいますが、そうしたリスクは別にCOVID-19に始まったことではありません。
なんでもかでもが「大きな物語」の枝葉にされてしまうのが、最近の「非情報化社会」の特徴ですが(ちなみに私は現在ほど「情報」がなくなった時代はないと思っています)、COVID-19などという「よくあるリスク」に押しつぶされないようにしたいと思っています。

しかし、それに感染するのは、その「虚構の物語」に加担することになりますので、注意しなければいけません。
でもマスクをしたり会食をやめたり外出自粛したりすれば、解決するような問題ではありません。
そもそも問題の立て方が、私とは違っていますし、

さて今日も厳しい非難の目を受けながら、不謹慎にも湯島に出かけてサロンです。

 

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