カテゴリー「生き方の話」の記事

2020/09/14

■インベージョンの恐怖ー生きるべきか死ぬべきか

相変わらず新型コロナが話題になっています。

私にはとうの昔に終わった話なのですが、いまでもマスク着用がニューマナーだそうですし、マスクを拒否した乗客のおかげで飛行機が途中で緊急着陸したり出発が遅れたりしたりという話がつづいています。
政府は相変わらずコロナ対策を前面に出して「最優先課題」化し、国民を管理していますし、国民のほとんどもそれに便乗して、生きるのを放棄しつつあるように思います。

コロナ感染者数は発表されても、その実体はなかなか発表されません。
私が住んでいる我孫子でも、感染者数の累計と新規感染者数は発表されますが、その内容やその後の経緯などが発表されるようになったのは先週からです。
現在の入院者数は2人だそうですが、その程度がわかる内容発表です。

私が今回の新型コロナウイルスに一番注意していたのは2月から3月ですが、その後、次第に新型ウイルスのことがわかってきたので、いまではインフルエンザ程度の注意にしています。という意味は、罹ったら諦めるという程度の心配です。

しかし半年以上も、コロナ対策が最優先課題になってしまい、経済も教育も文化も、そして生活も、コロナ対策基準で制約され続けて、それが「新しい生活」などという風潮がこうまで広がってしまうとは思ってもいませんでした。
気がついてみたら、私もまたマスクを着用することが増えてきました。

幸いに湯島のサロンに集まる人たちは、さほどマスクを気にしません。
だからといって、感染に無頓着であるとも思えません。
「感染予防」問題と「マスク着用」問題とを分けて考えているだけの話です。

映画「インベージョン」を思い出します。
エイリアンの侵略を描いたSF小説を映画化した何度目かの作品ですが、今回のエイリアンはウイルスで、人体に感染し、人間の精神だけを変えていくという物語です。
一見見分けにくいのですが、感情が現れにくくなるのです。
なんだかマスクをしている人を見ると、その映画のエイリアン感染者のように思えてしまいます。

飛行機で暴れたというマスク拒否者に、いささかの共感を感ずるのは、そのせいでしょうか。その人は、エイリアンに囲まれたような恐怖感を持ったのかもしれません。
私も時々、そういう幻想に襲われることがあります。
これほど簡単に行動変容してしまうのは、エイリアン化が進んでいるに違いない。

人間はもうじき滅んでしまうと思っていましたが、すでにもうみんなエイリアンになってしまったのかもしれません。
最近どうも元気が出ないのは、そのせいなのではないか。
人間は、他者から幸せをもらって元気になる生き物だと私は思っていますが、他者がみんなエイリアンに乗っ取られてしまい、幸せがもらえなくなっているのかもしれません。
湯島のサロンに来る人たちは、まだ人間のような気がしますが、気は許せなくなりました。

「インベージョン」のエイリアンに乗っ取られた人が言うように、「お前もこちらに来れば幸せになれる」という誘いに乗った方がいいでしょうか。
ハムレットのように、迷うところです。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」
「生きる」とはいったいなんでしょうか。

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2020/09/06

■知者の喜び

昨日は「知者の無知」について書きましたが、無知であることは「無上の喜び」につながるばかりか、生の平安にもつながります。

1週間前にEテレの「こころの時代」で上藤恵子さんがレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」を紹介していましたが、その最後のナレーションに、同書の最後に紹介されているスウェーデンの海洋学者オットー・ペテルソンの言葉が流れていました。
私はすっかり忘れていたのですが、私の思いと同じなので今回はしっかりと記憶に残りました。
念のために、「センス・オブ・ワンダー」も確認しましたが、たしかに紹介されています。

ペテルソンが残した言葉は、死を意識した時に息子に語った言葉です。
「死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先になにがあるのかというかぎりない好奇心だろうね」。 

私が死に対してそれを感じないのは、ペテルソンと同じ好奇心です。
私の友人には、死ですべては無になるという人が少なくないですが、そういう人にとっては死は喜びにはつながらないでしょう。
死によってすべては終わるという「近代科学的知識」に呪縛されて、それ以外のことが見えていないのです。
死後の世界のことに関して私は全く知りません。
しかし、何も感じていないわけではなく、
知ることよりも大切なのは感ずること、というのも、たしかカーソンの考えでした。

死後の先に何があるかわからないのであれば、知りたくなる。
それが無知に価値を置く知者の生き方でしょう。

知らないことは知る喜びを与えてくれる。
死の先に大きな期待があれば、死を恐れる必要はありません。

知者でありたいと、私が思う所以です。
決して知識人にはなりたくありません。

 

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2020/09/05

■「知者ほど無知」

今朝の挽歌にも書いたことですが、血液サラサラ薬騒動でいろんなことに気づかせてもらいました。
その一つが「知者ほど無知」というソクラテスのメッセージです。
ソクラテスがそんなことを言ったのかどうかは確かではありませんが、私が勝手にソクラテスから受け止めているメッセージです。

生命現象は実に不思議です。
いまだなお人智の及ぶところではないことが多いでしょう。
近代の科学技術は生命現象の一部を可視化してくれましたが、逆に生命現象を可視化された世界に限定しがちです。つまり「知者ほど無知」というジレンマがそこにある。医師と話していて、それを強く感じます。

何かを知ることは何かを見えなくすることでもある。
湯島のサロンでみんなの話を聞いていて、いつも痛感することです。
もちろん私にも当てはまります。
私自身は以前からずっと「知識」から自由に思考するというように心がけてきていますが、時に知識をひけらかしてしまい、後で自己嫌悪に陥ることは多いです。

サロンを終わって、自らの無知の世界が広がった時にはとても充実感が生まれます。
「知る」ということは何か「知識」を得ることではなく、「知らない世界の存在」に気づくことかもしれません。知らないことに気づかせてくれるのが知識かもしれません。ソクラテスの「無知の知」を知るということです。

そう考えると、知者とは「知識」を持つ人ではなく「無知の世界」の広い人かもしれません。いささかややこしいですが、知らないことを知ることこそが知ることの醍醐味なのです。知れば知るほど、知らない世界が広がっていく。

他者とのコミュニケーションにとって「知識」は両刃の剣です。知識がないとコミュニケーションできないこともあれば、知識がコミュニケーションを邪魔することもある。
このことに気づいたのは大学生の時ですが、それから半世紀以上生きてきたのに、そのジレンマを克服する術が見つけられずにいます。

ちなみに不思議なのは生命現象だけではありません。
社会現象もまた不思議です。
いや、社会現象もまた生命現象と捉えることもできるでしょう。

いずれにしろ世界は不思議で満ち溢れています。
科学技術は、それを退屈な機械的世界へと単純化してしまった。
それでは世界は見えなくなる。

歳をとる効用のひとつは、知らないことの世界を楽しめることかもしれません。
人が知りうることが、いかに狭い世界にとどまっているかの体験を繰り返していると、知らないことを軸に生きることが自然と身についてくるような気がします。
毎日、知らないことを楽しむ生き方だけはかなり身についています。
なにしろ世界は私にとっては、無知の大陸です。

暑さで心身ともに萎えていました。
そろそろそこから抜け出そうと思います。

 

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2020/09/02

■コロナウイルスに行動の判断基準の座を与えたくない

友人がFBにこんな投稿をしていました。

コロナ禍で友人と直接会うことが極端に減りました。
最初は寂しいなと思いましたが、今ではすっかり慣れてしまいました。
会うのが億劫で面倒くさいなとさえ思うようになりました。
会わないのが当たり前になっています。
慣れは怖いですね。
一種の「自閉症」かもしれません。
「いつか」「そのうちに」なんて言っていたら、生きているうちにもう会えないかもしれません。
「いつまでも」いのちがあるわけではありません。

よくわかります。
「今ではすっかり慣れてしまいました」というところに恐ろしさを感じます。
慣れてしまった、という意識さえも消えてしまいそうなのが心配です。
言うまでもありませんが、この投稿者は決して慣れてなどはいませんが。

私も、週2回は湯島や地元などでの集まりを続けていますが、以前に比べれば、人に会う機会は激減しました。特に夜の集まりはほとんどなくなりました。
私自身はコロナウイルスは風邪と同じだと思っているのですが、他者にうつしてはいけないという思いはあって、ついついこちらからの誘いは自重してしまいます。

同級生が病気で入院しました。すぐに見舞いに行きましたが、コロナの関係で面会はできないと言われました。
しかし、これには納得できずに、医師に頼んで面会させてもらいました。たまたま彼は個室だったのと命の危険があったので許可がもらえましたが、その時につくづく思いました。
何が大切かは、やはり自分で決めなければいけないと。
同級生にも声をかけて、その後何回か病院で、退院後は彼の自宅で、数名で集まりました。
彼は1か月ほど前に亡くなりましたが、悔いのない見送りができました。

コロナのために死に水もとれないというのは、どう考えても、おかしいです。
そういうことの積み重ねが、人間をおかしくしていく。
人生にはリスクはつきものです。
しかし行動の優先順序を決めるのは、自分です。誰かが決めたルールや世間の空気であってはなりません。もちろん自分勝手ではなく、他者のことも考えた上での話ですが。

コロナウイルスに、そうした行動の判断基準の座を与えてしまうことは私にはできません。それでは、いつも誰かのせいにして責任逃れしてきた安倍首相と同じになってしまう。
最近の国民の多くは、みんな安倍さんのようになってきてしまったと思えてなりません。
そろそろコロナウイルスのせいにする生き方から抜け出てほしいと思います。

また病気のせいにして責任放棄した安倍さんの生き方を見て、絶対にそうならないようにしようと思っています。

 

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2020/07/28

■節子への挽歌4708:すごい本を読んでしまいました

節子

すごい本を読んでしまいました。
昨年、晶文社から出版された「急に具合が悪くなる」です。
宮野真生子さんと磯野真穂さんの往復書簡が、その内容です。
磯野さんは、先日、朝日新聞のインタビュー記事で知った医療人類学に取り組んでいる人ですが、磯野さんのFBで、この本を知ったのです。

ともかくとんでもなくすごい本だと、私は思いました。
磯野さんが書き送った書簡の相手は、九鬼周造の研究者の宮野真生子さんです。

2人が知り合ったのはつい最近のこと、そして2019年の4月の下旬から書簡のやり取りが始まりました。しかし、それは長くはつづかず、宮野さんから磯野さんへの201971日付けの書簡で終わっています。なぜならその週の土曜日に宮野さんは病院に緊急搬入され、亡くなったのです。
知り合った(そういう表現は適切ではないかもしれません)時には、すでに宮野さんは癌が進行していて、ホスピス探しをしていたそうです。

往復書簡は2か月ちょっとの期間に10回行われていますが、とてもそんな短期間のものとは思えない内容です。しかも、明らかにそれぞれの考えや関係が大きく変化しているのもよく伝わってきます。この2か月の間に、2人はそれぞれ数年を生きているような気がします。日付を見なければ、読者はそう思うでしょう。

生きるということは、あるいは人と付き合うということは、こういうことなのかと、教えられました。
同時に、こんなに深く、人は邂逅できるものなのだと感激しました。
魂のふれあいとはこういうことを言うのでしょう。
読んだ後、ちょっと動けないほどでした。

そして思い出したのが、「がん患者学」の柳原和子さんです。
この挽歌でも書いたことがありますが、柳原さんもまたがん患者でした。
テレビで見た柳原さんの発言を、私のホームページで取り上げたのを読んだ柳原さんがメールをくださり、以来ささやかなメールのやり取りをしました。
当時私には余裕がなく、そのつながりを私は深めることができないうちに、柳原さんは亡くなりました。
ずっと心残りになっていますが、なぜあの時に会いに行かなかったのか。

またちょうど今、私は死に直面している友人と関わっています。
彼は幸いにいま退院できたのですが、「癌だと急に具合が悪くなってしまうことがあるので、気を許さないで」と言い続けてきました。毎日、電話で連絡は取るようにしていますが、それとも重なってしまってもいるのです。

それにしても、この本はすごいです。

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2020/07/26

■ALS患者の言葉に深く耳を傾けたい

昨夜は4時に目が覚めてしまいました。
そして、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者が薬物を投与されて殺害されたとされる事件のことが浮かんできて、もう眠られなくなってしまいました。
私には、実に簡単な事件のように思いますが(「殺人事件」です)、なぜかテレビの報道に接して以来、頭から離れません。

今朝、朝日新聞のトップにALS患者の増田さんのメールが紹介されていました。
何度も読み返しました。
そして、林優里さんのご冥福を祈りました。

増田さんのメッセージをぜひ皆さんにも読んでいただきたいです。
私が、一番共感したのは、次の文章です。

誤解して欲しくないのは、彼女の意思表明は、
生きたいと思ったからこそのものであること、
そして事実生きていたということです。

書きたいことは山のようにあります。
できれば湯島のサロンでも取り上げたいと思います。
でも今はまだその元気がでません。

ともかく、多くの人に増田さんのメールを読んでもらい、考えてもらいたいです。
退屈な「言葉」の問題にはしないでほしいですが。

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2020/07/20

■医療関係者のストライキのメッセージをきちんと受け止めたい

今日は娘の手術の立ち会いで、大学病院で半日過ごしました。
手術は2時間でしたが、その前後、併せて5時間以上、病院にいました。

いろんなことが見えてきます。
コロナ騒ぎで、病院は大きな負担を強いられているのがよくわかります。
しかし、看護師もスタッフも、もちろん医師も、非常に誠実です。
医師は昼食を食べる暇なく、仕事をしているようです。
さすがにナースステーションは昼食時少し人数が減っていましたが、患者担当の人は昼食もなく頑張っていました。私も昼食を食べずに待合室にいたので、それが実感できました。

そのうえ、みんなとても気遣い合う姿勢が強く、看護師だけでなく、たとえばストレッチャーを運ぶスタッフや待合室の掃除に来る人など、みんな実に親切です。
エレベーター内では声をかけないようにと掲示が出ていましたので、私も声掛けは最小限にしましたが、それなりに声をかけてもらえましたし、それなりに声をかけさせてもらいました。もっとも、みんな私よりも疲れているはずなので。私にはお礼を言うしかできませんでしたが。

帰宅してテレビを見ていたら、病院の看護師のストライキが報道されていました。
コロナ騒ぎで病院が収益悪化し、ボーナスが削減されたりしているようです。
これを見て唖然としました。

たぶん金銭的な問題ではないでしょう。
医療関係者への評価や、もしかしたら私たち患者や患者家族の姿勢が問題なのかもしれません。社会の目も、問題かもしれません。
もし本当に新型コロナが心配なのであれば、そして医療崩壊を本当に心配するのであれば、病院の経営収益の問題などにしてはいけないはずです。

コロナ対策特別税として、全国民が毎月一定額を負担するようにしたらどうでしょうか。
経済が回らなくては困るとみんないいますが、病院はどうなのか。
昨今のバブルに近いような消費の報道には、私は違和感があります。
まずは医療関係者に温泉に行って休んでもらいたい気分です。

病院のスタッフ業務には、資格がなくてもできる活動も少なくありません。
そういう活動をするボランティアを受け入れるのもいいでしょう。
私にも入り口で体温を計ったり、消毒をしてもらうようなことなら、週10時間くらいであれば、引き受けられそうです。

ニュースで医療関係者のストライキが、ボーナスとの関係で報道されているのに、やりきれない気がします。
報道関係者はもう少ししっかりと現実を見てほしいです。
そこまで報道はお金に毒されてしまっているのでしょうか。

今日、お世話になった慈恵医大柏病院の守衛さんをはじめとした、すべてのみなさんに感謝します。

 

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2020/07/17

■問題の捉え方

東京でのコロナ感染者が増えています。
その一方で、観光支援のための助成金制度が動き出しています。
あまりにちぐはぐな感じで、みんな振り回されているようです。

私の生活スタイルは変わっていません。
県外移動自粛は意に介していませんが、3月以降は生活圏からの移動は避けています。
電車には以前どおり乗っていますが、友人以外の人との会食は避けています(一度だけ結果的に受けてしまいましたが)。
病院に入院している友人にも面会に行きますし、エアタッチのようなばかげた仕草はしません。
湯島のサロンのスタイルもほとんど変えていません(換気には気を付けていますが)。

私が気になっているのは、感染者数ではなく、感染後の症状と重症化した人の条件です。
残念ながらそれがほとんど報告されていません。
検査結果の陽性率は上昇していますが、市中への感染者の広がりは当然のことだろうと思いますので、まったく心配していません。
しかし、感染した場合、どうなるのか、あるいはどうしたらいいのかの情報が相変わらず出てきません。
さらには、どう感染したらいいかの情報も見当たりません。

問題の捉え方が間違っているような気がしてなりません。
感染予防策をいくら繰り返しても、何も変わらない。
大切なのは、予防策からそろそろ卒業したいものです。

 

 

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2020/07/16

■知っているのになぜ隠すのか

最近は新型コロナ関係の報道番組はあまり見ていないのですが、今日は久しぶりに少しだけ羽鳥さんのモーニングショーを見ました。
岡田さんと玉川さんと羽鳥さんの茶番としかいえないやり取りがありました。
今朝、ノートにアップしたことにつながるのですが、以前から不快に思っていたことなので、書くことにしました。

話題は、なぜPCR検査が広がらないのかということです。
それに関して、岡田さんが「PCR検査をやりたくない人が政府にいる」というような発言をしたのですが、それに対して羽鳥さんが「それ誰ですか?」と質問しました。
岡田さんは、その人の名前は「電波にはのせられないですよ」と笑いながら答えました。

こういうやり取りは、テレビではよくあります。
物知り顔にいろいろと話し、でもその人の名前は言えないという人は少なくありません。
すぐにも思い出すのは、貴乃花の母親です。
有名な評論家や政治解説者にもいます。

そういう発言をするような人は、私にはまったく信頼できません。
そういう一言を聞いてしまうと、その人への信頼を持てなくなります。
嘘や隠し事が、私は生理的にだめなのです。

今朝、前の記事に書いたように、「知った者の責任」をとれないような人は、まともな社会人ではないと思うからです。
しかも、自分だけは知っているということに優越感を持つような勘違いをしているのですから、救いようがありません。
知っていて、しかも知っていることを公言したのならば、最後まで話すべきでしょう。
話す気がないのなら、せめて知っていることを話すべきではありません。
人に話せないことは、知らないことと同じだからです。

「このことは墓場まで持っていく」という言葉が、好意的に使われることがありますが、私にはそれはとんでもない無責任な生き方です。要は、問題から逃げるだけの卑劣でみじめな生き方でしかありません。偉そうに公言する言葉ではないでしょう。

もし名前を公開したら、どうなるのでしょうか。
もう2度と情報が取れなくなるとか、当事者に迷惑がかかるとか、いろいろと理由はあるでしょうが、たぶんどんな理由も正当化はされないでしょう。

「知った者の責任」は大きいです。
「知った者」は、知り得る立場にあることの意味を認識しなければいけません。
そして、「知る」ということは、「知るべきして知る」のであり、それにはきちんと意味があるのです。自分だけで秘蔵してはいけません。
赤木さんのメッセージをしっかりと受け止めてほしいです。

そういう人がもう少し増えていたら、この半年のコロナ騒ぎはかなり違ったはずです。

 

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■知った事実をしっかりと説明できる公的な場がない

森友学園を巡る公文書改ざんに加担させられたとして自死した財務省職員の妻、赤木雅子さんの大阪地裁で意見陳述をテレビで観てから、新聞で全文を読みました。
日本の官僚にも、まだこういう人がいたのかと改めて思いました。
日本の官僚たちの変質は、1980年代から90年代にかけて、なまなましく私も体験していますから、まだこんな誠実な人がいたのかと感激したのです。

私の印象に強く残ったのは、「この事実を知り、抵抗したとはいえ関わった者としての責任」、そして「事実を、公的な場所でしっかりと説明することができません」という言葉でした。

前者に関しては、私が以前からずっと言ってきたことです。
知った以上は無縁とは言えないと思っています。知っただけではなく、関わった人たちが財務省にはたくさんいるはずですが、誰からも大きな声が聞こえてきません。
他の官庁の官僚たちからも聞こえてこない。
私の考えでは、まったく無縁の官僚はほとんどいないはずですが、みんな自分の問題とは受け止めていないようなのが不思議です。自らを貶めているのでしょうか。

私の友人たちはもうみんな退役していますが、同窓会に参加して聞いてみたい気もしますが、もう過去の話なのでしょう。それに官僚の世界は、私が生きている世界とはまったく別のようなので、話が通じないかもしれません。

しかし、今回、気になったのは、「関わった者としての責任」ではありません。
知った事実をしっかりと説明できる公的な場がない、という赤木さんの指摘です。
果たしてそうなのか。それこそ自閉的な「思い込み」ではないのか。

事実、赤木雅子さんは問題を「公的な場」に提示しました。たしかに、ここまで来るのは大変だったでしょう。赤木さんご自身がもし動いたら、抹殺された可能性もあるでしょう。そうやって「消されてしまった」事例も少なくないのかもしれません。
「知った事実」を「公開」することは誰にもできるはずです。しかし、赤木さんは「公開」しても取り上げられないと思っていたのかもしれません。つまり、新聞やテレビを信頼していなかったと言ってもいい。

こう考えてくると、日本には今や、信頼できる公的な情報空間がなくなってしまっているのかもしれません。これこそが大きな問題です。

ネット空間はどんどん広がっていますが、ほとんどが「私的所有空間」化してきていて、誰にでも公正に開放されている公共空間がなくなってきているとしたら、それを改めて創り出し育てていく必要があるのではないか。
それを育てるのは、パブリックではなく、コモンズでなければいけません。

公共空間としてのサロンが広く広がっていくことが大切です。

赤木さんのような人が、自らの命を断つ前に、話をしに来られるような場に、湯島のサロンをしていきたいと改めて思っています。

 

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