カテゴリー「生き方の話」の記事

2023/03/28

■若いころ読んだ岩波新書の「実存主義」も一部を読みました

先週読んだ本の紹介ばかりしていますが、最後にこんな本も手に取ったという話です。

岩波新書の「実存主義」(松浪信三郎著)です。出版されたのは1962年、私が大学生の頃です。ただ私が読んだのは、会社に入ってからですが。
今回は全部読んだわけではなく、きちんと読んだのはわずか4頁ですが、若いころの私がいろいろなところに赤線を引いていたので、そこを中心に一応全部目を通しました。若いころの私が、いかにピント外れだったかがよくわかります。まあ時にいまも心に響くところもありましたが。

しかし、なぜ、こんな古い本を読んだのか。
2つの因縁が重なったのです。

まず一昨年リフォームをして私の書庫も書斎もなくしてしまったため、書籍をかなり処分し、残った書籍もまだ箱に埋もれたり書棚に積んであったりしたままなのですが、そういう過程で私に呼びかけてきた数冊の本があります。
実はこの「実存主義」もその1冊で、地味な本なので普段は気づかないはずですが、なぜか何回も私の目につくところに出てきて、アピールしたので、一番目立つ書棚に仮置きしていたのです。それが一つ目の縁。
そして、実は先々週、久しぶりに山野浩一さんの「花と機械とデシタルト」という小説を読んだのですが、その本の解説で、岡和田晃さんが、この「実存主義」に言及していたのです。

因縁には従うことにしている私としては読まないわけにはいかない、というわけです。

というわけで、きちんと読んだのは、「亡命の実存主義 ベルジャーエフ」と題した4頁だけです。岡和田さんがそこの「私と汝」の部分を引用していたからです。
今回読み直した「実存主義」の4頁の中にこんな文章がありました。

精神は決して反社会的なものではない。むしろ反対に、社会的であってこそ、精神は自由となり、人格的な創造に参与することができる。

とても共感できます。
しかし残念ながら、この本を読んだ若いころの私は、そこに赤線を引いていませんでした。たくさん赤線は引いてあったのですが、にもかかわらずです。
たとえば「人間は彼がみずからつくるところのものである」というようなところに赤線が引いてある。まあ若気の至りとしか言いようがない。
その頃の私が、もし今の私に会っていたら、とふと思ったのですが、そこで気づいたのは、いまなら若いころの私に出会えるかもしれないということです。

改めてむかし読んだ本を読み直してみようかとふと思いました。
でもまあ残された時間もあまりないし、やはり前に向かっていった方がいいかなとも思います。

さてどうするか。
すこし考えてみようと思います。

先週はここで紹介した4冊の本以外にも2、3冊は手に取りましたが、印象に残った本はこの4冊でした。いつもより多いのは、雨のおかげです。

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■読書の3冊目は「マルクス」

先週読んだ本のなかには経済の本もあります。

白井聡さんの「マルクス」(講談社の現代新書100)です。このシリーズは、100頁強で、字も大きいので、ちょっとした合間に気楽に読めます。しかもそれぞれにメッセージがある。
本書も、しっかりとしたメッセージが込められていて、経済のありようや私たちの生き方に関心のある人にはお薦めの一書です。

最初に出てくる次の言葉が印象的です。

マルクスが明らかにしたのは、不況は恒常化し貧富の格差が止めどもなく拡大してもなお、あるいは、恐慌が社会を襲い職にあぶれた人々が街中に忘れてもなお、あるいは、資本の増殖欲求を満たすために戦争が仕掛けられ罪なき人々の血が流され遺体が積み上がってもなお、あるいは、企業活動が公害を発生させ地球環境の危機が生態系そのものの存続を危機にさらしてもなお、それでも資本主義は終わらない、という真実である。

「資本論」は、こう読まなければいけない。そう思います。
この認識を欠く軽い資本論関係の本が流行っていますが、いま求められているのは、資本主義の改善ではなく、資本主義克服に向けてのパラダイム転換ではないかと、私は思っています。延命のために「道具」にされるのは、もう終わりにしたい。

マルクスの疎外論も簡単に紹介されています。

「われわれは自分を豊かにするために働き、何かをつくり出しているはずなのに、逆にそのつくり出されたものによって支配されてしまうという逆説的な状況を資本主義社会は生み出す」。
「人間にとっての働くことの在り方全般が、資本主義のもとで全面的につくり変えられ、その結果、人間がその生産物によって支配されるようになった」。

これに関しても安直な「働き方改革」が広がっているのが残念です。

そして白井さんは、マルクスにおける資本主義社会とは、「物質代謝の大半を、商品の生産・流通(交換)・消費を通じて行なう社会」であると定義できると言います。
私が恐ろしいのは、いまや自然さえもが「商品」かされつつあることです。

また、「(不断で無制限の増殖志向を持つ)資本は、人間の道徳的意図や幸福への願望とはまったく無関係のロジックを持っており」、人間の幸福が価値増殖の役に立つ限りにおいてはその実現を助けるかもしれないが、逆に人間の不幸が価値増殖の役に立つのならば、遠慮なくそれを用いる」といいます。いわゆる「資本の他者性」です。

そして、「物質代謝の過程の総体を資本が呑み込み、価値増殖の手段にしようとする。このような傾向の進展こそ、グローバリゼーションの内容にほかならなかった」とつづけます。

白井さんは、経済成長や生産性向上、あるいは技術革新や発明は、人間の幸福を目的としたものではない、と言い切ります。が、私もまったく同感です。
こういう大きな流れの中で、宗教も政治もすべて資本主義に流れに巻き込まれ、経済活動になってしまい、人間は単なる「労働力」そして「消費力」に貶められようとしている。そんな恐れを感じています。

こうした風潮に抗うのはそう難しいことではありません。
お金の呪縛から抜け出せばいいだけですから。
まずは経済成長や生産性向上は、決して人間の生活を豊かにしないことに気づくべきです。

いささか身近な話を一つ。

委託仕事をしている友人が、頑張って生産性を向上させたところ、対価が大幅に削減されてしまったそうです。雇用主は時間給発想を「悪用」したわけです。生活するための対価を得る必要労働時間をがんばって短縮しても、雇用関係下では、そうして生み出される剰余価値は資本に吸い取られてしまうのが資本主義なのです。

資本にとっては、コストがかかる人間を労働力として使うのは合理的ではないのです。
だからどんどんAI化されていく。
こんな社会に明るい未来があるはずがありません。

とまあ、この本を読むと少し気が滅入りがちですが、怒りが生まれてくれば、元気が出てくるでしょう。
いまの時代、取り組むべき課題はたくさんあるのです。
滅入っている余裕などないのです。

これが3冊目からのメッセージです。

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2023/03/01

■「死者と生きる」にとても共感しました

昨年末からまた、湯島のサロンで「生と死」をテーマにしたサロンを時々やっています。
それに関連して、生と死に関わる本を少また読み始めていますが、とても共感する本に出合いました。
ユダヤ教の女性ラビであるデルフィーヌ・オルヴィルールの「死者と生きる」(早川書房)です。

ユダヤ教の女性ラビがいるというのも驚きでしたが、それも含めて私のユダヤ教理解は全くお粗末だったことを思い知らされました。
本書を読んで、ユダヤ教は日本の古来の神道とも共通するところがあるように感じました。つまり、古代人類に共通したものを感じたということです。

本書は、著者のデルフィーヌ・オルヴィルールが実際に執り行った葬儀にまつわる話です。そこには、シャリル=エブド襲撃事件の犠牲者や政治家シモーヌ・ヴェイユ、あるいはホロコーストの生存者など、さまざまな人が登場します。そして人間的な交流のエピソードを通じて、「死」や「生きること」、そして「家族」であることの意味が語られます。私にはとても心に響くものばかりでした。

題名の「死者と生きる」という言葉も含めて、最近の私の死生観からは共感できることが多く、一気に読んでしまいました。
死に関わる本でこんなに共感できた本は初めてです。「宗教」や「神」の捉え方にも、とても共感できます。私の一神教の捉え方も一変しました。

死や死者と共に生きたいと思っている方、是非一読をお勧めします。

 

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2023/02/28

■韓国ドラマ「善徳女王」を見終わりました

だいぶ前に話題になった韓国ドラマ「善徳女王」の最近のテレビ放映を見ていたのですが、今日が最終回でした。
https://www.bs-tvtokyo.co.jp/sondoku/
全62話、長かったですが、全部を見終わりました。

最初は韓国史関係の本を読んでいたら、善徳女王や金春秋が出てきたので、少し知識を得ようと思って見出したのですが、途中から面白くなって、さらに毎回のように共感できるセリフに出合えて、だんだん楽しみになってしまいました。

いちばんの教訓は、「人を信ずることの大切さ」。私は根っからの性善説の立場で生きています。これまで何回も他者の「裏切り」で苦労を背負っていますが、他者を信じきれば最終的には裏切られることはないと確信しています。しかし、それは難しい話ですし、個人の生活のレベルの話かもしれません。
今日もテレビで、ウクライナ戦争に関してコメントしていた三宅さんが「私は性悪説の立場で考えている」と明言されていましたが、それが残念ながら今の状況かもしれません。

しかし、「善徳女王」で言えば、最後まで信じられなかったピダムは、最後まで相手を信じ切っていた善徳女王やキム・ユシンには勝てなかったのです。

まあこんなことを書いても見ていない人には全くわかりませんね。
しかし、人を信ずることがいかに大事なことか、改めて私は確信しました。
それこそが今度サロンを開催する「ソーシャル・キャピタル」の本質です。

ところで、「善徳女王」には、期待していた金春秋が主役になるところまではいきませんでした。代わりに新羅と戦う百済のケベクはちょっとだけですが登場しました。
たしか「ケベク」はドラマになっていたはずですので、また再放映されたら見ようと思います。金春秋が主役の韓国ドラマはあるのでしょうか。これもぜひ観たいです。
できたら金春秋を主役にしたドラマ化映画を日韓共同で作ってほしいですが、なぜか日本人は新羅が嫌いなようなので無理でしょうね。私は、新羅が好きなのですが。

すいません。
つまらない話で。

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2023/02/20

■愛とは何だろうか

NHKで放映されていたテレビドラマ「DOC あすへのカルテ」の最終回を観ました。
https://www.nhk.jp/p/doc-karte/ts/WL5QPY99G7/

実話をモデルにした、病院を舞台にしたイタリア制作のドラマで、16回もつづきました。毎回観ていましたが、「愛とは何か」がテーマのドラマです。
愛と言っても、さまざまな愛です。恋愛や博愛という話だけではありません。

最終回では、また涙が止められずに、生きるとは「愛すること」だという思いを改めて確信させられました。
最終回のタイトルは「居場所」でした。昨日の湯島の集まりで、「居場所」が話題になっていましたが、居場所もまた愛によって創られることが見事に描かれていました。愛のない居場所は「もどき」でしかありません。居場所がほしければ、まずは自らのうちに愛を育てなければいけません。逆に、愛さえあれば、居場所には困りません。

私が今回、涙したのは、水泳大会の場面でした。
とても感動的なシーンで、やはり涙が止められませんでした。
そこで語られた「誰にも秘密はある」という一言が、私が考える「愛」と深くつながっています。愛があれば、相手を信頼でき、すべてをさらけだせます。
いつかこんなテーマのサロンもやりたいですが、これは難しそうです。

舞台になっている病院でのやりとりも、とても愛にあふれた場所で、こういう病院は日本にはないだろうなと思いながら、こういう病院こそが病院だろうと思って観ていました。ホスピタルの語源はまさに「愛」ですが、日本の「病院」という名前には「愛」のかけらも含意されていません。そこに象徴されているような気もします。
私が病院で出会った医療関係者のほとんどは自らも病にかかってしまっている。そんな気さえします。
医療関係者には、このドラマを観てほしいものです。

16回続いたシーズン1は終わりましたが、イタリアではシーズン2が放映中だそうです。
日本でも9月に放映されるそうです。
長すぎて観るのが大変ですが、お薦めのドラマです。

 

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2023/01/27

■個人判断してはいけない時代だったことに気づきませんでした

新型コロナウイルス感染症に対する政府の方針が変わることになりました。

今朝の朝日新聞の見出しには、「コロナ5類移行 マスクは個人判断」と出ていました。本文には、「マスクの着用は、屋内外を問わず、原則として個人の判断にゆだねる方針だ」と書かれています。

驚きました。
私自身は、これまでもマスクの着用は「個人判断」だと思っていたからです。
私の認識違いだったようです。
ですからどこでもみんなマスクをしていたのですね。

まさに日本の社会は国家管理体制にあった。自分では判断しない人が多かったわけです。世界で一番新型コロナの被害が大きかったわけがやっとわかりました。
自己判断しないで生きている人が自分を守れるはずはありませんから。

心配なのは、一度、自己判断をやめた人は2度と自己判断できなくなるのではないかということです。考えすぎでしょうか。
マスクをしろと言われればマスクをし、ワクチンを打てと言われれば個人の状況など考えずにワクチンを接種し、病気になれと言われれば身を犠牲にして病気にもなる。戦場に行けと言われれば戦場にも行くでしょう。何しろ個人では判断しないのですから。恐ろしい社会です。でもまあ、個人で判断しなくてもいいのですから、生きやすいのかもしれません。

しかし、マスク着用は自己判断していいよと言われて判断するのですから、それは本当の意味での自己判断ではないでしょう。もうこの日本には、自分をしっかりと生きている人は少なくなったのでしょう。自己判断するかどうかまで、政府が指示してくれる。
ますます病気が増えそうで心配です。

ちなみに私は、自己判断してはいけなくなっていたのに気づかず、この3年間も自己判断してきました。
自己判断し、風邪はもちろん、新型コロナウイルス感染症にかからないように十分に注意してきました。おかげでこの3年間も元気できました。
もちろんこれからもこれまで以上に注意するつもりです。
なにしろ自己判断しないで生きている人が多いことに気づかされましたので、注意しないと私も巻き込まれて、病気になりそうですから。

 

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2023/01/26

■「嘘つきは政治家のはじまり」にしてはいけません

統一教会との関係が問題になっている細田衆院議長が、24日に行われた与野党の代表者への説明会の中で、2019年に旧統一教会の友好団体が開催した会合に出席し「安倍首相(当時)に早速報告したい」と挨拶したことについて、「この団体が安倍元首相に近い団体というのは知っていたので、リップサービスとして言った。ただ安倍元首相には報告していない」と述べたそうです。

多くの新聞が、そのことをさらっと流しているのが、とても気になります。とても聞き流せるような話ではない。しかも発言者は立法の長たる衆議院議長です。

リップサービス。要するに嘘をついたということです。リップサービスなどという表現に騙されてはいけない。リップサービスは嘘とは違います。言葉は正確に使わなければいけません。まあそのこと自体も、いまや軽んじられていますが。

単なる私人なら嘘も時には許されるかもしれませんが、公人としての政治家は嘘をついてはいけません。残念ながら政治家とは嘘をつくものだという「常識」が広がっていますが、責任ある人が嘘をついたら社会は成り立たなくなります。どんな犯罪さえも否定できなくなる。「嘘つきは泥棒のはじまり」という教えがあるように、犯罪のほとんどは、嘘から始まりますから。
いまは「嘘つきは政治家のはじまり」と言い換えたほうがいいかもしれません。嘘にまみれた政治家が社会を統治していると思えば、最近の犯罪の広がりや経済の劣化もまた、「時代の流れ」かと諦めてしまいたくもなります。

しかし、一昔前の政治や経済では嘘は現に戒められていた。その基本になったのは、「信頼」であり「誠実」だったと思っています。
でもそれが今や失われようとしている。
いや失われてしまった。

嘘が見逃される風潮の中では、嘘つきが主流になっていく。
そのうちに、学校で「嘘のつき方を教えるようになるかもしれません。
そんな悪い冗談さえ、なんだか真実味をもってきてしまう。

その流れに巻き込まれないようにしないといけません。

 

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2023/01/11

■布教が目的になってしまえば人の救済にはなりません

自宅でパソコンに向かっていたら、玄関のチャイムが鳴りました。
荷物が届いたのかと出てみたら、エホバの証人の布教にまわっている人でした。

以前はよく回ってきていましたが、コロナ流行からは途絶えていました。
2~3人の女性たちがグループで回っているのです。
各戸訪問は大体においておひとりです。

じっくりと対応したこともありますが、最近は私は真言宗徒だと言ってお断りしています。
でも今日はついつい余計なことを言ってしまいました。
統一教会でも話題になっているように、お子様たちのことをしっかりと考えられた方がいいですよ、と。
今回は子連れではなかったのですが、時に子供連れのこともあったのを思い出したのです。

一瞬、相手の動きが止まりましたが、すぐに、出てきてくださってありがとうございますとていねいに言って、次のお宅に向かいました。
なんだか余計なことを言ってしまったようで、後味がよくありません。
相手も私に対してそう思ったかもしれません。

こうして回ってくるのはエホバの証人だけではありません。
倫理協会だとか早起き会だとかも含めて、いろんな人がきて、出なくても小冊子をポストに入れていくこともあります。
そんな時間と小冊子をつくるお金があれば、もっとやれることがあるだろうといつも思いますが、そういう人たちにとっては、それこそが価値ある仕事なのでしょう。
仕事の価値は、人によって全く違いますから。

自分の信仰を他者に勧めるのは決して悪いことではありません。
しかし、戸別訪問までしての布教活動には不快感があります。
いつもこうした人の訪問を受けた後味がとても悪いからです。
一人住まいで暇を持て余している人を相手にした悪徳商法のような気もしてしまいます。

そもそも布教が目的になってしまえば、人の救済にはなりません。
要するに自分のための利己行為でしかありません。相手の都合への配慮もない。

私は、信仰や宗教には高い価値を感じています。
しかし、信仰は商品ではないので、戸別訪問には適しません。
自己満足のための行為としか思えない。
こういう人たちが、善意のもとに、信仰や宗教を貶めているような気がします。

なにやら不快感が残ってしまったので、ついつい書いてしまいました。

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2023/01/10

■自らを恵まれた場所に置いていると事実は全く見えてこない

今日もまた日差しの強いあったかな日です。
と思って、実は薄着で散歩に出かけました。
ところが部屋の中での感じと外はかなり違っていて、風も強いし空気も冷たい。
身体が冷えて風邪を引きそうな気がしたので、慌てて散歩は中断。予定のコースとはまったく違ったコースで20分で戻ってきました。

教訓。
自らを恵まれた場所に置いていると事実は全く見えてこない。

 おそらく私がいろいろと偉そうに書いていることの多くは、当該の現場にいる人たちから見たら、まったくのピント外れの論考が多いのでしょう。
注意しなければいけません。
でもまあ、だからと言って、私が思ったことを発言しないのがいいわけでもありません。
ひとつの見方としては意味があると思うからです。

でも今日の外は寒かったです。
陽射しに恵まれた暖かな部屋で見ていては、それはまったくわからない。
同じように、マスコミ報道の事件の現場から遠くにいる私には、世界はほんの一部しか見えていないのでしょう。いや今日の私のように、現場とは真反対の風景を見ているのかもしれません。
ウクライナ戦争も中国のデモも、北朝鮮の国民生活も、ブラジルの騒ぎも、マスコミ報道だけで決めつけないようにしようと思います。

今日はしかし、久しぶりの道を歩いてきました。
以前はよく犬の散歩で歩いていたところです。
様子は大きく変わっていましたが、変わっていないところもありました。

その一つが、成田山恵勝寺。わが家のすぐ近くです。
以前、その由来などに関して近くの知人から聞いたのですが、うろ覚えなので、ネットで調べてみましたが、なぜか縁起など全く記事が見つかりません。
住宅街の中の小さなお寺なのですが、新勝寺ともゆかりがあるはずです。
少し離れたところに大きな駐車場もあって、以前、そこが満杯になっていたこともありました。

我孫子は何かと成田山とは縁があります。
我孫子の湖北地区の人たちは、成田山新勝寺にはお参りに行きません。
それどころか、湖北にある観音寺の観音様は、成田山の方向から顔をそらしているのです。

これは以前も書きましたが、平将門に関係しています。成田山新勝寺は、将門調伏を祈ったので、将門の居城があったこの地域(この説は我孫子まちづくり編集会議仲間の戸田さんの主張です)の人たちは、新勝寺が許せないのです。
今年は、観音寺も含めて将門ツアーウォーキングを企画しますので、詳しくはその時に。

そこから自宅に戻ってくる途中で、手賀沼が見えました。
風が強いので湖面が波立っていて、ちょうど大河の流れのようです。
凪いでいる時の鏡面のような手賀沼とは全く違います。
寒い中をしばらく見ていました。いろいろと思うことがあったのです。

というわけで、今日は3000歩しか歩きませんでしたが、気がついてみたら、時間は40分。
身体は冷え切ってしまいました。
実は今日はもう一つの健康法の週一断食を再開する予定でしたが、早々と挫折し、食事もしてしまいました。困ったものです。

金銭の呪縛どころか、寒さにも耐えられず、食欲も抑制できずに、いまもまたお煎餅を間食しています。
心を改めるために、これから抹茶を淹れて一服しようと思いましたが、ともかく寒いので、簡単な珈琲にしてしまいました。
やっと身体があったまってきました。
風邪は大丈夫そうです。

見かけや報道に騙されてはいけません。

 

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2023/01/09

■月収5万円でも豊かに暮らせる社会

一昨日会った友人から聞いたもう一つのうれしい話です。
いささかプライバシーにかかわる話ですが、まあいいでしょう。

彼女は昨年、伴侶を見送りました。
現在の定期的な金銭収入は年金ですが、月額5万円ほどらしいです。
私の3分の1です。

ところが、私と会うと、私の方がお金持ちだからと言ってご馳走してくれることもある。
それに私と会う時には必ず何かを持ってきてくれます。買ったものではありませんが。
私はそれに対してお返しをした記憶がありません。
まあ、お互いそんなことは気にしません。

彼女は5万円もあれば、お金が余ってしまうというのです。
私の場合は年金15万円弱ですが、ある事情があって、実際の可処分所得は10万円弱です。固定資産税の負担時期など、年に何回か、厳しい時はありますが、でも自宅ですし、最近はお金のかかる仕事はしていませんので(地方にも出かけられませんが)、なんとかやれています。でもまだお金が余るところまではいっていません。

でも、5万円の収入でも彼女はお金が余るというのです。
彼女のことだからあまったら誰かに回して役立てているのでしょう。
そして実に豊かな暮らしをしています。
私よりもはるかに行動範囲は広く、海外も含めてよく出かけています。

5万円でどうしてと思われるかもしれませんが、前「牛とひよこの話」を思い出してもらえれば、お金などはさして問題ではないことがわかってもらえるでしょう。
お金がなくても、きちんと生きていれば、お金が必要になるとどうにかなるものなのです。お金は「天下のまわりもの」ですから。

5万円のベーシックインカムならば、今の財政状態でも実現できるはずです。
ベーシックインカムは現実性のない政策だという人もいますが、国民みんながその気になれば簡単に実現できるのです。
その気になるということは、みんなが生き方を変えるということです。
月収5万円で幸せに生きる。彼女のような生き方です。

日本には空き家が溢れるほどありますし、廃棄している食材もたくさんある。エネルギーの浪費は目に余るものがありますが、そうした社会のあり方を少し組み替えれば、そして多くの人がその気になれば、できるはずです。
いや今のような忙しく労働する生き方を変えるだけで金銭出費はかなり抑えられるでしょう。

でもそうなると、いわゆる富裕族の人たちは困るでしょう。
彼らの生きがいは、貧困者の存在なのですから。貧困者がいなければ富裕者は生まれないのです。彼らのことも少しは考えてやらなければいけません。

しかし、金銭的貧困者が、豊かな暮らしをするようになれば、たぶん世界は平和になるでしょう。富裕層が羨むような豊かな生活を実現すればいい。
だとしたら、まずは自らが金銭的貧困者になることです。
それはそう難しいことではないでしょう。ただ、いまの社会では金銭なしに生き続けることは簡単なことではない。それなりの準備がいる。

私は20年かけてようやくここまで来ましたが、残念ながらこれまでの生き方のつけもあって、なかなか彼女のようにはなれません。まだ金銭の呪縛から自由にはなれていません。自分が満足できる仕事もできない。時にお金が欲しくなる。
困ったものです。

でも幸いなことに、私も彼女と同じように、それなりに豊かな暮らしをしています。
人並みに、悩みもほどほどにありますし、健全な老化も進んでいる。それもまた「豊かな生き方」の条件だと思っています。
「バブルな生活」をしていたころが、時に懐かしくなってしまうような未練がましさも残っていますが、まあ何とか幸せでもある。

生き方を変えれば、誰でも幸せになれる可能性がある。
格差社会と言われていますが、今はそんな社会でもあるような気がします。
バブル時代を生きてきた私にもある程度できるのですから、いまの若い世代ならもっと自然にできるでしょう。
金銭依存から離れる人が増えれば、社会はもっと豊かになる。

5万円で十分だと言い切る彼女の話を聞いていて、無性にうれしい気持ちになりました。
今までは信頼だけでしたが、ちょっと彼女に尊敬の念を持ちました。
もちろん本人にはそんなことは絶対に言いませんが。

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