カテゴリー「生き方の話」の記事

2026/01/24

■「わからないことをわかっていないと、わからないことはわからない」

最近、気にいっているテレビドラマは、NHKの『テミスの不確かな法廷』です。
https://www.nhk.jp/g/ts/32VWPKM6NX/

ともかく主演の松山ケンイチの演技が素晴らしい。
筋書きは私には正直、そう面白くはないのですが、松山ケンイチの演技と役としての言動にひかれて毎回観ています。ともかく学ぶことが多い。

松山ケンイチは安堂裁判官役なのですが、安堂裁判官がよく発言する言葉の一つに、
「わからないことをわかっていないと、わからないことはわからない」
というのがあります。
この言葉は、私の思いとぴったり重なります。まさにその通りだと思います。
でも多くの人は、「わからないこと」はあまり気にせずに、「わかってること」をベースに生きている気がします。
そんなことは当然だと言われそうですが、
「わからないことをわかっていないと、わかっていることもわからない」
のではないかと思うのです。

この話は、私も湯島のサロンでは時々させてもらっているつもりですが、明確に言ったことがないので、果たしてみんなに伝わっているかどうかは確信がありません。
それに、私自身、正直、「わかっていること」に頼って、「わからないこと」を無視してしまうこともあります。なにしろ「わからない世界」は無尽であり、わかっていることなど本当に微小なのですが、「わからない世界」を生きることは常に判断しながら進まないといけないので疲れるのです。そもそも質問はしはじめると底がありませんし。

安堂裁判官は、自分の心身で体感したものしか信じません。
だから、いわゆる「常識」や、時には人間が作った「規範」に制約されません。
それらは「絶対」ではないからです。
天動説から地動説へと「常識」が変わったように、いつまた、「地動説」から「天動説」に変わるかもしれません。
「言葉の知識」は、事実を見る目を養ってくれますが、同時に見えない世界も生み出します。つまり、世界を狭めてしまいかねません。
私が、「土の知識」にこだわっているのは、それを避けたいからです。

「わからないことをわかっていないと、わからないことはわからない」
もっと「わからないこと」をしっかりと受け止めていきたいと思います。
異論に耳を傾けることは、まさに「わからない世界」を生きる一つです。
「わからない世界」で生きるのは、疲れますが、ワクワクする楽しさも体験できます。

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2025/09/23

■みんなが「自然のままに」生きられる社会をめざしたい

私はすべての人は、自然にあれば、本来、邪気のない心やさしい存在だと確信しています。
しかし、残念ながら、人はなかなか「自然のままに」は生きていけない。
そのため、時に悪さをしたり、他者への心優しさを忘れたりしてしまうことがある。
私自身がそうですから、きっと他の人もそうだと思っています。

問題は、「自然のままに生きる」ことが、簡単ではないということです。
一人ではできないし、自然に支えられないと難しい。
でも、おそらくみんな、自然に生きたいと思っている。
つまりみんな本当は、心やさしく生きていきたいと思っている。
そう考えています。

NHKのドラマ「母の待つ里」を観て、その考えを改めて確信しました。
https://www.nhk.jp/p/ts/L66351K8RG/
そして、本来の「自然の生き方」は、実はそう難しいことではないのではないかと気づきました。
自然に生きるには、自分に素直になって、自分を思い切り他者や自然に委ねれればいい。
それだけなのではないのか。
小賢しい主体性など持たなくても、自然になれば主体性は自然と出てくる。
これは、妻を見送った後に、私が行き着いた生き方です。10年以上かかりましたが。

昨日は時間がたっぷりあったので、録画していたこのドラマの最終回をまた見てしまいました。
最後の演出意図はあまり理解できませんでしたが、なんだか「彼岸での生活」をみているような気がしました。あったかい。
きっとまた見たくなりそうなので、録画は残しておくことにしました。

このドラマを見た人、もし気が向いたら湯島に話に来ませんか。
今日のサロンでも参加者に声をかけてみようと思います。

 

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2025/07/10

■「交換」とは「シェアすること」

グレーバーの『価値論』を昨夜からまた読み出しました。第3章あたりから面白くなってきました。
今朝、読んだパプア・ニューギニアのバイニング社会の話はとても刺激されました。
バイニングは東ニューブリテン州の内陸山岳地域に位置する分散した集落に暮らすタロイモ農耕民で、「平等主義的アナキズム」のようなものだとフィールドワークしたファヤンスは言っているそうです。
私が興味を持ったのは、そこでは、価値があるのは、「生産すること」ではなく、その成果を他者に与えることだというのです。もし道で2人の男が出会ったら、ほぼ必ず、互いに相手にその場で噛むためのビンロウジを提供し合い、また持ち帰るビンロウジを与え合うのだそうです。物々交換ですが、全く同じものを交換する。実に興味深いです。

「交換」とは「シェアする」ことなのです。これまでの私の考え方が、いかに狭かったのか気づかされました。
あんまり正確な理解ではなく、いつもながらの勝手な解釈ですが、グレーバーはやはり示唆に富んでいます。

もっとも、気になって、ネットでバイニング社会について調べてみたら、もうすでにバイニングは観光産業の餌食になってしまっていて、おそらくファヤンスの体験したバイニングは消えてしまっているようです。
人類学者の罪深さを、やはり思わざるを得ません。
なぜ私たちは、異質から学ばずに異質を市場化しうるのか。
「知」を愛さずに、「知」を消費する人には、やはり怒りを感じます。

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2025/06/05

■身体の劣化を先延ばしする方法を教えてください

今朝は太陽は感じますが、空一面の薄い雲です。
天候に影響されやすい私を気遣って、昨日は「曇天でめげている佐藤修くんを励ます会」に招かれて、江藤前農水相でも食べられないであろうおいしいおにぎりをご馳走になりました。
おいしいお米ご飯は、おかずなどなくても食べられます。そのうえ、きのうは私の好物のお漬物も満載でした。

しかしだからと言って、別に励まされることはありませんでした。
なぜなら私は、めげてなどいないからです。
これを企画した友人は、いつも勝手に、私のことを過剰に心配していろんなことを考える。困ったものです。

めげてはいませんが、身体の衰えはますます加速しています。
昨日もそう話したら、40年来の交流がある、敬愛する友人は、それにしても佐藤さんは「遅い」というのです。体力の衰え、つまり老化が遅いと言うのです。
老化をもう少し急いだほうがいいという意味でしょうか。
この友人は、昔から宇宙人のように思える人なのですが、その宇宙人にも老化はあるようです。地球という環境が「老化」を引き起こすのかもしれません。いや、地球との関係をきちんと作っておかないとそうなるのかもしれません。

私は地球との関係もそれなりに気遣っています。
しかし私を気遣ってくれている若い友人は、佐藤さんには畑仕事は無理だから、無理するなと言います。これまた全くわかっていない。畑(もどき)作業から私は元気をもらっているのです。私が鍬を振り上げて土を耕している写真を見て、私を過剰に気遣う友人は笑いこけたという。そう聞くと、彼はどうも私を気遣うよりは、楽しんでいるのかもしれません。困ったものだ。

余計なこと書いているうちに、肝心のことにまで届かないうちに長くなってしまいました。
今日、書こうと思ったのは、ともかく疲労感が抜けないので、どうしたものかということをみなさんに訊こうと思ったのです。
何かいい方法はないでしょうか。
ホエイプロテイン、水素風呂、重曹水、1日5000歩、ニンジンジュース、黒にんにく、野草茶…とまあいろんな人から勧められたものは一応チャレンジしていますが、どもまだ決め手がない。
でも後5年、現世滞在を決めた以上、体力低下はできるだけ避けたい。。
もう一つ二つ、メニューを加えたいと思いますが、いい案はないでしょうか。

太陽の気配が朝より後退してしまいました。
今日は元気が出るといいのですが。

 

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■「できない理由」探しではなく、「できるための条件」探しを

先日からちょっと身近な地域の問題に巻き込まれています。
問題は至って簡単なことで、道路の側溝の蓋がないので危険なので蓋をしてほしいと近くの人が市役所に相談に行ったのです。
担当課の職員は、検討して返事をすると対応してくれたそうですが、後で電話がかかってきて、あそこは行政では蓋ができない、近隣の人たちが自発的に蓋をするのは止めませんが、というような回答だったそうです。
そして「できない理由」も教えてくれたそうです。

そこで彼は私のところにやってきて、おかしいでしょうと言うのです。
そこで私も関係者に連絡してお訊きしたら、やはり蓋はできないと言うのです。
そして蓋が「できない理由」を私にも教えてくれました。

そこで、「できない理由」ではなく、どうしたら蓋ができるかの「できるための方法」を教えてくださいと再度、問い合せ中です。

「できない理由があるからできない」という答えは、私にはいつも納得できません。
多くの問題は、「できない理由」があるから発生しているのです。
大切なのは、「できない理由」さがしではなく、「できるための方法」さがしです。

これは国際政治から個人の生き方にまで、関わっています。
残念ながら最近はみんな「できない理由」さがしが好きです。
私はそういう生き方をしたくはありません。

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2025/04/09

■今朝の新聞で出合った2つのことば

休日は増えるだろう。が、休息は増えないのである。

今朝の朝日新聞の「折々のことば」で、鷲田清一さんが紹介している半世紀前の森本哲郎さんの言葉です。出典は『ゆたかさへの旅』。私が大切にしている書籍の1冊です。
私は35年ほど前に、この言葉とは逆に「休日は増えないが休息は増える人生」に切り替えるために会社を辞めました。
ちなみに、この『ゆたかさへの旅』は、湯島のCWSコモンズライブラリーの最初の推薦図書です。湯島にありますので、ぜひ読みに来てください。

実はもう一つ、今朝の朝日新聞で、私がいつも思っているのと同じ言葉に出合いました。

年を取って自分がバカであるということは大分とわかってきた。

これは作家の町田康さんが寄稿している文相の一部です。
私もかなりわかってきた。
とともに、自分のバカさ加減がわからない利口な人の多いのもわかってきた。
そしてだんだんバカと利口が、なんだか逆転してしまい、ホントの利口者とはバカな人のことを言うのかな、などと思ってきたりしています。
でもまだ私自身、小賢しさがかなり残っていて、ホントにバカだなどと自慢できるほどには至ってはいないので、もう少し精進しなければいけません。

休日をとる暇もないほどに休息し、アホではない素直なバカで楽しく生きる人生を、もう少し続けたいと思っています。

 

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2025/02/11

■相手が持っている「共感できる部分」と付き合うと生活が楽しくなる

私は人と付き合う時に、その人の持っている私と共感できる部分や私にはない学ぶべき部分に焦点を当てるようにしています。
ですから基本的には誰とも付き合うことができるのです。
もちろん例外はいますし、付き合いたくない人もいる。
でも「付き合いたくない人」も拒否はしません。
だから八方美人とも言われたことがある。

でも人はだれでもたくさんの「自分」を持っていることは、私自身を知れば知るほどわかってきます。私のなかにも、自分でさえ嫌になる部分もある。でもその自分とも付き合わないわけにはいかない。だから、どんな人にも、必ず私と付き合える部分があるはずです。
そしてそういう生き方に心がけていると、とても生きやすくなり楽しくなる。

しかしどうも多くの人は、私とは真逆の人との付き合い方をしているのではないかと、時々思います。「共感できる部分」ではなく、「否定したい部分」を見つけるのが好きなのです。そしてつい悪口を言ってしまう。
湯島のサロンでも、そう感ずることがある。

人の悪口を聞くほど、不愉快なことはない。私も時々、湯島のサロンで非難されますが、自分が「悪口」を言われるのは、「褒められた」と読み替えればさほど気にはなりませんが、そこにいない他者の悪口を言われると、たとえその人が私の好きな人ではないとしても、あまりいい気はしない。

たとえばトランプ大統領ですが、みんなの話を聞いていると、トランプは酷い人のように聞こえてくる。先日のサロンでは、あまりにみんながトランプ大統領の悪口を言うので、いささか切れてしまいました。そもそもトランプに会ったことがあるのか、と言いたくなった。
確かに私にもいやな部分がたくさん目立ちます。でも共感できる部分や敬愛すべき部分もある。やっていることも、支持したいこともある。
「いやな部分」に焦点を当ててしまうと、そうした「いい部分」が見えなくなってしまう。他者の悪口を言い出した途端に、その人のいいところは見えなくなってしまう。

トランプに限りません。私の大嫌いな立憲民主党の野田さんや自民党の菅さんにも、きっと私にも共感できる部分はあるはずです。幸いに私はおふたりとはお付き合いがないので、それを見つける必要がないだけなのです。

私が嫌いなのは、他人の悪口を言うことです。当人に向かって直接言う悪口は嫌いではないですが、他人の悪口だけは聞きたくない。
悪口ではなく、その人の言動に関する批判は大歓迎なのですが。

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2024/09/20

■「仕事とは生きること。お金に換えられなくてもいい」

今朝の朝日新聞に千葉県の長南町で活躍している木原さんご夫妻の紹介記事が出ていました。
おふたりには昨年、湯島でサロンをやってもらいましたが、こういう生き方をしている人が湯島のサロン仲間にも少しずつ増えています。

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「仕事とは生きること。お金に換えられなくてもいい」。
サロンの時にも木原千賀子さんは話していましたが、今回の記事の最後にも紹介されています。これこそ私が考えている「仕事」であり、社会の理想です。
最近こういう記事を時々見ることができるようになりました。
湯島のサロンを長く続けていて、本当によかったです。

今日も午後2時から湯島でサロンです。
テーマは「私たちは外国の人たちをどう扱っているのか」。
体験知からのお話が聞けます。
お時間が許せば、ぜひどうぞ。

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2024/09/08

〔身心力向上への取り組み1〕マイナスの思い込みマインドセットからの自己解放

この2年、私は病気をいくつか体験しました。
4回入院し、21日間放射線治療で通院しました。
病名は「急性膵炎(2回)」「前立腺がん」「胆嚢胆石摘出」ですが、並行して脳神経外科にも定期的に通っています。血圧も医師からは高すぎると言われています。

先週、術後の検査結果に異状がなく、当面は病院から解放されました。
そうした経緯は、これまでFBやブログで報告してきましたが、その読者からその後の動きも聴きたいというメールがあったので、書き続けることにしました。

ただし視点は「病気対策」ではなく「身心力向上」です。
回復指向の「養生」でもありません。前向きのマインドセットを心がけることにしたのです。極端にいえば、「年をとればこそ記憶力も体力も向上する」「病気を経験することで身心は向上する」というマインドセットです。

この2年間の病気体験ではいろんなことを学ばせてもらいました。
しかし胆嚢を摘出した医師から最後に言われた言葉で気づかされました。
歳をとると記憶力も体力も落ちてくるのは仕方がないという思い込みに呪縛されていることに。
内臓の一部をとれば体力が落ちるのは当然。だから休養にこそ努めなければいけない。体力維持のために歩いたり適度な体操をしたりしなければいけない。
そう思っていましたが、どうも根本的な誤りがある。

ピカソは「できると思えばできる、できないと思えばできない。これは、ゆるぎない絶対的な法則である」といったそうです。私もそれに似た感覚を持っています。だからできるだけマイナスの発想はしないようにしています。
そのおかげで、私はすべての人が性善に見えますので誰とでも楽しく付き合えます。
「だめだと思ったらそこですべては終わり」という私の言葉を聞いた人も少なくないでしょう。「非常識」な私の言動に呆れた人もいるでしょう。
まあ実際には、そういう生き方のゆえに、失敗も多ければ禍に巻き込まれることも多い。
でもそうは言っても、いまは多くの人に支えられて楽しく生きていられます。

とはいえ、実はこの17年間、あまり意欲的に生きてはいませんでした。
むしろいつ現世を離れてもいいという意識が心身を覆っていました。
私よりも若い人の死に出合うことの恐怖から「長生きへの不安」もかなりありました。

でもある医師と話していて、最近、考えが変わりました。
長生きへの挑戦も面白いかもしれない、そう思い出したのです。

それで100歳まで生きることにしました。
でも「不様」には行きたくない。そこで思いついたのが「身心力向上」です。

とりあえずの目標は、数年前に試みて不様な結果に終わった筑波山登山です。
来春、挑戦しようと思います。
もし一緒に行ってくれる人がいたらご連絡ください。
前回のようにご迷惑をかけないように、この半年、体力増強に務めますので。

さて次回からは私の「身心力向上」への取り組みを書いていこうと思います。

 

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2024/08/19

■胆嚢摘出手術入院記録10:患者のQOLと病院の責任

今日はちょっと理屈っぽい話です。
それにいつも以上に長い。何しろ暇ですから。

パジャマを着替えようと高い位置にあるカバンから着替えを出そうとベッドの上に立ち上がったのですが、着替えを手伝ってくる役目(点滴を一時はずさないと着替えられない)のナースから、私がとりますので立たないでと制されました。
たしかに病人がベッドの上に立つのは禁止事項でしょう。もし何かあると病院の責任になりますからね、と謝りました。
そのナースは、「病院の責任になることが問題で、ご自分の家だったら注意はしませんよね」と何となく意味深長な発言でした。

手術をするときに新人のナースが迎えに来たので、貴重品はないのでこのまま行くと言って、一緒に手術室に行きました。
ところがそこで先輩のナースが貴重品はきちんとロッカーに入れてきたかと訊くので、貴重品などないし盗られるようなものもないとまたいったのですが、許されず、ベッドに戻り、ロッカーに入れるものがなかったので、パソコンとマウスを入れました。
盗難でも起これば、病院の責任になるから仕方ないねといったら、そうなんですとのこと。ルールは守らないといけない。盗難があればクレームする患者もいるのでしょう。

あまりいい事例ではありませんが、患者のQOL(自分らしい生き方)と病院の責任と、どちらが基本でその場のルールが決められるかは重要なことです。
ベッドの上に立ち上がるのはやめるべきでしょうが、それが「病院の責任」のためではなく、患者の危険を避けるためです。その時のナースは間違いなく私の危険を感じて制してくれたのですが、でもたぶんいつも「病院の責任」がミーティングなどで話題になっている気配を感じました。しかも彼女はそれにいささかの違和感を持っている。
そんな気配を感じました。良いナースです。

リハビリを受けましたが、物足りない。もう少しハードなのはないかと訊いたのですが、まだ手術直後なので、と断られました。まあこれも事情は分かる。

みんなともかく「問題が起きないように」「起きても病院の責任にならないように」といささか過剰対応しているような気がします。
細かな点でもまあいろいろとあるのですが。

それで昨日、ちょっと挑戦してみました。
廊下の散歩を裸足で歩いたのです。
裸足で歩くとアーシング効果で麻酔の悪影響をすっかり排除できるのではないかと思っていたのです。それにこの病棟の床は掃除が行き届いています。

しかし、さすがに平日は目立ちすぎます。今日は日曜なので人も少なかったので、とりわけ人の少ない時間帯を選んで実行しました。
1回目は3人の人に気づかれましたが、事情を話して了解。私の生き方が優先されました。
しかし2回目、隣の病棟の看護師長らしき人に見つかり、「病院内は裸足禁止」だからやめるように言われました。そんなルールはあるはずはないのですが(そもそもそれは「常識」でしょう)、一応、施設管理者のルールには従わなければいけません。

その時、思い出したのが、イタリアのテレビドラマ「DOC」です。あの病院であれば、たぶん裸足で歩かせてもらえたろうと思いました。あのドラマは、「病院の責任」と「患者らしい生き方」をどうバランスさせるかが一つのテーマでした。

もう一つ、私の裸足歩きに関して首を傾げた人が2人いますが、その人たちの口から出てきたのは「人目があるから」でした。
常識を逸脱した人はやはり排除したいのです。
もし私の裸足歩きを見た人が、真似をしだしたらどうなるか。
そこから「秩序」は壊れていくのです。
しかし、そこから生まれていく「秩序」もある。
前者はコミュニティの秩序、後者はコモンズの秩序と私は勝手に呼んでいます。

常識の呪縛から自由になりたいと思っている私としては裸足ウォーキングが2回で終わったのはちょっと残念ですが、それでもアーシング効果は大きく、身心の違和感はかなり解消されました。公園の芝生でやればもっと効果があるでしょう。退院したらやろうと思います。公園の原っぱをはだしで歩くのは、この病院とは比較にならないほど危険ですが、幸いに管理者の生き着くまでのちょっと距離があるので大丈夫です。。

言いたいことがうまく書けませんでしたが、「病人らしい生き方」(それは人それぞれです)を基準にすることこそが「病院の責任」ではないかと言いたかったのです。それをしっかりやっていたら、患者もいい意味での自己責任を発揮し、ばかげた訴訟など起こさなくなる、と私は思っています。

それにそもそも「病院は危険で不潔な場所」と言った「常識」も見直したい。
免疫を低下させている人が集まる病院こそ、安全で衛生な場所にしなければいけない。そして今の病院はそうなってきている。

「常識」を壊していくことも大事なことです。
例えば海水浴場の砂浜を裸足で歩くのはおそらく病院内以上に危険です。
でもそこでは「裸足で歩くのが常識」です(少なくとも現在までは)。
「裸足で歩くのがは非常識」の病院と砂浜とは何が違うのか。
これも面白い問題です。

長くなってしまいました。
いつかサロンをやりたいです。
私の味方は少ないでしょうね。

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