カテゴリー「生き方の話」の記事

2020/07/06

■都知事選の結果に思うこと

都知事選が終わりました。
一晩開けて、改めて失望感がわいてきました。

新しい風は起こりませんでした。
政治状況を変えるには、新しい風が不可欠です。
論理や戦略では状況は変わりません。

状況を変えるのは呪縛された「知性」ではなく、新しい「知性」です。
状況が変わるときには、これまでの知性や権力やメディアは重しになります。
今回、それを改めて確認しました。
終わった知性やシステムが、これほどに社会を支配しているかと思い知らされました。
彼らは重しになりこそすれ、新しい風は起こさないでしょう。

もし新しい風が起こるとすれば、知の周辺からであり、山を動かすのは山を支えている無数の生活者です。
今回は、その風を起こすトリックスター役が山本太郎さんでした。
これまでの政党政治の殻を破る可能性がありましたが、コロナとマスコミの力が風が起こるのを防ぎました。

みんな現状継続を選びました。
たしかに現状を維持すれば、ほどほどの安定は得られるかもしれません。
しかし、私にはもっとたしかな「安定」がほしかった。
生きている「安定」が。

 

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2020/07/01

■共感と差別

山本太郎さんを支持した投稿をFBに書いたのを契機に、FB上でレイシズムに関する論争まで起こしてしまいました。それを読みながら考えたことを書いてみました。

レイシズムは、人種差別主義と訳していいでしょうが、その起点にあるのは、人間に優劣をつける発想だと思います。私には一番なじめない意識です。
しかし、私の心身にも、そういう発想が全くないとは言えません。
人間は、共感すると同時に、差別することが埋め込まれているのかもしれません。

私の子どものころ、日本にはレイシズムが横行していました。白人を崇拝し、朝鮮人や中国人をばかにする空気がまだ残っていました。子どもの世界にも、そういう風潮(弱者を差別する風潮)があったような気がします。そもそも学歴主義は、そういう文化から生まれたとも言えます。

レイシズム論争とは別に、私が信頼していた知人が、山本太郎さんを暗に指して「輩」という表現を使いましたが、これはまさにレイシズムにつながる発想です。本人はさほど意識していないと思いますが、だからこそとても残念でなりません。

こういうことは湯島のサロンでも時に起こります。とりわけ「権力者」に対して、差別的な表現がなされたり呼び捨てにされたりすることがあります。権力者の名前は一種の「記号」ですから、呼び捨ては許されるのかもしれません。ある人からは、じゃあ、トランプさんと言わなければいけないのかと反論されたこともあります。呼び捨てが問題なのではなく、個人名を言う時に込められる感情の問題なのかもしれません。そう考えると、私も同罪かもしれません。FBへの私の投稿記事にも、差別意識が出ているかもしれません。たしかに、悪意をこめながら書いていることがないとは言えません。

人種ではありませんが、障害を持つ人や生活困窮者にも、同じような視線を感ずることもあります。私が特に気になるのは、そういう人たちを観察的に見て、一見、同情的な姿勢をとる人です。そういう人は、自分は別の世界にいると無意識に位置づけているように思います。これは私にはレイシズムにつながる発想のような気がします。
サロンでのあまりの発言には注意を喚起しますが、私自身も時にそういう表現を使っていないとは言えません。

Black lives matter運動が世界中に波及していますが、日本でなぜ高まらないのかは、レイシズム意識が日本人には心身に埋め込まれてしまっているからかもしれません。つまり、レイシズムであることを意識できない人がとても多いような気がします。そのため、ヘイトスピーチも、どこかで見逃してしまっているような気がします。

昨日、旧優生保護法のもとで不妊手術を強制された70代の男性の賠償請求裁判の判決が東京地裁で出されました。賠償請求は退けられ、旧優生保護法の違憲性への判断は出されませんでした。これがいまの日本の実情かもしれません。

私の中にある、こうした差別主義意識を克服したいと思っていますが、私の周りに山のようにある、そうした意識や無意識と付き合うだけで、へとへとになります。
人と付き合いは、本当に疲れます。

差別する付き合いから共感する付き合いへと、生きる主軸を変えなければいけません。

 

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2020/06/19

■コロナ感染症の捉え方のあまりの差に驚いています

長い愚痴なので、よほどお暇な方のみお読みください。

新型コロナウイルス感染症に対する捉え方が、人によってこんなにも違うのかと、改めて最近驚いています。それは同時に、政府や専門家への信頼感がこんなにも強いのかという驚きでもあります。

たしかに私も1月から3月にかけてはかなり不安がありましたが、4月にはいろいろと実態も見えてきましたし、専門家の発言や政府・自治体の意図もかなり明らかになってきましたので、普通に注意していれば、感染する恐れは、インフルエンザほどにもないと思うようになりました。

4月初めまでは、基本的にみんなの生活は大きくは変わらず、満員電車もつづいていましたが、感染者はほとんど出ていませんし、いまでさえ抗体検査での陽性率は1%以下なのであれば、国内にはパンデミックいう事実もなかったわけですが、にもかかわらず、状況は過剰に増幅され、不安感というよりも恐怖感が植えつけられました。

そして、いまなお、マスクと「ソーシャルディスタンス」、さらには移動自粛や3密回避がルールになっています。公共施設も閉鎖され、外食文化は壊され、夜の街やパチンコは批判の的にされています。
緊急避難的な初期対応がこんなに長く続く理由を考えないといけません。

ウイルス陰謀論がありますが、ディープステイト論はともかく、この動きを利用したさまざまな「陰謀」があることは間違いありません。しかし、「荒唐無稽な陰謀論」という埋め込まれた知識で、陰謀と聞くだけで思考停止する友人も少なくありません。陰謀のない社会などあるはずもなく、陰謀論アレルギーこそが真の危険なのですが。

全国民あてのマスクと10万円でほとんどの国民が懐柔されてしまったのも驚きです。
そもそも給付金というのは「奉公人に支給する給金」(日本国語大辞典)という意味ですが、その名前にいやなものを感じます。1億円を超す給金をもらった河合夫婦と同じ仲間のような気分もしてきて暗い気持ちにもなりますが、受け取ってしまった私自身(実際にはまだ受け取ってはいませんが)、いまやもう奉公人であることを胸を張って否定できないのが残念です。

いまの外出自粛や集会自粛の風潮は、まさに国政に関心を持つな、選挙に行くな、デモはするなというお達しのように聞こえますが、私の周りでさえ、その信仰はゆるぎないもののように存在しているのにあらためて唖然としています。この状況が窮屈だという声も聞こえてきますが、自分で窮屈を甘んじているだけのことに気づいてはいないのがなおさらおそろしい。窮屈だったらとび出せばいいだけの話ですが、縛られていなくても飛び出せない状況にあるわけです。それこそが400年近く前に「自発的隷従論」を書いたラ・ボエシの「隷従」という意味でしょう。

まさにフーコーの生政治が、人間を滅ぼしてしまったようです。
少し考えれば、いまの状況がいかにおかしいかはわかると思いますが、私の友人の多くは、そういう私の方がおかしいと思っているかもしれません。孤独感に襲われます。

私は、自然免疫力こそが大切だと思っていて、コロナが大きく話題になりだした2月から、睡眠と体力維持につとめるとともに、大量のウイルスは避けるとしても、少量のウイルスにはむしろ接触するのがいいのではないかと考えてきました。感染してくるウイルス量と自然免疫力のバランスで、新型ウイルスに対する自然免疫力も高めていこうというわけです。

ですから、むしろ生活スタイルはできるだけ変えないようにしていましたが、なかなかそうもいかずに、3月中旬あたりから湯島のサロンをお願いしていた人たちも延期したいというので、湯島のサロンは私がホスト役のスタイルで毎週続けてきました。
ZOOM対応の希望もあったのですが、私にとっては本末転倒というよりも、むしろそういう流れに抗うのがサロンなのですが、それはなかなか分かってはもらえないようです。

多くの人が、感染防止というよりも、逃避を選んだのと違って、私はむしろ予防に努め、起床時のうがいや外出から帰宅した時の手洗い・うがい、十分の睡眠と栄養バランス、さらには朝型生活への移行に努めていました。
感覚的には、5月にはすでに自然感染して抗体も出来ているのではないかと考えていましたが、それはどうも楽観的過ぎたようで、まだ抗体はできていないようです。しかし、適度に外出し、人にも会っていますから、自然免疫力は高まっているのではないかと思っています。

しかしどうも多くの人はまだ、感染をおそれて、政府の指導に従っているようです。そのさなかに行われる都知事選は、明らかに現職が有利です。選挙で風を起こすのであれば、まずはコロナへの不安を捨て去るところから始めなければいけにかもしれません。

社会を維持していくために不可欠とされる仕事に取り組む人たちは、外出自粛もテレワークもできずに、きちんとした情報も与えられないまま、生きるために感染の危険をおかしながら、誠実に働いているように思います。自宅でのうのうとテレワークと称しながらテレビに出ているタレントやコメンテーターを見ていると、彼らの仕事がいかに無駄なものであるかがわかります。私は2か月ほど、録画までして、いろいろとみてきましたが、その間、コメンテーターがどう変化してきたかもよく伝わってきます。今はもう全くといっていいほど見ていませんが、彼らもまた田崎さんと同じ仲間になってしまっているように思います。テレビは人を変えていくようです。

何となく孤独感が強まって、愚痴をこぼしたくなったのですが、愚痴が長くなってしまいました。すみません。
自らもまた世間の風潮に合わせているところがあることも実感していますし、10万円の給付金も断ることなく申請してしまいましたが、この愚痴はそういう自分に対する批判なのです。愚痴の矛先は自分なのです。

自発的隷従から抜け出ないといけません。怠惰な私には隷従が楽なのですが、言行不一致ではお天道様に嫌われかねません。
さてさて困ったことです。

 

 

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2020/06/11

■あなたは「毎日が精一杯の人」なのですか?

普段はほとんど読まないメーリングリストの記事をふと読んでしまいました。
タイトルが「砂浜にさく薔薇のように」だったからです。
イランの孤児だったサヘル・ローズさんのことだなとわかったからです。
投稿者も私の知っている人です。
しかし書かれていることが心に鋭く突き刺さりました。

 (このメーリングリストの参加者の中に)毎日が精一杯の人があるかもしれないことは 認めましょう。(中略)でもあなた自身は精一杯の人なんですか そうなんですか。

 これを書いた人は私と一度だけ高校でクラスを同じくしています。
もう60年以上前のことですが、卒業後、まったく付き合いはなく、高校卒業生のメーリングリストで数年前に彼の投稿に出合ったのです。それから1.2回のメールのやり取りがありましたが、それだけの付き合いで終わっていました。

しかし今日読んだ投稿記事に書かれていた、「あなた自身は精一杯の人なんですか」という問いかけにはたじろいでしまいました。
最初は、精一杯の人がいるのにお前は余裕があるのに何をしているのかと受け止めてしまいました。もっとできることがあるだろうと責められたような気がしたのです。
しかし、繰り返し読んでそうではないことに気づきました。
どんなに精一杯でも、他者への眼差しを忘れるなという問いかけなのです。

投稿記事のタイトルの「砂浜にさく薔薇のように」は、昨年放映されたEテレ「こころの時代」のタイトルです。その番組では、毎日を精いっぱいで生きてきたサヘル・ローズさんが取り上げられていました。私もその番組を見て、ブログで紹介した記憶があります。ローズさんは「死から生が生まれる」と話していたような気がします。

毎日が精一杯の人との付き合いは私もこれまで何回か経験していますが、毎日が精一杯の人と付き合うと、自分もまた精一杯におちいることもあります。しかし、自分が精一杯になってしまうと、他者に迷惑をかけることはあっても、救いにはなれません。そこが微妙なところです。

しかし、これまでのささやかな体験で、「精一杯の人こそ、他者へのやさしいまなざしを持っている」ことは実感しています。まさにサヘル・ローズさんのまなざしです。精一杯に生きている人ほど、他者へのまなざしがやさしい。知人の投稿を読んで、改めてそのことを思い出しました。

いまコロナウイルス感染症で、いろんな問題が可視化されてきています。
私たちの生き方もまた問われているように思います。
こういう時だからこそ、自分の世界に閉じこもることなく、他者や自然へのまなざしを大切にしたいと思いました。

怒りや憎しみや非難は、他者へのまなざしを歪めかねません。
最近私のまなざしも少し歪んできているかもしれません。
ちょっと反省しました。

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2020/06/09

■アベノマスクにどう対処するかで未来が決まってくる

昨日、アベノマスクが届きました。

以前、受け取り拒否の紙を郵便受けの横に張り出していたために、郵便配達の人がわざわざチャイムを鳴らして、受け取られますかと確認してくれました。考えを変えたので、紙をはがしていました。そのやり取りは昨日、ブログにも書きました。
私にはとてもうれしい話です。

というのは、私の意思が少なくとも郵便配達の人に伝わっていたからです。
意思が他者に伝わる社会こそ、私はいい社会だと思っています。
しかし、小さくても行動を起こさなければ、自分の考えは他者には伝わりません。

郵便配達する人は、その家に届く郵便物で、その家の人の生き方を感じているかもしれませんが、今回は私が紙を貼りだしたことで、郵便配達の人との直接の触れ合いができました。
昨日の郵便配達の人とのやり取りは、ほんの1~2分だったと思いますが、とてもあたたかで気持ちのいいものでした。人間的なふれあいを感じました。事務的な確認作業ではなかったことだけは間違いありません。

アベノマスクに関しては、いまもなお賛否両論が盛んです。
返送するよりも困っている人に寄付したらいいという声も盛んで、実際にそうした動きに「便乗」する仕組みを作る人さえいます。
私はそのような行為は、安倍政権の政策を忖度して正当化する支援行為、下請けシステムだと考えますので、安倍首相よりももっと悪質だと考えていますが、そう考えない人もいるでしょう。

アベノマスクを雑巾として使うという人もいましたが、たとえ雑巾としてであれ、使ってしまったらそれは政策を支援することになります。
返送は切手を貼らなくても届くと言われていますが、友人の鷹取さんは切手を貼ってコストをかけるからこそ意味があると言っています。私もそう思います。
考えを表明するには、コストとリスクがかかるものです。

アベノマスクは、現政権の本質を象徴しているように思います。
それにどう対処するか、が問われています。
自らの未来の生き方も決まってくるような気がします。

アベノマスクをどう受け止めるかのサロンを開催したいと考えています。
それに合わせて、今年の2月にNHKの「100分で名著」で取り上げられた、ヴァーツラフ・ハヴェルの「力なき者たちの力」を話し合うサロンも行いたいです。どなたか話し手になってくれませんか。

 

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2020/06/05

■無意味の議論をやめて健やかに生きたい

新型コロナウイルス感染症に関しては、相変わらず「数字の世界」での議論が盛んですが、その数字に対する信頼感がどうも失われているようです。
感染者の発表数字への不信感も広がっています。

しかし、そうした数字のほかに、事実を確認する術がないので、信頼はしていないものの、その数字に影響されてしまっているわけです。
政府や行政で行われている検討内容も、議事録さえないと言われて、手も出せないのが現実です。
もちろん議事録も録音データもあるでしょうが、政府が「ない」といえば無くなるのがいまの日本の状況です。
中国や北朝鮮となんら変わらない状況ですが、なぜかみんな中国や北朝鮮は非難しても自分の国は特別視しています。
たぶん北朝鮮の国民も同じなのでしょう。

昨今のコロナ報道には、肝心な健康問題が二の次になっているような気がします。
毎日、変化のない同じ話が繰り返されています。

そもそも「健康か経済か」という捉え方自体がおかしいですが、経済はそもそも「経世済民」といわれるように、健康な生活のためにこそあるのです。
コロナだけが病気ではありませんし、人との接触を避ける生き方などつづくかないでしょう。「新しい生活様式」などと本気で語っている人がいるとしたら、そこにこそ、現在の状況が象徴されていると思います。
それに人生には病気はつきものですし、コロナだけが怖い病気ではありません。
マスクをすればいいという話でもないでしょう。

人生にはいつも「危機」が伴っている。
その事実から逃げる生き方よりも、むしろその事実を踏まえた生き方を、私は選びたいと思います。
もういい加減、コロナ感染症の数字遊びを止めて、生きることに目を向けたい。

今日は天気がいいので、マスクなしに出かけようと思います。
もちろん電車には乗らず、店舗にも入らずに、ですが。

 

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2020/05/26

■人は「いいとこどり」はできません

延び延びになっていた、孫の幼稚園(4月に入園)が始まるそうですが、当面は「分散登園」だそうです。
通園バスではマスクをして会話は禁止、給食時もアクリル板で仕切られるそうです。
幼稚園という初めての集団生活のはじまりのスタイルは、子どもに大きな影響を与えるでしょうが、いささか心配です。
コロナ感染よりも、むしろ私にはそちらのほうが気になります。
人が生きている以上、病気に感染することは正常なことです。それは「支え合い」の一つのスタイルです。

昨日も書きましたが、そして以前から書いていますが、人と距離を取るとか、直接のタッチは避けるとか、マスクに加えてフェースシートをかぶるとか、私にはなじめません。
そういう環境や「生活様式」のなかで育った人間はどうなるのか心配です。
人工的に育成された動植物のような、弱さを感じてしまいます。感染症にもかかりやすくなるでしょう。

先月、古代インダス文明のモヘンジョダロに関する森本哲郎さんの話を書きました。
清潔に整備されたモヘンジョダロは、戦争の痕跡もないまま、突然滅んでしまった。
それは、清潔な都市を完成させるために、邪魔な人間が自ら退場したのではないかと森本さん(正確にはその本に登場する人)は言うのです。
コロナ対策でいつも思い出すのがこの話です。
コロナ感染をなくすためには、人間がいなくなればいいのです。

在宅のテレビ会議で済むのなら、たぶんその仕事は人間でなくてもやれるはずです。
人間は本来、たくさんの病原菌を含む生命体の塊であり、非論理的で感情的な、いろんなものの感染源的な存在です。
人と付き合うといろんなトラブルに巻き込まれますし、身体的な病気や精神的な病までうつされることもある。しかし、それが人間ではないかと思います。

死はできれば避けたいですが、死があってこその生です。
死にたくなければ生まれなければいい。
感染したくなければ、生活をやめればいい。

昨日紹介した本の著者の一条さんは、「死は不幸ではない」と言います。
もし死が不幸ならば、死を避けられない生もまた不幸ではないかというのです。

人は「いいとこどり」はできません。
死や感染も含めて、豊かな人生を生きたいと思います。

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■生きる元気を与えてくれる本の紹介

一条真也さんの「死を乗り越える」シリーズの第3弾が出版されました。
現代書林から出版された『死を乗り越える名言ガイド』(1400円)です。
読書、映画に続き、今回は名言です。副題は「言葉は人生を変えうる力をもっている」。
一条さんが多彩な活動の中で出合った、人生を変える力を持つ言葉を100集めて、それぞれに一条さんの思いを添えた名言集です。

新型コロナウイルスで、世界中に「死の不安」が蔓延している現在、「死の不安」を乗り越える言葉を集めた本書を上梓することに、一条さんは大きな使命を感じていると書かれていますが、まさに時宜を得た出版で、ぜひ多くの人に読んでほしいと思います。
100のメッセージからいろんなことが示唆されますが、きっと自分にとって心にすとんと落ちる言葉が見つかるはずです。そして、生きる元気が得られるでしょう。
また100の言葉を通読すると、長年、死と生の現場に関わってきている一条さんの深いメッセージも伝わってきます。

一条さんの死生観にかかわる著作はこれまでも綿sのホームページでたくさん紹介させてもらってきていますが、一条さんの死生観を貫く3つの信念が、本書の最後にまとめられています。
その3つとは、「死は不幸ではない」「死ぬ覚悟と生きる覚悟」「死は最大の平等」です。
そうした信念に基づいて選ばれた100の名言には、それぞれに「人生を変える力」が秘められています。この時期にこそ、じっくりと噛みしめて、そこから力を引き出してほしいと思います。

ちなみに、同じ「死を乗り越える」シリーズの次の2冊も同じ現代書林から出版されています。よかったら併せてお読みください。
『死を乗り越える読書ガイド』
『死を乗り越える映画ガイド』

 

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2020/05/22

■一人称自動詞で考え行動したい

新型コロナウイルスの流行が新聞などで話題になりだしたのは1月の後半頃からでした。2月上旬に京都旅行を申し込んでいたのですが、それをキャンセルしようかどうか迷ったので、はっきりと覚えています。
私がコロナ関連情報をテレビで毎日チェックするようになったのは、その頃からです。当時は、しかし、これほど日本でも問題になるとは思っていませんでした。それで旅行は直前まで迷いましたが、出かけました。

その時に、ホテルで読んだ京都新聞の記事が出てきました。
中国からの旅行客は激減して、嵐山も金閣寺も空いていました。
当時から観光地ではかなりの注意が行われていましたし、マスク不足も問題になっていました。にもかかわらず、その後、対策はなかなか進みませんでした。

あれから4か月近くたっているのです。
今週から、テレビのコロナ関連の報道はもう見るのをやめました。全くと言っていいほど繰り返しで内容がありません。

2月上旬の京都旅行中、京漬物を買うため、娘に付き合って錦市場に寄りました。
寺社仏閣と違って、そこは中国人観光客も含めてとても混んでいました。
いささかのリスクを感じて、娘に頼んで、漬物屋さんに寄るだけにして、そこを離れましたが、漬物屋さんもすでに客は少なくなっていると言っていました。そのときも客は私たちだけでした。

実は旅行から帰ってきてから体調がちょっと悪くなりました。
1日だけ熱も37度を超えましたが、すぐさがりました。しかし、念のために1週間ほど自宅待機しました。その後、少しでも体調に違和感があるときには外出を控えました。
そうした状況から抜け出した頃から、世間では外出自粛が叫ばれ出しました。

そんな体験から私は市中感染者は1~2割いるのではないかと1か月ほど前にFBに書いてしまったのですが、どうもそれは過大評価だったようです。しかしもしそうなら、これからがいささか心配です。

外出自粛とか新しい生活様式とか言われていますが、そんなことに全く関心はありません。そういう呼びかけをしている人たちの多くは、自分ではそうしていないでしょう。その一例が黒川検事長の麻雀であり、国会議員や官僚たちの行動です。

一方、真剣に自分を生きなければ生きていけない、個人事業者や若者たちは、感染せずに生活できるような生き方を考えて行動しているように思います。飲食店のテイクアウトはその一例です。
パチンコ店もいろいろと苦労して工夫しているのに、一斉に休業を要請し、それを受けないと世間を味方にして圧力をかけるのは私には納得できません。安心して営業もしくは休業できる仕組みを一緒に考えるのが行政ではないかと思います。

誰かに「自粛」や「行動変容」を呼びかけるだけではなく、自分で出来ることを、それぞれが考えることが求められています。個人営業主やパチンコ店経営者も考えているのですから、議員も官僚も、目的実現のために自分でできることを考えてほしいものです。

いまこそ、一人称自動詞で考えることが必要ではないかと思います。
「一人称自動詞で考える」は、私の信条ですが、湯島のサロンのルールでもあります。

この4日間、部屋の大掃除をしているのですが、3か月半前の京都新聞が出てきたので、読み返してみました。そして、あまり変わっていない、この4か月は何だったのだろうかと改めて驚きました。
 この先の4か月はそうならないでほしいものです。

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2020/05/18

■粗雑な議論が事態を混乱させているような気がします

FBやこのブログに書き込んでいる私の議論は、かなり「粗雑」です。
しかし、仕事としてコロナ対策に取り組んでいる人や専門家たちは「粗雑]な議論はしてほしくないと思っています。だからこそ、社会はそういう人たちに権威を認め、公共的な予算を提供していると思っているからです。
逆に言えば、しっかりした議論をしている人に、私は「権威」を感じ、そういう人たちの仕事がうまくいくようならば、喜んで税金や対価を負担します。

今回の新型コロナウイルスに関して、私が一番不安なのは、専門家たちの議論や対策があまりに「粗雑」なことです。

たとえば、昨日書いた「感染者に会わなければ感染しないから自宅に居ましょう」というような呼び掛けです。こんなことが専門家の口から出ると、私は一気に専門家を疑いたくなります。

県外を超えた移動はやめましょう、などという対策にもまったく応じがたいです。「日常的な生活圏から出ないように心がけましょう」と呼び掛けられれば、素直に納得できます。
それも生活者的な粗雑な表現ですが、せめてそれくらいの現実とのすり合わせはしてほしいです。それができないのは、現実とは全く無縁な思考の世界にいるからです。

一番顕著なのは、感染者に関わる数字の扱いです。
これはあまりにもひどく、まったく意味の違う数字をつなげてグラフにしたり、その数字の意味も十分に説明しなかったり、しかもそんな数字に基づいて、専門的知識を語る姿は、私にはとても理解できません。

そうした「粗雑な議論」が、事態を混乱させているのではないかと思います。
それだけではなく、「粗雑な議論」が、膨大な無駄な行為を起こしていると思います。
テレビで施設の消毒などの感染防止策などがよく紹介されていますが、私には無駄な作業に思えてなりません。
粗雑な議論を踏まえての、粗雑な対策は、過剰にやらなければいけないのだと思いますが、どうもいつも違和感があります。

新型コロナウイルスの生体を観察した実験結果があまり出てこないのも気になります。
ウイルスが、どういう状況で生死を分けるのか、温度や湿度にどう対処するのか、感染した人が創り出した「抗体」は、ウイルスにどう作動するのか。
そうした事実がほとんど公開されていないことが不思議ですが、そういう研究や観察はたぶん「粗雑」ではありえないでしょうから、発表は慎重なのかもしれません。
しかし、専門家からはそういう情報を教えてもらいたいです。
数字の遊びはもういらないし、生活者でもわかることはもういい。
まともに考えて生きている人なら、自粛などと言われなくても、頭を使って感染防止に真剣に取り組んでいるからです。それが自らの生活に直接つながっているからです。

夏の暑さと湿気、そして明るい陽光が、いま一時的にコロナの活動を鈍くしているのではないかと、「粗雑」どころか「無知」の私は考えてしまいますが、そう考えないと昨今の状況は理解しにくいです。となると、秋以降が心配です。

死亡率が低いのは日本人の特殊性という話もありますがそれに関する言及も専門家からは出てきていません。私は、この見方にもとても興味があります。

いずれにしろ、みんなが生き方を自分でしっかりと考えて、生き方を正すことではないかと思っています。
そのためにも、もう少し事実に関する情報がほしいです。そうしないと、私の「粗雑」な思考さえも成り立ちませんので。

 

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