カテゴリー「生き方の話」の記事

2019/08/02

■権力は腐敗する、のではありません

猛暑なのでできるだけ外出を控えていましたが、今朝は畑に行ってしまいました。
暫らく行けていなかったので、野草が猛威を振るっているのです。

 早朝1時間ですが、格闘してきました。
帰宅してシャワーを浴びましたが、汗が止まりません。
汗が異様に出るのは熱中症だと娘に言われ、しばらく冷房のある部屋で静かにしていました。
ついでに録画してあったテレビドラマを観ました。
「サイン」。法医学者のドラマです。

 こんな会話が出てきました。
「権力は腐敗する」
「組織が人を腐敗させる」

 私も以前はそう思っていました。
しかし、たぶんこの言葉は間違っていると最近は考えるようになりました。
いまはこう思っています。
腐敗が権力を生み出す。
人が組織を腐敗させる。

権力を避けている山本太郎さんの生き方には学ばされます。
権力とは腐敗の同義語です。
組織も権力と同義語かもしれません。

 念のために言えば、権力や組織を否定しているのではありません。
腐敗と同義語であることをしっかりと認識しておくことが大切だということです。
権力が腐敗する、のではなく、権力とはそもそも腐っているのです。

ちなみに、テレビドラマ「サイン」は面白いです。
組織の上に立たないと自分の思いは実現できないという「出世主義者」と出世よりも信念の実現を目指している人との対立が、物語の軸になっています。
来週で終わるようですが、そこでの人間模様に共感しながら観ています。

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2019/07/17

■人との関係で学び合い、人との関係を生きる

私は、学ぶとは他者、他者には自然なども入るのですが、他者との関係において自らが変わることであり、生きるとは他者に、これもまた自然も入るのですが、迷惑をかけるとともに役に立っていく、つまり価値を与えることだと考えています。
学ぶことも生きることも、他者との関係を変えていくことといってもいい。
そして、実際にそういう生き方をずっと続けています。

学ぶことと知識を得ることは同じではありません。
なにかを学び、わかるということは、自らの言動が変わること。つまり、生き方が変わることです。
もし生き方に変化がないとしたら、それは学んだことにはならない。
知識や情報には触れたかもしれないが、わかったとか学んだとは言えません。
それが私の考えです。

ある知識を知ったかどうかで、世界の風景は変わってきます。
それはみなさんも体験していることでしょう。
世界の風景が変われば、おのずと行動は変わっていくでしょう。

というよりも、あることを知ったら、必ず生き方は影響を受けるはずです。
何も変化がなければ、それは学んだとは言えない。
学ぶとか知るということは、生き方につながっているということです。

しかし、一人でできることには限界があります。
そこで、「共に」ということが意味を持ってくる。

共に学ぶとは、学びの視点を豊かにすることであり、生き方を変えていく力が大きくなるということでもあります。
学ぶとか生きることが、豊かになっていくために「共に」が大切なのです。
一人だけで学んでいることは、他者との関係の中で生きている私には実際にはできないことですが、意図して「共に」を指向しないと独りよがりの「学び」に陥りやすいような気がします。

これが、私が長年、湯島でサロンをやっている理由の一つです。
さまざまな人の話を聞き、さまざまな人の生き方に触れていく。
その過程で自分の考えや行動が相対化され、そして実践のヒントが得られる。
一人で学ぶよりも、仲間と学び合うほうがいろんな意味で効果的です。

自分と社会がしっかりとつながっていること、それが私の考える社会性、市民性です。
自分が変わると相手も変わる。社会も変わる。
自分と社会は連動しています。そして社会では常に何かが変わっています。
つまり社会や人間関係は常に変化していますから、そこにつながっている自分もまた常に変わっているはずです。

逆に、考えを固定させていると社会との関係、他者との関係に齟齬をきたしていく。
だから時代の動きの中で、自らを常に変えていかないと自らのアイデンティティを保てない。
変わることは変わらないことなのです。

変わらない自分にこだわっていると、常に変化し続けている社会との位置づけが変化し、取り残されてしまい、生きているとは言えなくなる。
自分を大事にするためにも、常に変わっていく必要がある。
そこに学ぶ意味がある。

これは先日のある集まりで話したことです。
話すよりも文字にした方が伝わりやすい気がして、少し丁寧に書いてみました。

現在の選挙で、山本太郎さんが風を起こしています。
彼は、共に学び共に生きるを実践しているように感じます。
危うさは強く感じますが、風は挫折を通じて、本当の風になっていくことが多いので、その先を感じられます。

ところで、湯島のサロンの意味を話し合うサロンをやりたくなりました。
湯島ではこれまでも毎年1回だけ私が話させてもらうサロンがあります。
最近は、「政治パラダイムの転回」「経済パラダイムの転回」そして「生き方の転回」をテーマにしてきましたが、参加者に伝わった実感が持てないので、今年は「サロン」をテーマにしようと思います。
例年は12月開催でしたが、今年は8月下旬を想定しています。
その頃は、山本太郎現象の実体も少し見えてきていると思いますし。

いま気づきましたが、山本太郎現象をテーマにしたサロンのほうがいいかもしれません。
ついでにそれもやりたくなりました。
どなたか問題提起してくれる人はいませんか。

 

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2019/06/28

■「話す(放す)社会」と「語る(象る)社会」

最近、改めて気になることがあります。

フェイスブックでは、いろんな人が巻き込んでくれるおかげで、いろんなFBコミュニティ(グループ)に登録させてもらっています。
そのおかげで、いろんな人の発言を目にすることが多くなったのですが、その多くが「話す」ことで終わっているような気がしてなりません。
ツイッターがその典型だと思いますが、自らの思いを「放つ」ことで満足する人が多いようです。
私も時に、自分の思いを放ちたくなり、放つことも多いのですが、放した後、つまり話した後いつもちょっと後悔します。

話すとは「放つ」ことで、完結した行為。
むしろ問題に関する自らの思いは弱まりやすい。つまり「消費的な行為」。
語るとは「象る」ことで、創造的な行為。
それによって、新たな思いを背負うことにあり、思いは強まりやすい。つまり「創造的な行為」。
そういう整理をすることもできるように思います。

 それに、世の中にヘイトスピーチが多いですが、話すことはどこかでヘイトにつながりかねません。
私が国会デモに行けなくなったのは、あの空間に憎しみに支えられたヘイトを感ずるようになってきたからです。
もちろん、時には「怒り」が大きな力になることはあります。
しかし、日常的に怒りや思いを放っていたら、そこで思いが消費される恐れもある。

 ツイッターはもちろんですが、フェイスブックにも怒りや不満を放す(話す)コメントが多いのが、私には気持ちがよくありません。
それに、安倍首相の批判をする人と安倍首相とは、言動がとてもよく似ているような気もします。

 こんなことを書くと、また「批判することを否定するのか」と叱られそうですが、批判はっても大切だと思っています。
「怒り」もとても大切です。
ただ「怒りの活かし方」や批判のルールもあると思います。
怒りも批判も新しい価値を生みだすことにつなげていきたいと思っています。

 私の基本姿勢は、批判の矛先に自分を含めるようにしています。
それでは勢いが出ないだろうと思われるかもしれませんが、私の場合は逆です。
なぜなら批判することは常に自らの生き方を問い直すことと無縁ではないからです。

言い換えれば、批判によって、自分の世界が広くなる、あるいは新しい地平が象られていく。
語るとはそういうことだろうと思っています。

 私の投稿は、いつもそんな思いで書いています。

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2019/06/27

■百田尚樹現象

家族みんながお世話になっている、いしど歯科クリニックから帰ってきた娘が、私にと石戸さんから雑誌を預かってきました。
雑誌は、64日号のNewsweekでした。
特集が、「百田尚樹という社会現象」。表紙は百田尚樹さんの顔。

百田さんには大変失礼なのですが、この顔を見たとたんに拒否感が生じます。
むかし私は朝日新聞社のアエラを購読していましたが、表紙に麻原彰晃の写真が載ったのを契機にアエラの購読をやめました。
雑誌や書籍の表紙は、そのくらい私には大きな影響を与えます。
ですから、石戸さんからでなければ、私はこの雑誌を読むことはなかったはずです。

なぜ石戸さんは私にこの本を届けたのかは、すぐ察しがつきました。
前回私が治療に行った時に、石戸さんの息子さんがノンフィクションライターとして活躍していることを初めて知ったのです。
たぶんどこかに石戸諭さんの寄稿が載っている。
そう思って雑誌を開くと、その特集記事が石戸諭さんによってまとめられていました。
19ページにわたる大特集です。
最後には石戸さんによる百田さんへのインタビューもありました。

正直に言えば、百田さんの記事を読む気にはすぐにはなれませんでした。
しかし、石戸さんのデビュー作『リスクと生きる、死者と生きる』のまえがきとあとがきを読んだ時に、その誠実な人柄が感じられたので読むことにしました。
読み出せるまで1日かかりましたが。
ただ、なぜ石戸さんが百田さんを取材しようと思ったのかにも関心がありました。

読み応えのある特集記事でした。
石戸さんの取材姿勢は、冒頭の「百田現象から見えるのは、日本の分断の一側面であり、リベラルの「常識」がブレイクダウン(崩壊)しつつある現実である」という文章で理解できました。
そして、「百田尚樹とは「ごく普通の感覚を忘れない人」であり、百田現象とは「ごく普通の人」の心情を熟知したベストセラー作家と、90年代から積み上がってきた「反権威主義」的な右派言説が結び付き、「ごく普通の人」の間で人気を獲得したものだというのが、このレポートの結論である」と石戸さんはまとめています。

「普通の人」という表現には違和感がありますが、その趣旨には共感できます。
ただ、「普通」という言葉は、思考を停止させるマジックワード的効果があるので気をつけなければいけません。

それはともかく、石戸さんの誠実な報告には共感したり気づかされたりすることも多かったのですが、この現象、あるいはリベラルな常識の崩壊(私はむしろ「保守」の崩壊と考えています)が、何をもたらしていくのかの展望がもう少し知りたくなりました。
これからの石戸さんの発言に耳を傾けたいと思います。

石戸さんは記事の最後にこう書いています。
長いですが、引用させてもらいます。
とても大切なメッセージだと思いますので

リベラル派からすれば、このレポートは「差別主義者に発言の場を与えたもの」と批判の対象になるかもしれない。だが、そうした言説の背景にあるもの、異なる価値観を緩やかにでも支える存在を軽視すれば、あちら側に「見えない」世界が広がるだけだ。

リベラルが「百田尚樹」を声高に批判しているその裏で、「ごく普通の人たちの憤り」が水面下で根を張りつつある。

「敵」か「味方」かが第一に闘われるようになるとき、分断は加速する。二極化の先にあるのは、先鋭化した怒りのぶつけ合いだ。問題は残り続ける。不都合な現実から目を背けてはいけないのだ。

いささか目を背けがちにしている自分を反省しました。
と同時に、先日の岡和田さんのサロンで、「チッソは私であって」という考えに関連して、岡和田さんから「佐藤さんは、安倍首相は私であった」という考えも受け入れるのですか?」と鋭く追及され、つい「はい、少なくとも否定はできない」と応じてしまったことを思い出しました。

私は映画「永遠のゼロ」も観ましたが、いささか複雑な気分でした。
百田さん原作と言われなければ、もしかしたら受け入れられたかもしれません。
私自身、思い込みの強い人間ですので、百田さんや小泉さん(親子ともども)や野田さん(元首相)や安倍さんの言動には、生理的に拒否感があるのです。
それぞれに理由は違うのですが、百田さんの場合は、その不誠実さ(ヘイト発言に象徴されています)が私には決して受け入れられないのです。
そうした偏狭さの危険性を、石戸さんはメッセージしてくれているように思いました。
「敵」か「味方」、「嫌い」か「好き」かに呪縛されていると、世界は見えなくなります。
そういう人をたくさん知っているのに、自分もそうなっていることに気づかされました。

百田さんの書籍を読む気にはまだなれませんが、映画「永遠のゼロ」をもう一度、観てみようと思います。
併せて、石戸さんの『リスクと生きる、死者と生きる』もきちんと読んでみようと思います。

若い世代から学ぶことはたくさんあります。

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2019/05/09

■湯島サロン「過労死問題が問いかけるもの」報告

過労死をテーマにした2回目のサロンには10人を超える人が参加しました。
小林康子さん(東京と神奈川の過労死を考える家族の会世話人)は問題の背景などを話してくれた後、参加者に3つの問いかけをしました。

「業務における過重な負荷」
「業務における強い心理的負荷」
「そのような就労環境」

これに関して話し合おうということになりました。

ところが最初から、過労死問題の捉え方に関する根本的な問いかけが出されました。
昨今の過労死問題や働き方改革は「雇用労働」に焦点を絞りすぎているのではないのか、過労死は個人営業やフリーワーカーの人たちにも発生している、というのです。
そして波乱万丈のサロンになっていきました。
そんなわけで、さまざまな話題にとびましたが、そのおかげで、「労働」を超えた社会のあり方や私たちの生き方へと視野は広がり深まったと思います。
そして、小林さんの問いかけにも深い意味でつながっていったように思います。

少し具体的な話を紹介すれば、時間以外の要素にもっと目を向けるべきではないかという意見が多かったです。
納得できていない仕事と納得して取り組んでいる仕事とでは同じ労働時間でもまったく違うのではないか。
個人で仕事をしている人たちの労働時間は場合によっては雇用労働者の残業時間よりも長い場合もあるが、だからといって過労死が問題にならないのはなぜか。
働かされているのか、働いているのかで違うのではない。
ILOが取り上げているディーセントワーク(働きがいのある人間らしい仕事)や雇用労働と協同労働の話もでました。

日本には、組織を辞める自由が少ないし、辞めることを恥と思う文化もある。
本人が自分に負荷をかけている面もあるのではないか、といった日本人の考え方や生き方の話も出ました。
組織のため、会社のために働いていることが問題ではないか。
かつては、会社のためと自分のためとがつながっていたが、いまは切り離されてしまった。
もっと自分の生活を起点に考えることが大切ではないか。

お金に縛られすぎているのではないかという話もありました。
そうならないように、いろいろな人のいろいろな生き方を知ることが大切だという指摘もありました。

過労死に向かってしまう人は、自分が見えなくなってしまう。
家族などのまわりの人が忠告してもわかってもらえない。
そういう時に、相談に乗ってくれる人や、気づかせてくれるような場や仕組みがほしい、と遺族の方からの体験談もありました。
企業でもカウンセラーや相談窓口をつくっていますが、当事者目線での仕組みがまだ不十分のようです。
これは過労死に限ったことではありません。

働き方改革の動きが、逆に労働条件が悪化させる危険性もあるという指摘やそもそも「正規」「非正規」という働く人たちを分断しているのが問題ではないかという指摘もありました。

過労死問題の原因は3つ。90年代に外資系コンサルが日本人の働き方を変えたこと、日本人の好きなスポ根文化、そして日本人の帰属意識重視文化だという指摘もありました。

さらには、教育の問題やセイフティネットまで、書き出していったらきりがないほど、いろんな話が出ました。
「過労死問題が問いかけるもの」は労働や企業だけにはとどまらないのです。

私は、経済ではなく生活を基本にした社会に変わっていくことが必要ではないかと思いますが、そのためにはまず私たち一人ひとりが自分の生活を大切にしていくことではないかと思います。
過労死は、社会のあり方を象徴している表現の一つです。
制度的な対策も必要でしょうが、私たちの生き方や社会のあり方に根差している。
そのためにはまず、いろんな生き方があることやいろんな世界があることをもっとみんなに知ってほしいと思います。
それが湯島でサロンを続けている理由の一つなのです。

生き方として何に価値を置くか。自分が価値があると認められることのために働くことは楽しいことです。
働くことは楽しくなくてはいけないと思っている私としては、働くことは生きることなので、過労死という捉え方にはそもそも違和感があります。
私たちはいったい「何のために」働いているのか。
そこから問い直さないと「働き方改革」は、事態をさらに悪化させていきかねない。
改めてそう思わされたサロンでした。

最後に小林さんが、こういう議論を広げていくためにも、秋に公開フォーラムを開催したいという提案をしました。
有志で実行委員会を立ち上げることを検討したいと思います。
一緒に取り組みたい方は、ぜひゆるやかな実行委員会のメンバーになってください。
ご関心を持っていただけたら、私にご連絡ください。

Karoushi190506

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2019/04/29

■多様性を受け入れるとはどういうことか

昨年、テレビ朝日で放映されていたドラマ「未解決の女」のドラマスペシャルが昨日放映されました。
わずかな文章から書き手の性格や思考を言い当てる能力を持つ警部補が、未解決の事件を解決していくという物語です。
言葉から事件を解いていくというのが、このドラマの面白さです。
「言葉の神様」は私にはあまり降りてきませんが、その存在は私もかたく信じています。

今回は、現場に品字様の文字が遺された連続殺人事件の物語でした。
品字様の文字とは「品」のように同じ漢字が3つ連なる文字のことです。
品字様の文字も面白いですが、今回書こうと思ったのは、ドラマを見ながら最近特に感じていることです。
ネタバレになりますが、ドラマの連続殺人は、恋人を過労死に追い込んだ会社の上司や関係者への「復讐劇」でした。
最後に犯人が、なぜ犯罪に至ったかを告白するのですが、私はこういう話に弱くて、いつも共感のあまり涙が出てしまうほどです。
そこでは、心情的には、加害者と被害者が逆転してしまうわけです。

そうした告白に対して、どんな事情があろうとも、人を殺めるような犯罪を起こしてはいけないと刑事が戒めるのが、このパターンのドラマの定型ですが、私はこういうセリフが好きではありません。
他人のことだからそんなきれいごとが言えるのだと内心思ってしまうのです。
それに、あなたは何の根拠をもって、加害者と被害者を決めるのか、と問いたくなるわけです。
ちゃんと自分で考えているのか、というわけです。
こういうやり取りの意味は実に大きいと思いますが、そうした言葉の洗脳には抗わなければいけません。

話は変わりますが、先日のスリランカの連続自爆テロは、IS の悪夢が決して「夢」ではなく、終わりがないことを教えてくれているような気がします。
なぜ終わらないかは、明白です。
終わりようがないのです。
もちろん終わらせる方法はあります。

最近読んだ「暴力の人類史」に紹介されていたのですが、法学者のドナルド・ブラックは、私たちが犯罪と呼ぶもののほとんどは、加害者の視点から見れば正義の追求だと主張しているそうです。
ブラックは膨大な犯罪データを解析した結果として、こう書いているそうです。

殺人のもっとも一般的な動機は、侮辱されたことへの報復、家庭内の争議がエスカレートしたもの、恋人の裏切りや失恋、嫉妬、復讐、自己防衛など、道徳的なもので、大部分の殺人事件は実質的には、ある一般市民が自ら判事、陪審員、そして執行人となった「死刑」である。

つまり、殺人の多くの実態は、「正義のための死刑(リンチ)」だというわけです。
ブラックはさらにこう書いているそうです。

「殺人を犯す者は、しばしば、自らの運命を当局の手に委ねているように見える。警察が到着するのをじっと待つ者も少なくないし、自分から通報する者もいる。このような場合には、殺人を犯した者は見方によっては殉教者といえるかもしれない。殺人を犯す者は自分が正しいと思っており、その帰結としての処罰を甘んじて受け入れるのだ」。

とても考えさせられます。

「正義」を語る人を私は好きになれませんし、「法律」に呪縛されている人も好きにはなれませんが、しかしISの悲劇を聞くたびに、ではどうしたらいいのかと自問します。
それで決めたのが、「正義」と「法律」から自らを解放しようということです。
「正義」も「法律」も、私にとっては、きわめて多義的なものになってきています。

「社会のため」とか「正義のため」という言葉は、軽々に使うべきではないでしょう。
その前にまず、自らの世界の広さをこそ顧みることが大切です。

今回、言いたかったのは、多様性を受け入れるとはどういうことかという問題提起なのです。
いつも誤解されるので、蛇足ながら。

 

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■年齢は捨てられません

挽歌編に書いたのですが、少しだけリライトして時評編にも書きました。

20年ほど前、アンチエージングが話題になった事があります。
高齢化が問題になっていたころです。
以来、年を取ることへのマイナスイメージは定着しました。
当時、私もそうした考えに大きな違和感を持っていませんでした。
もっとも「高齢化」に関しては私自身はプラスの評価をしていました。
「早く来い来い、高齢社会」などという小論を書いたりしてもいました。
http://cws.c.ooco.jp/siniaronnbunn2.htm

最近、下重暁子さんが「年齢は捨てなさい」という本を出版しました。
新聞広告には「年にしばられると人生の面白さが半減する」「年齢という「呪縛」を解き放て!」と書かれていました。
こういう風潮に最近やはり強い拒否感があります。

いろんなものに「呪縛」されているのに、よりによって、捨てる対象が「年齢」とは、どうも納得できません。
私は、最近は年齢に素直に従っていますが、それが「呪縛」とは思えません。
すなおに加齢を受け入れ、それを前提に生きています。
「老人」という言葉も好きですが、実際には「老人」になれずに、意識はむしろ年齢に追いつけずにいます。
しかし、身体は素直に年齢を重ねています。

最近、高齢のドライバーの交通事故で、親子が死傷する事件が起きました。
それを契機に、高齢者ドライバーへの批判が高まり、自動車運転免許も年齢制限する必要があるのではないかという意見も出てきています。
それに対して、年齢で制限するのはおかしいとか、憲法違反だという声もあります。
自動車免許をとれるようになる年齢も含めて、いろんな分野で年齢制限されているのに、こんな論理は成り立つはずもないでしょうが、そんなご都合主義が相変わらずまかり通っています。

みんな「年齢」を捨てたがっているようです。
不老不死の世界に入るのは、そう遠い先ではないでしょう。
しかし不老不死とは、命のない世界でもあります。

私は70に近付いた段階で免許は返納しました。
基本的には年齢制限をつけるべきだと思っていますし、それがなくても自分のことは自分で決めるくらいの良識は持っています。

たしかに人によって状況は違い、高齢でも運転できる人はいるでしょう。
しかしそうした個別事情を認めていたら、年齢は社会的判断の基準にはならず、社会は成り立ちません。

年齢を捨てるという発想にはやはりなじめません。
私自身は、素直に年齢(生命)に従う生き方をしたいと思っています。

その本の新聞広告に、「年齢を封印するだけで出来ることが10倍増える!」と書かれていました。
私はむしろ、「年齢を受け入れるだけで出来ることが10倍増える!」と揶揄したいですが、それはともかく、「自分を素直に受け入れるだけで出来ることがたくさんある」と思っています。
しかし、自分を素直に生きることはとても難しい。
まだまだ年齢相応の生き方ができない未熟さに、時に自己嫌悪に陥ります。

それでも私は、年齢を大事にした生き方をしていこうと思います。

 

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2019/04/27

■初原的同一性

最近2冊の本を読みました。
1冊はもうだいぶ前に出たスティーブン・ピンカーの「暴力の人類史」。
もう一冊は最近出た煎本孝さんの「こころの人類学」です。

前者は1000頁を超す大著ですが、後者は新書です。
まったく意識せずに読んだのですが、2冊には共通しているテーマがあります。
人間の本性です。

「暴力の人類史」ではこう書かれています。

人間の本性は、私たちを暴力へと促す動機(たとえば捕食、支配、復讐)をもちあわせているが、適切な環境さえ整っていれば、私たちを平和へと促す動機(たとえば哀れみ、公正感、自制、理性)ももちあわせている。

ピンカーは、人間には「内なる悪魔」と「善なる天使」が内在しているといいますが、どうもこの本を読むと、人間の本性は暴力好きな悪魔のように思えます。
これでもこれでもかというほどの人間の暴力性の事例、たとえば幼児殺しがいかに日常的だったかの記載を読んでしまうと、親子関係に関する常識さえ壊されてしまいます。

一方、「こころの人類学」の煎本さんは、「慈悲、わかちあい、おもいやり、いつくしみは、人類に普遍的に見られる自然的宇宙観」だといいます。
こんなことも書かれています。

「トナカイは、人が飢えているときに自分からやってくる」と、カナダ・インディアンは考えていたという。

煎本さんは、原始の人類は、人間と動物や自然を同一視していて、トナカイは飢えた人間のために施しとしてやってきたのだと考えたというのです。

仏教のジャータカ物語に出てくるような話ですが、トナカイは人間の仲間であり、つまりは人間もまたトナカイのように行動するということを示唆しています。
人間と動物とは異なるものであるが本来的に同一であるとする思考を、煎本さんは初原的同一性とはいい、人間性の起源は、この初原的同一性にあると言います。

私は「初原的同一性」という言葉を初めて知ったので、初原的同一性は、人間と動物だけではなく、あらゆる存在に関して成り立つはずです。
すべては一つだったと考えれば、世界がとても理解しやすくなります。
たとえば、「内なる悪魔」と「善なる天使」もつまるところ同じことなのです。
そして、内なる悪魔もまた、自らのものだと考えれば、他者に対して寛容になれます。

「暴力の人類史」だけを読んでいたら、たぶん世界が広がっただけでしたが、偶然にも同時に「こころの人類学」も読んでいたので、人間嫌いにはならずにすみました。

今回、2冊の本を同時に読んだのは、偶然とは思えません。
誰かに読まされているのではないかと思えてなりません。

最近他者への寛容さを少し失ってきているような気がしていましたが、踏みとどまれそうです。

 

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2019/04/16

■10連休の過ごし方

今朝のテレビで、10連休を活かして収入につながる起業や副業開発のセミナーやイベントの紹介が報道されていました。
日本人は、休暇は消費活動としてのレジャー活動をしなければいけないと思いこんでいますが、さすがに10連休では余暇消費を続けられないので、収入につながる仕事探しをはじめるようです。

そもそも休暇とは、暇を休むことであり、消費活動からも休むことではないかと思っている私には、滑稽にしか思えません。
生産者として経済を支え、消費者として経済を支えている生き方を前提にしていては、金銭に呪縛された生き方から抜け出るどころか、ますますそれを支える10連休になりそうです。
10
連休は、新しい「働かせ方」の仕組みとさえ思えます。

しかし、実際には10日間、休める人がそう多いとも思えません。
むしろ、仕事ができずに収入減になる人もいるでしょうし、連休とは無縁の人もいるでしょう。
10
連休で、生活面で困っている人も少なくないでしょう。
10
連休で病院が休みになったらおれの健康はどうなるのかと嘆いていた友人もいます。
10
日間、いつもの労働から解放されたとしても、過労で心身両面で限界に来ている人に、また過酷な労働に立ち向かうしばしの回復の機会を与えるだけのケースもあるでしょう。
そうやって心身はさらにおかしくなっていきかねません。

この10連休は、「働き改革」の関係で出てきたことに示唆されているように、さらなる「働かせ方強化策」にもつながっているような気がします。
相変わらず、「休暇は雇い主から与えられるもの」という意識からみんな抜け出られないでいるわけです。
「休みは与えられるもので、自らで休むものではない」とは、考えてみれば、おかしな考えです。

財界や政府の甘言にまどわされずに、この10日間はレジャーの誘いになどのらずに、もちろん「新しい労働」への準備などに取り組むことなく、家族や友人とゆったりと過ごし、無駄に過ごすのが一番無駄でないようにも思います。

私は10連休に挑発されて、10連サロンも考えてみましたが、それはやはり疲れるので、10連休後半に3回、サロンを開くことにしました。
最後の56日は、「過労死」がテーマです。
それ以外は基本的に、無駄に過ごすつもりです。
「過休死」にならないように、休まずに、きちんと生きていようと思います。

そろそろ「休暇はご主人様から与えられるもの」という発想から自由になりたいものです。
そもそも政府が10連休を呼びかけるのはおかしいと思うのですが。
自由な人間であれば、休みたいときに休める生き方をしたいものです。

 

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2019/04/04

■ハネツルベの逸話

昨日、久しぶりに畑に行って、「小作人作業」に精出してきました。
野草や篠笹に譲っていた場所を耕して畑にする作業などを1時間半。

笹竹の根っこがすごいので、鍬と鎌だけの手作業だと1畳ほどの畑をつくるのに1時間近くかかります。
耕運機などを使ったらどうかという人もいますが、小さな畑を自然から借りるのにそんなものを使うのは私の感覚ではフェアではありません。
もちろん除草剤などは論外です。
地中に張り巡っている竹の太い根を切るのに力を入れすぎて、手がおかしくなって、しばらく作業ができなくなることもありますが、それは当然の代償でしょう。

そういう作業をしながら、思い出したのが、「荘子」に出てくる「ハネツルベの話」です。
こんな話です。

孔子の弟子の子貢があるとき、畑仕事をしている老人に出くわしました。
老人は、井戸の底まで穴を掘って、井戸のところまで下って、水がめに水を入れ、それを抱えて穴から出てきては畑に注いでいました。
その大変さに同情した子貢は、老人に「ハネツルベ」という水揚げのための便利な機械があることを教え、それを使ったらどうかと勧めたのです。
すると老人は笑いながら、自分の師匠から教わったことだと言って次のように話したそうです。

「仕掛けからくり(機械)を用いる者は、必ずからくり事(機事)をするようになる。からくり事をする者は、必ずからくり心(機心)をめぐらすものだ。からくり心が芽生えると心の純白さがなくなり、そうなると精神も性(もちまえ)のはたらきも安定しなくなる。それが安定しなかったら、道を踏みはずすだろう。ワシも『ハネツルベ』を知らないわけじゃない。ただ、恥ずかしいから使わんのじゃよ」。

私の好きな話です。
今日もこれから、畑に汗をかきに行きます。
いろんな生き物に会えるのが楽しみです。

 

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