■相手が持っている「共感できる部分」と付き合うと生活が楽しくなる
私は人と付き合う時に、その人の持っている私と共感できる部分や私にはない学ぶべき部分に焦点を当てるようにしています。
ですから基本的には誰とも付き合うことができるのです。
もちろん例外はいますし、付き合いたくない人もいる。
でも「付き合いたくない人」も拒否はしません。
だから八方美人とも言われたことがある。
でも人はだれでもたくさんの「自分」を持っていることは、私自身を知れば知るほどわかってきます。私のなかにも、自分でさえ嫌になる部分もある。でもその自分とも付き合わないわけにはいかない。だから、どんな人にも、必ず私と付き合える部分があるはずです。
そしてそういう生き方に心がけていると、とても生きやすくなり楽しくなる。
しかしどうも多くの人は、私とは真逆の人との付き合い方をしているのではないかと、時々思います。「共感できる部分」ではなく、「否定したい部分」を見つけるのが好きなのです。そしてつい悪口を言ってしまう。
湯島のサロンでも、そう感ずることがある。
人の悪口を聞くほど、不愉快なことはない。私も時々、湯島のサロンで非難されますが、自分が「悪口」を言われるのは、「褒められた」と読み替えればさほど気にはなりませんが、そこにいない他者の悪口を言われると、たとえその人が私の好きな人ではないとしても、あまりいい気はしない。
たとえばトランプ大統領ですが、みんなの話を聞いていると、トランプは酷い人のように聞こえてくる。先日のサロンでは、あまりにみんながトランプ大統領の悪口を言うので、いささか切れてしまいました。そもそもトランプに会ったことがあるのか、と言いたくなった。
確かに私にもいやな部分がたくさん目立ちます。でも共感できる部分や敬愛すべき部分もある。やっていることも、支持したいこともある。
「いやな部分」に焦点を当ててしまうと、そうした「いい部分」が見えなくなってしまう。他者の悪口を言い出した途端に、その人のいいところは見えなくなってしまう。
トランプに限りません。私の大嫌いな立憲民主党の野田さんや自民党の菅さんにも、きっと私にも共感できる部分はあるはずです。幸いに私はおふたりとはお付き合いがないので、それを見つける必要がないだけなのです。
私が嫌いなのは、他人の悪口を言うことです。当人に向かって直接言う悪口は嫌いではないですが、他人の悪口だけは聞きたくない。
悪口ではなく、その人の言動に関する批判は大歓迎なのですが。
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