カテゴリー「生き方の話」の記事

2019/10/04

■二酸化炭素による地球温暖化に関する私の変節

国連気候行動サミットで温室効果ガス排出問題に対するグレタさんのスピーチに関して、反省を含めて、やはり書いておくことにしました。

私は、二酸化炭素による温室効果が地球の温暖化を進めていると、つい最近まで全く信じていませんでした。
いまもちょっと懐疑的です。
そもそも「温暖化」という捉え方も、正直まだ納得はしていません。

この問題では、10年以上前に兄と激しい議論をしたため、兄はまだ私を非難しているようで、先日、一緒に食事をしたときにも、それとなく嫌味を言われました。
ゴア元副大統領のドキュメンタリー「不都合の真実」は2本とも見ていますが、どうもこれもわかりやすすぎて疑いたくなります。

地球温暖化説への否定的意見は、このブログでも何回か書いていますが、グレタさんの話に影響されたわけではありませんが、もしかしたら私が間違いだったと最近思い直しだしています。
少なくとも、絶対否定はしないように「変節」しました。
兄にはまだ謝ってはいませんが。

私の反対の理由は2つありました。
まず二酸化炭素犯人説が、原発推進を背景に政財界の人たちからまことしやかに強調され出したことへの不信感です。
地球環境問題が高まる契機になったローマクラブの「成長の限界」は話題になりだしてからすぐ読んで感動し、以来それなりに生活態度も改め関係情報も集めてきました。
エイモリー・ロビンスの「ソフトエネルギー・パス」やシューマッハーの中間技術などには共感し、その頃はまだ会社にいたので、調査して情報を社内にも流しました。
1980年代の動きが、もしそのまま加速されていたら、今頃日本は自然エネルギー活用先進国になっていたでしょう。

しかし、時間がたつにつれて、むしろ持続可能な発展とか開発とか、結局は経済成長と植民地支配が隠された形で進む勢いはむしろ加速され、話もだんだんややこしくなり、少しずつ疑問が生まれだしました。
日本でも「二酸化炭素汚染しない」原子力発電はクリーンだと言われる状況に向かい、そのなかで3.11福島事故が起きました。
つまり、二酸化炭素地球温暖化論は、さらなる経済成長のための目くらましの言説ではないかと思ってしまったのです。

もう一つは「温暖化」という捉え方への疑問でした。
温暖化ではなく、自然が乱れだし、地球が活性化しだしたという捉え方がいいのではないかと思っていたのです。
過剰すぎるほど人口は急増していますが、地球は人間の所作ごときではそう変わらないのではないか。
むしろ地質学、あるいは地球生命論的に、いま大きな激変期がはじまったと捉えるべきではないかと考えていたのです。
温暖化はその一つの現象でしかない。
最近起こっている現象は、むしろそう捉えると私には納得できます。
もしそうなら問題の捉え方を根本から変えなければいけません。

以上の2点で、私は二酸化炭素原因説や地球温暖化説に異論を持っていたのです。
しかし、最近もしかしたら地球は温暖化していて、その大きな一因は人間による二酸化炭素の過剰な生産かもしれないと思い直したくなってきたのです。
それに、もしそれが間違いや経済成長主義者による脅しだとしても、グレタさんの言うように、何もしないよりはいいのではないか、とも考えました。
そのためには、疑うよりも、まずは信ずるのもいいかもしれない。
そしてつい少し前に「変節」しました。

AIにとっては、地球温暖化も気候異常化も、大した問題ではないばかりか、好都合な話でしょう。
しかし、人間であればそうも言っていられません。

先日の那須のサロンで、50年前に今西錦二さんが言っていた「人類は22世紀まではもたんような気もするんやけどな」という言葉や、私の意見は時々ガラッと反転してしまうという話を話題にしたこともあって、それに関してこんな記事を書いてしまいました。

いまも私がパソコンに向かっている部屋の外では、強風が大きな声で吠えている感じです。
自然に抗って生きるのは、私の性分ではありませんが、さらに自粛したいと思います。

 

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■贈与の暴力性

湯島のサロンでは「贈与」をテーマにしたサロンも何回か行ってきましたが、基本的には「贈与」に好意的なイメージをおきながらサロンしてきました。
ところが、むしろ問題は「贈与の暴力性」かもしれないと思いださせたのは、今回の関西電力の事件でした。

事件の概要は改めて書く必要はないと思いますが、高浜町の元助役が関西電力の経営幹部に巨額な「贈与」を行い、その贈与を断りきれずに関西電力の経営者たちが元助役に使役されてきたという事件です。

その事件の釈明を求められての関西電力経営陣の記者会見は、こうしてみんな人間を辞めていくのだろうなと思わせるものでした。
彼らの発言は、自らを失った抜け殻の人間もどきの発言でしかありませんでした。
自分たちが何をやったのかがわかっていないのです。
私には同情を禁じ得ませんでした。

たとえば、「金品を渡された者は受け取る理由はないと考え、返却を申し出たが、『ワシを軽く見るなよ』などと激高されてしまった」、と彼らは言っています。
つまり彼らは元助役を重く見ていたわけです。
だから家族の安全までも驚かされながらも、彼らを裏切ることができないほど、元助役グループに服従していたわけです。

私の判断基準からすれば、明らかな「ゾンビ族」です。
昨今の日本ではゾンビ族はめずらしい存在ではないので、驚きはしませんが。

たった数億円、時には数十万円のお金で自分を売ってしまうほど人間は弱いのでしょうか。
たぶん弱いのです。
その理由を、マルセル・モースやモーリス・ゴドリエは、その著書で解き明かしています。
私はしかし、今まで「贈与論」や「贈与の謎」を、暴力の持つそうした暴力性を逆にうまく活かしてきたし、さらにこれから活かしていけるというメッセージと受け止めてきました。
しかし、どうもそれは考え直す必要がありそうです。

モーリス・ゴドリエは「贈与の謎」で、暴力ほどではないが贈与もまた階層制の中での地位の変更に力をもっていると指摘した後で、「この世紀未の状況にあって、今や再び、今度は社会問題の解決の援助手段として気前のよい贈与、《返報なき》贈与が必須とされている」と20世紀末に書いています。
さらに、モースが贈与は「それを受けとる人々の心を傷つける」と判断していたが、現在では隣人愛組織は数を増している」と書いていることにも注目しています。
それは、贈与の脱暴力性を示唆しています。

そもそも贈与の語源につながるギフト(gift)という言葉には、「贈り物」という意味に合わせて「毒」という意味もあります。
そしてモースもまた、「贈与」には平和性と暴力性とが混ざり合っていると警告していました。
「贈ること、贈られた物をもらうことは、贈る側にとっても、もらう側にとっても賭けなのだ。そのような危険な賭けを通じて、集団どうしは「つきあう」ことになる」とモースは書いていますが、常に「危険」があるからこそ平和があるという私の考えから言えば、とても納得できます。
しかし、暴力性が強くなり、人間を過剰に貶めるようなことがあれば、話は別です。

今回の関西電力に象徴されている現象は、たぶんもう私のすぐ隣にまで展開されているのでしょう。
いつ私が感染するかもしれません。

私は一方的な贈与、つまり交換と切り離された贈与を素直に受ける生き方を選んでいます。
理屈っぽくいえば、お布施の論理のように、贈与を受け取ることこそが相手への私の贈与行為と考えているのです。
そして自分では背負いきれない贈与は、ていねいにお断りしているつもりです。
しかし、とはいうものの、贈与が生み出す義務意識から完全に解放されているわけでもありません。

もちろん私に贈与してくれる人たちは、元助役のような悪意は微塵も持っていません。
にもかかわらず、積み重なるとなぜか負担感が生まれてしまう。
これはどうしようもありません。
それが人間の弱味であり、社会を生み出す力なのでしょう。

ゾンビにならないように、言行不一致にならないように、自分を生きなければいけません。

 

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2019/10/03

■権力は腐敗などしません

関西電力、全日本テコンドー協会などがマスコミをにぎわせています。
私には、いずれも「事件」ではなく「日常」「常態」にしか思えないので、そんな話を今さら大仰に取り上げたり、騒いだりしている世間のほうにこそ驚きを感じます。

そもそも報道関係者やその世界の人には周知のことでしょうし、関西電力に限らずすべての電力会社やテコンドー協会に限らずすべてのスポーツ団体に多かれ少なかれ存在していることはこの数年で明らかになってきているはずです。
などというと、反発されそうですので、個別問題への言及はやめて一般論を書きます。

『自由の歴史』を著したイギリスの歴史家ジョン・アクトンは、「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する」と言いました。
いまでもよく「権力は腐敗する」という言葉はよく聞きます。
私は、この言葉にみんなだまされているように思っています。

権力は腐敗などせず、どんどん強固になっていきます。
権力は腐敗するのではなく、腐敗が権力を生み出すのです。
発想を変えなければいけません。

権力を持つと精神が堕落し、悪徳に抵抗を感じなくなるということが、権力は腐敗する意味だとされますが、これも逆だと言えば、もう少しわかりやすいと思います。
悪徳にマヒし、精神が堕落することから権力が生まれていくと考えればそう違和感はないでしょう。
話題になっている「事件」の関係者は、たぶん自らが腐敗しているなどとは思っていなかったでしょう。
悪徳にマヒし、精神は堕落、というよりも、失っていたのです。
だからどうして自分が責められているか理解できないでいるでしょう。

今回の関電事件は、そうしたことをとてもわかりやすく教えてくれます。
腐敗がなければ権力は生まれません。
ではなぜ腐敗が是認されるのか。
それは、人は腐敗に惹かれるからではないかと思います。
そして、多くの人は権力を望み、それが無理ならそのおこぼれに預かろうと思う。
「おこぼれ」は、多くの場合、割には合わないはずですが、罪悪感をあまり持たずに済むところで、人はだまされてしまう。

権力は腐敗しません。
腐敗はさらに強固になり増殖していく。
その汚染から身を守るのは権力に近づかないことかもしれません。
決して黄金の入った菓子箱などを欲しいなどと思わないことです。

しかし、うっかり受け取ってしまうことがあるのが現代です。
「贈与」の恐ろしさを、改めて考えなければいけません。

 

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2019/09/29

■ネット時代の人とのつながりの脆さを補完する場としてのサロン

湯島で開催しているサロンの参加者のメーリングリストをつくっています。
2015
5月に立ち上げたので、それ以前の参加者は含まれていませんし、最初は全員ではなく、数回来た人だけを対象にしていました。

現在、登録者は400人強で、投稿数も1300件を超えています。
ところがこのメーリングリスト・サービスが年内で終了というので、別のメーリングリストに移行しなければいけなくなり、1週間かけて移転作業をしていました。

移転途中に、無効になったアドレスを見つけたり、なぜか移行できないアドレスが見つかったり、システム上の理由で配信が止められていたりしているのが見つかりました。
ネット時代の人のつながりの脆さを感じました。

昨年末、自宅と湯島のパソコンが同時にクラッシュしてしまいました。
友人に修理してもらい、いまは2つとも復元していますが、メールアドレス帳がうまく修復できませんでした。
そのため今もとても不便をしていて、アドレスがすぐには見つからないことがあります。

2台のパソコンがいつまたクラッシュするかの不安があるので、今月安全のためにもう1台、新しいパソコンを購入しました。
ところがまたシステムが変わっていて、メールソフトを変えなければいけないようです。
いまはwindows liveを使用していますが、パソコンがoutlookを薦めているのです。

ネット通信はワープロ通信以来始めてから35年ほど経過します。
次第にネットつながりの交流が主軸になり、メールをやらない人との付き合いは疎遠になりました。
つまり付き合う人が変わってきてしまいました。

ネットでの交流は気軽に維持できますが、パソコンを変えたり、相手がアドレスを変えたりして、気づかないままに付き合いが切れていることも少なくありません。
フェイスブックができたとき、ようやく、人とのつながりを永続できると思いました。
ところがフェイスブックをやる人が意外と増えませんでした。
それにフェイスブックでも、縁が切れることを知りました。
いまも毎月1人くらいがいつの間にか友だちつながりから消えています。
誰がいなくなったのか、わからないのがちょっと気になります。

ネットのつながりは極めて便利で負担もなく、私の好きな「ゆるやかなつながり」を維持できます。
しかし、その一方で、とても脆いものだとも思い知らされています。
その脆さを補完するために、リアルなみんなの空間もつくりたいと思い始めたのが湯島のサロンです。

私はメールアドレスも30年以上変えていませんが、湯島のオフィスの場も30年以上動いていません。
そのおかげで、20数年ぶりに訪ねてくる人もいます。
コミュニティには、変わらない存在が不可欠です。

湯島を維持する資金繰りのめどはまだ立ちませんが、ネットコミュニティのためのリアルな空間を目指したいと思っています。
ネットでのつながりの脆さを補完するリアルな場は、やはり大切です。

10月から湯島のサロンの名称を「CWSサロン」に改称し、そこから生まれるコミュニティを「CWSコモンズ村」と呼ぶことにしようと思います。
CWSコモンズ村は一度、立ち上げたことがありますが、妻の病気もあって頓挫してしまいました。
立ち上げ時に徴収した入村税も、村長の私がお金に困って勝手に使ってしまったので(一応、村の維持のための使途ですが)、またゼロからの再出発です。

CWSコモンズ村をどう展開していくか、いまはまだ模索中です。
一度、これをテーマにサロンをしてみようかと思っていますが、まだ私自身の覚悟ができていません。
困ったものですが。

 

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2019/09/26

■大切なのは感動することではなく、生き方を変えること

国連の温暖化対策サミットで、16歳のグレタさんが、空っぽの言葉で語り合っているあなた方を信じないとスピーチをしたことが、世界中で話題になっています。

私もテレビで見て、ネットでスピーチを読みました。
以前からグレタさんの発言には共感していましたが、実際にグレタさんの表情を見て、これまでとは全く違ったものを感じました。
そう感じた人は少なくないようで、フェイスブックでもグレタさんがたくさん取り上げられています。

しかし、この光景はこれまでも何回も見てきたような気がします。
にもかかわらず何も変わっていない。
どこかに問題がある、と私はつい思ってしまうのです。

グレタさんは、感動を与えたくてスピーチしたわけではないでしょう。
彼女は自らの生きる世界を変えたいと思っている。
感動してもらっても彼女はよろこばない。

彼女が望んでいるのは、空っぽの言葉だけで生きている私たちが、生き方を変えることでしょう。
「空っぽの言葉」で生きている人たちやジャーナリストが、グレタさんの言葉までも「空っぽの言葉」にしてしまうことは避けたいです。
これまで繰り返し私たちがそうしてきたように。

彼女が呼びかけているのは、「誰か」にではなく「私」になのです。
そうであれば、彼女のスピーチに「感動」するのではなく、「反省」し、生き方を変えるべきでしょう。
彼女が信じていないのは、トランプさんや安倍さんだけではなく、空っぽの言葉で語り合っている私たちなのです。

同情するよりも金をくれという言葉がはやったことがありますが、グレタさんもまた、感動するよりも生き方を変えてくれと言っている。
彼女の鋭い呼びかけは自分に向けられている、ということに気づかない人たちがいくら感動しても世界は変わらない。
ましてや、感動を他者に伝えても何も生まれない。
感動をする前に、私たちは、自らの生き方を顧みることが大切です。

まずは自らでしっかりと受け止めなければならない、と私は思います。
そして、できることから始めようと思います。
できることは山のようにありますから。

 

 

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2019/09/13

■社会保障への懸念

こんな記事が目につきました。

安倍首相は第4次内閣発足の記者会見で、社会保障改革について「社会保障全般にわたる改革を進める。令和の時代の社会保障の制度を大胆に構想していく」と述べ、全世代型社会保障検討会議検討会議の初会合を来週にも開催する考えを示した。

社会保障制度の構想変革を安倍政権の手に任せることに、大きな不安を感じます。

それはともかく、最近、社会保障政策にもいささかの懸念を感じています。
湯島では、「贈与」をテーマにしたサロンを継続的にやっていますが、「贈与」の概念が大きく変わりだしているのが気になっているのです。

フランスの人類学者のモーリス・ゴドリエが20年以上前に書いた「贈与の謎」と言う本があります。
難解で、私にはあまり消化できないのですが、その本を最近また読み直しました。
その本にこんな文章が出てきます。

日本では、贈与交換の慣行が千年紀にもわたって伝統的に社会のあらゆる階層で尊重され、各人の人生で重要な役割を演じてきた。人生の大事件(誕生、結婚、家の新築、死亡等)や新年、中元、歳暮には、贈り物が欠かせなかった。

つまり、贈与は「人のつながり」と一体なのです。
私がイメージする贈与の基本はこういうことなのですが、最近はこの慣行もなくなりつつあります。
代わって盛んになっているのが、社会保障です。

社会保障は、国家による国民への贈与です。
それは国民によって形成されている国家の重要な役割です。
しかし、注意しなければいけないのは、それは個人の事情とは無縁に脱人格的に行われがちなことです。

モースの「贈与論」以来、贈与は返礼を義務化するとされています。
ゴドリエは、「受贈者は、贈与者の債務者となり、ある程度まで、少なくとも与えられた物に《お返し》をしない間は従属していることになる」と書いています。
つまり、贈与は「負債」を創出するのです。

いいかえれば、社会保障は国民を負債者にしていくというわけです。
とても考えさせられる話です。
負債者は、なかなか主体的・自立的に言動できなくなりがちです。

NPO活動をしている友人からこんな主旨のメールをもらったことがあります。

昨今の社会では、統治者から評価されることを自らの地位の向上や実利と考えて、統治側に寄ることをいとわないことが多い。NPOでも同じことが起こります。行政の末端(委託事業、委員会メンバー等)になったほうが有名になり経済的に安定します。

その方は、そうした誘惑に抗いながら、真摯に活動されていますが、個人としてはともかく、組織としては難しい問題でしょう。

「贈与の謎」にはこんな文章もあります。

社会を再構成し、溝を埋め、亀裂を修復するのが国家の役目のはずだが、国家はその仕事を十分に果していない。まさにこの矛盾と無能の結節点から、今日新たにあちこちで、だんだんと贈与に訴える状況が生じてきている。
この状況から、広く贈与と分配の的となる《住所不定の》個人が増えている。贈与の需要が供給を呼びおこし、ついで組織化されはじめる。思いやり食堂からスーパーマーケットの募金まで、寛大で連帯愛に満ちた潜在的贈与者に、直接現金ではないまでも、そのお金で買ったものや自分の消費に予定していたものの分配を要請する無数の《慈善》組織が現われてきた。

そういう状況は、いまの日本でも広がっています。
そして、それは政府による「社会保障制度」とも深くつながっています。

社会保障といわれると、その内容も吟味せずに、多くの人は歓迎します。
しかし、それによって失うものも忘れてはいけません。

ちなみに、私が大切にしている「布施」は、「純粋の贈与」とも言われています。
私の理解では、贈与と布施は主体が違います。
「贈与」は贈与者が主役ですが、「布施」は受贈者が主役です。
行為の意味は真逆なのではないかと思いますが、なかなか見えてこないことが多いのです。



 

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2019/08/28

■老後の生活費が2000万円不足するという発想

公的年金の将来の見通しを示す年金財政検証の結果が、昨日、厚生労働省から発表されました。
テレビや新聞でその内容が報道されていますが、それを聞いたり読んだりしても、何がなんだかさっぱりわかりません。
というよりも、わからないように発表したり報道したりしているのではないかとさえ勘ぐりたくなります。

今回の消費税増税のやり方もそうですが、何が何だかわからなくしてしまって、考えたり反論したりするのをあきらめさせるのが、最近の政府のやり方です。
それを未消化のまま、報道するマスコミやキャスターには驚きます。
話していて、書いていて、おかしいと思わないはずはないのですが。

それはともかく、私が一番気になっているのは、金融庁審議会報告書をきっかけに騒がれ出している「老後の生活費が2千万円不足する」という世間の動きです。
テレビでもそれを前提に番組が組まれ、多くの人がそう考えてきているようですが、そこにこそ、私は大きな違和感を持ちます。

老後の生活費が不足するのであれば、その格差をどう埋めればいいのか
その問題が、すぐに「不足する2000万円をどうやって確保していくか」という問題にすり替わってしまうことに違和感を持つのです。
これではまるで、餌をもらって生きている家畜の発想です。
そういう生き方を変えればいいだけの話なのではないか。

そもそもお金がなければ生きていけないようになったのは、たかだかこの数十年の話です。
私はそういう社会こそがおかしいと思っています。
お金がすべてのいまの社会はおかしいという人は、私の周りにも少なくありません。
そうであれば、その「おかしな生き方」を捨てればいいだけの話ですが、そういう論を説く人に限って、生き方を変えようとはしていないようにも感じます。

最近では、人間が、生活者ではなく「(お金の)消費者」になってしまった。
これに関してはこれまで何回か書いてきていますので、繰り返しませんが、そういうお金を基準にした生き方から抜け出さない限り、生活は取り戻せません。

そもそも、本当に不足するのは2000万円なのでしょうか。
お金があれば、老後の生活は安心なのでしょうか。
解決すべきは、老後の生活をどう豊かにするかであって、2000万円をどう確保するかではないでしょう。
問題は、2000万円不足するということではなく、保証された年金額でどう豊かな生活を維持できるかではないでしょうか。

豊かな生活は、金銭だけでは実現しません。
にもかかわらず、金銭だけに依存している今の生活を見直すことの方が大切ではないか。
多くの人がそういう考えを持ち出せば、社会もまた変わっていくでしょう。

大切なことは、金銭への生活依存度を最小化していくような生き方の見直しではないのか。
問題は老後の生活ではなくて、いまの生活なのです。

お金から自由になると、たぶん生活は豊かになります。
しかし、時間はかかるでしょう。
私の場合は、20年以上かかってもまだお金からは自由になれていません。
しかし、不十分でも自らが納得できる方向に向かって、少しでも動き出さねば、何も変わりません。

ちなみにいま2000万円あれば、湯島のサロンもずっと続けられるので、2000万円は欲しい気もしますが。

 

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2019/08/20

■仏教サロンを始めたくなりました

昨日、挽歌編に書きましたが、日曜の朝、Eテレの「こころの時代」の禅シリーズを見てしまいました。
岐阜正眼寺の山川宗玄さん(正眼僧堂師家)が禅について語ってくれるシリーズです。
毎月1回の放映でまだ5回目。まとめてみようと思って録画しているのですが、うっかり5回目を見てしまいました。

思っていた内容と全く違っていて、引き込まれてしまいました。
それで、今日、録画していた4回分をすべて見てしまいました。
ますます山川宗玄さんの話に引きこまれてしまいました。
個人的体験をベースにしたお話は、禅には不案内な私にも素直に心に入ってきました。
テキストも出ていますので、お薦めです。
https://www4.nhk.or.jp/kokoro/33/

実は数日前から、あれほど楽しみだった畑に行く気が失せてしまっています。
手が負えなくなったという状況もあるのですが、なぜか畑が私を拒否しだしているのです。
理由はわからないのですが、歓迎されていないのがよくわかります。
山川宗玄さんの話を聴いて、まだまだ私が自分本位で行動していることを思い知らされました。
山川宗玄さんの生き方を学ばねばいけません。

それにしても、誠実に生きている人の人生は豊かで、示唆に富んでいる。
山川宗玄さんにお会いできる自信はありませんが、せめて著作だけでも少し読んでみようと思います。
東京でお話を聴けるような場があれば、教えてください。
7月にチャンスがあったようですが、くづくのが遅かったです。

どなたか「正法眼蔵」を解説するサロンをやってくれる人はいないでしょうか。

仏教関係の本ではもう一冊、ちょっと気になっているのが、曹洞宗の南直哉さんの「超越と実存 「無常」をめぐる仏教史」です。
どなたか読まれた方はいないでしょうか。
「無常」を語ってくれるサロンをやってくれる人がいるとうれしいです。

改めて仏教を考え直したくなっています。
僧籍を持った友人は多いのですが、考えてみたら、仏教をテーマにしたサロンはあまりやってきていません。

どなたかお願いできませんか。

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2019/08/02

■権力は腐敗する、のではありません

猛暑なのでできるだけ外出を控えていましたが、今朝は畑に行ってしまいました。
暫らく行けていなかったので、野草が猛威を振るっているのです。

 早朝1時間ですが、格闘してきました。
帰宅してシャワーを浴びましたが、汗が止まりません。
汗が異様に出るのは熱中症だと娘に言われ、しばらく冷房のある部屋で静かにしていました。
ついでに録画してあったテレビドラマを観ました。
「サイン」。法医学者のドラマです。

 こんな会話が出てきました。
「権力は腐敗する」
「組織が人を腐敗させる」

 私も以前はそう思っていました。
しかし、たぶんこの言葉は間違っていると最近は考えるようになりました。
いまはこう思っています。
腐敗が権力を生み出す。
人が組織を腐敗させる。

権力を避けている山本太郎さんの生き方には学ばされます。
権力とは腐敗の同義語です。
組織も権力と同義語かもしれません。

 念のために言えば、権力や組織を否定しているのではありません。
腐敗と同義語であることをしっかりと認識しておくことが大切だということです。
権力が腐敗する、のではなく、権力とはそもそも腐っているのです。

ちなみに、テレビドラマ「サイン」は面白いです。
組織の上に立たないと自分の思いは実現できないという「出世主義者」と出世よりも信念の実現を目指している人との対立が、物語の軸になっています。
来週で終わるようですが、そこでの人間模様に共感しながら観ています。

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2019/07/17

■人との関係で学び合い、人との関係を生きる

私は、学ぶとは他者、他者には自然なども入るのですが、他者との関係において自らが変わることであり、生きるとは他者に、これもまた自然も入るのですが、迷惑をかけるとともに役に立っていく、つまり価値を与えることだと考えています。
学ぶことも生きることも、他者との関係を変えていくことといってもいい。
そして、実際にそういう生き方をずっと続けています。

学ぶことと知識を得ることは同じではありません。
なにかを学び、わかるということは、自らの言動が変わること。つまり、生き方が変わることです。
もし生き方に変化がないとしたら、それは学んだことにはならない。
知識や情報には触れたかもしれないが、わかったとか学んだとは言えません。
それが私の考えです。

ある知識を知ったかどうかで、世界の風景は変わってきます。
それはみなさんも体験していることでしょう。
世界の風景が変われば、おのずと行動は変わっていくでしょう。

というよりも、あることを知ったら、必ず生き方は影響を受けるはずです。
何も変化がなければ、それは学んだとは言えない。
学ぶとか知るということは、生き方につながっているということです。

しかし、一人でできることには限界があります。
そこで、「共に」ということが意味を持ってくる。

共に学ぶとは、学びの視点を豊かにすることであり、生き方を変えていく力が大きくなるということでもあります。
学ぶとか生きることが、豊かになっていくために「共に」が大切なのです。
一人だけで学んでいることは、他者との関係の中で生きている私には実際にはできないことですが、意図して「共に」を指向しないと独りよがりの「学び」に陥りやすいような気がします。

これが、私が長年、湯島でサロンをやっている理由の一つです。
さまざまな人の話を聞き、さまざまな人の生き方に触れていく。
その過程で自分の考えや行動が相対化され、そして実践のヒントが得られる。
一人で学ぶよりも、仲間と学び合うほうがいろんな意味で効果的です。

自分と社会がしっかりとつながっていること、それが私の考える社会性、市民性です。
自分が変わると相手も変わる。社会も変わる。
自分と社会は連動しています。そして社会では常に何かが変わっています。
つまり社会や人間関係は常に変化していますから、そこにつながっている自分もまた常に変わっているはずです。

逆に、考えを固定させていると社会との関係、他者との関係に齟齬をきたしていく。
だから時代の動きの中で、自らを常に変えていかないと自らのアイデンティティを保てない。
変わることは変わらないことなのです。

変わらない自分にこだわっていると、常に変化し続けている社会との位置づけが変化し、取り残されてしまい、生きているとは言えなくなる。
自分を大事にするためにも、常に変わっていく必要がある。
そこに学ぶ意味がある。

これは先日のある集まりで話したことです。
話すよりも文字にした方が伝わりやすい気がして、少し丁寧に書いてみました。

現在の選挙で、山本太郎さんが風を起こしています。
彼は、共に学び共に生きるを実践しているように感じます。
危うさは強く感じますが、風は挫折を通じて、本当の風になっていくことが多いので、その先を感じられます。

ところで、湯島のサロンの意味を話し合うサロンをやりたくなりました。
湯島ではこれまでも毎年1回だけ私が話させてもらうサロンがあります。
最近は、「政治パラダイムの転回」「経済パラダイムの転回」そして「生き方の転回」をテーマにしてきましたが、参加者に伝わった実感が持てないので、今年は「サロン」をテーマにしようと思います。
例年は12月開催でしたが、今年は8月下旬を想定しています。
その頃は、山本太郎現象の実体も少し見えてきていると思いますし。

いま気づきましたが、山本太郎現象をテーマにしたサロンのほうがいいかもしれません。
ついでにそれもやりたくなりました。
どなたか問題提起してくれる人はいませんか。

 

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