カテゴリー「生き方の話」の記事

2023/12/01

■がん民間療法体験その後

50回にわたるがん民間療法体験報告の後、わけのわからないWFC報告になってしまい、ある人からその後、一体どうなったのか気になると問い合わせられてしまいました。
それでその後の報告を簡単に。

結局、まだ40日奇跡プロジェクト期間とほぼ同じ生活を続けています。
困ったものですが。

さまざまな民間療法はかなり緩やかにですが継続しています。
朝晩のヒートマットと水素吸入と座禅でのワルサくん(がん細胞)とのコミュニケーション行為は続けています。
水素風呂も1週間ほど休止しましたが復活しています。
高価なサプリメントはいまも採用していません。

標準医療ですが、重粒子治療は早くて4月以降というので申し込みを止めました。摘出手術はやめて、近くの癌研センターで陽子線治療を中心に考えようと思っていますが、まだ行っていません。126日の主治医との相談で決める予定です。

体調は全くと言っていいほど異常なしで、相変わらず病人だという自覚は皆無です。
むしろ民間療法のおかげで、基礎体温は36.4度に上昇。体重も安定しています。
一時期、骨への転移を不安がらせていた腰痛も弱まっています。

今も時々、心配して見舞いがてらやってくる人もいますが、私が元気そうなのでちょっとがっかり?してしまうほどです。

ワルサくんとの関係はとてもよくなって、最近は一緒にこの状況を変えようという関係になったと実感しています。今朝の座禅時には、ワルサくんからの声が聞こえたような気さえしました。

5日後の126日には主治医からの判定が下されると思います。
今度こそどういう結果であろうと転院を考えるつもりですが、民間医療はもちろん継続します。

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2023/11/28

■WFC4:人は孤独によって死ぬ

ワルサくんとの「コミュニケーション」は、毎日、試みていますが、状況は大きく変化してきています。問題の立て方が間違っていたような気がして、「ワルサ・ファースト・コンタクト」という名称も、前立腺がん対策という目的も、見直した方がいいかもしれません。私の中では、深化しているのですが、読者の関心とはかなりずれてしまってきているので報告を続けるべきかも迷います。

たとえば、2日前のワルサくんとのテーマは「人は孤独によって死ぬ」という話です。ワルサくんも孤独なのではないかという思いが強まっているとともに、人は病気ではなく孤独で死ぬのかもしれないという思いが浮かんできています。
まあこんな話を書いても、ピンと来る人はいないかもしれません。

4日前に友人が、心理学者のデニス・プロフィットの「なぜ世界はそう見えるのか」(白揚社)を貸してくれました。翌日、一気に読んでしまいました。
友人は、環世界やアフォーダンスの話題に関連して、私にこの本を紹介してくれたのですが、私はそのなかに出てきた「つながり」とか「ふれあい」に引き付けられました。
いささか強引な言い方ですが、ワルサくんとの関係の話のキーワードかもしれないと感じたのです。

「人は孤独によって死ぬ」という文章は、そこに出てくる文章です。
そこに20世紀初頭に話題になった孤児院での乳幼児の高い死亡率の話が出てきました。いわゆる「ホスピタリズム(施設症)」です。
こういう説明が続いていました。「単に十分なカロリーを摂取し、保温がなされ、生存の必須条件が満たされただけでは、人間の乳児は成長できない。乳児が成長するためには、情緒的・社会的滋養も不可欠なのである」。

認知症予防ゲームの普及に取り組んでいたころ、「ユマニチュード」というのが話題になり、私も関連図書を読んでみました。何のことはない、それは要するに「ふれあいこそが認知症を防ぐ」という、生活の知恵の話で、きちんと生活している人ならだれでもわかっている(しかしほとんどの人がまじめにやっていない)「人の付き合い方」をしているだけでした。

乳幼児の死亡率も、高齢者の認知症発症率も、「人とのふれあい」に大きく影響されているのです。同じように、自殺率や病死率も、「人とのふれあい」と関連があるのではないかという思いが、ワルサくんとのコミュニケーションタイムに浮かんできたのです。

コミュニケーションタイムと書きましたが、最近のワルサくんタイムの時には、主語がワルサくんになっていることが増えています。
ワルサくんもまた私の一部ですから、ワルサくんを主語に思考することは、私にもできる。それに気づいたのです。そしてそうやってみると世界は違って見えてきます。

うまく書けないのがもどかしいですが、何しろ毎日、朝晩ワルサくんと一緒にいるので、いろんなことが頭に浮かんでくるのです。
今日は、その中で、病気を起こすのも人なら病気を治すのも人だということを伝えたかったのです。
そして、同時に、「ふれあい」の大切さです。

私のなかにいる前立腺がんにどう対処するか、まだ決めかねていますが、いずれにしろ大切なのは、ふれあいの大切さです。
もし私のワルサくんが、暴走を止めるとしたら、それは私が取り組んできている「民間療法」ではなく、私のことを気にしていてくださる友人たちの思いなのでしょう。

昨日の湯島のサロンにも、サロンの前にある友人がやってきて、私がきちんと前立腺がんに向き合っていないのではないかと真顔で問いただしてくるのです。
なんでそんなに心配してくれるのか、とつい言ってしまいましたが、ここは素直に感謝すべきところでしょう。

ワルサくんも含めて、みんな私のことを心配してくれている。
そうであれば、私もまた、みんなのことを心配しなければいけません。
そして、そうしたつながりやふれあいがあって、孤独でないのなら、私は死ぬことはないのです。
「人は孤独によって死ぬ」のですから、「孤独でないと人は死なない」のです。
事実、ソクラテスはいまも生きている。
「ふれあい」を大事にした宮沢賢治は、いまもますます元気に生きている。

ワルサくんとのコミュニケーションはどこに行くのかわからなくなってきてしまいました。
でも今朝も30分、ワルサくんとの対話をしていました。まあ、ワルサくんに私の本体をとられてしまったとも言えなくはないのですが。

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2023/11/23

■WFC3:ワルサモデルの普遍性

今朝のワルサくんへの呼びかけなかで、ワルサモデルの普遍性という言葉が突然浮かんできました。
そして、ワルサくんのモデルで考えると、いろんなことは見えてくるような気がしたのです。
そんなことを考えていたら、30分どころか、今朝は1時間近く、ワルサくんと付き合っていました。
でもいろんなことが見えてきたような気がします。
もっとも私自身の前立腺がんのゆくえは、ますます混迷していしまっていますが。

ワルサモデルとは、個と全体を垂直的にはではなく並列的に捉え、相克的ではなく相乗的な関係で考える発想です。基本にあるのは「全即一・一即全」という考えです。これは私の考えの基本にある理念の一つですが、ワルサモデルは、まさにその一つの切り口なのだと気づかされたのです。
ワルサくんは私であり、私はワルサくんである、と考えれば、解決策が見えてくる。

こうしたモデルは、たとえば昨日書いた家族問題や組織問題に当てはまりますし、私が取り組んでいた自殺予防やコモンズやケアの問題にも有効です。
今朝はそうしたこれまでの経験からいくつかの例を思い出していたのですが、多くの事例が見事にワルサモデルに当てはまるのです。

もっと一般的な事例を出せば、たとえば秋葉原無差別殺人事件を起こした加藤さん。彼をワルサくんに重ねて考えてみれば、私がどうワルサくんと付き合えばいいかのヒントがある。逆に言えば、ワルサモデルで考えれば、そうした無差別殺人事件や、さらにはテロ事件の解決に向けてのヒントが得られるかもしれません。
というわけで、「ワルサモデルの普遍性」などと大仰な物言いをしてしまったのです。

ワルサモデルの発想に基づけば、ワルサくんに呼び掛けるのではなく、ワルサくんに耳を傾けることであり、ワルサくんに対して「求める」のではなく、何を「与えられる」のかを考えなければいけないのです。
正すべきは、私にあって、ワルサくんにはない。

「ひきこもり」「不登校」「DV」「いじめ」「テロリズム」…などなど、ワルサモデルで考えると違った状況が見えてきて、解決策のヒントが得られるのではないか。
ウクライナにしろガザにしろミャンマーにしろ、アルゼンチンにしろ、私たちが見えている風景は、どこか違っているのではないか。

今朝は、ワルサくんからたくさんの気づきをもらった気がします。
そもそも「ファーストコンタクト」などとはしゃいでいる場合ではないのです。

それにしても何か最初の意図と違った方向に動いているような気がして、いささか不安です。
そういえば、昨日は直前になって、病院に行くのを止めてしまいました。
揺れ動いている自分が、いささか情けない。

しかし、人間は、いやな問題からは逃げたくなるものです。
でももしかしたら、ワルサくんはそうではないかもしれません。
もっと耳を傾けなければいけないのでしょう。

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2023/11/22

■WFC2:ワルサくんと私の関係

ワルサプロジェクトは難航しています。
ワルサくんに毎日、2回、30分近く呼びかけていますが、まだ交流している実感がやってきません。
しかし、いろんな気づきはやってきています。
ただ残念ながら、がんとはあまり関係のない気づきばかりなのですが。

たとえば、こんな感じです。
そもそもワルサくんは、呼びかけている私の一部なのかそうでないのか。
一部だとしたら、呼びかけているのもワルサくんということになる。
もちろん「全体」が「要素」に対して呼びかけるということはある。
ですから、仮にワルサくんが私の一部であっても、おかしくはない。

でもその場合、ワルサくんにとって「私」とは一体何なのか。
あるいは、「ワルサくん」は私にとって一体何なのか。
つまりそう考えていくと、私がワルサくんを疎外していることになる。これは「いじめ」ともいえるでしょう。「ワルサくん」はそうした自分を無視している私に対して異議申し立てしているのかもしれません。

でも、これってどこかで聞いたような話ではないのか。
たとえば、家庭や会社、あるいは村の掟?

たとえば、家庭内DVとか親子の断絶、あるいは「ひきこもり」や「いじめ」。
会社でのいじめやメンタルダウン。
そういう話にどこか通じていないでしょうか。

書き出すと長くなるので、やめますが、逆にそうした視点から改めてワルサくんとのコミュニケーションのことを考えると、いろんなことに気づくのです。
そして、実はもうコミュニケーションしているにもかかわらず、私がそれに気づいていないだけではないかなどと思ってしまうのです。

ちなみにワルサくんのイメージですが、次第に丸っこくなってきています。
温和な表情を感ずることも多くなった。

まあそれがどうしたと言われそうですが。

でもまあこのプロジェクトは、自分でもまだあまり理解できていません。
でも始めた以上はもう少し試みようと思います。

しかし、その一方で、こんなことをやっていていいのだろうかと時々不安になるのも事実です。
今日は午後、病院に行って、主治医と治療方針に関して相談する予定です。
とても気が重く、押しつぶされそうです。

困ったものですが。

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2023/11/17

■WFC1:ファーストコンタクトの魅力

以前、「プロジェクト・ヘイル・メアリー」に関しては紹介したことがありますが、この作品は異星人との「ファーストコンタクト」を扱ったSFです。
最初はお互いにおっかなびっくりですが、次第に心が通じ合う。
生命の本質を考えさせられるとともに、素朴な人間性を思い出させてくれます。
知識膨れしてしまった現代人が、失ってしまった知性にも気づかせてくれる。
そんな作品です。
少し前に話題になった中国のSF作品の「三体」も「ファーストコンタクト」ものですが、それとは全く違って、ともかくあったかくなる。

「ファーストコンタクト」には、何とも言えない魅力がある。
特に、自らを相対化できる知性のある人には、魅力的なはずです。何しろ世界が次元を超えて広がるのですから。今の自分が否定されるほど、知的な出合いはないでしょう。

だとしたら、ワルサくんとのファーストコンタクトも、魅力的な事件に違いありません。
せっかく遭遇したファーストコンタクトの機会は、活かさなければもったいない。
そう思ったのが、今回、「ワルサくんとのファーストコンタクト(WFC)プロジェクト」に取り組もうと思った動機です。
いつもながら、突然の思い付きでしかありませんが、突然やってくるのが「ファーストコンタクト」です。いつもなら、見逃しているのでしょうが、今回は幸いに気づいたのです。

新たなコミュニケーションを生み出すには、相手のことをしっかりと知らなければいけません。相手を理解したうえで話しかけないといけない。
でも、私には、生物学的にも病理学的にも、がん細胞に関する知識はほぼ皆無です。
果たして、がん細胞とコミュニケーションなどできるのか。
この試みの話をしたら、細菌学の大学教授だった友人が、こんなメールをくれました。

がん細胞にとっての本来の環境が用意されれば、癌も体に悪いことをしなくなるのではと思います。これは医系の人には持ちにくい発想ですが。

もしそうなら、がん細胞にとっての「本来の環境」を一緒に考えようと呼びかければいい。そして、がん細胞とは別の私にできることを一緒に考えればいい。
もしかしたら、ワルサくんと私とがシェアできることがあるかもしれません。
もしないとしたら、お互いに思いを出し合って、シェアできる目標を創り出せばいい。でも、まずは、相手とつながらないといけません。そのためにも、ワルサくんも私なのだと気づいてもらわないといけない。それに気づけば。身体的にはつながっているのですから、思いもつながれるはずです。
いやすでに私の思いの一部に、すでにワルサくんの思いがもう既に含まれているのかもしれません。
だから摘出手術に抗って、治療を延ばしているのかもしれません。

こういう風に考えていくと、なんだかわけがわからなくなる。
でもまあ、まずは、そんなことを考えずに、ともかく私からワルサくんに向かって呼びかけを送り続ける予定です。

まるでオズマ計画のように途方もないプロジェクトです。
オズマ計画と違って、呼びかける相手は確実に存在し、しかも私の身体の中にいる。でもワルサ計画の時空間は、オズマ計画の時空間とは異質です。オズマ計画よりももっと壮大な試みのような気もします。

残念ながら今朝の30分の呼びかけにはまったく反応なしです。

それにしても、ワルサくんとはいったいどんな存在なのか。
なんだか少しまたワクワクしてきました。
でも注意しないとますます独りよがりのプロジェクトになりそうです。
困ったものですが。

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2023/11/16

■「ワルサくんファーストコンタクト・プロジェクト」始動

今日から、「ワルサくんファーストコンタクト・プロジェクト」、略して「WFCプロジェクト」に取り組むことにしました。
「ワルサくん」とは、最近、私の中で生まれた前立腺がんのがん細胞です。

これまで「40日奇跡プロジェクト」で、がん細胞の暴走を止めるように働きかけてきましたが、そこで目指した「奇跡」は起きませんでした。
奇跡が起きないのには、それなりの理由があるでしょう。
それを考えているうちに気づいたのが、がん細胞もまた、私の一部ではないかという当然の事実です。
そこで欠けていたのは、がん細胞とのコミュニケーションです。

まずがん細胞に名前を付けることからはじめることにしました。
いろいろと考えて「ワルサくん」と名付けました。
ある友人は、「ワルサ」には相手を敵視する意味合いがあるのでよくないと言ってくれましたが、私にとっての「ワルサ(悪さ)」は、どちらかと言えば、いい意味なのです。
私の生き方の根底にあるのは、常識や秩序に「盲従」するのではなく、そこにちょっとした「ワルサ」を働きかけることで、よりゆたかな常識や秩序を生み出すという考えだからです。そういう姿勢でずっと生きてきています。

まあ、そんなわけで、3日前から、毎朝、30分、ワルサくんへの呼びかけを始めています。残念ながらまだワルサくんからの反応はありません。
それでこれから「40日奇跡プロジェクト」に代わって、「ワルサくんとのファーストコンタクト」、略して「FCプロジェクト」に取り組むことにしました。
さて今度は結果を出せるでしょうか。

また時々、勝手に報告しますが、まず「ワルサくん」が私に与えてくれたことを考え直しています。
「ワルサくん」は、私に「不安」を与え、日常生活のリズムを壊し、ほかにもいろんな迷惑を与えていますが、よく考えてみると、同時にたくさんの「いいこと」も与えてくれています。

たとえば、私の食生活は改善され、最近は胃腸の調子もとてもいいです。私のまわりにあるコミュニティも可視化されました。私が考えていたコミュニティとはだいぶ違っていました。思ってもいなかった人との交流に気づいたり、あまり意識していなかった自分のことが少し見えたり、「ワルサくん」に感謝しなければいけないこともたくさんあります。

しかし、まずは「ワルサくん」との交流の手口を見つけなければいけません。
まさにこれは、「ファーストコンタクト」プロジェクトなのです。
「ワルサくん」と交流するには、「ワルサくん」をイメージしなければいけません。
いろんなイメージが浮かんできますが、いまは、「プロジェクト・ヘイル・メアリー」のエイリアンのロッキーを想定しています。ロッキーの性格は好きですし。
と言っても、ロッキーにもまだ会ったことがないので、イメージはまだ変転しています。

40日奇跡プロジェクト」よりも難題かもしれません。

 

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2023/09/15

■癌診断を受けての体験と私見10:癌はやはり人騒がせな病気です

実は昨日、民間癌療法をテーマにしたサロンを開催することを思いつき、案内を出しました。
すぐに3人の人から真面目な参加申し込みがありました。私の趣旨を多分すぐ理解してくれたのでしょう。
ビジネス関係はお断りと書いたのですが、そういう関係者からも申し込みがあり、サロンの前に私に特別に無料で施術してもいいと言ってきてくれました。
お気持ちはありがたいのですが(悪意は皆無なのは確実です)、特別に、とか、お代はいらないとかいう発想は私にはまったく向いていません。そういう発想は基本的に生理的にノーなのです。その方の好意は辞退させてもらいましたが、たぶん私の思いは伝わっていないでしょう。

もうひとり、ともかく私に手術をさせたくないと言って、会いに来てくれた人がいます。それもこれを1~2か月試みて癌が消えたら手術をしないで済むでしょうと高価な装置まで持参し、ともかく使ってみてほしいというのです。これだけ聞くとなにやら悪徳商法の売り込みのような気がしますが、その人はそういう人ではないのです。
まあ長く人生を続けていると、そういう区別はつけられるのです。時々、いやしばしば間違えることもありますが、まあ人間ですから。。
彼女はずっとそれを自分で使用し、癌ではないですが、いろんな意味での免疫が向上したので、その効果には確信を持っているのです。そしてともかく私の免疫を高め、手術の魔手から守ってやろうというわけです。
彼女は抗癌治療に踏み出せば、元に戻れなくなると、自分の両親などの体験から確信しているのです。だからともかく抗癌治療の開始の先延ばしを勧めてくれるのです。その熱意にほだされたというか、結局、試すことにしました。

一方では、民間癌療法のサロンをやること自体に対しての非難も続いています。
さすがに私もムッとして、「御説はわかっていますので、もうあまり人に考えを押し付けるのを止めませんか」とコメントを返しましたが、ある意味では、費用まで負担して私にある処方を経験させようとしている人と私を非難し続ける人とは、同じなのです。
自分には何の得にもならないのに、そこまでコミットしてきてくれているのだからです。
人との関わりは、本当に不思議です。

癌は、いろんなことの気づかせてくれます。
癌と風邪とどこが違うのか、などと軽く考えたいと思っていましたが、それは難しい。
自分がどう考えていようと、癌というとやはりみんな身構えてしまう。
そして「自説」を強く押し出してくる。

今日は手術はやめようかなと思いだしているのですが、そんなことを兄に伝えたら、また大喧嘩になりかねない。
いやはや、癌はやはり人騒がせな病気なのです。
でもあんまり特別視するのはやめました。
「癌診断を受けての体験と私見」などともったいぶって、何かを書くのはやめることにします。
しばらくは「体内の癌」をなくす努力をしてみようと思います。
「思いやりネットワーク」という「菌根菌ネットワーク」動物版を確信しながら。

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2023/09/14

■癌診断を受けての体験と私見9:養生による免疫力の向上

私の前立腺がんの発見は8月7日ですので、もうそれから1月以上経過しています。
考えてみると、その間、いろいろと検査はやりましたが、治療は一切やっていません。
病気がわかっているのに、すぐには何の処置もしない。
それが癌治療の特色の一つかもしれません。
簡単に癌に効く薬などはないのでしょう。

癌だとわかったのだから、すぐに治療を始めるべきだという人がいます。たしかにそうですが、癌治療には副作用的な問題もありますから、そう簡単ではないのでしょう。
でも考えてみると、癌は何かと不思議な病気です。

そういえば、私の妻が胃がんになった時もそうでした。
手術をできるだけ早くしようということでしたが、それまでの間は特に何の対策もなかった気がします。
ただその時も、いろんな人がいろんなアドバイスを下さいました。
自分でできる「民間療法」にどうしても関心が行く。

いま思い出しても、いろんなことがありました。
正直、私はただおろおろするだけでした。その時に一番落ち着いていたのは妻でした。
いまとなって、あのときの妻の思いがようやく理解できました。

この間、私は全く治療していなかったわけではありません。
癌が判明してから、睡眠を十分にとるようにしています。
お風呂にゆったりと入り、疲れを残さないようにするのも、その一つです。
それが癌対策?と言われそうですが、私の病気治療の基本はいつもそこからです。

さらに詳しく状況が分かった時点からは、友人知人が勧めてくれた民間療法を採用しています。そんなのはインチキで即やめろというコメントもありましたが、人の親切をしっかりと受け入れるのも、私の養生策の一つなのです。
しかし、基本は、「心安らかにして、よく寝て(休んで)、きちんと食べて、楽しく暮らす」ことが私の養生策です。

病気を治すのは医師ではなく、自分です。
生命にはそれだけのパワーがある。もし治らなかったら、それもまた生命にとっての健全なあり方なのでしょう。そう思えば、おろおろする必要などない。

ただ、普段、いい加減に生きている私のような人間には、別の意味での「おろおろさ」は生まれることはある。きちんと生きていれば、おろおろすることなどないのです。
その意味で、病気は生き方を質してくれるいい機会なのです。

今回、改めてそのことを思い出させてくれたのです。
長くなったので、今回はここまで。

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2023/09/13

■癌診断を受けての体験と私見8:ガイドラインから外れた療法実験

私が前立腺癌だと知って、ある人が「前立腺癌診療ガイドライン」を送ってきてくれました。300ページ近い大部のものです。
もちろん私が読んでもわかるはずもない。私は、どうも資料集めが好きだと思われているようですが、実は文書を読むのがいたって苦手なのです。
本はよく読みますが、その読み方は、自分の興味のある部分を拾い読みするタイプなのです。ですから600ページの本も2日で読み終えられるのですが、それを果たして読んだと言えるかどうかは疑問です。
もちろん精読する本もありますが、それはよほど興味をひかれた場合です。

それはともかく、私は「ガイドライン医療」がどうも好きになれないのです。
でも医療訴訟が増えている状況では、医師側は自衛のためにどうしてもガイドラインに従わざるを得ないのでしょう。

数年前に友人が胃がんになり、セカンドオピニオンを聞きに行くことになりました。私にも同行してほしいというので同行しましたが、その時の「セカンドオピニオン」はほぼすべてガイドラインに従っていた気がします。
それではセカンドオピニオンの意味がないと思いました。

数年前に、知人が「医療制度改革の比較政治」(春風社)という本を出版しました。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#170618
それを読んで、近代医療の行く末を見てしまった感じでした。

以来、医師との付き合いは、すべてその医師の人間性だけを信ずるようにしています。
そしてそれは、いわゆる無駄話や話し方、あるいは態度から感じています。
言い換えれば医師の専門的な言葉は、あまり私は聞いていないのです。
むしろ横にいる看護師にはいろいろと訊きたいことがありますが、残念ながら今の日本の医療制度ではそれは難しい。

今回、いろんな人が「民間医療」と言われる対策をいろいろとアドバイスしてきてくれました。
そもそも近代西欧医療は、そうした民間療法からアイデアやヒントを得てきていますが、それゆえにこそ、今では民間療法を貶めるような姿勢を強めています。

もちろん民間医療にも、怪しいものが少なくありません。
なかには近代医療に真似て収益事業化しているものも多いような気がします。
しかし、私は常に体験の中にこそ真実があるという考えですので、民間療法を高く評価しています。だからと言って、それに無条件に従うわけではありません。なぜなら、病気とは各人各様の現れ方をするからです。友人には効果があったとしても、私には逆効果かもしれません。
でも、試してみないとわかりません。それに人生には危険はつきものです。ですから、どんな提案も、よほどのことがなければ私は一度はトライしようという生き方をしているのです。

今回はちょうどいい機会です。
私は今、癌を抱えていますが、医師からはこれからどういう治療をするか、今月中に決めてくださいと言われているのです。余裕時間がある。
そこでいろいろと試してみて、癌がどうなっているかを確認できる期間をもらったということです。
手術はできるだけ先延ばし、その実験に取り組もうかと思いついたのです。

それでいま重曹水を飲み、1日3回、ゆっくりとお風呂に入りだしたのです。
ほかにもいろいろとあるでしょう。
お勧めのメニューがあったら教えてください。
でもあんまり面倒なのと費用が掛かるのは、私にはできませんが。

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2023/09/12

■癌診断を受けての体験と私見7:性格の悪い私の隠された感想

古代ギリシアの哲学者のタレスは、人間にとって難しいことは何かと問われて「自己自身を知ること」だと答えたそうです。そして、では容易なことは、という問いに対しては、「他人に忠告すること」だと言ったそうです。
とてもよくわかりますが、私は「自己自身を知ること」も、そう難しいとは思っていません。自分が「他人に忠告すること」の中に、自己自身が含意されているからです。忠告だけではなく、「他人を批判すること」も、そこに含めてもいいでしょう。

いずれにしろ、自己自身を知ることも容易です。自分が他人に忠告したり、他人を批判したりしていることは、自分を語っていることなのです。
ということは、誰かが私に忠告したり批判したりしている内容は、その人を知るうえで最高の材料というわけです。

いささかとげのある話から書きだしましたが、今回の癌診断に関する私の書き込みへのコメントは、改めてそれを確信させてもらいました。
同時に、そうしたコメントに対する私の返信にもまた、私の本性を読み取れるはずです。

とはいうものの、私はどんな場合も、ある人がしてくれた「忠告」は基本的には無視しないようにしています。
生理的に受け入れられないようなこともありますが、でもみんな、善意で忠告してくれていますので、無視はできません。
どんな忠告も、とりあえずはできる範囲で試してみます。

今日は、おふたりからお薦めのあった、温浴療法にチャレンジ、朝風呂に20分、夕風呂に20分入りました。寝る前にまた入ります。
まあ、できれば3日は続けます。
それが私のルールなのです。

それにしても、人はどうしてこうも親切なのでしょうか。
忙しいはずなのに、私のいろいろと忠告してきてくれるのです。
つまり、やはりひとはみんな性善なのです。
誰かに忠告したいのです。
ちなみに「批判」も、ある意味での「忠告」です。

今週、エーリッヒ・ノイマンの「意識の起源史」を読んでいました。
その分厚い本の本論は「ウロボロスとは原初を宇宙論的・人類史的・系統発生的にシンボル化したものである」という見出しから始まります。
忠告し合うのは、植物の菌根菌ネットワークと同じ忠告ネットワークの現れなのかもしれません。

今日も1日、休んでいました。
もう大丈夫でしょう。明日からもう少しまともな体験報告を書きます。

 

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