カテゴリー「生き方の話」の記事

2018/02/15

■カフェサロン「半農生活と自分自身の人生経営計画」報告

「都会人の暮らし+農業=半農半X」の生活を実践している菜園クラブの増山博康さん(野菜栽培のレッスンプロ)のサロンは、10人になりました。

参加者のほとんどは、農業にすでに関わりだしているか、関わりたいと思っている人でした。
増山さんご自身のライフストーリーから始まりました。
それが何しろいろいろですので、前半はいささか話がとっ散らかってしまい、農業につながっているようでつながっていない気もして、企画役としてはひやひやしましたが、後からそれが農業と関わる生き方なのだと、気がつきました。
翌日、参加者のひとりから、「農の話はおもしろい、とあらためて実感した2時間半でした」とメールが届きました。
自分の不明さを反省しました。

さて何を報告すればいいか、今回は悩みます。
農業政策や農地政策の話から、農家の人と付き合いの入り口は一升酒という話まで、ともかく広いのです。
専業農家と兼業農家、焼き畑の話。
マリアさんのような購買者の話。
産業としての農業と生業としての農業の話。
さらには種子の話や遺伝子組み換えの話まで出ました。
いやいやもっとめちゃくちゃなほど広がっていたような気もします。
そういえば、なぜか盛んに障害者の話が出てきて、青い芝の会の話まで出ました。
増山さんは、若いころ、そういう分野でもいろいろと活動していたからですが、農福連携という動きが広がっているように、農業は障害者問題と親和性が高いように思います。

増山さんは、「野菜をつくる」「野菜を購入する」「両者をつなぐ」という活動をしていますが、その3つの局面で、いろんな人と会い、いろんな体験をしています。
それは同時に、人の生き方や社会のあり方へのとても刺激的な示唆を与えてくれます。
増山さん自身は、そのど真ん中で、それらを一体として人生していますので、言葉で整理して伝えようとすると増山さんの意図とは違ったようなものになると思いますので、やめます。
増山さんの活動やお考えは、増山さんのホームページにとてもていねいに書かれていますので、それをお読みください。
http://www.saienclub.com/
一言だけ言えば、増山さんは全国に菜園コーディネーターを増やしていって、社会を豊かにしていきたいのです。
豊かといっても、金銭経済的な豊かさではありません。
増山さんのように、いつもにこにこして、明るい人生を広げたいのです。

ちなみに、増山さんは、「半農生活を始めよう」という本を出版しています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#090920
この本もとてもわかりやすい本です。
増山さんは、野菜栽培の基礎を学ぶ理論セミナーと実習。さらには、農地の確保や農園運営などを応援する活動をされています。
菜園起業サロンもやっています。
関心のある人は、ぜひ増山さんのサイトを見て、増山さんにアクセスしてみてください。
増山さんも言っていましたが、ともかく体験が一番なのです。

農業関係のサロンは、農福連携の動きが広がる前は定期的にやっていましたが、最近は途絶えていました。
どなたかサロンをやってもらえれば、企画します。
よろしくお願いします。

Masuyama18


| | コメント (0) | トラックバック (0)

■「それがどうしたのか」

前の時評編の記事で、「それがどうした」という言葉を使いました。
それで思い出したのが、前に読んだ、ヴォルフガング・シュトレークの「時間かせぎの資本主義」の序章に出てきた文章です。

問題を問題として記述している人に対して、分析するなら同時に解決策も示せと迫るのは間違いだと考えている。(中略)その解決策が見つからない、あるいは少なくとも、今ここで実現できるような解決策が見あたらないということは十分に起こりうる。では、いったい『前向きなもの』はどこにあるのかと、非難をこめて問う声があるかもしれない。その時こそ、アドルノならば、こんな意味のことを言ったにちがいない。前向きなものがまったくないからといって、それがどうかしたのか、と。

日本の政治に関して、野党は批判ばかりして代案がないという人がいます。
私は、誠実な批判は、それこそが代案だと思っていますので、この種の意見こそが「前向きでない非難」だと思っています。
しかし、「それがどうかしたのか」というのは、私にはとても気にいっている言葉です。
そう言い切れる生き方をしたいと、常々思っています。

念のために言えば、私は「批判」(私自身への批判ももちろん含めて)は好みますが、「非難」は好きではありません。
批判は前向き、非難は後ろ向きだからです。

私のブログも、時に「批判」でない「非難」になっていることが少なくありません。
最近は減っていると思っていますが、まだまだ文章力がありません。
もし誰かを「非難」しているような表現があれば、それは私の未熟さの故です。
まあ、時に意識的に、「非難」してしまうこともないわけではないのですが。
まだまだ未熟さは克服できません。
たぶん最後までそうでしょう。

困ったものです。
はい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■「与えられた権威」よりも自分の権威を大切にしたい

テレビはオリンピックで占拠されてしまいました。
私はオリンピックには大きな違和感を持っているので、興味は全くありません。
どうしてもそこに、ローマ時代のサーカスを感ずるのです。
もちろん東京オリンピックにも反対ですし、自分の税金がそれに使われることもあまり気分がよくありません。
福島の被災者たちのためにであれば、喜んで税金も収めたいですが、最近は納税のモチベーションはあがりません。

そんな中で、先日、ミシュランの認定を辞退するお寿司屋さんの報道に接しました。
フランスではそういう動きがあるのは前に聞いたことがありますが、日本でもあることを知って、ちょっとうれしくなりました。
そういう動きに対する、ミシュラン側のコメントには、驚くものがありますが、ミシュランは完全にお金の亡者になっているとしか思えません。
ミシュランの星を信仰するお店も、きっと味よりもお金なのではないかと思ってしまいます。

そもそも「評価」するなどと言う発想が、私には違和感がありますが。
評価するのであれば、利用者が中心になって多様な評価をするのがいいでしょう。
星いくつなどという評価は単一尺度での方向付けでしかありません。
よほど想像力のない人の発想だとしか思えません。
それにまたそれを大事にしているお店や施設、さらには利用者がいるというのも、実に情けない。
彼らもよほど、味音痴なのでしょう。
同情するしかありません。

それにしてもどうしてみんな「与えられた権威」をほしがるのでしょうか。
権威は与えられるものではなく、自然に生まれるものではないかと思いますが、いかにも安直な「権威」がはやっています。
私はどちらかといえば、「つくられた権威」には反発するタイプで、ミシュランの5つ星などと言われても、「それがどうした」と思うのですが、多くの人はそれでおしく感じられるのでしょうか。
幸せといえば、幸せなことです。

もっとも、こう言っているものの、私自身も、ついふらふらと権威に吸い寄せられることがあります。
困ったものです。
もっと自分をしっかりと生きたいと、改めてそのお寿司屋さんの話を聞いて思いました。
そのお店に行ってみたい気もしますが、私の経済力ではちょっと無理そうなのでやめました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/02/08

■コムケアサロン「なぜ生きるのか」の報告

「なぜ生きるのか」
このテーマでのサロンは、事前の申し込みはほとんどなかったのですが、私を含めて9人の参加がありました。
案内に書いた、モモさんからのメッセージを再掲します。

生きているのが辛いことは皆さんあると思いますが、 それでも生きていようと思う理由というか、 (嫌でも)生きていかなきゃいけない理由みたいなことを、 話し合うようなサロンを開いていただけたらな~。

できれば、もともと生きていたいと思える方より、
生きていくのが辛い、死んだ方が楽だと思いつつ、
それでも生きている方のお話、
そのモチベーションみたいなものをお聞かせいただけたらと。

または、昔は死にたかったけど今は死にたくなくなった方に、
どのような流れでそう変わったのかをお尋ねしてみたいと思います。

このメッセージを受けて参加してくださった方も多かったと思います。
実は、お恥ずかしいのですが、呼びかけておきながら、私はこの「なぜ生きるのか」というテーマがあまり理解できていません。
なぜなら「生きる」ことに理由などあるわけがなく、もし理由をあげろと言われたら、いくつでもあげられると思っているからです。
ですから、私はあまり参加資格はないのですが、湯島のサロンは、どんな人でも参加できるのがルールなので、私も話し合いに参加させてもらいました。

最初は静かにスタートしましたが、それぞれの体験談が語られだし、それへの問いかけや意見が出されはじめ、次第に話し合いが深まって、終わる気配がないほどでした。

生きることがつらかったことの、さまざまな「物語」が語られました。
死ぬ勇気がないので、アルコール中毒になりたくて、飲みたくもないお酒を飲んで入院。
幼児体験の記憶から抜け出るための闘い。
喪失体験が引き金になった「うつ状況」の再発への不安。
2週間の断食で、生きかえった話。
学校生活が苦痛で抜け出た話が、生徒と先生からありました。
約束した時間にどうしてもたどりつけないので病院にも行けない。
その一方で、遅刻人生をつらぬいた人の話もありました。
成長段階で社会を生きていく「ルーティン」を身につけることの大切さ。
愛されることと愛することの人生における意味。
社会には太陽もあれば闇もある。
などなど、いろんな話が出て、誠実な話し合いが展開しました。
交流分析やアドラー、ロゴセラピーなどといった話も、少しだけ出ました。
いずれも自分の体験を踏まえた生々しい話なので、聞く人もまた自分の体験を踏まえて受け止めたでしょう。
ですから、ここに書いたことは私の狭い世界からの理解に過ぎません。
参加者は、私が書いた言葉とは別の、それぞれの受け止めをしているはずです。

私もたくさんの気づきをもらうとともに、自分の物語を安心して話せる場の大切さを改めて感じました。
私も体験したことですが、心の奥を話すことで、力をもらえることもあります。
そこで、このサロンをこれからも開催することにしました。
実は、今年は、「縁紡ぎカフェ」を毎月最初の水曜日の午後に開店することにしているのですが、その日の夜は、「生きる」をテーマにした「心を開くサロン」を開催することにしようと思います。
これに関しては、また案内させてもらいます。

ところで、いろんな人の物語を聞きながら、おそれや不安のない人など、いるのだろうか、そして、おそれや不安のない人生は豊かなのだろうか、と私は思いました。
その私の問いに、参加者のみなさんは、ないほうがいいと答えました。
モモさんから見ると、私はおそれや不安のない元気な人に見えているようですが、そんなことはありません。
たくさんの悩ましい問題も抱えていますし、不安で夜、目が覚めることもあります。
しかし、私のような年齢になると、不安も希望も所詮は同じもののような気さえします。
太陽も闇も、同じように見えてくる。
そういう視点から考えると、ただただ思うのは、みんなそれぞれ思うように生きればいいのにということです。
悩みも不安も、すべてをそのまま受け入れればいい。
なぜそれが難しいのか。
そこに私の一番大きな関心があります。

ところで、今回のサロンは単に悩みや不安を開示しただけの集まりではありません。
そこから何か少しでも、社会を変えていくということも企図していましたが、それも今回少しだけ果たせたように思います。
人が集まれば、必ず動きが起こりだす。
そんなことも実感したサロンでした。

今回は報告用の写真は撮りませんでした。
それで少しばかり詳しく紹介させてもらいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/01/02

■価格が価値を決める時代

昨日、テレビで「芸能人格付けチェック」を見ました。
テレビで活躍している人たちが、ワインや料理は楽器を品定めするのですが、たとえば、100万円のワインと5000円のワインを目隠しで飲んで、どちらが100万円のワインかを当てるのです。
なかにはフカヒレを使った料理とハルサメを使った料理を見分けるというのもあります。
それがけっこう、当たらないのです。
意外な人がとんでもない評価をしてしまうことが多いのです。
これを見ていると、別に高級な食材などにこだわることはないと思ってしまいます。

ダニエル・ブアステインが、昔、「売れっ子とは、有名であることで有名な人間である」と定義したそうですが、それを思い出させます。
ピカソのひまわりは、ピカソが描いたからこそ、感動できるのだ、というわけです。
かくして価格が価値を決める時代になってしまった。
価格がわからないと、評価できなくなってしまったというわけです。

要は、みんな価格がなければ区別できないようになってきているのです。
生活者というよりも消費者として、しつけられてきているというわけです。
そう考えると、価値ということがわからなくなってきます。

「価値」は「価格」では決まるわけではなく、本来は「価格」は「価値」で決まるはずです。
そもそも1億円の楽器と10万円の楽器とどちらがいい音色を出すかも難しい問題です。
しかし改めて考えてみると、そもそも「価値」とは何でしょうか。
今回の番組では、100グラム17,500円のステーキと100グラム 680円のスーパーの肉を使ったステーキとを比べるゲームもありましたが、外した人は多かったです。
しかし、17,500円のステーキよりも680円のステーキのほうがおいしいという人もいるでしょう。
そういう人を、味覚音痴だということはできません。
味覚にしろ感動にしろ、人によって違うでしょうし、そもそも価値とは極めて主観的なもののはずです。
多様な価値を基準にしていたら、なかなかコミュニケーションはなりたないかもしれませんが、そもそも多様な価値観がなければ、コミュニケーションっていったい何なのか。
考えていくとだんだん訳が分からなくなってきます。

ところで、ミュージシャンのGACKTは、外したことがないのです。
味覚だけではありません。
たとえば、高級の楽器を使っての演奏と入門者用の普通の楽器を使っての演奏を聴いて、確実に当てるのです。
その判断の理由を聞くと、私もなぜか納得したくなってしまうのです。
その結果、私は今はすっかりGACKTのファンです。

でもその一方で、GACKTのようにいろんな違いがわかるようにはなりたくはありません。
私の味覚は、「おいしい」と「まずい」と「また味わいたい」の3種類しかないほど鈍感ですが、それでも不満はありません。

1秒以下の記録を競うスポーツも、私にとってはばかげたことですが、どうも時代はますますそういう方向に向かっているようです。
みんな機械になりたがっている。
これはもしかしたら、「不死へのあこがれ」にもつながっているのでしょうか。
死ぬことがなくなったら、人間は人間でなくなるような気がしているのです。

GACKTほどにはとてもなれませんが、与えられた価格ではなく、自らの感覚で価値を判断する生き方をこれからも心がけていきたいと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/01/01

■新しい年のはじめに

201806_2


また新しい年がはじまりました。
といいながらも、最近は、「新しい」という実感がどうも持てません。
生きている世界の魅力が、どうもあまり感じられなくなってきているのです。
私の生き方が惰性的になっているのかもしれません。
たしかに、以前のように、年初の決意など改めて考えることもなくなりました。
自分で決めた「四半世紀ルール」も、第3期がもう30年近くになってしまいました。
「前社会人」「会社人」「社会人」につづく第4期は、予定では「自然人」を想定していましたが、思わぬ事故によって、それは実現しませんでした。

しかし、今年から人生の第4期に入ろうと思います。
といっても、そう変わるわけではありません。
意識を、少し変えようと思っているのです。
そう思いついたのは、昨年末です。
最後の数年くらいは、もう少し知的に生きたい。
ふとそう思ったのです。

私の年明けは、毎年、初日の出を屋上で待つことから始まります。


Hatuhi201811_2


まだ暗い時から寒さの中で、何も考えずに待ちます。
その10分ほどの時間は、心が「無」に満たされる時間です。
小鳥たちもまだ囀りださず、空気が冷たいせいか、世界が止まっているようにも感じられます。
生命のない世界、そんな気さえすることがあります。
そのなかで、なんともいえない平安な気持ちに包み込まれる幸せな時間です。

それが、初日が輝かしだすと、あたりの空気が変わりだします。
止まっていた世界に、急に生命が宿ったように、時間が動き出す。
無機質だった気配に、表情を戻りだし、それとともに、今まではあまり気にならなかった様々な音が耳に入ってきます。
世界が動き出した。
新しい年の始まりです。
この一瞬の時間が、とても好きです。

さらに5分ほどで、赤い太陽が白く輝きだします。
手賀沼の湖面に一筋の光の道が現れ、私のほうに陽光がやってきます。
そこで初めてあたたかさを感じます。


201808_2


年によっては、突然に世界が白くなって輝きだすような体験をすることもありますが、今年はゆるやかに推移しました。
今年はあたたかい陽光にゆっくりと包まれるような、おだやかな年明けです。
新しい生き方に、うまくは入れるといいのですが。

昨年は、歴史が善い方向に動き出す年になることを祈っていると書きましたが、
今年は祈るのはやめました。
祈ることを諦めたわけではありません。
祈りの前に、まずは自らを変えることにしたのです。
人生の第3期に入った時のことを思い出しました。
「変える」のではなく、「変わる」ことが大切だと思って、私は30年前に生き方を変えました。
今年から、歴史がどう動こうと、私は私が善いと考える方向に向けて生きようと思います。
そうすれば、少しは心も休まるでしょう。
そしていつかきっと、歴史の方向は変わっていくと信ずることにしました。

そんな思いで、今年も湯島でサロンをつづけます。
見ず知らずの方も含めて、どなたでも歓迎のサロンをやっています。
案内は「お知らせ」のコーナーにできるだけ掲載します。
もし気が向いたら遊びに来てください。
見ず知らずの方も歓迎です。
オープンサロンでなくても、時間さえ合えば、だれでも歓迎です。
コーヒーしかお出しできませんが、お気軽にご連絡ください。

今年も、「私たち」にとって「善い年」にしたいと思います。
そして、「私たち」を一人でも多くしていきたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/12/24

■「わが事」を「われわれ事」にする

外からはなかなか見えませんが、人はみな、それぞれにドラマをかかえています。
昨日は3人の人と湯島で会いました。
それぞれに、思ってもいなかった「体験」に巻き込まれ、人生を変えてきた人たちです。
その体験をする前に持っていた、「常識」や「知識」は、その体験を通して、崩壊しました。
「常識」とは、信じていれば、とても安心で平安なのですが、その「常識」に裏切られないとは限りません。
「常識」はむしろ、現実を覆い隠すこともある。
それに気づいた途端に、世界の風景は変わり、自らの人生も変わってしまいます。
ある時には良い方向に、ある時には苦難に向けて。

昨日集まった3人の場合は、信頼していた「常識」に裏切られ、そこから日常的な苦難がはじまってしまいました。
私が、3人の人たちと出会ったのは、いずれも今年になってからです。
しかも、その内の2人は、つい1か月前に知り合いました。

私が、その3人に共感したのは、自分が味わった辛さや苦難を他の人には体験させたくないという思いから、社会に実態を伝えるとともに、そういうことが起きないような活動をしていこうと決意したことです。
それぞれ自らの生活も大変なはずなのに、自分の問題を社会の問題に捉え直して、活動に取り組む。
これこそが、私が考える「社会性」「市民性」です。
自らの体験として、知った以上は行動を起こす責任がある。
それが3人に共通する姿勢です。
その生き方に触れれば、私としても、看過するわけにはいきません。
私もまた、知ってしまったわけですから。
私に何ができるかを考えて、少し動いてみましたが、その問題の壁の厚さに改めて驚きました。
しかし、できることはあるはずです。

そんなわけで、顔合わせも含めて、4人で会いました。
3人には、共通するテーマがあったからです。
私自身は問題の当事者ではありませんが、同じような被害に合った人は、これまでも何人かいますし、私自身も疑問に思っていることのあるテーマです。
テーマは「司法」。
取り組むには、かなりリスクのあるテーマです。
しかし、知れば知るほど、後には引けなくなっていく。

先日の湯島のサロンで、政治のパラダイム転回に関して問題提起させてもらいました。
そこで、「わが事」を「われわれ事」にすることが、生活につながる「大きな政治」の出発点だと話させてもらいました。
そしてそのためにこそ、NPOやボランティアグループがあると思っていましたが、残念ながらその世界も今や「市場化」に向かっています。
市場化に向かってしまえば、「われわれ事」は、むしろ「わが事」になってしまいます。
それではせっかくのNPO活動も、政治のパラダイム転回にはつながりません。
ナチス時代のドイツと同じく、ただただ「小さな政治」のサブシステムになってしまい、パラダイム延命につながりかねません。
善意が、大きな悪事を支えかねないのです。

人は、それぞれにドラマをかかえています。
それを「私のドラマ」にとどめるか、「私たちのドラマ」にしていくか。
最近話題になっている、性的被害に関する「Me Too(私も)」発言の動きは、まさに「わが事」を「われわれ事」にしていこうという動きです。
セルフヘルプ活動やグリーフケア活動とは違ったベクトルとパースペクティブを持っています。
そうした動きが、政治のパラダイム転回につながっていくかどうか。
そこに期待と不安があります。

ところで、司法問題に関心のある人がいたら、ぜひご連絡ください。
権力のための司法から、生活のための司法に、というのが、大きな方向です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/12/19

■塩野七生さんの「ギリシア人の物語Ⅲ」を読みました

昨日届いた塩野七生さんの「ギリシア人の物語Ⅲ」を読みました。
塩野さんの作品は、最初の歴史長編の「ローマ人の物語Ⅰ」から出版されるとすぐに読んできましたが、これで終わりかと思うと少し残念です。

塩野さんの作品の面白さのひとつは、現代につながっているメッセージがたくさんあるからです。
今回もたくさんのメッセージを感じましたが、面白かったのはやはり後半のアレキサンダー大王の話でした。
歴史は人がつくりだすことを、改めて実感しました。

昨日の朝日新聞に、「最後は一番若い男を書くぞ」という塩野さんのインタビュー発言が出ていましたが、20代のアレキサンダー大王がまるで生きているように伝わってきました。
若いということの「やさしさ」と「素晴らしさ」を、改めて感じましたが、それはそれとして、今回は最近の大企業の「惨状」を打開するためにいつも私が思っていることが、実にわかりやすく語られているのに驚きました。
大企業の経営者や管理者の人たちにぜひ読んでほしいと思いました。

たとえばこんなエピソード。
高熱を出したアレキサンダーに、医師フィリッボスが飲み薬の調合を始めた時の話です。
フィリッボスが飲み薬の調合を始めた時、兵士が、副将パルメニオンからの緊急の知らせだという手紙をアレキサンダーに届けます。
「若き王は、その手紙を読み始める。医師が、調合した飲み薬を杯に入れ終わったとき、王も、手紙を読み終えていた。その手紙には、アレクサンドロスの毒殺を狙うペルシア王ダリウスが、多額の報酬を約束することで主治医フィリッボスの買収に成功したという噂を耳にしたので伝える、と書いてあったのだ。医師が差し出す飲み薬の入った杯を右手で受けとりながら、アレクサンドロスは左手で、パルメニオンからの手紙を医師に手渡す。王が薬を飲むのと、医師が手紙を読むのが、同時進行で進んだ。薬を飲み干していく王と、手紙を読みながら蒼白になっていく医師。それは、2人の間でくり広げられた、無言のうちに進んだ緊迫のドラマでもあった。」

私はこういう場面が一番好きです。
その後、どうなったかは本書を読んでください。
信頼とはどういうものか。
人を信頼したことのない人にはたぶんわからないことでしょう。
塩野さんは、別のところで、「裏切り」についても書いています。

なぜペルシアはアレキサンダーに勝てなかったのか。
その理由も塩野さんは明確に指摘しています。
まずアレキサンダーは兵士(だけではありませんが)を人間として扱った。
これに関する感動的なエピソードもたくさん出てきます。
だから、アレキサンダーは連戦連勝だったのです。

私は、ほとんどの不幸は「人を人として扱わないこと」から起きていると思っていますので、アレキサンダーの生き方に心底ほれぼれとしますが、その一方で、そういう生き方ができたアレキサンダーに大きな嫉妬も感じます。
そういう生き方ができるほどの自信を持つことは、なかなかできることではありません。

塩野さんはまた、「アレクサンドロスは、自国を捨て他国の傭兵になるという当時のギリシア世界に広まっていた傾向を嫌っていた。ギリシア民族の傭兵化こそがギリシア世界に害をもたらした、と信じて疑わなかったのである」と書いています。
さまざまなメッセージを感じますが、最近の日本の大企業が元気のない理由にもつながっているように思います。
いや、私たちの生き方にもつながっているかもしれません。

信頼、人間性、そしてコモンズ感覚。
それが希薄になった組織(社会)は快適でも生産的でもありません。
アレキサンダーの物語は、それを示唆してくれます。

情報の話も示唆に富んでいます。
「情報とは、すべてでなければ情報にはならない。下にいる者がふるい分けたものを上にあげるのでは、真の意味の情報にはならない」という塩野さんの私的に共感します。

知らないこともたくさんありました。
たとえば「テオリコン」。
これは今でいうベーシック・インカムですが、それがこの時代にあったとは驚きました。
アレキサンダーの後、なぜヘレニズム時代が3世紀もつづいたのかも含めて、ヘレニズムの意味があまり理解できていなかったのですが、この本を読んでようやく理解できました。
アレキサンダーがペルセポリスを焼き払ってしまったことだけは許せませんでしたが、本書を読んでやっとそれが理解できました。

民主主義やデモクラシーに関しても、いろいろと考えさせられました。
塩野さんは、「より多くの人の頭脳を結集すればより良き政治が行えると思うほど、「デモクラシー」は単純には出来ていない」と言い放ちます。
アテネには、デモクラシーはあったとしても民主主義はなかったと私は考えていますが、塩野さんの次の指摘にはちょっとうれしい気がします。
先日のサロンで、私が伝えたかったことの一つだったからです。

「デモクラツィア」と「オリガルキア」に対し、貴族と平民の間で抗争が絶えなかったローマは、「レス・プブリカ」と名づけた新しい概念を創り出したのである。「パブリック」を考えれば、「対立」よりも「融合」で行くべきだ、と。

いずれにしろ実に面白かったです。
ところで、塩野さんの文体が、これまでのものとはちょっと違っているような気がしたのは、私の気のせいでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/11/23

■語らせないことの罪

「語らないことの罪」があれば、「語らせないことの罪」もあるのではないか。
ある人から、そう言われました。

私は基本的には、人間は一人では生きていない存在だと思っています。
ですから犯罪を起こした「個人」に対しても、寛容さが大切ではないかと思っています。
犯罪行為は、よほどのことがない限り、だれも起こしたくはないはずでしょう。
ですから、語りたくても語れない状況に多くの人が追いやられている最近の状況に危惧の念を持っているはずだ。
そうならば、「語らないこと」を問題にするのではなく、「語らせない社会」こそを問題にするべきではないかというわけです。
たしかにそうなのです。

もう5年近く前になりますが、友人の楠秀樹さんが友人たちと本を出版しました。
「〈社会のセキュリティ〉は何を守るのか」という本です。
その本の副題は「消失する社会/個人」です。
その序論にこう書かれています。

「個人」が理性的で自由な主体である限りで,すなわち,ともに議論し,決断し,共感し,相互批判し,関係性を確認して信頼し合う限り,連帯を結ぶことによって成り立つのが「社会」である。 したがって,諸個人が議論せず,決断を奪われ,共感せず,互いを率直に批判せず,ただうやむやに同調し,自分たちの関係性を顧みず,ダイナミズム(力強さや躍動感)を失い,互いを信頼しない事態に陥る時,すなわち理性を使用せず,自発的に行動する自由を失うとき,そこに連帯としての社会はない。

楠さんは自分の担当した章で、「個人」を解消する時、「社会」も消失すると書いています。
この視点に共感します。
私もまた、最近の日本には、個人も社会もなくなってきていると感じているのです。

昨日、某大学の教授と雑談をしていた中で、その方がいまや「関係性の時代」になったが、それは同時に主体性ある個人がいなければ、成り立たないと言われました。
私は、イヴァン・イリイチのコンヴィヴィアリティの考え、つまり自立共生を基本として生きてきました。
そして、関係や関係を生み出す場を大事にしてきています。
ですから楠さんたちが言うように、社会/個人の消失に大きな危惧の念を持っていますが、その一方で関係性論議の中で、大きな流れが反転しそうな気配も感じています。

なにか難しいことを書いたかもしれませんが、そういうわけで、「語らない個人」こそが「語らせない社会」をつくりだし、「語らないこと」を正当化しているということを、「語らないことの罪」で言いたかったのです。
ただ中途半端な書き方をしたので、誤解を与えたかもしれません。

正直に言えば、最近、時評編のブログを書く気力が萎えているのです。
困ったものですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■語らないことの罪

日馬富士の「暴行」事件が連日、テレビを賑わせています。
私自身は、日馬富士にとても同情的です。
テレビが盛んに煽り立てているような気がしてなりません。
たしかに「暴力」はいけないかもしれませんが、スマホを見ながら相手を無視するのも「暴力」の一種です。
ビール瓶と聞いた時にはさすがに私も揺らぎましたが、平手でも力士の平手は「凶器」になるという発言を聞いて、逆に考えれば、ビール瓶も力士には「凶器」にならないかもしれないとも思いました。
一方で、元貴の花親方が協会を相手にせずに、警察に届けたという行動にもとても共感します。
しかし、その後の沈黙にはまったく共感できません。

今日、書きたかったのは、日馬富士事件ではありません。
「語らないことの罪」です。
私の数少ない信条の一つは、「嘘をつかないこと」です。
自らに嘘をつかないという意味ですが、他者への嘘もよほどの事情がなければついてきませんでした。
そのために、逆に「嘘をついている」と思われたこともあります。

嘘をつかないことはとても難しいことですが、それ以上に難しいのは、語るべき時に語らないことかもしれません。
幸いなことに、私自身は「語るべき時」にあまり出合したことがないのですが、今回の事件に限らず、語るべき時に語らない人があまりに多いことが気になっています。

いままた話題が再燃している森友学園事件で言えば、語るべき人で語ったのは前川さんと籠池さんくらいで、後の人はほとんど「語るべきこと」を語っていないように思います。
語らないことのほうが、たぶん生きやすいのでしょう。
語らないまま、そして証拠物件を隠ぺいしたとさえ思われながらも、国税庁長官に抜擢された佐川さんのような人もいます。
彼は、語らないまま人生を終えるのでしょうか。
私には実に惨めな人生のような気がします。

安倍首相夫人の昭恵さんは、付き合いのある友人たちからは、とても素直な善なる人だとお聞きしていましたが、その昭恵さんもまた「語るべき時」に「語るべきところ」で語っていません。
とても残念です。

語らないといえば、前の太平洋戦争のことを体験者はあまり語りたがらなかったようです。
それほど強烈な体験だったのでしょう。
しかし、少しずつ、語りだす人が増えています。
私も何人かの方から体験談を書籍にしたものをもらっています。
それを読むと、語りたくなかったことがよくわかります。

でも語らなければいけない。
私はそう思います。
体験した当事者が、辛いだろうが語ることが大切だろうと思います。
そしてその内容がどんなものであろうが、感情的にではなく、冷静に聞いて判断していく寛容さを聞き手は持たなくてはなりません。

当事者たちがもっと素直に語りだしたら、いい方向に解決していくことはとても多いように思います。
語るべき人が語らなかったために、真珠湾攻撃も実行され、避けたかった日米開戦に至ってしまった。
語るべき人が語らなかったために、チャレンジャー号は爆破し、福島原発は悲惨な事故を起こした。

「語らないことの罪」を、私も改めて心に留めようと思います。
語るべきことを、語らないまま墓に持っていくことは、決して美徳ではない。
みんながもっと語りだせば、社会はきっといい方向に向かっていくでしょう。
ますます語らない時代に向いているなかで、改めてそう思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧