カテゴリー「生き方の話」の記事

2019/04/16

■10連休の過ごし方

今朝のテレビで、10連休を活かして収入につながる起業や副業開発のセミナーやイベントの紹介が報道されていました。
日本人は、休暇は消費活動としてのレジャー活動をしなければいけないと思いこんでいますが、さすがに10連休では余暇消費を続けられないので、収入につながる仕事探しをはじめるようです。

そもそも休暇とは、暇を休むことであり、消費活動からも休むことではないかと思っている私には、滑稽にしか思えません。
生産者として経済を支え、消費者として経済を支えている生き方を前提にしていては、金銭に呪縛された生き方から抜け出るどころか、ますますそれを支える10連休になりそうです。
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連休は、新しい「働かせ方」の仕組みとさえ思えます。

しかし、実際には10日間、休める人がそう多いとも思えません。
むしろ、仕事ができずに収入減になる人もいるでしょうし、連休とは無縁の人もいるでしょう。
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連休で、生活面で困っている人も少なくないでしょう。
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連休で病院が休みになったらおれの健康はどうなるのかと嘆いていた友人もいます。
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日間、いつもの労働から解放されたとしても、過労で心身両面で限界に来ている人に、また過酷な労働に立ち向かうしばしの回復の機会を与えるだけのケースもあるでしょう。
そうやって心身はさらにおかしくなっていきかねません。

この10連休は、「働き改革」の関係で出てきたことに示唆されているように、さらなる「働かせ方強化策」にもつながっているような気がします。
相変わらず、「休暇は雇い主から与えられるもの」という意識からみんな抜け出られないでいるわけです。
「休みは与えられるもので、自らで休むものではない」とは、考えてみれば、おかしな考えです。

財界や政府の甘言にまどわされずに、この10日間はレジャーの誘いになどのらずに、もちろん「新しい労働」への準備などに取り組むことなく、家族や友人とゆったりと過ごし、無駄に過ごすのが一番無駄でないようにも思います。

私は10連休に挑発されて、10連サロンも考えてみましたが、それはやはり疲れるので、10連休後半に3回、サロンを開くことにしました。
最後の56日は、「過労死」がテーマです。
それ以外は基本的に、無駄に過ごすつもりです。
「過休死」にならないように、休まずに、きちんと生きていようと思います。

そろそろ「休暇はご主人様から与えられるもの」という発想から自由になりたいものです。
そもそも政府が10連休を呼びかけるのはおかしいと思うのですが。
自由な人間であれば、休みたいときに休める生き方をしたいものです。

 

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2019/04/04

■ハネツルベの逸話

昨日、久しぶりに畑に行って、「小作人作業」に精出してきました。
野草や篠笹に譲っていた場所を耕して畑にする作業などを1時間半。

笹竹の根っこがすごいので、鍬と鎌だけの手作業だと1畳ほどの畑をつくるのに1時間近くかかります。
耕運機などを使ったらどうかという人もいますが、小さな畑を自然から借りるのにそんなものを使うのは私の感覚ではフェアではありません。
もちろん除草剤などは論外です。
地中に張り巡っている竹の太い根を切るのに力を入れすぎて、手がおかしくなって、しばらく作業ができなくなることもありますが、それは当然の代償でしょう。

そういう作業をしながら、思い出したのが、「荘子」に出てくる「ハネツルベの話」です。
こんな話です。

孔子の弟子の子貢があるとき、畑仕事をしている老人に出くわしました。
老人は、井戸の底まで穴を掘って、井戸のところまで下って、水がめに水を入れ、それを抱えて穴から出てきては畑に注いでいました。
その大変さに同情した子貢は、老人に「ハネツルベ」という水揚げのための便利な機械があることを教え、それを使ったらどうかと勧めたのです。
すると老人は笑いながら、自分の師匠から教わったことだと言って次のように話したそうです。

「仕掛けからくり(機械)を用いる者は、必ずからくり事(機事)をするようになる。からくり事をする者は、必ずからくり心(機心)をめぐらすものだ。からくり心が芽生えると心の純白さがなくなり、そうなると精神も性(もちまえ)のはたらきも安定しなくなる。それが安定しなかったら、道を踏みはずすだろう。ワシも『ハネツルベ』を知らないわけじゃない。ただ、恥ずかしいから使わんのじゃよ」。

私の好きな話です。
今日もこれから、畑に汗をかきに行きます。
いろんな生き物に会えるのが楽しみです。

 

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2019/04/03

■「金額に応じた報酬」という発想

成年後見制度の報酬に関する見直しを促す通知が最高裁から全国の家庭裁判所に出されたと今朝の朝日新聞に報道されていました。
朝日新聞によれば、「認知症などで判断能力が十分ではない人を支える成年後見制度を巡り、最高裁判所は、本人の財産から後見人に支払われる報酬を業務量や難易度に応じた金額とするよう、全国の家庭裁判所(家裁)に促す通知を出した。財産額に応じた報酬となっている現状に批判があることを踏まえ、制度利用を増やす一環として見直しを目指すものだ」そうです。
ようやくこういう発想が出てきました。「制度利用を増やす一環として」というところに、「何も変わっていない」意図を感じはしますが。

 こうした「金額に応じた報酬」という発想が社会を覆っていることへのおかしさをずっと感じていました。
たとえば、不動産売買業務の手数料も売買金額に応じて決まってきます。
裁判の弁護士報酬もそうです。
活動価値の判断基準が「金額」に依拠しているわけです。

専門家が、次第に卑しくなっていく危険性が、そこに内在されているように思います。
まあ、それは言い過ぎとしても、こういう発想が社会を金銭依存に導いていることは間違いない。
そうしたことの弊害は、改めて説明することもないでしょう。
結果的にはみんな「お金」を価値判断の基準にしてしまうわけです。

私は、お金とは人との関係性で意味を持ってくると考えています。
お金持ちにとっての1万円と金銭的に恵まれない人の1万円の価値は全く違うでしょう。
むかしの「赤ひげ先生」のように、お金のない人には無料で、お金持ちには高価で、医療対価を設定するのは、きわめて理にかなっています。

「金額に応じた報酬」社会は、お金に支配される社会に直結していきます。
そして、人の価値まで金銭基準になっていく。
そして、自分の市場価値を高めることが大切だなどということが言われるような、本末転倒な社会になってしまったわけです。

仕事の価値はお金とは無縁です。
仕事の捉え方を改めなければいけません。
そうすれば、働き方も変わってくるでしょう。

 5月6日に、「過労死問題」につなげて、「働き方」をテーマにしたサロンを予定しています。
4月から働き方改革関連法が施行されましたが、そもそもの発想を変えなければ、むしろ状況は悪い方向に向かうのではないかと危惧しています。
よかったら参加してください。

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2019/03/14

■腎臓透析中止に思うことを話し合いたいと思います

腎臓透析を中止したために死亡したというニュースに接した方の投書が、数日前の朝日新聞に載っていました。

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この報道に接した時には、なぜか最初に恐怖感と嫌悪感を持ったのですが、次第に、とても大切な問題提起をされているのではないかと思うようになりました。
そんな時に、この投書を読みました。
気づかされることが多く、改めて、生命とは何だろうと考えずにはいられません。

私の周りにも若くして腎臓透析を受けている人がいます。
本人はもちろんですが、家族の大変さも実感しています。
今回の件で、何もできずにいる負い目を感じながらも、いつのまにか傍観者になってしまっている自分に、改めて気づかされた感じです。
恐怖感と嫌悪感を持ったのは、こうした自分への非難と感じたからかもしれません。
他者の生命に対して、できることの少なさに、今回もまた襲われています。

投書した透析専門医の方は、数多くの事例を体験されているでしょう。
その方が、最後に、「ただ、善悪で結論を出して終わり、ではなく、死生観と医療のあり方について議論のきっかけになればと願う」と書かれているのに共感しました。

言葉で「死生観」というのは簡単ですが、実際には死生観を語ることは難しい。
昨日も、湯島で「お墓」をテーマにしたサロンをやったのですが、なかなか「死生観」を語り合うのは難しい。

そこで今朝、思いついたのですが、この事例をただ傍観しているのではなく、この事例を踏まえて、それぞれの死生観を語り合う場を持つことなら、私にもできそうです。
そんなわけで、急なのですが、記憶がまだ冷めないうちに、「腎臓透析中止の報道に接して考えたこと」を話し合うサロンを開くことにしました。
できれば、投書された方のメッセージを受けて、死生観と医療に絞って、批判的な議論ではなく、自らの生き方につなげる形での、肯定的で建設的な話し合いにしたいと思います。

急ではありますが、ぜひご参加ください。

〇日時:2019年3月24日(日曜日)午後1時~3時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:腎臓透析中止の報道に接して考えたこと
〇スタイル:肯定的で建設的な話し合い(できればそれぞれの死生観を話し合いたい)
〇会費:500円
〇申込先: 佐藤修(qzy00757@nifty.com)
今回は必ず事前に参加のご連絡を下記にください。参加者がいない場合は中止しますので。

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2019/03/13

■水俣病を知らない人も増えてきているのでしょうか

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NHKテレビの100分de名著で「苦海浄土」が取り上げられていたようですが、この番組はあまり見ていないので気がつきませんでした。
「苦海浄土」は50年以上前に読んでいますが、きちんと読めたのは最初の1冊だけです。
その番組がベースになって、NHK出版から「悲しみのなかの真実」という本が出版されていました。
若松英輔さんの著作です。
図書館で見つけて借りてきたのですが、読み出したらすぐに引きずり込まれてしまいました。

そしてぜひ多くの人に読んでほしいと、強く思いました。
「苦海浄土」を読むのは大変ですが、この本はとても読みやすく、静かに読み続けられます。
それがいいのかどうか迷いますが、自分でも考えながら読めます。

実はここまでのことを書いたのは、先月です。
アップする段階になって、ふと思いました。
水俣病の話は、いま、どれだけの人がどのくらい知っているのかと。
私は比較的早く水俣病のことを知り、書籍もかなり読んできました。
水俣にも行く機会があり、本書にも出てくる杉本栄子さんにもお会いしました。
まだお会いしたことはありませんが、緒方正人さんの本も読ませてもらっています。
そうしたことがあるので、この本のメッセージが素直に入ってきたのかもしれないと思ったのです。
そして、ふと不安に思ったのは、水俣病のことをいまいったいどれだけの人が知っているのだろうかということです。
あの福島原発事故でさえ、いまの状況です。

3.11関連の報道をみていて、なぜか水俣のことを思い出してばかりいました。

それでもやはり、この本は多くの人に読んでほしいと思い直しました。
まだ読まれていない方がいたら、ぜひお薦めです。
余計なお世話ですみません。

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2019/03/12

■湯島サロン「東京で感じたこと、米子で見えたこと」報告

久しぶりに、まだ日本には救いがあるなと実感できたサロンでした。
これはきわめて主観的な感想ですが。

今回の話題提供者の矢辺さんは、鳥取の米子で育ちました。
東京で大学卒業後、障害者に特化した人材系会社に入社。
活動を通して、「障害者」の捉え方が変わり、本人が不自由を感じていたらそれはすべて障害なのではないか(その逆もある)、そうした生きにくさを抱えている人の問題を解決したいと思うようになったそうです。
その後、生活困窮者支援を行う国のモデル事業(パーソナルサポーター制度)の就職担当相談員に転身。
その制度がなくなったため、そうした活動のための会社を自ら起業しました。
しかし、2014年に父親から事業を引き継いでほしいといわれ、両親に「ものすごく感謝」をしていたこともあり、実家のある鳥取県の米子に帰郷しました。
たまたまその会社は、電力提供に関わる会社なので、そこで将来は、エネルギーの大量生産大量消費から地産地消ができないかという活動にも取り組みたいと考えています。
会社経営のあり方に関しても、ティール組織も参考にしながら、変革に取り組んでいるようです。

これが矢辺さんのこれまでの人生ですが、お話を聞いていて、さまざまなことを考えさせられました。
10年以上前に、大学時代の矢辺さんとはいろいろと話し合ったこともあるのですが、自らの志を軸にして、時流に流されることなく、しっかりと実践しているのに感心しました。

矢辺さんは、会社に就職しないと生活できない現在の社会に問題を感じています。
企業で働かなくても生きていける手段があれば良い。
企業だけに頼らずに、他者と支え合いながら、自然と調和した生き方を広げていきたいといいます。
そのためのいくつかの具体的な手だても矢辺さんは考えています。

個人の生き方に関しては、「おりる生き方」を提案しました。
それは、「企業で働いていなくても、福祉のお世話にならず、生きること」を目指す生き方です。
経済状況によって変化する企業業績に左右されず、財政事情によって変化する福祉制度に左右されず、「今日が来たように明日を迎える暮らし」、そして「つながりで生きづらさを解決する暮らし」というのが、矢辺さんが目指す生き方の基本です。
具体的な提案もありましたが、一言で言えば、「問題をお金で解決しない」生き方です。
お金を「稼ぐ」仕事は、週3日程度にし、後は「働く」仕事をし、顔が見える範囲の150人までの地域コミュニティとその核になる生活基盤となる家族をしっかりとつくっていきたい。
お金は家賃やライフライン代が払える程度あればいい。
できないことはみんなでフォローし合えるコミュニティがあればいい。
それが、矢辺さんが提唱する「おりる生き方」です。

最後に矢辺さんはみんなに問いかけました。

正しさとは?
生命力とは?

その問いかけから話し合いが始まりました。
話し合いは省略して、矢辺さんの考えだけ紹介しておきます。
「正しさは生命力を高めること」
「生命力とは自らの持つ良い部分を出し続けられること」

ちなみに、米子と東京に違いは何か、という話も出ました。
矢辺さんは、今回も羽田を降りた途端に、なぜか自分もせかせかと「速足」で歩いていたと話しました。
米子と東京とでは、時間の進み方が違うのかもしれません。

矢辺さんは、家族に頼れることのすごさについても語り、そうした「安心できる生活基盤」の大切さも語ってくれました。

「せかせかした生活環境」そして「安心できる生活基盤」。
この2つについて、私たちはもう少ししっかりと考え直す必要があるのではないかと、改めて考えさせられたサロンでした。
参加者は矢辺さんを含めて7人。ちょっと少なかったのが残念でした。

いま、時代の大きな分かれ目に来ているように思いますが、若者のメッセージの眼差しから、そして参加者の発言から、私としてはちょっと元気をもらいました。

矢辺さんのメッセージにつながるようなサロンを、4月5月と予定しています。
またご案内させてもらいます。

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2019/03/07

■名前がなくなっていく?

今朝の朝日新聞の投書欄に、昨年、掲載された郵便局員の方からの投書「表札それでも出しませんか?」への反響の投書が掲載されていました。
郵便局員の方からの投書は添付しますが、こんな文章が含まれています。

人や物や場所や建物などは、名前があることで区別・認識され、それで社会生活が成り立っています。表札を出すリスクはあるかもしれませんが、誤配や遅配、不着などを回避するために表札は欠かせません。表札を出さないのも各自の勝手だと思われるかもしれませんが、それで他のお客の配達が遅れることだってあり得るのです。
とても大切なメッセージがいくつか含まれているように思います。

表札を出さない人も増えていると聞きます。
昔はみんなの住所や電話番号も掲載された電話帳も配布されていました。
もう15年ほど前ですが、自治会の会長をやった時に、名簿も作成して配布してはいけないといわれました。

この郵便局員の方が言うように、人や物や場所や建物などは、名前があることで区別・認識され、それで社会生活が成り立っています。
その名前が隠されていく。
名前のない人や物で構成される社会とはどんな社会でしょうか。

ちなみに、この投書への意見のひとつに、配達のための「番号」があればいいという意見もありました。
その方は、表札に名前を書くことには反対ではないのですが、同時にこうも書いています。


最近は病院で名前ではなく番号で呼ばれることがある。個人情報を気にする方向けには配達番号をつくったらどうか。

そういえば、私たちにはすでに番号がついています。
どう使われているのか知りませんが、そのうち名前がなくなるような気がしています。
名前よりも「番号」の方が、管理効率はいいでしょうから。

2012年の自民党「日本国憲法改正草案」は、現憲法第13条の「すべて国民は、個人として尊重される」を「全て国民は、人として尊重される」と変えています。
「個人」には名前がありますが、「人」には名前がありません。
「個人」を基本として考えるか、「人」を基本として考えるかは、全く別のものです。
「個」という文字があるかないかで、人民や民衆は、国民や大衆、あるいは臣民になってしまいかねません。

表札を出さない生き方やそうさせてしまう社会は、息苦しい管理社会につながっているような気がします。

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2019/02/12

■「認知症になってもだいじょうぶ!」(藤田和子)をお勧めします

2年ほど前に出版された本なのですが、やはり多くの人に読んでほしいと思い、改めて紹介させてもらうことにしました。
書名に「認知症」とありますが、それにこだわらずに、さまざまな人に読んでほしい。
読むときっと世界が広がり、生きやすくなる、そう思ったからです。
もちろん認知症に関わっている人には、たくさんの学びがあることは言うまでもありませんが。

本書は、看護師であり、認知症の義母を介護し看取った経験もある藤田和子さんが、45歳でアルツハイマー病と診断されてからの10年間の自らの経験をベースに、「認知症になってもだいじょうぶな社会」をつくっていこうと呼びかけた本です。
最初読んだときは、「認知症」という文字に呪縛されてしまい気づかなかったのですが、今回改めて読ませてもらったら、本書は社会のあり方や私たちの生き方へのメッセージの書だと気づきました。
藤田さんは本書の中で、「人権問題としての『認知症問題』」と書いています。
ここで語られているのは、認知症になっても大丈夫な生き方だけではなく、たとえ認知症になっても快適に暮らせるような社会を実現するための私たち一人ひとりの生き方です。
認知症とは無縁だと思っている人もふくめて、多くの人に読んでほしい本です。

私は20年ほど前から、「誰もが気持ちよく暮らせる社会」を目指す「コムケア活動」に、個人としてささやかに取り組んでいます。
そこで一番大事にしているのは、「個人の尊厳の尊重」ということです。
「ケア」も、「一方的な行為」ではなく「双方向に働き合う関係」と捉えてきました。
最近では、マニュアル的な押し付けケアではなく、当事者個人の思いを起点にした生活全体に視野を広げた地域(生活)包括ケアという発想が広がりだしていますが、それはまさに「誰もが気持ちよく暮らせる社会」につながっていくと思っています。
誰もが気持ちよく、という意味は、障害を意識しないですむようなという意味です。
もちろん「認知症」や「高齢化」も、障害にはならない社会です。

テレビなどで、2025年には「高齢者の5人に1人が認知症」などという顧客創造情報が盛んに流れていますが、そうしたことには私は全く関心がありません。
しかし、コムケア活動の流れの中で、「みんなの認知症予防ゲーム」を通して、社会に笑顔を広げていこうというプロジェクトには参加させてもらっています。
その集まりで、私はいつも、私自身は認知症予防よりも認知症になっても気持ちよく暮らせていける社会のほうを目指したい、そして自分でもそうなるように生きていると発言しています。
藤田さんのいう「認知症になってもだいじょうぶな社会」をつくるのは、たぶん私たち一人ひとりです。
そう思って、自分でできることに取り組んでいますが、本書を読んで、とても元気づけられました。

藤田さんは、盛んに書いています。
「一人の人として関わり続けてくれる人がたくさんいれば、孤立することはありません」
「私には、アルツハイマー病になってもこれまでどおり関わってくれる友人が何人かいます。ありがたいなあと思っています。私のことを一人の人として見てくれていると実感しています」
「より多くの人と出会い、多くの頼れる人とつながっていると、人生を豊かにする可能性が広がっていくと思うのです」
大切なのは、いろんな人との支え合うつながりを育てていくということです。
藤田さんは、そういう人たちを「パートナー」と呼んでいるようです。

藤田さんが呼びかけていることはもう一つあります。
自分らしく生きること、そのためにはしっかりと社会に関わっていくこと。
パターン化された「認知症になってからの人生ルート」などに従ってはいけない。
もし、「認知症の人への偏見が自分らしく生きることを妨げている」のであれば、他人任せにするのではなく、そうした偏見のあやまちを身を持って示していく。
そのためにも、自分らしい生き方を大事にすることが大切だと藤田さんは言います。
そして、「私たち抜きに私たちのことを決めないで」と主張しなければいけない。
心から共感します。
「私たち抜きに私たちのことを決めないで」とみんなが言い出せば、社会はきっと豊かになっていきます。

本書で語られている藤田さんのメッセージには、ハッとさせられることが多かったのですが、とりわけ次の言葉はハッとさせられました。

「私自身、アルツハイマー病だった義母を9年間介護してきて、その大変さは身に染みて体験しています。けれども今はアルツハイマー病の患者本人としての立場で、介護者だったときにはわからなかった『本人の世界』をわかってもらいたいと思います」

これは、ケア活動で、ついつい陥りやすい落とし穴です。
当事者でなければわからないことがある。
相手のためと思っていることが、相手を押さえつけることにならないように注意しなければいけません。

本書は、藤田さんの素直な生活感覚が語られているので、とても読みやすい。
人の生き方として共感できることも多いです。
藤田さんが「幸せ」なのは、ご自分を誠実に生きているからでしょう。

藤田さんは、認知症に関する世間の偏見をなくしていきたいとも言っています。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

「認知症への偏見を持ったままでは本人も周囲の人も、そして、社会全体が不幸せになるのだと思います。正しい理解を広めることができるのは、認知症の人、一人一人なのではと思います。ですから、自分の体験を世間に伝えることで、「これから認知症になる人々が早い段階で自分自身を理解し、自分の周りにいる人々とともにより良く生活できる工夫の必要性を考えることができるようになると思います」

「正しい理解を広めることができるのは、認知症の人、一人一人」、心に響きます。

藤田さんは、「本書が、アルツハイマー病とともに生きている私から、これから認知症になるかもしれない皆さんとそのパートナーになる方々へのヒントになるとうれしい」と書いていますが、本書にはたくさんのヒントがあります。
ぜひ多くの人たちに本書を読んでいただきたいです。
たくさんのことに気づかせてくれる本です。

この本を紹介してくれた島村さんに感謝します。

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■カフェサロン「種子法がなくなって、日本の野菜は大丈夫なのか」の報告

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「タネと内臓」(築地書館)の著者、吉田太郎さんのサロンには、有機農業に取り組んでいる霜里農場関係者も含めて、20人を超える参加者がありました。
新潟からわざわざ参加してくれた方もいます。
食の安全性に関する生活者の関心の高さがわかりますが、昨今の日本の状況を見ると、政府やマスコミの関心はどうも真反対の方向を向いているのではないかと、改めて気づかされたサロンでした。

吉田さんのお話は、なんと4億年前のデボン紀からはじまり、人類の未来にまでわたる長い時間の中で、いまの私たちの食の問題を、さまざまな話題を通して、わかりやすく、面白く、解説してくれました。
詳しい内容はとても紹介しきれませんが、たとえばこんな話題が出ました。

いまの食生活だと、あの知的で精悍だったホモ・サピエンスは太った豚のように進化していくのではないか、
遺伝子組み換えのコーンは、「カス」どころか、いまや「毒」といってもいい。
究極のデドックスは腸内細菌だ。
私たちが毎日食べている食べものが、体内の善玉菌を殺し、その腸内細菌の活動を抑えてきている。
土中微生物を消滅させる除草剤グリホサートは、世界的には追放されつつあるが、そうした動きも含めて、日本ではあまり報道されず、今も使われている。
ヨーロッパでは、地域と地球の生態系維持を目指すアグロエコロジーが広がっており、公共調達で取得する食材の6割を有機農産物にしなければならないことがルール化された。デンマークなどでは学校給食は有機野菜と決められている。
国連でも、2014年に「国際家族農業年」宣言をし、小規模な家族農業を重視する呼びかけを行っている。
日本ではメディアは、こうした問題をほとんどとり上げない。
世界各地で、子どもたちにまともなものを食べさせたいという母親たちの動きが社会を変えつつある。
アメリカ人は、食生活も大きな理由になって、短命になり、不妊になってきている。
ちょっと私の拡大解釈や誤解があるかもしれませんが、これはほんの一部です。
そして最後は、マネーでは幸せになれないという話や贈与経済の話にまでいきました。
興味のある方は、ぜひ吉田さんの著書「タネと内臓」をお読みください。

こうした状況にどう対処したらいいか(これに関しても吉田さんは話の中で言及されました)ということも含めて、話し合いが行われました。
食育活動に取り組んでいる参加者の方が、有機野菜とそうでない野菜を比べると栄養価が全く違うという話をしてくれました。
要は、量的には同じでも生命にとっての価値は全く違うというわけです。
栄養価や美味しさ基準で価格を評価したら、有機野菜のほうがずっと割安になるのですが、今の経済システムでは有機野菜は高いと思われてしまうわけです。
有機野菜はなぜ高いのかということに関しては、霜里農場の金子友子さんは流通の問題が大きいと言います。
生産者と消費者とを結ぶ活動をしている方も参加していましたが、有機野菜がもっと広がっていけば、価格問題はむしろ有機野菜のほうにとって有利になることは十分考えられます。
工業型生産野菜を主軸にしていこうという、現在の農政や経済政策を見直すことで、変えられる問題かもしれません。

価格だけではなく、味覚の問題も話題になりました。
有機のおいしい野菜を食べたら、味覚が戻ってくるという人もいますが、最近の子どもたちの味覚はもしかしたら、不可逆的に変わりつつあるのかもしれません。
急いで取り組むべき問題だと思いますが、日本では一部の母親たちを除いて、ほとんど無関心です。
せめて学校給食を変えていかなければいけません。
いずれにしろ、私たちは食やそれを支える農への関心をもっと高め、知識を増やしていくことが大切です。

吉田さんは、種子法廃止に関連して、長野県で「長野県主要農作物等種子条例(仮称)」制定の動きが出てきていることも紹介してくれました。
こうした伝統野菜を守ろうという動きが、これから広がっていくことが期待されます。
長野には「信州の伝統野菜」という制度もあるそうですが、行政に限らず市民活動として、その土地の中で育ってきた「地の野菜」を守ろうという動きも各地で始まってきています。
食を守るのは、やはり住民や市民が主役でなければいけません。
そのためにも、このテーマは引き続き、サロンで話し合えればと思っています。
話題(問題)提起したい方がいたら、ぜひご連絡ください。

霜里農場の友子さんが完全有機のイチゴとケーキを、柏のすぎのファームの杉野さんがなしジュースと食用ひまわり油とそれを塗って食べるためのフランスパンを持ってきてくれました。
いずれもとてもおいしかったです。
私の味覚はまだ、辛うじて大丈夫かもしれません。

最後にいささかの暴言を。
今回のサロンを聞いていて、私は、日本の政府が、少子化を促進していると改めて感じました。
表面的には、「少子化対策」を表明していますが、実際に行っているのは「少子化推進」ではないのか。
これは少子化に限りません。
認知症の問題にもささやかに関わっていますが、政府は認知症を増やしたいと思っているようにしか思えません。
これはかなりいじけた私の暴言ですが。


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2019/02/08

■心愛ちゃんと結愛ちゃん

また子供の命が奪われました。
しかもたくさんの人たちが、かかわりながら。
これは、それこそ「氷山の一角」でしょう。
昔から幼児虐待はあったという人もいますが、やはり「社会の壊れ」を感じます。

先日、海外の子どもたちの悲惨さを何とかしたいと言っている若い女性に会いましたが、日本の子どもの悲惨さはなかなか見えてこないようです。
今回の報道に関しても、非常に特異な事件のような報道が行われている気がしますが、その特異性を報道するよりも、その日常性を報道してほしいと思います。
これでもかこれでもかと、その「異常さ」の報道に触れていると、みている方の感覚がおかしくなってきかねません。
最近のテレビのニュースは、国民洗脳プログラムが組み込まれてしまっているような気がしてなりません。
最近のニュースや事件解説番組を、私は、最近見られなくなってきています。
それにニュースというよりも、オールズと言ってもいいほど、同じようなものが繰り返し(段々詳細に)報道されますし。
子ども現場で今何が起きているかを、もっと日常的なシーンで、可視化することの方が大切なような気がします。

ところで、今回の野田市の被害者は「心愛」ちゃんでした。
昨年3月に目黒で起きた事件の被害者は「結愛」ちゃんでした。
いずれの名前にも「愛」という文字が入っている。
生まれた時には、両親の「愛」に包まれていたはずです。
それがなぜ悲惨な事件へとつながったのか。

こういう事件が起こると、いつも、両親が責められます。
確かに両親の行動には許しがたいものがある。
しかし、その一方で、心愛ちゃんも結愛ちゃんもきっと両親を愛していたと思います。
2人がいちばん頼りにしていたのも、もしかしたら両親だったかもしれません。
そう思うとなおさら心が痛みます。

両親も子どもを愛していたはずです。
育児放棄しているわけではないからです。
観察者的に両親を責めることはだれにもできます。
しかし、事件を起こした両親たちと自分が全く無縁な存在だと思うほどの自信は私にはありません。

もちろん親子関係だけの話をしているわけではありません。
たとえば、以前起こった津久井やまゆり園の事件や繰り返し発生している高齢者福祉施設の死亡事件。
そうした事件と自らの生き方のつながりを意識するくらいの想像力は持ちたいものです。
質すべきは他者ではなく、自らです。

高齢者施設や外国人のための施設、あるいはごみ焼却場や墓地が自宅近くにできることへの反対運動はいまも残念ながら起こっています。
騒音が生活を乱す基地は沖縄住民に負担してもらい、その沖縄で観光を楽しもうという生き方であれば、私もそれに加担しているとしか言えません。
そういう生き方が、結果として子どもの虐待につながっているのかもしれません。

特異な事件の加害者を非難することで、自らを防衛し正当化する生き方にはどうしても私は与しえません。
最近のテレビの報道を見ていると、放送者やコメンテーターは、私とはまったく別の世界の人だなと思わざるを得ません。

世間から脱落して30年が経ちました。
最近、ようやく脱落できたと少しずつ思えるようになりました。
実際には今も少し世間やお金にも未練があって、心が揺れることはあるのですが、心愛ちゃんや結愛ちゃんの純真な生き方からもっと学ばねばいけないと思っています。
彼女たちは、最後まで逃げませんでした。
心が時々揺れる自分が恥ずかしい気がします。

事件は評論するためのものではなく、自らの生き方を質してくれるもの。
そう思っています。

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