カテゴリー「生き方の話」の記事

2018/04/16

■カフェサロン「日本の神道文化にまなぶ“神さまのいる暮らし”」報告

「神さまのいる暮らし」サロンは、17人という大人数のサロンになりました。

話題提供者の平井さんは、最初に、基礎知識編として、神様の話から始めました。
神道、というよりも、神(儒教からの言葉だそうです)以前の「ヒ・チ・タマ・モノ」といった、やまとことばから捉えるカミの話や、罪穢れや禊祓いなどの「かんながらの道」の話で、すなおに心にはいるお話でした。

つづいて、そうしたことが日常生活のなかにしっかりと組み込まれていて、私たちの日常は、まさに神さまとともにあるのだという話をとても具体的に話してくれました。
たとえばこんなことです。
朝目覚めて、身体を動かすことで、身のうちの魂(たま)が振られて(たまふり)、清浄な状態になる。
つまり、誰もが毎日、魂を清浄にすることから1日をはじめているのです。
そして朝食では、食べ物(給べ物)を賜り、掃除で自らの身と身の回りを祓い清め、働くことや遊ぶことでたまふりを重ね、そして夜には入浴で禊(みそぎ)をする。
私たちの日常は、まさに神様と共にあるわけです。
神様は神社だけにいるわけではないようです。
そう思っただけで、日常生活の捉え方が変わってくる。

起きている時だけではありません。
眠っている間に、魂が身体に留まってばかりいては、停滞による穢れ(気枯れ)が起きかねません。
それで寝ている時に、魂は外在魂に入れ替わってもらって、身体を遊離して、朝には元気になって戻ってくるのだそうです。
神様は年中無休の重労働なのです。

そして、平井さんの師匠で日本の神道文化研究会を主宰されている神道学者の三橋健さんの、「神を畏れて、人を恐れず」の言葉で、話をまとめてくださいました。
「神への畏れ」が、生きる力を与えてくれて、生きやすくなる。

ちなみに、平井さんは、数年前から毎日、神棚に手を合わせているそうですが、そのおかげで、平井さん自身も変わってきたそうです。
神様を信ずると、良いことがあるのです。
年に一回、神社でお願いするよりも、毎日の暮らしの中に神様を意識することのほうがご利益はあるようです。

話し合いでもいろんな話題が出ました。
最初に出たのが、「神教」ではなくどうして「神道(しんとう)」になったのか、という質問でした。
そこから宗教と信仰のような話が出て、一神教と多神教の話になりました。
いわゆる「宗教」と、そもそも呪的信仰から始まった神道とは、本来違うものでしょうが、その素朴な信仰がいまもなお近代生活の中に調和して存在しているのは、とても興味のあることです。
私は、それこそが日本文化の一番の特徴ではないかと思っています。

古事記の話や、天岩戸神話の話、そしてなぜかかぐや姫の話も出ました。
京都からわざわざ参加してくださった「記紀」の研究者だった高林さんは、天岩戸神話でなぜ岩戸が開かれたかの理由を話してくれました。
そこからアートや芸能、音の話も広がりました。
ちなみに平井さんの研究テーマは、「音」だそうですが、地鎮祭などで発せられる警蹕(けいひつ)の話も出ました。

神社などの神域には、そこに行くだけで心身が清められる気がするという話も出ました。
お神札(ふだ)は、まわりの邪気を吸い取る効果があるそうですが、自己浄化することはできないため、1年ごとに神社に戻し、新しいお神札に替えるわけですが、神様をよく知っている人によると働かせすぎだそうです。
1年も祀っていると神札は邪気を吸い込んで、力尽きてしまうので、長くて6か月、できれば3か月で、新しい神札にバトンタッチさせた方がいいそうです。
最近の社会は穢れが進んでいるため、そうなってしまったのでしょう。
私は、この話が一番面白かったです。
神様を働かせすぎては、それこそ罰が当たります。

最後は、「神さまとどう出会うか」という話で盛り上がりました。
生きにくさから抜け出せないという人の切実な質問から始まったのですが、私自身は、神様とは毎日出会っていることに気づくと元気が出るというメッセージを、今回は平井さんからもらった気がします。
ですから、会おうなどとは思わずに、ただただ「祈る」だけでいいのではないか。
邪気に満ちた世界で神様を頼る人が増えてしまうと、神様が過労死しかねません。
宝くじに当たりますようになどといって、神様頼みするのは我慢して、神様が元気でいられますようにと、神様のために自分に何ができるかを考えて、祈るのがいいと思っています。

今回も、実に多彩な方々が参加してくださいましたので、参加者みなさんの発言からも、たくさんの気づきをもらいました。
平井さんはじめ、参加されたみなさんに感謝します。

報告が遅れてすみませんでした。

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2018/04/13

■カフェサロン「社会インフラとしてのお金と仮想通貨を考える」報告

仮想通貨という「時の話題」ということもあって、遠方からの参加者も含めて、14人のサロンになりました。
渡辺さんは、まず前半で「社会インフラとしてのお金」がどう変化しつつあるかを、近未来に焦点を合わせて、具体的な事例を紹介しながらていねいに説明してくれました。
そして後半では、いま話題の仮想通貨について、その投機性も含めて、これもまた具体的に説明してくれました。
参加者は、それぞれ関心の置き所が違っていることもあって、話し合いは難しかったように思いますが、新しい知識を含めて、それぞれ世界を広げたことは間違いないと思います。

「社会インフラとしてのお金」の部分では、私は「預金封鎖」という歴史が日本でもあったこと、その目的が財産税につながっていたことを知りました。
改めて「社会インフラとしてのお金」のパワーを知りましたが、同時に、これまでの枠組みから抜けることのむずかしさもわかり、逆説的に言えば、お金はもはや「社会インフラ」ではなく、ますます管理のための仕組みになってしまっているように思いました。
そうであれば、そこに「投機性」が入り込んでくることは避けがたいような気がします。

産業としての金融業の収益の過半が手数料収入になっているということも、改めて教えてもらいました。
これは経済の変質を象徴しています。
手数料も、もちろん「社会価値」を生み出していますが、仮想通貨のメリットの一つは、そうした「手数料」を縮減することだといわれると、なにやら大きな矛盾を感じます。
そのあたりから、仮想通貨の存在意義が、私にはなかなか見えなくなってしまいました。
しかし、海外送金の手数料が高いために社会的な活動に困っていた人からは、その手数料が減少することで、公益的な活動がやりやすくなるという話が出ました。
そういう点ではたしかに、仮想通貨の効用も認めざるを得ません。

渡辺さんも指摘されましたが、そもそも「仮想通貨」という呼び方に、ある胡散臭さがあります。
海外では一般的には「暗号通貨」と呼ばれているそうです。
私は「デジタル通貨」でいいと思っています。
名は体を表すと言いますが、呼称をどうするかは非常に重要で、その実体がどう育っていくかにも大きな影響を与えるはずです。

後半では、これから広がっていくであろう新しい通貨システムの話が出ました。
今回は、その説明会ではなかったので、詳しい話を聞きたい人は、改めて渡辺さんのセミナーなどを受けてもらうことにしました。
ちなみに、渡辺さんも、新しい通貨が投機手段に使われることには否定的ですが、デジタル通貨が安定した通貨システムに育っていくためには、投機的な要素を持つ段階があることは認めています。
そして、いまの紙幣通貨は、早晩、デジタル通貨に代わっていくという見通しの中で、個人としてしっかりと対策を取っていかなくては、その流れからはじき出されて、場合によっては被害をこうむりかねないと考えているようです。
たしかに、通貨システムが大きく変わる状況の中で、損をする人と得をする人が生まれる恐れは否定できません。
そもそも、そんなことが起きないようにするのが、社会インフラとしての通貨システムだろうと私は思いますが、この辺りをどう考えるかが、「仮想通貨」に対する姿勢の違いになるのかもしれません。

あんまり基礎的な知識がないため、渡辺さんのメッセージを正確に報告することはできないのですが、私はやはり「信用システム」の話と「通貨という媒体」の話が混同されているような気がしました。
渡辺さんが言うように、たぶん世界的に見たら、日本の信用システムは遅れていて、それが、経済のグローバル化の中では問題なのかもしれません。
しかし、だからといって、その唯一の解決策が「仮想通貨」というわけでもなく、もっとシンプルでフェアな信用システムは創案できるように思います。
サロンでも、たとえば、「SUICA」の話も出ました。

お金を使う仕組みと同時に、お金を生み出す、つまり社会価値を生み出す経済のあり方を真剣に考えるべきだとも思いました。
今回のサロンでの話の中心は「消費」の局面でしたが、経済の大本の価値を創り出すための「お金」の側面も大切だと思います。
地域活性化の話も少し出ましたが、むしろこの側面は地域通貨などで考えるのがいいように思います。

投機というのは、価値を生み出すのではなく、価値の移転で利益を上げていくということですから、一方ではとんでもない損害を受ける人がいるわけです。
損をするのも避けたいですが、私自身は得をするのも避けたいです。
みなさんはいかがでしょうか。
そこに「生き方」の本質があるように思います。
通貨の機能としては、教科書的には「価値の尺度」「価値 の保存」「交換の手段」の3つが挙げられますが、私はこれに加えて、「価値の創造」と「価値の移転」があると考えています。
これについて詳しく書いた本を私は知りませんが、もしご存知の方がいたら教えてください。
これは、経済システムの本質につながっている問題です。

AI(人工知能)の話に絡んで、人間ってなんだろうか、という問題まで話が進んだところで、時間オーバーになりました。
お金の問題を考えることは、生き方を考えることでもあると、改めて感じたサロンでした。

話題提供してくださった渡辺さんに感謝します。
社会インフラとしてのお金シリーズは、不定期に継続させてもらいます。

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2018/04/10

■見えている風景

この数日、安倍政権支持派の人の本を何冊か読んでいました。
たとえば、岩田温さんの「「リベラル」という病」、「東京裁判をゼロからやり直す」(ケント・ギルバートさんと井上和彦さんの対談「東京裁判をゼロからやり直す」などです。
安倍政権には反対の立場にあるために、ともすると、読む本が偏りがちなので、時々、意識的に自分とは立場が違う人の本を読むように時々心がけているのです。
そういう本は、読みだしてすぐに投げ出したくなることもあるのですが、読んでいくうちに奇妙に納得してしまうこともあります。

それはそれとして、岩田さんの本にこんな文章が出てきました。

私から見れば、ほとんどのメディアが「改憲」を危険視し、「護憲」の重要性を説いている。テレビのコメンテーターの多くは、安倍政権に批判的であり、改憲に対して危機感を煽るような発言を繰り返している。

人によって、やはり受け取り方は違うのだと改めて思いました。
私は、テレビのコメンテーターの多くは、みんな安倍政権応援派であり、改憲を支援していると受け止めていました。
人が見ている風景は、実は自分なのかもしれません。

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2018/04/07

■一強体制に反対な人への疑問

日本レスリング協会のパワハラ騒動に進展があり、告発されていた強化本部長が辞任しました。
やはりここでも「一強体制」が生まれていたようです。
一強体制に寄生している関係者が、真実を覆い隠しているという構図はここにも見られます。

権力は腐敗するという言葉はよく聞きます。
しかし権力が腐敗するのではなく、権力に寄生する人たちが腐敗するのでしょう。
権力とは、もともと腐敗しているものですから。
であれば、権力を担う人は、新鮮なうちに権力を手放す仕組みをつくればいいのですが、そういうことを望む人はたぶんほとんどいないでしょう。
しかし、権力を担う当事者にとっても、それが合理的です。
なにしろ、権力は寄生する人を腐敗させるのですから。
一番の被害者は、権力の中枢にいる人です。
韓国の歴代の大統領のゆくえを見ればよくわかります。

10年ほど前の日本は、毎年のように首相が変わっていました。
私はブログなどにも書いた記憶がありますが、とても正常なことだと思っていました。
しかし、多くの人はそれを好まず、湯島のサロンでも嘆く人がほとんどでした。
しかし、権力が腐敗すると思うのであれば、嘆くべきではないでしょう。
そう思っていたら、多くの人が望んでいた長期政権ができました。
そして出てきたのが、一強批判。
まさに度し難いのは、身勝手な国民です。
みんなが何を望んでいるのか、私にはよくわかりません。

日本の官僚制度は、権力が滞留しないように仕組まれています。
上級官僚は、時間も含めて長くは居座れません。
官僚の天下りは批判されますが、「天下り」という言葉を使うからおかしいのであって、官僚経験者が野に下り、社会の視点で活動するのは、悪いことではありません。
私は40年以上前に、ある提言書で、「公務員就労義務制度」を提案させてもらったことがあります。
行政職は、もっとみんなが体験すべき仕事だと思っています。
天下りという言葉で象徴されるように、官尊民卑の風潮が広がり、そこに「権力」が入り込んできたのが不幸でした。

これも前に書いた記憶がありますが、ヨーロッパにあるサンマリノ共和国では、元首に当たる執政の任期は半年で、しかも2人で構成されています。
立法機関は比例代表制選挙で選ばれた国民が務め、任期は5年です。
しかも驚かされるのは、司法を担う裁判官は外国人です。
小さな国だからそんなことができるのだと言われますが、理念は規模の大小には関係ありません。

権力に寄生する生き方をやめなければいけません。
一強批判をしている人は、もし自分が、その「一強」側だったらどうするでしょうか。
私は、もしそうなったら、自らを律する自信はありません。
幸いに、権力も肩書きも、無縁な状況で生きていけるので、幸せですが。

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2018/04/03

■第2回「なぜ生きるのか」サロンの報告

2月に開催した「なぜ生きるのか」をテーマにしたサロンの参加者からの強い要望もあって、もう一度、開催しました。
今回も10人の参加があり、時間も4時間を超えてもまだ終わりそうな気配がないほどでした。
このテーマでの話し合いの場が、求められていることを改めて実感しました。

参加者の方から、思わぬご自身の物語が語りだされるのは、前回と同じでした。
みんなそれぞれに、生きる辛さや戸惑いを感じているのかもしれません。
私は「なぜ生きるのか」ということをあまり考えたこともなく、トラブルや喜怒哀楽すべてを含めて、生きることをそのまま受け入れて、生きています。
ですから、このテーマは個人的には苦手で、どう切り込んだらいいのかわからないのですが、みなさんの話を聞いているうちに、少しずつ問題の所在に近づけているような気がしました。

今回私が感じたのは、問題は「生きる喜びの見つけ方」と「実際の生き方」なのではないかということです。
またそうしたことと関連して、これまでの人生における「間違い」に呪縛されていることからの解放も大きなテーマかもしれません。
今回、みなさんの話を聞いていて、私もまた当事者だとようやくにして気づきました。
この種のサロンを何回も企画しながら、いまさらなんだと叱られそうですが。

今回は、「どうしたら生きる力を高められるか」も話題の中心になりました。
その分野で活動しているおふたりの、実践者の方が参加して下さっていたので、かなり具体的なアドバイスもありました。
おふたりとも、自らの物語を赤裸々に語ってくれたので、その処方箋には説得力がありました。
問題に対処するために、気持ちを整理する思考の枠組みや体験から見出した実践的な「法則」も紹介されました。

このサロンには、頭では理解していても身心がそう動かない「辛い」状況にある人も、私のように、身心での生きづらさを頭で理解できていない「不明な」状況にある人も参加しています。
抜け出そうとしている人もいれば、いま向かっている人もいるかもしれません。
もう60年も「生きる力」と正面から取り組んできている人もいれば、そうしたことを考える必要もない恵まれた状況の中で生きてきて、逆にいまここにきて、生き惑っている人もいる。
4時間も話していると、そういうことがなんとなくシェアされてくるような、そんなサロンだった気がします。
いろんな状況や考え方の人が入り混じっているおかげで、話が固まらずに、広がったり、視点が変わったりするのが、やはりサロンの良さかもしれません。

話の内容の紹介は、基本的にはオフレコですので書けませんが、最後はみんな明るく終われた気がします。
私はかなり疲れたので、しばらくはこの種のサロンは企画できないでしょうが、たぶんまたそう遠くない時に開催しそうな気がします。
切り口を少し変えるかもしれませんが。

生きることは辛い時もありますが、だからこそ生きる意味がある。
それに、辛いことと喜びや楽しさは必ずしも矛盾しません。
次回はそんなところまで話が進めばいいなと思っています。


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2018/04/01

■カフェサロン「霜里農場の金子友子さんの生き方」報告

有機農業に取り組む霜里農場の金子友子さんの「お金に縛られない生き方」をテーマにしたサロンには、20人を超す人が参加してくれたため、時間を1時間延長したにもかかわらず、発言できない人がいたほどの盛況でした。
最初は申し込みがあまりなかったので、テーマを有機農業にすればよかったなと思ったほどでしたが、やはりお金に呪縛されない生き方への関心は高いようで、サロン企画者としては、それだけでもうれしい結果になりました。
ただしサロンそのものは、人数が多くて、話の交通整理で大変で、疲れました。

金子さんの話は、なぜアナウンサーから農家に嫁いだのか、ということからはじまりました。
金子さんがアナウンサーとして社会で活躍しだしたのは1960年代の半ばです。
私も同年齢ですが、その頃から少しずつ高度経済成長の矛盾の予兆が出始め、1970年代になると、日本の社会は大きく変わりだしました。
有吉佐和子さんが朝日新聞に『複合汚染』を連載しだしたのが1974年。
水俣病などが大きな話題になり、環境問題や食の安全への関心が高まっていた時期です。

アナウンサーとして、時代の先端の情報に触れる中で、彼女の世界も変わりだしていったようです。
いろいろなドラマティックなエピソードもありますが、そこで出会ったのが、埼玉県の小川町で、化学肥料や農薬を使わずに、自然の有機的な循環を活かした農業に取り組んでいた、「変わり者」の霜里農場の金子美登さんだったのです。
そこで結婚。生活は一変しました。
その後、時代の大きな流れの中で、有機農業への関心は高まり、霜里農場もテレビや新聞などでも取り上げられ、全国(海外も含めて)から実習研修生も集まるようになってきました。
「変わり者」は「時代の先駆者」へと変わり、霜里農場は有機農場のメッカになっていったわけです。

しかし、そこからが、やはり「変わり者夫婦」なのでしょう。
時流が変わったからといっても、金子夫妻の生き方は変わることはありませんでした。
2014年には天皇・皇后が霜里農場に行幸され、翌年金子美登さんは黄綬褒章を受けられましたが、2人の生き方は全く変わっていないのだろうと思います。
有機農業ブームのおかげで、経済的にも成功した人も少なくないでしょうが、金子夫妻にはたぶん「縁のない話」で、有機農業ビジネスやアグリビジネスという発想はないのです。
これまで通り、共感してくれている消費者に丹精込めた野菜を直接届けながら、地産地消で自給型地域生活を目指した活動に地に足つけて取り組んでいます。
金子夫妻にとっては、農業と生活はしっかりとつながっているように思います。

いろんなエピソードも紹介されました。
アレルギーで長年薬を飲み続けていた人が、農場に実習に来て薬を飲み忘れているうちに、気がついたらアレルギーが治ってしまった話、火事で自宅が全焼した時には、全国から70~80人の仲間が来てくれて、2日間で片づけが終わった話、お金を介さない物々交換や事々交換の話など、いろいろとありました。
お金の話も何回か出ましたが、誰かに役立つためのお金の話だったように思います。
老後のためにお金をためていますかと私は不躾な質問をしましたが、どうもその意味さえ伝わらなかったようでした。
たぶん彼女にとっての老後の蓄えは、お金ではないのでしょう。

話し合いの中から出てきた、「お金に縛られないためのヒント」を2つだけ紹介します。
まずは、「人のつながり」の大切さです。
お金を介さずとも、人の支え合いで解決する問題は少なくないばかりでなく、人とのつながりが生活の安心感の拠り所になるということです。
もう一つは、人にあげられるものはあげまくるという、友子流の生き方です。
彼女がつくっているのが野菜だということもありますが、余った野菜はみんなに挙げてしまうのが、彼女のやり方です。
たとえば、道の駅に野菜を売りに出していますが、売れ残ったものは持ち帰らずに、店舗のスタッフの人などに挙げてしまうのが彼女のやり方です。
いや余ったものだけではありません。
彼女が関わっている加工品もあるのですが、それを買いに来た人にまで、たとえば子育て中の若い人だと、どうもあげてしまっているようです。
それがいろんな形でまた返ってくるので物々交換だと彼女は言いますが、私が思うには、彼女にはそもそも「交換」という発想さえないのだろうと思います。
ともかく、あげられるものはあげてしまうわけです。
あげるものがなければ、笑顔だけでもいいわけです。

3時間にわたる長いサロンでしたので、いろんな話が出ましたが、たぶん参加されたみなさんは、彼女のさりげない話や表情から、いろんなことを考える刺激をもらったように思います。
少なくとも私はそうです。
小学校時代の同級生なのですが、これまで気づかなかったこともありました。
金子さんが持参してくれたイチゴやケーキなども美味しかったです。

有機農業に関した話もありましたが、これに関してはまた改めて企画したいと思います。
湯島ではなく、むしろ小川町の霜里農場でサロンをやるのがいいかもしれません。
どなたか実行委員になってくれませんか。

今回は、湯島のサロンが初めての方も数名参加してくれました。
はじめてだったのに、ちょっと窮屈だったうえに、発言の時間があまりなくてすみませんでした。
これに懲りずに、またぜひ遊びに来てください。
頭は疲れましたが、たくさん元気をもらいました。

Tomoko201803312


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2018/03/24

■カフェサロン「まわりにちょっと気になることはありませんか」報告

社会が茶色一色で染まっていって、気がついたら自由のない生きづらい社会になっていたという寓話「茶色の朝」を読んでの感想を言い合うことからはじまった「茶色の朝」サロンがスタートしました。
それぞれが、生活のまわりにある「気になること」を出し合って、いまの社会のあり方や自らの生き方を、みんなでちょっと考えてみようという主旨のサロンです。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトから無料で入手できます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf

お花見に絶好な、お出かけ日和の土曜日にもかかわらず9人の人が集まりました。
サロン初参加の方もいました。

それぞれが「ちょっと気になっていること」を話すことから始めました。
「街中でのマナーやルール-の話」「本音で話し合う場が少なくなっているようだ」「弱いものへのバッシングが多い」「なんとなく将来への不安がある」「人のつながりがよわくなっている」「マニュアル化が進んでいる」「人に声をかけることが少ない」「みんな忙しくて余裕がない」「政治につながる話は話題にしたがらない人が多い」などいろいろと出ました。
「誰かが良いことを始めるとみんなそれに従うが、その人がいなくなるとみんなまたやめてしまう」という、具体的な話も出ました。
言い換えれば、みんな「はみ出したくない」のだというわけです。
「みんなどんなことが気になっているのかが気になって参加した」という人もいました。
何か気になるが、その実体が必ずしも見えてきていないのかもしれません。
どうもみんな「モヤモヤ」している。
実はそれがこのサロンを始めた理由の一つでもあります。
一方で、高円寺駅の駅長が毎朝、乗客に挨拶しているのがうれしいというような、「ちょっといい話」も出ました。

それからみんなで自由に話しだしましたが、話題はかなり学校教育の話になりました。
子どもたちはまさに社会の鏡ですが、子どもたちの学びの場への関心がみんな高いようでした。
学校での目標は何なのか、自分をしっかりと育てることなのか、社会の中で波風立てずに自分をなくしていくことなのかというような、学校教育の本質にまでつながる話もありました。
学校の先生たちが忙しすぎて、子どもたちの学びの場を豊かにする余裕がないのではないかという話もありました。
話していて、次の社会を創っていく子どもたちの学びの場が、あまり見えていないことに改めて気づかされたような気がします。
これは改めて、サロンを企画することにしました。

沖縄や福島の話も出ましたが、現地に触れている人からは、現地の実状とマスコミ報道との違いも話題になりました。
学校現場だけではなく、私たちはまだまだ知らないことがたくさんある。
もっといろんなことを知っていくことが、社会を豊かにしていく出発点かもしれません。

ちょっと気になるどころか、大いに気になることとしては、日本の政治のリーダーが言葉を壊しているという指摘もありましたが、いろんなところで信頼が揺らぎだしている。
信頼がない世界では、やはり不安がぬぐえない。
なんとなくみんなが「不安」に陥り、モヤモヤしてしまうことの背景には、そうした「信頼関係」が失われてきている状況があるのかもしれません。

それにもつながるかたちで、「マナーとルール」について少し話し合いました。
このテーマは、改めて時間をかけて話し合いたいと思いました。

政治には「統治権力のなかでの権力闘争」と「生活をよくするための政治」とがあるように思います。
前者が政治として捉えられがちですが、本来の政治の目的は後者のためであるはずです。
そして、後者の主役は国民一人ひとりです。
政治は国会議事堂や霞が関だけにあるわけではありません。
自分の生活に影響を与えるような社会のあり方に関心を持ち、ちょっと気になることがあれば、まわりの人と話し合ってみる。
「おかしいこと」があれば、「おかしい」という。
それも大切な「政治活動」です。
引き続き、肩に力を入れて政治を語るのではなく、まわりの気になることを題材に、少しずつ政治とのつながりや社会のあり方を話し合えるようなサロンをつづけたいと思います。

ちなみに、2つの政治に関して、前にブログで書いたことがあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2018/01/post-7079.html

このサロンと並行して、日本の政治や国家のあり方をテーマにしたサロンも引き続き企画したいと思っています。
こんなテーマで話し合いたいというテーマがあればご連絡ください。
主権者である私たちの手に、政治を取り戻したいと思います。
批判するだけではなく、できることから始める行動への広がりを意識しながら。

お花見にもいかずに参加してくださったみなさんに感謝します。
このサロンの出発点になった主原さんの「モヤモヤ感」に感謝します。
少しずつ晴らしていければうれしいです。

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2018/03/21

■「隠れ病む身」を支えることの大切さ

日曜日に放映されたEテレ「こころの時代」を今日、改めて見ました。
小浜市明通寺の中嶌哲演住職の「隠れ病む人々と歩む」です。
明通寺には2度ほど行ったことがありますが、そこのご住職が長年托鉢をしながら『鈴音』という手作り通信で、社会に呼びかけていたことは知りませんでした。

「隠れ病む人々」とは、広島や長崎で被爆した後、自らを「隠れ病む身」と呼び、世間の目から逃れるように故郷に帰って戦後を生きて来た人々を指しますが、原発銀座とも言われる福井では、原発で事故に合い、同じように「隠れ病む身」の人がいることも知りました。
原発の事故(3・11の福島の事故ではありません)で亡くなった人の話はこれまでも聞いていましたが(公開はされていませんが)、「隠れ病む身」の人がいることを初めてテレビで知りました。
とても心に響くお話でした。
次に簡単な番組紹介があります。
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2018-03-11/31/4430/2008300/

中嶌さんの話を聞きながら、私は最近の財務省や文科省の事件を思い出しました。
「隠れ病む身」の人たちを生み出しているのは、原発だけではないのでしょう。
最近の官庁や企業には、「病」が蔓延しているのかもしれません。
政治の世界もそうかもしれません。
いや、社会そのものに「病」が蔓延している。
にもかかわらず、多くの人は「隠れ病んで」いる。
前川さんのように、しっかりしたご自分をお持ちの方は「隠れる必要」も無いのでしょうが、多くの人にはそんな強さはありません。
しかし、前川さんには及びもしませんが、私も自らをしっかり生きていこうと改めて思います。

「病」は、それがどんなものであれば、隠すことはありません。
病は隠すものではなく支え合うものではないかと思います。
そして、人をつないでいく力も持っています。
官僚の皆さんには、ぜひカミングアウトしてほしいです。
それが社会の「病」をただす出発点になるでしょうから。
「病」に負けてはいけません。

「隠れ病む身」の人たちに、石を投げるのは止めたいです。
支えることこそが、社会を健やかにすることではないかと思います。

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2018/03/14

■理性の公的な利用と私的な利用

以前、まだブログをやっていなかった頃ですが、私のホームページに「メッセージ」というコーナーがありました。
公文書改ざん犯罪事件の報道に触れて、その2回目で書いた記事を思い出しました。

○メッセージ2:嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう(2002/2/7)
http://cws.c.ooco.jp/messagefile/messagekiroku.htm#m2

私は、日本の政治が大きく変質したのは、森内閣成立時だったと思っていますが(当時はまだ私のホームページもなかったので、メールで発信しただけですが)、小泉内閣になって、完全に政治は変質してしまったと思っていました。
以来、私の懸念した方向にどんどんと進んでいます。

今回の事件は実に世相を反映した事件です。

それにしても、残念なのは、官僚の人たちがなぜ声をあげないのか、ということです。
イマヌエル・カントの「啓蒙とは何か」にこういう記述があります。
ちょっと長いですが、引用します。
一部、変更や削除などしています。

◇理性の公的な利用と私的な利用 人間の理性の公的な利用はつねに自由でなければならない。理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。 理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。 公的な利害がかかわる多くの業務では、公務員がひたすら受動的にふるまう仕組みが必要なことが多い。それは政府のうちに人為的に意見を一致させて、公共の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的の実現が妨げられないようにする必要があるからだ。この場合にはもちろん議論することは許されず、服従しなければならない。 しかしこうしたマシン(機構)に所属する人でも、みずからを全公共体の一員とみなす場合、あるいはむしろ世界の市民社会の一人の市民とみなす場合、すなわち学者としての資格において文章を発表し、そしてほんらいの意味で公衆に語りかける場合には、議論することが許される。そのことによって、この人が受動的にふるまうように配置されている業務の遂行が損なわれることはないのである。

財務省の官僚たちには、これ以上、自殺したり犯罪者になってほしくはありません。
間違ったルールの呪縛から、ぜひ解放されてほしいです。

ちなみに私は学生の頃からずっと、日本社会では「公」と「私」の捉え方が、逆ではないかと思っています。
改めてまた、アレントを読みたくなりました。

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2018/03/03

■カフェサロン「日常生活の巡礼化」の報告

これまで3回、スペインのサンティアゴ巡礼を歩き、四国遍路も歩いてきた鈴木章弘さんに、「日常生活の巡礼化」をテーマにお話ししてもらうサロンを開催しました。
13人のサロンになりました。
鈴木さんは、巡礼で得たものや感じたことを、具体的な体験エピソードを交えて、話してくれましたが、話している時の鈴木さんはとても幸せそうでした。
話しながら、涙ぐむような場面もありました。
素晴らしい思い出や体験が、鈴木さんの心身にぎっしりと刻みこまれているのが伝わってきました。
聞いているだけでも、なにかとてもあたたかな気持ちに包まれるような話も少なくありませんでした。

巡礼とお遍路で経験したことは、一言で言えば、「宝の山」のようなものだ、と鈴木さんは言います。
特別な神秘体験がなくても、「小さな幸せ」の瞬間が積みあがっていくのだそうです。
言い換えれば、巡礼とは「小さな幸せ」の連続だというわけです。
人の善意ややさしさに触れ、与えること・与えられることを自然に味わい、自分と他者が溶け合っていくようななかで、自然と誰とも挨拶を交わし、自然とハグまでしてしまうようになる。
「あした死んでもいい」と思えるほどの生きている実感も得られる。
ただただ歩くだけなのに、まさに生命の輝きを実感できるのだそうです。

だから、目的地のサンティアゴ大聖堂に到達した時にも、達成感の歓びよりも、むしろもう巡礼が終わってしまったというさびしさがあったそうです。
これは鈴木さんだけではなく、大聖堂が近づくにつれて、この幸せな巡礼がもうじき終わってしまうのが悲しいと話していた人は、少なくないそうです。
この話は、私たちの生き方に、大きな問いかけをしているように思います。
私たちは、何かのために生きているのではなく、まさに生きること自体に意味がある。

サンティアゴも四国遍路も、巡礼者もいればツーリストもいます。
鈴木さんは、「巡礼者は何事にも感謝するが、ツーリストは何事にも要求する」という言葉を紹介してくれました。
それを聞きながら、「幸せ」を感ずるのはどちらだろうと考えました。
たぶん要求するツーリストではなく、感謝する巡礼者でしょう。
幸せは、自分の中にある。
巡礼は、そんなことも気づかせてくれるのでしょう。

サンティアゴへの道も四国遍路も、人をやさしくするインフラだという話も出ました。
鈴木さんは、巡礼に行くと生命力がチャージされるような気がするとも話されましたが、それもまたそこが生命力をチャージするインフラになっているのかもしれません。
そのインフラは、そこを歩く人やそこに住んでいる人が育てているわけですが、どうしてそういう場所だけが、人のやさしさを引きだし、生命力をチャージする場になっているのか。
言い換えれば、それ以外の場所、つまり私たちが日常生活を過ごしている場所はなぜそうではないのか、それは私たちの生き方につながっているはずです。

巡礼の途中では、さまざまな人とさりげなく出会うわけですが、それは同時にさまざまな人生や価値観に触れることでもあります。
ベルギーの女性と話していたら、その人が急に泣き出した。
自分は人から見たらとてもハッピーなのだろうが、何か充実感を感じられずにもやもやすることも多く、巡礼に来たのだそうです。
幸せそうに見えても、幸せを実感できない人は、たぶん少なくないでしょう。
これもまた、とても身近な話です。

夫婦で巡礼に来ているカップルの歩き方の話はとても興味深かったです。
たとえば、宿泊するところだけ一緒で、歩くのはそれぞれ自分のペースで別々に歩くとか、逆に一緒に歩くのだけれども、宿泊場所は別のところにするとか、いろんな歩き方があるようです。
これもなにも巡礼に限らず、日常生活にも活かせる知恵のような気がしました。

鈴木さんの話を聞きながら、こういうことをいろいろと考えていたのですが、書きだすときりがありません。
鈴木さんが次から次へと話したいことが出てきたように、私も次々と思いを馳せたくなって、なかなか報告がまとまらず、報告が遅れてしまったのですが、私自身が感じたことはまた別のところに書くことにして、これくらいでやめます。

もちろん実際に巡礼に行くときのアドバイスなどの話もありましたが、もし巡礼やお遍路に出かける方は、鈴木さんにお尋ねになれば、いろいろと体験談を話し、アドバイスしてくれるはずです。
私にご連絡いただければ、鈴木さんのメールにつなげます。

長い割には、昨日のサロンの、ほんの一部しか報告できませんでした。
鈴木さんはもしかしたら春になったらまたサンティアゴに出かけそうですが、夏に戻ってきたら、またサロンで話してもらおうと思います。
なにか一番大事なことを忘れているような報告になってしまいましたが、お許しください。

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