カテゴリー「生き方の話」の記事

2017/07/02

■「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」

昨日、ケソン工業団地で働いていた人が語った北朝鮮のことを書きましたが、その本を読んで、渡辺京二の「逝きし世の面影」を思い出しました。
昨日湯島に行く電車の中で、最初のところだけを読み直しました。
読んでいる人も多いと思いますが、2つの話を紹介させてもらいます。
昨日私が言いたかったことを補足する意味で。

スイスの通日使節団長として1863年に来日したアンベールは、農村を歩き回っていると、人びとは農家に招き入れて、庭の一番美しい花を切りとって持たせてくれ、しかも絶対に代金を受けとろうとしなかったそうです。善意に対する代価を受けとらないのは、当時の庶民の倫理だったらしいと、彼は書いています。

イザベラ・バードの話からも一つ。バードは東北・北海道の旅の後、関西から伊勢に向かう途中でこんな体験をしています。奈良の三輪で、3人の車夫から自分たちを伊勢への旅に傭ってほしいと頼まれた。推薦状ももっていないし、人柄もわからないので断わると、一番としかさの男が言った。「私たちもお伊勢詣りをしたいのです」。この言葉にほだされて、体の弱そうな一人をのぞいて傭おうと言うと、この男は家族が多い上に貧乏だ、自分たちが彼の分まで頑張るからと懇願されて、とうとう3人とも傭うことになった。ところが「この忠実な連中は、その疲れを知らなぬ善良な性質と、ごまかしのない正直さと、親切で愉快な振る舞いによって、私たちの旅の慰さめとなったのである」。

また、「日本で貧者というと、ずい分貧しい方なのだが、どの文明人を見回しても、これほどわずかな収入で、かなりの生活的安楽を手にする国民はない」という、アメリカ人イライザ・シッドモアの言葉も紹介されています。
彼女はこうも書いているそうです。日本人は「木綿着数枚で春、秋、夏、冬と間に合ってしまうのだ」。そんな極限の状態でも、春と秋の素晴らしさを堪能するのに差し障りはない。「労働者の住、居、寝の三要件」は、「草ぶき屋根、畳、それに木綿ぶとん数枚」がみたしてくれる。穀類、魚、海草中心の食事は、貧しいものにも欠けはしない。

日本通だったチェンバレンは、日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言ったそうですが、現代の日本はどうでしょうか。

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2017/07/01

■競争の社会から共創の社会へ

最近読んだ「開城工団の人々」は、北朝鮮と韓国の共同事業として行われていたケソン(開城)工業団地で働いていた韓国の人たちの体験談を集めたものです。
とても示唆に富む話が多いのですが、こんな話は皆さんどう受け止めるでしょうか。
チーム長として、北朝鮮の人たちが働くチーム長として働いてきた人の発言です。

あちらは社会主義なので一生懸命働いてもインセンティブがありません。 いい加減に仕事をしても、我々に人事権がないために制裁できないのです。 それだから仕事ができない人ができる人に合わせるのではなく、できる人ができない人に合わせるようになります。 こんな状態が続くと生産が落ちる場合が出てきます。 我々が望む生産力に到達しようとすれば、人員を補充するしかありません。 一つのラインに南側では12名が必要だとすれば、開城では15名を入れるというふうにです。 そうやって生産性を100%に合わせています。

組織の生産力を高めるには、各自の生産性を高めるか、働く要員を増やすか、の2つの方法があります。
私たちのいまの社会では、前者が目指されています。
生産性をあげられない人は、職場には居場所がなくなる社会かもしれません。
その結果、組織の生産性は高まり、経済的な競争に勝ち抜いてきたわけです。

でも確かに、後者の発想があります。
一番ゆっくり働く人を基準にして、必要な生産力を実現するための要員数を決めていくわけです。
そんなことをやっていたら、激しいコスト競争にさらされている企業としてはやっていけないと思いがちです。
でもそうでしょうか。
要員数と人件費とは同じではありません。
限られた人件費を、みんなでなかよくシェアすれば、人件費をあげなくても大丈夫です。
できる人の給料は下がるかもしれません。
でも給料以外の何かが獲得できるような気がします。
無理してお金を消費しなくてもよくなるかもしれません。
そして組織全体の雰囲気が変わっていくかもしれません。

人工知能が、人の働く場を奪っていくという話があります。
2045年のシンギュラリティ仮説危機など、私にはまったくばかげた話だと思いますが、それはそれとして、人工知能に限らず機械化や自動化は人の職場を奪ってきました。
だから景気が良くなっても仕事は増えていきません。
しかし、発想を変えたらどうか。
そもそも「職場が奪われる」という発想は、まさに機械と人間を同じ次元で考える競争の発想です。
その時点で、たぶん発想を間違えているのです。
機械が職場を奪っているのではありません。
職場を奪っているのは、機械を使って私欲を得ようという人間です。
仕事を機械が代行してくれるのであれば、そこから生まれた時間をみんなでシェアし、働く時間を減らせばいいだけの話です。

ケソンの話は、いろんなことを示唆してくれます。
そろそろ「常識の呪縛」から抜け出たいと思っています。
そうすれば、いまもそれなりに生きやすい時代です。

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2017/06/14

■立ち上がる勇気

武蔵越生高校サッカー部の体罰映像がユーチューブに流れて話題になっています。
たしかにひどい暴力事件だと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=KmzXOXW0ZyE

ただ私がこの映像を見ていて恐ろしさを感じたのは、コーチの暴力ではありません。
暴力を振るわれている高校生とコーチの間には、ある特別の信頼関係もあったような報道もありましたし、コーチのインタビューも聞きましたが、あまり一般論で考えたくはありません。
私が恐ろしさを感じたのは、映像に見るように、サッカー部員の誰もが座ったまま動かないことです。
これほどの暴力を目の当たりにしても、動かない部員。
その姿に、私も含めていまの日本の国民の姿を感じたのです。
こういう風景が、いまも文科省や内閣府で展開されているのでしょうか。

この映像を撮影したのはサッカー部員のようです。
それがせめてもの救いですが、同時にこういう手段しかなかったことにやりきれなさを感じます。
ちなみに学校側には、この暴力的な指導はアンケートなどで届けられていたそうですが、学校側は無視していたため、サッカー部員はこうした手段をとったのでしょう。
コーチだけが悪者になっていますが、一番悪いのは学校の校長だと私は思います。
権力をもつ者は、責任を持つべきです。
JR西日本の福知山事件の判決にも、そういう思いを持ちました。

立ち上がる勇気をもちたいです。

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2017/06/05

■ワークショップ「大災害に備えるために~東日本大震災の実例から教訓を得る」報告

上原さんによるワークショップ「大災害に備えるために」は定員ぴったりの10人が参加しました。
東北被災地で活動している方も3人参加してくださいました。
女性の参加がなかったのがとても残念でした。

上原さんは、まずある状況において、「あなたならどうしますか」というイエス/ノーの問いかけをしてきました。
たとえば、「あなたは9歳の娘と一緒に自動車で避難中に、歩いて避難している娘の同級生を見かけて自動車に乗せましたが、その子が家に祖母がいるのを思い出し、その子から戻って一緒に避難させてほしいと頼まれました。あなたは祖母を助けにその子の家に戻りますか?」というように問いかけるのです。
参加者は、それぞれ一斉に、イエスかノーのカードを出します。
そして、そういう判断をした時に最も重視したことを書いて、それを順番に発表するのです。
それからみんなで3分ほど話しあいます。
そして次の問いに行きます。
これが基本形ですが、そこから発展した、さまざまな問いかけや話し合いの仕組みが考えられています。
そういう判断を迫られることのないようにするには、普段から必要なことは何か、というような問いかけもありました。

上原さんの狙いは、正解を見つけることではなく、価値観の多様性を知り、それぞれがより適正な判断力を身につけることです。それが大災害での「生き残る確率」を高めることにつながると上原さんは考えています。
問いかけは、すべて実際にあったことを材料にしていますので、リアリティがあります。報道を見て、いろいろと批判することは簡単ですが、実際にその場に立ったとして考えれば、その場での判断がいかに難しく、また「正解」などないことが実感できます。

3.11の後、女川などで活動してきた宮崎さんは、東日本大震災の教訓を風化させないためにも、この種のテーマでのサロンの企画は大切だと言ってくれましたが、単なる事例を学ぶのではなく、自らがその立場になって一人称自動詞で考えることで、教訓を刻み込むことの意味を、私も実感しました。

テーマは、大震災に備えてでしたが、このワークショップから気づかされたことはたくさんあります。
上原さんの、今回のワークショップのベースにあるのは、クロスロード防災ゲームだと上原さんから教えてもらいました。
クロスロード。
分岐点というような意味ですが、それはさまざまな活動に関して、出会うところです。
上原さんは、防災のほかにもいくつかのテーマでこのワークショップに取り組んでいます。
私が最近体験したワークショップの中では一番気付きが多かったです。
参加者もとても面白いと言っていました。

自治会や行政や、あるいはさまざまな問題に取り組むNPOにも、有効な手法だと思いました。
もし自分のところでやってみたいという方がいたら、上原さんをご紹介しますので、ご連絡ください。

最後に、上原さんは一番判断が困難だったことや驚いたことなどを全員に問いかけました。
私は、社会的な役割と家族関係のどちらを優先するかに少し迷いがありました。
驚いたのは、最後の問いかけへのイエス/ノーが私だけ違っていたことでした。
私は自分がとても人間的な、常識的な考え方をすると自負していましたが、10人中、私だけが違う判断をしたことに正直驚きを感じました。
その問いかけは、そう難しい問いではなかったのですが。
こんな形で、自らの判断基準や他者との違いにも気づかせてくれるワークショップでした。

今回の私の教訓は、自らの生き方の原理原則を明確にしておくことの大切さです。
それはそんなに難しいことではないのではないかというのも、今回改めて実感しました。

とてもいいワークショップをしてくださった上原さんに感謝します。
遠方から参加してくださった実践者のみなさんにも。
いつかパート2を開催したいと思っています。


20170604


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2017/06/03

■書籍を買わずに図書館から借りていたことへの反省

私はこの十年余り、月15万円の年金以外収入はあまりありません。
時々、仕事などの関係でお金をもらうことがありますが、それは活動費に充てますので、生活費にはなかなかまわりません。
と言っても自宅のため家賃は不要ですし、私はほとんどお金を使わないので、生活費に困ることはありません。
しかし、節約できるところは節約することとしたため、書籍の購入をほとんどしなくなっています。
昨年1年間で、驚いたことに書籍代は5万円ほどでしかありませんでした。
以前の十分の一以下です。

会社時代や私が対価をもらう仕事をしていた頃には、私が使うお金は喫茶店でのコーヒー代と書籍代くらいでした。
お酒も飲まないし、とりわけお金のかかる趣味もない、無粋の生活をしていたからです。
ところで、なぜ書籍代が不要になったかと言えば、近くの図書館を利用するようになったからです。
先月もたぶん10冊以上の本を借りていますが、かなり高価な本が多いので、自分で購入したら、3万円以上になったでしょう。
図書館で借りると期間内にきちんと読まないといけないので集中的に読破できますし、何よりもいいのは、読後の書籍管理が不要になります。
それにシェアリングの価値を高く感じているものとしては、よい仕組みだと思っていました。

しかし、今朝の朝日新聞で、角川春樹さんとから佐伯泰英さんへの書簡を読んで、間違いに気が付きました。
その一部を引用させてもらいます。

昨年の11月に、2600館の図書館に複本(2冊以上)の購入を控えて欲しいという嘆願書を日本書籍出版協会の文芸書小委員会から送付しました。佐伯さん、私はアマゾン等のネット書店よりもリアルな書店を大切に思っています。町から本屋がなくなれば町ではないからです。 人間は2度死ぬけれど、本屋さんが1度潰れたら、2度目はありません。リアルな書店がなくなれば、出版社も本の取次店も小説家も、この日本からなくなります。現在(いま)のままでは10年以内に現実になります。

たしかに最近の図書館はベストセラーを数冊購入しています。
私もそれには大きな疑問を持っていましたが、そのほうが私には好都合なので、見過ごしていました。
しかし角川さんが危惧されているように、みんなが図書館で本を読みだしたら、書籍はますます売れなくなってしまうでしょう。
そのことを忘れていました。

以前、平和のためにできることの一つとして、『地球的平和の公共哲学』を購入することで意思表示ができますという呼びかけをしたことがあります。
私のホームページにまだ残っていますが、2003年のことです。
http://cws.c.ooco.jp/heiwa-net.htm
少なくとも4人の方が賛同して下さって購入してくれました。
著者のお一人の小林さんも喜んでくれました。
そういう呼びかけをしていたにもかかわらず、最近、お金がないことを理由に、書籍を購入せずに図書館に頼っていたことを、いささか反省しました。
私も以前は、多くの人に読んでほしい本をまとめて購入して配布していた時期もあります。
今もその残りの本が残っています。
青学の名誉教授の本間さんは、書籍を出した人を支援するためにも、積極的に購入しようという姿勢を強くお持ちで、それを実践されています。

とりあえず、やはり本の文化を終わらせないために、これからはこれはと思う本は購入しようと思います。
価値のある本を購入することは、それなりの意思表示にもなるでしょう。
自分のことだけを考えていると、見えなくなってしまうことがあるものです。
気をつけなければいけません。

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2017/05/28

■マイナス給料の発想

昨日、高齢者の生活支援を1時間1000円で引き受けるようなネットワークづくりをしている人に会いました。
私が知っている人だったこともあり、正直、大きなショックを受けました。
市民活動やボランティア活動が市場化されていることに違和感を持って、それとは別の視点で生きているものにとっては、心が乱された気分で、すっきりしませんでした。
どうしてみんな「働くこと」をお金と結びつけるのでしょうか。
お金がないと生きていけないなどと言いますが、お金がなくても豊かに生きていたほうが、人類の歴史としては長いのです。
ましてやお金をもらうこと「稼ぐこと」を「働くこと」と考えるようになったのは、つい最近のことでしか、ありません。

私自身は、お金のために働くという意識を変えてから30年近くになります。
お金とは無縁な生き方をしてきたわけではありませんが、意識的にはお金の呪縛から自由になろうという生き方は、最近はかなり身についてきました。
この10年は、お金をもらうことを条件に仕事をしたことはありません。
結果としてお金をもらったことはありますが。
それでもなんとか生きてこられたのは、多くの人に支えられたからですが、それまでの人生で得たお金の支えがあったからかもしれません。

しかし、多くの人はやはり仕事とお金は切り離せないのでしょう。
頭がすっかりそうなっているからです。
ですから、悪意など全くないのに、ボランティア活動にまで時間給という発想を持ってしまうのです。
ボランティアで小遣い稼ぎもできるという人もいますが、この言葉にもずっと違和感を持っています。
念のために言えば、ボランティアの謝礼としてお金をもらうことに違和感があるのではありません。
対価と謝礼は違いますし、小遣い稼ぎをモチベーションにすることにも違和感があるのです。

そして一晩寝て、妙案に気づきました。
マイナス給与という発想です。
ボランティア活動の場合、1時間働いたら、働かせてもらったお礼になにがしかのお金を相手に支払うというのはどうでしょうか。
つまりマイナス給与制度です。

以前、マイナス原稿料方式で2冊の本を出版したことがあります。
原稿を書いた人にはマイナス原稿料を払う、つまり実際にはお金を出して原稿を書くのです。
自費出版を思い出せば、これはそうおかしなことではないでしょう。
ではそれと同じで、仕事をしたら対価を負担するというのはどうでしょうか。
実は以前、コモンズ通貨というのをやっていた時に、同じようなことが起こったのです。
ある人がテーマパークのチケットを購入したのですが、行けなくなった。
そこで誰か活用してくれる人はいないかと呼びかけて、ある人がそれを活用したのです。
その時のコモンズ通貨(地域通貨のようなもの)は、チケットを買った人から、ではなく、チケットを売った人から相手に渡されたのです。
私のホームページのどこかに記録が残っているはずですが、私は感激しました。

そんなことを思い出しながら、ボランティア活動の場合、お金を絡ませるのであれば、流れを逆転させたらどうかと思いついたのです。
実に妙案ではないか、と自画自賛したくなっています。
もう少しきちんと説明しないとわかってもらえないかもしれませんが、まずは自分でできることからはじめようと思います。
問題は、いまの私にはお金がないことですが、お金がなかったら、自分でお金を発行すればいいだけかもしれません。
コモンズ通貨を復活させたくなりました。
http://cws.c.ooco.jp/jongi.htm

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2017/05/26

■前川(前文科省事務次官)さんに敬意を表します

加計学園問題に関連して、前文科省事務次官の前川さんの記者会見が話題になっています。
問題になっている文書の存在を確認し、まともに探せばすぐに出てくるとさえ言っています。
それに対して、菅官房長官の反論は、私の常識で考えれば、卑劣極まりありません。
官房長官ほどの地位にある人であれば、もっと正々堂々と反論してほしいものです。

テレビでの前川さんの取り上げ方も、私にはフェアには思えません。
キャスターたちの根底にある姿勢に、卑しさが見えてきます。
いまや在野を良しとするジャーナリストは、テレビには出られないのでしょうか。
もちろんそうでない人もいないわけではありませんが。

前川さんの発言をベースに問題を素直に捉え直せば、事実はすぐにわかることでしょう。
松野大臣の調査は、これも普通に考えれば調査とさえ言えないです。
そんなあまりにも明白なことが、面白おかしく語られて、マスコミビジネスの餌食にされています。

私が前川さんに敬意を表するのは、組織や制度の力に屈せずに、堂々と記者会見したことです。
しかも極めて「素直な言葉」で語っています。
菅さんや政治家などの、「地位に恋々」としている人たちとは全く違って、さわやかにさえ聞こえます。
組織に正面から向かう勇気のある人を久しぶりに見た感じです。
これからの人生は経済的には恵まれなくなるかもしれませんが、精神的なストレスは軽減され、豊かな人生になるでしょう。

森友学園の時もそうでしたが、本来あるべき書類がないと言っていた保管責任者の責任は問われることなく、いつの間にか話は終わってしまいました。
しかし、おそらく現場の関係者は、その所在も含めて知っているはずです。
しかし誰からも声が上がらない。
組織の部品であって、人間ではないからでしょう。
出世したところで、人生は豊かにはならないのではないかと思いますが、まだ出世願望やお金願望が人間を取り込もうとしているのでしょう。

霞が関には、もう主体性をもったまともな人間は居場所がないのかもしれませんが、「あったものはないとは言えない」「黒を白とは言えない」という、前川さんの発言に、誰か反応する人はいないのでしょうか。
社会を変えるのは簡単なことです。
おかしいことをおかしいと言い、自分に嘘をつかないで生きる人が増えていけばいいだけの話です。
前川さんにつづく人が、どんどん出てくるかもしれません。
そうなるためにも、私は前川さんに拍手を送ります。

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2017/04/29

■コムケアサロン「生活の中での看取り」の報告

「看取りシリーズ」サロン3回目は、「生活の視点からの看取りを考える」をテーマにしました。
大型連休初日にも関わらず14人が参加しました。
話題提供者の小畑万里さんは、ていねいなレジメをつくってきてくださいましたが、それと併せて、実際にご自身が看取られたご両親の「老化のプロセス」を表にして、お話ししてくださいました。
ですから、とても具体的に「生活の中の看取り」を考えることができました。
そして、改めて、人によって異なる表情を持っている「看取り」を、一般論で語ることができないことを痛感すると同時に、そうした個々の看取りの中から学ぶことの多さも感じました。

小畑さんは、まず、「看取り」を、医療で想定されている看取り(狭義の看取り)と生活の中での看取り(広義の看取り)に整理し、前者は死が差し迫った時の比較的短期間の看取りであり、病気の治療が中心になるが、後者は不可逆的に死に向かう生活のプロセス全体に寄り添うことであり、老いへの対処とケアが中心になると説明してくれました。
併せて、「見守り」ということの大切さも、看取りとのつながりで話してくれました。

今回は病院や施設で「看取り活動」をしている人、看取り経験がある人、さらには豊かな人生の最期に向けて役立てるようなことをしたいと思っている人、あるいは自らの身近に看取りを意識しだしている人が多かったですが、なかには「看取り」など考えたこともない人もいて、いつものように様々な視点が出されました。

小畑さんの話にQOL(生活の質)が出てきましたが、それと同時に、QOD(クオリティ・オブ・デス:死をどう迎えるか)が大切だと「看取り」の現場で活動されている人が、生々しい実体験を踏まえての指摘をしてくれました。
最近ようやく日本でもQODの議論が広がりだしていますが、この面ではまだまだ日本遅れているように思います。

小畑さんは、老化による要介護状態(生活に何らかの支障が生じる期間)は男性で9年、女性で12年半くらいというデータを紹介してくれましたが、小畑さんの場合、10年にわたる生活支援の中で、「看取り」を意識したのは、最後の3年程度だったそうです。
もちろん人によって違うのでしょうが、生活の中で寄り添っていると、ある時点で、死が意識されだすようです。
「死の意識」。
それはたぶん双方それぞれに生まれてくる意識でしょう。
そこから何が変わっていくのか。
十分には議論できませんでしたが、とても大切なことが示唆されているように感じました。

看取りと看取られの話も出ました。
よく「ケアしていると思っていたら自分がケアされていた」というボランティア実践者の話を聞きますが、それは「看取り」にも言えるような気がします。
私たちは、看取りという行為が、死にいく人のための行為と考えがちですが、死にいく人が客体、看取る人が主体という関係を逆転して考えることも大切ではないかと思います。
それに、私の体験でもあるのですが、「看取り」から教えられることはとても多いです。
これもまたもう少し話し合う場を持ちたいテーマです。

自らの看取り体験に、いくばくかの心残りがあり、それが気になっている人も少なくありません。
サロンでもそうした思いが開陳されましたが、やはり死者は死んでからもなお、看取った人たちを見守っている気もしました。
若い時からこうした活動に触れてきている人が、見送った人たちが私たちの話を聞いているとしたらどう思っているだろうか、と言ってくれました。
看取りは完結する行為ではなく、実は終わりのない関係なのかもしれません。

ちなみに、「エンディングノート」の話題も出ましたが、時にそれが奇妙なビジネスの餌食になっていることの指摘もありました。
いまや時代は、あらゆるものを「商品化」「市場化」してしまう状況で、「看取り」もその餌食になってしまう惧れは否定できません。
それに対して、最近、施設や病院ではなく、自分たちで終の棲家、あるいは終のコミュニティを創ろうという動きが出てきているという紹介もありました。
私が目指していることの一つです。

看取り体験をもっと共有化できるようなことに取り組めないかという話も出ました。
病院や施設では少しずつ始まっているようですが、実は、小畑さんとは、そうした看取りでの体験知を集めて、社会の共通資産にできないかという構想を話し出しています。
しかしまだその一歩を踏み出せずにいます。
仲間になってくださる人がいたらご連絡ください。

いつものようにまた極めて主観的な報告になりましたが、参加者に恵まれて、実に拡がりのあるサロンだったと思います。
私もたくさんのことを考えさせられました。


Obata20170429


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2017/04/27

■じゃんけんで勝ったものが席を譲る文化

昨日の地下鉄日比谷線での小さな出来事です。
広尾から乗車したのですが、次の六本木で小学生(たぶん1年生)が3人乗車してきました。
私の隣の席が2つ開いていました。
さてどうするか。
3人は譲り合っていましたが、結局、じゃんけんをして負けた2人が座りました。
で、ついつい、「どうして勝った人ではなくて負けた人が座ったの?」と訊きました。
最近、東京ではむやみに子どもに話しかけるのはやめた方がいいようなのですが、気になったことは質問したくなる性分は直りません。
彼女たちは怪訝そうに私の顔を見て、一瞬間をおいて,みんなが異口同音に「みんな譲り合っていたから」と答えたのです。
なるほど、相手に座ってほしいという思いをかなえるのがじゃんけんで勝った人のご褒美なのだと納得しました。
生物的にか弱い人類が、過酷な自然の中で生き残ってきたのは、こうした発想の影でしょう。

北朝鮮と日韓米のいまの状況は、たぶんそうした人類の歴史に反しています。
この子たちの、素直な優しさが、どこで変えられてしまうのだろうかと思いました。
じゃんけんで勝った人が譲る社会を取り戻したいものです。

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2017/04/26

■小さき人々の抵抗の声

先週、テレビの「こころの時代」で、ノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんが被曝後の福島の人たちを訪ねて耳を傾ける「“小さき人々”の声を求めて」を見ました。
それに触発されて、ソ連崩壊後のロシアの“小さき人々”を聞き書きした「セカンドハンドの時代」を読みました。
なんとも読みにくかったので、やはり「チェルノブイリの祈り」を読むことにしました。

彼女はベラルーシの作家ですが、彼女が「小さき人々」と呼ぶ民の声を発掘し、それを自分の耳に聞こえるままに記録するという独自の文学を築いた人です。
チェルノブイリ原発事故の後も被災者の声を聞き歩いた彼女にとっては、福島取材の機会をずっと待っていたのだそうです。
とてもていねいな取材だったことを感じました。

小さき人々の声は、多くの場合、とても穏やかで温かさがあります。
しかし、そこには鋭い体制への批判が含意されています。
デモで声高に唱えられる「シュプレヒコール」とは全く違って、聴く人の心に入り込んでくる、真実があります。
ですからその時はもちろんですが、いつまでも聴く人の心に残ります。
もっとも聴く人の心のありかたに大きく影響されるでしょうが。

アレクシエービッチさんは、テレビの中で、繰り返し、私の国にも日本にも「抵抗の文化」がないと語っていました。
静かに語ることこそ、まさに抵抗の文化かもしれませんが、それを踏みにじる政府のもとでは、残念ながら聴く人がいないおそれがあります。
ですから、アレクシエービッチさんの活動は大きな意味をもっているのだろうと思います。

昨今のマスコミは、小さき人々よりも大きな人たちの声を紹介します。
小さき人々の声を聞きだすことは、難しいでしょうし、なによりも聴く人の知性を露わにします。それに比べて、自分から話したがっている「大きな人たち」の声を聞くのは楽ですし、なによりも誰にでもできる上に、危険は伴いません。

辺野古の工事は始まり、玄海原発の再稼働も決まりました。
小さき人々の声を、少なくとも私はしっかりと耳を傾けて聴こうと思います。
そこから「抵抗」は始まるでしょうから。

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