カテゴリー「生き方の話」の記事

2022/01/13

■医療関係者によるワクチン賛否議論を聞きたいものです(2022年1月13日)

オミクロン株の流行のニュースが多いですが、どうも意味がよくわかりません。
ワクチンのリスクの報道も増えていますが、これもよくわからない。
知識が増えれば増えるほど、わからなくなる。困ったものです。

テレビの専門家の話を聞いていても、私にはほとんど何も語っていないようにしか聞こえてこない。また、ワクチンによる死者の数が増えてきたと聞いても、その評価ができません。薬や医療行為によって死者が出ることは当たり前だからです。死者だけ語っても意味もなく、それによって救われた命と一緒に語ってもらわなければ私には意味がわからない。

その上、いまや日本の官庁や「公的機関」が作成するデータは私には全くと言っていいほど意味がない。改ざんや捏造があってもきちんと説明や謝罪もないような状況を放置しているシステムには信頼性が置けないからです。データに信頼が置けない国家は実に居心地が悪い。しかし、ワクチン賛成派はもちろん、ワクチン反対派も、そうしたデータに基づいて議論していることが多く、どうも私には聞く耳を持ちにくい。

医療関係者によるワクチン反対論や新型コロナ「風邪」説などもかなりありますが、そういう疑問や意見があるのであれば、医療関係者によるきちんとした話し合いの場があってもいいと思うのですが、それがあまり行われていないような気がする。
テレビでは毎日、同じような医療専門家による同じような解説が行われていますが、そんなことより、反対意見と賛成意見をしっかりと話し合うような番組がなぜないのか、不思議です。

ちなみに私は、オミクロンウイルス感染症もインフルエンザも脳梗塞もみんな同じように危険なので、罹患しないように可能な範囲で注意していますが、人生においてもっと大切なことが多いので、コロナ騒ぎで自分の行動を変えることはできるだけ避けています。
コロナ感染が心配で、会いたい人に会えないような生き方はしたくないからです。

 

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2021/12/22

■この2週間、牛乳をよく飲んでいます

昨日の岸田首相の記者会見でも話されていましたが、コロナ騒ぎの影響もあって、いま、牛乳や乳製品の原料となる生乳の供給過剰で年末年始に大量廃棄される懸念が出てきています。岸田さんも「年末年始に牛乳をいつもより一杯多く飲み、料理に乳製品を活用してほしい」と述べていました。

生乳の大量廃棄の懸念は、2週間ほど前に、私はテレビで知りました。
私は、あまり牛乳が好きではなく、普段は全くと言っていいほど、飲みません。
しかし、そのニュースをテレビで観た翌日から、娘に頼んでいつもの倍以上の牛乳を買ってきてもらい、毎朝、マグカップ一杯の牛乳を飲み、日中もできるだけ飲むように心がけています。
以前もこんなことがあったような記憶がありますが、その時も好きでない牛乳を飲んでいました。似たような話では、キャベツが余って大量廃棄されるとかイワシが大量廃棄されるとか言うニュースを見たら、好きでなくともできるだけ飲食するようにしています。

一人での消費増はわずかですが、みんながそうしたらたぶん大量廃棄は起こらないでしょうし、極端な値下がりも起きないでしょう。
ともかく、食材が大量廃棄される映像を見たくないのです。
並んで牛乳を飲んでいる政治家のわざとらしい姿もテレビでは見たくないですが。

需給関係によって生ずる価格変動によって、需給関係は調整されるのが市場の働きの一つですが、私たちのちょっとした行動変化で、その働きをさらに高めることができます。
そうはいっても、嫌いな牛乳を飲むのは嫌だと言う人もいるでしょうが、嫌いなものも飲食できるようにする調理方法も、いまはいろいろとあるでしょう。

牛乳問題に限りませんが、毎日、テレビ報道を見ながら、私は自らの行動で何か問題を緩和できることはないかと考えます。そのために、毎朝、テレビを見ると言ってもいいかもしれません。まあ、できることはいずれも本当に「些細なこと」でしかありませんが。
そういう人は少なくないでしょう。大阪のクリニック放火事件の現場に、花束を供えに行く人たちも、ニュースで知らされる事件は他人事ではないと思うからでしょう。
どんなニュースも、全くの他人事ではないはずだと、私はいつも思います。

さてそれはいいのですが、実は一昨日、急激な胃腸痛に襲われました。
たまたま予定がたくさんあった日だったのですが、すべてをキャンセルして、自宅養生していました。いままで体験したことのない、胃腸痛でした。
痛いというよりも奇妙な違和感に、1日中、悩まされました。
牛乳が原因だとは思いませんが、それを知ったある人からは、牛乳もほどほどにと言われました。

さすがに昨日は怖くて牛乳は飲めませんでした。
昨日もあんまり調子はよくなかったのですが、夕方にはほぼ正常に戻りました。
今朝から牛乳復活ですが、今日は娘に頼んでコーンスープにしてもらおうと思います。それ以外にもまあいろいろとあるでしょう。

自然食材に関していえば、消費に合わせて生産に取り組むのではなく、生産に合わせて消費を考えるようにして、「豊作」を素直に喜べる経済であってほしいと思いますが、なかなかそうはならないようです。

私たちの生き方のどこかに、何か問題があるような気がしてなりません。

 

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2021/12/03

■ジョニー・Dの独白

2020年制作のアメリカ映画「黒い司法(原題:Just Mercy)」を観ました。
https://eiga.com/movie/90684/
冤罪の死刑囚たちのために奮闘した弁護士ブライアンが、黒人への差別が根強い1980年代のアラバマで体験した実話に基づいた映画です。
冤罪の被告人ジョニーDの独白が印象的でした。

こんな独白です。

逮捕されたとき、軽く考えていた。
真実は明らかだと。すぐに誤解とわかって釈放されると。
だが、警察は俺を犯人と言い、白人の男も俺が殺すのを見たと言った。
判事も陪審も俺だと言った。俺は死刑囚だ。

2年、3年、4年……。友だちも子どもたちも足が遠のいた。
そのうちみなに疑われている気がしてきて、自分でもわからなくなった。
真実はぼやけていた。

ジョニーDは、冤罪に気づいたブライアンの再審請求の提案に最初は興味を持ちませんでした。みんなから「犯人」だと思われ、言われ続けているうちに、自分でもわからなくなったのです。それにみんなの「期待(評価)」は裏切れない。みんながそう言うのであれば、それが正しいのかもしれない。

冤罪事件ではないですが、私のまわりには、ジョニーDのような人は決して少なくないような気がします。それがいい方向に働いている人もいるかもしれませんが、自分を見失って、みんなの評価に合わせていくケースが多いように思います。

他者を評価するということは、そういうことも考えなければいけません。
私は他者を評価することは不得手なのですが、時にしているかもしれません。
しかしその評価はたぶん間違っているのでしょう。
他者を評価したつもりが自分を評価していることもよくありますし。

フェイスブックなどで私を「評価」してくれる人がいますが、私はそれを読んで、逆にその人のことだと思ってしまいます。
他者のことなどわかるはずもない。ましてや評価することなどできようもない。
そう思うのですが、いろんな人が私を評価してくれます。困ったものです。
私はその人のことがわかった気もしますが、私自身も少なからず影響を受けている可能性もあります。注意しなければいけません。
他者の評価に影響されて生きるのではなく、素直な自分を生きたいものです。

 ちなみに、これは自分のことだけではありません。
「人とは…」「社会は…」などについても、みんなの意見で決めつけている人も少なくありません。
どうしてみんな自分の体験の方を大切にしないのか不思議でなりません。

 

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2021/11/28

■性善説は「楽観」ではなく「希望」

今朝の朝日新聞の「日曜に想う」で、論説委員の郷富佐子さんが「新自由主義の終わりと性善説」と題して、ルトガー・ブレグマンの「希望の歴史」を紹介しています。
その最後に、ハラリとの対談で、ハラリから「楽観的すぎる」と指摘されたブレグマンの反論が紹介されています。

楽観と希望は異なる。楽観主義は一種の自己満足で、人を怠け者にする。でも希望は、物事を変える可能性を示す。私が歴史を好きなのは、いまの社会や経済の仕組みが宿命などではなく、大きく変えられると教えてくれるからだ。

同書は、前にも紹介したとおり、人間は生まれながらに利己的だという「常識」を崩し、性善説を証明しようとしているのですが、この「性善説」というのが実に癖ものです。

昨日の湯島サロンでも、大学生の一人が性悪説で社会を見ているというような発言があったのですが、前にサロンの報告で書いたように、善か悪かは基準によって反転します。

結局は、いまの自分と同じ人がデファクトかどうかということではないかと思いますが、そう解すると、性悪説論者は社会の多くの人と自分の価値観が違うと表明していることになります。なぜなら社会は性悪説が基本と思っている人も、自分は性悪とは思ってはいないでしょうから。となれば、性善説と思っている人は、さぞかし生きづらいことでしょう。他者は信じられないわけですから。

ブレグマンの発言を改めて読んでみて、性善説は「楽観」ではなく「希望」を持つことにつながることに気づきました。
性善説や希望がデファクトになれば、困るのは誰か。
そう考えると、生き方が変わるのではないかと思うのですが、逆にそう思わない限り、新自由主義はますます強固になっていくでしょう。

やはりこう考えるのは理想主義で、現実的ではない発想でしょうか。
ちなみにブレグマンは、「希望の歴史」の最後に、読者にこう呼びかけています。

現実主義になろう。勇気を持とう。自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。白日の下で良いことをし、自らの寛大さを恥じないようにしよう。最初のうちあなたは、だまされやすい非常識な人、と見なされるかもしれない。だが、今日の非常識は明日の常識になりえるのだ。

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2021/11/25

■寄付と外食とどこが違うのか

先月31日に選挙で選ばれた議員がたった1日だけの在職なのに1か月分の文通費100万円をもらったことが話題になっていますが、それへの対応として、もらった文通費を寄付することで問題が解決されたというような風潮が気になっています。
使用使途や領収証が問題になっていますが、ここでも政治団体などに寄付して、寄付の証明書をもらえばいいだろうという主張をする政党もありますが、これもとても違和感があります。

あるいは、辞職した都議会議員だった木下さんが、仕事をせずに得た報酬を「寄付」したから問題はないだろうというような態度の記者会見を見ると、寄付ってそんな意味なのかと思ってしまいます。

私は「寄付」と「外食支出」とどこが違うのか理解できません。
「寄付行為」は、何か公的な行為と考えがちですが、「寄付」も「私的な私財支出」であることには何の違いもありません。違いは、単に支出によって得る結果だけです。外食は自らの空腹を満たし、栄養を獲得できますが、寄付は自らの気持ちを満たし、他者からの感謝を獲得できます。要するにいずれも「我欲のための行為」であることには変わりません。
木下さんも某政党も、それが全くわかっていないのではないかと思います。

そもそも「寄付」は、自らの私財の処分方法の一つです。
「寄付」ができるということは、寄付するお金や物を自らが自由に処分できるものとして私有したということですから、寄付をしようが外食でぜいたくな料理を食べようが、同じことなのではないかと思います。
むしろ「寄付」のほうが、外部を巻き込むだけ、我欲要素は大きいと思います。外食は自分のお腹の中で完結しますが、寄付は社会的な影響力を持つからです。

たった1日の在職なのに、あるいは犯罪を起こして仕事をできないような状況にしてしまって仕事をしなかったにもかかわらず、文通費や報酬を受け取ったことが問題になっているにもかかわらず、「寄付をしたからいいだろう」というような開き直りは、私には理解できません。
寄付ではなく返却や受取辞退すればいいだけの話をなぜ勝手に処分してしまうのか。

それにしても、「寄付」とは何かをもっとしっかりと考えてほしいものです。
「寄付」が美徳化され、あまりに安直に行われている最近の風潮には大きな違和感があります。

私もかつては経団連が呼びかけていた個人の1%クラブに入っていたことがありますが(当時私は5%基準でした)、今も一応その精神をつづけています。
もっとも最近は年金以外の収入はゼロに近いので、お金の寄付はなかなか難しいのですが、時間の寄付はできないことはありません。

しかし、そもそも「寄付」という発想は今はもうありません。社会を維持していくには、できる範囲で何かできることをやることは、自然なことですから。

 

 

 

 

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2021/11/24

■超古代史が姿を現しだしました

最近、湯島のサロンに来た人が「月刊ムー」の愛読者だと自己紹介がありました。
私も超古代史と言われる話が大好きで、ムー大陸とかアトランティスとかの本は、よく読んでいました。
学校での歴史では古代文明の始まりは、大体において56000年前に設定されていますが、私は1050012000年前説を勝手に信じています。
若いころはトルコのカッパドキアは超古代の核戦争跡だという説さえそうかなと思ったりしていました。さすがに今はもうそんなことは信じていませんが、ピラミッドやスフィンクスの建造時期はやはり10500年前だったと思っています。

コリン・ウィルソンの「アトランティスの遺産」の翻訳書の表紙には、水上に浮かぶスフィンクスが描かれていましたが、購入した当時はその表紙に毎日見とれていました。

大学生の頃、トルコ古代美術展でいくつかの土器を見てから、トルコのアナトリアになぜか不思議な魅力を感じていました。
数年前に読んだ「先史学者プラトン」でチャタル・ヒュユク遺跡は知り、そこからギョベックリテペ遺跡のことを知りました。
https://chahoo.jp/gobeklitepe/

いろいろな人が言っていた12000年前の前古代遺跡がだんだんはっきりと見えてきたようです。
今朝の朝日新聞には、ギョベックリテペ遺跡調査に日本も参加することになったと報道されています。
日本での報道量は一気に増えてくるでしょう。

歴史が一変するかもしれません。
歴史が変わると、世界の見え方は一変します。
私たちも、知識を日々新たにしていかなければいけません。
一度身につけた知識に呪縛されて、世界が見えなくなっている人は少なくありません。

 

これからの報道が楽しみです。

 

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2021/10/07

■「今日の仕事は楽しみですか」

今朝のテレビで、ある企業が品川駅の構内に出したメッセージ広告に関して、ネット上で炎上し、1日でその広告が片付けられたということを知りました。

問題になった広告は
「今日の仕事は楽しみですか」
というメッセージです。

私には、なじめるメッセージですが、多くの人にはあまり気分のいいメッセージではなかったようです。たしかに、受け手の気持ちに寄り添っていない、目線の高いメッセージですから、不快になる人が多いでしょう。

ただ、そのメッセージには、続きがあるのだそうです。
テレビの画像からは、どこに書いてあったのかわかりませんが、テレビ報道によれば、次のような言葉で始まる文章がついていたようです。

今日の仕事が楽しみだと、
思える仕事が増えたら、
この社会はもっと豊かになるはず。

これにはそう異論はないでしょうが、この文章は宛先がありませんから、メッセージにはなりません。それに、私には文章としてもおかしいような気がします。
2行目は「思える人が増えたら」でしょう。
それに「豊かになる」とはどういうことか、もよくわからない。
広告を出した経営者の善意は疑いませんが、管理者目線の独りよがりにはちょっと違和感があります。

私が以前、企業変革に取り組んでいた頃、みんなで議論して、自分たちの会社を「月曜が楽しい会社」にしようと決めた会社があります。
その会社の将来に大きな期待を持っていましたが、残念ながら経済環境の激変から、その会社は倒産してしまいました。
私は、せっかくの理念を活かせば倒産は免れたと今でも思っていますが、この会社の理念と今回の品川駅での広告メッセージを比較すると、大きな違いがあります。

というわけで、今度、湯島のサロンで、この話題を取り上げようと思います。
ちょっと表現を変えて、「あなたは仕事が楽しいですか」。
どなたか問題提起したいという方がいたら、ご連絡ください。

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2021/09/26

■アーミッシュ

湯島のサロンによく参加する友人から、NHKラジオ宗教の時間の「アーミッシュ その暮らしと信仰」を聴いたが、サロンでよく話題になる「政治?国?に縛られない社会」のひとつの実践例だと思うとメールしてきました。
いまもまだネットで配信しているので、放送を聴けるのでと教えてくれました。
併せて、他の方にも紹介していただけたら嬉しいと書かれていました。

 「アーミッシュ」は、名前はご存じの方も多いと思いますが、愛と信頼に基づくコミュニティを大事に守って、アメリカで生活している人たちです。
時代に抗っての生き方ですが、20年ごとに仲間は倍増し、このままいくとアメリカの人口の半分がアーミッシュになるのではないかというジョークさえあるようです。

このラジオ番組を私も先ほど聴きましたが、30分でとてもわかりやすく、アーミッシュの友人も多い堤純子さんが紹介してくれています。
私たちの生き方に関しても、大きな示唆がたくさんあるように思います。
1017日の午前9時までだと次のサイトからネットで聴けますので、もしお時間があれば、ぜひお聞きください。
https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=0424_01_3721797

話し手の堤さんはアーミッシュ関連の本も何冊か出されていますが、今年もまた「アーミッシュの老いと終焉」という本を出版しています。これもとても読みやすく、またこれまでの本の集大成のような内容ですので、お勧めです。

ちなみに今日は、湯島で「お金のない社会を想像できますか」というテーマでサロンをします。アーミッシュの放送を紹介してくれた人も参加しますので、アーミッシュも話題になるかもしれません。
お時間があれば、ご参加ください。

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2021/09/16

■45歳定年制に賛成

サントリーホールディングスの新浪社長が、「45歳定年制」の導入を提言して大きな波紋を呼んでいます。
大方の意見は、否定的で、そこに経営者の人件費削減の意図を感じているようです。
たしかにそういう意図はあるかもしれませんが、私はこの提案に賛成します。

私は47歳で会社を辞めました。
そこで得たものは、自分の人生を自主的に生きるということです。
会社時代もかなり自由に振る舞ってきたつもりですが、辞めてみて、やはり多くの呪縛の中にいたことを痛感しました。
会社や上司や同僚を口実に、自分を納得させていたことにも気づきました。

もう一つはいかに無駄が多かったかを知らされたことです。
交際費で充当されていた食事は、個人になってからはほとんど味わうことはありません。
無駄だったのはお金だけではありません。時間もかなり無駄遣いしていた気がします。
いろんなパーティにも参加させてもらいましたが、いま考えるとまさにバブルな感じでした。

会社を辞めて、私の生き方は変わりました。
さまざまな意味で「節約」し、無駄を晴らし、納得できないことには加わらないようにしました。
経済面では収支は激減しましたが、物を大事にする生き方は取り戻せました。
高価な食事とは無縁になりましたが、おいしいと思うものは前よりも増えました。

なによりも、自分の思うように生きることで、精神的ストレスはなくなりました。
時々、お金が無くなってその工面に苦労したり、時にはおいしいウナギを食べたいなと思うことはありますが、それもまた生きていることの実感を与えてくれます。
何かが欠けていることは、幸せの条件かもしれません。

長々と余計なことを書いてしまいましたが、私が45歳定年制に賛成なのは、組織に人生を任せて従僕のような存在になってしまうことを前提にしない社会がはじまるからです。

労働には、雇用労働と協同労働があります。
誰かに雇われて働くのと自らが主役になって働くのの違いです。
45歳までは雇用労働として組織で働き、遅くも45歳になったら自立して働く社会。
前者は「お金のための労働」という意味合いがあるとしても、後者は「自分の人生のための労働」という大きな違いが出てくるように思うのです。
そうした「働き方改革」につながる展望を感じるので、45歳定年制に賛成なのです。

そろそろ私たちは、法人中心社会から卒業して、生身の人間の社会に、歴史を一歩、進める時期ではないかと思っています。
言い方を換えれば、近代的進歩の流れを反転させて、のどかな人間の時代に戻ろうという話です。
会社は人間にとっては手段であって、仕えるべき主人ではありません。
舌足らずなので、異論反論をたくさん受けそうですが。

サロンをやってみてもいいかもしれませんが、組織人はあまりサロンに来ないので、話し合いが難しいかもしれません。

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2021/09/13

■人間らしく生きることの大切さ

最近の湯島サロンの大きなテーマのひとつが「人間とは何か」です。
それで、関連した著作を何冊か読んでいるのですが、今日は戸谷洋志さんの「ハンス・ヨナス 未来への責任」を読みました。
表紙にはタイトルと並んで、「やがて来たる子どもたちのための倫理学」と書かれています。

ハンス・ヨナスは、「未来倫理学」の問題にいち早く取り組んだユダヤ人哲学者です。この本は、戸谷さんの博士論文をもとにした本ですが、基本的にリライトしたようで、とても読みやすい本です。

本書の「はじめに」は次の文章から始まります。

私たちは、まだ生まれていない未来の世代を脅かす力をもっている。

私たちの生き方が、未来の生きる人たちに大きな影響を与えるというわけです。
私も、この頃、そのことを強く意識できるようになってきました。

ヨナスの「未来倫理学」のポイントは次の原則に要約されます。

あなたの行為の影響が、地上における本当に人間らしい生き方の永続と両立するように、行為せよ。

人間らしく生きる。
これは私の生活信条に一致します。

今度の日曜日918日、湯島では「ムーンショット計画」をテーマにしたサロンがあります。ムーンショット計画とは、いま日本政府が進めている未来計画です。基本にはトランス・ヒューマニズムの思想があります。
気が向いたらどうぞ。

人間らしさとはいったい何なのか。
サロンでは直接話題にはならないと思いますが、じっくりと考えたいテーマです。

 

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