カテゴリー「生き方の話」の記事

2022/06/22

■情報デトックスの3日間

ちょっと所用で2年ぶりに生活圏から外部に出かけました。
そのついでに、以前、仕事場にしていて、75歳で転居する予定だった湯河原のマンションに立ち寄りました。転居計画は妻の死で諦めましたが、そのまま放置していました。

なにしろ15年以上、ほとんど空き家状況で、管理維持費を何とか支払っていたのですが、ついにお金が無くなり、維持困難になったのでどうにかしなければいけません。
それもあって、おそるおそる少し足を延ばして立ち寄ってみたのです。
写真を撮るのを忘れてしまいましたが、廃墟に近く大変でした。

光熱費も銀行残高がなくなったため、その時点で切られていましたが、何とか電話で回復してもらいました。電気とガスと水道は確保したものの、ネット環境はなく、予期していなかったのですが、久しぶりにネットから解放された日を過ごしました。
普段使っていないSurfaceは持参しましたが、使いにくいので気になっていた万葉集サロンの報告をまとめるだけで終わりました。
スマホはあるのですが、スマホはメール以外では使っていないのです(電話も基本的には使いません)。

テレビもないし新聞もない。スマホでのネット検索はする習慣もないので、世間からちょっと解放された時間でした。自転車はパンクしていて使用不可。久しぶりに湯河原の街をよく歩きました。

湯河原や熱海には会社時代の先輩など知り合いも少しはいるのですが、連絡先も持ってこなかったので、連絡をせず、結局、無為の日々を過ごしました。
帰宅して気づいたのですが、写真も1枚も撮らず、誰にも会いませんでした。
こういう時間を持つのもいいかもしれません。

以前はここで原稿など書いていたので、まだ書籍は書棚5つ分残っています。今回は、あまりやることもなかったので、雑誌や書籍など処分することにし、数百冊の企業経営関係の書籍を廃棄、残していた雑誌も処分しましたが、見た感じ一向に減りません。よくまあ集めたものです。

久しぶりに情報デトックスした気分です。
同時に、死についても少し意識する気になりました。
このまま突然だといかにも迷惑をかけすぎますので。
妻の死がどれほど遺された私にとって大変だったかを思い出したのです。

メールにもあまり返信しませんでした。
帰宅しましたので、少しずつ返信していきます。
情報デトックスはできましたが、身体的疲労はむしろ蓄積されました。
いささか歩きすぎました。

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2022/03/26

■立ち向かう相手は誰か

今朝の朝日新聞の「異論のススメ」で、佐伯啓思さんが『「ロシア的価値」と侵略』と題した寄稿で次のような問いかけをしています。

今日、われわれはむき出しの「力」が作動する世界へ移行しつつある。ユーラシア大陸の中央部と東西の端はかなり異なった文明を持っている。西洋、アジア、ユーラシアの大国を舞台にした文明の衝突が起きる時、日本は、そのはざまにあって、前線に置かれる。その時、日本はどのような立場をとるのだろうか。

そして、さらにこう問いかけます。

状況次第では、日本も他国からの攻撃の可能性を排除することはできない。今回の事態(ロシアによるウクライナ侵略)は決して他人事ではない。果たして、われわれは、火炎瓶を作ってまで自衛しようとするウクライナの市民のように命がけで立ちあがるのであろうか。

これは前回の湯島でのオープンサロン以来、私も考えていることです。
というか、20代の頃から自問自答していた問いなのです。
自問自答だけではなく、30代の時にはある財界人から問いかけられ、話題にされたこともあります。その時、私の思いは相手にはほとんど伝わりませんでした。弁明の機会がないまま、その人はもう亡くなってしまいましたが、たぶん説明しても伝わらなかったという気もします。

この問いかけには、一つ、重要な要素が抜けているからです。
それは、「立ち向かう相手は誰か」です。
ウクライナ国民はいま誰に向かって立ち向かっているのか。
そこにこそ大切な意味があるような気がします。

ただ立ち上がればいいわけではありません。

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2022/03/17

■おすそ分けできる生活を取り戻したい

今日は午前中、近くのサイゼリアで友人の相談?にのっていました。

相談といっても、なにやら雑談の相手だけだったような気もしますが、そのお礼に野菜をもらいました。
そう言えば昔はこういうことが多かったのです。茨城県のあるまちの住民たちの相談に乗っていたことがありますが、その時には行くと帰りに野菜などのお礼がもらえました。
最近はそうしたお礼をもらう機会が少なくなってしまいましたが、それ以上に、残念なのはお礼を差し上げることが難しくなってきていることです。

ちなみに今日もらった野菜は、相談に来た友人が近くの農業をやっている高齢者からもらったもののおすそ分けです。
あらためて農業の効用に気づかせてもらえました。
農作物は必ずといっていいほど、自分だけでは消化できないほど育ちます。

その結果、おすそ分けできることは少なくありません。おすそ分けしないと逆に無駄が生じますから、誰もが負担に感じずにおすそ分けが成り立つのです。
しかし雇用労働においては、自分で作ったものはすべて雇用主のものになります。
おすそ分けしたくてもできない。おすそ分けに損得感が発生する。
そこに何か大きなヒントがあるようにがします。

おすそ分けできる生き方を取り戻したいと思います。
そのためには私も何かを常日頃生み出さなければいけません。
さて何が一体生み出せるでしょうか。
難題です。

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2022/01/13

■医療関係者によるワクチン賛否議論を聞きたいものです(2022年1月13日)

オミクロン株の流行のニュースが多いですが、どうも意味がよくわかりません。
ワクチンのリスクの報道も増えていますが、これもよくわからない。
知識が増えれば増えるほど、わからなくなる。困ったものです。

テレビの専門家の話を聞いていても、私にはほとんど何も語っていないようにしか聞こえてこない。また、ワクチンによる死者の数が増えてきたと聞いても、その評価ができません。薬や医療行為によって死者が出ることは当たり前だからです。死者だけ語っても意味もなく、それによって救われた命と一緒に語ってもらわなければ私には意味がわからない。

その上、いまや日本の官庁や「公的機関」が作成するデータは私には全くと言っていいほど意味がない。改ざんや捏造があってもきちんと説明や謝罪もないような状況を放置しているシステムには信頼性が置けないからです。データに信頼が置けない国家は実に居心地が悪い。しかし、ワクチン賛成派はもちろん、ワクチン反対派も、そうしたデータに基づいて議論していることが多く、どうも私には聞く耳を持ちにくい。

医療関係者によるワクチン反対論や新型コロナ「風邪」説などもかなりありますが、そういう疑問や意見があるのであれば、医療関係者によるきちんとした話し合いの場があってもいいと思うのですが、それがあまり行われていないような気がする。
テレビでは毎日、同じような医療専門家による同じような解説が行われていますが、そんなことより、反対意見と賛成意見をしっかりと話し合うような番組がなぜないのか、不思議です。

ちなみに私は、オミクロンウイルス感染症もインフルエンザも脳梗塞もみんな同じように危険なので、罹患しないように可能な範囲で注意していますが、人生においてもっと大切なことが多いので、コロナ騒ぎで自分の行動を変えることはできるだけ避けています。
コロナ感染が心配で、会いたい人に会えないような生き方はしたくないからです。

 

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2021/12/22

■この2週間、牛乳をよく飲んでいます

昨日の岸田首相の記者会見でも話されていましたが、コロナ騒ぎの影響もあって、いま、牛乳や乳製品の原料となる生乳の供給過剰で年末年始に大量廃棄される懸念が出てきています。岸田さんも「年末年始に牛乳をいつもより一杯多く飲み、料理に乳製品を活用してほしい」と述べていました。

生乳の大量廃棄の懸念は、2週間ほど前に、私はテレビで知りました。
私は、あまり牛乳が好きではなく、普段は全くと言っていいほど、飲みません。
しかし、そのニュースをテレビで観た翌日から、娘に頼んでいつもの倍以上の牛乳を買ってきてもらい、毎朝、マグカップ一杯の牛乳を飲み、日中もできるだけ飲むように心がけています。
以前もこんなことがあったような記憶がありますが、その時も好きでない牛乳を飲んでいました。似たような話では、キャベツが余って大量廃棄されるとかイワシが大量廃棄されるとか言うニュースを見たら、好きでなくともできるだけ飲食するようにしています。

一人での消費増はわずかですが、みんながそうしたらたぶん大量廃棄は起こらないでしょうし、極端な値下がりも起きないでしょう。
ともかく、食材が大量廃棄される映像を見たくないのです。
並んで牛乳を飲んでいる政治家のわざとらしい姿もテレビでは見たくないですが。

需給関係によって生ずる価格変動によって、需給関係は調整されるのが市場の働きの一つですが、私たちのちょっとした行動変化で、その働きをさらに高めることができます。
そうはいっても、嫌いな牛乳を飲むのは嫌だと言う人もいるでしょうが、嫌いなものも飲食できるようにする調理方法も、いまはいろいろとあるでしょう。

牛乳問題に限りませんが、毎日、テレビ報道を見ながら、私は自らの行動で何か問題を緩和できることはないかと考えます。そのために、毎朝、テレビを見ると言ってもいいかもしれません。まあ、できることはいずれも本当に「些細なこと」でしかありませんが。
そういう人は少なくないでしょう。大阪のクリニック放火事件の現場に、花束を供えに行く人たちも、ニュースで知らされる事件は他人事ではないと思うからでしょう。
どんなニュースも、全くの他人事ではないはずだと、私はいつも思います。

さてそれはいいのですが、実は一昨日、急激な胃腸痛に襲われました。
たまたま予定がたくさんあった日だったのですが、すべてをキャンセルして、自宅養生していました。いままで体験したことのない、胃腸痛でした。
痛いというよりも奇妙な違和感に、1日中、悩まされました。
牛乳が原因だとは思いませんが、それを知ったある人からは、牛乳もほどほどにと言われました。

さすがに昨日は怖くて牛乳は飲めませんでした。
昨日もあんまり調子はよくなかったのですが、夕方にはほぼ正常に戻りました。
今朝から牛乳復活ですが、今日は娘に頼んでコーンスープにしてもらおうと思います。それ以外にもまあいろいろとあるでしょう。

自然食材に関していえば、消費に合わせて生産に取り組むのではなく、生産に合わせて消費を考えるようにして、「豊作」を素直に喜べる経済であってほしいと思いますが、なかなかそうはならないようです。

私たちの生き方のどこかに、何か問題があるような気がしてなりません。

 

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2021/12/03

■ジョニー・Dの独白

2020年制作のアメリカ映画「黒い司法(原題:Just Mercy)」を観ました。
https://eiga.com/movie/90684/
冤罪の死刑囚たちのために奮闘した弁護士ブライアンが、黒人への差別が根強い1980年代のアラバマで体験した実話に基づいた映画です。
冤罪の被告人ジョニーDの独白が印象的でした。

こんな独白です。

逮捕されたとき、軽く考えていた。
真実は明らかだと。すぐに誤解とわかって釈放されると。
だが、警察は俺を犯人と言い、白人の男も俺が殺すのを見たと言った。
判事も陪審も俺だと言った。俺は死刑囚だ。

2年、3年、4年……。友だちも子どもたちも足が遠のいた。
そのうちみなに疑われている気がしてきて、自分でもわからなくなった。
真実はぼやけていた。

ジョニーDは、冤罪に気づいたブライアンの再審請求の提案に最初は興味を持ちませんでした。みんなから「犯人」だと思われ、言われ続けているうちに、自分でもわからなくなったのです。それにみんなの「期待(評価)」は裏切れない。みんながそう言うのであれば、それが正しいのかもしれない。

冤罪事件ではないですが、私のまわりには、ジョニーDのような人は決して少なくないような気がします。それがいい方向に働いている人もいるかもしれませんが、自分を見失って、みんなの評価に合わせていくケースが多いように思います。

他者を評価するということは、そういうことも考えなければいけません。
私は他者を評価することは不得手なのですが、時にしているかもしれません。
しかしその評価はたぶん間違っているのでしょう。
他者を評価したつもりが自分を評価していることもよくありますし。

フェイスブックなどで私を「評価」してくれる人がいますが、私はそれを読んで、逆にその人のことだと思ってしまいます。
他者のことなどわかるはずもない。ましてや評価することなどできようもない。
そう思うのですが、いろんな人が私を評価してくれます。困ったものです。
私はその人のことがわかった気もしますが、私自身も少なからず影響を受けている可能性もあります。注意しなければいけません。
他者の評価に影響されて生きるのではなく、素直な自分を生きたいものです。

 ちなみに、これは自分のことだけではありません。
「人とは…」「社会は…」などについても、みんなの意見で決めつけている人も少なくありません。
どうしてみんな自分の体験の方を大切にしないのか不思議でなりません。

 

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2021/11/28

■性善説は「楽観」ではなく「希望」

今朝の朝日新聞の「日曜に想う」で、論説委員の郷富佐子さんが「新自由主義の終わりと性善説」と題して、ルトガー・ブレグマンの「希望の歴史」を紹介しています。
その最後に、ハラリとの対談で、ハラリから「楽観的すぎる」と指摘されたブレグマンの反論が紹介されています。

楽観と希望は異なる。楽観主義は一種の自己満足で、人を怠け者にする。でも希望は、物事を変える可能性を示す。私が歴史を好きなのは、いまの社会や経済の仕組みが宿命などではなく、大きく変えられると教えてくれるからだ。

同書は、前にも紹介したとおり、人間は生まれながらに利己的だという「常識」を崩し、性善説を証明しようとしているのですが、この「性善説」というのが実に癖ものです。

昨日の湯島サロンでも、大学生の一人が性悪説で社会を見ているというような発言があったのですが、前にサロンの報告で書いたように、善か悪かは基準によって反転します。

結局は、いまの自分と同じ人がデファクトかどうかということではないかと思いますが、そう解すると、性悪説論者は社会の多くの人と自分の価値観が違うと表明していることになります。なぜなら社会は性悪説が基本と思っている人も、自分は性悪とは思ってはいないでしょうから。となれば、性善説と思っている人は、さぞかし生きづらいことでしょう。他者は信じられないわけですから。

ブレグマンの発言を改めて読んでみて、性善説は「楽観」ではなく「希望」を持つことにつながることに気づきました。
性善説や希望がデファクトになれば、困るのは誰か。
そう考えると、生き方が変わるのではないかと思うのですが、逆にそう思わない限り、新自由主義はますます強固になっていくでしょう。

やはりこう考えるのは理想主義で、現実的ではない発想でしょうか。
ちなみにブレグマンは、「希望の歴史」の最後に、読者にこう呼びかけています。

現実主義になろう。勇気を持とう。自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。白日の下で良いことをし、自らの寛大さを恥じないようにしよう。最初のうちあなたは、だまされやすい非常識な人、と見なされるかもしれない。だが、今日の非常識は明日の常識になりえるのだ。

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2021/11/25

■寄付と外食とどこが違うのか

先月31日に選挙で選ばれた議員がたった1日だけの在職なのに1か月分の文通費100万円をもらったことが話題になっていますが、それへの対応として、もらった文通費を寄付することで問題が解決されたというような風潮が気になっています。
使用使途や領収証が問題になっていますが、ここでも政治団体などに寄付して、寄付の証明書をもらえばいいだろうという主張をする政党もありますが、これもとても違和感があります。

あるいは、辞職した都議会議員だった木下さんが、仕事をせずに得た報酬を「寄付」したから問題はないだろうというような態度の記者会見を見ると、寄付ってそんな意味なのかと思ってしまいます。

私は「寄付」と「外食支出」とどこが違うのか理解できません。
「寄付行為」は、何か公的な行為と考えがちですが、「寄付」も「私的な私財支出」であることには何の違いもありません。違いは、単に支出によって得る結果だけです。外食は自らの空腹を満たし、栄養を獲得できますが、寄付は自らの気持ちを満たし、他者からの感謝を獲得できます。要するにいずれも「我欲のための行為」であることには変わりません。
木下さんも某政党も、それが全くわかっていないのではないかと思います。

そもそも「寄付」は、自らの私財の処分方法の一つです。
「寄付」ができるということは、寄付するお金や物を自らが自由に処分できるものとして私有したということですから、寄付をしようが外食でぜいたくな料理を食べようが、同じことなのではないかと思います。
むしろ「寄付」のほうが、外部を巻き込むだけ、我欲要素は大きいと思います。外食は自分のお腹の中で完結しますが、寄付は社会的な影響力を持つからです。

たった1日の在職なのに、あるいは犯罪を起こして仕事をできないような状況にしてしまって仕事をしなかったにもかかわらず、文通費や報酬を受け取ったことが問題になっているにもかかわらず、「寄付をしたからいいだろう」というような開き直りは、私には理解できません。
寄付ではなく返却や受取辞退すればいいだけの話をなぜ勝手に処分してしまうのか。

それにしても、「寄付」とは何かをもっとしっかりと考えてほしいものです。
「寄付」が美徳化され、あまりに安直に行われている最近の風潮には大きな違和感があります。

私もかつては経団連が呼びかけていた個人の1%クラブに入っていたことがありますが(当時私は5%基準でした)、今も一応その精神をつづけています。
もっとも最近は年金以外の収入はゼロに近いので、お金の寄付はなかなか難しいのですが、時間の寄付はできないことはありません。

しかし、そもそも「寄付」という発想は今はもうありません。社会を維持していくには、できる範囲で何かできることをやることは、自然なことですから。

 

 

 

 

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2021/11/24

■超古代史が姿を現しだしました

最近、湯島のサロンに来た人が「月刊ムー」の愛読者だと自己紹介がありました。
私も超古代史と言われる話が大好きで、ムー大陸とかアトランティスとかの本は、よく読んでいました。
学校での歴史では古代文明の始まりは、大体において56000年前に設定されていますが、私は1050012000年前説を勝手に信じています。
若いころはトルコのカッパドキアは超古代の核戦争跡だという説さえそうかなと思ったりしていました。さすがに今はもうそんなことは信じていませんが、ピラミッドやスフィンクスの建造時期はやはり10500年前だったと思っています。

コリン・ウィルソンの「アトランティスの遺産」の翻訳書の表紙には、水上に浮かぶスフィンクスが描かれていましたが、購入した当時はその表紙に毎日見とれていました。

大学生の頃、トルコ古代美術展でいくつかの土器を見てから、トルコのアナトリアになぜか不思議な魅力を感じていました。
数年前に読んだ「先史学者プラトン」でチャタル・ヒュユク遺跡は知り、そこからギョベックリテペ遺跡のことを知りました。
https://chahoo.jp/gobeklitepe/

いろいろな人が言っていた12000年前の前古代遺跡がだんだんはっきりと見えてきたようです。
今朝の朝日新聞には、ギョベックリテペ遺跡調査に日本も参加することになったと報道されています。
日本での報道量は一気に増えてくるでしょう。

歴史が一変するかもしれません。
歴史が変わると、世界の見え方は一変します。
私たちも、知識を日々新たにしていかなければいけません。
一度身につけた知識に呪縛されて、世界が見えなくなっている人は少なくありません。

 

これからの報道が楽しみです。

 

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2021/10/07

■「今日の仕事は楽しみですか」

今朝のテレビで、ある企業が品川駅の構内に出したメッセージ広告に関して、ネット上で炎上し、1日でその広告が片付けられたということを知りました。

問題になった広告は
「今日の仕事は楽しみですか」
というメッセージです。

私には、なじめるメッセージですが、多くの人にはあまり気分のいいメッセージではなかったようです。たしかに、受け手の気持ちに寄り添っていない、目線の高いメッセージですから、不快になる人が多いでしょう。

ただ、そのメッセージには、続きがあるのだそうです。
テレビの画像からは、どこに書いてあったのかわかりませんが、テレビ報道によれば、次のような言葉で始まる文章がついていたようです。

今日の仕事が楽しみだと、
思える仕事が増えたら、
この社会はもっと豊かになるはず。

これにはそう異論はないでしょうが、この文章は宛先がありませんから、メッセージにはなりません。それに、私には文章としてもおかしいような気がします。
2行目は「思える人が増えたら」でしょう。
それに「豊かになる」とはどういうことか、もよくわからない。
広告を出した経営者の善意は疑いませんが、管理者目線の独りよがりにはちょっと違和感があります。

私が以前、企業変革に取り組んでいた頃、みんなで議論して、自分たちの会社を「月曜が楽しい会社」にしようと決めた会社があります。
その会社の将来に大きな期待を持っていましたが、残念ながら経済環境の激変から、その会社は倒産してしまいました。
私は、せっかくの理念を活かせば倒産は免れたと今でも思っていますが、この会社の理念と今回の品川駅での広告メッセージを比較すると、大きな違いがあります。

というわけで、今度、湯島のサロンで、この話題を取り上げようと思います。
ちょっと表現を変えて、「あなたは仕事が楽しいですか」。
どなたか問題提起したいという方がいたら、ご連絡ください。

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