カテゴリー「生き方の話」の記事

2020/04/05

■「不要不急の活動」

昨日、湯島でオープンサロンをしました。

家を出る直前まで娘からはやめたらと言われましたが、2時から湯島でコーヒーを飲んでいるのでという案内を出した以上は、誰も来なくても行っていようと思い、湯島に行きました。
他者から見たら、まさに「不要不急の活動」でしょう。

サロンには3人の人がやってきました。
たわいもない話(不要不急の話題)が多かったのですが、この騒ぎを契機に、仕事の意味や生き方の問い直しが起こるといいというような話もありました。
さらに最後に来た、IT関係の専門家の人から、IT関係の仕事こそ「不要不急」だという過激な発言がありました。

その人は、いまもIT関係の仕事をしていて、自他ともに認めるITのプロだと私は思っているのですが、まさかその人からそういう発言があるとは思ってもいませんでした。
その人の発言は、まさに我が意を得たりというものだったので、これまで書かなかったことを書くことにしました。

私の昨日のサロンは、私にとっては大切な活動です。
私の「不要不急」の基準は、たぶん世間とは真反対です。

昨今のほとんどの経済活動や政治活動は、私には「不要不急の活動」に見えます。
国民全員にマスクを配布する活動を考えれば、わかってもらえるかもしれません。
あれは実に現在の日本の政治と経済を象徴しています。
私には、現在の国会での活動もほぼすべて「不要不急」ですし、大企業の仕事のほとんども、いまこの時期には「不要不急」のように思えます。

経済活動が止まったらトイレットペーパーがなくなるではないかと言われそうですが、もちろん価値ある仕事もたくさんあります。しかし、そういう大切な仕事や働き手が、割を食わされているのが現在の経済活動のように思えます。

3か月くらい先に延ばしても困らない大企業の経済活動(例えば自動車生産)を一斉に止めれば、満員電車は解消されるでしょう。
ビジネス化した観光地を閉めれば、多くの人はもっと身近な観光地に気づくでしょう。
ブランド化した行列のできるレストランとは違った、近くの小さなレストランをみんなで育てていこうと思えるようになるかもしれません。
ライブハウスやスポーツジムは、私にはまったく理解できないので、コメントはできませんが。

 資金の流通も3か月止めても、困るのは金融経済での不労所得者だけでしょう。
それでも資金繰りがつかずに倒産することがないように、国庫からの支援で対応する必要はありますが、お金の流れを一時止めれば大きな問題は起きないでしょう。

いずれにしろ、3か月生産や活動を止めても、大丈夫の経済活動はたくさんあるでしょう。
その間に、社会から無駄な贅肉や悪さをする経済・政治活動が顕在化されるでしょう。

文化活動やスポーツ活動は、微妙ですが、むしろ巨大化(産業化)した今の文化活動やスポーツ活動を見直す機会になるでしょう。
私は昨今のような産業化した文化活動やスポーツ活動にはなじめません。
私の感覚ではあれは文化でもスポーツでもなく、単なる産業です。
スポーツ選手には申し訳ありませんが、彼らはなにかをはき違えているとしか思えません。
ここまで書くとまた叱られるでしょうが、彼らを非難しているのではありません。
パスカルではありませんが、生きるためにはパンだけではなく、バラも必要だとは思っていますが、バラは私たちの周りにはたくさんあります。

子どもの育て方や学校教育の在り方も再考されれば、うれしいです。

私が休日にしか外出しないのは、休日の外出が人との接触が管理できるからです。
昨日、サロンに参加した一人も、平日は出歩けないが今日は電車に乗れるから来たと言っていました。
外出自粛ではなく、感染可能性の高い場所の改善や封鎖を考えるのが先決です。
個人は、外出自粛ではなく、感染予防に取り組むべきです。

生活支援の給付金が話題になっていますが、月20万円では生活できないのではないかと言う人が多いのには驚きます。
私には着ぶくれている生活をしているのではないかと思えてなりません。
私もそういう生活をしていたことがあるので偉そうなことは言えませんが、住宅費さえ抑えられれば、10万円もいらないでしょう。
住宅が余っているのですから、住宅は無償で提供するようにすれば、生活費の感覚は変わるでしょう。

私が思うには、最近は人間の生活を維持していくためにはなくてもいいことが多すぎます。
経済活動が止まったらどうなるかと言われそうですが、いまは着ぶくれた経済活動になっていて、生活のためではなくお金のための経済活動になっているように思えてなりません。

人生にとって、何が大切か。
社会にとって、何が大切か。
ぜひ今回のウイルス騒ぎを契機に、考えたいことです。

お金のためから考えるのではなく、自らの人生を基準に考えたい。
お金を稼ぐために私たちは生まれてきたのではありません。
そして、自分にとって「不要不急の活動」とは一体何なのかを考えると、たぶん生き方は変わっていく。
社会も変わっていく。

そういう契機になればいいなと思っています。

 

 

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2020/04/01

■大切なのは今のような状況での生活設計をしっかりと考えることだと思います。

新型ウイルスは、すでに国内に蔓延していて、しかもかなり長期的にいまのような状況は続くだろうと思っています。

2月中ごろに抱いたその思いは今も変わりません。
クラスターでウイルスが留まるはずはありません。
それにそんなに短期間で終息するはずもありません。

ですからこの2週間が重要だというように、問題を矮小化する方法には違和感がありました。
休校するなら半年先まで考えて仕組みを検討すべきです。
医療崩壊が問題であれば、そうならないように制度改善に努めるべきです。

しかし、問題を時空間的に矮小化したために、対策もとても短視眼的なものになってしまっているように思います。
何やらマスク不足が緊急の課題のようにさえ見えてしまいます。
今日になって、全世帯にマスクを2枚届けるなどというばかげたことが発表される現状を見れば、政府がまじめに考えているとは到底思えません。
それだけのマスクがあるのであれば、国民にではなく、医療や福祉関係の施設に今すぐにでも配布すべきです。
政府が医療制度崩壊など考えていないことが感じられます。
そんなことをやっている時ではないでしょう。

新たに法律を立案するときでもない。
まずは現場でできること、やるべきことをやることが必要です。
そうしたことは、2月の末くらいからかなり現場から指摘されていますし、テレビでも現場で仕事をしている人たちから要請されていました。
私のようにテレビでしか状況を推測できない立場でも、しっかりとみていれば、だれが誠実に発言しているかはわかります。

それにいま毎日発表されている感染者数は、私にはまったく理解できません。
そもそもベースになる検査対象者数が発表されていませんから、感染率はまったくわかりません。
関係者がその気になればいくらでもつくり出せる数字です。
ただただ不安をあおっているだけのようにも思います。
統計はいかようにも物語を生みだせるのです。

大切なのは実際に何が起こっているかです。
不要不急の外出など、そもそもそんなにしている人はいないでしょう。
みんなそんなにいい加減に生きているわけではありません。

明日に延ばせることは明日にしろというのであればわかりますが、明日ならいいのかということになります。
その理由にはほとんど根拠はないように思います。

このウイルス騒ぎが1週間や2週間で収まるはずはないでしょう。
むしろ今の状況は問題を先延ばしし㎡複雑にしているようにも思えます。
何が一番大切なのかがきちんと考えられていないような気がします。
不安をあおるような状況は避けなければいけません。
それこそが、感染を広げ、混乱を起こしかねません。

みんないまの「自粛生活」を3か月もつづけるのでしょうか。
それに「自粛」もいいですが、いまの状況でもできることはたくさんあります。
そういう視点で考えないと長期的な生活設計はできません。

私は、自らの健康を守るとともに、生活をしっかりと維持していきたいと思っています。
それが一番大切なことだと思うからです。

昨今のグローバルした状況では、このウイルス感染症が1年以内に終息するとはとても思えません。
そういう視点で、私は生活しています。
決して一過性の災厄ではありません。
緊急事態ではあると思いますが、その先も考えて、自らの生き方をしっかりと考えたいと、私は思っています。

今月を乗り越えればいいわけでは決してありません。
生活はずっと続いていくのですから。

 

 

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■生きるためには死をもいとわない生き方

新型ウイルスの広がり状況を見ていて、ポール・メイソンが「ポスト・キャピタリズム」で書いていたことを思い出して、発想を少し飛ばしてみました。

メイソンは、資本主義世界がいま次の世界へと移りつつあることを示唆しているのですが、そこで「封建主義世界から資本主義世界」への移行について簡単に紹介しています。
メイソンは、封建主義とは「義務を基盤としたシステム」だといいます。小作人が、地主に自分たちが作った農作物の一部を義務として差し出す。地主の代わりに兵役に服することもある。地主は王に税金を支払う義務を負い、要求されれば軍隊に物資を支給する、…というわけです。
そうした世界に、金融を基盤とした新しいシステムが生まれてきた。そして、大きく転換していくのですが、その移行過程をこう書いています。

農業を基盤とした封建モデルは、最初に環境上の限界にぶち当たり、それから黒死病という甚大な外的ショックに直面した。その後、人口動態ショックが起こった。つまり、農地での働き手があまりにも少なくなり、賃金が上がり、封建制度の旧システムでは人々に義務を押し付けることが不可能になった。労働人口の不足により必要となったのが技術的な革新だ。

何やら現代とそっくりのような気がします。
とりわけ不気味なのが環境上の限界と黒死病(ペスト)です。

ちなみにヨーロッパの人口の4分の1の命を奪ったペストは、イタリアとスペインから始まりました。そのいずれも、社会の仕組みが劣化していたからだとも言われます。
これも現代の世界の状況との類似性を思ってしまいます。

さらに発想を飛ばすと、次の世界(未来)はまた「封建世界」かもしれないということです。
最近の日本はすでに「義務(従順)を基盤としたシステム」になってきています。
みんな王様に命令をお願いしている状況です。
自分を生きるよりも、生物的生命を生かせてもらうことをみんな目指しだしている。
生きるためには死をもいとわない生き方です。
これはAI世界につながります。

ここでの「生きるためには死をもいとわない生き方」には真逆な意味が含意されています。
そういう視点で考えれば、私が理解する意味とたぶん現代日本のほとんどの人たちが考える意味とは真逆だと思います。
だから私がサロンを続ける姿勢もわかってもらえないのでしょう。

私にはもうほとんどの日本の人たちは生きることをやめているのに、どうして新型ウイルスが怖いのかが理解できません。
こんな言い方をするとまた叱られそうですが。

ところで、メイソンは未来を展望してこう書いています。

次の50年に外的ショックが起こらなければ、私たちはゆっくりと物事を進めていける。穏やかな移行のプロセスでは、国家が規制を通じて変化の進行役として機能するだろう。しかし、甚大な外的ショックが起これば、中には集中して迅速かつ猛烈に進めなくてはならないときもある。

新型ウイルスは、もしかしたらこの「甚大な外的ショック」なのかもしれません。
ちなみにメイソンが例示していた「外的ショック」は地球温暖化と人口増加です。
第3の「外的ショック」かもしれない新型ウイルスは、あまりにも荒っぽいやり方なので、私は「戦う」のではなく「共存の道」を探るべきだと思っていましたが、どうもみんなはそう思っていないようです。
いまだに1年後にはオリンピックができるなどと思っているのが不思議です。
日本の若者世代よりも「危機感」がないとしか私には思えません。

新型ウイルスの問題は、時間的に数か月程度の問題でもなければ、空間的にクラスターで起こっている問題ではないように思います。
社会の基礎条件が変わろうとしているのではないかと私は思っています。
この2~3か月、生き方を変えれば危機を乗り越えられるような話ではないと思います。
乗り換えるためには、一人ひとりが生き方を考えるべきであり、感染者数の発表数が増えてきたからといって、外出を自粛するようなことでいいとは私には思えません。

すでに感染は社会に広がっているはずですから、そこでの生き方(日常)を自らで考えていくことが大切だと思っています。

 

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2020/03/30

■今こそ「問題」の捉え方を間違ってはいけません

今日は午後から来客です。

新型ウイルス騒ぎで、外出も人との付き合いも人の集まりも少なくなってきました。
出かけるときもできるだけ一人で、という風潮です。
要は、だれもがウイルスを持っているという前提で行動しましょうと言うことです。
そして、できるだけ人との接触は避けましょう、というわけです。

これってどこかおかしくないでしょうか。
以前も、そういう風潮が広がったことがありますが。
「支え合い」とか「ふれあい」が大切だと言っている人の生き方はどうなってしまったのか。
コロナいじめが始まりそうな風潮に、哀しさとさびしさを感じます。

私は20年ほど前に、コムケア活動というのを始めました。
コムケアは、コミュニティケアの略ですが、そこでのケアは「関係性を大切にすること」、コミュニティは「重荷を背負い合うこと」と定義していました。
当時は、「つながり」とか「支え合い」とかはあまりまだ意識されていなかった時代です。

その後、そうした「言葉」は広がりました。
「絆」という言葉さえもが、肯定的に捉えだされました。

最近の新型ウイルス現象は、時代の流れを加速するのか逆転するのか。
私には判断しかねますが、しかし時代の流れの本性をさらけ出したような気はします。

いずれにしろ、私は自らの生き方は変えないつもりです。
ウイルスとさえもできればなかよくやっていきたい。
誰か(私も含めて)が感染したとしても、それまでと同じように接していきたい。
1メートル距離を置いて付き合うような生き方はしたくない。
そう思っています。

昨日家族で外食したという竹居さんに習って、明日は私も家族を誘って近くのお店で外食しようと思います。
こういう時だからこそ、人とのつながりを深めたい。

それと病気を広げて医療制度崩壊を起こすようにしないこととは別の話です。
問題を混同させてはいけません。
言うまでもありませんが、私も感染症を広げようなどとは微塵も思っていません。
蛇足ながら。

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2020/03/28

■「不要不急」かどうかは自分で考えましょう

不要不急の外出の自粛ムードが広がっています。

最近の日本人は、どうも「不要不急」とはなんなのかも自分で判断できないようになっているようで、テレビではその解説を盛んにやっています。
これではパンデミックに襲われ、ウイルス感染症も大流行するわけです。
私は、普段から「不要不急」の外出はしていませんので、世間がやっと私に追いついてきたとさえ思っていますが。
ただ私の場合、「必要緊急」のこともやらないことがあるのが問題ですが。

昨日は近くの小さなラーメン屋さんに娘と出かけました。
思った以上に混んでいて、しかも食事時間を少しずらしたのに、次々とお客様がやってきます。
そう言えば、私の娘の連れ合いがやっているイタリアンのお店も、コロナウイルス騒ぎでむしろお客様が増えていると言っていました。
お店のファンの人たちが、お店の窮状を心配して応援に来てくれているそうです。
そう言えば、私たちも昨日、少しそんな思いもあって、ラーメン屋さんに行きました。

そうした「外食」は決して「不要不急」ではありません。
近くのお店がなくなったら大変です。

人々のあたたかさと思いやりにちょっと幸せな気分になったのですが、いま娘の友人が、近くのスーパーが人でごった返しているとメールをくれたそうです。
そこは大きなスーパーなのですが、どうも外出自粛対策で買いだめの人が来ているようです。
これでまた感染者は増えるでしょう。

日常の買い物などを「不要不急」と思っている人が多いのでしょう。
ウイルス感染症になる前に、私から見れば、もうみんな「生きることを放棄」しているとしか思えません。

ウイルス感染症も心配ですが、もっと心配なことが私はたくさんあります。
病気の大流行というパンデミックもありますが、主体性を失ってみんなが右往左往するパンデミックもある。
せめてテレビでの不安をあおる報道はやめてもらいたいものです。

私は昨日は、録画していた最新の「水曜どうでしょう」を5編まとめてみました。
おかげで、テレビに煽られずにすんでいます。
この番組はお勧めです。

 

 

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2020/02/20

■嘘つきに囲まれていると嘘つきになっていく

森友問題はどうも結局、国民受けのする茶番劇で終焉してしまいました。
いまや司法の独立性は、夢のまた夢といった感じです。

もはや日本は法治国家ではないことを私たちは認識しなければいけません。
事実が「現実」から引き離されて、誰かによって構築されてしまう。
まさに、いまの社会は、だれかが勝手に構築した嘘の上に成り立っている。
「判決は冤罪、日本は冤罪だらけです、不公平な司法」という、籠池さんの奥さんの姿に、ちょっと共感してしまいます。

国会での野党の追及は、一見するとそうした「つくられた現実」の虚構性を暴こうと頑張っているように見えますが、そもそも、相手が構築した「嘘の上」の現実を基盤にして取り組んでいますから、勝負は最初から決まっています。
いや、捉えようによっては、相手の嘘づくりに加担しているようにさえ見えてきます。

嘘は素直な目で見れば、おのずと見えてきますから、証明などする必要はありません。
その嘘の上に論理や批判を構築していたら、すでにもう嘘の世界で生きていることになってしまいます。
「王様は裸だ」と言えばいいだけの話です。
籠池さんの奥さんのように。

桜を見る会の話で言えば、安倍政権が嘘を言っているのはだれの目にも明らかでしょう。
あるいは森友問題でも行政文書が廃棄されたなどという話は、素直な目を持っていれば、誰にも明明白白としか言いようがない。
素直に考えたら、明確な話が、なぜか難しくなり、嘘を証明しなければいけないような、無法国家になってしまったような気がします。
しかし、多くの国民はそれに唯々諾々と従って、身を任せている。

心理学者のユングが、その著書でこう書いているそうです。

ローマ人はだれもが奴隷に囲まれていた。奴隷とその心理が古代のイタリアに氾濫していた。そして、ローマ人はだれもが、心のなかで、もちろん無意識にだが、奴隷となった。たえず奴隷の雰囲気のなかに生きていたから、無意識を通じて奴隷の心理に冒されたのであった。このような影響から自己を防衛できる人などいなかった。

まさに今の日本の社会はこうなってしまっているのではないか。
そんな気がしてしまうほどに、昨今の日本はおかしくなっているような気がします。

嘘だけはつくまい。
誰かの言葉や書物からではなく、自らの目や体験を大切にしていこうと、改めて思いなおしています。
新型コロナウイルス騒ぎにも、踊らされないようにしようと思います。
安倍首相を見習って、次々と同じような人が育っているのが恐ろしいです。

 

 

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2020/01/25

■今日は昼食を節約して、この本を買ってください

その本は、「グレタのねがい」(ヴァレンティナ・キヤメリニ著 西村書店 980円)。
昨日発売されましたが、おそらく来週には大きな話題になっていくでしょう。

Gureda

私たちはいま、17歳の少女に「あなたたちが話しているのは、お金のことと経済発展がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。恥ずかしくないんでしょうか!」と指摘されています。
少女の名前はグレタ。
その名前と、怒りと悲しみに満ちた表情と鋭い問いかけは、多くの人の記憶にまだ新しいでしょう。

スウェーデンのグレタ・トゥンベリさんは、地球温暖化を食い止めるために「自分でできる方法」として、学校へ行かずに国会議事堂前で、ひとりで抗議ストライキを始めました。
そこからいまや、グレタのメッセージは世界中に広がってきています。
そして、昨年9月に国連でスピーチをした時に発せられたのが、上記の言葉です。

グレタさんはつい先日、スイスのダボスで行われた世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)でもスピーチを行いました。
グレタさんはスウェーデンのストックホルムに住んでいますが、そこからスイスのダボスには飛行機を使わずに、陸路を30時間かけて行ったそうです。
飛行機がいかに環境に負荷をかけるかを熟知しているからです。

グレタさんの母親は国際的に活躍しているオペラ歌手だそうですが(日本にも来たことがあるそうです)、グレタさんに説得されて、いまは飛行機の使用をやめ、海外での公演もやめたそうです。
生き方を変えたのです。

そのグレタさんのことを紹介する「子供向け」の本が西村書店から出版されました。
友人が送ってきてくれたので、さっそく読ませてもらいました。

「小学校高学年以上」が対象とされていますが、大人でもわかる本です。
私は、大人よりも子供たちのほうが読解力が優れていると思っていますが、この本はたぶん大学を卒業した人でも、少しでも知性が残っているならば、理解できるでしょう。
しかし、本書が向けられているのは、しっかりした知性と思考力をまだ失っていない子どもたちです。

本書の表紙には、「地球をまもり 未来に生きる 大人になるまで待つ必要なんてない」と書かれています。
子どもたちができることは、大人たちよりもたくさんあります。
でも、グレタさんの母親が示してくれているように、大人たちにもできることがある。

本書を送ってきてくれた友人は、「この本は、気候温暖化のメッセージ本ではなく、グレタさんが身をもって新しい生き方を示す、これからの新世代へのエールととらえます」と書いてきました。
たしかにそうだと思います。
そして、地球環境問題に対処するには、私たちの生き方を問い直さなければいけません。
排出ガス規制や環境権などと言っている限り、解決は見えてこないでしょう。

しかし、人間であれば、誰にでもできることがあるはずです。
では私たちに何ができるか。
まずは今日のお昼を抜いて、この本を買って読むことから始めましょう。
そして読んだら、その本を近くにいる子どもたちにあげましょう。

この本を読んだ子どもたちがきっといい方法を見つけてくれます。
そこからもしかしたら、大人にもできることが見えてくるかもしれません。

 ぜひ多くの人に読んで、生き方を変える契機にしてほしいです。

 

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2019/12/17

■熊沢さん家族に教えられたこと

元農水省事務次官の熊沢英昭さんが自宅で44歳の長男を殺害した事件の裁判はたくさんのことを考えさせてくれました。
同時にしかし、これほど気の重くなる事件もありません。

判決は実刑6年でした。
これをとやかく言う気にはなれませんが、関係者はみんな不幸だったと思います。
とても悲しくてさびしくて、やり切れません。
せめてテレビではいじくりまわしてほしくないと思いますが、いじくりまわしやすい事件なのでしょう。
しかも誰もが、身近に感じられる事件とも言えるでしょう。
だからみんな生々しい意見を持ってしまうのです。

この事件や判決へのコメントを聞いていると、発言者のこれまでの人生やいまの生活が垣間見える気がします。
そしてみんな同じように悲しくさびしく生きているような気がしてなりません。
この事件は、人の生き方を問いかけているのです。
もちろん私も問われている一人です。

愛する人に殺されるのと愛する人を殺すのとどちらがつらいでしょうか。
もちろん後者でしょう。
しかし、愛する人に殺させないために殺すという論理も成り立ちます。
ですから、この問いはまったく意味をなさない気もします。

殺すのも殺されるのも同じことなのであれば、怒りの持って行き場はありません。
でもちょっとだけ世界を広げれば、事態の見え方は一変します。
一番の問題は、熊沢家族が閉じられた小さな世界に生きていたことかもしれません。
もう少し広い世界に思いを馳せられれば、事態は変わったかもしれません。

私たちは現在、情報化のおかげで、一見、広い世界に生きているように思いがちです。
しかし、実際にはとてもとても小さな世界に生きているのではないか。
今回の事件と裁判は、私にそんなことを改めて気づかせてくれました。

テレビでは、事務次官まで勤め上げた人が、と言われることがありますが、たぶん事務次官まで勤め上げた人だからこその世界の狭さ、知性の欠如だったのかもしれません。

学校で学べば学ぶほど、世界は狭くなる。
それが私のこの数十年の体験からの結論です。
いまの教育は「知性」や思考力を奪う仕組みではないか。
そんな気がしてなりません。

熊沢さん家族から教えてもらったことを、少しでも活かしていければと思います。
やはり湯島のサロンは、趣旨が理解されなくても続けようと思います。

熊沢さんにとって、実刑だろうと執行猶予だろうと、たぶん瑣末の話でしょう。
むしろ熊沢さんと奥さんが、自らの生命を断つことが心配です。
熊沢英昭さんはじめ、熊沢さん家族の心の平安がおとずれることを深く祈ります。
私はおふたりには面識はありませんが、どなたかがきっと支えてくれることを信じています。

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2019/12/04

■嘘を前提にして議論する社会

国会では相変わらず「桜を見る会」での与野党のやり取りが続いています。
テレビでもその関連の話が話題になっています。
私がこの問題で驚いているのは、官邸や与党の反応ではありません。
みんなが「嘘」を前提に思考し議論していることです。

これは最近の風潮ですが、こうしたことが繰り返されると「嘘」という概念さえなくなっていくのではないかと気になります。
いやもうなくなってしまっているのかもしれません。
最初にこうした風潮をつくった小泉政権からもうかなり経ちますから。

「桜を見る会」問題での嘘は、たとえば、参加者名簿がないという嘘です。
本当にないと思っている人がいるのでしょうか。
手書きで名簿をつくる時代ならともかく、パソコンでデータ作成する時代に、プリントアウトした名簿をシュレッダーにかけることで名簿はなくなりません。
万一すべてのパソコンのデータを消去しても、復元は可能でしょう。
そういう時代に、相変わらず、紙媒体の名簿を廃棄したことで、名簿がないなどと騒いでいることの滑稽さをだれも指摘しない。
しかもつい最近、同じようなことを体験しているはずなのに。
アンデルセン童話の「裸の王様」を思い出します。

嘘を認めての野党の追及は時間の無駄でしかありません。
テレビのキャスターやコメンテーターもみんな、嘘の上に構築された問題の上で、政権に忖度しながら発言しています。
一人くらい「王様は裸だ!」と素直に発言する人はいないものでしょうか。
ばかげた国会論争やテレビ報道はやめてもらいたいものです。

「私人」と言われている首相夫人が招待者になっていることについてさえ、「私物化したと思われても仕方がない」などとバカなコメントをしています。
なんでもっと端的に「私物化だと思う」と言えないのか。
それはその人が多分テレビを「私物化」しているからでしょう。

腐ったリンゴはどんどん広がります。
私もまた腐っていくのは避けようがないのでしょう。
困ったものです。

 

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2019/11/13

■市町村選挙は自分たちの住んでいる町の未来を考える機会です

私が住んでいる我孫子市ではいま市議会議員選挙が行われています。
選挙になると、普段は音信不通の議員からも連絡があったり、あるいはチラシが投函されたりします。
チラシには公約が書かれていますが、何か空しい言葉の羅列にしか見えません。
私がいつも知りたいのは、この我孫子をどんなまちづくりにしたいと思っているのかですが、それが見えてこない。

 そこで、公示日の前日、あることを思いついて、知り合いの立候補者の数名に次のようなメールをしました。

突然のことなので、選挙期間中には無理かとは思いますが、どんな我孫子を目指すのかを話し合うかをテーマにしたミニフォーラムを事務所で開いたらどうでしょうか。

顔見知りの、そしてかつて応援したこともある6人に絞りました。
一人からすぐ、同じようなことを考えているという返信がありました。

また今日、別の立候補者から、事務所開きの日にそれをやったとお聞きしました。
うれしい話です。

もちろん私が提案したからということではありません。
ご本人たちも、それが必要だと考えていたのだと思います。

 市議選が終わったら、我孫子の政治を考えるようなサロンを定期的に開くような場を考えたいと思います。

 

 

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