カテゴリー「生き方の話」の記事

2021/01/21

■新しいコミュニティづくりの応援のお願い

湯島のサロンでも話してくれたことのある、カシュカシュこと内藤明子さんが、その時に予告していた「新しいコミュニティづくり」のことをまとめて、アマゾンからキンドル本として公開しました。
価格はワンコインの500円ですが、明日までは無料でダウンロードできます。

本のタイトルは「宇宙人になるための3つのステップ  自分を癒すためのスピリチュアルの教科書」です。

「宇宙人?」、ちょっと自分とは縁がないかなと思うかもしれませんが、「宇宙人」には「うちゅんちゅ」とルビがふられていますので、内藤さんの思いをうまく受け止めてもらえると嬉しいです。

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第3章に書かれている「宇宙人による和文化平和村構想」を実現し、宇宙人も降りてきたくなるような場所を地上に実現することが内藤さんの目標なのです。
名称にもあるとおり、その理念は日本の伝統文化「和文化」です。
そしてどうしてこうした構想に行きついたかを内藤さんは自らの生い立ちと経験をさらけだしながら、説明しています。

もしよかったら、内藤さんの構想を応援する意味でも、ダウンロードしてもらえるとうれしいです。
ちなみに、キンドルリーダーをお持ちでない方は次のところから無料でダウンロードできます。
https://www.amazon.co.jp/kindle-dbs/fd/kcp

また、本の注文画面は次のところです。
https://amzn.to/3bQjraX

内藤さんには一度またサロンをお願いしたいと思っていますが、和文化平和村構想の基地である埼玉県寄居の「エルモットカフェ」でも、一度サロンをやることも考えたいと思っています。

宇宙人も集まる和文化平和村構想実現のために、ぜひこのキンドル本のダウンロードをお願いします。

 

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2021/01/18

■疫病とも共生しようという文化

With コロナ」といった言い方もありますが、COVID-19との付き合い方はますます「戦闘」的になっているような気がします。それはとりもなおさず、社会に不安や怒りを広げ、「戦争」気分を高めることにつながっているような気がします。
いまや「ヘイト」の刃は、自らにまで向けられ始めているようにも思います。

昨年夏に出版された岩波新書の「コロナ後の世界を生きる」を最近になって読みました。
この時代を生きるたくさんの示唆が込められていて、たくさんのことに気づかせてもらいましたが、これまでの私の生き方を改めて肯定してもらったような気がして、少し疎外感が消えました。

そのなかで、ヤマザキマリさんが疫病に対する日本と西欧との違いを書いています。
ヤマザキさんによれば、「パンデミックを巨大な鎌を振り上げる恐ろしい骸骨の姿に置換えて気構える」キリスト教世界のヨーロッパと違って、日本には疫病とも共生しようという文化があったというようなことを書いています。

その例として、平安時代後期に描かれた融通念仏縁起を紹介しています。
ヤマザキさんは、「妖怪のような姿で描かれた疫病が念仏を唱える寺院の門に押し掛けているという情景が描かれている。彼らは門番から念仏を唱えている人の名簿を渡され、そこに名前が記されている人には悪さはしないとサインをして立ち去っていくのであると説明しています。
そして、「ウイルスとのなるようにしかならない共生という考えが、もしもこうした非常時の対策を考案する人々の意識下にあるのだとわかれば、国民も不安感や不平不満をため込むかわりに、自分で自分の命を守る判断力を強く持つことができるようになるのではないか」と書いています。

融通念仏縁起の絵は紹介されていなかったので、もしかしたらと思い、リフォームで倉庫状況にある書庫から「妖怪草子」を探し出しました。
そこに、たぶんヤマザキさんが紹介している絵が出てきました。
それにしても、疫病は多彩な姿をしています。
いま毎日のようにテレビで見せつけられているCOVID-19の姿とは大違いです。
話しかけたくなる表情の疫病もいます。
こうしたウイルスを見る能力も、現代の私たちは失ってしまったのかもしれません。

ヤマザキさんはこう書いています。

「融通念仏絵巻の門番に説得され、納得して退散していく物分かりの良い疫病は、自然現象との共生を諭す日本的な表現だと言えるかもしれない」。

とても共感できるのですが、残念ながら今の日本の、少なくとも都会には、こうした文化は消えてしまったようです。
私は、念仏は唱えていませんが、初詣にも行きましたし、COVID-19とも仲良くしたいといつも表明していますので、COVID-19も「悪さをしない名簿」に名前が書かれていると思います。

もしそれでも「呼ばれたら」行かないわけにはいかないでしょう。そういう人生を送りたいと思っているので、自分だけ逃げきろうなどとは一切思ってはいません。

ヤマザキさんは、この絵を見ていたら、「国民も不安感や不平不満をため込むかわりに、自分で自分の命を守る判断力を強く持つことができるようになるのではないか」と書いていますが、そうあってほしいものです。

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2021/01/17

■今日も厳しい非難の目を受けながら、不謹慎にも湯島に出かけてサロンです

新型コロナの感染者の発表数が相変わらず少ないのが気になっています。

というと、「少ない」ではなく「多い」の間違いではないかと言われそうですが、私はそろそろ5000人の数字が出されるだろうと思っていたから、最近の発表数字の少なさに驚いています。
もっとも私は、こうした数字にはほとんど「事実」を感じていません。
しかし、発表数字の「意味」には大きな関心があります。
そこからさまざまな「意図」が読み取れるからです。

最近の首相は記者会見もせずに(それらしきことはやりましたが、あれは記者会見といえるようなものではありません)、覚悟をもって何かを決めることもできずにいますが、幸いにそうした政府に自らの人生を預けている(期待している)人が多いので、何とか政府の体をなしています。
しかしこの先の展開がとても気になります。

COVID-19パンデミックがさまざまな問題を可視化させてきてくれていますが、そのほとんどは、なにをいまさらということばかりです。
みんな「意図」されていたことではないかと思ってしまうのです。
不幸にして生命を落としてしまった人もいますが、そうしたリスクは別にCOVID-19に始まったことではありません。
なんでもかでもが「大きな物語」の枝葉にされてしまうのが、最近の「非情報化社会」の特徴ですが(ちなみに私は現在ほど「情報」がなくなった時代はないと思っています)、COVID-19などという「よくあるリスク」に押しつぶされないようにしたいと思っています。

しかし、それに感染するのは、その「虚構の物語」に加担することになりますので、注意しなければいけません。
でもマスクをしたり会食をやめたり外出自粛したりすれば、解決するような問題ではありません。
そもそも問題の立て方が、私とは違っていますし、

さて今日も厳しい非難の目を受けながら、不謹慎にも湯島に出かけてサロンです。

 

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2021/01/14

■疑いのまなざし

COVID-19感染症に関して、私が一番気になるのは、「疑いのまなざし」を広げていることです。

私はマスクをすることに抵抗があるのですが、それは自分も感染しているということも含めて、「他者は感染しているのではないか」という疑いを前提にしているからです。
感染を拡大させないために、常に感染の可能性を踏まえて行動するのがいいとは思う一方、そういう生活を続けていると、他者を疑うことが基本的な他者を見るまなざしになってしまうのではないかという不安があるのです。

私は、基本的に「他者を信頼する」という生き方をずっと続けています。
そういう生き方をしてきた者にとっては、これは生理的に耐え難いことなのです。
しかし昨今の状況では、マスクをしないで電車に乗ったりお店に行ったりするわけにはいきません。いまやそれが社会のルールになってきていますし、なによりもそれがおかしいわけではないからです。

しかし、やはりマスクをすることにはストレスを感じます。
周りへの、あるいは自分への「不信」を表明しているような気がしてしまうからです。
加えて、マスクをすることで、何やら「安心」してしまうことにも違和感があります。

私は自宅や湯島の私のオフィスではマスクはしません。
まったく知らない人と会うことはほとんどありませんので、会うのはほとんどが友人や知人です。友人や知人に「疑いのまなざし」を持つことは、私にはできません。
それに感染させる可能性を持っている人は、会いには来ないと信じています。
私もそういうときは外出はしません。それは今に始まったことではありません。
しかし、相手はどう思っているでしょうか。マスクをしないことは昨今にあっては相手に失礼なのかもしれません。実に悩ましいのです。

そんなわけで、最近は次第にマスクをすることが増えてきました。
それはとりもなおさず、あなたや自分を信頼していませんというメッセージなのだと思うと、やはり気が重い。

ソーシャル・ディスタンスにも居心地の悪さを感じます。
私は感染したくないので、あなたとは近づきたくないというメッセージですから。
もちろんあなたに感染させたくないからという意味合いもありますが、もし相手に感染させる恐れがあるのなら、そもそも会わなければいい。
自分では気づいていなくても、その可能性はあるのだからと説明されても、すっきりしません。
ソーシャル・ディスタンスのマナーも、知らず知らずに、人の心に「疑いのまなざし」を植え付けていくのではないか。

しかし、ソーシャル・ディスタンスに関して、逆の受け止めをする人もいます。
たとえば、ロバート・キャンベルさんは、「ソーシャル・ディスタンスは、社会の中の自分自身の位置づけを知る、自分の居場所から他者との関係を見つめ直すことだとも捉えたい」と言います。そして、「それぞれが、その人に合った適切なソーシャル・ディスタンスを保持しつつ、他者の喜びや痛みをフェイクではなく確かな事実として理解するような連帯感に溢れた社会、そういう未来を是非迎えたい」と言うのです。

人の考えや感じ方はさまざまです。
ですから、マスクやソーシャル・ディスタンスが一概に「疑いのまなざし」を生み出していくと考える必要はないかもしれません。

しかし、私にはどうしても、マスクとソーシャル・ディスタンスには居心地の悪さが残ります。
それがどんな社会を育てていくのか。
気になって仕方がありません。
疑いのまなざしが、世界を覆い尽さねばいいのですが。

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2021/01/03

■改めて「地産地消と地消地産」

最近、時評ブログをあまり書いていないのですが、昨夜、久しぶりにコメントが書かれていました。
2008年610日の記事「地産地消と地消地産」です。コメントしてくれたのは、スマート・テロワールに取り組んでいる安江さんです。
その問いかけに応えるために、私も記事を読み返しました。

昨年、斎藤幸平さんの「大洪水の前に」という本を読みました。
斎藤さんは、「人新世の資本論」という本で話題になりましたが、マルクスを読み直している人です。湯島でも「人新世の資本論」を題材にしたサロンをやりました。
その書名に違和感があり、私は読んでいませんでしたが、「大洪水の前に」は読んでいました。それによれば、マルクスは、資本主義経済が自然を攪乱していることをとても危惧していたそうです。私は生半可の知識でマルクス嫌いでしたが、マルクスがそう考えていたことを知って、ほっとしました。

それはともかく、私は自然に支えられてこそ、人の生活は豊かになると考えています。ですから基本は自然に恵みを素直に生かすことであり、人の知恵や欲望だけで、自然を変えてはいけないと思っているのです。
それで「地消地産」という発想に違和感を持って記事を書いたようです。

「地消地産」は、「地域で消費するものは地域で生産しよう」ということですから、素直に賛成してもいいのですが、そこに「暴走の危険性」を感じてしまうのです。なにしろ人間の欲望は際限がないからです。
最近の「お金の餌付けされた」日本人をみていると、そう思わざるを得ないのです。
なにしろSDGsさえ、収益事業のネタにしてしまうのですから。

私が会社を辞めたのは、そういう企業の動きに違和感を持ったからです。
当時、これからの成長市場は「環境」と「福祉」だといわれていました。
それに抗いながら30年生きてきましたが、時代の流れは加速されこそすれ、変わりませんでした。

気が向いたら昔の私の記事をお読みください。
コメントももしよろしければ。

地産地消と地消地産: CWS private (cocolog-nifty.com)

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2020/11/28

■またまた繰り返しの判断ミス

また間違った判断をしてしまったようです。困ったものです。

一昨日、階段で足を滑らせ、背中を階段の角にぶつけてしまいました。
病院に行くつもりはなかったのですが、フェイスブックに書いたら、たくさんの人からGo To病院コールのアドバイスをもらいました。それで昨日は病院に行くつもりで娘に自動車で送ってもらうよう頼んでいました。
予定の9時に娘が声をかけてきくれたので、立ち上がって玄関に向かったのですが、なんと「痛み」がないのです。
痛みがない! もう病院はいいのではないかと思い、何とか娘を説得して、病院行きをやめてしまったのです。
午後も一応、様子をみていたのですが、痛みが戻らない。
というわけで昨日は結局、病院に行きませんでした。

ところが、です。
今朝起きたら、やはりみぞうちに痛みがあるのです。
やはり昨日はみんなのアドバイスを素直に受けて、病院に行くべきだったようです。
また間違いをやってしまいました。困ったものです。
まあ大したことはないので、心配は全くご無用なのですが。
もちろん頭は打っていませんし。

昨日、病院に行く際に、待ち時間に読もうと本を用意しておきました。
30年以上前に出た「現代科学と東洋思想」、1979年のコルドバ国際シンポジウムの続きとして日本の筑波で開催されたシンポジウムの記録の一部です。先日の身体知サロンで思い出したのです。
そこに収録されている湯浅泰雄さんの「東洋的心身論」を読むつもりだったのですが、昨日は自宅でそれを読みました。
湯浅さんは、身体と心の中間的性格をそなえた無意識的準身体ともいうべき第3の組織、〈気〉が構成する経絡システムを提唱している方です。久しぶりに、超心理学とか超物理学の話などを思い出しました。それで関連した本を探し出して少し読み直しました。まあそれで病院に行くのをやめたともいえるのですが。
おかげで、自分の身体を題材にして、いろいろと考えることができました。

人間の心身は実に面白い。足を滑らせたおかげで、湯浅さんの論考への親近感が高まりました。
昨日は実に幸せな気分でした。

しかし、今朝はまた痛みが戻ってきた。
痛みだけではなく、いろんな違和感も意識するようになってしまった。
やはり病院に行かなかったのは、判断ミスでした。
みなさんのアドバイスに素直に応じなくて申し訳ありませんでした。
天邪鬼の性格の悪さは、なかなか素直になりません。
困ったものです。

今日は湯島でサロンです。

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2020/11/16

■世界はオートポイエティックなコモンズ型プラットフ

山口県では、プロボノ活動の受入を希望する県民活動団体の活動や、プロボノワーカーと団体とのマッチングを支援し、地域課題解決のための協働体制の構築を推進しています。
https://www.facebook.com/photo?fbid=3321177691294136&set=p.3321177691294136

たまたま私の友人が取り組んでいる「仁徳地域商会」活動がその対象になったこともあり、私も参加させてもらっています。
一昨日はその2回目のzoomミーティングでした。
主なテーマは「プラットフォーム」づくり。

ちょうどいま私たちが取り組んでいる我孫子の「まちづくり編集会議」も、新しいプラットフォームだと私は考えています。
この30年ほど、各地や地元での地域活動に取り組んできて、私自身行き着いたところが、自然と育っていく、いわばオートポイエティックなコモンズ型のプラットフォームなのですが、私がそこに行き着いた経緯も含めて、昨日のzoomミーティングではいまの私たちの我孫子の活動の個人的な経過報告もさせてもらいました。

昨日、その我孫子の活動の一環として、2回目のイベントをやったのですが、改めてその方向性に確信を持てました。
しかし、いわゆる「まちづくりの専門家」や地域で長年活動しているNPO実践者からは、危なっかしく見えていることでしょう、しかし、そうした人たちからの善意のアドバイスや「応援」が、一番の邪魔になりかねないと私は思っています。

時代が変わるということは、「専門家」や「プロ」の人たちが、邪魔をしかねない存在になるということです。企業では1980年代頃から、そういう認識が高まっていて、「成功は失敗の母」(失敗は成功の母ではありません)という言葉さえ一時はよく使われました。
しかし、地域活動や福祉活動では、まだ必ずしもそうはなっていません。

そういう状況では、新しい芽を「応援」する形でつぶしてしまうことは往々にして起こります。
一昨日のzoomミーティングでも、新しい活動に取り組んでいる人から、すでに活動している人から足を引っ張られることはないかというような指摘がありましたが、たしかにそういうことは少なくありません。しかし、本来、過去(現在)を向いているか、未来を向いているかという次元の違いがありますから、対立など起こらないと私は考えています。こちらが気にしなければいいだけの話ですから。

そもそも「次元」が違うのです。しかし実際には、まだまだ「専門家」信仰が残っていますから惑わされる人は多いでしょう。アンラーニングする知性をもっと大切にしたいと思っています。

とても疲れた2日間でした。
ソクラテスの「無知の知」をつい思い出してしまいました。
「知」に呪縛されないように気をつけないといけないと、改めて思います。

 

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2020/10/15

■コミュニティということ

前の記事(「家族ということ」)の続きです。

生きているといろいろなことがあります。
いいことばかりではありません。
苦しみも悩みも、辛いことも悲しいこともある。
怪我もすれば病気にもかかるし、死も避けられません。
でも、だからこそ生きているよろこびがある。

新型コロナウイルスの感染ばかりが騒がれますが、私の友人は胃がんで余命宣告され、最近亡くなりましたが、彼は一切、新型コロナを気にしませんでした。そんな余裕はなかったのです。何回も会いましたが、コロナの話は一度も出ませんでした。
自宅療養でしたが、事態が急変し、緊急入院したことを病院の医師から連絡を受け、万一の場合、延命手術をするかどうかを医師から訊かれて、あわてて病院に行きました。
彼は一人暮らしだったので、私が入院の保証人でした。

医師と話しましたが、病院はいまコロナで面会できないといわれました。
しかし、もしかしたら最後になるかもしれません。ここで会わずに帰ったら後悔するでしょう。そう思って医師と看護師に相談しました。
看護師の方がそういう場合は医師の許可があれば大丈夫だと言ってくれました。
医師ももちろん許可してくれました。
以来、私以外の友人にも案内して会いに行ってもらいました。
コロナ感染を気にしていた友人も会いに来てくれました。
そして、彼は生きる意欲を回復して一度自宅に戻れました。
最期はとても幸せそうな表情で、安らかに逝きました。

新型コロナウイルス感染症だったために、家族が死に目に会えなかったという有名なタレントの報道がありましたが、もしそれが本当であれば、実に悲しい話です。
だれが何と言おうと遺族は会うべきでしたし、医療関係者は会わせるべきでした。
それが人の道です。ルールも法も人の道のためにこそある。
感染しないように注意することは大切ですが、感染を広げないことも含めて、いくらでも方法はあるはずです。
それに万一、感染しても、遺族は会わないで見送るよりもよかったと思うでしょう。

これは家族に限ったことではありません。
親しい友人の場合にも言えることです。
「家族遺棄社会」という本に、こんな言葉がありました。

感染リスクを顧みず直接会ってくれる人がいるというのは親しさの指標。

これは全く同感です。
逆に言えば、感染リスクがあるからと言って、会うことを諦めるような付き合いであれば、それは知人ではあっても、友人とは言えないでしょう。
そういう意味での「友人」がどのくらいいるか。
それこそがその人の生活圏の豊かさの指標です。

「コミュニティ」という言葉がよく使われるようになりましたが、コミュニティとは「重い荷物も背負い合う人のつながり」と考えている私にとっては、ほとんどのコミュニティ論は言葉だけの遊びです。
そう簡単にコミュニティはつくれません。その人の長年の生き方が生みだすのが、コミュニティだろうと思います。

コロナ感染の不安感が、社会からコミュニティをなくしてしまうような不安があります。
マスクもせずに、毎週、湯島でサロンを開いているのは、こうした私のコミュニティ観の表れでもあります。
少なくとも私は、コミュニティがなければ生きていけない弱い存在ですので。

 

 

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■家族ということ

挽歌編に書いたのですが、時評編にも載せたくなりました。
少し書き直して、こちらにも書かせてもらいました。

最近、昔のテレビドラマの再放送をよく見ているのですが、西田敏行主演の「浅草ふくまる旅館」シリーズには大きな元気をもらいました。
残念ながら最後の6話しか観られていなかったのですが、最終回には涙が止まりませんでした。元気が出る涙です。

西田敏行演ずる主役の福丸大吉は、浅草にある“ふくまる旅館”で働いていましたが、先代の娘と結婚し、旅館を継ぐのですが、いろいろと事情があって、長男とは血のつながりがありません。詳しい説明は省略しますが、最終回でその息子に次のように大吉は話すのです。

家族ってさ、一緒に悩んだり苦しんだり、一緒に喜んだり笑ったり泣いたり…
先代は、従業員だった俺を家族として迎え入れてくれた。
だから俺は、お客様を家族として受け入れ、できるだけのおもてなしをしているんだ。

ドラマを観ていないと、意味が分からないかもしれませんが、ともかく毎回、心があたたかかくなるドラマです。
私が大吉のこの言葉にとても共感したのは、「一緒に悩んだり苦しんだり」が「一緒に喜んだり笑ったり泣いたり」の先にきているからです。
家族の一番の意味は、「一緒に喜んだり笑ったり泣いたり」するところにではなく、「一緒に悩んだり苦しんだり」するところです。
喜んだり泣いたりするのは、誰とでもできます。
しかし、悩んだり苦しんだりは、誰ともできる事ではありません。

私は家族というのは、別に血がつながっている必要はないと思っています。
事実、家族の核である夫婦には血のつながりはありません。
家族は血縁関係者と捉える必要はないでしょう。

私は家族とは一緒に生きている仲間だと考えていますので、ふくまる旅館の話がとてもなじめるのです。一緒に生きていればこそ、当然にして「一緒に悩んだり苦しんだり」するのです。

福丸大吉さんは、過剰なほどの世話焼きです。
しかも誰をも信じてしまう、他者を疑うことがない。
疑うことを知らない人は誰からもだまされません。「だまされる」という概念がないからです。

なぜ彼は人を疑わないのか。みんな家族だと思っているからです。
家族からはだまされないし、万一、だまされたとしても許すことができる。
そして大吉さんはだまされないどころか、いつも「奇跡」のようなことに包まれるのです。

家族になるのは難しいことではありません。
その人を信ずればいい。
それだけです。
それができれば、誰も孤立することはなく、孤独死もなくなるでしょう。
そういう思いを、このドラマは教えてくれます。

多くの人に観てほしいのですが残念ながら再放送はいまのところありません。
またもしどこかで再放映があったら、ぜひご覧ください。
幸せになるかもしれません。
DVDに残しておけばよかったのですが、消してしまいました。とても後悔しています。

 

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2020/10/12

■利便性ともろさとはコインの表裏

昨日、我孫子で電車の乗ろうとしたらカードが使えません。
カードのICが壊れていたのです。
幸いにポケットに1000円札が1枚あったので何とか湯島に行けました。
カード会社に電話したら、やはりICが壊れているようで、再発行してもらうことになりました。

私はいつも現金をほとんど持ち歩きません。
お金が必要な場合は、スイカとクレジットカードで対応しています。
電車は基本的に回数券です。
ところがその回数券もカードと同じケースに入れて持ち歩いているのですが、2週間前にすべて磁気がダメになって使えなくなってしまいました。
たぶん同じ理由でカードもダメになったのでしょう。
どこかで強力な磁気を受けたのかもしれません。

昨日はたまたまポケットにお金が入っていたので、何とか電車に乗れましたが、カードでの買い物はできませんでした。
便利な社会での生活の基盤のもろさというか不安定さを改めて知りました。

お金を持たずに生きていけるので、私にはとてもカードは便利です。
しかしこうしたことが起こると途端に動きが取れなくなります。
便利な社会は、同時に不安定な、あるいは管理されている社会でもあることを改めて思い知らされました。

今回は事故でしたが、もしだれかが操作したら、私の利便性に富んだ生活は一瞬にして壊れるわけです。
むかし、サンドラ・ブロック主演の「インターネット」という映画がありました。コンピューターによる世界支配を画策しているグループによって、個人データを改ざんされ、カード類は一切利用できなくなってしまう話です。
利便性はもろさと裏表の関係なのです。
利便性の追求は、自らの生活を誰かにゆだねる生活でもあるわけです。

昨今のマスク社会を、なんとまあみんな主体性のない情けない生活に成り下がっていることかと冷ややかな目で私は見ていましたが、どうも私自身も同じようなみじめな存在になってしまっているようです。気をつけなくてはいけません。

これを機会にカードを止める選択もあるのですが、まあ注意して使えばいいだろうということにしました。こうやって人はみんな堕落していくのでしょう。
昨日のサロンでも、利便性や生産性の追求には問題があると話してしまった気がしますが、私もすでにその魔力に引き込まれてしまっているようです。
困ったものです。

 

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