カテゴリー「行政時評」の記事

2009/11/13

■お上の目線と民の実状

今日もまたいろいろな人が湯島にやってきました。
最近また、いろいろな人が集まりだしています。
人が来るとライブな情報が集まってきます。

今日は、午前中は子育て、夕方は介護予防の関係の人たちでした。
いずれでも共通の話がでました。
東京や大阪と地方とは全く状況が違うのに、行政の取り組みの枠組みは東京で作られるため、無駄や無理が生じているという話です。

午前中は保育に関する待機児童の話とベビーシッター支援の話が少し出ました。
いま事業仕分けでこども未来財団が問題になっていますが、その設立時に、厚生労働省や日本生産性本部などの職員にも参加してもらい、ファミリーサポート研究会なるものをやっていた関係で、その取り組みの目線には違和感を感じていました。
しかしまあ、私が知る限り行政が作り出すもののほとんはそんな感じでしたから、気にもなりませんでした。
当時、経済的に大変な私立保育園に関わっていましたが、みんなが使えないほどの補助金が流れ出したので、その分野から私は抜けさせてもらったのはその少し後です。
こども未来財団は、子供の未来を壊しこそすれ、未来に役立ったことはしていないと、今でも思っています。
子育て環境は首都圏を前提にして画一的な制度を立ててはいけないと私は思っています。

介護予防に関してはもっとひどい状況が起こっているはずです。
介護予防政策が、むりやり介護予防該当者を作り出す構造があるというのは言いすぎでしょうが、そうならないとは言いきれません。

介護予防も子育ても、つまり福祉問題は全て、地域の生活文化に深くつながっています。
そのことを無視して、中央で制度を構築し、それを「分権」するというようなやりかたでは問題を複雑にするだけかもしれません。
今日は、そんなことを改めて考えさせられる話が多かったです。
しかし、そうした中から、その2つのテーマに関して、新しいプロジェクトに関われそうです。
楽しみですが、いささか心配です。

行政の福祉政策には全く興味を持っていないため、何一つ勉強していなかったのですが、少しは勉強しなければいけません。
この歳になって勉強でもないのですが。

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2009/10/29

■モンスターの悲劇

「モンスターペアレンツ」が学校を徘徊しているという話はかなり前から聞いています。
理不尽な要求を学校に突きつける父兄のことを「モンスターペアレンツ」と呼ぶようです。
しかし、理不尽な要求を突きつけるのは、何も学校の父兄だけではないようです。

福祉の世界でも、そうした「モンスター」に悩まされている行政は少なくないようです。
企業のお客様にも「クレーマー」と呼ばれるモンスターがいるようです。

先日、介護保険関係の研究調査プロジェクトの集まりがありました。
介護保険の自己作成をもっと広げたいという思いをもった人たちの研究会なのですが、そこで介護保険の世界でもモンスターといわれる人たちに窓口が振り回されて、それが健全なケアプラン自己作成者の広がりを妨げているのではないかというような議論がありました。

私自身は、そもそもモンスターなどという発想には大きな違和感があるのですが、福祉の世界も少しだけ知っている立場からいえば、モンスター議論に関しても、さもありなんと納得してしまっていました。

私は、住民主役のまちづくりにささやかながら関わっています。
一昨日も、あるまちで住民たちと行政との話し合いの場に同席する機会がありました。
そこでいろいろと話を聴いていて、そうした「まちづくり」の場にも、モンスター発想が行政にあることに気づきました。
さらに気づいたのは、モンスターを生んでいるのは行政だということです。

ゴジラはモンスターでしょうか。
もしそうであれば、ゴジラを生み出した核爆弾をもった世界はモンスターの生みの親ということになります。
モンスターを生み出すスーパーモンスター。
大企業や行政こそ、実はモンスターの源なのです。

モンスターが悪者扱いされる風潮が広まっていますが、モンスターを生み出す状況こそが問題なのだとやっと気づきました。

かつてはモンスターだったゴジラは、次第に世界の救い手に変化してきました。
これは実に象徴的な話です。
モンスターは何も好き好んでモンスターになったのではありません。
そういう視点でさまざまなことを見ていくと、もしかしたらモンスターはモンスターを非難している私たちなのかもしれません。

自らがモンスターなのに、誰かをモンスターと呼んで、自らは健全だと思い込んでいるのは、喜劇ではなく悲劇です。
私はこれからはもう2度とモンスターなどという言葉は使わないようにしようと思います。
人をモンスターなどと称することの傲慢さは、持ちたくないものです。
あやうくその傲慢さを身につけるところでした。
まさにモンスターを生み出す世界に私たちは生きているのです。

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2009/09/21

■メールをやっていないのに名刺にアドレスをかくのはやめましょう

前にも書いたことがあるような気がしますが、もらった名刺にメールアドレスが書かれているので、メールを出しても、なんの音沙汰もない人がいます。
以前はそういう人が多かったのですが、最近は少なくなってきました。
それでも今もなおそういう人がいます。
一番不快なのは地元の行政の職員にも、そういう人がいることです。
ある人に今年の初めから2回メールをしましたが、何の連絡もありません。
まあ忙しいのかもしれないと見過ごしていましたが、昨日、久しぶりにテレビに出て、そんな話が出たこともあって、やはりおかしいことは見過ごしてはいけないと思い、当の本人と上司に指摘することにしました。
そのうえ、さらにこのブログにまで書くことにしました。

いろいろのところと接点を持つと、そこの良さと悪さがよく見えてきます。
それを自分だけで留めていいのかどうか、迷うところです。
よく言われるのは良い情報はなかなか伝わらないが、悪い情報は急速に伝わるそうです。

一昨日、地元のグループの集まりをやりました。
ある人が私の近くの行政が絡んでいる産直センターのことで怒りまくっていました。
そして参加者みんなに、そのことを周りの人に教えてほしいというのです。
私もかねてからそのセンターには違和感を持っていましたので、ほとんど使わないのですが、その話を聞いたので今日、立ち寄ってみました。
一昨日聞いた話を立証する証拠はありませんが、さもありなんという感じでした。

こういう身近にある「おかしなこと」を指摘しだしたら身が持ちません。
それに場合によっては、いわゆる「近隣関係」にまで発展しかねません。
どうしたらいいでしょうか。

政治を変えるにはかなりのトラブルを覚悟しなければいけないという人が多いです。
同じように、生活を変えるのもトラブルはつきものです。
それを逃げていては、政権交代についていけないでしょう。
政権交代に期待するのであれば、私たちも言動を見直しましょう。

さて心を鬼にして、メールの返信のない職員にクレームをつけることにしようと思います。
でもまあ、メールは発信してしまうと取り返しが付きません。
友人を失うことにもなりかねませんし、私の評判を落とすことにもなりかねません。
こんな小さなことですらそうですから、民主党閣僚や河野太郎さんの勇気は見上げたものなのです。
彼らに比べると自分の小賢しさが恥ずかしくなります。

でもまあ、メールは明日にしましょう。
気弱な小市民は度し難いものなのです。
いやはや。

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2009/09/05

■手賀沼が好きな人たち

私が住んでいる近くにある手賀沼は歴史のたくさんある沼です。
行政区で言えば、主に我孫子市と柏市で囲んでいます。
行政区単位にこだわらずに、手賀沼を軸にした発想したら、いろんなことができるはずです。
そんな思いから、SCALE DesignというNPOとコモンズ手賀沼というLLPの立ち上げに関わらせてもらいました。
その仲間でもある松清さんが、手賀沼ガイドボランティアというグループの世話役をやっています。
そのグループが満月を水上で満月をめでながら手賀沼産のうなぎを食べる会を企画しましたので、そこにこの2つのメンバーにも参加してもらうように声をかけました。
今日は満月。先ほどまで、みんなで満月を満喫させてもらってきました。

みんなとてもボランティアを楽しんでいるのがよくわかります。
もしかしたら、NPO法はこうしたボランティア文化を壊してしまっている面もあるのではないかという気がしました。
とてもいい会でした。
もっとも、手賀沼のうなぎは収穫不足で、みんなで少しずつ分かち合って食べましたので、あんまり食べた気がしませんでしたが。
でも湖上に浮かぶ満月は素晴らしかったです。

社会の変革は、国会からではなく、こうしたところから始まっていくのでしょうね。
改めてそう思いました。

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2009/08/23

■地方分権の欺瞞性

選挙を目指しての政治議論が盛んですが、やはり批判合戦が多く、政党代表の議論を聞いていても、虚しさだけが響いてきます。
今回の最大の論点は「政権交代」ですが、タレント政治家の東国原さんと橋下さんの活躍もあって、「地方分権」も大きな論点とされています。
しかし、地方分権がなぜいいのかという議論はあまりありません。
4年前の郵政民営化がなぜいいのかがしっかりと吟味されなかったことと非常に似ています。

私は、現在進められているようなかたちでの地方分権には違和感があります。
そもそもこの10年の地方分権は、団体自治という面での取り組みでしたから、国との関係において、その出先機関である地方自治体(地方行政)の権限をどこまで認めるかと言う発想でした。
これは中央集権体制の改善策でしかありません。

宮崎県知事や大阪府知事が主張しているのは、要するに国と都道府県との権力闘争でしかありません。
そこには、肝心の住民は不在と言っていいでしょう。
知事たちの反乱と住民たちの反乱は、似て非なるものなのです。
大阪の橋下知事は県政に変化を起こしたようにも見えますが、宮崎県の東国原知事はおそらく県政にはマイナスの影響を残すことになりかねません。
おそらく10年後には宮崎県の人たちも気がつくでしょう。

民主党は、地域主権を標榜しています。
ここには住民自治の発想があると期待しますが、全国知事会の要請に迎合するような姿勢にはいささか失望してしまいました。
大切なのは「地方分権」ではなく「地域自治」ではないかと思いますが、自治を標榜する人はあまりいません。
自治を基本にする社会を目指すのか、分権によって統治する社会を目指すのかは、全く違った国の姿や財政制度を求めていくでしょう。
自治を基本とすれば、財政規模はおそらく桁違いに縮減できるはずです。
そうしたパラダイム転換が必要な時期に来ていると思いますが、行政の継続性などという表層的な言葉で、そうした発想は切り捨てられていくことが予想されます。
そうして社会はいつかカタストロフィーを迎えるわけです。

「地方分権」は一つの例です。
今回の個別争点の多くは、もっと言葉を吟味しないと危険です。
なにしろ環境政策とは、時に環境市場化政策であるというのが昨今の日本なのですから。

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2009/08/14

■障害者虐待防止法に反対する施設団体

福祉実践に関わっているOさんから久しぶりにメールが来ました。
そこに書かれていることが気になりました。
「どうも障害者虐待防止法に対して親の会や施設団体が反対しているようだ」
その人が福祉現場の大先輩から聞いた話だそうです。
Oさんは、「とうとう本性を現してきたなという感じです」と書いています。

Oさんのメールにかかれていたサイトから、日本知的障害者福祉協会が反対を表明していることを知りました。
反対理由の最後にこう書かれています。「

障害をもつということのみで、障害者と差別して、保護しなければならない弱き者として障害者を捉え、安易に法律案を作成したことには納得できません。」
これだけ読むとなかなかわかりにくいですが、いろいろ現場で体験されてきているOさんには、この言葉の意味はすぐわかったのでしょう。
Oさんのメールから少し引用させてもらいます。
過去の福祉現場においては、親や施設や行政がいくらハンディを持つ人達に実力行使をしようとしても、どこかに歯止めとなる人材がいて均衡を保っていたようにも思うのですが、小泉改革以降は社会保障全てがなし崩し的となり施設経営の名の下に次第に障害者を商品化してきたように感じています。
この2つの文章をつないでいただければ、Oさんが懸念する「施設団体の本性」の意味がわかってもらえるかと思います。

20年ほど前に福祉の世界に関わった時には、私は驚きを感じました。
福祉とは金儲けの世界なのかと思ったほどです。
同じことは環境問題に関わった時にも思いました。
ですから、当時、これからは福祉や環境の分野が成長産業の分野だなどと言う経済エコノミストに反発を感じていました。
もちろん今でもそうした輩は少なくありませんが、残念なことです。
いくつかの小論でもそうしたことを書きましたが、最近はそれがさらに露骨になってきたような気がします。

もっとも今回は、そうしたことを書きたいのではありません。
私自身が「障害者虐待防止法」のことをほとんど知らなかったので、もしかしたら知らない人も多いのではないかと思い、書いておこうと思ったこともあるのですが、それ以前に、今時「虐待防止」などということを法律にしなければいけないということに改めて驚きを感じたのです。
情けなくなったというのが正直な気分です。

防止法が検討されるということは、虐待が日常化しているということです。
法律によらなければ虐待を防止できない社会に、自分が住んでいることに気づいたのです。
覚せい剤もたぶんかなり日常化しているのでしょうね。
事ほど左様に、私は今、自分がどんな世界に住んでいるのかあまり知らないのではないかという気がしてきたのです。
幸いにまだ、殺人防止法などというのは聞いたことがありませんが、まもなくできるのでしょうか。
そういえば、そんなニュースも昨日テレビでやっていましたね。
どうやら私は、社会からやはりかなり脱落しているようです。

法律は、その社会の実相を象徴しています。

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2009/07/14

■自民党に寄生していた農水省官僚

今日の朝日新聞の夕刊の一面記事です。

昨年2月、日本鶏卵生産者協会の生産者大会に来賓として民主党議員を招待したところ、自民党農水族議員の意向に配慮した農林水産省の幹部から大会を中止するよう繰り返し要請されていたことが朝日新聞の調べでわかった。農水幹部は「自民党が怒っている。中止しないなら卵価予算(補助金)を切らざるを得ない」とまで発言していた。
招待した議員は、もちろん民主党だけではなく、自民党もいました。
協会は、こうした理不尽な要請は跳ね除けたそうです。

こういった事件は、それこそ日常化していたのだろうと思いますが、こういう事件が表面に出てきても、名前が出ることは少ないです。
もし事実だとしたら、懲戒解雇すべきだと思いますが、公務員は上級職になればなるほど守られていますから、いわば犯罪者であるこういう人もまた天下り先で仕事もせずに高給をもらうことになるのでしょう。
こういう人を処分していたら、霞が関から人がいなくなる惧れもありますから、まあそれは無理として、せめて実名は発表してもらいたいものです。
そして自らがやったことの意味を知らせてほしいものです。

公務員は匿名で仕事をする文化がありますが、そこにこそ問題があります。
職位で仕事をするのではなく、実名で仕事するようにしなければいけません。
そして、問題を起こした場合は、職位ではなく実名でしっかりと公表すべきです。

未成年者が犯罪を起こした時には実名が出ませんが、官僚はそれと同じく、主体性を持っていないということでしょうか。
そう考えれば、少し納得できます。
しかし、仲間として恥ずかしいと思う人はいないのでしょうか。
仲間の行動は自分と無関係ではないことをわかっているのでしょうか。

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2009/07/10

■外務官僚の犯罪

今朝の朝日新聞のトップ記事は、「核密約文書、外務省幹部が破棄指示」という見出しの記事でした。
記事にはこうありました。

日米両国が、60年の日米安保条約改定時に、核兵器を搭載した米艦船の日本への寄港や領海通過を日本が容認することを秘密裏に合意した「核密約」をめぐり、01年ごろ、当時の外務省幹部が外務省内に保存されていた関連文書をすべて破棄するよう指示していたことが分かった。複数の元政府高官や元外務省幹部が匿名を条件に証言した。
01年4月に情報公開法が施行されるのを前に省内の文書保管のあり方を見直した際、「存在しないはずの文書」が将来発覚する事態を恐れたと見られる。
2001年といえば、小泉第一次内閣のできた年で、外務大臣が田中真紀子さんでした。
関係があるかどうかはわかりませんが、奇妙に納得できてしまいます。

それにしても、国家の機密文書を個人の判断で破棄するというのは明らかに犯罪です。
国家を私物化した行動と言うべきです。
破棄せずに、その官僚がそれを持ち出し、悪用したらどうなるでしょう。
国家の安全を危うくするおそれがあり、重罪になるでしょう。
言うまでもありませんが、「破棄」と「私的悪用」とは本質的には同じです。
それに個人的な判断で「破棄」できるとしたら、個人的に「悪用」できるということでもあり、情報管理体制に致命的な欠陥があるというべきです。
この事件は、決して見過ごすべきではありません。
指示を出した官僚の名前は公開し、もしそれが事実なら彼は重罪に処せられるべきです。
死罪とはいいませんが、死を持ってもなお償えないほどの重罪だと私は思います。
国家政府の高官の行動に、この国の人はあまりにも寛大すぎます。

霞が関の政府官僚が、ともかく好き勝手に私欲のために動いている現状をこうもしばしば見せつけられると、いやになってきます。
マスコミには、この事件をしっかりと追及し、事の重要性を彼らに思い知らせてほしいものです。
私の中での外務省への信頼性は、最近少し回復してきていたのですが、とても残念です。
そして、当の外務省の今の官僚たちがどう言動するか、とても心配です。
誇りと使命感を持った官僚が、まだ残っているといいのですが。

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2009/07/02

■メタボ検診

先ほど、NHKテレビのニュースを見ていたら、メタボ検診の特集をしていました。
午前中に紹介した「厚生労働省崩壊」の本での指摘を思い出しました。
こういう指摘です。

厚労省に限らず、本省の課長は偉いのです。どれくらい偉いかというと、大企業の社長くらい偉いのです。担当の課長になれば、「メタボ対策のための体操を考えたので、全国の病院で毎日やるように」ということを命令できるくらい偉いのです。ちなみに、メタポリック・シンドローム予防は医療費を削減できるから、健康診断でメタボ検診をするようにという、あまり科学的根拠のないことを全国に知らしめたのも1人の課長でした。たぶん、自分でそう信じたからです。医学界では、少なくとも″メタポリック・シンドローム″なるものが存在するのかどうか世界的なコンセンサスは得られていませんし、メタボ対策が医療費を抑制するなどという研究は、ごく小さなもの以外お目にかかったことがありません。
(木村盛世著「厚生労働省崩壊」講談社より)
テレビのニュースでは、実際にメタボ検診を受けもたらせる医師の言葉として、たとえば、この検診のおかげで本来やるべき検診ができなくなってきているとか、メタボ検診の効果への疑問がかなり明確に出されていました。
またそうしたことから浮かび上がってくる疑問に関して、厚生労働省に問い合わせた回答も照会されていましたが、驚くほどの無責任な内容でした。
木村さんが著書で書かれていることが立証されているような気がしました。

メタポリック・シンドロームなどと言う、あやしい言葉を流行させて、特定の企業を儲けさせたマスコミもひどいと思いますが(もちろんマスコミも大きな利益を得たはずです)、そうした詐欺まがいの活動が、厚生労働省の1課長によって始まったとは情けない話です。
実名は調べればわかるでしょうが、どなたかご存知の方は教えてください。
メタボ検診の陰で、悪性の病気の発見が遅れ(テレビではメタボ検診をやらないといけなくなったのでがん検診ができなくなったというような話も紹介されていました)、それが死につながったとしたら、その行為は犯罪以外の何ものでもありません。

腹立たしくなってきたので、書くことにしました。
この数日、腹立たしいことが多すぎます。
報道ステーションも、私の感覚とは合わなくなってきましたし。
またどんどん自分が社会から脱落してきている感じがします。

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■「厚生労働省崩壊」と新しい芽

崩壊した厚労省に代わって新しい厚労省が生まれるためには、再生する力が必要です。その力は決して本省のある霞が開からは生まれてきません。どこから生まれるかというと、実際の問題を見ている現場からです。
以前、このブログでも取り上げた木村盛世さんの書いた「厚生労働省崩壊」(講談社 2009)を読みました。 上記の文章は、その本の最後に出てくるものです。

私は、厚生労働省はそもそもの「ミッション」に違反している違法集団だと考えていますが、それにしてもこれほどなのかと思うほどの実態がそこには赤裸々に書かれています。
ここで書かれていることがすべてではないでしょうが、こうした組織がいまなお残っているのが不思議です。
日本の医療制度や保険制度がおかしくなるのは当然です。
日本の政治は、官僚の違法行為を防ぐこともできないほど、劣化しているのでしょうか。
この本は、たまたま厚生労働省のことが書かれていますが、おそらく他の省庁も大同小異でしょう。

その本を読んでいていささか憂鬱な気分になっていたのですが、最後に上記の文章に出会って、ホッとした気分になりました。
「実際の問題を見ている現場」から新しい厚労省が生まれてくる。
その言葉に、明るい先を感じます。

私の生活信条の一つは「解決策は現場にある」です。
現場で活動している人たちが健全なのは、そのせいだろうと思っています。
木村さんの救いは、現場に仲間がいることなのでしょう。

いまの日本の政府は、国民の生活現場から遠く離れています。
選挙を経ずに、内閣がこれほど変わっていては、国民の生活現場ともつながりようがありません。
いま選挙を行ったら、果たして郵政民営化は国民の支持を得られるでしょうか。
私には疑問です。

支配的統治のための官僚制度から、国民生活支援のための官僚制度に変えていくためには、木村さんが書いているように、「実際の問題を見ている現場」から制度を再構築していく必要があるでしょう。
そうした思いで行動している官僚(公務員)は決して少なくないと思っていますが、そうした人たちが柔らかなネットワークを組んで、実態を社会に公開していく仕組みができないものでしょうか。

昨日は佐藤優さんの有罪も確定しましたが、崩壊しつつある官僚制度にイノベーションを起こす人が出てきてほしいものです。
個人で鬱憤を晴らしているだけでは、おそらく何も変わらないでしょうから。

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2009/06/27

■行政の不作為犯

現場で汗している人の言動を私はほぼ無条件に信頼します。
なぜなら現場から見えてくる世界は、確かだからです。

今日は、自殺のない社会づくりネットワーク準備会の交流会でした。
テレビなどで最近良く紹介されている、東尋坊の茂さんと川越さんが参加してくれて、とても示唆に富むお話をしてくれました。
また交流会には若い世代の医療関係医者もたくさん参加してくれました。
いつも感ずるのは、まさに自殺が増えている層の参加が少ないことです。
実はそこにこそ問題の本質があるのだろうと思いますが、まあそれはまたいつか書かせてもらいます。

茂さんや川越さんの話は何回聞いても、その都度、いろいろな示唆を受けます。
しかしそれ以上にいつも私が共感できるのは、茂さんが指摘する「不作為犯」の話です。
茂さんが自殺防止活動に入ったきっかけは、まさにそこにあります。
その話は有名ですので、ご存知の方も多いでしょう。
詳しくは既にいろいろと報道されていますので、それを読んで欲しいですが、簡単に言えば、こういうことです。

警察官だった茂さんは、自殺を図ろうとしていた年配の男女を保護し、自殺を思い留めさせて、その後を行政の福祉部門に託しました。
警察は自殺の恐れのある人を思い留めさせられますが、規則により、その人をしかるべき行政部門に引き渡し、あとはそこに任せるというのが責務です。
しかし、残念ながら福祉行政は2人を救えなかったのです。
警察官だった茂さんは、それまでも問題が起これば、警察官としての責務を果たし、その後の問題解決はそれぞれの役割を担うところにお願いしていたのです。
ところが、信頼していたはずの他の行政部門は、形だけの対応しかしてくれなかったのです。
茂さんは、そこで、「行政の不作為」の現実を思い知らされます。
役割分担しながら、国民を守っているとばかり思っていた行政への不信が高まったのです。

茂さんは、こういうのです。

過度のストレス障害をもった人が東尋坊の岩場にやってくる。
そうした「自殺多発場所」であっても、何の対策も講じずに放置されている現状は、まさに「保護責任者遺棄罪」の不作為犯そのものであって、地方自治体は、殺人犯の行為を組織的・構造的に敢行している被疑者ではないか。

私もかなり過激な発言をしてしまう人間ですが、茂さんの過激さは私の比ではありません。
しかし、茂さんは批判するだけでなく、自らがその不作為の補償に取り組んでいるのです。
あまりうまく書けませんでしたが、茂さんの本や茂さんの講演などには、そうした茂さんの思いがよく出ていますので、ぜひ読んでください。

今日、あえてこのことを書いたのは、茂さんが指摘している「不作為犯」は、行政だけではありませんし、自殺問題だけでもありません。
そのことを書きたかったのです。
私も含めて、今の社会は不作為犯が多すぎます。
作為犯と不作為犯。
果たしてどちらが罪深いものか、考えてみる必要がありそうです。

茂さんはいつもとても明るいです。
それは、彼が不作為犯ではなく、いつも心が晴れているからではないかと、私は思っています。

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2009/06/10

■鳩山総務大臣へのエール

日本郵政の西川社長人事をめぐって、鳩山総務大臣と他の閣僚との間での不調和音が話題になっています。
与謝野大臣は、小さな問題などと言っていましたが、この人はどこまでも無責任な対応しかしないようです。

私は、これは決して小さな問題ではないと思っています。
民営化というものが意味する本質的な問題(それもありますが)が含意されているからではありません。
日本の国のかたちに関わる問題だからです。

官僚国家状況を脱するために、官僚の力をどう弱めるか、政治がどう主導性を取り戻すかが議論されていますが、官僚国家は官僚だけで完結しているわけではありません。
防衛省の守屋元事務次官の犯罪が明らかにしているように、あるいはC型肝炎事件での厚生労働省の職員たちのおぞましい犯罪が明らかにしているように、官僚の背後には企業がいます。
官僚は、その手先でしかありません。
せいぜいが数億円程度の小銭しか分けてもらえないでしょう。

しかし産業界の得る利益は、そんな小銭ではありません。
もちろんすべての企業というわけではありませんが、財界や産業界の大きな枠組みを悪用している経済人こそが、もしかしたら官僚政治の黒幕なのかもしれません。
その意味で、この事件は政治が主導性を回復できるかどうかに深く関わっている問題ではないかと思います。

私は、企業の経営者にも知人がいますし、素晴らしい経営者にも出会うことは少なくありません。
大企業の社長でも、素晴らしい人物はいないわけではありません。
しかし、昨今の財界を動かしている経営者には全くと言っていいほど信頼はもてないでいます。
まあ、最近はそんなに知っているわけではありませんが、常識的に考えて、公正さや誠実さを感じられないことが多すぎます。

問題は仕組みであり、責任の取り方だろうと思いますが、
しかし西川さんの対応振りを見ていると、こういう人が日本の財界のキャストとして利用されているのだなと少し哀れささえ感じてしまいます。
少し読みすぎかもしれませんが、この事件に、ことの本質が現われてきているように思えてなりません。
真の悪人は、いつも見えないところにいるものです。

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2009/06/06

■図書館民営化の2つの問題

図書館の民営化が進んでいるようです。
しかしどうも私には違和感があります。
何回も書いていますが、「民営化」とは「私企業化」ではないかと、私は思っているからです。
図書館の民営化には2つの問題があります。

ひとつはいうまでもなく、行政がやっていた事業を民営化する場合のすべてに当てはまる問題です。
民営化を、もし企業に任せるというのであれば、論理的には必ずコストアップになります。
なぜなら企業の場合、出資者への利益配分が必要ですから、儲けなければいけません。
ですから当然ながら、図書館の本体業務に向けられる資金は減少します。
ややこしい言い方をしていますが、誰かが図書館経営を通して誰かが儲けることになりますから、その分が外部流出するわけです。
企業に経営を任せるという意味での民営化は、必ず誰かが得をするという仕組みになります。
そうなれば当然誰かが損をします。
言うまでもありませんが、損をするのは住民であり、国民です。
言い方を変えれば、行政事業の民営化は必ず質が低下するということです。
これは世間で言われていることと反対ですが、論理的には間違いないはずです。
間違っていたら指摘してください。
ちなみに、民営化したら無駄が無くなるというのは反証にはなりません。
民営化せずとも無駄をなくすことは可能です。
最近の実例では福島県の矢祭町の図書館の事例を挙げればいいでしょう。
次元が違う話を混同してはいけません。
またミッションの中から優先度の低いものを削除したということも別の話です。
これは次の問題につながります。

民営化するとミッションが見直されることになるはずです。
最近の事例では郵政民営化です。
ミッションが変わる理由は、発想の起点が変わるということです。
それまでは、全体の統治、あるいは住民たちの効用が発想の起点でしたが、民営化すると事業主体の効用に発想の起点が移ります。
住民のためが、顧客のためになるわけです。
ここで問題になるのは、「顧客」とは誰かです。
図書館にとって「顧客」とは誰か、これは悩ましい問題です。
多くの人は「図書館利用者」ではないかと思うでしょう。
そうでしょうか。
まさにその発想は、私企業が経営する図書館事業の場合の発想です。
そこでは受益者負担という発想が出てきますが、これもまた悩ましい問題です。
あまり深入りはやめましょう。
長くなりますので。

さて図書館を行政が各地につくった理由は何でしょうか。
あるいは、その社会的意義はなんだったのでしょうか。
なぜ民間の貸し本屋ではなく図書館だったのでしょうか。
つまり図書館を民営化するということは、ミッションが変わるということです。
この意味は、とても大きいですが、書き出すと長くなるので、今回はここで終わります。

いま必要なのは、図書館の民営化ではなく、図書館のミッションを佐藤修幾人し、それが果たせるように図書館のかたちやあり方を考えることのように思います。

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2009/05/31

■羽田空港検疫官木村もりよさんの疑問

羽田空港検疫官の木村もりよさんが、テレビのインタビューで、新型インフルエンザ対策で行われた空港や機内での検疫を、明確な言葉で批判しているのを観て、厚生労働省職員にもこうした人がいるのかと驚いたのですが、数日後に彼女が参院予算委員会に参考人として発言しているのをニュースで見て、さらに驚きました。
木村さんは、そこで、「マスク、ガウンをつけて検疫官が飛び回る姿は、国民にパフォーマンス的な共感を呼ぶ。利用されたのではないかと疑っている」と述べたそうです。
あの画面を見て、私が感じた第1印象と全く同じです。
表面的な広報技術を学んだどこかの広報コンサルタントの浅知恵が、また馬鹿なことをやらせていると思いました。
広報は、実体が基本ですが、昨今の広報コンサルタントのビジネスは本末転倒していることも少なくありません。
後で知ったのですが、木村さんは「厚生労働省崩壊」という著書もあるそうで、早速、アマゾンで注文しました。

木村さんは、テレビ取材の前に、省内でも上司にしっかりと反論していたと思いますが(もしそうでなければ、彼女自身の行動こそがパフォーマンスということになります)、そうした議論があったということだけでも少しホッとします。

組織では、「意思決定」と「行動」との距離が少なからずあります。
行動は、社会と接点を持つ組織の境界領域で展開されますが、意思決定は多くの場合、社会と切り離されたところで行われます。
組織が大きくなると、その距離が大きくなるために、組織は現実とは無縁の論理で動き出しますから、どこかで破綻します。
ところが、行政制度の場合は、破綻せずに、それぞれが別々の世界を形成していくことがありえるのです。

たとえば、厚生労働省の意思決定者にとっては、インフルエンザの流行を止めることは第二義的な意味しかなく、予防対策を展開していることを社会に示すことが目的になってしまうわけです。
これが日本の行政お得意のアウトプット型行政です。
景気対策は予算を増やして、歳出を増やせばいいのです。
だから何も考えていない麻生首相や与謝野さんにもできるのです。
それが効果的に活用されるかどうかは全く関心の外です。
たとえば、霞が関のさまざまな助成金は、それこそ湯水のごとくばら撒かれていますから、その恩恵を受けて不労利益までもらっている人ですら罪悪感や違和感をもつほどです。
その成果には関心はありません。
しかし、アウトプット方行政とは、そういうものです。

それに対して、アウトカム型行政というのが、一応話題にはなりだしています。
ちなみに、私のこのブログに立ち寄ってくれる方の、検索ワードのトップは「アウトカム」なのです。
私のブログではそれほど話題にはしていませんが、不思議です。

アウトカムから発想すると木村さんのような指摘が出てくるのでしょうが、アウトプット発想からは出てきません。
そもそも最初に「パンデミック仮説」があるわけですから、感染者が大量に出てくることを前提にして方策が仕組まれています。
ですから、大量感染という事態になっても、行政は何のお咎めもない大勢が最初から用意されているわけです。

そうした行政の本質的な仕事への取り組み方を、木村さんは問題提起しています。
おそらくそう遠くないうちに、木村さんは大学の先生に転身されるでしょうが(つまり厚生労働省にはいられなくなるでしょうが)、現場起点のアウトカム発想から霞が関を組み変えていかなければ、厚生労働省は生活に役立つ省にはならないように思います。
分割すればいいというような問題ではないでしょう。

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2009/05/29

■無残な軽井沢

昨日から軽井沢に行っていたのですが、タクシーの運転手さんと話していたら、最近は相変わらず客が増えないとこぼしていました。
そして、彼が言うには、なにしろ最近の軽井沢にはアウトレットしかないですし。
少し耳を疑いました。

軽井沢の駅近くに大きなアウトレットができてから、もう何年になるでしょうか。
その話を聞いた時、なんでまたアウトレットなどを軽井沢につくるのか、と私はあきれてしまったことを思い出します。
でもまあ、それはそれなりの成功をしたように聞いていますが、「今、お客さんを呼びよせるものはアウトレットしかない」という話には驚きました。
軽井沢の観光行政は完全に間違っていることがはっきりわかります。
これではすたれるはずでしょう。
自分たちの魅力を自分たちで育てずに、外部資本の流行頼みのアウトレットに身を任せるなどと言う愚行は、もうとっくの昔に終わったはずなのですが、まだそれが「観光」などという馬鹿げた発想をしている人がいるわけです。
せめて、そのアウトレットを活かした「軽井沢の物語」を育てていかねばいけません。
数年前に千葉の御宿の観光に少し関わったことがありますが、そこで驚いたのは観光開発支援を業とする人たちの発想です。
そしてそれに依存しようとする行政の姿勢です。
せっかくの地域資源を活かすこともなく、浪費している事例があまりに多すぎるような気がしてなりません。

タクシーの運転手さんのぼやきは、もう一つありました。
最近のETC全国1000円制度で、土日の軽井沢は自家用車で埋まってしまうのだそうです。
地元の人に迷惑をかけるような施策は本末転倒しています。
浅知恵の麻生政権の得意技ですが、それに対抗しない地元も地元です。
対抗策はいくらでもあります。
それを考えようとしない地元の行政や観光業者、あるいは住民たちは麻生政権と同じレベルなのかもしれません。

国民は自分のレベルにあった政権しかつくれないという話は本当のようです。
私のレベルもまあ、麻生さん並だと思うと何だか恥ずかしくなりますが、もしかしたら麻生さんにうまくやられているのですから、それ以下なのかもしれません。
若い頃にもう少し勉強しておけばよかったです。
そうすればきっと今頃左団扇の生活ができたでしょう。
なにしろ麻生さん並の人たちが創っている社会ですから、いかようにも騙せそうな気がします。
いや、すでに私は騙されているのかもしれませんね。
自分のことは、なかなか見えないものです。

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2009/05/21

■社会の組み立て方のパラダイム転換

昨日、市民社会フォーラムというのに参加しました。
増田元総務大臣が「地方自治と市民社会」をテーマにお話しし、その後会場との質疑応答がありました。
お話を聴いていて、問題はやはり社会の構造原理をどうとらえるのかということではないかと、改めて思いました。
簡単にいえば、社会の構造を「統治の視点」で考えるか、「暮らしの視点」で考えるかです。

自治というのは、本来、「暮らしの視点」での発想ですが、明治以来の日本の「自治」は「統治」の視点で考えられているように思います。
増田さんの話はとても誠実でしたが、やはりこれまでの「統治の枠組み」で語られていたように思います。
そこからは市民社会の論理は出てきません。

ところが、質問に応えながら、最後に増田さんは、これからはコミュニティをベースにして社会を組み立てていくのがいいというお話をされたのです。
コミュニティ、つまり「暮らし」から組み立てる社会像と「統治」のための分権型の社会像は、まったく正反対のところに位置するものだと思っている私にとっては、仰天するような話です。
もし近隣コミュニティを起点にして社会を構想するのであれば、まさにパラダイム転換しないと制度は構築できませんし、生活次元に向けての「分権」発想は出てこないでしょう。
選挙マニフェストも、いまのような目線の高いものにはなりません。
増田さんは、マニフェストを「住民との契約」と定義しましたが、これは統治、あるいは王様の論理です。
近代政治思想の出発点はいうまでもなく、社会契約論にあるわけですが、その契約を縦軸で捉えるか横軸で捉えるかによって全く違ったものになります。
昨今の「協働のまちづくり」は縦軸ですから、分権論議と同じく、構造を変えるものではありません。
行政内部の横の協働、住民同士の横の協働がないままに、各論的な縦軸の協働ができても、パラダイムは変わりません。
長年続いた「住民参加」と同じく、住民の暮らしの視点からは無意味な取り組みです。

増田さんの誠実なお人柄とビジョンをベースにしたら、おそらく新しい市民社会論が構想されるように思いましたが、やはり発想のパラダイムが近代の呪縛、あるいは統治の呪縛に陥っているような気がしました。

フォーラムには若い学生がたくさん参加していました。
若い行政職員も参加していました。
彼らが、いま育ちつつある、住民同士の横のつながり、市民同士の横のつながりの動きに気づいていくことを願っています。
アタリやネグリが展望している新しい動きが、少しずつですが、動き出していることに、救いを感じます。
分権論議が、それを邪魔しなければいいのですが。

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2009/05/05

■「民」を統治する官、「官」を統治する民

名古屋市長になった河村たかしさんの活動にとても共感をもっています。
読売新聞は、「そのたび右往左往」の1週間という見出しで、市職員や市議の反応を報道していますが、新聞やテレビで知り限り、河村市長の発言はとても共感できます。
国会議員時代の名古屋弁には違和感がありましたが、市長にあると名古屋弁がぴったりきます。
個性の強い人ですから、好き嫌いもあるでしょうが、私にはその言動がとても素直に入ってきます。
特に共感できたのは、非公開だった幹部会を報道陣に公開したことです。
情報の共有化が政治の始まりでないといけないと思っている私にとっては当然のことですが、その当然のことが行われていないのが「日本の官僚文化」です。
公開されないところで行われるのは「官」であって、「公」ではないというのが私の考えです。「民」を統治する官は、それで当然でしょうが、「官」を統治するという発想に立てば、「官」はすべて公開されて当然です。
河村市長は、局長ら幹部に対し、「テレビや新聞のカメラの向こうには、市民がいることを忘れないでほしい」と述べたそうですが、コムケアセンターの意識が日本の政治家にはありません。
もしあれば、こんな混迷した政治状況にはならないはずです。

読売新聞はこう報じています。

市の幹部は「普通は政策を煮詰めてから発表するが、市長は初めにアイデアをぶち上げて既成事実化する。そのたびに右往左往している」と話し、別の幹部は「政策を実現できなければ、われわれも堀川(名古屋市中心部を流れる川)に捨てられるのか」と冗談とも本気ともつかない言葉を口にした(2009年5月4日)。
当然捨てられて然るべきです。
そうした自覚がいまの官僚や行政職員にはほぼ皆無です。
政策を計画し実現するのが自分たちの役割だと思っている役人はどれだけいるのでしょうか。
もちろん「政策」とは、市民や国民のためのものであることはいうまでもありません。
そういう視点で考えると、「反政策」が横行しているような気がしてなりません。
マニフェストなどとカタカナ言葉は広まっていますが、何も変っていないような気がします。

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2009/04/30

■警察のパラダイム転換の必要性

今朝、某事件の特別捜査本部の刑事から電話がありました。
少し話を聞きたいことがあるというのです。
時間があまりなかったので30分の約束でお会いしました。
9年前の世田谷一家殺人事件の話です。
殺害された宮澤さんは、私の知人です。
事件当時は、何回か私のところにまで話を聞きにきましたが、久しぶりです。

いろいろとお話をしていて思ったのですが、警察の仕事は大変です。
9年も前のことなど、私もなかなか思い出せません。
事件当時、もっとみんなが情報を持ち寄って解決することができないものか、考えたくなりました。
しかし、実際には情報を持っていても、なかなか自らから警察に申し出る人は少ないようです。
その一因は、警察がそれほど親しみを感じられないからです。
町の駐在所さんやおまわりさんというイメージも、最近は次第になくなってきました。
一時期、近くの交番の人が各戸に話に来ていたことがありましたが、最近はそういうこともなくなったようです。

刑事の人が「消防署の人は自分たちの生活を守ってくれると思われているが、警察はむしろ取り締まる存在と思われている」というようなことを言いました。
確かに、そのイメージはあります。
私も昨年、近くの交番の人にあらぬ嫌疑をかけられましたが、警察は人を疑う本性があるのかもしれません。
しかし、警察もまた人を信ずるところから始めなければ、犯罪を減らしたり解決したりすることはできないでしょう。
警察行政のパラダイム転換をしなければならない時期なのでしょう。
しかし、なかなかそれは難しい。
だからこそ、捜査は難航するのでしょうが、現在のような成熟社会にはみんなで一緒になって事件を解決し予防する状況を育てていくことが不可欠です。
警察は、実は消防以上に私たちの生活を守ってくれているはずなのに、多くの人から好かれていないのは、お互いに不幸です。

今日の刑事さんたちには、とても好感を持ちました。
実は、湯島にはこれまでも3回ほど警察関係の方がきたことがありますが、いつも目線が高く、忙しいといっても帰る素振りもなく、長居していました。
そういう体験があると、協力したくなくなる人もいるでしょう。

警察は、社会から親しまれないものだという先入観があるように思いますが、そんなことはありません。
駐在さんやおまわりさんは、みんなの人気者だった時代はそう昔の話ではないのです。

この問題は、コミュニケーション問題を考える上で、とても魅力的なテーマです。
今日の刑事の方も、「割れた窓」の話をされましたが、パラダイム変化はほんの小さな変化からはじまるのです。
今日、お2人の警察官と話していて、そんなことを考えました。

話が弾んでしまったので、最近発足させた「自殺のない社会ネットワーク」に誘ってみましたが、やはりこれはダメでした。
見境なく誘ってしまうのも問題がありそうですが、今日は他にもだいぶ誘いましたがダメでした。
私が話すとどうも軽すぎるようなのです。

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2009/03/29

■「国家統治視点」から「個人生活視点」への転換

何回か書いていますが、社会構造原理をパラダイム転換する必要があると、私は思っています。
組織起点発想から個人起点発想への転換です。
簡単にいえば、これまでのような「国家(組織)統治視点」ではなく、「個人生活視点」から発想しなおしていこうということです。
こういうように発想の起点を変えると、世界の風景は一変します。

たとえば経済です。
そもそも経済は、「政治経済学」といわれるように、国家統治のための学問としてスタートしました。
その発想からの経済は「交換価値」としての貨幣が主役になります。
つまりそこには必然的に金融資本主義への道が用意されています。
しかし、個人生活の発想からは貨幣は交換手段のひとつでしかありません。
一番大切なのは、生活のために役立つ「使用価値」が主役になります。
貨幣は、実際の生活には直接的には何の役にも立ちません。
しかし、組織起点発想に陥っている私たちは貨幣がないと生活できないと思い込んでいます。
前にも書きましたが、国内総生産は統治の概念であって、生活の豊かさとは無縁の概念です。
現在の景気浮揚策の欺瞞性が見えてきます。

企業はどうでしょうか。
業績が悪化すると企業は従業員を解雇して、業績の回復を図ります。
しかし、従業員を解雇して業績を回復した企業とは何でしょうか。
解雇された従業員にとっては全く意味のない存在ですし、残った従業員にとっても要するに今回は解雇を免れただけの話です。
そうした企業経営の発想には個人の生活視点などないわけです。
しかしそれでは企業は持続可能性をもちえません。
財界のトップたちは、経営というものを学んでいません。

福祉はどうでしょうか、
介護保険制度はたしかに介護福祉の世界に大きな光を当てました。
しかし、制度はすべて個人の事情を配慮できませんから、そこから抜け出たものは少なくないはずです。
制度を維持することが優先されて、個人の特有の事情は、制度に当てはめられることを強制されるでしょう。
しかし、そもそも福祉とか介護は個人的なものなのではないかと思います。
個人の生活視点から発想していくと、たぶん現在の制度とは違ったものになっていくでしょう。
制度が生活を壊すことは避けなければいけませんが、発想を変えなければそうなりかねません。

政治はどうか。
最近、熟議民主主義と言う考え方が広がっています。
そこでは合意形成さえも必ずしも求められません。
熟議の過程が重視されます。
多数決民主主義は統治のための制度ですが、そうではない政治の芽が出始めているようにも思います。
その発想からは小選挙区制や二大政党制などは絶対に出てきません。

他にもいろいろと見えてくることがあります。
勝つためのスポーツではなく、楽しむためのスポーツ。方向づけるためのアーキテクチャーではなく、個人を輝かすアーキテクチャー。あるいは訓練する現在の学校とは違った個人を伸ばす学校など、さまざまな地平が開けてくるはずです。

そして、その発想の基盤に立てば、私たちの生き方も変わってくるはずです。
自分の目で見、自分の言葉で語ることができるようになります。
小沢事件の本質もそこから見えてくるような気がしています。

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2009/01/09

■ミツバチが消えたのはネオニコチノイドのためか

一昨年、日本の新聞各紙で話題になったニュースがありました。
「米国でミツバチが消えている」というニュースです。
全米50州の中の25以上の州で、最近ミツバチの姿が消え、養蜂家や農業関係者の間で大騒ぎになっているという話です。
同じような現象が、ヨーロッパや日本でも起こっているのだそうです。
原因については、携帯電話などの電磁波や農薬など、諸説がありますが、まだいずれも確証は得られていません。
しかし状況証拠であれば、かなりたくさんあるようです。
状況証拠が示している原因は、ネオニコチノイド系農薬です。

最近、ネットで「沈黙の夏」という言葉を書名に使っている本を見つけました。
レーチェル・カーソンの「沈黙の春」を思わせるものですが、正式の書名は「悪魔の新農薬ネオニコチノイド」(三五館)、副題が「ミツバチが消えた沈黙の夏」です。
著者は環境ジャーナリストの船瀬俊介さんです。
早速読んでみました。
「沈黙の春」の紹介につづいて、こんな風に書き出されています。

世界中で、静かな恐怖が進行している。それがミツバチの大量死だ。
まずアメリカ。2006年10月からミツバチが一夜にして忽然と姿を消す怪奇現象が全米で多発している。
わずか半年間で、全米で養蜂されていたミツバチ四分の一が消え失せた。
全米で約240万群が飼育されてきた。
うち60万群もが消滅したことになる。
この突然の異常行動は「人類を襲う存亡の予兆では?」と人々を恐怖に陥れている。
人類の食糧の三分の一は植物に依存しているそうですが、ミツバチたちは、これら植物の80%の受粉に関わっていると同書には指摘されています。
つまり、これは決してミツバチの話ではないのです。
人類としての食糧自給率の問題なのです。

ネオニコチノイドは、強い毒性が判明した有機リン系に代わる農薬市場のニューヒーローとして、1990年代に登場しました。
しかし、21世紀に入り、ミツバチへの被害などが広がり、その結果、フランスでは2006年4月29日に最高裁でその使用が禁じられたそうです。
因果関係は必ずしも立証されなかったようですが、疑わしいものは使用せずという、いわゆる予防原則が適用されたのです。
オランダでも使用禁止になっているそうです。

そこからがよくある話なのですが、アジアが市場として拡大してきているのです。
同書によれば、いま、このネオニコチノイドを大量に使っているのは日本と中国。それも単位面積当たりの使用量は日本は中国の100倍だそうです。
しかも、ネオニコチノイドは有機リン系の農薬と違い、水溶性のため作物の中に大量に吸収されるそうです。つまり洗ってもダメなのです。
じわじわと体内に入ってくるわけですが、それが高度の神経障害を起こしかねないと著者は書いています。
最近、「切れる人」が多いのも、これと無縁ではないかもしれないとさえ、書いています。

この話をどう評価すべきか。
こうした話は往々にして過剰に書かれることが多いので、そのまま鵜呑みにしていいかどうかは確信が持てません。
しかし、著者も指摘していますが、こうした動きの陰に大手化学メーカーの利害とそれを守ろうとする官僚の姿が垣間見えてくることです。
オゾン戦争フィブリノゲン問題を思い出すとこの話にも真実があるようにも思えます。
日本の農水省はほとんど動いてはいないようです。
そのあたりのことはもし関心があれば本書をお読みください
取材記事が掲載されています。

食育や食の安全もいいですが、基本的なことをおろそかにしていますので、いずれもが要するに産業の利益に貢献する活動になっていて、それがこうしたことにも繋がっているように思えてなりません。

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2008/12/12

■元気な町

島根県隠岐海士町。
いま話題の町のようです。
明日もテレビの、早朝のみのもんたの番組で取り上げられるそうです。

その海士町に来ています。
久しぶりに元気な町と町役場職員に出会い、元気をもらいました。
町長も魅力的な人で、久しぶりに町長らしい町長に会いました。
海士町に関するシンクロにシティの話は先に書きましたが、
出発の2日前に、私も以前出演していた朝日ニュースターの番組にも町長は出演したことがわかりました。
その司会をしている安藤さんもはるばる海士に取材に来たそうです。
町長をはじめ、昨日お会いした人たちの多くが彼女のことをよく覚えていました。
おかげで話もしやすくなりました。
シンクロ二シティはさらに広がっています。
ところが転居していた宮崎さんは行き違いで東京に出張していました。
実に皮肉です。
ところが、町長と話していたら、東京にいる宮崎さんから私に電話がかかってきました。
結局、宮崎さんには会えずじまいの海士訪問になりました。

海士の産業起こしは、新しい産業パラダイムを示唆しているように思います。
それはいつかここにも書くつもりですが、それ以上にうれしかったのは、市町村合併という愚策にのることなく、信念を通した町長の見識とその後の物語です。
財務的な危機を乗り越え、海士町の未来は開きつつあるように感じました。
いろいろなことが、ここでは好循環に回りだしているようです。
さまざまな立場の住民たちの間に、信頼関係が育ってきており、支えあいの関係が広がっているようにもお見受けしました。
海士に惚れて転居した人たちも、この数年で100世帯を超えているそうです。
そこにも大きな希望を感じます。

書きたいことがたくさんありますが、また徐々に描いていこうと思います。
市町村合併に背を向けて、自立しようとしている町村が、まだあることを多くの人に知ってほしいです。
平成の市町村大合併の愚は、10年もしたら明確になるでしょう。

企業にしろ自治体にしろ、合併して大きくなる愚策から、そろそろ抜け出ないと私たちの未来はないでしょう。
企業も同じかもしれません。

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2008/10/17

■年金改ざん問題で戸別訪問の愚策

年金改ざん問題の調査のため、社会保険庁の職員が戸別訪問を開始しました。
対象は2万人だそうですが、今日1日で訪問できたのが40件だそうです。
しかも1回の訪問で解決するわけではありません。
果たしてこれが正しい方法でしょうか。
これでまたどれだけのお金がかかるのでしょうか。
解決に熱心に取り組んでいることを見せるための行動としか思えません。

実に不愉快なのは、職員が故意に不正を働いてきたことで、職員の仕事が生み出されているということです。
つまり彼らは自分の給料を生み出す仕組みを作り出しているということです。
盗人に追い銭をやっているのが、いまの年金問題対策活動なのです。
どう考えても政府のやり方はおかしいと思うのが普通だと思うのですが、麻生さんや枡添さんはおかしいと思わないのでしょうか。
保険庁の職員がいい加減な年金特別便を出して、再度出しなおしたことがあったと思いますが、普通の企業であれば倒産し、従業員は損害補償の対象にもなりえるでしょうが、保険庁職員は残業代までもらえたかもしれません。
仕事が多いので、新しい組織にも雇用されることになっています。
その仕事は自分たちで増殖させてきているのですが、その構造は今も変わっていません。
不思議な構造です。
「産業のジレンマ」と同じく、近代社会が生み出した「自己増殖手法」です。

こうした官僚の跋扈を放置している自民党政府が、なぜ国民に支えられているのか。
本当に不思議です。
そんな政府に今の金融危機を乗り越えられずはずがないのに、選挙よりも経済政策が優先だと考えている国民が半分もいると世論調査では出ています。
どうしてでしょうか。
不思議だと思いませんか。
傷を深くするのが、その当然の結果です。
つまり、いま利権を得ている人たち、つまり社会の有力者や有識者たちが得をするということです。
体制は自らの利益を守るために制作を推進するのは当然の論理です。

年金問題の解決での無駄遣いを、本当に困っているワーキングプアのほうに向けてほしいものです。
年金問題は解決しようがないことはもうかなり明確になってきたように思います。
現実性のない解決目標など諦めて、もっと前向きの対策を考えるべきではないかと思います。
これまで年金制度を食い荒らしてきた人たちには、せめて自己破産するくらいの罰金を科してほしいものです。
そうすれば年金の大切さが少しはわかるかもしれません。

まあいつもながらの暴論ですが、もし戸別訪問を続けるのであれば、職員ではなく、ワーキングプアの真面目な人たちにこそ、その仕事をまわしてもらいたいものです。
時給はかなり高いはずですから、たぶん数倍の人が助かるでしょう。
自分のための仕事を勝手に作り出す職員には謹慎してもらうのがいいと思います。
2人で2つの戸別訪問をして成果がなかった文京区の社会保険庁の職員の映像は、あきれてものが言えないほどでした。
見た人はいるでしょうか?

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2008/10/11

■産業界の巨大化指向は無策の象徴

阪神阪急と高島屋が統合に向かって動き出しました。
「大きいことはいいことだ」の呪文はまだ生き残っているのです。
生き残るどころか、むしろ大型化は時代の流れでもあります。
市町村も合併で大きくなっています。
大きくなった市町村は存在意味がないと私は思いますが、現場と無縁に生きている人たちは大きくしたいようです。
まあ、それしか能がないのでしょうが。

産業界も、銀行に象徴されるように、企業合併が続いています。
百貨店やスーパーもまだまだ再編が続くようです。
つまり組織は巨大化しているわけです。
歴史の摂理に反する馬鹿げた行動だと思います。
策の無い人たちが、大きくすることで問題を見えなくし、先送りしているだけですが、社会的な価値はたぶんマイナスでしょう。
巨大化して滅んでいった恐竜の歴史を思い出します。
持続可能な世界は生物の多様性によって支えられているという知見は、全く顧みられていません。

権力は常に大きくなることを目指します。
そして知恵のない人にとっての唯一の策は、巨大化です。
日本の経営者は本当に持続可能な経済や社会への移行を考えているのでしょうか。
政治家も官僚も、同じです。

今朝、面白いテレビを見ました。
みのもんたの番組ですが、自民党の世耕議員と公明党の髙木議員が出ていました。
中央官庁の事務次官の「ところてん型天下り」が話題でした。
理事長や社長や会長を渡り歩いている人が少なくありません。
私の大学のクラスメイトにも2人の事務次官経験者がいますので、私もそれなりに実態は知っています。
世耕議員か髙木議員かどちらだったか忘れましたが、野党議員になんでそんなに面倒を見るのか、自分で探させたらいいではないかと突っ込まれて、「できる人なら天下りの面倒はみませんよ」とつい応えてしまっていました。
野党議員(社民党の福島さんでしたでしょうか)は「できない人に事務次官をさせているの」と驚いていましたが、そうしたやり取りに象徴されているように、官僚には「できる人」はいないのです。
正確に言えば、官僚体制の中では極めて優秀で能吏(「できる人」)でもありますが、社会に生きていませんので、社会的には「できる人」ではないのです。
反論をする人がいると思いますが、官僚制度とはそういうものです。
彼らは機械の一部なのですから、主体性は捨てていかないと仕事ができないのです。
それがいいとか悪いとかではありません。
官僚制度とはそういうものです。

産業界の巨大化指向を批判するつもりが、思わぬ内容になってしまあいました。
わが友人がこの記事を読んだら、当分同期会には参加できませんね。
1年に2回もあるのですが。

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2008/10/05

■関さんの森の話し合いが始まっているようです

TBSテレビの噂の東京マガジンで、先週に引き続いて、松戸市の関さんの森が取り上げられました。
幸いなことに、関さん側と行政とが、関さん案をベースに話し合う方向で動いているようです。

しかしどうも気になることがあります。
それは、このテレビ報道を見る限り、明らかに関さん側に正義があるような印象を強く与えられることです。
何も知らずにこの番組を見たら、私は間違いなく松戸市の理不尽さに腹を立てたでしょう。
実際には、関係者から話を聴いて、ある程度実態を知っているおかげで、住民不在にこそ大きな問題があるのではないかと思っていますが、それにもかかわらず、テレビを見ているうちに、私の考えは間違っているのではないかと、いささか不安を感じ出してしまいました。
テレビの影響力に改めて驚いています。
しかもテレビの場合、事件や事象をいわゆる「2値コード」、つまり善悪の単純図式で評価しますから、その影響力は強大です。
編集次第で、善悪のイメージなど、いくらでも作り出せます。

関さんの森の事件は、私は幸いに少しだけ実態を知っていますから、そんな簡単な善悪判断はしませんが、多くの事件や事象に関して、私がいかにテレビや新聞の影響を受けて判断を下しているのかがよくわかります。
カントの言葉に従えば、まだ私も未成年段階なのかもしれません。
間接情報だけで安易に判断を下しては危険であると、改めて認識しました。
まさに世界は今、非情報化革命が進行し、バーチャルな幻想社会に覆われだしています。

関さんの森に関する、これまでの私見は少し見直す必要があるかもしれません。
10月10日に住民の集まりが予定されていますが、講演のため参加できないのが残念です。
いい方向で、主役である住民の議論が始まればいいのですが。
市民の議論よりも、住民の議論が優先されるべきではないかと思っています。

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2008/09/27

■日本の治安状況

娘が犬の散歩の途中、道路沿いの家の人が鍵束を家の扉の鍵穴にさしたまま、自動車で出かける現場に出会わせました。
気がついた時には自動車は走り去っていました。
人通りの多い、自動車道路沿いの新しい家です。
さて、どうしたらいいでしょうか。
そのままだと泥棒がはいりかねません。
かといって、勝手に鍵を抜くわけにもいきません。
みなさんならどうしますか。

娘は、交番に電話することにしました。
近くの交番の電話番号を探しましたが、女房なら一発で出ますが、なかなか見つかりません。
それで110番に電話して相談しました。
県警にかかったそうですが、近くの交番から電話させるということでした。
ところが5分たっても連絡がありません。
娘は心配して、その家の前に見張りに行くことになりました。
娘が出かけた後、近くの交番の電話番号がわかったので電話しようと思ったら、ようやく交番から電話がありました。
別の事件があって、遅れてしまったのだそうです。
場所を教えてそこに出向いてもらうことにしました。

ところがそれから5分以上たっても娘から電話がありません。
最近、ボーンシリーズの映画を観ているせいか、3分もあれば、どこにでも行けるだろうという変な先入観があって困るのですが、結局、連絡してから20分たっても警察官は現場に到着しないのです。
あまりに遅いので、私が見張りの交替に向かったら、途中で娘に会いました。
警察官が来て、鍵を抜いて持っていってしまったのだそうです。
娘が張り紙をしないでいいのかと聞いたら、電話番号を調べて電話するといったそうです。

でも待てよ、です。
鍵がなければ家の中に入れないので、電話をかけても通じないのではないか。
心配性の娘は、やはりドアに張り紙をして来ようとまた出かけていきました。
娘が戻ってきてしばらくして、交番からまた電話がありました。
おまわりさんも、やはり張り紙をしにいったそうです。
そうしたら娘の張り紙があったので、張り替えさせてもらったという報告の電話でした。
きっと交番に戻ったら、娘が気づいたことを同僚に指摘されたのでしょう。
いやはや実にほのぼのとした話です。
わが家はみんなで大笑いできました。

しかし、でも待てよ、です。
こんな事件ですから笑い話で終わりますが、もしこれがもっと深刻な事件だったらどうでしょうか。
笑っている場合ではないのです。

どこに問題があるのでしょうか。

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2008/09/19

■汚染米事件は農水省の犯罪

今回の汚染米事件は、殺人未遂も想定される犯罪だと思いますが、その主犯者は三笠フーズの関係者などではなく、農水省の役人です。
そう確信したのは、今回の汚染米購入業者の発表の仕方です。
この情報公開のやり方は、明らかに「犯罪性」があります。
自らの管理責任を果たさずに、その結果、被害を受けた人をしっかりした説明も無く、一方的に発表してしまうやり方は、昔の悪代官のやり方、つまり悪徳権力者のやり方です。
それにしても、太田農水相や農水省事務次官の国会での答弁は、常識のある大人とは思えない内容です。
こうした人が政府を構成していることに、大きな危機感を感じます。

本当の責任者の名前は隠したまま、そしてその罪は不問にしたまま、批判の目を違う人に向けさせるのは、権力者の常套手段です。
要するに、弱いもの同士を戦わせるわけです。
パワーポリティクスの定石でもあります。
大分の教員試験不正事件と全く同じ構造です。

まあ、そういうことは今に始まったことではありません。
「悪い奴ほどよく眠る」は時代を超えた真実なのかもしれません。
しかし、今回の事件の影響は計り知れません。
その意味をもし理解したら、関係者は生きてはいられないでしょう。
仲介業者の社長の自殺が報道されていますが、今のままでは農水省関係者の自殺も出てきそうです。
それだけは絶対しないでほしいものです。
自殺しても何も解決しません。
自殺する代わりに、真実をすべて公開し、新しい人生に踏み出してほしいものです。
自殺は、第2の犯罪であることを知ってほしいものです。

この事件が明らかにしたもう一つのことは、国家公務員は仕事をしていないことを露呈したことです。
それも今に始まったことではなく、耐震偽装や年金問題などで、明らかな話です。
問題は、しかし彼らは「仕事している」と確信していることです。
私の友人の公務員の多くも、みんな誠実に仕事をしています。
忙しいですし、時には自分の生活も犠牲にしているほどです。
しかし私には「仕事」の捉え方が間違っているように思います。
仕事の主人は政府だと思っている気がします。
公務員だったら、一度くらい憲法を読んでほしいものです。
もっとも憲法など読んだことのない政治家や社会学者もいる時代ですから、無理な話かもしれません。
いや、人のこと悪く言うのはよそうと思いながら、なかなかそうはなれません。
困ったものです。

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2008/09/05

■銚子市立病院は市民で再建できないものか

銚子市立病院が行政の赤字負担が限界に達し、とうとう休止になるようです。
実に「無駄」な話ではないかと思います。
いまさら言っても仕方がないでしょうが、なぜ住民たちで再建できなかったのでしょうか。
今朝のテレビでは、年間赤字は12億円と報道されていたようです(不正確かもしれません)。
銚子市の人口は7万人強ですので、年間一人2万円を負担すれば赤字は補填できます。
あるいは市民を対象にした公募債で立て直し資金は得ることも可能です。
住民一人2万円は高いかもしれませんが、病院がなくなることによって発生する住民の負担額増額と比べたら、そう大きな差はないかもしれません。
それに住民が一緒になって取り組めば、そして住民が我慢できることは我慢すれば、赤字は半減できるかもしれません。

そもそも地域住民にとって役立っている事業が赤字になること自体がおかしいのですが、それは日本の医療制度そのものがおかしいからです。
これは全国的な問題として直していかねばなりません。
それが改正されたら、数年後には黒字に持っていけるでしょう。

それに銚子市の住民の中には、きちんとした枠組みをつくれば、かなりの寄付は集まるでしょう。
病院が自分たちのものと思えれば、発想は全く変わってくるはずです。
全住民を対象にして、資金を公募したらオーナーシップが取れるかもしれません。
そうしたら名実共に、住民みんなの病院になります。
公立病院ではなく、共立病院、コモンズ病院です。

せっかくの施設があり、医師や看護師のネットワークもあったのに、赤字だからといってやめてしまうのは、大きな無駄です。
発想を変えれば、いくらでも存続の知恵は見つかるでしょう。
夕張や矢祭を、銚子の住民は学んでいないのでしょうか。
もし住民が中心になって再建するのであれば、私も喜んで負担します。
いつ自分の町でも起こるかもしれない問題ですから。

病院は、行政のものでも企業のものでもありません。
医師と看護師と患者のものです。
そういう原点が、あらゆるところで見失われているような気がします。

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2008/08/26

■介護職の不幸

東南アジアからの看護・介護労働者の導入が、かなり現実の問題になってきました。
しかし、この問題への取り組みはなんだかとても大きな間違いがあるのではないかとずっと気になっています。
それに、東南アジアには看護・介護の問題はないのか、ということも気になります。
日本で技術研修するという説明もありますが、どうもすっきりしません。

それに関連して気になる話があります。
あるメーリングリストで、「介護福祉士の資格がありながら介護の職についていない人は20万人くらいいるそうです」という投稿がありました。
そのため、「介護福祉士の就労斡旋(援助)」が政府施策として検討されているようです。
20万人といえば、有資格者の役4割です。
調べてみたら、その実態調査も昨年行われているようです
そういえば、こんな話も聞きました。
一時、各地の大学で急増していた介護や福祉関係の学部や学科が最近、人気がなくて急減しているという話です。

なんだかとてもちぐはぐです。
ちなみに、弁護士や医師の世界でも同じようなことが行われています。
しっかりしたビジョンもなしに、現場を知らない人たちが無責任に増やしたり減らしたりしています。
しかも、その処遇さえも、仕事の価値と無関係に決めてしまうのです。

介護労働者の離職率の高さは有名です。
その主な理由は、労働条件の悪さだといわれています。
低賃金はよくいわれますが、それ以上に過酷な労働条件で身体を壊す人も多いようです。
職についていない介護福祉士の多くは、「就職口がみつからない」からではなくて、職につきたくないからだと、その人は言います。
そして、「就労斡旋だなんて・・・・自ら現場に身をおいたことのない人間でないと言えない発想ですね」と書いています。

これほど「介護職」が求められている時代にもかかわらず、なり手が少ないのは、「介護職の不幸」としかいいようがありません。
どこかで、仕事の社会的位置づけが間違っているのです。
東南アジアの人たちにしわ寄せをする前に、問題の本質をもっと整理していくべきではないでしょうか。
それは、私たちの生活の未来にかかっているのですから。

追記
JanJanニュースに関連記事を見つけました。
今こそ介護労働者の待遇改善を

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2008/08/23

■官僚の反乱は官僚制の限界を象徴しています

国土交通省がタクシー券をやめた途端にタクシー代は9割以上減少したというニュースが流れています。
官僚制の持つ本質である保身性と従順性が見事に出ています。
問題は誰に対して従順かということですが。

市場システムと官僚制は近代社会を支える2大柱です。
いずれの特徴も、人間性という情緒的な要素を排除するものです。
近代は、組織や全体から発想する社会であり、全体としての人間性を重視しましたが、個々の人間の人間性は必ずしも重視しない社会です。

近代市場制度は、脱価値的な通貨を媒介にして、個々の人間の私利私欲を社会化しました。
官僚制は、多様な人々を統治するための、非人格化された脱価値的な実行機関でした。
いずれにおいても、そこに係わる個々人の人格は消去されるようになっています。

絶対主義国家で発生した官僚制は、その効率性の故に国民主権国家の行政においても採用されました。
価値判断は、絶対君主ではなく国民に代わったものの、官僚制の内部での価値判断の排除は当然持続されました。
ウェーバーの官僚制の理論は、テーラーの科学的管理法と同質性を持っているわけです。

官僚は個人的価値観に惑わされることなく、与えられた課題を指示された方向で遂行することによって評価されます。
だからこそ、目的が明確な限りにおいては効率的であり、組織としての優位性を高めてきたのです。
それは、産業におけるベルトコンベア方式に類似しています。
企業が「もうひとつの官僚制」と言っていいように、官僚制は「もうひとつのベルトコンベア」と言っていいでしょう、

昨今の行政不祥事は、そうした官僚たちの人間性が目覚めた結果なのでしょうか。
居酒屋タクシー問題は、従来型官僚の所為ですから、まあ瑣末な問題です。
非人格化された腹いせの行為でしかありませんから、過剰な部分を断罪すればいいわけです。
だから20年前からわかっていたのに、見逃してきたわけです。

しかし、防衛省次官厚生労働省の行動は次元が違います。
これは官僚の反乱なのです。
官僚制に代わる新しい統治システム、あるいは行政システムが求められだしているのです。
たぶんITがそれを可能にしてくれるでしょう。
個人(の人間性)を起点にした発想が求められているように思います。

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2008/07/18

■自治体職員は社会起業家になると楽しいですよ

昨日、福島で講演をしてきました。
入職後26年目の自治体職員が対象です。

昔、黒澤明の『生きる』という映画がありました。
定年間近の課長が、がんの宣告を受けて、生き方を変えるという話です。
どう変えたかといえば、「保身」ではなく「捨身」になって、住民たちのために公園を作るのです。
前例主義の典型的な役人だった人が、最後に何かを残したいとちょっと意識を変えただけで、住民に役立つ大きな仕事を成し遂げるという話です。
リメイク版が数年前にできましたが、あまり話題にはなりませんでした。

黒沢明の「生きる」は、ぜひ自治体職員の皆さんに見てほしい映画です。
テレビでの放映もあまりありませんが、もし自治体の首長が、本気で職員の意識を変えたいのであれば、全職員にこの映画を見せて、ワークショップでもやると効果的です。
もっともワークショップのファシリテーターを選ばないと逆効果になるかもしれませんが。

社会起業家という考えが広がっています。
自治体職員は、社会起業家になりうる至近距離にいる人たちではないかと思います。
数年前に、東京都特別区職員研修の一つとして、この種のプログラムを引き受けたことがあります。
残念ながら発展させられませんでしたが、この数年は、福島県の自治研修センターでその種のお話をさせてもらっています。
今回の講演もその一環です。

みなさんはその気になれば、いろいろなことができるんです、というメッセージを出しましたが、どのくらいの人に届いたでしょうか。
つい口が滑って、余計な話もしたので、むしろ反発をもたれたかもしれません。
それに2時間、休み時間もとらずに話し続けましたので、これもまたいまの行政文化にはなじまないかもしれません。
途中で休憩をとってほしいといわれたのですが、最近のワーキングプアの働きの実態を少し知っている者としては、「甘えるんじゃない」という気がしてしまい、休憩なしにしてしまいました。
ただ冒頭、眠かったら眠ってもいいし、途中でトイレに行きたくなったら自由にどうぞうとは話しておきました。
退屈な話を聴くことはありません。
しかし、幸いなことに話の前半、一人の人が少し眠っていただけで、100人を越す人たちは結構、真剣に聴いてくれました。
あまりの暴論ぶりに、呆れていたのかもしれません。
私の「常識」は、もしかしたら、自治体職員には「暴論」かもしれません。

大阪の橋下知事のやっていることも、大阪府の職員からしたら「暴論」かもしれません。
だから職員組合も市町村首長も怒っているのでしょう。
しかし、そうした対立を見ていると、私などは、市町村首長や組合幹部の発言にこそ「暴論」を感じます。
立場によって、同じことが「暴論」になったり「良識」になったりする。
時代の変わり目には、良識を打破する暴論や暴論をぶつけていく良識が必要なのです。
「小さな良識」の世界で、安直に生きていることの先には、良識の破綻しかありません。
「小さな良識」に甘んじることなく、「大きな良識」を目指して、「暴論」をもっともっとぶつけあうことが必要です。

組織に閉じこもっている人たちは、もっともっと「暴論」にさらされなければいけないと思っています。
あまりにも「常識」が固まりすぎています。

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2008/07/01

■たばこの値上げ

たばこの税金を上げて1箱500円とか1000円にしたらどうかという話が出ています。
目的は、税金収入の増加と健康問題があげられています。
いずれも目的としてはおかしな話だと思います。
税収入に関しては、増収になるという試算も減収になるという試算もあります。
私自身はそんな議論はどうでもいいように思います。
大切なのは、たばこという商品の価値をどう考えるのかです。
そうした価値議論に興味を持っている人はほとんどいないようです。
みんな金銭市場主義の世界でしか考えていないようです。
健康問題さえもが、その枠組みで議論されています。
たばこ値上げ問題に限らず、これが最近の日本社会の風潮です。

たばこ税を問題にするならば、酒税も問題にすべきです。
煙草による害があるのならば、酒による害も同じように存在します。
どちらが大きいかは、何ともいえません。
たとえば飲酒運転による死傷事件を思い出せば、
酒の害のほうが大きいと考えることもできるでしょう。
大麻が問題にされるのに、煙草や酒が問題にされないことに、
私は子どもの頃から違和感がありました。
お酒の場合も、やはりラベルに「飲みすぎには気をつけましょう」と書くべきだと私は思っています。

たばこ税や酒税は個別の税率が決められている個別消費税ですが、なぜぜいたく品でもないのにこれほどの高率なのかはよく考えてみる必要があります。
いずれの商品も、習慣性があるというところにも大きな意味がありそうです。
税金の視点からだけでなく、たばこやお酒に関しての価値議論が必要だろうと思います。

ちなみに私はいずれも飲みませんが(ビールだけは少しだけお付き合いで飲みます)、
いずれにもそれなりの価値は認めています。
決して全面的に反対であるわけではありません。
しかし、税金や健康問題だけで考えることには大きな異論があります。

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2008/06/26

■一つでもいいからきちんとけじめてほしい

居酒屋タクシー問題の調査結果と処分が発表されました。
しかしけじめはついていないというべきでしょう。
この問題は15年?ほど前の官僚の過剰接待問題の時にもわかっていたはずです。
当時、私も時々、仕事先の企業が用意してくれたタクシー券で帰ることがありました。
そこで運転手と会話していて、驚くべき話をいろいろと聞きました。
その多くは、最近話題になっているような話です。
白紙のタクシー券を渡してペイバックしてもらうとか、自宅と正反対のほうを経由して帰宅するとか、といった話はよく聞きました。
官僚の過剰接待の事件化で、そうしたことはなくなったのだろうと思っていました。
しかし、なくなってはいませんでした。

こういうことが実に多いです。
マスコミが話題にし、関係者も解決を約束したにもかかわらず、再度話題になるような事件は少なくありません。
天下り人事や談合事件は、話題になり続けていても繰り返されます。
だれも本気で取り組んでいないからです。
マスコミも、解決に向けてのフォローはしません。
テレビのキャスターも、毎回同じコメントをするだけです。

今朝のテレビで、民主党の長妻議員が、
今回の居酒屋タクシー事件に関して、水増し請求の実態を調査させてくれと役所に要求したにもかかわらず拒否されたことを告発し、同席していた自民党の山本議員に、与党からも調査を働きかけてくれと呼びかけました。
山本議員は、こうした問題はむしろ与党こそがしっかりと追及すべきだといいながらも、長妻議員の呼びかけを無視しました。
この問題に関しては「怒り」を常々口にしている司会者のみのもんたも、長妻議員の発言を聞き流しました。
要するに、みんな本気でやろうとはしていないのです。
長妻議員だけは本気だと感じますが。

居酒屋タクシーの受益者と同じようなことをやっているのが、多くの政治家でしょうから、彼らにはそうした状況の根絶は無理かもしれません。
大臣などの答弁を聞いていると、白々しさを感じます。
それに、多くの国民は長妻さんほど怒ってはいませんし、実体をしっかり見ようなどとは考えていないかもしれません。
なんで悪いのかと、今でも言う人はいます。
社会の常識が、そうなってきているのでしょうか。
長妻さんの怒りが、なかなか前に進まないのは、そうした状況のせいかもしれません。

今回発表された処罰に関しては、ほとんど意味のない、内輪だけの処罰です。
そんな処罰はする必要もありません。
やるべきは「名前の公表」です。
個人名を出すのはプライバシーに関わるなどと言う人がいるかもしれませんが、犯罪を起こした人の名前は公表すべきです。
犯罪ではないというならば、これほど大騒ぎする必要はありません。
いじれにしろ、減給や停職が処罰だなどと考えるのは時代遅れだと私は思います。
公表は見せしめかといわれそうですが、それくらいの緊張感が公務に取り組む人には必要だということです。
その緊張感が欠落しているのです。
緊張感の欠落は、何も官僚や政治家に限ったことではありません。
私自身、ささやかに仕事をしていますが、そうした風潮を強く感じます。
「いい仕事」をしたいと思っている人は、あまり見かけられなくなりました。

いずれにしろ、一つでもいいから問題をしっかりと最期まで解決することをやってほしいです。
問題が多すぎるためか、すべてのことがうやむやに終わってしまっている気がします。
マスコミも同じです。
問題を取り上げている回数が多いのを自慢するのではなく、きちんと問題解決に向けての取り組みを心がけるべきだと思います。

居酒屋タクシー事件は矮小な問題だと思いますが、それへの対応には本質的な問題が象徴されています。
そこから社会の実相が見えてくるような気がします

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2008/06/07

■居酒屋タクシー事件に思うこと

中央官庁の官僚たちが深夜帰宅で使ったタクシーの運転手から現金や商品券などを受け取っていた事実が話題になっています。
「居酒屋タクシー」と呼ばれているそうですが、ビールのサービスを受けてどこが悪いのだと思う人もいるでしょう。
事実、当の官僚たちの多くはそう受け止めたようです。
国土交通相さえもが、なんで問題にされるのかといわんばかりの、歯切れの悪いコメントでした。
官僚に助けてもらっている閣僚たちの立場がよくわかります。
そうした閣僚に、公務員制度改革などできるはずがありません。
当の官僚の助けをもらって形は一応整えましたが、ほとんど意味はないでしょう。

それにこうしたことが行われていたのは今に始まったわけではなく、おそらく多くの人たちが知っていたことでしょう。
マスコミで話題になるような話は、ほとんどはその世界ではよく知られた話であることが多いのがこれまでの実状です。

今回の事件で気になるのは、当事者も関係者も、たいした問題ではないと思っていることです。
それは彼ら官僚に限らずに、社会全般の風潮もそんなように感じます。
ですから、世間もたぶんまもなく忘れてしまうでしょう。
同じような種類の、違った問題がまた次々と出てきて、マスコミの関心事はそちらに移るような気がします。
マスコミはうまく利用されてしまっているだけかもしれません。

しかし、問題は一つずつ解決していくべきです。
今回の問題の解決は、その気になれば至って簡単です。
問題の本質は、官僚がタクシーでなくては帰れないような時間まで仕事をしていることです。
その根幹を考え直せば簡単に済む話です。
勤務時間中に仕事を終えられない無能な人は解雇すればいいだけの話です。
そのために勤務時間はあります。
日本の官僚の能力はたぶん民間人に比べてはかなり低いと思いますが(アウトプットは高くてもアウトカムは低いでしょう)、それでも最終電車に間に合うくらいには仕事を終えるのが常識と言うものです。
真面目に仕事をし、最小限の常識と質無能力があれば、それは可能なはずですし、可能でないとすれば体制がおかしいのです。
官僚が役所で何をしているか、一度きちんと調べればわかるはずです。
官僚出身者はおそらくその実態を知っているはずです。
誤解があるといけませんが、彼らが忙しいことと作業能力は高いことは否定しません。
しかし、簡単に言えば、誠実に生きている人たちに役立つ仕事はしていないということです。
ミッションを履き違えているといってもいいかもしれません。
それは単に無能で怠惰だからです。志などほとんどないはずです。
そうでなければ今のようなことにはなりません。

もちろん勤務時間中には終わらないこともあるでしょう。
そのため深夜まで仕事をしていて、帰るのが午前さまなので、翌朝は10時出勤になるわけですが、それも時間帯を3時間前倒せばいいだけの話です。
7時に出所して、11時に帰ればいいのです。
公共機関を使えるはずですし、環境問題の面からもそうすべきです。
もし環境問題に、庶民程度には真面目に取り組もうと思うのであればですが。

国会議員への対応のために夜型でないといけないという意見があるかもしれませんが、時にはそうした事態もあるかもしれませんが、今のように常態になるはずはありません。
夜遅くまでこうこうと電気がついている役所に巣食っている人たちは、恥を知るべきでしょう。
真面目に仕事をしていないか、無能で怠惰な証です。

いささか論理の飛躍があるかもしれませんが、素直に考えれば大筋は間違っていないはずです。
官僚のやっていることの実態は、年金問題でみんなわかったはずですが、年金関係は例外だと思っているのが、残念ながら今の社会の常識です。
お上信仰がいまなおあるのです。
あれは例外ではなく、多くの役所の実態なのだと思います。
役所と付き合っている人は、そう思いませんか。

今回の件で言えば、まずはタクシー券を無くすべきでしょう。
それで問題はほぼ解決です。
最終電車に乗り遅れたら自己負担にすべきです。
せめて1割でも自己負担するべきです。
そうすれば役所の電気代も削減できるでしょう。

最近の派遣労働者は、通勤交通費も時に負担させられるのです。
そうして苦労して働いている人の税金で、仕事をしていることを思い出せば、今のような自堕落な勤務態度は恥ずかしくなるはずです。

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2008/05/28

■消費者庁への期待と懸念

消費者庁新設が議論されています。
産業起点ではなく、消費者起点で行政に取り組むところができることは歓迎すべきかもしれませんが、どうも期待を持つ気分にはなれません。
新しい流れを生み出す契機になるかもしれませんが、従来の構造を延命するだけのことになる危険性もあるからです。

たとえば、企業の広報活動を考えてみましょう。
企業にとって、社会との関係はとても重要ですので、ある程度の規模になると、広報活動に専門的に取り組む部署が創られます。
しかし、その結果、社会との関係は広報部門が一元化し、他の部門は逆に社会への関心を弱めてしまうというおかしな事態が生じてしまうこともあります。
そういう弊害をなくすために、企業では30年前から「全社員広報マン(パーソン)」と称して、全社員が広報意識を持とうという活動が展開されたことがあります。
こうした「専門化のジレンマ」はさまざまな分野でみられます。

もう少しわかりやすい事例では、企業の社会貢献活動があります。
企業のフィランソロピーとかメセナ活動が華やかな時期に、多くの企業は専門部署を創りましたが、逆にそれをつくったために、ほかの部署は相変わらず社会のことなど考えずに今まで以上に経済性を強めてしまった会社は少なくありません。
環境経営もそうです。
だからと言って、専門部署を創設することが悪いわけではありません。
それが全社の社会性や環境意識を高める契機になる可能性もまた大きいからです。

しかし、現在の分業思想に基づく社会にあっては、専門部署をつくることが他の部署からその意識を抜いてしまう恐れも否定できません。
縦割り文化の上に立つ行政も、同じことです。
環境省は省に昇格したとはいえ、今でも権限はそう大きくないでしょう。
環境省をつくるほうがよかったのか、経済産業省や国土交通省の行政方針を環境理念を基軸にして組み替えたほうがよかったか、判断はわかれるでしょうが、せめて環境省をつくった理念は、ほかの省庁も自らに取り組まなければいけません。

山形市が環境先進都市を標榜したことがあります。
市長は、環境部門だけではなく、すべての部署が「環境意識」を強めなければいけないという発想で、行政そのものの基礎に環境意識をおくことを目指しました。
「環境行政」に取り組むのか、「行政の環境化」に取り組むのかは、全く意味合いが変ってきます。
そして大切なのは、後者ではないかと思います。
これに関しては、福祉の問題などでも以前書いたことがあります。
「ビジネスの発想を変える高齢社会の捉え方」

消費者庁を新設するのは誰にも見えますし、取り組みやすいやり方です。
しかし大切なのは新しい組織をつくることではなく、行政の姿勢を変えることです。
行政の姿勢を変えることよりも新しい制度をつくることにばかりエネルギーを割く傾向が、これまでの行政の責任者には多かったように思います。そして組織を作って終わりにしてしまうわけです。
それでは逆効果になる恐れさえあります。
次々と新しい組織を創って来た結果が、昨今の行政の肥大化、天下り人事の広がりと無縁ではなかったことを忘れてはなりません。

公務員の人事問題でも同じような取り組みや発想が感じられます。
近代が生み出した分業の思想とそこから派生した専門の思想は、そろそろ見直すべき時期に来ています。
消費者庁を新設するのであれば、行政全体の枠組みを組み替えていくくらいの展望とグランドデザインが必要ではないかと思います。
しかし、そうしたロングタームのイノベーションに取り組む人は、いなくなったのかもしれません。
社会が複雑になりすぎてしまったのでしょうか。

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2008/05/16

■自治体行政のパラダイム転換

大阪府の橋下知事が進める人件費削減はかなり大幅なもので、実施に向けてはまだまだ多くの難関があるでしょう。
職員としてはなかなか反対はできない状況になってきているのかもしれませんが、
府民の多くはどう思っているのでしょうか。
もし行政の職員が、府民の生活を守る仕事をしていたならば、府民はきっと人件費削減には賛成しないでしょう。
しかし、大阪府に限りませんが、なかなかそういう声は起ってきません。
そこにこそ日本の自治体行政の大きな問題があるように思います。

自立生活サポートセンター事務局長の湯浅誠さんが書いた「反貧困」(岩波新書)には、まじめに働いても生活できない人が増えていること、そしてそうした人たちの生活実態が紹介されています。
行政による生活保護制度はそうした人を支援するよりも排除する姿勢が強いことも示唆されています。
私の体験でも心あたることは少なくありません。
行政の対応はまず「ノー」から始まることが多いように思いますが、発想の起点が住民にではなくお上にあることがすくなくありません。
日本の行政は、生活支援ではなく統治行政であることがよくわかります。

統治する側にいる人にとっては、生活者の都合など問題ではありません。
むしろ問題があればあるほど、自らの存在価値を保証できるという「近代のジレンマ」の論理の上に成り立っていますから、生活者の困窮はほどほどに必要なのです。
それに対応するような形で、統治される側にとっては統治側にいる人は不要な存在ですから、そのための人件費は少なければ少ないほどいいことになります。
そこには不幸な関係しかありません。
もちろん個別には例外はたくさんあります。
しかし、仕組みはそうなっているように思います。
それこそが問題です。

そうした枠組みの中では、霞ヶ関がさまざまな社会問題を解決すると称して展開している施策に投入される予算のほとんどは、その対象に到達する以前に統治側に吸い取られてしまいます。
「反貧困」にもそうした話が出てきますが、昨今の報道を見ていると、それを吸い取っているのが行政の仕組みとさえいえるかもしれません。
そうした仕組みを壊さなければいけません。
日本の政治家がそうであるように、日本の行政は生活者の視点で設計されていません。
それを変えていかねばいけません。
橋下さんが取り組んでいるのは、そうした枠組みの中での取り組みですから、気が遠くなるほど大変な作業なのです。

しかし、にもかかわらず、どこかにすっきりしないものを感じます。
なぜでしょうか。
根本にある問題を変えることなく、実現しやすいところから取り組んでいると、問題はさらに深まっていくのではないかという不安もあります。
これは大阪だけの問題ではありません。
自治体行政のあり方を、根本から見直すグランドデザインが求められているように思います。
その鍵は、発想の起点を変えることです。
起点を変えると、風景が変ってきます。
そのモデルは、福島県の矢祭町が示唆しているようにおもいますが、どうでしょうか。

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2008/04/23

■介護者を支援できない社会

またいたたましい事件です。
老親の介護に疲れた58歳の男性が、老親を殺め、自らをも殺めてしまったのです。

ちょうど、事件の報道のあった朝、志を強く持って介護の世界に身を投じていた知人からメールが来ました。
介護の現場を実感していただくために、そのメールの一部を紹介させてもらいます。

自宅を開放してのデイ。仕事・記録などが終われば母の介護。 
プライバシーもプライベートも皆無の日々で鍛えられております。

自分の親を看病・介護するようになって、はじめて『自分は介護をなめていた』と思っております。

介護は地獄です。特に僕みたいに結婚もせず、一人身で親の介護をしている息子は。。。
我親に手を上げる息子の気持ちもよく分かります。
しかし、これも試練『人生は重き荷物を負て・・・』と自分に言い聞かせて、一日一日を堪えて、凌いでおります。

しかし、いたって気持ちは前向きで、体調も既に壊れ始めておりますが、自分で選んだ道ですので倒れてもこれでいいのだと思っております。

私たちの社会は、こうした人たちに支えられています。
今回の事件は、決して例外的な事件ではないのです。
なぜ福祉行政の方向を決める人たちに、こうした現実が見えていかないのでしょうか。
介護を体験している人はいないのでしょうか。

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2008/04/18

■橋下大阪府知事への共感

昨日の大阪での知事と市町村長との話し合いのテレビ報道を何度も見ました。
いろいろなことを考えさせられましたが、これまでどうも好きになれなかった橋下知事への共感度は一挙に高まりました。
彼の志に頭がさがります。

先ず考えたのが、「いじめ」です。
職場や学校での「いじめの構図」が象徴されていたように思います。
市町村長たちに傲慢な態度には驚きましたが、こうした人たちがのさばっていて、いじめの社会を作り出しているのでしょう。
目線の高さには呆れました。

次に感じたのは、自治会首長の誇りの無さです。
まさに支援に依存している生き方のために、現状をひきおこしてきたことへの責任感は皆無です。
社会を正そうなどという発想も皆無で、ともかくお金がほしいだけです。
お金があれば、サルでも職責は果たせるでしょうが、サルでももう少し自尊心はあるでしょう。

お金がもらえなければ、道はぼこぼこ、屋根も落ちると明言した人もいました。
呆れるどころか、笑い話です。

大阪府はだめになったのは、こうした市町村長にお金をむしりとられていたからでしょう。
お金をむしりとる人たちが行政を食い物にしていた結果が、現状です。

まちづくりにお金はそれほどいりません。
たとえばこんな事例もあります

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2008/04/03

■犯罪者のつくられ方

昨日、いささか不愉快なことがありました。
警察官から「犯罪者の疑い」をかけられたのです。
事の顛末はこうです。

来客があるので、自転車でペットボトルを買いに出かけました。
途中、天神町交番の前を通りました。
そこで呼びとめられたのです。
私が乗っていた自転車に盗難防止関係の登録票が付いていなかったのだそうです。
この自転車は折りたたみ式のもので、自動車に搭載ていたのを、湯島に自動車で来た時、置いていったものです。
購入時には、特に登録を勧められませんでした。
来客の関係で急いでいたのですが、身分証明書の呈示を求められました。
少し待ってほしいというので待っていると、本署に電話しているようです。
何をしているのかと訊いても、ちょっと待ってくれと言うだけです。
5分ほどたっても電話はかからないようです。
出ないなと2人の警察官はつぶやいています。
私もいささかいらいらしてきて、電話番号を教えるから買いに行けせてほしいと言いましたが、ともかく待ってくれというのです。
若い警官に、登録票をつけないといけないのかと訊いたら、つけるのが義務ですが、罰金などはないですと答えました。
それで高齢のほうの警察官に、義務だったらなぜ自転車販売の時にそうなっていないのか、私は自転車を盗んだと疑われているのか、私のことを名前や電話を訊いているのに、なぜ自分は名乗らないのか、と少しきつく質問しました。
彼は「山下」だと名乗りました。
若い警官に、余計なことを言うなという感じで怒っていました。
対応は柔らかですが、答はともかく待ってくれ、協力してくれと言うだけです。
しかし警察署への電話は一向に伝わりません。
トランシーバーのようなもので、連絡を取り出しましたが、それも通じません。
まあ、こんな事件だからいいですが、緊急を要する事件であれば、大事です。
文京区元富士警察署はまじめに仕事をしてないのではないかと思いたくなります。
ますます腹立たしくなりました。
時間が無いのでともかくペットボトルを買って、また帰りに寄る事を再度申し出て、やっと了解を得ました。
帰りに寄りましたが、まだ連絡がつかないようです。
おかしいと山下警察官はつぶやいていましたが、おかしいと言って済む話ではないだろうと思いました。
それですむなら警察官は気楽な職業です。
結局、電話と住所を伝え、何かあれば連絡してほしいと言って、オフィスに戻る事にしました。
来客を待たせては申し訳ありません。
それに対して、「何もないと思います」と山下さんはいいました。
完全に怒る気をなくしました。
謝罪の電話があるかと思っていましたが、結局、その後なんの連絡もありませんでした。
人間としての基本的なルールも知らない山下さんでも警察官は務まるのです。

いささかの腹立ちに任せて冗長に書いてしまいましたが、この15分の体験でいろいろな事を感じました。
被疑者の気持ちも少し実感しました。
呼びとめた理由も説明せずに、また何をしているかも説明せずに、「協力してほしい」ということは成り立たない話です。まさに「お上」の姿勢です。

今日のタイトルは「犯罪者のつくられ方」としましたが、今回、私は被疑者になったわけですが、そこから犯罪者に進むのはもう一歩です。
そして冤罪がつくられるわけです。
尋問した警察官から逃げて事故で死んだ若者がいました。
私ももう少し急いでいたら、自転車で走り去ったかもしれません。
その瞬間、犯罪者になるわけですが、警官は「犯罪者の生産者」でもあることを今日は実感しました。
産業のジレンマの構造は、警察行政にも見事に存在しています。
深刻な問題を持ち込んでも対応してもらえない話をよく聞きますが、彼らの役割は何なのでしょうか。

念のために言えば、私は「交番」の存在は大事だと思っています。
山下さんの対応は形式的にはていねいでした。
しかし、先ず人を疑うことからはじめることは間違いだと思っています。
人を疑うことを基本にした治安行政は見直されるべき時期に来ているように思います。

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2008/04/02

■新銀行東京に集まる人たち

都議会は新銀行東京への追加出資を認めました。
いったん動き出すと止められなくなるのが、お金の世界です。
ここで追加投資しないとこれまでの投資が無駄になるといわれると、ついつい追加投資してしまうわけですが、これは詐欺事件の典型的なプロセスでもあります。

この銀行ができた直後、資金繰りに困っていた私の知人の企業経営者が融資を申し込みました。
大量の書類を書かされたあげく、結局は融資を受けられなかったそうです。
それを知っていましたから、こんなに杜撰な融資が行われていたとは思ってもいませんでした。
その会社は空間デザイン系の会社でしたから、資金回収の判断が難しかったのかもしれませんが、その会社は、その苦境を乗り切れば大きな可能性が開けてくる状況でした。
おそらく杓子定規なマニュアルで彼の会社の融資は弾き飛ばされてしまったわけです。
しかしどうしてこれだけの短期間に、これほどの不良債権がたまってしまったのでしょうか。
その筋の人たちの狩場になってしまっていたのでしょうか。

お金の世界は恐ろしいです。
お金からできるだけ離れて生きるのが豊かになれるような気がします。

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2008/03/30

■痛みを分かちあおうとなぜ言わないのか

ガソリン税に関する首相や政府の発言の身勝手さと宮崎県知事などの自立心を感じさせない無責任さ、そし動物の戦争での「こうもり」のようなマスコミの報道姿勢に、大きな怒りと失望を感じています。

なぜ身勝手と思うのか。
自説を理解しようとしない人の考えを理解しようとしない勝手さ。
自説に異論を唱える人の主張は理解しようとしない勝手さ。
時間が無くなってから動き出して間に合わないのは相手のせいだという勝手さ。
突然に基本的な考えを相談もなく変えてしまう勝手さ。
混乱の原因をすべて相手のせいにする勝手さ。

なぜ無責任と思うのか。
国家の交付金に依存して、主体的な自治行政を放棄していることに気づかぬ無責任さ。
そのくせ国家全体の視野を考えずに自分の県だけの利益しか考えていない無責任さ。
どうしたらいいかを考えずにともかく予算獲得に走るだけの無責任さ。
足元の自治行政ではなく、テレビや宣伝にあまりにも時間を費やしている無責任さ。
道路行政の遅れの原因を国家政府のせいにする無責任さ。

まあ、主観的判断ですから、異論も多いでしょう。
このブログも同じではないかと言われそうですが、
このブログの「身勝手さ」や「無責任さ」と、責任と権限のある人の「身勝手さ」や「無責任さ」とは全く意味あいが違うのです。
政府与党と野党民主党とも全く違います。
その非対称性を無視しては、論理は成り立ちません。

民主党の小沢さんがいうように、改革には混乱や損失はつきものなのです。
小泉元首相も「痛みを分かち合おう」といいました。
彼が国民に押し付けた「痛み」は、その結果としての成果を「分かち合う」スタイルではありませんでしたが(その結果、格差社会は進行しました)、今回の改革はそれに比べれば成果を分かち合える度合いは大きいはずです。

改革には混乱も不公平な影響もつきものです。
だとしたら、その不公平さの回復に努めることにこそ、知恵を出し合うべきです。
対立から言い合っているだけでは何も生まれません。
意見の違いを超えて、不公平になることを最小限にするようにしながら、混乱を克服していくことが望まれます。

そうした状況に向かって進み出せるのは、野党ではなく政府与党です。
与野党の対立は、決して対等な構造における対立ではないことも忘れてはいけません。
マスコミもまた主体性を持って、この事態に建設的に立ち向かう必要があると思います。
勢いがついた側や国民の人気取りの視点で報道しているような気がしてなりませんし、さらにどちら側にもいつでもつけるように玉虫色の報道をし続けているのはやめたほうがいいように思います。
報道は「中立的」にはなれないのですから。

結局、だれも「改革」など望んでいないのかもしれません

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2008/03/24

■矢祭町の議員日当制に新しい自治の時代の予兆を感じます

昨日、福島県矢祭町の町議会選挙が行われました。
議員報酬の日当制導入で話題になったところです。
日当制には賛否両論がありますが、私はやっと自治の時代が到来したかと感慨深いです。日本の自治文化が壊れたのは、地方議会や自治体行政の仕組みが国家をモデルにし、その参加に「分権的」に組み込まれたからだろうと思います。
このあたりは以前、自治体解体書という報告書を書いたときに少し触れましたし、自治体での講演などではお話させていただいていますが、統治のための国家や都道府県と生活支援のための基礎自治体は、発想のベクトルや構造原理を変える必要があります。
基礎自治体に統治の概念を持ち込んでしまえば、生活は見えなくなってしまうからです。

町議会議員は日当さえも不要ではないかと私は思っています。
もし活動に資金が必要ならば、きちんと予算を組めばいいです。
議会も議員が独占する必要はなく、住民に開かれた議会として、住民も議論に参加できるようにすればいいでしょう。
住民投票などということが特別扱いするようなことも起きないでしょう。
住民みんなの生活に大きな影響を与えるような事柄に関しては、出来るだけ多くの住民の意向を聞くほうがいいことは明らかなことです。

矢祭町の昨日の投票率は88%を越えています。
この高さは、住民たちの自治への実感ではないかと思いますが(矢祭町に言ったことが無いので確信はないですが)、投票率の低い自治体はなぜ投票率が低いかを真剣に考える材料を提供してくれているように思います。

新聞によれば、「報酬が安いと議員は自分の仕事も続け、政治活動に集中できなくなるのでは」という声もあるそうです。
しかし、「政治活動」ってなんでしょうか。
基礎自治体における政治活動は、国会とは全く違うはずです。

ちなみに、政治とお金を切り離すのであれば、議員報酬はゼロにするのがいいと私は思っていますが、これは自治体に限った話ではありません。
私は国会議員も報酬はゼロにすべきだと思っています。
但し、活動費はきちんと予算化する事を前提としてです。
非常識といわれそうですが、常識は時代によって大きく変わります。
小さな常識に囚われていたら、新しい風は起こせません。
もしかしたら、新しい日本は矢祭町から始まったと22世紀には言われているかもしれません。
大仰ないいかたですが、最近の矢祭町の動きにはいつもわくわくするような夢を感じています。

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2008/03/16

■新銀行東京の不幸

都議会での新銀行東京に関する知事と野党議員のやりとりを聞いていて感ずるのは、どうしてこうしたことが何回も繰り返されるのかということです。
400億円投入したら新銀行は復活するかどうかの議論はほとんど見えてきませんし、それ以前になぜこうした事態になったのかが解明されているようにも思いません。
当事者には設立する前から見えていたのではないかという気もしますが、そうした現実の実態把握がなければ評価もできず、計画などたてられるはずもありません。
それにしても、小銀行にはあれほど厳しい金融庁は、どう考えているのでしょうか。

私も零細企業の経営者ですが、中小企業へのてこ入れの制度がいろいろ出来た頃、知人から「今は借りどくだよ」といわれたことがあります。
2000万円くらい借りても返さなくてもいい仕組みなのだというのです。
借りたまま会社を倒産させたり、返せない理由を説明したり、会社を変えてしまうのだそうです。
そんなことがあるはずもないと思っていましたが、新銀行東京ではまさにそういう事例がいろいろとあるようです。
以前聞いた話もまんざら嘘ではなかったかもしれません。

新しい制度が出来た時には、そういうおかしなことも起こるのかもしれません。
いや、そういうことを起こしたいが故に、新しい金融制度や助成制度をつくる人がいるのかもしれません。
そんな気さえしてなりません。
どさくさに紛れて、利益を得た人もいるでしょう。
まじめに汗する人が報われる社会の仕組みをつくるのは難しいのでしょうか。

管理中心ではなく、現場中心であれば、400億円のお金を活かしていく仕組みはつくれるはずです。
いまの「銀行制度」とはたぶん発想を変えないといけないはずです。
スペインのモンドラゴンのような、「協同」の原理が見直されてもいいのではないかと思います。
制度のパラダイムを変えなければ、400億円は活きてこないように思いますが、そうした発想は現体制からはなかなか出てこないでしょう。
発想における革命が必要な時代かもしれません。

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2008/03/11

■自治体の裏金も表金にしたら輝き出すのではないでしょうか

大阪市の巨額な裏金が問題になっています。
この数年、中央官庁や自治体の裏金が問題になっていますが、おそらくこれは「個人の犯罪」というよりは、「組織の文化」というべきものがほとんどのような気がします。
議会の了承を得て、正規の予算として使途する資金の他に、首長や業務責任者が独自の判断で使える予算を持つことは、流動的な現実への柔軟な対応として意味のあることではないかと思います。
問題は、その存在を「見えないようにしておく」ということです。
私もそうした事例はいくつか垣間見ていますが、それが悪いとはあまり思っていませんでした。
今にして思えば、その感覚が問題なのでしょう。
首長が自由に決済できる資金こそ、公開にすべきです。

市町村合併を前に、そうした「隠れ資金」を使いきろうとしていた状況も、いくつかの自治体で見聞しています。
その時はさすがにおかしいと思いましたが、深くは考えませんでした。
市町村合併で生じたさまざまな無駄に比べれば、小さなことだと思っていましたので。

しかし、ここまで巨額な「隠された資金」があるとなると、これは組織の病理につながる問題です。
結局は自らを滅ぼすことになりかねません。
私もNPOに対する資金助成プログラムの事務局長をやっていましたし、各地のまちづくり活動にも関わっていましたが、「お金」が入ってきたために駄目になってしまう活動や組織は少なくありません。
ですから私が事務局をやっていたプログラムでは、わずかなお金の助成で、しかもお金の使い方の相談にも乗るというスタイルを大切にしていました。
そのおかげで、そこで培われた「つながり」は、いまも続いています。

お金は使い方によって、両刃の剣のように作用します。
それに、ある額を超えると個人では対抗できなくなりかねません。
大阪市の裏金は個人の管理能力を超えています。
ですからきっと最近の関係者のほとんどは、「被害者」になっていたのかもしれません。
多くの組織にもきっと似たような状況があるように思いますが、そうした資金の存在を公開していくことで組織は元気を回復するはずです。

「裏金」は、たぶん「裏」にあるから問題なのであって、「表」に出せば、生き生きと良い効果を発揮するのではないかという気もしています。

「裏金」を活かす仕組みが必要です。
組織の中ではかなり知れ渡っていることが多いと思いますので、「裏金」を「表金」にする仕組みをみんなで考えたら、きっといい解決策が出てくるはずです。

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2008/03/04

■日本の公務員は多すぎないでしょうか

日本の現在の人口は約12800万人です。
そのうち、公務員と言われる人の数は、2年ほど前の数字ですが、400万人です。
400万人の人の給与は、基本的に12800万人の税金から支払われています。
公務員の給与は、最近は民間平均よりも高いと言われていますが、ある調査では年収で600万円とも800万円とも言われます。
公務員を除く12400万人が400万人の公務員を雇用していると考えると、約31人の国民(乳幼児を含めて)で一人の公務員を雇っていることになります。
年収700万円とすれば、一人22万円の負担になります。
かなりいい加減な数字ではありますが、3人家族であれば、60万円以上を負担していることになります。
どこかに間違いがあるかもしれませんが、私自身はこうした状況が前から気になっていました。
公務員が多すぎると思うのです。

公務員が国民のために仕事をしているのであれば問題はありません。
しかし昨今、明らかになっているように、必ずしもそうではないようです。
国民年金のお金がホテルなどに転用されたのは、おそらく仕事が暇だったからでしょう。
パーキンソンの法則ではないですが、人がいれば必ず仕事は発生します。
仕事があったから公務員が増えたのではなく、公務員が増えたから仕事が増えたのです。
そこには、国民のための仕事という意識は希薄だったはずです。
その証拠は、最近、山ほど出てきています。
彼らの仕事観は、民間とは全く違います。
公務員個々人が悪いというわけではありません。
仕組みが悪いのです。

財源がないなどという前に、そうした基本構造を再検討したほうがよいように思います。
財源がなければ公務員を半減すればいいだけの話です。
民間企業はそうしてきています。
もちろん半減要因には議員も入ります。
今の国会議員であれば、10分の1でも十分でしょう。

もちろん一挙にはできないでしょうが、10年かければできるでしょう。
そうした発想が、いま必要なのではないかと思います。
念のためにいえば、だから民営化が必要なのだということにはなりません。
それは全く別の話です。

以前、フォスタープランの里親をやらせてもらっていたことがあります。
ところが、里親の拠出金の大半は、その活動のスタッフの費用になることがわかって驚いたことがあります。
そうならないための仕組みを考えるべき時期に来ています。
IT技術は、そうしたことのために、大きな威力を発揮できそうに思います。

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2008/01/30

■道路になぜ駐車していけないのでしょうか

一昨日の朝日新聞にこんな記事が出ていました。

自宅で療養する末期がん患者などを支える訪問看護ステーションの車が、訪問先で駐車違反とされるケースが相次いでいる。千葉県松戸市の訪問看護師(52)は、今も憤りが収まらない。駐車監視員が導入された06年の11月、駐車違反で反則金1万5000円を支払った。
末期がん患者の状態が悪化していると連絡を受け、すぐ自宅に駆けつけた。1時間ほど様子をみて車に戻ると、違反の紙が張られていた。警察署で事情を説明しても取り合ってもらえなかった。
道路は昔はみんなの「生活空間」でした。
それがいつの頃から「自動車通路」になりました。
駐車禁止は「生活空間」と「自動車通路」の両方につながっていますので、悩ましいですが、ここで紹介されている事例をみなさんはどう考えるでしょうか。

私は道路上の駐車にはかなり寛容な発想をしています。
それもまた道路の機能の一つだと考えるからです。
商店街だとか駅前だとか、駐車設備があるところなどの長時間駐車は禁止すべきですが、それも事情によっては認めてもいいと思います。
ましてや、生活道路的な側面をもつ住宅地域の道路であれば、先ずはその地域の住民の生活が優先されるべきです。
「道路になぜ駐車していけないのか」
そのことが忘れられて、ともかく駐車は罰金だという社会は恐ろしいですね。

わが家も昨年は訪問看護ステーションや訪問医師の車に来てもらっていました。
ですから事情がよくわかります。
緊急で来てほしい時には、駐車場のことまで気にしていられません。
こうした話を聞くと、制度というものが、目的を忘れて私たちの生活を苦しめていることが見えてきます。
制度には必ず目的があります。
その目的を目先の目的ではなく、もっと大きな目的で考える姿勢がどんどんなくなってきているような気がします。

私たちがつくった制度や仕組みが、私たちの暮らしを壊し出していることに、そろそろ気づいて行くべきではないかと思います。
法も制度も、その運用には「人間の心」が入らなければいけません。

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2008/01/27

■「夕張希望の杜」を応援することの幸せさ

CWSコモンズでも案内していますが、佐賀市長だった木下敏之さんが、「夕張希望の杜」を応援するためのメルマガを発行しています。
そのメルマガに、とてもいい話が載っていました。
お読みになった方もいると思いますが、一部を紹介させてもらいます。
書いているのは、大学病院を辞めて家族で夕張に移転した医師の永森さんです。
なぜ安定した生活を捨ててまで、夕張に移ったのかという質問への答に、次の歌詞で答えているのです。

そこがどこかが問題じゃない
そこに誰がいるかが大事だった
君のいるその場所が
僕の生きていく場所だ
どんなつらさも幸せに
かえながら生きてゆける  (槇原敬之 Anywhere)

そしてこう書いています。
こっちには僕を必要としてくれるスタッフや地域の人々がいます。
破綻した市のつぶれた医療機関を再生することはもちろん楽しいことばかりではないし、地域や組織がちゃんと先に進まないつらさもあります。
怒ったり、喜んだり、楽しかったり、悲しかったり。
でも、こんな経験のすべてをここで家族や仲間とシェアできる僕は幸せです。
みんな、ありがとう。

もしよかったら、みなさんもぜひ「夕張希望の杜」応援のために、このメルマガを申し込んでくれませんか。それだけで「夕張希望の杜」を応援することができるのです。
メルマガは次のサイトから申し込めます。
http://www.mag2.com/m/0000253983.html


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2007/12/22

■長崎新幹線と公共交通システム

長崎新幹線問題は興味ある話題です。
ご存知の方も多いと思いますが、九州新幹線西九州(長崎)ルートは、
並行在来線の経営をJRから分離することへの沿線市町の反対で着工できないままになっていました。
整備新幹線の着工には、並行在来線の経営分離に対する沿線自治体の同意という法的規制があったためです。

そこで佐賀県などは反対する沿線自治体に地域振興のための資金支援を働きかけ、同意を求めてきましたが、在来線のJRからの経営分離は、いずれ廃線になりかねないということで同意はえられずにいました。
県からの資金支援にもかかわらず、沿線市町の首長は反対の姿勢を崩さなかったのです。
高齢社会においては、公共交通システムは地域住民には死活問題なのです。
ところが、着工を望む佐賀、長崎両県とJR九州は、JRが在来線を現状通り運行し、赤字が出た場合は両県が補填するという方策を考え出しました。
これで、沿線自治体の同意なしで着工できるようになってしまったのです。
フェアとはいえない、こうしたやり方には憤りを感じます。
小賢しい知恵は社会を駄目にしていくからです。
強気に転じた佐賀県の知事は、これまでの地域支援策の話は白紙に戻すと強気の姿勢に転じてしまいました。手のひらを返したようなテレビでの発言は気分が悪くなるほどです。
この半年の県知事と沿線自治体の市町の関係は逆転してしまったのです。
反対していた自治体の市長が、地方自治の実態はこんなものですとさびしそうに語っていたのが印象的でした。

整備新幹線が必要なのかどうか、私には判断は難しいですが、
長崎に限らず整備新幹線にまつわる問題はいつもどこかで問題の立て方が間違っているような気がしています。
幹線道路建設の話も同じです。
いずれにおいても、公共交通という問題が、生活とどうつながっているのかという根幹の部分に関する考え方が重要です。
交通手段は、私たちが生きていく上でのとても重要な手段です。
そうした生活の視点から、国家全体の公共交通システムをどうグランドデザインしていくか、それが見えてこないのです。

以前どこかで書いた記憶があるのですが(探しましたが見つかりません)、公共交通システムは単なる移動手段ではありません。
その設計の仕方次第で、社会のあり方やみんなの生き方が決まってくるほどの大きな意味を持っています。
文化にも大きな影響を与えます。
公共交通システムと私的交通システムをどう配置するか、またそれぞれの速度やコストをどう規定するかは、社会のあり方、人々の生き方を決めていくのです。

社会の基軸は、いまや経済から生活へと移りつつあります。
産業のための交通システムを早急に整備すべき時代は終わり、生活を支え豊かにしていく生活システムとして考えていくことが必要になってきているように思います。
システムを設計していく起点を住民の生活に置くべき時代になってきています。
それこそが「地方自治」の出発点だろうと思います。
長崎新幹線問題は、さまざまなことを考えさせてくれます。

今日、公共交通の活性化のための予算が30億円追加されたそうですが、
基本設計がしっかりしていないと資金の投入はむしろ生活システムとしての交通を壊しかねないかもしれません

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2007/12/10

■日本ライスのブランド米偽装事件と農水省の犯罪

毎年、新潟の友人が魚沼産のコシヒカリを送ってくれます。
実に美味しいのです。
近くのお店で購入するコシヒカリとは全くの別物です。
それにしても、最近のお米の価格が安く、米作農家は本当にやっていけるのかも気になっていました。

昨日、TBS系列の「報道特集」で「追跡!偽ブランド米」を見ました。
先月18日深夜にMBS毎日で放映された「映像’07」が話題となり、
全国ネットでの放送が決定したのだそうです。
「新潟産コシヒカリ100%」を謳いながら、実は中国米などをブレンドしていた
「日本ライス」の偽装を明らかにしたものです。
その不正はすでに農水省にも情報が入っていたようですが、
農水省はそれを見逃していたことも番組の中で取り上げられています。

そのやり取りを見ていると、まさに「守屋事件」や「薬害肝炎事件」と同じ構図が見えてきます。
取材に応じた農水省の職員の「責任への鈍感さ」も同様です。
まさに農水省の犯罪です。
「権力」を付与された「組織」は、犯罪を生み出す仕組みを併せ持っています。
ですから、ほとんど例外なく、中央省庁には犯罪が内在しています。
そうならないために、さまざまな仕組みがつくられるわけですが、日
本の官庁にはそうした仕組みがあまりないのでしょうか。
基本的には政府観やガバナンスの問題です。

この番組で象徴的に描かれていたのは、組織の不正に対する個人の誠実さです。
組織の中の個人ではなく、組織に属さない個人の誠実さです。
生産農家の米つくりへの誠実さ、米穀販売店の商店主の誠実さが、
組織の悪行に抗するように描かれています。そこから大きな救いを感じます。
そこから感ずるのは、米作農家が自立できないのは農業政策のためだという私の勝手な思い込みへの確信でした。

ところで、偽装を組織的に行っていた日本ライスの社長はすでに逮捕されていますが、
日本ライスはまだ営業を継続しています。
恐ろしい話です。
個人は罰せられても、組織は罰せられない。
この発想にこそ問題の本質があるように思います。
犯罪の温床こそ、厳しく問われるべきです。
組織犯罪は決して個人の問題ではないのです。

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2007/12/07

■当事者の危機感がない限り、組織の改革はできません

先日、ツカサグループの川又三智彦さんとパネルディスカッションでご一緒した時に、川又さんが会場に向けて繰り返し言っていたことがあります。
「みなさんの何割かは10年後にはホームレスになっていますよ」
川又さんは日本の先行きに大きな危機感を持っているのです。
ホームレスはともかく、今のままだと経済的格差がさらに拡大し、社会が機能不全に陥る恐れは否定できないと思います。
一番の問題は、働かないほど収入が大きくなりがちな現在の構造です。

しかし、なぜかみんな危機感がありません。
先日、ある委員会で、松下の方が数年前に大幅な赤字になった時には、松下も倒産するのではないかと心配になり、履歴書を買いに行った、と話されていました。
その危機感が松下のその後のV字回復を実現したのだと言うのです。

考えて見ると、今の日本の財政状況は松下以上の赤字かもしれません。
にもかかわらず税金の無駄使いはなくなりません。
独立法人の見直しが話題になっていますが、議論の割には何も変わりません。
総論ではみんな賛成しますが、自分の利害が見えてくると途端に動きが悪くなります。
独立法人の職員がまじめに働き出したら、別に民営化する必要もありません。
今の仕事はほとんどが無意味なものなのでしょうが、その仕事の内容を当事者たちが本気で見直せば必ず社会的な価値を創出することができるはずです。
しかし、いまはそうした動きは全くありません。
そこで起こっているのは、組織の存続に関する攻防戦でしかありません。
しかも、話し合っている大臣の顔には真剣見は感じられません。
全く無意味な「行政改革活動」だと思います。

少なくとも、現在の職員の給料を真剣に動き出すまで至急停止にするくらいのことをやるべきです。
民間企業であればそうするでしょう。
今もなお毎日税金の無駄遣いが行われているわけですが、せめてその発生をとめることができないものなのでしょうか。
当事者に危機感が生まれない限り、組織の改革などできるはずがありません。
その基本的な認識が欠落している「改革ごっこ」はそろそろやめてほしいものです。

それにしても、天下りできた人は働きませんね。
これは最近会った独立法人的な組織に所属する若い人や新人の何人かの人に聞いた言葉です。
働かなくて高給を得ている人がまだまだたくさんいるようです。

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2007/11/08

■法律の成立が国政進展の証拠でしょうか

国政に関してはしばらく書くのをやめようと思うのですが、テレビを見ているとどうも書きたくなってきます。
困ったものです。

たとえば、今朝のテレビで、ある人が「国民の政治への関心が高まっているので、
それを低めることだけはしてほしくない」と鳩山幹事長に言っていました。
あなたたちのせいで関心の矛先が違うほうに向いているのではないかと、腹立たしくなりました。
小沢さんの苛立ちがよくわかります。
政治への関心と言ってもいろいろあります。
コメンテーターのみなさんの類の関心であれば、高くなったところで現実はよくはならないと私は思います。

まあ、こうした類の議論が盛んに行われているので、とても気分が悪いのです。
そのくせ、気になってテレビをよく見るようになりました。
私自身が、政治へのレベルの低い関心を高めているようです。
困ったものです。
政治はサーカス(見世物)ではないはずですが。

ところで、前から気になっていたことですが、
ねじれ国会のために福田政権になってから法律が制定されず、
国政が進展していないという話があります。
国政の進展が法律成立の数によって示されるという考えを聞いて、驚きました。
まさに手続きの時代、形式的な法治国家の時代です。
法律は少なければ少ないほど良い政治だと私は思っています。
大切なのはリーガルマインドです。
これに関しては、これまでも何回も書いてきました。

また、法律がなければ国政を進められないのであれば、
それこそ法律があればサルでも国政は進められることになります。
確かに国会は立法が使命ですが、法律を作ることは目的ではありません。

権力に対する刑事告発の動きが始まったことも書きましたが、その動きは鈍ってきているような気もします。
まさにパフォーマンスだったのでしょうか。
フィブリノゲンに関しては、私は未必の故意による殺人事件だと思います。
そのことは以前も何回か書きました
そうしたことを明らかにせずに、和解してしまう神経が理解できません。
もっともそれらは別の問題です。
被害者の救済は裁判とは別に進めるべきでしょう。
時間に余裕はないはずです。当事者の時間感覚で考えなければいけません。

法律を創ることは必要かもしれませんが、法律が問題解決の障害になっていることも知らなければいけません。
年金問題でも医療問題でも、いや民間のさまざまな不正事件や犯罪行為でも、
法律があるために処罰したり取り締まりできないことも決して少なくありません。
リーガルマインドを失った法治国家ほど恐ろしいものはないように思います。
法曹界の人たちは市場が増えてうれしいかもしれませんが、良心だけは失ってほしくないものです。

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2007/11/02

■薬害肝炎事件は当事者の視点で緊急措置すべきです

薬害肝炎事件の報道は見ていて辛くなります。

私のようについ最近妻を病気で見送ったものにとっては、とくに辛いです。
事件は良い方向に向かっていますが、患者やその家族にとってはどう映っているでしょうか。

以前も書きましたが、当事者とそれ以外の人では時間感覚が違います。
枡添さんのおかげで、どうやら薬害肝炎事件は解決に向かったようだと私たちは思いますが、明日の生命にも不安のある当事者にとっては、みずからの状況が安堵できる状況になって初めて、解決への入り口に到達したと考えるでしょう。
7年間ですべて解決するというのは、論理の世界の話であって、当事者の視点ではありません。当事者は7年も待てません。

時間は実に残酷です。
私たちは、当事者の時間軸で問題を考えていかなければいけないと思います。
そう考えると、昨今のさまざまな事件への対応速度は実に遅いような気がします。
今回の薬害肝炎事件でいえば、7年間ではなく、やれることはすべて一気にやるべきでしょう。
軍事費を少しずつ先延ばしにすれば出来る話です。
そうした形での財政赤字であれば、国民は納得するはずです。
それに早く手を打てば、それだけトータルコストは削減できます。

法律づくりや予算の決定などの手続きも後でやればいいでしょう。
緊急措置的な発想で、問題解決に取り組めばいい話です。
薬害肝炎事件はすでに何年も議論し、事実はかなり明確になってきていますから、それが可能なはずです。
行政に迅速性を持ち込まなければいけません。
当事者の時間は待ってはくれないのですから。

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2007/10/03

■「小人の戯言」舛添発言の意味すること 仲間の問題は自分の問題です

舛添大臣の発言がまた問題になっています。
「市町村は信用できない」という発言に、倉吉市の市長が反発し、
それに対して舛添さんは「小人の戯言」という言葉を使いました。
今朝のテレビで、たとえば落合恵子さんは「使う言葉で人柄が出る」と批判し、
鳥越憲太郎さんは「すべての市町村」という言い方を批判しました。
また、ある人は「国に対して反論する勇気」をほめました。

数日前に、私も舛添さんの発言に違和感があると書きましたが、
私の違和感は「官と民」の対立構造で捉える発想への批判です。念のため。

私は今回の一連の舛添発言に共感しています。
舛添さんがいうように、すべての市町村の役場は信用できませんし、
倉吉市の市長の異議申し立ては小人の戯言以外の何物でもありません。
使う言葉で人柄が出るとは思いますが、使う言葉で真情も出ます。
真剣に生きている人は、思いも激しく出るものです。
無責任なコメンテーターとは全く違います。
大臣になる前の舛添さんは、コメンテーターのような理屈を述べていたので、私は好きになれなかったのです。

すべての市町村が信用できないのは、どうしてか。
仲間の犯罪や不祥事は、仲間全体にとっての犯罪であり不祥事だというのが、私の考えです。
どこかの市町村が問題を起こしているのを放置していては、
そこもまた同罪だと思われても仕方がないということです。
それが制度というものです。
そうでなければ、その制度には正当性や権威は与えられないはずです。

その考えは、これまでも何回か書いています。
たとえば弁護士に関しては、光市母子殺害事件に関して書きました
まともな弁護士ならば、恥ずかしく思って、行動を起こすべきですが、
日本の弁護士のほとんどは動きませんでした。
ですから私は日本のすべての弁護士を信頼しません。
恥ずかしい職業の輩と考えています。
どんな立派な活動をしていても、共感はもてませんし、協力もする気になれません。
友人は少なくありませんので、とても残念ですが。
自浄作用がない職業は社会的にはいつか問題を起こします。
安住は許されません。

鹿児島県県議選買収にまつわる冤罪事件では、
警察や検事の組織行動であることが明らかになってきていますが、
個人の問題は往々にして組織の問題でもあります。
多くの場合、いわゆる「とかげのシッポ切り」で事件は収束されがちですが、
それでは繰り返し犯罪や不祥事は起こります。
鹿児島の冤罪事件の最大の被害者は、全国の警察であり、検事のはずですが、
彼らは対岸の火事と考えて、動こうともしません。
要するに自分たちも同じだと言っているわけです。

社保庁の問題も、よくまじめな職員もいるので可哀想だという人がいますが、
すべての職員がまじめであるはずがありません。
まじめであれば、仲間の犯罪を見過ごしはしないでしょう。
なにか行動を起こすべきです。できることはたくさんあります。

舛添さんは、市長の批判に対して、まずは自分たちの仲間の市町村にこそ目を向けろといっています。
全くそうです。
仲間が不祥事や犯罪を起こしているのに、それには目を向けず、
自分はやっていないからなどという神経が理解できません。
そうした人は公の仕事に取り組む資格がないと私は思います。
倉吉市の市長の目線は間違っています。

だんだん言葉が過激になってきました。
人柄が出てしまいますね。反省。

学校のいじめ問題、企業の不祥事、相撲業界の事件、
すべてまずは仲間が一番真剣に取り組まなければいけません。
ニーメラーの教訓は、戦争にだけ当てはまるわけではありません。
家族の問題も近隣社会の問題も、すべては仲間のちょっとした行動で抑えることもできるのです。
平和の出発点は、そうした意味での仲間意識を持つことです。

きりがありません。
ところで、みなさんの仲間は大丈夫ですか。

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2007/08/18

■「白い恋人」事件と食育行政

また食品業界の表示不正事件です。
北海道の観光土産として有名なチョコレート菓子「白い恋人」が賞味期限改ざんを行っていたことが判明しました。
どうしてこうも繰り返し繰り返し食品企業の不祥事が起こるのでしょうか。
その基本に、食品業界と行政の癒着関係があるように思います。
先のミートホープ社事件では、そのことが明白に見えましたが、今回もおそらく一種の馴れ合いや依存関係があったように思います。
そうしたものがなければ、これほど繰り返し同じような事件が起きるはずはありません。

40~50年前に、「公害」が話題になり出した頃、「公害発生源」の企業を守り、被害を増大させたのはいうまでもなく行政です。
最近でこそ「予防原則」なる発想が市民権を得始めましたが、当時は公害防止よりも産業成長が行政の役割でした。薬害の時もそうでした。
その姿勢は今もって変わったわけではありません。
そうした事例は、このブログでも何回か書きました。
企業は「コンプライアンス」を口に出すようになりましたが、明らかな法の抵触さえなければ「不正」や「責任回避」は今もなおコストダウンのための手段ですし、それを支援するのが産業支援行政です。
言い過ぎに思えるかもしれませんが、繰り返される企業不祥事をみれば、それは否定できない事実でしょう。

もちろん個人が意識的に「不正」を行っているわけではなく、仕組みがそうなっているのです。
今回の石水社長も、気がついたら犯罪者になってしまっていたのです。
10年前であれば、おそらく隠し通せたでしょうし、行政も援護したでしょう。
しかし、昨今の情報環境はそうしたことを不可能にしてしまったのです。

行政の産業支援は決して悪いことではありません。
しかし問題は、産業に対する理解と支援の方向性です。
そこを一歩間違うとおかしなことになります。
静脈産業支援が環境破壊を増幅するような事例がいかに多いのか、そこをもっとしっかりと認識する必要があります。

とりわけ、食はわたしたちの生命に大きな影響を与えます。
食で身体を非健康にさせ、そこに健康食品や健康産業を創出させ、さらには医療市場を拡大させることも不可能ではありません。
いや、すでにそうした産業コンプレックスが動き出しているのかもしれません。
その動きを感じているのは、私だけでしょうか。

しかし、食は産業のためにあるのではありません。
産業支援の視点ではない食産業の評価システム、たとえば生命的な評価システムが導入されるべきではないかと思います。
どうやってそれを作るか。今の行政では無理でしょう。NPOなら可能でしょうか。
この問題は、とても刺激的なテーマです。

ところで、私が最近危惧しているのは「食育」ブームです。
食育もまた産業支援のためのものでなければいいのですが。
食育に関しては、いろいろと思うことが多いのですが、いつかまた書きたいと思います。
食育は文化にかかわることだからです。

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2007/07/26

■放射性廃棄物の最終処分問題のメッセージ

中越沖地震で問題を発生させた柏崎刈羽原発への不安が広がっています。
相変わらず東電にはしっかりしたコミュニケーション姿勢がないのが最大の問題ですが、原発問題はまさに「コミュニケーションの問題」だということを電力会社や政府は認識すべきではないかと思います。
しかし、コミュニケーション問題がすべてというわけではありません。
そこにもう一つ絡んでいるのは、お金の問題です。
いや「お金」の問題が出発点なのかもしれません。
コミュニケーション不足を金で解決してきたのが、これまでの原発政策でした。
それは地域関係だけではなく、内部の人事管理にも言えることだと思います。
さらにいえば、政策決定に取り組む当事者たちのコミュニケーション不足も目に余ります。ですからだれも全貌が見えずに、自信がもてないでいるように思えてなりません。

秋田県上小阿仁村が、原発の使用済み核燃料を再処理した時に出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場を誘致できるかどうかの検討を始めたことが話題になっています。テレビでは村民は不安を持っているようですが、村長は財政再建の切り札と考えているようです。高知県東洋町の騒動がまた始まりそうな気配です。

こうした騒動はどこかにおかしさがあります。
なぜこれほどに不安が高まり反対がでるのでしょうか。
なぜ調査費だけで毎年10億円という予算がつくのでしょうか。
いや10億円のお金を出さないと調査すらもしてもらえないということは何を意味するのでしょうか。
誰もが高レベル放射性廃棄物の最終処分に不安を持っているのであれば、その問題を解決せずに、原発政策は決めようがないはずです。しかし、そのことを真剣に議論し国民に話しかける科学者はいません。いるのかもしれませんが、国民にきちんと語りかけてはいません。
その事実一つとっても、原発技術はまともな技術体系として成り立っていないように、私は思えてなりません。
まともな技術体系でなければ、多くの人の信頼を得ることは難しいでしょう。

私が原発に不信感を持ったのは、皮肉なことに仕事の関係で電力会社のエンジニアに原発を案内してもらったためです。そこで現場労働者の働き方や扱いを知りました。
技術としての原発に対しては評価能力がありませんが、労働の現場を見れば、その産業の本質は見えてくるものです。
そして原発関連の企業不祥事が起こるたびに、その見学の時の説明を思い出します。
それは私には繋がって感じられます。
共通しているのは資金の配布に関する「専門技術優先主義」です。

これからの日本社会を支えていくといわれる原発産業であれば、各地が競って誘致を申し出るはずです。しかし財政難に苦しむ貧乏な市町村に向けて、巨額なお金をちらつかせても、なかなか手を上げるところが出てこない現実に、原発の本質が見ええてくるように思います。
もっとオープンな場で、しっかりと話し合う時期ではないか。
それこそがコミュニケーション戦略ではないかと思います。

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2007/07/11

■生活保護ってなんでしょうか

今日の朝日新聞の夕刊の記事です。

北九州市小倉北区の独り暮らしの男性(52)が自宅で亡くなり、死後約1カ月たったとみられる状態で10日に見つかった。男性は昨年末から一時、生活保護を受けていたが、4月に「受給廃止」となっていた。市によると、福祉事務所の勧めで男性が「働きます」と受給の辞退届を出した。だが、男性が残していた日記には、そうした対応への不満がつづられ、6月上旬の日付で「おにぎり食べたい」などと空腹や窮状を訴える言葉も残されていたという。
痛みに耐えた結果でしょうか。
この人はきっと「おにぎりを食べる」よりも働きたかったでしょうね。

同市では最近、毎年、こうした悲劇が起こっています。
いやこれは氷山の一角でしかないように思います。日本中に広がりだしている状況かもしれません。
みなさんにとっては、無縁の話でしょうか。
私には決して無縁の話ではありません。
私の周辺でも、最近はこれに繋がるようなことが少なからず起こっています。
いや、私自身も、いつ同じようなことにならないかとも限りません。
そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、不幸は突然に来るものです。
想像力の問題かもしれません。

北九州市は福祉分野では先進的な都市です。
北九州市が福祉の面でモデル的な展開をしたのは、それだけの事情があったからです。
数年前に知り合った北九州市役所の生活保護の仕事をしてきた職員から、その大変さを聞かせてもらいました。とても感激しました。現場での汗の多さが福祉行政を支えていることを実感しました。
その翌日、その課長がわざわざ1冊の本を持ってきてくれました。
「軌跡 北九州市・生活保護の30年」という本です。
帰りの飛行機の中で読ませてもらいました。
生活保護というのは、時代との闘いなのだなと知りました。
しかし私には縁遠い話に感じていました。

ところがです。
3年ほど前から、そうした話が決して縁遠い話ではない状況になってきました。
具体的には書きませんが、生活保護の相談に行ったらどうかというアドバイスをすることが立て続けに起こりだしているのです。
しかし実際に行政や社会福祉協議会に相談に行っても、なかなか相談には乗ってもらえないようなのです。
その現実が少しずつ見えてきたのです。

格差社会論も盛んですが、こうした現場の実態をもっと私たちは認識すべきではないかと思います。
格差は活性化の要素であり結果かもしれませんが、困った人を救えないような社会が住みやすいはずはありません。
いまどき「平等」は流行らないようですが、行き過ぎた格差は活性化さえも損なうはずです。いや、社会そのものの安定性や効率にも関わってきます。そうしたことから無縁な人はいないはずです。その結果、絶対権力を持っていた大統領ですら殺されることもあるのです。

年金を心配するのもいいですが、セイフティネットにこそ関心を高めていかねばいけません。それこそが社会の基本なのですから。

改めて宮沢賢治の「みんな幸せにならないと自分も幸せにならない社会」を目指すか、「だれかの不幸せの上に自分の幸せを築く社会」を目指すか、を考えたいものです。
あなたはどちらを望みますか。
そろそろ生活保護の考えを根本から変えるべき時期にきていると思います。

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2007/06/26

■ミートホープ従業員解雇と社会保険庁ボーナス自主返上

事件を起こしたミートホープ社が全従業員の解雇を決めたそうです。
社会保険庁はボーナスの自主返上を職員に呼びかけました。
問題の性格は違いますが、責任の取らせ方として、どこか共通点がありそうです。
共通点はトップの勘違いと組織と個人の不条理な関係です。

ミートホープ社に関して言えば、私は従業員も全くとがめられない存在だとは思いません。
既に内部告発した人もいますが、本気でやるのであればもっとやりようがあったでしょうし、現場の従業員も自分たちがやっていることがおかしいと気づいたはずです。
それを受け入れていたのは、厳しい言い方ですが、共犯者のそしりは免れません。
これだけ長く、また広範囲に不正をやっていたからには、おそらくみんなわかっていたはずです。
ですから、私は同社の従業員も責任を取るべきだと思います。

しかし、だからと言って、一方的に解雇というのはどこかおかしい。
完全にこの会社は田中社長の私物だったわけです。
会社とはいったい何なのかを考えさせられます。
同社にとって従業員は単なる労働力であり、従業員にとって会社はお金を稼ぐ仕組みでしかなかったのです。
これは極端な事例ですが、最近はこうした「企業」や「従業員」が増えてきているような気がします。

社会保険庁のボーナス返上に関連して、川崎前厚労相は「問題を知らなかったことの責任は取らざるを得ない」と話したそうですが、「知らなかったことの責任」は責任ある立場にいた人にはとても大きいです。
しかし、この責任もまたすべての人に当てはまるでしょう。
正確に言えば、「知ろうとしなかったこと」への責任ですが、ミートホープ者の従業員は、そのことをしっかりと認識すべきです。
いや、問題を起こしていない企業の従業員も、他山の石とすべきでしょう。
さらにいえば、私も含めて、この社会を生きるすべての人が「知ろうとしなかったこと」を恥じなければいけません
その上で、彼らを責めることができるはずです。

社会保険庁のボーナス返上に関しては、いまさら何をという気もします。
問題になりだしてから一体何年経過しているのかを考えれば、そんな話ではありません。
この間、まじめに仕事をしていれば、ボーナス返上額とは桁違いの金銭的カバーが出来ていたはずです。
問題が顕在化してからでも、おかしなことは山ほどあったはずです。
それに末端の職員も含めて、やはり「知ろうとしなかったことの責任」は否定できません。

しかし、それはそれとして、やはり全員にボーナス自主返上を呼びかけるのは理解しにくい話です。
強制減額するのであれば理解はできますが、トップが責任をとらない自主返上方式ではあまりに身勝手なことなのではないかと私は思います。
制度的に強制はできないとしても、それは姿勢の問題です。

私が職員であれば、返上はせずに、同じ額をもっと効果的に活かすことを考えます。
たとえば職員組合が有志の返上額を集めて、年金面で被害を受けている人を支援する仕組みを作ることはできないのでしょうか。
電話で年金相談を受けるNPO活動ならできるような気もします。

いずれにしろ、この2つのニュースはただでさえ気分のよくない事件をさらに憂鬱なものにしてしまいました。
いずれも最高責任者が責任を取らずに、責任を分散したわけです。
組織は責任を分散しあいまいにする仕組みになりきってしまうのでしょうか。

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2007/06/15

■社会保険庁の相談窓口対応

年金記録消失に関する相談窓口対応がいろいろと問題になっています。
自分の年金がどう記録され、どう処理されているのか、気になる人は多いでしょう。
私も気にならないわけではありません。

社会保険庁の杜撰な管理にも問題があるでしょうが、本当の問題は制度の仕組みです。
制度の透明性や自分での計算が不可能になっているのです。
ですから調べてもらって、大丈夫ですよと言われても、何が大丈夫なのかわからないはずなのですが、なぜかみんなそこで安心してしまうわけです。
ですから仕組みの問題は全く改善されないのです。
こうした考え方を変えなければ問題は解決しないはずです。

個別相談に対応するのにどのくらいのコストがかかるか、保険庁が使う税金の問題だけではなく、問い合わせに向ける国民のエネルギーの損失もあります。
しかも個別問題に対応することに目がいってしまい、根本の問題の解決は先送りになりがちです。いやおそらく誰も考えていないでしょう。
各人の心配は大きいとしても、半年はともかく待ってもらい、その間に仕組みの透明性と自分である程度確認できる仕組みを構築し、そこから段階的に相談に乗っていくというような、解決策のプログラミングが必要だと思いますが、いまは目先の問題を対症療法的に解決するやり方です。
おそらくコストのかかり方も解決にかかる時間も桁違いに大きくなっているはずです。
こうした取り組みが最近の日本の多くの問題対処法です。

それでいいのか。
この問題の報道が連日続いていますが、それを見る度に、何か本当の問題から目がそらされているような気になってしまいます。
こんなお茶濁しに満足してしまうのは、国民の視野が狭くなったことの現われでしょうか。
みんなの関心は、自分の年金額だけに向いてしまっているのでしょうか。
社会保険庁の職員と私たちは、一体どこが違うのか、最近それがわからなくなりました。

ところで、国民年金(厚生年金)って、いったい何だったのでしょうか。

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2007/02/24

■地域社会は自らを元気にする力を備えています

青森県の三沢市で行われた住民主催の公開フォーラムに参加させてもらいました。
三沢市ではこれまで5年間、行政が補助金を出して、花と緑のまちづくり活動を展開してきたのですが、来年度から補助金がなくなることになったのです。
しかし活動を継続したいという住民たちと行政の一致した思いから、行政からの呼びかけで、どうすればいいかを考える住民委員会が作られました。
私は、その活動のアドバイザー役として、昨年2回、委員会に参加させてもらいました。
その活動発表会として、公開のフォーラムが22日に開催されました。
CWSコモンズにも書きましたが、予想を上回る住民が参加し、これからの住民主役で活動が楽しみです。
私は、今回は3回目の参加ですが、その途中で、住民たちの表情と発言がどんどん変わってきたのが感動的です。
最初の委員会では行政への要望や陳情的な発言が多かったのですが、2回目には自分たちはこんなことが出来るというような前向きの発言が増えてきました。
それと同時に表情が輝きだしてきたように思います。
委員会の前後に住民の人たちと話しても、1回目とは違って楽しそうなのです。
そして今回。3つの部会に別れて提案をしたのですが、いずれも行政や誰かに何かを頼むのではなく、自分たちはこんなことをするという提案がほとんどです。
受付などをやっている住民たちも楽しそうでした。
会場からも前向きの発言が多かったのも印象的でした。
夕張市の事例もありますが、住民たちみんなは本当は自分たちのまちを自分たちでよくしたいと思っているのです。
それに住民たちの中にはさまざまな専門家もいるのです。
そうした人たちが、お互いに活かしあうつながりを育てていけば、お金などなくても、まちは育っていくのです。
極端に言えば、これまでの行政は、そうした自発的なまちそだちの力を押さえ込んできたのです。

フォーラムの様子は、三沢市のホームページにも書かれていますので
ぜひお読みください。

私は、国土交通省の地域振興アドバイザー制度に基づいて参加したのですが、その国土交通省の勉強会でも、地域を元気にしたいのであれば、霞ヶ関は何もしないほうがいいという話をしてしまったことがあります。

もちろん何もしないほうがいいというのは、今のような発想であれば、という意味です。
現場を支援するという視点であれば、いくらでもやることがあるのに、今やっていることは現場を支援する形にはなっていないような気がします。
それが漸く夕張市の事例で顕在化してきたように思います。
夕張市から、きっと新しいまちづくりの歴史が始まるでしょう。

これは何も地域を元気にするという分野だけの話ではありません。
学校もそうですし、NPOもそうです。
「支援」と「阻害」はコインの裏表であることを忘れてはいけません。
持続可能な楽しい活動は「支援」からは生まれません。
行政が助成金をばら撒いている状況は、とても寂しい気がします。

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2006/12/24

■教育基本法のどこが悪いのか

一昨日の記事に関連して、教育基本法を改正してどこが悪いのかという質問を受けました。
学校は荒れ放題ではないかというのです。

確かに今の学校は、子どもたちが安心して学べる場所ではありません。
私も地元の学校の集まりに自治会長として参加しましたが、子どもたちの親たちと先生との信頼関係も希薄ですし、第一、教師側に主体性を感じられませんでした。
というよりも、現在の状況の中では主体性を持ち得ないのでないかと思いました。
学校にどの程度の権限が与えられているのか気になりました。

学校が荒れてきたのはこれまでの教育行政の結果だと思います。
そうであれば、基本法を改正して、学校改革に取り組むべきだということになります。
実はこの枠組みが問題なのです。
以前も書きましたが、改革にはいろいろな意味があります。
平和憲法に合わなくなってきたから憲法を変えようという改革もあります。
郵政省では産業界には利益が持っていけないから民営化して自分たちの自由になるようにしようという改革もあります。
個人の育てる学校では管理できないから国家に従順な人間を育てる学校にしようという改革もあります。
その改革の中身を吟味する人はほとんどいないのが実態です。

私は企業経営コンサルタントとして、企業改革の仕事に取り組んできましたが、ほとんどの企業では、どこからどこへ向かう改革なのかがあいまいなままに改革を標榜していますので、まさに同床異夢の改革遊びになってしまうわけです。
行政も同じです。
今の行正確や行政評価は全くといっていいほど無駄な作業の繰り返しをしているように思います。

話がそれましたが、教育基本法のどこが悪いかです。
関西学院大学教授で精神科医の野田正彰さんの講演録の存在をメーリングリストで教えてもらいました。
とてもわかりやすいです。
いまだと無料で読めます。
少し長いですが、ぜひお読みください。
教育基本法の問題が少しわかってもらえるかもしれません。

文部科学省と教育委員会が根本から改組されない限り、日本の学校は変わらないのかもしれません。
個々の先生にはいい人もいるとよく言われますが、そんな言葉で騙されてはいけないほど、学校は深刻なような気がします。

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2006/12/20

■国民年金基金のひどい内容

娘のところに厚生労働省年金局監修の「国民年金基金のお知らせ」が届きました。
むすめが、こんなのに入るわけがないと言っているので、案内のパンフレットを読ませてもらいました。
唖然としました。
皆さんは読んだことがありますか。
私も保険をかけるほうでなくて、保険事業を行なうほうになりたいです。
悪質商法とは言いませんが、実質的にはそれに近いような気がします。
私の読み違いかもしれませんが、パンフレットを読む限り、そう思います。
これでどれだけの人が不当利益を得ているのでしょうか。
案内書に寄れば、年金基金の内容はこういうものです。
たとえば、40歳の人であれば、60歳までの年金月額が26,070円です。
65歳から終身年金が受け取れますが、その金額は月額30,000円です。
インフレ補正は明記されていませんので、単純計算できます。
20年の保険料総額は約625万円です。
一方、当人が現在の平均寿命といわれる85歳まで生きたとして、受け取れる年金総額は720万円です。
仮に平均寿命を全うできれば、100万円たくさんもらえるではないかと思うかもしれません。
しかし、納入時期と支給時期には25年間の開きがあります。
仮に大きな社会変化がないとしても、物価上昇のインフレは避けがたいでしょう。
厚生労働省も年金の検討には物価調整率を加味していますが、中長期的には1%と考えているようです。
625万円を年率1%で増加すれば、25年後には800万円を超します。
つまり平均寿命を全うしても、負担額よりも年金額は少ないのです。
私の理解に間違いがあるかもしれませんが、パンフレットを読む限りはそうなります。
誰が得をする仕組みでしょうか。
いうまでもありませんが、この制度を動かす関係者です。
これは評判の悪い「ねずみ講」の一種なのです。
しかも、この案内書にはプロゴルファーの宮里藍さんがモデルに使われています。
彼女は自らがこうした詐欺まがいの仕組みに利用されていることなど知らないでしょう。
国家が詐欺などやるはずがないと多くの人は思っていますが、詐欺をしようという人たちにとっては、国家とは便利な仕組みであり、信頼性を勝ち得るブランドなのです。
むすめがまた言いました。
こういう資料をどれだけの人に毎回出状しているのだろうか。それだけの費用が余っているのであれば、保険料を少し低くしてほしい。
同感です。
国民年金基金の仕組みを見て、年金関係者は詐欺集団だなと確信しました。
ノンバンクもひどいですが、年金関係者も同じ穴の狢なのかもしれません。
お金は本当にこわいものです。
金融業が大きな割合を占める社会は健全にはなりようがないのかもしれません。
守銭奴の社会が広がっているのが恐ろしいです。

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2006/12/03

■自治会を通した情報ネットワーク

自治会の会長を引き受けて驚いたことの一つは回覧物の多さです。
市役所はもとより、警察や消防署や学校や社会福祉協議会などから、毎週2~3種類の印刷物が届きます。
中には福祉施設関係の通信販売のパンフレットの回覧を頼まれることもあります。
すべてを回覧しているときりがないので、会長の責任において回覧の是非を決めようかとも思いましたが、これが結構むずかしいのです。
住民の多様性を考えると回覧をやめる決断ができないのです。
しかし、この回覧の仕組みは素晴らしいですね。
2週間もあれば、ほぼすべての住民に告知ができるのです。
もっとも現在回覧されているもののほぼすべてが、読もうと思う気にはさせられないような印刷物です。行政の無駄な仕事を実感させられることも少なくありません。
しかし、この仕組みをうまく活用したら、凄いことができそうな気もします。
自治会やそれを通した情報ネットワークは大きな社会資源です。
もっと効果的な活用策はないものでしょうか。

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2006/10/09

■住民たちの意見を聴くという意味

長野県の知事が変わって1か月以上がたちましたが、
新聞情報によればどうもまた旧態依然の利権行政に戻っていってきているようです。
そうした状況を報告している朝日新聞の記事にこんなくだりがありました。

村井知事の売りは、周囲との協調と対話。 組織・団体とことごとく敵対した田中氏とは対照的に、村井知事は積極的に陳情を受ける。すでに20回を超えた。 知事室前には、田中県政前にはあった来客用の待合スペースも復活。

田中さんも村井さんも住民の声を一生懸命に聴こうとしていることにおいては、同じかもしれません。
問題は「住民」とは誰かです。

田中さんにとっての住民は額に汗して働いている納税者であり、
村井さんにとっての住民は納税者の税金を使う人たちなのです。

全く意味合いが違うのです。
正反対の内容になるでしょう。
ですから村井さんには陳情に来る人が後を絶たないわけです。
行政も税金を使う立場ですから、行政職員も仕事がやりやすくなるでしょう。
「住民参加」や「住民の声に耳を傾ける」などという言葉は全く意味のない言葉なのです。

しかしこれほど急速に元に戻るとは思ってもいませんでした。
ホームページからは田中県政時代の記事が削除されつつあるという記事もありましたが、
まさに歴史の改ざんにつながる話です。
企業ではよく行なわれる話ですが、
自治体行政でもそんなことが行なわれるのかとは驚きでした。
長野県政もまた、経済界のドンたちによって私物化(民営化)されているようです。

それにしても、知事や首長が変わると政策が一変するのはどう考えるべきでしょうか。
脱ダム宣言が否定されるのと滋賀県の新幹線駅建設が否定されるのと同じではないかといわれそうですが、話はそう簡単ではないように思います。

確かに否定の対象は「政策」です。
しかしその背後には、もっと大きな違いがあるように思います。
それは、その政策決定ないしは政策見直しが、だれの声によって行なわれたかです。
あるいは誰のために行なわれたか、といっても良いでしょう。
難しい言葉を使えば、ガバナンスの問題です。

ガバナンスの主役は、
額に汗して働いている納税者なのか、
納税者の税金を使う人たちなのか、
そのパラダイムがいま変わろうとしているのです。

「住民の声に耳を傾ける」などという言葉で議論していては、
そのパラダイムの違いに気づきません。

村井さんがこれほどまえに急いで否定したくなるほどの実績を残した田中知事のすごさを改めて評価したいと思います。

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2006/09/19

■過去にではなく未来に責任を持った取り組み

滋賀での新幹線新駅建設凍結の新知事の取り組みはさまざまな「自治体行政」の実態を明らかにしてきているようです。
たとえばある地主は坪15万円での買取を市に要請していましたが断られ続けてきたのに、不動屋さんに売却を頼んだらなぜか市に買ってもらえたそうです。数名の人が仲介人として間に入ったそうですが、頼む人によって売買が成立するわけです。
しかも、行政(正確にはたしか開発公社)が購入した価格は何と90万円だったのだそうです。
本人は15万円しかもらっていないようですから、仲介者はかなりの利益を受けたことになります。
これはテレビの報道特集で放映されていた話です。
しかし当事者が明確に発言されていましたから、事実無根ではない話でしょう。
テレビでは、10年以上、準備してきたのに、いまさら計画を白紙に戻すのは勝手すぎるという住民の発言も出てきましたが、知事(民意)が変わるということは政策が変わるということですから、こういう論理は成り立つはずがありません。
知事が民意と違うことをやりだしたら、知事を変えるべきです。
しかし日本ではお上は変えられないという潜在意識がみんなの頭の中に植え付けられているのです。

民意で知事が変わったのであれば、新しい民意でこそ動かねば選挙の意味はありません。
それにそれまでの経緯に責任を負わない新知事にはそれができるのです。
新知事が責任を持つのは過去にではなく、未来に、です。

過去にではなく、未来から考えると、
政策の評価は大きく変わるはずです。
滋賀県の人たちにはぜひとも長野県や岐阜県の二の舞をしてほしくないと思います。

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2006/08/14

■「ここまでやって来たのに、もったいない」

滋賀県の嘉田知事が公約の栗東駅建設中止で苦境に立たされているようです。
それに関連して、こんな記事が8月11日の朝日新聞に出ています。

知事選から5日後の7月7日。JR東海の松本正之社長は、名古屋市の本社応接室で国松善次・前知事と向かい合っていた。「もったいない、に負けた」と謝罪する国松氏を慰めつつ、選挙結果を皮肉った。「ここまでやって来たのに、凍結こそもったいない」。

JR東海の本質が垣間見えます。
「ここまでやって来たのに、凍結こそもったいない」。
まさに無駄遣いや悪徳商法者が語る常套句です。
そうやって、私たちは日本を浪費し続けてきたのです。
そこからそろそろ抜け出なければいけません。
頂上を目前にしても、状況によっては登頂をあきらめて引き返す勇気が登山家には必要とよくいわれますが、
まさに今はそういう時期なのです。
私たちにいま、必要なのは「勇気」です。

大切な農地を駅建設のために売却してしまった農民は複雑な気分でしょうが、
農協に騙され続けてきた歴史を思い出してもらえば、何が大切かはわかってもらえるでしょう。
駅建設をやめても、対応策はいくらでもあるはずです。
一緒になって真剣に考えれば、打開策はあるはずです。

しかし、今のような状況を中途半端に知らされた県民は、
「ここまでやって来たのに、凍結こそもったいない」と思い出すかもしれません。
事実、そういう人に私も出会いました。住民とは本当に身勝手です。
しかし、すべての原因は中途半端な情報の流通にあるような気がします。

ところで、長野県知事が変わります。
8月11日の信濃毎日ニュースに、県世論調査協会の支持率アンケート調査結果が出ています。

村井氏の支持率は72・2%。村井氏の知事選での得票率53・42%を上回る高い水準となった。不支持率は24・3%だった。

1週間もしないのに、何でこんなに支持率が高まったのでしょう。
大衆は信じられる存在ではないと思いたくなりますね。
長野人たちだけが、理念も人情もない家畜のような存在なのでしょうか。
そう思いたい気持ちもありますが、きっと長野県民に限った話ではないのでしょう。
これが人間の性かもしれません。

せっかくの田中県政の成果が消えていくのが、私にはとてつもなく「もったいない」気分がします。
人は失ってから、その価値に気づくことが少なくありませんが、そうならなければいいのですが。

しかし冷静に考えてみた時に、滋賀と長野の話はどう違うのでしょうか。
どこに価値観をおくかで、同じ事柄もまったく反対に見えてきます。
情報がどのくらい共有化されているかが、最大の問題だと思いますが、
まだまだ情報の非対称現象はほとんど是正されていないのかもしれません。

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2006/07/08

■地方分権反対論

私は「地方分権反対論者」です。
そういうと、誤解されてしまうのであまり言わないようにしていますが。
「官から民へ」も「行政のサービス機関化」も反対なのですが、これも誤解されてしまっていますし、言葉は難しいです。
市長との議論のために言葉の定義をしたペーパーを用意して行ったら、佐藤さんは勝手に言葉を定義してしまうと言われたことがありますが、一般的に使われているからといってあいまいな意味で使っていては、本当の議論はできません。
ですから私はソクラテスほどではありませんが、言葉への自分の定義は明確にしています。まあ説明する能力と姿勢が欠落しているので、独りよがりと怒られてしまうわけですが。

さて地方分権です。
地方分権とは中央の権限(権力)を地方に分権(委譲)していくことですから、中央集権体制でのひとつの手段です。
地方分権体制といえば、体制ですから手段ではありませんが、分権というからにはどこかに権限を分ける主体がありますし、分権する大本の権限の源泉が一まとめになってあることが前提のはずです。
集権があればこそ、分権が成り立ちます。
それに「地方」というのは「中央」を前提とした概念ですから、ここでも全体から発想する枠組みが基本にあります。
そう考えると、地域主権という言葉と地方分権は全く発想が逆のものであることがわかります。
地域主権は、「地域」に、分権された権限ではない、固有の権限があるという概念です。
しかも「地域」という概念は国家や政府と違って主体になりえない概念ですから、その権限の源泉は、おそらくその地域の住民であり、したがってその前提には住民主権があるはずです。
もっともここで国家と同じような虚構が入り込みます。
いわゆる有識者や有力者が、多くの場合は国家体制に依存した行政体や議員や法人役職者が「住民」を僭称します。
したがって注意しないと地方分権と同じようなものにもなりかねません。
組織原理が全く違うのですが、まだまだ現実には成立しにくいのが地域主権です。
しかし、NPO概念の広がりの中で、ようやく住民概念が実体化されつつあるように思います。
これに関してはこのブログやCWSコモンズで何回も書いていますが。

実は「もったいない」発想がどんどん希薄されたことにつなげようと書き出したのですが、なかなかつながりません。
テーマが大きすぎました。
要は、現場との距離と「もったいない発想」とは反比例するということを書くつもりだったのです。
たとえば、昨今の行政の無駄遣いは地方交付税に裏付けられた分権体制に起因するというような話です。
しかし、私の頭の中にある簡単な話も論理的に書いていくと膨大な文字が必要なことに時々気づかされます。
人間の頭とコンピューターは、やはり全くの別物ですね。

この話はまたつづきを書きます。

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2006/06/02

■基本を変えずに問題は解決するでしょうか

NHKの首都圏特報で医療制度が取り上げられていました。
ヒポクラテスの会にも関わっている栗橋病院の本田宏医師が、医師を代表して参加していました。本田さんはずっと前から日本の医療制度の問題を現場からしっかりと整理し、メッセージを送り続けている方です。
本田さんの話を統合医療研究会でお聞きし、とても共感し、以来、お付き合いが始まりました。私のホームページには、時々登場してくれていますが、5月のヒポクラテスの会のフォーラムでもとてもいいメッセージを出してくれました。

今回のテレビでも、本田さんは日本の医師数の絶対数不足を問題提起していました。しっかりしたデータに基づいてのメッセージなのですが、残念ながらその問題提起が番組では議論されることがありませんでした。残念でなりません。
本田さんは現在の日本の医療制度の問題の基本は医師数の不足と医療への財政支出の低さだと考えています。本田さんご自身がさまざまな統計を調べて客観的なデータでそれを論証しています。ご関心のある方は、ぜひ本田さんのホームページを見てください。
私も同感です。
その基本を変えなければ、問題は解決しません。
そうした問題はたくさんあります。
昨日から問題になっている路上違法駐車の問題もそのひとつです。駐車が組み込まれていない都市構造を変えずに、路上駐車を厳しく取り締まるのはいかにも安直です。
しかし、昨今の日本の問題解決策はそういう対症療法が多いように思います。
目先の解決策は話題にはなるでしょうが、事態は逆に深刻になることが多いことを、私たちは認識すべきではないかと思います。

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2006/05/29

■「民」の本質

国民年金保険料の不正免除・猶予手続きが問題になっています。
矢面に立たされているのが社会保険庁の村瀬長官。民である損保ジャパンからスカウトされた「期待の星」だった人です。
ちなみに、社会保険庁の最高顧問は、民の浜田広さんとNPOの世界にも関わっている堀田力さん。いずれも、社会的な評価の高い人です。まあ、最高顧問という名前からして、組織の隠れ蓑に使われる「走狗」でしかないわけですが。堀田さんにしても、それに勝てなかったということでしょうか。
やはり現場の体験のない人は、結局は組織を壊せないのかもしれません。

今回の事件で明らかになったのが、「民」の本質だと思いますが。いかがでしょうか。
まだ「民営化」信仰を捨てられないでしょうか。

損保ジャパンは、NPO支援でもとてもいいプログラムを展開している会社です。
ここにも「民」の本質があります。
だいたい、「社会貢献」などと自ら語っているような会社は信頼できません。本業で社会貢献していないことを明言しているわけですから。
「奉仕」とか「貢献」とか言う言葉は、自らが言うべき言葉ではありません。その見識もない経営者がいかに多いことでしょうか。
しかしそれが、日本の現在の「民」、つまり企業の実態なのです。
本当の民は「民営化」の「民」とは違うのです。
損保ジャパンの文化と経営観が、今回の事件をもたらしたと言い切って良いかどうかは迷いますが、加速させたことは間違いないでしょう。
日本の行政がこの10年、一生懸命に取り組んできた「経営発想」とはこの程度のことでしかありません。

しばらくブログを書く気にならなかったのですが、やはり書くことにしました。
書いているとだんだん腹立たしくなって、精神的に良くないのですが、書かない自己欺瞞感も高まってきましたので、ブログを再開します。
村瀬長官のような「犯罪者」を放置しておいては、社会はますます劣化するでしょうから。
まあ、多くの人は彼を犯罪者とは思わないでしょうね。そこが問題なのですが。

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2006/04/26

■告発のコストとプレゼント

耐震偽装事件の関係者が逮捕されだしました。
これほどの事件が、相変わらず「逮捕」予告に従って、しかも別件逮捕されるなどという現実に大きな違和感があります。私には茶番としか思えません。昨今の日本の防犯体制は崩壊しているのではないかと思いたくなるほどです。
要は、この分野にも責任逃れがはびこっているのでしょうか。
それは建築設計検査における責任放棄や責任逃れとつながっています。ですから、結局は、同じ穴の狢たちが犯罪を行い、犯罪を隠し、犯罪を裁いていると思えてなりません。権力は犯罪の巣窟ですから、それは当然のことかもしれませんが。
いずれにしろ、私には逮捕するほうも逮捕されるほうも、最近は同じに見えてしまいます。悪い言葉をつけば、みんな「雑魚」に見えてきます。巨悪は、その後ろで笑っているのでしょう。
まあ、しかし、そんなことを書いていると厭世気分がますます高まって、ブログをやめたくなりますし、人生もやめたくなりますので、話を換えましょう。
私が今回、考えさせられたのはイーホームズの藤田社長の逮捕とその会社の廃業決定です。
今回の偽装事件の発端は藤田さんの告発でした。雪印偽装牛肉を内部告発した西宮冷蔵の水野さんのことをどうしても思い出してしまいます。
昨夜のテレビでは、藤田さん逮捕への報道姿勢は局によってかなり違いました。
それもまた考えさせられました。
逮捕するほうもひどいですが、それを扱う報道機関もひどいものです。そしてその報道を見ている私たちもひどいのでしょう。寄って集って弱いものを蹴落とそうとしているのは、公園のホームレスを襲う高校生の姿そのものです。自らもまた、その仲間かと思うと嘔吐したい気分です。今日は仕事をする元気もなく、途中で帰宅してしまいました。こういう時に誰かに会うと、八つ当たりしかねません。はい。
それにしても告発者は冷たい目しか受けないようです。
犯罪を目撃しても、告発する人はこれからますます少なくなるでしょう。
内部告発に対する保護法ができていますが、これは保護法などとは言える代物ではなく、告発防止法のように思いますが、告発される可能性のある権力者たちがつくった法律ですから、それは当然のことです。
官のつくる法律は、あくまでも統治のためのものです。勘違いしてはいけません。

それにしても、告発のコストは高いものです。
経済的にも社会的にも、ほとんどすべてのものを失うことがほとんどかもしれません。

というのが、たぶん一般の人の発想でしょう。
昨夜、テレビで、筑紫哲也さんが藤田社長にインタビューしていましたが、筑紫さんの発想はまさにその典型でした。筑紫さんの思いが伝わってくるだけに、とても残念で、退屈なインタビューでした。

しかし、発想を変えれば、世界は変わってきます。
告発して多くのものを失った後に残るものは何なのでしょうか。
そこにこそ生きる意味と価値があるはずです。
藤田さんが、それをしっかりと手に入れることを祈っています。

少し性格は違いますが、私は47歳で会社を辞めました。
失ったものと得たものとのバランスは大きく黒字です。
人は何かを失うと、必ず何かを得るものです。
失ったものを基準に考えるのではなく、得たものを基準に考えると、世界はいつも輝いて見えてきます。
発想を変えましょう。

モバイルが壊れたために、ブログを書く時間がなくなり、それを契機にブログを休んでいましたが、藤田さんの発言に元気付けられて再開します。

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2006/03/13

■頭でわかっていてもなかなか自分ではできないものです

喧嘩の始め方と収め方について、数日前に書き込みましたが、私自身は最近、無様な始め方と収め方をする体験をしてしまいました。恥ずかしい限りです。
頭でわかっていても、なかなかうまくいかないものです。
私の最大の欠陥は「感情的」になると自分を抑えられなくなるのです。それに自分の感情を隠す事が全くできない人間です。
抑えられないのは「短時間」で、すぐに回復できるのですが、家族からは「切れてしまう」とよく指摘されています。
きっと何かが欠落しているのでしょう。
「社会人」として、あるいは一人前の大人としては、失格なのかもしれません。
しかし、そう思いながらも、開き直りたくなる気分はあるのです。
おかしなことをおかしいと思いながらも見過ごしていたり、陰では批判しながらその時には何も言わなかったり、オブラートに包んだような「ソフィストケート」された良識的な表現をしたり、そういう大人が多すぎるのが、今のようなおかしな社会をつくっているような気がするのです。感情はもっと素直に出してもいいのではないか。
裸の王様の話のように、子どもの純粋な言動を「社会化」することが社会人になることではないように思うのです。

今回の「喧嘩」(正確には論争ですが)の相手は私の住んでいる我孫子市の市長です。
いろいろと「前史」があるのですが、それを一切省略すれば、それまでの経緯に「切れてしまった私」が「暴言」を吐いたのです。
そして市長から「佐藤さんの発言は普通の住民の発言ではない」といわれました。録音をとっていないので不正確かもしれません。
しかし、この発言に私は恐ろしさを感じました。
「普通の住民」とは何なのでしょうか。
もの言わぬ、ものわかりのいい住民が「普通の住民」なのでしょうか。
そうでないことを願いたいです。
私はよほど社会に適合していないのかもしれません。
まあもしかしたらそうかなという自覚もないわけではありません。
困ったものです。

岩国では住民が声を上げましたが、お上は聴く耳を持たないようです。
どこか似ているような体験だなとつい思ってしまいました。
我孫子市の住民自治はまだまだ遠い先なのかもしれません。

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2006/02/23

■国の主張と住民の主張

首都圏中央連絡自動車道(圏央道)建設のため、東京都あきる野市の土地を収用された住民たちが起こしていた、事業認定取消し訴訟の第2審は、住民側の逆転敗訴になりました。
問題となったのはあきる野インターチェンジ(IC)の開設で、地域住民たちは「隣接する日の出ICから約2キロしか離れていない場所に新たなICをつくる必要性はない」と訴え、一審ではその主張がほぼ認められていました。
環境面でも費用面でも、私自身は無駄な公共投資だと思いますが、情報不足なのと利用者でも住民でもないのであまり評価力はありません。

しかし、ニュースを聞いていて気になることがありました。
NHKのニュースによれば、国土交通省はこの判決に対して、「国の主張が認められた」とコメントしています。
「国の主張」とは何でしょうか。「国民の主張」という意味でしょうか。
利害関係の最も強い地域住民は、その主張を認められなかったわけですが、「住民の主張」と「国の主張」の関係は対立する関係にあるわけです。
この問題は沖縄の米軍基地の立地問題にもつながっています。

以前も書きましたが、「住民」と「市民」は違うのですが、そうした言語操作によって、さまざまなおかしなことが行われてきました。
「住民」の上位に「市民」が置かれ、そのまた上位に「国民」が置かれているのでしょうか。
これも何回も書いていますが、「国民」は抽象概念であって実体概念ではありませんから、容易に操作できる言葉です。
「国民のため」などという言葉には実体を与えることは不可能です。
国民の価値観が同一であれば可能ですが、そんなことはありえないでしょう。
それはロボットか家畜の世界でしかありえません。

地域が特定された「住民」であれば、かなり実体がつくれます。
もちろんあきる野IC周辺の住民にも賛成者はいるでしょう。
しかし、顔の見える人たちであれば、利害を束ねていくことは可能なはずです。
そうした表情の見える住民たちの生活に立脚した意思決定が基礎にならない限り、総論としての国民主権は実現できないでしょう。
逆にそうした住民主役の発想をベースにしてこそ、「国の主張」ということばが意味を持ってきます。
「住民の主張」と対立する「国の主張」は、国民を被統治者として位置づけた「お上の主張」でしかありません。

こうした関係の中にこそ、国家というものの本質が垣間見えてきます。
まあ、そもそも「官民」という発想の枠組みはそういうことです。
「国の主張」などという前に、もう一度、憲法を読んでほしいと思います。
コラテラルダメッジは、日本でもいくらでも起こっているのです。


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2006/02/17

■社会人基礎力って、ご存知ですか

昨日、ある委員会で経済産業省の人が「社会人基礎力に関する研究会」の中間とりまとめの報告をしてくれました。
「社会人基礎力」。
冗談だろうと思うような言葉ですが、昨年から真面目な研究会で議論されているようです。

同報告書によれば、「我が国経済を担う産業人材の確保・育成の観点から、「社会人基礎力」の養成、企業の人材確保・育成、企業や若者の双方に納得感のある就職プロセスの在り方等について検討するため、産業界、教育界、学界などからの参加を得て」、昨年の夏に研究会が発足したのだそうです。
名簿を見たら、私の知り合いの名前も出てきました。

社会人という言葉からして、そもそもおかしな言葉です。
皆さんはどういう定義をしますか。
私は昔、学校を卒業して会社に入ることを「社会人」になると理解していました。
しかし、何年かの会社経験からして、会社に入るのは社会人になることではなく、会社人になることだと気づきました。
遅まきながら、会社生活25年目に会社を離脱し、「社会人」になることを決意しました。
そのあたりは当時の雑誌に書いた「会社を辞めて社会に入る」をお読みください。
社会人とは実に多義的な言葉ですので、安直に社会人という言葉を使う人を私は信頼できません。

そして「基礎力」。
社会人になるためには基礎力がないとだめなのです。
社会は単なる個人個人で構成されているのではなく、ある能力がないと参加できない組織なのでしょうか。
しかし、まあ、そこまでひねくれることなく、素直に受け止めれば、なんとなく分かったような気にはなれます。
確かに社会を混乱させるような人が多すぎることは事実です。
それに超多忙な企業人のように、身近な生活基盤である地域社会にも接点の少ない人も少なくありません。
いや、それどころか一番基礎的な家族とのつながりさえ維持できない人も増えています。

と考えていくと、社会人基礎力はもしかしたら、最近の企業人にこそ求められるような気がします。
耐震偽装に関わった人たちや東横インの社員はどうだったのでしょうか。
報告書の定義によれば、
社会人基礎力とは「組織や地域社会の中で多様な人々とともに仕事を行っていく上で必要な基礎的な能力」だそうです。
なるほど、もっと多様な社会の価値観を理解し受容することが必要だということに漸く気づいたかと思ったのですが、研究会の発足の理由を読み直すと、「産業人材の確保・育成の観点」とあります。

社会人基礎力が欠落しているのはどうも今の企業人ではなくて、若者たちと考えられているようです。
どうも私の認識とは全く違う前提にたっての議論のようです。
私は政治家や財界人こそが、社会的基礎力を欠いているとばかり思っていたのですが、
どうもそうではないようです。

もしそうであれば、私自身もまた、社会的基礎力が欠落している人の中にはいっているのでしょうね。
報告書をもう一度よく読んで、基礎力を高める努力をしなければいけません。
いやはや困ったものです。

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2005/11/14

■中島こうせいさんが恵庭市の市長になりました

このブログでも紹介したことのある恵庭市の市長選挙が昨日行われました。
新人の中島さんが現職を破り、当選しました。
接戦でした。

私にとっては、全く縁も無い自治体の市長選挙ですが、現職の姿勢に対して異論をもって突然立候補した中島さんは私の知り合いでした。
中島さんの人柄と考えを少しだけ知っている者としては、その決断に敬意を持ちました。批判する側から当事者になることは、とても大きな決断を必要とします。
未来へのしっかりしたビジョンと自らの生活をかなり犠牲にしなければできない決断です。
もっとも最近の首長は、そうしたビジョンも志も無い人が圧倒的に多いように思います。国政への失望に加えて、最近は自治体の首長にも裏切られることが多く、かなり滅入っていましたが、中島さんの当選にはとても元気付けられました。
中島さんのことですから、きっと不器用な選挙を展開したはずです。
にもかかわらず、恵庭市のような、おそらくさまざまな「しがらみ」のある地域で、現職(中島さんと同年です)を破ったことの意味は大きいです。

新しい物語の始まりが楽しみです。
もしお時間があれば、中島さんのマニフェストブログをご覧ください。

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2005/11/07

■地方分権で地域の主体性は高まってきているか

朝日新聞社が行った全国47人の知事へのアンケート調査によると、地方分権を進める三位一体改革の評価はあまり芳しくありません。改革を評価しているのは、滋賀、大分、兵庫の3知事だけです。地域の実情に合わせた施策が展開できるようになったかという質問に、自治体の裁量が広がったと答えた知事はゼロだったそうです。「義務的な経費の見直しがほとんど」「国の法令等による寄生が多すぎて裁量が発揮できない」というのが多かった理由のようです。
ある意味で、これは自らの力量の無さの表現でもあるわけですが、制度的にも問題があると思わざるをえません。
条件付きの権限委譲が、まだ発想の根底にあるのです。そこが「地方分権」の限界であり、地域主権とは似て非なる所以ですが、「責任を転嫁して問題から逃げる」のは管理者の常套手段です。いまの地方分権の本質を感じさせます。兵庫県の知事は「シャウプ勧告以来初の権限委譲」と評価していますが、大切なのは理念と実際です。

私は一時期、いくつかの自治体に関わらせてもらいましたが、新しい住民自治や地域主権の息吹を感じたことがありました。しかし、その動きはこの数年、急速に後退しているように思えてなりません。自治体にリーダーがいなくなったのです。管理者は相変わらず多いですが。

当事者から評価されない改革って、何でしょうか。
改革は誰のためのものか、改革を議論する時に常に念頭に置かねばならないテーマです。それはビジョンとミッションに関わってきます。
しかし、ビジョンとミッションのない、ノー・ロングタームの取り組みが多すぎるような気がしてなりません。私たちの生活に関わる問題ですから、もっと関心を持たなければいけないのですが、相手が大きすぎて1住民にはなかなか歯が立たない問題です。
地方分権や市町村合併に付けが回ってくるのが心配です。

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2005/10/28

■住民たちが行政を使い込む時代が始まりそうです

滋賀県の琵琶湖の内湖に、西の湖というのがあります。そこで活動している丹波道明さんは私の東レ時代の最初の上司です。私より一回り上ですが、会社を辞めた後、地元に戻り、そこで実に楽しそうに地域活動をされています。あまりに楽しそうなので、昨年、寄せてもらいました。
その丹波さんから「西の湖美術館構想」なるものが送られてきました。
その内容はまたCWSコモンズのほうで紹介させてもらいますが、この構想は、丹波さんたちが呼びかけて設立した「西の湖保全自治連絡協議会」という住民グループで作り上げたものです。
丹波さんはその組織の事務局長ですが、自分たちのまとめた「西の湖美術館構想」を、西の湖のある近江八幡市と安土町の自治会長、首長や役場の関連部署、地域振興局などの行政に検討を依頼する書状を出したのです。
その構想(計画)案は、私も読ませてもらいましたが、A4版で16ページにもわたるもので、ビジョンも具体性もある実践的な計画です。しかも、そこに住民たちのざわめきが聴こえるような生き生きしたものです。丹波さんからはちょっと褒めすぎだぞ、と言われましたが、私にはそう感じました。

私が一番感激したのは、住民たちがまとめた計画を行政や自治会の責任者に送って、期限を明示して意見を求めたことです。
行政のパブリックコメントなどの形だけのものではありません。送り状には匿名の「役職名」ではなく個人名が明記されていますし、丹波さんのことですから、きっと意見の督促もすることでしょう。
ベクトルが逆転してきたのです。私が目指すスタイルです。当然ですが、ベクトルが逆転すると行政の縦割り組織や自治会の地域割り組織の限界が克服できます。
この手紙を見て、私が感激した理由がわかってもらえるでしょうか。

まあ、今日はこれだけの話です。
しかしそこに含意されるとても大きな予兆を感じてもらえればうれしいです。

ちなみに、私は地元で、ある問題に関連して求められた「意見書」を提出しました。1か月半経ちましたが、返事が来ません。来ないだけではなく、意見をだしたにも関わらず事態がそのまま進んでいます。まだですかと聞いたら、10月28日以降に返事をくれるそうです。
意見の提出先は、行政と住民と社会福祉協議会の三者で作っているある委員会です。市長もメンバーです。我孫子市は、市民参加では先進的だと言われたこともある自治体です。担当課長は、住民視点に立ってしっかりと考えてくれている人ですし、市長も市民派と言われています。これが行政、もしくは市民参加の委員会の実態です。
なぜそうなるのか。答えは比較的簡単です。仕組みが悪いのです。

住民が動かなければいけない時代が来たのです。市民ではなく、住民です。
「西の湖美術館構想」の動きは、そのモデルになるかもしれません。
これからの展開がとても気になります。

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2005/08/24

■警察の民事不介入原則と共謀罪 

また隣人騒音事件です。一宮市の一人住まいの女性が、朝の4時かラジオを大きくかけ続け、フライパンなどをたたき続ける行動を10年にわたって行っていることがテレビで放映されていました。警察も対処できないようです。その背後には「民事不介入の原則」があります。警察は刑事事件でないと介入してこないのです。
これは一見合理的に見えて、全く無意味な原則です。なぜなら「民事事件」と「刑事事件」は連続的であるばかりか重なっていることが多いからです。桶川市ストーカー殺人事件はその典型的な事例ですが、これに限らずすべての刑事事件は民事から出発します。
ですから民事不介入の原則は、解釈によってはいか様にも対応できる多義性をもっていますから、管理発想の下に成り立つ思想なのです。いいかえれば、よくある「無意味な概念」です。
警察や行政は、一宮市の常軌を外した一住民の10年間の暴挙をとめることができなかったわけですが、これは民事ではなく明らかに刑事事件の要件を構成しています。しかし、管理発想からは放置しておいてもいい事件だったのでしょう。
たとえば、これも記憶に新しいですが、イラク派遣反対のチラシを住宅のポストに入れただけで逮捕された事件がありました。10年間の暴挙と比べて、どちらが犯罪性が高いでしょうか。誰にでもわかる話です。しかし、権力者の判断基準は違うのです。警察がもし、生活者の視点で行動しているのであれば、逆に動くはずですが、残念ながら今の警察はそうではないようです。
ところで、一宮市の事件ですが、皆さんが被害者になったらどうしますか。公的制裁が加えられないと言う前提です。我慢しますか。転居しますか。あるいはその人に私的制裁を加えますか。
私は転居しそうです。我慢はできません。また私的制裁となると、いささか自制力に自信がありませんので、それこそ刑事事件に発展させてしまいそうです。まあ警察の思う壺かもしれません。
しかし、きっともうひとつの道があります。共的制裁です。つまりコモンズ発想です。
被害者がみんなで行動を起こすのが一番でしょう。これは、しかし誰でもが考えることです。当然、一宮市の住人たちも取り組んだはずです。にもかかわらず、事態は10年も続いています。どこかに問題があるのです。つまり法体系に欠陥があるのです。その出発点が、民事不介入という枠組みであることはいうまでもありません。
では、みなさんが加害者だったらどうでしょうか。同じような暴挙を繰り返していた奈良の女性は逮捕されましたが、逮捕されるとわかったらやめるでしょうか。たぶんやめないでしょうね。そうした暴挙を続ける原因が解決されないからです。ここでもコモンズ発想が重要になってきます。

ところで、こうした状況の中で、共謀罪が議論されています。
どう考えても納得できません。治安問題はもっと生活の視点で真面目に考えていくべきです。郵政問題のような「瑣末な問題」とは違って、未来を決める重要課題なのですが、どうも世間の常識はそうはなっていないようです。

一宮市の女性はまもなく逮捕されるでしょう。テレビでここまで話題が広がると、さすがの警察も少しは真面目に動き出すでしょうから。しかし、そうした対症療法的な対応でいいのでしょうか。治安は管理できないものです。
民事不介入の原則は、きちんと再吟味すべきです。

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2005/07/30

■アスベスト労災認定事業所の発表姿勢 

厚生労働省がアスベスト労災認定事業所234箇所を発表しました。
但し、具体的な所在地は発表されませんでした。厚生労働省の犯罪体質は変わっていません。
組織の場合、犯罪は事実を隠すことから始まります。
これまでも何回も繰り返してきたことです。そして何と多くの死者を出してきたことでしょう。しかも、誰もほとんど責任を取らないままできています。
所在地を伏せたのは「風評被害」などを懸念したためと朝日新聞には書かれています。
風評被害とは事実を中途半端に隠すことから始まります。少しは現実に目を向けてほしいです。
アメリカの危機管理やコミュニケーションの出発点は常にフランクネスであり、事実を積極的に発信することです。
日本のリスクマネジメントコンサルタントは、それとは逆の指導をしているような気がしてなりません。
悪質なコンサルタントに、日本の組織は食い荒らされているのかもしれません。
同じ職種の者として反省しなければいけませんが、寂しいことです。

今回の事件は、フィブリノゲン納入先公表の時を思い出させます

厚生労働省には情報参謀はいないのでしょうか。
まあ癒着している情報コンサルタントにだまされているのかもしれませんが、
風評被害のことくらいは自分でも少しは勉強してほしいものです。
すぐにでも詳細の所在地を発表し、対策や事実収集に取り組むべきだと思います。

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2005/07/04

■住民と市民 

一昨日、地元の住民の集まりで、「市民」と「住民」という言葉が少し問題になりました。ある「市民活動」をしている人が「住民は何もわかっていない」と言うようなニュアンスの発言をしたのです。
私は「市民」ということばよりも「住民」という言葉にリアリティを感じます。自分の住んでいる場所をしっかりと持ち、しっかりした住民活動をしていてこその市民活動だと思っているからです。そういう意味では、まだ私自身の住民度は高くはありません。
しかし、美野里町や山形市で少しだけ「まちづくり」に関わった体験からいえば、一番しっかりした取り組みをしているのは「住民」です。

NPOやいわゆる市民活動にも、ささやかに関わっていますが、私の体験では、活動の真ん中に問題の当事者もしくはそれに近い人がいるかどうかで活動のリアリティや発展性に違いがあるような気がします。今、全国の100近い広義のNPOと付き合いがありますが、元気な活動はほぼ例外なく当事者的な人がど真ん中にいます。つまり私の感覚では「住民主導」なのです。決して「市民主導」ではないのです。
私がまちづくりに関心を持ったのは30年以上前ですが、当時は「住民」ではなく「市民」にならなければいけないという言われ方がされていました。私もそう思ってきました。
しかし、17年前に会社を辞めて、少しずつまちづくりに関わりだすようになってから、大切なのは市民感覚ではなく、住民感覚だと思うようになったのです。

今日、郵政民営化特別委員会の議論をラジオで聴いたり、テレビで見たりしていました。
なぜか「住民」と「市民」のことを思い出しました。
日本の政治は市民がやっていることに問題があるのではないかと思ったのです。
住民の政治を根底において、そこから積み上げていくような政治の仕組みがあれば、今のような空疎な議論はなくなるでしょう。
政治だけではありません。経済も、です。

住民の知恵と汗の効用を見直すことが必要かもしれません。
今年は私も住民度を高めるつもりです。

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2005/06/12

■拉致問題の構図 

テレビで見たのですが、最近、拉致被害者と認定された人の家族が次のような趣旨の話をしていました。

私たちは一生懸命働いて、国家に税金を納めてきました。でも国は動いてくれません。

国が「拉致被害者」と認定するだけでも事態は変わるのですが、多くの場合、国の認定は極めて恣意的であり、しかも意図的なのです。
水俣病もそうですし、薬害被害者もそうです。古くからある「分離による支配」の意図が感じられます。最近は裁判にもそんな風潮を感じます。

一生懸命に働いて税金を納めてきたのは何のためなのでしょうか。そういう税金でまかなわれている国は、どういう時に動いてくれるのでしょうか。いざという時に親身になって動いてくれない国に、どうして税金を払わなければいけないのか、そんなことさえ考えてしまうほど、怒りと哀しさを感ずる発言でした。

拉致事件は複雑な問題です。しかし複雑さに惑わされることなく、政治的に判断することなく、こうした家族の素朴な声にどう応えていくかが大切なように思います。

北朝鮮による日本人拉致事件は、犯罪者の不本意な事件ではありません。
北朝鮮という国による外交政策の一環です。日本のイラク派兵とどこが違うのかと考え出すと、私はわからなくなります。
もっとわかりやすくいえば、かつての日本国が朝鮮人や中国人を強制労働させるために日本に強制連行したのは、間違いなく拉致です。同じことが、国家によって行われていたのです。しかも、強制労働どころか、戦争にまで無理やり駆り出されて、戦死したら靖国に合祀されるようなことまで日本国は行っているのです。
そうしたことを考えるとどう対処していいかわからなくなってしまいそうですが、問題は簡単です。

組織発想ではなく個人発想で考え、対立軸を組織(制度)対人間(暮らし)に置いて整理すると問題の本質が見えてきます。
つまり、日本や北朝鮮が犯罪を起しているのではなく、国家や権力機構が犯罪を起しているのです。つまり国家は暴力機構なのです。その暴力機構にも、本来は仁義がありました。それがたぶん戦時や困窮の時代には失われるのでしょう。あるいは品格のない強欲者が権力の座についてしまうと暴力的な側面が暴走するのでしょう。今の北朝鮮と日本は、まさにそうした状況なのだろうと思います。

拉致家族を守る会のメッセージが、どこを向いているのかをしっかりと認識しておく必要があるでしょう。北朝鮮の人たちは、仲間なのです。在日朝鮮人へのいやがらせが起こっているようですが、そういう人は国家の走狗です。拉致の実行犯と同じことをしていることに気づいてほしいものです。

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2005/06/11

■リサイクル疑惑事件に対する朝霞市の反応 

今日の日テレの報道特捜プロジェクトで、朝霞市のプラスチックリサイクル業者の不正疑惑が取り上げられました。この問題が取り上げられるのは、4月23日、5月14日に続いて、3回目です。内容に関しては、次のブログが丁寧に紹介してくれています。
http://blog.goo.ne.jp/samidare2005/d/20050611

私は1回目も見たのですが、市役所はきちんと対応したのだろうと思っていました。それほど内容の問題点は明白でした。朝霞市役所にとっては、とてもありがたい問題指摘だったはずだからです。
しかし今日の報道を見て、唖然としました。市役所は事実を否定し、日テレに抗議文を送ったのです。抗議文は朝霞市のホームページに書かれています。

その内容は、常識では考えられないようなひどいものです。朝霞市民は完全に馬鹿にされていますね。私が市民ならすぐに市長に抗議に行きます。盗人猛々しいとはこのことです。こんな人が市長になれる社会は、やはりおかしいです。市長の背景を疑いたくなります。いや職員が黒幕かもしれませんが。
私はテレビの報道番組には不信感を持っていますし、この番組の指摘が絶対に正しいなどとも思っていません。大切なのは、そうした問題指摘に当事者がどう対応するかです。危機管理とは、そういうことです。
朝霞市長と朝霞市役所の対応は、見事に自らの「本性」を露呈しました。つまり共犯者と思われても仕方がないようなコメントを出しているのです。そして、それに気づかないほど無知になっているのです。いや、驕りでしょうか。

しかし、こんなことはそう驚くことでもないのかもしれません。
大阪市での事例は有名ですが、行政では日常茶飯事なのかもしれません。なにしろ小役人や小賢しい首長が真似をするモデルは限りなくたくさんあるからです。そして、問題指摘されても頬かむりしていれば、いつか忘れられることを彼らは知っているのです。
今回の番組では、朝霞市の話の前に、失業保険金の無駄遣いとして有名な雇用促進住宅の話が取り上げられましたが、問題は明確で早期廃止が閣議決定されたにもかかわらず、これから30年かけて廃止していくとの事です。誰にも迷惑を与えることなく、3年で廃止できると思いますが、その10年をかけることを彼らは決めたのです。閣議の権威もなくなりましたが、それを咎めないのは内閣もまた共犯者だからです。
国民を馬鹿にしている首相、小役人に馬鹿にされている首相、住民たちに馬鹿にされている小役人、不幸なトライアングルから抜け出さなければいけません。

みなさんは、自分の所属している組織のボスや住んでいるところの首長を尊敬していますか。
それとも馬鹿にしていますか。

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2005/05/13

■アウトプットとアウトカム

行政評価の動きの中で、「アウトプット」と「アウトカム」という言葉が広がっています。たとえば、文化ホールの建設はアウトプットです。文化ホールを建設することで、豊かな文化を楽しみ育む暮らしが地域の人たちに広がっていくことがアウトカムです。アウトプットよりも。アウトカムが大切だというのが、行政評価や福祉評価の基本姿勢ですが、現実には私が知る限り、ほとんどそれは言葉遊びに終わっています。アウトカムは評価が難しいばかりでなく、価値観が絡んでいるからです。日本の行政は、ほとんどが没価値的です。いや、企業もそうかもしれません。

アウトプットとアウトカムは、価値観によって対立することがあります。高齢社会に向けて、寝たきり老人の収容施設を増やすというアウトプットは、寝たきり老人をつくらないというアウトカムを阻害することもあります。障害を持つ人にみんなが手を貸しすぎる仕組みをアウトプットすると、逆に自立というアウトカムは難しくなります。
アウトプットとアウトカムをつなげていくためには、現場からの発想、個人からの発想を起点にしなければいけません。

アウトプットとアウトカムの視点で考えると、世界の実相はかなり見えてきます。
郵政民営化、イラク復興、リサイクル法、障害者自立支援法、北朝鮮への経済制裁、産業再生機構、司法改革、いずれもマスコミで語られていることの多くは、アウトプット志向のような気がします。アウトカムから考えると風景は変わってくるでしょう。そして、「民営化」「復興」「自立支援」「制裁」「再生」「改革」などの言葉の多義性が見えてくるような気がします。大切なのは、その中身であり、目指すアウトカムです。

ところで、執行猶予中だった人物が起こした少女連続監禁事件が話題になっていますが、裁判のアウトカムとアウトプットは何でしょうか。


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2005/02/24

■次世代育成行動計画が策定されていることをご存知ですか 

日曜日に、今、自治体で取り組まれている「子ども・子育て応援プラン、次世代育成行動計画」をテーマにした、子育ち学フォーラムに参加しました。

子育て分野で活動をしている人以外は、あまり知らないかもしれませんが、今年度中に自治体はこの計画を策定しなければいけないのです。
策定に当たっては、住民の意見を反映させることがうたわれています。

ところが、その策定の実態を知ると「またか」と思うほど、形だけのものになっています。
貴重な税金が、外部の安直なコンサルタント会社に流れているケースも少なくありません。
こういう状況はまだほとんど直っていません。
詳しくはCWSコモンズのホームページなどで紹介しますが、そこで感じたことをここでも書いておきたいと思います。
どうもコモンズよりもこのブログのほうが読者が多いようですので。

各地でこの計画に関わっている4人の方から、生々しい報告がありましたが、その基調にあるのは、形だけの計画づくりへの疑問です。
次世代の子どもたちの行動計画を実際には4~5か月で策定しなければいけないなどというのは、霞ヶ関の机上論者の発想です。それにみんな振り回されているわけです。
住民意見の聴取は、アリバイ工作的に行われていることも少なくありませんし、計画の前提になる意見調査もコンサルタント会社の通り一遍のものも少なくないようです。

また計画の内容も、「・・・を検討する」「・・・につとめる」「・・・の整備を進める」という文言が多く、これが計画といえるのかという疑問も出されました。
計画をつくっても市町村合併でどうなるのか不安だという意見も多かったです。

最後に私も少し話させてもらいましたが、そこで、計画は住民にとってのツールになること、行政の合併などは気にせずに、住民生活の視点から行政計画とは別の自分たちの計画と活動を広げていくことを提案しました。

たしかに行政の計画は抽象的ですが、もし「検討する」「つとめる」と明記されていれば、それを材料に行政に実際の検討を働きかけ、具体的な行動を引き出せばいいのです。
行政計画は行政の拠り所と位置づけられがちですが、住民と行政とのコミュニケーションメディアなのです。つまり、住民が行政に働きかけていく材料なのです。その発想の転換を行えば、どんな計画も活かせるはずです。

市町村合併は気にすることはありません。
市町村合併とは全く別の次元で私たちの生活圏は形成されています。
もしそうであれば、合併論議などは気にしないでいいのです。
それとは別に住民主役の計画や実践を進めればいいのです。

それに次世代育成までを行政に依存していたら、また戦争に借り出される子どもたちを育てることにもなりかねません。
せめて次世代はお上の助けを借りずに、自分たちが中心になって育てなければいけません。

子どもの問題は、実は大人の生き方の問題でもあります。
次世代育成などという言葉には違和感を持ちますが、もっとみんなが関心を持つべきテーマです。
ぜひとも自分の自治体ではどんな取り組みがなされているかを気にしてもらえればうれしいです。

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2005/01/30

■全国総合開発計画(全総)制度の廃止  

「国土交通省は戦後の開発行政の指針となってきた全国総合開発計画(全総)を廃止する方針を固め、06年にも始める新たな国土利用計画の概要をまとめた」そして、「今後の社会資本の整備は、既存施設・設備の有効活用を掲げ、脱開発型に改める」と朝日新聞が報じています。

新たな国土利用計画なるものが、これまでの全総とどう違うのか、またそれを支える「有識者」たちはどういう人なのかをもう少し見極めないといけませんが、方向は歓迎します。

全体から考えていく時代は終わり、個々の現場や個人の生活から考えていく時代へと換わらなければならない時代になったという認識を持っている私は、「国土を利用する人たちのために」と言う統治者の視点ではなく、「生活を豊かにするために」という住民の視点で、社会や国土のビジョンは描かれなければいけないと考えます。もちろん生活を豊かにすることの根底には、宮澤賢治的な豊かな想像力が必要ですが。

自分の生活しか考えない「住民エゴ」に任せていたら、それこそ国土はめちゃくちゃになると反論する人がいるかもしれません。そういう人には、そういう判断から、自分の生活を離れて客観的に判断できる「有識者」や「専門家」に任せていた、現在の結果はどうですか、と問いただせばいいだけの話です。
生活から発想するということは、生活者こそが有識者で専門家であるということです

しかし、都市計画マスタープランや地域福祉計画など、これからの行政計画は住民と一緒に創る方針が打ち出されていますが、寡聞にして、そうした主旨がきちんと守られた事例をほとんど知りません。今回はどうなるでしょうか。たとえば、NPOの広がりなど、社会状況の変化を踏まえた展開を期待したいです。

道路も新幹線も決して悪いわけではなく、公共施設も重要です。
しかし、それらが住民生活に立脚していればこそ、です。
昨今の政治議論は、ほとんどが問題の立て方を間違えていると私は思っています。
これからの社会資本(ソーシャル・キャピタル)は、開発とかそういう話ではなく、人と人との絆であり、信頼関係です。ものを壊す方向で豊かさを追求してきた発想を反転させなければいけません。

そういう理念がきちんと踏まえられているか、どういう人がこの方針を担っていくかが気になっています。しかし、これまでの全総に関わった人が絡まなければきっといい方向に動き出すでしょう。


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2004/12/25

■市町村合併の効果 

霞ヶ関主導の市町村合併がさまざまな歪みを起こしています。
みなさんの市町村ではどうなっていますか。

私が関わらせていただいている市町村はほとんどみんな合併に取り組んでいますが、すべて問題を起こしています。
なぜでしょうか。
それは住民不在だからです。
組織を管理している人たちが、責任逃れのために合併に取り組んでいるのがほとんどのように思います。
都市銀行の合併と同じです。
銀行の場合、すべてが合併して最後にそれが倒産すれば問題は解決しますが(銀行機能はもうじき不要になるでしょう)、自治体の場合はそうはいきません。

合併問題のために、この数年、多くの自治体の職員は無駄な仕事に取り組まされています。そして、合併が頓挫しそうになると職員の仕事は停滞します。そんな現実をいくつか見ています。本当に無駄な話です。
この数年、私が関わらせていただいている市町村の多くの職員はまじめに仕事をしているようには思えません。

市町村合併は一体どういう効果を発揮するのでしょうか。不思議なことに、そうした議論をする人がいないのです。
どなたか合併の効用を教えてくれませんか。
もちろん住民にとっての効用です。

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2004/05/29

■流れが止まらないことへの怒り 

今週はついに「怒り週間」になってしまいました。
最後もまた「怒り」です。

わかっていても流れが止められない、
こうしたことが多いのが気になります。

国民の税金を注ぎ込んでいる大銀行の役員の報酬の報道がありました。
3,000万円近くでした。
これを高いと見るかどうかは様々でしょうが、やはり割り切れません。
自分で稼いだお金であれば、1億円でもいいですが、
国民の税金に依存しながら、相変わらず経営を放棄している経営者が、
国民の平均年収より多いのは納得し兼ねます。

年金制度を子どもたちに教えるための副読本が作られています。
CDも作られています。
それを使って社会保険庁のOBが学校に教えに行くそうです。
それらの予算が2億円以上です。
そして、それらはほとんどが使われていないそうです。
今朝のテレビで、内部告発があったと報道していました。
無駄遣いは一向に直っていないのです。

ついでいえば、
日本の行政のコミュニケーション活動は全くコスト・パフォーマンス意識がありません。
役場に行くとたくさんの、おそらく誰も見ないような立派な資料がカウンターに山積みされています。昨日も美野里町の役場に行ってきましたが、相変わらずたくさん積まれています。それはいずれも市町村ではなく、国や県から送られてくるのです。市町村はそれを受け取らなければいいと思うのですが、そんなことのできる市町村はないでしょう。
資源の無駄や空間の無駄、人件費の無駄。馬鹿げたことです。
行政の無駄遣いは、さらに加速されています。
市町村合併にまつわる無駄遣いはすごいものです。

ところで、下山さんからテレビに関するコメントがありました。
内部告発者にテレビを開放するのはどうでしょうか。
内部告発24時間テレビというのをやったら、そしてできれば毎月1回やったら、テレビの存在価値も回復できるかもしれません。
スポンサー依存のテレビ局では無理な気もしますが、考えてみる価値はありそうです。

ところで、小川さんはとても残念でした。
心より冥福をお祈りいたします。
NHKには思いのある人が時々います。
彼らが横につながったら大きな仕組みができると思うのですが。

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2004/05/26

■年金制度の論理矛盾 

もし、年金が自らの老後保障のためだとします。
そうであれば、積み立てた人が積み立てていてよかったと思うように制度設計すれば、それだけですべて問題は解消します。
加入呼びかけは不要です。
未加入であろうと未納であろうと問題にはなりません。
未納者が多ければ、納入者は有利になるはずですから。

もし、年金が同時代の高齢者の生活支援のためだとします。
そうであれば、税金と同じに考えれば、すべて問題は解消します。
保険料などは不要で、税金を高くすればいいのです。
未納者は許されません。
フリーライダーはペナルティーを与えることで解決します。

こういう簡単なことすら整理されておらずに、
政治家も霞が関も制度が難しいとか騒いでいるのですから、お話になりません。
問題は簡単なのです。
2年で時効などと言うのは、前者の発想です。
未納者が3割もいる状況を引き起こしているのも、前者の発想だからです。
にもかかわらず、ある時はしゃあしゃあと後者の大義を振り回すのです。
誠意も知性も全く感じられません。

まあ、これはほんの一例です。
こうしたやり方が、霞ヶ関の部長以上の人と政府のやり方です。
一言でいえば、狡猾で性悪なのです。
霞ヶ関のプライドも知性も、今の部局長には全くないと言うべきでしょう。

ところが、霞ヶ関の若者世代は全く違います。
そこに私は大きな期待を感じます。
その世代が横につながってほしいものです。
そうすれば生活者の知恵や汗とつながれるはずなのですが。

このホームページに出合った霞ヶ関の若手官僚の方が、もしいたら、
横をつなぐ霞ヶ関サロンを始めませんか。
もちろん自分の所属する組織を創造的に破壊するための活動拠点を育てるために、です。
ご連絡下さい。協力します。
このままでは、強欲な中高年者たちに、この国は破壊されてしまいます。

もっとも私も、その強欲な中高年世代なのですが。
これは念のため。

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2004/05/02

住民主役のまちづくり計画

茨城県の美野里町というところでは、住民たちを主役にしながら、都市計画マスタープランをつくってきました。
それがほぼ完成しました。
外部協力者として、3年間、かかわってきたのですが、
昨日から、改めてその計画書を読み直しています。
計画と言っても、住民の意見が中心の、いわば住民意見集なのです。
住民の意見がまちづくりの拠り所になるのであれば、
住民意見集をまちづくり計画(都市計画マスタープラン)にしてしまおうという、
美野里町行政の英断で実現した、新しいスタイルの行政計画です。

1700の意見を、改めて読み直しました。
実に生々しい住民感覚がそこにあります。
さまざまな意見がありますから、
編集の方法で、いくらでも方向付けを変えられると思いますが、
その一方で、それらに通底する共通の思いも伝わってきます。
「自分たちのまちをよくするためには汗をいとわない」という思いです。

住民参加の方式は、編集者の意図でいかようにも料理できます。
その思いから、
私は、参加型まちづくりではなく、共創型まちづくりに取り組みだしました。
両者は、似て非なるものです。
取り組みだしてから、もう8年目です。
その原点のひとつが、美野里町です。

そろそろ行政依存のまちづくりは終わらせる時期です。
みんなの意見を読んでいると、改めてそう思います。

今年は、新しいまちづくり組織を制度化するための、条例づくりに住民主導で取り組む予定です。
CWSコモンズのホームページで報告して行く予定です。


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