カテゴリー「企業時評」の記事

2017/08/21

■企業を考えるサロン「生物学からみた企業」報告

4回目の企業サロンは、趣向を変えて、細菌学の研究者である益田さんに「生物学からみた企業」を話題提供してもらいました。
直前になって参加申し込みが増えて、結局、14人になりました。
しかも個性的な経営をしている企業の社長が2人参加しました。

生物の特徴は「復元性」だと益田さんは話し出しました。
また生物と環境は、図と地の関係にあるが、その境界は明確でないとともに、一方が消えたら、もう一方も消えてしまうという話もありました。
そして、そのわかりやすい例として、朱鷺が滅びたのは、朱鷺が生きていける環境が滅びたことでもあると話し、朱鷺を連れてきても環境がそのままではだめだろうということを示唆されました。
まさに企業にも通ずる話で、まさに昨今の日本企業が置かれている問題に通じていく話です。

図と地の関係で、どこまでを図の地、つまり主体にとっての環境と捉えるかが大切です。
そこで、ジフテリア菌をモデルに人間と企業(組織)の話になりました。
一部のジフテリア菌には、ファージという毒素を持つウィルスが寄生しているそうですが、ジフテリア菌が人間に悪さをするのは、そのファージなのだそうです。
言うまでもありませんが、ファージには「悪意」などありません。

それらは三層構造をしています。
ファージにとっては、地(環境)はジフテリア菌になり、ジフテリア菌にとっての地(環境)は人間の人体になります。
人はジフテリアを発病すると死に至ります。
でもそれは、ジフテリア菌の意図ではなく、ファージのせいなのです。
つまり細菌もウィルスも、自らの「直接の環境」を破壊することはないのです。
なぜなら図は地あってのものだからです。
ファージはジフテリア菌のために、人体を壊しますが、長い目で見ればそれはジフテリア菌にとっても不幸な結果をもたらすのです。
自らの生存を考える時に、どこまでを環境と考えるかはとても大切です。

企業になぞらえれば、「会社のため」と思ってやったことが社会に迷惑を与え、会社が倒産するという、企業不祥事の話につながっています。
こうした認識は、アメリカの企業で1980~90年代に広がりました。
企業にとっての地は、顧客や狭義のステークホルダーではなく、社会そのものだという意識が高まりました。
当時、IBMは社会にどう関わるかは企業にとっての「マターオブサバイバル」だと言っていました。
しかし、その後、どこかでまた、企業は「図と地」の捉え方を間違ってしまっているように思います。
救いの一つは、CSVですが、それも単なる経営戦術論になっているような気もします。
ちなみに、日本の商人道は、顧客のみならず社会を環境と認識していたように思います。

いささか先走りましたが、ファージとジフテリア菌と人体の話は、企業経営を考える上で示唆に富んでいます。
いろいろと考える材料があったように思います。

ところで、企業を三層構造で考えた時に、ファージの場所には何が入るでしょうか。
今回も少しだけ話が出ましたが、これがとても大切な問題です。
ここを深掘りできればよかったのですが、私の不手際でそこまで行けませんでした。
しかし、サロンでいろんな話を聞いたみなさんがそれぞれに考えてもらえればと思います。
「人」、それも「経営者」なのか「社員」なのか「出資者」なのか、あるいは「お金」なのか。
そこに今の企業を考えるポイントがあるように思います。

「復元性」の問題もとても重要な視点だと思います。
生物学における「進化」、とりわけ「共進化」の考えは示唆に富んでいますが、この復元には動的なダイナミズムがあるように思います。
参加者の石井さんや小宮山さんは、それぞれの地元で、地域社会を豊かにすることを視野に置いた経営に取り組んでいます。
そんな話にまで持っていきたかったのですが、時間切れでした。
そこで今度は横浜で造園業の会社石井造園を経営している石井さんに、企業サロンをお願いすることにしました。
石井造園は、数少ないBコーポレーションに認定会社の一つです。
10月になるかと思いますが、ご期待ください。


Masuda20170820


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2017/07/16

■カフェサロン「企業の社会性を考える」の報告

猛暑の中を10人の人が集まりました。
しかも仙台や高崎からの参加者もありました。
企業の現役の人は3人、女性は1人でした。

私が考える「企業の社会性」とは、企業のありかたは社会のあり方に大きな影響を与えるとともに、企業が提供する商品やサービスは、社会を大きく変えていくというという認識を企業がしっかりと持っているかどうかです。
企業の社会貢献活動は、私にとってはマーケティング戦略でしかありません。
社会を単なる「市場」として捉えて「経済的発想」で経営するのではなく、社会の「善き一員」としての「社会性」を持つことが、これからの企業にとって大切だろうと思っています。
正確に言えば、企業に関わる人たち(経営者、従業員、出資者)の「社会性」が尊重され、育むようになっているかどうかです。
不祥事を起こした会社の謝罪会見を見れば、なぜ不祥事が起こったのかはすぐわかります。
経営者にそうした「社会的認識」や「社会性」が感じられないことが多いのです。

30年ほど前に「コーポレート・シチズンシップ」(講談社)という本を、コーポレート・シチズンシップ研究会の名前で出版しましたが、その時からそう考えています。
しかし残念ながら日本の企業は、社会性よりも経済性を重視する方向を選びました。
それがたぶん日本企業が直面しているさまざまな問題の根底にあるように思います。

ですから今回も、企業の社会貢献活動とかCSR・CSVなどの話ではありません。
また社会起業家やソーシャルビジネスの話でもありません。
企業は、そういう「社会性」を大事にしているのか。
企業の活動が、社会にどう影響を与えているかを考えるサロンです。
企業が提供する事業のかたちや社員の働かせ方は、社会を方向づけていきます。
教育も福祉への影響も非常に大きいのです。
家族や地域社会にも、大きな影響を与えています。
しかし果たして会社の人たち、特に経営者たちはそういう認識を持っているかどうか。
つまり経済活動という領域でしか考えていないのではないかというのが、今回の私の問題意識です。
それでは結局は社会を劣化させ、回り回って自らの経営を困難にしていきかねない。

最初に問いかけたのは「社会にとって企業ってなんだろう」と「企業にとって社会ってなんだろう」という問いかけです。
ここを深掘りするだけでも、さまざまなテーマが出てきますが、今回はこれは前座。
そうした総論的なやりとりをやった後、具体的な事例や新聞への投書記事などを材料に話し合いをしました。
たとえば、こんなテーマです。
・内気な人たちに、あなたは「社会不安障害かもしれない」という抗うつ薬の広告
・途上国に化粧品を低価格で提供した結果、子供用品への支出が減ってしまった顧客創造戦略
・家族のために忙しく働いているという父親への疑問を投げかけた子どもの投書
・冬にトマトを食べることで豊かさは高まったのか
・利便性の向上(翌日到着の宅急便・元日開店のスーパー)で失われたものはないか
・会社の不祥事を告発することの是非

たとえば最初の2つの事例で言えば、会社に勤める人とそうでない人の反応は違います。
話しているうちに、会社役員の人が、会社を悪者扱いしすぎではないかと発言する場面もありましたが、会社に勤めていない人から見ると会社はあんまり信用できない存在のようです。
私は両方の世界に棲息しているバイリンガルなので、いずれの思いもわかります。
問題は、そもそも会社が悪いのではなく、会社という仕組みを使って悪いことをする人がいるだけの話なのですが(消費者にもいます)、それ以上に、それぞれに属する人たちの日頃の交流があまりにもないのが問題だろうと改めて思いました。

社会の中でここまで会社の存在が大きくなると、会社での働き方や会社が提供する商品や事業が社会の方向性を大きく決めていくことになります。
にもかかわらず、最近の会社は自閉的になってきているように感じます。

会社のあり方を決めるのは、会社に直接かかわる人たちだけではありません。
会社は、商品を購入し、サービスを受容する消費者がいて成り立っています。
ですから、いまの会社にもし何か問題があれば、その一因は消費者にもあるはずです。
それに会社を実際に構成しているのは、消費者でもある個人です。
にもかかわらず、よく言われるように、「会社の常識」と「社会の常識」の乖離は大きくなってきています。
不思議なことです。

もっともっと会社の経営管理にあたっている人と、会社とは縁の少ない主婦やNPO活動家や学校の人たちが、本音で話しあえる場が増えていくといいなと思っています。
それぞれが別々に話していても、何も変わらないでしょう。

めげずにもう少し企業を考えるサロンを継続することにします。

170715


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2017/07/01

■競争の社会から共創の社会へ

最近読んだ「開城工団の人々」は、北朝鮮と韓国の共同事業として行われていたケソン(開城)工業団地で働いていた韓国の人たちの体験談を集めたものです。
とても示唆に富む話が多いのですが、こんな話は皆さんどう受け止めるでしょうか。
チーム長として、北朝鮮の人たちが働くチーム長として働いてきた人の発言です。

あちらは社会主義なので一生懸命働いてもインセンティブがありません。 いい加減に仕事をしても、我々に人事権がないために制裁できないのです。 それだから仕事ができない人ができる人に合わせるのではなく、できる人ができない人に合わせるようになります。 こんな状態が続くと生産が落ちる場合が出てきます。 我々が望む生産力に到達しようとすれば、人員を補充するしかありません。 一つのラインに南側では12名が必要だとすれば、開城では15名を入れるというふうにです。 そうやって生産性を100%に合わせています。

組織の生産力を高めるには、各自の生産性を高めるか、働く要員を増やすか、の2つの方法があります。
私たちのいまの社会では、前者が目指されています。
生産性をあげられない人は、職場には居場所がなくなる社会かもしれません。
その結果、組織の生産性は高まり、経済的な競争に勝ち抜いてきたわけです。

でも確かに、後者の発想があります。
一番ゆっくり働く人を基準にして、必要な生産力を実現するための要員数を決めていくわけです。
そんなことをやっていたら、激しいコスト競争にさらされている企業としてはやっていけないと思いがちです。
でもそうでしょうか。
要員数と人件費とは同じではありません。
限られた人件費を、みんなでなかよくシェアすれば、人件費をあげなくても大丈夫です。
できる人の給料は下がるかもしれません。
でも給料以外の何かが獲得できるような気がします。
無理してお金を消費しなくてもよくなるかもしれません。
そして組織全体の雰囲気が変わっていくかもしれません。

人工知能が、人の働く場を奪っていくという話があります。
2045年のシンギュラリティ仮説危機など、私にはまったくばかげた話だと思いますが、それはそれとして、人工知能に限らず機械化や自動化は人の職場を奪ってきました。
だから景気が良くなっても仕事は増えていきません。
しかし、発想を変えたらどうか。
そもそも「職場が奪われる」という発想は、まさに機械と人間を同じ次元で考える競争の発想です。
その時点で、たぶん発想を間違えているのです。
機械が職場を奪っているのではありません。
職場を奪っているのは、機械を使って私欲を得ようという人間です。
仕事を機械が代行してくれるのであれば、そこから生まれた時間をみんなでシェアし、働く時間を減らせばいいだけの話です。

ケソンの話は、いろんなことを示唆してくれます。
そろそろ「常識の呪縛」から抜け出たいと思っています。
そうすれば、いまもそれなりに生きやすい時代です。

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2017/06/27

■企業の人たちと話していて感ずること

昨日は山城経営研究所のエグゼクティブフォーラムの、私の担当チームが湯島にやってきました。今月初めに奈良で合宿をして、一応、大きな方向性は出したのですが、それをもう少し深掘りするのが目的です。
7つの企業に属する管理者がメンバーですが、今回の共通テーマは、多様な価値観を持った社員を活かす組織(職場)にするにはどうしたらいいかというのが、みんなの関心事です。
答は極めて簡単だと私は思いますが、日本の現在の企業は、ダイバーシティ戦略などと口では言っていますが、実態はむしろヒューマンファクターを抑圧しながら思考停止した部品化を社員に求めているようにさえ、私には感じられます。
1980年代に広がりだした、生命論的組織観やオートポイエティック発想は後退しています。

企業の人たちと話していると、日本企業の実相が伝わってきます。
長年、この活動をしていて感ずるのは、日本の大企業からイノベ―ティブなアントレプレナーシップが消えてきていることです。
一言で言えば、日本の企業経営は大きく劣化してきています。
働き方改革が話題になっていますが、そもそもその問題の立て方が間違っていると思えてなりません。

30年程前に、ある企業が経営理念に「月曜日が楽しい会社」を標榜したことがあります。
そこで前回の合宿で、参加者に問いかけました。
「あなたは月曜日が楽しいですか?」と。
昨日のメンバーの中には「月曜が楽しい」という人がいましたが、管理者が月曜が楽しいと思っている会社がどのくらいあるでしょうか。
もちろん「日曜も楽しいが月曜も楽しい」が理想ですが。
大切なのは「働き方」ではありません。
仕事そのもの、企業活動そのものです。
問題の設定を間違えている以上、日本の大企業は元気にはならないでしょう。

このミーティングの前に個人の起業家と会い、その後は社員30人ほどの企業の社長と会いました。
2人とも山のような課題を背負って苦労していますが、楽しそうでした。

今日は朝から夜まで、ビジネス関係の人との議論でした。
福祉の分野から見えるものとはまた違った世界が見えてきますが、いずれも悪い意味で近づいているような気がします。

ちなみに、このチームに参考図書として挙げた1冊は藤井聡さんの「〈凡庸〉という悪魔」です。驚くことに少なくとも2人の人が読んでくれました。
http://cws.c.ooco.jp/book2.htm#006

企業という組織に使われるのではなく、企業という組織を活用して、価値を創りだす仕事をもっと多くの人に楽しんでもらいたいです。
Kae20170626


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2017/03/21

■企業サロン「働き方を考える」の報告

第2回企業サロンは、組織と働きがい研究所代表の斎藤智文さんに問題提起してもらい、「いまのような働き方・働かせ方でいいのだろうか」を話し合いました。
大企業の管理者の立場にある人、保健師や産業カウンセラーとして企業に関わっている人、大学でモチベーションや労働心理学を研究している人、経済団体でそうした問題にも広く関わってきた人、子どもの育児のために会社を辞めて主夫行をやったことのある人など、さまざまな立場の人が参加しました。
多彩のメンバーなので、話し合いは、かなり広がりました。

斎藤さんは、日本に“Great Place to Work”調査を取り入れた人ですが、組織と働きがいの研究や実践支援をライフワークにしています。
案内にも書きましたが、「社会全体の働き方に関する価値観」も変えていかなければいけないというのが、斎藤さんの思いです。
私もこれまでいろんな意味で、たくさんの示唆をいただいている人です。

まず、斎藤さんの考えていることや日本での働き方に関する動きの推移などをはなしてもらい、そこから話し合いになりました。
斎藤さんは、話し合いのきっかけとして、長時間労働や競争に参加するための働き方の変化、さらには労働の質の変化などの話題を出してくれました。
そこからいろんな話し合いが広がりましたが、もしかしたら最近の「働き方改革」が労働時間の問題を中心に語られているところにこそ、本質的な問題があるのではないかという議論がありました。
また、働き方改革は、消費者や生活者の生き方にも、つながっているという指摘もありました。
斎藤さんも、働き方は生き方の問題でもあると考えていますが、これは今回参加者のみなさんに共通していることでした。

斎藤さんはまた、「生産性を高めること」が働く人にとって苦痛であることが大きな課題ではないかと指摘しました。
私もそう思います。そもそも生産性向上とは何なのか。
そこで私は、その言葉の対語を考えることが大切ではないかと思いました。
あるいは、誰にとっての生産成果を考えることが必要ではないか。
湯島のサロンでも一度問題になったことがありますが、工業の視点からの生産性と日本の伝統的な農業の視点からの生産性は、たぶん違います。
ちなみに、私は「生産性向上」の対語は「人間性(生活)向上」だと思っています。

大企業の方が、自分の職場で取り組んだ、実践的な話をしてくれました。
組織に合わせる仕事の割り振りではなく、社員に合わせた仕事の組み替えによって、経営にとっての生産性と個々の社員にとっての生活のしやすさが両立し、双方にとってのウィンウィン関係が実現したという話です。
働き方と働かせ方が、あいまって双方に好ましい結果を生み出したわけです。
もっともこの話には後日談があるのですが、そこに大きなヒントがあるのではないかという話も広がりました。

他にもいろんな話が出ましたが、私にはとても刺激的なサロンになりました。
大企業の経営管理職の人の参加が少ないのが、とても残念ですが、引き続き継続したいと思います。
できれば次回は、世界に広がりだしている、話題のBコーポレーションの認定を受けた会社の社長に話題提供してもらおうと思います。
そういうテーマだと大企業の人も参加しやすいでしょうから。
彼が引き受けてくれれば、の話ですが。
いずれにしろ日本の企業経営は、私の目から見ると時代の流れに逆行しているように思えてなりません。

ところで、斎藤さんのレジメの中に、こんなことが書かれていました。
「変化を拒絶するので、よい習慣が身に付かない」
「いつも通りを維持したがるので、悪い習慣が止められない」
ここに問題の本質があるような気がしました。

そこで最後にこんな提案をさせてもらいました。
アメリカでは30年程前、ロバート・ベラーを中心としたグループが、社会的な活動をしているさまざまな人たちにインタビュー調査をし、それを踏まえて、極めてライブな「心の習慣」「善い社会」をまとめました。
それをモデルに、日本でもその種の調査があり文献も出ています。
いまもその種の取り組みはあり、私も一昨年、インタビューを受けたのですが、同じような手法をベースに「日本人の働き方」をテーマに、社会調査をするプロジェクトを起こせないかという提案です。
斎藤さんには事前に少しお話をしていて、興味を持ってもらっていましたが、その提案をしたら、早速、数名の方が一緒にやりたいと言ってくれました。
できれば一度、そうしたことを考えるチームも発足させられればと思っています。
企業サロンから生まれたサブプロジェクトですが、関心のある方はご連絡ください。


Saitousalon


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2017/01/29

■第1回企業サロン「電通社員過労自死問題から何を学ぶか」の報告

昨日、第1回の企業経営サロンを開催しました。
会社を辞めた時から、つまり30年近く前からやりたかったことの一つに、「企業時評」というテーマがあったのですが、ようやくそれに取り組むことにしました。
これは、企業に関わる「事件」を材料にして、そこからこれからの企業経営や自らの働き方を考えていこうというものです。
今回は、電通社員過労自死問題を切り口に、最近話題の「働き方改革」を話し合うことにしました。
当初は、私が長年関わってきた経営道フォーラムの最近のメンバーだけを対象にしようと考えていました。
経営道フォーラムでは、抽象的な議論になりがちで、ケーススタディに基づく具体的な話し合いはなかなかできませんので、いわば経営道フォーラムで学んだことを実践的に消化する場にしたかったのです。
10人ほどを想定していたので、最近のチームメンバーに限って控え目に案内しました。
1つのチームだけでも、フォーラム期間中であれば、6人前後は来ますので、集まり過ぎたらどうしようなどと考えていたのです。
ところが参加申し込みは5人。
それで、開催前日にフェイスブックなどで公募しました。
結局、半分は経営道フォーラム以外のメンバーになりましたが、むしろそれがよかったような気がします。
2回目からは、公開で開催する予定です。

話し合いは、それぞれがまず事件に関する感想などを述べることから始めました。
実は、事件に関わるアクターを整理したペーパーは用意しておいたのですが、そんなものは不要でした。
それぞれからとても多様な視点と問題提起がありました。
私が気づかされることもたくさんありました。
話の内容は一切省略しますが、いまの企業や社会のあり方、教育や報道のあり方、あるいはSNSとコミュニケーションの捉え方にまで話は広がりました。
過重労働問題や働き方・働かせ方の問題、さらには日本の企業の生産性の低さも話題になりました。
3時間経過しても終わりそうもないほどでしたが、改めてこうした話し合いの場の大切さを感じました。
そして、こうした「事件」に対して、批判するのではなく、そこから学ぶことが、企業関係者にも私たち生活者にも、もっと必要なのではないかと思いました。
それがあれば、同じような事件が、繰り返されなくなるかもしれません。
そして、何よりも、働く人も企業経営者も、そして社会も、少し賢くなるかもしれません。

サロンの最後のあたりになって、「働く」とは何なのだろうかという話になりました。
私たちは、そろそろ「働くことの意味」を問い直す時期に来ているように思います。
「働かせ方」や「働き方」も大切ですが、そもそも「働くとは何か」ということです。
子育て問題が待機児童数解消という数量の問題になっているように、働き方改革が労働時間という数量の問題になりがちなのが、私には違和感があります。
問題の立て方を間違うと、解決どころか事態を悪化させることにもなりかねません。
そういう意味でも、「電通社員過労自死問題」は大きなメッセージを与えてくれているように思います。

今回は報告の内容は一切省略しましたが、とても気づきや学びの多いサロンでした。
次回のテーマはまだ決まっていませんが、決まったらまたご案内します。
毎月開催していく予定です。
もしどなたかこんな問題で話し合いたいということがあれば、お知らせください。
ただし、具体的な「事件」や「事例」を切り口にするスタイルは大事にしたいと思っています。

Kigyousalon


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2016/05/17

■28年間、経営道フォーラムというプログラムに関わらせてもらっての感想

昨日は、椿山荘で、経営道フォーラムの発表会でした。
企業の不祥事が多かった1980年代、経営者に「経営の心と道」を学んでほしいという市川覚峯さん(現在は日本経営道協会代表)の思いから始まった「経営道フォーラム」というプログラムがあります。
市川さんの思いに共感して、そのプログラムに関わらせてもらってきましたが、昨日、58期の発表会を持って、私はコーディネーター役を辞めさせてもらうことにしました。
強い自責の念があります。

私のスタンスは、最初から全く変わっていません。
私が考える「経営道」とは生きる主軸を確立するということです。
「営み」の軸になるような「経」、つまり原理原則を大事にするということです。
平たく言えば、経営技術者や金銭管理者ではなく、主体性を持った人間になってほしいという思いです。
そのためには、自分の企業という「たこつぼ」から出て、広い世界を生きなければいけません。
そういう思いから、受講生のみなさんには、企業に使われるような経営者ではなく、企業を活かして、社会を豊かにしてくれる活動に目を開いてもらうような刺激を、ささやかに与えてきました。

その私の思いは、残念ながら果たせませんでした。
最近もまた、企業の不祥事が話題になっていますが、日本企業の経営者の多くは、企業を活かして社会を豊かにするどころか、企業に寄生して、社会をむしばんでいるような気さえします。
経営者だけではありません。
社会全体が、金銭利得に覆われてしまい、多くの人は「人間」であることさえ忘れかねているように思います。
そうした無力感から、辞めることにしたのです。

そして昨日は、椿山荘で最後の発表会でした。
最後は、とてもいいチームに恵まれ、その発表に対して、参加者が「静かな感動を受けた」と言ってくださるほどでした。
私も感動しました。
そして、もう少し続ければよかったかなという未練さえ感じました。

最後に、会場に向かって、いささか場違いな話もさせてもらいました。
広い世界を見てください。そうしたら企業を通してできることは山のようにあると話しました。
子どもの育ちの現場をもっと知ってほしいとも話しました。
ちょっと感情が入りすぎてしまい、伝わったかどうかは疑問ですが。

この数十年の経済学は、現場から離れた、演繹的な公理をベースにしたフィクションエコノミクスだと言われだしてからもう10年以上経過します。
私自身、会社時代からずっとそう思っていました。
経済学の前提にある公理は、私には非現実的なものばかりでした。
言葉と論理だけで、経済は日常生活とは、無縁な世界を構築し、企業はそこでのメインアクターとして、金融工学に基づいて、社会を市場化してきています。
汎市場化の中で、最近のオリンピック関連のさまざまな騒動に見られるように、スポーツも市場化されました。
環境や福祉の世界もまた、どろどろしたお金の世界になってきてしまい、本来的な環境保全や福祉はどこかに押しやられてしまいつつあります。
いまや経済は、生きた人間のための経済ではなく、死臭の立ち込めた市の経済になってきています。
改めて、生きた経済を回復しなければいけません。

経営学もまた、演繹起点の世界を構築し、企業から生きた人間を放逐しだしています。
それでは企業は元気になるはずはありません。
経営の基本は、生きた人間の無限の能力でなければいけません。
企業経営の要である、戦略も組織も、生きた人間が主役なのです。
それを忘れた企業は、単なる金銭増殖機械でしかありません。

感情が入り込んできて、少し書きすぎました。
経営道フォーラムのこれからに期待しています。

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2016/03/14

■カフェサロン「スワンベーカリーの目指していること」の報告

今回は、2年ほど前に、スワンベーカリーを経営している株式会社スワンの社長になった岡村さんが話題提供をしてくださいました。
予想を超えて、17人もの参加になり、いささかあわててしまいました。
しかし、スワンベーカリーへの関心がこれほど大きいことはうれしいことです。

スワンベーカリーは、「障がいのある人もない人も、共に働き、共に生きていく社会の実現」というノーマライゼーション理念のもとに、障がい者の経済的自立支援を目的に、『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親の小倉昌男さんが始めた、パン製造販売を行うフランチャイズチェーンです。軽食も提供する喫茶店も展開しています。

岡村さんは、ヤマト運輸で長年バリバリのビジネスマンとして働いてきました。
私が出会った当初は、まさに同社の戦略参謀スタッフでした。
それが思いもしなかったスワンの社長を引き受けることになったのです。
岡村さんは、まずその時の思いを、とても素直に話してくださいました。
それまでは他人事だったスワンの世界が、入ってみるととても生き生きした世界で、経営に関する考え方も、企業そのものの捉え方も、(たぶん自らの人生観も)変わってきたようです。
岡村さんが語るスワンのお話には、あたたかさを感じましたが、話したいことが山のようにあるようで、次から次へと話が飛び出してきました。
それだけ岡村さんは、この2年間、充実した時間を過ごしてきているのでしょう。
それだけで、私はスワンという会社の素晴らしさを感じました。

お話の内容を中途半端に紹介するのはやめますが、岡村さんが話してくれた4人のスワンの社員(岡村さんは「スワンの仲間」と表現しました)の話はとても示唆に富んでいると思いました。
障がいがあるために働く場が得にくい人たちにとって、いま何が一番大切なのかが、そこに表れていますし、障がいとは関係なく、そこにいまの時代の働き方や働く場の問題と解決のヒントが象徴されているように思いました。

話し合いではさまざまな話題がでましたが、私の勝手な感想を述べれば、やはり私たちはまだ金銭経済や工業経済の発想から抜け出せていないということです。
スワンで働くことで、授産施設などに比べると10倍ほどの給与を得ることができ、障害者手当を含めれば、経済的には生活が自立できるかもしれません。
しかし、スワンの意味はそれだけなのだろうか。
それにまだ、そうした人はとても少ないでしょう。
企業の障害者法定雇用率をもっと高めるべきではないかという話も出ました。
障がいの子どもを持つ親にとっては、自分の死後、子どもが働けなくなった後のことも心配ではないかという話が出ました。
障がいを持つ子どもの母親からも、なかなか雇用してもらえないという悩みも出ました。

もちろんいずれも大事なことです。
しかし、私には、そもそもそういう発想を問い質すべきではないかと思っています。
そういう発想が、いまの生きづらい社会をつくりだしてきたのではないか。
スワンで働いている人たちにとって、一番の喜びはなんなのか、をしっかりと考えてみたいと思います。

そして、実は「障がいをもつ人たち」の働き方を考えることは、働き方そのものを考え直すきっかけになるのではないかと思います。
障がい者雇用を進めているアイエスエフネットの社長の渡邉幸義さんは「障がい者が入社してくれたおかげで社員みんながやさしくなった」と言っています。
だとしたら、障がい者(高齢者や認知症の人も含めたいです)がいるだけで社会はやさしくなるのではないか。

ちょっとテーマは違いますが、スワンベーカリーのお店による味の違いの話も出ました。
スワンベーカリーは、いまは全国に29店舗(直営店は4つ)展開しています。
そのため、お店(地域)によって味も少し違うようで、それをそろえてほしいという声が出ました。
これもとても重要な問題だと思います。
私はスワンベーカリーにはマグドナルドのような均一の味になってほしくはありません。
と同時に、むしろ地域の人たちも一緒になって、スワンベーカリーのお店を良くしていくという関係が生まれていけばいいなと思っています。
ここにも、いまの社会のあり方や私たちの消費活動のあり方を考える重要な視点があります。

岡村さんは、本社時代に社風刷新に取り組みましたが、その時、「社風は勝手には悪くならない、(もし悪くなるとしたら)そこにいる人が悪くしている」と考えたそうです。
そして、経営には人柄が出ると言います。
とても共感できます。
「社風」を「社会」に替えても成り立つでしょう。

岡村さんはまた、障がいを持つ人の働き場づくりだけではなく、「生きにくさ」の解決にも取り組みたいと話しました。
スワンで得た気づきやノウハウが、いつか日本の会社や社会を変えていく動きにつながっていくと私は信じています。

岡村さんは、参加者のためにスワンのマドレーヌを持ってきてくれました。
お話をしてもらうのに、逆にお土産まで持ってきてもらう、これが湯島のみんなが育てるサロンの特徴の一つです。
何とか頑張って、この場をつづけていこうと改めて思いました。
岡村さん、ご多用のなか、ほんとうにありがとうございました。

私も、岡村さんと同じく、書きたいことが山のようにあって、長くなってしまいました。
すみません。


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2016/02/10

■「仕事における居場所感」報告サロンの報告

昨日の「仕事における居場所感」の報告サロンは、意図に反して、企業関係者は少なく、多彩なメンバーの集まりになりました。
今回の話題提供者は、慶応大学湘南キャンパスの4年生の氏家さんです。
昨年彼が行った、主に企業の人を対象にした居場所概念の構築のための調査報告をしてもらい、それに基づいて参加者が話し合うサロンでした。
氏家さんの調査には私もささやかに協力しましたが、今回、改めてさまざまな人が、若者の報告を誠実に聞き、いろいろと意見を出してくれたのがとてもうれしかったです。
若者であるが故の未熟さは多々ありますが、だからこそ、それを誠実に聴き、真摯に話し合いを重ねていくことこそが、私のように歳を重ねたものの責任だろうと私は考えています。

氏家さんは、居場所感の構成要素として、「当事者意識」「関係性」「自己効力感」を抽出し、またソーシャルサポートの影響なども解析しています。
詳しい内容に関して関心のある方は、ご連絡いただければ、氏家さんにつなげますので、ご連絡ください。

この分野のプロでもある斎藤さんや本間さんも参加してくれましたし、わざわざ長野から参加してくれたNPOの江村さんもいます。
社会活動でお忙しい折原さんも、元日経記者だった坪田さんも参加し、いろいろとコメントしてくださいました。
この調査にやはり最初から協力してくれた大坪さんも参加してくれました。
そうした多彩な立場からの話し合いも行われました。
話しは多岐にわたりました。
そもそも「仕事がある」ということが、居場所を創りだしているのではないか、そもそも仕事もない人は、居場所感以前の状況にあるのではないかという話もありました。
「居場所がない」という言葉は、よく聞かれますが、そこにはさまざまな意味が込められているようです。
「仕事」とは何なのかという話もありました。

氏家さんの報告を聞いていて、私が感じたのは次の点です。
・居場所は「与えられるもの」なのか「創りだすもの」なのか。
・仕事場での居場所と社会との居場所はどう関係するのか。
・閉じられた居場所感と開かれた居場所感があること。
こうしたことを考えていくと、いろいろな面白テーマにたどり着きそうです。

氏家さんの調査研究活動は、まだ入り口に立ったところです。
これからが楽しみですが、体験豊かな多くの人にいろんなコメントをもらって、これからさらに豊かなものになっていくでしょう。
参加してくださったみなさま方には、とても感謝しています。
ありがとうございました。

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2016/01/21

■賞味期限切れ間近の食品の横流し事件に思うこと

CoCo壱番のカツ横流し事件を発端にして、他にもたくさんの廃棄食品が横流しされて、再び市場に乗ってしまっている事例が次々と報道されています。
何をいまさらと言いたい気分もありますが、不思議なのはこういう事件が起こると似たようなことが次々と記事になることです。
それはおそらく、そういう事実や状況を、業界の人たちは知っているからではないかと私には思えてなりません。
知っていてなぜ変えられないのか。
そこにこそ、問題の本質があると思うのです。
そう考えると、今回の横流し事件報道に関しても、「問題の捉え方」が違うのではないのか。
ダイコーだけを責めていいのか。
もっと奥深いものがあるのではないかと思うのです。

昨年、CoCo壱番屋の創業者の宗次徳二さんの講演をお聞きしました。
宗次さんは、道端の草を食べるほどの貧しさの中で育ったという自らの子ども時代のことを話されました。
それが実に心に響くもので、「CoCo壱番屋」に行かなければと思っていました。
食材や「食べるということ」を大切にしているお店だと思ったからです。
残念ながらまだ行っていないうちに、こんな「事件」が起きました。
そして、やはり行くのをやめることにしました。
悪いのは、CoCo壱番屋ではなくて、横流ししたダイコーではないか。
CoCo壱番屋はむしろ被害者ではないかと、多くの人は思っているのかもしれません。
私は、そうは考えていません。
CoCo壱番屋にも大きな責任がる。
それはまた次回書くとして、今回は大量の食品ロス問題について書こうと思います。
それは、私の問題でもあるからです。

私は、お金を無駄にすることには大して問題を感じませんが、食材を無駄にすることはどうしても許せません。
お金は単なる「手段的なもの」であって、日銀が印刷した無価値のものですが、食材は多くの人たちが自然の恩恵をもらいながら汗を流して創り上げてきた「価値あるもの」です。
お金を払って自分のものにしたから廃棄してもいいだろうということにはならないと思います。
ですから、賞味期限切れで食品を廃棄することを許容している、食品産業に関わる人たちが理解できないのです。
彼らは、自らが扱っている商品への愛着や誇りはないのでしょうか。
賞味期限切れ近くになると消費者は買ってくれないので廃棄するしかないのかもしれません。
しかし、そこで納得していい問題ではないでしょう。

もし私が廃棄を頼まれた産廃処理業者だとしたら、まだ食べられるたくさんの食材を前に本当に捨てられるだろうかと考えてしまいます。
何とか無駄にしない方法はないだろうか、と考えるのは、人として当然のことではないかとさえ思います。
もちろん、だからと言って、それを横流ししていいということではありません。
読み違ってはほしくありません。念のため。

日本での大量の食品ロスは問題にはなりますが、一向に解消されません。
なぜなのか。
そこにこそ議論の焦点を向けなければいけないのではないか。
大量の食品ロスを出しても、利益が上がる事業構造に問題があります。
いやむしろ大量の食品ロスを出すことによって、利益を極大化させる構造になっているのかもしれません。
そこを見直すべきではないかと思います。

食品ロスの発生は、いうまでもなく過剰生産の結果です。
機会ロスをなくすために、過剰供給しているわけでしょうが、その結果、大切な食材が廃棄させられることになる。
どこかおかしくはないでしょうか。
事業を行う企業は利益を上げるかもしれませんが、食材を廃棄してしまうことは社会にとっては明らかに損失です。
今回の事件で明らかになったのは、日本の食産業と食文化の欠陥ではないかと思います。
供給側もお粗末ならば、消費者側もお粗末です。
食品が、まさに「餌」になっているような気がします。
和食文化が世界遺産になって騒いでいる場合ではないでしょう。
和食文化の真髄を思い出したいものです。

食品ロスを減らす方法はいくらでもあります。
過剰生産を防ぐためには、たとえばトヨタによって広げられたカンバン方式、ジャストインタイムシステムが参考になります。
お客様の注文に合わせて、食材を仕入れ、過剰な食材在庫を持たない、過剰な供給はしないという発想です。
食関連でも、そうした発想で事業に取り組んでいるところはあります。
それが広がれば、膨大な量の食材や食品の廃棄処分はなくなるでしょう。
しかし、残念ながら時代はそれとは正反対の方を向いています。

そして、因果関係はわかりませんが、そうした食品ロス体質の食産業を支えているのが、利便性を追求する賞味期限意識の高い消費者です。
食べていいかどうかさえ教えてもらわないといけなくなった「消費者」たちが、食品ロスを支えているのではないかと思います。
日本人の食文化はこれでいいのか。

みのりフーズの経営者の方が、少しくらい古いものでも洗って食べた世代だと話していましたが、私はその人にとても共感しています。
私は賞味期限切れのものも、もちろん捨てずに食べています。
食材は買った以上は、きちんと食べる責任があるからです。
外食産業の経営者には、そういう責任感を持ってほしいと思います。

いずれにしろ、現在のような食品ロス状況は、変えていかなければいけません。
どうしたら変えられるか、そういう視点で、今回の事件を活かしていきたいものです。
私も、外食も含めて、食については、改めて無駄を避けるようにするつもりです。

長い割には、何か書ききれなかった気がします。
やはり記事の書き直しは、難しいです。

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