カテゴリー「企業時評」の記事

2009/11/18

■グローバル人材になるには祖国を捨てなければいけないのか

昨日、ある会で、衝撃的な、しかしとても納得できる言葉を聞きました。

人材育成をテーマにしたある研究会にずっと参加しています。
主なメンバーは大企業の人事関係の部長です。
そこで今年は、「グローバル人材」の育成がテーマの一つになっています。
昨日の会で、ある会社の人が、グローバル人材の育成の状況を説明してくれました。
前回もこの種の話が出たのですが、私には肝心のグローバル人材の意味がわかりません。
そこでドミナントの人材とグローバルの人材との違いは何なのかと質問しました。
その答えのなかに、「祖国を捨てること」という言葉が出てきたのです。
その一言で、私にはすべてが理解できました。
そもそもグローバルというのは、国境概念を超えることですから、当然のことなのですが、それが示している意味はとても大きいです。

実は、その前の話し合いでは、韓国のサムソンが一つのモデルになっていました。
ご存知の方もあるでしょうが、サムソンの事業モデルの根底にも、祖国を捨てる発想があります。
しかし同時に、強烈な祖国愛も感じます。
この問題は、これからの企業のあり方を考えるうえで、実に多くの示唆を含んでいます。

工業の根底にあるのは、土から離れるということです。
それが農業とは本質的に違うことです。
そして。土から離れる発想は、当然ながら「国を捨てる」ということなのです。
ここで大きな問題が出てきます。
国家制度と資本主義の関係です。

資本主義のグローバル化は国家を壊すという意見もありますが、そもそも資本主義は国家のサブシステム(手段)だという意見もあります。
私は後者の意見に賛成ですから、国家を捨てるという言葉に安易には賛成できません。
ありえないことだからです。
そこで思い出すのが、冷戦時代の諜報活動です。
諜報活動をしていた人たち、いわゆるスパイと言われた人たちは、国家を捨てたのでしょうか。
自国を裏切ったといえるかもしれませんが、所詮は別の国のために活動したのです。
平和や理念のためという人があったかもしれませんが、それは全く無意味な話です。
実際には、どこかの国家を利するだけでした。
思い上がってはいけません。

だんだん話が大きくなってきてしまいました。
時評編には無理がありますので、関心のある方はどうぞディベートしに湯島にお越しください。

それにしても「祖国を捨てる」とは衝撃的な言葉ではありませんか。
ちなみに、私は、「祖国を捨てるグローバル化」ではなく、「祖国(郷土)を起点にしたグローバル化」こそが大切だと思っている人間です、
日本企業は前者の意味でのグローバル化を志向しているようなのが、とても残念でなりません。

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2009/11/10

■企業が変わりだす予兆

昨日、経営幹部の方々を対象としたあるフォーラムで少しお話をさせてもらいましたが、かなり過激な話だったので、おそらく中には反発を感じた方もいるでしょう。
まあ、いつも私が話していることではあるのですが、今回は「金融資本の跋扈」などという、言わなくてもいい表現までついつい言ってしまいました。
金融関係の企業の人も少なくないので、いささか刺激的過ぎたかもしれません。
しかし、最近はこうした私の発言も少しずつですが伝わるようになりました。
同世代の知人たちは、ますます遠のいていくような気配は感じますが、まあそれも仕方がありません。

昨日の集まりは、経営道フォーラムという、25年前からの活動の発表会でした。
発表会の冒頭に少し話をさせてもらい、そこでもまた余計な一言を言ってしまいました。
バブル期の企業のあり方に危惧を持ってはじめたこの経営道フォーラムも、残念ながら成功していない、と言ってしまったのです。
私がやっているわけではなく、山城経営研究所というところがやっているのですが、考えようによっては大変失礼な発言です。
しかし、25年も企業経営者に「経営道」(経営の心と道)を訴える活動をし、既に1000人を超える受講生が出ているのに、日本の企業は決してよくなっていませんから、私の評価には反論できないでしょう。
しかし、折角の努力を否定するような発言はよくないかもしれません。

なぜ成功しないか。
私にはもちろん理由はわかっています。
それも事務局には何回も言っています。
要するに講師が悪いのです。
これまでの経済を支えてきた経営者を講師に呼んでいる限り、経営道などは身につきません。
私はそう考えています。
変革は辺境から起こる、その基本を忘れてはいけません。

1980年代ころから、日本の企業は変質しだしました。
「財テク」という言葉が生まれた時代です。
私が会社を辞めたのは、1989年です。
時代に抗して、会社で起こした企業文化変革活動は残念ながら挫折しましたが、そのおかげで会社を辞める決断ができました。

以来、20年、外部から見ている日本の企業の変質には大きな失望があって、仕事をするモチベーションが起きないまま、今になってしまいました。
しかし、もしかしたら、ここに来て、日本の企業は変わりだすのかもしれない。
昨日の集まりで、そうしたわずかな予兆を感じました。

このブログでも、そうしたことを少しずつ書こうと思います。
やはり企業がどう動いていくかが、社会の状況を変えていくことは間違いありませんから。

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2009/10/04

■緑字決算表

環境経営が話題になりだした頃、私も各社の環境経営に関する実態を知るために、各社の環境報告書を取り寄せて読ませてもらったり、各社の環境経営のトップにインタビューさせてもらったりしました。
もう10年以上、前のことです。
それを踏まえて、日本能率協会の環境経営提言の策定にも参画させてもらいました。
その時の感想を正直に書かせてもらえれば、形だけの対応が多いなという感じでした。
環境報告書もIR向けのものばかりで、作成の意図を疑いたくなるものばかりでした。
その後、環境報告書はCSR報告書に発展してきていますが、あまり実態は変わっていないように思います。
基本姿勢が間違っていると思えてなりません。

そうしたなかにあって、最初から共感できる会社がありました。
宝酒造です。
同社は「緑字決算」という概念を創りだし、それを軸にして、とてもわかりやすく実効性のある報告書と活動を続けています。
先週、今年度の「緑字企業報告書」が送られてきました。
感心するのは、年々、実践活動の内容が進化していることです。

環境経営に関心のある人にはぜひ読んでほしい報告書です。
宝酒造のホームページから読めます。
冊子が入手したければ同社に申し込めば送ってくれます。

緑字報告書は1998年から始まっています。
同社の吉田さんという若い課長から情熱的にその思いを聞かせていただいたのを今でも思い出しますが、とても残念なことに吉田さんは若くして急逝してしまいました。
もし吉田さんが健在だったら、私はもう少し環境経営に関心を持ち続けられたかもしれません。
しかし、宝酒造以外の環境報告書は私には退屈で、その後は読む気もしませんでした。

今回、久しぶりに緑字報告書を読ませてもらいました。
ちょっと化粧が濃くなったかなという気がしないでもありませんが、吉田さんの蒔いた種が順調に育ってきているようなうれしさを感じました。

温室ガス25%削減が話題になっています、その実現のヒントはこの報告書の中にたくさんなるように思います。

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2009/08/09

■株式会社「下請けの底力」

群馬県の中小製造業者らが株式会社「下請の底力」を昨日(2009年8月8日)立ち上げたという記事が朝日新聞に出ていました。
とても共感できます。
新聞によれば、大企業では応えられない、客の「困った」を見つけて新しい仕事を作る事を目指しているそうです。
呼びかけたのは東京でコンサルティング業を営む登内義也さんという人だそうです。
とても共感できますし、きっと成功するでしょう。
現場にこそ本物の力があると考えている私にとっては、とてもうれしい動きです。
30年前に思い描いていた「現場の反乱」が広がっていけば、日本の経済は全く違ったものになるでしょう。
それに現場の経済は、さほどお金は要らないはずです。
せいぜいが数十億でしょうから、みんなで力を集めたら手の届く額でしょう。
数十億といえば、かなり大きな額に思うホームページともいるでしょうが、個人企業である私でも数千万円の借金がありましたし、しっかりと仕事をしていれば、そしておかしなところから借りなければ返却可能な額なのです。
まあ10年はかかりますが、そのこと自体が仕事の進め方を誠実にしていくというメリットもあります。

仕事での協力だけでなく、資金的にもかつての無尽講のようなものを復活させていけば、おかしなファンドや金融機関からも自立できるでしょう。
それに無尽講のつながりは、単にお金だけのつながりではなく、支えあう関係を必ず生み出すはずです。
そこでは「お金」の意味は一変します。

社会や経済が壊れだすと、必ずその一方で新しい動きが起こります。
そうした中から、どれが私たちにとって豊かな未来を生み出してくれるのか、しっかりと判断する目を持たなければいけません。
株式会社「下請けの底力」には、たくさんのヒントが含まれています。
私たちにもできることを教えてくれているように思います

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2009/06/10

■鳩山総務大臣へのエール

日本郵政の西川社長人事をめぐって、鳩山総務大臣と他の閣僚との間での不調和音が話題になっています。
与謝野大臣は、小さな問題などと言っていましたが、この人はどこまでも無責任な対応しかしないようです。

私は、これは決して小さな問題ではないと思っています。
民営化というものが意味する本質的な問題(それもありますが)が含意されているからではありません。
日本の国のかたちに関わる問題だからです。

官僚国家状況を脱するために、官僚の力をどう弱めるか、政治がどう主導性を取り戻すかが議論されていますが、官僚国家は官僚だけで完結しているわけではありません。
防衛省の守屋元事務次官の犯罪が明らかにしているように、あるいはC型肝炎事件での厚生労働省の職員たちのおぞましい犯罪が明らかにしているように、官僚の背後には企業がいます。
官僚は、その手先でしかありません。
せいぜいが数億円程度の小銭しか分けてもらえないでしょう。

しかし産業界の得る利益は、そんな小銭ではありません。
もちろんすべての企業というわけではありませんが、財界や産業界の大きな枠組みを悪用している経済人こそが、もしかしたら官僚政治の黒幕なのかもしれません。
その意味で、この事件は政治が主導性を回復できるかどうかに深く関わっている問題ではないかと思います。

私は、企業の経営者にも知人がいますし、素晴らしい経営者にも出会うことは少なくありません。
大企業の社長でも、素晴らしい人物はいないわけではありません。
しかし、昨今の財界を動かしている経営者には全くと言っていいほど信頼はもてないでいます。
まあ、最近はそんなに知っているわけではありませんが、常識的に考えて、公正さや誠実さを感じられないことが多すぎます。

問題は仕組みであり、責任の取り方だろうと思いますが、
しかし西川さんの対応振りを見ていると、こういう人が日本の財界のキャストとして利用されているのだなと少し哀れささえ感じてしまいます。
少し読みすぎかもしれませんが、この事件に、ことの本質が現われてきているように思えてなりません。
真の悪人は、いつも見えないところにいるものです。

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2009/05/20

■いつの間にか容量が減っていた騙し商法

私は時々、スーパーに食材などを買いに行きます。
実際に購入するのは娘たちなのですが、私もできるだけ彼らに付き合って、実際に自分でも買物をかごに入れます。
基本は、わが家の近くにあるライフですが、比較するためにほかの店にも定期的に行きますし、新しい店が出来ればできるだけ早い時期に行くようにしています。
私の関心事は、食材や日用品を扱っている大型・中型店です。
その店頭を見ていると、社会の動きも少し実感できます。

最近とてもいやなことが増えています。
それは同じ商品なのに中身を少しずつ減らす動きです。
消費者を騙す方策に思えてなりません。
乳製品やお菓子類に多く見られます。
たとえば、明治乳業や森永乳業の商品です。
私がかなり高く評価していた企業ですので、とても残念です。
典型的なのはマーガリンです。
1年前までは400グラムが基本でしたが、今は何と300グラムです。
この間、時間をかけて、内容量と価格を操作してきていますので、おそらく中身がこんなに減少していることに気づかずに購入している人も少なくないでしょう。
明治乳業の人気商品のブルガリア・ヨーグルトも、いつの間にか容量が減少しています。
これはパッケージングを変えていないので、いささか悪質だと思います。
私には許しがたい行為です。

お菓子類はもっとあからさまです。
ビスケットなどは見るからに小さくなっています。
価格が変わらなくても、実質的な値上げと言うことです。
値上げ率はかなり高いはずです。

こうした「騙し商法」は昔からよくあります。
前に単に想定を変えただけで新刊書のように販売する講談社の話を書いたことがありますが、騙される方が悪いといってしまえば、それまでですが、そうした繰り返しでは、消費者はますます企業への不信感を高めるでしょう。
消費者が企業を信頼できないということは、双方にとって不幸なことです。

しかし、よく考えてみると、これこそがこの50年の企業戦略だったのかもしれません。
大量生産というのは、まさにそうした商品の質の低下につながっているのかもしれません。
工業化された農業もそうです。
50年前のほうれん草と今のほうれん草は、見かけは同じでも、栄養的には全く違うものだという話を聞いたことがあります。

食べるものが変わってくれば、食べている私たちも、もしかしたら変わってきているのかもしれません。
そういえば、最近の人は昔に比べて「小粒」になったという話もよく聞きます。
そう考えると、何やら昨今の状況が奇妙に納得できてしまいます。

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2009/04/12

■企業献金議論の限界

企業献金に関しては、こういう議論があります。
いつも冷静に問題解析している日経の加瀬記者が盛んに話す論理です。

もし企業献金が何らかの見返りを求めるのであれば、買収につながる。
もし見返りを求めないのであれば、株主に対する背任行為になる。
だからいずれにしろ、企業献金は全廃すべきである。

おそらく多くの人は「なるほど」と思うでしょう。
しかし私は、1970年代に世界を席巻したフリードマンの亡霊を感じます。
私の考えでは、想像力の欠如です。
想像力の欠如は、社会を偏った方向に向かわせかねません。

フリードマンは、企業の社会貢献活動を否定しました。
裁判では時代の流れの中で、企業の社会活動は認められる方向で動きましたが、時代はそうしたフリードマンの経済思想で動いてきました。
そうして金融不況が発生したのです。

1960年代のアメリカで、「コーポレート・シチズンシップ」の議論が広がりました。
企業も社会の構成員として、しかるべき社会活動をすべきだという議論です。
日本でもその発想は紹介されましたが、大学教授の世界でしか話題にはなりませんでした。
私の記憶では、経営者の社会的責任を議論していた当時の経済同友会さえもあまり関心を持ちませんでした。

1990年代になって、コーポレート・シチズンシップは日本の企業にも広がりだしました。
そのきっかけをつくった一人は、当時、笹川平和財団にいた田中弥生さん(最近の「NPO新時代」の著者)です。
彼女が中心になって、「コーポレート・シチズンシップ」を出版するのに協力し、ささやかにその考えの広がりを応援しました。

そのときに、こうした活動の基本にあったのが、”Enlighten Self-Interests”(啓発された自己利益)という考え方です。
社会は企業の存在基盤です。
社会が健全で元気であってこそ、社会も元気になります。
決してその逆はありません。
1990年代、IBMは、企業の社会活動(コーポレート・シチズンシップ活動)は企業にとっての存続に関わる課題(サバイバル・マタ-)だと言っていました。
ところが、フリードマンのような「有識者」や「経営学者」が、その足を引っ張り、企業に短視眼的な儲け主義を植え付けたのです。

さて、企業の政治献金です。
目先の工事受注のための献金が問題なのはいうまでもありません。
しかし、長期的な視点で政治に献金していくことは、むしろ大切なことだと思います。
そうしたことを考えずに、何でもかんでも企業の政治献金はやめるべきだという人に、ぜひ考えてほしいものです。

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2009/04/02

■これまでの仕事観や経営観からの脱却

経済はますます悪化していくという報道が多いです。
みんな先行き不安感を強めています。
不安感を与えすぎだと思いますが、社会に不安感が広がる(広げる)ことの意味はよく考える必要があります。
マスコミの増幅機能に関しては以前も書きましたが、使い方によっては大きな弊害を起こしかねません。

景気の浮き沈みはいつの時代にもありましたし、悪い話の反対側には良い話があるのも経済の特徴です。
実体経済を「生活の経済の反映」と考えれば、そんなに大きな変動はありえません。
もし貨幣がなければ、私たちの暮らしの経済は変動しようがないからです。
金融機関のみならず、メーカーさえもがレバレッジ発想を持ったことが今回の変動を大きくしていますが、その発想そのものがすでに従来の実体経済発想をはみ出してしまっています。
トヨタの大幅生産減は、自動車を一種の金融商品にしてしまった結果です。
メーカーとしての経営を逸脱したといってもいいように思います。
いまそれがまた修正されている過程だと考えられます。

問題は、広がる雇用解雇です。
これもしかし、かなり前から問題としては明らかになってきていました。
つまり「労働の終焉」というテーマです。
技術の進歩により生産性は飛躍的に高まり、従来型の発想での「仕事」は減少してきています。
にもかかわらず、経済や政治は「仕事観」を変えていませんし、私たち自身も「仕事観」を変えていませんから、そのずれの中で、雇用解雇が問題として起こってしまうわけです。

私は21年前に、仕事観を変えて、会社を辞めました。
そして「働くでもなく遊ぶでもなく休むでもなく学ぶでもない」生き方にはいりました。
仕事をすることは「お金」をもらうことではなく「お金」を使うことだと発想を切り替えました。
もちろん結果としてお金をもらえることも多く、生活にはさほど支障はなく、いまもその生き方を続けています。

しかし、テレビなどを見ていると、たしかに深刻な話は増えています。
私は時間をかけて生き方を変えることが出来ましたが、一挙に変化の衝撃を受けたところは大変です。
もちろん実際にはじわじわと追い込まれていたのだと思いますが、現場の真っ只中にいるとなかなか変化は見えません。
誠実に生きている人ほど、見えないところが悩ましい話です。

そんななかで、「100年に一度のチャンス」などと脳天気のことを書いていると、怒られそうな状況がテレビでは報道されます。
たしかに企業をどうにかして倒産させないようにと日々苦労している経営者の人には私の発言は怒られても仕方がないでしょう。
それを承知で、しかし、生き方を変える契機にしてほしいと、やはり思います。

経営者が一人で悩むことの限界は明らかです。
しかし、企業に関わる従業員みんなで誠実に考えたら解決策はあるはずです。
解決策は現場にある、というのが私の考えです。
その基盤として、オープンブックマネジメントの発想が必要だと思い、以前、その本も翻訳出版させてもらいました。
当時は、オープンブックマネジメント発想さえ持てば、企業はすべて元気になると思っていましたが、残念ながらこの本は売れませんでした。

また長くなってしまいましたが、仕事観や企業経営観を変える時です。
従来型の発想の呪縛から自らを解き放せば、新しい解決策が見えてくるように思います。
大切なのは、支えあいながら生きることであって、仕事や企業ではありません。

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2009/03/29

■「国家統治視点」から「個人生活視点」への転換

何回か書いていますが、社会構造原理をパラダイム転換する必要があると、私は思っています。
組織起点発想から個人起点発想への転換です。
簡単にいえば、これまでのような「国家(組織)統治視点」ではなく、「個人生活視点」から発想しなおしていこうということです。
こういうように発想の起点を変えると、世界の風景は一変します。

たとえば経済です。
そもそも経済は、「政治経済学」といわれるように、国家統治のための学問としてスタートしました。
その発想からの経済は「交換価値」としての貨幣が主役になります。
つまりそこには必然的に金融資本主義への道が用意されています。
しかし、個人生活の発想からは貨幣は交換手段のひとつでしかありません。
一番大切なのは、生活のために役立つ「使用価値」が主役になります。
貨幣は、実際の生活には直接的には何の役にも立ちません。
しかし、組織起点発想に陥っている私たちは貨幣がないと生活できないと思い込んでいます。
前にも書きましたが、国内総生産は統治の概念であって、生活の豊かさとは無縁の概念です。
現在の景気浮揚策の欺瞞性が見えてきます。

企業はどうでしょうか。
業績が悪化すると企業は従業員を解雇して、業績の回復を図ります。
しかし、従業員を解雇して業績を回復した企業とは何でしょうか。
解雇された従業員にとっては全く意味のない存在ですし、残った従業員にとっても要するに今回は解雇を免れただけの話です。
そうした企業経営の発想には個人の生活視点などないわけです。
しかしそれでは企業は持続可能性をもちえません。
財界のトップたちは、経営というものを学んでいません。

福祉はどうでしょうか、
介護保険制度はたしかに介護福祉の世界に大きな光を当てました。
しかし、制度はすべて個人の事情を配慮できませんから、そこから抜け出たものは少なくないはずです。
制度を維持することが優先されて、個人の特有の事情は、制度に当てはめられることを強制されるでしょう。
しかし、そもそも福祉とか介護は個人的なものなのではないかと思います。
個人の生活視点から発想していくと、たぶん現在の制度とは違ったものになっていくでしょう。
制度が生活を壊すことは避けなければいけませんが、発想を変えなければそうなりかねません。

政治はどうか。
最近、熟議民主主義と言う考え方が広がっています。
そこでは合意形成さえも必ずしも求められません。
熟議の過程が重視されます。
多数決民主主義は統治のための制度ですが、そうではない政治の芽が出始めているようにも思います。
その発想からは小選挙区制や二大政党制などは絶対に出てきません。

他にもいろいろと見えてくることがあります。
勝つためのスポーツではなく、楽しむためのスポーツ。方向づけるためのアーキテクチャーではなく、個人を輝かすアーキテクチャー。あるいは訓練する現在の学校とは違った個人を伸ばす学校など、さまざまな地平が開けてくるはずです。

そして、その発想の基盤に立てば、私たちの生き方も変わってくるはずです。
自分の目で見、自分の言葉で語ることができるようになります。
小沢事件の本質もそこから見えてくるような気がしています。

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2009/01/12

■互恵的懲罰と利他的行為

直接的には自分の得にはならないのに、というよりもむしろ損になりかねないのに、誰かに迷惑をかけるような行為をする人を注意したり、その行為を防止したりすることを「互恵的懲罰」と呼ぶそうです。
また、自分の利益ではなく、他人の利益につながる行為を「利他的行為」といいます。
この両者には、正の相関関係があるといわれます。
つまり、互恵的懲罰が増えれば利他的行為が増えるということです。
互恵的懲罰はある種の利他的行為ですから、これはトートロジーのような気もしますが、平たくいえば、みんながお互いに注意しあうことは、支えあうこととつながっているということです。
それが、社会の基盤をしっかりとしたものにし、社会を豊かにしていくことはいうまでもありません。

この視点で、最近の政治や経済、あるいは社会を見ると、いろいろなことに気づきます。
「支え合いの文化」や「注意しあう文化」が失われてしまっているために、みんな互恵的懲罰や利他的行為に無関心になってしまっているのです。
いや、その余裕がなくなっているというべきでしょうか。
そしてそれが社会の秩序を壊し、結局は自らのダメッジを大きくしていくという悪循環に陥ってしまっているのです。

大企業の業績悪化の一因はそこにあるように思いますし、政治における閉塞状況の原因もまた、そこにあるような気がします。

不条理な解雇が広がる中で、一部の企業が支え合いの文化、つまり雇用を守ることを起点とした動きを見せだしています。
そこから財界の中心にある大企業の人間軽視の流れへの見直しが始まることを期待したいです。
互恵的懲罰や利他的行為は、結局は自らの存在基盤を強めていくはずです。
大企業は、そうした動きのフリーライダーになるべきではないでしょう。

渡辺喜美議員が麻生首相に異議申し立てをして、自民党を離党することが確実になりました。
昨今の状況から何人かは一緒に行動を起こすと思っていましたが、誰も付いていかないようです。
今回の渡辺議員の行動は、互恵的懲罰でも利他的行為でもないかもしれませんが、なんだかつながっているような気もします。
ここでもフリーライダーがたくさんいそうなのが気になります。

しかし、新しい動きの予兆を、それぞれに感じます。
そう期待したいものです。

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