カテゴリー「企業時評」の記事

2017/06/27

■企業の人たちと話していて感ずること

昨日は山城経営研究所のエグゼクティブフォーラムの、私の担当チームが湯島にやってきました。今月初めに奈良で合宿をして、一応、大きな方向性は出したのですが、それをもう少し深掘りするのが目的です。
7つの企業に属する管理者がメンバーですが、今回の共通テーマは、多様な価値観を持った社員を活かす組織(職場)にするにはどうしたらいいかというのが、みんなの関心事です。
答は極めて簡単だと私は思いますが、日本の現在の企業は、ダイバーシティ戦略などと口では言っていますが、実態はむしろヒューマンファクターを抑圧しながら思考停止した部品化を社員に求めているようにさえ、私には感じられます。
1980年代に広がりだした、生命論的組織観やオートポイエティック発想は後退しています。

企業の人たちと話していると、日本企業の実相が伝わってきます。
長年、この活動をしていて感ずるのは、日本の大企業からイノベ―ティブなアントレプレナーシップが消えてきていることです。
一言で言えば、日本の企業経営は大きく劣化してきています。
働き方改革が話題になっていますが、そもそもその問題の立て方が間違っていると思えてなりません。

30年程前に、ある企業が経営理念に「月曜日が楽しい会社」を標榜したことがあります。
そこで前回の合宿で、参加者に問いかけました。
「あなたは月曜日が楽しいですか?」と。
昨日のメンバーの中には「月曜が楽しい」という人がいましたが、管理者が月曜が楽しいと思っている会社がどのくらいあるでしょうか。
もちろん「日曜も楽しいが月曜も楽しい」が理想ですが。
大切なのは「働き方」ではありません。
仕事そのもの、企業活動そのものです。
問題の設定を間違えている以上、日本の大企業は元気にはならないでしょう。

このミーティングの前に個人の起業家と会い、その後は社員30人ほどの企業の社長と会いました。
2人とも山のような課題を背負って苦労していますが、楽しそうでした。

今日は朝から夜まで、ビジネス関係の人との議論でした。
福祉の分野から見えるものとはまた違った世界が見えてきますが、いずれも悪い意味で近づいているような気がします。

ちなみに、このチームに参考図書として挙げた1冊は藤井聡さんの「〈凡庸〉という悪魔」です。驚くことに少なくとも2人の人が読んでくれました。
http://cws.c.ooco.jp/book2.htm#006

企業という組織に使われるのではなく、企業という組織を活用して、価値を創りだす仕事をもっと多くの人に楽しんでもらいたいです。
Kae20170626


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2017/03/21

■企業サロン「働き方を考える」の報告

第2回企業サロンは、組織と働きがい研究所代表の斎藤智文さんに問題提起してもらい、「いまのような働き方・働かせ方でいいのだろうか」を話し合いました。
大企業の管理者の立場にある人、保健師や産業カウンセラーとして企業に関わっている人、大学でモチベーションや労働心理学を研究している人、経済団体でそうした問題にも広く関わってきた人、子どもの育児のために会社を辞めて主夫行をやったことのある人など、さまざまな立場の人が参加しました。
多彩のメンバーなので、話し合いは、かなり広がりました。

斎藤さんは、日本に“Great Place to Work”調査を取り入れた人ですが、組織と働きがいの研究や実践支援をライフワークにしています。
案内にも書きましたが、「社会全体の働き方に関する価値観」も変えていかなければいけないというのが、斎藤さんの思いです。
私もこれまでいろんな意味で、たくさんの示唆をいただいている人です。

まず、斎藤さんの考えていることや日本での働き方に関する動きの推移などをはなしてもらい、そこから話し合いになりました。
斎藤さんは、話し合いのきっかけとして、長時間労働や競争に参加するための働き方の変化、さらには労働の質の変化などの話題を出してくれました。
そこからいろんな話し合いが広がりましたが、もしかしたら最近の「働き方改革」が労働時間の問題を中心に語られているところにこそ、本質的な問題があるのではないかという議論がありました。
また、働き方改革は、消費者や生活者の生き方にも、つながっているという指摘もありました。
斎藤さんも、働き方は生き方の問題でもあると考えていますが、これは今回参加者のみなさんに共通していることでした。

斎藤さんはまた、「生産性を高めること」が働く人にとって苦痛であることが大きな課題ではないかと指摘しました。
私もそう思います。そもそも生産性向上とは何なのか。
そこで私は、その言葉の対語を考えることが大切ではないかと思いました。
あるいは、誰にとっての生産成果を考えることが必要ではないか。
湯島のサロンでも一度問題になったことがありますが、工業の視点からの生産性と日本の伝統的な農業の視点からの生産性は、たぶん違います。
ちなみに、私は「生産性向上」の対語は「人間性(生活)向上」だと思っています。

大企業の方が、自分の職場で取り組んだ、実践的な話をしてくれました。
組織に合わせる仕事の割り振りではなく、社員に合わせた仕事の組み替えによって、経営にとっての生産性と個々の社員にとっての生活のしやすさが両立し、双方にとってのウィンウィン関係が実現したという話です。
働き方と働かせ方が、あいまって双方に好ましい結果を生み出したわけです。
もっともこの話には後日談があるのですが、そこに大きなヒントがあるのではないかという話も広がりました。

他にもいろんな話が出ましたが、私にはとても刺激的なサロンになりました。
大企業の経営管理職の人の参加が少ないのが、とても残念ですが、引き続き継続したいと思います。
できれば次回は、世界に広がりだしている、話題のBコーポレーションの認定を受けた会社の社長に話題提供してもらおうと思います。
そういうテーマだと大企業の人も参加しやすいでしょうから。
彼が引き受けてくれれば、の話ですが。
いずれにしろ日本の企業経営は、私の目から見ると時代の流れに逆行しているように思えてなりません。

ところで、斎藤さんのレジメの中に、こんなことが書かれていました。
「変化を拒絶するので、よい習慣が身に付かない」
「いつも通りを維持したがるので、悪い習慣が止められない」
ここに問題の本質があるような気がしました。

そこで最後にこんな提案をさせてもらいました。
アメリカでは30年程前、ロバート・ベラーを中心としたグループが、社会的な活動をしているさまざまな人たちにインタビュー調査をし、それを踏まえて、極めてライブな「心の習慣」「善い社会」をまとめました。
それをモデルに、日本でもその種の調査があり文献も出ています。
いまもその種の取り組みはあり、私も一昨年、インタビューを受けたのですが、同じような手法をベースに「日本人の働き方」をテーマに、社会調査をするプロジェクトを起こせないかという提案です。
斎藤さんには事前に少しお話をしていて、興味を持ってもらっていましたが、その提案をしたら、早速、数名の方が一緒にやりたいと言ってくれました。
できれば一度、そうしたことを考えるチームも発足させられればと思っています。
企業サロンから生まれたサブプロジェクトですが、関心のある方はご連絡ください。


Saitousalon


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2017/01/29

■第1回企業サロン「電通社員過労自死問題から何を学ぶか」の報告

昨日、第1回の企業経営サロンを開催しました。
会社を辞めた時から、つまり30年近く前からやりたかったことの一つに、「企業時評」というテーマがあったのですが、ようやくそれに取り組むことにしました。
これは、企業に関わる「事件」を材料にして、そこからこれからの企業経営や自らの働き方を考えていこうというものです。
今回は、電通社員過労自死問題を切り口に、最近話題の「働き方改革」を話し合うことにしました。
当初は、私が長年関わってきた経営道フォーラムの最近のメンバーだけを対象にしようと考えていました。
経営道フォーラムでは、抽象的な議論になりがちで、ケーススタディに基づく具体的な話し合いはなかなかできませんので、いわば経営道フォーラムで学んだことを実践的に消化する場にしたかったのです。
10人ほどを想定していたので、最近のチームメンバーに限って控え目に案内しました。
1つのチームだけでも、フォーラム期間中であれば、6人前後は来ますので、集まり過ぎたらどうしようなどと考えていたのです。
ところが参加申し込みは5人。
それで、開催前日にフェイスブックなどで公募しました。
結局、半分は経営道フォーラム以外のメンバーになりましたが、むしろそれがよかったような気がします。
2回目からは、公開で開催する予定です。

話し合いは、それぞれがまず事件に関する感想などを述べることから始めました。
実は、事件に関わるアクターを整理したペーパーは用意しておいたのですが、そんなものは不要でした。
それぞれからとても多様な視点と問題提起がありました。
私が気づかされることもたくさんありました。
話の内容は一切省略しますが、いまの企業や社会のあり方、教育や報道のあり方、あるいはSNSとコミュニケーションの捉え方にまで話は広がりました。
過重労働問題や働き方・働かせ方の問題、さらには日本の企業の生産性の低さも話題になりました。
3時間経過しても終わりそうもないほどでしたが、改めてこうした話し合いの場の大切さを感じました。
そして、こうした「事件」に対して、批判するのではなく、そこから学ぶことが、企業関係者にも私たち生活者にも、もっと必要なのではないかと思いました。
それがあれば、同じような事件が、繰り返されなくなるかもしれません。
そして、何よりも、働く人も企業経営者も、そして社会も、少し賢くなるかもしれません。

サロンの最後のあたりになって、「働く」とは何なのだろうかという話になりました。
私たちは、そろそろ「働くことの意味」を問い直す時期に来ているように思います。
「働かせ方」や「働き方」も大切ですが、そもそも「働くとは何か」ということです。
子育て問題が待機児童数解消という数量の問題になっているように、働き方改革が労働時間という数量の問題になりがちなのが、私には違和感があります。
問題の立て方を間違うと、解決どころか事態を悪化させることにもなりかねません。
そういう意味でも、「電通社員過労自死問題」は大きなメッセージを与えてくれているように思います。

今回は報告の内容は一切省略しましたが、とても気づきや学びの多いサロンでした。
次回のテーマはまだ決まっていませんが、決まったらまたご案内します。
毎月開催していく予定です。
もしどなたかこんな問題で話し合いたいということがあれば、お知らせください。
ただし、具体的な「事件」や「事例」を切り口にするスタイルは大事にしたいと思っています。

Kigyousalon


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2016/05/17

■28年間、経営道フォーラムというプログラムに関わらせてもらっての感想

昨日は、椿山荘で、経営道フォーラムの発表会でした。
企業の不祥事が多かった1980年代、経営者に「経営の心と道」を学んでほしいという市川覚峯さん(現在は日本経営道協会代表)の思いから始まった「経営道フォーラム」というプログラムがあります。
市川さんの思いに共感して、そのプログラムに関わらせてもらってきましたが、昨日、58期の発表会を持って、私はコーディネーター役を辞めさせてもらうことにしました。
強い自責の念があります。

私のスタンスは、最初から全く変わっていません。
私が考える「経営道」とは生きる主軸を確立するということです。
「営み」の軸になるような「経」、つまり原理原則を大事にするということです。
平たく言えば、経営技術者や金銭管理者ではなく、主体性を持った人間になってほしいという思いです。
そのためには、自分の企業という「たこつぼ」から出て、広い世界を生きなければいけません。
そういう思いから、受講生のみなさんには、企業に使われるような経営者ではなく、企業を活かして、社会を豊かにしてくれる活動に目を開いてもらうような刺激を、ささやかに与えてきました。

その私の思いは、残念ながら果たせませんでした。
最近もまた、企業の不祥事が話題になっていますが、日本企業の経営者の多くは、企業を活かして社会を豊かにするどころか、企業に寄生して、社会をむしばんでいるような気さえします。
経営者だけではありません。
社会全体が、金銭利得に覆われてしまい、多くの人は「人間」であることさえ忘れかねているように思います。
そうした無力感から、辞めることにしたのです。

そして昨日は、椿山荘で最後の発表会でした。
最後は、とてもいいチームに恵まれ、その発表に対して、参加者が「静かな感動を受けた」と言ってくださるほどでした。
私も感動しました。
そして、もう少し続ければよかったかなという未練さえ感じました。

最後に、会場に向かって、いささか場違いな話もさせてもらいました。
広い世界を見てください。そうしたら企業を通してできることは山のようにあると話しました。
子どもの育ちの現場をもっと知ってほしいとも話しました。
ちょっと感情が入りすぎてしまい、伝わったかどうかは疑問ですが。

この数十年の経済学は、現場から離れた、演繹的な公理をベースにしたフィクションエコノミクスだと言われだしてからもう10年以上経過します。
私自身、会社時代からずっとそう思っていました。
経済学の前提にある公理は、私には非現実的なものばかりでした。
言葉と論理だけで、経済は日常生活とは、無縁な世界を構築し、企業はそこでのメインアクターとして、金融工学に基づいて、社会を市場化してきています。
汎市場化の中で、最近のオリンピック関連のさまざまな騒動に見られるように、スポーツも市場化されました。
環境や福祉の世界もまた、どろどろしたお金の世界になってきてしまい、本来的な環境保全や福祉はどこかに押しやられてしまいつつあります。
いまや経済は、生きた人間のための経済ではなく、死臭の立ち込めた市の経済になってきています。
改めて、生きた経済を回復しなければいけません。

経営学もまた、演繹起点の世界を構築し、企業から生きた人間を放逐しだしています。
それでは企業は元気になるはずはありません。
経営の基本は、生きた人間の無限の能力でなければいけません。
企業経営の要である、戦略も組織も、生きた人間が主役なのです。
それを忘れた企業は、単なる金銭増殖機械でしかありません。

感情が入り込んできて、少し書きすぎました。
経営道フォーラムのこれからに期待しています。

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2016/03/14

■カフェサロン「スワンベーカリーの目指していること」の報告

今回は、2年ほど前に、スワンベーカリーを経営している株式会社スワンの社長になった岡村さんが話題提供をしてくださいました。
予想を超えて、17人もの参加になり、いささかあわててしまいました。
しかし、スワンベーカリーへの関心がこれほど大きいことはうれしいことです。

スワンベーカリーは、「障がいのある人もない人も、共に働き、共に生きていく社会の実現」というノーマライゼーション理念のもとに、障がい者の経済的自立支援を目的に、『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親の小倉昌男さんが始めた、パン製造販売を行うフランチャイズチェーンです。軽食も提供する喫茶店も展開しています。

岡村さんは、ヤマト運輸で長年バリバリのビジネスマンとして働いてきました。
私が出会った当初は、まさに同社の戦略参謀スタッフでした。
それが思いもしなかったスワンの社長を引き受けることになったのです。
岡村さんは、まずその時の思いを、とても素直に話してくださいました。
それまでは他人事だったスワンの世界が、入ってみるととても生き生きした世界で、経営に関する考え方も、企業そのものの捉え方も、(たぶん自らの人生観も)変わってきたようです。
岡村さんが語るスワンのお話には、あたたかさを感じましたが、話したいことが山のようにあるようで、次から次へと話が飛び出してきました。
それだけ岡村さんは、この2年間、充実した時間を過ごしてきているのでしょう。
それだけで、私はスワンという会社の素晴らしさを感じました。

お話の内容を中途半端に紹介するのはやめますが、岡村さんが話してくれた4人のスワンの社員(岡村さんは「スワンの仲間」と表現しました)の話はとても示唆に富んでいると思いました。
障がいがあるために働く場が得にくい人たちにとって、いま何が一番大切なのかが、そこに表れていますし、障がいとは関係なく、そこにいまの時代の働き方や働く場の問題と解決のヒントが象徴されているように思いました。

話し合いではさまざまな話題がでましたが、私の勝手な感想を述べれば、やはり私たちはまだ金銭経済や工業経済の発想から抜け出せていないということです。
スワンで働くことで、授産施設などに比べると10倍ほどの給与を得ることができ、障害者手当を含めれば、経済的には生活が自立できるかもしれません。
しかし、スワンの意味はそれだけなのだろうか。
それにまだ、そうした人はとても少ないでしょう。
企業の障害者法定雇用率をもっと高めるべきではないかという話も出ました。
障がいの子どもを持つ親にとっては、自分の死後、子どもが働けなくなった後のことも心配ではないかという話が出ました。
障がいを持つ子どもの母親からも、なかなか雇用してもらえないという悩みも出ました。

もちろんいずれも大事なことです。
しかし、私には、そもそもそういう発想を問い質すべきではないかと思っています。
そういう発想が、いまの生きづらい社会をつくりだしてきたのではないか。
スワンで働いている人たちにとって、一番の喜びはなんなのか、をしっかりと考えてみたいと思います。

そして、実は「障がいをもつ人たち」の働き方を考えることは、働き方そのものを考え直すきっかけになるのではないかと思います。
障がい者雇用を進めているアイエスエフネットの社長の渡邉幸義さんは「障がい者が入社してくれたおかげで社員みんながやさしくなった」と言っています。
だとしたら、障がい者(高齢者や認知症の人も含めたいです)がいるだけで社会はやさしくなるのではないか。

ちょっとテーマは違いますが、スワンベーカリーのお店による味の違いの話も出ました。
スワンベーカリーは、いまは全国に29店舗(直営店は4つ)展開しています。
そのため、お店(地域)によって味も少し違うようで、それをそろえてほしいという声が出ました。
これもとても重要な問題だと思います。
私はスワンベーカリーにはマグドナルドのような均一の味になってほしくはありません。
と同時に、むしろ地域の人たちも一緒になって、スワンベーカリーのお店を良くしていくという関係が生まれていけばいいなと思っています。
ここにも、いまの社会のあり方や私たちの消費活動のあり方を考える重要な視点があります。

岡村さんは、本社時代に社風刷新に取り組みましたが、その時、「社風は勝手には悪くならない、(もし悪くなるとしたら)そこにいる人が悪くしている」と考えたそうです。
そして、経営には人柄が出ると言います。
とても共感できます。
「社風」を「社会」に替えても成り立つでしょう。

岡村さんはまた、障がいを持つ人の働き場づくりだけではなく、「生きにくさ」の解決にも取り組みたいと話しました。
スワンで得た気づきやノウハウが、いつか日本の会社や社会を変えていく動きにつながっていくと私は信じています。

岡村さんは、参加者のためにスワンのマドレーヌを持ってきてくれました。
お話をしてもらうのに、逆にお土産まで持ってきてもらう、これが湯島のみんなが育てるサロンの特徴の一つです。
何とか頑張って、この場をつづけていこうと改めて思いました。
岡村さん、ご多用のなか、ほんとうにありがとうございました。

私も、岡村さんと同じく、書きたいことが山のようにあって、長くなってしまいました。
すみません。


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2016/02/10

■「仕事における居場所感」報告サロンの報告

昨日の「仕事における居場所感」の報告サロンは、意図に反して、企業関係者は少なく、多彩なメンバーの集まりになりました。
今回の話題提供者は、慶応大学湘南キャンパスの4年生の氏家さんです。
昨年彼が行った、主に企業の人を対象にした居場所概念の構築のための調査報告をしてもらい、それに基づいて参加者が話し合うサロンでした。
氏家さんの調査には私もささやかに協力しましたが、今回、改めてさまざまな人が、若者の報告を誠実に聞き、いろいろと意見を出してくれたのがとてもうれしかったです。
若者であるが故の未熟さは多々ありますが、だからこそ、それを誠実に聴き、真摯に話し合いを重ねていくことこそが、私のように歳を重ねたものの責任だろうと私は考えています。

氏家さんは、居場所感の構成要素として、「当事者意識」「関係性」「自己効力感」を抽出し、またソーシャルサポートの影響なども解析しています。
詳しい内容に関して関心のある方は、ご連絡いただければ、氏家さんにつなげますので、ご連絡ください。

この分野のプロでもある斎藤さんや本間さんも参加してくれましたし、わざわざ長野から参加してくれたNPOの江村さんもいます。
社会活動でお忙しい折原さんも、元日経記者だった坪田さんも参加し、いろいろとコメントしてくださいました。
この調査にやはり最初から協力してくれた大坪さんも参加してくれました。
そうした多彩な立場からの話し合いも行われました。
話しは多岐にわたりました。
そもそも「仕事がある」ということが、居場所を創りだしているのではないか、そもそも仕事もない人は、居場所感以前の状況にあるのではないかという話もありました。
「居場所がない」という言葉は、よく聞かれますが、そこにはさまざまな意味が込められているようです。
「仕事」とは何なのかという話もありました。

氏家さんの報告を聞いていて、私が感じたのは次の点です。
・居場所は「与えられるもの」なのか「創りだすもの」なのか。
・仕事場での居場所と社会との居場所はどう関係するのか。
・閉じられた居場所感と開かれた居場所感があること。
こうしたことを考えていくと、いろいろな面白テーマにたどり着きそうです。

氏家さんの調査研究活動は、まだ入り口に立ったところです。
これからが楽しみですが、体験豊かな多くの人にいろんなコメントをもらって、これからさらに豊かなものになっていくでしょう。
参加してくださったみなさま方には、とても感謝しています。
ありがとうございました。

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2016/01/21

■賞味期限切れ間近の食品の横流し事件に思うこと

CoCo壱番のカツ横流し事件を発端にして、他にもたくさんの廃棄食品が横流しされて、再び市場に乗ってしまっている事例が次々と報道されています。
何をいまさらと言いたい気分もありますが、不思議なのはこういう事件が起こると似たようなことが次々と記事になることです。
それはおそらく、そういう事実や状況を、業界の人たちは知っているからではないかと私には思えてなりません。
知っていてなぜ変えられないのか。
そこにこそ、問題の本質があると思うのです。
そう考えると、今回の横流し事件報道に関しても、「問題の捉え方」が違うのではないのか。
ダイコーだけを責めていいのか。
もっと奥深いものがあるのではないかと思うのです。

昨年、CoCo壱番屋の創業者の宗次徳二さんの講演をお聞きしました。
宗次さんは、道端の草を食べるほどの貧しさの中で育ったという自らの子ども時代のことを話されました。
それが実に心に響くもので、「CoCo壱番屋」に行かなければと思っていました。
食材や「食べるということ」を大切にしているお店だと思ったからです。
残念ながらまだ行っていないうちに、こんな「事件」が起きました。
そして、やはり行くのをやめることにしました。
悪いのは、CoCo壱番屋ではなくて、横流ししたダイコーではないか。
CoCo壱番屋はむしろ被害者ではないかと、多くの人は思っているのかもしれません。
私は、そうは考えていません。
CoCo壱番屋にも大きな責任がる。
それはまた次回書くとして、今回は大量の食品ロス問題について書こうと思います。
それは、私の問題でもあるからです。

私は、お金を無駄にすることには大して問題を感じませんが、食材を無駄にすることはどうしても許せません。
お金は単なる「手段的なもの」であって、日銀が印刷した無価値のものですが、食材は多くの人たちが自然の恩恵をもらいながら汗を流して創り上げてきた「価値あるもの」です。
お金を払って自分のものにしたから廃棄してもいいだろうということにはならないと思います。
ですから、賞味期限切れで食品を廃棄することを許容している、食品産業に関わる人たちが理解できないのです。
彼らは、自らが扱っている商品への愛着や誇りはないのでしょうか。
賞味期限切れ近くになると消費者は買ってくれないので廃棄するしかないのかもしれません。
しかし、そこで納得していい問題ではないでしょう。

もし私が廃棄を頼まれた産廃処理業者だとしたら、まだ食べられるたくさんの食材を前に本当に捨てられるだろうかと考えてしまいます。
何とか無駄にしない方法はないだろうか、と考えるのは、人として当然のことではないかとさえ思います。
もちろん、だからと言って、それを横流ししていいということではありません。
読み違ってはほしくありません。念のため。

日本での大量の食品ロスは問題にはなりますが、一向に解消されません。
なぜなのか。
そこにこそ議論の焦点を向けなければいけないのではないか。
大量の食品ロスを出しても、利益が上がる事業構造に問題があります。
いやむしろ大量の食品ロスを出すことによって、利益を極大化させる構造になっているのかもしれません。
そこを見直すべきではないかと思います。

食品ロスの発生は、いうまでもなく過剰生産の結果です。
機会ロスをなくすために、過剰供給しているわけでしょうが、その結果、大切な食材が廃棄させられることになる。
どこかおかしくはないでしょうか。
事業を行う企業は利益を上げるかもしれませんが、食材を廃棄してしまうことは社会にとっては明らかに損失です。
今回の事件で明らかになったのは、日本の食産業と食文化の欠陥ではないかと思います。
供給側もお粗末ならば、消費者側もお粗末です。
食品が、まさに「餌」になっているような気がします。
和食文化が世界遺産になって騒いでいる場合ではないでしょう。
和食文化の真髄を思い出したいものです。

食品ロスを減らす方法はいくらでもあります。
過剰生産を防ぐためには、たとえばトヨタによって広げられたカンバン方式、ジャストインタイムシステムが参考になります。
お客様の注文に合わせて、食材を仕入れ、過剰な食材在庫を持たない、過剰な供給はしないという発想です。
食関連でも、そうした発想で事業に取り組んでいるところはあります。
それが広がれば、膨大な量の食材や食品の廃棄処分はなくなるでしょう。
しかし、残念ながら時代はそれとは正反対の方を向いています。

そして、因果関係はわかりませんが、そうした食品ロス体質の食産業を支えているのが、利便性を追求する賞味期限意識の高い消費者です。
食べていいかどうかさえ教えてもらわないといけなくなった「消費者」たちが、食品ロスを支えているのではないかと思います。
日本人の食文化はこれでいいのか。

みのりフーズの経営者の方が、少しくらい古いものでも洗って食べた世代だと話していましたが、私はその人にとても共感しています。
私は賞味期限切れのものも、もちろん捨てずに食べています。
食材は買った以上は、きちんと食べる責任があるからです。
外食産業の経営者には、そういう責任感を持ってほしいと思います。

いずれにしろ、現在のような食品ロス状況は、変えていかなければいけません。
どうしたら変えられるか、そういう視点で、今回の事件を活かしていきたいものです。
私も、外食も含めて、食については、改めて無駄を避けるようにするつもりです。

長い割には、何か書ききれなかった気がします。
やはり記事の書き直しは、難しいです。

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2015/06/07

■スチュアート・ミルの警告

時評を再開します。
依然として気分は乗らないのですが(実際にはますます厭世観が強まっています)、だからこそ再開します。

まずは、ジョン・スチュアート・ミルの言葉を取り上げようと思います。
「たとえ、有益な目的のためでも、人間が手頃な道具になるように人間の成長を矯める国家は、小人によっては偉大な事業を真に達成しえないことをやがて悟るであろう」
この言葉は、ジョン・ダワーの本「忘却のしかた、記憶のしかた」で知った言葉で、原典には当たっていません。
ジョン・ダワーが紹介している、カナダの歴史学者E・H・ノーマンが1948年に慶応大学で講演した記録の中に出てきます。
有名なカントの命題「人格に存する人間性を、つねに目的として使用し、決して単なる手段としてのみ使用してはならない」を思い出します。

スチュアート・ミルのこの言葉を思い出したのは、昨日まで企業の人たちと経営問題に関して話し合う合宿に参加していたからです。
こうしたことが、実際に話題になったわけではありません。
なんとなく、みんなの話を聞いていて、思い出されてきただけです。

安部首相は、日本という国を「取り戻す」(人民から取り戻すという意味でしょうが)ために、まずは教育基本法から取り組みだしました。
明治政府と同じです。
まずは人民を「国民」にし、富国強兵に取り組むことによって、明治政府は短期間で近代国家に近づきました。
これもジョン・ダワーの本からの受け売りですが、ノーマンは、もし明治初期にもっと多くの血が流れ、それによって日本人がもっと本物の自由を勝ちとっていたら、世界は日本の侵略から免れていたかもしれない、と言っていたようです。
それにもうなづけますが、この話はまた別に書きたいと思います。

私は、阿部政府の思想や姿勢に反対ですが、その取り組み方は評価します。
野党には、そうした戦略志向がありませんから、独走を止めようがありません。
国民は、見事に「阿部政府」の「教育」によって、道具になっていることさえ気づこうともしません。

しかし、実は私たちが「道具」になっているのは政治だけの世界ではないように思います。
経済(企業)活動においても市民社会活動においても、状況は同じかもしれません。
そして、もしかしたら、日本人はもともと「道具的存在」が、その特質なのかもしれません。
2日間、企業経営に関する話をしながら、頭のどこかで、そんな疑問が強まってきてしまっていました。

よく誤解されるのですが、私はいまの政治や経済や企業やNPOを否定したり、敵視したりしているのではありません。
先行きを心配するという意味で、むしろ応援しているのですが、なかなかそうは受けとられません。
先日もビジネススクールで話したのですが、多くの「敵意」を感じました。
困ったものです。

私が危惧しているのは、ミルが、「人間が手頃な道具になるように人間の成長を矯める国家は、小人によっては偉大な事業を真に達成しえないことをやがて悟るであろう」と言っているように、目先はともかく、その努力が報われないのではないかということです。
しかし、社会の流れは、「人間が手頃な道具になるように人間の成長を矯める」国家や組織を向いています。
そもそも学校も、その先端を走っているように思います。

それに抗う方策は一つだけです。
自らが道具にならないことです。
まわりの誰かを道具にしないことです。
しかし、無防備な子どもたちにはそれは期待できません。
さてどうするか。
道具になっていない先生を応援するしかないのでしょうか。

社会のことを考え出すと、すぐにやるべき課題に出会います。
そしてまた厭世観に負けて引きこもりたくなります。
しかし、道具にだけはなるまいと思っています。

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2015/05/19

■人が基本が金が基本か

私が関わっている経営道フォーラムの発表会がありました。
企業の経営幹部の人たちが、半年間、チームを組んで研究してきたことの発表会です。
今回は4つのチームが発表しました。

この発表会には、もう20年以上参加していますが、その時々の企業の置かれている状況が伝わってきます。
今回は私だけではなく、みんなにも伝わったようで、発表の後の話し合いなどでも、結局、企業経営は人が基本だ、という受け取り方がほとんどだったように思います。
そうなったのは、たぶんいまの企業から「人が基本」という文化が消えてしまっているからでしょう。
いまの企業は、「人が基本」ではなく「金が基本」なのかもしれません。

企業経営にとって重要な3つの要素は「組織」「戦略」、そしてそれを動かす「人間」です。
組織や戦略は論理で考えられますが、人は論理だけでは考えられず、そこに難しさとともに可能性があります。
これまでの経営の基本は、組織や戦略に人を合わせることでした。
しかし、社会や経済が成熟してくるにつれて、人を基軸にして戦略や組織を考えることが重要になってきています。
組織や戦略が人を使うのではなく、人が組織や戦略を活かしていくということです。
それはある意味では、経営における人間観を変えることであり、経営のパラダイムシフトを意味します。
しかし、そういう方向に企業経営を変えていくことは簡単ではありません。
最近の日本企業をみていると、グローバリゼーションによる競争激化を口実に、むしろ、組織や戦略に人を合わせるという姿勢を強めているようにさえ見えます。
そのため、社員の持っている力を十分に引き出すことにあまり成功していないような気がします。
その一つの現れが、企業で働く人たちのメンタルヘルスの問題の増加です。
それは、当人にとってはもちろんですが、企業にとっても、経済にとっても、好ましいことではありません。

私のところには、若者たちがよくやってきますが、会社に入ることに不安を感じている若者が多くなってきています。
彼らは、先輩などを通して、会社の実状をなんとなく感じているようです。
企業を選ばずに、NGOを選んだり、自分たちでソーシャルビジネスを起業するという若者も増えています。
いまの企業は、やる気のある若者たちにとって魅力的な場になっていないのかもしれません。
せっかく入社したのに、やめてしまう若者も少なくありません。
もし、人が企業を育てていくのであれば、これは大きな問題です。

そうしたことの背景には、非正規社員の増加や即戦力になる人材の中途採用の広がりなど、経営要素としての人材に対する企業の考え方が大きく変わってきているという事情があります。それでいいのかどうか。
その一方で、正規の社員の意識も大きく変わってきています。
そうしたことに、いまの企業はしっかりと対応できているのかどうか。

そうした視点で、4つの発表を聞いていましたが、言葉とは裏腹に、ほとんどの人がまだ「金を基本」としているような気がして、聞いていて滅入ってしまいました。
言葉を変えるのは簡単ですが、考えを変えるのはどうも難しいようです。

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2014/12/06

■自分の会社を誇れる人に出会いました

昨日から浜名湖で企業の経営幹部の人たちと合宿です。
もう20年以上つづけている活動ですが、長年続けているおかげでいろいろな気づきをもらえます。

今回感じたのは、日本ではもう「成長」は難しいと考え出している人が増えてきていることです。
そういうことを口でいう人はこれまでもいましたが、今回は「わ! 本気だ」と思えるような感じでした。
ただ、それではどうするかが問題です。

発想の軸を変えれば、道は見えてきますが、企業経営のど真ん中にいるとそう簡単には動けないのかもしれません。
しかし、にもかかわらず、方法は簡単です。
ともかく発想の軸を変えて、当事者で話し合えば動き出せるはずです。

夜、温泉で一緒になった、宿泊客と話しました。
その人は山崎さんといって静岡のある中堅企業の経営者か管理者でした。
話しているうちに、会社の話になりました。
その人の会社は、とても人を大事にしていて、今日はこのホテルで忘年会なのだそうです。
若い連中は二次会で浜松に繰り出しているそうです。
その方が自分の会社のことを、とてもうれしそうに話すので、ついつい盛り上がってしまい、長湯をしてしまいました。
たぶんこの山崎さんは、成長しない時代の会社経営の姿を実感的に知っているのでしょう。
昼間、話していたことの事例に出会えたのが不思議ですが、地方にはいい会社がたくさんあるのです。

あまり長湯をしてしまい、湯上りにちょっと調子を崩してしまいましたが、いい湯でした。
しかし、いい人に出会えて、なにかうれしさを感じました。


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