カテゴリー「企業時評」の記事

2009/11/10

■企業が変わりだす予兆

昨日、経営幹部の方々を対象としたあるフォーラムで少しお話をさせてもらいましたが、かなり過激な話だったので、おそらく中には反発を感じた方もいるでしょう。
まあ、いつも私が話していることではあるのですが、今回は「金融資本の跋扈」などという、言わなくてもいい表現までついつい言ってしまいました。
金融関係の企業の人も少なくないので、いささか刺激的過ぎたかもしれません。
しかし、最近はこうした私の発言も少しずつですが伝わるようになりました。
同世代の知人たちは、ますます遠のいていくような気配は感じますが、まあそれも仕方がありません。

昨日の集まりは、経営道フォーラムという、25年前からの活動の発表会でした。
発表会の冒頭に少し話をさせてもらい、そこでもまた余計な一言を言ってしまいました。
バブル期の企業のあり方に危惧を持ってはじめたこの経営道フォーラムも、残念ながら成功していない、と言ってしまったのです。
私がやっているわけではなく、山城経営研究所というところがやっているのですが、考えようによっては大変失礼な発言です。
しかし、25年も企業経営者に「経営道」(経営の心と道)を訴える活動をし、既に1000人を超える受講生が出ているのに、日本の企業は決してよくなっていませんから、私の評価には反論できないでしょう。
しかし、折角の努力を否定するような発言はよくないかもしれません。

なぜ成功しないか。
私にはもちろん理由はわかっています。
それも事務局には何回も言っています。
要するに講師が悪いのです。
これまでの経済を支えてきた経営者を講師に呼んでいる限り、経営道などは身につきません。
私はそう考えています。
変革は辺境から起こる、その基本を忘れてはいけません。

1980年代ころから、日本の企業は変質しだしました。
「財テク」という言葉が生まれた時代です。
私が会社を辞めたのは、1989年です。
時代に抗して、会社で起こした企業文化変革活動は残念ながら挫折しましたが、そのおかげで会社を辞める決断ができました。

以来、20年、外部から見ている日本の企業の変質には大きな失望があって、仕事をするモチベーションが起きないまま、今になってしまいました。
しかし、もしかしたら、ここに来て、日本の企業は変わりだすのかもしれない。
昨日の集まりで、そうしたわずかな予兆を感じました。

このブログでも、そうしたことを少しずつ書こうと思います。
やはり企業がどう動いていくかが、社会の状況を変えていくことは間違いありませんから。

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2009/10/04

■緑字決算表

環境経営が話題になりだした頃、私も各社の環境経営に関する実態を知るために、各社の環境報告書を取り寄せて読ませてもらったり、各社の環境経営のトップにインタビューさせてもらったりしました。
もう10年以上、前のことです。
それを踏まえて、日本能率協会の環境経営提言の策定にも参画させてもらいました。
その時の感想を正直に書かせてもらえれば、形だけの対応が多いなという感じでした。
環境報告書もIR向けのものばかりで、作成の意図を疑いたくなるものばかりでした。
その後、環境報告書はCSR報告書に発展してきていますが、あまり実態は変わっていないように思います。
基本姿勢が間違っていると思えてなりません。

そうしたなかにあって、最初から共感できる会社がありました。
宝酒造です。
同社は「緑字決算」という概念を創りだし、それを軸にして、とてもわかりやすく実効性のある報告書と活動を続けています。
先週、今年度の「緑字企業報告書」が送られてきました。
感心するのは、年々、実践活動の内容が進化していることです。

環境経営に関心のある人にはぜひ読んでほしい報告書です。
宝酒造のホームページから読めます。
冊子が入手したければ同社に申し込めば送ってくれます。

緑字報告書は1998年から始まっています。
同社の吉田さんという若い課長から情熱的にその思いを聞かせていただいたのを今でも思い出しますが、とても残念なことに吉田さんは若くして急逝してしまいました。
もし吉田さんが健在だったら、私はもう少し環境経営に関心を持ち続けられたかもしれません。
しかし、宝酒造以外の環境報告書は私には退屈で、その後は読む気もしませんでした。

今回、久しぶりに緑字報告書を読ませてもらいました。
ちょっと化粧が濃くなったかなという気がしないでもありませんが、吉田さんの蒔いた種が順調に育ってきているようなうれしさを感じました。

温室ガス25%削減が話題になっています、その実現のヒントはこの報告書の中にたくさんなるように思います。

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2009/08/09

■株式会社「下請けの底力」

群馬県の中小製造業者らが株式会社「下請の底力」を昨日(2009年8月8日)立ち上げたという記事が朝日新聞に出ていました。
とても共感できます。
新聞によれば、大企業では応えられない、客の「困った」を見つけて新しい仕事を作る事を目指しているそうです。
呼びかけたのは東京でコンサルティング業を営む登内義也さんという人だそうです。
とても共感できますし、きっと成功するでしょう。
現場にこそ本物の力があると考えている私にとっては、とてもうれしい動きです。
30年前に思い描いていた「現場の反乱」が広がっていけば、日本の経済は全く違ったものになるでしょう。
それに現場の経済は、さほどお金は要らないはずです。
せいぜいが数十億でしょうから、みんなで力を集めたら手の届く額でしょう。
数十億といえば、かなり大きな額に思うホームページともいるでしょうが、個人企業である私でも数千万円の借金がありましたし、しっかりと仕事をしていれば、そしておかしなところから借りなければ返却可能な額なのです。
まあ10年はかかりますが、そのこと自体が仕事の進め方を誠実にしていくというメリットもあります。

仕事での協力だけでなく、資金的にもかつての無尽講のようなものを復活させていけば、おかしなファンドや金融機関からも自立できるでしょう。
それに無尽講のつながりは、単にお金だけのつながりではなく、支えあう関係を必ず生み出すはずです。
そこでは「お金」の意味は一変します。

社会や経済が壊れだすと、必ずその一方で新しい動きが起こります。
そうした中から、どれが私たちにとって豊かな未来を生み出してくれるのか、しっかりと判断する目を持たなければいけません。
株式会社「下請けの底力」には、たくさんのヒントが含まれています。
私たちにもできることを教えてくれているように思います

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2009/06/10

■鳩山総務大臣へのエール

日本郵政の西川社長人事をめぐって、鳩山総務大臣と他の閣僚との間での不調和音が話題になっています。
与謝野大臣は、小さな問題などと言っていましたが、この人はどこまでも無責任な対応しかしないようです。

私は、これは決して小さな問題ではないと思っています。
民営化というものが意味する本質的な問題(それもありますが)が含意されているからではありません。
日本の国のかたちに関わる問題だからです。

官僚国家状況を脱するために、官僚の力をどう弱めるか、政治がどう主導性を取り戻すかが議論されていますが、官僚国家は官僚だけで完結しているわけではありません。
防衛省の守屋元事務次官の犯罪が明らかにしているように、あるいはC型肝炎事件での厚生労働省の職員たちのおぞましい犯罪が明らかにしているように、官僚の背後には企業がいます。
官僚は、その手先でしかありません。
せいぜいが数億円程度の小銭しか分けてもらえないでしょう。

しかし産業界の得る利益は、そんな小銭ではありません。
もちろんすべての企業というわけではありませんが、財界や産業界の大きな枠組みを悪用している経済人こそが、もしかしたら官僚政治の黒幕なのかもしれません。
その意味で、この事件は政治が主導性を回復できるかどうかに深く関わっている問題ではないかと思います。

私は、企業の経営者にも知人がいますし、素晴らしい経営者にも出会うことは少なくありません。
大企業の社長でも、素晴らしい人物はいないわけではありません。
しかし、昨今の財界を動かしている経営者には全くと言っていいほど信頼はもてないでいます。
まあ、最近はそんなに知っているわけではありませんが、常識的に考えて、公正さや誠実さを感じられないことが多すぎます。

問題は仕組みであり、責任の取り方だろうと思いますが、
しかし西川さんの対応振りを見ていると、こういう人が日本の財界のキャストとして利用されているのだなと少し哀れささえ感じてしまいます。
少し読みすぎかもしれませんが、この事件に、ことの本質が現われてきているように思えてなりません。
真の悪人は、いつも見えないところにいるものです。

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2009/05/20

■いつの間にか容量が減っていた騙し商法

私は時々、スーパーに食材などを買いに行きます。
実際に購入するのは娘たちなのですが、私もできるだけ彼らに付き合って、実際に自分でも買物をかごに入れます。
基本は、わが家の近くにあるライフですが、比較するためにほかの店にも定期的に行きますし、新しい店が出来ればできるだけ早い時期に行くようにしています。
私の関心事は、食材や日用品を扱っている大型・中型店です。
その店頭を見ていると、社会の動きも少し実感できます。

最近とてもいやなことが増えています。
それは同じ商品なのに中身を少しずつ減らす動きです。
消費者を騙す方策に思えてなりません。
乳製品やお菓子類に多く見られます。
たとえば、明治乳業や森永乳業の商品です。
私がかなり高く評価していた企業ですので、とても残念です。
典型的なのはマーガリンです。
1年前までは400グラムが基本でしたが、今は何と300グラムです。
この間、時間をかけて、内容量と価格を操作してきていますので、おそらく中身がこんなに減少していることに気づかずに購入している人も少なくないでしょう。
明治乳業の人気商品のブルガリア・ヨーグルトも、いつの間にか容量が減少しています。
これはパッケージングを変えていないので、いささか悪質だと思います。
私には許しがたい行為です。

お菓子類はもっとあからさまです。
ビスケットなどは見るからに小さくなっています。
価格が変わらなくても、実質的な値上げと言うことです。
値上げ率はかなり高いはずです。

こうした「騙し商法」は昔からよくあります。
前に単に想定を変えただけで新刊書のように販売する講談社の話を書いたことがありますが、騙される方が悪いといってしまえば、それまでですが、そうした繰り返しでは、消費者はますます企業への不信感を高めるでしょう。
消費者が企業を信頼できないということは、双方にとって不幸なことです。

しかし、よく考えてみると、これこそがこの50年の企業戦略だったのかもしれません。
大量生産というのは、まさにそうした商品の質の低下につながっているのかもしれません。
工業化された農業もそうです。
50年前のほうれん草と今のほうれん草は、見かけは同じでも、栄養的には全く違うものだという話を聞いたことがあります。

食べるものが変わってくれば、食べている私たちも、もしかしたら変わってきているのかもしれません。
そういえば、最近の人は昔に比べて「小粒」になったという話もよく聞きます。
そう考えると、何やら昨今の状況が奇妙に納得できてしまいます。

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2009/04/12

■企業献金議論の限界

企業献金に関しては、こういう議論があります。
いつも冷静に問題解析している日経の加瀬記者が盛んに話す論理です。

もし企業献金が何らかの見返りを求めるのであれば、買収につながる。
もし見返りを求めないのであれば、株主に対する背任行為になる。
だからいずれにしろ、企業献金は全廃すべきである。

おそらく多くの人は「なるほど」と思うでしょう。
しかし私は、1970年代に世界を席巻したフリードマンの亡霊を感じます。
私の考えでは、想像力の欠如です。
想像力の欠如は、社会を偏った方向に向かわせかねません。

フリードマンは、企業の社会貢献活動を否定しました。
裁判では時代の流れの中で、企業の社会活動は認められる方向で動きましたが、時代はそうしたフリードマンの経済思想で動いてきました。
そうして金融不況が発生したのです。

1960年代のアメリカで、「コーポレート・シチズンシップ」の議論が広がりました。
企業も社会の構成員として、しかるべき社会活動をすべきだという議論です。
日本でもその発想は紹介されましたが、大学教授の世界でしか話題にはなりませんでした。
私の記憶では、経営者の社会的責任を議論していた当時の経済同友会さえもあまり関心を持ちませんでした。

1990年代になって、コーポレート・シチズンシップは日本の企業にも広がりだしました。
そのきっかけをつくった一人は、当時、笹川平和財団にいた田中弥生さん(最近の「NPO新時代」の著者)です。
彼女が中心になって、「コーポレート・シチズンシップ」を出版するのに協力し、ささやかにその考えの広がりを応援しました。

そのときに、こうした活動の基本にあったのが、”Enlighten Self-Interests”(啓発された自己利益)という考え方です。
社会は企業の存在基盤です。
社会が健全で元気であってこそ、社会も元気になります。
決してその逆はありません。
1990年代、IBMは、企業の社会活動(コーポレート・シチズンシップ活動)は企業にとっての存続に関わる課題(サバイバル・マタ-)だと言っていました。
ところが、フリードマンのような「有識者」や「経営学者」が、その足を引っ張り、企業に短視眼的な儲け主義を植え付けたのです。

さて、企業の政治献金です。
目先の工事受注のための献金が問題なのはいうまでもありません。
しかし、長期的な視点で政治に献金していくことは、むしろ大切なことだと思います。
そうしたことを考えずに、何でもかんでも企業の政治献金はやめるべきだという人に、ぜひ考えてほしいものです。

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2009/04/02

■これまでの仕事観や経営観からの脱却

経済はますます悪化していくという報道が多いです。
みんな先行き不安感を強めています。
不安感を与えすぎだと思いますが、社会に不安感が広がる(広げる)ことの意味はよく考える必要があります。
マスコミの増幅機能に関しては以前も書きましたが、使い方によっては大きな弊害を起こしかねません。

景気の浮き沈みはいつの時代にもありましたし、悪い話の反対側には良い話があるのも経済の特徴です。
実体経済を「生活の経済の反映」と考えれば、そんなに大きな変動はありえません。
もし貨幣がなければ、私たちの暮らしの経済は変動しようがないからです。
金融機関のみならず、メーカーさえもがレバレッジ発想を持ったことが今回の変動を大きくしていますが、その発想そのものがすでに従来の実体経済発想をはみ出してしまっています。
トヨタの大幅生産減は、自動車を一種の金融商品にしてしまった結果です。
メーカーとしての経営を逸脱したといってもいいように思います。
いまそれがまた修正されている過程だと考えられます。

問題は、広がる雇用解雇です。
これもしかし、かなり前から問題としては明らかになってきていました。
つまり「労働の終焉」というテーマです。
技術の進歩により生産性は飛躍的に高まり、従来型の発想での「仕事」は減少してきています。
にもかかわらず、経済や政治は「仕事観」を変えていませんし、私たち自身も「仕事観」を変えていませんから、そのずれの中で、雇用解雇が問題として起こってしまうわけです。

私は21年前に、仕事観を変えて、会社を辞めました。
そして「働くでもなく遊ぶでもなく休むでもなく学ぶでもない」生き方にはいりました。
仕事をすることは「お金」をもらうことではなく「お金」を使うことだと発想を切り替えました。
もちろん結果としてお金をもらえることも多く、生活にはさほど支障はなく、いまもその生き方を続けています。

しかし、テレビなどを見ていると、たしかに深刻な話は増えています。
私は時間をかけて生き方を変えることが出来ましたが、一挙に変化の衝撃を受けたところは大変です。
もちろん実際にはじわじわと追い込まれていたのだと思いますが、現場の真っ只中にいるとなかなか変化は見えません。
誠実に生きている人ほど、見えないところが悩ましい話です。

そんななかで、「100年に一度のチャンス」などと脳天気のことを書いていると、怒られそうな状況がテレビでは報道されます。
たしかに企業をどうにかして倒産させないようにと日々苦労している経営者の人には私の発言は怒られても仕方がないでしょう。
それを承知で、しかし、生き方を変える契機にしてほしいと、やはり思います。

経営者が一人で悩むことの限界は明らかです。
しかし、企業に関わる従業員みんなで誠実に考えたら解決策はあるはずです。
解決策は現場にある、というのが私の考えです。
その基盤として、オープンブックマネジメントの発想が必要だと思い、以前、その本も翻訳出版させてもらいました。
当時は、オープンブックマネジメント発想さえ持てば、企業はすべて元気になると思っていましたが、残念ながらこの本は売れませんでした。

また長くなってしまいましたが、仕事観や企業経営観を変える時です。
従来型の発想の呪縛から自らを解き放せば、新しい解決策が見えてくるように思います。
大切なのは、支えあいながら生きることであって、仕事や企業ではありません。

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2009/03/29

■「国家統治視点」から「個人生活視点」への転換

何回か書いていますが、社会構造原理をパラダイム転換する必要があると、私は思っています。
組織起点発想から個人起点発想への転換です。
簡単にいえば、これまでのような「国家(組織)統治視点」ではなく、「個人生活視点」から発想しなおしていこうということです。
こういうように発想の起点を変えると、世界の風景は一変します。

たとえば経済です。
そもそも経済は、「政治経済学」といわれるように、国家統治のための学問としてスタートしました。
その発想からの経済は「交換価値」としての貨幣が主役になります。
つまりそこには必然的に金融資本主義への道が用意されています。
しかし、個人生活の発想からは貨幣は交換手段のひとつでしかありません。
一番大切なのは、生活のために役立つ「使用価値」が主役になります。
貨幣は、実際の生活には直接的には何の役にも立ちません。
しかし、組織起点発想に陥っている私たちは貨幣がないと生活できないと思い込んでいます。
前にも書きましたが、国内総生産は統治の概念であって、生活の豊かさとは無縁の概念です。
現在の景気浮揚策の欺瞞性が見えてきます。

企業はどうでしょうか。
業績が悪化すると企業は従業員を解雇して、業績の回復を図ります。
しかし、従業員を解雇して業績を回復した企業とは何でしょうか。
解雇された従業員にとっては全く意味のない存在ですし、残った従業員にとっても要するに今回は解雇を免れただけの話です。
そうした企業経営の発想には個人の生活視点などないわけです。
しかしそれでは企業は持続可能性をもちえません。
財界のトップたちは、経営というものを学んでいません。

福祉はどうでしょうか、
介護保険制度はたしかに介護福祉の世界に大きな光を当てました。
しかし、制度はすべて個人の事情を配慮できませんから、そこから抜け出たものは少なくないはずです。
制度を維持することが優先されて、個人の特有の事情は、制度に当てはめられることを強制されるでしょう。
しかし、そもそも福祉とか介護は個人的なものなのではないかと思います。
個人の生活視点から発想していくと、たぶん現在の制度とは違ったものになっていくでしょう。
制度が生活を壊すことは避けなければいけませんが、発想を変えなければそうなりかねません。

政治はどうか。
最近、熟議民主主義と言う考え方が広がっています。
そこでは合意形成さえも必ずしも求められません。
熟議の過程が重視されます。
多数決民主主義は統治のための制度ですが、そうではない政治の芽が出始めているようにも思います。
その発想からは小選挙区制や二大政党制などは絶対に出てきません。

他にもいろいろと見えてくることがあります。
勝つためのスポーツではなく、楽しむためのスポーツ。方向づけるためのアーキテクチャーではなく、個人を輝かすアーキテクチャー。あるいは訓練する現在の学校とは違った個人を伸ばす学校など、さまざまな地平が開けてくるはずです。

そして、その発想の基盤に立てば、私たちの生き方も変わってくるはずです。
自分の目で見、自分の言葉で語ることができるようになります。
小沢事件の本質もそこから見えてくるような気がしています。

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2009/01/12

■互恵的懲罰と利他的行為

直接的には自分の得にはならないのに、というよりもむしろ損になりかねないのに、誰かに迷惑をかけるような行為をする人を注意したり、その行為を防止したりすることを「互恵的懲罰」と呼ぶそうです。
また、自分の利益ではなく、他人の利益につながる行為を「利他的行為」といいます。
この両者には、正の相関関係があるといわれます。
つまり、互恵的懲罰が増えれば利他的行為が増えるということです。
互恵的懲罰はある種の利他的行為ですから、これはトートロジーのような気もしますが、平たくいえば、みんながお互いに注意しあうことは、支えあうこととつながっているということです。
それが、社会の基盤をしっかりとしたものにし、社会を豊かにしていくことはいうまでもありません。

この視点で、最近の政治や経済、あるいは社会を見ると、いろいろなことに気づきます。
「支え合いの文化」や「注意しあう文化」が失われてしまっているために、みんな互恵的懲罰や利他的行為に無関心になってしまっているのです。
いや、その余裕がなくなっているというべきでしょうか。
そしてそれが社会の秩序を壊し、結局は自らのダメッジを大きくしていくという悪循環に陥ってしまっているのです。

大企業の業績悪化の一因はそこにあるように思いますし、政治における閉塞状況の原因もまた、そこにあるような気がします。

不条理な解雇が広がる中で、一部の企業が支え合いの文化、つまり雇用を守ることを起点とした動きを見せだしています。
そこから財界の中心にある大企業の人間軽視の流れへの見直しが始まることを期待したいです。
互恵的懲罰や利他的行為は、結局は自らの存在基盤を強めていくはずです。
大企業は、そうした動きのフリーライダーになるべきではないでしょう。

渡辺喜美議員が麻生首相に異議申し立てをして、自民党を離党することが確実になりました。
昨今の状況から何人かは一緒に行動を起こすと思っていましたが、誰も付いていかないようです。
今回の渡辺議員の行動は、互恵的懲罰でも利他的行為でもないかもしれませんが、なんだかつながっているような気もします。
ここでもフリーライダーがたくさんいそうなのが気になります。

しかし、新しい動きの予兆を、それぞれに感じます。
そう期待したいものです。

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2009/01/07

■男らしさとバルネラビリティ

新着の「ハーバード・ビジネス・レビュー」2月号を読んでいたら、興味あるタイトルが目に入ってきました。
「男らしさにこだわることの弊害」です。
海洋油田の掘削現場に従事する現場作業員の世界の話です。
この現場は、いわゆる3Kの典型的な職場で、伝統的に、腕力、度胸、腕前が誇示されてきました。
ところが、これまでの伝統的なガンバリズムとマッチョの企業文化を払拭したことで業績をあげている会社があるというのです。
その会社では、従業員の意識調査などから、次の2つのことが明らかになりました。
・男らしさを誇示する態度は、仕事をするうえでの障害になっていた。
・強力なリーダーシップの要件について、従来の考え方を改める必要があった。
リーダーたちのイメージには「男らしさ」が付きまとっていますが、実際に調べてみると、「仲間を気づかい、よき聞き手であり、学ぶことに前向きで、一生懸命な人物」がリーダーの特質だったというのです。
そこで、企業文化の変革に取り組んだのです。

その結果、「男らしさ」を誇示することを美学としていた文化は後退し、伝統的な男らしさからすれば、およそ受け入れがたい振る舞いも気にしなくなったといいます。
そして、自分のイメージ・ダウンにつながりかねない能力不足や弱点をさらけ出すことをいとわなくなったのだそうです。
その結果、会社の業績は向上したわけです。

「石油掘削現場というきわめて男性的な職場で働く男性たちは、マッチョを追求するのをやめて、そのパフォーマンスを改善することに成功した。ならば、アメリカ産業界の男性たちも、おそらく同じことができるはずだ」とその記事は書いています。
実は、男らしさを誇示することの負の影響を調べた調査は、航空会社から、製造業、ハイテク、法曹界に至るまで、多岐にわたっているそうです。
とても共感できる話です。
日本ではまだそうはなっていないように思います。

私は15年ほど前から、管理者教育などを頼まれると、リーダーシップやマネジメントの要諦は、自らのバルネラビリティを見えるようにしていくことだと話してきました。
バルネラビリティと言うのは、当時、一橋大学の教授だった金子郁容さんから教えてもらった言葉ですが、「弱さ」とか「脆弱性」を意味しています。
コミュニケーションの出発点も、まさにこのバルネラビリティではないかと思っています。

今日、女性の活用をテーマにする研究会がありました。
そこで盛んに出てきたのは、これまでの日本の会社は男性文化だったという話です。
この話とつなげていくと、女性が企業で活躍しだす意味が見えてくるような気がします。

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2008/12/29

■ラーメン屋を好きになる理由

近くのラーメン屋さんのオーナーが代わりました。
新たなお店は「らーめん大」です。
開店4日間、なんとラーメン100円というチラシが入りました。
その4日間、お店に長い行列です。
とてもトライする気にはならないほどです。
先日、マックの顧客動員づくりが問題視されていましたが、このか移転キャンペーンも私にはあまり感心できません。
しかし凄い行列が印象に残りましたので、一度は試してみようと思っていました。
その意味では私も見事に宣伝活動の掌中に落ちてしまっていたわけです。

最近やっと並んでいる人を見なくなりましたので、娘を誘って行ってみました。
カウンターのお店で、食券を最初に購入するのです。
基本は600円で、そこにトッピングなどをいろいろと加えていきます。
全席で8人、とても小さなお店です。
歯応えのある太い緬とスープが自慢だそうです。

トッピングは有料ですが、野菜とにんにくだけは無料で乗せてくれます。
味の濃さや緬の茹で具合はここに対応してくれます。
野菜の無料追加は、その量が半端ではなく、大山盛りなのです。
野菜好きの私でも、半分でいいと頼んだほどです。
しかしその盛り方が豪快なので、それがとても気にいってしまいました。
そうしたことを通して、客と店主が会話するようになっているので、何となく人間的な雰囲気が生まれます。
もちろん味もよかったです。

もう一つ感心したのは、カウンターには顧客ごとにふきんが用意されていて、客は食べ終わった後、それを使ってカウンターを拭く仕組みになっていることです。
いや仕組みになっているかどうかはわかりません。
そんなことはどこにも書いていないからです。
でも私たちの前のお客さんはそうしていましたので、私たちもそうしました。
これがまたとても気にいってしまいました。

自分で拭くシステムは最近は増えていますが、
このラーメン屋の雰囲気のよさのせいか、実に新鮮で自分の家で食べているような居心地の良さを感じました。
なんだかとても大切なことを教えてもらったような気がします。
この店にはもう一度来ようと思いました。

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2008/12/27

■派遣切りしているのは「企業」ではなく「経営者」です

テレビや新聞の報道で、いつも気になることがあります。
たとえば、今回の契約期間中の期間工の解雇や派遣切りなどですが、
それを行ったのは誰かということです。
報道では、ほとんど例外なく主語は「企業」です。
以前も書いたことがありますが、
この種の行動の主語は「企業」ではなく「経営者」ではないかと思います。
役員会で組織の方針として決定されたとしても、
決定したのは組織としての「企業」ではなく、
企業を経営する個人としての「経営者」です。
そこを曖昧にしては、問題が見えなくなるはずです。

つまりそれぞれの企業の経営者が決定したことなのです。
その人たちは果たして「痛み」を感じているでしょうか。
中小企業の経営者であれば、従業員の顔が見えていますから、
「痛み」は感じたくなくても感じざるを得ないでしょう。
しかし大企業の経営者はどうでしょうか。

さらにいえば、状況は厳しいとはいえ、
大企業が口を合わせたように一斉に派遣切りを始めました。
「談合」があったと勘ぐりたくなりますが、
それがないとしても、財界という組織の中での暗黙の合意があったように思います。
そうでなければ、それぞれの会社が巨額な内部留保を蓄積しながら、
一斉に解雇宣言をするようなことは起こらないでしょう。

今回、企業(金儲けのための出資者)のために人を解雇した経営者の名前は、
私は決して忘れることはないでしょう。
いや世間も忘れるべきではないと思います。
彼らが奪ったのは、解雇した人たちの人生設計だけではありません。
企業への信頼感を壊してしまったのです。

先日会った若いベンチャー企業の経営者が、
まさか大企業の経営者が実際にこんなことをするとは思ってもいませんでした、
と驚いていました。
以前、私が派遣労働の問題性を話した時には、
むしろ働き方の選択肢が増えるから良いことだと思っていたそうです。
彼は当時まだ、大企業の経営者を信頼していたのです。
彼は誠実な経営者です。
大企業に「経営」はなくても、中小企業には「経営」があるのが、救いです。

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2008/12/26

■「君あり、故に我あり(Estis, ergo sum)」

挽歌462で、プライベートの語源は「奪う」にあるという話を紹介させてもらったところ、友人から、ジャイナ教の「5戒」でも「アパリグラハ(蓄えないこと、所有しないこと)」があげられているというメールをもらいました。
ジャイナ教の「非所有(アパリグラハ)」も、法頂師が書いているように、否定的意味合いではなく、すべてを分かち合うという積極的意味があるようです。
人間が自然のなかで素直に暮らしていくためには、非暴力と非所有が大事であり、それができれば、それは同時に、魂の解放につながるというわけです。
この「非所有」の思想からいまの社会を見ていくと、いろいろなことに気づきます。
日本にはもともとそうした発想がありましたし、今もなおいろいろなところにそれが残っています。
いつかそれに関しても書ければと思っているのですが、それを書くにはまだ私自身が「所有の文化」に埋もれてしまっていますので、気恥ずかしさが残ります。。
法頂さんのように、思いのまま、書ける生き方をしている人が時にうらやましいこともあります。

それはともかく、その人から「君あり、故に我あり」と言う本を教えてもらいました。
シューマッハー・カレッジに関わっているサティシュ・クマールというジャイナ教の元僧侶の人の本です。
それにしても、とても気になる書名です。
少し調べてみたら、インドで良く知られている格言「ソー・フーム(So Hum)」の訳なのだそうです。
そのまま訳すと、「彼は我なり」となるようですが、それをサティシュは「君あり、故に我あり」と言い換えているのです。
西洋近代の出発点は、デカルトの有名な「我思う、故に我あり」です。
それと対照的な世界観を予感させます。

早速、読んでみました。
心にとても素直に入ってきました。
貫いているのは「関係を見る哲学」。まさにシューマッハーです。
こういう文章があります。

デカルト的二元論の帰結は、個人をお互い及び世界全体と対立させ、人生を戦場とする。
各個人は自力で生きていかねばならず、自らの利益のための行動に没頭する。
個人主義が強者による弱者の搾取を生み、権力や富のための争いを生む。
まさに昨今の日本社会の状況です。
それを克服する知恵が、「君あり、故に我あり」の世界観にあります。
サティシュはこう書いています。
私たちは、自分自身だけで存在することはできない。
これは私たちの存在は他者の存在があって初めて可能である。
それに気づけば、突然の派遣切りなどは起こらないでしょう。
派遣切りの動きに対して、各地で広がりだした住宅や仕事の支援の動きに、「関係を見る哲学」の文化はまだ消えずに残っていることを確信できました。
その文化を支えているのは、やはり大企業経営者や政治家ではなく、やはり現場で汗している人たちであることも見えてきました。
文化が大きく変わる予兆が見えてきたような気がします。

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2008/12/24

■派遣切りトヨタと飲酒運転事故

昨年度あれほどの高利益を上げていたトヨタが赤字に転落というのは驚くべきニュースです。
この大きな変化にはいささかの疑念は残りますが、状況変化のすさまじさを感じさせます。
しかし、変わらないままのものもあります。

年末に向けて、飲酒運転事故は相変わらず多いです。
ネットで検索すると、毎日数件の飲酒運転による殺傷事故(事件)が起きています。
法改正により罰則は強化されていますが、その強化度合いは知れています。
たかだか数年の免許停止です。
本気を全く感じさせません。
このブログでは何回も書いていますが、飲酒運転は未必の故意のある殺傷事件未遂を構成するはずですが、もし万一、事故を発生させた場合は、免許の永久剥奪が当然のことだと思います。
なぜそれができないのか。
私の考えすぎかもしれませんが、そこにトヨタを初めとした自動車会社の圧力を感じます。

私がもしトヨタの社長であれば、自社商品の適正な使用を守るために、当然、飲酒運転事故を起こした人の免許の永久剥奪の法制化を働きかけると思います。
それが「危険な商品」を販売するものの責任です。
それをしてこなかった自動車会社の経営者の人間観が、今回の派遣切りにつながっています。
つまり、トヨタの経営理念は、人を軽視しているということです。
それは私の言葉では「経営」とはいいませんが、ほとんどの経営学者はトヨタの経営は凄いと昔から高く評価しています。

ものをつくることの意味を、企業経営者はもっと真剣に考えるべきです。
トヨタの創業者の血を引いている人であれば、もしかしたらそのことがわかるかもしれないと、期待しています。
創業者の哲学は、いつも誠実ですから。

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2008/12/20

■企業の反乱

最近の企業の凋落振りは驚くべきものがあります。
戦後最長の景気拡大が終わった」といわれだしたのは、ついちょっと前の今年の夏でした。
それが、あれよあれよといううちに、大企業が軒並み従業員解雇に取り組みだす状況です。
以前も書きましたが、最近の経済はまさに砂上の楼閣でしかありません。

企業もまた、人に支えられた組織ではなく、金に支えられた組織になっていますから、そうした経済の動きをもろに受けてしまいます。
企業をそうやって、金に売ってしまったのは、この15年の大企業経営者ですが、彼らにはその自覚はないでしょう。
鉄面皮にも従業員を解雇して乗り切ろうとしているのですから、良心のかけらさえも私には感じられません。
20年前に、13人の経営者をインタビューする機会がありましたが、その時にはまだ「経営者の心」を感じましたが、今はそう思える経営者は見当たりません。

それにしても、企業の財務構造がこれほど脆くなっているとは驚きです。
トヨタなども業績悪化を円高のせいにしていますが、しっかりしたエコノミストがいたら見通せたはずですし、しっかりした経営者がいたら、円高リスクを防ぐ手立てはあったはずです。
いずれも、いまの企業にはいなくなったのでしょう。
金のことしか頭にないアナリストたちに振り回されるだけでなく、自らの短視眼的な私欲に目がくらんで目先の浮利ばかりをおってきた結果ですが、その責任を自らは背負うことなく、従業員にしわ寄せしている姿はさびしいものがあります。
かつての経営者の「浮利を追わず」や「企業は人」という思想は忘れられてしまっています。

前にも書きましたが、経済などの複雑な要素が絡む事象には、本来、「突然」などと言うことはありえません。
カタストロフィーという現象はありますが、当然のことながら、予兆もあれば、回避策もあります。
高水準の黒字から赤字に一転するのは、「経営の不在」以外の何物でもありません。
責任を取るべきは、経営者であって、従業員ではありません。
いまこそ、改めて「経営とは何か」「企業とは何か」を考える時ではないかと思います。

経営とはいうまでもなく、その基本に「愛」がなければ成り立ちません。
経営とは愛」というのが、私の20年来の姿勢ですが、経営は同時にまた「不変の道理の実現」です。
その「不変の道理」が見失われているのです。

私の友人が、20年以上前から企業経営者に「経営道」を呼びかける活動をしています。
昨日、その話をある人にしたら、「その効果はあがっていますか」と質問されました。
残念ながらあがっていないとしか思えません。

企業は人間が発明した素晴らしい仕組みの一つです。
それは、金のための仕組みではなく、人のための仕組みなのです。
その企業がいまや人に対して「反乱」をしているような状況が生まれています。
いまこそ日本経団連や経済同友会は、経営の原点に返って、自らを問い直す必要があります。

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2008/12/09

■責任放棄の時代

日本経団連の御手洗会長(キヤノン会長)が昨日の記者会見で、

国内の大手メーカーで非正規従業員の削減が相次いでいることについて「景気の急激な落ち込みで各社は減産に追い込まれ、苦渋の選択で雇用調整を行っている。やむを得ない事情がある」と述べ、理解を求めた。そのうえで「景気を回復させることが大事だ」と語り、雇用環境の改善には政府による早期の景気対策が不可欠だと強調した
と新聞で報じています(毎日新聞)。

この10年の政治の基調にあるのは「責任放棄」でしたが、経済界も「責任放棄の時代」に入ったようです。
経済界の誇りはどこに行ったのでしょうか。

利益が減少すれば雇用を切って、組織を守るという哲学は、1995年に当時の日経連が打ち出した「新時代の日本的経営」から推進されだしました。
アメリカからの圧力があったとしても、日本の財界も誰一人、異を唱えませんでした。
そこから労働者の権利が壊されていく方向に動き出したわけです。
キャノンの御手洗さんやトヨタの奥田さんは、その当時の財界のリーダーでした。
私は、彼らが日本の経済を最終的に壊した張本人だと思っていますが、そのツケを今受けているわけです。
しかし、彼らは、今なおしゃあしゃあと、「やむを得ない事情がある」と弁解し、「雇用環境の改善には政府による早期の景気対策が不可欠だ」と述べているわけです。
この人たちは、恥と言うものをしらないのでしょうか。
経済界のリーダーが、政府の責任にしているわけです。
その点においては、厚顔無恥な麻生さんと同じ仲間です。

これは日本だけの話ではありません。
アメリカでは、自動車メーカー3社の経営者がそろって、政府に「お助け」を哀願しているわけです。
何という恥知らずか。
麻生さんばかりを笑っていられません。
世界中が責任放棄の時代になっているのです。

そもそも企業のコンプライアンス論議は、そうした責任放棄の時代への対策として議論されだしたわけですが、現実的には逆にそれが責任放棄あるいは責任回避の仕組みになりだしています。
ちょっと考えれば、いたるところで責任放棄の動きが加速しているのに気づくでしょう。
責任放棄は生活面にも広がっています。

それにしても、大企業経営者による、あくどい派遣切りは、触れ込み詐欺以上に悪質です。
40年前までの日本には、そんな卑劣な発想はありませんでした。
経営者の最大の誇りは雇用を守ることでした。
困った時は従業員も一丸になってがんばりました。
そうした信頼関係が日本の経済を発展させてきたのです。
御手洗さんや奥田さんは、その文化を壊しました。
おそらく彼らは「経営」というものを知らないのでしょう。
能力以上の役割を与えられてしまったのでしょう。

ところで、派遣切りは決して企業を守ることにはならないでしょう。
トヨタやキャノンの時代は終わりました。
いや、人間を忘れてしまった大企業の時代は終わったのです。
IBMももはや先はないと思います。
あと10年持つでしょうか。

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2008/12/05

■「女性活用」という罠

一昨日の挽歌に書きましたが、月命日なのについつい出かけてしまった集まりは、女性活用をテーマにした委員会でした。
その様子はまたCWSコモンズのほうに書きますが、各社の事例発表を聞いていて、いささかの懸念を感じましたので、それを書いておこうと思います。
こんなことを書くと委員会から外されそうですが。
それに、CWSコモンズでは何回も書いてきていますし、いささかしつこい話ではあるのですが。

企業に限りませんが、「女性の活用」が大流行です。
「男女共同参画社会」も違和感がありましたが、「女性の活用」にも違和感があります。
だれが活用するの?と思ってしまいます。

「男女共同参画社会」の時には、参画していないのは「男性」だろうなどと、私は考えていましたが、これは「女性の社会進出」と同じで、どこに立脚して発想するかの問題です。
「女性の活用」は、男性が女性をもっと活用してやろうというふうに聞こえてきます。
とりわけ企業における「男性活用」論をきいていると、そうしたことを感じます。

一昨日の会では、企業の「先進事例」を3社から聞きました。
いずれの企業もみんな「女性の活用」に苦労しているようです。
女性活用を推進する専任の部署を創ったり、女性管理者登用の目標を設定したりしています。

どこかおかしいと思えてなりません。
それで、「そんなに無理して女性を活用する必要があるんですか」と暴言をはいてしまいました。
誰が一体望んでいるのか。
当の女性は活用されたいと思っているのか。
そもそも「活用」って何なのか。

もう大昔ですが、私も25年ほど前、東レで企業文化変革に取り組みました。
その時のポイントの一つが、女性による企業文化の見直しでした。
いろいろと挑戦しましたが、トップの交代で、残念ながら頓挫しました。
しかし、その時感じたのは、女性は男性とは違った意味で、
企業活動に大きな活力を与えてくれるということでした。
久しぶりに、当時のことをいろいろ思い出しました。
ちなみに、その時の取り組みは、「女性の活用」などという動機は皆無でした。
女性がエンパワーされたら、会社の業績はよくなるし、みんなも働きやすくなるだろうという思いでした。

女性が男性とは違った能力を発揮している会社は少なくありません。
しかし、それがすぐに管理職比率などにつながるわけではありません。
管理職の女性比率を増やそうということ自体が、実は男性の発想かもしれません。

その発想では、企業は変わりようがありません。

現在の枠組みの中で、女性の活用策を整備していくことは、もしかしたらせっかく女性が持っている男性とは違った能力を活かせなくすることかもしれません。
つまり、女性活用が、逆に女性の特質を疎外してしまうという罠に陥りかねません。

私は、男性とは違った女性の能力と感性が、袋小路に入ってしまっている企業や経済をブレークスルーするのではないかと思っています。
そういう視点から、女性をエンパワーし、その活躍の場を育てていくことが、いま求められているように思えてなりません。
それは「女性の活用策」ではありません。
女性が活用できるように企業を変えていくことです。
「女性」は、目的語ではなく主語なのです。

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2008/11/10

■経営とは不変の道理を実現すること

企業の偽装事件報道はいまだ止むことがありません。
最近の企業不祥事報道にはいささかの異論はありますが、企業にも問題がないわけではありません。
私自身は、食品業界の不祥事などよりも、GMやトヨタの言動にこそ、問題を感じます。
たとえば、昨日の朝日新聞によれば、GMのワゴナー会長は、「我々は破綻を避けるために、すべての資金調達手段を利用する」と話したといいます。
「すべての」というところに焦点を当てて、朝日新聞は、「延命、なりふり構わず」と見出しに書いています。
それが正しいかどうかはわかりませんが、「なりふり構わず」戦略はこれまでもよくとられてきましたから、それほど間違ってはいないでしょう。
トヨタ関係の関連企業の派遣社員解雇に関しては、トヨタの責任を感じます。
不正規採用社員による巨額な利益の一部を使って、好調時に保険的な対策をとっておくべきだったと思います。

「経営」とは何でしょうか。
私は、「経営とは愛と慈しみ」だと考えていますが、文字通りに解釈すると「経を営むこと」になります。
「経」とは、「不変の道理」や原理原則です。
私が毎朝唱えている般若心経の「経」です。
ですから、経営とは原理原則を実現することといえます。
その「原理原則」が見失われているわけです。

「経」は、「経度」というように、「縦糸」という意味もあります。
つまり何かを貫くものですが、いまはそれが「金銭」になっているわけです。
最近の企業経営者の原理原則は「お金を儲けること」になってしまったのでしょうか。

そんなことはありません。
誠実に、人の世の原理原則や道理を貫いている企業経営者は決して少なくありません。
しかし、悪貨は良貨を駆逐するのが時代の流れです。
それを反転させなければなりません。

そういう思いで、私の友人が20年ほど前、「経営道フォーラム」という活動を始めました。
企業経営者に「経営の心と道」を修得してもらおうという活動です。
その活動にささやかに関わっていますが、企業はむしろ「人としての心と道」を忘れて、「経営の外道」に陥ってしまっているような気がします。
ずっと関わっていて、とてもむなしいです。

今日は、午後から半年間、「経営道」を考えてきた企業の経営幹部の皆さんの発表会があります。
元気をもらえるといいのですが。
もしご関心があれば、「経営道フォーラム」や「日本経営道協会」でネット検索してみてください。
日本経営道協会のほうの公開発表会は、11月15日です。

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2008/11/02

■突然の破綻など本来はありません

「突然の破綻」がよく起こるようになりました。
京品ホテルの突然の閉鎖、突然の派遣中止、突然の融資解約(SFCG)、突然の内定取り消し。
一昨日は、約20の保育園の突然の閉鎖が報道されていました。
「突然」ということが起こるのは、今に始まったことではないかもしれませんが、最近、そうした「突然の」しかも「一方的な終わり」が企業によって行われることが多くなっているような気がします。

京品ホテルは経営者の突然の閉鎖発表にもかかわらず、従業員ががんばって営業を継続しています。
閉鎖宣告された保育園も、施設や保育士、さらには利用者がいるわけですから、事業を継続できるわけですが、閉鎖してしまえば、空き家になってしまい、資産は無駄に成っていきます。
実体としての事業が存続可能なのに、なぜ突然の閉鎖が決まるかといえば、経営上持続できないという理由です。
そういう理由で、銚子の市立病院も閉鎖されました。
全くおかしな話です。

利用者がいて、供給者がいる。
事業が成り立つには、それで十分です。
あとは瑣末なことでしかありません。
経済とか経営は、そうした事業実体を支援するためにあるべきです。
それが「経世済民」ということでしょう。
そしてその効果的な仕組みの一つが、お金でした。
お金は事業、つまり生活を支えるためのものでした。
それがいまや、お金のために事業が壊され、生活が振り回されているわけです。
経済政策を考える人たちの発想が全く変わってしまっているのです。

実体がある事業は、現場に人たちが汗と知恵を出せば必ず継続の道はあるはずです。
もちろん利用者も一緒に汗と知恵を出す必要があります。
そして、普段の事業展開において、関係者(経営用語を使えば、ステークホルダーです)と一緒に取り組んでいれば、「突然の破綻」など起こりようは無いのです。
もちろん「企業不祥事」も起こらないでしょう。
みんな「経営」ということの意味を理解していないとしか言いようがありません。

忘れてはいけないことは、「突然の閉鎖」で一番大きな被害を受けるのは、「突然」知らされた関係者です。
まともな経営をしていたら、「閉鎖」はありえるとしても、「突然」はありえません。
突然の発表の裏には、必ず「不正」と「利益隠し」があるはずです。
最近の経営者は、また経営を忘れているようです。

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2008/10/26

■サイゼリヤの過ちと食との付き合い方

食材の安全性の問題で、外食産業は振り回されています。
こういう動きが出始めてから、もう長いこと経過しているのに、状況は改善されていません。
その大きな理由は、問題を外食産業の問題と捉えずに、個別企業の問題と捉えているからではないかと思います。
業界として取り組めば、事態はかなり変わったはずです。

しかも、個別企業の対応は必ずしも適切ではないように思います。
赤福の二重の間違いに関しては前に書きましたが、要は問題を引き起こした企業が慌てて対応してしまうために、おかしなことが行われてしまうのです。
個別企業の問題ではなく、業界の問題だと捉える人がいれば、こうした愚挙は避けられるはずですが、不思議なことにそうした動きは見えません。

そして、また同じような愚挙が行われました。
ファミリーレストランのサイゼリヤが販売したピザの冷凍生地から、微量のメラミンが検出された問題に対し、同社は対象のピザを食べた可能性のある客すべてに代金を返還する、と発表したのです。
慌てたのか、事業に自信がないのか、わかりませんが、多くの人はその発表におかしさを感じたのではないかと思います。
そして案の定、「ピザを食べたので代金を返金してほしい」と嘘をつく人が出てきてしまいました。
嘘をつく人が悪いといってしまえばそれまでですが、嘘をつかせるような状況をつくって、子どもたちに心の傷を負わせたことの責任はサイゼリヤにあるでしょう。
新聞で報道されているのは、たぶん氷山の一角です。

さらに心配するのは、毒物混入を誘発する効果です。
その影響は、サイゼリヤに限らず、ほかの外食産業にも及ぶ可能性はあります。
短絡的な対応は社会を混乱させるだけです。

そもそも外食産業には、常に安全問題が内在されていますし、顧客もまたそれをある程度は了解しているはずです。
世の中に、完全に安全なる物は存在しません。
そうしたことを踏まえて考えれば、外食における安全性の向上は、外食産業全体の問題であることは間違いありません。
他のレストランチェーンで問題が起これば、自分のところにお客が来るなどという話ではないのです。
そうした「安全で健全な外食産業」を育てるという姿勢が、外食産業にはあまり感じられません。
そこで働く人たちの労働条件も含めて、再考すべき時期だろうと思います。
餃子毒物混入事件で、労働条件の悪さの不満から、食材に毒物を混入したのではないかという話が出ていましたが、それはなにも中国に限ったことではありません。

そして、外食産業を利用するわれわれも、あまり安さを追求しないことです。
ホテルのバーが安いといっている麻生首相は論外ですが、外食産業は安すぎるように思います。
もし食費の負担を下げたいのであれば、自宅での調理をもっと増やすべきでしょう。
やりようによっては、食費は数分の1になるでしょう。
自宅で調理する時間がないという人があるとすれば、それは生き方、つまり働き方が間違っています。
そして、たまにはレストランで談笑したのであれば、きちんとお金を払うべきです。

私たちの食との付き合い方が、どうも少しおかしくなっているのではないかと思えてなりません。
食は、生活の基盤です。
家畜が餌を食べるのとは違うのです。

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2008/10/22

■金融資本が創り出した損失を埋める人は誰か

金融不況がじわじわと日本企業にも影響を与えだしているという報道が多くなってきました。
たとえば、トヨタ自動車の米国での販売が減少し、生産を減らすために、その周辺で派遣社員の契約打ち切りが出てきているそうです。
その報道をしていたテレビの中で、派遣社員の人が、事情はわかるがどうして自分たちのような労働者がそれを引き受けなければならないのか、と話していたのが印象的でした。
派遣契約を打ち切られると、今まで宿泊していた寄宿舎まで出なければならない人も多いようです。

契機が悪くなったら、労使一体となって苦境を乗り切る時代は終わったのです。
会社というものが変質してしまったのです。
まずは派遣社員の契約を打ち切れば、さし当たってのコスト流出は防げます。
経営者にとっては、痛みなどあまり感ずることもないわけです。
それにしても、つい最近まではあれほどの好業績だったトヨタが、販売が下がっただけでこんなことをしていいのでしょうか。
どこか間違っています。
トヨタの社長は私と同年齢です。
おかしいと思わないのでしょうか。
こういう人たちが経団連などの役員となって、日本の産業政策や経済政策を動かしていくことを思うと、日本の先行きには明るさを感じられません。
渡辺社長は、これまでの奥田さんや張さんとは違うと思いたいのですが。

今日はまた、京品ホテルがリーマン破綻の余波で売却されることになり、従業員一斉解雇の報道がありました。
社長と従業員のやり取りが報道されていましたが、真面目に働いていた従業員たちはやりきれないでしょう。
ホテルは決して赤字ではなかったようですから。
詳しくは分かりませんが、これは金融資本による「振り込め詐欺」と言ってもいいような構造を感じました。

金融資本のやり口は簡単です。
すべてを証券化し、その証券を見栄えの良いものに化粧します。
お金がお金を生むことを不思議に思わない人が、不労所得を得ようとその証券と自らの実業を交換します。
つまり自らの実業を証券化してしまうわけです。
その証券には、実は実業で働いている従業員の生活さえもが取り込まれていることに気づかずに、お金の論理で判断してしまうのです。
証券化した途端に、自らの運命は金融資本に預けたも同然です。
カジノと同じで、客を勝たせたり負かせたりするのは、胴元にとっては容易なことです。
役目が終われば、裸にされて放擲されるわけです。

金融資本が創り出した損失を埋める人は3種類いるようです。
まずは、金融資本による「振り込め詐欺」被害者です。
自分の実業を「振り込んだ」経営者やヘッジファンドの出資者がそうです。
好調に売れる時には何の疑問も抱かずにどんどん生産し、いざ売れなくなるとそれまで依存していた派遣社員を簡単に切り捨てる人たちも、含ませていいかもしれません。
その人たちは、最初から金融資本の対象にされていた人たちですし、自らもちょっと欲を出しすぎたのですから、まあ自業自得です。
しかし、ヘッジファンドの出資者も含めて、彼らは被害者であると同時に加害者でもあるのです。
彼らの行為によって、人生を変えさせられた被害者が、金融資本が生み出した損失を埋める第2の人たちです。
そして3番目は、いうまでもなく金融システムという社会システムの利用者である、すべての人たちです。
負担の度合いは大きく違いますが、加担の度合いも大きく違います。

ちなみに、金融資本が生み出した損失の多くは、金融資本の「勝ち組み」に収穫されている事実も忘れてはなりません。
みんな損をしているように見えますが、誰かが大きな利益を上げているからこそ、こうしたことが繰り返し起こるのです。

そこから身を守るのは、お金依存の生活からできるだけ距離を置くことしかありません。
お金などなくても、汗を流して、人を助けていれば、お天道様は支えてくれる、そんな経済社会はもう昔の夢物語なのかもしれません。
でも真面目に働いている人が路頭に迷うような社会は続くはずがありません。
きっとまた、お金がなくても支えあう社会になっていくでしょう。
私が生きている間には無理かもしれませんが。

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2008/10/20

■もうひとつのEQ:倫理指数

最近はあまり言われなくなりましたが、一時期、IQ(知能指数)と並んで、EQ(emotional quotient)という言葉が話題になりました。
EQは心の知能指数ともいわれ、情動知能指数と訳すのが正しいでしょう。
知能指数と対立するものではなく、むしろ補完するものです。

そもそもこの言葉は、「ビジネスで成功する人に必要な能力はどこにあるのか」というテーマでの研究から生まれたといわれます。
1980年代に米国でかなり広まり、日本にも入ってきました。
この概念を提唱した米国の心理学者は、ビジネスの成功者は、単にIQが高いわけでなく、「対人関係能力」が優れていることに気づき、その調査結果を基にEQ理論をまとめたそうです。
その後、企業の人材教育の目玉になり、さらには行政や教育現場などにおける人材育成などにおいても広く取り入れられるようになってきています。

「対人関係能力」は、決して小手先の技術の問題ではありません。
それはその人の「生き方」の問題です。
ですから、EQは「人間的魅力」にもつながっていきます。
そうした視点から考えると、昨今のEQ研修プログラムにはいささかの違和感はあります。

私は、企業関係の講演では、「みなさんの生き方が企業のあり方を決めていくのですから、まずは自らの生き方を問い直しましょう」と呼びかけてきました。
しかし、そうした呼びかけに対する手応えを感ずるようになったのは、最近です。

ところで、1980年代にEQ理論が提唱される10年ほど前に、もうひとつのEQを提唱した人がいます。
先日、名前を出した「成熟社会」の著者、D.ガボールです。
彼が、「成熟社会」の中で、IQと並んで重視したのが、Ethical Quotient(倫理指数)としてのEQでした。
彼は、経営者が人を雇う場合、Ethical Quotientを評価することが重要だと書いています。
しかし、昨今では、その経営者自身のEthical Quotientが危うくなっています。
経営者だけではありません。
いわゆる社会のリーダーといわれる層の人たちのEthical Quotientが低下しているのです。

同じEQでも、Ethical Quotientとemotional quotientは、発想の基盤とベクトルが違っています。
1980年代から2000年にかけての20年は、その視点から考えても、時代の岐路だったように思います。
私たちは、Ethic(倫理)ではなく、emotion(情動)を選んだわけです。

ガボールは、Ethical Quotientの評価尺度を概念的に例示しています。
それによれば、「自分を表面に出さず、自己を犠牲にしてまでも、良い仕事や他人への奉仕に献身すること」ができれば、EQは130以上です。
標準的な100~110の人は、「正しい環境の下では、責任ある、信頼できる態度をとるが、自分の所属集団の基準には付和雷同しやすい」とされています。
80~90になると、「監督されている限り、社会的な存在として行動する。しかし時々不正なことをする。倫理的な価値を尊ぶ感覚に乏しい。低い倫理水準に流れやすい。スリルを好む」とあります。
みなさんのEthical Quotientはどのあたりでしょうか。

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2008/10/11

■産業界の巨大化指向は無策の象徴

阪神阪急と高島屋が統合に向かって動き出しました。
「大きいことはいいことだ」の呪文はまだ生き残っているのです。
生き残るどころか、むしろ大型化は時代の流れでもあります。
市町村も合併で大きくなっています。
大きくなった市町村は存在意味がないと私は思いますが、現場と無縁に生きている人たちは大きくしたいようです。
まあ、それしか能がないのでしょうが。

産業界も、銀行に象徴されるように、企業合併が続いています。
百貨店やスーパーもまだまだ再編が続くようです。
つまり組織は巨大化しているわけです。
歴史の摂理に反する馬鹿げた行動だと思います。
策の無い人たちが、大きくすることで問題を見えなくし、先送りしているだけですが、社会的な価値はたぶんマイナスでしょう。
巨大化して滅んでいった恐竜の歴史を思い出します。
持続可能な世界は生物の多様性によって支えられているという知見は、全く顧みられていません。

権力は常に大きくなることを目指します。
そして知恵のない人にとっての唯一の策は、巨大化です。
日本の経営者は本当に持続可能な経済や社会への移行を考えているのでしょうか。
政治家も官僚も、同じです。

今朝、面白いテレビを見ました。
みのもんたの番組ですが、自民党の世耕議員と公明党の髙木議員が出ていました。
中央官庁の事務次官の「ところてん型天下り」が話題でした。
理事長や社長や会長を渡り歩いている人が少なくありません。
私の大学のクラスメイトにも2人の事務次官経験者がいますので、私もそれなりに実態は知っています。
世耕議員か髙木議員かどちらだったか忘れましたが、野党議員になんでそんなに面倒を見るのか、自分で探させたらいいではないかと突っ込まれて、「できる人なら天下りの面倒はみませんよ」とつい応えてしまっていました。
野党議員(社民党の福島さんでしたでしょうか)は「できない人に事務次官をさせているの」と驚いていましたが、そうしたやり取りに象徴されているように、官僚には「できる人」はいないのです。
正確に言えば、官僚体制の中では極めて優秀で能吏(「できる人」)でもありますが、社会に生きていませんので、社会的には「できる人」ではないのです。
反論をする人がいると思いますが、官僚制度とはそういうものです。
彼らは機械の一部なのですから、主体性は捨てていかないと仕事ができないのです。
それがいいとか悪いとかではありません。
官僚制度とはそういうものです。

産業界の巨大化指向を批判するつもりが、思わぬ内容になってしまあいました。
わが友人がこの記事を読んだら、当分同期会には参加できませんね。
1年に2回もあるのですが。

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2008/08/30

■自動車の水没事故

今回の集中豪雨で、冠水地域で自動車が水につかり、運転手が自動車から脱出できずに死亡したという事件が起こりました。
まだ改善策ができていなかったのか、驚きました。
こうした事件は10年以上前から発生していますが、その防止策はそう難しい話ではないように思います。
もしそれができないとしたら、自動車会社の技術力などはきわめて低いということになるでしょう。
技術の基本は、人を守ることでなければいけません。
もしそれができていないのであれば、自動車会社を主導するトヨタの経営理念は間違っているでしょう。
トヨタはきれいごとを並べるのは得意ですが、基本的な倫理観がかけている会社だと、私は以前から思っています。
今回の事件で、なぜ批判がトヨタに向かわないのか不思議ですが、それ以前の問題として、トヨタの技術者は少し考え直してほしいものです。
こうしたことは、以前も何回かトヨタの知人には問題提起したことはありますが、何も変わりません。

自動車はいうまでもなく、他者にも運転手にも凶器になる道具です。
それは自動車に限らず、ほぼすべての商品は多かれ少なかれそうした要素を持っていますから、それでもって自動車を批判することはできません。
しかし、自動車メーカーは、そうした側面にしっかりと向き合わなければなりません。
そこにこそ、自動車に関わる技術者の基本が置かれなければいけません。
燃費とか走行性とか、そんな話は、それができてからの話です。

今回の事故を回避することは、そんなに難しいことでしょうか。
電気回路が作動しなくなると同時に、機械的な仕組みが作動するようにしたらいいだけです。
現在の自動車は、かつてのようなマン・マシン・システムというよりも、人間をマシンの単なる部品にしてしまう発想で作られています。
ですから人間は自動車に乗った途端に、自動車に生命を預けてしまうことになるわけです。
そうした開発思想には大きな違和感があります。

30年ほど前に、自動車に関する2つの小論を書いたことがあります。
その時から事態はむしろ悪くなっているように思います。
果たして自動車技術はこの20年、進化してきたのでしょうか。
技術進歩の基準が間違っているように思えてなりません。

自動車技術に関しては、私は全く無知なので、ピント外れの意見になっているかもしれませんが、せめて今回のような事故は繰り返されないようにすべきだと思います。

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2008/08/13

■MBOのMは、経営者のMではなくマネーのM

昨日の臨時株主総会で、すかいらーくは投資会社の要請を受けて、創業一族の横川社長を解任しました。
2年前、MBO(経営陣が参加する買収)により上場を廃止、その後、経営の基本方針をめぐって、社長と株主が勝ったわけです。
MBOの本質が露呈されました。

最近はMEBO(management employee buy-out)などという言葉も出ていますが、結局はみんなファンドの餌食になるわけです。
ファンドにも良いファンドとハゲタカファンドがあるといわれますが、ファンドは要するに「お金」のことです。
良いも悪いもないと思いますが、ファンドなどというように、ある規模を超えてお金が集まると個人の意識や力を超えたパワーを持ち出します。
おそらくそれに太刀打ちできる個人はいないでしょう。
しかも、ファンドを構成するお金は、お金を増やしたいという人の期待を背負っています。
大富豪がパトロネージのために提供したファンドとは違い、そこでは「お金を増やすこと」が正当化され、目的になります。
その結果、そこに関わった人は、ほぼ例外なく壊れていきます。
企業ファンドに関わる人でまともな人に、私はこれまで会ったことはありません。
口では産業再生とか企業再生とか言っていても、人間への配慮はほぼ皆無ですから、まともな人とは言えません。
要するにお金の奴隷でしかない、金融権力の被害者なのです。

さて、すかいらーくの話です。
解任される前に、横川さんは社員に対して、「自分がやったことは間違いないと思うので辞任より解任を選んだ」と話したそうです。
無念さが伝わってきます。

「企業は株主のもの」というアメリカ流の企業観でいえば、株主が大きなパワーを持つのは当然です。
しかし、「株主」と「株主出資金」とは全く違います。
株主にはまだ「人間の心」がありますが、「出資金」には心などありません。
しかも、ファンドのような寄せ集めのお金には、個人の心は入り込む余地などないのです。
個人株主と組織株主は、全く異質のものであり、企業の資本金は、この30年の間に全く異質のものになってしまったのです。
そこをきちんと認識しておかないと、横川さんのような悲劇を繰り返すことになります。
横川さんはファンドの本質を見誤ったのです。
横川さんが、ファンドと一緒にMBOに取り組んだ時のMは、マネジメントのMではなく、マネーのMであることに気づかなかったわけです。

人が汗して育て上げてきた企業が、こうして次々と壊されていきます。
それにしっかりと立ち向かう経営者はいないのでしょうか。
いまこそ、企業のあり方を根本から考え直す時はないかと思います。

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2008/07/22

■投資ファンドのために働くワーキングプア・カンパニー

先週、終わったNHKのドラマ「監査法人」は、肩透かしを食らったようなドラマでしたが、一つだけ頭から離れないセリフがありました。
上場を目指すベンチャー企業が、加盟者から受け取った加盟金を不当に売り上げに計上し、企業が急成長しているように見せかけている不正が発覚するのですが、それに関連して、解任された社長が投資ファンドの関係者に対して、こういうのです。
投資ファンドが次々と資金を貸してきて、その利息を払うために無理をしなければいけなかった。
かなり大雑把な要約ですが、まあそんなセリフです。

投資ファンドの利回りはどの程度が常識なのでしょうか。
おそらく業界の「常識」的な水準があるはずですが、私のささやかな見聞では、年利20~30%というのはよくある話です。
昨今の低金利社会においては、この利回りは信じがたいほどの高水準です。
ですから一度、ファンドから資金を導入すると、金利返済のために企業利益を高めなければいけなくなりかねません。
昨今の日本企業の業績は好調といっても、その利益の多くはファンド提供者、つまり株主や債権者にまわっていくのであって、従業員には還元されなくなっているわけです。
そうした状況の中では、ドラマに出てくるベンチャー企業経営者の悲劇は、とてもリアリティがあります。
最近、話題のM&Aなどでのファンドが目指す利回りは、もっと高いはずです。
つまりヤミ金融の高利貸しに追われるワーキングプアと同じ構図がそこにあります。
いわばワーキングプア・カンパニーとでも言うのでしょうか。
原油高も、実はこうした仕組みの一つでしかないでしょう。

先日、紹介した「金融権力」にはこんな文章があります。

経世済民を目標とする昔の経済学は、金融論を金儲けの術としては見なかった。企業も、人に雇用を与えることを最大目標として組織されていた。金融も、仕入れ・生産・販売という企業の全活動を円滑に進行させることを課題としていた。
(しかし今では)金融は、企業や組織に生産と雇用に必要な安い資金を提供する分野ではなく、資金を出した組織や個人に年率数10%もの配当を可能にする分野へと改造されてしまった。
こうした投資ファンドのメンバーはお金持ちクラブですが、庶民の利回り水準と金持ちの利回り水準は全く違うわけです。
しかし、そこにこそ大きなからくりがあります。
低金利の世界と高金利の世界が、見えないところでしっかりと繋がっているわけです。
そして、たとえば、低金利の仕組みを主導していた日銀の福井前総裁が、一方ではそうした金持ちクラブのファンドで利益を上げるという犯罪が成り立つわけです。
その犯罪を公にしてしまうと、金融の世界の二重構造が露見し壊れてしまうために、その犯罪はもみ消されたのではないかと思いますが、全くおかしな話です。

ところで、もう一つに投資ファンドの仕組みもないわけではありません。
それはたとえば、住民債のように、関心ある人たちが少しずつお金を出してファンドをつくり、そのファンドで、社会的な事業に取り組んでいくという仕組みです。
この方式で、地域病院を創ることに取り組んでいる人もいます。
可能性はまだありそうです。
経世済民を目指す金融を取り戻せないものか、少し考えてみる予定です。

投資ファンドの世界は、私にはどう考えても理解できない世界です。

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2008/07/02

■会社そのものが商品化する時代

今年の株主総会の焦点は、社長をはじめとする取締役の再任問題でした。
アメリカ型のコーポレート・ガバナンス論におされて、出資者を束ねるファンドと経営者との対立という図式が広がっています。
しかし経営者もまた、ファンドと同じ土俵に上がってしまっているようにも感じます。
従業員やお客様の利益を背負っている経営者はどれほどいるのでしょうか。
簡単にいえば、会社の商品化が進んでいるということです。
グローバリゼーションという口実の元に、会社のあり方が大きく変化させられているわけです。

こうした状況の中で、わが国の上場企業のうち、買収防衛策を導入もしくは導入準備中の企業は500社を超すといわれています。
株式の持ち合いも復活しつつあるようです。
10数年前、金融ビッグバンといわれた時に、こうした動きはある程度見えていたはずですが、異論を唱える人はあまりいなかったように思います。
私は当時、日経新聞の2人の知り合いの編集委員にそれぞれ問題提起させてもらいましたが、彼らはあまり強い危機意識を持っていませんでした。
私がかなり信頼していた編集委員たちだっただけに、かなり失望した記憶があります。
また改めて書こうと思いますが、先週、ある法学者から最近の法改正の動きをお聞きしましたが、まさに当時危惧していたことが着実に進んでいるようです。
商品をつくっていた会社そのものが商品になってしまいつつあるのです。

私が会社にいた頃、上司の役員から、企業の使命は「雇用の場」を拡大していくことだとよく聞かされました。
その言葉は、私の仕事にも、そして私の退社にも影響を与えました。
ところが、今ではそんなことを考えている大企業の経営者はいないでしょう。
少なくとも日本経団連や経済同友会には1人もいないはずです。
もしいたら、昨今のようなひどい状況にはならなかったと思います。

最近の企業経営者、とりわけ大企業の経営者の使命は出資者(ファンド)に貢ぐことです。
社員はそのための手段でしかないのかもしれません。
ということは、自らもまた手段的な存在に成り下がったということです。
ですから、株主総会で部品のように簡単に取り替えられる存在になっても、自業自得でしかないのですが、その状況を続けていくとどうなるのかを考えると恐ろしくなります。
経営者はそろそろ目覚めてもいいのではないか。
それは単に自分の問題だけではないのです。

小賢しい買収防衛策を張り巡らせるのではない、もうひとつの対抗策があるのではないかとつくづく思います。
企業の動きを変える大きな影響力を、経営者はもっているのですから。

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2008/05/06

■自動改札のシャッターの閉まり方が怖くないですか

今日、電車で出かけたのですが、スイカで自動改札を通ろうとしたら、出た瞬間にシャッターがバシッと閉まってしまいました。
スイカの当て方がわるかったようで、もう一度スイカを当ててくださいと表示されていました。
私自身は既に外に出ていますので、そのまま行けばいいのですが、きちんと処置しておかないと次の出口で出られなくなります。
幸いに隣の場所が開いていたので、途中まで入って外からスイカを当てることが出来ましたの、今回は大丈夫でした。

皆さんはこういう経験はないでしょうか。
私は3回目です。
一度は脚にシャッターが当たりました。
とても不快な感じでしたが、それ以来、自動改札を通るのがとてもイヤになりました。
できるだけシャッターが閉じているところを通るようにしていますが、あのシャッターの閉まり方は勢いが強すぎるように思います。
不正乗車防止のためなのでしょうが、それ以上に不快な思いをさせていることによって生じるコストのほうが大きいように思います。

これは自動改札が導入された時からずっと思っていたことです。
このシステムを開発した会社が、それ以来嫌いになっています。
それまでは私が大好きな会社だったのですが、このシステムに、その会社の開発姿勢が象徴されているからです。
人間不信に立脚していますし、何よりも高齢者への心理負担への配慮が欠落しています。
経営者がどんなに立派なことをいっても、私はその会社は信じません。
まあ、これはいささか極端な考えだとは思いますが、企業の提供する商品には、その会社の思想が明確に現れます。

いずれにしろ、自動改札を通るのがまた当分の間、怖くなってしまいました。
みなさんは怖くないですか。
機械を開発した会社もひどいと思いますが、それを使用しているJRや鉄道会社はどう思っているのでしょうか。
事故は起きていないのでしょうか。

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2008/04/04

■手段は目的を駆逐する

悪貨が良貨を駆逐する、というグレシャムの法則があります。
今日は「手段は目的を駆逐する」という法則の話です。

私もささやかに関わった、企業活力研究所の人材育成研究会が「企業ミドルマネジメントが十分な役割を果たすために」というタイトルの調査研究書を発表しました。
ホームページなどで何回か言及してきたこともありますが、この研究会では今回はミドルマネジメントの活性化がテーマだったのです。
全国1000人の企業ミドルマネジメントのアンケート調査や事例研究などを踏まえて、具体的な提言も盛り込まれているので、関心のある方はぜひご覧下さい。
企業活力研究のホームページに掲載されているはずですが、まだ載っていないとしたらまもなく掲載されると思います。

私がこの研究会の議論で気づいたのは、日本の企業には相変わらずマネジメントが不在なのではないかということです。
組織のフラット化が流行ですが、フラット化によってマネジメント概念が軽視されてきているのではないかと思います。
ピラミッド構造で仕事をしている場合、マネジメントというよりも管理や統制(コントロール)が効果的ですが、フラットな人間関係の中で効果的な仕事をしていくためには、まさに異質を束ね活かしていくマネジメントが重要になってきます。
日本でマネジメントが軽視されてきた原因の一つは、プレイングマネージャーの普及です。
この研究会でも話したのですが、プレイングマネージャーは、人減らしの手段ではなく、現場を知ることがマネジメントにとって重要な要素だという認識に基づくものだったのではないかと思います。
しかしいつの間にか、基軸が逆転してしまい、マネジメントは不在になっていきます。
そのひずみが、今の日本企業に現れているような気がします。

目的と手段の基軸が逆転することはいろいろなところで起こります。
たとえば企業には昔、企画調査部と企画管理部というのがありました。
企画のために調査や管理が必要だという発想から始まったところが多かったと思いますが、管理や調査という仕事がわかりやすいために、ほとんどの場合、企画はおろそかにされました。

目的と手段の関係は、いつも手段がわかりやすいために、力を持ち始め、中心になりがちです。
企業も政治も、もっと目的に戻って何が優先されるべきかを考えなければいけない時期になってきているように思います。
人生も、そうですが。

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2008/03/13

■産業のジレンマの克服

島根県にある木次乳業の配達用トラックには「赤ちゃんには母乳を」と大きく書かれています。
岩波新書の「地域の力」で、そのことを知りました。
牛乳を生産販売している会社が「赤ちゃんには母乳を」と言っているのに感心しましたが、すぐに、そんな当然のことにも感心する自分のおかしさに気付きました。
赤ちゃんには母乳を、というのは素直に考えれば当然のことであり、なんら感心するべき言葉ではありません。
しかし、その本の著者も、その標語に感心したのでしょう。その話を本のトップにもってきています。
そうしたことが起こるほど私たちの発想は「産業」社会の洗脳を受けているのです。

滋賀県の包装資材メーカーの新江州という会社の会長は、「環境に負荷を与える包装材は減らすべきだ」と言っています。
その著書「循環型社会入門」には、これからの企業は「環境負荷削減の為に毎年生産高を減らす」ことが必要だと書いています。
書いているだけではありません。
循環型社会システム研究所までつくって、実際に環境問題に取り組んでいます。

近代産業の発展の基盤は、20世紀中ごろから「消費の拡大」に変質してしまった気がします。
おそらくその段階で、経済パラダイムが変わってしまったのです。
にもかかわらず経済学や経営学はあいかわらずの発想で、経済や経営そのものを目的化してしまってきています。
そのため、「産業のジレンマ」が確立してしまったように思います。
つまり、「問題解決のための産業」が、自らの発展のために問題領域を無限に拡大させてしまう構造の確立です。
企業経営も同じです。
なんのために企業を経営しているのか、あるいは企業で働いているのか、分からなくなってきているような状況が感じられます。

そうした状況の中で、木次乳業や新江州のような企業が増えているのかもしれません。
最近、そうした企業の話を聞くことが増えてきました。
その一方で、しかし、大企業は相変わらずの方向を進んでいるように思います。
大きくなりすぎたがゆえに、複雑なつながりが育ってきてしまったために、簡単には舵をきれないのでしょうか。
なにやら先日のイージス艦と漁船との衝突事故を思い出します。

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2008/02/20

■伊奈輝三さんの生きざま

昨日、記事を書いた後、なにか感動的な話を最近見聞していないか考えてみました。
そういえばと思って、探し出したのが日曜日の朝日新聞の「ひと」欄にでていたINAX名誉会長の伊奈輝三さんの話です。
伊奈さんは伊奈製陶からINAXへの社名変更を推進し、事業戦略や企業文化そのものを大きく変えた社長でした。
私が東レ時代にCIに取り組んでいたのと同じ時期に展開していましたが、その取り組みは見事でした。
私は会社を辞めた後、3か月、朝日ニュースターというCSテレビで、経営者にインタビューする番組をやったことがあります。
経営者10名ほどに会いましたが、一番感銘を受けたのが伊奈さんでした。
どこに感銘を受けたかというと、その生き方と考え方でした。
とても大企業の社長とは思えない、心の余裕がありました。
CWSコモンズで一度書いたことがありますが、私が犬を飼い出した時に、年賀状で「息子ができました、但し犬ですが」と書いたら、電話で「ほんとに犬なの」と訊いてきたことを思い出します。
そんな人でした。

その伊奈さんが、いま、地元の常滑市に開港した中部国際空港で案内ボランティアをやっているということが、「ひと」欄で紹介されていました。
学生や主婦などとまじって面接まで受けて、案内ボランティアとして受け入れられ、3年前からやっているのだそうです。
昨年秋には、すべての公職を返上し、偉い人扱いの一切ない、ボランティアを楽しんでいるそうです。
伊奈さんであれば、正真正銘、そうだろうなと納得できます。
海外旅行から帰ってきた昔の知人に会って、驚かれることもあったそうです。

ボランティア仲間の元会社員の人は、その記事の中でこう言っています。
「肩書や地位にしがみついていては、ボランティアはできない。うちの社長じゃ無理」。

社長の謝罪風景ばかり見ている昨今、私にはとても気持ちが明るくなる話でした。
こういう人にこそ、企業の経営を任せたいものです。

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2008/02/14

■価値ある情報の所在の変化

昨日のつづきで、情報と権力の話です。

権力の源泉のひとつは「情報」です。
情報格差が、これまでは管理構造を支えてきたように思います。
日本の官僚が権力を持っているのは取り立てて優秀であるからではないでしょう。
情報を独占し、その情報をお金に結びつけたことが権力を確立した理由だったと思います。
現状のままでは、政治家は彼らに対抗できません。
あれほど明白な犯罪的行為を繰り返す社会保険庁や厚生労働省の一部に対してさえ、政治家は無力です。
何かやっているようには見せていますが、事態はほとんど変わっていないように思います。
解雇さえできないほど無力なのです。
結局、今の政治家は官僚に飼われている存在なのかもしれません。
だから誰でも議員になれるのです。

情報を握った人が権力を持つ。
これはなにも行政に限った話ではなく、企業においても学校においてもそうでした。
しかし、いま、その情報構造が大きく変わってきているように思います。
インターネットの普及で情報が共有化されてきたのです。
しかも情報で動かせるお金の状況が変わってきてしまいました。
そのため、組織の管理構造や権力関係が大きく変わりつつあるわけです。
そしてそれが逆にまた情報の独占体制を壊し出しました。
内部告発への壁が低くなったのです。

情報共有化以上に大きな変化は、情報の所在の変化です。
かつては情報は現場ではなく、政策形成の場にありました。
つまりそここそがお金との接点だったからです。
行政でいえば、霞ヶ関の情報がお金の、つまり力の源泉でした。
企業でいえば、役員会議室の情報が権力の起点でした。
ですから自治体は霞ヶ関詣でをし、企業管理者は役員の顔色をうかがっていました。
しかし、そんな時代は10年前に終わりました。
本当に価値ある情報は「現場」にある社会になったのです。
情報の価値の所在が変わっといってもいいでしょう。

大切な情報の所在が現場に移ると、情報力が一番大きくなるのは現場、組織でいえば、第一線の人たちです。
情報社会の到来が叫ばれて久しいですが、現実の組織構造や権力関係は、そうした状況変化に対応できずにいます。
昨今の大企業や行政組織が機能不全を起こしているのは、たぶんそのせいです。
企業の広報活動も根本から見直していく必要があります。

情報は巷に溢れていますが、だからこそ価値ある情報を見極めていくことが大事になって来ています。
そのために、できるだけ多次元で多様な世界との接点が効果的なような気がします。
私自身は、異種多様な世界とのつながりを大切にしているつもりです。
疲れますが、刺激的です。

どうも横道にそれて、書こうと思っていることにたどりつきません。
困ったものです。

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2008/02/09

■日本相撲協会の対応と「組織」の効用

時津風部屋の力士急死事件は、知れば知るほど驚きが増しますが、相撲界に通じている人のテレビでの話を聞くと、こうした事件は以前にも起きていた可能性が高いようです。
過去の事件を調査することも話題になってきているようですが、どう広がっていくのか、いささかの不安を感じてしまいます。
もし今回のような事件が、これまでもあったとすれば、相撲業界と暴力団はどこが違うのかわからなくなりかねません。

組織内での暴力行為は、これまでの多くの組織原理に内在する必然的な結果ではないかと思います。
最近、さまざまな暴力問題が顕在化しつつあります。
家庭内のDV、企業内のセクハラやパワハラ、あるいはメンタルヘルス問題や過労死など、これまで組織内で隠蔽されていた暴力行為(構造的暴力や精神的暴力も含めて)が社会問題化されてきているのは、情報社会といわれる社会変化のひとつの結果だと思います。
もっとも情報社会は次の段階に進むと情報管理の時代に入り、オーウェルやザミャーチンの描いた社会の到来になります。
このささやかなブログを通しても、そうした社会の傾向を私自身生々しく実感できます。
管理社会を推進していくのは庶民であることもよく分かります。
この問題はとても興味深い問題です。

最近の食品偽装の問題も、ある意味では組織内暴力行為の一つの現れです。
最近の組織の多くは「人を活かす」のではなく、「人を壊す」場になってしまっています。
主役は「人」ではなく、「組織」や「制度」で、人はそれらに使われています。

私は、組織を「一人では実現できないことを複数の人が集まって実現する仕組み」と考えています。
問題は、組織に関わる複数の人たちの関係です。
その人たちが、「集まった」のか「集められた」のかの違いと言ってもいいかもしれません。
最近の人々は、組織を「一人では実現できないことを複数の人を集めて実現する仕組み」と考えているような気がします。
もちろんそれも「組織」の一つのあり方です。
この300年の世界は、そうやってつくられた組織が主流になってきた歴史だったかもしれません。

いずれの組織にするかが、本当の意味でのコーポレート・ガバナンス問題だと思いますが、昨今のコーポレート・ガバナンス論は「集めた人たちの組織」が問題にされています。

話が広がりすぎていますが、組織には「実態を見えるようにする効用」と「実態を見えないようにする効用」があります。
これまでの組織は、後者の効用の上に組織を成り立たせていました。
しかしこれからは前者の効用を活かしていくことが大切でしょう。
そこから発想すれば、新しい組織原理が生まれ、企業不祥事がなくなるばかりか、組織は生き生きしてくるでしょう。
そうなっては困る人たちが、組織原理を変えないようにがんばっています。
その動きに一番加担しているのは、「集められた人たち」かもしれません。
そこにこそ「集められた意味」があるのです。

日本相撲協会の対応は社会の常識には合っていないように思えますが、実は近代の組織の常識には合っているのかもしれません。
この事件を契機に、私たちが属している組織のあり方に関しても、また組織との付き合い方に関しても、ちょっと考えてみるのもいいかもしれません。
生き方が変えられるかもしれません。

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2008/02/02

■日教組集会をつぶした無法者グランドプリンスホテル新高輪

信じられない話ですが、日教組が主催する教育研究全国集会の全体集会が、会場が使えなくなったために、中止になりました。
この事件は、とても大きな意味を持っていると思いますが、マスコミはあまり大きな意味を感じていないようです。
「会場をいったん引き受けていた東京のグランドプリンスホテル新高輪が、右翼団体の街宣活動によって他の客や周辺の地域に迷惑をかけるといって、断った」(朝日新聞社説)結果ですが、
これには報道されているように経緯があります。
日教組は昨年5月にホテルと会場の契約をし、7月には会場費の半額を払ったそうです。
しかし11月になって、ホテル側は上記の理由で日教組に解約を通知しました。
東京地裁と東京高裁が日教組の訴えを認め、会場を使わせるよう命じたにもかかわらず、ホテルはそれを無視し、同じ会場を他の企業に貸してしまったのです。

繰り返しますが、信じられない話です。
偽装問題どころの話ではなく、もっと重大な犯罪です。
契約が無視され、裁判所の命令も無視されました。
経済のルールも政治のルールも無視されたのです。
これはもう立派な犯罪です。しかも極めて悪質だと思います。
もし犯罪として扱われないのであるとしたら、日本はもはや法治国家ではないということになります。

経済のルールを無視されて、財界はなぜ動き出さないのでしょうか。
教師たちの集まりを妨害されて、文部科学省はなぜ動かないのでしょう。
言論や表現の自由が侵されそうなのに、なぜマスコミはもっと早くから取り上げなかったのでしょうか。
右翼の示威行動に警察が無力なのは、なぜでしょうか。

問題はそれだけではありません。
この集会は、各地の教師が集まり、教育にかかわる様々な問題を話し合う場です。
教育が重要だと言っている人たちは、どう考えているのでしょうか。
日教組の集まりは、教育とは無縁だと考えているのでしょうか。

日教組は「教育の敵」という見方があります。
そう見つつも、学校を彼らに預けている文部科学省も卑劣ですが、
そう見られつつも文部科学省に従属している日教組も愚劣です。
その両者の対立が、政治や財界に利用されてきたわけですが、
そんななかで学校教育が問題を起こし続けるのは当然のことです。

日教組に対して、あまり良くないイメージを持っている人も少なくないでしょうが、
ほとんどの人は日教組の実態など知るはずもないでしょう。
そうしたイメージを構築してきたのは、マスコミかもしれません。
このあたりのことを書き出すとまたきりがありませんが、
ともかく今回のグランドプリンスホテル新高輪の行動は許されるべきではありません。
契約は勝手に破棄していい、裁判の命令には従わなくてもいい、というのであれば、社会の秩序は維持できません。

私ができるのは西武系のホテルを利用しないことぐらいでしょうか。
最近はホテルを利用する機会が少ないので、あんまり意味がないですが。

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2008/01/31

■素材メーカーの海外シフトとポーター仮説、または毒物混入餃子の遠因

「素材メーカー、海外シフト加速」という記事が朝日新聞に出ていました。

二酸化炭素の国内での排出削減を求められている素材メーカーが、海外生産を加速させようとしている。
どう考えてもおかしな話だと思いますが、これが昨今の環境問題への取り組みの実態です。
簡単にいえば、形を整えるために環境負荷を高めているということです。
最近のリサイクル問題(30年前までのリサイクルは違います)や排出権売買、静脈産業論なども、そうした動きの一つだと思います。
これに関しては、20年近く前に、「脱構築する企業経営」で、エントロピー視点からの問題提起をしたことがありますが、
その後の20年はそれとは全く反対の方向に進んでいるような気がします。

素材メーカーが海外にシフトすることが一概に悪いことではありません。
もし生産拠点が市場の近づくのであれば、環境負荷は低下します。
しかし動機が排出抑制投資や排出枠購入などのコストを回避しようというのであれば、
問題が出てきかねません。
排出抑制努力は緩和され、製品の移動に伴う環境負荷が高まることもあるでしょう。
排出権を企業単位に付与すれば、こうした立地による回避策は防止できます。

しかし、最大の問題は「コスト」から発想するか、「環境」から発想するか、です。
昨今の企業は。コストから発想することを基本にしています。
しかも、その「コスト」概念が、いかにも狭い視野でしか考えられていないのです。
問題が起きないはずがありませんが、それを支えているのは財界と政治です。

私は大企業こそが、環境問題に正面から取り組むのがよいと考えています。
1970年代後半、日本版マスキー法による自動車排ガス規制が技術革新を促し、燃費節約などを進め、
日本の自動車産業の国際競争力が高まったとされています。
戦略経営で有名な、マイケル・ポーターは、
「適切に設計された環境規制こそが産業を進化させる」と言っています。
私はこれを「ポーター仮説」と呼んでいますが、
企業の存在価値は、そうしたイノベーションを起こしていくことです。
欧州では、ファクター4などの動きで、それが具現化されています。

企業の経営発想の基本には「コスト」でなく、「価値」を置くべきです。
そのことは、私たち一人ひとりの生活においてもいえることです。
中国産餃子への毒物混入事件が発覚しましたが、
これもまた私たちの「コスト重視の暮らし方」が生み出したことかもしれません。
すべては私たちの生き方につながっているのです。

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2008/01/24

■株価下落で消えた資金

昨日、「株価低下でなくなったお金はどこに行くのでしょうか」と書いたのですが、それが気になってきました。
本当にどこにいくのでしょうか。
私には「消えた年金」よりも、興味のある話です。

ツカサグループの代表の三又さんが、金融政策の変化で、一夜にして、1000億円の資産家から1000億円の債務者になってしまったとお話になっていましたが、川又さんご自身は何も変わらないのに、資産が借金になるというのはどういうことなのでしょうか。
川又さんにとっては実体は何も代わらないのに、プラマイ2000億円の資産の変化があったわけです。
もしそうなら、現代の資産とは一体何なのでしょうか。

もし私が1000万円の現金を株式投資していたとします。
それが今回の下落で、その投資対象株価が2割下落したとすると、私の貨幣財産は800万円に低下します。
その時点で、株式を売却し、現金化すれば、現金は200万円減ることになります。
しかし、そのまま株式市場に入れたままであれば、実際には何の変化も起きません。
所有財産が減少したなという気分になるくらいでしょう。
もっとも現金を財産といっていいかは判断の迷います。
高率なインフレが起これば、紙幣はただの紙切れになります。

現金には何の価値もありません。
現金は、価値を交換するための手段でしかありません。
最近はその手段でしかない現金(通貨)に価値を見出す人が圧倒的に多いために、「価格」と「価値」とが混同されがちです。
たとえば、「高価」なものほど「価値が高い」ということになりがちです。
価値が高いから高価なのではないのです。

経済学や経営学の世界では、企業価値とは株式の時価総額だと言われていましたが(今もそうでしょうが)、馬鹿げた議論です。価値とはそういうものではありません。
私はそういう議論が起きだした20年前ころから、そうしたキャッシュフローベースの企業価値論とレゾンデートルとしての企業価値論とを分けて考えることを話し続けてきましたが、全く空しい主張でしかありませんでした。
前者のために、どれほどの企業が本来的な企業価値を損なってきたことでしょう。

株価の乱高下がいかに大幅であろうと、全体としては損得は発生しません。売買の双方が納得して売買していますし、何か実物が動くわけではないからです。
ミクロ的に個人の投機行為としてみれば、たしかに損得は発生するでしょうが、それは損得が発生するからこそみんな投機するわけですから、本来、問題は全くないはずです。

株価の下落が引き起こす意味は何なのか。
これまでの常識の呪縛をはずして、考えて見ることが必要ではないかと思っています。


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2008/01/20

■「エコ偽装」に見る企業の問題点

再生紙偽装事件は、企業にとって「エコ」とは一体何なのかを象徴している事件です。
企業にとって「環境問題」は解決に取り組むテーマではなく、
マーケティングに利用できる材料なのかもしれません。
「エコ偽装」などという言葉まで使われていますが、
産業界の環境問題への取り組みはまさに「偽」と思われても仕方がない状況です。

10年近く前、各社が環境報告書を競って出し始めた頃、
仕事で各社の環境経営担当役員の取材も含めて、いろいろと調査したことがあります。
その時の企業の対応姿勢にあまり「本気」を感じることができず、失望したことがあります。
その後、今度はユニバーサルデザイン(UD)が流行になり、
UD商品なるものが発売されたりした時には、
なんでこれがUDなのかと思うようなものが少なくありませんでした。
時代の課題や流行を、販売促進やイメージアップのために「浪費」している企業の多さには失望を禁じえません。
各社のCSR関係の報告書を見れば一目瞭然です。
エコも、UDも、CSRも、ともかくマーケティングのツールでしかないのでしょうか。

私自身は、昔から企業の環境問題への取り組みには疑心暗鬼です。
環境対策と称しながら、環境負荷を高めていることもありそうです。
再生紙の問題に関しても、もっと総合的に取り組むべきですし、
そもそも紙の使用量の削減こそに取り組むべきです。
産業のジレンマの中で、それは難しいでしょうが、
滋賀県の新江州株式会社のように、
包装資材の会社なのに会長が包装資材はできるだけ使わないようになどと言っている会社もあるのです。
環境問題への対応をいうのであれば、安直に言うべきではありません。
ましてや社会をごまかしてはいけません。

なんでも「儲け」につなげてしまう姿勢こそ見直さないと、
企業そのものの未来も開けないのではないか。そんな気がします。
企業は社会の子です。その存立基盤は社会です。
その社会を揺るがしている環境問題は決してマーケティングの材料にすべきテーマではありません。

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2008/01/11

■「松下電器」から「パナソニック」へ

松下電器産業が、社名を「パナソニック」に変えることになりました。
ブランド政策からいえば、むしろ遅すぎる決定かもしれません。
ビジネス戦略としては、成功することは間違いないでしょう。
でもそのニュースを知った時に、なぜか一抹の寂しさを感じました。

大坪社長は、記者会見でこう話されたそうです。
「世界の市場で事業展開するうえで、松下電器の名はローカルな印象がある」
たぶんそうなのでしょう。
でもなぜかその言葉に一抹の寂しさを感じます。

なぜ寂しいのか。
会社名がどんどん外来語になっていくことに何となく不安を感じます。
企業のアイデンティティや文化がますます見えなくなっていくことを懸念します。
もっとも私自身の個人企業も「コンセプトワークショップ」などというわけのわからない外来語を使っていますので、勝手な意見ではあるのですが。

社長の発言には「ローカル」に対するマイナスイメージを感じますが、これも残念です。
ローカルの誇りをもっと私たちは持つべきではないか、それこそが均質化が進んでいる世界の豊かさを担保するのではないかと考えている私としては、ちょっと残念な発言です。
「ローカル」の価値は、そこに立つものにしか実感できないのかもしれませんが、失われるべきものではないと思います。

しかし時代の流れには、松下にしても抗しきれないということなのでしょう。
論理的に考えれば、その方針には意を唱えるつもりは全くありませんが、ただ何となく寂しさがあります。
どうしてでしょうか。

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2008/01/04

■「戦略」という言葉

このブログの読者からメールをもらうことも少なくありません。
情報の発信は、まさに情報の受信とつながっています。
昨日のエコ・ウォーズの記事に関して、こんなメールをいただきました。
ブログを読んでいる人には、誰かがわかってしまいかねませんが、引用してしまいます。

本来無一物を書いていただいた老師とお話しするとき、つい経営戦略などという言葉を使い、戦略なんていう言葉を使うようではだめだと、よく叱られました。30年前で、私も若く、一生懸命弁解に努めていましたが、「戦いはいかん!」で、終わりでした。私たちは、安易に、外来語や比喩語を使いますが、言葉を創る努力、言葉を考える努力をしなければならないのではと、反省しています。言葉を考えるのではなく、言葉で考えてしまうので、つい、うわすべりになってしまいます。
「言葉を創る努力、言葉を考える努力」
心にグサッと響きます。
私自身、その姿勢が最近、希薄になっていることが気になっています。
言葉を使わずに、言葉に使われている自分に時々出会うのです。

毎朝、般若心経と光明真言を唱えだしてから4か月たちます。
時々、真言の力を実感したいという不心得な思いが心をよぎりますが、その度に、

「声発して虚しからず、必らず物の名を表するを号して字という。名は必らず体を招く。これを実相と名づく」
という空海の言葉を思い出します。
聞きかじりなので、いい加減な理解なのですが、声明が異次元の宇宙につなげるメディアだと思っているのです。
声に出すことの意味は大きいような気がします。

ところで、「戦略」という言葉です。
ハートフル・ソサエティの著者の一条真也さんが、その著書で

「経営戦略」という言葉の産みの親はドラッカーだとされている。
と書いています。
しかし、ドラッカー自身、軍事的色彩が濃い「戦略」という言葉が好きになれなかったそうです。
私自身は、この言葉を使い出したところに、大きな分岐があったような気がします。

一条さんは、ドラッカー経営学の体現者ですが、同時に日本文化の共感者でもあり、
大和言葉を大事にしていますし、自らの思いを込めた造語も少なくありません。
戦略も大和言葉に置き換えることもあるそうです。

日本構想学会で、戦略研究会なるものが発足しました。
私はメンバーではありませんが、周辺関係者として研究会のディスカッションには参加できることになっています。
ずっと気になっていた「戦略」について、改めて考えてみようと思っています。


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2007/12/15

■赤福はまた「もう一つの不祥事」をやってしまいそうです

表示偽装などで問題になっていた赤福が、改善報告書を保健所に提出したそうですが、そこには「売れ残り品などはすべて廃棄」という項目が入っていました。
やはりそうか、と思いました。
赤福は対応を間違っているように思います。
問題の本質がわかっていません。
私には、こうした対応もまた「もうひとつの不祥事」という感じがします。

食品業界の不祥事が続出していますが、そもそも何を持って「不祥事」と捉えるか、が問題です。
生産日に売れ残った商品を廃棄するというのは、社会の常識から考えれば、食材の無駄使いとして非難されるべき行為です。
これに関しては一度書いたことがあります

企業不祥事の最大の問題は、問題の本質を捉えられない企業の文化にあるのだと私は思っています。
言い方を替えれば、社会の常識と会社の常識がずれており、考え方が根本から間違っているわけです。
そこを正さない限り、繰り返し不祥事は起こります。
せっかくの冷凍技術を持ちながら、それを活かさずに食材を無駄にする方向に向いてしまったのは、明らかに赤福の文化が社会の常識とずれていくことの証左です。
それだけでなく社会の声にしっかりと耳を向けていないことの現われでもあります。
そうしたことを正さない限り、赤福は繰り返し、問題を起こすでしょう。
船場吉兆と同じ状況を感ずるのは私だけでしょうか。

せっかくすばらしい技術をもちながら、こうした対応をしてしまう赤福の現状が残念でなりません。

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2007/12/14

■企業不祥事続出の背後にあるもの

日経ビジネスオンライン2007年12月10日に「このままでは成果主義で会社がつぶれる」という記事が掲載されています。
その中にこんな文章がありました。

高橋俊介教授は、かつて日本企業が競うように成果主義を導入した際に、人事戦略コンサルタントとして数多くの企業から相談を受けた。「本来の成果主義は、仕事の成果に応じて報酬に差をつけることで、仕事に対するやる気を高めてもらうもの。だが、相談を受けた企業の中にそういった狙いで導入しようと考えていたところは1社もなかった」と言う。

とても複雑な気持ちを持ちました。
あれだけ話題になった日本の成果主義経営とは一体何だったのか、それを進めてきた企業コンサルタントの功罪は何なのか。
オープンブック・マネジメントをもっと広げられなかったことを反省し、残念に思います。

そのアンケートの結果では、日本型チームワークの文化が壊れてしまってきていることが指摘されています。
日本型チームワークが良いかどうかは、一概には言えませんが、そこで指摘されているのは、「メンバーの信頼関係」の崩壊だろうと思います。
ちなみに、昨今の日本での成果主義はチームワークを壊しているようですが、オープンブック・マネジメントはチームワークを育てる成果主義です。
私は、オープンブック・マネジメントの発想で企業経営を再構築すれば、すべての企業は必ず元気になると考えていますが、出版元の編集者にそれを理解してもらえなかったのが悔いとして残っています。
しかし、この話は機会を改めましょう。

目的と手段。それを間違うと効果が出ないどころか、弊害が大きくなるのが普通です。
薬を間違って服用すれば、時に死にもつながります。
政策手段を間違えば、地域活性化するはずが地域を破壊します。
手続きの時代」においては、しかし、目的との関係性よりも手段それ自体が議論の対象になりがちです。それも極めて「各論」で、です。
そして薬害が起こり、年金の無駄遣いが起こり、企業の不祥事が起こります。
そこで欠落しているのは「つながり」と「全体像」です。
企業はいまや全体像から発想されるのではなく、目先の各論から行動が起こされます。
つまりコーポレートデザインの発想がないのです。

企業がなぜ不祥事から抜け出られないのか。
「ホロニックな全体像」と「信頼によるつながり」という、組織の基本がおろそかになっているからです。
そこを正していけば、組織はまた輝き出すはずです。
それこそが企業経営のコンサルタントのミッションではないかと思います。

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2007/12/10

■日本ライスのブランド米偽装事件と農水省の犯罪

毎年、新潟の友人が魚沼産のコシヒカリを送ってくれます。
実に美味しいのです。
近くのお店で購入するコシヒカリとは全くの別物です。
それにしても、最近のお米の価格が安く、米作農家は本当にやっていけるのかも気になっていました。

昨日、TBS系列の「報道特集」で「追跡!偽ブランド米」を見ました。
先月18日深夜にMBS毎日で放映された「映像’07」が話題となり、
全国ネットでの放送が決定したのだそうです。
「新潟産コシヒカリ100%」を謳いながら、実は中国米などをブレンドしていた
「日本ライス」の偽装を明らかにしたものです。
その不正はすでに農水省にも情報が入っていたようですが、
農水省はそれを見逃していたことも番組の中で取り上げられています。

そのやり取りを見ていると、まさに「守屋事件」や「薬害肝炎事件」と同じ構図が見えてきます。
取材に応じた農水省の職員の「責任への鈍感さ」も同様です。
まさに農水省の犯罪です。
「権力」を付与された「組織」は、犯罪を生み出す仕組みを併せ持っています。
ですから、ほとんど例外なく、中央省庁には犯罪が内在しています。
そうならないために、さまざまな仕組みがつくられるわけですが、日
本の官庁にはそうした仕組みがあまりないのでしょうか。
基本的には政府観やガバナンスの問題です。

この番組で象徴的に描かれていたのは、組織の不正に対する個人の誠実さです。
組織の中の個人ではなく、組織に属さない個人の誠実さです。
生産農家の米つくりへの誠実さ、米穀販売店の商店主の誠実さが、
組織の悪行に抗するように描かれています。そこから大きな救いを感じます。
そこから感ずるのは、米作農家が自立できないのは農業政策のためだという私の勝手な思い込みへの確信でした。

ところで、偽装を組織的に行っていた日本ライスの社長はすでに逮捕されていますが、
日本ライスはまだ営業を継続しています。
恐ろしい話です。
個人は罰せられても、組織は罰せられない。
この発想にこそ問題の本質があるように思います。
犯罪の温床こそ、厳しく問われるべきです。
組織犯罪は決して個人の問題ではないのです。

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2007/11/27

■「戦争から学ぶことなどない」というオシムの見識

昨日の朝日新聞の天声人語の記事です。

サッカー日本代表のオシム監督は、祖国ユーゴスラビアの解体や、ボスニア内戦といった辛酸をなめてきた。それゆえだろうか。口をつく言葉は奥が深い。民族の悲劇が、名将の人生に、深々とした陰影を刻んでいるように見える。動じない精神力と、異文化への広い心が持ち味である。それを戦争体験から学んだのかと聞かれ、「(影響は)受けていないと言った方がいい」と答えたそうだ。「そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が…」(木村元彦『オシムの言葉』)
最後の発言に感動しました。
私はサッカーには全くと言っていいほど興味はありませんし、オシム監督についてもほとんど何も知りません。
しかし、この言葉はすごいと思いました。心から共感します。
オシムのサッカーを見ていなかったことを悔やむほどです。

企業経営も政治も戦争用語が頻繁に出てきます。
私にはとても違和感があります。
「戦争論」で有名なクラウゼヴィッツは「戦争とは政治の延長である」と述べていますし、フーコーは「政治とは別の形での戦争の継続」だと述べています。
ですから、政治の世界では当然のことかもしれません。
また経済の世界も、現代の経済は、まさに競争原理に支配されていますから、そこでも戦争と同じ活動が展開されているのかもしれません。
政治も経済も、いまやすべてが戦争の変形でしかないのかもしれません。
ですからみんな戦争から学びたがるのでしょう。
しかし、戦争から学ぶことがあるとすれば、オシム監督が言うように、戦争が存在価値を持ってしまうことになります。

そろそろ「戦争」から学んだり、戦争の知恵を政治や経済に応用したりするのは考え直すべきではないかと思います。
10年ほど前に私が翻訳した「オープンブックマネジメント」という本がありますが、そのあとがきの解説で戦争からゲームへとモデルを変えることを提唱しました。
もっと創造的なゲームへと発想を変えていけば、世界はきっと変わっていくでしょう。

フーコーも「真理のゲーム」ということを提唱しています。
「戦争」パラダイムから「ゲーム」パラダイムに生き方を変えるだけでも、人生は変わってくるかもしれません。
私は若い頃は、まさに「ゲーム」パラダイムで生きてきたのですが、いつの間にか「戦争」パラダイムの影響を受けてしまっているように、最近感じています。
このブログは、フーコー流のゲーム発想を大切にしているつもりなのですが。

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2007/11/01

■食べられるものを利用して何が悪い

若い友人が次のような趣旨のメールを送ってきました。

一連の食品の消費期限に関する偽装について聞くたびに、何か間違ってる、と感じます。
食べられるものなのですから、再利用して何が悪い!と思ってしまいます。
まだ食べられるものが、大量に捨てられる現実こそおかしいと思うべきです。
食品の再利用というのは、つい近年までそこらじゅうで行われていたと思います。
上菓子がダメなら、その下のランクの菓子に。
再利用がうまくできるというのも、技術の一つだったと思います。
ほかの食品でもきっと同じです。焼いたものが売れなかったら揚げ物にするとか。
今でもそれはやってるんじゃないでしょうか。(少なくとも家庭ではそのようにして食べていますね)
今後、これがダメということになって、大量に食べられるものが捨てられるとすれば大問題だと思います。
今回の、一連のお菓子業界での「偽装」発覚報道で、「おかしいねん!」と言う人がいないのを不審に思います。
彼女は、賞味期限とか消費期限ではなく、製造年月日を書いて、それを消費者が判断しながら食べるのがいい、といいます。
みなさん、いかがでしょうか。

私は賛成です。
次のような趣旨の返事を書きました。

私も「賞味期限」という発想がおかしいと思います。
しかし、その仕組みを取り入れたのは、大量に消費させることを狙った食品業界です。
古くなって廃棄されれば、それだけ消費が増えることになります。
メーカーにとっては、外部での廃棄は販売と同じです。
もし返品されるようにしても、その分は価格にのせればいいわけです。
商品を陳腐化させるというのがマーケティング発想の出発点です。
そうした発想をしている現代の企業の経営に私は違和感を持っています。

ミートホープの田中さんも含めて、食材をうまく活用するさまざまな工夫こそが食品産業の知恵であり、力の源泉だったはずだと私は思っています。
いいかえれば、ほとんどすべての食品会社は、その文化を持っていますから、再利用行為も日常的なはずです。
にもかかわらず、それを悪いことにしたのは、賞味期限論を持ち込んで売上げを高めてきた食品業界の人たちです。
行政が指導した、あるいは規制したというかもしれませんが、もしそうだとしても、それに賛成したのは食品業界です。
いまさら食材をうまく活用していて何が悪いのか、などと言うことはできません。
それに、鮮度を売りものにして、消費者をそう仕向けてきたのですから。
論理は一貫しなければいけません。いいとこどりはできないのです。

それに、賞味期限などを明記することの影響は大きいです。
消費者は自分の舌で確認せずに、データで食材の安全性を確認するようになってしまいました。
これは大きい問題です。

しかし一連の偽装問題の本質は、まさに「偽装」したことにあります。
つまり、嘘をついたのです。
嘘を許したら、社会は成り立たなくなります。
嘘をつく卑しさが問題なのです。
いや、従業員にまで嘘をつかせる行為を強制しているのが許されないことなのです。
嘘から社会は壊れていきます。

さてみなさんはどうでしょうか。
昨日もミスタードーナツで偽装が発覚しました。
そろそろ問題の本質に目を移したいものです。

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2007/10/31

■トップの不祥事は組織の不祥事です

仲間の問題は自分にも責任があると以前書きましたが、
これに関しては納得してもらえなかった方もいるようなので、もう一度書きます。

防衛省の守屋前次官の常軌を外した行動はどう考えるべきでしょうか。
あれは守屋個人の問題だったのでしょうか。
そんなことはないはずです。
守屋天皇の下に、同じような小天皇がいたことは容易に類推されます。
つまり、組織というのは、必ずと言っていいほど、段階的にフラクタルな相似現象が生まれます。

不勉強のため論理的に説明することは、私には出来ませんが、
常識的に考えれば納得してもらえると思います。
守屋事件はたくさんの小守屋によってそびえ立ってしまっただけの話です。
守屋次官の行為に批判的だった人がいたかもしれませんが、
黙認した以上は同罪ですし、気づかなかったとすれば職責を果たしていないことになります。
シュペアーユンゲヤニング、彼らの言葉には耳を傾けなければいけません。

つまり、防衛省はおそらく現場の職員一人ひとりにまで、この文化が支配していたはずです。
現場の職員はまじめに働いていたのに、という同情の言葉は全く成り立ちません。
現場の職員も腐ってしまっているはずです。
それは年金問題を見ればよくわかります。
もちろんすべての職員が犯罪者だというわけではありませんが、良心は失っているはずです。
守屋事件は、周辺の人にはほとんどすべてわかっていたはずです。

御福餅が赤福と同じようなことをしていたことが発覚しました。
その社員がテレビで話していました。
赤福事件が起きてから、いつ発覚するか心配だったと。
赤福の事件は食品業界共通の事件です。
赤福でやっていたことはほとんどすべてのメーカーでやっていることだと考えるべきでしょう。
それが業界の常識だからです。
そんなことは雪印事件の時にわかったはずですが、誰も業界刷新に動きませんでした。
つまり日本の食品業界は腐ってしまっているというわけです。
そんなことはおそらくみんな知っているはずです。

もちろん例外はあります。
しかし、次官とか社長とかトップメーカーとかが行っている不祥事や犯罪は、
その組織あるいは業界にフラクタルに遍在していると考えるべきでしょう。

それにしても、マスコミは、毎日、よく飽きもせずに、食品不祥事ばかり報道しているものです。
偽装事件など追わずに、例外の企業を見つけて、そこを応援する姿勢にそろそろ変えるべきでしょう。
どこか正しい会社を見つけてほしいものです。
あるいはどこかまじめに仕事をしている役所を見つけてほしいものです。

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2007/10/22

■赤福はなぜ道を間違ったか

赤福の問題は最初はわずかな行き違いだったような気がしましたが、その実態が見えてくるにつれて、そうではなくてこれまでの食品メーカーと同じく、意図的な行為だったことがわかってきました。
日本の老舗の経営理念を高く評価している私としては、残念でなりません。

数年前に先代の社長に何度かお会いする機会がありました。
赤福の事業に関連してではなく、伊勢のまちづくりに関連して相談を受けたのです。
企業経営に関しては、お話しませんでしたが、赤福に対する思いの強さは感じました。
その日にできたものを売り切ること、そのために東京には出荷しないこと、などをお聞きして、私も赤福ファンになりました。
まちづくりに対しても、しっかりした哲学と見識をお持ちであり、実践されていらっしゃいましたので、その点でも感心しました。

残念ながら、その時はいろいろとあって、お役には立てなかったのですが、3か月ほどのお付き合いの中で感じたのは、まわりの人との距離感でした。
いいかえれば、世間、あるいは社会との距離感です。
トップがあまりにも突出しすぎてしまうと組織はおかしくなることを体験的に感じていましたので、危惧の念を持っていました。

しかし、今回のようなことが起きようとは思いもよりませんでした。
残念でなりません。
現場の人たちの思いがトップにもし伝わっていたら、こんなことにはなっていなかったはずです。
少なくとも先代の社長は、意図的に今回のようなことを認めることはなかったでしょう。
しかし、結果的に認めてしまったわけですが、ここに組織の恐ろしさがあると思います。

経営者こそしっかりした信念と社会性を持つべきだという「経営道」の活動にささやかに20年関わらせてもらっていますが、どうも問題は個人ではなく組織の原理にありそうです。
そんなことを改めて考えさせられています。

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2007/08/18

■「白い恋人」事件と食育行政

また食品業界の表示不正事件です。
北海道の観光土産として有名なチョコレート菓子「白い恋人」が賞味期限改ざんを行っていたことが判明しました。
どうしてこうも繰り返し繰り返し食品企業の不祥事が起こるのでしょうか。
その基本に、食品業界と行政の癒着関係があるように思います。
先のミートホープ社事件では、そのことが明白に見えましたが、今回もおそらく一種の馴れ合いや依存関係があったように思います。
そうしたものがなければ、これほど繰り返し同じような事件が起きるはずはありません。

40~50年前に、「公害」が話題になり出した頃、「公害発生源」の企業を守り、被害を増大させたのはいうまでもなく行政です。
最近でこそ「予防原則」なる発想が市民権を得始めましたが、当時は公害防止よりも産業成長が行政の役割でした。薬害の時もそうでした。
その姿勢は今もって変わったわけではありません。
そうした事例は、このブログでも何回か書きました。
企業は「コンプライアンス」を口に出すようになりましたが、明らかな法の抵触さえなければ「不正」や「責任回避」は今もなおコストダウンのための手段ですし、それを支援するのが産業支援行政です。
言い過ぎに思えるかもしれませんが、繰り返される企業不祥事をみれば、それは否定できない事実でしょう。

もちろん個人が意識的に「不正」を行っているわけではなく、仕組みがそうなっているのです。
今回の石水社長も、気がついたら犯罪者になってしまっていたのです。
10年前であれば、おそらく隠し通せたでしょうし、行政も援護したでしょう。
しかし、昨今の情報環境はそうしたことを不可能にしてしまったのです。

行政の産業支援は決して悪いことではありません。
しかし問題は、産業に対する理解と支援の方向性です。
そこを一歩間違うとおかしなことになります。
静脈産業支援が環境破壊を増幅するような事例がいかに多いのか、そこをもっとしっかりと認識する必要があります。

とりわけ、食はわたしたちの生命に大きな影響を与えます。
食で身体を非健康にさせ、そこに健康食品や健康産業を創出させ、さらには医療市場を拡大させることも不可能ではありません。
いや、すでにそうした産業コンプレックスが動き出しているのかもしれません。
その動きを感じているのは、私だけでしょうか。

しかし、食は産業のためにあるのではありません。
産業支援の視点ではない食産業の評価システム、たとえば生命的な評価システムが導入されるべきではないかと思います。
どうやってそれを作るか。今の行政では無理でしょう。NPOなら可能でしょうか。
この問題は、とても刺激的なテーマです。

ところで、私が最近危惧しているのは「食育」ブームです。
食育もまた産業支援のためのものでなければいいのですが。
食育に関しては、いろいろと思うことが多いのですが、いつかまた書きたいと思います。
食育は文化にかかわることだからです。

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2007/07/18

■将来に信頼を持てない働き方でいいのか

労働政策研究・研修機構が行った企業従業員の意識調査結果が今日の朝日新聞に出ていました。
次のところがとても気になりました。

仕事や職業生活で感じている不安や悩みについてたずねた社員への調査では、73.2%が「将来の賃金水準」を挙げてトップ。「定年後の仕事、老後」(67.4%)、「会社の将来性」(64.8%)が続いた。
企業で働けている人たちですら、その2/3が、将来に不安を持っているというのです。
どう考えても異常な状況だと思います。
将来への不安は、もちろん現在の不安でもあるわけです。
一見、平和で豊かな今の社会のどこかに、きっと大きな落とし穴があるのでしょう。

20年ほど前にある調査機関が、「私たちの子どもたちは私たちよりも幸せになるだろうか」というアンケート調査を実施したところ、2割の人たちしか「はい」と答えなかったそうです。
私はいろいろなところで講演をさせてもらう時に、同じ質問をさせてもらいますが、「はい」と答える人は年々少なくなってきているような気もします。

将来に希望と信頼を持てるかどうかは、その社会の本質を象徴しています。
しかし、明るいニュースもないわけではありません。
新潟中越地震の報道が毎日伝えられていますが、柏崎のある商店街で、商店街の人たちが中心になって、ご飯を炊き上げ、必要な人に自由に持っていってもらう活動を始めたことが先ほどのテレビで報道されていました。
(追記)
19日の朝日新聞で報道されました。その記事はここをクリックしてください。
そこにないときは次をクリックしてください。
朝日新聞記事(2007年7月19日)
自分たちも大きな損害を受け、その片付けに取り組みながらの活動です。
そうした「支え合い」の輪のなかに自分がいることに気づけば、きっと将来への不安はなくなるはずです。

語呂合わせではないのですが、競争原理が働いている社会と共創原理が働いている社会の違いを改めて考えさせられました。
それにしても、「将来への安心感」の大切さは、それを失って初めてわかります。
この意識調査結果は、企業関係者はもっと真剣に考える必要があるのではないかと思います。
そして、安定した働きの場がない人たちの思いやりもぜひ持ってほしいと思います。

競争原理ではなく、共創原理で考えれば、もっと多くの働きの場が生まれ、しかも競争の不安から解放され将来への展望も開けていくはずなのです。

労働政策研究・研修機構も少し発想を変えて、行動を起こしてほしいと思います。
調査は新しい風を起こすための手段なのですから。

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2007/07/02

■新しいM&Aの時代

今年の株主総会の時期も、大きな異変はなく終わったようです。
M&A時代の到来に大きな不安を持っている私としては、まあホッとしました。
昨今のファンド主導のM&A(企業の合併・買収)の広がりは、私の企業観、経営観には全く整合しないのです。
昨今の企業価値論やコーポレートガバナンス論にも大きな違和感があります。

ところが、これからはまさに「M&Aの時代」でなければいけないと言う人がいます。
一条真也さんです。
私が敬愛する企業経営者です。
一条さんの新著「龍馬とカエサル」のあとがきにこう書いています。

私は一人の経営者として、ミッション(使命)とアンビション(志)の二つを真の「M&A」として大切にしていきたいと思う。(中略)これからは「ハード」よりも「ハート」、つまりその会社の思いや理念を見て、顧客が選別する時代に入ると確信している。そのときに、最大の武器となり資産となるものこそ、「M&A」なのである。
使命感(Mission)と志(Ambition)。
まさに企業の原点だったはずです。
昨今の企業がさまざまな問題を起こしているのは、その「M&A」が見失われてしまったからです。
企業の病理を正すのは、それを構成している経営者や社員です。
まずは経営者や社員が「心」を取り戻すことです。
そして、初心に戻って、「M&A」を思い出すことです。
ミートホープの田中社長も創業の頃の思いを思い出してほしいです。
最初から「悪事」を働こうなどと思う人はいないはずです。

どこかで死刑判決を受けるほどの悪事にかかわらざるを得ない現実が多すぎるのが今の日本社会かもしれません。
それを正すことから、安田弁護士は構想すべきだったのではないかと思います。

最近、このブログで書いている事件は、すべて繋がっています。
小手先で「対処」するようなことの恐ろしさに、そろそろ気がつきたいと思います。

一条さんの「龍馬とカエサル」の紹介は私のホームページに載せました。
よかったら読んでください。
とても示唆に富む、読みやすい本です。

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2007/06/27

■ミートホープと光市母子殺害事件弁護団

ミートホープ詐欺事件光市母子殺害事件への弁護団介入
この2つの事件はまさに今の時代の病根を示唆しているように思います。

ミートホープの田中社長が、食肉業界では同じようなことが他社でも行っていることを示唆する発言をしたと報道されていますが、そう考えてもおかしくないように思います。
農水省も道庁も、ほかの事例を知っているような気もします。
そうでなければ1年前の関係者の報告を拒否したり無視したりすることはないでしょう。
耐震偽装事件と同じく、これは「みんなでやった事件」かもしれません。
ミートホープ社は極端すぎただけかもしれません。

いま信頼を失っているのは、ミートホープ社だけではなく食肉加工業すべてです。
食肉加工業がもっと自分たちの仕事に誇りを持っていたら、自分たちでこのような事件を起こす企業を監視し事件を防止できたはずです。
いやそうしなければいけません。

同じことは弁護士にも言えます。
今日の光市母子殺害事件の公判の被告人質問の報道を見ていると、弁護士という資格への信頼感が大きく揺らぐような気がしました。
これは21人の弁護士たちの問題ではなく、弁護士という資格の信頼性、さらには裁判への信頼性の問題ではないかと思います。
この裁判はいったい何なのでしょうか。
そう思っている弁護士はいないのでしょうか。
弁護士や法曹界の仲間主義がもしあるとすれば、残念なことです。

自らが信頼性を維持できないような資格は、たとえ権力がお墨付きを与えても、決して本当の信頼性は保てないでしょう。
弁護士仲間から何の動きも出ないことが残念です。
日本の法曹界もまた、政治と同じく、正義を忘れてしまったように思います。

弁護士が事実を捏造することは犯罪です。
せっかく築きあげてきた裁判制度への冒涜は許されることではありません。
政治家やジャーナリストによる「事実の捏造」も許しがたいことではありますが。

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2007/06/26

■ミートホープ従業員解雇と社会保険庁ボーナス自主返上

事件を起こしたミートホープ社が全従業員の解雇を決めたそうです。
社会保険庁はボーナスの自主返上を職員に呼びかけました。
問題の性格は違いますが、責任の取らせ方として、どこか共通点がありそうです。
共通点はトップの勘違いと組織と個人の不条理な関係です。

ミートホープ社に関して言えば、私は従業員も全くとがめられない存在だとは思いません。
既に内部告発した人もいますが、本気でやるのであればもっとやりようがあったでしょうし、現場の従業員も自分たちがやっていることがおかしいと気づいたはずです。
それを受け入れていたのは、厳しい言い方ですが、共犯者のそしりは免れません。
これだけ長く、また広範囲に不正をやっていたからには、おそらくみんなわかっていたはずです。
ですから、私は同社の従業員も責任を取るべきだと思います。

しかし、だからと言って、一方的に解雇というのはどこかおかしい。
完全にこの会社は田中社長の私物だったわけです。
会社とはいったい何なのかを考えさせられます。
同社にとって従業員は単なる労働力であり、従業員にとって会社はお金を稼ぐ仕組みでしかなかったのです。
これは極端な事例ですが、最近はこうした「企業」や「従業員」が増えてきているような気がします。

社会保険庁のボーナス返上に関連して、川崎前厚労相は「問題を知らなかったことの責任は取らざるを得ない」と話したそうですが、「知らなかったことの責任」は責任ある立場にいた人にはとても大きいです。
しかし、この責任もまたすべての人に当てはまるでしょう。
正確に言えば、「知ろうとしなかったこと」への責任ですが、ミートホープ者の従業員は、そのことをしっかりと認識すべきです。
いや、問題を起こしていない企業の従業員も、他山の石とすべきでしょう。
さらにいえば、私も含めて、この社会を生きるすべての人が「知ろうとしなかったこと」を恥じなければいけません
その上で、彼らを責めることができるはずです。

社会保険庁のボーナス返上に関しては、いまさら何をという気もします。
問題になりだしてから一体何年経過しているのかを考えれば、そんな話ではありません。
この間、まじめに仕事をしていれば、ボーナス返上額とは桁違いの金銭的カバーが出来ていたはずです。
問題が顕在化してからでも、おかしなことは山ほどあったはずです。
それに末端の職員も含めて、やはり「知ろうとしなかったことの責任」は否定できません。

しかし、それはそれとして、やはり全員にボーナス自主返上を呼びかけるのは理解しにくい話です。
強制減額するのであれば理解はできますが、トップが責任をとらない自主返上方式ではあまりに身勝手なことなのではないかと私は思います。
制度的に強制はできないとしても、それは姿勢の問題です。

私が職員であれば、返上はせずに、同じ額をもっと効果的に活かすことを考えます。
たとえば職員組合が有志の返上額を集めて、年金面で被害を受けている人を支援する仕組みを作ることはできないのでしょうか。
電話で年金相談を受けるNPO活動ならできるような気もします。

いずれにしろ、この2つのニュースはただでさえ気分のよくない事件をさらに憂鬱なものにしてしまいました。
いずれも最高責任者が責任を取らずに、責任を分散したわけです。
組織は責任を分散しあいまいにする仕組みになりきってしまうのでしょうか。

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2007/05/19

■basement ethicsとaspiration ethics

相変わらず組織の不祥事がなくなりません。
組織を預かっている人たちにモラルもエシックス(倫理)もないのでしょうか。
科学技術倫理フォーラムの杉本泰治さんから教えてもらったことですが、全米プロフェッショナル・エンジニア協会(NSPE)の倫理規定には、“ don’t do” で始まる条文と“shall do”で始まる条文とがあるそうです。
前者は行動の最下層をきめたもので、このレベルより下のことは、何であれするなという、最下層倫理(basement ethics)、後者は、何かをする気にさせるもので、抱負倫理(aspiration ethics)と呼ばれているそうです。
そして、倫理規程の冒頭に、「公衆の安全、健康、および福利を最優先するようにしよう(shall do)」と明記されています。
日本ではまだコンプライアンスなどということが課題になるレベルですが、コンプライアンスはおそらくbasement ethicsよりも下位の概念でしょう。
まともな大人であれば、あえて言うまでもない当然の遵守事項であり、決して免責のためのものではありません。

倫理というと、なにやらうっとうしい気もしますが、aspiration ethicsと考えると楽しくなりそうです。
発想を変えると世界が変わってくることの一例です。
日本の企業倫理論議で欠けているのは、こうした発想ベクトルの転換です。
それがない限り、現実は変わらないような気がします。
倫理を守ることが当事者にメリットになるように設計する知恵が必要になっているように思います。

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2007/04/20

■経営における道徳性

夕刊を見ていたら、電力各社のデータ改ざんや隠蔽などの不正問題を調べていた経済産業省が計50事案を特に悪質な法令違反と認定した、という記事が出ていました。
経済産業省こそ問題なのではないかという気もしますが、それはともかく、いわゆる「公益企業」といわれる電力会社ですら、こういう状況が依然続いていることには驚きを感じます。
こうしたことが問題になってから、もう数十年もたつのに、事態は変わっていないのです。

そこには、「産業のジレンマ」の構造が、フラクタルに存在しています。
経営学やカウンセリングにも、また同じような「ジレンマ」があるのでしょう。
企業の目的は「顧客の創造」であるという定義(これこそが「産業のジレンマ」の出発点です)を読んで以来、どうしても好きになれない経営学の泰斗、ドラッカーは、現在の産業パラダイムの中では最高の経営学者だと思いますが、そのドラッカーは1954年の著書“The Practice of Management”のなかで、こう書いています。

経営層によい精神を生ましめるために必要なものは、道徳性(モラリティ)である。そして、道徳性は、人々の長所を強調すること、高潔を強調すること、正義を重んじ、高い行動の標準を創ることを意味する、

近代広報の父といわれる、アイ・ビー・リーは、広報の本質を「フランクネス」といっています。隠すことのコストは以前書きましたが、コストの問題以前に、それは道徳性に関わることです。

道徳性がなぜ必要かは2つの理由があります。
まずソーシャル・キャピタルの視点からの価値です。
ソーシャル・キャピタルが高まれば、さまざまな意味で経済的なコストは削減され、人間的な安寧さが高まります。
道徳的であることが、現在の経済パラダイムにおいてさえ、実は最も経済的なのです。

個々人の立場からも、道徳性は価値があります。
道徳的であることは個人に生きやすい状況を提供してくれます。
人が一番、生きやすいのは周りの人の長所と付き合うことです。
これは私の体験からほぼ間違いないと確信しています。
長所だけ見ていたら、すべての人が善人に見えてきますから、毎日が幸せです。
自らが好んで嘘をついたり、明らかな不正義を犯そうとしたりする人は通常はいないでしょう。
そういう行為を行わざるを得ない事情が、それぞれにあるのです。
あるいは、自らの行為の意味が理解できていないのです。
最近の銃の事件も、その例外ではないでしょう。

念のために言えば、そうした考えであればこそ、私は犯罪行為には厳罰が必要だと思っています。
犯した罪よりも、重い罰が与えられなければ、人は救われないと思っています。
ですから、殺人を犯した人は、死刑以上の罰を受けるべきです。
雑な言い方ですみませんが、現代の刑の与え方はあまりにも軽すぎます。
それは冤罪なども含めて、裁判の監視の仕組みがないことと無縁でないようにも思いますが。

友人が始めた「経営道」運動に関わっていますが、どうもどこかで設計ミスがあるような気がしてきています。
そろそろ経済や産業のパラダイムを考え直す時期に来ているような気がします。
同じような企業不祥事のニュースを、いつまでも繰り返し読みたくはありません。
経済同友会が経営者の社会的責任を提言した1956年から、日本の企業の経営者は少しは前進しているのでしょうか。

そろそろ「企業のあり方」を考えなおす時期に来ているのではないかと思います。
経営論の時代ではなく、企業論の時代です。

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2007/01/12

■不二家事件の意味:「恥の文化」から「罪の文化」へ

また企業の不祥事件です。今度は不二家が期限切れの牛乳でシュークリームを製造していたことを隠蔽したという事件です。
雪印の時と同じく、「期限切れ原料の使用」とその隠蔽と二重の意味での反社会的行為が行われたわけです。
隠蔽の理由が、「期限切れの原料使用がマスコミに発覚すれば、雪印(乳業)の二の舞いとなることは避けられない」ということだそうですが、すでに「雪印の二の舞い」をやっていることに気づかないことに驚きを感じます。
しかし、これはいまの日本社会を象徴する事件です。

「見つからなければいい」という文化が日本を覆っています。
かつて「恥の文化」だった日本社会も、いまや「罪の文化」の社会に変質してしまったのでしょうか。
そういえば、複数の閣僚の事務所経費問題が話題になっていますが、当事者である閣僚の説明を聞いていると、これもまた同じ線上にあるように思います。
最近の政治家の不祥事をみるにつけ、健全な政治家などいないのではないかと思いますが、「マスコミに発覚しなければよい」というのが、いまの日本の権力者の常識なのかもしれません。
経済界も政界も、行政の世界も、です。

どうしてこんな社会になったのでしょうか。
私が子どもの頃は、「お天道様が見ている」ということが社会の規律を維持していたように思います。それこそがソーシャル・キャピタルだったのですが、いまやみんな「罪の文化」に逃げてしまっています。
しかも、それを先導しているのが、私と同じ世代の人たちだというのが、なんとも悔しくて哀しいです。

「罪」は受動的な概念であり、「恥」は主体的な概念です。
主体性のない人たちは「積み」を基準に生き、恥には関心を示しません。
企業のコンプライアンスが責任転嫁の論理であることに気づかなければいけません。
電車の中で化粧をする無恥な女性たちと同じなのです。

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2006/11/22

■人を育てる場から人を壊す場になってしまった企業

企業で働く人のモチベーションや働き甲斐が最も低い国の一つが日本だそうです。
さまざまな調査結果がそれを示しています。
CWSコモンズでも時々書いていますが、大企業の経営幹部の関心事は「部下の元気」です。
自らも含めて、みんな疲れてしまっています。

企業業績はよくなっているといわれますが、
従業員の労働時間は多くなり時間当たり給与はむしろ下がっているかもしれません。
何が業績向上だといいたいところですが、
アメリカ型経営思想の中ではそれが評価されるのです。
「株価資本主義」はますます広がっています。

企業の実体をつくっているのは「従業員」です。
従業員の元気こそが会社の元気の源泉です。
だからこそ、経営の根幹は「人づくり」です。
企業は「人を育てる場」だったのです。

しかし最近は、その企業が「人を壊す場」になってしまっています。
働き甲斐を失うだけでなく、精神的なトラブルが急増していることでは、日本は世界で一番高いかもしれません。いろいろな調査データでも精神的問題の急増が示されています。

企業は「仕事」を壊しただけではなく、「人」まで壊しだしました。
そろそろ働く場の仕組みを変えなければいけません。

19日にインキュベーション型コムケアフォーラムを開催しました。
自分たちで働く協同労働の場が育っていかなければ社会はますますゆがむような気がします。
団塊世代が企業の呪縛から解放されて、
自らが輝く働きの場を創り出していくことを期待しています。
19日のフォーラムでは「団塊世代インキュベーションネットワーク構想」も発表されました。

組織に使われる時代は終わりにしなければいけません。

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2006/07/18

■財界による消費者情報のオープンバンク構想

パロマ工業の瞬間湯沸かし器による死亡事故が問題になっています。
事故発生後の会社の対応がとても残念です。
日本の企業のビジネスセンス、とりわけ製造物責任感覚はまだまだ未熟のようです。
コンプライアンスやCSRの議論よりも、まずはビジネスセンスを磨くことが大切かもしれません。
以前、書いた松下のファンヒーターも、結局はその裏返しのような気がします。

インターネットがここまで広がってきた状況を考えると、こうしたことの解決策はそう難しいことではないように思います。
内部告発の議論もありますが、消費者情報をもっと社会化すればいいのです。
つまり、消費者の体験や今回のような事故を、社会的に掲示できる仕組みをつくれば、状況は大きく変わるでしょう。
そうした仕組みは、すでに一部のNPOなどが取り組んでいますが、もっと体系的に経団連が中心になって進めたらどうでしょうか。
抽象的な倫理綱領などとは違い、効果は抜群のはずです。
費用対効果も高いはずで、企業にも社会にも、もちろん消費者にもメリットのある「三方よし」のシステムになると思います。
今度、経団連の人に提案してみようかと思いますが、いかがでしょうか。

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2006/03/21

■松下電器の対応は誠実なのか非常識なのか

今朝の新聞に「引き続き、松下電器からお客様へのお願いです」というチラシが入っていました。
トラブルを起こしたFF式石油暖房機の回収活動がまだ続いています。
以前、自宅に葉書も届きましたが、ここまで来ると疑問を感じます。
松下電器には常識が無いのかと思えてなりません。

常識の無い会社は、必ずといっていいほど、また問題を起こすでしょう。
組織としての意思決定システムに欠陥があるからです。

松下が回収活動にかけた費用は莫大なものでしょうが、それは必ず商品売価に反映します。
それだけではなく、社会的にも大きなコストを発生させていると私には思えます。
それだけのコストをかけるのであれば、もっとやりようがあったのではないかとさえ思えてなりません。
それに全部を回収するのは無理があります。
FF石油暖房機の製品寿命がどのくらいかわかりませんが、すでに廃棄処分した家も少なくないでしょう。

松下電器は問題の設定を間違えているような気がします。
万一、事故が再発しても、これだけ努力しているのだから使っていた人が悪いと言う状況をつくっているのではないかという疑念さえ、私は持ってしまいます。

私の受け止め方がゆがんでいるのかもしれません。
経済性を度外視した松下の誠実な対応を評価すべきかもしれません。
しかし、ここまで繰り返しやられると松下電器への批判の声も上がるような気がします。
現に私の周りではいくつか聞こえてきます。もちろん私も松下には批判的です。
資源の無駄使いをする会社だと思ってしまうほどです。

誠実さと過剰対応はどこで違いが出るのでしょうか。
対応の意図かもしれません。
そしてその意図を実現するための手段の的確さかもしれません。
さらには全体像を明確にした上での行動のグランドデザインも重要な要素かもしれません。

それらがあいまいだと過剰反応をしてしまいます。
危機管理は問題解決型で発想しがちですが、危機管理は状況進化型で考えるべきだと思っていますが、そう考えると今回の事件も全く違ったプログラムが構想されたはずです。

しかし、そうはなりませんでした。
それは松下だけの姿勢ではありません。
責任逃れのための過剰反応は、昨今の日本社会の大きな流れです。
個人情報保護の問題に、それが極端に現れています。

「社会の喪失」が進行しているような気がします。


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2006/02/14

■企業の社会貢献活動と事業活動

企業に関わる残念な事件がまた頻発しています。
しかも、取りざたされる会社がいずれもとても社会活動に熱心な会社であることが気になります。
核開発に転用可能な3次元測定機の輸出で問題になっているミツトヨは、仏教伝道に地道な活動をしている会社です。
むしろ仏教伝道のために会社を設立したという歴史がある会社です。
生命保険違法販売で問題になっている損保ジャパンは、福祉活動を行う団体のNPO法人格取得を支援する活動をかなり早い時期からやってきました。
NPO支援の分野では実績のある会社です。
なぜそうした会社がこういう事件を犯してしまうのか。
これについては18年ほど前に日経産業新聞のコラムに書いたことがありますが、社会貢献活動と事業活動とのつながりがないことが最大の理由だと思います。
つながりがないばかりか、別の問題と捉えられています。
そもそも「社会貢献」などという言葉を何の疑問もなくつかっているところに、そうした理念のおかしさが象徴されているように思います。
この話も当事、経団連の社会貢献活動の研究会で企業の関係者に問題提起しましたが、全くと言っていいほど理解されませんでした。
彼らが本気で考えていないのが良くわかりました。
その事情は残念ながら20年近くたった今も、全く変わっていません。
当時、私が雑誌などに書いていた問題提起は、今読んでも通用してしまうのが哀しいです。
渋沢栄一は「片手に論語、片手にそろばん」といいましたが、それを統合する機能、つまり「経営」が多くの企業には不在なのです。
企業は、事業活動を通じてこそ社会に貢献しなければいけません。
いわゆる「社会貢献活動」は、そのための手段でしかありません。
それは社会貢献のためにするのではなく、社会を学ぶために行う社会活動なのです。
どんなに勉強ができても、どんなに金持ちでも、
社会性のない人とは友達になりたくないと普通は思うでしょう。
企業も同じことです。
社会性を磨くためにこそ、企業は社会活動をすることが必要なのです。
その認識がない企業の「社会貢献活動」が多すぎるのがとても残念です。

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2006/01/26

■砂上の企業価値

堀江さんの逮捕で、ライブドアグループの株式時価総額は一挙に半減してしまいました。
株式時価総額が「企業価値」といわれますが、そういう意味での企業価値がいかに実体のないものであるかが、明確に示されました。
経営学者や経営者が、企業価値という言葉を見直す契機になればと思いますが、まあ無理でしょうね。
企業価値に関しては、たとえば、3つの企業価値の話を以前書きましたが、視点を変えればさまざまな定義ができるでしょう。

価値はどの立場で考えるかで全く違ったものになりますが、そうしたことをあいまいにしての議論が多すぎるのが日本の「経営学」の現状です。
これは経営の世界だけの話ではありません。
誰にとっての価値か。
誰の視点で評価するか。
誰に対する支援か。
誰にとっての参加制度か。
誰にとっての民営化か。
こうした「誰の」という「視座」が極めて曖昧な社会になっているように思います。
手段が目的化しているのです。

そうした状況を変えていくためにも、自分のしっかりした価値観を確認し、自分の言葉で語ることがとても大切な時代になってきました。

それにしても、砂上の企業価値に投資させる風潮を広げようとしているには誰なのでしょうか。

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2005/11/05

■自動車に関する安全対策

自動車事故の報道が最近また増えています。
交通安全白書によれば道路交通事故での死者数は減少傾向にあり、昨年は7,358人でした。これはピークだった昭和45年(15,765人)の半分以下です。しかし、安心してはいけません。死傷者数でみれば、増加傾向にあり、昨年は119万人でした。ちなみに、昭和45年は100万人弱でした。当然、事故数は増加傾向にあります。
なお、日本の場合、交通事故死として計上されるのは事故後24時間以内に死亡した場合です。海外は1か月以内というところも少なくありません。

自動車産業の業績が好調です。その利益の大半は海外市場での利益だそうですが、それはともかく、もっと交通事故対策に利益を投入すべきではないでしょうか。
宇沢弘文さんの「自動車の社会的費用」は有名ですが、交通事故に伴う社会的費用はもっと真剣に考えられるべきだと思います。
この問題に関しては、先月のサロンでも話題になりましたが、私はいまのアプローチに間違いを感じます。それはJRの安全対策に関しても感ずることです。いずれも対症療法的な処方でしかありません。
たしかに自動車に関しては、安全対策にかなりの努力がされています。しかし、自動車はつまるところ、マン・マシン・システムですから、製品としての自動車だけを考えていても問題は解決しません。
しかも自動車は、マン・ソシオ・システムの要素が強いですから、道路やまちの構造にもつながっています。
たとえば、我が家の近くに「ハケの道」といわれる細い道があります。散歩道としてはいい道なのですが、ここも4メートル道路にすることになっており、両側の地主はセットバックを要請されています。たしかにこの道沿いにも住宅がありますから、自動車交通不可にはできないかもしれません。しかし、すべての道を自動車が通れる道路にする必要はありません。まちの構造づくりに問題があるように思います。都市計画家の失敗だと思いますが、今もなお、行政はその路線を続けています。自治体の都市計画や都市建設の部署の発想は、多くの場合、生活視点が欠落した「専門家」的です。その背景に、自動車メーカーの存在を感じます。
道と道路は違うのです。昔は、道はもっと多機能な生活空間であり、生活をつなぐものでした。いまは往々にして、生活を分断しています。

先月、山形市の商店会の若者たちとフォーラムをやりましたが、そこでゾーン30やトランジットモールが話題になりました。生活の視点から自動車との付き合い方を考えようというアプローチです。商店街の若者が、そんなことを考え出しています。自動車メーカーはもっと真剣に考えるべきではないでしょうか。
それにしても昨今の自動車事故は許しがたいものがあります。飲酒運転で事故を起こした人は二度と運転免許を与えるべきではありませんし、そこで死傷事故を起こした場合は、殺人罪と同じ扱いをすべきです。飲酒運転で死者を出した場合、未必の殺意があると断定すべきです。日本の法律は飲酒運転者に甘すぎます。つまり自動車メーカーに甘いということです。
その点を正していく努力を、自動車メーカーはなぜしないのでしょうか。
トヨタのCSRや環境経営は、そこから始まると私は思っています。

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2005/10/31

■マイオピアからノー・ロングタームへ

ハーバード大学のマーケティングの権威、セオドア・レビットに「マーケティング・マイオピア(近視眼的マーケティング)」という名論文があります。私がマーケティングに関心を持った契機になった論文です。マーケティングの専門家だった重久篤さんに紹介してもらいました。惜しくも彼は10年ほど前に若くしてなくなりましたが、本当に残念なことでした、重久さんが生きていたら、私の人生は少し変わっていたかもしれません。得がたい友人の一人でした。
なぜか今日は、重久さんのことを思い出してしまいました。ある本を読んでいたらノー・ロングターム」という言葉が出てきたからです。

レビット教授のマーケティング・マイオピアは、いわば現在流行のCSの発端です。この論文派1960年代に発表されましたが、企業がその価値に気づいたのは1980年代です。ハーバード・ビジネス・レビューも1980年代にこの論文を採録しましたが、私はその少し前に重久さんからその存在を教えてもらいました。
1980年代は、まだ社会も経済も政治もビジョンを持って進んでいたように思います。マイオピア、つまり近視眼の危険性への認識が高まり、アメリカではビジョナリー・カンパニーが注目されるようになりました。もちろんこの動きは、日本でも表層的に真似されました。そしてビジョンを勘違いした財界リーダーによって、日本はバブル破綻の罠に陥っていったのですが。

昨今の企業はどうでしょうか。
マイオピアどころではなく、「ノー・ロングターム」が常識化しているようです。つまり「長期思考はだめ」というわけです。企業の管理者層の人と話しているとそれがよくわかります。経営者の文化が「ノー・ロングターム」なのです。
そのおぞましい文化が、産業界だけではなく、政治や行政、地域社会や私たちの生活にまでどんどん広がっているような気がします。
いうまでもありませんが、ノー・ロングターム発想は信頼関係を育てたり、安定を大事にする文化とはなじみません。むしろ信頼や安定を壊すのがノー・ロングタームなのです。時代の変わり目には、そうした生き方がそれこそ短期的には効果的であることもありますが、むしろロングタームの展望を踏まえておかないと明日はあってもその先はないかもしれません。そうした社会の中ではストレスが充満します。それはもう限界に近づいているような気がしてなりません。

ソーシャル・キャピタル論議も起こっていますが、このところその動きは封じられているようです。
「ノー・ロングターム」。この忌まわしい呪縛から自由になって、もっと安定と信頼を目指した生き方が広がるといいなと思います。
ノー・ロングタームの変革の先に何があるか、思うだけでも気が重くなります。

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2005/10/14

■箱根の観光客としての怒りと迷い

昨日、仕事の関係で箱根の強羅に行きました。
小田急の特急で新宿から箱根湯本まで1時間20分です。
会場のホテルは、そこから登山鉄道とケーブルカーに乗って行かなければいけません。
論理的には2時間もあればいけるはずです。ところがそうはなりません。
箱根湯本で小田急から箱根登山鉄道に乗り換えるのですが、同じ駅に発着するのに到着時間と発車時間が同じなのです。つまり乗り換えられないと言うことです。これは「いじわる」としかいえません。そこで20分の待ち時間が発生します。
次は強羅駅でケーブルに乗り換えですが、ここでもまた見事に20分近く待ち時間があります。それぞれが1時間に2~3本しか運行されていないのですから、接続をうまく考えればいいと思うのですが、ここでも「意地悪」が行われており、20分の待ち時間です。信じられない仕組みです。

これは一つの象徴的な事象です。
私は箱根が好きで、年に数回、行きます。しかし、自動車でいけばともかく、公共交通機関を使うとこうした「意地悪な仕組み」が箱根にはたくさんあるのです。箱根が廃れていくのは良く分かります。
ここでは2つの会社が交通機関を提供していますが、それぞれが勝手にやっていますから、観光客には不便で分かりにくいことが多いのです。両者の話し合いが進められているようですが、ほとんど改善されないままにあります。

ここに象徴されるように、関係者がみんなで箱根を気持ちの良い場所にしたいという思いがないのでしょうか。ショップや施設も、みんなばらばらで雰囲気がありません。一つひとつの施設はいいものがたくさんあるのですが、つながっていないのです。
こうした事例は日本各地にあります。

と、ここまで書いてきて、一つの悩みにぶつかります。
20分待たされることがなぜ悪いのか、です。
無駄な時間を切り捨てていったら、それこそ息が詰まる世界になってしまうのではないか。
あえて接続させていないのは、そうしたメッセージをこめた「親切な仕組み」なのではないか。
皆さんはどう思われますか。

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2005/10/10

■企業変革と国家変革

日本能率協会が企業の経営者を対象に「当面する企業経営課題に関する調査」の結果を発表しましたが、それによると中間管理者層に不満をもっている経営者が多いようです。第一の不満は、変革の推進です。管理者層が企業を変革してくれないと不満を持っている経営者はなんと7割もいます。第2は部下の指導ができていないということで、これも3分の2の経営者がそう答えています。答えているのは、経営者自身ではなく、経営参謀スタッフかもしれませんが、ここに日本の企業の病理を見ます。
先ず、変革は経営者の仕事であって、管理者の仕事ではありません。管理という言葉に象徴されるように、管理者は「管理」者なのです。「変革」者ではないのです。その基本原理を理解していない経営者は、自らの役割を認識していません。管理と経営は異質なものなのです。
次に、管理者を期待通りに動かせないという点で、部下の指導は実は自らの問題なのです。明らかに論理矛盾があります。
つまりこの調査結果は、経営者が自らのシャドー(影としての実体)を顕在化させたものなのです。そして、その役割や責任を放棄しているということの宣言でもあるわけです。

企業の変革は極めて簡単ですが、経営者にはやる気がないのです。
なぜやる気がないかといえば、変革には自己否定が伴いますから、意思決定者にはそれこそ苦渋の選択なのです。第一、メリットがありません。だから、自らは変革せずに、部下の変革を迫るという、論理矛盾が発生します。成功するはずがないのです。

変革といえば、日本という国自体の変革が財界人と官僚と学者たち、つまり産官学によって進められています。小泉首相や前原代表のような歴史観のない政治家は、おそらくその走狗として使われているのでしょう。
彼らがいよいよ手を付け出したのが、憲法です。本物でない学者や有識者もその尻馬に乗り出しました。哀しいことです。
憲法を変えることで、国の本質は変わります。歯止めがなくなるのです。
国民主権のもとでは、変革の主役は国民なのですが、現実には「国民」は実体概念ではありませんから、国民を操作概念にして第三者が変革を進めます。首相は国民が選んだという大義が使われますが、それこそが権力支配の擬制です。
余計なことを付け加えれば、理念としての民主主義と制度としての民主主義は全く違います。勘違いしてはいけません。民主主義を多数決原理などと勘違いする馬鹿な間違いを犯してはいけません。多数決は原理としてはありますが、大状況においては情報基盤が違いますから正当性を持たない抽象概念です。

企業にたとえていえば、外部のコンサルタント(時にはタレント)が企業変革を進めて、結局は企業をだめにしているように、国もまた外部の「知恵者」にのっとられているだけの話かもしれません。国民は実体がないために、対抗できないのです。

ほとんどの支配者にとっては、戦争を引き起こすことほど魅力的なプログラムはないでしょう。そこでは連帯が起こり、感動が生まれ、日常が忘れられるからです。
生活の視点で考えれば、自民党、民主党などという分け方は無意味です。戦争との距離という点では、岡田さんや前原さんと小泉さんは大きな違いは感じられません。中途半端に若いだけに、最近の若者たちのような「優しさ」や「寛容さ」も感じられません。

企業の変革は進まず、国家の変革は進んでいく。
10年後が心配です。
そのころにはどんな生活を送っているでしょうか。
いい時代を懐かしめる私には大きな救いがありますが。

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2005/08/30

■あなたは仕事が楽しいですか 

昨日の新聞に「残業と心の健康の関係」に関するアンケート調査(社会経済生産性本部メンタルヘルス研究所)の結果が報告されていました。それによると、残業時間が月60時間を超すと自殺を考える人が急増するのだそうです。「死にたいと思うことがよくある」と答えた人が6%もいるそうです。80時間を超すと7%以上になります。
いくつかの示唆が得られますが、私がまず思ったのが「仕事の質」です。労働時間が増えることで自殺したくなるような仕事とは一体なんでしょうか。

私は、基本的に仕事(労働でもいいですが)は本来ワクワクする楽しいものだと思っています。誰かの役に立つことであり、価値を創る行為が楽しくないわけはありません。もちろん辛いことはあるでしょうが、シドニーオリンピックのマラソンで優勝した高橋選手が「楽しい42キロでした」と言ったように、辛さは楽しさの要素にもなりえます。
しかし、最近は仕事が楽しくないようです。
講演などで、皆さんは仕事が楽しいですか、と質問してもほとんどの人は手を上げません。なぜ楽しくなくなったのか。理由は仕事の手応えがなくなったからです。つまり仕事が作業になってしまっているのです。しかも、その作業の意義がわからないどころか、納得できないことも多くなっています。
楽しくない仕事がいい成果を生み出すはずはありません。仕事は辛いもので楽しいものではない、などと自己否定する哀れな経営者や管理者もいますが、そういう会社は決して発展はしないでしょう。もししているとしたら、そのしわ寄せは従業員が受けています。そのためか、企業内でのメンタルヘルスが大きな話題になっています。

昨日、次世代人材育成研究会がありました。ニート問題に関連して、企業の経営者の方たちから企業内でのメンタルヘルス問題の深刻さの話が出ました。メンタルヘルス問題を抱えている企業経営者は大いに恥じてほしいですが、なぜかみんな他人事で話します。自らもおそらく病んでいるからでしょう。また横道に行きそうです。反省。

仕事を見つけられずに精神的に病んでしまう人がいます。その一方で、仕事がたくさんあるのに病んでしまう人がいる。これをどう考えるべきでしょうか。
それはたぶん「仕事」のあり方が間違っているのです。価値のない仕事や人間のリズムに合わない仕事が多くなりすぎているのです。
ディーセントワークという言葉があります。ILOなどで話題になってきている言葉です。「尊厳ある仕事」などと訳されていますが、平たく言えば、仕事の質を考えていこうと言うことです。
働くことの喜びが失われた社会はどこかに問題があるはずです。
あなたは仕事が楽しいですか?

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2005/08/01

■カネボウ粉飾決算における責任追求と原因究明

この記事はCWSコモンズの週間報告にも書きましたが、ここで時々議論している「組織の倫理」と「組織の論理」につながる話なので再録させてもらいました。

カネボウの粉飾決算が話題になりだしました。
そして、ついにかつてのトップが逮捕されてしまいました。
テレビを見ていたら、その一人の宮原卓さんの映像が移りました。
私の知人の宮原卓さんでした。

カネボウの粉飾決算は、おそらくかなり広い範囲でささやかれていたことであり、私ですらかなり前から何となく聞かされていました。
まあ、そんなことはそうめずらしいことではありませんので、そう気にもしていませんでしたが、
その規模はかなり大きいのと経営幹部の意図的な操作のすごさから、問題になるのは時間の問題だとは思っていました。
しかし、そのトップに宮原さんがいるとは知りませんでした。

宮原さんは三井銀行出身です。
私が東レにいた時代、三井系の会社の企画調査関係のスタッフの集まりをやっていました。
その時に一人が宮原さんです。
私とは大学卒業年次が同じですので、親しみを感じていました。
それにとても真面目な人柄でした。
宮原さんが三井銀行からカネボウに派遣されたのは19995年です。
当事のカネボウはすでにさまざまな問題を山積していたはずです。
最初はまさか彼がと思いました。いや今でも信じられない気分です。

これもたまたまなのですが、今日、その集まりのメンバーの一人から40数年の会社生活を無事終了したという挨拶状が届きました。
そして宮原さんの事件です。
安定した大企業に入社し、真摯に仕事に取り組んできた2人の知人の明暗をわけたのは何でしょうか。

安全学を提唱している村上陽一郎さんが「第三者機関による事故情報の収集と分析」の大切さを指摘しています。
そして、事故に対して「責任の追及」よりも「原因の究明」が大切だと言っています。
同じことが企業活動にも言えると思います。
宮原さんがなぜこんな不運に巻き込まれたのか、彼の責任を追及することも必要ですが、
それ以上に必要なのは原因です。

責任の追及は「倫理」問題ですが、原因の究明は「論理」問題です。
そうした発想が、残念ながら日本にはほとんどありません。
西武鉄道で自殺した社長も、組織の論理に負けたのです。
思考のパラダイムを変えないと、こうした悲劇がまだまだ繰り返されるでしょう。

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2005/06/03

■働く場の魅力 

昨日は昼間も夜も、NPOを主催している大学生2人とかなり突っ込んだ話をする機会を得ました。
昼間会ったのは、大学院を卒業したら、自分のソーシャルベンチャーを起したいと準備活動をしているSさんです。寝る時間もないくらいのがんばりを続けています。その事業の進め方について、いろいろコメントさせてもらいました。
彼の研究テーマは交通工学ですが、せっかく学んだ、その専門知識とは別の分野で仕事をしていくことに少しもったいなさを感じますが、既存の企業に就職する意思は皆無のようです。自分のやりたいことができない予感を持っているからです。

夜は、茨城県の大学でNPOを主催しているIさんです。彼もまた企業に入らずに、自らの納得できる仕事に取り組みたいと考えていることを知りました。なぜ就職しないのかと質問したら、いまの企業には魅力を感じられないと言うのです。

もちろんこの2人は特別な存在かもしれません。
事実、Iさんは、大学時代みんなNPOや市民活動をしていても、結局は普通の企業に就職してしまう、自分はそうではない生き方をしてみたい、というのです。つまり多くの学生は企業への就職を目指しているわけです。
しかし、そうした若者にとっても、企業は余り魅力的な場ではないのかもしれません。入社後、会社を辞めてしまったという若者が時々やってきます。

私は25年間は企業での雇用労働、その後16年は自らが仕事を創りだす生き方をしてきました。大雑把に言えば、雇用労働はいやな事もありましたが楽でした。それに比べ、自分で仕事を創るのは辛いことが多いですが、楽しいです、「楽な労働」と「楽しい仕事」。この2つの違いは大きいです。
「楽さ」よりも「楽しさ」を選ぶ若者が増えてきたような気がします。そうした若者たちを引き付けるような魅力を、企業は回復しなければいけません。企業を元気にするのは人です。
短期的な業績回復も大事ですが、もっと大切なことは、働く場としての企業の魅力を回復することです。そのためにも、企業のあり方(経営のあり方ではありません)がもっと真剣に問われるべきではないかと思います。

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2005/05/30

■経営の本質 

横河ブリッジの談合隠しは組織ぐるみだったと新聞が報じています。そんなことは当然のことで、最初からわかっていることですが、いつもこの種の事件で、組織ぐるみかどうかが話題になります。もちろんほぼ例外なく組織ぐるみのはずです。いや、正確には組織犯罪というべきでしょう。そして、そうしたことが起こるのは、おそらく今の組織経営のあり方のためではないかと思います。
これに関しては、企業不祥事などの論考で、これまでも何回か書いてきました。たとえば、「雪印事件から見えてくる組織変革の方向性」をお読みください。

私は経営とは変化を創出することだと思っています。
ある本で書いた文章を転載します。

 経営の目的のひとつは組織を生き生きと存続させることです。生きている社会の中で組織が生き続けていくためには、常に自らを変化させていくことが必要ですから、経営とは「自らの変化を創出すること」といえます。不断の自己変革こそが組織を生き生きと存続させることになるわけです。  ところで組織のホロニックな性格から、組織の自己変化は結果として社会の変化を引き起こします。したがって、経営とは「社会の変化を創出すること」ともいえるわけです。その社会の変化は結局は自らにかかってきます。社会がおかしくなれば、そこに存立する組織もまたおかしくなることは言うまでもありません。 (「保育園の未来経営を考える」(筒井書房)から引用)

 ところが、組織には環境が変化する中で、自らのアイデンティティを変化させまいという性格があります。いわゆるホメオスタシス(恒常性維持機能)というものです。環境に振り回されていたら、組織は維持できないのです。
 ここに、企業経営の面白さがあります。

 多くの企業不祥事の悲劇は、組織防衛の方法を間違っていることです。組織の論理に振り回されているのです。つまりは経営不在です。組織の論理に抗して、生命の論理に立った経営をしなければいけません。コンプライアンスや社会責任の問題の前に、まずは組織に息吹を与えなければいけません。そこで求められるのは、ホメオスタシスに対して、むしろホメオカオスといわれるような変化創出です。難しい言葉を使えば、エントロピーの放出です。

 守るべきは組織ではなく、そこに関わっている人の暮らしです。そういう視点で見ていくと、加害者の暮らしもまた、壊されていたことに気づくはずです。
 最近の企業関係の事件を見ていると、まだまだ経営不在の企業が多いような気がします。CSR議論に、そうした視点が少ないのが気になります。

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2005/05/04

■福知山線事故の問題の構図 

福知山線事故のニュースが連日流されています。
遺族から垣内社長に怒りがぶつけられるシーンも少なくありません。
遺族の怒りには共感する一方で、何か問題が違っているような気もします。
問題の構図は、「制度vs人間」なのであって、人と人の対立ではないはずです。
この事故は、もちろん人災ですが、その背景にある制度や仕組みに大きな問題があることが見えてきたということだと思います。そこに焦点を当てて、考えることが大切です。
特定の個人の問題にしてしまっては、問題は解決しません。
問題の構図を、「制度vs人間」と捉えれば、垣内社長と遺族とは、実は同じ被害者になります。その視点に立って、どうしたら「発生した問題」に対処したらいいか、どうしたら「問題の再発」を防ぐか、を考えていくことが大切なように思います。

危機管理は「事故を活かすこと」、つまり「危」(ダメージ)を「機」(チャンス)に変えていくことだと私は考えていますが、垣内社長ができることはたくさんあります。
JR西日本の経営幹部のだれかが、気づいてくれるといいのですが。
20世紀はじめの米国の鉄道会社の教訓から、まずは学ぶことが必要かもしれません。

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2005/04/28

■安全よりも定時運転 

今回の福知山線の脱線事故は、企業というものの持つ特徴をいろいろと顕在化してくれています。怒られそうですが、事件を起こした運転手もまた、被害者であるように思えてなりません。現代の企業が陥っている組織病理を経営者たちはしっかりと実感してほしいものです。

たとえば、JR西日本では「鉄道の最大の使命は定時運転の確保」とされているようですが(読売新聞)、もしそうであれば、手段と目的の倒錯どころか、発想そのものが機械の歯車の視座になっているとしか思えません。そこには人間としての主体性はありません。「機械発想」の企業文化という前提でみると、今回の事件で問題になっている同社の対応がつながってきます。

いうまでもありませんが、鉄道の使命は「安全な移動手段の提供」です。
先日も書きましたが、JRの安全対策は私のような素人から見ても不十分です。
やれることはまだたくさんあります。
もし本気で安全を考えるのであれば、利用者が多いのですから、アイデアはいくらでも集まるでしょう。それをやらないのは、自動車会社と同じで、本気でないからです。「安全」や「環境」を口にする企業は信頼できません。口に出す前にやらなければいけません。

たとえば、定時運転できなかった運転手に対する罰則としての「日勤」の話がありますが、これは学校での「いじめ」の原型です。こうした事例は、なにもJR西日本に限った話ではないでしょう。しかし不思議なことに、内部にいる人は、だれもそれに抗えないのです。抗うことは「辞める」ことです。それが理由で自殺した運転手の父親が訴訟を起こしましたが、裁判所は棄却したようです。その事件がもし、いじめを顕在化していたら、今回の事件は起きなかったかもしれません。日本の裁判官に対する私の不信感は、彼らが組織人に成り下がっていることです。しかも、パーキンソンの法則にしたがって、裁判員制度を作って、自分たちの縄張りと上位構造を広げ高めようとしていることに憤りを感じます。
すみません、また横道にそれました。

ところで、この二つは、間違いなくつながっています。
「日勤」制度が安全性を壊しているのはいうまでもありません。安全よりも定時運転という組織体質が明確に見えてきます。同社の社長は、それに気づいていませんが。

ところで、こうした病理現象は企業だけでしょうか。あるいは経営者だけでしょうか。
どうもそうではないように思います。
私自身もまた、そうした「機械発想」や「いじめ姿勢」を自らの中にかなり強く持っているような気がします。時に自己嫌悪に陥ります。
そして、「安全よりも定時運転」に類した価値の倒錯に陥ることが少なくありません。
そうした人間に内在する弱みや間違いが昇華されるための組織が、最近では逆に弱みを追い詰め、間違いを増幅する組織へと変質しているような気がしてなりません。

どこかで「組織原理」を変えなければいけません。
それはそう難しい話ではないと、私は思っているのですが。

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2005/04/26

■責任回避のために不信感をあおる社会 

最近、電車や新幹線の中で、こんな放送を聞くことが多いです。

JR東日本では警察のご指導ご協力をいただき、車内犯罪防止につとめています。

この放送を聞くたびに、いつも気になっています。
このアナウンスでは、自分たちでは車内安全は実現できないことを表明しているわけですが、これでは利用者はJRを信頼できません。
JRという企業の基本体質が見えてきます。
昨日、福知山線で大きな事故が起こりましたが、これにも通ずるような気がします。

それはともかく、こうした放送はJRに限りません。
人が集まる場所などでもよく流されるものです。
さすがに警察のご指導ご協力という言い方をするような、無責任なところは少ないですが、似たような放送はかなり行われています。ポスターで表示されているところもあります。
そうしたところは、自らの無能力さ宣言と責任回避を行っているわけですが、

自分の空間を自分で責任を持って管理できない会社は信頼しなければいいだけですが、もうひとつ気になることがあります。
根底にある権力依存発想です。管理発想と言ってもいいでしょう。
そして、その放送やポスターが、人間不信を知らず知らずのうちに広げていることが気になるのです。

JRには、ぜひこの放送をやめてもらい、もっと真剣に車内安全、車内安心の実現を考えてほしいと思います。
そこからきっと本当の事故対策が開けていくように思います。

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2005/02/27

■3つの企業価値を可視化したライブドアの堀江さん 

ニッポン放送問題に関連して、気になる言葉がいろいろ出ています。
放送は公共財だとテレビ局の経営者が考えていることも知りました。
最近のテレビ番組は、公共性とは反対のところを目指しているように思っていたのですが、それが公共性だったのですね。
それで最近のNHKの不祥事が納得できました。公共性のモデルだったのですね。
おや、これはジョークです。誤解のありませんように。

しかし、企業価値も、彼らはその延長で発想していますね。
こうなるとジョークとも言っていられません。

企業価値にはキャッシュフローとしての企業価値とレゾンデートルとしての企業価値がありますが、ほとんどの人は前者、しかも株価程度の意味で使っているように思います。不勉強な御用経営学者の言葉をさらに不勉強にしか使っていないのが、日本の企業の経営者だと私は思っていますが(つまり彼らは自分の言葉を持っていないという意味で仲間です)、無理をせずに株価や経営者特権といえばいいように思います。

日枝会長が使う「ステークホルダー」という言葉もわかりにくいです。一方で公共性をいいながら、狭義のステークホルダー論を振り回す。なにかおかしいですね。
こういう言葉のごまかしが蔓延していますが、それをしっかりと追求するキャスターが少ないのも残念です。もう少しまともな質問をしてほしいと思うことが多すぎます。

ついでにいえば、記者会見のスタイルも対照的です。そこに実相が見えてきます。
多くの場合、堀江さんは一人ですが、フジテレビ側は大勢の役員が並びます。ここにいかに大企業は働かない寄生族が多いかが見えてきます。それらがすべてキャッシュフローとしての企業価値にかかわっているのです。彼らが会社を辞めれば企業価値は高まります。どうせ経営などはしていないのですから。
会社を辞めて、早起きして道路の掃除でもしましょう。そうしたら公共性とは何かがわかるでしょう。第一、社会が元気になりますよ。そろそろ後進に道を譲りましょう。今の財界は全くその逆を向いていますが、その意味を考えたことがありますか。

と書いてくるとおわかりだと思いますが、実は第3の企業価値があるのです。それは経営者にとっての価値です。ここで重要なのは、この第3の企業価値は、被用者にとっての働く場としての価値とは似て非なるものだということです。
そして、いま、日枝会長が守っているのは、この第3の企業価値のような気がします。
それが、第1、第2の企業価値のいずれとも対立するものであり、公共性とも対極にあることはいうまでもありません。

このからくりに、産業社会の問題が凝縮されています。
言い方を変えれば、新しい産業社会の可能性も象徴されているように思います。
ちょっと説明不足だったでしょうか。

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2005/02/25

■ルールを変える競争社会 

ライブドアの堀江さんが厳しい状況になってきています。
テレビなどでの報道姿勢もどうも堀江さんに冷たいような気もします。
キャスターのみなさんは別ですが。

今日のテレビでもどなたか言っていましたが、
競争していたらルールが変えられてしまうのはフェアではありません。
戦いなのだから、そんな奇麗事は言っていられないといわれそうですが、戦い事だからこそルールは大切なのです。
今回の動きのなかに、強者が勝手にルールを変える競争社会の実態を垣間見る感じです。誰かの都合で、巧みにルールが変えられているのが、これまでの日本だったかもしれません。その実行者は政治家と財界と大学教授の産官財の「三位一体」チームです。

また、会社が自己防衛するのは当然だといわれますが、その会社とは何かが問題です。
ニッポン放送の社員はみんなライブドアの経営権獲得に反対です、という経営者の発言には不快になります。この一言で、経営者が守ろうとしている対象が見えてきます。よくこんな傲慢な発言ができるものです。社員の主体性や人格を認めていない経営者の実像が見えてきます。社員は本当にどう思っているのでしょうか。

2つの問題を感じます。
ルールをおろそかにすることは挑戦者の意欲を損ないます(挑戦者をつぶすのが管理者の特徴ですが)。子どもたちへの影響を危惧します。子どもたちは本質を見抜く素直さを持っています。これは「いじめ」以外の何ものでもありません。
また、社会の視点でなく仲間の視点で組織を守ることは、組織の社会性を損ないます。企業はいうまでもなく社会の子です。守るべき価値を間違っては、制度の基盤が崩れます。

ところで、私自身はライブドアでもなんでもいいのですが、今の放送のひどさに不満がありますから、経営権の移行を歓迎します。今よりはよくなるでしょうから。
まあ、これは余計な話ですが。

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2005/02/07

■刑の与え方がまちがっている社会  

再犯の増加が増えています。
そうした事件の報道に出会う度に、
「罪を憎んで人を憎まず」という命題に疑問を感じます。

裁判は「罪」を裁くのであって、「人」を裁くのではないのでしょうか。
罰する対象は人ではなくて、罪なのでしょうか。
どこかにおかしさを感じます。

もし仮に、人を憎まずであるとしても、
今の司法の枠組みには大きな疑問を感じます。
刑期を終えて出所した人がすぐにまた犯罪を行うのは、
その人を受け入れる社会の環境が整っていないからだという人もいます。
もしそうであれば、それは刑の与え方が間違っています。
受け入れ体制ができていない社会に出所させてはいけません。
つまりもっと刑期を長くし、それなりの生きる術を習得させるべきです。

飲酒運転で人を殺傷した人が再犯を繰り返すこともありますが、
それもそもそもは刑の与え方が間違っているのです。
問題は簡単です。
飲酒運転で事故を起こした人は、免許を剥奪し、一生、運転を認めなくすれば良いのです。そうしたところで何の不都合も起きません。もし起きるとしたら、自動車運転人口が減少し、自動車が売れなくなるかもしれないと言うだけです。つまり、こんな簡単なことも出来ないのは、自動車産業を初めとした産業界の意向だとしか思えません。それ以外の理由は私には考えられません。もしあれば、誰か教えてください。

さらに、不条理な高利貸しやドラッグの販売など、どこかで犯罪につながる原因を作っている人たちもまた、厳罰に処するべきです。どんどん摘発し、社会から隔離すべきです。
少なくとも、そんな活動が出来なくするべきでしょう。なぜそれができないか、これも問題は簡単なような気がします。

安直な人権主義があまりにも多いのは、なぜでしょうか。
安直な人権主義は、すべての関係者を不幸にしかねません。
司法界の人たちには、もう少し真剣になってほしいものです。
警察行政も司法界も、もっと産業から自立しなければいけません。

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2005/02/04

■銀行の窓口の不思議さ  

久しぶりに銀行に行きました。
東京三菱銀行柏支店です。
私の住んでいる我孫子市には支店がないので、電車で行かないとダメなのです。
今回はATMで使うカードを発行してもらうためです。

ところがです。
窓口がごった返ししているのです。
係の人にきくと1時間くらいかかるそうです。確かに窓口の前のイスは満席です。
久しぶりの銀行ですが、信じられない風景です。
1時間ですよ。
平日のお昼過ぎです。係の人に午後になるとすきますか、と尋ねたら、ずっとこうです、ということでした。
どこかで聞いた言葉だなと思いました。そうです、羽田空港での事件です。

銀行がつぶれるのは当然ですね。
大銀行を利用するのをやめることにしました。まあ、ほとんど預金はありませんから、銀行には何の影響もないでしょうが。地場の千葉銀行か郵便局にします。まあ、郵便局も民営化されたらこうなるのでしょうか。いや、サービス向上のための民営化でしたっけ?どうも最近は混乱する事が多いです。
こんな銀行を支えるために私たちの税金が使われているかと思うと情けないですね。
頭取は一度でもいいから自分で銀行の窓口に言って、利用してみてほしいですね。

最近は朝日新聞をやめ、日航も利用をやめ、今度は都市銀行の利用をやめ、もう大変です。
不便な時代になってきました。まともな事業家はいないのでしょうか。

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2005/01/05

■装丁を変えて売り出す講談社のビジネス倫理  

ちょっと恥さらしの話です。もちろん私の恥です。

昨日、書店に立ち寄って、数冊の本を買い込んできました。軽い新書です。新書は書店に頼むこともないので、月に1回出かけて行って、数冊まとめて買ってくるのが私のスタイルです。

購入した1冊に講談社現代新書の「出雲神話」がありました。書店に平積みになっていた何冊かの新書のなかの1冊です。講談社新書は昨年に装丁を変えました。
帰宅後、購入してきた本を見直していて、この本が30年近く前に読んだ本の新装版であることに気づきました。本棚にある当時の本を調べたら、変わっているのは装丁だけでした。古い現代新書だったわけです。

内容を確認もせずに購入した私が悪いのですが、なにか詐欺にあった感じです。
装丁だけを変えて、新刊と並べて販売することは別にルール違反ではないでしょうが、なにか割り切れないものを感じます。
しかし、対象が本でよかったです。
同じようなことがいろいろなところで行われているのかもしれません。
衣装にだまされてはいけませんね。

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2004/12/27

■ドンキの放火事件 

ドン・キホーテが連続放火されています。
この事件はたくさんのことを示唆してくれています。

こうした事件が起こるのは、それなりの理由があります。
同社の事業展開のあり方のどこかに問題があるはずです。
同社店舗への放火事件が続いても、誰も同情しないのはなぜでしょうか。あるいはほとんどの人はあまり不思議にも思わないのはなぜでしょうか。それを考えなければいけません。

同社のホームページで、社長のコメントを読ませてもらいました。
http://61.206.41.90/041217.pdf
とても違和感のあるコメントです。
危機管理を履き違えている日本企業は多いですが、同社も完全に履き違えています。
最悪の事態にならなければいいですが。

これまでの同社の事業戦略や店舗活動を評価したり支援したりしていたコンサルタントや評論家、あるいはマスコミや消防署にも反省を期待したいです。消防者は法規違反を警告したと言っていますが、警告してもそれが実行されていないとしたら、しかもそれが何年も続いていたとしたら、悪いのはむしろ消防署ではないかと私は思います。

話が変わりますが。外食産業の和民がいま元気です。
テレビでも良く取り上げられます。
渡邊社長は外食産業のカリスマ経営者だと昨日のテレビはもてはやしていました。
私も渡邊社長の本を2冊読みました。
社長の思いは伝わってきました。
それに娘によると、類似のところに比べてお店の対応はとてもいいそうです。

しかし、昨日の渡邊社長を紹介したテレビを見て、がっかりしました。
もしテレビがやらせでないとしたら、
彼は社員の人間としての尊厳を認めていません。言葉が完全に間違っています。
和民のこれからが心配です。

評論家の皆さんは、もっとしっかりと実態を見据えて、企業を評価すべきです。
利益をあげるのが企業の目的ではありません。
利益をあげるのは企業の目標です。間違ってはいけません。

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2004/11/23

■企業への不信感  

私のホームページ(CWSコモンズ)に、JALの対応に関して、かなり口汚く書き込んでしまいました。
早速、数人の方から反応があったのですが、書きすぎたかなと反省しました。反省はしましたが、JALへの不信感は消えません。

今日の新聞でも企業の不祥事がいくつか書かれています。
もういい加減にしてほしいですが、かつて企業にいた者としては、三菱マテリアルも三井物産も、何の違和感もなく記事が読めます。私が所属した東レは、極めて公正な会社でしたが、それでもこうした方向に行く危険性は皆無ではありませんでした。自由闊達な企業文化と社会性を重視する見識者が、それぞれの場にいたおかげで、企業は経営を間違えずにいたように思います。東レは素晴らしい会社でした。そこで25年間、過ごせたことを感謝しています。おかげで、私は今でも企業への基本的な信頼を持てています。

NPOや行政との付き合いはそれなりにありますが、
企業への不信感は、また高まっているような気がします。
CSRや環境経営が話題になるのは、むしろその現われとも言えます。報告書が立派なほど、その会社の実態は問題含みであることは、世の常です。

先週、お会いした政令都市の三役経験者の方は、最近、企業との付き合いがふえているのですが、かなり企業(経営者)不信に陥っています。そんな経営者ばかりではないと、私がお話しても、なかなか耳には入らないようでした。残念な話です。
NPOの企業不信も強まっています。せっかく市民活動で広げてきた世界に企業が入り込んできて、これまでの蓄積をダメにしてしまうこともあります。NPO関係者の多い、コムケアのメーリングリストでも、企業は金儲けの仕組みと信じている人も少なくありません。困ったものです。
自らの生活が企業によって支えられているにもかかわらず、企業を批判し続けるのはなぜでしょうか。

このブログでも、私は企業批判をかなり書いていますが、私は決して企業嫌いではありません。それどころか、「企業制度」は人類が創造した制度としては最高のものの一つと考えています。しかし、その制度を、昨今の企業経営者たちは、壊そうとしているように思います。産業再生機構も壊す方向での、短期的な再生を目指しているように思います。
今の日本では、言葉がみんな反語になっています。

企業はいったい、どうなってしまうのでしょうか。
先行きが心配です。

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2004/11/03

■CSRの欺瞞性 

企業では最近、CSR論議が盛んです。
それは悪いことではないかもしれませんが、
その欺瞞性には腹がたちます。
CSRすらもイメージ戦略の道具になっているからです。
ISO14000もそうでしたが。
所詮はアナリストやインベスター向きの表層的な活動であり、それに便乗したコンサルティング会社の儲け主義を利するだけのものが少なくありません。

その証拠は、各社のCSRレポートの内容を見ればすぐわかります。
社会的視点はほぼ皆無です。

私は企業のCSRのポイントは、そこの社員(経営者と従業員)がどのくらい社会常識を持ち、どのくらい自分らしい生活をしているかだと思います。

それはともかく、こんなことをどう考えますか。
31日のコムケアのイベントを手伝ってくれていた人が、うっかり携帯電話をトイレの水に落としてしまいました。
大変です。使えなくなっただけではなく、データがすべて消えてしまったのです。
昔は、それでも乾かせば、回復することもあったようですが、最近は回復しないそうです。つまり濡らしたら、だめになるのです。
馬鹿な話です。
そうならないようにするのはそれほど難しくはないはずです。
しかし、ドコモ、いや、どこもやろうとはせずに、むしろダメにする方向に進んでいるのです。
これが昨今の商業主義の実態です。

自動車メーカーが、水中に没した時にドアや窓が開けられなくなる方向に開発を進めてきたのと同じです。犯罪に近いと私は思っています。

いずれもCSRでは評価の高いメーカーの姿勢です。
やるべきことをやるのが、CSRの原点です。
それがわかっていない会社のCSRレポートなど、読む価値もありません。
CSRに関するシンポジウムも多いですが、そんなまやかしに疑問を思う担当者はいないのでしょうか。

どこか、本当のCSRレポートを創る会社はないでしょうか。
ぜひお手伝いしたいです。

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2004/08/13

■JR我孫子駅のタバコの自動販売機 

今日は、私の娘からの問題提起です。
JR我孫子駅の改札口の横に、最近、タバコの自動販売機が設置されました。
それが気になったようで、どう思うかと質問されました。

我孫子駅の場合は、まだ一部に喫煙コーナーがありますが、JRはタバコ締め出しの方向で動いています。その駅にたばこの自動販売機の増設はおかしいというのです。
そういわれると、たしかに問題があります。
現代社会の本質が象徴されているような気がしてきました。

たとえば、
一方でタバコを締め出しながら、一方でタバコを販売する。
JRは、構内を禁煙にしたことで大幅な経費削減になったはずですが、禁煙されている場所でタバコを販売して利益を得るわけです。そこで買われたタバコはどこで吸われるのでしょうか。どうも首尾一貫しません。
そこには、社会コストを考えない、直接的な自己利益だけを追求する現代の企業の本質が見えてきます。個の利益の追求が、見えざる手によって、社会利益になるという、アダム・スミスの仮説には、それなりのルール(道徳感情)が必要なのです。

たとえば、
喫煙者の便宜を図るための顧客サービス(CS)の一環だと言う考え方もあるでしょうが、ビジョンのないCSは利益目的の商業主義でしかありません。大切なのは、もっと「大きな消費者満足」です。小さな経済に目がくらんだ企業にはそれが見えなくなっています。
そのことを少し書いた昔の小論をお読みください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/cs-ronnbun.htm
顧客サービスと言いながら、顧客を追い込む現代のマーケティングの本質が見えてきます。企業の昨今のCSのCは、コーポレートのCでしかありません。

ビジョンのない小賢しさは、自らを滅ぼします。
そろそろ「小さな経済」「小さな経営」の発想を捨てなければいけません。

たかが自販機、されど自販機、です。
ちなみに、私はこの7年、自販機を使ったことは3回くらいしかありません。
さまざまな商品の自販機がなくなることを願っています。
ATMには抵抗できずにいますが。

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2004/08/11

■美浜原発の事件  

原発事故で4人の方が亡くなりました。
悲しい事件でした。

このブログを再開した契機は、CWSコモンズのホームページに書きましたが、平井憲夫さんの講演録「原発がどんなものか知ってほしい」を読んだからです。
あまりにもタイミングがよくて、
天の啓示を感じずにはいられません。

私は原発に否定的です。
それでは電気を使うなと言われますが、それは別の話です。
また原発絶対否定論者でもありません。
どんなものにも、良い面と悪い面があります。

なぜ私が原発に否定的かと言えば、20年以上前に東海村の原発増設時に発電所を見せてもらったのがきっかけです。
その定期検査や操作作業に、下請けの下請けの季節労働者が秒を競って仕事をするほど危険な仕事だと言う話を聞き、その現場を見せてもらったからです。
私は企業人でしたが、その労働環境と管理システムに大きな違和感をもったことです。
20年前の労働者観が、そこにあったからです。
こんな現場から成り立っている原始的(原子的ではありません)な産業は続くはずがないという思いが強くしたのです。そして、その後のさまざまな事件をみていると、そうした状況が改善されたようには思えなかったのです。

次に違和感を持ったのは、朝までテレビでの何回かの議論です。
話がすれ違ってばかりで、コミュニケーションができていないというよりも、コミュニケーション姿勢がないのです。もちろん電力会社側に、です。
反対運動をしている人たちも、コミュニケーション姿勢はそうあるわけではありませんが、それは情報の非対称を考えれば当然のことです。これに関しては米国のオゾン戦争がいい例です。情報を多く持っている人が情報開示しなければコミュニケーションは成立しません。

今は国会議員になられた加納時男さんが、広報活動に取り組まれた当初は大きな期待をもちました。しかし、それはほんの束の間でした。
東京電力は広報で有名ですが、私にはお粗末としか思えない会社です。金の力に依存したアマチュアリズムでしかありません。

ちなみに、コミュニケーション志向がないと言うことは、なにかを隠していたり、操作したいということであり、相手を信頼していないということですから、自らもまた信頼できない存在だと宣言していることです。自らを開示せずに、コミュニケーションや信頼関係は成り立たない。そんなことは子供でもわかります。欲にくらんだ人には理解できないかもしれませんが。

ちなみに、理解できない人の一人、小泉首相は記者会見で、
「事実を解明してきちんと発表する」
という基本的な一言が、今回も言えませんでした。
哀しい人です。

みなさん
ぜひ平井さんの講演録を読んでください。
美浜原発事故は決して不可避の事故ではありません。
責任者は自殺などせずに、しっかりと事実を公開してほしいです。
電力会社にとって、それが最高の選択なのです。
広報の基本は、正直に事実を開くことなのです。
電力会社の広報部門の人に教えてあげたいです。
あなたたちがやっているのは会社を、そして社会をつぶすことなのだと。
もう少し広報について勉強してほしいです。
自分たちのためにも。

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2004/06/25

■商業倫理  

今日、山形市で家電販売をやっている人から聞いた話です。

プラズマテレビが売れているようです。
40インチが80万円くらいで買えるようになったそうです。
しかし、まだ高価な商品です。
ところがクレジットを組むと月額12,000円。
さらに1日だと420円、コーヒー代と一緒ですというと買おうかという気になるそうです。
コーヒー代でプラズマテレビ。う~ん。

中高年以上の世帯には、2日間の無料貸出をすると購入する確度は高いそうです。
ともかく2日間、見てもらい、その後、ともかく持ち帰るのだそうです。
そうするとかなりの確度で購入の電話が入るそうです。

さてみなさん、
みなさんはどうですか。買ってしまいそうですね。

こうした販売姿勢は、商業倫理からみるとどうなのでしょうか。
効果的な販売戦略というべきなのでしょうか。
いや、それ以上に、
商品を販売するということはどういうことなのでしょうか。

私は経営学者のドラッカーが嫌いです。
なぜなら、彼は「経営とは顧客の創造」と、かつてその著書で語っているからです。
経営が顧客の創造であるはずがありません。
そんなことにも気づかぬ経営学者のことは信頼できません。
そうした経営学者が社会をだめにしてきたのだと私は思っています。
「経営は愛」。それが私の経営観です。
ドラッカーにはとうてい立ち向かえませんが。

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2004/05/06

■常識の間違い

三菱自動車の事件が刑事事件になりました。
被害にあった家族の方は「会社ぐるみの殺人」と話していました。
私も同じ立場なら、そう言うでしょう。

それに続いて、「大きな会社なのに」と言う言葉がありました。
そこが、実は問題なのです。

10年ほど前に、あるフォーラムで、企業の社会性をテーマにしました。
大企業の経営幹部の方が主なメンバーでした。
ある巨大企業の部長が、こう発言しました。
「私たちのような大企業は、社会貢献活動にも取り組み、社会性もある。
問題は、数の上では圧倒的に多い、中小企業ではないか。」

コーディネーター役の私は、さすがにムッとしました。
「そんなことはありません。
中小企業は、反社会的なことをやれば、すぐ批判を受けて、つぶされます。
だから、お客様や地域社会のことをしっかりと考えています。
考えていないのは、みなさんたちのような大企業です。
悪いことをやっても、大企業は、つぶれないのです。」

この意味が伝わったかどうかはわかりません。

私たちは大きな間違いをしています。
大きければ信頼できる。

事実は逆だと、私は思います。
大企業だからこそ、会社ぐるみの殺人的事件ができるのです。
大企業だから反社会的な活動を社会的だと言い変えられるのです。

その典型が、国家です。
今日、米軍によるイラク人射殺の映像がいっせいに流されました。
国家ぐるみの殺人の典型です。

浅田農産の例があるではないかというかもしれません。
しかし、あれこそが典型的なことです。
反社会的なことをすればすぐに淘汰されるのです。
だから、殺人ではなく、自殺になってしまうのです。

常識とは、思考停止のためのツールです。
間違っていても、常識としては成り立つのです。
常識を捨てることも、時には大切です。

ところでオウム組織と三菱自動車の違いはなんでしょうか。
もちろん違うものですが、
組織のこわさを示している点においては同じかもしれません。
「組織の時代」は、終わりにしたいです。

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