カテゴリー「文化時評」の記事

2014/06/27

■言葉には敏感でありたい

私たちの思考は、基本的に「言葉」で行われます。
ある意味では、「言葉の世界」に私たちは生きています。
ある新しい言葉との出会いが世界を広げることもあれば、言葉に対する固定観念が邪魔をして現実が見えなくなってしまうこともあります。
しかし、にもかかわらず、私たちは「言葉」にあまり敏感ではないような気がします。

先日、医療に関する話をしていて、相手が「介護予防」という言葉を使いました。
とても抵抗がありました。
「介護の予防?」と思ったのです。
それで思わず、「介護予防」ってなんですか、おかしな言葉ですね、と言ってしまいました。
ところが、その数日後、介護関係の資料を読んでいて、「介護予防」という文字が出ていた二に、何の違和感も持たずに、読み過ごしている自分に気づきました。
さらにその数日後、私自身が「介護予防」という言葉を使っているのに気づきました。
私も、以前から「介護予防」という言葉を受けいれていたわけです。
しかし、考えてみるとおかしな言葉です。
予防介護ならわかりますが、介護を予防するとはどういうことでしょうか。

言葉で失敗したことがあります。
地域包括支援センターの新しい役割をテーマにした委員会の委員にさせてもらったことがあります。
その初顔合わせの時に、事務局の人が「介入」という言葉を使ったのです。
福祉の世界で「介入?」、あまりに権力的で福祉の思想に合わないのではないかと、そう思ってその言葉にかみついてしまいました。
事務局の人やほかの委員は、私が何を言っているのか、理解できなかったでしょう。
私の主張を聞いて、ある大学の教授が、インターベンションの訳語でよく使われるでしょうと私をなだめてくれました。
そういえば、自殺防止の活動を話し合っている時に、事後介入とか事前介入とか、「介入」という言葉を私自身使っていたことを思い出しました。
投身自殺をとめるために「介入」という言葉が違和感なく私の頭に入っていたのです。
いささか気色ばんでしまった自分が恥ずかしくなりました。
事務局には悪いことをしたと反省しました。
そのせいかどうかはわかりませんが、その委員会は2度と声をかけてもらえませんでした。

しかし、やはり「介護予防」にしても「介入」にしても、考えてみるとやはりおかしいような気がします。
私たちはもっと「言葉」(表現)に敏感でなければいけないのではないか。

都議会議員のヤジや政治家の暴言が問題になっていますが、決して他人事ではありません。
私ももっと言葉に敏感でありたいと改めて思っています。
このブログも、かなり粗雑な言葉づかいをしていることも反省しなければいけません。

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2014/01/23

■ケネディ駐日大使にも「小さな村の国際紛争」を見てほしいです

昨日、私のブログのある記事へのアクセスが急増しました。
「なんと罪深いことをしてしまったことか」という2年前の記事です。
なぜかわからなかったのですが、今朝、理由がわかりました。
アメリカのケネディ駐日大使が日本の太地町のイルカの追い込み漁に対して、「なんと罪深いことか」とツイートしたことの影響でした。
私の記事は、福島の原発事故に関連したものですので、内容的には全く関係がないのですが、今日は太地町のイルカ漁の話を書こうと思います。

太地町のイルカ漁が問題になったのは、今回が初めてではありません。
2009年にも大きな問題になりました。
ご覧になった方もいると思いますが、反捕鯨活動をしているシーシェパードが「ザ・コーヴ」という大地町非難の映画を制作し、ネットやDVDで広げたのです。
「ザ・コーヴ」の映画は、実に悲しい事件を起こします。
太地町とオーストラリアのブルーム市の間に波風を立ててしまったのです。

大地町は、日本捕鯨の発祥の地と言われています。
オーストラリアのブルーム市は、日本の捕鯨によって育った都市でした。
いまも日系の住民が少なくありません。
そして、太地町とブルーム市は姉妹都市でした。

この映画が契機になって、ブルーム市と太地町の姉妹都市関係は中断され、それまで続いていた子どもたちの相互ホームステイもうまくいかなくなりました。
そればかりでなく、なんとブルーム市の日本人のお墓が破壊され、墓石が廃棄されるという事件が起こったのです。
さすがに、そうした行為には批判が起こり、日系のブルーム市民たちが動き出したのです。

その騒動をNHKが「小さな村の国際紛争」という記録番組にまとめました。
オーストラリアで環境問題に取り組んでいた知人からその番組を教えてもらい、DVDに残していたので、今朝、改めてそれを観ました。
とてもいい記録番組です。
NHKのアーカイブスで観られると思います。
ぜひ多くの人に観てほしいです。
今回もNHKが再放送してくれるといいのです。

ちなみに、その番組によれば、ブルーム市と太地町の関係は回復し、住民たちの交流が再開されています。
ブルーム市のキャンベル市長が太地中学校に来て、子どもたちに話します。

みなさんの心を傷つけたことを謝りたい。
太地町とブルーム市が歴史的文化的に深いつながりの中にあるということを忘れないでほしい。
ケネディ駐日大使にはぜひ太地町を訪ねてほしいと思います。
「罪深いこと」とは何なのか。
私たちは、まず自らの「罪深さ」に気づく賢さを身に付けたいものです。
キャンベル市長のスピーチには、未来を感じます。

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2012/11/05

■「まちづくり編集会議」が出版されました

茨城県の小美玉市にある文化センター「みの~れ」は、私が知る限り、日本で一番と言っていいほど、地域にしっかり根づいている文化センターです。
企画・建設段階からささやかに関わらせてもらっていますので、いささか「ひいき目」かもしれませんが、いつ行っても住民たちで賑わっています。
「住民主役・行政支援」で進められた文化センターづくりのプロセスが面白く、それを住民たちに呼びかけて、みんなで本にしました。
「文化がみの~れ物語」(茨城新聞社)です。
その「みの~れ」もオープンして10年です。
先週末からこれまたにぎやかに10歳記念事業が、住民たちの手によって開催されています。

記念事業の一環として、また住民たちが本を出版したいと言っているので手伝ってくれないかと、「みの~れ」の館長がやってきたのは1年以上前です、
10年前の苦労を思い出すと、あまり気が乗らなかったのですが、予算はいくらですかと質問したら、予算はないというのです。
その言葉で引き受けることにしました。
予算がないということは、資金集めから住民たちが汗をかかないといけないということです。
予算を消化するような仕事は、私には興味がありません。
だれか一人でもいいのですが、本気でやろうとする人がいないと、面白くなりません。
面白くないことは、余命少ない私としてはやる価値はありません。

そして、11月3日。まさに「もの~れ」10歳の誕生日に本が出版されました。
「まちづくり編集会議 住民主導の文化センターにつどう人たちの物語」です。
本の紹介はホームページ(CWSコモンズ)に書きました。この本にはたくさんの住民たちが登場しますが、文化センターの効用がよくわかるとともに、まちづくりとは何かもわかってもらえると思います。

Book_2

早速、それを手にした住民の一人からメールが届きました。
本にも登場している人です。
その人とはもう15年ほどお会いしていません。

さてこの本をみんなで売らなければいけません。
1800円とちょっと高いのですが、たくさん売れれば利益が出るかもしれません。
湯島のオフィスにも在庫するようにしますので、ご関心のある方は遊び方々買いに来てください。
私の淹れた珈琲もサービスします。
「みの~れ」でももちろん販売していますし、ネットでも購入できます。

しかし、それよりも、もし機会があったら、小美玉市の「みの~れ」に行ってみてください。
とても魅力的な文化センターです。
お茶室まであるのですよ。

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2011/11/14

■うつし世の静寂に』の上映会のご案内

今日は、ささらプロダクションの小倉さんたちが制作した『うつし世の静寂に』の上映会のご案内です。
この映画は、大都会のすぐ隣にまだ残っている「講」を切り口にして、自然と共に生きてきた私たちの文化の意味を考えさせてくれる作品です。
http://www.sasala-pro.com/film/u_detail.html
■11月17日(木)16時半から
会場:明治大学和泉校舎 第1校舎2F 208教室
会費:無料
■11月19日(土)13時から
会場:川崎市生涯学習プラザ 301(川崎市中原区今井南町514-1)
会 費:無料
問い合わせ:044-733-5590 (フェスタ実行委員会事務局)
■11月22日(火)18時から
会場:JAセレサ菅生支店 3階 (川崎市宮前区菅生1-2-22)
会費:500円
*東日本大震災復興支援映画会です。

ちなみに、この映画の感想を昨年、ブログに少し書きました
年明けに、新しい講(結い)をテーマにしたサロンを考えていますが、なかなか参加者が出てきません。
関心のある方はご連絡ください。

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2011/06/06

■東北文化の復権

東日本大震災は、社会の流れを変えるかもしれないほどのさまざまな動きを生み出しています。
それは、東北の被災地だけの話ではないかもしれませんが、現地での体験談などを聞かせてもらうと、これまでとは発想を変えた動きの萌芽を感じます。

いま、悪性の親知ら歯の抜歯で、入院7日目です。
その病院のラウンジに、佐治芳彦さんの「謎の東日流外三郡誌」の本がありました。
私が読んだのは、もう30年ほど前の本ですが、懐かしくて読み直してみました。
読んでいるうちに、これは偶然ではなく、大震災後の希望を私に教えてくれたのではないかという気がしてきました。

「東日流外三郡誌(つるがそとさんぐんし)」は、東北で保存されていた古史古伝の一書です。
そこには、古事記や日本書紀とは違う日本の歴史が書かれていますが、日本には日向族と荒吐族の2つの社会があったというのです。
日向族は大陸からの征服民族、荒吐族は日本列島に土着していた民族です。
そして、荒吐族は東北に民主的な古代社会連邦を打ち立てていたというのです。
佐治さんの本には、その社会がこう紹介されています。

「一族の長を荒吐5王と称し、火司土司金司水司木司の5役を称して5役とす。
5王たる者は一族を護るための導者にして、倭国の天皇たるごとき君主に非ず。
5王は自ら導者として労し智覚を学び、常に一族の異変ありし時は自ら赴き是を鎮ましむ大責任の主なり。
5王は一族の長老が談義して定む。
亦長老は一族の中より一族諸居住地より選抜され、智の優れたる者を長老とし、その条は老若男女を問わず過去現在未来を智覚し一族隣栄のため諸義し相謀り決否して5王への司政をたすく者を長老とし、その数若干なり」 (荒吐神之瑞章第二)
その社会では、相互扶助の仕組みがしっかりと構築されていたばかりか、その精神が「民」だけではなく、指導者にも徹底していた、といいます。
そのため荒吐族には日向族のような甚だしい貧富の差は生じなかった、と佐治さんは書いています。
また凶作の年には、「荒吐5王は互いに救ひ合うて凶地の民を安住の地に移らしむ」という方法を講じたりできるように、5王間には災害時の相互扶助協定もできていたそうです。

そのうえ「一食一汁たりとも吾が己有の物なく5王の民共有の物なり」。毎日の食糧も自分のもの=私有ではなく,5王の民の共同財産だという徹底した考えだったといいます。
ローマとは違ったゲルマンの総有制を思い出します。
猛々しい日本武尊が後半、愛の人になったのは、東日流との出会いだったのではないかと佐治さんは書いています。

日本史を貫く2つの基本的原理、「縄文的なもの」と「弥生的なもの」は、ともするとイメージが逆転していると私は思っていますが、東北には古来、豊かな人の支え合う文化があったのです。

辺見庸さんは、これほどの規模の震災を経験して、日常に戻るとしたら意味がない、と言っていました。
同感です。それは、あまりに哀しい。
新しい社会原理の方向性が、荒吐の東日流にあるように思いました。

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2011/01/08

■市民の市民による市民のためのオペラ

私はオペラを観劇したことがありません。
食わず嫌いなのかもしれませんが、どうも好きにはなれそうもないのです。
その私が、オペラを観に行くことにしました。
「スロバキア国立オペラ日本公演」です。

なぜ行く気になったかといえば、主催者の次のメッセージを読んだからです。

本場のオペラに惚れ込んだ一般市民が!
スロバキアの国立オペラに単独乗り込み!
まさかの直談判で超一流ソリスト達が奇跡の来日!
これは痛快な『市民の市民による市民のためのオペラ』。
奇跡を巻き起こすのは観客の皆さん一人一人です!
最初に案内をもらった時には全く行く気はなかったのですが、この言葉を読んで気が変わりました。
思い立って行動を起こした人は応援しなければいけません、
「スロバキア国立オペラ日本公演」の案内はここをクリックしてください。

主催は東京スロバキアオペラ交流の会となっていますが、その代表はWonder Art Productionの高橋雅子さんです。
高橋さんとの出会いは、彼女が取り組んでいるホスピタルアート活動に共感したことです。
高橋さんは昨年末にこのブログでも紹介したハッピードール展の企画者です。

ちなみにこのオペラに思いを込めて取り組んだのは小樽の長谷川洋行さんです。
そのあたりの経緯は、高橋さんのブログ長谷川さんのサイトを読んでください。
長谷川さんも無謀なら、その東京公演を引き受けた高橋さんも無謀です。
しかし、その「無謀さ」が、私は大好きなのです。
ここは私も協力しなければいけません。
オペラが嫌いだとか好きだとかは、そんなことは瑣末な話です。
思いを持った人が立ち上がったら応援しなければいけません、

ちなみに東京は3会場で公演しますが、その座席数は1350だそうです。
高橋さんによれば、まだあまり売れていないようです。

どうでしょうか、みなさん。
公演を観に行きませんか。
オペラ嫌いの私でさえ行くのですから、ぜひご検討ください。
スロバキア国立オペラのすばらしさは高橋さんのブログを読んでください。
オペラ好きの私の友人が、こんな安い料金でスロバキア国立オペラが観られるなんて信じられないと言っていました。

観に行きたいという方はぜひ高橋さんにメールしてください
私にでも結構です

ちなみに先ほど無謀にも市長選に立候補した坂巻さんの事務所で会った横手さんにこの話をしたら、彼も行くことになりました。
実は横手さんもオペラは苦手なそうですが、思いを込めた人は応援しなければいけないという私の考えに共感してくれました。
横手さんも無謀が好きらしいです。

東京での公演スケジュールは次の通りです。
詳しくは高橋さんたちのサイトを見てください。

■東京公演スケジュール
1月19日(水) なかのZEROホール(小ホール)
1月21日(金) 文京シビックホール(小ホール)
1月22日(土) 成城ホール
■開演19:00(開場18:30)
 第一部/オペラ「ラ ボエーム」(プッチーニ作)
 第二部/オペレッタとミュージカルからの歌、他
■入場料3,500円(当日4,000円)全席自由

しつこいですが、私はオペラが好きではないのです。
どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
困ったものです。

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2010/12/30

■因果のベクトル

一昨日、今年最後のオープンサロンを開催しました。
いろんなことが話題になりましたが、幸せ論もテーマのひとつでした。
ある人が、経済水準の高い先進国ほど不満が多いという調査結果もあるという話をしてくれました。
30年前に比べて、今の日本は幸せかどうかという議論もありました。

こういう議論を聞いていていつも感ずるのは、みんな思考の枠組に呪縛されていると言うことです。
因果のベクトルが決まっているのです。

例えば、多くの人は経済が発展すれば豊かになると思っています。
経済発展が因で豊かな生活が果です。
しかし現実は逆かもしれません。
豊かでないから経済が発展すると考えたらどうでしょうか。
そう考えれば、経済水準の高い先進国ほど生活の不満が多く、幸せ感のない人が多いのは当然です。
みんなが幸せだったら経済は発展しないでしょう。
だから経済を主導する人たちは、不安や不満を高めようとするのです。
自殺が多いと騒ぐのは、まさにその一つの典型例です。
自殺が多いと騒ぐ方法では、自殺を加速させこそすれ減らしはしないでしょう。
いささか問題発言ですが、私は今の自殺予防キャンペーンには反対です。
私も、自殺のない社会づくりネットワークの活動に関わっているので、仲間から非難されるかもしれませんが、自殺防止と自殺のない社会づくりとは、似ているようで因果のベクトルが違うのです。

貧困大国と言われるアメリカを思い出せばすぐわかりますが、貧困をつくることが経済成長の極意です。

因果のベクトル(方向性)を反転させて考えるといろんなことが見えてきます。
経済が発展するから地球環境が壊れるのか、地球環境を壊すから経済が発展するのかを考えれば、納得してもらえると思います。

平和もそうです。
憎しみの構図があるから平和が維持できないのか、平和を目指すから憎しみの構図が強まるのかも、9.11事件の後の世界を見れば一目瞭然です。

にもかかわらず、多くの人はこれまでの固定的な因果のベクトルで考えています。
そんな発想で世界が見えるわけがありません。
無縁社会や孤族キャンペーンは、恐ろしい毒を秘めています。
そうしたキャンペーンに騙されてはいけません。
そうした言葉を口にしている人たちは、魂を売った哀れなファウストでしかありません。

もっともベクトルは反転させればいいわけではありません。
そもそも単線的な因果構造で発想するのがいいわけではないのです。

もうひとつ悩ましいのは、概念の多様性です。
私は数年前の環境経営提言で、経済と環境のシナジーを出しましたが、その因果のベクトルは要素概念をスパイラルに変質させます。
シナジーを実現するには、経済も環境も概念変化しなければいけません。
つまりベクトルは常に要素概念を巻き込みながらダイナミックに双方向に流れているのです。
このあたりの発想は近代の論理にはありません。
そろそろ近代の知の呪縛から解放されなければいけません。
少なくとも、因果のベクトルを反転させて見るのもいいかもしれません。
それくらいの知性はまだ私たちに残っていると思いたいです。

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2010/11/03

■餌を与えられることに嬉々と喜ぶ消費者

前項でITが国境を越えて新しい世界を構築していくかもしれないと書きましたが、それを書きながら、今日、テレビで見た新しい自動販売機のことを思い出しました。

その自動販売機は、利用者の姿をセンサーして、その人に合った飲み物を推薦するのだそうです。
例えば肥満気味の人には糖分の少ない飲み物というわけです。
いまはまだお台場くらいにしかないようですが、アメリカではかなり広がっているとキャスターが言っていました。
これを見ていて、家畜に自動的に餌を提供する機械を思い出しました。
まさにこれは餌を与える機械です。
そんなものが流行るとは、いったいどうなっているのでしょうか。

しかし、これは何も自動販売機に限ったことではないのです。
周りを見渡すと、こうしたものがいかに多いことか。
私たちはもうすでに「家畜」になっているのかもしれません。
いったい誰が飼い主なのでしょうか。

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2010/11/01

■「生命の時間」と「時計の時間」

私の好きなテレビ番組の一つに「イタリアの小さな村の物語」というのがあります。
BS日テレの番組ですが、イタリア各地の小さな村が舞台で、毎回、その村で暮らす2人の人が主役です。
昔からの暮らしの文化をまもりながら、家族や地域の隣人たちと一緒に、しっかりと自分を生きている人が主役であることが多いですが、毎回、感ずるのは、「暮らしの豊かさ」です。
豊かさとか幸せとかを考えさせられる、とても感動的な番組なのです。

最近読んだ内山節さんの「共同体の基礎理論」には、欧米の共同体は「人の共同体」であるのに対して、日本の共同体は「自然までも含んだ共同体」だと指摘されています。
私もとても納得できたのですが、この番組を見ていると、自然までも含んだ共同体は日本だけのものではないのではないかという気もします。
いやそれ以上に感ずるのは、家族や隣人を大切にする暮らしの文化が、イタリアには日本以上にあるのではないかということです。
ということは、イタリアのみならず、きっとどこにもあるということです。

私は海外で暮らしたことがありません。
ですから、そうしたことに関しては、体験的に知っているわけではありませんので、判断がつきかねています。
しかし、この問題は空間軸で考えるのではなく、時間軸で考えるのがいいと思い出しました。
言い換えれば、日本では壊されてしまったものが、まだイタリアにはあるということです。
なぜ日本では失われ、イタリアには残っているのか。
おそらくそれは「生命(自然)の時間」と「時計の時間」の、どちらを生活の基準にするかが影響しているように思います。

「イタリアの小さな村の物語」に出てくる登場人物の多くは、自然、つまり生命の時間の中で生きています。
今日放映された番組で紹介されていた2人は、いずれも農牧を営む家族の人でした。
自らの生き方を大事にして、驚くほどゆっくりと「自分たちを生きている」人たちなのです。
生活の積み重ねが文化を育てていくというのがとてもよくわかります。
工業時間で速成されるような、きらびやかかもしれませんが退屈な文化ではないのです。

私たちは、基準とすべき時間を間違ってしまっているのかもしれない、といつも思いながら見ています。
すくなくとも暮らしにおいては、時計の時間は忘れたいものです。

私は大学生の時から時計を持つのをやめています。
しかしそれから50年近くたちますが、まだ時計の時間から自由になれずにいます。
そのせいか、私はまだ、暮らしに豊かさを実感できずにいます。
中途半端な生き方から抜け出せずにいるわけです。
困ったものです。

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2010/10/22

■奄美大島の大雨

奄美大島の大雨被害の大きさは、もし自分が当事者だったら立ち直れるだろうかというほどのすごさです。
自然のまえには、所詮、人間は小さな存在でしかないのかもしれません。

「日本の伝統的な精神では自然と人間を一体的にとらえている」と内山節さんは言います。
そして、日本における共同体は自然と人間の共同体だというのです。
内山さんの共同体論は、私にはとてもなじめる発想です。

その内山さんはこうも言います。

「自然と人間の間には矛盾も存在している。たとえば日本ではしばしば大雨が降り、それが洪水をも引き起こす。しかし雨量が多いから、水田もつくれるし、作物もよく育つ。森の木が育つのも夏の高温多湿が影響している」。
奄美の大雨被害を見ながらこんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが、おそらく奄美の人たちは、こうした災厄をもたらす自然とも恵みをもたらす自然とも、豊かに共存してきたのでしょう。
そしてそうしたなかで、自然と話のできる存在になっていたのかもしれません。
奄美や沖縄の人に、どこか霊的なものを感ずるのはそのせいかもしれません。

奄美大島出身の友人にメールをしたら、こんなメールが返ってきました。

私が育ったころは、バラック並みの家屋でしたので、梅雨前線~台風シーズン~秋雨前線と、この間、何度と今回のような体験をしてきました。
島人(しまっちゅ)の知恵が、被害も最小限に留めていると思っております。
本土並みの家屋になって、何十年ぶりかの災害だと思います。
奄美は、今回の災害復興をバネして、又、一層逞しく、生まれ変わってくれると信じております。
「本土並みの家屋になって、何十年ぶりかの災害」というところが、気になりました。
本土の家屋は、決して、自然と会話できる構造にはなっていないからです。
島人の知恵と本土人の知恵と比べたら、どちらがすぐれているのでしょうか。
今回の災害の状況をテレビで見ていて感じたのは、雨風にさらされることの多い奄美大島の家屋が、なぜか本土の家屋と同じように見えたことです。
これは私の考えすぎかもしれませんが、自然とともにある奄美の共同体やそれを支える住まいや集落構造が、人間だけの論理で合理的に設計された世界に置き換えられているのかもしれません。

共同体が自然と人間の合作であるならば、家屋も集落構造もそうでなければいけません。
「本土並みの家屋」はどういう意味を持っているのでしょうか。
奄美の被害映像から、こんなことを考えてしまいました。

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