カテゴリー「文化時評」の記事

2009/09/14

■法事の風景

先週、滋賀の湖北にある妻の実家の法事にいったのですが、そこでとても面白い話を聞きました、
お葬式に声をかけるところは、必ずしも血縁関係にあるところではないのだそうです。
昔からのしきたりだそうで、隣関係と言うわけでもないのです。
お互いになぜ声を掛け合うのか、今ではわからなくなっているところも少なくないようです。
結婚式とはまた違って、法事だけのことなのだそうです。
4つくらいの近在の集落の人たちの話でしたが、いずれも同じようです。
ちなみにみんな浄土真宗です。

私は40年ほど前に妻と結婚してからはじめてその地域の法事に参加しました。
妻の父は早く亡くなったのですが、その葬儀はとても印象的でした。
まだ土葬でしたが、親戚や近隣の人たちが集まり、2~3日かけての葬儀でした。
雪の日に白装束でお墓まで行列を成して葬送しました。
孫のわが娘が先導役だったような気がします。
ちょうど通りがかった人がさかんに写真を撮っていたのが記憶に残っています。

葬儀の読経が迫力がありました。
10畳の部屋を2つつなげた部屋やその周りの廊下などに集まった人たちが、僧侶と一緒に読経するのです。
私には初めての体験でしたので感動しました。
葬送の後、女性たちがつくった料理が山のように出され、次から次へと酒が出てきました。
下戸の私にとっては辛い宴会が続きました。
亡くなった人のために、それこそトポラッチのように、無駄な消尽が行われていたような気がします。
若い世代の人たちが、もっと無駄をなくして合理化しなければと話していたのも記憶に残っています。

それから何回も法事に出ましたが、年々大きく変化してきています。
土葬から火葬へと変わり、葬送の行列もなくなりました。
料理も次第に仕出し屋のものになってきました。
先日の法事は4時間ほどで終わりました。
消尽する雰囲気はなくなっていました。

変わっていないことが少なくとも一つありました。
みんなご仏前とは別に、品物を参加者分だけ持ち寄るのです。
そして、それをみんなで分け合って持ち帰るのです。
このスタイルは残っていました。

参加者は激減していました。
そこで冒頭の話が出てきたのです。
代替わりを契機に、声を掛け合うことをお互いに自重しだしているようです。
法事でしか付き合うことのないところは、徐々に呼びかけあうことをしなくなっているようです。
たくさんの家に声をかけるということは、たくさんの家の法事に行かなければいけないということです、
そうなれば、年中、法事に出なければいけなくなり、会社に勤めだすとそんなことはできなくなります。
つまり、いまの時代の生活にはあわないわけです。

長々と書いてしまいましたが、いつもとてもいろんなことを考えさせられるのです。
都会での生活と違って、地方にはまだまだ文化があります。

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2009/05/13

■ルポライターの仕事を支えることの大切さ

一昨日、ノンフィクションを手がけるライターの方の取材を受けました。
取材が終わった後、少し雑談をさせてもらいましたが、最近はルポ記事などを掲載する雑誌が次々と廃刊になっているので、仕事が難しくなってきているのだそうです。
私の友人にも同じ仕事をされている人たちがいますので、私もそうしたことは何となく感じていたのですが、その人と話していて、しっかりしたルポルタージュが発表される活字媒体が減少することの意味をあまり考えたことがなかったことに気づきました。
発表の場がないということは、現場をしっかりと実査し評価する活動がなくなっていくことに通じます。
このことの意味は大きいです。
ますます社会は見えなくなり、マクロな視点でしか記録されなくなりかねません。
現場には必ず個々の表情がありますし、そういう現場をルポしているライターの表情ある目は、マクロ的な観察や報道からは違う、現場のメッセージを伝えてくれます。
そういうものがなくなっていくと、世界は平板なものになりかねません。

そういえば、私自身も最近は雑誌をほとんど読まなくなってしまいました。
若い頃は、毎月10冊程度のさまざまな雑誌を講読していましたが、今は、あまりメジャーでないものを数冊読んでいるだけです。
週刊誌は1冊も読んでいません。
ルポルタージュなどのノンフィクションは単行本として読むようになってきていますが、書き手の立場から言えば、最初から単行本を目指しての取材や原稿書きは大変なようです。
おそらく経済的にも引き合わないでしょう。
取材費さえ取り戻せないことも少なくないかもしれません。
それに比べ、雑誌に掲載していったものを、それがたまった段階で本にして残していくという方法は、書き手にとってはありがたい仕組みでしょう。

このブログを書きだしてから、気づいたことがあります。
たとえば昨日の小沢さん関連の2つの記事ですが、多分数日後であればかなり違った書き方になるでしょう。
ましてやまとまった本を意識して書きなおすとしたら、まったくと言っていいほど違う表現になると思います。
全体が見えるにつれて、文章は次第に小賢しくなっていくものです。
極端に言えば、真実から遠いものになりかねません。
ある事件に出会ったときの第一印象、それこそが現場の真実を伝える出発点だと私は考えるようになりました。
もしそうならば、中途半端であれ、できるだけ時間を経ずに雑誌などで書いているものを読んだ方が現実に近づけるように思います。
単行本として編集されたものよりも雑誌掲載記事のほうが、いろんな意味でライブなわけです。

「反社会学講座」(ちくま文庫)という、とても面白い本があります。
そこに出ていたのですが、60代以上の人は最近新聞を読む時間が急増しているのだそうです。
なんと1日40分です。
その一方で新聞以外の活字を読む時間は15分前後です。
もう少しみんなが雑誌を読む時間を増やしたら、ルポライターの人たちの仕事を支援できるかもしれません。
そう思いだしたのですが、ではどの雑誌を講読しようかと思うと魅力的な雑誌が思い浮かびません。
まあ、できるだけ早く書店に行って、読めそうな雑誌を探してこようと思います。

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2009/04/21

■スーザン・ボイルさんの歌は聴きましたか

スコットランドのスーザン・ボイルさんが話題です。
国の素人オーディション番組での歌唱映像が「ユーチューブ」で世界中に広がり、今や世界の人気者のようです。
昨日のテレビの報道番組でも各局取り上げていました。
海外のプロのミュージシャンも絶賛らしいです。
日本のキャスターもコメンテーターもみんなその素晴らしさを褒め称えていました。
報道ステーションの古館さんも絶賛し、大切なのは歌い手の見かけではなく、歌そのもので評価しなくてはいけないというような発言もしていました(かなり不正確な記憶なのですが)。
皆さんはいかがでしたでしょうか。

私は、音楽音痴なのか感動しませんでした。
テレビで聴いたせいか、みんなが大騒ぎするほど魅力的でもありませんでした。
もちろんいい声ですし、表情のある歌唱だとは思います。
しかし、この程度の、と言うと失礼ですが、よく聴いたような気がするレベルでした。
なんでみんなあんなに感動するのかと不思議でしたので、わが家の娘たちにも訊いてみましたが、彼女たちもまあそれほど感動していませんでした。
一家そろって音楽音痴なのでしょうか。

さらに私は思います。
やはり歌い手の歌う時の雰囲気はとても大事だと思うのです。
娘もそういう思いで、目をつぶって聴いたそうですが、やはり感動するほどではなかったといいます。
まあ、それとは意味が違うのですが、私はやはりどんな人がどんな雰囲気で歌うのかにはとても影響を受けます。
美人でなければいけないとはいいませんが、雰囲気は大切です。
大変失礼ですが、ボイルさんの雰囲気で歌われるのは感動につながりにくいです。

決してスーザン・ボイルさんをこき下ろしたいのではありません。
実際に、生で直接聞いたら、感動するのかもしれません。
いえ、「ユーチューブ」で聴いても、とても快いです。
ただみんなが騒ぐほどのことはないと思うのです。
そして、話題になるとみんなどうしてこうも同調してしまうのか、しかも感動まで同調してしまうのが気になるのです。

最近読んだ本にこんな文章が出ていました。

大勢の人々が価値と考え、賞賛し欲望するもの、これがどんな社会においても、人間の社会的欲望の一般基準である。

天才の創造力が美の模範を、つまり日の秩序の基準を作り出すと考えられるが、実際には、不特定の人々の美的感受性による批評こそが、天才とそうでないものの秩序を作り出すのである。

何だかその実例を見せられているような気がします。
私はスーザン・ボイルさんのコンサートに招待されても、たぶん行きません。
和田あきこさんのコンサートなら喜んで行きますが。

無粋な話ですみません。
まあ今回は音楽の話なのですが、これが教育や政治の話になると恐ろしいです。

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2009/04/16

■298円のお弁当

コンビニでの格安お弁当が、連日テレビで報道されています。
私がそこから感ずるのは、「食」を大事にしない文化です。
つい最近まで盛んにいわれていた「食育」とか「食の安全」はどこに行ったのかと思います。

それは違う話と言う人もいるでしょう。
しかし、大切なのは「食」をどう考えるかです。
それぞれが作っていたら、こんなには安く、こんなお弁当はできないとテレビの中で女性が話していましたが、そういう発想にこそ落とし穴があります。
どうしてみんな「価格」でしか、ものを考えなくなってしまったのでしょうか。

食は、食べるだけの「えさ」ではありません。
食をつくることも含めて、そこには私たちの生き方と深くつながっています。
「食」をもっと大事にしたいと思います。

珈琲1杯よりも安いお弁当。
どう考えても、私には納得できません。
食は生命の基本であり、文化の基本です。
私たちはもっと基本的な「食」にお金を払う姿勢を持つべきではないかと思います。
お米の価格の安さにも問題を感じます。
食は、安ければいいわけではありません。
大切なのは、私たちが「食」をどう位置づけ、どれほどの「価値」を置くかです。

商品の価格体系には、私たちの文化が現われています。
私たちの生き方の反映と言っていいかもしれません。

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2008/03/23

■価値を創りだすのは感性か利得か

友人と話していて、ゴッホの絵の価値が話題になりました。
私はゴッホの絵はほとんど好きではありませんので、たとえ1万円でも買わないでしょう。
数十億円の値段がつくのを、いつも不思議に思っています。
私にはあまり価値もない退屈な作品でしかありません。

芸術が貨幣換算されるようになったことは、私には不幸なことのように思われます。
それによって作品を見る目が曇らされたような気がします。
感性ではなく、知識で作品を見るようになってしまいました。

価値を与える仕組みは必ずといっていいくらい、権力や支配につながっています。
安物の茶器が、茶道の仕組みの中で高価な値がつけられ、権力の道具にされたように、物の価値は、その物自身によってではなく、外部から与えられるものです。
それが当事者との関係において語られているうちはいいのですが、支配の具にされるとおかしなことになっていきます。

その話で私が思い出したのは、最近テレビでみた、ゴッホの贋作を大量に作成し、安く売っている中国のある村の話です。
買うほうはもちろん贋作と知って買っていくのですが、その贋作でも心を豊かにする人がいるのであれば、それでいいのではないかという気がします。
私自身は「知的所有権」に違和感を持っている人間ですので、贋作にあまり違和感はないのですし、気持ちが豊かになるのであれば、贋作でもいいではないかと思います。
そのたくさんの贋作のなかに、ゴッホが描いた本物の作品があったとして、その中から一番好きなものを選べといわれても、私には本物を選ぶ自信はまったくありません。
もしそうならば、私にはどれでもいいわけです。

感性のなさを指摘されそうですが、感性は極めて個人的なものであり、外部から強制されるものではありません。
「感性がない」などという言葉の意味もよくわかりません。
そんなことをいうと、美意識は磨けないのかと叱られそうですが、もちろん磨けると思いますし、また磨くべきだと思っています。
ただ、「感性がないという感性こそが感性のないことではないか」
という気がするのです。
あれれ、これは、クレタ人はみんな嘘つきだと言ったクレタ人のように、パラドックスですね。

感性は、本当にパラドキシカルな概念です。
論じてはいけません。
ましてや価格をつけてはいけません。

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2008/03/20

■運慶の「大日如来像」には海外で活躍してほしかったです

運慶の「大日如来像」が一昨日、ニューヨークでオークションにかけられました。
一部から海外流出を懸念する声が出ていましたが、結局、三越が落札し、日本に残ることになりました。
写真で見る限り、惚れ惚れするような気品と慈愛の感じられる仏像です。

私は、こんな気品のある仏像が日本にとどまったことを残念に思います。
海外、とりわけアメリカの人たちに、この仏像を見てほしいと思いました。
仏の慈悲で世界が変わるかもしれないからです。

日本の仏教界はもっと世界に働きかけるべきではないかと思います。
仏教徒の私としては、人類の未来に向けて、仏教はもっと大きな役割を果たせるように思いますが、そうはなっていません。
一神教の経典宗教と違い、仏教は昨今のような「時間軸が短くなってしまった世界」では本領が発揮できないのかもしれません。
その上、ミャンマーでもチベットでも、追いやられた僧侶の暴力行為すら生まれてきています。
とても残念な状況ですが、仏教界のリーダーが動き出しているようには見えません。
しかし、たとえばこの仏像を見ていると、心和み、これまでの生き方を自問したくなる人も出てくるでしょう。
これはイコンや西洋の宗教画からは生まれてこない感情ではないかと思います。

国家の貴重な文化財の海外流出に反対する考えがあります。
今回も署名運動まであったようです。
たしかにかつてあったような収奪による流出は許されるべきではありません。
しかし、貴重な文化財だからといって、国家が独占するのもおかしな話です。
ましてや公開もされずにただ独占するだけでは意味がありません。
むしろ多くの人たちに見てもらうことをこそ目指すべきだと思います。
文化財まで私有することには、たとえそれが個人の私有でなく、国家の「私有」であっても、私には違和感があります。

私は日本の仏像が大好きです。
その前に座ると心が和み、世界や歴史とのつながりを実感できるからです。
ですから公開されていない仏像は公開してほしいですし、世界にもどんどん出していってほしいと思います。

今回、三越が落札したことが残念です。
仏たちには、もっと大きな世界で活躍してほしいと思っています。

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2008/02/24

■そこのけそこのけイージス艦が通る

19日に起こったイージス艦衝突事故ではさまざまなことを考えさせられました。
事故発生後5日も経過するのに、吉清父子がまだ見つからないことはとても心痛みます。
奇跡が起きないものかと他人事ながら祈っています。

この事件が突きつけている問題はたくさんあります。
テロ対策上の問題や国防上の危機管理体制の問題も議論され出していますし、
防衛省の情報隠蔽体質も問題でしょう。大臣の統制力の問題もあるでしょう。
しかし私が一番感じたのは、民と官の意識のあまりにも大きな違いです。
まさに違う世界に住んでいる人たちを見ているような気がしました。
その溝はもはや埋められないところまで来ているような絶望感をもちました。
気持ちの往来が全くといっていいほど感じられません。

事故にあった吉清哲大さんは、毎年、ホームレスの支援団体に魚を届けていたといいます。
金は無いけど魚なら支援できると毎年数回、炊き出しに協力していたそうです。
その話を知った時、なぜか私は涙が出ました。
お金などなくても、できることはたくさんなるのです。
どうして神様は、こう言う人を守ってやらなかったのでしょうか。

哲大さんだけではありません。
同じ漁師町の仲間たちが、漁を休んで2人の捜索を懸命に続けているのにも感動しました。
新聞によれば、

現場まで往復6時間。5万~7万円に及ぶ燃料代は各自の負担だ。
しかも、いまは1年でも大切な漁期。
(中略)
漁港では毎夕、捜索を終えた船が戻るころに親族6人ほどが一列に並んで岸壁に立つ。
沖から戻った漁師たちに頭を下げる。22日夕も親族が「どうもありがとうございました」と声をそろえると、漁師たちは「心配いらねい。気にしなくていいっぺ」。
テレビで見た海岸での女性たちの祈りの情景も心に残りました。
事故が起きてから毎朝続けている「御法楽」という儀式だそうです。
その中の一人、雷(らい)孝子さん(74)は、
「うちの父ちゃん(夫)の時も、みんなずっと捜してくれたんだ」
と語っています。
10年前、夫の乗った船が衝突事故にあった時に、
漁師仲間が休漁して1週間、真冬の海で捜索を続けたのだそうです。
漁船による捜索で、形見のニット帽が回収されたといいます。

今回の事件の原因は、ただ一つ、
「そこのけそこのけイージス艦が通る」という自衛隊関係者を含む「官」の姿勢だと思いますが、
それとあまりにも対照的な「民」の世界のあたたかさを見せてもらいました。
そうした日本の民の文化が、官や公や金によって踏みにじられようとしていることがとても悲しいです。

イージス艦「あたご」がたくさんの漁船の存在を知りながら、直進して清徳丸を壊したことは、
最近の「お上」がやっていることを象徴しているのかもしれません。

吉清父子に奇跡が起こってくれますように。

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2008/01/05

■「犬という語は、狼なる語が存在しなければ、狼をも指すだろう」

「犬という語は、狼なる語が存在しなければ、狼をも指すだろう」とソシュールは言ったそうです。
近代科学の起点が「分ける」ことだったことをこれほど明確に示している言葉はないように思います。
もっとも、言葉が実体を具現化させることは、なにも近代科学に始まったわけではありません。
人間の歴史は言葉で始まったのかもしれません。

昨日、言葉の力のようなことを書きましたが、日本は言霊の国とよくいわれます。
しかし、おそらく言霊信仰は日本だけの話ではないでしょう。
むしろ「言霊」という言葉を生み出したことによって、
日本ではそのことが強く意識されただけのことではないかと思います。
もしそうであれば、改めて言葉の力を感じます。
言葉が文化を創りだし、人々の意識を決めていくわけです。

国民意識を形成し、国家のアイデンティティを創り出すために、
「国語」は重要な役割を果たしてきました。
各地の言語はおそらく連続的ですから、どこで区切るか、
たとえばどこまでを方言として位置づけるかで、国家の範囲も変わっていきかねません。
そうした最大の統治要素、社会の基盤要素である言語を、
私たちはおろそかにしていることを、正月のテレビを見ていて痛感しました。
社会が崩れ出し、心のつながりが薄れ、
国家のアイデンティティが損なわれても仕方がないように思います。
教育改革や愛国心論議よりも、国語のあり方を見直すことが先決課題ではないかと思うようになりました。
あまりにもなじめない言葉が多すぎることのひがみかもしれませんが。

今年は、私自身、言葉を大事にしていきたいと思います。

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2007/11/29

■自由人とは自らにとっての真理を語るものである

自由人とは真理を語るものである。
これが古代ギリシアの自由人の定義だったそうです。
真理を語るのは、誰にも拘束されたり迎合したりしていな証です。
逆に真理を語れないのは誰かの、あるいは何かの奴隷だと言うわけです。

もっとも「真理」などというのは捉え方でいくらでも変わります。
「真理」は時代や文化のそれぞれに、存在しますから、唯一絶対の真理などあろうはずもありません。
ただ社会を維持していくためには、メンバーが共有する最小限の認識はが不可欠ですから、それを「真理」と呼ぶわけですが、それにしてもそれは絶対であるわけではありません。
「真理」は多様であり、生きています。
その認識こそが、「真理」を見るための出発点だと思います。
であればこそ、誰にも拘束されることなく、自由に「自らにとっての真理」を語り合うことが大切です。
先入観のない真理への思いをぶつけ合うことで、「真理」はいのちを与えられ、歴史は動き、社会は硬直化による死から解放されます。

こうした視点から考えると、日本では「真理」が語られることは少ないように思います。
多くの人、いやほとんどの人が「真理は与えられる物」と考えていますから、自らの違憲の根拠を誰かの発言に依拠しがちです。
そうやって、社会の「真理」は強固になっていき、そこから外れたものは多くの人には見えなくなっていく恐れがあります。

19年前、自由人になりたくて会社を離脱しましたが、以来、自由に考え語ることが私の自負の一つでした。
しかし最近、妻への妄念が強すぎて、真理が見えなくなってきているかもしれません。
いや、感受性が研ぎ澄まされて、真理が見えすぎて混乱してしまっているのかもしれません。

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2007/11/28

■持続可能性を高めるための多様性

グローバリゼーション、といっても経済中心のグローバリゼーションですが、その進展で世界の経済は深くつなってしまいました。
サブプライム問題で明らかになったように、世界のどこかで発生した経済問題が世界中に深刻な影響を与えるような状況になりました。
まさに、上海での蝶の羽ばたきがアメリカにハリケーンを起こしてしまうという、バタフライ効果が現実のものになりだしたのです。

世界の経済がつながっている以上、多かれ少なかれそれは避けられないことです。
1920年代にも、そうした世界同時不況はありました。
しかしそうした状況を克服する方向で経済政策が動いてきたかといえば、そうではありません。むしろ逆だったように思います。
しかも金融工学が異様に発展し、実体経済とは桁違いの大きな力を持ち出したのです。
てこの原理で損益を異常に拡大する仕組みが次々と開発され、まさに世界経済はカジノの場になってしまったような気がします。
その影響が、私たち生活者の生活という実体経済を左右するようになってしまったのです。おかしな話です。
金融エンジニアやベニスの商人たちには「堅気の世界」には入ってきてほしくないと思いますが、逆に「堅気の生活者」がその世界に吸い込まれているようです。
いうまでもありませんが、日本の財界はすでに魂をお金に売り飛ばしていますから、何の倫理観もありません。経団連や同友会も地に堕ちました。

文化の世界では、構造主義や文化人類学が世界の多様性を積極的に肯定することによって世界の豊かなビジョンを描きました。
しかし実際に起こったのは、多様な文化の消滅です。
異邦が発見されると、そこに強い文化が入っていき、結局は絡めとってしまうわけです。
いわゆる「文化人類学のジレンマ」ですが、今の時代においては、違法や多様性を維持することは至難なことです。
しかしこのままいくと、実体経済そのものが存立しえなくなりかねません。
汗して働くことが報われない社会になってきているのです。

それだけではありません。
世界そのものが極めて脆弱なものになりかねません。
多様性こそが組織の強さ、今様に言えば、持続可能性を保証するものです。
上海での蝶の羽ばたきが、異常に増幅されるような仕組みは見直されなければいけません。
さまざまな段階でリスクを回避し、ホメオスタシスとホメオカオスがバランスして、全体の持続可能性を高めていく新しい経済システムが構想されるべき時期に来ているように思います。その原理はもう見つかっているはずです。
なぜそうした動きが現実のものにならないのか。
この世界から自由がなくなってきているからかもしれません。

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2007/11/11

■「みんな幸せになるなんてありません」

妻が亡くなってから、時間をもてあまし、最近はテレビをよく見ます。
今朝も、吉村作治さん、曽野綾子さん、三浦朱門さんの鼎談を見ていました。
新聞を読みながら見ていたため、聴き違いがあるかもしれませんが、とても気になる発言がたくさんありました。

たとえば、格差社会に関して「みんな幸せになるなんてことは無理」というような話がありました。
そこで出てきたのは、鳥の子育てでも強いものを残していくというような発言が出てきました。
弱いものは捨てていくのが生物界のルール、人間だけが弱いものを生かそうとしているというような話です。
さすがに三浦さんだけは「さまざまな遺伝子を残すことが大切だ」と少しだけフォローしていましたが、曽野さんや吉村さんは反応もしませんでした。
恐ろしい話です。

ダーウィンの自然淘汰説や適者生存論には学生の頃から違和感がありました。
いずれも結果からみた現実正当化のための解釈学でしかないという気がしたのです。
それに社会ダーウィニズムにみるような、競争や対立を正当化する議論にはどうしても反発を感じました。
それに、自然界がそんなに生存競争に明け暮れているはずがないという思いもありました。
私は子どもの頃から自然の生き物が好きでしたが、彼らはみんな攻撃などはしてきません。
こちらが邪魔しなければの話ですが。
自然の中の動植物は、それぞれうまく折り合いながら生きています。
いや、協力し支え合いながら生きています。

競争を強調するダーウィン進化論の見直しは進んでいますし、
地球全体が支え合いの仕組みであり、ひとつの生命体だというガイア仮説もかなり認められだしています。
多細胞生物は、単細胞生物が協力したがゆえに生まれたという説もあります。
「進化の本質は普遍的な協調にある」と言う人もいます。
そもそも弱肉強食などという考え方は、権力抗争の中で生まれた発想ではないかと思います。
そうした先入観で自然や社会を見ている限り、真実は見えてこないでしょう。

近代は格差と競争の時代でした。
だからこそ、戦争や開発が広がったのです。
そろそろそうした呪縛から抜けなければいけません。

「みんな幸せになること」は決して難しいことではありません。
みんなが素直に生きれば、自然とそうなるのではないでしょうか。
生きていることはそもそも幸せなことなのです。
その原点に戻れば、その方策も見えてくるはずです。
小賢しい有識者の言葉に惑わされないようにしたいと思います。

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2007/10/13

■栃尾駅保全運動への署名協力のお願い

北九州市の折尾駅舎の保存活動に取り組んでいる知人から、その署名運動への協力要請がありました。
彼女は私が取り組んでいる、「大きな福祉」を目指すコムケア活動の仲間です。
大きな福祉にとって、こうした問題はとても重要なことだと私は考えていますので、早速協力させてもらうことにしました。

折尾駅は私も一度だけ乗り降りしたことがありますが、木造総2階建ての駅舎で、とても味のある良い建築物です。
その駅舎が、折尾総合整備事業によって取り壊されることになっているのだそうです。
こうした歴史的産業遺産は以前よりも大事にされるようになってきましたが、まだ壊されているのが現実です。

蒔田さんからのメールの一部を引用します。

折尾駅舎は、大正5年建築の90年を越える木造総2階建の駅舎で、「日本初の立体交差・待合室の丸椅子・高架下の赤煉瓦のトンネルなどがあり、訪れるべき価値のある駅」の全国7位に選ばれました。
折尾駅舎は、まちを愛する人にとっての誇りであり、シンボルです。
折尾のまちは、駅を中心に交通・産業・文化の拠点として繁栄してきました。
その中でも『折尾駅』は、石炭輸送によって日本の近代化に大きく貢献した重要な歴史的遺産です。
JRで現存する木造総2階建の駅舎は、折尾駅・門司港駅・日光駅・原宿駅の4つだけだともいわれています。
折尾地区だけでなく、日本中の方にも保存を呼びかけていただければと思います。
蒔田さんは、こうも言っています。
日本は、社会的資源(文化的、歴史的、空間的、、、)を 軽く感じすぎますよね。
まず、先人の思いや知恵などの経緯(歴史)を知らないから誇りも感じられないし、大切にすることもできないのかなとも思います。
折尾の開発は、利便性を良くするだけでなく、そういったものを次世代につなげていけるような開発であってほしいと思います。
全く同感です。
折尾だけの問題ではありません。
よかったら協力してください。

署名用紙は次のサイトにあります。
署名用紙のダウンロード
http://f17.aaa.livedoor.jp/~heritage/orio.html
また、折尾駅の今昔物語もサイトをご覧ください。
http://members.jcom.home.ne.jp/nittan3/Orio-index.htm

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2007/08/29

■「介護で苦労するくらいなら消費税は高くてもいい」

言葉をあげつらうのではありませんが、ちょっと気になる発言があります。
厚労相に新任された舛添要一さんが、朝日新聞の取材に応じて、次のように答えています。

母親を介護した経験があるが、あんな苦労をするぐらいなら、消費税率が10%、15%になっても喜んで払うと言う気持ちはいまでもある。
いま、私は女房の介護をしています。
たしかに大変です。身体的にも時間的にも、そして経済的にも、です。
しかし、この発言にはなぜか違和感を持ちました。
舛添さんの思いも良くわかりますし、共感もするのですが、どこかでひっかかるのです。
女房の介護をする前であれば、違和感を持たなかったかもしれません。

それに私は消費税を中心にした税体系にすることには大賛成です。
15%どころか20%でも良いと思っています。
現在の社会の経済的基盤は消費だからです。
それに納税が公平である上に、見えるようになるからです。
税はある意味での「保険」ですから、個別の苦労を回避するために納税すると言う発想も理解できます。

なぜ違和感を持ったのでしょうか。
それはこの発言の奥にある、「介護の苦労はしたくない」「できれば消費税は低いほうが良い」という、舛添さんの深層意識への反応かもしれません。
それは舛添さん個人の意識というよりも、いまの日本社会が持つ集団意識、文化かもしれません。
そうであれば、私もまたそうした思いから、たぶん自由ではないでしょう。
どこかに同じ思いがあることは否定できません。

しかし、私が今、感じているのは、「介護」や「看護」は、経済主義では解決しないし、解決させるべきではないということです。
介護や看護は、実は人が生きていく上での中心的な課題、仕事なのではないかと言うことです。
生活そのものかもしれません。これは福岡の西川さんからも教えてもらったことです。
イリイチがメッセージしているのも、そういうことかも知れません。

家庭での「介護」や「看護」は、資本主義経済にはなじまないでしょう。
資本主義経済になじむのは、介護の社会化、福祉の産業化です。
しかし、改めてそうした流れを問い直すことも大切ではないか。
そこにこそ、新しい社会のあり方を考えるヒントがあるのではないか。
新しいライフスタイルや文化を考えるヒントがあるのではないか。
そんな気がしてなりません。

「介護を苦労と思わないような社会」
「できれば消費税をはじめ、税金をたくさん納めたくなる社会」
そうした社会は決して夢ではありません。
たとえば佐賀北高校野球部への寄付が広がっています。
自然災害地への応援や難病家族への支援も広がっています。
助け合いの文化は人類古来の文化だったのではないかと思います。
それが回復できないはずがありません。

ちなみに、この記事は決して舛添さんを批判しているものではありません。
念のため。

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2007/07/16

■知の世界におけるホメオスタシス

稲田芳弘さんの『「ガン呪縛」を解く』という本を読みました。

革命的な医学理論であるが故に学会から抹殺されてきた千島学説がわかりやすく紹介されています。
千島学説については、以前からネットなどではサラッと読んでいたのですが、この本が面白かったという人がいたので、早速取り寄せて読んでみたのです。
いままで何となく抱いていた医学への疑問のいくつかが解消されました。
この4年間の体験のおかげで、その内容がとても納得できる気がしました。

千島学説は、たとえば「血は腸がつくる」とか「がんは血液の浄化機能を果たすために生まれる」などという考えです。
それは現在の医学の出発点にある常識への挑戦でもあります。
ですから医学学会からはほぼ無視されてきたと、著者の稲田さんは書いています。
たくさんの事例を引用していますので、とても説得力があります。
もう少し早く本書を信頼していたら、私たち夫婦のがんとの付き合いはかなり変わっていたでしょう。
もっともがんとの付き合いが浅い段階では、本書のメッセージをうまく受け止められたかどうか自信はありませんが。

いずれにしろ、医学界は千島学説に関してもっと真剣に取り組んでほしいと思います。
もし千島学説にたてば、がん治療のあり方は一変するはずです。
千島学説が正しいかどうかは私には判断できませんが、少なくとも新しい主張には正面から取り組むべきです。

学会の常識をひっくり返すような考えが生まれた場合、それが抹殺されるか無視されることは少なくないように思います。
その意味では、学問の世界は、まだ本当の「知の世界」にはなっていません。
その原因は、「知」の世界が市場化され、権力構造に組み込まれているからです。

たとえば、CWSコモンズで最近話題にした土壌菌の内水理論もその一つです。
発見者の内田護さんにお会いした時の彼の言葉はいまなお鮮明に覚えています。
彼の新発見をつぶそうとした動きがいろいろとあったようです。
その後、土壌菌は思わぬ形でブームになりましたが、しかし今なお正面から本格的に取り組まれているようには思えません。

こうしたことは技術の世界に限ったことではありません。
邪馬台国論争における古田武彦説はきちんとした反論がないと古田さんが言い続ける中で、いつの間にか忘れられたような形になってしまいました。

数十年たって、その考えが再評価されることもあるわけですが、なぜそうした新しい発見や発想は無視されがちなのでしょうか。
情報社会、知識社会と言われて久しいですが、どこかに問題があるように思います。

ちなみに、がん治療に関わっている方は、冒頭の稲田さんの本は読むに値すると思います。信ずるかどうかは別ですが。

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2007/07/08

■地方ごと、人ごとに時間があります

久しぶりに時間の話です。
世界標準時なるものがありますが、これが世界の画一化の第一歩だったのかもしれません。
人間のリズムの数倍の速さで、物理的な距離を移動できる自動車や飛行機によって、あるいは瞬時につながる通信手段の実現によって、世界各地の時間はつながってしまいました。
そして自然に合わせて生きていた私たちは、時間に合わせて生きなければいけなくなってしまいました。

私は基本的に時計を持たずに暮らしていますが、時間から自由になったわけではありません。
相変わらず時間に合わせながら暮らしています。
意識の上では文化の多様性が認められる一方で、世界標準時をベースにした画一的な時間を踏まえたライフスタイルが世界を席巻しているように思います。
エンデの寓話「モモ」を持ち出すこともないほどに、表情のない機械基準の時間は私たちの文化を画一化しているような気がします。

時間で管理されるということは多様な文化の存続には大きな障害になるでしょう。
どんな場所にいても、時間が来ると聖地を向いて礼拝するイスラムの人たちが異様に感じられることは、そのことの証左です。
日本国内においても、地域時間があるように思います。
私個人の体験においても、東京にいる時と地方に出かけた時とでは、明らかに時間の流れ方が違います。
山手線の駅だと5分も電車が来ないとイライラしますが、ローカル線の駅ならば30分待たされてもなんとも感じません。

地方で会議などをやると、定刻になっても人が集まらないことがあります。
以前は、「定刻より30分遅れるのが**時間」(**にはその地域の名前が入ります)などと主催者が話すこともよくありました。
最初は違和感がありましたが、それはそれで合理的だなと私は奇妙に納得していましたが、最近は残念ながらみんな時計通りに集まることが多くなってしまいました。

暮らしに時間を合わせるのではなく、時間に暮らしを合わせるようになったのです。
文化は退屈になるはずです。
時間意識は大きなソーシャル・キャピタルでもあります。
時間が共有化されていることが無駄をなくし、信頼のためのコストを削減しますから、論理的にはみんな暮らしやすくなるはずなのです。
しかし、何となく、それでいいのだろうかという気もします。

言葉は文化の本質です。
言葉をそろえることはコミュニケーション効率を高めましたが、そこで抜け落ちた文化や知恵はたくさんあるでしょう。同じことがきっと時間についてもいえるはずです。

よく時間だけはすべての人に平等に与えられているといわれます。
私は、全くそうは思いません。
機械時間はそうかもしれませんが、時間の長さは、実は人それぞれです。
介護や看護に取り組まれている方は、きっとそれを実感しているはずです。
それを無理やり、単一の管理時間に合わせる社会を作った結果が、いまさまざまなひずみを起こしているのかもしれません。
それぞれが自分の時間で暮らしていける社会。
自分たちの暮らしにあった時間をもてる地域社会。
時間というもののあり方を改めて考えてみることも大切なことではないかと思います。

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2007/05/31

■文化とは、一体何でしょうか?

昨日の記事に出てきた、地方に転居した友人というのは大分県国見町の竹沢孝子さんです。
先月、東京に来たのでお会いしましたが、見事な百姓暮らしをしています。
農民ではありません。百姓です。まあ、私の勝手な定義なのですが。
彼女のブログがあります。これも以前、私のホームページ(CWSコモンズ)で紹介しましたが、竹沢さんの思考や行動の一部が、前後の脈絡なく唐突に現出するブログなので、ついていくのが大変ですが、面白いメッセージが書かれています。
よかったら読んでみてください

そのブログで次のような問いかけがありました。
正確な問いかけの文章はブログを読んでください。
以下はその中の文章をつなぎ合わせたものでしかありませんので。

「文化は辺境にある」と最初に教えてくださったのは、鶴見俊輔さんでした。
すると、ここには文化が残っているのでしょうか? 
文化とは、一体何でしょうか? 
どうぞ、教えてください。

竹沢さんが私に問いかけているのが感じられたのですが、こんな問題に簡単に答えられるはずがありません。
放置していたのですが、竹沢さんからまたメールも来たので、ついつい答えてしまいました。
文化の問題はもっと考えなければいけないテーマだと、私も思っています。
なぜならいまや文化は死に絶えそうになっているような気がするからです。
そんなことはない、文化はますます高まっているといわれそうですが、私の生活の周りにはあまり文化のにおいがしません。
私の生き方が、文化的ではないのでしょうが。

文化とは何か。
悩ましい問題ですが、私はこう考えています。
文化とは、ある集団のメンバーに共有されている生き方で、変化する「生きたもの」。
それが制度化されたのが文明。
「文化鍋、文化包丁、文化住宅」は、その過程にある、文化の残渣、あるいは死んだ文化の象徴。
「文化」は言葉にした途端に、その生き生きしたダイナミズムを失いだすのだと思います。
文化は辺境、もしくは周縁にあるのは、一種のトートロジーで、制度化された死んだ文化の中心が、これまでの社会認識の底流にありましたから、そうなってしまうわけです。
視点を変えれば、東京などはまさに文化の辺境なのです。
統治者たちの視点で、私たちは歴史や社会を見ていますから、そうなってしまうわけです。
というのが、私の考えです。

以上は竹沢さんのブログにコメントしたものを少し変えただけのものです。
私が「文化は死に絶えそうになっている」と感ずるのは、文化が商業化されているからです。
いま広がっているのは、「文化鍋」レベルの文化のような気がします。
「文化」という言葉もまた、浪費されてきているように思います。
最近の都心再開発地域のおぞましさは、私には息が詰まります。
新しい文化住宅でしかなく、経済遺跡にはなっても、世界遺産にはならないでしょう。
売り物にされた文化やアートは、私には退屈です。
もちろん文明として受け止めれば、それなりの魅力はありますが、
あんな街に住んでいたら人間もまた死んでしまうのではないかと不安になるのです。
モヘンジョダロを思い出させます。
そうした、都会での文化の死が、地方にも広がっているような不安があります。

私の誤認であればいいのですが。

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2007/01/01

■しきたりや年中行事をもっと大切にしたいものです

今年は幸いなことに初日の出が見られました。
30日にも早く起きて日の出を見たのですが、
なぜか30日の朝と今朝では印象が違います。不思議です。
初の祝い膳の後、近くの子の神様に初詣をしました。

日本には古来、さまざまなしきたりや行事があります。
そうしたことが急速に失われたのが、この30年です。
驚くほどの速さで、なくなってきたように思います。
加速した人がいたのです。
そうしたしきたりの節目になる祝祭日も、いまや「連休」政策のもとで毎年動くようになってしまいました。
今年の成人の日は8日だそうですが、政府は成人の日を休日としか考えていないことが象徴されています。
成人の日に若者が荒れるのは当然のことでしょう。
歴史的な意味のある祝日はさすがにまだ勝手な変更はなされていませんが、時間の問題かもしれません。
歴史や文化、しきたりや慣習をおろそかにすることの意味をもっと私たちは考えるべきでしょう。

神仏の前での祈りの瞬間は、多くの人にとって「祈り」の時間であり、平穏な時間です。
少なくとも1年に一回、こうして自らの生き方を問い直し、懺悔し、祈りをささげることの意味は決して小さくないはずです。
1億人の国民が、もし初詣で、平和や安寧を祈るならば、ものすごいエネルギーになるはずです。
毎日のように起こる殺傷事件や不祥事件もなくなるかもしれません。

日本には、初詣に始まって、実に様々な年中行事がありました。
それに支えられて、世界から「美しい国」と讃えられた社会があったのです。
それを壊してきたこの数十年の政策や経済活動を改めることが大切です。
しかしそれは誰かがやってくれるわけではありません。
まずは、私たち一人ひとりが、そうした歴史や文化への関心を高めていくことから始めなければいけません。

初詣がまだの方は、ぜひ神社で手を合わせてきてください。
喪中の方は別ですが。

年中行事や古来のしきたりが回復してくれば、社会は変わっていくはずです。
私たちの生き方が変わるのですから。
年中行事や古来のしきたりをもっと重視していきましょう。
もちろん産業化や愛国心教育の対象としてではありません。
私たち一人ひとりの豊かな人生のために、です。

ちなみに、
靖国参拝などは、そうした文化に根ざす行事ではありません。
騙されてはなりません。
そうやって、古来大切にされていた文化が壊されてきたのですから。

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2006/09/24

■あなたは腕時計をなぜしているのですか

私が腕時計をはずしてから、40年近くたちます。
その間、半年ほど、趣旨変えして腕時計をしていた期間がありますが、そのときはオメガから月面着陸した人が身につけていたのと同じタイプの腕時計をもらったので、うれしくて着用していたのです。
その期間を除いて、腕時計はしたことがありません。
腕時計がなくてもまったく不都合はありませんでした。
そうした立場からするとなぜみんな腕時計をしているのか不思議です。

女房は今でも出かけるときに腕時計をします。
女房は時間がわからないと困るでしょうというのですが、分刻みで生活しているわけでもないので、時計がなくても不都合は全くないはずです。
それに街中にも結構時計はあるのです。
なければ誰かに時間を訊けばいいだけです。
もっとも最近は街中の時計も少なくなりました。
これに関してはまた書きたいので、今回はパスします。

腕時計の話です。
個人が腕時計した時から人間は自分の時間を失ってしまったのかもしれません。
機械が刻む時間から解放されるためにも、皆さん、腕時計をはずしませんか。

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2006/08/26

■住宅のあり方と少子化、あるいは子どもたちの反乱

今はあまり「衣食住」という言葉が使われないですが、衣食住は社会の基本です。
社会というよりも、生活や文化、あるいは人間の意識の基本です。
残念ながら、最近30年の日本においては、この衣食住がおろそかにされてきたように思います。
それが昨今の社会の崩れの基本だと私は考えています。

たとえば「衣」。ファッション感度は高くなっているのかもしれませんが、私には大きな違和感があります。
たとえばクールビズ。機能性から考えるのも良いでしょうが、衣とは何かという基本が軽んじられているように思います。文化の放棄です。

「食」はどうでしょうか。
グルメが騒がれますが、子どもたちの食生活を見れば、グルメ志向が単なる商業主義の発想でしかないことが分かります。
グルメを自称している人で、食文化への関心を持っている人に残念ながら出会ったことがありません。
ファッションとしてのグルメ、消費としてのグルメには違和感があります。
しかも、食文化とは無縁のところで、あまりにもひどいテレビ番組が多すぎます。
さすがに最近は、食べ物の投げ合いをするような腹立たしい番組は無くなりましたが。
日本に豊かに存在した、衣の文化、食の文化は失われつつあります。

そして「住」。
昨日、旧知の時田さんが訪ねてきてくれました。
時田さんは熊谷で工務店をやっています。
日本の伝統文化である住の技法を継承している職人たちのネットワークを大事にしながら、
納得できる仕事をしていますが、昨今の状況ではなかなかそれも難しいようです。
時田さんはこう言います(私の整理ですので不正確かもしれません)。

戦後日本の住宅政策の基本は「戸建て持ち家」で、それを推進するために、低利の建設資金を融資する住宅金融公庫を1950年に設立した。しかし、それに対抗する勢力は、集合住宅借家方式を主張、1955年、日本住宅公団が設立され、団地が誕生。その「持ち家発想」と「団地発想」が統合されて、都市型マンションが生まれ、住宅もまた商品になってきた。そして、政策理念のないままに、経済至上主義の中で、構造偽装に象徴される欠陥マンション、平均寿命25年という木造住宅が広がった。

そこで、時田さんは、高品質な住環境と住宅、それを成立させるための思想を世に問いながら、
新しいコミュニティを創造するプロジェクトに取り組むことになったのですが、それに関しては、
CWSコモンズの活動記録(2006年8月24日)で報告します。
ここでは、時田さんと話していて改めて考えたことを書きたいと思います。
住宅に関しては、以前、私も日本住宅会議に入っていましたので、
いつか住宅政策の間違いを指摘したいと思い続けていたのです。

まず、時田さんの整理のように、日本人は戦後の荒廃から立ち直るために、仮設住宅を創ったのに、いつの間にかその仮設住宅が標準住宅になってしまったということです。
しかも、それが経済至上主義にくっついてしまった。
家電製品や自動車と同じように、買い替え市場を生み出す商品に位置づけされてしまったのです。
そして30年しか持たないような消費型住宅ばかりができて、建設廃材世界1の国になったわけです。
そこには住文化は微塵もありません。
いや、文化を壊し経済人になる仕組みが埋め込まれていたというべきかもしれません。

つまり住宅が「モノ」として捉えられ、そこで展開される家族の「住まい方」、あるいは近隣住民とのつながりが育てていく空間価値などが全く置き去りにされたのです。
住文化の喪失です。

こうした住宅政策は結果的に核家族化を進め、さらには単身暮らしを増やしていきます。
核家族などと「家族」という言葉を使っていますが、これは家族の解体でしかありません。
世代は分断され、子育ては機能不全を起こし、コミュニティは解体され、お互いに殺傷しあうおぞましい社会が広がり、少子化が進行するのは、こうしたことの結果です。
ピントはずれの少子化対策は、事態を悪化させるとしても社会を良くすることはないでしょう。

土地も含めて、住宅が商品化されたことの弊害も大きいです。
これに関しては、また改めて書きたいと思います。

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2006/07/17

■言葉と文字の持つ意味

印刷の普及が出版物を増やし、それが「国語」を形成し、ナショナリズムを勃興させたという説があります。とても納得できる主張です。
ホンダはかつて企業を活性化させるためにKT法というのを導入し、トップから現場の従業員まですべてこの研修を受けて、社内の言語をそろえたといいます。
バベルの塔の崩壊は、天を目指す人間をとどめるために、神様が人々にたくさんの言語体系を与えて、コミュニケーションできなくさせたからだといいます。
女房は郷里に戻ると方言を使い出しますが、それに伴い人格も変わるようにさえ感ずる時があります。殖産興業・富国強兵に向けて、政府が標準語を重視した理由はよくわかります。
古来の表情を持った地域の名称が機能的な味気ない名称になってから、地域の文化はたぶん崩壊しました。せっかくの地名をひらがな表記する自治体は、愛郷心を育てることはないでしょう。
先週、仕事で50を超える企業の社内報を読みました。社内報には見事にその企業の文化や経営水準がにじみ出ています。
コミュニケーションの仕方やメディアが変わりだしていますが、100年後はどうなっているのでしょうか。
しっかりした国語よりも英語を教えたがる、あるいは学びたがる風潮には大きな危惧を感じます。
また、言語の意味をあいまいにしたまま、金銭を言語代わりにしようとしている企業にも大きな不幸を感じます。

昨日、20年以上前に書いた「非情報化革命論」のコピーが見つかりました。
未完でした。私にとってはもう一度読んでみたかった「幻の論文」だったのです。
20年ぶりに読みました。
言語について、もう少しきちんと考えないといけないことに気づかされました。
情報論は面白い課題がまだたくさんありそうです。
よかったら読んでください。

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2006/02/13

■「時は金」ではありません

昨日の続きです。
谷和原村でのテントの中での話し合いの最後は、みんなの手作り料理とテントの真ん中にぶら下げられた鍋での料理です。
新鮮な野菜がふんだんに投げ込まれて、実に美味しい鍋でした。
メンバーがそれぞれ持ち寄った自慢の家庭料理も最高でした。
七味唐辛子も手作りです。
デザートも、柚子の黄金焼きや手作り羊羹と、いろいろ出てきました。
各種のお漬物も美味しかったです。窪田さんの人参の漬物も最高でした。
こういうところに来て、いつも思うのは食生活の豊かさです。
どんなに有名なグルメレストランも、こうしたところの食事に比べれば貧相なものに思えてなりません。
食の豊かさは文化の豊かさにつながります。
しかし、そうした食の豊かさは間違いなく失われてきています。
みんなでいろいろ話しながら、持ち寄りの食材や里山の山菜で鍋をつくり、自慢の家庭料理を交換し、それに合わせて、それぞれの生活を交換しながら、地域社会の共同意識を高めていく。
昔はどこでも行われていた風景だったでしょう。
そうしたことがしっかりと行われていれば、地域は豊かになっていくはずです。
食事はまさに人をつなぎ、生命をつなぐものです。
食材を育て収穫し調理し食する、そして最後には残滓をきれいに自然に戻していく。
この循環が生活を支え、文化を育ててきたのです。
しかし、昨今の食文化は残念ながら、自然や文化から切り離された、単なる食べ物になっています。
単なる食べ物であるならば、それは「餌」でしかありません。
ファーストフードは餌の文化です。食の文化ではありません。
谷和原にはまだ自然が残っています。
城山も少し整備するだけで、きのこや山菜がもっと戻ってくるでしょう。
しかし、山菜料理は手がかかります。
その採取も含めて、時間がなければ難しいでしょう。
スーパーで処理された食材を買ってきたほうが、間違いなく便利です。
いつか書きましたが、我が家もピーナッツを栽培しましたが、その殻剥きが大変でした。
食を豊かにしようとすれば、時間がかかるのです。
時間がかかるということは、いつの間にかお金がかかることになりました。
いつからこうなってしまったのでしょうか。
「時は金なり」ということを疑いもなく受け入れていた自分の愚かさに、私が気づいたのはつい最近です。
時は、決して金ではありません。
エンデは「モモ」でそのことを警告してくれましたが、一度、金銭市場主義の世界に入ると抜け出すのは難しいのも現実です。
家計費のなかで食生活にかかる費用の割合をエンゲル係数といい、エンゲル係数が低いほど豊かだと言われた時代がありました。今もまだそういう概念があるのかどうか知りませんが、食はやはり豊かさにとっての最高の指標だと思います。
しかし、基準にすべきは「金」ではなく、「時間」だと思います。
全生活時間に占める食関係の時間、もちろん食材づくりや話し合いの時間も含めてですが、食につながる時間の比率こそが豊かさの基準になるような気がします。
皆さんは食の時間にどのくらいの時間を割いていますか。
私は決して多くありません。反省しなければいけません。
谷和原村の人たちに学んで、今日から少しライフスタイルを変えようと思います。
料理にも時間を割く努力を始めようと思います。
これまで何回か挑戦して、いつも失敗しているのですが。

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2006/01/25

■「いただきます」と「ありがとう」

昨日と一昨日、全く違った会で、「いただきます」論争が話題になりました。
全く違った集まりでのことです。一昨日は子育ちをテーマにしたコムケアサロン、昨日は技術者倫理をテーマにした集まりです。
もちろん話題提供者は私ではなく、全く別の人です。

「いただきます」論争はご存知の方も少なくないと思いますが、毎日新聞に出た記事があります。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/news/20060121ddm013100126000c.html
発端はTBSラジオ「永六輔その新世界」に寄せられた手紙です。

「ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と」

みなさんはどうお考えでしょうか。
私はついつい笑ってしまいました。
詳しくは上記のサイトで毎日新聞の記事をお読みください。
そこにこんな事例の紹介もあります。
「食堂で『いただきます』『ごちそうさま』と言ったら、隣のおばさんに『何で』と言われた。『作っている人に感謝している』と答えたら『お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ』と言われた」。

ここまで来るとちょっと笑ってはいられませんね。

コムケアサロンではこんな話も出ました。
アメリカ映画などで親が子どもを散々説教した最後に「サンキュウ」ということが多いので、気になってアメリカ人の友人に訊いたら、「説教をきちんと聴いてくれたことへの感謝だ」といわれた。
ブッシュの世界と違うアメリカの文化が感じられます。
日本の政府もそのアメリカと付きあってほしいです。

明らかに社会(人のつながり)は悪化の循環に入っているようです。
しかし、一人ひとりの生きる姿勢をちょっと変えれば、状況は反転させられるでしょう。
まずはもっとたくさんの「いただきます」と「ありがとう」を発声することにしようと思います。

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2006/01/09

■フレキシビリティという曲者

ある本からの引用文です。

フレキシブル資本主義とは、フレキシビリティ(弾力性、柔軟性)を最重視する、新しいシステムである。その下では、官僚主義の硬直した組織形態は、盲目的に慣例を守るだけの悪として糾弾され、労働者は機敏に行動し、言われたらすぐにも変化に対応できるように準備し、継続的にリスクをとるように求められ、規制や定められた手順に従うことを良しとする態度は改めなければならない。

出典は、「それでも新資本主義についていくか」(ダイヤモンド社 1999年)。
1998年にアメリカで出版された“ The Corrosion of Character ”の翻訳です。
この文章を読んで皆さんはどう思われますか。
共感する人もいるでしょう。私も共感しそうな文章です。

しかし、このフレキシビリティというのが曲者です。
同書によれば、フレキシビリティのもともとの意味は、
「一度、たわんで、そして元通りになるという、木の持つ2つの性質、試練に耐え、そして形を復元するという両面の能力」
を指していたそうです。
ところが現在の社会、特に経済社会の中心にある企業においては、フレキシビリティ優先の中で、基本までも壊した無定形な状況主義がはびこってしまったと著者はいいます。
そのためにそこで働く従業員たちは拠り所を失い、精神的にも不安定になっていきます。
私は日本の企業が価値観を失いだしてから、20~30年経過していると思いますが、しっかりした定見を持たずに状況に合わせてフレキシブルに対応することによって、企業は発展してきたように思います。
価値論議などは流行らないのです。
これは行政においても同じです。
評価などという動きが広がりましたが、ほとんど手段的な側面での評価です。
価値議論はいつも後ろに追いやられがちです。
そして、私たちの家庭においても、表層的なフレキシビリティ発想がはびこっています。
とても恥ずかしいのですが、我が家も例外ではありません。

今日は「成人の日」です。
私にはとても違和感があります。
かつては成人の日は1月15日でした。
いつの間にか、連休を増やそうという安直な議論の中で、第2月曜日になってしまったわけです。
「フレキシビリティ資本主義」の影響といってもいいでしょう。
日本の政治は経済が支配していますから、価値議論はあまり行われません。
ですから発想が転倒していることがよくあります。

柔軟な発想は大切なことです。
しかし、それはしっかりした基準があっての話です。
基準のない柔軟性は果たして柔軟性といえるのでしょうか。
たかが休日の話ですが、大げさに言えば、これは文化の破壊にもつながります。
生活の基準が、すべて功利性、利便性に置き換えられてしまっていいのでしょうか。
私たちが今直面しているさまざまな問題は、こうした安直な「フレキシビリティ発想」にあるのかもしれません。

今の日本の問題は、拠り所の喪失ではないかと思います。
しかもそれが、経済の視点から壊されているような気もします。
そして不幸なことですが、それがまた経済にも影響してくるはずです。
改めて、私たちの生活の拠り所やコミュニティの拠り所を考えてみることが大切だと思います。
国家が決めたカレンダーではなく、自然と歴史と文化が決めたカレンダーで生きるように、これからはもう少し意識しようと思います。

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2005/12/16

■人口が減少するということ

16日の閣議で了承された「少子化社会白書」によると、日本の人口は予想よりも1年早く、来年からいよいよ減少傾向に入るそうです。
いよいよ右肩下がりの時代の始まりです。
戦争もなく、疫病の大流行もなく、平和のなかで構造的に人口が減っていくということはこれまで経験したことのない事態だろうと思います。右肩上がりを前提にしてきた、経済の論理も社会の仕組みも、根底からひっくり返されるような気がします。どうなっていくか、誰も予想がつかないでしょう。
経験したことがないといいましたが、国家単位でなければ、私たちは人口減少モデルをたくさん経験しています。過疎の村もそうですし、家族の減少もそうです。学校も生徒数はどんどん減っています。空き家や空き教室や、空き部屋が増えています。
そうした構造的な人口減少傾向は、それぞれのユニットにどのような問題を起こしたでしょうか。すべてに共通しているのは「崩壊」です。人口減少社会の行く末が見えてきます。
なぜ崩壊に向かうのか。「競い合い」をベースにした統治や管理は簡単です。
人口や成員が減少傾向にあると、競い合いはさせにくくなります。
しかし、競いあいを起点にしなければ、実は住みやすい条件にもなりえます。
崩壊に向かった理由は、その発想のパラダイムにあるのです。
個人の立場から考えれば、人口や成員が少なくなることはマイナスでしょうか。過疎化とは一人ひとりが享受すべき自然が増加するということです。そして仕事が増えるということです。しかし不思議なことに、自然の増加は誰も評価しませんし、なぜか過疎化地域では「仕事がない」などという人が多いのです。どう考えてもおかしな話です。
少子化対策がいろいろと考えられていますが、すべて成功しないでしょう。発想が間違っているとしか思えません。児童手当を増額するとか言う話ではないのです。
発想の枠組みを変えなければいけません。これまでの経済システムや政治システム、さらには社会システムの設計思想を変えることが求められているのです。
これは高齢社会に対してもいえるのですが、少しだけ発想を柔軟にするだけで、現実の見え方は変ってきます。高齢社会も人口減少社会も、それを「問題」と捉えるのではなく、「好機」と考えて見れば、社会の設計思想は一変します。

なにやら今日は理屈っぽい話しですが、少子化を止めようなどとせずに、少子高齢社会の豊かなビジョンを描く時代ではないかと思います。
もしそういう視点に立てば、昨今のような無駄なマンションブームなどは起こりようがありません。姉葉さんも不幸にならなかったはずです。
これ以上、ごみを増やすべきではありません。ごみの増加は豊かさの高まりではなく、不幸の増加なのです。

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2005/08/05

■費用徴収文化の恐ろしさ

7月末時点でのNHK受信料支払い拒否・保留件数(速報値)が117万件に達したそうです。昨年7月に発覚した元チーフプロデューサーの番組制作費着服事件以来、不払いが増えているようです。不払いまでは行かなくとも、当然のように徴収されることに不満を持っている人も少なくないでしょう。
制度的にお金を徴収される仕組みは他にもいろいろとあります。
源泉徴収もその一つです。国民である以上、当然と考えがちですが、たとえば参政権のない在日外国人の人も当然のように徴収されることには違和感があります。また、税金の使途があいまいでとても許容できないことに使われることもあるわけですが、その部分相当は納税したくないという人もいます。イラク派兵や自衛隊などに関して、軍事費支払拒否訴訟も起こっていますが、きちんと議論されたことはありません。みんな納税は当然だと思っているからです。
問題は納税ではなく、税の使途や徴収方法などですが、郵政民営化と同じで、実体を考えるのではなく、言葉で議論する人が多いので、問題すら共有されません。
納税者基本権は日本ではまだ裁判官の理解にはいたっていません。彼らはほとんどが支配構造の上での裁判官に自己規定し、組織からの発想の呪縛から脱却できないでいるからです。
国民から有無を言わさず資金を徴収する仕組みは他にもいろいろあります。赤い羽根募金はどうでしょうか。これも多くの場合、自治会費から徴収されています。それがどう使われているかの報告は一応ありますが、内容はみてもわかりません。
社会福祉協議会の会費もそうであることが多いのはご存知でしょうか。
社会福祉協議会の名前すら知らない人も多いですが、その組織は知らないうちに徴収された私たちのお金で運営されていることが少なくありません。今ようやく支払拒否の動きが出てきています。
お金を制度的に徴収するのであれば、その使途に関する説明は必要ですし、それに関する負担側の評価システムが必要です。それがないのは、どこかに「お上」意識があるからです。いいければ、官民思想です。いうまでもありませんが、官は統治するもの、民は統治されるものです。
その思想は昨今の民営化にももちろんしっかりと繁栄されています。民営化の意味をみんな少しは真剣に考えるべきです。

高速道路を無料にしようという提案がありましたが、あまり共感は得られませんでした。日本人は統治者にお金を徴収されることになじんでいるのだと言うことの証左かもしれません。
その根源には、納税体制があるのかもしれません。税金をまず国家に納めると言う枠組みが、そうした感覚を育ててしまったのかもしれません。
年金も社会保険も、すべてそうした文化の中で、徴収した側の責任が曖昧になっているのが現状です。構造を変えなければ事態は変わらないように思えてなりません。

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2005/04/27

■言葉の価値 

最近、言葉について、何回か書いてきましたが、豊かな価値を持った言葉もあります。

私の住んでいる我孫子市に、デイヘルプというNPOがあります。
http://members.jcom.home.ne.jp/2125030801/

理事長の森谷良三さんはとても器用な方ですが、それを活かして、高齢者住宅での家庭内事故防止やバリヤフリー化、障害を持った人たちの自立促進を目指して、日曜大工の住宅改善ボランティア集団を1994年に立ち上げました。その頃、我が家も森谷さんたちにお世話になったことがあります。
ずっと地道な活動に取り組まれ、今ではメンバーも20人を超えています。すばらしいのは、人のつながりを大事にされていることです。
活動は、高齢者向けマンツーマン方式のパソコン教室など、広がってきていますが、原点にあるのは「自分たちの町は、自分たちの力で興そう」という姿勢と「人間共生」の理念です。
こう書いてしまうと理屈っぽくなりますが、要は、次の森谷さんの言葉のほうが正確でしょう。

「江戸っ子ってやつは、おせっかいなんだよ。困ってる人を見ると頼まれもしないのに手を貸してあげちゃう」

ちなみに森谷さんは、東京・八丁堀生まれで、もう80歳を超えているのです。

その森谷さんからメールが来ました。
ある要介護シニアの方が、玄関から道路に出る階段に手すりを付けたいと市役所に依頼したのですが、制度の中では対応してもらえませんでした。工務店に依頼すれば10万円はかかるのでデイヘルプに相談がありました。森谷さんたちは、7000円の材料費だけで手すりを付けてきたそうです。
そしてこうメールしてきました。

私は、こんな法律の隙間で泣く人を沢山見てきましたが、こんな人たちに手を貸すのが市民活動なのだろうか、と最近は疑問を感ずるようになりました。 それ以前に、こんな隙間を行政に直言し、改正させるのが市民活動としてやるべきだと思いますし、その上で、解決には官民協力して行く姿勢が必要なのかと思います。

10年以上も地道な活動をしてきた森谷さんの疑問と問題提起の言葉には、とても深いものがあります。そして、たくさんのヒントがあります。
「住民参加」や「住民と行政の協働」という流行語よりも、森谷さんのこの一言のほうが、よほど重いと思いますが、みなさんはどう思われるでしょうか。行政は、もっと現場の発言に対する感度を高めなければいけません。この言葉から、住民との関係の新しい地平が開けていくはずです。

言葉の価値は、発言者の人生に支えられているように思います。
そうした言葉が、少なくなってきています。

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2005/04/25

■総論の空しさと当事者としての言動 

23日にジャカルタで開催された日中首脳会談は何をもたらしたのかがよくわからないのですが、最近はこうしたことが多いです。私の理解力が弱まっているばかりではなさそうです。

いろいろと動きがあっても、実態は何も変わらない。何も変わらなくても、多くの人はあまり不都合を感じない。多くの人が「おかしいな」と思いながらも実際の行動は起こさない。問題の当事者だけが問題を背負いながら、失望感を強めていく、そんな状況が広がっているように思います。
社会はどんどん不可視化が進んでいます。だからこそ個人情報が市場価値を高め、どんどんと商品化され出回りだしているのです。個人情報保護が法制化されるということは、個人情報がますます裏社会に出回るということです。ここでも「近代パラダイムのジレンマ」が見られます。

必要な情報がきちんと見えなくなってきた一因は、マスコミにあると思います。新聞やテレビで流される情報と現場情報との格差は、きっと当事者の方にはよくわかるでしょう。マスコミは公共性を失ってきています。しかし、そのマスコミに依存せざるを得ないのも否定できません。

ブログによる多様な情報発信は確かに広がっています。
たとえば、日中首脳会談に関しては、イラク問題に反対して外務省を辞めさせられた天木さんのホームページの記事が示唆に富んでいます。
http://amaki.cc/bn/Fx.exe?Parm=ns0040!NSWhats&Init=CALL&SYSKEY=0010
しかし、ブログはボンディング効果はありますが、多様な意見によって構成する公共性という視点でいえば、まだまだシステムになっていないようにも思います。

北朝鮮拉致問題も、動きがとまったようです。小泉首相にとって、拉致問題がなんであったかを勘ぐりたくなるほどに動きません。
イラクもそうですが、すべてが「総論」と「言葉」で議論され、決せられているような気がします。そこには「現場」や「当事者」がいつも不在です。

当事者の立場になって考え、行動することは難しいです。
しかし、私たちは何らかの問題で、必ず「当事者」であるはずです。
その自らが当事者である問題に関して、言葉を発し、行動を起こすことが、今のような動きが出てこない「総論の時代」を変えていくことになるはずです。

反日デモが問題なのではなくて、「靖国問題」や憲法問題に象徴される日本国家のあり方が問題なのではないか。
当事者になる問題に立脚して言動する前に、まずその問題を自覚する姿勢が、私たちに求められているような気がします。

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2005/04/24

■「言葉」が死に出したような気がします

全国の小学5年~中学3年の約45万1000人を対象に実施した学力調査結果が発表されました。3年前から実施された「ゆとり教育」を柱とする新学習指導要領で学ぶ子どもを対象にした初の学力調査だといいます。
最近のゆとり教育批判が、そうした実態把握を踏まえずに議論されていたのかと改めて驚きますが、今回、学力が少し向上したという結果になったのはきわめて皮肉な話です。

以前も書きましたが、そもそも「学力」か「ゆとり」か、などという発想自体に問題があると思いますが、今回の報道を見ていても、そもそも「学力とは何か」「ゆとりとは何か」が見えてこないのが残念です。

その同じ新聞に、

「起業」をキーワードに、小・中学生に英語やマルチメディアなどを総合的に教える講座が人気だ。
という記事が出ています(朝日新聞)。
これもいささか気になります。

そういえば、学校に限りませんが、いたるところで「起業」がキーワードになっています。
ここでも気になるのが、起業とは何かです。
朝日新聞によれば、小中学生を対象とした起業ブームに共通しているのは、「ホリエモンのような起業家の育成ではなく、「将来、社会で夢の実現が出来るよう」実践的なスキルを身につけることだといいます。
まあうたい文句はいか様にも書けますが、多くの人は実際の内容ではなく、こうした「内容を総括した言葉」で判断し、考えるようになっています。
フラーが指摘しているように、テレビと新聞が「言葉」を広げたからです。
そしてそれをたくみに、最近の「アントレプレナー支援者」は利用しています。

空疎な言葉で語る人たちが経済や政治の主流になっていることがとてもさびしいです。

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2005/02/23

■私は民間人なのです 

川崎市の宮前区に、初の民間人区長が就任したと読売新聞に大きく取り上げられていました。
「民間人」。何とも馴染めない言葉です。

大辞林によれば、民間人とは公的機関に属さない人のことだそうです。
ここでは、公と民とが対峙されています。つまり、日本の公とは官なのです。パブリックではありません。

官は「統べる側」、民は「統べられる側」です。
そこには垂直的な上下関係があります。
民間企業、民間外交、・・・民は官よりも一段下に見られている構造がそこにあります。

議員は民を代表して官とつながる存在です。
まあ、現実はアリバイ工作であり、飼いならされた官でしかないことが多いですが。

言葉の問題ではありますが、士農工商社会の延長の構造を感じます。
この構造を変えなければ、社会は変わりません。
残念ながら、現実はその枠の中で動機付けられた「民間人」たちが上昇志向の競争に追い立てられている状況です。
そこから抜け出なければいけません。

市役所の職員は「民間人」ではないのですが、
「民間人」から区長になった人は、これからは「民間人」ではなくなるのでしょうか。
それが「出世」だと、この記事を書いた記者は思っているのでしょうか。

たかが「言葉」ですが、言葉は大きなサブリミナリー効果を持っています。
差別用語狩りには、私は違和感がありますが、むしろこうした私たちの意識を規定している言葉をこそ吟味していかなければいけないと思います。

これは統治されている民間人のひがみでしょうか。

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2005/01/23

■マイノリティのパブリシティの排除 

NHKへの政治介入事件、もしくは朝日新聞虚偽報道事件は、真実が見えてきません。
私は両方ともに、あまり信頼感を持てずにいますが、今回の両者のやり取りを見ていて、やはりテレビの暴力性を感じています。

例えば今日のNHKの夕方7時のニュースですが、朝日新聞の言い分は一切出てこずに、政治家の発言で自らの主張を客観化しています。政治家がこれまで証言してきたことの信用度を考えれば、まあどうでもいい話ですが、NHKのニュースだけを見ていれば、朝日新聞は嘘を報じたとみんな思うでしょう。国営放送の恐ろしさです。
スチュアート・ミルは民主主義とはマイノリティのパブリシティが確保されることだと言ったそうですが、今の日本ではマイノリティどころか、大新聞ですら、パブリシティの場での排除の対象になることが示されたわけです。

私はある体験で、朝日新聞に不信感をもち、学生時代以来慣れ親しんできた朝日新聞の購読を止めています。だからと言って、読売新聞が信頼できるわけではないのですが、まあ、それくらいしか選択肢がなかったのです。
いずれにしろ、朝日新聞もおそらくNHKと同じようなことをしているだろうと思っています。つまり自らが信念を持って主体的に報じているとは思っていません。その文化は残念ながらなくなっているでしょう。付き合ってよくわかりました。

ですから私にはまあ、どんぐりの背比べにしかうつりませんが、今回の件に関しては、NHKの現在の報道姿勢には、そうしたことを超えた驚きと怖さを感じます。
せめて反対側の立場の人の声も聞きたいものですが、それが出てこない。それをNHKの人はおかしいと思わないのでしょうか。その一事を持ってしても、おそらくNHKがより多くの非を持っていると思うのは私だけでしょうか。

でもまあ、そんなこともどうでもいいのかもしれません。
もっと怖いのは、真実と無関係に、別の事実を創出していくテレビの怖さです。
身の毛がよだちます。
北朝鮮の放送を喜劇視してきた自分を恥じなければいけません。
同じだったのです。

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