カテゴリー「妻への挽歌17」の記事

2017/03/23

■節子への挽歌3489:健康診断の結果

節子
2か月前に受けた後期高齢者健康診断の結果をユカが聞いてきてくれました。
1月に、どこでどう間違ったか、うっかりして検査を受けてしまったのですが、結果を聞きに行っていなかったのです。
心配して、娘がついに聞いてきてくれたわけです。
結果は血圧と悪玉コレストロールだけが問題なので、まあ問題なしでしょう。
医師から、お父さんはちゃんと血圧の薬を飲んでいるかと訊かれて、娘は飲んでないようですと答えたそうです。
まあ遠藤医師も、「想定内」の話でしょう。
受診票ももらってきてくれましたが、質問への私の回答を見直していると、医師もモチベーションは下がるだろうなと思いました。
たとえば、「生活習慣を改善してみようと思いますか?」という問いには、「改善するつもりはない」と答えています。
「保健指導を受ける機会があれば活用しますか?」にも、私は「いいえ」と答えています。
そういう気ならば、健康診断など受けるなよと、遠藤さんは思ったかもしれません。
悪いことをしました。
後期高齢者としては、もう健康診断を受けるのはやめましょう。
もっと若い人に医療費は充当すべきです。

医療保険にも入っていないのですが、これは入ることにしました。
低所得者の場合、入院などで医療費がかかると大変なことを、前回の入院の時の同室者から教えてもらいました。
ちょっと矛盾しているような気もしますが、まあ娘たちに金銭的な迷惑をかけることは避けなければいけません。

総合判定は「要医療」になっていますが、まあ血圧だけでしょう。
しかし、170/100ですから、さほど高くはないと言っていいでしょう。
そういえば、数日前に、保健師でもある友人が、降圧剤を飲まないのであれば、水分を1日2リットル飲むようにとメールしてきました。
それで昨日から、お茶を盛んに飲むようにしましたが、2リットルは飲めません。
で、今日でやめることにしました。

生命は、自らが生きるために必要なことはたぶん自らで気づく存在だろうと思います。
生命の終わりも、たぶん自らで気づくのだろうと思います。
節子と過ごした最後の3か月を思い出すと、それがよくわかります。
私はまだ数年はどうも生きているようです。
交通事故や殺人事件や合わなければの話ですが。

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■節子への挽歌3488:賞味期限切れのコーヒー

節子
パントリーの奥から古いコーヒー粉の缶が出てきました。
賞味期限が2006年でした。
エスプレッソマシン用のものですが、たしかイタリア旅行に行った誰かのお土産です。
封は切られていましたが、ほとんど使われていません。
そういえば、せっかく購入したエスプレッソマシンも、2~3回使っただけで、いまはカバーをかけたままになっています。
今と違って、当時のエスプレッソマシンはあまり使い勝手がよくありませんでした。

いまでこそ質素に生きていますが、昔はこうした無駄がたくさんありました。
家族からも、使わないものを買いすぎると叱られていましたが、ついつい買ってしまうのが10年ほど前までの私の悪癖でした。
当時は、書籍もとても読めないほど書店に頼んで届けてもらっていました。
読んでいないシリーズの叢書が、いまもいくつかあります。

その反動で、いまはほとんどお金を使うことはありません。
書籍も、せいぜいが月に2~3冊しか購入せず、読む本はほとんどすべて図書館から借りています。
そんな質素な生活をしている立場からは、賞味期限が大幅に過ぎてしまったコーヒーも捨てるに捨てられません。
封が切られていないのであればいいのですが、悪いことに封があけられていました。
大きな缶ですが、ほとんど使った形跡がありません。
さてどうするか。

それで、思い切って飲んでみることにしました。
娘はやめろと言うのですが、捨てるのも抵抗があります。
エスプレッソではなく、フィルタードリップで飲むことにしました。
香りはほとんどありません。
苦味はかなりありますが、まあ飲めないことはない。
結局、マグカップで飲んでしまいました。
気のせいか、胃がぐちゃぐちゃになった感じです。
でもまあ、捨てるのも申し訳ないので、飲むことにしました。
当分は、あまりおいしいコーヒーを諦めて、毎朝、この10年以上前に賞味期限を過ぎたコーヒーを飲むことにしました。
そこまで節約をしなくていいのではないかといわれそうですが、そういう問題ではなく、せっかく作ってくれたコーヒーを捨てるのは申し訳ないという気分なのです。
ここまで飲まずに放置していた私の責任です。
しかし、毎朝、まずいコーヒーを飲むと、その日、後で飲むコーヒーはすべて美味しく感ずるでしょう。
人生と同じなのです。

やらなければいけないまま放置している課題があります。
今日こそ、手掛けようと思いながら、気が向きません。
もう2年以上、放置していることです。
このコーヒーのように、期限切れにならないうちに取り組みださなければいけません。
しかし、今日はやめましょう。
明日に延ばさないと、本当に胃がダウンしそうですから。

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2017/03/22

■節子への挽歌3487:20代の節子の写真が出てきました

節子
ジュンが本の中から節子の昔の写真が出てきたと言って持ってきてくれました。
一緒に暮らしはじめる前に、ふたりで東京に来た時の写真だと思います。

節子がいなくなってから、私はほとんど自分では過去の写真を見たことがありません。たぶんわが家のアルバムのどこかにも、この写真はあるのでしょうが、なぜかこの写真ははがきになっていました。
まさか誰かに出すために作られたのではないでしょうが、不思議です。
まあ、節子はそうした不思議なことを時々やっていましたから、節子らしいといえば節子らしいのですが。
それにしても、いかにも昭和の人という感じの写真です。
節子がいま見たら笑い出すでしょう。
しかし、当時の節子の雰囲気をよく表しています。

写真には、なぜか大きな荷物を持っていますが、この荷物は何なのでしょうか。
節子がいたら、この1枚の写真だけでも話が弾んだでしょう。
それができないのが、とても残念です。
写真は一人で見ていても、あんまり楽しくはありません。

でも人の顔って変わるものだなと思いながら、見ています。

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2017/03/21

■節子への挽歌3486:亜空間への通路はありませんでした

節子
行方がわからなくなっていた、手帳とメガネが無事戻ってきました。
彼岸にはどうも行っていなくて、私のすぐ近くにあったのに気づかなかっただけでした。
手帳は湯島の、メガネは自宅の、少し良く探せば見つかるはずのところに隠れていたのです。
亜空間に通ずる穴があるかもしれないと、ちょっとワクワクしましたが、今回もまた裏切られました。
いずれも出てきたのはうれしいのですが、なぜかあまりうれしくありません。
いやはや人生は退屈です。
駅に忘れ物探しを依頼したりしないで良かったです。

これまでも電車の中で、紛失したり忘れたりしたことは何回かあります。
一番の失策は友人からもらったワインを置き忘れてきました。
私はワインはほとんど飲まないので、拾った人が飲んでくれた方がよかったのですが、せっかく私に持ってきてくれたワインなので、それでは友人に顔向けができません。
それで駅の遺失物係に頼んで、見つけてもらい、かなり遠くの駅にまで取りに行ったことがあります。
カバンがなくなったこともあります。
その時は、実は友人が作成した企画書が入っていたので、かなり慌てました。
少しして、まったく知らない人から電話がきました。
酔っていて、間違えて私のカバンを持って行ってしまったのだそうです。
この時も、なぜか私が電車でその人が届けた駅まで取りに行きました。

だれにとっても価値のあるものを忘れたり落したりしても、拾ってくれた人が使えば無駄にはなりませんが、私にだけ価値のあるものをなくした時はいささかあわてます。
まあ、今回は他の人の名刺だけが心配だったのですが、無事戻ってよかったです。
お詫びの連絡をしないでよかったです。
誰にも知られずにすみました。
いやこの挽歌に書いてしまったので、読まれてしまったかもしれません。
うっかりしていました。

一昨日もブログを読んでいる人に会ったのですが、何でも書いてしまうのはちょっと考えたほうがいいですね。
しかし、いまさら、この生き方は変えられません。
それにもしかしたら、節子も読んでいるかもしれませんし。

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■節子への挽歌3485:生涯現役とPPK

節子
連日のサロンやフォーラムでいささか疲れました。
というよりも、昨日のサロンでまたやりたいことがいくつか出てきてしまいました。
帰り際に、サロンに参加した大学院生から、佐藤さんは生涯現役なのですか、と訊かれました。
即座に、そんなことは全く考えていないと応えました。
他者から見ると、どうもそう見えるようですが、そもそも私は「現役」という概念が理解できません。
人は、いつでも「現役」です。
たとえ寝たきりになろうとも、です。
節子は、息を引き取るまで「現役」でした。
勝手に「引退」させてはいけません。

もうひとつ、私の嫌いな言葉の一つが、「ぴんぴんころり」、PPKです。
これほど不真面目な言葉はないと思っています。
人は最後までみんなに迷惑をかけながら、生きるのがいい。
そもそも「生きる」とは、人に迷惑をかけることです。
その意識は普段あまり持っていませんが、死ぬ前くらいは、それを強く意識して、人生を顧みたいと思っています。

それにしても、現世には面白いことがどうしてこんなにあるのでしょうか。
私のような、生きる気力が萎えてしまったものにさえ、死を延期させたいほどの面白い課題が山積です。
彼岸にも、これほど面白いことがあるのでしょうか。
それがちょっと気になります。

さて、明日もまた、サロンです。
テーマは「コスタリカ」。
いつもの常連はあまり参加しませんが、私の知らない人からの参加申し込みが数人あります。
また新しい出会いがありますが、新しいテーマ、やりたいことが、これ以上、出て来なければいいのですが。

今日は久しぶりに自宅でのんびりできそうです。
たぶん。

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2017/03/19

■節子への挽歌3484:またブログの読者に会いました

節子
今日は仲間と立ち上げたまちづくり編集会議(準備委員会)で「まちづくりフォーラム」を開催しました。
そこにある出版社の社長が参加してくれました。
名刺交換したのですが、なんと私のブログを読んでいてくれるのだそうです。
というのも、ある言葉に関してネット検索していたら、私のホームページかブログかに出会ったのだそうです。
当時、その言葉を使っていたのは私だけだったのだそうです。
どういう言葉だったか質問しましたが、もう覚えていないそうです。
ですからかなり前からの読者なのです。

以来、読んでくれているそうです。
もしかしたら、この挽歌も読んでいるかもしれません。
つまり、私のことを、もしかしたら私以上に知っているということです。
なにしろ、私はその時々の心情を、あまり考えもせずに書きこんでしまいますから、良くも悪くも本性がたぶん出てしまっているでしょう。
こういう人に会うと、冷や汗が出ます。

ところがなお驚いたのは、この方はなんと湯島の私のオフィスのすぐ近くにお住まいなのです。
今日も自転車で来たそうです。
またきっとゆっくりとお話しできることもあるでしょう。

ちなみに、その出版社の名前には記憶がありました。
私の書棚にも何冊かあるはずです。
と思って、私の友人の名前をだしてみたら、やはり友人が以前書いた本の出版社でした。
そこからその人の話になりました。
こんな風に、人はどんどんつながっていくものです。

もうひとつの出会いもありました。
北本市の市議会議員をやっている友人が、仲間を連れてきました。
なんと30年以上前にお会いしたことがある高橋さんでした。
当時私は、会社にいてCIというプロジェクトに取り組んでいましたが、その時に出会った方です。
私のことを過剰に褒めてくれましたが、こんな形で出会うとは思ってもいませんでした。

まあこういう集まりをやるといろんな出会いがあります。
そしていろんな物語が生まれます。

うれしいことに、今回は我孫子からも2人の参加者がありました。
我孫子の人はなかなか出てきてくれないのです。
それに以前、我孫子に住んでいたという人にも出会いました。
しかも、わが家のすぐ近くにです。
なんとなくうれしい出会いでした。


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2017/03/18

■節子への挽歌3483:不安感に寄生されてしまいました

節子
明日から用事でお墓に行けないので、今日、お墓に行ってきました。
もしかしたら、一昨日、こつ然と消えてしまったメガネが、お墓に舞い戻っているのではないかと思わないこともなかったのですが、当然のことながら、メガネはありませんでした。
彼岸の入りなので混んでいるかと思っていましたが、私たちのほかは一組だけしかいませんでした。
でも多くのお墓の花はきれいになっていました。
まだお墓参りの文化は健在のようで、うれしいです。

お線香をあげて、般若心経を唱えて、帰宅し、わが家の仏壇に報告しました。
いつもそうしているわけですが、これってどこかおかしいような気がします。
まあこだわることもないでしょう。

今日は、しかし、いろいろとまた大変な日でもありました。
ネットのおかげで、いまは情報が向こうから入ってくるのです。
考えなければいけない難問が、最近また多発しています。
別にやらなければいけないことではないのですが、言われたら対応しなければいけませんし、言われなくても対応したくなってしまうのが、私の性格のようです。
相手の立場がそれなりにわかってしまうので、気が動いてしまうのです。
しかし、それも考え物なのですが。
相手にとって、それがいいことだとは限らないのです。

それにしても、ゆっくりできる時間が最近ありません。
なにかに追い立てられている気さえします。
別にゆっくりしてもいいのですが、それができない。
どこかで気が病んでいるのでしょうか。
とても小さいのですが、どこかに「不安感」に寄生されてしまった気がするのです。

春が近づいたのに、畑にも行けません。
畑に行けば、不安感は解消するかもしれません。
しかし、畑に行く気が起きてこないのです。
どなたか私の不安感を安心感に変えてくれる人はいないでしょうか。
自分でやらないとだめでしょうね。
さて稀勢の里の相撲を見て、心を落ち着かせましょう。

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2017/03/17

■節子への挽歌3482:彼岸への穴

節子
昨夜、また不思議なことが起こりました。
寝る前にコンタクトレンズを外して、メガネをかけようと思ったのですが、メガネが見つかりません。
いくら探してもないのです。
朝、使っていたことは間違いないのですが、なぜか見つかりません。

実は昨日の夕方、手帳を探すために、山のように散らかっていた机のまわりを片づけたのですが、そのどさくさでどこかに行ってしまったのかもしれませんが、30分近くかかって、家じゅうを探しましたが、どこにもありません。
私だけならともかく、
娘にも頼んで一緒に探しました。
でも、ないのです。
実に不思議です。
そんな広い家ではないので、探す場所もないくらいです。

前にもこんなことがあった気がします。
その時の結論は、わが家には彼岸に通ずる穴があるということでした。
もしかしたら、またその穴が開いたのかもしれません。
そういえば、間もなくお彼岸です。
お盆ほどではないにしても、もしかしたらこの期間は、彼岸との小さな穴が生ずるのかもしれません。
そこに、手帳とメガネが落っこってしまったのかもしれません
困ったものです。

今朝、起きて、また探したのですが、やはりありません。
まあ私の生活空間は、私の活動と同じように、見事に散らかっています。
ですから、空間的には狭いのですが、探すのは大変です。
昨日片づけた時にでたごみの仲間で探しましたが、出てこない。
狐につままれたような気分で、今日はそれが気になって、また何もできなさそうです。
いっそのこと、彼岸に通ずる穴がもっと大きくなって、私がそこにすぽっと落ちてしまえたらいいのですが。
見つからない手帳とメガネだけでなく、節子に会えるかもしれません。
もしその場合は、この挽歌も今日で終わりです。
もしこの続きが書かれなくなっていたら、私が彼岸に落ちてしまったと思ってください。
落ち込む先が、地獄でないといいのですが。

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2017/03/16

■節子への挽歌3481:物を失うことのないような生き方がなかなかできません

節子
またまた大きなミスをしてしまいました。
予定などを書きこんだ手帳をまたなくしてしまいました。
人生において3回目です。
これまでは、奇跡的に戻ってきましたが、今回は難しそうです。
それにしても、同じミスをこう繰り返すとは、困ったものです。
予定がわからなくなりましたが、誰かに迷惑がかからなければいいのですが。

しかし、毎日を誠実に生きていくためには、あまり先まで予定を入れるべきではありません。
個人で仕事を始めた時に、ある人からそういわれました。
個人で仕事をしていると、先の仕事の保証はありません。
ですから不安になって、予定をついつい先までいれてしまいたくなるのです。
それを、注意されたのです。
何か大事なことが起こったら、いつでも対応できるように、あまり先まで予定を入れるなということです。
それこそが、組織の制約から離れて自由に生きることではないか、と言われたのです。
それが実現できるようになるまでには、10年以上、かかりました。
しかし、いまは基本的にはあまり先までの予定は入れないようにしています。

むかし、台湾の友人が結婚することになり、夫婦で招待を受けました。
ところが、その日、私は約束していた仕事がありました。
仕事を選ぶか友人の結婚式を選ぶか。
いまなら躊躇なく、結婚式を選び、その仕事をキャンセルさせてもらったでしょう。
しかし、その仕事は私でなければできない仕事であり、信頼して私に任せてくれた相手には迷惑をかけられないと思い込んでいたのです。
結局、結婚式には行きませんでした。
まだその頃は、私の思考は切り換えられていなかったのです。
いまから思えば、相手の人と相談すれば、いかようにも対処できたはずです。

以来、動きの取れなくなるような約束は、せいぜいが1か月までにしています。
さらにその上、万一、その仕事よりも私にとって大切だと思うことが起きたら、その仕事をやめさせてもらうことにしています。
そんなわけで、私の手帳の予定欄は、せいぜい1か月先くらいまでしか埋まっていません。
ですから、手帳がなくなっても、まあパニックにはならないのです。

手帳に極秘情報が書かれているわけでもありません。
私の場合、ほとんどすべてのことを公開していますので、秘密などあろうはずもありません。
電車の中で思いついたアイデアや構想のメモを書くことはありますが、そんなものは書いて数日も経てば、無価値のものなります。
私の場合は、考えや構想はどんどん変わるからです。

手帳に誰かからもらったタクシー券が挟まっています。
しかし、これも問題ではありません。
私は都内ではタクシーに乗らないのです。
ですから10年近くも、使われないまま、手帳に挟んでいます。
誰かに使ってもらえれば、むしろうれしいくらいです。

しかし、今回は困った問題があるのです。
じつはその手帳に、先日、名刺交換した方の名刺が挟まっているのです。
さてさて、その方に迷惑がかからなければいいのです。

これからは名刺を持たないようにしようかと思い出しています。
持っていなければなくすこともない。
そういう考えで、私は財布を持っていませんので、財布を落としたことがないのです。

法頂さんの「無所有」の教えを思い出しました。
まだまだ失うものが、私には多すぎるようです。


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2017/03/15

■節子への挽歌3480:ハードな3日間でした

節子
いささかハードな3日間のため、また挽歌をさぼってしまいました。
13日は、朝の9時から夜の9時まで、いろんな集まりをやっていました。
最後の集まりは、京都の室田さんに頼んでのサロンだったのですが、16人も集まってくれ、とても刺激的なサロンでした。

14日は、ずっと在宅でしたが、山のように積もった課題の処理とともに、来週開催する4つのサロンやフォーラムの呼びかけで1日中、パソコンに張り付いていました。
もっともその間、長電話の常連3人からの電話があり、その対応も、いささか疲れてしまいました。
それにしても、来週は4つの集まりを主催するといった事態になってしまっていますが、一つを除いては、集客がほとんどできていません。
いささか気が重いのですが、まあどうにかなるでしょう。
しかし、夜までパソコン作業をしていたので、使えてしまいましたが、そういう時に限って、真夜中に目が覚めてしまい。眠れなくなってしまいました。
考えるべき悩ましい問題もまた、山のようにあるのです。
結局、眠れなかったので、午前3時からベッドで岩波新書を読んでしまいました。

そして15日。
今日は相談は1件だけですが、湯島に行きました。
かなり切実な相談です。
2時間ほど、相談に乗りましたが、集中しての対応だったので、ぐったりと疲れてしまいました。
時間的にはハードではないのですが、精神的には疲労困憊です。

とまあ、こんな感じで、この3日間、過ごしているのですが、余裕がない気分なのです。
明日は、少しゆっくりできるでしょう。たぶん。
電話がないことを祈ります。

でもこの3日間で、とても魅力的な何人かの人に出会えました。
きっと何かが始まるでしょう。

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