カテゴリー「文明時評」の記事

2009/06/11

■近代は自らを終焉させる仕組みを内在させていた

日本農村情報システム協会の不正支出と自己破産申請がマスコミをにぎわせています。
こういう話は、それこそ山のようにありますし、おそらく霞ヶ関あるいは自治体と付き合いのある人なら、似た話を一つ二つはすぐ思い出せるのではないかと思います。
にもかかわらず、なかなかそういうものはなくなりません。
いや、もしかしたら増えているかもしれません。
私が知っている少ない情報でも、この数年、霞ヶ関が嘘のように「助成金」と称して税金をいろんなところにばら撒いている話はよく聞きます。
そうした文化のうえに、定額給付金は立案されたとしか思えません。
少しは全国民にもばら撒いて、自分たちの罪の意識を軽減しようという話です。
とまあ、こんな邪推をしたくなってしまいます。

それにしても、こうした天下り組織の実態は一向に明らかになってきません。
今頃こんな話が話題になるのは、その証拠です。
テレビのキャスターやコメンテーターたちも、もっとあるのではないかといつも言います。
1000万円もあれば、全国の天下り組織の実態調査はできるでしょうから、もしそう思ったら調査をしてほしいです。
それができる立場にいる人も少なくないはずです
しかし、具体的に全体を調査するという動きは聞こえてきません。
年金の時も薬害の時もそうでした。
責任者も報道者も、具体的には誰も動こうとしないのです。
なぜなのでしょうか。
それが明らかになったら困るので、残しておいたほうがいいと思っている人が多いのでしょうか。
批判者は、批判の対象がなくなることが一番怖いことなのですから、批判の対象をなくすようなことはしないでしょうし。

マスコミは、さまざまな不正や犯罪的行為を暴いてくれます。
しかし、そこから先はなにもしません。
不正行為がなくなれば、マスコミは報道する材料が減るからではないかなどと思ってしまいます。
まあ、そんなことはおそらくないでしょう。

と、ここまで書いてきて、ハッと気づきました。
産業と同じく、問題解決したら市場がなくなるというジレンマは、マスコミにもあるはずですから、こうした疑いはまんざらありえない話ではないのかもしれません。
そういえば、最近の報道ステーションは、ただ同じ批判を繰り返すだけの退屈な番組になってしまいました。
マスコミも、やはり「産業のジレンマ」「近代のジレンマ」の渦中にあるのです。
週刊誌がセブンイレブンを批判できないのと同じ構図が至るところに張り巡らされているのでしょうか。
批判が封じられれば、残るのは滅びの道です。

近代は、自らを終焉させる仕組みを内在させていたのです。
私にとっては、久しぶりの大発見です。
世界観が変わりそうです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009/04/07

■機械的につながってしまった社会の脆さ

オフィスに出かけようと我孫子駅に着いたら、またダイヤが乱れていました。
実は先週のダイヤの乱れた日に、あわてて電車に乗って、回送の電車に乗ってしまった経験があるので、今度はゆっくりと状況を判断しました。
原因は、代々木公園駅の信号トラブルでした。
人身事故でなくてホッとしました。
そのため、千代田線は我孫子と松戸の区間往復運転でした。
細かく言うと、途中の松戸・綾瀬間と表参道・代々木上原間の2区間が不通になっていたのです。
千代田線に並行して走っている常磐線は正常でした。

まあそれだけの話なのですが、こうしたことからもいろいろなことがわかります。
千代田線に乗ったこともない人には、場所の感覚がわからないでしょうが、代々木公園駅は千代田線の我孫子と反対側の終点の手前の駅です。
そこの信号トラブルにもかかわらず、なぜ遠く離れた松戸・綾瀬間(これは相互乗り入れのJR区間です)が不通になるのか、不思議です。
まあ、そんなことに頭を働かせていると、この厳しい社会は生きていけないような気もしますが、逆にそうしたことに気づかないために、みんな生きにくくなってしまっているのかもしれません。

遠く離れた東京メトロ管区の信号トラブルが、それとつながっているJR管区の電車の不通を引き起こしているということは、象徴的です。
社会はいまや実に複雑に絡み合っています。
関係は見えなくとも、すべてが連動しているのです。
世界にはもはや、自分の日常の暮らしと無縁なことはないのです。
いつ見えないつながりを通して、自分の暮らしに津波が押しよせてくるかもしれません。
北朝鮮のミサイル事件は、見えているだけ安全なのかもしれません。

さらにいえば、さまざまな仕組みのつながりは、それこそ自己創成的に、リゾーミックに成長しているのです。
したがって、もはや管理不能になりつつあります。
もちろん、その管理不能な仕組みを意図的に操作することは可能ですが、そのリスクは大きいです。
昨今の金融の混乱は、その現われだろうと思います。

ところで、今回は千代田線と並行して走っている常磐線が正常運転をしていたのですが、実はこれは珍しいことなのです。
いつもはどちらかがトラブルに会うと、他方もそれに付き合う構造なのです。
そうしたダブル不通に出会っていつも感ずるのは、JRの「安全」観への疑問です。
これは書き出すと長くなるので、また機会を改めます。

第一、千代田線の事故なんて、皆さんの関心事ではないでしょうし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/09/29

■ミャンマーと格差社会:格差図式のフラクタルな展開

昨日、最後に「格差図式のフラクタルな展開」が問題だと書きました。
少し敷衍します。

現在の成長志向の資本主義経済の根底にあるパラダイムは「格差」です。
格差の上に、「商品」が成立し、「取引」や「市場」が成立します。
小泉前首相が「格差は活力の元」といいましたが、その言葉に象徴されるように、格差がなければいまの経済は成り立ちません。
そして成長とは、その格差を増大させることです。
格差社会といわれるようになったのは、社会の価値観が金銭的なものに画一化され、固定化されたためです。
もっと経済格差が大きかった時代もありますが、その時は他の社会価値観がたくさんなりましたし、何よりも「アメリカンドリーム神話」が生きていました。
さらにはセイフティネットという言葉など不要なほど、支え合う仕組みや家族関係、近隣社会が存在していました。

経済格差をもっと極端化したのが、北朝鮮やミャンマーです。
そこまで格差を顕現させると、よほどの暴力機構を用意しないと国民は支配できませんから、そこまでの格差は避けるのが効果的です。
もっとも、格差を隠す手段はたくさんあります。
ローマの「パンとサーカス」もそうですが、スポーツ選手やタレントなどの国民栄誉賞的な人気者の報酬を吊り上げるのも、その一策です。

ミャンマーの軍事政権は今回の失策で変化するでしょうが、それを支えているのは実はミャンマー国内の力だけではありません。
ミャンマーの国内的格差構造は、さらにその上位の国際世界につながっていきます。
よく言われるように、天然ガスに対する中国の利害関係を通して、格差構造の維持は国際的にも支えられているわけです。
その上に国連や世銀があることはいうまでもありません。

いつ破綻してもおかしくない北朝鮮の格差構造がこわれないのも同じことです。
イラクもまた本来の意味で、つまり人道的な意味で復興されては困るわけで、その意味で格差を隠すための不条理な対立図式が持続されているといってもいいでしょう。
イスラエルやパレスチナも同じですし、ブッシュの足元のアメリカにさえ、そうした格差構図は現存しています。
格差があればこそ、支配は容易になりますし、格差の増大もやりやすくなります。
そうした事例は、日本の歴史の中にも見られます。

経済格差という切り口から見ると、実はいまの社会は、格差が階層を成して、絡み合っているわけです。
複雑系の経済の議論の時によく話題になった「フラクタルな構造」がそれを巧みに支えているわけです。
フラクタル。全体と部分とが自己相似形になっているということです。
華厳でいえば「一即多・多即一」、清水博さん的にいえば、ホロニックです。
ですから、どこかの一角が壊れると全体に大きな影響を与えます。
したがって、よほどのことがなければ壊す動きは体制側(現レジーム)からは出てきません。
出てきても、体制に内在する現状維持のための動き(ホメオスタティス)に妨げられます。
そこを突き破ろうとすれば、「テロ」になるか、「テロ」にされるかのいずれかです。

理屈っぽい議論をしてしまいましたが、要は私たちの生活もまた、ミャンマーの今回の事件につながっているということです。
そうした世界の対極にあるのは、宮沢賢治の「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」世界です。そこでは「格差」の不在、あるいは多様な価値観による格差の相対化が社会の構成原理になります。
金銭の意味合いは全く変わり、世界の風景は一変するはずです。

ミャンマーの不幸な事件は決して他人事ではありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/09/27

■ミャンマーの僧侶デモ鎮圧事件とパリ5月革命

ミャンマーの僧侶のデモはついに死者を出すまでになってしまいました。不幸なことです。
そのテレビを見ていて思い出したのが、フランスのパリ5月革命(1968年)でのドゴールの発言です。

NHKで放映された「五木寛之 仏教への旅」の第3回目に、パリ5月革命の回顧場面がありました。
学生運動から始まり、労働者によるゼネストなど、大きな民主化運動として広がったパリ5月革命は、世界に大きな影響を与えましたが、当時、学生として運動に参加していた女性の発言が印象的でした。

デモ行進している私たちに対してドゴール大統領は、「やつらが公共の秩序を乱すことは許されない」と糾弾した。そこでデモに参加している学生や労働者たちは、「私たちは、『やつら』ではない。『大衆』だ」と叫びました。「ドゴールは、私たちのことを公共のゴミのようなものだと言ったのです」。

「やつら」と「大衆」。
現代の世界を鳥瞰して時代を展望する時に、大きな枠組みを示唆する象徴的な図式です。
ここでの「大衆」は、ネグりたちがいう「マルチチュード」と考えていいでしょう。

1960年代は、世界各地でマルチチュード意識が芽生えた時期でした。
日本ではまさに安倍首相の祖父の岸政権に対して、学生たちの日米安保闘争が盛り上がった時代です。私が大学に入った年に、樺美智子さんがデモで亡くなりました。
70年代にかけて、世界は大きく動き出しそうな気配がありましたが、結局は逆に大きな揺り戻しの中で、世界はますます「開発」され、文化の時代には向かわずに、経済の時代へと邁進したように思います。
そして、すべてが経済に絡めとられた時代になってしまいました。
政治も文化も、スポーツもアートも、教育も友情や愛情さえも。

支配者たちにとって「やつら」でしかない大衆が、そうした経済社会を支えるために駆り出されました。
そして、表情のあった個人たちは、経済秩序の構成要素に組み込まれました。
そうした視点からみれば、経済格差は「秩序」そのものなのです。

ミャンマーの今回の事件は、そうした大きな歴史の一つの象徴的事件です。
それは決してミャンマーだけの事件ではありません。
同じことが日本でもまさに進んでいます。
そうしたことにも気づかず、日本では「やつら」扱いされた賢い国民たちが秩序にしたがっていじましく生きています。
ミャンマーの事件から学ぶことはたくさんあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/27

■多様な行動するネットワークへの期待

先週、座談会でお会いしたことが縁で、早稲田大学の古賀勝次郎教授の「西洋の法と東洋の法」(「法の支配」研究序説)を読みました。
久しぶりに、「実定法の不法」という言葉に出会い、学生時代に憲法と刑法にはまっていた頃のことを思い出しました。
今日はちょっと時間があったので、いろいろとネット検索して、いくつかの論文を読むことができました。
ラートブルフのナチスへの言及が面白かったです。

このブログを読んでくださっている方はもうお分かりでしょうが、
私は法実証主義の立場はとっていませんし、
実定法には解釈による多義性がある以上、論理的にも実定法に規定されることはありえない、法とは関係性の中で浮遊する文化の表象でしかないと思っています。
やや危険な発想かもしれませんが、むしろ自らが住む社会の文化に根ざして生きたいと思っています。
ですからコンプライアンスという言葉には違和感を持つわけです。

また、私は最近のリベラリストほどには他者の言動に無関心ではありません。
その一言一言が私の暮らしに深く関わっていることを感ずるからです。
たとえ異質な意見であろうと、お互いにケアしあうことこそが寛容さの基盤と考える私は、
無関心と不寛容とは同義だと考えています。

先日、このブログに掲載した弁護士へのメッセージはやや言葉が過ぎたせいもあって、いろいろな批判ももらいました。
それは心して聴かなければいけないのですが、どこかで「全くわかってもらえないな」という傲慢さが私の内部にあることも事実です。
一番わかっていないのは私自身であるということかもしれませんが。

しかしネット上では同じようなブログ記事がかなりあることにも気づきました。
私は決して特異ではなく、また独創的でもないわけです。
いってみれば、よくある退屈な意見の一つとも言えます。

ある事件が起こると、ネットの世界ではワッというほどにたくさんの反応があるのです。
私のブログはマイナーですが、大きな影響力を持つブログもあり、
そこからのメッセージが大きなネット世論を形成しているようです。
それは私が予想している以上に大きいようです。

しかし、そこで私自身は萎えてしまうのですが、「だから何が変わるのか」ということです。
さまざまな問題で、テレビでもネットでも議論が活発に展開されますが、それで何が変わるのか。
個別の問題は解決することは少なくありませんが、大きな流れは変わっていないように思います。
もちろんその積み重ねが時代の流れを変えていくのでしょうが、
ナチス台頭の時期の世界も、昭和初期の日本も、もしかしたら同じだったのかもしれません。
そう思うとますます気分は萎えてきます。
テレビで古館さんが怒り、ネットで多くの人たちが声をあげても、時代は流れを変えることなく進んでしまう。
そしてある時に破局を迎える。
これがおそらく歴史の本質かもしれません。

しかし、と、そこで思うわけです。
そうした状況を変えられるほどの情報交流と価値創発の仕組みを私たちは持ったのではないか。
ITはビジネスツールではなく、社会のツールなのだと思うのです。
たとえば、古館さんがテレビで呼びかけて、ネット世論をつなげてビジュアライスするだけでなく、実際の行動につなげていったら、大きなことができるはずです。
これは両刃の剣ですが、そうした多様な行動するネットワークがたくさん生まれていけば、どこかで調和点が目指せるかもしれません。

こうした視点で時代を論じている、ネグリの「マルチチュード」論には賛否両論でしょうが、私には実に魅力的で刺激的な主張です。
なにやらスターウォーズの世界を思わせますが、帝国と共和主義連合との闘いが始まっているような気がします。

そんなわけで、最近は気持ちが揺れ動く毎日です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/03/25

■ガンジーの予言

CWSコモンズにアンベードカルのことを書いたことがあります
そこで、アンベードカルに比べたらガンジーは小賢しいというようなことを書いてしまいました。
その後、ガンジー伝を改めていくつか読んで、後悔しました。
ガンジーの偉大さはやはり大きなものがありました。
小賢しさも感じないわけではありませんが、それ以上に大きな人だとも思いました。
私の記事は、その時々の気分で書いてしまうので、後悔することが少なくありません。
間違いも少なくありません。知ったかぶる傾向があるからです。
しかし、嘘を書いたことは一度もありません。それが私の信条なのです。

ガンジーのことを書いたのは、昨日、病院のことを書いていて、思い出したからです。
ガンジーは反近代化論を展開していますが、病院に関して、こんなことを書いています。

医者は薬などで表的には病気の苦痛を取りのぞいてくれるが、その結果かえって病気の真の原因(不摂生や油断)を戒めることを人は忘れる。 良い薬、良い医者によって、肉体的苦痛を、簡単に一時的に治して貰って健康になったと思っていることの繰り返しで、人は何を失うのか。それは不摂生の助長と自分の肉体に対する精神の支配カである。 人の心は弱くなり、自制心をなくし、真の意味で体を大切にすることを忘れてしまうのである。

実に核心をついています。
ガンジーが1907年に発表した「ヒンドウ・スワラージ」に書かれていることですが、その書にはこんな文章もあるそうです。
私は引用でしか読んでいないのですが。

「我々はいますぐ即座にあなた方の妄想を解くことはできそうもないが、あなたがたは遠からず、あなた方の自己陶酔が自殺に等しいものであり、あなた方が我々を嘲笑したのは理知の思い上りに他ならなかったことを悟るでしょう」

ガンジーは、近代の本質が、人間中心主義と人間の欲望の解放にあることを見抜き、それとは違う未来に向けての活動を重ねていくわけですが、それは近代化路線を走っている人たちには理解されなかったのです。
私もかなり勘違いしていました。

それにしても、100年前に書かれたこの文章は見事に現在を言い当てています。
「ヒンドウ・スワラージ」に書かれているガンジーの目線の確かさには感動します。
いまの私たちも、まだ妄想から抜け出していないのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/06

■アーサー・C・クラークの警告

昨日、シマックに触れたせいか、急に昔読んだ作品が読みたくなりました。
あいにく手元にシマックは見当たらず、出てきたのはアーサー・クラークの「都市と星」です。
これも1950年代の作品です。初めて読んだ時の不思議な感動を覚えています。
書き出しで、またとまってしまいました。
引用します。

その都市は輝く宝石のように、沙漠の懐に抱かれていた。 かつては、そこにも変化や移り変わりがあったが、今ではそこは時の流れと無関係だった。 夜や昼が沙漠の上を通り過ぎていったが、ダイアスパーの通りにはいつも午後の陽射しがあり、夜の帳が下りることはなかった。 この都市には、暑さも寒さもなかった。そこには、外界と何の接触もなく、それ自身が一つの宇宙だったのである。
ダイアスパーは、銀河帝国が崩壊して、さらに10億年もたった地球の都市です。

この描写を読んで、私はすぐさま六本木のビル街を思い出しました。
最初に読んだ学生の頃には、その都市のイメージが広がらなかった記憶がありますが、今回は現実感を強くもてました。
私は六本木ヒルズには2回しか行ったことがありませんので、間違ったイメージかもしれないのですが、会社と同じく、都市もまた死に向かっているような気がします。

結局、この書き出しで少し感傷にふけってしまい、読むのをやめてしまいました。
昨今の日本の社会の実態は、すでに50年前にSF作家たちが警告していたのかもしれません。
そして、そうした作品に浸っていた私は、かなり洗脳されてしまっていたのかもしれません。
最近の日本は、昔体験した社会のような気がするのです。

久しぶりに学生の頃に戻ったような気がしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/04

■シマックの予言

最近、たまっている資料や記録を整理し、思い切って廃棄しています。
私は書籍や資料をともかく保管する傾向があるのですが、自分の時間軸を考えるとそろそろ廃棄しだすころだろうと実感しだしたのです。
もちろんただ廃棄するだけでなく、当時のことを思い出しながら、自らの生きてきた時間を思い出しながらの廃棄ですので、なかなか進みません。
しかし、その過程で様々な気づきがあります。
今日も書庫にある資料を整理していたら、メモが出てきました。
クリフォード・シマックというSF作家の「シティ」という作品の中の文章の書き抜きです。

「高度の神経系統を具えた生物ならば、このような都市の狭い地域の中に生存することは不可能である」
「やがては大量の神経症患者を出して、かような都市を作り上げた当の文化を自らの手で破壊するくらいがおちだろう」

シマックは私の好きな作家の一人でした。
この作品は1952年の作品です。壮大なおとぎばなしです。
当時のSFは、まだ明るさとユーモアがありました。特にシマックには牧歌的なやさしさや個人の視点がありました。
もっとも私がSFについていけたのは1970年頃までです。1980年代に入るともう全く違う世界に感ずる作品が多くて、以来、ほとんど読むのをやめました。

それはともかく、引用したシマックの文章が、最近の企業にあまりに当てはまることが気になりました。
ちょっと「都市」と「会社」を置き換えて見ましょう。

「高度の神経系統を具えた生物ならば、今のような会社の狭い組織の中に生存することは不可能である」
「やがては大量の神経症患者を出して、かような組織を作り上げた当の文化を自らの手で破壊するくらいがおちだろう」

どうでしょう。
違和感がないのは私だけでしょうか。
破壊の対象が組織(文化)であればまだいいですが、自分たちになることもありえます。

新しい会社のあり方が求められています。
そして、新しい兆しがさまざまなところで動き出しているように思います。
それが見えるかどうか。
シマックには半世紀前に見えていたのです。
私たちには見えているでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/10/08

■哲学者が減りました

これはCWSコモンズからの一部修正した上での再録です。
広く読んでもらいたいと思ったからです。
CWSコモンズよりも最近はこちらのブログのほうがアクセスが多いのです。

先日、少しだけ女房の畑仕事を手伝いました。
といっても雑草とりと冬大根を蒔くための畝作りです。
それでも柔な老体にはきつい仕事です。
喉が渇いたら畑にできているミニトマトをとって食べるのですが、
これがまたすごくおいしく、幸せを感じます。
どこの食卓の料理より、私にはおいしいです。

ところで、こうした1時間ほどの畑仕事で考えることはたくさんあります。
食に対する考えもそうですが、雑草とりをしながら考えることは少なくありません。

雑草と野菜や花とはどこが違うのか、
野菜はケアしないと枯れてしまうのに、なぜ雑草は抜いても抜いても出てくるのか。
実をならした後の野菜は抜かないとどうやって朽ちていくのか。
収穫されることなく捨てられる遅れて結実した茄子やトマトは幸せなのか。
作業をしながら、そんなさまざまなことが頭に浮かぶのです。

我が家の畑の道路側は通行人のための花畑です。
その花をまだ咲いているのに抜き取ることを農園主の女房から指示されました。
まだ咲いている花を抜くことにも抵抗を感じますが、花好きの女房は見事に決断します。
そのほうが良いのだそうです。
そういえば樹木の剪定もそうですね。思い切ったほうがいいのです。

しょうもないことを書いていますが、
こうした仕事の中に、私はプラトンの哲学書よりも深遠な知恵を感ずる気がします。
そうした「大きな哲学体験」を日々している農業者はすごい哲学者なのではないか。
いつもそう思います。

農業者に限りません。職人も商店で物売りをしている人たちもです。
そうした哲学者が最近は減ってしまいました。
それが社会の荒廃に影響しているのではないかと、この頃、痛感しています。

国会での安倍首相の答弁を聴いていて、本当に情けなく思いました。
安倍さんにもぜひ農業をやってもらいたいです。
我が家の家庭農園に手伝いに来てくれたら、うれしいのですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/10/04

■人間的発展と経済的発展

センのシリーズをもう1回だけ続けます。
センが重視しているのが、「人間の安全保障」です。
それにつながる補完概念として、センは「人間的発展」を取り上げています。
「人間的発展」は、パキスタンの経済学者のマーブブル・ハクが提唱した概念で、
「人間としての自由を高め、潜在能力を身につけそれを活用できるようにしていくこと」だそうです。
一昨日話題にした「教育」の本質そのものといっても良いかもしれません。

この概念は、商品の生産消費に偏りすぎていた人々の目を、人間の生活の本質と豊かさに向けさせたとセンは評価します。
いわば経済的発展から人間的発展へと視野が広がったといっていいでしょう。
最近の日本の社会を見ていると、このセンの指摘はとても理解しやすいのではないかと思いますが、
相変わらず経済的発展思考だけの人が多いのが不思議です。

経済的発展至上主義はいつから生まれたのでしょうか。
アメリカ移住民たちにとっては、アメリカ世界は歴史のない世界でした。
アメリカのネイティブたちにとっては、豊かな歴史があったのですが、
移住民たちにはそれは見えなかったのです。
そこで彼らはネイティブを動物のように抹殺し(一説には98%のネイティブが殺害されたといわれますが、
もしそれが事実であれば、ジェノサイドといってもいいでしょう)、フロンティアなどと称して西部を開拓していったのです。
そうした世界では、物質的発展は見えやすく手応えがありますし、
何よりもややこしいしがらみや文化がありませんから自由に展開できるダイナミズムが楽しめるのです。
経済的発展至上主義は、歴史のない白人アメリカ社会であればこそ生まれたのではないかと思います。
歴史のあるヨーロッパでは生まれようがないのです。

こうした状況は、第二次世界大戦後の日本が置かれた状況につながります。
時の為政者やリーダーたちによって、日本は伝統と価値観を白紙にしてしまいました。
そして取り入れたのがアメリカの思考法です。
そして見事にアメリカ型経済的発展を遂げたのです。
そこで大切にされるのは、GNPであり偏差値です。
文化がない世界では評価基準は簡単なのです。
物理的もしくは構造的暴力が世界を支配するのです。

アマルティア・センの生まれたインドはしがらみが多すぎました。
文化が発展しすぎていました。
ですから経済的発展に乗り遅れました。

しかし、ホモエコノミストの時代は終わろうとしています。
経済のパラダイムシフトが求められているのです。
経済的発展を基軸にするのではなく、
人間的発展を基軸にする社会が近づいてきているように思います。
私たちも暮らし方を変えられる時代になってきたのです。
私も小さな一歩を踏み出していますが、踏み出すと世界は違ってみえてきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/31

■年齢って何で必要なのでしょうか

昨日からの続きです。
ボビーの年齢詐称の話から、何で「年齢」などというものが必要なのだろうかということに気づきました。
私は人の年齢をほとんど見分けられない人間です。
みんなほぼ同じように見えてしまうのです。
それに最近は自らの年齢にもあまり意識がなく、時に忘れがちです。
年齢を自覚する必要がないからかもしれません。
年齢は誰のために必要なのでしょうか。
社会秩序維持のためでしょうか。
何歳になったら学校に入学とか、成人式だとか、選挙権がもらえるとか、飲酒が許されるとか、まあいろいろありますが、これってどこかおかしいような気がします。
人の育ちはさまざまですから、物理的な時間によって人の生活を規定していくのはどこかに無理があるのではないでしょうか。
60歳になったから定年で会社を辞めるという仕組みもどう考えてもおかしいように思います。
年齢がなくなれば、結婚適齢期もなくなりますし、就職における差別もなくなります。年齢を口実にした解雇もなくなるでしょうし、多世代交流もやりやすくなるでしょう。
逆に年齢制度がなくなって、本人にとって困ることはあるでしょうか。
私にはあまり思いつきません。
人間が素直に生きられなくなったのは、年齢制度を導入したからではないか、などと思うのは荒唐無稽でしょうか。
ますます年齢から解放された生き方をしようと思います。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/01/07

■豪雪も私たちの生活のありかたの結果なのでしょうか

豪雪被害が各地で起こっています。首都圏は雪こそ降りませんが、例年にない寒さです。
ここ数年の異常気象の恒常化は、おそらく私たちの生活が地球環境を変えていることの証拠のように思います。環境問題の深刻さはみんな認識し始めましたが、それに伴って行動がどのくらい変わったかといえば、いささか不安があります。私の場合、間違いなくエネルギー消費量は増えています。小さなところでは意識をしていますが、おそらくそんなことでは問題は解決しないでしょう。それに、社会全体のエネルギーの無駄使いは、なかなか直らないように思います。

昨年は夏にインフルエンザが流行しましたが、それは温暖化の影響という説があるようです。人間が大きなエコシステムの一員である以上、自然環境の変化は間違いなく生命現象に影響を与えるはずですから、納得できる話です。
最近、さまざまな新しい病気が話題になりますが、これからますます増えていくのでしょうか。もっとも、病気は人間からみれば、避けたいことですが、大きな自然から見れば健全な現象というべきでしょうが。
明らかに健全とはいえない動きを私たちがしていることもあります。
たとえば、テレビでは食に関するひどい番組が横行しています。
昨年、糖尿病で入院した友人が、「食生活を乱すテレビの安易なグルメ番組の氾濫」が気になると書いてきましたが、生活習慣病というか文明病というか、それへのいざない番組をやりながら、一方で安易な病気診断番組も増やしているのは見事な組み合わせとしかいいようがありません。それ以上に、テレビで毎日、こうした番組を見ながら育つ子どもたちへの影響は大きいでしょう。テレビ人には子どもはいないのでしょうか。
テレビは、海外支援や社会貢献を語る前に、まずやるべきことがあるはずです。テレビに出ている有識者の人たちに、ぜひ声をあげてほしいものです。

今日の我孫子市は久しぶりの快晴です。
寒いですが、太陽の光を浴びるだけで気分は爽快になります。
自然の力の大きさを私たちは改めて考え直すべきではないかと思います。
今年はできるだけ自然と共に生きるようにしたいと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/01/06

■運命を変える一瞬

一瞬のあやまちが取り戻せなくなることがあります。
危機に直面した時であれば、それはいつの時代にもあったことです。
しかし、電子機器が生活に組み込まれてくると、機械の時間感覚と生命の時間感覚の違いのなかでそうした落とし穴が日常化してきます。
昨年起こった株式売却の誤動作による400億円の損失はまさに一瞬の誤動作の結果です。単なる可能性とはいえ、一瞬の誤動作が核戦争を引き起こす可能性もゼロではないでしょう。医療ミスもそういう側面もあるかもしれません。

実は昨夜、私にも不幸な一瞬のミスがありました。
電子メールのアドレス帳が混乱していたのですが、これを昨年末から時間をかけて整理してきました。昨年は2回もパソコンがダウンしたため、ただでさえ多いアドレス帳の重複や未修正などに取り組んだのですが、どうもやり方がわかりません。そこで今年度の年賀メールをベースに重複を削除し、最新のものを選択する作業を時間をかけてやってきました。2,000を越えるアドレスが混乱しているのでそう簡単ではありません。もしかしたら簡単な整理方法があるのでしょうが。
そして昨日、ほぼ作業が完了しました。ところが、その後、最後に間違って、これまでのアドレス帳ではなく新たに編集した部分を削除するところをクリックしてしまいました。削除に時間がかかっているのでおかしいなと思って気づいたのですが、その作業をどうすればとめられるかがわかりません。慌てているうちに作業終了。回復不能です。
新年早々、なんとまあ不幸な話でしょうか。

結果として、アドレス帳はさらに混乱し、かなりの欠落が出てしまいました。調べてみたら、わが家族のアドレスもすべて消去されてしまっていました。また半年は混乱が続きそうです。
皆さんにはご迷惑をおかけすることがまだありそうです。すみません。

まあ、つまらない体験を書きましたが、一瞬の誤動作が運命を決めるという日常生活は精神的によくないですね。私たちの生活はそうした状況の中に乗っかっています。自動車事故も一瞬の誤動作で起こります。あまり意識はしていないでしょうが。
それは逆に言えば、人間の能力が極度に増幅されているということなのですが、マン・マシン・システム全体として考えると大きな問題です。不完全なシステムといえると思います。しわ寄せは常に現場の人間に来ます。
科学技術によって、人間の可能性が大きく開かれてきたといわれますが、人間にとって科学技術とは一体何なのでしょうか。

今年はそうした問題を視野に置きながら、技術者の倫理を社会の視点で考えるテーマに取り組みたいと思っています。その準備会を昨年から少しずつ進めていますが、もし読者の中に関心を持っていただける方がいたら、仲間になってくれませんか。
ご連絡いただければうれしいです。
知恵と汗と資金を求めています。もちろん一番は「思い」ですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/01

■変えるべきものと守るべきものを見分ける知恵

年末に読んだ「キリストの勝利」に出てくる、シンマクスの話がとても気になりながら、年を越しました。昨日、書いたようにクイントゥス・アウレリウス・シンマクスはキリスト教の国教化に伴い、異教が排斥され、かつての神殿や神像が破壊されることに異議申し立てした人物ですが、当事の流れから見れば、時代の変革を止めようとするアナクロニズムとみられる活動だったかもしれません。背教者ユリアヌスもまた時代の流れを戻そうとした一人です。

バーミアンの仏像を破壊したことを怒る人がいますが、そのような愚挙は歴史にはいくらでもあります。すべてが「変革」の大義で行われています。日本でも廃仏毀釈はそう昔のことではありませんし、今なおそのような愚挙はさまざまなところで見られます。

初詣に近くの神社をまわりました。
穏やかな雰囲気の中で、昔からの光景がまだ残っているのがうれしいです。
しかし、いつまで残れるでしょうか。

私はキリスト教には共感を持てませんが、アメリカの神学者、ラインホルト・ニーバーの祈りの言葉には共感を持ちます。4世紀のローマが、もし違った選択をしていたらと思わずにはいられません。

神よ
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気を与えたまえ
変えることのできないものについては
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ
そして
変えることのできるものと
変えることのできないものとを
見分ける知恵を与えたまえ

変革はしっかりした基軸があればこそ、意味を持ちます。
「見分ける知恵」は、そこから生まれます。
変えるべきものと守るべきものを間違えてしまうと、社会は瓦解します。
展望と理念のない変革は、ただの破壊でしかありません。

私たちもいま大きな歴史の岐路にいるように思います。
そしてローマと同じ繰り返しをしているような不安があります。
今年は生き方の基軸を改めて大切にしたいと思います。

| | コメント (0)

2005/12/18

■「あなたの暮らしがよくなれば、それだけ石油の消費量が多くなる

「あなたの暮らしがよくなれば、それだけ石油の消費量が多くなる」。
1949年エッソが出した雑誌広告のコピーです。
科学技術をベースとした工業化の進展は、まさにエッソの指摘通り石油消費量を激増させました。
工業化の度合いが文化の「発展度」を測る指標にさえ使われ、地球あげての工業化競争が繰り広げられたのはそう遠い昔の話ではありません。
いや、今なおその延長にあるといってもいいでしょう。

このエッソのメッセージの逆、「石油の消費量が多くなれば、それだけあなたの暮らしはよくなる」は成り立つでしょうか。
微妙です。
しかし、現実は、「石油消費量の増加によって成り立っている豊かさ」の上に私たちは生活しています。
さらにいえば、石油消費量の増加はごみの増大とつながってもいます。
一昨日からの議論の延長を今日も続けます。

工業化は石油消費量を増やしただけではありません。
もしかしたら「ごみ」という概念、とりわけ産業廃棄物という概念は工業化によって生まれた概念かもしれません。

日本の古来の農業にはたぶん「ごみ」概念はなかったと思います。
そういえば、こんな話も最近何かで見聞しました。
日本の農業では野菜を食べる虫たちもまた食材だった、野菜と一緒に食べれば貴重な栄養源になった、というのです。
私の読み違い、聞き違いかもしれませんが、納得できる話です。
つまり昔の農業においては、害虫という概念がなかったというのです。
害虫もまた工業化が生み出した概念かもしれません。

工業化は多様化の発想を嫌います。
多様な存在を前提にしては効率化や管理化が進みにくいからです。
しかし、まさにそこから問題は発生します。
ドイツでは基本法を見直すことから、廃棄物(ごみ)の概念をなくそうという発想が生まれてきているようです。
そろそろ私たちは工業化発想の呪縛から抜けださないといけないようです。

さて、今の日本のコピーライターなら、次のように言うかもしれません。
「あなたの暮らしがよくなれば、それだけ石油の消費量が少なくなる」。
スローライフ、エコライフが目指している生活は資源節約型といっていいでしょう。
あなたの生活にはどのくらいのごみが随伴しているでしょうか。
私の場合、ものすごく多いです。少しずつ減らす努力はしているのですが。

| | コメント (0)

2005/01/09

■インド洋大津波とソラリス 

インド洋大津波の被害者がまだまだ増えています。
インドネシアにいる友人からのメールでは、インドネシアだけで15万人の死者だといいます。毎日のようにテレビで放映される津波の映像を見ていると、何かを書きたいのですが、書くことに躊躇を感じざるをえません。
何を書いても不謹慎になりそうだからです。

昨日、テレビで「ソラリス」を観ました。最近の映画です。
この原作「ソラリスの陽のもとに」には昔、魅了されました。最近、新訳も出ていますが、読んでいません。この種の本を読む気力が最近はなくなっているのです。想像力を働かせなければいけないからです。

最初の映画化作品は私には期待はずれでしたが、今回は、かなり満足できました。しかし、原作と切り離して、ですが。

ソラリスは惑星の名前です。その惑星の海は知能を持ち、そこに調査にいった科学者の意識にコミュニケーションしてきます。その仕方は現在の物理学のパラダイムを超えているのですが、そこがとても面白いのです。論理を超えているからです。
論理を超えると必ず出てくるのが「愛」です。この映画も愛の映画です。それだけなら私は退屈です。最近の映画が、安直に「愛」を語りすぎることに辟易しています。しかし、この映画は、そこに「恐怖」が埋め込まれているので、私は好きになりました。そのメッセージはスタニスワム・レムの時代よりも現実味を飛躍的に増しています。

話が飛躍しますが、ソラリスとインド洋大津波が私の頭のなかで奇妙に重なったのです。
今回の事件は海からの、つまり地球からのメッセージかもしれません。

映像を見ていると、海がどんどん引いていく場面でも、大きな波の壁が遠くに見える場面でも、それが自らの足元に近づくまでは、みんなその異常を「観察」しているのです。もし現場にいたら、私もきっとそうだったでしょう。想像を超える事件には、誰も危険を感じないのです。
現代は、こうした状況がさまざまなところにフラクタルに起こっている時代です。っしかし、誰も気づかない。これは不幸でしょうか幸せでしょうか。迷います。

津波にえぐり取られた岸壁を見て、歴史は決して連続的なものではないことも知りました。私たちが論理で構築した歴史などは、弱々しい仮説でしかないことを改めて確信しました。終わりは突然に来るのです。

何が始まっているのかわからないままに、私たちはいま、大きな危険にさらされているのかもしれません。しかし、危険は認知しなければ、危険ではありません。

なにやら小難しいことを書いてしまいましたが、
私の価値観をえぐりとられるような事件でした。
最近、友人知人の訃報が続いているのは偶然ではないのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/09/06

■混乱のはじまり 

ロシアの学校占拠事件は衝撃的でした。
私はどちらかというと、常にマイノリティの視点で考えてしまう、生理的な思考回路が働くタイプなのですが、今回だけはどうしても、立てこもりの首謀者には共感を持つ事ができませんでした。
今日になって、やっと少し理解できるような気がしてきました。

いずれにしろ、哀しい事件ですが、しかし、異常な事件として位置づけるべきではないでしょう。その意味をしっかりと考える事が大切です。
情報もほとんどないなかで考えるのは無理がありますが、少しだけ考えてみました。そうしないとどうにも前に進めないからです。

悲惨な結末は、彼らがいかに追いこまれているかから考えるべきでしょう。
自爆テロは先の大戦におけり日本の特攻隊とは全く意味が違います。その意味を、もっと世界は真剣に考えるべきでしょう。死をもって抗議するほどの怒りは、どうやって生まれるのかを、もっと私たちは真剣に考えなければいけません。カミロさんが気づいたように、人道支援などとだまされていてはいけません。
しかし、今回の事件は、自爆による異議申し立てを超えています。恐ろしいほどに超えているのです。

一つの理由は、悲しみが組織化されていな事だと思います。組織化されていれば、展望やビジョンによって、統制力が働きますが、個々ばらばらの絶望と怒りの集積は暴走しだしたら、個人の力を超えてしまいます。組織の論理と個人の情念は絶対にかみ合うことはないでしょう。戦争と喧嘩は似て非なるものです。

私は30年前に「21世紀は真心の時代」という小論を書きました。
世界は「管理の時代」に向かうか、「真心の時代」に向かうか、その分岐点が20世紀末だったと思います。そして、人類は真心の時代を選ぶだろうと私は考えたのです。
しかし、歴史はそうなりませんでした。まさに「管理の時代」が到来したような気がします。そして、口では文句をいいながら、その心地よさにみんな浸っています。私には息がつまりますが、まあ、私のような偏屈者が生きるだけの寛容さはまだ残っています。いや残しているというべきでしょうか。

このブログも、関連したCWSコモンズのホームページやコムケアのブログも、私の活動のすべての基本にあるのは、繰り返し延べてきているように、「組織起点の時代」から「個人起点の時代」へというパラダイム転換です。それは、「管理の時代」から「真心の時代」へというテーゼと同一なのです。

長くなりましたが、ロシア学校事件は、その時代転換のはざ間での、それぞれのコンテクストの違いから起こった事件だと、私は考えることにしました。
ですから、こうした事件は、これからまた起こるでしょう。
恐ろしいことですが、時代の変わり目にはこうした混乱は避けがたいのかもしれません。

混乱の時代が始まったのです。
国家が崩れだしたと言うべきかもしれません。
にもかかわらずに、それに代わる仕組みも発想も芽生えさえありません。
いや、ソーシャル・キャピタル論が、もしかしたら、その芽なのでしょうか。
正村公宏さんは、もしかしたらそう考えているかもしれません。
そんな気がしますが、私には接点がないので確かめようもありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)