カテゴリー「文明時評」の記事

2024/02/17

■「タリバンが今、世界で一番知的な人たち」

今日は、腰痛対策で朝、1時間ほど歩いた以外は、ずっと在宅でした。
散歩の帰りに図書館で新書を借りてきました。

その一冊が、内田樹さんとイスラム学者の中田考さんと山本直輝さんの鼎談の「一神教と帝国」という新書です。とても読みやすく一気に読んでしまいましたが、気づかされることがたくさんありました。

たとえば、こんな発言が中田さんからあります。
「タリバンが今、世界で一番知的な人たち」。
中田さんは、「タリバンは女性蔑視で女の子たちに学校も行かせないじゃないかという、西側諸国の批判があります。しかし、タリバンは女性の教育を禁止しているわけではない。理由があるから今は一時的に禁止しているだけなのです」とも言います。

一番若い山本さん(30代なかば)はトルコの大学で教えていますが、地に足着いた研究をされているのが伝わってきます。前にも彼の「スーフィズムとは何か」を読んで教えられたことがたくさんあったのですが、この鼎談では改めてまた山本さんの発言にいたいほどの刺激をもらいました。やはり海外にいるせいでしょうか、発想がまるで違う気がします。惚れ込んでしまいます。

「リンガフランカ(普遍言語)としてのアニメ日本語」といった話題も盛んに語られています。コミックは最近読んでいないし、アニメは「キングダム」以外は見る気も起きないのですが、「NARUTO」とか「ゴールデンカムイ」はちょっと気になってきました。

鼎談をまとめた新書なので、気楽に読めますが、内容は実に深く、刺激的です。
冒頭の「タリバン評価」に示唆されているように、日本の報道や日本人の著作とは全くと言っていいほど違った指摘が、いきいきと展開されています。
教えられることも実に多い。

ぜひ多くの人に読んでもらいたい本です。
やはり未来はイスラムかアニミズムかですね。

| | コメント (0)

2024/01/23

■「お金は世界のあらゆる悪行の父」

話題になっているデヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの共著「万物の黎明」を読んでいます。
頭脳の構造が違うのか文化が違いすぎるのかわかりませんが、欧米人の書いた本は私はなかなか理解しにくいのですが、本書もなかなかすっきりと頭に入ってきません。もう少しストレートに書いてほしいですが、いかにもソフィストケートされていて、あまりに多義的な表現が多すぎます。

でも感動する文章もある。
たとえば、ネイティヴアメリカン、つまりアメリカ大陸先住民のイロコイ族のカンディアロンクが欧米人に向けて言った言葉です。フランスの貴族が記録してくれています。
ちょっと長いですが、引用しますので、ぜひ読んでください。
当時(1700年前後)、世界を席巻しつつあったヨーロッパ文化への批判です。

「私は6年間、ヨーロッパ社会のありさまを考察してきましたが、彼らの行いが非人間的ではないとは、いまだいささかも思えません。あなた方が「わたしのもの」と「あなたのもの」との区別に固執するかぎり、それに変わるところはない。そう心から考えています。あなたがたがお金と呼ぶものは、悪魔のなかの悪魔、フランス人の暴君、諸悪の根源、魂の悩みの種、生者の処刑場である、こうわたしは断言します。お金の国に住みながら魂を生き長らえさせることができる、このような考えは、湖の底で命を長らえさせることができるという考えとかわるところがありません。お金は、贅沢、淫乱、陰謀、策略、嘘、裏切り、不誠実の父であり、世界のあらゆる悪行の父なのです。父は子を売り、夫は妻を売り、妻は夫を裏切り、兄弟は殺し合い、友人は偽り合う。すべてはお金のためです」。 

アメリカ先住民の文化は徹底的に壊されてしまい、多くの日本人の頭の中には残虐なインディアン・イメージが大きいと思いますが、そうし思い違いを、この本は気づかせてくれます。
マーシャル・サーリンズの「石器時代の経済学」に出合った時と同じ感動をもらっています。

ちなみに本書の副題は、「人類史を根本からくつがえす」とあります。
この種のビッグ・ヒストリーの本は、ハラリやジャッジ・ダイアモンドなど、最近はやりですが、私にはみんな退屈でした。でもこの本は面白そうです。冗長で読みにくいのが難ですが。

問題はともかく厚くて、重いことです。1週間では読めそうもありません。

| | コメント (0)

2019/01/18

■カフェサロン「対話で感得するインド占星術」の報告

ヴェーダ占星術師のKishori(千葉和江)さんにお願いした「インド占星術」のサロンを、2回にわたって開催してもらいましたが、合計で25人を超える参加者がありました。
インド占星術への関心の高さに驚きました。
私はいずれにも参加しましたが、全く違った雰囲気のサロンになりました。
もちろん基本となるヴェーダの話は共通していましたが、参加者と一緒に場を創り出すというKishoriさんのおかげで、私にはまったくと言っていいほど違ったサロンでした。

1回目のサロンでは、ヴェーダそのものに関する疑問から始まったために、なかなかヴェーダの中身にはたどりつけませんでしたが、Kishoriさんによれば、それもまた必然的なことだったのかもしれません。
参加者のおひとりも同じような感想を送ってきてくれました。
2回目のサロンでは、ヴェーダの内容を中心に、魂の精神世界と心身の物質世界を分けて、とても具体的に、ヴェーダの世界観や死生観を話してくれました。
2回目のサロンでも終了後、Kishoriさんのセッションに以前から参加されている方が、Kishoriさんと参加者とのやり取りで理解が深まったといってくださいましたが、話し合うことの大切さを改めて感じさせてもらいました。

いずれの回でも、Kishoriさんはヴェーダとは「生きる知恵」「人類の操作マニュアルのようなもの」と最初に話されました。
大きな違いは、2回目は、最初にヴェーダの聖典の一つのサンスクリット版の「バガヴァッド・ギータ」の一節をKishoriさんが朗誦することから始めたことです。
その朗誦で、場の雰囲気が変わりました。
ヴェーダの前提には、魂の存在がありますが、「魂」の話も素直に聞ける状況が生まれたのです。
音(波動)の持つ大きな力を感じました。

Kishoriさんのお話をきわめて簡単にまとめると、私たちは、宇宙に遍満する「大きな魂」から生まれた「小さな魂」が、心と体という衣服を装った存在であり、それが故に、「間違い」や「幻想」から自由になれず、他者をだます傾向を持ち、感覚も不安定になってしまう、そこから解放されるための知恵がヴェーダにはある、というのです。
私の勝手な要約ですので、いささかの不正確さはお許しください。

ヴェーダの世界では、人の根源のことを知りたかったらヴェーダに聞け、という言葉もあるそうです。
どうしたら生きやすくなるか。
そこから、カルマ(因果)や輪廻、集合意識や阿頼耶識、死の意味、人の成長(人間存在の4段階)、徳と愛などの話題も出ました。
もちろん占星術、ホロスコープの話も出ました。

中途半端な報告は誤解を招きそうなので、私からの報告はこれでやめますが、Kishoriさんはご自分でのセッションも開いていますので、ヴェーダやホロスコープに関心のある方はKishoriさんにアクセスしてください。
Kishoriさんのフェイスブックは次にあります。
https://www.facebook.com/kishori.dasijapan

湯島のサロンでは、アーユルヴェーダのお話をしてもらったことがありますが、ヴェーダそのもののサロンは初めてです。
ヴェーダは宗教的な側面と哲学的な側面を持っていますが、哲学というと私たちはついつい古代ギリシアを思い出します。
しかし、インドのヴェーダには、神話的な人間的要素があって、それよりも古層の哲学を感じます。
死や生を考える、いろんな材料があったような気がします。

Kishoriさんは、とてもいいサロンだったので、また話をしたいとおっしゃってくれました。
ヴェーダ占星術師のKishoriさんの使命は、大きな魂(バガヴァン/クリシュナ)の知恵を多くの人に広げていくことなのだそうです。
そして他者にできるだけ喜んでもらう。
Kishoriさんは、毎回、手づくりのお菓子を参加者のために持ってきてくださいました。
そしてどんなぶしつけな質問にも、笑みを絶やさずに、応じてくれました。
毎年、3か月ほど、インドの聖地ヴリンダーヴァンで、魂を浄化しているからでしょうか。
私は、そこにヴェーダの本質を感じました。

機会があれ、またヴェーダサロンをお願いしようと思います。
Kishoriさんに叱られそうな報告で済みません。


Veda190117_2


Veda1901124


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/02/22

■カフェサロン「人間と道具、あるいは人間とはなんだろう」の報告

昨日のカフェサロン「人間と道具、あるいは人間とはなんだろう」は、参加者6人のゆったりした集まりになりました。
話題提供者の小宮山さんは、国際箸学会の理事長でもありますが、箸のことを考え抜いているうちに、人間と道具とは切り離せないものだということにたどりついたのです。
小宮山さんは、人間とは道具がないと生きていけないものと考えているようです。
では、そういう意味での道具とは何なのか。
そして、なぜ道具は人間にとって不可欠なのか。
道具の効用はいったい何なのか。
そういうことを考えると、いろんな問題が見えてくるはずです。
とまあ、そんなサロンを想定していましたが、そういう話になったようでならなかったような気もしますが、しかしとても知的なサロンになったことは間違いありません。

参加者の深津さんが、ウィキペディアの「道具」の定義の最初にあるのが、「仏道修行の用具」だと教えてくれました。
今まで気づかなかったのですが、「道具」に「道」という文字がつかわれていることの意味が少しわかりました。
これには深い意味がありそうです。
人間の指が道具になる「咫(あた)」とか大工さんの常備道具だった「スコヤ」という話も出ました。
私は、その言葉自体を知りませんでしたが、道具を考える大切な視点がありそうです。

本来、道具は人間の手段だったのに、いまや人間が道具の手段になってしまったのではないかという話も出ました。
実は私が小宮山さんの話に関心を持ったのは、道具作りの好きな小宮山さんでさえ、そう思っているのだと感じたからです。
「人間とは道具がないと生きていけない」と考えるということはそういうことを含意しています。
私は、全くそうは思っていないのです。

小宮山さんはぶんぶんゴマの話も、実演付きでやってくれました。
ぶんぶんゴマから学ぶことも大きいです。

以上は話のほんの一部ですが、サロンらしいサロンでした。

ところで、このサロンの案内の時に、人間だけがやっている行動の話を書きました。
それについて補足しておきます。
ある本で読んだのですが、チンパンジーの認知に関する世界的な権威の一人、マイケル・トマセロは、「2頭のチンパンジーが丸太を一緒に運ぶところを見ることなどないだろう」と言ったそうです。
その話を紹介している道徳心理学者のジョナサン・ハイトは、その話を聞いて、人間がほかの生物と違うのは、そういう「意図の共有」ができることだと言っています。
私は、それを読んで、道具の本質は「意図の共有」にあると思いました。
昨日のサロンでも最後にその周辺の話になりましたが、残念ながら時間切れでした。
この話は、コミュニケーションの問題につながります。
このあたりはいつかまたサロンをしたいと思います。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/01/16

■カフェサロン「サービス文明論を語ろう」の報告

今日のカフェサロン「サービス文明論を語ろう」はまたまた超満員になってしまいました。
いつもと違って、今回は企業にお勤めの方にも少し声をかけさせていただいた結果、半数は企業の人でした。
しかし、ホームレス支援や障がいのある人の就労支援などに関わるNPOの人など、いつものように様々な人も参加してくれました。
若者の参加がなかったのが残念でした。

20160116

話題提供者は、元日経記者の坪田知己さん。
坪田さんはずっと前からメディア革命による社会や企業のあり方についての本も出されていますが、多様性を支えるサービス文明社会が到来したという「サービス文明論」も電子出版しています。
今回は、今や私たちは「機械の奴隷」になってしまったという話から始まり、つづいて、サービス文明社会の特質やそこでの生き方、働き方について、さまざまな問題提起がありました。
いろいろと突っ込みたい論点はたくさんありましたが、要はみんながもっと自分らしく生きられる社会が来そうだ、あるいはそういう社会を目指すべきだという話だったように思います。
そして、そのためのキーワードは、「個人の尊厳」と「信頼」「自律」という話でした。
あまりにも簡単なまとめですみません。

実際には、利己主義から利他主義へ、匿名社会から顕名社会へ、オープンエンドからオープンスタートへ、などといった話もありました。
「健常者」と「障がい者」の区別も解消されるのではないかという議論もありました。

アマゾンが過去の購入履歴を分析して、個人あてに推薦してくる書籍はなかなか的を得ているというような話もありました。
しかし、まさにそこにこそ、私は「管理された人間」を感じます。
自分では気づかないままに、得体のしれないものに操作され、「自分らしく生きている」ようで実は、その「自分らしさ」も「与えられた自分らしさ」になっているのではないかと思うわけです。
言い換えれば、「自律的」に生きているようで、実は「他律」されているのではないかと言う話です。
今回は、何しろ参加者も多かったので、そこまでの議論にはなりませんでしたが、いつか議論したいテーマではあります。

さらにいえば、そもそも「サービス」という言葉が問題かもしれません。
サービスの語源は「スレーブ slave」、まさに奴隷です。
私自身は、サービス社会は「奴隷社会」とほぼ同義と考えています。
坪田さんは、一方で「おもてなし」という言葉も使っていましたが、おもてなしには「尊厳」と「信頼」が含意されていますので、むしろ「おもてなし」とか「ホスピタリティ」という言葉のほうがいいような気もします。
しかし最近は、「おもてなし」も品格を失ってしまった言葉に成り果ててしまったかもしれませんが。

坪田さんは、インターネットと仏教の話にも少し言及しました。
常々、インターネットは華厳経に出てくる「インドラの網」、つまりインドラネットと同じだと思っている私にとっては、この議論もしたかったのですが、これまた始めるとさらに時間が延びるので我慢しました。
しかし、インターネットの意味は、もっとしっかりと考えるべきだろうと思います。

というわけで、1時間延長したにもかかわらず、話したりなかったことがみなさんそれぞれに多かったのではないかと思います。
そして、いかにも勝手な報告になってしまいました。

サロンは、異論反論が出るところに意味があります。
坪田さん、ありがとうございました。
坪田さんの問題提起は、さまざまな刺激を与えてくれましたので、どなたか、このパート2をやってくれませんか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/11/24

■システムと人間の対立

挽歌編で書きましたが、先週、思い出して、改めて「懐かしい未来」を読み直しました。
日本ではしばらく絶版になっていましたが、今年のはじめに復刊されたのです。
2009年版の「幸せの経済学」というあとがきも追加されていました。
ますます説得力が高まっています。
それなのに、どうして時代の流れは、そちらに向かないのか、不思議です。
本編も私としてはめずらしくていねいに読み直しましたが、そこですでに自由貿易批判が行われていました。
TPP論者に読ませたいですが、呼んでも理解はできないでしょう。

改めて本書を読んで、「システムと人間の対立」という基本構造を再認識しました。
今日の時評は、共感した文章の引用です。

著者のヘレンさんは、こう書いています。

ラダックでの経験は、私たちの危機の第一の原因は、人間の本性でもなければ進化でもなく、この地球と人びとの双方を圧倒しながら執拗に拡張し続ける経済システムなのだ、ということを確信させてくれた。不幸なことに、このシステムはあまりにも大きく成長してしまったので、元々は人間が生み出したものと認識することが困難になってきており、逆らいようのない進化の力であるかのように捉えられがちなのだ。
チャールズ・ライクが「システムという名の支配者」で警告していた話と同じです。
ヘレンさんは、さらに続けます。
政策決定者たちは自分たちが自然で人間的なコミュニティにダメージを与えていることに無自覚である。私たちが直面しているのは、悪意のある陰謀ではなく、構造的な陰謀なのだ。換言すれば、絡み合うさまざまな構造が、生命そのものを脅かす開発の道筋を進めることによって、システム的に「陰謀を企てている」のである。
そのシステムは、人間的な見地からは根本的に不合理で、命そのものの関係性のつながりを圧倒し、破壊しかねない脅威である。まさにこれらの経済活動が、この地球上のいたるところで現実の生物の「成長」を危機に陥れているときに、現代の経済活動に関連して「成長」という用語が使われるというのは、まさに苦い皮肉といえるだろう。
私の退屈なコメントを付け足す必要はまったくありません。
「懐かしい未来」は、NPO法人懐かしい未来から復刊されていますので、ぜひお読み下さい。
ここからもアマゾンを通じて購入できます。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/02/06

■人間という種の育ち方

人間の持つ知性や言葉は、最終的には人間自身を支配し、不幸な状態へと追い詰める方向に機能することになる、と考えたのは、ホルクハイマーです。
昨今の国内外の政治状況を見ていると、その言葉を思い出さざるを得ません。
その一方で、テレビはその状況からみんなの目を背けるためか、知性や言葉の意味を嘲笑するような番組を増やしています、
そうした番組には腹立たしさを感じながらも、もしかしたらそこにも大きな効用があるのではないかなどと思ったりする昨今です。

言語は、成果志向型行為だけではなく、了解志向型行為のためにもあると言ったのはハーパーマスです。
そうした、理解しあうための行為を「コミュニケーション的行為」と呼んだのです。
ここでの「コミュニケーション」を私は「共創」と呼んできました。
この発想は最近さまざまなところで広がっているように思います。

ホルクハイマーが人間の知性に不安を持ったのは、自然支配を志向するキリスト教文化を根底にした近代西欧世界のパラダイムの中の人だったからだろうと思います。
もし彼が日本に生まれたら、たぶん違った発想が生まれたでしょう。
日本と近代西欧では「言葉」の持つ意味がまったく違うような気がします。
このあたりは、言語学者やコミュニケーション学者、あるいは社会学者のテーマというよりも、もっと大きな視点で考えないと見えてこない流れのように思います。
つまり、人間がどう育てられているか、ということです。

よく科学技術は大きく進歩したが、人間の理性そのものは進歩せず、変わっていないといわれます。
私はそう思っていません。
人間は大きく変わっています。
人間は環境との関わりあいの中で共進化していると私は思っているからです。
そのことは自分のことを考えただけでよくわかります。
生活環境の変化の中で、私の理性も欲求も大きく変わっているからです。

人間は間違いなく進化しています。
もちろんネアンデルタール人と現代人が同じ部分も多いでしょうが、非連続的なほど変質した部分もあるはずです。
但し、変質や進化が「良い方向」に向かっているかどうかは別の話です。
そもそもそうした価値判断は、どこに視点を置くかで逆転するものです。
ある意味では、科学技術の変化(進化)も良い方向だと思うのは、一つの見方でしかありません。

前置きが長くなってしまって、何を書こうとしたか忘れそうです。
書きたかったのは、どうしてみんなこうも、自らの成果志向型に向かうかと言う嘆きです。
与謝野議員の行動にその典型を見ますが、自らの小さな目的を目指すあまり、せっかくの一度きりの人生を汚し、不幸を招く人が多すぎます。
それが個人の問題だけにとどまればいいのですが、人の生はつながっていますから、決してそうはならないのが現実です。

エジプトの騒乱も日本の国会の騒乱も、どこか似ているところがあって、人間の育ち方が間違っていたのではないかという気がしてなりません。
間違った種は滅びに向かうはずですが、どこかで軌道修正できるのでしょうか。
私の個別の生を大きく越えた話ですが、その問題は私自身の生にも深くつながっているように思っています。
まだまだ自分自身の生き方に問題がありそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/10/06

■1枚の写真

ある本で1枚の写真を見ました。
10年ほど前に、米航空宇宙局(NASA)が公表した、夜の地球の写真です。
NASAのホームページより引用した写真をネットで探しました。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/kan-tusin/kankyo/ondan.htm

そこには、アメリカと日本が輝いています。
まあ考えてみれば当然ですが、やはり唖然とします。
夜はやはり暗くなければいけません。
お時間があったら見てください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/08

■「最初の1行は神からくる」時評編

「詩の最初の1行は神からくる。2行目からは人が作る」
今日の挽歌の書き出しの1行です。
挽歌を書いていてつくづく思うのは、「最初の1行は神(外)からくる」ことの神秘です。
時評のほうは「書くこと」が決まってからパソコンに向かいますが、挽歌は何も考えずにパソコンに向かうと自然と書き出しの文章が浮かんでくるのです。

これは挽歌だけの話ではありません。
おそらく私たちの日常生活においてもそうなのでしょう。
私たちの生は自分でコントロールしているようですが、実際にはそうではないように思います。
後から考えると、なぜあの時、あんなことをしたのかと自分ながらに不思議に思うことはよくあります。
小賢しい個人の判断を超えた、大きな声が私たちを動かしているとしか思えません。
しかしそうした声に私たちは応えられなくなってきているのかもしれません。

そう思ったのは、先週のチリ地震の余波で起こった日本での津波に関する報道を見ていたときです。
テレビで話題になっていますが、今回はしっかりした避難警報が出たにもかかわらず多くの住民はその警報をあまり尊重しませんでした。
なぜ避難しなかったのか質問された古老が、海を見ていて、この海なら大丈夫だと思ったと答えていました。
その人にとっては、科学的な予測よりも自然が示す表情のほうが信頼できたのです。
科学的な予測よりも自然からのメッセージのほうが正しいと言うつもりはありませんが、私たちはもっと自然からのメッセージに耳を傾けるべきではないかと思いました。
自然と話し合う能力を、私たちはどんどん失っていることは間違いありません。

環境問題や持続可能性が議論されていますが、その出発点は自然とどう付き合っていくかではないかと思います。
自然環境を壊した技術が、自然環境を回復させるなどという発想は、私には考えられません。
自然との付き合い方を変えることは、とりもなおさず「技術のパラダイム」を変えることです。

古老の言葉は、私には神の啓示のように聞こえました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/03/01

■免疫力の高さ

ホームページの週間記録に書いたのですが、先週、歯医者さんから
「佐藤さんは免疫力が強いので、虫歯の治療後の処置をきちんとしていなくても炎症が起きにくいんです」
というようなことを言われました。
かなりの深い治療をしたときにも、佐藤さんのことだから痛みは出ないでしょうが念のために、といって痛み止めをもらいましたが、案の定、痛みは出ませんでした。

先週、読んだエスポジトの「近代政治の脱構築」のキーワードは「免疫」です。
実は、この本に感激した一つの理由は、それが理由です。

私が人生を変えてしまった契機は、会社勤務時代に企業文化変革活動を社長に提案して、思う存分やらせてもらい、その結果、主観的に挫折したという体験です。
その時のキーワードが2つあります。
「錬金術」と「自己・非自己」です。
「自己・非自己」とはまさに「免疫」の話ですが、当時はまだ私の中では「免疫」という言葉にはつながっていませんでした。
いまから思えば、「脱免疫化」が私の関心事だったのです。
当時は「開かれた企業」という表現を使っていましたが。

エスポジトは近代社会の袋小路を解く鍵として「免疫」という概念を持ってきます。
そして「共同体」に対して、その言葉を対置します。
最初はピンときませんでしたが、読み直してみて、私が25年前に取り組みたかったことだと気づきました。

免疫とは、インフルエンザ騒動で問題になったワクチンのように、病気の原因となる細菌や毒素を弱体化させて人体に投与することで、病気への対抗力を高めることです。
医療の世界ではこのことはもう常識ですが、社会のあり方や私たちの生き方においても、それは大きなヒントを与えてくれるはずです。

「コミュニティとは重荷を背負い合う人のつながり」というのが、私の定義ですが、ここでいう「重荷」とはコミュニティの語源に含まれる「ムニス」と同義です。
そしてコミュニティとは、そのムヌスを「コム」、つまり「共にする」ということです。
免疫の語源は「イムニタス」、ムヌスを「イン」、つまり否定するものです。

コミュニティやコミュニケーション、あるいは企業組織に関心のある人であれば、たぶん新しい地平が見えてくるのではないかと思います。
「免疫」という視点でみると未来が見えてくるような気がしてなりません。

私のもうひとつの関心事だった「錬金術」ですが、これは私の思いとは全く別の形で、この20年に世界を振り回したような気がします。
この視点から世界を見ると、これもまたとても面白いです。

久しぶりに、免疫と錬金術のことを思い出しました。
しばらくこれをまた意識しながら、この時評を書こうと思います。
現下の政治も経済も時評するのさえかったるく空しいように思いますので、しばらくはやや長期の時評に逃避したい気分ですので。

| | コメント (0) | トラックバック (0)