カテゴリー「文明時評」の記事

2019/01/18

■カフェサロン「対話で感得するインド占星術」の報告

ヴェーダ占星術師のKishori(千葉和江)さんにお願いした「インド占星術」のサロンを、2回にわたって開催してもらいましたが、合計で25人を超える参加者がありました。
インド占星術への関心の高さに驚きました。
私はいずれにも参加しましたが、全く違った雰囲気のサロンになりました。
もちろん基本となるヴェーダの話は共通していましたが、参加者と一緒に場を創り出すというKishoriさんのおかげで、私にはまったくと言っていいほど違ったサロンでした。

1回目のサロンでは、ヴェーダそのものに関する疑問から始まったために、なかなかヴェーダの中身にはたどりつけませんでしたが、Kishoriさんによれば、それもまた必然的なことだったのかもしれません。
参加者のおひとりも同じような感想を送ってきてくれました。
2回目のサロンでは、ヴェーダの内容を中心に、魂の精神世界と心身の物質世界を分けて、とても具体的に、ヴェーダの世界観や死生観を話してくれました。
2回目のサロンでも終了後、Kishoriさんのセッションに以前から参加されている方が、Kishoriさんと参加者とのやり取りで理解が深まったといってくださいましたが、話し合うことの大切さを改めて感じさせてもらいました。

いずれの回でも、Kishoriさんはヴェーダとは「生きる知恵」「人類の操作マニュアルのようなもの」と最初に話されました。
大きな違いは、2回目は、最初にヴェーダの聖典の一つのサンスクリット版の「バガヴァッド・ギータ」の一節をKishoriさんが朗誦することから始めたことです。
その朗誦で、場の雰囲気が変わりました。
ヴェーダの前提には、魂の存在がありますが、「魂」の話も素直に聞ける状況が生まれたのです。
音(波動)の持つ大きな力を感じました。

Kishoriさんのお話をきわめて簡単にまとめると、私たちは、宇宙に遍満する「大きな魂」から生まれた「小さな魂」が、心と体という衣服を装った存在であり、それが故に、「間違い」や「幻想」から自由になれず、他者をだます傾向を持ち、感覚も不安定になってしまう、そこから解放されるための知恵がヴェーダにはある、というのです。
私の勝手な要約ですので、いささかの不正確さはお許しください。

ヴェーダの世界では、人の根源のことを知りたかったらヴェーダに聞け、という言葉もあるそうです。
どうしたら生きやすくなるか。
そこから、カルマ(因果)や輪廻、集合意識や阿頼耶識、死の意味、人の成長(人間存在の4段階)、徳と愛などの話題も出ました。
もちろん占星術、ホロスコープの話も出ました。

中途半端な報告は誤解を招きそうなので、私からの報告はこれでやめますが、Kishoriさんはご自分でのセッションも開いていますので、ヴェーダやホロスコープに関心のある方はKishoriさんにアクセスしてください。
Kishoriさんのフェイスブックは次にあります。
https://www.facebook.com/kishori.dasijapan

湯島のサロンでは、アーユルヴェーダのお話をしてもらったことがありますが、ヴェーダそのもののサロンは初めてです。
ヴェーダは宗教的な側面と哲学的な側面を持っていますが、哲学というと私たちはついつい古代ギリシアを思い出します。
しかし、インドのヴェーダには、神話的な人間的要素があって、それよりも古層の哲学を感じます。
死や生を考える、いろんな材料があったような気がします。

Kishoriさんは、とてもいいサロンだったので、また話をしたいとおっしゃってくれました。
ヴェーダ占星術師のKishoriさんの使命は、大きな魂(バガヴァン/クリシュナ)の知恵を多くの人に広げていくことなのだそうです。
そして他者にできるだけ喜んでもらう。
Kishoriさんは、毎回、手づくりのお菓子を参加者のために持ってきてくださいました。
そしてどんなぶしつけな質問にも、笑みを絶やさずに、応じてくれました。
毎年、3か月ほど、インドの聖地ヴリンダーヴァンで、魂を浄化しているからでしょうか。
私は、そこにヴェーダの本質を感じました。

機会があれ、またヴェーダサロンをお願いしようと思います。
Kishoriさんに叱られそうな報告で済みません。


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2016/02/22

■カフェサロン「人間と道具、あるいは人間とはなんだろう」の報告

昨日のカフェサロン「人間と道具、あるいは人間とはなんだろう」は、参加者6人のゆったりした集まりになりました。
話題提供者の小宮山さんは、国際箸学会の理事長でもありますが、箸のことを考え抜いているうちに、人間と道具とは切り離せないものだということにたどりついたのです。
小宮山さんは、人間とは道具がないと生きていけないものと考えているようです。
では、そういう意味での道具とは何なのか。
そして、なぜ道具は人間にとって不可欠なのか。
道具の効用はいったい何なのか。
そういうことを考えると、いろんな問題が見えてくるはずです。
とまあ、そんなサロンを想定していましたが、そういう話になったようでならなかったような気もしますが、しかしとても知的なサロンになったことは間違いありません。

参加者の深津さんが、ウィキペディアの「道具」の定義の最初にあるのが、「仏道修行の用具」だと教えてくれました。
今まで気づかなかったのですが、「道具」に「道」という文字がつかわれていることの意味が少しわかりました。
これには深い意味がありそうです。
人間の指が道具になる「咫(あた)」とか大工さんの常備道具だった「スコヤ」という話も出ました。
私は、その言葉自体を知りませんでしたが、道具を考える大切な視点がありそうです。

本来、道具は人間の手段だったのに、いまや人間が道具の手段になってしまったのではないかという話も出ました。
実は私が小宮山さんの話に関心を持ったのは、道具作りの好きな小宮山さんでさえ、そう思っているのだと感じたからです。
「人間とは道具がないと生きていけない」と考えるということはそういうことを含意しています。
私は、全くそうは思っていないのです。

小宮山さんはぶんぶんゴマの話も、実演付きでやってくれました。
ぶんぶんゴマから学ぶことも大きいです。

以上は話のほんの一部ですが、サロンらしいサロンでした。

ところで、このサロンの案内の時に、人間だけがやっている行動の話を書きました。
それについて補足しておきます。
ある本で読んだのですが、チンパンジーの認知に関する世界的な権威の一人、マイケル・トマセロは、「2頭のチンパンジーが丸太を一緒に運ぶところを見ることなどないだろう」と言ったそうです。
その話を紹介している道徳心理学者のジョナサン・ハイトは、その話を聞いて、人間がほかの生物と違うのは、そういう「意図の共有」ができることだと言っています。
私は、それを読んで、道具の本質は「意図の共有」にあると思いました。
昨日のサロンでも最後にその周辺の話になりましたが、残念ながら時間切れでした。
この話は、コミュニケーションの問題につながります。
このあたりはいつかまたサロンをしたいと思います。


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2016/01/16

■カフェサロン「サービス文明論を語ろう」の報告

今日のカフェサロン「サービス文明論を語ろう」はまたまた超満員になってしまいました。
いつもと違って、今回は企業にお勤めの方にも少し声をかけさせていただいた結果、半数は企業の人でした。
しかし、ホームレス支援や障がいのある人の就労支援などに関わるNPOの人など、いつものように様々な人も参加してくれました。
若者の参加がなかったのが残念でした。

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話題提供者は、元日経記者の坪田知己さん。
坪田さんはずっと前からメディア革命による社会や企業のあり方についての本も出されていますが、多様性を支えるサービス文明社会が到来したという「サービス文明論」も電子出版しています。
今回は、今や私たちは「機械の奴隷」になってしまったという話から始まり、つづいて、サービス文明社会の特質やそこでの生き方、働き方について、さまざまな問題提起がありました。
いろいろと突っ込みたい論点はたくさんありましたが、要はみんながもっと自分らしく生きられる社会が来そうだ、あるいはそういう社会を目指すべきだという話だったように思います。
そして、そのためのキーワードは、「個人の尊厳」と「信頼」「自律」という話でした。
あまりにも簡単なまとめですみません。

実際には、利己主義から利他主義へ、匿名社会から顕名社会へ、オープンエンドからオープンスタートへ、などといった話もありました。
「健常者」と「障がい者」の区別も解消されるのではないかという議論もありました。

アマゾンが過去の購入履歴を分析して、個人あてに推薦してくる書籍はなかなか的を得ているというような話もありました。
しかし、まさにそこにこそ、私は「管理された人間」を感じます。
自分では気づかないままに、得体のしれないものに操作され、「自分らしく生きている」ようで実は、その「自分らしさ」も「与えられた自分らしさ」になっているのではないかと思うわけです。
言い換えれば、「自律的」に生きているようで、実は「他律」されているのではないかと言う話です。
今回は、何しろ参加者も多かったので、そこまでの議論にはなりませんでしたが、いつか議論したいテーマではあります。

さらにいえば、そもそも「サービス」という言葉が問題かもしれません。
サービスの語源は「スレーブ slave」、まさに奴隷です。
私自身は、サービス社会は「奴隷社会」とほぼ同義と考えています。
坪田さんは、一方で「おもてなし」という言葉も使っていましたが、おもてなしには「尊厳」と「信頼」が含意されていますので、むしろ「おもてなし」とか「ホスピタリティ」という言葉のほうがいいような気もします。
しかし最近は、「おもてなし」も品格を失ってしまった言葉に成り果ててしまったかもしれませんが。

坪田さんは、インターネットと仏教の話にも少し言及しました。
常々、インターネットは華厳経に出てくる「インドラの網」、つまりインドラネットと同じだと思っている私にとっては、この議論もしたかったのですが、これまた始めるとさらに時間が延びるので我慢しました。
しかし、インターネットの意味は、もっとしっかりと考えるべきだろうと思います。

というわけで、1時間延長したにもかかわらず、話したりなかったことがみなさんそれぞれに多かったのではないかと思います。
そして、いかにも勝手な報告になってしまいました。

サロンは、異論反論が出るところに意味があります。
坪田さん、ありがとうございました。
坪田さんの問題提起は、さまざまな刺激を与えてくれましたので、どなたか、このパート2をやってくれませんか。


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2011/11/24

■システムと人間の対立

挽歌編で書きましたが、先週、思い出して、改めて「懐かしい未来」を読み直しました。
日本ではしばらく絶版になっていましたが、今年のはじめに復刊されたのです。
2009年版の「幸せの経済学」というあとがきも追加されていました。
ますます説得力が高まっています。
それなのに、どうして時代の流れは、そちらに向かないのか、不思議です。
本編も私としてはめずらしくていねいに読み直しましたが、そこですでに自由貿易批判が行われていました。
TPP論者に読ませたいですが、呼んでも理解はできないでしょう。

改めて本書を読んで、「システムと人間の対立」という基本構造を再認識しました。
今日の時評は、共感した文章の引用です。

著者のヘレンさんは、こう書いています。

ラダックでの経験は、私たちの危機の第一の原因は、人間の本性でもなければ進化でもなく、この地球と人びとの双方を圧倒しながら執拗に拡張し続ける経済システムなのだ、ということを確信させてくれた。不幸なことに、このシステムはあまりにも大きく成長してしまったので、元々は人間が生み出したものと認識することが困難になってきており、逆らいようのない進化の力であるかのように捉えられがちなのだ。
チャールズ・ライクが「システムという名の支配者」で警告していた話と同じです。
ヘレンさんは、さらに続けます。
政策決定者たちは自分たちが自然で人間的なコミュニティにダメージを与えていることに無自覚である。私たちが直面しているのは、悪意のある陰謀ではなく、構造的な陰謀なのだ。換言すれば、絡み合うさまざまな構造が、生命そのものを脅かす開発の道筋を進めることによって、システム的に「陰謀を企てている」のである。
そのシステムは、人間的な見地からは根本的に不合理で、命そのものの関係性のつながりを圧倒し、破壊しかねない脅威である。まさにこれらの経済活動が、この地球上のいたるところで現実の生物の「成長」を危機に陥れているときに、現代の経済活動に関連して「成長」という用語が使われるというのは、まさに苦い皮肉といえるだろう。
私の退屈なコメントを付け足す必要はまったくありません。
「懐かしい未来」は、NPO法人懐かしい未来から復刊されていますので、ぜひお読み下さい。
ここからもアマゾンを通じて購入できます。


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2011/02/06

■人間という種の育ち方

人間の持つ知性や言葉は、最終的には人間自身を支配し、不幸な状態へと追い詰める方向に機能することになる、と考えたのは、ホルクハイマーです。
昨今の国内外の政治状況を見ていると、その言葉を思い出さざるを得ません。
その一方で、テレビはその状況からみんなの目を背けるためか、知性や言葉の意味を嘲笑するような番組を増やしています、
そうした番組には腹立たしさを感じながらも、もしかしたらそこにも大きな効用があるのではないかなどと思ったりする昨今です。

言語は、成果志向型行為だけではなく、了解志向型行為のためにもあると言ったのはハーパーマスです。
そうした、理解しあうための行為を「コミュニケーション的行為」と呼んだのです。
ここでの「コミュニケーション」を私は「共創」と呼んできました。
この発想は最近さまざまなところで広がっているように思います。

ホルクハイマーが人間の知性に不安を持ったのは、自然支配を志向するキリスト教文化を根底にした近代西欧世界のパラダイムの中の人だったからだろうと思います。
もし彼が日本に生まれたら、たぶん違った発想が生まれたでしょう。
日本と近代西欧では「言葉」の持つ意味がまったく違うような気がします。
このあたりは、言語学者やコミュニケーション学者、あるいは社会学者のテーマというよりも、もっと大きな視点で考えないと見えてこない流れのように思います。
つまり、人間がどう育てられているか、ということです。

よく科学技術は大きく進歩したが、人間の理性そのものは進歩せず、変わっていないといわれます。
私はそう思っていません。
人間は大きく変わっています。
人間は環境との関わりあいの中で共進化していると私は思っているからです。
そのことは自分のことを考えただけでよくわかります。
生活環境の変化の中で、私の理性も欲求も大きく変わっているからです。

人間は間違いなく進化しています。
もちろんネアンデルタール人と現代人が同じ部分も多いでしょうが、非連続的なほど変質した部分もあるはずです。
但し、変質や進化が「良い方向」に向かっているかどうかは別の話です。
そもそもそうした価値判断は、どこに視点を置くかで逆転するものです。
ある意味では、科学技術の変化(進化)も良い方向だと思うのは、一つの見方でしかありません。

前置きが長くなってしまって、何を書こうとしたか忘れそうです。
書きたかったのは、どうしてみんなこうも、自らの成果志向型に向かうかと言う嘆きです。
与謝野議員の行動にその典型を見ますが、自らの小さな目的を目指すあまり、せっかくの一度きりの人生を汚し、不幸を招く人が多すぎます。
それが個人の問題だけにとどまればいいのですが、人の生はつながっていますから、決してそうはならないのが現実です。

エジプトの騒乱も日本の国会の騒乱も、どこか似ているところがあって、人間の育ち方が間違っていたのではないかという気がしてなりません。
間違った種は滅びに向かうはずですが、どこかで軌道修正できるのでしょうか。
私の個別の生を大きく越えた話ですが、その問題は私自身の生にも深くつながっているように思っています。
まだまだ自分自身の生き方に問題がありそうです。

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2010/10/06

■1枚の写真

ある本で1枚の写真を見ました。
10年ほど前に、米航空宇宙局(NASA)が公表した、夜の地球の写真です。
NASAのホームページより引用した写真をネットで探しました。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/kan-tusin/kankyo/ondan.htm

そこには、アメリカと日本が輝いています。
まあ考えてみれば当然ですが、やはり唖然とします。
夜はやはり暗くなければいけません。
お時間があったら見てください。

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2010/03/08

■「最初の1行は神からくる」時評編

「詩の最初の1行は神からくる。2行目からは人が作る」
今日の挽歌の書き出しの1行です。
挽歌を書いていてつくづく思うのは、「最初の1行は神(外)からくる」ことの神秘です。
時評のほうは「書くこと」が決まってからパソコンに向かいますが、挽歌は何も考えずにパソコンに向かうと自然と書き出しの文章が浮かんでくるのです。

これは挽歌だけの話ではありません。
おそらく私たちの日常生活においてもそうなのでしょう。
私たちの生は自分でコントロールしているようですが、実際にはそうではないように思います。
後から考えると、なぜあの時、あんなことをしたのかと自分ながらに不思議に思うことはよくあります。
小賢しい個人の判断を超えた、大きな声が私たちを動かしているとしか思えません。
しかしそうした声に私たちは応えられなくなってきているのかもしれません。

そう思ったのは、先週のチリ地震の余波で起こった日本での津波に関する報道を見ていたときです。
テレビで話題になっていますが、今回はしっかりした避難警報が出たにもかかわらず多くの住民はその警報をあまり尊重しませんでした。
なぜ避難しなかったのか質問された古老が、海を見ていて、この海なら大丈夫だと思ったと答えていました。
その人にとっては、科学的な予測よりも自然が示す表情のほうが信頼できたのです。
科学的な予測よりも自然からのメッセージのほうが正しいと言うつもりはありませんが、私たちはもっと自然からのメッセージに耳を傾けるべきではないかと思いました。
自然と話し合う能力を、私たちはどんどん失っていることは間違いありません。

環境問題や持続可能性が議論されていますが、その出発点は自然とどう付き合っていくかではないかと思います。
自然環境を壊した技術が、自然環境を回復させるなどという発想は、私には考えられません。
自然との付き合い方を変えることは、とりもなおさず「技術のパラダイム」を変えることです。

古老の言葉は、私には神の啓示のように聞こえました。

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2010/03/01

■免疫力の高さ

ホームページの週間記録に書いたのですが、先週、歯医者さんから
「佐藤さんは免疫力が強いので、虫歯の治療後の処置をきちんとしていなくても炎症が起きにくいんです」
というようなことを言われました。
かなりの深い治療をしたときにも、佐藤さんのことだから痛みは出ないでしょうが念のために、といって痛み止めをもらいましたが、案の定、痛みは出ませんでした。

先週、読んだエスポジトの「近代政治の脱構築」のキーワードは「免疫」です。
実は、この本に感激した一つの理由は、それが理由です。

私が人生を変えてしまった契機は、会社勤務時代に企業文化変革活動を社長に提案して、思う存分やらせてもらい、その結果、主観的に挫折したという体験です。
その時のキーワードが2つあります。
「錬金術」と「自己・非自己」です。
「自己・非自己」とはまさに「免疫」の話ですが、当時はまだ私の中では「免疫」という言葉にはつながっていませんでした。
いまから思えば、「脱免疫化」が私の関心事だったのです。
当時は「開かれた企業」という表現を使っていましたが。

エスポジトは近代社会の袋小路を解く鍵として「免疫」という概念を持ってきます。
そして「共同体」に対して、その言葉を対置します。
最初はピンときませんでしたが、読み直してみて、私が25年前に取り組みたかったことだと気づきました。

免疫とは、インフルエンザ騒動で問題になったワクチンのように、病気の原因となる細菌や毒素を弱体化させて人体に投与することで、病気への対抗力を高めることです。
医療の世界ではこのことはもう常識ですが、社会のあり方や私たちの生き方においても、それは大きなヒントを与えてくれるはずです。

「コミュニティとは重荷を背負い合う人のつながり」というのが、私の定義ですが、ここでいう「重荷」とはコミュニティの語源に含まれる「ムニス」と同義です。
そしてコミュニティとは、そのムヌスを「コム」、つまり「共にする」ということです。
免疫の語源は「イムニタス」、ムヌスを「イン」、つまり否定するものです。

コミュニティやコミュニケーション、あるいは企業組織に関心のある人であれば、たぶん新しい地平が見えてくるのではないかと思います。
「免疫」という視点でみると未来が見えてくるような気がしてなりません。

私のもうひとつの関心事だった「錬金術」ですが、これは私の思いとは全く別の形で、この20年に世界を振り回したような気がします。
この視点から世界を見ると、これもまたとても面白いです。

久しぶりに、免疫と錬金術のことを思い出しました。
しばらくこれをまた意識しながら、この時評を書こうと思います。
現下の政治も経済も時評するのさえかったるく空しいように思いますので、しばらくはやや長期の時評に逃避したい気分ですので。

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2009/06/11

■近代は自らを終焉させる仕組みを内在させていた

日本農村情報システム協会の不正支出と自己破産申請がマスコミをにぎわせています。
こういう話は、それこそ山のようにありますし、おそらく霞ヶ関あるいは自治体と付き合いのある人なら、似た話を一つ二つはすぐ思い出せるのではないかと思います。
にもかかわらず、なかなかそういうものはなくなりません。
いや、もしかしたら増えているかもしれません。
私が知っている少ない情報でも、この数年、霞ヶ関が嘘のように「助成金」と称して税金をいろんなところにばら撒いている話はよく聞きます。
そうした文化のうえに、定額給付金は立案されたとしか思えません。
少しは全国民にもばら撒いて、自分たちの罪の意識を軽減しようという話です。
とまあ、こんな邪推をしたくなってしまいます。

それにしても、こうした天下り組織の実態は一向に明らかになってきません。
今頃こんな話が話題になるのは、その証拠です。
テレビのキャスターやコメンテーターたちも、もっとあるのではないかといつも言います。
1000万円もあれば、全国の天下り組織の実態調査はできるでしょうから、もしそう思ったら調査をしてほしいです。
それができる立場にいる人も少なくないはずです
しかし、具体的に全体を調査するという動きは聞こえてきません。
年金の時も薬害の時もそうでした。
責任者も報道者も、具体的には誰も動こうとしないのです。
なぜなのでしょうか。
それが明らかになったら困るので、残しておいたほうがいいと思っている人が多いのでしょうか。
批判者は、批判の対象がなくなることが一番怖いことなのですから、批判の対象をなくすようなことはしないでしょうし。

マスコミは、さまざまな不正や犯罪的行為を暴いてくれます。
しかし、そこから先はなにもしません。
不正行為がなくなれば、マスコミは報道する材料が減るからではないかなどと思ってしまいます。
まあ、そんなことはおそらくないでしょう。

と、ここまで書いてきて、ハッと気づきました。
産業と同じく、問題解決したら市場がなくなるというジレンマは、マスコミにもあるはずですから、こうした疑いはまんざらありえない話ではないのかもしれません。
そういえば、最近の報道ステーションは、ただ同じ批判を繰り返すだけの退屈な番組になってしまいました。
マスコミも、やはり「産業のジレンマ」「近代のジレンマ」の渦中にあるのです。
週刊誌がセブンイレブンを批判できないのと同じ構図が至るところに張り巡らされているのでしょうか。
批判が封じられれば、残るのは滅びの道です。

近代は、自らを終焉させる仕組みを内在させていたのです。
私にとっては、久しぶりの大発見です。
世界観が変わりそうです。

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2009/04/07

■機械的につながってしまった社会の脆さ

オフィスに出かけようと我孫子駅に着いたら、またダイヤが乱れていました。
実は先週のダイヤの乱れた日に、あわてて電車に乗って、回送の電車に乗ってしまった経験があるので、今度はゆっくりと状況を判断しました。
原因は、代々木公園駅の信号トラブルでした。
人身事故でなくてホッとしました。
そのため、千代田線は我孫子と松戸の区間往復運転でした。
細かく言うと、途中の松戸・綾瀬間と表参道・代々木上原間の2区間が不通になっていたのです。
千代田線に並行して走っている常磐線は正常でした。

まあそれだけの話なのですが、こうしたことからもいろいろなことがわかります。
千代田線に乗ったこともない人には、場所の感覚がわからないでしょうが、代々木公園駅は千代田線の我孫子と反対側の終点の手前の駅です。
そこの信号トラブルにもかかわらず、なぜ遠く離れた松戸・綾瀬間(これは相互乗り入れのJR区間です)が不通になるのか、不思議です。
まあ、そんなことに頭を働かせていると、この厳しい社会は生きていけないような気もしますが、逆にそうしたことに気づかないために、みんな生きにくくなってしまっているのかもしれません。

遠く離れた東京メトロ管区の信号トラブルが、それとつながっているJR管区の電車の不通を引き起こしているということは、象徴的です。
社会はいまや実に複雑に絡み合っています。
関係は見えなくとも、すべてが連動しているのです。
世界にはもはや、自分の日常の暮らしと無縁なことはないのです。
いつ見えないつながりを通して、自分の暮らしに津波が押しよせてくるかもしれません。
北朝鮮のミサイル事件は、見えているだけ安全なのかもしれません。

さらにいえば、さまざまな仕組みのつながりは、それこそ自己創成的に、リゾーミックに成長しているのです。
したがって、もはや管理不能になりつつあります。
もちろん、その管理不能な仕組みを意図的に操作することは可能ですが、そのリスクは大きいです。
昨今の金融の混乱は、その現われだろうと思います。

ところで、今回は千代田線と並行して走っている常磐線が正常運転をしていたのですが、実はこれは珍しいことなのです。
いつもはどちらかがトラブルに会うと、他方もそれに付き合う構造なのです。
そうしたダブル不通に出会っていつも感ずるのは、JRの「安全」観への疑問です。
これは書き出すと長くなるので、また機会を改めます。

第一、千代田線の事故なんて、皆さんの関心事ではないでしょうし。

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