カテゴリー「お誘い」の記事

2017/05/25

■ワークショップサロン「大災害に備えるために~東日本大震災の実例から教訓を得る」のお誘い

久しぶりにワークショップサロンをやってみたいと思います。
年に何回かは、ワークショップ型のサロンをやっていますが、今回は上原龍さんにファシリテーションをお願いすることにしました。
テーマは、「大災害に備えるために~東日本大震災の実例から教訓を得る」。

上原さんは、このワークショップを通して、「さあどうする? いざというときのまさかを軽減するために」を問いかけてくれると思いますが、同時に、「価値観の多様性を知り、より適正な判断力を身につける」ことも体験してほしいと言っています。
テーマはもちろんですが、併せて、上原さん直伝のワークショップも体験できます。

テーマに関して、上原さんはこう言っています。

 東日本大震災から6年以上が過ぎました。
あのとき、すぐまた大災害が起きるかもと、 備えを進めた方もおられるでしょう。
さて今はどうでしょうか? 
 あの大災害をもう一度振り返り、教訓を探ってみましょう。
全員参加型の簡単なゲームにより、そのための機会をご提供致します。

さてどんなワークショップが体験できるか。
とても楽しみです。
ワークショップスタイルの関係で、今回は先着10人に限らせてもらいます。
と言っても、湯島のサロンは、来る者は拒まずですので、いささか心配ですが。

大災害に備えたい人はもちろん、備えたくない人も歓迎です。
みなさんの参加をお待ちしています。

○日時:2017年6月4日(日曜日)午後2時~4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
○テーマ:「大災害に備えるために~東日本大震災の実例から教訓を得る」
○ファシリテーター:上原龍さん
○スタイル:ワークショップを通して、みんなで考えていきたいと思います。
○会費:500円
○申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤修)

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2017/05/15

■5月27・28日は我孫子アートな散歩市に合わせて、自宅でオープンカフェを開きます

5月6日から6月4日まで、我孫子アートな散歩市が開催されています。
毎年、わが家にある娘のスペインタイル工房 Taller de Junも参加する関係で、雨が降らなければ、工房の横の庭で、私がオープンカフェを開いています。
といっても、コーヒーを飲んでもらうだけのカフェなのですが。
例年、いろんな人が立ち寄ってくれて、いろんな話がはずみます。
http://www.city.abiko.chiba.jp/event/event_moyooshi/art_sanpo.files/SKM_C554e17042812020.pdf

娘のスペインタイル工房 Taller de Junが参加するのは5月27日と28日です。
その日は攻防が解放され、散歩市に来た人が立ち寄ってくれます。
もっとも我が家は会場から少し外れたところにポツンとあるので、来客は多くはありません。


カフェのオープンも、それに合わせて、5月27日と28日の2日間で、今年は午後だけのオープンです。
時間は1時から午後4時までです。
庭のテーブルは一つなのですが、コーヒーは用意しておきます。
娘のパートナーがやっている、イタリアンのお店のヴィスコッティも用意しておきます。

場所は、手賀沼公園の近くです。
我孫子駅南口前の「アビシルベ」(我孫子インフォメーションセンター)に散歩市の地図があると思います。
我孫子駅から10分ほど、手賀沼公園から5分ほどです。
わからなければ電話ください(090-7416-1679)。
たぶんその日は電話に出るようにします。
いつも携帯電話は「発信中心」のため、音を出さないようにしているので、かかって来ていても気づかないことが多くて失礼をしています

雨が降った場合はお休みです。
晴れるといいのですが。

地図を添付します。
クリックすると大きくなると思います。
左下のFがカフェの場所です。

Img223


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2017/05/14

■カフェサロン「沖縄が失ってしまったもの、失いつつあるもの」報告

悪天候にもかかわらず、今回も9人の参加者がありました。
途中で雨がひどくなってきたため、わざわざ長靴を買って、履き替えてきた人もいました。
そんなにしてまでも人を呼び込む沖縄のオバァの力はさすがです。

今回の話題提供者は、20冊を超える沖縄関係本の出版に関わってきた平井かおるさん。
平井さんは、まず、沖縄の流行歌「カンポーぬ喰ぇぬくさー」を聴かせてくれました。
70年代に流行った沖縄戦をうたった歌だそうです。
ユーチューブで聴けますので、みなさんもどうぞ。歌詞も出てきます。
https://www.youtube.com/watch?v=ixXwo7zp1hk

「あなたもわたしも戦争での艦砲の食べ残しだ」という歌詞が、「少しとぼけたようで軽快でもある旋律」に乗せてまったりと歌われています。
平井さんは、この歌に、沖縄の人たちの、
「持たなければ生きていかれなかった底力と言葉にはとてもできない切なさ」
を感じ、「これぞ沖縄だ」と思ったそうです。

つづいて、平井さんが選んだ6つの沖縄オバァのクガニコトバ(金言)の紹介。
それを通して、沖縄の立ち位置や歴史、変化(失われつつあるもの)を、時折、ウチナーグチ(沖縄言葉)を入れながら、話してくれました。
参加者それぞれが、沖縄が失ったもの、失いつつあるものを、そして、私たちが失いつつあるものに考えをめぐらせたのではないかと思います。

話し合いでの話題はさまざまでした。
あの世は家の軒先ほど近いところにあって、生活につながっている話。
先祖崇拝のトートーメとウタキの話。
ユタとノロの話。
もあい(もやい)の話。
そうしたことが少しずつ変わってきている話。
沖縄で、気安く「オバァ」などと声をかけてはいけない話。
沖縄の人たちの誇り高さの話。
そして無念さの話。
本土で沖縄出身者が差別的に扱われた話。
紹介しきれませんね。

ウチナーグチは母音が3つであることも知りました。
それに、集落ごとに言葉が違うこと。
そうしたウチナーグチがだんだんと若い世代には使われなくなってきたこと。
そして、なによりも、オバァがいなくなってきたこと。
そうした話は、すべて私たちのまわりでも起こっていることかもしれません。

最後に、沖縄のチャップリンといわれた天才ブーテンの漫談のCDを聴かせてくれましたが、まったく聞き取れませんでした。
言語がこんなに短時間に変わっていくものであることに気づかされました。
いや、言語だけではなく、もしかしたら文化も価値観もそうかもしれません。
そう思うとぞっとします。
昨日、私はそれに気づいて、実際にぞっとしました。

「カンポーぬ喰ぇぬくさー」の歌や沖縄オバァのクガニコトバの、そのさらに下にあるだろう、琉球本来の古層文化への関心もますます高まりました。
いつかそうしたテーマのサロンを、沖縄の人に開いてもらえればと思っています。

明日は沖縄が日本に復帰して45年目です。
「平和で住み良さそうで、観光イメージの強い沖縄」という、私の安易なイメージを考え直さなければいけないと思うとともに、沖縄に対して、本土の政府(国民)がどう対処してきたかに関しても考えさせられました。

タイミングよく、今朝の朝日新聞の天声人語で沖縄のことが書かれていました。
まだお読みでない方はぜひお読みください。


20170513


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2017/05/07

■カフェサロン「教育勅語を読んでみよう」の報告

連休真っ只中にもかかわらず、「教育勅語を読もうサロン」には、10人の参加がありました。
呼びかけた者としては、もっと大勢の参加を期待していましたが、議論はかなり盛り上がり、そのため「改正教育基本法」を読むところまでたどり着きませんでした。
私は、今の社会の問題のほぼすべては、学校教育に起因していると思っていますので、「教育勅語」も読まずに、市民活動などしないでほしいと思っているほどです。
理念が違っていれば、善意による行為もまったく正反対のものにさえなりかねないからです。
以前のサロンで少し議論したように、ナチスドイツの歴史が示唆していることです。

参加者は事前に教育勅語を読んできてもらっていましたが、まず最初に全員で教育勅語の原文を声を出して読んでみました。
そもそも教育勅語は小学校1年生から全員で唱和する形で学校教育に取り込まれました。
意味など分からなくても、ともかく暗誦させられ、毎日それを「みんなで」声を出して朗誦させられていたわけです。

その後、全員から感想を話してもらいました。
この段階ですでに議論が始まってしまいました。
ちなみに、内容的にはいいのではないかという人は1人、読んでみて腹が立ったと明確に言う人が1人でした。
他の8人は、時代背景の中では(国家統治のためには)意味があったという人もいましたが、そういう人も含めて、教育勅語には否定的でした。
最近肯定的に語られることもある、「夫婦相和シ」「父母ニ孝ニ」などのいわゆる徳目に関しても疑問を投げかける人もいました。
特に「夫婦相和し」は評判が良くなかったのですが、そこから、個々の徳目について話し合いました。
教育勅語が発布された時代背景が大切だという指摘もありましたが、勅語が議論されていた時代は自由民権運動が広がっていた時代であり、教育勅語発布の前年には大日本帝国憲法が発布されています。
政府としては、国民の動きに大きな不安を抱えていた時代だといってもいいでしょう。

教育勅語では、夫婦や兄弟(姉妹は出てきません)や親子に関して、「徳目」が書かれています。
夫婦仲良く、家族仲良く、親には孝行を、と言われると、それを正面から否定するのは難しいかもしれません。
そこに大きな落とし穴があり、これは、その前後の「国民は天皇(国家)の臣民になれ」というための「騙しの部分」だという指摘もありました。
それに、こんなことはわざわざ勅語で指示されることではないという人もいました。

しかし、実はこのこと、つまり国家が家族関係にまで口を出してくることに大きな意味があったとも言えます。
それに当時の社会状況を考えれば、「夫婦相和し」とは妻は夫に無条件で従えということであり、子どももまた親には絶対服従ということでもあります。
夫の意に沿わない妻は一方的に離縁され、生活が困窮すれば、娘は身売りされた時代です。
そういうことを踏まえれば、この徳目は、私には徳目どころか、否定すべき項目でしかありません。
そこには、個人の尊厳という理念が不在なのです。
「言葉」は、多義的なものであり、その意味を吟味しなければいけません。

勅語で語られる「徳目」は、要するに家族を家父長制のもとに管理しやすい形にしようというものであり、それは天皇を家父長にした「大きな家族」である日本国家体制を確固たるものにするための下部システムづくりであり、無垢の子どもたちの洗脳教材だったとしか思えません。
つまり、いざ戦争になったら、「身も心もお国のために捧げる」ことの準備でしかなかったわけです。
そして、その後、日本は見事に国民の大きな抵抗もないままに戦争に入っていくわけです。

そうした「教育勅語」の精神が、いままた復活しようとしている。
自民党の憲法改正案を見ればわかりますが、憲法でまた家族にまで介入してこようとしているのです。
教育無償化の一方で、無垢な子どもの洗脳教育がはじまろうとしている。
保育問題は単なる託児発想で、そこには子育ち支援の思想は感じられません。
そして私には、少なくないNPOがそれに荷担しているように思えるのです。

いささか書きすぎましたが、教育勅語をぜひ読んでみてほしいです。
そこで語られているのは徳目ではなく、国家のためにすべてを差し出す「国民教育」の思想であって、一人の人間として成長していく個人の視点はまったくありません。

いつも以上に主観的な報告になりましたが、これ以外にもいろんな話が出ました。
時代に合った倫理を提起していくべきだという話から、倫理や規範、エシックスの話題も出ましたし、「教育」という言葉への違和感も出されました。
夫婦相和しには、夫婦喧嘩も入るのかというような、話もありました。

サロンもなかなか終わらなかったのですが、終わった後もみんななかなか帰ろうとせずに、話が続いていました。
このテーマもまた継続することにしました。
どなたか問題提起したり、私見を主張したりしたい人がいたらご連絡ください。
事務局をつとめますので。

Chokugo170506


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2017/04/29

■コムケアサロン「生活の中での看取り」の報告

「看取りシリーズ」サロン3回目は、「生活の視点からの看取りを考える」をテーマにしました。
大型連休初日にも関わらず14人が参加しました。
話題提供者の小畑万里さんは、ていねいなレジメをつくってきてくださいましたが、それと併せて、実際にご自身が看取られたご両親の「老化のプロセス」を表にして、お話ししてくださいました。
ですから、とても具体的に「生活の中の看取り」を考えることができました。
そして、改めて、人によって異なる表情を持っている「看取り」を、一般論で語ることができないことを痛感すると同時に、そうした個々の看取りの中から学ぶことの多さも感じました。

小畑さんは、まず、「看取り」を、医療で想定されている看取り(狭義の看取り)と生活の中での看取り(広義の看取り)に整理し、前者は死が差し迫った時の比較的短期間の看取りであり、病気の治療が中心になるが、後者は不可逆的に死に向かう生活のプロセス全体に寄り添うことであり、老いへの対処とケアが中心になると説明してくれました。
併せて、「見守り」ということの大切さも、看取りとのつながりで話してくれました。

今回は病院や施設で「看取り活動」をしている人、看取り経験がある人、さらには豊かな人生の最期に向けて役立てるようなことをしたいと思っている人、あるいは自らの身近に看取りを意識しだしている人が多かったですが、なかには「看取り」など考えたこともない人もいて、いつものように様々な視点が出されました。

小畑さんの話にQOL(生活の質)が出てきましたが、それと同時に、QOD(クオリティ・オブ・デス:死をどう迎えるか)が大切だと「看取り」の現場で活動されている人が、生々しい実体験を踏まえての指摘をしてくれました。
最近ようやく日本でもQODの議論が広がりだしていますが、この面ではまだまだ日本遅れているように思います。

小畑さんは、老化による要介護状態(生活に何らかの支障が生じる期間)は男性で9年、女性で12年半くらいというデータを紹介してくれましたが、小畑さんの場合、10年にわたる生活支援の中で、「看取り」を意識したのは、最後の3年程度だったそうです。
もちろん人によって違うのでしょうが、生活の中で寄り添っていると、ある時点で、死が意識されだすようです。
「死の意識」。
それはたぶん双方それぞれに生まれてくる意識でしょう。
そこから何が変わっていくのか。
十分には議論できませんでしたが、とても大切なことが示唆されているように感じました。

看取りと看取られの話も出ました。
よく「ケアしていると思っていたら自分がケアされていた」というボランティア実践者の話を聞きますが、それは「看取り」にも言えるような気がします。
私たちは、看取りという行為が、死にいく人のための行為と考えがちですが、死にいく人が客体、看取る人が主体という関係を逆転して考えることも大切ではないかと思います。
それに、私の体験でもあるのですが、「看取り」から教えられることはとても多いです。
これもまたもう少し話し合う場を持ちたいテーマです。

自らの看取り体験に、いくばくかの心残りがあり、それが気になっている人も少なくありません。
サロンでもそうした思いが開陳されましたが、やはり死者は死んでからもなお、看取った人たちを見守っている気もしました。
若い時からこうした活動に触れてきている人が、見送った人たちが私たちの話を聞いているとしたらどう思っているだろうか、と言ってくれました。
看取りは完結する行為ではなく、実は終わりのない関係なのかもしれません。

ちなみに、「エンディングノート」の話題も出ましたが、時にそれが奇妙なビジネスの餌食になっていることの指摘もありました。
いまや時代は、あらゆるものを「商品化」「市場化」してしまう状況で、「看取り」もその餌食になってしまう惧れは否定できません。
それに対して、最近、施設や病院ではなく、自分たちで終の棲家、あるいは終のコミュニティを創ろうという動きが出てきているという紹介もありました。
私が目指していることの一つです。

看取り体験をもっと共有化できるようなことに取り組めないかという話も出ました。
病院や施設では少しずつ始まっているようですが、実は、小畑さんとは、そうした看取りでの体験知を集めて、社会の共通資産にできないかという構想を話し出しています。
しかしまだその一歩を踏み出せずにいます。
仲間になってくださる人がいたらご連絡ください。

いつものようにまた極めて主観的な報告になりましたが、参加者に恵まれて、実に拡がりのあるサロンだったと思います。
私もたくさんのことを考えさせられました。


Obata20170429


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2017/04/23

■リンカーンクラブサロン「税制改革と政治革命の可能性」報告

昨日のリンカーンクラブサロンは、異論が飛び交う大荒れの話し合いになりました。
しかしとても平和裏に進んだのでご心配なく。
異論をぶつけ合うことこそ、民主主義の原点なのです。

テーマは「税制改革と政治改革」でしたが、あまりに大きなテーマなうえに話が大きな話から入ったために、話題が広がりすぎてしまった感があります。
政治の問題には関心があるが、リンカーンクラブサロンはちょっと敷居が高いといっていた、自称「ただの主婦」の方も初めて参加してくださいましたが、議論が飛び交う雰囲気にちょっと戸惑ったかもしれません。
でも次の予定があるにもかかわらず、結局最後まで残ってくれました。
初参加のおふたりの女性は、話し手の武田さんが異論をすべて寛容に受け止めてくれることに感心していました。
あまりに話が広がったので、武田さんの「妙案」がしっかりと議論されなかったのが残念ですが、武田さんの「妙案」は、改めて雑誌に掲載されますので、ご関心のある方にはPDFを送ります。
リンカーンクラブのホームページにも掲載します。

ちなみに、参加者から「税制がらみでの企業の海外流出」や「ベーシックインカム」の問題も提起されましたが、深掘りまで至りませんでした。
私の責任です。
初参加の方が4人もいて、しかも3人は女性でしたので、もう少し柔らかな運営をできればよかったのですが、前半の話し合いは参加しにくかったかもしれません。
私にとっては大いに反省の残るサロンでしたが、終了後もみんなそれぞれに話していて、私はなかなか帰れませんでしたので、まあそれはそれでいいサロンだったということにさせてもらいましょう。
いろんな人が、ちょっと政治につながるような話し合いの場がもっともっと増えていけばいいなと思います。

今回も参加者のお一人が取り組んでいる「主権者教育」の話が出ましたが、
次回は、5月6日に「教育勅語」を読むサロンです。
これはまさに「主権者教育」にもつながるテーマです。
多くの人に参加していただきたいと思っています。

Lc20170422


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2017/04/17

■カフェサロン「教育勅語を読んでみよう」のご案内

「教育勅語」が時々話題になっていますが、みなさんは読んだことはあるでしょうか。
短いものですが、文体の古さもあって、きちんと読んだことのある人は少ないかもしれません。
そこで、一度、みんなで「教育勅語」を読んで、話し合うサロンを開催することにしました。
併せて、平成18年に改正された教育基本法も読んでみたいと思います。

私は、教育が社会のあり方を方向づけていく基本だと思っています。
平成18年は、日本の曲がり角だったのではないかと考えています。
しかし、ほとんどの人が「教育基本法」を読んでいないでしょう。
ましてや、「教育勅語」を読んでいる人はいるか。

ぜひいろんな立場の人と一緒に、教育勅語を読んでみたいと思っています。

どんな話し合いになるかわかりませんが、よかったらご参加ください。
周りに関心をお持ちの方がいたら、ぜひお誘いください。
「教育勅語」支持者の参加も、もちろん大歓迎です。
さまざまな意見が自由に語り合える。
それが湯島の方針ですから。

〇日時:2017年5月6日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「教育勅語と改正教育基本法を読む」
*参加申込者には、教育勅語と改正教育基本法の条文をPDFで送らせてもらいますので、できれば事前にざっとでもいいですので読んでおいてください。
〇参加費:500円
○参加申込み:qzy00757@nifty.com

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2017/04/14

■カフェサロン「沖縄が失ってしまったもの、失いつつあるもの」のご案内

沖縄をテーマにしたサロンは、これまでも何回かやりましたが、今回はちょっと違った視点からのサロンです。
話題提供してくださるのは、編集者として沖縄関係の本をたくさん出版してきた編集者の平井かおるさんです。
最初に手掛けた本が、「沖縄オバァ烈伝」(双葉社2000年)。
この本が、あの有名な朝ドラ「ちゅらさん」誕生のきっかけになったと、脚本家の岡田恵和さんは本書のあとがきに書いています。
以来、平井さんは20冊を超える沖縄関係本の出版に関わってきています。

沖縄の生活文化と長年付き合ってきた平井さんが、この10年の沖縄の変化を、たぶん「オバァたち」を切り口に話してくれると思います。
基地問題を切り口にしたサロンは何回かやりましたが、今回はもっと深層に関わる話です。
それはたぶん私たちの生き方にも、どこかでつながっていくはずです。
そして、私たちが「失いつつあるもの」にも気づかせてもらえるかもしれません。
面白いけれど、ちょっと苦味もあるサロンになりそうです。
オバァが切り口なので、内地のオバァ(予備軍)たちの参加も大歓迎です。
社会をつくっていくのは、オバァ、いや女性たちですから(これは私の偏見ですが)。

おまけとして、沖縄に伝わるクガニコトバ(黄金言葉=金言)も教えてくれるそうです。
平井さんによれば、クガニコトバも、その伝え手のオバァが壊滅状態になりつつある今、「失われつつあるもの」のひとつになっているということです。

さてどんなサロンになるか、とても楽しみです。
みなさんのご参加をお待ちします。

〇日時:2017年5月13日(土曜日)午後1時半~3時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「沖縄が失ってしまったもの、失いつつあるもの~一編集者がみた沖縄の10年」
〇話題提供者:平井かおるさん(沖縄オバァも友達のウーマク編集者)
〇参加費:500円
○参加申込み:qzy00757@nifty.com

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■まちづくりフォーラムで話をされませんか?

まちづくり編集会議準備会では、まちづくりフォーラムを開催していますが、事務局が企画するよりも、そういう場で話したいという人に話をしてもらった方が、「まちづくり編集会議」の主旨に合うことに気づきました。

20~30人ほどのフォーラムで、まちづくりに関心を持っている人たちが集まって、話し合うのが、私たちが考えている「まちづくりフォーラム」です。
まちづくりに取り組んでいる人や取り組もうとしている人に、そういう場で、問題提起や呼びかけをしてもらい、参加者がワークショップ風に話し合い、話した人も参加者も、そこから具体的なヒントを得たり、新しい活動につなげたりしていくことができないかと考えています。
事務局は、そうした場づくりをしていくというわけです。

ゲストによる講演会ではなく、参加者が一緒になって課題解決や新しいプロジェクトを起こしていくような、そんな共創型のフォーラムを育てていけないかと思います。
ぜひ何か話したい、呼びかけたい、問題解決のヒントを得たいという人がいたら、ご連絡ください。
一緒に、どういうフォーラムの場をつくったらいいかを相談しながら、共創型フォーラムを実現していきたいと思います。
ぜひ話したいという方がいたら、次にご連絡ください。
info@machiedit.com

よろしくお願いいたします。

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2017/04/13

■認知症予防ゲーム実践者交流会の報告


認知症予防ゲーム実践者交流会は10人を超す人が参加してくれました。
前回湯島でサロンをやったパズル療法士の細田さんなど、まだゲーム体験のない男性も3人参加してくれました。
実践している人たちは、ゲーム実践力はどんどん進化していきますが、それに伴い、目的が手段化していく傾向もあります。
大切なのはゲームを広げることではなく、ゲームを活かすことです。

これは認知症予防ゲームに限った話ではなく、さまざまな分野のNPO活動やボランティア活動に関わらせていただいていて、強く感ずることです。
私がさまざまなNPOに、余計なお世話的に関わらせてもらっているのは、そうした点で少しはお役にたてるかもしれないと考えているからです。

参加者のひとりが、「認知症予防」というと、何か「認知症」が悪いもので、避けなければいけないもののように聞こえるが、認知症は(生活習慣病のように)悪いものなのだろうかと発言されました。
私もずっと気になっていたことです。
これもNPOやボランティア活動でよく感ずることですが、言葉はとても微妙です。
以前、「自殺のない社会づくりネットワーク」を立ち上げた時に、自死遺族の人から「自殺した父が責められているように感ずる」といわれました。
言葉は、当事者の視点になって考えないといけないと教えられたのです。

考え方として「認知症予防ゲーム」は良いとして、しかしゲームに「認知症予防」という表現は再考する必要があるかもしれません。
それに、「みんなの認知症予防ゲーム」は、認知症予防だけに効果があるわけではありません。
もっと大きな効果があり、実際にもいろんな成果を上げてきています。
蛇足ですが、私は「認知症予防ゲーム」ではなく「認知症支援ゲーム」はどうだろうと提案してみました。
とても「受けました」が、冗談で終わりました。
でも、「認知症予防社会」よりは「認知症支援社会」のほうが、いつか認知症といわれるだろう私には、暮らしやすそうです。

参加者からそれぞれの活動の紹介がありましたが、やはり横から関わらせてもらっている立場から言えば、情報交換や一緒に何かを創りだしていこうという仕組みが相変わらずできていないような気がしました。
みんながバラバラにやっていては、大きなうねりにはなっていかないのではないかという指摘もありました。
またゲームの名称も、いつものように話題になりました。
「みんなの認知症予防ゲーム」では特徴が表現できず、伝播力がないというのです。

問題点はほぼみんなわかっているのですが、その解決がなかなか進まない。
やはりここは、ある意味での組織化が必要なのでしょうが、問題はだれがやるかです。
次回は何らかの形で動きだせればと思います。

話し合いが一段落したところで、細田さんにパズルセッションをやってもらいました。
細田さん開発のパズルを購入して、自分の活動にも取り入れたいという人やこれを広げる方法を考えたいという人など、そういう話になると一挙ににぎやかになります。

そして最後に、このゲームを体験したことのない3人の人が参加していましたので、ちょっとだけ体験してもらいました。

話し合いの内容はあまり報告できていませんが、みなさんの話を聞いていて、私が果たすべき役割が少し見えてきました。
今回で、この交流会も終わりにしようかと考えていましたが、むしろ発展させようかと思い出しました。
どなたか事務局的な役割を一緒にやってもいいという方がいたら、ご連絡ください。
よろしくお願いします。
また、夏か秋にでも、高林さんにも来てもらって、ゆるやかなネットワークのキックオフも考えたいと思います。

認知症支援社会の実現のために。

Ninchi201704


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