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2024/11/29

■湯島サロン「世界議会 設立構想とその実現について考える」報告

来年3月出版予定の「世界議会 21世紀の統治と民主主義」(原題 A World Parliament: Governance and Democracy in the 21st Century)の翻訳者のおひとりの原田雄一郎さんに、出版の前に同書の構想を紹介してもらうサロンを開催しました。

私がこの本に関心を持ったのは、私とほぼ同世代の原田さんたち5人(たぶんみなさん研究者というよりも世界を飛び回って活動していた実践者です)で、この大部の本を5年かかって翻訳し出版したことです。しかも著書もまたどうやら実践活動している人です。そこに大きな興味を感じたのです。
ちなみに、原田さんはOPRT(責任ある鮪漁業推進機構)で世界を舞台に水産資源の問題に取り組んでいた方です。何が原田さんたちを動かしたのか。

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原田さんは、まず本書の構想を、詳しい目次を紹介しながら話してくれました。
根底にあるのは危機感。地球と人類社会の衰亡の危機に向かって進んでいる流れを何としても止めなければいけないといういかにも実践者らしい思いです。

著者たちがまず目指すのは、世界連邦や世界国家ではありません。世界議会なのです。
最終的には世界連邦(世界国家)があるのでしょうが、まずは国境を超えたグローバルな問題を、国家単位ではなく、多層的にみんなで話し合う場を創りだし育てようということです。つまり、世界政府や世界法から発想するのではなく、まずはみんなで話し合う場としての世界議会をつくろうという構想なのです。
いかにも実践者たちが共感する発想です。私も、ですが。
ちなみに本書の著者もまた、研究者というよりも実践者です。

構想では、世界議会実現に向けての第一歩は、国連総会の下に安全保障理事会の同意を必要としないで設置できる総会の助言機関として国連議員総会を創設することが提案されています。これまた実践者らしい現実的な提案です。

世界議会のイメージも少し紹介がありましたが、ともかく大切なのは、世界中の人たちが、地球市民意識をもったコスモポリタンとして参加できる仕組みをつくろうとしているようです。そして取り上げる課題も、まずは気候変動の問題や核戦争、環境破壊、パンデミックなどのグローバルな問題から取り上げていこうという構想です。
そいう共通の問題から話し合うなかで、最終目標である世界連邦の設立へ向けての機運が出てくることを期待しているのです。

世界連邦が実現するためには2つの要素が必要だと原田さんは言います。
「地球市民意識を持った人々の運動」(下からの革命)と「それをまとめていくリーダーシップ」(上からの革命)です。

前者は、たとえば、「アラブの春」や「ウォール街占拠事件」のような実例もありますが、それだけでは一時的な「事件」で終わってしまいます。それを世界のパラダイム転換につなげていくには、しっかりしたリーダーによる「統治」(この表現には私は違和感があります)が必要です。
世界議会は、世界連邦があって生まれるのではありません。
世界議会が世界連邦を生み出していく。そこがこの構想のポイントです。 

注意すべきは、世界会議は国連総会とは全く違うものです。国連総会は、主権国家を前提にして成り立っていますが、世界会議は主権国家が基本にあるのではなく、地球市民意識を持ったコスモポリタニズムや自然法が基本にあるのです。
1992年ブラジルのリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議(UNCED)を思い出します。一般的には「地球サミット」と呼ばれていますが、172か国の政府代表(7割近くが国家元首)と共に、2000人を超えるNGO関係者が参加しました。

世界議会は、世界連邦の付属機関ではありません。何しろ「世界連邦」はまだないのですから。おそらく世界議会が始まった当初は、決議よりも審議が重要な役割になるかもしれません。「議会」というと、どうしても代表による決定機関と捉えがちですが、そもそもは「話し合う」のが議会です。おそらくそこで「新しい議決方式」も生まれてくるでしょう。

いずれにしろ、国家を基本として考えてはいないのです。著者の一人アンドレアス・ブレメさんは、「国境なき民主主義」活動に取り組んでいる人ですが、世界議会構想の民主主義観もまた、国境なき民主主義が基本にあります。
原田さんは、その行動計画を紹介してくれました。

とまあ、こんな感じで原田さんの紹介は続くのですが、長くなるのでこの程度でやめておきましょう。
ただし、最後に原田さんは、日本の役割に関して私見を話してくれました。
「和をもって貴し」とする日本の「ハーモニアスな文化」が、この構想の実現に大きな役割を果たすのではないかというのです。

原田さんはかつて世界中を駆け回って活動されてきた方ですが、そうした体験からクロかシロかといった二元主義ではない、あいまいさこそが日本の力だと実感されているのです。具体的な体験談も話してくれました。

話し合いに入る前に私から2つのことを確認させてもらいました。

「国家はどう変化するのか」と「ここでいう民主主義のポイントは何か」です。
国家に関しては、いまのような主権国家ではなく、アメリカ合衆国の州やEUにおける加盟国のような、主権を制限された形になるということです。要するに「国家の脱構築」を踏まえた世界秩序を構想しているのです。

民主主義に関しては「多数決原理としてのデモクラシー」という意味で、「人権原理としての民主主義」という意味ではないそうです。ただし、原田さんは「条件付きの多数決」という表現をされました。多数決主義に関しても、これまでさまざまな提案がなされてきていますが、本書の著者たちはさらにもっといろいろな議論をしているようです。

ちなみに原書は、“Governance and Democracy”となっていて、政府とか民主主義とはなっていません。

そこから話し合いに入りましたが、長くなったので、2つだけ紹介させてもらいます。

まずは「グローバリスト」と「コスモポリタン」の違いです。
いわゆる「陰謀論」においては、超富裕層やグローバリストはあまり評判がよくありません。この構想は、そうした超富裕層による世界統治のシナリオではないかという問題です。いつも陰謀論サロンを開いてくれている中嶋さんや北川さんも参加していましたが、議論しだすと時間がとても足りないと思ったのか、簡単な問題提起だけで終わりました。ただ、本書の目次をみると、「グローバル階級」の形成による不平等の問題は本書でも議論されているようです。
私は、コスモポリタン(地球市民意識)によるグローバリスト(超富裕層)の暴走を止めることが意図されているように受け止めました。実際に、原田さんもウォール街占拠事件にも言及されていましたし。しかしこの構想は、超富裕層のかかわり方で真逆なものにもなりかねません。そこは本書を読ませてもらうのがいいでしょう。

ITの発展で、議会という代議制民主主義は克服できるのではないか、つまり80億人の人たちにも直接参加してもらえるような議会の可能性があるのではないか、という話もでました。原田さんも、直接民主主義の可能性を否定はしませんでしたが、しかし参加していたIT分野で活動している人からは、技術的には可能だが、地球市民の声を反映させることは実際には無理があるというような発言をされました。私自身もそう思いますが、それ以前に、アメリカ大統領選挙や日本の最近の選挙から、代議制民主主義を支えていた「選挙制度」はもはや機能しなくなっていると思っています。いまや「民意」を集めることは虚構でしかないでしょう。ここでももはや政治のパラダイム変化は現実が先行しているのです。

この問題は、湯島の遠山サロンや近藤サロンのテーマになっている「虚構の時代」「ポストトゥルース」で取り上げられていますので関心のある方はぜひご参加ください。

長くなってしまいましたが、壮大なテーマなのでこれでも一部だけの紹介にとどまっています。また、原田さんの確認をとっていないので、私の勝手な解釈も入っていると思います。文責は私にあります。
いずれにしろ3月には本書が出版されますので、関心のある方は是非お読みください。

案内チラシを添付させてもらいます。いま予約受付中です。
出版されたら、また改めて世界議会構想と国境なき民主主義のサロンを企画したいです。


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なお、案内文では間違っていましたが、原書の改訂増補版が今夏に出版されています。翻訳に取り組む人はいないでしょうか。
もしいたらチームを組んで取り組みたいと思います。
若い世代の人たち、いかがでしょうか。

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■久しぶりの「茶色の朝」サロンの報告

昨日は久しぶりの「茶色の朝」サロンでした。

ちょっと気になることを話し合い、政治についてちょっと考えるサロンです。
先の衆議院選挙や兵庫県知事選挙から、アメリカ大統領選挙まで「茶色の朝」サロンにしては大きな話題で盛り上がりました。

参加者の一人が、こういう話し合いができるのも、私たちが暇だからではないかと発言しましたが、一番大きな問題は、政治に関心があっても、それを考え話し合う余裕さえなくなっている人が多くなっていることかもしれません。
ちなみにそう発言した人は、私のような高齢者ではなく、子育てから解放されつつある女性ですが、彼女の周りの友人知人はみんな忙しくてあまり余裕がないようです。

でも生き方をちょっと変えれば、時間はつくれるような気もしますが。
いまはあまりに時間貧乏の人が多すぎます。
お金よりも時間が大切だと私は思うのですが。

茶色の朝サロン、来年はもっと頻繁にやろうと思います。
身の回りのちょっと小さな気になることこそ、政治につながっていることに私たちは気づかないといけないような気がします。
兵庫県知事選挙は、そのことを教えてくれている気もします。

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2024/11/26

■湯島サロン「第2回生きとし生けるものの生きる意味」報告

テレビ東京開局50周年記念ドラマの「生きとし生けるもの」を観ての「生きる意味を考えるサロン」は、2回目の開催にもかかわらず、10人を超す大勢の参加がありました。普段はテレビのドラマなど見ないという方も、わざわざ見てくれての参加でした。
「生きる意味」というテーマには、なんとなくみんな気になるものがあるのでしょう。

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まず参加者のみなさんから、ドラマを観て何を感じたかの感想を話してもらう予定だったのですが、数名の人から、なぜ2回もサロンを開くほどに佐藤さんが感動したのかを聞きたいと、言われてしまいました。
思ってもいない展開でいささか焦りましたが、改めて「どこにどう感動したのか」と問われるとなかなか説明しにくい。なにしろすべてに共感してしまったからです。

私の場合、余命宣告された患者と生きる意欲を失った医師という主人公たちの生き方に関心を持ったわけではありません。そんなのはまあよくある話ですから。
あえていえば主人公の一人の「もしかして、人間ってのは自分のために生きるんじゃなく、人のために生きるのかなあ。自分のためだけじゃ、味気ないっていうかな」という言葉が、あまりに私の気持ちにぴったりだったのです。

ただ「人のために」などというと、「利他」とかいう「退屈」な意味を与えてしまうかもしれませんが、私が共感したのはそういうことではありません。
人のいのちはみんなつながっているというような意味なのです。いや、つながっているのは、人のいのちだけではありません。すべての生き物(私の場合は、石も雲も生き物です)、しかも時空間を超えたすべての存在とつながっているということです。
もしそういう確信を持つことができれば、人は死ぬことはない。

しかし、自分のために生きているのではないので、ともかく「生まれた以上」、この生を守らなければいけない。どんなにつらくて、どんなに「無意味」に思えても、です。
いや「つらいこと」にさえ、「意味」がある。辛いからこそ生きなければいけない。
自分の命を絶つ権利など、仮にそれが「安楽死」であったとしても、あろうはずがないのです。
ちなみにこのドラマを観て、「安楽死」が必要ではないかと思った人もいるようですが、「安楽に死ぬこと」と「安楽死」は全く別のことだと思います。安楽死は他者がいなければ実現しませんが、このドラマのメッセージとは真逆のはずです。「おっさん」はそれに気づいたからこそ、生き抜いたのです。

1回目のサロンの報告で、「生きる意味は他者にあり、他者に見守られて人生を終わることが生きることではないか。それに気づけば、おのずと生き方は見えてくる」と書きました。このことも今回少し話させてもらいました。
ここで言う「生き方」とは、人とつながる生き方です。つながるのは難しくはありません。その人の役に立つことをやればいいのです。誰かの役に立つ生き方をするということです。こういうと、誰かの役に立つのは簡単ではないという反応が多いのですが、なにも難しいことを言っているわけではありません。たとえば、会ったら挨拶をするだけでもいいのです。家の前の掃除をするだけでもいいですし、無駄な電気を使わないだけでもいい。いや野の花を愛でるだけでもいい。つまり誰にでもできることが山ほどある。
人は一人では生きていけない。だとしたら誰かと一緒にいたら、必ずその人に役立てることがあるはずです。邪魔にならないことだって、役立っていることですし。

こういう生き方をしていれば、たぶん「孤独死」はしないでしょう。
必ず最後に手を握ってくれる人がいて、死んだ後も思い出してくれる人がいる。つまり死ぬことはない。これが私の生き方なのですが、このドラマをそのことを改めて私に確信させてくれたのです。

長々と自分のことを書いてしまいました。しかも中途半端なのでわかりにくいですね。
それに、サロンの報告になっていませんね。すみません。

サロンでは、生きる意味を失いかけたことのある人も何人か参加してくれました。私もその一人ではあるのですが。
ドラマの主人公のように、毎日、病室の天井だけを見る、しかもつらい日々を送った経験のある若者も参加してくれました。彼がどうやってつらさを克服したか、そしてそれがどういう結果をもたらしているかには、教えられることがありました。その言葉には力を感じました。

長らくビジネスの世界で生きてきた人は、みんなが「関係性」や「他者視点」で話すのに自分とは違うものを感じたと言いました。その感受性と柔軟性にも感激しました。

医療・福祉にかかわる人もいました。医療や福祉において大切なのは、「生きることの意味」でしょう。そこがしっかりしていなければ、産業になってしまう。私が敬服している医療関係者の一人が、近代ホスピスの生みの親であるシシリー・サンダースの言葉を紹介してくれました。
Not doing, but being
ホスピス緩和ケアの真髄を現わす言葉といわれますが、生きるを支える真髄ともいえるでしょう。

他にもたくさんの感想をもらいました。
でもこうした報告はあまり意味がない。
ともかく機会があったら是非このドラマを観てほしい。ご希望の方にはDVDを貸し出しますのでお申し付けください。

またいつか「生きる意味」のサロンをやりたいです。
あるいはいつでも話に来てくれたら応じたいです。

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2024/11/22

■湯島サロン「冬の食養生」報告(2024年11月22日)

東方健美研究所代表の新倉久美子さんによる恒例の季節ごとの「食養生サロン」、今回は「冬の食養生」です。

20241100000 中国の「薬膳」には、病気を治すことを目的とする「食療」と、病気にならないよう予防するための「食養」の二面性があるそうですが、新倉さんが長年取り組んでいるのは、地域独自の食文化である郷土食を、薬膳的観点から見直し、現代風にアレンジして、「日々の食事によって健康を取り戻し、身も心も健やかに過ごしていくための「食養」を目的とした健康料理」として広げていこうという「ふるさと薬膳」活動です。新倉さんは、全国各地に実際に出かけて行って、そうした「ふるさと薬膳」の芽を各地に育ててきました。

新倉さんは、湯島のサロンでは毎回、季節に合った「食養」の話を具体的にしてくれるのですが、そこに入る前に、総論的に「郷土食は日本の薬膳」と題し「身土不二」や「薬食同源」などの話や、なぜ、自分がこの活動を始めたのかなどの話をしてくれます。
いつも同じ資料で話してくれるので、大筋は同じなのですが、毎回、新しいエピソードが含まれています。ですから毎回聞いている私も退屈しません。それに時々、同じ話でもハッとした気付きをもらえるのです。

新倉さんがこうした活動に取り組みだした契機の一つは、30年以上前に(天安門事件直前)、中国の精華大学に国費留学した時の体験です。もちろん精華大学に留学するには、その前の活動がいろいろとあるのですが、「薬膳」をきちんと学んだのはこの留学時だったようです。

今回は、その時の顛末の話がとても面白かった。たぶんこれまでも聴いているのですが、中国の文化の深さと実態に触れたようで、私自身、中国が好きになりました。
まあ、そんな「副作用」があるのが、新倉さんのサロンなのです。

「ふるさと薬膳」についての詳しい話は、これまでの報告を読んでほしいですが、今回はこれからの季節に向けての「冬の食養生」のポイントを、できるだけ新倉さんのお話そのままに報告します。新倉さんは、独自に整理した「陰陽五行配当表」に従って、次のような話をしてくださいました。

冬は、固まる性質を持つという意味から「水」の行に属する季節。冷たい北風に象徴される寒さの厳しい冬は特に早目の食養生で、体を温め、労わることが大切だそうです。

漢方ではこの季節の食養生のポイントを、体内の「陽」を補い、冷えに対する抵抗力の弱い、腎を温めよという意味から「補陽温腎」という言葉で表しています。

寒さの影響を受けやすい腎臓は、人間の成長・発育に関する働きを左右する重要な臓器であり、人体の生命力の源。中国の「食医」が一番気にしたのが腎臓だそうです。腎機能の衰えは足腰の弱り、聴力の衰え、頻尿や残尿感など老年期におこる不具合の症状にもつながっています。腎臓を大事にするのが長寿の秘訣。

ここまでの話は、まさに今の私にぴったり合います。
実は先週の定期検査で腎機能の弱まりを指摘され、足腰の衰えを今痛感、夜中の頻尿で寝不足です。人生の冬を迎える私には、いつも以上にこの言葉はピンときます。
ではどうしたらいいか。これに関しても新倉さんは具体的に話してくれます。

体を温め、腎機能を強化するためには、根菜類や背の青い魚、牛肉、羊肉の他、黒豆、昆布、ヒジキ、ワカメなど海藻頼など黒くて保温効果のある食材を上手に組み合わせて調理し、体の中から温かくなるよう、心がけることが大切だそうです。

味付けに関しては、冬はむしろ酸味とか苦味とか辛味よりも塩味(鹹:かん)が大事だと言います。そして「塩味」について少し話してくれました。五味でいう「鹹」とは合成された塩味ではなく、天然のミネラル成分を含む、人体に必要な塩分を含む味覚だそうです。たまたま、私は新倉さんに「藻塩」を味わせてもらいました。平板な塩味とは違います。塩分の取りすぎはよくないと言われますが、そこでいう「塩分」と五味で言う「鹹」とは違うのです。注意しないといけません。

そして新倉さんは、いつものように最後に「冬の食養生のポイントは『冬は腎臓、体を温めよ」と覚えなさいとまとめてくれました。

今回も新倉さんが整理した「五行配当表」に基づいての季節季節の食養生のポイントの説明もしてくれました。これはとてもわかりやすく、またすんなりと理解でき、誰でもすぐに取り込めそうなので、いつもと同じく添付します。
この表の詳しい説明を聴きたい人は、ぜひ次回の新倉食養サロンに参加してください。

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ちなみに新倉さんは、現在、週刊金曜日でレシピ付きの「季節の薬膳」を毎月連載しています。1115日号に掲載されたおすすめ薬膳料理は「錦秋喝采」。下味をつけた鯖をカラッと揚げて、ミカンやリンゴを加え、大根おろしを和えたものです。料理の命名はもちろん新倉さんです。写真を添付します。
とてもわかりやすい食養生記事ですので、ご関心のある方は是非同書をお読みください。

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今回はもう一つ、お薦めの一品のレシピも紹介してくれました。体を温める「長寿粥」。ちょっと先ですが、小寒・大寒の頃に是非とのことです。新倉さんが書いたレシピを添付します、私もできるかどうかわかりませんが、来年挑戦しようと思います。

なお次回は「春食養」に合わせて、季節の変わり目の「土用」の「食養」に関しても詳しいお話があるそうです。
だいぶ先ですが、2025年2月2日を予定しています。

 

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2024/11/21

■湯島サロン「“コピ・ルアク”を味わう」報告

世界で最も高価と言われている“コピ・ルアク”コーヒーを味わうサロンは、参加者がサロン常連のふたりだけで、見事に予め用意したコーヒーを半分以上無駄にしてしまいました。

1杯1万円とさえ言われる“コピ・ルアク”コーヒーと1杯50円くらいのスーパーで買ったUCCのモカブレンドをあらかじめ、淹れておいて、それを同時に飲んで、どっちが“コピ・ルアク”かを当てるという趣向でした。

予め淹れておかないとわかってしまうので、サロンが始まる前に豆を挽いてそれぞれ別のコーヒーメーカで5杯分ずつ作っておき、参加者が多ければ小分けにして紙コップで飲もうと紙コップまで用意しておいたのです。

ところがやってきたのは、2人だけ。しかもなぜか金銭や物欲などには全くと言っていいほど無縁な生き方をしている人ばかり。“コピ・ルアク”コーヒーが飲みたかったわけでもなさそうです。

2人とも“コピ・ルアク”当ては見事にはずれ。200倍も値段が違うものも、飲んでみたら同じ。というわけで、“コピ・ルアク”っていったい何だろうということになりました。高いお金を出してわざわざ買ってきてくださった友人夫妻への感謝の念は高まったのですが。

ちなみに、これまで数人の人に、講釈を垂れながら、目の前で豆を挽いて飲んでもらったのですが、その時は、飲んだ人はおいしかったと言ってくれました。一緒に飲んだ私も確かにおいしかった。
でも今回は、私もあまり違いがわからず、2人の意見に影響されて、UCCモカブレンドの方が美味しい気分になってしまいました。

話し合いのテーマは「価値と価格」を想定していましたが、話し合うまでもなく、価格は価値とは関係ないことが自明になりました。
まあそういう点では、今回のサロンの試みは成功でした。

もっとよかったのは、参加者が2人だったことです。
じっくり話せていろんな気づきがあった。
しかもまた新しい物語も生まれそうです。
なけなしの高価な“コピ・ルアク”は2杯分を捨てる羽目になってしまいましたが。

ちなみに“コピ・ルアク”コーヒー豆はまだ2杯分が残りました。
どうしても飲んでみたい人がいたらご連絡ください。
希望者が多かったら、まあ適当に淹れて、これが“コピ・ルアク”だと講釈を垂れれば、みんな信じてくれるでしょうから、気楽にどうぞ。

ただし、いままで“コピ・ルアク”ですと言ってふるまっていたのは、ほんとに“コピ・ルアク”でしたので念のため。

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2024/11/20

■近藤サロン④「ポストトゥルースとフェイクニュース」報告

近藤和央さんの「『利己的な遺伝子』論から眺める人間論」の4回目は「ポストトゥルース」が取り上げられました。参照されたテキストは「ポストトゥルース」(リー・マッキンタイア)と「だからフェイクにだまされる」(石川幹人)。

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例によって、近藤さんは壮大なストーリーチャートを用意し、参加者との話し合いに応じて、話を展開。したがって、今回も報告は難しいので、近藤さんが話し合いの結果を踏まえて、メッセージしたかったことをまとめてもらいました。

近藤さんのストーリーチャートは、次のサイトからアクセスできますので、関心のある方はどうぞ。PDFも用意されているので、ご要望があれば送るようにします。
このチャートをじっくりと読むといままさに我々は「事実が消えてしまった虚構の世界」に漂っていることがよくわかります。

https://drive.google.com/file/d/1SwoHJ_srE2epPJ6R_fIbVctukIfzAojt/view?usp=drivesdk

近藤さんのまとめの前に私の感想も一言。

問題はどうもポストとかフェイクということではなく、そもそも「真実とは何か」ということですね。平たく言えば、私の真実とあなたの真実は違うということです。つまり「真実」はみんなそれぞれが創り出していること。その違いをお互いに認識したうえで、どれだけの人たちと同じ真実の舟に乗れるかですね。
人間は、生物進化の新しい段階に入ったのかもしれません。
近藤さんほどには楽観的にはなれませんが、対処法としてはこれまでの生き方への確信を深めています。

さて肝心の近藤さんからのメッセージです。

前回は、ダニエル・カーネマンの「ファスト&スロー(上)」をテキストにして、ポストトゥルースやフェイクニュースの時代がやってきた理由を、(システム2の所有にまで人を至らせた)進化や、しかしそれでも大きく残っている原始時代の認知バイアスという観点から遡行して見ると、ポストトゥルースやフェイクニュースを相克する筋道がおぼろげに見えてくる気がします。(なお、パーソナルメディアによるエコーチェンバー現象などの「拡大機構」については本質ではなく莫大レバレッジ要素という切り分けで考察対象外として置き、根元機構の要素だけを見ています)

迷信に支配されていた人間が科学を構築できたのは認知バイアスのくびきを克服できたから(人がバタバタと倒れるのは悪魔の呪いではなく眼には見えない病原菌が原因であり消毒することで止められると知った=覚醒洞察の連鎖による認知革命の達成)であり、それは(自明ではない)隠された真理にたどり着く、観察・熟慮・仮説・検証を繰り返す合理的思考法を発明し研ぎ澄ませた※から。

※人間にだけ与えられた遅い思考システム2の恩恵を最大限に活用して、素朴なシステム1世界に止まることなく、専門知のレベルで働くべくシステム1をアップグレードしつづけて高度化し、臨場の叡知=バイアスに目眩まされない高度な直観を獲得し、それを何世代にもわたって積み重ねて今日の洞察や技術に至れた。

サイエンス(自然世界)の領域では実現できたこの認知革命が、アート(人間世界)領域では出来ていない。むしろ覚醒(晴明)とは逆の混沌(蒙昧)に逆行していくかのように、脱進歩・反知性指向がポストトゥルース時代を呼び、情動の誘惑にろう絡される未開意識世界に戻ろうとしている。

その理由は、サイエンスが主に理性ドリブンで扱え得たが、アートは感情・情動・美意識などの大きな影響(ドライブ)から逃れられないためで、神という巨大な共通幻想(真柱的中心虚構)を殺したゆえに、それまでは虚構に統合されていたわたしたちが、親を見失った孤児のような寄る辺なき生き迷いの安心喪失パニックに陥り、盲目的にまがいものの神にしがみつこうとしている深層心理の狼狽えなのでは?。

この、寄る辺なきさすらい感を抱えつつ、しかし安易に慰撫するまがいものの虚構を良しとせず、サイエンスにおいて成し得た開眼(認知バイアスからの解脱=現在のゲーム理論行動からの止揚)をアートにおいても成し遂げることが、ポストトゥルースを越えて、絶滅を回避し、相互信頼と協力とポストヒューマンへの上昇に大きく資するほとんど唯一の抜け道だと思われます。かなり難しそうですが・・

以上ですがやはり難しい。
サロンで話し合うとそう難しくはないのですが、文字にすると難解です。つまりここにもフェイクが入り込んでくる。
なお、私からもこのテーマに関して読みやすい本を推薦します。
山田圭一さんの「フェイクニュースを哲学する」(岩波新書)です。
「哲学」などと難しい言葉を使っていますが、気楽に読めます。

次回の近藤サロンは12月16日(月曜日)です。
テーマは決まっていませんが、今回のテーマがかなり消化不足なので、こんかいのつづき、つまり「トゥルースとフェイク」になるかもしれません。
決まったらまた案内させてもらいます。

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2024/11/19

■世界遺産サロン「ガウディの生涯から読み解く“アントニ・ガウディの作品群”」報告

世界遺産アカデミー事務局の村上千明さんによる「世界遺産」サロンの第2弾は、「ガウディの生涯から読み解く“アントニ・ガウディの作品群”」でした。

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ガウディといえば、だれしもが未完のサグラダ・ファミリア(聖家族教会)を思い出すでしょう。しかし、今回はサグラダ・ファミリアだけではなく、そこに至るガウディの作品群すべてに焦点を当ててくれました。
しかも単に作品群を紹介するのではなく、バルセロナの地に建つ、美しく魅惑的、そして摩訶不思議なるガウディ建築の数々がいかにして生まれてきたかを、ガウディの生涯に合わせて解説してくれました。こうしたことを知ることで、あのサグラダ・ファミリアの謎がいろいろとわかってきます。

話は4部構成でした。

まずは、ガウディの生誕から、少年時代を経て、建築家を目指すまで。
ここで、ガウディを育てた3つの環境を紹介してくれました。自然観察、職人家系、そしてガウディが生まれたカタルーニャの独自の文化です。
それに併せて、ガウディの建築を理解する上での重要なキーワードがいくつか解説されました。たとえば、イスラム教の建築様式とキリスト教の建築様式が融合したスペイン独自の「ムデハル様式」とか自然観察から生まれた「逆さ吊り模型」、粉砕タイル使用の装飾などなど。そうしたものがどうやって生まれてきたかなどのエピソードも含めながら。

つづいて、「ガウディ建築探求の始動」では、ガウディ最大の支援者であった実業家エウゼビ・グエイとの出会いから、グエル邸やグエン公園に取り組むエピソードとその作品の紹介。富豪グエイとの出会いがなければ、サグラダ・ファミリアも生まれなかったと思うと文化におけるパトロネージの大切さを改めて思います。昨今の富豪とは全く違う気がしました。

そして「宗教に没頭した時期」。無神論者だったガウディがなぜ宗教にのめり込んでいったのか。そのエピソード、断食と生の危険、そしてトーラス神父に諭されて、一転、敬虔な信者に。「神の建築家」の誕生です。
ここでは「信仰」がいかに人生に大きな影響を与えるか、信仰がなければやはりサグラダ・ファミリアは生まれなかったような気がします。「宗教」もまた大きく変質してしまった気がします。

そして、「神の建築家としてのサグラダ・ファミリアへの取り組み」。
サグラダ・ファミリアの特徴的な構造や、3つのファサードや18の塔の意味についても解説してくれました。

他にも、「ガウディはSDGsの先駆者だった?」とか「2026年、サグラダ・ファミリア完成か?」とか、いろんな話が盛りだくさんでした。

私は話よりも次々に紹介されるガウディ建築に見とれてしまい(これまでほとんど興味がなかったのでいずれも初めてのものでした)、村上さんの話はきちんと記憶に残っていないおそれがあり、不正確な紹介をしそうなので報告は差し控えます。

それに実は、今回の村上さんのサロンは、世界遺産アカデミー主催のオンライン講座「世界遺産と建築を学ぶ講座」のための準備の意味を兼ねてのサロンでした。ですからあまり詳細に紹介するのは差し控えた方がいいでしょう。
関心のある人は、12月7日に開催される世界遺産アカデミー主催のオンライン講座「世界遺産と建築を学ぶ講座」をぜひともお聴きください。案内チラシを添付します。

ダウンロード - efbc88e38381e383a9e382b7efbc89e382ace382a6e38387e382a3e381aee7949fe6b6afe381a8e4bd9ce59381e7bea42028129.pdf

 

今回のサロンを踏まえて、内容はさらに充実しいてるはずです。

作品群の紹介だけでなく、その背景など、興味あるエピソードが盛りだくさんですので、ガウディ・ファンの方にはぜひお薦めです。ファンでない方は、たぶんファンになるでしょう。サグラダ・ファミリアも好きになるでしょう。

最後に村上さんは、2013年からサグラダ・ファミリアの主任彫刻家に任命され、ガウディの残した設計図からサグラダ・ファミリアに組み込まれる彫刻などの装飾を総監督している外尾悦郎さんの言葉を紹介してくれました。

ガウディが天才なのは、機能と構造と象徴の問題を常に一度に解決していること。

作品に触れるとそれが実感できるのでしょうが、村上さんのお話を聴いただけでも、SDGsなどといった、そんな軽薄な意味ではないことは理解できました。

村上さんの世界遺産サロンは、毎回いろんな示唆をもらえます。
できればまたお願いしたいと思います。

 

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2024/11/17

■湯島サロン「あはれなる民からの真の独立への道」パート2報告

「平和」を考えるサロンの5回目は、3回目の北京一さんの「あはれなる民からの真の独立への道」サロンの問題提起を受けて、「非武装平和国家に向けての実践的な方策」を話し合うサロンでした。

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最初に北さんは、前回の話を要約してくれました。いまの日本の状況は、「独立国家」とは言えず、そこに住む人たちは「あわれなる民」としか言えないということを、いろいろな現実を示しながら話してくれたのです。「あわれ」や「真」をめぐっての話し合いもしたかったのですが、話題はやはり「非武装平和国家に向けての実践的な方策」に向かってしまいました。

これに関しても、北さんは前回の提案の「一国連邦制」あるいは「一国二制度」を再説してくれました。北さんはいまの日本の「あわれなる民」の中に、「真の独立」を目指すわずかばかりの人たちがいることに注目します。それは、「平和憲法を護持」し、「米国との軍事同盟からの解放」を目指す人たち(2%)です。そうした人たちが集まって「国家内独立」をしようというのです。

以上の議論に関しては、詳しくは前回の報告を読みなおしてください。

「国家内独立」に関しては、これまでもいろんな人が提案してきたことの変種の一つではないかと思いますが(湯島のサロンでも時々話題に出る沖縄独立論もその一つでしょう)、北さんは今回、改めて、その意味を解説してくれました。要約して言えば、北さんは、暴力を独占することで成り立ってきた近代国民国家を「脱構築」するための最初の一歩として考えているのです。単なる切り離し(分離・独立)ではないのです。
3.5%の人々が変われば社会は変わる」とは、よく言われていることですが、要するに変化の初めはいつも少数者から始まります。北さんの2%独立論も十分に発展性のある話です(この議論は少数者の影響を話し合う遠山サロンに通じています)。その脱構築の震源地を、まずは創ろうというのです。

しかし、ただし、と北さんは条件をつけます。その少数派が先導してはいけないというのです。たしかに少数が先導したフランス革命は失敗しました。市民革命など起きなかったのです。先導するとどうしてもそこに「暴力」が作動するからでしょうか。

またその少数派の社会原理も重要です。収奪的か包括的かによって、全く違ってくる。これに関しては最近、ノーベル賞をもらったアセモグルとロビンソンの分析結果が証明しています(関心のある人には『国家はなぜ衰退するのか』(早川書房)をお薦めします)。だから北さんは、非暴力を理念とする「平和憲法護持・日米安保破棄」を目指す2%を選んだのでしょう。
脱構築する国家を統合する力は「暴力(強制力)」ではないのです。
どうやらここに北さんの論点の核心がありそうです。

ではその統合力のカギは何なのか。それは今回、議論されませんでしたが、暴力とは真逆のものかもしれません。暴力による平和(パックス・ロマーナからパックス・アメリカーナまで)をどう超えるかが、北さんの関心事だとしたら、脱構築の軸には多分「暴力」はないでしょう。これに関しては、先日の森田さんのサロンがヒントを示唆してくれています。「平和」の概念もまた、脱構築されなければいけません。

いずれにしろ、目指すは、あわれなる「民(臣民)」ではなく、個人としても独立した(つまり収奪もしなければ収奪もされない)尊厳を持った人によって構成された、新たなる「国家」の誕生です。私は、これを「コモンズ」と言っていますが、一般的な表現を使えば、統治国家ではなく協治国家、あるいは本来的な意味での共和国家と言ってもいいでしょう。しかし、大衆が統治するデモクラシー国家ではありません。北さんもとりあえず「国家」という表現を使いましたが、それはいま近代国民国家として定義されている国家とは違うものです。国家であって国家ではない。だから「国家の脱構築」と北さんは表現しているのです。

国家の脱構築のためには、国家を構成するサブシステムもまた脱構築していく必要があります。北さんは大学教授としてこれまで大学や学会の脱構築に挑戦してきています。残念ながらそれはまだ大きなうねりとはなっていませんが、私が知る限り、3.5%に向けての小さな芽は広がっているように思います。ちなみに今回のサロンにもそうした小さな芽の一人が参加してくれて、大学の実体に関する感想を話してくれました。

大学だけではありません。国家を構成する地方自治体もまた「脱構築」の動きがあります。これもまた今回サロンに参加してくれた人が、地元の地域活動で新しい風を起こしている話をしてくれました。

あわれなる民の広がりの中でも、新しい動きは着実に育っている。北さんが言う「2%の新国家」とは違うかもしれませんが、そういう新しい芽が様々な形で生まれだしている。それを活かしていこうというのが北さんの提案だと受け取りました。

国家の独立は、それを構成する個人の自立と不可分につながっています。これに関しても今回、ちょっとだけ話題になりましたが、また機会を改めたいと思います。

ちなみに、デモクラシーも多義的な言葉ですが、それを大衆の統治(多数決政治)と捉えると、オルテガの『大衆の反逆』を思い出してしまいます。オルテガは「大衆人は他の人々が建設し蓄積してきたもの否定しながら、いまだにその自分が否定しているものによって生きている」と書いています。まさに「あわれなる民」です。そこには「真の独立」はありません。民が反逆しても、国家の脱構築はできないことは歴史が物語っています。

国家の脱構築と言えば、世界国家とミュニシパリズム(地域主権主義)の2つの方向が考えられます。これに関しても少し話題になりましたが、この2つの方向での国家の脱構築に関しては、引き続き湯島サロンの大きなテーマにしたいと思います。

早速ですが、1125日に「世界議会」をテーマにしたサロンを予定しています。これはカント以来のコスモポリタンの世界を目指しています。サロンでは、併せて21世紀の民主主義に関しても話題になる予定です。平和サロンの参加者のみなさんにはぜひ参加してほしいサロンです。

ミュニシパリズム(地域主権主義)についても、来年は各地の動きなども踏まえながら、少し重点的に取り上げていきたいと思っています。

加えて「あわれなる民」をテーマにしたサロンもぜひ企画したいと思います。以前一度サロンで話題にしたラ・ボエシの「自発的隷従論」をまた読みなおしてもいいかもしれません。

考えるべきテーマの多さに改めて気づかせてくれたサロンでした。

 

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2024/11/16

■湯島サロン「5か月間のヨーロッパ彷徨で気づいたこと」報告

5か月海外を彷徨してきた仲谷さんの報告サロン第3弾は、サンティアゴ巡礼とスコットランドでのボランティア活動の中間の彷徨体験報告でした。

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仲谷さんはまず、「旅とは何か」ということから話しだしました。つづいて「旅のやり方」を具体的に話した後、5か月間のヨーロッパ生活からポルトガルとフランスでの体験を紹介してくれました。

仲谷さんが今回の海外の旅で求めたことは「自己発見」「人や景観の多様性を知る」そして「知らない人との出会い、日本では稀な話題に関して話す」の3つだそうです。
多分いずれも結局は、最初の「自己発見」につながると言ってもいいでしょう。
しかし単に観察的な「発見」ではなく、実践的な「発見」です。多様な人と出会い、多様な話題を話す。それこそが新しい自分に気づくことですから。

仲谷さんの場合、そうしたことを日本ではやりにくいと感じていたようです。それで旅に出た。ということは、言い換えれば、これまでの生き方を仲谷さんは変えようとしている、とも感じられます。
とまあ、これは仲谷さんの話を聴いた者の勝手な想像ですが。

つづいて仲谷さんは旅のやり方を具体的に話してくれました。
まずは「移動手段」。そして「宿」や「食事」の話。通貨の話やネットの活用の話もありました。月並みの話ですが、そこからも仲谷さんの旅への思いが伝わってきました。
いずれも今回の旅からの体験的な話なので、これから海外の旅に出ようとしていた参加者にはとても参考になったようです。
もしこれからヨーロッパを彷徨する旅に出る人がいたら、仲谷さんに訊くといろいろとアドバイスしてくれるでしょう。たぶん、ですが。

後半は、ポルトガルとフランスの体験を写真を使いながら話してくれました。写真も紹介されたせいか、細かなところにみんな目が行ったのか、観光旅行報告的な話にややなりすぎて、仲谷さん自身の「自己発見の旅」の話があまり出てこなかったのが残念でした。
それでつい途中で、「結局、仲谷さんにはどんな変化(気づき)が起きたのか」と質問してしまいました。サロンを単なる旅行報告会では終わらせたくなかったからですが、後で参加者の一人から、「もう少し忍耐力を育てるように」と注意されました。
この歳になって、忍耐力が足りないと指摘されるとは困ったものです。

たしかに、「自分探しの旅」をさらけだすのは難しい。というよりも、恥ずかしいと言ってもいいかもしれません。自分をさらけだすことにつながるからです。
しかし、もしかしたら「旅」とは自らをさらけだすことかもしれません。「旅の恥はかきすて」という言葉がありますが、いろんなしがらみなど考えずに素直になれる。
そして、自分をさらけだすと、そこに自分でも気づかなかった「自分」を見つけるかもしれません。そこにこそ、彷徨の旅の意味があるのかもしれません。

仲谷さんは5か月にわたってそれをやってきた。だから帰国後、みんな仲谷さんが変わったように感じたのです。仲谷さん自身は気づかないとしても。
何が変わったか。日本では「立ち入った話」はできないと仲谷さんはいつも言いますが、「立ち入った話」をするようになった。でもまだ「自分のなかの立ちいった話」にまではいっていないかもしれない。というようなことを仲谷さんの話からは感じました。

仲谷さんが「自分探しの旅」に出かけた理由の一つは、「生きづらさ」を解消したいからだそうです。
「生きづらい」とはどういうことかは、人によって違います。もしかしたら、生きづらいと思っている本人でさえ、生きづらさの正体はわかっていない場合が多いでしょう。
もしかしたら仲谷さんもそうかもしれません。大体において、言葉にする人に限って、その言葉の実体がわからずに言葉に逃げていることが少なくありません。

5か月の旅で、仲谷さんが何を見つけてきたのか、言葉での説明はありませんでしたが、もしかしたらそのことに気づいたのかもしれない。話したいことにも気づいたかもしれない。そんな気がしました。

仲谷さんはこれから「生きづらさ」をテーマにした話し合いの場づくりに取り組むそうです。つまり国内での彷徨の旅がはじまるわけです。
これからの展開が楽しみです。

おかしな報告になってしまいました。
仲谷さん、あるいは参加者の方、フォローしていただけるとうれしいです。

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2024/11/15

■湯島サロン「『社会心理学講義』を読み解く④」報告

ブックサロンからスピンオフした遠山哲也さんの「『社会心理学講義』を読み解く」サロンの4回目は、第14講の「時間と社会」でした。

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今回はテキストの解説ではなく、遠山さんは冒頭で参加者に問いかけました。
「時間をどう定義しますか?」
突然の問いかけでしたが、遠山サロンに参加している人たちだけあって、すぐにそれぞれ回答が出てきました。たとえば「エネルギーが動く変数」とか「変容する状態をあらわすもの」とか、まあそれぞれが難しい。私は「存在をつなぐもの」と考えていますが、これもまあわかりにくい。

つまり「時間」の定義は、人それぞれで、難しい。
でもみんな気楽に時間を軸に生きている。
遠山さんはそれに気づかせたのでしょう。

そもそもテキストである『社会心理学講義』第14講の「時間と社会」は、タイトルに時間を掲げていながら、時間の定義についての言及はほとんどありません。
しかし、政治学や法学などでの政策や制度の発想には時間が抜け落ちていると指摘し、最後には「時間が存在し、歴史が可能なのも、世界が閉じていないからです」といって、本書のテーマである「開かれた社会」というパラダイムを総括しています。「開かれた」ということの意味が、そこで明らかにされているわけです。

現代社会の基盤をなす近代科学の世界も、時間をどうからませるかでまったく違った展開になります。そして歴史の視点が入り込むと社会は全く違ったように見えてくるでしょう。そうしたことも示唆しているでしょう。

でも「時間と社会」という見出しの割には、あまりに簡単な(わかりきった)結論のような気もします。それもあってか、遠山さんはアリストテレスの「時間論」の一部を紹介してくれました。アリストテレスと言えば、遠山さんの世界です。私には難解過ぎて、解説不能なので、そのまま一部を紹介します。アリストテレス全集第4巻第11章の一部です。

時間をわれわれが認知するのは、ただわれわれが運動を、その前と後を識別しながら、限定するときにである。そしてまた、われわれが「時がたった」と言うのは、われわれが運動における前と後の知覚をもつときにである。ところで、われわれが前と後を識別するのは、それをお互いに他のものであると判断し、それらの中間にそれらとは異なる或るものがあると判断することによってである。すなわち、われわれがこれら両端の項を中間項とは異なるものどもであると思惟し、「今」が前の今と後の今との2つであるとわれわれの霊魂が語るとき、そのときにまた、われわれは、これが時間であると言うのである。(中略)前と後を知覚する場合には、われわれはそこに時間があると言う。というのは、時間とはまさにこれ、すなわち、前と後に関しての運動の数であるから。

以上がアリストテレスの時間論。

遠山さんはあまり解説してくれなかったので、勝手に解釈すれば、要するに、アリストテレスは時間とは「前と後ろに関しての運動の数」であると言っているようで、ともかく運動という概念につなげて捉えているようです。しかも数(量)として。
さらにアリストテレスは「「今」が前の今と後の今との2つであるとわれわれの霊魂が語るとき」これが時間であるとも言っています。現実の運動でなくても、心で想起すれば時間が生ずるというのです。ここでは時間が量を超えた「質」として捉えられている。一体どちらなのかと問いたくなりますが、いずれでもあるのでしょう。

いささか飛躍しますが、小説『モモ』の中でのマイスター・ホラの言葉、「光を見るために目があり、音を聞くために耳があるのと同じように、人間には時間を感じるとるために心というものがある」という言葉を思い出させます。

時間とは実に不思議なものですが、時間があればこそ、運動が起こり、意識が生まれる。
小坂井さんの『社会心理学講義』とは別の話ではないかという気がしてきたのですが、そこで遠山さんはこう言います。
時間を感ずることで物語が生まれ、虚構が生まれて、社会が生まれる。時間がなければ物語も虚構も生まれない。
そこで『社会心理学講義』とつながっているようです。

いよいよ当初意図したテーマ、「虚構」の登場です。
しかし残念ながら、そこで今回は時間切れ。
そこで遠山さんから新たな提案がありました。

『社会心理学講義』を軽く読んできたけれど、少し回り道して、その後で、改めて『社会心理学講義』を章別にじっくり読みたいというのです。

というわけで、次回「回り道編」その1で、以前話題になったユヴァル・ハラリの『サピエンス全史』を読んで、それぞれが気になったところや気づいたことなどを発表し合うことになりました。遠山サロンはだんだんゼミ風になってきました。
これを機会に新たな「ゼミ生」?を公募しますので、ぜひみなさん、参加してください。

次回は1220日(金曜日)の予定です。

 

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