カテゴリー「サロン報告」の記事

2022/07/05

■湯島サロン「新しい経済を目指した生き方を実践して」報告

就活を前に大学を休学して、山梨県の北杜市に移住、そこで自然農に取り組んでいる阪口晴香さんのサロンには15人を超すだけでなく、10代から80代まで、さまざまな世代のさまざまな立場の人が集まりました。

Sakaguchi

最初に、阪口さんの北杜市での暮らしを紹介した動画をみんなで見てもらい、そこからサロンに入りました。
https://m.youtube.com/watch?v=CtApaaLyDTY&fbclid=IwAR0BdUsFoFARSvgAtR2PFkCZNYd5dyLfNRBAa7j4q0lzUou2zyPl52TiNXE

阪口さんは、子どもの頃からピアノ教育や学校教育で、いわゆる「競争社会」的ななかで育ち、その結果、大学も東大に入学、社会を動かしている企業に関心を持ったのか、金融経済や企業経営をテーマに選んだそうです。

立ち止まるきっかけになったのは、大学のゼミで「企業価値」に関する論文をまとめた時だったようです。
阪口さんは、働く人の視点で企業価値を考えたようですが、それは投資家が出資したくなる会社とは違うことを指摘されたそうです。たしかに経営(学)における「企業価値」とは、その会社がどのくらい「お金を稼ぐ力があるか」で評価されますので、社会にとっての存在価値やそこで働く人にとっての価値などは実際には一致しません。いまの経済(学)では、お金で表現される数値(市場価値)だけが価値なのです。

そこに阪口さんは違和感を持ったようですが、さらに実際に自分が就活を始めるとその違和感は自分の問題としてますます大きくなっていったようです。

ところで、阪口さんは大学2年の時に、あるNPOが企画した無人島プロジェクトに参加したそうですが、そこでの体験が、その違和感を抑えることなく、別の生き方への道を開いてくれたのかもしれません。その意味でも、人生には寄り道が大切です。若者を学校という閉鎖空間に閉じこめるような社会では、本当の学びは期待できないでしょう。そこでできるのは「訓練」だけかもしれません。

そんな時に、阪口さんは友人の紹介で、山梨県の北杜市で活動している「ビヨンド自然塾」と出合います。そしてそこでのボランティア活動がきっかけで、大学を休学し、そこに移住し、自然の生活に取り組むことになったのです。

とまあ、そんな経緯を話してくれた後、北杜市
で暮らした1年半の生活ぶりやその結果意識がどう変わってきたか、そしてこれからどうしようと考えているかなどを話してくれました。
大学の同級生の川端さんによれば、阪口さんは北杜市に移住してから、どんどん笑顔が増えてきたそうです。ちなみに彼もまた同じように休学して新しい経済を模索した生き方を実践しています。

阪口さんの話の後、参加者からの質問や話し合いが行われましたが、さまざまな人が参加していたので、その話し合いもまたいろんなことを示唆する内容で、とても興味深いものがありました。

たとえば、苦労して東大に入ったのに休学して農業という選択に両親の反応はどうだったかとか、これからの経済にとって大切なのは何かとか、阪口さんのように生き方を変えることができるのは「強さ」が必要なのではないか、とか、暮らしの不便さはないのか、とか…。みんなそれぞれ自分の問題に重ねながらの問いかけだったので、問いも答えもとても興味深かったです。

話し合いが終わった後、参加者みんなに「阪口さんの話を聴いて自分の生き方の何かを変えようと思ったことはありますか」という問いかけで一言ずつ発言してもらうつもりだったのですが、いつものように話し合いが長引いてしまい、この問いかけをする時間がなくなってしまいました。
でも阪口さんの話に触れて、自分の生き方や言動を少し問い直した人がいたことは間違いなく、その後の個別の雑談などや個別に頂いたメールでそれを少し感じました。

しかし若い世代の人が、阪口さんのように自力で、寄り道したり別の生き方に取り組んだりすることは簡単ではありません。やりたいことが見当たらない場合、どうしたらいいのか。そんな質問に、阪口さんは、まずは一度、北杜市に来てビヨンド自然塾のようなところで体験をするのもいいのではないかと呼びかけました。
新しい体験をする最初の一歩を踏み出すのは、実際には簡単ではありません。でももし、「袋小路」に迷い込んでいる人がいたら、一度、阪口さんのところやビヨンド自然塾に遊びに行ったら、道が開けるかもしれません。たぶん年齢は問わないでしょう。

ちなみに阪口さんは、また東大に復学するかもしれませんが、しばらくは北杜市に住み続けるそうです。きっとそこで新しい経済のヒントを得て、それに向けての実践に取り組んでいくでしょう。実際にすでに阪口さんは半農半Xに向けて新しい活動にも着手しているようですし、ゆるやかな開かれたネットワークコミュニティ的な社会のビジョンもまだぼんやりとですが、見えてきているように思いました。

新しい経済はこういう風に、知識や論理からではなく実践から生まれるのでしょう。
また、大きな変化の時代には、若者から学ぶことが多いことも改めて気づかされました。最近よく言われるように、いかにアンラーニングするかが大事です。でもそれがいかに難しいかも、参加者の話を聴いていて、気づかされました。
若い世代から学ぶことができるかどうか、私も反省しなければいけません。

 

| | コメント (0)

2022/07/01

■B型オープンサロン「参院選を話題に話し合いませんか」報告

30日にB型オープンサロンとして、ゆるやかに「参院選」を話題にしたサロンを呼びかけてみました。今度の選挙はとても大きな意味を持つ選挙だと思っているからです。

当日は参加者は2人でした。日程の関係や暑さなどのせいもあったのかもしれませんが、さすがに私としては落ち込みました。みんな選挙に関心はないのでしょうか。
しかもいらっしゃったのは、直前の私のフェイスブックを見て、誰も来なさそうだと心配してきてくださった方と1時間遅れてやってきた人です。

私自身は選挙期間中は毎日でも選挙や政治の話題の井戸端会議的なサロンをしたいとずっと思っていました。せめて選挙期間中は、政治のことをみんながいろんな場で話し合う状況を広げていきたいとずっと思っていたのです。
ですから今回のB型オープンサロンはいいアイデアだと思い、できれば投票日前後にもまたやろうと思っていました。しかし私の勝手な思い入れだったようです。

前半の1時間は2人の話し合い。その人はある政党の選挙活動のボランティアスタッフもやっています。政治に関するお考えはしっかり持っている方です。
最初の話題ではその人と私は意見がまったく合わずに激論になりましたが、消費税を含む経済政策ではほぼ同じ意見でした。と言えば、まあどの政党かわかるかもしれませんが。

1時間遅れてやってきた人は、東京都の選挙公報を持参。まだ誰(どこ)に投票しようか決めていないようです。その人はテレビもほとんど見ていないので、選挙公報が重要なのです。そこでハッと気づいたのですが、みんなが選挙公報をしっかり読むだけでも日本の政治状況は変わるはずです。私はいつもほとんど読んでいませんでしたが、当選の可能性が全くない立候補者も含めて、みんなの声をしっかりと読むことが大切だと気づきました。そんなわけで今日、千葉県の選挙公報をしっかりと読みました。いろいろと考えることも多く、投票したい人も政党も複数見つかりました。
先日の私のサロンで「政治や経済を生活者である私たちの手に取り戻そう」と呼びかけましたが、まずは選挙公報を読むことです。

期日前投票が広がっていますが、選挙はただ投票するだけの行事ではありません。
私たちの国の政治や経済を考える国民みんなの活動であり、主権者である私たち国民の公務を遂行する日なのです。
大切なのは「投票行為」ではなく「政治への関心」を高め、行動につなげていくことなのだろうと思います。

参加者が少なかったので、選挙前にもう一度サロンをやる気力は消えましたが、10日の開票結果判明後にもう一度、B型オープンサロンを開催しようと思います。
選挙を無駄にはしたくないですから。
せめて5人くらいの参加者があるとうれしいのですが。

 

| | コメント (0)

2022/06/29

■湯島サロン「新しい経済・新しい政治」報告

「新しい経済」「新しい政治」と言っても、今回の私の話は、私のこれまでの生き方の背景にある経済観・政治観を整理しただけのものなので、特に体系的な話ではありません。それにとりわけ新しい思想でもないのです。
案内にも書いたように、国家や社会全体から考えるのではなく、個人の生活から考えるという、発想のベクトル転回という意味で「新しい」と表現させてもらいました。

経済や政治を考える場合、これまで国家を基点に考えるのが基本でした。しかし、いわゆる「成熟社会」にあっては、ベクトルを反転させて、全体よりも個々人の生活や生命を基本とすべきではないかというのが私の考えです。
実際に私は60年ほど前から、そうやって、経済成長や秩序優先の管理社会に抗って生きてきたつもりです。湯島のサロンも、その実践の一つです。

国家(全体)から考えるか、個人から考えるかで、政治や経済への取り組み方は変わってきますし、会社や役所での働き方も変わってくるはずです。そもそも制度設計そのものも変わってくるでしょう。

わかりやすい例が学校です。生徒を学校に合わせた「義務教育」と学校を生徒に合わせた「多様な学びの場」教育とは全く違います。後者では不登校もいじめも起きないでしょう。そういう学校も少しずつ増えてきています。
この発想を基点にいまのいろいろな問題を見直すと、まったく違った世界が見えてきます。国家のための死を求められる戦争は成り立つはずもありませんし、弱者を措置するような金銭による社会保障制度や地方分権制度などのおかしさもわかるでしょう。

ふたつの発想の違いを象徴的に示すのが、消費税とベーシックインカムです。
生活するうえで不可欠の食べ物の購入にまで課される消費税は、なんだか生きているだけで「徴税」される江戸時代の悪代官の暴力行為のように感じます。
この国家を維持しているのは誰でしょうか。国家は国民がいればこそ成り立つと考えれば、国家は国民に向けて生活を保障するためのベーシックインカム(生活支援費)をこそ支給すべきです。それこそが「経世済民」であり「徳政」です。

もちろん国家には税金は必要ですが、それは国民が支えている国家や社会の仕組みを活用して価値を生みだすことができた人、つまり所得を得た人が、その所得の一部を提供すればいいでしょう。利益の一部を「納税」すればいいので、「徴税」感はないでしょう。それが国家起点ではなく、生活起点の発想です。

制度だけではなく、私たちの心構えも変わるでしょう。
仕事のやり方もお金との付き合い方も変わってくるように思います。
最近よく言われる「ブルシットジョブ」はなくすべきですし、逆に私たちの生活にとって大切な「エッセンシャルジョブ」は大事にされなければいけません。場合によっては、みんなで持ち回りでシェアしていくことも必要です。まあすでにそういう仕事をボランタリーに引き受けている人も少なくありませんし、私もできるだけそう心がけています。

まあそんな話を少し言葉に整理して話させてもらいました。

今回の私のサロンのメッセージは、「政治や経済を生活者の手に取り戻そう!」ということですが、これはいいかえれば、「もっと自分の生活を大事に生きよう!」ということです。経済や政治はますます生活とは無縁のところで展開していますが、それは多くの人が自分とは関係ないと手放しているからだろうと思います。そうした生き方をまずは見直す必要があります。自分の生き方なら、その気になればすぐにでも変えられます。
それこそが「新しい経済・新しい政治」のはじまりなのです。

しかし残念ながら話し合いは、知識ベースの話に向かいがちで、やはり今回もほとんど伝わらなかったような無力感が残りました。消費税にさえ多くの人が肯定的(ほかの方法がない!)なのには驚きました。

話の内容はパワーポイントにまとめましたが、もし関心を持っていただけるのであれば、データで送らせてもらいますので、ご連絡ください。
もし実践に取り組みたいという方がいたら、ぜひ生活事業研究会の第2期をそろそろ開始しますので、ご参加ください。

なお、私の話よりももっとわかりやすく、新しい経済を目指して、いま農業に取り組んでいる阪口さんのサロンが72日にあります。
ぜひたくさんの方に阪口さんの生き方や感性に触れてもらいたいと思っています。
まだ参加申し込み可能です。よかったらぜひ。

以下は、私の勝手な思いです。よほどお暇な方のみどうぞ。

サロンでは、古代アテネのオイコノミクスとポリティースの話をさせてもらいました。
オイコノミクスは「家政」と訳されますが、要は生活経済の意味で、そこでの主役は女性や奴隷でした。一方のポリティースは都市国家政治の意味で主役は市民と言われる資産家の男たちでした。古代アテネは民主主義国家などでは全くなく、ただ都市経営のやり方が有産市民による多数決統治(デモクラシー)だっただけの話です。

しかしそれが近世西欧でポリティカルエコノミー(政治経済)という形でオイコノミクスまで男たちが担当することになり、そこから貨幣経済が発展。そしていまや政治と経済が逆転して、エコノミカルポリティクス(経済政治)が世界を席巻してしまいました。主役は男たちの手を離れ、資本に移ってしまった感があります。

それをまた女性や奴隷になってしまった生活者の手に取り戻すというのが私のビジョンなのです。いまの私の立場は言うまでもなく、「奴隷」です。念のために言えば、「お金の奴隷」ではないほうの「奴隷」です。

サロンの後、唯一の女性参加者から、「奴隷と女性たち」のところをもっと説明してほしかったとメールが来たので、蛇足と思いつつ書かせてもらいました。

New-ecopoli2

| | コメント (0)

2022/06/22

■第21回万葉集サロン「〈わ〉と〈な〉をつなぐ〈言〉の質感・質量ー天武天皇挽歌に見る持統天皇の孤影」報告

今回は、白鳳万葉最後の「女の挽歌」、持統天皇の天武天皇挽歌を中心に、話し言葉と文字との違いに触れるとともに、天武と持統との関係を読み解きながら、〈わ〉と〈な〉について考えてみようというのがテーマでした。

最初に升田さんは1枚のカラー写真を見せてくれました。飛鳥の北東部から撮影した大和三山が写った写真です。まずはこの風景によって、参加者を飛鳥の気分、あるいは持統天皇の気分へと誘ってくれました。

つづいて、持統天皇の歌といわれている6首をざっと紹介してくれたうえで、日本書紀の記事をベースに持統天皇の事績や人物像を話してくれました。

持統天皇を語る場合、どうしても夫である天武天皇も一緒に語ることになり、両者の関係をどう読むかで、日本の国の成り立ちのイメージも変わってくるように思いますが、今回の升田さんの関心はそこよりも、案内文にもあったように、「持統天皇の歌は少ないが、「言」の質感・質量で複雑な人物像がシンプルに凝縮されて、「わ〈持統天皇〉」と「な〈天武天皇〉」をつなぐ情意が見えるような気がする」と言うところでした。

升田さんは、日本書紀から見えてくる持統天皇像とは違った人物像が、万葉集から見えてくるといいます。それを象徴する天武天皇に対する挽歌を2首、読み比べてくれました。

やすみしし わご大君の 夕されば 見し賜ふらし 明け来れば 問ひ賜ふらし 神岳の 山の黄葉を 今日もかも 問ひ給はまし 明日もかも 見し賜はまし その山を 振り放け見つつ 夕されば あやに悲しび 明け来れば うらさび暮らし 荒栲の 衣の袖は 乾る時もなし(159番歌)

明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に 味ごり あやにともしき 高照らす 日の皇子(162番歌)

たしかに、この2首を声に出して読んでみると違う感じを受けます(ぜひやってみてください)。

升田さんは、後者(162番歌)は、定型表現も多く、いかにもきれいにまとめあげられていて、「書かれた人物像」という感じがするが、前者(159番歌)には人間的な生々しい感情や迷いが感じられ、まるでじかに持統天皇に会っているような気さえすると言います。文字で詠まれた歌と生の言葉で詠まれた違いを感ずるというのです。
前回も話題になった話し言葉の歌と文字の歌の違いです。
ちなみにこの2つの歌には8年の間隔があるそうですから、天武への思いも変わっているのかもしれません。

升田さんは、前者を「古事記」的、後者を「日本書紀」的とも言いましたが、それに関連して、記紀それぞれの冒頭の日本の国づくりのしかたの違いも話してくれました。
古事記は「問い」から始まるのに、日本書紀では「共に計る」ことから始まる。その背景には、記紀それぞれの編纂目的の違いがあったとわかりやすく説明してくれました。
文字や言葉が、国家や生活にとってどういう役割を果たすのかを考える大きなヒントがそこにあるように思います。

升田さんは、次に、「言」を取り上げます。

持統天皇の159番歌にも出てくる「問ふ(言問ふ)」という言葉が詠みこまれている歌を、10首ほど読んでくれました。そこから浮かび上がってくるのは「言問ふ」ことこそ人と人をつなぐ最初の行為であり、つながりやはじまりを生み出し、「いのち」を感じさせる言葉だというのです。

言問いが通じなければ、そこにはいのちはなく、通ずるところに「わ」と「な」が行き来した姿を現し、そこから「命」ある言葉が広がっていく。つまり「わ」と「な」が生み出されていく。159番歌には「悲し(恋し)」や「寂し」という言葉も出てきますが、それらもまた「問い」から始まるのです。

そして、「言(コト)」は人と人をつなぐ豊かな言葉であるとして、「コトアゲ」「コトダマ」「コトドヒ」「コトワザ」などと言った「コトバ」をたくさん例示してくれました。「言」は私たちがいま感じている以上に、当時の人たちには大きな意味を持っていたのです。言霊というように、まさに「言」が生きていた。

文字の発明と普及によって、そうした「いのち」が様式化され、表情豊かな人のつながりも、無表情な人間関係へと絡め取られていってしまったのかもしれません。しかし、それが先進国である大陸諸国に対しての国としての自立につながっていったのです。

私自身は、感情豊かだった持統天皇が、天武崩御後、藤原不比等に乗せられて、次第に文字や制度に絡め取られていって、天武天皇を見捨てたように受け止めているのですが、そういう視点から考えると、持統天皇にとって、自ら(「わ」)を生み出す相手(「な」)が天武天皇からもっと大きなものに変わってしまったために、生き生きした「わ」ではなく、律令国家の中の役割としての「わ」に矮小化されてしまったのではないかという気がしますが、これはいささか個人的な解釈すぎるので升田さんには一笑に付されそうです。
しかし、「言問う」という言葉には、そんな大きな力があるのかもしれません。

中国から文字が入り、その中華思想に伍していくために、飛鳥から平安へと、日本人は大きく変わりだした。改めて「万葉集」の面白さ、不思議さを感じたサロンでした。

なお次回から万葉集サロンの曜日が第3土曜から第2日曜に変更になります。
次回は8月21日です。
ぜひ多くの人に万葉の世界の面白さに触れていただきたいと思っています。

Manyou2022061

| | コメント (0)

2022/06/18

■6月のオープンサロンの報告

最近、サロンが増えてきて、なかなかテーマなしのサロンを開くのが難しくなってきました。そのせいか、久しぶりのオープンサロンは、平日だったにもかかわらず10人の参加者がありました。やはりテーマなしに自由に話し合えるオープンサロンのほうが求められているのかもしれません。

今回は最初に位相幾何学的な遊びから始まりました。
以前もサロンでメビウスの輪の遊びを紹介してくれた益田さんが2つの遊びを持ってきてくれたのです。私はいずれもうまくできませんでしたが、課題を手際よくこなす人もいました。どうも私の脳はかなり劣化しているようです。健全な老化はいいことです。

つづいて話題になったのは、ウクライナ話題、仮想通貨/暗号資産話題、マイナンバー話題などが続き、最後は「我とは何か」話題。その間、いろんな話題も混ざりましたが、まあそんな感じがオープンサロンなのです。
サロンの後に用事を入れていることが多いのですが、いつもサロンが延びて、遅刻します。困ったものです。

テーマサロンもいいですが、やはりサロンの中心はオープンサロンだなと改めて実感しました。
できるだけ毎月2回のオープンサロンをしていこうと思います。
サロンをするまでもないけれど、ちょっとこんな話をしたいという方がいたら、ぜひオープンサロンに来てください。

Open2022061

| | コメント (0)

2022/06/15

■生活事業研究会の報告とお誘い

湯島ではサロンの他にもいくつかの研究会やワークショップなどが行われています。
サロンは私の主催ですが、研究会はいろいろあって、私が参加しないものもあります。
私が主催している研究会もありますが、その一つが「生活事業研究会」です。
話し合うことをメインにしていますので、人数を抑えるために、毎月、同じ内容で2回やっています。
今日はその第1期の第5回研究会の2回目でした。

 事業研究会と言っているので、ビジネススクールのようなイメージを与えるかもしれませんが、そうではありません。ビジネスや経済の意味を問い直したいと思っているのです。

 私が話すのは今回が最後なので、いつもより長く話させてもらいました。
今回のテーマは「お金と事業」でしたが、その延長で「コモンズ経済」を話させてもらいました。ちなみに私の関心事は「コモンズの共創」です。

コモンズと言えば、ハーディンの「コモンズの悲劇」を思い出す人が多いでしょうが、日本では長いこと、「コモンズの幸せ」をつづけてきました。それに関連して2冊の本を紹介しました。「懐かしい未来」と「パパラギ」です。

その研究会で極めて大雑把に、経済の捉え方の変化を図にしてみたのですが、どうも歴史は逆に流れているように感じました。
6331df9c9cfc45cabf70f96263f91656_1
古代アテネの「オイコノミクス」と「ポリティケー」を思い出します。いまの日本もアテネのように、「市民」と「奴隷」の社会に戻ったとまでは思いたくありませんが。

 生活事業研究会は7月から第2期をスタートする予定で、いま会員を募集しています。
いまの経済のあり方に違和感のある人は、よかったら参加してください。
ビジネスと縁のない方も歓迎です。

| | コメント (0)

2022/06/14

■第16回益田サロン「頭の論理と体の論理」報告

「頭の論理と体の論理」をテーマにした益田サロンは、参加者が少なかったこともあり、それぞれが思いをしっかりと出し合えるサロンになりました。
やはりきちんとした話し合いのためには、5~6人が一番いいのかもしれません。

話し手の益田さんから、終了後、「今日は一緒に考えているという手ごたえも強く感じた」という感想をもらいましたが、参加者があまり集まらないと話し手の人になんだか申し訳ない気になっていましたが、反省しました。大勢が集まった方がいいサロンもあれば、少ない人数でお互いにしっかりと話し合うのがいいサロンもある。どうも私も、量思考の発想に汚染されていたようです。

今回は、臓器移植の話から始まりました。
臓器移植の場合、もし移植された臓器が自分に合わなければ体はそれを非自己と認識して排除し、その結果、体は死んでしまいます。しかし、頭は死にたくないと思い、抵抗する。そこに「頭の論理と体の論理のずれ」が生ずる。そこで「頭の論理」は、体が非自己として排除しないように、免疫を抑制する方法を考える。そこで医療技術も開発されるというわけです。もっと簡単に言えば、体の論理では、人はいつか死ぬことがわかっている。しかし、頭の論理では、永遠の生を求めてしまう。

ちなみに、言うまでもないと思いますが、ここで「頭」というのは、「体の一部」の「頭」ではなく、「頭が働く」とか「頭を使う」というような時の「頭」です。

益田さんは、こうした「頭の論理と体の論理」は、儒教の魂魄(こんぱく)にたとえられると言います。儒教では、魂は精神を支える気、魄(はく)は肉体を支える気を指しています。人は死ぬと、魂は天にのぼり、魄は白骨だけを残して地に戻ってしまう。
そして益田さんは、体と頭とどっちが主人なのか体あっての頭なのか、頭あっての体なのかと問いかけます。頭が体を動かしているのか、体が頭を動かしているのか。
ここで、益田サロンを通底しているテーマ「生物と環境」の問題がまた示されます。

益田さんは、これまで生物と環境は表裏一体のもので、どっちがどっちという関係ではないと話してきていますが、まさに頭と体はそれを象徴しています。体と頭は、相互に影響し合っているのです。そこから改めて、人間と環境の問題を考えていく示唆が得られます。

さらに益田さんは「体と頭」を記号的に絵にしました。これまでもよく登場していた同心円です。内側の円が頭、それを取り巻くのが体。そして、その同心円が周辺の円をやぶって外に開かれた図も描いてくれました。私にはそれがちょうど東京湾を中心にした関東地方の地図にみえたので、勝手に「東京湾の図」と名付けてしまいましたが、この図がとても思考を刺激してくれました。

頭を体が包み込んでしまっているのか、頭は体の外につながっているのか。
ここからまた話が大きく展開します。

神とつながるともたとえられる二分心仮説の右脳は体の外に開かれているとも考えられますし、平面的に考えれば同心円ですが、立体的に考えれば、同心円の真ん中の円も外部にさらされることになります。
というわけで話はいろいろと膨らんでいきました。
最近のメンタルダウンの増加も、そこから何か見えてくような気さえしました。

まあこれ以上書くと私の妄想になりかねないのでやめますが、参加者それぞれいろんな示唆をもらえたサロンだったのではないかと思います。

ところで、話し合いの中で、我にかえるという時の「我」とは「頭」か「体」、どっちの論理に戻ることなのだろうか、という話も出ました。
これもとても興味深いテーマです。

参加されていないとこの報告はなかなか伝わらないかもしれません。
それに報告も参加者それぞれによってかなり違ったものになるでしょう。
次回はまだ決まっていませんが、どういう切り口になるか楽しみです。

Masuda202206

| | コメント (0)

2022/06/08

■湯島サロン「不登校を考えるパート2」報告

不登校を考えるパート2もまた参加者が多くて、みんなの関心の強さを感じました。
「不登校」はある意味、いまの社会の生きづらさを象徴しているのかもしれません。

今回は、前半は高校生2人と大学生1人の3人が話し合うのを参加者は黙って聞きながら自らの問題を考え、後半で話し合うというスタイルでした。
冒頭、川端さんは次のように呼びかけました。

他人の話を聞き、そこに映る自分の姿を観る。自分の語る言葉に耳を澄まし、知らない自分に出会う。滑らかに言葉を話せてしまうとしたら、今までの考え方の習慣を繰り返しているだけかもしれません。

「不登校」を切り口とした体験から出てくる言葉、あるいは沈黙を起点として、自分の思い込みの向こう側にいる相手の声を聞き、そこに観えてくる「自分の人生」に目を向けていく場にしたい。

「他者の話を聴きながら自分の問題を考える」。最初の1時間は、川端さんが進行役になり、高校生の奏太さんと翔平さんと一緒に、それぞれの体験や思いを話してくれました。時に沈黙の時間があったりしましたが、参加した20代の若者からは終了後、こんなメールももらいました。

「ぎこちなさと沈黙を重要視するという視点は、分かりやすさや弁論術の価値が高まっているネット界隈の逆を行くもので、非常に興味深かったです」。

参加者も途中に口をはさむことなく、真摯に耳を傾けてくれました。私もいつもになく考える時間があって、自らに問いかけることができました。
3人の話は、沈黙のメッセージや表情なども含めて、言葉では伝わらないものを感じさせられるもので、言葉のやりとり以上のものを受けとめた人も多かったと思います。

話し合いにはいってからは、学校の問題だけではなく、参加者それぞれが抱えている自分の問題への言及も含めて、さまざまな話題へと広がりましたが、それぞれ違う問題を語っているようで、根っこはつながっているように感じました。

翔平さんが、学校や教育のせいにするのはやめて、自分の生き方を考えようと思うというような発言をしたのが、私にはとても印象的でした。前回とは少し考え方も変わってきたようで、若い世代の柔軟さにも感心しました。私たちは、不都合があればその理由をついつい外部に探し、そこにこだわってしまいがちですが、そういう生き方では、たぶん事態は変わりにくいでしょう。

参加者の話を聞いていて、改めて気になったのは、不登校に陥った子どもとその家族や専門家とでは、問題の捉え方が全く違うのではないかということです。問題の捉え方が違えば、解決しようという行動が逆に問題をややこしくしかねません。

不登校も引きこもりも、たぶん関係者それぞれの問題の捉え方が違っているが故に、解決しないことも少なくないような気がします。私自身も、自分の子どもに関しては、問題をうまく設定できずに、いまにして思えば反省することが少なくありません。
不登校の子どもの問題と不登校児を抱える家族の問題は違う。問題設定が違うので、なかなか解決はしない。そこに気づくことが大切だと思いますが、それがなかなか難しい。
しかし、その違いを踏まえての、ナラティブアプローチができれば、問題の解き方が見えてくる。私は最近そう思って、話し合いながらのナラティブを大事にしています。

もう一つ話を聞きながら思い出したのが、イギリスの教育学者ニイルの思想です。

ニイルは「子どもを学校に合わせるのではなく、学校を子どもに合わせる」という理念に基づいて学校をつくりました。日本でも30年前に、ニイルの理念に基づいて「きのくに子どもの村学園」がつくられ、ゆっくりですが、その理念は少しずつ各地に広がりだしています。
子どもに合わせた学校になれば、不登校もいじめも起こりにくいでしょう。
学びの理念が全く違うので、日本の学校制度ではなかなか難しいでしょうが、学校の外に目を向ければ「子どもに合わせた学びの場」はいまでは世間にたくさんあります。親が少しだけ意識を変えれば、そういう場はいくらでも見つけられるような気がします。
ということは、まだまだ親が意識を変えられずにいるのかもしれません。
頭(意識)は変えたつもりでも、行動が変わっていなければ、子どもたちはだまされませんから、それが逆に「圧」を高めてしまいかねません。
自分に嘘はつけても、子どもには嘘はつけません。

ちなみに、ニイルの言葉は、こうも言い換えられるように思います。
「事態を問題に合わせるのではなく、問題を事態に合わせる」。
「不登校」や「引きこもり」という、ひとくくりにできるような問題があるのではなく、個々人によって違う問題があると考えるのがいいでしょう。

印象的だったのは、発表してくれた高校生の一人は楽しかったと言い、もうひとりは退屈だったと言ったことです。でも「退屈だ」といった高校生も、最後まで付き合ってくれました。しかも、後で、「あの場所は合わないけど、だから行かないという訳ではなく、それをデメリットとして認識した上で参加するかどうかは決めたいなって思ってます」とメールをくれました。とてもうれしいメールでした。
また彼がやって来て、今度は楽しかったと言えるような場にしていければと思っています。

またまた偏った報告になってしまいました。
3人の発言も参加者の発言も、示唆に富むものがいろいろとあったのですが、言葉にすると不正確になりがちなので、紹介はやめました。

ただサロンが終わった後、なかなかみんな帰ろうとせずに、私は次の約束に1時間近く遅れてしまうほどでした。みんな「学びの場」が好きなのです。だから本当はみんな「不登校」などしたくないのです。
それが今回の私の一番の感想です。

Hutoukou2

| | コメント (0)

2022/06/05

■湯島サロン「神(天)の声に耳を傾ける」報

「二分心」をテーマにしたサロンの続編として、いまなお「神(天)の声に耳を傾ける」生き方をしているおふたりのお話を聞くサロンを開催しました。
残念ながら、参加者が少なかったのですが、人知を超えた体験をお持ちの参加者もいて、世界を思いきり広げられたサロンになりました。
人知で知ることができる世界は決して大きくはありません。世界は不思議なことで満ちています。生々しい体験談を多くの人にシェアしてもらえなかったのが残念です。

話題を提供してくださったのは高井しーちゃんと内藤カシュカシュさんです。

しーちゃんは小さいころから、友達とはちょっと違って、みんなには見えないものと出合い、みんなには聞こえない声を聴いて育ちました。
そういう体験をお持ちの方も多いと思いますが、人は次第に、「見えるはずのもの」しか見えなくなってきがちです。さらにそのうち、「見たいもの」しか見なくなってしまう。しかし、しーちゃんはいまも素直に「見えないはずのもの」や「聞こえないはずの声」ときちんと付き合っています。

しーちゃんは、実際に見聞きしてきた「体験」やそれに導かれるようにして取り組んできた「仕事」などを生き生きと話してくれました。
そして、疑いを持ってしまうと、見えていたもの、聞こえていたものも消えてしまうこと、自らのスイッチで見聞きする世界も変えられることなども話してくれました。
近くの植物たちが話し合っていたことを偶然に聞いていたことが数日後に実際に起こった話や外部から聞こえる声で救われた話などは、やはり人知を超えた存在を感じさせます。

しーちゃんは、湯島に来るときも、時々、空間のねじれに迷い込んだように、予想以上に時間がかかったり、手元のものが別空間に迷い込んだようになくなってしまう経験をよくされています。しかもそれに抗うことなく、そうしたことに素直に身を任せているようです。
ちなみに、しーちゃんのサイトは次の通りです。
https://shi-dobe-ginza-sea.jimdofree.com/

カシュカシュさんは、しーちゃんとは対照的に、ある時を境に自らの内部からの声に目覚めたそうです。それまでの生活とは一変した生活に転じたようですが、以来、その声に従って生きているうちに、いまでは、「大いなる神/創造神」とリンクしているような生き方になり、物質世界からかなり自由に生きられるようになっているそうです。

カシュカシュさんは、自らを「自分を信じる自分教」の信者と言い、「内なる神」に従って生きているといいます。それは決して「自分中心」ということではありません。カシュカシュさんによれば、自らの「エゴ」を認識し、排除した後に残るものこそが「内なる神」だそうで、それは、しーちゃんの言う「世界の外からの声」と通じているように思いました。そういえば、しーちゃんも、自分を「から」にすることが大切だと言っています。

カシュカシュさんは、「内なる神」からの声を実現することこそが自らの使命だと受け止め、なんとか「形」にしようと(実現しようと)、長年取り組んできていますが、最近少しずつ現実化しだしてきているそうです。
いまは埼玉県の寄居で「エルモット村」に取り組んでいて、仲間も増えだしているといいます。若い仲間と一緒に、自然に即した畑作業にも取り組んでいます。
関心のある方は是非エルモット村のサイトをご覧ください。村民も募集しています。
https://ermot.club/

このように、おふたりの神とのつながり方は違います。高井さんはどこか外部からの声、内藤さんは逆に自らの内面の深層からの声なのです。しかし、いずれも自分を無にしたところに、そうした声は届いているようです。
おふたりとも、そうした生き方の困難さも感じているようですが、そこから抜け出ようなどとは思っていないようです。

まあこういうお話をお聞きした後、話し合いに入りました。
自らの不思議体験を紹介してくれる参加者もいました。ある人は、子どもの頃の理解しがたい体験を紹介し、それをどう理解したらいいかと投げかけましたが、当然ながら誰も解けませんでした。もちろん、説明の仕方はいろいろとあり、そういう話も出ましたが、いまの科学や人知では説明できないという説明こそが、一番適切な説明ではないかということになりました。科学や学問の知恵は、いまの段階でのとりあえずに「仮説」でしかないことは、歴史を少し知れば誰にでもわかることです。
世の中には、「解けない問題」もあるのです。

話し合いの内容は、文字ではなかなか伝えられませんが、ただ、おふたりから、最近の若い世代には人知を超えたものを受け入れる素地が広がっていて、仲間が増えているというような話がありました。
一般に言われているように、若者の貧困が増え、精神的に障害を起こす若者も増え、いじめや引きこもりも増えているとばかり思っていたのですが、おふたりは、いまの金銭社会や物質社会から抜け出して、精神社会に入ってきている若者も多いというのです。
そして、そういう人たちは幸せそうだと言います。にわかには信じられませんが、実際にそういう生き方をしているおふたりのまわりに、そういう人が増えているのであれば、そうなのでしょう。
そういえば、私も最近、ある宗教の大きな法要に参加させてもらったのですが、若い世代が多いのに驚きました。しかもみんなとてもいい表情をしていました。

金銭頼りの風潮のなかでも、神に従って生きる若者が増えている。
そう思うと何か心がやすまります。
このサロンをどう広げていくか考えたくなりました。

ちなみにここでのまとめは、私の「主観」ですので、おふたりの真意を正確に伝えていないかもしれません。すべての文責は私にあります。
何しろ神の声につながっている話なので、報告が難しい。
参加されていた方、できたらフォローしてください。

Kami2

| | コメント (0)

2022/06/04

■緊急サロン「ウクライナの戦争状況を止めるためにできることがある」報告

小室nikoさんのよびかけの緊急サロン「ウクライナの戦争状況を止めるためにできることがある」には20代から80代と、幅広い層の男女16人が集まりました。なかには時間の合間をぬって、1時間でも参加したいという人がいるほどで、みなさんの思いの強さを感じました。

Nikoさんは、最初に参加者に瞑想を呼びかけ、その状況のまま、日本国憲法の前文と9条を読み聴かせてくれました。
そして、どうして今回の呼びかけに至ったのかを話し、誰が悪いのか、なぜ戦争は起こったのかも重要だが、ともかく、一日も早く、ウクライナでの戦争を止めたいと語ってくれました。そして、いまこそ日本国憲法の9条を改めて思い起こし、世界に紹介していきたいとも呼びかけました。
SNSで、あっという間に情報が広がる時代なのに、なぜ一方的な(一部の)情報しか広がらず、戦いをやめようという思いは広がらないのか、というのがNikoさんの思いのようです。

そこから話し合いが始まりました。
話はさまざまに広がりましたが、話し合いを通して、気づかなかったことにも気づくことがある。こうやって世界中で話し合う人が増えてくるだけでも、世界は変わるのではないかと私は改めて思いました。

話し合いがある程度進んだ頃合いを見計らって、Nikoさんは参加者みんなに「戦いを止めるアイデア」を一人5つずつ出すように提案し、各自カードに書いて、発表してもらいました。nikoさんからも例示的に10個ほどのアイデアが紹介されました。
たくさんのアイデアが出されましたが、それを整理して話を深めるところまで行く前に、話題が思わぬ方向に転じてしまい、なぜウクライナ戦争は起こったのかという話から、日本の平和や憲法問題にまで発展、時間の関係もあり(なんと1時間半も延びてしまいました)、みんなが出したアイデアはnikoさんが預かることになりました。

そして、nikoさんの呼びかけで、思いを共有する人たちでゆるやかなネットワーク組織をつくり、メールで情報共有したり、何か一緒にできることがあれば実際に取り組んだりしていくことになりました。近いうちにこのメーリングリストでも、nikoさんから呼びかけがあると思いますので、思いを共感する人はぜひご参加ください。

参加者からのアイデアの報告は、nikoさんからあるかもしれませんので、私からは話し合いを通じて感じた3つの「私にできること」を書かせてもらいます。

1は、「戦っているいずれかを、さらにはいずれをも支援しない」ということです。喧嘩をしている人を止めるのに、どちらかを応援するようなことはだれもしないでしょう。応援するということは「火に油を注ぐ」ということではないかと思います。ですから私はいまウクライナで戦争しているロシア政府とウクライナ政府のいずれをも非難もしなければ応援もしないようにしたいと思います。

しかし、それは、ウクライナやロシアに暮らしている人を支援しないという意味ではありません。戦争をしているのは、それぞれの政府やその背後にいるどこかの政府や産軍複合体や多国籍企業であって、市民ではないでしょう。ロシア軍の兵士たちも、もしかしたら、「戦わせられている」のであって、「戦っていない」兵士も少なくないと思います。もちろんウクライナ軍の兵士や国民たちも、ですが。

ですから第2に、「戦火の周辺で生命さえをも脅かされる惨状にあるウクライナやロシアの人たちは支援する」ということです。
サロンでは、あるNPOの人がご自分の体験を紹介してくれました。その人は、自閉症支援などの活動をされているのですが、自分たちと同じような活動をしているウクライナのNPOを探し出して、直接その人たちへの資金援助などをしているそうです。
この話は、とても示唆に富む話です。国家や国際組織を通さずに、直接、同じ立場の人たちを支援することによって、戦いの一方を支援するような結果を避けると同時に、市民たちのつながりが国家間の戦争への大きな対抗力になるような気がします。
国家を超えた支援体制ができれば、人々の国家依存度は低下し、自国政府に対する異議申し立てもしやすくなるかもしれません。市民同士のつながりが深まれば国家間の戦争も止められるかもしれません。これは、これからの「平和のあり方」にも通じています。

そして第3に、「私自らもみんなと仲良くしよう」ということです。
nikoさんも話していましたが、平和に向けて活動をしていた人たちのなかにも、「正義の戦争論」を持ち出して、「侵略国家」ロシアを非難している人もいます。日本の国会議員たちは、ウクライナの大統領の演説に拍手喝采し、なかには「祖国のために戦っている姿に感動」したと発言する人さえいました。9.11後のアメリカや経済規制を受けていた(ロシアではなく)第二次世界大戦前の日本を思い出します。
プーチンを狂人扱いしたり、悪口雑言したりする人も、結局は戦争の火に油を注いでいるように感じます。憎悪や非難からは戦争を止める力は生まれない。
私は、ロシアへの経済制裁にも反対です。困るのは決して政府ではないからです。

戦争をすぐに終わらせる策はそう簡単には見つからないかもしれません。
しかし、その思いで何かを始めることは大切です。nikoさんの呼びかけを待つだけではなく、できることをそれぞれが始められればと思います。

ところで、サロンでは、人間の攻撃本能の話題が少し出ました。
しかし、私は今回のウクライナ戦争関係の報道のなかで、改めて人間の「性善説」を確信できる言動にたくさん触れています。
実際に危機に瀕した他者を前にすれば、手を差し伸べようという感情が沸き起こる、それこそ人の性が善である、と孟子は言っていますが、そうした実例に触れる度に、私は未来への希望を感じます。

人への憎悪や非難をいくら重ねても戦争は止まらない。しかし、人の性は「善」なのです。その「善」を信じて、私はまずは憎悪の念や非難の姿勢を捨てたいと思っています。
戦いをなくしたいのであれば、まずは自らがみんなと仲良くなろうとしなければいけませんから。

Niko20220601

| | コメント (0)

より以前の記事一覧