カテゴリー「サロン報告」の記事

2025/07/02

■第2回SUN10ROサロン報告

「SUN10ROクラブ」(「さんじゅうろうくらぶ」は、「なぜ人間は仲良く良心的に生きていけないのか」というテーマを描きたくて映画を作りつづけたという黒澤明監督の精神に共感し、黒澤映画からのメッセージを読み解きながら、社会に広げていこうとしている河村光彦監督の活動のゆるやかな応援団です。
https://www.facebook.com/groups/1312667559794431

今回は特にテーマを設定せずに、河村さんを囲んでの自由な話し合いになりました。
河村さんからは相変わらず熱いメッセージがたくさん送られてきました。
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今回初参加した中に、3週間前に日本に来たインドのヤシュカさんがいました。
彼は映画から芸術へと目覚めていったそうですが、黒澤明監督の作品もたくさん観ています。しかも文学も大好きで、シェイクスピアもドストエフスキーも芥川龍之介も読んでいます。常時、携えている彼のパソコンには黒澤作品も数本入っています。
この若者ヤシュカさんと河村監督のやりとりがとても面白かったです。
かみ合っているようでかみ合っていなくて、なんだか騙されているような部分もありましたが、そのやりとりで気づかされることも少なくありませんでした。
やはり「対話」や「討論」は大事です。特に異質との対話は気づかされることが多いです。これこそサロンの魅力です。

河村さんは、本格的な本づくりの前に、これまで書いたものを電子出版しはじめています。これに関しては、SUN10ROクラブのフェイスブックグループに河村さんが毎回投稿していますので、ぜひ読んでみてください。
https://www.facebook.com/groups/1312667559794431

これまでに出版されているのは次の4冊です。
第1弾『藪の中の光』
第2弾『魂創造論』
第3弾『AI映画の未来』
第4弾『救いの書 黒澤映画が人生の教科書だった』
いずれもアマゾンで電子ブックとしてもペーパーバックとしても購入可能です。

第1弾の『藪の中の光』は前回かなり話題になった『羅生門』に関する話ですが、参加者の一人が、「映画『羅生門』を観て『藪の中の光』を読んで河村監督のお話をお聴きしたら、独りで映画を観て本を読んだだけでは理解及ばずだった点に色々と気づかされて大変面白かった」という話をしてくれました。
「『藪の中の光』を読むともう一度『羅生門』を観たくなります」というのです。

その話を聞いて、河村さんが目指しているのも、そういうことかとやっと気づきました。
そうやって黒澤作品から学ぶこと、気づかされることがある。しかも、それは今の社会にとても大切なことなのではないか。実際に自分はそうやって自らの生き方を正してきたつもりだが、その体験からももっと黒澤作品を活かしていきたい。たぶん河村さんはそう考えているのです。
まあ、本人に訊けば、それが事実かどうかはわかるのですが、まあ訊くのはもう少し先にしましょう。そうじゃないよと言われてしまうと、また進め方に迷いが出てきそうですので。ともかく何か仮説がないとSUN10ROクラブを継続していくのは難しいですから。

河村さんは、今回は電子出版の最新作『救いの書 黒澤映画が人生の教科書だった』について少し話してくれました。
河村さんは黒澤監督の30作品をそれぞれ繰り返し見ていますので、そういう話が随時出てきますが、やはり実際に改めて黒澤作品を見ないと河村さんのせっかくのメッセージも未消化で終わりそうです。
そこで次回からは、できるだけ実際に映画を見たうえで話し合いをしていこうと思います。いつかはきちんとした上映会もできるといいのですが。

もちろんSUN10ROサロンはそれだけではありません。
河村監督率いるSUN10ROクラブがこれからどう展開していくか。
それはまだ未定型です。
参加した人がそれぞれ主体的に動くことによって、いろいろな展開が考えられます。
まあ急がずに、ともかくこれからも毎月30日にはSUN10ROサロンを開催していこうと思います。
もし関心を持ってもらえそうな人がいたらどんどん巻き込んでいってもらえるとうれしいです。まずはゆるやかな仲間を増やしていきたいです。

次回(7月30日)は映画『羅生門』と河村さんの『藪の中の光』を材料に、インドの若者ヤシュカさんにも参加してもらい、〈藪の中の光〉について話し合いたいと思います。
参加者は必ず河村さんの『藪の中の光』をお読みになり、できれば映画『羅生門』も観ておいてください。
映画は当日のサロンの始まる前に、湯島でも観られるようにします。したがって、次回のサロンの開始はいつもよりも1時間早い午後1時を予定しています。

こんな感じで少しずつ活動の輪を広げていきたいと思います。
アイデアなどあれば、SUN10ROクラブにどんどん投稿してください。
河村さんの電子出版もぜひよろしくお願いします。
英語版もありますので、海外の友人知人にもぜひ紹介してください。

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2025/06/28

■第2回百姓一揆呼応サロン「川田龍平さんの農や食への取り組み」報告

令和の百姓一揆に呼応して立ち上げた百姓一揆呼応隊の第2回サロンは、国会議員の川田龍平さんにお願いしました。
川田さんのことは紹介するまでもないと思いますが、薬害エイズに巻き込まれた体験から、「目先の利益の為にいのちを切り捨てる構造を本気で変えなければならない」と、国政で活動している政治家です。
https://ryuheikawada.jp/

令和の百姓一揆にもパートナーの堤未果さんとご一緒に参加されていましたが、川田さんは、在来種のタネを守り、持続可能な地域の食システムの導入を目指す「ローカルフード法案」を提出するなど、農や食にも精力的に取り組んでいます。
「ローカルフード法案」は今国会にも提出されましたが、残念ながら今回も審議未了のまま廃案になってしまいました。実に残念です。
ぜひサイトをご覧ください。私たちももっと関心を持っていきたいと思います。
https://localfood.jp/

今回は、川田さんの農や食や医療(それらはすべて密接につながっています)に関する思いと取り組みをお聞きし、生活者としての私たちに何ができるかを考えていきたいと考えて企画しました。
川田さんは7月の参議院選挙という超多忙な時期にもかかわらず、サロンに来てくださり、これまでの取り組みなどをわかりやすく説明してくれました。

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川田さんは、「有機給食を全国に実現する議員連盟」を2年前に立ち上げましたが、それに関連して、千葉県のいすみ市や木更津市の取り組みから話しだしました。子どもたちの給食に、日本の農と食の問題が凝縮しています。
現場の話から始めるところに、私は川田さんの真摯で誠実な姿勢を感じました。そして、川田さんご自身の農業や食に対する考えも伝わってきました。

つづいて自分がなぜ政界に入ったのかの話へと移り、薬害エイズ事件と日本の薬害構造について、ざっくばらんに話してくれました。政治家特有の忖度など微塵も感じませんでした。 
薬害エイズ事件に関しては、今では知らない人もいるかもしれません。本来病気を治すための薬で,健康が奪われ、命が奪われ、しかも、そうした事実が政官業によって、隠蔽された事件です。私が医療行政に疑問を持つ契機になった事件です。私自身は、こうした構造はいまなお解消されていないと思っていますが、当時の記録が、川田龍平ヒストリーとしてyou tubeにアップされていますので、ぜひご覧ください。川田さんの原点です。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLA_g8gOAZfoOp-Hkt6T3jE-JWF4_MGc5r

日本の薬害構造を知った以上、放置しておくわけにはいかないと、川田さんは無所属で立候補し、政界に入っていきます。そこからさまざまな苦労を重ねていくわけですが、いのちを切り捨てる構造を変えようという信念はますます強まっているようです。

川田さんが体験してきた政治活動の経緯、とりわけ厚生労働行政や委員会活動の実態から、いまの政治の実態が伝わってきました。
体験者からの直接の話は、なまなましく、説得力もあります。

そこから次第に、農薬問題や食と健康の関係、有機農業推進の課題、大規模化農業の問題点、農薬規制・残留農薬問題と国際比較、種子法・種苗法の動き、さらには「医食同源」の観点から食の重要性などへと話は広がっていきました。
こうした話はいろいろと漏れ聞こえてきますが、私たち生活者には全体像がなかなか見えません。しかし、いろいろと組み合わせると新しい地平も見えてきます。最近の米不足や米価問題も、すべては実はこうした日本の農や食の構造につながっています。
さらにそれは思わぬ問題にもつながっているのです。たとえば、医療制度と薬問題にもつながっていますし、いささか微妙な問題ですが、発達障害児の増加とも無縁でないのかもしれません。いうまでもなく、少子化問題や国家の安全保障にもつながっています。

食は私たちの生命の基盤です。それにつながる農のあり方は、経済問題などではないのです。そこの意識を変えなくてはなりません。
目先の〈意図された米不足問題〉や米価問題に目を奪われてはいけません。その奥にはとんでもなく大きな闇がある。言い換えれば、大きな希望がある。

川田さんたちがいま取り組んでいる「ローカルフード法」は「食や農や医」、つまり私たちの安心した生き方につながっています。この法案の制定作業の実状や政界での調整に関しても少し話してくれましたが、残念ながら今国会でも審議未了で見送られてしまいました。
マスコミ報道からは見えてこないことがたくさんありますが、私たちができることもあるように思います。私たちの関心や思い、そして力を束ねる仕組みができれば、「ローカルフード法」も実現するはずです。

なお、今回審議未了で終わった「ローカルフード法案」についての第1回報告会が6月30日(月)の19時から20時、川田龍平渋谷事務所で行われます。オンライン参加も可能ですので是非お聴きください、詳しくは川田事務所にお問い合わせください、

医療制度と薬の現状についても話してくれました。今年初め、薬学部で学んだ学生の伊佐さんのサロンでも話題になりましたが、いまの日本の製薬行政もまた、危機的な問題を抱えています。これに関連して、川田さんは、医療費削減と食育・農業の連携の重要性も指摘しました。経済視点では縦割り行政は効果的ですが、命や暮らしの視点からは無駄が多い。
「農福連携」は湯島のサロンで長年取り組んでいるテーマですが、「経済」の視点ではなく「暮らし」の視点で考えると、これまでの発想とは違う展開が見えてきます。

いずれにしろ、医療と食と農はつながっています。しかしこれまで、それらをつなぐ視点は「経済」だった気がします。すべての根底には「経済優先の社会構造」がある。それでは事態は変わらない。川田さんもそうした現状に目を向けているのです。

報告したいことはたくさんありますが、川田さんのお話は密度が濃く、しかも広がりがあるので、簡単には報告できません。
それに概念的な話だけでなく、たとえば、グリホサートやネオニコチノイド系農薬の健康影響など具体的な話もありましたし、日米関係や日本の医療などに関して時にかなりドキッとするような指摘もありました。日本で売られたり使われたりしている薬に対しても、厳しい指摘がありました。ともかく書きたいことは山ほどありますが、中途半端に紹介して誤解されてもいけないので報告は差し控えます。

川田さんはこれまでに何冊も本を出されていますし、いろいろなところで講演もされています。ぜひそうしたものに触れてほしいです。最近も、『高齢者の予防接種は危ない』(飛鳥新社)を出版しています。よかったらぜひお読み下さい。できれば、パートナーの堤未果さんの本も併せて読まれることを奨めします。

サロンには、シードバンクに関心を持って活動している人や有機農業・自然農法関係者、あるいは食育活動に取り組んでいる人など、いろいろな実践活動家も参加していたので、話し合いも興味のあるものでした。ただ時間不足だったのが残念です。

こういう活動に接していつも思うのは、いろんな活動がうまくつながっていかないことです。慣行農業の問題点を克服しようと、いまさまざまな活動が展開されていますが、農法に限ってもそれぞれ農法別に活動が展開されていますし、ましてや、食や医療、育児や健康などとの総合的な連携はなかなか実現しません。また現場の実践活動と国家政策は本来密接につながっているべきですが、うまくつながらずに時に反対方向に動いています。
川田さんのような人に、それらをつなぐ要(かなめ)になってもらえればと思います「いのちを切り捨てる社会」から「いのちを守る社会」にしていくためには、実践者たちも「小異」を捨てて、大同団結していくことが必要です。川田さんは最近も、『高齢者の予防接種は危ない』(飛鳥新社)を出版しています。よかったらぜひお読み下さい。
ローカルフード法はその一歩になるかもしれない。そんな気がしました。

ところで来月は参議院銀選挙で、川田さんも立候補します。
サロンの最後では、少しだけその話もしてもらいました。
いまの日本の選挙には人手がともかくかかりますが、もし応援してもらえる人がいたら川田事務所に連絡してください。
湯島のサロンは、「不偏不党」を理念にしていますが、今回は川田さんを個人的に(政党を離れてです)応援することをお許しください。

百姓一揆呼応隊のサロンにもたくさんの課題をもらった気がします。
サロンでは、今回出されたさまざまな問題を学んでいくとともに、実践現場での農や食の動きとの接点を広げていければと思っています。
次回、どなたか問題提起したい方がいたらご連絡ください。

 

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2025/06/25

■湯島サロン「ようこそ日本へ、ヤシュカさん」報告

1週間前に来日したインドの若者ヤシュカさん(21歳)の、いわば歓迎オープンサロンでした。10人近くの人が参加しました。
実はヤシュカさんが湯島に来るのは3回目です。
1回目は昨年の暮れのオープンサロン。湯島のサロンの話を聞いて突然一人でやってきたのです。この時は私は参加していませんでしたが、参加した6人の多彩な人たちを魅了したようです。その時参加していた人も時間調整できなかった一人を除いて、みんな参加です。
2回目は1週間前。たまたま私だけしかいなかったので、私とだけしか会えませんでした。初対面で短時間でしたが、彼はすべてを見せる術を持っています。
そして今回が3回目。

ヤシュカさんはともかく人生を楽しんでいる若者です。まだ来日したばかりなのに、すでに日本の社会になじんでしまっているようです。

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一応、来春から大学で芸術関係の学びをすることになっていますが、実際にはこれまで通り、独学で学んでいくのがヤシュカさんのスタイルでしょう。
「学び方」が全く違うのです。
日本の大学が、彼にとって効果的な学びの場になるかどうか、とても興味があります。

ヤシュカさんはインドで、学びに恵まれた環境で育ったわけではありません。むしろ逆かもしれません。
5~6年前にインターネットが使える環境に出合って、彼は世界を一気に広げたのです。
そこから作曲に目覚め、文学に目覚めた。日本語も短期間の独学でマスター。
作曲はすでに映画音楽向けに作品が売れて、今回の日本への旅費などもそれで賄ったそうです。

彼の話は驚くばかりですが、何を質問しても、即座に答えが返ってくる。
みんなが一番感心したのは、ともかく回答が速くて明確なのです。
たとえば、作曲を学びに来たというので、それにつながる集まりを私は紹介したのですが、即座に「興味がない」という。せっかくの好意に対する配慮など微塵もない。しかしそれがまた全くの嫌味を感じさせず、むしろ心地良ささえ感じさせる。
私のほかにも、いろんな人が、ヤシュカさんのためにといろいろ提案しましたが、そのほとんどすべてへの答えが「興味がない」なのです。
念のために言えば、打算的な損得感は全くありません。ただただ彼は自らの好みで即決断できるのです。これほど迷いのない人との会話は私も初めてです。
生成AIに詳しい人も参加していましたが、ヤシュカさんの頭脳回路も生成AIに近いのかもしれません。ともかく一点の曇りさえない。

サロンが始まる前に、彼と話していて、気が向いたら自分の考えもサロンでみんなに話したいと言っていましたが、途中で気が向いたようで、ホワイトボードを使いながら話を始めました。
このあたりは生成AIとは違うようです。
今週私はちょっと疲労気味で、なんとなくぼーっと聞いていたのですが、参加者の一人の要約によれば、「私の心の中にある小さな"かけら"が自分にとっての真実と共鳴する」というような話だったそうです。だから何事に対してもすぐに答えが出るのでしょう。
ちなみに彼はインドが嫌いだそうですし、インド人という自己認識もあまりないようです。インド哲学にも関心なし。

途中で彼が作曲した曲も聴きました。演奏もパソコンを使って仕上げています。
日本で最初に買った大きな買い物はピアノだそうです。
ヤシュカさんが関心を持っているのは作曲だけではりません。
文学にも関心があり、今朝も3時間かけて谷崎潤一郎の『春琴抄』を読んできたそうです。日本語習得も兼ねているので、オーディオブックを聞きながら読むのだそうですが、オーディオブックを流す速度が2倍速どころではないのです。
文学は日本語習得のためだけではありません。それにその作品を読む価値があるかどうかもすぐわかるそうで、作品名は書きませんが、ある有名な作品は3頁読んで、これは読むに値しないとすぐやめたそうです。ここでも判断が速く、バッサリと決めてしまう潔さがある。
時空間を超えて幅広く書籍も読んでいますが、なぜかインドの作品には「興味がない」のだそうです。

さてこの超人的なヤシュカさんが、これからどう変化していくか。
興味があります。
秋にまた、ヤシュカさんのサロンをやってもらおうと思います。
彼が「興味がない」と言って、断らなければですが。

 

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■仮説実験授業体験講座とたのしい授業の会ご報告と次回7月17日のご案内

ここでも案内させてもらった「仮説実験授業体験講座」が6月19日に開催されましたが、その報告を主催した黒田さんがメーリングリストに投稿してくれました。
それをここでも紹介させてもらいます。

体験講座は継続していくことになりました。
ぜひみなさんも一度体験し、よかったら普及にご協力ください。

以下は黒田さんの報告です。

6月19日木曜日の暑い中参加者は12名でした。
仮説実験授業の会員が授業者を含めて5名,その他初めて仮説実験授業に出会った方が7名でした。

始めに簡単な自己紹介の後,<もしも原子がみえたなら>の体験講座になり少しの休憩を挟んで二時間余りの体験でした。目には見えない空気はどんな様子か予想して描いてみて,その後,お話を読みながら空気中の原子分子にぬりえしつつ授業は進みました。一億倍の水分子の模型も作りました。
授業後それぞれの参加者から感想お書きいただき話していただきました。
ほとんどの方は「とても楽しかった」ということで感想は子どものようにぬりえして楽しんだということでしたが,佐藤さんからは「原子は見えなかった」「大人の視点よりも子どもの自主性を中心とすべきではないか」とのご意見があり仮説実験授業研究会の会員からは<もしも原子がみえたなら>は初めて仮説実験授業に出会う人に適切だったか?という意見もありました。
後半に黒田礼子と一緒に会を企画した佐々木敏夫さんから雑誌「たのしい授業」の紹介と見本誌の提供があり,佐藤さんからは1回ではよくわからない事もあるから何回か続けてみたらどうかというご提案もありました。

そこで次回は仮説実験授業の形がよくわかると思う(問題→予想→討論→予想変更 →実験)のある<ふりこと振動>を予定することにしました。今回ご都合がつかなかった方や仮説実験授業を体験なさりたい方,学校には登校していないお子さん生徒さんなど広く皆様の参加をお待ちしています。

日時は7月17日木曜日1時から4時で会費は1000円です。
申し込みは黒田礼子です。
電話かショートメールでよろしくお願いします。

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■湯島サロン「私が今の社会になじめないわけ」報告

湯島のサロンにも時々参加してくれる“ひきこもり”体験者のSさんが自らの体験や心境を心を開いて語ってくれるサロンが実現しました。
Sさんに対して私がぶしつけな問いかけをしながら、参加者と一緒に「自分事」として、いまの社会にどう向き合っていくかを考えるサロンです。
参加者が少なかったのが残念ですが、しかしそのおかげでみんなそれぞれの体験も語りだしてくれて、とてもいい話し合いができた気がします。
思い切り自分を出してくれたSさんの勇気に感謝します。

最初はまず私がSさんに問いかける形でサロンを始めました。
参加者はほとんどが自ら引きこもり体験があるか、あるいは家族に引きこもりの人がいる方でした。体験のぶつけ合いは、リスキーですが、リアルです。

タイトルを「今の社会になじめないわけ」としたのは、Sさんが、「生きづらい」という表現はあいまいで内容がよくわからないというので、それに代わって社会になじめないというのを切り口にしたのです。
もっともSさんは、社会になじみたいとは思っていないというのです。
なぜなのか。そのあたりから話を始めました。

話の内容は、基本的にオフレコが条件ですので、報告はやめますが、話をしていていろいろな気づきがありました。ひきこもり当事者とその家族、その相談者やケアラー、それぞれがたぶん全くと言っていいほど、違った問題を立ているのを私はずっと感じてきていますが、改めてそのこともSさんから教えられました。
問題の立て方が違っていたら解決しようがないのです。
いや解決の先にあるものが、みんな違っているのかもしれません。

ちなみに私とSさんの関係は付き合うなかで大きく変わってきています。
もう付き合いだしてから数年経ちます。最初は全く受け入れてもらえませんでしたが、何回かサロンで共に時間を過ごす中でお互いに少しは理解し合えるようになってきました。だから、今回のサロンが実現したのです。
今回Sさんや参加者みんなと話していて、私自身いろんな気付きをもらいました。
Sさんも同じだと思います。
みんなの前に自らをさらけ出すと、自分にも見えていなかったことが見えてくることは、私は何回も体験してきていますが、Sさんもおそらくそれを体験したことでしょう。
これからのSさんの活動が楽しみです。

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ちなみに今回も参加してくれましたが、やはり自称“ひきこもり”体験者の原川さんが、今月から毎月、最終金曜日の午後に「生きづらサロン」を開催します。
さまざまな「生きづらさ」を抱える当事者が、情報や悩みを分かち合い、自己理解を深めるための交流の場を育てていきたいというのが原川さんの思いです。
特定のテーマは設けず、参加者同士の自由な対話を通じて、緩やかなつながりや気づきが生まれることを目指しているそうです。話すことが苦手な方や、聞くだけの参加も歓迎だそうです。
すでに案内は出ていますが、今月は6月27日(金曜日)の午後2時からです。

やはり体験者の言葉は示唆に富んでいます。
もうこの種のサロンは、私が参加しなくてもSさんや原川さんがやってくれるでしょう。
全国で広がっている家族会とは違った場が生まれだすことがとてもうれしいです。

当事者の方、ぜひ参加して、「生きづらサロン」を育てていってください。
私はまだ参加を許可されていませんが、いつか招待してくれるのを楽しみにしています。

 

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2025/06/24

■第40回万葉集サロン「〈わ〉の先にあるもの③ 万葉幻相 〈オノ〉と〈モノ(鬼)〉」報告

「〈わ〉の先にあるもの」のパート3は、〈オノ〉と〈モノ(鬼)〉を切り口に、意識の発生・発展とそれに伴って世界観が生まれてきたことを見ていこうというお話です。

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民俗学者の折口信夫は、「日本の古代の信仰の方面では、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの4つが、代表的なものであった」と書いていますが、升田さんは、最初にその言葉を紹介してくれました。
「信仰の方面」というとわかりにくいですが、これを「意識の契機(淵源)」ととらえてもいいかもしれません。
個々人がまだ主体的には自覚されない混沌とした世界にあって、これまで見てきたように、〈た〉も〈な〉も〈わ〉も絡み合っていて、人称的な概念もない、不定称のなかで、その4つが絡み合いながら育ってきた。それが、相互の関係が整理されてくるとともに、神とのつながりからも解放されて、それぞれのなかに意識が芽生えてくる。その過程が、〈神〉〈鬼〉〈霊〉〈物〉という言葉あるいは歌に埋め込められて残っているのが万葉集の世界かもしれません。
言い換えれば、まだ言葉から自由に生きていた人たち(漢字文化で育った渡来人たちとは違って日本列島に以前から住んでいた人たち)のことが万葉集から垣間見えてくる。私の関心事は、そこにあります。

升田さんは、この4つが古代では、すべてが融即(融和)関係でつながり、そこに〈た〉〈な〉〈わ〉がゆるやかに共生していたと言います。
初期万葉集に出てくる歌においては、〈神の領域〉と〈人の領域〉との詞章が、〈序詞〉と呼ぶレトリックでつなげられ、こわごわと「意識」を語りだしていたのが、次第に〈な〉や〈わ〉が生まれてきて、生と死の概念が生まれるとともに、次第に「存在」が強調される「オノ」が創発し、そこから対照的に、かみ(神)、おに(鬼)、たま(霊)、もの(物)が見えてきて、「もの」概念でとらえられる時代に進んでいきます。

つまり、「もの」を霊的な世界(神とか死とか霊とか)として感相している世界観が育ってきたということです。
ものによって支配されている、あるいはものに満たされている「幻相」の世界は、「即物世界」とは真逆な世界なのです。「幻想」ではなく「幻相」という文字を升田さんがあえて使っているのはこのためです。

ちなみに、古代(万葉集)にあっては、「鬼」は「もの」と訓みました。「おに」と訓まれるようになるのは平安に入ってからです。「物(もの)」は直接言うことを避けなければならない超自然的な恐ろしい存在であるのに対し、「鬼(もの)」は本来形のないものを指したようですが、いずれにしろ現代の語感の「物(物質)」とは違い、「存在」そのものを指していたようです。そう考えれば、「神」「霊」ともつながっていることがすんなりと受け入れられます。

「鬼」は神であり霊であり始源を意味する。「鬼」を「もの」と読んだのはこの語に古代の世界観が包摂されていたからだと升田さんは言います。
そして、それぞれの例をいくつかの歌で読んでくれました。
そうした事例から、文字が新たな世界観を生み出していくこともわかります。
音で始まった歌が、次第に文字によって、変化していくわけですが、それは歌だけではなく、人々の意識や世界観さえをも変えていったでしょう。
当然、〈わ〉〈な〉〈た〉も変わっていく。〈おの〉が生まれ、人と人との関係も変わっていく。

升田さんはいくつかの歌を通して、「おの」(前回の〈横並びの方向性〉の世界観)と「もの」の繋がりは音韻に残っているとともに、意味の上で「おの」が「鬼」と幻相される霊的な力の背景を持っていたことに重なり、世界観が広がってくる、といいます。
そういわれてもなかなか消化できません。
必死に追いつこうと思っているうちに、升田さんはさらに進んで、「オノとモノの力」を示す例として、大伴家持の「為幸行芳野離宮之時、儲作歌一首〔并短歌〕」(巻18-4098)を読んでくれました。
大伴家持が、たとえば「もののふの  八十伴の緒も 己が負へる 己が名負ひて… かくしこそ 仕へ奉らめ」「もののふの… ますらをの 心を持ちて〉」と、一族の気概を意識にした言葉を歌に詠んでいる、と言います。
大伴家持も捨てたものではない。最近少し好きになりました。

今回はいつも以上に、材料が多すぎて、たぶんほかの参加者も消化不良だった気がします。升田さんもそれを感じていて、次回もう一度、「おの」「鬼」「もの」概念について取り上げてくれることになりました。
今回の報告は我ながら消化不良ですみません。

ところで今回、消化不良(時間不足)になったのは、提供された材料が多すぎたこともありますが、話し合いの話題がちょっと私の不勉強から本論から外れてしまったせいもあります。
外れてしまったのは、「万葉仮名」の問題です。
これに関しては、以前升田さんからきちんと解説を受けていたのですが、私がそれを忘れてしまい、話し合いを混乱させてしまったのです。

万葉集では「鬼」を「もの」と読むということですが、「万葉仮名」は一文字一音ではないのかという疑問をぶつけたのです。
それにそもそも「鬼」を「もの」と発音したということがなぜわかるのか。
升田サロンはこういう初歩的な質問がいつでも許されるのです。

「万葉仮名」は多くの場合、一文字一音ですが(つまり漢字を表音記号として使っている)、漢字の和訓で表記しているものもあるのです。だから「万葉仮名」という呼び方への異論もあるようです。要は漢字を利用しただけの話であり、万葉漢字と言った方が正確な気がします。

しかし無文字社会で歌われていた歌を表音記号としての漢字で記録しているうちに、漢字の和訓が生まれだし、それが後世の編集の過程で文字の置き換えがあったことは否定できません。
そこで、たとえば「鬼」の意味が変化した可能性はあります。「物」もそうでしょう。
無文字社会と文字社会の混淆によって、何が起こったのか。
「おの」「おに」「もの」の文字と言葉に、何が読み取れるのか。
日本列島住む人たちの意識がどういう方向に動き出したのか。
「(日本人の)〈わ〉の先にあるもの」。次回はそれがもう少し見えてくるかもしれません。

次回の万葉集サロンは8月の第3日曜日の8月17日です。
ぜひご予定ください。

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2025/06/19

■6月オープンサロン報告

6月のオープンサロンの報告です。
なんと10人を超す参加者がありました。
しかも湯島のサロン発参加者が3人も。
予定では、前日来日したインドの若者ヤシュカさんも来る予定が、彼が到着したのはサロンが終わった後。私は彼と話せましたが、みなさんへのお披露目は20日になりました。
おもてなしは、インド土産のコーヒーと私のつくった笹の葉茶。
インドのコーヒーは、私にはちょっと苦みが効きすぎていましたが(ミルクを入れるとおいしそうです)、一部の人からは大好評でした。私の特性笹の葉茶も、意外と好評。なかには、これからは市販のペットボトルのお茶は焼けてこういう野草茶にしたらどうかと提案がありました。
以前からペットボトルは減らしたいと思ってはいましたが、迷うところです。

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サロン初参加の人が3人もいましたので、それぞれの自己紹介から始めました。
発参加者は最後にして、まずはサロンにやってきた人順に始めたのですが、オープンサロンは出入り自由で参加者も三三五五の参加です。自己紹介が終わりそうになると新たな参加者が来て、その人の話になる。というような感じで、結局、今回のオープンサロンは参加者の自己紹介で終わってしまいました。
しかし自己紹介と言っても、自己主張する人もいて、話はそこからいろいろと広がりました。
オープンサロンらしく話題はさまざまです。

インドの若者ヤシュカさんからは、いろんな手続きが遅れていて、なかなか油浸に行けないとの連絡が入り、結局、5時近くまでサロンを伸ばしていたのですが、次の用事もある人も多く、サロンを終了。後片付けも終わりみんなが帰った後に、ヤシュカさんが飛び込んできました。
私もヤシュカさんとは初対面。ヤシュカさんは日本語も堪能です。とはいえ日本には友人がほとんどいない。そこで6月20日に「ヤシュカさんを囲むオープンサロン」を開くことにしました。よかったら来てください。
オープンサロンは面白いです。
まあ今回も報告と言えるほど内容はないですが、サロンでの話し合いは内容はいろいろとあって楽しいです。

7月のオープンサロンは11日(金曜日)です。

 

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2025/06/18

■近藤サロン⑧「『サピエンス全史』と『万物の黎明』の世界観の違い」報告

「進化論」大好きな近藤和央さんの「『利己的な遺伝子』論から眺める人間論」8回目は、ハラリの『サピエンス全史』とグレーバーの『万物の黎明』の世界観の違いを話題にしました。
『サピエンス全史』も『万物の黎明』も、湯島の別のサロンで取り上げられていますが、今回は進化論も意識しながら、この2冊の大作をとり上げることになりました。
といっても、案内にも書いたように、近藤さんが両書を解説するのではなく、両書の背景にある「世界観の違い」を話し合うのが主旨です。テーマは「進化論」の是非。
ところが困ったもので、『万物の黎明』に挑戦したけれども途中で挫折したので、近藤さんの解説を聴いたら読まずにすむかもしれないとわざわざ新潟からやってきた不謹慎者もいまいた。それに、『サピエンス全史』はともかく、『万物の黎明』をきちんと読了した人は参加者にはいないようです。そもそも問題提起者の近藤さんも、実は自分も読了しておらず解説本のほうが面白かったなどという。
というわけで、あれだけ話題になった本なので、楽をして読んだ気になろうという不謹慎者のサロンになってしまいました。「進化論」はどこかに飛んでしまった。全く困ったものです。

ちなみに私は、両書をきちんと読了しています。しかし私の読書記憶力はとても悪くて、『サピエンス全史』は退屈だったという記憶しかなく、『万物の黎明』は面白かったという記憶しかないのです。なにしろ『万物の黎明』にしても読んだのは一昨年です。先日の山本さんのサロンで少しだけ思い出しましたが、解説などできようもない。だから、あまり偉そうなことは言えません。

さてサロンですが、いつものように、最初に近藤さんから両書の大きな違いのガイダンスがありました。両書を対比的に解説したチャートですが、そこに近藤さん好みの副読本が追加されていました。添付します。

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この解説を聞きながら話し合いに入りました。
近藤サロンはいつもそうですが、近藤さんの話に呪縛されることなく、参加者が自分の関心で話題を選ぶので、話し合いは面白いですが、まとめるのが難しい。
しかし、今回、話し合いの展開を聞きながら、もしかしたらこれって「グレーバー的」なのではないかと思いました。「グレーバー的」って何だと訊かれると困るのですが、

人類の歴史を一直線に「発展」や「進化」してきた目的論的進化論の物語として描くハラリやジャレド・ダイアモンドが私には退屈なのは、グレーバーが『万物の黎明』で書いているように、ヨーロッパ中心主義者の征服年代記を読んでいるような気にさせられるからです。文化人類学者のフィールドワークの作品も、どこかそういうにおいを私は感じます。
でもグレーバーは違う。彼はヨーロッパ人が好きなのではなく、人類がみんな好きなのです。だから、行きつ戻りつする歴史が書けるのです。そして、例えば私の人生が行きつ戻りつしているように、人類の歴史は一直線的に「進化」しているのではなく、可変性に満ちている。そう考えれば、大きな物語は終わったとか、資本主義は限界だなどという発想こそ、見直されなければいけません。いや、地球環境は危機に瀕しているという問題さえも書き換えられるかもしれません。
社会はいかようにも変わりうる。
ハラりの世界観とは全く違います。モモ・デウスなど生まれるはずもない。

と、報告のつもりが勝手な持論を書いてしまった。すみません。
これではいくらなんでも報告にならないので近藤さんに結局、一番言いたかったことはなんですか、といつものようにぶしつけな質問をしました。
近藤さんから帰ってきたのは次のメッセージです。

一言でいうならば、人に内在している支配や権力へ引き寄せられてしまう傾向を自覚的に「魔」と認識(「利己的遺伝子から見た」シリーズの言葉でいえばアンコンシャス・バイアスの自覚)して、自らを律すると同時に、それを社会の仕組みとして実装する知恵が、人類史の中に多く試みられていることから学ぶことが絶滅を避ける上でいちばん大きな(歴史から課せられた、人類への)試練・宿題だろうな、という感じでしょうか。

やはりあくまでも近藤さんは「進化論者」なのです。そして「学びの徒」です。
ちなみに、『万物の黎明』には、人類学者グレゴリー・ベイトソンの「分裂生成」概念が出てきます。グレーバーはこれに着目しています。分裂生成とは、「他者と自己を対立させながら自己を定義する」人間の傾向を指しますが、次回は近藤さんにベイトソンの「分裂生成」をとり上げてもらえればと思います。
そして次第に近藤サロンのメインテキストを『利己的な遺伝子』から『万物の黎明』に移していければと言う気さえします。これは近藤さんには内緒の話ですが。

おかしな報告になりました。
今日はとんでもない暑い日で、私は最近どうも心身不調ですので、こんな報告になってしまいました。このところ報告が書けずに気になっていました。
まあ「真夏の世の夢」と思って許してください。

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2025/06/17

■第7回中国現代文学サロン「劉慶邦『月は遥かに』」報告

第7回中国現代文学サロンは、前回に引き続き、劉慶邦さんの作品『月は遥かに』(原題は『八月十五月児圓』)をとりあげました。

いつものように、中国現代文学翻訳会の葉紅(ようこう)さんが、この作品を読むための背景情報やヒントを話してくれました。
翻訳に関する話がとても興味深かったので、まずはそこから報告します。

作品のタイトルですが、原題と日本語の表題とは、ある意味で真反対になっています。
原題の「八月十五月児圓」は、直訳すると「8月15日は月がまるい」という意味です。8月15日(旧暦)は中国では「中秋節」と言って、満月を愛でて月餅、梨などを食べ、家族円満の思いを込めて一家団欒する風習があるそうです。中秋節の月がまるい、まさにこの小説の主人公の願いが込められている題名です。
ところが、成就するはずの主人公の思いは、残念ながら裏切られてしまいます。そこに着目したのでしょうか、訳者(日本人)はこれを「月は遥かに」と変えました。この作品に出てくる家族は、円満になりそうで、円満を予想させない終わり方になっている。そこで主人公たちの「家族円満」の思い(立場によってその思いはかなり違います)は遥か遠くだなというような思いが、翻訳された題名には込められているようです。
しかし、月の丸さをイメージして読むか、遥かな月をイメージして読むかで、作品の読みようが全く違ってくるように思います。読みようによっては、家族円満の未来も考えられないわけではないようにも思います。
「翻訳」の仕方で、同じ作品の意味合いが真反対になることもあるのだということを気づかせてもらいました。

ちなみに、「八月十五月」とありますが、「八月十五 月児圓」と書いた方が私たちには正確に伝わります。中国では、八月の次に数字が来たら、それは日を指すに決まっているというように(私はそんなことはないと思いますが)、文脈から明らかにわかるような場合は「十五日」と書かずに単に「十五」と書くのだそうです。これはとても興味ある話です。

さらにちなみにですが、「月児圓」の「児」は、発音表記の接尾語で、前の音節重ねて発音され語尾が巻舌音化するのだそうです。これを「児化韻」、日本語では「アル化音」と言うそうです。これが付く場合と付かない場合を葉さんが発音してくれましたが、これが付くととてもきれいな発音に聞こえました。ただし私に発音できない音でしたが。

翻訳に関してもうひとつ面白かったのは「弟」の訳し方です。
母親が弟を呼ぶときに、原作では「弟弟」「小弟弟」「你弟弟」という3つの表現が使われています。
この姉弟は、実は母親が違うのですが、母親にとっては実子ではない子ども(夫が愛人に産ませた子ども)の呼び方が、状況や時間変化の中で変わっていくのです。
訳文では、「この子」と「弟」と2つの呼び方になっていますが、場合によっては「お坊っちゃん」と言うように訳してもおかしくないと葉さんは言います。
こうした文字の選び方で、お互いの心情や思いが表現されるのです。ここでも訳し方ひとつで文脈は変わってきます。
翻訳の面白さが少し伝わってきます。

ちなみに、「弟弟」という表現も気になりますが、パンダの名前で私たちにもなじみがあるように、同じ文字を重ねて使うのも、中国語の一つの表現形式です。これも興味ある話です。

ところで今回の作品です。えっ!! 今もこんなことがあるのというような内容です。
主人公の田桂花の夫、李春和は農村で石炭堀りをやって成功し、町に出ていき、さらに成功。仕送りはしてくるが4年も帰ってこなかったのですが、桂花の強い要請でようやく中秋節に帰ってきた、という、まさにその日の話です。
帰ってきたのはいいのですが、町での愛人に産ませた子供まで連れてきたのです。まるい月のはずが、はるか遠くになってしまったわけです。夫婦の話し合はかみ合いません。
夫は、町から「成功」して帰ってきた自分を妻がちやほやしてくれるはずだと思い込んでの帰宅でしたが、突如現れた愛人との子どもの出現に妻は戸惑、娘も戸惑ってしまう。家族4人のやりとりが、中国社会の現状を生々しく実感させてくれます。

町で女を囲い子供を産ませるのが当今の「流行現象」という夫に対して、妻は世間体も気にしながら戸惑います。
ちなみに、夫は村を捨ててしまったわけではなく、むしろ成功して故郷に帰ってきたという感覚のようです。夫は妻への悪気などなく、むしろ妻が時代に取り残されていると考えている風もあります。
農村と都会の生活ぶりは、いまの中国でも全く違うのでしょう。それがよくわかります。
こういう状況は、そう昔の話ではないようです。今も残っているようです。

中国では1949年以降、一夫一妻制と定められているそうです。それでも第三者、小三などの言い方が存在していることから、実際には今なお、愛人関係は実在し、1990年代以降、経済活動が盛んになり、都会に出稼ぎに行くケースが増えると、子供一人政策との関係もあって、今回の作品で描かれている状況が急増したとも言えるようです。

最近の日本の状況から考えると、いかにもひどい話のようにも感じますが、中国ではこういう状況が今も続いている。でも驚くことはない。日本でもそう昔の話ではないからです。いや、今なお続いているのかもしれません。
農村では「人のつながり」が基本にあるのに対して、都会ではお金が基本になっているという捉え方をすれば、日本でも今のこの風潮はむしろ進んでいる気さえします。

ところでこの作品は、妻が夫に別れ話を持ち出すところで終わります。
「後悔しないな」「後悔しないわ」
このやりとりで作品は終わっています。
訳者は解説で、主人公田桂花は毅然として輝いて見えるとあとがきで書いています。

葉さんは最後に参加者にこんな問いかけをしました。
この最後での夫婦2人のやりとりから何が読み取れますか?

作品を読んでいない人には全く伝わらない話ですが、私はむしろハッピーエンドを読み取りました。同時に、やはり女性が最後は男性を制するのだろうなと思いました。
まあこれは私の勝手な読み方です。

次回(10月12日)は、残雪(著者のお名前です)の作品「埋葬」(近藤直子訳)を読む予定です。作品は今回と同じ「中国現代文学」第7号に掲載されています。
「中国現代文学」第7号ご希望の方は今月中に私の連絡してもらえれば、葉さんに頼んでまとめて購入してもらいます(郵送料別で1000円)。

このサロンは中国現代小説を通して、中国人の理解を深めていこうというものです。
文学好きな方はもちろんですが、そうでない方もぜひ気楽に参加してください。

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2025/06/11

■湯島サロン「無頭体と決定論」報告

北京一さん(ん倶楽部/日本構想学会会員)による「無頭体と決定論」サロン(2025年6月1日開催)は、冒頭、「いまの日本国の頭といえば、どなただと思いますか?」という北さんからの問いかけで始まりました。
「えっ!?」
「想定外」の問いかけでした。「組織論」だと思い込んでいたのですが、どうも対象は「社会」のようです。社会はそもそも「無頭」だと私は思いこんでいたのです。

しかし、北さんの問いかけに始まる話は、実に示唆に富むものであり、多くの人に聞いてもらい、共に考えたかった問題です。私の思い込みで、狭義の組織論を示唆する案内をしてしまったことを反省しています。またサロンでも話をうまく深められませんでした。なにしろ不意を襲われて気分だったのです。申し訳ありません。

組織には大きく2つあるという捉え方があります。
コミュニティ論の原点となる不朽の古典『コミュニティ』で、社会学者マッキーヴァーは、アソシエーションとコミュニティを対比させています。
アソシエーションとは「共通の目的を達成するために作られた組織」、コミュニティとは「場所や文化で人がつながって生まれてくる組織」です。前者は「機能組織」、後者は「共同組織」、あるいは「つくる組織」と「生まれる組織」と言ってもいいでしょう。「つくられたコミュニティ」はアソシエーションです。

ネットなどでは、国家は「コミュニティ」と書かれていることがありますが、マッキーヴァーは『コミュニティ』で、「国家はアソシエーションの特殊な種類」と書いています。私もそれを読んだときには違和感を持ったのですが、それは「国家」をどの視点からとらえるかで変わってきます。それに気づいてから、私は「国家」と「政府」とを峻別しています。だから軽々に「アメリカは…」とか「ロシアは…」とかいう発言には、いつもサロンでは異議を唱えさせてもらっています。
国家を政府視点でとらえればアソシエーション、でも住民視点でとらえればコミュニティ。同じく「国家」と訳されても、Stateとnationも大きく違います。

ちなみに国家と政府も混同されがちです。
国家は構造(行為主体が相互に織りなす複雑な社会関係から創発した実在)であり、行為主体は政府を代表とした公的機関やそれらに所属する職員たちです。
国家は対外的には主体的に言動し、対内的には国民を統治しますが、その行為主体は、実際には政府なのです。国家は行為主体には本来なりえません。もちろん、日本国憲法が国民主権を求めていたとしても、主権者たる国民も実際には行為主体者にはなれません。にもかかわらず、言葉のあいまいさから問題はすり替えられ、責任は問われずに終わることが少なくありません。言葉を正確に使わなければ、問題は設定できない。つまり解答は見つかりようがないのです。

というわけで、北さんの問い「いまの日本国の頭は誰だ?」は、「いまの日本という国家を動かしている行為主体は誰だ?」ということになります。
参加者の答えは3つになりました。
総理大臣、天皇、大企業(例えば今ならトヨタ、かつては財界天皇という言葉もありました)。
憲法で規定されている主権者たる国民は出てきませんでした。かわりにその総意を象徴する天皇が出てきたわけですが。

この問いが参加者にとって意外だったのはしかし、案内文に書かれている北さんの問題提起をきちんと読んでいなかったからです。案内文に添付されていた北さんの問題提起に、こう書かれていました。
長いですが、再掲させていただきます。

無頭とはいささかグロテスクな表現ですが、海鮮売り場で見かける海老のことではなく、人間がつくる組織のことだといえば、G.バタイユのことを想起される方もいるでしょう。彼の場合は、時代情況もあって端的にはファシズム独裁への対抗精神がそこにありました。
 しかし本日、そのアセファル組織についてわたし北が、わざわざ話題にしたいのは、第一に、これがわが日本国に住む人たちの集合心性にとって実に相性よく、親しみ深くもある観念である可能性について考えてみたいためです。
 第二には、その証左のひとつでもありますが、時あたかも関西万博開催の最中にその会場をすこし遠方から眺めている70年大阪万博・太陽の塔という実存性に照らして、これが半世紀を耐え立ち続けたゆえんを、そのアセファルのトーテム性に求め、われら太陽族霊の呪力が支える「自分の頭を無にして考えない」という民力総意について自覚するとともに、その主権者たちの決定論的将来の選択について、みなさんと考えてみたいためです。あらたな何かがみつかることを期待して。

これを読み直せば、今回の北さんの問いかけに始まる話は、しっかりと予告されていたのです。最近サロンが増えて、私がきちんと対応していなかっただけの話です。意外な問いだと思った参加者もまた、同じです。案内をきちんと読んでいない。書いた本人さえもが読んでいない。困ったものです。
北さんには申し訳ないことをしてしまいました。

参加者の回答を得たうえで、北さんは問題提起の話を始めました。
バタイユの無頭の共同体を意識した岡本太郎の1970年大阪万博「太陽の塔」の話は、新鮮で刺激的です。紹介は長くなるので止めますが、幸いに日本構想学会の機関誌「構想」の最新号に北さんが寄稿しているので、ぜひお読みください。
https://jssk.jp/pdf/k11-1.pdf

北さんは冒頭の問いを入り口に、日本国憲法を引き合いに出し解説。そこから日本は事実上の無頭状況、いや1億2000万余りの頭を持った超キングギドラ状況だと言います。日本国民の統合の象徴についても詳しく解説するとともに、現状の「天皇と総理大臣」、あるいは主権者と政府の関係をいろいろと解説してくれました。
三木清の「構想力の論理」などの話もあって(いま日本構想学会ではこの研究会を始めています)、とても示唆に富む内容なのですが、中途半端な紹介は誤解を生みそうなので止めますが、きっとまたいつか北さんの話を聞く機会はあるでしょう。

最後に北さんはもう一度参加者に問いかけます。
こうした状況の中で、「主権者」であるあなたはどういう行動原理をとりますか?
人は「みずから生きる」と「おのずから生きる」の2軸の間を生きている、と北さんはわかりやすく図解してくれ、主権者としてどう生きるかを問いかけたのです。
北さんは、行動原理を考えるうえでのマップを示してくれました。
みなさんも添付のマップを見て、自らの行動原理を考えてみてください。
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そこで話し合いが始まりますが、北さんの問題提起文に、「自分の頭を無にして考えない」という民力総意について自覚せよとあるように、北さんはそもそも「無頭」なのは組織ではなく、私たちの生き方を指し、そういう「無頭」な生き方をやめようと呼びかけているのかもしれません。
サロンでの話の時には、そこまで考えが至りませんでした。
私もやはり「無頭」族の一人のようです。
反省しなければいけません。

せっかくの北さんの問題提起に的確に応えられませんでした。
社会や組織、あるいは「無頭の共同体」の共通理解が不十分だったような気もしますので、そうしたことをしっかりと確認したうえで改めて北さんの問いに答えていきたい気がします。
いずれにしろ、無頭の共同体を成立させる条件は、メンバーそれぞれがしっかりした頭を持つこと、つまりコンヴィヴィアル(自立共生)な関係が成立することだと思っています。「無頭」の意味も問い直す必要があるでしょう。
北さんと相談して、できればパート2を企画したいと思います。

なお、マッキーヴァーのアソシエーションとコミュニティに関しても、別の形で一度、サロンを企画しようと思います。そもそもアソシエーションとコミュニティを並置する発想がたぶん間違っているのです。そして社会や国家がそもそも組織なのかどうかも考えてみる必要があります。

いつも以上に長くなってしまいました。すみません。
報告が遅くなったことと併せてお詫びします。

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