カテゴリー「サロン報告」の記事

2019/05/09

■湯島サロン「過労死問題が問いかけるもの」報告

過労死をテーマにした2回目のサロンには10人を超える人が参加しました。
小林康子さん(東京と神奈川の過労死を考える家族の会世話人)は問題の背景などを話してくれた後、参加者に3つの問いかけをしました。

「業務における過重な負荷」
「業務における強い心理的負荷」
「そのような就労環境」

これに関して話し合おうということになりました。

ところが最初から、過労死問題の捉え方に関する根本的な問いかけが出されました。
昨今の過労死問題や働き方改革は「雇用労働」に焦点を絞りすぎているのではないのか、過労死は個人営業やフリーワーカーの人たちにも発生している、というのです。
そして波乱万丈のサロンになっていきました。
そんなわけで、さまざまな話題にとびましたが、そのおかげで、「労働」を超えた社会のあり方や私たちの生き方へと視野は広がり深まったと思います。
そして、小林さんの問いかけにも深い意味でつながっていったように思います。

少し具体的な話を紹介すれば、時間以外の要素にもっと目を向けるべきではないかという意見が多かったです。
納得できていない仕事と納得して取り組んでいる仕事とでは同じ労働時間でもまったく違うのではないか。
個人で仕事をしている人たちの労働時間は場合によっては雇用労働者の残業時間よりも長い場合もあるが、だからといって過労死が問題にならないのはなぜか。
働かされているのか、働いているのかで違うのではない。
ILOが取り上げているディーセントワーク(働きがいのある人間らしい仕事)や雇用労働と協同労働の話もでました。

日本には、組織を辞める自由が少ないし、辞めることを恥と思う文化もある。
本人が自分に負荷をかけている面もあるのではないか、といった日本人の考え方や生き方の話も出ました。
組織のため、会社のために働いていることが問題ではないか。
かつては、会社のためと自分のためとがつながっていたが、いまは切り離されてしまった。
もっと自分の生活を起点に考えることが大切ではないか。

お金に縛られすぎているのではないかという話もありました。
そうならないように、いろいろな人のいろいろな生き方を知ることが大切だという指摘もありました。

過労死に向かってしまう人は、自分が見えなくなってしまう。
家族などのまわりの人が忠告してもわかってもらえない。
そういう時に、相談に乗ってくれる人や、気づかせてくれるような場や仕組みがほしい、と遺族の方からの体験談もありました。
企業でもカウンセラーや相談窓口をつくっていますが、当事者目線での仕組みがまだ不十分のようです。
これは過労死に限ったことではありません。

働き方改革の動きが、逆に労働条件が悪化させる危険性もあるという指摘やそもそも「正規」「非正規」という働く人たちを分断しているのが問題ではないかという指摘もありました。

過労死問題の原因は3つ。90年代に外資系コンサルが日本人の働き方を変えたこと、日本人の好きなスポ根文化、そして日本人の帰属意識重視文化だという指摘もありました。

さらには、教育の問題やセイフティネットまで、書き出していったらきりがないほど、いろんな話が出ました。
「過労死問題が問いかけるもの」は労働や企業だけにはとどまらないのです。

私は、経済ではなく生活を基本にした社会に変わっていくことが必要ではないかと思いますが、そのためにはまず私たち一人ひとりが自分の生活を大切にしていくことではないかと思います。
過労死は、社会のあり方を象徴している表現の一つです。
制度的な対策も必要でしょうが、私たちの生き方や社会のあり方に根差している。
そのためにはまず、いろんな生き方があることやいろんな世界があることをもっとみんなに知ってほしいと思います。
それが湯島でサロンを続けている理由の一つなのです。

生き方として何に価値を置くか。自分が価値があると認められることのために働くことは楽しいことです。
働くことは楽しくなくてはいけないと思っている私としては、働くことは生きることなので、過労死という捉え方にはそもそも違和感があります。
私たちはいったい「何のために」働いているのか。
そこから問い直さないと「働き方改革」は、事態をさらに悪化させていきかねない。
改めてそう思わされたサロンでした。

最後に小林さんが、こういう議論を広げていくためにも、秋に公開フォーラムを開催したいという提案をしました。
有志で実行委員会を立ち上げることを検討したいと思います。
一緒に取り組みたい方は、ぜひゆるやかな実行委員会のメンバーになってください。
ご関心を持っていただけたら、私にご連絡ください。

Karoushi190506

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2019/05/05

■湯島サロン「憲法ってなんなのだろうか」報告

年に1度の「憲法サロン」は、今年は自由な憲法談義にしました。
12人が参加。湯島サロンの初参加者も2人いました。
日本国憲法の条文が直接語られるというよりも、憲法とは何かを考える、いろいろな話が出ました。

Kenpo1905

最初に、憲法と法律との違いを話題にさせてもらいました。
日本国憲法には「この憲法は国の最高法規」と書かれているので、憲法は最上位の法律と思っている人は多いでしょう。
しかし、「憲法」と「法律」とは、全く別のものだと私は考えています。

どこが違うかと言えば、「憲法」は国家を統治する権力者に向けてのものであり、「法律」は権力者が統治する国民に向けてのものなのです。
また、憲法は国の形や目的を決めていますが、法律はその形をつくるルールを決めています。
つまり両者は全く別のものなのですが、学校でも社会でもそういうことは教えてくれません。

権力を信託された権力者が「憲法」の理念に従って「法律」をつくるという意味で、憲法は法律を規制しますが、規制しているのは法律というよりも、法律を制定する権力者なのです。
対象が全く違うのですが、ここを理解しておくことが大切です。

しかし、最近の日本の憲法論議は両者を混同していますから、憲法は私たちの生活にはつながらないと思ってしまうのです。
昨今の憲法論議は、すでにして「権力者の政治」の舞台に乗せられてしまっているような気がしてなりません。

これに関しては、湯島サロンの常連の折原さんが、昨年、コスタリカに行ったときの報告で、とても示唆に富む話を紹介しています。
ちょっと長いですが、折原さんの報告(「AMAZON 20192月号「今日のコスタリカを築いた方々を訪ねて」」から要旨を引用させてもらいます。

コスタリカの国民にとっては、憲法は極めて身近なところにあって、憲法を使って自分たちの権利を主張して、簡単に裁判に持ち込める。その実例として、町役場が学校のサッカー場の隣に溝を掘り始めて、溝が非常に臭かったため、小学生が憲法裁判所に「これはぼくたちのレクリエーションの権利を侵害している」と訴え、裁判所が町役場に「1週間以内に溝を塞ぐように」との判決を出したことを紹介してくれました。

コスタリカでは憲法の役割と国民主権の意味がしっかり認識されているわけです。

日本国憲法が中心に置いている価値はなんなのか。
平和や人権と考える人が多いと思いますが、「平和」も「人権」も時代によって大きく変わってきています。
それに、アメリカの平和はイスラムにとっては平和でないかもしれませんし、自らの人権を守るために他者の人権を踏みにじることで格差社会の人権が成り立つこともある。
いずれも「相対的」な概念なのですから、価値原理にはなりえません。

「個人の尊厳の尊重」こそが日本国憲法の中心価値ではないかと私は思っていますが、これに関しても少し議論がありました。
しかし、その「個人の尊厳」は、自民党の憲法改正案では否定されています。
個人である前に「国民」でなければならないとされているのです。
そういう発想がかつての戦争を可能にしたわけですが、平和とは反転する概念であることをしっかりと認識しなければいけません。
国家は国民のためにあるのであって、国民が国家のためにあるわけではありません。

「国民」とは何かの議論もありましたが、国民は近代国家を支える3要素の一つとして生まれた国家のための要素です。
しかし、国家の3大要素と言われる「領土(領域)」「国民」「主権」のうち、グローバル化の進展で、領土も国民も意味を弱めている中で、国家の意味は失われてきているのではないかという意見も出ました。
もし領土と国民が意味を失ったとしたら、国家はそれこそ支配権力の「主権」を正当化する概念でしかありません。
そうなれば、法律とは全く違うものとしての憲法の意味は大きくなってきます。

ところで、憲法は統治者を制約するもの、法律は被統治者を制約するものと捉えると、どうしても統治者と被統治者の二元対立構造の問題が生じます。
最近の日本ではまさにそういう状況が顕在化しつつります。
そこで重要になってくるのが、第3の存在としての「象徴天皇」です。

私は、天皇は古来象徴だったと思っているのですが、その象徴性こそが「政治性」そのものなのではないかと感じています。
問題は、権力に利用されることもあれば、被統治者の守護神になることもある、それが第3の存在の意味でしょう。
今回のサロンでも、天皇制や天皇に対する好感度は高かったような気がしますが、世間的にもいささか驚くほどに天皇への期待は大きくなっているように思います。

湯島のサロンでは、日本国憲法の最初に「天皇」の規定があることに違和感を持つ人が多いのですが(私もそうでした)、私は最近、その認識が変わりました。
統治者と被統治者が対立した時、革命でも起こさない限り、勝敗は明確です。
権力者と国民の二元対立構造をバランスさせる存在としての象徴天皇の価値はとても大きいのではないか、それこそが日本国憲法の最大の要ではないかとさえ思えるようになってきています。
天皇制に関するサロンをしたらどうかと提案したら賛成する人が少なからずいました。
一度考えたいと思います。

サロンで話されたいくつかのことを主観的にまとめてしまいました。
まとまりはあまりありませんでしたが、私にはとてもいいサロンだったような気がします。
来年の憲法サロンが待ち遠しいです。

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2019/04/23

■湯島サロン「贈与と共生の経済倫理学」報告

難しいテーマのサロンにもかかわらず、20人を超える参加者があり、異例の申込締め切りをしたほどでした。
また、本書で題材に取り上げられている霜里農場の金子夫妻が参加されたほか、著者の関係者も数名参加されたのも異例でした。
そのため著者に関して語られることが多かったので、著者の人柄や生活歴がわかり、本の著述からだけではわからない行間が伝わってきて、とても興味深いサロンになりました。
しかし、本を読んでいない方にはちょっと戸惑いの多いサロンだったかもしれません。

Orito190420  

ナビゲーターは、亡くなった著者の活動に伴走してきた伴侶の折戸広志さんです。
著者の思いも重ねながら、本書の背景と著者のメッセージをていねいに読み解いてくれました。

著者の基本的な問いは、「生きにくい社会をどうやったら私たちは生き抜いていけるのか」ということです。
その問いは、「自由とは何か」、さらには「他者とはだれか」という問いにつながっていきます。
そして、「視座の転換」によって、「資本主義の限界」を超えていく実践策が示唆されます。
こう書くと難しそうですが、要は、自分を自由に生きていくためのヒントが本書にはたくさんちりばめられているのです。

本書を読み解く2つのキーワードは「お礼制」と「もろともの関係」です。
折戸さんは、ポランニーの贈与経済やスピノザの自由論、さらには最近話題になった「ホモ・デウス」まで紹介しながら、究極の倫理としての「自由」に言及していきます。
そして、対等な関係において成り立つ「契約」を結ぶことができない「対等ではない関係」においてこそ「倫理」が要請されるというのです。

では、「対等ではない関係」とはだれのことか。
そこで折戸さんは「他者」とはだれかと問いかけます。
私たちが共に生きている「他者」は、同時代人だけでないばかりか、人間だけではない。
そのことを霜里農場の金子さんが卒論で描いていた「生態系の図」も紹介しながら、気づかせてくれました。
そして、「アグロエコロジー」(「タネと内臓」サロンでも話がでました)にも言及されました。

金銭契約を超えた「贈与(お礼制)」と功利的な関係を超えた「もろともの関係」は、著者えとなさんの経済倫理学の2つの柱ですが、別々のものではなく、相互に支え合って成り立つものといえるでしょう。
えとなさんが研究を深めていったら、このふたつは止揚されて、そこに新しい概念、つまり「新しい倫理」(生活哲学)の概念が生まれたかもしれないと、改めて思いました。

真の自由のためには「赦し」から「共生(共に生きる)」へと生き方を変えていくことだというのが、折戸さんのまとめのメッセージです。
その一つの実践例として、「被害者意識」から「加害者としての責任感」へとまなざしを変えた水俣の漁師、緒方正人さんの話を紹介してくれました。
折戸さんたちは、水俣でのワークショップで緒方正人さんとも語り合ったようで、その際のえとなさんのエピソードも紹介されました。

ちなみに、緒方さんの著書「チッソは私であった」は、本書のメッセージと通ずる本です。
http://cws.c.ooco.jp/book2.htm#002

話し合いは、著者折戸えとなさんの関係者が多かったこともあって、著者の話が中心になりがちでしたが、そこで語られたさまざまなエピソードには、本書の理解を深めるヒントがたくさん含まれていました。
著書を読んでいない方もいましたが、なんとなく「折戸えとなの世界」を感じてもらえたような気がします。
くわえて実践のど真ん中にいる霜里農場の金子美登さんの発言も直接聞けた、ぜいたくなサロンでした。

本書を読まれていない方には、ぜひ読んでほしい本です。
この生きにくい社会を生き抜くヒント、さらには袋小路を感じさせる今の社会の壁を越えていくヒントが、たくさんあります。
私の勝手な本の紹介は下記にあります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2019/02/post-6da3.html

今回は読んでいなかった方も多かったので、内容の議論は十分にはできませんでしたが、また機会があれば、今度は経済倫理学のサロンとその実践としての霜里農場(アグロエコロジーが実現していると言われているそうです)のサロンを企画したいと思います。

 

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2019/04/14

■湯島サロン「スマート・テロワールを考える:非市場経済は可能か」報告

山口県で循環する地域づくり研究所を主宰している東孝次さんの「スマート・テロワールを考える」サロンは、15人の参加がありました。
副題の「非市場経済は可能か」に関心を持った人も少なくありませんでした。
時代の変化を感じます。

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「スマート・テロワール」とは、一言で言えば、「自立した地域共同体」のことです。
経済的には畑作農業と食品加工業を中心に農村を元気にし、日本全体を元気にしていこうという構想です。
ベースにあるのは重商主義から重農主義への発想転換です。

提唱者は、カルビーの社長だった松尾雅彦さん。
市場経済の真っただ中にいた企業家が、農村問題に対する解決策を提案し、その具体化に向けての取り組みを先頭に立って進めている。しかも非市場経済の必要性を主張している。
東さんはそこに興味を持ったそうですが、私もそこに大きな意味を感じていました。

しかし残念ながら、日本の経済界の人たちの反応はあまりありませんでした。
農業政策や地方自治政策にも大きな影響を与えているとは思えません。
時代の流れを変えることのむずかしさを改めて感じます。

東さんは最初に、スマート・テロワール構想について紹介してくれました。
簡単にいえば、「耕畜連携」、「農工一体」、「地消地産」という3つの連携体制で農産業を再構築し、圏内で消費者と生産者(農家と加工業者)が循環システムを構築するという発想です。

「耕畜連携」とは、耕種農家と畜産農家との手間の交換(互酬)で、これによって安全な飼料の提供と土壌の改善を進めることができます。
「農工一体」とは、耕種農家と加工業者とが契約栽培を行うことで、お互いに支え合う安定した関係を育てていこうということです。
「地消地産」とは、地域で消費するものはできる限り地域で生産しようということですが、地元の人たちが消費者として生産者を支えていこうということでもあります。

こう説明すると、単に農業政策や産業政策の話に思われるかもしれませんが、その根底にあるのは、産業や経済の捉え方、さらには社会の構造を根本から変えていこうということです。
たとえば、相互に支え合う互酬の考えを取り入れることで、金銭に呪縛された経済から解放され、人と人の生き生きしたつながりが育ちます。
また、「地産地消」ではなく「地消地産」としているのは、産業(経済)起点で経済を考えるのではなく、生活起点で経済を考えようということです。

生活視点で考えると、「自給」ということの視野は食にとどまることなく、エネルギーや福祉の問題にまで広がっていきます。
つまり、私たちの生き方や社会のあり方を見直すことになっていきます。
最近広がりだしているFEC共同体(フードのF、エネルギーのE、ケアのC)構想にもつながります。
松尾さんは、それによって、なかなか改善されない「少子化問題」も解決すると考えています。

契約栽培も農家と加工業者の関係にとどまりません。
「地消地産」という言葉に示されるように、生活者と生産者の契約も重要になっていきます。
そこでの契約は「市場契約」とは違った、個人が見える人と人のつながりを生み出します。
強い者が勝ち続ける経済(市場経済)ではなく、住民みんなが居心地のいい社会なっていくというわけです。

すでに「スマート・テロワール」への実際の取り組みは各地で広がりだしています。
山形や長野、山口などでの展開事例も紹介してくれました。

話し合いでは、いつものように話題はさらに広がりました。
「自立した地域共同体」の規模の話や「自給」と「自閉」との関係。
都会部と農村部での出生率の違いの話や生活のための「仕事」の話。
地域通貨の話や食への不安から微生物の話。
定額で利用し放題の一括契約のマーケティング手法と契約栽培の違い。
いろいろありすぎて、思い出せません。

東さんは「循環する地域づくり研究所」を主宰しています。
最近、持続可能性ということが盛んに言われていますが、直線モデルの工業経済は、どこかに限界があり、そもそも持続可能ではありません。
持続可能なためには、循環型でなければいけませんから、東さんが提唱している「循環する地域づくり」と「スマート・テロワール」構想は親和性が高いと思います。

私自身は、「スマート・テロワール構想」は、まだ金銭経済や市場経済の呪縛から十分には解放されていないような気がしますが、だからこそ、理念としても、実践活動としても、たくさんの示唆があるように思います。
余っている水田を畑に変えていこうという具体策の提案など、共感できるものもたくさんあります。

ちなみに、サロンの翌日、一般社団法人スマート・テロワール協会の総会が開催されました。
これまで以上に、実践に向かっての活動が広がっていきそうです。
ぜひこれからの展開に注目しておきたいと思います。

 

 

 

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2019/04/08

■湯島サロン「一緒に暮らす生き方」報告

今回の生き方を考えるサロンは、「一緒に暮らす生き方」をとりあげ、NPO都市住宅とまちづくり研究会の関真弓さんに、コーポラティブハウスに取り組んできた経験から、実例を踏まえてお話をしてもらいました。
このテーマに関心のある女性たちが多く参加してくれ、女性が多いサロンになりました。
それと男性と女性とでは関心のあり方や受け止め方が大きく違っているようで面白かったです。

いつも思うのですが、やはり「男性」と「女性」は別の生物のような気がします。
また叱られそうですが。

関さんは在学中からこのNPOにかかわり、ずっとこのテーマに取り組んできたそうです。
いまはご自分も参加したコーポラティブハウスにお住まいです。
ちなみに、NPO都市住宅とまちづくり研究会の姿勢は、「人と人、地域とのつながりをつくるコーポラティブ方式による住まいづくり」です。
コーポラティブハウスとは、入居希望者が集まり、土地取得から設計者や建設業者の手配まで、建設行為の全てをみんなで行う集合住宅のことです。
その基本にあるのは「シェア」という理念です。

さまざまな事例や関さんの体験の話から印象に残ったことをいくつか紹介します。
関さんたちが取り組んでいるコーポラティブハウスは、一緒に住もうと考えた人たちが時間をかけて何回も会い、お互いの利益を深めていくことを大事にしています。
ですから一緒に住む前に、繰り返し「住まいづくり」を軸に話しながらお互いの信頼関係を深めていきます。
それがともかく楽しくて、なかには、一緒に住み出してからも、つくる前の話し合いの楽しさが忘れられずに、もう一度、コーポラティブハウスづくりに取り組みたいという人もいるそうです。
そこに、私は「人の生き方」の本質を感じます。

みんなが顔見知りのなかで暮らすことは安心ですが、ある意味で自己充足し“たこつぼ”コミュニティになるおそれもあります。
そこで関さんたちは、地域とのつながりを大切にしているそうです。
その際に効果的なのが、地域社会に開かれたイベントです。

イベントは地域とのつながりだけではなく、コーポラティブハウス住民の信頼関係を強める効果も大きいようです。
しかも、生活につながるイベントは世代を超えたつながりを育てていきます。

コーポラティブハウスの住民も、時間の経過(ライフステージ)によって、住まい方が変わったり転入居したりすることもあります。
そのために、住宅は、基本的にスケルトン独立構造になっていてリフォームしやすい自由設計になっています。
人が住まいに合わせるのではなく、人に住まいを合わせる仕組みになっているわけです。

関さんたちの体験から、コーポラティブハウスではないマンションなどの運用に関しても、とても有用なノウハウがたくさんあるように思います。
実際に、関さんは分譲マンションでの取り組みやシェアハウスの取り組みも紹介してくれました。
コーポラティブハウスの場合、所有、区分所有、賃貸などいろいろと考えられますが、最近では会社制度を利用した、コミュニティハウス法隆寺のようなコーポラティブハウスも生まれてきているそうです。

話し合いでもいろんな意見が出ました。
マンション住まいの人が隣人との付き合いがないので不安だという方もいましたが、コーポラティブハウスの場合は、そういう不安はほとんど解消されるでしょう。
ということは、もし現在のマンション生活の隣人関係に不安があるとすれば、それを解消するヒントがコーポラティブハウスにはありそうです。

そもそも、住んでいる隣人との関係が不安であるということのおかしさを私たちはもっと真剣に考えるべきだと思います。
そうしたことが起こるのは、私たちが住まいや生活を基準にして生きていないからかもしれません。
そういうことも今回のサロンでは気づかせてくれました。

コーポラティブハウスとまちづくりの関係も話題になりました。
私はここにも社会の大きな構造変化を感じます。
これまでのような「大きなまちづくり」とは発想を変えて、空き家や小さなコミュニティを生き生きとさせていく生活起点の「小さなまちづくり」が話題になりだしていますが、そうした視点でコーポラティブハウスをとらえるといろんな視野が開けてくるはずです。

実際にコーポラティブハウスでの住まいを実現するにはどうしたらいいかという質問も出ました。

状況によって違いますので、関さんに相談するのがいいと思いますが、私は、まずは自らの生き方を見直して、一緒に生きる人たちを増やしていくことが大切ではないかと思います。
生き方が住まいを決めていくからです。

コーポラティブハウスとかシェアハウスとかいうと、どうしても「一緒に住む住宅」を考えますが、大切なのは「一緒に生きること」なのだと思います。
住まいは生きるための一つの道具でしかありません。
しかしその一方で、住んでいる住宅が、生き方や人の関係性を大きく影響してしまうことは否定できません。
だからこそ「住まい」を考えることは「生き方」を考えることなのです。

コーポラティブハウスを考えていくと、家族の問題にも行きつきます。
血縁家族の固定観念から解放されれば、家族そのものの意味も変わってきます。
そして、そのことは社会のあり方を変えていくことになるでしょう。

ほかにもさまざまなことを考えさせられるサロンでした。
かなり具体的に取り組みを考えている人たちも数名いましたので、1年後には、その人たちからの実践報告サロンをやってもらえるかもしれません。
楽しみにしています。

Seki2 

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2019/04/01

■湯島サロン:人生も仕事も「もっと面白く♪」報告

自遊人&面白まじめ求道者の渕野康一さんのサロンは、さまざまな立場の方が参加してくださり、湯島のサロンが目指している一つのスタイルを実現してくれました。
話題提供者の渕野さんは、持参したCD(小田和正)をバックに流しながら、そして演習も含ませながら、「面白まじめ道」言論をたっぷりと話してくれました。

始まると早速に、課題が与えられました。
実際の名前ではなく、自らが他者から呼んでほしいというセカンドネームを3つ以上考え、その中から、ひとつをみんなに発表するようにというのです。
何でもないようですが、これが意外と難しい。
と同時に、これを通して、自分の頭がいかに「かたい」かを思い知らされました。
それですっかり渕野ペースに乗せられてしまいました。

次に出された課題が、「面白リーダー」チェックリストでの自己診断です。
このチェックリストは、渕野さんが実際に企業のリーダーを対象にした調査結果を踏まえて創りあげたものです。
リーダーとありますが、面白人生をおくるためのチェックリストにもなっています。

そのように最初から参加者を巻き込む形で始まったサロンは、渕野さんのこれまでの「面白まじめ」人生の話に入り、そこからまた「面白演習」を行いながら、渕野さんが積み上げてきた実践的な「面白工学」や「面白まじめ学習法」の話になりました。
話の内容は、渕野さんのブログに紹介されていますので、ご覧ください。
サロンでも紹介されましたが、渕野さんのブログには、「面白まじめ学習法」が全18回にわたり連載されています。

最後に、より良い人間関係を築くための「“ストローク”のすすめ」が配布されました。
相手をディスカウントするのではなくストロークを与えていく。
面白人生をおくるためのチェックポイントが整理されていて、これを実践すれば「面白まじめ」人生が実現し、家庭も組織も社会も豊かになるというわけです。

そのペーパーには、交流分析を提唱した精神科医エリック・バーンの言葉が書かれていました。
「人は何のために生きるのか、それはストロークを得るため」。
ストロークとはいろんな意味がありますが、交流分析の分野では「存在を認めること」といったニュアンスで使われます。
簡単にいえば、人の心に元気を与える「心の栄養」のことです。

渕野流「ストローク」は6つのポイントがありますが、要約すれば、「ありがとう」ということ、それも10回言うことだと、実に面白くないダジャレで終わりました。
しかし、この締めにこそ、渕野面白まじめ道の真髄があるのかもしれません。

演習課題は例えば、こんなものでした。
「バックに流れている音楽を聴いて、思いつくことを1分間で10個以上書き出せ」
「『面白い』という言葉で思い出すことを1分間で10個以上書き出せ」
そうした問いかけをしたうえで、みんなに発表させるのです。
これもそう簡単ではありません。日頃の生き方がたぶん反映されているのでしょう。
正解があるわけではなく、さまざまな意見があるだけですが、他の人の発表を聞いていて気づくことは少なくありません。

演習だけではなく、「面白い」(どうして面が白くておもしろい?)の語源や意味、面白さの7要素などの「講義」もありました。
渕野版面白さの7要素を参考に、参加者それぞれが感じている「面白さの3要素」も発言しあいました。
その選び方が人さまざまだったのも面白かったです。

そんなわけでちょっとした面白ゼミ気分を体験させてもらいました。
渕野さんの大学での講義の雰囲気が目に浮かびました。

面白さの効用の話もありましたが、実は渕野さんは肺がんを患い、いまは根治しているとはいえ、湯島のサロンに来るのも急坂は無理なのです。
今日も最初湯島に着いた時にはしんどそうでしたが、話しているうちに元気が高まってきたように思います。
渕野さん自身が、「面白まじめ道」の効用のエビデンスなのです。

渕野さんは多趣味であり、生活もまた多彩です。
渕野さんは、そうした多様な世界を生きることで、毎日、エキサイティングなシーンに出会っているのでしょう。
そして、面白さを自分だけで楽しむというよりも、周りを楽しくさせるという生き方を実践しています。
また単に「面白」だけではなく「まじめ」をくっつけているところもポイントです。

渕野面白まじめ講義は、今回は原論編でしたが、また機会を見て、応用編をやってもらうのもいいかなと思いました。
昨今は「面白さ」も「まじめさ」もちょっとおかしくなってきていますから。

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2019/03/25

■湯島サロン「腎臓透析中止の報道に接して考えたこと」報告

「腎臓透析中止の報道に接して考えたこと」サロンには6人が集まりました。
「死生観と医療のあり方」というテーマを設定していましたが、正面から大上段に取り組むのではなく、この事件の感想からそれぞれが話しはじめて自由に話し合いました。


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生命はだれのものか、というのが一つの論点でした。
「生命は自分のもの」と考えるか、「大きな生命の一部を預かっているだけ」と考えるかで、死生観は全く違ってきます。
また、生前や死後の世界をつなぐ「魂」を仮定するかどうかでも、死の意味は変わってきます。
こうしたことは、湯島のサロンでは時々話題になるテーマです。


生死に関することは状況によって変わってくるため、どの時点での考えを基準にするかは難しいという話も出ました。
話題になっている今回の事件に関しても、当人の意思は二転三転していると報道されています。
生命に関する「意志表示」は、どの時点を優先するかで変わってきますが、少なくとも一度決めたことに縛られるという考えは、それこそ生命的ではありません。


生命という、まさに「生きつづけていること」を、特定の瞬間の判断に、無限定にしばりつけていいかは、そう簡単には決められません。


医療行為に関して患者や家族にしっかりと説明して合意を得るという「インフォームド・コンセント」も、実際にはそう簡単ではありません。
医療に関する情報が圧倒的に違う医師と患者が、患者主役の話し合いで合意するということが、実際にはいかに難しいかは、体験者であればわかると思います。


それと同じように、過剰な医療行為という言葉はあっても、何が「過剰」かは、現実の場では判断がとても難しい。
延命行為と苦痛の除去の話も出ました。
両者は重なったり、相反したりすることもありますが、医療にとって何が一番優先されるかは明らかではないかという話もありました。


さらに医療の進歩ということを考えると、問題はますます複雑になる。
透析の辛さや効果も将来変化しうるとすれば、今は希望がなくとも、希望が出てくることもある。
医療技術は常に動いているからです。
それは腎臓透析に限った話ではありません。
それに生命現象は、今の知見の範囲での論理を超える可能性もある。


ほかにも関連して、いろんな話がでましたが、たとえ生命が自らのものであるとしても、周りの人や社会とつながっての生命である以上、死の選択はそう簡単な問題ではないと思います。
こうした問題は、また機会をつくって、話し合っていきたいと思います。


 

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■湯島サロン「万葉集の多様性ー古代和歌の魅力」報告

新たにスタートした「万葉集サロン」は15人で始まりました。

升田さん(昭和女子大学名誉教授)をガイド役にして、継続的に開催していく講座的なサロンです。

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今回は最初なので、総論的に、いろいろと面白い話が予告的に提出されました。

まず、万葉集の成り立ちや構成、時代背景の解説、そして、実際の万葉集の表記(万葉仮名)の説明がありました。

万葉集の成り立ちに関しても、文字を知らない人たちの歌を編纂チームのメンバーがどうやって集めたのか、どうやって選択したのかなど、いろいろと質問したくなるような話もたくさん出ました。

まだまだ読み解けていないところもあるという話も面白かったです。

古写本の表記スタイルもからコピーで見せてもらいました。

後半では、額田王の歌とされている「熟田津に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」の歌を事例に、歴史とのつながりを紹介してくれ、万葉集の世界を少し垣間見せてくれました。

話の骨子だけでもきちんと記録を取っておけばよかったと反省しましたが、記録をとる習慣がない私には話の概要を紹介するのは無理なので、いつものように私が刺激を受けたところを報告をさせてもらいます。

万葉集の魅力は多様性にある、と升田さんは(たぶん)話されました。

今回お話を聞いて、その多様性を私はやっと理解できました。

そしてその多様性こそが、時代の大きな変わり目の象徴だと気づかされました。

その多様性が次第に整理されていく過程も万葉集から見えてくるのかもしれません。

いうまでもありませんが、「文字」こそは「多様性」を統合していく最大の手段です。

文字にする前には、声にだし、みんなで歌いあって、歌が生まれてきた。

それぞれの声が生命のリズムにのって、それぞれの心の揺れが重なっていく。

そうしたなかで、個人の覚醒が起こるとともに、心のつながり(集団)が生まれてくる。

「ホロン」という概念(個でもあり全体でもある)がありますが、歌によって個人の覚醒が起こり、歌によってその個人がつながっていった。

さらに、それが「文字」にされることで、個人の多様性が編集され、国家体制を生み出していく。

いささか飛躍的ですが、文字や歌の効用に関して、気づかされることが多かったです。

文字や言葉は、「つなぐ」ためのメディアですが、人と人だけではなく、自然や「天意」と「人」をつなぐものでもあります。

アメリカの心理学者ジュリアン・ジェインズは、人間の意識は今から約3000年前に生成し、それ以前の人間は、意識の代わりに二分心(右脳と左脳)を持つことにより、社会生活を成り立たせていたと提唱しています。

古代人の心は、神々の声を出していた部分と、現代で言う意識している心とに分かれていた。

古代ギリシアの『イーリアス』(有名なトロイ戦争が書かれています)は、そうした二分心時代の人間を描写した代表的な文献だというのです。

そう思って、『イーリアス』を読むととても納得できますが、もしかしたら万葉集にもそうした名残があるのかもしれません。

万葉集の歌には、「天の声」が含まれているかもしれません。

そして同時に、ジェインズが言うように、「言葉」の誕生の形跡がみられるのかもしれません。

サロンの報告を超えた話になってきてしまいましたが、こういう壮大な話をついつい思い出してしまうほどの、たくさんの示唆をもらったサロンでした。

もう一つ付け加えれば、例に取り上げられた、額田王の「熟田津に…」の歌ですが、それに関して、升田さんは(たしか)「女性は言葉の力が強い」といったような気がします。

そして、現代の社会は左脳重視の論理社会なのでどんどん窮屈になってしまっている、精神の自由を広げていくためにも、歌の効用に注目しようというメッセージをくれたような気がします。

「女性は言葉の力が強い」という点に関しては、私は異論がありますが、AI(人工知能)が社会を覆いだしている現在、改めて万葉集を読み直す意味に、私は初めて気づきました。

参加者の発言にもいろいろな気付きをもらえましたが、ひとつだけ紹介します。

平田さんは、「万葉集は新しい日本語(やまとことば)練習帳ではないか」という仮説を提出されましたが、なるほどと思いました。

なんだか「万葉集」とも、またサロン当日の話とも、違う内容の報告になったような気もしますが、お許しください。

ちなみに、連続サロンとしての万葉集サロンの第1回目は、518(土曜日)の午後を予定しています。

内容が決まり次第、ご案内します。
以後、隔月、原則として第3土曜日の午後に開催していきます。

継続参加されたい方はご連絡ください。

ゲストの名前も今回すでに出ていましたが、参加者(希望者)が自主発表することもできればやっていきたいです。
ちょっと大学のゼミ気分を味わうのもいいかもしれません。

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2019/03/13

■湯島サロン「お墓のことを考えたことはありますか」報告

「死の視点から生き方を考えよう」シリーズのサロンは、今回は篠田石材工業の篠田雅央さんに「お墓」のお話をしていただきました。


私自身、お墓に関して、あまりにも無知であったことを痛感させられました。


私にとって、とても示唆に富んだサロンでした。


篠田さんの会社は明治22年創業の老舗で、「石を通じてお客様に喜びと感動をもたらす仕事をします」と、潔く言い切っている理念を掲げ、実践している会社です。


まず、ご自身の会社の歴史を写真で見せてくれながら、墓石やお墓の変化を、とてもわかりやすく紹介してくれました。


紹介できないのが残念ですが、篠田さんが手がけたデザイン墓石にまつわる感動的なお話もありました。


そうした具体的なお話を通して、死とは何か、供養とは何か、生きるとは何か、ということに関する深い問題提起をしてくださいました。


私は目からうろこでした。


つづいて、お墓づくりに関して、「墓地あり・墓石建立なし」「墓地・墓石あり」「墓地・墓石なし」という状況それぞれに対応した、とても具体的な取り組み方の話をしてくださいました。


「墓地・墓石あり」の場合は、お墓に悩むこともないはずですが、実際にはその場合もさまざまな事情があって、むしろ「墓地・墓石あり」のほうが悩ましい状況になることも多いそうです。


参加者の中にも似たような「事情」をお持ちの方もいましたが、そうしたことに関しては、篠田さんのアドバイスももらえました。


墓じまいや墓の引っ越し、改葬や合葬の話も出ました。


 


話し合いを聞いていて、お墓の問題にはやはりその人の「生き方」が深くつながっていることを思い知らされました。


私が一番感動したのは、墓石の字彫りにも遺族の参加を勧めているという篠田さんの姿勢です。


私事ながら、わが家の仏壇の大日如来は家族の手作りで、魂をご住職に入れてもらったのですが、墓石に関しては、全く思いもつきませんでした。


 


最後に、長年、墓石に関わってきた篠田さんご自身の「思い」を、参加者への問いかけを含ませながら、話してくれました。


墓石には見えない不思議な力が隠されている。


石は時代を超えて残っていくもの。世界の大半で石を墓としているのは、永遠に生きる石と魂が融合すると本能で感じているからではないか。


自分の先祖の数は何人だと思いますか。


この世に残る遺族の幸せってなんでしょうか。


自分の思いと家族の思いは同じでしょうか。


お墓は人生の道標。


などなど。


いずれも長年の篠田さんの体験からのお話なので、とても心に響きました。


 


こんな話もしてくれました。


篠田さんが子供のころは、テレビや自動車などが広がりだしていた時代だったが、当時の人たちは、そういう夢の代物を買う前に、お葬式や仏壇やお墓にお金をかけていた。


先祖や子孫にお金をかけて自分は質素に生きている人が多かった。


しかし、今は全く逆になっている。


お墓の簡素化や墓石離れは、先祖崇拝という大切な日本人の心の喪失につながるのではないか。


そして、いくら経済力がついても日本人の大事な心を見失ったら、日本は消滅していくのではないかとしめくくりました。


話し合いではいろんな意見が出ました。


世界中の大半の人々はお墓を持っていないが、だからといって信仰心がないわけではないという指摘もありました。


そもそも今のような墓石が人々に広まったのも、日本でも最近のこと。


また、それでもやはり自分は散骨だという人もいました。


思いを込めた散骨は、惰性で選ぶお墓よりも、私も価値があると思います。


大切なのは、自らにとって「墓」とは何なのだろうかを考えることであり、それを通して、今の生き方を考えることではないかと思います。


 


それにしても私たちは「お墓」に関して、あまりにも無関心だったような気がします。


お墓の持つさまざまな意味や機能、あるいはお墓を通して実現できることがたくさんあることに、もっと気づいてもいいのではないかと私は思いました。


篠田さんが言うように、人生の墓標としての自分のお墓(私は広義に捉え散骨も含めたいですが)は、やはり自分でしっかりと考えていくのがいいのではないかと思いました。


 


言葉では明確には語られませんでしたが、死生観や生き方、あるいは家族や社会のあり方を考えさせられるサロンだったともいます。


お墓にはそれだけのパワーがあります。


私が今回一番認識を変えさせられたのは、お墓はそこに在るモノではなく、自らの生を込められる「生きた」存在だということです。


 


篠田さんのお話はとても示唆に富むお話でしたので、もっとたくさんの人たちに聞いてほしいと思いました。


篠田さんに無理をお願いして、土日にもう一度、同じような「お墓」サロンをしていただこうと思っています。


決まったらまたご案内いたします。


 


来週はお彼岸なのでお墓詣りに行こうと思います。


Ohaka190313


 

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