カテゴリー「サロン報告」の記事

2022/01/16

■湯島サロン「この2年で変わったこと」報告

この2年間の、コロナ騒動で私たちの生活は大きな影響を受けていますが、どう変わったのかを振り返りながら、自らの生き方を問い直そうというサロンでしたが、意外と参加者は少なく、集まったのは私を含めて7人でした。

この2年間で何が変わったか、先行きも含めて気になることは何かなどをそれぞれに語ってもらい、そこから話し合いを広げていくというスタイルを取りました。
あまりコロナ騒ぎに振り回されていない参加者が多かったように思いますが、それでもいろんな影響を受けていると同時に、いろんな気づきを得ているようです。

自分の生き方や考え方で変わったことに関しては、たとえば私の場合、外出の機会が減り生活は不規則になり、怠惰になったことがあげられます。社会のなかで生きていると、変わりたくなくても変わらざるを得ない。その結果、身心の調子はあまりよくない2年でした。まあこれはコロナのせいではなく、歳のせいかもしれませんが。でも周辺でも、身心の調子を崩した人は少なくありません。

また、やりたくないことは「コロナのせい」にして断ったりさぼったりするという自らの性格の悪さにも気づかされましたし、自分はマスクに批判的なのに、混雑している食品スーパーなどでマスクをしていない人を見るとつい冷たい目で見てしまうという「同調性」に陥っている自分の弱さにも気づかされました。

つまり、「地の自分」の気づき、「気づきたくない自分」と出合いさせられ、自己嫌悪にさえ陥りがちですが、そういう私の話に大きな異論がなかったことからすれば、多かれ少なかれ、そういう面はみんなにもあるのかもしれません。
これはいいことか悪いことか、わかりませんが、でもまあ実際の自分を知ることは次の行動につながるでしょう。

同じことは社会にも言えます。社会の実相やさまざまな制度の実態が可視化されてきているような気がします。たとえば、人のつながりが自己中心的になり、いろんな制度から平等性という建前の虚構が露呈され、弱者切り捨ての進行が勢いを増しているのが見えてきた。分断と対立が進み、追い込められた人たちの持って行き場のないイライラが暴発することも増えている。そんな社会が見えてきている。

言い換えれば、みんなが苦労して守ってきた「安心できる社会」が壊れだしている。そんな不安感を私は持っていますが、今回のサロンではどうもこうした認識は私だけではないようです。みなさんからの話も、こうした状況につながるものだったと思います。

でてきたキーワードをいくつか紹介すれば、「信頼のない従属」「寛容性の低下と攻撃性の高まり」「好みの合う仲間意識ごとの分断」「見えない圧力の高まりのなかでの不安と恐怖」「与えられる情報への身売り」「与えられる情報の中での思考停止」「マスメディアの公共性の喪失」…。

それぞれに関して、示唆に富む話し合いがいろいろとありましたが、聞いていて、あるいは話していて、なんだか気が重くなるような内容でした。
ある人は、日本の政治も経済もメディアもあまりに劣化し、このままだと「頼りになる成熟国家」ではなく「よぼよぼの老いぼれ国家」になりかねないと嘆きましたが、たしかにそれに向かって進んでいるような気もします。

極めて具体的な話もありました。
コロナ騒ぎの中で積極的な学童保育に関わっている参加者からは、かなり生々しい子ども社会の話がありました。理由はさまざまですが、学校に行けなくなっている子どもが増えているとか、子どもの行方不明が増えているとか、これまたいずれも重い話です。
子どもたちに今、いったい何が起きているのかは、社会の未来を大きく決めていきますが、それがなかなか見えてこないのはとても気になります。

しかし、話し合いの中では、こうした状況であればこそ、新しい動きもあるし、新しい可能性も見えてきているという話もありました。
たとえば、コロナのために在宅時間が増えたおかげで、一旦クールダウンして、これまで走り続けて人生を問い質す動きもあるというのです。

また前にも同じような体験をした人がサロンをしてくれましたが、コロナのニュースのおかしさに違和感をもって、自分で情報を海外も含めて広くとるようになったおかげで、マスコミ情報がすべてではないことに気づいたという人もいました。知ってしまうと動かないわけにはいかないというわけで、その人は今自らの判断で流れに抗うような活動もやっているのですが、そういう動きが少しずつ広がっているのかもしれません。

ブラック・ライブズ・マターやアジアン・ヘイトという動きが起こる一方で、そういう動きへの批判も起こっていて、問題を顕在化させ、多くの人の知ることになり、解決の動きにつながることもある。そういう話も出ました。

そう考えると、コロナによって起こっている社会の変化を、どういう方向に向かわせるかは、まさにそこで生きている私たちの思いと行動次第なのです。
流れに身を任すのではなく、流れを活かしていかなくてはいけない。
それが今回のサロンの結論の一つだったように思います。

サロンが終わった後、私は米国の神学者ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉を思い出しました。

神よ
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気を与えたまえ
変えることのできないものについては
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ
そして
変えることのできるものと変えることのできないものとを
見分ける知恵を与えたまえ

これは私の好きな言葉でしたが、そもそも変えることができないものなどあるのか。
すべて在るものは変わるのではないか。
そういう根本的な疑問が生まれてしまいました。
困ったものです。

Kawatta220115

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2022/01/09

■新年オープンサロン報告

今年最初のオープンサロンは例年よりちょっと遅れてしまいましたが、10人の参加者がありました。

Sinnen20222

新型コロナのオミクロン変異体が急速に広がっているというニュースで新年が始まりましたので、「密な場」のサロンへの参加者はだんだん固定化されてきています。でもまあコロナ騒ぎに巻き込まれることなく、サロンは継続していくことにしました。こういう時期であればこそ、サロンの意味は高まっていくように思います。茶色の朝の社会化には、断固抗わないといけません。

それはともかく、オープンサロンはそんなに肩に力を入れる必要のない、個々人のスモールトークのサロンです。まあたわいない話が多いのですが、今回の話題の基調は日本の社会は良くなっているのかどうかでした。
悪くなっているようで良くなっているのか、良くなっているようで悪くなっているのか、というような話だったような気がします。つまり時間軸の取り方によって、変わって見えてくる。
しかし少なくともマスコミは、社会は悪くなっていると言い続けながら、みんなの目を肝心の問題から逸らすように動いているような気がします。

そこから最近、ジャック・アタリの「メディアの未来」を読んだ坪田さんから、メディア論やデジタルポピュリズムの話題が出て、話はそちらの方に引き寄せられました。
この話は、改めてまた坪田さんにサロンをやってもらえればと思います。

重ねて数名の人からこんなサロンをやりたいという提案がありました。
今年もどうもサロンの回数はまた多くなりそうです。困ったものです。

今年もよろしくお願いします。

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2022/01/08

■緊急サロン「新型コロナワクチンについてもっと知ろう」報告

新型コロナワクチンの賛否を、反対派と支持派とで話し合うサロンは、いささか無謀な試みと思っていましたが、初の試みとしては、先行きの可能性を感ずる手ごたえのあるものとなりました。同時に、異論をぶつけあう話し合いから何かを生み出していくことの難しさも改めて思い知らされました。

Vaccine2

今回はいつもと違い、1時間延長し、最初にワクチン接種反対派、賛成派からそれぞれ2人ずつ話をしてもらい、その後、少しのやりとりをした後、中立の立場の人に問題を整理してもらってから、話し合いに入る予定でした。
双方にはあらかじめできるだけデータをベースにわかりやすい言葉で説明してもらうようにお願いすると共に、話し合いの論点を絞るために事前に意見や情報のやりとりをしてもらっておきました。さらにその一部は、参加者にもシェアしてもらうようにしました。

しかしなかなかルール通りにはいかず、双方とも予定の時間を超えてのプレゼンテーションになってしまったにもかかわらず、論点をかみ合わすことは難しかったです。
基本的な認識(例えばデータは絶対的なものではない、情報操作は存在する、さらには悲惨な副作用の事例はあるといった認識)はシェアできていたと思っていましたが、そこへの言及も多く、話し合いの基盤づくりが不十分だったことを反省しました。反対派や賛成派の人が話し合う場が少なく、お互いにあまり相手のことを信頼できていないことも話し合いを難しくしたのかもしれません。それぞれが相手側の人をどう捉えているかが、そうしたところにも現れているような気がします。

いずれとも付き合いのある私にとっては、ワクチン反対派も賛成派も、多くの共通点を持っていますし、データや情報操作に関しても大きな認識の違いはないように思います。しかも、いずれも生命を守りみんなが安心して暮らせる社会を目指すということでは共通しています。そうした共通点から話し合えば、新しい合意点が得られるはずです。

ワクチンは是か非か、というような対立型の議論にしてしまったのがよくなかったようです。
賛成派もワクチンの副反応のリスクや強制接種の動きには多かれ少なかれ違和感をもっていますし、ワクチンがだれにもいいと言っている人はたぶんいないでしょう。問題の立て方を間違えてしまったのは、企画者の私のミスでした。せめて「ワクチンのリスクと効用を話し合おう」とすべきでした。

反対派からは、副反応リスクの大きさやコロナでの死者数よりもワクチンでの死者数が多いことなど、ワクチンの危険性に加えて、ワクチンが違法に打たれていることが指摘されたほか、ワクチンにまつわる情報操作やワクチンパスポートのおかしさなどが指摘されました。

それを受けて、賛成側は、疫学に関する基本知識や医療におけるエビデンスの意味、さらに臨床試験や論文がどういう審査を経て成り立っているかを説明してくれ、データや論文の信頼性の根拠を説明してくれた後、ワクチンに関する明らかなデマを、その理由付きで紹介するとともに、ワクチンの限界と効用を話してくれました。

反対派の立場からは公開されているデータや情報の信憑性に関して疑問が出されていましたが、にもかかわらずそういうデータを論拠に使わざるを得ないという難しさがありますし、賛成派のほうは、ワクチンの「効用」を総合的に立証する難しさがあります。
ですからどうしても、双方とも個別事象の問題になりがちで、これも話し合いを難しくした理由の一つです。

薬に危険性はつきものですので、反対・賛成と言っても、厳密に言えばプラスマイナスのバランスの問題になってしまいますが、その判断は人によって違ってきます。
また、「在る」ことを証明するのとちがい「無い」ことを証明するのは難しく、よく「悪魔の証明」と言われますが、それと同じように薬の弊害を証明するのに比べて薬の効用を証明するのは至難です。今回も「プラセボ対照試験」の話も出ましたが、実際にはデータでのエビデンスも、基準の置き方や解釈で、評価は反転しかねません。

さらに大きな問題があります。
ワクチンの効用とリスクと言っても、新型コロナウイルスそのものへの捉え方によって、その意味合いもまったく違ってきます。そもそもコロナ感染症は本当に危険なものなのかという話です。その危険度との関係でワクチンリスクの許容度は変わってくるでしょう。新型コロナへの不安の高まりがワクチン接種を加速させていることは否定できませんが、その不安が人為的なものだとしたら、ワクチンリスクの評価は全く違ってきます。

つまりワクチンだけでは判断できない面が大きいのです。反対派は、そこにも焦点を当ててきました。さらに製薬会社の問題にまで入ると、議論はさらにややこしくなる。医療問題や科学技術の問題を超えて、政治経済や権力構の要素が入ってきてします。
そういう問題とワクチンの問題は切り離したいと思っていましたが、どうもそれは難しいようです。いやむしろそこにこそ、問題の本質があるのかもしれません。

私自身は、パンデミック騒動やワクチン問題から可視化されてきたことにこそ関心があります。いずれも「医療問題」ではないと考えています。だから、ワクチンの背後に何があるのかがわかれば、問題は解きやすくなると思っています。
今回は新型コロナウイルス感染症(たとえそれが人為的に流行させられたものであれ)から私たちが身を守るためにワクチンをどう評価するかをテーマにしたのですが、やはりそこだけの議論ではおさまらないことがよくわかりました。

これほど副反応が問題になっているにもかかわらず、急いで多くの人にワクチン接種させる風潮が生まれているのはいったいなぜなのか。ワクチンの副反応を知りながらも、急いで接種したがる人が多いのはなぜなのか。たぶん問題の本質はそこにある。
改めて、これはもうワクチンの安全性とか病理学的な効用の話ではなく、もっと大きな視野で話し合う必要があるテーマだと実感しました。

しかし生活者である私たちにとっては、いまここにある危機として、ワクチンを接種すべきかどうかが切実な問題です。にもかかわらず、ワクチンのリスクを真剣に考えもせずに接種している人がなんと多いことか。ワクチンのリスクをしっかりと理解しようというのが、反対派の人の呼びかけだとしたら、私は共感できます。しかし、いまの状況でただ「ワクチンに対する不安感を高める」ことになるのであれば、推進派と同じになってしまう。新型コロナ感染症で実際に大変な目にあった人がいることまでは否定できないように思います。

いずれにしろ、「ワクチンを接種するかコロナ感染症に苦しむか」という二者択一の問題設定にこそ問題がある。ここでも「問題の立て方」を問い直す必要がある。
いずれにしろ「わからないこと」が多すぎるのです。だからこそ、異論をぶつけ合うことが大切なのだと思います。

今回は、是か非か論にたどり着くまでには至らなかった気がしますが、それぞれの立場への理解を深める上では一歩進んだように思います。少なくとも、ワクチン接種を進めていくのであれば、反対派の問題提起に対してきちんと説明すべきです。そのためにも、ワクチン反対派の疑問をマスコミはもっと誠実に報道すべきであり、私たち接種対象者もそういう疑問やリスクをしっかりと知ろうとする姿勢を持つべきです。反対派の意見を信ずるかどうかは別にして、もっときちんと聴く必要がある。

同時に、反対派の人たちも、ワクチンに救いを求めている人たちの状況をもっと知ったうえで、全面否定ではなく推進派の気持ちにも耳を傾ける必要がある。

今回は、ミニサイズのテスト版でしたが、こういう話し合いの意味は大きいと思います。
一方的に情報発信している医療関係者は少なくないですが、立場の違う専門家が公開でワクチン議論をする場がもっとあってもいい。できれば、こうした話し合いの場を、公開で、しかもエンドレスで行えればと思いましたが、どなたか取り組まれませんか。

ちなみに、今回反対の立場で話してくださった宮庄さんたちは、フェイスブックでも「コロナの真実を伝える会」というグループを開いていますので、関心のある方はご覧ください。
ネットでは、賛成論反省論の情報がたくさん出ていますので、ぜひともテレビや新聞だけではなく、そういう情報にも接してもらえればと思います。
少なくとも与えられた情報をうのみにするのではなく、コロナ感染症やワクチン接種について、おかしいと思ったら、少し自分で調べてみるようにしたいと思います。

湯島では、これからもワクチンやコロナウイルスのサロンは開催していきます。
話したい人がいたら、ご連絡ください。
コロナやワクチンの背後にある問題に関しても、引き続き、サロンを開催していこうと思います。

 

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2021/12/30

■今年最後のオープンサロン報告

今年最後の湯島のサロンは、10人の参加者がありました。
今年一番若い4歳の参加者もいました。
最初に集まった5人のうち偶然にも4人が寅年生まれでした。
それも30代、40代、70代と多世代の寅年生まれです。
これも何かの意味があると私はつい考えてしまいます。

Lastopen2021

話はオープンサロンらしくさまざまで、アニメやゲームの話、日本文学の話、あるいは台湾問題や国内政治問題など、実に多様でした。
政治から経済、そして文化へと話がどんどん飛び交うのが、サロンの面白さです。

予定では4時に終わるつもりが、一向に終わる気配もなく、だんだん人数は減っていきましたが、終わったのは5時半過ぎです。
しかも最後はまたサロン主宰者の私の性格の悪さが問題になりました。
このテーマになるとなぜかみんな燃え上がります。困ったものです。
しかし、主宰者が批判されるのはいいことです。
私も少しは成長しなければいけません。

来年は18日にオープンサロンをやる予定です。
今年はたくさんの気づきをいただきました。
ありがとうございました。

 

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2021/12/28

■湯島サロン「世の中にもっと増えればよいと思うもの」報告

今年最後のテーマサロンは、鈴木さんの「世の中に増えるとよいと思うもの」でした。副題に「コロナ禍の「湯島巡礼」で感じたこと」とあるように、鈴木さんはコロナのためにこの2年、サンチアゴ巡礼に行けなかった代わりに湯島のサロンに今年だけでも70回以上参加し、その中でいろいろと考えたことを話してくれました。

驚いたことに参加者が15人。今年のサロンで一番、参加者が多くなりました。
鈴木さんはいつもサロンでは聴き手にまわってくれているので、その鈴木さんがサロンから何を感じているのかはとても興味のあるところなのかもしれません。

湯島のサロンでは、「生きにくさ・生きやすさ」が大きなテーマになっていますが、鈴木さんは「こういうものがもっと増えれば、もう少し生きやすい社会になるのではないだろうか」という視点で、5つのことをあげてくれました。
それは「聞いてくれる人、聞ける人」「好意的な関心」「否定されない場」「議論よりも対話(ダイアローグ)」「弱く多様なつながり」でした。
そしてそれぞれに関して、鈴木さんの個人的な体験も含めながら、その意味を話してくれました。

それらはサンチアゴ巡礼で体験してきたことであり、湯島のサロンにもそういう要素があると感じているそうです。
鈴木さんは最後に、「湯島のサロンは巡礼宿(アルベルゲ)」とおまけをつけてくれましたが、サンチアゴ巡礼者からそういってもらえるのはうれしい話です。

その後、話し合いにはいりました。
私は、これ以外にも「もっと増えればいい」と思っていることはないかと参加者に問いかけましたが、他にはあんまり出てこなかったばかりか、参加者はみんなこの5項目にとても共感したようです。

もしそうであれば、その実現はとても簡単です。
その気になれば、誰にでもできます。
たとえば、「他者の話を聞こうと心がける」「好意的な関心を持つようにする」「自分では他者を否定しない」「議論よりも対話しようと心がける」「弱いつながりを生み出すために誰かに会ったら挨拶をする」。こうしたことは、だれにでもできることです。だからこの5つは、今日からでも自分で増やしていけることではないかとみんなに問いかけました。

でもなぜかそうならない。すぐに否定と議論が返ってきました。
やはり鈴木さんが言うように、実際にはこの5つはあまり存在しないのかもしれません。

いいかえれば、これらはまさに「世の中にもっと増えればよいもの」ですが、結局、誰もがそれを自分では増やそうとはしていない。
こう書いてしまうと身もふたもないのですが、「青い鳥」のように、本当は自分の近くにあるにもかかわらず、みんなそれに気づいていないだけかもしれません。

鈴木さんの評価に反して、湯島サロンの主宰者として今回は、あえて私も相手の言葉を否定し、聞くよりも話すことを優先して議論を挑んでしまいました。巡礼宿の主人としてはあるまじき態度です。
しかし私は、6番目に、そういう「忌憚なく異論反論をぶつけ合う場」も、もっと増えたほうがいいのではないかと思っているのです。

湯島では時にかなり激しい議論がありますが、終わったらお互いにさっぱりして、何のわだかまりも残さない(残す人もいますが)。これはサンチアゴ巡礼宿には多分ないことでしょう。
言い換えれば、感情を素直に出しても、しこりを残さないし、遠慮もされない。そういう思い切り素直に振る舞える場もまた、もっと増えてもいい。
しかし、こればかりは自分だけではつくれないかもしれませんが。

最近は、お互いに関係を壊さないようにと、過剰に相手に気づかいし、本音をださずに、儀礼的な言葉だけで話すことが多くなっているようです。だからそもそも、鈴木さんがいうような場が生まれてこないのかもしれません。
その反面、匿名でのネットの場では、過剰なほどの本音が飛び交い、しかしそこでは感情(怒り)は発せられても、噛み合うことはない。独り舞台でしかありません。

ところで、「世の中にもっと増えればよい」ということを考えていくと、その反面の「なくなればよいもの」とつながっていきます。「増やす」のは大変でも「減らす」のは簡単かもしれません。自分の言動を少し注意するだけで、鈴木さんの提案に沿えるかもしれません。それならもっと取り組みやすそうです。
そう考えていくと、「世の中にもっと増えればよい」ことを考えるのは自らの生き方を問い直すことかもしれません。

今年最後のテーマサロンとして、とてもいいサロンでした。

今回も私はだいぶ「いじられて」しまいました。困ったものです。来年は私ももう少しみんなに好かれる生き方をしようと思いますが、それはハードルが高いので、せめてあまり嫌われないように、少しだけ自重しようかと思います。
湯島のサロンも、鈴木さんが言ってくれた巡礼宿の精神をもう少し意識しようと思います。しかし、6番目の要素もできれば増やしていきたいと思います。

来年は鈴木さんがサンチアゴに行けるといいのですが。

Suzuki202112

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2021/12/26

■湯島サロン「2021年を振り返るサロン」報告

今年もグラフィックデザイナーの林さんによる「1年を振り返るサロン」を開催しました。7人が参加しました。

昨年と同じように、月ごとに林さんが気になった事件や話題などを表にしてくれて、それを追いながら、特に林さんが気になったことを紹介し、それ以外でも誰かがちょっと気になる項目があれば、それを詳しく林さんが解説してくれるという感じで、まずは1年を振り返りました。
大きな話題を呼んだものも、林さんの関心を呼ばなかったものは全く出てこない一方、誰も知らなかった小さな話を、林さんが詳しく解説してくれることもありました。
私の関心分野でありながら、私が全く知らなかった騒ぎがネットでは展開されていたようなこともあり、自分が見ている世界がいかに小さいかに、今回も気づかされました。

話を聞きながら、人によってこの表は全く違ってくるだろうなと思いました。
自分だったら何を思い出すだろうかとも考えましたが、1年の話なのに、意外と思い出せないものです。こうやって年に一度くらい、どんなことがあったかを振り返ってみるのは大切なことかもしれません。

それにつづいて、林さんの家族に起こったことをこれも時系列で紹介、併せて、林さんが観た映画や読んだ本、出かけた展示会やイベントなどの紹介もありました。
今年の林家は、かなり大きなことが起こっていますが、それはどうも社会の動きとはあまりつながっていないようです。しかし社会とつながっていない生活はないはずですので、もう少し話し合っているとつながりが見えてくるかもしれません。

林さんが紹介してくれた作品は、ほとんど私は知らないものでしたが、参加者にはなじみのものも多く、私がいかに時代から外れてしまっているかも思い知らされました。

まあこういう話でも予定の時間を超えて、3時間。
テーマありサロンやオープンサロンとはまた違った雰囲気のサロンでした。

来年は、参加者それぞれが記憶に残る事件3つと自分の生活に影響を与えた事件3つをそれぞれ持ち寄って、話し合うのも面白いかもしれません。

2021hurikaeri 

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2021/12/25

■第18回万葉集サロン「宮廷歌人の苦悩-吉野讃歌を中心に」報告

白鳳から天平にかけての6人の歌人の吉野讃歌を通して、宮廷歌人の苦悩に触れながら、その背後にある大きな政治状況や人々の意識の変化をみていこうというのが今回のテーマでした。

升田さんは、「吉野賛歌」という表現から話し出しました。
たしかに、最初の柿本人麿の歌は「賛歌」と言えるでしょうが、そこからかなり後にうたわれた旅人や家持の歌、あるいは金村や千年の歌も「賛歌」と言っていいのか。また、なぜ吉野賛歌と言われるような歌が、時代を超えてうたわれたのか。

持統天皇は在任中に31回も吉野に行幸しています。なぜなのか。
升田さんは、最初に、日本書紀や古事記にある神武天皇の吉野入りの記事を紹介してくれました。吉野は大和朝廷の始まりの場所なのです。当時の感覚から言えば、神とつながる地ともいえるでしょう。

つづけて吉野盟約の話もしてくれました。天武天皇は、後の持統天皇である皇后と皇子たちを集め、次の天皇を決めるルールを決める「吉野盟約」を開き、これからの国のかたちを決めましたが、吉野はその場所でもあります。

日本書紀によれば、「天皇」という称号を最初に使ったのは天武天皇であるとされています。それを制度として固定させたのは持統天皇だとも言われていますが、そのために、吉野宮は重要な意味をもっていたのです。
いずれにしろ持統天皇による度重なる吉野への行幸は、たぶん宮廷人や民も巻き込んでの、国のかたちを決める重要な政治的意味をもっていたようです。

神と自然と民とが一体になって輝かせていた吉野を現実に見ながらうたい上げた柿本人麿の吉野賛歌は、まさに「賛歌」です。にぎやかな音や輝くような光に直接触れて、まるで持統の神がかった思いが乗り移ったかのように、自然と身心が反応して生まれた力強い賛歌になっているように感じます。
人麿の歌もまた、その輝きに荷担したはずで、多くに人にうたわれたことでしょう。

しかし、持統がいなくなってから再開された吉野行幸では、状況が違います。
歌人たちは「生きた現場」を直接に体感することなく、人麿の賛歌を踏まえながら、現実の吉野宮(離宮)の向こうにある過去、持統帝の思いを歌わなければならい。当然、意志や意識が優位に立っての歌になっていく。そんな中で、彼らは形式としての賛歌儀礼をどのような気持ちで詠んだのでしょうか。

天平の時代になると、宮廷では漢詩も盛んになってきます。「懐風藻」にも吉野行幸にまつわる詩があります。万葉の歌人たちも、そうした漢詩の影響と無縁だったわけがない。

そもそも万葉の歌は口誦されていましたが、漢詩は、漢字で書くことで成り立っていた。
つまり万葉の歌は「言葉の世界」で生まれ、漢詩は「文字の世界」で生まれました。
よく言われるように、言葉は個人の思いを発するためのものであるのに対して、文字は思いを伝えあうものとして広がった。伝えあうためには、文字の意味はあまり冗長であってはいけません。私的な感情を盛り込みにくい。だから漢詩は感激のない美辞麗句を連ねることになっていく。

白鳳から天平にかけて、歌の世界も「言葉の世界から文字の世界へ」と大きく変わっていったのでしょう。それが6人の吉野賛歌からも読み取れる。
万葉集は、口誦されていた歌を、万葉仮名を使って書き留めていくことで成立しました。

口誦の時には、人によって少しずつ差異があったかもしれませんが、書き留める段階で、当然推敲されていく。万葉集に似たような歌が収録されている理由はそこからもわかります。そうなると詠み人知らずとか逆に詠み手の名前の意味も、考え直す必要があるのかもしれません。

以上は、升田さんの話を聞きながら、勝手にまとめたものです。
升田さんの意に反しているかもしれません。
ちなみに升田さんは、こういう話を、いくつかの神話や歴史的事実などを織り込みながらていねいに話してくれたのですが、私の関心に任せて、その一部を勝手に読み取って紹介してしまいました。

ところで肝心の6人の吉野賛歌ですが、背景の歴史の話がたくさん出て来て、今回もまた金村や千年の歌を詠むまでに至りませんでした。それほど万葉の歌の後ろには、たくさんのドラマがある。そういえば、今回は久しぶりに若いころ学んだ歴史を思い出して楽しかったという参加者が複数いました。
それでも最後に、升田さんが急ぎ足で2人の歌を詠んでくれました。聞いているだけでもたしかに人麿の歌とは違っているのが感じられます。

言葉の歌から文字の歌へ。湧き上がる歌から創られる歌へ。
それと並行して日本の社会が大きく変わっていく。
神との距離も、人と人との関係も変わっていく。人も変わった。
そんなことに関心を向けすぎて、肝心の歌そのものの話や宮廷歌人の悩みという本来のテーマを私は聞き逃してしまったような気もします。あまりに偏った報告ですみません。

ちなみに今回は、地中海文明に詳しい方が参加したおかげで、最後に少しホメロスのイリアスと万葉集の異同が話題になりました。
いずれも元々は口誦文化から生まれてきたものです。暗誦できるように、韻を踏みながら、同じ言葉が繰り返し出てくる。同じようなものに、アイヌ神謡(ユーカラ)がありますが、そうした口誦文化と文字文化について、いつかサロンが開けたらなと思っています。

ちなみ次回の万葉集サロンは、ちょっと個々の歌から離れて、これまでの話から抽出されてきたいくつかの論点を整理して話してもらうことになりました。
「升田万葉集サロン」の改めの入門サロンです。
お楽しみに。

Manyou18

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2021/12/20

■「第3回我孫子はじまり場サロン」の報告

昨日、我孫子はじまり場サロンの3回目を開催しました。

この会は、自分たちが住んでいるところで、地域をもっと楽しくしていくためにこんなことをしたいという視点で気楽に話し合おうという集まりです。
もちろん誰が参加してもいいという、開かれた、ゆるやかな場です。
一緒に取り組む仲間や、一緒にやってみたいテーマと出合える場になればと思っています。

今回は7歳から80歳まで、12人の人が参加しました。
いろんな話題が出ました。
7歳のメンバーからも発言(提案)もありました。
前回までに話題になったいくつかのテーマの報告もありました。
新しいテーマもいくつかぼんやりと姿を現しだしました。
他の地域で展開されている事例の報告もありました。

そういう話を少しずつプロジェクトに向けて育てていって、4月頃には、まちづくり編集会議主催の呼びかけ発表会も考えていく方向で進めていくことになりました。
来年も2~3か月に1回、開催していく予定です。

この活動は、基本的には「楽しい活動」に目を向けていますが、行政や地場の経済にも少しでも役立つことにつながっていけばと思っています。

 

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2021/12/14

■湯島サロン「住んでいるまちを楽しくしよう」報告

「住んでいるまちを楽しくしよう」というと抽象的な感じがしますが、案内にも書いたとおり、このサロンは竹形さんが取り組んでいる実際のプロジェクトがテーマの実践的なサロンでした。まちづくりに実際に取り組んでる人や取り組みたいと思っている人たちも含めて、10人の参加者がありました。

竹形さんは、いま進めている「STREET LIFE PROJECT」をまとめたパンフレットをもとに、構想の全体像とポイントを簡潔に説明してくれました。
竹形さんの構想は、高齢社会の真の問題は「不安」だという認識から出発しています。

そうした「不安」を引き起こす背景にはいろんな問題がありますが、それらを個別に解決していくのは難しい。そこでさまざまな問題を組み合わせて解決していこうと考えたのです。それだけではありません。問題解決を通して、逆に住んでいる街を楽しくする仕組みができるのではないかと考えているのです。

そのめざす仕組みは、「やりたいことができる〈場所〉と〈仲間〉がみつかる街のプラットフォーム」で、それを実現していくのが、STREET LIFE PROJECTなのです。
STREET LIFE PROJECTは、「高齢者でも簡単に使える地域SNS」「地域のことがよくわ換えるポータルサイト」「助け合いの潤滑油としての自由通貨」「誰かと話せるコミュニティサロン」の4つから成り立っています。このそれぞれに竹形さん独自の工夫がこめられていて、しかもそれがいまどんどん「進化」しているのです。
こうしたモデルをいくつかの地点でまず実現し、それを全国に広げていくというのが、竹形構想です。

STREET LIFE PROJECT構想の詳しい説明は、次のサイトをご覧ください。この構想はどんどん進化していますが、このサイトも時々アップデートされています。
https://www.facebook.com/groups/2708308336165204/posts/3017477415248293/

参加者の中には、この構想に共感して、すでに取り組みの準備を始めている人もいますし、すでに取り組んでいる活動とつなげられないかと実践的に考えている人もいましたので、実践的な話し合いも行われ、具体的なアイデアもいくつか出されました。
竹形さんはいろいろなところで、この構想を紹介していますが、そうやって構想がどんどん豊かになっていくのでしょう。そういう取り組み方もとても共感できます。

示唆に富む話もいろいろありましたが、そうしたものをしっかりと実践につなげていくことが竹形さんの関心事ですので、個別の話の紹介はやめておきます。

私は話を聴いていて、オランダで広がったビュルトゾルフを思い出していました。
湯島のサロンでも時々話題になりますが、ビュルトゾルフ(オランダ語で「コミュニティケア」を意味します)は2006年にオランダの地域ケアの取り組んでいた看護師が仲間と一緒に始めた在宅ケア(訪問看護・介護)組織ですが、いまやオランダ全国に広がっているばかりか、日本も含めて、世界的にも新しい「共生保障システム」として注目されています。
もしかしたら竹形モデルは、それを超えるソーシャル・イノベーションを起こすかもしれません。なにしろ主役が、私たち生活者ですから。

ちなみに、竹形さんは話の最初に4つの問いかけを参加者にしました。
みなさんはいかがでしょうか。
・あなたが住んでいる街は楽しいですか?
・「家には寝に帰るだけ」という人が多数、あなたは?
・街にワクワクするものはありますか?
・ワクワクすることを一緒にできる仲間はいますか?

私の体験では、まちづくりは、ヘトヘトになるか、ワクワクするかのいずれかです。
でもヘトヘトの先にはワクワクがある。

ワクワクが生まれる環境を一緒に作りましょうという竹形さんの呼びかけに、よかったらぜひ応じてみてください。
竹形さんは来春には実際に動き出す予定で準備を進めていますが、自分の地域でも取り組みたいという方がいたら竹形さんにコンタクトしてみてください。
フェイスブックのグループもありますので、ぜひご覧ください。
https://www.facebook.com/groups/2708308336165204

竹形さんにお願いして、また湯島でもその後の動きの報告サロンをやってもらいたいと思っています。
このテーマは、湯島サロンが始まった契機にもつながっていますので。

Takegata

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2021/12/06

■第12回益田サロン「生物の自己複製/変異と自発性」報告

今回の益田サロンは、「生物の自己複製と自発性」がテーマでした。
自己複製における遺伝子の異常は自発的に生ずるのか、外部環境の働きかけがあるからなのかという問題から始まりました。

すべての多細胞生物は、一個の受精卵から生まれます。最初は、受精卵の単純な自己複製ですが、次第に多様なものを創り出していきます。それはそれ自体、自己プログラム化されているわけですが、複製すべてが完全に同じとは言えません。
ちょっとした異同が発生しますが、そうした異同(それによって環境との関係が変わるほどの異同が「変異」だと益田さんは説明してくれました)がなぜ生ずるのかが、私の関心事だったので、しつこく質問したために、話がなかなか先に進みませんでした。
しかし繰り返し質問したおかげで、私はかなりすっきりしましたが、参加されていたみなさんには退屈だったかもしれません。

もし当初からのプログラムに基づいて、複製時に異同が生じるとしたら、そしてそれが「変異」につながるとしたら、自己は環境を克服しうることになります。その論を進めれば、環境さえもが自己のサブシステムになりかねない。

またもしプログラムが環境と無関係に「ミス」を起こすことがあるのであれば、そのミスを起こす主体は誰(何)なのか。もし主体がないのであれば、すべてがつながっていると思っている私の世界観(自然観)が壊れてしまいます。

この問題は、益田サロンの大きなテーマである、自己と非自己、あるいは自己と環境との関係にも深くつながっているので、おろそかにはしたくなかったのです。

そもそも自己を複製するという行為は「環境」に大きな影響を与えます。益田さんは、その時の環境と、異同を生じさせることも含めて、複製行為における「環境」とは別のものだと言います。
たしかに2つの「環境」は次元が違うのかもしれません。「空間的な環境」と「時間的な環境」と言っていいかもしれません。

これまで、このサロンでは、「地と図」とか同心円構造で、自己と環境をイメージしてきたため、どうもそのイメージに制約されすぎているのかもしれません。私自身、理解していたようで、微妙な認識のずれがあったようです。これは「比喩の落とし穴」かもしれません。
サロンでは、量子生物学やホロニック論の話も少し出ましたが、今回は深入りしませんでした。

また話の途中で、毒素を抱え込んでいないジフテリア菌の話が出ました。
この話はこれまでも何回か出てきていますが、議論が進んでくると、それが示唆することの理解も深まります。ウイルスと宿主の関係も、さまざまなことを気づかせてくれ、最近のコロナウイルスの状況も、ちょっと理解ができるような気がします。
まあそうやって、いろんな問題を考えるヒントが得られるのが、益田サロンの面白さかもしれません。

今回はせっかく「自己複製」をテーマにしながら、なかなかそこに話が行きませんでしたが、次回、もう一度、自己複製をテーマにサロンをしてもらえることになりました。
できれば、今回私が気づかせてもらった「自己の寛容性」も話題にしてもらおうと思います。

私は毎回参加させてもらっているおかげで、かなり理解が深まってくるとともに、毎回、さまざまな刺激をもらえます。その面白さが、報告ではお伝えできないのが残念です。
今回初めて益田サロンに参加してくださった方がいます。その方には話し合いをどう感じたか心配ですが、最後に面白かったと言ってくださったので安堵しました。
この方は秋田からの参加なので、滅多には参加できませんが、一度参加してくださると何となくサロンの雰囲気がわかってもらえるのではないかと思います。

益田サロンの報告は、難しいのです。
まだ参加されたことのない方は、ぜひ一度ご参加ください。
これからも続きますので。

益田さんにこんな話をして盛りたいという要望があればそれも聞かせてもらえれば、できるだけご希望に沿うようにさせてもらいます。

Masuda121

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