カテゴリー「サロン報告」の記事

2021/04/12

■第7回益田サロン「破傷風菌やジフテリア菌から考えた自分というものについて」報告

益田昭吾さんの第7回サロンは「自分とは何か」をテーマにしました。
切り口は破傷風菌やジフテリア菌。
益田サロンの底流にはいくつかの軸があるのですが、その一つが「生物は自らにとっての(直接の)環境を壊さない」ということです。この視点から、「自分」と「環境」をどう捉えるかを通して、「自分とは何か」が見えてくることになります。

益田さんはこういいます。
生命は環境がないと生きていけない。だから自らの宿主には危害は与えない。
ではなぜジフテリア菌は宿主である人間に害を与えるのか。
それはジフテリア菌に、人間に害を与える毒素を持ったファージが入り込んできて、それらが細菌を宿主にし、(その細菌のために良かれと思って?)宿主が宿っている人間に害を与えるからです。
言い換えれば、ジフテリア菌は、もしそうした毒素が入り込んでこなかったら、宿主である人間とは仲良く共存(ウィズ)できる常在菌でいられるのですが。

つづいて益田さんは破傷風菌についても説明してくれましたが、私の紹介では危ういので、益田さんからきちんとした説明を書いてもらいました。

人が感染症にかかるのは人が、その病原体にとって本来の宿主でない場合に限ります。病原体も生物ですから自分の存続を保証してくれる環境が必要です。ジフテリア菌や破傷風菌は人間に害を与える理由は大きく異なります。ジフテリア菌の場合、人は本来の宿主です。ジフテリア菌が人体を破壊するはずがないにもかかわらず、ジフテリアという病気が起こるのはジフテリア菌に寄生するファージという擬人生物が真の病原体であるからです。このファージにとって本来の環境というのはジフテリア菌であって人体ではないのです。つまりファージにとって人は本来の宿主でないという原則に反していません。 
破傷風の場合は少し事情が違います。破傷風菌は土壌を環境としているので人は宿主ではなく老廃物を栄養として供給してくれる存在です。いわば間接的な環境と言えます。従って破傷風菌も積極的に人を殺すようなことはしないはずです。ところが破傷風菌にプラスミドという擬生物が寄生すると破傷風菌は毒素を作るようになり人や大型の動物を殺して栄養を破傷風菌に与えるようになります。
つまりジフテリアも破傷風も真の病原体にとって理由はそれぞれ異なるが、人の体が本来の環境ではないからということになります。
言い換えれば、ジフテリア菌や破傷風菌は、もしそうした毒素を作る擬生物が入り込んでこなかったら、人間とは仲良く共存できる存在でいられるのです。
これらの細菌にとって病気を起こすのと起こさないとではどちらが本来の自分なのでしょうか。
人に感染症が生ずるのは真の病原体であるファージやプラスミド、人間は直接の環
境ではないと考えれば、病原体がなぜ人間に悪さをするかが理解できます。

とてもわかりやすい説明なので、ご理解いただけたと思います。
問題は「自分とは何か」です。
益田さんも問いかけているように、常在菌である場合と毒素を抱え込んだ場合と、どちらが本来の自分なのでしょうか。

ジフテリア菌にとっての直接の環境は人体ですが、ファージにとっての直接の環境はジフテリア菌。このように、自己と環境の構造は重層的に存在しているのですが、いずれの場合も、直接触れ合っている環境とは支え合っていると言ってもいいでしょう。
でもどこかで歯車が食い違うこともある。

たとえば益田さんはこういいます。
人間の脳が抱えている知能は、ジフテリア菌にとってのファージの毒素と同じようなものかもしれない。そして、脳が知能を発達させてしまったために、知能が自らの環境を脳だと思い出し、本来の自分を忘れて(我を忘れて)、今や脳にとっての環境である人間の身体に悪さを与えるようになってしまった。
それはちょうど、常在菌としての自分を否定して毒素を取り込んで本来の自分を忘れてしまったジフテリア菌と同じなのではないのか。
脳は個体(人体)を維持するために過剰に発達しすぎて、結局、人間は脳がないと生き延びられない状況にしてしまったというわけです。
こう考えていくと、自分と環境との区別はそう簡単ではないことがわかります。
言い換えれば、前回話題になった自己と非自己はそう簡単に分けることはできない。

そんな話から、自分とは何か、環境とは何かの話し合いになりました。

生命は環境がないと生きていけないのであれば、環境もまた生命の一部ではないか。
すべての生物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという「環世界」という捉え方がありますが、その考えによれば、環境もまた自分と不可分な存在とも言えます。環境も含めて「自分」だとも言える。

そこまで広げなくても、自分の捉え方には層(範囲)がありそうです。
そして拡張された「自分」の中心をどこに置くかで、自分の姿は大きく変わります。
たとえばジフテリア菌の自分を、人間やファージまで拡張したとしても、中心をジフテリア菌に置くのか、ファージに置くのか、はたまた人間に置くのかで、全く変わってくる。当然、自分にとっての「環境」も変わってくる。
こう考えていくと、自分というのは環境と同化して霧散してしまうとも考えられるわけで、ますます自分がわからなくなるのです。

しかし、間違いなく言えることは、自分をどう捉えるかで、利己と利他の捉え方や善悪の判断基準は変わっていくということです。
世界中すべての人が幸せにならないと自分の幸せはないという宮沢賢治の言葉が思い出されます。

ちなみに、「自分」という文字は、「自然の分身」という意味だったという字義の紹介もありました。「どこで分ける」かは大きな問題ですが。
また「分身」ですので、山川草木すべてつながっているとも言える。参加者からは東洋思想につながる話だという指摘もありました。
重層的な自分と環境の関係がどこかで次元を超えていくとしたら、自分は無限に広がっていくかもしれません。
これに関してもかなり話し合いがありました。

益田さんの問題意識は、「心を環境とするXとは何か」。それがわかれば、心によって動いている私たちの生き方を変えられるかもしれず、もしかしたら「自殺」を止められるかもしれない。
さらに、自分と環境との境界をゆるやかなものにし、環境の中で自分を思い切り広げていけば、平和が来るかもしれません。そのためにも、「X」は重要な鍵かもしれません。
あまりに大きなテーマになったので、その先は次回以降に持ち越すことになりました。

今回、私が改めて感じたことは、自分をどう捉えるかによって世界は大きく変わるということです。
病原体の話から、私たちの生き方を少し考えてみようという益田さんの意図は、今回はかなり進んだような気がします。
次回が楽しみです。
次回のサロンにも、ぜひ多くの人に参加してほしいと思っています。

*報告はいつもながら私の主観でまとめていますので、文責はすべて私にあります。

Masuda202104

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2021/04/09

■湯島サロン「生きづらさ・生きやすさ」報告

3日前の案内の平日開催だったにもかかわらず6人の人が参加してくださいました。
しかも初参加の人がお一人。
今回は「生きる意味」をテーマにしたサロンの前座として「生きづらさ・生きやすさ」をテーマにしました。

思い立っての安直な呼びかけにも関わらず、生々しい体験談もあって、話し合いからいろんな示唆をいただきました。
「生きる意味」のサロンを開催することの意味も少し考えを深められました。
参加してくださったみなさんに感謝いたします。
やはりマスコミ情報や書籍の知識などから得ることの限界を痛感させられました。
「いま、本当に生きづらい時代なのだろうか」という気もしてきました。

サロン参加者の7人のうち、現在「生きづらさ」を感じている人は2人だけでした。
といっても、他の方がみんな「生きやすい」わけではありません。
あるひとから、そもそも「生きづらさ」という言葉は昔なかったのではないかと指摘されました。みんな貧しく生きづらいことが生きる意味だった時代もあったわけです。

そこで問題は、「生きづらさ」の基準は何かです。
経済的に貧窮し、食べるものさえ手に入らない状況であれば、それは生きづらいと言えるでしょう。ある人は、最近、そういう人も増えてきているようだと指摘されました。
生きづらさとは、食べるものが手に入りにくいことという意味もあることは間違いありません。しかし、世の中にはあふれるほどに食べるものがあり、大量の食べられるものが廃棄されているというおかしな現実もあります。
お金がないとそういう食べ物を食べることができないという社会になってしまった。
私には、どう考えてもおかしい気がします。

生きづらいと言った人のおひとりは、「居場所がない」というのが理由だと言われました。しかし、お話を聞いていて、その方にはある意味では居場所がたくさんあるような気もしました。居場所はどうも物理的な場所、あるいは社会的な活動の立場ではなさそうで、人間関係が絡んでいるようです。
お金がなくて生きづらいという人もいました。しかし、私にはお金がありすぎて生きづらくなっている人も少なくないような気がします。
創刊上げて
そう考えると、「生きづらさ・生きやすさ」は極めて主観的な意識や感情の問題かもしれません。

生きづらくて仕事を転々としてきたという体験を語ってくれた人もいました。
仕事を転々と変われるというのは、生きやすさではないかと私は指摘させてもらいましたが、生きづらさと生きやすさは裏表かもしれません。
こういうことに関しては、最近またブームになっている「贈与論」や「コミュニズム論」などの新解釈が参考になるかもしれません。

あまりの生きづらさに日本を脱出しパリで仏教に出会って帰国し、その後は仏教を学ぶことで生き続けられるようになったという体験を話してくれた人もいます。
仏教が残してきた仏典などの中にはたくさんの生きる知恵や生きづらさを解消するヒントがある、というのです。そして今は、そういうことでいろんな人の相談に乗っているそうです。他者の相談に乗ることもまた、生きる意味につながっているように思います。
ここに、宗教の大きな意味があるように思います。
5月には宗教をテーマにしたサロンを開催する予定です。

とまあ、こんな感じの話し合いのなかで、様々な話題が出ました。
現在の経済体制や教育の問題、株式投資と投機の話、日本における僧籍の取得方法、お金がなくても生きられるのではないかというような話、などなど。
こうした多彩な話し合いがサロンの魅力なのです。

ちなみに、今回のサロンにはなんと千葉県のいすみ市に半分転居した方が2人参加されました。いすみの生活と東京の生活は大きく違うようです。そこにも生きることの意味を考えるヒントがありそうです。
というわけで、5月に予定している「生きる意味」サロンのための示唆がたくさんあったサロンでした。

コロナ感染防止のために今回はお菓子はやめたのですが、大福を持ってきた人やサロンが延びていたので次のお客様が持ってきてくれたペコちゃん焼きをみんなで食べてしまいました。困ったものです。
しかし、改めてサロンにはお菓子も必要だと思いました。次回からまた復活です。

Ikizurasa20210408

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2021/04/01

■湯島サロン「先端技術の応用と倫理」報告

「遺伝子検査」のテーマから始まった山森さんのサロンも3回目。今回は、自律型致死兵器システムを例に「先端技術の応用と倫理」を問題提起してくださいました。
その根底にあるのは、「進化し続けるテクノロジーは人々の生活を豊かにしてゆくのか?」という問いかけです。 

山森さんは次のように話を始めました。
先端技術が人類の進む方向を大きく変えていくかもしれなくなってきているのに、先端技術に関する倫理的・法的・社会的問題(ELSI)についての議論はあまり進んでいない。そればかりか、私たちは、先端技術に関する動きに無関心で、実情をあまりにも知らないのではないか。
そして、ひとつの切り口として、今回は自律型致死兵器システムの動きについて紹介してくれました。情報技術や人工知能(AI)は、いまや私たちの生活になくてはならないものであり、大きな利便性を与えてくれていますが、それはまた兵器の分野を大きく変えつつあるのです。

ちなみに、自律型致死兵器システムは、“Lethal Autonomous Weapons Systems”、略してLAWSというそうですが、それが「法」を意味する単語と同じなのは偶然なのでしょうか。なにやら時代の行き先を暗示しているような気がしました。

たとえば、LAWSのひとつ、人間に代わって自ら判断して攻撃するキラーロボット(殺傷ロボット)はまだ実戦配備はされていないものの、米国・ロシアなど10数か国が開発中で、核兵器に次ぐ兵器革命をもたらすと言われているそうです。
ほかにもさまざまな新兵器が生まれだしていますが、そうした最新兵器をたくさん紹介してくれました。ここまで来ているのか!と、私にとっては「ぞっとする」話でした。

どんな高性能な機械でも間違いは起こる。そして間違いから完全自律型兵器どうしの戦いがひとたび始まってしまったら,人間は暴走を止められず,世界が破壊されていくのをただ見ているしかなくなる。それでも機械に殺しの最終判断を委ねてよいのか、と山森さんは言います。もし完全自律型のAI兵器が実際に使われてしまったら、私たちの未来はどうなってしまうのか。

「自律型」という言葉には、人間の手を離れていくようなイメージを感じます。
山森さんは、自動兵器と自律兵器とが混同されて議論や批判が行われがちだが、それらは全く違うものだといいます。倫理の問題を考えるときにも、自動兵器はそれを扱う人間の倫理の問題ですが、自律兵器の場合は、開発する人間の倫理の問題になるでしょう。
山森さんも言及されましたが、まさに映画「ターミネーター」の話です。
自律兵器が開発された後では、すでに遅いのかもしれません。

さすがに、実戦投入前に禁止条約を作ろうという国際的な動きは進んでいるそうですし、ロボット倫理学(ロボエシックス)に関する議論も行われているようです。
日本でも、こうしたことに関する専門家会議も始まっており、また政府も「致死性を有する完全自律型兵器を開発する計画はない」と表明しているそうです。恥ずかしながら、そうしたことさえ私はあまり知りませんでした。

そういうこともあって、やはりこうした問題は専門家だけではなく、私たち一般の生活者も関心を持って、しっかりと考えていかなければいけません。
テクノロジーを暴走させないためにも、専門家の意見を相殺あるいは改良できる知識ある市民集団をつくることが大切だと山森さんは言います。そして、いろいろな方面から集まった市民が専門家の知識を利用しつつ専門家とは離れて自分たちの意見を形作る欧米で芽生えているコンセンサス会議(市民パネル)を山森さんは紹介してくれました。

日本でも20年ほど前に「コンセンサス会議」が行われていたことがあり、私も大きな関心をもっていましたが、残念ながら結局、定着せずに、最近はあまり聞かなくなりました。山森さんが言うように、今こそコンセンサス会議が必要な気がします。山森さんが取り組んでいる活動は、その一環と位置づけられるかもしれません。湯島のサロンがその場の一つになればと思いました。

話し合いにはいろいろの話題が出ました。
技術者倫理の動きを日本に導入し、大学での講座開設にも取り組んでいた杉本さんも参加してくださっていたので、その話も少ししてもらいました。

私は、「自律した機械」は意志を持ち出し、人間の倫理とは全く異質な「倫理」が生まれるのではないかという不安を持ちました。かつてSF作家のアシモフが「ロボット3原則」を提唱し、機械は人間に害を与えないというルールを機械に埋め込むことを提唱していましたが、それはたぶん超えられてしまうでしょう。
倫理が人間を超えだす?

そこで次回の山森サロンでは、トランスヒューマニズム(新しい科学技術を用い、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の限界を前例の無い形で向上させようという思想)を話題にしてもらうことになりました。たぶん今回よりもさらに「ぞっとする話」が出てくるでしょう。

そういう話に触れると、単に科学技術の利便性の享受を喜ぶだけではなく、どうしても「倫理」が気になってくるでしょう。
山森さんの意図に少しずつ引き込まれているようです。
次回は425日の予定です。
初めての方も歓迎です。
みなさんもぜひご参加ください。

Yamamori3

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2021/03/31

■湯島サロン「5年生存率25%のがん体験から気づいたこと」報告

小細胞肺がんサバイバーの岩崎さんのサロンには、10人を超す参加者がありました。
岩崎さんと同じように、厳しい状況を体験した方も少なくありませんでした。

テーマが重いだけに、どんな雰囲気になるかなと思っていましたが、岩崎さんが淡々と自らの体験を紹介し、そこで気づいたことや課題などを前向きに話してくれたので、みんなそれぞれに気づきや思いを持てたサロンになったと思います。
まだ闘病中にもかかわらず、冷静に体験を語り、参加者の質問にも誠実に応えてくれた岩崎さんに感謝します。

岩崎さんはサロンのために「小細胞肺がんサバイバーの独り言」と題するパワーポイントを作ってきてくれました。
最初に、岩崎さん自身の小細胞肺がん治療の経緯を時系列で紹介してくれました。詳細な経緯報告なので実に生々しい話ですが、実に淡々と。
そして、標準治療(化学療法と放射線)の副作用と後遺症について話してくれた後、告知から現在までの3年間での気づきを話してくれました。

気づきに関してタイトルだけ書けば、「玉石混交のがん治療」「情報収集に無関心ながん患者」「半信半疑(half-truth)のがん関連情報」、さらに「新しい治療法への期待」といった内容です。
私も体験がありますが、がん告知を受けた当人や家族は、がんに関する知識を得ようと最初は手当たり次第に情報を集めます。しかし、そのあまりの情報の多さと玉石混交さに疲れ切ってしまいがちです。岩崎さんの話は体験した人は痛いほどに共感し、未体験の人にはいざというときの参考になったと思います。

新しい治療法の話やドラッグ・リポジショニング(既存薬、開発中もしくは開発中止となった医薬品を活用し、当初想定していた疾患とは異なる疾患の治療薬に転用すること)の話は元気づけられる話でした。

もうひとつ具体的な話としては、がんの転移を防止するという意味で、岩崎さんが自由診療で服用している薬の話もありました。この話は参考になった人も少なくないでしょう。私は初めて知る話でした。

岩崎さんは最後に「スタック・イン・ザ・ミドル(真ん中、どっちつかず)層への無関心」という話をしてくれました。がん患者に関する情報やエピソードは、末期癌やステージ4からの奇跡の生還(もしくは悲劇)の話、もしくは初期に発見できたという幸運な話が多い。これは、がんに限らず、多くの病気に関しても言える。

5年生存率は25%だったとはいえ、小細胞肺がんもスタック・イン・ザ・ミドル的な病気なのだそうです。岩崎さんは、自分のような「どっちつかず」の患者、いわゆる「スタック・イン・ザ・ミドル層」も、再発や転移に怯えているにもかかわらず、希望を与えてくれる、光明を見出せるような話は皆無に近い。ネット記事も参考になる書籍も見当たらない。しかし、重症患者の事例はあまり参考にならない。

岩崎さんは数年前に脳梗塞を体験していますが、その時もまさしくスタック・イン・ザ・ミドルで、有益な情報は得られなかったそうです。

がんの闘病に関する書籍は多いですが、重篤にまで至っていない患者にとって参考になる情報は少ないというのです。ここを何とかできないだろうか、というのです。

こういう話の後、参加者からも自らの体験談を紹介したり、岩崎さんに具体的な質問をしたり(かなりぶしつけな質問にも岩崎さんは答えてくれました)、密度の高い3時間でした。私はかなり疲れ切りましたが。

内容をうまくお伝え出来ずにすみません。
岩崎さんの話のポイントをまとめたパワーポイントをぜひ読みたいという方がいたらご連絡ください。岩崎さんの了解が得られれば送らせてもらいます。
こういう体験談がきちんと語られ、情報がしっかりと蓄積される仕組みがあるといいなとずっと思っています。「半信半疑(half-truth)のがん関連情報」を集積し、データバンク化するだけでも意味があるように思います。
妻ががんで亡くなった後、私もそうした取り組みをしたいと思ったことがあるのですが、気力が戻らず取り組めませんでした。岩崎さんが言う、スタック・イン・ザ・ミドル層、あるいは初めてがん宣告を受けた人向けの、人間もつながっている情報バンクができるといいですね。

実際にそうした仕組みを作るには私はやや歳をとりすぎました。どなたか取り組まれる方はいないでしょうか。

Iwasaki2021

 

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2021/03/27

■3日連続サロンがはじまりました

湯島での3日連続サロンがはじまりました。
緊急事態宣言解除の直後にあたってしまったので、残念ですが、解除とは関係ありません。

3open
初日のオープンサロンは、参加者が少ないだろうから途中で上野公園の桜を見ながらのウォーキングサロンにしようかとひそかに考えていたのですが、予想に反して10人ほどの人が来てしまいました。困ったものです。
しかもお一人、実に久しぶりに来てくださった方がいて、彼女が最近取り組んできた話を含めて自己紹介してもらったのですが、それがまたちょっとハードなもので、これに関しては別途サロンをやってもらうことにしました。
「茶色の朝」を正面からテーマにしたサロンになりそうです。

コロナも怖いですが、茶色の朝はもっと怖い。

そこからみんなそれぞれに最近の活動なども含めて話をしてもらいました。
テーマがないほうが話は盛り上がります。
最後にやってきたのは20代の大学生です。
コロナで大学もリモートばやりですが、彼も来年は休学するそうです。

参加者のお一人は、いろんな会に参加しているそうですが、この湯島のサロン以外は、ほとんどがリモートになっていると話してくれました。
そういえば、サロンの前に湯島に来ていた人が、最近ほとんど歩かないので、ここに来る途中の58段の階段が大変だったと嘆いていました。
リモートばやりで、人間の足は退化し、そのうち、植物のような生命体に進化するかもしれません。
そういえば最近は半径3キロ以内で生きていこうというような提案をしている人もいるらしいです。
社会はどうなっていくでしょうか。

オープンサロンですので、話はさまざまに広がり、時間も3時間も続きました。
私は早く終わって上野公園に行きたかったのですが、行きそこなってしまいました。
それで考えたのですが、今年は一度、ウォーキングサロンを企画することにしました。
最近はウォーキング哲学サロンというのも広がっているようですので。

サロンの報告にはなっていませんが、途中、2つのグループに分かれてしまって議論がされるなど、なにやら議論は盛り上がっていました。大きなテーマは「コロナ後の経済と政治はよくなるのか」でした。壊れるという意見もありましたが、良い方向に行くのではないかという意見もあったので、私は後者を信ずることにしました。
いや、良い方向に向かうように自らの生き方を質さなければいけません。

2日目の今日は、「5年生存率25%のがん体験から気づいたこと」。
闘病中の岩崎さんが、コロナ感染のリスクを負いながらも話しに来てくださいます。
今回はいつも以上に注意してサロンに向かいたいと思います。

参加者は、必ず玄関であるコール消毒し、入室後、手洗いをしっかりとお願いします。

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2021/03/26

■湯島サロン「下り電車に乗り換える意味」報告

これからの「しあわせ」をどこに求め、「生き方」をどう変えるか、をテーマにしたサロンは、10人の参加者があって、議論はにぎやかでしたが、私の不手際でテーマそのものの話し合いは不発に終わり、参加された皆さんには失望させてしまったことと思います。お許しください。まあ、その割にはみんな楽しんでいたような気もしますが。

時代の変化はみなさん強く実感されているにもかかわらず、肝心の価値観はあまり揺らくことなく、自らの生き方はしっかりと堅持している人が多かったようです。そういえば、私自身もそう価値観や生き方は変わっていないなと気づきました。

おひとりだけ、価値観が変わり生き方を変えようとしている人がいましたが、その人の生き方の変化は、たぶん参加していた人たちの多くも共感する生き方の変化のような気もしました。その人がいま大切にしているものは、「人と畑」だと言います。
もしかしたら、その人の生き方の変化が今回のテーマの本質につながっているかもしれません。

また参加者の何人かは「親や家族やペット」が大事だと言います。自分の思い通りに生きることが大切だと言った人もいました。でもそれはいまそうなったのではなく、以前からのようです。
お金とか社会的地位とか、は、これまでも実は誰も本気では求めていなかったのかもしれません。私もマスコミや書籍などで洗脳されてしまっていたのかもしれません。
今回のサロンで、私が一番反省させられたような気がします。

サロンの最初に3つのことを話させてもらいました。

1月の神山さんのサロンで、「これまでの数十年は、幸せになるためにみんな上り電車に乗ろうとしていたが、下り電車に乗って幸せになる国づくりをしようという大きな波が広がっている」という話があった。

その時、私は3つの疑問を持った。「上り電車に乗らずにいた人たちはどうなったのか」「出てきてしまった“故郷”はどうなったのか」「上り電車と下り電車に乗る人の動機は違うのか」。

私の素朴な気持ちとしては、上り電車の先の都会に比べ、その始発駅のある故郷の方が豊かなのではないか。よく「限界集落」と「過疎地域」とか言われるが、それこそが本当の豊かさではないのか。私たちは間違った認識をさせられているのではないか。

そして今回は、「あなたが目指す生き方、生きる上での大事な価値」「それは以前と変わったのか、変わったとすればその理由は何か」「変わらなかったとすれば、その視点から見て社会は変化しているのか」という問いかけをさせてもらったのです。

ところが、どうやらほとんどの人が、別に価値観も幸せ感も変わっていないようで、そうした話し合いには入らないまま、しかしなぜか盛り上がってしまいました。
そこで、話し合いが一巡したあと、なんとかテーマに沿った話し合いに持っていこうと、最近のサロンで話題になった、いくつかの新しい生き方を提示させてもらいました。

「電車に乗って鉱脈を探し続けるノマド」「神山さんからメーリングリストに投稿のあったダウンシフター」「メーリングリストに投稿のあった吉本さんのような夢追い人」「哲学のサロンをやった遠山さんのように常に前に進もうとしている人」、あるいは「農福連携サロンで宮田さんが示した地域共生社会の主体者、つまりいま住んでいるところを掘り起こす生活者」などです。

こうしたさまざまな生き方の基軸にあるのは、「電車に乗るか乗らないか」「昨日と同じ今日を善しとするか変化を善しとするか」、つまりは「経済成長に加担するかどうか」です。経済と生活は、どういう関係にあるかを考えたかったのです。
しかし、残念ながらその試みも功を奏さず、なにやら別の話で盛り上がっていました。
みんな幸せそうでした。

あきらめの悪い私としては、ぜひこのサロンのリベンジサロンをやりたくなりました。

そこで今度は、直球で「あなたの生きる意味は何ですか」というテーマのサロンをやろうと思います。「生きる意味」を真剣に考えている人、そんなことなど考えることもなく意味もなく惰性で生きている人、生きる意味を失ってしまった人、いずれも大歓迎です。ただし、理屈や知識ではなく、自分の人生を踏まえた経験談議ができればと思っています。

4月に企画しますので、ぜひご参加ください。

Kudari

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2021/03/24

■湯島サロン「新しいノウフク(農福連携)のカタチ」報告

「農」も「福祉」も実践しながら農福連携に取り組んでいる熊本の宮田喜代志さん(熊本地域協働システム研究所相談役)のお話は、いつも、現場の動きと政策の動きを並べて話してくれるので、気づかされることが多いです。
宮田さんは現場とともにある研究者なので、毎回、内容が「深化」するのも魅力のひとつですが、今回は、特に九州地域での農福連携現場の実態調査に取り組んだ結果も踏まえてお話をしてくださいました。生々しい現場の動きがわかり、とても明るい先行きが見えてきた気がします。
また最初に、改めて農福連携に関する全体像(前回よりも深化しました)を整理してくれたので、初めて「農福連携」という言葉に出会った人にもわかりやすかったと思います。私も改めて頭が整理できました。

Miyata202103

「農福連携」というと農業と福祉の話と思われがちですが、その先にあるのはこれからの地域社会、生活コミュニティの姿、つまり私たち(都会人も含めて)の生き方につながる話なのです。今回は、これまで以上に、そうしたイメージがはっきりしてきたように思いますが、それも頭で考えた結果ではなく、宮田さんの実践のなかから行き着いたことなので説得力があります。
今回のお話のタイトルは「農が福祉とひとをつなぐ」。そのキーワードは、「小さいことはいいことだ!」です。
まさにこれからの社会のあり方を示唆しています。

宮田さんは、農福連携を進める意味は、地域共生社会の主体である「小農」が育ち、その人たちの新しいネットワークが生まれてくることにあると言います。
そして、そうした動きをいくつかの実例から説明してくれました。
工業化社会の中で、農業は「第一次産業」と言われて、産業の一分野に位置づけられてしまってきましたが、食=生という原理を踏まえれば、農業は私たちの社会の根源的基盤といってもいいでしょう。
それは同時に、多様な農作業を通して、人と人、人と自然(環境)をつないでいく働きも持っています。
さらに農は、実に多様な「作業」の組み合わせであり、工業における効率性指向の「分業」とは違った、個人の力を活かしあう「協業(協働)」を可能にします。
そこにすでに「福祉」の要素が含まれていますから、おのずと人々が支え合う地域共生社会が生まれていくわけです。

農福連携によって、「農」も「福」も意味を広げ形を変えてきています。
たとえば、「福」は当初は障害を持つ人たちに焦点があてられていましたが、その対象は次第に高齢者、シングルマザー、生活困窮者、引きこもり、刑余者、外国人へと広がり、さらにはすべての人たちを包摂するようになってきているそうです。
それに合わせて、「農」もまた形を変えていく。
そして、それが、「働き方」や「福祉の形」を大きく変えていくことになるでしょう。

そこからこれからめざすべき社会のあり方が見えてくる。
今回の宮田さんの話から、私はそんな展望への確信が得られました。

ちなみに、サロンでは「組織化」に関する議論もありましたが、組織そのものの意味も変わっていくように思います。例えば、今回、宮田さんは「ネットワーク」という言葉を使われましたが、私は野菜などの根っこのように、土壌とも絡み合いながらどんどん広がっていくリゾームのイメージを持ちました。農や福から考えていくと、これまでの工業社会の組織とは全く違った組織論も見えてきます。

宮田さんは、しかし、ビジョンだけを語ったわけではありません。
どうすれば「農福連携」が成功するのか、そして「生産(経済)のための農福連携」ではなく「善き生活のための農福連携」という理念をどう守り発展させていけるかについても、事例も含めながら、具体的に話してくれました。
その話は、そう簡単には報告できないので、関心のある方はぜひ宮田さんの話をいつかしっかりと聞いてほしいです。宮田さんはいま農福連携のテキストなどにも取り組んでいるようですので、関心のある方はぜひ宮田さんにアクセスしてみてください。

サロンの中で、宮田さんは、「2500年かかって作り上げてきた日本の農業を、私たちの世代でなくすわけにはいかない」と言いましたが、とても共感します。
日本の、とりわけ「小農」たちの現場に残されている大きな知恵を、私たちは改めて学び直すことで、いま私たちが直面しているさまざまな問題を乗り超えていく道がひらけていけるように思います。

これから宮田さんが東京に来る頻度は増えるようですので、時々、農福連携サロンを開いていただきたいと思っています。農福連携の動きには、私たちのこれからの生活を考えるためのヒントが山のように詰まっているように思いますので。

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2021/03/16

■湯島サロン「GDPにはどんな意味があるのか?」報告

「GDPの原理」をエンジニア的に整理し、それが何に使えるか、そしてその「限界」は何かに関する沖さんの考えを紹介し、それをもとにみんなと話し合うサロンでした。
いろんな分野の人が12人集まりました。

Okigdp

沖さんはまず、そもそもGDPってどうやって計算するのかというところから話し出し、最後に9つの課題を提示してくれました。
さらに話し合いの補助線として、最近広がりだしている「新解釈マルクス」の「物質代謝論」と「価値と社会の富」の話を付け加えてくれました。

議論はまずGDPの理解から始まったのですが、計算手続き論に焦点が行ったので、肝心のGDPとは「国内の生産活動で得られた付加価値額の総合計」という定義論とは全く無縁の話で混乱してしまいました。
参加者の一人が、GDPはストック(国富)の話ではなく、フロー(生産)の話だと言ってくれましたが、話し合いの勢いがついていたため、それでは落着しませんでした。
これもまた日本の知の現状を示唆していて面白いです。

沖さんがあげた9つの課題の最初は、「国民が豊かになるには?」でした。
沖さんにとっての関心は、おそらく「国民が豊かになるための指標」としてGDPは適切かどうかという投げかけだと思いますが、参加者の多くは「GDPありき」で考えているようで、みんなGDPに好意的だった気がします。

私自身は、そもそも今のような状況においては、「生産」という言葉の捉え方そのものを変えないといけないと思っています。
つまり、環境問題の深刻さから考えれば、「生産」は「環境消費」と位置づけることが必要で、そもそも「生産活動」そのものの意味合いが変わってきているので、GDPという概念そのものが、私たち生活者の豊かさとは全く相反する指標になっていると考える必要があると思っています。経済成長も同じで、経済成長が私たちの生活を豊かにするという発想をそろそろ捨てるべきだと思うのです。

こうした考えに基づき私は30年前に生き方を変えましたが、当時はエコノミストの友人からは私の無知を笑われ、話し合いにもなりませんでした。当時はみんな経済成長至上主義でしたが、今なら少し話し合えるような気がしていました。
サロンではそういう話し合いをイメージしていましたが、やはり「経済成長」発想から抜け出しての話し合いはいまなお難しいようです。
多くの人の発想の根底にはやはり金銭経済パラダイムがあるようですが、それがある以上、経済成長発想からは抜け出せないでしょう。

沖さんの課題の最後には、「付加価値」と「喪失価値」があげられていました。
今回はこの議論はありませんでしたが、成熟社会における経済においては、重要な課題だと思います。
いつかこのテーマに絞った話し合いもできればと思います。

しかし一度植え付けられた発想のパラダイムは、なかなか変わりません。
前回の「善悪」にしても、今回の「豊かさ」にしても、どの視点で考えるかで真反対の評価にもなりかねません。そんなことにも気づかせてくれたサロンだったと思います。

沖さんの提起した「国民が豊かになるには?」に関しては、来週のサロン「下り電車に乗り換える意味」で少し取り上げたいと思います。

 

 

 

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■湯島サロン「生きるために哲学は大切です」報告

30代の行動する若者、遠山さんによる「生きるために哲学は大切です」をタイトルにしたサロンは、天候が悪かったにもかかわらず、10人の集まりになりました。
遠山さんよりも若い人の参加がなかったのが、ちょっと残念でした。

「哲学」と言うと、日本では高齢者の問題と思いがちの人が多いですが、私は若い世代にこそ「哲学」が大切だと思っています。しかし日本では、「哲学」はなにやら難しい「学問」に仕立て上げられ、敷居の高いものにさせられています。
しかし、哲学は本来、「知を愛する」ことですから、若い世代のものだと思います。
私自身は、この歳になって「哲学」などという言葉を使うことさえ気が引けます。

それはともかく、私にとっては全く意外だったのですが、遠山さんはアリストテレスの「二コマコス倫理学」の話から始めました。そして、そこから遠山さん自身が得た気づきの結論として、次の3項目を上げました。

善・悪は、人にあるのではない、人のなす行為にある。
「人格」は、己の判断した行為の積み重ねで決する。
すべては自分の責任である。

そこから話し合いがはじまりました。
突っ込みどころ満載の結論ですので、そこから激しい異論や疑問のぶつけ合いが始まるだろうと思いました。しかし、話し合いは盛り上がりましたが、どうもこの結論は多くの人には素直に受容されたようでした。若者がいたら全く違う展開になったような気がします。

今回のサロンは、遠山さんの話を受けて、参加者それぞれが自らの生きる指針としての『哲学』を考えようというのが趣旨でしたので、意外とみんなすんなりとその結論を引き受けられたようです。これも意外でした。

話し合いはいろいろと広がりました。

私と同世代の参加者が、哲学とビジネスとどうつながるかの質問をされました。
これはとても興味ある話題でした。
しかしだれもいま話題の渋沢栄一の「論語と算盤」や近江商人の「三方良し」を口にしなかったのが意外でした。ビジネスに関わっている人であれば、すぐに「コーポレート・フィロソフィー」「企業理念」という言葉を思い出すでしょうが、今回はそういう分野で活動している人は誰もいなかったためかもしれません。
私も、話題がアリストテレスからだったので、そうしたことには言及せずに、アメリカのアスペン会議やグレートブックセミナーの話をしてしまいました。

「哲学」と「思想」、さらには「宗教」。「倫理」と「道徳」の話も出ました。
そんな感じで話題はいろいろと広がり、遠山さんも含めて、みんなそれぞれに気づくことはあったようです。ただ、いずれも経験からの話には至らずに、抽象的な話から抜け出せませんでした。
それがサロンの限界かもしれません。

一度、「哲学カフェ」スタイルのサロンをやってみようかと思いだしました。
これまではどうも抵抗があったのですが。

Tooyama

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2021/03/09

■第6回益田サロン「利己と利他」報告

細菌学者の益田昭吾さんの第6回サロンのテーマは「利己と利他」でした。

ドーキンスのセルフィッシュ・ジーン(利己的遺伝子)の話から入ったのですが、いつも以上に盛んな問いかけと話し合いで、益田さんがせっかく用意してくださった話の1割しか話せなかったと嘆くほどの盛り上がりでした。
それにしてもみんなどんどん詳しくなってきていて、私のような落ちこぼれにはついていくのが精一杯で、益田さんの話の内容報告は難しくなってきています。印象的な報告しかできず、サロンの議論の面白さをお伝えできないのが残念です。

今回のキーワードは、「利己と利他」「主体性」「有用性」「一子相伝と特許制度」でした。これだけ聞いてもつながらないかもしれませんし、想像を膨らませられないかもしれませんが、たとえば、家族の中での夫の立場の特異性や名物和菓子屋さんがなくなったというような、実に具体的な生活話題にまで話は広がっていました。その一方で、益田さんからは万葉集や金銭化された社会の問題まで指摘されていました。そういえば、AIやAI社会の話も出ていました。

こうして話が思わぬ話題に広がったり細菌やウイルスの話に戻ったりして展開されるのが、益田サロンの面白さなのです。私のように、ほとんどこの世界に無知な者でも、話し合いに入れてもらえます。みなさんもぜひ一度遊びにお越しください。

私が気になったことを3つ紹介します。

テーマの「利己と利他」ですが、問題は、「己とは何か、他とは何か」ということです。これに関しての話し合いもありましたが、己と他をどう捉えるかで、利己と利他は入れ替わります。さらには、己と他が構成している「環境(社会)」の捉え方も変わります。
それは生き方にも大きな影響を与えます。
湯島サロンに対する私の一つの期待は、みんなの己がどんどん広がり、利己と利他が融合することでもあります。己の世界が広がると煩わしさは増えますが、にもかかわらず生きやすくなるように思います。

もう一つは益田さんが提起した「私物化」の問題です。
益田さんは、自分が所有する有用な遺伝子はなるべくほかで使ってほしくない、有用な遺伝子ほど増殖させたくないというのが生命界の現実ではないかと言います。本当にいいものは自分だけで独占したいというわけです。それって、適者生存という進化論とどうつながるのかという疑問も含めて、私自身まだ十分に消化できていませんが、生命界には、みんなに役立つものこそが私物化される傾向がある。それが「一子相伝」や「門外不出」、さらには特許制度に現れていくのだというのです。
ここでも「己と他をどう捉えるか」が重要になってきます。

益田さんはまた、「usefulな遺伝子が集合してuselessな主体性を産む」という話もされました。私にはますます理解困難でしたが、どこに視点を置いてusefulかどうか判断するのか、そしてそもそもusefulとは何なのか、という問題に気付かせてもらいました。この話は、益田さんはサロンでかなりきちんと話してくれましたので、私だけがあまり理解できていないのかもしれません。もう少し考えたいと思っています。

益田サロンは、話を聞けば聞くほど、知らないことが見えてくる。
知らないことをどのくらい知っているかこそが知識であると思っている私には、いつも刺激的なサロンです。

益田さんは今回も、話したかったことのほとんどが話せなかったと言っていましたので、きっとまた続きのサロンがあるでしょう。
それを楽しみにしたいと思います。

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