カテゴリー「サロン報告」の記事

2020/03/25

■湯島サロン「新型コロナウィルスにまつわる気になること」報告

予想に反して、なんと17人の多人数参加サロンになりました。

Conspiracy-salon

新型ウイルスというよりも、中嶋一統さん(「陰謀論」研究家)が呼びかけに書いた、その背景にあるかもしれない「陰謀」に、多くの人は関心を持ったようです。
「陰謀論」は、みんなどうも大好きのようです。
しかし参加者が多いと湯島サロンもクラスター形成の危険性があり、それこそ「陰謀」に利用されかねないので、換気には気をつけました。

中嶋さんは、新型ウイルスが広がりだしたころから、その背後にある「意図」あるいは「人為」について話されていました。

陰謀を「隠れたはかりごと(謀)」と捉えれば、どんな事件や現象にも、かならず陰謀はつきものですが、「陰謀」というとフリーメーソンとかユダヤのプロトコルとかを思い出してしまい、荒唐無稽と片づけられてしまうことこそが、「陰謀の罠」だと中嶋さんは、以前、湯島のサロンで話してくれています。
私も「陰謀論」を一笑に付すことなく、そこから気付きを得ることこそ大切だと考えていますので、今回、中嶋さんにサロンをお願いしましたが、こんなに多くの、しかもさまざまな立場の方(それも女性が多かったです)が参加されるとは思ってもいませんでした。
しかし、そこにこそ、まさに現代の社会の問題が暗示されているのかもしれません。

中嶋さんが今回の新型ウイルスの流行の背後に「陰謀」があると考える理由はいくつかあります。
中嶋さんは、今回のウイルス騒ぎが始まった中国の武漢の立地をまず問題にしました。
その周辺にある研究所やそこで行われたイベントなどを調べてみると、どうも「人為」を感ずるというのです。
そう思っていたら、2月になって、新型ウイルスのゲノムに人工の加工跡があることが判明しました。これはもう「自然の営み」ではなく、なんらかの「人為」が関わっていることは明らかです。

さらに、2月にあるセミナーで会った人から、10月頃の情報に従って大量のマスクを購入して年内に大きな利益を得たという話を聞いて、「陰謀」の存在を確証したそうです。つまり秋頃には新型ウイルスの大流行を知っていた人たちがいたというわけです。
そうした視点で考えると、各国政府の動きや製薬会社の動き、ワクチンに関する動きも納得しやすく、またそれを裏づける小さな事件もたくさんあるというのです。

問題は、誰が何の目的でやったかということですが、これはいささか複雑すぎて、簡単には説明できませんが、そこでさまざまな「陰謀論」も出てきました。
一時は、新型ウイルスを離れて、いわゆる「陰謀論」、たとえば、9.11事件疑惑や宇宙人疑惑などにまで話は広がりかけました。

なんとかまた新型ウイルスの話に戻りましたが、これからの見通しに関しても中嶋さんは明確に話されました。
いささか複雑なのは、オリンピックと米国大統領選挙との関係です。これらがもしかしたら「陰謀」にもつながっているのかもしれませんし、逆に「陰謀」のプログラムを狂わせてしまったのかもしれません。
日本では、新型ウイルスよりもオリンピックのほうにマスコミも政府も関心があるような気もしますが、新型ウイルスとオリンピックの関係をきちんと整理して振り返ると、いろんなことに気づくはずです。

こうした話を踏まえて質疑応答に入りましたが、話はかなり広がりました。
なにしろ新型ウイルスに関しては、あまりにも情報が少ないですから、いかようにも物語はつくられます。それに、いまマスコミなどを通して出回っている情報やデータはおかしいことがたくさんありますので、なにか大きな「陰謀」を勘ぐりたくなるのは当然です。
中国のデータや情報はあまり信用できないという話がありますが、日本政府が発表するデータや情報も同じ、ある意味ではそれ以上かもしれません。
しかし、不安感をあおられる中で、私たちは、政府や「専門家」をあまり信頼できないにもかかわらず、その指示に従うしかないのです。

そんな話から、インフルエンザのワクチンへの不安の話も出ました。
しかし、その一方で、新型ウイルスのワクチンを待望してしまう。
いやはや困ったものですが、もうみんな「右往左往」せざるを得ない。
まさにそこに「陰謀」の実態が現れているのかもしれません。
いや、そこにこそ、現代という社会が象徴されているのかもしれません。

現代のように、自由意志で行動する〈自分〉が揺らいでしまうと、多くのことを誰かにまかせなければならなくなってきていますが、そのために、実際のプロセスが見えにくくなり、巨大な見えない組織に操られているかのような不安に襲われがちです。そうした時に、「陰謀論」がはやると言われています。

陰謀論は、一種の娯楽文化とも言われますが(サロン参加者のなかにも陰謀論を楽しんでいる人たちがいました)、しかしその中には時代を見る大きなヒントがあるとも言われています。
それは、あらゆるものはつながっていて、しかもすべては、現在を説明するためのものであるという、陰謀論の根底にある考えが、ともすると見失いがちな社会の全体像への目を開いてくれるからかもしれません。

サロンの話し合いの中で何となく合意されたのは、次の3点です。

世間に流れている情報をうのみにせずにしっかりと自分で考えることの大切さ。
自らの健康を一人ひとりがしっかりと自らで守ることの大切さ。
大きな陰謀にごまかされずに、もっと身近なところで作動している小さな陰謀(意図隠し)にもしっかりと目を向けることの大切さ。

新型ウイルス騒動に目を奪われている間に、もっと大きな「意図」が私たちの生活を壊していかないように、気をつけなければいけません。
新型ウイルス騒動から学ぶことはたくさんありそうです。

もちろん、まずは新型ウイルスの被害を広げることに加担しないようにしなければいけませんが。

 

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2020/03/24

■第7回リンカーンクラブ研究会「〈多数者の専制〉を回避する方策」報告

新型ウイルス騒ぎにもめげず、7人が集まりました。

Kc72
今回は、前回課題の整理で終わった「民主主義政治における合意形成」を、テーマに話し合いました。
前回参加しなかった人もいたので、最初に前回、武田さんが整理してくれた「合意形成を考える課題」を復習しました。
前回、武田さんが説明したように、リンゴ2つとミカン3つを足したらいくつになるかの話から入りました。リンゴとミカンは足せないが、いずれも果物であることに着目したら、5つと合算できる。合意のポイントは「違い」に着目するのではなく、「共通点」を見つけ出すということです。
つまり、合意とは話し合いを通して、相互の違いの中から共通するものを見つけ出すこと、あるいは共通することを創り出すこととも言えます。
しかし、同時に、合意するということは、それぞれ違った意見があるということです。
主体性のない単なる群れ(オルテガの「大衆」)では合意が問題にならないが、個性のある多様な人たち(ネグリの「マルチチュード」)には合意が問題になります。

そんな復習をしたうえで、今回は「多数者の専制」を切り口に話し合うことにしました。
民主主義において多数者が少数者を抑圧する現象は昔から指摘されていたことですが、最近の日本ではまさにそうした状況が日常化してきています。
それをどう回避するか。
同時に、多数決による合意は果たして正当性があるのか、といった議論です。
多数決で合意された後の監視・阻止・審判の重要性を説く「カウンター・デモクラシー」の話も出ました。「合意する民主主義」から「監視し阻止する民主主義」へと変わってきているという話です。
そうした切り口からさまざまな話が出ました。

いずれも正面から話し合ったわけではありませんが、さまざまな視点から多様な議論で盛り上がりました。あまりに多様で報告は難しいですが。
しかも今回は、まさに午前中に、地域の公共施設の利活用に関する集まりで、「合意の暴力」を体験してきた人が参加し、なまなましい話題を提供してくれたので、とても具体的な話し合いになりました。
やはり具体的な事例で話すと問題ははっきりしてきます。

新型ウイルスへの政府の対策や森友問題に絡んだ赤木さんの遺書問題も話題になりました。
こうした事象にも「合意形成」の問題が見えてきます。

時間をかけてゆっくりと進めていった合意形成が、生産性を重視する時代の中で、いつの間にか多数決主義にとって変わられてしまいました。
多数決は情報の共有や公正な熟議があってこそ、正当性を確保できますが、形式的な多数決はさまざまな問題を引き起こします。
改めていま、多数決と民主主義について考えていくことが大切だと思います。

この問題は、茶色の朝サロンでも、さらに考えていければと思います。

 

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■第7回万葉集サロン「万葉集の〈おの(己)〉」報告

万葉集サロンの7回目は、〈おの(己)〉がテーマでした。
今回は、私自身の理解があまりに不十分なので、升田さんの事前チェックを受けようと思いましたが、升田さんに迷惑をかけるのも気が引けるので、やめました。そんなわけでいつも以上に主観的な報告ですので、お許しください。

万葉集には多様な人称代名詞がでてくるそうですが、升田さんは今回、〈おの〉(己・各・自)を再帰代名詞と捉えて、いくつかの歌を通して、そこから強い自我意識の誕生を読み解いてくれました。
初めに詠みあげたのが、但馬皇女の「人言を繁み言痛み己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る」(巻2-116)でした。
この歌は、禁断の恋を貫こうとした但馬皇女の歌だそうですが、この「己が世に」には、だれからなんと言われようとも自分の意志を貫こうとする、自己意識の強さが示されています。
〈た(多)〉から生まれてきた〈わ(吾)〉が、さらに突出した「自我意識」になっていく勢いがそこにあると升田さんは読み解いてくれました。
その背景にある万葉歌人たちの恋愛話もちょっとだけ紹介してくれましたが、強い自我意識の誕生は、理知によってではなく情感によってなのではないかと私は気づかされました。それが「物語」の誕生にもつながっていくのかもしれません。

つづけて、升田さんは記紀や宣命などにでてくる「己」、さらには万葉集のほかの歌に出てくる「己」などを材料に、〈わ(吾)〉とは違った〈おの(己)〉の誕生を、さまざまな形で話してくれました。
多くの人たちのなかから生まれた、横並びの相対的な「わ」と、多くの人たちからは突出した上下関係にある絶対的な「おの」は、あきらかに次元が違います。

面白かったのは、防人歌の中に登場する〈た(多)〉のなかの〈わ(吾)〉と、その防人歌の中に挿入されている大伴家持の3首の長歌に出てくる〈おの(己)〉の対比でした。
家持の「おの」には、さまざまな「わ」の喜怒哀楽がみえていたのかもしれません。
それは同時に、豊かな「た」への喜怒哀楽だったのではないか。
家持が、どういう思いで、防人の歌を編集したのかを想像するのも楽しい話です。

しかし、「わ」から究極の自己表出へと向かうかに見えた「おの〈己〉」が、大伴家持の長歌を最後に、平安朝に入ると急速に姿を消すのだそうです。

升田さんは、「た」のなかから生まれ出た自己意識の「わ」と強い自己認識(再帰代名詞)である「おの〈己〉」との違いを見ていくと、万葉への新しい視野が拓けてくるように思うといいます。
話を聞いていて、万葉への新しい視野とともに、もっと長い歴史への新しい視野も拓けてくるかもしれないと思いました。

家持の「おの」意識のなかには、抒情の世界、物語の世界が生まれてくる兆しが感じられる、と升田さんは話されました。
しかし、大伴家持は万葉集以後、「おの」を発展させた歌は詠んでいないようです。
そして、1世紀ほどの間隙をおいて、漢字に基づく万葉文化は仮名に基づく平安の国風文化へと変わっていくわけですが、その違いとつながりのなかに、日本人の文化とその後の歴史展開を考える大きなヒントがあるように思います。

興味深々の壮大な話ですが、残念ながら私にはまだ説明できるまでには消化できておらず、升田さんの講義の面白さや意味を言葉にできないのがとても残念です。

これまで升田さんは、7回にわたって、万葉集を多様な人称代名詞を切り口に読んできてくれましたが、私にとっては、思ってもいなかった万葉集の読み方でした。

さて次回はどんなテーマでしょうか。
今の調子だと、升田さんはさらに先に進みそうですが、途中から参加の方もいるので、このあたりで一度、これまでの総括を兼ねたサロンをやってもらうようにお願いしようと思います。

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2020/03/16

■湯島サロン「コミュニティは見つけるものか育てるものか」報告

4回目の「コミュニティを考えるサロン」は、「なぜあなたはコミュニティを求めるのですか」「いま何が欠けているのですか」という問いかけから、話し合いを始めました。
参加者は13人、世代は20代から70代まで、さまざまでした。

Community20200314

他者と思いを共有したい、生を実感したい、異質さと触れ合いたい、安心や幸せを感じたい、信頼関係に身を置きたい、愛を感じたい、気を通わせ合いたい、気兼ねなく「ただボーっと」いっしょの時間と空間を共有していたい、いや適度の刺激を受けたい、など、さまざまな要素が出てきました。

要素はいろいろでしたが、共通しているのは、当然ですが「他者の存在」です。
どこかに引きこもって一人でいても、それはコミュニティではなく、満たされた空間でもありません。
他者との共存が、豊かで幸せな人生には、どうも不可欠な要素のようです。

つまり、コミュニティを考えるとは「他者とのつながり方」を考えるということです。
参加者からの意見には一見、相反するものもありました。
たとえば、生さえも忘れるような平安と適度に生を感じさせてくれる刺激。
たとえば、疲れを癒される休息感と新たな挑戦に旅立ちたくなる高揚感。

主客の関係もまた複雑です。愛されたいのか愛したいのか、信頼したいのか信頼されたいのか、それは全く別のものですが、混同して考えがちです。
人は愛したり信頼したりすることはできますが、愛されたり信頼されたりすることは、他者の問題ですから自由にはなりません。しかし、ともすると私たちはそれを勘違いしてしまう。

時間も同じように変化していきます。
信頼関係や愛(思いやり)に満たされた関係も、不変ではありません。
時間の経過、環境の変化の中で、突然に崩れることがないとは言えません。
信頼や愛が「存在」することが重要なのか、そうしたことを創り出していく「過程」(の充実感)が重要なのかも、人によって違うでしょう。
いつも信頼や愛や安心が満ち溢れているのが「コミュニティ」ではないでしょう。不信や憎しみや不安があるのもまた「コミュニティ」かもしれません。

しかも、信頼や愛や安心などには、実際には常に緊張関係が含まれています。
信頼や愛や安心を持続していくための緊張感と持続できなくなった時の不安感。
「他者とのつながり方」ですから、常に不安定の要素があります。

これまでも世界中にいろいろな「コミュニティ」が生まれましたが、とてもコミュニティとはいえないような人間集団になってしまったものも少なくありません。
かつての村落共同体や高度経済成長期の日本の企業コミュニティも、良い面もあれば、抜け出したい面もありました。
そんなことをいろいろと考えるヒントがたくさん出されたような気がします。

それにしても、みんなそれぞれに「自分のコミュニティ」を持っているはずなので、どうして「コミュニティ」をテーマにしたサロンが4回もつづくのでしょうか。

参加者のおひとりが、すでにいろんなつながりを持っているが、最後まで心配もなく逝くことができるだろうかちょっと不安というような話をされました。
「生きるためのコミュニティ」とは別に、「死ぬためのコミュニティ」も大切かもしれません。これに関しては、これまでも湯島でいろいろと取り組んできましたが、まだ中途半端にとどまっています。

結論を見つけ出すサロンではないので、それぞれに気づきがあればそれでいいのですが、話し合いを聞いていて、まだ多くの人が、「コミュニティ」を観察的に考えているのではないかという気がしました。
私たちは、どこかで「コミュニティ」を観察的に考えています。

そもそも「コミュニティ」という言葉自体が、外在的なイメージです。
それでは学者の議論にはなるかもしれませんが、生活の役には立たないのではないか。
自らが生きやすい人のつながりをつくることに関心があるのであれば、「コミュニティ」という言葉から一度、自由になることが必要ではないか。

だれにも、必ず自らの生の拠り所になっている「人との関係」はあるはずです。
まずは、それを自分のコミュニティと捉えて、そこから自らのコミュニティ(世界)を広げていくのがいいのかもしれません。
自分の周りに、コミュニティは広がっていると思うと世界は一変するかもしれません。
それにコミュニティはひとつである必要はありませんし、未来永劫抜け出せないわけでもない。

エマニュエル・トッドが、人類の歴史は夫婦(家族)という2人の社会から始まったと言っていますが、言い換えれば、まずは「コミュニティ」をつくることで、人類は生きる基盤をつくりだしたともいえます。
私たちは、意識していなかったとしても、生きると同時にコミュニティを育ててきているはずです。
「コミュニティ」は観察する対象ではなく、生きてきた足跡のなかに育ってきているものかもしれません。

長くなってしまいましたが、肝心のことがまだ書けていない気もします。
このまま書き続けると1冊の本になりそうなくらい、論点はたくさんあった気がします。

今回は、次の3つの課題を意識した話し合いをさせてもらいました。
(1)コミュニティは参加するものか、育てていくものか。
(2)コミュニティにとっての時間と空間と人間。
(3)コミュニティの開放性と多層性。
これらに関しては直接的な議論はしませんでしたが、それぞれに考えてもらえたと思います。

どこかに焦点を絞って、もう少し話し合いたいという方がいたら、5回目のサロンをしようと思います。
ご希望の方がいたらご連絡ください。

 

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2020/03/10

■湯島サロン「私たちは無用者階級になるのか」報告

新型コロナウイルスが広がっている中を、今回も10人の人が集まりました。
最初に、坪田さんからイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』『ホモ・デウス』そして最新作の『21Lessons』を、簡潔に要約してもらいました。
坪田さんは要約の資料もつくってきてくれたので、「30分でわかるハラリ講座」で厚い5冊の本を読まなくても、ハラリの主張の概要がシェアできました。

内容の詳細は報告できませんが、坪田さんの最後のまとめだけ紹介しておきます。

ホモ・サピエンスは「集団の団結」で発展してきた。
そのために「空想的虚構」を生みだしてきた。
その最たるものが「神」、さらに「国家」。
科学の力で「神の意図」を読み解いた結果、その力で、自分たちを「無用者階級」にしようとしている。

つまり私たちの未来は、AI(人工知能)を駆使した一部の支配階級(「ホモ・デウス」)によって、「無用者階級」にさせられてしまうというのです。

それを踏まえて、坪田さんの問いかけである、ハラリの描く未来、つまり、人類は1%の富裕層が支配して、99%の人間は働く必要もなく、ただ生きているだけの「無用者階級」になる世界はほんとうに来るのか? そしてその時、「無用者階級」は何を「人生の意義」にするのか。という話に入りました。

「無用者階級」になることをどう受け止めるか。
そこに「明るい未来」を見るか、「暗い未来」を見るかがポイントです。
私にとって意外だったのは、明るい未来を見た人が少なかったことです。
たしかにハラリ自身、2冊の本で、「明るい未来」を語る口調ではありません。
そもそも、農業革命にも言葉の発明にも、そこに人類の不幸の始まりさえにおわせているのがハラリの歴史観ですので、どうしても未来は暗くなってしまうのかもしれません。

しかし、私は「無用者階級」に幸せと可能性を感じます。
思いきり自由になれるではないかと思ってしまうわけです。
なにしろやらなければいけない「用」から解放されるのですから。
林さんのアーレントのサロンで語られた「労働」と「活動」を思い出せば、「無用」のイメージがとてもバラ色に見えてきます。
しかし多くの人は、「仕事」や「役割」を果たさないといけないと思い込んでいるようです。
そう言えば、定年退社した高齢者はやることがなくて大変だという話もあります。

「無用者階級」って飼育される「家畜」のような存在、あるいは支配される「奴隷」のような存在ではないかという受け止め方もありました。
映画「ブレードランナー」に出てくるような存在を思い出す人が多いのでしょうか。
たしかに、ハラリはそういうように読ませようとしているようにも思います。
しかし、価値観を変えれば全くイメージは変わります。
ハラリがどう言おうと未来をディストピアと決める必要はありません。

労働や生産から解放され、社会を統治したり支配管理したりするような「わずらわしい使命」からも自由になって、生きることを楽しむことができるのではないか。
無用者階級の仕事は「消費」と「遊び」と言ってもいいかもしれません。
そもそも現在の経済は、「生産」よりも「消費」に重点が移ってきているとも言えます。
AI(人工知能)が「生産」をしてくれて、人間は「消費」をするという経済に変わるのかもしれません。
資本主義の次には、「潤沢の時代」がやってくるというビジョンを出している人もいます。
まあそんなにうまくは行かないという気もしますが、大切なのは、いまの経済や政治の枠組みを変えていく発想を持ちたいと思います。

ただ問題は、「ホモ・デウス」と「無用者階級」の対立なのかということです。
ハラリは「データ教」という概念とAI(人工知能)を重視していますが、そうしたものには「意識」が生まれないと考えています。
アルゴリズムはあくまでも「問題を解くための手順をパターン化したもの」であって、人類にとっての道具だと考えています。
そうした議論もありましたが、結局、「ホモ・デウス」と「無用者階級」のどちらがとAI(人工知能)を味方にするかというような話になりました。
しかし、そうなのか。
むしろ対立構造が全く変わるのではないか、と私は思います。
つまり、「ホモ・デウス」対「無用者階級」という人類同士の対立ではなく、「人類」対「AI(システム)」)の対立になっていく。
となると、問題は俄然おもしろくなってくる。
というわけで、話はいろいろと広がりました。

均一と捉えられていた労働者階級を多様な個人の有機的なつながりと捉え直した「マルチチュード」概念も話題にでました。
消費と文化を基軸に生き方を再構成しようとした1960年代の緑色革命のヒッピーやポリアモリー(複数のパートナーとの間で親密な関係を持つコミュニティ)も話題になりました。
ネアンダール人とホモ・サピエンスがなぜ主役交代したのかも話が出ました。
関係論や分人論、ネットワーク論やスモールワールド論なども話題になりました。
ユダヤ人陰謀説までちょっと話題になりました。
いずれにしろハラリのメッセージは多岐にわたっているので、話は尽きません。

ちなみに、坪田さんは、ハラリの問いかけを受けて、では私たちはどうすればいいのかをこれから解こうとしているそうです。
次回はそうした坪田さんの文明ビジョンとアクションプログラムのサロンをしてもらえるかもしれません。

Harari2003

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2020/03/06

■湯島サロン「農福連携から見えてきたもの」報告

「農」も「福祉」も実践しながら農福連携のあり方を研究している宮田喜代志さん(熊本地域協働システム研究所相談役)に、今年もまたサロンをお願いしました。
宮田さんには定期的にその活動を報告してもらっていますが、いつも実践活動を通した新しい発見と世界に触れられます。
今回のメッセージは、「地域を支えるはコミュニティ=小さな事業者の協働。小さいことはいいことだ!」ということでした。

Miyata2003

宮田さんは、まず全国の事例研究を踏まえての「農福連携」の3つのステップから話し出しました。
いいかえれば、農福連携を進めていくための3つの課題と言ってもいいでしょう。

第1ステップは農業者と障害者の出合いの場をつくることです。
第2ステップは、その出合いからどのような活動を生み出すか。つまりお互いの良さをどう活かし合っていくかです。
そして第3ステップは、そうした多様な活動を通して、事業者として雇用の場を創出し、地域経済の担い手になっていくということです。

こうしたステップはまさに地域づくりそのものですが、その過程でさらにさまざまな人のつながりが育ち、そこから新しい地域コミュニティ(地域共生社会)が形成されていくと宮田さんは考えています。
農福連携の出発点は、労働力不足で行き詰まっている農業と福祉をつなぐことで問題を解決しようということでしたが、いまや地域経済を主導し、人間主役の新しいコミュニティを生み出す、きわめて積極的な活動になってきているわけです。

そうした活動のためには、3つのことが大切だと宮田さんはいいます。
時間をかけた地道な積み重ね、顔の見える人のネットワーク、活動を継続していくための資金を回していくマネジメント力。
すでにいろいろな成功事例も出てきているとして、福島県の社会福祉法人こころんの活動を紹介してくれました。

さらに農水省が進めているビジョンや人の育成のプログラム、農業版ジョブコーチや農福連携技術支援者養成などについても紹介してくれました。

そうした話を踏まえて、宮田さんは、現実に地域にいる農福連携の主体は大企業でも公機関でもなく、小規模な事業者であるということを忘れてはならないと強調しました。
小規模な事業者は、経済主体であると同時に、生活主体でもあり、そして文化主体でもある。そういう地域共生社会の主体である事業主体が、学習する組織として成長することが地域再編成のカギとなるというのです。
そして、京都大学岡田教授の提唱している「地域内再投資論」を少し紹介してくれ、これからの経済のあり方にも示唆を与えてくれました。

そこからさらに話は広がっていくのですが、長くなるので省略して、最後に宮田さんが話したことを、言葉もそのままに紹介します。

生きる。食べる。はたらく。つくる。これが人間社会の根源的なしくみ。
これが本当なら、人と人が有機的に結びつくような関係性が社会の基調となる。
最近、都会ではこれをオーガニックと呼び、人と人がつながる動きが始まっている。
やがて、私たち『田舎者の出番』が来る社会になります。

「オーガニックな社会」
共感できます。
『田舎者』に期待したいです。

宮田さんの今年の活動計画も話してくれました。
海外も含めて、今年も宮田さんの活動はさらに広がりそうです。
次回のサロンが楽しみです。

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2020/03/03

■湯島サロン「なぜウイルスは感染症を起こすのか」報告

新型コロナウイルス感染症が広がりだしているなかのサロンでしたが、10人が参加しました。

テーマは「なぜウイルスは感染症を起こすのか」。
講師役は細菌学者の益田昭吾さん(慈恵医大名誉教授)です。

私のような全くの素人の質問にもわかりやすく答えてくれながら、益田さんはていねいに話をしてくれました。
いま拡散中の新型コロナウイルス感染症のことを考えながらお聞きしましたが、テレビでもこういう話をしてほしいなと思いました。
そもそも「ウイルス」とは何かも知らずに、過剰に不安をもったり過剰に楽観したりしている人が少なくないでしょうが、こういう話を聞くとちょっと落ち着きます。

益田さんは最初に「検疫」というのは、14世紀のペスト大流行の時に、疫病がオリエントから来た船から広がることに気づいたヴェネツィア共和国が、船内に感染者がいないことを確認するため、40日間、隔離停泊させていたことから始まったと説明してくれました。

検疫(quarantine)の語源は、ヴェネツィア方言の「40日間」の意味だそうです。
疫病の潜伏期間は40日間とされていたわけです。
新型ウイルスが問題となったクルーザーの検疫期間は何日だったでしょうか。
こうしたところにも、ウイルスが広がりやすくなっている状況があると益田さんは示唆してくれました。

つづいてウイルスのイメージをわかりやすく説明してくれました。
ウイルスは、地球の最後の日に宇宙に向かって飛び立った宇宙船のようなものだというのです。
永遠に宇宙を飛行していけるわけにはいかないので、早く自らが落ち着ける惑星を探しているというのです。

最近、居場所の問題に取り組んでいる私は、一気にウイルスに親近感を持ってしまいました。
ウイルスにも「居場所」が必要なのです。
なんとかしてやらなければいけません。

そこから「環境とウイルス」「宿主とウイルス」の話になりました。
そして、話はどんどんと深くなっていくのですが、私の理解力不足のために正確に報告する自信がありません。

思いだせるキーワードを紹介すれば、「ウイルスと環境」「常在性と病原性」「常在性のない生物は生き残れない」「ウイルスの増殖志向と経済成長主義」「免疫」「自己非自己」「自己寛容」「免疫」とまあ、そんな話をしてくれました。

とりわけ私が興味を持ったのは「常在性と病原性」です。
私たちの社会のあり方を考える上で、とても大きなヒントがあるような気がしました。

益田さんはウイルスの世界と私たち人間の世界を比べたくなる誘惑にかられてしまうというようなことを何回か口にし、その都度、興味ある示唆を与えてくれました。
益田さんはこれまでのサロンでも「病原体の生態を比喩として考えると、人間や社会が見えてくる」と話してくれていますが、そこは学者なのでいつも控え目に語ります。
そのあたりを思い切り語ってもらうサロンもいいかもしれません。

理解不足のまま、これ以上、報告を書き続けると益田さんに迷惑を与えかねないので、このあたりでやめます。
新型コロナウイルス感染症に関しても、いろんな知見や感想を語ってくれましたが、これも中途半端な紹介はやめます。

今回お話をお聞きして、益田さんの「連続病原体講座」を企画したくなりました。
益田さんが引き受けてくれればですが。
病原体から学ぶことはたくさんありそうです。

ちなみに、益田さんには、そうしたことをわかりやすく書いた小説『看子の日記』(未出版)があります。
ご関心のある方はご連絡ください。
まだ未定稿のようですが、お読みになって感想を送ってもらえるならば、益田さんの了解を得てデータで送らせてもらいます

 

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2020/03/02

■湯島サロン「人はどうして仕事をするのだろうか アーレントからのヒント」報告

「人はどうして仕事をするのだろうか」という問いを、社会との関係において考えてみようという林さんのサロンは、新型ウイルス騒ぎの影響もあって、参加者は9人でした。

林裕也さんはデザイナーですが、最初にこれまでの仕事のことを、取り組みだした経緯も含めて紹介してくれました。
林さんは一人で活動していますが、4つのタイプの仕事にわけてくれました。

取り組みだした順番にそって整理すると、「クライアントワーク(ライスワーク)」「ボランティアワーク」「アートワーク」「まちづくり活動」です。
そして、林さんにとっての、それぞれの意味合いや活動内容も話してくれました。
そうした林さんの取り組みのなかに、「人はどうして仕事をするのだろうか」を考えるヒントがたくさん含まれていました。

クライアントワーク(ライスワーク)は、字義通り「ご飯を食べるための活動」です。
多くの人は学校を卒業すると、ごく自然に、家族から自立することを意識して「仕事」を始めます。
その対価は、多くの場合、金銭的な報酬です。
林さんにとっては、それは「やらなければならない仕事」だったといいます。

しかし、人によっては、それだけでは満足できずに、あるきっかけで「ボランティアワーク」に取り組みだします。
林さんの場合は、東日本大震災でした。
社会的な使命感もあったのでしょうが、林さんは、単純に「やりたかった」ので、ここでも自然に取り組んだそうです。
その体験がもしかしたら、林さんに自分ができることを目覚めさせたのかもしれません。

そして、取り組みだしたのが、アートワーク。
そして、つづいて「まちづくり活動」へと広がってきているようです。

林さんの活動がこういう形で、広がってきた理由の一つに、人との付き合いの広がりがあるようです。
クライアントワークの場合は、付き合いの範囲も限定されがちですが、ボランティアワークやアートワーク、まちづくりワークの場合、いろんな人との出会いが起こります。
そこでこれまでとは違った「働き方」が始まってきているのかもしれません。

といっても、その「働き(仕事)」は同じではありません。
ボランティアワークは対価など発生せず、むしろ出費が発生します。
そこで、林さんは「仕事」とは何だろうという課題にぶつかったのかもしれません。
そして、「人はどうして仕事をするのだろうか」という問いかけになったわけです。

そんな時に出合ったのがハンナ・アーレント。
ハンナ・アーレントは、全体主義を生みだす大衆社会の分析で知られる思想家です。
彼女は、人間の活動的生活を労働、仕事、活動の3つに分けています。

この3つの違いは、なかなかわかりにくいのですが、おおざっぱに言えば、「労働」とは生命維持のための活動、「仕事」とは価値あるものを創り出す活動、「活動」とは他者に働きかける活動です。

林さんはその視点で、自分の仕事の意味を考えると、いずれにも3つの要素があると言います。
しかし、その3つの視点を持つことで、仕事に対する捉え方が変わってきたそうです。「人はどうして仕事をするのか、という問いの答はまだ明確ではないそうですが、「人間として生きていきたい」という思いから「仕事」を考えていくようになったそうです。

人間として生きていくための活動(仕事)のあり方は具体的にはどういうことなのか。
果たしていま多くの人は「人間」としての仕事をしているのだろうか。
そうはいっても、対価のない仕事だけでは生きていけない社会ではないか。
しかしその一方で、対価をもらう仕事はストレスも多くて、大変だ。
そんな話し合いが、行われました。

人の生き方や仕事の多様性の問題などもちょっと話題になりましたが、十分には掘り下げられませんでした。

このテーマは、もう一度、それぞれの仕事観を持ち寄っての話し合いをぜひともしたいと思っています。

Hayashi200227

 

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2020/02/28

■茶色の朝サロン(2020年2月)報告

2月の茶色の朝サロンは出入り自由の4時間に設定しましたが、9人が参加、半数以上の方が最初から最後まで4時間参加してくれました。
今回は、「新型コロナウイルス感染症問題から見えてくること」を一応のテーマにしましたが、議論はいろいろと広がりました。

今回のサロンから感じたことを一言で言えば、複数の参加者が指摘したように、日本はいま茶色一色の国家に向かっているのではないかということです。
今回の新型ウイルス騒動はそれを可視化してくれたように思います。
私自身は、「大本営発表」に従っていたかつての日本や国会議事堂放火後のドイツの社会は、こんな感じだったのではないかというような気がしています。

パンデミック議論もありましたが、これも言葉にだまされているような気もします。
パンデミックとは地域を超えた単なる大流行ではなく、全体や先行きが見えないために、人々が自己判断できなくなり、ちょっとしたことに過剰反応して右往左往し、社会から秩序志向がなくなってしまうことでしょう。
デミックの語源は“デモス”、つまり人々ですから、パンデミックはウイルスが起こすのではなく、人々が起こすわけです。
マスクが店頭からなくなり、一昨日あたりからトイレットペーパーなどまでも買占めされている有様は、まさにもうパンデミック現象が出始めているのかもしれません。
しかし、政府はなぜか事実把握さえにもあまり関心がないようです。

みんなの生活に直結している問題であるために、この騒ぎから政治のおかしさや問題がいろいろと指摘されました。
激しい怒りをぶつける人もいましたし、日本人の特性を解析してくれる人もいましたし、大騒ぎするような話ではないという私のような不謹慎な人もいました。
巷に流れている「新型コロナウイルス」生物兵器説や陰謀論も少し話題になりました。
もちろんオリンピックとの関係も話題になりました。
まあ、そんな話が、かなり具体的な話も含めて、話し合われました。

私は2つのことを感じました。
政府への信頼感が損なわれてきているとはいうものの、やはり私たちは政府の発表やマスコミ報道しか情報がないために、どうしてもそれを基準に考えてしまっているということです。
つまり、自分では気づかずに、「大本営発表」に基づいて考えているのではないかということです。

また、中国政府はうそを言うので信頼できないと言いながら、日本の政府は中国や韓国とは違うと思っている。
最近の日本政府が、数字を勝手に改竄してしまうことを体験したはずなのに、中国や韓国の政府とは違うとどこかで信じているのは不思議です。
政権批判をしながらも、自らきちんと考え責任を持って行動するのではなく、結局は政府の指示に依存し、みんなと同調してしまう生き方から抜け出せない。
重症になるまでは自宅で待っていましょうと言うような状況にさえ、素直に従ってしまうおかしさを改めて感じました。
この2週間が正念場というのもよくわかりませんが、なぜか信じてしまう。
私たちはみんな、いわゆる〈ぬるま湯の中のゆでガエル〉になってきているのではないかという不安を改めて感じました。

まあしかし、要するに私たち一人ひとりが免疫力を高め、こまめな手洗いを励行し、気をつけていくことが大切だ、というのが結論だったような気がします。
なにか肝心のことが報告されていない気がしますが。

ちなみに、3月1日には細菌学者の益田さんによる「なぜウイルスは感染症を起こすのか」のサロンがあります。
また3月末か4月上旬に、新型ウイルスに関する陰謀論や生物兵器説も含めて、ちょっと違った視点でのサロンを開催してもらうようにある人にお願いしています。

新型コロナウイルス感染症の一連の騒ぎから、とてもいろんなことが見えてきたことだけは間違いありません。
これをどう活かしていくかで、政治も経済も、そして私たちの生き方も、たぶん大きく変わっていくだろうことは間違いないような気がします。
さてどうなりますか。

Bms202002

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2020/02/24

■コムケアサロン「〈当事者支援者〉の現状と課題、そして今後」報告

14人の参加者があり、このテーマへの関心の高さを改めて感じました。
前日の政治関連のサロンは全員が男性でしたが、今回はむしろ女性が多かったのも印象的でした。そこにも現在の社会のひずみを感じます。

Shimosalon

最近は、支援の考え方も大きく変化してきています。
「わたし支援する人、あなた支援される人」というように、支援を一方向的に捉えるのではなく、相互に「支援し支援される関係」として捉えるようになってきています。
コムケア活動は、最初の選考会でも申し上げたのですが、ケアとはそれによって自らも成長していくことだという、ミルトン・メイヤロフの「ケアの本質」のメッセージを理念としています。
しかし、その考えはまだまだ「理念」の世界にとどまっているようにも思えます。

今回のテーマ〈当事者支援者〉は、そうした現状を象徴していると同時に、そうした状況をどうやって越えていくかという大きなメッセージが込められています。
つまり、理念的であると同時に、きわめて現実的なテーマであり、個別的であるとともに、普遍的なテーマです。

サロンは、実際に〈当事者支援者〉を名乗って活動している下さんが、実践を通して考えてきたことを参加者に問いかけることから始まりました。
そして、長年、発達障害の当事者としてさまざまな活動に取り組んできている冠地さんが、ファシリテートする形で参加者との議論を深めるような形で進められました。

下さんはまず、〈当事者支援者〉と言えるには3つの条件が必要ではないかと問いかけました。
・病気や障害などの困難な状況を経験したが、いまは生活者として最低限の回復をしていること
・体験や工夫を支援ツールとして活用できること
・支援者としての求められることを果たせること
話し合いはここから入りました。
当然ながら、「当事者」とはなにか、「支援」とはなにか、「生活者」とはなにかということが話題になりました。

つづいて、〈当事者支援者〉のリスク(気をつけなければいけないこと)と強み(当事者であればこそできること)が話題になりました。
そして、ピアサポーターとの関係や当事者開示に関する話し合いへと広がっていきました。さまざまな立場の人が参加していましたので、さまざまな視点からの事例の紹介や問題指摘、あるいは質問などが出されました。

〈当事者支援者〉という言葉や活動も、すでにいろんな形で広がっていますが、ともすると私たちは、〈当事者支援者〉と〈ピアサポーター〉を同じように捉えてしまいがちです。
しかし、その渦中にいる下さんや冠地さんにとっては、両者は全く違うものなのです。
支援の深さの違いぐらいにしか理解していない人も多いと思いますが、冠地さんの説明で、それらが全く異質なものであることを、今回私も気づかせてもらいました。

私が一番印象的だったのは、支援活動における「障害者の権利主張」という話でした。
〈当事者支援者〉と〈ピアサポーター〉の違いのポイントがそこにあるのかもしれません。
下さんの提案や話し合いの内容に関しては、私には十分に紹介する能力がありませんので、下さんの報告(フェイスブックで少し紹介されています)に任せたいですが、私の感想を書いておきます。

下さんや冠地さんは、プロの仕事としての〈当事者支援職〉の確立を目指しています。
そしてそうした取り組みを通して、日本の「支援」活動はもちろん、社会のあり方を変えていきたいと考えています。
そのビジョンにはとても共感しますが、そのためには、「当事者が支援活動をすること」の意味をしっかりと社会がシェアしていくことが大切ではないかと思いました。
同時に、「支援」の仕方はさまざまで、それらは上下関係にあるわけではなく、さまざまな支援のあり方が支え合い、補うことが社会を豊かにしていくという認識も、社会でシェアしていく必要があると思いました。
この点は冠地さんが繰り返し話してくれていました。

メイヤロフの言っている通り、支援活動を通して当事者も「支援」されるとすれば、〈当事者支援者〉という概念を広げていくことで、「当事者」とか「支援者」といった概念はなくなっていくかもしれません。
それは同時に、「支援」の質を高めていくことであり、さらに言えば、個別問題の解決を超えて、社会のあり方を変えていくことにつながるかもしれません。

一挙に話を大きくしてしまいましたが、冠地さんと下さんが目指しているのは、そうした大きな社会変革の話ではないかと思いました。
そうであれば、1回だけのサロンでは問題の存在を少しだけシェアしただけで終わってしまいかねません。
そうならないためには、この問題は湯島のサロンでも継続的に取り上げていきたいと思いました。

今回のサロンでは、下さんは自らの考えを出しながら、参加者との話し合いや冠地さんとのやり取りを通して、〈当事者支援者〉構想とその実践計画を深化させていっていたように思いますが、そうした場をこれからもまた開いてもらおうと思います。
また、下さんとは別に、大きな意味で〈当事者支援者〉構想につながっていくようなテーマのサロンを、コムケアサロンとして企画していきたいと思います。
問題の所在を知ってしまったら、それぞれにできることに取り組むことが、コムケアの精神ですので。

下さん、冠地さん
内容に関する報告や呼びかけがあれば、フォローしていただければうれしいです。

 

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