カテゴリー「サロン報告」の記事

2025/11/05

■第1回「川田龍平さんとの政治談議」サロン報告

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前参議院議員の川田龍平さんと政治に関して意見を交わす「川田龍平さんとの政治談議」が始まりました。
川田さんは前回の選挙で残念ながら落選してしまい、今は生命尊重政策機構代表理事として、捲土重来を期して活動しています。

川田さんのことは紹介するまでもないと思いますが、薬害エイズに巻き込まれた体験から、「目先の利益のためにいのちを切り捨てる構造を本気で変えなければならない」と、国政で活動している政治家です。
https://ryuheikawada.jp/
今は国会議員の席は持っていませんが、ぜひともまた国政に復帰してほしいと思っている人です。サロンに参加された人には、川田さんのお人柄は伝わったと思いますが、湯島のサロンとしては、できれば応援していきたいと思っています。
年に1~2回のサロンを、これからも開始していければと思います。

川田さんが前回サロンをしてくださったのは、選挙直前の6月でしたが、それから4か月、その後の活動報告などをまずはしてくださいました。
国会議員というのは落選すると「ただの人」になってしまい、失業保険がもらえるわけでもなく、経済的にも大変なようです。
これまで私自身あまりそういうことも考えていなかったのですが、こんなところにも今の政治を考える切り口があるようです。代表を選ぶということは、選ばれなかった場合の代表者のリスクも視野に入れて、考えなければいけないということです。選んだ主権者の側にも選挙終了後、できることはあるはずです。

話し合いは参加者の関心のおもむくままにいろいろな話題が出ましたが、やはり薬事関係の話が多かったです。とりわけワクチン関係の話が参加者からも出ました。コロナワクチンに限りませんが、ワクチンにはかなり複雑な思いを持っている人が多そうです。
そうした問いかけに、川田さんはとても誠実に、しかも客観的に応えてくれました。
日本の薬事行政の問題にも少し触れながら。
質疑を聞いていて、本当に「知らされていないことの多さ」に気づかされました。

川田さんは、この分野に関して今年2冊の本を出版しています。
ご自分の体験も踏まえて、薬害(薬の副作用の話ではありません)の恐ろしさを多くの人に伝えたいという一心からでしょう。
今回サロンでも紹介してくれましたが、ぜひ多くの人に読んでほしいと思いますので、ここでも紹介させてもらいます。よかったらご購入ください。

冊子『緊急メッセージ 打ってはいけない!』(川田龍平 堤未果共著 300円)
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScTNDMAvAxIP5LqRL29NtCvyQgeZlohj8d6CQwolQDaRwlFsw/viewform
『高齢者の予防接種は危ない 私は薬害を黙っていられない』(飛鳥新社)
https://www.yodobashi.com/product/100000009004098777/

ローカルフード法の話題も出ました。
これは川田さんがこれまで長年取り組んでいる、地域循環型の農と食を守るための法案です。何回か国会にも提出されていますが、まだ成立していません。
危機状態に瀕していると私には思える日本の農業の実状を打破していくために、この法案の早い成立を願いますが、現実はなかなか難しく、これまでも国会に上程しながら、成立には至っていません。
総理になった高市さんはこの法案に賛成だそうですが、推進役の川田さんが今回議員を離れてしまったのが非常に残念です。でももちろん川田さんはあきらめたわけではなく、その成立に今も取り組んでいます。
私たち国民が、もっとこの法案への関心を持つことが、法の成立にもつながっていくと思います。ぜひローカルフード法のサイトをご覧ください。
https://localfood.jp/

議員でなくなった川田さんは、いま一般社団法人生命尊重政策機構を拠点に活動していますが、精力的にⅩ(旧twitter)やInstagramで情報発信しています。ぜひご覧ください。
川田さんのオフィシャルブログもぜひ。
https://ameblo.jp/kawada-ryuhei/

第2回の川田さんの政治談議サロンは、年明け後の2月ごろを予定していますが、その間に国政選挙があれば前後するかもしれません。
もし選挙になって川田さんが立候補する場合は、湯島サロンとしても応援していきたいと思います。

 

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■緊急サロン「高市政権実現を支持します、か?」報告

日本で初めての女性総理が実現し、高市政権がスタートしました。
世論調査では圧倒的な支持率になっていますが、私の周辺ではなぜか「批判」が多いのが気になります。私自身は政策面において、とても不安ですが、支持が広がっている理由が何なのかがわかりません。
それもあって、高市さんを政治家として支持するという加藤誠也さんにサロンを開いてもらいました。
14人の参加者があり、関心の高さを実感しました。
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加藤さんには、高市さんの政策ではなく、高市政権実現の社会的な意義のよう視点から、話をしてもらいました。
加藤さんは、今回の動きを「高市現象」として捉え、「単なる一政治家の人気の問題にとどまらず、社会的主体の深層における〈自己の対話的構造〉の変容を示す現象」として理解することができるのではないかというのです。そして、この現象を活かすことで、現在広がりつつある分断社会を自己再構成できるのではないかとも言います。
というわけで今回は、加藤さんの「高市現象に見る対話的自己の社会的投影 ー 分断社会における自己再構成の試論」をお聞きしての話し合いでした。
こういう時期であればこそ、支持派も反対派も、少し頭を冷やして現実を見て、自分を問い質せという加藤さんのメッセージは、感情的に反応してしまっていた私自身、いささか反省させられるものでした。

しかし、やはり世間は過熱しています。
最初にいつものように参加者から自己紹介と今回参加した思いのようなものを話してもらったのですが、それぞれの高市政権への思いが出てきて、それだけで30分以上が経過してしまいました。
ちなみに14人の参加者のなかで積極的支持者は一人だけ。もう一人、「私たち世代はいまの政治には関心がない」という20代の若者を除けば、残り全員、不支持で、なかにはかなり手厳しい批判もありました。
世論調査との違いに驚きましたが、しかし高市さん批判と高市政権不支持とは必ずしも重ならないかもしれません。そこにこそ、加藤さんのメッセージにつながる鍵があるのかもしれません。

そこから加藤さんの話が始まりました。
これまでの経緯や高市政権実現後の反応などをていねいに説明してくれました。

案内にも書きましたが、加藤さんは、高市さんを支持する人たちも反対する人たちも、その根底には「社会が崩壊していくのではないか」という不安を感じているのではないか。そして、不安を顕在化する高市現象は現代社会の「分断」を克服する契機になるのではないかと考えているのです。
いかにも加藤さんらしい発想ですが、そういう「したたかさ」が今こそ必要なのかもしれません。反対や賛成と騒いでいるだけでは何も変わりませんから。

社会は「未来への見通しの喪失」と「共同体的意味の空洞化」に直面している。この 喪失感は、社会全体に「自国・自己の無力化」への不安を醸成し、その心理的反動として「強さ」「誇り」「決断」を希求する傾向を生み出している。
対立する2つの語りの対立は価値の衝突として表面化するが、その根底には「社会が 崩壊していくのではないか」という共通の存在的不安が横たわっている。すなわち、両者は同一の不安を異なる物語的枠組みの中で処理しているにすぎない。
言い換えれば、高市現象における政治的分断は、社会的主体が自己内部に抱える「理性と感情」「自由と秩序」「寛容と誇り」といった両義的契機を、外的な政治的対立として投影している構造とみなすことができる。
だとしたら、高市現象を「悲劇」や「脅威」としてのみ捉えるのではなく、社会的自己が再統合へと向かう過程として理解することにより、現代社会の変容をより深く洞察できるだろう。「誇り」と「多様性」、「強さ」と「共感」を対立項としてではなく、共時的に包含しうる言語的・意識的構造を再構築すること。それこそが、分断を超えて社会的自己が成熟するための条件である。
とまあ、加藤さんのメッセージをまとめるとこういうことになります。
いささか固い表現ですが、確かに共感できます。

「不安をめぐる2つの物語り的処理」。これに関して、加藤さんは2つの表にまとめてくれました。そして、「対話的自己から見た統合の方向」も示唆してくれました。
加藤さんの了解を得て、その3つの図表を添付します。
じっくりと見ていただければ、加藤さんのメッセージが伝わるかと思います。
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加藤さんはこうした話に加えて、問題を考えるための視点として、アーレントとハーバーマスと井筒俊彦、さらには「対話的自己」のハーバード・ハーマンスなどの考えを簡単に紹介してくれました。
加藤さんはこうした話を踏まえて、「高市現象」を活かして、対立する考えを統合するための「対話」を意図していたと思いますが、残念ながら今回はそこまでいきませんでした。なにしろ参加者と加藤さんの温度差は大きすぎました。
やはり「対話的自己」を通して、分断を超えた社会的自己を育てていくのは、そう簡単ではありません。まずはお互い、少し冷やす時間が必要です。

どんなに高市さんが嫌いでも、高市さんが日本の閉塞していた政治を、ブレークスルーしてくれている面は評価せざるを得ません。「高市現象」を一時の話題で浪費しないようにしていきたいと思います。
しかし、その前にもう少し具体的な高市政権論を話し合わないと、なかなかそこまでいかないようなので、何回か「高市政権」をテーマにしたサロンを開催した後で、また一度、加藤さんには「対話的自己」をテーマにしたサロンをお願いしたいと思っています。

なお話し合いではいろんな話題が出たので、それも報告したいところですが、今回は長くなったので省略します。
ともかくやはり、政治の話題はもっとサロンでもとりあげようと思います。
ちなみに、「今の政治には無関心」と発言した若者も、私からすれば「政治への関心」は高いです。言い換えれば「今のような政治のあり方」に異議申し立てしているような気がします。このテーマもまたとり上げようと思います。

なお、11月の茶色の朝サロン(17日開催)は、高市政権の政策をテーマに取り上げますので、ぜひご参加ください。

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2025/11/03

■第6回SUN10ROサロン『映画の中の黒澤明 Filming Akira Kurosawa』報告

第6回SUN10ROサロンは、河村監督の『映画の中の黒澤明 Filming Akira Kurosawa』をとり上げました。2024年日本映画ペンクラブ奨励賞受賞作品『Life work of Akira Kurosawa』のリメイク版で、いま各地で上映会が開催され出しています。
https://www.youtube.com/watch?v=1woxsrPabOA

リメイク部分は2割程度だそうですが、私はかなり違った印象を受けました。黒澤監督が、前よりも少し好きになった気がします。
映画を観終わった後の、河村さんの話はいつもながらとてもおもしろい。
この人でなければ、この作品は生まれなかったでしょう。そんな気がします。
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この映画作品に関しては案内文にも書きましたので説明はやめますが、そもそもの撮影の様子などの話は、本人からでなければなかなか聞けない話です。
黒澤監督の話も興味ありますが、河村監督の人柄も魅惑的です。

今回も、ふたりに関するいろいろな話が出ましたが、まあ中途半端な紹介はやめておきます。河村さんの口から直接聞かないと、そのホントのニュアンスは伝わらないでしょうから。
いっそ、いつか河村さん自身に自分の生涯を描いた作品を制作してほしいほどです。

ところで、最近、この作品の上映会に伴い、河村さんのトークショーも増えています。
いずれもとても好評です。
案内はSUN10ROクラブのサイトにありますので、もしお近くで開催されることがあれば、ぜひ参加してみてください。
また仲間内で集まって作品を見たいとか、何かのイベントに河村さんを読んで作品をみんなで観たいというような人がいたらぜひご連絡ください。
時間さえ合えば、河村さんは喜んで出かけていくかと思います。
なにしろ河村さんは、黒澤監督のことが少しでも多くの人にわかってもらえれば、それでもう満足な人ですから。全く奇特な人です。

サロンの報告になっていませんね。すみません。

今年のSUN10ROサロンは、今回が最後です。
11月と12月の30日は、サロンはお休みです。
次回は年が明けた1月の30日です。また取りあげる映画作品が決まったら、ご案内しますが、ぜひご予定ください。

なお、「SUN10ROクラブ」(さんじゅうろうくらぶ)は、「なぜ人間は仲良く良心的に生きていけないのか」というテーマを描きたくて映画を作りつづけたという黒澤明監督の精神に共感し、黒澤映画からのメッセージを読み解きながら、社会に広げていこうとしている河村光彦監督の活動のゆるやかな応援団です。
河村さんが、フェイスブックのSUN10ROクラブでいろいろと情報発信しているので、ぜひお読みください。
https://www.facebook.com/groups/1312667559794431
原則として、毎月30日に、湯島でSUN10ROサロンを開催しています。サロンは、SUN10ROクラブのメンバー以外にも公開です。ぜひ気楽にご参加ください。

SUN10ROクラブへの参加は常時受け付けています。
フェイスブックのグループに直接申し込んでいただいても大丈夫ですし、SUN10ROサロン事務局にご連絡くださっても大丈夫です。
まだ活動が本格化していませんが、事務局作業を分担してくださる方がいたら、大歓迎です。

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2025/11/01

■第8回増田サロン「自我と不可分一体のいのちの世界〜AIに魂は宿るか」報告

増田圭一郎さんと一緒に「地湧の思想」を考えていく連続サロンも8回目になりました。今回のテーマは「自我と不可分一体のいのちの世界」ですが、増田さんは副題に「AIに魂は宿るか」とつけました。

サロンは、まず副題の「AIに魂は宿るか」から始まりました。
ニューサイエンスなどで言われるグローバルブレインのように、ITの進化で人類の知恵の一体化が予測されているが、果たしてAIの進化でそうなるのか、と増田さんは問いかけます。
意見はいろいろでしたが、湯島のサロンで以前、先端技術に関するサロンを何回かやってくれた山森さんは、遠い先にはたぶんAIは魂を持つだろうと言います。もっともその時のAIは無機的な機械というよりも、むしろ有機的な生命と融合していくような「新しい生命」というようなものになるかもしれないというのです。もちろん数十年後に見込まれているシンギュラリティなどという話ではなく、もっと長期的な展望です。魂を持つということは、いのちを得るということでしょう。

それに対して、増田さんはどちらかと言えば否定的なようです。
この問題に関連して、増田さんはもう一つ、機械に命を預けられるかという問いを出しました。むかし軽飛行機のライセンスをとるために学校に通っていた時に、インストラクターから「どちらか迷ったときは、自分の感覚でなく、計器を信じなさい」と言われたそうですが、自分の命がかかっているのに全面的に機械を信じることができるかと自問したそうです。
人間の判断よりも機械の判断が正しいことは少なくありませんし、むしろこれから増えていくでしょう。でも果たして最後の決断を、機械に任されるかという問いです。
これはとても「深い問い」です。「いのちとは何か」「自我とは何か」「生きるとは何か」という問いにつながっていきます。

そして本題の「自我と不可分一体のいのちの世界」に話題は移りました  。
ここはまさに「地湧の思想」のど真ん中につながる話です。
それを解く補助線として、増田さんはバタフライエフェクト、つまり複雑系の科学と、エコーチェンバー、さらにかつてオムロンが提唱していた、人と機械の関係を柱にした「最適化社会」の話を紹介してくれました。
しかし、補助線が話をさらに複雑にしてしまったような気もします。
もっと直截に、「自我」と「いのちの世界」、あるいは「自然(じねん)」との「不可分一体化」の関係を話し合った方が話は早いような気もしますが、増田さんは意図的に、回り道しているようです。
それを意図してか、さらにじねん(自然)ではないnature(自然)の話や、芸術の話、身体性や宗教にまで、視野を広げさせてくれました。

複雑系の科学は、物事の捉え方を一変させました。
すべてがつながっていること、因果の流れは一様でも一方方向でもないこと、ミクロがマクロにつながっていること、世界はフラクタルに重層していることなどを、科学に持ち込んできたのです。そして、存在よりも関係に目を向かせ、いのちは決して閉じられていないことを示唆してくれたのです。
そうなると「不可分一体化」ということの意味も、変わってきます。不可分は同時に可分であり、一体は同時に距離を持っているのです。さらに言えば、自我と世界は不一不ニなのかもしれません。自然(じねん)と人は根元的に一つ。

となると、最初の問いの「AIに魂は宿るか」という問いの答えもややこしくなってきますし、最終決断を機会に任すとか自分で判断するとかいう議論も、成り立たなくなってしまうかもしれません。

いやそれ以上に、「自我」とは一体何かが、ますますわからなくなってくる。
サロン終了後、参加者から手紙が届きました。
「自我は減らしていくことが大切ですね」と。
自我(エゴ)を削っていくと真の自我(アートマン)が輝き出す、というのです。サロンでもある人が発言していましたが、まさに「エラン・ヴィタール」、いのちの躍動!。

地湧の思想はまだまだ深くて、なかなか私にはたどりつけません。
今回はかなり勝手な解釈をしてしまった報告になってしまいました。
サロンに参加した人たちは、それぞれ違う示唆を受けているかと思いますが、それがサロンの意味ですので、勝手な解釈もお許しください。

増田さんは、次回の持越し課題として「AIと宗教」を挙げていましたが、次回はもしかしたらまた別の視点からの「地湧の思想論議」になるかもしれません。
なお、地湧の思想のもとになっている和田重正さんの著書などに関心のある人はお申し出ください。増田さんにつなげるようにします。

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2025/10/29

■湯島サロン「例外状態と日常のあいだ」のご案内

日本構想学会との共催で開催した猪岡さんの「例外状態と日常のあいだ」は、時宜を得たテーマだと思ったのですが、テーマの難しさのせいか、参加者(7人)が意外と少なかったのが残念でした。ただいろいろな論点が見えた気がします。
猪岡さんは、さらに論を深め、「平常心を構想するの会」に取り組んでいくそうですので、引き続き、つながりを持っていきたいと考えています。
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猪岡さんは、資料的なものも含めて、ていねいなレジメを用意してくれました。
そして、まずは「平常心」について、宮本武蔵の『五輪書』を引用しながら、解説してくれました。いかなる困難な場合にも状況に振り回されることなく、自分をしっかりと貫くことこそが、まずは「例外状態」に対する出発点になると猪岡さんは考えているようです。ここは私の「平常心」観とはかなり違いますが。

猪岡さんは、3.11東大震災の時、東京にいたそうですが、実家は被害を受け、そこで災害時の混乱した社会を経験したようです。当時の被災地においては、まさに「例外的状態」が出現していたわけですが、そこで何が起こったかは、ある意味で、政治的な意味での「例外状態」を考えるうえでも大きな示唆を含んでいます。
日常における「平常心」は、そうした状態でこそ実践的に考えることができますから、猪岡さんが構想する「平常心」は、実践的な体験を経たうえで構築されているはずです。今回は「平常心」そのものの議論はありませんでしたが。

つづいて「例外状態」に関する話に移りましたが、そこでカール・シュミットの「友敵理論」と「例外状態理論」を解説してくれました。その流れで、アガンベンやシャンタル・ムフの政治観、それと対照的な位置にあるハンス・ケルゼンの規範理論をベースにした政治観も紹介してくれました。
話し合いの中で、「友敵理論」との対比で、「友愛理論」の政治観も出ましたが、どの視点に立つかで、「例外状態」への対処の仕方は大きく変わってきます。
最後に猪岡さんは、ハーバーマスの「公共圏理論」にも少し言及しましたが、話し合いにまではいきませんでした。

最初に猪岡さんが紹介した自然大規模災害による「例外状態」においては、「災害ユートピア」という状況が現れるということが報告されています。
つまり無秩序となった状況の中から、自然とみんなが育てる自発的な秩序が発生するというのです。まさにそこには、格差や分断を超えて、みんなが支え合う社会(ユートピア)が出現するのです。しかも災害地内部だけではなく、その関係は外に広がっていきます。そしてそれぞれの役割分担も自然とできてくる。
3.11の後、現地に行った人たちで、こうした状況を体験した人も少なくないでしょう。それで人生を変えた人もいるはずです。
もちろんその反面で、空き巣などの犯罪も起こりますから、「ユートピア」がすべてを覆うわけではなく、また復旧につれて、ピラミッド型の秩序が必要になってくるのも事実です。しかし、そこに「例外状態」における社会のあり方のヒントが含意されていることもまた間違いない事実です。

この議論に関しては、国家全体が例外状態になるのと国家の一部地域が例外状態になるのとでは、問題は違うという意見もありました。確かに、両者は違いますが、グローバリゼーションが進んでいる中では、「サブシステム」の捉え方が難しくなっています。国家を超えたつながりが多層的に広がりだしているからです。
いずれにしろ、そこから学ぶべきことはあるのではないかと思います。

ところで、友敵理論に基づくシュミットの「例外状態」における政治は、法による統治をやめて、誰かに主権を委任する、簡単に言えば、「独裁」を認めます。通常の法律や制度は適用されず、主権を託された統治者が物事を決めていくことになります。
その典型は「戦時体制」です。戦時のような非常時においては、法に拘束されたり、議論を重ねていたら、対応できないことが多いですから、これは納得できる理由です。
しかし、問題は、「例外状態」であることをだれが決断するのか、またいつ例外状態を終えて日常に戻るかをだれが決断するのか、です。
決断する主権をだれが持つかで、事態は全く違ってくるはずです。そして、その人がどれほど現実の実相につながっているかも重要な要素です。

「例外状態」とされるのは、もちろん戦時下だけではありません。また明確に例外状態と宣言されないままに、ずるずるとそういう状況が進んでいくこともあります。
ちなみに、案内にも書きましたが、最近の日本も、もうすでに「例外状態」にあるのではないかと言う人もいます。憲法や法律が機能していないからです。
法学者の古関彰一さんは最近の著書『虚構の日米安保』でこう書いています。

実は私たちは1990年代以降、有事法制・安保法制という「戦後秩序の例外状態」を生きている。しかも、私たちはそれを「例外」と認識することなく、ナチス誕生前夜のドイツの人々のごとくに生きている。しかも最近の日本では、「例外だ」と言うことさえもなくなってきた。

つまり「例外状態」がもう「日常」になっているのではないかというのです。
そういう状況での「平常心」とは何か。
考えるべきことはたくさんあります。
猪岡さんの問題提起を受けて、さらに話し合いの機会を持ちたいと思います。

ちなみに、12月6日に日本構想学会の年次大会がありますが、そこで猪岡さんはこのテーマでラウンドテーブルを主催する予定です。
日本構想学会の年次大会は会員以外も参加可能です。よかったらご参加ください。
詳しくは私までお問合せわせください。

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2025/10/28

■茶色の朝サロン202510報告

「茶色の朝」サロンを再開しました。
「茶色の朝」サロンはちょっと気になる政治話題(生活話題)を話し合おうというサロンです。難しい政策論議ではなく、ちょっと気になる政治の話。自民党びいきも共産党びいきも、れいわびいきも参政党びいきも、自称無党派層も、政治に無関心の人も、対立することなく、違いを学び合うサロンです。
私たちの周りで起こっていることのほとんどは、「政治」にかかっていますから。

このサロンの契機になった「茶色の朝」ですが、20年前にフランスで出版されて話題になった反ファシズムの寓話です。
「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という法律ができたことから物語は始まります。みんな、おかしいと思いながらも、いつの間にか世界は茶色で埋め尽くされていく。
そんな話です。
「茶色の朝」の全文は、次のサイトからダウンロードできます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf

政治の話というと、ややもすると「政局」の話になってしまいがちです。
とりわけ今は、日本初の女性総理が決まったり、政党間の連携が大きく変わったり、新たな政党が急伸したり、と政局には話題に事欠きません。
しかし、政治を語るとか政治に関心を持つというのは、そういう政治家の動きを語ることではないでしょう。むしろ私たちの暮らしを語ることだろうと思います。
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久しぶりの茶色の朝サロンには、10人が参加しました。しかも半分以上が茶色の朝サロンには初めての参加の方です。
最初に口火を切った方から出てきた話題は、最近、高速道路逆走や追突事故など、交通事故のニュースが多いのが気になるという話でした。
一見、政治とは遠い話題のように感ずる人もいるかもしれませんが、これこそが茶色の朝のサロンでの話題ではないかと思います。
なぜ高齢者の逆走事故が多いのか。そこに社会の大きな課題が象徴されているようにも思います。そこから道路行政や企業優先の政策などの話題にもつながっていきました。

こんな感じで、身近な話題から政治を考えることが大切です。
産業界に乗っ取られた「経済」を生活者の手に取り戻すことが大切であるのと同じく、「政治」もまた、主権者である生活者の手に取り戻さなければいけません。
私たち主権者の思いとは別のことが、主権者代表の名のもとに展開されているのが、今の政治です。
そういうことに気づいていかないと、私たちの社会も茶色で覆いつくされるかもしれません。

茶色の朝サロンで語られたことを報告してもあまり意味がないでしょう。
むしろ、茶色の朝を迎えることがないように、身の回りの政治を話し合う場をどんどん広げていきたいです。
茶色の朝サロンは毎月開催します。
次回は11月17日(月曜日)を予定しています。

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2025/10/27

■第42回万葉集サロン「人麿が本当に歌いたかった歌」報告

今回のテーマは「人麿が本当に歌いたかった歌」。
宮廷歌人としてではなく、個人としての本心を歌った歌という意味でしょうか。人麿の実像はなかなか見えてきませんが、今回はちょっとそれが垣間見えるかもしれない。そんな思いで、ワクワクしながら参加しました。
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柿本人麿は、万葉集に90首近い歌を残し、『古今集』では「歌の聖」とまで言われたにもかかわらず、いつ生まれていつ没したか、いかなる生涯をすごしたかが分かっておらず、まさに謎の人なのです。
渡来人説もあれば、複数の人たちの集合ではないかという説もあります。女性説まである。さらに、刑死説もあれば、その恨みを「いろは歌」に暗号で歌い込めたという珍説まであります。ともかく謎多き人なのです。

升田さんが今回、「人麿が本当に歌いたかった歌」として採り上げた歌は次の3首です。
「献泊瀬部皇女忍坂部皇子歌」(巻2-194~195)
「明日香皇女城上殯宮之時作歌」(巻2―196~198) 
「妻死之後泣血哀慟作歌(二首)」(巻2―207~216)
いずれも反歌を伴う長歌です。

最初にまず、この3首を中心に読み上げてくれました。
最後の歌は生々しい「個人的心情」を吐露している気がして納得できましたが、前の2首は意外でした。しかし、升田さんの話を聞いて納得しました。
いずれも、歌をおくる相手が明記されている歌です。明示された対象「な」との対峙のなかに、人麿の「わ」を見ようというわけです。当時はまだ、「な」と「わ」は絡み合っていたはずです。自我意識がはっきりしてきた現代の感覚で考えると間違いそうです。
もう一つ、升田さんが注目したのは、そこで歌われている「藻」と「うつそみと思ひし時」という表現です。そこに升田さんは、死を感ずると同時に、歌を通して「命を蘇らせる」。そして、人麿の「わ」を感ずるというわけです。

升田さんは、加えて石見相聞歌(巻2―131~139)も読んでくれました。「石見国より妻を別れて上り来るときの歌」です。私はこの歌こそが、宮廷や政治から解き放たれて自分のために素直な心情を吐露した歌ではないかと思っています。この歌を読んで、私は人麿が少し好きになったのです。

今回、升田さんは、紹介した歌に出てくる「玉藻なす」と「うつそみと思ひし時」の表現に注目し、詳しく解説してくれました。
たとえば、「藻」に関して言えば、人麿以外の人は「玉藻なす」というような表現はせずに、「玉藻刈る刈る」とか「玉藻刈り食(は)む」というように、藻を食材として捉えているのに対して、人麿は「玉藻なす」というように、生きているいのちとして扱っているのです。

そして升田さんは言います。
人麿の歌の主題・表現様式などについては漢詩からの影響が多く論じられているけれど、それを踏まえた上で、人麿が求めたもの表現したかったことを考えると、きわめて日本的な〈情念の世界〉に行き着く、と。人麿が歌いたかった世界です。
人麿独特の言語感で捉え表現した生と死、生きてあることと死に逝きしものとをつなぐ絆を「思い」とする現世観。そうしたことが「玉藻なす」や「うつそみと思ひし時」という表現に現れているのです。
サロンでは明確には話されませんでしたが、升田さんは、「藻」と「水」の神話性が大きな要素として働いていると考えています。人麿が死んだときの丹比真人の挽歌「荒波に寄り来る玉を枕に置き我ここにありと誰かつげけむ」(巻2-226)も深層でつながっているだろうと升田さんは考えています。

中国詩の具体的合理的な言葉の世界を超えた日本の言葉の霊的響きに「歌」の生命をおき、人間という存在の儚さ(ある意味では無限の)を描き見る。そこにこそ、柿本人麿の
本性があるのではないか。升田さんはそう考えているようです。
神の世界とつながっている人麿であればこその人間観ですね。不老不死など全く眼中になく、死と向き合うことでいのちを実感し、「わ」を育てる。そんなことをつい考えてしまいます。
やはり人麿は新来の渡来人ではないですね。

人麿の、民謡からも取り込んだ自由な詠出の妙は漢詩を凌駕するものとして、宮廷人たちからは評価されていたのでしょう。
漢詩とは違う歌の世界。ここにこそ、日本語の形成過程を考えるヒントがあるような気がします。同時に、日本人の心を考えるヒントも、そこにありそうです。

今回は提供された材料がいつにもまして多かったのと、私の消化不足(私はともかく人麿の人間に関心が強すぎて、升田さんのせっかくの解説よりも勝手に自らの人麿像を空想していて、あんまり話を聞いていなかったため)で、いつも以上に勝手な報告になってしまいました。
ちなみに、正直、私の人麿イメージはますます混乱してしまいました。

今回は新たな万葉集サロン参加者が複数いて、セミナーになりがちな万葉集サロンに本来のサロン的な話し合いをもたらせてくれました。
やはりサロンには新参者のパワーは大切です。

 

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2025/10/18

■第8回中国現代文学サロン『埋葬』報告

第8回中国現代文学サロンでは、残雪の『埋葬』(近藤直子訳)をとりあげました。
残雪は長年、ノーベル文学賞の有力な候補で、今年は最有力候補でした。しかし残雪は中国のカフカと言われるほど、その作品は難解で、中国国内でもそうポピュラーではなく、葉紅さんはいつか取り上げなければと思いながらも、8回目にしてようやくとり上げたそうです。
しかし、葉さんはもしかしたら、今年こそ受賞かという思いで、このタイミングで取り上げたのかもしれません。残念ながら昨年に続いてのアジアからの受賞は難しかったようで、今年度の受賞は見送られましたが、日本でも話題になりだしてきたように思います。実にいいタイミングでした。

葉紅さんは、今回、その難解と言われる残雪の作品を読み解くために、わざわざいろいろと調べてくださったようです。ほかの作品も持ってきてくれました。その中には、残雪のカフカ評論集もありました。また詳細な残雪の年譜も配布してくれました。

最初に葉紅さんは、著者残雪の紹介をいつも以上にていねいにしてくれました。
残雪(本名は鄧小華)は1985年から短編小説を発表し始めた多作の作家です。その作品は当初から海外で翻訳出版され、欧米諸国でも熱心な読者が沢山いるそうです。どうも国内より、海外での人気が高いようです。
日本にも出版直後から、今回の作品の訳者である近藤直子さんによって紹介され、残雪研究会もできています。その機関誌も葉さんは持ってきてくれました。

残雪の作品はかなり日本でも翻訳紹介されているそうですが、今回、葉さんはまだ日本語翻訳されていない3篇の作品を簡単に紹介してくれました。『家庭秘密』『涌動』『自由訓練場』。いずれも不思議な物語です。筋書きをお聞きしたところ、中国のカフカと言われるのも納得できます。とても興味を持ちました。

3篇の紹介の後、葉さんは残雪の作品の特徴について解説してくれました。
残雪の作品は、どの題材を取り上げて描いても基本的に謎のままで終わるのだそうです。どうしてそうなのかを最後まで明かさないので、読者は一様に「これってどんな文学なんだ?」と最初に口にする、と葉さんは話してくれました。

残雪は自ら自分の作品を「新実験小説」と位置づけているそうです。奔放な想像力で読者を迷宮にいざない、読者のほとんどは、「難解、意味不明、何を表現しようとしているのかつかめない」という感想を持つ人が多いようですが、今回の参加者のほとんどの人も同じような感想を持ったようです。

しかし、残雪の作品には読者を引きつけて離さない不思議な磁場があるといいます。残雪は、海外メディアの取材を受けた時に「読者と〈共同の探索者〉としての関係を築きたい」と答えたそうです。まさにカフカです。

葉さんは、読み手の力量が問われているのだ、と言います。そして、「それでも分からないものは分からない。仕方がないから何度も読むしかありません」と。
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しかし最後に、葉さんはとても大きな示唆を与えてくれました。
今回の作品『埋葬』の中国語タイトルは『掩埋(えんまい)』です。
葉さんは、その『掩埋』について解説してくれました。
「掩」は「おおう、おおいかくす」、「埋」は「うめる」という意味で、「掩埋」には「いける、世に知られなくなる、いけにえを埋めて山林をまつる」「生ける 命を保たせる.生き返らせる」というような意味もあるそうです。
残雪はなぜ、『埋葬』ではなく『掩埋』を題名にしたのか。
葉さんは、この題名に込められた意味を、「隠して生き返らせる」「再生のための埋蔵」、さらには「家の中のお気に入りのものを山中に埋めることで、自らの命の再生を願った」と取ることができないだろうかと参加者に投げかけました。
「掩埋」は、ただの埋める、埋葬ではなく、生ける、生き返らせる、いけにえにするという意味合いを込めたタイトルなのではないか、というわけです。そのように読むと、作中の内容、人物の動きがしっくりくると、葉さんは言います。

ちなみに、ある人が「日本では貯蔵用の野菜を土に埋めることを「いけておく」と言った」と話してくれました。確かに私にも記憶があります。
「埋める」と「生きる」。とても興味ある話です。
日本語の題名は『埋葬』ですが、もし葉さんのように受け止めれば、意味は全く逆になります。物語の解釈も大きく変わってきます。

最後に葉さんはいつものように話し合いのための論点を3つ問いかけてくれました。
そこから話し合いに入ったのですが、作品を読んでいない人には意味がないので報告は省略します。

ただ参加者それぞれの解釈はとても示唆に富んでいました。
残雪の小説は読者を「途方に暮れさせる」と言われているようですが、まさに私も途方に暮れた一人です。しかし、みなさんの解釈や読み取り方を聞いて、少し展望が開けた気がします。でもまだカフカとはつながりませんが。

最後の最後に、葉さんは、訳者の近藤さんの読み方も紹介してくれましたが、作品を読んでいない人には意味がないのでこれも省略します。
でも残雪の作品への関心は高まり、私でさえ、読みたくなってきました。

次回(2026年2月8日予定)もまた、残雪の作品『よそ者』を取り上げます。
いつものように、作品は『中国現代文学』11号に収載されています。
同誌ご希望の方は葉さんに購入してもらいますので、今月中に私までご連絡ください。

ちなみに、残雪さんの短編集と批評集『魂の城 カフカ解読』の2冊を葉さんから年内、CWSライブラリに提供してもらいました。お読みになりたい方はご連絡ください。

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2025/10/16

■湯島サロン「『伽藍とバザール』デジタル民主主義の源流」報告

『伽藍とバザール』のテキストを読んで、デジタル民主主義の話につなげていこうという竹形さん呼びかけのサロンの参加者は6人でした。たくさんの人に参加してほしかったのですが、『伽藍とバザール』の意味が届かなかったのかもしれません

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これからの組織や社会にとって、シンフォニーよりポリフォニーが大切だと盛んに言われ出したのは、1990年代に入ってからのような気がします。
私自身は、それ以前からそういう思いで活動してきましたが、1980年代までは組織のなかではもちろん、社会においても共感は得られませんでした。それが、私が会社を辞めることになった一因でもあるのですが。
しかし、最近ではデジタル技術の発展により、デジタル民主主義、つまりポリフォニーを実現するための環境が整いだしてきています。多様な思いが、時間を経ずに編集されシェアされるようになったのです。実際に、そうしたデジタル技術を使ってオードリー・タンさんは台湾で見事な成果を上げました。

案内でも書きましたが、「伽藍とバザール」は、ソフトウエア開発に関する2つのアプローチのスタイルを指しています。マイクロソフト社に代表される、設計図に基づいて管理された開発のやり方(伽藍方式)とリナックスの開発に代表される、みんなが知恵を出し合って自発的に作っていくというアプローチ(バザール方式)です。
しかし、この「伽藍とバザール」は、ソフトウエア開発にとどまる話ではありません。
組織(アソシエーション)のあり方はもちろんですが、社会(コミュニティ)のあり方にも通ずる話です。
竹形さんの問題意識もそこにあります。

今回は、まずはとっかかりとして、1998年に発表された、エリックス・レイモンドの『伽藍とバザール』と題する短い論考をみんなでしっかりと読もうというわけです。
竹形さんが用意してくれた『伽藍とバザール』のテキストに、サロンは展開されました。
竹形さんは、原本テキストのほかにも、それを読み解くために関連資料も用意してくれていました。
わかりやすい図(一部私が追加した図を添付)も。
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話し合いではいくつかのテーマが話題になりました。
たとえば、バザール方式が成功する条件です。
バザール方式を始めるためには、最初にまず「ある程度動くもの」が必要だとされています。言い換えれば、関わりたくなるような、そして関われるようなものです。たぶんここがポイントで、バザールの賑わいを引き起こすためには、弱みを持った魅力的な「祖形」のようなものが必要なのです。
それをどうやって作るのかという問題はありますが、そこは今回はあまり深入りしませんでした。

もう一つ大切なのは、マネジメントのスタイルです。この論考では「従来型の中央集権的なマネジメントや防衛的な姿勢は不向きで、むしろ柔軟で協力的な構造による対応が有効である」とされています。
言い換えれば、組織全体を一人がマネジメントするのではなく、関係者みんなが全体をよくするために他者ではなく自己をマネジメントすると言ってもいいでしょう。社会のマネジメントに関して言えば、「統治」ではなく「協治」という言葉が当てはまります。
さらに言い換えれば、関係者みんなが自立し共生するという関係を育てていくことです。
まさにこれこそが、民主主義の理念につながっているとも言えます。

フリーソフトとオープンソフトに関しても話題になりました。
ここで当然のことながら、仕事の金銭価値と本来価値が問題になります。ここは竹形さんの一番関心の強いところではないかと思うのですが、今回はその入り口の議論にとどまったと言っていいと思います。
ただ竹形さんは、ここでデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』の話を出しました。はっきりした議論にはなりませんでしたが、伽藍方式に比べてバザール方式ではブルシット・ジョブ(無意味な仕事)は生じにくいでしょうし、ましてや無意味な仕事への高価な報酬は生じにくいでしょう。
これは「経済のあり方」に深くつながっています。

竹形さんは、伽藍方式とバザール方式をわかりやすく図解してくれましたが、よく言われる「ピラミッド組織」と「ネットワーク組織」で表現してくれました。
添付した図の左側の2つの図です。
これには私は異論があって、ネットワーク組織ではなく、リゾ-ミック組織のほうがバザール方式を表現しているように思います。
リゾームとは植物の地下茎のことで、お互いに絡み合いながら伸びていく組織です。ネットワーク組織との違いは、外部に開かれていて、内外の境界がないことです。したがって他のリゾ-ミック組織とも絡み合っていくわけです。
湯島でも農業関係のサロンで時々話題になる菌根菌ネットワークは、まさにリゾーミック構造のことを言っています。
蛇足ですが、私は人間同士はもちろん、あらゆる生物も、ある意味で無生物さえもが、リゾーミックにつながっていると思っているのです。
竹形さんは、このリゾーミックスタイルもネットワークに含ませているようなので、ここはあまり議論にはなりませんでした。いつかここはしっかりと議論したいところです。

他にも様々な論点が出され話し合が行われましたが、とりあえず終わります。
これからいよいよデジタル民主主義の話へと進んでいくと思いますが時々、その原点でもある、この論考には戻ることがあるでしょう。
ちなみに、『伽藍とバザール』はネットで公開されているので、誰も無料で読めます。まさにバザール方式の基本でもあるオープンソースになっているのです。
次の青空文庫のリンクからフリーでダウンロードできます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000029/card227.html
短い論考ですので、まだお読みでない方はぜひお読みください。

なお、『伽藍とバザール』、それにオードリー・タンさんの『プルラリティ 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来』の2冊は、竹形さんの提供で、CWSライブラリーに収められました。お読みになりたい方は貸出可能ですのでお申し出ください。
デジタル民主主義をテーマにしたサロンは年明け後を予定しています。

 

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■10月オープンサロン報告

10月のオープンサロンは、湯島サロン発参加者も含め7人の参加でした。
予定通り第2金曜日、10月10日です。
発参加者もいたので、参加者それ俺から自己紹介と最近の話を話してもらいました。
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いつものように、話題はさまざまです。
「ひきこもり支援や行政制度」「グループホームでの介護」「行政制度や日本の会社のあり方」「アメリカでの万引き合法化の話題」「バザール的な民主主義」、さらには最近の自民党総裁選に伴う政局の話など、オープンサロンらしく、さまざまな話で盛り上がりました。

11月のオープンサロンは予定通り、11月14日です。

 

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