カテゴリー「妻への挽歌19」の記事

2020/02/17

■4524:吉田さんからのアドバイス

節子

前回書いた吉田さんは、同期ですが、大学院に行っているエンジニアなので私よりも年上です。
だから会社時代からずっと私のことを心配してくれていました。
今回も、挽歌などを3日かけて読んでくれたそうです。
そして案の定、私がいろんな相談に乗っていることを心配してくれました。

節子さんが居れば、ブレーキをかけてくれる場面も多々あるのでしょう、とも書いてきてくれました。
何でも受けてしまうことを心配してくれ、それでは心も体も維持できません、自分を追い詰めないようにして欲しいものです、とアドバイスしてくれました。

ただしこうも書いています。

貴兄にも、多少いい加減なところがあって、それで(追いつめられることから)逃れているのかもしれません。
挽歌を通して貴兄が節子さんと交流している必要を感じます。
もっと相談してください。

挽歌をもっときちんと書けと言っているのです。
最後に吉田さんはこうも書いています。

その節子さんの顔を思い出せません。
あのセーターに襟巻だけの佐藤修の姿はすぐ思い出しますが、その隣にいる女性の顔が何故か霞んでいるのです。

昔のことを思い出してしまいました。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌4523:またシンクロニシティが始まりました

節子

先日京都に行ったときに、醍醐寺にも行きました。
醍醐寺は、私が会社に入社して、大津に配属になった時に、同期の吉田さんと成藤さんの3人で、行ったところです。
その記憶がずっと残っていて、今回は娘に頼んで特に行先に入れてもらったのです。
醍醐寺でも、その話を娘にしていました。

ところが、京都から戻って数日して、その吉田さんから、こんなようなメールが来ました。


先日、佐藤さんはどうしているかな?と思い、貴兄のブログを開けてみたら、例の挽歌が無い! 
やめるとは思えないので、別のアドレスでも作ったのかと思い、初めてネットで調べました。
そして、初めて第1号「告別式での挨拶」を読みました。 
http://cws.c.ooco.jp/kokubetu.htm
 
涙が出ました、私はこのようなときは素直で、堪えたりしません。

貴兄が1ヶ月近く 書くのを止めて居られたことはその後知りました。

実は、先日、直ぐ下の妹が、癌で亡くなりました。
見つかってから3ケ月と、あっ気ない旅立ちでした。
妹の娘に、貴兄の「告別式での挨拶」を読むようにメールしました。
返事に、佐藤さんにお礼を言って欲しいと書いてあるので、コピーを下に添付します。

佐藤様の文章、読ませて頂きました。
思い出して涙が出てしまうのでなかなか読み進められませんが、こんなに想われて奥様は幸せだったと思います。
母とは果たせなかった約束がいっぱいあり、後悔することばかりなのですが、ひとつずつ片付けながら供養するしかないですね。
(中略)
佐藤様にお会いすることがあれば、読ませて頂きありがとうございましたとお伝え下さい。

うれしいメールでした。
しかし、どうして吉田さんはまた、私のことを思い出したのでしょうか。
もしかしたらまた、シンクロニシティが始まったのかもしれません。

| | コメント (0)

2020/02/16

■節子への挽歌4522:「どうも戻れたようだ」

節子

太田さんの死を知った直後に、やはり胃がん治療をしている友人が湯島にやってきました。
一時期、オブジーボしかもう策がないといわれていました。
本人もそのつもりで、高額な治療費を擁したのですが、治療はやめて温泉療法に切り替えました。
それが功を奏したのかどうかはわかりませんが、その後、体調がよくなりだしました。

そして、湯島までやってきました。
表情も歩き方も、まるで違っていました。
本人も、どうも戻って来れたようだというのです。

前回とは全く違います。
発している雰囲気も全く違う。
生を感ずるのです。

若い友人の死を知った直後なので、その対応がうまくできませんでした。
彼に気取られないように、明るい表情につとめましたが、勘のいい彼は何か気づいたかもしれません。

それにしても、人の生死も素直に受け入れられると思っていたのですが、実際に直面するとやはりたじろいでしまいます。
太田さんの死を知ってから、なぜか心が平安ではありませんでしたし、病を克服したかもしれない友人にも素直に良かったといえないような、奇妙な不安感がぬぐえずにいます。

今日は1日、自宅でボーっとしていたおかげで、だいぶ、気持ちの整理はできましたが。

 

| | コメント (0)

■節子への挽歌4521:私より若い友人が先立ちました

節子

昨日は太田さんのお通夜に参列させてもらいました。
太田さんと言っても、節子は思い出せないかもしれません。
湯島でのオープンサロンには何回か来ていたと思いますが、私が仕事を辞めてしまってからは、あまり会うこともありませんでした。

節子が亡くなって数年して、太田さんが突然わが家にやってきました。
節子にお線香をあげに来たのです。
そこからまた付き合いが濃くなり、湯島のサロンの常連になりました。

その太田さんが、昨秋、背中が痛いと言い出しました。
その時は武田さんと3人だったのですが、武田さんの強い勧めで、めずらしく太田さんは素直に病院に行きました。
そしてがんが発見され、しかもステージは4でした。

余命宣告を受けた太田さんは、できるだけこれまで通りの生き方をしたいといって、抗癌治療を受けずに、自然の流れに任せました。
迷った末での決断ではなく、まるでそれが当然のように、潔く自然の定めを受け入れたのです。
それからも可能な範囲で湯島のサロンにやってきました。
今年になってから、来なくなりました。

見舞いに行こうかどうか迷いましたが、行きませんでした。
たぶん彼ならば、やつれた姿は見せたくなかったと思ったからです。
節子もそうでしたから。

しかし、2月に入り、ちょっと気になりだして、先日、勤め先に電話しました。
そして彼が亡くなったことを知りました。

葬儀は親族だけで行い、それが終わるまでは、ほかの人には伝えないようにということになっていたようです。
しかし、息子さんから武田さんにメールがあったそうです。
武田さんの年賀状に武田さんのメッセージとメールアドレスがあったのです。
武田さんは、しかしそれに気づかずに、一昨日、気づきました。
そしていろいろとあった上で、私と武田さんだけが、親族の葬儀に参列させてもらうことになったのです。

斎場は府中でした。
太田さんにも会ってきました。
とても安らかな顔でした。
享年66歳。

奥様と息子さんたちとも話しました。
お会いしたのは初めてですが、太田さんが湯島のサロンをとても楽しみにしていたとお聞きしました。
私の名前も知っていました。

太田さんの訃報は明日から公開され、4月にはお別れ会があるそうです。
葬儀にでるとなぜかドサッと疲れが来ます。
裏表の全くない、好人物でした。

また一人友人が先立ちました。
まったくもって困ったものです。

 

| | コメント (0)

2020/02/15

■節子への挽歌4520:ブライトエネルギー

節子

節子は会ったことはありませんが、我孫子の友人にMさんという音楽で人のつながりを育てていこうという活動をしている人がいます。
Mさんと知り合ったのは、節子を見送った後ですが、その後、私を元気づけるために、わが家でギターの演奏をしてくれたり、友人のミュージシャンを連れてミニコンサートをやってくれたりしてくれました。

まだそのころは私自身が暗闇の中を彷徨しているような感じでしたので、せっかくの好意にうまく応えられなかったのではないかと思います。
その後、湯島のサロンにも時々参加してくれます。
いまは一緒に我孫子のまちづくり活動にも取り組んでいます。

先日、湯島で「ダークマター」をテーマにしたサロンをやりましたが、Mさんも参加しました。
サロンの報告をフェイスブックに書いたら、Mさんがこんなコメントを書き込んでくれました。

年齢や経験に問わず、お互い敬意を示すこのサロンは、爽やかな空気に包まれダークエネルギーというよりもむしろブライトエネルギーを感じましたよー
ブライトエネルギー発信のために節子さんと佐藤さんがこのサロンを始められたんだなあ と改めて実感しました。

そこで気づきました。
そう言えば、最近、サロン以外ではあまり湯島にいっていないことに、です。
その理由の一つは、湯島をいま友人に週の半分を貸してしまったので、何となく平日は湯島に行かなくなってしまったのです。

以前は、時々、湯島で一人でボーっとしたりしていることもあったのですが、それが最近はほとんどありません。
もしかしたら、最近どうも、精神的に空虚感があるのはそのせいかもしれません。
たしかに湯島で一人でボーっとしていると、なにか元気をもらえていたような気がしてきました。

時々、一人でボーっとするために、平日の湯島通いを再開しようと思います。

 

| | コメント (0)

2020/02/14

■節子への挽歌4519:生と死についていろいろとまた考えてしまいました

節子
少し心が静まりましたが、まだどこかになにやらわからない不穏感が残っています。

朝、昨日電話があった友人と長電話をしました。
私の早とちりで、病状はもう克服しているようです。
気が滅入っていると状況を悪い方向に理解してしまうものです。
注意しなければいけません。

どうも自宅にいると気が晴れないので、電話の後、出かけてきました。
今日は休養に当てようと用事は入れていないのですが、午後からはたぶん孫がやってくるでしょう。

今年の節分は、孫に頼みました。
私は不在だったのですが、その留守の間に孫に豆まきを頼みました。
やはり豆まきは、神に近い幼児に頼むのがいいと思ったからです。

孫はきちんとやってくれたので、わが家には福が満ち満ちているはずなのですが。
孫に仕事を頼んだので、何でも欲しいものをあげると言ってしまいました。
そうしたら人形が欲しいと連絡がありました。
5000円くらいらしいのですが、娘から高すぎるといわれました。
何でもない時に、そんな高価なものをむやみにやらないようにと叱られてしまいました。
で結局、もう少し安いものになってしまいましたが、子どもは高いか安いかはわからないので、どちらでもいいのではないかと思うのですが、娘の許可は出ませんでした。
娘がうまく誘導して1000円くらいの小さなおもちゃセットになりましたが、今日、孫が来たので渡しました。
そのうれしそうな顔をみて、少し元気が出てきました。

小さな子どもたちは、全身から生命の輝きを発しています。
今日はまた違った意味で、生と死を考えさせられた1日でした。

 

| | コメント (0)

2020/02/13

■節子への挽歌4518:「7日に亡くなりました」

節子
今日はいろいろな人と会ったりミーティングをしたのですが、思考力がとんでしまっていました。

気になりながら連絡を取っていなかった太田さんに、竹団と二人で耳に行こうと思っていたのですが、私自身の気が萎えていて、行けませんでした。
ようやく少し精神的に安定したので、太田さんの勤務先に、その後の状況を確認して、病院を教えてもらおうと思いました。
電話をして、名前を告げ、太田さんのことを確認したら、電話に出た人がちょっと待ってくださいと言って、違う人に取り次いでくれました。
だれかわからない人に入院先を簡単には教えないだろうと思っていたので、正直、少し安心しました。

ところが電話に出た人は、佐藤さんですね、ともう一度確認してから、「7日に亡くなりました」というのです。
頭が混乱して、思考力を失いました。
7日と言えば、京都から帰ってきて、そろそろ行けそうだと「覚悟」ができた日です。

サロンの話をすると、太田さんからいつもサロンの話は聞いていましたと言われました。
だから私の名前も知っていてくれたようです。
太田さんらしく、家族での見送りをした後まで伏せておくようにと言われているようで、それが終わった後、正式に関係者に連絡する予定ですので、と言われました。

最後まで、見事に自らの生き方を貫いたことに改めて感動しました。
しかし、最後にもう一度、会うということはできませんでした。

同じ経験を前にも2回しています。
一人は節子もよく知っている重久さんです。
暫らく連絡がなかったので、声をかけたら、いまは体調が悪いのでと断られました。
うすうす病気だと分かったので、少し間をおいてまた連絡しましたが、もう少し待ってほしいといわれました。
そしてまたしばらくして連絡したら、家族の方から亡くなったことを知らされました。
もう一人も、しばらくの音信不通の後、奥さんから訃報が届きました。
彼も会うのを断ってきていました。

2人に共通しているのは、たぶん私の記憶に元気な自分を残しておきたかったのではないかということです。
節子もそうでした。

そういうこともあって、太田さんのお見舞いに行くのを躊躇しているうちにタイミングを失してしまったのです。
それがよかったのか悪かったのかはわかりません。

しかし覚悟はしていたものの、今日は1日、何やら思考力が失われてしまい、うつろな1日でした。

まあしかし、そのおかげで、まだ太田さんが元気でいるような感じがします。
しばらく出張で湯島には来られないでしょうが、死の実感がありません。
悲しさもない。
しかし、どう表現していいかわからない、いつもとは違う気もとで落ち着きません。

 

 

| | コメント (0)

2020/02/12

■節子への挽歌4517:「幸せは経験するものではなく、あとで思い出して気づくもの」

挽歌を書かなかった1か月の間に、少しだけですが、書類などの整理をしました。
その時に、節子が使っていた小さな手帳が出てきました。

節子はいつも、小さな手帳を持ち歩いていて、何か気になることがあるとメモしていました。
その一冊が、私の書類に紛れ込んでいたのです。
もっともその手帳には1ページだけが書かれていて、残りはすべて白紙でした。

そこに書かれていたのは、次の言葉でした。

幸せは経験するものではなく、あとで思い出して気づくものだ。

その下に、「オスカー・レバント(ピアニスト・作曲家)」と書かれていました。
たぶん闘病中のものでしょう。

どういう思いで、この言葉を書き残したのかわかりませんが、この言葉は私へのメッセージのようにも聞こえます。
私の気持ちにぴったりです。

節子はどうだったでしょうか。
病気になった後に、それまでの「幸せ」に気づいたのでしょうか。
残念ながら、節子とこういう会話をした記憶がありません。

節子は今頃、彼岸で「幸せ」を思い出しているでしょうか。
そうだといいのですが。

今日は気持ちのいい冬晴れの朝です。

 

| | コメント (0)

2020/02/11

■節子への挽歌4516:父の命日

節子

1か月ほど、挽歌を書けずにいました。
今日からまた書き出します。
この間、いろいろありましたが、それもまた少しずつ書いていこうと思います。

今日は父の命日でした。
わが家で最初に家族を見送った日です。
自宅療養で亡くなりました。
母も健在でしたので、看病は主に母がしていました。
しかし、私たちにとってはわが家での最初の葬儀でした。

寒い日でした。
それだけが鮮明に覚えています。
死や葬儀に関しても、私はまったく無知でした。

当時は家事はすべて節子任せだったので、節子は大変だったでしょう。
思えば、苦労はすべて節子に任せてしまっていたかもしれません。
両親と同居していましたが、いわゆる嫁舅問題はまったく私にはありませんでした。
節子と私の母との関係はとても良好でした。
母は多分、私といるよりも節子と一緒の方が気楽だったでしょう。

お墓に行きました。
なぜか今日は般若心経がうまく唱えられませんでした。
最近、朝の読経も省略版が続いているためかもしれません。

どこかが悪いわけではないのですが、調子が戻ってきません。
周辺のトラブルが多すぎるからかもしれません。
外から見たら私も元気に活動しているように見えるでしょうが、内心はかなりボロボロです。
そこから少し逃げるように、ユカと3日間、京都に行って、お寺周りをしてきましたが、帰宅した途端に俗世の風が吹き込んできます。
武田さんからは、そういう生き方を選んだのだから仕方がないといわれましたが、もし節子がいまもいたら、こんな生き方にはなっていなかったでしょう。

最近、そんなことを思うことが時々あります。
さて明日からまた生活を立て直そうと思います。

| | コメント (0)

2020/01/24

■悦子への挽歌4515:「居心地の良い場」

節子

昨日は居心地の良い場をテーマにしたサロンでした。
13人の人が集まり、それぞれにとっての「居心地の良い場」を出してもらい、みんなで話し合いました。

私も、私にとっての「居心地の良い場」を考えてみました。
ところが、意外とこれが難しい。
行き着いた答えは、「家」であり「節子と一緒の場」でした。
後者はもう失われてしまっていますが、幸いに前者の中にその余韻が残っています。
13人のなかで、もう一人、私と同じように「家」をあげた人がいます。
偶然かもしれませんが、彼もまた数年前に伴侶を亡くされています。

そこで思ったのは、もしかしたら私も彼も、家の中にいなくなった伴侶を感じているのではないかということです。
先に逝ってしまった子どもの部屋をそのままにしている親はすくなくありません。
そこにも同じ思いがあるのかもしれません。

何人かの人が、湯島の場所も居心地がいいような発言をしてくれていました。
湯島にもたぶん節子が「残っている」ことを感じている私にはうれしいことでした。
ますます湯島は続けないといけないようなきがしてきました。
しかし私の貯金はついに50万円台になりました。
このままだと今年が最後の年になりかねません。
やはり対価を確保できる仕事をしなければいけないようです。

場所の維持のために対価を得る仕事をするのは本末転倒ですが、悩ましい問題です。

| | コメント (0)