カテゴリー「妻への挽歌20」の記事

2020/07/10

■節子への挽歌4684:琉球朝顔が咲き出しています

節子

雨のためにまたしばらく畑に行けていません。
なかなか花壇作りに取り組めないのですが、畑の道沿いのフェンスは、琉球朝顔が満開です。
畑の方にもツルが伸びていて、放っておくと畑を覆いだしかねません。

庭の琉球朝顔も数日前から咲き出しています。
最近は、節子の献花台も花がなくなっていましたが、いまは毎朝、琉球朝顔が咲いてくれています。
これから秋の終わりまで花を咲かせてくれるのですが、あまりに広がっていくので、娘たちからは不評です。
この花はちょっと生命力がありすぎるので、たぶん節子好みでもないでしょう。

庭も花が咲き誇っているはずですが、私の手入れ不足で、あんまり華やかではありません。むしろますます枯れる花が多く、色目があまりないのです。
当分は、琉球朝顔で満足していこうと思います。

Asagao20200710

 

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2020/07/09

■節子への挽歌4683:仮住まい状況

節子

ユカとジュンがリフォームのためにショールームにユニットバスとシステムキチンの打ち合わせをしに、ショールームに行くので付き合いました。
私は特にいかなくてもいいだろうと思っていましたが、一応、誘われましたので、まあ気分転換も兼ねて同行したのです。

いまのわが家の浴室は、広くて、窓もあって快適です。
今度は次女夫婦と同居するので、その浴室は次女家族に譲り、私と長女は2回に移るので、2階にも浴室を創ることにしたのです。
造作の関係で、2階のお風呂は窓がつくれません。広さもちょっと狭くなります。
今度の浴室を見せてもらいましたが、今まで広い浴室に慣れていたので、かなり圧迫感があります。

次女たちは、しかし逆に、いまのわが家の浴室は広すぎるので狭くする予定です。広いままでいいじゃないかと思うのですが、広いことのメリットはあんまり感じていないようです。結婚前はこの広い風呂に入っていたのですが、現在の浴室が狭いので、それをベースに考えてしまうようです。
まあ結果的にはいずれも同じ大きさの浴室になりそうです。

ことほど左様に、人は自らが置かれている状況を踏まえて、考えるものです。

リフォームのために、私も一時期、書庫をこわし、書類や雑誌書籍の整理に取り組みだしました。かなり整理しましたが、途中で止まってしまっています。だから書庫も書斎も寝室も、いまはまだめちゃくちゃの状況です。
書庫に合った書棚の本は段ボールなどに詰めてしまったので、どこにあるかもうわかりません。昨日は「ベン・ハー」を運よく見つけられましたが、今日は雑誌「流砂」のバックナンバーを探しましたが、見つかりませんでした。

なんだか「仮住まい」しているような感じです。
それもあって、どうも気分が落ち着かないのかもしれません。

 

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■節子への挽歌4682:「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」

節子

友人の余命宣告の話を、親しい仲間たちに伝えました。
その一人は、自らもがんと闘病している人なので、躊躇しましたが、連絡先に入れてしまいました。その人から、全員に返信で、こんなことが送られてきました。

平家物語にあるように、人生は苦難と病の連続、どんなに、気高い方でも死んで行く。
人生、一生、ただ一度の命です。「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」が**さんにもたらせますよう、祈念しております。合掌

それを読んだ別の友人が、その投稿者にこうメールしました。

何というメールを、だすんですか?!せっかく皆んなで**を元気づけようしているのに!考えろよ、すこし!

それを受けて、最初の投稿者が謝罪のメールをみんなに出していました。

とても悲しい気分になりました。
悲しい気分になったのは、最初の投稿者のメールではありません。
むしろ最初のメールは私の気持ちにも通じています。
彼は、十分に考えて考えて、「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」を本当に念じたのです。そして、その言葉は、闘病中の自分にも向けられているのです。

それに対して、「考えろよ、すこし!」と声を荒げることに悲しさを感じたのです。
最初の投稿者はたぶん心を砕かれたのではないかと思います。

それで、2番目の投稿者を傷つけることになると思いながらも、最初の投稿者に共感すると投稿しました。
みんな善意なのかもしれませんが、こうやって人は傷つけあっているのでしょう。
それがとても寂しく悲しく、なぜか腹立たしいのです。

その肝心の主役の**さんから電話がありました。
聞けばあんまり調子は良くないと言いますが、電話ができるまでに回復してきたとも言えます。食事も少しずつとれるようになって、退院も考え出しているような感じでした。
数日前に会った時とは大違いです。
ホッとしましたが、気は許せません。

ともかく退院を目指して、しかし急がずにまずは体力を回復するようにと言いました。
たぶん当人よりも私の方が、いま置かれている状況は見えているでしょう。
医師から聞いた話を、私風に編集して彼にまた話しました。

死ぬのはいつでもできますが、その前に「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」のお別れ会をやってやろうと思います。
死ぬのはそれからにしてもらおうと思っています。
どうせそう遠くないうちに、みんな死ぬのですから、もっとあっけらかんと死をとらえたいものです。

ところで、「老いと病と死を超えた、本当の幸せ」っていったいなんでしょうか。
それを最後の話題にするのもいいかもしれません。

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2020/07/08

■節子への挽歌4681:ラストが真逆の映画「ベン・ハー」

節子

西日本は大雨で、川の氾濫が各地で発生しています。
自然の力には人は抗えないようです。
テレビ映像で、猛威を振るう水の流れを見ていると改めて自分の抱えている問題などどうでもいいのではないかと思ってしまいます。

そんななか、さらに不謹慎にもテレビで録画していた映画「ベン・ハー」を見てしまいました。1950年代の大ヒットした作品ではなく、2016年に制作された映画です。
「ベン・ハー」はほかにも映画化されていますが、見応えがあったのはこの2本だけです。

2016年の作品は、大ヒットした同名の映画を観ている人を前提に創られているような気がしますが、最後が反対になっています。
主人公のベン・ハーと敵役のメッサラが和解し許し合うのです。それどころではありません。「家族」になるのです。
そのあたりは、いかにもと言うちゃちな作りになっていますが、憎悪にあふれている現在の社会状況のなかで、ちょっとホッとするところもあります。

原作はどうなっているのだろうか、と気になりました。
たしか、本があるはずだと探したら、古い文庫本が出てきました。
「ベン・ハー」の作者のルー・ウォレスは、西部劇時代を生きた人で、州知事にもなっています。そういう人が書いた作品なので、大学生の頃、興味を持って本は買っていたのはなぜか覚えているのですが、読んだ形跡がありません。どうも読んでいないようです。
気になって、ベン・ハーとメッサラの最後の関係を探してみましたが、よくわかりません。でもどうやら別々の道に分かれていくようです。

まあそんなことはどうでもいいのですが、3月にコロナ騒ぎが始まってから、どうも「どうでもいいこと」ばかりやっている毎日のような気がしてなりません。

自然災害の中で、死ぬか生きるかに直面している人が大勢いる中で、こんな生活をしていていいのか。
そんなことを考えると、ますます気が晴れません。
自分がどんどん暗くなっていくのがわかります。

やはり最近は人に会うのが少なくなっているのがよくありません。
以前は、いろんな人に会いすぎて、何もできないでいましたが、いまは人に会わないのでやることがなくなっているのかもしれません。
自分を動機付けることに苦労しています。

 

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■節子への挽歌4680:コロナも大雨も「自然と人間の関係」の表れ

節子

寝苦しい夜でした。そういえば、こういう夜が昔つづいていたような気もします。
夜が嫌いになったのは、あの頃からだったでしょうか。

夜が明るくなったのも、あの頃からでした。
昔は真っ暗でなければ眠れなかったのに、いまは少し明るい方が眠れるのです。
それに、夜が意外と明るいことにも気づきました。

九州がまた大雨で大変です。
死者も出ています。
人がこんなに簡単に死んでしまう。
死者数を聞いても、自分のこととはつなげないで聞き流す。
それなのに、コロナの死者にはみんなどうして強い関心を持つのだろうか。

娘にそう話したら、自然災害と違って、コロナは自分で予防できるからだと言われました。娘は、私がマスクをしないで電車に乗るのに呆れています。
しかし、娘の意見には私はあんまり納得できなません。
自然災害も予防できるし、コロナも大雨も「自然と人間の関係」から生まれている。
自然の中に、私たち自身が入っていることを忘れているのではないかと思うのです。
ちなみに、娘は土いじりが好きではなく、私の畑作業もめったに手伝ってくれません。
困ったものです。

風が今朝も強く、風の叫びが聞こえるようです。
これがもしかしたら、「言葉の誕生」につながっているのかもしれません。
風が叫び、人が叫んで、人間になった。
この歳になると、叫びたい気分よりも、叫べない気分のほうが強くなってしまいます。

それにしても、どうして新型コロナウイルスがこんなに騒がれているのか、本当に理解できません。
人間は、やはり叫びたがっているのでしょうか。

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2020/07/07

■節子への挽歌4679:「葬儀委員長?」

節子

闘病中の友人が多いためもあって、どうも気が晴れません。
得も言われぬ不安感が全身を覆っていて、時々、ふっと意識を失う感じがあります。
そのうえ、葬儀委員長を頼むなどと直接言われるとおかしくなりそうです。
友人から、もう10日も持たないだろう、葬儀委員長を頼むよ、と言われてしまいました。

「葬儀委員長」、私にはいやな言葉です。
私の葬儀委員長をだれがやるかで、以前、私の友人たちが話していたのを思い出します。
私には、そういう発想がないのがやはり理解されていないようです。
「葬儀」に「委員長」は不要です。
そもそもそういう発想が私には理解できないのです。
ただただ明るく見送ってやればいい。

私がもし死んだとき、だれが哀しむか。
たぶん、いまはもう哀しむ人はいません。
人の死を哀しむのは、生活の大切な一部である年下の人が亡くなった時だけです。
私のような年になると、たぶん死はとても自然のものですから、哀しさも全く違うものになるでしょう。たぶん正常に受け止められるはずです。涙は出ても、たぶん哀しくはないでしょう。
本当の哀しさを知っている人にとっては、という意味ですが。

友人の死は、たぶん私にとっては、あまり哀しくないでしょう。
私たちの歳になれば、もう十分に生きたと言っていい。
死を日常として、すなおに受け入れたいというのが私のいまの信条です。
葬儀委員長を託すようなことはしないでほしいと思っていましたが、実際に言われてしまうと、たじろがざるを得ない。
もちろん引受けませんでした。
その前に約束を果たせよと言っておきました。

いささか頭が混乱してしまった1日でした。
人はやはり、自分で死ぬ日を決めるのかもしれません。

 

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2020/07/06

■節子への挽歌4678:死に方の問題

節子

入院中の友人の主治医からの電話はありませんでした。
状況が急変したら電話するということになっていました。
まずは切り抜けられたようです。
それで、彼の友人知人に状況を報告しました。
まったく知らなかった人もいるでしょうから、驚いたかもしれません。

この話をフェイスブックに書いたら、みんなも心配してくれて、奇跡が起こるのを祈ってくれた人も少なくありません。
感謝しなければいけません。
人の祈りは必ず効果を生みだすでしょう。

山を越えたのはよかったけれど、この先が心配ですねと連絡してきてくれた人もいます。
しかし、先はあまり心配していません。
この歳になると(彼も同年齢です)死は全く問題なく、死に方だけが問題なのです。
特に、突然の死は耐えられません。

一時期、PPK(ピンピンコロリ)という言葉が流行りましたが、私には実に迷惑な死に方だと思っています。
突然の死は本人には苦痛がないかもしれませんが、遺された人への衝撃ははかりしれません。
それに本人にとっても、身体的にはともかく、あまりにも無念なことでしょう。
別れには、ある程度の時間が大切です。

彼との現世での付き合いも、あと1か月程度かもしれません。
先に行く方はいいですが、こういう場合、いつも残る方が気持ちがなかなか整理できないものです。
最後まで笑って話し合えるようにしたいと思っています。

 

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■節子への挽歌4677:孤独感

節子

都知事選挙には風は起こらずに、常識的な結果になりました。
風が起こることを念じていたのですが、都民はコロナ騒ぎで都知事選どころではなかったようです。

私の予想が違ったのは、山本さんよりも宇都宮さんが得票数が高かったことです。私にとっては、宇都宮さんも小池さんも同じ、「向こう側」の人ですが、私の周りも「向こう側の人」がどうも多いようなので、それが論証されたということでしょう。
同じ土俵で権力争いをしている時代ではないと思っているのですが、そう思っている人は少ないのかもしれません。
そうした「土俵」に入るために、みんな学校に行き、就職し、「正しい知識」を身に着けることで精いっぱいなのでしょう。

一昨日、私は感動的な言葉を聴きました。
大学3年生の女性が、ある集まりで、大学で「正しい知識を教えられてきたが、自分で考えることを忘れてきた」と言うような発言をしたのです。
知識は得るほどに思考が定型化されていきかねません。

「正しい知識」の「正しい」とはだれが判断した正しさなのか。
おそらくほとんどが社会を牛耳っている人たちの視点です。
自分にとっての正しさは人によって違いますから、教えることも学ぶこともできません。
学べることや教えることができるのは、「考えること」の大切さとその仕方です。

今日、都知事選のあまりの失望で何もやる気が起きずに、大昔の映画「クォ・ヴァデス」をテレビで観ました。
ネロがローマを焼き払いキリスト教徒を虐殺した話です。
ネロがローマを焼き払った気持ちが理解できるような気もしました。

東京都はあまりに機能的に完成してきています。
そろそろ不合理な存在である人間は不要になってきているのでしょうか。

昨夜から「孤独感」に襲われています。
節子に慰めてもらいたいです。

 

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2020/07/05

■節子への挽歌4676:被災ぶりの背広と靴で疲れました

節子

昨日は半年ぶりに背広を着て、靴と靴下をはいて、出かけました。
会場がお茶の水女子大学だったのと企業研修の要素もあるあるプログラムに、一応、話し手側として参加したのです。

最近はずっと裸足でサンダルでしたので、とても歩きにくかったのですが、さらに靴下のゴムが劣化していて、歩いていると靴下が下りてきてしまうので、大変でした。
歩いていると靴下がだんだん下りて、靴の中にまで入っていくのです。
靴下のほうがきちんと私を理解して、裸足に協力するようになっているようです。
靴下から理解されるのはうれしいですが、とても歩きにくく、いつもの数倍も疲れました。

やはり靴下と靴は疲れます。
ちなみに、私以外の人はみんなカジュアルで、なんだか私だけ場違いでした。
やはり自らに合った、素直な生き方をしないといけません。

背広も問題でした。
着心地が実に悪いだけでなく、なんだか大きいのです。
ユカからも、ちょっとおかしいね、と言われましたが、身体が縮んでしまったのかもしれません。

先日、鈴木さんがポール・ジョンソン『ソクラテス~われらが時代の人』を読んで、ソクラテスと私の共通点が見つかったといって10項目教えてくれました。
そのなかに、「靴を持たず、衣服も少なかったが、本は好きだった」というのがありました。
靴も衣服も持っていないわけではないのですが、長いこと買っていないだけなのです。

ユカからは洗濯のたびに捨てられるのですが、靴下はほとんどはかないので、古いのがまだあるのです。衣服はみんな畑仕事の作業衣にすると言って残していますが、時々、間違えてそれを着てしまい、恥をかいています。
困ったものです。

 

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2020/07/04

■節子への挽歌4675:夜には人は彼岸と深くつながっている

節子

寝苦しい夜でした。
入院中の友人の事態が急変したら医師から電話があることになっているのですが、それが何となく影響して、熟睡できませんでした。
死に関してはかなり解脱しているように思っていたのですが、まだまだだめのようです。

今朝も目が早く覚めてしまい、寝ているよりも起きて何かをやったほうがいいと思って、起きてしまいました。
そう言えば、夜がとても怖かった時期もありました。
夜には、人は彼岸と深くつながっているような気がします。
病院の個室で、彼は眠れたでしょうか。

そう言えば、私も8日間、入院していたことがあります。親知らず歯を抜いた時です。
抜歯で8日間の入院はあんまり納得できなかったのですが、どこもおかしくなかったので、退屈しきっていました。
病院の都合で、1日か2日だけ個室に入りました。
この時は、夜眠れずに、深夜の病院を徘徊したりしていました。
夜の病院は不思議な雰囲気です。

さらにそう言えば、「病院で死ぬこと」という本があります。
内容は覚えていませんが、話題になった本で、いまも書棚のどこかにあるでしょう。
・・・・

という風に、思いがどんどん広がってしまいます。
だから起きたのですが、パソコンに向かって挽歌を書いていると、さらに思いは広がりそうです。
ちょっと早いですが、テレビ体操でもすることにします。
そしてコーヒーでも手作りしましょう。

ちなみに夜の電話は嫌いなので、私の携帯電話は毎日7時ころに切るようにしていますが、今日からまたそうしようと思います。
それで熟睡できるかもしれません。

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