■節子への挽歌6164:時評編をできるだけ書こうと思います
節子
このブログはもともとは「時評」を主な内容にするつもりでした。
ところが節子が亡くなった殿を機に、挽歌編が入ってきた。
挽歌編は毎日書くようにしていました。
それでまあ気が紛れていたこともある。
その頃はむしろ「挽歌編」と「時評編」が相まって、ゾーエとしての思いとビオスと考えを重ね合わせるところに意味を置いていました。
しかし、ゾーエは次第に日記になり、ビオスはサロンの案内と報告になってきた感がある。
最近はあまり時評的なことを書くことがなくなっていたのです。
でもやはり社会への目を曇らせたり、見過ごしたりしてはいけない、と最近思いなおしだしました。
それでまた時評を再開しようと思います。
あまりにひどい世相とはいえ、やはりそこから逃げることはできません。
酷い世相をつくっていることと私の生き方は決して無縁ではないからです。
自らの生き方を質していくためにも、がんばって時評を書くようにしようと思います。
節子がいたら、もっと書く材料がたくさんあるのでしょうが。
ある意味で、節子は私よりも世界が広がったですから。
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