カテゴリー「マスコミ時評」の記事

2009/12/15

■手続き論より実質的な意味が大事でしょう

中国の習近平中国国家副主席と天皇との会見に関して、小沢民主党幹事長と宮内庁長官とのやりとりが話題になっています。
この大変な時期に、そんなことは瑣末な話だと思うのですが、天皇を利用してきた宮内庁の官僚たちには保身上、重要な問題なのでしょう。
宮内庁などは、その存在そのものが全く時代錯誤の無駄の典型だと思いますが、無駄な人ほど自らの正当化を主張したくて手続きや制度に依存することになります。
彼らにとって大切なのは、「価値」ではなくて「手続き」なのです。
それしか拠り所がないのですから。
しかし、大切なのは、その会見が私たち国民にとって価値のあることかどうかです。
そういうことを議論しているのは、民主党だけでしょう。
読売新聞を筆頭にして、ほとんどのマスコミはそんなことなどどうでもよく、ともかくかつての利権構造の回復に向けて世論をあおっているだけのように思います。
最近のマスコミは、せっかくのスキームチェンジの芽をつぶす役目しか果たしていません。

いささか品格のない書き方になりましたが、「国家の品格」の著者の藤原さんのこの件に関する発言に比べたら、まあ許されるでしょう。
藤原さんのような人と比べられたくはありませんが。

羽毛田長官の発言には、事業仕分けで本性を見せた女性教育会館の理事長を思い出します。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2009/11/post-2e0f.html
自分の仕事の相対化が出来ていない、最悪の官僚です。
そういう人たちに私の税金が使われていると思うとやり切れません。
彼らは「ミッション」などどうでもいいのであって、ともかく「保身」にしか関心はないのかもしれません。
念のためにいえば、その「保身」とは「個人の保身」ではありません。
そこにややこしさがあります。
「体制の保身」です。
貧しい人たちの汗の上に、安楽な暮らしの出来る人たちを守る体制です。
つまり自らを安楽に暮らせる体制を維持したいということです。
個人の保身よりも悪質です。
何しろ自分では汗をかかないのですから。
またいささか過激になりました。

自殺しか選択肢がないと思う人が増えています。
昨日も就職活動をしている大学生に会いましたが、30代の若者たちの仕事環境のきびしさも一向に改善されません。
中小企業の経営の厳しさの話も聞こえてきます。
これまでの蓄積で楽をしている高齢者は少なくありませんが、そうでない高齢者の不安も高まっています。

そうした社会にしてしまった官僚と政治家と財界人の責任は大きいです。
科学者の責任も例外ではないでしょう。
予算が削減されたぐらいで文句を言う前に、自らの責務をもっときちんと果たせといいたいです。
あてがわれた税金を当てにする前に、自分たちでしっかりと基金活動でもすればいいのですが、日本の科学者はそんなことは全くしません。
ただ税金に期待するだけです。

まただんだん怒りがこみ上げてきました。
最近、すべての人に腹が立つのです。
もちろん自分自身も例外ではありません。
困ったものです。

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2009/12/09

■政府間合意の拘束性

昨日、電車の中で前の人が読んでいた日刊ゲンダイの見出しが気になり、ネットで読んでみました。
こういう記事です。

<大新聞が報じない 沖縄米軍移転のウラ事情>
米軍・普天間基地の移設問題は、鳩山政権のモタつきばかりがクローズアップされているが、実は米国側も揺れている。日本の大新聞は連日「米国は怒っている」の大合唱で、「日米合意を破ったら大変なことになる」と鳩山政権を追い詰めているが、日米合意を破るのは、米国側かもしれないのだ。沖縄の海兵隊は5年後にグアムに移転することになっているが、グアムでは不具合が生じることが分かったという。米国のホンネは、鳩山政権の混乱に乗じて海兵隊移転を白紙に戻し、沖縄に居座ることだと指摘する声もある。(日刊ゲンダイ2009年12月8日)

高名な学者や専門家たちは、「国家間で一度できた合意は破っては継続性が保たれない」と言います。
テレビのキャスターやコメンテータも、そういう発言をよくします。
しかしこの発言が正しい根拠は何でしょうか。
過去にしばられることを正義とすれば、40年前に政府が決めたダム建設にまつわる契約も正当化されます。
しかし過去は絶対的なものではありません。
そんなことは生活レベルではみんなわかっているはずですが、なぜか政府の約束は変えられないといわれればそれに納得してしまいがちです。
そこには主体性はありません。
私はそれこそが「臣民の本性」だと思います。
システムに隷属している人の発想です。
システムは、生きた生活のためにこそ、あるべきです。

そもそも政府とは何でしょうか。
その時の住民の意思を超えた政府があるのか。
それに、政府としての契約主体も所詮は、ある個人でしかないのです。
沖縄密約の存在が、そのことを証明してくれています。
そんなものに縛られることはありません。

継続性とは何でしょうか。
関係性の概念を入れると、実は継続性とは変わることともいえるでしょう。
そんな言葉にだまされてはいけません。

いまこそみんなで日米関係や基地のあり方などを根本から考えなそう時期だろうと思いますが、
どうもマスコミはそうはさせたくないようです。
マスコミは完全に米国のための存在になっています。
少し前までの日本政府と同じです。

最大の敵は、味方面した根無し族という教訓を思い出します。
主体性を持たねば、いい人生は送れません。

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2009/11/17

■魔女狩りを感じさせる新聞

小沢さんの宗教関連の発言がまた新聞に出ていました。
それにしても、マスコミはなぜ瑣末な話題を仰々しく取り上げて、大事な話題を見過ごすのでしょうか。
しかも、政権関係者の落ち度や発言を見つけるとそれを増幅しがちです。

政府閣僚の不協和音とか政府と与党民主党の不協和音とか、ちょっとした発言の違いを捉えては、不協和音と叫び続けます。
どこが不協和音なのか、私には時にわからないこともありますが、新聞やテレビから何回も不協和音だと聞かされると、そういう気になってきてしまいます。

この頃、つくづく感ずるのは、最近の新聞の魔女狩り的役割です。
マスコミの影響力の大きさは甚大ですから、風評被害などで打ちのめされた人の話はよくありますが、実は打ちのめされているのは社会そのものかもしれないと思うことが増えてきました。

自民党政府の時もそうだったとすれば、これは私の偏見かもしれません。
権力に対して批判的なのは決して悪いことではないからです。
しかし、どうも自民党政権時代と、最近の民主党政権時代とは、マスコミの動き方が違うように思えます。
私が少し民主党に贔屓目のせいでしょうか。
そうであればいいのですが、何か権力の構造がパラダイム転換しているような気がするのです。
まだうまく説明できませんが、マスコミの批判は民主党ではなく、あるいは政府でさえなく、そうしたなかに芽生えてきた、新しい民主主義の萌芽に対する悪意のように感じられてなりません。
「魔女狩り」が始まった。
私の勘違いであればいいのですが。

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2009/11/12

■「私の話も聞いてください」

政府による「事業仕分け」作業が始まりました。
その様子をテレビで見た友人からメールが来ました。
一部だけ引用します。

私もネット配信で少し見ましたが、暴力的な印象は否めませんでした。
地方での事業仕分けもこの傾向があったとは聞いています。
佐藤さんはどのように思われますか?
産経新聞の記事にこういうのがありました。
文部科学省の所管事業を担当した第3ワーキンググループでのやりとりです。
蓮舫参院議員が「女性教育会館の稼働率は?」とたたみかけると、同館の女性理事長は「44%…」と小さな声で答えるやいなや反撃に転じ、「私の話も聞いてください。一方的にただ質問に答えろというのは心外だ」と声を荒らげた。
この場面はテレビでも流れました。
友人はおそらくこの理事長に同情したのでしょう。
そういう人も少なくなかったのではないかと思います。
テレビは、映像のモンタージュ効果を今回も効果的に利用しています。

その場面を見て、私は、その理事長はこれまでずっと自分が「私の話」だけを話していたのだろうなと思いました。
誰かの話を聞く謙虚な姿勢があれば、決して、事業仕分けの対象事業にはならなかったでしょう。
「私の話」だけしか話し続けずに、自己正当化だけで生きてきた人の貧しさを感じました。
それに、今回は質問に答える場であることを彼女は全く理解していませんでした。
状況の理解力やコミュニケーション能力がまったくないのでしょう。
そういう官僚は少なくありません。
なぜなら彼らにとってのコミュニケーションは、お上の伝達でしかなかったからです。
「私の話も聞け」だったのです。
それはコミュニケーションではありません。

専門家と市民が一緒になって技術評価をするコンセンサス会議に取り組んできた小林傳司さんがその著者で書いています。
「専門家は市民が学ぶことに驚く。しかし市民は専門家が学ばないことに驚く」
とても示唆に富む言葉です。
そしてこの主語を他の言葉に置き換えると、いろいろなことが見えてきます。
「行政と住民」「企業と顧客」などなど。

仕分け作業の場合はどうでしょうか。
学ぶべきは誰か。
何のための作業なのか。

私は、上記の女性理事長のような人が無駄遣いの元凶だと思います。
彼女たち、彼らたちが、「善意」でこの国をだめにしてきたのです。
それに気づいてほしいものですが、彼女はおそらく生涯気づかないでしょう。
私の周りにもそうした人たちがたくさんいます。
私が人生を途中で降りたのは、そうなりたくなかったからです。

しかしそうなっていないかどうかには自信はありません。
まだまだ私憤が残っているのは、やはり同じ土俵で生きているということかもしれません。
困ったものです。

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2009/11/09

■なんでそんなに詳しく、何回も報道するのですか

最近、あまり知りたくもない殺人事件の詳細がなぜか毎日、繰り返し繰り返し報道されています。
しかも、遺体の一部が発見されたとか、それはどういう状況だったとか、それを知ってどうなることでもないような話をテレビは得々と報道しています。
NHKのニュースまでもが、この数日、最初の10分近くがそのニュースです。
あまりにひどさに、チャンネルを変えて、もう終わっただろうとチャンネルを戻すとまだやっています。
最近のNHKの報道のディレクターは、猟奇事件マニアなのでしょうか。

こうした事件に関する報道ルールというのがあるはずですが、最近の報道の仕方は、同じような事件の誘発を誘っているのかと思いたくなるほどです。
どうしてこんなに詳しく報道するのでしょうか。
何かから目をそむかせるためなのでしょうか。

国会議論で、みんなの党の渡辺さんが、新党結成のその日に、酒井法子の事件が起こり、そのため報道はその事件ばかりで結党がかすんでしまったと、冗談を話していましたが、これは必ずしも冗談ではありません。
誰かがやらせたなどと言うつもりはないですが、そういうことがあっても不思議ではありません。

NHKも含めて、いまやマスコミはほぼすべてお金次第でしょうから、真実を伝えるよりは、無意味な情報や刺激的な情報で、私たちの感性をコントロールしているというべきかもしれません。
それにしても、この3日間のニュースはひどいです。
殺人の方法や逃亡の方法、あるいは詐欺の方法を教えるよりも、もっと大事なことがあるはずです。
NHKの視聴料は払いたくないですね。
実際に、この数日、テレビのニュースは見なくなっています。

何を報道すべきか、その目利きが今の報道機関には不在なのでしょうか。
そのことが社会に与える影響は甚大です。

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2009/09/23

■住民とはだれか

八ッ場ダム建設中止に関しては、前原大臣の現地視察にもかかわらす、「住民側が出席しないことになった」と報道されています。
国政に翻弄されてきた住民の怒りはよくわかります。
しかし、ここでちょっと気になるのは、「住民」とはだれなのか、です。

私が「住民参加」に違和感があるのは、だれを選ぶかによって「住民」の実体はどうにでもなるからです。
概念としての住民参加はありますが、現実としての住民参加は多様な意味を持つものであり、実際にはありえないものだと思っているわけです。

ところで、今回の八ッ場ダム問題での「住民」とは誰なのでしょうか、
テレビでは、ともかく住民は建設中止に反対しているといいますが、本当でしょうか。
そもそも「反対」の内容は何なのでしょうか。
そうしたことに全く触れられることなく、テレビは建設中止を決めた政権を批判し続ける影像を流しています。

数年前の諫早湾の事件を思い出します。
この問題に関わっていた友人から聞いた話ですが、地元の漁民の多くは反対だったにも関わらず、公式の場での反対集会にはわずか3人しか参加しなかったそうです。
せまい地域共同体社会では、大きな流れに従っていかないと暮らしてはいけないのでしょうか。
自治体の首長や建設推進組織の人の背景に、本当に生活者としての住民がいるのか、とても疑問があります。
大切なのは、ダムを造るとか止めるとかいう話ではなく、生活をどうするかという話のはずです。
ダム建設中止を前提としている限り話し合わないというのは考えてみればおかしな話です。
問題設定が間違っているのです。
それに民主党政権は、ダム建設中止をマニフェストに掲げて政権を得たわけです。
テレビで憤りを語っている現場「住民代表者」たちはそうしたことが全くわかっていないのです。
そうしたことが、おそらくこれまでの八ッ場ダム建設にまつわる歴史の根底にあるような気がします。
そうした社会構造をこそ変革していかねばいけません。

八ッ場ダム周辺の住民たちを批判しているのではありません。
それは決して、彼らだけの話ではないからです。
私たちの周りにも、同じような問題があるのではないか。
そんな気がします。

問題の設定を間違えると、すべてが無駄になるような気がします。

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2009/09/22

■裁判員制度が好評ですって?

今日は「私憤」をこめて。

19日に朝日ニュースターのテレビ番組での体験なのですが、キャスターのばばさんが「裁判員制度も始まるまでは反対者が多かったのに、始まったら好評ですね、日本人の習性ですね」という話をして、裁判員制度を推進してきた小林元弁護士に話をふりました。
小林さんも、始まる前は半分以上が反対でしたと答えました。
裁判員制度に大反対の私は心中穏やかならずにムッとしていましたが、その話の後、突然にばばさんは私に別の話題で話を向けてきました。
正直、とても不愉快な気分でした。
もちろん、ばばさんも小林さんも私が裁判員制度反対なのを知っているはずです。
裁判員制度が始まる前に、この番組でも私は批判したことがありますし。

まあそれだけの話なので、こんなところに書くつもりはなかったのですが、昨日、八ッ場ダム問題を例にして報道の偏りについて書きましたので、もう一つの例として、裁判員制度を書くことにします。
まあ、いささか「うっぷんばらし」でもあるのですが。

最近の新聞は、裁判員制度を既成事実として肯定し、その普及啓発活動に移っていますが、マスコミの報道しないところでは、「裁判員制度はいらない!大運動」も起こっています。
http://no-saiban-in.org/
各地での抗議運動も始まっていますが、あまりマスコミでは取り上げられないでしょう。
民主党政権になって変化があるかもしれませんが、いまの段階では話題にはされていません。
それにどうも千葉景子法相はいまの裁判員制度に(私が知る限り)反対ではないようです。

マスコミの報道だけで思考しているとばばさんや小林さんのような発想になるのでしょう。
見たいものしか見えなくなるというわけです。
お上に飼いならされることだけは注意しないとまた80年前の繰り返しになりかねません。

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2009/09/21

■報道の偏りへの自衛、たとえば八ッ場ダム問題

民主党政権発足以来、再びテレビ報道を見るようになったのですが、やはりどうも違和感があります。
政権は変わってもマスコミは変わっておらず、まだ旧来の延長で発想しています。
情報の出所もおそらく同じなのでしょう。

たとえば、八ッ場あしたの会という組織があります。
私の知人も何人か関わっていますが、2006年から活動を続けています。
もし八ッ場ダムの中止に疑問をお持ちの方がいたら、ぜひその会のサイトを読んでください

八ッ場ダムについて流されている情報の誤りについて」が、この連休前に掲載されました。
そこでは、次の6つのことがしっかりと説明されています。
○八ッ場ダムを中止した方が高くつくという話の誤り
○八ッ場ダムはすでに7割もできているという話の誤りについて
○八ッ場ダムの暫定水利権がダム中止に伴って失われるという話の誤り
○大渇水到来のために八ッ場ダムが必要だという話の誤り
○八ッ場ダムは利根川の治水対策として重要という話の誤り
○ダム予定地の生活再建と地域の再生について

ここで書かれていることがすべて正しいとは言いませんが、最近のマスコミの報道の偏りはいかにもと言う気がします。
ともかく建設が中止になったら大変だという方向での映像が繰り返し放映されるのは世論の誘導と言われても仕方がありません。
テレビでは、メッセージよりも「絵になる」ものが優先されるのかもしれません。

これはほんの一例です。
たとえば、鳩山首相や民主党に関して、私たちのイメージはどうだったでしょうか。
政権党になり、首相になってからの報道で、イメージはかなり変わったはずです。
つまり、私たちが持っているさまざまな評価は、そのほとんどがマスコミによってつくりだされているのです。
言い換えれば、私たちは「ほんとうは何も知らない」のです。
周りの人の評論を聞いていると、ほとんどがマスコミや有名人の言葉をなぞっているだけです。
自分の考えなどなく、誰かの言葉をなぞっているうちに、それが自分の言葉になってしまっているのです。

もうひとつ、たとえばですが、予算策定に関して、管さんと藤井さんとにそんなにずれがあるでしょうか。
私には全くと言っていいほど感じません。
企業のスタッフを経験した人なら、違和感は全くないはずです。
新政権に対して「悪意」をもっている人が、無理やりつくりだしているように思います。

そろそろ私たちは気づくべきです。
外から届く情報には、すべて発信者の意図があることを。
もちろん、この時評もまさにそのものなのですが。
情報に振り回されないためには、自分の視座と複数からの情報が大切です。

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2009/08/16

■無垢の生活者まで殺害して自らの生命を守りたいのか

今日はある集まりに出かけていたのですが、帰宅してパソコンを開いたら、昨夜のNHKの「核兵器」の番組に対する非難のメールがたくさん届いていました。
どうも呆れたのは私だけではなかったようで、いろんなメーリングリストで怒りの声が流れてきます。
私も投稿したいのですが、私自身が何もしていないことの負い目を強く感じているので、投稿できずにいます。
それで、まずはこのブログに私の姿勢を書くことにしました。

私は核武装とか核抑止力とかいう発想を完全に拒否します。
では、もし核攻撃されたらどうするか。
甘んじて攻撃を受けます。
国が滅びるではないかという人がいますが、核攻撃されるような国は滅びても仕方がありません。
誤解されそうな書き方ですが、それが私の信念です。
世界にとって存在の価値がある国であれば、攻撃などされないと思うのです。
もし攻撃されるとしたら、それは価値がないことなのです。
それが私の、すべてにおける考え方の基本です。

もし核攻撃の危険を感じて、それを防止するために核攻撃したらどうなるか。
間違いなく核攻撃は広範囲に影響を与えますから、必ず無垢の生活者を巻き込むことになります。
無垢の生活者を核攻撃の危険にさらす側に、自らを置きたくはありません。
それをするくらいなら、危険にさらされる側に自らを置きたいと思います。
その覚悟がなければ、核廃絶などを口にすべきではないでしょう。
それが私の基本的な考えです。

被爆された人の前で、核武装論を説く人にはわかってもらえないでしょう。
昨日のテレビの討論は、嘔吐すべき内容でした。
いまなお怒りを収められずにいます。

みなさんは、無垢の生活者まで殺害して自らの生命を守りたいですか。
昨日の参加者にそういってやりたいです。

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2009/07/27

■物語報道

「強いられる死 自殺者三万人超の実相」という本を読みました。
読もうかどうか迷っていたのですが、自殺防止関係の活動に少しだけ関わっている以上、読んでおくべきかなと思ったのです。
読み始めて、やはり読まなければよかったと思いました。
でも結局は最後まで読んでしまいました。

読まなければ良かったと思ったのは、具体的な自殺者の物語が中心だったからです。
たしかに具体的な事例を知らないと問題の本質は見えてこないかもしれません。
しかし、他者の生活を覗き見しているような居心地の悪さと共に、作られた舞台を見せられているようで、どうも好きになりません。
同じことはテレビでも言えます。
自殺をテーマにした報道番組が最近多いのですが、どうもどこかに覗き見志向を感じてしまうことが少なくありません。
もっと違った報道の姿勢があるのではないかと思うわけです。

これは自殺問題に限りません。
報道に生々しさを出すためでしょうか、ヤミ金融やDV、あるいは振り込め詐欺なども具体的な事例の追跡レポートが増えています。
しかしどこかに「作為」を感じることもありますし、もしこれが本当ならば、報道するよりも警察に通報するべきではないかなどと思うこともあります。
事実、あとで「やらせ」だったことが判明することも、時にあります。

事件はいうまでもなく、それぞれみんな「表情」が違います。
それに事件には必ずドラマがあります。
報道の仕方で、いかようにも面白さはつけられるでしょう。
報道の目的は、そうした具体的な事例の物語を面白く描くことでしょうか。
しかし、そのためにむしろ問題の本質が見えなくなってくることも少なくありません。
事例は、「目的」ではなく「手段」です。
その手段が、あまりに詳細に興味本位でと思われるような取り上げ方が、私には気になります。
大切なのは事件の詳細ではなく、事件から学ぶべき問題の意味です。

こうした報道の姿勢は、テーマ報道に限った話ではありません。
個別の事件報道のニュースも、本来の意味に無関係な詳細すぎる報道姿勢を感じます。
こんなことまで報道しなくていいだろうと思うことが少なくありません。
事実の詳細を報道すればするほど、事実の意味が見えなくなることは、政治報道の分野を思い出せば、すぐわかるはずです。

「物語報道」という言葉は、勝手に私がつくったのですが、どうも報道においても「物語意識」が強すぎるような気がします。
生活が興味の対象になる、生活不在の時代になってきた現れの一つかもしれません。

ちなみに、冒頭の「強いられる死」ですが、だからどうすればいいのか、と言うメッセージが私には残念ながら伝わってきませんでした。
残ったのは、奇妙に後味の悪い気持ちでした。

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