カテゴリー「マスコミ時評」の記事

2019/09/03

■最近、韓国がますます好きになってきています

テレビや雑誌での、反韓感情を煽る動きには、日本もここまで来ているのかと驚きます。やはり「歴史認識」の欠如が、その原因の一つでしょうか。
あるいは日本の社会状況の反映なのでしょうか。

私自身は、最近の韓国報道に触れていて、韓国の良さをますます感じています。
たとえば、今回のチョ・グク事件で、人事聴聞会という制度があることを知りました。
日本にはあるのでしょうか。

政府の重要な立場に就任する人は、国民の前で自らをさらけ出して評価を得るわけです。
日本の政府は、とりわけ森政権のころから密室で人事が決められるようになったように思いますが、司法関係や報道関係の人事はまったく見えないところで行われています。
人事聴聞会での評価がどうであれ大統領は任命できることをとやかく言う人もいますが、大切なのは国民の見えるところで評価されることだろうと思います。

徴用工判決事件で明らかになったのは、司法と行政との距離です。
いろいろな評価はあるでしょうが、政府による国家間合意に縛られずに、司法が独自の判断を下したのは、「統治行為」下にある日本の司法に比べれば主体性を持っているように思います。

若者や市民の行動も高く評価します。
加えて報道の姿勢にも、日本とは全く違うものを感じます。
民主主義をもしよしとするならば、日本に比べて韓国はかなり健全なように思います。
何よりも「実体」がある。

いま世間を覆っている韓国評価には私は大きな違和感を持っています。
それを生み出しているのは、たぶんテレビでしょう。
それにしても、同じような日本の事件や現象は棚上げして、韓国のことになるとこれ見よがしに罵ったりバカにしたりするマスコミには驚くばかりです。
そのエネルギーの半分でも日本の政治の闇に目を向けてほしいです。
韓国に目を向けさせて、国内での問題には目を向けさせない。
そんな気さえします。

時々書いていますが、「働き方」改革は、価値ある仕事へと働く内容を変えることでなければいけません。
時間などが本質なのではありません。
人は生きている以上、何らかの働きをしているからです。

香港の若者たちも敬服しますが、韓国の若者たちにも敬意を持ちます。
彼らの動きを見ていると、30年後のアジアに期待できるように思います。

 

 

| | コメント (0)

2019/08/29

■チョ・グクさんの疑惑問題は日本では日常的なことでしょう

テレビでは、GSOMIA破棄報道が終わったかと思ったら、今度は韓国の文大統領側近のチョ・グクさんの疑惑問題がにぎやかです。

私には、日本ではすでに日常化しているような話題なのに、どうしてこんなに詳しく熱心に報道するのか理解できないのですが、日本の同様な事件を報道できないので、その代償行為として報道しているのだろうと考えると、ちょっと納得できます。

しかし、チョ・グクさんの疑惑問題などは、たとえば、総理大臣夫妻による森友疑惑に比べれば、銅でもいいような話としか思えません。
それにしても、日本のテレビは韓国が嫌いですね。

日本のテレビが嫌いなのは韓国だけではなく、トランプ大統領も嫌いのようです。
私は、これまでの大きな歴史の流れに異議申し立てしたトランプ政権には好意的です。
ほとんどの人が、トランプの発言をおかしいと思っているようですが、素直に考えればほとんどが納得できる話です。
最大の功績はTPPつぶしだったと思いますが、あれで金融資本の世界支配の流れはちょっと止まったような気がします。

思考の枠組みや基準を変えると世界はまったく違って見えてきます。
世情に出回っている知識が多すぎると実際はその年企業をまき散らしているマスコミとそれを牛耳っている政権と同じ世界から抜け出られません。
安倍政権を批判する私の友人たちも、結局は安倍さんの同じ価値観で世界を見ていると思えることが少なくありません。

先入観を捨てて世界を見ることは、とても難しいです。
たとえばマスコミの価値評価を反転させて世界を見ると、気づかされることは少なくありません。
間接的な報道はむやみに信じないことも大切です。
私は基本的に自分で直接見聞したことを基準にして考えるようにしています。

しかし、それよりも効果的なのは、自らの素朴な価値観や日常生活を大切にすることです。
もっともこれが一番難しいかもしれません。

 

| | コメント (0)

2019/08/19

■最近のテレビ報道に思うこと

最近のテレビ報道に関して、フェイスブックに2度ほど意見をアップしましたが、いろんな人から意見がありました。
2回にわたり書き込んだことの要旨をここにも書いておきます。

2019818日〕
この数日話題になっている「あおり運転」の加害者が逮捕されました。
その逮捕の瞬間をテレビでしつこく放映されていました。
私には非常に不快な画面でした。

加害者が不快だったのではありません。
撮影をやめてほしいという警察の指示を無視して撮影し、報道するテレビ関係者が不快でした。
私の感覚では、加害者の行動を正当化する姿勢でしたから。
加害者もうまくそれを利用しているように思いました。

 あおり運転をなくす方向で最近のマスコミが動いているとはとても思えません。
たぶんあおり運転はさらに「進化」するでしょう。
ドライブレコーダーも売れて、経済成長に寄与するでしょう。

警察も行政もあおり運転に限らず、飲酒運転も含めて、真剣に取り組んでいるとは思えません。
これまでも書いていますが、自動車運転免許の管理をすればいいだけの話です。
そして自動車の台数を減らせばいいだけの話です。
財務省と経産省が、そんなことを許しはしないでしょうが。

 経済成長を基準にした発想から、もう抜け出したいです。
利便性や快適性も、経済視点ではなく生活視点で考えていきたいものです。
人間にとって、「利便性」とか「快適性」とは何かを考えなしたいです。

 最近は新聞を読まなくなってきていますが(見てはいます)、テレビの報道番組も見るほどに気分が悪くなり、見なくなってきています。
新聞もテレビも、この半年、急速に変質しているように思います。
私の偏見だといいのですが。

 2019819日〕
しつこいですが、今日もまだあのあおり運転加害者逮捕の瞬間が繰り返し流されています。
たとえば、いまやっていた「ひるおび」では司会者が「不愉快な画面」と言いながらも繰り返し流しています。
不愉快な映像をなんで繰り返し流すのか。

その背景には、一時期、やはり繰り返しテレビで流されたコンビニ店員などが悪ふざけした行為を撮影してネットに流す「いたずら映像」と同質です。
あれも増長させたのはテレデだと思いますが。
こういう番組のディレクターや司会者やコメンテーターは、ああいう映像をネットで流す若者とどこが違うのか、とつい考えてしまいます。
同じ仲間です。

 そもそも不快な映像をテレビで流さないでほしいですが(流すべき価値があるものは別です)、それよりも、この映像を「かっこいい」と受け取る人もいるでしょう。
かつて逮捕されると箔がつくということが言われたこともありますが、要はこの画面はそうした人たちを刺激し、さらにエスカレートさせることになるでしょう。
今回の加害者はそれを意識して、行動していたように思います。

少なくとも加害者は全国ベースでの「有名人」になりましたし、彼はこの事件をたぶん活用していくでしょう。
いまの社会の風潮を助長しているテレビ関係者は、テレビはそれとは逆の可能性を持っていることを知ってほしいです。
まともな政治記者がいなかったと言われているように、まともなテレビディレクターはいないのでしょうか。

 

| | コメント (0)

2019/02/08

■心愛ちゃんと結愛ちゃん

また子供の命が奪われました。
しかもたくさんの人たちが、かかわりながら。
これは、それこそ「氷山の一角」でしょう。
昔から幼児虐待はあったという人もいますが、やはり「社会の壊れ」を感じます。

先日、海外の子どもたちの悲惨さを何とかしたいと言っている若い女性に会いましたが、日本の子どもの悲惨さはなかなか見えてこないようです。
今回の報道に関しても、非常に特異な事件のような報道が行われている気がしますが、その特異性を報道するよりも、その日常性を報道してほしいと思います。
これでもかこれでもかと、その「異常さ」の報道に触れていると、みている方の感覚がおかしくなってきかねません。
最近のテレビのニュースは、国民洗脳プログラムが組み込まれてしまっているような気がしてなりません。
最近のニュースや事件解説番組を、私は、最近見られなくなってきています。
それにニュースというよりも、オールズと言ってもいいほど、同じようなものが繰り返し(段々詳細に)報道されますし。
子ども現場で今何が起きているかを、もっと日常的なシーンで、可視化することの方が大切なような気がします。

ところで、今回の野田市の被害者は「心愛」ちゃんでした。
昨年3月に目黒で起きた事件の被害者は「結愛」ちゃんでした。
いずれの名前にも「愛」という文字が入っている。
生まれた時には、両親の「愛」に包まれていたはずです。
それがなぜ悲惨な事件へとつながったのか。

こういう事件が起こると、いつも、両親が責められます。
確かに両親の行動には許しがたいものがある。
しかし、その一方で、心愛ちゃんも結愛ちゃんもきっと両親を愛していたと思います。
2人がいちばん頼りにしていたのも、もしかしたら両親だったかもしれません。
そう思うとなおさら心が痛みます。

両親も子どもを愛していたはずです。
育児放棄しているわけではないからです。
観察者的に両親を責めることはだれにもできます。
しかし、事件を起こした両親たちと自分が全く無縁な存在だと思うほどの自信は私にはありません。

もちろん親子関係だけの話をしているわけではありません。
たとえば、以前起こった津久井やまゆり園の事件や繰り返し発生している高齢者福祉施設の死亡事件。
そうした事件と自らの生き方のつながりを意識するくらいの想像力は持ちたいものです。
質すべきは他者ではなく、自らです。

高齢者施設や外国人のための施設、あるいはごみ焼却場や墓地が自宅近くにできることへの反対運動はいまも残念ながら起こっています。
騒音が生活を乱す基地は沖縄住民に負担してもらい、その沖縄で観光を楽しもうという生き方であれば、私もそれに加担しているとしか言えません。
そういう生き方が、結果として子どもの虐待につながっているのかもしれません。

特異な事件の加害者を非難することで、自らを防衛し正当化する生き方にはどうしても私は与しえません。
最近のテレビの報道を見ていると、放送者やコメンテーターは、私とはまったく別の世界の人だなと思わざるを得ません。

世間から脱落して30年が経ちました。
最近、ようやく脱落できたと少しずつ思えるようになりました。
実際には今も少し世間やお金にも未練があって、心が揺れることはあるのですが、心愛ちゃんや結愛ちゃんの純真な生き方からもっと学ばねばいけないと思っています。
彼女たちは、最後まで逃げませんでした。
心が時々揺れる自分が恥ずかしい気がします。

事件は評論するためのものではなく、自らの生き方を質してくれるもの。
そう思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/05/25

2つの記者会見は矛盾していないように思います

日大アメフト反則行為事件で、宮川選手と内田監督・井上コーチの、それぞれの記者会見の発言が真逆だというような報道がほとんどです。
内田・井上両名は、宮川発言を全否定したと報道している新聞やテレビ出演者もいます。
私はかなり丁寧に記者会見をテレビで視聴したつもりですが、双方の発言には致命的な矛盾はないように思いました。
見方や捉え方が違うだけで、とても整合性があり、事実がよりよく見えてきた気がします。

報道関係者も視聴者も、両者が「敵対」しているという前提で、勝手に物語をつくっているような気がします。
誠実に、内田さんや井上さんの発言を聞けば、宮川さんの発言をむしろ補強しているようにさえ、私には思えます。
井上さんは、明確に「宮川選手は嘘をついていない」とも言っています。
誰か個人を悪者にしているだけでは、気持ちはすっきりしても、問題は解決しません。

双方の言い分を要素分解し、それを時系列に並べて行ったら、その発言の真意も見えてきて、全体像はかなり明確になってくるはずです。
そしてそこからこそ、事実や課題が見えてくる。
発言を最初から「正しいか嘘か」と見るのではなく、双方の違いから、事実を説いていく姿勢が大切ではないかと思います。

日大アメフト部の現役選手が動き出したようですが、マスコミが彼らをまた「使い込む」危惧を感じます。
しかし、宮川会見は、こうしていろんな動きを起こし出しました。
大きな変化は、いつも小さな変化から始まります。
こうした動きが、若者の世界を超えて、官僚や政党や企業や自治体にも、波及していくことを願います。
そのためにも、単純な敵対構図に基づく同調文化は打破したいです。

私には、宮川選手も内田監督も井上コーチも、同じ状況の中で、同じ行動をとっていると思えます。
そのことを一番よく認識しているのは、宮川選手のようにも感じます。

私は、いつも一歩退いて、マスコミ報道を捉えるようにしています。
国会中継をずっと見ていると、ニュースがいかに自分勝手に切り取りをしているかがわかります。
与えられた情報は、材料であって、それをベースに自分で考える姿勢を大事にしたいと思います。
マスコミはまさに「フェイクニュース」を創ってきている。
それは、いまのマスコミの限界かもしれません。
そう思って、マスコミ報道に接しています。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/04/22

■北朝鮮を信用できるかという発想

私は、発言の語尾がかなり気になるタイプです。
発言をどうまとめるかで、その人の心情がわかるからです。
たとえば、私が苦手の言葉のひとつが、「…しましょう」です。
発言者にはまったく悪意も意図もないのでしょうが、そういう発言にはどうも反発を感じます。
目線の高さを感じてしまうのです。
同じく「…でしょう」もあまり好きではありません。
念のために言えば、こうした表現を私が使わないというわけではありません。
少ないとは思いますが、たぶん使用しているはずです。
だから他者のことだけを言っているわけではなく、その時の自分も嫌いなのです。
今日、気になったのは、北朝鮮の核政策転換発言に関して、「信用できるか」という表現が新聞やテレビで使われていたことです。
そういう表現をしている人は、信用していないのでしょう。
なぜこの表現が嫌いかといえば、判断の視点を相手に置いていて、「自分」がないからです。
私の発想では、「信用できるかどうか」ではなく、「信用するかどうか」です。
相手が信用できるかどうかは私にはわかりませんし、どうしようもないことですが、自分が相手を信用するかどうかは、自分の意志で決められることです。
自らの意志で決めたことの責任は自分でとれます。
万一それで何か問題が起きたら、それは自らの責任です。
相手のせいにはできません。

もちろん、「信用できるかどうか」には、「相手が信用できるかどうか」と同時に、「相手を信用できるかどうか」という意味もあります。
ですから「信用するかどうか」と同じことだといえるかもしれませんが、微妙な違いを感じます。
ややこしい話になるのでやめますが、いずれにしろ、自分を棚上げしているように、私には思えます。
いずれにしても、結局は「北朝鮮を信用していないことには変わりはないからです。

相手を信用しなければ、相手からも信用されないのは当然の帰結です。
そもそも相手が決めたことを最初から信用しないのであれば、相手と交渉を持つべきではありません。
相手を信用することから、交渉ははじまるのだろうと私は思います。
実はこれは先日湯島でやった、ある研究会でも話題になったことです。
契約の前提に「信頼関係」はあるかどうか。
よく言われる「人は性善か性悪か」という話にもなりかねませんが、これは人間観につながっています。

私は、人は基本的に信用できると思っていますし、人の性は本来「善」だと確信しています。
そう出なければ、生きていけないでしょう。
にもかかわらず、堂々と「相手を信用できるか」などということを、相手も読んだり耳にしたりするメディアで表明することが不思議でなりません。
そういう姿勢では、事態は変わらないのではないかと思います。

ちなみに、核抑止論の矛盾が、ここにも露呈されているように思います。
核抑止論は、私にはとんでもない間違いでしかありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/04/05

■「ないはず」のイラク派遣日報の「発見」に思うこと

「ないはず」のイラク派遣日報がまた「発見」されました。
同じような「犯罪」が繰り返し行われていますが、そうしたマスコミ報道に出てくる人たちの反応は、いつもできの悪い「茶番劇」のようです。
その分野のことをもし少しでも知っているのであれば、たとえば、イラク派遣日報が本当にないと思っていた人などいないはずですし、もし思っていたとしたら、それこそ社会のことを何も知らないというべきだろうと思います。
日報がないと言われても、本気で追及するジャーナリストも専門家もほとんどいないのには、笑うしかありません。
最近のテレビでのキャスターやコメンテーターたちの議論の、すべてとは言いませんが(信頼できるキャスターは私にも、たとえば井上貴博さんなど数人います)、多くはフェイクな世界の上で構築された議論のように感じています。
火事で発見された焼死体が、その家に住んでいた高齢者だと思われるとか、ほぼ現行犯逮捕に近いのに「容疑者」という言葉が使われるとか、そういう動きも同じですが、みんな知っているのに言葉でごまかすことに慣れ切っています。
その一方で、相変わらず冤罪事件は頻発しています。

公文書を廃棄したという事実があるのであれば、その関係者は即刻解雇して、訴追すればいいだけの話です。
公文書は、私たち国民の財産なのですから。
そうしたら、だれも「廃棄した」とか「公文書がない」などという、つきたくもない嘘をつく人はいなくなるでしょう。
そうした「やるべきこと」をやらないから、「ないこと」にすればいいと思う人も増えてくる。
逆に、おかしいと思った人は、悩みぬいて離職や自殺をしてしまう。
グラシャムの法則に従って、官僚には良識が失われていくというわけです。
いや、新しい「良識」文化が生まれてきているのかもしれません。

森友学園事件で言えば、安倍昭恵さんの名前を聞いて、「忖度」をしなかった人などいないはずですが、「忖度」があったかどうかなどという無意味な議論が国会でされている。
人間はロボットではないのですから、みんな「忖度」で生きている。
その「忖度」が、どういう方向を向いて、何をもたらすかは、その社会や組織の文化による。

オリンピックも、一部の人のお金儲けのための壮大な税金の無駄遣いだと思いますが、最近の国会の議論を見ていると、なんとまあ無駄なことをやっているのかと、税金を払うのが嫌になるほどです。
所得の半分を税金で納めながら、幸せを享受できているというデンマークの人たちがうらやましいです。

デンマークといえば、アンデルセンの「裸の王様」を指摘した、子どもの心を取り戻したいです。
それにしても、今回のイラク派遣日報の「発見」事件は、いまの自衛隊が国民に牙をむく本性をもっていることを明らかにしてくれたように思います。
歴史から言えることは、国家の軍隊の力は、外国にではなく、自国の国民に向けられることが多いのですが、その本性が露呈されたわけです。
それにしてもまことに見事なほどに、お粗末な形で、ですが。

社会から緊張感や誠実さが失われてきているとしか思えません。
であればこそ、私は誠実に生きたいと思います。
ただ「緊張感」はあんまり持ちたくありません。
疲れますので。

もう茶番劇はやめて、現場で本当に苦労している人はみんな知っていることを公開したらどうでしょうか。
匿名で、どこかに投稿できる、「ロバの耳」ネットバンクはできないものでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018/03/28

■佐川元理財局長の国会証人喚問報道に感ずること

昨日、佐川元理財局長の国会証人喚問がありました。
4時間すべてを見ましたが、あまりのひどさに驚きました。
そこで、フェイスブックに書きました。

佐川さんに同情的だったのですが、まったく期待を裏切られました。日本の官僚の誠実さはもう失われたのでしょうか。カントを読んでほしいです。
それにしても、あまりのひどさに驚きました。
官僚の言動は、私たち国民の言動を象徴しているのでしょう。

しかし、今朝の新聞やテレビを見て、佐川バッシングのすごさにまた驚きました。
みんな麻生さんみたいになっています。
こうなると、私としてはついつい「待てよ」とも思いたくなります。
佐川さんをこれほどひどく批判することができるのは、もしかしたらそこに自らを感じているからではないのか。
いつもに似合わず、そういう「自省的」な自分を感じます。
こうしたバッシングの動きも、またおそろしい。

ダーウィンのgroup selectionという理論があります。
一時期は人気がなかったようですが、最近また見直されているとも聞きます。
その考えによると、自らが所属するある集団が存続の危機に陥ると、メンバーは自らの利得、つまり自己を捨てて、その集団の構成要素である小さな細胞になる本性(能力)を生まれながらにして持っているというのです。
つまり、所属集団のために働く一匹のミツバチのようになるというわけです。
そして、集団維持意識のため以外の判断基準(たとえば社会的な常識や道徳観念)に盲目になってしまう。

集団への献身は人間が最も大切にする、生活の一断面だ、という心理学者もいます。
そうした、人間の本性が、英雄的な行為を生むとともに、戦争や集団殺戮も引き起こす、というのです。
ここには「利己主義」と「利他主義」の錯綜があります。
大切なのは、自らがどの「グループ(集団)」に所属していると思っているかです。

私は、できるだけ広い、理想的に言えば、時空を超えた世界を、自らの所属集団と考えたいと思っています。
できることならば、私にとっての利己主義は、利他主義などと言う排他的な「他の存在」をもたない利己主義でありたいと思っています。
もちろんそれは達成できておらず、時に、異質な判断への怒りを禁じえないわけですが。

しかし宿主を殺して、自らの世界を失う細菌やウィルスのような過ちは犯したくありません。
佐川さんの世界が、もう少し広くなれば、佐川さんも財務省も政府も社会も、みんな幸せになるのではないかと思います。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/12/08

■国民のための報道と国家のための報道は違います

沖縄の友人から「先日、辺野古の海上座り込みに参加しました」と手紙が届きました。
「本土」にいると、そんなことはまったく伝わってきません。
保育園に飛行物体から空から落下物が落ちてきたというようなニュースは流れますが、本当に大事なことは伝わってきません。
友人は、海底の状況から考えても、とても上に建築物ができる状態ではない、とも書いてありました。
しかし、すでにサンゴ礁をはじめとして、辺野古の海はずたずたに壊されだしているのでしょう。
もう2度と回復はしないでしょう。
やりきれない気がします。

大相撲の話よりも、こういう現場情報をテレビは流してほしいです。
国民のための報道とはそういうものではないのか。
NHKの受信料に関する最高裁判決が出ましたが、国民のための報道をしてもらえるのであれば、受信料はもっと高くしても喜んで祓います。
しかし、国家のための報道のためには、受信料は払いたくありません。
不払い裁判が多いことの意味をしっかりと受け止めてほしいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/12/05

■「なんで貴ノ岩は非難されないの」へのコメント

日馬富士暴行事件に関する、私の投稿には、もしかしたらパッシングの洪水かと思っていましたが、個別のメールは全くありませんでした。
これからかもしれませんが。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2017/12/post-8dcd.html
フェイスブックにも書きましたがいろんなコメントが届きました。
そこで今朝、まとめてコメントを返しましたが、ここにも再録しておきます。
私のフェイスブックは公開していますので誰でも読めます。
https://www.facebook.com/cwsosamu/posts/10204046724004281?pnref=story

最初のコメントが、横山さんからの「私もほぼ同じ意見」だったので実はホッとしました。
その日は安心して眠れました。
一松さんの「ここは反対」も予想通りでしたが、ついついそれに乗じて蛇足を書いてしまいました。

畑さんの指摘も同感で、私は一松さんへの蛇足投稿でわかるよう日本の大相撲は格闘技ビジネスに堕したと思っています。
あの懸賞金がそれを象徴しています。
協会は二重の顔でごまかすのではなく、割り切るのがフェアだと考えています。
ちなみに各地に残る相撲行事は神事だと考えています。

新谷さんのご指摘の通り、貴ノ岩のこれからは一番気になるところですが、往々にして子どもをだめにするのは親だということを改めて痛感します。
大嶽さんのコメントには元気が出ます。

Hashidaさんの指摘にはちょっとめげるところがありましたが、私も一番問題にしているのはマスコミなのです。
そのことを問題にしているのであって、日馬富士の暴行を騒いでいるのではないのです。
ただこの種のおかしなマスコミや世間の動きに関しては、大いに騒ぐべきだとも思っています。
モチベーションは湧きませんが。
ちなみに、地方の小さな会社の話でもマスコミは大問題に持っていけます。
そこにマスコミの暴力性を感じています。

中島さんのコメントにも共感します。私自身は格闘技ショービジネスに八百長は付き物だと思っていますので、何の違和感もありません。
それが悪いとさえ思っていません。

念の為に一言追加します。
私は、貴ノ岩が一番悪いと書きましたが、だからと言って彼を罰しようなどと言っているわけではありません。
悪いことをしっかりと認識させることこそが、貴ノ岩のこれからの人生にとって価値のあることであり、それを日馬富士と白鵬は、自分たちのネイティブな作法で教えたのだと思います。
怪我をさせるほど殴ったことも、私はあまり気にはなりません。
しかし、貴乃花の行動は、たぶん貴ノ岩のこれからの人生を壊したような気がします。
人を育てるということの重さよりも、自分の正義感や信念を優先させた、身勝手な行動のように思えます。
また少し書きすぎてしまったかもしれませんが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧