カテゴリー「マスコミ時評」の記事

2022/05/08

■戦争を止めるのは人の友好関係を広げていくことでしかありません

今日の朝日新聞のトップ記事の見出しは「友好 崩れ去った」とあります。
キーウ市民がロシアの親族との付き合いをブロックしたという話も出ています。
とても寂しい話ですが、トップ記事にしてほしくはありませんでした。
たしかにそういう話はあるでしょう。しかし、おそらくその反対の話もあるでしょう。
ウクライナの惨状にも拘わらず、ロシア人とウクライナ人が信頼し合い、支え合っている話が、です。

異常な事態の中ではさまざまなことが起こります。
不信も起これば、信頼も生まれる。
友好が失われることもあれば、友好が高まることもある。
そのいずれかに焦点を合わせるかで、事態の見え方は変わってくる。
そしておそらく、それによって未来も変わってくるのではないかと思います。

マスコミは、往々にして、「不幸」で「悲惨」なことを取り上げる。
それによって事態は、ますます「不幸」で「悲惨」になることも少なくないような気がします。
私は、権力や権威は信頼しませんが、人間は信頼しています。
どんなことを起こしている人も、信頼したい。
そう思って毎日を過ごしています。

人の仲を裂くような記事には触れたくありませんし、そんな記事を信じたくない。
人の友好は、そんなに簡単に崩れるはずはない、と思いたい。
親族とのSNSをブロックしたという朝日新聞の記事に出てくるユーリーさんも、本当は親族を信頼し愛しているに違いない。この記事を書いた記者の気持ちもわからないわけではありませんが、もっといい面を伝えてほしいと思います。惨状の中にこそ、人を信頼したくなることはたくさん生まれているはずですから。
そして、それこそがウクライナの現状を変える力になるはずだからです。

戦争を止めるのは核抑止力でも正義の追求でもない。
人の友好関係を育てていくことでしか、戦争はなくならない。
私はそう思っています。

| | コメント (0)

2022/03/21

■報道への対抗力を高めたいと思います

クラウゼヴィッツは「戦争論」で、戦争とは暴力によって自分の意思を相手に押しつけることと定義しているようですが、今回のウクライナ戦争はまさにその意味でのわかりやすい戦争のように思います。しかし、発生している状況は、それほどわかりやすくはありません。

さすがに最近は、一方的な報道だけではなく、さまざまな視点からの報道に接することができるようになっていますが、同じ映像さえもが全く真反対に解釈する人がいるのに、改めて映像情報の持つ多義性を思い知らされています。

クラウゼヴィッツに倣って、「報道とは 映像(言語・文字)によって 自分の意思を 相手に押しつけること」と言いたい気分です。
大切なのは、その「報道」を受けて、自らとしてどう解釈し、自らの生活につなげていくかだろうと思います。

ちなみに、今回のウクライナ戦争の報道に接して、私のテレビ報道への信頼感が大きく回復しました。テレビをあまり見ない人が私のまわりにも少なくありませんが、そういう人たちが生きている世界とテレビをよく見ている私の生きている世界との差があまりに大きくなっているのが、いささか心配ですが。おそらく新聞を毎日読んでいるかどうかも大きな違いを生み出しているのでしょうね。どの新聞を読んでいるかの違いよりも、そのほうがむしろ気になります。

 

 

| | コメント (0)

2021/12/06

■「いいニュース」

今朝の新聞にGoogleが一面広告で、「いいニュースって、なんだろう?」と呼びかけています。こう書いてありました。

ニュースを読むことは、世界の今日を考えることにつながる。
それは、未来をよくすることに、きっとつながる。

いいニュースを読んだら動き出したくなる。それが私にとっての「いいニュース」です。

膨大なニュースが毎日飛び交っていますが、メディアに載っているニュースを選ぶ目がどこにあるかが気になります。Googleも、それをもっと開かれた透明性のあるものにしたら、「いいニュース」の発信源になるでしょう。もし本気で、未来を(みんなにとって)善くしたいのなら、ですが。

仕事で多くの新聞を毎日読んでいる人とちょうど一昨日話したところですが、複数の新聞を読んでいると、その違いがよくわかり、特定の一紙だけを読んでいると世界を見違えかねないと、その人は言っていました。

新聞にしろテレビとネットにしろ、媒体によっていずれもかなりの偏りがありますので、それを受け取る自分の世界をできるだけ現実に立脚して広くしようと私は心がけています。どんなニュースも、受け手によって、その意味(与えるメッセージ)は違ってくるからです。書き手の意図とは真反対に解釈することも、時にあります。

ニュースに関しては、とても共感できる本を最近読みました。
石戸諭さんの「ニュースの未来」(光文社新書)です。

石戸さんは、「インターネット時代の良いニュースとは、事実に基づき、社会的なイシュー(論点、争点)について、読んだ人に新しい気づきを与え、かつ読まれるものである」と定義しています。そして、良いニュースを成立させている5大要素として、「謎」「驚き」「批評」「個性」「思考」をあげています。
私の感覚にぴったり合っています。
私は、多くの場合、ニュースを読んで「何かを知る」のではなく、「何かを考える」「行動につなげる」ようにしています。知っただけでは意味がない。そこから自分事を考えるのが私の姿勢です。

ニュースの「ニュー」の新しいことに関して、石戸さんは「知らないことを知ること=新しいこと」だと書いています。それを読んで、私の新聞の読み方はちょっと変わりました。最近の新聞には「ニュース」が少ないなと思っていましたが、それは私の読み方の問題だったことに気づかされました。もうすでに知っていることに関する情報が、私にとってのニュースになることも少なくありません。知っていると思っていたことが、実は何も知ってはいなかったことに気づかされることもあります。

マスコミが毎日送り込んでくる情報に埋没してしまうと、しかし、何も考えずに与えられた情報に振り回されかねません。そうならないように、ましてや支配されないように、自分で世界を見つけていくようにしたいと思っています。

石戸さんの「ニュースの未来」はお薦めです。

 

| | コメント (0)

2021/10/29

■革命は静かにやってく

私だけが感じていることなのかもしれませんが、選挙が始まってから、テレビや新聞での政治関係の取り上げが少なくなったような気がします。

自民党総裁選挙の時はあれほどにぎやかに取り上げられていたのに、なぜか国政選挙になった途端におとなしくなってしまいました。
日本の未来を決める選挙であるならば、毎日のようにどこかの局で党首会談が行われて選挙への関心を盛り上げてほしいと思いますが、差しさわりのない退屈な報道しかないように思います。

今日、友人がある動画配信サイトを教えてくれたので早速視聴してみました。
最近の若者はこういうサイトで政治への関心を高めているのかもしれないと思いましたが、ただよほど意識のある人でないとこういうサイトにも辿り着きません。
ましてや仕事に忙殺されている「働き盛りの人」や「時間に追われている人」は時間を割くことも難しいでしょう。せめて選挙期間のうち1週間ほどは、できるだけ経済活動を休止してでも、選挙への関心を高めるようにすべきだと思います。
せめてNHKのテレビは選挙関係一色にしてもいいとさえ、私は思います。
もちろん退屈な政見放送などはなくてもいいですが。
あれは政党の広告でしかありませんから、なくてもいいでしょう。

新聞を読む人が減り、テレビを見る人が少なくなったと言われますが、それでも何となく目に触れるメディアとして、新聞やテレビの影響は大きいでしょう。
というよりも、そういう情報をむしろ増やしていくべきではないかと思います。

行政や関連組織は、誰も読まないのに立派な情報紙誌をたくさん作っています。関連した印刷会社などの支援かもしれませんが、それだけの資金と時間があるのであれば、多くの国民が読めるような活字メディアの開発に心がけるべきでしょう。

まあそれはともかく、私は今回の選挙が大きな政権変動を起こすような気がしています。
ミャンマーやアフガンに比べて日本はかなり遅れた国だと思っていましたが、どうもそうでもないようです。
大きな地殻変動が起こる期待が高まっています。

もっとも私が期待している政治革命は、その先なのですが。
政治家の政治から市民の政治へと変わる、第一弾がはじまるのではないかと期待しています。
私が生きているうちに、山本太郎政権が実現することが夢でもなくなってきた気がします。

それにしても選挙結果報道テレビに出て来る人たちのバカさ加減には嫌気がさしますが。
もっとも報道の前に結果は判っていて、解説報道は茶番でしかないので、誰でもいいでしょうが、本来は投票結果報道の時にこそ、まともなコメンテーターや解説者が大切で、受け狙いのタレントには出てほしくはありません。それこそ政治への関心を低下させてきた原因ではないかと思っていますので。

しかし大きな政治の地殻変動がようやく動き出す。
30年待ち続けていたので、本当に楽しみです。
まさか今回は裏切られることはないでしょう。

期日前報道という制度には大きな違和感がありますが、私は今回も当日にきちんと投票に行く予定です。

| | コメント (0)

2021/09/24

■茶色の朝の社会の到来にぞっとしています

昨日、テレビで、九州の臼杵市の市議会の話題が取り上げられていました。
問題になっているのは若林議員です。
若林さんは、8月、市内の中学校の周辺などでマスクを着けずにワクチンについてのチラシを配ったとして議会から厳重注意を受けたそうです。
議会ではマスクを正しく着用することを申しあわせているそうですが、若林さんは21日の委員会にマスクから鼻を出した状態で出席。委員長が適切なマスクの着用を何度も促したが、若林議員が従わなかったため発言が許可されなかった、と言います。
若林さんは法的な根拠もなくマスクの着用を強制するのは問題であり、そのことを理由に議員活動を制限することなどには納得がいかないとテレビでも話していました。

まあそれだけのことなら、私はよくある事件として見過ごすのですが、その後の報道にぞっとしました。
その件に対して、市民の反応を聞いているのですが、登場した全員が全員、若林さんを非難しているのです。
まさに世論は報道が作り出している。
いまやもう日本は、「茶色の朝」の社会になってしまったのか、とぞっとしたわけです。

日本からは人間がどんどんいなくなっているというのが私の最近の感覚なのですが、報道機関にはもう人間はいないのでしょうか。そうは思いたくないのですが、このニュースの報道姿勢には唖然としました。
そもそも国民に義務を課すということが、こんなに安直に語られていいのか。
コロナは、日本人の本性を暴き出してくれたような気もします。

ちなみに私は、若林さんの主張に共感しているわけではありません。
鼻だしマスクをするくらいならマスクをするなと思いますし、チラシを配るよりも行動しろといいたいですが、彼を非難する人だけを集めて報道する報道機関に恐れを感ずるのです。
そういう報道に怒りを感じない視聴者にもですが。

ワクチン報道も、少し冷静に考えればおかしなことばかりです。
なにやらわけのわからない言葉も、コロナ以上に異常増殖している気がしますが、人間がマスクに滅ぼされる未来を想像するといささか憂鬱になります。
そろそろまた「茶色の朝」サロンを開きたくなりました。

ちなみに、私はマスクそのものを否定しているわけではありません。いつも私の記事はきちんと読んでもらえずに(あるいは私の表現力不足で)ピント外れのコメントが多いので、念のため。

| | コメント (0)

2021/09/06

■第1回リンカーンクラブ研究会報告

リンカーンクラブ代表の武田文彦さんからの呼びかけの第1回リンカーンクラブ研究会は9人の参加者があり、予定時間を大幅に超える熱い思いがぶつかり合う会になりました。
ちょっとみんな熱くなりすぎて、危うく壊れそうになるほどでしたが、かなりみんな真意も吐き出したので、何とかおさまり、逆にこれからの展開も見えてきました。

ご案内の通り、参加申し込みいただいた方にはあらかじめ膨大な原稿が送られてきました。それに一応目を通したうえで、皆さん参加されましたが、最初に武田さんからは、こう問いかけられました。

考えていただきたいことがあります。

他人やほかの本からではなく、現代の日本という国家についてのみなさんの国家観についてです。
さらに、歴史観です。今の時代は日本にとってどういう時代なのかということです。
もう一つは、経済観です。経済というものをどう考えるかです。

この、国家観、歴史観、経済観、それぞれ考えていただいたうえで、この3つの要素の連関性についてお考えいただきたいのです。
それぞれの考えに論理的に大きな矛盾が生じないようにしていただくという作業になります。バラバラではあまり意味はありません。

国家観、歴史観、経済観は単独では成立しません。
それは人体の各臓器とその作用のような物だと考えています。国家という生体が生きていくうえでの基本的な機構かもしれません。
こうすることで構想というものが生まれてくるような気がします。
こうして、初めて、日本の現代と未来の問題が見えてくると思います。
そして、現代の個人と国家の関係のあり方もまた見えてくるような気がします。

これが長年の武田さんの取り組み姿勢ですが、こう正面から問われると、いささかたじろいでしまいます。それに突然言われても、そう簡単にな話せない。

しかしめげずにみなさんそれに応じて、自論を話すことから研究会は始まりました。
参加者全員が話し終わった時はすでに予定の時間が終わるころでしたが、それから話し合いがはじまりました。

と書くといかにも整然と会が進んだように感じるかもしれませんが、原稿に対する批判や実際の運動につながっていないという厳しい批判もあり、さらに終盤になって個別的な政策課題に話題が行ってしまったために、話し合いは混迷し、あわや空中分解になりそうでした。
しかし、武田さんが呼び掛けたように「他人やほかの本から」の知識的な情報のやりとりではなく、それぞれの本音の話し合いだったので、各人の思いも見えてきて、逆にこれからの展開の手応えがあったような気もします。
本音の思いは、そう簡単には伝わり合えません。それがわかっただけでもよかった気がします。

いずれにしろ今回の話し合いを踏まえて、10月に第2回目の研究会を開催するとともに、並行して、リンカーンクラブ構想の話やその理念でもある究極的民主主義の紹介などのサロンも行うことを考えていこうということになりました。

研究会は基本的にはメンバー制で開催していきますが、関心のある方には公開していくスタイルをとる予定です。
関心のある方はご連絡いただければ、次回の案内などさせていただきます。

20210905

| | コメント (0)

2020/01/21

■報道が仕えるべきは、国民であって統治者ではない

昨夜、DVDで映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を観ました。
ワシントン・ポスト社主のキャサリン・グレアムの決断に感動して涙が出ました。
事実とは異なるのかもしれませんが、当時のアメリカの新聞人の生き方を象徴していることは間違いないでしょう。

ペンタゴン・ペーパーと言われる、アメリカ国防総省の「ベトナム戦争秘密報告書」が、ダニエル・エルズバーグによって暴露されたのは1971年です。
ニクソン大統領からの圧力にもかかわらず、ワシントン・ポスト紙が公開します。
そこから、国民の知る権利と国家秘密の保持をめぐる、アメリカ政府と新聞人たちとの法廷闘争が始まります。
しかし、その事件が引き起こしたもう一つの事件、ウォーターゲート事件もあって、エルズバーグもワシントン・ポストも敗訴することはありませんでした。
そして、国民のデモも広がり、アメリカはベトナム戦争から手を引くことになります。

当時私はまだ企業で働いていましたが、その衝撃はいまでも記憶に残っています。
私の生き方にも、ささやかな影響を与えたことは間違いありません。

エルズバーグは、むしろ保守的な国防総省職員で、ペンタゴン・ペーパー作成のスタッフの一員でした。
自分でも手記で書いていますが、高給取りでした。
にもかかわらず、自分が荷担していることの重大さに気づき、刑務所に入ることまで覚悟して、政府の欺瞞を暴いたのです。
キャサリン・グレアムは、会社の倒産まで覚悟して、公開に踏み切ったのです。

「知った者の責任」ということを、私は時々、ブログで書いていますが、エルズバーグもキャサリンもまさにその責任を果たしたのです。
私が感激したのは、そのことです。

事件の2年後に、エルズバーグの手記「ベトナム戦争報告」が翻訳出版されました。
そこには驚愕の事実が書かれていました。有名なトンキン湾事件です。
ベトナム戦争が本格化する一因となった事件は、アメリカが仕組んだものだったのです。

今回、映画を観て、改めて報道メディアの役割の大きさを考えさせられました。
ジャーナリストも大切ですが、メディアこそが大切なのかもしれません。
タイトルの「報道が仕えるべきは、国民であって統治者ではない」という言葉は、その裁判の判決での判事の言葉です。
日本のメディア関係者に聞かせたい言葉です。

ワシントン・ポストの現在のスローガンは「Democracy Dies in Darkness(暗闇の中では民主主義は死んでしまう)」だそうです。
しかし、大手メディアのオーナーの多くは、キャサリン・グレアムとは違って、メディアの存続を目的にしてしまっているようで、期待はできません。
いまや暗闇が、日本を覆い尽くそうとしています。

であればどうするか。
市民たちによる市民のメディアの動きもありますが、なかなか広がりません。
一度、このテーマで湯島のサロンをやってみようと思います。
関心のある方はご連絡ください。

Photo_20200121084801

 

 

| | コメント (0)

2019/10/11

■ちょっと、そしておおいに残念なこと

ちょっと残念なことがありました。

もう1か月以上前の話ですが、新潟の友人から電話がかかってきました。
憤慨している口調で、新潟日報に集英社文庫の新刊の広告が大きく掲載されているというのです。
本は「水が消えた大河で ルポJR東日本・信濃川不正取水事件」で、著者は朝日新聞記者の三浦英之さん。
2008年に発覚したJR東日本が信濃川にある水力発電ダムで契約以上の水を取水していたという事件を現地取材したドキュメンタリです。

新聞広告には、「魚が消えた。土地が死んだ。愛すべき日本一の信濃川を涸れさせたのは、誰だ」と挑発的な文字を大きく出ています。
私も当時の信濃川の実状は見ていますので、これは大袈裟な表現ではありません。

 しかし、電話をくれた友人が怒っている相手は、JR東日本ではなく、集英社と著者であり、さらにはこんなに大きな広告を載せた新潟日報です。

 実はこの本は「新刊」ではありません。
2010年に出版された本を文庫化して復刊したものです。
友人が怒っているのは、なぜ今頃に、ということなのです。

この本は私も前に読んでいます。
問題を明確に整理したいいドキュメンタリです。
しかし、そこで告発された問題や状況は、その後大きく変わってきています。

この事件を契機に、JR東日本は誠実に問題に取り組みだしました。
事件を反省し、改善しただけではなく(それは当然のことですが)、信濃川に鮭を遡上させようという活動に取り組んでいた新潟のNPOとも協力し、ダムに鮭が遡上できる魚道を作り直し、NPOと一緒になって鮭の稚魚放流にも協力。信濃川の状況は大きく変わったのです。

 私は当時、そのNPOの顧問をさせてもらっていて、たまたま面識のあったJR東日本の当時の社長とNPOのコアメンバーとのミーティングをセットさせてもらいました。
私には、JR東日本はとても誠実に対応してくれたと思います。

 友人は、そうしたことを知っているはずの三浦さんがなぜ今頃、この本を復刊したのか、なぜ集英社は復刊したのか、新潟日報がなぜそういうことも知りながら大きな広告を出したのか、ということです。
ちなみに三浦さんも、文庫の中で「今回、文庫化するにあたり、私は再度、JR東日本の「犯罪」を糾弾したいと考えたわけではありません」と書いています。
しかし実際には、JR東日本の「犯罪」を糾弾していることになっているように思います。

私が残念に思うのは、せっかく的確な指摘をし、状況を変える一助になる本を出版した三浦さんが、なぜその後の状況の変化、とりわけJR東日本の誠実な取り組みを取り上げ、企業が社会性を高める動きを支援しなかったのかということです。

糾弾は目的ではなく、それによって状況がよくなるための手段です。
にもかかわらず糾弾で終わってしまい、事態が変わった後になってもそれを言い続ける。
私にはヘイトスピーチにさえ感じられます。
そして新潟日報までもが、それに乗ってしまったのは、とても残念です。

JR東日本の当時の社長は、NPOへの評価も変えてくれました。
企業とNPOとは文化が違いますが、こうした具体的な「事件」を共有することで、それぞれの価値や意味が実感的にわかってくる。
そこからいい意味でのコラボレーションが始まります。
考えややり方は違うとしても、企業もNPOもいずれも、基本的にはみんなが住みやすい社会を目指しているのです。

私は現在の企業にはきわめて否定的ですが、企業の本来的な価値は高く評価していますし、ちょっと経営方針や事業行動を変えるだけで、再び企業は社会的な存在になると確信しています。
その格好の事例が信濃川で展開されだした。それがこのJR東日本のダム問題だったかもしれません。
そうした新しい動きこそ、三浦さんには書いてほしかった。

企業は問題も起こしていますが、たとえば東日本大震災でもたくさんの企業が誠実な社会活動をしています。
個別には語られますが、そうした企業の社会活動が見えてくれば、社会の企業を見る目も変わり、それによって企業そのものが変わるはずだと思うのですが、相変わらず企業を糾弾することばかりが話題になりやすいのがっとても残念です。

ちなみに、私も水が涸れた信濃川を上流まで体験させてもらいました。
それで私もNPOの活動に共感してささやかな協力をさせてもらったわけですが,信濃川にはJR東日本のダムのほかにも東京電力のダムがいくつかあります。
そのダムの取水方法や魚道の見直しなどにも取り組むはずだったのですが、東電とNPOとが一緒に鮭の稚魚を放流する予定を組んだミーティングの一週間後に不幸な3.11が発生しました。
東電の関係者はそこで動けなくなってしまったように思います。

企業にもNPOにも、それぞれ良い面もあれば悪い面もある。
お互いに悪さを補い、良さを活かし合う方向に向かえば、社会はかなり変わるでしょう。
マスコミは、糾弾ばかりに精出さずに、良さを活かし合う動きを支援してほしいと思っています。

 

| | コメント (0)

2019/09/03

■最近、韓国がますます好きになってきています

テレビや雑誌での、反韓感情を煽る動きには、日本もここまで来ているのかと驚きます。やはり「歴史認識」の欠如が、その原因の一つでしょうか。
あるいは日本の社会状況の反映なのでしょうか。

私自身は、最近の韓国報道に触れていて、韓国の良さをますます感じています。
たとえば、今回のチョ・グク事件で、人事聴聞会という制度があることを知りました。
日本にはあるのでしょうか。

政府の重要な立場に就任する人は、国民の前で自らをさらけ出して評価を得るわけです。
日本の政府は、とりわけ森政権のころから密室で人事が決められるようになったように思いますが、司法関係や報道関係の人事はまったく見えないところで行われています。
人事聴聞会での評価がどうであれ大統領は任命できることをとやかく言う人もいますが、大切なのは国民の見えるところで評価されることだろうと思います。

徴用工判決事件で明らかになったのは、司法と行政との距離です。
いろいろな評価はあるでしょうが、政府による国家間合意に縛られずに、司法が独自の判断を下したのは、「統治行為」下にある日本の司法に比べれば主体性を持っているように思います。

若者や市民の行動も高く評価します。
加えて報道の姿勢にも、日本とは全く違うものを感じます。
民主主義をもしよしとするならば、日本に比べて韓国はかなり健全なように思います。
何よりも「実体」がある。

いま世間を覆っている韓国評価には私は大きな違和感を持っています。
それを生み出しているのは、たぶんテレビでしょう。
それにしても、同じような日本の事件や現象は棚上げして、韓国のことになるとこれ見よがしに罵ったりバカにしたりするマスコミには驚くばかりです。
そのエネルギーの半分でも日本の政治の闇に目を向けてほしいです。
韓国に目を向けさせて、国内での問題には目を向けさせない。
そんな気さえします。

時々書いていますが、「働き方」改革は、価値ある仕事へと働く内容を変えることでなければいけません。
時間などが本質なのではありません。
人は生きている以上、何らかの働きをしているからです。

香港の若者たちも敬服しますが、韓国の若者たちにも敬意を持ちます。
彼らの動きを見ていると、30年後のアジアに期待できるように思います。

 

 

| | コメント (0)

2019/08/29

■チョ・グクさんの疑惑問題は日本では日常的なことでしょう

テレビでは、GSOMIA破棄報道が終わったかと思ったら、今度は韓国の文大統領側近のチョ・グクさんの疑惑問題がにぎやかです。

私には、日本ではすでに日常化しているような話題なのに、どうしてこんなに詳しく熱心に報道するのか理解できないのですが、日本の同様な事件を報道できないので、その代償行為として報道しているのだろうと考えると、ちょっと納得できます。

しかし、チョ・グクさんの疑惑問題などは、たとえば、総理大臣夫妻による森友疑惑に比べれば、銅でもいいような話としか思えません。
それにしても、日本のテレビは韓国が嫌いですね。

日本のテレビが嫌いなのは韓国だけではなく、トランプ大統領も嫌いのようです。
私は、これまでの大きな歴史の流れに異議申し立てしたトランプ政権には好意的です。
ほとんどの人が、トランプの発言をおかしいと思っているようですが、素直に考えればほとんどが納得できる話です。
最大の功績はTPPつぶしだったと思いますが、あれで金融資本の世界支配の流れはちょっと止まったような気がします。

思考の枠組みや基準を変えると世界はまったく違って見えてきます。
世情に出回っている知識が多すぎると実際はその年企業をまき散らしているマスコミとそれを牛耳っている政権と同じ世界から抜け出られません。
安倍政権を批判する私の友人たちも、結局は安倍さんの同じ価値観で世界を見ていると思えることが少なくありません。

先入観を捨てて世界を見ることは、とても難しいです。
たとえばマスコミの価値評価を反転させて世界を見ると、気づかされることは少なくありません。
間接的な報道はむやみに信じないことも大切です。
私は基本的に自分で直接見聞したことを基準にして考えるようにしています。

しかし、それよりも効果的なのは、自らの素朴な価値観や日常生活を大切にすることです。
もっともこれが一番難しいかもしれません。

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧