カテゴリー「マスコミ時評」の記事

2022/09/11

■数字が事実を覆い隠す社会

最近いろいろと発表される数字は、私には全く信頼できないものばかりですが、その傾向は最近極度に広がっています。
率先して数字を改ざんし、それがわかっても調査もしない政府によって統治されている社会ですから、まあ当然と言えば、当然ですが。

最近の数字で言えば、国葬の費用ですが、おそらく少し事実を調べたことがある人ならば、16億数千万円などでおさまるはずがないことはすぐわかるでしょう。しかし、マスコミは16億数千万円が高いことを問題としています。私には白々しさ極まれりとしか思えません。

自民党議員で統一教会に関与した議員は179人という数字も、「そんなに多かったのか」という論調で報道されていますが、私にはそんなに少ししか自己申告しなかったのかとしか思えません。

いずれも数字で「ある事実」が捏造されているとしか思えません。

嘘を言い事実を隠すことは政治家にとっては何のマイナスにはならないようですが、せめて数字だけは嘘を言わない状況であってほしいと思っていました。しかし、いまではむしろ、数字は事実を覆い隠すための、あるいは都合のいい事実を創出するための道具になってきているように思います。

しかし、数字が信頼できないとなると社会をどう判断していいかわからなくなります。
自分が生きている小さな社会を相対化できなくなる。
何を拠り所にして世界を見ればいいのか、とても悩ましい時代になってしまいました。

 

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2022/09/01

■国葬に関して思うこと

昨日も安倍元首相の国葬反対の集会が各地で行われていました。
国会前の集会に参加していた友人が写真を送ってきてくれました。
それでフェイスブックに写真とともに下記投稿をしました。

国民の半数以上が反対しているにもかかわらず、国葬が行われる国家とは、どういう国家でしょうか。
国民半数以上が反対していて行動を起こしているのに、それをほとんど報道しない国営的放送(NHK)とは、どういうメディアでしょうか。
友人たちが国会前などで意思表示してくれています。
6時現在で国会前は5000人くらい集まっているそうです。

そうしたらいろんな人がコメントしてきてくれました。
それで今朝、また次の投稿をしました。

国葬に関して昨日投稿したらいろんな方からコメントをもらいました。
ありがとうございました。
国葬に関しては、賛否それぞれです。
ただ私の関心は、国家とは何か、報道とは何かにあります。

先日投稿しましたが、数年前に出版された「世界を変えた14の密約」をまた読み直しました。昨年、文春から文庫化されて再出版されています。
国家がどう変わってきたかが示唆されています。改めてお薦めします。

今湯島でやっている生活事業研究会でのテーマのひとつでもありますが、ポリティカルエコノミーからエコノミックポリティクスへと政治や経済が大きく変わってしまったなかで、改めて生活を回復させたいと思っています。分断されつつある二項を取りちがえないようにしたいものです。

私の視点は、1968年ころから始まった「システムもしくはアルゴリズム対人間」です。それが明確になってきたような気がします。私はもちろん今なお「人間」でいつづけているつもりです。

それに人の死は、静かに悼むもので、手段にすべきではありません。
国民の多くが、自然と悼んでこその国葬ではないかと私は思います。ですから日本で行われようとしているのは、私には醜いマネーゲームにしか見えません。オリンピックと同じように。
ちなみに、私は国葬反対ですが、国葬騒動で、いまの日本の政治の実相もまた見えてきたように思います。

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2022/08/09

■「裏切られた自由」とベリングキャット

「ベリングキャット」は、イギリスに本拠を置く、調査報道機関です。ウェブサイトでいろんなことを公開していますが、そこで報告されていることは、すべて公開されている情報を収集・分析することで導かれだされた「事実」だそうです。
蛇足的に言えば、公開情報をうのみにするのではなく、「解析」し「編集」しているところがポイントです。

友人が、地元の行政活動を、この方式でウォッチしてきています。時々、その結果判明したことを教えてもらうのですが、彼はただ解析するだけではなく、しかるべきところにその事実を報告して、建設的な活動を目指していますので、とても共感できます。但し、私の感じでは、あまり報われることはないようですが。

先日の安倍元首相狙撃事件に関するサロンでも、北川さんと中島さんが、まさにベリングキャット的な報告をしてくれました。
個々の「事実」や「報道」だけでは見えてこないものが見えてきます。
そうした個々の情報から、その意味を解こうとする姿勢を「陰謀論」という言葉で揶揄する人もいますが、事実を読むとは、そうした「隠された意図」を読み解くことと言えるかもしれません。

新聞やテレビのマスコミ情報は信用できないという人がいますが、報道されている情報から何を読み取るかは、受け手次第です。受け手がしっかりしていれば、マスコミ報道にはたくさんの事実が含意されています。

この1週間、一時話題になったハーバート・フーバーの「裏切られた自由」の上巻を読んでいました。上巻だけでもB5版700頁の大部なので、てこずりましたが、ようやく上巻を読み終わりました。
関係者の私信も含まれていますが、この本も「ベリングキャット」手法ですので、読み手のリテラシーが試されます。私には難しくて読み解けないことも多いのですが、とても面白かったです。少なくとも、ベリングキャットの効用は実感しました。

私が先の日米戦争に関するイメージを変えたのは、ジョン・トーランドの「大日本帝国の興亡」全5巻を読んだ時でした。学校で学んだ歴史知識は、まさにプロパガンダそのものだと思い知らされました。

「裏切られた自由」も、私の「知識」を揺るがせてくれました。知識としてはほとんど知っていたつもりですが、ここまで細かく資料に基づいて説明されると、自分の「知っていたつもり」が揺らいできます。「知識」を自分のものにしていくのは、やはり時間がかかりそうです。

明日から、引き続き、下巻に挑戦しますが、上巻で心に残った文章を一つだけ紹介します。同書の第1部第7篇「アメリカ国民の洗脳」に出てくる文章です。

国民に真実を知らせない技術がますます蓄積されている。そのための手段にあらたにラジオ放送という武器(手段)ができた。

ラジオやテレビは、事実を広く広げていくための手段だと私は思っていましたが、どうも当初から統治者たちはそうは思っていなかったようです。
私も根本から「洗脳」されていたのかもしれません。
しかし「ベリングキャット」によって、事実を垣間見るためには、ラジオやテレビは有効なメディアです。

フーバーの努力を無駄にはしたくありません。

 

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2022/05/08

■戦争を止めるのは人の友好関係を広げていくことでしかありません

今日の朝日新聞のトップ記事の見出しは「友好 崩れ去った」とあります。
キーウ市民がロシアの親族との付き合いをブロックしたという話も出ています。
とても寂しい話ですが、トップ記事にしてほしくはありませんでした。
たしかにそういう話はあるでしょう。しかし、おそらくその反対の話もあるでしょう。
ウクライナの惨状にも拘わらず、ロシア人とウクライナ人が信頼し合い、支え合っている話が、です。

異常な事態の中ではさまざまなことが起こります。
不信も起これば、信頼も生まれる。
友好が失われることもあれば、友好が高まることもある。
そのいずれかに焦点を合わせるかで、事態の見え方は変わってくる。
そしておそらく、それによって未来も変わってくるのではないかと思います。

マスコミは、往々にして、「不幸」で「悲惨」なことを取り上げる。
それによって事態は、ますます「不幸」で「悲惨」になることも少なくないような気がします。
私は、権力や権威は信頼しませんが、人間は信頼しています。
どんなことを起こしている人も、信頼したい。
そう思って毎日を過ごしています。

人の仲を裂くような記事には触れたくありませんし、そんな記事を信じたくない。
人の友好は、そんなに簡単に崩れるはずはない、と思いたい。
親族とのSNSをブロックしたという朝日新聞の記事に出てくるユーリーさんも、本当は親族を信頼し愛しているに違いない。この記事を書いた記者の気持ちもわからないわけではありませんが、もっといい面を伝えてほしいと思います。惨状の中にこそ、人を信頼したくなることはたくさん生まれているはずですから。
そして、それこそがウクライナの現状を変える力になるはずだからです。

戦争を止めるのは核抑止力でも正義の追求でもない。
人の友好関係を育てていくことでしか、戦争はなくならない。
私はそう思っています。

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2022/03/21

■報道への対抗力を高めたいと思います

クラウゼヴィッツは「戦争論」で、戦争とは暴力によって自分の意思を相手に押しつけることと定義しているようですが、今回のウクライナ戦争はまさにその意味でのわかりやすい戦争のように思います。しかし、発生している状況は、それほどわかりやすくはありません。

さすがに最近は、一方的な報道だけではなく、さまざまな視点からの報道に接することができるようになっていますが、同じ映像さえもが全く真反対に解釈する人がいるのに、改めて映像情報の持つ多義性を思い知らされています。

クラウゼヴィッツに倣って、「報道とは 映像(言語・文字)によって 自分の意思を 相手に押しつけること」と言いたい気分です。
大切なのは、その「報道」を受けて、自らとしてどう解釈し、自らの生活につなげていくかだろうと思います。

ちなみに、今回のウクライナ戦争の報道に接して、私のテレビ報道への信頼感が大きく回復しました。テレビをあまり見ない人が私のまわりにも少なくありませんが、そういう人たちが生きている世界とテレビをよく見ている私の生きている世界との差があまりに大きくなっているのが、いささか心配ですが。おそらく新聞を毎日読んでいるかどうかも大きな違いを生み出しているのでしょうね。どの新聞を読んでいるかの違いよりも、そのほうがむしろ気になります。

 

 

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2021/12/06

■「いいニュース」

今朝の新聞にGoogleが一面広告で、「いいニュースって、なんだろう?」と呼びかけています。こう書いてありました。

ニュースを読むことは、世界の今日を考えることにつながる。
それは、未来をよくすることに、きっとつながる。

いいニュースを読んだら動き出したくなる。それが私にとっての「いいニュース」です。

膨大なニュースが毎日飛び交っていますが、メディアに載っているニュースを選ぶ目がどこにあるかが気になります。Googleも、それをもっと開かれた透明性のあるものにしたら、「いいニュース」の発信源になるでしょう。もし本気で、未来を(みんなにとって)善くしたいのなら、ですが。

仕事で多くの新聞を毎日読んでいる人とちょうど一昨日話したところですが、複数の新聞を読んでいると、その違いがよくわかり、特定の一紙だけを読んでいると世界を見違えかねないと、その人は言っていました。

新聞にしろテレビとネットにしろ、媒体によっていずれもかなりの偏りがありますので、それを受け取る自分の世界をできるだけ現実に立脚して広くしようと私は心がけています。どんなニュースも、受け手によって、その意味(与えるメッセージ)は違ってくるからです。書き手の意図とは真反対に解釈することも、時にあります。

ニュースに関しては、とても共感できる本を最近読みました。
石戸諭さんの「ニュースの未来」(光文社新書)です。

石戸さんは、「インターネット時代の良いニュースとは、事実に基づき、社会的なイシュー(論点、争点)について、読んだ人に新しい気づきを与え、かつ読まれるものである」と定義しています。そして、良いニュースを成立させている5大要素として、「謎」「驚き」「批評」「個性」「思考」をあげています。
私の感覚にぴったり合っています。
私は、多くの場合、ニュースを読んで「何かを知る」のではなく、「何かを考える」「行動につなげる」ようにしています。知っただけでは意味がない。そこから自分事を考えるのが私の姿勢です。

ニュースの「ニュー」の新しいことに関して、石戸さんは「知らないことを知ること=新しいこと」だと書いています。それを読んで、私の新聞の読み方はちょっと変わりました。最近の新聞には「ニュース」が少ないなと思っていましたが、それは私の読み方の問題だったことに気づかされました。もうすでに知っていることに関する情報が、私にとってのニュースになることも少なくありません。知っていると思っていたことが、実は何も知ってはいなかったことに気づかされることもあります。

マスコミが毎日送り込んでくる情報に埋没してしまうと、しかし、何も考えずに与えられた情報に振り回されかねません。そうならないように、ましてや支配されないように、自分で世界を見つけていくようにしたいと思っています。

石戸さんの「ニュースの未来」はお薦めです。

 

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2021/10/29

■革命は静かにやってく

私だけが感じていることなのかもしれませんが、選挙が始まってから、テレビや新聞での政治関係の取り上げが少なくなったような気がします。

自民党総裁選挙の時はあれほどにぎやかに取り上げられていたのに、なぜか国政選挙になった途端におとなしくなってしまいました。
日本の未来を決める選挙であるならば、毎日のようにどこかの局で党首会談が行われて選挙への関心を盛り上げてほしいと思いますが、差しさわりのない退屈な報道しかないように思います。

今日、友人がある動画配信サイトを教えてくれたので早速視聴してみました。
最近の若者はこういうサイトで政治への関心を高めているのかもしれないと思いましたが、ただよほど意識のある人でないとこういうサイトにも辿り着きません。
ましてや仕事に忙殺されている「働き盛りの人」や「時間に追われている人」は時間を割くことも難しいでしょう。せめて選挙期間のうち1週間ほどは、できるだけ経済活動を休止してでも、選挙への関心を高めるようにすべきだと思います。
せめてNHKのテレビは選挙関係一色にしてもいいとさえ、私は思います。
もちろん退屈な政見放送などはなくてもいいですが。
あれは政党の広告でしかありませんから、なくてもいいでしょう。

新聞を読む人が減り、テレビを見る人が少なくなったと言われますが、それでも何となく目に触れるメディアとして、新聞やテレビの影響は大きいでしょう。
というよりも、そういう情報をむしろ増やしていくべきではないかと思います。

行政や関連組織は、誰も読まないのに立派な情報紙誌をたくさん作っています。関連した印刷会社などの支援かもしれませんが、それだけの資金と時間があるのであれば、多くの国民が読めるような活字メディアの開発に心がけるべきでしょう。

まあそれはともかく、私は今回の選挙が大きな政権変動を起こすような気がしています。
ミャンマーやアフガンに比べて日本はかなり遅れた国だと思っていましたが、どうもそうでもないようです。
大きな地殻変動が起こる期待が高まっています。

もっとも私が期待している政治革命は、その先なのですが。
政治家の政治から市民の政治へと変わる、第一弾がはじまるのではないかと期待しています。
私が生きているうちに、山本太郎政権が実現することが夢でもなくなってきた気がします。

それにしても選挙結果報道テレビに出て来る人たちのバカさ加減には嫌気がさしますが。
もっとも報道の前に結果は判っていて、解説報道は茶番でしかないので、誰でもいいでしょうが、本来は投票結果報道の時にこそ、まともなコメンテーターや解説者が大切で、受け狙いのタレントには出てほしくはありません。それこそ政治への関心を低下させてきた原因ではないかと思っていますので。

しかし大きな政治の地殻変動がようやく動き出す。
30年待ち続けていたので、本当に楽しみです。
まさか今回は裏切られることはないでしょう。

期日前報道という制度には大きな違和感がありますが、私は今回も当日にきちんと投票に行く予定です。

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2021/09/24

■茶色の朝の社会の到来にぞっとしています

昨日、テレビで、九州の臼杵市の市議会の話題が取り上げられていました。
問題になっているのは若林議員です。
若林さんは、8月、市内の中学校の周辺などでマスクを着けずにワクチンについてのチラシを配ったとして議会から厳重注意を受けたそうです。
議会ではマスクを正しく着用することを申しあわせているそうですが、若林さんは21日の委員会にマスクから鼻を出した状態で出席。委員長が適切なマスクの着用を何度も促したが、若林議員が従わなかったため発言が許可されなかった、と言います。
若林さんは法的な根拠もなくマスクの着用を強制するのは問題であり、そのことを理由に議員活動を制限することなどには納得がいかないとテレビでも話していました。

まあそれだけのことなら、私はよくある事件として見過ごすのですが、その後の報道にぞっとしました。
その件に対して、市民の反応を聞いているのですが、登場した全員が全員、若林さんを非難しているのです。
まさに世論は報道が作り出している。
いまやもう日本は、「茶色の朝」の社会になってしまったのか、とぞっとしたわけです。

日本からは人間がどんどんいなくなっているというのが私の最近の感覚なのですが、報道機関にはもう人間はいないのでしょうか。そうは思いたくないのですが、このニュースの報道姿勢には唖然としました。
そもそも国民に義務を課すということが、こんなに安直に語られていいのか。
コロナは、日本人の本性を暴き出してくれたような気もします。

ちなみに私は、若林さんの主張に共感しているわけではありません。
鼻だしマスクをするくらいならマスクをするなと思いますし、チラシを配るよりも行動しろといいたいですが、彼を非難する人だけを集めて報道する報道機関に恐れを感ずるのです。
そういう報道に怒りを感じない視聴者にもですが。

ワクチン報道も、少し冷静に考えればおかしなことばかりです。
なにやらわけのわからない言葉も、コロナ以上に異常増殖している気がしますが、人間がマスクに滅ぼされる未来を想像するといささか憂鬱になります。
そろそろまた「茶色の朝」サロンを開きたくなりました。

ちなみに、私はマスクそのものを否定しているわけではありません。いつも私の記事はきちんと読んでもらえずに(あるいは私の表現力不足で)ピント外れのコメントが多いので、念のため。

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2021/09/06

■第1回リンカーンクラブ研究会報告

リンカーンクラブ代表の武田文彦さんからの呼びかけの第1回リンカーンクラブ研究会は9人の参加者があり、予定時間を大幅に超える熱い思いがぶつかり合う会になりました。
ちょっとみんな熱くなりすぎて、危うく壊れそうになるほどでしたが、かなりみんな真意も吐き出したので、何とかおさまり、逆にこれからの展開も見えてきました。

ご案内の通り、参加申し込みいただいた方にはあらかじめ膨大な原稿が送られてきました。それに一応目を通したうえで、皆さん参加されましたが、最初に武田さんからは、こう問いかけられました。

考えていただきたいことがあります。

他人やほかの本からではなく、現代の日本という国家についてのみなさんの国家観についてです。
さらに、歴史観です。今の時代は日本にとってどういう時代なのかということです。
もう一つは、経済観です。経済というものをどう考えるかです。

この、国家観、歴史観、経済観、それぞれ考えていただいたうえで、この3つの要素の連関性についてお考えいただきたいのです。
それぞれの考えに論理的に大きな矛盾が生じないようにしていただくという作業になります。バラバラではあまり意味はありません。

国家観、歴史観、経済観は単独では成立しません。
それは人体の各臓器とその作用のような物だと考えています。国家という生体が生きていくうえでの基本的な機構かもしれません。
こうすることで構想というものが生まれてくるような気がします。
こうして、初めて、日本の現代と未来の問題が見えてくると思います。
そして、現代の個人と国家の関係のあり方もまた見えてくるような気がします。

これが長年の武田さんの取り組み姿勢ですが、こう正面から問われると、いささかたじろいでしまいます。それに突然言われても、そう簡単にな話せない。

しかしめげずにみなさんそれに応じて、自論を話すことから研究会は始まりました。
参加者全員が話し終わった時はすでに予定の時間が終わるころでしたが、それから話し合いがはじまりました。

と書くといかにも整然と会が進んだように感じるかもしれませんが、原稿に対する批判や実際の運動につながっていないという厳しい批判もあり、さらに終盤になって個別的な政策課題に話題が行ってしまったために、話し合いは混迷し、あわや空中分解になりそうでした。
しかし、武田さんが呼び掛けたように「他人やほかの本から」の知識的な情報のやりとりではなく、それぞれの本音の話し合いだったので、各人の思いも見えてきて、逆にこれからの展開の手応えがあったような気もします。
本音の思いは、そう簡単には伝わり合えません。それがわかっただけでもよかった気がします。

いずれにしろ今回の話し合いを踏まえて、10月に第2回目の研究会を開催するとともに、並行して、リンカーンクラブ構想の話やその理念でもある究極的民主主義の紹介などのサロンも行うことを考えていこうということになりました。

研究会は基本的にはメンバー制で開催していきますが、関心のある方には公開していくスタイルをとる予定です。
関心のある方はご連絡いただければ、次回の案内などさせていただきます。

20210905

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2020/01/21

■報道が仕えるべきは、国民であって統治者ではない

昨夜、DVDで映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を観ました。
ワシントン・ポスト社主のキャサリン・グレアムの決断に感動して涙が出ました。
事実とは異なるのかもしれませんが、当時のアメリカの新聞人の生き方を象徴していることは間違いないでしょう。

ペンタゴン・ペーパーと言われる、アメリカ国防総省の「ベトナム戦争秘密報告書」が、ダニエル・エルズバーグによって暴露されたのは1971年です。
ニクソン大統領からの圧力にもかかわらず、ワシントン・ポスト紙が公開します。
そこから、国民の知る権利と国家秘密の保持をめぐる、アメリカ政府と新聞人たちとの法廷闘争が始まります。
しかし、その事件が引き起こしたもう一つの事件、ウォーターゲート事件もあって、エルズバーグもワシントン・ポストも敗訴することはありませんでした。
そして、国民のデモも広がり、アメリカはベトナム戦争から手を引くことになります。

当時私はまだ企業で働いていましたが、その衝撃はいまでも記憶に残っています。
私の生き方にも、ささやかな影響を与えたことは間違いありません。

エルズバーグは、むしろ保守的な国防総省職員で、ペンタゴン・ペーパー作成のスタッフの一員でした。
自分でも手記で書いていますが、高給取りでした。
にもかかわらず、自分が荷担していることの重大さに気づき、刑務所に入ることまで覚悟して、政府の欺瞞を暴いたのです。
キャサリン・グレアムは、会社の倒産まで覚悟して、公開に踏み切ったのです。

「知った者の責任」ということを、私は時々、ブログで書いていますが、エルズバーグもキャサリンもまさにその責任を果たしたのです。
私が感激したのは、そのことです。

事件の2年後に、エルズバーグの手記「ベトナム戦争報告」が翻訳出版されました。
そこには驚愕の事実が書かれていました。有名なトンキン湾事件です。
ベトナム戦争が本格化する一因となった事件は、アメリカが仕組んだものだったのです。

今回、映画を観て、改めて報道メディアの役割の大きさを考えさせられました。
ジャーナリストも大切ですが、メディアこそが大切なのかもしれません。
タイトルの「報道が仕えるべきは、国民であって統治者ではない」という言葉は、その裁判の判決での判事の言葉です。
日本のメディア関係者に聞かせたい言葉です。

ワシントン・ポストの現在のスローガンは「Democracy Dies in Darkness(暗闇の中では民主主義は死んでしまう)」だそうです。
しかし、大手メディアのオーナーの多くは、キャサリン・グレアムとは違って、メディアの存続を目的にしてしまっているようで、期待はできません。
いまや暗闇が、日本を覆い尽くそうとしています。

であればどうするか。
市民たちによる市民のメディアの動きもありますが、なかなか広がりません。
一度、このテーマで湯島のサロンをやってみようと思います。
関心のある方はご連絡ください。

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