カテゴリー「マスコミ時評」の記事

2018/04/05

■「ないはず」のイラク派遣日報の「発見」に思うこと

「ないはず」のイラク派遣日報がまた「発見」されました。
同じような「犯罪」が繰り返し行われていますが、そうしたマスコミ報道に出てくる人たちの反応は、いつもできの悪い「茶番劇」のようです。
その分野のことをもし少しでも知っているのであれば、たとえば、イラク派遣日報が本当にないと思っていた人などいないはずですし、もし思っていたとしたら、それこそ社会のことを何も知らないというべきだろうと思います。
日報がないと言われても、本気で追及するジャーナリストも専門家もほとんどいないのには、笑うしかありません。
最近のテレビでのキャスターやコメンテーターたちの議論の、すべてとは言いませんが(信頼できるキャスターは私にも、たとえば井上貴博さんなど数人います)、多くはフェイクな世界の上で構築された議論のように感じています。
火事で発見された焼死体が、その家に住んでいた高齢者だと思われるとか、ほぼ現行犯逮捕に近いのに「容疑者」という言葉が使われるとか、そういう動きも同じですが、みんな知っているのに言葉でごまかすことに慣れ切っています。
その一方で、相変わらず冤罪事件は頻発しています。

公文書を廃棄したという事実があるのであれば、その関係者は即刻解雇して、訴追すればいいだけの話です。
公文書は、私たち国民の財産なのですから。
そうしたら、だれも「廃棄した」とか「公文書がない」などという、つきたくもない嘘をつく人はいなくなるでしょう。
そうした「やるべきこと」をやらないから、「ないこと」にすればいいと思う人も増えてくる。
逆に、おかしいと思った人は、悩みぬいて離職や自殺をしてしまう。
グラシャムの法則に従って、官僚には良識が失われていくというわけです。
いや、新しい「良識」文化が生まれてきているのかもしれません。

森友学園事件で言えば、安倍昭恵さんの名前を聞いて、「忖度」をしなかった人などいないはずですが、「忖度」があったかどうかなどという無意味な議論が国会でされている。
人間はロボットではないのですから、みんな「忖度」で生きている。
その「忖度」が、どういう方向を向いて、何をもたらすかは、その社会や組織の文化による。

オリンピックも、一部の人のお金儲けのための壮大な税金の無駄遣いだと思いますが、最近の国会の議論を見ていると、なんとまあ無駄なことをやっているのかと、税金を払うのが嫌になるほどです。
所得の半分を税金で納めながら、幸せを享受できているというデンマークの人たちがうらやましいです。

デンマークといえば、アンデルセンの「裸の王様」を指摘した、子どもの心を取り戻したいです。
それにしても、今回のイラク派遣日報の「発見」事件は、いまの自衛隊が国民に牙をむく本性をもっていることを明らかにしてくれたように思います。
歴史から言えることは、国家の軍隊の力は、外国にではなく、自国の国民に向けられることが多いのですが、その本性が露呈されたわけです。
それにしてもまことに見事なほどに、お粗末な形で、ですが。

社会から緊張感や誠実さが失われてきているとしか思えません。
であればこそ、私は誠実に生きたいと思います。
ただ「緊張感」はあんまり持ちたくありません。
疲れますので。

もう茶番劇はやめて、現場で本当に苦労している人はみんな知っていることを公開したらどうでしょうか。
匿名で、どこかに投稿できる、「ロバの耳」ネットバンクはできないものでしょうか。

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2018/03/28

■佐川元理財局長の国会証人喚問報道に感ずること

昨日、佐川元理財局長の国会証人喚問がありました。
4時間すべてを見ましたが、あまりのひどさに驚きました。
そこで、フェイスブックに書きました。

佐川さんに同情的だったのですが、まったく期待を裏切られました。日本の官僚の誠実さはもう失われたのでしょうか。カントを読んでほしいです。
それにしても、あまりのひどさに驚きました。
官僚の言動は、私たち国民の言動を象徴しているのでしょう。

しかし、今朝の新聞やテレビを見て、佐川バッシングのすごさにまた驚きました。
みんな麻生さんみたいになっています。
こうなると、私としてはついつい「待てよ」とも思いたくなります。
佐川さんをこれほどひどく批判することができるのは、もしかしたらそこに自らを感じているからではないのか。
いつもに似合わず、そういう「自省的」な自分を感じます。
こうしたバッシングの動きも、またおそろしい。

ダーウィンのgroup selectionという理論があります。
一時期は人気がなかったようですが、最近また見直されているとも聞きます。
その考えによると、自らが所属するある集団が存続の危機に陥ると、メンバーは自らの利得、つまり自己を捨てて、その集団の構成要素である小さな細胞になる本性(能力)を生まれながらにして持っているというのです。
つまり、所属集団のために働く一匹のミツバチのようになるというわけです。
そして、集団維持意識のため以外の判断基準(たとえば社会的な常識や道徳観念)に盲目になってしまう。

集団への献身は人間が最も大切にする、生活の一断面だ、という心理学者もいます。
そうした、人間の本性が、英雄的な行為を生むとともに、戦争や集団殺戮も引き起こす、というのです。
ここには「利己主義」と「利他主義」の錯綜があります。
大切なのは、自らがどの「グループ(集団)」に所属していると思っているかです。

私は、できるだけ広い、理想的に言えば、時空を超えた世界を、自らの所属集団と考えたいと思っています。
できることならば、私にとっての利己主義は、利他主義などと言う排他的な「他の存在」をもたない利己主義でありたいと思っています。
もちろんそれは達成できておらず、時に、異質な判断への怒りを禁じえないわけですが。

しかし宿主を殺して、自らの世界を失う細菌やウィルスのような過ちは犯したくありません。
佐川さんの世界が、もう少し広くなれば、佐川さんも財務省も政府も社会も、みんな幸せになるのではないかと思います。


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2017/12/08

■国民のための報道と国家のための報道は違います

沖縄の友人から「先日、辺野古の海上座り込みに参加しました」と手紙が届きました。
「本土」にいると、そんなことはまったく伝わってきません。
保育園に飛行物体から空から落下物が落ちてきたというようなニュースは流れますが、本当に大事なことは伝わってきません。
友人は、海底の状況から考えても、とても上に建築物ができる状態ではない、とも書いてありました。
しかし、すでにサンゴ礁をはじめとして、辺野古の海はずたずたに壊されだしているのでしょう。
もう2度と回復はしないでしょう。
やりきれない気がします。

大相撲の話よりも、こういう現場情報をテレビは流してほしいです。
国民のための報道とはそういうものではないのか。
NHKの受信料に関する最高裁判決が出ましたが、国民のための報道をしてもらえるのであれば、受信料はもっと高くしても喜んで祓います。
しかし、国家のための報道のためには、受信料は払いたくありません。
不払い裁判が多いことの意味をしっかりと受け止めてほしいです。

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2017/12/05

■「なんで貴ノ岩は非難されないの」へのコメント

日馬富士暴行事件に関する、私の投稿には、もしかしたらパッシングの洪水かと思っていましたが、個別のメールは全くありませんでした。
これからかもしれませんが。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2017/12/post-8dcd.html
フェイスブックにも書きましたがいろんなコメントが届きました。
そこで今朝、まとめてコメントを返しましたが、ここにも再録しておきます。
私のフェイスブックは公開していますので誰でも読めます。
https://www.facebook.com/cwsosamu/posts/10204046724004281?pnref=story

最初のコメントが、横山さんからの「私もほぼ同じ意見」だったので実はホッとしました。
その日は安心して眠れました。
一松さんの「ここは反対」も予想通りでしたが、ついついそれに乗じて蛇足を書いてしまいました。

畑さんの指摘も同感で、私は一松さんへの蛇足投稿でわかるよう日本の大相撲は格闘技ビジネスに堕したと思っています。
あの懸賞金がそれを象徴しています。
協会は二重の顔でごまかすのではなく、割り切るのがフェアだと考えています。
ちなみに各地に残る相撲行事は神事だと考えています。

新谷さんのご指摘の通り、貴ノ岩のこれからは一番気になるところですが、往々にして子どもをだめにするのは親だということを改めて痛感します。
大嶽さんのコメントには元気が出ます。

Hashidaさんの指摘にはちょっとめげるところがありましたが、私も一番問題にしているのはマスコミなのです。
そのことを問題にしているのであって、日馬富士の暴行を騒いでいるのではないのです。
ただこの種のおかしなマスコミや世間の動きに関しては、大いに騒ぐべきだとも思っています。
モチベーションは湧きませんが。
ちなみに、地方の小さな会社の話でもマスコミは大問題に持っていけます。
そこにマスコミの暴力性を感じています。

中島さんのコメントにも共感します。私自身は格闘技ショービジネスに八百長は付き物だと思っていますので、何の違和感もありません。
それが悪いとさえ思っていません。

念の為に一言追加します。
私は、貴ノ岩が一番悪いと書きましたが、だからと言って彼を罰しようなどと言っているわけではありません。
悪いことをしっかりと認識させることこそが、貴ノ岩のこれからの人生にとって価値のあることであり、それを日馬富士と白鵬は、自分たちのネイティブな作法で教えたのだと思います。
怪我をさせるほど殴ったことも、私はあまり気にはなりません。
しかし、貴乃花の行動は、たぶん貴ノ岩のこれからの人生を壊したような気がします。
人を育てるということの重さよりも、自分の正義感や信念を優先させた、身勝手な行動のように思えます。
また少し書きすぎてしまったかもしれませんが。

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2017/12/04

■なんで貴ノ岩は非難されないのか

フェイスブックに、テレビを見ていて、腹立たしくなってしまいついつい、フェイスブックに投稿してしまったので、ブログにも残しておくことにしました。

腹立たしの勢いでの投稿です。
やはり書き残しておきたくなりました。
後で後悔するかもしれませんが。

日馬富士暴行事件ですが、私は一番悪いのは貴乃花であり、貴ノ岩だと思っています。
そこをあまり指摘しない世間の風潮に大きな違和感があります。
特に貴ノ岩を「一番の被害者」だといってかばう人が多いですが、どこかおかしい。
どうして誰も責めないのか。
あの傷は、そうたいした傷ではないと思いますが、それをあまりいう人はいません。
私も頭も切って血だらけになったことはありますが、医者にもいかずに治しました。

もし報道の情報が大きく間違っていないのであれば、事の発端は貴ノ岩の態度でしょうし、それを甘やかせて正せなかった貴乃花の責任ではないかと最初から思っています。
甘やかすのもいい加減にすべきです。

それと貴乃花の言動を木鶏に例える人が多いですが、どこが木鶏でしょうか。
木鶏とは心の問題であって、表面的な行動ではないはずです。
私には小賢しさしか感じません。

この記事は、私の不明さを露呈し、後で削除したくなりそうですが、正直な気持ちをどこかに書いておきたかったものですから。

毎日、テレビでこの事件を詮索している関係者には驚きます。
どうして出演拒否しないのでしょうか。

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2017/03/11

■森友学園騒動に見る問題のすり替え

この数日、いやそれ以上、テレビは森友学園騒動で独占された感があります。
問題を発掘し、これほどまでの話題にし、森友学園の小学校を不認可に持っていったのは、森友学園の前理事長が記者会見で言っていたように、マスコミの力かもしれません。
しかし、私には、マスコミは、テレビも新聞も、いずれも森友学園を応援し、さらには政治家や官僚を守ったようにしか思えません。
昨日の、理事長会見を見ていて、改めてそう感じました。
記者会見会場にいた記者たちは、一方的な長い理事長の話をひれ伏したように聞いていましたし、報道ステーションはじめ、ニュースなども、その報道の仕方は理事長の意図を讃えんばかりのものでした。
私の誤読かもしれませんが、理事長の言い分だけを切り離して聞けば、彼は憂国の国士ではないかと思う人もいるでしょう。
鴻池議員の会見の一部だけを見た人は、彼に好意を持ったかもしれません。
籠池元理事長の奥さんと報道陣とのやり取りだけを見た人は、彼女がとても善意で無邪気な人に見えたかもしれません。
テレビ報道は、どの局面をどう見せるかで全く違ってきます。
理事長会見は、肝心の疑問解明に入る前に、籠池さんが滔々と持論を「情熱的に」語る部分だけを流しました。
呆れたのか、途中で放映を辞めたテレビ局もありましたが、長々と流していたテレビ今日のほうが多かったように思います。
さすがにその解説で、なんで記者は遮って質問しないのかと不満を公言する、たぶん同業の先輩記者もいましたが、同業者から見てもふがいない貴社ばかりでした。
報道すべきポイントが、まったく違っています。
完全に籠池さんの土俵に乗せられて利用された感じです。
情報時代には、情報の受け手がしっかりしていないと、相手の土俵に引き込まれてします。
情報時代とは、非情報社会、まさにポスト真実の時代なのです。

そもそも問題の本質はそんなところにあったわけではありません。
国家財産を私物のように扱う政治家や官僚、さらには公的な資格証明である自らの名前を安直に利用させるに任せておく有名人のあり方をこそ問題にすべきです。
もちろん、個人の問題ではなく、仕組みの問題として、です。
そこを変えていかないからこそ、繰り返し同じようなことが起こっている。
なにか、誰にでもわかりやすい問題に矮小化され、結局は何も変わらないという結果で幕引きになりそうです。

こういう結果をもたらしたのは、まさにテレビ関係者だと私には思えます。
テレビはもう少し取り上げるテーマはもちろんですが、取り上げ方をしっかりと考えてほしいと思います。
またキャスターは、映像の編集をもっと重視してほしいです。
視聴者は、話す言葉よりも、映像に影響されるのです。

森友学園騒動から解放されて、少しまたテレビを見る気が出てきました。

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■煙石博さんの冤罪が晴れました

これまで何回か書いてきた、広島の煙石さんという元アナウンサーの方の訴訟の最高裁の判決がでました。
煙石さんは、66000円の窃盗の容疑で訴えられ、物証もなく、状況を知る限り、冤罪としか思えないのですが、有罪判決を受けてしまっていたのです。
昨日の最高裁の判決で無罪となり、冤罪が晴れました。
他人事ながら、うれしいことです。

この事件を知ったのは、広島の友人のおかげです。
広島の事件なので、最高裁に行くまでは関東圏では報道されることもなかったのですが、内容を知って驚きました。
警察の取り組み姿勢も含めて、まだこういうことが起こっているのだという、驚愕です。
私が中学生の時見た、八海事件を扱った映画「真昼の暗黒」を思い出しました。

冤罪を成り立たせているのは、司法制度にも問題がありますが、世間の関心の低さが、それを支えている面も否定できません。
多くの人がいまなお、司法の判断や警察の判断は正しいという前提で考えますから、自分ではきちんと考えようとしない傾向があります。
ですからいくら当事者が、あるいはその家族や友人たちが「冤罪」だと騒いでも、世間はなかなか耳をかしてはくれません。
それに、他人のそうした事件には関わりたくないという思いも、みんなどこかにあります。
ですから、冤罪はなくならないのでしょう。
そういう意味で、私にもまた責任があるわけです。

そういう思いもあって、このブログやフェイスブックなどに書きこんで、この事件の存在を私なりに広げてきました。
ですから、今回の無罪判決はとてもうれしいです。

実は昨日、このブログへのアクセスが急増しました。
その理由は、この判決でした。
話題になるとネット検索が増えて、私のブログにまでアクセスが増えるのです。
しかし、これも正直、ちょっと不安感もあります。
話題にならない限り、誰も関心を持たない。
話題になると過剰な関心を持つ。
それは結局同じことなのかもしれません。

マスコミの姿勢にも大きな違和感があります。
報道しても誰からも責められない事件を見つけると、最近の森友学園の事件のように過剰に報道する傾向が高まっています。
標的にされてしまうと、もう逃げようがないくらい執拗に追いこまれます。
世間もそれに同調して、そこに関心を集中してしまう。
その一方で、社会のさまざまなところで起こっている「小さな事件」は世間の目を逃れてしまう。
森友学園にまつわる事柄は、誰でもが「おかしい」と思うことですから、ただ罰して事態を質せばいいだけの話です。
ただただ詐欺罪として、あるいは官僚の背任事件として処理すればいいだけの話です。
ほんとうに恐ろしいのは、煙石事件のような話です。
私もそうですが、みんな最近は忙しすぎて、社会で起こっているおかしなことになかなか気づかないことが多い。
私は、そこに恐ろしさを感じます。

ちなみに、森友学園に関して言えば、マスコミは森友学園の見方であるような感じを私は受けています。
それに関しては、また別に書きたいです。

煙石さんの体験から、私たちは大きなものを学ばせてもらいました。
学んだことは、私も実行していこうと思います。

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2017/03/03

■豊洲をめぐる石原元都知事の記者会見

石原さんの記者会見見ました。
痛々しい思いで。
問題をすり替えて小池知事を非難したところにみじめさを感じました。
しかし、豊洲移転の責任に関しては、同情したいところもあります。
知事は神様ではありませんから、すべてを知っているわけではありません。
記者会見で問われていた「知事の印鑑を誰かが押印した」ということも事実でしょう。
大きな組織ではよくあることです。
そして、一人の個人に責任がいかないように、有限責任の組み合わせで、大きな責任を個人に背負わせることなく大きな決断ができるというのも、組織制度の目的の一つです。
以前もブログに書きましたが、組織とは責任を分散させる知恵から生まれた制度ですから、責任の問い質し方に、私は違和感があります。
記者会見を見ていて、まさに弱い者いじめを見ているようで気持ちが悪かったです。
石原さんの勢いがあった時には何も言わずに、いじめても大丈夫と思ったら痛めつける。
悲しい話です。

都知事や副知事の責任は大きいでしょう。
しかし、それ以上に、私は都議会議員の責任が大きいように思えて仕方がありません。
前川さんから事情を訊いておけという質問もありましたが、石原さんに依存しないで記者自らで聴きだせばいいだけの話です。
それもやらずに、弱い立場になった石原いじめをしている記者が私には情けないです。

念のために言えば、私は石原知事時代に、きちんと声をあげなかった都民にも不信感があります。
週に何回かしか登庁しない知事を許していた都民やジャーナリズムが、いまさらなんだという気がしないでもありません。
おかしい時おかしいと言わなければいけないということを、改めて思いました。

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2017/02/01

■都政とトランプ政治よりも安倍政治をしっかりと報道してほしいです

最近のテレビ報道は、都政とアメリカの話題に覆われています。
日本の国政の問題は、中心にはなっていないようです。
都政もアメリカの国政も大切でしょうが、私にはそれ以上に国政の動きが知りたいです。
しかし、多くの人は、そうではないのかもしれません。
そこから感じられるのは、いまや政治さえもが消費されるべき事件でしかないのだということです。

豊洲問題や小池知事と都議会の対立はドラマのように面白い話ではあります。
しかし、豊洲などは最初から本来築地の転居先にはなり得ないところですし(だから面白い物語になったわけですが)、議会と首長の対立はよくある瑣末な話です。
しかし、そうした話題が、ニュースショー的な番組で面白おかしく。詳細に報道されていて、しかもそこにコメンテーターという人たちが事情通のような解説をしていますが、それがどうしたという話ばかりです。

アメリカのトランプ発言はどうでしょうか。
相変わらずマスコミやコメンテーターは、反トランプの偏見に基づいて、酷評していますが、私には、トランプ大統領がやっていることは、日本の国政に比べて、それほど大きくおかしいとは思いません。
むしろ、問題の原点に戻って考えるという意味では、健全ささえ感じます。
たしかに人種差別的な大統領令には、共感できないものも多いですが、それとて今の日本の安倍政権やかつての野田政権がやっていたことと、そう大して違わないように思います。
沖縄や福島を見ていると、そう思わざるを得ません。
トランプ政権を批判する前に、まずは自分の国の国政をきちんと報道してほしいものです。

アメリカの最高裁判事の人事まで、日本では大きく取り上げられていますが、そもそも日本の最高裁の判事のことなどきちんと報道したり話題にしたことなどほとんどないのに、何でアメリカの新しい判事の良し悪しまで評価するのか、私には理解できません。
まあそうした都政とアメリカの政治に多くの人たちの目を向けさせている裏で、日本の国会は何を議論し、政権は何を進めているかが心配です。
沖縄はどうなっているのでしょうか。
共謀罪はどうなるのか。
安倍首相は海外に大盤振る舞いを続けていますが、国内の低所得者層にも少しは振舞ってほしいものです。
大学の学費の高さを知っているのでしょうか。
仕事がない若者たちの実態を知っているのでしょうか。
テレビももっとしっかりとした問題意識をもって取材し報道してほしいです。
ニュースはショーではないのです。

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2016/11/10

■トランプ勝利で思ったこと

アメリカ大統領選挙は、トランプの勝利になりました。
私の周辺には、この結果を早くから確信していた人もいますが、私自身はまったく考えていませんでした。
トランプが選ばれるはずはないという確信がどこかにありました。
しかし、現実はトランプの勝利。

改めて、私たちは「現場・現実から離れた情報」のなかで生きていることを思い知らされました。
現地のアメリカでも有名な新聞のほとんどがクリントン勝利を確信していたようですし、日本の「有識者」や「ジャーナリスト」もまたほとんどがクリントン勝利を直前まで語っていました。
なぜ多くの人が読み違えたのか。
判断の基盤となる情報が不正確で不十分だったからだと考えるべきでしょう。
いいかえれば、彼らの情報と現場の情報とがつながっていなかったのです。
マスコミや「有識者」の情報環境は、おそらく現場から遊離した「二次情報」だったのです。

30年以上前に、私は「非情報革命論」を書きましたが、情報化の進展は、現場とは別個の「情報空間」を生み出すと考えていました。
そして、どちらに住むかで、世界は見え方が変わってくる。
まさにそのことを体験させられた気分です。
それも、自分自身もまた、その世界(「情報空間」)にいることを思い知らされたわけです。
私は、マスコミには懐疑的で、今回の大統領選報道にも批判的に受け止めていたつもりですが、基本的にはそのマスコミ報道をベースに考えていたことが露呈しました。
まだどこかに、マスコミ情報の基盤の上で思考している自分がいるようです。
今回はアメリカ大統領選挙でしたので、すぐには自分の生活につながらないかもしれませんが、おそらく自分の生活につながるところでも、こうした状況に私自身陥っているはずです。
心しなければいけません。

マスコミ情報が現場情報と遊離していることを示唆するのは、今回が初めてではありません。
大方の予想を覆す事例は、最近増えてきているように思います。
現実空間と情報空間が乖離しだしているのです。
にもかかわらず、それを受け容れたくない自分がいるのかもしれません。

たぶんいまの国際政治も国際経済も、現実とは違った別の世界を生み出しているのです。
そのいずれの世界でも「同じ言葉」が使われていますので、違う世界に住んでいることに気づきにくい。
その典型が、アベノミクスの経済成長論です。
「世界」9月号の「時間かせぎの政治」という論文を友人が教えてくれました。
そこで、吉田徹さんが、安倍政権の政治手法は「期待値の操作」で、アベノミクスが成功しないのは、それがまだ不足しているからだ、と言い続ける。すると、景気回復の実感がない人ほど、いつかは自分にも恩恵が及ぶはずと思ってしまう。その結果、「マイナスの実感があってこそ、それらは期待値へと転換される」。そこにこそ安倍内閣が支持されてしまう逆説がある、と書いています。
しかし、生活現場から遊離した金融経済での景気回復は、いつになっても現場には届きません。
世界が違うからです。
「時間かせぎ」と書かれていますが、「時間軸」の問題ではなく、「空間軸」の問題ではないかと私は思います。

ちなみに、吉田さんの論文は、ヴォルフガング・シュトレークの「時間かせぎの資本主義」を参照していますが、シュトレークはもしかしたらトランプ勝利を予想していたかもしれません。
違った世界が見えていた人ですから。
「時間かせぎの資本主義」はとても示唆に富む本ですので、お勧めします。
http://cws.c.ooco.jp/book2.htm#009

他にもいろいろと思うことがあります。
たとえば、私の思考パターンがすでに情報空間型に馴致させられているのではないかという不安です。
少しずつブログで書いていこうと思います。

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