カテゴリー「司法時評」の記事

2018/12/14

■動いている時だけが運転しているとは恐ろしい話です

あおり運転事件の判決には驚きました。
止まっているときは運転とは言わないそうです。
どう考えてもおかしいでしょう。
しかしある弁護士はテレビで、「市民感覚には合わないかもしれないが、法的に言うとそうなる」と話しています。
この発言に、法曹界の専門家のおごりを感じます。
法律を市民感覚に準拠して解釈するのが法律の専門家の使命のはずです。
どう考えても理解できない。
運転とは何かを少し真面目に考えてほしいです。

運転は動いたり停止したりする行為です。
デジタル的に言えば、動いているときも止まっている状態の連続という捉え方さえありますが、それはともかく、停止中の行為は運転中の行為ではないというのはおかしいでしょう。

しかも、市民感覚には合わないかもしれないが、法的に言うとそうなるなどと白を切るに至っては許せません。

多くの人は、専門家は正しいと思いがちですが、そんなことは全くありません。
私の感覚では、いわゆる専門家には、知的でさえない人が圧倒的に多いのです。
いや怒りのために少し言い過ぎました。
反省。
しかし、お上だから、専門家だから、東大出だから、国家資格を持っているから、などということに騙されてはいけません。
その正しさを、みなさんも今年はたくさん体験したでしょう。

物事が正しいかどうかは絶対的な基準などありません。
その時代の多くの人が納得することが、その時代においては正しいことの基準です。
市民感覚こそが、正しさにとっての一番の準拠になるのです。
しかし、それだと混乱も起きかねないので、安定度を高めるためにつくられたのが成文法です。
しかし、その解釈は時代によって柔軟に対応できるように、解釈の余地があり、それを託されているのが司法関係者なのです。
彼らが基準にするべきは、法文としての法律ではなく、市民感覚なのです。

私が大学の法学部で学んだことの、それがすべてです。

テレビを見て、あまりにも馬鹿げた判決なので、とりあえず思いつきで書いてしまったので、きっと冷静になったら後悔するでしょう。
しかし、第一印象はとても大切です。
直感的に感じたことの方が、私の人生においては正しかったことが少なくありませんので。
冷静になって考えることは、往々にして悪しき洗脳の結果であるからです。

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2018/12/04

■弁護士と検事の使命

あおり運転死亡事故の裁判が話題になっています。
裁判の報道を見ていつも、検事にしろ弁護士にしろ、その基本的な姿勢に違和感を持つことが少なくありません。
つまり「裁判制度」そのものに私は違和感があるのです。
私自身もちょっとした裁判に関わる機会もあって、ますますその感を強くしました。

たとえば今回の事件で、弁護士はどうしたら被告の罰を軽くしようかといろんな論理づけをしています。
逆に検事はどうしたら被告の罪を重くできるかを考えているような気がします。
停車した後の事件なので「危険運転死傷罪」は成立せずに無罪だと弁護士は主張し、検事は法律に照らすと危険運転死傷罪は成立しにくいので、監禁致死傷罪も考えようとしているようです。
しかし裁判で問われることはそんなことではないのではないかと思うのです。

弁護士の役割は、被告の人権を守ることです。
人権を守るとはどういうことか。
もちろん冤罪は避けなければいけませんが、明らかに冤罪ではない今回の事件のような場合に、被告の人権を守るということは無罪にすることではなく、適切な罰を課することだろうと思います。
適切な罰を受けさせることこそが、私の考える個人の尊厳の尊重です。
個人の尊厳は、犯した罪に適切に服することも含意されていると私は思っています。
罪を逃れることと冤罪とは、私には同じものに思えます。
いずれも個人の尊厳を損なっている。

検事と弁護士は対立関係にあるわけではなく、違った視点から起こったことを評価し、より良い結論を導くための、いわば協力者でなければいけません。
駆け引きを主軸にした裁判にはどうも違和感があります。
映画「12人の怒れる男」での陪審員の時間をかけた話し合いこそ、裁判の基本でなければいけません。
お互いに証拠を隠し合って、相手を負かすことに精力を注ぐような裁判は、私には大きな違和感があります。
裁判はゲームでも闘争でもないのです。

もしかりに今回の事件の被告が無罪になったらとしたら、一番報われないのは被告ではないかと私は思います。
弁護士は、そうならないように、被告の尊厳を守るべきではないか。
罪は罪として認めることこそが、被告の、これまでのたぶんいろいろと問題が多かっただろう人生を正してやることにつながるのではないか。
そんな気がしてなりません。

報道から感ずる限り、今回の事件の弁護士には被告への愛情は感じられません。
そんなことは必要ないし無理だと言われそうですが、個人の尊厳を守るということは愛なくしては成り立ちません。
仕事として弁護士を選んだ以上、被告の尊厳を守ることにこそ人生をかけなければいけないと私は思います。
被告の悪いことは悪いとはっきりと質していかなければ、個人の尊厳は守れません。

きちんとした裁きが行なわれる社会こそ、みんなが安心できる社会です。
検察と弁護士と裁判官が一緒になって、三方よしの裁きをしてほしいと思っています。

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2018/11/28

■「1%と99%の戦い」の幕が上がった?

日産のゴーンさんの逮捕には興味はなかったのですが、最近の報道を見て、これはもしかしたらとてつもなく大きな事件になるかもしれないという気がしてきました。
一言で言えば、「1%と99%の戦い」の始まりです。
日本の検察がもしそれを意図的に始めたとしたら驚くべき話です。

ゴーンさんはまだ1%の人たちの仲間ではないとしても、1%側の人を目指しているだろうと思います。
その人を起訴することになれば、「1%と99%の戦い」になる可能性は否定できません。
すでに報道されていますが、アメリカでの最高の弁護士の一人が弁護することに決まったようです。
企業事件の裁判の本場はアメリカでしょうから、日本の弁護士などとは格段に強力な力を持っていると思われます。
私たちはともすれば、裁判に正義や真実を期待しますが、現在の裁判は正義や真実を問う場ではありません。
客観的なデータを材料にして、法に合っているかどうかを争う場です。
この種の裁判に手馴れているアメリカの弁護士とあまり手馴れているとは思えない日本の検事とでは、最初から勝負は見えているような気もします。

しかしよほどの自信がなければ日本の検察もこうしたドラマティックな宣戦の仕方はしなかったでしょう。
私がイメージしている検察は、勝つ方法がわかっていることしか起訴しない体質を感じます。
だから最初は、検察の後ろに日本政府やフランス政府がついているとばかり思っていました。
ですから前のノートに書いたように、私にはまったく興味がなかったのです。
ところがどうもその後の報道では、フランス政府もルノーも了解していないようです。
とすれば、これはとんでもない物語の始まりかもしれません。
日本の検察が1%族に戦いを挑んだというわけです。

しかしもう一つの解釈もあります。
これは99%族の成り上がり者が1%族になろうとしていることに対して、1%族が見せしめで、誘発させた事件かもしれません。
たかだか100億円足らずの小銭で、小賢しい細工をするような人は1%族の文化とは違う種族だと思われたのかもしれません。
それにそもそもゴーンさんの生き方は庶民的すぎます。
文化が合うはずがない。
そう考えると、この事件はどこかにおかしさがある。
そもそも「司法取引」などということが使われていることにも違和感があります。
報道の仕方も、ちょっと理解できないこともある。
もしそうだとすると、アメリカ最高の弁護士がゴーンさんについたことの意味を考え直さなければいけません。

この事件の筋書きを描いているのがどちらの人かはわかりませんが、いずれにしろ、「1%と99%の戦い」につながっていく可能性はある。
こう考えると、これまでまったく関心がなかったこの事件への興味がわいてきました。
西川日産社長の勇気に拍手を送りたいです。
西川さんも1%族の下っ走りでいれば、日本の多くの大企業の社長のように、あるいは多くの官僚や政治家のように、これまでのような暮らしができたでしょうに。

何が西川さんに起こったのか、それへの興味も出てきました。

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2018/05/10

■煙石さんの冤罪事件が番組で特集されました

挽歌編でも書きましたが、時評編で何回か紹介した広島で起こった煙石さんの冤罪がテレビで取り上げられました。
30分以上のしっかりした報道だったので、かなり正確に伝わったように思います。
私は、煙石さんとは面識はありませんが、友人が最初から煙石さんの無罪を確信して、私にも教えてくれていたのです。
先入観を持たずに、事実をしっかりと聞くだけで、たぶん煙石さんの無罪は最初から明らかだったように思います。
しかし、実際には2回の裁判で有罪という結果になり、最高裁でようやく無罪になりました。
日本の裁判の位置づけや役割が、よくわかる裁判事例だと思います。

日本の裁判は、国民の生活を守ることを第一義にはしていません。
そう言い切れるのは、有名な砂川裁判で、最高裁は「統治行為論」を持ちだして、政府の下部組織であることを明言したからです。
当時の状況を考えれば、やむを得なかったのかもしれませんが、砂川裁判で、日本の司法は死んでしまったように思います。
同時に、それは、日本における「正義」を方向づけました。
今日も国会で参考人として証言した柳瀬さんのような官僚を生み出してしまったこととも無縁ではありません。
最近は少し揺らいでいるようですが、「一強体制」の恐ろしさは、三権分立で社なく、行政独裁にあるように思います。

今回の番組を見てもらった人には伝わったと思いますが、日本の裁判や警察は、国民の生活を守るためにあるわけではありません。
いとも簡単に、平和な生活を壊す暴力性を持っています。
以前、厚生労働省の村木さんの事件がありました。
彼女は、その体験を活かしてくれませんでしたが、それでも裁判の問題点をいくぶんか顕在化してくれました。
司法の世界はもっと透明性と公正性を求められるべきではないかと思いますが、ある意味では、司法の世界は、権力にとっては大切な機能ですから、そう簡単には民主化はできないのでしょう。

煙石さん家族は、冤罪は晴れたとはいえ、人生を一変させてしまったでしょう。
煙石さんの人生が戻るわけでもありませんし、いまなお冤罪だということを知らない人もいるでしょう。
冤罪というよりも、一度、逮捕されたり訴追されるだけで、人の人生は脆くも崩れます。
それだけのつよい暴力性を持っている裁判制度が、司法関係者によっていかにも恣意的に運営されていることへの恐ろしさを感じます。

しかも、こういうことは、誰にも起こり得ることです。
幸いに、煙石さんには伴侶と息子さんがいました。
信頼する友人もいたでしょう。
裁判や警察という「暴力装置」から自らを守るためには、そういう、絶対に信じてくれる存在が不可欠です。
それにしても、司法から身を守ることが必要だという状況は恐ろしい気がします。

私もいつ煙石さんのような状況に追いやられるかわかりません。
その日のために明言しておきたいと思いますが、私はどんな時にも、決して嘘はつきません。
柳瀬さんや佐川さんのような人間ではないことだけを、ここに誓って明言しておきます。
もし「犯罪」を犯した場合は、その責はしっかりと受けるつもりです。
ちなみに、私は「犯罪」を犯すことよりも、嘘をつくことの方が恥ずべきことだと思っている人間です。

この番組のことは、煙石さんの友人でもある折口さんから教えてもらいました。
私も多くの人に知ってほしくてフェイスブックで紹介したら、10人を超える人たちがシェアしてくれました。
そして番組を見た感想を何人かの人が送ってきてくれました。
私の過去のブログへのアクセスも昨日は久しぶりに1000を大きく超えました。
わざわざ電話をくださった人もいます。
ささやかに煙石さんへのエールになれて、とてもうれしいです。

煙石家族の誠実な対応に敬意と感謝を捧げます。
煙石さんの行動が、間接的ではありますが、私の生活を守ってくださったことは間違いありません。

しかし、不条理の多い時代です。

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2018/05/08

■煙石博さんの冤罪事件がテレビで取り上げられます

広島で起こった煙石博さんの冤罪事件に関しては、ブログやフェイスブックで何回か書きこませてもらいましたが、5月9日(水)の午後9時からのTBS特番「一番だけが知っている」で取り上げられることになりました。
番組中、30分ほど、煙石時間が取り上げられるそうです。
お時間が許せば、ぜひともご覧ください。

友人経由で、煙石さんからのメッセージが届きましたので、ご紹介しておきます。
以下は、煙石さんのメッセージです。

最高裁での無罪判決が出て1年を過ぎましたが、失ってしまったものは、あまりにも大きく、壊されたグラスは元には返らない憤りと悔しさが消えません。少しでも私の人権の回復の為にならないかと色々バタバタしてはみますが、なかなか大変なものがあります。私の冤罪事件については、この3月にRCC中国放送が、無罪判決が出て1年として、特集で放送してくれましたが、これまで、東京の放送局から、ラジオ番組がひとつ、いくつかのTV番組から出演協力の依頼がありましたが、色々複雑な思いがあり、どれもお断りしてきました。

しかし、胸中には、常に私の身に降りかかったこの冤罪事件は、私だけの問題ではなく、同じパターンでこれがなされると、一般市民の誰でもが、いくらでも私の様な被害にあってしまうというそら恐ろしさを抱いておりました。再度、似た様な被害者が出て、自白したり、示談したりして人生を失い、泣き寝入りする事が無いように願うばかりですが、私の様な被害者が私の後に出ない為に、私の身に起こった、あってはならない真実を忘れて頂かない様にと思うのです。

ところが、「よかったですね。」と言って下さる方の中に、私の事件の顛末を詳しく知らない方もあり、具体的に真実を話すと改めて驚かれるのです。そんな訳で、身に降りかかった事件をかいつまんで私のホームページのブログの中に書いてきたもの(おととし2016年の10月頃から翌年3月10日最高裁の無罪判決が出る前まで書いています。)を改めてまとめて書きますと、・・・

私は身に覚えのない66600円の窃盗犯に仕立て上げられて、警察では証拠が無いのに信じられない理不尽な自白(お金を盗ってもいないのに盗ったと認めろという)を迫られ、検察では、「警察の間違いを指摘して下さい。」と私が懇願するのに、「盗ったか盗らないかは別にして、66600円に色を付けて、10万円位お金を払えば済むんです。」と、ひたすら示談を勧める検事に驚愕。結局、広島地裁と広島高裁での裁判は、正義と真実の女神(西欧の司法の歴史の中で、大切にされなければならない理念としてある様で、司法を勉強された方々は初学の頃習われるらしいのですが、)この正義と真実の女神の手足を縛って留置場に入れ、裁きの理論を構築していったようなもので、何が何でも有罪ありき(日本の司法は、逮捕、起訴されると有罪率99.9%という問題とされる数字は、それを物語っているものだろうと思います。)の裁判とは、有罪へのエスカレーターでした。

・・・私が体験した事を分かりやすく申し上げると以上の様になります。

それと、東京キー局への番組出演を複雑な思いの中にお断りしてきましたが、この度、TBSの特別番組で、東京で「行列のできる法律・・・」でよく知られている北村晴男弁護士が出演される「一番だけが知っている」という番組に、最高裁で無罪を勝ちとって下さった久保豊年弁護士とVTRで出演します(すでに収録済み)。制作スタッフも出来るだけ真実に基づいて番組作りをして下さる様ですが、とにかく、私の様な被害者が私の後に出ない事につながる様な内容となる様お願い致しました。

番組では、どなたかが私の役とそれぞれの役を演じる再現ドラマがあるそうです。そこは、ドキュメンタリーではないので、私の体験した真実通りではない部分もあるかもしれませんが、今後、私のような被害者が出ない事を願って、多くの方に見て頂きたいと思います。


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2017/12/24

■「わが事」を「われわれ事」にする

外からはなかなか見えませんが、人はみな、それぞれにドラマをかかえています。
昨日は3人の人と湯島で会いました。
それぞれに、思ってもいなかった「体験」に巻き込まれ、人生を変えてきた人たちです。
その体験をする前に持っていた、「常識」や「知識」は、その体験を通して、崩壊しました。
「常識」とは、信じていれば、とても安心で平安なのですが、その「常識」に裏切られないとは限りません。
「常識」はむしろ、現実を覆い隠すこともある。
それに気づいた途端に、世界の風景は変わり、自らの人生も変わってしまいます。
ある時には良い方向に、ある時には苦難に向けて。

昨日集まった3人の場合は、信頼していた「常識」に裏切られ、そこから日常的な苦難がはじまってしまいました。
私が、3人の人たちと出会ったのは、いずれも今年になってからです。
しかも、その内の2人は、つい1か月前に知り合いました。

私が、その3人に共感したのは、自分が味わった辛さや苦難を他の人には体験させたくないという思いから、社会に実態を伝えるとともに、そういうことが起きないような活動をしていこうと決意したことです。
それぞれ自らの生活も大変なはずなのに、自分の問題を社会の問題に捉え直して、活動に取り組む。
これこそが、私が考える「社会性」「市民性」です。
自らの体験として、知った以上は行動を起こす責任がある。
それが3人に共通する姿勢です。
その生き方に触れれば、私としても、看過するわけにはいきません。
私もまた、知ってしまったわけですから。
私に何ができるかを考えて、少し動いてみましたが、その問題の壁の厚さに改めて驚きました。
しかし、できることはあるはずです。

そんなわけで、顔合わせも含めて、4人で会いました。
3人には、共通するテーマがあったからです。
私自身は問題の当事者ではありませんが、同じような被害に合った人は、これまでも何人かいますし、私自身も疑問に思っていることのあるテーマです。
テーマは「司法」。
取り組むには、かなりリスクのあるテーマです。
しかし、知れば知るほど、後には引けなくなっていく。

先日の湯島のサロンで、政治のパラダイム転回に関して問題提起させてもらいました。
そこで、「わが事」を「われわれ事」にすることが、生活につながる「大きな政治」の出発点だと話させてもらいました。
そしてそのためにこそ、NPOやボランティアグループがあると思っていましたが、残念ながらその世界も今や「市場化」に向かっています。
市場化に向かってしまえば、「われわれ事」は、むしろ「わが事」になってしまいます。
それではせっかくのNPO活動も、政治のパラダイム転回にはつながりません。
ナチス時代のドイツと同じく、ただただ「小さな政治」のサブシステムになってしまい、パラダイム延命につながりかねません。
善意が、大きな悪事を支えかねないのです。

人は、それぞれにドラマをかかえています。
それを「私のドラマ」にとどめるか、「私たちのドラマ」にしていくか。
最近話題になっている、性的被害に関する「Me Too(私も)」発言の動きは、まさに「わが事」を「われわれ事」にしていこうという動きです。
セルフヘルプ活動やグリーフケア活動とは違ったベクトルとパースペクティブを持っています。
そうした動きが、政治のパラダイム転回につながっていくかどうか。
そこに期待と不安があります。

ところで、司法問題に関心のある人がいたら、ぜひご連絡ください。
権力のための司法から、生活のための司法に、というのが、大きな方向です。

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2017/10/13

■国の責任とは何なのか

10月10日、福島地裁は原発事故に関して国の責任認め賠償命じる判決を出しました。
原発事故をめぐる集団訴訟は全国18の都道府県で1万2000人余りが訴えを起こしていますが、今回の福島地裁の判決は3つ目の判決です。
原発事故を防げなかった国の責任を認めたわけです。
原告代表は、「国の責任が認められたことは評価できる」と話しています。
私は当然だと思いました。
賠償金ももっと払ってもいいのではないかと思いました。

ところで、こういう「国の責任」を認める判決が出た時、私は「国」とは何なのだろうかといつも悩みます。
政府という意味でしょうか。
それなら理解できますが、では政府とは何なのか。
私を含む国民が、社会統治を委託している人たち、つまり行政府ということでしょうか。
その政府の責任が問われ、賠償金を支払うということは、統治を委託した私たちの税金で賠償するということです。
ということは、実際には政府を構成する統治者たちが賠償金を負担するわけではありません。
賠償金を負担するのは、被告(被災者)を含めた国民であって、責任が問われる行政府の人ではありません。
これはおかしいのではないのか。
いつもそう思うのです。
国の責任とか政府の責任などと言わずに、行政府の誰かを被告にすべきではないかと思うのです。
政府の責任が問われて賠償金が認められたのであれば、賠償金は政府のトップである首相や管理責任者が払うべきではないかと、私はいつも思うのです。

神戸製鋼が今回とんでもない不祥事を起こしました。
昨今の企業は一体どうなっているのかと思うのですが(私の考えでは1980年代頃から日本の企業はおかしくなりだしています)、株主訴訟で経営者の責任が問われ、場合によっては賠償金の請求が個人にも行くでしょう。
不祥事があれば、社長が謝罪に出てきます。
しかし、国家の場合は、そういうことはほとんどありません。
それがどうしても理解できません。

もう一つ理解できないのは、賠償金額が低すぎることです。
もし自分が被害当事者になったなら、こんな賠償金で生活が戻るはずはありません。
少なくとも私の感覚では一桁は違います。
被災者とそうでない人との感覚の違いでしょうが、あまりにも低すぎます。
そして、こういう問題が起きても、相変わらず原発はコストが安いなどと言っている人が多いことも不思議です。
さらに、原発再稼働を支持している人がいることは、私には信じがたい話です。

こうした裁判の被告は、「国」などという制度対象にするのではなく、首相や行政官僚にすべきではないかと思います。
もし国にするのであれば、賠償金は国民全員で均等に負担するようにすべきです。
もちろん原告も含めてです。

得をする人と損をする人。
誰かが得をし、だれかが損をするための制度が国家なのでしょうか。
そんな国家は変えていかなくてはいけないと思います。
国の責任と言われて、自分の責任につなげて考えられない人は主権者ではありません。
国に責任があり、賠償金を支払わなければいけないということは、国民一人ひとりが問われていることです。
でもほとんどの人は、国の責任を認めた判決を読んでも、自分とは無縁だと思うでしょう。
どう考えてもおかしな話ではありませんか。

ともかくこうした判決が出ると、私はいつも悩んでしまいます。
頭がこんがらがって仕方がありません。

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2017/05/27

■広島の煙石博事件の顚末がテレビで放映されます

何回かここでも取り上げた広島の煙石博事件を題材にしたテレビ特別番組「私は無実です ~防犯カメラで真実は見えるか~」が、TBSの「ザ・フォーカス」で放映されます。
6月2日(金)の深夜1時25分からです(実際の日付は6月3日ですが)。
番組紹介は下記にあります。
http://www.tbs.co.jp/jnn-thefocus/ 

ぜひご覧ください。
事件および番組の概要は下記の通りです。

広島市の煙石博さんは、自宅を訪ねてきた刑事に任意同行を求められ、窃盗容疑で逮捕された。銀行で他の客が置き忘れた封筒から現金6万円あまりを抜き取った疑い。
煙石さんは長年アナウンサーとして活躍した地元の有名人。事件は大きく報道され、アナとして築いた名声は地に落ちた。煙石さんは潔白を主張し続けたが、1審と2審で有罪判決を受けた。
有罪の証拠とされたのは、防犯カメラの映像だ。実はこの映像は不鮮明で、人物の行動の詳細が確認できるものではなかった。
のちに煙石さんに無罪判決を言い渡した最高裁は、映像では犯行事実は何一つ確認できないことを指摘している。このような映像が、なぜ犯行を裏付ける証拠として扱われたのだろうか。事
件を糸口に、映像に頼った犯罪立証をめぐる問題を取材した。

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2017/03/11

■煙石博さんの冤罪が晴れました

これまで何回か書いてきた、広島の煙石さんという元アナウンサーの方の訴訟の最高裁の判決がでました。
煙石さんは、66000円の窃盗の容疑で訴えられ、物証もなく、状況を知る限り、冤罪としか思えないのですが、有罪判決を受けてしまっていたのです。
昨日の最高裁の判決で無罪となり、冤罪が晴れました。
他人事ながら、うれしいことです。

この事件を知ったのは、広島の友人のおかげです。
広島の事件なので、最高裁に行くまでは関東圏では報道されることもなかったのですが、内容を知って驚きました。
警察の取り組み姿勢も含めて、まだこういうことが起こっているのだという、驚愕です。
私が中学生の時見た、八海事件を扱った映画「真昼の暗黒」を思い出しました。

冤罪を成り立たせているのは、司法制度にも問題がありますが、世間の関心の低さが、それを支えている面も否定できません。
多くの人がいまなお、司法の判断や警察の判断は正しいという前提で考えますから、自分ではきちんと考えようとしない傾向があります。
ですからいくら当事者が、あるいはその家族や友人たちが「冤罪」だと騒いでも、世間はなかなか耳をかしてはくれません。
それに、他人のそうした事件には関わりたくないという思いも、みんなどこかにあります。
ですから、冤罪はなくならないのでしょう。
そういう意味で、私にもまた責任があるわけです。

そういう思いもあって、このブログやフェイスブックなどに書きこんで、この事件の存在を私なりに広げてきました。
ですから、今回の無罪判決はとてもうれしいです。

実は昨日、このブログへのアクセスが急増しました。
その理由は、この判決でした。
話題になるとネット検索が増えて、私のブログにまでアクセスが増えるのです。
しかし、これも正直、ちょっと不安感もあります。
話題にならない限り、誰も関心を持たない。
話題になると過剰な関心を持つ。
それは結局同じことなのかもしれません。

マスコミの姿勢にも大きな違和感があります。
報道しても誰からも責められない事件を見つけると、最近の森友学園の事件のように過剰に報道する傾向が高まっています。
標的にされてしまうと、もう逃げようがないくらい執拗に追いこまれます。
世間もそれに同調して、そこに関心を集中してしまう。
その一方で、社会のさまざまなところで起こっている「小さな事件」は世間の目を逃れてしまう。
森友学園にまつわる事柄は、誰でもが「おかしい」と思うことですから、ただ罰して事態を質せばいいだけの話です。
ただただ詐欺罪として、あるいは官僚の背任事件として処理すればいいだけの話です。
ほんとうに恐ろしいのは、煙石事件のような話です。
私もそうですが、みんな最近は忙しすぎて、社会で起こっているおかしなことになかなか気づかないことが多い。
私は、そこに恐ろしさを感じます。

ちなみに、森友学園に関して言えば、マスコミは森友学園の見方であるような感じを私は受けています。
それに関しては、また別に書きたいです。

煙石さんの体験から、私たちは大きなものを学ばせてもらいました。
学んだことは、私も実行していこうと思います。

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2017/02/25

■煙石事件続報

先日、書いた煙石博さん事件の裁判に関してですが、今日、最高裁から弁護士事務所を通して、3月10日(金)15時から最高裁判所第2小法廷で判決公判が開かれることが決定したと、煙石博さんに通知があったそうです。
友人からのメールです。

煙石博さんは2月17日、司法記者クラブでの記者会見で、次のように話されています。

私は煙石博です。66,600円を盗ってもいないのに、盗ったとさした。
私は無実です。この事件で、定年後の、人生の貴重な時間と仕事を失ってしまっただけでなく、長年、私の築いてきた信用と信頼を一気になくし、私の人権も社会的存在も失ってしまいました。さらに私の家族にも大きな負担をかけ続けてきました。私は無実です。
最高裁に上告して2年と2か月、ようやく2月17日に弁論となりました。
私は、今まで、警察、検察、裁判所に対して、これほど不信感をもった事はありませんでしたが、今は、警察、検察、裁判所に、大きな不信感と、激しい憤りを感じております。
最高裁においては、それを払拭して下さる様な、正義と真実に基づいた、公正なる判断をお願いするばかりです。

このことを教えてくれた、広島の私の友人は、次のように書いてきてくれました。

先日も、RCCラジオ番組で、先日の弁論について取材した記者が番組の中で説明しておられましたが、報道に対する危機感も感じておられるようです。 佐藤さんが、いつもおっしゃっているように、他人事と思っていると危機は目の前に迫って来ているのかもしれませんね、どうかご自愛下さいませ。

最後の「どうかご自愛下さいませ」という言葉はどういう意味でしょうか。
不気味な時代の足音が聞こえるような気がしないでもありません。
このままでいいのか。
今日も湯島でそんな話し合いをしていましたが、みんな何をしたらいいのかわからないまま、怒りと不安だけが募ってきています。
80年前の日本もドイツも、こんな感じだったのでしょうか。
煙石博さんの事件は、多くの人に関心を持ってもらいたい事件です。

フェイスブックにこの記事を書いたら、早速友人が書き込んでくれました。

不条理は誰の身の上にも大なり小なり起こることとはいえ、佐藤さんのお人柄を信じてこの方に降りかかった不条理をともに怒ります。

私はこうコメントさせてもらいました。

ありがとうございます。 ご指摘の通り、私も不条理は誰にも起こることゆえ、それを受けることには、最近そう大きな抵抗がなくなりました。 しかし、不条理を意図的に起こすことができるような社会には、やはり抗いたいと思っています。

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