カテゴリー「司法時評」の記事

2009/10/03

■政権交代と検察の動き

政権交代で私が一番関心を持っているのは、検察の動きです。
西松事件は誰が何と言おうと「政治性」を背景にした政権による捜査だと思いますし、検察や警察が権力のために動いていることは明らかです。
新聞に載っている事件だけでも、整理分析したら、そんなことはすぐに実証されるでしょう。
権力に楯突けば、どんな小さな事件でもいくらでも膨らませられますし、冤罪をつくることなどそう難しい話ではありません。
コラテラル・ダメッジは、社会の秩序を維持するためにはなくすことなどできません。
フーコーは法は戦争と言っているようですが、法と暴力は同根であり、法によってひどい目にあうことは当然あるわけです。
秩序とは誰かの犠牲の上にしか成り立たないのですから。

以前も書きましたが、違法行為は必要に応じて黙認されますし、合法的ではない暴力もまた黙認されることはよくあります。
近代法の本質は、その解釈の多義性にあります。
カフカが示唆したように、ある日、突然、わが家に警察がやってきて、私を犯罪者にすることは簡単なことであり、実は私たちはそうした危険性と隣り合わせに暮らしているのです。
それが法治国家です。
足利事件の菅谷さんのようなことは、いつだれに起こってもおかしくないのです。

処罰の対象となる違法行為や非行性は、時代によって、状況によって変わっていきます。
違憲行為ですら、時の権力者が行えば許容されます。
行政に寄生している日本の司法は、違憲判決を出しても、その行為を正すことさえできません。
つまり正式の裁判によって「違憲」とされた犯罪行為も黙認されるのも、法治国家の特徴です。

法治国家において権力の核にあるのは「正義」ではありません。
フーコーは「非行者は法の外にいるのではなく、法の中心そのものに位置している」とさえ言っていますが、その非行者と検察や警察はつながっています。
念のためにいえば、だからダメだというつもりはありません。
その自覚や理解がないことが問題なのだす。
アメリカのサスペンス映画では、まさにそうした構造がテーマになっているものが少なくありませんが、権力を監視する目が社会の中にどれだけあるかがとても重要です。

鳩山首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」をめぐる虚偽献金問題で、東京地検特捜部が動き出しました。
どう展開するのか興味がありますが、西松事件も含めて、検察のあり方に政治がメスを入れていってほしいと思います。
験され正されるのは、検察自身ではないかと思っています。

八ッ場ダムの建設中止も、補正予算ストップも大事ですが、検察の本性を暴きだすこともとても大事だと思います。
抗っている非行者たちをなだめるために、検察を正さなければいけません。
マスコミにはあまり出てきませんが、権力に翻弄されているおかしな事件は山のようにあります。
政権交代によって、そうした事件がもっと見えるようになってほしいと思っています。

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2009/09/22

■裁判員制度が好評ですって?

今日は「私憤」をこめて。

19日に朝日ニュースターのテレビ番組での体験なのですが、キャスターのばばさんが「裁判員制度も始まるまでは反対者が多かったのに、始まったら好評ですね、日本人の習性ですね」という話をして、裁判員制度を推進してきた小林元弁護士に話をふりました。
小林さんも、始まる前は半分以上が反対でしたと答えました。
裁判員制度に大反対の私は心中穏やかならずにムッとしていましたが、その話の後、突然にばばさんは私に別の話題で話を向けてきました。
正直、とても不愉快な気分でした。
もちろん、ばばさんも小林さんも私が裁判員制度反対なのを知っているはずです。
裁判員制度が始まる前に、この番組でも私は批判したことがありますし。

まあそれだけの話なので、こんなところに書くつもりはなかったのですが、昨日、八ッ場ダム問題を例にして報道の偏りについて書きましたので、もう一つの例として、裁判員制度を書くことにします。
まあ、いささか「うっぷんばらし」でもあるのですが。

最近の新聞は、裁判員制度を既成事実として肯定し、その普及啓発活動に移っていますが、マスコミの報道しないところでは、「裁判員制度はいらない!大運動」も起こっています。
http://no-saiban-in.org/
各地での抗議運動も始まっていますが、あまりマスコミでは取り上げられないでしょう。
民主党政権になって変化があるかもしれませんが、いまの段階では話題にはされていません。
それにどうも千葉景子法相はいまの裁判員制度に(私が知る限り)反対ではないようです。

マスコミの報道だけで思考しているとばばさんや小林さんのような発想になるのでしょう。
見たいものしか見えなくなるというわけです。
お上に飼いならされることだけは注意しないとまた80年前の繰り返しになりかねません。

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2009/08/23

■改めて「ニュールンベルク裁判」を観ました

昨日、映画「ニュールンベルク裁判」に言及しましたが、書いたことが気になって確認のために映画を観てしまいました。
3時間の大作ですので、途中でやめたかったのですが、記憶していた以上に現代の日本につながっているようで。結局、最期まで観てしまいました。

この映画を観たのは私が大学生の頃ですが、当時、私は検事を目指していました。
当時私が理想としていた検事像が描かれており、当時を思い出してしまいました。

それはともかく、この映画の中で語られる一言一言がとても示唆に富んでいます。
今の日本がナチスが勢いを持ち出した当時のドイツと同じだとはいいませんが、どこかつながるところを感じますし、司法の本質も感じます。
50年ほど前の映画ですが、機会があったらぜひ観てください。
このブログでもまた取り上げていきたいと考えています。

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2009/08/22

■最高裁判事の国民審査に先立って

先日、NHKのBS放送で「ニュールンベルク裁判」が放映されました。
その関係で、「ヤニング」などという検索ワードで、このブログへのアクセスが増えていました。
この映画は大きなメッセージを出している映画で、多くの人に観てほしいですが、こうした映画が少なくなったように思います。

この映画で、検事と弁護士がやりあう場面で、「裁判官は国家を守るべきか、国民を守るべきか」という議論が出てきます。
国家を守るのも国民を守るのも同じではないかと思う人もいるでしょうが、これは全く正反対の発想です。
ちなみに、このブログの時評編の根底にある考えは、まさにその違いから出ています。
組織起点で発想するか、個人起点で発すするかの違いですが、いま、その社会の構成原理がパラダイム転換しようとしていると考えているのが私です。

8月30日の衆議院選挙に合わせて、最高裁判事の国民審査が行われます。
おそらくほとんどの人は、これに関してはあまりしっかりと考えていないでしょう。
しかし、ある意味では、国民生活から考えれば、こちらの方にこそ大きな意味があるともいえます。
映画「ニュールンベルク裁判」は、そのことも示唆しています。

審査の対象になる判事の言動は、ほとんどの人は知らないでしょう。
私自身もほとんど知りません。
しかし幸いにそれぞれの判事のこれまでの判決姿勢や発言などを簡単に整理してくれているサイトがあります。
Matimulog―北の国から見る法・裁判・民事、そしてサイバー法というサイトに、「vote:最高裁判事の国民審査下調べ」という記事が出ています。
ぜひお読みください。

今朝の朝日新聞に、今年1月に最高裁判事を辞めた泉徳治さんのインタビュー記事が大きく出ています。
そこで泉さんはこう発言しています。

「日本に『和をもって貴しとなす』という言葉があるように、裁判官の間では伝統的に、自分の個性を出さないで判断するのがよいと考えられてきました。これまでの判例の枠の中で答えを出すことが、法的な安定性、公平性につながるという考えが根強いのです」
ここにまさに、日本の司法の根本理念が感じられます。
その記事でも触れられていますが、裁判官出身の最高裁判事(比率的には一番多い)は、違憲判断することが少ないと指摘されていますが、それは憲法解釈の視座を国家(政府)においているからです。
つまり「勝てば官軍」の精神があるのです。
その精神が法治原則の対極にある考えであることはいうまでもありません。

8月30日の選挙では、国民審査も重視してほしいと思います。
なかには、いつも全員×にしているという人もいますが、それでは全員○と同じ効果しか持ちません。
審査には、それなりの汗をかかなくてはいけません。

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2009/08/07

■パソコンはただの部品の組み合わせた箱

ノートパソコンのキーボードが一部、動かなくなってしまいました。
キーボードを外して掃除したら直るかもしれないと、パソコン通の坂谷さんが教えてくれました。
坂谷さんは、先月、私のパソコントラブルを解決してくれた恩人です。

坂谷さんに教えてもらって、パソコンのキーボードを取り外してみましたが、今回は残念ながら直りませんでした。
しかし、どうも病み付きになってしまい、今日も2台のノートパソコンのキーボードを外してみました。
パソコンを分解するのは気分がいいものです。
いま使っているメインのパソコンも一度分解してみましたが、万能に思えるパソコンも分解してみれば、何のことはないただの箱でしかありません。
それがわかるだけで、パソコン信仰はなくなります。
これから時々、意味もなく、パソコンを分解したくなりそうです・

パソコンはモジュール化していますから、その構造を知ってしまえば、組み立てや改造もできるのでしょう。
誘惑的な魅力を感じます。
もちろん今の私にはそれは無理ですが、そうやっている人の気持ちが少しわかったような気がします。
そうした魅力に勝てずに、以前はいろんなものを壊してきましたが、パソコンは極めてシンプルな構造なので壊しようがないかもしれません。

まあどうでもいい話なのでが、実はこういう行為にとても大きな意味があるような気がしています。

私たちはいろいろな制度や専門家に関わりながら生活を成り立たせていますが、そうした制度や専門家も要するに中身を知ったらたいしたことはないということを言いたかったのです。
そもそも大昔は、そんな制度もなく、専門家もいませんでした。
百姓的な生活に憧れる私としては、自分でできることは自分でしたいと思っているのです。
それが、昔からのわが家の文化でもありました。
必要なことを市場から調達せずに、自分たちで対応すれば、前にも書いたように経済成長にはつながりません。
ですから、私の生き方は、極端に言えば、反経済成長路線の生き方なのです。

制度もそうです。
制度は、それに関わる人が気持ちよく生きるための仕組みですから、制度に合わせなければいけないなどと発想する必要はありません。
制度をつくる人は、難しい制度をつくりたがりますが、その制度も分解してみたら、わずかなルールで成り立っているのです。
有名なボイドの話を思い出します。
しかし、私たちは多くの場合、複雑さを装う目くらましの制度にがんじがらめにされているような錯覚に陥りがちです。

今回の裁判員裁判は、裁判官も検事も弁護士も、所詮は普通のおじさん、おばさんなのだということを見せてくれた効用はあったのかもしれません。
普通以下ではないかと気づいた人も少なくないでしょうから、その弊害もまた大きいのですが。

時にパソコンを分解するのは、そうした錯覚的人生の呪縛から解き放たれる効果があるように思います。

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2009/08/06

■完全にショー化している裁判員裁判

裁判員裁判は、やはり気になります。
これほど「ひどい制度」がさも新しい価値を持っているように報道されていることに恐ろしさを感じます。
裁判が、完全に「ショー」になっています。
裁判員が記者会見をやるなどと言うのは、正気の沙汰ではありません。
それに法曹界関係者のコメントにはあきれてものが言えません。
こういう人たちに、私たちは自らの生命と生活を預けていたのかと愕然とします。

今日、お会いしたアジア女性資料センターの関係者から、「裁判員制度における性犯罪被害者の安全とプライバシーを守るキャンペーン」の活動の話を少しお聞きしました。
すでに気になっていることが実際に起こっているようです。
こうした問題提起をマスコミはきちんと理解しているのでしょうか。

私の友人の弁護士は、裁判員制度は4.5年もすればなくなるよ、と言っていましたが、もしそうであっても、その4,5年のうちに、日本の裁判制度はぼろぼろになりかねません。

ストーカー不安を訴えても警察は誠実に対応してくれない状況はいまなお続いているように思いますが、この国の治安はいささか危うくなっています。

政治がおかしくなっているのではありません。
すべてがおかしくなっている。
そんな気がしてなりません。

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2009/08/03

■日本の司法制度は坂道を転げ落ちていくのでしょうか

今日から裁判員裁判が始まりました。
日本の裁判制度が魂を売った日になるだろうと思いますが、本当にこんな制度が実行されるとは驚きです。
この制度は数年で終わるだろうと法曹界の友人が話していましたが、そうはならないでしょう。
裁判制度の方向は、建前とは反対に国民不在の方向へ振り子を振ったのですから。

私がなぜそう思うかは極めて簡単です。
これまでの行政の得意芸だった「住民参加」思想と同じからです。
住民参加もアリバイ工作だったように、この制度も明らかにアリバイ工作です。

裁判員制度が適用されるのは、第一審の地方裁判所での裁判です。
多くの刑事事件は上告されます。
上告審では裁判員制度は採用されません。
つまり第一審でどんな判決が出ようがいかようにも変えられます。
つまり裁判員制度はアリバイ工作の制度でしかないのです。

もし本当に国民の参画を目指すのであれば、最終審に国民を参加させなければ意味がありません。
専門家による判決が、国民常識から見ておかしいかどうかを、「常識を持った生活者」の多様な目で吟味するのであれば、それなりの意味があるでしょう。
この一事をもってしても、裁判員制度の無意味さがわかるはずです。

今日のテレビの報道を見ていると、相変わらず瑣末な手続き論ばかり報道されています。
唯一つ、裁判員の最終決定するくじ引きが、当事者の前ではないところで行われたということが、私には印象に残りました。
それが事実であれば、実に象徴的な話です。
日本の司法改革の本質とベクトルが垣間見えます。

「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」の記事を思い出しました。
日本の司法制度は坂道を転げ落ちていくのでしょうか。
それとも、郵政民営化のように、5年後にはまともな議論が始まるのでしょうか。

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2009/06/20

■「敵は民主党」のプロパガンダ裁判

西松建設の前社長の政治資金規正法違反の初公判が行われました。
その裁判のあり方と報道を観ていて、感ずるのは、コミュニティの裁判がプロパガンダ裁判ではないかと言うことです。
相変わらず検察と権力とマスコミが連携して、政治に関わる世論操作をしているという感じがします。
一方的な検察の話が報道され、それを吟味する反対意見はなく、しかも「敵は民主党」と言う感じです。
それに迎合した有識者の動きには不快さが残ります。

政治と金の問題で言えば、もっと大掛かりのことがまさに現政権によって行われていますが、それは不問にされています。
そこにも大きな不快感をもちます。
なにがエコポイントでしょうか。
単なる消費奨励策であり、それが環境負荷を高めるのは明らかです。
アンチエコポイントと称してほしいものです。

世間の目は、大きな本質的な事件にはなかなか向きません。
わかりやすい事件を単純化してしまうのが、プロパガンダのポイントです。
しかし、大切なのは、そうしたプロパガンダが壊していくものです。
裁判員制度も、司法改革というスローガンのプロパガンダの一翼を担ったものだと思いますが、よく考えればそれは、改革のベクトルは議論されていません。
国民に開かれたとか透明性が歌われていますが、私は全く反対方向を向いていると思います。
そろそろ権力のための司法制度は見直してほしいものです。

菅谷さん事件にしろ、横浜事件にしろ、これだけおかしなことが露呈されだしているのに、いまだ司法の世界には「責任」の概念が導入されていません。
もうプロパガンダは辞めて、司法の実体に「改革」の目を向ける時期ではないかと思います。

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2009/06/05

■人を信ずるところからこそ人は裁ける

足利事件で服役中だった菅家受刑者が再審開始を前に釈放されました。
その記者会見をテレビで見ましたが、17年の彼の人生は戻ってくることはありません。
彼の父親の死にも、警察や検察、あるいは裁判官は責任を感ずるべきでしょう。
その覚悟がなくて、人を裁くことなど引き受けてはいけません。
裁判とはそれほどのものであると、私は思いますので、裁判員制度にはついていけないのです。

この報道に対しては、さまざまなところで既に議論されていますので、付け加えることもないのですが、ひとつだけ書いておきたいことがあります。
それは、「疑わしきは罰せず」の法理を、日本の裁判官は思い出せということです。

多くの冤罪事件は、警察や検察の中には、それが冤罪であることを知っているか、または疑っている人は少なくないと思います。
なぜならば、冤罪をつくりあげるのは、まさに警察や検察の人だからです。
もしそうであれば、裁判官はその気になればそれに気づくことは不可能ではありません。
それが見抜けないような裁判官は、誠実さにおいても能力的にも、裁判官になってほしくないものです。
しかし多くの裁判官に、そうしたことを期待するのは無理かもしれません。
そこにこそ、日本の裁判制度の問題があります。

「疑わしきは罰せず」の法理をもっと大事にするべきです。
そこから司法改革は始まるはずです。
人を信ずるところからこそ、人は裁けるのです。
司法界の文化を変えなければいけません。

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2009/06/03

■御殿場事件と裁判官の犯罪

御殿場事件に関しては、数年前に話題になったのでご存知の方も多いと思います。

ウィキペディアには次のように書かれています。

静岡県御殿場市の御殿場駅近くで2001年9月に発生したとされる集団強姦未遂事件。被害者の証言に数々の不可解な点があり、犯行がおこなわれた日時が裁判途中で被害者の供述のみにより変更され、検察側により「訴因変更」が行われるなど世間の耳目を集めた。被告人側は、強姦事件そのものが存在しない架空の事件であり冤罪であると主張している。
この問題は長野智子さんがご自分のブログも含めて、ずっと追跡取材していますが、一昨日(2009年6月1日)、テレビのドキュメンタリ宣言でまた取り上げていました。
番組サイトに動画も出ていますので、お時間があればご覧ください。
私にはこの事件の真相はもちろんわかりませんが、最高裁がまさかの上告棄却としたのには驚きました。
明らかに警察の捏造事実があり、また被害者の証言変更〈被害のあった日がつじつま合わせのためか後で変わったようですが、そんなことは絶対にありえない話です〉があったのですが、最高裁は事実の審理を拒否したのです。
私には特権を持っている裁判官の犯罪としか思えません。
こうしたことを残したまま、裁判に国民を巻き込むなどと言うことはありえない話なのです。
つまり冤罪隠しと裁判員制度は、深くつながっています。

この事件が冤罪かどうか、はともかく、その可能性は否定できません。
だとしたらもっとしっかりと審議すべきです。
新しい事実も出てきているのですから、審議すべき責任が裁判所にはあるように思いますが、もし法的責任がないとしても、これだけ疑義が突きつけられているのであれば、しっかりと事実を再調査し、その疑義、つまり不信感を解消しなければいけません。
それがあってこそ、裁判制度は持続できるのです。
国民に信頼されない裁判制度は国王(統治者)のものでしかありません。
そうした裁判に、統治される国民を狩り出して冤罪に加担させる仕組みこそが裁判員制度だろうと私は思います。
もし国民に裁かせるのであれば、裁判官は不要です。
裁判官制度や検察制度を変えることなく、裁判制度を変えることの可笑しさに気づくべきです。
前にも書きましたが、日本の裁判制度の基本構造は、民主主義には立脚していません。
明治憲法体制、つまり権力者支配体制に立脚しています。

堀田力元検事が、検察官には説明責任がないと発言したように、検察官は権力者のために事件をでっち上げるための存在なのかもしれません。
裁判官も警察官も、おそらくその国王の検察には立ち向かえないのかもしれません。
おそらくこうした仕組みは、もう30年もしたら瓦解するでしょうが、いまはまだ「権力者の不正義は犯罪にはならない」社会なのです。

いささか書きすぎていますが、
この事件に関しては、すでに刑が確定して、2人の若者はいま刑務所に収監されています。
もしこれが原告の狂言まわしだったとしたら、その2人の若者の人生をどう補償するのでしょうか。
気が遠くなるような話です。
しかし、こうしたことが今なお、決して少なくないのだろうと思います。
そして私たちもまた、そういうことと無縁ではないということです。

みんなが「マスク」をしたくなることがよくわかります。

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2009/05/30

■国王の処刑

いささか穏当でない話を書きます。

自分たちを統治するために国王を選んだのであれば、その統治がうまくいかない場合、国王は追放されるのが論理的です。
国王が神から選ばれた場合、もし統治に失敗すれば、処刑という運命が待ち構えていたという話を本で読んだ記憶があります。
心当たりの本を少し探してみましたが、見つかりません。
ですから引用はできないのですが、この文化は多くのことを含意しています。
もっとも、その文化は、クロムウェルが英国国王を処刑し、フランスでは革命軍が国王を処刑したあたりが最後だったかもしれません。
ナポレオンもヒトラーも処刑されませんでした。

それに類した話は、今もなお続いていますが、多くの場合は、単なる権力闘争でしかありません。
しかし民の幸せを踏みにじるリーダーは追放ではなく処刑こそが相応しいと、私は思っています。
誤解される恐れがありますが、処刑に賛成しているわけではなく、自らの生命を賭けるほどの自覚がなければ、人を統治すべきではないということです。
統治の失敗は、多くの民の生命を損なうことにつながっているのですから。
事実、この10年、どれだけの人が政治の失敗で生命を失っていることでしょうか。
私は小泉元首相は凶悪犯罪者と考えていますが、私にとっては麻生首相も間違いなき犯罪者です。
いずれも近世以前であれば、処刑の対象者です。

彼らがもし企業の社長だったら、たかだかその会社を倒産させる程度ですんだかもしれません。
その息子は、借金に苦しんだかもしれませんが、まあ世襲の輪は切られ、彼も自分の人生を生きることができるようになるでしょう。
そうなる前に、殿ご乱心と社長を諌める人が出てくるかもしれません。
株主(最近の株主には倫理も良識もないかもしれませんが)も動き出したかもしれません。
しかし、国家の場合はそういう動きは出ないのです。
今の麻生政権を見ればわかるでしょうが、首相の犯罪は周りの人たちで守られているのです。
しかも首相は誰も辞めさせられません。
それを利用している官僚たちは、無能な人であるほど、辞めさせないでしょう。
首相の座を投げ出すほどの勇気も能力もない人が首相であることは、官僚にとっては実にうれしいことでしょう。

北朝鮮の金正日を独裁者と言う人がいますが、麻生首相はたぶんそれ以上の独裁が可能でしょうし、事実そうしているように思います。
国民の税金は湯水のように浪費され、自然環境も生活文化も壊され続けていますが、誰も止められません。
いまどき、クロムウェルは出てきませんので、彼はのうのうと絶対君主役を楽しみ、任期が終われば、処刑されることもなく、余生をさらに楽しめるのです。
未開社会の国王を処刑する文化のほうがいいのではないかなどと、この頃、つくづく思います。

ついでに言えば、人を裁く者もまた、その行為によって自らを裁かれるほどの緊張感がなければ、その任につくべきではないと私は考えています。
その自覚がないために冤罪が後を絶ちません。
そこが司法改革の出発点だと思いますが、それとは全く逆方向の司法改革が進められています。

韓国では前の大統領が自殺しました。
この事件から、こんな妄想を膨らませてしまいました。

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2009/05/22

■マスコミが騒いでいる後ろで行われていることが気になります

裁判員制度が始まりました。
これだけ内容がわかってきて、問題も明確になったにもかかわらず、まだ裁判員制度の意味を国民に理解させていこうという動きが、ジャーナリストの中でも広がってきていることに驚きを感じます。
それにしても、憲法違反ではないかと思うほどの悪法です。
とりわけひどいのは守秘義務です。
裁判そのものの透明性こそが司法改革の本質だろうと思いますが、あいかわらずそれは中途半端にしたままで、守秘義務を国民に求めるとは言語道断です。
私のように、秘密を持たないことを生活信条にしているものには、耐え難い侮辱です。
今の政治家や司法界の人たちは、嘘や秘密を大事にしている人たちですから、そうした庶民の生活信条など理解さえできないのでしょう。
憲法違反など全く意に介さないのが、今の政府ですから、いくら不満に思っても仕方がありません。

新型インフルエンザは、さすがに対応のおかしさに気づく人が増えてきました。
パンデミックしていたのは、実は疫病ではなかったのかもしれません
隠された実験は、どうやら一定の成果をあげたように思います。
おそらく、これからたくさんの報告書が出てくるでしょう。
しかし、生活の視点で考えれば、新型インフルエンザに関する膨大な情報発信の中で、何がうずもれてしまったかが気になります。
それに加えて気になるのは、魔女狩りのような不気味な動きです。
生徒が発病した学校の校長がなぜ謝らなければいけないのか。
どう考えてわかりませんが、実際にはもっとひどい現象が起こっていることでしょう。
発病者の出た家族に対して、世間がどう対応するのか、考えただけで気分が重くなります。
恐怖感を流布させれば、民を支配しやすくなることは言うまでもありません。
北朝鮮やタリバンの恐怖をばら撒くよりも、もっといい方法が地球環境危機やパンデミック危機であることはいうまでもありません。
まあ、こんなことをいうとひんしゅくをかうでしょうが、噂には必ず「意図」があります。

定額給付金やらエコポイントなどのアメ戦略とパンデミックや景気不安などのムチ戦略のなかで、何が行われているのか、それを考えなければいけません。
ともかく一度民主党に政権を交代して、官僚の傀儡政権体制を壊さなければいけません。
あるいはアメリカ金融資本からの自由を得なければなりません。
いまマスコミで活躍している御用有識者たちも一掃してほしいものです。

もう王様の道化はいりません。

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2009/04/28

■人の噂も75日ですが、一度落ちた信頼は回復しない

人の噂も75日、です。
いつの間にか、年金の話も日本郵政の話題も聞こえてこなくなってしまいました。

小沢さん秘書事件はどうなったのでしょうか。
検察は黙して語らず、です。
小沢さんの説明責任が今なお話題になっていますが、説明すべきはいつも「権力側」でなければいけません。
堀田元検事は、説明する必要はないなどといっていますが、権力側に長くいるとそういう感覚になるのでしょう。
こういう権力の寄生者は糾弾すべきだろうと思いますが、マスコミでは誰も批判しません。
堀田さんとは、ある研究会で何回かご一緒し、そのお人柄には少し触れましたが、であればこそ残念でなりません。

噂は消えますが、一度壊された信頼関係は修復できません。
それこそが権力の巧妙なところです。
小沢さんを失脚させる意図はすでに成功したのです。
あとはもう噂が消えるのを待つだけなのでしょう。
権力のおこぼれで生きていかねばならないマスコミは、そのお先棒を担いでいるだけなのでしょう。
ですから年金もかんぽ問題も、すべては何も変わらずに継続するのです。

小泉政権は55年政治体制を壊したといわれますが、結局は巨額な借金を残して、そのかなりの部分を一部の取り巻きの私腹を肥やしただけでしょう。
財政改革とは全く正反対のことをし、日本の社会を壊しただけです。
そして今また、それを与謝野さんがやろうとしています。
金で権力を維持するには膨大な金がかかるわけですが、それにしてもどこまで私たちの税金をつかえば気がすむのでしょうか。
ひどい人たちです。
ともかく未来の世代からの税金を勝手に浪費している悪人たちを毎日見ていると、つくづく近代国家の役割は終わったなと思います。

私は以前あるところに書いたことがありますが、戦後のシャープ勧告による税制の体系が地方自治を壊し、日本の社会の形をゆがめたのだろうと思っています。
近代主権国家は、その出発点において、一部の権力者のためのものに方向づけられてしまいましたが、改めて18世紀の世界に戻って、もう一つのシナリオだった、個人のつながりからの国家原理を考えなおす時期ではないかと思います。
トクヴィルの「アメリカの民主主義」には、新しい国のあり方のヒントがたくさんあるように思います。
もちろん反面教師的なものも含めてですが。

いずれにしろ、権力は、常に自らの行動を国民にきちんと説明しなければいけません。
説明すべきは検察であって、小沢さんではありません。
小沢さんを自分に置き換えてみれば、それは当然のことではないかと思うのですが、なぜか責められているのは小沢さんです。
まさに今の社会のいじめの構造です。
寄って集って権力に迎合して、被害者をいじめる。
悲しい人たちの集団に、日本は成り下がってしまいました。
その一人であることが、最近は息苦しくて仕方ありません。

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2009/04/15

■痴漢逆転判決が示唆するセキュリティ社会の落とし穴

昨日の朝日新聞で大きく取り上げられていた記事です。

車内で痴漢をしたとして強制わいせつ罪に問われた名倉正博・防衛医大教授(63)=休職中=の上告審判決で、最高裁は懲役1年10カ月の実刑とした一、二審判決を破棄し、無罪を言い渡した。
21世紀に入り、犯罪に対する日本社会の意識は大きく変わったといわれます。
被害者視点が一挙に高まり、ゼロリスク志向が高まったのです。
前に教育に関してゼロ・トレランスに関して書いたことがありますが、同じ流れです。
犯罪被害者支援の動きも広がってきました。
それに関しては、私も共感しています。
しかし、それに伴う落とし穴にも留意しておかねばなりません。
落とし穴とは、過剰なセキュリティ社会への動きです。

リスク社会議論は確率論の世界です。
リスクをミニマイズすることで、みんなが安全安心に暮らせる社会が目指されます。
しかし、私たち個人の視点に立てば、重要なのは確立ではなく、実際に起こるかどうかです。
つまりそこでは、ゼロリスク発想になるわけです。
そこで何が起こるのか。
少しでもリスクを感じさせるものには排除の圧力がかかります。
やや極端に言えば、「疑わしきは罰する」社会の到来です。
しかも厳罰が求められます。
犯罪者の更生よりも犯罪者の排除や隔離が重視されます。
そうした流れの中で、少年法は変えられましたし、心神喪失者に対する保安処分さえ制度化されました。
いや、心神喪失者に限りません。
すべての人を監視する監視カメラも広がっています。
監視社会化に関しても以前書きましたが、私自身の意識も当時とはかなり変わってきています。
セキュリティ社会はいまや大きなうねりになってきており、そこでの生活に慣れてしまうと、さらなるゼロリスクを求めたくなります。

社会的排除が問題になっている、その根底のところで、実は社会的排除の流れが強まっているのは、いかにも皮肉な話です。
しかももっと皮肉なのは、排除する方がいつ排除される方に追いやられるかわからないということです。
社会的排除の理論は、常にその可能性をもっているからです。

今回の痴漢逆転判決は、そうしたことを考える上で大きな示唆を与えてくれます。
セキュリティ社会におけるセキュリティとは何かを考えてみるべき時期のように思います。
過剰なセキュリティ状況にある子供たちの未来は、間違いなく安全ではありません。

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2009/03/30

■「人間として当たり前の判断」

戦時下最大の言論弾圧事件といわれる「横浜事件」の第4次再審申し立ては、またしても有罪か無罪かを判断しない「免訴」になりました。
つまり「無罪」にはしなかったということです。
3次判決では、「実質無罪」を示す証拠が判決で言われていましたが、今回はそれもなかったようです。
新聞によれば、「遺族が今後、改めて請求すれば進められる刑事補償手続きに、無罪かどうかの判断は先送りした形だ」そうですが、遺族にとっては、「無罪」として謝罪されることが最大の関心事だったのだろうと思います。
遺族の一人は、「私たちは親の名誉回復だけを願っていたのではない。司法は人間として当たり前の判断をしてほしい」と話しているそうですが、「人間として当たり前の判断」という言葉に、やりきれない無念さを感じます。

「人間として当たり前の判断」。

「無罪」と思うのであれば、法律的な形式論で責任を回避すべきではありません。
「免訴」などという「お上」の言葉をつかわずに、もっと素直に話せないものでしょうか。

裁判とは何なのかを、いつものことながら考えさせられました。

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2009/03/19

■被害者を救うことのない裁判の限界

闇サイト殺人事件の被告3人のうち、2人が死刑、1人が無期懲役になりました。
被害者の母親は「無念さ」を語りました。
母親にとっては、全員の死刑が当然だったのでしょう。
私自身、最近は死刑反対論者ですが、母親の気持ちに共感してしまいます。
被害者の気持ちを鎮めることのない裁判はやはりどこかに問題があります。

もっとも、裁判とは被害者を救うものではありません。
全員が死刑になったところで、母親にとっては娘が戻ってくるわけではありません。
経済犯罪はともかく、それ以外、特に身体を殺傷するような事件の加害者は、実際には「責任」などとりようがないのです。
ですから被害者にとっては、どんな罰を与えようと救われることはありません。
そこに裁判の限界があるわけです。

罪と罰をどう扱うかは、文化によって違います。
キリスト教徒の場合は、罪は神への裏切りですから、罰は贖罪のためのものです。
つまり加害者の倫理的な責任が問われるわけで、裁判は加害者の問題でもあります。
そこでは、加害者の意識や反省は大きな意味を持ちません。
日本の刑法体系も同じですが、日本の文化に裏打ちされた私たちの感情は少し違います。
加害者が心底、反省しているならば、被害者にもまた情状酌量の気持ちが働きます。
ですから、むしろ罰は、再犯防止あるいは類似犯防止の意味合いが強いように思います。
明らかに法の思想と社会の文化は違っています。
ややこしいのは、「再犯防止あるいは類似犯防止」が政治的に悪用されることもあることです。
そのため、「冤罪」が少なくありません。
検察が権力者に使われたり迎合したりするようになりやすいのも、その結果です。

今回の裁判で、母親の気持ちを鎮める方策は何でしょうか。
裁判で示した加害者の言動こそが問題にされなければならないと思います。
人の更生は実際には極めて難しいです。
裁判官や弁護士は安直に「更生」という言葉を使いますが、認識を変える必要があると思います。
それと同時に、こうした事件の裁判で裁かれているのは、単に加害者だけではなく、そうした状況を作り出した関係者もまた裁かれるべきだろうと思います。
類似犯が出てこないような取り組みこそが、真剣に考えられるべき課題です。
裁判制度の限界をもっと真剣に考えるべきでしょう。
そうしたところに向けた司法改革に取り組むべきであって、裁判員制度などのようなばかげたごまかしをやっている時期ではありません。

そのことを今回の裁判の報道を見ていて、改めて感じました。
繰り返しますが、裁判の目的を考え直すべき時期に来ているのです。
問題の本質は、「死刑」かどうかではないはずです。

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2009/03/13

■やっぱりどこかおかしいように思います

不法滞在で問題になっていたカルデロン一家は、結局、両親が帰国しなければいけないことになりました。
法理論的には合理的な判断なのかもしれませんが、どうにもやりきれない気持ちです。
森法務大臣は、子どもの利益も十分考えた温情溢れる処置だといっていますが、13歳のこどもが異国で両親と引き離されてしまうのは心痛みます。
温情などという言葉は使ってほしくないです。
親が不法入国したのが悪いというのは簡単ですが、10年以上も見逃しておいたのはどう解釈すればいいでしょうか。

家族を引き離す国家。
家族を引き離す社会。
そのメッセージがどれほどの影響を人々に与えるものでしょうか。
日本では家族が大事にされなくなってからもうかなりの時間がたちますが、こうも生々しく映像として何回も見せられると、国家とは一体何なのだろうかと思わざるを得ません。
勝手に国境をつくったのも国家ですし、労働力不足になれば海外から人を呼び込むのも国家です。
そして、労働力があまりだすと追い出すのも国家です。

国家が国民の生活を守ってくれるかといえば、決してそうではありません。
国家が国民を「棄民」するのは、昔も今も変わりません。
そういう国家の本質が、こうした事件には象徴されています。
アミネ事件もそうでしたが、状況はあいかわらずご都合主義です。
もし鳩山総務大臣が法務大臣だったらどうなっていたでしょうか。
日本郵政告発で見せているような「生活者の常識」を発揮すれば、結果は変わったかもしれません。

もちろん今回の結論が間違っているかどうかは、私にはわかりません。
ただ印象として「家族軽視」のメッセージが強く出されていることに不安を感じるのです。
前にも書きましたが、問題はカルデロン一家だけの話ではありません。
私たち家族が今や「風前の灯」のような状況に置かれていることがとても心配です。

こうした「やっぱりおかしいな」と思うことが、最近はたくさんあります。
ですから私自身もかなり麻痺してきました。
それに、おかしいと思いながらも何もしようとしなくなっている自分も「やっぱりおかしい」と思い出しています。
みんながそうなってくると、きっと「おかしいことも」が当然のことになっていくのでしょうね。
そして、企業の場合は不祥事になって企業が倒産してしまうわけです。
国家の場合はどうなるのでしょうか。
国家が倒産すると、住みにくくなるのでしょうか。
それとも住みやすくなるのでしょうか。

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2009/03/06

■小沢さんと二階さんの違いは何なのか

同じ行為をやっても、権力側にいれば問われることなく、権力に楯突く側にいれば過剰に犯罪に仕上げられる・
これは国家のもつ、本性のひとつです。
国家だけではなく、権力を組織原理とする組織であれば、よくある話です。
それはまあいいでしょう。
秩序維持を最優先する組織とはそういうものですから。

陸山会に寄付していた政治団体の後ろに西松建設がいたことなどは、おそらくだれでも知っていたはずです。
小沢さんも二階さんも知っていたでしょう。
ですが、それと手続き論とは違います。
いわゆる「建前」と「実質」の違いです。
そうした「建前」と「実質」のずれは、おそらくほとんどどこにでもあります。

先の戦争の直後、食料不足の中で、米穀の闇取引で飢えをしのがないといけない時に、ある検事は一切の不正行為を家族に禁じたために餓死してしまったという話がありました。
本当かどうか知りませんが。
餓死してまでも守るべき法律はおかしいのです。
もちろん、そうして餓死した人の生き方は否定すべきではありません。
それは個人の生き方の問題ですから。
しかし、法律は、よく読めばかなり解釈の余地があるものです。
しかもその法の適用は、さらに多義的です。
スピード違反の自動車がすべて逮捕されるわけではありません。
時に恣意的に思えるほど、適用側の裁量に任されているのです。
特に日本の社会を支配するのは、西欧のような倫理的な責任原理ではなく、むしろ実用的な抑制原理です。
幅が大きければ大きいほど、抑制効果は発揮できます。
つまり、そうした解釈や運用の「幅」が、権力側、あるいは統治する側にとっては「交渉力」になります。
言い換えれば「利益の源泉」になるのです。
そして、今回はそれが見事に発揮されました。
これが私の今回の事件を知ったときの第一印象でした。
特捜チームが小沢事務所に入っていく風景が何回もテレビで流されましたが、あの種の風景にはいつも権力の卑しさを感じます。
歩き方から、権力をかさに来ている心情が伝わってきます。
そこには人間の表情がありません。
よくまあ当人たちは恥ずかしくないものだといつも思います。

検察の立場でなければ犯罪として罰せられる行為も、検察であればこそ見逃されることもあります。
それがひどすぎるときは、冤罪として罰せられますが、個人が罰せられることはほとんどないでしょう。
検察はいつも組織であって、個人ではないからです。
成功した時だけ、個人の成果になります。
そして有名人になります。
私が一番嫌いなことですが、そんな気がします。
しかし、問い正されるほうは、いつも「個人」です。
しかも一度疑惑の対象になると、その時点で回復不能なダメッジを受けることになります。

とても不思議なのですが、自民党の議員はみんなこう言っています。
「違法ではないがお金は返します」
そういうのであれば、小沢さんの秘書も「違法ではない」と弁護してやればいいのにと私は思いますし、返金する理由は何なのか明確に説明すべきです。
しかしそうしたことは問い正されません。

民主党議員の中にも、前原さんのような隠れ自民党議員がいますので、彼らがたぶん民主党のまとまりを壊していくでしょうが、誰と誰が戦っているのかの基本構造を見誤らないようにしないといけません。
現在の構造的問題の本質が、そこにあるように思います。
よく言われることですが、小沢さんへの嫌疑で誰が得をしているかです。
少なくとも国民ではないように思います。

税金の無駄遣いで、麻生首相こそを告発すべきではなかったかと私は思いますが、まあそれはあまりにも主観的ですね。
しかし国民の被害額は、どちらが大きいかは微妙な気がします。

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2009/03/01

■「時間がたつと遺族の被害感情は薄れる」

昨日、「時効」制度の撤廃・停止を求めて、「殺人事件被害者遺族の会」(通称「宙(そら)の会」)が結成され、記者会見が行われました。
刑事事件でいえば、一定の期間が過ぎると容疑者がわかっても起訴できなくなるのが「時効」制度です。
私も、時効制度には大きな違和感があります。
社会状況や法の意味合いが変わってきたにも関わらず、相変わらず法論理は旧来の発想から抜け出ていないような気がします。

新聞報道によれば、会員は、制度の存続理由の一つとされる「時間がたつと遺族の被害感情は薄れる」という考え方を否定しているそうです。
私が、今回興味を持ったのはそのことです。
「時間がたつと遺族の被害感情は薄れる」
だれがそう言ったのでしょうか。
当事者ではない人が考えた「論理演算」としか思えません。

私は1年半前に、妻を病気で見送りました。
「時間が癒してくれる」などという人がいますが、当事者でもないのに、なぜそんなことがいえるのでしょうか。
アーレントは「意見や行為は代表されたり委任されえない」といっていますが、ましてや個人の経験や感情は誰かにわかるはずもありません。

時効制度は、権力者の暴力から人々を守るための制度の一つであり、時間の経過が事実認定を難しくすることによって「冤罪」が起こることを避けるためのものだったのではないかと思います。
法に限らず、制度には必ず、「意図」や「理由」がありますが、それら波立場や状況によって変わってきます。
事実認定を難しくするという点では、今回も指摘されているように、DNA判定などのより時間がたっても事実を証明することが出来るようになったこともあります。
また権力者の暴力という点でも状況はかなり変わってきました。
冤罪は今なお決してなくなったわけではありませんが、裁判の透明性を高めればかなり減らすことが出来るでしょう。
残念ながらいまの「司法改革」はそういう方向に向いていませんが、それがもっと徹底されれば、冤罪という司法の犯罪は減らせるはずです。

刑法の基本的な位置づけや意味合いが全く変わってきているにもかかわらず、権力に仕える法曹界は発想を変えていません。
時効制度にしろ、死刑制度にしろ、あるいは保釈制度にしろ、量刑原理にしろ、向いているベクトルの方向が間違っているような気がします。
それを見直すには、「革命」が必要なのかもしれませんが、せめて時効制くらいは根本から見直していってもいいように思います。
どう考えても、いまの時効制度は素直な常識に合致しません。
常識に合わない制度は、やはりどこかに問題があるのです。
その問題をきっちりと見直していけば、法律のおかしさや司法制度の問題も見えてくるように思います。
「殺人事件被害者遺族の会」の主張に共感するとともに、殺人事件のみならず、時効制度全体(商事や民事も含めて)の見直しの必要性を感じます。

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2008/12/21

■裁判員制度はやはり白紙にするべきではないでしょうか

新聞報道によれば、来年5月に始まる裁判員制度の候補者約30万人ののうち4割にあたる約12万人から、18日までに辞退を希望するなどの回答票が返送されたそうです。
たぶん辞退者はもっと増えるでしょう。
こういう反応があっても、まだ政府は裁判員制度を進めようとするのでしょうか。
4割の人が反対しているということの意味をきちんと受け止めて、考え直すべきではないかと思います。
定額給付金と同じで、国民の反対など意に介さないのであれば、裁判員制度の拠り所を自己否定することになります。
つまり裁判員制度の拠って立つ「国民参加」の根本が否定されているのですから。
いずれにしろ、裁判員制度の本質が少し見えてくるでしょう。
私の友人知人の弁護士もこの制度にかなり深く関わっていますが、彼らはいずれも誠実な人だけに、なおさら権力というものの持つ狡猾さを感じます。

ところで、昨日20日、裁判員制度に反対する団体が、都内で会見を開きましたが、そこに最高裁から通知を受け取った候補者3人が実名で反対や制度廃止を訴えたことがテレビなどで報道されています。
ネットの産経ニュースにはその3人のコメントが掲載されていました。

都内の男性会社員(65)は「(候補者が実名を公表することなどは)違反と知っていたが、素人が審理しても意味がない。反対の声を大きくしなければと(今回)参加した」と訴えた。候補者通知を開封せずに送り返したという千葉県の無職男性(65)は「死刑や無期懲役という重大事件を裁くことは心に傷を残す」、千葉県のコンサルタントの男性(63)は「職業によって参加が義務だったり、そうでなかったりするのはおかしい」などと語った。
テレビでは、「私は人を裁くことをしないことを信条にしている」という発言もありました。
いずれも、とても共感できます。

もし私も候補者になっていたら、辞退の返事を書くつもりでした。
裁判員制度を導入してしまえば、このブログでも何回も書いていますが、裁判制度は全く異質なものになるでしょう。
そもそも何のための裁判制度かわからなくなります。
専門職としての裁判員の責任感は一体どこに行ったのでしょうか。

友人から、どうして佐藤さんは裁判員制度に反対なのですか、と聞かれたことがあります。
しかし、そもそも私の頭の中には、そういう問題はありえません。
むしろ、なぜ裁判員制度が必要なのかと問いたいです。
問題の立て方を間違えてはなりません。

今の裁判制度に問題があることは認めますが、その問題を解決するために裁判員制度がどうつながるか私には全くわかりません。
個々の裁判を通して、裁判員を弾劾する仕組みとしての国民の監視機構や、それを適切にするための裁判の透明性の確保、さらに事件当事者の適正な参加を保証する仕組みなどを考えるべきだろうと思います。

私は、自分の生活に大きな影響を与える統治側の職務にある人たちを評価することはできますが(このブログでも批判しているのは、そうした職務にある人たちです)、統治されている人たち同士の、しかも自分の生活に直接繋がらない関係(事件)を裁く意味が理解できませんし、その自信や気力をもてません。
それに、もし私が被告になったとしても、制度に裁かれるのは受け入れられますが、人に裁かれるのは受け入れがたいと思います。

わずかでも自分が当事者になっている事件であれば、ぜひ参加したいですが、それでも「判決」は専門家に任せたいです。
それを崩せば、「ブレイブワン」のような、私刑制度につながっていくでしょう。
つまり社会が壊れていくということです。
それを目指すのであれば、それは別の話ですが。

■国民参加の裁判員制度
■裁判員制度よりも裁判の透明性の実現を
■裁判員制度の意味することの顕在化

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2008/12/08

■私的復讐を許せるか

「ブレイブワン」が突きつけている問いかけも 少し考えてみたくなりました。
エリカは、恋人を殺した犯人を警察に逮捕させ、裁判で処罰する方法を選びませんでした。
警察に嘘を言ってまで、自らの手で処罰しようとしました。
エリカの心情を知った刑事も、最後にエリカに加担してしまいます。
そして、エリカの私的復讐は成就しました。
この映画は観客に、そうした私的復讐を許しますか、と問いかけてきます。

おそらくこの映画を観た人のほとんどが、この結末でホッとしたでしょう。
アメリカでは議論が盛り上がったということですが、論理はともかく、感情的には、多くの人はエリカと刑事に拍手を送るはずです。
それが自らを守る本能を持っている生命体としての素直な反応だと思います。

加害者を裁く権利を放棄することによって近代国家は成立しました。
私自身は、そこに大きな問題があると考えています。
生命体としての素直な感情にはそぐわないからです。
ビオス的な立場からは肯定してしまいますが、いざ自分が被害者になったら、その解決を国家にゆだねられるかどうか。
もし、その国家が、そして司法が信頼できるものであれば、状況は少しは違うかもしれませんが、少なくとも今の日本の国家や司法界には任せたくない気もします。
もし私が天涯孤独の存在であったら、エリカと同じ方法を選ぶかもしれません。
そしてきっとムルソーのように、死刑を選ぶでしょう。

議論を飛躍させます。
いま始まろうとしている「裁判員制度」の、裁判員に「事件の被害者」を含ませるのはどうでしょうか。
事件の当事者は客観的な判断ができないという理由で、そんなことは論外だとみんな考えるでしょうが、なぜ「客観的な判断」でなければいけないのでしょうか。
いや、そもそも「客観的な判断」などというのがあるのでしょうか。
そこに「制度化」の罠を感じます。
裁く側に被害者がいてこそ初めて、秩序維持のための無機質な裁判を克服できるという論理も成り立ちます。
もちろん、裁かれる側の弁護に、加害者自身がいてもいいでしょう。
要は、人を裁く権利は他人にはないというのが、私の考えです。
ですから、近代の第三者による裁判とは違った裁判制度もあるはずです。

さて肝心の、この映画の問いかけへの回答です。
私は、この事件に関しては「許したい」です。
しかし、これを許したら、際限なく私刑が広がるでしょう。
現実の事件は、映画ほど単純ではないからです。
ですから、結論的には「許さない」が、私の答えです。

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2008/12/03

■どの掟に従うか

最近、リンクさせてもらったブログで読んだ記事がずっと気になっています。
daxさんという、5年前までヤクザだった人の「手垢のついたメモ帳」というブログです。

俺は日本の法律をたくさん犯したが、ヤクザの法律はきちんと守ってきた。
ヤクザの法律を守るということは、日本の法律に背く事になるのだが、
その部分については、日本の法律に決められた方法に従って、責任を果たしてきた。
「服役」という責任の取り方で・・・。
ヤクザの法律は、「ヤクザの掟」と言ってもいいでしょう。
そもそも人が集まれば、集団を秩序化するために掟(ルール)が生まれます。
掟があることで、メンバーは行動しやすくなります。
しかし、集団の掟は、その集団の実状に合わせて創られますから、ほかの集団の掟とは同じになるとは限りません。
その組織集団が結束力を高めようとすればするほど、掟も特殊化しかねません。
会社には会社の、役所には役所の、学校には学校の、掟が生まれるでしょう。

掟違反に対しては罰則が適用されます。
しかし、そうした罰則にも、かつては救いの仕組みが用意されていました。
その典型が「村八分」の知恵です。
掟を破って村人が絶縁した人にも、葬式と火事の際には付き合いが保証されていました。
しかし、掟が明文化され、近代的な法律に整備されるとともに、救いの仕組みは消える傾向があります。

ちなみに、ヤクザの掟と日本の法律の、どちらが正しいかというのは無意味の質問です。
そもそも法とか掟は秩序化のための判断基準でしかありませんから、それ自体が正しいかどうかとは無縁の存在です。
内容がどうであろうと、その秩序の内部では守ることが正しいということになります。
ですから「悪法もまた法」なのです。

しかし、ヤクザの世界もまた日本の中に存在する以上、上位の世界のルールには従わなければいけません。
それが秩序というものだからです。
自分の属する社会の掟とその社会を包括する上位の社会の掟とが食い違った時に、人は悩みます。
上位の社会の掟を守ることを是とする人もいるでしょうし、より身近な社会の掟を守ることを是とする人もいるでしょう。
少し前までの日本には、後者の文化がかなり残っていました。
しかし、どちらに従っても、もう一つの掟から罰せられることになります。
daxさんは、ヤクザの掟を守ったために、服役することになったわけです。

長々書いてしまいましたが、こうした視点で昨今のさまざまな事件をみていくと考えさせられることが多いです。
また社会がどう変質してきているかも見えてくるような気がします。
掟の構造化は社会を見る場合の大きな基準になります。

人の行動は、すべて何らかの「掟」に従っているはずです。
個人の信条も、ある意味では心の中に決めた通時的な掟です。
各人の心の掟(信条)から宇宙的な自然の掟(摂理)にいたるまで、さまざまな掟がありますが、それらが有機的につながっているかどうかは重要な問題です。
近代国家システムは、そんなことに配慮することなく、ある視点で作られた掟を「国家の法律」とし、それを最優先することにしたわけです。
それが「法治国家」の理念です。

社会が成熟してきたいま、そうした「掟の階層構造」を見直していくことが必要になってきているような気がします。
つまり掟の階層化のベクトルを反転させることが検討されてもいいような気がしますが、どうでしょうか。

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2008/11/30

■戦時中の「赤紙」復活を思わせる裁判員候補者通知

来年5月に始まる裁判員制度に向けて、候補者への通知が出されたそうです。
もし届いたら、勝手には断れないわけですが、これは戦時中の召集令状、いわゆる「赤紙」の復活です。
国家は、1枚の紙で、すべての国民に対して、暴力をふるう役割や人を裁く役割を強制することができるのです。
さらに不快なのは、裁判員になったことやそこで体験したことを、家族友人など以外には口外してはいけないということになっています。
つまり公開できないような秘密を持てと、国民に強いているわけです。
どう考えてもおかしいです。
司法の透明性は高まるどころか、隠し事の奨励は司法そのものをおかしなものにしていくでしょう。

司法改革は、目的と手段にずれがあるわけです。
これに関しては、2004年以来、何回も書いてきました。
世間のことを知らない特権階層の司法界の人たちが中心になって考えたのでしょうが、どう考えても納得できません。

人を裁く責務を特権的に与えられた司法界の人たちは、その重責のために、特権ともいえる生活保障や身分保障などがきちんと与えられています。
にもかかわらず、その重責が充分に果たせなくなったために、国民参加の口実で、生活の保障も与えることなく、国民にランダムに責任を分散してしまおうというわけです。
いくらもっともらしい理屈をつけても、事実はそういうことです。
アメリカの陪審員制度などとは似て非なるものだと思います。
それに陪審員制度も問題がたくさんあります。
もし裁判の公正さを高めたいのであれば、裁判の透明性を高めたり、共創的正義(修復的司法)の要素を検討したりするのが筋でしょう。
全く無縁の人を巻き込んで、人を裁けというのは、あまりに暴力的です。

もし私のところに、裁判員候補の連絡が来たらどうすればいいでしょうか。
異議申し立てをしたいほどですが、そんなことをしたら、私自身が犯罪者にされかねません。
犯罪とは、前にも書いたように、法に反する行為なのですから、簡単に犯罪者はつくれます。
私も瑣末なことで、その体験をしています。

昨日、報道ステーションで、この問題に関連して、寺島実郎さんが「良心的兵役拒否」に言及していました。
私も、そのことを先ず頭に浮かべましたが、良心的兵役拒否が承認されてきたのは、多くの場合、宗教の信条に基づく場合でした。
日本でも先の第二次世界大戦で、灯台社の明石順三の話が有名ですが、ことはそう簡単ではありません。
それに「悪法もまた法」なのです。

しかし、人を裁くことは、私の生活信条にはなじみませんし、隠し事を持つことは私には耐えられないことです。
このブログで、事の顛末を書きたくなるでしょう。
書いてしまうとどうなるでしょうか。
たぶん検挙されるでしょう。
裁判員制度によって、新しい「犯罪」がまた成立しかねないのです。

いずれにしろかなりの苦痛を背負い込むことになります。
しかし、私にとって一番不快なことは、「赤紙」が復活したことです。
能力不足で利己主義の法曹界の人たちを呪いたくなります。
日本はまた一歩、奈落に向かって進んでしまいそうな気がします。
法曹界の中にも反対者は少なくないと、知人の弁護士から聞きました。
自由法曹団のなかでは賛否は半々だとも聞きました。
しかしなぜ効果的な反対の動きは出ないのか。
マスコミはほとんど反対の動きを報道していないように思います。

映画「ニュールンベルグ裁判」での判事ヘイウッド(スペンサー・トレイシー)の言葉が思い出されます。
「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」

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2008/11/20

■レストラティブ・ジャスティス:修復的司法もしくは共創的正義

昨日、記事の中でレストラティブ・ジャスティス(Restorative Justice:RJ)の言葉を出しながら、その意味をきちんと書くのを忘れてしまいました。
多くの人にとっては、たぶん聴きなれない言葉でしょうから、少し説明しておくことにしました。
昨日書いたように、この概念は司法の世界で議論されだしました。
裁判員制度などとは違って、司法のパラダイムの変革につながる概念です。

簡単にいえば、事件や紛争を解決するにあたって、国家的な制裁に頼らずに、関係当事者同士の話し合いを基本にするという考え方です。
なんだ、示談のことかと思われそうですが、示談もその一例といってもいいでしょう。
しかし、金銭的な損害賠償だけでなく、むしろ話し合いの過程で、関係者がしっかりと向き合うことで、相互に赦しや癒しを生み出し、事件からの解放(あるいは事件が破壊した関係性の修復)を可能にすることを目指すのが、修復的司法なのです。
被告原告といった「対立」構造をつくるのではなく、一緒になって困難を克服していこうということです。

現在の裁判の主役は、国家です。
刑事事件の場合、裁判の現場には被害者は主体的には参加できません。
最近、少しずつ変わってきましたが、それが近代国家の裁判(司法)のパラダイムなのです。
司法こそ、暴力を独占した国家を支える仕組みといってもいいかもしれません。
それに対して、修復的司法では、国家は主体的な立場ではなく、後見的な立場へと後退し、主体は被害者と加害者になります。多くの場合、コミュニティにも主体性が認められます。
但し、修復的司法における「コミュニティ」の立場は、現在の枠組みでの裁く主体としての「国家」とは全く違います。

こういってもいいでしょう。
これまでの裁判は国家秩序維持のためのものだったが、修復的司法は生活者の快適な関係性を高めるためのもの。
そこでは、司法や裁判のパラダイムが変わります。
それこそが「司法改革」だろうと、私は考えています。
ですから最近の司法改革にはあまり感動しないわけです。

重要なことは、レストラティブ・ジャスティスの概念の根底には、「正義」の捉え方の哲学があるということです。
ですから、私は「修復的司法」ではなく、「共創的正義」と受け止めたいわけです。

「正義」を語りだしたら、必ずといっていいほど、落し穴に陥ってしまうでしょう。
大上段に正義を語る人は信頼できないとしても、正義を語り合うことの意義は大きいはずです。
「コモンズの回復」とは、そうした「共創的正義」の実現と言ってもいいかもしれません。

いずれにしろ、レストラティブ・ジャスティスの発想で考えると、世間のさまざまな動きが少し違って見えてくるでしょう。
このブログ時評の根底にあるのは、レストラティブ・ジャスティスの考えなのです。

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2008/11/08

■田母神事件の犯罪性

このブログに田母神事件を書いたおかげで、アクセスが急増し、コメントや個人宛のメールもかなりありました。
いささかうんざりしていますが、私の意図がうまく伝わっていないようで、論文を読んだのか、論文のどこが悪いのだと、お叱りのメールをいくつかいただきました。
あえて反論するまでもないことですが、私の書き方が悪かったことを反省して、少し蛇足的な記事を書くことにしました。

私が2つのブログ記事で書いたのは、田母神前空幕長が公務員として犯罪を犯しているのではないかということと、そうしたことを放置している政府の姿勢への批判です。
田母神論文の内容もひどいとは思いますが、それは批判の対象ではありません。
考え方はいろいろありますので、それ自身は批判すべきではないと思っています。

犯罪とは、悪事を働くことではありません。
法治国家においては、犯罪とは法違反行為のことです。
もっとも、「法」の捉え方はいろいろとあって、実定法だけか自然法まで含めるかで変わってきますが、基本は実定法違反と考えるべきでしょう。
そうした場合、犯罪の被害者は基本的には「国家」もしくは「社会」になります。

もちろん実際の事件では、加害者と被害者という「人間」の関係は存在しますが、日本の現在の司法の世界では、国家の秩序を守ることが最優先されますから、裁判には被害者はほとんど関われません。
とりわけ刑事事件や行政事件の場合は、国家秩序の視点が基本に置かれています。
光市母子殺害事件のことを思い出せば、納得してもらえると思います。
そうした応報的な司法のあり方の見直しの動きはありますが、近代国家体制を前提に考えれば、その基本枠組みを変えるには、まさに本当の「司法改革」発想が必要です。

犯罪が法違反であるという前提で考えると、私にはどう考えても田母神前空幕長の言動は犯罪に見えてきます。
まず「違憲判決など関係ない」というのは、明らかに法違反行為です。
それは憲法なんかは関係ないという意味を持っていると思います。
国家公務員としては、国家に対する反逆行為を構成するはずです。
次に、侵略国家論ですが、これも正式な政府見解に反しますから、公務員としての職務規定に反しているはずです。
公務員は政府の方針に従い、主観的にではなく与えられた業務を忠実にこなすことが求められているはずです。
とりわけ自衛隊のような軍事力を持つ組織は、暴力を発揮する権限を政府(国民)から与えられているわけですから、勝手な主観で動くことは禁止されています。
それがなければ国家は壊れます。つまり守れないのです。
日本の官僚制度は破綻していると思いますが、もっとも強い規律を求められる自衛隊にまでそれが広がっていることの意味は問い直されるべきでしょう。

中央省庁の不祥事は、私にはいずれも国家に対する反逆行為に見えます。
しかし、ややこしいのは、彼らはいずれも国家から授権されているのです。
コラテラル・ダメッジさえ許されるわけです。

職務違反したら、普通は懲戒解雇されますが、公務員の場合は、そう簡単ではありません。
事実、田母神前空幕長の懲戒解雇には半年かかるというような答弁が、閣僚からあったように思います。
国民の政府ではなく、官僚たちの政府になってきているとさえ思いたくなります。
彼らはやりたい放題なのかもしれません。

私が田母神前空幕長を批判するのは、彼が国家に反逆しているからです。
もし彼が反逆していないのであれば、そこにこそ今の日本の政府の本質があるわけです。

余計なことを加えれば、田母神前空幕長の言動は、国家に対する「侵略行為」のように思えてなりません。
したがって、田母神前空幕長が日本は侵略国家ではなかったと思っていることの意味はよくわかります。
侵略の意味が、私とは全く違うのですから。

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2008/10/31

■横浜事件第4次再審への期待

「横浜事件」はまだ終わっていませんでした。
その第4次再審請求に対し、横浜地裁は今日、再審開始を認める決定を出したそうです。
「横浜事件」は、治安維持法違反の罪に問われ有罪判決を受けた、戦時下最大の言論弾圧事件といわれているものです。
その3次請求に対しても再審が行われましたが、今年3月、最高裁は、治安維持法の廃止と大赦を理由に裁判を打ち切る「免訴」を言い渡しました。
これに関しては、このブログでも書きましたが、「司法とは何か」を考えさせられる事件でした。

今度もまた、免訴となる公算が大きいといわれていますが、しっかりと過去のことを判断する程度の良識をもった裁判官もまだ少しはいるのではないかと思っています。
裁判の歴史を紐解けばすぐわかることですが、裁判官は本質的に権力に迎合します。
遠山の金さんは、例外だったからこそ人気があるわけです。
しかし、その権力の所在は、国民に移りました。
その意識は、しかしある世代から上の裁判官にはないでしょう。
それは当然といえば、当然のことです。

司法改革が議論されていますが、その根源的な司法権の淵源があいまいにされていますから、司法改革は改悪にしかならないという気がしますが、もし司法改革をしたいのであれば、発想の起点を表情のある国民に置かねばなりません。
地方裁判所と最高裁判所などと言う権力的ヒエラルキーは壊さなければいけませんし、裁判官の任命の仕方も変えるべきでしょう。

それはともかく、この「横浜事件」をどう総括するか、は司法界にとって極めて大きな問題だと思います。
過去をあいまいにして、未来を創り出すことはできません。
廃案や大赦という行政措置と司法としての価値判断は全く別の話です。
それを免訴というのであれば、司法は行政の下部システムにあることになります。
さらにいえば、司法は実定法にだけ従えばいいわけでもないでしょう。
人間がつくった瑣末な方は手続法としては大事ですが、もっと大事なのは法の精神、正義の理念です。
多様な価値観が共存できることが、正義の重要な要素だと私は思いますが、この事件がこれからどう司法に扱われるかは、私には大きな関心があります。
司法が信じられるかどうかが、かかっているように思います。

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2008/09/20

■公務員の犯罪とは何でしょうか

年金問題がまた新たな問題を露呈しだしていますが、今朝の新聞に厚生労働省元課長補佐の 国家公務員法違反での有罪判決の記事が出ていました。
こういう事件です。
被告は、2005年9月の総選挙投票日前日に、東京都内の警視庁職員官舎の集合ポストに共産党機関紙「しんぶん赤旗」の号外を配ったとして、国家公務員法違反(政治的行為の制限)の罪で在宅起訴されました。
本人は、休日に個人で配布した行為であり、「公務員の政治的中立性を損なうものではなく、犯罪には当たらない」と主張していましたが、判決は求刑通りの有罪でした。
有罪を求めた検察側は、「政治的偏向の強い行為で、厚労省の事務処理全体の公正な運営への国民の信頼を著しく害するおそれがあった」と主張していました。

まあよくある話なのですが、どこかおかしくないでしょうか。
配布したのが「自由新報」だったら、こうはならなかったはずです。

農水省の公務員や薬害事件の厚生労働省の公務員、社会保険庁の公務員、彼らは国家公務員法に違反していないのでしょうか。
ビラ配りとどちらが国民にとって大きな影響があるのでしょうか。
それに「政治的行為の制限」というのであれば、おそらく例外なく国家公務員の幹部たちはすべて与党に与しているという意味で、まさに政治的行為を行っています。
「反政府的行為の制限」というのであれば、少しは納得できますが、国民主権の国家の場合、政府が「反国民的行為」を重ねている場合はどうなるのでしょうか。
「反政府的行為」と「反国民的行為」とは、どちらが優先されるのでしょうか。

どうも納得できません。
もっと罰する人たちがたくさんいるでしょうに。

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2008/07/26

■堀江被告の発言に思うこと

粉飾決算事件の元ライブドア社長堀江さんの控訴審は、控訴を棄却し、一審の実刑判決を支持しました。
それに関して、堀江さんは「なぜ悪いと言われるのか理解できない」と言っているようです。
金融権力支配に対する警告的意味は持っていると思いますので、私自身は実刑判決には納得しますが、なんだか割り切れないものが残ります。

まず被告を納得させられない判決とは何かということです。
被告の納得できないところを明確にし、それに対してきちんと説明していくのが裁判ではないかと思うわけです。
それにも関係しますが、逮捕の少し前までは、あれほど堀江さんを持ち上げていたのは何だったのかです。
実はかくいう私も、一時期、堀江さんに期待を持ちました。
私の場合は、証券取引法などとは全く別の側面で評価したのですが、それもまた私の不明のせいであり、それに関しては反省しています。
しかし、彼を利用した財界人や政治家は、どうしたのでしょうか。
この事件をこれほど大きくしたのは、たぶんに彼らの応援があったはずですが、そうしたことへの言及はあまり聞かれません。
村上ファンドへの福井前日銀総裁の応援も、金融権力支配への支援になったはずですが、そのあたりも全くうやむやにされています。

つまり、事件は単に堀江さんだけの話ではなく、もっと大きな政財界に広がる事件ではないのかという気がしてなりません。
当時のさまざまな国策事業、たとえば産業再生機構や地域力再生機構などを通して、いったい何が行われたのかも、知りたいものです。
ホリエモン事件は、そうした大きな「社会変革プロジェクト」の一部だったように思います。
その社会変革は、これまでの日本社会の文化を大きく壊しましたから、変革というよりも破壊というべきかもしれません。
とても象徴的なのは、4月の裁判で堀江被告から出された上申書の次の1文です。

「日本ではお金のことを口にすることが悪いこととされていたが、これからの時代はお金の運用に関心を持つべきだ」。
違和感を持たない人も多いと思いますが、
この文の含意するところにこそ、大きな問題があるように思います。
関心を持つべきは、「お金の運用」ではなく、「私たちの生き方」です。

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2008/07/19

■長銀粉飾決算事件判決とドラマ「監査法人」の結末

長銀粉飾決算事件の最高裁判決は、有罪とされたこれまでの判決を覆し、無罪でした。
巨額な国税を無駄にさせた偽装事件の責任を、誰も取らない結果になったことには腹立たしさを感じますが、その一方で、当時の頭取や副頭取だけを被告に仕上げた事件の作り方自体が問題だと思いますので、コラテラルダメッジとして彼らが葬られて終わりとならなかったことには奇妙な安堵感もあります。
本当の責任者は、たぶん彼らではないはずです。
それを裁くのは無理でしょう。
国家司法の枠組みでは、国家の犯罪は決して裁けないのです。
そのことにこそ、国民国家の司法制度の本質があるのだと思いますが、今回、気になったのは、そのことではありません。

朝日新聞によれば、被告だった大野木元頭取は勾留中に次のように述べたといいます。
「バブル時代の負の遺産は、一括処理すれば長銀の即死を招くほど重く、長銀の延命を図るため、粉飾決算という違法な手段を選択してしまいました」
つまり、大野木さんは犯罪者であることを自分でも認めているのです。
その点は決して忘れるべきではないでしょう。
丸明の吉田社長やミートホープの田中社長よりも、その犯罪は大きいです。
死者さえ出していることは決して忘れてはいけません。
その償いは一生かけても行うべきです。
にも関わらず、大野木さんは無罪です。
「無罪」とは一体何なのか。

さらに、この言葉は粉飾決算の目的を語っています。
粉飾決算せずに長銀が即倒産したらどうなったのか。
大野木さんは、社会の混乱を防ぐためのやむを得ざる行為だったといっているわけですが、そこにたぶん、事の本質があるように思います。
つまり、偽装は誰のためにしたかと言うことです。
それがわかれば、なぜ最終的に無罪になったかも見えてくるかもしれません。

私は長銀が即倒産したほうが、結果的には被害は少なく、日本経済へのダメッジも少なかったと思います。
たぶんそれによって、自殺者は何人か出たかもしれませんが、それは自業自得です。
しかし長い目で見た時の自殺者は結果的には少なかったはずです。
データでは検証できませんが、私はそう確信します。
しかも長銀の偽装の結果、間接的に死に追いやられた人たちは(その存在さえ私には証明できませんが)、全く偽装とは無縁の人たちだったはずです。
しかし、大野木さんをはじめ、政府も財界もそうは思ってはいないのでしょう。
彼らには、現場で汗して働いている人たちの姿など見えるはずもないでしょう。

偽装は誰のためにしたのか。
裁判では、それをこそ、明らかにしてほしかったと思います。

今夜、NHKでドラマ「監査法人」の最終回がありました。
監査法人が粉飾決算を見逃す事件を中心におきながら、会計士のあり方を問題提起したドラマです。
監査法人やベンチャー企業の人たちはどういう思いで見ているのか知りたいものですが、今日の最終回には少し期待していました。
残念ながら期待はずれの結末で、長銀事件の判決と同じように、わりきれないものを感じました。
せっかく本質的な問題を匂わせながら、それについては何も語らない、というわけです。

最高裁判決とテレビドラマのいずれにも裏切られてしまいました。
今日はもやもやしたまま眠らなくてはいけません。

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2008/06/19

■死刑制度がなくても成り立つ社会の仕組みが課題

このブログでも「死刑制度」について書いてきたこともあって、
死刑執行が増えていることへの感想を書かなければいけないような気がしてきました。
気が乗りませんが、思いつくままに書きます。

制度があるのであれば、それは的確に執行されるべきだと思いますので、最近の執行率に関する違和感はありません。
むしろ判決が確定してからもこれほど長く執行されないのかということに違和感があります。
死刑確定囚が100人以上もいるというのも驚きです。
死刑判決を確定しておきながら、執行しないことの異常さを感じます。
いささかでも「疑義」があるのであれば、死刑判決が間違いだと思いますし、「疑義」がないのであれば、死刑の前に被告を立ち続けさせることの残酷さ、罪深さを感じます。
司法への不信感につながりかねません。

今回の宮崎被告に関しては、あまりにも執行が早すぎる、事件の原因究明も十分でなく、もっと事件を解明し、そこから学ぶべきだったのではないか、という意見を述べていた専門家がいました。
20年以上も時間があるのに、十分な学びができない専門家というのもおかしな存在ですが。
事件を繰り返さないために、事件の原因や背景を調べることは必要ですが、個別事件をいくら深く分析しても、事件の予防にはさほど役立たないでしょう。
類似事件の共通点に関する分析も出ていますが、事件はそれぞれに個別です。
そうした分析から出てくることは、もうみんなわかっていることのように思います。

問題は、起こったことの分析や調査ではなく、これから先に向けての私たちの生き方です。
佐木隆三さんが、家族のような身近なところから見直すべきだと話していましたが、とても共感できます。
過去の事件を過剰に報道し、むりやり原因を創りだしたり、社会を刺激したりするマスコミの姿勢には疑問を感じます。

死刑制度の問題を廃止するのであれば、その制度がなくても、社会の秩序が維持され、死刑を求めたくなるような残虐な事件が起きないような仕組み、あるいは、そうした残虐な事件の被害者になった人を救済する仕組みを考えなければいけません。
死刑制度廃止を主張する国会議員や法曹界の人たちは、単に死刑制度廃止を唱えるのではなく、そうしたオルタナティブを創案することにエネルギーを向けるべきだと思います。
日本では、死刑賛成者が多いということが持つ意味もしっかりと考えるべきでしょう。

過去の個別の事件をいくら克明に分析し報道しても、そういうことが出てくることはありません。
解決の鍵は、特殊な事件にあるのではなく、日常の私たちの生活にあるはずです。

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2008/05/24

■「疑わしき」は救うべきか、切り捨てるべきか

福島第1原発で配管工事をしていた長尾光明さん(昨年末死去)が、被ばくで多発性骨髄腫というがんになったとして、東京電力に賠償を求めていた裁判で、東京地方裁判所は、国が労災と認めたのとは逆に、被ばくでがんになったとは言えないとして訴えを退けました。
国は主治医の診断や専門家の検討をもとに、被ばくで多発性骨髄腫になったとして労災と認めていました。
行政判断とは違った司法判断が出たわけです。

私がこのニュースに興味を持ったのは、ちょうど長尾さんが配管工の仕事をしていた頃、福島第1原発を見学した記憶があるからです。
その時に、下請けの下請けの作業現場の実態の説明を受けて唖然としました。
被爆する危険な作業を分単位で時間を区切って断続的に行っているということを知りました。配管の仕事ではなく、何かを取り替える作業でした。
原発にかける費用のほんの一部を向ければ、自動化できる作業だと思えたのですが、作業に当たっているのは季節工だという説明でした。
30年くらい前の話なので、記憶違いかもしれませんが、私が原発への不信感を持ちはじめたのは、まさにその時ですから、私には大きな衝撃だったことは間違いありません。

そこでは「人間」がまさに「安価な労働力」としか扱われていなかったのです。
原発が安全かどうか以前の問題です。
そうした人間観や仕事観を持っている東京電力には、原発事業を展開する資格はないと私は思いました。
そういうことを、ニュースを聞きながら思い出したのです。

どんな事業もメリットだけを与えてくれるわけではありませんし、完全に安全な事業などあるはずがありません。
であればこそ、事業を担う人たちの考え方は重要です。

今回の司法判断と行政判断のいずれが妥当なのかは私にはわかりませんが、その違いの基本にあるのはたぶん生命観と価値観です。

「多発性骨髄腫は症例が少なく、被ばくとの間に一定の傾向を読み取れない」と指摘し、因果関係も否定した司法判断には違和感があります。
人の身体は労働力を提供するだけの画一的な機械ではなく、表情を持った生命なのです。
そして、「読み取れない」から因果関係を否定するのか、「読み取れない」から因果関係を否定できないのか、どちらから考えるかは、その人の立脚点によって決まってきます。

「疑わしき」を罰するかどうか。
「疑わしき」を救うかどうか。
すべては、判断する人の立脚点に拠っています。
私には「疑わしき」を罰したり、否定したりすることはできません。
そう思うと、この判決の後ろにたくさんの事件と意図が見えてきます。
この判決が含意していることは、とても大きな気がします。

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2008/05/19

■死刑制度論余波

昨日書いた死刑制度反対論への「転向」に対して、早速メールが来ました。
概要、こんな内容です。

私は死刑制度をもっと強化すべしというかんがえです。
原則として人を殺せば一人でも死刑の対象とする。
重大な過失がある場合は死刑もありとします。
殺したように殺されるべき、だとすら思います。
見方を変えて死刑廃止、となったらしいようですが、奥さんが殺された人のことを改めてお考えください。
誤審による悲劇はどんなに配慮してもなくならないでしょう。
これはやむを得ないものとして受け入れるべきで、我々は、すでに自動車が交通事故で年間1万人以上死ぬことがわかっていても自動車産業を廃止しようとはしていないでしょう。
自家用車を乗り回している人が死刑廃止を言う資格はありません。
もちろん、自分は死刑の執行人にはなれないということには論理矛盾はありませんが。
結論を急いではいけません。
私は現在の自動車運転制度には反対です。
飲酒運転など一度でもすれば、永久免許停止などは当然の話だと思っていますし、自動車関連税はもっと高くていいと思っています。 
環境対策のためにガソリン税を高くていいと言う人もいますが(ガソリン税は環境悪化のための道路建設に使われますが)、それよりも人命保護のための自動車関連税を高めるべきです。
それができない理由は、明白です。
トヨタの奥田さんが政府と癒着していることがすべてを物語っています。 
自動車産業が悪いとはいいませんが、今の状況は最悪です。
経団連としてやれることがたくさんあるのに、自動車に関しては誰も何もやりません。

念のために言えば、上記の「自動車が交通事故で年間1万人以上死ぬ」とありますが、これはおそらく事実に反します。
おそらくといったのは、統計は必ずしも正しくないからですが、しかし最近は実際にも1万人は超えてはいないでしょう。
そんなことは瑣末な話です。
直接的には死亡に至らない事故も考えなければいけません。
120キロ以上スピードが出ることも私には理解できません。
スピードが出るようにしておいてスピード違反を罰するのは私には理解しにくいです。
自動車産業の発展が大きく歪んでいるのは否定できないように思います。
それが内部管理にも出ているはずです。
産業や企業の健全性は、産業内や企業内の実態を見ればほぼわかります。
人の行動がそうであるように、組織もまた、内外は通じているからです。

「奥さんが殺された人のことを改めてお考えください」とありますが、そうした発想はいささか危険です。
私は昨年妻を病気で亡くしましたが、その気持ちはおそらく誰にもわかりません。
わかるという人もいますが、何がわかるのかという気もします。
受け止め方は人それぞれです。
奥さんが殺された人の気持ちなどわかるはずがありません。
それをわかると考えてしまうことこそ、危険な発想なのです。

なかなか死刑制度の話につながらないのに長くなってしまいました。
この短いコメントにたくさんの示唆が込められているわけです。
ちなみに、このコメントをくれた人の善意は微塵も疑っていません。

死刑制度の話はまた日を改めます。
このメールのアドバイスにもかかわらず、いまはまだ死刑制度反対のままです。


        

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2008/05/17

■死刑について7:死刑執行を考えれば死刑はやはりなくすべきですね

死刑制度について、私なりの結論がでました。
いかにもあっけなく、ですが。

全く別の視点から、死刑制度廃止に考えを変えることにしました。
加害者でも被害者側でもなく、もし自分が死刑を執行する人の立場だったら、と考えたのです。
そう考えれば、結論はすぐに出ます。
私には死刑の執行は出来ません。
自分でできないことを他者にやらせるべきではありません。
だとしたら死刑制度はやはり廃止すべきです。
この2週間、いろいろと考えてきたことが全く無駄でした。
視点を変えれば答はすぐに見つかる好例です。

一度、その視点に立ってしまうと極めて事態はリアルに見えてきます。
愛する人を殺めた人を、私は殺められるだろうか。
その人が死刑になったら安堵するだろうか。
いずれもノーです。
1週間前の私の答は、いずれにもイエスでした。
現場に自らを置いて、観念の呪縛を捨てるとこんなにも簡単に考えは変わるものなのか、我ながら驚いています。
あっけない結論になってしまい、仰々しく書き続けてきたことを読んでくださった方には申し訳ない気がします。
すみません。

予めこういう考察をした上で、文章は書かなければいけませんね。
このブログの文章は、そういう考察を全く経ていないものばかりです。
恥ずかしい限りです。はい。

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2008/05/14

■死刑について6:光市母子殺害事件と死刑制度

さらに続けます。もう付き合いたくないと思われるでしょうが、私も早く逃れたいです。

光市母子殺害事件での弁護団の活動は、死刑制度への抗議だといわれます。
それが、彼らの行動の大義になっていますが、それこそ偽装行為ではないかと怒りを感じます。
なぜもっと堂々と取り組めないのか。
彼らの言動は、同時代人を愚弄する恥ずべき行為だと断じます。
被害者の本村さんの姿勢に比べて、その小賢しさと卑劣さは不快です。
彼らこそ、死刑制度に寄生し、言葉とは裏腹に死刑制度に正統性を与えているのではないかとさえ思われます。
法と権力で身を固めて、何が死刑制度廃止だといいたいです。

嘘のない、平安な世界がくれば、自ずと死刑はなくなります。
彼らのような、目線の高い良識のない「有識者」もどきが、世界の平安を崩しています。
しかも、そうした論外の論理をもてあそぶ弁護士を正す弁護士仲間は、ほとんどいません。
みんな結託しているからでしょうか。
制度や組織や職権、有識者は、そういうかたちで支えられています。

このシリーズに何回か出てきている辺見庸さんは、死刑制度反対です。
戦争に反対して死刑に反対しないのはおかしいと書いています。
論理的に考えれば、全くそうです。
死刑は憲法違反だとも書いています。

にもかかわらず、まだ私は死刑制度反対にはなれずにいます。
なにも生命を奪うことはなく、終身刑でいいのではないかと頭では思うのですが、一昨日書いたように、終身刑もむごさのわりには、被害者遺族にとっては、満足できない話でしょう。
未来の有無は、むごさ以上の意味を持ちますから、被害者にとっては加害者の生存は時にむごい状況を生み出す可能性があります。

自分の問題として考えれば、答はかなり明確です。
私の場合、愛する人を殺害した犯人には死を求めたくなると思います。
もし私もしくは愛する人が人を殺害した場合はどうでしょうか。
私の場合は、おそらく自死を求めます。
人を殺めることと人に殺められることは、同じような気がします。
いずれも、生命のつながりからの自らの離脱だからです。
他者には死刑を、自らは死刑ではない自死を、というわけです。
明らかに論理矛盾です。

答は出そうもありません。

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2008/05/13

■死刑について5:由比忠之遺さんの自死

もう一度、続けてしまいます。死刑の対極にあるのが自死かもしれません。
国家による殺人に対して、自らによる殺人ですから、執行者はたしかに対極にあります。
しかし、対象者はいずれも個人、しかも社会から外れて(外されて)しまった個人です。
その視点から考え直すと、直接の執行者の後ろに共通なものが見えてきます。

これもまた重い問題であり、正面から立ち向かえそうもないのですが、先日お会いした椎原澄さんがブログに書いたと連絡をくれていました。
澄さんのブログとはリンクしていますので、勇を鼓して読んだのですが、読み終わった後、頭が白くなってコメントできませんでした。
もし皆さんに余裕あれば、私に代わって読んでコメントしてやってください。

辺見庸さんの「いま、抗暴のときに」を読んでいたら、さらに刺激的な文章に出会ってしまいました。
1967年、当時の佐藤首相に対する抗議のために焼身自殺した由比忠之遺さんの話です。
由比さんの抗議文の一部が、掲載されていました。

佐藤首相に死をもって抗議する。(中略) 
ベトナム戦争で米軍は南北ベトナムの民衆に対して悲惨きわまる状態を作り出している。この米国に対して圧力をかけられるのはアジアでは日本だけであるのに、圧力をかけるどころか、北爆を支持している佐藤首相に私は深いいきどおりを感じる。私の焼身抗議がムダにならないことを確信する。

この事件に関して、大宅壮一さんは当時、こう書いたそうです。

「由比老人の抗議文の内容は、現在日本人の大多数が痛切に感じていることばかりで、いわば国民の常識であり、良識である。それを″焼身自殺″という異常な形で表現した由比老人の役割を私は高く評価するものである」
「現代人にもっとも必要なことは、だれもが常識と認めていることを行動にうつす勇気である。あえて『由比老人につづけ』とはいわぬが、そういった意味でこの老人の死をムダにしてはならぬと思う」

自死とは何でしょうか。
暴力手段を国家に取り上げられた状況の中で、暴力を奪還する手段は自死しかないのでしょうか。
今もなお、中近東では自爆事件が続いています。

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2008/05/12

■死刑について4:身勝手に人を死に至らしめた人の生存を認める理由は何でしょうか

死刑について書くのは間をおいて時々と思っていたのですが、なぜか連日、刺激的な情報に出会ってしまいます。
もう一度、続けます。
朝日新聞の記事からです。
今月9日に行われた国連人権理事会作業部会で、欧州の多くの国から日本に対して、死刑執行の停止や死刑制度廃止を求める声があがったそうです。
また、国内でも、仮釈放のない「終身刑」の創設を目指す超党派の議員連盟が結成されたそうです。そこには死刑制度賛成派も反対派も参加しているようです。

すでに世界の2/3の国が死刑制度を廃止しています。
特にEUは死刑廃止を加盟条件の1つとしているばかりではなく、世界のあらゆる国での死刑制度の廃止を目指して活動しています。
その考え方は次のサイトに書かれています。
http://www.deljpn.ec.europa.eu/union/showpage_jp_union.death_penalty.php
国家と死刑制度の関係を考える上でも興味ある内容です。

統計的に調べたわけではありませんが、歴史的にみれば、死刑制度の対象になった人たちは政治犯が多いのではないかと思います。
死刑制度とは極めて「政治的」なものです。
そうした文脈での死刑制度と生活分野での死刑制度とはかなり意味合いが異なります。
もちろんそれらは繋がっており、政治が民事事件を利用することは少なくありません。
しかし、いまの死刑制度論議には、そうした異質なものが混在しています。
そこにこの問題の悩ましさがありそうです。

ところで、終身刑ですが、これもまた死刑以上に残酷な刑のような気もします。
生きるということをどう考えるかによって、評価は全く違ってくるでしょうが、私にはそう思えます。

私の迷いは、死刑を否定した場合、人を死に至らしめた行為をどう位置づけるか、ということです。
身勝手に人を死に至らしめた人の生存を認める理由が見つかりません。
ですから、死刑制度をなくすのではなく、死刑になるような事件が起きないようにするほうにこそ、関心を向けるべきだと思うわけです。
そのために、死刑制度が少しでも効果があるのであれば、残したらいいというのが現在の私の考えです。
そういう死刑制度の場合は、もちろん政治犯や冤罪の可能性が少しでもある場合は対象にはなりません。
区分けが難しいといわれそうですが、「疑わしきは罰せず」のルールがあれば問題は起きません。

なんだか無理やり帳尻を合わせようとしている気もしますが、考えれば考えるほど、悩ましくなっていくのが死刑制度です。
人の生き死にがかかっているのですから、当然な話ですが。

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2008/05/11

■死刑について3:死刑制度をどう考えるかは思考の試薬

昨日、やっと辺見庸さんの「単独発言 私はブッシュの敵である」の本を入手できました。
そこに、「死刑制度について」という講演記録が載っていました。
先ずそこを読んでしまいました。
けっこう落ち込んでしまいそうです。
2日つづきになりますが、今日もまた「死刑について」を書きます。

辺見さんはこう書いています。

死刑制度というものが思考の試薬のように思えることがあります。
死刑制度をどう考えるか。その答えのいかんで、その人の思想や世界観の一端どころか、おそらくはいちばん大事なところが見えてきます。
私のすべてが、辺見さんに見透かされてしまっているようで気が重いです。
自分自身でさえわかっていない自分が、彼には見えてしまっています。
皮肉ではなく、そう思います。
死刑が執行された永山則夫について言及しています。
私も彼の手記や作品を読んだ時期がありましたが、辺見さんと違い、何も見えませんでした。

世の中には存在が否定されるべき人はいない、という辺見さんの意見には全く賛成です。
死刑囚も人間だという話も、よくわかります。
私自身、世の中には本当は悪い人などいないと確信しています。
それは乳幼児たちを見ていればよくわかります。
にもかかわらず、身勝手な殺人が起こっています。
否定されるべきでない人の存在が否定されてしまった。
その帳尻は合わせなければ、生命全体が成り立たないと、私には思えてなりません。
他人の生命を奪った時に、実は自らの生命を放棄したのだと私は考えます。
つまり、殺したのは相手だけではなく、自らもなのです。
その死者のけじめをつけなくてはいけないように思います。

しかし、だからといって、それを国家を牛耳る権力者の権限にしていいわけではありません。
問題は2つあるように思います。
死刑制度の是非とそれをだれが担うのかという問題と。

辺見さんは、ペットの殺処理システムの、生々しい話を紹介し、死刑制度もそれに繋がっていると示唆しています。
そしてペット処理の話をすると反響が大きいのに、死刑制度の話は反響が少ないと嘆きます。
その怒りはとてもよくわかりますが、私自身、同じ反応をするかもしれません。
問題の設定に間違いがあるように思うからです。
処理システムの話は、また別の3番目の問題だろうと思います。
しかし辺見さんの深い洞察に反論するほどの確信は、まだ持てません。

昨夜、テレビで映画「グリーンマイル」が放映されていました。
無実の人が死刑を執行される残酷な映画です。
迷ったのですが、結局、観るのをやめました。
多くの人と同じく、死刑制度の問題からは逃げたい気がしています。
しかし、それをどう考えるのかが私の世界観の核心を物語っているという辺見さんの問題提起を読んだ以上は、避けては通れない気がしています。
もう少し考えてみるつもりです。
厄介な問題にぶつかってしまいました。

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2008/05/10

■死刑について2:国家からの暴力の奪還

国家の本質は暴力の独占にあり、それを象徴するのが死刑と戦争だといわれます。
最近の生政治学の捉え方では、少し言い方が違うのでしょうが、つまるところ死刑と戦争は最後の切り札としては担保されていますから、国家の本質という点では変らないでしょう。

私が死刑制度への違和感を持ったのは、映画「真昼の暗黒」でした。
実際にあった八海事件を題材にした映画です。
中学時代だったと思いますが、この映画を観てから自宅に戻る間、涙が出るほどの怒りを感じ続けていたことを鮮明に覚えています。
コタツで腕枕をしながら仲良く眠る逮捕前の被告夫婦の映像が今でも脳裏に焼きついています。
権力が無力な庶民の命を勝手に奪うことの不条理さがあまりに強烈だったために、以来、権力への嫌悪感が拭えなくなってしまったのかもしれません。
死刑は許されるはずがないと、思いました。
大学で法律を学んだ時も、いうまでもなく死刑廃止論者でした。

しかし、社会に出てみると、悪いのは権力者だけではないことを知りました。
身勝手な理由で、個人の尊厳を踏みにじり、あろうことか生命さえ奪う人がいる。
生命を奪った人の生命とはいったい何なのか。
国家との関係ではなく、生命を奪われた人との関係において、その生命を終わりにするべきではないか。
そうでない限り、生命を奪われた人の近くの人の生命もまた、奪われるのではないか。
そんな気がしてきたのです。
他者の生命を奪っておいて、なお生き続けることはできないのではないかと言い換えてもいいかもしれません。
そして数年前から死刑制度賛成論に変節してしまいました。
但し、身勝手な理由で他者の生命を意図的に奪った場合だけの話です。
冤罪の可能性がわずかばかりでもあれば、死刑は許されるべきではありません。
なぜなら過ちを決定的に正せなくなるからです。

しかし、国家を批判しながら死刑制度を受け入れるのは論理矛盾です。
その矛盾を回避するためには、死刑の執行者を国家権力から剥奪するしかありません。
それは同時に、国家権力者をも死刑の対象に加えるということです。
具体的に言えば、戦争による殺人も死刑の対象にするということです。
現在の日本の政府関係者(政治家や官僚)には、その該当者としての資格を持っている人は少なくありません。
国家から暴力を奪還すること。これこそが唯一の方法かもしれません。
問題はだれが奪還するかです。
そこで「マルチチュード」がでてくるわけです。

「死刑について」シリーズなど、書き出さなければよかったと後悔しています。
書くのが難しく、書けば書くほど、自分の思いとは違ったことを伝えてしまいそうな気がします。
でも、もう少し続けてみます。

今朝の朝日新聞に、死刑が犯罪を誘発するような見出しの記事がありました。
朝日新聞社の良識を疑います。

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2008/04/19

■田母神空幕長の法を踏みにじる発言に耳を疑いました

朝日新聞の夕刊で、とんでもない記事を見つけました。

航空自衛隊のイラクでの空輸活動をめぐり、活動の一部が憲法9条に違反するという判断を含んだ名古屋高裁判決に対し、田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長は18日の定例会見で、隊員らの心情を代弁するとして、お笑い芸人の流行のフレーズを使い、「『そんなのかんけえねえ』という状況」などと述べた。判決が隊員の活動に影響がないことを強調した。
これは明らかに犯罪的発言だと思います。
司法の判断を「そんなのかんけいねえ」とは、どういう心境でしょうか。
犯罪者そのものとしか思えません。
まともな法治感覚や順法精神など微塵も感じられない発言です。
この人の家族はどう思っているのでしょうか。
彼には友人はいるのでしょうか。
もしいたら正してほしいものです。

シビリアンコントロールなど、「そんなのかんけいねえ」と思っているのでしょう。
こういう人は即刻懲戒解雇でなければ、おかしいと思います。
田母神さんのような良識など微塵もない人が、自衛隊では出世するのは、その性質上、仕方がないとしても、この種の発言に大臣が何も言わないとしたら、この国の防衛体制などは全く意味がないでしょう。
彼らが防衛しているのは、平和や国民の生活ではなく、自らの利権でしかないと思われても仕方がありません。
田母神さんのような人をのさぼらせた結果、どうなったか、ドイツや日本は体験してきました。
今の子どもたちの社会のおかしさも、田母神さんのような人たちが作り出しているのだと思います。
こういう人をとがめる仕組みのない社会は法治国家とはいえません。
法の権威を認めない人が、政府の要職を勤めているのは仕方ないとして、
この人の場合は、狂人に凶器です。
恐ろしい話です。

青山裁判官と田母神空幕長。
あまりの格差に驚きます。
彼が罷免されないようであれば、司法の権威は損なわれるでしょう。

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■田母神空幕長と自衛隊の本質(2008年11月1日)

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2008/04/18

■憲法9条と平和的生存権

「空自イラク派遣は憲法9条に違反」という判決が出ました。
昨日の自衛隊イラク派遣の差し止めや派遣の違憲確認などを求めていた、市民3千人以上による集団訴訟の控訴審判決(名古屋高裁)です。
原告が主張していた「平和的生存権」に関しても、判決は平和的生存権を「憲法上の法的な権利」と認定し、「戦争への協力の強制など憲法9条に違反する国の行為により個人の生命が侵害されるような場合には、裁判所に違憲行為の差し止めを請求するなどの具体的権利性がある」と明言しています。
日本国憲法の前文には、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とあります。
これが「平和的生存権」の根拠ですが、この判決文は何度読んでも感動します。
いまの9条がある限り、戦争への協力の強制などを拒否できるということですから。
しかし、この判決に対する政府のコメントは、この判決の無力さを予感させます。
違憲判決にもなんら反応しない政府の体質はいまなお続いています。

今回の判決では、多国籍軍兵士を空輸する空自の活動について「他国による武力行使と一体化した行動」と述べ、武力行使を禁止した憲法9条1項とイラク特措法2条2項、活動地域を非戦闘地域に限定した同条3項に違反すると判断していますが、小泉元首相の狂気に対して、ようやくまともな意見をいう裁判官が出てきたことは少し安堵します。
司法にもまだ何がしかの見識があるのかもしれません。
今回の判決をくだした青山邦夫裁判長のこれからに注目しておきたいです。

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2008/04/12

■犯罪の作られ方

犯罪者の作られ方に続いて、今度は犯罪の作られ方です.
立川反戦ビラ配布事件(立川ビラまき事件)の最高裁判決が出ました。
上告棄却で、有罪が確定です。
最近の最高裁の傾向から予想はしていましたが、実際にこうした判決が出てくると失望というよりも恐ろしくなります。
私たちは息苦しい時代に向かっているようです。
もしこの裁判に裁判員制度が適用したら、無罪もしくは軽い刑になると思いますが、裁判官たちはそうは思わなかったようです。

事件の概要はご存知かと思いますが、このブログでも2回ほど取り上げました
事件をご存知ない方はウィドペキアをご覧下さい。

概要は、立川市の自衛隊官舎で自衛隊のイラク派遣に反対するビラを配った3人が住居侵入罪に問われた事件です。一審は無罪、二審は有罪でした。
ポストへの投函が住居侵入に成るとは思ってもいませんでした。
郵便や宅急便、あるいは新聞を届けてくれる人は毎回住居侵入しているわけです。
おそらくこの官舎には、それ以外のビラも配布されていたはずですから、反戦ビラであることが有罪の大きな理由です。
わが家の自宅のポストにもいろいろなビラが配布されますが、訴えたらそれもすべて犯罪になるのでしょうか。
自治会の資料などを無闇にポスティングできませんね。

私が恐ろしさを感ずるのは、判決もさることながら、被告の3人は逮捕された後、75日間勾留されていたことです。
ポストにビラを投函しただけで、75日も勾留できる仕組みに恐怖感を感じます。
ちなみに、一審では、政治ビラの配布について「民主主義の根幹を成し、商業ビラより優越的な地位が認められる」と指摘し、刑事罰を科すほどの違法性はないとして無罪とされました。
私にはとても納得できる判決です。
ポストに投函して75日も勾留。北朝鮮ではなく、日本の話です。
最高裁には、まだ戦争に加担した老人が生き残っているのでしょうか。

悪質な商業ビラは不問になり、反戦ビラは犯罪に仕上げられる。
自衛官たちと警察や検察、裁判官の仲間の世界に異を唱えると犯罪者にされてしまう社会の司法とは何なのか、良く考えてみなければいけません。
これは他人事では決してないのです。
私もつい先日、被疑者扱いされましたが、反発しないでよかったです。
権力者に逆らうとろくなことにはなりません。
従順に家畜のように生きるのがいいのかもしれません。
ちょうど、裁判官や警察官がそうしているように。

いささか腹立たしさが限度を超えたため、品のない書き方になってしまいました。
すみません。

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2008/03/15

■「自らの間違いを認めない」文化の震源地

「横浜事件」の再審で、最高裁は14日、有罪か無罪かに踏み込まないまま、裁判手続きを打ち切る「免訴」判決を確定させました。
要するに、裁判所が犯した罪を認めなかったということです。
自らを裁かない裁判所の本質を露呈させた判決でした。

この国では、検察も裁判所も、また弁護士も裁かれることはないのかもしれません。
裁かれることのない権威が、人を裁く構造とは、神権国家の構造です。
法曹界は「司法改革」に取り組んでいますが、基本にある裁判のパラダイムは全く変わっていません。
改革とは程遠い話です。
横浜事件で不条理で、正義に反する判決を下した裁判官が、戦後もその立場を失わなかった国ですから、ドイツとは全く違います。
その国で、そうした人たちが進める司法改革がどういうものであるかは明らかです。
裁判員制度も、その枠の中から出てきたものでしかないと思いたくもなります。

今回の判決は、要するに「自らの間違いを認めない」ということです。
この姿勢が、いまの日本の統治構造の根底にあります。
「行政の無謬」神話は決して過去のものではないのです。
いま問題になっている新銀行東京の都議会の議論を聞いていれば、それが露骨に感じられます。
「裁判の無謬」もまた強く残っています。

自らの間違いを認められない人間が、人を裁けるはずはありません。
裁判だけではなく、おそらく政治も同じでしょう。
後任日銀総裁の件に象徴されるように、自らは無謬だとしている福田政権の姿勢は、あまりにも露骨ですが、あまりとがめられずにいます。
国民に、政府無謬信仰があるのかもしれません。
産業界は、最近、ようやく自らの間違いを認めることの意味を理解しました。
しかし、日本の政治も司法も、まだその段階にいたっていないようです。

横浜事件の最高裁判決は、そのことの現れのような気がしてなりません。
遺族の方たちの無念さを思います。
裁判官のみなさんは、そのことを恥ずかしく思わないのでしょうか。

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2008/03/07

■三浦再逮捕と一事不再理の原則

日本の裁判で無罪になった「ロス疑惑」の三浦さんがサイパンで逮捕された事件が話題になっています。
私には大きな興味がありますが、それは今のマスコミで騒がれているような意味ではなく、「一事不再理の原則」に関係して、です。
「一事不再理の原則」は今の時代に合わないルールだと思っていますし、国際的に考えれば論理的に納得できないルールです。
いまの司法、とりわけ刑法分野の司法の問題の本質が、そこに現れているように思います。

日本国憲法39条(「何人も、・・・既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない」)が、いわゆる「一事不再理の原則」の根拠です。
また、同条には「同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」とも定められています。
この一事不再理の原則は、多くの国家で採用されている刑事裁判の大原則です。
「市民的及び政治的権利に関する国際規約」でも、「何人も、それぞれの国の法律及び刑事手続に従って既に確定的に有罪又は無罪の判決を受けた行為について再び裁判され又は処罰されることはない。」(14条7項)と定められています。
ある事件の犯人と疑われた人が、それ以後、ずっと逮捕の恐怖にさらされるという非人道的な事態が起きないようにするための制度だといわれています。
問題は、今回のように、事件が発生した国と判決が出された国が違うように、こうした原則が国境を越えた場合にどうなるかです。
グローバリゼーションのなかで、国境の壁はどんどんなくなり、一事不再理の原則は国境を越えていくという見方が多いかもしれませんし、いまでもすでに一事不再理の原則は国境を越えているという人も多いでしょう。
しかし、私には大きな違和感があります。

まず国境を越えるということに関していえば、たとえば国家による法体系が違うなかで、一事不再理の原則だけが国境を超えるということは論理的に整合しないはずです。
しかし、私にとってもっと大きな関心は、刑法体系のパラダイムです。
これは刑法に限ったことではなく、憲法についてもいえることだと思いますが、そのことが特に象徴的に出てくるのが刑法です。

国家の暴力に対して国民を守る、これが現在の刑法の「建前としての」パラダイムだと思います。
ですから被害者よりも加害者の人権が重視されがちだったのです。
一事不再理の原則もまた、そうした文脈の中で考えられるべきですし、時効制度もそうだと思います。
罰則の決め方も多くの場合、「○○以内」というように上限が極められています。

極端な言い方になりますが、そうした発想の根底には、「冤罪」の発生が予想されています。
実証することはできませんが、「冤罪」が予想されるシステムのもとでは、冤罪は発生しやすくなるはずです。
人が予想し想像したことは必ず実現するのが人の世ですから、いまの司法体系の中では冤罪は生まれるべくして生まれると、私は思っています。

一事不再理の原則の根底にある人権的な考えには異論はありません。
しかし、裁判も間違いのあることですから「不再理」を原則にすべきではないと思うのです。
もっと柔軟な発想が必要です。
最近の横浜事件の話と不再理原則は全く別の話かもしれませんが、私にはどこかで通底しているように思います。
光市母子殺害事件の弁護士団の動きに対して、法曹界の中からはほとんど何の動きも出なかったことも、そこに通じているような気がします。
裁判員制度への問題提起がやっと始まったようですが、司法のパラダイムの見直しこそ必要ではないかと思います。

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2008/02/23

■「横浜事件」に関する最高裁の姿勢への失望

戦時下最大の言論弾圧事件とされる「横浜事件」の再審は、最高裁での弁論が開かれずに、結局、上告が棄却され、有罪か無罪か判断せずに公判を打ち切る「免訴」とした1、2審判決が確定する見通しになったと今朝の新聞が報じています。
横浜事件に関しては、2審判決の時にこのブログでリーガルマインドの感じられない無機質さに昨今の司法の本質を見ると批判しましたが、それでも最高裁への一抹の期待が在りました。しかし、それも期待はずれだったようです。

冤罪論争や検察の暴挙が問題になっていますが、そうしたことの根っこがこの事件にあります。
この事件をしっかりと検証し議論することの意味はとても大きいように思いますが、最高裁はそう考えなかったわけです。
手続き的な正当性は吟味しても、当事者たちの人間的な思いには関心がないようです。
免訴になっても、補償はできるからというような話もでてきていますが、当事者にとってはお金の問題ではありません。
そうした当事者たちのいたみを、最近の司法界の人たちは考えもしないようです。
しかし、法の適用は論理の問題ではなく、倫理の問題なのではないかと思います。
倫理不在の論理の展開は責任回避でしかないからです。

司法への批判が高まっていますが、それに対してどうしてもっと司法界は立ち向かおうとしないのでしょうか。
司法改革を標榜している弁護士会から、もっと声が上がってこないのも不思議です。
弁護士は自分が関わらない事件には、口を閉ざすのがルールなのかもしれませんが。

この問題の意味を、私たちはもっとしっかりと考えなければいけないように思います。

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2008/01/08

■福岡の3児死亡飲酒運転事件の判決への疑問

会社時代に新たに異動した部署の上司から言われた言葉で、今でも覚えていることがあります。
「法学部出身者は、限られた前提要素に基づいて、論理的に考えて結論を出すが、前提となる要素の是非や前提要素以外の事情を考えない傾向がある」。
その人は経済学部出身でしたが、部下の多くは法学部出身でした。
私も法学部出身でしたので、予め注意してくれたのだろうと思いました。
奇妙に心に残ったのは、私が思っていたことと重なっていたからです。
もっとも私自身は、法学部に限らず経済学部のスキームもそうではないかと思っていましたが。いや、近代科学の発想はすべてそうだと思います。
それがよいこともありますが、その限界はしっかりと認識しておくことが大切です。

今日、福岡の3児死亡飲酒運転事件の地裁判決がでました。
注目されていた危険運転致死傷罪の成立はやはり認められませんでした。
法論理的には妥当なのかもしれませんが、法の精神(リーガルマインド)には沿っていないような気がします。
40年前の上司の言葉を思い出しました。
もしこの事件が、裁判員制度の対象になっていたらどうでしょうか。
そんなことも考えました。

この裁判では、「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」だったかどうかが争点だったわけですが、「正常な運転」「困難な状態」などというのは論理的な言葉ではありません。
判決では、「スナックから事故現場まで蛇行運転や居眠り運転をせず、衝突事故も起こさなかった」「事故直前、被害者の車を発見して急ブレーキをかけ、ハンドルを切った」ことなどを重視して、困難な状態ではなかったということになったそうですが、馬鹿げた議論だと思います。
もしそれが法論理的に妥当なのであれば、馬も鹿にできるでしょう。
と考えてしまうのは、やはり法律を知らない者の暴論なのかもしれません。
しかし、どう考えても、この論理展開にはリーガルマインドも価値理念も感じられません。
出来の悪い電算機の出す論理展開のような気がしてなりません。
誠実に論理展開をしたのでしょうが、前提として入れ込む要素に問題があるような気がします。
やはり暴論でしょうかね。
私はとても裁判員にはなれそうもありません。

罰の重さはともかく、こういう事件にすら危険運転致死傷罪が適用できないことが不思議です。
何のための立法だったのでしょうか。
何のための裁判なのでしょうか。

念のために言えば、重罰を科すべきだと言っているのではありません。
裁判や法律の意味や信頼性のことを言っているのです。

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2007/12/24

■司法、行政、政治、そして人間ー薬害肝炎訴訟の顛末から学ぶこと

薬害肝炎訴訟は、ようやく「一律救済」で決着しようとしています。
いかにも遅かった気がしますが、ともかくホッとしました。
しかし、首相の指示による議員立法というのはどこかにすっきりしない気もします。
今回のことはいろいろなことを考えさせてくれました。
いろいろな問題も生み出してしまったような気がします。

私が一番気になったのは、司法、行政、政治の責任逃れです。
三権分立といいますが、それはそれぞれがバラバラであっていいということではないはずです。
目的達成のために、それぞれが自立して考えることが、より公正な結果をもたらすというための枠組みでしかありません。

その場合の「目的」とは何か。
それに関しては、いろいろな考えがあります。
現在の権力構造を維持するという視点から考えれば、時には棄民政策、つまりコラテラル・ダメッジも必要になります。
一方、国民の生活を起点に考えれば、人間あるいは生命の原理が最優先されることになるでしょう。困っている人がいれば、みんなで「痛み」を分かち合うということが理念になるでしょう。
「押し付けの痛み」を分かち合うのではなく、「痛み」を支え合いにつなげる分かち合いです。
したがって、その前提として、ロールズの「無知のヴェール」が現実性を持っていなければなりません。
構造が固定化している場合には「無知のべール」論は機能せず、「生命」の広がりは限定されます。
アメリカ開拓時代、ネイティブが「人間」とみなされなかったことを思い出せばいいでしょう。

一律救済では補償の範囲が際限なく広がることを危惧したということがいわれていますが、その考えは前者の立場から出てきます。
そうした悲劇を際限なく発生させることを危惧すべきであって、補償の範囲を限定したいなどと考えるのはまさに統治コストという発想であって、生命の原理にはふさわしくはありません。

司法、行政、政治の根底にある「人間の原理」「生命の論理」を忘れてはいけません。
いうまでもなく、法の根底にも「人間の原理」「生命の論理」がなければいけません。
政治決断も、法治主義も、所詮は形式でしかありません。
そうした当然のことが、いまおろそかになっているような気がします。

薬害肝炎訴訟の顛末は、たくさんのことを教えてくれます。
生命をかけて、一律救済を貫徹した被害者の方々に心から感謝します。
私も、その生き方を学ばなければと思っています。

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2007/12/02

■再犯防止できない刑罰制度のジレンマ

大阪の郵便局で男が現金を奪い、追跡した人を包丁で刺し重軽傷を負わせた事件の犯人が「刑務所を出たばかりで、年を越す金がなかった」と供述しているという報道がありました(11月27日の各紙)。
それに関連して、読売新聞に次のような記事がありました。

法務省が再犯者の実態を取り上げた07年版の犯罪白書でも、再犯件数の多さが指摘されており、更生の難しさが改めて浮き彫りになった。
白書によると、昨年まで過去58年間の有罪確定者から無作為抽出した100万人のうち再犯者の割合は28・9%だったが、犯罪件数をみると、調査対象の約168万件の57・7%を再犯者による犯罪が占めた。(2007年11月27日 読売新聞)
再犯比率の高さには驚きます。
これに関連して、思い出すのが、私が最近はまっているフーコーの主張です。
フーコーは「監獄の歴史」のなかで、有名なパノプティコンを題材に現代社会の本質を見事に読み解いていますが、監獄に関しても次のようなことを主張しています。
刑罰の主要な目的は違法行為のつぐないをさせることであるが、それは同時に犯罪者を改心させるということを補足的な目標としている。そして、その装置としてつくられたのが「監獄」だが、監獄はむしろ犯罪を再生産する装置になっている。
フーコーは、監獄は法律違反者を拘禁し、矯正しているようにみえるが、実際はその厳しい行刑の技術を通じて危険な「非行者」を生み出し、あらゆる違法行為の可能性をもつものとして社会に循環させている、というのです。
そして、彼は監獄制度は失敗だったといいます。
にもかかわらず、監獄がなくならないのは、それが、刑罰制度の必要性を正当化する「非行性」の概念と存在を生み出し、監獄を含めた刑罰制度の存在を正当化する基盤を、自らの効果として産出しているからだというのです。
あまりにも粗雑な紹介なのでわかりにくいかもしれませんが、納得したい方はぜひ「監獄の歴史」、もしくはフーコーの解説書をお読みください。
私はとても納得できます。
いまの刑罰制度が守ろうとしているのは何なのかも垣間見えてくるような気がします。
法曹界はもっと真剣に「再犯問題」を考えるべきではないかと思います。
それは何も刑事事件に限った話ではありません。
民事も商事もです。もちろん政治事件もです。
しかし、再犯防止に成功すれば、自らの職を失いかねませんから、彼らは再犯防止どころか、再犯奨励に熱心になってしまうのでしょうか。
ここの司法のジレンマが存在します。

詳しくは記憶していないのですが、今月初めに父親の暴力から家族を守るために父親を殺害した息子の裁判が報道されていました。
とても家族思いの評判の良い息子だったため、その地域で減刑嘆願運動が起こり、それもあって確か懲役15年の求刑に対して、半分くらいの判決が出たという記憶があります。
嘆願運動をしていた人たちは刑が軽くなって喜んでいましたが、私はこの事例は執行猶予にすべきだと思いました。
家族を支えてきたその息子が収監されることで、彼も家族もおそらく良い方向には行かなくなると思うからです。
彼のような場合は再犯の可能性は限りなくゼロですから、矯正の必要はないでしょうし、むしろ彼が守ったことをこそ守る判決でなければいけないように思います。
そうしたところに、日本の裁判の脱価値性を感じてしまいます。

監獄に限りませんが、こうした「自己準拠的な構造」をもつ制度は他にもたくさんあります。
いや、そもそも近代文化は、産業のジレンマに象徴されるように、そうしたジレンマをかかえたものなのだろうと思います。
再犯が多いことの意味はもっと真剣に考えなければなりません。
法曹界の人たちはそんなことは考えないでしょうから、社会問題にしていかなければいけないテーマかもしれません

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2007/11/24

■問題が多すぎて何も変わらないのではないかと心配です

問題が多すぎると解決するためのエネルギーが分散するばかりでなく、問題そのものが相互に消しあって問題の本質を見えにくくしてしまうことはよくあることです。
全体が見えなくなるからです。
全体像を見せないままに、各論の解決を都合よい方向に向けて、それらを編集することで、結局、全体像を全く違った方向に落着させることも決して不可能なことではありません。
そうしたことへの対論として、複雑系の発想が出てきたわけですが、残念ながら社会の問題を「民主的」に解決するための効果的な方法論はまだ見つかっていないようです。

平和を願う人たちが、一昨年、「平和に向けての結集」に取り組みだしました。
私も参加させてもらいましたが、さまざまな人たちが集まったために論点は多岐にわたりました。
私自身は結集のために必要なことは、みんなが賛成できる、ないしは納得できる1点を見つけることではないかと思いますので、「憲法9条を変えない」を突出させるのが効果的だと思いましたが、残念ながらそうはなりませんでした。
大同小異はとても大切なことです。
むしろ「小異」は「大同」を支える重要な要素なのですが、そう思う人は少ないのだとその時に感じました。

最近の政治や経済の世界はどうでしょうか。
問題が多すぎて、目移りするばかりですが、それでは解決には向かいにくいように思います。守る側が有利になります。
対策は2つあります。
一つはシンプルな問題に焦点をしぼり、そこから解決していくことです。
たとえば、前者は国民感情が収斂しやすい「年金問題」から入り、政治と行政と経済の問題点を露呈させ、解決の波を広げてく方法です。
みのもんたの朝のテレビ番組が、しつこく年金問題を摘発し続けました。
そのやり方はともかく、問題を絞って継続的に追いかけていく姿勢は大切です。
いくつかの報道ニュース番組がありますが、みんな同じような形で「問題」に時間配分していますから、どれもこれもスタイルこそ違え同じような話が出てきます。
そうではなく、どこか焦点を定めてせめて半年くらいは追い続けてほしいと思います。
一つの問題にフォーカスしても、しっかりしたグランドデザインがあれば、大きな全体像を解決することにつなげられるはずです。
今の状況では、次々目まぐるしく出てくる問題に振り回されて、何も変わらないのではないかという不安があります。

もう一つはたくさんの問題の根底にある「クリティカルパス」を見つけてそれを変えていくこと、です。
たとえば、やや極端ですが、嘘をつき使命を果たさない(と大方の国民が考える)人は社会から隔離し、損害賠償の責務を課す方法です。時効など考える必要はありません。明白な悪事は時効になどなるはずがありません。
法律に反するなどと考える必要は全くありません。
法律は、所詮は社会を正常化するためのルールでしかありません。
法治主義と法律万能主義は全く違いますし、法の精神と法文とはこれまた全く違います。それに、すべての法律は、それ自身正当性などはもっていないことを忘れてはなりません。
法律を成立させるには、法律の前に法を支える文化なり社会の合意があるのです。
法はその一つの現われでしかありません。
そして平常時において内部社会で通用するだけのものでしかないのです。

問題が多発しているのは、決して偶然のことではないことにも気づくべきでしょう。
今の事件多発状況はなにやら背後に意図を感じますが、考えすぎでしょうか。
目くらましにあってはなりません。

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2007/10/27

■浜岡原発判決の裁判官の責任の取り方

中部電力浜岡原発の運転差し止め訴訟の判決は、「原発の安全性を認め、ことごとく原告の訴えを退けた」(毎日新聞)内容になりました。
おそらく多くの人たちの予想とは違うものではなかったかと思いますが、そもそもこのテーマそのものが裁判にはなじまないような気もします。
現在の日本の裁判の基本パラダイムは要素還元主義による論理整合性に立脚しています。
ホリスティックな発想が入る余地は極めて少なく、入るとしても中途半端な「情状酌量」論しかないように思います。
さらに時間軸においても固定的で、関心は未来にではなく過去にあります。
刑事事件でも被告の更生はかかげますが、原告の未来軸には関心を持ちません。
まあ、そんな小難しい議論は別にしても、今回の判決は生活者の視点から考えればとても大きな違和感をもたざるをえません。

判決は、「指針見直しは旧指針の妥当性を否定するものではない。旧指針に適合していれば、耐震安全性は一応確保されたとみるのが相当」と判断したそうですが、この一文だけを見ると、裁判の立脚している論理にも疑問を感じます。
旧指針の妥当性が肯定されるのであれば、指針見直しは不要です。
それに、旧指針に適合していれば安全性は確保されるなどという馬鹿げた論理が世の中にあるとは思えません。
もしそうであれば、昨今の環境規制などは成立しません。
この裁判官には生きている時間というものがないのでしょうか。

まあ、あまり憤りだけ述べても意味がありませんが、いつも思うのは、なぜこうした事件が裁判ではなく、解決に向けて公開の場でもっと真剣に語られないのかです。
それが実現しないのはなぜでしょうか。
原発反対の運動者にも問題はあると思いますが、責任の過半は電力会社もしくは国家にあると思います。
エネルギー問題や環境問題(それらはいずれも生活に直結する問題です)を踏まえて、関係者が真剣に事実を徹底的に出し合って選択肢を模索するべき問題です。
すべての事業や商品に「絶対安全」などあろうはずもありませんから、問題は安全を高めるためにどういうシナリオがあるのかを考えればいいだけの話なのです。
対立する時間があれば、共創すればいいだけの話です。
原発は企業と社会の関係における象徴的なテーマだと思いますが、残念ながら現状ではまだコミュニケーション基盤さえできていません。
電力会社や行政は、莫大な資金をかけて「コミュニケーションまがい」の活動をしていますが、ほとんどすべては「天下り先の確保」や「企業を儲けさせる事業」に消えています。
原発広報のパンフレットの無駄遣いが話題になったことがありますが、その費用は半端ではありません。
ある電力会社の広報関係者から私たちはこれだけのことをやっているのにと、広報資料を送ってきてくれたことがありますが、そのほとんどは印刷業者の利益を生むだけのものでした。
そうした費用を社会との真剣なコミュニケーション活動に振り向けたら事態は一変するでしょう。お金などそうかからないでブレークスルーできるはずです。

それにしても、今回の判決を出した裁判官の責任は問われないのでしょうか。
裁判官という職業は誰からも裁かれない神のようなものなのでしょうか。
冤罪事件の裁判官がその辛さを告白した事件が最近起こりましたが、裁判官もまた間違いを犯すことはあるはずです。
それは犯罪ではなく、間違いだから罪には問えないということかもしれませんが、そうした常識を見直してみるべきではないかと思います。
間違ってもとがめられないような社会行為はあってはなりません。
それにどんな判決を出してもとがめられないような、緊張感のない仕事は腐敗する恐れがあります。
プロフェッションの誇りは、その緊張感の中から生まれるはずです。
守屋前事務次官は、そうした緊張感のない立場ゆえに犯罪者になってしまいました。
裁判官もそうならないとは限りません。
ニュールンベルグ裁判を思い出します。

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2007/10/01

■オウムを存在させる宗教界ー「懲りない社会」

昨日、TBSの報道特集で、オウム(現アーレフ)の最近の動きが報道されていました。
唖然とする内容です。
いつオウム事件が再発してもおかしくないような気がしました。
日本は本当に「懲りない社会」です。
犯罪も事件も、汚職も不祥事も、同じようなことが繰り返し起こります。
その根底には、被害者よりも加害者の人権が重視される文化があるように思います。

確かに加害者の人権も大切ですし、加害事件を起こす社会状況への配慮も大切です。
しかし、犯罪への対処は生活の立場で再構築すべき時期に来ています。
たとえば、現在の刑法は、罪の上限が決められています。
権力による横暴を防止するためのものですが、素直に考えれば、これは権力者による専制が行われている社会の発想です。
どう考えても今の社会にはあいません。
むしろ下限を決めるべき時代に来ているように思います。
もし裁判が本当に民主化され透明性が保証されていれば、それによる問題はそうは起こらないでしょう。
今の罪の法体系は生活者の感覚には全くあいません。

犯罪者の多くは、実は権力者と通低しています。
経済事件はその典型ですが、暴力を伴う犯罪も、多くの場合権力構造につながっていると私は思います。
子どもたちのいじめ事件も、その例外ではないでしょう。
このことも、上限を決める法体系が継続されているのかもしれません。

私の発想はいささか非常識かもしれませんが、飲酒運転を厳罰にしないことで得をしているのは誰かを考えれば、そう非常識ではないと思ってもらえるでしょう。
飲酒運転による不幸な事件を激減させることは、そう難しいことではありません。
飲酒運転によって事故を起こしたら免許を永久に剥奪すればいいだけの話です。
そんな無理なと思うことはありません。
なにか不都合があるでしょうか。
もし不都合があると思う人がいたら、その人は飲酒運転があることにメリットを得ているはずです。得ていない人がいたら教えてほしいものです。
飲酒運転に限りません。
こうした例はいくらでも上げられるでしょう。
時効制度も、そうした視点で考えれば、根本から見直されるべきでしょう。

少し極端に言っていますが、現在の刑法の体系は国民を支配する手段でしかありません。
国民が安心して快適な生活をできるための刑法であれば、いまとはかなり違ったものになるでしょう。

話がまたどんどん広がってしまいました。
すみません。
今日の問題はオウムでした。
こうした犯罪集団が相変わらず宗教組織として存続を許される責任の多くは、宗教界にあると思います。

なぜ宗教界はもっと行動を起こさないのでしょうか。
自分たちの仲間の不祥事ではないのでしょうか。
少し意味合いは違いますが、ミャンマーの事件にも日本の宗教界はまだ沈黙しています。
大相撲の世界と同じく、日本の宗教界はもう死んでしまっているのでしょうか。
立派な講話をされる高僧たちは、いったい何を考えているのでしょうか。
いま立ち上がらなくて、いつ立ち上がるのか。

最近少し気がたっているせいか、言葉がきつくなりました。
節子がいたら、書き直しを求められるでしょうが、今回は思いのままに書いて読み直さずに掲載します。

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2007/07/29

■光市母子殺害事件安田弁護士による死刑制度の私物化

光市母子殺害事件の安田弁護士の発言は、法によっては守られているのでしょうが、社会の規範からは完全に逸脱しているように思います。
今回の彼の発言を聞いて、いつものことながら、これほど「おぞましい人」がなぜまともに取り上げられているのか、そしてどうして弁護士仲間が異論を唱えないのか、とても不思議な気持ちになりました。
常識が通らない場での裁判には不信感をもたざるをえません。
しかし、私の思いとは反対に、司法界から何の声も上がりません。
私は彼をとがめているのではなく、彼のような存在を放置しておく司法界を問題にしているのです。
日本の裁判制度はもはやあまり信頼できなくなりました。

この事件のことはもう書くまいと思っていたのですが、やはり書かないと気がすまなくなりました。

人の生き方には、「法によって権力に従う生き方」と「規律によって規制された生き方」と「愛を活かしあう生き方」があります。
法治社会では「法によって権力に従う生き方」が推奨されます。
法に従っていれば、お上からのお咎めはないからです。
お上にとっては、正義ではなく統治が最大の関心事です。
企業のコンプライアンス発想もそうです。
ですからたとえ「不正義」でも、時に一時期のミートホープ社のように黙認されることもあるのです。
赤城議員などの政治家の逸脱行為もその一例です。

フーコーは、法による生き方から規律による生き方に社会は変わってきているといいましたが、日本においては歴史の流れは逆かもしれません。
恥の文化では、法以上に「誇り」や「正義」が尊ばれます。
いまでも日本各地の村では、お上が決めた「法」よりも、規律が重視されているところもあるように思います。
フーコーをかなり独善的に解釈していますが、私自身は、その先に、あるいはその前に、真心の社会があると考えています。それが「愛を活かしあう生き方」です。
そこでは規律のベクトルの意味が反転します。
これに関しては、いつかまた書きたいと思います。

ところで安田弁護士の生き方は、弁護士らしく「法に従う生き方」です。
つまり権力に守られた生き方、言い換えれば心を権力に売った生き方です。
権力に従う生き方は楽な生き方でしょう。
安田弁護士は権力に立ち向かう反骨の志というイメージを持っている人もいるかもしれませんから、こういう論理展開をすると、私の常識が疑われそうですが、そういう捉え方もできるという気がします。
権力に抗することと権力に迎合することとは紙一重です。
そして、その紙一重は共感の広がりで見えてきます。
安田弁護士の言動が、いずれかであるかは明白です。
権力に抗う形での迎合と考えるべきでしょう。

そう考えると、すべての風景は一変します。
たとえば、安田弁護士と死刑制度の関係です。
多くの論者は、そして私の知人の弁護士たちも、安田弁護士は、死刑制度廃止を目指しているといいます。
そうでしょうか。
死刑制度廃止と死刑を無くすことは違うことだと思いますが、それはともかく、私には安田弁護士が死刑制度を本気で廃止しようとしているとは全く思えません。
もしそうならば、もっと誠実に取り組むでしょう。
死刑はいろいろな意味で、人の生命に関わる問題ですから、誠実さが基本になければたぶん前に進まないでしょう。
それにこの問題は暴力と権力の問題にもつながる組織原理の問題でもあります。
安田弁護士の取り組みは、どう考えても、誠実とは思えません。
むしろ彼は、死刑制度の存続に寄生して生きている人だと思います。
もし日本に死刑制度がなければ、彼は自らの存在を維持できないでしょう。
つまり、彼が守りたいのは死刑制度なのです。
論理の飛躍があるかもしれませんが、そう考えてもおかしくないように思います。

彼のような、あざとい生き方が広がっているのが、とても哀しいです。
司法界だけではありません。
政界も財界も、学会も医療の世界も、なぜこのような小賢しさが蔓延したのでしょうか。

今回はかなりの暴論で、いくらでも反論の材料はあると思いますが、暑さのせいの暴論だと聞き流してください。
しかし、私には腹が立って仕方がないのです。
まだまだ人間が出来ておらず、寛容にはなれません。
寛容になれないままに、人生を終えそうなのが残念です。はい。

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2007/06/27

■ミートホープと光市母子殺害事件弁護団

ミートホープ詐欺事件光市母子殺害事件への弁護団介入
この2つの事件はまさに今の時代の病根を示唆しているように思います。

ミートホープの田中社長が、食肉業界では同じようなことが他社でも行っていることを示唆する発言をしたと報道されていますが、そう考えてもおかしくないように思います。
農水省も道庁も、ほかの事例を知っているような気もします。
そうでなければ1年前の関係者の報告を拒否したり無視したりすることはないでしょう。
耐震偽装事件と同じく、これは「みんなでやった事件」かもしれません。
ミートホープ社は極端すぎただけかもしれません。

いま信頼を失っているのは、ミートホープ社だけではなく食肉加工業すべてです。
食肉加工業がもっと自分たちの仕事に誇りを持っていたら、自分たちでこのような事件を起こす企業を監視し事件を防止できたはずです。
いやそうしなければいけません。

同じことは弁護士にも言えます。
今日の光市母子殺害事件の公判の被告人質問の報道を見ていると、弁護士という資格への信頼感が大きく揺らぐような気がしました。
これは21人の弁護士たちの問題ではなく、弁護士という資格の信頼性、さらには裁判への信頼性の問題ではないかと思います。
この裁判はいったい何なのでしょうか。
そう思っている弁護士はいないのでしょうか。
弁護士や法曹界の仲間主義がもしあるとすれば、残念なことです。

自らが信頼性を維持できないような資格は、たとえ権力がお墨付きを与えても、決して本当の信頼性は保てないでしょう。
弁護士仲間から何の動きも出ないことが残念です。
日本の法曹界もまた、政治と同じく、正義を忘れてしまったように思います。

弁護士が事実を捏造することは犯罪です。
せっかく築きあげてきた裁判制度への冒涜は許されることではありません。
政治家やジャーナリストによる「事実の捏造」も許しがたいことではありますが。

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2007/06/21

■「裁判には絶望した」

以前、ここでも取り上げた富山の冤罪事件の有罪取り消し再審の初公判が昨日開かれました。そこでまた「事実隠し」が堂々と行われるという、これまでと全く同じ繰り返しが展開されました。
弁護側が、取り調べを行った警察官の証人尋問を求めたに対し、裁判長が「証人尋問の必要はない」としたのです。冤罪を受けた男性は、「裁判には絶望した」とコメントしたそうです。
もし私が当事者だったら、同じ発言をするでしょう。
またまた裁判への信頼性を揺るがす事件だと私は思います。
「裁判には絶望した」
これはとても重い言葉です。

今回は弁護士ではなく、検察や裁判官の側の問題のように見えますが、私は一番の問題はやはり弁護側にあると思います。被害者を守れないのでは、何のための弁護かといわれても仕方がないでしょう。
これほど杜撰な捜査や立件に対して、どうして冤罪を予防できなかったのか。
考えてみれば、この事件はそこから端を発しています。
先に問題提起した「弁護士への問題提起」に関しては、冤罪事件が起きないように、被告を守るのが弁護士の役割だと複数の弁護士の方からメールでもらっていますが、冤罪事件を引き起こした場合の責任は弁護士にも半分はあるはずです。その責任をとる覚悟がなければ、その役割(ミッション)は果たせないはずです。
今回の事件は、裁判官に批判の矛先が行くでしょうが、弁護士もまた同罪だと思います。
多いに恥じるとともに、自らの失敗を謙虚に振り返り、社会に公開すべきです。
そういう積み重ねの中で、ミッションは鍛えられ、制度の信頼性は高まります。

法曹界は、裁判の信頼性を回復する努力をもっとするべきではないかと思います。
その方法は明白です。
取調べや裁判の透明性を高めれば良いだけです。
もちろんその前に、「裁判とは何なのか」を再確認しなければいけませんが。

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2007/06/13

■裁判における弁護の意味

福岡市3児死亡飲酒事故初公判で、弁護側は「飲酒は間違いないが、正常な運転が困難になるほどではなかった」と述べ、危険運転致死傷罪については否認したと報道されています(朝日新聞)。
この論理におかしさを感じないでしょうか。
しつこいですが、弁護士たちの発想のおかしさを、もう一度、書きます。

裁判における弁護とは、事実を明らかにすることによって、被告の人権が踏みにじられ、過重な量刑が課されないことだと思います。
決して、被告の罰を軽くすることではありません。
そこで目指されるべきは、多くの人たちが納得して受容されるような裁きがなされることです。
これは弁護士に限らず、法曹界に関わる人たちすべてに課されたミッションです。
それを実現することが、彼らのプロフェッションであり、そのために彼らには社会的権威と特権を与えられているのです。

そうした裁判の原点に戻って考えると、やはり先の論理には首を傾げたくなります。
もし家族が同じ事故にあったら、同じ論理を展開するでしょうか。
もしするとしても、問題は残りますが(いつか書きます)、
もししないのであれば、商売としての対応としか思えません。
私情とは別の判断をすることこそがプロフェッションだという人がいるかもしれません。
たしかにそういうことはあるでしょう。
しかし、この論理は、光市母子殺害事件の弁護団と同じレベルのものだと思います。

なぜこうした「ためにする論理」が横行するか。
それは裁判の役割がおかしくなっているからです。
ここでもたぶん、市場原理主義が蔓延しているのでしょう。
繰り返しますが、裁判は社会の安定のための仕組みです。
検事と弁護士が対立するのは本来はおかしい話です。
アメリカ型の法廷論争は決して正しい裁判の姿ではないはずです。
優秀な弁護士がついたら無罪になり、
優秀な検事なら死刑になったりする裁判が良いと思いますか。
弁護士と検事が力を合わせて、より正当な裁きを実現し、同じ過ちや不当な行動が繰り返されないことが、裁判の存在意義ではないでしょうか。

裁判とは何か。
それを弁護士たちには真剣に考えてほしいものです。
もちろん検事や裁判官にもですが。

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2007/06/09

■「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」

昨日のニュールンベルグ裁判でのヤニング弁護士のことが気になって、書庫にあった「ニュールンベルグ裁判」のビデオを引っ張り出して、観てしまいました。
この映画は、まだ私が検事志望だった大学生の頃に観た映画です。
私が司法の世界を志望したきっかけは、高校の時に観た八海事件を題材にした「真昼の暗黒」という映画です。
冤罪といわれた八海事件をドキュメント風に描いた映画で、私は場末の3本立ての映画館で観たのですが、映画館から自宅までの間、怒りで震えながら帰ったことを今でも覚えています。その時に法律を学ぶことを決めました。
そして、弁護士ではなく検事になろうと思った理由の一つがこの映画でした。
リチャード・ウィドマーク演ずる検事が、ともかく私には共感できたのです。その反面、マクシミリアン・シェル演ずる弁護士には「むしず」が走りました。映画ではシェルがアカデミー賞をとりました。

その「ニュールンベルグ裁判」を久しぶりに観ました。
20年ぶりでしょうか。前に一度だけ観ていました。だからビデオがあったのですが。

この映画は、ナチス首脳を裁いた有名なニュールンベルグ国際軍事裁判ではなく、それに続いて行われた各分野の政権協力者を被告とした裁判のうち、司法関係者の裁判をテーマにした法廷劇です。
実話を基本にしているようですが、実名ではありません。
被告の中心はナチ政権下で司法大臣などの要職をつとめたヤニングです。
ストーリーは映画紹介のサイトをご覧ください。

3時間を越える超大作です。
早送りして、最後のヤニング被告と判事の会話、つまり「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」という場面だけを観ようと思っていたのですが、観だしたらきちんと観たくなり、結局、観てしまいました。
いろいろと考えさせられることが多かったのですが、昨今の日本の司法界の人たちに見てほしいと思いました。司法研修所で、こういう映画を観ながらワークショップをしてほしいです。登場人物の発言は実に含蓄に富んでいます。
ヤニングは、自らの責任を進んで受けいれた上で、ナチスの暴挙に関して「私は知らなかった」と裁判が終わった後で判事に話すのですが、それに対して判事が即座に「ヤニング君、最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」と言い放つシーンは、上田弁護士が述べている通り、実に印象的です。
ヤニングはシュペアーのように、自らの責任を真正面から受け止める、正義の人として描かれていますが、正義とは何かを考える上でも示唆に富む言葉です。
「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」
これは決してナチ政権の時代の話ではありません。
同じような状況が、まさに今の日本で展開されています。

映画の中で、判事はこうも言います。
ヤニングのような正義の人がナチ政権を成り立たせたことこそが重要なのだ。
狂気のヒトラーの個人的犯罪ではなく、ビジョンと信念を持った人たちが、狂気を膨らませ、歴史を誤らせた、というわけです。
こうしたことは決して少なくありません。
小さな事件ではオウム集団(宗教集団と呼ぶべきではないでしょう)、大きな事件ではポルポト政権。そこでの主役は、多くの人に信頼されていた人たちの組織なのかもしれません。
歴史を狂わせるのは狂人ではなく、信念を持った誠実な人たちなのかもしれません。
そこに恐ろしさを感じます。
いまの日本は大丈夫でしょうか。

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2007/06/08

■弁護士の反応の報告

いささか挑発的な弁護士へのメッセージ「弁護士のみなさん、恥ずかしくないのですか」の記事のその後の報です。
一度、簡単な報告をしましたが、残念ながらその後まだ残りの5人からの返信はありません。
あまりメールをされていなくて、まだ見ていないのかもしれません。
あまり長くなってもいけないので、とりあえずの報告と私見を書きます。

返信してくれたお2人のうち、お一人は個人的には「あきれはしました」と書いてありました。
もうお一人は個人的な評価は読み取れませんでしたが、肯定的なコメントはありませんでした。
お2人に共通するのは、

いろいろな価値観の人がいることはいいことで、「主張をすること自体」を非難し、「これを許さない」といった風潮はあってはならない。

という点でした。
そしてまた、お2人とも、「死刑制度の是非」ということに、コメントの中心を置かれていました。
私が問題提起したのは前にも書いたように、死刑制度のぜひとは無縁だったのですが。

ところで、

いろいろな価値観の人がいることはいいことで、「主張をすること自体」を非難し、「これを許さない」といった風潮

ということを少し考えてみたいと思います。
そこにまさに問題の本質があると思うからです。

まず「いろいろな価値観の人がいることはいいこと」だというのは私も全く同感です。
問題は「いろいろな価値観」の範囲です。
人を勝手に殺してもいい、他人のものを勝手に奪ってもいい、という価値観も入るのでしょうか。
私が問題にしているのはその点です。
ある社会を維持していくためには、その成員に共通した何らかの価値観の領界があるはずです。
多様な価値観を許容することは何でもありということではありません。
自分以外の価値観の存在を許さないという価値観も認めることは、「自由のジレンマ」と同じようなジレンマに陥ります。
つまり結果的には、多様な価値観の存在を否定することになりかねません。

「主張すること」も悩ましい言葉です。
主張すると行動するとはどう違うのかです。
おそらく連続的です。
発言はいいが、行動はだめというのでは、犯罪教唆は成り立ちません。
さらにいえば、価値観を持つことも連続的というべきでしょう。

実際問題として考えてみましょう。
表現の自由が存在する状況においても、「許されるべきではない価値観」が存在することは否定できないと思います。
言い換えれば、ある範囲の中で、表現の自由は意味を持ってきます。
問題は、その範囲が狭くなっていくことです。
そして単一の価値観が支配しだし、価値観が意味をなくしていくことが結果として社会を壊してきた歴史は少なくありません。

価値観の許容範囲を狭くする道筋は2つあります。
一つは価値観が次第に収斂していく道筋です。
ナチスはその典型でしたし、いまの日本の経済システムはそれに近いです。
もう一つは、価値観の許容範囲が失なわれ、社会の自生的秩序が崩れる場合です。
どんな価値観も許容するというのであれば、おそらく価値観の意義そのものが失われていき、結局は一つの価値観に収斂していくことになりかねません。
今の日本がそうした入り口にあるようです。
社会が許容できない価値観は正さなければいけません。そうでなければ、社会の自生的秩序は維持できないでしょう。そのためにこそ、司法は存在しているはずです。

今回の弁護団の主張は、私には日本社会では許容範囲を外れるものだと思います。
しかも、司法を預かっているプロフェッションの主張です。
だから問題にしたわけです。

寛容に関しては以前も書きましたが、すべてのものを受け入れることが寛容ではないと思います。
社会を維持し、成員の多様な価値観の存在を保障していくためにも、価値観の許容範囲は大切なことです。
それを司るのが「司法」ではないかと思っていました。
だから問題は深刻なのです。

他の弁護士の方からの返信がないので、とりあえず中途半端な報告になってしまいました。
相変わらず独断的なコメントですみません。

お2人が「表現の自由」を書かれてきたことに異論があるわけではありません。
それはとても重要な問題です。
私が思い出したのは、立川テント村自衛隊官舎ビラ入れ裁判の東京地裁での内田雅敏弁護士らの弁論です。
その弁論と今回の弁護団の主張の、あまりの格差に驚きを感じます。
この裁判は、その後、思わぬ方向に向かっていますが、この弁論は多くの人、とりわけ多くの弁護士に読んでほしいと思います。
ニュールンベルグ裁判でのヤニング弁護士のこともぜひ思い出してほしいものです。
問題が違うではないかといわれそうですが、私は通底していると思います。

いずれにしろ、ニーメラーの教訓を忘れてはいけません。

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2007/05/26

■弁護士の反応

昨日の記事の続きです。
7人の、私が信頼できるだろうと思っている弁護士の方にメールしたら、すぐに2人の方から返信がありました。
お2人とも誠実に回答してくれました。
ただ残念ながら論点がかみ合いませんでした。
私の昨日の記事はどうも誤解されているようです。
そこで念のため、昨日の主張の論点を整理しておきます。
もしかしたら他の弁護士の方が読んでくれるかもしれませんので。
読んでいただけたらぜひご意見をお聞かせください。
私に直接メールしていただければうれしいです。
個人名での公表などはもちろん一切いたしません。

昨日の記事の論点です。

①「殺害後の陵辱行為を死者を甦らせる行為」などという発言の是非
これは思想の自由や発言の自由という問題ではありません。価値観の違いや異論を封じようというのではなく、単にその主張の内容を問題にしています。もちろん弁護活動という社会的地位を踏まえての是非論です。

②制度論争を個人の事件を利用して展開することの是非
もし死刑制度反対であれば、大きな社会運動にすべきです。司法制度は法曹界の人たちのためにあるのではありません。制度を独占している法曹界の発想を問題にしています。

③裁判に取り組む姿勢の誠実さへの懸念
弁護士というプロフェッションとしての職責をどう考えるかという問題です。人を「裁く」ということへの誠実さをもってほしいと思っています。

繰り返しますが、「死刑制度」の是非とは全く関係ありません。
それに関してはさまざまな意見があることは望ましいことです。

それと補足です。
昨日、「この事件と氷見市の冤罪事件は通底しています」と書きました。
その意味は、今回の加害者を利用しての自己主張の行為と松本サリン事件も含めて冤罪が防止できないことは共通の原因を持っているということです。
そこにあるのは、真実を見ようとしない法曹界の姿勢です。それには人間の機微への感受性の弱さも含まれます。冤罪事件の弁護士に、そうした姿勢があれば、多くの冤罪は防止できるはずです。もしできないとすれば(そしてこれまではできなかったことが少なくないのですが)、それは現在の「裁判制度」に欠陥があるからです。それを正すのが、本当の意味での「司法改革」ではないかと思います。そこを怠っている弁護士たちに私は不信感をもっているのです。
弁護士と検事が対立しているような裁判には、人を「裁く」ということへの畏敬の念が感じられません。弁護士はもっと国民のなかにはいってこなければ、真実などは見えようはずがありません。
そういうことを私は、このブログの司法時評で言い続けているつもりです。

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2007/05/25

■弁護士のみなさん、恥ずかしくないのですか

光市母子殺害事件の差し戻し控訴審が始まりました。
21人もの弁護士団の主張が断片的にしか報道されていないので、報道されている限りの情報からすれば、呆れた話としか思えません。
その発言内容は、まもなく週刊誌などで報道されるでしょうが、とても正常な人が話すような内容ではないと思いました。
彼らは殺人ではないと言い張った上に、殺害後の陵辱行為を死者を甦らせる行為と主張したそうです。
何と都合のいい論議でしょうか。
精神的に成熟していないのは、犯人ではなく、21人の弁護士ではないでしょうか。
この人たちには家族がいるのでしょうか。
その家族はどう思っているのでしょうか。

こうした「おかしな人」が弁護士なのです。
それも21人がいとも簡単に集まってしまう。
これが日本の弁護士の実態なのでしょうか。

同じ弁護士たちは、なんとも思わないのでしょうか。
弁護士という職業に、もし誇りを持っている人がいるのであれば、なぜ声をあげないのでしょうか。
恥ずかしくないのですか。
「おかしいことをおかしいという」基本を失ったら、人を裁く資格などなくなります。
ということは、おかしいと思っていないのでしょうか。
生活者との大きな溝を感じます。
難しい法議論の前に、社会が積みかさねてきた文化の規範があるはずです。
人を裁きに関われるのは、そうした社会の規範の上に立っているからこそです。

21人の弁護士たちの言動が、それを壊そうとしています。
この事件の裁判以上に、大きな裁判が必要になってきています。
21人はそれを求めているのでしょうが、彼らは「原告」ではなく、「被告」になるべきです。
その罪の大きさを彼らは自覚しているのでしょうか。

せめて、こうした人たちには弁護士の資格を返上してほしいです。
裁判員制度導入の前に、こうしたおかしな法曹人の資格審査をする公開の評価機関の導入が必要だったのではないでしょうか。
この事件と氷見市の冤罪事件は通底しています。
現れ方が違いますが、日本の司法体制の本質的な問題点が感じられます。

この弁護士団の言い分については、私の友人知人の弁護士にメールで感想を聞いてみようと思います。
弁護士の友人を、また何人か失いそうですが。
このままであれば、私は日本の弁護士はもう信頼できません。

*この記事に関する続報が次にあります。
弁護士の反応
弁護士の反応の報告

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2007/05/23

■死刑制度のない社会と死刑のない社会

以前、弁護士の犯罪について書きましたが、またそれが繰り返されています。

光市母子殺害の被害者の家族、本村洋さんの発言が昨日の報道ステーションで取り上げられていました。
この裁判の大きな争点は、「犯行時18歳だった被告を死刑にすべきか否か」ですが、死刑判決が出る可能性が高まったことで、21人の「死刑反対論者」の弁護士が集まって、弁護団が結成されたようです。
悪徳弁護士の集団としか私には思えません。
「悪徳」というのはひどい言葉ですが、私にはそれ以外の言葉が見つかりません。

弁護士や検事や裁判官は、犯罪を起こさないと思いがちですが、そんなことはありません。
彼らは法の世界に詳しいですから、犯罪を起こしても法的犯罪にならない方法を知っているだけなのです。
そうした事例はたぶんいくらでもあるでしょう。
弁護士は、弱い人を助ける人というイメージがありますが、そんなことはありません。
サラ金業者もまた、弱い人を助けるという名目で、弱い人を利用して利益を上げます。
たしかに弱い立場の人を支援する弁護士は、私の知人にも少なからずいますが、仕事として取り組んでいる人も少なからずいます。

死刑廃止はどうでしょうか。
私も学生の頃は、死刑廃止論者でした。
しかし、大切なのは、死刑になるような犯罪が起きない社会を作り出すことです。
制度としての死刑廃止ではなく、実態として死刑がなくなる社会が目指されなければいけません。
今回、集まった「悪徳弁護士」たちは、そうした努力をしているのでしょうか。
彼らは死刑になるような事件を助長しているだけではないかという気もします。
殺人ほう助罪と思いたくなるほどですが、まあこれは言い過ぎかもしれません。

木村さんの昨日の記者会見の話をぜひ多くの人に聞いてほしいと思います。
世間知らずの裁判官の判決よりはよほど説得力があります。
私欲に陥っている悪徳弁護士には通じないでしょうが。
本村さんの発言の記録をいろいろと調べたのですが、ネットでは見つかりません。
もし所在をご存知の方がいたら教えてください。
ちなみに、昔、まだニュースステーションだった頃に、本村さんが久米さんに語ったことに言及しているブログがありました。

市民の法論理と弁護士の法論理とどちらが説得力があるか、
不勉強な悪徳弁護士たちに少し考えてほしいと思います。
いまの法科大学院で学んでいる人たちにも考えてほしいですね。
もっともそんなことを考えていたら司法試験には通らないかもしれません。
底にこそ、実は大きな法曹界の問題があると私は思います。
私が検事を目指していたことと、状況は変わっていません。
司法改革の方向性が問われなければいけません。

またかなりの暴言を吐いてしまいました。
どうも「寛容」にはなれません。
困ったものです。

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2007/05/09

■冤罪事件報道で感じた恐怖

昨日のテレビ「報道ステーション」で、冤罪被害者の追跡調査の特集をやっていました。
報道ステーションのサイトから引用します。

2002年4月、富山県氷見市で、2件の婦女暴行事件に関わったとして当時34歳のタクシー運転手の男性が逮捕された。ところが出所後、別の事件で逮捕された容疑者がこの2件の事件について供述し、男性の冤罪が発覚したのだ。犯行現場に残された足跡に比べて男性の靴のサイズは明らかに小さく、さらには犯行の時間帯にアリバイがあったにもかかわらず、なぜ逮捕されたのか。そして、なぜ男性は自白に追い込まれたのか。当時の取調官に直接電話をかけ、問い詰める男性に独占密着。警察の杜撰な捜査の実態に迫る。

印象的だったのは、古館さんが心から怒っていたことでした。
私も感情を隠せない人間ですので、感情をあらわにする人が好きなのです。
古館さんの怒りは、そうした杜撰な処理をした警察、そして検察、さらには裁判に関わった人たちが、何の咎めもなく、今なお、冤罪被害者に非礼を重ねていることです。
この番組を見ていると、日本には公平な裁判はないのではないのかと思いますし、警察は暴力団以上に悪質な暴力団だと思わざるを得ません。暴力団でも、それなりに仁義があるでしょう。

しかし、私の周りにもとても誠実でまじめな警察官もいますし、弁護士もいます。
どうもそれがしっくりきません。

警察や裁判官たちが暴力団と同じだということは、ある意味では当然の話です。
彼らは暴力と人を裁く権限を法的に独占していますから、暴力団以上に暴力団になれるのです。両者がつながるのは当然の話です。

それにして、なぜこうした冤罪が繰り返し起こり、その冤罪に対して、常識的な対応ができないのでしょうか。
この2つは、実は深くつながっています。
企業の危機管理の歴史の中で、もはや常識になっていますが、危機に対する処理を間違っている限り、問題はなくなりません。
日本の企業や行政が繰り返し不祥事を起こすのは、それが犯罪だと認識されずに、しかもその処理がきちんと行われないからです。日本における企業不祥事も同じです。

冤罪を起こした警察官や検察官、弁護士が責任を問われない限り、冤罪はなくなりません。
今回の事件で、冤罪を意図的につくりあげた人たちは、免職ではなく、犯罪者として裁判にかけられるべきでしょう。しかも、少なくとも冤罪被害者よりは重罪にすべきです。
専門家とはそういうものでなければいけません。
裁判員制度などという無責任な制度を導入することができるのは、今の司法界の人たちに責任感も専門家意識もないからではないかと思います。

人の人生を狂わせておいて、心が痛まないような人が警察や司法界にいることが、とても恐ろしい気がします。
いや、そういう人でないと務まらないのが、司法界の真実かもしれません。

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2007/04/11

■裁判員制度の意味することの顕在化

裁判員制度実施に向けて模擬裁判が行われていますが、
そこから出てきた問題点が朝日新聞で報道されていました
一部を引用させてもらいます。

市民の「健全な社会常識」を裁判に反映させるために09年までに導入される裁判員制度で、プロの裁判官が、ふつうの市民から選ばれた裁判員の考えを誘導しすぎるおそれがないかという懸念が強まっている。法曹三者が、全国で行われている模擬裁判の検討を進める中で、課題として浮上してきた。

もしこの文章が正しいのであれば、気になる点が2つあります。
まず、「市民の「健全な社会常識」を裁判に反映させる」という点です。
市民の健全な常識と司法界の人たちの健全な常識は別だということを意味する言葉です。
市民の常識にはかぎ括弧がついているのも意味ありげですが、
これは朝日新聞の書き手の勝手な考えでしょうか。
それはともかく、両者の「健全な常識」の違いこそが問題なのですが、
それを正すには、どちらがどちらに合わせるかというのが次の課題です。

それに関して、「プロの裁判官が、ふつうの市民から選ばれた裁判員の考えを誘導しすぎるおそれがないかという懸念」というくだりが問題を顕在化してくれています。
裁判員制度は、「市民常識」を「司法常識」に合わせることを「正す」ことが読み取れます。
そんなことは最初からわかっていたことだろうと思っていましたが、
これほど露骨に行われるとは思ってもいませんでした。
意図的なリークとさえ、思えるほどです。

「賢い」司法界の人たちが、「馬鹿な」市民を啓発してやるというのが、
今度の裁判員制度の目的だと私は思っています。
それこそが近代のパラダイムなのですから。
この制度は、制度起点パラダイムの延長であり、社会状況への認識において間違っているというのが私の考えですので、批判的に考えすぎているかもしれませんが、実際には模擬裁判によって、そうした真実が露呈してきているのだろうと思います。
発想のベクトルを変えなければいけません。

つまり、「馬鹿な裁判官や検事や弁護士」を「賢い住民」が啓発していく仕組みにしなければいけません。
いつの時代も、額に汗して働き生きる人が一番賢いのです。
これはまさに「地方自治」の世界で進められてきたことと同じです
そのために支払ったコストは膨大でした。
法曹界もまた同じことをやろうとしています。

こうした状況を変える方策がないわけではありません。
ファシリテーターが参加し、議論の外からバランスを取る仕組みを創ればいいのです。
こうしたことは、地方自治やコミュニティ活動などで多くの知恵と体験が得られています。
そこから学ぶことは少なくありません。
それによって、裁判員制度導入による大きなダメッジは避けられるかもしれません。

しかし、もっと大切なことは、裁判や取調べの透明化です。
そこをおろそかにして、いくら形を整えても、流れは変わりません。
お金と時間の負担が増えるだけです。完全に時代に逆行しています.
流れを変える気が、もしあるのであれば、発想を一変させなければ、司法改革などできるはずがないのです。

その気になれば、企業を変えるのは簡単なように、社会を変えるのは簡単です。
しかし、誰も本気では変える気がないのです。
裁判員制度のようなことを考えて、ともかく延命を考えるわけです。

しかし、じわじわと社会が変わりつつあるのも事実です.
見えない変化が、見えてくるのはいつでしょうか。
そうした変化が、見え隠れしている時代を、私たちは生きているのだろうと思います。
しっかりした眼を持つことが大切です。

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2007/03/05

■冤罪を生みだした検事や警察はなぜ裁かれないのでしょうか

今朝の朝日新聞に富山冤罪事件の被害者への取材記事が出ていました。
富山冤罪事件は、富山県警は1月19日、懲役3年の実刑判決を受け服役した県内の男性(39)が無実だったと発表しました。これが富山冤罪事件です。
いろいろなサイトで取り上げられています。
たとえばこのサイトをご覧ください

こうした冤罪事件は、今もかなり多いような気がしますが、それを正す方策がほとんど行われていません。
それを放置しておいて、司法改革などはないと思いますが、
警察の民主化は大きなパラダイム転換をしなければいけませんから、統治側、つまり政府は本気では手をつけないでしょう。
時代は暴力的な支配社会からパノプティコン型の自律社会へと向かっているとはいうものの、逆のそうした状況の中では暴力的な支配構造は見逃されやすくなります。
冤罪はそうした典型的な事例の一つです。誰も、そんなことはあるまいと考えてしまうわけです。
裁判員精度の前に、こうした状況にこそ目を向けるべきですが、そうしたことを隠すためにこそ、裁判員制度は話題にされているというべきでしょう。
そこに法曹界の闇があります。
司法の役割は、秩序維持ですが、それは正義論とは別の話です。

新聞報道では、県警や富山地検はそれぞれ「故意または重過失ではない」「職務上の義務に反したわけではない」と、当時の捜査関係者を処分しない方針を示しているといいます。
なんということでしょう。
権力を傘にきた悪代官そのものの構図が今も存続しているのです。
しかも彼らがおかした「犯罪〕の償いは、私たち税金から支払われることになっています。
彼らこそ犯罪者として断罪すべきです。
しかし彼らは重過失罪にも問われずに、これからも平和に生活していけるのです。
パサジェルカの世界です。

なかには熊本さんのような方がいるかもしれませんが、問題は構造の問題です。
権力に支えられた仕事とそうでない仕事は、恐ろしいほどに違うのです。
しかも、だれでもが冤罪の被害者になりうるのです。
恐ろしいと思いませんか。

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2007/03/01

■「君が代伴奏命令は合憲」という最高裁判決と反対意見の存在

入学式で君が代を伴奏することを拒否して懲戒処分された小学校教諭が起こしていた違憲訴訟は、
最高裁が「公務員は、思想・良心の自由も制約を受ける」とした1、2審判決を支持し、
上告を棄却したため、合憲が確定しました。
一昨日の新聞で報道されています。

おそらく多くの人が、裁判長の「学校が組織として国歌斉唱を行うことを決めた以上、音楽教諭に伴奏させることは極めて合理的な選択。職務上の義務として、伴奏させることも必要な措置として憲法上許される」という判断にあまり違和感を持たないのではないかと思います。
むしろ日教組の体制批判的なイメージを思い出すかもしれません。

「君が代問題」については、このブログでも何回も書いていますし、CWSコモンズでも書きました
私も4年前であれば、見過ごしていたかもしれません。
私は君が代も歌えますし、日の丸にも特別の違和感はないのです。
そんなことに目くじらをたてることはないではないか、と思っていたのです。
しかし、君が代を歌えず、日の丸の前では立てない渡辺さんの思いを知ってからは、考えが変わりました。
目くじらを立てていたのはどちらか、ということを改めて考えてみると、違った見え方がしてきました。
強制するのではなく、歌えない人、立てない人が、歌えるようになり、立てるようになるにはどうしたらいいかを考えるべきだと考えるようになりました。
サッカー選手が君が代を歌うのをやめさせようなどとは渡辺さんも考えてはいないはずです。
寛容でないのはだれなのか、答は明確のような気がします。
君が代問題の背後にある、私たちが背負っている歴史を、もっと明らかにしていくことが大切です。

この判決には反対意見が付されています。
5人の裁判官のうち、一人だけが、「原告の思想・良心の自由とは正確にどのような内容か検討し、公共の利益との比較についてより具体的に検討する必要がある」と述べ、審理を高裁に差し戻すべきだとしたのです。
敗訴した教師は、「上告して良かったと思っています。藤田裁判官の少数意見が付いたから」と語ったそうです(朝日新聞)。

先日、テレビ朝日の報道ステーションで、40年前の袴田事件の裁判官だった熊本さんが、自らが書いた判決に関して、自分は無罪だと思っていたと告白したことが報道されていました。
報道ステーションのホームページから引用させてもらいます。

「袴田事件」で、元裁判官が新証言 1966年、静岡県の旧清水市で味噌会社の専務一家4人が惨殺され、味噌会社の従業員で元プロボクサーの袴田巌死刑囚が逮捕された、いわゆる「袴田事件」で、担当した元裁判官が心境を語った。「事件の進行具合では無罪だと思った」と語る熊本典道・元裁判官。裁判は3人の合議制で行われ、無罪を主張したのは熊本氏だけだった。法廷に提出された自白調書は45通で、採用されたのは1通のみ。残りの44通は「任意性がない」として却下された。「袴田事件を一生背負っていかなければならない」と語る熊本氏は、袴田死刑囚の再審請求に協力する意向だ。
熊本さんは当時29歳。皮肉にも無罪を主張した熊本さんが死刑判決分を書かされることになったのだそうです。そして熊本さんは、判決の7ヶ月後に裁判官を辞職したのだそうです。 袴田さんもですが、熊本さんも人生を大きく変えてしまったわけです。 ちなみに残りの2人の裁判官はもうなくなっています。 なぜ今頃になってと思いますが、熊本さんはその荷物を背負ったままでは死ねなかったのでしょう。 いま言っておかねば、という熊本さんの思いが画面から強く伝わってきました。 もし当時、反対意見も併記されていたらどうだったでしょうか。

民主主義とは多数決ではありません。
少数の意見が大切にされることです。
法曹界の人たちが、もし司法の民主化というのであれば、そのことを忘れないでほしいものです。

ひどい裁判が多すぎますが、今回の反対意見の存在には少しホッとしました。

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2007/02/03

■裁判員制度よりも裁判の透明性の実現を

内閣府の世論調査によれば、
「裁判員制度について8割の人が制度が始まることを知っていたが、3人に1人が「義務でも参加したくない」と答え、参加に消極的な人が8割近くを占めた」そうです。
タウンミーティングの「やらせ」でも裁判員制度は多かったようですが、
産経新聞などのマスコミも同じようなことをやっていたようです。
まあ予想されたこととはいえ、そこまで落ちたとは哀しいです。

裁判を職業裁判官の閉ざされた空間から引き出し、
「開かれた裁判」にしていくということは極めて納得できることです。
官の司法から民の司法への司法改革にとっても重要な課題です。
しかし、だからといって、それが裁判員制度であるかといえば、もう少し真剣に考えるべきでしょう。
国民の多くが消極的なのには、それなりの理由があるはずなのです。

よくいわれるように、職業裁判官以外の人を裁判に参加させる方法には、陪審制度と参審制度があります。
私はこの前提がすでに間違っていると思うのですが、それはともかく、いま実現に向かっている裁判員制度は、一般市民である裁判員が裁判に参加する参審制度の一つです。その長所は、たとえば次のように言われています。
①裁判に国民の声が反映される。
②市民が法的責任感を強める。
③裁判をわかりやすくする。
④裁判(裁判官)をコントロールする。
⑤当事者が判決を受け入れやすくなる。
⑥司法に対する市民の信頼を確保する。
平成法窓界サイト

しかし、いずれもほとんど根拠がありません。
私などはむしろ、反対ではないかと思うほどです。
その理由をお話しすることもできると思います。

逆に、もしこれらのことを実現したいのであれば、裁判員制度など導入しなくても簡単です。
裁判を公開にし、そこに傍聴者の意見が言える仕組みをつくればいいだけです。
複雑な裁判員制度など導入する必要など全くありません。
裁判の透明性が高まり、様々な目にさらされれば、裁判の公平性は高まるはずです。
これもまあ根拠はないかもしれませんが、
たくさんの目でチェックされることで間違いは排除される可能性は高まるでしょう。

公開の場では自由な議論はできないとよく言われます。
まして個人のプライバシーが問われる場ではないかという人がいるかもしれません。
教育再生会議もそうした理由で、公開にはなっていません。
しかし、公開の場で発言できない発言というのは一体なんでしょうか。
たしかにそういうことが全くないとは言いませんが、
もしあれば、その場合だけ例外をつくればいいのです。
もちろん例外にする理由は公開にし、その理由も大方の賛成を得なければいけません。

冤罪の場合はどうなるのか。
報道被害や風評被害が加速されないか。
問題を挙げだしたらきりがありませんが、そうしたことも含めて透明性を高めることは可能です。
隠すから報道被害や風評被害が起きるのです。

但し、「司法」の概念を広く捉える必要はあります。
警察行政や検察活動までも透明性の中に加える必要はあります。
司法は「裁判」に凝縮されますが、その前後の透明性も不可欠なのです。
捜査と透明性は両立しないといわれそうですが、
何でもかんでも透明にすれば良いという話ではありません。
反対者の使うゼロ100論理に騙されてはいけません。

今の裁判は、余りにブラックボックスが多すぎます。
第一、裁判官の服装自体も権威的でブラックボックスを演出しています。
よくまあ恥ずかしげもなく、あんな服装を続けていると私などは思いますが、
自らを人を裁く神と勘違いさせなければ、
自らも、そして被告や原告をも説得できないのかもしれません。
そういう意味ではああした形式も意味を持つのでしょう。

しかし、もしそうであれば、そもそも裁判員制度には無理があるのです。
人は人を裁けません。
その前提で司法は構想されなければいけません。

国民の多くが裁判員制度に消極的なのは、とても素直な反応なのではないかと思います。
そこから出発することこそが、「市民のための司法」に向かう道ではないでしょうか。

その意味で、日弁連は勘違いしているような気がしています。
私のほうが勘違いしているのかもしれませんが。
弁護士の方が、どなたかご指摘いただければうれしいです。

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2007/01/22

■「司法改革」(朝日新聞社)を読みました

いま日本の司法制度が大きく変わろうとしています。
関係者によれば、明治維新、戦後改革に匹敵するほどの改革だそうです。
その改革に大きな影響を与えたのが日本弁護士連合会(日弁連)です。

日本の司法制度改革の幕開きは1990年だったそうです。
その5月に行われた日弁連の定期総会で「司法改革に関する宣言」が採択されたのです。
私は法曹界とは裁判官も検事も弁護士も同じ仲間だと考えていましたが、
どうもそうではなく、その宣言のはるか前から、日弁連は司法権独立の強化と民主化促進に取り組んできており、しかも「法曹一元化」を提案しつづけていたようです。
これは私の認識不足でした。

日本の法曹界は裁判官を頂点にして、自らの権益を守り、
汗して働いている国民のことなどは真剣に考えていない人たちが主流を占めているものとばかり思っていました。
日弁連が、戦後すぐに司法改革に取り組んできたとは知りませんでした。
反省しなければいけません。

このことを最近出版された「司法改革」(大川真郎著 朝日新聞社)を読んで知りました。

「司法改革」の著者の大川さんは、私の大学の同窓生です。
私は検事になりたくて法学部に入りましたが、
司法試験の無意味さを、少し早とちりしてしまい、その道を早々と放棄した、いわば脱落生です。
その対極にいたのが、大川さんです。

大川さんと再会したのはつい数年前です。
当時、大川さんは日弁連の事務総長でした。
まさに司法改革の中心で激務に取り組んでいた時だったのです。
その時も「司法改革」に取り組んでいる話はでましたが、
どうせ行政改革や政治改革のような実体のないものだろうと私は思っていました。
法曹界の既得権者たちが「改革」に取り組むはずがないと考えていたのです。

私は裁判官はもちろんですが、弁護士にもかなりの「偏見」を持っていました。
弁護士の友人知人は少なくないのですが、付き合いたくないという思いがどこかにありました。
しかし、最近、たてつづけに感動的な弁護士に何人かお会いする機会がありました。
どうも私の弁護士嫌いは学生時代からの先入観だったのかもしれません。
何しろ私は検事志望だったのです。

しかし、裁判員制度に関しては、私は反対論者です。
大川さんともそんな話をしたこともあります。
そのせいでしょうか、大川さんが「司法改革」を送ってきてくれたのです。
ちょうど受け取った日に、このブログ「司法権の独立と刑法のパラダイム」にトラックバックがありました。
裁判員制度徹底糾弾というブログです。

それもあって、ブログに「司法時評」というジャンルを新設しました。
過去に書いた司法関係の記事を、改めて自分でも読み直してみました。
よくまあ口汚く書いているなあと我ながら少し反省する一方で、
大川さんにも感想を聞きたいと彼のことを思い出していたのです。
まさにシンクロニシティです。

そんな状況だったので、すぐに読み出し読了しました。
いかにも大川さんらしく、主観的評価を抑えて具体的かつ資料的な司法改革の経緯を誠実に書いています。
そのため、正直に言えば、法曹界以外の人には難解で退屈なのですが、
その分、大川さんの情念や思いが見えてきます。
視点はいうまでもなく、日弁連の視点ですが、
自らに対しても厳しい事実や資料もきちんと掲載しています。
とてもフェアで好感が持てます。
司法改革の本質が少し垣間見えたように思います。
そういう意味ではとても示唆に富んでいる興味深い本です。
大川さんは、おわりに、こう書いています。

司法改革は、ある特定の組織や勢力がすべて計画し、遂行したのではなかった。(中略)司法にかかわる様々な組織・機関、さらには個人が、21世紀のあるべき司法を目指して、さまざまな立場でせめぎあい、最終的には妥協し、改革の中身が決まったのであった。(中略)しかし、日弁連が司法改革にこれほどの取り組みをしなかったとしたら、できあがった改革の中身は、相当ちがったものになったと思われる。

本書を読むと、その意味がわかります。
そして彼はこう続けています。

日弁連の目的は、すべての人々が個人として尊重される社会を目指し、そのために「法の支配」を社会の隅々まで及ぼすことにあった。この点で日弁連が牽引車として大きな役割を果たしたからこそ、抜本的な改革がなされ、「市民のための司法」がここまで実現したといってよいであろう。
本書の副題は「日弁連の長く困難なたたかい」です。 日弁連の中心になって、改革に取り組んだ弁護士の苦労は大変なものだったことがわかります。

「市民のための司法」。
それがどういうものか、私にはまだわかりませんが、
しかし、否定的に見るだけではなく、もう少し改革の実体を理解してみようと思います。
司法を私たち生活者のためのものにするには、肝心の私たちがその気にならなければいけません。
単なる批判からは何も生まれないからです。

ただ、今の段階では、これまで書いてきた司法批判は撤回する気にはなっていません。
裁判員制度も大反対であることには変わりはありません。

ちなみに、この本はじっくりと読むと面白いと思います。
大川さんの前著「豊島産業廃棄物不法投棄事件」(日本評論社)もそういう本でした。

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2007/01/20

■司法権の独立と刑法のパラダイム

最近、刑事事件などの刑が軽すぎるのではないかと思っている人が増えているように思います。
犯罪者が数年して刑を終えて、その直後にまた犯罪を繰り返すというようなケースも増えているように思います。
生活の苦しさを考えると軽犯罪を犯して禁固刑になったほうが良いというような冗談もあるくらいです。
国民の多くが納得できない刑罰の制度は規範性を持ちえません。

なぜそうなっているのかについて、しっかりと議論すべきではないかと思います。
それは「法とは何か」という問題につながってきますし、社会の構成原理にもつながっている問題です。
もっと平たく言えば、法は誰のためにあるのか、という問題です。
これに関しては断片的にですが、何回か書いてきました。
誰のための法かによって、解釈も内容も変わってきます。

刑法を例に取りましょう。
かつての日本では、権力的な官憲による不条理な処罰が少なくありませんでした。
その名残は今でもかなり残っています。
刑事事件における冤罪はかなり多かったはずです。
そうした状況の中では、「疑わしきは罰せず」の法理と容疑者保護の仕組みが必要です。
したがって、処罰の刑量も上限を決めることが望ましいわけです。
法は、権力者に対する規制になるわけです。
いいかえれば、刑の上限が決められている法体系は強い権力者が社会を牛耳っている社会のものであるといえるかもしれません。

しかし、司法権が独立し、権力者の所属物でなくなり、
社会のメンバーが自立した存在になっている社会では、法のパラダイムが変わります。
主眼は容疑者保護ではなく、被害者保護になるはずです。
そこでは刑の上限ではなく、下限が基本になるはずです。
死刑の意味も変わってくるでしょう。
そして同時に、司法の世界の透明性や公開性、公正性や開放性が重要になってきます。

余談ですが、その段階で初めて裁判員制度は検討課題になるのだと思います。
今のパラダイムの中での裁判員制度は百害あって一理なしです。
社会の構成原理との形式的類似性はありますが、
司法制度のパラダイムとは逆に食い違っていますから、
ホリスティックな整合性がないのです。
昨今の制度改革は、そうしたことが多いのですが。

おそらく現在は、そうした社会のパラダイム、
あるいは法原理のパラダイムが過渡期にあるのではないかと思います。
そのため刑罰が軽すぎるというケースが増えてきているのです。

いま交通事故による傷害致死事件の刑罰の上限が少し重くなる議論が出ていますが、
そうした小手先の対処では効果は出てこないでしょう。
法の規範性がますます失われるだけです。
法原理のパラダイム議論をしっかりとするべき時期に来ているように思います。


なお、新たに「司法時評」というカテゴリーを設定しました。
広義の司法問題をまとめました。
お時間のある方はまたレビューしてください。

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2006/12/14

■犯罪へのけじめのつけ方

三菱自動車虚偽報告事件の無罪判決には驚かされましたが、
その報道記事の中に、同社販売会社の元営業マンの言葉がのっていました。

「裁判で勝った、負けたじゃない。問題はプロセスです」

この人は5ヶ月前まで三菱自動車の販売会社の営業マンでした。
入社直後の研修で、
「車は人生で家の次に高い買い物です。だから皆さんも自信を持って売って下さい」
と幹部から言われ、
いつかトップセールマンとして表彰されたいとがんばってきたのだそうです。
しかし、三菱自動車のリコール隠し発覚後、次々と同僚が転職。
彼も転職を考えたそうですが、「お客さんが文句を言える相手」としての立場を放棄できずに踏みとどまってきたのだそうです。
月給は三分の一にまで減り、ボーナスも無くなり、
家族の生活のために会社には内緒で、深夜のファミリーレストランでアルバイト。
次第に家族との会話も減り、離婚。
結局、「また欠陥が出たら何を言われるのだろうって、売るのが怖くなって」今年7月に退職したのだそうです。

社会的事件の背景にはこうした話はたくさんあるでしょう。
そして裁判がどうなろうとも、こうした人たちが失ったものは戻ってはこないのです。
現在の裁判のあり方が基本的に間違っているのは、そうしたことへの配慮が不在だからです。

母親を殺害したにもかかわらず、数年で社会に戻り、全く無縁の姉妹を殺害した人の事件も、
そうした間違った裁判制度や司法制度の結果だと思います。

社会の仕組みと裁判のミッションが変化してきていることを踏まえて、
司法制度そのものの見直しが必要です。
最近の裁判所の判断(判決)には、自分が被害者だったら、到底納得できないというものが多すぎます。
裁判官はそういう思いを持たないものでしょうか。
社会的に見ても、犯罪のけじめとしての納得性がないものが多いように思います。
裁判員制度などという馬鹿げた制度を導入するようなことを考える前に、
裁判のあり方を根本から正さなければいけません。
私の友人知人にも、裁判員制度づくりに関わっている人が2人もいますが、とても残念な話です。
個人的な友人知人としては、とてもいい人たちなのですが。

それはともかく、企業を隠れ蓑にした経営者や企業人の犯罪は、もっと厳罰に処すべきでしょう。
もちろん政府を隠れ蓑にした犯罪は、もっと厳罰にしてほしいものです。
しかし多くの政治家は犯罪(本人にはその感覚がないのかもしれませんが)を犯すために政治家になるのでしょうから、それは無理なことかもしれません。

同じ新聞の一面には、タウンミーティングのやらせ事件(れっきとした犯罪です)に関連して、
当時官房長官だった安倍首相が、その責任をとる「けじめ」として、
首相報酬のなかから約100万円を返納したという記事が出ています。
この人には知性というものがあるのだろうかと呆れますが、
これもそれも小泉首相が始めた「嘘を奨励する社会」の中での日常的なことなのかもしれません。

100万円でけじめがつけられるのであれば、私もそうした犯罪に加担したくもなります。
まあそれはともかく、お金でけじめをつけるという発想の卑しさには情けなくなります。
いずれも犯罪実行者が「犯罪」と思っていないところに問題がありますが、
もうすこしまともなけじめのつけ方があるのではないかという気がします。

哀しい時代になってきました。

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2006/10/01

■法律は誰のものか

殺人罪の時効成立後に犯人が犯行を自白した事件は、刑事事件としては時効成立のため不起訴になり、民事事件でも一昨日、損害賠償請求権の消滅が判決で出されました。
刑事も民事も、多くの生活者たちの日常感覚には合わないように思います。
明確な殺人の物証と自発的な自白があり、にもかかわらず何の処罰も行なわれない法体系では実質的な規範意識は広がらないでしょう。
やや論理を飛躍させれば、こういうパラダイムが飲酒運転犯罪者のひき逃げを助長しています。
逃げ得が日本の文化になってしまっているのです。岐阜県の裏金事件もそうしたことの現れです。
おてんとうさまが見ているという「恥の文化」は、日本からはなくなったのでしょうか。

そもそも「法律」の存在意義が、パラダイムシフトしたと私は考えています。
法律は「誰のためのものか」で全く変わってきます。
権力者、支配者の専横を防ぐための、「民のもの」か、
権力者、支配者が統治するための「官のもの」か。
それによって、意味合いも運営の仕方も全く変わってきます。
近代国家においては、法は後者のものだと私は考えています。
有名なマグナカルタは国王の権力を制約するためのものでしたが
誤解してはいけないのは、同時にそれは諸侯たちの支配のためのものでした。
決して「民のもの」ではありませんでした。
フランス革命後の法も、アメリカ独立戦争後の法も、
決して民のものでなかったことは歴史を学べばすぐわかります。
イスラエルの独立宣言も、その一例です。
いくら言葉を着飾っても、法の本質は変わりません。
それに言語とは多義的なものですから、解釈がいくらでも可能なのです。

しかし近代国家はそろそろ役割を終えて、
新しい生活者たちの柔らかな組織化が始まっているように私には思えます。
あえて歴史をさかのぼれば、ギリシアのポリス国家に近いものがイメージできます。
SFでいえば、かつてアーサー・クラークが書いていた個人を軸にした社会です。
市民社会論は、それに向けての試行形態かもしれませんが、
「市民」という目線の高さが、私には違和感があります。

ややこしい話はともかく、
時効の存在をしっかりと考え直すべき時期です。
日本の法体系は、法曹界の怠慢と権力癒着の中で、明治以来、ほとんど見直されていないように思います。
唯一の例外は憲法の一部の条文です。しかし、それと日本の法体系思想とは相容れないが故に、日本では憲法は法律体系の中で勝手に切り刻まれてきたわけです。
今の憲法改革の動きは、法体系の名実ともなる復古をはかっているといって良いでしょう。

また話がややこしくなりました。
私は日本の法曹界に憤りを感じているので、どうも司法の話になると感情的になってしまうのです。
法の根幹の思想や枠組みをそのままにして、裁判員制度などという馬鹿なことにうつつを抜かしている輩に、愛想を尽かしているわけです。

話が進みませんね。
すみません。
時効が今日のテーマです。
何のために時効制度はあるのか考えたらとるべき課題は明確です。
制度は理由があって意味を持ってきます。
法律に書かれているから意味があるのではありません。

長い割には内容のない記事になりました。
本当は法律のパラダイムシフトについて書きたかったのです。
私は、法律は「官のもの」でも「民のもの」でもなくて、「共のもの」になっていくだろうと思っています。
私にとっての本来的な意味でのリーガルマインドの醸成です。
官と民で社会を考える時代は、終わりにしたいものです。

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2006/08/07

■根深い女性の人権蔑視の思想に立脚する刑法体系

女性の長期監禁事件やストーカーによる殺人事件、さらには子どもに向けた性犯罪事件に関して、日本の処罰体制は極めて甘いように思います。
この根底には、根深い女性の人権蔑視の思想があるように思えてなりません。
男女共生とか女性専用車とか、そんなレベルで議論をしているよりも、もっと考えるべきことがあるように思います。
この点では、女性のオピニオンリーダーの責任をかなり感じます。
今回の大阪女性監禁事件や宗教まがいの女性人権破壊活動の加害者は、これまでも繰り返し同様な行為を繰り返してきたわけですが、それを見過ごす文化が日本の社会には根深く存在するということです。
警察が動かない背景にも、そうした女性の人権を認識できない状況があります。
ジェンダーとか男女共同参画とか、そんな言葉は私にはほとんど興味はないのですが、大切なのは女性を人間と見る感覚の回復ではないかと思います。
そうした視点で考えると、性犯罪による女性の人格破壊は、殺人よりも厳罰に処するべきではないかと思います。極刑を貸すべきだと私は思っています。
しかし実際の日本の法律と裁判官たちの根強い女性蔑視の思想は、それとはまったく別の世界にあります。
今回の犯人もそうですが、また社会に復帰し、再販を繰り返す可能性が多いでしょう。
それが今の日本の犯罪管理体制です。
私は、こうした加害者は永久に社会には出てこずに、労働によって罪を償う仕組みをつくるべきだと思います。
なんと人権無視の非情で非見識な人間か、と非難されそうですが、それが正直な気持ちです。
また暴論になってしまいました。

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2006/05/31

■違法性判断の民間委託

明日から違法駐車の取り締まり業務が民間に委託されます。「違法行為の処罰」が「民営化」されるわけです。
たとえば、大阪府警によれば、これによって大阪府内の駐車違反の摘発件数は3倍になるだろうといわれています。ちなみに、これは大阪府警は仕事をきちんとしていなかったことを公言しているわけですが、恥も外聞も気にしない、警察らしい発表です。
朝日新聞によれば、委託された民間法人は元警察官の職場であるところが多いようですので、これも「産業のジレンマ」のひとつの事例です。仕事をしなければしないほど、仕事は増えるのです。そこに近代産業の本質があります。

ところで、今回のテーマは、昨日に続けて「違法性」です。
近代国家は、暴力を独占することに存続の基盤があります。国家のみが暴力を行使できるようにしたのです。そして、暴力を正当化するための基準が法律です。したがって「違法性」を判断することも国家が独占しています。
いかに「違法」と思われる行為をしていても、国家ではない私人としては、それを処罰できません。この仕組みは実に巧妙で、話し出せばきりがないほど面白い問題です。最悪の政府がなぜ圧倒的な国民の支持を得ることができるかの秘密もここにあるように思います。

今回の改正道路交通法による駐車違反取締りの民間委託は、違法性の判断と処罰を民間にゆだねるということです。
どういう事態が起こるでしょうか。末恐ろしいことになると、私は思います。
なぜそう思うかといえば、「違法性の判断」が、「法の精神」ではなく、「経済基準」によって行われるからです。
道路は自動車が流れるパイプではありません。駐車して何が悪いのか。現状はたしかに違法駐車が多いですが、それでも全く自動車が通れないほどにはならないのは、自動車運転手同士の常識が働いているからです。
常識と法律と、どちらを優先させるべきか。
違法駐車の取り締まり方は、私には全くの方向違いだと思えてなりません。「21世紀は真心の時代」ではなく、ますます「管理の時代」に進んでいるようです。

ソーシャル・キャピタルが、またひとつ壊れていきそうです。


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2006/05/30

■事の良し悪しの発端

「板橋高校卒業式事件」の東京地裁判決で、卒業式に来賓で参加した元教師が国歌斉唱時の不起立を呼びかけたことに対して罰金刑の判決がでました。その判決に、ある人は「日本は法治国家ではない」といい、ある人は「法治国家として当然」とコメントしています。
法治国家とはいったい何なのでしょうか。
憲法を軽視した結果、憲法と現実が違うのは良くないから憲法を変えようという発想が、もしかしたら日本の法治主義なのかもしれませんが、法を持ち出すこともなく、おかしなことはおかしいのです。法は最後の拠り所でしかありません。
最近、企業ではコンプライアンス、つまり遵法精神が語られていますが、遵法などという当然のことを語らなければならないほど、企業はおかしくなっているのかもしれません。
法治国家とか、遵法精神とかが語られなければならない社会は壊れだした社会です。

さて、板橋高校卒業式事件ですが、卒業式を混乱させたというのが罪状です。
そこだけを見れば、確かにそうでしょう。
しかし、なぜそうなったかを考えれば、原因は別のところにあります。
そもそも信条の自由を踏みにじって、国歌斉唱を強要することがなければ、こんな事態は起こりません。
国歌なんだから、起立して斉唱するのが当然だという人はぜひ次の記事を読んでください。
日の丸と君が代

9.11事件はどうみても許せない事件です。その原因を起こしたのは誰でしょうか。
報復という言葉が双方から出されますが、どこから考えるかで意見は全く違ってきます。

事の善し悪しは、起点によって変わってしまいます。
しかし、起点がどこであろうと善し悪しが明確なこともあります。
そこから考えていくことが、壊れかけて社会には必要なことかもしれません。
大切なのは、法の条文ではなく、法の精神でなければいけません。

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2006/03/15

■弁護士の犯罪

私は弁護士に大きな不信感を持っています。
リーガルマインドが欠落しているからです。
それに関してはこれまでも何回か書きました。

この1週間、3人の弁護士に会いました。
民事と商事と、それぞれ全く別々にお会いしました。
その3人の弁護士とお話していて、弁護士への信頼が高まりました。
もしかしたら、私の弁護士感は間違っているのではないかと思い出したのです。
その矢先に起こったのが、昨日の光市母子殺害事件の最高裁弁論への被告弁護士の出廷拒否です。


遺族の本村さんは「これほどの屈辱受けたのは初めて」と話しています。彼の心中を思うと心痛みます。
「暴発」しやすい私であれば、何をしてしまうかわからないほどの屈辱感です。
死刑廃止運動に取り組む安田弁護士が今月になって弁護士を引き受けたのですが、この無責任さは普通の社会では許される話ではないでしょう。特権階級と自認している弁護士にしてできることです。

法律には違反しないかもしれませんが、わたしにはこれは「犯罪」だとしか思えません。
犯罪は明文化された法律だけではなく、法の精神に基づいて考えられるべきです。

以前も書きましたが、弁護士のミッションは何でしょうか。
容疑者もしくは被告の、不当な人権侵害を守ることです。
決して容疑者もしくは被告を守ることではありません。
ましてや自分の思いのための、たとえば死刑制度廃止運動などの手段のために利用すべきことではありません。
安田弁護士は、リーガルマインドなど微塵も持っていないと私には思えますが、国によって身分保障されている弁護士がこういう行動をとることは、犯罪としか思えません。
できることなら、本村さんに安田弁護士を訴えてほしいものですが、法制度的にはそれはできないでしょうし、第一、本村さんのような誠実で真摯な人はそんなことはしないでしょう。
しかし、とてもやりきれない事件です。
法曹界にも「政治」や「経済」が入り込んでいることを強く感じます。

せっかく弁護士への信頼感を高めつつあったのに、また一挙に崩れてしまいました。
日本の法曹界をだめにしているのは、裁判官だけではなさそうです。
その裁判官も、取材源秘匿問題で、これまた権力に迎合したような判決を昨日出していますが。

ちなみに、私が尊敬する弁護士も決して少なくはありません。
CWSコモンズにも何人かを書いていますが、たとえば中山武敏さんの活動や大川真郎さんたちの活動には感激します。


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2006/02/26

■憲法や法律は誰のためにあるのか

一昨日の続きです。また長いです。
たまたまですが、先週、2人の人とそれぞれ全く別の局面で、憲法論議をしました。
憲法は誰のために何のために存在するか、がテーマです。
一人は憲法に関してとても造詣の深い在野の研究者です。
もう一人は庶民の立場に立って積極的な平和活動をしているNPOの人です。
いずれも団塊の世代ですが、考えも活動の世界も全く違う人です。

私は、憲法も法律も、すべては全体を管理する統治者のものだと考えています。
ですから、本来的に憲法や法律はあいまいな表現をし、よく読むと「目線」が国民の上にあることがわかります。
主権在民を謳っている日本国憲法にしても例外ではありません。
それに日本国憲法は、以前も書きましたが、形式的にもお上の憲法です。
これに関しては友人の武田文彦さん(「赤ペンを持って憲法を読もう」の著者)から教えてもらいました。
もし憲法が支配者のために存在するのであれば、その条文の表(おもて)の意味よりも、そこから引き出される選択の可能性のほうが重要になってきます。
ですから法文は極めて複雑に、しかも多義的に書かれています。
もちろん文章表現の限界と言うこともありますが、それ以上に状況によって多様な解釈が可能なように「政治的」に仕組まれているのです。
たとえば、典型的な手続法である税法をとってみても、その条文は、これが日本語かと思えるほど長文で、複雑です。
訳の分からない呪文のような文章です。訳がわからないので解釈の余地が発生します。
法文は論理的であると思われがちですが、私には全くそうは思えません。

もし憲法や法律がそのように多義的であるのであれば、統治されている国民にも活かし方が出てきます。そして、「法は誰のものか」という問題もまた、ダモクレスの剣のように、両義的な存在になりえるのです。
つまり、一昨日書いた「憲法は本来、国民を支配するためのものであり、法律は、国民を規制するもの」ということに並んで、「憲法は支配者への異議申し立ての根拠になり、法律は管理を規制するもの」になりえるわけです。
もしそうであるならば、憲法の解釈は国民一人ひとりが主体的に行うことが大切です。
戦争に行きたいとか、戦争に巻き込まれたいと思っている人は多くはないでしょう。
戦争放棄は多くの国民の思いだと思います。
にもかかわらず戦争に向かって進んでいる日本は、自らの思いと「国民」の思いがきちんとつながっていないというべきでしょう。
構成員の個々の思いを合成すると全く違った全体の思いが創出される。
これはよくある話です。
私も会社時代によく経験したことです。
戦争をするのは自衛隊の隊員で、彼らが戦争に巻き込まれないように自分を守ってくれると考えている人もいるかもしれません。
そこでは国民と自分とが切り離されています。
しかし、国民を守る「国民」と「国民」に守られる国民がいるわけではありません。
戦争をする国家では、戦争をする当事者は国民すべてなのです。
そこに大きな勘違いがあるわけですが、そうした幻想を生み出すのが国家なのかもしれません。
また長くなりました。
そのわりには本論には入れていないような気もします。
言いたかったのは、憲法も法律も、それを活かす人だけにしか役に立たないということです。
手段と言うにはそういうものでしょう。
この大切な時期に、憲法をどう活かしていくか、それが大切です。
「活憲」という言葉が広がりだしています。
また改めて書きたいと思いますが、こういう議論は読者には退屈でしょうね。
すみません。

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2006/02/24

■ソクラテスの警告

「ソクラテスが「悪法もまた法なり」と言って毒杯を飲んだのは実に深い示唆を含意しています」と書いたら、「それでも法だ・・・は解せないのですが?!」というメールをもらいました。
次のように返信しました。

「悪法もまた法」は、言い換えれば、「法には悪法がある」ということです。
法は必ずしも「正義」ではないということです。
つまり、法は誰の視点で解釈するかによって違ってくるものです。
順法精神とは何なのかと言う問題にもつながります。
また国家にとって一人ひとりの国民とは必ずしも守るべき対象ではないと言うことです。
そうしたことをメッセージしているのがソクラテスの毒杯事件だと、私は勝手に解釈しているわけです。
国家の平和が国民の非平和の上に成り立つように、国家の正義は時に個々の国民にとっては不正義を前提にすることに大きな危惧を感じています。
いわゆるコラテラルダメッジの話です。

ちょっと論点をずらしているような気もしますが、ソクラテスが「それでも法だ」と言ったのは法治体制への根源的な問題提起だったような気がします。
自らの考えで思考し行動しなくなったアテネ人たちに対する警告といってもいいでしょう。
それはまさに今の日本人にも有効な警告です。
その方から、次のようなメールが来ました。

憲法は本来国家と政府が暴走しないよう、国民を守るためのものであり、
法律は、社会的な生活を営むのに国民を規制もするものといえるのですね。

うーん、ちょっと違うのです。
やはり統治体制の枠の中にみんな埋没しているような気がします。
憲法や法律への信仰があるのですね。
もっとも私が特殊なのかもしれませんが。

「憲法は本来、国民を支配するためのものであり、法律は、国民を規制するもの」。
これが私の考えです。
マグナ・カルタは国王の行動を規制するものだったではないかと言う人がいるでしょうが、国王もまた国民支配のための道具だと考えれば、マグナ・カルタもまた、起草した人たちのための支配の道具だったことがわかるはずです。

重要なのは、「国民を守る」という場合の「国民」は実に多様な存在であり、いか様にも解釈できることです。
いわゆる右翼を守ることも左翼を守ることも、資本家を守ることも労働者を守ることも可能です。
そのすべてが国民と言う概念に含まれているからです。
戦争が起これば、「国民」を守るために「国民」に死を強要するようなおかしな結果も引き起こします。
つまり、この言葉は意味のない言葉なのです。
それに対して、「国民を規制する」は実体概念として成り立つでしょう。
規制は多様な概念だからです。

もちろん憲法や法律が、被支配者としての国民一人ひとりにとって意味がないわけではありません。
建前は「国民のため」のものですから、その条文を盾にとって異議申し立てをすることができるのです。
統治のツールやシステムは、使いようによっては、統治をひっくり返す存在になりえます。
そこにこそさまざまな運動の意味があります。
そして、主権在民という建前を掲げた日本国憲法の意義もあります。

憲法や法律そのものを、善悪を決める絶対的な基準にすることはとても難しいです。
モーゼの十戒ですら難しいですし、厳密に取り組めば、いわゆる原理主義に陥ってしまいます。
ガンジーのように徹底的な非暴力を謳えることも現実的かどうか迷います。
憲法や法律はあくまでも「道具」です。
とすれば、憲法や法律とどう付き合うかが重要になってきます。

長くなったので、続きは明日にします。

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2006/02/15

■人の生命を殺傷した罪の重さ

昨年2月、千葉県松尾町の県道で同窓会帰りの男女8人が軽乗用車にひき逃げされて死傷した事件で、危険運転致死傷罪が適用されて、被告に懲役20年が言い渡されました。被告は控訴するそうです。
被害者の家族にとっては、決して納得できないでしょう。
それなりの事情があればともかく、飲酒無免許運転で、しかも事故後逃走したというこの事件は、殺人罪と同等であってもいいと私は思います。
未必の殺意を認めるべき状況でしょう。
自動車は凶器になる可能性があることをもっと認識すべきです。
この事件に限りませんが、人を殺傷した加害者の量刑は余りに軽すぎると私は思います。
再犯事件も少なくありませんし、もっと厳罰に処するべきです。
なにも死刑にしろというわけではありませんが、一生をかけて償ってもいいのではないでしょうか。
命が奪われた場合、加害者と遺族の、それぞれのその後の人生を考える時に、多くの判決の量刑はバランスを欠いていると思うのは私だけでしょうか。
最近の判決の多くは決して納得できないものが多すぎます。
その一方で、ビラを配っただけで禁固刑になるようなおかしなことも行われていますし、冤罪もまだ完全にはなくなっていないような不安もあります。
卒業式に国家を歌わないために失職させられることもあります。
日本には、果たして法の正義は存在するのでしょうか。
とても不安です。

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2006/02/11

■ふたつのリーガルマインド

今日もまた、少し小難しい議論です。
昨日触れた「リーガルマインド」について、気になったのでネットで調べて見ました。
驚くことに出てきたのは、リーガルマインドの名前のついた会社や書籍が圧倒的に多く、またリーガルマインドを名前に織り込んだブログもいくつかありました。
リーガルマインドの中身に関して記載があったのは1~2%でした。
私が大学で学んだ頃には、もっと盛んに使われていたと思いますし、私が愛読していた法学関係の雑誌でも話題になっていた記憶があります。
私がこの概念に触れたのはたぶん民法の川島武宜さんの授業です。まあ私にとっては、その言葉に触れた途端に、法学の極意を極めた気分になって、それ以来はあんまり授業にも出なくなって、後は映画館通いをしていました。極めたものにとっては、すべてが授業と同価値になるのです。はい。
ところで、ネットで調べてみた結果、昨今のリーガルマインドにはどうも二つあるようです。まだとりあえずの整理なので不十分ですが。
ひとつは、「適法判断力」です。法律で許されるか、許されないかを判断する力です。いいかえれば、法律を知っていることが出発点になります。
もうひとつは歯切れが悪いのですが、「法的思考力」です。意見の対立において理性的に妥当な解決に導く能力だと書いている人もいますし、正義・人権・自由・平等などの法的な価値を尊重する感覚という表現もありました。しかしここでは「法的」とは何かが明確にされていないために、一種のトートロジーに陥っている気がします。
しかし、そこを思い切って整理すれば、「法律」を前提にして考えるか、法律の淵源に立ち戻って法律を吟味するかという大きな違いになります。
ややこしい話ですが、法とは何かという問題にもなります。文書に書かれた法律は法の一表現形態に過ぎないと考えるか、法そのものと考えるかの違いです。
法治国家という言葉もありますが、これもまた実に両義的な言葉です。
ソクラテスが「悪法もまた法なり」と言って毒杯を飲んだのは実に深い示唆を含意していますが、ここにこそ法治国家の本質があると私は思っています。
リーガルマインドは法律の解釈学であってはなりません。法律の適用と言う意味で、解釈にとって不可欠な要素ではありますが、法の深遠にあるものであり、むしろ自然法的な理念と価値観に裏付けられたものでなければいけません。
日本のような社会ですら、法律は簡単に作れるのです。極端に言えば、権力と資財が法律を生み出すのです。そうであるならば、それらを牽制し、活かしていくための論理を超えた感性こそが、リーガルマインドではないかと改めて思います。
何だかかなり粗雑な論理展開ですね。
すみません。
この件は少しきちんと考えてみることにしました。
半年以内に改めて書くようにします。
それにしても、
ソクラテスの行為は、結果としての行為ではなく、発端を意図した行為だったところに大きな驚きを感じます。なにしろソクラテス的発問の元祖の行為なのですから。最大の教材です。

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2006/02/10

■横浜事件判決とリーガルマインド

私は高校生の時に、検事になりたいという思いが強く、法学部に入学しました。
そこで学んだのは「リーガルマインド」です。
私にとっての「リーガルマインド」とは法の精神であり、その法律もしくは制度が目指している価値観を判断基準にして、法律や制度を活かしていくということでした。
ところが最近、私の理解はどうも極めて特殊だったのかと思わざるを得ないことに気づきました。
先月の同窓会で、この話を少ししましたが、誰も反応しませんでした。
気になって、いまネットで調べましたが、そこで出てくるのは法の知識を持って行動するような話ばかりです。私の理解とは対極の考えです。
もちろんそうでない話もありますが、そういうものはなかなか見つかりませんでしたし、その書き方も余り明確ではありません。
司法の世界もいまや行政府とそう変わらないのではないかと言う気さえします。
三権分立は形骸化してしまっているのでしょうか。

昨日、戦時下最大の言論弾圧事件といわれる横浜事件の再審判決がありました。
今朝の新聞に大きく出ているので、お読みになった方が多いと思いますが、日本の司法界の本質を現出させる判決だと思います。
判決は「免訴」でした。やはりそうか、という気がしました。
このブログでも何回か書いていますが、私は日本の司法界に対する信頼を最近は持てずにいます。あまりにも納得できない事例が多すぎます。
今回の判決には、少し期待を持っていました。地裁判決ですから、
しかし、今回もまた失望しました。
もしかしたら日本の司法界はまだ戦前のパラダイムで動いているのかもしれません。
なにしろ国家の枠組みが変わったにもかかわらず、彼らは何のお咎めもなく自らを継続してきた人たちなのです。
彼らに良識(リーガルマインド)を期待するのは無理なのかもしれません。

横浜事件は、19942年から終戦直前にかけ、出版関係者など約60人が「共産主義を宣伝した」として治安維持法違反容疑で逮捕され、拷問で4人が獄死。終戦直後の1945年8~9月に、約30人が横浜地裁で有罪となった事件です。
元被告らの再審請求を受けて、2005年、東京高裁は拷問の事実を認定し、「自白の信用性に顕著な疑いがある」として再審開始となりました。
公判では、元被告の遺族(元被告はすでに全員死亡)が「十分審理をせず有罪を言い渡し、再審請求を退け続けた司法の責任を認め、謝罪してほしい」と訴えていました。
それに対して、昨日の判決では、無罪か有罪か判断せずに裁判を打ち切る「免訴」判決を言い渡したわけです。自らの責任にはほとんど言及していません。
私が一番残念なのは、裁判官のリーガルマインドを微塵も感じられないことです。
判決は、責任回避の手続き論であり、人間としての心が感じられないのです。
心が入らない法の適用は、問題の本質的な解決にはつながらない気がします。
明白な事実を認めながら、無罪宣言をしない裁判官とは一体何なのでしょうか。
こうした卑劣な言動が最近の日本には多すぎます。
手本が多すぎるので、社会に蔓延してきているのでしょうか。恐ろしい話です。

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2005/12/10

■裁かれる当事者と権力との距離で判断は決まるのでしょうか

昨日の新聞に2つの事件報道が出ていました。
東京地検特捜部が再捜査していた橋本元首相や山崎拓前副総裁らの献金隠し事件はまた不起訴処分になりました。司法の動きに若干の期待をしていましたが、やはりうやむやになりそうです。中小企業の経営者には厳しく立ち向かえても権力者には立ち向かえないのでしょうか。
それに比べて、立川ビラまき事件の控訴審はあまりの厳しさに驚きました。以前にも問題提起しましたが、東京都立川市の防衛庁宿舎で、自衛隊のイラク派遣に反対するビラをまいて住居侵入罪に問われた「ビラ配りで逮捕」事件です。控訴審は、無罪だった一審判決を破棄した逆転有罪判決でした。
驚いてしまいました。新聞記事をお読みください。
http://www.asahi.com/national/update/1209/TKY200512090171.html


検察と裁判官の話ですので、それぞれは別の動きと思いがちですが、「つながっている話」です。
裁かれる当事者と権力との距離によって、対応が違ってくる司法のシステムは、いまや見直される時期にきています。司法界の人たちは意識を変えてほしいです。

これはまた、耐震偽装事件と同じ話です。
社会の仕組みや経済の仕組みが問題となっているのです。
検査しない検査機関、判断しない裁判制度。
不正確な表現ですが、手続きが間違っていなかれば、それでいいわけで、当事者能力のない人が検査をし、裁判をしているとしか思えません。
そして、問題が起きたら、仕組みを考えます。公開度を高め、形式的には誰でもがチェックできるようにし、屋上屋を重ねる評価の仕組みを作ります。裁判員制度もその一つです。問題はそんなところにはありません。
みずほ証券の事件もこうしたことにつながっています。
問題の本質はどこにあるかを、そろそろ考えるべき時期にきています。

それにしても、日常感覚に合わない司法の実態を、法曹界の人たちは、少し謙虚に考えてほしいと思います。ここでも「無知のベール」論を前提にしてほしいものです。そうなれば、被害者よりも加害者の人権を重視するなどといった、馬鹿な発想は出てこないはずですし、裁判員制度が司法の権威を回復するなどという無責任な発想はなくなるでしょう。
彼らは決して特権階級ではないのです。裁くことの淵源は、権力ではなく社会から付託された役割なのです。勘違いしてほしくありません。

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2005/11/12

■現行犯なのになぜ「容疑者」なのか

気になる表現が多いことはこれまでも何回か書いてきました。
繰り返しになりそうですが、やはり気になるので書きます。
8日に千葉県佐倉市で警察官2人が殺傷された事件ですが、現行逮捕にもかかわらず、新聞では「容疑者」と書かれています。いつもこうした表現が使われますが、現行犯であれば、容疑者ではなく犯人ではないかと思います。裁判で刑が決まるまでは容疑者なのでしょうが、一般的な常識にはどうもなじめません。
人権擁護の問題があるのでしょうか。冤罪の可能性が皆無ではないのでしょうか。

今の社会は犯罪が激増し、容疑者の拘留所も捜査も裁判も現体制ではとても対応できないほどだという話をよく聴きます。ですから予防措置で警察に保護や捜査を依頼しても相手にしてもらえずに、結果的に悲劇につながるケースが起こるわけです。
今回の殺傷事件も新聞によれば、事前対応が可能だったようです。

なぜそうなるのか。
形式的な人権保護と画一処理の結果ではないかと思います。
すべては手続きの公正性と客観性と効率志向が、実は結果として、実態としての不公正と恣意性と無駄の発生を引き起こしているのだろうと思います。今のままでは警察官は浮かばれないような気がしてなりません。

現行犯逮捕者は犯人でいいでしょうし、事実の究明と裁判の判決・執行とは切り離していいでしょうし、死傷に関する明白な犯罪に関しては簡単な手続きで対処すべきですし、受刑者は自らの裁判にかかった費用を個人で償うためにも働くべきですし、原則として裁判は1年で終了すべきですし、・・・・ きりが無いですが、検討すべきことはたくさんあります。

判決文を日常語にして分かりやすくするのもいいことでしょうが、そのまえにもっと見直すべきことがあるような気がしてなりません。
また暴論を書いたのでたたかれそうですが。

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2005/08/02

■犯罪にどう立ち向かうかで社会の枠組みが見えてきます 

世田谷一家殺人事件の犯人が着ていたのと同一のトレーナーを売っていた店が公表されました。事件後、4年半経過しています。この感覚がどうも理解できません。
私は最近、1週間前のことが思い出しにくくなりましたが、そうでなくとも4年半前のことを思い出すのは難しい話です。なぜ今頃になってと思わざるを得ません。もっと早く公開していたらと思うのは私だけでしょうか。
この事件では、いろいろな情報が小出しに出されてきたように思います。
どこかで捜査方法に間違いがあるように思えてなりません。

あの事件は衝撃的でした。
宮澤さんとは面識がありました。事件の翌日、まず新聞記者から電話がありました。しばらくして警察の人がやってきて、宮澤さんのことをいろいろ質問されました。
残された情報の多さからすぐ解決するだろうと思っていましたが、まだ解決できていません。公開捜査は難しいのでしょうか。
この事件に限りませんが、最近は事件にまつわる情報も、プライバシー問題があるせいか、なかなか公開されません。カメラなどに残された写真をもっときちんと公開すればすぐにでも被疑者の特定ができるのではないかと思うようなことも少なくありません。しかし、テレビでは顔が消されることが少なくありません。

情報は公開せずに、捜査官にとどめておくことが効果的な場合もあるかもしれません。しかし、多くの人の目を活用したほうが効果的な場合が多いはずです。
犯罪で迷惑をこうむるのは社会であり、一般生活者であることが多いでしょうが、もしそうであれば、犯罪にまつわる事実はもっと公開されるべきです。
なぜ公開されないのか、それは犯罪で迷惑をこうむるのは社会や生活者という視点が不在だからかもしれません。そんなばかなと言われそうですが、十分ありえる話です。
もしかすると犯罪の定義は「秩序を壊すこと」なのかもしれません。そう考えると犯罪の見え方は全く変わります。秩序が壊れて困るのは誰か、そこで生活する人も困りますが、最大の困り手は社会を管理し統治する人です。北朝鮮の国家秩序が壊れて一番困るのはだれでしょうか。
同じように、イラク復興の意味も、かなり違って見えてきます。

生活者の安心安全のための犯罪対策や犯罪解決の方法はどうあるべきでしょうか。
とても重要な問題です。
視点を組織や全体から個人に変えたときに、警察や犯罪対策の取り組み方も大きく変わるように思います。しかし、今の捜査方法は江戸時代とそう変わっていないでしょう。

視点を変えると、さまざまな風景が一変します。問題解決の方法も一変します。
犯罪にどう立ち向かっているかで、その社会のパラダイムが見えてくるような気がします。

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2005/07/28

■司法の死 

あるMLで、こういう題名のメールが回ってきました。つい最近(7月23日)、このブログで中途半端に書き込んだことの実証報告ですので、少し書いておきたいと思います。
舞台は、山梨県の甲府地裁、日時は一昨日(2005年7月26日)です。
山梨日日新聞では次のように報道しています。

自衛隊のイラク派遣は憲法違反として、山梨県内の住民ら284人が国に派遣差し止めなどを求めている訴訟の第4回口頭弁論が26日、甲府地裁であり、新堀亮一裁判長は原告側の証人尋問申請を却下し、同日結審、10月25日に判決言い渡しを伝えた。原告側は「審理は尽くされていない」などと猛反発、地裁内は一時騒然となった。原告団は同日、同裁判長を含む裁判官3人の交代を求める忌避を同地裁に申し立てた。 この日の口頭弁論では原告側が本人陳述を行い、イラク派遣の違法性を訴え、被告の国側に具体的な反論を要求。次回以降の弁論で7人の証人尋問を申請した。国側の代理人は意見陳述で「主張、立証は尽きている。弁論の終結をお願いしたい」と述べた。 新堀裁判長ら3裁判官は合議を行った上で申請の却下と同日の結審、判決日を伝えて退廷。申請却下などの理由説明がなかったことから、原告や原告側の傍聴人が裁判官の後を追おうとして同地裁事務官らに詰め寄り、もみ合いになる場面もあった。 その後、原告側の要求に裁判官が応じ、原告代理人と原告一人、裁判官が面談。裁判官は「合議の秘密」として、結審などの理由は明らかにしなかったという。 原告団は県弁護士会館で会見し、裁判官の対応を批判。原告男性の一人は「裁判の審理は互いの言い分を聞いた上で進められるもの。強引に弁論を打ち切り、審理を終結するやり方が許されるわけはない」と強調した。 取材に対し、同地裁総務課は「個々の裁判官が下した判断の理由を説明することは困難」としている。
これだけだと、司法の死とは大げさではないかと思われるかもしれませんが、現場にいた人からの生々しい報告を読むと怒りが湧き上がります。 実は、こうした事態は予想されており、そのために原告の一人から、きちんとした議論をするように裁判所に要望書を送ってほしいという呼び掛けが事前にありました。 私も東京での同種の裁判を傍聴したこともありますので、状況が少しは想像できたので、早速、ファックスを送りました。ファックスはかなり集まったようで、それが一部の裁判官の心を動かしたような報告も前日にありました。 しかし、結局は被告である国の代理人の主張がとおり、議論無用の突然の結審になったのです。そのやり取りがここに掲載できないのが残念ですが、関心にある人はご連絡を頂けたら、メールを下さった方の了解を得て、メールを送るようにします。

なお、司法の死をもう少し長い目で知るためには、最近出版された「憲法9条の戦後史」(岩波新書)をお薦めします。
司法も国会も、すでに議論の場ではなくなってしまいました。
議論の無いところに民主主義や平和はありません。
司法の死、立法の死は、未来の死でもあります。
どうしたら蘇生できるでしょうか。

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2005/05/23

■自動車事故が起きるたびに考えること 

自動車事故が多いです。
また、飲酒運転で高校生の列に突っ込み、3人の死者が出た事件がありました。
毎週のように起こっています。いや、毎日でしょうか。
この種の事件が起きるたびに、2つのことをいつも思います。
まずは刑の軽さです。それも最大刑が決められていることに違和感を持ちます。
もうひとつは、自動車メーカーの業績の高さです。

まずは刑の問題です。
国家権力に対して、理不尽な刑罰を受けないがために、刑は最大が決められているわけですが、そろそろこの発想や枠組みは見直されるべきでしょう。
国王の国家の時代の法意識だと思います。
その法体系の中で裁判に取り組んでいるうちに、裁判官たちもまた特権階級だと自らを誤解しているのが、今の日本の裁判官のような気がします。
もし視点が個人にあるのであれば、むしろ刑は最小刑方式にすべきだと思います。そうすれば、裁判官の意識も変わるでしょう。
司法改革とは、そういうことを見直すことだと私は思います。
それにしても、今の法律は罪の重さと刑の重さのバランスをかいているように思います。

次に自動車メーカーの業績ですが、これは必然的なつながりはないと言われそうですが、私は自動車メーカーの利益は、こうした事故とつながっていると思っています。
自動車メーカーは、さまざまな社会貢献活動をしていますが、そんなものはすべて止めて、自動車事故を最小化する活動にもっと真剣に取り組むべきでしょう。
自動車事故の責任を、自らの問題として考えている自動車メーカーの経営者はいるでしょうか。

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2005/01/27

■司法改革の前にやるべきこと 

昨日、2つの判決が出ました。
東京都管理職試験訴訟と桶川女子大生刺殺賠償訴訟です。
皆さんはどう評価されたでしょうか。
私はまた裁判官と法曹界の非常識さを感じました。
被害者の目線に立つことは今の裁判官には望むことは無理なのでしょうか。
いずれも責任放棄しているとしか考えられません。
彼らをこそ裁判にかけてやりたいです。
事実、裁判の当事者になった法曹界の人が被害者の会に入って活動していますが、
当事者にならなければわからないような人には法曹界には入ってほしくありません。

私は法学部で学びましたが、リーガルマインドを身に付けたと自負しています。
しかし法曹界に入るには条文の暗記や解釈の暗記が必要だったような気がします。
その現実を知って(認識違いだったかもしれません)、目指していた検事になるのをやめたのですが、今から思うと悔やまれます。裁判官になって、内部告発すればよかったです。いや、また口がすべりました。

裁判は何のためにあるのか。
秩序維持のためにあります。
その秩序は、組織の秩序です。
個々人の生活の秩序ではないのです。
組織起点の発想から個人起点の発想に帰ると、裁判の問題点が見えてきます。
司法改革は、その視点を変えることでなければ、悪くなるだけの話です。
裁判員制度を司法改革などと思っている法曹界の人たちは、小泉首相の構造改革と同じ発想の人たちでしょう。
残念でなりません。
先ずは自らを変えずして、改革などは行えないのです。

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2005/01/13

■司法制度改革が見落としていること  

昨日の読売新聞の夕刊に「刑事裁判官 対話に不慣れ?」という大見出しで、裁判員制度に向けて、最高裁は今春以降、一般市民との対話に慣れた民事裁判官を、刑事担当へ「配転」させる方針を決めたことが報じられています。
また、今朝のテレビは青色LED訴訟和解に対する中村さんの「怒りの記者会見」を各局がとりあげています。和解しながら怒りを公開するのはフェアではありませんが、中村さんが日本の司法制度に対して発言していることには共感します。

私は裁判員制度の導入には批判的です。
今の司法制度改革は行政改革や郵政改革などと同じく、ピントはずれだと思っています。
制度の目的に照らして実状を確認し、問題の根幹を正す方策を真剣に考えるのではなく、表層的な問題を解決するために対症療法的な、しかも悪く言えば、問題の焦点をずらすような仮説のもとに、新しい制度を導入し、それをもって「改革」と称しているからです。第一、改革を議論する人たちの人選を間違えています。問題解決を先送りするために、事態はますます悪化することになりかねません。
今の産業再生や銀行の合併、市町村合併、など、ほとんどがそうした取り組みになっています。

人を裁くためには、二つのことが不可欠です。
当事者の思いを理解し、話し合いによって、世界を共有すること。
そして、事件に関わる現場の事実に立脚することです。

中村さんは事件に関わる資料を裁判官は読んでいないと怒っていました。それが事実かどうかは知りませんが、おそらくほとんどの裁判がそうではないかと言う人もいます。私もそう思います。それに、資料を読んだからといって現場の事実に立脚できるわけではありません。
その現場との生きた交流がなければ、それは不可能です。
当事者の思いを理解するためには、さまざまな人との対話や会話能力がなければ、これもまた不可能です。
つまり裁判官にとって大切なのは、法律知識ではなく、社会のおける生活をベースにした人間同士のコミュニケーション能力です。それがなくて、人が裁けるはずはありません。

しかし、残念ながら、そうした社会や生活者と距離を置いているのが裁判官です。
いや法曹界の人といっていいでしょう。
かつての裁判は、神(王)による裁きでしたが、今は違います。主権在民の理念の中での裁きは決して上の目線からの裁きではないのです。
裁きのパラダイムが変わったのです。

そこに気づかないで、裁判の変革はありえないと、私は思いますが、どうでしょうか。

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2004/09/24

■犯罪が許される社会 

日本は犯罪が横行している社会です。
警察はいうまでもありませんが、社会もまたそれを見逃しています。

たとえば、年金証券を預かってお金を貸す業者の話が時々、テレビで放映されますが、そうした会社は依然として放置されています。法律違反でも、その法律に罰則規定がないと止められないという奇妙な論理まで横行しています。
みんなやる気が全くないのです。
社会がどんどん壊れていく。
そんな気がしています。
しかし、まだ日本には目に見える紛争は少なく、死者も出ていません。

一方、イラクはどうでしょうか。
イラクではまだ毎日のように死者が出る事件が起こっています。
外国人が誘拐され、殺害される不幸な事件も続いています。
しかし、イラクの社会はどうでしょうか。
壊れているのか再生しているのか。
私には、アメリカや日本が壊そうとしているのを、イラクの人たちが一生懸命にがんばっているように思えます。
イラク復興は、イラク国民のためではなく、日米の権力者の私欲のためでしかありません。事情が変われば、ブッシュはまた新たなフセインを作り出し、信念のない追従者の小泉はそれに荷担するでしょう。その資金は言うまでもなく、私たちの税金です。応援しているのも、残念ながら私たちです。

北朝鮮はどうでしょうか。
ここはすでに壊れた社会ですが、壊れた社会に巣くっている犯罪者を、人道支援の名目で日本は支援しています。日本の支援が犯罪者の力の源泉になる事は言うまでもありません。そのために殺される人がいないとは限りません。
しかし、その北朝鮮でも、いくつかの徴候から社会の回復を感じさせられます。もしかしたら日本よりはいいかもしれません。

つまり、日本の場合、ベクトルが反転しているのです。
このままだと、10年後には、イラクよりも、北朝鮮よりも、社会は劣化している気がします。
なぜでしょうか。私たちが豊かになり、権力者の仲間入りをしたからでしょうか。

最近、日本で起こっている殺人事件には、救いがありません。
イラクに関連している人たちの死と、あまりに違うことに、不安を感じます。
社会の凋落はまさにつるべ落としの勢いなのでしょうか。
もう止められないのでしょうか。
賢い人たちは、それを知ってしまったのかもしれません。
犯罪が日常化する社会は、もう直前に来ているのかもしれません。
大地震よりずっと怖いです。
どうすればいいか、私たちが素直な声をあげだせばいいのです。

プロ野球の今回の事件は、そのことを教えてくれました。

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2004/09/05

■共謀罪の話 

8月23日の「東京新聞」の特報記事がいくつかのメーリングリストで話題になっています。加熱したオリンピック報道で、新聞を読まなくなったこともあって、私はその動きを知りませんでした。

表題は「『超監視社会』の前夜? 標的は…労組と市民団体」となっています。
刺激的な内容です。ぜひお読みください。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040823/mng_____tokuho__000.shtml

組織犯罪処罰法改正案が今秋の臨時国会で本格審議に入る見通しだといいます。最近の国際テロに対する国際的な対抗活動が、その契機になっているようです。
まあ、これだけ聞くと、いい事じゃないかと思う人も多いでしょう。しかし、どうもそうはいっていられないようです。東京新聞の記事によれば、もしこれが成立すると、「酒場で職場の同僚たちと『あの上司を殴ったろか』なんてグチっただけでパクられかねない」そうです。
まあ、それでもいいじゃないの、という方は、是非とも第二次世界大戦の労働組合史をお読みください。

新たに新設されるのが「共謀罪」です。
自由法曹団警察問題委員会というところが、共謀罪に関するわかりやすい説明をしてくれています。
http://www.jlaf.jp/iken/2004/iken_20040115_02.html
それによれば、共謀罪とは、「団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行なわれるものの遂行を共謀した罪」です。死刑を含む重い罰が規定されています。

まだどこが問題かわかりませんね。
そうです。法律というのは、そういうものなのです。わかりやすくしてはいけないのです。いまの法律は社会契約とは違うのです。
これが権力に向けて施行されるのなら、小泉首相は死刑に相当すると思いますが、実際には法律は権力者が施行します。ですから、とんでもない権力を権力者は得ることになります。死刑をまぬがれるどころの話ではありません。金正日と同じようになれるのです。80年前の日本社会を思い出します。しかし、テロ対策とはそういうことです。
チェチェンの悲劇の環境外者は誰だと思いますか。

1984年の現実が、ひたひたと忍び寄っています。
パンとサーカスに現を抜かしていたほうが、幸せなのでしょうか。

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2004/07/06

■殺人罪の償い方   

今日は暴論を書きます。

16年前に殺人を犯した人が10年の刑期を終えて、出所し、また同じような事件を起こすということが起こりました。
殺人事件を起こした人の再犯率は高いそうです。

やりきれない気がしますが、刑罰のあり方を見直すべき時期だろうと思います。
「眼には眼を」がやはり原則であるべきです。それも最小の、です。
殺人に対しては、死刑よりも重い刑罰を与えるべきでしょう。
もちろん、冤罪や特殊な事情を無視しての、原則の話です。

社会を維持していくためには、子供が納得できる原則を大事にすべきです。
そして、子供の犯罪に関しては、もし子供を特別扱いするのであれば、親を罰するべきです。親を罰しないのであれば、子供も厳罰に処すべきです。今の状況は、論理整合していません。
人を罰するのではなく、罪を罰するとは、そういうことだと思います。
必殺仕事人の中村主水やチャールス・ブロンソンの「狼よさらば」シリーズのポール・カージーの人気は、人間の素直な気持ちの現れです。

それはともかく、私が奇異に思うのは弁護士の役割です。
弁護士が弁護すべきは、被告ではなく、社会ではないかと思います。
不法に裁かれない社会を守るために、弁護制度があるのであって、個人としての犯罪者を守ることが目的ではないはずです。
殺人の罪を問われている状況を正すことと、明確な殺人者をかばうことは同じではありません。その境界は難しいですが、明確な場合もあります。

「犯罪者の人権」という表現がありますが、犯罪者はその犯した犯罪の大きさによって人権が考えられるべきです。人を自分の都合によって殺した人に対しては、生きる権利はよほどの条件がなければ認められるべきではありません。
そしてまた、犯罪者を厳しく罰することこそ、犯罪者のためになることもあるのです。
そこを勘違いしているような気がしてなりません。
弁護士のミッションがいい加減に考えられているように思います。
たとえば、オウム事件の弁護士の言動には大きな違和感があります。

ついでいえば、検事が守る対象もまた、社会です。
権威や制度ではなく、社会です。

法は、誰のためにあるのでしょうか。

大学(法学部でした)でしっかり講義を聴いた先生が二人います。
憲法の小林直樹さんと刑法の団藤重光さんです。
卒業して40年ですが、その講座がとても懐かしいです。
日本が法治国家であるということの意味が、最近ちょっとわからなくなってきました。

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2004/06/23

■法の規範性と権力性   

携帯電話を使用しながら自動車を運転することを禁ずる法律が成立しました。
しかし、相変わらず携帯電話しながらの運転を見かけます。
昨日も帰りの狭い道で見かけて、ついつい横に逃げました。
ナンバーを記憶して、法律執行責任者に伝えたい気分です。
電話しながらの運転は減っているのでしょうか。
どうやって罰せられるのでしょうか。
目撃情報を警察に言っても、取り上げないでしょうね。
これは警察にまたひとつ気分で罰することができる手段を与えただけの話かもしれません。

スピード違反にしろ、路上駐車禁止違反にしろ、おそらく違反者に比べて、処罰を受けた人は少ないでしょうね。違反しても多くの場合、咎められない法とは何でしょうか。そして、咎めるかどうかを決めるのは、「公権力」を持っている警察だけというのが、法の本当の意味でしょうか。どこか違和感があります。
それ以上に、こうした法の存在が、法の規範性を否定し、社会を混乱させているのです。
法に違反しなければ出せない速度が出せる自動車まで作られているのも納得できませんが。

そう言えば、我が家から自動車で15分くらい行ったところに守谷飛行場というのがあります。利根川の河川敷の私有地に個人が開設している飛行機クラブです。
河川敷の場合、たとえ私有地であっても、勝手に建造物を作ったりしてはいけないのですが、そこでは10を超える建造物がつくられ、なんと廃車されたバスも数台放置されています。これは法律違反だそうです。所有者も認めています。
しかし、再三にわたる管理者(国土交通省ですが)の撤去指示にもかかわらず、放置されたままです。穴を掘って(これも禁止されています)、ゴミが捨てられているような状況にまでなってきています。所有者は違法であることが、犯罪だなどとは思っていないようです。なにしろ違反しても罰せられない法律は山ほどあるのですから。

法とは何か。
今の日本では、いざという時に、処罰するためのツールなのかもしれません。
いざという時とはいつか、また誰が処罰するのか。
これが問題です。

国家に盾突く時が「いざの時」。
処罰するのは、顔のない国家。
これでは、法は規範ではなく、支配権力のツールでしかありません。
ですから、警察は内部が壊れてきたのです。

法は、さまざまな人たちが、お互いに気持ちよく暮らすためのみんなのルールであってほしいです。そして、もし罰則法であれば、公平に適用される状況をつくってほしいです。破っても罰せられない法は見直したいです。

電話をかけながらの運転をみたら、どこかに通報する仕組みをつくれないでしょうか。
監視しあう、いやな社会だなと思われるかもしれません。
しかし、本当にそうでしょうか。
悪いことには目をつぶらずに、きちんと告発していくことが、もし嫌な社会なのであれば、きっとその告発の基準が間違っているのです。
嘘の告発や嫌がらせが頻発すると思うのであれば、それは社会を信頼していないということです。
社会を信頼せずに、社会をよくすることなどできません。
最初の一歩は、常に相手を信頼することから始まるのですから。

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2004/06/14

■平和に向けての個人訴訟傍聴記 

この記事を読まれる方はぜひ15日の記事も読んでください。

CWSコモンズのホームページでご案内していた、イラク派兵に関する憲法違反訴訟の北沢洋子さんの第1回口頭弁論を傍聴に行きました、私のホームページを見て参加した、前沢知成さんとも会場でお会いしました。残念ながらほかにはいませんでした。

私にとっては初めての裁判傍聴でした。
傍聴席は満席で、入れない人が出るほどでした。
しかし、補助椅子や立ち見は認められませんでした。
傍聴者の一人が、裁判所の建物はきれいになったが、昔は認められていた立ち見や補助椅子がなくなったのは改悪だと大声で話していました。

始まる前に、面白いやり取りがありました。
原告は北沢さん、被告は国ですが、国側の人が3人、被告席に座っていました。そこで北沢さんは名刺交換をしようとしたのですが、相手の人は名刺を出さなかったようです。そのためか、裁判官が来る前に、弁護人の人が、国側の人の所属省庁を教えてくれないかと呼びかけました。見事に断られました。答える義務はないというのです。北沢さんは、誰に話しているかを知りたいので、教えてほしいと重ねて頼みましたが、裁判官を通してたずねてくれとの返事でした。いやはや。裁判官に言われたら答えるのでしょうか。
傍聴席から、国民の税金で仕事をしているのに、国民に所属を言えないとは何事だと怒りの声があがりました。きわめて同感。

コミュニケーションの出発点は相手を知ることです。言いかえれば、自らを開くことです。
それを拒否しているのはコミュニケーションを拒否していることです。
この3人はよほどの悪行を重ねている人なのでしょうか。
あるいは悪いことをしているので自らの所属を明らかにできないのでしょうね。
そうは見えませんでしたが。
きっと誇りのない仕事をしているのでしょうね。同情しなければいけません。
それにしても国を代表するとはどういうことなのでしょうか。
それをなぜ誇りにできないでしょうか。
これが今の政府の実態ですね。

裁判が始まる最初に、北沢さんと弁護人が裁判官に国側の3人の所属省庁を明らかにしてほしいと頼みましたが、判事は、そう言う申し出があったことを記録します、と回答するだけでした。
この段階で私は日本の裁判は腐っていると思いました。そこにいるのは人間ではないのです。サルでも裁判官はつとまるのです。知的レベルと人間的なレベルの低さにあきれました。彼らに裁かれる被告は不幸です。
パサジェルカをまた思い出しました。
(この余分な記事に関しては、15日の反省記事もぜひお読みください)

北沢さんの口頭陳述は、残念ながら私には退屈でしたが、これもまた手続き上、仕方がないのでしょうね。すべてが儀式です。前沢さんに聞いたら、弁論は書類でやり取りされのだそうです。北沢さんは10分間の陳述をしましたが、それもほとんどないのだそうです。確かに次回は15分だそうです。信じられない話です。全く、税金の無駄遣いです。裁判官が忙しいのは仕事をしていないからですね、きっと。やはり裁判員制度は仕事ができない彼らの責任逃れでしかないように思えてなりません。

余計なことばかり書いてしましたが、こんなことをやっていて、平和は実現するのでしょうか。いや、みんな本当に平和を望んでいるのでしょうか。
このごろ、何か空しさだけが覆い被さってきます。
隠居すべきなのでしょうか。


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2004/05/24

■国民参加の裁判員制度  

司法制度が大きく変わり、新たに国民参加型の裁判員制度が導入されます。
みなさんはどう評価されているでしょうか。

私にはとても違和感があります。
第一に「国民参加」という発想に嫌悪感を持ってしまいます。
何をいまさらです。
それに、だいたい「参加」などとは傲慢です。
「参加」は「する」ものであって、「させる」ものではないのです。
行政の「住民参加」や「市民参加」と同じく、やる気のない人ほど、高い目線で「参加」などというのです。

その前にやることがあるだろうと思います。
たとえば裁判の透明性を少しは高めてほしいものです。
その方がよほど「国民参加」性は高まるでしょう。
被害者の写真すらもちこめない法廷って何でしょうか。
裁判官の私物ではないのです。
オウム事件の裁判ですら、写真さえ撮れずにイラストで紹介。
なんというおかしさでしょうか。
オウムの松本被告がやってきた権威付けどこが違うのでしょうか。

もし参加志向を高めるとしても、いまさら陪審員制度ではないでしょう。
これだけ情報環境が変わっているのです。
時代錯誤もはなはだしいと思います。
少しは勉強しろといいたいです。

法曹界の人たちには自らの社会常識を高めてほしいです。
特殊な世界になっている仲間主義を壊してほしいものです。
正義は六法全書のなかにあるわけではありません。
法は手段であって、しっかりした時代認識と世界観をもった、リーガルマインドが法の意味を決めていきます。
大切なのはそれぞれの生き方です。
生活者の生きた感覚が、専門知識より上位になければいけません。
それは、陪審員制度のようなかたちで取り入れることではありません。
裁判官や検事や弁護士が、そうした感覚を育てなければいけません。
私は、いまどき、このような制度を持ち出すこと自体に、彼らの常識のおかしさを感じます。いわゆる有識者も検討に参加されたのでしょうが、有識者の多くは時代を生きていない人たちだと私は思っています。例外がないとは言えませんが。

裁判にとってもう一つ大事なのは、判断材料です。
つまり、判断するための事実によって、判断は全く変わってきます。
「判断過程」と同じくらい「判断材料の収集と編集」が重要なのです。
そしておそらく今はこちらのほうにこそ問題があるのです。
その解決策のほうこそ大切ではないでしょうか。
これも情報環境の変化によって状況は激変していますが、
それをどのくらい活かしているのでしょうか。

同時に自らの能力を高める努力も必要です。
自分の能力不足を「参加の論理」でごまかしてはいけません。

どうも今回の司法制度改革は、
自らを正さずに、責任逃れをしようとしているのではないか。
地方分権、市町村合併、年金改革、それらと同じ動きの一つのように思えてなりません。

最近、腹立たしいことが多く、少し八つ当たり気味ですが、
ともかく昨今の「制度改革」は、すべて疑ってかかったほうがいいという気がしてきました。
専門家が考えたのだからと安心していてはいけません。

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