カテゴリー「司法時評」の記事

2022/11/11

■国家が人間をどう捉えているかを象徴するのが「死刑制度」

葉梨法相の「(法務大臣は)死刑のはんこを押す、昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職」発言が問題になっています。
この発言の意味が岸田さんはじめ閣僚には全くわかっていないようなのが恐ろしいです。

法治国家の法は国民を統治していくための基準です。
国家(政府)が人間をどう捉えているかが象徴されているのが「死刑制度」です。いわゆる先進法治国家で死刑制度を法に取り込んでいる国はわずかしかありませんが、日本は制度のみならず執行も行われている稀有の国です。

要するに、日本の法体系は、個々の人間の生命よりも国家の秩序を優先しているわけです。こういう思想の元では、戦争において兵士の生命は国家制度よりも優先されます。
しかも、こうした思想は、政府だけではなく、日本国民の多くが共有している思想かもしれません。

葉梨法相の発言を咎めない岸田首相は論外として、そんな人が参加している政府の閣僚に留まることを恥じる閣僚がだれも出てこないことに恐ろしさを感じます。
発言にはその人の思想が象徴されます。ですから、発言を咎めるのは単なる「言葉狩り」ではないのです。葉梨さんは即刻議員をやめるべきだと私は思います。こういう人が国民を戦争に向かわせるのですから。

私の突然の入院で遅れていましたが、死刑制度に関するサロンを今月下旬に行う予定です。ぜひ多くの人に参加していただき、死刑制度について話し合ってみたいと思っています。葉梨さんにも参加してほしいものです。

 

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2022/07/27

■ウクライナ戦争を止めたかったら、まずは日本の死刑制度を廃止すべきではないか

2008年に起こった秋葉原での無差別殺人事件の8人目の死者が出ました。
加害者だった加藤さんが死刑執行されたのです。
死刑執行の報道に触れる度に、気が萎えてしまいます。
死刑制度がいまなお日本で認められていることが残念です。

また非難のメールをいただくでしょうが、死刑執行による加藤さんの死と安倍元首相の死との違いがどうも私にはうまく消化できないのです。
それで急に誰かと話したくなり、昨日は29日のサロンを呼びかけてしまった次第ですが、今日、朝日新聞で中島岳志さんの話を読んで、少し救われました。私だけではなかったようです。

朝日新聞に紹介されていた、当時の被害者の湯浅さんの言葉にも感動しました。

「加藤死刑囚は長男と同世代でもあり、恨む感情は起きなかった。どんな人物なのか、同機は何なのかを知りたいと思った」。

湯浅さんの知性に敬意を表します。

どうして死刑を執行してしまったのでしょうか。
なぜ国家は、国民を殺すことができるのでしょうか。
戦争ができるようにしておくためでしょうか。

私には、ウクライナの戦争を止めるよりも、日本での死刑制度を廃止するほうが大切なような気がしてなりません。

 

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2022/07/13

■原発事故の損害賠償を受ける覚悟があるのでしょうか

福島原発事故の経営責任を問う株主代表訴訟で、東京地裁は旧経営陣5人のうち4人に対して、13兆円の損害賠償を命じました。先日の国家責任を否定する最高裁判決が出たこともあって、いささかの不安がありましたが、ちょっと安堵しました。
おそらく最高裁では判決は反転するでしょうが、これからの経営者の行動に大きな影響を与えると思うからです。少なくとも、経営者の責任に関する議論が深まることは間違いありません。

 昨日、湯島で「原爆と原発」を話題にするサロンを開いていました。その報告はまた改めて書きますが、原発について私たちはあまりにも知らなすぎるように思います。しかし、原発の危険性に関しては、それこそ当初から言われていたことであり、事業を導入する経営者であれば、知らないとか想定外などと言えるような話ではありません。正常な感覚を持っていれば、とても恐ろしくて原発事業に取り組もうなどとは思わないでしょう。それが可能になったのは、それこそ「産軍複合体」ではありませんが、一企業を超えた大きな経済政治複合体で、責任を消し去る仕組みをつくったおかげではなかったのかと思います。

そこまで言うと話が大きくなりすぎますが、法人制度の持つ危険性や経営者を引き受ける意味が明確になったということだけでもよかったと思います。
私も以前は、会社組織とは個人が大きなリスクに立ち向かうすばらしい仕組みだと思っていました。しかし、20年ほど前から少し考えが変わりだしました。
会社組織とは、個人のリスクを回避させることにより、無責任な思考(人間)を育てる仕組みなのではないかと思うようになったのです。

原発事業は損害保険を引き受ける保険会社がないほどのリスクの大きい事業なのです。
そんな事業をよくまあ引き受ける経営者がいるものだと、私はずっと思っていました。
おそらく東電の経営者は、原発の現場をしっかりとは見ていないでしょう。
そこで従業員がどんな仕事をしているか。

いや知らないのは東電の経営者だけではありません。
多くの日本人は知らないようです。
原発再稼働の動きが高まっていますが、それを支持する人たちは、万一の時に個人的に損害賠償に応じる覚悟があるのでしょうか。

この判決は、私たちすべての国民に、そういう問いかけをしているように、私には思います。
話が少しずれてしまいました。書いているうちにだんだん悲しくなってきてしまったためです。
困ったものです。

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2022/06/18

■責任までも民営化される時代

福島原発事故で被害を受けた住民たちが国に損害賠償を求めた集団訴訟で、昨日、最高裁は国の責任を認めない判決を言い渡しました。
一人だけ反対意見を述べた裁判官がいたのは、せめてもの救いですが、この判決は予想はしていたものの力が抜けました。
日本においては「責任の民営化」はますます進んでいきそうで心配ですが、無責任体制のまま、原発依存が引き続き進められると思うと憂鬱になります。

判決への疑問はいろいろとありますが、私が危惧するのは、国民無責任体制の中で私もまたその一員に加わっていることへのいやな気分です。
国民主権の日本国においては、国の責任は国民の責任でもあります。
ですからこの判決は、私もまた加害者の一員だったということを認めるかどうかの判決だったというように私は受け止めていました。
この裁判は、原発の安全神話を信じて原発からの電力を利用してきた私たちの生き方を続けるかどうか、にもつながっていました。
福島の事故で、ようやく多くの人は「原発安全」は事実ではなかったことに気づきました。気づいたならば、生き方を変えるのが普通でしょう。でも結局は多くの人たちは元に戻ってしまったような気がします。

原発事故で人生を変えてしまい、いまなお苦労している人がたくさんいるにもかかわらず、そういう事実に政府は誠意を持って対応していないように思いますが、それはつまり私たち国民が誠意をもって対応していないことのように思います。
ですから私はとても気が重いのです。

国が責任を認め、私たち国民全員がもっと被害者に対して支援していけないものか。
その一つのやり方は、税金の一部を避難者個人に(中抜きされることなく)直接支給するとともに、国民みんなが自らの生き方や考え方を悔い改めることが求められているような気がしてなりません。
第二次世界大戦に突入した時の無責任体制がまた繰り返されている。

責任は東電にあって、私たちにはない、と考えれば、楽にはなる。
しかし、どうもすっきりしません。
やはり国家もまた責任の所在をあいまいにする仕組みなのだと思わざるを得ません。

責任までも民営化される時代。
それに便乗して私も責任を回避している。社会の劣化は当然のことでしょう。
またひとつ、私が目指す未来とは違った方向への動きが始まりました。

ちなみに私は、原爆と原発は同じものだと考えていますので、この判決が、ウクライナで起こっていることともつながっているような気がしてなりません。

 

 

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2021/09/06

■第1回リンカーンクラブ研究会報告

リンカーンクラブ代表の武田文彦さんからの呼びかけの第1回リンカーンクラブ研究会は9人の参加者があり、予定時間を大幅に超える熱い思いがぶつかり合う会になりました。
ちょっとみんな熱くなりすぎて、危うく壊れそうになるほどでしたが、かなりみんな真意も吐き出したので、何とかおさまり、逆にこれからの展開も見えてきました。

ご案内の通り、参加申し込みいただいた方にはあらかじめ膨大な原稿が送られてきました。それに一応目を通したうえで、皆さん参加されましたが、最初に武田さんからは、こう問いかけられました。

考えていただきたいことがあります。

他人やほかの本からではなく、現代の日本という国家についてのみなさんの国家観についてです。
さらに、歴史観です。今の時代は日本にとってどういう時代なのかということです。
もう一つは、経済観です。経済というものをどう考えるかです。

この、国家観、歴史観、経済観、それぞれ考えていただいたうえで、この3つの要素の連関性についてお考えいただきたいのです。
それぞれの考えに論理的に大きな矛盾が生じないようにしていただくという作業になります。バラバラではあまり意味はありません。

国家観、歴史観、経済観は単独では成立しません。
それは人体の各臓器とその作用のような物だと考えています。国家という生体が生きていくうえでの基本的な機構かもしれません。
こうすることで構想というものが生まれてくるような気がします。
こうして、初めて、日本の現代と未来の問題が見えてくると思います。
そして、現代の個人と国家の関係のあり方もまた見えてくるような気がします。

これが長年の武田さんの取り組み姿勢ですが、こう正面から問われると、いささかたじろいでしまいます。それに突然言われても、そう簡単にな話せない。

しかしめげずにみなさんそれに応じて、自論を話すことから研究会は始まりました。
参加者全員が話し終わった時はすでに予定の時間が終わるころでしたが、それから話し合いがはじまりました。

と書くといかにも整然と会が進んだように感じるかもしれませんが、原稿に対する批判や実際の運動につながっていないという厳しい批判もあり、さらに終盤になって個別的な政策課題に話題が行ってしまったために、話し合いは混迷し、あわや空中分解になりそうでした。
しかし、武田さんが呼び掛けたように「他人やほかの本から」の知識的な情報のやりとりではなく、それぞれの本音の話し合いだったので、各人の思いも見えてきて、逆にこれからの展開の手応えがあったような気もします。
本音の思いは、そう簡単には伝わり合えません。それがわかっただけでもよかった気がします。

いずれにしろ今回の話し合いを踏まえて、10月に第2回目の研究会を開催するとともに、並行して、リンカーンクラブ構想の話やその理念でもある究極的民主主義の紹介などのサロンも行うことを考えていこうということになりました。

研究会は基本的にはメンバー制で開催していきますが、関心のある方には公開していくスタイルをとる予定です。
関心のある方はご連絡いただければ、次回の案内などさせていただきます。

20210905

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2021/07/26

■黒い雨はどこまで降ったか

昨日、署名のご案内をした「黒い雨訴訟」に関して、長年、この問題に取り組んでいる気象専門家の増田善信さんのお話を分かりやすくまとめた動画がユーチューブで公開されています。
この制作にも取り組んでいる権上さんがこう書いてきてくれました。

直爆被害者に比べ、降った範囲の広い黑い雨被害者は、被爆者のマイノリティーと呼ばれるほど、差別を受けてきています。圧倒的に数が多いためです。
そして、76年たった現在、生存者は減っていますが、福島事故への影響を忖度し国はいまだ認めたくない思いです。この判決が、初めて内部被ばくを認めたものだからです。

過去は常に現在と未来につながっている。
改めてそう思いました。

この数本の動画は、増田さんの講演を聴いた数人の仲間が自分たちで制作したようです。
動画の説明に、そのチームメンバーが出てきますが、しばらく会っていない友人が2人、名を連ねていました。かつてやっていた科学技術倫理関係のNPOのメンバーです。そのNPOは所期の目的を達成して解散したのですが、おふたりはこういう形で実践活動を続けていたのです。

ちなみに、昨年くらいから、厚生労働省の姿勢も変化してきていて、裁判とは別に厚労省の黑い雨雨域検討会というものがつくられ、増田さんご自身も参加されているそうです。
益田さんはまもなく97歳。
お時間が許すときにぜひご覧ください。
一度、湯島のサロンでも取り上げられればと思います。

日本語地球被曝 黒い雨はどこまで降ったか
https://www.youtube.com/watch?v=PG9QOZPSIk4

本編 〇黒い雨はどこまで降ったか~気象専門家増田善信の約束
https://www.youtube.com/watch?v=FLVW5Lv1q8s

いずれも映画版もできています。




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2020/07/21

■「隠蔽されてきた行政行為の不適切性および違法性」の可視化を目指す本の紹介

濱中都己さんの「世にも恐ろしい損保犯罪の話」(平成出版 1300円)をご紹介します。

本書の出発点になった事件に関しては、私も濱中さんからお話をお聞きしながら、お役にたてていない反省があるのですが、湯島のサロンで改めて取り上げたいと思っています。

まずは出版社による本書の紹介文をお読みください。

本書は、日本のエリン・ブロコビッチとも言える、著者の執念の賜物です。 日本では、すでに既得権のある大企業、とりわけ損保業界に、はむかう人はいません。 母親の交通事故をきっかけに、国民健康保険を利用する形で交通事故の補償をするのはおかしいのではないかと著者が主張すると、不当逮捕・冤罪被害となってしまいました。しかも恫喝も続きます。 本書を読んで、不当な立場におかれている「弱者」について、ぜひ考えていただきたいです。

エリン・ブロコビッチ。
ジュリア・ロバーツ主演の映画「エリン・ブロコビッチ」を観た人も少なくないでしょう。
私も数回見ましたが、そう言われてみると、たしかに著者の濱中さんにはそういう雰囲気があります。偶然に出合ってしまった問題を掘り下げていくうちに、利権構造で固められ、不労所得に覆われている日本の社会にぶつかってしまい、どんどんと深のめりしている濱中さんには、むしろエリン・ブロコビッチ以上のパワーを感じます。

本書には、その濱中さんが、突然の母親の交通事故から、国民健康保険をむしばむ巨大損保会社の犯罪に巻き込まれ、怒りを強めていく過程が克明に描かれています。そうした「生活者」の怒りの対象はどんどん広がり、そして金融省までも含む既得権益による「社会的犯罪」に挑むことになっていくという、生活と深くかかわった告発の書です。

そこで示唆されているのは、単に損保業界の話にとどまりません。
たとえば、本書では特別民間法人の話が出てきますが、そこに現在の日本社会の本質が垣間見えています。すべて利権に絡め取られ、労働と収入は全く無縁になっているとさえ思いたくなる日本の経済社会の実相が、です。

しかし、ほとんどの人がそうした仕組みに組み込まれているために、おかしなことを「おかしい」とさえいえなくなっている。その仕組みを変えないといけないと、濱中さんは立ち上がっているわけです。まさに、物知り顔で事実を見過ごす人たちとは違う、「生活者」ならではの行動です。
そうした行動の結果、濱中さん自身が、「恫喝訴訟」とも言われる、威嚇目的のスラップ訴訟の対象にされるのですが、そこから日本の司法界の問題も見えてきます。
国民が安心して暮らせて行いけるための、せっかくの「保険」や「司法」という社会の仕組みが、それらの目的とは全く真反対の運用がされている現実も垣間見えてきます。

濱中さんは、単に問題提起しているだけではありません。身体をはって行動しています。たとえば、交通事故損保犯罪対策委員会を立ち上げたり、「反スラップ法制定」の請願活動を呼びかけたりしています。

本書の「あとがき」の一文を紹介します。

いままで国民の目から巧妙に隠蔽されてきた行政行為の不適切性および違法性を可視化し、行政立法の内容等を行政訴訟の対象とすることによって不適切性や違法性を早期に是正することは国民の権利義務の正当性実現と救済にとっても極めて大きな意義を有します。

「隠蔽されてきた行政行為の不適切性および違法性」の可視化。
濱中さんの活動がそのきっかけの一つになればと思い、私に何ができるかを考えていますが、まずは本書の紹介から始めることにしました。
濱中さんに頼んで湯島のサロンも開催したいと思っています。
またご案内させてもらいます。

 

 

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2018/12/14

■動いている時だけが運転しているとは恐ろしい話です

あおり運転事件の判決には驚きました。
止まっているときは運転とは言わないそうです。
どう考えてもおかしいでしょう。
しかしある弁護士はテレビで、「市民感覚には合わないかもしれないが、法的に言うとそうなる」と話しています。
この発言に、法曹界の専門家のおごりを感じます。
法律を市民感覚に準拠して解釈するのが法律の専門家の使命のはずです。
どう考えても理解できない。
運転とは何かを少し真面目に考えてほしいです。

運転は動いたり停止したりする行為です。
デジタル的に言えば、動いているときも止まっている状態の連続という捉え方さえありますが、それはともかく、停止中の行為は運転中の行為ではないというのはおかしいでしょう。

しかも、市民感覚には合わないかもしれないが、法的に言うとそうなるなどと白を切るに至っては許せません。

多くの人は、専門家は正しいと思いがちですが、そんなことは全くありません。
私の感覚では、いわゆる専門家には、知的でさえない人が圧倒的に多いのです。
いや怒りのために少し言い過ぎました。
反省。
しかし、お上だから、専門家だから、東大出だから、国家資格を持っているから、などということに騙されてはいけません。
その正しさを、みなさんも今年はたくさん体験したでしょう。

物事が正しいかどうかは絶対的な基準などありません。
その時代の多くの人が納得することが、その時代においては正しいことの基準です。
市民感覚こそが、正しさにとっての一番の準拠になるのです。
しかし、それだと混乱も起きかねないので、安定度を高めるためにつくられたのが成文法です。
しかし、その解釈は時代によって柔軟に対応できるように、解釈の余地があり、それを託されているのが司法関係者なのです。
彼らが基準にするべきは、法文としての法律ではなく、市民感覚なのです。

私が大学の法学部で学んだことの、それがすべてです。

テレビを見て、あまりにも馬鹿げた判決なので、とりあえず思いつきで書いてしまったので、きっと冷静になったら後悔するでしょう。
しかし、第一印象はとても大切です。
直感的に感じたことの方が、私の人生においては正しかったことが少なくありませんので。
冷静になって考えることは、往々にして悪しき洗脳の結果であるからです。

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2018/12/04

■弁護士と検事の使命

あおり運転死亡事故の裁判が話題になっています。
裁判の報道を見ていつも、検事にしろ弁護士にしろ、その基本的な姿勢に違和感を持つことが少なくありません。
つまり「裁判制度」そのものに私は違和感があるのです。
私自身もちょっとした裁判に関わる機会もあって、ますますその感を強くしました。

たとえば今回の事件で、弁護士はどうしたら被告の罰を軽くしようかといろんな論理づけをしています。
逆に検事はどうしたら被告の罪を重くできるかを考えているような気がします。
停車した後の事件なので「危険運転死傷罪」は成立せずに無罪だと弁護士は主張し、検事は法律に照らすと危険運転死傷罪は成立しにくいので、監禁致死傷罪も考えようとしているようです。
しかし裁判で問われることはそんなことではないのではないかと思うのです。

弁護士の役割は、被告の人権を守ることです。
人権を守るとはどういうことか。
もちろん冤罪は避けなければいけませんが、明らかに冤罪ではない今回の事件のような場合に、被告の人権を守るということは無罪にすることではなく、適切な罰を課することだろうと思います。
適切な罰を受けさせることこそが、私の考える個人の尊厳の尊重です。
個人の尊厳は、犯した罪に適切に服することも含意されていると私は思っています。
罪を逃れることと冤罪とは、私には同じものに思えます。
いずれも個人の尊厳を損なっている。

検事と弁護士は対立関係にあるわけではなく、違った視点から起こったことを評価し、より良い結論を導くための、いわば協力者でなければいけません。
駆け引きを主軸にした裁判にはどうも違和感があります。
映画「12人の怒れる男」での陪審員の時間をかけた話し合いこそ、裁判の基本でなければいけません。
お互いに証拠を隠し合って、相手を負かすことに精力を注ぐような裁判は、私には大きな違和感があります。
裁判はゲームでも闘争でもないのです。

もしかりに今回の事件の被告が無罪になったらとしたら、一番報われないのは被告ではないかと私は思います。
弁護士は、そうならないように、被告の尊厳を守るべきではないか。
罪は罪として認めることこそが、被告の、これまでのたぶんいろいろと問題が多かっただろう人生を正してやることにつながるのではないか。
そんな気がしてなりません。

報道から感ずる限り、今回の事件の弁護士には被告への愛情は感じられません。
そんなことは必要ないし無理だと言われそうですが、個人の尊厳を守るということは愛なくしては成り立ちません。
仕事として弁護士を選んだ以上、被告の尊厳を守ることにこそ人生をかけなければいけないと私は思います。
被告の悪いことは悪いとはっきりと質していかなければ、個人の尊厳は守れません。

きちんとした裁きが行なわれる社会こそ、みんなが安心できる社会です。
検察と弁護士と裁判官が一緒になって、三方よしの裁きをしてほしいと思っています。

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2018/11/28

■「1%と99%の戦い」の幕が上がった?

日産のゴーンさんの逮捕には興味はなかったのですが、最近の報道を見て、これはもしかしたらとてつもなく大きな事件になるかもしれないという気がしてきました。
一言で言えば、「1%と99%の戦い」の始まりです。
日本の検察がもしそれを意図的に始めたとしたら驚くべき話です。

ゴーンさんはまだ1%の人たちの仲間ではないとしても、1%側の人を目指しているだろうと思います。
その人を起訴することになれば、「1%と99%の戦い」になる可能性は否定できません。
すでに報道されていますが、アメリカでの最高の弁護士の一人が弁護することに決まったようです。
企業事件の裁判の本場はアメリカでしょうから、日本の弁護士などとは格段に強力な力を持っていると思われます。
私たちはともすれば、裁判に正義や真実を期待しますが、現在の裁判は正義や真実を問う場ではありません。
客観的なデータを材料にして、法に合っているかどうかを争う場です。
この種の裁判に手馴れているアメリカの弁護士とあまり手馴れているとは思えない日本の検事とでは、最初から勝負は見えているような気もします。

しかしよほどの自信がなければ日本の検察もこうしたドラマティックな宣戦の仕方はしなかったでしょう。
私がイメージしている検察は、勝つ方法がわかっていることしか起訴しない体質を感じます。
だから最初は、検察の後ろに日本政府やフランス政府がついているとばかり思っていました。
ですから前のノートに書いたように、私にはまったく興味がなかったのです。
ところがどうもその後の報道では、フランス政府もルノーも了解していないようです。
とすれば、これはとんでもない物語の始まりかもしれません。
日本の検察が1%族に戦いを挑んだというわけです。

しかしもう一つの解釈もあります。
これは99%族の成り上がり者が1%族になろうとしていることに対して、1%族が見せしめで、誘発させた事件かもしれません。
たかだか100億円足らずの小銭で、小賢しい細工をするような人は1%族の文化とは違う種族だと思われたのかもしれません。
それにそもそもゴーンさんの生き方は庶民的すぎます。
文化が合うはずがない。
そう考えると、この事件はどこかにおかしさがある。
そもそも「司法取引」などということが使われていることにも違和感があります。
報道の仕方も、ちょっと理解できないこともある。
もしそうだとすると、アメリカ最高の弁護士がゴーンさんについたことの意味を考え直さなければいけません。

この事件の筋書きを描いているのがどちらの人かはわかりませんが、いずれにしろ、「1%と99%の戦い」につながっていく可能性はある。
こう考えると、これまでまったく関心がなかったこの事件への興味がわいてきました。
西川日産社長の勇気に拍手を送りたいです。
西川さんも1%族の下っ走りでいれば、日本の多くの大企業の社長のように、あるいは多くの官僚や政治家のように、これまでのような暮らしができたでしょうに。

何が西川さんに起こったのか、それへの興味も出てきました。

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