■司法の役割
司法には2つの役割があります。
「犯罪」を裁くことと「犯罪」を予防することです。
「犯罪」とは何かという問題がありますが、今回それは棚に上げておきます。
安倍元首相銃撃事件の奈良地裁の判決に対して、山上被告は控訴を決めました。
当該判決に関する前回の投稿はいささか過剰な反応を起こしてしまいました。
今回はそうならないことを祈ります。
私が問題提起したいのは、司法のあり方の問題です。
日本の司法は、砂川事件の統治行為論以降、政治の下部組織になってしまっていることを指摘したかったのですが、余計なことを書いたために伝わりませんでした。
司法の役割ですが、生活上、何か問題があれば司法に訴えれば解決してくれるという一面があります。それがうまく機能すれば、私刑を含め犯罪は予防されるはずです。
山上さんは統一教会との関係で、司法(広義)に相談したにもかかわらず、解決してもらえませんでした。そのため、彼は「被害者」として追い詰められたのです。犯罪を予防するはずの司法が機能しなかったといってもいいでしょう。
そこで山上さんは、仕方なく、司法制度以前の自分で解決するという方策に向かいました。制度が被害者の自分を助けてくれないのであれば、自力救済しかないと考えたのでしょう。しかし、いまの社会ではそれは「犯罪」です。そして「犯罪」が行われ、彼は「加害者」になってしまった。
犯罪は裁かなければいけません。そこでもう一度、司法の出番が来ます。
ここで注意すべきは、裁くのは「犯罪」であって、「犯罪者」ではないということです。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は最近では死語かもしれませんが、「犯罪」と「犯罪者」は違います。
「犯罪」を裁くには、事実を明らかにしなければいけません。
つまり司法が「犯罪」を裁くとは、事実を明らかにしていくことです。被告を呼び捨てにして、人権をはく奪することではありません。疑問があれば、その疑問を解かなければいけません。疑問を隠したり、都合のいい事実を作り上げることではありません。
私が思うには、奈良地裁の裁判では、そこが十分になっていない気がします。
しかし、ここからがややこしい。
裁かれるのは「犯罪」であるとしても、その罰を背負うのは「犯罪者」だからです。
加害者と被害者は、実はコインの裏表です。どこに視座を置くかで違ってくる。
そこで情緒的な同情論などが入り込んでくると、事実は見えにくくなってしまいます。
「情状酌量」は同情論などであってはいけない。裁くのは「犯罪」でなければいけない。
同情は事実を見えなくしてしまいます。
さらに「犯罪」は、どこまでを視野に入れるかで、全く違ったものになる。
その「犯罪」が起こした結果も配慮すべきではないかと思います。「犯罪」が人を救うこともある。そもそも「犯罪」とは、法律に反する行為です。マイナスばかりではありません。そこがややこしい。
いずれにしろ、「政治性」をどれだけ排除して、事実を事実として把握しようとするか。
今回の事件ですが、刑事事件である以上、控訴しても、事実がそう広げられて開示されるわけではありません。
しかし、その気になれば、この判決のその後の動きから、いろいろな気づきをもらえると思います。
私も関心を失わずに、その後の動きをフォローしていきたいと思います。


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