カテゴリー「司法時評」の記事

2017/03/11

■煙石博さんの冤罪が晴れました

これまで何回か書いてきた、広島の煙石さんという元アナウンサーの方の訴訟の最高裁の判決がでました。
煙石さんは、66000円の窃盗の容疑で訴えられ、物証もなく、状況を知る限り、冤罪としか思えないのですが、有罪判決を受けてしまっていたのです。
昨日の最高裁の判決で無罪となり、冤罪が晴れました。
他人事ながら、うれしいことです。

この事件を知ったのは、広島の友人のおかげです。
広島の事件なので、最高裁に行くまでは関東圏では報道されることもなかったのですが、内容を知って驚きました。
警察の取り組み姿勢も含めて、まだこういうことが起こっているのだという、驚愕です。
私が中学生の時見た、八海事件を扱った映画「真昼の暗黒」を思い出しました。

冤罪を成り立たせているのは、司法制度にも問題がありますが、世間の関心の低さが、それを支えている面も否定できません。
多くの人がいまなお、司法の判断や警察の判断は正しいという前提で考えますから、自分ではきちんと考えようとしない傾向があります。
ですからいくら当事者が、あるいはその家族や友人たちが「冤罪」だと騒いでも、世間はなかなか耳をかしてはくれません。
それに、他人のそうした事件には関わりたくないという思いも、みんなどこかにあります。
ですから、冤罪はなくならないのでしょう。
そういう意味で、私にもまた責任があるわけです。

そういう思いもあって、このブログやフェイスブックなどに書きこんで、この事件の存在を私なりに広げてきました。
ですから、今回の無罪判決はとてもうれしいです。

実は昨日、このブログへのアクセスが急増しました。
その理由は、この判決でした。
話題になるとネット検索が増えて、私のブログにまでアクセスが増えるのです。
しかし、これも正直、ちょっと不安感もあります。
話題にならない限り、誰も関心を持たない。
話題になると過剰な関心を持つ。
それは結局同じことなのかもしれません。

マスコミの姿勢にも大きな違和感があります。
報道しても誰からも責められない事件を見つけると、最近の森友学園の事件のように過剰に報道する傾向が高まっています。
標的にされてしまうと、もう逃げようがないくらい執拗に追いこまれます。
世間もそれに同調して、そこに関心を集中してしまう。
その一方で、社会のさまざまなところで起こっている「小さな事件」は世間の目を逃れてしまう。
森友学園にまつわる事柄は、誰でもが「おかしい」と思うことですから、ただ罰して事態を質せばいいだけの話です。
ただただ詐欺罪として、あるいは官僚の背任事件として処理すればいいだけの話です。
ほんとうに恐ろしいのは、煙石事件のような話です。
私もそうですが、みんな最近は忙しすぎて、社会で起こっているおかしなことになかなか気づかないことが多い。
私は、そこに恐ろしさを感じます。

ちなみに、森友学園に関して言えば、マスコミは森友学園の見方であるような感じを私は受けています。
それに関しては、また別に書きたいです。

煙石さんの体験から、私たちは大きなものを学ばせてもらいました。
学んだことは、私も実行していこうと思います。

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2017/02/25

■煙石事件続報

先日、書いた煙石博さん事件の裁判に関してですが、今日、最高裁から弁護士事務所を通して、3月10日(金)15時から最高裁判所第2小法廷で判決公判が開かれることが決定したと、煙石博さんに通知があったそうです。
友人からのメールです。

煙石博さんは2月17日、司法記者クラブでの記者会見で、次のように話されています。

私は煙石博です。66,600円を盗ってもいないのに、盗ったとさした。
私は無実です。この事件で、定年後の、人生の貴重な時間と仕事を失ってしまっただけでなく、長年、私の築いてきた信用と信頼を一気になくし、私の人権も社会的存在も失ってしまいました。さらに私の家族にも大きな負担をかけ続けてきました。私は無実です。
最高裁に上告して2年と2か月、ようやく2月17日に弁論となりました。
私は、今まで、警察、検察、裁判所に対して、これほど不信感をもった事はありませんでしたが、今は、警察、検察、裁判所に、大きな不信感と、激しい憤りを感じております。
最高裁においては、それを払拭して下さる様な、正義と真実に基づいた、公正なる判断をお願いするばかりです。

このことを教えてくれた、広島の私の友人は、次のように書いてきてくれました。

先日も、RCCラジオ番組で、先日の弁論について取材した記者が番組の中で説明しておられましたが、報道に対する危機感も感じておられるようです。 佐藤さんが、いつもおっしゃっているように、他人事と思っていると危機は目の前に迫って来ているのかもしれませんね、どうかご自愛下さいませ。

最後の「どうかご自愛下さいませ」という言葉はどういう意味でしょうか。
不気味な時代の足音が聞こえるような気がしないでもありません。
このままでいいのか。
今日も湯島でそんな話し合いをしていましたが、みんな何をしたらいいのかわからないまま、怒りと不安だけが募ってきています。
80年前の日本もドイツも、こんな感じだったのでしょうか。
煙石博さんの事件は、多くの人に関心を持ってもらいたい事件です。

フェイスブックにこの記事を書いたら、早速友人が書き込んでくれました。

不条理は誰の身の上にも大なり小なり起こることとはいえ、佐藤さんのお人柄を信じてこの方に降りかかった不条理をともに怒ります。

私はこうコメントさせてもらいました。

ありがとうございます。 ご指摘の通り、私も不条理は誰にも起こることゆえ、それを受けることには、最近そう大きな抵抗がなくなりました。 しかし、不条理を意図的に起こすことができるような社会には、やはり抗いたいと思っています。

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2017/02/18

■煙石博さんの窃盗容疑訴訟が逆転無罪になりそうです

中国放送の元アナウンサーの煙石博さんの窃盗容疑訴訟に関しては、これまでこのブログで何回か取り上げてきました。
冤罪の可能性が極めて高いように思われる事件で、広島の友人からこの事件を教えてもらって以来、ずっと気になっています。 

煙石さんは5年前の9月、広島市南区の自宅近くの銀行で女性客が記帳台に置き忘れた現金6万6600円が入った封筒を盗んだとして逮捕・起訴されたのですが、しっかりした物証もないのに、そしてもちろん本人が認めたわけでもないのに、一審二審ともに有罪でした。
煙石さんは上告。その最初の弁論が昨日、最高裁で行われました。
その結果がどうなったのか気になっていましたが、やっとRCCニュースにアップされました
http://news.rcc.jp/?i=27371#a
逆転無罪の可能性が出てきました
よかったです。

私は煙石さんとは面識はありませんが、煙石さんを知っている人からお話を聞いています。
煙石さんにとっては、思ってもいなかった事件のようですが、なにやら不気味さを感じます。
他人事ではないなと思いながら、その行方に関心を持っています。

それにしても、この事件は、千葉にいてはまったく情報がありません。
今日も朝から、ネット検索をいろいろとしていましたが、ようやく先ほど、結果を知りました。
こういう事件が、私の知らないところで、多発しているのかもしれません。
金正男さんの事件よりも、私には関心があります。
こういう事件をきちんとマスコミは伝えてほしいものです。
と思って、いままた調べてみたら、NHKでもアップしてくれていました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170217/k10010880691000.html
しかし、テレビでの放映は関東圏ではなかったようです。

事件の経緯などは次のサイトをご覧ください。
http://enseki.noor.jp/
逆転無罪を願っています。

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2016/06/17

■私には死刑を実行する勇気がありません

2010年、宮城県石巻市で殺人事件を起こした、当時18歳の少年の死刑が確定したというニュースを知って、それが頭から離れません。
報道によれば、この事件は、裁判員裁判で少年を死刑とした唯一の事件で、「市民らが少年に対して死刑を選択した判決が初めて確定する」(TBS系テレビでの報道)とされています。
「市民らが少年に対して死刑を選択した」という表現が、私の心を呪縛してしまったのです。

たしかに被告が起こしたことは、許しがたいことです。
最高裁の大谷裁判長は、「少年とはいえ深い犯罪性に根ざした犯行で、責任は重大だ」として、上告を棄却しています。
それには異論がないのですが、しかしだからといって、死刑が正当化されるわけではありません。
こうも言えるのです。
「(死刑とは)国家とはいえ深い犯罪性に根ざした行為で、責任は重大だ」。

これも報道によれば、犯行時に未成年だった被告に死刑判決が確定するのは山口県の光市母子殺害事件以来だそうです。
私が、死刑制度についてきちんと考えだすきっかけになったのが、この事件です。
当初は、被害者の夫による「死刑求刑」に共感さえ持ちました。
もし私が同じ立場だったら、死刑を望むのではないかと思ったからです。
しかし、そのブログを読んだ、見ず知らずの関さんという方からの指摘もあり、軽々に死刑論への共感を口にしてはならないと気づかされました。
どんな理由があっても、人の命を奪うことなどあってはならないとすれば、そもそも死刑制度などあっていいはずはなく、それはただ国民支配のためのものであると気づいたのです。
そのあたりのことは、このブログでも連続シリーズで書いたことがありますが、
私が死刑制度に反対する理由は簡単で、私には死刑執行ができないということなのです。

最近さまざまな世界と触れ合う中で、確信を持ててきたことの一つが、この世には純粋な加害者も被害者もいないということです。
被害者が、加害者以上に加害者性が強いと思うこともありますし、社会そのものが弱い立場の人を犯罪に追い込んでいる事例も少なくありません。
今回死刑が確定した少年も、そこに至る前での経緯はそう簡単ではないでしょう。

裁判員だった方が、「自分の出した結論がいいのか悩み続けて、つらくて」と語っています。
被害者の遺族の方は、「被告人が死というものに向き合うことで、初めて、娘があじわった恐怖や無念さを理解でき、反省や後悔の気持ちを抱くような気がしてなりません」と語っています。
被告は裁判の前に、「どんな判決が出ようとも被害者と遺族のことを考えていきたい。本当に取り返しのつかないことをした。一番謝らなければならない被害者本人には謝ることさえできません。今は空に向かって手を合わせて祈ることだけ」と語ったそうです。
この3つの発言を繰り返し読みましたが、やはりどこか間違っているような気がしてなりません。
何かとても大切なことが、いずれからも抜けているように思うのです。

私は、いつも、当事者の立場に立って、一人称自動詞で考えることを大切にしています。
もし私が、被告であり、遺族であり、裁判員であったら、違った答が出るだろうか。
一晩考えて出てきた答えは、「同じ答だ」でした。

少年を死刑にする社会には、やはり私は居心地の悪さを感じます。

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2016/06/09

■惨めな舛添さんよりも権力に寄生した佐々木弁護士こそ糾弾されるべきではないか

相変わらずテレビでは、舛添都知事がロボットのように同じ言葉を繰り返しながら、頭を下げ続けています。
見ているだけで、悲しくなります。
問い詰めているほうも、その答えなど求めてはいないでしょう。
誰が見ても、舛添さんはリーダーとしてやってはいけないことをやってしまったのです。
そして、いまなおやり続けているのです。
違法行為かどうかなどは、些末な話です。
大切なのは、法の精神に即して、恥ずべき行為をしたかどうかであり、権力は法に守られるとしても、権威とリーダーシップは、信頼に支えられているのです。
すでに舛添さんは都知事の権威を失っていますから、実質的には知事の座にはもはやいないと考えていいでしょう。
そんな人をいつまでもいじめても仕方がない。
むしろ同情してやりたいくらいです。
よほど不幸な人なのでしょう。

むしろ私が腹立たしいのは、「第三者委員会調査」などというものをしゃあしゃあと記者会見までして発表した佐々木弁護士です。
この弁護士が、かつては検察にいたというから驚きです。
検察官とはどんな人たちであるか、またまた露見した感じです。
郷原さんのような元検事の方が、なぜもっとはっきりと糾弾しないのか。
テレビでの発言も聞きましたが、歯切れがよくありません。
本当にがっかりします。

調査もせずに、ただ依頼人の話をまとめただけの発表であれば、私なら1日でできるでしょう。
その報告をまじめに聞いていた記者の人たちにも驚きますが、なんでみんな席を立たなかったのか。
私には、無能としか思えません。
ちょっとだけ突っ込んだ記者がいましたが、佐々木弁護士の答えに唖然としたのか、一瞬の沈黙がありました。
もう少し突っ込んで、みんなで退席したらよかったでしょうに。

それにしても、佐々木さんのような弁護士が日本の司法を担っているのです。
言葉を選ばずに言えば、佐々木さんの調査活動は詐欺としか思えませんが、こういう人に頼むしかない舛添さんには同情したくなります。
舛添さんは大学の優等生だったそうですが、大学の成績が全く無意味なことにも、みんな気づいてほしいです。

こういう人たちが、権力を支えていると思うと、恐ろしくなります。
司法界の人たちは、何とも思わないのでしょうか。
動かなければ、同じ穴のムジナと思われても仕方がないのですが。

しかし、そう思いつつ、気になってテレビを見てしまう自分も、嫌になります。
悲しい時代です。

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2016/06/05

■「それでもボクは会議で闘う」ノ周防さんに感銘を受けました

先日も書きましたが、湯島で、「司法サロン」を始めるつもりです。
日本の司法はあまりにもひどいと思うからです。
原子力ムラと同じような法曹ムラができているのは仕方がないとしても、法曹ムラの人たちは強大な「暴力機構」に巣食っているが故の、恐ろしさがあるからです。
私はこれまで弁護士もその仲間だと思っていました。
ですから、弁護士もあまり信頼できずにいました。
認識を改める契機は、大学の時の同窓生の弁護士に会ってからです。
そして司法のことをもう少し知らなければいけないと思い出しました。

先日、ある裁判に巻き込まれてしまった友人が湯島に来ました。
その話も生々しかったです。
腹立たしいですが、立ち向かうのは至難です。
こんな経験を何回かしていますが、これまでは深入りしたことがありません。

以前、湯島に公安警察が踏み込んできたことがあります。
私が直接の被疑者ではなく、私の友人がある嫌疑をかけられ、その調べに来たのです。
慇懃無礼さの後ろに、居丈高の権力を実感させられました。

75年も生きていると、いろんなことを体験します。
私自身はまだ裁判に巻き込まれたことはありませんが、傍聴に行ったことはあります。
あまりのばかばかしさに、それ以来、傍聴に行く気は起きませんが、それもやはり反省すべきかもしれません。

司法サロンを始めるために、いま何冊かの本を読みだしています。
その1冊が、映画監督の周防正行さんの「それでもボクは会議で闘う」(岩波書店)です。
厚生労働省の村木厚子さんが巻き込まれた「郵便不正事件」での検察の証拠捏造が契機になってつくられた法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」に、法律家でない有識者委員の一人として3年間参加された人です。
そこでの論議を、ていねいに、しかもしっかりした主張を基軸において、紹介してくれています。
それを読むと、やはり日本の司法には失望どころか、絶望さえ感じかねませんが、周防さんの姿勢には感動しました。
周防さんは極めて誠実に書いていますので、専門用語も多く、読むのに疲れますが、私は感動しました。

部会の最後に周防さんが話ことが最後に紹介されています。
長いですが、とても大切根メッセージだと思うので、紹介させてもらいます。

法律の専門家の皆さんと3年間にわたって話し合う機会を得たことで、正直に申し上げれば、刑事司法の内実に少しだけ詳しくなった分、最初の頃感じていた刑事司法の現状に対する素朴な「驚き」、「疑問」、いわば市民感覚のようなものが、自分自身、非常に薄れてきているように感じます。これはどんな世界でもそうかもしれませんが、自分がその新しい世界へ入った時の戸惑い、驚き、違和感といったようなものが、徐々にその世界の常識に染まることで、何の疑問を持つこともなく、当たり前のこととなっていきます。(中略)是非、法律の専門家の皆さんにも心に留めておいていただきたいのは、専門家であるが故に当たり前に思っていることが、決して多くの市民にとっては当たり前のことではない、ということです。専門家に任せておけば良いのだ、ということではなく、多くの市民にも理解できるように言葉を早くしていただきたいと思っています。その責任が専門家にはあると思います。
この周防さんの言葉に、涙が出そうになりました。
決して読みやすい本ではありませんが、多くの人に読んでいただきたいです。

いつか湯島のサロンに周防さんに来てほしいと思いました。
どなたか周防さんの親しい友人の方がいたら、お願いしてもらえないでしょうか。

http://astore.amazon.co.jp/cwsshop00-22/detail/4000237292

Suou

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2016/06/01

■現代書館の「反メディア論」をお勧めします

あっせん利得処罰法違反などの疑いで告発されていた前経済再生担当大臣の甘利さんを、東京地検特捜部は嫌疑不十分で不起訴にしました。
あれだけの証拠があるのに、不起訴になるとは思ってもいませんでした。
司法の世界は、どうもよくわかりません。

現代書館の「反メディア論」を読みました。
映画作家の森達也さんとジャーナリストの青木理さんとの対談です。
大きく取り上げられているのが、刑事司法の問題です。
特に死刑制度に関するところは、多くの人に読んでほしいところです。
拉致問題や沖縄に関するところも、興味深いです。

この本を読んで、やはり私たちは「司法の実体」をあまりにわかっていないことに改めて気づきました。
そこで、湯島で「司法」をテーマにした連続サロンを継続できないかと考えました。
これまでも何回か考えたことはありますが、踏み切れませんでした。
一度、友人の弁護士に頼んで、サロンを開催しましたが、その友人は大阪なので、連続開催は無理でした。
別に司法界の人がいなくてもできる話ですが、単なる雑談会にはしたくありません。
どなたか協力して下さる司法界の方はいないでしょうか。
いないとしても、まずはスタートするつもりです。

それはそれとして、先の「反メディア論」(現代書館)はお勧めです。
もちろん同書は、メディアをテーマにした対談集ですが、とても共感できます。
ちなみに、青木さんとは面識はありませんが、わたしがいま信頼できる3人のジャーナリストのおひとりです。

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2016/04/07

■なぜ裁判員制度は行政訴訟に適用されないのか

川内原発の運転差し止めは、福岡高裁によって棄却されました。
新聞での判決要旨しか読んでいませんが、「合理的」とか「客観的」という言葉が安直に語られているのがとても気になりました。
判決の文章にも不思議さを感じました。

たとえば、「住民らが生命、身体に重大な被害を受ける具体的危険が存在しないと、九電は相当の立証を尽くした」とあるようですが、「立証を尽くす」ってなんなのだろうかという気がします。
「現在の避難計画の下で川内原発を運転することで、住民らの人格権を侵害する恐れがあるとはいえない」ともありますが、すでに住民の人格権が奪われているような気もします。

まあそんな表現をいくらあげつらっても、水掛け論になるでしょう。
しかし、大津地裁の判断とはあまりにも違い、司法の判断とはいったい何なのかを考えたくなります。
単に「ある裁判官」の判断ではないのだろうかという気になります。
そう言えば、以前、ある人から家庭内暴力に関する冤罪の相談を受けたことがあります。
その人は膨大な資料を持ってきて、「○○裁判官に当たってしまうと、すべて男性が加害者になり親権も剥奪されるのです」と説明してくれました。
その真偽のほどは私にはわかりませんでしたが、自らのまわりのささやかな体験を思い出すと、まんざら否定できない気がしました。
司法は「私物化」されているのではないか、とまでは思いたくありませんが、現代は「私物化」の時代ですので、そういう状況が一部にあっても不思議はありません。

私は、裁判員裁判には否定的なのですが、もし裁判員裁判を適用するのであれば、こうした行政訴訟や社会全体に影響を与える「公衆に大きな直接的影響」を及ぼす事件にこそ、適用すべきだと考えます。
そうであれば、「客観的」とか「合理性」とかの基準が、一個人の価値基準から解放されるからです。
客観性とか合理性は、間主観的に成り立つものだからです。

それにしても、福島の原発事故の原因究明ができていないばかりか、その解決さえ十分できていないのに、次々と原発が再稼働されていく状況を見ていると、過ちは数回繰り返さないと気づかないものなのだなと思わざるを得ません。
まあ、私自身もそうですから、それは仕方がないのかもしれません。
しかし、そうした「過ち」を小賢しく利用している人たちを見ると、情けなくなります。
彼らにも、家族がいて、生活があるはずなのですが。
私には、とても不思議です。

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2016/03/01

■認知症徘徊の列車事故訴訟、家族の賠償責任を否定

認知症で徘徊中の男性が列車にはねられ死亡した事故に関して、JR東海が遺族に損害賠償を求めた訴訟の最高裁判決が出ました。
家族への損害賠償は認められないという判決です。
まだ詳しい判決理由は報道されていませんが、素直に考えたら、当然なことだと私は思いますので、ホッとしました。
この裁判は、これからの日本を考えていく上で、とても大きな意味をもっているように思えて、ずっと気になっていましたので、今日の3時はテレビの前で過ごしました。

この裁判は、単に認知症介護の問題だけではなく、社会のあり方を考える上で、とても深い意味をもっています。
この事件を最初知った時、どこか問題の立て方がおかしいような気がしました。
遺族がJR東海に損害賠償を求めたのではないかと最初は思ったのですが、訴訟の流れは逆だったからです。
そこに大きな違和感を持ちました。
もしこれが、自動車事故であればどうだったか。
あるいは柵のない湖沼への転落事故だったらどうだったか、そう考えたのです。
しかし、裁判は、認知症家族の監督義務を問うているのです。
危険なシステムを運営管理している鉄道会社の安全対策義務が問われたのではないのです。
どこかに倒錯した発想を感じます。
いまの社会のおかしさを象徴している事例の一つではないかと思います。

この事件はまた、家族や地域社会のあり方を顕在化しています。
認知症介護に限りませんが、介護問題を家族だけに押し付ける文化は、日本においては、この百年ほどの文化ではないかと思います。
それ以前は、親族や地域社会や仲間たちが、支え合いながら解決する文化があったように思います。
そういう「人のつながり」が、社会だったのです。

高裁の判決は、伴侶に監督義務を求めていました。
義務はあるかもしれませんが、しかしだからと言って、近隣の人たちが言うように、苦労して介護していた伴侶に損害賠償を求めるというのは、人情に反するような気がします。
しかも、報道によれば、かなり誠実に対応していた家族たちです。
伴侶や親に死なれ、さらにそれを責められる家族の心情はどんなものだったでしょうか。
そこへの思いをいたさなければ、人の判断とは言えません。
司法の判断は法によらねばいけませんが、法は条文だけではないのです。

そんな複雑な思いを持っていましたので、この判決を知ってホッとしました。
今日はこれが気になって、出かけられずにいました。
今回の判決は、私にとってはそれほど大きな意味をもっていました。
やっと出かけられます。

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2016/02/20

■司法における非対称構造

先日、大学時代の同窓生の大川真郎弁護士のオフィスを訪問しました。
大川さんは、昨年、「裁判に尊厳を懸ける」という本を出版しましたが、その内容に感動して、湯島のサロンでお話をしてもらったのです。
参加者には事前に読んできてもらいたかったのですが、読んできてくれたのは半分でした。
最近は本を読む人が減りました。
この感動的な本も、なんと2500部しか出版されず、増刷はなかったそうです。
司法界の人口を考えると、信じがたい話です。
もしまだ読んでいない人がいたら、ぜひ購入してください。
もし弁護士に仕事を頼む際には、この書籍を読んでいるかどうかを確認してください。

大川さんは司法改革にも取り組んだ人です。
大川さんたちの努力にもかかわらず、日本の司法は独立性を失い、劣化しているような気がしています。
さらに私自身は、司法の持つ意味を真剣に考えている人が少ないような気もしています。
大川さんの本を読ませてもらったり、大川さんのお話を聞いたりしているうちに、私自身も含めて、それに気づきました。
そんなこともあって、大阪の大川さんを訪問させてもったのです。

いろいろと示唆に富む話を聞けたのですが、それはそれとして、ハッと気づいたことがあります。
それは、裁判制度を構成している、検事と弁護士の立場の非対称性です。
検事は組織に属していますので、収入は保証されています。
それに対して、弁護士(組織の属している弁護士は別として)は基本的には個人事業ですから、自分で仕事を創りだし働かなければ収入は得られません。
裁判で敗訴すれば、報酬も得られないわけです。
つまり、組織人と個人という、まったく違った立場なのです。
このことのおかしさに、私は気づかずにいました。
もうみんな知っていることかもしれませんが、その意味がきちんと考えられているとは思えません。
言うまでもなく、裁判官もまた国家に所属していますので、収入は保証され、生活も保障されています。
裁判の両輪とも言うべき、弁護士と検事が、こうした非対称の立場に置かれていることは、裁判にどう影響するでしょうか。
アメリカが訴訟社会になった理由も、そこにあるのかもしれません。
まさに「近代産業のジレンマ」の典型的な事例です。

いうまでもありませんが、その所属の故に、検事や裁判官は、国家統治の視点で考えますが、弁護士は依頼人の視点で考えます。
ここでも非対称は発生していますが、それはむしろ当然のことです。
しかし、本人の生活保障という面での非対称は、やはり仕組みとしておかしいように思います。
ではどうしたらいいか。
答はそう簡単ではないかもしれませんが、私たち一人ひとりの生活者が、弁護士という職業の意味をしっかりと理解しすることが、まずは大事です。
また大川さんに頼んで、湯島でサロンをしてもらいたくなりました。

みなさん
もしまだお読みでないとしたら、大川さんの「裁判に尊厳を懸ける」を読んでもらえれば、とてもうれしいです。
さらに感想を送ってくださった方には、いつでも珈琲をご馳走します。
私のホームページでは、大川さんの書籍も何冊か紹介しています。
今度のホームページ更新の際に、大川さんコーナーを創ることにしました。
すべて感動的な書籍です。
大川さんの人柄が伝わってきます。

http://homepage2.nifty.com/CWS/books.htm#150719
Ookawa_3


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