カテゴリー「司法時評」の記事

2026/02/04

■司法の役割

司法には2つの役割があります。
「犯罪」を裁くことと「犯罪」を予防することです。
「犯罪」とは何かという問題がありますが、今回それは棚に上げておきます。

安倍元首相銃撃事件の奈良地裁の判決に対して、山上被告は控訴を決めました。
当該判決に関する前回の投稿はいささか過剰な反応を起こしてしまいました。
今回はそうならないことを祈ります。

私が問題提起したいのは、司法のあり方の問題です。
日本の司法は、砂川事件の統治行為論以降、政治の下部組織になってしまっていることを指摘したかったのですが、余計なことを書いたために伝わりませんでした。

司法の役割ですが、生活上、何か問題があれば司法に訴えれば解決してくれるという一面があります。それがうまく機能すれば、私刑を含め犯罪は予防されるはずです。
山上さんは統一教会との関係で、司法(広義)に相談したにもかかわらず、解決してもらえませんでした。そのため、彼は「被害者」として追い詰められたのです。犯罪を予防するはずの司法が機能しなかったといってもいいでしょう。

そこで山上さんは、仕方なく、司法制度以前の自分で解決するという方策に向かいました。制度が被害者の自分を助けてくれないのであれば、自力救済しかないと考えたのでしょう。しかし、いまの社会ではそれは「犯罪」です。そして「犯罪」が行われ、彼は「加害者」になってしまった。

犯罪は裁かなければいけません。そこでもう一度、司法の出番が来ます。
ここで注意すべきは、裁くのは「犯罪」であって、「犯罪者」ではないということです。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は最近では死語かもしれませんが、「犯罪」と「犯罪者」は違います。
「犯罪」を裁くには、事実を明らかにしなければいけません。
つまり司法が「犯罪」を裁くとは、事実を明らかにしていくことです。被告を呼び捨てにして、人権をはく奪することではありません。疑問があれば、その疑問を解かなければいけません。疑問を隠したり、都合のいい事実を作り上げることではありません。
私が思うには、奈良地裁の裁判では、そこが十分になっていない気がします。

しかし、ここからがややこしい。
裁かれるのは「犯罪」であるとしても、その罰を背負うのは「犯罪者」だからです。
加害者と被害者は、実はコインの裏表です。どこに視座を置くかで違ってくる。
そこで情緒的な同情論などが入り込んでくると、事実は見えにくくなってしまいます。
「情状酌量」は同情論などであってはいけない。裁くのは「犯罪」でなければいけない。
同情は事実を見えなくしてしまいます。

さらに「犯罪」は、どこまでを視野に入れるかで、全く違ったものになる。
その「犯罪」が起こした結果も配慮すべきではないかと思います。「犯罪」が人を救うこともある。そもそも「犯罪」とは、法律に反する行為です。マイナスばかりではありません。そこがややこしい。

いずれにしろ、「政治性」をどれだけ排除して、事実を事実として把握しようとするか。
今回の事件ですが、刑事事件である以上、控訴しても、事実がそう広げられて開示されるわけではありません。
しかし、その気になれば、この判決のその後の動きから、いろいろな気づきをもらえると思います。
私も関心を失わずに、その後の動きをフォローしていきたいと思います。

 

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2026/01/22

■山上被告無期懲役判決には、いささかの恐怖を感じます

安倍元首相を銃撃した事件の被告、山上徹也さんの奈良地裁判決が出ました。検察の求刑通りの「無期懲役」でした。
私が感じたのは、権力に立ち向かうものに対する見せつけのような気がして、恐ろしさを感じました。まあ過剰反応かもしれませんが。

それにしても「事件の真相」がもっとしっかりと説明されてもいい気がします。
「陰謀説」も含めて、事件の真相に関するさまざまな情報が流れています。それらがきちんと精査されていないように思います。マスコミでは問題にさえされていません。
しかし、ほんとうに山上さんが「殺害者」だったのかさえ、信じていない人が私の周りにはたくさんいます。
そもそも今なお事件は「首相銃撃事件」とされ、「殺人事件」とは明記されていません。

私は執行猶予がついてもいいとさえ思っていますが、仮にそうなってしまうと、山上さんを暗殺する人が出そうな気もします。最近の日本は、ヘイトが公然と認められてしまう社会になってしまっていますから。だから「無期懲役」にしたのかもしれないとも思いますが、これはいささかの深読みすぎでしょう。

山上さんは確かに法に反する行動をしました。
しかし、では安倍さんは法に反する行為はなかったのか。
首相の犯罪は、犯罪にならないのか。

山上さんの思い切った行動が、世間の流れを変えて、統一教会関係者(被害者を含めて)への社会の眼が変わったことはどう評価するのか。
彼によって救われて人がたくさんいることも事実です。裁判員裁判になっていたので、そうしたことがもう少しきちんと議論されるかと思っていましたが、相変わらず国家視点での判決だったことに、私は恐ろしさを感じています。

ともかくすっきりしない判決ですので、私も意思表示しておきたくなりました。

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2024/10/09

■袴田さんの無罪確定と「仕事」の評価基準

袴田さんの無罪が確定しました。

検察が控訴をしないことを発表した検事総長の談話には違和感があります。
相変わらず「控訴すべき内容だ」と言い、ただ「袴田さんの法的地位が不安定な状況が継続することは相当でない」から控訴しないというのは、どう考えても納得できません。
謝罪の言葉があったので、検事総長も人間だったとは思えたのですが。

しかし問題は袴田事件だけではないでしょう。
冤罪が起こる原因を無くしていかなければいけません。
冤罪だったということは、本当の加害者を見逃しているということです。
私はそのことに一番の危惧を感じます。

これに関して書きだすと切りがないのでやめますが、冤罪が発生するということは、捜査の進め方に問題があるということを意味します。冤罪がこれほど生まれてくるということは、真実を追求するスタイルができていないということです。どこかに大きな穴が開いているわけです。そこに焦点を当ててこそ、袴田さんの事件は活かされるはずです。
でも検事総長の談話には、そういう意識はまったく感じられません。

実に残念です。

朝日新聞は東京本社編集長の名前で、当時の報道に関するお詫びを1面で大きく書いています。これもちょっと安堵したひとつです。
しかし、マスコミが冤罪づくりにどれほど大きな役割を果たしてきているか。
できれば謝罪だけではなく、冤罪防止に向けての報道の役割をぜひとも考えていただきたいと思います。
検事の力も大きいですが、マスコミの力はもっと大きい。
そうした力を冤罪防止に止まらずに、真犯人探しに活かしていく方策をぜひとも考えてほしいと思います。
その気になれば、おそらく大きな力になると思いますので。

マスコミに対しても検察に対しても、私は「仕事」の評価基準に違和感を持っているのです。
そしてそれは、その両者だけではなく、いまの社会のほとんどの組織に対して感じていることです。

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2024/04/13

■緊急サロン「最近の裁判っておかしくないですか 水俣病認定熊本地裁判決を題材に」報告

急に呼びかけたにもかかわらず、10人の人が参加してくれました。
最近の裁判判決におかしさを感じている人は少なくないことを知りました。

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案内に、「判決を定期的に読んでいくサロン」と書いたため、実際に判決文を読むと思って参加してくれた人もいますが、問題提起者の吉本さんは、判決文など全く読まずに、水俣がどこに位置し、どんな場所だったのかを身体感覚的に話してくれました。

吉本さんは、子どもの頃から水俣の近くで生まれ育ち、水俣のことをよくご存じなのです。
吉本さんが、水俣病事件を他人事と捉えていないことが伝わってきました。自分事として捉えられるかどうかが、判決を読む際には重要になってきます。

しかし、なぜあれほどの事件が、周辺への広がりを見せずに、むしろ小さな地域の特別な事件に閉じ込められたのか。問題が発覚してもなお、なぜ水銀を排出していたチッソは操業を止めなかったのか。いまもなお、なぜ誰の目からも水俣病症状に襲われているとわかる人に、私たちの政府、つまり私たちは謝罪の言葉さえかけられないのか。
それは私たちの生き方にも深くつながっているように思います。今回の判決は、まさにそうした私たちの生き方を問い質すような判決にも感じます。

水俣のことを体験的に知っている吉本さんが、この判決に大きな違和感をもったのはよくわかります。おそらく原告にとってはお金の問題ではないのです。吉本さんも指摘しましたが、そもそも賠償金額は原告たちが受けた被害に釣り合うような金額ではありません。それに、賠償金全体を考えても、裁判にかかる国家の手続き費用(最高裁までの上告全体を考えてですが)で対応できる程度のものではないかと思います。

ですから問題は、まさに政治の話です。あるいは、国民に対する政府の姿勢が象徴されているとも言えます。それは「裁判とは何か」という問題にもつながっています。

三権分立と言いながら、日本における司法権は政治や経済に大きく影響されています。そもそも、日本では最高裁判事は行政府の長によって指名される建て付けになっているのです。そのため、これまでの多くの判決を見ても、政府への「忖度」がしばしば問題になっていますが、生活者感覚からのずれも大きいように思います。少なくとも自分がもし原告の立場にあったとしたら、とても納得できる判決ではないものは少なくない。

ちなみに、今回の裁判と同じ、水俣病被害者の救済措置の適用に関わる訴訟は、現在、全国4地域で起こされていますが、今回の熊本地裁の判決は昨年の大坂地裁の判決とは大きく違ったものでした。その結果、たとえば、同じ家で育った姉妹が、しかも同じような症状で苦しんできているにもかかわらず、たまたま訴訟時に住んでいるところの関係で大阪と熊本と別々の裁判の原告になった結果、一方は賠償対象になり一方は拒否されるというように、裁判長によって違った判決が出ているのです。
同じ法律による裁きなのに、判決は属人的なのです。そこに、「法治国家」の本質が示唆されています。法治国家もまた現実は「人治」なのです。

吉本さんは、今回の判決を出した品川裁判長のこれまでの裁判の判決もさっとレビューしたそうですが、特に違和感はなく、いずれも納得できるものだったと言います。でも今回の判決は、生活者感覚から、特に水俣のことを知っている立場からすれば、理解しがたい判決だと言うのです。
なぜそのようなことが起こるのか、話し合いではいろんな意見が出ました。

政治的な働きかけや「忖度」もあったのではないかという意見さえありました。
地裁から高裁、そして最高裁という三審制に対して、それぞれが役割分担しているのではないかという辛辣な意見もありました。あるいは国民視点ではなく、検察や裁判制度のメンツというか無謬性がまだ最優先されているのではないかという意見もありました。
そこまでではないにして、裁判官や検察官が「正義の味方」という感覚を持っている人はいまはもうあまりいないようです。しかし、それでいいのでしょうか。

多くの人は、裁判とは無縁の生活をしています。しかし、主権者である私たち国民が、政府に統治権を委ねているのは、問題が起きても司法が守ってくれるという信頼感があればこそです。しかし、どうも最近は裁判への信頼感が揺らいでいる。

袴田事件や大川原化工機冤罪事件の裁判に関わる司法の動きに違和感を持っている人は少なくないでしょう。しかし、そうした事件は、自分とは別の世界のことと思いがちです。しかし、決して私たちとは無縁のものではなく、いつ誰に起こってもおかしくないのです。
私たちはそうした意識をもっと持つべきではないのか。
裁判に巻き込まれてからではもう動きようがないのです。
私たちが、万一事件に巻き込まれたときに、安心して裁判に身を任せられるように、裁判に対する関心をもっと高めていく必要がある。

少なくとも、私たちの生活につながっているような事件の判決に関しては、日ごろから関心を持っておくことが大切です。
そこでまずは、マスコミで話題になるような判決については、読み過ごすのではなく、しっかりとみんなで話し合う仕組みができないかと思います。少なくとも、そういう判決が、誰にも簡単に読める仕組みが必要かもしれません。

一挙にはいきませんが、そんな判決をテーマにしたサロンを定期的に開催していきたいと思います。みなさんの中で、気になる判決があれば、このメーリングリストで呼びかけて、話し合うサロンを開催していきたいので、気楽に声をかけてください。私からも呼びかけていこうと思います。
一緒にこうした活動をやってもいいと言う人がいたらご連絡ください。
よろしくお願いします。

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2023/10/28

■「本当に裁かれるべきは、冤罪を生み出した我が国の司法制度」

袴田事件再審の初公判が昨日行われました。
事件発生後60年近くが経過し、しかも冤罪の可能性が極めて高い裁判です。

 昨日の公判での弁護団事務局長の小川秀世弁護士の冒頭陳述に心底共感します。

 「被告人は袴田さんですが、本当に裁かれるべきは、警察であり、検察であり、弁護人及び裁判官であり、ひいては冤罪を生み出した我が国の司法制度です」

警察や検察はどこを向いて仕事をしているのかに関しては、いささかの違和感をずっと持っています。
視座が基本的に間違っているようにしか思えません。

冤罪を生み出すのは警察や検察やマスコミの仕事であってほしくはありません。
袴田事件が「冤罪」かどうかは私自身は確証を持てませんが、そもそも冤罪が発生するという仕組みには、どこか欠点があるはずです。
警察や検察やマスコミが目指すべきは、犯人探しではなく、事実の解明であってほしいです。
ましてや、誰かのための「事実の構築」であってはならないでしょう。
でもそういうような方向に、何か動いているような気がしてなりません。

 「本当に裁かれるべきは、警察であり、検察であり、弁護人及び裁判官であり、ひいては冤罪を生み出した我が国の司法制度」という小川さんの言葉に、検察やマスコミはしっかりと耳を傾けてほしいと思います。

 

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2023/09/05

■裁判もまた事件

辺野古埋め立てを巡る訴訟で、最高裁は県の訴えを棄却しました。司法が繰り返し行っている、難しい判断からは逃げるといった姿勢をまた感じてしまいます。なぜこれほどに、国家の力は強いのか。もっと現地と、つまり現実としっかり話し合い、問題を可視化していく姿勢を司法は持たないのか。

今朝の朝日新聞の沖縄県知事の写真の表情に、とても共感しました。
5人の裁判官も、この写真をしっかりとみてほしい。
私たちも、いまの沖縄にもっと関心を持たなければいけないと改めて感じます。
ウクライナよりも、沖縄であり、フクシマだろうにといつも思います。

統治行為論で一度、逃げて以来、日本の司法は統治者の道具に成り下がってしまったのでしょうか。
冤罪を疑われる事件に対しての、執拗な司法のこだわりは異常としか思えない。
司法への不信感は、テレビのドラマにも盛んに取り上げられます。

最近見たドラマ「事件」の最後で、主人公が「裁判もまた事件なのです」と語っていましたが、全くそうです。
そう考えると、裁判官がみんな加害者に見えてくる。

困ったものです。

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2023/03/14

■ホジャの話を思い出します

袴田さんの再審決定の判決が出ました。無罪、つまり冤罪の可能性が大きくなりました。
それにしてもなんでこんなに時間がかかるのか。当事者にとってはにやりきれないことでしょう。
しかし、それは決して他人事ではありません。私にもそうした冤罪が襲ってくるかもしれないことに気づくと、恐ろしくなります。

冤罪が発覚した時にいつも考えるのは、真の加害者のことです。
あるいは怒りを別の人に向けていた被害者関係者のことです。
そうした人たちのことを、警察や検査の関係者どう考えているのか。

冤罪が引き起こす影響は、冤罪被害者関係者だけではないのです。
治安の仕組みや安全や信頼への劣化こそが一番大きな問題です。
言い換えれば警察や検察、あるいは司法の責任こそが問われるべきです。
冤罪のでっち上げにエネルギーを向けずに、真実の究明にこそ、私たちの税金を向けてほしいものです。

冤罪の話に触れる度に、私はトルコ寓話のホジャの話を思い出します。

ある日、ホジャは地下室で指輪を落としてしまいました。
探したけれど見つかりません。
そこで今度は庭に出て探し始めました。
近所の人が見て「ホジャ、どうしたんだい?」と聞くと、
「地下室で指輪を落としたんだよ」。
「地下室で落としたのに、どうしてそんなところを探しまわるのさ?」
「あそこは暗くてよく見えないからね…」。

探し物は、光の当たっている探しやすい場所で探す。
これはもしかしたら、近代社会の精神かもしれません。
しかし、そうしているうちに、どんどん探し物から遠のいてしまい、結局は「探し物」を創らなければいけなくなってしまう。

これは、別に殺人などの刑事事件に限った話ではありません。
さまざまな分野で似たような「虚構づくり」が取り組まれている。
そしてそれに私たちの大事な税金が使われているとしたら、私たちもまた、そうした動きに加担していることになりかねません。

冤罪に出合うたびに、私にも罪の意識が高まります。
国家に所属することの罪深さを感じないわけにはいきません。
贖罪のためにできることを探さなければいけません。
たとえ、それが暗闇の中にあろうとも。

袴田さんご家族には、心から深謝し、感謝しています。

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2023/02/28

■日本の司法への不信感

今日は2つの、なんともやりきれない報道が新聞に載っていました。

一つは、日野町事件で無期懲役刑を受けて服役中に死亡した阪原さんの冤罪がほぼ明確になったという報道、もう一つは聴覚障害の女児死亡事故の損害賠償訴訟で、その遺族の逸失利益は労働者平均の85%と判定された判決の報道です。

前者のような報道が出るたびに、日本の司法の闇を感じます。
せめて死刑と無期懲役刑に関してはすべてを改めて再評価する動きがあっていいと思いますが、被告側の再審請求が出なければ、最新の動きはでないのでしょうか。
日本の司法界には、すでに自浄能力は失われてしまっているようで、暗澹たる気持ちになります。

後者に関しては、そもそも損害賠償基準が、その人の金銭を稼ぐだろう能力によって判定されること自体に違和感がありますが、そこでさえも「差別」がなんの疑問もなく行われていることに、これもまた日本の司法の本質を垣間見る気がします。
遺族にとっては、やりきれない話だろうと思いますが、私でさえ、やりきれない気分でいっぱいです。

 今日は、まったく元気が出ない一日です。

 

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2022/11/11

■国家が人間をどう捉えているかを象徴するのが「死刑制度」

葉梨法相の「(法務大臣は)死刑のはんこを押す、昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職」発言が問題になっています。
この発言の意味が岸田さんはじめ閣僚には全くわかっていないようなのが恐ろしいです。

法治国家の法は国民を統治していくための基準です。
国家(政府)が人間をどう捉えているかが象徴されているのが「死刑制度」です。いわゆる先進法治国家で死刑制度を法に取り込んでいる国はわずかしかありませんが、日本は制度のみならず執行も行われている稀有の国です。

要するに、日本の法体系は、個々の人間の生命よりも国家の秩序を優先しているわけです。こういう思想の元では、戦争において兵士の生命は国家制度よりも優先されます。
しかも、こうした思想は、政府だけではなく、日本国民の多くが共有している思想かもしれません。

葉梨法相の発言を咎めない岸田首相は論外として、そんな人が参加している政府の閣僚に留まることを恥じる閣僚がだれも出てこないことに恐ろしさを感じます。
発言にはその人の思想が象徴されます。ですから、発言を咎めるのは単なる「言葉狩り」ではないのです。葉梨さんは即刻議員をやめるべきだと私は思います。こういう人が国民を戦争に向かわせるのですから。

私の突然の入院で遅れていましたが、死刑制度に関するサロンを今月下旬に行う予定です。ぜひ多くの人に参加していただき、死刑制度について話し合ってみたいと思っています。葉梨さんにも参加してほしいものです。

 

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2022/07/27

■ウクライナ戦争を止めたかったら、まずは日本の死刑制度を廃止すべきではないか

2008年に起こった秋葉原での無差別殺人事件の8人目の死者が出ました。
加害者だった加藤さんが死刑執行されたのです。
死刑執行の報道に触れる度に、気が萎えてしまいます。
死刑制度がいまなお日本で認められていることが残念です。

また非難のメールをいただくでしょうが、死刑執行による加藤さんの死と安倍元首相の死との違いがどうも私にはうまく消化できないのです。
それで急に誰かと話したくなり、昨日は29日のサロンを呼びかけてしまった次第ですが、今日、朝日新聞で中島岳志さんの話を読んで、少し救われました。私だけではなかったようです。

朝日新聞に紹介されていた、当時の被害者の湯浅さんの言葉にも感動しました。

「加藤死刑囚は長男と同世代でもあり、恨む感情は起きなかった。どんな人物なのか、同機は何なのかを知りたいと思った」。

湯浅さんの知性に敬意を表します。

どうして死刑を執行してしまったのでしょうか。
なぜ国家は、国民を殺すことができるのでしょうか。
戦争ができるようにしておくためでしょうか。

私には、ウクライナの戦争を止めるよりも、日本での死刑制度を廃止するほうが大切なような気がしてなりません。

 

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