カテゴリー「司法時評」の記事

2009/11/30

■葛飾政党ビラ配布事件判決と「表現の自由」問題

政党のビラを配るためにマンションに立ち入ることは住居侵入罪にあたるかどうかで、最高裁に上告されていた「葛飾政党ビラ配布事件」の最高裁判決は、有罪になりました。
最高裁は弁論を開かずに判決言い渡しを決めていたのですが、やはり思ったとおりの判決でした。司法の流れはいまだ変わっていません。
飼い主が変わったことに気づかないのか、それとも変わっていないのか、わかりませんが、どう考えてもおかしな判決です。
少し前までは一向にお咎めがない行為が、ある時から犯罪として摘発されて有罪になるのは、司法の主体性が確立されていないことの証左ですが、最近は裁判官もまた正義ではなく金と権力にまみれていることの結果でもあります。
裁判官は正義の人と思っている人は少なくないでしょうが、正義をまとっている人ほど悪人はいないのです。
もちろんな正義に取り組む裁判官は決して少なくありませんが、この判決は、私が法学部で学んだ法理論からしてもおかしいです。
そもそも昨今の専門家は勉強をしていませんから(つまり資格で仕事をしていますから)、仕方がありません。

しかし問題はもっと深いような気がします。
こうした訴訟で取り上げられるのは、いつも、共産党なのです。
相変わらず日本では「共産党」は非合法の政党なのでしょうか。
ビラ配布事件で、自民党が起訴されたことはあるのでしょうか。
いまでも「共産党」に恐怖感をもっている同世代人は決して少なくありません。
みんなまじめな勉強家だったのです。
みなさんはどうですか。

今日、わが家に来客がありました。
その人は自民党支持派で、今の政権に大きな反発を持っています。
政治の話になるといつも大喧嘩になりますので、最近はお互いに政治の話はしないようにしていますが、その人の評価は、このブログで書いている私の意見とは完全に反対なのです。
まあ東大の総長やノーベル賞受賞者の意見に共感していますし、鳩山首相は資金問題に責任をとって自認すべきだと思っているようです。

この時評にも見ず知らずの人から私の考えを批判するコメントをもらいましたが、まあその人が言うように、みんな「色眼鏡」をかけてみているのでしょう。
みんな「精神病院」に行くのがいいかもしれませんが、まあ社会全体が最近は精神病棟のようなものですから、行かなくても大丈夫でしょう。

あれ、話題が変わりましたね。
やはり精神病なのかもしれませんね。
困ったものです。

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2009/10/03

■政権交代と検察の動き

政権交代で私が一番関心を持っているのは、検察の動きです。
西松事件は誰が何と言おうと「政治性」を背景にした政権による捜査だと思いますし、検察や警察が権力のために動いていることは明らかです。
新聞に載っている事件だけでも、整理分析したら、そんなことはすぐに実証されるでしょう。
権力に楯突けば、どんな小さな事件でもいくらでも膨らませられますし、冤罪をつくることなどそう難しい話ではありません。
コラテラル・ダメッジは、社会の秩序を維持するためにはなくすことなどできません。
フーコーは法は戦争と言っているようですが、法と暴力は同根であり、法によってひどい目にあうことは当然あるわけです。
秩序とは誰かの犠牲の上にしか成り立たないのですから。

以前も書きましたが、違法行為は必要に応じて黙認されますし、合法的ではない暴力もまた黙認されることはよくあります。
近代法の本質は、その解釈の多義性にあります。
カフカが示唆したように、ある日、突然、わが家に警察がやってきて、私を犯罪者にすることは簡単なことであり、実は私たちはそうした危険性と隣り合わせに暮らしているのです。
それが法治国家です。
足利事件の菅谷さんのようなことは、いつだれに起こってもおかしくないのです。

処罰の対象となる違法行為や非行性は、時代によって、状況によって変わっていきます。
違憲行為ですら、時の権力者が行えば許容されます。
行政に寄生している日本の司法は、違憲判決を出しても、その行為を正すことさえできません。
つまり正式の裁判によって「違憲」とされた犯罪行為も黙認されるのも、法治国家の特徴です。

法治国家において権力の核にあるのは「正義」ではありません。
フーコーは「非行者は法の外にいるのではなく、法の中心そのものに位置している」とさえ言っていますが、その非行者と検察や警察はつながっています。
念のためにいえば、だからダメだというつもりはありません。
その自覚や理解がないことが問題なのだす。
アメリカのサスペンス映画では、まさにそうした構造がテーマになっているものが少なくありませんが、権力を監視する目が社会の中にどれだけあるかがとても重要です。

鳩山首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」をめぐる虚偽献金問題で、東京地検特捜部が動き出しました。
どう展開するのか興味がありますが、西松事件も含めて、検察のあり方に政治がメスを入れていってほしいと思います。
験され正されるのは、検察自身ではないかと思っています。

八ッ場ダムの建設中止も、補正予算ストップも大事ですが、検察の本性を暴きだすこともとても大事だと思います。
抗っている非行者たちをなだめるために、検察を正さなければいけません。
マスコミにはあまり出てきませんが、権力に翻弄されているおかしな事件は山のようにあります。
政権交代によって、そうした事件がもっと見えるようになってほしいと思っています。

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2009/09/22

■裁判員制度が好評ですって?

今日は「私憤」をこめて。

19日に朝日ニュースターのテレビ番組での体験なのですが、キャスターのばばさんが「裁判員制度も始まるまでは反対者が多かったのに、始まったら好評ですね、日本人の習性ですね」という話をして、裁判員制度を推進してきた小林元弁護士に話をふりました。
小林さんも、始まる前は半分以上が反対でしたと答えました。
裁判員制度に大反対の私は心中穏やかならずにムッとしていましたが、その話の後、突然にばばさんは私に別の話題で話を向けてきました。
正直、とても不愉快な気分でした。
もちろん、ばばさんも小林さんも私が裁判員制度反対なのを知っているはずです。
裁判員制度が始まる前に、この番組でも私は批判したことがありますし。

まあそれだけの話なので、こんなところに書くつもりはなかったのですが、昨日、八ッ場ダム問題を例にして報道の偏りについて書きましたので、もう一つの例として、裁判員制度を書くことにします。
まあ、いささか「うっぷんばらし」でもあるのですが。

最近の新聞は、裁判員制度を既成事実として肯定し、その普及啓発活動に移っていますが、マスコミの報道しないところでは、「裁判員制度はいらない!大運動」も起こっています。
http://no-saiban-in.org/
各地での抗議運動も始まっていますが、あまりマスコミでは取り上げられないでしょう。
民主党政権になって変化があるかもしれませんが、いまの段階では話題にはされていません。
それにどうも千葉景子法相はいまの裁判員制度に(私が知る限り)反対ではないようです。

マスコミの報道だけで思考しているとばばさんや小林さんのような発想になるのでしょう。
見たいものしか見えなくなるというわけです。
お上に飼いならされることだけは注意しないとまた80年前の繰り返しになりかねません。

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2009/08/23

■改めて「ニュールンベルク裁判」を観ました

昨日、映画「ニュールンベルク裁判」に言及しましたが、書いたことが気になって確認のために映画を観てしまいました。
3時間の大作ですので、途中でやめたかったのですが、記憶していた以上に現代の日本につながっているようで。結局、最期まで観てしまいました。

この映画を観たのは私が大学生の頃ですが、当時、私は検事を目指していました。
当時私が理想としていた検事像が描かれており、当時を思い出してしまいました。

それはともかく、この映画の中で語られる一言一言がとても示唆に富んでいます。
今の日本がナチスが勢いを持ち出した当時のドイツと同じだとはいいませんが、どこかつながるところを感じますし、司法の本質も感じます。
50年ほど前の映画ですが、機会があったらぜひ観てください。
このブログでもまた取り上げていきたいと考えています。

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2009/08/22

■最高裁判事の国民審査に先立って

先日、NHKのBS放送で「ニュールンベルク裁判」が放映されました。
その関係で、「ヤニング」などという検索ワードで、このブログへのアクセスが増えていました。
この映画は大きなメッセージを出している映画で、多くの人に観てほしいですが、こうした映画が少なくなったように思います。

この映画で、検事と弁護士がやりあう場面で、「裁判官は国家を守るべきか、国民を守るべきか」という議論が出てきます。
国家を守るのも国民を守るのも同じではないかと思う人もいるでしょうが、これは全く正反対の発想です。
ちなみに、このブログの時評編の根底にある考えは、まさにその違いから出ています。
組織起点で発想するか、個人起点で発すするかの違いですが、いま、その社会の構成原理がパラダイム転換しようとしていると考えているのが私です。

8月30日の衆議院選挙に合わせて、最高裁判事の国民審査が行われます。
おそらくほとんどの人は、これに関してはあまりしっかりと考えていないでしょう。
しかし、ある意味では、国民生活から考えれば、こちらの方にこそ大きな意味があるともいえます。
映画「ニュールンベルク裁判」は、そのことも示唆しています。

審査の対象になる判事の言動は、ほとんどの人は知らないでしょう。
私自身もほとんど知りません。
しかし幸いにそれぞれの判事のこれまでの判決姿勢や発言などを簡単に整理してくれているサイトがあります。
Matimulog―北の国から見る法・裁判・民事、そしてサイバー法というサイトに、「vote:最高裁判事の国民審査下調べ」という記事が出ています。
ぜひお読みください。

今朝の朝日新聞に、今年1月に最高裁判事を辞めた泉徳治さんのインタビュー記事が大きく出ています。
そこで泉さんはこう発言しています。

「日本に『和をもって貴しとなす』という言葉があるように、裁判官の間では伝統的に、自分の個性を出さないで判断するのがよいと考えられてきました。これまでの判例の枠の中で答えを出すことが、法的な安定性、公平性につながるという考えが根強いのです」
ここにまさに、日本の司法の根本理念が感じられます。
その記事でも触れられていますが、裁判官出身の最高裁判事(比率的には一番多い)は、違憲判断することが少ないと指摘されていますが、それは憲法解釈の視座を国家(政府)においているからです。
つまり「勝てば官軍」の精神があるのです。
その精神が法治原則の対極にある考えであることはいうまでもありません。

8月30日の選挙では、国民審査も重視してほしいと思います。
なかには、いつも全員×にしているという人もいますが、それでは全員○と同じ効果しか持ちません。
審査には、それなりの汗をかかなくてはいけません。

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2009/08/07

■パソコンはただの部品の組み合わせた箱

ノートパソコンのキーボードが一部、動かなくなってしまいました。
キーボードを外して掃除したら直るかもしれないと、パソコン通の坂谷さんが教えてくれました。
坂谷さんは、先月、私のパソコントラブルを解決してくれた恩人です。

坂谷さんに教えてもらって、パソコンのキーボードを取り外してみましたが、今回は残念ながら直りませんでした。
しかし、どうも病み付きになってしまい、今日も2台のノートパソコンのキーボードを外してみました。
パソコンを分解するのは気分がいいものです。
いま使っているメインのパソコンも一度分解してみましたが、万能に思えるパソコンも分解してみれば、何のことはないただの箱でしかありません。
それがわかるだけで、パソコン信仰はなくなります。
これから時々、意味もなく、パソコンを分解したくなりそうです・

パソコンはモジュール化していますから、その構造を知ってしまえば、組み立てや改造もできるのでしょう。
誘惑的な魅力を感じます。
もちろん今の私にはそれは無理ですが、そうやっている人の気持ちが少しわかったような気がします。
そうした魅力に勝てずに、以前はいろんなものを壊してきましたが、パソコンは極めてシンプルな構造なので壊しようがないかもしれません。

まあどうでもいい話なのでが、実はこういう行為にとても大きな意味があるような気がしています。

私たちはいろいろな制度や専門家に関わりながら生活を成り立たせていますが、そうした制度や専門家も要するに中身を知ったらたいしたことはないということを言いたかったのです。
そもそも大昔は、そんな制度もなく、専門家もいませんでした。
百姓的な生活に憧れる私としては、自分でできることは自分でしたいと思っているのです。
それが、昔からのわが家の文化でもありました。
必要なことを市場から調達せずに、自分たちで対応すれば、前にも書いたように経済成長にはつながりません。
ですから、私の生き方は、極端に言えば、反経済成長路線の生き方なのです。

制度もそうです。
制度は、それに関わる人が気持ちよく生きるための仕組みですから、制度に合わせなければいけないなどと発想する必要はありません。
制度をつくる人は、難しい制度をつくりたがりますが、その制度も分解してみたら、わずかなルールで成り立っているのです。
有名なボイドの話を思い出します。
しかし、私たちは多くの場合、複雑さを装う目くらましの制度にがんじがらめにされているような錯覚に陥りがちです。

今回の裁判員裁判は、裁判官も検事も弁護士も、所詮は普通のおじさん、おばさんなのだということを見せてくれた効用はあったのかもしれません。
普通以下ではないかと気づいた人も少なくないでしょうから、その弊害もまた大きいのですが。

時にパソコンを分解するのは、そうした錯覚的人生の呪縛から解き放たれる効果があるように思います。

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2009/08/06

■完全にショー化している裁判員裁判

裁判員裁判は、やはり気になります。
これほど「ひどい制度」がさも新しい価値を持っているように報道されていることに恐ろしさを感じます。
裁判が、完全に「ショー」になっています。
裁判員が記者会見をやるなどと言うのは、正気の沙汰ではありません。
それに法曹界関係者のコメントにはあきれてものが言えません。
こういう人たちに、私たちは自らの生命と生活を預けていたのかと愕然とします。

今日、お会いしたアジア女性資料センターの関係者から、「裁判員制度における性犯罪被害者の安全とプライバシーを守るキャンペーン」の活動の話を少しお聞きしました。
すでに気になっていることが実際に起こっているようです。
こうした問題提起をマスコミはきちんと理解しているのでしょうか。

私の友人の弁護士は、裁判員制度は4.5年もすればなくなるよ、と言っていましたが、もしそうであっても、その4,5年のうちに、日本の裁判制度はぼろぼろになりかねません。

ストーカー不安を訴えても警察は誠実に対応してくれない状況はいまなお続いているように思いますが、この国の治安はいささか危うくなっています。

政治がおかしくなっているのではありません。
すべてがおかしくなっている。
そんな気がしてなりません。

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2009/08/03

■日本の司法制度は坂道を転げ落ちていくのでしょうか

今日から裁判員裁判が始まりました。
日本の裁判制度が魂を売った日になるだろうと思いますが、本当にこんな制度が実行されるとは驚きです。
この制度は数年で終わるだろうと法曹界の友人が話していましたが、そうはならないでしょう。
裁判制度の方向は、建前とは反対に国民不在の方向へ振り子を振ったのですから。

私がなぜそう思うかは極めて簡単です。
これまでの行政の得意芸だった「住民参加」思想と同じからです。
住民参加もアリバイ工作だったように、この制度も明らかにアリバイ工作です。

裁判員制度が適用されるのは、第一審の地方裁判所での裁判です。
多くの刑事事件は上告されます。
上告審では裁判員制度は採用されません。
つまり第一審でどんな判決が出ようがいかようにも変えられます。
つまり裁判員制度はアリバイ工作の制度でしかないのです。

もし本当に国民の参画を目指すのであれば、最終審に国民を参加させなければ意味がありません。
専門家による判決が、国民常識から見ておかしいかどうかを、「常識を持った生活者」の多様な目で吟味するのであれば、それなりの意味があるでしょう。
この一事をもってしても、裁判員制度の無意味さがわかるはずです。

今日のテレビの報道を見ていると、相変わらず瑣末な手続き論ばかり報道されています。
唯一つ、裁判員の最終決定するくじ引きが、当事者の前ではないところで行われたということが、私には印象に残りました。
それが事実であれば、実に象徴的な話です。
日本の司法改革の本質とベクトルが垣間見えます。

「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」の記事を思い出しました。
日本の司法制度は坂道を転げ落ちていくのでしょうか。
それとも、郵政民営化のように、5年後にはまともな議論が始まるのでしょうか。

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2009/06/20

■「敵は民主党」のプロパガンダ裁判

西松建設の前社長の政治資金規正法違反の初公判が行われました。
その裁判のあり方と報道を観ていて、感ずるのは、コミュニティの裁判がプロパガンダ裁判ではないかと言うことです。
相変わらず検察と権力とマスコミが連携して、政治に関わる世論操作をしているという感じがします。
一方的な検察の話が報道され、それを吟味する反対意見はなく、しかも「敵は民主党」と言う感じです。
それに迎合した有識者の動きには不快さが残ります。

政治と金の問題で言えば、もっと大掛かりのことがまさに現政権によって行われていますが、それは不問にされています。
そこにも大きな不快感をもちます。
なにがエコポイントでしょうか。
単なる消費奨励策であり、それが環境負荷を高めるのは明らかです。
アンチエコポイントと称してほしいものです。

世間の目は、大きな本質的な事件にはなかなか向きません。
わかりやすい事件を単純化してしまうのが、プロパガンダのポイントです。
しかし、大切なのは、そうしたプロパガンダが壊していくものです。
裁判員制度も、司法改革というスローガンのプロパガンダの一翼を担ったものだと思いますが、よく考えればそれは、改革のベクトルは議論されていません。
国民に開かれたとか透明性が歌われていますが、私は全く反対方向を向いていると思います。
そろそろ権力のための司法制度は見直してほしいものです。

菅谷さん事件にしろ、横浜事件にしろ、これだけおかしなことが露呈されだしているのに、いまだ司法の世界には「責任」の概念が導入されていません。
もうプロパガンダは辞めて、司法の実体に「改革」の目を向ける時期ではないかと思います。

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2009/06/05

■人を信ずるところからこそ人は裁ける

足利事件で服役中だった菅家受刑者が再審開始を前に釈放されました。
その記者会見をテレビで見ましたが、17年の彼の人生は戻ってくることはありません。
彼の父親の死にも、警察や検察、あるいは裁判官は責任を感ずるべきでしょう。
その覚悟がなくて、人を裁くことなど引き受けてはいけません。
裁判とはそれほどのものであると、私は思いますので、裁判員制度にはついていけないのです。

この報道に対しては、さまざまなところで既に議論されていますので、付け加えることもないのですが、ひとつだけ書いておきたいことがあります。
それは、「疑わしきは罰せず」の法理を、日本の裁判官は思い出せということです。

多くの冤罪事件は、警察や検察の中には、それが冤罪であることを知っているか、または疑っている人は少なくないと思います。
なぜならば、冤罪をつくりあげるのは、まさに警察や検察の人だからです。
もしそうであれば、裁判官はその気になればそれに気づくことは不可能ではありません。
それが見抜けないような裁判官は、誠実さにおいても能力的にも、裁判官になってほしくないものです。
しかし多くの裁判官に、そうしたことを期待するのは無理かもしれません。
そこにこそ、日本の裁判制度の問題があります。

「疑わしきは罰せず」の法理をもっと大事にするべきです。
そこから司法改革は始まるはずです。
人を信ずるところからこそ、人は裁けるのです。
司法界の文化を変えなければいけません。

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