カテゴリー「教育時評」の記事

2017/05/07

■カフェサロン「教育勅語を読んでみよう」の報告

連休真っ只中にもかかわらず、「教育勅語を読もうサロン」には、10人の参加がありました。
呼びかけた者としては、もっと大勢の参加を期待していましたが、議論はかなり盛り上がり、そのため「改正教育基本法」を読むところまでたどり着きませんでした。
私は、今の社会の問題のほぼすべては、学校教育に起因していると思っていますので、「教育勅語」も読まずに、市民活動などしないでほしいと思っているほどです。
理念が違っていれば、善意による行為もまったく正反対のものにさえなりかねないからです。
以前のサロンで少し議論したように、ナチスドイツの歴史が示唆していることです。

参加者は事前に教育勅語を読んできてもらっていましたが、まず最初に全員で教育勅語の原文を声を出して読んでみました。
そもそも教育勅語は小学校1年生から全員で唱和する形で学校教育に取り込まれました。
意味など分からなくても、ともかく暗誦させられ、毎日それを「みんなで」声を出して朗誦させられていたわけです。

その後、全員から感想を話してもらいました。
この段階ですでに議論が始まってしまいました。
ちなみに、内容的にはいいのではないかという人は1人、読んでみて腹が立ったと明確に言う人が1人でした。
他の8人は、時代背景の中では(国家統治のためには)意味があったという人もいましたが、そういう人も含めて、教育勅語には否定的でした。
最近肯定的に語られることもある、「夫婦相和シ」「父母ニ孝ニ」などのいわゆる徳目に関しても疑問を投げかける人もいました。
特に「夫婦相和し」は評判が良くなかったのですが、そこから、個々の徳目について話し合いました。
教育勅語が発布された時代背景が大切だという指摘もありましたが、勅語が議論されていた時代は自由民権運動が広がっていた時代であり、教育勅語発布の前年には大日本帝国憲法が発布されています。
政府としては、国民の動きに大きな不安を抱えていた時代だといってもいいでしょう。

教育勅語では、夫婦や兄弟(姉妹は出てきません)や親子に関して、「徳目」が書かれています。
夫婦仲良く、家族仲良く、親には孝行を、と言われると、それを正面から否定するのは難しいかもしれません。
そこに大きな落とし穴があり、これは、その前後の「国民は天皇(国家)の臣民になれ」というための「騙しの部分」だという指摘もありました。
それに、こんなことはわざわざ勅語で指示されることではないという人もいました。

しかし、実はこのこと、つまり国家が家族関係にまで口を出してくることに大きな意味があったとも言えます。
それに当時の社会状況を考えれば、「夫婦相和し」とは妻は夫に無条件で従えということであり、子どももまた親には絶対服従ということでもあります。
夫の意に沿わない妻は一方的に離縁され、生活が困窮すれば、娘は身売りされた時代です。
そういうことを踏まえれば、この徳目は、私には徳目どころか、否定すべき項目でしかありません。
そこには、個人の尊厳という理念が不在なのです。
「言葉」は、多義的なものであり、その意味を吟味しなければいけません。

勅語で語られる「徳目」は、要するに家族を家父長制のもとに管理しやすい形にしようというものであり、それは天皇を家父長にした「大きな家族」である日本国家体制を確固たるものにするための下部システムづくりであり、無垢の子どもたちの洗脳教材だったとしか思えません。
つまり、いざ戦争になったら、「身も心もお国のために捧げる」ことの準備でしかなかったわけです。
そして、その後、日本は見事に国民の大きな抵抗もないままに戦争に入っていくわけです。

そうした「教育勅語」の精神が、いままた復活しようとしている。
自民党の憲法改正案を見ればわかりますが、憲法でまた家族にまで介入してこようとしているのです。
教育無償化の一方で、無垢な子どもの洗脳教育がはじまろうとしている。
保育問題は単なる託児発想で、そこには子育ち支援の思想は感じられません。
そして私には、少なくないNPOがそれに荷担しているように思えるのです。

いささか書きすぎましたが、教育勅語をぜひ読んでみてほしいです。
そこで語られているのは徳目ではなく、国家のためにすべてを差し出す「国民教育」の思想であって、一人の人間として成長していく個人の視点はまったくありません。

いつも以上に主観的な報告になりましたが、これ以外にもいろんな話が出ました。
時代に合った倫理を提起していくべきだという話から、倫理や規範、エシックスの話題も出ましたし、「教育」という言葉への違和感も出されました。
夫婦相和しには、夫婦喧嘩も入るのかというような、話もありました。

サロンもなかなか終わらなかったのですが、終わった後もみんななかなか帰ろうとせずに、話が続いていました。
このテーマもまた継続することにしました。
どなたか問題提起したり、私見を主張したりしたい人がいたらご連絡ください。
事務局をつとめますので。

Chokugo170506


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2017/03/14

■カフェサロン「子どもの世界から見えてくる私たちの生き方」報告

カフェサロン「子どもの世界から見えてくる私たちの生き方」は、平日の夜にもかかわらず、16人もの参加がありました。
終了後も参加者同士の話が終わらず、みなさんの関心の高さを感じました。

前半では、室田さんが自らの保育園・子ども園で長年取り組んでいる「エピソード記述」によるカンファレンスを模擬的にやってくださいました。
まず、室田さんが用意した、保育士が書いたエピソード記述(背景・エピソード・考察から成り立っています)を読み上げ、それについて参加者が語り合うという設定です。
室田さんは、ファシリテーター役ですが、それぞれの意見に対して、気づきや思考を深められるように、問いかけをしたり、自分の考えを語ったりするのです。
模擬カンファレンスに先立ち、室田さんは、「間主観性」と「両義性」、あるいは「書くことは考えること」などという、「エピソード記述」の基本にある考え方を少しだけ話されましたが、そうしたことを抽象的にではなく、体験的に示唆してくれたわけです。
そこからさまざまな議論が展開しました。
そうしたなかから、人が生きる意味が、それぞれのなかに浮かびあがるという趣向です。
日々、子どもたちと誠実に付き合っている室田さんならではの発想だと思います。

話し合いの中では、室田さんのファシリテーションのもとに、具体的な感想が深掘りされ、言語化されていきます。
今回は、エピソードの書き手が、子どもから学んでいることに室田さんはやや重点をおいていたように感じますが、そこに室田さんが考える「子どもと保育士の関係」(さらには「親子関係」)を感じました。
教える保育ではなく、学び合う保育といってもいいかもしれません。
さらには、具体的な事例から、たとえば「私は私,でも私は私たちの中の私」というような、人の両義性といった普遍的な論点が可視化されていきます。

模擬カンファレンスでは、エピソード記述の、「かわいい」という言葉に、「かわいい」と言葉にした途端に思考停止になるのではないかという指摘がありました。
発言者自身も、保育士の資格を持ち、広い意味での保育活動に取り組んでいる若い女性ですが、現場感覚からの意見でしょう。
「言葉」が思考停止を生み出すという指摘に、私はとても興味を持ちました。

話し合われた話題はいろいろとありますが、いつものように、それは省略します。
生きた言葉を文字にすると、変質してしまうからです。
ただ報告者の特権として、私が一番興味を持ったことを書かせてもらいます。
それは、2人の男性が、エピソードの記述が「ふわふわした文章に感じた」「文章が長い」と発現したことでした。
それが悪いという指摘ではなく、そう感ずるということです。
私はそういう印象を全く持っていなかったのですが、言われてみるとその通りです。
発言はしませんでしたが、企業や行政という組織の中でも、こういう「ふわふわした長い文章」が主流になったら、世界は変わるだろうなと思いました。
そこでの文章形式は、その組織の文化を象徴しています。
効率性を重視する企業のなかの文章は、論理的で簡潔であることが重視されます。
でも、そこにこそ問題はないのか?
この議論は、いつかもう少し深めたいと思います。
とても大きな意味を持っていると思うからです。

エピソードによるカンファレンスの効用は、保育士の世界を広げ、コミュニケーションの力を高めると同時に、組織文化を高めていく効用があることがよくわかりました。
これは保育園に限らず、企業でも福祉施設でも、さまざまな組織で効果的な手法だと思いました。

「エピソード記述」をよく知っている2人の保育園長も参加してくれましたが、ほかの参加者は全員、「エピソード記述」未体験者した。
今回は、「エピソード記述」を多くの人に知ってほしいということが目的の一つでしたが、学童保育や高齢者に関わっている人たちが、自分たちの活動に取り入れてみようと考えてくださったのはうれしいことです。
しかし、話し合いが盛り上がったため、時間がなくなり、こうした活動を踏まえての室田さんの社会観がきちんと聞けなかったのがちょっと心残りでした。

後半は、そうした室田さんの社会観も含めた、「この国の未来」をテーマにしました。
室田さんの問題提起は、「近代をカッコでくくると、現代から近代的なものを差し引くことになります。いったい、何がのこるのでしょうか」という問いかけから始まりました。
そして、室田さんの展望が紹介されました。
これもまた刺激的なテーマでした。

後半が始まった直後に参加した久保さんが、フーコーの国家論まで言及したので、話が大きく広がってしまいましたが、自立とは何か、共同体とは何か、ガバメントとガバナンスといった話にまで行きました。
時間の関係で、これも話したりなかった人が多かったと思います。
私が少し話しすぎたことをとても反省しています。はい。

ところで、あくまでも私の印象ですが、前半と後半とでは話し合いの主役が違っていたような気もします。
前半は女性が主導、後半は男性が主導という雰囲気でした。
これも私にはとても興味深かったです。
大切なのは、前半のようなミクロな生活次元と後半のようなマクロな文化次元をどうつなげていくかかもしれません。

「ふわふわした冗長な」長い報告になってしまいました。
書いているうちに、いろんなことに気づいた自分に気づきました。
室田さんが言われたように、「書くことは考えること」だと実感します。

参加者が多かったため、十分発言できなかった方が多かったと思いますが、お許しください。
またいつか、パート2を開ければと思います。

201603131


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2017/02/26

■カフェサロン「パズルで楽しい人生を」報告

「ハッピーパズル工房」代表のパズル療法士、細田和幸さんをお呼びしてのカフェサロンは、日曜日の午前中だったこともあり、参加者は7人でしたが、とても楽しいサロンになりました。
みんなで体験してみて、さまざまな効用を感じました。
当初、認知症予防ゲームの実践者を対象にした交流会での企画でしたが、なかなか日程が合わず、公開型のサロンにしましたが、子ども関係の活動に取り組んでいる人たちの参加がなかったのが残念でした。

今回は2種類のパズルゲームをみんなでやってみました。
まずは、2種類の形のピースをつかっての形づくりです。
正方形の木枠に入ったL字型の4つのピースをまず木枠から取り出して、ゲームがスタート。
最初の課題は、それをまた木枠にはめてくださいという課題です。
極めて簡単なはずですが、なぜかてこずります。
それができてほっとしていると、最初は市松模様になっていたでしょう、その状態に戻してください、と次の課題が出されます。
簡単なはずなのに、それがまた難問。
女性たちは速くできましたが、私はおたおたしてなかなかできませんでした。
それを基本にして、ピースをさらにたくさん使ってのさまざまなゲームを紹介してもらいました。
最後は全員で、順番に大きな形をつくっていくゲームです。
みんなで話し合いながら進めていきますが、みんな立ち上がって身体も使いながらのコミュニケーションが発生します。
チーム対抗にすれば競い合いが生まれ、チームの中では支え合いが生まれます。
よく考えられていますが、ここに細田さんの人柄と人生が込められているのです。

次は透明なプラスチックに何本かの直線が貼られたものを4枚ずつ配られて、その組み合わせで数字をつくるゲームです。
これも3人ずつがチームになり、支え合いと競い合いが組み込まれています。
その展開にも、物語性があって、みんなすっかり盛り上がってしまいました。

いずれもとてもシンプルなパズルですが、シンプルであればこそ、さまざまな展開が可能になります。
いずれも細田さんの手づくりですが、ピースは細田さんに頼むと購入できます。
広がっていけば、2番目のゲームツールも商品化されるでしょう。

細田さんは、パズル開発が大好きで、他にもいくつかのものがありますが、今回体験した2つのゲームでも、2時間は十分に楽しめます。
細田さんのパズルの魅力の一つは、「みんなで遊んでつながりを深める」というところです。
私は今回で2回目の体験ですが、前回は細田さんの紹介で一人での体験でしたので、みんなでというところを実感できませんでした。
今回、みんなでやってみて、その効用を実感しました。
ぜひとも、子どもたち、あるいは多世代交流、あるいはコミュニケーション下手な中高年男性に広げていきたいです。
今回好評だったので、少しバージョンアップしたパート2を細田さんと一緒に企画してみようと思います。

細田さんは「脳いきいき! 楽しい介護レク パズル遊び」という本も出版しています。
「https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B3%E3%81%84%E3%81%8D%E3%81%84%E3%81%8D-%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%81%84%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E3%83%AC%E3%82%AF-%E3%83%91%E3%82%BA%E3%83%AB%E9%81%8A%E3%81%B3-%E7%B4%B0%E7%94%B0-%E5%92%8C%E5%B9%B8/dp/4262145867
よかったら読んでください。
そして一緒に広げていこうという方がいたら、ご連絡ください。
とくに、パズル療法士になりたい人は大歓迎です。

Pazuru1


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2016/04/25

■カフェサロン「今、子どもたちが危ない!」の報告

昨日の「今、子どもたちが危ない!」をテーマにしたサロンは、14人の参加で、熱い議論が交わされました。
問題提起してくれたのは、児童虐待防止全国ネットワークオレンジリボンの久米さん。
女川で活動している宮崎さん(学校と地域の融合教育研究会)も「伝えたいことがある」と言って参加してくれました。
いつものように、実に多彩なメンバーです。

久米さんはまずご自身が関わっているオレンジリボン運動(http://www.orangeribbon.jp/)の話を紹介してくれたうえで、参加者に問いかけるスタイルで話を進めてくれました。
前回の吉田さんの時もそうでしたが、なかなか先に進めないほど、発言が多いのです。
みんな「思い」が山のようにあるようです。

最初の問いかけは、次の3つが「育児」か「しつけ」か、というものでした。
①「怒って子どもを叩いてしまう」
②「遊ぶ時間がないほど毎日習い事に通わせる」
③「毎食コンビニお弁当」
議論百出で、①だけでも2時間がたちそうでしたが、大きくは、「暴力的行為は絶対にダメ」派と「状況による」派と別れましたが、後者が多かったように思います。
私は「叩く」ということが即虐待というようなマニュアル的な発想や問題提起のあり方に、むしろ問題の本質を感じています。
「ハグ」も「叩く」も、人間の表現形式の一つではないかと思うからです。
問題は「叩き方」であり、大切なのは、相手に対する姿勢、さらには日常的な人と人との関係のありようではないかと思うからです。
その意味では、私は②と③こそが「虐待」ではないかと思っていましたが(一時的な行為ではなく日常的な状態ですから)、話し合っているうちに、それもまた「短絡的」だという気がしてきました。

「身体的な虐待」や「暴力の行使」は「犯罪」ですから、その取締りをきちんとすればいいだけの話です。
むしろ問題にすべきことは、そうした犯罪や暴力ではなく、目には見えにくい「精神的虐待」や「構造的虐待」であり、さらには「虐待をしてしまう状況に追い込まれている人が増えている」という社会のあり方だろうと思います。
「子どもの虐待」という「事実」の奥にある「虐待を生み出す社会」に焦点を当てていくことが必要です。
そうした社会つくり出しているのは、私たち一人ひとりですから、それを変えていくのもまた私たち一人ひとりであるはずです。
このステップの最後に、久米さんは、「高層住宅の上層階で済むことはどうだろうか」という問題を付け加えましたが、これもとても示唆に富む問いかけだと思いました。

こうした議論を踏まえて、「児童虐待のない社会」にするには、という議論に移りました。
「子どもの立場に立って考えること」の大切さが指摘されましたが、そもそも「子どもの立場に立つ」とはどういうことかの議論になりました。
結局は、大人が考える「子どもの立場」は、大人の立場かもしれません。
親から虐待を受けている子どもも、ほんとは親がとても好きなのだと、実際に活動に取り組んでいる日高さんから指摘がありました。
それに、子どものほうこそ、親の立場を考えて嘘をつくことさえあるという指摘もありました。
私もそういう体験をしたことがあります。
母娘の関係は、実に不思議です。
単なる共依存の理論で理解してはいけない深さを持っているように思います。

とまあ、こんな感じで話し合いはつづいたのですが、最後の方では、虐待をしたくて虐待している人はほとんどいないのではないかという話題になりました。
つまり、みずからもまた、社会から広い意味での虐待を受けて、生きづらくなり、その結果、弱い立場の子どもへの虐待が生じているとしたら、まずは親を虐待から解放しなければいけません。
虐待されている子ども不幸ですが、虐待している親もまた、被害者だという気がしてなりません。
私が、児童虐待の報道に触れて、いつもまず思うのは、子どもと同時に、親への憐憫の情、あるいは親子の関係の哀しさです。
親に関する報道姿勢はいつも厳しいですが、親の状況をもっとしっかりとみていかないと、児童虐待はなくならないように思います。

しかし、そう考えると問題は解決しません。
虐待している親の現実は止めなければいけませんし、具体的な虐待から子どもたちを守らなければいけません。
たぶん、こうした大きく異なった問題が混在しているために、事態はなかなか変わっていかないような気がしますが、それはともかく現実の問題への取り組みも大切です。
児童虐待防止活動に取り組んでいた高月さんからは、参加者一人ひとりができることを考えてほしいという発言がありました。
私に何ができるか。
企業の経営管理者のみなさんに、自分たちが働いている世界の外部では、実は子どもたちはこんな世界に生きているのだということをもっと知ってもらうことが大切だという話も出ました。
私もできることは、そうしたことへの働きかけかもしれません。

いつもながら、伝えたいことのほんの一部しか伝えられずにすみません。
参加者の方、フォローしてもらえるとうれしいです。

次回は、子どもたちや親たちへのあたたかい眼差しで、長年実践活動をされている日高さんに、さらに一歩突っ込んだ現場からの報告をしてもらう予定です。


Kume20160424


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2016/02/28

■「みんなの社会教育ってなんだろう」

昨日、「みんなの社会教育ってなんだろう」というテーマに、ミニ公開フォーラムを開催しました。
30人ほどの人が集まりました。
話し合いのベースをつくるために、2人の友人にお願いして、パネルディスカッション的な話し合いをしました。
その冒頭と最後に、私が話したことを、少し補足して書いておきます。
「みんなの社会教育」に込める私の思いをわかってもらえるとうれしいです。

これまでの社会教育は、統治視点からの行政主導の「与える社会教育・与えられる社会教育」、「国民の意識を高める(国民教化)ための教育型の活動」が中心でした。
しかし、社会がここまで成熟し、人々の意識や生き方が変わってきている中で、そろそろそうしたあり方を見直し、むしろ方向性を逆転させて、私たち生活者一人ひとりが主役になって、「お互いに学び合う社会教育」「まちや社会を自分たちで育てていく社会創造型の活動」にしていく段階に来ているのではないかと思います。
それは同時に、私たち一人ひとりの社会性や市民性を高めていくことでもあります。

「社会教育」というと、かなり固いイメージがあって、どうしても行政がやることと思われがちです。
今回の集まりも、NPO関係やまちづくりに関わっている人たちにも案内しましたが、自分たちとはあんまり関係ない世界の話だという反応が少なくありませんでした。
しかし、そうではないのではないか、と私は思っています。
NPO活動の意義は、個別課題の解決はもちろんですが、同時に参加者の市民性や社会性を高めることだと言われています。
もしそうならば、NPO活動やボランティア活動もまた、社会教育活動と言ってもいい。
まちづくりにとっても、主役はまちをつくっている住民です。
施設や道路や制度をつくるのが、まちづくりだった時代はもう終わっています。
だとしたら、その住民たちの意識や生き方、言い方を変えれば、社会性や市民性が一番大切です。
そこでも社会教育は重要なテーマになるはずです。

さまざまな社会問題が広がっていて、社会の劣化ということが問題になってきているいま、改めて社会教育ってなんだろうと考えてみることはとても大切なような気がします。

なぜ、「社会教育」という言葉にこだわるのか。
それは、改めて「社会」や「教育」という概念が重要になってきていると思うからです。
いずれもあまりにわかりきった言葉なのですが、あまりしっかりと考える人はいません。
私は、社会を「人のつながり」と考え、教育を「自分の発見」と捉えています。
社会は、そこにあるものではなく、自分たちで育てていくもの。
教育は、教えられることではなく、自分のちから(いのち、あるいは価値)を育てること。
そう考えています。
その視点から言えば、いまの学校は「反教育」ですし、いまの社会は「反社会」です。
(ここまでは今回は話しませんでしたが)

社会教育にとって、社会こそが学びのすべてです。
そして、大人も子供も含めて、私たち一人ひとりが主役です。
言い換えれば、この社会をつくっている私たち一人ひとりの責務です。
しかも、それは一人では完結しません。
学びとは、人とのつながり、自然とのつながり、過去や未来とのつながりのなかで行われるからです。
学びは必然的に「学び合い」になり、人のつながりを育て、まちを育てていくはずです。
社会教育を、政府や専門家に任せるのではなく、私たちが主役になるようにスキームを変えていくことが大切です。
社会教育を創りだす責任は、私たちにあるのです。

そういう視点で、改めて「社会教育」をデザインしなおしていきたいと思っています。
そうしたことを進めていくためにも、実践者のゆるやかなネットワーク、学び合いのネットワークを育てていきたいのです。
もちろん、これまでのスタイルの「社会教育」を否定する必要はありません。
そうした人たちとも、役割分担していくことが大事です。
しかし、みんな対等な立場でなければいけません。
その基本だけは、私には譲れないところですが、そこがまた「みんなの活動」を進めていくときの最大の難事なのです。

こうした思いに賛同してくれる人がいたら、ぜひともご連絡ください。
一緒にゆるやかな活動に取り組めればと思います。


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2016/02/26

■馳文科相の思い上がり

馳文科相が23日の記者会見で、「私が学長であったとしたら、国旗掲揚、国歌斉唱を厳粛のうちに取り扱うと思っている」と話したそうです。
今日の朝日新聞の天声人語で知りました。
岐阜大の学長が今春の式で国歌斉唱をしない方針を示したことへの批判のようです。
馳さんが学長になったら、そうしたらいいでしょうが、他の学長を批判するのは、その見識を疑わざるを得ません。
思い上がりとしか思えません。
私の基準では、文科相にはふさわしくない発想です。
せめて憲法をきちんと読んでほしいです。

むかし読んだ文章を思い出しました。
思い出して読み直しました。
いささか恥をさらすようですが、もし気が向いたら読んでください。
「日の丸と君が代」という記事です。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#3132

馳さんのような人が、大学の学長にならないことを願いますが、楽観はできません。
社会は教育の場から壊れだしていきます。
教育は、まさに両刃の剣です。
ですから知性のある人に担当してほしいです。

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2016/02/06

■カフェサロン「学童保育から見える子どもの世界」の報告

今日のコムケアサロンは、学童保育に長年かかわっている上野陽子さん(日本子どもNPOセンター)に話題提供してもらいました。
学童保育についてほとんど知らない人も含めて、10人の人が集まりました。
上野さんから、学童保育はどんな場所なのか、そこで今どういうことが起こっているのか、そこに関わるものとしてどんな悩みを抱えているのかを、話してもらった後、いつものように自由な話になりました。
上野さんは、これまでの活動からていねいなレジメをつくってくださっていますので、もしご関心のある方がいたら、ご連絡ください。
上野さんの了解が得られたらお届けいたします。

話を聴いていると、まさに大人の世界と同じようなことが展開されているように思いました。
と同時に、学童保育もだんだん窮屈になってきているのだなとも思いました。
そして、学童保育の世界もどんどん「市場化」が進んでいるようです。
そのため、子どもの都合よりも、大人たちの都合が、支配しているのかもしれません。
「福祉」の世界の大きな潮流と同じです。
そこでは「保育」とは何か、といった大きな目的は忘れられがちです。

上野さんは、そうしたなかで、たぶん子どもたちと正面から付き合い、両親には見えない子どもの姿を両親に伝えようとしているのでしょう。
だから、悩みが山のように出てくるわけです。
たとえば、上野さんはこんな悩みを話してくれました。
・子ども目線ってなんだろうか。
・どうしたら、一人の「人」として、子どもと関わることができるのか。
・モノ(景品)をもらえる行事が多いのではないか。
・学童保育の世界で子どもたちを大切にすることが、学童保育の外での子どもたちの生活を危うくすることはないのか。
・日常からつながるイベントをつくりたい。
・保護者や地域や社会に、何をどう発信していけばいいのか。

私が面白かったのは、最近はボール遊びができなくなっている公園が多いそうですが、学童保育の場合はルールを破ることができないのに、学童保育以外の子どもたちはボール遊びをやっている(もちろんルール違反)という話でした。
不都合なルールは変えればいいだけの話ですが、ルールが一度できてしまうと、なぜかみんなそれに従わないといけないと思う社会になってしまったようです。
それに関連して、子どもたちがちょっと工夫してルールを変えてゲームをしていると、「このゲームはこうやって遊ぶんだよ」と注意する子どもがいるそうです。
こうして「ルール重視」になっていくと、大きなルールが壊れて、学級崩壊や学校への不適合が起こるのかもしれません。

母親と子供の関係も話題になりました。
母親にとって、子どもは自らの存在証明なのかもしれません。
2人の母親の、少し違いのあるご意見には興味を感じました。
これはいつかまたテーマにしたいと思います。

ほかにもたくさん考えさせられることがありました。
所詮は、子どもたちの都合ではなく、大人たちの都合が優先されていると最後に誰かが言っていましたが、私もまったく同感です。

学童保育を否定しているわけではありません。
しかし、かつて保育所が「託児所」と言われたようなことを繰り返してほしくはありません。
学童保育を利用している人は、家族や本人が、どこかで学童保育の運営にも参画する仕組みが必要だろうと思います。
小学生の子どもでも、スタッフとしてやれることはたくさんあるはずですし、それが無理なら10年後にお返しする仕組みも考えられます。
市場化とは違う展開があるのになあ、と思いながら、私は話を聞かせてもらっていました。

主観的な中途半端な報告ですみません。
まあ、いつものことですが。

社会に向けて「学童保育」の現場からの声を発信していく場を、日本子どもNPOセンターで検討してほしいと思いました。
みんなあまりにも知らないのです。
みなさん、もっと子ども世界に関心を持ちましょう。
子どもが豊かに育たなければ、社会が豊かになるはずがありません。


Gakudou


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2015/12/27

カフェサロン「教育を中核としたまちづくり」報告

今日は今年最後の湯島サロンでした。
テーマは、「教育を中核としたまちづくり」。
話題提供者は、学校と地域の融合教育研究会会長の宮崎さんです。
宮崎さんはいま、宮城県女川町で活動されています。
私が知り合ったのは、宮崎さんが習志野市の秋津小学校の校長時代で、今や全国に広がっている、学校と地域の融合教育研究会が始まった頃でした。
その頃も一度、湯島でお話してもらったことがありますが、公立の小学校でもこんなことができるのかと、それこそ私の常識が覆される活動でした。
今回は、その話も含めて、隠岐の海士町での話や女川での最近の活動などについてお話してもらいました。
宮崎さんの実践には、教育やまちづくりの本質を示唆するたくさんのヒントがあります。
それに触れたら、本気で学校や地域社会を変えていきたいという人なら、必ずや「うずうず」してしまうはずです。
学校と地域の融合教育研究会のホームページもよかったらぜひのぞいてみてください。。
http://yu-go-ken.net/

宮崎さんは、学校の役割が第3期を迎えているといいます。
子どもの持つ多様な価値を、まちづくりの担い手として生かす、地域とともにある学校です。
そして、そうした「学校力」をどう活用するかが、地域社会にとっての課題だと言います。
そして宮崎さんは、それをまさに今、女川で実践されているわけです。

宮崎さんのお話はもっと多くの人たちに聴いてほしいと思います。
それで来年の2月27日に、宮崎さんにお願いして、公開フォーラムを開催することを考えることにしました。
決まりましたらまた案内させてもらいますが、いわばその実行委員会的なものはすでに生まれています。
今回はそのコアメンバーも参加しました。
ご関心のある方は是非実行委員会に参加してください。
ご連絡いただければ、ご案内させてもらいます。

今年の湯島サロンはこれでおしまいです。
さまざまなサロンに参加してくださったみなさんに感謝いたします。
来年も引き続きよろしくお願いいたします。
Miyazaki20151226


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2015/06/09

■社会の民度が劣化している?

最近、痛感するのが、日本の社会の民度の劣化です。
こんなこと言うと、何を偉そうなと笑われそうですが、そう思うことが少なくありません。

社会の民度とは、私の勝手な定義づけですが、自分の主体性に基づいて、他者と一緒に、みんなが生きやすい状況を積極的につくりだそうとしている人がどの程度いるかということです。
一般に民度とは、人民の生活程度や文化水準の程度を言います。
しかし、「生活程度や文化水準の程度」をどうやって測定するかは悩ましい問題です。
先週もある人と、石器時代の人たちと現代の人たちとどちらが幸せかが問題になりましたが、それは、たぶん比較不能な問題です。
サーリンズの「石器時代の経済学」は面白い本ですが、私たちは決して石器時代人にはなれませんから、その気持ちまではわかりません。
「生活程度や文化水準の程度」で、社会の質を測定するのは適切とは言えません。
だから、私は、そこにいる成員の主体性や自律性、そして社会性(社会とのつながりの意識)に「社会の民度」の基準を置いています。

経世済民の徒とも言われる柳田国男は、権力の腐敗を防ぐためには「民衆もまた大いに覚るところがなければならぬ」と言っています。
国民が自主的な判断力、社会的な判断力をもつことが社会や国家を豊かにすると考えていたのです。
彼は普通選挙の実現に取り組みましたが、普通選挙制度がまた、金権政治や利権政治に向かう可能性を内在させていることも危惧していました。
そのために、柳田は「公民教育」に大きな期待を持っていました。
国民がよき学問を身につけて選挙に臨むことが、「生活苦」を救い社会を豊かにする政治を実現すると考えていたのです。

コミュニティ論の古典と言われるマッキーヴァーの「コミュニティ」に、こんな文章があります。

多数者支配の原則に身を託している今日の世界において、唯一の希望は、社会教育や社会的責任の教育、ならびに全人格の価値、自発性を第一義とし、強制を第二義とすることの主張、たとえ法的、政治的に許されても、深く持続的な対立を生み出し、コミュニティの力を減ずるような要求を差し控える方が賢明であることの強調である。

そして、彼も、「コミュニティの生命力は、成員である各人の個性と社会性に依存している」というのです。
つまり構成員の生の成熟をコミュニティの発達と考えていたのです。

こうした視点で考えていくと、いまの日本の社会は、劣化しているとしか思えません。
その象徴的な表れが、現在の安倍政権のような気がします。
学ぶことを忘れた国民は、決して良い政府を持てないでしょう。
そんな思いもあって、湯島では様々なテーマでの気づきの場を開いています。

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2015/02/23

■りんごが2つ、みかんが3つ。全部でいくつでしょうか

友人の太田さんが子供の頃体験した話です。
私は何回か聞いていますが、聴くたびに、その深い意味への理解が深まります。

太田さんが子供の頃、学校で、先生がこんな問題を出したそうです。
「ここにリンゴが2つ、みかんが3つあります。さて全部でいくつでしょうか?」
たまたま最初に当たったのが太田さんでした。
太田さんは答えました。
「リンゴが2つ、みかんが3つです」
先生は、次の人に訊きました。
次の生徒は「5つです」と答えました。
先生は、「そうですね、5つですね」とその子を褒めました。
太田さんは正解にしてはもらえなかったのです。
そこから太田さんの素晴らしい生き方が始まったのです。
太田さんは、なんでりんごとみかんを同じものとして数えるのかに不満があったのです。
その太田さんの世界観は、いまもなお健在です。

柳田邦男さんが、知的発達に遅れのある女の子が小学校入学前に受けた知的理解力についてのテストの話を紹介しています(「言葉が立ち上がる時」)。

「お父さんは男です。では、お母さんは何でしょう?」。
おそらく小学校へ入学する前の健常児が百人いたら、百人とも即座に同じ答を言うだろう。「女です」と。
しかし、テストを受けていた女の子は、医師が予想もしていなかった答を言ったのだ。「お母さんはだいすきです-」。
こういう答は、学校教育の中では受け入れられない。
「お母さんは女です」と答えないと○を与えられない。正解とされない。
「だいすきです-」では×なのだ。
案の定、女の子はIQ37と判定され、右の質問の答は×とされたのだ。

学校教育とは何なのかがよくわかるお話です。
こうした教育から抜け出さなければいけません。
しかし、私も含めてたぶん多くの人は、骨の髄までこうした教育の成果を身につけているのでしょう。
安倍政権が支持されるのは、学校教育の成果かもしれません。

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