カテゴリー「教育時評」の記事

2024/01/25

■NHKスペシャル「学校のみらい」

湯島のサロンでは、子どもたちの教育や学校に関する話題がよく出ます。
それもあって、2月にはそうしたテーマのサロンを企画したいと思っていましたが、話題提供をお願いしていた人の都合がつかず、実現できませんでした。

それに代わってということではありませんが、関連してのご案内です。
明後日の127日(土)、そうしたテーマを取り上げたNHKスペシャル「学校のみらい」が放映されます。2部構成です。
https://www.nhk.or.jp/campaign/koe/kodomo/kiji_20240123.html

1930分からの第1部では、不登校の子どもへの対応から公教育改革の可能性などが取り上げられます。千葉のフリースクール、熊本教育委員会の不登校の子どもへの対応、山形県天童市の子ども中心の学び、さらにフランスのエデュケーター、韓国の代案学校についての紹介があるようです。
127日(土) 19:3020:15 NHK総合 第1部『“学校”のみらい 不登校30万人から考える』
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/Z1241VLZP5/

22時からの第2部は、当事者・専門家・文部科学省・自治体教育長の話し合いです。
127日(土) 22:0022:49 NHK総合 第2部『話そう!“学校”のみらい 不登校30万人から考える』https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/2QPMZZR5XK/

もしお時間が許せばご覧ください。
感想などもぜひお寄せください。
できればこうしたテーマでサロンを開きたいと思います。
話題提供あるいは問題提起してもいいという方がいたら、ぜひご連絡ください。

なお、それぞれの再放送の予定も書いておきます。
1部:再放送予定枠 【総合】1/31(水)前0:35-01:19.30 ※火曜深夜
第2部:再放送予定枠 【総合】1/31(水)前01:20-02:09

 

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2023/06/05

■日本の子どもたち(15歳)の精神的幸福度は38か国中37位

以前、話題になりましたが、2020年のユニセフのレポートによれば、日本の子どもたち(15歳)の精神的幸福度は38か国中37位だそうです。
今春スタートしたこども家庭庁がさらに幸福度を下げないことを祈るばかりです。

最近また、引きこもりや不登校の関係者との接点が増え、なにかその背景にあるものが気になりだしました。目の前だけ見ていては何も見えてきません。
それで、小国喜弘さんの「戦後教育史」(中公新書)を読みました。
あとがきに、著者の小国さんの執筆の背景にある思いが書かれていました。
この部分だけでも多くの人に読んでほしいと思い、長いですが、勝手に引用させてもらいます。一部省略しています。

大学院生時代から(学校に)30年通い続けたなかで、学校現場の多くは、次第に閉塞的な空気が強固となったように思える。外部者からすればおよそ不思議なルールがこまごまと制定されるようになり、子どもたちの日常を拘束するようになっていった。さらに全国学力学習状況調査の学校順位を上げるべく、子どもたちをテスト準備教育に追い立てることに力が注がれ、「子どもの仕事は遊ぶことだ」などといった言葉を教師から聴くことはなくなった。

ごく「普通」の子どもたちが「障害児」とされて、元のクラスの子どもたちから引き離されて、廊下の一番奥に設置された特別支援学級でひっそりと学んでいる光景を見ることも増えた。背後には、政治主導の教育改革があった。

現場を通して見えてきたのは、政治に翻弄される学校の姿であり、そのなかでの子どもたちの不幸だった。本書は、このような子どもたちを取り巻く不幸が戦後教育史のどのような変化のなかでつくられたのかを学校教育に即して描き出したいと考えた。

本書を読むと、学校はまさに社会の写し絵であるとともに、社会の作り手でもあることがよくわかります。引きこもりが増えているのは、親たちがみんな引きこもりのお手本を見せているからでしょうし、不登校が増えているのは、子どもたちが制度のおかしさを教えてくれているのでしょう。みんな問題の立て方を間違っているとしか思えません。

社会の未来は、学校制度のありようによって大きく変わってくることを考えれば、私たちはもっと子供たちの学校現場で何が起こっているかに関心を持つべきでしょう。

私は幸いにあまり「学校制度」に縛られずに卒業できましたが、どうもそれはとっても幸運だったようです。今の学校では、私も不登校になっていた可能性があります。

本書は、インクルーシブ教育やSociety5.0、あるいは発達障害などの政治が作る病気など、幅広く論じられていますので、多くの人にぜひ読んでもらいたいです。
暗い話ばかり読みたくないという人には、第11章の「希望はどこに」で紹介されている大阪市立小学校の取り組みをぜひ読んでみてください。映画「みんなの学校」で話題になった学校です。

学校をテーマにしたサロンをやりたい学校の先生がいたらご連絡ください。

 

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2022/01/17

■クイズは楽しいのに入学テストはなぜ楽しくないのか

大学入学共通テストの日本史Bをやってみました。
新聞に載っていたものでやったのですが、字が小さいので大変で、途中でやめてしまいました。後日、改めてチャレンジするつもりです。

毎年ではないですし、科目も毎年違いますが、これまでも時々やっています。
いま学校教育ではどんな試験が行われているのかを知りたいからです。
まあ1~2科目やったところでわかるはずもありませんが、感ずることはいろいろあります。
私が学校教育に違和感を高めているのは、まあそういう中途半端な体験知のせいかもしれません。一言で言えば、なんでこんな形で学力を評価するのかという疑問を毎年強めています。

私が試みるのは国語や歴史が多いのですが(英語や数学や自然科学は歯が立ちません)、毎年、点数は下がってきています。
今年は1科目、それもまだ途中ですが、辛うじて60点台。これでは不合格でしょう。
問題は年々、頭をかしげるようなおかしな問い方が増えている気がします。
ともかくやっていて楽しくない。何か瑣末な問いしかなされていない気がするのです。
でもいろんなことに気づかされます。

お暇な方は、ぜひトライしてみてください。点数などはどうでもいいので、ただどんな試験が行われているのかを知ることができますから。
学校教育や大学の位置づけが何となくわかるような気もしますし、文科省の使命もわかるような気がします。
私のように、いつか、学歴主義の意味が反転し、‟educated incapability”という考え方が見直されるかもしれないという懸念まで生まれてくるかもしれません。

クイズやテストが、こんなにはやっているのに、どうして学校教育の世界ではテストが楽しくないのでしょうか。
学ぶことの楽しさが、戻ってくるといいのですが。

 

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2021/06/25

■半藤一利さんの最後の著書「戦争というもの」

テレビで半藤一利さんの最後の著書「戦争というもの」を知りました。
半藤さんが孫の北村淳子さんに編集を託した本だと聞きました。
半藤さんが何を次世代に残そうとしたのかに興味があって、早速に読んでみました。

太平洋戦争中の語られた言葉のなかから、孫にも知ってほしいと思ったものを半藤さんが選んで、その背景などを紹介しています。
それを読んでいくと、戦争のむなしさやおぞましさが自然と伝わってくる本です。
半藤さんの人柄も。
半藤さんならではの本のような気がします。

当初、半藤さんは37の言葉を考えていたそうですが、それも手書きのメモで本書に掲載されています。

本書の最初と最後に、半藤さんの手書きの言葉が書かれています。
冒頭の言葉は、「人間の眼は、歴史を学ぶことではじめて開くものである」。
巻末の言葉は、「戦争は、国家を豹変させる、歴史を学ぶ意味はそこにある」。

歴史をきちんと学べる国になってほしいと最近つくづく思います。
いまの学校教育にはあまり期待できませんが、そもそも歴史は、教えらえるものではなく学ぶものだと思います。
気楽に読める本なので、ぜひ若い世代の人に広がるといいなと思います。
できれば若い世代で読みあってほしいものです。

 

 

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2020/05/10

■子どもたちはやはり信頼できます

昨日の朝日新聞のコラムに、こんな記事が出ていました。
詳しくは添付の記事をお読みください。

学習塾をやっている先生が、塾生たちに問いかけた話です。

今回の政府による「マスク2枚」をどう考えるかという問いかけで話は始まります。
最初は、反対だった子どもたちも、首相官邸ホームページで首相の発言を読むと反対のトーンは和らいだそうですが、費用が466億円と知って「高っ!」となって、一気に猛反対になったそうです。
そして、自分が首相だったらやらない!とみんな異口同音に言ったそうです。
安堵しました。
安倍さんより賢いのは当然だとしても、多くの日本の大人たちよりも賢い!

さらに、話はつづきます。
国の政策にはどれくらいの費用がかかるのだろうかということになり、いろいろ調べたそうです。

一番私が安堵したのは、「オリパラってこんなにお金をかける必要ある?」という話が出たそうです。
子どもたちは、大人たちより賢い! 
日本の未来は大丈夫です。

しかも子どもたちをダメにしているとしか思えない、いまの学校から解放されている子どもたちの未来は明るいと、私は元気が出てきました。
9月入学などと言っている大人たちがいる限り、いささかの不安はありますが、

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2019/03/29

■「社会的セーフティネットの構築」(岩崎久美子編)をお薦めします

児童虐待に関する報道が相変わらずつづいています。
問題が顕在化されてきたのはいいとしても、相変わらず「児童虐待」そのものに目が行き過ぎて、社会全体への視野が広がっていかないのが残念です。
こうした傾向は、ほぼすべての社会問題に言えることですが、事件は事件として対処していくとして、その背景にある社会全体の状況への視野と自らの生き方の見直しとが大切ではないかと思います。

それに関連して、1冊の本を紹介させてもらいます。
子どもの貧困を意識した教育格差是正のための社会的セーフティネットを取り上げている「社会的セーフティネットの構築」(岩崎久美子編 日本青年館 1500円)です。
基礎になったのは、国立教育政策研究所の岩崎久美子さんたちが進めてきた「教育格差是正のための社会的セーフティネットシステム形成に関する総合的研究」です。
研究の目的は、子どもの貧困など、家庭の社会経済的背景に由来する教育格差の拡大が社会問題化している中で、諸外国における政策介入の効果や多様なパートナーの連携によるセーフティネット形成の実例を参考に、わが国の施策に資する知見の提供」です。

私は、本書の出版に関わった「社会教育」編集長の近藤真司さんからこの本を贈ってもらい、読ませてもらいました。
「社会的セーフティネット」というと、多くの人は高齢者や障害者、あるいは失業や病気や事故で、生活が維持できなくなった人の問題をイメージするかもしれません。
しかし、本書で取り扱っているのは、子どもの貧困や教育格差の問題です。
しかも、実際の現地取材をもとに、アメリカ、フランス、イギリスの事例がたくさん取り上げられていて、とても示唆に富んでいます。
あわせて日本の事例も幅広い視野で紹介されています。
抽象的な政策論ではなく、現実の事例から政策の方向性を示唆しているところがとても共感できます。

子どもの問題は、「保護者」や「家庭」、さらには「学校」という存在に隠されて実状がなかなか見えてこない上に、当事者が声を上げにくいため、政策の焦点にはなりにくいですが、子どもの問題は「子どもだけの問題」ではなく、社会の実相を象徴すると同時に、その社会の未来を示唆する「社会全体の問題」です。
社会のひずみは、子どもの周辺で露出してきますから、子どもの幸せや貧困を見ていくと、社会の矛盾が見えてきます。
逆に言えば、子どもの世界から、未来の社会の可能性も見えてきます。
ですから、すべての政策の起点は「子ども」であるべきではないかと、私は思っています。
本書は、そうした視点から、とても示唆に富む、実践的な書だと思います。

書名を「社会的セーフティネット」としているため、そうした内容が伝わるかどうか不安があり、それが本書を紹介する気になった理由です。
昨今の社会的セーフティネット議論には「子ども」を主軸にした議論が少ないと感じている私としては、本書をたくさんの人に読んでほしいと思います。
事例がふんだんに紹介されていますので、読みやすく、実践的です。

政策は政府や行政機関だけで生まれていくものではありません。
国民の関心や働きかけが、政策を変えていきます。
その意味でも、政策立案関係者だけでなく、多くの人たちに本書を読んでほしいと思います。

日本では、「子どもの貧困元年」とされる2008年から、10年以上が過ぎていますが、今なお子どもたちを取り巻く環境は改善されているようには思えません。
福祉やセーフティネットと言えば、どうしても高齢者に目が向きがちですが、子どもこそが起点になるべきではないかと思います。

できれば、このテーマでのサロンも開きたいのですが、どなたかやってくれませんか。

 

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2018/06/28

■カフェサロン「九条俳句訴訟をどう思いますかーこれからの社会教育を考える」報告

「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句が引き起こした訴訟事件を材料にして、社会教育や市民活動のあり方を考えるサロンには、平日の夜にもかかわらず、13人の参加がありました。
この事件の概要に関しては、案内文にも書きましたが、先月出版された「九条俳句訴訟と公民館の自由」(エイデル研究所)に詳細な報告があります。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#180513

今回は、九条俳句訴訟市民応援団の世話人でもある佐藤一子さんにお話をしていただいた後、参加者で話し合いました。
佐藤一子さんは、50年以上、社会教育に取り組んでおり、湯島のサロンの参加者の中にも、佐藤一子さんの影響で社会教育に興味を持ったという人も少なくありません。
訴訟に関わってきたお立場からていねいに事件と訴訟の話を紹介してくれた後、「社会教育の公共性の意義をどうとらえるか」、そして「問題の背景、本当の原因をどうとらえるか」という問いかけを参加者に投げかけました。
そこから話し合いが始まりました。

話し合いは「社会教育」という言葉を初めて知ったという発言から始まりました。
その方は社会の問題にとても関心が深く、ご自分でも様々な活動をされている方ですが、そうした方からの思ってもいなかった発言に私自身目を覚まさせられた気がしました。
また逆に、この分野に造詣の深い北本市の市会議員の方が、公民館の始まりから現状まで、そしてこうした事件に対する行政や教育委員会などの対応の制約などを、とても具体的に話してくれましたが、これまで腑に落ちなかったことのいくつかがわかったような気がしました。
サロンには、いろんな立場の人が参加してくれますので、問題の見え方がとても豊かになります。

この事件を授業で取り上げたという看護専門学校の先生が、学生たちの反応を資料にまとめて報告してくれました。
憲法の意味も含めてきちんと情報を提供し話し合うことで若い世代の人たちがしっかりした評価をし、問題を的確に深めていくことが示唆されていたように思います。

現在この事件は地裁、高裁と住民側が勝訴していますが、行政側が最高裁にまで持ち込んでいます。
最近の裁判の風潮を考えると最高裁での原告敗訴が心配で、日本の社会はもうそこまで来てしまっているという懸念も数名の方から表明されましたが、そうであればこそ、この問題をもっと広い範囲で取り上げていくことが必要だと改めて思いました。
万一最高裁で逆転敗訴になったら、それこそそれを材料に動きを広げていかねばいけません。
学校教育での日の丸・国歌の話題も出ましたが、教育は「国民」の思想形成を通して、国家の未来を方向づけていきます。

この、もしかしたら事件にならなかった問題の意味をしっかりと受け止めて、社会への大きな警告へと高めてきたのは、この俳句の詠み手と俳句サークルの代表代行の方に依るところが大きいと佐藤一子さんは話されました。
お2人とも戦争体験にもつながっている高齢の女性ですが、その子とは偶然ではないでしょう。
また、佐藤一子さんは、俳句という活動を通して社会を捉える感受性を高めてきたことの意義にも言及されました。
とても共感できます。
経済活動にばかり目を向けていては、そうした社会性や批判精神は育ちません。
そこにこそ「社会教育」の本質はあったはずですが、いまはむしろその逆方向へと向かっているようにさえ思えます。

やはり「茶色の朝」シリーズのサロンを広げていければと思います。
「九条俳句訴訟」をテーマにしたサロンも、みなさんのまわりでもぜひやってみてください。
もしお手伝いできることがあれば、協力させてもらいます。

今回は元教師や社会教育、あるいは学童保育などに取り組んでいた研究者や実践者も複数参加してくれました。
いつもよりも長目に時間を取っていましたが、やはりそれでも終わりませんでした。
たくさんの刺激と宿題をもらった気がします。
8月には「学校教育」を取り上げたいと思っていますが、どなたか問題提起をしてくれませんか。


Kujousalon180627


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2018/05/17

■明日、5月18日に、「九条俳句訴訟」の高裁判決が出されます

明日、5月18日に、「九条俳句訴訟」の高裁判決が出されます。
これからの私たちの社会を方向づける、大切な判決だと思います。
それに合わせて、訴訟関係者たちによって「九条俳句訴訟と公民館の自由」(佐藤一子/安藤聡彦/長澤成次編著 エイデル研究所)が緊急出版されました。
ぜひ多くの人に読んでいただきたいとともに、18日の判決にも関心を持っていただきたくて、ホームページやブログで本の紹介をさせてもらいましたが、フェイスブックでも紹介させてもらうことにしました。

さいたま市のある公民館の俳句サークルで選ばれた秀句が、いつもなら掲載されるはずの「公民館だより」への掲載を拒否されるという事件(2014年6月)は、覚えている方も多いでしょう。
その対象になった俳句は、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」。
その句が、「社会教育の政治的中立性」という理由で、行政から掲載拒否されたのです。
俳句の作者と仲間たちは行政に異議申し立てし、その支援者も広がりだしました。
しかし、市民と行政との話し合いは、うまくいかずに、訴訟にまで発展し、「九条俳句事件」として今なお争われているのです。
一審で敗訴した行政は控訴し、高等裁判所による控訴審の判決が、明日の5月18日に出されます。

俳句サークルの人たちやその応援団の人たちは、この数年、社会教育法をはじめ、さまざまなことを学びながら、「おかしなことをおかしい」と主張してきました。
問題を広く知ってもらうための公開イベントなども開催してきました。
新聞やテレビでも取り上げられましたので、湯島のサロンでも話題になったことはありますが、私は、そんな動きが広がっていることさえ知らずに、最近では忘れてしまっていたことを大いに反省しました。

本書は、こうした「九条俳句訴訟」事件のドキュメタリーです。
自治体から突然、理不尽な圧力を受けた女性たちが、それに抑えられることなく、正面から対峙し、公民館で住民が学び続ける意味を再確認するとともに、表現の自由を守る活動へと広がっていった経緯が、事件に関わったさまざまな人たちの「思い」も含めて、立体的に紹介されています。
本書から、この事件から見えてくる最近の日本の社会の「あやうさ」と、実践活動を通してのメッセージが伝わってきます。

原告作者は「もう70年前の様な時代に逆戻りは絶対ごめんです」と、2015年7月の提訴にあたっての呼びかけ文に書いています。
また、かつて公民館職員だった方が、ある事件に関連して、かつて社会教育と政治の関係について次のように述べていたことが紹介されています。
「私たちの生活に関する話題は、そのほとんどが政治にかかわることだといっても過言ではありません。政治にかかわる事柄が、政治的だという理由で公民館活動のなかで禁止されるとしたら、人間の自己教育活動としての社会教育は成立しなくなってしまうのではないでしょうか。」

まったく同感です。
俳句の掲載拒否の理由はいうまもなく『九条守れ』が問題視されたのです。
そもそも憲法を遵守しなければいけない行政職員が、憲法を守れということに否定的という、それだけも公務員の倫理責任に反するようなことが堂々とまかり通るようになっている現実は、変えていかねばいけません。
一人でも多くの人に本書を読んでいただきたいと思います。
6月には、本書をテーマにしたサロンを湯島で開催する予定です。

ちなみに、私は、昨今の「社会教育」のあり方に大きな違和感があります。
時代状況が変わる中で、「社会教育」(学校教育もそうですが)の捉え方を変えていくことが必要だと思いますが、一度できた枠組みはそう簡単には変わりません。
いまだに、統治視点からの行政主導の「与える社会教育・与えられる社会教育」、「国民の意識を高める(国民教化)ための教育型の活動」が中心か、もしくは自分の趣味を広げる(つまりある意味での社会性を抑え込む)「生涯学習型の社会教育」になっているような気がしてなりません。
しかし、社会がここまで成熟し、人々の意識や生き方が変わってきている中で、そろそろそうしたあり方を見直し、むしろ方向性を反転させて、私たち生活者一人ひとりが主役になって、「お互いに学び合う社会教育」「まちや社会を自分たちで育てていく社会創造型の活動」にしていく段階に来ているのではないかと思います。
それは同時に、私たち一人ひとりの社会性や市民性を高めていくことでもあります。

そこで、3年ほど前に、「みんなの社会教育ネットワーク準備会」を友人たちと立ち上げました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2016/02/post-04b2.html
しかし残念ながら、その試みは挫折したまま、今もって動き出せずにいます。
本書を読んで、改めてまた、社会教育のベクトルを反転させた「みんなの社会教育ネットワーク」も、再挑戦しようと思い出しています。
共感して下さる人がいたら、ぜひご連絡ください。


Kujou2


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2018/05/16

■「九条俳句訴訟と公民館の自由」

私は、昨今の「社会教育」のあり方に大きな違和感があります。
時代状況が変わる中で、「社会教育」(学校教育もそうですが)の捉え方を変えていくことが必要だと思いますが、一度できた枠組みはそう簡単には変わりません。
いまだに、統治視点からの行政主導の「与える社会教育・与えられる社会教育」、「国民の意識を高める(国民教化)ための教育型の活動」が中心か、もしくは自分の趣味を広げる(つまりある意味での社会性を抑え込む)「生涯学習型の社会教育」になっているような気がしてなりません。
しかし、社会がここまで成熟し、人々の意識や生き方が変わってきている中で、そろそろそうしたあり方を見直し、むしろ方向性を反転させて、私たち生活者一人ひとりが主役になって、「お互いに学び合う社会教育」「まちや社会を自分たちで育てていく社会創造型の活動」にしていく段階に来ているのではないかと思います。
それは同時に、私たち一人ひとりの社会性や市民性を高めていくことでもあります。

そこで、3年ほど前に、「みんなの社会教育ネットワーク準備会」を友人たちと立ち上げました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2016/02/post-04b2.html
しかし残念ながら、その試みは挫折したまま、今もって動き出せずにいます。
ところが、社会教育の地殻変動は、現場では広がりだしているようです。
この本を読んで、大きな元気をもらいました。
その一方で、やはり改めて「社会教育」の捉え方を変えていくことの必要性を実感しました。
そこで一人でも多くの人に読んでほしいと思い、本書を紹介させてもらうことにしました。

さいたま市のある公民館の俳句サークルで選ばれた秀句が、いつもなら掲載されるはずの「公民館だより」への掲載を拒否されるという事件(2014年6月)は、覚えている方も多いでしょう。
その対象になった俳句は、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」。
その句が、「社会教育の政治的中立性」という理由で、行政から掲載拒否されたのです。
俳句の作者と仲間たちは行政に異議申し立てし、その支援者も広がりだしました。
しかし、市民と行政との話し合いは、うまくいかずに、訴訟にまで発展し、「九条俳句不掲載事件」として今なお争われているのです。
一審で敗訴した行政は控訴し、高等裁判所による控訴審の判決が、この5月18日に出されます。

俳句サークルの人たちやその応援団の人たちは、この数年、社会教育法をはじめ、さまざまなことを学びながら、「おかしなことをおかしい」と主張してきました。
問題を広く知ってもらうための公開イベントなども開催してきました。
新聞やテレビでも取り上げられましたので、湯島のサロンでも話題になったことはありますが、私は、そんな動きが広がっていることさえ知らずに、最近では忘れてしまっていたことを大いに反省しました。

本書は、こうした「九条俳句訴訟」事件のドキュメタリーです。
今月18日の高裁判決に合わせて緊急出版されました。
自治体から突然、理不尽な圧力を受けた女性たちが、それに抑えられることなく、正面から対峙し、公民館で住民が学び続ける意味を再確認するとともに、表現の自由を守る活動へと広がっていった経緯が、事件に関わったさまざまな人たちの「思い」も含めて、立体的に紹介されています。
本書から、この事件から見えてくる最近の日本の社会の「あやうさ」と、実践活動を通してのメッセージが伝わってきます。


原告作者は「もう70年前の様な時代に逆戻りは絶対ごめんです」と、2015年7月の提訴にあたっての呼びかけ文に書いています。
また、かつて公民館職員だった方が、ある事件に関連して、かつて社会教育と政治の関係について次のように述べていたことが紹介されています。
「私たちの生活に関する話題は、そのほとんどが政治にかかわることだといっても過言ではありません。政治にかかわる事柄が、政治的だという理由で公民館活動のなかで禁止されるとしたら、人間の自己教育活動としての社会教育は成立しなくなってしまうのではないでしょうか。」

まったく同感です。
俳句の掲載拒否の理由はいうまもなく『九条守れ』が問題視されたのです。
そもそも憲法を遵守しなければいけない行政職員が、憲法を守れということに否定的という、それだけも公務員の倫理責任に反するようなことが堂々とまかり通るようになっている現実は、変えていかねばいけません。
一人でも多くの人に本書を読んでいただきたいと思います。

6月には、本書をテーマにしたサロンを湯島で開催する予定です。
また、社会教育のベクトルを反転させた「みんなの社会教育ネットワーク」も、再挑戦しようと思い出しています。
共感して下さる人がいたら、ぜひご連絡ください。

なお、本書の目次は次の通りです。
その合間に、この問題から見えてくる重要な「キーワード」の解説もあります。

【第Ⅰ章】九条俳句不掲載一何が問題か?-
【第Ⅱ章】九条俳句不掲載損害賠償等請求事件の原告主張と地裁判決
【第Ⅲ章】九条俳句訴訟の争点と課題
【第Ⅳ章】社会教育施設の学びの自由を守るために
【資料】判決文(全文)/弁護団声明/九条俳句市民応援団声明

Kujou2


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2017/09/10

■カフェサロン「オランダの社会と教育」報告

湯島サロンへの初参加の方5人を含めて、多様な立場の人たちの14人の集まりになりました。
教育関係者も多かったですが、教育への関心の高さを改めて感じました。

折原さんは、10ページにわたるレジメをつくってきてくれました。
オランダの教育の実態を多くの人に伝えたいという折原さんの思いが伝わってきます。

折原さんがオランダの教育に着目した理由は、オランダの子どもたちが世界一幸せだということからだそうです。
2007年のユニセフの「子どもの幸福度調査」ではオランダは総合1位。
たとえば、子どもが「自分は孤独である」という項目でいえば、オランダは2.9%で最も低かったそうです。
ちなみに日本は29.8%で最も高かったそうです。
また、オランダでは90%の子どもたちが「学校が楽しい」と応えています。
だからと言って、いわゆる「学力」が低いわけではなく、「学力」も世界トップクラスなのです。
ちなみに、2016年の「生活満足度の格差」調査でも、世界の主要国の中で最も格差が少ないのがオランダでした。

オランダも1980年ころまでは「オランダ病」と言われていたように、経済も生活も問題を抱えていました。
子どもたちもハッピーではなく、出生率も1.5を割っていました。
日本と同じような状況だったわけですが、なぜ日本とは違った展開になったのか。
転機になったのは、政府と企業家と労働組合が一緒になって取り決めた「ワッセナーの合意」と言われるものです。
そこから「同一労働同一条件(同一賃金ではありません)」を基本にしたワークシェアリングが生まれ、人々の働き方や生き方が変わりだしたのです。

オランダの教育現場が変わったのは、そうした社会全体のあり方や人々の生き方の変化の上にあるのです。
その視点がないと、たぶんいくらオランダ詣でをしても役には立たないと思います。
折原さんはそうしたオランダの状況をていねいに説明した後、ご自分も参加された2013年のオランダの教育現場視察のDVDを見せてくれました。
映像から伝わってくるオランダの教育現場は、書物などで読む以上に現実感があります。
映像が終わった後、感動したというためいきが参加者から出るほど、日本の学校現場とは違うものでした。
私も学校の職員室が生徒たちも自由に集まれるカフェのような雰囲気なのに感動しました。
そこにオランダの学校の本質のすべてが見えるような気がしました。

紹介したいことは山のようにありますが、それは折原さんの本や論文、あるいは折原さんが紹介してくれた記録ビデオ『教育先進国リポート オランダ入門編』(監修リヒテルズ・直子)を見てください。
ちなみにビデオにはチラッと折原さんの姿も出てきます。

少しだけ私の印象に残ったことを書きます。
オランダの義務教育は5歳からだそうですが、4歳になると翌月から小学校に入学でき、
1年生のクラスに入って、5歳児と一緒に教育を受けられるのだそうです。
つまり毎月入学者がいるということです。
ここにオランダの人たちの基本的な価値観を感じます。

授業は一斉に教えるようなスタイルではなく、生徒一人ひとりに合わせて、寄り添いながら成長を支援し見守っていきます。
子どもたちの学びに接しながら、活動に偏りがないよう、必要最小限度のアドバイスをするのが、先生の役割だそうです。
個人別のプロファイルがしっかりと作られ、数字で評価するのではなく、その子の成長に役立つことが先生によってしっかりと残されていきます。
学びの場も窮屈な教室だけではなく、廊下さえもが学びとして使われます。
授業のスタイルは、日本のような一斉授業ではなく、数人のグループを基本に行なう個別教育です。
したがって、日本のような検定教科書はなく、学校が独自に選んだ教材を、一人ひとりの子どもの発達段階や適性、そして、特別のニーズに合わせて選びながら子どもに提供するそうです。
書きだしたらきりがないので、このくらいにしましょう。

話し合いでは、日本の教育現場との違いやなぜそういう教育がうまくいくのか、どんな人が先生になるのか、など、いろんな話が出されました。
これも紹介するときりがないので、私の意見だけを書いておきます。
私は、オランダの教育がうまくいったのは学校だけの話ではなく、その根底には社会や経済の変化とみんなの生き方の変化があったからだと思います。

よく言われるように、ワッセナー合意によって、オランダでは働き方への基本的な考え方が変わりました。
その結果、それぞれが自らの生き方に合わせて働き方を選べるようになった。
つまり「しなやかに働き、しなやかに生きる」ことができる社会になったのです。
自分の納得できる生き方ができることで、みんなが幸せになり、笑顔が増えてきた。
親やまわりの大人たちの笑顔が増えれば、子どもたちは精神的にも安定してきます。
しかも自らに会った学び方を支えてくれる仕組みがある。
そうなれば、子どもたちものびのびと学ぶことができ、当然、学校は楽しい場になり、学力も向上する。
私は、オランダの教育の成功は、制度の問題だけではなく、そうした大人たちの生き方に大きく起因していると思います。
働き方を自分で選ぶのと同じように、自分の子どもたちが通う学校もまた、自分たちで選ぶという文化が育っているのです。

「世界一子どもが幸せな国」の理由を知りたくてオランダに出向いて得た答は、「大人が、親が幸せだから、子どもも幸せ」だということだった、と「ワンモアベイビー応援団」の人たちは、その報告をまとめた「18時に帰る」という本に書いています。

親や先生が余裕なく働いている社会では、どんなに制度を変えても問題は解決しない。
私はそう思います。
一番の問題は、私たちの生き方なのではないかと思います。
ちなみにこれは、学校教育だけの話ではありません。
私は、さまざまな分野で活動している人たちとささやかな付き合いがありますが、私がいつも気になっているのは、このことです。

書いていたらきりがありませんね。
前回のサロンは、食を切り口に同じようなところに行きつきましたが、今回は学校教育から私たちの生き方に行きついた気がします。
学校が荒れているのではありません。
私たちの生き方が荒れているのです。
私も生き方を改めて問い直そうと思います。
そう気づかせてくれた折原さんと参加者のみなさんに感謝します。

なお、最後に折原さんは、リヒテル直子さんの「民主的シチズンシップ教育」についてのビデオも見せてくれました。
これはこれだけで大きなテーマになります。
これについては改めて別の形でサロンをやることを考えていますので、また案内させてもらいます。

Orihara


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