カテゴリー「教育時評」の記事

2009/08/27

■全国学力テストの正解に異議あり

4月に実施された全国学力テストの問題と結果が発表されました。
大阪では小学校の順位が上がったのに中学校の順位が上がらなかったので、橋下知事がまたひどい発言をしていました。
こういう人が日本の教育をだめにしていくのでしょう。
順位が上がることにどれほどの意味があるのか、

それはともかく、テレビで取り上げられた問題がとても気になりました。
NHKも民放も同じ問題(小学校用算数Bの3)を紹介していましたから、出所は文部科学省でしょう。
その問題は正解率が40%でした。
私は最初「正解」を出しましたが、問題を読んでみて、「正解」が正解ではないような気がしてきました。
みなさんはどう思われるでしょうか。
こういう問題です。

よう子さんたちは,港博物館に行くことにしました。
よう子さんたちは,バスに乗って港博物館に行きます。
このバス停には,午前9時40分に集合します。
港博物館までは,バスで20分かかります。
午前10 時20 分までに,港博物館に着くためには,午前何時何分に発車する予定のバスに乗ればよいですか。その時刻をすべて書きましょう。

そしてバスの時刻表が出ています。
時   分
6   10 40
7   10 40
8   10 30 50
9   10 25 45 55
10 10 25 45 55
11 10 30 50

「正解」はみなさんがお考えのように、9時45分と55分だそうです。
私も最初はそう考えました。
でもよく読んでみてください。
集合時間に集まった人たちが一緒にバスに乗るとしたら、という条件はどこにもありません。
もしかして、みんな9時20分に集まってしまったらどうするのでしょうか。
45分まで待っているのでしょうか。
あるいはみんなと一緒にバスに乗りたくないので、早目に行きたいという人はいないでしょうか。
私には条件が不十分だと思います。
多胡さんの「頭の体操」であれば、おそらく正解は9時55分の前のバスならどれでもいいということになるでしょう。
そして、実は正解率が低かったのは、そう答えた人が多かったからなのだそうです。

どう思いますか。
たぶん私が回答者だったら、そう答えて、但し、集合時間以後に限るのであれば、9時45分と55分だけと下にメモして置くでしょう。
わたしは、そういう素直でない子どもでした。
いえ、それこそが素直なことだと思っている子どもでした。
そしてその「良さ」は今もなお少しだけ残していると自負しています。
まあ言い方を変えれば、大人になりきれなかったということですが。

中学校では、答が一つしかないのはおかしいといって怒られました。
大学の政治学の試験には、問題の不適切さを指摘して優をもらいましたが、いまの大学では無理かもしれません。
通信教育では、採点されてきたものを逆採点して送り返して、受講をやめてしまいました。
考えを枠にはめるような教育やテストは断固拒否しなければいけません。

学校の成績と知的水準は別物です。
むしろ逆比例しているかもしれません。
私は、これでも学校の成績は良いほうでしたが、娘からは頭が悪いといわれつづけているので、最近はそうかなと思うこともあります。
この問題の正解率が4割だというのは問題だとテレビはいっていますが、こんな問題を出す文部科学省の官僚が問題なのではないかと思います。
きっと私以上に優等生だったのでしょう。
しかし、あまりにレベルが低すぎます。
いえ、こんなことを指摘する私のレベルが低すぎるのでしょうか。

国旗問題にしろ、最近の学校は活躍できる場がたくさんありそうなので、もう一度子どもになりたいくらいです。
学力テストは大幅に見直すべきです。
無駄どころか弊害が多すぎます。
儲ける人は少なくないでしょうが。

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2009/08/12

■先生たちがつくる奨学金制度と新しい無尽講

とても良い話を朝日新聞の夕刊で読みました。
深刻な不況の中、独自の奨学金制度をつくろうと、私立高校の教員が各地で事業団を立ち上げているのだそうです。
すでに北海道や熊本で設立、新潟でも計画が進んでいるといいます。
そして、生徒も加わって募金を集め、早いところは年末から無利子で貸し付けを始める計画だそうです。
大口の寄付を申し出る企業も出てきていると新聞に書かれています。

とてもうれしい動きです。
政治の世界でも奨学金の拡充や学費の無償化などが話題になっていますが、それとは全く違った意味で、私にはとてもうれしい動きです。
何がうれしいか。
問題を一番良く知っている現場のみんなが動き出したということです。
まさに「コモンズの回復」です。
10年以上前に書いた「コモンズの視点から発想の流れを逆転させよう」がようやく動き出したうれしさなのです。
世界を変えるのは政治ではなく、こうしたコモンズのかぜなのだろうと思います。

何回かここでも書いていますが、保険法の改正により、日本古来の「共済の文化」が壊されてきているなかで、こうした動きが出てきたことに大きな希望を感じます。
日本にはまだ「ケアコミュニティ」の文化がしっかりと残っているようです。

実は私も最近、ささやかな「無尽講」をつくれないかと思い出しています。
幸いに私はお金持ちではありませんので、その必要性を実感できます。
みんなが可能な範囲で、少しずつお金を出し合って、コモンズ基金をつくり、メンバーの誰かが必要な時に無担保で活用できる制度があれば、と思うことがあります。
それを少し考えてみようと思い出しています。
コモンズ通貨(ジョンギ)で構想したこともあるのですが、中途半端に終わってしまい、メンバーには迷惑をかけてしまいましたので、今度はそうならないようにしなければいけません。

まずは周りに呼びかけて、毎月1万円程度を積み立てる無尽からはじめてもいいのですが、最近の私の状況では、集まったお金を使い込んでしまう惧れがありますので、ちょっと躊躇しています。
どなたか使い込む気のない人で、胴元をやってみようという人はいませんか。
関心のある人は、ご連絡ください。
秋には、これをテーマにした「支え合いサロン」も開催する予定です。

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2009/03/14

■「対立」から価値を創発させる第三者の役割

先日、東京で行われたあるシンポジウムに参加した人たちと会ったら、NPOの人たちはとてもいい活動をしてくれているのだが、現場で活動している自分たちにはどうも違和感があると嘆いていました。
その言い方の後ろに、たくさんの思いがあるのを感じて、改めて当事者たちの活動を外部から支援することの難しさを感じました。

多くの場合、現場外の活動をしている人たちも、善意で真剣に取り組んでいますから、良い関係ができるといいのですが、おそらく現場で見える風景とマクロ的な見地から見えてくる風景はかなり違っているのでしょう。
だからこそ、それぞれの取り組みに価値があるわけですが、そのつながり方が難しいようです。
どうしても現場よりも、マクロ的に活動するほうが大きな力を得やすいからです。
現場をどう支援できるのかが、マクロ的に活動する人の基本姿勢でなければいけません。
それさえ忘れなければ、マクロ的な視点での活動は、必ず現場を力づけることになるでしょう。

しかし、時に現場の人たちを邪魔したりすることも起こります。
たとえば、都立七生養護学校「こころとからだの学習」事件です。
新聞でもかなり大きくとりあげられましたので、ご存知の方が多いと思いますが、知的障がいを持つ子どもたちの養護学校で教員たちが創意工夫を積み重ねて行っていた性教育の実践が、東京都の都議会議員や教育委員会の介入によって壊滅に追い込まれ、教員が大量処分されたという事件です。
詳細については、「こころとからだの学習」裁判支援サイトをご覧ください。
この事件については、私自身はあまり関心をもっていなかったのですが、友人から話を聞かされて、その意味を改めて考えさせられました。
私が一番残念だったのは、都議会議員の言動ではなく、その際にも同席していた教育委員会のその後の行動です。
新聞によれば議員の攻撃が起こる前までは、七生養護学校の事例は高く評価されており、東京都教育委員会でも、そこの教員を講師に招く研修会も開いていたそうです。
議員の介入が行われた後は、態度が一変したといいます。
現場の人たちが営々と築き上げてきたものを「権威ある部外者」が壊してしまうことは少なくありません。
そして、それを守る人が最近はめっきり少なくなってしまいました。

ゼロか100か。
「権力ある人」が、ある判断をすると、とたんにみんな言動を豹変させる状況が急速に社会を覆いだしています。
いずれの側に対しても、当事者とは違った視点で評価できる「第三者」がますます必要になってきているように思いますが、そうした「第三者」がいなくなりだしているのです。
それでは社会はもろくなってしまいます。
社会をもろくしないためには、第三者の存在を大事にしていくことが大切です。

これからはそうした「対立」をつなぎ、そこから新しい価値を「創発」する存在を増やしていかねばなりません。
そういう人こそが、これからの時代を造りだしていく人だろうと思います。

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2009/01/30

■中谷巌教授の懺悔がもし本物であれば

先々週、私が関わっているコムケア活動というNPO関係の人を中心にした集まりをやりました。
その報告はCWSコモンズ(ホームページ)のほうに書きましたが、
群馬から参加してくれた方が帰り際にこういいました。
NPOの集まりでは、どこから助成金をもらおうかとかいうお金の話がよくでるのに、コムケアの集まりってそういう話が全く出ないのでホッとします。

お金を基準に考えるのは企業だけではありません。
今のNPOの多くは、NPOの「有識者」たちの指導を得て、補助金をどう確保するかにばかり気がいっています。
そのことをコムケアのメーリングリストに投稿しました。
そうしたら、よく知っている人からこんなメールをもらいました。
私だけにとどめておくのはもったいないので、一部を紹介させてもらいます。

長年私学に勤めていましたが、助成(私学助成)は私学の教育を縛るもので、本当に良い教育をしようとすると、助成金は減らされることになるんです!
だから日本では本当に良い教育をしようと考えるなら私学助成に頼らないことを考えるしかない。
私は一時期「榛名山麓みどりの大学」構想を打ち出し、大学設立を考えていましたが、真っ先に考えたことは私学助成を必要としない・・・計算に入れない大学を構想していました。ホントの教育をするためでした。この計画は見事に破綻しましたが、今でもこの考えは変わっていません。
NPOを始めて、色々な企画を立ち上げたり構想したりしてきましたが、やはり助成を受けようとすると本当にやりたい・・・必要と思われる活動を薄めて助成団体の意向に沿う企画を作成するしかない。
それをしても助成を受けられるとは限らない。
今では助成金を受けることは念頭外に活動を考えています。
助成を受けるのではなく、同感していただける方々からの寄付を受けられることを中心に考えています。
「榛名山麓みどりの大学」構想。
以前、ホームページでご紹介しましたが、惚れ惚れするような構想です。
同じように、学びたい人たちがみんなで資金を出し合って学びの場を創ろうというプロジェクトも、日本構想学会で話題になったことがありますが、これも残念ながらストップしています。
情報発信力のある教育関係者たちの数名が、本当にその気なれば、いずれもできないことではないはずです。

いま日本の経済政策を主導してきた一人の中谷巌さんが、自らの間違いの気づき懺悔を始めたのが話題になっています。
中谷さんたちのやり方にはかなり学者仲間でも批判がありましたし、ましてや日本の企業経営や経済を少しでも学んだ人から見れば、馬鹿げた発想だと思いますが、今でもその発想に疑問を持たない人が少なくないのが驚きです。
中谷さんたちの影響力は絶大だったわけです。

中谷さんの懺悔は、何をいまさらという気がしますが、その勇気は評価したいと思います。
しかし、ただの懺悔で終わるのではなく、「榛名山麓みどりの大学」構想のような本当の学びの場づくりに取り組んでほしいと思います。
それがなければ、懺悔もまた時流に乗ったパフォーマンスでしかないことになります。

今こそ、しっかりした「学びの場」が構想されなければならない時代になっています。
「榛名山麓みどりの大学」構想がまた動き出すのを期待しています。
どなたかポンと私財を出す人はいないでしょうか。
たかだか数十億で、日本を支える人材が育てられるのですから、安いものです。
中谷さんは出してくれないでしょうかね。
一応、依頼の手紙を出す価値があるかもしれませんね。

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2008/12/02

■黄柳野高校はなぜこうなってしまったのか

愛知県新城市の黄柳野(つげの)高校(全寮制)の学生寮に喫煙室が設置されていたことが大きな問題になっています。
校長は書類送検されましたが、記者会見で「話し合いで指導しきれなかった。法令違反と認識しているが、このような方法しか考えられなかった」と述べたといいます。
ちなみに、その喫煙室は「禁煙指導室」だったそうです。
こうした発言に対して、喫煙をやめさせる方法が考えられなかったのであれば校長を辞めるべきだったと、テレビではかなり厳しく批判されています。

黄柳野高校設立のことを知った時は感激しました。
協同総合研究所の機関誌で、その経緯を知ったのです。
学校から締め出されて、行き場のない子どもたちを受け入れる全寮の学校を「市民立」でつくろうという、そのプロジェクトは、新しい学校の歴史の始まりを予感させるものでした。
1990年に設立準備委員会が発足し、全国に募金の呼びかけが始まりました。
岸田今日子や永六輔などもチャリティに協力し、予定よりも1年遅れましたが、1995年4月、開校しました。
詳しいことはもう忘れていますが、当時は私にとって、「きのくに子どもの村学園」と並んで、新しい学校のモデルでした。
全寮制で、子どもたちの個性を伸ばしていく教育を目指していたはずです。
しかし、その後、あまり名前を聞くこともなく、いつの間にか忘れてしまっていました。
それがこんな形で話題になるとは、とても残念な話です。

日本の高校がどのくらい荒れているか、それは想像を絶しているようです。
私にも高校の先生をしている友人が何人かいますが、その人たちの話はすさまじいです。
ですから、私はその校長先生をとがめる自信はありません。
それにさまざまなひずみや問題を一身に背負っていたのかもしれません。
もちろん「禁煙指導室」が喫煙室になっていたことは批判されるべきでしょうが、問題はそんなに簡単だったのかどうかです。
すべてを教師の責任にはできませんし、喫煙がすべてではありません。
高校の時に酒や煙草を経験していたと、悪びれることなくテレビで発言しているタレントや有名人こそ、断罪されるべきでしょう。
いやそれ以上に、今も路上喫煙している大人たちだって糾弾すべきです。
酒を飲んで周りに迷惑を与えている大人たちも、私には許しがたい存在です。

学校の現場で、どれほど先生たちは苦労しているか。
それを思うと、事はそう簡単ではないような気がします。
それにしても、市民立の最初の高校が、こういう結果になってしまったことがとても残念です。
喫煙問題の奥にある、もっと大きな問題に目を向けて行かなければいけないような気がします。

私にとってのもう一つの「希望の星」だった、きのくに子どもの村学園のほうはどうなったのでしょうか。
最近、ある人から、ここもちょっとおかしくなっているようだと聞きましたが、本当でしょうか。
どなたか最近訪問した方があれば、印象を教えてくれませんか。

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2008/11/27

■「学校を辞めます」

経緯は忘れてしまったのですが、「学校を辞めます」という、1冊の本のことを知りました。
著者の湯本雅典さんは、1昨年まで、東京都の公立小学校の教員でした。
51歳で自主退職しました。
その年、東京では新入教師が2人自らの命を絶ったといいます。
湯本さんも、ぎりぎりまでがんばったのですが、辞めることになりました。
そして、私塾「じゃがいもじゅく」を始めました。

この本は、そうした湯本さんの記録です。
しかし、現在、小中学校の実態や子どもたちの状況が生々しく伝わってきます。
私は、この本を読みながら、怒りではなく涙が出ました。
先生を信じない父母や有識者が、行政と一緒になって、子どもたちを壊しているように思えてならないのですが、それは怒るべきことではなく、悲しむべきことでしょう。

3年ほど前に、自治会長の立場で、地元の学校評議会的な集まりに参加しました。
先生方が萎縮しているような感じで驚きました。
一部の父母と管理側の教育委員会が、たぶん学校を壊し、子どもをいじめているのだろうなと思いました。
しかし、結局、私自身は子どもがもう大きくなっていることもあり、何もできませんでした。
先生には手紙や意見や資料を送りましたが、反応はありませんでした。
たぶん私もうるさい父母と同一視されたのでしょう。

共通テストや管理主義のことは、このブログでも書いたことがあります。
しかし、今回、現場にいた先生の言葉として、ドキッとしたのは次の文章でした。

現在の教員の悩みベスト1は、保護者への対応である。
まさに前に参加した集まりで受けた、私の印象もそうでした。
湯本さんは、こう続けています。
今の学校は、教員が子どものことで悩むことが充分にできない状態にある。マスコミなどが、子どもや保護者が変わったという議論をしきりに流しているが、子どもや保護者が変わったのではない。国の教育行政が大きく変わったのである。
20年前、会社を辞めたころ、小中学校を変えていかなければ社会は変わらないと思い、少し子どもの教育の問題に関わろうと思ったことがあります。
学校を壊し、先生たちの私塾をどんどん作っていったらどうかと思っていました。
学校に子どもたちを合わせる時代は終わり、多様な個性を持った子どもたちに合わせた学びの場を創っていくのが、成熟社会の教育のあり方だと思ったのです。
しかし、とても私の手に負える問題ではありませんでした。
その後、きのくに子どものむら学園の話を聴いた時には感激しました。

ぜひ湯本さんのブログを読んでみてください。
そして興味を持っていただけたら、この本を読んでみてください。
次の更新時に、私のホームページのブックのコーナーでも紹介させてもらうつもりです。

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2008/11/19

■現場の声にこそ歴史を変える力がある

神奈川県立神田高校が入試で服装や態度がおかしい受験生を不合格にした問題で、同校の校長が現場を外されてしまいました。
それに対して、生徒や卒業生、父母、神田高校をよく知っている人たちから、学校現場への復帰などを求める嘆願書が県や教育委員会に出されました。
卒業生や父母が中心になって、駅前での署名運動も行われ、3000人を超す署名が集まっているそうです。

事の良し悪しは現場を知らない者として、軽々に判断できませんが、一部の高校の状況を友人の高校の先生から聴いていますので(彼も果敢に改革に取り組んでいます)、事の大きさはよくわかります。

それはともかく、今回、とても感激したのは、現場の人たち、つまり生徒や卒業生、あるいは父母や地域の人たちが声を上げたことです。
新聞やネット記事を読む限り、同校の先生たちが声を上げていないのがとても気になりますが(批判するつもりはありません。理由は推測できますので)、当事者が異議申し立ての声をあげていく文化がまた少し動き出してきたことを知って、とてもうれしく思います。
20世紀の後半に高まるかに見えた、「異議申し立て」の動きは、その後の経済成長主義に絡め取られてしまい、無残にも現場を軽視する時代が広がってしまったことに、失望していたからです。

学校のことは学校現場の人が一番良く知っています。
地域のことは地域の住民が一番良く知っているのと同じです。
住民から市民へ」などという、現場を具体的に知らない「有識者」たちの標語に騙されてはいけないと、私は思っています。
ですから、どんなに綺麗に語られようと、「関さんの森」騒動のような事件には疑問を感じてしまうわけです。

在校生からも「校長先生を戻してください。これは生徒みんなの願い」(1年女子)という声があったそうです。
どんな理屈よりも、こうした現場の人の声に迫力を感じます。

「レストラティブ・ジャスティス(Restorative Justice」という言葉があります。
日本語では、損害回復的正義とか修復的司法とか訳されています。
いまのところ、日本では主に刑事司法の分野で広がっている考え方です。
私は、もっと広義なパラダイムだと受け止めています。
提唱者のハワード・ゼアもそう考えているように思います。
この考え方は、関係の強い当事者同士がしっかりと向き合って話し合うことで、問題が解決するだけではなく、状況がさらに前に向かって改善されていくというものです。
司法時評で一度きちんと書こうと思っていましたが、忘れていました。
しかし、今回の神田学校事件で、思い出しました。
長くなるので、改めて書くことにします。

ちなみに、私はRestorative Justiceを「共創的正義」と訳しています。
私の言動の基本パラダイムは「共創」なのです。
「コモンズの共創」が私の関心事であり、同時に「コモンズとは共創のプロセス」だと、最近考えるようになっています。
一生に1冊だけ本を書きたいと思っていました。
そのタイトルは「コモンズの回復」です。
だいぶ中身が見えてきましたが、どうも今世では書けそうもありません。
来世に先延ばししようと思っています。
こまったものです。

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2008/11/09

■公立の小中学校での数値目標を掲げた「マニフェスト」

今朝の朝日新聞のトップ記事は『『公立小・中が「学力公約」』という見出しです。
リード部分を引用させてもらいます。 

「自治体の学力調査で正答率を95%に」(小学校)、「3年生の60%が英検合格」(中学校)。公立の小中学校で、数値目標を掲げた「マニフェスト」が広がっている。学力向上を求める声が保護者に強まったことが背景にあるが、子どもや現場の教員にプレッシャーがかかり、教育は変質しないか心配する声もある。
荒川区立校の主なマニフェストも例示されています。
驚きを感じますが、こうしたことを本当に保護者の多くは求めているのでしょうか。
どこか違うような気がします。
なかには「不登校・いじめをゼロにする」という目標もありますから、すべてが「学力公約」ではありませんが、これにしてもちょっとおかしい気もします。

学校とは何なのか、教育とは何なのかが、問われるべきではないかと思いますが、そうした議論はあまり聴かれません。
数年前に自治体に広がった「行政評価」を思い出します。
あれで何かがよくなったでしょうか。
数値目標などに依存することは管理しやすくはするでしょうが、問題はあまり解決しないように思います。
教育は、特に数値にはなじみにくいものです。

テレビでタレントたちが、ものを知らないことを競い合う番組が増えていますが、そうした番組を見ると、私ももう少しは知識を学んでほしいとは思いますが、知識を覚えることが目的ではないはずです。
もっと大切なことがあるような気がします。
学校がますます子どもに居心地の悪い場にならなければいいのですが。

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2008/10/14

■「教育の政治からの独立を犯すもの」

先日書いた橋下知事の教育観を読んだ大阪の方からメールをいただきました。
私だけではもったいないので、皆さんにも読んでほしいと思い、お願いして引用させてもらうことにしました。

私の見立てでは、橋下知事に教育観というものはないと思ってます。
自分が知事をしている大阪が、全国学力調査で下から数えた方が早い位置にいる。
ただそのことを攻撃して、喝采を浴びたいという所ではないでしょうか。

しかし、知事の予算編成権を盾に、府下市町村に情報を開示するよう圧力をかけるやり方は、明らかに教育の政治からの独立を犯すもので、不当と断じるべきでしょう。
そのことを理解していないのが、彼の教育に対する理解の程度を表しているのでしょう。
しかしそれにしても、知事に対して白旗を揚げているような、府教育委員会はひどい有様です。
まあ、権力の中の一機関としては仕方ないということなんでしょうけど、こんな事が咎められないなら、戦後教育の基本原理はいったい何だったんでしょうか。

彼は批判されるたびに、「私には880万人の支持がある。」と言います。
大阪のある市では、財政削減をめぐって知事を批判した市長の映像がテレビで流れた次の日、その秘書課に全国から非難の電話がかかって来て、一日中仕事にならなかったという話を聞きました。
確かに彼にはまだ支持がある。
橋下氏はテレビに出ている高名な弁護士で、弁護士は正義の味方である。
その橋下氏を、非難するとは何ゴトゾということでしょうか。

物事をきちんと理解せず、気分や思い込みで行動する人が多いのです。
こういう人々に支えられた権力もあるということです。困ったことです。

教育に関して言えば、大阪の教育が決して他に比して自慢できるとも思っていません。
学校である以上、学力をきちんとつける教育をすることは最低限必要なことです。
大阪ではそのことが、ついいい加減にされている一面があることは事実でしょう。
しかしだからといって、点数としての学力向上に血道を上げるのは間違っていると思います。

大切なことは、学力とは何かという点をめぐるきちんとした議論であり、保護者も教師も教育委員会もその点で一致する考え方を見いだすことでしょう。
そして、問題を解決するための具体的手段を見いだしていく。
その手間を惜しんで、学力調査の結果を追い求めるようなことになれば、一番の被害者が子供たちということになるように思います。

今、振り子は揺れています。
時間をかけてどこに落ち着くのか。
不安を抱きつつも、世論というものの公平さに期待をしたいとも思っています。

とても共感できます。
「保護者も教師も教育委員会もその点で一致する考え方を見いだす」ためにこそ、議論をする時期です。
私も、世論というものの公平さに期待をしたいところですが、最近はどうも不安の方が大きくなってきてしまっています。
マスコミのレバレッジ効果はものすごいとともに、それに乗っかることの居心地のよさもかなり大きいですから。

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2008/10/12

■橋下大阪府知事の教育観

マスコミ報道に振り回されて、人の評価をしてしまう悪い性癖が私にはあります。
ですからちょっとした事件で、人への評価が反転してしまうことがあります。
このブログでも評価が反転した人が何人もいますので、私の人を見る目は全くもって信頼できません。
ただし、自分が直接付き合っている人に関しては、先ずそういうことはありません。

最近、評価が反転したのが大阪の橋下府知事です。
テレビで見ていた時の橋下タレントには全く興味がなく、むしろ好きになれないタイプでした。
しかし、知事になってからの言動には共感できました。
ところが最近の橋下知事には、「おまえもか、ブルータス」という気分です。

事の発端は、クソ教育委員会発言です。
まさか彼が全国学力テストの結果公表の圧力をかけているとは思ってもいませんでした。
その一事だけをもって、私の彼への信頼感は反転しました。
大阪の財政立て直しも成功しないように思われてきました。
相変わらず論理的でない話ですが、学校をだめにし、子どもたちをだめにし、社会をおかしくしたのは、単一基準での点数競争を煽り立てる権力を背景にした管理教育です。
それは私から見れば、人間観が間違っているのです。
人間観が間違っていれば、私とは違う社会を目指しているに違いありません。

教育関係者のフィンランド詣でが盛んだった時期がありますが、、
みんな何を見に行ってきたのでしょうか。
橋下さんも一度行かれたらどうかと思います。
教育とは機械部品を作ることではありません。
今日もまたボーン・スプレマシーをテレビで見てしまいましたが、あの映画のモデルは日本の教育なのでしょうか。
これまた論理的ではない推察ですが。

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2008/09/09

■弱いものをいじめる社会のさびしさ

昨日のテレビニュースでの若の鵬の謝罪会見は見ていてつらかったです。
家族や友人と離れて外国で暮らす20歳の若者を、みんなで駄目にしてしまっているような気がして、しかもそのダメにしている側にいる自分が、なんともやり切れませんでした。
白露山と露鵬も解雇されましたが、この若者たちもたぶんわけのわからないままに人生を踏みにじられたような気がしているかもしれません。
大麻を吸ったかどうかは、私にはわかりませんが、もし吸ったとしてもなんだか私たちが吸わせたような気がしてなりません。
彼らの気持ちを少しでも考えてやる人がいれば、心も休まりますが、関係者はみんな「科学万能主義者」ばかりで、心を感じさせません。
なぜ彼らの心を汲み取れる人がいないのでしょうか。
弱いものいじめはいい加減にしてほしいものです。
飲酒運転をして事故を起こすことに、これほど寛容な社会が、なぜ今回はこれほど冷酷なのか、私には理解できません。

大阪では橋下知事が、「クソ教育委員会」とまたひとも揉めしているようですが、学校の教育力も問題ですが、それ以前の問題として、教育のあり方自体が問われるべきなのかもしれません。
教育のあり方とは、つまるところは社会のあり方です。
教育委員会に、なぜ自己反省の動きが起きないのか不思議ですが、まあ北の湖前理事長と同じく、自分のことは見えてこないのでしょうか。

その明らかな証拠が、大分県の教育委員会です。
自らが犯罪(不正合格に加担もしくは黙認)を行いながら、被害者(合格した教師)を犯罪者に仕上げる姿勢は、まさに弱いものいじめです。
それが最近の学校教育の実態なのでしょう。
不正に合格させたことのない教育委員会が、日本のどこかにあれば教えてほしいものです。

昨日のテレビを見ていて、日本は弱いものいじめの社会になってしまったような寂しさを感じました。
私が子どもの頃は、反対でした。
弱きを助け、強きをくじく、のが奨励されていたように思います。
そういう文化はどこにいったのでしょうか。

教育というのは、いったい何なのか。
私たち一人ひとりの生き方こそが、教育の出発点であることを忘れたくはありません。

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2008/09/03

■不正に合格したのか、不正に合格させたのか

先日書いた大分の教員採用不正事件に関連して、動きが全く変わってこないのでしつこいですが、もう一度書きます。
辞表を出さずにがんばっている教員の方を応援したいです。

今日のテレビでも「不正に合格した教員」という表現がされていますが、それは正しい表現なのでしょうか。
私は「不正に合格させた資格審査関係者」と言うべきではないかと思います。
もしそう考えれば、合格した教員は「不正」とは無縁で、胸を張って教員を継続すべきですし、その資格を剥奪する権限など、あるはずもありません。
教育委員会の責任者はすぐに辞表を出すべきですし、その周辺の人たちも辞任すべきでしょう。
文部科学省も無縁ではないはずです。
教育委員会や監督官庁、あるいは採用決定に関わった人たちは、教員を辞めさせるのではなく自らが辞めることを考えるべきです。
問題の設定を間違えると、解決策は当然おかしなものになり、問題は継続します。
福田首相が見事にお手本を示してくれている通りです。

マスコミは、もっと言葉遣いに気をつけてほしいです。

関連していえば、相撲界の大麻検査陽性事件の報道も言葉遣いが全く不誠実です。
最初の報道と今日の報道を読み比べると、そのおかしさがよくわかります。
マスコミの表現一つで、人の人生を一変させることができることを、もっと自覚すべきです。
新聞やテレビが、最近は「おぞましく」感じます。
まあ、疑いをかけられた力士の親方の発言もひどいものですが。

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2008/09/02

■教員採用不正事件に関する大分県教育委員会の鉄面皮な犯罪

最近の様々な事件には、分野を超えて何か奇妙な相似性があります。
昨日の福田首相の辞任は、まさにその象徴のよう事件でしたが、記者会見を聞いていて、いつもは腹立たしく見ているタレントの無知のひけらかし番組以上のやりきれなさを感じました。
一生懸命生きているのが、虚しくなるほどの憤りを感じます。

昨日、書こうと思っていたことを今日は書きます。
大分県の教員採用不正事件に伴う教師への対応です。
これにも大きな怒りを感じます。
私の怒りの対象は、解雇宣告された教師ではありません。
それを決めた大分県の教育委員会です。

たとえば昨日の朝日新聞には「今年度の教員採用試験で、得点改ざんにより不正に合格したとされる教員21人の採用取り消しを決めた大分県教育委員会は31日、自主的に退職するかどうかの回答を9月3日までに求め、退職しない教員は5日をめどに採用を取り消す方針を明らかにした」と、昨日の朝日新聞は報道しています。

どうも私には理解できません。
教員が「不正合格」したのではなく、教育委員会が「不正合格」させたというべきです。
加害者と被害者の関係が逆転しています。
合格した人たちに、何の罪があるのでしょうか。
自分の知らないところで、不正が行われただけなのに、なぜ「不正」と非難されなければいけないのか。

それに権威あるところが、一度、合格させたのであれば、それは当事者に不正がなければ、取り消しはできないはずです。
契約を何と心得ているのでしょうか。
このやりかたがビジネスや日常生活にも適用されれば、社会は維持できなくなるはずです。
一度決めた合格を当事者には無縁の理由で一方的に取り消すことは、まさに「不正」であり「犯罪」です。
大分県の教育委員会は、二重の犯罪を重ねています。
この構図も、最近の政治や行政、企業に見られる共通の構造です。

でも試験に合格する得点を得ていないのだからと言う人がいるかもしれません。
そういう人には問いたいのですが、試験の点数がそんなに大事でしょうか。
試験の点数で教育が出来るのであれば、コンピューターに任せればいいでしょう。
それに試験の点数が良くて、出世した人が、何をやっているか良く考えましょう。
優等生は、首相になれても国政などできないことが、この数年、いやと言うほど知らされたのではないでしょうか。
官僚も、企業人も、試験の点数で選んできたために、みんなおかしくなっているのではないかとさえ、私は思っています。
知識や試験が不要だというのではありません。
現在の試験で問われていることの内容がおかしいと思っているのです。念のため。

しかも大分県の教育委員会のやり方は「いじめ」のようなやり方です。
先ずは自分たちが辞職すべきでしょう。
親や関係者を断罪すべきでしょう。
相手を間違ってはいないでしょうか。
被害者は生徒と先生です。

資格試験は利権に繋がっています。
大分のみならず全国で、多かれ少なかれ抗した「不正」は行われているでしょう。
そして、たぶん多い他のようなやり方で、本当の加害者はいつも安泰なのでしょう。
ほんとうにやりきれない話です。

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2008/08/14

■梨は秋を感じて熟しだすのです

妻が大好きだった近くのすぎの梨園に、新盆のお供え用の梨を分けてもらいに行きました。
そこで杉野さんから、とてもいい話をお聴きしました。

「梨は秋を感じ出さないと熟さないのですよ」
今年は昨年よりも収穫が遅いですねという、私の質問への答は意外なものでした。
梨の実が秋を感ずる。
現場の人でないと出てこない、生きた言葉ですね。
今年は暑すぎて、梨もなかなか秋を感じなかったようです。

普通は、市場に合わせて、ホルモン剤などで熟す時期などを早めたりすることもあるそうですが、杉野さんのところはそれを一切していないのです。
人間の都合に合わせるのではなく、梨の生き方を大切にしているのが、杉野さんの哲学なのでしょう。
それはまさに日本古来の「自然と共にある生き方」です。

そういえば、この数日、暑さは一向に和らぎませんが、朝晩の空気に秋を感ずるようになりました。
梨はそうしたことを敏感に感ずるのでしょう。
私たち人間も、以前は梨のように季節を感じながら、豊かに生きていたのでしょうね。
しかし、いまや、梨ほどにさえ、自然を感じていない生き方になってしまっています。
持続可能性とか環境意識とか偉そうなことをいう前に、梨のように自然と共にある生き方を回復することが大切ではないかと、気づかされました。

杉野さんは、きっと梨とも話ができるのでしょうね。
最近の若者たちはコミュニケーション能力がなくなったと大人たちはよくいいますが、私が体験して限りにおいては、コミュニケーション能力がないのは大人たちです。
若者たちに不足しているのは、コミュニケーション能力ではなく、コミュニケーション体験です。
自然と切り離された生活環境で、コミュニケーションの相手がいないのです。
なにしろ周りにいる大人たちはコミュニケーションしてくれませんから、若者たちのコミュニケーション能力は発揮されることもなく、逆に押さえ込まれてしまっているのが実情のように思います。
本当は、梨のように自然とコミュニケーションする能力を子どもたちは持っています。
それは生物が持っている本来的な能力だからです。
それを押さえ込んでいるのが、もしかしたら今の教育かもしれません。
あるいは今の子育てかもしれません。

私も梨に見習って、もっともっと自然と共にある生き方をしようと反省しました。

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2008/04/01

■学校教育への税金投入が少ないわけ

昨日、教育関連のことをちょっと書きましたが、そこでタレントの大竹さんが「日本は国家財政での教育関係の歳出は少なく、家計での教育投資は大きいのが問題」だというような話をしていました(不正確かもしれません)。
教育再生がずっと問題になりながら、日本の国家予算の教育への配分は、先進国の中では最下位のグループのようです。
国家財政の配分構造を見るとその国の実態や先行きが見えてきます。
日本が明治維新を成功させ、急速な近代化を進められたのは、教育投資のお陰だと思いますが、なぜ戦後の日本では学校教育への予算配分が少なかったのでしょうか。
是も昨夜のお風呂の中で思いついたことですが、その原因は、日教組と文部科学省の対立構造が影響していたのではないかと言うことです。
つまり学校が、国家の管理を離れてしまったがゆえに、教育予算は増やさなかったということはなかったのでしょうか。
このことは、学校のガバナンスの問題、あるいは学校のミッションの問題にもつながっていきます。

先の日教組大会会場拒否事件日の丸君が代事件に見るように、まだその発想や構造は続いています。
文部科学省の官僚にとっては、学校は憎い敵に占拠されてしまっていた存在だったのかもしれません。
それを取り戻すために、彼らは日の丸や君が代、あるいは愛国心に、異常に執着しているのかもしれません。
政界はそれに加担することはいうまでもありませんが、かくして学校は教育の場ではなくなってしまったわけです。
象徴的に言えば、宮崎県の場所など教えないほうがいいのです。
よけいなことを教えれば、知恵が生まれて、権力に反発してくるからです。
いささか大げさで、過激に聞こえるでしょうが、そうした意識がどこかにあるのかもしれません。
最近の都知事の言動に見るように、自信のない人は過剰攻撃するものです。

お金持ちは、公立の学校とは別の所で子供を学ばせますが、そういう構造の中では、公立学校の教育内容は全く違うものになっていきます。
つまり民の学校とは、管理に唯々諾々と従う意識を植え付ければいいのです。
なんだかどんどん過激になっていきますね。
誤解されそうですのでやめますが、こういう構造は格差社会と深く関わっています。

お風呂の中ではもっとやわらかく考えていたのですが、1日たって、パソコンに向かうと発想が先走ってしまいます。
最近、どうも社会への苛立ちが強くなっているのです。

いずれにしろ、学校教育は社会のあり方を決めていきます。
この世界こそ、政府や官僚に任せずに、NPOが真剣に取り組むべきテーマかもしれません。

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2008/03/31

■イラクや宮崎の場所がわからなくても生きていけるか

テレビの番組で教育論議をやっていました。
たまたまその番組を見たら、「イラクや宮崎の場所もわからない子どもが増えているような教育は問題がある」というような発言に対して、「イラクや宮崎の場所がわからなくても生きていける」という反論が行われていました。
入浴する直前だったので、そのやりとりしか見ていないのですが、風呂につかりながら、ちょっと気になりだしました。

たしかに、「イラクや宮崎の場所がわからなくても生きていける」でしょう。
しかし、その人生と、イラクや宮崎の場所を知っている人生とは、明らかに違う生き方なのだろうと思います。
義務教育といわれる小中学校の教育は、その人の生き方を大きく規定していくでしょう。
どちらの生き方を前提に、カリキュラムが組まれるかは将来の社会のあり方を方向づける重大な問題です。
大げさかもしれませんが、この議論には「教育の本質」「子育ての本質」が含意されているような気がします。

「イラクや宮崎の場所がわからなくても生きていける」生き方が、いまや主流になっているようです。
学校がおかしくなりだした原因は、こんなところにあるのかもしれません。

私は、やはり「イラクや宮崎の場所がわからなくては生きていけない」ような生き方をしたいと思っています。
みなさんはどういう生き方を望みますか。

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2008/02/02

■日教組集会をつぶした無法者グランドプリンスホテル新高輪

信じられない話ですが、日教組が主催する教育研究全国集会の全体集会が、会場が使えなくなったために、中止になりました。
この事件は、とても大きな意味を持っていると思いますが、マスコミはあまり大きな意味を感じていないようです。
「会場をいったん引き受けていた東京のグランドプリンスホテル新高輪が、右翼団体の街宣活動によって他の客や周辺の地域に迷惑をかけるといって、断った」(朝日新聞社説)結果ですが、
これには報道されているように経緯があります。
日教組は昨年5月にホテルと会場の契約をし、7月には会場費の半額を払ったそうです。
しかし11月になって、ホテル側は上記の理由で日教組に解約を通知しました。
東京地裁と東京高裁が日教組の訴えを認め、会場を使わせるよう命じたにもかかわらず、ホテルはそれを無視し、同じ会場を他の企業に貸してしまったのです。

繰り返しますが、信じられない話です。
偽装問題どころの話ではなく、もっと重大な犯罪です。
契約が無視され、裁判所の命令も無視されました。
経済のルールも政治のルールも無視されたのです。
これはもう立派な犯罪です。しかも極めて悪質だと思います。
もし犯罪として扱われないのであるとしたら、日本はもはや法治国家ではないということになります。

経済のルールを無視されて、財界はなぜ動き出さないのでしょうか。
教師たちの集まりを妨害されて、文部科学省はなぜ動かないのでしょう。
言論や表現の自由が侵されそうなのに、なぜマスコミはもっと早くから取り上げなかったのでしょうか。
右翼の示威行動に警察が無力なのは、なぜでしょうか。

問題はそれだけではありません。
この集会は、各地の教師が集まり、教育にかかわる様々な問題を話し合う場です。
教育が重要だと言っている人たちは、どう考えているのでしょうか。
日教組の集まりは、教育とは無縁だと考えているのでしょうか。

日教組は「教育の敵」という見方があります。
そう見つつも、学校を彼らに預けている文部科学省も卑劣ですが、
そう見られつつも文部科学省に従属している日教組も愚劣です。
その両者の対立が、政治や財界に利用されてきたわけですが、
そんななかで学校教育が問題を起こし続けるのは当然のことです。

日教組に対して、あまり良くないイメージを持っている人も少なくないでしょうが、
ほとんどの人は日教組の実態など知るはずもないでしょう。
そうしたイメージを構築してきたのは、マスコミかもしれません。
このあたりのことを書き出すとまたきりがありませんが、
ともかく今回のグランドプリンスホテル新高輪の行動は許されるべきではありません。
契約は勝手に破棄していい、裁判の命令には従わなくてもいい、というのであれば、社会の秩序は維持できません。

私ができるのは西武系のホテルを利用しないことぐらいでしょうか。
最近はホテルを利用する機会が少ないので、あんまり意味がないですが。

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2008/01/05

■「犬という語は、狼なる語が存在しなければ、狼をも指すだろう」

「犬という語は、狼なる語が存在しなければ、狼をも指すだろう」とソシュールは言ったそうです。
近代科学の起点が「分ける」ことだったことをこれほど明確に示している言葉はないように思います。
もっとも、言葉が実体を具現化させることは、なにも近代科学に始まったわけではありません。
人間の歴史は言葉で始まったのかもしれません。

昨日、言葉の力のようなことを書きましたが、日本は言霊の国とよくいわれます。
しかし、おそらく言霊信仰は日本だけの話ではないでしょう。
むしろ「言霊」という言葉を生み出したことによって、
日本ではそのことが強く意識されただけのことではないかと思います。
もしそうであれば、改めて言葉の力を感じます。
言葉が文化を創りだし、人々の意識を決めていくわけです。

国民意識を形成し、国家のアイデンティティを創り出すために、
「国語」は重要な役割を果たしてきました。
各地の言語はおそらく連続的ですから、どこで区切るか、
たとえばどこまでを方言として位置づけるかで、国家の範囲も変わっていきかねません。
そうした最大の統治要素、社会の基盤要素である言語を、
私たちはおろそかにしていることを、正月のテレビを見ていて痛感しました。
社会が崩れ出し、心のつながりが薄れ、
国家のアイデンティティが損なわれても仕方がないように思います。
教育改革や愛国心論議よりも、国語のあり方を見直すことが先決課題ではないかと思うようになりました。
あまりにもなじめない言葉が多すぎることのひがみかもしれませんが。

今年は、私自身、言葉を大事にしていきたいと思います。

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2008/01/01

■教育基本法よりもテレビのあり方を考えたらどうでしょうか

年末年始を、体調も災いして無為に過ごしています。
体調不良で自宅にいると外部との接点はテレビになります。
これほどテレビの前にいたことはありません。

年末年始にはニュース番組はほとんどなくなり、お笑い番組と歌番組ばかりで占められることを知りました。
しかし、お笑い番組と歌番組も、一昔前のものとは全く違っており、お笑いも歌も実に中途半端で、笑えないお笑いや聴けない歌が多すぎるように思います。
こういう番組に囲まれていると一体どんな人間になってしまうのか、恐ろしささえ感じてしまいました。
教育基本法がどうのこうのという以上に、大きな問題がここにあると思えてなりません。
今のテレビ状況を変えずして、学校をいくらいじってもだめでしょう。
敵は意外なところにいるのではないかと思い知らされました。

わが家は喪中なので、門松も祝の膳もありません。
しかし世間はおめでとう一色です。
それが悪いわけではないのですが、年の始まりには、もう少し時代を見据えて自分たちの生き方を考えるような番組があってもいいような気がします。
それが全くといっていいほど無いことにも驚きました。
「めでたい」ということはただ笑えばいいということではないでしょう。

それにしても、昨夜の紅白を見ていて、こんな番組を作るNHKになぜ毎月受信料を払わなければいけないのかと不思議に思いました。
ほぼ強制的に受信料を取るのであれば、当然、その使途は詳細に公開すべきだろうと思います。

テレビ界の人たちはどう思っているのでしょうか。

ちなみに新聞も年々内容がなくなってきたような気がします。
日本はどんどん非情報化革命が進

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2007/12/26

■ゼロ・トレランス発想にみるマイナスの循環

教育再生会議の第3次報告の概要を新聞で読みました。
競争促進的な管理志向が少し弱まったような気がしますが、
基本トーンはあまり変わっていないようです。
教育再生で目指している「再生」すべき価値は何なのでしょうか。
それがすべての出発点でなければいけません。
再生とか改革とかいう言葉が安直に使われる風潮に危惧を感じています。
理念や価値観もなく、そういう言葉は使うべきではありません。

今日は教育再生の問題です。
学校の荒廃を正して行くための、ゼロ・トレランスの流れが加速しています。
ゼロ・トレランスは文字通り、寛容さ(トレランス)を捨てて厳罰主義を貫くということです。
私が40年前に会社に入った頃、ゼロ・デフェクト運動(ZD)運動というのが始まっていました。
品質管理技法です。
工業の論理が人間の世界、しかも教育の世界にまで広がっているわけです。
間違いなく失敗するでしょうが、それを正す動きはなかなかでてこないでしょう。
なぜなら管理側にとって失敗が見えてくるまでにはかなりの時間がかかるからです。
厚生省や農水省の犯罪と同じ構図があります。
これを文部科学省の犯罪というのにはいささかの躊躇がありますが、
こうした流れを止められなかったという点では、
彼らは小泉・安倍政権に加担したと言われても仕方がないでしょう。

しかし、今日の話題は、文部科学省の犯罪ではありません。
因果の逆流、あるいはマイナスの循環の話です。

ゼロ・トレランスの動きを支えているのが、
子どもたちを甘やかすことが校内暴力や学級崩壊をもたらすという認識です。
この因果関係は必ずしも立証されていないと思いますが、
さらに問題なのは、「甘やかす」の中身です。
それが子どもたちの自主性を尊重し、管理基準を緩やかにするということに置き換えられて、
厳罰・規律・管理主義へとつなげられていることです。

厳罰主義は規律管理を強化するということと同義です。
創造力に富み感受性の高い、個性豊かな子どもたちを、
大人たちの都合に基づいて管理し型に当てはめていく。
これは教育の対極にある訓練でしかありません。
産業社会の教育はそれでいいのだといわれればそれまでの話ですが。
しかし、教育によって主体性を確立していない子どもたちに訓練を施すとどういう結果になるか。
「ボーン・アイデンティティ」の世界の出現です。

学校の管理主義が校内暴力や学級崩壊の原因ではないかという指摘もあります。
因果のベクトルをどう捉えるかで、世界の見え方は一変します。
1980年代以降の管理教育の徹底と「内申書」重視の入試体制の強化が、
学校を荒廃させてきた面は否定できないことでしょう。
そこから急速に「学びの場」の崩壊が始まり、管理と逸脱の悪循環が始まったのです。
こうしたマイナスの循環は、さまざまなところで起こっています。
9.11事件の始まる「報復の連鎖」も、その一つです。

イラクの事実が示すように、マイナスの循環を反転させるのは発想の転換しかありません。
つまり、因果のベクトルを変えることです。
私が30年前に書いた「21世紀は真心の時代」で考えていたのは、
そうしたベクトルの逆転だったのですが、
時代はますますマイナスの循環に陥っているような気がして残念です。
せめて私自身は、そうした循環を逆転させる生活をしようと心がけています。
因果の呪縛から抜け出すと、世界の風景は変わってきます。

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2007/12/17

■教員免許更新制に見る常識的判断の落とし穴

世の中の問題は多くの場合、実に多義的です。
それは社会が複雑であり、さまざまな状況があるからです。
自分の狭い世界での常識的判断が、自らの意図に反した結果につながることも少なくありません。
たとえば、学校の給食に関して、週1度くらいは親が作った弁当の日にしたらどうかという話はどうでしょうか。
多くの方は賛成するでしょう。しかし実にさまざまな問題がそこには含まれているのです。
これに関しては以前書きました

こうした話はたくさんあります。
だからこそ、いろいろな立場で議論を交し合う場が大切なのです。
私のこのブログも極めて個人的な意見でしかありません。
実に唯我独尊的です。
光市母子殺害事件に関して弁護士への厳しい非難をしていますが、これも私の個人的な立脚点の枠内での意見でしかありません。
しかし、だからこそ私にとっては大事な主張であり、それを正すべき情報があれば正すことには何の抵抗もありません。
そうした主観的な考えのぶつかり合いに、私は価値を見出しています。

自分の考えや判断を主張する以上、常にそれを相対化させておくことが大切です。
それができれば、自分の主張を強く出せます。
所詮は多くの主張の一つでしかないのですから。
多くの人がそうした姿勢を持ち出せば、社会は変わるはずです。

多角的な見方が大切なことを教えてくれる事例をもう一つ書きます。
教育基本法が変化し、教員免許の更新制が導入されました。
これをどう評価するべきでしょうか。
不適格教師を排除するために望ましいことではないかと多くの人は思うでしょう。
私もそう思いましたが、ただ「不適格」という言葉にひっかかりました。
ここに落とし穴があります。
問題は、この制度の導入の意図と管理運営する主体です。
国歌国旗に関しては、前に書きました。
そうした事件に「不適格教師」の捉え方をイメージできます。
体制維持を望む人にとっての「不適格教師」と子どもたちの教育にとっての「不適格教師」は全く違います。いま学校で「不適格教師」と捉えられている人たちの実像は私たちにはなかなか見えません。
防衛省の守屋事件を思い出してください。
守屋さんの行動をおかしいと指摘した人は、おそらく「不適格職員」として排除されたでしょう。
偽装表示に異を唱えた人は企業やビジネスから排除されている事例は山ほどあります。
学校もその例外であるはずがないと思わなければいけません。
そう思わないのは、思いたくない心情の成せる技です。

常識的な反応と判断は大事です。
しかし、そこには大きな落とし穴があることも認識しておくことが必要です。

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2007/12/09

■産業の場としての学校と教育の場としての学校

リクルート出身の藤原校長が次々と新しい試みに取り組み、
話題になっている東京都杉並区の区立和田中学校が、
来年1月から、大手進学塾の受験指導の場として、夜の校舎を提供するそうです。
主催するのは、保護者や元PTA、教員志望の学生たちが参加する、
和田中応援団のボランティアグループの「地域本部」です。
今朝の朝日新聞は、その記事を1面のトップに書いています。
塾と学校の連携は各地で広まっていますし、
硬直化した学校制度に新しい風を吹き込むという意味でも、こうした動きを評価したいと思いますが、
どこかに違和感が残ります。

仕掛け人である藤原さんの言葉が、新聞で紹介されています。
「どんなにがんばっても、学校の授業ですべては教えられない」
やはり気になる発言です。
「すべて」とは何なのでしょうか。
こうした発言の背景にあるのは、「量的な役割分担」の発想です。
昨日の説明会で、藤原さんはこうも話したそうです。
「学校の授業についていけない生徒にはむしろ負担になる。無理に参加しないで」
ますます気になります。

要は受験勉強のための塾に行きやすい状況をつくるということ、
と割り切って考えればすべては納得できますが、
そうだとすれば、「学校の授業についていけない生徒」はますます格差をつけられていきかねません。
私には問題の設定が根本的に間違っているような気がします。

放課後の学校を使うのであれば、受験のためにではなく、
むしろ「学校の授業についていけない生徒」のためのプログラムを考えるべきではないかと思いますし、
それこそが「地域本部」に取り組んでもらいたい課題のようにも思います。
そして、一番大切なことは、時代の大きな変化を踏まえて、
改めて「学校」とは何か、「教育」とは何か、を考え直すことではないかと思います。
教育産業の場としての学校と教育の場としての学校とは、似て非なるものです。

「改革」の出発点はビジョンです。
学校とは何なのか。
何のために何を改革するのか。
それを明確にしない「改革」が多すぎます。

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2007/12/05

■学校って何のために必要なのでしょうか

OECDが15歳を対象にした昨年の国際的な学習到達度調査結果を発表しました。
日本はまだ下がっているようです。
調査方法によって結果はかなり大きく変わりますから、結果だけで議論すべきではありませんし、株価ではあるまいし、上がった下がったなどと一喜一憂すべき問題ではないだろうと思います。
しかし、日本の教育行政はこうした結果にかなり敏感です。
そして結局は教師や生徒が振り回されることになりかねません。

小泉・安倍政権時代に、日本の学校教育は大きく壊されたような気がします。
そのことは、たとえば岩波新書の『誰のための「教育再生」か』にていねいに書かれています。
私の愛読書「軍事問題資料」でもよく取り上げられています
そうした指摘にほとんど私も同感なのですが、
理念的なことはともかく、きわめて実務的な面でも気になることが少なくありません。
つまり「教師への管理」と「生徒への管理」が強化されたと言うことです。
「手続き」が増加し、「学力競争」が激化したということです。
子どもたちの「いじめ」のテキストが、まさに学校そのものにあるのかもしれません。
子どもの頃、いじめられてきた文部科学省の官僚たちがその仕返しをしているのかとさえ思ってしまいます。

OECDの調査を見るまでもなく、あるいは全国一斉学力テストの結果を待つまでもなく、学校教育が崩れてきていることは明白です。
学校の集まりに出てみればよくわかります。
なぜ崩れてきているのか。
それは社会が大きく変わってきているからではないかと思います。
改めて学校の役割とは何なのかを考え直す時期に来ています。
義務教育などという発想自体も見直すべきでしょう。
そもそも「学校」って何のために必要なのかも考えるべき問題です。
小中学校が無くなったら何が困るのか。誰が困るのか。
義務教育という発想は何のために、誰のために必要だったのか。

子どもを育てるのは社会です。
私たち大人の生き方が、次に続く子どもたちの生き方を決めていきます。
学力や達成度よりも、大切なものがあるはずです。
たとえば「あいさつ」をすることも、学力よりも大切なことだと私は思っています。
いま必要なのは、子どもたちの学校ではなく、大人たちの学校です。
60歳からの3年間を学校に通う義務教育制度をつくったらどうでしょうか。
私もそこに通ったら、もう少し常識が身につき性格がよくなるかもしれません。

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2007/10/23

■ユンゲの懺悔

今月号の「軍縮問題資料」(2007年11月号)はぜひ多くの人たちに読んでほしい記事が満載です。
以前も何回か書きましたが、この雑誌の講読をお薦めします。

共感した記事の一つは、折原利男さんという高校の先生が書いた「教育はどうあるべきか」です。
そこに、2004年に制作されたドイツ映画「ヒトラー 最後の12日間」の話が出てきます。
たまたまこの映画は、一昨日、BSで放映されていたので、ご覧になった方もいるかもしれません。ヒトラーの秘書だったユンゲの回想録に基づいて制作された映画です。
その映画に言及して、折原さんはこう書いています。

この映画でくつきりと心に刻まれるヒトラーの言葉がある。破壊されていく首都ベルリンと、無残に殺されていく無数の市民について、彼は「(国民が)自ら選んだ運命だ。自業自得だ」と語るのだ。つまり、自分たちに国を委ねたのは国民であり、その国民自らが招いた報いだと言うのだ。そこにはヒトラーの冷酷さと責任逃れがあるというだけでは片づけられない、国民の責任というものが凝縮されて提示されている。「ヒトラーなるもの」を生み出したのは、紛れもなくドイツ国民自身なのだった。
映画の中では訪ねてきたシュペアーに向けて話された言葉になっています。シュペアーについては、以前、2回ほど書いたことがありますが、ヒトラーに信頼されていた人物です。

ユンゲ(本人が映画の最初と最後に登場します)は、ある時まではナチスのユダヤ人虐殺は自分とは無縁のことだったと思っていたそうですが、ある時にそうではなかったことに気づきます。
それは同じ歳のユダヤ人女性が、ユンゲが秘書になった、まさにその年に処刑されていたことを知ったからです。
その気になれば、ナチスのやっていたことはわかったはずだったと気づくのです。
そして、こう語ります。
「怪物の正体を知らなかった自分を今も許せない」
「若さは無知の言い訳にはならない」
ユンゲの懺悔は、彼女の人生をどれほど重いものにしてしまったことでしょう。

この話を紹介した後、折原さんは続けてこう書いています。

憲法改正をはじめとして、すべてはわれわれ国民の判断と選択にかかっていて、結局は国民の責任なのだということを再確認する必要があるだろう。ヒトラーの言葉のように、われわれ市民の自業自得としてはならないのだ。また、最悪の結果を招いてから、若者にユンゲのような懺悔をさせてはならないと思う。そのような意味でも、教育の責任は大きいと言えるだろう。
その教育が、国家によって壊され続けています。
新教育基本法の制定は、安倍政権の成果という人たちにはぜひこの映画を観てほしいと思います。
戦後レジームからの脱却とは、ナチスが目指した道につながることだと思いますが、どれだけのユンゲがこれから生まれてくるのか心配です。
学校教育はますます壊されていく気がします。

日本はもう角を曲がってしまったのかもしれません。
まあすべては自業自得なのですが。

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2007/10/09

■手続きの時代の働きの場

今日の朝日新聞に、新宿区立小学校の新任の女性教諭(当時23)が昨年6月、自ら命を絶った事件が取り上げられています。
詳しくはその記事を読んでもらいたいですが、こういう事件です。

念願がかなって教壇に立ち、わずか2か月後に、なぜ死に至ったのか。両親や学校関係者に取材すると、校内での支援が十分とはいえないなか、仕事に追われ、保護者の苦情に悩んでいた姿が見えてくる。
ただ本人が弱かっただけではないかという見方もできるでしょう。

しかし、こうした事件がさまざまなところで起こっているような気がします。
その背景には、「働くこと」の魅力が失われているという時代の流れがあるように思います。
以前、ディーセントワークのことを書きましたが、
そもそも働くことはわくわくするほど楽しいものだったはずです。
生きることとつながっていましたから。
しかし、近代化は、その働きを「作業」にしてしまいました。
その話は繰り返しませんが、昨今の「働きの場」が楽しくなくなった理由の一つは、
現代が「手続きの時代」だからだと思います。
新聞にはこう書かれています。

まず提出を求められたのは食育指導計画、公開授業指導案、キャリアプラン……。離れて住んでいた父は娘と電話で話していて「追いまくられてると感じた」。午前1時過ぎまで授業準備でパソコンに向かい、そのままソファで眠る日が続く姿を姉が見ていた。
子どもたちのための生き生きした授業をしたいという彼女の夢の前に、きっとたくさんの作業の壁が立ちはだかったのでしょう。
ともかく、いまは手続きが重要なのです。指導計画、何とかプラン、実践よりもそうしたものが要求されるのは、「管理」のためといってもいいでしょう。
新聞記事はさらにこう続けています。
娘は姉や祖母に「保護者からクレームが来ちゃった」と話してもいた。
身勝手な父母が学校をだめにしている事例は決して少なくないでしょう。管理志向はますます強まってしまうわけです。
昨日、書いた医療訴訟もその典型例です。

こうした状況の中では、働くことが楽しくなるはずがありません。
そうして「働きの場」はどんどんと崩れ出している。私はそう思っています。
教師の働きの場が壊れてしまえば、学校は成り立ちません。
いまの学校改革は視点とベクトルが間違っています。
社会保険庁職員や自治体職員の不祥事も、こうしたことと無縁ではないように思います。
そう言えば、国会の議論も「手続きの話」が多すぎて退屈でした。
しかし、たとえば今日の長妻さんの質問のように、実体に迫る議論が始まりました。
政府の答弁は相変わらず手続き論ですが。

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2007/08/03

■いのちの大切さと学びの面白さ

わが家の庭の南東の角にアズキナシの樹があります。そこはわが家の狭い庭では一番目に付く場所です。
植えてから5年、大きく育ったのですが、毎年アブラムシがたくさんつくのです。
アブラムシが樹液を吸ったアブラムシが出す甘い排液にアリが集まり、またアリの排液で樹木のみならず、周辺が真っ黒になります。鉢などもあつまってきます。時にカミキリなども来ます。そうして周辺の草木は大きな被害を受けて元気を無くします。
これが自然の流れなのでしょうが、庭木としては選定を間違ったようです。
大胆に剪定したり、防虫剤を使ったり、まわりの草花の種類を変えたり、女房と娘はいろいろ工夫して、何とか問題を解決しようと取り組んできました。
しかしうまくいきません。
植え替えも考えたのですが、樹が大きくなっているため場所がありません。
昨年、庭の花や樹木の手入れをしている娘からついに伐採の提案がありました。
しかし、私は生きた樹を切るのはしのびなく、たとえ1本の樹であろうと生きている樹は切りたくないと主張したのですが、現場を管理している娘はアズキナシ1本を犠牲にすれば、たくさんの草花が生き生きしてくるのだから、私の考えこそ、いのちを大切にしていないというのです。
女房も娘も、枯れかかった花でも大事の育てて元気にします。
彼女たちの手にかかると、廃棄寸前の処分品がわが家では大きく育っていきます。そのおかげで、わが家の庭にはたくさんの花があります。
その2人からの2回目の提案なので今回は私も賛同しました。
2年間、アズキナシを守る努力をしてきましたので、アズキナシもゆるしてくれるだろうと女房が言いました。
それで、今日、塩で清めてお祈りし、アズキナシを伐採させてもらいました。
庭木1本伐るだけでも本当に心が痛みます。
こうした思いは、しばらく前までは日本人であれば、だれでもが持っていた感情だったように思います。
そうした文化や「いのち」への畏敬の念は自然とのふれあいの中で、私たち世代は学んできました。
私が勉強好きになったのは、小学4年の春に学外授業で学校からかなり離れたところにある沼に自然観察にいったおかげです。そこでいのちのすばらしさを学んだからです。今でも勉強は大好きです。新しい気づきにはわくわくします。
私にとっての勉強は教室で先生から教わるものではありません。
自然とのふれあい、情報(書物)とのふれあいのなかで、自分で気づいていくものでした。
いまの学校教育がうまくいかないのは、教室に閉じ込めてしまい、教師が教える仕組みだからではないかと思います。
自然や社会のなかで学ぶ仕組みをつくれば、学ぶことは面白く魅力的になります。
それに、学びはいのちや暮らしにつながっていないと面白くはありません。
考古学も天文学も、すべて私たちの日々の暮らしやいのちにつながっているのです。

今日、アズキナシに感謝をしながら伐採して、子どものころのわくわくするような学びを思い出しました。
ちなみにわが家には沢蟹もカブトムシも放し飼いにしています。
もっとも放した後、見かけることはないので、いまはどこかに出かけているかもしれないのですが。

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2007/04/30

■教育のある人とは「歌舞の訓練をつんだ人」

「ローマ・ヒューマニズムの成立」(小林雅夫/地中海研究所紀要第5号所収)という小論の中に、古代ギリシア人が「教養」と想定している学科構成というのが出ていました。
20人以上のソフィストたちの考える科目が一覧できるのですが、ほとんどの人が「音楽」をあげているのに興味を持ちました。
プラトンは、教育のある人とは「歌舞の訓練をつんだ人」としていたそうです。
古代ギリシアでは音楽と体育は重視されていたようですが、その音楽と体育は歌舞の中の統合されていたわけです。

そのいずれも私は得手ではありません。
楽器も出来ませんし、ダンスはフォークダンスですら不得手でした。
大学のころ、仲間たちと1週間、キャンプに行くことになり、新しいフォークダンスをやろうということになりました。私が選んだのが、ウェストサイド物語の挿入歌「アメリカ」でした。
知り合いに頼んで振り付けをしてもらい、教えてもらったのですが、どうもそれが覚えられずに、重いテープレコーダー(当時はとても重かったのです)を山まで運んだのに、みんなで踊った記憶がありません。
体育も得手ではなく、苦労しました。運動神経もあまりよくないようです。
したがって、古代ギリシアでは私は「教育のない人」の典型です。

ところが、最近の「学力論議」では、このいずれも出てきません。
いずれも不得手な私にとっては好都合なようにも思えますが、その私でさえ、こうした要素が入らない学力には納得できません。
音楽と体育こそ、生きていくうえでの重要な要素だと思うからです。
さらにここにアート(創作)が加われば、もう人間としてはいうことありません。
それがあってこそ、物理や歴史の知識が意味を持ってきます。
日本の教育体系では、音楽、体育、図工(創作)、家庭科などは入試とは関係なかったが故に常におろそかにされてきました。
しかし、人間が豊かに暮らしていくためには、これこそが大切な科目なのではないかと思います。
そこにこそ、学ぶ喜びもあるはずです。

必修科目と選択科目の配置を入れ替えなくてはいけません。
英語を必修にするかどうかの次元で考えている時ではありません。
もう機械のような労働者や技術者を育てる時代ではなくなったのです。
学校のパラダイム、教育のパラダイムを変えてもいいのではないでしょうか。

そういう議論が全くないのが、不思議でなりません。

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2007/04/26

■学力テストへの犬山市の異議申し立て

24日に実施された全国学力テストに、愛知県犬山市の小中学校は予定通り参加しませんでした。
最後には崩れるかと思っていましたが、日本にも骨のある教育委員会があると感激しました。
犬山市の姿勢は次のサイトをご参照ください。
http://www.janjan.jp/area/0704/0704032972/1.php

今回の学力テストにかかった費用は77億円だそうです。
私は、この一事をもってしても、このテストに否定的です。
どこかの業者が利益を上げ、そこから寄付をもらう政治家が私腹を増やすだけのことでしょう。
教育産業で利益を上げている企業の実態をもっと私たちは認識すべきではないかと思います。
彼らは教育を壊しているとしか、私には思えません。いささか言いすぎだとは思いますが。
今や教育はどんどん産業化されてしまっていますが、犬山市ではまだ教育の片鱗が残っているのかもしれません。

もっともテレビのインタビューでは犬山市の市民は不安を表明していました。
しかし、そのテレビ取材のディレクターの好みで住民を選んだのかもしれません。
まともに考えれば、学力テストなど無意味なのです。
なぜ無意味かといえば、テストで学力などわかるはずがないからです。
いや、テストでわかるような学力にはあまり意味がないのです。
そう思いませんか。

学力テストでわかるのは、たぶん「従順度」や「作業適性」や「創造力のなさ」くらいでしょう。
そういう子どもたちを育ててきた結果が、今の社会なのだということを、なぜみんな気づかないのでしょうか。
市町村合併に異を唱えた矢祭町の町長もそうですが、しっかりした活動を行っていれば、霞ヶ関の机上論には振り回されないはずです。
しかし、昨今はそういう自治の人は少なくなりました。

地方自治はいま、崩壊の危機にあります。
地方分権の時代とは、地方自治とは正反対の時代を意味することを認識すべきではないかと思います。
分権と自治は全く相容れない発想のはずです。

犬山市の教育委員会の勇気ある行動に、大きな拍手を送りたいと思います。

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2007/03/23

■制度にあわせる生き方からの脱出

昨日、最後に、生き方を決める基準はなんだろうかと書きました。
生き方の基準がない人が多くなってきているように思いますが、
そういう人にとっては「制度」(法律もその一つです)に合わせる生き方があります。
問題が生じたら制度のせいにしたらいいのですから、極めて都合のいい生き方です。
最近は、その生き方が大勢を占めているのかもしれません。
いや社会全体が「制度に合わせる生き方」を指向しているともいえるでしょう。
それが「近代化」の一つの側面なのかもしれません。

きのくに子どもの村学園という学校があります。
「学校に子どもを合わせるのではなく、子どもに学校を合わせる」という理念に基づいて、創設され運営されている学校です。

ここには大きな発想のパラダイムシフトがあります。
近代の学校はすべて「子どもを学校に合わさせる」発想です。
それが「教育」であり、「教育施設」のミッションだったからです。
個性豊かな子どもたちは、そこで社会の一員として育てられるわけです。
個性が強すぎる子どもは逸脱せざるをえません。

ところが、この学校は子どもたちの多彩な個性を起点に発想します。
一人ひとりの子どもの育ちを支援するために、何が出来るか、何をするかを決めていきます。
そして、生徒である子どもたちの個性に合わせる形で、カリキュラムが設計され、プログラミングされます。
全体から考えるか、個から考えるかの違いです。
個から考えて、全体を構築するのは大変なエネルギーが必要になります。
しかし、全体がうまく構築できれば、管理コストは大幅に縮減できるでしょう。

そもそも個性豊かな子どもたちを一つの制度に合わせさせること自体、無理な話なのです。
かつてのように、管理がアバウトだった時代にはなんのとか矛盾は克服できたでしょうが、最近のように管理が追及され、親の目も届きすぎるほどに届くようになると、逸脱行為は許されなくなってしまい、矛盾は破綻へとつながります。
最近の学校の乱れは、そうしたことの必然的な結果です。
教育再生会議がいくらがんばっても解決できることではありません。
逆に状況を悪化させることになりかねません。

最近の企業も同じです。
企業の実態に合わせないと従業員はつとまりません。
おかしさに気づいても、それを自己納得させないと企業ではやっていけないことが多いからです。
企業は盛んに「企業変革」を口に出しますが、本気で変革しようなどということにはなりません。組織には根強いホメオスタシス機能が働いているからです。
もし本気で企業変革するつもりがあれば、企業を変えるのはいとも簡単なことなのです。企業のパラダイムを変えればいいだけです。
みんなが企業という制度に合わせてしまうと、その企業そのものがパワーを失ってくる時代になってきています。

しかし、制度に合わせた生き方から抜け出す動きも広がっています。
いわゆる「当事者主権」の動きです。
コムケア活動でさまざまな活動に触れる機会がありますが、障害を持つ人たちや社会的弱者といわれる人たちが、自らの声と行動で、制度を変えようとする動きの広がりです。
今のところ、必ずしも成功している事例ばかりではありませんが、制度に合わせて自らを抑えるのではなく、制度を変えようと働きかける人が増えているのは間違いありません。
そして、そうした動きこそが、制度そのものの価値を高め、制度を活かしていくことにつながりだしているように思います。

時代はどう展開していくのか。
それは私たち一人ひとりの生き方にかかっています。
時には制度に合わせることも大切ですが、時には制度から逸脱し、制度を変えるように働きかけていくことも大切です。
制度に合っているからなどという、主体性のない言い訳だけはしたくないものです。

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2007/01/30

■死んだ学力と生きた学力

たまには社会と無縁な世界の話を書きます。

今日、水谷千秋さんの「謎の豪族 蘇我氏」を読んでいて、
葛城氏は「氏制度」が広がる前の豪族なので、その実態が把握しにくいという文章に出会いました。
それで、鳥越憲三郎さんの「葛城王朝」を思い出しました。

もう30年以上前の本ですが、鳥越さんの著書「神々と天皇の間」のなかに出てくるのが「葛城王朝」です。
この言葉に出会った時に、すごくわくわくしたのを今でも覚えています。
王朝交代の歴史にはドラマがあります。
その本の数年後に、鳥越さんは「大いなる邪馬台国」という本を出されました。
それは「物部王朝」の物語でした。
大和朝廷以前に存在した、もうひとつの日本の王朝です。
とても説得力がありました。

そして、その後、葛城王朝や物部王朝を統合した「蘇我王朝」があったと私は思っていますが、
万世一系の天皇家の歴史と考えるよりも、
こうしたさまざまな王朝の物語の集積として、日本の古代史を読み解いていくと歴史はわくわくするような輝きを感じさせてくれます。

しかも、その広がりは日本列島に留まるものではありません。
いま以上に、古代の日本はアジアとの交流が深かったという前提で考えると、
古代史の物語はさらに壮大に広がります。

聖徳太子が突厥の人という説もありますし、
天武天皇は高句麗の王子、天智天皇は百済の王子という説もあります。
物語の舞台は、日本列島などには閉じ込められてはいないのです。
言い換えれば、昨今のように国家などという枠にはこだわっていないのです。

これが世界の古代史になると、もっと壮大です。
文明はシリウスから来たという話もあります。

こういう壮大な話を読んでいくと萎縮した頭脳が活性化されるのです。
私たちが学校で学んだ歴史は、その後、大きく変化しています。
大化改新の存在も危うくなり、志賀の島から発見された金印も偽造説が出ています。
物部氏が仏教に反対したことも否定されだしていますし、山背大兄王の人格には疑問が出ています。
スフィンクスの建造も1万年前にさかのぼりそうですし、シュメールの文化はまだまだ奥が深そうです。
人類の誕生物語も変わってきています。

とまあ、こうして学校で学んだ常識的歴史観をはずしてみると、歴史の風景は大きく変わります。
それがどうしたといわれそうなので、蛇足をつけます。

学校で教える知識には行動を抑制する機能と行動を支援する機能があります。
試験のための知識は、与えられた正解に呪縛されるため世界を見る目を曇らせる恐れがあります。
しかし、学び方(生き方)を支援するための知識は、学ぶ面白さを教え、世界を見る目を輝かせます。
その好奇心を鼓舞し、世界を見る目を養うことを「学力」というべきではないかと思いますが、
今の「学力」は呪縛される知識を覚えることなのです。

柳沢厚生労働大臣の言葉を借りれば、子どもたちは「知識を詰め込む機械部品」なのかもしれません。
学ぶことが楽しくなるはずがありませんし、学校は工場のようになってしまいます。

最近の教育再生会議の提案は、どこを目指しているのでしょうか。
およそ教育とは無縁の人たちが多いですから、
今の学校からは「自由」になれるのかもしれませんが、視点において呪縛されているような気がします。
この提言を実現したら、きっと学校は効率の良い工場に変わるのかもしれません。
彼らが目指している生き方のように。
死んだ学力は向上するかもしれませんが、生きた学力はどうなるのでしょうか。

学ぶことの楽しさや喜びを広げていけない学びの場になっていることが、
今の日本の最大の問題のように思えてなりません。
みんな、学力をはき違えているのではないでしょうか。

あれ、今日は社会と無縁な話をする予定でしたが、いつの間にかまた社会問題になってしまっています。
なかなか社会の呪縛からは自由になれません。

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2007/01/25

■学校を良くする方法

一昨日の記事にコメントがありました。
コメントはなかなか読んでもらえないこともありますので、ここに勝手に再録させてもらいます

私も今ある学校の推進委員というのをしているのですが、そこで見る現場の先生は、仕事が多くて消耗しているサラリーマン、という印象でした。 こんなに余裕が無くて、一人ひとりの生徒に目配りする余裕があるものだろうか、と疑問に感じました。 さらに、たとえ先生にやる気があって、生徒のプラスになることをしても、それが必ずしも先生の評価につながらないような仕組みも問題だと思いました。 いろいろな「悪い仕組み」をどうやって作り変えるのか?とても難しい問題です。

そのヒントになることを、ある委員の大学の先生が教えてくれました。
ある風紀が乱れた学校で、親たちが立ち上がり、全生徒の家庭を訪問し、そこの親に一緒に子供の指導をしっかりやりましょうと話し込んでいったとか、それで数ヶ月で学校が見違えるようになった。というような話でした。
親が本気になること、というのが解決の糸口なのかもしれません。


とても納得できる話です。
こういう動きは、もしかしたら各地にあるのかもしれません。
しかしテレビではあまり報道されないような気がします。
私の見落としかもしれませんが、こういう事例こそをテレビはもっとどんどんと伝えていってほしいです。
悪い情報だけではなく、良い情報のほうを、最近みんなは求めているのです。
例外的な事件が多くの場合、ニュースになります。
例外現象と標準現象が、いまや今や逆転しているのです。
その変化に気づいてほしいです。

これは女房から聞いた話です。
女房の友人が娘の学校の授業参観に初めて参加したら、授業中に生徒たちが席を立って、勝手に動いているのだそうです。先生が注意しないので、驚いたそうです。
私は親が注意すればいいだけの話だと思いますが、親も注意しなかったのでしょうか。
もし私が、そうした授業に参観したとして、離席したのが自分の子どもでない場合、注意したでしょうか。
注意すると胸をはって答えたいですが、実際の現場になると100%の自信はありません。なにしろ電車の中での隣席の女性の化粧行為にも注意できないでいますので。
みんな問題の解決を誰か他の人に期待してしまう。
これが最近の動きかもしれません。

まずはそうした生き方から抜け出そうと思っています。
化粧行為への注意は今やできなくなってしまいましたが(今や車内の化粧は「常識」になってしまっているようですので)。

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2007/01/23

■学校の先生をなぜみんな信頼しないのでしょうか

私が物事の真偽を評価する時の基準は簡単です。
当事者が本当に関わっているかどうかです。
ですからたとえば、昨日の「司法改革」で、
日弁連が「民の司法」と表現している時に、「民」のだれが直接参加しているかが、私の評価の基準です。
当事者が参加していない場合は、疑いを持って吟味します。
「○○のため」という輩は、これまでの私の体験ではほとんどが信頼できません。
「社会のため」「会社のため」もそうです。

そういう視点で考えると、いま話題の「教育再生会議」の議論は茶番劇にしか見えません。
教育改革を考えている人たちは、子どもたちのことをどのくらい知っているのでしょうか。
学校のこともですが。
それにいくら立派な政策を打ち出しても、
現場で子どもたちに接する先生たちに共感を持ってもらえなければ、実効はあがりようがないはずです。
そんなことすら考えずに、教育改革などを唱える人たちの目的は明確です。
子どもたちのためではないのです。
もし本当に学校を変えていきたいのであれば、
学校の現実をしっかりと把握することから始めるべきです。
有名人であるだけで選ばれた委員は誠意があるのであれば辞退すべきです。
それこそがこの国をまともにするための第一歩です。

いじめが問題になると、決まって校長は否定しますが、
いじめを直視している先生の声はきっと抹殺されているのでしょう。
現場でしっかりと子どもたちに付き合っている先生であれば、わかるはずです。
もし仮に本当に誰にもわからないのであれば、それはその学校の仕組みが悪いのです。
その悪い仕組みをなくすることから始めればいいのです。
仕組みを変えられるのは、それぞれの学校の現場の先生たちのはずです。
改革には難しい議論や仕組みは不要です。
しっかりした方向性を打ち出し、現場の人たちがその実現に向けて本気になれる状況をつくればいいのです。

しかし、親たちもなぜ子どもを預けている先生を信頼しないのでしょうか。
親と先生の間に信頼関係がなければ、
学校が子どもたちにとって安心できる空間になるはずがありません。
学校改革、教育改革の主役は、親と先生です。
つまり昔風に言えば、PTAです。
PTAが出てこない教育改革案は実効性がないと思います。

私は日教組には特別の感情はありませんが、
学校の現場で汗している先生たちが主役になっての改革でない限り、
改革などは絵空事でしかありません。
現場情報を一番持っている先生たちが中心になって、
子どもたちも参画したかたちでの教育再生プロジェクトが実現しないものでしょうか。
現場を知らない有識者たちの机上の議論は、そろそろやめられないものでしょうか。

日教組はもっとがんばってほしいものです。
もっとどんどん情報発信していってほしいものです。
どうせこれからは納得できる教育は行えなくなるのですから、
解雇される前に学校の現実をもっと社会に公開していくことはできませんか。
社会のためでも、子どもたちのためでもありません。
あなた自身の人生のために、です。

タウンミーティングではなく、もっと開かれた公開フォーラムを毎週、学校で開催したらどうでしょうか。
PTAが協力したら、いくらでもできると思うのですが。

渦中の人が主役になって動き出さないと改革は起こりません。
「改革」もまた「自動詞」で語る言葉だと思います。

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2007/01/16

■社会奉仕活動の義務化

教育再生会議は、その第1次中間報告に、
高校で社会奉仕活動を必修化するよう明記する方針を固めたそうです。
子どもたちが社会との接点を体験するということはとても良いことですが、
あえて「必修化」といわなければいけない現実が問題なのでしょう。
それに、「社会奉仕活動」と、あえて「奉仕」という文字をなぜ使うのかも気になります。
「社会活動」ではいけないのでしょうか。
こうしたところに、問題の本質が見えているように思います。

子どもの頃から社会活動を「奉仕」の視点で義務化されてしまうことに危惧を感じます。
そこからは「楽しい」イメージはでてきません。
社会活動は本来楽しいものであり、喜びにつながる要素を持っています。
そうでなければ継続はしないでしょう。
教育再生会議のメンバーたちは、社会活動をしたことがあるのでしょうか。

私自身は「奉仕」という言葉が好きになれません。
「滅私奉公」の偽善を思い出してしまうのです。
「奉仕」は自らが「するもの」であって、
他人に「させるもの」でも「勧めるもの」でもないと思います。
ましてや素直な子どもたちに押し付けるものではありません。
大人たちが自らそうした行為をしていれば、
素直な子どもたちは義務化されずとも自然とそうした行動をしていくものです。
必修化してできるものではありません。

企業はよく「社会貢献活動」と言う言葉を使います。
これも白々しい言葉です。
以前も書きましたが、「社会活動」で充分でしょう。
自分たちが、社会を構成している一員であることを自覚していたら、
「貢献」とか「奉仕」などという言葉は使わないように思うのですが、どうでしょうか。

こういうことを20年前からいろいろなところで話しているのですが、なぜかほとんど理解されません。
私が間違っている可能性もありそうです。

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2006/12/24

■教育基本法のどこが悪いのか

一昨日の記事に関連して、教育基本法を改正してどこが悪いのかという質問を受けました。
学校は荒れ放題ではないかというのです。

確かに今の学校は、子どもたちが安心して学べる場所ではありません。
私も地元の学校の集まりに自治会長として参加しましたが、子どもたちの親たちと先生との信頼関係も希薄ですし、第一、教師側に主体性を感じられませんでした。
というよりも、現在の状況の中では主体性を持ち得ないのでないかと思いました。
学校にどの程度の権限が与えられているのか気になりました。

学校が荒れてきたのはこれまでの教育行政の結果だと思います。
そうであれば、基本法を改正して、学校改革に取り組むべきだということになります。
実はこの枠組みが問題なのです。
以前も書きましたが、改革にはいろいろな意味があります。
平和憲法に合わなくなってきたから憲法を変えようという改革もあります。
郵政省では産業界には利益が持っていけないから民営化して自分たちの自由になるようにしようという改革もあります。
個人の育てる学校では管理できないから国家に従順な人間を育てる学校にしようという改革もあります。
その改革の中身を吟味する人はほとんどいないのが実態です。

私は企業経営コンサルタントとして、企業改革の仕事に取り組んできましたが、ほとんどの企業では、どこからどこへ向かう改革なのかがあいまいなままに改革を標榜していますので、まさに同床異夢の改革遊びになってしまうわけです。
行政も同じです。
今の行正確や行政評価は全くといっていいほど無駄な作業の繰り返しをしているように思います。

話がそれましたが、教育基本法のどこが悪いかです。
関西学院大学教授で精神科医の野田正彰さんの講演録の存在をメーリングリストで教えてもらいました。
とてもわかりやすいです。
いまだと無料で読めます。
少し長いですが、ぜひお読みください。
教育基本法の問題が少しわかってもらえるかもしれません。

文部科学省と教育委員会が根本から改組されない限り、日本の学校は変わらないのかもしれません。
個々の先生にはいい人もいるとよく言われますが、そんな言葉で騙されてはいけないほど、学校は深刻なような気がします。

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2006/12/22

■教育改革の鍵を握っているのはテレビ番組

日本の子どもたちのテレビを見る時間は平均すると1日2.7時間だそうです。
学校は休日もありますので、年間になおすと学校で授業を受けるよりも長い時間、子どもたちはテレビを見ているのだそうです。
昨日出席したある委員会でお聞きした話です。
このことの意味は真剣に考えてみる必要がありそうです。

いま教育のあり方が問題になっていますが、
この問題の鍵を握っているのは、学校改革などではなく、テレビ番組のあり方なのかもしれません。
テレビは子供たちのみならず、大人にも大きな影響を与えますから、
いまやまさにテレビこそが「みんなの学校」になっているのかもしれません。
そういえば、最近は学校の授業まがいの番組も多いです。
ところで、テレビ番組の内容を決めているのはだれでしょうか。
スポンサー企業の影響力は大きいでしょう。
よくまあ、こんな番組をスポンサーしているなと呆れる企業も少なくありませんが、彼らはおそらく視聴率というフィクションに影響されているでしょうから、広告代理店の存在も大きいでしょう。
いずれにしろテレビ番組の内容は、経済主義でしか評価されていない状況です。
番組審議会のようなものはありますが、毒にも薬にもならない存在でしょう。

ではどうするか。
各地の教育委員会の検討対象を学校からテレビに変えたらどうでしょうか。
今の教育委員会の存在は、学校にとって役立っているかどうか私にはわかりませんが、ないほうがいいような気もします。
まともな教育委員会の話は、最近は聞いたことがありません。
むしろテレビ番組をしっかりと監視し、そのスポンサー企業にアドバイスしていくことを教育委員会の使命にしたらどうでしょうか。
暴論ですね。はい。

しかし、教育の現場は学校だけでありません。
いいかえれば、そういう社会状況になったわけですから、
学校のミッションは根本から見直さなければいけないのです。
それに取り組まない学校改革や教育改革はありえません。

ちなみに、新しい教育基本法はこんなことは全く考えていない世界の話です。
これで日本の学校はすべて変質してしまい、破綻していくでしょうが、
そうであればこそ、もうひとつの学びの場、教育の場を真剣に考え直す価値があるように思います。

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2006/12/16

■教育基本法改悪で日本は曲がり角を曲がってしまいました

教育基本法がついに変えられてしまいました。

ある人は、こうメールしてきました。
「私たちのための教育から、国家のための教育へ。」
今朝の朝日新聞の見出しには、
「個」から「公」重視へ
とあります。
正確には
「個」から「官」重視へ
でしょう。
日本における「公」は、パブリックとしての「公」ではなく、
統治者としての「官」なのですから。

いずれにしろ、日本という国家は、再び曲がり角を曲がってしまったような気がします。
しかも、国会という議論の場は、ついに裁決の場になってしまいました。
破壊したのは小泉純一郎と安倍晋三です。
「改正」「改革」「民営化」というマジックワードで、彼らは日本の社会をずたずたにしてしまいました。
もっとも路線は敷かれていましたから、真犯人は別にいますから、
哀れな実行犯の役割を担わされたのかもしれません。
しかし、ほんの少しでも「愛国心」があるのであれば、
こんな極悪非道なことはやれないでしょうが、彼らには「愛」という概念は微塵もないのでしょう。

あまりの腹立たしさに、いつも以上に口汚くののしりたくなってしまいました。
小泉元首相も安倍元首相も、犯罪者としか思えません。

これでまた何人の教師や子どもたちが死に、平穏な家庭が壊されていくのでしょうか。
「教育」の問題に関心を失ってしまった日本国民がもたらした悲劇でしょうか。

教育の概念が変われば、社会が崩れるのは不可避です。
未来を支えるのは間違いなく子どもたちなのですから。
その子どもたちを「現実」に縛り付けてしまっては、未来は開けようがないのです。
曲がった社会で、どう暮らしていくか。
難問です。

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2006/11/27

■大人のまねはしないで

今朝の朝日新聞朝刊に、とても共感できる記事がありました。
「いじめている君へ」というシリーズ記事ですが、今日はジャーナリストのむのたけじさんが書いていました。
ネットでは読めないのが残念ですが、むのさんのメッセージの表題は「大人のまねはしないで」です。このタイトルだけですべてが伝わってきます。
むのさんは、まず「最近の小中学生」を「今までの日本人の歴史の中で、最高にすばらしい世代」と言っています。これはむのさんが実際に小中学生と話をして実感したことのようです。
そして、最後にこう書いています。
「大人たちがどうあろうとも、みなさんは、自分たちのよいところをつらぬいてください。それが大人たちを変える力になっていくでしょう」
ようやく共感できるいじめ論に出会った感じがします。
今日もまた大人の世界では、いじめと嘘の話題ばかりですが、この小論のおかげで気持ちの良い1日をすごせました。
そういえば、昨日の朝青龍の優勝後の感想も良かったです。
福岡の人はみんな優しく迎えてくれる、と笑顔で話していました。
とても気持ちのいい会見でした。
朝青龍の笑顔は実に無邪気です。
1時代前の横綱たちとは対照的です。
もっとも私は強すぎる朝青龍は好きではありませんが。

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2006/11/01

■高校での履修漏れ問題の捉え方

このブログはしばらく書くまいと思っていたのですが、連日、気になる問題が起きています。
気になるのは、問題そのものよりも、マスコミの捉え方ですが。
黙っているのは精神的によくないので、方針を破って書くことにします。
CWSコモンズに書いたように、ちょっと反省もしています。

まずは、高校の必修科目履修漏れ問題の捉え方です。
私はこんな事実は昔から文部科学省も教育委員会も知っていたと思います。
こんなに広がっている事実を知らないはずがありません。
仮にもしそうだとしたら、学校という世界は北朝鮮以上に権力による情報管理が行き渡っている世界ということになります。そんなはずはありえません。いや、ありえないと思いたいです。
にもかかわらず、そうした報道は全くありません。
マスコミが報道しているのは、相変わらず絵空事の世界です。
いい加減にしてほしいと思います。
現場を回って的確な質問をして取材した記者が一人でもいるのかという気がします。
あるいはデスクが握りつぶしているのでしょうか。
先入観で取材するので現実が見えなくなることは少なくありません。
いずれにしろ、建て前だけで報道するマスコミの体質は全く変わっていません。

それに、知っているのに「知らない」というのは、組織人の常識になっています。
そして、「おかしい」と思いながらも、「おかしい」といえないのも、組織人の特徴です。
「組織起点発想の時代」には、個人は組織のためにあったからです。
多くの人が「おかしい」と思いながら、そして知っていながら、「知らない」ふりをしていたのです。

なぜ今回のようなことが起こったかも理由は簡単です。
産業界の働きかけであり、子どもたちを商品として扱ってきた産業主義の結果です。
個々の学校の教師たちの問題ではありません。
日本の文部行政や学校制度が間違った方向に向いているのです。
厚生労働省がそうであるように、文部科学省も財界に従属しているのです。
経済発展イデオロギーのための存在になっているのです。

それを正すのは、これも簡単なことです。
学校を子どもたちが主役の場にし、文部行政を教育行政に変えればいいだけです。
学校の主役を子どもたちにするには、「学校に子どもたちを合わせる」のではなく、
「子どもに学校を合わせる」というパラダイム転換で有名な、きのくに子どもの村学園が一つのモデルかもしれません。
パラダイムを変えれば、学校は全く別の空間になります。

これは文部行政と教育行政の違いにも通じます。
私が懸念するのは、学校が完全に教育の場ではなくなっているということです。
最近作られた教育再生会議のメンバーを見れば、
教育などとは全く無縁なメンバーが集まっていることがわかります。
産業主義の視点で労働者と消費者を育てる世界の人たちもいます。
彼らのような人が教育をだめにし、学校を利己的に活用してきたのです。
彼らはますます日本の学校と教育をおかしくしていくでしょう。

学校が教育の場でないのなら、一体、どういう場なのか。
今回の事件はそれを如実に示していると思います。
いろいろと考えていくと恐ろしくなる実態が垣間見えてくるように思いますが、どうでしょうか。

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2006/10/02

■未来を収奪しようとしている教育改革

教育基本法が変えられようとしています。
自民党では3年かけて議論してきたし、7割の国民が賛成しているといっています。
そうでしょうか。
もし仮にそうであるとしても、これは大きな問題です。
憲法改正よりも大きな問題かもしれません。

教育とは何かを語りだすとまたきりがありませんが、
教育こそが最大の経済発展の礎であり、社会安定の要であることは、もっと認識されていいでしょう。
最近の日本社会のほとんどの問題は、教育の失敗に関わっていると思います。
だれが失敗させたか。
いうまでもなく文部省であり、産業界だと私は思いますが、
それも含めて責任は私たち自身にあります。

ノーベル賞を受賞したインドの経済学者、アマルティア・センは、
基礎教育の重要性を訴えている人ですが、彼はこういっています。

日本は19世紀の半ばすでに、教育改革の必要性をしっかり見抜いていました。明治維新から間もない1872年に、教育の基本制度である学制が公布され、「邑(地域)に不学の家なく、家に不学の人なからしめんことを期す」と、社会の責任が明示されました。抗して、教育の格差が縮まり、急速な経済成長をとげる日本の目覚ましい歴史が始まったのです」(「人間の安全保障」13ページ)

日本は「教育の成功」を体験した国です。
もっと正確に言えば、それは何も明治維新から始まったわけではなく、
江戸期に培われた文化なのです。

センは、アジア経済発展の特徴として、
学校教育の普及・医療の充実といった人間的発展の実現をあげています。
まず経済発展ありきでその後に人間的発展を促すモデルとは異なり、
経済発展よりも人間的発展を重視し国家と市場が補い合うことにより「東アジアの奇跡」は実現した、
というのがセンの考えです。

つまり社会のパラダイムがちがっていたのです。
しかし、日本は戦後、アメリカモデルに切り替えました。
それにしたがって、教育もまたパラダイムシフトしてしまったのです。
学校は学びや教育の場ではなく、訓練や管理の場になってしまいました。
その結果、理系はともかく文系での教育レベルは一番低いレベルと評価されるほどになってしまいました。
誰が評価したのかといわれそうですが、
OECDなどの調査結果を見るまでもなく、1日テレビを見ていたらそのことは一目瞭然です。
教育を受けなかった人たち(テレビ局や大企業の経営幹部たち)が制作しているテレビは
おぞましいほどに痴的です、

英語教育を小学校の必修科目にするかどうか、が話題になっていますが、
そんな瑣末で答も明確な問題に目をとられずに、
教育の本来的な意義や役割を再考するべき時期にあると思います。
教育改革の方向性を間違えれば、未来の展望はなくなります。
「改革」がいつでも良いものだという発想は捨てなければいけません。

私たちの未来を収奪しようとしている教育改革の動きが高まっているのが不安です。

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2006/09/23

■犯罪被疑者が子供たちを育てる国家(日の丸・君が代の強要違憲訴訟の東京地裁判決の意味)

入学式や卒業式での日の丸・君が代の強要違憲訴訟の東京地裁判決は予想に反して、「都教委の強制は違憲・違法」という原告勝訴になりました。
この問題はこれまでも何回か書きましたが、強要のやり方に恐ろしさを感じていました。
教育者の正反対にいる人たちが学校を占拠したとしか、私には思えませんでした。
そして今回の判決は、被告も原告も、おそらく思ってもいなかった結果になりました。
教育基本法の危機の中での意外な展開としかいいようがありません。

昨今の教育議論では、いずれの側にも子供の視点が感じられませんが、子供たちの視点からは今回の判決はどう見えているのでしょうか。

今回の判決は、国家にとっての基本である憲法に抵触しているかもしれない犯罪者の疑いのある人たちに、次世代を担う子供たちの教育を任せているということをはっきりと示しています。そのことをもっとみんな認識すべきです。
学校はいまや本来的な意味での教育機関ではなくなっているのです。

人生のモデルとすべき先生が、基本的な秩序やルールを破っているかもしれないという事実は、子供たちにとってはどういう意味を持つでしょうか。
日の丸・君が代事件や石原都知事の教育行政には、教育の視点がなく、イスラム世界の国家が子供たちを戦士に育てるのと同じ「洗脳」の視点しかないように感じます。

子供は大人の背中を見て育ちます。
憲法をないがしろにしたり、考えの違う人を排除したり、権力に迎合したり、そんな大人たちがはびこっており、しかも彼らは「愛国心」を押し付けています。
もし愛国心に価値があるとしたら、まずは自らが愛国心を持つべきでしょう。そうすれば少しは説得力が出てくるでしょう。
愛国心を語る人たちが国家を、文化を壊してきた歴史を少しでも知っていれば、かれらの胡散臭さはすぐに見えてくるはずです。
私たちはもっと歴史を学ばねばなりません。
しかし、日本の学校は現代史を教えようとはしてこなかったのです。

憲法違反しているかもしれない人に子供の教育を任せている不安を感じている人は少なくないでしょう。
そろそろ義務教育発想に支えられた学校制度は根本から見直されるべきではないかと思います。
教育とは何かを考える教育者が最近はいなくなってしまいました。

教育基本法の行方が心配です。
国民の手に取り戻さないと、どんどんおかしな方向に行きそうです。

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2006/08/27

■学校の役割

今日、友人家族がやってきて小学生の子どもを持つ家族が訪ねてきてくれたのですが、そこでの話題の一つが小学校の話でした。
子どもが通っている学校は、かなり評判のいい公立小学校ですが、夏休みの宿題がほとんどないそうです。昔あった夏休み日記やドリルなどもないそうです。
子どもはのびのびと自由に遊ばせるのが良いと考えているのでしょうか。
しかし、どうもそうではないようです。
夏休みに限りませんが、その学校に通う子どもたちの多くは塾に行っているのだそうです。ですから、子どもが遊ぼうにもなかなか遊び相手を見つけられないのです。
学校もまた、子どもたちの塾通いを勧めているようです。
学校は塾での勉強を邪魔しないように、夏休みの宿題は出さないのかもしれないと思いたくなります。
学校の役割は何なのか、と友人に聞いたら、体育と隔離でしょうか、と冗談で答えました。その冗談が冗談で終わらないのが、どうも現実のようです。
教育基本法が変えられようとしていますが、まさにその大きな動きもこうしたミクロ情報につながるように思います。
学校と塾はいろいろな意味でミッションが違うはずです。
私は日本における初等教育体系は30年前にパラダイムシフトすべきだったと思います。
しかし、反対のほうにパラダイム回帰したのが実際の学校行政でした。
学びの場ではなく、教えの場になり、そして管理の場になってしまいました。
健全な子どもたちが反発し、問題を起こすことは必然的な結果です。
そして同時に、教育の産業化が進められました。
それも本当の意味で志のある教育産業であれば良いですが、単なる利益志向の教育産業です。私もある大企業に少し関わりましたが、その実態を知って唖然としました。教育とは正反対のところに歩きがしました。
子どもたちは、まさに市場化されてしまったわけです。
もっと恐ろしいことも起こっています。
別の所に書きましたが、子供たち同士の集団登校も今ではなくなっているそうです。
なぜ無くなったか、考えてみるとさまざまなことが思い当たります。

学校の役割は何なのか。
国家や国旗や「教育勅語」を強制する前に、自らがやるべきことはたくさんあります。
最近盛んな「次世代育成活動」の基本理念を改めて考え直さないと、日本はとんでもない方向に行きかねません。
次世代育成計画行政を起案し推進している人たちに対する子どもたちの反乱が、とても心配です。自業自得で終わらないからです。

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2006/07/24

■管理のための教育と自立のための教育

教育基本法が問題になっていますが、その改正の動きと連動するように各地の学校や教育委員会でさまざまな問題が起こっています。
ある学校では教育勅語を生徒に唱和させたり、問題になっている教科書が住民の反対にも関わらず使われることになったり、メーリングリストにはそうした話が毎日飛び交っています。
教育を受ける権利は憲法で認められていますが、問題はその教育の中身です。

教育は2つの側面をもっています。
管理のための教育と自立のための教育です。
教育制度の設計主体が管理側にあれば、おのずとその内容は支配や統治のためのものになります。
経済成長を支援するための産業社会への順応教育も、この一種と考えていいでしょう。
これが悪いわけではなく、そのおかげで日本は豊かで安全な社会を実現しました。
しかし、そこには危険性も内在します。ナチスや今の北朝鮮の事例はそれを物語っています。
この種の教育は、ある段階まではメリットが大きいですが、ある段階を超すと管理側にさえマイナス面が出てきます。
しかしその段階で軌道修正する仕組みはほとんどの場合、仕組まれていませんから、破綻しかありません。

自立のための教育は個人に基点をおいています。
多様な選択肢を用意することが管理側の役割になります。
そこに市場原理を入れたほうが多様性を実現できるという主張が最近強くなっていますが、そんなことは絶対にありません。
市場原理の本質は多様化ではなく、画一化です。
そのことが忘れられているのが残念です。
民営化発想や市場原理は、多様性を壊しこそすれ多様性を増やすことはありません。

一時期話題になったチャプタースクールや私塾はうまく設計できれば多様性につながる可能性はありますが、そこにはしっかりしたコモンズの理念がなければいけません。

教育のありかたは、社会のビジョンと深く関わっています。
ビジョンや理念のない教育改革や研究がはびこっているのが、とても残念でなりません。

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2006/01/04

■学校での週1回の「弁当の日」をどう思いますか

子育ち学ネットワーク代表の深作さんから、彼が住んでいる埼玉県鷲宮町の議会が昨年9月に、食育と家庭の教育力の向上を図ることを理由に、学校での週1回の弁当の日を設定する決議をしたそうです。
皆さんはどう思われますか。
きっと現場を知っているかどうかで判断がわかれるように思います。
深作さんからのメールを一部引用させてもらいます。

一見食育の流れかと思うかもしれませんが、地域事情・家庭事情を鑑みると、給食が唯一のまともな食事という子どもたちも多くおり、その子どもたちの健やかな育ちへの危惧を抱かざるを得ません。

現在、反対運動が起こっているそうですが、決議の内容はもちろん、その決議の仕方にも大きな問題がありそうです。一言でいえば、関係者や住民と話し合うことなく、しかも現場実態をしっかり把握することなくの決議だったようです。

決議内容は同町の議会議事録をお読みください。
http://d.hatena.ne.jp/washimiya2005/
決議文の最後にこんな言及もあります。
「給食センターが不要になれば、経済効果は大きい。」
決議文の後に質疑記録もありますので、それを読むと問題の所在がわかってもらえると思います。
また、これに関しての深作さんのコメントも深作さんのブログに書かれていますので、ぜひお読みください。
http://blog.livedoor.jp/takuchan0220/archives/50118760.html

今回は私のコメントは差し控えます。
あまりにも明白だからです。
こうしたことがさまざまなところで展開されているような気がしてなりません。

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2005/12/23

■ウォーキングバスの発想

昨日、イギリスで行われている「ウォーキングバス」をテレビが紹介していました。
ご覧になった方もあると思いますが、イギリスでも子どもを狙った事件が発生しているため、親から子供の安全についての心配が学校に寄せられ、それが契機になって、すぐに親、学校、自治体の3者で会議が持たれ、「ウォーキングバス(歩くバス)」の導入が決まったのだそうです。そして全国に広がりだしているというのです。
「ウォーキングバス」はこんな形で「運行?」されています。
朝の8時半、小学生の登校時間。乗客の子供たちと運転手の親が始発の場所から出発します。つまり一緒に歩くのです。ルールは全員が周囲に目立つ明るい色のベストを着用すること。そして、バスの停留所のように、通学路の途中で次々と子供たちが「歩くバス」に乗り込んできます。こうして子供たちは、より安全に学校までたどり着くことができるというわけです。
ちなみに、ベストの費用などは地元のお店が負担したりしているようです。企業もまた協力しているのです。

日本での取り組みと大きく違うのは、楽しさの要素が見事に組み込まれていることです。子どもの目線にたった発想と言ってもいいかもしれません。日英の「教育観」や教育行政の姿勢の違いも明らかです。
日本では、企業も行政も学校も責任回避しあって、結局は子どもたちにしわ寄せし、「大人を信ずるな」と教え込んで、子どもの「自己責任」の問題にしているのです。そうした教育の中で「真面目に」育った結果の一つが「姉葉さん」なのかもしれません。

「ウォーキングバス」の発想は介護や福祉にも大切なことです。
介護や福祉は楽しく解決しなければいけません。その方策を考えることこそが、私たちの知恵です。ケアする人をケアする前に、ケアをケアすることが必要なのかもしれません。

それにしても「ウォーキングバス」は素晴らしい方法だと思いますが、日本でもどこかでやっているところはあるのでしょうか。
ご存知の方がいたら、教えてくれませんか。

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2005/11/30

■チームで相談できる試験制度

韓国で、大学受験に携帯電話を活用した不正行為が問題になっています。
不正行為は悪いでしょうが、そんなにしてまでして、合格しなければいけない状況はどこかに間違いがあると私は思います。教育と言う視点で考えると、根本的なところに問題がありそうです。
先日書いた川崎教授の話に出てきた印象的なことをまた書きます。

フィンランドの学校の紹介の中に、試験の解答をチームで議論しながら答える写真がありました。目からうろこがおちました。試験の目的は何でしょうか。

「評価」は、その視座と目的によって全く変わったものになります。
管理型評価と支援型評価です。
最近流行の行政評価や福祉施設評価は前者です。管理者にとってはともかく、受益者や当事者にとってはほとんど価値のないものだと思っていますが、場合によってはむしろ害をもたらすでしょう。ですから私は反対です。ある自治体から相談を受けた時も大学教授たちの提案する管理型を批判してしまい、仕事はさせてもらえませんでした。無駄使いが上乗せされたと思っています。
行政評価では当初から私は共創型評価を提案しています。これは管理者にとっても意味があると思いますが、何よりも現場支援型であり、実践的です。
共創型評価は、当事者が中心になって現在の状況を改善しようと話しあうことです。評価を通して、効果を挙げ、働きやすくなる仕組みです。

試験の目的は何でしょうか。選別でしょうか、格付けでしょうか、支援でしょうか。
入試はともかく、それ以外の試験の局面では、むしろ試験を通してみんなの学力が高まることが大切です。だとしたら、みんなで話し合って正解を見つけていくスタイルの試験のほうが効果的です。
チームが受験単位になる試験はいろいろとあると思いますが、学校の試験はグループ単位にするときっと楽しくなりますね、そして学びあえると思います。

管理の時代は終わりました。
21世紀は現場の人たちが主役になる、真心の時代になってほしいです。

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2005/04/01

■校門は原則施錠 

学校の安全対策に関して文科省が指針を出しました。これまでの「危機管理マニュアル」で示してきた学校側の体制をより強化した内容になっている、と新聞は伝えています。
その一方で、「地域に開かれた学校づくり」も引き続き進める方向だといいます。
難しい問題だと思いますが、「施錠」に安全を求める発想に、違和感を持ってしまいます。

千葉県習志野市の秋津小学校の事例は有名な話ですが、これとはまったく逆の発想です。
もう10年以上前の話ですが、当時校長だった宮崎稔さんが、学校の鍵を住民団体に配ってしまったのです。つまり「施錠の発想」ではなく「開錠の発想」です。そこから、学校と地域の融合が始まり、住民たちの世代を超えたつながりが育っていったのです。

施錠の発想は、昨今の社会の姿勢を象徴しています。
問題の本質に取り組むのではなく、問題の発生を想定した発想です。
話は飛躍しますが、リサイクル産業育成と同じ発想です。
この発想こそを変えなければ状況は変わらないでしょう。

先日、浜松で活動しているNPOガラ紡愛好会を訪問しました。
湖沼の汚染防止のために洗剤ではなく石鹸を使おうと活動し始めたグループですが、活動の課程で、石鹸もまた使用量が増えることで汚染につながることに気づき、結局は消費型のライフスタイルが問題だということになり、そこから洗剤を使わない布巾や石鹸を使わないタオルを開発しました。その商品開発を支えたのが、和綿を使ったガラ紡績という伝統技術でした。
それを使い出すことで、肌が荒れなくなり、アトピーも治り、といった、さまざまな効用も出てきたといいます。

施錠とリサイクル産業の共通点は、問題の存在を無意識的にでも肯定することです。
「肯定」は消極的な「推奨」にもつながりかねません。
大切なのは、問題の存在の意味を考えることだろうと私は思います。
学校空間の施錠(そんなことは出来るはずがないのですが)が、原因の解決の扉にも施錠しなければいいのですが。

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2005/02/15

■学校がなぜ悲劇の舞台になるのか 

また学校が舞台の事件が起きました。
事件の背景はわかりませんので、この事件へのコメントは避けますが、
学校という空間もまた、信頼を失った殺伐とした空間になっていることを思わせます。
なぜ学校が殺伐とした空間になったかは、社会のあり方と深くつながっています。社会の歪みが学校を通して子どもたちに襲いかかる仕組みになっているのかもしれません。
問題は社会の形に合わせて設計された学校に、子どもたちが無理やり合わせられていることです。そこに大きな問題を感じます。

学校の主役はだれでしょうか。
私は子どもたちだと思いますが、一部の例外を除き、そうはなっていないと思います。

その歪みは、いろいろな形で現れています。
例えば、最近、発達障害が話題になっていますが、昨日、日本教育会館で行なわれた公開研究会に参加した人がホームページにこんなことを書いています。

メディアは全般に、「今まで隠れていた障害が明らかになり、細かい支援が行なわれるようになった」という論調ですが、実際には入学前に細かい選別が行なわれているのです。要するに、障害児の多様化・重層化なんですね。 (中略) それを支えているのは、学級崩壊を防ぎたい教師と子育て不安から診断を望む親。 そして、出来る子にエネルギーとお金を注ぎたい文部科学省です。 教室に入れてもらえなかったり、教室から追い出されたり、様々な問題が起きているのです。

詳しくはこのホームページをご覧下さい。
http://bbs3.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=mypeace&mode=view&no=21
これに関するコメント記事もいくつかあります。

こうして創られた学校空間が、いかに子どもたちの心を歪めるかは想像に難くないです。

学校を開くとか閉じるとかの問題は、学校の透明性を高めるということでなければいけません。
子どもたちの集まる場をマネジメントしている人たちは、実態をもっと社会に情報発信してほしいです。
この事件は、そうしたことが急務であることを示唆しているように思います。

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2004/11/11

■奉仕活動が必修科目???

都立高校で新たに「奉仕活動」が必修科目になることが決まったようです。
どうしてこう本末転倒した施策が次々とでてくるのでしょうか。
立案者たちの貧しい生活が象徴されています。

一昨年、港区のボランティア関係の研究会で、「奉仕」と言う言葉に関して、私の否定的な発言が物議をかもしたことがあります。私自身は、ボランティアと奉仕活動は全く違うもの、むしろ正反対のものと思っているのですが、同じものだと考えている人も多いようです。
奉仕をさせる発想は、自発性にはつながらないはずなのですが。

コムケアの資金助成プログラムで、今年、入選したプロジェクトに、Happy Postmanというのがあります。小学生のボランティア活動起こしです。主役は小学生で、もちろんプレゼンテーションも小学生がやりました。
彼らは決して社会奉仕活動などとは思っていません。たとえば福祉施設に行くことが楽しいからやろうとしているのです。楽しいから自発性が高まり、活動も広がるのです。
結果として、自分たちの生活基盤である地域社会が気持ちのいいものになります。社会がよくなるのが大切なのではなくて、自分たちの生活が気持ちよくなることが大切なのです。そして、その「自分たち」の範囲がどんどん広がっていくのです。だからこそ、イラクにまで行ってしまうのです。

奉仕から発想する社会と自発性から発想する社会は、全く異質な社会です。
前者は組織発想の管理社会、後者は個人発想の真心社会です。
最近議論が起こり始めたソーシャルキャピタルも、後者の視点への気づきから起こっています。

しかし、日本の教育関係者、あるいはその取り巻きの有識者たちは、あいかわらずの発想で教育を考えているようです。
「学校に子どもを合わせる教育」の仕組みを続けている限り、カリキュラムをいくらいじっても、制度をどんなに変革しても、問題は解決しないでしょう。
そろそろ「子どもに合わせた教育」の仕組みにしていかないと問題は解決しないように思います。

ちなみに、もし身近な社会を自分たちの生活基盤と実感できれば、みんな社会をよくしたいと思うでしょう。奉仕などと言わなくとも、みんな行動を起こします。
社会に奉仕という場合の社会は一体なんでしょうか。
自分は入っているのでしょうか。
奉仕活動などと言う人の「社会」は、もしかしたら、奉仕する人と奉仕される人が別々の社会にいるのでしょうか。きっと自らは奉仕される社会にいるのでしょうね。
それこそが、奉仕の論理ではないかと思います。

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