カテゴリー「平和時評」の記事

2022/06/04

■緊急サロン「ウクライナの戦争状況を止めるためにできることがある」報告

小室nikoさんのよびかけの緊急サロン「ウクライナの戦争状況を止めるためにできることがある」には20代から80代と、幅広い層の男女16人が集まりました。なかには時間の合間をぬって、1時間でも参加したいという人がいるほどで、みなさんの思いの強さを感じました。

Nikoさんは、最初に参加者に瞑想を呼びかけ、その状況のまま、日本国憲法の前文と9条を読み聴かせてくれました。
そして、どうして今回の呼びかけに至ったのかを話し、誰が悪いのか、なぜ戦争は起こったのかも重要だが、ともかく、一日も早く、ウクライナでの戦争を止めたいと語ってくれました。そして、いまこそ日本国憲法の9条を改めて思い起こし、世界に紹介していきたいとも呼びかけました。
SNSで、あっという間に情報が広がる時代なのに、なぜ一方的な(一部の)情報しか広がらず、戦いをやめようという思いは広がらないのか、というのがNikoさんの思いのようです。

そこから話し合いが始まりました。
話はさまざまに広がりましたが、話し合いを通して、気づかなかったことにも気づくことがある。こうやって世界中で話し合う人が増えてくるだけでも、世界は変わるのではないかと私は改めて思いました。

話し合いがある程度進んだ頃合いを見計らって、Nikoさんは参加者みんなに「戦いを止めるアイデア」を一人5つずつ出すように提案し、各自カードに書いて、発表してもらいました。nikoさんからも例示的に10個ほどのアイデアが紹介されました。
たくさんのアイデアが出されましたが、それを整理して話を深めるところまで行く前に、話題が思わぬ方向に転じてしまい、なぜウクライナ戦争は起こったのかという話から、日本の平和や憲法問題にまで発展、時間の関係もあり(なんと1時間半も延びてしまいました)、みんなが出したアイデアはnikoさんが預かることになりました。

そして、nikoさんの呼びかけで、思いを共有する人たちでゆるやかなネットワーク組織をつくり、メールで情報共有したり、何か一緒にできることがあれば実際に取り組んだりしていくことになりました。近いうちにこのメーリングリストでも、nikoさんから呼びかけがあると思いますので、思いを共感する人はぜひご参加ください。

参加者からのアイデアの報告は、nikoさんからあるかもしれませんので、私からは話し合いを通じて感じた3つの「私にできること」を書かせてもらいます。

1は、「戦っているいずれかを、さらにはいずれをも支援しない」ということです。喧嘩をしている人を止めるのに、どちらかを応援するようなことはだれもしないでしょう。応援するということは「火に油を注ぐ」ということではないかと思います。ですから私はいまウクライナで戦争しているロシア政府とウクライナ政府のいずれをも非難もしなければ応援もしないようにしたいと思います。

しかし、それは、ウクライナやロシアに暮らしている人を支援しないという意味ではありません。戦争をしているのは、それぞれの政府やその背後にいるどこかの政府や産軍複合体や多国籍企業であって、市民ではないでしょう。ロシア軍の兵士たちも、もしかしたら、「戦わせられている」のであって、「戦っていない」兵士も少なくないと思います。もちろんウクライナ軍の兵士や国民たちも、ですが。

ですから第2に、「戦火の周辺で生命さえをも脅かされる惨状にあるウクライナやロシアの人たちは支援する」ということです。
サロンでは、あるNPOの人がご自分の体験を紹介してくれました。その人は、自閉症支援などの活動をされているのですが、自分たちと同じような活動をしているウクライナのNPOを探し出して、直接その人たちへの資金援助などをしているそうです。
この話は、とても示唆に富む話です。国家や国際組織を通さずに、直接、同じ立場の人たちを支援することによって、戦いの一方を支援するような結果を避けると同時に、市民たちのつながりが国家間の戦争への大きな対抗力になるような気がします。
国家を超えた支援体制ができれば、人々の国家依存度は低下し、自国政府に対する異議申し立てもしやすくなるかもしれません。市民同士のつながりが深まれば国家間の戦争も止められるかもしれません。これは、これからの「平和のあり方」にも通じています。

そして第3に、「私自らもみんなと仲良くしよう」ということです。
nikoさんも話していましたが、平和に向けて活動をしていた人たちのなかにも、「正義の戦争論」を持ち出して、「侵略国家」ロシアを非難している人もいます。日本の国会議員たちは、ウクライナの大統領の演説に拍手喝采し、なかには「祖国のために戦っている姿に感動」したと発言する人さえいました。9.11後のアメリカや経済規制を受けていた(ロシアではなく)第二次世界大戦前の日本を思い出します。
プーチンを狂人扱いしたり、悪口雑言したりする人も、結局は戦争の火に油を注いでいるように感じます。憎悪や非難からは戦争を止める力は生まれない。
私は、ロシアへの経済制裁にも反対です。困るのは決して政府ではないからです。

戦争をすぐに終わらせる策はそう簡単には見つからないかもしれません。
しかし、その思いで何かを始めることは大切です。nikoさんの呼びかけを待つだけではなく、できることをそれぞれが始められればと思います。

ところで、サロンでは、人間の攻撃本能の話題が少し出ました。
しかし、私は今回のウクライナ戦争関係の報道のなかで、改めて人間の「性善説」を確信できる言動にたくさん触れています。
実際に危機に瀕した他者を前にすれば、手を差し伸べようという感情が沸き起こる、それこそ人の性が善である、と孟子は言っていますが、そうした実例に触れる度に、私は未来への希望を感じます。

人への憎悪や非難をいくら重ねても戦争は止まらない。しかし、人の性は「善」なのです。その「善」を信じて、私はまずは憎悪の念や非難の姿勢を捨てたいと思っています。
戦いをなくしたいのであれば、まずは自らがみんなと仲良くなろうとしなければいけませんから。

Niko20220601

| | コメント (0)

2022/05/13

■仕掛けた人の背後にある真実

2年ほど前に出版された馬渕睦夫さんの「国際ニュースの読み方」を読んでいたら、こんな文章が出てきました。

(「朝鮮戦争」は北朝鮮が韓国に侵攻したということになっていますが)実態は北朝鮮に韓国侵攻の餌を蒔いたのは、実はアメリカなのです。19501月に、アメリカのディーン・アチソン国務長官は「韓国はアメリカの防衛線の外にある」と演説しました。おわかりのように、北朝鮮が韓国に侵攻してもアメリカは介入しないということを世界に明らかにしたのです。

これを聞いた北朝鮮が625日に38度線を越えて韓国に侵攻しました。韓国軍は総崩れになったのですが、この段階になって国連軍が韓国側に立って参戦します。国連軍の主力はアメリカ軍で、司令官はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)総司令官のダグラス・マツカーサーでした。

なんだかつい最近もそんなことがあったなとウクライナ戦争の端緒になったと言われているバイデン大統領の言葉を思い出しました。

根を絶たなければ、戦争は終わりません。
せめて戦争の当事者を見極めなければいかないなと改めて思いました。
最近、日本のマスコミも少し姿勢が変わってきたように思いますが、たとえフェイク情報でも吟味していけば、真実は垣間見えてくるはずです。

| | コメント (0)

2022/05/08

■戦争を止めるのは人の友好関係を広げていくことでしかありません

今日の朝日新聞のトップ記事の見出しは「友好 崩れ去った」とあります。
キーウ市民がロシアの親族との付き合いをブロックしたという話も出ています。
とても寂しい話ですが、トップ記事にしてほしくはありませんでした。
たしかにそういう話はあるでしょう。しかし、おそらくその反対の話もあるでしょう。
ウクライナの惨状にも拘わらず、ロシア人とウクライナ人が信頼し合い、支え合っている話が、です。

異常な事態の中ではさまざまなことが起こります。
不信も起これば、信頼も生まれる。
友好が失われることもあれば、友好が高まることもある。
そのいずれかに焦点を合わせるかで、事態の見え方は変わってくる。
そしておそらく、それによって未来も変わってくるのではないかと思います。

マスコミは、往々にして、「不幸」で「悲惨」なことを取り上げる。
それによって事態は、ますます「不幸」で「悲惨」になることも少なくないような気がします。
私は、権力や権威は信頼しませんが、人間は信頼しています。
どんなことを起こしている人も、信頼したい。
そう思って毎日を過ごしています。

人の仲を裂くような記事には触れたくありませんし、そんな記事を信じたくない。
人の友好は、そんなに簡単に崩れるはずはない、と思いたい。
親族とのSNSをブロックしたという朝日新聞の記事に出てくるユーリーさんも、本当は親族を信頼し愛しているに違いない。この記事を書いた記者の気持ちもわからないわけではありませんが、もっといい面を伝えてほしいと思います。惨状の中にこそ、人を信頼したくなることはたくさん生まれているはずですから。
そして、それこそがウクライナの現状を変える力になるはずだからです。

戦争を止めるのは核抑止力でも正義の追求でもない。
人の友好関係を育てていくことでしか、戦争はなくならない。
私はそう思っています。

| | コメント (0)

2022/04/29

■昨日は沖縄が日本の返還された日でした

連日、強烈な映像を見ているせいか、最近は何を読んでもウクライナにつなげて考えている自分がいます。
映像の影響力の大きさに驚くとともに、すべてのことはみんなつながっているという思いを改めて実感しています。

昨日は沖縄の人たちにとっては「屈辱の日」と言われている日でした。70年前の428日、サンフランシスコ講和条約発効で日本が独立を回復した一方で、沖縄や奄美群島などは米国統治下に留め置かれ、以来、27年間、アメリカに統治される「アメリカ世」が始まったのです。そして形は変わったものの、いまなお、沖縄には米軍の基地が残されています。

昨日、岩波新書の「〈アメリカ世〉の沖縄」を読みました。
「はじめに」にこう書かれています。

「この時期(〈アメリカ世〉)の沖縄は米軍人が最高権力者として君降した。このため軍事優先の統治によって基本的人権は保障されず、自らの事を自ら決める自治権はないがしろにされた。一方、日本政府は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を明文化した日本国憲法を制定し、平和国家として「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」(前文)と表明した。だが、国民が享受できた「平和」は、沖縄の米軍基地の存在を抜きに語れない」。

ドキュメントと題されているように、本書は、「軍事植民地」状況にあった沖縄の27年間の記録です。
現在のウクライナの状況を思いながら、一気に読ませてもらいました。
なぜ多くの人は、沖縄に、ウクライナへの関心ほどの関心を持たなかったのか。いや、いまもなお持たないのか。

本書の「おわりに」に、著者の宮城修さんが、沖縄が「返還」され、沖縄が再び〈大和世)になった日の出来事を書いています。なぜか読んでいて涙が出ました。

当時、小学三年生だった私は、教室で担任の先生から日本政府から贈られた復帰記念メダルをもらった。表は首里城の守礼門をデザインしていて、裏に「祖国復帰おめでとう」と刻まれていた。姉と一緒に帰ると、日曜日でもないのに父がいる。沖縄県庁発足を伝えるテレビ番組を見ていたようだ。
「君たちは学校でメダルをもらったでしょう。日本の100円と交換しよう」
(中略)
使い慣れたドルはこの日、日本円と交換された。初めて見る日本円ほしさにメダルを差し出すと、父はいきなり家の前に広がるサトウキビ畑にメダルを投げ捨てた。唖然とする私たち。父は理由を説明してくれず、ずっと黙り込んでいた。

やはりここでもウクライナのことが思い出された。
ウクライナも大切ですが、沖縄への関心も持ち続けなければいけない。
そう思ったのが、今年の私の「沖縄の日」でした。

ウクライナ報道に時間を割くのも大切ですが、その合間に、岩波新書「〈アメリカ世〉の沖縄」をぜひ読んでほしいと思います。

 

| | コメント (0)

2022/04/21

■ジョン・ダワーの「戦争の文化」とウクライナ戦争

ジョン・ダワーの「戦争の文化」を読みました。いつもながら目を開かされます。
ジョン・ダワーは近現代史に造詣が深いばかりでなく、ベトナム戦争やイラク戦争に関しても示唆に富む発言をしてきています。第二次世界大戦後の日本人の生活を描いたジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」は、ぜひ多くの人に読んでほしい本です。
http://cws.c.ooco.jp/book2.htm#001

昨年末に翻訳出版された、この「戦争の文化」も多くの人に読んでほしいと思います。
ダワーの本を読んでいつも感ずるのは、私の歴史の知識がいかに一面的なものであるかということです。同時に、マスコミで報道されている情報も、いかに操作されているものであるかということです。
そうしたことに気づくと、いま毎日報道されているウクライナ戦争の受け取り方も少し変わるかもしれません。

ダワーは、「戦争の文化」が国家を戦争へと導き歴史に汚点を残すことを、9.11後のアメリカを例にとって説明してくれています。
現在の国際法は、戦争を規制しているものの、そのこと自体が戦争を許容していますから、国際法そのものが「戦争の文化」の一部だとダワーはいいます。
この視点はとても大切なように思います。

9.11で起こったのは、グループ思考と群れ行動です、その始まりはやはり飛行機がツインタワーに突入する映像でした。
グループ思考の虜になると、みんなが同じ意見を持ち、議論もなくなるし、異論も消えてしまう。そして群れ行動が蔓延していくとダワーは書いています。そこから出てくるのは、「国のために死をも厭わない」という、私には本末転倒した正義感です。

ダワーは、アメリカに比べて、第二次世界大戦敗戦後の日本には反戦の文化が根をはっていると書いています。私もそう思っていました。
しかし最近の様子を見ていると、どうもそうではなかったようです。
マスコミ報道や多くの人たちのウクライナ戦争への反応を見ていると、そんな不安が高まります。

ちなみに、監訳者もあとがきで解説していますが、本書は「戦争の文化」をテーマにしていますが、「平和の文化」という語で始まり、「平和の文化」という語で終わっています。監訳者の三浦陽一さんは、「戦争の文化」の自覚がないために愚かな戦争が繰り返されるのだとすれば、「戦争の文化」の自覚による「戦争の文化」からの脱却のプロセスがすなわち「平和の文化」なのであり、本書はそのためのパイオニア的な歴史研究である、と書いています。
私もそう思います。それが、この本を多くの人に読んでいただきたいと思う理由です。

よかったらぜひ。上・下巻2冊ですが、下巻だけでもぜひお読みください。

 

 

| | コメント (0)

2022/04/18

■国民の無関心が戦争を引き起こす

一昨日、テレビで観たのですが、ロシアでウクライナ戦争反対のデモをしていたロシア人女性が、インタビューを受けて、「戦争が起こったのは私たちが政治への関心を持っていなかったからだ」と反省の言葉を話していました。

それを見ていて、ロシアの人たちの目覚めの予兆を感じました。
ウクライナでは、そういう意識は国民の間に生まれているのでしょうか。国家のためにと立ち上がる国民はいても、戦争をやめさせようと政府に立ち向かっている国民はテレビ報道では見たことがありません。

戦争を起こすも止めるも、政権の政策次第です。
戦争に反対する国民と戦争に加担する国民。
ロシアとウクライナは対照的です。
しかし、ロシア国民もウクライナ国民も、政治への無関心がいまの事態を引き起こし、その影響を受けていることにおいては違いはありません。

日本ではどうでしょう。
ウクライナの惨状の映像をテレビで観て、ウクライナ戦争への関心を高める人はいても、日本の政治への関心を高めたという人の話を聞いたことがありません。

日本では先日、れいわ新選組の議員を除く国会議員全員が賛成して「ロシアによるウクライナ侵略を非難する決議」を行っています。つまり私たち国民を代表する国会議員、言い換えれば、日本国民全員がウクライナの側に着くと宣言したことになります。
政府の決定と国会の決議とは意味が全く違います。しかし、それに関しても日本の国民の関心はほとんど見えてきません。
立法府の国会が、どうして戦争している一方の国を敵とするような決議をするのか。なにやら第二次世界大戦前に、一見、勢いがあったドイツと組んだ時のことを思い出してしまいました。まるで日本は第二次世界大戦前に戻ってしまったようです。

あの決議の報道を読んで、ロシアが日本に核兵器が撃ち込むかもしれないという不安が起きましたが、政治への関心を持っていたにもかかわらず行動していなかった責めは受けなければならないと諦めて、心を鎮めました。

大きな無力感もあって、この2年ほど、政治関係のサロンを、あまりやっていませんでした。
しかし、いかに微力でも、政治についての話し合いの場は大切です。
来月からまた、政治に直接つながるサロンを増やしていこうと思います。
それこそが、ウクライナの惨劇をやめるために私ができることだと思いますので。

どなたか話したい方がいたら、ご連絡下さい。
話し合うサロンの場を提供します。

 

 

| | コメント (0)

2022/04/06

■国家の戦争は犯罪ではないという常識

最近では、戦争は国家間の事件だとは限りません。
対テロ戦争というのもあります。
しかし、戦争という口実で殺人を正当化できるのは国家だけです。
つまり、戦争というのは国家制度と深くつながっているのです。

国家は暴力行為を正当化するための制度とも言えます。
ですから、戦争行為は国家の世界では「犯罪」ではないようです。
戦争は外交の延長だなどと言うバカげた考えを受け入れている人もいるのが、私には理解できません。
国家の視点からは戦争は外交高位かもしれませんが、市民の視点から考えれば戦争こそが犯罪です。
国家(ステート)と国民(ネイション)を混同してはいけません。

また国家の軍隊の銃口は、外国に対してよりも自国民に向けられてきていることはこれまでの歴史の中で証明されています。
銃口が向けられるだけではありません。
たとえば徴兵制度というのが、自衛のためには必要だという人がいます。

しかし、徴兵制度もまた、国家が市民を殺人行為に強要するための制度ですから、市民の立場に立てば、徴兵されるのと殺人行為に巻き込まれるのと同じです。
徴兵された息子に、戦場で敵を殺す羽目になったら自殺しろと諭した人がいましたが、共感します。

自分たちの社会を守るために立ち上がることと国家を守るために徴兵を受け入れるのとは全く違う話です。
しかし、両者を混同する人は少なくありません。

日本国憲法の平和条項は9条だと言われています。
でもそうでしょうか。
私は9条ではなく、基本的人権を保障している第3章のほうが大事だと思っています。
今年の憲法サロンはそれをテーマにしようかと考えています。

それにしても国家が行う殺人を正当化する戦争の論理に私たちは洗脳されているようです。
キーウでの民間人遺体放置事件が問題になっていますが、病院が襲撃されたり、軍隊に徴用されたり、敵兵を殺傷することが評価されるような異常な世界では、とりわけ特別の事件ではないように思います。
焦点を合わせるべき対象を間違うことは避けなければいけません。

徴用されて戦場に行くのと志願して戦場に行くのとは違います。
もちろん「立ち向かう相手」も違います。

| | コメント (0)

2022/04/05

■ウクライナで起こっているのは、国家間の戦争ではなく、国家政府による人民への虐殺事件

キーウ近郊で多数の民間人の遺体が発見されました。
ゼレンスキーやバイデンは「戦争犯罪」だといい、日本のマスコミも「戦争犯罪」と報道しています。どうも違和感があります。
ゼレンスキーはまた、「ジェノサイド」とも言っています。これなら私にも納得できます。

日本では、プーチンやロシアが悪者になっています。ゼレンスキーやウクライナは被害者であり、正義の戦いに立ち上がっていると受け止めている人が多い。これも違和感がある。

前にも書きましたが、私は、いまウクライナを舞台に行われていることを、国家間の戦争ではなく(もちろんそういう面もありますが)、国家政府による人民への虐殺事件と捉えています。ですから、ロシアやウクライナが主語として使われる場合、それはそれぞれの政府関係者と考えています。
そして、対立構造はロシアとウクライナではなく、国家政権と国民との戦い(というよりも政府による国民への暴力行為)と受け止めています。
ですから、私にはゼレンスキーとプーチンは、そしてバイデンも、みんな仲間にみえてきます。

そもそも「戦争犯罪」という言葉はおかしな言葉です。まるで戦争は犯罪ではないかのようです。しかし、戦争はそれ自体犯罪だろうと思います。不戦条約もありますし。
聖戦というものを私は理解できていないので、勝手な思いかもしれませんが。

今回の遺体の虐殺者(実行犯)は誰なのかはわかりませんが、ロシア人を責める気にはなれません。責任は虐殺を進めているロシアやウクライナの政権担当者にあるという気がします。仮にゼレンスキー政権が手を下していないとしても、責任は免れないはずです。

枠組みを変えて世界をみると、世界の動きはかなり違って見えてきます。
プーチンを狂人にしたり、ゼレンスキーをヒーローにしたりする見方には、恐ろしさを感じます。
相変わらず「べき論」が横行していますが、問題を正しく設定しないと、解決策は見えてきません。どんどん私たちは、世界を見る目を間違ってしまってきているような不安が強まっています。

だから7日にも湯島でウクライナ問題の勉強会を開催します。
よかったら来てください。

 

| | コメント (0)

2022/03/28

■「国家間の戦争」か「国家による市民の殺傷事件」か

ウクライナ戦争の報道は相変わらずよくわかりません。

ほとんどの報道は「ロシア対ウクライナ」という国家間の戦争と捉えています。
前にも書いたとおり、私は「国家対市民社会」との争いと捉えていますので、まだその意味での戦争は始まっていません。国家権力は存在しますが、戦いの相手である市民社会がまだ成立していないからです。

そろそろ銃砲の向きが変わるのではないかと思っていますが、なかなかそうならない。
むしろクーデター説のように、国家内部の権力争いの話が出て来てしまっていて、やはり国家という制度はまだまだ盤石のようです。

「立ち上がること」に関して前に書いた記事に関するコメントを読ませてもらうと、みんな全く理解していただいていないようですが、国家間の戦争に関しては、私は「立ち上がること」はありません。立ち上がったらいずれにしろ国家の側になるからです。

言い訳がましいので書くつもりもなかったのですが、いろんな人からメールまでもらうので、蛇足と思いながら書くことにしました。

 

| | コメント (0)

2022/03/26

■立ち向かう相手は誰か

今朝の朝日新聞の「異論のススメ」で、佐伯啓思さんが『「ロシア的価値」と侵略』と題した寄稿で次のような問いかけをしています。

今日、われわれはむき出しの「力」が作動する世界へ移行しつつある。ユーラシア大陸の中央部と東西の端はかなり異なった文明を持っている。西洋、アジア、ユーラシアの大国を舞台にした文明の衝突が起きる時、日本は、そのはざまにあって、前線に置かれる。その時、日本はどのような立場をとるのだろうか。

そして、さらにこう問いかけます。

状況次第では、日本も他国からの攻撃の可能性を排除することはできない。今回の事態(ロシアによるウクライナ侵略)は決して他人事ではない。果たして、われわれは、火炎瓶を作ってまで自衛しようとするウクライナの市民のように命がけで立ちあがるのであろうか。

これは前回の湯島でのオープンサロン以来、私も考えていることです。
というか、20代の頃から自問自答していた問いなのです。
自問自答だけではなく、30代の時にはある財界人から問いかけられ、話題にされたこともあります。その時、私の思いは相手にはほとんど伝わりませんでした。弁明の機会がないまま、その人はもう亡くなってしまいましたが、たぶん説明しても伝わらなかったという気もします。

この問いかけには、一つ、重要な要素が抜けているからです。
それは、「立ち向かう相手は誰か」です。
ウクライナ国民はいま誰に向かって立ち向かっているのか。
そこにこそ大切な意味があるような気がします。

ただ立ち上がればいいわけではありません。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧