カテゴリー「平和時評」の記事

2017/08/06

■戦後使われていた社会科の教科書をお薦めします

先日のサロンで参加者の濱中さんから、1948年から1953年の間に実際に使われた中学・高校社会科教科書のエッセンスを編集した「民主主義」(幻冬舎新書)という新書を教えてもらいました。
早速、読んでみました。
当時の政府や教育界の真摯な姿勢に、改めて感心しました。
この教科書よりもずっと試用期間は短かったですが、1947年に中学校で使われた「あたらしい憲法のはなし」を読んだ時にも感激しましたが、それからさらにこうした教育が行われていたことを初めて知りました。
改めて日本の教育界の劣化(民主主義を目指すという視点からの評価ですが)を残念に思います。

たとえば、こんな文章が出てきます。

多くの人々は、民主主義とは単なる政治上の制度だと考えている。民主主義とは民主政治のことであり、それ以外の何ものでもないと思っている。しかし、政治の面からだけ見ていたのでは、民主主義をほんとうに理解することはできない。 政治上の制度としての民主主義ももとよりたいせつであるが、それよりももっと大切なのは、民主主義の精神をつかむことである。なぜならば、民主主義の根本は、精神的な態度にほかならないからである。 それでは、民主主義の根本精神はなんであろうか、それは、つまり、人間の尊重ということにほかならない。 人間が人間として自分自身を尊重し、互に他人を尊重しあうということは、政治上の問題や議員の候補者について替戎や反対の投票をするよりも、はるかにたいせつな民主主義の心構えである。

私は、民主主義とは個人の尊厳の尊重であり、それをできるだけ実現することが民主政治の課題であると考えています。

それに続いて次のような文章が出てきます。

これまでの日本では、どれだけ多くの人々が自分自身を卑しめ、ただ権力に屈従して暮らすことに甘んじて来たことであろうか、正しいと信ずることをも主張しえず、「無理が通れば道理引っこむ」と言い、「長いものには巻かれろ」と言って、泣き寝入りを続けて来たことであろうか。それは、自分自身を尊重しないというよりも、むしろ、自分自身を奴隷にしてはばからない態度である。

これを読んで愕然としました。
まさに今もなお、私たちの社会はこうなっていないか。
つまり、戦後70年間、私たちは民主主義に関しては進歩していないのではないかと思ったのです。

編者の西田亮介さんも、「民主主義とは何かという、ときに青臭くも感じられる問いを、真剣に吟味する作業を怠ってきたこの社会は、今、何から始めればよいのだろうか」と問いかけています。
そして、「現代の大人が読んでも気づきが多数あるはずだ。何より、当時どのように民主主義が語られたかという「論調」に目を向けてほしい」と書いています。
「近い将来訪れるかもしれない大きな政治的選択の場面において、いやそれにかぎらず、日常生活における政治的選択の場面において、日本の民主主義がどのように発展し、固有性を確立し、あらためてそれらを「自分たちのもの」にできるのかどうか。あとは読者各位の判断と議論に委ねたい」という西田さんのメッセージが、私の心に深く響きました。
さて何かやらないわけにはいきません。

まずはこの本を多くの人に読んでもらおうと、この文章を書きました。
読むのは結構大変ですが、ぜひ手に取ってみて下さい。
ついでに、「あたらしい憲法の話」なども、お薦めしたいです。

コモンズ書店
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■今年も8時15分の黙禱をしながら考えました(2017年8月6日)

8時15分の黙禱をしながら考えました。

なぜ平和祈念式典に安倍首相が参列できるのか。
いつも不思議に思っています。
広島市長の平和宣言では、核兵器を絶対悪と断定しました。
「市民社会」についても言及しました。
とてもわかりやすい演説でしたが、やはり気になるのは、日本は「核兵器保有国」と「核兵器禁止条約参加国」との橋渡し役になってほしいというくだりです。
日本は核兵器禁止条約に参加しなかったのは、自らを核保有国と自覚しているからだろうと思います。
つまりアメリカの属国を自覚しているということです。
国家として自立しようとせず、主体性もない国に「橋渡し」などはできようはずもありません。
平和宣言で呼びかけるべきは、そんな政府にではなく、「市民社会」ではないかと思います。

つづく、子どもたちの平和宣言はとてもよかったです。

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2017/05/06

■原発反対のデモに行く時間があったら、その前に「チェルノブイリの祈り」を読んでほしい

今日、不覚にも、電車の中で久しぶりに涙をこぼしてしまいました。
ベラルーシの作家、スベトラーナ・アレクシエービッチの「チェルノブイリの祈り」(岩波現代文庫)を読んでいたのですが、その最初の消防士の妻の語りに、涙をこらえられなかったのです。
アレクシエービッチについては、一度書きこんだことがありますが、無名の人の声をていねいに拾って、大きなメッセージを伝えてくれる作家です。
今回は、書名にあるように、チェルノブイリの原発事故のために、人生を変えてしまった名もなき人々の声を丹念に聞きだしている作品です。
その最初の1編が、事故後の消防作業で被曝した夫の悲惨な最期を看取った若き妻リューシャの語りです。

リューシャはこう語りだします。

 なにをお話しすればいいのかわかりません。死について、それとも愛について?  それとも、これは同じことなんでしょうか。 なんについてでしょう?  私たちは結婚したばかりでした。 買い物に行くときも手をつないで歩きました。 「愛しているわ」って私は彼にいう。 でも、どんなに愛しているかまだわかっていませんでした。 考えてみたこともなかった。

そして、夫が死に向かうさまが語られます。
そして彼女が逝かに夫を愛していたかも。
最後はこう終わっています。

(被曝した)たくさんの人があっけなく死んでいく。 ベンチにすわったままたおれる。 家をでて、バスを待ちながら、たおれる。 彼らは死んでいきますが、だれも彼らの話を真剣に聞いてみようとしません。 私たちが体験したことや、死については、人々は耳を傾けるのをいやがる。 恐ろしいことについては。 でも…、私があなたにお話ししたのは愛について。 私がどんなに愛していたか、お話ししたんです。

「孤独な人間の声」と出したこの1編は、文庫本にして28頁。
この短い1編で、私はこれまで読んだ何冊ものチェルノブイリやフクシマのレポートのすべてよりも、大きな衝撃を受けました。
そして問題の意味を深く理解できた気がします。
改めてアレクシエービッチのすごさを実感しました。
そして同時に、やはり真実は、名もない人たちの心の中にあることも実感しました。

アレクシエービッチは、昨年、フクシマでも孤独な人たちの声を聴いています。
私はまだ読んでいないのですが、まずは読まなければいけないと思いました。
たぶん私はまだフクシマについて、何も知っていないのでしょう。
新聞に書かれた話は、私自身は違和感どころか嫌悪感を持っています。
嘘もいい加減にしてよと言いたいくらいです。

リューシャの語りを読んだら、原発再稼働などということがいかに狂気であるかがわかるでしょう。
原発がなくても人は生きられますが、愛がなければ人は生きられません。
そんなこともわからない人間が多くなっていることが、とても哀しいです。
それで、今朝は電車の中で涙がこらえられなくなったのです。

原発反対のデモに行く時間があったら、その前にぜひ、「チェルノブイリの祈り」を読んでほしいと思います。

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2017/03/31

■世界の対立軸が変わってきた気がします〔2〕

このシリーズを続けて書こうと思っていましたが、間があいてしまいました。
最初に書こうと思った時の思いが少し薄れているのですが、再開しようと思います。

モハメド・アリの話から再開したいと思います。
先日、NHKテレビの「映像の時代」を見て、世界の対立軸の変化の象徴的な事件が示唆されていたからです。

よく知られているように、モハメド・アリは、ボクサーとしての絶頂期だった24才の時(1967年)にベトナム戦争のための徴兵命令を拒否します。
国家に対する命令拒否で、モハメド・アリは裁判で有罪となり、チャンピオンベルトもボクシングライセンスも剥奪されてしまいます。
当時、彼はこう語っています。
「戦争はひたすら何の罪もない人を殺して殺して殺し続けるだけだ」
「おれはベトコン(北ベトナム)にうらみはねえ」と言ったという話もあります。

アリの徴兵拒否をどう思うかと質問されたキング牧師は、こう答えています。

私も徴兵制度に反対だ。 アリが言うように、われわれは弾圧してくる体制の被害者なのだ。

そこから、アメリカでは徴兵礼状を焼き捨てる動きが広まっていきます。
時代はまさに、1960年代の対抗文化が広がりだした「緑色革命」の時代です。
チャールズ・ライクの書いた「緑色革命」に影響された若者は世界中にたくさんいたでしょう。
その本で、ライクは、世界の構造が変化しつつあることを語っています。
キング牧師が言っているように、人間と体制(システム)の対立が、世界の基軸になってきていたのです。
ベトナム戦争も、アメリカという国とベトナムという国が戦っていたのではなく、国家システムと人間が戦っていたのです。
アメリカという国家は、ベトナム戦争から多くのことを学んだはずでした。

当時、日本では宇井純さんが、そういう枠組みで活動を始めていました。
科学技術の世界では、高木仁三郎さんが、やはり科学技術というシステムに異議申立てしていました。
ヨーロッパでも若者たちが大きなパワーを発揮していました。
しかし、残念ながら、ほとんどすべての新しい波は、システムの攻勢の前に鎮められてきたような気がします。
システムはますます巨大化し、人間を弾圧しだします。
そして、9.11が仕組まれ、21世紀は再び「システムの時代」となっていきます。

アレントが懸念していた全体主義的風潮が、また世界を覆い出したのです。
1960年代の、あの若者たちの人間的なつながりはバラバラにされ、金銭つながりの人間たちがシステムの走狗として世界を牛耳だしました。
経済的な格差が政治的な格差を生み出し、システムから追い出されだした低所得者たちが声を上げだしました。
アメリカで、ヨーロッパで、アジアで。
しかし、低所得者は、高所得者と、結局は同じ種族です。
お金にこだわっている限り、新しい生き方はできないのですから、勝負は最初から決まっています。

しかし、そうでない、まさに新しい対立軸を示唆する動きもあります。
その動きがいま、沖縄で起こっている。
そんな気がします。

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■沖縄から始まる未来

韓国では大統領が逮捕される事態になりました。
国民の声が、大きな力を持ったと言われています。
こうした動きは世界的に広がっています。
ポピュリズムと一蹴する人もいますが、その背後には大きな社会の対立軸の変化があるように思います。
日本では、なぜそうした国民の力が生まれないのかという人が、私のまわりにも多いのですが、日本でも起こり始めています。
たとえば、昨年8月に出版された本ですが、「沖縄の乱」(野里洋)という本があります。
この本も、多くの人に読んでほしい本です。
政治の構造が変化してきていることがわかります。
与党対野党で捉えていては、何も見えてきません。

韓国の国民デモよりも、沖縄の人たちの活動を、もっと首都圏のマスコミでも取り上げてくれたら、日本は変わるかもしれないと思います。
沖縄には、未来を感じます。

沖縄に関する本は、何冊か読みましたが、この本とまったく真逆な主張の本もあります。
途中で投げ出したくなった本もあります。
しかし、この本は多くの人に読んでほしいと思います。
沖縄の人たちの苦労の上に、もし私たちの安楽な生活があるのであれば、せめて1冊の本を読むくらいのことはしたいと思います。

世界の対立軸が変わったのシリーズが書けずにいましたが、また書きだそうと思います。


Okinawa


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2017/03/12

■世界の対立軸が変わってきた気がします〔1〕

地震の前にはナマズが騒ぎ出すと言われていました。
3.11大地震の前にも、大量のクジラが浜に上がったり、馬たちが騒ぎ出したり、ということが確認されているそうです。
余計な知識に呪縛されずに、素直に生命が生きていたら、時空間を超えて、たぶんいろんなことを感ずるのだろうと思います。
人間においても、子どもたちは自然に素直に反応しているのでしょう。
彼らには邪気は感じられません。

私が、世界の地殻変動を感じだしたのは、1980年代に入ってからです。
年賀状などで、そのことを書いた記憶もありますし、当時、雑誌などに寄稿した文章にもたぶん残っているでしょう。
もちろん、それは予兆などではなく、世界経済や世界政治においては、大きな枠組みの変化がだれの目にも見えるようになっていた時代です。
しかし、どうもそうした制度的な変化ではない、パラダイム転換を感じていました。
「21世紀は真心の時代」という小論を書いたのは、そんな思いからですが、当時はまだ見えていませんでした。
http://cws.c.ooco.jp/magokoro.htm
大きな会社にいては、世界は見えてこないという思いもあって、会社という船から降りたのが1989年でした。
偶然なのですが、その年に、日本は昭和から平成に変わり、世界ではベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造は終わりました。
ちなみに、中国での天安門事件もこの年ですし、環境問題に火をつけたバルディーズ号の原油流出事故もこの年です。

東西冷戦構造は世界の構造原理の変質を示唆し、天安門事件は新しい対立軸を可視化しました。
バルディーズ号事件は、一株運動を広げました。
私の認識では、近代国家を要素にした世界の枠組みが変わりだしたのです。
対立軸は、国家対国家ではなく、国家を含む制度対個人としての人間へと変わりだしました。
同時に、人間にとっての自然の意味が変わりだした。

一つの象徴的な事件がアメリカで起こっています。
20年にわたって繰り広げられていた「オゾン戦争」の終結です。
1989年、世界最大のフロンメーカーだったデュポンが、フロンガスによるオゾン層の破壊を認め、フロン事業からの撤退を宣言したのです。
こうしたことに関しては、「広報・コミュニケーション戦略」(都市文化社)に寄稿した「企業変革のためのコミュニケーション戦略」に少し書いたものをホームページにアップしています。
http://cws.c.ooco.jp/communication1.htm

むかしのことを長々と書いてしまいましたが、私が会社を辞めて、社会への溶融を目指したのは、素直な生命的な反応だったような気がします。
以来、生き方は大きく変わりました。
そのおかげで、素直な生命力を、わずかばかりにせよ、取り戻せた気がします。
世界が素直に見えるようになってきたのです。
蛇足を加えれば、妻から学んだことも大きかったです。

世界の対立軸が変わりだしている。
その確信はさらに強くなりました。
しかし、世界はそうした流れに抗う揺り戻しや、対立軸の変化に伴う秩序の混乱によって、まさにさまよっている感があります。
そうした混乱の中では、さまざまな邪気がうごめきだします。
いまの世界を見ていると、まさにそんな感じがしてなりません。

世界がこのまま壊れることはないでしょうが、大きな転機にあるように思います。
そんなことを少し書いていこうと思います。

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2016/12/01

■Imagine!(想像力を取り戻そう!)

(今日は挽歌編と時評編に、タイトルを替えて同じものを書かせてもらいました)

なぜか涙が止まりません。
涙が出てくる時には、何かがたまっている時かもしれません。
心がとてもやさしくなっているか、あるいは逆にさびしくなっているときです。
いまのわたしは、いずれでしょうか。
残念ながら、後者だろうと思います。
最近、他者にも自分にも、やさしくなれない自分に、嫌気を感じているほどですから。

何かがあったわけではありません。
ただテレビの番組を見ただけなのに涙が止まらない。
番組は、昨夜の深夜(暦的には今日ですが)、録画していた「世紀を刻んだ歌2 イマジン」。
2002年に放映された番組です。
内容は、9.11事件直後のニューヨークと東京都内の中学校を主な舞台に、ジョン・レノンの“イマジン”が若者たちに何を気づかせるのかを示唆してくれるものです。
その合間に、さまざまな人が歌う“イマジン”がバックに流れます。
それを聞いていると、なぜか涙が出てきてとまらない。

“イマジン”を聴いた日本の中学生の一人がこう語ります。

もし大事な人がいなくなってしまったら、 その人の笑顔を見ることができなくなったら、 と思うと、私にはたえられません。

あるいは、こういう中学生もいました。

わたしはもっとやさしくなりたい。

そんな中学生の言葉に、涙が出てしまう。
“イマジン”のメロディを聞いただけで涙が出てしまう。
Imagine all the people living life in peace.
想像してごらん みんながなかよく生きている世界を。
この言葉だけでも涙が出てしまう。

私の想像力は、まだ病んではいないと安堵しながらも、その思いがまた涙につながっていくのです。
私が悲しいのは、妻の笑顔を見ることができなくなっただけではありません。
最近は、本当に平安な笑顔を見ることが少なくなってきたような気がします。
世界が深く病みだしている。
多くの人が笑顔を忘れだしている。
つくられた笑顔には、心が痛みます。
そうしたなかで生きている私もまた、おそらく病んでいるのでしょう。
そう思うと、ますます涙が出てきてしまいます。

テレビで明るく話していた杉並区の西宮中学校の中学生たちは、いまはもう成人式を超えて、30歳近い若者になっている。
彼らはいまはどうしているでしょうか。
そのだれかに会ってみたい気がします。
ジョン・レノンの夢を、いまどう考えているか。

ジョン・レノンの37回忌が、間もなくやってきます。
改めて、多くの人たちに、“イマジン”を聴いてほしいと心から思います。
もしよろしければ、ここから聴いてください。
https://www.youtube.com/watch?v=dq1z1rkjw-E
歌詞だけでも、ぜひ読んでください。
http://eylyricsdiary.blogspot.com/2012/03/imagine.html

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2016/11/08

■この写真の折り鶴をご存知ですか?

この写真の折り鶴をご存知ですか?

Photo

「サダコ鶴」です。
広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルとなった、佐々木禎子さんが残した折り鶴です。
映画にもなっています。
http://www.earthartfactory.org/blank
その「サダコ鶴」は、平和の祈りを乗せて、世界に飛び出しています。
昨年は、アメリカのトルーマン図書館にも贈られました。
トルーマン大統領は、70年前、原爆の投下を承認した大統領です。
その図書館に、どうして被爆者の折り鶴が置かれることになったのか。
尽力されたのは、トルーマン大統領の孫、クリフトン・トルーマン・ダニエルさん。
そして、NPO法人SADAKO LEGACYの佐々木雅弘・祐滋さん親子です。
禎子さんは、禎子さんの兄と甥です。
おふたりは、平和を祈って病床で最後まで鶴を折っていた禎子さんの思いを世界中に届ける活動を続けています。
そのサダコ鶴が、昨日、湯島にも立ち寄ってくれました。
その写真です。1円玉と比較してみてください。
とても小さな折り鶴ですが、そこに込められた「平和へのいのり」はとても大きく、世界を変えようと飛び出しているのです。

佐々木祐滋さんは、ミュージシャンです。
“INORI”という曲をご存知の方も少なくないでしょう。
ご存じない方がいたら、ぜひユーチューブで聴いてください。
https://www.youtube.com/watch?v=aZKgqjtig3M

昨日、祐滋さんと、サダコ鶴をもっと大きくはばたかせようという話し合いをしました。
何ができるかわかりませんが、いろんな力がほしいです。
世界のしあわせに向けて、できることはたくさんあります。
力を貸して下さる方がいたらご連絡ください。


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2016/10/06

■国家が争い合うグローバリゼーション

昨日の読売新聞に、「奈良の都にペルシア人役人がいた」という記事がありました。
それによると、奈良の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯」という名字を持つ役人の名前が書かれていたのだそうです。
当時、日本は今以上に国際色豊かで、ペルシア人もいたことは、これまでも言われていましたが、木簡で確認されたのは初めてだそうです。

私たちは、進歩主義、つまり時代とともに、文化は進歩し、いまがその頂点にあると考えがちです。
たとえば、グローバリゼーションや人間の活動範囲に関しても、そう思いがちです。
しかし、そんなことはありません。
いま、国会で、議員の二重国籍が問題になっていますが、奈良時代には役人の中にペルシア人がいたのです。

そもそも聖徳太子が突厥人だったという論もありますし、天武天皇も渡来人だったという説もあります。
いずれもかなり説得力ある論拠が提示されています。

私たちが知っている歴史は、時代に合わせて作られたものでしかありません。
そして、その時代の人は、いまが一番進歩の頂点にあると思いたがりますから、歴史書はほとんど前の時代よりも今の時代がいいということになりがちです。
しかし、歴史は必ずしも進歩しないことは言うまでもありません。

たぶん奈良時代以前の日本列島には、さまざまな民族の人たちが住んでいたのでしょう。
文化も多様だったはずです。
グローバリゼーションとは、国家の枠を超えると言う意味が含まれています。
インターナショナルとは違うのです。
世界の構成原理が変わるということではないかと思います。
だから逆に、ナショナリズムへの逃避も強まるわけです。

グローバリゼーションの時代には、むしろ多くの人が、さまざまな国籍をもって、国家の枠にこだわらない発想をしてほしいという思いがしますが、これは私の思い違いでしょうか。
国家が争い合うグローバリゼーションって、いったい何のか、私にはよく理解できません。

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2016/09/14

■北朝鮮の核兵器開発に思うこと

北朝鮮の相次ぐ核兵器のデモンストレーションに危惧を抱いている人は多いかもしれません。
だからこそ、日本も核武装しなければいけないと考える人もいるかもしれません。
そこまでいかなくとも、核抑止力を高めなければいけないと思う人は多いでしょう。
でも北朝鮮の核兵器がなぜそんなに脅威になるのでしょう。
私には、米ソや中国の核兵器のほうがよほど怖いですし、日本の原発も怖いです。

北朝鮮の金正恩はなぜ核兵器にこだわっているのでしょうか。
そしてどういう状況の時に、その核兵器を使用するつもりでしょうか。
それを考えれば、北朝鮮の核兵器開発の捉え方は一変するはずです。
北朝鮮が核兵器にこだわっているのは、核抑止力といわれる核兵器で、囲まれているからではないのか。
あるいは経済制裁で、世界が自分たちを追い詰めていると思っているのではないのか。
80年前の日本を思い出します。
そして日本は戦争に踏み切りました。
もちろん開戦前からわかっていたように、敗戦しましたが。

脱北者が続いていることから推測できるように、北朝鮮の国民は金正恩を支持はしていないように思います。
リビアのカダフィーやイラクのフセインとは違います。
なぜアメリカは、カダフィーやフセインを倒したように、金正恩を倒さないのか。
その気になれば、それはそう難しい話ではないでしょう。
にもかかわらず、それが起きないのは、たぶん金正恩の存在価値があるからでしょう。
金正恩が核兵器開発や暴挙を繰り返せば繰り返すほど、利益を得る人がいる。
金正恩の北朝鮮を守っているのは誰なのかが、そう考えると世界は少し違って見えてきます。

私たちは、北朝鮮の核兵器には脅威を感ずるのに、なぜアメリカの核兵器には脅威を感じないのか。
アメリカの核兵器は、しっかりと管理されていて、暴走はしないと思っているのでしょうか。
アメリカは、いま先制攻撃にも核兵器を使用する方向に向かっており、安倍首相はそれを督促すらしています。
北朝鮮の人たちはどう受け止めるでしょうか。
弱い立場の者が、戦いを挑むのは、追いやられた時だけです。
追いやられなければ、核兵器など使うはずもありません。
北朝鮮に核兵器を使わせるのは、他国です。

そもそも核兵器が目指しているのは、生命や環境の破壊です。
それを考えれば、北朝鮮の核兵器開発を止める唯一の方法は、世界が核兵器を廃棄することしかありません。
金正恩の言動の向こうに、私はそれを感じます。
自らは核兵器で威嚇しながら、他者の核兵器開発を非難することが私にはまったく理解できません。
自らはアメリカの核兵器に守られることを良しとしながら、北朝鮮のやっていることを理解しようとしない人の身勝手さを、どう考えるべきか。

いずれにしろ、軍事的な威嚇や経済的な追いつめは、事態をよくしていくことはないでしょう。
軍事力という暴力に依存する人は、結局は、その暴力の餌食になる。
私はそんな気がします。

蛇足ですが、だからどうしたらいいのかに関しては、極めて簡単です。
まずは北朝鮮の金正恩を理解しようとすることです。
対話できない相手だという報道が多いですが、そうであればこそ、どうしたら対話できるかを考えるのが、外交ではないかと思います。
危機感や不信感をあおる報道に、不安を感じます。

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