カテゴリー「平和時評」の記事

2009/11/02

■ガンジーの平和国家論

「ガンジーの危険な平和憲法案」(C・ダグラス・ラミス 集英社新書)を読みました。
軽い気持ちで読み出したのですが、衝撃を受けてしまいました。
前にも書きましたが、私はどうしてもガンジーが好きになれないでいたのです。
そのあげくに、このブログでも以前、アンベードカルに言及してガンジーに批判的なことを書いたことがあります。
その後、それを後悔したものの、やはりどこかでガンジーが好きになれないでいたのです。

この本を読んで、今度こそその気持ちを一掃できたような気がします。
本書は、これまでの私のガンジー理解が極めて表層的なものであったことを気づかせてくれました。
これまでの私の読み方が間違っていたのかもしれませんが、本書に書かれているガンジーの思いは、私が目指していること、そのものでした。
しかも、ガンジーは、その視点で歴史を見据え、現実を生きていたのです。
そして一時的にとはいえ、歴史を変えたのです。
ガンジーが暗殺されたのは、必然的な結果だったのだとやっと納得できました。
自らの不勉強さをこれほど悔やんだことはありません。

この本のどこが衝撃だったのか。
それはガンジーが、「個人起点の発想」のパラダイムに立脚していたということです。
ホリスティックなシステム発想ではなく、まさにホロニックな生命論なのです。
そしてインドが独立して、結局はそれまでと同じ「国家」の道を歩みだした時に、それに関わることをせずに、ただただ失望の哀しみの気持ちに素直に殉じたという生き方です。
自分をガンジーと比べようなどとは思いませんが、まさに私が求めている生き方に重なっています。
どう重なっているかと聴かれると、とても答える自信はないのですが、国家観にしても運動論にしても、とても共感できるものです。
生き方も、です。

ダグラス・ラミスの問題提起は、いつもラディカルです。
だから、私にはわかりやすいのです。
言葉ではなく、実体で語っているからです。
小さな新書です。
よかったら読んでください。

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2009/10/12

■ウイグル暴動の決着のつけ方

先日のウイグル暴動の引き金となった事件の裁判で、ウイグル族2人を集団で殴って死亡させたとして、傷害致死などの罪に問われた漢族の被告の一人が死刑判決を受けたという報道がありました。
小さな記事ですが、いろいろなことを考えさせられます。

処罰の対象は、ウイグル族ではなく漢族です。
何だか政治的意図を感じます。
そして判決は「死刑」。
傷害致死で死刑というのはちょっと過重な気もします。

ウイグル暴動について詳しく知っているわけではないので、判決の妥当性などは全く評価できませんが、なにやら国家との本質を感じます。
国家の本質は「カネと暴力」というのは、いささか不謹慎かもしれませんが、先日読んだ、萱野稔人さんの「カネと暴力の系譜学」をついつい思い出してしまいました。

萱野さんは、こう書いています。

「法に違反するということは、もともとはといえば、法を制定し布告する人間への挑戦を意味している。いいかえるなら、法は、それを制定した人間の意志や人格と切り離せない」

王国の場合、違法行為は正義への挑戦ではなく、国王への挑戦なのです。
そのため、見せしめのための公開処刑が行われた時代もありました。
国民主権国家の場合の違法行為は、やはり正義への挑戦ではなく、秩序への挑戦です。
しかし実際には、時の権力者への挑戦になるわけです。

新疆の自治区を抱え込んでいる中国の国家原理は、早晩、破綻するのではないかと思いますが、この判決の行方にはちょっと興味があります。
国家のあり方を考える上でいろんなことを気づかせてくれるような気がします。
「死刑」ということの意味を考える上でも示唆に富む判決です。

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2009/10/11

■オバマ大統領のノーベル平和賞

オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞したというニュースに、とても複雑な気持ちになりました。私のノーベル賞のイメージはそれほど高くないですが、それにしてもと思いました。

核兵器のない世界を目指すと呼びかけた姿勢は共感できますし、それを応援し、期待を示すという意味で、ノーベル賞受賞は素直に喜ぶべきかもしれません。
しかし、受賞の直後にも、アフガニスタンに派遣する兵を増強すると言っている人と「平和」は私の中では全くつながりません。
それに、タリバン支援者はどう思うでしょうか。
タリバンも決して好きで戦っているわけではないでしょう。
言うまでもありませんが、オバマさんは他国への軍事行使をしている責任者なのです。

戦争と平和は同義語ではないかと、以前書いた気がしますが、ノーベル賞の選考委員のメンバーにとっての「平和」は、その反対側にいる人にとっては、決して「平和」ではないでしょう。
むしろ「平和賞」に相応しいのは、選考委員たちの反対側にいる人たちを支援している人なのではないかというのが私の素直な気持ちです。
戦争や「創られた平和」の現実を、写真などでしっかりと世界に示してくれている無名の写真家がいます。
少数民族のために生命をかけて、支援活動をしている人たちがいます。
難病で苦しんでいる人たちを誠実に支えようとしている人たちがいます。
どんなに悲惨な状況にあっても、笑顔を忘れない人たちがいます。
オバマ大統領よりも、そうした人たちにこそ、私は大きな尊敬の念を感じます。
ですから、ノーベル平和賞にはいつも違和感を感ずるのです。

もっとも今回のオバマ受賞への違和感は、私がオバマ大統領への信頼感をどうしても持てないからかもしれません。
平和に関しては、私はどうも「素直」になれないのです。
困ったものです。

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2009/08/16

■無垢の生活者まで殺害して自らの生命を守りたいのか

今日はある集まりに出かけていたのですが、帰宅してパソコンを開いたら、昨夜のNHKの「核兵器」の番組に対する非難のメールがたくさん届いていました。
どうも呆れたのは私だけではなかったようで、いろんなメーリングリストで怒りの声が流れてきます。
私も投稿したいのですが、私自身が何もしていないことの負い目を強く感じているので、投稿できずにいます。
それで、まずはこのブログに私の姿勢を書くことにしました。

私は核武装とか核抑止力とかいう発想を完全に拒否します。
では、もし核攻撃されたらどうするか。
甘んじて攻撃を受けます。
国が滅びるではないかという人がいますが、核攻撃されるような国は滅びても仕方がありません。
誤解されそうな書き方ですが、それが私の信念です。
世界にとって存在の価値がある国であれば、攻撃などされないと思うのです。
もし攻撃されるとしたら、それは価値がないことなのです。
それが私の、すべてにおける考え方の基本です。

もし核攻撃の危険を感じて、それを防止するために核攻撃したらどうなるか。
間違いなく核攻撃は広範囲に影響を与えますから、必ず無垢の生活者を巻き込むことになります。
無垢の生活者を核攻撃の危険にさらす側に、自らを置きたくはありません。
それをするくらいなら、危険にさらされる側に自らを置きたいと思います。
その覚悟がなければ、核廃絶などを口にすべきではないでしょう。
それが私の基本的な考えです。

被爆された人の前で、核武装論を説く人にはわかってもらえないでしょう。
昨日のテレビの討論は、嘔吐すべき内容でした。
いまなお怒りを収められずにいます。

みなさんは、無垢の生活者まで殺害して自らの生命を守りたいですか。
昨日の参加者にそういってやりたいです。

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■核兵器にどう向き合うか

昨夜、NHKの「日本のこれから 核」を、後半だけ見ました。
大きな絶望感と疲労感に襲われてしまいました。
何か書きたいと思うのですが、どうも気力が出てきません。
私にとっては、答えは明確な問題なのに、なぜこれほどまでにややこしい問題になるのか。

時評を書くほどの気力がまだでないのですが、メーリングリストで関連したyou tubeのことがまわってきました。
以前から話題になっているものですが、その時はまあそれが日本の防衛省だと軽く納得してしまっていました。
改めてもう一度見ました。
昨日のNHKの番組では、この映像は流されたのでしょうか。

その映像は、「憂慮する科学者同盟」のグレゴリー・カラキーさんのメッセージビデオです
それによると、「オバマ大統領の核廃絶プラハ演説にもかかわらず、我が国の外務省・防衛省がアメリカの核兵器政策変更に反対している」そうなのです。
「世界で唯一の被爆国である日本の国家機関が核廃絶の動きに「ノー!」と言っているんですから、信じられませんね」と、メールを送ってきた人は書いています。
そして、「みなさんお一人おひとりがさまざまなところに働きかけてください。メディアにお知り合いのある方、記者さんたちに伝えてください」と書かれています。
もちろんメールは「転送・転載お願いします」です。
気力のない私にも、転載くらいは出来るので、急遽、その記事を紹介させてもらいます。
4分の映像です。
ぜひ見てください。
http://www.youtube.com/watch?v=itFI87hixy0

映像でのメッセージの内容は概略以下のとおりです。
「米国は外交政策の基本として『核態勢見直し(NPR)』に入っており、重要な局面を迎えている。米国は9月から10月に新しい核政策を決定しようとしているが、米政府部内、国務総省、国防総省、国家安全保障会議のメンバー、特にアジア専門家の間に、オバマ氏の構想に反対の人たちがいる。その理由は、日本政府の『懸念』で、日本の外務省、防衛省など安保外交政策を担当する官僚が、『米政府は核政策を転換しないように』と訴えている。人類史上初めて核兵器の攻撃を受けた国の政府が核政策の転換に反対するのは皮肉であり、悲劇だ。日本国民はオバマ氏の核廃絶ビジョンを支持する声をあげて欲しい」

ちなみに、昨日のNHKの番組ですが、広島から参加した人が、ともかく一度広島や長崎に来てください。そこで被爆の実態を見てください、と訴えていたのがとても印象的でした。
唯一、私が共感できた言葉です。

追記しました。
■無垢の生活者まで殺害して自らの生命を守りたいのか

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2009/08/15

■靖国をどう考えるか

靖国参拝に対する言動で、その人の発想の視点や方向が見えてきます。
人の考えはさまざまですから、終戦の日に靖国を参拝するかどうかは、他者がとやかく言うべきではないでしょうが、その人の生き方や価値観、あるいは国家間や人間観は明確に出てきます。
国家防衛とか人権に関する百の原論よりも、それは明らかです。

私は、このブログでも何回か書いていますが、国家による英霊思想には共感できませんから、政府の要職にある立場での靖国参拝には違和感があります。
現閣僚では、消費者庁担当の野田大臣だけが靖国を参拝しましたが、消費者庁の理念を素直に反映しているような気がしてしまいました。

選挙があるせいか、今年はあまり話題にはなりませんが、靖国をどう考えるかは、もっとしっかりと議論すべきテーマではないかと思います。
選挙に向けてのマニフェストが賑やかですが、私にはマニフェストの細かな項目を読むよりも、靖国をどう位置づけているかが重要なような気がします。
おそらくそこからそれぞれのテーマに対する政策方針が読み取れるからです。
ただし、いまの政党は靖国との関係でまとまっているわけではありません。
いずれの党にも、靖国参拝賛成派と反対派がいるはずです。
つまり政党を束ねる理念や基準は、そこにはありません。
私は、そこにこそ大きな問題があると思っています。

政界再編成とは、理念体系の見直しでなければいけません。
そうした意味での再編成は、もう少し先になるのかもしれません。
いや、そういう政治は終わってしまったのかもしれなません。
マルチチュードの政治が、それに変わっていくのかもしれません。
そんな予兆も、わずかばかり感じます。

英霊という言葉を鳩山邦夫議員は明言していましたが、その意味を知っているのでしょうか。

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2009/07/08

■事件の表層と深層

中国新疆ウイグル自治区での騒乱の動きは、ウイグル族と漢族住民の対立へと発展しているようです。
昨日、暴動か暴圧かと書きましたが、問題はさらに深刻化しています。
つまり、縦の対立構造から横の対立構造に変わってきているわけです。

しかし、横の対立構造も、ほとんどの場合、その深層には「縦の対立構造」があります。
縦の対立構造を覆い隠すために、むしろ「横の対立構造」の表象が生み出されるわけです。
横同士、争わせておけば、その上にいるものは安心です。
これは「支配」や「管理」の常套手段です。
第三者は、表象に目を取られるのでなく、深層にこそ目を向けるべきです。
なぜなら、表層は自分には無縁の別の問題であっても、真相は自分にもつながっている問題であることがほとんどだからです。
今回の事件も、ウイグル族と漢族住民の対立と捉えれば、勝手にやってくれということになりますが、国家(組織)と個人(生活)の関係の問題と捉えれば、いままさに日本で起こっている格差問題そのものの構図が読み取れます。

事件の表象は、映像化されやすいので、伝わりやすくわかりやすいですが、深層は見えにくく、多様な解釈もできるため、力を持ちにくいのが現実です。
ですからつねに、表層は消費され、深層が維持されていきやすいのです。
日本の最近の政治状況は、まさにそうした中で、政治の劣化が起きています。
同じ状況を体験したアメリカが、今どうなっているかを考えると、少しはその危険性が理解できるかもしれません。

表象よりも深層を伝えるメディアがもっと育っていく必要を感じます。
問題は、表象にはお金がつきやすいですが、深層にはお金はつかないことかもしれません。
そういう状況を支えているのは、私たちの意識なのでしょうが。

ところで、今回のウイグル自治区での騒乱ですが、テレビ映像がもしあまり編集されていないものであるとしたら、これまでの動きとはちょっと違うかもしれないという感じを持ちました。
新しい世界は、チベットとウイグルから始まるのではないか、などとふと思いながら、テレビを見ていました。
この両地区は、歴史の主流の中にある辺境なのかもしれません。

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2009/07/07

■ウイグルで起こっているのは「民衆の暴動」か「デモの暴圧」か

中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区で5日に発生したでも暴圧事件は、予想されていたにもかかわらず、何の手も打てなかった国際社会の限界を象徴しています。
この問題に関しては、私はほとんど知識がありませんが、感覚的にその意味に対して関心があります。
これまでも少しだけ言及したことがありますが、まさに中国という国家の本質を示唆しているように思います。
あるいは、国家制度そのものの意味を考えるヒントが込められているというべきかもしれません。

今回の不幸な事件に関してはコメントは差し控えますが、多くのマスコミが「暴動」と報じているところに、大きな違和感をもちました。
そう表現する人たちの意識には、ウイグル民族を抑圧する意識が内在していると思うからです。
世界を表現する時に、どういう言葉を使うかは、その人の視座と価値観を表わしています。
私は、ここでは「デモ暴圧」と表現しましたが、ここにも私の視座と価値観が現われています。
世界を語る言葉は、すでにある世界観に呪縛されているわけです。
そして、それが異なると世界は全く違ったように見えるのでしょう。
「言葉」を使っている人間の宿命を感じます。
バベルの塔の完成に惧れを抱いた神の戦略は見事に成功したのです。

これはウイグル事件だけの話ではありません。
昨今のマスコミの言葉には、いろいろ違和感を持つことが少なくありません。
事実をしっかりと見据え伝えるというジャーナリズムの目が失われているような気がします。

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2009/06/21

■ホーリー・アポストル教会

先週、イスラエルのネタニヤフ首相が、条件付きながらも初めてパレスチナ国家樹立を容認する考えを示しました。
オバマ大統領は「重要な一歩前進」であると評価しましたが、条件が厳しすぎることからパレスチナ自治政府はむしろ発言を非難していますから、中東和平協議の再開にすぐに結びつくことにはならないでしょうが、ネタニヤフ首相が本心で語っているのであれば、一歩前進に向かう可能性はゼロではありません。

昔、「栄光への脱出」という映画がありました。
プロパガンダ映画ですが、その映画ですら、イスラエル建国前には、アラブとユダヤが仲良く一緒に暮らしていたことを思わせる様子が描かれています。

アメリカのコミュニタリアンのエツィオーニが、その著書「ネクスト」の中で紹介しているマンハッタンのホーリー・アポストル教会の話はとてもホッとします。
そこでは、毎週、金曜日にはキリスト教を象徴するようなあらゆる事物はきれいに取り払われ、その日は礼拝所を持たない地元ユダヤ教の信徒たちに教会を提供するのだそうです。
ユダヤ教徒たちは、その日は、そこで安息日の礼拝を来ない、礼拝が終わると、借りたときのままの状態に戻してキリスト教徒に返すのだそうです。
キリスト教とユダヤ教でそれができるのであれば、イスラム教とも可能でしょう。

イギリスの社会起業家の先駆者の一人として有名なアンドリュー・モーソンは、自らが預かった教会を地域に提供することで、貧しいブロムレイ・バイ・ボウを、豊かな地域にしました。
教会を地域みんなのコモンズ空間として活用したのです。

私は、ゲルマン法理の「総有」に共感しています。
すべてのものは、所詮は社会からの預かりものであり、預かったものは社会のために効果的にそれを活かしていく権利と責任があるのです。

地球はみんなのものという認識の下に、いま環境問題が語られていますが、その発想に立てば、土地もまたみんなのものです。
土地を囲い込むような、「国土」発想はそろそろ捨てられないものでしょうか。

パレスチナに限った話ではありません。
日本もいまなお領地問題を抱えていますが、発想を換えなければいけないような気がします。

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2009/05/25

■北朝鮮の核実験で思うこと

北朝鮮の核実験が大きな話題になっています。
本当に次々と世間を騒がす事件が起こるものです。

ところで、私ですが、どうも感受性が弱いのか、常識がないのか、視野が狭いのか、利己主義なのか、馬鹿なのか、今回も「それが何なの?」という程度の思いしか出てこないのです。
危機感など全くないのです。
新型インフルエンザもそうですが、大騒ぎになるような事件に対して、どうしても騒ぐ意味が理解できないのです。
困ったものです。

もし今回の核実験が成功したのであれば、北朝鮮は日本への核攻撃が可能になったとテレビは報道しています。
まあ攻撃されたら逃げようもなく、恐ろしいといえば恐ろしいです。

しかし、です。
アメリカやロシアは、北朝鮮とは桁違いの核爆弾を保有しています。
なぜそれは脅威ではないのでしょうか。
自分たちは核爆弾を有り余るほど持っており、もしかしたその管理の不備から誰かに盗まれるかもしれないような状況にあるにもかかわらず、ほかの国がささやかな核爆弾をもつことをなぜ非難するのでしょうか。
核拡散防止条約に反するといいますが、なぜ既に持っているところは許されて、新たに持とうとしている動きは非難されるのでしょうか。
まあ、こんなことを書くと、私が「非難」されそうですが、私にはこのことが昔からわかりませんでした。
全く理解できないのです。

アメリカやロシアは、自国で持っている核爆弾を全世界の国々に、人口に比例して無料配布したらどうでしょうか。
そうしたら北朝鮮も巨額なお金を使ってまで、核実験はしなくなるかもしれません。
ますます不謹慎だと怒られそうです。
しかし、もしそれが嫌ならば、自国の核爆弾をなくす努力をすべきです。
あるいは核爆弾を一国の管理下におくのではなく、国連的な機関に管理を任すべきです。
いいかえれば、核爆弾を所持することの意味をなくしていけばいいわけです。
その努力をせずに、弱い国家の核実験を非難することにどうも納得できないのです。
核爆弾を持つことの意味を存続させておいて、それへの動きを封ずるというのは、どう考えても私には公正だとは思えません。
公正だないものが非難するということは、その行為が公正であるからだ、などと言うつもりはありませんが、でも少し言いたい気もします。

なんとまあ非常識な議論だといわれそうですが、そもそも人類が核爆弾を持っていることが非常識なのです。
北朝鮮を攻める前に、まずは核爆弾を持っている国家は、自らを恥じなければいけません。
それがあって初めて北朝鮮を責める資格があるはずです。

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2009/05/15

■マスコミに壊される国

民主党の代表選挙に関連するテレビや新聞の報道を見ていると、この国はマスコミによって壊されるのではないかと不安になります。
最近の日本人のように、主体性を失った国民に対しては、映像の編集の仕方で、世論はいかようにも誘導できます。
それにしても、昨今のマスコミの思いあがった言動には驚きます。
マスコミを私物化した読売新聞の渡辺恒雄会長に、みんな続こうと思っているのでしょうか。
渡辺さんは、マスコミを私物化して、日本の政治を壊した極悪人の一人だと思いますが、小物の悪人は罰せられても、極悪人は罰せられるどころか、そのおこぼれに預かりたくてすり寄ってくる人が多いようです。
昨今のテレビに出てくる人たちを見ると、それがよくわかります。

こうした状況をみていて思いだすのが、ガザ戦争によってまもなく国家としては消滅するであろうイスラエルのことです。
勝手に消滅するなどと言いましたが、これは私の極めて主観的な判断ですのであしからず。
それに「まもなく」と言っても、たぶん20~30年先です。

ヘブライ大学教授のユリ・ペネスさんは、イスラエルが引き起こしたガザ戦争(ガザ紛争)について、「最近のイスラエルの歴史の中でも最もメディアに誘導された戦争」だといっているそうです(〔軍縮問題資料2009年6月号「ガザ攻撃をイスラエルのユダヤ系市民はなぜ支援するのか」。
この言葉を紹介しているのは、ジャーナリストの土井敏邦さんですが、土井さんの書いた「沈黙を破る」(岩波書店)は読んでいて、とても悲しくなるとともに、その一方で希望を感ずる本でもあります。

土井さんはまたドキュメンタリー映画もつくり、それがいま中野で上映されています。
私はまだ観に行けていませんが、その映画の最後は、ガザの占領地での自らの加害体験を告白した元イスラエル軍将校の、ユダ・シャウールの次の言葉で締めくくられているそうです。

多くのイスラエル人は「セキュリティ、セキュリティ」と口をそろえて言います。自分たちの国を守らなければならない、と。しかしこの国がまもなく、まともな国ではなくなってしまうことに気づいていない。そのうち私たちすべての国民の魂が死んでしまうのです。社会の深いところが死んでしまいつつあるのです。そのことはここイスラエルで、社会全体に広がっています。

これと同じことが、日本でも起こっているように思います。
社会全体もそうですが、ちょっと言葉を替えると民主党や自民党の話としてもぴったりです。
そうした状況を引き起こす上で、マスコミが果たしている役割は大きいです。
逆に言えば、マスコミがちょっと報道姿勢を変えるだけで、社会は変わってくるようにも思います。
それが無理であれば、私たちのマスコミ観を変えるしかありません。

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2009/04/06

■北朝鮮の存在価値

北朝鮮のミサイル発射事件の直後、テレビの番組で、「日本の防衛費を増額すべきかどうか」という視聴者電話調査をしていました。
60%以上の人が、防衛費増額賛成でした。
この番組のディレクターのような人たちが、数十年前に日本を戦争に導いていったのでしょうね。
さすがに出演していたコメンテーターも、やや引き気味でしたが、キャスターたちは何とかして防衛費増額につなげたいと一生懸命話していました。
こういうことが多いので、最近はテレビを見るのがいささか憂鬱です。

最近、「社会をつくる自由」という、竹井隆人さんの本を読みました。
そこに、こんな文章が出てきます。

人民の直接的支持を得ているはずの数々の政権が、人民を虐げ、ろくでもない末路をたどったものは少なくない。
つまり、住民投票のような参加をいかに推し進めても、その場の「雰囲気」に押し流されてしまう可能性が高いのであって、人々が十分に議論を尽くす「熟議」が必要なのだ。
ナチスもまさに民主的な制度の中から生まれたことを忘れてはなりません。
世論調査なる代物が、最も危険なものなのです。
その気になれば、どんな世論もつくれることは、ナチスの歴史が示しています。
それに抗するには、自らのしっかりした見識を持つことです。
そしてそのためには、自らの世界を常に開いたものにしておくことです。

北朝鮮の現政府が存続しているのは、世界にとって「存在意義」があるからです。
そのことを、今回の事件は顕在化させてくれたように思います。

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2009/03/07

■ファノンの法則

小沢さんの秘書逮捕事件以来の、この時評は、いささか感情論に陥っていて、独善的過ぎるかと思いますが、もう一度だけ続けてしまいます。

アルジェリア独立戦争に参加したフランツ・ファノンは、支配される者同士の激しい暴力のぶつけ合いは、実は彼らを支配している者から加えられる暴力が原因だ、と指摘しています。
何かを支配する場合、相手と戦ってはいけません。
それは自らを消耗させることであり、持続できないでしょう。
持続的に支配するためには、つまり安定した支配構造は、戦いあう構造を支配するものの中につくりだすことなのです。
暴力が果てしない報復を生み、本来は仲間であるはずのもの同士が憎しみをぶつけ合うようになれば、真の問題が見えなくなってしまいます。
それによってはじめて、支配は安定するわけです。

このファノンの法則にしたがって世界を見ると、さまざまな現象の背後にある真実が見えてきます。
戦っているもの同士は、実は戦っているのではなく、戦わせられていることがわかります。
しかし、戦いに目を奪われている当事者は、そのことにはまず気づきません。
こどもたちの「いじめの構造」も、これがまさに当てはまります。
おそらくDVもそうでしょう。

戦いの構図だけではありません。
秩序の構造においても当てはまります。
報道においても、こうした構図が色濃く出ています。
テレビなどのキャスターの言動など見ていると、面白いほどにそれが良く見えてきます。
みのもんたさんがその典型ですが、要するに「弱いものいじめ」が得意です。
そして、世論もまた「弱いもの」いじめが大好きです。
判官びいきの文化はなくなりました。
日本も次第に一神教の文化になってきたのかもしれません。
近代の文化には、見事なほどに一神教の文化が埋め込まれていますから。

権力に楯突く側を一番強く攻めるのは、実は権力によって押さえ込まれている人たちなのです。
今回の小沢代表秘書逮捕に関しても同様な風景が広まっています。
ですから、現象ではなく、その奥にある問題の構造に気づくことが大切なのです。
まあしかし、気づけばどうなるかですが、胃が痛くなるだけかもしれませんし、自分の無力さにさいなまれるだけかもしれません。
最悪の場合は、人嫌いになってきます。
困ったものです。

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2009/02/17

■壁と卵、あるいは批判する勇気

イスラエル最高の文学賞、エルサレム賞を受賞した村上春樹さんが授賞式の記念講演でガザ攻撃を批判したことが話題になっています。
私もテレビでちょっとだけ見ました。
村上さんはイスラエルによるガザ攻撃に触れ、体制を壁に、個人を卵に例えて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調し、軍事力に訴えるやり方を批判しました。
そのスピーチを見て、イスラエルで音楽賞を受賞したバレンボイムの受賞のスピーチの映像を思い出しました。
批判する勇気、信念を行動する勇気に感動しました。
拒否や無視からは何も始まりません。
チャンスは最大限に活かすべきですが、日本人はともするとゼロか100か、つまり受賞拒否か翼賛スピーチで対応しがちです。
村上春樹さんの作品は、評判が高いという、ただそれだけの理由で、私は1冊も読んでいませんが、読むことにしました。

村上春樹さんは、こうも述べています。

「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる。」
イスラエルが建設しているパレスチナとの分離壁の建設を指しているのでしょうが、もっと多くの示唆を含んでいるように思います。
たとえば、私たちの周りにもたくさんの壁がありますが、それは私たちを守ってくれているわけではありません。
人を守るのは人でしかありません。壁では人は守れません。

村上さんは、全世界に発信されるというスピーチの場を最大限に活かしました。
ちょうど同じ日、テレビで世界中に話題を発信した人がいます。
中川財務大臣です。
テレビでの情報発信が、どれほど大きいものか。
中川さんの事件も、そのことを教えてくれています。
テレビに登場できる人には、たくさんの手段があることを示してくれています。
もっとその手段を効果的に活かしてほしいと思います。


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2009/01/26

■隣の人のたばこの煙で考えたこと

先日、久しぶりに喫茶店に入りました。
久しぶりにというのは本当は不正確です。
というのは、時々は行っていますので。
しかし、今回は久しぶりに「喫茶」してしまったのです。
細長い喫茶店の両側のテーブルにヘビースモーカー(私とは無関係の人ですが)がいたせいで、たばこの煙を思い切り吸わなければいけなくなったのです。
席を替わりたかったのですが、相手の人と久しぶりに会って、やっと見つけた席だったので、動けませんでした。
ついでに余計なことをいえば、喫茶店やレストランがどこもかしこも満員で、席がないのにも驚きました。
日曜日の午後の上野駅界隈です。
どこが不況なのかと思うほどです。

それにしても横でたばこを吸う人の煙がこんなに辛いものだとは思いませんでした。
学生時代や会社にいた頃は、毎日、少なくとも2回は喫茶店にいました。
当時は禁煙席などあるはずもなく、しかも喫煙者は多かったはずですが、煙で辛かった経験はありません。
会社を辞めて、喫茶店に行く機会は激減しました。
それに行っても禁煙席を使わせてもらっています。
ですから、たばこの煙に対して抵抗力が大幅に落ちているのでしょう。

そんなたばこの煙に弱い人が隣にいるとは、喫煙者は気づくはずもありません。
彼らはルール違反をしているわけでもありませんし、悪意など微塵もないでしょう。
しかし、隣の人は辛い思いをしているのもまた事実です。
極力我慢はしましたが、煙が強く流れてくる時には、私は手で煙をよけるような仕草をしたような気がします。
喫煙者に気づかれなければよかったですが、もし気づいたら不快だったでしょう。
自衛のための仕草といえども、喫煙者にとってはせっかくのたばこが楽しめなくなったかもしれません。

こういうことは私たちの生活では、よく起こっていることなのかもしれません。
周りの人への気遣いは、ルールを守ればいいわけではないのです。
気づかないままに私もきっとたくさんの迷惑を撒き散らしているはずです。
今回の体験で、そのことを考えさせられました。
生き方や言動は、やはり常に周りの人の目でも考えなければいけません。
そうした視点で自分の言動を考えると、反省する点が少なくありません。

平和というのは、まずはそこから考えなければいけないのでしょう。
たばこの煙がもしかしたらガザの悲劇につながっているのです。
おそらくイスラエルの国民は、いつかどこかでもっと大きなしっぺ返しに合うでしょう。
イスラエル政府の暴挙を止めるのは国連でも国際世論でもなく、イスラエル国民であり、イスラエルの「愛国者」たちでしょう。
そう思ってまた日本の現状を見ると、やらなければいけないことが山積みです。
日本政府もまた、たくさんの迷惑を海外にも与えているような気がします。
私たちはもっと真剣に政府の言動に関心を持たなければいけません。

今朝の朝日新聞に、京浜ホテルの強制執行の様子を「カムイ伝」の一揆に重ねて論評していた記事がありました。
一揆が話題になるほど、今の日本の社会はひどくなっているような気がします。
いささか過剰な反応でしょうか。

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2009/01/13

■環世界という捉え方

先日、ネオニコチノイドの話を書きましたが、
環境問題を考える時に「環世界」という概念が最近見直されつつあります。
20世紀前半に、ヤコブ・フォン・ユクスキュルというドイツの動物学者が言い出した概念で、
「それぞれの動物に特有な世界」というような意味です。
つまり、「環境」とひとくくりに捉えるのではなく、生物ごとに環境を捉えていこうという考え方です。
たとえば、多くの生物は臭覚によって世界を見ているといわれますが、人間は視覚で世界を見ています。
視覚の世界も、犬が見ている世界と人間が見ている世界とは異なります。
ローレンツの「ソロモンの指輪」に出てきますが、クマルカラスは、
動いているバッタは見えても、静止しているバッタは見えないのだそうです。

ユクスキュルは、生物は環境の中から自分にとって意味のあるものを選び出し、
独特の世界を構築し、その中で生きていると述べています。
私たちは環境問題を、私たちが見ている世界を前提にして考えがちですが、
私たちが見ている世界がすべてではないわけです。
環世界はそれぞれの生物によって違っていますが、そのベースは一つです。
だからこそ、生物多様性の保持が重要になります。
私たちに見えない世界が壊れていることに気づかないでいると、
それが必ず自分たちの世界に影響を与えるからです。

人間の中でも、人によって世界の見え方はかなり違います。
私の娘は臭覚がとても敏感ですので、私が気づかない臭いに強く反応します。
昨今のように香りが充満してきた世界は、彼女にとってはかなり生きにくいのかもしれません。
子どもたちが見ている世界と大人たちが見ている世界もかなり違っているのかもしれません。
そこに気づかないでいると、とんでもない事件に繋がってしまうこともあります。
福祉の世界もそうです。
障害を持つ人の世界は、障害のない人の世界とはかなり違うでしょう。
そこを認識していない行為は、措置行為になりかねません。

それぞれの環世界を通底する共通なものがあれば、
相互理解や共存は可能ですし、むしろ支え合いの関係が成立する可能性はあります。
自然界にはそうした「共生」の関係はたくさんあります。

人間社会の場合でいえば、昨日書いた利他的行為や互恵的懲罰の成立基盤は、
それぞれの環世界を相互に理解する寛容さと能力です。
しかしそれが損なわれてしまうと、それすら成り立ちにくくなるわけです。
パレスチナの現状や日本の政界の状況には、
そうしたものが失われているのではないかという不安を感じます。

環境や福祉の問題だけではなく、政治や経済の問題を考える時に、
「環世界」の発想はとても重要な示唆を与えているように思います。

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2009/01/06

■国家の解体が進んでいるのかもしれません

戦火が拡大する一方のガザの状況には、やりきれないものを感じます。
なぜこんな状況になってしまうのでしょうか。
そこで思い出したのが、昨年末に読んだ塩野七生さんの「ローマ亡き後の地中海世界」の文章です。

現代では「イスラム諸国」と言うようにイスラム教徒たちも国別に分かれ、イスラム教徒でないわれわれもそれを当然と思っている。
だが、イスラム教にはもともと、国家の概念が存在しない。
イスラム教を信ずる人々すべてを囲いこむ、「イスラムの家」の概念があるだけである。
もしかしたらユダヤもイスラムも、国家概念がないから、こんな状況になってしまっているのかもしれません。
長い間、国家を保持せずに世界を舞台にしていたユダヤ民族もまた、国家概念がないのかもしれません。
国家がないとどうなるか。
「国益」という概念も「国民」という概念もないでしょうし、なによりも暴力の管理体制がありません。

いや、パレスチナに限った話ではありません。
昨今泥沼化している紛争は、国家を前提としていないのではないかと思い出しました。
そう考えると、いろいろなことが見えてくるような気がします。
ネグリ=ハートの「マルチチュード」が、身近に感じられます。
国家を前提とした「国際関係」では、世界はもはや見えなくなってしまっているのです。
そして、もはや秩序だった戦争は難しくなってきているのでしょう。
そうした中では、秩序を大義とする国家が敗北することは明らかです。
もちろん国家からの解放を目指す活動もまた、大きな勝利は望むべきもありません。
勝者のない戦いは、手段から目的に転化し、泥沼に化していくわけです。

世界の紛争は、ますます泥沼化していくことが心配です。
そうしたなかで、国家に頼らない、新しい紛争防止の仕組みが必要になっているのでしょう。
NGOの開かれたネットワークが育っていくまでは、しばらくこうした時代が続くのでしょうか。
ともかく、国家の枠組みで考える時代は終わったのかもしれません。

さらに思いを広げていくと、アメリカも日本も国家体制が解体し始めているのがわかります。
ブッシュのアメリカとアメリカに住む2億人の人たちの集まりであるアメリカは、いまや別のものになっているといえないこともありません。
日本もまた麻生政権に象徴される日本と派遣村に象徴される日本とは別物なのかもしれません。
そう考えると、昨今の厳しい現実生活と権力闘争に明け暮れる政治の不作為との並存が理解できます。
それに、日本の政治家の発言を聞いていると、国家や国民は全く眼中にないようです。
自民党からの離党を取りざたされている渡辺議員は、政治家だった父親は、「派閥の前に党があり、党の前に国家国民がある」と言っていたと話していましたが、いまや「国家国民」がなくなってしまっているのかもしれません。
少し飛躍してしまいましたが、マルチチュードの時代はもうそこまできているようです。


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2009/01/05

■イスラエルのガザ空爆とバレンボイムのコンサート

今年の元日に行われた、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートで、世界的なユダヤ人指揮者ダニエル・バレンボイムは、いつものように、指揮台から中東和平実現を呼び掛けました。
コンサート直前の大晦日にも、ガザ情勢について懸念を表明し、イスラエル、パレスチナ双方の共存を訴えました。
しかし、その願いもむなしく、空爆どころか、ついにイスラエルはガザへの地上軍侵攻を開始しました。
パレスチナにおける「報復の連鎖」は止まることがありません。

以前、バレンボイムについて教えてくれたエジプトの中野さんから手紙が来ました。

バレンボイム指揮による「WEST & EAST DIVAN オーケストラ」の演奏会が1月12日にカイロオペラハウスにて行われるという朗報を喜んでいたところ、公演が危ぶまれる事態に直面しています。まさに、2006年度演奏会直前にイスラエルのレバノン空爆により中止に追い込まれた二の舞になろうとしています。

バレンボイムの活動のDVDを見た時には涙がこみ上げました。
攻撃の爆音と音楽。
バレンボイムのコンサートを両国の指導者たちが一緒に聴くことができたら、爆音よりも音楽が自らの人生を豊かにし、誇りあるものにすることに気づくはずですが、彼らはコンサートに行く時間もないほど忙しいのかもしれません。
忙しさは自らの人生だけではなく、世界をも滅ぼす力をもっています。

しかし、もしかしたら、両国の権力者のみならず、私たちもまた、同じような生き方に向かっているのかもしれない、と中野さんの手紙を読んで、考えさせられました。
明日また、バレンボイムのラマラコンサートのDVDを観ようと思います。
時に、自らの生き方を問い直すことも大切です。

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2008/12/03

■どの掟に従うか

最近、リンクさせてもらったブログで読んだ記事がずっと気になっています。
daxさんという、5年前までヤクザだった人の「手垢のついたメモ帳」というブログです。

俺は日本の法律をたくさん犯したが、ヤクザの法律はきちんと守ってきた。
ヤクザの法律を守るということは、日本の法律に背く事になるのだが、
その部分については、日本の法律に決められた方法に従って、責任を果たしてきた。
「服役」という責任の取り方で・・・。
ヤクザの法律は、「ヤクザの掟」と言ってもいいでしょう。
そもそも人が集まれば、集団を秩序化するために掟(ルール)が生まれます。
掟があることで、メンバーは行動しやすくなります。
しかし、集団の掟は、その集団の実状に合わせて創られますから、ほかの集団の掟とは同じになるとは限りません。
その組織集団が結束力を高めようとすればするほど、掟も特殊化しかねません。
会社には会社の、役所には役所の、学校には学校の、掟が生まれるでしょう。

掟違反に対しては罰則が適用されます。
しかし、そうした罰則にも、かつては救いの仕組みが用意されていました。
その典型が「村八分」の知恵です。
掟を破って村人が絶縁した人にも、葬式と火事の際には付き合いが保証されていました。
しかし、掟が明文化され、近代的な法律に整備されるとともに、救いの仕組みは消える傾向があります。

ちなみに、ヤクザの掟と日本の法律の、どちらが正しいかというのは無意味の質問です。
そもそも法とか掟は秩序化のための判断基準でしかありませんから、それ自体が正しいかどうかとは無縁の存在です。
内容がどうであろうと、その秩序の内部では守ることが正しいということになります。
ですから「悪法もまた法」なのです。

しかし、ヤクザの世界もまた日本の中に存在する以上、上位の世界のルールには従わなければいけません。
それが秩序というものだからです。
自分の属する社会の掟とその社会を包括する上位の社会の掟とが食い違った時に、人は悩みます。
上位の社会の掟を守ることを是とする人もいるでしょうし、より身近な社会の掟を守ることを是とする人もいるでしょう。
少し前までの日本には、後者の文化がかなり残っていました。
しかし、どちらに従っても、もう一つの掟から罰せられることになります。
daxさんは、ヤクザの掟を守ったために、服役することになったわけです。

長々書いてしまいましたが、こうした視点で昨今のさまざまな事件をみていくと考えさせられることが多いです。
また社会がどう変質してきているかも見えてくるような気がします。
掟の構造化は社会を見る場合の大きな基準になります。

人の行動は、すべて何らかの「掟」に従っているはずです。
個人の信条も、ある意味では心の中に決めた通時的な掟です。
各人の心の掟(信条)から宇宙的な自然の掟(摂理)にいたるまで、さまざまな掟がありますが、それらが有機的につながっているかどうかは重要な問題です。
近代国家システムは、そんなことに配慮することなく、ある視点で作られた掟を「国家の法律」とし、それを最優先することにしたわけです。
それが「法治国家」の理念です。

社会が成熟してきたいま、そうした「掟の階層構造」を見直していくことが必要になってきているような気がします。
つまり掟の階層化のベクトルを反転させることが検討されてもいいような気がしますが、どうでしょうか。

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2008/11/18

■「国を守る」ということ

田母神事件に関して、いろんな人からコメントやメールをもらいましたが、そこでよく出てきた言葉に「国を守る」とうのがありました。
国という言葉は多義的ですから、「国を守る」ということも実に多義的です。

田母神さんは、国家(政府)に反逆することが「国を守ること」だと考えたわけですが、彼が守ろうとした「国家」とは何だったのでしょうか。
政府が考えている国家とは明らかに違います。
では、彼を罷免した政府が守ろうとしたのは「国家」なのでしょうか、それとも自らの政権なのでしょうか。

「国を守る」ために憲法9条を変えようとする人たちがいる一方で、「国を守る」ために憲法9条を守ろうとする人たちがいます。
そうした違いが、単なる方法論の違いであって、目指すべき目的が同じなのであれば、事はそう難しくはありません。
お互いの方法論の長短を議論し、お互いに連携することも可能だからです。

しかし、どうもそうではないのです。
「国を守る」と言う言葉は、実は全く正反対の意味を込めることが可能な言葉なのです。
守るべき「国」の違いで内乱が起きるように、国とは人や立場によって全く違うものになります。
そこに問題の悩ましさがあります。

「国」が政権なのか、秩序なのか、国土なのか、国民なのか、文化なのかという問題もあります。
国民と言う場合も、実は様々な捉え方があります。
金持ちなのか、支配階層なのか、庶民まで入るのか、年寄りや子どもはどうなのか。
国を発展させるために、勝ち組みと負け組みを生み出した体制の中では、たぶん守るべき対象には「負け組み」は入らないでしょうが、イラク戦争への米国戦士に象徴的に現われているように、「負け組み」こそが戦場に狩り出されるという皮肉もあります。
このあたりをあいまいにして愛国心や国防問題を語ることの恐ろしさを、私たちは認識すべきではないかと思います。
前提が違っていると、「国を守る」ことが「国を滅ぼす」ことになるのです。

「社会のために」などと自分からいう人が信頼できないのと同じ理由で、
私は「国を守る」などと軽々に発言する人を信頼できません。
国などといわずに、もっと自分の言葉でしっかりと守るべき内容を語ってほしいと思います。

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2008/11/08

■田母神事件の犯罪性

このブログに田母神事件を書いたおかげで、アクセスが急増し、コメントや個人宛のメールもかなりありました。
いささかうんざりしていますが、私の意図がうまく伝わっていないようで、論文を読んだのか、論文のどこが悪いのだと、お叱りのメールをいくつかいただきました。
あえて反論するまでもないことですが、私の書き方が悪かったことを反省して、少し蛇足的な記事を書くことにしました。

私が2つのブログ記事で書いたのは、田母神前空幕長が公務員として犯罪を犯しているのではないかということと、そうしたことを放置している政府の姿勢への批判です。
田母神論文の内容もひどいとは思いますが、それは批判の対象ではありません。
考え方はいろいろありますので、それ自身は批判すべきではないと思っています。

犯罪とは、悪事を働くことではありません。
法治国家においては、犯罪とは法違反行為のことです。
もっとも、「法」の捉え方はいろいろとあって、実定法だけか自然法まで含めるかで変わってきますが、基本は実定法違反と考えるべきでしょう。
そうした場合、犯罪の被害者は基本的には「国家」もしくは「社会」になります。

もちろん実際の事件では、加害者と被害者という「人間」の関係は存在しますが、日本の現在の司法の世界では、国家の秩序を守ることが最優先されますから、裁判には被害者はほとんど関われません。
とりわけ刑事事件や行政事件の場合は、国家秩序の視点が基本に置かれています。
光市母子殺害事件のことを思い出せば、納得してもらえると思います。
そうした応報的な司法のあり方の見直しの動きはありますが、近代国家体制を前提に考えれば、その基本枠組みを変えるには、まさに本当の「司法改革」発想が必要です。

犯罪が法違反であるという前提で考えると、私にはどう考えても田母神前空幕長の言動は犯罪に見えてきます。
まず「違憲判決など関係ない」というのは、明らかに法違反行為です。
それは憲法なんかは関係ないという意味を持っていると思います。
国家公務員としては、国家に対する反逆行為を構成するはずです。
次に、侵略国家論ですが、これも正式な政府見解に反しますから、公務員としての職務規定に反しているはずです。
公務員は政府の方針に従い、主観的にではなく与えられた業務を忠実にこなすことが求められているはずです。
とりわけ自衛隊のような軍事力を持つ組織は、暴力を発揮する権限を政府(国民)から与えられているわけですから、勝手な主観で動くことは禁止されています。
それがなければ国家は壊れます。つまり守れないのです。
日本の官僚制度は破綻していると思いますが、もっとも強い規律を求められる自衛隊にまでそれが広がっていることの意味は問い直されるべきでしょう。

中央省庁の不祥事は、私にはいずれも国家に対する反逆行為に見えます。
しかし、ややこしいのは、彼らはいずれも国家から授権されているのです。
コラテラル・ダメッジさえ許されるわけです。

職務違反したら、普通は懲戒解雇されますが、公務員の場合は、そう簡単ではありません。
事実、田母神前空幕長の懲戒解雇には半年かかるというような答弁が、閣僚からあったように思います。
国民の政府ではなく、官僚たちの政府になってきているとさえ思いたくなります。
彼らはやりたい放題なのかもしれません。

私が田母神前空幕長を批判するのは、彼が国家に反逆しているからです。
もし彼が反逆していないのであれば、そこにこそ今の日本の政府の本質があるわけです。

余計なことを加えれば、田母神前空幕長の言動は、国家に対する「侵略行為」のように思えてなりません。
したがって、田母神前空幕長が日本は侵略国家ではなかったと思っていることの意味はよくわかります。
侵略の意味が、私とは全く違うのですから。

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2008/11/01

■田母神空幕長と自衛隊の本質

今朝、ブログに記事を掲載しようと思って、アクセス状況を確認しました。
そうしたら、昨夜の9時以降にアクセス数が急増していました。
今年の4月に書いた「田母神空幕長の法を踏みにじる発言に耳を疑いました」へのアクセスが原因でした。
そう言えば、昨夜のテレビで田母神空幕長更迭が報道されていました。

あることが話題になると、関連記事へのアクセスは急増します。
私のブログはファッショナブルではありませんので、アクセスはそう多くはないのですが、それでも時々、1日に1000件程度のアクセスがあることがあります。
それはこうした「話題の事件」にフィットした時です。
それで改めて世間の関心の動きを知ることも出来ます。
田母神空幕長の論文記事に、これだけの関心があったことになぜかホッとしました。

その一方で、あの「田母神空幕長」がまだそのままの職にいたことに、驚きも感じました。
私には「ありえない話」ですが、いまの自民党や民主党の発想であれば、そう不思議ではないのでしょうね。
浜田防衛相が、本人に更迭を伝えた時に、「『立場として問題では』と話した」といったと新聞に書かれていましたが、まあ、その程度の認識です。
それにこの論文の内容は、防衛省には事前に伝わっていたのですから、これはある意味では防衛省、つまり政府が認めた見解なのです。
もし首相が知らなかったとしたら、それはシビリアン・コントロールの破れといえます。

これは決して、田母神空幕長の個人的見解ではありません。
自衛隊の主流を歩いてきた人であり、法を無視する発言をしてもとがめられなかった人です。
自衛隊はもちろん、防衛省の文化を象徴している人と考えていいでしょう。
そのことの恐ろしさを、もっとマスコミは明確にすべきでしょう。
マスコミに対しても、なにをいまさらと私は思います。

守屋事件などは、こうしたことに比べれば、瑣末な話です。
歴史もまともに学んでいない狂気の人がトップに存在している自衛隊は、凶器以外の何物でもありません。
元サマワ先遣隊長の佐藤正久参議院議員もそうですが、いまの自衛隊は狂気を育てる組織かもしれません。
世界の平和にはマイナスの存在です。

田母神前空幕長はひとつだけ同意できることを書いています。
今の状況では日本は守れない、と。
全く同感です。
こんな人が自衛隊にいる限り、日本は守られるはずもありません。
70年前を思い出さなければいけません。

田母神前空幕長のこれからの身の処し方に興味があります。
自らでけじめをつけられないような人でないことを期待します。

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2008/10/10

■「わが事のように悲しい」

昨日の続きです。
「わが事のようにうれしい」という思いが広がれば、世界は平和になると書きました。
では、「わが事のように悲しい」はどうでしょうか。

世界中でいまなお紛争が続いています。
構造的暴力といわれるような、人権侵害状況が続いている地域も少なくありません。
世界は「幸せの数」よりも「不幸の数」の方が圧倒的に多いのかもしれません。
悲惨な状況をテレビや新聞で知った時、多くの人は痛ましく思い、何かできることはないかと考えるはずです。
しかし実際に行動を起こす人はほとんどいないでしょう。
私自身もそういうタイプです。
「わが事のようにうれしい」は、喜ぶだけで完結できます。
しかし、「わが事のように悲しい」はそれだけでは完結しません。
ずっと心に残ります。
わずかばかりの寄付をしたところで、その痛みは消えません。

「わが事のように悲しい」は、実は「自分の悲しさ」につながっていくのです。
不幸なことに、そうした「不幸な状況」は、世界中いたるところにあります。
日本国内でもたくさんの「不幸」があります。
マスコミを騒がす陰惨な事件の背後には、事件そのものと同じくらい悲惨な状況があることも少なくありません。
加害者だけを非難することにも迷いがあります。
そうしたことを「わが事のように悲しい」と受け止めていると、自分の悲しさは膨れ上がり、気力を奪い去ってしまいかねません。
ですから、他人の不幸には深入りするにはよほどの決意が必要です。
お恥ずかしいことに、私にはその勇気が欠けています。

しかし、それでは社会はよくならないのかもしれません。
自分のことしか考えてこなかった、これまでの生き方を反省しなければいけません。
しかし、「わが事のように悲しい」思いを持ち続けることもまた、世界の平和に通じていると思いたいです。

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2008/10/09

■ノーベル賞受賞の喜び

4人の日本人がノーベル賞を受賞しました。
まだ増えるかもしれないようですが、その報道をみていて感じたことがあります。
受賞者とは無縁の人たちも、みんなうれしそうに喜んでいることです。
わが事のようにうれしい、日本人として誇りを感ずる、などなど。
暗いニュースが多い中で、久しぶりに気持ちが明るくなるニュースでした。
それに受賞者の人柄が、いずれもほのぼのとしていて、親近感を持たせてくれたのも、わが事のようにうれしくなった理由の一つかもしれません。

「他人の不幸は蜜の味」という言葉があります。
しかし、それは不幸な社会での話です。
本当は「他人の幸せこそ蜜の味」のはずです。
宮沢賢治は、「世界中みんなが幸せならない限り、自分の幸せはない」と言っています。
現在の日本はどうでしょうか。
どうも「他人の不幸は蜜の味」社会から抜け出ていないのではないかという話が多いのですが、今回のノーベル賞受賞は違った日本社会を見せてくれました。

他人の喜びを自らの喜びにつなげられる人は、幸せです。
どんな辛い社会にあっても、誰かが喜びを経験しているはずです。
としたら、誰もが常に喜びを感ずることができるということです。
これがポジティブシンキングの極意でしょうか。
「わが事のようにうれしい」
とてもいい響きです。

4人のノーベル賞受賞者は、たくさんの人に喜びをわけてくれました。
オムロンの創業者の立石一真さんは、「人を幸せにする人が幸せになる」と言いました。
幸せや喜びは、与えられるものではなく、与えるものなのかもしれません。
「わが事のようにうれしい」という思いが広がれば、世界は平和になるでしょう。

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2008/10/01

■悲しみの共有、痛みの共有

多田富雄さんと鶴見和子さんの書簡のやり取りをまとめた「邂逅」(藤原出版)という本があります。
このブログに多田さんのことを少し書いたこともあって、思い出して再読してみました。
この本は考えさせられることの多い本ですが、今回、特に心に残ったのが、多田さんの次の文章です。

私は、異なるものは異なるままに、助け合って共に生きるということが、この地球上に人類が長く生きていくためには必要な原理だと考えておりますが、それは今とてもむずかしいことになっております。
その途を開くのは何か、ということを考えてみますと、悲しみの共有ではないか、痛みの共有ではないか。
悲しみの共有、痛みの共有の意味は、私もずっと気になっていることです。
しかし、妻を見送ったこの1年、悲しみや痛みを共有することの難しさを痛感しています。
ビオスとして、つまり理性的に共有することはできますが、たぶん多田さんが考えているのは、もっとゾーエ的な、つまり生命的な、あるいは自然と湧き出すような共有ではないかと思います。
いつか挽歌編で書こうと思いますが、私の場合、「悲しみや痛みの共有」よりも、「共有できないことの悲しみと痛み」を実感させられました。
小泉元首相の「痛みを分かち合おう」などという言葉には、怒りさえ感じます。

多田さんの文章を読みかえれば、異なるものは異なるままに、助け合って共に生きる、ということが難しくなったのは、悲しみの共有、痛みの共有がなくなってきたからということになります。
私もそう思います。
私が取り組んできたコムケア活動は、「重荷を背負い会う関係」の復活でした。
ある集まりで、その話をしたら聴いていた若者が共感して声をかけに来てくれました。
今でもはっきりと覚えていますが、しかし、彼とも結局は重荷を背負いあう関係は育てられませんでした。
彼が悪いわけではなく、たぶん「悲しみ」や「痛み」が多すぎる社会になってしまったのです。
NPOも、その例外ではありません。

しかし、もし誰かと「共に生きる」のであれば、当然、「悲しみ」や「痛み」を共有することになります。
ということは、「悲しみ」や「痛み」の共有がなくなったのではなく、「共に生きる」ことがなくなってしまったということです。
そしてそれこそが、近代の落とし穴だったのではないかと、最近、思い出しています。
ゲーテは「ファウスト」で、そのことを予告していたのでしょうか。

母親の子ども殺害事件に感ずるのは、「共に生きる」ことのなかった親子の悲しさです。
企業不祥事には、「共に生きる」場でなくなった会社が見えてきます。
世界に拡がりつつある金融不安も、「共に生きる」ことのない人たちが起こしているのかもしれません。
今日の国会の代表質問のやりとりも、「共に生きる」ことを好まない人たちのやりとりでした。

北朝鮮の映像を見た感想でも書きましたが、「共に生きる」世界であれば、貧しくてもみんな平安に過ごせます。
その「地球上に人類が長く生きていくためには必要な原理」を捨ててしまったことが、人類の悲劇の始まりだったのかもしれません。
その正否がはっきりするのは、どのくらい先でしょうか。
100年後か、1万年後か、わかりませんが、「共に生きる」ことのない生命の一員であることが、とても残念でなりません。

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2008/09/22

■平和の脆さや戦争への道のシミュレーション

最近、不快なことが多すぎるのですが、その一つが似非平和主義者への怒りです。
まあ私が怒りを感じてもどうしようもない話なのですが。

私が参加していて、しかもメンバーの何人かとも顔見知りの平和関係のメーリングリストが2つあります。
以前は投稿したこともありますが、最近はほぼ完全に読むだけです。
そのメーリングリストで、時々、不快な応酬があります。
体験された方もいるでしょうが、メーリングリスト上での感情的な対立はどんどんエスカレートします。
最初は極めて瑣末な話から始まるのですが、横から見ていると言葉遣いも含めて、罵倒しあう状況になっていきます。
とても皮肉なことなのですが、平和の脆さや戦争への道をシミュレーションしているようです。

メーリングリストはとてもいい仕組みだと思いますが、よほど注意しておかないと、劣化しがちです。
無意味な批判の応酬が起こり出すのです。
平和をテーマにしたメーリングリストであればこそ、最初はそれがとても不思議でした。
平和という概念は戦争の裏概念だと前に書いたことがありますが、こうしたメーリングリストに参加する人たちの平和概念は、一人ひとりの平安を大事にするということだろうと私は考えていたからです。
もしそうなら基本は「異質な考えへの寛容さ」でなければいけません。
前にも引用しましたが、ヤスパースは敗戦後、ドイツ国民に向かって「われわれは相互間の甚だしい相違を終局点としてではなく、出発点として承認するのでなければ、われわれの語り合いは意味をなさない」と呼びかけました。
寛容さのない平和志向は、国家の平和観と同じで、極端に言えば戦争の一形式でしかありえません。

幸いに、一つのメーリングリストでは管理者の的確な判断と当事者以外の参加者の適切な反応で毎回聞きは乗り越えられていますが、そのプロセスで、互いの信頼関係が高まればいいのですが、必ずしもそうではないように思います。
繰り返し行われる非寛容なやり取りに、私自身はそのメーリングリストへの信頼感を完全に失っています。
いかに平和主義者を装うと、個人攻撃するような人の平和観にはなじめません。
私にとっては、平和を語る相手では全くありません。
メーリングリストは、似非平和主義者をあぶりだす仕組みとしては有効かもしれません。

もう一つの、比較的インチメイトなメンバーによるメーリングリストで、また応酬が始まってしまいました。
今回は黙って入られなくなってしまい、うっかり投稿してしまいました。
幸いに最初の投稿者の寛容な反応により、いち早く収束しましたが、信頼していたメーリングリストだけにいささか残念です。

顔を見ないネットの世界では、こうした不幸な行き違いがよく起こります。
ネットを使いこなしていくためには、もう少し時間がかかるのかもしれません。

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2008/09/08

■ボーン・アイデンティティと井原勝介前岩国市長の体験

昨日、ついつい「ボーン・アイデンティティ」3部作をテレビで見てしまいました。
シリーズものの映画は、大体において後になるほど面白くありませんが、このシリーズはきちんと創られているので何回見てもおもしろいです。
しかし、面白がってばかりはいられません。
この映画が示唆しているのは、国家のもつ暴力性です。
そこでは「人間」は根本から否定されているのですが、その否定の動機は実は権力中枢に寄生している人たちの利己的な保身なのです。
まさにそれを、福田首相は象徴的に見せてくれましたが、その背後に隠された暴力性にまでは私たちの視線は届きません。
しかし、福田首相の行為がいかに暴力的であるかは、よく考えればわかることです。

ボーンの作品を見ながら思い出したのが、つい最近読んだ「軍縮問題資料」10月号での芦澤礼子さんの記事です。
芦澤さんは7月13日に開催された「井原勝介さんと考える市民主義」の集まりでの、岩国市前市長の井原さんの講演の要旨を報告しています。
そこに、今の日本政府(自公政権)の非人間的な暴力性がはっきりと示されています。
その内容をできるだけ多くの人に読んでほしいと思い、ネットを探したのですが、まだどこにもアップされていません。
そこで、同記事の一部を引用します。

結果的には負けてしまいましたが、私たちの予想を超える、あそこまでいかさまのような選挙をやるとは思いませんでした。デマや誹誘中傷から始まり、何でもありの作戦がとられました。例えば私が勝てば夕張のように財政が破綻し、税金は何倍にも上がる、バスや病院、保育園、児童手当がなくなる、公園のトイレがなくなる。相手方(福田良彦氏)が勝てば五千億円も一兆円ももらって何でもできる。医療費や給食費がタダになり、道路もつくる、野球場もつくると。その陰では企業を挙げて圧力をかける。平日の期日前投票に、若い作業服を着た方がぞろぞろと来るということは、今まで岩国の選挙では見たことがなかったと、立会人の人も言っていました。
選挙前に、井原さんを辞任させるための政府の金を使っての嫌がらせもひどいものでしたが、こうしたことが日本の選挙でも起こっているのです。
アフリカの軍事政権や北朝鮮の話ではないのです。

ちょっと似た内容が、ジャンジャンニュースに掲載されています。
「井原勝介・前岩国市長が再起を語る(下)」

一番不愉快なのは、政府は私たち国民の税金を使って、国民の意識やつながり、生活を破綻させようとしていることです。
さすがに直接の殺害行為は見えてきませんが、実質的には同じ結果を生んでいるように思います。
ちょっと想像力を働かせば、アメリカのCIAと同じことをやっているのが感じられます。

表現が過激ですが、それはボーン・シリーズを観た直後だからです。すみません。
しかし、私自身も全くの間違いで公安警察の人に事情聴取されたことがありますが、その経験から言えば、権力への恐怖感はあります。
私が国家権力に寄生している人たちに、不快感と同時に、時に迎合しようとする弱さがあるのは、その恐ろしさが垣間見えるからです。

自民党政権は、まさに暴力的な政権です。
しかしたぶん、民主党政権になっても同じことでしょう。
それが国家なのです。
それへの対抗力は、マルチチュードとしての市民主義かもしれません。
井原さんの市民主義に基づく活動に共感します。
岩国市の動きには、これからも関心を持ち続けようと思います。

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2008/08/28

■伊藤和也さんの笑顔が教えてくれるもの

アフガニスタンで農業支援の活動をしていた伊藤和也さんが殺害された事件は、実に残念な事件です。
その笑顔の写真やアフガンに行った動機などをテレビや新聞で知って、何とも言いようのない無念さを感じます。
こういう若者を守れない時代であることが残念ですが、
伊藤さんのような若者が、歴史を開いていくのだろうと思います。
彼に敬意と哀悼の意を表します。

しかし、なぜこんな事件が起きるのか。
事はそう簡単ではないように思います。
何もしていない立場で、何かを言うことには躊躇しますが、
現地の人たちの暮らしの視点に立った、こうした活動であれば、おそらく国民の多くは応援したくなるでしょう。
そしてもっと多くの人が知っていたら、何か出来ることがあったかもしれません。
いつも抗した活動は事件が起こって、広く知られることが多いような気がします。

これこそが国際社会の一員としての日本の責務ではないかと思いますが、こうした活動はなぜかその多くは政府ではないNGOが行っています。
こうした活動に税金が使われるのであれば、税金を納めるモチベーションも高まります。
関係法案も簡単に成立するでしょう。反対する理由がありません。

日本はこれまでもアフガン支援として様々な活動を展開していますが、伊藤さんのような思いや視点はあったのでしょうか。
こうした活動をするという気が、あったのでしょうか。
民主党の前原誠司副代表は、一昨日も「航空自衛隊が輸送を担うのも、1つの具体的な案として考え得るのではないか」と述べたそうですが、伊藤さんの思いや行動に比べて、愕然とします。
こうした好戦的な政治家が、憲法を無視して、世界を荒廃させ、暮らしを壊しているように思えてなりません。
前原さんに井戸を掘りに行けとは言いませんが、せめて井戸を掘っている人の邪魔はすべきではないでしょうし、その思いをもう少し思いやってもいいように思います。

それにしても、伊藤さんの事件を起こしたのは、一体誰なのか。
伊藤さんはタリバンの犠牲になったというよりも、状況の犠牲になったというべきでしょう。
では、そういう状況は誰がつくり、誰が維持しているのか。
直接の実行犯の後ろに入る、あるいは彼らを追いやっているのが、私の税金の一部でなければいいがと強く思います。
なぜアフガンで最近、反日感情が生まれてきているのか、そうしたことをマスコミはもう少し報道してほしいです。
そして、国際貢献や人道支援は、様々なやり方があることも教えてほしいです。


憲法9条を持つ国として、やれること、やるべきことは、もっといろいろとあるはずです。
伊藤さんは、それを教えてくれているように思います。
何もしていない私に、何がしかの責任があることは否定できません。
そんな思いで、伊藤さんの悲報を受け止めています。

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2008/08/24

■中国の「困難を洞察し、共感を持つ」ことはできるか

中国でのオリンピック開催で、これまで見えてこなかった中国の実態が見えてきました。
予想以上に人権無視の管理社会の側面も見えてきました。
不気味で、信頼できない国家という気さえします。
あれだけ大きな国家を維持するということは、そういうことなのかもしれませんが、
こんな国家と果たして付き合っていけるのかと不安にもなります。

しかし、テレビで映し出される姿が、すべてではないでしょう。
テレビメディアは、どうしても特徴を過剰に伝えがちです。
日本も報道の仕方によっては、不気味で信頼できない国家に見えるかもしれません。

ドイツの哲学者カール・ヤスパースの「戦争の罪を問う」(平凡社ライブラリー)にこんな文章が出てきます。

「われわれは相互の間の甚だしい相違を終局点としてではなく、出発点として承認するのでなければ、われわれの語り合いは意味をなさない。われわれ自身の情勢や態度とは全く懸け離れた情勢や態度のうちに見られる困難を洞察し、それに共感を持つようにならなければならない。」
人の価値観は、基本的にはそう大きくは変わらないと私は思い続けています。
しかし、その置かれている状況やそれまでの歴史によって、現われてくる価値観や言動は正反対になることもあるでしょう。
そのことは、日本の社会の常識や文化、あるいは日本の国家制度や国家政策などの歴史を思い出せば容易に納得できます。
極端な事例では、1945年の8月を境に、日本人の価値観は逆転させしたのです。
いまの中国の文化や人々の言動を、否定してばかりもいられません。

私自身は、いまはまだ中国への「共感」はとてももてません。
昨夜もチベットのためにキャンドルを灯して祈るようにというメールが来ましたので、それに応じましたが、チベットにしてもウィグルにしても、中国政府のやり方には憤りを感じます。
オリンピック会場の周りで、デモを監視するボランティアの映像を見る度に、嘔吐したくもなります。
子どもの頃から、そうしたことがなぜか私には生理的に受け入れられないのです。
しかし、もし平和を望むのであれば、ヤスパースがいうように、中国の人たちの「困難を洞察し、共感を持つよう」にならなければならないでしょう。
共感を持てずにいる自らの未熟さを反省しなければいけません。

先日引用した、むのたけじさんの記事にもこんな発言がありました。

戦争のたくらみをやめさせる要は、違うものを排撃することをやめること。人間は「違っていても分かり合える」のじゃなくて「違っているから分かり合える」の。
違いからスタートして、共感を育てていく姿勢の大切さはよくわかっているのですが、67歳になりながらも、なかなかそれができずにいます。
このブログも、排撃的な表現が多いかもしれません。
もっと寛容になろうと、改めて思っています。

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2008/08/22

■一人一人が生活の主人公になれば戦争はなくなる

先日、石牟礼道子の新聞紙上での発言を紹介しましたが、
同じ「夏を語る」のコーナーで、今日、むのたけじさんが語っています。
この記事は朝日新聞のネットには掲載されませんので、ちょっと長いですが、また少し紹介させてもらいます。

私は、平和運動だ、抗議集会だと何千回もやったけど、一度も戦争をたくらむ勢力に有効な打撃を与えられなかった。軍需産業は成長しているんじゃないの。「戦争反対行動に参加した私は良心的だ」という自己満足運動だから。それでも意思表示をしないと権力は「民衆は反対していない」と勝手な判断をするからやめるわけにはいかない。
でもそれだけじゃダメだ。

今、根底にあるのは、人工的に起こす消費。これだけなんだ。作って売ってもうける。そこにある欲望が戦争に拍車をかけてきた。
無限の発展はいらない。当たり前の平凡な、腹八分目で我慢する生き方が必要なんです。地球の環境を大事にするとか、スローペースの生き方とかですよ。
そのことに一人一人が目覚め、生活の主人公になること。これが資本主義を否定する普通の人間主義の生き方。戦争のたくらみをやめさせるのはこれなんだ。金もいらない、命令も法律も何もいらないもの。

すべての基本は、私たちの生き方にあります。
運動ではなく、私たちの生き方なのです。
そしてそれが広がっていけばいいのです。
広げるのが運動ならば、広がるのはなんでしょうか。それも運動なのでしょうね。

むのたけじさんの発言をまとめた「戦争絶滅へ 人間復活へ」(岩波新書)をまだ読まれていない方は、ぜひ読んでみてください。
私たちに生き方が、歴史を変えていくのです。
平和だ、環境だというだけでなく、まずは生き方を見直したいと思います。

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2008/08/15

■平和に関する2冊の本をお薦めします

今日は終戦記念日です。
ところが朝の新聞には、ほとんどその記載はありません。
朝日新聞では、1面には天声人語での言及と書籍広告のテーマが平和と戦争になっていただけです。
テレビでもどなたかが話していましたが、どの新聞もオリンピック報道ばかりで終戦記念日のことはほとんど書かれていないようです。
戦争体験はもう忘れられるものになってしまったのでしょうか。
しかし、今こそ、戦争体験から学び、未来を構想しなければいけない時期ではないかと思います。
戦争は過去のものではなく、現在および未来の問題です。

最近出版された2冊の本を紹介したいと思います。
お読みいただければと思います。

1冊目は、むのたけじさんの「戦争廃絶へ、人間復活へ」(岩波新書)です。
CWSコモンズのブックのコーナーで紹介しましたが、ノンフィクションライターの黒岩比佐子さんが、むのさんの深い思いを引き出してくれています。
黒岩さんは「戦争を知らない世代が、むのさんの言葉から学ぶべきことは多いと思います」と書いていますが、従軍記者として「本当の戦争」を各地で見てきたむのさんの言葉は、恐ろしいほどに生々しいです。

2冊目は、新しい平和論をライフワークにしている川本兼さんの「新平和主義の論理」(明石書店)です。
まだ書店に並びだしたばかりで、私もまだブックのコーナーにアップしていませんが、とりあえずの紹介文を臨時に載せました。
そこに川本さんの「はじめに」の文章を載せましたが、そこにこう書かれています。

「戦争を知らない『元』子供たち」は、子供の頃、「戦争を知っている大人たち」に「どうして反対しなかったのか」「どうして抵抗しなかったのか」と問いかけました。そのことが大人たちをいらつかせ、そのいらつきから発せられる「戦争も知らないくせに…」という言葉に対して、「戦争を知らない子供たち」の歌が生まれたのですが、しかし、これからは私たちの世代が「どうして反対しなかったのか」「どうして抵抗しなかったのか」と問われかねません。そこで私は、この本でわが世代に本当にこのような国を作ろうと思ったかを問い、そして「戦後日本の再構築」を呼びかけたいのです。

戦争体験は残念ながら風化し、単純化していくでしょう。
それに抗うためには、新しい平和活動が必要です。
私たちにもできることはいろいろあります。
今日は、そのことを思いながら過ごそうと思います。

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2008/08/11

■「人が戦争を始めたのではない。政治家が始めたのです」

ところで、オリンピック報道で、新聞は読む紙面がなくなってしまっているのですが、オリンピック報道にもこんな気分のいい記事もありました。

<北京五輪の射撃の表彰台で10日、戦闘状態にある2国の谷に友情の花が咲いた>
女子エアピストルで銀メダルのナタリア・パデリナ(ロシア)と銅のニーノ・サルクワゼ(グルジア)。メダル獲得が決まると互いのほおにキスをし、抱き合った。観衆からは拍手が巻き起こった。
サルクワゼ選手は、「人が戦争を始めたのではない。政治家が始めたのです」と涙ぐんだそうです。

ちょっといい話です。
しかし、2人の競技種目が、射撃というのが私には残念です。
射撃などという種目がオリンピックにあることが、昔から私には全く理解できませんでした。
お2人には、これを機会に射撃競技などやめてほしいと思います。
もし本当に戦争が嫌いなのであれば。

また余計な蛇足をつけてしまいました。

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2008/08/10

■ネクタイをした背広の人がカメラを回していました

今朝のNHKの政治討論を見ていたら、娘が「カメラマンまでネクタイをしているよ」と驚きの声をあげました。
たしかに、ネクタイをした背広の人がカメラを操作していました。
それが何だといわれそうですが、不思議な光景でした。

新閣僚に聴くというのが今日のテーマでした。
いつもこの番組は「聴く」のではなく「話させる」番組ですので、退屈なのですが、今日はいつもに輪をかけて退屈でした。
私でも言えるような、しかし絶対言わないようなことを閣僚が無表情に話すのを聴いていると、この人たちは人間なのだろうかと不思議な気分になります。
しかし、今日はカメラマンの服装が気になって、いつもより長く見てしまいました。

カメラマンがネクタイをして背広を着ているのには一度も出会ったことがありません。
彼らは、そういうスタイルをよしとしない人たちだと思っていましたが、NHKの場合は、服装規定があるのでしょうか。
あるいは、内閣の閣僚が出席する番組だったからなのでしょうか。
来週もこの番組を見てみたいと思います。

こういう周辺的なところに時代の実相が出てきます。

その裏の報道番組で、平和体験が風化していること、平和の祭典が始まった時に新たな戦争が始まったことが話題にされていました。
なぜ戦争はなくならないかという質問に、「人間はバカだから」と答える、街の人の映像がありました。
コメンテーターの人たちはみんな賛成していました。
しかし、私には違和感があります。
「バカな人」は戦争など起こさないように思います。
背広を着て、ネクタイをしめた「利口な人」が戦争を起こすのではないか。
そんな気がします。

「戦争を起こす利口な人、戦争を起こされるバカな人」
必要なのは、「戦争を起こさせない賢い人」です。
利口な小賢しい人はたくさんいますが、賢い人はまだ生まれていないのでしょうか。
私は賢い人にはなれそうもないので、バカな人を目指したいと思っています。

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2008/08/05

■失われたオリンピック遺産の思想

オリンピック開会を直前にして、新疆ウイグル自治区で危惧されていたテロ事件が起きました。
ウィグル族に対する人権侵害については先日も少し触れましたが、平和の祭典とも言われたオリンピックが、いまやテロ誘発の祭典になってしまっていることは残念なことです。
オリンピックが近づくにつれて、ウィグル族への抑圧は強まっているようですが、戦争中でもオリンピックの時には休戦したといわれる、古代ギリシアのオリンピック行事とは全く正反対なものになっていることの意味を、しっかりと考える必要があるように思います。

先週、アムネスティ・インターナショナルは『オリンピック・カウントダウン―破られた約束』という報告書を発表しました。
そこで、中国政府は人権状況を改善するという同国の公約を破りオリンピックの本質的価値に背いたと述べています。
アムネスティ関係者は、「中国政府はオリンピックの遺産を傷つけようとしている」とも述べています。
オリンピックの価値を壊しているのは中国政府だけではありませんので、この指摘には反発を感じますが、否定できない事実かもしれません。

ウィグル族やチベット族の怒りは共感できますが、
テロは相手と同じ次元の行為ですから、共感は全くできません。
相手と同じ行為をした途端に、人は相手と同じ仲間になってしまいます。
「死には死を」ではなく、「死には生を」こそが目指されなければなりません。
異議申し立ての方法はいろいろあります。
しかし大切なのは、共感者を広げていく方法です。

テロとは違う、「チベットに祈りの灯火を」という呼びかけもあります。
北京オリンピックの開会式の前日に、チベットの自由を祈って、キャンドルを灯そうという活動です、
キャンドルに限っているわけではありません。
開会式の開始に合わせて、それぞれができる手段で明かりをつけて、「地球規模の大いなる光の抗議(意思表示)」をしようという呼びかけもあります。
詳しくは「チベットに祈りの灯火を」のサイトをご覧ください。

私自身は、「チベットに祈りの灯火を」ではなく、「すべての人たちに祈りの灯火を」という気持ちで、この呼びかけに応えるつもりです。

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2008/06/24

■「不都合な真実」から「目指すべきビジョン」に

先日、K2登頂に成功したKさんにお聞きした話ですが、普段、人間は持てるエネルギーの1割程度しか活用していないが、死に瀕する状況では5~7割の能力を発揮するのだそうです。
K2は登頂する点ではエベレストよりも危険度が高く、遭難者も多い山です。
Kさんが死を賭して登頂に挑戦した理由の一つは、自分の持つ能力を思い切り出し切る体験をしたかったからですが、エネルギーを出し切った後の下山時の疲労感は、これまで体験したことのないものだったそうです。
しかし、生命力を出し切った感覚は、一度味わうとまた味わいたくなるようです。
人間は蓄積するエネルギーを放出する場が、時に必要なのかもしれません。

昨今の日本は、やや安心安全の水準が低下したとはいえ、日常的には生命の不安をあまり感じない社会でしょう。
そこではみんな生命力の1割しか発揮していないわけです。
とすれば、社会に蓄積されるエネルギーを放出する仕組みをどうつくるかは重要な課題です。
それが「ハレ」の仕組みであり、スポーツやサーカスの効用かもしれません。
戦争もまた、その不幸な結果なのかもしれません。
しかし、どうせなら社会に蓄積されるエネルギーを、プラスの方向で活かしていきたいものです。
そのためには、「夢」や「希望」、「ビジョン」といった「大きな物語」が必要です。
たぶん、いまの世界にはそれが欠けています。
ゴアの「不都合な真実」は、エネルギーの点火する要素は持っていますが、その小さな火を集めていく「物語」がないのが残念です。

社会(組織)はそれを構成しているメンバーの生命力によって形成されています。
一人ひとりのメンバーのエネルギーがちょっと高まっただけで、それらを集積すると膨大なエネルギーになります。
そのエネルギーを統合し、効果的に活用していくことができれば、組織も社会も飛躍的に元気になるはずです。
残念ながら、現実はそれと反対の方向へと動いています。

いささか抽象的なことを書いてしまいましたが、
この視点で今起こっているさまざまなことを考えると、また違った視野が開けてきます。
マルチチュードがどの方向に動き出すか、いままさにそのせめぎあいが進んでいますが、「いのち」を預けられる物語を生み出すのはどちら側でしょうか。

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2008/06/11

■問責決議が無視される独裁国家

参議院で首相の問責決議が可決されました。
しかし首相は全くの無視です。
小泉元首相は、笑いながら「問責決議などたいしたものではない」と話しています。
古館さんではないですが、笑いながらの不真面目さには呆れます。
このことのおかしさは、もっと話題になっていいと思いますが、
問責決議がなされる前から首相は無視することを言明し、マスコミもそれを受容していました。
おかしな話です。

多くの国民が反対していることを今の福田政権は強行してきました。
その無法ぶりをマスコミも有識者もほぼ放置していますが、
それはたぶん「民主主義精神」の死につながりかねません。
主権在民を明言している憲法に違反しています。
憲法の精神を無視する首相が少なくとも3代は続いていると私は思いますが、
そうした国家において、遵法精神が風化するのは避け難い話でしょう。

最新号の「軍縮問題資料」(7月号)に、澤地久枝さんと姜尚中さんの対談が載っています。
多くの人に読んでほしい対談ですが、そこで澤地さんがこう述べています。
この部分だけ引用するのは危険かもしれませんが、澤地さんのことを知っている人は誤解はしないでしょう。

残念ですけど敗戦以前の方がこれほどひどくはない。なぜかというと、もちろん軍の横暴はいろいろありましたけれど、最高責任者たちは天皇に叱られたら辞める。田中義一は「お前の言うことは嘘がある」と言われて辞めた。だからね、統治権が天皇にあった時代から、ともかく今は主権在民になってるけれど、この主権在民の主権者たちが偉くないの、全然。政治家にとって怖くも何ともない。こんなひどいことはないでしょう。
結局は天皇も軍の横暴を止められなかったわけですし、澤地さんの発言の意図は要するに、日本では国民が見下されているという話なのです。
三権分立の思想は日本にはほとんどありませんし(形だけはありますが、機能していません)、ジャーナリストも取り込まれていますから、いまや暴走を止める術はないのかもしれません。

こうした状況の底流には、差別意識と恐怖感があると、姜さんは言います。
それに加えてメディアの劣化。
お2人とも、マスコミが「お上は絶対間違わない」ということを受け入れているというのです。
差別意識と恐怖感を煽っているのは、マスコミではないかと私は思っていますので、とても共感できます。
いまのマスコミで、ある程度自己主張しているのは「報道ステーション」と「報道2001」だけだと私は思っていますが、その2つもかなり圧力を受けているようにも感じます。
しかし古館さんが嫌いな人は多いですね。
どうしてでしょうか。
出る杭を叩き込みながら、自らの不幸を呼び込むのが私たち大衆なのかもしれません。
なんだか憂鬱になってしまいます。

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2008/06/06

■節子への挽歌278:「楽しい気分」と「悲しい気分」のどちらに同調したいですか

昨日、スミスの「国富論」の話を書きましたが、スミスは、もう1冊「道徳感情論」を残しています。
いまそれを読んでいます。
読み出したのが5年前ですが、先月から再読しだしました。
その本は、次の文章で始まります。

人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかにかれの本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、かれに他の人びとの運不運に関心をもたせ、かれらの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも、かれはそれからひきださないのに、かれにとって必要なものとするのである。
アダム・スミスは、人間は社会的存在であることを重視しています。

私たちは、他の人たちの感情や行動にただ関心を持つだけではなく、他人の喜びや悲しみ、怒りなどを自分の心の中に写し取り、自分ならどうだろうと考える能力を持っているとスミスは言います。
そして同時に、私たちは、自分の感情や行為が他の人たちから是認されたいと願っているとも言うのです。
この同感の能力と是認されたいという願望は、人類共通のものであり、人の生きる原動力につながっているというのが、アダム・スミスの思想の基盤です。
そこから「見えざる手」の論理や「分業の発想」が出てきます。
以上が、最近の私のアダム・スミス理解です。
大学で学んだのとは全く違っています。

これはまさに「ケア」の源泉であり、スミスの経済論には互恵の精神が強く感じられます。
昨今の経済は、アダム・スミスのビジョンとは正反対の方向に向かっています。
まあ、それはともかく。

愛する妻、節子を失ったことで悲嘆にくれ、生きる気力さえ萎えていた私に、多くの人がパワーを送ってくれました。
引用した文章には、人が生きていくためには「かれらの幸福」が必要だとあります。
宮沢賢治の「世界中みんなが幸せになれないと自分も幸せになれない」という言葉を思い出します。
しかし、そこには、「かれらの悲しみや不幸」については言及されていません。
幸福と不幸は違うのでしょうか。
他人の不幸は自分の幸福などという言葉もありますが、そういうレベルに話ではありません。

多くの人は、他の人の「幸せな楽しい気分」には同調したいでしょうが、「悲しい辛い気分」には近づきたくない、と多くの本に書かれています。
そうでしょうか。
もし近くに「悲しい辛い気分」の人がいたら、私は幸せを感じられるでしょうか。
決してそうではありません。
ミャンマーや四川の被災者たち、フィリピンやパレスチナの悲劇を知ってしまうと、自分の普通の生活さえもが罪の意識に覆われることはないでしょうか。
もし、「幸せな楽しい気分」に付き合うか、「悲しい辛い気分」に寄り添うか、といわれたら、どうでしょうか。

寄り添う勇気を持てるかどうか。
人の本性は、「悲しい辛い気分」に寄り添うことなのではないかと、最近感じています。
しかし、なぜそれができないのか、これまた「悩ましい課題」です。

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2008/05/30

■クラスター爆弾を持っていることの是非

クラスター爆弾全面禁止に日本も合意する方向に動き出しました。
私には当然過ぎるほど当然なことなのですが、国家防衛の視点からは異論もあるようです。
クラスター爆弾禁止に異論を持つような「国家防衛」とは、いったい何なのだろうかと思いますが、「防衛庁の常識」ではその異論もまた当然なのでしょう。

狭い世界に閉じこもっていると常識は恐ろしいほどに特殊化するものです。
船場吉兆と防衛庁は同じような状況なのだろうと思います。
いえ、防衛庁に限りません。
ほとんどあらゆる組織が、そうした状況に陥る必然性を持っているのです。
社会の組織原理そのものから見直すべき時期にきています。
組織は「閉じるもの」ではなく、「開くもの」というパラダイム転換が必要です。

ところで、私自身は、クラスター爆弾を現在自分の国が持っていること自体に大きな違和感があります。
憲法9条とはいったい何なのか。

私の知人が大麻を所持して逮捕されました。
大麻とクラスター爆弾と、どちらが危険でしょうか。
そういう問題ではないといわれそうですが、なぜそういう問題ではないのか、みなさん、考えたことはありますか。
私たちは、もっとすなおな疑問を持ち続けるべきだろうと思います。

私はひ弱な人間なので、争いは好みませんが、そのひ弱さをカバーするために武器を持ちたいとは思いません。
自分の家に拳銃や爆弾は持ちたくはありません。
第一、そんなことで私の家族の生活が守られるはずがありません。
警察官にさえ、拳銃を持ってほしくないと思いますが(持っていても多分有害無益なだけでしょうから)、自衛隊にも武器は持ってほしくないです。
武器が抑止力になり時代は終わっていますし、仮に抑止力になるとしても持つべきではないと私は思います。
クラスター爆弾を持っている政府に統治されているのかと思うと、ぞっとします。

クラスター爆弾と憲法9条。
日本は不思議な国です。

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2008/05/22

■メフィストに魂を売ったファウストの時代

今朝の朝日新聞に「チベット問題からみる人権」と題して、オーストラリア国立大学の歴史学のテッサ・モーリス・スズキ教授が寄稿していました。
ちょうど彼女の「愛国心を考える」(岩波ブックレット)を読もうと思っていたところだったので、読んでみました。
東トルキスタンにおけるウィグル族人権抑圧のことが書かれていました。
早速、ネットで調べてみたのですが、途中でいやになってきました。
どうしてこんなことが起こるのか。
人権侵害が世界いたるところで行われていますから、関心を持ち出すと際限がないのです。
人はどうしてこんな不条理なことができるのでしょうか。
死刑のところで書きましたが、現場で主体的に生きていたら、ほとんどの人は不条理なことなどできないはずです。
そうさせている何かがあるはずですが、ラッキョのように組織や制度の皮をむいていくときっと何も残りません。
ほんとうに不思議です。

最近、無差別の殺傷事件が頻発しているではないかと思う人がいるかもしれませんが、そこにも理由がないはずはありません。
やり場のない憤りや不安が暴発しているように思います。
社会の基本的なあり方を正さない限り、暴発は防げません。
事件を起こした人も、やりたくてやったとは思えません。
相手を間違っただけです。
相手というのは、人ではなくて問題というべきかも知れません。
私は、自然やコモンズ、あるいは「つながり」や「人間的なリズム」をなくしてきた結果ではないかと思います。
そうしたことを捨てることで、私たちは金銭的経済システムを発展させてきました。
まさに魂をメフィストに売ったファウストの生き方を選んだ結果なのかもしれません。
身が滅びるのは当然の報いかもしれません。

毎日、テレビで中国やミャンマーの状況を見ていると、私たちが真剣に考えなければいけないのは、内輪もめではなく、もっと大きなことだろうと思います。
そういう人類的あるいは生命的な視点で構想した人間のつながりあいのシステムがあるような気がします。

世界中の人たちが、個人の視点で寄付をし、汗を出し合おうとしている姿に、私たちのもう一つの未来を感じます。

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2008/04/19

■田母神空幕長の法を踏みにじる発言に耳を疑いました

朝日新聞の夕刊で、とんでもない記事を見つけました。

航空自衛隊のイラクでの空輸活動をめぐり、活動の一部が憲法9条に違反するという判断を含んだ名古屋高裁判決に対し、田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長は18日の定例会見で、隊員らの心情を代弁するとして、お笑い芸人の流行のフレーズを使い、「『そんなのかんけえねえ』という状況」などと述べた。判決が隊員の活動に影響がないことを強調した。
これは明らかに犯罪的発言だと思います。
司法の判断を「そんなのかんけいねえ」とは、どういう心境でしょうか。
犯罪者そのものとしか思えません。
まともな法治感覚や順法精神など微塵も感じられない発言です。
この人の家族はどう思っているのでしょうか。
彼には友人はいるのでしょうか。
もしいたら正してほしいものです。

シビリアンコントロールなど、「そんなのかんけいねえ」と思っているのでしょう。
こういう人は即刻懲戒解雇でなければ、おかしいと思います。
田母神さんのような良識など微塵もない人が、自衛隊では出世するのは、その性質上、仕方がないとしても、この種の発言に大臣が何も言わないとしたら、この国の防衛体制などは全く意味がないでしょう。
彼らが防衛しているのは、平和や国民の生活ではなく、自らの利権でしかないと思われても仕方がありません。
田母神さんのような人をのさぼらせた結果、どうなったか、ドイツや日本は体験してきました。
今の子どもたちの社会のおかしさも、田母神さんのような人たちが作り出しているのだと思います。
こういう人をとがめる仕組みのない社会は法治国家とはいえません。
法の権威を認めない人が、政府の要職を勤めているのは仕方ないとして、
この人の場合は、狂人に凶器です。
恐ろしい話です。

青山裁判官と田母神空幕長。
あまりの格差に驚きます。
彼が罷免されないようであれば、司法の権威は損なわれるでしょう。

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■田母神空幕長と自衛隊の本質(2008年11月1日)

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2008/04/18

■憲法9条と平和的生存権

「空自イラク派遣は憲法9条に違反」という判決が出ました。
昨日の自衛隊イラク派遣の差し止めや派遣の違憲確認などを求めていた、市民3千人以上による集団訴訟の控訴審判決(名古屋高裁)です。
原告が主張していた「平和的生存権」に関しても、判決は平和的生存権を「憲法上の法的な権利」と認定し、「戦争への協力の強制など憲法9条に違反する国の行為により個人の生命が侵害されるような場合には、裁判所に違憲行為の差し止めを請求するなどの具体的権利性がある」と明言しています。
日本国憲法の前文には、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とあります。
これが「平和的生存権」の根拠ですが、この判決文は何度読んでも感動します。
いまの9条がある限り、戦争への協力の強制などを拒否できるということですから。
しかし、この判決に対する政府のコメントは、この判決の無力さを予感させます。
違憲判決にもなんら反応しない政府の体質はいまなお続いています。

今回の判決では、多国籍軍兵士を空輸する空自の活動について「他国による武力行使と一体化した行動」と述べ、武力行使を禁止した憲法9条1項とイラク特措法2条2項、活動地域を非戦闘地域に限定した同条3項に違反すると判断していますが、小泉元首相の狂気に対して、ようやくまともな意見をいう裁判官が出てきたことは少し安堵します。
司法にもまだ何がしかの見識があるのかもしれません。
今回の判決をくだした青山邦夫裁判長のこれからに注目しておきたいです。

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2008/04/08

■オリンピックというのは一体何のでしょうか

聖火リレーへの妨害事件は何やらやりきれなさを感じます。
善意の人たちが、なぜこんな形で争わなければいけないのかと思います。
世界で起こっているほとんどすべての争いの現場では、本来は争うべきでない人たちが争っていることが少なくありません。
自爆テロに巻き込まれるのは、いつも争う対象からは遠い人たちです。
戦場で戦っているのも、いつも戦争がなければ仲良くなれたであろう人たちです。
なぜそうした、本来は争う必要のない人たちが争わなければいけないのか。
そうした構図を象徴的に顕在化してくれているような気がします。

それにしても、オリンピックというのは一体何なのでしょうか。
選手のためにあるのでしょうか。
平和のためにあるのでしょうか。
娯楽のためでしょうか、金儲けのためでしょうか。
選手は、もしかしたら戦場の兵士のような存在なのでしょうか。
薬まで飲んで記録に挑もうとする活動がスポーツなのであれば、オリンピックは所詮はローマの剣闘士のレベルの話です。
こけおどしの開会式の演出には感動のひとかけらも感じないのは私だけでしょうか。

もっとおおらかなオリンピックというのはないのでしょうか。
それに勝利を独占しようとする選手も好きにはなれません。
1回優勝したら、後進にその喜びを譲るやさしさをもってほしいものです。
勝利を独占する発想は平和にはつながりません。
戦争している国の権力者たちが、殺しあう代わりに、走りあうような場にはできないものでしょうか。

つまらない記事ですみません。
今日は書くことが思いつきませんでした。はい。

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2008/03/05

■中国の軍備増強と職場のいじめの蔓延

中国の軍事予算が20年連続で二桁の伸びをしているそうです。
そして日本よりも国防予算は大きくなったそうです。
ここが重要な点だと、私は思います。
つまり最近までは、日本の方が大きかったわけです。

テレビでは、中国の軍備増強が周辺国家に脅威を与えていると報道していましたが、脅威を感ずるのは誰なのでしょうか。
私自身は、軍備の銃先は他国にではなく、自国民に向けられていると思っていますので、中国の軍備には全く脅威など感じません。
むしろ自国、つまり日本の軍備強化にこそ脅威を感じます。

おかしな話ですが、一番脅威を感じているのは、軍備増強している当事者かもしれません。
いつ攻められるかもしれないから軍事力を増強しようという意識が、根底にはあるはずです。
守るだけではなく、攻めるために軍備増強するのではないかと思いがちですが、なぜ攻めるのかといえば、おそらく「こわい」から攻めることが多いでしょう。
つまり結局は守るためなのです。
攻撃は防衛の手段でしかありません。
ですから、戦争はいつも自衛戦争なのです。
自衛のための侵略戦争なのです。

攻撃的な人は、多くの場合、どこかに弱さを持っています。
悪いことをしている人は常におびえていますし、自信のない人は虚栄をはりがちです。
強い人は攻撃的になどなる必要はありません。
こうした個人事情は、国家においてもたぶん成り立ちます。

ところで、中国の軍備増強を報ずるニュースの後、NHKのクローズアップ現代では、職場に蔓延する同僚間のいじめを取り上げていました。
それをみていて、その2つは結局同じ問題なのだと気づきました。
世界平和と個人同士のいじめ。
それらは全く同じ問題だと考えると見方が変わってきます。
いじめもまた、その矛先は決して相手にではなく、自らに向けられているのです。
そして、そうなる原因は、個人にあるのではなく、仕組みにあるのです。

国家の仕組みも、最近の私たちの生き方も、どこか間違っているのではないか、
最近、そう思うことが本当に多くなりました。
直せるところから少しずつ直していきたいと思いますが、生き方の仕組みを変えるのは簡単ではありません。

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2008/01/17

■もったいない文化の基本にある「いのちへの愛」

昨日の続きです。

岩田さんは木の話もしています。
木は土とつながっていてこそ木だというのです。
この机は木でできていると日本では言いますが、
英語ではその場合の木は、 tree ではなく、wood だというのです。
日本でも「木材」という言葉はありますが、普通は「木材でできた机」とは言いません。

法隆寺の宮大工だった西岡さんは、木材は1000年以上生きつづけていると言いました。
机の木もまた生きつづけている、そういう文化が日本にはありました。
机にも生命が宿っていたわけです。
ですからそう簡単には廃棄できませんでした。

「もったいない」という言葉は、そもそも仏教用語ですが、
「勿体(もったい)」は本来あるべき姿、つまり本来の価値だそうです。
本来の価値が活かされていないことが「もったいない」と言うことになります。
本来の価値とは、そのものの「いのち」です。

土から離れてなお生きている木。
そのいのちを守っているのは、それを活かしている人間です。
人間は、さまざまないのちを輝かす力を与えられた存在ではないかという気がします。
そのことは、同時に、さまざまないのちを奪う力を与えられたことでもあります。
与奪はコインの表裏ですから。

それぞれのもつ「いのち(価値)」を輝かす文化。
それがたぶん「もったいない」という文化の本質のような気がします。

最近、世界的に「もったいない」発想が広がり、「MOTTAINAI」は英語にもなりました。
とてもうれしいことですが、その基本にある「いのち」への愛こそが大切です。
それがなければ、環境問題も平和も、それこそが意味のないものになってしまうような気がします。
昨今の環境や平和への取り組みは、どうも「いのちを奪う」発想があるような気がしてなりません。

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■節子への挽歌137:いいことは忘れてしまい、悔いは、月日がたつほど深くなる

節子 寒い日が続いています。
そちらには寒さ暑さはありますか。
それともそうしたことからは解放されているのですか。

昨日、電車の中で涙が出てしまいました。
「軍縮問題資料」という雑誌(節子も時々読んでいた雑誌です)の『ヒバクシャの「心の傷」は死ぬまで癒えない』という、被爆者の関千枝子さんの文章を読んだからです。
関さんは、あの日、病気で学校を休んだために生き残ったのですが、
ずっと「生き残りは何をなすべきか」を考えつづけてきたそうです。
そして、被爆40年目に、総ての級友の記録をまとめた『広島第二県女二年西組』を出版したのです。
もう20年以上前の話です。
その本のことを中心に「心の傷」の話を書いています。

節子にもぜひ読んでほしい小文ですが、私が涙が出てしまったのは、次の文章でした。

不思議なことに自分のした「いいこと」は忘れてしまうようである。
悔いはいつまでもまといつき、フラッシュバッグしてまた帰ってくる。
それに続けて、親友だった友人に対する悔いが語られていますが、それが極めて生々しく、今の私の心情に深く突き刺さるのです。
関さんはこう書いています。
当事者でない人には、なぜこんなことに私がこだわるのか、分からないかもしれない。しかし、あの無残なありさまで死んだ被爆者に、大事な友でありながら何一つ役に立つことができなかった自分。悔いは深い。そして、この悔いは、月日がたつほど深くなる。薄れることがない。
そこで不覚にも耐えられずに涙をこぼしてしまったのです。

被爆者の心の傷と私の心の傷を一緒にしてしまうのは間違いかもしれません。
しかし、この小論を読んでいて、何やら自分のことのような気がしてしまい、涙が出てしまったのです。
節子は決して無残なありさまで死んでいったわけではありません。
しかし、私には「無残さ」が残ってきています。
自分の家で、家族に看取られて幸せでしたねと言ってくださる人がいますが(昨日も献花に来てくださったTさんがそうお話しされました)、
日がたって私の脳裏で育っているのは、不条理な「無残さ」なのです。
そういってしまうと節子が浮かばれないような気がして、今も躊躇しながら書いているのですが、
関さんが書いているように、いいことは忘れてしまい、悔いは、月日がたつほど深くなるのです。
この辛さは、たぶん当事者でないと分からないでしょう。

私はこれまで、被爆者や薬害肝炎患者や拉致家族のみなさんの「心の傷」を、
全くといっていいほど理解できていなかったことに気づきました。

「心の傷」はやっかいなものです。
昨今の家族内の不幸な事件もまた、そうした心の傷とつながっているのかもしれません。
関さんの文章は涙だけではなく、私にたくさんの気づきも与えてくれました。
そうしたことを話し合えた節子がいないのが無性に寂しいです。
それで今日は、ブログに長々と書いてしまいました。
節子、話を聴いてくれてありがとう。


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2008/01/15

■「バレンボイム氏にパレスチナ市民権」

今日の朝日新聞の夕刊に、「バレンボイム氏にパレスチナ市民権」と言う記事が出ていました。

バレンボイムはイスラエル国籍のユダヤ人で、
アラブ人とイスラエル人の混成オーケストラを結成し、
危険を冒して実現した、感動的なラマラのコンサートが有名です。
その時の選曲が、ヒトラーが愛好したワグナーの作品だったことも話題でした。
私はエジプト在住の中野さんから教えてもらいました。
以前、このブログでも紹介しましたが、その記録のDVDは何回観ても涙が出ます。

そのバレンボイムが、パレスチナ自治政府から名誉の「市民権」が贈られたのです。
バレンボイムは、

「イスラエルとパレスチナの人々の運命はつながっている。
私が市民権を得られるのは、共存が可能だということを示している」
と述べたそうですが、とてもうれしいニュースです。
イラクもアフガンも、パレスチナも、いやなニュースが続いていますが、こうしたニュースもあるのです。

平和は戦いからは生まれません。
時に闘うことは必要でしょうが、武力で平和は得られないでしょう。
テロ特措法の呪縛から抜け出ることが必要だとつくづく思います。
パレスチナ市民権という仕組みも、問題がないわけではないでしょうが、
カントが提唱したように、みんなが世界市民意識を持てば、
国家間の戦争の呪縛から抜け出せるかもしれません。

久しぶりにうれしいニュースに出会えました。
音楽は武力に勝るパワーを持っていますね。

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2008/01/14

■節子への挽歌134:節子 新テロ特措法が成立してしまいました

節子
今日は反省です。

テレビの報道特集番組で、新テロ特措法の話がよく取り上げられています。
腹立たしさを超えて、虚しさというか哀しさがこみ上げてきますが、昨夜ベッドに入ってから、7年前にテロ特措法反対のデモに節子と一緒に参加したのを思い出しました。
節子は初めてのデモでしたが、その後も、ピースウォークに一緒に参加しましたね。
節子は政治への関心は高かったですね。
私の影響だと思いますが、私よりも過激なところもありました。
きっと女性の勘なのでしょうね。

テロ特措法が成立したのは2001年でした。
私たちが参加したデモは市民団体主催でしたが、労働組合関係者が多くて、いささかうんざりしたのを覚えています。
その後、娘に誘われて2人で参加したピースウォークは明るくてホッとしました。
今でも我が家の玄関には、その時のバッジが置かれています。

ピースウォークで一緒に歩いた千葉大学の小林正弥さんは著書「非戦の哲学」で、「2001年のテロ特措法によって、日本政府はルビコンを渡り出した」と書いています。
全く同感です。
以来、小泉さんによって日本の国政は踏みにじられ、軍事国家への道を一直線です。
ささやかではありますが、そうした動きに抗議の声をあげたことは自己満足でしかないとしても心が少しやすまります。
あなたはどうだったでしょうか。

もしかしたら新テロ特措法は廃案になると期待していたのに、成立してしまいました。
節子はきっと怒っているでしょうね、
まあ、自民党も民主党も好戦的な人たちが多いですから、いずれにしろ9条憲法は危機にさらされ続けるでしょうが、ルビコンを渡った後の歴史を反転させることはできるのでしょうか。
小林さんたちは、がんばっています。
私はその活動から完全に脱落してしまいましたが、節子がいないいま、もうどうでもいいかという気になっていました。
正直に言えば、あなたがいなくなった直後、隕石が衝突して地球が破壊されてしまったらいいのにとさえ思ったことがあります。
それほど節子のいない世界は、私には哀しい世界で、いっそすべてなくなったら節子も浮かばれるだろうなと不条理でおぞましい考えさえ抱いたことがあります。
罪深い話です。

戦争に向けて日本はまた一歩進んでしまいましたが、諦めてはいけない。
諦めることは戦争に荷担することになるでしょう。
節子と一緒にデモに参加したことを思い出して、自分の退嬰的な考えを反省しました。
平和に向けてやれることはたくさんある
昔書いた私のホームページの記事を読み直しました。
節子のおかげで、また活動に取り組むことができそうです。
ありがとう。

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2008/01/02

■グラディオ作戦

このブログへのトラックバックで、「グラディオ作戦」なるものを知りました。
9.11事件に関連して、盛んに出回っている言葉のようですが、知りませんでした。

グラディオ作戦(Operation Gladio)をネットで調べてみてもよくわからないのですが、
あるサイトによると、
西欧の謀略機関が操る、自国民に向けたテロリズムとペテンという何十年も続いている秘密作戦なのだそうです。
その本質は、次の言葉に象徴されているといいます。

「民間人を、人々を、女性を、子供を、無辜の人々を、あらゆる政治的ゲームとは縁もない、名も無き人々を攻撃しなければならない。理由はきわめて単純だ。一般大衆を、より大いなる安全を求めて、国家を頼らせるようにする為だ」
これはトラックバックされたサイトの記事です。
イラクに関連させて書いているサイトもありますし、テロ謀略史としてまとめたサイトもあります。

ところが、週刊金曜日のサイトの金曜アンテナ(2007年12月21日)に次のような内容の記事があります。原文はぜひそのサイトを見てください。
http://www.kinyobi.co.jp/pages/vol683/antena

イタリアのコシガ元大統領が、「9・11」事件は「米国政府の内部犯行だ」と発言し、注目を集めている。
コシガ元大統領は1992年に辞職をしたが、きっかけは当時のアンドレオッティ首相が、
米国とNATOが操っていた謀略活動「グラディオ作戦」の存在を暴露したため。
この作戦は80年に起きたボローニア駅爆破事件を典型として「極左テロ」に見せかけながら、
米CIAなどの諜報機関がイタリアの右翼集団を使い、
反共の「強力な指導者」を国民が求めるようにし向けるための秘密工作で、
それに自身も関与した事実を認めての辞任だった。

グラディオ作戦という名前はともかく、こうした謀略活動は歴史の中にはたくさんあります。
事件発生当時には信じられないことなのでしょうが、後から考えれば極めて納得できるのです。

なぜそれが見えないかといえば、それは、そんなことはありえない、という思考の呪縛のためです。
9.11事件は、その典型例かもしれません。
昨年末のブット元首相の暗殺事件も奇妙な事実がいろいろと見え出してきていますが、
こうした事件は私たちの周りにたくさんあるのかもしれません。

それは何も、暗殺事件やテロ事件に限るわけではありません。
もっと広範囲に、グラディオ(剣)の刃先は向けられているのです。
強いものに巻かれる生き方から、今年はもっともっと自由になろうと思っています。

ちなみに、最近のテレビ番組の状況も、もしかしたらこうしたことと無縁ではないかもしれません。

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2007/12/28

■暗殺の対象者は異議申し立て者が多いような気がします

パキスタンのブット元首相が暗殺されました。なぜ殺し合いがなくならないのか。
殺害された人の無念さはよくわかりますが、
殺害するしか解決の手段が見つからない状況に追いやられた人の思いにも哀しさを感じます。
かけがえのない伴侶を病気で失った私には、生命を軽んじる人には憤りを感じますが、
社会そのものが生命をおろそかにしてしまっているのでしょうね。
寛容さが失われてきているのです。
とても哀しい風潮です。

しかし、最近の暗殺対象者の多くは、権力の中心にいる人ではなく、
むしろ権力に対して異議申し立てをしている人です。
今回のブットもそうですし、リトビネンコもそうでした。
最近、そのことがずっと気になっています。
異議申し立て者のいない社会や組織は長続きはしないでしょう。
しかし最近の世界は、異議申し立て者に寛容ではなくなりました。

異議申し立てが世界に輝きを与えていた1960年代が懐かしいです。

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2007/12/15

■佐世保銃乱射事件を契機にすべての銃器の破棄を考えたらどうでしょうか

佐世保のスポーツクラブでの銃乱射事件は2人の死亡者を出してしまいました。
最近、こうした銃を使った事件がまた増えているようです。
ニュース報道を見ていると銃社会といわれるアメリカに近づいているのではないかと思えるほどです。
いつも思うのですが、なぜこの時代に許可制とはいえ、銃の所有が認められているのでしょうか。
そのこと自体に私は大きな疑問を持っています。
もちろん警察官の銃所有も含めてです。

私の友人に猟友会の人がいます。
その人はとても信頼できる良い人なのですが、彼が猟銃を撃っている姿は想像したくもありません。
そのことを知ってから、彼へのイメージが一変してしまい、距離が出来てしまいました。
猟銃も認めるべきではないと思っています。
野生の動物が増殖しすぎて、被害が出ている時にどうするか、という問題がありますが、銃を使わなくとも解決策はあると思います。
言い換えれば、安直に殺傷する銃手段を認めることが、結局は銃乱射事件を起こし、原爆につながっていくというというのが私の発想です。
社会を形成していく上での基本原理につながっている話です。
ブログでは極めて短絡にしか書けませんが、紙面と時間があれば、論理的につなげられる話です。

銃の許可制度の見直しも進んでいるようですが、問題は簡単で、豊臣秀吉がやったように刀狩をやればいい話です。
つまり銃器類は一切破棄すればいいのです。
その覚悟がなくて、平和などは主張すべきではありません。
人を殺傷したくないのであれば、極めて残念なことではありますが、自らが殺傷されることのリスクは背負うべきでしょう。
その覚悟のもつパワーは、ガンジーが教えてくれています。

それにしても、散弾銃の私的所有が認められていることを知って驚きました。
所有を認めておいて、事件が起きないはずがありません。
事件が適度に起きることが権力維持には効果的ですから、あえてそうしているのかもしれませんが、時代状況や人々の意識は50年まえとは全く変ってきています。
そうした変化を踏まえて、今こそ、社会からまず銃器を廃棄することを考えるべきだと思います。
そうすれば、新しい社会構成原理の発見に気づくはずです。
新しい平和安全体制が見えてくるでしょう。
これは今バリで議論されている地球環境問題にも深く繋がっていきます。

また長くなりそうなので、やめます。はい。
ところで、あなたがもし銃を手に入れたら、撃ちたくなると思いませんか。
私はきっと撃ちたくなります。
その標的の具体的な名前をあげられそうです。
ですから銃を持つことはないでしょう。

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2007/11/27

■「戦争から学ぶことなどない」というオシムの見識

昨日の朝日新聞の天声人語の記事です。

サッカー日本代表のオシム監督は、祖国ユーゴスラビアの解体や、ボスニア内戦といった辛酸をなめてきた。それゆえだろうか。口をつく言葉は奥が深い。民族の悲劇が、名将の人生に、深々とした陰影を刻んでいるように見える。動じない精神力と、異文化への広い心が持ち味である。それを戦争体験から学んだのかと聞かれ、「(影響は)受けていないと言った方がいい」と答えたそうだ。「そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が…」(木村元彦『オシムの言葉』)
最後の発言に感動しました。
私はサッカーには全くと言っていいほど興味はありませんし、オシム監督についてもほとんど何も知りません。
しかし、この言葉はすごいと思いました。心から共感します。
オシムのサッカーを見ていなかったことを悔やむほどです。

企業経営も政治も戦争用語が頻繁に出てきます。
私にはとても違和感があります。
「戦争論」で有名なクラウゼヴィッツは「戦争とは政治の延長である」と述べていますし、フーコーは「政治とは別の形での戦争の継続」だと述べています。
ですから、政治の世界では当然のことかもしれません。
また経済の世界も、現代の経済は、まさに競争原理に支配されていますから、そこでも戦争と同じ活動が展開されているのかもしれません。
政治も経済も、いまやすべてが戦争の変形でしかないのかもしれません。
ですからみんな戦争から学びたがるのでしょう。
しかし、戦争から学ぶことがあるとすれば、オシム監督が言うように、戦争が存在価値を持ってしまうことになります。

そろそろ「戦争」から学んだり、戦争の知恵を政治や経済に応用したりするのは考え直すべきではないかと思います。
10年ほど前に私が翻訳した「オープンブックマネジメント」という本がありますが、そのあとがきの解説で戦争からゲームへとモデルを変えることを提唱しました。
もっと創造的なゲームへと発想を変えていけば、世界はきっと変わっていくでしょう。

フーコーも「真理のゲーム」ということを提唱しています。
「戦争」パラダイムから「ゲーム」パラダイムに生き方を変えるだけでも、人生は変わってくるかもしれません。
私は若い頃は、まさに「ゲーム」パラダイムで生きてきたのですが、いつの間にか「戦争」パラダイムの影響を受けてしまっているように、最近感じています。
このブログは、フーコー流のゲーム発想を大切にしているつもりなのですが。

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2007/11/26

■パグウォッシュ会議と科学技術のシビリアン・コントロール

今朝の朝日新聞の「ひと」欄に、鈴木達治郎さんの紹介がされていました。
科学技術政策、とりわけ原子力分野で活躍している鈴木さんの発言は私のような素人にも伝わってくるものがあり、名前だけは覚えていました。
記事によると、鈴木さんはパグウォッシュ会議の評議員に選ばれたのだそうです。

パグウォッシュ会議。
実は先週、友人たちとやっている「技術と暮らしを考えるサロン」で話題になった会議です。
話題といっても、私が少し言及しただけですが。
パグウォッシュ会議は1995年にノーベル平和賞をもらいましたから、ご存知の方もいるでしょうが、最近はあまり話題にはなりません。
原子力の平和利用と核兵器廃絶を訴える科学者を中心とした会議体です。
核兵器開発が進むことを危惧した、バートランド・ラッセルとアインシュタインが中心になって、世界に呼びかけた「ラッセル・アインシュタイン宣言」に始まったものですが、今でも毎年、世界各地で大会が開催されています。

私が科学技術のあり方に興味を持ち始めたのは、このパグウォッシュ会議と遺伝子工学に関するアシロマ会議です。
アシロマ会議は遺伝子を扱う生物学の倫理問題を議論した、最初の国際会議だと記憶していますが、その2つの動きがどこかで繋がっていることを感じていました。
自分たちが開発に関わった原子力という科学技術が原爆に応用されたことが、パグウォッシュ会議の根底にあると思いますが、同じことを繰り返したくないという分子生物学者の思いをそこに感ずるのです。
そうしたことから、科学技術と人間生活の関係が私の関心事の一つになり、会社を辞めた後、この問題に取り組みたいと思ったこともありましたが、残念ながら力不足で実現できませんでした。

原子力問題はいまこの時代を生きるすべての人にとって、その暮らしに深く繋がっている問題であるにもかかわらず、その情報は相変わらず専門家にしか開かれておらず、多様な眼にはふれていません。
もっと開かれた場での、事実に基づく議論が不可欠だと思うのですが、そうした状況は生まれていません。
とても残念です。
しかも、20年前に比べても、そうした議論はむしろ閉じこもりがちなような気もします。
コンセンサス会議なども思ったほどには広がりません。

軍事力のシビリアン・コントロールがいま話題のなっていますが、科学技術のシビリアン・コントロールも私たちにとって重要な課題ではないかと思います。
そんな問題意識もあって、いま友人たちと「技術と暮らしを考えるサロン」をやっていますが、関心のある方がいたらぜひご連絡ください。
テクノロジー・ガバナンスは軍事力のシビリアン・コントロールにも深くつながっている問題です。

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■節子への挽歌83:ストイックな秋、平和につながる生き方

今年の秋は紅葉が美しかったのでしょうか。
私は一度も紅葉を見ませんでした。
紅葉が好きだった節子と一緒でなければ見ても悲しくなるだけだからです。
節子は紅葉とか桜が好きでしたから、紅葉はテレビですら見られないのです。
来年の春も桜を見る気にはならないでしょう。

節子がいなくなってから、私の生活はとてもストイックになりました。
私だけが楽しいことを体験することには何となく「罪の意識」を感ずるのです。
いや、「罪の意識」というよりは一緒に体験できない節子の不憫さが頭をよぎってしまうのです。それは同時に、愛する伴侶と世界を共有できないでいる自らの不憫さを味わいたくないからでもあります。
楽しいことが辛いことになるという、見事な価値転換が起こってしまうのです。
ですからできるだけ身を縮めて、ストイックな生き方に心がけているわけです。
それは決して残念なことでもなく、むしろそこにこそ節子と世界を共有しているという幸せを感じられるのです。
価値転換がここでも見事に働くわけです。

喪にふくすとは、こういうことかもしれません。
発想を膨らますのが好きな私としては、これこそが平和につながる生き方ではないかという気にまでなりそうです。
しかし、宮沢賢治がいうように、世界にあるたくさんの不幸を考えれば、ストイックに生きることこそ正しい生き方のようにも思います。

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2007/11/25

■「暗殺 リトビネンコ事件」

一昨日は、昨年暗殺された元FSB(旧KGB)将校、リトビネンコの一周忌でした。
東京では、チェチェン連絡会議主催の「追悼集会」が開かれました。
昨年のアンナ・ポリトコフスカヤさんの追悼集会にも参加できなかったのですが、今回も参加できませんでした。

昨日、日本テレビの「ウェーク」で、チェチェンの特集をしていました。
来年公開される映画「暗殺 リトビネンコ事件」の一部が紹介されていました。
そこには暗殺される前のポリトコフスカヤさんも出てきます。
彼女はこう発言しています。
「衝撃の事実よ、あの悲惨なテロがヤラセだったのに、政府も平気な顔よ」

チェチェンの事件は衝撃的でしたが、その真実を知ることはさらに衝撃的です。
この映画がすべて真実かどうかはわかりませんが、かなりの真実さがあるようです。
番組の中で、どなたかがまるで映画の世界だというような話をしていましたが、
実際には映画の世界は常に現実の後追いなのかもしれません。
それが私たちには見えないだけです。
国家は国民を守る、国家は正義、国家に対する暴力はテロ。
そういった国家が創りあげてきた概念に、私たちは呪縛されています。
いや、そうした概念を定着させることで、国民国家は成立しているといってもいいでしょう。
国民の主体性は国家によって形成され、正当化されてきているのですから。

ロシアはまたスターリンの時代に戻っているようです。
国民国家というのは管理体制を強化する方向性を内在していますし、
いわば正当化された暴力を自由に駆使して国民を統治する存在です。
とりわけロシアのような大国においては、中途半端ではない暴力装置が必要になってくるでしょう。

しかしチェチェン事件の顛末はあまりに疑惑が多すぎます。
国家への恐怖心が拭いきれません。
これはなにもロシアに特別な話ではありません。
中国でもミャンマーでもブータンでもイスラエルでも北朝鮮でもアメリカでも同じなのではないかと思います。
もちろん日本でも、です。
程度の差はあるでしょうが、それは私には瑣末な話にしか思えません。

国民国家はもはや役割を終えて、新しい世界の枠組みが生まれだしているという考えは少なくないですし、
たぶんそうだとは思うのですが、しかし今を生きる私たちは国家から自由になることは出来ません。
せめて可能な範囲で、国家権力あるいは政府の言動を注視し、
たとえ見えにくいものであろうとも見ようとする姿勢が不可欠だと思います。
もちろん、政権の透明性の向上やガバナンスの仕組みも大切ですが、
国民一人ひとりが政府の言動を見据えていくことが一番大事です。
それにしても、日本の昨今の政権与党政治家の言動は、あまりにも不透明です。
その不透明さを糾弾し明らかにしていく役割を持っている野党の政治家やジャーナリストの姿勢にも、どうも及び腰さを感じます。
国家権力の前には、だれもが萎縮してしまうのでしょうか。

日本ではまだ、ポリトコフスカヤ事件やリトビネンコ事件は起こってはいませんが、
起こってもおかしくないような状況が忍び寄ってきているような恐怖を感じます。
ロシアの事件ではありますが、同時にこれはグローバル化した世界の現代の事件です。
その意味で、私たちも決して無縁ではないのです。
チェチェンの教訓を肝に銘じておきたいと思います。
コラテラル・ダメッジを正当化できる国家権力はここまでできるのです。
私には、この事件が薬害肝炎事件に重ねて見えてきてなりません。

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2007/11/12

■「国防は最大の福祉」

私の平和活動は、大きな福祉を目指す活動です。
その一つが、コムケア活動であり、共創のまちづくりです。
いまはちょっと活動を中断していますが、みんなが快適に暮らせる社会の向けての行為こそが、平和の活動だと考えています。
私が行動する時にいつも意識しているのは、
「大きな福祉」と「共創(一緒に創りだす、つながりの関係)」です。

先日、テレビである若手政治家が「国防は最大の福祉」と話していました。
私はこうした発想には思いもいたりませんでした。
ネットで調べたら、民主党の西村慎吾議員のホームページが出てきました。
国防なくして福祉なし、と主張されていました。
こうした主張はかなり多いのですね。
いや、もしかしたら福祉国家論の議論から始まっている、「常識」なのかもしれません。
私が知らなかっただけかもしれません。

フーコーに始まる<生政治学>の視点で考えれば、警察国家も福祉国家も同じものです。
いずれも、「生」を守ることで権力の基盤を強めていきます。
そこで掲げられるのは、「安全で安心な社会」です。
その視点で考えれば「国防は最大の福祉」かもしれません。
但し、それを支える仕組みはブラックボックスに置かれ、
さらに国民の自己管理、自己監視が基本に置かれます。

それでは「福祉は最大の国防」といえるでしょうか。
私は「福祉は平和につながる」と考えていますが、
「福祉は最大の国防」という言葉には大きな違和感があります。
いや、そもそも「平和」と「国防」が結びつきません。

おそらく、「福祉」や「安心・安全」の意味が違うのです。
世の中には、2種類の「福祉」や「安心・安全」があるということです。
私は、国防によってもたらされる福祉には関心がありません。
どうも私が目指しているのは、そうした福祉とは正反対の福祉のような気がします。
まずは、「国防は最大の福祉」という呪縛から解放される必要があります。
人道支援の名の下に、住民の生活を壊すようなことが行われてはなりません。
国防と人道支援とは次元の違う話です。
同じように、国防と福祉も次元が違うのではないかと言う気がします。

実は、私がこの言葉をテレビで聴いたのは、民主党の原口議員からです。
私にはとても共感できる発言の多い原口議員にして、やはりそうした発想なのかと、
いささか気になりますので、もう少し考えてみたいとは思っていますが。

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2007/10/29

■テロ特措法と守屋事件とは別物なのか

守屋前次官の国会召喚を終わって、政府はこれで一区切りつけようとしています。
まさに「手続きの時代」の発想です。
町村官房長官は、テロ特措法と防衛省の問題は別だと明言しましたが、
法案に基づいて実際の行動を起こすのは防衛省です。
両者は決して切り離せる問題ではないと思います。
たとえが悪いですが、犯罪者に凶器になるものを与えるということになりかねません。
それにしても、なぜこれほどの大問題を政府は真剣に正そうとしないのでしょうか。
それは自らが仲間であるからではないか、と勘ぐりたくなります。
守屋前次官の犯罪は厳罰に処されるべきですが、しかし事の本質はそこにはないように思います。
もっと大きな犯罪が見え隠れしているように思いますが、
それを議論しているのはみんな同じ世界の人たちなのかもしれません。
この分野にも枡添さんのような部外者が入ってこなければだめなのかもしれません。

喚問での守屋発言で、防衛大臣経験者も関係していることが明らかになりました。
食事を共にした人の名前も明らかにしなかったことで、それは明らかになったといっていいでしょう。
つまり守屋事件は政治家が一体となった犯罪の可能性があります。
日本の軍事費は世界で5番目に多いそうです。
ちなみに、1995年から2003年まではアメリカについで2番目でした。
憲法9条があり、軍隊もない日本の軍事費がなぜこれほど大きいのか。
これも納得しにくい話です。

喚問前には、守屋前次官は疑惑を否定していましたが、
それが全くの虚偽であったこともまた明確になりました。
つまり彼は「悪質な大嘘つき」だったわけです。
しかも取材に対して、「殴るぞ、お前!」などと暴力的な発言をしている画面をみるとやりきれなくなります。
暴力団に武器を与えるような事はしたくないと、つい思ってしまいました。

よくまあ、こんな大嘘をつけるものだと小心者の私は思いますが、
今や日本は嘘が奨励される社会ですから、仕方ないのかもしれません。
その嘘を奨励する社会に舵をきった小泉元首相と守屋前次官は活躍時期が重なっているというのも納得できます。
類は類を呼ぶものです。

本論から離れてしまいました。
テロ特措法よりも守屋事件の方が重要であること、そしてその解明がない限り、新たな軍事法案は議論しても意味がないということを書きたかったのです。
冗長ですみません。

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2007/10/23

■ユンゲの懺悔

今月号の「軍縮問題資料」(2007年11月号)はぜひ多くの人たちに読んでほしい記事が満載です。
以前も何回か書きましたが、この雑誌の講読をお薦めします。

共感した記事の一つは、折原利男さんという高校の先生が書いた「教育はどうあるべきか」です。
そこに、2004年に制作されたドイツ映画「ヒトラー 最後の12日間」の話が出てきます。
たまたまこの映画は、一昨日、BSで放映されていたので、ご覧になった方もいるかもしれません。ヒトラーの秘書だったユンゲの回想録に基づいて制作された映画です。
その映画に言及して、折原さんはこう書いています。

この映画でくつきりと心に刻まれるヒトラーの言葉がある。破壊されていく首都ベルリンと、無残に殺されていく無数の市民について、彼は「(国民が)自ら選んだ運命だ。自業自得だ」と語るのだ。つまり、自分たちに国を委ねたのは国民であり、その国民自らが招いた報いだと言うのだ。そこにはヒトラーの冷酷さと責任逃れがあるというだけでは片づけられない、国民の責任というものが凝縮されて提示されている。「ヒトラーなるもの」を生み出したのは、紛れもなくドイツ国民自身なのだった。
映画の中では訪ねてきたシュペアーに向けて話された言葉になっています。シュペアーについては、以前、2回ほど書いたことがありますが、ヒトラーに信頼されていた人物です。

ユンゲ(本人が映画の最初と最後に登場します)は、ある時まではナチスのユダヤ人虐殺は自分とは無縁のことだったと思っていたそうですが、ある時にそうではなかったことに気づきます。
それは同じ歳のユダヤ人女性が、ユンゲが秘書になった、まさにその年に処刑されていたことを知ったからです。
その気になれば、ナチスのやっていたことはわかったはずだったと気づくのです。
そして、こう語ります。
「怪物の正体を知らなかった自分を今も許せない」
「若さは無知の言い訳にはならない」
ユンゲの懺悔は、彼女の人生をどれほど重いものにしてしまったことでしょう。

この話を紹介した後、折原さんは続けてこう書いています。

憲法改正をはじめとして、すべてはわれわれ国民の判断と選択にかかっていて、結局は国民の責任なのだということを再確認する必要があるだろう。ヒトラーの言葉のように、われわれ市民の自業自得としてはならないのだ。また、最悪の結果を招いてから、若者にユンゲのような懺悔をさせてはならないと思う。そのような意味でも、教育の責任は大きいと言えるだろう。
その教育が、国家によって壊され続けています。
新教育基本法の制定は、安倍政権の成果という人たちにはぜひこの映画を観てほしいと思います。
戦後レジームからの脱却とは、ナチスが目指した道につながることだと思いますが、どれだけのユンゲがこれから生まれてくるのか心配です。
学校教育はますます壊されていく気がします。

日本はもう角を曲がってしまったのかもしれません。
まあすべては自業自得なのですが。

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2007/10/21

■戦争と犯罪はつながっています

赤福事件やサブプライム問題など、気になることが多いのですが、
犯罪に関することをもう1回だけ続けます。

戦争と犯罪はどう違うのか。
戦争は外部関係であり、犯罪は内部関係の話です。
その点を除けば同じものではないかと私は思っています。
そしてグローバル化された世界においては、戦争と犯罪を区別できなくなってきます。

ネグリが「マルチチュード」で語っているように、
帝国主義の時代には国家間のぶつかりあいが戦争として現出しましたが、
国境がなくなったグローバルな世界では内戦とテロが現実の形になってきます。
それらは似て非なるものですが、
そこの認識の食い違いからイラクやアフガンの混乱は生じているように思います。いずれもベトナムの再来です。

日本の防衛戦略には、そうした整理が欠落しているように思います。
基本にあるのは古色蒼然とした国家論です。
語っているのは、その国家に寄生している人たちです。
ですから防衛省の事務次官(当時)の犯罪は驚くに値しません。
少し言いすぎかもしれませんが、戦争を管理する国家と犯罪は深く繋がっています。
同じことが、警察(検察や弁護士も)と犯罪の関係でも成り立ちます。
犯罪があればこそ、警察は存在意義を持ち、戦争があればこそ国家は存在意義を持ちます。

新しい暴力の対立軸は、国家対国家ではなく、個人対個人、もしくは個人対制度です。
ここで「個人」とは「一人の人間」という意味ではなく、個人という主体性のつながりの上にある個人です。
ネグリの言葉をかりれば、マルチチュードです。
その構造に立脚すると、犯罪や暴力への対処の仕方が変わってきます。
飛躍した喩えですが、西洋医学と東洋医学の違いに似ているかもしれません。

さらに飛躍した話をすれば、問題解決のための仕組みは、
それ自体を無くすことを目的にしない限り、いつか問題発生の仕組みになっていきます。
産業のジレンマ」と同じように、「制度のジレンマ」は悩ましい問題です。

21世紀は、真心の時代になると期待していましたが、当分はまだ無理そうです。

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2007/09/29

■ミャンマーと格差社会:格差図式のフラクタルな展開

昨日、最後に「格差図式のフラクタルな展開」が問題だと書きました。
少し敷衍します。

現在の成長志向の資本主義経済の根底にあるパラダイムは「格差」です。
格差の上に、「商品」が成立し、「取引」や「市場」が成立します。
小泉前首相が「格差は活力の元」といいましたが、その言葉に象徴されるように、格差がなければいまの経済は成り立ちません。
そして成長とは、その格差を増大させることです。
格差社会といわれるようになったのは、社会の価値観が金銭的なものに画一化され、固定化されたためです。
もっと経済格差が大きかった時代もありますが、その時は他の社会価値観がたくさんなりましたし、何よりも「アメリカンドリーム神話」が生きていました。
さらにはセイフティネットという言葉など不要なほど、支え合う仕組みや家族関係、近隣社会が存在していました。

経済格差をもっと極端化したのが、北朝鮮やミャンマーです。
そこまで格差を顕現させると、よほどの暴力機構を用意しないと国民は支配できませんから、そこまでの格差は避けるのが効果的です。
もっとも、格差を隠す手段はたくさんあります。
ローマの「パンとサーカス」もそうですが、スポーツ選手やタレントなどの国民栄誉賞的な人気者の報酬を吊り上げるのも、その一策です。

ミャンマーの軍事政権は今回の失策で変化するでしょうが、それを支えているのは実はミャンマー国内の力だけではありません。
ミャンマーの国内的格差構造は、さらにその上位の国際世界につながっていきます。
よく言われるように、天然ガスに対する中国の利害関係を通して、格差構造の維持は国際的にも支えられているわけです。
その上に国連や世銀があることはいうまでもありません。

いつ破綻してもおかしくない北朝鮮の格差構造がこわれないのも同じことです。
イラクもまた本来の意味で、つまり人道的な意味で復興されては困るわけで、その意味で格差を隠すための不条理な対立図式が持続されているといってもいいでしょう。
イスラエルやパレスチナも同じですし、ブッシュの足元のアメリカにさえ、そうした格差構図は現存しています。
格差があればこそ、支配は容易になりますし、格差の増大もやりやすくなります。
そうした事例は、日本の歴史の中にも見られます。

経済格差という切り口から見ると、実はいまの社会は、格差が階層を成して、絡み合っているわけです。
複雑系の経済の議論の時によく話題になった「フラクタルな構造」がそれを巧みに支えているわけです。
フラクタル。全体と部分とが自己相似形になっているということです。
華厳でいえば「一即多・多即一」、清水博さん的にいえば、ホロニックです。
ですから、どこかの一角が壊れると全体に大きな影響を与えます。
したがって、よほどのことがなければ壊す動きは体制側(現レジーム)からは出てきません。
出てきても、体制に内在する現状維持のための動き(ホメオスタティス)に妨げられます。
そこを突き破ろうとすれば、「テロ」になるか、「テロ」にされるかのいずれかです。

理屈っぽい議論をしてしまいましたが、要は私たちの生活もまた、ミャンマーの今回の事件につながっているということです。
そうした世界の対極にあるのは、宮沢賢治の「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」世界です。そこでは「格差」の不在、あるいは多様な価値観による格差の相対化が社会の構成原理になります。
金銭の意味合いは全く変わり、世界の風景は一変するはずです。

ミャンマーの不幸な事件は決して他人事ではありません。

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2007/09/28

■テロ特措法とミャンマー軍事政権

ミャンマーの反政府デモはますます暴力的になり、死者が増えています。
この対立図式は、昨日書いたように、「やつら」と「大衆」に象徴されるような、権力と生活です。
テロ特措法の必要性が福田政権から「当然」のように語られます。
テロ特措法の根底にある構造図式もまた、「権力 vs 生活」のように思います。
短期的なテロと違って、これほどの長さと広がりを持つテロは、必ずその背景に「生活」があります。
パレスチナもアイルランドもそうでしょう。
生活を基盤にした反政府活動はテロと言えるでしょうか。
生活の基盤に立って考えれば、ミャンマーのデモ鎮圧こそ、テロ行為に感じられます。
同じように米国のイラク侵攻はテロ行為かもしれません。
テロは自爆や乱射のような直接的な暴力行為に限定されるわけではありません。
9.11事件の前の世界企業による生活の圧迫の手段はさまざまな形をとって行われたはずです。
追い詰められて僧侶が立ち上がった。
追い詰められて自爆者が立ち上がった。
共通点があります。
日本では年収200万円に満たない人が1000万人になりました。
テロ特措法の対象は、もしかしたら日本社会にも向けられているのかもしれません。

想像力が求められる時代です。
ミャンマーの軍事政権はまもなく崩壊するでしょうが、テロ特措法の発想は、ミャンマー軍事政権のやり方と同じだと私は思います。
テロなどという言葉で簡単に考えるべきことではありません。

格差図式のフラクタルな展開、ここに問題があるように思います。

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2007/09/27

■ミャンマーの僧侶デモ鎮圧事件とパリ5月革命

ミャンマーの僧侶のデモはついに死者を出すまでになってしまいました。不幸なことです。
そのテレビを見ていて思い出したのが、フランスのパリ5月革命(1968年)でのドゴールの発言です。

NHKで放映された「五木寛之 仏教への旅」の第3回目に、パリ5月革命の回顧場面がありました。
学生運動から始まり、労働者によるゼネストなど、大きな民主化運動として広がったパリ5月革命は、世界に大きな影響を与えましたが、当時、学生として運動に参加していた女性の発言が印象的でした。

デモ行進している私たちに対してドゴール大統領は、「やつらが公共の秩序を乱すことは許されない」と糾弾した。そこでデモに参加している学生や労働者たちは、「私たちは、『やつら』ではない。『大衆』だ」と叫びました。「ドゴールは、私たちのことを公共のゴミのようなものだと言ったのです」。

「やつら」と「大衆」。
現代の世界を鳥瞰して時代を展望する時に、大きな枠組みを示唆する象徴的な図式です。
ここでの「大衆」は、ネグりたちがいう「マルチチュード」と考えていいでしょう。

1960年代は、世界各地でマルチチュード意識が芽生えた時期でした。
日本ではまさに安倍首相の祖父の岸政権に対して、学生たちの日米安保闘争が盛り上がった時代です。私が大学に入った年に、樺美智子さんがデモで亡くなりました。
70年代にかけて、世界は大きく動き出しそうな気配がありましたが、結局は逆に大きな揺り戻しの中で、世界はますます「開発」され、文化の時代には向かわずに、経済の時代へと邁進したように思います。
そして、すべてが経済に絡めとられた時代になってしまいました。
政治も文化も、スポーツもアートも、教育も友情や愛情さえも。

支配者たちにとって「やつら」でしかない大衆が、そうした経済社会を支えるために駆り出されました。
そして、表情のあった個人たちは、経済秩序の構成要素に組み込まれました。
そうした視点からみれば、経済格差は「秩序」そのものなのです。

ミャンマーの今回の事件は、そうした大きな歴史の一つの象徴的事件です。
それは決してミャンマーだけの事件ではありません。
同じことが日本でもまさに進んでいます。
そうしたことにも気づかず、日本では「やつら」扱いされた賢い国民たちが秩序にしたがっていじましく生きています。
ミャンマーの事件から学ぶことはたくさんあります。

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2007/09/24

■日本の仏教界ができることはたくさんあります

ミャンマー(ビルマ)で、一部の僧侶らが軍事政権の「打倒」を掲げ、市民にデモへの参加を呼びかけ、2万人規模のデモが行われたとテレビで報道されました。

朝日新聞はこう報道しています。

この日は数千人の僧侶らが、昼過ぎからヤンゴンの中心部で行進を始めた。AFP通信によると、僧侶らが「これは市民のための行進だ」と呼びかけると、市民らが相次いで列に加わった。
軍事政権下のミャンマーでさえ(そうだからこそともいえますが)、仏教徒は社会に関わろうとしています。
日本の仏教界は何をしているのでしょうか。
自殺者が毎年3万人を超え、生命をないがしろにする不条理な事件が続発し、人々が支えあう生活の基盤が壊されている現実を、仏教界の人たちはどう考えているのでしょうか。
ミャンマーの僧侶たちのデモ、それを支援する人たちの映像を見て、日本の仏教界の動きが見えないことを改めて残念に思います。

日本の政治も経済界も、いまや生命をないがしろにし、支え合い生かし合うよりも、騙し合い利用し合う方向にあるように思います。
企業の業績がよくなるのと従業員や顧客が幸せになるのとは、むしろ反比例にあるのではないかと思うような状況も感じます。
経済は明らかに生命さえをも浪費し始めました。
政治もまた、国民の安寧や幸せのためにではなく、一部の人たちの利得と栄誉のためにしか動いていないようにも思います。
それを支えているのは、国民自身なのですが、その構図を見事に作り上げました。
今回の自民党総裁選ですら、その構図が見えてきます。
格差、下流社会、セーフティネットなどといった言葉が流行語になり、それが大人だけではなく、子どもたちの世界にまで陰湿な形でしみこんでいる社会を見ながら、彼らは何をしているのでしょうか。
日本の仏教界が、やれることはたくさんあります。
しかし、仏教界からは何のメッセージも出てきません。
恥ずかしくないのかと思うほど、無口です。
どうしてでしょうか。
10年ほど前に、吉野会議というのを、比叡山、高野山、大峯山などで修行してきた市川覚峯さんたちと一緒に構想したことがあります。
仏教界の良心と経済界の良心に呼びかけて、社会に問題提起するフォーラムでした。
少しスケールを大きく構想したために、プレイベントをしたところで、終わってしまいました。
いまこそそうしたことが必要な気もしますが、エネルギーはその時よりも無くなってしまっていますから、動き出せずにいます。

節子の前で毎日、般若心経を唱えながら、仏教の力を少しずつもらっていますが、こうした力を求めている人は少なくないでしょう。
自らを支える力を求めている人たちの力をつないで、支え合う仕組みをつくれば、新たな力が生み出されるはずです。
そうした仕組みを構想することが求められているように思います。
いま必要なのは、市場依存の自由主義でも、高い目線からの福祉制度でも、管理された形だけの平和でもなく、支え合う生活の知恵の仕組みではないかと思います。

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2007/08/27

■平和は輸出できません

昨日書いたテロ特措法に関して、アフガンとイラクは違うと言う議論があります。
国連との関係で言えば、確かに違います。
しかし、もっと大きな枠組みで言えば、同じ話です。

イラクでもアフガンでも相変わらず死者が続出しています。。
いずれの場合も、日本は国際平和や人道支援を理由に関わっています。
しかし本当に関わることが平和のためなのか。
いまではもう昔の話ですが、イバン・イリイチが日本で行った講演で、次のように述べていたことを思い出します。

ある文化から他の文化へ平和を輸出することは不可能である。もし輸出したならば、その独自の平和は枯れてしまう。したがって平和の輸出なるものが行われたとしたら、それは実際には戦争でしかない。(「暴力としての開発」『暴力と平和』1982所収)
平和に関する捉え方はいろいろありますが、平和とは本来、まじめに生きている人たちが自分たちの文化のなかで気持ち良く暮らし続けること、と考えていいでしょう。
そうした平和概念は、近代工業の勃興に伴い大きく変質しだすわけですが、1949年のトルーマン演説によって、加速的に変質しました。
経済成長志向に基づいた「開発」戦略が世界の主流になってしまうのです。

かつてキリスト教徒が宣教という侵略行為を行ったのと同じ発想で、資本主義経済が世界を「豊か」に「開発」しだしたのです。
そして、今や平和は開発によって達成されるという通念ができあがったとイリイチはいいます。
そうした平和を彼は「パックス・エコノミカ」と呼びますが、まさにそのパックス・エコノミカが古来の「民衆の平和」を壊してきたというのがイリイチの考えです。
この視点で、20世紀を振り返ると、まさに20世紀は「開発の世紀」であると同時に、「戦争の世紀」だったことの意味がよくわかります。
そして、そうした展望の中で、テロ対策やアフガンやイラクへの関わりを考えると、平和憲法を手に入れた日本の役割は、もう一つの選択があるのではないかと思われます。
「平和」という言葉は実に多義的な言葉なのです。
テロ特措法のもつ意味もまた、決して一義ではありません。

ちなみに、テロ特措法の延長と経済成長重視政策とは深くつながっているわけです。

イバン・イリイチの「暴力としての開発」は、ぜひ多くの人たちに読んでほしい論文です。
特に、いま「平和活動」に取り組んでいる人たちに、です。

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2007/08/26

■一兵卒政権としてテロ特別措置法

テロ特別措置法の延長に民主党の小沢代表が「ノー」と明言しました。
私は、この法律が議論になりだした時から、違憲立法であり、戦争を増長するものという判断で、反対でした。
それに「テロ」を対象にするという発想にもなじめませんでした。
テロは誰だという問題を明確にしないと恐ろしい法律に転化しかねないからです。
久しぶりに女房と一緒に反対のデモにも参加しました。
小泉クーデターによる軍事国家化につながる法律には賛成できません。
ニーメラーの教訓に学んでも、なかなかその教訓を活かすことは難しいです。

小沢代表が反対を言い出したときにはにわかには信じられませんでしたし、駆け引き的なものにも思えましたが、まあ素直に喜びました。
彼は、前原さんや岡田さんのような、戦争を知らない戦争好きな戦争ごっこ世代とは違いますから、もしかしたらなどとありえない期待までもしたくなりました。

まあ、それは夢なのかもしれませんが、この小沢民主党の行動に対する有識者やマスコミの論調には腹立たしさがあります。
たとえば、この法律を延長しないことは国際社会の一員としてはありえないなどという大学教授や政治家がいます。
最初、私は耳を疑いましたが、それはそれほど少数意見ではないようです。
どうしてそういうことになるのでしょうか。
歴史をもっと勉強してほしいものです。

さらに、この法律の延長を認めることが、政権担当能力があることの証だというような意味の発言もテレビで聞きました。
政権担当能力とはいったいなんのでしょうか。
アメリカのいいなりになって、世界の平和を壊す一員になる事が国際社会のメンバーシップの要件なのでしょうか。
そして、その切符を手に入れることが政権担当の資格要件なのでしょうか。
なにかやりきれませんね。

小池防衛相は、次の政権では防衛相を引き受けず、自民党の一兵卒としてがんばりたいと昨日述べました。
「一兵卒」。驚きの言葉が出てきました。
軍国主義政府の担い手を自認しているのでしょうが、恐ろしい言葉です。
ブッシュ政権の一兵卒政権の一翼を担っていることを象徴しているのでしょうか。

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2007/08/20

■膨大な声が抹殺されている現実

今この時にも、イラクやアフガンでは不条理にも市民が生命の危機にさらされ、時に三桁の数の市民が殺害されています。
それに比べれば、日本はなんと平和なことでしょう。
言い方が悪いかもしれませんが、熱中症に気をつけないといけないと心配するくらいで、ゲリラの被害や対テロ対策のコラテラル・ダメッジの対象になる心配などする必要もありません。
「たぶん」ですが。

しかし、そうした平和の風景の背後で、実はさまざまな怒りや不安の声が語られています。
ネットの世界で情報収集したり、情報交換したりしている人たちには、そうした「もうひとつの世界」が見えているはずです。
そこでの議論を読んでいると、日本も決して安泰ではないことに気づかされますし、日本とイラクとのつながりも感ずることができますが、そうした声はなかなか大きな流れになって、現実化するまでにはいきません。
言説の世界での元気な議論で終わっているのが多くの場合です。
まさに「もうひとつの世界」になってしまっているわけです。
とてもむなしい話です。やりきれない気分がします。

時に、そうした声の一部はマスコミに取り上げられたりすることもありますが、あまり表面にはでてきません。
新聞やテレビを情報源にしている人たちには、そうした声やそれに伴う動きは見えないかもしれませんが、ネット上やオフラインの場で語られる膨大な声が存在していることはもっと認識されてもいいように思います。
市民ジャーナリズムも広がっていますし、メーリングリストなどでの意見交換の広がりは加速してきていますし、そうした声が実際の行動に育っていくこともないわけではありません。その動きはこれからもっと大きくなっていくかもしれません。

しかし、残念ながら膨大な声のほとんどは抹殺されているのが現実です。
そこで語られていることの多くは、私にはとても共感できるものが多く、テレビなどで語られている瑣末なニュースよりも重要なことに思えます。
にもかかかわらず、瑣末な事件もマスコミが取り上げると大きな事件になり、私たちの目はそちらのほうに向きがちです。
そうした声を伝えるべきマスコミなどのジャーナリズムやジャーナリストが、逆にそうした声を見えなくしている現実も皮肉な話ですが、誰の視点からのジャーナリズムかによって、情報の価値評価は変わってくるので、それもまた仕方がありません。
ニュースは「存在」するのではなく、マスコミによって「創出」されることはいうまでもありません。
マスコミの見識は国民の幸せを決めていきます。

いずれにしろネット上で語られている膨大な声が、ばらばらに仲間内の内部発信に終わりがちなのがとても残念です。
同じようなイベントも少なくありません。
これだけのエネルギーが、現実の行動として結集し、顕在化したら、歴史は変わっていくように思えてなりません。

しかし多くのそうした声は、それを目指していないのかもしれないという気もします。
私もまた、最近はそんな気分になってきています。
どうしてでしょうか。

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2007/08/15

■不戦の誓いの出発点は憲法9条の堅持でしょう

62回目の終戦記念日です。
広島・長崎への原爆投下日は、おそらくだれもが意識し、意識させられますが、終戦記念日はあまり意識することもなく過ごしがちです。
知人が今日を「日本建国記念日」にしようという提案をメーリングリストで流してきましたが、今日が祝日になっていないのは確かに不思議です。
8月15日は、私たちの新しい歴史の出発点ですから、もっとしっかりと意識する仕組みがあっていいように思います。

今日の全国戦没者追悼式で、安部首相は「不戦の誓いを堅持」と表明したと報道されています。
この表現は、小泉前首相と同じものだそうですが、憲法9条を変えて戦争の世界に復帰しようということを実践している人が唱える「不戦の誓い」とは何なのか、私には理解しがたいことです。
言葉遊びはやめて、具体的に不戦への行動を起してほしいものです。
その出発点は、不戦を誓い、不戦の仕組みを明言した日本国憲法9条を堅持することの明言です。
そして、核の傘に守られるような国策の見直しです。
核の傘に守られながら、ノーモア広島を叫ぶことには大きな違和感があります。
その発想は、久間前防衛相の「しょうがない」発想と同じなのではないかと思います。
さらに、私自身は脱原子力発電もビジョンとして掲げるべきだと思います。
核兵器と原子力発電は、結局は同じものです。

戦争終結から62年。
「終戦記念日」をいつまで続けられるのか、不安です。

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■シビリアン・コントロールの歯止めの喪失-佐藤正久議員の場合

我孫子で、地に足つけた平和活動に取り組んでいる豊田さんから教えてもらったのですが、参議院議員になった元サマワ先遣隊長、佐藤正久さんが集団的自衛権の論議の中で、イラク在留中に、国民を騙して戦争状態をつくりだすつもりだったとTBSの報道の中で発言していたそうです。
そのことはTBSニュースのサイトに紹介されています
この記事は時間がたつと削除されるでしょうから、一部を引用再録しておきます。

イラクに派遣された陸上自衛隊の指揮官だった佐藤正久氏は、当時現場では、事実上の「駆けつけ警護」を行う考えだったことをJNNの取材に対して明かしました。
(中略)
佐藤氏は、もしオランダ軍が攻撃を受ければ、「情報収集の名目で現場に駆けつけ、あえて巻き込まれる」という状況を作り出すことで、憲法に違反しない形で警護するつもりだったといいます。
「巻き込まれない限りは正当防衛・緊急避難の状況は作れませんから。目の前で苦しんでいる仲間がいる。普通に考えて手をさしのべるべきだという時は(警護に)行ったと思うんですけどね。その代わり、日本の法律で裁かれるのであれば喜んで裁かれてやろうと」(佐藤正久)
「駆けつけ警護」とは、味方である他国の軍隊が攻撃された場合、駆けつけて応戦することですが、正当防衛を超えるとして憲法違反とされています。しかし、集団的自衛権に関する政府の有識者会議では、それを認めようという議論になっているようです。
佐藤正久さんはテレビでのニュースショーなどにも参加してきていますが、その発言にはかなりの危うさを感じます。戦争の現場を知っているといいますが、世界を知らなすぎるように思います。最近は、そういう人も増えました。

テロ対策特別措置法が問題になっています。
小沢さんの強い「ノー」の表明で、この問題がようやくみんなの関心を呼び起こしそうですし、その実態があぶりだされそうです。
アフガンやイラクで、自衛隊の人たちが何をしているか、私たちはほとんど知りません。
テロ対策といいますが、テロリストは誰なのかの議論すらあります。
見方によっては、私たち自身がテロリストに加担しているということもありえます。

シビリアン・コントロールの出発点は、実態を国民が知ることです。
そうしないと現場しか知らない人が独走してしまいかねません。
太平洋戦争もベトナム戦争も、そうでした。
国民の知らないうちに、戦争は始まるのです。
シビリアン・コントロールを壊すのは簡単なのです。

それにしても、小泉郵政選挙以来、おかしな人が国会議員になりだしました。
選挙に行かなかった丸川さん、国民を騙して戦争状態をつくりだすことに何の違和感ももたない軍人、こんな人たちが国会に紛れ込み出したのです。
国会はもはや権威を失墜しています。
平和憲法を捨てて、戦争に向けて動き出そうとしています。

ちょっと過剰反応でしょうか。
しかし、日本もドイツも、そうやって戦争に突入して行ったのです。
今日は終戦記念日です。虚しさで元気が出ませんが。

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2007/08/07

■憲法と政党マニフェスト

選挙後の参議院議員を対象とした朝日新聞と東京大学の調査によると、改憲賛成派は53%に減少したそうです。憲法9条改正に関して、賛成31%、反対50%だそうです。
選挙前とは状況は大きく変わっています。憲法改定という大きな問題への意識が、こうも簡単に変わってしまう国会議員への不信感もありますが、これでひとまずは戦争を目指す国家への道は少し止められそうです。
しかし本当にホッとしていいのかどうか。

憲法は国家の基本理念やビジョンを示すものであり、国家のアイデンティティに関わるものです。
日本の憲法は、政治家と財界と憲法解釈学者によってずたずたにされてしまっていますが、そこに込められたコアバリューは明確です。
それが9条だと思いますが、そうした国家のコアバリューへの真剣なマニフェストを表明する政党が少ないのが残念です。
昨今のマニフェスト論議は、どうも実現性とか評価可能性とか具体性に関心が移っていますが、政党のマニフェストはやはり国家の基本である憲法との関係をもっと重視するとともに、日本のビジョンや国家理念を明確に謳うべきではないかと思います。
政党のマニフェストと個人のマニフェストは次元の違う話だと思いますが、それが混同されているのが現状です。
今回もまた、マニフェスト選挙だったという人も少なくありませんが、私には自民党も民主党も日本のビジョンやコアバリューに関して明確に宣言しているようには思えません。
彼らが考える「日本の形」の違いも見えてきません。
それは両党とも、結局は現在の憲法や平和の理念に共感しておらず、経済に従属した市場主義的政府を目指しているからです。
形の上では二大政党のスタイルをとっていますが、結局は「双子の兄弟」の内輪の権力争いでしかないのです。

政党政治を続けるのであれば、政党はもっとしっかりした国家のアイデンティティやビジョン、理念を明確に打ち出すべきではないでしょうか。
それがあいまいな政党のマニフェストは全く意味がないような気がします。
政界再編成は、権力再編成であってはなりません。
ビジョンと理念を基準に、政党そのものの再編成をすべきではないかと思います。

広島の平和式典に安倍首相が参列していることに、やはり私にはどうしても違和感があります。

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2007/07/28

■タリバンの韓国人ボランティア殺害事件

タリバンによる韓国人ボランティアグループの拉致と殺害はやりきれない事件です。事件を聞いて感じたことを2.3書きます。必ずしも正確な事実には基づいていないと思いますので、その前提でお読みください。

まず「善意」とは何か、です。
傷ついた人がいれば危険を冒しても救いにいくという「善意」は、誰にとっても「善意」で歓迎されると思いがちですが、もしかしたらそうではないかもしれません。
「善意」は行動者の意志ですが、その行動の対象者の評価が同じとは限りませんし、大きな枠組みで考えるとおそらく評価は一様ではないはずです。
もっとも、ボランティア活動をしている人たちは「善意」などとは考えていないでしょう。やりたいからやるのがボランティアですから。
しかし、組織活動としてのボランティアになると意味合いはかなり変わってきます。
個人の主体性に立脚するボランティア行為と組織としての行為にはズレが避けられません。
結果として、そうした行為が全体の状況の問題解決にマイナスに働くこともありえます。
さらにいえば、自らの生命を賭して活動している人にとっては、おそらく緊急事態でしょうから、コラテラル・ダメッジの発想が出てくる可能性を否定できません。
もちろんそれを肯定するわけではありませんが、タリバンの側で考えるとそういう発想が出てくるということです。なにしろこれまでたくさんの仲間を不条理に殺害されているわけですから。

もちろん、私はタリバンの行為に何がしかの正当性を認めているわけではなく、どんな事情があろうと許されることではないと考えています。
彼らにも言い分はあると思っていましたが、こうした行動を起こすことは言語道断であり、彼ら自身にとってもマイナスでしょう。
しかし、彼らはそこまで追い詰められていることも示唆しています。
自己防衛行為とはいえませんが、その要素が全くないともいえません。

そこで思い出すのが、マルチチュードの発想です。
もしかしたら、全体の構造の捉え方がみんな間違っているのかもしれません。
タリバンとはいったい何なのか。
そして政府とは何なのか。
世界の紛争や連帯の構図が大きく変わり出している中で、問題の立て方を間違うと問題はさらに複雑になり、悲惨になるかもしれません。
そんなことを考えさせられる事件です。

これはなにも軍事紛争だけの話ではありません。
福祉や環境に関わるボランティア行為すべてにあてはまることかもしれません。
問題を解決するためには、構造をしっかりと把握し、問題を的確に設定しなければなりません。

韓国のボランティアグループの人たちの安全が守られることを心から祈念します。
個人の生命は国家の命運以上に大切です。
そのこと忘れた国家や革命や反乱は成功しないと確信します。

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2007/07/25

■デモサイド「民殺」

昨日の記事に関連して、国家は自国の民を暴力から救うために武装し、国民は自らを守るために武装するのではないかというメールが来ました。
確かに国家の武装の大義は「自衛」です。
しかし、これも以前書きましたが、すべての戦争は「自衛」として説明できるでしょう。
問題は「自衛」の「自」とは何かです。

こんな報告もあります。
孫引きなのですが、ハワイ大学のR・J・ランメルという学者の書いた「政府による死」(1994年)によれば、国家によって殺されているのは、外国人よりも自国民のほうが圧倒的に多いというのです(ダグラス・ラミス「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか」に紹介されています)。
ランメルによればこの100年間に国家によって殺された人数は2億人を超えていますが、そのうちの約2/3は他国の軍隊によってではなく、自国の軍隊や政府によって殺されているそうです。
つまり、軍隊が自国民を守るためにあるというのは実のところ事実ではない、というわけです。

彼は、非戦闘員を殺すという意味で、デモサイド(democide)という言葉を造語しています。
デモサイドの主体者は誰なのでしょうか。
20世紀のデモサイドの多くは共産国家や社会主義国家、あるいは軍部独裁国家、ファシズム国家などで主に行われていますが、「民主主義国家」でも起こっています。
コラテラル・ダメッジは、まさに「民主主義国家の発想」かもしれません。
ちなみに、コスタリカは、政府の国民に対する暴力を制限するために平和憲法を作ったといわれます。

デモサイドを遂行するのは誰でしょうか。
徴兵制のもとでは、だれでもが「戦闘員」に狩り出される可能性がありますから、結局は国民なのです。殺すのも殺されるのも同じ国民。それが現実なのです。
イラクやアフガンの現状はそのことを明確に示しています。

日本国憲法9条はたしかに不完全な条文です。
しかし、そこに込められた意味は大きい。むしろその意味を進化させるべき時期に来ています。
私たちも、コスタリカ人ほどの知性を回復したいものですが、それはすぐには無理としても、今度の選挙にはこうしたことを考えて投票に行きたいものです。
決して、年金選挙などではないのですから。

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2007/07/24

■国民の非武装権

残念ながら今回の選挙では「平和」は大きな争点にはなりませんでしたが、振り返ってみると、今回の選挙は日本の平和にとって大きな意味を持った選挙になっているのではないかという気がします。
そんな時期に、平和の問題をライフワークにされている川本兼さんがまた新著を出しました。
『「日本国民発」の平和学』(明石書店)です。
CWSコモンズに紹介していますので、よかったら読んでください。
そこで紹介したことと重なるのですが、とても示唆に富むメッセージが込められているので、このブログでも少し紹介させてもらうことにします。

川本さんは以前から基本的人権の一つとして「平和権」を主張しているのですが、そこに「非武装権」という概念を提起しています。
これまでの平和論からは出てこない発想ですが、この非武装権発想が意味していることはとても大きく、ぜひとも多くの人に知ってもらいたいと思います。

「非武装権」とは、国家の兵員になることを拒否する権利です。
民衆による暴力を禁止し、暴力を独占することによって、近代国家は権力の基盤を確立しましたが、それは同時に「国民を暴力に狩り出す権利」の獲得でもありました。
そのため、これまでの平和理論の中では「民衆の武装権」が問題になりました。
民衆が圧制からの自由を求めて、立ち上がる権利です。

その典型的なものが市民革命ですが、川本さんはそうした「民衆の武装権」はもはや必要なくなったといいます。
むしろそうした武装権は国家に組み込まれてしまい、実質的には国家に対する兵役義務に転化してしまったというのです。
最近起こったタリバンの韓国人ボランティアグループの拉致事件などを考えると、現実は必ずしもそこまでは行っていないと思いますが、大きな流れはそうかもしれません。

いずれにしろ国家による暴力行使の主体は国民です。
国家が戦争を遂行できるのは、兵員としての国民を自由に暴力遂行力として使えるからです。
ブッシュや小泉が戦争をするわけではなく、現地で戦いを担うのは兵隊や自衛隊員です。
つまり「戦争をさせる人」と「戦争をする人」は別なのです。
しかも「戦争をする人」は原則として戦場で人を殺すことも含めた暴力の行使を拒否することはできないのです。
そして「平和のために人を殺傷する」というおかしなことが起こります。
そこで、国家による暴力行使のために強制されることを拒否する権利として、非武装権が重要になってくるというわけです。

いいかえれば、非武装権とは「人を殺さない権利」なのです。
これまでの基本的人権は、当人だけで完結していましたが、非武装権は他人との関係性が対象ですから、人権思想のパラダイムシフトも含意しています。
さらにいえば、「非」ではじまる権利思想は、権利そのもののあり方への問題提起も含んでいるように思います。
そしてもちろん「平和」や「戦争」に深く繋がっていく思想です。
小泉さんや安倍さんが、そして小沢さんや岡田さんが、いくら戦争が好きでも、国民が非武装権を持っていれば、戦争などは出来ません。
もちろん彼らが戦場に行くことはできるでしょうが、それでは戦争にはなりません。

これはガンジーの非暴力主義とも違います。
非武装権。この考えを深めていくと国家暴力の矛盾が見えてくるかもしれません。
ぜひ皆さんにも読んでほしいと思います。
もちろんこの本は、非武装権のことだけを書いているわけではありませんが、他の主張も示唆に富んでいます。
私のサイトからもアマゾンでの購入が可能です。

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2007/07/15

■東京大空襲集団訴訟のメッセージ

狭山再審弁護団主任弁護人だった中山武敏さんが、東京大空襲集団訴訟に関わっていることはCWSコモンズでもご紹介しました
先月行われた講演会には私は参加できませんでしたが、今月の軍縮問題資料(8月号)で中山さんが「東京大空襲訴訟が問うもの」という一文を寄稿しています。
それを読んで、改めてこの訴訟のメッセージの大きな意味を再認識しました。

この裁判は、東京大空襲による民間人被害者が集団提訴したものです。
中山さんからのメールにはこう書かれていました。

改憲の動きが強まる中で、若い世代に再び戦争の惨禍の苦しみを与えてはいけないと東京大空襲の遺族、被災者112名が原告となり、被告国に対して謝罪と損害賠償を求める訴訟を提起されました。
原告らは高齢であり、「このままでは死ぬに死に切れない」との思いで国の責任を問う最後の機会として提訴を決意したのであり、この原告らの願いに答えることが法律家としての使命である」と考えて、中山さんはその代理人を引き受けたのです。
中山さんは「この裁判は「人間回復」を求める裁判なのです」と言います。

できれば「軍縮問題資料」8月号を読んでほしいのですが、とりあえずこの小論から2か所を引用させていただき、みなさんにもいろいろと考えてもらえればと思います。
今回は余計な私見は書きませんが、とても重要な問題が指摘されているように思います。
決して「過去の話」でも「東京の話」でもありません。

東京空襲は日本軍の国際法に違反した中国戦線での都市無差別爆撃が先行行為(原因) となり、アメリカの対日政策に大きな影響を与え、日本軍の撒いた種が、より大規模な無差別爆撃として東京、日本各都市空襲、広島、長崎への原爆投下と繋がったものである。

平和のもとで平等に人間らしい生き方を保障している憲法のもとで、軍人・軍属と差別し、戦争の被害については、「すべて国民が等しく受忍しなければならない」ものといった戦前の旧憲法下の人権感覚の判決は司法の権威を失墜せしめ、何人をも納得せしめないものである。東京空襲の裁判は、これまで述べているように東京空襲被害当日の被害のみでなく、戦後も国が民間人の被災者を切り捨て、何らの救護、補償をなさず放置し、人間の尊厳を奪ってきたことに対しての責任を問うものである。

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2007/05/26

■「ホテル・ルワンダ」

話題になっていた「ホテル・ルワンダ」をDVDで観ました。
気にはなっていたのですが、最近、この種の映画を見るのにはかなりの勇気が必要です。
どうしても滅入ってしまい、気力を吸い取られるからです。
5年前までは逆にこの種の映画で元気をもらえたのですが、最近は無力感のほうが強くなります。
あまりに現実が、そうした悲惨な状況に近づいてきているからかもしれません。

最初は虐殺場面があったら、そこで観るのをやめようという程度の「逃げ腰」で見始めたのですが、引き込まれてしまいました。
サスペンスがあるわけでもなく、涙が出るほどの感動的場面があるわけでもないのですが、ぐいぐいと自分の心に入ってくるのです。
自らの生き方を問いただされるような、そんな映画でした。

2つの場面が印象的でした。
一つは取材していたカメラマンと主人公ポールとの会話です。
映画のサイトのストーリーから引用します。

カメラマンのダグリッシュは狂乱と化した街で精力的に取材を続けていた。彼の撮ってきた映像を観てショックを受けるものの、これが世界で放映されれば国際救助が来ると確信するポール。しかしダグリッシュの答えは違った。「世界の人々はあの映像を見て──“怖いね”と言うだけでディナーを続ける」。

それはまさに私の生き方です。
そうやって私たちは、事件を消費し、看過しているのです。
そしていつか自らがその立場になった時に、世界を恨むのでしょう。
そこからどうやって抜けたらいいのか。

もう一つは、結局、世界はルワンダを見捨てて、外国人たちは退去するのですが、その時、雨の中を飛行機に向かうダグリッシュたちに、ポールの仲間が傘を貸そうとすると、傘などいらない、自分たちだけが退去するのが恥ずかしい、傘をさしてもらう価値などないとつぶやく場面です。
涙もろい私は、涙が出るよりも乾く感じだったのですが、この場面だけは涙が出ました。
いま、こうやって書いていてもまた涙が出てきました。

人はみんなやさしいし、誇りを持っています。
にもかかわらず、なぜルワンダのようなジェノサイドが起きるのでしょうか。

いや、ルワンダの話ではありません。
最近のテレビのニュースは殺人事件ばかりです。
なぜ人は人を殺せるのか。
殺せるはずがないのですが、どこかで何かが壊れてしまっているのです。
そうした状況を変えるための一歩は、自らの近くにある人を愛しているかどうかだと思います。
あなたは家族を愛していますか。友人を愛していますか。隣人を愛していますか。
そして何よりも、自分を愛していますか。
そんなことを考えさせられた映画でした。

ぜひ多くの人に観てほしい映画です。


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2007/04/28

■「騙された者の罪」

マスコミではもうあまり騒がれなくなってきましたが、憲法改正が着々と進められています。
これは日本の問題である以上に、人類の歴史にとっての大きな問題ではないかと思います。
せっかく人類の英知が辿り着いた日本国憲法第9条を、私物化して改正しようと図っているのはいうまでもなく、小泉、安倍と続く日本国の首相です。
そして、それを首相にいだく私たち現代の日本人です。
哀しいことに私もその一人というわけです。

私はこの2人は卑劣な犯罪者であり、その罪は重罪だと思います。
小泉、安倍両名が、未必の故意をもった大量殺人企図者とすれば、
私もまたその共犯としかいいようがないわけで、
そう考えると新聞をにぎわすたかだか数人の殺人者を断罪する資格があるのかと思うこともないわけではありません。

私が、改めてそう思ったのは、「軍縮問題資料」5月号で、憲法学者の樋口陽一さんと土井たか子さんの対談を読んだからです。
郵政民営化で騙されたのは、当面は私たちがただ経済的な損失を受けるだけですが、憲法を変える話はそれではすみません。
金正日と同じような卑劣な人物が、紳士面をしてテレビで内容のない話をしているのをみると、それを放置している自分の生き方に嫌悪感を持ってしまいます。
なかなか辺見庸さんのようには行動できません。

ところで、その対談の最後に、樋口さんが伊丹万作の「騙された者の罪」の話を語っています。
「騙された者の罪」とは、伊丹万作(伊丹十三の父)が1946年、つまり日本が敗戦した翌年に書いた「戦争責任者の問題」のなかのメッセージです。

多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。(中略) だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。

さらに伊丹万作は、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」と続けます。

あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。 (中略) 「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

60年以上前に、すでに現在の日本国民の犯罪は予告されていたのです。
「戦争責任者の問題」の全文はネットで読めます。
ぜひ読んでみてください。

ところで、5月6日(日)夜の10時からNHK教育テレビで、
ETV特集アンコール「焼け跡から生まれた憲法草案」が再放送されます。
まだ見ていない人はぜひご覧ください。
騙されないためにも、罪を犯さないためにも、もっと真剣に時代と関わらなければと思っています。
そうでないと、昨日書いた飲酒運転者と同じ犯罪者になってしまいかねません。

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2007/04/19

■「戦争は今や永続的な社会関係にまでなりつつある」

イラクにはなかなか平和が戻りません。
昨日もバグダッドで5件の連続爆弾テロがあり、170人以上が死亡したといわれます。
フセイン時代以上に、イラクはいま戦争状態です。

戦争は20世紀に入ってからも、2回にわたり大きな変質を起こしました。
最初は、いわゆる総力戦への移行です。
それまでの軍隊による戦争が国家全体の争いになったのです。
そこではもはや戦闘員と非戦闘員の区別はつかなくなります。
国家の戦争には否応なく巻き込まれてしまうようになりました。
良心的兵役拒否の動きはありましたが、それは感動的ではあるものの、
どこかに裏切りのにおいがしなくもありません。
さらに悪いことに、被害者は非戦闘員のほうが多くなる傾向が出てきます。
先に問題になった沖縄での集団自決などはそうしたことの一つの表れです。
手を下したのは敵軍ではなく、自軍なのです。
対立の構図が変わったわけです。

そして20世紀末に戦争はさらに変質します。
戦争が「事件」から「状態」に変化してしまったのです。
20世紀前半までは、国家間の総力戦になったとはいえ、戦争は一時期の事件でした。
戦争が終結すれば、平和が訪れたのです。
1945年以降の日本の昭和時代は、まさにその最後の平和の時代だったのかもしれません。
しかし、次第に戦争は状況になってきます。

このあたりは、アントニオ・ネグリの「帝国」や「マルチチュード」にわかりやすく書かれています。
ちなみに、この「マルチチュード」は批判もありますが、現代を読み解く視点をたくさん提供してくれます。
その「マルチチュード」の表現を使わせてもらえれば、
戦争と政治の区別はますます曖昧になり、「戦争は今や永続的な社会関係にまでなりつつある」というのです。
とても納得できます。

イラク戦争は終わったといわれますが、その後も戦争状態は継続し、死者は決して減少していません。
「戦争とは別の手段による政治の継続である」とクラウゼヴィッツは言いましたが、
最近では、「政治そのものが別の手段によって実施された戦争」とも言われるのだそうです。

戦争が変質したのです。
そして敵もまた変わったのです。
こうした文脈で、時代を読み解いていけば、さまざまなことに気づくはずです。
昨日起こった不幸な銃殺事件、イラクでの日常的な爆弾テロと軍隊による市民虐殺事件。
それらはつながっています。

戦争の変質を踏まえて、政治も変わらなければいけません。
そして平和運動も変わらなければいけません。
しかし、戦争を推進している日本の政治家も、
それに抗して平和運動を展開している平和運動家も、
これまでと同じ発想で、活動に取り組んでいるように思えてなりません。

ちなみに、私の平和運動はコムケア活動なのです。
4月22日に、その集まりがあります。
面白い実践者たちが集まるフォーラムになりそうです。
よかったらぜひ参加してください。
そして声をかけてください。

戦争状況から脱するためには、人のつながりをリゾーミックに育てていくしかありません。
それこそがこれからのソーシャル・キャピタルです。
政治はもちろん、経済のパラダイムが変わらなければいけません。
その一歩を私たちは踏み出すべき時期に来ています。

今日の朝日新聞の天声人語にノーマン・メイラーの言葉が引用されていました。
「次の世代のために毎日の小さな変化を積み重ねていくのが民主主義」。
小さな一歩を積み重ねていければと思っています。
疲れますが。


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2007/04/18

■銃を撃ってしまう不幸

昨日、アメリカと日本で銃による痛ましい事件が起こりました。
バージニア工科大学の乱射事件は死者が30人を上回る悲惨な事件ですが、その報道のさなかに起こった長崎市長銃撃事件は、日本での、しかも長崎での事件だったために、私にはそれ以上に衝撃的な事件でした。
大学乱射事件は銃社会の病理と考えられますが、長崎の事件は銃社会ではない日本での話です。
しかも、報道ではまだ読み取れませんが、本島市長に続いての事件であり、日本社会の行く末を感じさせるものがあります。

名刀をもつと人を斬りたくなる、という話があります。
私はまだ真剣を持ったことはありませんが、そうしたことは何となく納得できます。
人を殺傷する武器が容易に手に入ることは、決して幸せなことではありません。

アメリカの憲法修正第2条には、次のような「人民の武装権」があげられています。
規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。
この条文は、アメリカがまだ近代国家としては未熟であることを表しています。
以前も書きましたが、暴力を独占するのが近代国家の特徴の一つですが、アメリカはまだ独占し切れていないのです。

9.11時件はこうした背景の下に行われたわけです。
武器は銃だけではありません。自動車も飛行機も、いうまでもなく武器の要素を持っています。日本の特攻隊やイラクの自爆自動車を考えればわかります。
アメリカは極めて未開な暴力社会を引きずっているわけです。
もっとも、条文には、さすがに「武器を使用する権利」までは書かれていません。
しかし、「保有」「携帯」と「使用」とは、実質的には同義語です。使用できない保有は無意味ですし、自己防衛は解釈問題ですから、いかようにも拡大できます。そこが「法律」の世界の恐ろしいところでもあります。
アメリカは決して先進国ではないのです。
基準を少し変えれば、遅れた国なのです。

もし銃がなければ、今回の事件は起こらなかったかもしれません。
起こったとしても、違った結果になったでしょう。
銃の殺傷力は大きいです。
それに、ナイフなど直接身体を使うものに比べたら、行動を起こすための自己抑制力は格段に低いはずです。ただ引き金を引き、返り血すら浴びないのですから。
銃が安直に入手できるが故に、銃を撃ってしまう不幸が起こってしまうわけです。
撃たれたほうはもちろんですが、撃つほうの不幸も否定できません。
銃のない社会を目指すことが大切です。

が、ちょっと視野を変えると、実はこの銃社会の構造は国際関係の基本なのです。
バージニア工科大学の乱射事件は、イラクやアフガニスタンにおける米国軍隊の行動に重なります。彼らは、銃よりももっと心理的抵抗の少ない武器を作り出しています。
長崎の事件は、日本の自衛隊のあしたの姿を思わせます。

期せずして起こった日米の事件は、とても不幸な未来を予兆しているような気がして、今朝は朝から気分が晴れません。

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2007/03/20

■イラク戦争がはじまって4年目

イラク戦争が始まって4年たちました。
戦争とは不条理で嘘の固まりだといっていいでしょうが、
イラク戦争は世界と歴史を壊すほどに大きな不条理と嘘の塊のような気がします。
それを利用した小泉首相の無血クーデター(法と国民の意思を否定しての暴走)によって始まった「日本改革」もほぼ定着してきました。
いまや嘘と不条理は、世界を覆ってしまったような気がします。

イラク戦争が始まった時、CWSコモンズのメッセージに、こんなことを書きました

私は最初、とても悲観的でした。 強者による先制攻撃によって、この数百年、営々として築き上げてきた人類の平和への努力が一挙に崩され、暴力の時代にベクトルが反転したような思いがありました。シジフォスの苦行のように、哀しい奈落のそこへとまた戻ったような気がしたのです。 (中略) 暴力と不条理に向けて、歴史の軸を逆転しはじめたと、先週までは思っていました。 しかし、攻撃が開始されて、違った歴史の始まりを感じ出しています。 そう考え出したきっかけは、世界各地で個人が動き出したことです。テレビの映像がどれだけの真実を伝えているかはわかりませんが、かなり意図的に編集されていると思われるNHKのニュースですら、全国各地の市民の異議申し立てを伝えています。 国家の時代の終わりと個人の時代の始まりを予感させます。

残念ながら、そうはなりませんでした。
イラク戦争が始まる1年半前、女房とテロ対策特措法反対のデモに参加しました

その時、期待と懸念を感じました。
その後、ピースウォークにも参加したりして、期待のほうが高まっていたのですが、
小泉クーデターの勢いには勝てなかったようです。

最近の松岡議員のことも電力会社の事実隠蔽も、こうした流れと無縁ではないように思います。
最近、明るい話として流されていることのなかにも、嘘と化粧を感じることが少なくありません。
嘘がはびこる社会になってきてしまったのが、哀しいです。

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2007/02/10

■「戦争への道を許さない!」のリレートーク

「諦めは戦争協力の第一歩!」を合言葉に、26年間、力強く、華やかに、反戦、護憲の祈りを花開かせるために活動している「戦争への道を許さない女たちの連絡会」というのがあります。
そのメンバーが中心になって、昨年12月16日に「戦争への道を許さない!歌い、語る 女たちのつどい」が開催されました。
新聞でも、ほんのわずか報道されましたので、ご存知の人もいるかと思います。
私の愛読誌である「軍縮問題資料」3月号に、そこでの参加者のリレートークが採録されていました。

昨日の記事の中で、

最近の政治に関わる女性たちにはどうも信頼感がもてません。
と書いたら、早速、お叱りのコメントをもらいました。

さてまた同じ轍を踏みそうですが、昨日の記事の補足を込めて今回も女性問題です。
私は社会を変えるのは女性たちだと思っています。
いつかも書きましたが
映画「ターミネーター2」で、主人公の少年の母親が言った
「男たちは壊すことしかできない、創るのは女性たちだけだ」
という言葉に真実を感じます。
しかし、もちろん「壊すこと」もまた「創ること」ですから、逆の言い方もできるわけですが、出産という現実と子どもとの一体感という点でのつながりという点では、やはりある種のハンディを私たち男性は持っているように思えてなりません。
だからこそ、
「最近の政治に関わる女性たちにはどうも信頼感がもてません」
と書いたのです。
無理かもしれませんが、主旨を読み取ってもらえれば幸いです。

私にとっては女性はそもそも信頼できるのです。
いや信頼したいというべきでしょうか。
何しろ未来を生み出している人たちなのですから。
そして、生活を基盤にしながら(つまり国家を基盤にするのではなく)言動している人たちがたくさんいるからです。
このリレートークの皆さんの発言を読みつないでいくと、大きなメッセージになってきます。
ネットで読めないかと探してみましたが、まだどこにも掲載されていません。
できれば多くの人たちに読んでほしいです。

この会に、山田邦子さんが入会したそうです。
マスメディアで活動している人が、政治家になるのではなく、こちら側で、つまり生活の側で活動し出したら、社会は変わるように思います。
山田さんの寄稿も同誌に掲載されています。
とても元気になれます。

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2007/01/15

■戦争を直視する姿勢

ドイツと日本の戦後教育の違いはよく指摘されることです。
子どもの教育は20~30年後に結果として出てきます。
今の社会の状況は、20~30年前の子どもへの教育の結果でもあります。

古い話ですが、1991年11月8日号のニューズウィーク誌は、真珠湾50周年特集を組みました。
そこに次のような記載がありました。

「ドイツが戦後の教育で自国の戦争犯罪を戒めてきたのに対し、日本では文部省の方針によりタブー視され、戦争を直視する姿勢がない。こうしたことの反省の弱さは若年層のナショナリズムをあおる土壌になっている」

最近、こうした指摘が日本人からよく出されていますが、遅きに失しています。
ニュールンベルグ裁判と東京裁判がどう違っているのか、私は不勉強で知らないのですが、少なくとも東京裁判にも広田弘毅さんのような人もいました。
戦争をきちんと総括しようという人はいたのです。
しかし私たちはドイツのように現代史をきちんと教えることを避ける為政者の下で、教育を受けてきました。

ニューズウィーク誌が予言したように、今の日本は危険な状況になってきているように思います。
私たちの親が体験した戦争の実態をもっと真摯に直視すべきだと思います。

ちなみに、雑誌「軍縮問題資料」ではいま、「法廷で裁かれる日本の戦争責任」を連載しています。
学校では決して学ばなかった事実が語られています。
ぜひ読んでほしいと思います。
そうしたら防衛庁を防衛省にすることの恐ろしさも実感できるかもしれません。

ちなみに、教育改革が話題になっていますが、こうした視点をしっかりと入れて議論すべきではないかと思います。
「改革」には歴史観がなければいけません。
昨今の「改革」は、すべて欲得視点の小手先の詐欺でしかありません。
ちょっと言いすぎでしょうか。

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2007/01/14

■ニーメラーの教訓と家永三郎さんの選択

ニーメラーの教訓に関して、何人かの方からメールをもらいました。それで思い出したのが、家永三郎さんです。
教科書検定が憲法違反だという訴訟を起こした、家永三郎さんです。

家永さんは、法廷で次のように語ったといいます。

「私は戦争中に、わずかに個人的両親を守ることにのみ専念して祖国の破滅を傍観するあやまちを犯した。私は力の弱い一市民ですが、戦争に抵抗できなかった罪の万分の一でも償いたいという心情から、あえてこうした訴訟に踏み切った次第であります」
3回にわたる家永教科書裁判はいずれも敗訴しましたが、 この裁判のこともあって家永さんはノーベル平和賞の候補にもなりました。

家永さんの訴訟は大きな話題になり、大きな論争を起こしましたが、
残念ながら時代の流れは変わりませんでした。
いま、家永さんがご存命であれば、何をしたでしょうか。

家永さんのような、行動を起こしている人は今も決して少なくありません。
しかし、なぜ流れを変えられないのか。
きっとどこかに間違いがあるのでしょうね。
それが何かがわかるといいのですが。

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2006/12/31

■コモンズとしての愛国心

今年はいろいろと思うことの多い年でした。
昨日まで実はかなり元気をなくしていたのですが、今朝、5時に目が覚め、「希望」という言葉が急に頭に浮かびました。
それから1時間、いろいろなことが頭に去来しました。
隣で寝ていた女房を起こして、一緒に日の出を見ました。
ちょっと高台にあるおかげで、寝室から少し無理をすれば、手賀沼の対岸に日の出が見えるのです。
今日は今年最後のブログですが、「愛国心」について書くことにしました。
それは希望を語ることでもありますので。

今年は「愛国心」論議が盛んに行われました。
国家の品格が流行語になり、教育基本法が改悪されました。
日本はついに、愛国心を教え込まなければ維持できない国になってしまったのかもしれません。
しかし、愛国心のない人たちが愛国心を語り、品格のない人たちが品格を語るほど見苦しいことはありません。
フセインのイラクはどうだったのでしょうか。

愛は自動詞の言葉です。
愛を育てるのであれば、愛される実体が大切です。
実体を二の次にして、愛を育てることは洗脳か強要でしかありません。

品格もまた自動詞の言葉だと思います。
人の品格を論評する前に、まずやるべきことは自らの品格を正すことですが、そういう意味で、品格を他人事に語る人の品格は疑わなければいけません。

自動詞の言葉が、他動詞で語られるのが、今の日本の社会です。
実体がない、言葉だけの社会といえるかもしれません。

ところで愛国心ですが、私は昨日までは「愛国心」という言葉に拒否感を持っていました。
しかし今朝、考え直しました。
国家というものがある限り、愛国心は大切なことかもしれないと思い直したのです。
問題は、その愛国心の意味です。
国家にとっての平和が、国民の非平和を意味することが多いように、愛国心もまた多義的な言葉です。

独立インドの憲法を起草したアンベードカルは不可触民でした。
彼は不可触民制度をなくそうとし、ガンジーは不可触民の生活向上に努力しました。
そのアンベードカルがガンジーに対して、「私には祖国がありません」と鋭く迫る場面があります。そこに2つの愛国心のモデルを感じます。

愛国心には育つ愛国心と育てられる愛国心があります。
日本政府や有識者たちは、日本の現状では愛国心は育たないことを知っているのでしょう。
愛される国家づくりではなく、国家による愛国心づくりに取り組むことにしたようです。
なにやら北朝鮮やイラクを思い出します。

しかし本当にそうなのか。
政府や東京都庁のトップが語るように、愛国心は失われてしまったのか。
彼らに都合の良い愛国心がないだけではないのか。
有識者と目される人が語るように、本当に日本は品格がない国家なのか。
品格なき国家しか見えていないのは、著者自身の品格のなさの反映かもしれません。
私が、最近の日本社会に失望しているのは、間違いなく私自身への失望であるのと同じです。

コムケア活動やまちづくり活動で、さまざまな現場とささやかに付きあって見えてくることは、現場の人々の優しさや思いやりです。
その一方で、マスコミを通じて入ってくる裁判の動き、法整備の動き、経済界の動き、国会や自治体の動きなどは、未来には希望はないなと思わせるものばかりです。
この違いが問題です。
それらは別の社会なのかもしれません。主役が違うのです。
自らが体感できる現実に立脚して未来を見ていけば、愛すべき、信頼すべき国家が見えてくるのかもしれません。
私にもささやかに見えている、そうした国家がたしかにあります。
その場合、「国家」の意味合いはかなり違っていますが、それもまた国家です。
アンベードカルは、そうして積極的な活動を維持できたのでしょう。
ガンジーとは違う意味での愛国心と国家が、彼にはあったのです。

私の平和活動は「大きな福祉」を目指す生き方です。
人のつながりが育っていけば、不条理な争いはなくなるでしょう。
戦いで人を殺傷することなど出来なくなるはずです。
そしてみんながその状況を大切に思うようになるでしょう。
そこに「コモンズとしての愛国心」が見えてくるように思います。

出発点は私自身の生き方です。
毎年同じような言葉になってしまいますが、来年はもう少し前に進もうと思います。

今年1年、読んでいただき感謝します。
希望とアンベードカルについては、CWSコモンズにも書くつもりですので、年が明けたらCWSコモンズも読んでみてください。
ありがとうございました

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2006/12/30

■フセインの死刑執行の不快感

フセイン元大統領の死刑が執行されました。なにかとても不快感の残る1日でした。
なぜでしょうか。
この裁判にどれほどの公正さがあったかはともかく、
やはり勝者のおごりを感じます。
ブッシュはなぜ裁判にかからないのか。
なぜ彼は死刑にならないのか。
事情をあまり知らない私にとっては、この2人の違いがあまりわかりません。
神の恩寵が、ほんの少しだけフセインに加担したら、ブッシュは死刑になったのでしょうか。
せめて公開の場で、フセインとブッシュの議論を聞きたかったものです。
そうすれば、もう少し歴史の真実とフセイン時代のイラクの実態が理解できたでしょうし、戦争のメカニズムも解明できたように思います。
よほど早くフセインを抹殺したい人たちがいたのでしょう。

国際政治における軍事裁判と国内統治のための裁判とは全く論理を異にするでしょうが、
前者における死刑執行の論理が私には理解できません。

とてもいやな1日でした。
それにしても、どうしてこんなにいやな気分になってしまっているのか、私自身も意外なのですが。

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2006/12/12

■貧困は平和への脅威

今年のノーベル平和賞は、貧困に苦しむ女性の自立を支えるバングラデシュの金融機関「グラミン(農村)銀行」とその創始者であるムハマド・ユヌス氏(66)に贈られましたが、ユヌス氏は受賞演説で「貧困は平和への脅威だ」と語ったそうです。
グラミン銀行は、NPOバンクについて書いた時に言及した新しいパラダイムの銀行です。

ユヌス氏はこの演説で、最近の大国の政治の動きが「貧困への闘い」から「テロへの戦い」に転じていることに異議申し立てしたわけです。
ユヌス氏の「貧困のない世界をつくることはできる。なぜなら、貧困は貧しい人々によってつくられたものではないからだ」という指摘は、私たちがともすると忘れてしまう真理です。

ユヌス氏はまた、貧困など社会問題の解決を最優先する事業を「ソーシャル・ビジネス」と表現し、そこへの支援を呼びかけています。これは現在の産業パラダイムの転換の提案といってもいいでしょう。

平和の捉え方は様々ですが、そもそも貧困の存在自体が「非平和」状況と考えてもいいでしょうし、平和に反する様々な事件は貧困状況を維持し拡大することを目的としていると言えるかもしれません。
いや貧困を維持し拡大する方策は、何も戦争だけではありません。
平和そのものもまた、貧困の維持拡大の手段になりえます。
ローマ帝国における「パンとサーカスによる平和」は多くの貧困者の苦しみの上に成り立っていたのかもしれません。

家畜たちの平穏な暮らしと野生種の緊張感あふれる暮らしと、どちらが平和なのか、そして貧困が少ないのかは判断に迷いますが、ユヌス氏の「貧困は貧しい人々によってつくられたものではない」という指摘は、ことの本質を示唆しています。
「つくられた貧困」こそが問題なのです。
その対極には「つくられた豊かさ」が存在しますが、それももしかしたら「大きな貧困」の変種なのかもしれません。
その2つの「貧困」を私たちはなくしていかなければいけません。

ちょうどいま、「世界から貧しさをなくす30の方法」(合同出版)が話題になっています。

個人でもできることがあることがわかります。

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2006/10/13

■常識人たちが進める戦争への道

北朝鮮の核実験に関しては、その後のあまりに見事なブッシュ政策の展開を見ていると、
やはりブッシュと金正日とは連携しているのではないかと思えてなりません。
直接の連携はないかもしれませんが、お互いの背後にある産軍官連合体によるシナリオを感じます。

今月7日に、9.11事件の真相を考える集まりが東京で行われました。
私は参加しませんでしたが、400人を越える人たちが参加し大盛会だったそうです。
9.11事件の陰謀を確信した参加者も多かったと思います。

さらにその後、それを傍証する情報はいろいろと出てきていますが、
それらをつなぎ合わせるととても説得力のあるシナリオが浮かび上がってきます。
そしてそれを延長させて、今回の核実験を見ていくととても納得できるシナリオが見えてきます。
真の主犯者はブッシュ政権ではないかと思います。
金正日は下請け業者のような存在に思えます。
日本の小泉・安倍政権は何なのかは、言いよどみますが、
きっと30年後には明らかになるでしょう。
かれらの愛国心の実体が見えてくるはずです。

まあこれは私の直感ですが、9.11事件のときに直感したことが、
その後少しずつ真実性を増してきていることを考えるとあながち笑ってすませることではないような気がしています。
この核実験によって、もっとも大きな利益を上げたのはおそらく米国の軍需産業です。
そして彼らが強力に実現を支援したであろう安倍政権の成立に合わせて、この事件が起き、
日本は米国の軍需産業の市場として自らを開放しつつあることは、私にはとても偶然とは思えません。
偶然にしてはできすぎています。
いささか急ぎすぎですので、私のような素人にさえ、見えてくる構造ですが、
それだけ日本の国民は甘く見られているのでしょうか。

日本のマスコミは完全に金銭に支配された産軍官連合体の走狗に成り果てていますので、
ジャーナリズム精神などは期待できません。
ネットで飛び交っている情報のほうが断片的ではありますが、真実に迫っています。
惜しむらくはそれを編集する仕組みが不在のことです。
もちろん編集しないからこそ意味があるのですが、このジレンマはいつか乗り越えられるでしょう。

以上は私の妄想です。
常識人であれば一笑に付してしまうことでしょう。
ただ、そうした常識人たちが70年前に戦争への道を進めてしまったのです。
その教訓は忘れるべきではありません。
戦争が狂気の行為であれば、常識的な判断では必ずしも対抗できないのです。

いや時代の狂気は、往々にして時代の常識が生み出してきたのです。

いずれにしろ、「戦争のできる国」に向けての日本の前進は加速されました。
多くの国民は軍備化に納得しだしています。
平和のために戦争ができる国になるなどというのは、
少し考えたらおかしい話であることに気づくはずですが、
その知性さえ日本人は失っているとしか思えません。
罪深いテレビ関係者の洗脳の結果です。
彼らは犯罪者と思えてなりません。

しかしもしそうであれば、今の日本社会は犯罪者の集まりなのかもしれません。
もちろん私を含めてです。
だからこそ懺悔し身を清めなければいけません。
生き辛い時代になってしまいました。
そう思うのは私だけなのでしょうか。

私は現代の社会の構造を「組織と個人」の対立軸でとらえています
しかし昨今の動きを、「国家」対「世界企業」の対立軸で読み取る人もいます。
そうした人からのとても刺激的な「時代の読み取り」もあります。
たとえば週刊オルタの発行人である西川澄夫さんは、
「国家から多国籍企業への「統治権」の移行が進んでいる」
と現代を読み解いています。
私は賛成しませんが、反対もしません。
それもまた歴史の一つの次元だからです。

しかし歴史はもっと大きく動いているような気がします。
いや、そういう気がしていましたが、どうもまだ前兆で、本
当に動き出すまでにはまだ100年はかかるのかもしれません。
今生では体験できそうもありません。
100年後にまた生まれ変わらなければいけません。さて。

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2006/10/11

■アンナ・ポリトコフスカヤさんへの追悼

10月8日の朝日新聞に、「チェチェン紛争告発の女性記者射殺される」という記事が掲載されていました。
チェチェンといえば、多数の子どもたちが殺害されたべスラン学校占拠事件がまだ記憶に生々しいです。
またチェチェンはよく映画の題材にも取り上げられますので、
チェチェンと聞くだけで陰謀や権力構造をイメージしてしまいます。記事の一部を引用します。

チェチェン紛争でロシア当局による過剰な武力行使や人権抑圧を告発したロシアの女性ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤさんが7日、モスクワの自宅アパートのエレベーター内で銃で撃たれて死んでいるのが見つかった。
ちなみに10月7日はプーチン大統領の誕生日です。
アメリカ以上にロシアの権力構造はすさまじそうですが、その一端を垣間見る思いがします。
アンナ・ポリトコフスカヤの著書が2冊翻訳出版されていますが(「チェチェン やめられない戦争」「プーチニズム」)、内容の凄さが伝わってくるので、まだ読めずにいます。
チェチェン総合情報のサイトに詳しい記事があります。

日本とは無縁な事件のようですが、
じわじわと日本にも押し寄せてきている動きの先を予感させる事件のような気がします。

明日(10月12日)には文京区でアンナ・ポリトコフスカヤ緊急追悼集会があります。
私もいま時間調整していますが、もし参加できれば参加する予定です。
世界で何が進んでいるのかを垣間見ることができるかもしれません。

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2006/10/03

■文明の衝突と個人の連帯

昨日、アマルティア・センの著書に触れましたので、ついでにその本で共感したことを書きます。

日本でも話題になった、米国の政治学者サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」に言及して、こう書いています。

文明にもとづく分類は希望のない歴史であるばかりでなく、人びとを狭義のカテゴリーに押し込め、「文明ごとに」はっきりと引かれた境界線をはさんで対峙させ、それによって世界の政情不安をあおり、一触即発状態に近づけるでしょう。(「人間の安全保障」33ページ)

多元主義国家だったイギリスでさえ、宗教ごとの学校ができてきていることをセンは嘆いています。
ハンチントンの「文明の衝突論」は9.11事件の露払いだったのかもしれません。
あんな本がなぜ話題になったのかわかりませんが、退屈な本でした。
しかし、世界はますます「文明の衝突」に向かって進んでいます。
センのこの言葉にとても共感できます。

しかし、その一方で、ラマラ・コンサートに見るように、個人のつながりが衝突を回避する希望を見せだしています。
文明を超えて、人類はつながっていることを意識することこそが、いま求められているのです。

情報社会は大きな2つのうねりを生み出しています。
歴史観のパラダイムを、組織起点から個人起点へと変えていくことが必要ではないかと思います。
国家の主役は、権力者ではなく生活者に変えていかねばいけません。
それに成功すれば、国家は新しい組織に進化するでしょう。
失敗すれば消滅するでしょう。
その結果が見えるのがおそらく100年後なのが少し残念です。

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2006/09/28

■ユダヤ人もアラブ人も同じセム民族

イスラエルのことを続けて書いたので、もう一度だけ書きます。

私が学生の頃、「栄光への脱出」という映画がありました。
離散していたユダヤ人が自分たちの国家を創りあげていくという、壮大な物語のプロローグに感動しながらも、それまで仲良く暮らしていたユダヤ人とアラブ人が対立していくエピソードに何か不安を感じました。
私が中東に関心を持つきっかけになった映画です。
特に印象に残っているのは、サル・ミネオ演ずるユダヤ過激派の若者の死でした。
その葬儀の光景が、その後ずっと頭に残っています。

この映画はなかなかテレビでの放映がありませんでした。
中東諸国への配慮からかと私は思っていましたが、どうもそうではなかったようです。
1976年に、パレスチナ過激派が飛行機をハイジャックし、イスラエル人以外を解放し、ウガンダのエンテベ空港に着陸した事件がありました。
イスラエルのラビン首相は特殊部隊を派遣し、人質奪回とハイジャッカーの全員射殺に成功しました。
イスラエルの対パレスチナ強硬姿勢の原点になったといわれる事件です。
それを映画にしたのが「エンデベの勝利」です。
この映画はなぜか経団連(だったと思いますが)が、封切前に企業関係者向けに試写会を行ないました。
私も勤務時間中にそれを観せてもらいましたが、まさにイスラエル賛美の映画でした。
日本の財界はやはりイスラエル支援だったわけです。
そして今はますますイスラエル支援のように思います。

イスラエル建国の契機は、有名なバルフォア宣言です。
英国はパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを約束しながら、
アラブとも同じようにパレスチナにアラブ人の国をつくることを約束したフサイン・マクマホン協定を締結しています。
第2次世界大戦において、ユダヤもアラブも味方につけるための二枚舌外交の結果ですが、こうした植民地政策がいまだに克服されていないわけです。

先のDVDで、バレンボイムとサイード(バレンボイムと一緒にラマラ・コンサートのきっかけをつくったパレスチナ人の文学批評家)の対話の中で、「ユダヤ人もアラブ人も同じセム民族だ」という語りがあります。
見方をかえれば、みんな同じなのですが、分けて考えるのが政治の常道です。

ちなみにイスラエルの国民の1/4はアラブ人だそうです。
国家さえなければ、ユダヤもアラブも平和に暮らしていたはずなのですが。
その事実は、ユダヤ人の製作した「栄光への脱出」でもはっきりと描かれていました。

さて、日本はどうなるのでしょうか。
100年後が気になります。

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2006/09/26

■互いを知らなければ、何も始まらない

昨日、バレンボイムのラマラ・コンサートのDVDを観ました。
このDVDについてはCWSコモンズで紹介させてもらいました
イスラエル人とアラブ人が一緒にオーケストラをつくり、両側で演奏を続ける話です。
クライマックスはラマラでのコンサートです。
エジプトの中野さんから勧められていたのに、なかなか観る機会がなかったのですが、昨日、イラクのことを書いたら急に見たくなって、夜、観ました。
その気になれば、時間などはいくらでもできるものです。
感想はCWSコモンズのほうに書こうと思いますが、ここではその中に出てくる言葉を一つだけ紹介したいと思います。
「互いを知らなければ、何も始まらない」

1980年代末のインティファーダ(パレスチナ人の住民蜂起)以来、イスラエルとアラブは敵対関係を強め、分断されていきます。
そのため、住民の交流はなくなっていきます。
そして相互に憎しみを植えつける教育が行なわれます。
このDVDに登場した、アラブの若い女性は、兵士でないイスラエル人を初めて見たと語りますし、ベートベンをオーボエで演奏するエジプト人を見て驚くユダヤ人の存在が語られたりします。
互いの暮らしを知らないままに、憎しみと恐怖だけが育ってきている状況が実感できます。
そして、イスラエル人とアラブ人が一緒に音楽活動をしていくうちに、お互いを理解し自らの意識が変わっていく様が見事に描かれています。
「互いを知らなければ、何も始まらない」
かみしめたい言葉です。

それにしても、音楽のパワーのすごさには、改めて感動しました。
聴く人を勇気づけるだけではありません。
演奏する人も勇気づけるのです。
故国、イスラエルで音楽賞を受賞したバレンボイムが受賞のスピーチをしますが、そこで彼はイスラエルの独立宣言を引用し、現在のイスラエルの占領政策に問題提起します。
それを受けた文化大臣は、明らかな不快感を述べますが、それを受けてバレンボイムはまた静かに語ります。
こんなに凄い音楽家がいたのです。
感動して声がでませんでした。
詳しくは中野さんの報告をお読みください
やれることがたくさんあるのにやっていないことの多い私としては、とても恥ずかしい気がしてきました。
まだきっと間に合うでしょう。
いや間に合うことをやればいいでしょう。
平和のためにできることは、誰にでもたくさんあるのですから

このDVDについては、中野さんからのメッセージをぜひお読みください。
そこに入手方法なども書いています。

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2006/09/25

■繁栄と平和における死者

イラクは復興しているのでしょうか。
昨日の朝日新聞に、「アフガンとイラクでの米兵死者、米同時テロ犠牲者を超す」という記事が出ていました。
AP通信の集計によると、ブッシュ政権が派兵したアフガニスタンとイラクの両戦争での米兵の死者数が2,974人になり、9.11事件の死者数(2,973人)を超えたそうです。
イラクでの死者は2,696人だそうです。

一方、イラクの民間人の死者は、7~8月の2か月間だけで6,599人だそうです(国連発表)。
毎月、9.11事件を超える死者がでているということです。
このことがなぜ問題にならないのか、残念です。
「人道上の支援」の欺瞞を理解しなければいけません。
日本の自衛隊は、こうしたことに「貢献」しているわけです。今もなお。

イラクの死者数をもう一度、考えて見ましょう。
毎日100人を超す民間人が不条理に殺されているのです。
彼らの死はコラテラル・ダメッジとして、片付けられているのでしょうか。
少なくともそこには、イラクでの生活者の視点は皆無です。

しかし、それに近い数の人が、日本では毎日自殺しています。
この8年の日本での自殺者は、平均すれば、毎日80人を超えています。

先週、東尋坊で自殺予防活動に取り組んでいる茂幸雄さんにお会いしましたが、茂さんから8月に起こった哀しい話を聞きました。
せっかく、茂さんたちが思いとどまらせたのに、自宅に戻って、結局自殺してしまった家族の話です。
茂さんの無念さが伝わってきました。

殺される死と死なざるを得ない死。
全く違うように見えて、そこに通底するものを感じます。
国家や制度に翻弄される個人です。
そうした動きに対抗できるのは、人のつながりしかありません。

イラクでの不条理な活動を開始したアメリカでも死者は決して少なくありません。
たとえば、餓死者の急増が予想されています。
2003年のデータですが、米国民の8人に1人(約3,500万人)が貧困状態で、その内1,300万人が子供だそうです。アメリカは先進国としては最大の貧困児童数で、寿命は最低という深刻な事態になっているという報道もあります。
ブッシュ政権になって以来、格差が拡大し、富める者はますます富み、飢餓に苦しむ貧者は増加しているそうです。日本もその道を進んでいるのかもしれません。

約3,100万人のアメリカ国民が、次の食事を入手する手段を持たない「飢餓状態」にあるという報道もあります。
もしこれが真実ならば、ブッシュが非難する北朝鮮とそう変わらないわけです。
そうしたことを背景にイラク攻撃が行なわれていると考えれば、9.11事件もイラク侵略戦争もマスコミ報道とは違った見え方がするように思います。

殺される死と死なざるを得ない死。
そして、ゆっくりと進む避けられない死。
それぞれ表情は違いますが、その不条理さにおいては同じです。

こうした不条理な死がなくなることが、平和の意味ではないかと思いますが、
現代の平和論は必ずしもそうではなさそうです。

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2006/09/21

■戦争を起こすのは簡単なこと

自民党総裁が決まりました。

メーリングリストでこんな言葉に触れました。
ヒトラーの右腕だったヘルマン・ゲーリングの言葉です。

「もちろん人々は戦争を欲しない。しかし結局は国の指導者が政策を決定する。そして人々をその政策に引きずりこむのは、実に簡単なことだ。それは民主政治だろうが、ファシズム独裁政治だろうが、議会政治だろうが、
共産主義独裁政治だろうが、変わりはない。反対の声があろうがなかろうが、人々が政治指導者の望むようになる簡単な方法とは・・・。
国が攻撃された、と彼らに告げればいいだけだ。それでも戦争回避を主張する者たちには、愛国心がないと批判すれば良い。そして国を更なる危険にさらすこと、これだけで充分だ。」 
 (森田ゆり著『子どもが出会う犯罪と暴力』NHK出版、34ページより)

困難な時期には必ずといっていいほど、こうした「愛国心」好きの、内容のない指導者が出てきます。
そして古代ローマは滅びました。
パンとサーカスにうつつを抜かしていた大衆は天の裁きを受けることになりますが、裁きの罪を償うのは彼らの子供や孫でした。
心が痛みます。
今日はテレビを見る気がしませんでした。

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2006/09/11

■9.11事件で何が変わったのか

衝撃的だった9.11事件から5年目です。
あの事件で何が終わり、何が始まったのか。
5年間の経過の中でいろいろのことが見えてきました。

しかし、残念ながら日本のマスコミはまだ相変わらず表層的な議論をしているだけのような気がします。
そこから始まったイラクの現実すら、日本では「消費的な」ニュース素材でしかありません。
イラク復興などという、体のいい口実での戦争への加担の真実も、
マスコミの商業主義の流れの中で依然、闇の中に葬られたままでいます。

しかし、ネットの世界では明らかになりだしているように、真実はいろいろと露呈されつつあります。
9.11の航空機のビル突入は米国政府の仕業という話が広がりだしていますが、
それもあながち荒唐無稽な話でもありません。
エルズバーグが暴露したペンタゴンペーパーが物語るように、同じような話はこれまでもあったのです。

真珠湾の再来か、などと語られた真珠湾攻撃事件もまた、
まさに米国政府が逆活用した事件だったという見方が強まっています。
「自衛戦争」の口実を与える事件を相手が起こすように仕向けたり、起こしたように偽装したりするのは、
米国に限りませんが、戦争を始める国の常套手段でした。
日本も同じような手口の使い手でした。

9.11事件での死者に哀悼をささげると同時に、
その事件を引き起こした対象をきちんと確認し、問題を勘違いしないようにしたいと思います。
靖国問題ですら、その違いもわからない人があまりにも多いのが寂しいですが、
そこをしっかりと認識しておかない限り、歴史はとめどもなく繰り返されるのです。
そうでなければ、死者はうかばれません。

ちなみにこんな集まりもあります。
911真相究明国際会議・東京。

歴史を動かす対立軸を間違わないようにしたものです。
私が考えている軸は、いつものことながら、個人対組織です。

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2006/09/04

■平和と戦争は同義語?

平和の結集をめざす市民の風という活動があります。
私もささやかに関わっていますが、もしご存じない方がいたら、そのホームページをぜひご覧ください
そして、出来れば活動にも参加してください。
個人のつながりの広がりで、党派を超えた平和の風を起こしていきたいという活動です。
いかなる政党活動からも自立しています。
ど真ん中にミュージシャンがいるので、私は安心して参加しています。
彼らが参加しなくなったら、私も脱会すると思いますが、ミュージシャンが考える平和は信頼しやすいです。
バレンボイムのラマラ・コンサートの例を持ち出すこともないでしょう。

ところが党派を超えた個人の集まりというのは、脆さと強さの両方を持っています。
そのネットワークの運営委員のメーリングリストがあるのですが、
そこで2週間前にちょっとした事件が起こりました。
おそらく不注意な人間的ミスによる間違った投稿が、
しかも運営委員ではあるはずのないアドレスから投稿されたのです。
私はよくあるミスだと思っていたのですが、それをめぐる難しい議論が展開されだしました。
そしてだんだん感情的な発言が出始めました。
見るに見かねて、そうした議論の危険性を投稿しましたが、議論というのは動き出すととまらなくなるものです。
話はどんどん広がり、そのやり取りに嫌気をさしてメーリングリストから抜ける人まで出てきてしまいました。
結果的には、さまざまな意見の素直な表明を経て、
問題はうまく収束し、ある意味では前進の契機にもなったのですが、
その経緯を見ていて、平和の崩壊はいとも簡単なことなのだと改めて実感しました。

戦争のきっかけはきっと瑣末な問題なのでしょうね。
しかも、それが表情を持った人のつながりのない無機質な情報空間での手続き的な議論を起点にして、どんどん対立の構図が拡大していく。
もし十分に拡大できない場合は、誰かがそれを加速する仕掛けをして、戦争を回避できないものにしていくのでしょうか。
メーリングリストでのやり取りに、戦争勃発のメカニズムを垣間見た気分です。
戦争回避を目指す「平和主義者たち」が戦争の引き金になってしまうこともきっとあるのではないかと末恐ろしくなりました。

平和活動の難しさをいま実感しています。
「平和」と「戦争」は同義語ではないかと、この頃つくづく感じます。

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2006/08/31

■イラク派兵の後遺症

憲法9条が変えられるかもしれない不安が、日に日に高まっています。
しかも、自分もその家族も戦場などには行きそうもない、愛国心など微塵もないであろう権力者たちがそれを主張しているばかりではなく、まず真っ先に戦場に送られて悲惨な目に合うだろう庶民の一員である若者たちが、それを加速している状況を見ると、本当に寂しくなります。
イラクに派兵するのであれば、まずは自分の息子をイラクに派遣することを考えてほしいですが、それも暴論でしょうか。
しかし、ノブレス・オブリッジ精神を少しは持ってもらいたいものです。
それでこそ、宰相といえます。
イラクに派遣された米兵が、帰国後健康障害を起こしている話は日本のマスコミではあまり報道されませんが、アメリカではいろいろと問題を起こしているようです。
日本でもきちんとした健康調査をするような働きかけの動きがありますが、イラク派兵は過去の話ではありません。
派遣された自衛隊員だけではなく、日本社会の健康への影響もきちんと検査すべきでしょうね。
後遺症は個人にだけ残るのではありません。
マスコミはあまり話題にしなくなりましたが、これからもきちんと関心を持ち続けていきたいと思います。

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2006/08/22

■イラクは平和になったのでしょうか

最近、イラクのニュースが少なくなりました。
平和が回復しているのでしょうか。
そんなことはないようです。
たとえば、昨日の読売新聞によれば、

イラクの首都バグダッドで20日、武装集団が、市北部のイスラム教シーア派聖地カジミヤ地区に向かっていた同派信徒を銃撃する事件が相次いで発生、AP通信によると、少なくとも20人が死亡、300人以上が負傷した。
そうです。

治安はますます悪化しているという人もいます。
イラクの復興のために私たちの税金は少しは役に立ったのでしょうか。
それとも逆にイラクの人たちの暮らしを壊すことに加担したのでしょうか。
それが今もってわかりません。
誰も説明してくれません。
イラクにいた自衛官たちが帰国後も何の発言もしないのも異様で、
本当にイラクに駐留していたのかどうかさえも疑いたくなります。
イラク派兵とは一体、何だったのでしょうか。

すべてがうやむやのうちに忘れられていく。
問題が多すぎるのかもしれません。
人の噂も75日といわれますが、私たちは多くの悲惨な事件や不条理の犯罪を75日単位で消費しているような気もします。
いやそうしなければやっていけないほどに事件や犯罪や問題が多すぎるのです。

それにしても、どうしてこんなに次々と問題が発生するのでしょうか。
事件や犯罪もまた「生産」されるようになったのではないか、とさえ思いたいほどです。

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2006/08/20

■イーハトーヴの平和と夏休みの効用

岩手に行っていました。
宮沢賢治のイーハトーヴの世界です。
イーハトーヴは、賢治にとっての理想郷でしたが、その言葉の意味とは違い、ネバーランドではなく、決して少なくない人たちの心象世界の中に実在した世界なのだろうと思います。
岩手の豊かな自然に触れると、そう思えてなりません。
賢治はおそらく、動植物はもちろん岩や土や水の流れ、風や太陽とも会話していたのだろうと思いますが、ここに来て自然と触れると、とても納得できます。

岩手の自然に触れて、もう一つ感じたのは、岩手の貧しい農民たちというイメージがなかなか実感できないことでした。
彼らは実際に貧しく、冷害に苦しみ、毎年雪を越すことで精一杯だったのでしょうが、それは過酷な自然状況のせいだったのでしょうか。
雪の深い岐阜高山の知人から、長い雪の世界が終わり一挙に梅も桃も桜も開花する春の到来の感激の話を時々聞きますが、雪深い岩手の世界でも、きっと毎年、その歓喜の春がみんなを元気にさせていたのではないか。そうやって元気付けられた人たちが、自然と仲良く暮らせていたのではないか。などと思ってしまうのです。
そんなに良いと思うのなら自分も転居したらどうかといわれそうですが、それは私にはできないでしょう。
人はそう簡単には転居できないものだということを最近痛感してきています。
人の生命は土に深くつながっているのを最近強く感じます。
そのつながりが切れた時に、もしかしたら悲惨な農民の物語が創られたのかもしれません。
事実に反するのかもしれませんが、そう思えてなりません。

賢治はなぜ自然と話ができたのでしょうか。
そして現代人の多くは、なぜその能力がなくなってきてしまったのか。
アイヌ民族はかつて「文字」を持たなかったが故に、暦や文化を伝承で伝えてきたが、文字を学んだことで、その記憶力や非言語コミュニケーション力が失われたということを子どもの頃学んだ記憶があります。
日本の地方に行くと、その自然の豊かさにいつも圧倒されるのですが、もし今もなお自然と話ができるままで生活していたら、今とは違った豊かさの指標を持てていたかもしれません。
人と人との平和の前に、人と自然との付き合い方や会話できる能力を回復することが大切なのかもしれません。

毎年の夏休みで、多くの人たちが、そして多くの子どもたちが、企業や学校から解放されて、自然と触れ合う夏休みの効用はきわめて大きいように思います。

みなさん、自然ときちんと話をしていますか。

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2006/08/19

■自分たちが実際に戦争に行くという実感が持てない

テレビを見ていたら、ある若者が「自分が戦争に行くという実感がもてない」と話していました。
唖然としました。彼にとっては、戦場での悲惨な情景は実生活につながっていないのです。
そうした若者が語る戦争や平和の話は、いったいどういう意味があるのでしょうか。

平和をテーマにしたあるテレビ討論会で、ある人が戦争の実感を持っていない若者たちに向かって
「戦争を体験してみろ」というような発言をしました。
これもまた唖然とする恐ろしい言葉です。
戦争を体験しないと語れない戦争や平和の話は、いったいどういう意味があるのでしょうか。

ともかく唖然とすることが多すぎます。
靖国の意味もほとんど知らないままに、
戦没者を慰霊することの何が悪いのかという発言も私には唖然としますが、
ともかく唖然とすることが多すぎます。
それもれっきとした学者や有識者、政治家が、です。
小泉チェルドレンといった雇われ政治家の話ではありません。
本物の政治家の話です。

靖国参拝支持か、不支持か。
9条改正反対か賛成か。
こうしたアンケート調査や世論調査結果がよく報道されますが、
その結果の数字はいくらでも操作可能です。
そんな実証データも、ネット世界では飛び交っていますが、
もっとみんな、自分の問題として平和や戦争の問題を考えていくことが大切なように思います。
そのための設問がとても重要になっています。
「あなた」を問わなければいけないのです。

あなたはレバノンの戦いに参加したいですか。
国を守るためにあなたは人を殺せますか。
国を守るためにあなたは自らを犠牲にすることを受け入れられますか。
あなたの加害者と同じ墓に入りたいですか。
どこかの国と戦いが始まったら、あなたは志願して戦いに行きますか。

国の平和と家族の平安と、あなたはどちらが大切ですか。

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2006/08/18

■銃撃されて死ぬ確率

ロシア国境警備隊の銃撃を受けて、日本漁船の乗組員が死亡しました。
たとえ領海を侵犯した密漁であっても、銃撃されて殺される状況はなぜ起こったのでしょうか。
思い出すのは「発砲率」の話です。
米国陸軍に23年間奉職したデーヴ・グロスマンが書いた『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)に出てくる恐ろしい話です。

「発砲率」とは米軍で使われている用語ですが、
兵士が実際に敵と対峙した時に敵に向かって銃を撃っているか、という割合です。
どのくらいだと思いますか。
彼の調査によれば、南北戦争から第2次世界大戦まで、「発砲率」は15~20%で、ほとんど一定だったそうです。
つまり、80~85%の兵士は、自分の命が危ない時でも、敵を狙って発砲していないのです。
ではどうしているか、違った方向に向けて発砲したり、威嚇しあって発砲しなかったり、という事例が多いようです。

とても安心します。
人間だけが、仲間を無意味に殺す生物だと教えられてきた私にとっては、
この文章に出会えた時には、やはりそうだったかととても安堵したことを覚えています。

ところが、その後の記述が恐ろしいのです。
こうした事実に気づいた米軍は、発砲率を高める研究を行い、実践します。
そして、ベトナム戦争以後は、発砲率は95%に劇的に高まったといいます。
私の安堵感は逆に大きな失望感に変わったことは言うまでもありません。
以来、このおぞましい話は記憶から追いやっていました。
今回の事件で、その話を思い出しました。

この本の原題は、正確には「戦争と社会における・・・」になっています。
そして、実はこの研究成果は兵士の軍事訓練だけではなく、社会全体に展開されているような気がします。
それが、私がおぞましいと思った理由です。
加担しているのはマスコミと産業界、とりわけエンターテイメント産業です。
映画やゲームを思いだせば、わかってもらえるでしょう。
第一次洗脳を受けた人たちが、今度は洗脳する側に回っているという恐ろしい構図も感じられます。
この本を読んだ直後に、このブログでも北野たけしを批判した記事を書きましたが
彼などもまた洗脳を受けた典型的な人物だと思います。

少し考えすぎかもしれませんが、この視点で見ていくと、世界の動きが奇妙につながって見えるのです。

盛田さんはなぜ射殺されたのか。
私がいつ同じ境遇に出会ってもおかしくない社会になりつつあるのかもしれません。
生物としての人間は滅びつつあるとさえ思えてなりません。

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2006/08/17

■エレン・ワタダ中尉が生まれる素地

今年は終戦記念日や原爆投下日に前後して、
新聞がかなりしっかりと平和や戦争の問題を連載で追いかけているような気がします。
気のせいでしょうか。
それだけ事態が緊迫していることの現れでしょうか。
平和に関する市民の集まりも増えています。
しかし、その一方で、加藤紘一議員の実家が放火されるなど、
現実の動きはますます加速されているようです。

今日、ある人が、エレン・ワタダ中尉が8月14日に開かれた
「平和のための退役軍人全米大会」でスピーチしたニュースのサイトを教えてくれました。
ワタダ中尉は、「違法な戦争と違法な兵役拒否」で書いたように、
イラク派遣を拒否下アメリカ軍隊の将校です。現在、軍法会議にかけられています。
彼のスピーチに対し、会場からは総立ちの拍手喝采が送られたそうです。

日本の自衛隊にはこうした動きが全くありません。
恐ろしいほど静かです。
イラクでの真実をぜひ聞きたいものです。
私たちの税金で派遣されたのですから、良くも悪くも見てきた真実を語りだしてほしいものです。
過去を語るのもいいですが、いま起こっている現実を直視することも大切です。

エレン・ワタダ中尉が生まれる素地のあるアメリカと、日本はどこがちがうのでしょうか。
私たちの意識の違いかもしれません。

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2006/08/15

■終戦記念日の迎え方

終戦記念日です。
その日の最初の大ニュースが首相の靖国参拝でした。
予想していたこととはいえ、何か大切なものを汚されたような不快感が残りました。
靖国の真実は、きちんと公開されなければいけないと思いました。
「知の非対称」が人の意識を乱し、争いや戦いを起こします。

しかし、小泉首相のおかげで私は今日が終戦記念日であることを強く意識できました。
どんなことにも「良い面」はあるものです。
今日は1日、終戦記念日であることを意識してすごしたいと思います。

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2006/08/13

■旅客機爆破テロ未遂事件とイスラエル非難決議

降って沸いたような「米国行き旅客機爆破テロ未遂事件(英国テロ事件)」の報道を載せた同じ新聞紙面に、「国連人権理事会、イスラエル非難決議を採択」という記事があります。
この2つの事件は無縁ではありません。
いや、最近の動きを見ていると、犯人も同じなのではないかなどと妄想したくなります。
不謹慎を承知で書けば、英国テロ事件の真実味を実感できないのです。
歴史の真実は本当に見えにくいです。

それにしても世界は混乱度をますます高めています。
ソーシャル・キャピタルが経済にどう寄与するかという問題設定ではなく、ソーシャル・キャピタルの喪失が経済をどう破壊するかという議論をしなければいけないような気がします。
全社の議論には経済界は無関心でしたが、そろそろ真剣に考えだすかもしれません。
信頼を壊すことで成長する経済パラダイムからそろそろ抜けられるかもしれません。
今回の英国テロ未遂事件は、考えれば考えるほど、興味深い事件です。
誰が仕掛けたのでしょうか。

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2006/08/11

■靖国神社宮司の人間観

靖国神社強制合祀への起訴が行われました。
テレビで裁判になったのは初めてだといっていますが、こうした動きはこれまでもありました。
私が思い出したのは、1973年の自衛官合祀拒否訴訟です。
ちょっと事情は違う訴訟ですが。
自衛官だった夫が公務中に死亡。自衛隊が妻の意志を無視して殉職自衛官として靖国神社の分身である山口県護国神社に英霊として合祀されたことを拒否した憲法裁判です。
原告は私と同じ年の女性ですが、数々の脅迫にもめげずに、裁判を続け、1982年の二審(広島高裁)で勝訴しました。
この事件は靖国が過去の問題ではなく、いまなお現実の問題として存在することを示しています。
靖国神社(護国神社)の人間観は「英霊思想」であり、国民を国家の道具(付属物)と考えています。
彼らにとっては、死者は自らの権威付けや権力拡大の道具でしかないと思えてなりません。
そもそも英霊思想とはそういうものなのです。
私にはおぞましい似非宗教犯罪団体とどこが違うのかよくわかりませんが、死者を人間として寓しない神社の存在と日本神道とは似て非なるものに思えます。
私は神社が大好きで、そこにいるだけで心洗われる気分ですが、靖国神社や護国神社はなぜかそこに入っただけでおぞましい気分に襲われてしまいます。
土地の記憶のパワーを感じます。
本殿の前に立つと伝わってくる霊気が違います。

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2006/07/10

■テポドン騒動

テポドン騒動では友人からどう思うかというメールが来たり、またいろいろなメーリングリストで賑やかな話題が送られてきたりしていますが、私にはどうしても瑣末な問題にしか思えません。
どこに危険性があるのでしょうか。
全く理解できないのです。
あの程度の核兵器であれば、アメリカにとってはおもちゃのようなものでしょうし、その実験をするからといって、それがどうしたという話です。
かつてフランスが核実験をした時に世界の世論は盛り上がりましたが、それに比べれば、どうでもいい程度の実験です。
現にインドも9日にミサイル実験をしています。
なぜそれは問題にならないのでしょうか。
北朝鮮が当事者だから問題というのであれば、少しはわかりますが、まあそれでもブッシュや小泉とさほど違いがあるわけでもありません。
過剰な騒ぎには何か背後に意図を感じます。
この騒動で誰が得をしているのでしょうか

これに関しても、ネットでは面白い情報がながれています。
それらを読むと世界の見え方が変わってきます。
いずれが正しいかではなく、固定観念で世界を見るのは止めたほうがいいようです。
しかし、それが難しい。
人間はまさに「作られた意識の集合体」なのかもしれません。

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2006/07/09

■イラク事件はまだ終わっていません

イラク事件はまだ終わっていないようです。
北朝鮮情報もそうですが、ネット配信される様々な情報を読んでいると、日本のマスメディアの情報とあまりにも違う話題が飛び交っているので、戸惑いがあります。
今回はちょっと気になっている話題のうちの一つを紹介させてもらいます。

イラク西部の町ラマディで、あのファルージャ虐殺のような活動が進められているのだという情報があります。
高遠菜穂子さんや、JVC、PEACE ON などイラク支援に携わる個人や団体でつくっている「イラクホープネットワーク」が、その惨状を見かねて、ブッシュ大統領に攻撃停止を訴える署名集めを始めています。

詳しくはイラクホープネットワークの記事を読んでください。
ついでに次のサイトも読んでもらえるとうれしいです。
http://iraqhope.exblog.jp/5206129/

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2006/06/27

■得をするのはだれか

探偵小説の犯人探しでは、その事件で得をした人を探せといわれます。
実際の事件はそれほど単純ではありませんが、事件を解く時のひとつの視点であることはまちがいありません。

テポドン騒動で一番利益を受けているのは誰でしょうか。
私は、ブッシュ政権と小泉政権だと思います。
金正日は、その2人との指示のもとに動いていると考えてみたら、どうでしょうか。
つまりこの事件は、最初から仕組まれた「日米政府主導の演出」だったというわけです。
そう考えるとさまざまな問題が納得できるような気もします。

では、9.11事件はどうでしょうか。
主犯はブッシュ政権とする見方がありますが、仮にそうだとして考えて見ましょう。
いろいろなことがつながってきます。
これについては、Spiritual Peace Musicianの池邊幸惠さんのサイトに興味ある記事のPDFがリンクされています。

また、本日6月27日発売の週刊誌「SPA!」にきくちゆみさんが、書いています。
きくちゆみさんのホームページもぜひご覧ください。

ちょっと視点を変えると世界は違った風景になります。
セロのマジックのような大きなマジックが、もしかしたら世界を覆い始めているのかもしれませんが、事の真相は意外と簡単なのかもしれません。

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2006/06/11

■違法な戦争と違法な兵役拒否

一昨日、テレビで米軍将校のエレン・ワタダさんがイラク派遣を拒否したニュースを見ました。
その声明を、ジャーナリストの今井恭平さんの翻訳で読ませてもらいました。
今井さんは翻訳していて涙が出てきたといいます。
ちなみに原文は、次のサイトにあります。
http://thankyoult.org/index.php?option=com_content&task=view&id=22&Itemid=9

以下は、その中に出てくるワタダ中尉の言葉です。

「私は将校に就任するとき、アメリカの法と民衆を守ることを宣誓しました。 違法な戦争に参加せよとの違法な命令を拒むことにより、私はその宣誓に従います。」

いろいろ思うことがあります。
私が真っ先に思い出したのは、あのランディ・キラーのスピーチです。

いずれも現実に起こった話です。
アメリカはコスタリカではありませんから、彼のこれからは厳しくなるでしょう。
コスタリカはサッカーではドイツに負けましたが、愛国心の強さでは世界で最も誇りえる国ではないかと思います。
私には今のワールドカップが、巧妙に仕掛けられたわなのように思えてなりませんが、まあこれは被害妄想でしょう。


ワタダ中尉の声明に自らを反省していたら、さらに恐ろしいメールが飛び込んできました。
要約すると以下のようになります。

CIAにいたレイ・マクガヴァンが暴露したブッシュ政権の戦争計画によれば、遅くも10月頃までに、ブッシュ政権が、イラクに大規模攻撃を仕掛け、侵略戦争を西アジア一帯に拡大する。それに先立ち、ブッシュ政権は、攻撃の口実を作るために、再度9・11事件のような大規模「テロ攻撃」をイランの仕業に見せかけてアメリカかヨーロッパのどこかで仕掛けるだろうとマクガヴァンは警告している。

コメントは差し控えます。

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2006/04/07

■繰り返し「軍縮問題資料」のお薦め

「今月の軍縮問題資料」の特集は「憲法と私」です。
憲法学者でもこの分野でのオピニオンリーダーでもない4人の人がとてもいい寄稿をされています。
それぞれに説得力のあるメッセージです。

護憲にしろ改憲にしろ、憲法をきちんと読んで議論すべきだと思いますが、
改憲論者はもとより、私の周りの護憲論者でさえ、本当に憲法をきちんと読んでいるのか、
あるいは真摯に読もうとしているのか、の疑問を感ずることは少なくありません。

以前、平和に関するメーリングリストに、武田さんの「赤ペンを持って憲法を読もう」という本の紹介をしたら、
それだけで、憲法にけちをつけるのかと数名の方から叱られました。
とても信頼していたメーリングリストでしたので、がっかりしました。
護憲のための護憲論者は改憲論者と同じ穴の狢だと私は思うようになりました。
憲法を議論するのであれば、しっかりと読まなければいけません。

そうしたことが今月号の特集で改めて実感させられました。
巻頭の品川信良さん(セミナー「医療と社会」代表)は、各国の憲法をきちんと読まれている経験からも、
前文と第1条をきちんと読めば、その国がわかると書いています。
とても共感できます。日本憲法の第1条は何だかご存知でしょうか。

特集ではありませんが、先の横浜事件再審判決に関する内田雅敏さんの文章も皆さんに読んでもらいたい記事です。
私の法曹界不信感を少しは理解してもらえるかもしれません。

この本は年間購読料1万円です。
とてもコンパクトで内容のある雑誌です。
何回も書いてきましたが、ぜひ皆さんにも購読してほしいと思います。
次のサイトにメールすれば申し込めるはずです。
http://www.heiwa.net/

歴史を変えていくためにも、ぜひ皆さんの購読をお願いします。


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2006/01/29

■平和へのさまざまな思い

今日、「平和への結集」を実現する会の準備会が開催されました。
なし崩し的に壊されてきた日本の平和憲法が、小泉首相による「無血クーデター」以後、ますます無視されだして、ついに「改憲」までが現実の話になりだしていますが、この状況を変えたいと思う人たちが集まったのです。
昨年12月に7人の人たちが呼びかけを開始しました。
そして現在、260人を超す人たちが呼びかけ人や賛同者として登録しています。
私は最初の呼びかけ人の一人である、小林正弥さんからのお誘いで呼びかけ人にさせてもらいました。
私が小林さんたちの活動に始めて参加させてもらったのは、2003年の12月です。

今回もさまざまな人に出会いました。
これに関しては、CWSコモンズのほうに書き込みますが、ここでは改めて感じたことを書いておきたいと思います。
こうした「平和」への動きは、今のマスコミはほとんど取り上げませんので、どうしても動きはなかなか見えません。
しかし、まさにリゾーミックに広がりだしていることを実感したのですが、参加者は圧倒的に中高年以上の男性が多かったのが気になりました。
本来的な意味での「平和」への関心は、きっと女性のほうが高いと思いますし、
時間軸で考えれば「平和」戦略の影響の受け方は若者のほうが高いはずです。
憲法が変えられて軍隊ができれば、戦場に狩り出されるのは若者たちです。
いまの男女共同参画の発想で言えば、女性も含まれるでしょう(そこに今の男女共同参画政策の間違いを感じます)。

なぜ女性や若者は来ないのか。
「ピース」という言葉は、若者や女性を引き付けるワクワクする明るさを感じさせるようですが、
「平和」はそんな言霊を持っていないのでしょうか。
たしかに「平和」という言葉には、皮肉なことに正反対の意味合いすらある両義性があります。
国家の平和が生活者の平穏な暮らしを破壊することによって成り立つことに関しては以前も何回か書きました。
その実例は今もイラクやアフガニスタンで展開されています。
日本国民も「イラクの平和」のために、自衛隊の派兵を認めてしまっています。
そのおかげでどれだけの人たちが殺されてしまっているのでしょうか。
しかし、「平和」という言葉によって、その事態は覆い隠されています。

平和を掲げて運動を展開してきた側はどうでしょうか。
昔は内ゲバ、最近の事例では、名護市市長選のように、平和を掲げながら争いを繰り返しています。
平和を掲げる政党もまた、平和に対する認識は人々の平穏な暮らしには少し遠いところにいるように思います。
その意味では、小泉自民党と同じ次元かもしれません。
平和の裏側にあるものをどうしても感じざるを得ません。

今回の集まりもまた、どうしてもこれまでの平和活動を背負った人たちが多いために、
いわゆる「平和活動」の呪縛からなかなか抜け出るのが難しいような気がしました。
しかし、集まった人たちは、まさにそうしたことへの反省から、今回は集まったのです。
みなさんの発言のなかに、優しさも感じましたが、
この動きを単なる政争の具にしないような工夫が必要だと思いました。
私の平和活動は、「大きな福祉」を理念とするコムケア活動です。
平和という言葉を使わずに、みんなが気持ちよく暮らせる社会を実現したいと思っていますが、
しかしそうした態度ではだめだとニーメラーは教えてくれています
読売新聞の渡邊恒雄さんのような間違いは犯したくないものです。

ともかく私に何ができるか考えたいと思います。
平和に向けてできることはたくさんあるのですから
またCWSコモンズのお知らせコーナーでお誘いをしますので、よろしくお願いいたします。

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2006/01/18

■平和のためのコミュニケーション学

先日、「平和のための経済学」という本をCWSコモンズで紹介しました。
その時はあまり意識しなかったのですが、あえて著者が「平和のための」と銘打っているということはこれまでの経済学は何のための学問だったのだろうかということです。実はこれに関しても、この本で著者の川本さんはきちんと考えを説明していますが、この数十年、学の目的が揺らいでいることは間違いありません。そのためにさまざまな醜聞も含めて、学の世界はおかしな状況に向かっているように思います。そこをしっかりとしない限り、教育改革などは実際にはできないはずですが、最近は「ともかく改革」という風潮が広がっていますので、学の目的などは多くの人には興味のないことかもしれません。目的が曖昧な改革は誰かに利用されるだけなのですが。

ところで、たまたま最近、平和に関するメーリングリストで面白いやりとりがありました。面白いといっても内容ではなく、あるテーマに関して議論が始まったのですが、だんだん議論が感情論になってしまい、メールのやり取りをすればするほど、関係者の溝が深まり広がってしまうような状況が生まれたのです。
平和に関するメーリングリストのメンバー同志だったので、ぎりぎりのところで対話が成立し、結果的には相互理解が深まる結果になりそうですが、そこで飛び交った「言葉」はかなり厳しいものがあり、横で読んでいてはらはらしてしまいました。
コミュニケーションにも「平和のためのコミュニケーション学」が必要だと思いました。
しかし、コミュニケーションとは相互理解を深めることですから、本来、コミュニケーションの目的は平和状況の創出であるはずです。にもかかわらず、コミュニケーションは必ずしも平和にはつながらないということを垣間見たわけです。
それはコミュニケーションが成り立っていないだけの話だろうといわれそうです。確かにそうですが、しかし現実にはそうした「コミュニケーションが成り立っていないコミュニケーションまがい」が世の中には横行しているように思います。ここでも「コミュニケーション」とは何かという問題がポイントになりますが。

古い話ですが、東西冷戦時代に「エスカレーション理論」というのがありました。ハドソン研究所のハーマン・カーンが主張した核抑止力理論です。相手よりも大きな核戦力を持てば、相手が攻撃してくるのを防止できる。これが米ソの核戦力競争になっていき、どんどんと核戦力規模はエスカレート(拡大)していくわけですが、それをどう効果的に洗練させていくかが、コミュニケーション研究の目的だったわけです。
この考え方は、国際政治だけではなく、国内政治はもちろん、たとえば企業広告の世界でも重視されていたと思います。
ところが、これとは全く発想の違うコミュニケーション理論もあります。
コミュニケーションの出発点は自らの弱みを見せることであるという発想、あるいはまず自らが相手を信頼して共通のビジョンに向けて一歩踏み出すという発想です。国際政治の世界でいえば、オスグッド理論というのがあります。一方的削減(オスグッド理論)による軍縮である。まず自らが軍縮することにより相手からの信頼を高め、相手の軍縮を引き起こすという、一方的削減、つまりデスカレーション理論です。
平和に向けてのコミュニケーション戦略もベクトルの異なる二つの戦略があるのです。これは企業広告の世界でも同じです。これに関しては、「企業変革のためのコミュニケーション戦略」に以前少し書きました。そこでは「コミュニケーションとは何か」に関しても私見を述べています。

長くなってしまいましたが、最近のさまざまなコミュニケーション状況を見ていると、相手を支配する「暴力的なコミュニケーション」が重視されてきているような気がしてなりません。
平和のためのコミュニケーション学。そんなことをきちんと考えている人があれば、ぜひ教えてくれませんか。面白いテーマなので、どなたか研究会をやりませんか。

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2006/01/15

■コラテラル・ダメッジへの不感症

アルカイダのナンバー2のアイマン・ザワヒリ氏がパキスタンで米国の爆撃を受けて死亡したかもしれないというニュースが昨日流れました。
その爆撃で民間人を含む20人近くの人が死亡したということです。
しかし、翌日になって、ザワヒリ氏は死亡者の中にはいなかったと発表されました。
テレビでも報じられていましたが、とても気になるニュースです。

まず、いずれのメディアも「ザワヒリ容疑者」と表現しています。
確かに彼は一連の国際テロのへの関連が濃厚ですから、まさに容疑者なのかもしれませんが、その言葉で、彼を襲撃することが正当化されてしまっているようで怖いです。
いうまでもありませんが、容疑者はあくまでも容疑者です。
爆撃での殺傷が正当化されるとは思えません。
しかし、9.11事件の後、私たちはそうした過剰対応に馴染んできてしまったように思います。
そのせいで殺された無実の人の数はどのくらいいるでしょうか。

そして、それに重なりますが、その襲撃で10数名の民間人が殺傷されているということです。
いわゆる「コラテラル・ダメッジ」です。
これについては数年前にCWSコモンズで書いたことがあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1013

容疑者になること、容疑者として裁きを受けずに殺されること、その巻き添えになること。
これらはいつ私の身に起こってもおかしくないことです。もちろんあなたの身にも、です。
実にやりきれない時代です。
しかし、多くの人はまさか自らがコラテラル・ダメッジの対象になろうとは想像しないでしょう。
むしろ自らの利益を守るためのコラテラル・ダメッジだと考えがちです。
それに、想像力の広がりは多くの場合、自らに都合のいい方向にしか広がりませんし、不幸と無縁に生きてきた人には思いもよらないことかもしれません。

人間をもコラテラル・ダメッジの対象にしてしまう社会は、やはり変えていかなくてはいけません。
どうしたら変えていけるのか、難しい問題ですが、私たちはどうもコラテラル・ダメッジに対して感覚を麻痺させてきているようにも思います。
自らを生贄に奉げる覚悟があれば別ですが、そうでないのであれば、やはりここは真剣に考えるべき時期ではないかと思います。

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2005/11/18

■憲法は9条だけでいいという永六輔さんに共感します

私が最も愛読している雑誌は、前にも書いたように「軍縮問題資料」と言う月刊誌です。隅から隅まで読む唯一の雑誌です。年間1万円で、軍縮市民の会に入会すると毎月送られてきます。書名が難しそうな印象を与えますが、内容はとても読みやすく、刺激的です。

この雑誌は一度廃刊されそうになったのですが、読者の応援ですぐに再刊されました。まだ経済的には安定していないようです。
年間1万円で、世界の平和に寄与できますから、皆さんもぜひ購読してください。価値観の違う人もいるでしょうが、マスコミ情報では見えてこない側面が見えてくることも少なくありません。ぜひ購読していただけるとうれしいです。
申し込みは次のサイトからできます。
http://www.heiwa.net/
上記のサイトに目次が出ていますので、この雑誌の雰囲気が分かってもらえるかもしれません。

今月号では、憲法を愛する女性ネット代表の久保田眞苗さんの「われら世代から一言、戦前と戦後は別の世界か」から教えられることが多かったです。
映画監督の篠田正浩さんの「大義、イデオロギーくそ食らえ 気持ちよく暮らそう」には半分違和感をもちながらも半分は共感できました。

一番の気づきは、永六輔さんの「憲法は第9条だけでいい 私の改憲論」です。
永さんは、憲法は第9条だけでいい。それも、もっと簡単に「戦争はしない」というだけでいいと言っています。なるほど、そういう憲法であれば、みんなの拠り所になりますね。難しい議論もいらなくなります。
永さんは。30年も前に、ラジオで憲法を全文朗読したことがあるそうです。生放送で2時間半かかったそうですが、「いかに読みにくいか」がわかったと言います。あれは文章としてはめちゃくちゃだと言います。
これに関しては、武田文彦さんの「赤ペンを持って憲法を読もう」を読むと、いかにめちゃくちゃかがわかってもらえるはずです。

しかし文章としてめちゃくちゃなのは憲法に限らず、ほとんどすべての法律も同様かもしれません。それは「法解釈」の余地をできるだけ多くしておきたいという、統治側の意図が根底にあるからです。
「戦争はしない」というのは、文章としては明確ですし、素直に生きているほとんどの生活者には納得できる文章です。
もちろん、「戦争」とは何か、が問題になるでしょうが、これは誰でも議論できるテーマですし、その議論はとても大切な意味を持っていますから、むしろいいことだと思います。
永さんの意見に共感しました。

それでどうするの、と言われると応えられないのが残念ですが。

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2005/10/21

■内政干渉って何でしょうか

小泉首相に続いて靖国参拝をした国会議員がテレビの取材で、
靖国参拝に対して海外から批判があるが、と聞かれて、
それは内政干渉です、と言う回答をしていました。
内政干渉って何でしょうか。

もし世界がつながっているとしたら、厳密な意味での内政は存在しません。
イラクに軍隊を派遣するのは内政干渉ではなく、自分たちへの侵攻戦争を仕掛けた人を讃えることを批判することは内政干渉だというのは、どう考えても理解できません。もっとも発言していた彼女も理解してはいないのでしょう。
少しでもまともな知性を持っている人であれば、受け答えは違ってくるはずです。知性とは相手を理解することですから。

町村外相は、やはりインタビューで、中国との話し合いの懸念が出ているがどう思うかという質問をさえぎって、誰がそんなことを言っているのか、と切り捨てました。その言い方が、いかにも余裕のない居直り態度でしたが、ここにも知性は微塵も感じられません。権力を持つと、人はこんなにも変わるものかと言うのが町村さんを見ているとよくわかります。

フセインの裁判が始まりました。
それが終わったら、今度はブッシュと小泉の裁判でしょうか。
そうならないのが私にはとても不思議です。

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2005/08/19

■ガザに象徴されていること  

ガザ地区からの入植者の撤退は強制排除という不幸な状況になっています。当然予想されたことですが、政治家にとって国民とは何かが象徴されています。
いまや近代国家のフレームは、その有効性をほとんど失ってきているように私は思いますが、企業経営者や政府指導層にとってはまだ大きな利益創出装置なのでしょう。
イスラエル建国の話を映画化した「エクソダス」という映画で、パレスチナの地で仲良く暮らしていたアラブ人とユダヤ人がイスラエル建国の家庭で殺し合い関係になって様子が描かれていましたが、もし国家という枠組みさえなかったら、ガザでも仲良く共存していくことができたはずです。「イラク復興」に見るように、国家という枠組みが持ち込まれた途端に、状況は変わっていくわけですが、不思議なのはその対立構図が、国家間の横関係で起こることです。その背景には、国家は個人を守ってくれるという、全く根拠のない信仰があるためです。本来の対立構図は、国家や企業と個々人の生活なのです。やや極端にいえば、人間と制度の対立なのです。映画「マトリックス」の世界です。

ガザの映像を見ていると、なぜか十字架のイエスを思いだします。
ユダはなぜイエスを裏切ったのか。
ユダの裏切りで、イエスは自らの所業を成し遂げられた、とヨハネ福音書には書かれているそうですが、ユダは善意の政治家だったのかもしれません。しかし、展望の不確かさ故に、政治面では失敗しました。

政治家たちの展望は、いつも発想の起点を間違えています。ですからほとんどが失敗します。
汗している住民たちの暮らしから発想しない政治は、住民たちには不要の産物です。
しかし不幸なことに、社会は汗しない人たちによって管理されがちです。彼らは暇だから、管理に時間を割けるのです。

入植した荒地で苦労してきたイスラエル人の悔しさが、パレスチナ人に伝わるといいのですが。そこから暮らしの連帯ができれば、平和はすぐそこにあります。平和は政治の交渉からはではなく、暮らしのつながりから生まれます。しかし、パレスチナにはハマスがあります。うまくいかないものです。
平和を目指す仕組みが、実は平和を壊す仕組みに転化しやすいことを、心しなければいけません。
ガザの光景はたくさんの事を気づかせてくれます。

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2005/08/16

■「愚直なまでの平和政策」ですって?

最近、このブログを書こうとするとどうしても政治の話になってしまいます。
どうしてこうもひどいタレント政治家が我が物顔にテレビを独占しているのでしょうか。付け焼刃で勉強したキャスターや司会者の迎合的な質問にもあきれますが、政治家自身の人格に疑問を感じます。高市さんも「刺客」になったようですが、こういう人たちが社会をだめにしていくのでしょう。社会にとってもっとも大切なのは、人としての生き方であり、誠実さと人間性だと私は思っています。郵政民営化はその先の問題です。郵政民営化と民営化法案を意図的に混同して問題の本質を覆い隠している人たちの多さには悲しさを感じます。

まあ、そんな愚痴をいくらこぼしても意味がないわけですが、昨日のテレビは、実はまた最後の1時間を見てしまいました。若者はやはり素晴らしいと思い直しました。やはり我々の世代がいなくなれば、きっといい時代が来るのでしょう。

しかし恐るべき発言もありました。町村外相の発言です。日本の学校で近現代史をきちんと教えないのは、教師がマルクスレーニン史観で教える恐れがあるから、教えないようにしていたのだ、という主旨の発言をしました。それこそが偏向教育であることに気づいていません。権力の走狗とはこういう人を言うのでしょうか。自分では発言の意味がわかっていないようでした。
その町村外相が、日本は「愚直なまでに」平和政策を貫いてきた、と発言しました。どう思われるでしょうか。もしお時間が許せば、ぜひ田中伸尚さんの岩波新書の戦後史3部作をお読みください。「憲法9条の戦後史」「靖国の戦後史」「日の丸・君が代の戦後史」の3冊です。

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2005/08/15

■戦争で死んだ人は英霊になってうれしいのだろうか 

NHKで、「アジアの中の日本」に関する長い話し合いの番組がありました。視聴者参加番組です。会場には50人くらいのさまざまな人が参加していました。アジア各国の若者も多かったです。桜井よしこさんや寺島実郎さんや町村外相も参加していました。

日本はますます80年前の道を歩みだしたなと改めて失望しました。
もちろん、いくつか共感する意見もありました。たとえばある若い女性は、沖縄の戦没者の慰霊碑のような場所にこそ、首相は行ってほしいと涙ながらに発言しました、私も現地でそう思ったことがありますが、つられて涙が出そうになりました。安達さんという女性教師は靖国問題で桜井さんの発言を真っ向から遮りましたが、これにも拍手を送りたかったです。寺島さんは東条英機の遺言を引用して、もっと未来を見据えて本質的な議論をしようと示唆しましたが、桜井さんの瑣末な邪魔が入って思いは実りませんでした。全体を通して桜井さんの発言にはがっかりしました。理屈にもならない理屈が多かったように思います。いや、理屈だけの人なのでしょうか。

女房ともども、今まで見てしまったのは、ある高齢者の発言に感動したからです。
その人は、盛り上がっている議論に水をさすかもしれないといいながら、私の戦友たちは決して喜んで死んでいってはいない。そして彼らは靖国などで英霊として祀られることを望んでなどはいないと思う。ただただ、二度とこんな無意味な戦争で死ななければいけない人が出てこないことを願っていると思う、と言うようなことを、もっと感情を込めて、感動的な表現で語ってくれました。涙が出ました。残念ながら、その発言は発展させられませんでした。とても残念です。

それにしても、死者の視点が全くない議論にはいつものことながら哀しい気分がします。

この番組を見ていると、何かとても暗い気分になってしまうので、ニュースが入ったので見るのをやめてしまいました。
この番組は、もしかしたら軍国化に向けてのNHK戦略の一つかもしれません。あるいは小泉内閣への応援歌かもしれません。私もすっかり乗せられてしまったのかもしれません。
選挙はきっと小泉圧勝ですね。これだけのメディア動員力があれば国民はだまされてしまうでしょう。

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2005/08/06

■広島宣言と小泉言動  

広島被爆から60年です。
記念式典での市長の広島宣言と首相の話をテレビで見ました。
小泉首相がこの席にいることに、私はかなりの違和感を持ちますが、気のせいか、小泉首相の目は落ち着きがなく、言葉にも力がありませんでした。もちろん内容はいつものことながら空疎でした。
小泉首相は、秋葉さんの言葉や子ども代表の言葉を、どう聴いていたのでしょうか。
きっと何も感じていないでしょうね。

日本は小泉内閣の下で大きく非平和に向けて舵を切りました。
歴代内閣の延長線でしかないといえるかもしれませんが、大きく変質したのは間違いないように思います。壊したものはなかなか戻りません。

いつものことながら、
沖縄平和祈念資料館に書かれていた言葉を思い出しました。

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2005/07/25

■不信感の増幅という「冷たいテロ」の予感

ブラジル人誤射事件は不幸でした。
それぞれにたぶんかなり納得できる理由があると思います。
その基本にあるのは「不信感」です。
一度生まれてしまった不信感はなかなか消えません。そして、どんどん増幅されていきます。安全安心のコストは乗数的に増大し、過剰防衛が過剰攻撃を生み出します。その行き着く先は破綻しかありません。

問題は、今回の無縁の若者の不幸は、実はすべての人に無縁ではないということです。いつ私に起こってもおかしくないということです。問題は不気味なほどに身近なのですが、おそらくほとんどの人はまだ遠くにしか感じていないかもしれません。

9.11事件、そしてロンドン地下鉄爆破事件。そこで死傷された人たちの数も決して少なくありませんが、もっと大きな被害はその事件が創出した「不信感」ではないかと思います。それは「冷たいテロ」といっていいかもしれません。まだあまり実感はできないかもしれませんが、「熱いテロ」よりも恐ろしい気がします。
世界が静かに壊れだしている、そんな不安がぬぐえません。
自爆テロとは、実は社会そのものを支えている信頼感を壊してしまうことなのかもしれません。
「21世紀は真心の時代」と考えていた私の思いは、完全に逆方向へと動き出しています。「冷たいテロ」はすでに日本社会に静かに広がりだしているのかもしれません。
それに抗して生きていかなければいけません。
大切なのは、隣人を信ずることです。たとえだまされたとしても。

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2005/05/08

■世界の平和を知るための雑誌「軍縮問題資料」が復刊されました

4月で休刊となった「軍縮問題資料」の復刊予告号が届きました。
休刊を惜しむ人たちの尽力で、月刊誌としての復刊が実現したのです。
7月号からまた書店にも並ぶそうです。
この雑誌については、CWSコモンズのホームページで何回か紹介しましたが、私がもっとも愛読していた雑誌です。
書名は硬いですが、中身は読みやすいです。
1年間の購読料は約1万円です。月額1000円弱です。コーヒー2杯の値段です。
ぜひともご購読をお勧めします。

世界のもうひとつの側面が伝わってきます。
それ以上に、こうした雑誌を講読することで、平和への活動を応援することにもなります。
次のホームページから申し込みができます。
http://www.heiwa.net/

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2005/05/01

■英霊信仰とジハード 

テレビで、イスラエルのプロダクションが制作した、イスラム過激派密着ルポとユダヤ過激派密着ルポの2本の番組を見ました。考えさせられました。
ユダヤ教とイスラム教を利用しながら、漁夫の利を得ているキリスト教という図式は、まだ全く変わっていませんが、その3つを並べて考えると宗教のエネルギーの違いが感じられます。

印象的だったのは、ユダヤ過激派が復讐を強調しているのに対して、イスラム過激派にはまだ希望が感じられたことです。
3つの宗教の争いは、間違いなくイスラムの勝利になるように思いますが(決着は数百年後でしょうが)、それはともかく、番組を見ていて、靖国問題と同じ構造があることを改めて感じました。死を肯定する英霊信仰です。聖の発展が俗化を促進するという、宗教のジレンマの典型的な現われのひとつです。
中国や韓国から見たら、日本政府の靖国信仰はアルカイダと同じに見えるのかもしれないと、ふと思いました。状況の渦中にいると、その意味はなかなか見えません。

パキスタンの女性たちが、自らの息子に、オサマと名づけ、聖戦への参加を歓迎するという発言を、微笑みながら話している画面と、首相の靖国参拝の画面は、もしかしたら同じメッセージを持っているのかもしれません。前者は被害者のメッセージ、後者は加害者のメッセージの違いはありますが。

敵味方の違いを超えて、人の死を悼む文化は、近代国家の登場とともに失われだしたといわれます。そして、それに代わるように、「国のために死ぬ」と「英霊」となり祭神となるという、英霊祭祀が広がってきます。人の死が、国家の戦争に利用されるようになっていくわけです。さらに言い方を変えれば、人の死が国家を支えていく材料になったといってもいいでしょう。私の価値軸で言えば、個人発想から組織発想への転換です。

戦没者を英霊にし、国を挙げて祀る「英霊祭祀」は、自国の戦争を正戦とし、死んだ兵士を英雄と褒め上げる仕組みをつくることで、他の国民が後に続く状況をつくっていくわけです。まさにジハードの思想です。ジハードはイスラムの独占物ではありません。
首相の靖国参拝は、まさにそうしたメッセージを持っています。そこに靖国問題のポイントのひとつがあります。そこにあるのは「人の死を悼む」のではなく、「人の死を勧める」メッセージなのです。それを健在化しないマスコミは、すでにその仕組みに取り込まれているわけです。

自衛とかジハードの虚しさを感じます。
しかし過激派の人たちの真剣なまなざしを見ていると、やりきれない気持ちになります。
その問題を克服する時代が、今開けようとしているにも関わらず、私たちはまだその呪縛から自由になれないのが残念でなりません。

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2005/04/07

■もうひとつのシュペアーの責任感 

シュペアーの責任感その2です。
エルズバーグを動かしたシュペアーの責任感は、実はある側面でしかありません。
事実はいつも裏表を持っています。
エルズバーグは、その表から自らの行き方を学び決断しました。
日本の官僚や有識者にも、そうした決断をした人はいます。

しかし、シュペアーの責任感に関しては、もう一つの記録もあります。
たとえばグイド・クノップの書いた「ヒトラーの共犯者」(1996年、翻訳は原書房から出版)によれば、軍需相(シュペアーは後に軍需相として戦争貫徹に取り組んだのですが)シュペアーはヒトラーの後継者の有力な一人として、ナチス国家で行なわれていた事実にかなり深くコミットし、自らもその重要な一翼を担っていただけでなく、敗北が見てきた時期には戦後の「ドイツ復興」に参加するための狡猾な行動も行なっていると報告されています。
これもまた、ひとつの責任感です。

エルズバーグが感激したくだりも、こう書かれています(翻訳ですが)。

「恐るべきことにかんしてわたしが知らなければならなかったことを考えれば、わたしが知っていたのか、それとも知らなかったのか、あるいはどれほど知っていたか、または知らなかったかなどという問題は、まったくとるにたらないことだ」。この答えは誠実に聞こえるが、ただ狡猾なだけである。シュペアーの結論はこうだ。「わたしはもはや答えられない」。シユペアーがみずからにまったく問わなかったこと、それは、これらの犯罪のすべてに対する、彼自身の関与した割合はどの程度のものか? ということである。

エルズバーグは、こうはなりたくなかったのかもしれません。
私も同じ思いです。
しかし、知ろうとすることは大きなエネルギーが必要です。
だからこそ、知っている人の責任は大きいのです。
エルズバーグとシュペアーは、全く別の選択をしたわけですが、皆さんならどうするでしょうか。
シュペアーの過ちを繰り返している人が、最近多いのが気になります。

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2005/04/06

■竹島領有問題 

竹島問題が再燃しています。
今回の教科書検定でも、竹島は日本の領土と明記されたことが韓国の反発を受けているといいます。
そういえば、日本最南端の沖の鳥島もあります。
北方領土は、そこに住民がいますから、どの国家に帰属するかは住民にとっては大きな問題ですが、住民もいない島であれば、どこでもいいではないかと私は思ってしまいます。

沖の鳥島は水没させないために、50億円近いお金をかけて、コンクリート構造物をつくったりしていますが、たとえば、この問題を子どもたちに説明して、それだけのお金をかける必要があるかどうかと聞くと、全員が「必要」と答えたという報告もあります。
理由は、日本の領土が減るし、魚なども取れなくなるから、ということだそうです。

私はなんだかおかしいと思えてなりません。
日本の領土が減ることがなぜ悪いのか。いや、日本の領土ってなんだろうかと、子どもよりも素朴な疑問が出てきてしまうのです。
領海ということを大学の国際法で学んだときにも、どうも理解できませんでした。海を閉じたり大地を分割占有する発想が、理解できないのです。どこかで私の発想回路に欠陥があるのかもしれません。

ですから市町村合併も理解できません。行政で勝手にやっていいの?という気がします。もちろん建前は住民合意の下ですが、その建前は行政が作っただけの話です。勝手に行政区を変えてしまう政府と、領土にこだわる政府。どうも重なってしまいます。

海産物やエネルギーの権利につながるということも私にはよくわかりません。
日本の領海でとれる海産物は日本のものという概念が私にはうまく理解できないのです。それは漁師や汗して釣った人のものでしょうという気がします。イラクの石油はイラク国民のものでしょうか。掘削採取した企業のものになっているのではないでしょうか。つまり国家の所有権という概念に違和感があるのです。

日本も韓国も中国も、あるいはオーストラリアもロシアも、だれでも自由に魚場として、あるいは油田として使えばいいじゃないかと思うわけです。
めちゃくちゃな論理かもしれませんが、そうした素朴な疑問がどうしてもぬぐえません。
ですから、子どもたちまで「領土が減るのはよくない」という思いを持っていることが私には驚きなのです。いや不気味なのです。
昨日、北朝鮮の小学校教科書の内容がテレビで紹介されていました。日本やアメリカへの恐怖や憎しみを育てるような内容でした。
でもなにかそれを非難してばかりいられないような気がします。
現代の子どもたちの教科書ともいえる、テレビも問題ですし。

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2005/04/03

■シュペアーの責任感 

昨日の続きです
エルズバーグの「ベトナム戦争報告」(原著1972年 翻訳:筑摩書房 1973年)の最後に、ナチスドイツの建築大臣だった建築家アルベルト・シュペアーの回顧録「第三帝国の内幕」に書かれている話がでてきます。
ランディ・キラーのスピーチとともに、エルズバーグの決断に大きな影響を与えた話です。

シュペアーは「ヒトラーの建築家」として有名ですが、同時に、ニュールンベルグ裁判で、自分の行為とナチ政権の行為の責任を全面的に認めた唯一の被告としても有名です。エルズバーグは彼の回顧録をアメリカを動かしているすべての官僚に読んでほしいと書いています。私も日本の閣僚と大企業の経営幹部に、ぜひ読んでほしいと思っています。

長いですが、シュペアーの話を同書から引用します(283~284頁、一部省略)。

あるとき旧友のハンケがやってきて、口ごもりながらいったことをシュペアーは書いている。 「上部シレジアの強制収容所視察の誘いには決してのらないように。どんなことがあってもそれだけはするな。彼はそこで絶対に人に話すなということ、また話すことのできない何かを見たにちがいない。私は彼に何も質問しなかった。ヒムラーにもヒトラーにも何も問いたださなかった。親友にもそのことを話さなかった。自分で調べることもしなかった。そこで何がおこっているかを知りたくなかったからだ。ハンケはアウシュビッツのことを話していたのだろう。 私がニュールンベルグ裁判の国際法廷で、第三帝国の指導部の重要メンバーのひとりとして、あらゆることに閑して全責任を分担しなければならないと語ったとき、私の心を占めていたのはその数秒間のことだった。その瞬間から私はのがれようもなく道徳的に汚染されていた。私の進路を変えるかもしれないようなことにぶつかるのを恐れて、私は目を閉じてしまったのだ。この意識的に目をつぶったこと自体が、戦争末期に私が行なった、あるいは行おうとした善行のすべてが、何の価値もなくなってしまった。あのとき行動することを怠ったために、私は今日でもアウシュビッツに対する全責任を個人的に感じている」

シュペアーは、これに続けて、「知ろうとしない」ことの道徳的重荷について語っている。
「私が事件に無関係だったとすれば、それは私が無関係な態度をとっていたからだ。私が無知だったとすれば、それは私が自分の無知をつづけようとしたからだ。私が見なかったとすれば、それは自分が見たくなかったからだ。
私の場合、ユダヤ人虐殺の責任を決して逃れることができない。私はヒムラーと同様にユダヤ人の死刑執行人だった。なぜならば私はユダヤ人たちが私の前を通って死所に連行されるのを見ようとしなかったからだ。良心の目を閉じてしまうことは驚くほどやさしいことである。私はまるで、だれかが殺害されたことに気づかないで雪の上の血に染まった足跡をたどっている人間だった」

無関係な事件などないのです。

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2005/04/02

■ランディ・キラーの愛国心  

昨日、大阪に行く新幹線で、久しぶりにダニエル・エルズバーグに「ベトナム戦争報告」を読み直しました。エルズバーグの名前は、最近では忘れられているかもしれませんが、国家反逆罪で裁かれる危険を冒して、ベトナム戦争の真実を世界に知らせた「愛国者」です。
その正義感は健在で、今回のイラク戦争に関しても「愛国的」活動によって、逮捕されています。歴史から学ぶ事のないのは、米国政府も日本と同じようです。

エルズバーグによる国家機密文書暴露事件を映画にした「ペンタゴン白書」の中に、ある大学での反戦集会での若者のスピーチの場面があります。映画によれば、そこでのランディ・キラーのスピーチが迷っていたエルズバーグを決断させます。最初にこの映画を観た時、私は感激しました。涙が出ました。
愛国心はコスタリカにだけあるのではないことを思い出しました。

ランディ・キラーのスピーチを読んでもらいたいと思います。

僕の愛国心について話します。 僕はランディ・キラー。ハーバード大学卒業。 この学歴なら、国家に影響を与える職に就くことができます。 大企業の重役、あるいは政府の高官。 だが、僕は国家に影響を与える人間になることに決めました。 だから刑務所に行きます。 徴兵拒否により服役します。 意義のない戦争のためにはベトナムへは行きません。 だが、僕はアメリカ国民です。 外国に逃げたりはしない。 これが信条による「良心的兵役拒否だ」ともいうつもりはない。 僕はただ自分を犠牲にすることで国に奉仕する。 消せない記録が僕に残ります。企業の重役にも政府の高官にもなれません。 世間の目も冷たいでしょう。 だが、その汚名を甘んじて受けます。誇りを失わずに。

最近、イラクでは何が行なわれているのでしょうか。
イラクが全く見えなくなってきています。
私たちの税金がこれだけ大きなコミットをしているにもかかわらず。

サッカーだけがニュースではありません。
ましてやフジテレビ騒動などは瑣末な話です。

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2005/03/07

■愛国心を育てる国家

宇都宮徳馬さんが創刊された「軍縮問題資料」が休刊されることになりましたが、その最終号が届きました。この雑誌は、私が一番愛読している雑誌です。もっとも熟読しだしたのは、この3年くらいです。それまでは拾い読みでしたが、最近は全記事を読んでいました。

休刊に関しては様々な反響があり、今度の金曜日には再刊に向けての集まりもあるとのことです。私も何か出来ればいいなと思っています。

ところで、今月号に、コスタリカ大学の院生のロベルト・サロマさんが寄稿しています。それを読んで、私の国家観が少し変わりました。私は国家の価値をほとんど評価していないのですが、もしかした間違いではないかと思い出したのです。

アメリカのホワイトハウスのホームページに掲載されていたイラク戦争支持国リストから昨年9月、コスタリカの名前は削除されましたが、そのきっかけは、ロベルトさんが起こした違憲訴訟だったのだそうです。最高裁が「イラク戦争支持は憲法違反」と判決したのです。
彼はこう書いています。

私の提訴は、この国の精神の産物だった。

コスタリカの憲法は、軍隊を禁止し、国のいかなる権力にも他国に宣戦布告することを禁じているといいます。彼の行動は、そうした国家の精神の産物であり、それを支持したのもまた国家の精神だったのです。

さらに彼はこうもいいます。

平和への道はない、平和こそ、その道なのだからということが、おそらく世界に向かって叫んでいる私たちの祖国の精神だったのです。
最後の文章は、こうです。
私たちの国家の歌詞には叡智が満ちています。すなわちー「労働と平和、万歳」

愛国心と何かを改めて考えさせられました。
いまの日本とは、愛国者を育て方があまりにも違います。
コスタリカに生まれたら、私もきっと愛国心が持てたでしょう。
いや、この発想自体が、無責任で他人依存型とロベルトさんから非難されそうですね。
それに、日本はコスタリカに負けない憲法を持っているのですから。

ロベルトさんは先月来日し、8都市で講演されています。
ネットで調べれば、きっとどこかに記録があるはずですが、
詳しい記事はまだ見つけられていません。
関連情報のサイトを下記します。
■コスタリカの歴史と平和憲法の成立について
■イラク戦争合意違憲判決(2003_9_8)コスタリカ最高裁
■コスタリカ市民の憲法意識

軍縮問題資料の最終号(4月号)は、次のところに申し込むと購入でします。
1冊410円です。
http://www.heiwa.net/

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2005/03/01

■いま、ネパールで何が起きているか、ご存知ですか 

最近、イラクの話があまり聞こえてきません。平和に向かっているのでしょうか。
イラクはともかく、アフガニスタンはどうなっているのでしょうか。
不安があります。私たちとは無縁ではないからです。
ニーメラーの教訓を忘れてはいけません。
ましてや、私たちの税金が使われていますから、私たちは加害者になる可能性もあるのです。

ところで、昨日、

ネパール・ピース・ネットではネパールの基本的人権の回復のために、
地球市民社会のみなさまのご協力を求めています。

という緊急アピールのメールが飛び込んできました。
私が信頼する人を介してのメールです。
それによると、

2005年2月1日、ネパールでは国王が首相を解任し実権を掌握、国家非常事態宣言が発令されました。その後1ケ月が過ぎようとしていますが、言論や集会の自由は回復されず、人々は沈黙を強いられています。政変後逮捕された著名な知識人や政治家の中には釈放された人もいますが、友達と話をしていただけで「集会」とみなされ拘禁された少年もおり、報道規制がある中、一般市民への影響は新聞等で伝えられることもありません。

みなさん、ご存知でしたか。
あまり新聞を読まなくなっている私は知りませんでした。
こういう事件はたくさんあるのでしょうね。国内外に。

詳しくは以下のホームページをご覧ください。
http://npnet.exblog.jp/i2

いま、世界で何が起こっているのか。
公共性を主張しているマスコミは、本当のことを語ってくれません。
それが公共性なのかもしれません。
これに関しては、いつかきちんと書きたいですが、公共性もまた二義的ですから、恐ろしい概念になりえます。

まあ、それはそれとして、よかったら署名してください。

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2005/02/03

■ニーメラーの教訓  

岩波新書の「ルポ戦争協力拒否」を読みました。こういう本がなぜ読まれないのかが残念でなりません。書籍文化を壊し続ける出版社には、少し考えを変えてほしいものです。
それはともかく。

昔読んだ、ニーメラーのエピソードが紹介されていました。
丸山眞男「現代における人間と政治」に紹介されている話ですが、それをこの本に登場するある人が語ってくれています。引用させてもらいます。

「ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安であったが、自分は共産主義者ではなかったので、何も行動に出なかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。そこで自分は行動に出たが、そのときはすでに手遅れだった」。(「ルポ戦争協力拒否」184頁)

まだ間に合うでしょうか。
2月20日に、「テロリストは誰?九条の会」というグループ立ち上げのための設立茶話会があります。私は同じ時間に子育ち学のフォーラムがありますので、参加できないのが心底残念ですが、みなさんいかがでしょうか。私の代わりにどなたか参加してくれませんか。ホームページをご覧下さい。

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2005/02/01

■イラクの国民投票の結果 

イラクでの国民投票が終わりました。
これが「どのような物語」のはじまりなのかは、人によってかなり違うものだろうと思います。

私は、この選挙に関しては投票権もありませんし、その影響をそれほど受けるわけではありませんので、イラクにとっての意味は語ることはできません。
イラクで生活する人たちにとって、どういう意味があり、どういうものであったかは、残念ながらテレビや新聞からでは見えてきません。ただ、その選挙のために大勢の人が死に、憎しみを残していったであろうことは推察できます。

選挙は役割を終えた、と私は思っています。イラクで、ではありません。至るところで、です。アメリカの大統領選挙も日本の国会議員選挙も、民意を代表しているわけではないことが明白になってきましたし、操作可能性が高まっているように思います。つまり、選挙の正当性を保証する情報基盤や公正な手続きの信頼性が損なわれてきてしまったように思います。一度、崩壊した幻想は効用を失います。
選挙も国民の合意も、政治家にとっては自己主張のための道具でしかありません。
権力者が考える「国民合意」とは何なのか、一度、安部さんや小泉首相にお聞きしたいものです。

イラクの選挙で、いったい、何が変わるのでしょうか。
国民の合意が得られたのでしょうか。
その合意は、イラクでの戦いを終わらせられるのでしょうか。

戦いを止めさせることは、第三者にはできません。
しかし、戦わせることは第三者にもできることです。
不本意ながら、戦いを増幅させている側にいる者の一人として、
選挙が戦いを増幅させないことを祈りたいです。

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2005/01/06

■軍隊という名称 

スマトラ沖の地震が引き起こした津波の被害はすごいものです。
自然の力を改めて思い知らされました。
日本の自衛隊が救援活動に動き出しました。
こういうことに向けて税金が使われるのであれば、増税も気になりません。

とても気になっている事があります。
また言葉の問題です。
イバン・イリイチは、25年前のアジア平和学会の講演で、
「英語のキーワードの多くに、今や暴力が潜んでいる」と話しました。
たとえば、「平和のための戦略を計画する」「貧困を撲滅する」などです。
企業経営の世界に戦争用語がたくさん使われていることは言うまでもないでしょう。
言葉が意識を規定していくとしたら、気をつけなければいけないことです。

しかし、そろそろもっとその根源にある考えを問い直さなければいけないような気がしています。言葉の見直しです。

まずは「自衛隊」です。
そもそも今の軍隊は少なくとも建前としては、すべて「自衛隊」でしょう。他国を侵略するための軍隊は存在しないでしょう。北朝鮮にしても、そうでしょう。アメリカもおそらくそうでしょう。イスラムの軍隊もそのはずです。
従って、自衛隊と軍隊は実際には同義語です。
だれもそうは思っていないかもしれませんが、現代の社会では論理的な帰結だと思います。

では、次に、自衛は戦力でできるのかです。
できないと思います。
争いや憎しみは限りなく強まるだけですから。
つまり「自衛隊」という言葉には、そもそも「滅び」が内蔵されているのです。

自衛隊の今回の活動は、自衛の要素はあるでしょう。
しかし、隣に困っている人がいれば手を貸したくなるという、自然の感情の延長での支援活動でもあります。
であれば、支援隊に名称を変えたらどうでしょうか。
「隊」がよくなければ、「支援会」でもいいでしょう。
これからは世界中の軍隊を「支援会」と改称したらどうでしょうか。

しまりのない名称ですね。
戦争になったらすぐ負けそうです。
もしそうであれば、戦争を始めることもないでしょう。

「軍隊」という言葉を過去のものにすることが大切ではないか、とつくづく思います。
私たちの意識の中に、軍隊や戦争への憧れがある以上、それは難しいことですが。

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2004/11/08

■イラクの真実  

イラクの復興への各国の取り組みが始まって、もうどのくらい経過するのでしょうか。
日本の新聞やテレビの報道では、復興に向かっているという実感はなかなか持てません。
むしろ悪化しているようにすら思われます。
果たして多くの人たちの善意は、きちんとイラクの復興に活かされているのでしょうか。

この数日のメールを見ていると、ファルージャ攻撃は半端ではなさそうです。新聞情報の小奇麗さとは大違いです。
ネット情報は、日本のマスコミとはかなり違うものも少なくありません。ファルージャの市民代表が国連のアナン事務総長に出した書簡には、「ザルカウィは実在しない、もしくはもはや死亡した、にもかかわらず、彼を口実に攻撃が激化している」と書かれているというメールも流れています。
何が真実なのでしょうか。

そもそもこの事件は、イラクの大量破壊兵器保有が発端でしたが、その事実はなかったことがほぼ判明しました。しかし、戦いはさらに激化しています。復興の名前での破壊です。

「アラモ」という映画で(新作の「アラモ」ではありません)、
ジョン・ウェイン演ずるクロケットが、仲間のテキサス人をアラモの戦いに巻き込む時の話は面白いです。敵将がよこしたと偽って、クロケットが自分たちを侮辱した手紙を読み上げます。皆は怒り出して、戦う気になるのですが、そこでクロケットは、実はこの手紙は自分が書いた嘘の手紙だと白状するのです。しかし、戦う気になった仲間は、そんなことはどうでもいいと言い出して、結局、全員がアラモで戦死するのです。

どこか似ています。
できれば、ブッシュにも生命をはってもらいたいと思うのですが、そこがクロケットとは違うところです。

イラクの真実は、本当はどうなのか。
香田さんの気持ちが少しだけわかります。
しかし、真実などはないのかもしれません。
テレビのニュースが私の感覚を麻痺させてきています。
怖いことです。

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2004/11/01

■断固たる姿勢でテロとの闘いを継続する  

ブログを再開します。

香田さんが殺害されました。
首相は「残虐非道」と憤り、「断固たる姿勢でテロとの闘いを継続する」と発言したと新聞に書かれています。

香田さんに関しては、私のまわりでもいろいろな意見がありますが、
香田さんを非難する声が圧倒的に多いです。
しかし、この結果に関しては、みんな「残虐非道」と衝撃を受けているように思います。
私も同じような意見です。

しかし、です。
「残虐非道」といえば、そこまで彼らを追いやった側はそうではなかったのか。
そして、彼らもまた、
「断固たる姿勢でテロとの闘いを継続」しているのではないか。
そう思えてなりません。

「断固たる姿勢でテロとの闘いを継続」などという発想が、すでに前世紀の遺物的発想です。こなれていませんが、私が20年前に書いた拙文「21世紀は真心の時代」をお読みいただければうれしいです。解決策は全く別の発想でなければいけません。

イラク復興は進んでいるのでしょうか。
人心面も含めて破壊が進んでいるのではないでしょうか。
イラクでの危険度がますます高まっているということの意味をしっかりと受け止めなければいけません。

香田さんが殺害され、小泉首相がぬくぬくと生き残っていることに不条理を感じます。
小泉首相が憤るべきは、ブッシュや自らの「残虐非道」さではないかとさえ、思えます。
そして、さらにまた、その側に荷担している自分へのふがいなさが残念です。

香田さんのメッセージは、大切にしたいと思います。

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2004/09/03

■構造的暴力の被害者 カミロ兵卒の場合

一昨日のニュース23で、共和党大会のニュースに重ねて、カミロさんという若い米兵の事件が報道されていました。
彼は、大学の学費支援を受けるために入隊したのですが、イラクに派兵され、そこでの体験から、この戦争は違法であると考えるようになりました。そして、休暇帰国した際に行方をくらまし、1か月くらいしてから軍に出頭した若者です。結局、禁固1年の有罪になり、今、刑に服しています。その母親と支援者が、共和党大会会場の周りのデモに参加したのです。

彼は戦場で様々な体験をしています。
その話を母親との対話という形でビデオに残しています。
たとえばこんな話です。
仲間と街を巡回している時に、突然、街角から出てきたイラクの青年をみんなで射殺してしまったという体験談に対して、母親が『あなただけ撃たないこともできたのではないか』と質問していますが、彼は振り絞るような口調で、『そういうときは何も考えずに、みんなと一緒に撃ってしまうものだ』と答えています。
彼の場合、後で調べたら、11発も発砲していたと言います。彼を責められるでしょうか。

この話の構造は様々なことを考えさせてくれます。
なぜ彼がイラクにいったのか、人を殺さなければならなかったのか、そして刑に服すことの意味は何なのか。
結局、イラクで殺しあっている人たちの多くは、『やむを得ずにやっている』と言うことです。そして、結局は自らも殺しているのです。
ネパールからイラクに出稼ぎに行って殺された人たちも、イラクではなく、ヨルダンなどの隣国に行き、そこから強制的に派遣されたとも伝えられています。
問題は、そうした構造なのです。

ノルウェイのヨハン・ガルトゥングは、暴力には2種類あるといいました。
「直接的暴力」と「構造的暴力」です。構造的暴力の被害者が直接的暴力に強制的に組み込まれ、構造的暴力を強化させていく。これが昨今の平和活動の構造です。何が「イラクに平和」でしょうか。そんな思いの人たちと時代を共有する事がとても哀しいです。

カミロ事件のような報道が増えてきました。
戦争の実相が見えてきたと言ってもいいでしょう。いや、9.11の実相というべきかもしれません。
にもかかわらず、小泉人気はまた持ち直しそうだといいます。
悪貨は良貨を駆逐する。小賢しさが賢さを駆逐する。
最悪の人が組織のリーダになる、これは成熟した組織の避けられない宿命ですが、国家も同じです。
日米の北朝鮮化が進んでいます。
ガルトゥング風にいえば、構造的北朝鮮化が進んでいるのです。

ところで、最近のニュース23を、少し見直しています。
これまではあまりにひどかったですが、最近はきちんとしたメッセージを感じます。
テレビも少しは見る価値があるかもしれません。

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2004/08/09

■中国サッカーのサポーターたちの根底にあるもの  

先の参議院選挙結果のショックで、しばらく書き込みをやめていました。
気持ちはいまなお萎えていますが、また書き出すことにしました。
社会の質の悪さは、そこに所属する自分の質の反映でしかないでしょうから、自己嫌悪と反省をこめて、このブログを再開します。

今日の話題は、アジアカップでの中国サポーターの態度に関して、です。
私は、2つのことを感じました。

第1は、中国の選手からなぜ、たしなめる発言がないのかという疑問です。
スポーツの政治経済化は、選手同士のつながりを壊しているのでしょうか。
彼らはゲームを楽しんでいるのでしょうか。
もし彼らが楽しんでいないとしたら、イラクの米国兵士とどこが違うのでしょうか。
スポーツもまた、国家の争いのツールになっているようです。
芸術や文化、スポーツや科学が、国家を超えた人のつながりを育てていく時代は、どうやら終わったようです。

第2は、こうした動きがここまで高まるにはそれなりの背景があるのではないかという不安です。
尖閣諸島の問題や過去の日本の悪行が口実にされていますが、理由は他にあるような気がします。もっと現実的、現在的な理由があるはずです。
江沢民の抗日キャンペーンという話もありますが、それを顕在化する何かの事件か事実があるのでしょうか。
それが何か、なんとなく想像はできますが、確信はもてません。
しかし、おそらく私たちには見えていない問題が、彼らには見えているのでしょう。
われわれは、そうしたことを察知するジャーナリストや情報メディアをいまや失っているのではないかと心配です。世界や歴史が見えなくなっているのです。

昨今の動きは、パンとサーカスのローマ帝国を思い出させます。

気のせいか、今年の広島と長崎からの情報発信は弱々しく、平和の議論は盛り上がりません。
小泉首相をボイコットするくらいの気概をもたなければ、広島や長崎すらが、どんどん逆方向へと利用されるだけのおそれがあります。
暑い夏ですが、心の冷えた夏でもあるような気がしてなりません。

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2004/07/09

■平和に取り組むことの覚悟

新聞では多分報道されていませんが、7月4日に行われた、ワールド・ピース・ナウのピースパレードで事件が発生しました。3人の参加者が逮捕されたのです。
私は最近、参加できていないのですが、メーリングリストで知りました。
なぜ逮捕されたかは、メーリングリストの情報しかありませんが、非暴力をかかげているピースパレードで、こういう事件が起きるのはとても残念です。
私が参加した時には、いつも楽しい雰囲気でしたし、警備の警察官も好意的でした。
しかし、今回は違ったようです。
7月6日には、逮捕された3人の自宅や、WORLD PEACE NOW実行委員会の連絡先である「許すな!憲法改悪・市民連絡会」の事務所が家宅捜索を受けたというのです。この事実だけで、背景が見えてきます。
早速、WORLD PEACE NOW実行委員会は抗議を呼びかけました。
みなさんもぜひWORLD PEACE NOWのホームページを見てください。

国家の平和と生活者の平和は対立概念なのです。
個人が平和に取り組むことは覚悟がいるのです。
逮捕や家宅捜査の危険を犯してまで、皆さんは平和に取り組みますか。
私は正直、躊躇します。
三菱自動車の社員も、きっとそうした葛藤に悩み、動けなかったのでしょうね。

さて、どうするか。
答えが出ません。
田舎暮らしをするか、金儲けのビジネスにのめりこむか。
そうしたい気持ちが高まっています。
歳と共に、気が弱くなり、防衛的になってきました。
恥ずかしい限りです。

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2004/05/01

改憲問題

今日の朝日新聞のトップ記事に、国民世論調査の結果として、
半数の人が改憲に賛成だと書いてあります。

こうした議論の危険さを指摘したいと思います。

改憲って何でしょうか。
もちろん憲法を変える事です。
しかし、憲法を変えると言う事は何でしょうか。

大切なのは、変える内容や方向です。
たとえば平和について言えば、
9条を無くすのも改憲ですし、
9条を非武装化に向けてさらに進化させるのも改憲です。

つまり全く内容が反対なことが「改憲」には含まれています。
プラスとマイナスを足せば、相殺されてしまいます。

こうした記事や物言いには危険があります。
そんなことを編集者や調査者が知らないわけがありません。
何らかの隠された意図があるのです。
まあ、最近の朝日新聞にはそれほどの知性や意思がない可能性はありますが。

改憲論者が何人いるかが問題なのではありません。
大切なのは、改める内容と方向です。
そうしたことがあいまいなまま、議論されることがあまりにも多すぎます。

言葉は吟味したいものです。

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