カテゴリー「平和時評」の記事

2024/09/25

■「愛国心」

自民党総裁選挙で小泉進次郎さんが、なんと「愛国心」を持ち出したようです。
「愛国心」ほど、多義的で正反対の意味を持たせられる言葉はないように思います。
小泉進次郎さんが「愛国心」などというと、ぞっとしますが、「愛」という文字は私は大好きです。

最近読んだ、スラヴォイ・ジジェクの「戦時から目覚めよ」(NHK出版)で出合った一文はとても共感できます。

「愛国者、つまり自国を心から愛する人物とは、自国がひどい行いをしたときにそれを心から恥じる者のことを言う。『正しかろうが間違っていようが、私の国だ』という考え方ほど恥ずべきものはない。」

愛国者に関して書かれていますが、「愛」の本質を語っているような気がします。

この基準で考えれば、世に語られている愛国者や愛社精神の多くは、むしろ「愛するものへの背任行為の勧め」です。なんと「背徳的な政治家」の多いことか。そういう人に限って「愛国」という言葉を使います。

明日の927日、湯島で「あなたはなぜ戦争が嫌いですか」をテーマにサロンを開きます。
私自身は、戦争は嫌いですが、にもかかわらず私の体内には「戦争が好き」の心があることも知っています。だからこそ、常にその心を抑え込んでいるのですが、時に暴発してしまいます。そして無駄な結果に終わる「論争」や「非難行為」をしてしまっている自分に気づくこともあります。
まあそうしたことの集合的行為が戦争につながっていくのでしょう。

友人から勧められて読んだ、ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』(新潮文庫)にはこんな文章がありました。

「右脳の個性の最も基本的な特色は、深い内なる安らぎと愛のこもった共感」。

ジルは、脳卒中に襲われた若き脳科学者です。幸いに一命は取りとめたのですが、脳の損傷を受けた体験をとてもわかりやすく書いてくれています。
右脳と左脳の働きに関してはいろんな意見がありますが、ジルの体験からのこの言葉には右脳派を自認している私としてはホッとさせられます。
でもこれは必ずしも通説ではないでしょう。
むしろ左脳でこそ、戦争は抑えられると考えている人の方が多いでしょう。
私もつい数年前まではそう思っていましたし。

ところで、ジジェクの『戦時から目覚めよ』には、映画『サラエボ・サファリ』の話が出てきます。
ご存じの方も多いと思いますが、ここに登場するおぞましい人たちは右脳人間でしょうか、左脳人間でしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=QkTZYjL_8f8

 

 

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2024/08/09

■「無国籍」の人が日本には2000人ほどいるそうです

先日、長い付き合いの友人が、実は私は「無国籍」だったことがあると話してくれました。
その友人は、いま入管法改正問題に関わっているようです。

私は国籍にはほとんど意味を感じていなかったのですが(自分が「日本人」だと意識したことはありません。もちろん私は「日本人」ですし、そのことが好きですが)、友人から少し「無国籍」に関して教えてもらいました。
そして、友人から紹介さしてもらった「忘れられた日本の無国籍者」(陳天璽編 明石書店)を読みました。本書は、2008年に開催された公開フォーラムの記録です。

今度、吉本さんの呼びかけで、技能実習生などの支援活動に取り組みたいと考えていましたが、少し視野を広げて、入管法改正にも目を向けたくなりました。
秋には湯島でサロンをやれればと思っています。
関心を持ってくださる方がいたらご連絡ください。

その前に、少し古いですが、このフォーラムの記録「忘れられた日本の無国籍者」(陳天璽編 明石書店)を多くの人に読んでほしいと思います。
編者の陳天璽さんの新著「無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか? (光文社新書)もあるようです。
これも読んでみようと思います。

 

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2024/07/07

■核のごみという言葉に騙されてはいけません

核の問題に、全くぶれることなく、誠実に取り組んでいる本間照光さんが、626日、札幌テレビ(STV)の報道番組「どさんこワイド 核のごみ 記者解説」に登場し、コメントされています。現在YouTubeで公開されているので、ぜひご覧ください。

核のごみの最終処分場の立地探しは、相変わらずおかしな形で進められており、時々話題になります。制度はともかく、一度手をあげると、なかなか途中では下りられなくなり、自治体の意見は聞くことがあっても、結局は国が決めていくという、これまで、メディアが明確には伝えてこなかったことが示唆されています。
https://www.youtube.com/watch?v=3UfhGGfgYeQ

私たちはまだ、「核の意味」について、正しく理解していないばかりか、知ろうとすることさえもしていないことをもっと自覚する必要がある。そもそも「核のごみ」などという表現を受け入れていること自体に、私はおかしさを感じます。言葉はもっと正確に使わなくてはいけません。

 

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2024/04/18

■湯島サロン「攻められたらどうするのか? 真の安全保障政策を考える」報告

「平和」の問題を考えるサロンの2回目は、折原利男さんが昨年発表した「攻められたらどうするのか? 真の安全保障政策を考える」という論考を材料に話し合いました。

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最初に折原さんは、論考の主旨を紹介してくれました。案内の時に添付しましたが、折原さんの論考をお読みになりたい方は、ご連絡いただければ改めてお送りします。

折原さんの主張を思い切り簡単に紹介すれば、日本はいま、攻められてもおかしくない状況へと向かっている、しかしもし攻められたら、国家も国民も悲惨なことになる、だから攻められないようにすることこそが、真の安全保障政策ではないか。そしてそのための具体的な提案をいくつか提起してくれました。

さらに最後に、それでも万一、攻められたらどうするかと問い直し、こうまとめてくれました。自国第一主義、国粋主義と排外主義が相まって目を覆うような紛争と軍事衝突があちこちで展開されている今日、やはり最終的な和平の拠り所と解決の手段は、コスタリカが尽力し、実践してきたように、国際機関を機能させ、国際法に則って、国連を中心とした国際法秩序をもう一度建て直す、ということではないか。

現状に対する認識や大きな流れにはあまり異論はなかったと思いますが、それへの対策に関しては異論反論もあり、話し合いは大いに盛り上がりました。

簡単に論点を整理します。

まずは「攻められたらどうするか」という論点ですが、今回はこの点はあまり論じられませんでした。現状分析などを通して、折原さんは攻められたらウクライナのように悲惨な状況になってしまうから、それは絶対に避けねばならないという認識のもとに、必要なのは「攻められないためにどうするか」だと考えているからです。
しかし、この論点に関しては改めてまたサロンをしたいと思います。
私自身は、この問いへの答えがすべての出発点だと思うからです。それは「国家とは何か」を問い直すことにもつながります。

次の論点は、攻められないためにはどうするかですが、これに関しては大きく分かれました。核兵器も含めて、というよりも、むしろ核武装を中心にして抑止力を高めるという考えと折原さんが提唱する非武装中立・非暴力不服従という考えです。

これに絡んで、核兵器とこれまでの通常兵器による軍事力に関する議論もありましたが、核兵器が開発されてしまった以上、それを無しにすることはできないという点では、軍備による抑止論者も非武装論者も同意できていたように思います。
前にもサロンで話題になりましたが、核兵器が開発されてしまった世界は、それ以前とは異質になってしまったのです。ですから従来の発想では対処しきれないはずです。にもかかわらず世界はまだ従来の発想の枠組みで動いている。これは前から本間さんが指摘していたことですが、このサロンのシリーズでは本間さんの問題提起もお願いしているので、そこで議論が展開されると思います。

ちなみに核兵器は使用可能かどうかに関しての議論もありましたが、これに関してもまだ情報はあまりシェアされていないことを痛感しました。

攻められないための方策としては、抑止論と非武装論の中間の「段階的軍縮論」もありますが、今回は話題にはなりませんでした。

折原さんは、非武装中立論を話す前に、デビッド・マッキーの絵本「せかいでいちばん強い国」を紹介してくれました。そして非武装中立の国を攻められるものでしょうか、と問いかけました。この問いには意見は二分されました。
おそらく結論は出ないでしょうが、これは話し合う価値のある大切な論点です。
「せかいでいちばん強い国」は折原さんの論考にも紹介されていますが、あらすじは次でも読めます。ぜひお読みください。いつかサロンにも取り上げたいです。
https://www.jac-youjikyouiku.com/chiiku/recommend/19275/

非武装平和は理念としては共感できるが、問題はそれをどう実現するかではないかという問いかけもありました。
折原さんは、コスタリカも訪問し、子どもたちさえもが憲法を活かしながら積極的な非武装中立の実現を支えていることを実感していますし、そこでの活動家とも交流を重ねていますので、理念と現実がつながっているのだと思いますが、日本においては、むしろ言葉と現実が乖離していて、結局はなし崩し的に「平和憲法」さえ風化しているという認識がつよく、非武装平和論には悲観的な人も多かったように思います。
そのためか、実践的な政策やアクションプランを期待した人もいました。またコスタリカに関する実際の状況ももう少し詳しく知りたい人もいて、たとえば、「万一攻められた場合のことをコスタリカの人はどう考えているのか」という問いかけも出されました。

他にもいろいろと話題が出ましたが、私からは、問題の立て方を変える必要があるのではないかと指摘させてもらいました。
攻められるとか、攻められないようにとかいう問題設定は、いずれも他国任せの発想です。むしろ安全保障を考える場合は、自国(自分たち)が他国を攻めるかどうかが重要な問題ではないかと思います。
もし自国政府が他国を攻めようとしているとすればどうするか。今の日本は折原さんの指摘にもあるように、まさにそういう状況にあるように思います。もしそうであれば、それをこそ止めるのが先決ではないのか。

問題は「攻められる」とか「攻められないように」ではなく、「攻めない」ことではないのか。もし政府が他国を攻めたり、他国からの侵略に対抗して戦う(攻める)のであれば、その政府と戦うこそが必要なのではないか。「敵」を間違ってはいけません。
そういう発想に立てば、いま展開しているウクライナ戦争の当事者の捉え方も全く変わってくるような気がします。
しかしこの問いかけは、折原さんの問題提起とはなかなか絡み合わないので、改めて別のサロンで話題にしたいと思います。

相変わらず不十分な報告ですみません。
参加されたみなさん、補足してもらえるとうれしいです。
次回の平和サロンは、非武装平和国家に向けての実践的・具体的な提案を含めて、ん倶楽部のN'da Haさんに問題提起してもらうことになりました。
日程が決まったらご案内させてもらいます。

 

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2024/03/08

■半田滋さんの「台湾侵攻に巻き込まれる日本」をぜひ読んでほしいです

今日は雪だったので、予定を変えて、自宅で読書をしていました。

午後は晴れてきたので、出かけられたのですが、世も出した本が面白くて、結局、外出はやめて本を読んでしまいました。防衛ジャーナリストの半田滋さんの「台湾侵攻に巻き込まれる日本」(あけび書房)です。

軽い気で読みだしたのですが、「はじめに」の「ウクライナ侵攻後のロシアが法律を改正して情報統制に走り、国民の口封じをしたのと同じ事態がこの日本で静かに進行している」「この国を愛し、自分自身や親しい人たちの安全を願う人々にとって重要なのは事実を学び、進むべき道筋を見つけ出すことである」という文章にまず共感しました。

つづく本文は、最初に戦場になりかねない与那国島のルポから始まっていますが、湯島でも何回間関連したサロンをやっていますが、まさに「要塞化」する与那国島の仲間生しい雰囲気が伝わってきます。

内容は、安倍政権以来の憲法を無視した日本政府の暴走を事実をベースに解説してくれています。書かれていることには、とりわけ新しいことはなく、過激なこともありませんが、改めてこの10年の日本の政治に憤りを感じます。

最後の「終わりに」で半田さんが呼び掛けている文章を読んだ時、涙が出ました。

わたしたちは闘わなくてはならない。何が正しくて、何が間違いなのかを見極め、声を上げなければならない。自分や愛する人のために、次の日本を支える子どもたちのために。

ぜひ多くの人に読んでほしいと思います。
岸田さんのご家族のみなさんにも。

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2024/02/23

■50年ぶりに詩らしきものを書いてみました

朝、起きたらうれしいことがふたつありました。

ひとつは外がうっすらと雪化粧していたこと。
もう一つは、昨日のFBの記事のおかげでおふたりのコメントが届いていたこと。

昨日、紹介させてもらった「詩の檻はない」の編集者の柴田望さんから友達リクエストが届いていました。雑誌に寄稿した論考も含めて。
「詩の檻はない」を送ってきてくれ岡和田晃さんからのコメントには、「佐藤さんが1020代のときに書かれていた詩もおまとめになればよいのに、と思ってしまいました」とありました。岡和田さんらしいやさしさですが、幸いにほとんどすべて廃棄してしまっています。

毎朝、「詩の檻はない」の作品を一つ読むことにしていますが、今朝は文月悠光さんの「消された言葉」でした。ランダムに本を開いて読むことにしていますのでこれは全くの偶然ですが、そこに「わたしたちは詩をかこう」という一行がありました。
岡和田さんのコメントもあって、ついついその気になって、書いてしまいました。
まあ、詩とまでは言えませんが、今朝の想いです。
詩といえるかどうかはともかく、詩を書くのは50年ぶりでしょうか。

希望

パルミラで銃撃戦がくりひろげられたとき、哀しかった。
あんなに美しい世界で、なぜ人は銃で殺しあえるのだろうか。

バーミヤンの仏が崩れ去ったとき、ここまで知は荒れ果てたのかと哀しかった。
人は、エデンからこんなに遠くに来てしまったのか。

もう戻れないのだろうか。

銃で戦い、爆薬で仏を殺した人たちが、今度は、人が詠うのを禁じたという。
おどろきはしたが、不思議と哀しくはない。
そこから、詩が生まれだしたのを知ったから。

もしかしたら、知が戻ってくるかもしれない。
詠うことを禁じられて耐えられる人はいないだろう。

うたの時代が戻ってくる。
またパルミラの世界がやってくる。

やはり迷いながらも、人間でありつづけたい。

 

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2024/01/05

■「攻められたらどうするのか? 真の安全保障政策を考える」

サロン仲間の折原さんが、同人誌に寄稿した「攻められたらどうするのか? 真の安全保障政策を考える」という論考を年末に送ってきてくれました。

昨年末には、期せずして、本間さん、川本さんからも、同じテーマの論考を送ってもらい、FBでも紹介させてもらいましたが、折原さんの論考もぜひ多くの人に読んでほしいなと思います。
折原さんに確認したら、関心のある人には紹介してもいいと言いうことでした。

最後の文章を紹介させてもらいます。

自国第一主義、国粋主義と排外主義が相まって目を覆うような紛争と軍事衝突があちこちで展開されている今日、やはり最終的な和平の拠り所と解決の手段は、コスタリカが尽力し、実践してきたように、国際機関を機能させ、国際法に則って、国連を中心とした国際法秩序をもう一度建て直す、ということではないでしょうか。

私も同感です。

ウクライナの真実も見えてきましたし、岸田政権の本性も見えてきたいま、改めて今年は平和とは何かのサロンを開催していこうと思います。
折原さんの論考を読んでもらえる方はご連絡ください。
お届けするようにします。
感想など、折原さんに送っていただけると嬉しいです。

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2023/12/28

■戦争を受け入れる意識の広がりへの警告

戦争がじわじわと足元に迫ってきているような年でしたが、そうした動き(戦争を受け入れる意識の広がり)にみんな目を覚まそうと呼びかける2つの論考が、湯島のサロン仲間から届きました。
ひとつは雑誌への寄稿論考。もう一つは年明けに出版される書籍です。

論考は本間照光さん(青山学院大学名誉教授)の『核時代、破綻した「核抑止」』で、雑誌「賃金と社会保障」1840号に掲載されています。副題が「戦争放棄こそ核戦争放棄の道」。核時代にあっては、そもそも戦争の意味が変わっているのに、いまだに「核抑止力」を受け入れている風潮に警告を発しています。そしてこう言います。

日本国憲法は、「人類の多年にわたる自由獲得の努力」と「核時代」の現実が生んだ、珠玉の人権宣言書にほかならない。

つづけてこう書いています。

この日本国憲法の柱は、主権在民(国民主権)、戦争放棄(平和主義)、基本的人権の尊重であるが、それらは相互に支え合っている。誰もが人間として生きられ、平和のうちに暮らすことを、憲法が支える。その憲法を主権者たる人びとが支える、「不断の努力」。生きる、いのちを支える、人間らしく生きられる社会をつくる努力。「不断の努力」は、人びと、私たち一人ひとりの「ふだん(普段)の努力」だ。ふだんのいのちとくらしのあり様が、戦争そして核戦争を防ぐ力となる。

そして、改めて日本国憲法9条の「戦争放棄」の意味を考えていこうと呼びかけています。ぜひ多くの人に読んでほしい論考です。
「賃金と社会保障」はアマゾンで購入できます。

もう一つは、川本兼さんの新著『戦争ができる国からの解放』(三一書房)です。来年1月に出版されますが、その前に読ませてもらいました。
本書に関しては、また改めて紹介したいと思いますが、「はじめに」と「あとがき」から2つだけ紹介しておきます。ここに川本さんの危機感と打開策が象徴されていると思います。

まずは「はじめに」の書き出しの文章です。

私は、現在行われているロシアによるウクライナへの侵攻は、これからの日本国民の運命に決定的影響を及ぼすかもしれないと危惧しています。それは、この戦争によって、日本国民の多くが「正義の戦争」を感じてしまいかねないからです。

「あとがき」のタイトルは「「反徴兵法」の制定」となっています。
戦争を起こすのは政府ですが、戦争を続けるのは国民です。誰もが戦いを放棄すれば戦争は持続できないからです。しかし、政府に抗って戦いを拒否するのは難しいのも事実です。だからこそ、反徴兵法制定運動を起こそうというのが川本さんの呼びかけです。

長くなったので、これに関してはまた改めて紹介します。

お正月、もしお時間が許せば、是非この2つの論考を読んでほしいと思います。
川本さんの本がまだ書店に出ていないので残念です。もし読みたい方がいたら、年末年始、湯島に来たら声をかけてください。対応できるかもしれませんので。

 

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2023/10/22

■がん民間療法体験32:30日までの報告

ヒートマット療法に取り組みだしましたが、私の使用方法に関しておふたりの方からアドバイスがありました。夜の就寝中の電気毛布的な使用では不十分だというのです。たぶんそれは間違いないでしょう。
友人たちのアドバイスにしたがって座禅スタイルで毎日、朝晩30分ほどやることにしました。45度以上に設定したので、低温やけどしないように気をつけなければいけません。

ちなみに、がん細胞は40度とか42度で死んでしまうという人がいます。
私は、そうは思っていませんが、ヒートマット療法を勧めてくれた友人もそういっています。それを否定するつもりはないのですが、生命はそんなに簡単には死滅しないと私は思っているのです。
ともかく、何が起こるのかわからないのが生命現象です。
いまの科学が解明したのは、ほんの一部でしかありません。
そういう思いが、まさにこの「40日プロジェクト」を支えているのです。

ヒートマット療法は、即効性はないと思っていましたが、気のせいか、汗だくになった直後は気分爽快になります。
まあ当然と言えば、当然ですが、でも朝晩2回の30分座禅は大変です。がんばって10日間は続けようと思います。

毎朝の祈りから始まって、祈りを感ずることも身についてきました。
重曹水とクエン酸水は、定着しました。
自分に合った適量もわかってきて、調子もいいです。
水素療法は、友人たちの支援で、水素風呂、水素ガスを継続しています。これも体調を浴してくれている大きな要因でしょう。
人参・リンゴ・レモンジュースもだいぶおいしくなってきました。
チャーガは相変わらず飲みにくいですが、飲んでいます。効果は全くわかりませんが。
天日塩のお味噌も毎日、いろんなものと一緒に食べていますし、砂糖や甘いお菓子はやめています。食への関心も高めています。
適度な散歩もやっていますし、笑いと隣り合わせの生活(肯定的な生き方)にも心がけています。

これだけのことをやっているおかげで、たぶん私の体内のがん細胞は、身の程を自覚して、然るべきところに収まってくれたと確信していますが、まあ生命現象は私が思っているほど簡単ではないでしょう。
11月初めの検査結果がどう出るかは、わかりませんが、楽しみです。

しかし私にとっての最大の療法は、多くの人たちに支えられていることを実感できていることです。
あったかい思いが、伝わってくる。本当にありがたいことです。
こうした思いが、社会に広がっていくと、みんな気持ちよく暮らせる社会に近づくかもしれません。

さらにメニューを増やして、盛りだくさんにしようと思っていますが、今や何でもかんでもすべて、「民間療法気分」です。
実に楽しく、ワクワクします。
というか、いろんな人たちの思いをしっかりと受け止めて、すべてに感謝するような生き方に努めようと思います。
みなさんの応援に感謝しながら、私も祈りを送り出しています。

ガザにも、ウクライナにも、そして未来にも。

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2023/09/05

■裁判もまた事件

辺野古埋め立てを巡る訴訟で、最高裁は県の訴えを棄却しました。司法が繰り返し行っている、難しい判断からは逃げるといった姿勢をまた感じてしまいます。なぜこれほどに、国家の力は強いのか。もっと現地と、つまり現実としっかり話し合い、問題を可視化していく姿勢を司法は持たないのか。

今朝の朝日新聞の沖縄県知事の写真の表情に、とても共感しました。
5人の裁判官も、この写真をしっかりとみてほしい。
私たちも、いまの沖縄にもっと関心を持たなければいけないと改めて感じます。
ウクライナよりも、沖縄であり、フクシマだろうにといつも思います。

統治行為論で一度、逃げて以来、日本の司法は統治者の道具に成り下がってしまったのでしょうか。
冤罪を疑われる事件に対しての、執拗な司法のこだわりは異常としか思えない。
司法への不信感は、テレビのドラマにも盛んに取り上げられます。

最近見たドラマ「事件」の最後で、主人公が「裁判もまた事件なのです」と語っていましたが、全くそうです。
そう考えると、裁判官がみんな加害者に見えてくる。

困ったものです。

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