「平和」の問題を考えるサロンの2回目は、折原利男さんが昨年発表した「攻められたらどうするのか? 真の安全保障政策を考える」という論考を材料に話し合いました。
最初に折原さんは、論考の主旨を紹介してくれました。案内の時に添付しましたが、折原さんの論考をお読みになりたい方は、ご連絡いただければ改めてお送りします。
折原さんの主張を思い切り簡単に紹介すれば、日本はいま、攻められてもおかしくない状況へと向かっている、しかしもし攻められたら、国家も国民も悲惨なことになる、だから攻められないようにすることこそが、真の安全保障政策ではないか。そしてそのための具体的な提案をいくつか提起してくれました。
さらに最後に、それでも万一、攻められたらどうするかと問い直し、こうまとめてくれました。自国第一主義、国粋主義と排外主義が相まって目を覆うような紛争と軍事衝突があちこちで展開されている今日、やはり最終的な和平の拠り所と解決の手段は、コスタリカが尽力し、実践してきたように、国際機関を機能させ、国際法に則って、国連を中心とした国際法秩序をもう一度建て直す、ということではないか。
現状に対する認識や大きな流れにはあまり異論はなかったと思いますが、それへの対策に関しては異論反論もあり、話し合いは大いに盛り上がりました。
簡単に論点を整理します。
まずは「攻められたらどうするか」という論点ですが、今回はこの点はあまり論じられませんでした。現状分析などを通して、折原さんは攻められたらウクライナのように悲惨な状況になってしまうから、それは絶対に避けねばならないという認識のもとに、必要なのは「攻められないためにどうするか」だと考えているからです。
しかし、この論点に関しては改めてまたサロンをしたいと思います。
私自身は、この問いへの答えがすべての出発点だと思うからです。それは「国家とは何か」を問い直すことにもつながります。
次の論点は、攻められないためにはどうするかですが、これに関しては大きく分かれました。核兵器も含めて、というよりも、むしろ核武装を中心にして抑止力を高めるという考えと折原さんが提唱する非武装中立・非暴力不服従という考えです。
これに絡んで、核兵器とこれまでの通常兵器による軍事力に関する議論もありましたが、核兵器が開発されてしまった以上、それを無しにすることはできないという点では、軍備による抑止論者も非武装論者も同意できていたように思います。
前にもサロンで話題になりましたが、核兵器が開発されてしまった世界は、それ以前とは異質になってしまったのです。ですから従来の発想では対処しきれないはずです。にもかかわらず世界はまだ従来の発想の枠組みで動いている。これは前から本間さんが指摘していたことですが、このサロンのシリーズでは本間さんの問題提起もお願いしているので、そこで議論が展開されると思います。
ちなみに核兵器は使用可能かどうかに関しての議論もありましたが、これに関してもまだ情報はあまりシェアされていないことを痛感しました。
攻められないための方策としては、抑止論と非武装論の中間の「段階的軍縮論」もありますが、今回は話題にはなりませんでした。
折原さんは、非武装中立論を話す前に、デビッド・マッキーの絵本「せかいでいちばん強い国」を紹介してくれました。そして非武装中立の国を攻められるものでしょうか、と問いかけました。この問いには意見は二分されました。
おそらく結論は出ないでしょうが、これは話し合う価値のある大切な論点です。
「せかいでいちばん強い国」は折原さんの論考にも紹介されていますが、あらすじは次でも読めます。ぜひお読みください。いつかサロンにも取り上げたいです。
https://www.jac-youjikyouiku.com/chiiku/recommend/19275/
非武装平和は理念としては共感できるが、問題はそれをどう実現するかではないかという問いかけもありました。
折原さんは、コスタリカも訪問し、子どもたちさえもが憲法を活かしながら積極的な非武装中立の実現を支えていることを実感していますし、そこでの活動家とも交流を重ねていますので、理念と現実がつながっているのだと思いますが、日本においては、むしろ言葉と現実が乖離していて、結局はなし崩し的に「平和憲法」さえ風化しているという認識がつよく、非武装平和論には悲観的な人も多かったように思います。
そのためか、実践的な政策やアクションプランを期待した人もいました。またコスタリカに関する実際の状況ももう少し詳しく知りたい人もいて、たとえば、「万一攻められた場合のことをコスタリカの人はどう考えているのか」という問いかけも出されました。
他にもいろいろと話題が出ましたが、私からは、問題の立て方を変える必要があるのではないかと指摘させてもらいました。
攻められるとか、攻められないようにとかいう問題設定は、いずれも他国任せの発想です。むしろ安全保障を考える場合は、自国(自分たち)が他国を攻めるかどうかが重要な問題ではないかと思います。
もし自国政府が他国を攻めようとしているとすればどうするか。今の日本は折原さんの指摘にもあるように、まさにそういう状況にあるように思います。もしそうであれば、それをこそ止めるのが先決ではないのか。
問題は「攻められる」とか「攻められないように」ではなく、「攻めない」ことではないのか。もし政府が他国を攻めたり、他国からの侵略に対抗して戦う(攻める)のであれば、その政府と戦うこそが必要なのではないか。「敵」を間違ってはいけません。
そういう発想に立てば、いま展開しているウクライナ戦争の当事者の捉え方も全く変わってくるような気がします。
しかしこの問いかけは、折原さんの問題提起とはなかなか絡み合わないので、改めて別のサロンで話題にしたいと思います。
相変わらず不十分な報告ですみません。
参加されたみなさん、補足してもらえるとうれしいです。
次回の平和サロンは、非武装平和国家に向けての実践的・具体的な提案を含めて、ん倶楽部のN'da Haさんに問題提起してもらうことになりました。
日程が決まったらご案内させてもらいます。
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