カテゴリー「医療時評」の記事

2009/12/04

■認知症予防ゲーム

一昨日、認知症予防に取り組む高林實結樹さん(NPO法人認知症予防ネット理事長)を囲んでのコムケアサロンを開催しました。
今年の春、高林さんから認知症予防ゲームの活動のお話を聞き、とても共感しました。
現場ではさまざまな成果をあげているにもかかわらず、「科学的な実証」がされていないために、いわゆる「権威」からは認められず、思うように普及できないということでした。
それで普及活動を応援しようと思ったのです。

高林さんが認知症予防に取り組みだしたのは、ご自身の母親の認知症介護の体験からです。
そのきっかけは、静岡市の看護師増田末知子さんが開設された「認知症予防教室」との出会いでした。
その教室のモットーは、「あかるく あたまを使って あきらめない」であり、その頭文字、3つの「あ」、「A」をとって「スリーA」と命名されていました。

この方式は「科学的な実証」データが十分でないせいか、主流の人たちからは受け容れられませんでした。
日本では、現場の知よりも学者の知のほうが、一般に評価される風潮があります。
現場の知に勝るものはないと考えている私にとっては、世間的な「権威」はほとんどが「似非専門家」に思えますが、世間はどうもそうではありません。
私たち生活者にとって大切なのは、現場の知です。
権威や名声にだまされてはいけません。

集りでは、高林さんがどういう経緯でこの活動に取り組んでいるかも話してくれました。
とても心に響く話でした。
いま私はさまざまなNPOや市民活動に関わらせていただいていますが、自分の体験を出発点にした活動には共感することが多いです。
頭で考えてはじめた市民活動はなかなかうまくいきません。
専門家といわれる人たちへの信頼感は、今の私にはほとんどありませんが、知の体系が大きく変わってきていることを実感しています。
集りに参加してくれた高齢者福祉に取り組む専門家の方たちもとても共感してくれました。
サロンには、お母さんのことを心配している方が参加してくれましたが、ゲームを体験した後、自分のお住まいの地域で活動を行いたいと言ってくれました。

認知症予防ゲームを体験してみて、これは認知症予防に限らずたくさんの効用があるように思いました。
うつ病対策にもいいでしょうし、元気をなくしてきている企業従業員の活性化にも効果がありそうです。
もちろん普通の人のコミュニケーション環境を向上させるためにも効果的です。
ゲームの概要は高林さんのまとめたテキストがありますので読んでほしいですが、やはりその価値は実際にゲームを体験してみないとわかりません。
もしお近くで、高林さんがお話をされる場があれば、参加してみてください。
高林さんたちの研修会や講演の予定は、認知症予防ネットのサイトに書かれています。
多くの人たちに、高林さんたちが広げようとしている「スリーAゲーム」の考え方に触れてほしいと思います。

私が取り組んでいるコムケア活動は「大きな福祉」を理念にしています。
福祉の根底にあるのは「つながりと支え合い」という発想で、個別問題から発想するのではなく、人の生き方から考えるという姿勢を、大事にしてきました。
実践や現場の場にいる人たちは、個別問題に取り組んでいるようで、実は問題の背景にある社会のあり方や人の生き方に取り組んでいることは、コムケア活動を通して知りました。
高林さんが取り組んでいる認知症予防ゲームも、決して認知症予防だけのものではありません。
高林さんは、このゲームで本人や家族はもちろんですが、地域社会も日本も世界もよくなっていくと確信しています。

高林さんたちの活動は、最近、関西を中心に西日本で広がりだしています。
しかし東日本ではまだほとんど知られていないのです。
これを契機に拡がってほしいと思っています。
広げていくことに汗と知恵を出してもいいという方がいたら、ご連絡ください

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2009/11/27

■「新型インフルエンザ」と「ワクチン接種」の謀略

私には真偽のほどはわからないのですが、私が最初から感じていたことに符合する内容なので、紹介しておきたいと思います。
真偽に関しては確証をもっていませんが、可能性だけはあると思っています。
ご判断は読者に任せますが、こうした見方もあることを知ってもらえればと思います。
詳しくは《ダルマ通信》2009年11月18日をお読みください。

こういう話です。

大騒ぎされている新型インフルエンザは取り立てて特殊化するほどのものではなく、死亡率もこれまでのインフルエンザと同じレベルであること、にもかかわらず、大量の死亡者が出る恐れがあるなどと言明することには、何らかの意図があるのではないか。

上記のブログでは、こんな言い方がされています。

日本では、当初から医療機関やマスコミが当局の言いなりで大騒ぎして無知な民衆の恐怖心を煽ってきた。この国の権力支配者らは、これでもって、大不況でますます困窮する庶民の関心をそらし必要な社会変革に向かう大衆の勢力をそぐことを狙っているのであろう。

切迫したワクチン接種の必要と逼迫したワクチン不足が宣伝されて接種優先順位を争わせる奇妙な悲喜劇が演じられている。これは品不足を大げさに宣伝して買いを煽り競わせる狡猾な市場操作商法(‟shortage marketing‟)である。

厚生労働省犯罪集団観さえもっている私にも、にわかには賛成できかねる話ですが、この仮説を受け容れるといろいろな疑問が氷解するのも事実です。

さらに同ブログは、次のように述べています。

○「新型インフルエンザ」は、自然発生したものではなく「生物兵器」として人工的に開発製造されたウイルスによるものである。
○今後これを世界中に蔓延させて、その「予防」対策として世界保健機関が主導する形で諸国政府に巨大製薬会社が製造した「ワクチン」を庶民大衆に強制的に接種させようとしている。
○この「ワクチン」の「接種」により人体の免疫作用が奪われて種々の病気にかかり易くなる。これは、まさに国際連合の機関と諸国政府による大量殺人であり、既に米国などでは人類に対するジェノサイドとして刑事告発されており、又各地でこの「ワクチン接種」の差し止めが提訴されている。

どうですか、恐ろしい話でしょう。
みなさんは荒唐無稽の話として一蹴するでしょうか。
私には、一蹴する気にはなれません。
もちろんこの記事に出会う以前から、私はワクチンを受けるつもりもありません。
これまで一度も受けたことがないのです。

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2009/08/20

■無所属で選挙に立候補した友人

衆議院選挙はおそらく民主党の圧勝になるでしょうが、その選挙にあえて無所属で立候補した友人がいます。
兵庫3区から立候補した黒江けんじさんです。
黒江さんに関しては、CWSコモンズでも書いたことがありますが、いまの医療制度を変えなければいけないと思っている人です。
その思いには共感しますが、今回の選挙は民主党に過剰な風が吹いていますので、無所属での立候補は大きなハンディを負うことになるでしょう。
黒江さんが民主党や自民党から立候補したら、私は一切応援はしませんでしたが、そのいずれでもない新たな立場で出るという黒江さんの姿勢に共感して応援することにしたのですが、現実には勝ち目は少ないでしょう。
しかし、黒江さんはもう待ってはいられなかったのでしょう。
黒江さんのような人にはぜひとも当選していただいて、政治の世界に新風を吹き込んでいただきたいですが、なにしろ二大政党制のもとでは難しい話です。
前にも書きましたが、二大政党制は政党間の選挙であって、個人を選ぶ選挙ではないのです。
思いのある個人にはあまりにもハンディの大きい制度なのです。

しかし、黒江さんはめげることなく、明るく立候補しました。
30日までの間、黒江さんは演説を続けているようです。
黒江さんの深い思いが多くの人に届けばと思っています。

ちなみに「無所属」という表示は不思議な表示です。
これはおそらくいまの選挙制度の決まりからのものでしょうが、よく考えてみるとおかしな表現です。
しかし、さらによく考えてみると、自立した主体性を表現している言葉かもしれません。
政党に所属している候補者は、所詮は組織の歯車に過ぎませんが、無所属というのは自分で責任をもって政治に取り組むという姿勢の現われでもあります。
まあなかには、政党名を出せなかったり、出さないほうが得だという、偽無所属もいますから、一概には言えませんが、無所属というのは積極的な意味を持っているような気もします。
そもそも政治家は無所属であるべきでしょう。

もしよかったら黒江さんのホームページを見てください。
こういう人もいるのだと知ってもらえればうれしいです。
そして、もし兵庫3区にお知り合いがいたら、ぜひ黒江さんのことを教えてやってください。

そういえば、サンテレビの明日21日(金)17時30分からのニュースシグナルで、3区立候補者の全員を紹介するそうですので、神戸界隈にお住まいの方は黒江さんの明るい笑顔も見られるでしょう。

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2009/07/03

■臓器移植法改正について思うこと

臓器移植法の改正が話題になっています。
衆議院では「脳死は人の死」との前提に立つA案が可決され、法案は参議院に送られました。
昨日、ご自身も次男の腎臓を移植のために提供した経験をもつ柳田邦男さんが、臓器移植法改正案を審議する参院厚生労働委員会で参考人として質疑に応じた様子が新聞で報じられていました。

私も、ドナーの家族の方とささやかな交流がありますが、この問題は悩ましい問題をたくさん含んでいます。
柳田さんは、臓器を提供するドナーや家族と、提供を受ける患者や家族。それぞれの生と死に寄り添う議論の必要性を訴えた、といいます。
第三者では思いも及ばない問題が、そこにはあるはずです。
とりわけ「死」を現実に受け容れることになるドナー家族の心情への理解が、出発点にあるべきではないかと私は思いますが、そうしたことは議論の過程からはなかなか伝わってきません。
柳田さんも指摘されていますが、ドナーの家族が置かれた厳しい状況への配慮を感じられないのです。

私自身は体験者ではありませんが、伴侶の死を体験した時に感じた気持ちのおかげで、そしてささやかにお付き合いのあるドナー家族のみなさんのお話で、臓器移植議論の中から何かが欠けているような気がしています。
それが何であるか、自分でもよくわからないので、この問題には意見を言えないでいましたが、柳田さんの記事を読んで、無関心でいてはいけないと反省しました。
と言っても、まだ自分の考えはまとまりませんが。

問題は、たぶん「生命」のつながりへの想像力ではないかと思います。
これに関しては、もう少し考えてみたいと思いますが、ドナー家族の方がおっしゃっていた言葉がずっと私の頭から離れません。

臓器提供を受けて元気になった人の後ろには、臓器を提供した人たちがいるのです。
柳田さんも指摘していますが、その人たちの問題をまず解決することが、大切なように思えてなりません。

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2009/07/02

■メタボ検診

先ほど、NHKテレビのニュースを見ていたら、メタボ検診の特集をしていました。
午前中に紹介した「厚生労働省崩壊」の本での指摘を思い出しました。
こういう指摘です。

厚労省に限らず、本省の課長は偉いのです。どれくらい偉いかというと、大企業の社長くらい偉いのです。担当の課長になれば、「メタボ対策のための体操を考えたので、全国の病院で毎日やるように」ということを命令できるくらい偉いのです。ちなみに、メタポリック・シンドローム予防は医療費を削減できるから、健康診断でメタボ検診をするようにという、あまり科学的根拠のないことを全国に知らしめたのも1人の課長でした。たぶん、自分でそう信じたからです。医学界では、少なくとも″メタポリック・シンドローム″なるものが存在するのかどうか世界的なコンセンサスは得られていませんし、メタボ対策が医療費を抑制するなどという研究は、ごく小さなもの以外お目にかかったことがありません。
(木村盛世著「厚生労働省崩壊」講談社より)
テレビのニュースでは、実際にメタボ検診を受けもたらせる医師の言葉として、たとえば、この検診のおかげで本来やるべき検診ができなくなってきているとか、メタボ検診の効果への疑問がかなり明確に出されていました。
またそうしたことから浮かび上がってくる疑問に関して、厚生労働省に問い合わせた回答も照会されていましたが、驚くほどの無責任な内容でした。
木村さんが著書で書かれていることが立証されているような気がしました。

メタポリック・シンドロームなどと言う、あやしい言葉を流行させて、特定の企業を儲けさせたマスコミもひどいと思いますが(もちろんマスコミも大きな利益を得たはずです)、そうした詐欺まがいの活動が、厚生労働省の1課長によって始まったとは情けない話です。
実名は調べればわかるでしょうが、どなたかご存知の方は教えてください。
メタボ検診の陰で、悪性の病気の発見が遅れ(テレビではメタボ検診をやらないといけなくなったのでがん検診ができなくなったというような話も紹介されていました)、それが死につながったとしたら、その行為は犯罪以外の何ものでもありません。

腹立たしくなってきたので、書くことにしました。
この数日、腹立たしいことが多すぎます。
報道ステーションも、私の感覚とは合わなくなってきましたし。
またどんどん自分が社会から脱落してきている感じがします。

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2009/06/04

■薬事法改正に思うこと

薬事法が改正され。大衆薬市場も新たな競争段階に入ったようです。通信販売での購入が難しくなる一方、薬剤師の代わりに新資格「登録販売者」を置けば、店頭販売で大半の商品を扱えるようになりました。
早速、大手スーパーでもドラッグストアでも値引き競争が始まり、イトーヨーカ堂では大衆薬売上高が前年に比べ3割増えたという報道もあります。
なんでも反対と言うわけではないのですが、薬も値引き競争でどんどん安くなり、売り上げが伸びるというのがどうも気になります。

食材もそうですが、安ければいいというわけではありません。
ものには適正な価格があり、需要にも適正な量があります。
日本の経営者が好きな経営学者ドラッカーは、顧客創造こそ経営だという主張で評価を得ましたが、私からみれば、全くの間違いです。
まあ、しかしそんな意見はだれも耳を貸さないでしょうから、繰り返すのはやめます。
今回は「登録販売者」なるものへの違和感を書きます。

これも前に書いたような気がしますが、どうしてみんな「資格」を作りたがるのでしょうか。
資格があれば、安心できるのでしょうか。
「資格」のある人にだけ、権限を与えるという発想は、私には違和感があります。

話は違いますが、介護保険制度ができてから介護の現場はどうなったでしょうか。
資格がなければ介護さえできない社会って、おかしいと思いませんか。
「資格」を設定して、その資格のある人に生活のある部分を一任してしまう。
結局、生活力も生活の知恵もない、生きる力のない存在を増やしていくことにならないでしょうか。

「資格」ができることで、それまでは無償だった行為が有償になることも忘れてはなりません。
新たな市場ができますから、GDPには貢献しますし、お金儲けしたい人には歓迎されるでしょう。
でも、それによって生まれる膨大な無駄のことも忘れてはなりません。
貨幣経済量と実物経済量は、決して比例はしていません。

薬事法改正は、誰のためのものなのでしょうか。
なにか発想の起点が違っているような気がしてなりません。

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■節子への挽歌641:「命の保証はない」

節子
節子もよく知っているNさんの娘さんが先月脳卒中で倒れ、駆けつけたNさんは、医師から「命の保証はない」と言われたそうです。
幸いに娘さんは、医師も驚くほどの回復ぶりで、Nさんから安堵のメールが届きました。
そのメールの最後に、
「ごめんなさい。
一人では、抱えるのがきつくって…。」
と書かれていました。

私も、一人で抱えるのがきつくて、この挽歌を書き続けています。

私たちも、娘のことで医師から同じようなことを言われた経験があります。
ジュンがまだ誕生日が来なかった時に、急性肺炎になったのです。
かかりつけの医師から大丈夫だといわれて帰宅したのですが、節子がやはりおかしいと救急車を呼んだおかげで、最悪の事態を避けることができました。
医師よりも、母親の目が正しかったのです。
それでも休日だったため、緊急病院に内科の医師がいなくて、医師が来るまではまさに地獄のような時間でした。
ようやくやってきた医師からは手遅れで命は保証できないと言われました。
そして、後はこの子の生命力に期待するしかないと言われたのです。
酸素吸入してもらいながらも、次第に生命の灯が弱くなっていくのが、目の前で実感できるのです。
私たちにできたのは、祈ることだけでした。
3日ほどしてからでしょうか、奇跡的に回復に向かいだしました。
私たちの祈りが通じたのです。

Nさんからのメールを読んで、その時のことを思い出しました。
そして、最近、ちょっと気になっていることも思い出しました。
それは、その時に、医師の言葉ではなく、人間の生命力を信じようという奇妙な信念が生まれてしまっていたことです。
節子と病院通いしていた頃、私は医師よりも節子の生命力と私たちの祈りの力のほうを信じていたような気がします。
節子は治る、節子を治す、そういう思いがどこかで私の視野を狭くしていた可能性があります。
その結果、今から思えば、病気への対応も、誠実さに欠けていたような気がします。
もっともっと真剣に節子を守るための努力をするべきでした。

それにしても、「命の保証はできない」という言葉は聞きたくない言葉です。
医師も、たぶん発したくない言葉でしょうね。
保証などできないのは当然なのです。
生命力も、祈りも、医療と同じで、万能ではありません。
それを前提にして、みんなが誠実に取り組むようになれば、医療の世界も少し変わるかもしれないような気がします。

思い出すたびに、反省点が浮かんできて、少しやりきれない気持ちになってしまいます。

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2009/06/03

■節子への挽歌640:医療と私情

これは、医療時評で取り上げるべき話なのですが、ことの成り行き上、挽歌として書くことにします。

先日、引用させてもらった節子の主治医だった先生からのメールに、「医師と患者さんの関係は微妙であり、時に私情が過ぎるとうまくいきませんよ」という言葉が出てきます。
私も同じような言葉を、このブログでもかいています。

節子と一緒に、病気と付き合いながら、次第にこの考え方は私の意識の中からは消えていきました。
いまでは、むしろ「医療とは私情に裏付けられるべきではないか」という思いさえあります。
この場合の「私情」とは、「利己的な気持ち」ではなく「公の立場を離れた表情のある人間的な感情」という意味です。
いいかえれば、医師という肩書きではなく、その根底にある人間の気持ちということです。
病気を診ずに患者を診るということは、そういうことなのだろうと考えるようになりました。

医療と医学、医術は違います。
医療の「療」とは、いうまでもなく「いやす」ということです。
「いやす」ためには、人間的な要素が不可欠です。
こう考えていくと、医師と患者の間に一番大切なのは、ある種の「私情」ではないかと思います。
薬よりも、医師の心のこもった一言が、患者を元気にするのです。

病院におけるコミュニケーションの問題に関心を持っている人が、私の周りには少なくありません。
コミュニケーションを「論理」の世界で考えるか、「感性」の世界で考えるかは、重要な視点だと思いますが、人間が生命をかけて出会っている病院においては、後者の次元におけるコミュニケーションこそが大切ではないかと思います。

ちなみに、メールを下さった節子の主治医の先生は、節子にも私にも、とても人間的に接してくれました。
私たちも、人間として自然に付き合ったつもりです。
節子が元気になったら、患者と医師としてではなく、家族づきあいもできたような気がします。
それが実現できなかったのが、節子にはとても残念だったでしょう。

先生からのメールは、節子には届いているでしょうか。
一応、位牌には報告しておきましたが。

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2009/05/30

■節子への挽歌636:医師と患者の関係の悩ましさ

節子
私も68歳になりました。
そのことをどう節子に報告しようかと先週から思っていたのですが、今日は全く違う話を書きます。
昨日の話です。

節子の主治医だった先生からメールをもらいました
何回も読んだのですが、先生の許可を得ずに掲載することにしました。
許可を得てないので匿名にさせてもらいます。

昨年の手賀沼エコマラソンの次の日に書かれた日記を先ほど見る機会を得ました。
正直動揺してしまいました。

佐藤さんが「がんセンターにはいけなくなってしまいました。
近くに行くことはあるのですが、入れません。」と書かれていた気持ちは非常によく分かる気がしたのです。
「医師と患者、そして患者の家族の関係はとても微妙です。」という事も含めてです。

今でこそ白状いたしますが、節子さんが亡くなられる少し前(正確には覚えていませんがおそらく1ヶ月くらい前だと思います)に、2人の娘を連れて佐藤さんの家の前まで行ったことがあります。
もちろん節子さんに会ってお話ししたいと思ったことと、うちの娘を節子さんに会わせたかったからです。
どうしてそのように思ったのかはうまく説明できませんが、とにかく娘と共に会いたかったのです。
いろいろとお菓子を作ってくださったこともありましたし、家で佐藤さん方の事は話ししていたこともありましたが、本当のところはうまく説明できません。
その時僕は車を止めて、呼び鈴を押すかどうかしばらく迷い、やめて帰りました。
子供にもどうして折角きたのに会わないの?と言われましたが
その時の僕はそのような判断をしました。

その数日前に僕の妻に、節子さんに会おうか迷っているのだけどと相談したところ、
彼女より「医師と患者さんの関係は微妙であり、時に私情が過ぎるとうまくいきませんよ」とアドバイスされました。
彼女の言葉が大きかったのは事実ですが、その後もあの時会っておけば、と何度か思ったのも事実です。

佐藤さん方と同じように、ずいぶん深く関わっていながら内科治療に移っていったある患者さんが今入院しています。
内科の主治医に状態がすぐれないことを夕方聞きました。
そのあと偶然、佐藤さんのホームページを久しぶりに見たのです。
今日は当直なのですが、先ほどその患者さんに会いに行きました。
もう意識はなく僕が来たことがわかってもらえたか自信がありませんが、
僕ははっきりと、僕が呼びかけたときにうなずいたと分かりました。
その患者さんがずっと僕に会いたがっていたと家族の方々に教えて頂きました。

今日僕がこのような行動をとることができたのは、佐藤さんのおかげです。
急にこんな事を言われて変だと思わないでください。
とても偶然なことなのですが、
もしあの文書を読むことがなかったら、
勇気が出なかったというのが正しい言い方なのかもわかりません。
そして2年前の8月には、その勇気が出せませんでした。

これについて、少し私の気持ちを書こうと思いましたが、やはり涙が出てきて書けません。
1日、間を置いたので大丈夫かと思っていたのですが、今読み直したら、また胸が痛くなりました。
明日か、明後日、つづきを書きます。たぶん。

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2009/05/23

■家族が新型インフルエンザにかかったらどうしますか

今日の朝日新聞の夕刊に、次の見出しの記事が出ていました。

家で「隔離」1週間 感染の高校生、
電話でつながる家族
記事によるとこんな話です。
新型インフルエンザに感染した神戸市の女子高校生が、1週間、自分の部屋から出ないよう病院と保健所から指示され、同居の家族とも、電話の子機だけでのつながりだったというのです。
わが家では絶対にありえない話です。
と言うか、常識的に考えても、あってはいけない話ではないかと思うのですが、どう考えても恐ろしい話です。
念のために、わが家の娘たちに確認したら、やりすぎだろうというので安心しました。
ハンセン病を思い出すといったら、批判されそうですが、どこかに通ずるものを感じます。

家族の誰かが病気になったら、私は自らがたとえうつる恐れがあったとしても、生身で看病しますし、看病してほしいと思います。
もちろん伝染しないように細心の注意は払いますが、それでもうつってしまったら、それは仕方がありません。
法的に決められている伝染力の強い病気で、病院に隔離されるのであれば、それは受け入れますが、「隔離」の発想の恐ろしさを感じます。

大変失礼ですが、その家族の親たちの見識を疑います。
そうした発想が自然と出てくる人たちが増えていることに対して、不気味さを感じてしまいます。
鳥インフルエンザにかかった鳥を大量廃棄処分にする発想と同じではないでしょうか。
いや、これ以上、恐ろしい妄想を発展させるのはやめましょう。
しかし、こうした話は、決して笑い話ですますべきではありません。

私は家族からは必ずしも同意されていませんが、風邪菌にも場を与えていくことが必要ではないかという思いを持っており、毎年、風邪を引いています。
風邪を引いたら3日ほど、彼らに活躍してもらいますが、4日目からは彼らに退出してもらうようにしています。
今は亡き妻は、そうした私の発想をいつも笑っていましたが、私はかなり真面目にそう考えています。
大げさに聞こえるでしょうが、もし生物多様性論を口にするのであれば、それくらいの自己犠牲は甘んじて受け容れるべきでしょう。
まあ、あまり論理的ではなく、たぶん支離滅裂なのでしょうが、私は本能的にそう思っています。

今回のインフルエンザ対策はもちろんですが、最近の病気予防対策には違和感があります。
風邪が怖くて、生きていけるか、という気がします。
インフルエンザに罹るのも、また人生なのです。
風邪を引いたことのない人生よりも、私は引いたことのある人生が豊かなような気がします。
また支離滅裂になってきましたので、やめましょう。

みなさん
家族が新型インフルエンザにかかったら、親身に看病しましょう。
それでこそ家族です。
人間というものがわかっていない医師の言いなりになってはいけません。
治る病気も治らなくなりかねません。
但し、その結果、問題が起こっても私は責任は取りません。
それは皆さんの家族の問題だからです。

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