カテゴリー「医療時評」の記事

2017/05/06

■国民医療の発想

連休で2冊の本を読みました。
いずれも読もうと思ったまま、数か月、読みだせなかった本です。
1冊は石垣千秋さんの「医療制度改革の比較政治」(ミネルヴァ書房)。
もう1冊は「日本病院史」(ピラールプレス)です。
いずれも分厚い本なので躊躇していたのですが、読みだしたら面白くてあっという間に読み終えました。
それでもっとハードな本を読もうと、今度は「負債論」(以文社)に取り組むことにしました。
明日から読み始めます。
700頁ほどの本なので、今度は少し手こずるかもしれません。
しかし、昨年末に眼瞼下垂の手術をしたおかげで、読書のスピードが倍増しました。
手術してくださった高久先生に感謝しなければいけません。
高久さんは、この連休もお仕事でしょうが。

ところで、読んだ2冊の本の感想などはホームページに掲載しますが、この2冊を読んだおかげ、日本の医療の問題をかなり整理することができました。
私の認識では、いまの日本の医療は明治期の発想を超えていないように思います。
つまり「国民医療」の発想です。
これでは何のことかわからないと思いますが、いつか少し私見を書きます。

今日は湯島で2時から「教育勅語」をテーマにしたサロンです。
これもまさに「国民教育」の発想に基づくものです。
そうしたことに私たちはもっと想像力をもたなければいけないと思っています。
もしお時間があれば、ぜひご参加ください。
誰でも歓迎です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/02/26

■コムケアサロン「豊かな高齢期をいきることの素晴らしさ」報告

昨年から始まった「看取り文化シリーズ」の第2回目は、小田原福祉会の潤生園の時田佳代子さんの話題提供をお願いしました。
申込者が20名を超すことになってしまい、会場を変えようかと思ったほどでしたが、何とか湯島で開催することができました。
関心の高さを知り、正直少しホッとしました。
葬儀不要論が広がる最近の風潮には大きな懸念を持っています。


時田さんは、小田原での長年の取り組みについて紹介してくれました。
潤生園では、「医療の死」とは違う「福祉の死」に長年取り組んできています。
医療や行政の「常識」にとらわれることなく、しかし、しっかりとした取り組みで、生きること、死ぬことに誠実に取り組んできているのです。
生活に立脚すれば、ある意味では当然のことながら、24時間365日、在宅での生活ケアが基本になりますし、生きるための基本は食になります。
医療技術の活用の仕方も変われば、食事のあり方も変わってくる。
しかも、それをきちんとデータを取りながら進めているのです。


時田さんの話は録音しておけばよかったのですが、あまりに引き込まれてしまい、記録も何もとりませんでした。
しかし多くの人たちに聞いてほしいと思いましたので、いつかまた講演会のようなものを開きたいと思います。
参加者のみなさんも、いろいろと思うことがあったと思います。
小田原に転居できるものなら転居したいと思った人もいるでしょう。

潤生園の取り組みや理念はホームページをご覧ください。
http://junseien.jp/corporate/
ホームページに書かれている次の文章に、潤生園の姿勢が感じられます。

潤生園が提供する「みんなの家」は、24時間365日地域での暮らしを丸ごとサポートいたします。「介護の安心」はもとより、「医療の安心」や「生活の安心」もおまかせ下さい。「みんなの家」は施設を利用される方だけでなく、地域で暮らす方々にとっても「安心」を提供したいと考えています。お困りのことがあれば「みんなの家」をお訪ね下さい。地域の方々の暮らしの拠り所として、みなさまのお役に立ちたいと考えています。

この文章だけだと、よくあるビジネスメッセージにしか聞こえないかもしれませんが、時田さんの話を直接聞けば、たぶん真意が伝わってきます。
ちなみに、潤生園の職員は「潤生園の原点」という小冊子をそれぞれが持っているようです。
昨日、時田さんから私も1冊もらいました。
潤生園を創設するに当たって、時田純さん(時田さんのお父上)は、戦中戦後の自らの体験を踏まえて、理念を掲げました。

人は人として存在するだけで尊い。真の福祉は、人のいのちの尊さを知り、個人の人格を心から敬愛するところからはじまる。
この理念を核に活動を展開しているのです。


昨日のサロンの内容報告にはなっていませんね。
すみません。
しかしたくさんの、しかもさまざまな立場の人が参加してくださったおかげで、話し合いからもたくさんの気付きをもらいました。
潤生園が目指していることは、これからの社会や福祉のあり方を考える大きなヒントが含まれています。
最近の福祉政策は方向を間違えていると感じている私にとっては、大きな元気をもらえるサロンになりました。
だれもが安心して暮らせる社会に向けて、個人でもできることはたくさんある。
改めてそのことにも気づかせてもらいました。


時田さんはじめ、参加して下さったみなさんに感謝しています。


長くなりますが、もう一つ感じたことを書きます。
時田さんの話の誘発されるように、両親を見送った時の自分の体験を話してくれた人が何人かいます。
看取りを語り合う、さらには伝え合うサロンがあるといいなと思いました。
考えたいと思います。
Tokita1


Tokita2_2


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/02/02

■TCH(Tooth Contacting Habit)

今日はまた歯医者さんでひとつ教えてもらいました。
マウスピースを使いだしたのですが、寝ている時には自然と歯はかみ合っているのが普通ですか、と歯医者さんに質問しました。
何事も疑問に思ったことは質問するのが私の性癖です。
そうしたら、リラックスしている時、上下の歯は軽く接していると思いますか? と訊かれました。
接触していないのだそうです。
たしかに意識してみると、接触していません。
しかし、それは重力の法則に合わないので、進化の間違いではないか、類人猿もそうですか、と歯医者さんに場違いな質問をしたのですが、そうしたらTCHの話をしてくれました。
TCHとは、“Tooth Contacting Habit”(歯列接触癖)の略で、上下の歯を“持続的に”接触させる癖のことだそうです。

帰宅して、早速、調べてみました。
類人の話ではなく、TCHのことをです。
そこで知ったことを紹介します。

上下の歯は何もしていない時は接触しておらず、離れており、会話や食事をする際に接触する時間を含めても、接触しているのは1日20分程度が正常だと言われています。
上下の歯の接触時間が長くなると、筋肉の緊張や疲労、顎関節への負担が増え、起床時症状(顎の疲労感,歯の違和感,口が開きにくいなど)や顎関節症、様々な不定愁訴に関わっている可能性が考えられています。

マウスピースの効用がよくわかりました。
歯ぎしりはストレスが起こすと言われますが、歯ぎしりがストレスを起こす面もあるということです。
マウスピースは歯の寿命を延ばすだけではなく、人生を明るくするのです。
みなさんもいかがですか。
我孫子市のいしど歯科クリニックは、行くたびに何かを学べる楽しい歯医者さんです。
今日は血圧で、少しまた注意されましたが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/10/18

■みんなの認知症予防ゲーム実践者交流の報告

第2回みんなの認知症予防ゲーム実践者交流会は、首都圏で活動されている人たちが集まってくれました。
みんなそれぞれの場所で、いろんな活動をしている方ばかりです。
なぜか私だけが、まったくの部外者です。
今回は、京都のNPO法人認知症予防ネット理事長の高林さんも参加してくれました。
高林さんと実践者の、ざっくばらんな交流も、わずかながらできたかと思います。

この活動は、高林さんの熱意とご尽力で、ここまで広がってきましたが、広がっているわりには、組織的に世の中に情報発信されておらず、活動もばらばらの感があります。
そのためか、マスメディアでもあまり取り上げられることもありません。
横からずっと見ている者としては、それがどうにももどかしく、余計なお世話とは思いながら、今回また呼びかけさせてもらったわけです。
できれば、ゆるやかな組織へと向かうお手伝いをしたいと思っていますが、活動を持続していくためには「事業性」と「社会性」のいずれもが必要です。
しかも組織に関わるみんなにとって、意味のある組織でなくてはいけません。
なにしろ「みんなの認知症予防ゲーム」と称しているのですから。
そうなるためには、まずはメンバーの間に信頼関係が育たなくてはいけません。
「みんなの組織」は、創るのではなく、生まれるのでなければいけません。

横からささやかに関わらせてもらっているおかげで、いろんなことに気づかせられます。
実践者でもない私の役割も、少しはあるようです。
実践者であればこそ、見えてこないこともありますから。
実践の現場から見えてくる日本の福祉思想の実相や限界も垣間見えてきて、実践者のお話は私にはいつも刺激的です。

ちなみに、私は「認知症」という概念そのものが、基本的に間違っていると思っています。
そういう考えにもかかわらず、なぜ「みんなの認知症予防ゲーム」に関わっているのかと問われると困るのですが、それはたぶん、このゲームの実践者が、みんないい人だからでしょう。
今日も10人集まりましたが、例外なくみんないい人です。
ご多用のなか、参加してくださった人たちに感謝いたします。
ぜひ「みんなの組織」を育てていければと思っています。


20161018


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/07/19

■「みんなの認知症予防ゲーム」ってご存知ですか?

NPO法人認知症予防ネット理事長の高林さんが湯島のサロンに来てくださったので、それに便乗して、夕方、高林さんが広げてきた認知症予防ゲームの実践者を中心にした集まりを持ちました。
メーリングリストで声をかけたら、すぐ15人の定員に達してしまいましたが、結局、18人の過密サロンになってしまいました。
実は、高林さんたちは、これまで「スリーA方式」というタイトルでゲームを広げてきましたが、いろいろと事情があって、今年からは「みんなの認知症予防ゲーム」というタイトルで活動することになりました。
ですから、「みんなの認知症予防ゲーム」と言っても、まだ知らない人がほとんどでしょう。
しかし、数年後には、きっと知っている人も多くなっていることと思います。
なにしろ「みんなの」ものですから。

名前は体を表すというように、ここにはいろんな意味が込められています。
しかし、残念ながら、そこに込められた思いや意味は、なかなか伝わりません。
高林さんの認知症予防ゲームを東日本に広げる役割を引き受けてきた私としても、その趣旨をきちんと実践者に伝えたいと思っていました。
本当は5月末に、こういう場を持ちたかったのですが、いろいろあって、いささか私自身が腰が引け、途中で止めてしまっていたのです。
しかし、今回、これまでゲーム展開に取り組んでいた方々が、みんな集まってくださったので、やっと肩の荷が下りました。

ゆるやかな組織や制度がそろそろ必要な段階になってきていますが、「ゆるやかな仕組み」をつくることほど大変なことはありません。
もう10歳、私が若ければイニシアティブがとれるのですが、いまはその元気がありません。
しかし、きっと今回、集まった中から、誰かが動き出してくれるでしょう。
そうしたら、私にできることも見つかるかもしれません。

ちなみに私の「認知症」の捉え方は、極めてポジティブなのです。
なにしろ私の発想は、世間の常識には大体において反対なものですから。
もちろん「認知症」の方の周辺の人がどんなに大変かはわかってはいますが、まずはポジティブに捉えることを起点にしています。
多くの人が体験するのであれば、死と同じく、ポジティブに捉えなければ、解決策は見えてこないと思っているのです。

3a20150718


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/12/30

■「差別する意識」が生み出す市場

12月の後半に開催した3つの集まりに共通したテーマを感じました。
集まりの大きなテーマは「自殺」「家族」「認知症」だったのですが、いずれにも共通していたのは、私たちが無意識にもっている「差別する意識」とそれを生み出す「制度」でした。
そうした意識や制度は、気づかないうちに、私たちの生活の中にどんどんと広がっています。
そう強く感じたのは、昨日開催した認知症予防関係の話し合いでした。

認知症の定義は、いろいろとあるのでしょうが、人はある年齢になると急速に認知度が低下するそうです。
認知度の低下の大小により、認知症の恐れがあるとか、軽度の認知症、重度の認知症とされるのでしょうが、その定義はかなりあいまいなのだろうと思います。
高血圧症の範囲が医療界の都合で変えられているのと同じかもしれません。
しかも、それは社会の仕組みによっても大きく変わってくるでしょう。
3世代とか4世代が一緒に暮らす大家族制度、あるいは隣近所が支え合って暮らすような開かれた家族制度の場合は、認知度が低くなっても、「病気」扱いされずにすまされていたでしょう。
逆に昨今のように単世代家族中心で、しかも家族が自閉化しがちな社会においては、軽度の認知力低下でも「病気」扱いされることで、隔離されていく傾向が強くなるでしょう。
加齢とともに認知度が低下するのは、それなりの生命的理由があると私は思っていますが、そうした生命の摂理さえ病気にされてしまうのは、いささか悲しい気がします。

もっとわかりやすい例は、精神病です。
日本では精神病が理由で入院している人は非常に多く、全入院患者の4人に1人が精神障害者だそうです。
精神病院は、今でもなお「隔離装置」となっているように思われます。
ある集まりで、座敷牢に閉じ込められていた昔に比べればよくなったのではないかという話になりましたが、これもたぶん正しくはないでしょう。
座敷牢が広がったのは、明治になってからではないかと思います。

水俣病の語り部、石牟礼道子さんのことを書いた本を読んでいたら、若松英輔さんのこんな文章が出てきました。

水俣病よりずっと前から石牟礼道子は豊かな非情の世界で生きていたのである。
人間であるものと人間でないものの境界が溶け合っている世界である。
幼い彼女の傍らには神経殿(しんけいどん)と呼ばれる老女がいて、石牟礼道子はいつも神経殿を通して言葉を身につけていったはずだ。
神経殿というのは今で言う精神病者のことで、その蔑称とも愛称とも分かちがたい呼称でたがいを引き寄せるようにして人びとは混じり合っていた。
そこは障害者/健常者や正常者/異常者といった境界を社会的規範が押しつけてくる世界ではなかった。
私が子どもの頃は、まだそうした「多様な人たちが一緒に暮らしていた社会」だった気がします。
父の実家に疎開していたころに、その村にやはり神経殿のような存在がいたような記憶がうっすらと残っています。

健常者とか正常者とかいう言葉は、私には理解しがたい言葉ですが、健常や正常の範囲がどんどん狭まっていることは間違いないでしょう。
そこからはみ出した人は、医療や製薬やケアサービスの顧客になっていきます。
そうして経済成長に貢献する存在へと仕上げられていくわけです。
私には、忌まわしい動きです。
なんでも市場化してしまう、最近の制度設計の発想には、恐ろしさを感じます。
そのうち、すべての人は病人にされ、薬の消費者になっていくでしょう。
いやすでにもうほとんどそうなっているかもしれません。

人はそれぞれに違うのだという、当然のことに気づくことがない限り、こうした動きは止められないでしょう。
「違い」を障害や病気などと考えることはやめようと思っていますが、自分の心身の中にある「差別する意識」を克服するのは難しいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/12/20

■魂の限界と相沢さんの謝罪

STAP細胞検証結果の記者会見について、昨日のブログで、どうもすっきりしないと書きましたが、
今日、記者会見を改めて、新聞や映像で見直しました。
2時間全てというわけにはいきませんでしたが、もう少し自分なりにすっきりさせたかったからです。
特に、相沢さんが会見終了後に話したことが気になっていました。
毎日新聞に(たぶん)全文が書かれていました。

2時間あまりに及ぶ記者会見が終了し、報道陣が退室を始めた午後0時45分ごろ、相沢氏がマイクを握って再登壇。「検証実験は、(小保方晴子研究員を監視するための)モニターや立会人を置いて行われた。そういう検証実験を行ったことは、責任者としてものすごく責任を感じている。研究者を犯罪人扱いしての検証は、科学の検証としてあってはならないこと。この場でおわびをさせていただく」と述べ、頭を下げた。【毎日新聞デジタル報道センター】
相沢さんの無念さを強く感じます。
この一言で、私はかなりすっきりできました。
そう思っている人がいるのだということです。
相沢さんは、たぶん怒りの矛先を見つけられずに、謝罪の形で真情を吐露したのだと思いました。

ニュートンが錬金術に強い関心を持っていたことは有名ですが、科学者の中には「小さな論理」に呪縛されている人と「大きな論理」に自らを開いている人とがいるように思います。
そして、科学の発見には、常に「小さな論理」では説明できない「神秘的」「霊的」なものが作用しているということも、しばしばいわれます。
私は、心身を開いた時にこそ、新しい発見はもたらされるのではないかと思っています。
相沢さんは、今回、そういう場をつくれなかったことに、良心の呵責を感じている。
私はそう感じました。
STAP細胞の存在は、「科学者としては」あるとは言えないと反されたところにも、相沢さんの誠実さを感じます。

事件のど真ん中にいる小保方さんが昨日、発表した手記の文章も、私にはとても納得できるものでした。

予想をはるかに超えた制約の中での作業となり、細かな条件を検討できなかった事などが悔やまれますが、与えられた環境の中では魂の限界まで取り組み、今はただ疲れ切り、このような結果に留まってしまったことに大変困惑しております。
小保方さんは「魂の限界」と語っています。
科学を支えているのは、魂だと私は思っていますので、少し納得できました。
いまの科学の最大の問題は、哲学の欠落です。
とりわけ「いのち」に関わる場合は、哲学や霊性が重要な意味を持っています。
哲学の欠落によって、経済行為になりつつある医学の実態を思い出せばいいでしょう。

相沢さんや小保方さんが、そうしたメッセージを出してくれたことが、私には大きな救いです。
私はSTAP細胞はあると思っていますが(論理的な裏付けは皆無の直観です)、私が生きている間には確かめられることはないでしょう。
しかし、この事件からはたくさんのことを気づかされました。
最近書き続けていることに即して言えば、「科学からも人間がいなくなりつある」ということです。

それにしても、謝罪するべき人は、相沢さんではなく、ほかの人のように思えてなりません。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/25

■内気は病気なのか

この数日、体調があまりよくありません。
昨日はゆっくり休んだのでもう大丈夫と湯島に出てきたら、やはりあんまり調子がよくありません。
今日は2組の人と会う約束なのです。
私のフェイスブックを読んで、いずれからも「大丈夫か」と問い合わせがありましたが、まあ人と会ったほうが元気になるので、大丈夫と答えました。
でもやはりだんだん調子が悪くなってきました。
もう今更キャンセルはできませんが、まあ会えば元気になるでしょう。
もしかしたら、高血圧の薬を飲むのを止めてしまったからかもしれませんが、たぶん、病気ではないでしょう。

ある本で、血圧は200を超えなければ大丈夫というような記事を読んで、なるほどと思って、薬を止めてしまったのですが、こういう生兵法が一番悪いのでしょう。
しかし、そうは言うものの、やはり病気の概念が広がりだしているのは気にいりません。

最近読んだ本にこんな広告の写真がありました。
2003年に雑誌に載った広告です。
有名な製薬会社ファイザーの「抗うつ剤ゾロフト」の広告です。
「彼女はただ内気なだけ? それとも、社会不安障害?」(Is she just shy? Or is it Social Anxiety Disorder?)と呼びかけています。
Img002_3
この広告が紹介されていた本は、5年前に翻訳出版されたクリストファー・レーンの「乱造される心の病」です。
原題は「shyness became a sickness」。
著者は、今や「内気」ということさえが「病気」にされる時代になったというのです。
「ゾロフト」は英米ではものすごく売れているようで、日本でも名前を変えて売られているそうです。
クリストファー・レーンによれば、「現在では精神科医も医師も、社交性に欠けるのは精神の病気ではないかと疑ってかかる」そうです。
日本ではどうでしょうか。
もしかしたら、英米以上に「精神障害病」が広がっているのかもしれません。
日本人は、私もそうですが、ともかく「暗示」にかかりやすいですから。
そのうち、私も隔離されるかもしれませんが、少し早く生まれたおかげで今のところ無事に過ごさせてもらっています。

しかし、精神に障害のない人などいるわけもありません。
「内気が病気」とされる時代の先にあるものが恐ろしいです。

今日の体調の悪さは、病気ではなく、ただ疲れているだけでしょう。
疲れるのは、健全な証拠です。
でもちょっと疲れすぎかもしれません。
明日はまた休みましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/10/24

■医師と農夫

この1か月ほど、イタリアの精神医療改革の書籍や論文を読んでいます。
それだけではなく、日本の精神医療に関する歴史も少しだけ読んでいます。
読めば読むほど、何やら社会の闇が見えてくるのが恐ろしいのですが、私自身にも深くかかわってくる気がして、抜けられなくなっています。
それに、イタリアの精神医療改革を先導したフランコ・バザーリアの考えは、私がずっと考えてきたものととても重なっています。
それもあって、とまらなくなっているのです。

今日は、ジル・シュミットというスイスのジャーナリストによるイタリアの精神病院解体レポート「自由こそ治療だ」という本を読んでしまいました。
そこに書かれている、彼女とバザーリアの対話は、それこそ感動的ですが、それは置いておいて、やはりそこに出てくるある精神医療にかかわる医師の言葉に感動したので紹介することにしました。

精神障害のある人が繰り返し、医師に苦労を掛けます。
挙句の果てに自殺未遂まで起こしてしまう。
そこでその医師に著者が、「再び監禁してしまった方がよいのではないか、と思いませんか」と訊いたところ、医師は首をふって次のように言ったというのです。

いいえ、いいえ。我慢しなければいけません。
私たちは農夫のようなものです。
畑を耕し、作物を植え、収穫を待ち望むのです。
それから霰が降り、すべてをオジャンにしてしまう。
でも、それでも農夫は諦めません。
彼は翌日またはじめます。
そして今度はもっとよいことを期待するのです。
とても元気づけられる言葉です。
日本にも、こんな医師はいるのでしょうか。
バザーリアの世界では、医師と農夫とが同じなのです。
日本では、もしかしたら対極かもしれません。

そういえば、テレビの「小さな村の物語 イタリア」では、こういう話が多いです。
以前、医療も含めて、「改革」の話を10回シリーズで書きましたが、改革を可能にするのは、やはり人間観だと改めて確信しました。
それを抜きにした「改革」はありえないでしょう。
私の人間観がますます好きになりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/10/22

■入院すると得をするってほんとですか?

友人が、ちょっと深刻な病気で手術入院することになりました。
何回か目の入院です。
繰り返しの入院なので経済的にも大変だろうと心配しましたが、彼が言うには、入院すると保険から100万円おりるそうなのです。
こういう話は時々聞くことがあります。

彼はまた、入院中の待遇の良さも話してくれました。
最近話題になっているので、「そこでは患者様扱いされるのか」と訊くと、まさにそうだと言うのです。
名もない民間病院ではありません。
れっきとした有名な大学の病院です。
そういえば、大学でも学生をお客様扱いしているのかなと思いました。

お金ももらえて、待遇もよく、快適な生活ができるのであれば、入院患者も増えていくことでしょう。
しかし、何かおかしい話です。
騙されているように思います。

10年以上前に、山形市で講演を頼まれました。
内容は忘れましたが、話した後に、「行政はサービス業だと思いますか」と会場から質問がありました。
当時は、行政もサービス業だという言説が広がっていたのです。
私は即時に、「思いません」と答えました。
質問者は失望したようでした。
会場には私の知り合いも来ていましたが、明らかに彼もまた失望していたように思います。
しかし、私の感覚からは、行政がサービス業であるはずはありません。
もちろん、行政職員が「公僕」だなどとは私は全く思っていません。
そういう発想が日本の自治体や地域社会を壊してきたのです。

医療も同じで、断じて、サービス業であってはなりません。
昨今の新自由主義の流れの中では、医療も産業化され、病院もサービス機関になってしまったのでしょう。
いや、サービス機関ではとどまらず。顧客創造機関にさえなってきています。

クリストファー・レーンは、その著書「乱造される心の病」で、「クスリを売るならまずは患者をつくれ」という状態になっている「精神病産業」の現実を告発しています。
しかし、これは精神病産業だけの話ではありません。
病院は今や、病気を治すどころか、医療市場の拡大を使命にしだしているのではないかと思うほどになってきています。

医療関係者は、こうした動きをどう考えているのでしょうか。
そろそろ病院の外へ出てきませんか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧