カテゴリー「医療時評」の記事

2017/10/31

■カフェサロン「医療・社会保障崩壊のルーツは明治維新」報告

長年、医師の立場から、日本の医療制度の問題点を指摘しつづけているNPO法人医療制度研究会の本田さんのサロンは、台風直前の雨にもかかわらず、15人のサロンになりました。

本田さんは外科医でしたが、還暦を機に外科医を引退し、世直し活動に取り組みだしています。
医療制度改革に取り組む過程で、明治維新にまでさかのぼって調べ出したら、日本の医療制度を変えていくには、日本の国家のあり方まで考えないといけないことに気づいてしまったのです。
そこで今回のテーマは、「医療・社会保障崩壊のルーツは明治維新」となったわけです。

テーマは大きいですが、話は本田さんのとても身近な話から始まりました。
そして、密度の濃い内容の話を、聞き手を飽きさせることなく、常に笑いを起こしながら、1時間半、ぴっちりと話してくれました。
その内容を要約すると、明治維新は薩長の下級武士が大英帝国の阿片マネーを背景に、皇室を錦の御旗に政治利用して徳川から政権を奪取したクーデターだった。そして彼らによるクレプトクラシー(収奪・盗賊政治)は敗戦後70年以上経過した現在も続いている。そしてそれこそが医療や社会保障の崩壊の根因である。
とまあこれが大筋ですが、医師不足や病院経営の実態についても数字でしっかりと論証してくれました。
しかし、メディアが伝える医療の話は、医療事故や医療費増加への危機感をあおるような話ばかりです。
世界的に見て国民人口あたりの医師がいかに少ないか、そして、医師の過労死や自殺の問題、医療面での国家負担の低さ、などはなかなか報道されません。

本田さんの話の内容をきちんとお伝えするのは難しいですが、サロンで使ったパワーポイントを本田さんが提供してくださったので、興味のある人はぜひじっくりとそれを見てください。https://www.dropbox.com/s/41kjan3lrrc2349/2017.10.29%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%AE%8F.pptx?dl=0
併せて、本田さんが今年初めに雑誌に寄稿した論考も読んでみてください。
これもとても興味深いです。
https://www.dropbox.com/s/okqbp3k4q7x0isn/%E6%9C%88%E5%88%8A%E4%BF%9D%E9%99%BA%E8%A8%BA%E7%99%82%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0.PDF?dl=0

私が本田さんと出会ったのは15年ほど前ですが、その時に、日本の医師が(意図的に)ますます不足する方向にあることを知って驚きました。
その後、本田さんは盛んにテレビに出られていましたが、最近は見かけることがなくなりました。
それが気になっていましたが、その理由も今回よくわかりました。
現場からの情報発信は政策決定者には疎まれるようです。
日本人はマスコミを信じすぎるという話の中で、参加者から学校で「教科書」依存を植え付けられた日本人にとってマスメディアは大人の「教科書」だという「教科書幻想」の話も出ましたが、マスコミまで「国家検定」が行なわる方向にあるのかもしれません。
ちなみに、日本の医師不足はいまなお世界水準に比較して絶対的に少なく、医師が地域的に偏在しているという問題ではないことを本田さんはデータで示してくれました。

本田さんが活動に大きくコミットしていった契機は、日本から病院が消えるのではないかといち早く警告を発していた長崎大学名誉教授の高岡善人さんからの1通のファックスだったそうです。
高岡さんとの出会いから本田さんは渋沢栄一を学びだし、明治維新にまでたどりついたのですが、高岡さんの遺志を引き継ぎながら、その思いを広げるために活動しているのです。
そのあたりのお話もパワーポイントに書かれています。

本田さんは、ドイツの医師、ルードルフ・フィルヒョウの「医療はすべて政治」という言葉も紹介してくれました。
この言葉にとても共感しますが、私は「福祉はすべて政治」だと思っています。
にもかかわらず日本の福祉に取り組むNPOが政治に概して無関心で、受け身的なことをいつも残念に思っています。
政治に関心を持たずに市民活動などできるはずはありません。

ちなみに、最近の日本では、自助・自立・相互扶助の動きを強め、公的な社会保障や医療が後退し、市場化される傾向にありますが、こうした動きの意味を、私たちはもっとしっかりと考えなければいけません。

本田さんは、最後にネルソン・マンデラの言葉を紹介してくれました。

何もせず、何も言わず、不正に立ち向かわず、抑圧を抗議せず、それで自分たちにとっての良い社会、良い暮らしを求めることは不可能です

心に響きます。
これこそが私が考える政治意識であり、社会性です。

本田さんは、「気づいた者」の責任として活動を続けていますが、「気づかない者」の責任も罪深い。
であれば、いろんなことに気づく場としてのサロンをさらに広げていくことが大切だと改めて思いました。

医療シリーズは引き続き継続します。
医療関係者にもぜひ参加してほしいです。


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2017/10/01

■カフェサロン「呼吸器の子・重い障害を生きる意味」の報告

15人のサロンになりました。
医療関係者の参加が少なかったのが残念でしたが、さまざまな話題が出て、たくさんの気づきをもらえたサロンでした。
松永さんは60枚にもわたるパワーポイントをつかって、在宅で人工呼吸器をつけている凌雅くんとその家族の生活ぶりを紹介してくれました。

物語の始まりは、凌雅くんのお母さんが発した「在宅人工呼吸器の今の生活が楽しい」という一言への松永さんのひっかかりからでした。
寝たきりの最重症、介護疲れ、不自由不便、自宅での孤立… なぜ「楽しい」と言えるのか?
それが松永さんの疑問だったそうです。
そうして、凌雅くん一家との交流が始まり、松永さんは自分の思い込みの間違いに気づいていくのです。
今回のサロンに参加した人も、松永さんのお話を聞いて、たぶん納得、というよりも、共感できたのではないかと思います。

凌雅くんは生後5か月の時に、ゴーシェ病と診断されました。
患者数は日本で10~20人しかいないという病気で、余命は2歳までと言われていました。
それを知った時、凌雅くんのお母さんは、「障害児として生きるのであれば、受け入れることができるが、短命ということには耐えられない」と思ったそうです。
そして、「何のために生まれてきたのか? 早く死ぬために生まれてきたのか? 残りの命はあと1年しかない。生きる意味は何なのか?」と、地獄の底に落ちた心境だったと言います。

凌雅くんは、1歳半の時に自発呼吸ができなくなり、人工呼吸器を装着することになりました。
そこで家族は選択を迫られます。
一生を病院で過ごすか、それとも自宅で呼吸器をつけて暮らすか。
家族は迷うことなく後者を選択します。
病院は病人を治療する場所。これから生きていくには、その場所が病院でいいはずがないと考えたのです。

そこから家族の生き方が変わっていきます。
凌雅くんの世界も大きく広がっていきます。
そしてまわりのたくさんの人たちに喜びや幸せを広げていくのです。
その話は、ぜひ松永さんの書いた「呼吸器の子」(現代書館)をお読みください。
とてもここでは紹介しきれませんし、正確に伝えられる自信もありません。
凌雅くんはいま中学校に通っています。

最後に松永さんは、「私が学んだこと」と言って3つのことを話してくれました。
3つ目だけを紹介します。
不自由なこと、不幸なことはイコールではない。
なぜならば、人間とは、人間とは何かをつねに決定する存在だ。

パワーポイントの最後は、凌雅くん一家がアクアパーク品川に行った時の写真でした。
両親と凌雅くんの姉、みんなとても幸せそうな笑顔でした。
この笑顔を見れば、今の生活が楽しいというお母さんの言葉に納得できるでしょう。
私は、こんなに素晴らしい笑顔の家族はそう多くないかもしれないとさえ思いました。
同時に、この家族を幸せにしているのは、まさに凌雅くんだと確信しました。
長年、身近で接してきた松永さんは、そのことをもっと強く実感しているでしょう。

松永さんは、凌雅くんの看護師の言葉を紹介してくれました。
「苦しみの中にちょっとした楽しさや前向きの気持ちを見つけて、それにすがって生きていかざるを得ない。楽しさを見つけてキャッチする、障害児の母はそういう能力を自ら開発している」。
とても考えさせられる言葉だと思います。
私たちが忘れてしまっていることかもしれません。

話し合いは、いつものようにさまざまな話題が出ました。

凌雅くんは他者とどういうコミュニケーションをしているだろうかという話から、凌雅くんの生活を支えるためのいろいろな人たちを元気にし、言語ではないコミュニケーションをしているという話が出ました。
松永さんは、みんなも凌雅くんに支えられているとも話してくれました。
まさにケアの本質がそこにあります。

凌雅くん家族は、余命2歳の「医療界の常識」を否定しましたが、そうした事実によって、その後、障害児医療はどう変わったのでしょうか。
医師たちの考え方は変わったのでしょうか。
残念ながら大きく変わった事実はないようでした。
たぶん凌雅くん家族のことを知っているかどうかで、医師の考え方は変わるのではないか。
だからこそ、松永さんは本書を医療関係者に読んでほしいと思っているのです。
医療関係者だけではありません。
凌雅くん家族の幸せは社会を変えていく大きな力を持っているように思います。
医療を変えるのは、医療関係者だけではありません。
一番の当事者である患者、つまり私たち生活者もまた、医療を変えていく存在なのです。
それに、障害者のとらえ方も変わってくるでしょう。
そうした話から、医療のあり方や医師教育のあり方にも話は広がりました。

ちなみに、なぜ凌雅くんは余命2年の常識を変えられたのか。
ここに私は医療の本質が示唆されているように思います。
いつか、そんなテーマのサロンを企画したいです。

出生前診断の話も出ました。
これに関しては賛否ありますが、それを考えるうえでも凌雅くん家族の話は大きなヒントになるでしょう。

凌雅くん家族はすごいのかという話も出ました。
たしかにそうかもしれませんし、恵まれていたのかもしれません。
でも、そうしたくても、そうできなかった家族はどう思うでしょうか。
松永さんは、本の中ではそうしたことに関してとても誠実に心配りしていますが、だれもが凌雅くん家族のようにできるわけでも、なるわけでもありません。
でも大切なのは、どんな場合にも、それには十分の意味があると思うことかもしれません。

電車の中などで、障害者を見てしまうことも話題になりました。
その時に、「可哀そう」だと思うことの意味も話題になりました。
凌雅くんの父親は、「見られるのは当たり前。だって呼吸器を付けているのだから。これも人生」と言っているそうです。
実に自然体で、誠実に生きていることが伝わってきます。

障害児の自立についての父親の考えはとても共感できます。
「児童が好きなものを見つけていく。好きなものが見つかれば、仲間ができる。仲間が増えれば、その児童は幸福になれる。夢・目標に向かっていく姿勢を自立と呼びたい」。
私も、はっと気づかされた言葉です。

医療費は限られているのだから、重度障害児治療よりも、もっと大勢の子どもたちのための治療に向けたほうがいいのではないかという発想から、重度障害児治療に消極的な人も多いそうです。
これは大きな、そして実に悩ましい問題です。
それに関して、「海外での心臓移植治療のための巨額な費用の募金活動の呼びかけを受けた時に、ほかの同じような子供のことを考えると募金すべきかどうか迷ってしまった」という発言がありました。
つながっている話だと思いますが、書き出すときりがないので、今回はそうした話も出たことだけを報告しておきます。
いろんな視点に気づかされるのが、湯島のサロンの魅力なのです。

身体的ではないが、精神的な障害で、今日、このサロンに来るのもやっとだったという参加者の発言もありました。
彼女も、凌雅くんからたくさんの気付きをもらったようです。
精神障害は身体障害と違って、外からは見えにくいこともありますが、だからこそ大変な面もあります。
今回、松永さんのお話を聞いていて、私は改めて、障害観に関する大きな示唆をもらった気がします。

生きるとは何か、幸せとは何かを、考えさせられるサロンでした。
いろんな気付きがあって、この報告がなかなか書けず、夜になってようやく書く気力が出てきたため、遅くなってしまいました。
長くなったのですが、書き足りない報告になっています。

サロンの映像記録を近藤さんに撮ってもらいましたので、もしかしたら公開させてもらえるかもしれません。
その場合は、またご案内しますが、ぜひ松永さんの著書「呼吸器の子」(現代書館)を読んでもらえればうれしいです。
松永さんは特に医療関係者に読んでほしいと言っていますが、すべての人に読んでほしい本です。
松永さんはその本の最後に、「本書は、私たちの中に潜む差別思想に対するカウンターブローにしたい」と書いていますが、間違いなくそうなるでしょう。
だからこそたくさんの人に読んでほしいのです。
残念ながら本書はまだ重版に至っていません。
ぜひみんなで購入して重版に持っていきたいです。
社会をもっと住みやすくしていくためにも。

なお、「呼吸器の子」は、私のサイトに少しだけ紹介しています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#170709

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2017/09/19

■カフェサロン「医療・社会保障崩壊のルーツは明治維新」のご案内

高齢社会の到来で、日本における医療のあり方への関心は高まっており、さまざまな新しい試みも広がりだしています。
湯島のサロンでも、時々、医療制度の話題がでますが、なかなか取り組めないでいるテーマです。
しかし、私たちの生活にとって、医療制度や医療政策のあり方はとても大きな影響をもっています。
9月には、「呼吸器の子」をテーマにしたサロンも開催する予定ですが(9月30日)、そうした問題を考えていくためにも、「医療制度・医療政策」や「病院」の問題もこれから取り上げていきたいと思っています。


そこで、まずは長年、医師の立場で、日本の医療制度改革に取り組んできている本田宏さんに、日本の医療や社会保障が置かれている状況に関する基本的なお話をしていただくことにしました。


本田さんは、36年間外科医としてのお仕事をされるかたわら、NPO法人医療制度研究会の副理事長として、マスコミなどでも積極的に発言してきましたが、還暦を迎えたのを機に一昨年、外科医を引退し、医療再生のための活動に加えて、さまざまな市民活動に積極的に参加し、もっと住みよい社会に向けての幅広い連帯を目指す活動に専念されだしています。
その思いは、このままだと日本の医療は崩壊してしまう、それを阻止するためには、日本そのものを真の民主国家に転化をしなければという危機感です。


本田さんの視野は、長く深く広いので、普通はなかなか見えてこない問題を明らかにしてくれるものと思います。
今回もそんなことを感じさせるタイトルです。


本田さんからは、次のようなメッセージをもらっています。


医師不足に疑問を抱き、十数年以上医療や社会保障再生を目指して活動した外科医がたどり着いたのは明治維新だった。
明治維新は薩長の下級武士が大英帝国のアヘンマネーを背景に、皇室を錦の御旗に政治利用して徳川から政権を奪取したクーデターだった。そして彼らによるクレプトクラシー(収奪・盗賊政治)は敗戦後70年以上経過した現在も続いている。

ちょっと話が大きすぎて腰が引ける人もいるかもしれませんが、生々しい医療の現場で活動してきた本田さんのお話は具体的でわかりやすいですから、ぜひとも多くの人に聞いていただきたいと思います。
話はたぶん医療制度を超えて、社会のあり方や私たちの生き方につながっていくはずです。
本田さんがいま取り組んでいる活動やそのビジョンも話してもらえると思います。
とにかくエネルギッシュな人ですので、話に圧倒されるかもしれませんが、それに負けずに積極的な異論反論が飛び交うサロンにしたいと思っています。
もちろん、しっかりとお話を聞いて勉強したいという方も、大歓迎です。


まわりの方もぜひお誘いください。

○日時:2017年10月29日(日曜日)午後2時~4時(1時半開場)
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○問題提起者:本田宏さん(医療制度研究会副理事長)
○テーマ:「医療・社会保障崩壊のルーツは明治維新」
○会費:500円。

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2017/05/06

■国民医療の発想

連休で2冊の本を読みました。
いずれも読もうと思ったまま、数か月、読みだせなかった本です。
1冊は石垣千秋さんの「医療制度改革の比較政治」(ミネルヴァ書房)。
もう1冊は「日本病院史」(ピラールプレス)です。
いずれも分厚い本なので躊躇していたのですが、読みだしたら面白くてあっという間に読み終えました。
それでもっとハードな本を読もうと、今度は「負債論」(以文社)に取り組むことにしました。
明日から読み始めます。
700頁ほどの本なので、今度は少し手こずるかもしれません。
しかし、昨年末に眼瞼下垂の手術をしたおかげで、読書のスピードが倍増しました。
手術してくださった高久先生に感謝しなければいけません。
高久さんは、この連休もお仕事でしょうが。

ところで、読んだ2冊の本の感想などはホームページに掲載しますが、この2冊を読んだおかげ、日本の医療の問題をかなり整理することができました。
私の認識では、いまの日本の医療は明治期の発想を超えていないように思います。
つまり「国民医療」の発想です。
これでは何のことかわからないと思いますが、いつか少し私見を書きます。

今日は湯島で2時から「教育勅語」をテーマにしたサロンです。
これもまさに「国民教育」の発想に基づくものです。
そうしたことに私たちはもっと想像力をもたなければいけないと思っています。
もしお時間があれば、ぜひご参加ください。
誰でも歓迎です。

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2017/02/26

■コムケアサロン「豊かな高齢期をいきることの素晴らしさ」報告

昨年から始まった「看取り文化シリーズ」の第2回目は、小田原福祉会の潤生園の時田佳代子さんの話題提供をお願いしました。
申込者が20名を超すことになってしまい、会場を変えようかと思ったほどでしたが、何とか湯島で開催することができました。
関心の高さを知り、正直少しホッとしました。
葬儀不要論が広がる最近の風潮には大きな懸念を持っています。


時田さんは、小田原での長年の取り組みについて紹介してくれました。
潤生園では、「医療の死」とは違う「福祉の死」に長年取り組んできています。
医療や行政の「常識」にとらわれることなく、しかし、しっかりとした取り組みで、生きること、死ぬことに誠実に取り組んできているのです。
生活に立脚すれば、ある意味では当然のことながら、24時間365日、在宅での生活ケアが基本になりますし、生きるための基本は食になります。
医療技術の活用の仕方も変われば、食事のあり方も変わってくる。
しかも、それをきちんとデータを取りながら進めているのです。


時田さんの話は録音しておけばよかったのですが、あまりに引き込まれてしまい、記録も何もとりませんでした。
しかし多くの人たちに聞いてほしいと思いましたので、いつかまた講演会のようなものを開きたいと思います。
参加者のみなさんも、いろいろと思うことがあったと思います。
小田原に転居できるものなら転居したいと思った人もいるでしょう。

潤生園の取り組みや理念はホームページをご覧ください。
http://junseien.jp/corporate/
ホームページに書かれている次の文章に、潤生園の姿勢が感じられます。

潤生園が提供する「みんなの家」は、24時間365日地域での暮らしを丸ごとサポートいたします。「介護の安心」はもとより、「医療の安心」や「生活の安心」もおまかせ下さい。「みんなの家」は施設を利用される方だけでなく、地域で暮らす方々にとっても「安心」を提供したいと考えています。お困りのことがあれば「みんなの家」をお訪ね下さい。地域の方々の暮らしの拠り所として、みなさまのお役に立ちたいと考えています。

この文章だけだと、よくあるビジネスメッセージにしか聞こえないかもしれませんが、時田さんの話を直接聞けば、たぶん真意が伝わってきます。
ちなみに、潤生園の職員は「潤生園の原点」という小冊子をそれぞれが持っているようです。
昨日、時田さんから私も1冊もらいました。
潤生園を創設するに当たって、時田純さん(時田さんのお父上)は、戦中戦後の自らの体験を踏まえて、理念を掲げました。

人は人として存在するだけで尊い。真の福祉は、人のいのちの尊さを知り、個人の人格を心から敬愛するところからはじまる。
この理念を核に活動を展開しているのです。


昨日のサロンの内容報告にはなっていませんね。
すみません。
しかしたくさんの、しかもさまざまな立場の人が参加してくださったおかげで、話し合いからもたくさんの気付きをもらいました。
潤生園が目指していることは、これからの社会や福祉のあり方を考える大きなヒントが含まれています。
最近の福祉政策は方向を間違えていると感じている私にとっては、大きな元気をもらえるサロンになりました。
だれもが安心して暮らせる社会に向けて、個人でもできることはたくさんある。
改めてそのことにも気づかせてもらいました。


時田さんはじめ、参加して下さったみなさんに感謝しています。


長くなりますが、もう一つ感じたことを書きます。
時田さんの話の誘発されるように、両親を見送った時の自分の体験を話してくれた人が何人かいます。
看取りを語り合う、さらには伝え合うサロンがあるといいなと思いました。
考えたいと思います。
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2017/02/02

■TCH(Tooth Contacting Habit)

今日はまた歯医者さんでひとつ教えてもらいました。
マウスピースを使いだしたのですが、寝ている時には自然と歯はかみ合っているのが普通ですか、と歯医者さんに質問しました。
何事も疑問に思ったことは質問するのが私の性癖です。
そうしたら、リラックスしている時、上下の歯は軽く接していると思いますか? と訊かれました。
接触していないのだそうです。
たしかに意識してみると、接触していません。
しかし、それは重力の法則に合わないので、進化の間違いではないか、類人猿もそうですか、と歯医者さんに場違いな質問をしたのですが、そうしたらTCHの話をしてくれました。
TCHとは、“Tooth Contacting Habit”(歯列接触癖)の略で、上下の歯を“持続的に”接触させる癖のことだそうです。

帰宅して、早速、調べてみました。
類人の話ではなく、TCHのことをです。
そこで知ったことを紹介します。

上下の歯は何もしていない時は接触しておらず、離れており、会話や食事をする際に接触する時間を含めても、接触しているのは1日20分程度が正常だと言われています。
上下の歯の接触時間が長くなると、筋肉の緊張や疲労、顎関節への負担が増え、起床時症状(顎の疲労感,歯の違和感,口が開きにくいなど)や顎関節症、様々な不定愁訴に関わっている可能性が考えられています。

マウスピースの効用がよくわかりました。
歯ぎしりはストレスが起こすと言われますが、歯ぎしりがストレスを起こす面もあるということです。
マウスピースは歯の寿命を延ばすだけではなく、人生を明るくするのです。
みなさんもいかがですか。
我孫子市のいしど歯科クリニックは、行くたびに何かを学べる楽しい歯医者さんです。
今日は血圧で、少しまた注意されましたが。

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2016/10/18

■みんなの認知症予防ゲーム実践者交流の報告

第2回みんなの認知症予防ゲーム実践者交流会は、首都圏で活動されている人たちが集まってくれました。
みんなそれぞれの場所で、いろんな活動をしている方ばかりです。
なぜか私だけが、まったくの部外者です。
今回は、京都のNPO法人認知症予防ネット理事長の高林さんも参加してくれました。
高林さんと実践者の、ざっくばらんな交流も、わずかながらできたかと思います。

この活動は、高林さんの熱意とご尽力で、ここまで広がってきましたが、広がっているわりには、組織的に世の中に情報発信されておらず、活動もばらばらの感があります。
そのためか、マスメディアでもあまり取り上げられることもありません。
横からずっと見ている者としては、それがどうにももどかしく、余計なお世話とは思いながら、今回また呼びかけさせてもらったわけです。
できれば、ゆるやかな組織へと向かうお手伝いをしたいと思っていますが、活動を持続していくためには「事業性」と「社会性」のいずれもが必要です。
しかも組織に関わるみんなにとって、意味のある組織でなくてはいけません。
なにしろ「みんなの認知症予防ゲーム」と称しているのですから。
そうなるためには、まずはメンバーの間に信頼関係が育たなくてはいけません。
「みんなの組織」は、創るのではなく、生まれるのでなければいけません。

横からささやかに関わらせてもらっているおかげで、いろんなことに気づかせられます。
実践者でもない私の役割も、少しはあるようです。
実践者であればこそ、見えてこないこともありますから。
実践の現場から見えてくる日本の福祉思想の実相や限界も垣間見えてきて、実践者のお話は私にはいつも刺激的です。

ちなみに、私は「認知症」という概念そのものが、基本的に間違っていると思っています。
そういう考えにもかかわらず、なぜ「みんなの認知症予防ゲーム」に関わっているのかと問われると困るのですが、それはたぶん、このゲームの実践者が、みんないい人だからでしょう。
今日も10人集まりましたが、例外なくみんないい人です。
ご多用のなか、参加してくださった人たちに感謝いたします。
ぜひ「みんなの組織」を育てていければと思っています。


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2015/07/19

■「みんなの認知症予防ゲーム」ってご存知ですか?

NPO法人認知症予防ネット理事長の高林さんが湯島のサロンに来てくださったので、それに便乗して、夕方、高林さんが広げてきた認知症予防ゲームの実践者を中心にした集まりを持ちました。
メーリングリストで声をかけたら、すぐ15人の定員に達してしまいましたが、結局、18人の過密サロンになってしまいました。
実は、高林さんたちは、これまで「スリーA方式」というタイトルでゲームを広げてきましたが、いろいろと事情があって、今年からは「みんなの認知症予防ゲーム」というタイトルで活動することになりました。
ですから、「みんなの認知症予防ゲーム」と言っても、まだ知らない人がほとんどでしょう。
しかし、数年後には、きっと知っている人も多くなっていることと思います。
なにしろ「みんなの」ものですから。

名前は体を表すというように、ここにはいろんな意味が込められています。
しかし、残念ながら、そこに込められた思いや意味は、なかなか伝わりません。
高林さんの認知症予防ゲームを東日本に広げる役割を引き受けてきた私としても、その趣旨をきちんと実践者に伝えたいと思っていました。
本当は5月末に、こういう場を持ちたかったのですが、いろいろあって、いささか私自身が腰が引け、途中で止めてしまっていたのです。
しかし、今回、これまでゲーム展開に取り組んでいた方々が、みんな集まってくださったので、やっと肩の荷が下りました。

ゆるやかな組織や制度がそろそろ必要な段階になってきていますが、「ゆるやかな仕組み」をつくることほど大変なことはありません。
もう10歳、私が若ければイニシアティブがとれるのですが、いまはその元気がありません。
しかし、きっと今回、集まった中から、誰かが動き出してくれるでしょう。
そうしたら、私にできることも見つかるかもしれません。

ちなみに私の「認知症」の捉え方は、極めてポジティブなのです。
なにしろ私の発想は、世間の常識には大体において反対なものですから。
もちろん「認知症」の方の周辺の人がどんなに大変かはわかってはいますが、まずはポジティブに捉えることを起点にしています。
多くの人が体験するのであれば、死と同じく、ポジティブに捉えなければ、解決策は見えてこないと思っているのです。

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2014/12/30

■「差別する意識」が生み出す市場

12月の後半に開催した3つの集まりに共通したテーマを感じました。
集まりの大きなテーマは「自殺」「家族」「認知症」だったのですが、いずれにも共通していたのは、私たちが無意識にもっている「差別する意識」とそれを生み出す「制度」でした。
そうした意識や制度は、気づかないうちに、私たちの生活の中にどんどんと広がっています。
そう強く感じたのは、昨日開催した認知症予防関係の話し合いでした。

認知症の定義は、いろいろとあるのでしょうが、人はある年齢になると急速に認知度が低下するそうです。
認知度の低下の大小により、認知症の恐れがあるとか、軽度の認知症、重度の認知症とされるのでしょうが、その定義はかなりあいまいなのだろうと思います。
高血圧症の範囲が医療界の都合で変えられているのと同じかもしれません。
しかも、それは社会の仕組みによっても大きく変わってくるでしょう。
3世代とか4世代が一緒に暮らす大家族制度、あるいは隣近所が支え合って暮らすような開かれた家族制度の場合は、認知度が低くなっても、「病気」扱いされずにすまされていたでしょう。
逆に昨今のように単世代家族中心で、しかも家族が自閉化しがちな社会においては、軽度の認知力低下でも「病気」扱いされることで、隔離されていく傾向が強くなるでしょう。
加齢とともに認知度が低下するのは、それなりの生命的理由があると私は思っていますが、そうした生命の摂理さえ病気にされてしまうのは、いささか悲しい気がします。

もっとわかりやすい例は、精神病です。
日本では精神病が理由で入院している人は非常に多く、全入院患者の4人に1人が精神障害者だそうです。
精神病院は、今でもなお「隔離装置」となっているように思われます。
ある集まりで、座敷牢に閉じ込められていた昔に比べればよくなったのではないかという話になりましたが、これもたぶん正しくはないでしょう。
座敷牢が広がったのは、明治になってからではないかと思います。

水俣病の語り部、石牟礼道子さんのことを書いた本を読んでいたら、若松英輔さんのこんな文章が出てきました。

水俣病よりずっと前から石牟礼道子は豊かな非情の世界で生きていたのである。
人間であるものと人間でないものの境界が溶け合っている世界である。
幼い彼女の傍らには神経殿(しんけいどん)と呼ばれる老女がいて、石牟礼道子はいつも神経殿を通して言葉を身につけていったはずだ。
神経殿というのは今で言う精神病者のことで、その蔑称とも愛称とも分かちがたい呼称でたがいを引き寄せるようにして人びとは混じり合っていた。
そこは障害者/健常者や正常者/異常者といった境界を社会的規範が押しつけてくる世界ではなかった。
私が子どもの頃は、まだそうした「多様な人たちが一緒に暮らしていた社会」だった気がします。
父の実家に疎開していたころに、その村にやはり神経殿のような存在がいたような記憶がうっすらと残っています。

健常者とか正常者とかいう言葉は、私には理解しがたい言葉ですが、健常や正常の範囲がどんどん狭まっていることは間違いないでしょう。
そこからはみ出した人は、医療や製薬やケアサービスの顧客になっていきます。
そうして経済成長に貢献する存在へと仕上げられていくわけです。
私には、忌まわしい動きです。
なんでも市場化してしまう、最近の制度設計の発想には、恐ろしさを感じます。
そのうち、すべての人は病人にされ、薬の消費者になっていくでしょう。
いやすでにもうほとんどそうなっているかもしれません。

人はそれぞれに違うのだという、当然のことに気づくことがない限り、こうした動きは止められないでしょう。
「違い」を障害や病気などと考えることはやめようと思っていますが、自分の心身の中にある「差別する意識」を克服するのは難しいものです。

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2014/12/20

■魂の限界と相沢さんの謝罪

STAP細胞検証結果の記者会見について、昨日のブログで、どうもすっきりしないと書きましたが、
今日、記者会見を改めて、新聞や映像で見直しました。
2時間全てというわけにはいきませんでしたが、もう少し自分なりにすっきりさせたかったからです。
特に、相沢さんが会見終了後に話したことが気になっていました。
毎日新聞に(たぶん)全文が書かれていました。

2時間あまりに及ぶ記者会見が終了し、報道陣が退室を始めた午後0時45分ごろ、相沢氏がマイクを握って再登壇。「検証実験は、(小保方晴子研究員を監視するための)モニターや立会人を置いて行われた。そういう検証実験を行ったことは、責任者としてものすごく責任を感じている。研究者を犯罪人扱いしての検証は、科学の検証としてあってはならないこと。この場でおわびをさせていただく」と述べ、頭を下げた。【毎日新聞デジタル報道センター】
相沢さんの無念さを強く感じます。
この一言で、私はかなりすっきりできました。
そう思っている人がいるのだということです。
相沢さんは、たぶん怒りの矛先を見つけられずに、謝罪の形で真情を吐露したのだと思いました。

ニュートンが錬金術に強い関心を持っていたことは有名ですが、科学者の中には「小さな論理」に呪縛されている人と「大きな論理」に自らを開いている人とがいるように思います。
そして、科学の発見には、常に「小さな論理」では説明できない「神秘的」「霊的」なものが作用しているということも、しばしばいわれます。
私は、心身を開いた時にこそ、新しい発見はもたらされるのではないかと思っています。
相沢さんは、今回、そういう場をつくれなかったことに、良心の呵責を感じている。
私はそう感じました。
STAP細胞の存在は、「科学者としては」あるとは言えないと反されたところにも、相沢さんの誠実さを感じます。

事件のど真ん中にいる小保方さんが昨日、発表した手記の文章も、私にはとても納得できるものでした。

予想をはるかに超えた制約の中での作業となり、細かな条件を検討できなかった事などが悔やまれますが、与えられた環境の中では魂の限界まで取り組み、今はただ疲れ切り、このような結果に留まってしまったことに大変困惑しております。
小保方さんは「魂の限界」と語っています。
科学を支えているのは、魂だと私は思っていますので、少し納得できました。
いまの科学の最大の問題は、哲学の欠落です。
とりわけ「いのち」に関わる場合は、哲学や霊性が重要な意味を持っています。
哲学の欠落によって、経済行為になりつつある医学の実態を思い出せばいいでしょう。

相沢さんや小保方さんが、そうしたメッセージを出してくれたことが、私には大きな救いです。
私はSTAP細胞はあると思っていますが(論理的な裏付けは皆無の直観です)、私が生きている間には確かめられることはないでしょう。
しかし、この事件からはたくさんのことを気づかされました。
最近書き続けていることに即して言えば、「科学からも人間がいなくなりつある」ということです。

それにしても、謝罪するべき人は、相沢さんではなく、ほかの人のように思えてなりません。


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