カテゴリー「医療時評」の記事

2020/06/02

■磯野真穂さんの「医療者が語る答えなき世界」をお薦めします

ぜひお薦めしたい本に出合いました。

磯野真穂さんの「医療者が語る答えなき世界」(ちくま新書)です。
先日、新型コロナに関連した朝日新聞のインタビューで、磯野さんが「人と人が直接会って交流できないことは、社会の死を意味する」と話されていたことに誘い込まれて、磯野さんのこの新書を読んでみました。感激しました。読み終えたのは先月ですが、多くの人に読んでほしいと思い、紹介させてもらうことにしました。

朝日新聞の記事では、磯野さんは「医療人類学者」と肩書きされていました。医療人類学という言葉も私は初めて知ったのですが、本書を読んでとても納得できました。
そして、私たちの生活のすぐ近くに、「文化人類学」のフィールドがたくさんあることに気づきました。社会は豊かさに満ち溢れているのです。
同時に、私たちにも「文化人類学者」的な生き方ができる事にも気づかされました。磯野さんは、「文化人類学は他者の生を通じて自分を知る学問」だと書いています。そう捉えれば、私もささやかに「文化人類学」的な生き方をしているように思います。

それはともかく、磯野さんは、こう書いているのです。

身体の異常を元通りに治すとか、心身の不調をすっかり取り去るとか、字句通りの「治す」からはいっけん離れたところにある医療行為が現場にはたくさんあり、それらの行為こそがまさしく医療なのではないかと思わせる場面が存在する。

そして、「「治す、治さない」という二項対立的な基準を持ち込まずに医療者の仕事をとらえる方法はないだろうか」と問い、「医療者の仕事は医学を医療に変換すること」だというのです。
現在の医療に違和感を持っていた私には、とても腑に落ちる言い方です。

磯野さんは、そうしたことをわかりやすい8つの医療者の物語を通して、ていねいに説明してくれます。「8つの物語が、読者のこれまでの人生と何らかの形で共鳴することを願ってこの本を書いた」と磯野さんは書いていますが、私の場合、たくさんの共鳴がありました。共鳴だけではなく、感動もあり、納得もあり、気づきもありました。

紹介したいこともたくさんあるのですが、生半可な紹介よりも、ぜひ本書を読んでほしいので、内容の紹介はやめておきます。
読み終えた後、磯野さんがインタビューで「人と人が直接会って交流できないことは、社会の死を意味する」と言っていたことの思いが、さらに深く伝わってきました。

新型コロナ対策で、社会が死なないように、ぜひ多くの人に読んでいただき、自分の生き方を考える時間を持ってもらえればと思います。
気楽に読める新書です。

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2020/05/17

■「感染者に会わなければ感染しない」わけはありません

新型コロナに関する専門家のテレビ発言はできるだけ聞くようにしています。
そのおかげで、新型コロナのことがかなりわかってきたような気がしますが、いわゆる専門家のほうがわかっていないのではないのかと思うことも少なくありません。
まあ私の聞き違いや理解不足の可能性も大きいですが。
しかし、専門家の発言こそ、注意して聞かねばいけないというのが私の人生体験の一つです。

たとえば、「感染者に会わなければ感染しない」ということが、ともかく家にいた方がいいという呼びかけの理由とする専門家が少なくありません。
「感染者に会わなければ感染しない」と言われると、そうだなとつい思いがちですが、そんなことはまったくありません。もし、そうならドアノブや公園の遊具を消毒したりすることは全く不要です。
物質に付着したウイルスは感染力を持っているわけですから、感染者に会わなければ感染しないなどというのは全くの嘘です。こういう嘘を重ねていくと、事実は見えなくなっていきます。たぶんそういっているうちに専門家自身もおかしくなっていくのでしょう。
嘘をついているといつの間にかその嘘に自分も騙されてしまいかねません。

専門家に限りませんが、テレビでよく言われていることや新しい生活様式なども、おかしなことは少なくありません。自宅の部屋も換気をしろと言われますが、すでにコロナウイルスが自分の家にも蔓延しているということでしょうか。
ソーシャルディスタンス2メートルなどというと、いかにも科学的で根拠がありそうな気もしますし、もっともらしく説明されていますが、専門家たちはどう思っているのでしょうか。

相手は自由に飛びまわるウイルスですから、人間が勝手に決めた行政区画に制約されて動いているわけではありません。最近の人間は、ウイルスよりも従順で、行政区域に呪縛されるようですが、ウイルスは生きている以上、そんなことにはお構いなでしょう。かれらが生きてるのは武漢の研究所の実験室の中ではなく、広い宇宙空間なのです。

揚げ足取りと言われそうですが、ともかくわけのわからない思いつきのルールや予防策が、それこそ世間に蔓延しているような気がします。
私は、そんなわけで世間に流布されているルールは参考にはしますが、自分なりに吟味して、まじめに感染予防に取り組んでいます。
オウム返しのように「ホームステイ」などと有名人が呼びかけている動画も不快でしかありません。

自分の生活をかけて感染予防に取り組んでくれる人が増えてくることを願っています。

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2020/04/27

■西浦さんのグラフに私がおかしいと思った点

西浦さんのグラフに、私がおかしいと思った点は2つです。

まず、「接触8割減」になると1か月ほどで、新規感染者がゼロになるということです。
次に、そのあとのことが何も示唆されていないことです。

つまり、政策検討の材料にはなっても、政策の根拠や説明にはならないと思います。
数理モデルは、これまでも往々にして、政策の正当化のために利用されてきました。
その典型例だと思ったのです。

しかもそれは、安倍政権の脅迫的自粛政策に加担し国民を委縮させました。
この図を毎日見せられて、みんな「外出自粛合唱」を始めました。
サーファーやパチンコ愛好者は、社会の敵にされてしまった。
そしていつの間にか、感染予防が接触予防となり、人々の間にソーシャルディスタンス、つまり不信感を生むことになった。
私はそう考えています。

西浦さんの数理モデルを否定しているわけではなく、そこにもっともらしい数字を当てはめ、ウイルス禍は一過性であるという印象を与える政策に格好の道具を与えたことに、学者としての良識を疑ったということです。
もっとも、あのグラフによって、自粛姿勢が強まり感染が収まったではないかといわれるかもしれませんが、それは否定はしません。しかし、それによって失ったものを考えてほしいです。

新規感染がゼロになるということはあり得ませんし、既存感染者の中にウイルスは残っていますから、このグラフは実は次々と重なっていくはずです。
実験室でのウイルス拡散の1シーンに関しては、これは成り立つでしょう。実験室のモデルを、きちんとした説明もせずに現実世界に安直に当てはめないでほしいと思います。
実際には、このグラフが何枚も重なって。現実を構成してくはずです。
それをベースに政策は考えられているはずですが、それは一切見えてこない。

ほかにも疑惑はたくさんあります。
感染者の8割はウイルスを感染しないなどということがどうしてわかるのか。
検査者数を示しもしないで、感染者数を発表することの意味は何なのか。
PCR検査能力は議論されても、実際の検査数は話題にしないのはなぜなのか。
要するに、みんな西浦さんと同じように、数字の遊びをしているだけではないか。
そういう気がしてならないのです。

今回のウイルス対策は、最初から事実を把握しようという姿勢があまり感じられませんでしたが、いまもって事実を把握しようという動きが出てこない。
なぜマスクがまだ不足なのか、医療用具がなぜ不足なのか。
致死率はどのくらいなのか、個人としての感染予防と感染後をどうしたらいいのか。
恐怖は広がっていますが、むしろそのために、個人として身を守る術をそれぞれが考える風潮が出てこないでいるような気さえしてしまいます。

いささか言いすぎていることは、重々承知していますが、この数か月に少なくないコラテラルダメッジが生まれているような恐ろしさを感じています。

 

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2020/04/26

■西浦モデルへの疑問

先日、フェイスブックに、コロナ鎮静化と接触率のグラフに関して、あれほどひどい「まがい物」はないのではないかというようなことを書きました。
言い過ぎではないかと叱られました。

しかし、政府も東京都知事も、これをよりどころにして、「外出自粛」を呼びかけていて、日本国中、「外出自粛」風潮に覆われています。あのグラフに日本国中が振り回されているように思えます。
それほどの影響を与えている西浦グラフは、ちょっと素直に考えたら、いかにおかしいものであるか気づくはずです。私には、あれは「詐欺師のモデル」としか思えません。

西浦さんの属するチームの取り組む「クラスター発想」も、私にはひどいものだと思い、コロナが話題になりだしたころから疑問を呈してきましたが、いまもってまだ、クラスター追跡などをやっているのは、私はコロナをはやらせたいのかと疑いたく思うほどです。

それにしてもまだ西浦モデルがテレビで活躍しています。
医療関係者にはまともな批判をしている人はいないのかと思って、先ほどネットで調べてみました。
そうしたらいろいろと情報発信している人がいる事がわかりました。

一番説得力があったのは、藤井聡さんの次のユーチューブです。
https://www.youtube.com/watch?v=Vu3EbKx_uU4

ぜひみなさんにも見ていただきたいです。

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2020/04/17

■ウイルスともなかよくやれないものでしょうか

新型ウイルスがますます「悪者」になってきています。

昨日、ふと中村桂子さんの生命誌マンダラのことを思い出しました。
1年ほど前だと思いますが、Eテレの「こころの時代」でマンダラを取り上げていました。
その最終回に、中村桂子さんが登場し、生命誌マンダラについて話していたのを思い出しました。

中村さんは、「自然の中の人間」という立脚点から、「生命誌」ということを提唱し、活動されてきていますが、生命の歴史を視覚化した生命誌マンダラをつくっています。
そこにはもちろんウイルスも然りと描かれています。

ウイルスは、生物の進化に大きな役割を果たしてきました。
1週間ほど前の朝日新聞にもそのことがイラストでわかりやすく書かれていました。
中村さんは人類にとってもウイルスが親子をつなぐ重要な役割をはたしていることを、たしかその番組で語っていました。
ウイルスも私たちの仲間なのです。

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新型コロナウイルスが、あまりにもひどく扱われていることに、ずっと違和感を持っています。
彼らは、ただ単にまだ人との付き合い方がわかっていないのではないか。
物事を、「差別」とか「いじめ」とか「居場所」とかという視点で考えてしまうようになってしまっている私には、どうも気持ちが悪いまま、今日まで来ています。
戦争と同じだなどという発言には、気分が悪くなります。
「戦争」などという言葉をそう簡単に使ってほしくありません。
そういう言葉を使っていると、自己洗脳におかされてしまい、事実が見えなくなってしまいます。

ところで、ウイルスと人間についてこれまでも語ってきている人はいます。
そのひとりが、栗本慎一郎さんですが、その著書に「パンツを捨てるサル」があります。
その本で、栗本さんは、レトロウイルスと進化、人類史について語っていますが、いまは絶版になっていて、古書も高いのでそう簡単には手に入りません。
私も持っていますが、転居予定先に送ってしまっているので、手元にはありません。
ちなみに、「パンツ」とは「おかね」のことです。

柴崎明さんはいまこそ、この本を再読する価値があるのではないかと思い立って、読み上げる動画を少しずつ配信しています。
https://www.youtube.com/watch?v=TcPul17jjrY&feature=youtu.be
できれば、彼にサロンで話してもらうのがいいのですが、この状況だとサロンも開きにくいので、関心のある方は彼のユーチューブで毎日聞いてください。
聴きやすさは保証しませんが。
なにしろ柴崎さんですから。

 

 

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2020/04/01

■大切なのは今のような状況での生活設計をしっかりと考えることだと思います。

新型ウイルスは、すでに国内に蔓延していて、しかもかなり長期的にいまのような状況は続くだろうと思っています。

2月中ごろに抱いたその思いは今も変わりません。
クラスターでウイルスが留まるはずはありません。
それにそんなに短期間で終息するはずもありません。

ですからこの2週間が重要だというように、問題を矮小化する方法には違和感がありました。
休校するなら半年先まで考えて仕組みを検討すべきです。
医療崩壊が問題であれば、そうならないように制度改善に努めるべきです。

しかし、問題を時空間的に矮小化したために、対策もとても短視眼的なものになってしまっているように思います。
何やらマスク不足が緊急の課題のようにさえ見えてしまいます。
今日になって、全世帯にマスクを2枚届けるなどというばかげたことが発表される現状を見れば、政府がまじめに考えているとは到底思えません。
それだけのマスクがあるのであれば、国民にではなく、医療や福祉関係の施設に今すぐにでも配布すべきです。
政府が医療制度崩壊など考えていないことが感じられます。
そんなことをやっている時ではないでしょう。

新たに法律を立案するときでもない。
まずは現場でできること、やるべきことをやることが必要です。
そうしたことは、2月の末くらいからかなり現場から指摘されていますし、テレビでも現場で仕事をしている人たちから要請されていました。
私のようにテレビでしか状況を推測できない立場でも、しっかりとみていれば、だれが誠実に発言しているかはわかります。

それにいま毎日発表されている感染者数は、私にはまったく理解できません。
そもそもベースになる検査対象者数が発表されていませんから、感染率はまったくわかりません。
関係者がその気になればいくらでもつくり出せる数字です。
ただただ不安をあおっているだけのようにも思います。
統計はいかようにも物語を生みだせるのです。

大切なのは実際に何が起こっているかです。
不要不急の外出など、そもそもそんなにしている人はいないでしょう。
みんなそんなにいい加減に生きているわけではありません。

明日に延ばせることは明日にしろというのであればわかりますが、明日ならいいのかということになります。
その理由にはほとんど根拠はないように思います。

このウイルス騒ぎが1週間や2週間で収まるはずはないでしょう。
むしろ今の状況は問題を先延ばしし㎡複雑にしているようにも思えます。
何が一番大切なのかがきちんと考えられていないような気がします。
不安をあおるような状況は避けなければいけません。
それこそが、感染を広げ、混乱を起こしかねません。

みんないまの「自粛生活」を3か月もつづけるのでしょうか。
それに「自粛」もいいですが、いまの状況でもできることはたくさんあります。
そういう視点で考えないと長期的な生活設計はできません。

私は、自らの健康を守るとともに、生活をしっかりと維持していきたいと思っています。
それが一番大切なことだと思うからです。

昨今のグローバルした状況では、このウイルス感染症が1年以内に終息するとはとても思えません。
そういう視点で、私は生活しています。
決して一過性の災厄ではありません。
緊急事態ではあると思いますが、その先も考えて、自らの生き方をしっかりと考えたいと、私は思っています。

今月を乗り越えればいいわけでは決してありません。
生活はずっと続いていくのですから。

 

 

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2019/08/22

■病院に6時間いました

昨日、娘の付き添いで大学病院に6時間いました。

娘がちょっと無理がたたって近くの病院に昨日逝ったのですが、専門医に診てもらうように大学病院を紹介されました。
昨夜は大変そうで、娘もほとんど寝ていないようなのです。
横になれないので、この数日あまり寝ていないそうです。
娘がそうなった理由の一因が私にあることもあって、娘からは断られましたが、ちょっと無理やり付き合ったのです。
最近体調があまりすぐれない私にとっての、ミニリトリートも兼ねていました。

紹介状を持って朝早くいったのですが、まず初診受付で40分ほどかかりました。
総合病院ですから、まあいろんな患者が多いのです。
次に内科受付に行って、ここでまた1時間ほど待たされました。
まあ、そのくらいは覚悟していました。

しかし、待合室にいるといろんな人がいます。
眠れないからという人もいれば、糖尿病かもしれないという人もいます。
待合室で待つ時間のおしゃべりを楽しんでいるように見える人もいます。
そういう中で、娘の苦しそうな様子を見ていて、こういう場でも「トリアージ」方式が取れないものかとつい思ってしまいました。

しかし、これはいかにも勝手な考えで、だれもが自分が一番大変だと思うでしょうから、フェアなトリアージ仕分けをするのは至難なことでしょう。
外見では娘が一番苦しそうだなと感じましたが、それはあくまでも贔屓目の外見でしかありません。

それに今日も実際にあったのですが、病状はたいした様子ではなかったのですが、午後から用事があるので急いでもらえないかという人がいました。
そうした個人事情を認めだしたらきりがないと言われそうですが、その人はきっと時間のない合間に来たのでしょう。
そう思うと優先させてやってほしいなとついつい思ってしまう。

もっとも今日も、娘は少し優先してもらったかもしれません。
スタッフの方が気にかけてくださったような気配を感じました。
お医者さんも、娘に処方後、薬が合わなくてあまり効果が出ないときには、救急窓口に来てくださいと言われたそうです。
昨日は娘からは救急車など大げさだと一蹴されましたが。

長々と書きましたが、先日の「分け合う経済」サロンに通ずるように思います。
「分け合う」文化は「譲り合う文化」でもあります。
譲り合う生き方に向かうことが、私にとっての前進です。

しかし、残念ながら今の社会は譲り合いどころか奪い合いに向かっている。
その根底にある「競争」の文化を「共創」へと向けていければ社会も個人も幸せになるはずです。
譲り合うことがどんなに気持ちの良いことか。
それを体験することがなかったがゆえに、あおり運転のようなことをやってしまう人たちに、ぜひとも「譲り合い」の喜びを体験してほしいです。

 今日、病院で感じたことです。

 

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2018/10/07

■カフェサロン「自閉症児を受容し親になる」報告

松永さんのサロンも、今回で3回目です。
今回のテーマは、これまでの難病の子どもと違って「自閉症児」。
松永さんの世界は、どんどん広くなり深くなり、メッセージの普遍性が強まってきています。
今回は、最近出版した「発達障害に生まれて - 自閉症児と母の17年」の勇太君母子のことを中心に、これまでの2作品にも言及されながら、そしてご自身の思いも込められながら、お話をしてくださいました。
キーワードは「受容」と「普通」。
松永さんのお話は映像記録していますので、関心のある人はご連絡ください。

「受容」に関しては、キューブラー・ロスの「死の受容の5段階」に即しながら、「受容」のプロセスとその過程でどういうことが創発されるのかを話してくれました。
そして、「死」ではなく「生」の場合は、最後の段階の「受容」こそが、始まりなのだとして、「生の受容の5段階」(私の勝手な命名です)松永モデルを紹介してくれました。
このモデルは、これからきっと松永さんによって深化していくでしょうが、とても示唆に富んでいます。

「普通」に関しては、具体的なエピソードによって「普通という呪縛」を気づかせてくれました。
もしかしたら、「普通呪縛」によって、私たちは「発達障害」などの「異常化」を進めているのかもしれません。
今の時代は、「ちょっと変わった子ども」はいなくなってしまっているのかもしれません。
実は昨日、別のサロンで、引きこもり問題に関わっている人から、最近は不登校の子供が薬を飲まされて薬害が問題になっているという恐ろしい話も聞きました。
「普通呪縛」からどうしたら自由になれるのか。
松永さんのお話には、健常者の脳を捨てることが大切という指摘もありましたが、健常であることと普通であることとは同じなのか、そしてそういう言葉に果たして実体はあるのだろうかというようなことを思いました。

松永さんは、障害者が幸福に生きる条件を2つあげました。
「居場所をつくること」と「自立と共生」です。
居場所は物理的な場所というよりも、人との出会い、社会に関わっていくこと。
自立と共生とは、お互いに支え合っている言葉であることを理解すること。
とても示唆に富んでいる指摘だと思います。
ちなみに、イヴァン・イリイチという人は「コンヴィヴィアリティ」という言葉で、以前から「自立共生」をワンセットで捉えています。

ほかにも、心に残った言葉はたくさんあります。
いくつかを羅列します。
子どもにとって親の存在が安全基地になる。
人に助けを求めることが社会とのつながりを育ていく。
会話が成り立たなくとも信頼関係や愛は育てられる。
条件なしの愛と条件付きの愛の話も紹介したいですが、書きだしたらこれまたきりがなさそうです。

最後に、これは松永さんが以前から話されていることですが、「不幸を最小化する」社会にも言及されました。
「不幸を最小化する」社会を実現するためには、「最も弱い者(高齢者、新生児、障害者など)を守り、多様性を認め、共生することが大切だが、しかし現実は…」といって、勇太君の母親のブログに書きこまれたあるコメントを紹介してくれました。
それはこんなコメントです。
「やはり知的障害者の教育に我々の血税を費やすよりも本当に勉強したくても経済的事由で学校に行けない健常者にその税金を回すべきです」
とても哀しいコメントです。
このコメントを紹介した後、松永さんは、オスプレイの写真を見せながら、「血税」ってなんだと強い口調(激しい怒りの気持ちを感じました)で問いかけました。
1機100億円のオスプレイで、どれだけの人の生が支えられるのか。
その事実を、私たちはもっと知る必要があります。

参加者は14人でしたが、いろんな話が出ました。
発達障害のある家族がいる人や自分にも思い当たる人などもいて、話し合いはとても心に響くものが多かったです。

最初に出たのは「障害者」と「健常者」という言葉(概念)への違和感でした。
しかし、「障害者」という概念によって、そう言う人たちへの支援制度や社会の理解も進むという指摘もありました。

「仕事」とは何かというような話も出ました。
お金をもらう(あるいは「稼ぐ」)ことだけが仕事ではないのではないか。
仕事にはもっと大きな意味があるのではないかという話です。
自立とか就労支援ということの捉え方を、そろそろ変えないといけないのではないかと私は思っていますが、そのヒントもたくさんあったように思います。

書きだしたらきりがないので、これももしかしたらユーチューブで公開しますので、それを見てください。

最後に私の感想を話させてもらいました。
一つは「二次障害」の問題。
もしかしたら私自身が「普通呪縛」によって、子どもたち(あるいは周囲の人たちに)に二次障害を引き起こしてきたのではないかということに気づかせてもらったこと。
もうひとつは、勇太君の母親がいまとても幸せであるように、「自分にとっての勇太」を見つけることが、誰にでもできる、そして誰にとっても必要な、幸せになる条件だということに気づかせてもらったこと。
おかげで、私もちょっと生き方を正せるような気がします。

長い報告になってしまいましたが、まだ「発達障害に生まれて - 自閉症児と母の17年」(中央公論新社)をお読みでない方は、ぜひお読みください。
いろんな意味で、心が洗われ、世界が広くなると思います。

松永さんと参加者にとても感謝していました。
報告が遅れてすみませんでした。
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2018/09/15

■「発達障害に生まれて 自閉症児と母の17年」をお薦めします

豊かに生きたいと思っている、すべての人に読んでほしい本のご紹介です。
「発達障害に生まれて 自閉症児と母の17年」(松永正訓 中央公論新社 1600円)です。

「トリソミーの子」「呼吸器の子」と、これまで難病の子どもと母親との関係を軸に、人間の素晴らしさと危うさを、深く優しく問いかけてきた松永正訓さん(小児外科医)が、今回は知的障害児とその母親を取り上げました。

本書の帯には、「幼児教育のプロとして活躍する母が、自閉症児を授かり、世間一般の「理想の子育て」から自由になって行く奇跡を描いた渾身のルポルタージュ」とありますが、知的遅れのある自閉症の男の子(勇太君)の17年間を母親からの聞き取りをもとに、松永さんがまとめたものです。
松永さんは「あとがき」で、「ノンフィクションを書く上で重要なのは、筆者の取材力と表現する力であるが、それ以上に大事なのは、取材を受ける人間の語る力かもしれない」と書いています。
私は、それ以上に大切なのは、「筆者と語る人の信頼関係」ではないかと思っています。

本書では、主役である「母」の思いや言葉が、実に素直に、剥き出しのまま書かれていて、驚くほどです。
そこには取り繕った「言葉」はありませんし、へんに遠慮した筆者の思いこみで包まれた「言葉」もない。
発している言葉が、実に生々しく、とんがっている言葉なのに抵抗なく心に入ってくる。
その一方で「母」に向けられた周囲の声が、まるで自分に向けられたように、心に突き刺さり、うれしくなったり悲しくなったりするのです。
本書のいたるところで、「母」と筆者の信頼関係を感じます。
実に安心して読めるだけではなく、読んでいる自分も、違和感なくその世界で一緒に生きているような気になるのは、筆者の立ち位置が単なる観察者ではないからでしょう。
だから、読んでいるほうまでも、「母」と「同期」してしまって涙が出てしまう。
私は本書を電車の中で読んでいたのですが、3回ほど、涙がこらえられませんでした。
本に出てくる情景が、あまり生々しく、まるで自分のことのように感じたからです。
「母」の思いに筆者が同期し、さらに読者まで同期してしまう。

今回も松永さんの大きな関心は、「受容」です。
人を受容するとはどういうことか。
しかも評論的にではなく、これまでの作品と同じように、松永さんはいつもそこに「自分」を置いて考えています。
今回もそれがよくわかります。
さらに今回は、そこにもう一つの視点が加わりました。
「普通」という呪縛です。
松永さんは、本書を通じて、自閉症の世界の一端を明らかにし、私たちの日常を縛る「普通」という価値基準の意味を問い直したいと書いています。
「普通」という呪縛から解放されると、世界は豊かに輝いてきます。
「受容」は「普通」からの解放に深くつながっています。

そのことが本書には、具体的に語られています。
たとえば、ちょっと長いですが引用させてもらいます(文章を少し変えています)。

知り合いの母親に、勇ちゃんの保育園での写真を見せた。健常児が横一列にきれいに整列して歌を歌っている。勇ちゃんは後ろの方の床で絵本を広げでいる。「こんなふうに、うちの子はみんなと一緒に歌ったり、集団行動が取れないのよ」。母は嘆くように相談を持ちかけた。実はその母親は、自身がアスペルガー症候群(知能が正常な自閉症)だった。従って勇ちゃんの気持ちが分かる。分かってそれを言葉で伝えてくれる。「この一列に並んでいる子たち、本当に不思議ねえ。どうして同じ格好をして歌っているのかしら? 後ろで本を読んでいる方がよっぽど楽しいのに」。この言葉も母には衝撃だった。そうか、自分は健常者の視点でしか、我が子の世界を見ていなかったのか。

発達障害の二次障害という、衝撃的な話も出てきます。
無理に「普通」に合わせようとする結果、うつ病や自律神経失調症などの精神障害を発症してしまうことがあります。
それを頭では知っていても、親はわが子を何とかしてやりたくて、無理をさせてしまう。
しかし、それは子どもためにはならない。
それが時にどういう結果になるか。
母がそれに心底気付いたのは、たまたま入院病棟で垣間見た病室の風景でした。
その場面は、読んでいて、私の心は凍りつきました。
読後も決して忘れられないほど、強烈なイメージが残りました。

受容とは普通の呪縛からの自由になって、お互いを信頼し合うことなのです。
それは、「発達障害の世界」に限った話ではない。
それに気づくと、世界は違って見えてくる。

読みだしたら、引き込まれて一気に読んでしまう本です。
勇太君と母との17年間は、たくさんの気づきと生きる力を、読む人に与えてくれる。
この本は書名の通り、発達障害児と母との物語です。
しかし、読みようによっては、誰にでもあてはまる示唆がたくさん散りばめられている。
人とどう関わるか、信頼するとはどういうことか、幸せとは何なのか、生きるとはどういうことか。
自らの問題として、そこから何を学ぶかという視点で読むと、山のようなヒントがもらえるはずです。
書名の「発達障害」という言葉にとらわれずにすべての人に、読んでほしいと思う由縁です。

ちなみに、10月6日に、湯島で松永さんにサロンをしてもらいます。
松永さんの人柄に触れると、さらに本書のメッセージを深く受け止められるでしょう。
ご関心のある人はご参加ください。

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2018/03/26

■書籍「社会保障切り捨て日本への処方せん」のお薦め

医療制度改革に精力的に取り組んでいる本田宏さんが、とてもわかりやすい本を書いてくれました。
「社会保障切り捨て日本への処方せん」(本田宏 自治体研究社 1100円)です。
ぜひ一人でも多くの人に読んでほしい本です。
本田さんは、情熱の人です。
いささか思いが強すぎて、話についていけない人もいないわけではありませんが、きちんとお話を聞けば、みんな共感するはずだと私は思っています。
本田さんの思いを、ぜひ多くの人に知ってほしくて、何かできることはないかと考えていたのですが、この本を広めていくことに、まずは尽力したいと思います。

本田さんは、外科医として医療に取り組むむかたわら、日本の医療制度や社会保障制度を国民の視点から改革していくための活動に取り組まれてきています。
一時期は、テレビなどでもかなり発言されていましたので、ご存知の方も少なくないと思います。
そうした活動を進めるうちに、本田さんの思いは、医療や社会保障にとどまらず、教育問題や政治問題、つまり社会そのもののあり方を変えていかなければという思いにまで広がり、還暦を契機に、社会活動に専念すべき、外科医を引退したのです。
以来、医療と日本再生のための講演や執筆などの情報発信に加えて、幅広い市民の連帯を目指して多くの市民活動への参加に全力を投じてきています。

湯島のサロンでもお話していただいていますが、もっと時間をかけて、多くの人に聞いてほしいといつも思っていました。
ですから本書が出版されたことは、とてもうれしいことです。
本書では、本田さんが伝えたいことの一部だとは思いますが、本田さんがなぜ人生を変えてまでこの活動に取り組んでいるのか、そして本田さんが一番伝えたいことは何か、がとても誠実にわかりやすく書かれています。
思いはこもっていますが、単に「思い」だけで語っているのではありません。
医療現場での体験と広い視野からのデータに基づいて、日本のどこが問題で何を変えれば医療や社会保障が充実するのかを、広い視野と深い洞察のもとに展開しているのです。

具体的な内容は、本書を読んでいただきたいのですが、本田さんが、なぜこうした活動を続けられてきたのかの理由を紹介させてもらいます。
それは、「諦めずに明らめる」ように努めてきたからだと、本田さんは言います。
そして、問題の本質を明らめるための4つの視点として、「全体像を把握せよ」「ショック・ドクトリンに騙されるな」「歴史に学べ」「 グローバルスタンダードと比較する」をあげています。
これは、最近、私たちがともすれば失いがちな姿勢ではないかと思います。
そしてそうした4つの視点を活かすためには、考える基盤になる情報がポイントになるので、情報に振り回されないメディア・リテラシーを高めなければいけないと呼びかけます。

それに関連して、本田さんは、「日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している」という、鈴木傾城さんという人のブログを紹介し、次のように書いています。
ちょっと長いですが引用させてもらいます。

「多くの日本人は勘違いしているが、覚えると考えるは別である」と鈴木氏は強調し、「日本では国民の8割がサラリーマンのため学校の重要な使命は上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先するように規格化すること」と日本の教育を一刀両断にしています。確かに教育こそが国家にとって都合のよい人間を生産できるシステムです。振り返れば医療費抑制の国策の結果の先進国最少の医師数の中で、家庭を犠牲にしてまで黙々と働いてきた私も、「言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」という、考えない教育の賜物だったのです。

「終わりに」で本田さんが書いていることにも心から共感しますので、これもちょっと長いですが引用させてもらいます。

政治が良くならなければ医療はもちろん社会保障や教育も良くならない、その一念で纏めたのが本書です。今後も日本を「国民第二に考える民主国家として子や孫の世代にバトンタッチできるよう、明日からも「考えて政治に関心を持つ人」を増やすことを目標に講演や市民活動に邁進したいと思います。

このメッセージを、私はしっかりと受け止めようと思います。
私も、生活とは実は政治そのもんだと思って、サロンを毎週開催しています。

本書は本田さんが続けてきている講演のエッセンスがベースになっていますので、とても読みやすいので、ぜひ読んでほしいです。
そして共感したら、まわりに人にもぜひ紹介してください。
また本田さんはいろんなところで講演もしていますので、機会があれば是非お聞きください。
本田さんは、何人か集まれば話に行ってもいいとまでおっしゃっています。
本書には出てこない、時にはちょっと滑ってしまうような、心和む楽しいジョークや横道話もたくさんあるので、書籍で読むのとは違った面白さと示唆があります。

いろんな意味で多くの人に読んでいただきたいと思っています。

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