カテゴリー「医療時評」の記事

2009/08/20

■無所属で選挙に立候補した友人

衆議院選挙はおそらく民主党の圧勝になるでしょうが、その選挙にあえて無所属で立候補した友人がいます。
兵庫3区から立候補した黒江けんじさんです。
黒江さんに関しては、CWSコモンズでも書いたことがありますが、いまの医療制度を変えなければいけないと思っている人です。
その思いには共感しますが、今回の選挙は民主党に過剰な風が吹いていますので、無所属での立候補は大きなハンディを負うことになるでしょう。
黒江さんが民主党や自民党から立候補したら、私は一切応援はしませんでしたが、そのいずれでもない新たな立場で出るという黒江さんの姿勢に共感して応援することにしたのですが、現実には勝ち目は少ないでしょう。
しかし、黒江さんはもう待ってはいられなかったのでしょう。
黒江さんのような人にはぜひとも当選していただいて、政治の世界に新風を吹き込んでいただきたいですが、なにしろ二大政党制のもとでは難しい話です。
前にも書きましたが、二大政党制は政党間の選挙であって、個人を選ぶ選挙ではないのです。
思いのある個人にはあまりにもハンディの大きい制度なのです。

しかし、黒江さんはめげることなく、明るく立候補しました。
30日までの間、黒江さんは演説を続けているようです。
黒江さんの深い思いが多くの人に届けばと思っています。

ちなみに「無所属」という表示は不思議な表示です。
これはおそらくいまの選挙制度の決まりからのものでしょうが、よく考えてみるとおかしな表現です。
しかし、さらによく考えてみると、自立した主体性を表現している言葉かもしれません。
政党に所属している候補者は、所詮は組織の歯車に過ぎませんが、無所属というのは自分で責任をもって政治に取り組むという姿勢の現われでもあります。
まあなかには、政党名を出せなかったり、出さないほうが得だという、偽無所属もいますから、一概には言えませんが、無所属というのは積極的な意味を持っているような気もします。
そもそも政治家は無所属であるべきでしょう。

もしよかったら黒江さんのホームページを見てください。
こういう人もいるのだと知ってもらえればうれしいです。
そして、もし兵庫3区にお知り合いがいたら、ぜひ黒江さんのことを教えてやってください。

そういえば、サンテレビの明日21日(金)17時30分からのニュースシグナルで、3区立候補者の全員を紹介するそうですので、神戸界隈にお住まいの方は黒江さんの明るい笑顔も見られるでしょう。

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2009/07/03

■臓器移植法改正について思うこと

臓器移植法の改正が話題になっています。
衆議院では「脳死は人の死」との前提に立つA案が可決され、法案は参議院に送られました。
昨日、ご自身も次男の腎臓を移植のために提供した経験をもつ柳田邦男さんが、臓器移植法改正案を審議する参院厚生労働委員会で参考人として質疑に応じた様子が新聞で報じられていました。

私も、ドナーの家族の方とささやかな交流がありますが、この問題は悩ましい問題をたくさん含んでいます。
柳田さんは、臓器を提供するドナーや家族と、提供を受ける患者や家族。それぞれの生と死に寄り添う議論の必要性を訴えた、といいます。
第三者では思いも及ばない問題が、そこにはあるはずです。
とりわけ「死」を現実に受け容れることになるドナー家族の心情への理解が、出発点にあるべきではないかと私は思いますが、そうしたことは議論の過程からはなかなか伝わってきません。
柳田さんも指摘されていますが、ドナーの家族が置かれた厳しい状況への配慮を感じられないのです。

私自身は体験者ではありませんが、伴侶の死を体験した時に感じた気持ちのおかげで、そしてささやかにお付き合いのあるドナー家族のみなさんのお話で、臓器移植議論の中から何かが欠けているような気がしています。
それが何であるか、自分でもよくわからないので、この問題には意見を言えないでいましたが、柳田さんの記事を読んで、無関心でいてはいけないと反省しました。
と言っても、まだ自分の考えはまとまりませんが。

問題は、たぶん「生命」のつながりへの想像力ではないかと思います。
これに関しては、もう少し考えてみたいと思いますが、ドナー家族の方がおっしゃっていた言葉がずっと私の頭から離れません。

臓器提供を受けて元気になった人の後ろには、臓器を提供した人たちがいるのです。
柳田さんも指摘していますが、その人たちの問題をまず解決することが、大切なように思えてなりません。

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2009/07/02

■メタボ検診

先ほど、NHKテレビのニュースを見ていたら、メタボ検診の特集をしていました。
午前中に紹介した「厚生労働省崩壊」の本での指摘を思い出しました。
こういう指摘です。

厚労省に限らず、本省の課長は偉いのです。どれくらい偉いかというと、大企業の社長くらい偉いのです。担当の課長になれば、「メタボ対策のための体操を考えたので、全国の病院で毎日やるように」ということを命令できるくらい偉いのです。ちなみに、メタポリック・シンドローム予防は医療費を削減できるから、健康診断でメタボ検診をするようにという、あまり科学的根拠のないことを全国に知らしめたのも1人の課長でした。たぶん、自分でそう信じたからです。医学界では、少なくとも″メタポリック・シンドローム″なるものが存在するのかどうか世界的なコンセンサスは得られていませんし、メタボ対策が医療費を抑制するなどという研究は、ごく小さなもの以外お目にかかったことがありません。
(木村盛世著「厚生労働省崩壊」講談社より)
テレビのニュースでは、実際にメタボ検診を受けもたらせる医師の言葉として、たとえば、この検診のおかげで本来やるべき検診ができなくなってきているとか、メタボ検診の効果への疑問がかなり明確に出されていました。
またそうしたことから浮かび上がってくる疑問に関して、厚生労働省に問い合わせた回答も照会されていましたが、驚くほどの無責任な内容でした。
木村さんが著書で書かれていることが立証されているような気がしました。

メタポリック・シンドロームなどと言う、あやしい言葉を流行させて、特定の企業を儲けさせたマスコミもひどいと思いますが(もちろんマスコミも大きな利益を得たはずです)、そうした詐欺まがいの活動が、厚生労働省の1課長によって始まったとは情けない話です。
実名は調べればわかるでしょうが、どなたかご存知の方は教えてください。
メタボ検診の陰で、悪性の病気の発見が遅れ(テレビではメタボ検診をやらないといけなくなったのでがん検診ができなくなったというような話も紹介されていました)、それが死につながったとしたら、その行為は犯罪以外の何ものでもありません。

腹立たしくなってきたので、書くことにしました。
この数日、腹立たしいことが多すぎます。
報道ステーションも、私の感覚とは合わなくなってきましたし。
またどんどん自分が社会から脱落してきている感じがします。

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2009/06/04

■薬事法改正に思うこと

薬事法が改正され。大衆薬市場も新たな競争段階に入ったようです。通信販売での購入が難しくなる一方、薬剤師の代わりに新資格「登録販売者」を置けば、店頭販売で大半の商品を扱えるようになりました。
早速、大手スーパーでもドラッグストアでも値引き競争が始まり、イトーヨーカ堂では大衆薬売上高が前年に比べ3割増えたという報道もあります。
なんでも反対と言うわけではないのですが、薬も値引き競争でどんどん安くなり、売り上げが伸びるというのがどうも気になります。

食材もそうですが、安ければいいというわけではありません。
ものには適正な価格があり、需要にも適正な量があります。
日本の経営者が好きな経営学者ドラッカーは、顧客創造こそ経営だという主張で評価を得ましたが、私からみれば、全くの間違いです。
まあ、しかしそんな意見はだれも耳を貸さないでしょうから、繰り返すのはやめます。
今回は「登録販売者」なるものへの違和感を書きます。

これも前に書いたような気がしますが、どうしてみんな「資格」を作りたがるのでしょうか。
資格があれば、安心できるのでしょうか。
「資格」のある人にだけ、権限を与えるという発想は、私には違和感があります。

話は違いますが、介護保険制度ができてから介護の現場はどうなったでしょうか。
資格がなければ介護さえできない社会って、おかしいと思いませんか。
「資格」を設定して、その資格のある人に生活のある部分を一任してしまう。
結局、生活力も生活の知恵もない、生きる力のない存在を増やしていくことにならないでしょうか。

「資格」ができることで、それまでは無償だった行為が有償になることも忘れてはなりません。
新たな市場ができますから、GDPには貢献しますし、お金儲けしたい人には歓迎されるでしょう。
でも、それによって生まれる膨大な無駄のことも忘れてはなりません。
貨幣経済量と実物経済量は、決して比例はしていません。

薬事法改正は、誰のためのものなのでしょうか。
なにか発想の起点が違っているような気がしてなりません。

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■節子への挽歌641:「命の保証はない」

節子
節子もよく知っているNさんの娘さんが先月脳卒中で倒れ、駆けつけたNさんは、医師から「命の保証はない」と言われたそうです。
幸いに娘さんは、医師も驚くほどの回復ぶりで、Nさんから安堵のメールが届きました。
そのメールの最後に、
「ごめんなさい。
一人では、抱えるのがきつくって…。」
と書かれていました。

私も、一人で抱えるのがきつくて、この挽歌を書き続けています。

私たちも、娘のことで医師から同じようなことを言われた経験があります。
ジュンがまだ誕生日が来なかった時に、急性肺炎になったのです。
かかりつけの医師から大丈夫だといわれて帰宅したのですが、節子がやはりおかしいと救急車を呼んだおかげで、最悪の事態を避けることができました。
医師よりも、母親の目が正しかったのです。
それでも休日だったため、緊急病院に内科の医師がいなくて、医師が来るまではまさに地獄のような時間でした。
ようやくやってきた医師からは手遅れで命は保証できないと言われました。
そして、後はこの子の生命力に期待するしかないと言われたのです。
酸素吸入してもらいながらも、次第に生命の灯が弱くなっていくのが、目の前で実感できるのです。
私たちにできたのは、祈ることだけでした。
3日ほどしてからでしょうか、奇跡的に回復に向かいだしました。
私たちの祈りが通じたのです。

Nさんからのメールを読んで、その時のことを思い出しました。
そして、最近、ちょっと気になっていることも思い出しました。
それは、その時に、医師の言葉ではなく、人間の生命力を信じようという奇妙な信念が生まれてしまっていたことです。
節子と病院通いしていた頃、私は医師よりも節子の生命力と私たちの祈りの力のほうを信じていたような気がします。
節子は治る、節子を治す、そういう思いがどこかで私の視野を狭くしていた可能性があります。
その結果、今から思えば、病気への対応も、誠実さに欠けていたような気がします。
もっともっと真剣に節子を守るための努力をするべきでした。

それにしても、「命の保証はできない」という言葉は聞きたくない言葉です。
医師も、たぶん発したくない言葉でしょうね。
保証などできないのは当然なのです。
生命力も、祈りも、医療と同じで、万能ではありません。
それを前提にして、みんなが誠実に取り組むようになれば、医療の世界も少し変わるかもしれないような気がします。

思い出すたびに、反省点が浮かんできて、少しやりきれない気持ちになってしまいます。

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2009/06/03

■節子への挽歌640:医療と私情

これは、医療時評で取り上げるべき話なのですが、ことの成り行き上、挽歌として書くことにします。

先日、引用させてもらった節子の主治医だった先生からのメールに、「医師と患者さんの関係は微妙であり、時に私情が過ぎるとうまくいきませんよ」という言葉が出てきます。
私も同じような言葉を、このブログでもかいています。

節子と一緒に、病気と付き合いながら、次第にこの考え方は私の意識の中からは消えていきました。
いまでは、むしろ「医療とは私情に裏付けられるべきではないか」という思いさえあります。
この場合の「私情」とは、「利己的な気持ち」ではなく「公の立場を離れた表情のある人間的な感情」という意味です。
いいかえれば、医師という肩書きではなく、その根底にある人間の気持ちということです。
病気を診ずに患者を診るということは、そういうことなのだろうと考えるようになりました。

医療と医学、医術は違います。
医療の「療」とは、いうまでもなく「いやす」ということです。
「いやす」ためには、人間的な要素が不可欠です。
こう考えていくと、医師と患者の間に一番大切なのは、ある種の「私情」ではないかと思います。
薬よりも、医師の心のこもった一言が、患者を元気にするのです。

病院におけるコミュニケーションの問題に関心を持っている人が、私の周りには少なくありません。
コミュニケーションを「論理」の世界で考えるか、「感性」の世界で考えるかは、重要な視点だと思いますが、人間が生命をかけて出会っている病院においては、後者の次元におけるコミュニケーションこそが大切ではないかと思います。

ちなみに、メールを下さった節子の主治医の先生は、節子にも私にも、とても人間的に接してくれました。
私たちも、人間として自然に付き合ったつもりです。
節子が元気になったら、患者と医師としてではなく、家族づきあいもできたような気がします。
それが実現できなかったのが、節子にはとても残念だったでしょう。

先生からのメールは、節子には届いているでしょうか。
一応、位牌には報告しておきましたが。

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2009/05/30

■節子への挽歌636:医師と患者の関係の悩ましさ

節子
私も68歳になりました。
そのことをどう節子に報告しようかと先週から思っていたのですが、今日は全く違う話を書きます。
昨日の話です。

節子の主治医だった先生からメールをもらいました
何回も読んだのですが、先生の許可を得ずに掲載することにしました。
許可を得てないので匿名にさせてもらいます。

昨年の手賀沼エコマラソンの次の日に書かれた日記を先ほど見る機会を得ました。
正直動揺してしまいました。

佐藤さんが「がんセンターにはいけなくなってしまいました。
近くに行くことはあるのですが、入れません。」と書かれていた気持ちは非常によく分かる気がしたのです。
「医師と患者、そして患者の家族の関係はとても微妙です。」という事も含めてです。

今でこそ白状いたしますが、節子さんが亡くなられる少し前(正確には覚えていませんがおそらく1ヶ月くらい前だと思います)に、2人の娘を連れて佐藤さんの家の前まで行ったことがあります。
もちろん節子さんに会ってお話ししたいと思ったことと、うちの娘を節子さんに会わせたかったからです。
どうしてそのように思ったのかはうまく説明できませんが、とにかく娘と共に会いたかったのです。
いろいろとお菓子を作ってくださったこともありましたし、家で佐藤さん方の事は話ししていたこともありましたが、本当のところはうまく説明できません。
その時僕は車を止めて、呼び鈴を押すかどうかしばらく迷い、やめて帰りました。
子供にもどうして折角きたのに会わないの?と言われましたが
その時の僕はそのような判断をしました。

その数日前に僕の妻に、節子さんに会おうか迷っているのだけどと相談したところ、
彼女より「医師と患者さんの関係は微妙であり、時に私情が過ぎるとうまくいきませんよ」とアドバイスされました。
彼女の言葉が大きかったのは事実ですが、その後もあの時会っておけば、と何度か思ったのも事実です。

佐藤さん方と同じように、ずいぶん深く関わっていながら内科治療に移っていったある患者さんが今入院しています。
内科の主治医に状態がすぐれないことを夕方聞きました。
そのあと偶然、佐藤さんのホームページを久しぶりに見たのです。
今日は当直なのですが、先ほどその患者さんに会いに行きました。
もう意識はなく僕が来たことがわかってもらえたか自信がありませんが、
僕ははっきりと、僕が呼びかけたときにうなずいたと分かりました。
その患者さんがずっと僕に会いたがっていたと家族の方々に教えて頂きました。

今日僕がこのような行動をとることができたのは、佐藤さんのおかげです。
急にこんな事を言われて変だと思わないでください。
とても偶然なことなのですが、
もしあの文書を読むことがなかったら、
勇気が出なかったというのが正しい言い方なのかもわかりません。
そして2年前の8月には、その勇気が出せませんでした。

これについて、少し私の気持ちを書こうと思いましたが、やはり涙が出てきて書けません。
1日、間を置いたので大丈夫かと思っていたのですが、今読み直したら、また胸が痛くなりました。
明日か、明後日、つづきを書きます。たぶん。

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2009/05/23

■家族が新型インフルエンザにかかったらどうしますか

今日の朝日新聞の夕刊に、次の見出しの記事が出ていました。

家で「隔離」1週間 感染の高校生、
電話でつながる家族
記事によるとこんな話です。
新型インフルエンザに感染した神戸市の女子高校生が、1週間、自分の部屋から出ないよう病院と保健所から指示され、同居の家族とも、電話の子機だけでのつながりだったというのです。
わが家では絶対にありえない話です。
と言うか、常識的に考えても、あってはいけない話ではないかと思うのですが、どう考えても恐ろしい話です。
念のために、わが家の娘たちに確認したら、やりすぎだろうというので安心しました。
ハンセン病を思い出すといったら、批判されそうですが、どこかに通ずるものを感じます。

家族の誰かが病気になったら、私は自らがたとえうつる恐れがあったとしても、生身で看病しますし、看病してほしいと思います。
もちろん伝染しないように細心の注意は払いますが、それでもうつってしまったら、それは仕方がありません。
法的に決められている伝染力の強い病気で、病院に隔離されるのであれば、それは受け入れますが、「隔離」の発想の恐ろしさを感じます。

大変失礼ですが、その家族の親たちの見識を疑います。
そうした発想が自然と出てくる人たちが増えていることに対して、不気味さを感じてしまいます。
鳥インフルエンザにかかった鳥を大量廃棄処分にする発想と同じではないでしょうか。
いや、これ以上、恐ろしい妄想を発展させるのはやめましょう。
しかし、こうした話は、決して笑い話ですますべきではありません。

私は家族からは必ずしも同意されていませんが、風邪菌にも場を与えていくことが必要ではないかという思いを持っており、毎年、風邪を引いています。
風邪を引いたら3日ほど、彼らに活躍してもらいますが、4日目からは彼らに退出してもらうようにしています。
今は亡き妻は、そうした私の発想をいつも笑っていましたが、私はかなり真面目にそう考えています。
大げさに聞こえるでしょうが、もし生物多様性論を口にするのであれば、それくらいの自己犠牲は甘んじて受け容れるべきでしょう。
まあ、あまり論理的ではなく、たぶん支離滅裂なのでしょうが、私は本能的にそう思っています。

今回のインフルエンザ対策はもちろんですが、最近の病気予防対策には違和感があります。
風邪が怖くて、生きていけるか、という気がします。
インフルエンザに罹るのも、また人生なのです。
風邪を引いたことのない人生よりも、私は引いたことのある人生が豊かなような気がします。
また支離滅裂になってきましたので、やめましょう。

みなさん
家族が新型インフルエンザにかかったら、親身に看病しましょう。
それでこそ家族です。
人間というものがわかっていない医師の言いなりになってはいけません。
治る病気も治らなくなりかねません。
但し、その結果、問題が起こっても私は責任は取りません。
それは皆さんの家族の問題だからです。

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2009/01/23

■「病気の治療(cure)」と「患者への世話(care)」

時評ブログをきちんと書き出そうと思っていたのに、今朝、目が覚めたら、めまいのために歩けない状況になってしまいました。
脳障害を心配しましたが、どうもそうではなく、内耳の三半規管の障害のようでした。
1日ほとんど寝ていたのですが、薬のせいかだいぶ良くなりました。
この症状は2回目なのですが、前回は死ぬんじゃないかと思うほど辛かったのですが、今回は軽くすみそうです。
しかし、今も胸がムカムカし、思考力は散漫で、気力にいたってはほぼ皆無です。
でもまあ、昨日再開と書いたので書こうと思って、パソコンに向かいました。
やはり何も浮かびません。

で、今日、行った柏市の岡田クリニックのことを書きます。
岡田医師は往診もするクリニックを数年前に開きました。
以前は私の近くの病院の医師で、母がお世話になった医師です。
女房が自宅療養するになった時に、とてもお世話になりました。
1年半ぶりに行きました。

午後の最後に行ったために、かなり混んでいました。
思考力なく、私はただ座っていましたが、こんな風景を見ました。
患者の一人が薬を調合してくれた看護師の方と、たぶん家族の話をしていました。
ぼんやりと聞いていたのですが、その人の病気とはあんまり関係のない話でした。
その人の洗濯機は全自動ではないこともわかりました(まあ、どうでもいいことですが)。

最初、私は、この患者の人は看護師の時間を占拠し、他の患者たちに迷惑をかけているのに気づかないのか、とちょっと批判的に感じていました。
看護師の方は混んでいることもあって、早く切り上げたいと思っているのではないかと思いましたが、どうも話を聞いていると看護師さんも親身になった楽しそうに話しているのです。
そこでハッと気づきました。
これこそが本当の医療のかたちではないのか。
それに、私がまだ時間効率意識が抜け切れていないことにも気づきました。

そして、ケアなき治療のことを思い出しました。
医療が、医学による「病気の治療(cure)」となってしまい、気持ちをこめての「患者への世話(care)」から離れてしまったことに、私は批判的だったのではないか。
病気だけを診るのではなく、病人を診よ、と医師にいいたがっていたのではないか。
自分の身勝手さに恥じいりました。

診察が終わって、会計をしようと思ったら、看護師さんが来てくれました。
女房が最期までお世話になった看護師の方たちです。
患者もいなくなったので、私も無駄話を少ししてしまいました。

岡田医師は、そうした人間の声が溢れるようなクリニックを目指しているのかもしれません。
きっとここに来るだけで元気になるお年寄りやお母さん方もいるのでしょう。
クリニックの裏の駐車場から診察室が見えるのですが、
私たちを見つけた岡田医師は、椅子からたちあがって、ていねいに私たちを見送ってくれました。
そのせいか、めまいは薬を飲む前にほとんどなくなりました。

医師と看護師と薬剤師と患者、さらには患者の家族。
それらが心を通わせあうことができれば、病気も少なくなっていくでしょうね。
病院と関わる勇気をこの1年半、失っていましたが、今年は少し関われればと思い出しました。

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2009/01/15

■節子への挽歌501:「生き方」と「死に方」

今日の読売新聞の記事です。

がん患者の8割以上は、最後まで病気と闘うことを望みつつも、死を意識せずに普段通りに過ごしたいと考えていることが、東京大によるアンケート調査で明らかになった。
逆に、がん診療に当たる医師や看護師は、将来の病状の変化や余命を知って、死に備えることを重視する割合が多く、患者と医療関係者の間で価値観のギャップがあることが浮き彫りになった。
節子のことで知人の医師に相談した時に、問題は「死に方」ですね、といわれたのはショックでした。
その医師は、統合医療研究会の中心人物だったこともあり、違った答を期待していたからです。
その後も医師に限らず、同じようなことを言われたこともありました。

日本の武士道でも「死に方」が問題にされますが、私には全く理解できない発想です。
人間は死に向かって生きているわけではありません。
生きているから死があるのです。
さもわかったように、「死に方が大切です」などという人を見ると、正直、私は蹴飛ばしたくなります。
生きようとしている人に対して、わかったようなことをいうな。
自分の生き方も少しは考えろ、といいたくなるわけです。

少し言葉がすぎたかもしれませんが、真剣に生きている人に、「死に方」などということが、どれほど残酷なことかわかってほしいものです。
「死に方」は、所詮は「生き方」の問題ですから、わざわざ言い換える必要はありません。
それに、生命はすべてつながっていると考える私にとっては、「死に方」は自分でどうこうできる問題ではありません。

こうしたことに関して書き出すと長くなってしまいますのでやめますが、節子は最後まで見事な生き方をしました。
節子は最後の最後まで、生き方を考え、生きることを放棄はしませんでした。
死への恐怖や不安は見事なほど、克服していました。
肩に力を入れて、そう思っていたわけではありません。
死から解放され、素直に、自然に、最後まで誠実に生きたのです。
弱音も愚痴も一切口にしませんでした。
告別式の挨拶で話したように、最後の1か月は凄絶な闘病生活でしたが、それはそれは見事な生き方でした。

それを「死に方」という人がいるかもしれませんが、断じてそうではありません。
心のある人であれば、決して死に方などという言葉は使わないでしょう。
一緒に体験しているとわかりますが、「生き方」なのです。
「死に方」で発想している医師には、生命への畏れが欠落しています。
病気は治せても、病人は治せないでしょう。
そういう人たちが、きっとイリイチの言う「病院社会」をつくってきたのです。
また言葉が激しくなりそうですね。
この件では、医師に言いたいことが山ほどあるので、どうしても感情的になってしまいます。
節子に怒られそうなのでやめましょう。

見事な生き方をした節子。
あまりに見事だったので、私は節子が死んだとは今でも思えないのです。
その節子に比べると、今の私の生き方はいささか弱々しいかもしれません。
しかし、私もまた、素直に、自然に、誠実に生きています。
でも誰もほめてくれません。
節子だけはきっと彼岸からエールを送ってくれているでしょう。

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2008/12/15

■なぜルボックスはアメリカでは販売されないのか

CWSコモンズのほうに書いたのですが
先週、メンタルヘルス総合研究所の久保田所長から、SSRIの話を聴きました。
SSRIは、Selective Serotonin Reuptake Inhibitorの略で、
そのまま訳すと「選択的セロトニン再取り込み阻害剤」になります。
要するに、抗うつ薬の一つで、薬としては、ルボックス、デプロメール、パキシル、ジェイゾロフトなどがあるそうです。
詳しくはネットで調べてください。

問題は、この薬には重大な副作用の疑いがあるということです。
念のためにいえば、その疑いが事実なのかどうかは、ここでは問いません。
私には全く評価能力がないからです。
それに、薬は当然、副作用を持っていますし、それは人によって全く個別に発現しますので、
素人の私が議論すべきテーマではありません。

ここで問題にするのは、次の点です。
1999年にアメリカのコロンバイン高校銃乱射事件の主犯者はSSRIの一つである、ルボックスを服用していました。
そしてその服用と銃乱射の因果関係が裁判で争われたのだそうです。
その裁判の結果、ルボックスの製造会社であるアメリカのソルベイ社は、2002年にルボックスの国内販売を止めたのだそうです。

私が疑問に思うのは、止めたのは「国内販売」だけという点です。
その後も輸出はされているようです。
日本では、アステラル製薬が今でもルボックスを販売しています。
ネットで調べても、ルボックスがアメリカで販売停止になっていることはわかりません。

アメリカの企業にとって、国内市場と海外市場は別物なのでしょうか。
薬品に限った話ではありませんが、この話題は以前からよくありました。
遺伝子操作したトウモロコシは海外輸出用などという類の話は決して少なくありません。
極端に言えば、アメリカには生活者が住み、海外には消費者が住んでいると考えているのではないかと思わせるような話です。

日本の厚生労働省は、こうした問題をどう考えているのでしょうか。
薬害事件の根幹に関わる問題ではないかと思います。
フィブリノゲン問題の時に比べて、厚生労働省が変わったと、どうも確信できません。

ホームページには書きましたが、12月4日の日経新聞には全面2頁にわたる、「仕事とメンタルヘルス2008シンポジウム」の広告特集がありました。
10月31日に開催されたシンポジウムの記録です。
タイトルは「正しい知識と適切な体制を構築 うつ病の理解促進」。
パネリストには医師や研究者、企業のメンタル担当者、厚生労働省の課長などが参加しています。

その広告主は、ソルベイ製薬、アステラス製薬、損保ジャパンです。
そのシンポジウムは、メンタルヘルスがテーマですから、もちろん上記のような問題は触れられていませんが、SSRIに関しては、とても好意的な紹介がなされています。

そこには薬学の専門家は一人もいません。
厚生労働省の人は、労働衛生課長ですからたぶん「労働省」系の人でしょう。
ここに、もしかしたら大きな落とし穴がありそうです。
つまり、製薬関係の人たちは、スポンサーサイドにしかいないわけです。
ちなみに、シンポジウムの内容は、日経ネットで公表されていますのでお読みください。

ネット検索をしていたら、薬害オンブズパーソン会議が、今年5月に、「抗うつ薬SSRIに関する要望書」を、厚生労働省、法務省、日本弁護士連合会へ提出していることを知りました。
そこで、「SSRIによる衝動性亢進(自殺・自傷行為・他害行為)と犯罪との関連および本剤による性機能障害の実態把握のための調査を行うこと」を要望しています。
それに対するソルベイ社などからの回答書も同会議のホームページに掲載されていますが、問題認識はすれ違っているようです。

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2008/09/05

■銚子市立病院は市民で再建できないものか

銚子市立病院が行政の赤字負担が限界に達し、とうとう休止になるようです。
実に「無駄」な話ではないかと思います。
いまさら言っても仕方がないでしょうが、なぜ住民たちで再建できなかったのでしょうか。
今朝のテレビでは、年間赤字は12億円と報道されていたようです(不正確かもしれません)。
銚子市の人口は7万人強ですので、年間一人2万円を負担すれば赤字は補填できます。
あるいは市民を対象にした公募債で立て直し資金は得ることも可能です。
住民一人2万円は高いかもしれませんが、病院がなくなることによって発生する住民の負担額増額と比べたら、そう大きな差はないかもしれません。
それに住民が一緒になって取り組めば、そして住民が我慢できることは我慢すれば、赤字は半減できるかもしれません。

そもそも地域住民にとって役立っている事業が赤字になること自体がおかしいのですが、それは日本の医療制度そのものがおかしいからです。
これは全国的な問題として直していかねばなりません。
それが改正されたら、数年後には黒字に持っていけるでしょう。

それに銚子市の住民の中には、きちんとした枠組みをつくれば、かなりの寄付は集まるでしょう。
病院が自分たちのものと思えれば、発想は全く変わってくるはずです。
全住民を対象にして、資金を公募したらオーナーシップが取れるかもしれません。
そうしたら名実共に、住民みんなの病院になります。
公立病院ではなく、共立病院、コモンズ病院です。

せっかくの施設があり、医師や看護師のネットワークもあったのに、赤字だからといってやめてしまうのは、大きな無駄です。
発想を変えれば、いくらでも存続の知恵は見つかるでしょう。
夕張や矢祭を、銚子の住民は学んでいないのでしょうか。
もし住民が中心になって再建するのであれば、私も喜んで負担します。
いつ自分の町でも起こるかもしれない問題ですから。

病院は、行政のものでも企業のものでもありません。
医師と看護師と患者のものです。
そういう原点が、あらゆるところで見失われているような気がします。

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2008/06/17

■多田富雄さんの祈り

お元気の時の多田富雄さんに、一度、何かの集まりでお会いしたことがあります。
そういう場所で、私自身は著名な人には声をかけることはないのですが、
多田さんには思わず声をかけてしまったのを思い出します。
なぜ声をかけたのかわかりませんが、その時、たぶん私は多田さんの「生命の意味論」を読み終わった時で、まだ興奮が冷めていなかったのだろうと思います。
いうまでもなく、多田富雄さんは免疫学の先生です。

多田さんが脳梗塞で倒れたのは2001年でした。
そこから全く別のメッセージが出され始めました。
このブログでも一度書いたことがありますが、日本の医療制度への怒りです。

たとえば、昨年3月に講演された時の次の記事をご覧ください。
「無明なるこの世に見えて暗きほど星は眩しく光るものなれ」

その多田さんが、いま、朝日新聞のコラムでご自身のことを踏まえて書いています。
今日は6回目でしたが、タイトルは「介護に表れる人の本性」です。
その中に、こんな文章が出てきます。
とてもホッとさせられます。

介護の職員たちのたとえようもない優しさは何でしょう。
人の嫌がることでも喜々としてやってくれる。
介護には人の本性が表れます。
滅び行く者への共感。弱者の「あわれさ」への同情です。
これがある限り日本は大丈夫だと思いました。
繰り返しますが、本当にうれしい記事でした。
これは多田さんの「祈り」ではないかだろうかと思いました。
ちなみに、その前のタイトルは、
「きずな断ち切る自助努力」
「医療費を削る冷酷な国」
だったのです。

多田さんは今日の記事の最後にこう書いています。

人の幸せは、小さな安心がいつも確認できるところにあるのではないでしょうか。
何回も何回も読み直しました。
不思議ですが、涙が出てきました。
どうも最近は涙ばかり出てきて困ります。
多田さんに平安が訪れていることが、うれしくてなりません。

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2008/01/21

■医師の言葉の重さ

昨夜、NHKの認知症の番組を見ました。
私は昨年、妻を亡くし、それ以来、医療や病院の番組は見ることができずにいました。ですからこの番組も見る気にならなかったのですが、たまたまテレビをつけた時、画面で患者の家族が「医師は絶望させることしか言わない」と発言していたのが気になって、ついつい見てしまいました。
案の定、見ているうちに妻の闘病のことが思い出されました。
妻は認知症ではなく、胃がんでした。
医師はとても誠実に治療対応してくれました。
私たちは世間的に言えばかなり良い医師に恵まれたことは間違いありません。

にもかかわらず、私は病院にはかかりたくないと思うようになりました。
病気になっても、病院にかかることなく死を迎えたいと思うほどです。

「医師が絶望させることしか言わない」。
妻の場合は、必ずしもそうではありませんでしたが、病状が深刻だったこともあり、「希望が持てること」は言ってもらえませんでした。
医学的な論理からいえば、希望などなかったのでしょう。
しかし、希望がなくて病気と付き合えるか、というのが私の考えでした。
嘘でもいいから希望を与える言葉がほしいと何回思ったことでしょう。

回復の可能性が高い場合は、そんなことはないでしょうが、回復不能とされる場合は、医師の言葉は患者や家族には凶器のように突き刺さるのです。
「もう手の施しようがありません」
それが事実かもしれませんが、その言葉が患者にどれほどの恐怖感を与えることでしょうか。

医師の言葉は、本人が思っている以上にパワーを持っています。
番組で、認知症の人と家族の会の代表の方が、
「医師が病気を悪くすることさえある」
というような主旨の発言をしていましたが、全くその通りです。
まさに医師の言葉は暴力にもなるのです。

しかしそのことは逆に、医師の言葉は奇跡を起こす治癒力も持っていることでもあります。
医師から希望を感じさせられる言葉をかけてもらった時の、妻の笑顔とその後の元気を思い出します。
医師の言葉は、まさに薬よりも大きなパワーを持っているのかもしれません。

番組での問題提起とは全くずれたことを書いてしまいました。
番組では、認知症の問題を切り口に、医療とか介護、さらには社会のあり方に関して、さまざまな問題が提起されていました。
とてもいい番組で、心に響いた発言もありました。
久しぶりに、テレビでできることはいろいろあることを改めて実感しました。

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2007/12/24

■司法、行政、政治、そして人間ー薬害肝炎訴訟の顛末から学ぶこと

薬害肝炎訴訟は、ようやく「一律救済」で決着しようとしています。
いかにも遅かった気がしますが、ともかくホッとしました。
しかし、首相の指示による議員立法というのはどこかにすっきりしない気もします。
今回のことはいろいろなことを考えさせてくれました。
いろいろな問題も生み出してしまったような気がします。

私が一番気になったのは、司法、行政、政治の責任逃れです。
三権分立といいますが、それはそれぞれがバラバラであっていいということではないはずです。
目的達成のために、それぞれが自立して考えることが、より公正な結果をもたらすというための枠組みでしかありません。

その場合の「目的」とは何か。
それに関しては、いろいろな考えがあります。
現在の権力構造を維持するという視点から考えれば、時には棄民政策、つまりコラテラル・ダメッジも必要になります。
一方、国民の生活を起点に考えれば、人間あるいは生命の原理が最優先されることになるでしょう。困っている人がいれば、みんなで「痛み」を分かち合うということが理念になるでしょう。
「押し付けの痛み」を分かち合うのではなく、「痛み」を支え合いにつなげる分かち合いです。
したがって、その前提として、ロールズの「無知のヴェール」が現実性を持っていなければなりません。
構造が固定化している場合には「無知のべール」論は機能せず、「生命」の広がりは限定されます。
アメリカ開拓時代、ネイティブが「人間」とみなされなかったことを思い出せばいいでしょう。

一律救済では補償の範囲が際限なく広がることを危惧したということがいわれていますが、その考えは前者の立場から出てきます。
そうした悲劇を際限なく発生させることを危惧すべきであって、補償の範囲を限定したいなどと考えるのはまさに統治コストという発想であって、生命の原理にはふさわしくはありません。

司法、行政、政治の根底にある「人間の原理」「生命の論理」を忘れてはいけません。
いうまでもなく、法の根底にも「人間の原理」「生命の論理」がなければいけません。
政治決断も、法治主義も、所詮は形式でしかありません。
そうした当然のことが、いまおろそかになっているような気がします。

薬害肝炎訴訟の顛末は、たくさんのことを教えてくれます。
生命をかけて、一律救済を貫徹した被害者の方々に心から感謝します。
私も、その生き方を学ばなければと思っています。

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2007/12/21

■薬害肝炎訴訟にみる棄民政策

薬害肝炎訴訟の和解協議が最悪の結末に向かっているように思います。
国家と国民の本質をこれほどわかりやすく露呈した事件は、そう多くないでしょう。
かつて、国家により推奨された南米などへの移民政策が、戦後になって「棄民政策」だったことが露呈されましたが、私自身はまずそのことを思い出しました。
愛国心の強要と棄民政策が、コインンの表裏であることはいうまでもありませんが、改めて最近の国家政策を見ていくと、おそろしいほどに「棄民発想」が感じられます。

今回の和解協議の「和解」には、根本的に欠けていることがいくつかあります。
一つは理念です。
具体的なところでの考えや価値観は同じでないのは当然ですが、最終的なところで理念を共有していないのであれば、和解などは成り立ちません。
最終的な理念とは、今回のことでいえば、人間として、生命を最優先に考えていこうということです。
その出発点は人間同士の会見です。
思いの共有ですが、福田首相はそこから逃げました。
福田首相には、主体性を持った人間的な言動は、この件に関してはほとんど見えません。和解に取り組む一方の主体者にはなろうとしなかったということです。
まさに手続きの時代の首相です。
時代はきちんと時代にふさわしい人を選ぶものだと改めて感心しました。

理念が共有できない場合に出てくるのが「お金」です。
現代の「お金」は、異質な価値を一元的な価値に換算する「機械的」な仕組みですが、まさに価値代行機能によって、次善の手段として和解にはよく登場します。
政治決裁ならぬ、経済決裁、いや経済決済です。
これまた手続きの時代の決裁手段ともいえます。
お金は万能とみんな思っているのです。
ちなみに私はそうは思っていませんが、それでもそうした呪縛から自由かといえば、自由ではありません。

しかし、お金で和解に乗ってしまった被害者側の当事者は、おそらく例外なく敗北感をどこかで持つことになるでしょう。
問題が、いまなお進行する「生命の問題」でなければ、それはまだ後悔で済むかもしれませんが、過去のことではなく未来にも繋がる問題であれば、お金の問題は全く別の議論となるでしょう。
そのことにすら政府は気づきませんでした。

福田首相や町村官房長は、自らの周辺に病身の人や障害のある人をお持ちではないのでしょう。愛する人もいないのでしょう。
いや、仮にいるとしても関心などお持ちではないでしょう。
つまり彼らは人間の原理に気づいていないのです。
そうでなければ、あんな表情であんな発言ができるはずがありません。
枡添大臣は論理矛盾の発言を繰り返してきているように思いますが、
結局は自分を賭けていなかったと思います。
福祉とは何か、と言う基本的なことがわかっていない。
彼は本当に介護に関わったことがあるのか、そんな気さえします。

患者を線引きする、金で解決しようとする、直接のふれあいもしない、つまり資料上の事象としてしか受け止めない、そうしたことの根底にあるのは、国民を愛する気持ちではなく、棄民する思想です。
棄民の対象がいつ自分のところに回ってくるか、私たちももっと想像力を発揮しなければいけません。
ぜひ「マルチチュード」を読んでください。

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2007/11/28

■節子への挽歌85:事象としての死、経験としての死

昨日、柳田邦男さんの言葉を引用しましたが、思い出したことを今日も書きます。

柳田さんは、「3人称の死」と「2人称の死」という言葉で、死を語っています。
簡単にいえば、医者は生物学的な生命という視点から3人称的に「患者の死」を考えるが、患者にとっては言うまでもなく「1人称の死」である。
そのことを意識して、「精神的ないのち」の次元を重視した「2人称の死」として対応することが重要だというのです。

妻の死を体験したものとして、とても共感できる話です。
しかし、これは医者の問題だけではありません。
節子がいなくなってから、痛切に感ずるのは、
「事象としての死、経験としての死」ということです。
つまり当事者(夫婦、家族を含む)にとっての死とそれ以外の人にとっての死は全く違うものであるということです。

柳田邦男さん風にいうと、「いのちを共有」している人の死は生々しい自らの「経験」ですが、それ以外の人の死は、どんなに悲しくて寂しくても対象としての「事件」なのだということです。
こんなことを言うと、節子の死を悲しんでくれたたくさんの人の涙を裏切るようで申し訳ないのですが、お許しください。
節子の親友たちは、私以上に涙を出し、今でもとても悲しみ寂しがってくれています。
そのお気持ちを軽く受け止めているわけではありません。
もしかしたら私以上に節子への追悼の気持ちは強いかもしれません。

でもたぶん私が感じている死とは全く違うのだろうと思います。
注意しないと誤解されそうなのですが、どちらがどうだといっているわけではありません。
いのちに軽重がないように、いのちへの思いも軽重はないでしょう。
でも、「事象としての死」と「体験としての死」は全く異質なものではないかと思います。
ですから、私の気持ちは絶対に他の人にはわからないということです。
そして、節子の死は決して時間の経過の中で風化もしませんし、時が癒してくれることはないでしょう。
私が生きている限り、忘れることなどあるはずがないのです。
軽々に人の伴侶の死を語ることは戒めなければいけません。
それが体験者の正直な気持ちです。

少し時評にからめて付言すれば、
私たちはいま、あまりにすべてのことを「事象」の次元で捉えがちです。
たぶんそこからは未来は開けてこないような気がします。
このことはいつかまた「時評」のほうで書いてみたいと思います。

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2007/11/02

■薬害肝炎事件は当事者の視点で緊急措置すべきです

薬害肝炎事件の報道は見ていて辛くなります。

私のようについ最近妻を病気で見送ったものにとっては、とくに辛いです。
事件は良い方向に向かっていますが、患者やその家族にとってはどう映っているでしょうか。

以前も書きましたが、当事者とそれ以外の人では時間感覚が違います。
枡添さんのおかげで、どうやら薬害肝炎事件は解決に向かったようだと私たちは思いますが、明日の生命にも不安のある当事者にとっては、みずからの状況が安堵できる状況になって初めて、解決への入り口に到達したと考えるでしょう。
7年間ですべて解決するというのは、論理の世界の話であって、当事者の視点ではありません。当事者は7年も待てません。

時間は実に残酷です。
私たちは、当事者の時間軸で問題を考えていかなければいけないと思います。
そう考えると、昨今のさまざまな事件への対応速度は実に遅いような気がします。
今回の薬害肝炎事件でいえば、7年間ではなく、やれることはすべて一気にやるべきでしょう。
軍事費を少しずつ先延ばしにすれば出来る話です。
そうした形での財政赤字であれば、国民は納得するはずです。
それに早く手を打てば、それだけトータルコストは削減できます。

法律づくりや予算の決定などの手続きも後でやればいいでしょう。
緊急措置的な発想で、問題解決に取り組めばいい話です。
薬害肝炎事件はすでに何年も議論し、事実はかなり明確になってきていますから、それが可能なはずです。
行政に迅速性を持ち込まなければいけません。
当事者の時間は待ってはくれないのですから。

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2007/10/26

■舛添厚生労働相の奮闘

フィブリノゲン問題が漸く明らかにされようとしています。
産官癒着の典型的な事例だと思いますが、生死がかかわる以上、これは犯罪だと思います。
戦争での殺人は許されるかもしれませんが、内政における殺人は許されるべきではないでしょう。
コラテラル・ダメッジの論理は民主国家では本来ありえないはずです。

これに関しては、先の福岡判決の時にも書きましたが、企業も国も責任回避が基本だったように思えましたが、舛添はまずは責任を明言しました。
フィブリノゲン問題のような話は、まだまだたくさんあるはずです。

舛添さんと野党とのやり取りを聞いていて、気になることがあります。
それは野党の相変わらずの「対立」姿勢です。
この種の問題は、本来、対立するはずのない問題です。
対立する前に、野党も一緒になって、問題の解決に取り組めないものでしょうか。
国会は「論争」の場ではなく、「議論」の場です。
もちろん裁判の場でもないので、犯罪者たちを裁くことはできないでしょうが、官僚に対する刑事告発や民事告発ができるのだということを早く示してほしいものです。
そのために、与野党などという枠を超えてほしいものです。
国会議員は、政党人である前に、日本国民であることを忘れないでほしいです。

日本は泥棒国家だといわれて久しいのですが、そこを毅然と正そうとしている舛添さんの言動を見守りたい気分です。
事態をややこしくすることで利益を得ているマスコミには邪魔してほしくないものです。

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2007/09/25

■節子への挽歌21:先が見える愚かさ、先が見えない愚かさ

節子の死は主治医たちにはほとんど自明のことだったでしょう。
医学的知識を持っている医師たちには、先が見えていたのです。
先が見えていなかったのは、私と家族です。
医学的にはどうであろうと、節子は治るんだと確信していたのです。

医師に対する私の不満は、見えている先を絶対視して考えることでした。
生命体である人間は、それぞれ違う存在であり、医学の知見が絶対ではないはずです。
それにまだまだ生命体の不思議は解明されたわけではありません。
わずかばかりの知識で、判ったような気になっている医師は、私にとっては「愚かな」存在です。

先が見えるからといって、必ずしも的確な判断につながるわけではありません。
それは病気に限ったことではありません。
「先が見える愚かさ」に陥らないようにするのが、私の生き方でした。

しかし、愚かだったのは私のほうでした。
先を見ようとしなかったのです。
先が見えるが故に愚かな判断をすることは少なくありませんが、
先が見えないが故に愚かな判断をすることは、きっともっと多いでしょう。
先を見すえて、なおかつその「先のこと」に呪縛されない生き方をしなければいけません。
私もそう思っていたのですが、節子に関しては「先が見えない愚かさ」に陥ってしまっていました。
先を見すぎる医師への反発があったかもしれません。

そうした私の小賢しさは今回に限ったことではありません。
そうした私の言動を、節子はいつも笑いながら諭してくれました。
それなのに、私の、その小賢しさが、節子に必要以上の大変さを強要してしまったのです。
今回は諭すこともできずに、節子は耐えるのみでした。
私もまた、その間違いを許してもらう機会を失ってしまいました。

先が見えない愚かな人を伴侶に選んだ節子の不幸かもしれませんが、
その点では私たちは似たもの同志でした。
先を見るのではなく、先を創ろうとするのが、私たちの生き方でした。
そして残念ながら先を創れなかった。
無念です。

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2007/08/25

■がんとの付き合い体験をお話します。必要があればですが。

女房はいま、がんで闘病中です。
CWSコモンズで時々書いていますが、4年前に胃がんの手術をし、それが昨年再発、7月末に体調が悪化し、現在は在宅療養で、私もこの1か月はほぼ付き添っています。
状況はかなり厳しいですが、希望を持って、家族みんなで前向きに取り組んでいます。
私は女房が治って元気になると確信しています。

このブログにもその体験から感じたことを少し書いていますが、そうした記事へのアクセスが少なくありません。昨日も関連記事をまとめて読んでくださった方がいます。
私もそうですが、「がん」に関する情報はネット上に膨大にありますが、なかなか知りたいことが見つからないものです。情報発信者が見えないこともあり、読み方も難しいです。
同時に、自分が気づいたことや知ったことは知らせたくなります。同じ苦労をさせたくないという気持ちになるのです。
しかし、人間の身体はそれぞれ違い、自分たちの体験が正しいとは言えませんから、それを伝えることがいいのかどうかは迷います。多くの場合は、伝えずに終わりますが、でも心の中では話して伝えたいと思うことも少なくありません。

患者やその家族の会や集まりも少なくありませんが、私たちはそうした会には参加していません。しかし同病の人たちとの交流はあり、女房はその人たちに一番元気付けられています。
体験者の話は参考になることがすくなくありません。

そこで、もしこのブログを訪れて、もう少しこんなことを知りたいという方がいたら個別にメールをいただければ、知っている限りのことをお伝えしようと考えました。
がんに関することは極めて個別であり、それぞれの人によって表情も実情も違いますから、お役に立てないことがほとんどでしょうが、お役に立てることもあるかもしれません。
私たちは、ある情報をもう少し早く知っていたら良かったという体験を何回かしています。いずれも「後知恵」ですので、早く知っていても対応できたかどうかはわかりませんが。

がんは、一筋縄では行かない病です。
医学の知だけではなく、もっとホリスティックな対応が必要な気がします。
お答えできるかどうかはわかりませんが、メールをいただければ可能な範囲で返信させてもらいます。
ただ、現在も女房と一緒に闘病中ですので、女房の状況次第で返信が遅れることもあることをご了承ください。

女房の在宅介護のため、最近はあまり誰かの役に立つことができません。
こんなことで社会の役に立つなどとは思えませんが、役に立てれば本当に嬉しいです。

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2007/08/05

■病気との対峙といのちへの眼差し

昨日、治療と治癒に言及しました。
以前も一度書きましたが、もう一度書きます。
ある人から「大きな病院の医師は治療の対象にしか興味を持たない」という言葉を聞いたからです。

治療の対象は「病気」です。治癒の対象は「人間」です。
そして、病気の治療が病人を治癒するという前提の中で、治療方法の解明が医学の進歩と考えられています。そうでしょうか。
昨日紹介した緩和ケア科での体験とは対極の、もう一つの体験を先週したのです。

先週、近くの訪問診療に取り組んでいるクリニックを訪問しました。
女房のがんが再発して以来、国立病院にかかっていましたが、そこでの関心は病気治療であって、ケアではないことがよくわかったので、治癒を支援してくれる医師を探したのです。そして在宅診療をしているクリニックの医師に出会えました。
そして迅速な対応をしてもらうことが出来ました。
医学への信頼を少し回復しつつあるとともに、私自身がいかに医療に無知だったかを思い知らされました。

私が当の病人であれば、その体験を克明に報告したいところですが、患者は女房ですので、勝手には報告できません。夫婦といえども意識は微妙に違うからです。
しかし、彼女の通院にはすべて同行し、医師の診察もほとんど体験させてもらいながら、現代の病院や医療体制の問題についてはいろいろと考えることがありました。
違和感や不信感もかなり蓄積されました。
もちろん個々の医師の熱心な仕事ぶりや病気を治そうとする熱意には感心することが多く、私たちも何回も病院の医師の献身的な行為に救われていますし、感謝もしています。とりわけ看護師たちの献身的な活動には頭が下がります。

しかし、そうだからこそ、正すべきことを正す必要があるという思いも高まっています。
基本が間違っていると、熱心に取り組めば取り組むほど、結果は逆に悪くなることもあるのです。もしかしたら、今の日本の病院はそういう状況に陥っているのではないかという気もします。ホリスティック医療の発想が欠落しています。
病院や医学の世界は、思い切ったパラダイム転換が必要なのかもしれません。

在宅診療を受けることになって、これまでのやり方とはかなり違うことを実感しました。
そこには「いのち」への眼差しがあるのです。
現在の大病院での外来診察とはまったくと言っていいほど違います。

「病気を診るな、病人を診よ」はヒポクラテス以来の治癒の基本です。
これは言い換えれば、治療ではなく治癒に心がけよ、ということではないかと思います。
治癒のために治療があるのであって、治療のために治癒があるわけではありません。

たとえばこういうことです。
がん治療は近代医学だけではまだ十分な対応はできない領域です。
ですから多くのがん患者は、サプリメントや民間療法に関心を持ちます。
病院に通いながらサプリメントを服用する人も少なくないでしょう。
しかしほとんどの病院ではいわゆる抗がん効果を表明しているサプリメントには否定的です。
私たちの場合、抗がん剤を飲む時にサプリメントは止めて下さいといわれました。理由は、何が効果があったか分からなくなるからだというのです。唖然としました。
もちろん副作用への心配も説明の中にありましたが。
患者にとっての関心は「何が効くか」ではなく「治癒されること」です。
何が効いたかはもちろん大切ですが、まずはよくなることです。
相乗効果でもいいのです。

厚生労働省の認可していないものは危険だから責任をもてないという論理も本当は成り立たない論理です。
薬害事件から明らかなように、認可したから危険性がないわけでもなく、認可したから効くともかぎりません。かつては抗がん剤と評価が高かった抗がん薬が、その後、効果がないことが判明した事例もあります。
そもそも抗がん効果の評価基準も極めてあいまいです。
このあたりは書き出すときりがないのですが、要するに抗がん剤と医薬品認可の下りていないサプリメントは、その効用や副作用において、所詮は連続しているのです。

エビデンスがないものは使えないと医師はいいます。この言葉もむなしい言葉です。
「科学」としての医療でのエビデンス(効用証拠)は、実際に効果があるかどうかとはほとんど無縁かもしれません。そのエビデンスの評価方法も極めてあいまいです。
短期間の病状回復でも効果ありとされるのです。
市販の怪しいサプリメントと大差はないのです。

治療には熱心に取り組むが、治癒にはあまり関心がない。
国立や大学などの病院の医師は、そうでないとやっていけないという話も聞きますが、患者の立場からは大きな違和感があります。
抗がん剤を飲むのをやめた患者は、医師には興味のない存在になるようです。
とても分かりやすい話ですが、どこかにおかしさがあるように思います。
そう思いませんか。

もちろん、そうでない医師も決して少なくはありません。
今回の指摘は、個人としての医師への批判ではなく、文化、仕組みとしての病院への問題提起です。
念のため。

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2007/08/04

■延命措置は希望されますか

書こうかどうか迷ったのですが、書くことにしました。
これは女房には内緒の記事です。

医師から「延命措置は希望されますか」と訊かれたら、みなさんはどうしますか。
仮の話ではなく、自分に可能性のある状況においてです。
これは、私の女房が最近受けた質問です。
女房は「希望しません」と答えました。
これだけだと何ということのない話で、どこにも問題がないように思えるかもしれません。
しかし、私は大きなショックを受けました。

国立病院の緩和ケア科にかかりだした最初の日の質問です。
緩和ケアは、いわゆる狭義のホスピスとは違うという認識で、いろいろと苦痛の緩和について相談しようと思っていた矢先です。
緩和には肉体的苦痛の緩和もありますが、患者にはそれ以外の悩みや相談事もあります。そうしたことは専門的な医師にはなかなか相談できませんので(相談に乗ってくれる医師は少ないです)、治療的見地からではなく、治癒的な見地で相談に乗ってもらえると思っていたのです。
症状を説明し、いろいろと相談を始めた時に、医師からその質問を受けました。
私も同席していましたが、突然だったので驚きました。
私の反応が少し良くなかったのか(私は感情を隠せないのです)、医師は、いざとなった場合のことも想定して、一応お聞きしておくのですと補足しました。
もしそうであれば、そう断ってから訊くべきです。
せめて信頼関係が芽生えてから質問してほしかったと思います。
がんの場合、患者も家族も微妙な精神状況なのです。
それをわかることが緩和ケアの出発点のような気がします。

たった一言に過剰反応ではないかといわれそうですが、そうした「一言」が重要なのです。
その一言で、医師や病院の評価をするつもりはありませんが、そうした一言で、病気が悪化することもあるのです。
そのことに気づいてほしいと思いますが、やはり自らがその立場にならなければわからないものかもしれません。

北九州市の生活保護の問題も、そうした一言が引き起こしたのかもしれません。
光市母子殺害事件の弁護団も同じかもしれません。

ところで「延命措置」とは何なのか。
これについてはまた書きたいと思いますが、この言葉には現在の医療観が象徴されているような気がしています。
医療の分野での「言葉」の見直しが必要ではないかと最近感じています。

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2007/07/16

■知の世界におけるホメオスタシス

稲田芳弘さんの『「ガン呪縛」を解く』という本を読みました。

革命的な医学理論であるが故に学会から抹殺されてきた千島学説がわかりやすく紹介されています。
千島学説については、以前からネットなどではサラッと読んでいたのですが、この本が面白かったという人がいたので、早速取り寄せて読んでみたのです。
いままで何となく抱いていた医学への疑問のいくつかが解消されました。
この4年間の体験のおかげで、その内容がとても納得できる気がしました。

千島学説は、たとえば「血は腸がつくる」とか「がんは血液の浄化機能を果たすために生まれる」などという考えです。
それは現在の医学の出発点にある常識への挑戦でもあります。
ですから医学学会からはほぼ無視されてきたと、著者の稲田さんは書いています。
たくさんの事例を引用していますので、とても説得力があります。
もう少し早く本書を信頼していたら、私たち夫婦のがんとの付き合いはかなり変わっていたでしょう。
もっともがんとの付き合いが浅い段階では、本書のメッセージをうまく受け止められたかどうか自信はありませんが。

いずれにしろ、医学界は千島学説に関してもっと真剣に取り組んでほしいと思います。
もし千島学説にたてば、がん治療のあり方は一変するはずです。
千島学説が正しいかどうかは私には判断できませんが、少なくとも新しい主張には正面から取り組むべきです。

学会の常識をひっくり返すような考えが生まれた場合、それが抹殺されるか無視されることは少なくないように思います。
その意味では、学問の世界は、まだ本当の「知の世界」にはなっていません。
その原因は、「知」の世界が市場化され、権力構造に組み込まれているからです。

たとえば、CWSコモンズで最近話題にした土壌菌の内水理論もその一つです。
発見者の内田護さんにお会いした時の彼の言葉はいまなお鮮明に覚えています。
彼の新発見をつぶそうとした動きがいろいろとあったようです。
その後、土壌菌は思わぬ形でブームになりましたが、しかし今なお正面から本格的に取り組まれているようには思えません。

こうしたことは技術の世界に限ったことではありません。
邪馬台国論争における古田武彦説はきちんとした反論がないと古田さんが言い続ける中で、いつの間にか忘れられたような形になってしまいました。

数十年たって、その考えが再評価されることもあるわけですが、なぜそうした新しい発見や発想は無視されがちなのでしょうか。
情報社会、知識社会と言われて久しいですが、どこかに問題があるように思います。

ちなみに、がん治療に関わっている方は、冒頭の稲田さんの本は読むに値すると思います。信ずるかどうかは別ですが。

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2007/07/13

■患者を待たせる医師を育てたのは誰か

病院で2時間半待たされてしまいました。
予約制の外来診察なのですが、いつも予約時間から1~2時間は待たされます。
1時間程度であれば、我慢できますが、2時間を越えるとかなり精神的にも疲れます。
患者は女房なのですが、体調がかなり悪いので、身体にもこたえます。
低反発の座布団を持参したり、軽食を用意したりして、何とかがんばっていますが、2時間を超えると身体的にも限度を超えてしまうようで、私と違って我慢強い彼女も今回は何のための予約時間なのだと不満をいいながら、ソファにもたれたりしていました。
2時半の予約が、受診が始まったのは5時過ぎです。
さすがに今回は、女房も医師に「今日は待ち疲れました」とチクリと言っていました。
ちなみに診察時間は5~6分です。
病院での2時間半の待ち時間のせいかどうかはわかりませんが、その後、あまり調子は良くなく、3日経過した今日もまだ元気がありません。

もちろん医師もさぼっているわけではありません。
昼食も食べずに診察を続けているのです。
医師もがんばっているのだから患者も待つくらい我慢しようというのが私たち夫婦の考えでした。
実は今回も、初めてこの病院に来たという老夫婦がいました。もう1時間以上待っている、受付の人に訊ねてみようかどうか、と話しているのが聞こえたので、ついついここでは1時間程度は普通なので、心配ないですよ、などと物知り顔に話してしまいました。
多忙な医師に対して、患者が出来ることは待つくらいかもしれない、と思っていたわけです。

しかし、こうした考えこそが一番悪いのかもしれません。
世の中をだめにしているのは、そうした中途半端な「良識人」かもしれません。
今日はそれを痛感しました。

前にも書きましたが、この問題を解決するのはとても簡単です。
私が仕事で相談を受けたら、すぐにでも解決できる問題です。
実は以前この病院で「患者と医師とのコミュニケーション」に関するアンケート調査がありました。そこに少し書いて提出したこともあります。
今回はその解決策を書きたいわけではありません。

今回、気づいたのは、こういう状況を創りだしているのは誰かということです。
病院は英語では「ホスピタル」です。
ホスピタリティにつながっています。
ホスピタリティとは「同じ立場で気持ちのよい関係を創る」ことです。
予約時間は「約束」ですが、その約束を守らずに2時間も患者を放置しておくことは、ホスピタリティとは正反対のことです。
そのことをおかしいと思わない医師は、医師として失格でしょう。
患者を診る資格などありません。
とまあ、ここまでであれば、私も以前から思っていたことです。

今日、気づいたのは、そうしただめな医師を増やしているのは、患者である私たちではないかということです。
ホスピタリティはサービスとは違い、双方向の関係ですから、予約時間の「約束」を守らないことを受け入れてしまう患者にも問題がありそうです。

忙しい医師は、病気を診ても病人を診る余裕はありません。
ですから待合室の風景など思いもよらないのかもしれません。
介護保険制度の設計者が、介護の現場の大変さに気づかないのと同じことかもしれません。こうしたことはさまざまなところにあります。

当事者が声を上げずに誰が現状を正すのか。
つまり2時間半待たされたのは、結局は自業自得なのではないかと気づいたのです。
おかしいことをおかしいと言おうと、数年前に書きました
それが出来ていない自分に気づいたわけです。

現実を直すのはいつも自分からです。
人生は本当に疲れます。
直すよりも、その現実に馴染んだほうが楽に生きられます。
病院でいつも1~2時間待っていたのは、そういう利己的な生き方の象徴だったのです。
いやはや滅入ってしまいます。

いろいろと反論が来そうですね。
責任は医師でも患者でもないといわれそうですが、まあ今回はここでやめます。

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2007/07/05

■産業のジレンマと医療のジレンマ

昨日の記事はいささか舌足らずで、何を言いたかったのかあいまいなので、少し補足します。

死に向かう医療のパラダイムは、近代の産業パラダイムと同じで、結局はそのシステム自体が「死に向かう」ことになるのではないかというのが、言いたかったことなのです。
産業のジレンマに関しては、これまでも何回か書きました。
要は、現在の産業は、問題解決(社会ニーズ)のために存在しますが、ドラッカーが早い時期に指摘したように、顧客創造が目的になり、結果的に問題解決ではなく、問題創出(市場創出)というジレンマに陥る構造になっています。
生活に不安があるほど生命保険は売れ、自動車事故が多いほど自動車は売れます。
商品陳腐化戦略は成長戦略、競争戦略の基本の一つです。
その結果、持続可能性が問題にされるほど、社会は市場として浪費されてしまいました。

こうしたことはほんの一例でしかありません。
近代産業は、その内部に大きなジレンマをかかえています。
産業によって私たちは幸せや豊かさを得たということ自体、実はその産業のジレンマに内在されているわなの一つでしかありません。

産業は自己の内部に市場を拡大する手段を持っています。
環境問題に関して、昔少しだけこのことを書いたことがあります。
静脈産業論がまことしやかに語られていた頃のことです。
CWSコモンズに掲載しています。
そうした産業のパラダイム、さらには経済のパラダイムを変える必要があると、私は思っています。

ところで、医療ですが、現在の医療もまた、こうした近代の産業パラダイムに引きずり込まれています。
医療費の高騰は必然的な結果です。
それを回避するためには、一種の民営化発想がとられます。
つまり、負担能力のない人は健康保険の対象から外し、医療制度は市場主義に向かい、医療の産業化が進みます。
医薬産業や医療機器産業の市場拡大により、医療産業へと医療の世界は民営化していきます。

医療の基軸が「人間の暮らし」から「産業」へと移行してきているのです。
産業としての医療は、病人が顧客になります。
病人が病気を維持している限り、市場は確保されます。
このあたりは、すでにイバン・イリイチをはじめとしてさまざまな指摘がありますが、身近なことを考えても納得できるのではないかと思います。

たとえば、私の例で言えば、昔は1回で終わった歯医者がいまは半年かかります。
まあその分、徹底的に直してくれるので、私自身も納得はしていますが、これは患者にも見える事例です。
しかし、たとえばメンタルケアの場合や成人病などはどうでしょうか。
いささか大雑把過ぎる説明ですが、医者は自分で患者を作れるのです。
顧客を創出することが経営と考えている経営者と同じです。
かなり誤解されそうですが、そうした発想が今の社会を覆っています。

そのパラダイムを転換するにはどうしたらいいか。
生を目指す医療に発想を切り替えていくことではないかと、私は思います。
基本を治療から治癒へと変えていくわけです。
それが昨日言いたかったことなのですが、補足になったでしょうか。
あんまりなっていないかもしれませんね。

最近、ナラティブという発想が医療の世界で広がっています。
まさにコラボレーション医療ですが、そこに大きな期待を感じています。

また舌足らずの書き込みになりましたが、昨夜、ベッドに入ってから、今日書いたことの意味は何だったのか自分で反芻してみて気になってしまったので、今朝早起きをして補足を書かせてもらいました。

ちなみに、福祉の世界も、教育の世界もまた、同じ動きにあります。

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2007/07/04

■死に向かう医療、生を目指す医療

今日は暴論です。
まあ、いつも暴論かもしれませんが。

女房ががんになったために、がんを通して医療の問題を考えることが多いのですが、近代医学のありように関してもいろいろと考える契機になりました。
がんという病気が特殊なのかもしれませんが、特殊なものにこそ、本質が現出します。

がんの場合、医師と話していて感ずるのは「がん=死の病」という呪縛です。
その根底には、近代医学のもつ病気観があります。
医師はがんが治るとは考えていないことが伝わってきます。
昨日、緩和医療の医師と話したのですが、医師は病状がだんだん悪くなるという前提で話をします。
つまり「死に向かう発想」で取り組んでいるわけです。
私たちのように、治ることを前提として立ち向かっている者には、とても違和感があります。
最近はそうした医師の姿勢に抗うのはやめることにしています。
近代医学というものの本質が理解できれば、それもまた受け入れることが大切だという考えにやっと私もたどり着きました。

ちなみに、「病院」という呼び方もそうですが、緩和医療(ケア)という表現にも、そうした発想の象徴的な現われです。

人間の人生の大半は「死」に向かっての歩みだという考えもあります。
いやそういう考えがむしろ普通かもしれません。
10歳を超えたら、生物的には滅びに向かいだすともいわれます。
しかし、それは一つの価値観に基づく評価でしかありません。
発達心理学の理論では、人間は死ぬまで発達するという捉え方もあります。

この4年、女房のがんを通して感ずることは、パスツール以来の近代医学は、結局は「死に向かう医療」の呪縛から抜け出ていないのではないかということです。
希望を根底におくことのない医療は、病気を治療しても人を治癒することはできません。
余命3か月などという、いかにも近代科学的らしい発想がでてくるのも、そのせいではないかと思います。

そうした「死に向かう医療」に対して、「生を目指す医療」があります。
私も最近知ったのですが、サイモントン療法というがんの心理療法があります。
その瞑想のためのCDがあるのですが、そのナレーションに次のような呼びかけがあります。

がん細胞は弱くて不安定な、混乱した細胞です。
がん細胞は私たちを攻撃したりしてはいません。
白血球は、常にがん細胞に攻撃をして、常に勝ちます。
あなたの体が喜びに導かれ、本質に気づき、ごく普通の働きをはたしはじめたとき、
あなたの白血球があなたの弱いがん細胞に働きかけて、正しい役割をはたします。
そして、そのがん細胞をどんどん取り除いていきます。
これはナレーションの一部ですが、そこには生に向けての希望を感じさせます。
こんなナレーションも出てきます。
病気が、何かを私たちに伝えようとしていることを思い出してください。
常に病気というものは、思いやりあるメッセージを発しています。
ヒポクラテスの医療とパスツール以来の医療とでは、何が変わったのでしょうか。
確かに病気を治す点では、大きな前進がありました。
しかし肝心の生命への意識やケアは、むしろ後退しているのかもしれません。

最近、医療訴訟が増えています。
その原因は、医療パラダイムに原因があるような気がしています。
病気は、医師が治したり諦めたりするものではありません。
治すのも諦めるのも、患者自身です。
病気に立ち向かっている患者にとって大切なのは、「治療」ではなく「治癒」なのです。

医師と患者のコミュニケーションではなく、医師と患者のコラボレーションが必要なのではないかと思いますが、近代医学のパラダイムはそれを拒んでいるように思えてなりません。

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2007/06/23

■希望のない医療、感受性の乏しい医療の見直し

ベルガモンの古代診療所の遺跡を見て人生を変えた人の話を先日書きましたが、思い出したのが、「病院で死ぬということ」(文春文庫)の著者、山崎章郎さんです。
外科医だった山崎医師は、いまホスピスの活動に取り組んでいますが、その転機となったのが、本で出会った次の文章だそうです。

患者がその生の終わりを住みなれた愛する環境で過ごすことを許されるならば患者のために環境を調整することはほとんどいらない。家族は彼をよく知っているから鎮痛剤の代わりに彼の好きな一杯のブドー酒をついでやるだろう。家で作ったスープの香りは、彼の食欲を刺激し、2さじか3さじ液体がのどを通るかもしれない。それは輸血よりも彼にとっては、はるかにうれしいことではないだろうか。
キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』に出てくる文章です。
私も『死ぬ瞬間』は読みましたが、この文章は覚えていません。
しかし山崎さんは、外科医の医師としての人生をやめてしまったのです。
ひとつの文章が、人の人生を変えることがあるのです。

「病院で死ぬということ」は読むのが辛い本です。
よほどの勇気がなければ読み続けられません。
しかし、そこからのメッセージは強烈です。

医師にとって何が一番大切かは私にはわかりませんが、患者の立場から言えば、感受性ではないかと思います。
しかし医師の立場から言えば、感受性が強いと、医師は続けられないかもしれません。
がんセンターに通いだしてから、そういう思いを強くしています。
感受性と医療体制。この2つを統合することで病院はきっと進化します。
そもそもホスピタルの原義は、そういう意味だったのですから、改めて原点に戻ることが大切なのかもしれません。

上記の本には、山崎さんが医師に成り立ての頃の体験が語られています。
末期がんの患者の延命に取り組む医師たちの姿です。

医師たちはだれ一人として、患者の病気が治っていくだろうなどとは思っていなかった。医師の使命と信じ込んでいる信念に基づいて、患者の延命に最大の努力を払っていたのだ。
この風景は、たぶん今もなお変わっていません。
いや、がんセンターのような病院では、この空気(がん=死)が病院全体を覆っているような気さえします。医師たちも、この呪縛に囚われているように思います。
私がいつも疲れてしまうのは、この文化に抗しているからです。

この文化を変えていくことが、がん対策の基本になければいけません。
延命と医療は全く別の行為ではないかと私は思っています。
希望のない医療、感受性の乏しい医療は、人の心と気を萎えさせます。

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2007/06/17

■がん対策基本計画の根底にある医療パラダイム

がん死亡率を20%減らすことを目指す、がん対策基本計画が閣議決定されました。日本のがん医療はアメリカに比べて、大きく遅れているといわれていますし、日本における「がん」への理解にも大きな問題がありますので、こうしたことが議論されることは歓迎したいのですが、どうも最近のこうした議論が「20%削減」というような数値目標に目が行き、その根底にある考え方があまり議論されないのが気になっています。
家族のがん治療体験から、がん対策の出発点は私たちの常識の見直しから始めなければいけないのではないかと、私は強く思っています。

トルコのベルガモンはアテネほど有名ではありませんが、古代世界の文化の中心地のひとつでした。塩野さんの「ローマ人の物語」にも何回も登場します。
私がベルガモンを訪問したのは10年以上前ですが、アクロポリスに残っているトラヤヌス神殿の遺跡はトルコ旅行で一番印象的だったもののひとつです。繁栄していた頃の文化の高さを感じさせます。
ベルガモンには医神アスクレピオスの神殿があります。アスクレピオス神殿は医学校でもあり、また療養所でもありました。私はそこで聖水を飲んできましたが、その診療所のことにはあまり関心を持ちませんでした。
ところが、その診療所を訪れて人生を変えた人がいます。
メキシコのオアシス病院の創設者アーネスト・コントレラスです。
その息子の書いた「21世紀の健康」(河出書房新社)に次のように書かれていました。

その療養所は、我々が現在知っている病院とはかなり違っていた。というのは、患者は3つの建物を通らなければならなかったからだ。最初の建物で、患者は、宗教上のカウンセラーに会った。彼らは、霊的に診察されることの必要性を信じていた。2番目の建物で、患者は、精神状態を診察する心理学者に会った。最後の建物で、患者は、身体的な診察を受けた。その考えに、父は愕然とした。ペルガムムの病院は、患者の身体だけでなく、人間全体を癒す所だったのである。ペルガムムを訪問して、父はこの考えに啓発されたのだ。それは、父が従うべき啓示であった。
これがオアシス病院の始まりだそうです。
息子のフランシスコ・コントレラスはこう書いています。

本質的に我々は、身体、健康、魂が統一された生き物として設計されている。しかし、むやみに忙しい現代社会では、全体的でバランスのとれた生活を営む余裕がない。我々は身体、精神、魂を持つ統一体であり、それぞれを分割することはできない。身体のみを重要視し、精神と魂を無視する医師は、充分な医療を実践できていないことになる。(同書231頁)

女房はいま、サプリメントとしてAHCCを飲んでいます。これはオアシス病院でも使っているものですが、その関係で私もオアシス病院のことを少しだけ話を聞かせてもらいました。そして、その院長が書いた本に偶然、先週出会えました。これはきっと意味のあることです。
並行して、いま、梶田昭さんの書いた「医学の歴史」(講談社学術文庫)を読んでいますが、医学に対する私のこれまでの常識がいかに浅薄なものであったかを思い知らされています。
しかも、ただ知らなかっただけではなく、ちょっと素直に考えれば気づいたことに気づかなかったことの気づきもあります。
病院や医学界への不信感は強まるばかりです。
そして、学校で学んだ知識が、世界を曲解させることがあることも、いま改めて実感しています。子どもたちのような清明な目と心が大切です。

がん対策基本計画の根底にある「がん」観はどういうものなのでしょうか。
昨今の病院や医療行政の不祥事を思い出すにつけ、この計画が悪用されなければいいがと思います。エイズの時のようなことがなければいいのですが。

ちなみに、ヒポクラテスはこのアスクレピオス派の流れをひく治療医でした。
そして重要なことは長生きだったことです。
彼はこう言っています。
「自然は病気の癒し手である」
とても共感できます。
医療と工業はやはりパラダイムが違います。

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2007/05/16

■「がんという言葉」

一昨日のNEWS23の冒頭で、キャスターの筑紫さんが、自らの肺がん告白を行いました。
「がん」は、実に哲学的な病気です。
思考回路を変えさせる言葉です。
ですから、付き合い方がとても難しい病気です。

私の妻ががんなのです。
家族で現在、闘病中です。
「闘病」という言葉は、少し正確ではないかもしれません。
「がんという言葉」に立ち向かっているというべきかもしれません。
昨日も病院でした。
私も、4年ほど、毎月、多いときは毎週、通い続けています。
妻ががんになったことで、その世界が少しだけ実感できています。
ほんの少しだけですし、もしかしたら間違っているかもしれませんが。

しかし、ともかく、生命に対してセンシティブになります。
健康な人の言葉は強く感じます。やさしい言葉ですら心を刺すことがあります。
同じ病気を体験している人の言葉はやさしく聞こえます。
会った途端に、仲間に感じられて、お互いに何かしてやりたいと思います。
状況が厳しい時には、その余裕がなくなることもありますが、女房をみていると、いつも誰かに役立とうという思いを感じます。
これは彼女の性格というよりも、置かれた状況の成せることだと思います。
彼女だけではないからです。
ほぼ例外なく、私たちが出会ったがん患者はみんなそうです。

一昨日も、自らもがん患者でもあるにも関わらず、女房のために「免疫ミルク」の情報を送ってくれた人がいます。女房の新聞投稿記事を読んで、手紙を送ってきてくれたがん患者からの手紙も昨日届きました。ほぼ毎日、こういうことがあります。
「がん」という言葉は、人をやさしくし、つないでいく言葉でもあることを実感しています。
「がん」という言葉には、心がつながるコミュニティを生み出す力があるようです。

今日、病院で女房の友人に会いました。
彼女の夫にやはりがんが発見されました。
同行していた私の娘も、病院で同窓生に会いました。やはり家族と一緒でした。
病院で時々知り合いに出会います。
おかしな言い方ですが、がんは、今や私たちにとって極めて身近な病気なのです。
筑紫さんも、2人に1人ががんになる時代と話していました。
にもかかわらず、「がん」といわれると心身ともに変調を来たします。
私は妻が「がん」といわれた途端に、世界が変わったのを覚えています。

もしかしたら最大の問題は「がん」という言葉ではないか。
「がんという言葉」で、みんな自己暗示にかかっているのではないか。
そんな気がしてきています。

希望を萎えさせると同時に、人をやさしくし、つないでいく、「がんという言葉」。
そこに何かとても大きな意味があるようなきがしていますが、それが何かまだ見えてきません。

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2007/05/11

■余命3か月

今日、女房と2人で散歩していて出会った人から聴いた話です。
残酷な話です。
書くかどうか迷いましたが、書くことにしました。

その人の親しい知り合いが、がんになりました。
気づくのが遅すぎたため、かなり厳しい状況でした。
医師から「余命3か月」というようなことを言われたそうです。
その方は、涙で話し続けられなくなりました。
他人事(ひとごと)ながら、ショッキングな話です。
なぜそんな話になったかといえば、私の女房も同じガンなのです。
そして、その人は、女房の投稿記事を読んで、女房のことを知っていたのです。

女房から、私もそういわれたのと詰問されましたが、
女房に関しては、これまで一度も、医師からはそうした話はありませんでした。
しかし、こうした表現で話されたという話を聞いたり読んだりしたことがあります。
信じられない言葉です。
そういう言い方をする医師は、医師の資格がないと思いますが、決して少ないことではないのかもしれません。

そういえば、私も信頼していたある医師から、女房に関してアドバイスを頼んだら、死に方の問題ですね、と言われて、その医師への信頼感を失いました。
これに関しては、以前書きましたが、それは医師の発想ではありません。
そんな医師にかかったら、殺されるのが関の山です。
こういう医師がいる限り、日本の医療は良くならないように思います。

がんの怖さは、先が中途半端に見えることです。
医学の知識は絶対的なものではありません。
統計的なものでしかありません。
優等生の医学生が、生命体への畏敬の念(センス オブ ワンダー)を学ばずに、そのまま医師になってしまうと、その統計的な知識を具体的な患者に当てはめてしまいがちです。
優等生的な医師ほど、恐ろしいように思います。

しかし、統計的な知識を信じてしまうのは、患者もその家族も同じです。
自己暗示にかかってしまうのです。
そして、先が見えてしまうような気がしてしまうのです。
そうなると、希望は失われます。
私たちも半年前までは、それに近かったのかもしれません。

それにして、「余命何か月」などという言葉は誰が言い出したのでしょうか。
創造主である神でも決していわない言葉でしょう。

女房は、自分がいま取り組んでいることをもっと話してやりたいそうです。
がん患者は、みんな同志になります。
自分の体験を分かち合いたいとみんな思うようです。
病になると多くの人が聖者に近づきます。
隣人の痛みがみえてくるからです。
病を治すのは、医師ではなく、患者たち同士なのではないかと私は思います。
医師ができるのは、その手伝いでしかありません。
手術などはもちろん別ですが。

自らががん患者と公表した民主党の山本孝史参院議員を民主党が公認する方向だという記事が今日の新聞に出ていました。よかったです。
山本議員は、遅れている日本のがん対策に取り組み、文字通り命をかけて、患者本位のがん医療を実現すべく、「がん対策基本法」の成立に尽力してきました。
しかし、この7月の参議院選挙での再選が危ぶまれているそうです。

そこで、がんの患者会メンバーや自殺対策支援団体メンバーなどでつくる「山本たかしさんを国会に残そう!有志の会」が主催して、下記の通り緊急集会を開くことになったそうです。私の友人から、案内が回ってきました。

日時:5月13日(日)14:00~16:00
会場:日本薬学会長井記念ホール(渋谷駅から徒歩8分)
お問い合わせは、有志の会事務局bxs00035@nifty.com まで(5/13まで有効)

お時間が許せば、ご参加ください。

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2007/05/02

■「病院」(sick center)から「健院」(hospital)へ

CWSコモンズに先日、次のような記事を書きました。

今日も病院だったのですが、待っている間にすばらしいアイデアが浮かびました。 まあ、それほどのものではありませんが。 待合室で健康教室をやるのはどうでしょうか。 足裏マッサージコーナーや太極拳コーナーはどうでしょうか。 健康サロンもいいですね。 ともかく自分の番が来るのがもっと遅いほうがいいと思わせるような、 楽しい役立つコーナーを待合室で行うことが出来ないものでしょうか。 講師はもちろん患者自身です。 もし実現したら、「病院」は「健院」に変わります。

この記事に賛成してくれた人がいます。
こんなメールが来ました。

実現するといいなと思いました。 もっとも病院経営上は困るかもしれませんね。 でも私たちにとっては、とてもいいことです。 私たち一人ひとりが肉体的にも精神的にも健康になれますし、国の赤字を少しでも減らすことができるのですから。 また、西洋医学と東洋医学との融合ができないかなと感じました。 一部の病院では取り組んでいるところがあるかもしれませんが、どこの病院でも、極当たり前のように西洋医学も東洋医学も共存するというようなことにならないかなと思いました。 今回の病気をして特に強く感じています。 自然を克服する対象とするか自然の中にあることを求めるかといったように、基本的な自然観が異なるため、融和は不可能なのでしょうか。

この人は脳出血の後遺症をかかえ、いまリハビリに取り組んでいます。

ところで、実はその後、女房は入院し、1週間以上、私も半分の時間を病院の病室やロビーで過ごしました。
私も、ますますこの構想が必要だと実感してきました。

病院の設計は、外来の待合室だけではなく、病室も病棟も問題が多すぎます。
病院建設の取り組んでいる建築家は、きっと自分の入院を想定していませんね。
病院ではなく、健院発想で取り組んだら、きっと違った空間になるでしょうね。

まあ、そこまでは一挙に行かないとしても、今の空間でも、いろいろなことが出来ます。
残念ながら今の病院の多くの医師たちは、病人ではなく病気を診ていますので、おそらくそんな発想は出てこないでしょうが、西洋医学コンプレックスを捨てて、この人の指摘するように、西洋医学と東洋医学の共存を考えてほしいものです。
せめて古代ギリシアに起こった西洋医学の原点くらいは学んでほしい気がします。

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2007/03/27

■病院の予約制度を変えませんか

今日もまた病院で2時間近く待ちました。
予約時間よりも10分早く着きましたので、正確には1時間半強ですが。
担当医によりかなり違いがありますが、
今日の医師の場合はいつも最低1時間は待ちます。
それぞれ事情があり、医師が悪いわけではありません。
システムが悪いのです。

予約時間を設定しながら、1時間待たせるのが状態というのであれば、
予約制度は意味がありません。
それを病院経営責任者は気づいていないわけです。
もちろん医師もそうしたことに気づくべきですが、
現代の病院の医師はともかく文字通り忙しいのです。
つまり「心を失い」がちなのです。
医師に限らず、現代人のほとんどすべてがそうなのですが。

こうした基本的なことに気づいていないということは、
もっと大きな問題にも気づいていないことを推測させます。
組織の病理は、こうした些細なところに出ます。
私も一応、経営コンサルタントなので、そういうことは体験的にわかります。
もちろん解決策も、です。
組織の病理を正すのは、いつの場合も簡単です。
簡単すぎるのでビジネスにはならないために、コンサルタントは難しくして、解決しないです。
解決したらビジネス市場はなくなるからです
少し言いすぎですが、まんざら嘘でもないはずです。

この病院(国立)はとても良い病院なのですが、この待ち時間だけは辟易します。
ご意見箱などがあるので、それに書こうとも思いましたが、
患者の立場としては、なかなかその勇気が出てきませんでした。
おそらく多くの患者たちがそう思っています。
隣り合わせた患者とそういう話をすることもありますが、
みんな一種の諦めと病院への「服従」感があるのです。
今日も、初めてこの病院に来た人が受付にまだかと訊きに行きましたが、こういうことも多いです。
この人も、そのうち慣れるでしょう。
一人の患者としては、「納得」する以外には選択肢はないのですから。

こういう状況を毎週体験していると、人は無反応になります。
奇妙に納得するのです。
アウシュビッツを時々想像します。そんな風景なのです。
今朝も、また今日も最低1時間は待つのだろうと思って、出かけたわけです。

今日は2時間近く待ちましたが、
そのおかげで、やはりこの状況はおかしいことに気づきました。
おかしいと思ったのは、待たされるという状況ではありません。
おかしいと思いながら、おかしいと指摘しない自分の状況です。
おかしいことはおかしいと言おう、と以前に書いたことを思い出しました。
この件に関して、なぜこれまで言わなかったのかという理由は、実はいくつかあるのですが、
それにしてもこの件に関する自分の行為はやはり恥ずべきです。
そういえば、最近、そうした妥協体験が増えているような気もしてきました。

辺見庸さんのメッセージ鶴見和子さんの悔しさ、いろいろと鼓舞されたにもかかわらず、
私は動かずにいる。恥ずべき話です。

さて本論の病院の待ち時間ですが、解決するのは簡単です。
予約システムを現実に対応してしっかり組み直せばいいだけの話です。
私に任されれば、1ヶ月で再構築します。
しかし、そんなことをしなくても、代替的な解決策があります。
しかも、それは病院のパラダイムを変えることにつながるかもしれません。

具体的にはこうです。
予約制度を踏まえて、銀行のように受付番号を発行し、その進行状況を表示します。
そんなことはすでにやっているところは少なくないでしょうが、今日行った病院にはありません。
大切なのは、その受付番号と進行状況表示と併せて、自分の番が回ってくるまでの時間をある程度わかるように、それまでの時間を効果的に活用できる仕組みをつくることです。
健康相談でもいいですし、ビデオライブラリでもいいでしょう。
待合室でのリラックス体操でもいいでしょう。
笑いが起こるような場にすることも考えられるでしょう。
ともかく、「病の場」ではなく、「元気がでる場」を創ることです。
それがうまくいけば、病院に行けば元気がもらえる場になるかもしれません。
「病院」などという、自己矛盾した名前からも解放されるでしょう

どこかの病院で、こうした挑戦をするところはないでしょうか。
わが社(コンセプトワークショップ)でぜひ受託したいと思います。
3億円もあれば実現できます。
場合によっては、美味しいコーヒー一杯でも受託します。はい。

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2007/03/24

■「病を治すものは自然である」

昨日の朝日新聞の天声人語に、タミフルの問題に関連して、こんな文章がありました。

ヒポクラテスは「病を治すものは自然である」という説を立てたという。治療法として自然の回復力を重んじつつ、病人や症状についての注意深い観察の大切さを説いた。

ヒポクラテスは、ギリシャ時代の人で、医学を科学として確立した「医学の祖」と言われています。

現在の医療体制には大きな違和感があり、素人ながらいろいろと考えることが多いのですが、
そうした関心から昨年春に私も「ヒポクラテスの会」を立ち上げて、公開フォーラムを開催しました。
しかしその直後、女房が胃がんを再発し、あまりに当事者になってしまったために、
精神的余裕を失い、この会の活動はストップしたままになっています。
会づくりを少し急ぎすぎたため、組織体制ができていなかった結果です。

その後、女房の病気の関係で、当事者的にいろいろと病院体験をしており、いろいろと考える機会が増えました。
書きたいことが山のようにありますが、その反面で書く気力が出てこないという奇妙なジレンマに陥っています。
近代医学や現在の病院への大きな失望感と無力感を、ドサッと背負い込んでしまった感じです。

しかし、この文を読んで、「病を治すものは自然である」ということを私たちはもっと認識しなければいけないことを改めて強く思いました。
ヒポクラテスの会も再開したいと思っていますが、どなたか協力してもらえるとうれしいです。

女房の状況を見ていると、まさにこの言葉が当てはまります。
ちなみに、「自然」には人間の生活やふれあいも含まれていると私は考えています。
アガンペンの言葉を借りれば、ゾーエ(生物的にただ生きている存在としての「素直な生」)としての人間の関係性もまた、広義の自然に含まれると考えるからです。
自然と人間を分けて考えている限り、この言葉は真実味を持ってこないような気がします。
そうした人間さえも含む自然のなかで、私たちは生きています。
ですから病気になるのも病気を癒すのも、基本は自然であることは間違いありません。
そして「自然の治癒力」はとても大きく、時に「奇跡」を起こすはずです。
もちろんそれは、「奇跡」などではなく、小賢しい人智を超えた摂理なのですが。

天声人語は、続いてこう書いています。

ひとりひとりの患者の症状をよく診る。そしてその患者にふさわしい処方をすることを、現代のヒポクラテスたちには期待したい。

日本の現在の病院には「標準治療」という発想があります。
私はこの概念を知った時に、愕然としました。
もし患者の家族ではない時であれば、すんなりと受け入れられたかもしれません。
しかし、患者の視点で考えると、これは結構「冷たい」発想なのです。
昨日書いたことに重ねていえば、これは「制度に合わせた処方」と言えるかもしれません。
私も、天声人語に書かれているように、「その患者にふさわしい処方」を基準にした医療の仕組みが実現できることを願っています。

患者が求めているのは、検査や所見ではなく、治癒なのです。
触診さえしない病院や医院が増えています。
元気づける一言や心和らげる笑顔こそが、最高の治療かもしれないと、最近痛切に感じます。

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2007/03/07

■病院におけるコミュニケーションの出発点

先日、朝日ニュースターの番組に出た時に、病院におけるコミュニケーションが話題になりました
済世会関係の病院の院長や入院中の患者もいたので、話はリアルで具体的でした。
その病院では、先ず患者に「セカンドオピニオン」の話をするそうです。
私はこれまで経験したことがなく、セカンドオピニオンをどう切り出せばいいか、今も悩んでいますので、その話には感激しました。
しかしその病院に入院中の人が、「そういわれても実際にセカンドオピニオンを実行するのは難しい」と発言しました。
それもまた同感できます。きっとどこかに制度設計の欠点があるのです。もったいない話です。

以前、女房の主治医とインフォームドコンセントについて話しました。
主治医はとても丁寧に説明してくれますから、何となくわかったような気になります。
しかし知識や情報に大きな差があり、立場も正反対ですから、現実には情報を共有するのは至難なことです。
要は医師を信頼できるかどうかというようなことになります。
幸いに私たちの主治医は、そのことがよくわかっていて、
制度的なインフォームドコンセントではなく、ヒューマンなカウンセリングを重視してくれています。

コミュニケーションとは何かはいろいろな受け止め方があるでしょうが、
単なる情報のやり取りではないということは間違いありません
私は、コミュニケーションとは共有する世界を広げることだと思っています。
そして、コミュニケーションの出発点は「信頼」であり、
コミュニケーションの到達点もまた「信頼」であると思っています。

いま通っている病院では、毎回1~2時間は待たされます。
しかし、医師が「長く待たせてしまい、すいません」と目を見ながらにこやかに言ってくれると、その時点で待たされた時間の不満は氷解します。
そこから効果的なコミュニケーションが始まります。
その一言がない場合は、それだけで疲れてしまいます。
コミュニケーションとはそんなものだろうと思います。
前者の医師は患者の視点で考えていることを感じさせますが、
後者の場合は患者を対象物として考えているような気さえします。
医師の忙しさは理解できても、信頼感は生まれにくいでしょう。

病気に関する説明も、まずは患者の話や不安をきちんと聞くことから始めれば、患者が受け入れる話し方が見えてくるはずです。
コミュニケーションにとって大切なのは、「話すこと」ではなく「聴くこと」です。
いくら話しても、相手が聞き入れなければ意味がありません。
そのことを理解している人は決して多くはありません。

最近、病院でのコミュニケーションの問題が話題になってきており、様々な試みが行われだしています。
それはとてもうれしいことです。
しかし、多くの場合、制度的なところにばかり目が行っているのではないかと思います。
人間のコミュニケーションは、機械の情報伝達とは違います。
コミュニケーションは、論理の世界の話ではなく、感性の世界の話ではないかと私は思っています。

病院は英語でホスピタルです。
ホスピタリティと同じ語源から生まれた言葉です。
ホスピタリティはサービスとは違い、心を開いた、対等の目線でのもてなしのことです。
病院のコミュニケーションの問題は、そうした視点で考えていくことが大切なような気がします。
そういう視点に立てば、空間設計も含めて、今の病院は大きく変わっていくはずです。

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2007/03/04

■患者だって医者の役に立っている

今日、NHKで「百万回の永訣~柳原和子 がんを生き抜く~」が放映されました。
柳原さんのことは、CWSコモンズにも何回か登場しましたが
「がん患者学」の著書もあり、NHKのがんサポートキャンペーンにも同時進行的なエッセーを連載しています。
柳原さんががんばっている姿は私たちにも大きな力を与えてくれています。
こういう番組は、当事者にはかなり厳しいものですので、
見たい気分が半分、見たくない気分が半分というのが正直なところです。
迷っていたのですが、見せてもらいました。
元気そうな柳原さんの姿を見て、とてもうれしく思いましたが、
その後ろにある柳原さんの姿も垣間見えて、複雑な気持ちで見せてもらいました。

その番組のなかで、柳原さんがある集まりで、こんな主旨の発言をされています。

患者が喜ぶのを医師が喜んでくれる。患者でも医師に役立つことが出来るんだと思った。
この言葉にとても共感できました。
癒しているのは医師ではなく、患者かもしれない。
そんな思いが、最近強くなっています。
病んでいるのは医師ではないか、というわけです。
病院における医師と患者の関係は、双方向であり、
ホスピタルの本質は実は患者が創りだしているのかもしれません。

柳原さんの主治医の一人は工藤医師です。
工藤さんが、自分の専門分野以外は最新の知見は知らないので、他の先生に相談する、というような主旨の発言をしていました。
これにも感激しました。
そんなことは当然なのですが、実際にはほとんど行われていないのも事実でしょう。
最近の医師は忙しすぎるのです。

このブログでも医療時評を始めようと予告したのですが、なかなか書けずにいます。
先週、CWSコモンズには病院の呼び方に関して書きましたが、
そろそろこのブログでも医療関係の記事を抑え目に書き出そうと思います。
ところで、タイトルにした「患者だって医者の役に立っている」という言葉ですが、
これにはさまざまな意味が込められているように思います。
それはともかあく、この言葉をひっくり返すと、こうなります。
「医者だって患者の役に立っている」

この2つの命題のどちらにより大きな真実があるでしょうか。
今の日本の医療制度の問題の本質は、
この2つの命題のどちらに軸足をおいているかに関連しているかもしれません。
視点を変えると風景は全く変わってくることの典型的な一例がここにもあるような気がします。
ちなみに、これから書く医療時評は、そんなラディカルな内容は書かないつもりです。

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2006/12/08

■「よこはま乳腺と胃腸の病院」拒否判決

昨日の朝日新聞からの引用です。
長いですが、

横浜市の医療法人が病院名を「よこはま乳腺と胃腸の病院」という名称に変更しようとしたところ、市が「『乳腺』は、医療法の規定では広告できる診療科名と認められていない」として認可しなかったことの是非が訴訟に持ち込まれた。法人側は「表現の自由の侵害で違憲だ」として不認可処分の取り消しを求めたが、一、二審で敗訴。上告したが、最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)は7日、「医療法の規定は合憲」として棄却する判決を言い渡した。病院側の敗訴が確定した。

第一小法廷は、医業などについての広告を規制した医療法の規定について「広告することのできる診療科名を客観性、正確性を維持できるものに限定した」と解釈。広告できる診療科として同法施行令が列記した診療科名は、例示ではなく、限定的に列挙されていると解釈すべきだとする一、二審の判断を維持した。


とても気になる判決です。
まず法律解釈の姿勢の問題です。施行令が列記する診療科名以外のものは認めないとは驚愕の判決です。利用者の視点は全く無視されています。内科だとか外科などという、訳のわからない表現こそ正すべきでしょう。この裁判官たちは病院にいったことがないのでしょうか。決められた法文にしか従わない思考力の無い人なのでしょうか。私が司法試験を受けたくなくなったのは、そうした人しか司法試験には受からないと勘違いしたからですが、もしかしたらそれは勘違いではなかったのかもしれないと思いたくもなる事件です。
次に「広告」ということへの理解です。
私自身は広告や広報は取引コストの縮減のためのものだと思っていますので、相互理解が効果的に行なわれることが大事だと考えています。ですから「規制」すべきことではなく支援すべきことだと考えています。もちろん、実体との乖離や虚偽の表現の使用を対象とすべきであり、むやみな誇大宣伝は規制すべきですが、基本は支援です。
現場、あるいは実態からの発想ではなく、管理からの発想も気になります。
現場や実態からの発想には表情があり、例示はあっても言葉での規定はありえません。しかし管理発想では言葉に依存した包括規制しか生まれません。
悪しきものと善きものを区別する眼がなくなって、すべてを一括規制する動きがともかく広がっています。
この判決もそうした動きを象徴するものの一つではないかと思います。
事件の詳細を知らずにコメントするのは不安ですが、最近の社会の動きが業種されているような事件ではないかと思います。
こうした事件が多すぎます。

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2006/08/31

■薬害C型肝炎訴訟に見る政府や企業の発想

C型肝炎訴訟では2番目の判決になる、福岡判決が出ました。
大阪地裁での判決と同じく、国と製薬会社に賠償支払いが言い渡されました。
この問題は日本の行政の本質を象徴しているだけではなく、企業の本質を象徴している事件なので、私にはとても関心があり、これまでも何回か書いてきました
大阪地裁の判決時にも書きました。

今回も原告勝訴とはいえ、何かすっきりしないものがあります。
原告の一部の請求を棄却したというのもそうですが、
こうした事件を教訓にして、政府や企業が自らの考えを問い直している姿勢があまり見えてこないからです。

J&Jは、タイレノール事件で自らの企業のあり方を変えたといわれています。
日本では、こうした事件が起きても、企業のあり方を変えようという動きが出てきません。
訴訟で争うのも必要かもしれませんが、
まずは被害者救済に全力を尽くすとか、再発防止のための企業の仕組みを見直すとかするべきではないでしょうか。
ところが、企業や国の対応は、企業防衛、賠償額節約、つまりは責任回避が先行しているように思えてなりません。
発想の起点が違います。組織起点なのです。
それではせっかくの事件が活かされません。
個人の問題に矮小化され、当事者双方にとってもむなしい結果になりがちです。
しかも本質的なことは解決されませんので、類似の事件が繰り返されているわけです。
個々の問題解決と同時に、そうした事件の再発を回避する対策が重要です。
それが結局は企業にとっても国にとっても、大きなメリットになるはずです。

裁判や訴訟の増加が増えていますが、
かつての大岡裁きのような「三方得」発想のしくみはできないものでしょうか。
裁判で決着をつける方法は、最後の手段のように思いますが、
三菱ウェルファーマ(旧ミドリ十字)や厚生労働省がもしもこの事件を謙虚に考え直していれば、もっと違った対応になるはずです。
もしかしたら裁判への対応の半分の費用とエネルギーでそれが実現できるかもしれません。

いつもこうした事件に触れて思うのは、
もしそれぞれが自らの立場を相手に置き換えて考えたらどうなるかということです。
特に三菱ウェルファーマや厚生労働省の意思決定者に聞いてみたいと思います。
争いが生じた時に、まずは立場を置き換えて考える時間があれば、
世の中の争いはかなり減少するような気がします。

せっかくの「フィブリノゲン事件」も、企業の進化には役に立たなかったことが残念です。

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2006/04/08

■医療制度と病院問題に関心のある方はご連絡いただけませんか

世界保健機関(WHO)が7日に公表した2006年版の世界保健報告にこんな報告があるようです(読売新聞)。

日本は平均寿命で82歳の世界最長寿国の座を堅持しながら、1000人当たりの医師数は1.98人と、192か国中、63位の中位水準にとどまった。 1位サンマリノの47・35人には遠く及ばず、OECD加盟国の中では最低クラス。同様に看護師は27位、歯科医師は同28位と、世界のトップ水準には達していない。

医療制度改革がいろいろな問題を提起していますが、こうした実態は必ずしも私たちはしっかり認識していません。
医療費の財政破綻はよく取り上げられますが、実態の理解にはマスコミはほとんど関心を払いませんし、実態を良く知っているはずの医療関係者も自ら動く人は少ないです。

医療制度問題に熱心に取り組んでいる医師の方から、こんなメールを昨日もらいました。

一概に言うとお叱りを受けるかも知れませんが、社会活動(ボランティアも含めて)等に多くの日本人はあまり積極的ではないような気がします。これは私が医療制度の活動をしていても同様で、忙しくて困っているはずの医療関係者でさえ、あまり私の活動に興味を持ってくれる人はいません。 一応日本は民主主義社会なのですから、自分がそれなりの動きをしないと何も変わらず、一部の人の都合がいいようになってしまうのが落ちなのですが。 ここにもおおいに悩んでおります。

医療制度は私たちみんなの「暮らし」に関わる問題です。
医師だけに任せていては限界があるでしょう。
そんなわけで、5月に医療制度や病院問題を考える公開フォーラムを開催したいと思っています。
協力してくださる方を募集しています。
関心のある方は私にメールをくれませんか。
またフォーラムの案内は近々、CWSコモンズでご案内しますので、ぜひご参加ください。
医療制度の改革も介護制度の改革も、いい方向に向かっているとはとても思えないのが残念です。

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2005/08/25

■がん患者にとってのサプリメント情報

政治ネタが続いていますので、気分を変えて。

昨日、女房と病院に行きました。がんセンター東病院です。定期的に主治医が対応してくれているのです。できるだけ一緒に行くようにしています。先生に会うと私たちも元気になります。そういえば、ある人が帯津良一さんの写真を見ただけで元気になる患者がいるとお話になっていましたが。心境はよくわかります。

友人が万田酵素を勧めてくれました。試してみようかどうか、迷っています。しかし、評価能力がないのです。
女房のがんが発見されて以来、さまざまな方からさまざまなお勧めや情報をもらいますが、評価能力がないために対応に苦慮します。それに、いずれも高価ですので気楽には試用できません。がん患者学を書かれた柳原和子さんはサプリメント代が毎月10万円を超すと書かれていましたが、よくわかります。
いずれもエビデンスがないが故に、高価なことが「エビデンス」になりかねないのです。月2万円を越すものはやめたほうがいいということを言う人もいますが、当事者にとっては無意味なアドバイスです。
今週、たまたま知人の方がかなり重度の甲状腺のがんであることを知りました。私の知っているサプリメント情報を提供したいのですが、これがまた難しいのです。

以前も書きましたが、がんに効用があるというサプリメントはたくさんあります。しかしいずれもあいまいな情報しかありません。西洋医学の医師の多くはまだ否定的というか情報を余りお持ちではありませんし、きちんと評価しようという姿勢はほとんどありません。その一方で、効用を確信している体験者や開発者もいます。大手企業も発売していますが、ネットで読む限り、あまり正確な情報を開示しているとは思えないものが多いです。一方、利用者は精神的に余裕がありません。そうした状況の中で悪質な商売人も入り込んできますし、信頼性に欠ける噂話も広がります。
NHKが「がんサポートキャンペーン」を展開していますが、そのホームページには投稿欄をのぞけばサプリメント情報はありません。リスクが大きすぎるからでしょう。しかし多くのがん患者にとって、一番関心のあることの一つがサプリメントの評価なのです。

エビデンスのないものは評価できないという医療の世界では医師が評価するのは難しいでしょうが、そもそも医療におけるエビデンスは100%のものなどないはすです。事実、かつて三共のクレスチンが鳴り物入りで売り出され、三共の経営危機を救ったにもかかわらず、その後、効用に疑問が出されたこともありました(また最近復活の動きもあるようですが)。医薬品だってかなりいい加減なのが実状です。だとしたら、こうしたサプリメントに関する情報の評価支援の仕組みに真剣に取り組んでもいいでしょう。いや取り組むべきです。

ネットで時々調べるのですが、よくわかりません。
もしどなたかサプリメントの評価を集めているサイトをご存知の方がいたら、教えてくださいませんか。
また、なにかがんに効用のあるサプリメント情報をお持ちの方はぜひ教えてください。
今回はお願い事になってしました。

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2004/05/14

■厚生労働省の犯罪   

またしても信じられないことが起こりました。
明らかに国家犯罪です。不作為の犯罪です。
これまでも繰り返し犯罪を重ねている厚生労働省です。

フィブリノゲン納入先公表問題です。
2月に、このCWSコモンズのホームページのメッセージの欄に次のことを書きました。
再録します。

厚生省とミドリ十字によって引き起こされた犯罪は、いつの間にかうやむやに終わった感じがしますが、
厚生労働省と医療業界は全く何も変わっていないことが、今回のフィブリノゲン納入先公表問題で明らかになりました。
C型肝炎の感染源になったとされる血液製剤を納入した医療機関は7000を超えているといいます。
それを使用された可能性のある患者が検査を受けるようにしていくためには、
そうした医療機関をできるだけ早く公表していくべきですが、
厚生労働省と医療業界は、またしても結託して、事務局分たちの利益を守るために公表を500に絞ろうとしていたのです。
犯罪は繰り返し行われます。
しかも、フィブリノゲンの製造元は旧ミドリ十字の三菱ウェルファーマ社なのです。
信じられない話です。まだ利権のつながりは存続しているとしか思えません。
なぜ彼らには恥の概念がないのでしょうか。

この事件はもう決着したのだと思っていましたが、
今日のテレビによれば、相変わらず公表出来ないことになったということです。
一時、厚生労働省は発表を決めたようですが。
医療機関からの反対で、また止めたというのです。
人の生命を最優先していない医療機関などは、医療機関とはいえません。
むしろ反対している医療機関を公表すべきです。
それができなければ、厚生労働省も犯罪者というべきでしょう。
しかも、これは殺人罪に当たると、私は思いますが、いかがでしょうか。
未必の殺意です。
友人もいるので、ちょっと辛いのですが、
厚生労働省という組織は一体何なのでしょうか。
これでは経済産業省と一緒です。
イラクの戦場でもあるまいし。
しかし、狂気の状況は同じかもしれません。
ひどい話です。

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