カテゴリー「無駄話」の記事

2023/03/13

■以前話題になったSF「三体」を読みました

今年は中国の人たちのことを知りたいと思い、湯島で現代中国に関するサロンを継続開催することにしました。
それもあって、少しずつ中国に関する書籍も読もうと思い、まずは以前話題になったSF小説の『三体』を読みました。

1部の「沈黙の春」は、1967年の文化大革命期の中国から始まります。あまりにリアルな展開に、これがSFかと思ってしまいましたが、第2部「三体」になると、VRゲームの話も出てきて、だんだん訳が分からなくなってきました。面白い話題はふんだんに出てくるのですが、そのほとんどが無駄に浪費されている感じで、いつになっても期待している展開になりません。

読むのをやめようかと思ったのですが、念のため訳者あとがきを読んだら、そのうちに、山田正紀の「神狩り」やJ・P・ホーガンの「星を継ぐもの」のようなワクワク感が出てくるはずと書いてあったので、改めて期待して読み続けました。
しかし、結局は「神狩り」や「星を継ぐもの」の時のようなワクワク感は味わえませんでした。

私の理解力や想像力の劣化のせいかもしれないと思い、SF評論家でもある岡和田さんにどう評価すればいいかを聞いてみたら、期待通りの的確なコメントをもらいました。
ちょっと安心しました。

それにしてもこんな作品がいまやヒューゴー賞を受賞するとは。
ちなみに私は1980年代までしかSFは読んでいませんが、いい時代にSFを読んでいたと改めて思いました。いまはもう現実科学や想像世界がSFを超えてしまっていて、SFのSが一体何なのかがわかりにくくなってしまっているような気がします。
まあこんなことを言うと、岡和田さんからはまた笑われそうですが。

『三体』はその後も3作品が出版されていますが、もう読むのはやめました。
でも久し振りに、「神狩り」を読んでみようかと思います。
果たして今の私にSFを読む感性と知性が残っているかですが。

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2023/02/03

■細い血管がつながりました?

今日は脳神経外科の定期検査です。
脳の細い血管が2本消えかかっていたのが数年前に確認され、以來、薬を飲みながら、定期的にいろいろと検査を受けています。
今日は半年ぶりのMRI検査でしたが、なんとこれまで画像では繋がっていなかった血管に細い繋がりがみえるようになっていました。医師も薬では回復しないのだがというのですが、間違いなく前回の状況とは違います。次回はもっと太くなっているでしょうか。病院に来るのが楽しみになりました。

つづいて膵臓炎のフォローで外科へ。
血液検査結果ではもう異状はなく、薬も不要とのこと。
まあそう思って、こちらの薬は自発的にほとんどやめていましたが、正解でした。

この病院の外科の医師は4人いますが、毎回違う医師が対応してくれ、しかも言うことが違います。だから病院を変えたかったのですが、幸か不幸か、もう来なくてもいいし、薬も飲まなくていいそうです。解放されたようでホッとしました。

胆嚢の摘出も個人判断とのことで、「お薦め」はありませんでした。患者の相談に乗るのが医師の仕事だと私は思っていたのですが、最近は事実を知らせるのが医師の仕事のようです。医師とは気楽な商売になったものだと思います。たぶん医師の仕事はまもなくAIに代わっていくでしょう。

いずれにしろ、2月に胆嚢摘出手術をしようかと思っていましたが、やめました。胆嚢の胆石を持ったまま天寿を全うする人もいると今日の医師は言いましたが、私の場合は、死ぬときが天寿を全うする時ですので、手術することもないかなと思いだしています。特に、この病院では手術はしたくありません。そういう場合、どうすればいいのか。かかりつけのお医者さんに頼んだのですが、最近は病院の紹介も難しいようです。

私は近くの慈恵医大の病院で精密検査と手術をしたいのですが、どうやって行けばいいかまだ分からないので、少し様子見することにしました。まあ、もう少し天寿は残っているでしょうから。

そんなわけで、もうしばらくみなさんのお世話になりそうです。

 

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2022/12/19

■箸技ゲームの普及に加担することにしました

西川口にある国際箸会館に行きました。

国際箸学会が箸技ゲームをこれから世界に広げていきたいというので、その思いに共感して、ささやかながら応援することにしたのです。
なにやら思いは伝わるようで、箸会館で話し合いをしているまさにその時、京都のNPO認知症予防ネットの原さんから箸技ゲームの注文の電話があり、それで私がここにいることを知った高林實結樹さん(みんなの認知症予防ゲームを日本中に広げた人です)から電話がありました。高林さんと電話で話すのは久しぶりですが、まったく以前と変わらないお元気な声でした。

ところが、そこで高林さんが箸ピーゲームをやっている時の呼吸が、自分がかつて学んでいた呼吸法と同じだという話をしてくれました。
「呼吸法」。今日も駅から箸会館まで、深呼吸歩きをしてきたのですが、「呼吸」と聞いたら聞き流すわけにはいきません。
年が明けたら京都に行ってもいいかなと思いました。
また新しい物語が生まれるかもしれません。

ついでに、国際箸学会会長の小宮山栄さんの会社のコミーにも立ち寄らせてもらいました。
小宮山さんは、今年、社長を退き、いまは次の世代にバトンタッチしています。
コミーはミラーの会社ですが、これまで開発した面白いミラーが展示されている部屋があります。私はそこを見るのが好きなのですが、そこに「自分と握手できるミラー」があります。久しぶりに、そこで自分と握手してきました。写真でそれがわかるでしょうか。

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コミーには面白い展示がたくさんありますが、どこまで公開していいかわからないので写真を載せるのは差し控えます。

訪問した時に、社員みんなで箸技ゲームを行う時間と重なりましたので、私も久しぶりに小宮山さんと一緒にやってみました。今日は、箸ぴーゲームと箸の上にピーナツを乗せる直立不動ゲームでした。右手でのゲームは時々やっていましたが、左手は久しぶりでしたので、予想以上に苦戦しました。直立不動ゲームはたった2つだけ。

社員はみんな社内ネットで画面をシェアしながらゲームを楽しんでいるのです。
そういう風景を見ていると、社内コミュニケーション支援や気分転換とか、あるいはもっと創造的な面でも、企業でもいろんな使い方がありそうです。

国際箸学会に出向したスタッフが中心になって、いま箸技ゲーム(ゲームを遊ぶとともにゲームを創案するゲームもあります)を拡げるべく活動しています。
湯島でも毎月、箸技サロンもやっています。

ぜひ一度、試しに遊びにお越しください。
病みつきになるかもしれません。あるいは、いつもとは違うところが刺激されて、人生が変わりだすかもしれません。残念ながら、保証はできませんが。

 

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2022/09/09

■ドラマ「始皇帝」

昨日、中国ドラマ「三国志」について書いたのですが、思っていた以上に観ている人が多く、コメントもいただきました。なかには、三国志をテーマにサロンをやったらという提案までありました。
それで、ついでに同時に観ていた「始皇帝」についても一言。
これも78話という長編でした。

制作に14年かかったそうですが、ドラマとしては無声時代の映画を観ているようでかなり前の制作作品だと思います。「三国志」と比べると時代の変化を強く感じますが、内容を通底する精神(文化)は同じです。
忠孝思想が強く流れています。
中国が共産主義や社会主義国家などとはとても思えません。

私の関心事は、なぜ始皇帝は焚書坑儒というような「蛮行」を行ったのか。
それと彼の出生の秘密や名前だけしか知らなかった李斯のことを知りたかったのが、観始めた理由です。
焚書坑儒に関しては、納得できました。
異文化を統合して平和を実現するためには、当時の状況ではまだ多様性は許されなかったのです。
いわゆるゼロベースからのグレートリセットのためには、多様な知識や文字は邪魔になったわけです。言葉自体が未熟だった当時の状況では、それは合理的だったのだと思います。
しかし、20世紀の中国の文化大革命やカンボジヤでの蛮行は、合理的とは言えないでしょう。

また、「三国志」でもそうですが、重要な会話は、決められた表現が使われています。古書古伝に残された「言葉」を子どもの頃から学んで、それを駆使して会話が成り立つのです。つまり、当時の言葉は、個人の言葉というよりも「神の言葉」だったような気がします。これも改めて確信できました。
これは、湯島での万葉集サロンのテーマのひとつでもありますが、日本でも同じことが起こっていたのです。教養とは、神の言葉、古人の言葉を記憶することだったわけです。

知のあり方がいまとは全く違っていたようにも思いますが、よく考えてみると、いまもまだ同じかもしれません。
昨日の湯島の集まりでも、ある人が、言葉の数(ヴォキャブラリー)が少ないと話についていけないことがあるというようなことを指摘していました。
しかし、言葉を媒介とした知には限界がある。いやむしろ知を阻害するのではないかと私は思っていますが、しかしその一方で、言葉は知らない世界への入り口になりえるとも思っています。

「始皇帝」から話が離れていますね。
中国ドラマの「始皇帝」は史実を丁寧に追ったもののようですが、悪名高い呂不韋に関してはかなり好意的に描かれていました。
しかし始皇帝が呂不韋の子どもかもしれないということはかなり明確に示唆されていました。

一説では呂不韋はユダヤ系の人だと言われていて、もしそうなら始皇帝にはユダヤ人の血が入っていますが、さらに秦が滅びた後、秦の王家は華南に移り、朝鮮半島を経て、日本列島に来たと言われていますから、日本ユダヤ同祖説につながっていきます。
古代日本の秦一族はユダヤ系かもしれませんし、私が好感を持っている天武天皇は新羅系(ユダヤ系?)とも言われていますので、もしかしたらユダヤ系かもしれません。

また本題から外れました。
「始皇帝」では、統一前の七国それぞれを支配する人たちは、婚姻関係でみんなつながっています。ヨーロッパの近世と同じです。そこでは支配層と生活層が分離していたわけです。国家は、生活者にとっては迷惑な制度だったと思います。
昨今のグローバルな世界は、1%の富裕層と99%の生活者層とに分かれだしていますが、まあそのモデルが秦の時代にあったわけです。

もう一つ現代と通ずると感じたのは、李斯や韓非のような「参謀」や「知識人」が大きな力を持っていたことです。
これは三国志における司馬懿や諸葛孔明にもつながっていくわけですが、参謀の役割はたぶんいまや終わったように思います。これからその役割を果たすのはAIでしょうが、AIを支えるのは生活者たちのビッグデータです。
つまり集団(社会・国家)の統治の視座が全く変わってしまっているのです。
もはや李斯や司馬懿の時代は終わったのです。

しかし、参謀が地位を得たはじまりの頃の話として、「始皇帝」は興味深かったです。
同時に、最近の日本の政治や経済の世界で、「参謀」や「人脈利用者」が私腹を肥えさせているのが、いささか悲しいです。まだそんなことをやっているのか、と。

このドラマにはたくさんの人が出てきますが、私にはほとんど名前も知らない人ばかりでした。しかし78話も見てしまうと、無機質だった秦の話が私の中では生き生きとしてきました。始皇帝はやはり好きになれませんでしたが。

今度はアニメ「キングダム」を見てみようと思います。
これも長編ですので、大変そうですが。

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2022/05/09

■歴史は謀で成っている

最近、2つの中国のテレビドラマを観ています。
「三国志 司馬懿 軍師連盟」と「始皇帝 天下統一」です。

https://www.hulu.jp/the-advisors-alliance/?cmp=10902&waad=rkcgO9Bw&gclid=Cj0KCQjw1N2TBhCOARIsAGVHQc5SxyEV5b0gRfidYkX3pkdIOhtvOFOCDdPWEZWu

https://www.wowow.co.jp/detail/173882

いずれも最初は司馬懿と李斯に興味があっただけなのですが、物語自体に興味を持つようになってきました。
三国志は86話、始皇帝は78話もあるので、両方ともまだ先が長いのですが、面白くなってきました。

「始皇帝」は、焚書の意味がわかったことで、始皇帝の評価が一変しました。
「三国志」は、毎回教えられることが少なくありません。
「陰謀」(いい意味での謀ですが)の大切さを改めて教えられています。
特に今日は、荀彧と崔琰の「陰謀」に感動しました。
私がこれまで知っていた話とは全く違っているのでいつも新鮮なのですが、今日はふたりの意図を読み解けなかった自分にがっかりしました。いずれも2人に対する先入観のせいかもしれません。

「陰謀論」などと言って「陰謀」を揶揄する現代の中途半端な知識人の愚かさや、自らの命を捨てての謀をしなくなったリーダーの多さにいつもがっかりしているのですが、そうした気分を払しょくさせてくれるのも、今回の「三国志」の魅力の一つです。

今日の「三国志」で、人の真実は歴史には伝わらないと誰かが言っていました。
たしかにそうなのでしょう。
これからは、プーチンやゼレンスキーを軽々に非難するのは自重しようと思います。

「始皇帝 天下統一」はお薦めしませんが(筋書きがあまりに安直)、「三国志 司馬懿 軍師連盟」はお薦めのドラマです。学ぶことがたくさんあります。長いので、よほどお暇な方向きではありますが。

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2022/02/28

■私憤と公憤

昨日と今日、私の精神状態はあまりよくありません。
いや、あまりどころではなく、怒りを抑えるのが難しいほどです。

昨日は湯島のサロンに関わるちょっとした「事件」が起こりました。
昨日湯島で行った集まりにある人が参加することを知った人(その人もサロンに参加することのある人です)が、勝手に湯島の部屋に入って来たのです。以前からその人の言動には不快感を持っていたのですが、昨日はさすがに怒りを感じました。その人のおかげで、その集まりもいささかおかしな雰囲気で始まることになりました。
さすがに私も、その人に向かって、出て行ってよといいましたが、後になって、怒りの感情が強まってきました。その人に責められた友人のことを思うと、ますます怒りを感じます。他の人には真似できないほど、誠心誠意、善意の活動をしている人なのです。

しかし、それはまあ私の「私憤」でしかありません。私の料簡が狭いのかもしれません。
ところが今日は、「公憤」を感じました。
私が住んでいる我孫子市の「公務」に関してあることを耳にしました。
私が実際に見聞したことではなく誤報かもしれませんので、内容は書けませんが、私のこれまでの体験から考えて、私には事実と思えるような話です。
話を聞いた時には、さほどではなかったのですが、時間が経つほどに怒りが湧いてきました。これは「公憤」といってもいいでしょう。

ウクライナの状況にも「憤慨」しますが、どうも最近、怒りを感ずることが少なくありません。長年生きてきて、大概のことは許せるようにはなっているのですが、この2日間、怒りにつつまれてしまっています。
気を静めるために、今日は7杯もコーヒーを飲んだのですが、気が鎮まりません。
困ったものです。

 

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2022/02/04

■1月が無為に終わってしまった言い訳

今年に入ってから、実はあまり調子がよくありません。

発端は牛乳の飲みすぎだと思うのですが、実はそればかりではなく昨年末から食生活を大きく変えることにしたのです。
そのせいで、年明け後からお腹の調子がよくありません。
お腹が痛いことが時々起こるのです。
そのせいか、食欲もあまりありません。
これまで腹痛ということあまり体験したことがないのですが、鈍痛が続くことがこれほど気力を奪うとは思ってもいませんでした。

あまりに長いので、さすがに気になって、昨日、かかりつけ医の遠藤さんに相談に行きました。
まず言われたのは、たまには胃腸の検査をしたほうがいいよということです。
私が検査嫌いなのをよく知っているのです。
そしてここぞとばかりに、薬を5種類もくれました。
私の薬嫌いもよく知っているのです。

帰宅後、すぐに飲みました。
一晩寝て、腹痛はおさまりだしました。

しかし、お腹の調子が悪いと、気力がわかず、思考力も衰えることを体験しました。
そんなわけで、今年の1月は、何もやらないうちに終わってしまったような気がします。

人間は頭で考えているのではなく、胃腸で考えているのではないかと思いだしました。
もしかしたら、頭脳と胃腸は、敵対しているのかもしれません。
どうしたら仲直りさせられるでしょうか。

こんなことを考えている私は、頭脳でも胃腸でもない。
一体誰なのでしょうか。

 

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2021/11/12

■はじめてきちんと「資本論」第1巻を読みました

この1週間、佐々木隆治さんの「マルクス資本論」を片手に、「資本論」第1巻を読んでいました。こんなにきちんと読んだのは生れて始めてです。
テキストは1963年の大月書店版ですが、やはりとても読みにくい。
それに2分冊になっていて、分量もすごいのです。

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でも佐々木隆治さんのガイドに沿って、何とか読み終えました。
読後の感想は、面白かったの一言です。

当然のことながら、内容はすでにこれまで様々な本で何回も読んでいることばかりでしたが、改めてきちんと読むと、マルクスの慧眼にはやはり感服します。しかし、残念ながら、マルクスは、あるいはそれに続く人たちは、せっかくの気づきも活かせなかった。ここまで見据えていたのになぜ流れを止めることを彼は放棄していたのでしょうか。おそらくマルクスは、見えすぎていたのでしょう。そして、歴史に身を任せた。

しかし、最後に、資本主義時代の成果を踏まえて、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有を基礎とする個人的所有を再建する時代を確信していたことが書かれています。
私がこの40年間、目指してきた「コモンズの共創」は、すでにマルクスによって予言されていたことに気づきました。
大学生時代に最初に「資本論」を読みかじった時に、それに気づいていたら、こんな遠回りはしなかったのかもしれません。
でもまあ、その遠回りがとても面白かったことも事実ですが。

それにしても、こんなに集中して読書したのは久しぶりです。
この1週間、一人でいる時にはほぼすべて読書でした。
勢いに乗って、第2巻を読もうと思っていたのですが、少し時間を置くことにしました。
第3巻は、たぶん読む気は起きないでしょう。つい最近も一度挫折していますし。

しばらくはもう少し明るい本を読もうと思います。

 

 

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2021/10/22

■脳梗塞コンプレックスに陥ってしまいました

一昨日の筑波山での失策以来、「脳梗塞コンプレックス」に陥って、なんだか調子が出ません。まああまりの寒さのせいもありますが。

一昨日、登山途中の軽い脳梗塞症状で同行者ばかりか多くの人に迷惑をかけてしまった自覚が昨日からようやく芽生え、さらに次のようなメールがいくつか届いたこともあって、昨日の午後から気が滅入ってきて、昨日は自宅で安静にしていました。
届いたメールは、たとえばこんな感じです。

「小さい脳梗塞をちょこちょこ起こして、ドカンと来る。そんな話をよく聞く」
「軽い脳梗塞はすぐに治るから、そこで病院行くのはなかなかないよね、私もそうなった時に行けないと思う。ちょっと気分が悪かっただけ、でも大丈夫。と思うだろうなあ」

なんだか自分のことを言われているみたいで、いささか心配になってきました。
気になりだすと実際におかしくなって、昨日の朝はすっきり起きられたのに、今日はなんか頭が重い気がします。病は気から言いますが、ほんとうにそうです。

これまでも何回かこういう経験はあったのですが、30分も寝ていれば元に戻ったので気にもしませんでした。
しかし今回は、鈴木さんから私が失神しかけた時には、言葉もおかしくて脳梗塞のようだったと「言語化」されたので、さすがに能天気な私にも自覚ができたのかもしれません。まあ1日以上たってからなのですが。

万葉集サロンで、言葉の霊力が時々話題になっていますが、言葉は人を支配します。
いまや私は完全に脳梗塞コンプレックスに陥り、無理をするどころか、不安さえ出てきそうです。困ったものです。

こんな「脅迫」めいたメッセージも届きました。

「佐藤さんにまだやりたいことがあるのなら、病院へ行ってください」

幸い、私にはあまりやりたいことはないので病院にはいかなくてもいいのですが、いま突然だと部屋も片付いていないし、返せていない「借り」もあるので、ちょっとまずいかなとも思います。

今日は寒いので病院はもう少し暖かくなってからにして、取り合えず水分補給と薬をきちんと飲むようにし、無理をせずに平安に過ごそうと思います。
今朝はたっぷり水分を取りましたし、薬も間違いなく飲みました。

今日は湯島で「選挙について本気で話し合おう」というサロンですが、本気になると身体に悪いので、気をつけようとも思います。
人生はなかなかうまくいきません。
まあ、政治ほどではありませんが。

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2021/04/12

■私がワクチンを接種しないわけ

一週間ほど前に、コロナウイルスワクチン接種の接種券が届きました。
かなり分厚い手紙なので、いつもながら読んでもわからないのだろうなと思って読むのもやめました。行政からの手紙は、いつもほとんど理解不能もしくは読んでもあまり新しい話はないのです。

それに私は今の段階ではワクチンを接種するつもりはありません。
ワクチンは危険だから接種するなという話も出回っていますが、私が摂取しないのはそのためではありません。
接種しない理由は明確です。

 仮に、今回のワクチンがリスクのほうが大きいとしたら、当然、接種しません。
しかしリスクよりも発症予防や重症化予防などの効果のほうが大きいとしたら、いまなおワクチンは不足しているようですから、私のような高齢者ではなく福祉関係者などをまずは優先させるべきだと思っています。
医療関係者は高齢者よりも優先されているようですが、まだまだワクチン不足で接種者は少ないようですから、そちらにワクチンを回してもらったほうがいいと思っていますし、福祉関係者が高齢者の次というのは全く理解できません。
高齢者は幸いに他者への感染力が弱いとも言われていますので、接種は最後でいいだろうというのが私の意見です。

それにしても、我先にワクチンを接種したいと電話予約が殺到して、なかなか電話がかからないというような報道に接すると、なんだか悲しくなります。
日本人の「譲り合いの精神」は、もう失われたのでしょうか。

コロナウイルスが私たちの本性を顕わにしたのか、あるいは私たちの本性を変えてしまったの。
いずれにさびしい時代になってしまいました。
だからこそ、私としては改めて生き方を問い直したいと思っています。

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