カテゴリー「無駄話」の記事

2017/02/27

■湯島の部屋を売りませんか

湯島に私のオフィスがあります。
ワンルームマンションの1室です。
昨年秋ころから、そこを売らないかという電話が頻繁にあります。
先週は1日起きくらいにありました。
いま使用しているので、売るはずはありません。
しかし、なぜかしつこく電話がある。
いま売ると高く売れるそうなのです。
あまりのしつこい電話に腹が立ってしまい、今日は、私を追い出そうとしているのですかと声を荒げてしまいました。
そうしたら、相手も負けずと声を荒げてきましたので、失礼しますと電話を切ってしまいました。
なんというひどい会社だろうかと思いました。
しかし電話お切った後も、何かすっきりしません。
バブル時はこうしたスタイルの地上げ屋が多かったのでしょうね。
どこでどう電話番号リストが流れているのかもしれませんが、実に不愉快です。

ネット回線の電話も相変わらず多いです。
あまりのしつこさに、ついつい承知してしまって迷惑を受けたことがありますが、承知しても別の会社からの勧誘がつづきますので何の解決にもなりませんでした。
明日からもまた電話はつづくでしょう。
人生には苦難が必要です。

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2016/12/26

■遅ればせながらの入院報告

12月の15日から3泊4日の短期入院をしました。
その後、1週間、在宅でした。
目が不自由だったからです。
今日から活動再開です。

実は退院の翌日、フェイスブックに描き込みをしました。
入院を知らせたフェイスブック記事へのコメントがたくさんあったからです。
その書き込みを、遅ればせながらこのブログにも残しておくことにしました。
まあもう1週間も前の記事なので、あんまり意味はないのですが。
いか、そのまま再掲します。

帰宅してFBを開いたら、たくさんの方からエールが届いていて、感激です。
初めての手術体験は実に面白かったです。
テレビ番組で見るような手術台で手術を受けながら、医師たちが交わす会話を聴くのも面白かったです。
ついつい私も参加してしまい、医師のモチベーションはなんですかと手術中に失礼な質問までしてしまいました。

同室の患者さんからもたくさんの学びがありました。
政治家も、年に一回は、こういうところで一週間くらい過ごしてみれば、世間の実相がもう少し理解できるでしょう。
同室のおひとりは、60代の屋外警備員で、熱心に働いても月収12万円。
冬は寒くて大変で、そのため顔面神経痛で病院に来たら即入院。
危ういところで人工透析になるところだったそうです。
いまは一人住まいですが、その波乱万丈の人生談も聞きました。
趣味は競馬だったそうですが、いまのカジノ法には怒りをぶつけていました。

彼は、今回の入院費も蓄えがないので、みんなが「包んで」きてくれるお見舞いで支払いを済ませるそうですが、ちょっと入院が長引きそうで、退院後仕事が続けられるかどうか、少し心配していました。
私には見舞客は来ませんでしたが、その人へは見舞客も多く、とてもうれしかったです。
私がうれしがるのもおかしい気がしますが、ともかく嬉しかったです。
真面目に毎日ハードに働いて12万円の一人住まい。
でも「アンちゃん」と慕ってくれる若者がいる。
その彼が、ギャンブルは貧乏人からお金を巻き上げて生活を壊すだけだと怒っていました。
やってきた若者にも、パチンコはたばこの煙で身体にも悪いからやめろと言っていました。
カジノ法に賛成する国会議員に、彼の話を聞かせたかったです。
それに、議員報酬の高さも自覚してほしいです。
たまには総合病院に入院して、まじめに生きている人たちの生活実態を知ってほしいものです。
まさに病院は社会の問題が縮図のように出ています。

看護師や病院スタッフの仕事ぶりからも、別の学びがありました。
病院システムや看護システムは脱産業化しなければいけないと私はずっと考えていますが、改めてそう思いました。
彼らは、まさにジョブやキャリアではなくコーリングとも言うべき、モチベーションで働いている。
それに弱い立場の人と接することで、みんなとても優しくなるのかもしれないと思いました。
ともかくみんな良い人ばかりです。
掃除する人まで、ともかくやさしくていい人ばかりです。
性格を直すのであれば、入院ではなく、政争のありバイトがいいかもしれません。
しかし、にもかかわらず、相模原の福祉施設での事件のようなことが起こるのはなぜなのでしょうか。
どこかに大きな問題がある。

そこで思いつきですが、国会議員の条件として、2年間の病院勤務を義務付けるのはどうでしょうか。
徴兵制度が国民意識を高めた時代がありましたが、これからは病院勤務制度がいいのではないかと思います。
ちなみに、福祉施設ではだめです。
理由はそれぞれでお考えください。
質問には答えません。

ほかにも、言語に関する大きな発見?など、いろいろとありますが、きりがありません。

肝心の手術は順調だったようです。
今朝、退院の前に医師が私をチェックして、いい結果だという顔をしていましたから。
しかし、視野が広がり、世界が明るく見えるようになると期待していましたが、まださほど実感はありません。
世界があまりに暗すぎるからでしょうか。

それはともかく、しばらくはサングラスをしないと外出しにくいですが、たぶん生活は何の支障もないでしょう。
でもまあ、手術したことを口実にして、しばらく休養を取る(怠惰をむさぼる)つもりですので、この件は聞かなかったことにしてください。
さて今年の年末は、たっぷりと時間を楽しめそうです。

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2016/09/02

■4つの英国ミステリ―ドラマは心やすまります

私が最近、繰り返し見ている英国のミステリードラマが4つあります。
「シャーロック」「ポワロ」「マープル」「フォイル」です。
「刑事フォイル」を除いては、録画したDVDがあります。
いずれも個性的な人たちが登場します。

「シャーロック」は、何回観ても発見があり、実に面白い。
主役のシャーロックは私の憧れの生き方をしています。
「刑事フォイル」は、いかにも英国人という感じがしますが、これまた憧れる生き方です。
以上の2本は、内容が面白いので、繰り返し見ても飽きません。

ところが「ポワロ」と「マープル」はあんまりおもしろくないのです。
しかし、なぜか見てしまうのです。
ただ、「マープル」は途中で俳優が変わってしまったので、私の中では混乱があり、あまり見なくなりました。
で、一番よく観ているのが、「ポワロ」です。
いま、週2回放映されているためもありますが、毎回、ストーリーは面白くないなと思いながら見ています。
なぜ観るかというと、人への信頼感、人間社会への信頼感が高まるからです。

といっても伝わらないと思いますが、ポワロのパートナー役のヘイスティングスが、私には「最上の人間」と思えるのです。
これほどの好人物は、世の中にはいないでしょう。
昔はみんな、人間はヘイスティングスだったのだろうなといつも思いながら観ています。
私の中にも、間違いなく、ヘイスティングス的要素は残っています。
ポワロには、もうひとり好人物が登場します。
スコットランドヤードのジャック警部です。
これほどの好人物が警視監になってしまうスコットランドヤードが存在した時代があるというのは、私には感動的な話なのです。
いまの時代が、すべてではない。
いまの時代こそ、おかしいということを確信できるのです。
ちなみに、ポワロも、無邪気な好人物であることは言うまでもありません。

今日も、ポワロとシャーロックを観てしまいました。
いずれも何回も観ているので、筋は知っているのです。
しかし、毎回、登場人物たちが、私に語りかけてくる。
そして、ついしばらく前までは、みんな人間として生きていたことを思い出させてくれるのです。

どうしてこんな社会になってしまったのか。
私がイギリスのミステリードラマが好きな理由は、そういう問いかけを思い出せてくれるからです。
日本のミステリードラマには、その種のメッセージがありません。

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2016/08/01

■都知事選に思うこと(結果判明後編)

都知事選の結果はやはり小池さんの圧勝に終わりました。
小池さんのような、私には時代錯誤の危険な思想(新自由主義や核への考えなど)の持ち主と思われる人が、首都の知事になるということに不安はありますが、他の有力候補だった2人の傀儡性というか、受動的な生き方に比べれば、よかったかもしれません。

しかし、野党の共闘が挫折した感は否めません。
宇都宮さんや石田さんだったら、もしかしたら小池さんに勝てると、私は考えていましたが、いずれも野党は採用しませんでした。
たぶん隠れ自民党の岡田さんの判断が働いていた気がしますが、投票日前日に岡田さんは結果がわかったのでしょう。
民進党の代表選挙への不出馬を表明しました。
松原さんが怒るのも無理はありません。
結果がわかれば逃げ出すのは、岡田さんのこれまでの常とう手段のような気がします。
これで来年の野党共闘は期待できなくなった気がして残念です。
鳩山政権の時もそうでしたが、岡田さんはまさに新しい流れをこわすためにいるような気がしてなりません。
いずれにしろ、現在の民進党は野党結集の軸にはならないことが明確になった気がします。
思い切った組織変革が必要ですが、それに向かって動き出すきっかけになってくれれば、今回の都知事選も意味があったという気がします。

小池さんが圧勝したのは、政党の支持を受けずに、主体的に戦った姿が好感されたからだろうと思います。
その一方で、増田さんや鳥越さんは、政党に雇われたピエロのような感じで、頼りなさが強く出ていました。
おふたりはまさに小池さんの引き立て役だった気がします。
もはや組織に担がれて選挙に出る時代ではなくなったのです。
今回の選挙では、それを感じました。
政党の役割は、変わりだしています。

上杉さんが得票数では4番目でした。
彼のスピーチのいくつかは、友人がユーチューブを教えてくれるので何回か見せてもらいました。上杉さんが4番目になったことに、少しホッとしました。
しかし「媚を売る」選挙ではなく、「政策を語り合う」選挙になってほしいものです。
それが実現できないのは、都民と報道関係者の民度の問題でしょう。

いろいろなことを考えさせられる、都知事選でした。

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2016/07/30

■都知事選に思うこと(投票日前編)

明日は都知事選挙です。
選挙ですから結果はどうなるかわかりませんが、私は最初から小池さんが当選するだろうと思っています。
ほかの2人の候補者の動きと比べたら、格段の違いだからです。
選挙前から勝負はもう決まっていたような選挙です。

小池さんの戦いぶりには真剣さを感じますが、ほかの2候補の戦い方は情けないほどに貧弱です。
そもそも応援依存ばかりで、だれが知事になるのかわかりません。
私のまわりでは鳥越さん支持者が多いのですが、私は彼をまったく信頼できません。
増田さんにいたっては、主体性や自らの覚悟が感じられません。
小池さんは、私とは真反対の政策を志向してきた人ですが、その思考は明確です。
そして、そこに人生をかけている。
小池さんは、私には都知事には一番なってほしくない人ですが、安倍首相がそうであるように、多くの人に危機感の覚醒を与えてくれる存在になるかもしれません。

それにても、報道を見ていて、日本ではまだ効果的な選挙ができるほど、民度は熟していないと感じます。
少なくとも有力な3人の候補者は、何も語っておらず、政策とは無縁なパフォーマンスとけなし合いだけです。
時に語られる、例えば保育環境の改善に関しても、現場とは程遠い観察者の発言ばかりです。
保育園が足りないのではありません。
保育環境が劣化しているのです。
問題の捉え方がこれまでと同じです。
そこからは何も忌まれないでしょう。
つまり「哲学」がなく「誠実さ」がないのです。

3人以外の18人の候補者のメッセージがテレビで紹介されることが今回の変化かもしれません。
そこにとても新鮮さを感じます。

しかし、初の女性都知事の誕生は、何か大きな変化を期待させられるような気もします。
どんな結果になっていくか、幾ばくかの期待もあります。

もっとも、小池さんが当選しないこともないわけではないでしょう。
いやたぶんそんなことはないと思いますが、私の予想が外れたら、うれしいような悲しいような、複雑な気分になりそうです。

無駄話をすみません。

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2016/07/23

■稀勢の里を応援しています

稀勢の里は、とても人気のある力士です。
しかしどうも私は、不得手です。
いつも難しい顔をしているからです。
もっと力を抜いて、素直に生きようよと声をかけたくなります。
私が好きな力士ではありませんでした。

しかし先場所からなぜかずっと応援しています。
横綱がかかっているからです。
久しく日本人の横綱が出ていないのが、なぜか気になっています。

私は、国家というものに縛られたくないと思っています。
日本人ですが、日本人を指揮したことはありません。
国籍など関係なく、世界中の人たちが、みんな仲良くやればいいと思っています。
国家という境界線は、そのためには制約になることもあります。
日本人を意識することは、まなすこそあれ、プラスではないと思っています。
オリンピックでも、国家単位でメダルの数が競われますが、あれには違和感があります。
私自身は、自分はかなりコスモポリタンだと自覚しています。

しかし、本当は必ずしもそうではないのかもしれません。
相撲の横綱がみんなモンゴルの人というのが、本当はなじめていないのです。
なぜ日本人はいないのか。
日本人に横綱になってほしい。
どこかでそう思っているのです。
だからこの2場所、好きでもない稀勢の里を応援しているのです。
そう考えなければ理由がつきません。
ただし、この2場所の稀勢の里の表情は、以前とは変わってきています。
私好みの表情を見せることが多くなりました。

昨日、その稀勢の里が日馬富士に負けました。
稀勢の里は急ぎすぎました。
もう少しじっくり対応したら、勝機はありました。
その取り組みを見てから、どうも落ち着きません。
稀勢の里の不安感が、私にまで乗り移ってきたような気さえします。
私もやはりナショナリストなのでしょうか。
自分の意外な一面を実感しています。

さてまもなく今日の稀勢の里と白鵬の取り組みです。
私は、白鵬が昔から好きです。
しかし今回は、稀勢の里を応援します。
日本人の横綱が生まれてほしいからです。

稀勢の里がもし今日負けたら、今日もまた何もできずに、無駄に過ごしてしまうことになりそうです。
さてどうなりますか。

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2016/02/13

■しばらく時評を書けずにいました

時評が書けません。
そもそもcoco壱番の廃棄食品の横流し問題に関連した記事が最後なのですが、いまも悪いのは coco壱番だと思っていますが、それをきちんと書くのが面倒になってきてしまったのです。
最近の報道のほぼすべてがそうですが、問題の本質は問われることなく、表層的な事象にしか社会の関心は向かっていません。
それも繰り返ししつこく同じような報道が行われます。
要は、過剰報道で本質を見えなくする「非情報化」が行われているのです。
不倫議員の辞職など採りあげる価値さえないと思いますが、スター並みの採りあげ方です。
子どもの犯罪も、その周辺の大人たちの問題だと思いますが、大人たちはやぶの外です。
coco壱番の食品廃棄の原因は、不純物混入が原因だと最初報道されましたが、たぶんそれだけではないでしょう。
あれだけの大量な食品が廃棄されるという構造に問題があるのです。
それに、廃棄の仕方が問題なのですが、なぜか読者はcoco壱番の味方のようです。
結局何も変わらずに報道は終わってしまいました。
そうした風潮に嫌気がさして、時評が書けなくなっていました。
困ったものです。

私が最近強く感じているのは、ファシズム化の動きです。
北朝鮮では、いまなお、「処刑」というおぞましいことが行われているようですが、もしかしたら日本でも同じようなことが行われているのかもしれません。
そういう想像力を少し膨らませると、そんな気さえしてきます。

体調があまり良くなかったこともありますが、この数か月、きちんとした時評編を書けずにいました。
少しずつですが、慣らし運転的に書きだそうと思います。
この数か月で、かなり「ひがみ根性」が大きくなってきているので、いささかの心配はありますが。

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2015/12/25

■塩野七生さんの「ギリシア人の物語Ⅰ」を読みました

塩野七生さんの「ギリシア人の物語Ⅰ」が出版されました。
「ローマ人の物語」はずっと読ませてもらっていましたが、15巻が出版された後、当然、ギリシアに行くだろうと思っていたのですが、なぜか中世の方の行ってしまいました。
がっかりしていたのですが、ようやくギリシアです。
しかし3巻だと知って、すこしがっかりしました。
今年出版された1巻の主役はテミストクレス。
たぶん、後の2巻は、ペリクレスとアレキサンダーでしょう。
その後の時代のギリシアに関心のある私としては4巻ものにしてほしいものですが。

まあそれはそれとして、1巻目はとても面白く、ローマ人の物語の時のように一気に読んでしまいました。
いろいろと考えさせられることがありましたが、今日は印象に残った3つのことだけを羅列しておきます。

一つ目はちょっと長いですが、改革を起こす人の話です。

改革は、既得権階級のもつ欠陥に斬りこまないことには達成できない。斬りこむには、欠陥を知りつくす、と言うか肌で知っている者のほうが有利にきまっている。どこに、どう斬りこめば成功するかを、ローマ人の言葉を使えば、「食卓の話題」で自然に会得してきたからである。この種の「蓄積」は、いかに優秀な新興階級の出身者でも、一朝一夕には得られるたぐいのものではなかった。他には適当な教育機関が存在しなかった時代、それを教えこむのは家庭しかなかったのである。

2つ目は、アテネの民主主義の実態に関するものです。

直接民主政下のアテネで国の政策を決めていたのは、有権者総数の10%前後、ということになってしまう。

最後は、新しい文化の誕生に関することです。

時代を画するほどの文化文明は、異分子との接触による刺激がないところには生れない。自国内での温室栽培では、他民族にまで影響力をもつ画期的な文化も文明も生れないのである。

いずれもそれぞれ、現代のさまざまな問題を考える上での示唆に富んでいます。
それについては、それぞれに関して別途書いていければと思っています。
今日は予告編にとどまります。

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2015/10/08

■気の萎えた3週間

ほぼ3週間ほど時評編を書かずにいました。
安保法制の成立に伴う、様々なことを踏まえて、10回シリーズで書こうと思っていたのですが、書く気力が萎えてしまっていました。
自分の考えを相対化するために、ささやかな努力もしました。
昔読んだ書籍を読み直し、ドキュメンタリー番組も見直しました。
いろんな人とも話し合いました。

その間、気力がますます萎えてしまったのは、あれほどの大きな動きがあったにもかかわらず、フェイスブックでは相変わらずの日常が流れてきますし、マスコミも基本的には「終わった話」にしてしまっているからです。

そもそも参議院の特別委員会で強行採決が行われた日に、国会デモに行った帰り、霞が関を歩いていて、国会から少しだけしか離れていない霞が関では、省庁のビルから、平和そうな人たちが、何もないように話しながら出てくる姿を見た時に、言いようのない無力感に襲われたのが、気が萎えるきっかけでした。
笑顔で話している省庁のビルから出てくる男女を見ていたら、昔、映画で観た、ナチスドイツの強制収容所でガスを送る仕事をまじめにやってきた官吏が、自宅につながる階段を楽しそうにトントンとのぼっていく場面を思い出しました。
彼には、仕事が終わった後は、家族との楽しい晩餐が待っているのです。
ちなみに、この場面は、鮮明に残っているのですが、どの映画だったか思い出せないのです。
どなたかご存じだったら教えてください。

当日の国会周辺のシュプレヒコールに、なんとなく嫌な雰囲気を感じたことも、影響したかもしれません。
そこには、なにかルサンチマンの影を感じました。
どこか、なにかが、私が思っている世界とは違うのです。
私が、たぶん世界から外れてしまっているのです。

法案採決後も、政権支持率は大きくは変わらなかった。
世間的に影響を与えられる立場にある人たちも、新たな行動を起こさなかった。
ということは、私がやはり間違っているのかもしれません。
何が間違えているのか、自らを問い質しても、どうも間違いが見つかりません。
もしかしたら、間違いは、私自身が「行動を起こさないこと」かもしれません。
しかし、行動を起こす気にどうしてもなりません。
デモさえ、あまり行きたくなくなりました。
友人たちは、訴訟を起こしたり、さらなるデモを行ったりしています。
そうした動きにも、どうも参加できません。
自分ができることは何かと考えて、話し合いの場を呼びかけても、なかなか思うように人は集まらない。
それでも、私ができることと言えば、話し合いをする場をつくることくらいです。
そうした、「変わらない自分」にも、少し疑問が生まれてきている。

どれが因で、どれが果かさえ、わかりません。
ともかく、気の萎えた3週間を過ごしていたわけです。
でも萎えているだけでは、ますます萎える一方でしょう。
ともかくまた時評編を書こうと思います。

この3日間、わが家の農園に行って、土いじりをしていました。
そのおかげで、少しだけ、元気が出てきた気もします。
明日から時評編を再開します。

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2015/06/04

■時評がやはり書けません

このブログでは、以前は毎日「時評編」も書いていました。
しかし、だんだんと書けなくなってきました。
特にこの半月程は全くと言っていいほど書けなくなっています。
なぜなのかと自分でも考えているのですが、自分自身の生き方にたぶん原因があるのです。
「心理主義の罠」のような気もしますので、注意しないといけませんが、やはり問題は自分にあるように思います。

一言で言えば、社会への関心を失いつつある。
というか、最近の社会は、私自身がその「一員」であると実感できなくなってきている。
たとえば都心に出て行って、高層ビルのまわりを歩いているビジネスパースンを見ているとどうしても「私と同種の生き物」には見えません。
あるいは表参道や銀座を歩いて、華やかな女性たちや若者たちを見ていても、それも「私と同種の生き物」には見えてこない。
モダンな人工装置の中を元気よく歩いている「人らしい生き物」は、私にはまぶしいほど進化した「新人類」に見えてしまい、私とは別の生き物に感じられる。
いまの社会に、私自身がついていけなくなっているのです。

時々、ふと思うのですが、私が気づかなかった間に、エイリアンによって世界は変えられてしまったのか、あるいは核戦争が勃発して、みんなもう死者の世界を生きているのか、そんな気さえします。
こんなことを書くと私の「正気」が疑われそうですが、最近は私にとっても「正気」の人と出会えることが少なくなってきています。
まあ、どちらが「正気」かは、一概には決められませんが、「正気」と思える人は本当に少なくなったような気がします。
幸いに私はまだ、「正気」の人に囲まれて生きていますから、身の回り的には生きやすさはあるのですが、でもその小さな社会の外に広がる社会は、どうもなじめない。
私とは違う世界のような気がして、考える気にならないのです。
だから、時評も書く気が起きないし、書くことが浮かばない。

まわりの世界に「生気」を感じられないのは、自らの「生気」が枯れているからでしょう。
生気がなくなると、周りの生気など感じられなくなってしまう。
つまり「生気」を失ったのは、私なのです。
それが、たぶん、時評を書けない理由なのです。

先週から、私自身の生活リズムを回復しようとしています。
挽歌は毎日書けるようになってきました。
いささか最近は自分の世界に引きこもりた気分におおわれているのですが、来週からは時評も書けるように、社会的な生活リズムも整えていこうと思います。

時評の再開は来週からです。たぶん、ですが。

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