カテゴリー「補足記事」の記事

2017/06/03

CWSプライベートにようこそ

このブログは「時評編」と「挽歌編」が混在していますので、驚かれる方もいると思います。
混在の理由はゾーエとビオスの融合を目指しているからです。
目ざわりかと思いますが、お許しください。
別々に読む方は右側のカテゴリーで選んでください。

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2014/01/24

■閑話休題:挽歌と時評のクロス現象

吉本隆明の芸術言語論によれば、言語には、コミュニケーションのための指示表出と、沈黙が溢れ出る自己表出とがあるそうです。
極めて粗雑に、しかも独断的にいえば、ゾーエの独り言とビオスのメッセージと言ってもいい。
しかし、いずれにしろ表出(表現)することにより、世界は動き出します。
吉本隆明は数年前の最後の講演で、「表現とは自然や他者との交通路」と言い、「表現すると自然も他者も自らも変化する」と語っていました。
独り言のような自己表出もまた、自らを変化させると言うことです。
そして、その話を聴いた時、表出は自らを変化させるための仕組みなのだと思ったのです。

このブログは、挽歌と時評によって構成されています。
吉本の言葉を借りれば、挽歌は自己表出、時評は指示表出です。
ゾーエの独り言とビオスのメッセージと言ってもいいでしょう。
数年間、書き続けてきて思うのは、実はそのふたつは深く深く重なっていると言うことです。
書き手としては、時々、どちらがどちらなのか迷うこともあるのです。

挽歌は、6年以上続けていますが、最初の頃と最近とでは、内容も書き方も大きく変化していると思います。
情緒的にいえば、最近は書いていてとても「渇き」を感じます。
言い方を変えれば、「生気」が希薄になっているのを感じています。
挽歌を書こうとしている自分を見ている自分が、書いていると感ずる時さえあります。

時評は、書く時の気分で大きく変わります。
「生気」が希薄な時には、書くことが思いつきませんが、生気が満ちていると書きたいことがどんどん見えてくる。
思いがふくれてくると、ついつい感情をぶつけたくなる。
そして、自己嫌悪に辿り着くこともあるのです。

つまり、ゾーエとビオスの逆転が起こっている。
しかし、指示表出の挽歌や自己表出の時評は、読者には意味がないでしょう。
挽歌でコミュニケーションしたくなったり、時評でうっぷんを晴らすのは、どこかが屈折しています。

まさに、こうしたことに、吉本のいう、「表現すると自然も他者も自らも変化する」ということがあるのかもしれません。
書き続けていると、変わってしまう。

しかし、挽歌や時評を書き続けることが、何とか私の生きる拠り所を落ち着かせてくれています。
身体が反応して、思わず嘔吐してしまったり、病気になったりしてしまったりすることと、同じなのです。
挽歌的に言えば、以前は節子がその役を引き受けてくれていましたし、時評的に言えば仕事がその役を引き受けてくれていた。
いまは、節子もいないし、仕事もやっていない。
私のメッセージを引き受けてくれる仕事は、残念ながら見つかっていません。

いずれにしろ、挽歌と時評が重なってきていると言うことも、それなりに確信できた。
いや、重なり合わせて生きることが可能だということが確信できました。
ですから、このブログを続けようかどうか、最近少し迷いが出てきています。
挽歌を書くとしても、なにも公開のブログで書くこともないですし、時評を書くよりも仕事をした方が良いのかもしれません。
しかし、もう少し書き続けたい気持ちの方が、今は少し強いですが。

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2010/12/31

■年末のお礼

大晦日のテレビはどうしてこんなにも退屈なのでしょうか。
そのおかげで、今日は久しぶりにテレビを見ずに、静かに過ごせています。

今年は実にいろいろなことは見えてきた年でした。
政権交替のおかげで、日本の政治の実態が見えてきましたし、情報社会の到来により、権力が嘘をつくことにもみんな気がつきだしました。
政治と経済がどれほど癒着しているかも見えてきたように思います。
見えないものを見えるようにするのが情報社会です。

しかし同時に見えてきたのは、そうした情報社会にも関わらず、多くの人は真実を見たくないと思い出したということです。
真実よりも、見たい幻想を見ているほうが楽だからなのでしょう。
せっかく見えるようになってきたのに、見る人がいなくなったのは皮肉な話です。

今年の時評編はあまりに独断的で、品格のないものが多かったような気もします。
来年はどうなるでしょうか。
来年は、もう少しみなさんに共感してもらえ、なるほどと言ってもらえるようなものを書けるようにしたいと思っていますが、どうなりますことか。

それにしても、勝手気ままな独善的な時評にお付き合いいただいたみなさまには感謝しています。
ありがとうございました。

気が向いたら、湯島の私のオフィスに遊びに来てください。
毎月最後の金曜日の夜は、だれでも歓迎のオープンサロンを開いています。
書くより話すほうが、私は好きなのです、
いつかお会いできますように。

新しい年が、みなさまにとって楽しい年になりますように。

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2010/04/05

■事業仕上げフォーラムの報告

参加者がなかなか集まらずに、このブログにまで案内を書いてしまった「事業仕上げフォーラム」は予想以上の人が集まってくださり、とてもあったかいフォーラムになりました。
このブログを読んで前日に参加してくださった方も、少なくとも2人いました。
ありがとうございました。

フォーラムの様子はホームページ(CWSコモンズ)のほうに書く予定ですが、このフォーラムをやろうと決めたのは、1か月半前です。
湯島で、毎月やっていた「支え合いサロン」に集まっていた人たちで話しているうちに決まったのです。
それから2回ほど集まりましたが、誰もどんな集まりになるかあまり見えていなかったと思います。
私の考え方は、誰でもできることしかできない、という考えですから、無理をすることなく、できることをやろうと気楽に考えていましたが、今回は全くと言っていいほど流れに任せたので、私自身当日始まるまではどうなるのかほとんど見えませんでした。

昨日も冒頭で話させてもらったのですが、「支え合い」には2種類あります。
「補い合う支え合い」と「高め合う支え合い」です。
普通、支え合いというと、相手の弱いところを補い合うというイメージをもつ人が多いと思いますが、むしろ「相手の強いところを活かす」ことが、支え合いのポイントだろうと、私は思っています。

今回のフォーラムの実行委員は7人でしたが、それぞれが無理をしない範囲で、できることを出しあって実現したのが、今回のフォーラムです。
フォーラムのテーマは「支え合いを形にする」でしたが、まさにこのフォーラムの実現は「支え合いを形にした」ものでした。

しかもこのフォーラムから4つのプロジェクトが生まれだします。
あんまり「事業仕上げ」までは行きませんでしたが、たぶんキックオフのための勢いはつけられたのではないかと思っています。

ブログで案内させてもらったので、報告もさせてもらいました。
ご支援してくださったみなさんに感謝しています。
これに味をしめて、またこのブログで、何かを案内させてもらうことがあるかもしれませんが、よろしくお願いします。

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2010/03/23

■人は常に欠如と悪のかたまり

人に関して、過去の哲学者はさまざまなことを言っています。
カントはこういいます。
「自然の歴史は、善をもってはじまる、なぜならこの歴史は神の業だからである。自由の歴史は、悪をもってはじまる、なぜならこの歴史は人間の業だからである」

これはかなり奥深い意味を持っています。
なぜなら、善悪を考えるのは、人間だからです。
自然にとっては「善悪」はありません。
と言うことは、人間は「自己否定的な存在」だということになります。

ハイデガーは、共同体は、つねに欠如をともなって生じ、それ自体が欠如の共同体だといっているそうです。
共同体を人間と置き換えるともっとわかりやすいです。
人は常に欠如を持った存在なので、一人では生きられないということになります。
これも実に深い意味を持っています。
サブシステンスという言葉があります。
辞書を見ると「生存」「生計」などと味気のない訳語が並んでいます。
これもなかなかわかりにくい言葉ですが、欠如に関連しています。

急にこんなことを書いてしまいましたが、最近、人の本質は「欠如」ではないか、そしてその欠如を補うための行為を「悪」というのではないかという気がしてきたのです。
同時に、それらはまた、ダイナミズムの源泉であり、経済もまたその上に乗っかっているわけです。
そう考えると、政治も経済もなんとなく理解しやすいです。

そろそろ自評はやめて、また時評に戻りたいと思います。
退屈な自評にお付き合いいただきありがとうございました。

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2010/01/06

■心理主義と依存主義の二重の罠

なにか元気が出るような時評を書きたいと思いすぎて、時評を書けずにいます。
どうもネガティブな批判ばかりしているうちに、精神が歪んでしまったのでしょうか。
テレビの報道番組が始まりましたが、どうも見ると精神衛生上よくないので、あまり見たくなくなってきました。

昔、「非情報化革命論」と言うのを書いたことがあります。
未完のままどこにも発表せずに終わったのですが、世上言われている「情報化革命」は、実は本当の情報を見えなくしていくことではないのかという内容です。
まさにそうした状況が生まれつつあります。
情報社会の実態は、じつは情報が編集されてしまった人工的な社会なのです。
マスコミが流している情報は、その典型的なものでしょう。
ホームページに掲載した武田文彦さんの国家論で、今回は「NHKの報道姿勢に対する公開質問状」を書いていますが、マスコミの論評や解説もまた見事なほどに内容が抜き取られた編集の結果です。
以前驚いたのは、朝日新聞の「私の視点」に投稿したのですが、採用されたものの内容の修正を要求されました。
一度は応じたのですが、途中で嫌気がさして、勝手に直してもらい、なんだかわけのわからないものになってしまった記憶があります。
投稿記事でさえ編集されていることを知りました。
これが「情報社会」の実態なのかもしれません。

自民党独裁政治が終わり、本来は政治への期待が高まるはずですが、相変わらずその期待はマスコミの誘導によって押さえられてきています。
1年前と比べて、日本の政治の透明性と能動性は飛躍的に高まっているにもかかわらず、みんななぜか評価しません。
やはり日本国民はお上の従う臣民であることから抜け出る勇気がないのかもしれません。
そして少し気になるのは、昨今の政策もまた、そうした臣民づくりの政策のように見えてしまうことです。

心理主義の罠の反動が起こっているようにも思います。
その「二重の罠」の中で、私自身どうも物事を前向きに捉えられなくなってきていることに最近気づかされています。

元気が出るような時評がなかなかかけないのは、たぶんそのせいでしょう。
正すべきは、先ずは自分の生き方。
そう思っていますが、私自身、元気が出てこないのが問題です。
しっかりした時評は、元気な心身に支えられるはずですから。

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2009/12/31

■友愛の動きの広がり

今年は、身の回りでの「社会の壊れ」を強く実感する一方で、私にとってはうれしい方向への大きな変化の予兆をいくつか感じました。

一番大きな期待は、「友愛」の発想が政治の世界でさえ語られ出したことです。
あまり評判が良いわけではありませんが、政治の基本は友愛であるべきだと思っている私には嬉しい話です。

選挙は人が死なない戦争だ、などという話を昨日のテレビで多くの総理に仕えた飯島さんが話していましたが、とんでもない話だろうと思います。
そんな発想はもうそろそろ卒業してほしいものです。
企業経営の世界もよく戦争にたとえて語られますが、これもそろそろ卒業すべきだろうと思います。
数年前に私が訳させてもらった「オープンブック・マネジメント」(ダイヤモンド社)を訳す気になった一つの理由は、企業経営のモデルを「戦争モデル」から「ゲームモデル」へと転換するメッセージが含まれていたからです。

人がいるかぎり、戦争はなくならないと多くの人は思っているかもしれませんが、そんなことはないはずです。
私たち一人ひとりの心身のなかには、むしろ「友愛」あるいは「ケアマインド」が埋め込まれているからです。
隣の人が危険に直面したら、反射的に助けようとする、それが人間ではないかと私は思っています。
生命の連続性に関して、挽歌編ではしばしば書いていますが、その生命の連続性の名残がまだ残っているはずです。

しかし、そこに一瞬の時間が入り込むと、途端に私たちは迷い出します。
連続した生命の一部を「個人」として自立させてしまった人間は、自我を持ち出し、全体の生命よりも自分を守るという知恵を身につけてしまいました。
そのため、本能的に反応してしまっては、もしかしたら、個としての生をまっとうできないという、おかしな状況が発生したように思います。

しかし、その知恵を持ちながらも、なお「友愛」と言い出した鳩山首相に、私はとても感謝しています。
なぜならどんな動きも「言葉」を与えられて初めて定位し、実体化するからです。

年末になって、実はそうした、とても心温まる動きが私のまわりでいくつか起こりました。
来年は、そうした私の回りで始まった、いくつかの「友愛」の動きを紹介していけるような気がします。
今年よりも、もう少し建設的な時評を書きたいと思っています。

今年もお付き合いいただき感謝します。
1月5日のお昼過ぎから8時まで、私の湯島のオフィスでぼんやりしている予定です。
もし気が向いたら、コーヒーを飲む気分でお立ち寄りください。
案内をホームページのお知らせに掲載しています。

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2009/12/30

■来年はもっとポジティブな時評を目指したいです

最近、時評が書けていません。
単に時間不足なためですが、不思議なもので時評を書かなくなると社会の動きもあんまり気にならなくなります。
時評していると時評したくなるテーマが次々と出てきます。
時評しなくなると時評したい話題も出てこなくなります。
いろいろなことが気になるから時評するのか、時評するから気になるのか。
時評しないで世間の動きなど気にせずにのんびり生きるのが幸せなのかもしれません。

それに最近つくづく思うのは、世上、ネガティブ・コメントが多すぎるということです。
ジャーナリズムのエトスは、批判精神ともいわれますが、相手を貶める批判ではなく、相手を正す批判でなければいけません。
これは結構難しく、私にはなかなかできません。
この時評もネガティブ・コメントが多すぎるので、時に自己嫌悪に陥ります。
他者を時評することは自らをさらけ出し、結果的には自己時評することでもありますので、時々深い嫌悪感に襲われるわけです。

対象がどんなものであろうと、ネガティブな評価は極めて簡単です。
この世に完璧な動きなどあろうはずもありませんから、いかようにも酷評できるのです。
その一方で、褒めるのは難しい。
この時評でも褒めることを書く努力は何回か試みましたが、うまくいきません。
それはおそらく自らが自立していないことが影響しているように思います。
自らに自信のある人は、決して人を見下したり、ネガティブ評価はしないでしょう。
どんな対象の中にも、価値を見出せるのです。
残念ながら、私はそうした心境には程遠いことが、時評を書いていてよくわかります。

このブログは、時評と挽歌から構成されています。
全く異質に見えるこの2つのことが、書いている立場から言えば、深くつながっています。
挽歌の中に時評があり、時評の中に挽歌があることを、最近痛感します。
当初は「心で書く挽歌編」と「頭で書く時評編」と自分でも別のものと意識していたのでしたが、実際に書き続けていると、そんな違いはありません。
結局、いずれにも自分の生き方や気持ちが形になるだけなのです。

来年はもっとポジティブな時評を目指したいと思っています。
前にも一度、同じ事を書いたような気もしますが。

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2009/01/22

■時評をさぼっている言い訳

時々、時評を書く意欲が消えてしまうことがあるのですが、この1週間、まさにそうで、何を見ても聴いても、まあ勝手にやったらいいんじゃないのと思ってしまうようになっています。
オバマのスピーチに世間は沸いていますが、20分のスピーチを聴いても心が躍動しません。
たしかに久しぶりにスピーチらしいスピーチのような気もしますが、なんだか私の心が麻痺してしまっているのです。
スピーチの一方で、ガザの惨劇は続き、アフガンやイラクの情勢は変化の兆しを感じられないのが、その理由かもしれません。
日本でも、政府や財界が言葉を並べ立てていますが、現実が変わる兆しは感じられません。
現実を変えているのは、当事者と当事者に繋がる人たちなのです。
閣僚たちの視線は、そうした現場には向いていません。

言説の時代は終わったといわれています。
大きな物語の時代も終わった、これからはローカルな身の丈にあった物語だという人もいます。
逆に言葉が現実を超えて、新しい世界を創りだしていくといっている人もいます。
いずれにも共感しますが、だからなんだとも思います。
いささか「うつ」状態なのかもしれません。

オバマのスピーチに世界は大騒ぎです。
あんなに大盤振る舞いして大丈夫なのでしょうか。
世界は本当に変わっていくのでしょうか。
そうあってほしいものですが、何だか方向は全く変わっていないような気がしてなりません。

すみません、無意味なことを書いてしまいました。
明日から少しまた書き出します。

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2008/12/30

■「やさしさ」と「つめたさ」

今年も余すところ1日です。
私にとってだけでなく、今年はさまざまなことがクロスし、
状況が大きく変わっていく「せめぎ合い」の年だったように思います。

このブログの時評編では、社会が壊れてきていると何回も書きました。
しかし、それは新しい社会のはじまりなのかもしれません。
派遣切り問題から広がりだした、支え合いの輪は実に感動的です。
世界が変わりだしたようなイメージさえあります。

私が会社を辞めたのは1984年、平成元年です。
会社を辞めて、独りで活動を開始して体感したのは、時代が大きく変わりだそうとしている風でした。
その頃の年賀状に、よく「地殻変動の予感」とか「地殻変動の確信」とか書いていたことを思い出します。
しかし残念ながら1990年代の後半になるにつれ、その地殻変動の動きは変質してしまいました。
以前の延長に戻りだしたのです。
社会が壊れだすような感じでした。
そしてその流れから見ると、社会はまさにかなり壊れてしまったように思います。

ところがそうした壊れだした社会の中から新しい動きが出始めているのを、最近また感じられるようになりました。
それは社会現象からだけではなく、私自身の少し特殊な体験からも、です。
いや、それがあればこそ、その変化を心から実感できるのかもしれません。

挽歌編で書いていますが、私は昨年、妻を亡くしました。
私にとっては思ってもいなかった体験であり、いまだその事実を受け入れられない状況にあります。
しかし、そのことを通して、人の「やさしさ」や「いのちのつながり」を深く実感させてもらいました。
世界はなんと「やさしさ」で満ち満ちているのかということに改めて感激しました。

一昨日、こんなメールが来ました。

佐藤さんにお元気になっていただきたいと願って居ましたら、いつのまにか私のほうがはげまされている状態でした。
この方は、相談と称して何回も湯島に来てくれました。
その相談の内容がよくわからなかったので、いささかの苛立ちさえ感じていたのですが、
彼女は私を励ましに来てくださっていたのです。
なんと鈍感なことでしょうか。
恥ずかしい話です。

「鈍感さ」とは正反対に、最近、人の「情」に関する「ひがみっぽさ」は敏感になっていました。
自分でもいささか嫌悪したくなるほど、「言葉」に過剰に反応し、人への不信感をもったこともあります。
しかし、みんなそれぞれの事情を抱えていることを思いやる余裕が最近ようやく戻ってきました。
結局、不信感は自らの気持ちの現われでしかありません。
世界は自分のこころの鏡像なのです。

マスコミ報道でみると、社会の冷たさのニュースが多すぎて、いささか気持ちが沈みます。
しかし、もしかしたら、実はさまざまな「あたたかなエピソード」がたくさんあるのではないかと思うのです。
私自身がそうだからですが、これはなにも私のまわりに限ったことではないでしょう。
その証拠が、派遣切り問題から始まった支え合いの輪の広がりです。
自分の心が変われば、世界は違った様相を見せてくれるかもしれません。

年末に友人から教えてもらった、サティシュ・クマールの「君あり、故に我あり」を読みました。
「インド思想が説く平和をめざす新原理」と本の帯に書いてあります。
書かれていることのすべてに共感しました。
ガンジーに対する私自身の偏狭な見方も反省させられました。
この歳になって、やっと自らの卑しさを思い知らされるのは辛いことですが、
もっと「やさしさ」をもって、社会を見ることにしたいと思います。
まず自らのうちにある「つめたさ」を克服しなければ、社会の「あたたか」に気づくことはないでしょう。
サティシュはこう書いています。

「人は平和であるとき、平和を発散するのだ」
最近、やっとこの意味がわかってきました。

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