■閑話休題:挽歌と時評のクロス現象
吉本隆明の芸術言語論によれば、言語には、コミュニケーションのための指示表出と、沈黙が溢れ出る自己表出とがあるそうです。
極めて粗雑に、しかも独断的にいえば、ゾーエの独り言とビオスのメッセージと言ってもいい。
しかし、いずれにしろ表出(表現)することにより、世界は動き出します。
吉本隆明は数年前の最後の講演で、「表現とは自然や他者との交通路」と言い、「表現すると自然も他者も自らも変化する」と語っていました。
独り言のような自己表出もまた、自らを変化させると言うことです。
そして、その話を聴いた時、表出は自らを変化させるための仕組みなのだと思ったのです。
このブログは、挽歌と時評によって構成されています。
吉本の言葉を借りれば、挽歌は自己表出、時評は指示表出です。
ゾーエの独り言とビオスのメッセージと言ってもいいでしょう。
数年間、書き続けてきて思うのは、実はそのふたつは深く深く重なっていると言うことです。
書き手としては、時々、どちらがどちらなのか迷うこともあるのです。
挽歌は、6年以上続けていますが、最初の頃と最近とでは、内容も書き方も大きく変化していると思います。
情緒的にいえば、最近は書いていてとても「渇き」を感じます。
言い方を変えれば、「生気」が希薄になっているのを感じています。
挽歌を書こうとしている自分を見ている自分が、書いていると感ずる時さえあります。
時評は、書く時の気分で大きく変わります。
「生気」が希薄な時には、書くことが思いつきませんが、生気が満ちていると書きたいことがどんどん見えてくる。
思いがふくれてくると、ついつい感情をぶつけたくなる。
そして、自己嫌悪に辿り着くこともあるのです。
つまり、ゾーエとビオスの逆転が起こっている。
しかし、指示表出の挽歌や自己表出の時評は、読者には意味がないでしょう。
挽歌でコミュニケーションしたくなったり、時評でうっぷんを晴らすのは、どこかが屈折しています。
まさに、こうしたことに、吉本のいう、「表現すると自然も他者も自らも変化する」ということがあるのかもしれません。
書き続けていると、変わってしまう。
しかし、挽歌や時評を書き続けることが、何とか私の生きる拠り所を落ち着かせてくれています。
身体が反応して、思わず嘔吐してしまったり、病気になったりしてしまったりすることと、同じなのです。
挽歌的に言えば、以前は節子がその役を引き受けてくれていましたし、時評的に言えば仕事がその役を引き受けてくれていた。
いまは、節子もいないし、仕事もやっていない。
私のメッセージを引き受けてくれる仕事は、残念ながら見つかっていません。
いずれにしろ、挽歌と時評が重なってきていると言うことも、それなりに確信できた。
いや、重なり合わせて生きることが可能だということが確信できました。
ですから、このブログを続けようかどうか、最近少し迷いが出てきています。
挽歌を書くとしても、なにも公開のブログで書くこともないですし、時評を書くよりも仕事をした方が良いのかもしれません。
しかし、もう少し書き続けたい気持ちの方が、今は少し強いですが。
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