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2007/12/11

■節子への挽歌100:百か日

今日は節子が旅立ってから100日目です。
正式には、百か日法要を行うのですが、今回はお寺ではなく、自宅で節子を偲びました。
百か日は「卒哭忌」ともいうそうです。
「哭」は泣き叫ぶこと、「卒」は終わるという意味ですので、泣き明かしていた悲しみを卒業するという節目です。
しかし、そうプログラム通りに行くものではありません。
母親を亡くした娘たちの辛さや悲しみなどほとんど意に介することなく、この100日間、自分の悲しさと寂しさを正直に出し続けてきました。
そのおかげで、その悲しさと寂しさを日常化することができました。
娘たちに心から感謝しています。
節子がいなくなってから、実はどう暮らしていこうかという相談も娘たちには全くしませんでした。
ただ一言、「家庭のことはすべて任せて、私は隠居する」と宣言しただけです。
娘たちは、今は何を言ってもだめだと思ったのか、素直に受け入れてくれました。
そろそろ、しかし私もこれからのことを考えなければいけませんし、節子が残していったものを整理しなければいけません。
どこかから借金証書や隠し財産が出てくる可能性は、わが家の場合は皆無ですが、すべてをそのままにしておくこともできません。
勇を鼓して、私も前に進まなければいけません。

しかし早いもので、もう100日です。
この調子だと私が節子のところに行ける日も、あっという間に来るかもしれません。
ですから、私自身の身の回りの整理もしておくことも考えなければいけません。
早くまた節子に会いたいと、心の底から思います。

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2007/12/10

■節子への挽歌99:赤い糸

私と節子の出会いについては以前書きましたが、実はそれも予め決められていたことだったような気がします。
私たちは間違いなく「赤い糸」で結ばれていました。
その証拠にはなりませんが、1枚の写真があります。
実は私たちが結婚してかなり経過してから見つけた写真です。

節子と私は同じ職場にいました。
いわゆる職場結婚なのですが、50人くらいの職場で、係が違っていたため、以前書いた電車での出会いの前は、ほとんど話したこともありませんでした。
当時はまだ職場旅行というのがあって、50人全員で京都に旅行しました。
その時の写真です。。

Red

ちょっとぼけていますが、この写真を見つけたときには2人で驚きました。
なんと私たち2人が真ん中にいるのです。
前に並んでしゃがんでいるのが私と節子です。
いささか恥ずかしい写真ですが。
私はまだ入社して半年です。
周りにいる人たちは懐かしい顔ぶれなのですが、実は全員、私の係ではなく、節子の職場に近い人たちです。
どうしてここに私がいるのか不思議な組み合わせなのです。

この写真を見つけた時、節子は、やっぱり赤い糸で結ばれていたのね、ととても喜びました。
私もなぜかすごくうれしい気持ちになりました。
私はとても緊張している感じですが、節子はさりげなく私の脚に手を置いています。
みんなが私たちカップルを祝っているような感じです。
しかし、この写真から1年ほどは私と節子との交流はなかったのです。
電車で出会ったのは、この写真のちょうど1年後なのです。

ちなみに、この写真には節子の親友も一人写っています。
節子のお見舞いにも、そしてお別れにも来てくれました。
勝っちゃん、この写真は知らなかったでしょう。

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2007/12/09

■節子への挽歌98:節子と世界とどちらを選ぶか

もしメフィストテレスがやってきて、お前の魂をくれたら節子を戻してやると言われたら、私は喜んで魂をやるでしう。
おまえの生命との交換はどうだといわれても、躊躇なく承諾します。
そういう取引では、せっかく節子が戻ってきても、私とは会えないかもしれませんが、それでも承諾します。
メフィストテレスが信頼できればですが。
もし信頼できるメフィストテレスをご存知の方がいたら、ぜひ紹介してください。
節子が取り戻せるのであれば、心を悪魔に売り渡すことなどたやすいことです。
妻と良心とどちらが大切か。もちろん私には妻です。
地球と節子とどちらを選ぶかと言われても、躊躇なく節子を選びます。
利己的ですみません。

私にとって一番大切なものは節子です。
しかし人によっては伴侶ではないかもしれません。
自分が一番大切なものを得るために、人はけっこう悪魔に魂を売っています。
最近もそうした人たちがテレビや新聞をにぎわしています。
そうした報道を見ていると、みんな本当に大切なものに気づいていないなとつくづく思います。
一番大切なのは、生活を共にしているパートナーです。

妻がいなくなって、その大切さに改めて気づきました。
よく言われるように「人」という文字は、寄り添っている形です。
人は一人では生きていかないということでしょうか。

ところで、私には独身の友人知人が少なからずいます。
そうした人たちの生き方に、改めて驚異を感じます。
私も学ばなければいけません。
良心を悪魔に売り飛ばさないためにも。

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■節子への挽歌97:節子は歌が好きでした

節子は歌が好きでした。
でもちょっと音痴のところがあったような気がします。本人は認めませんでしたが。
それに高い音がきれいに出ませんでした。
でも歌がとても好きでした。
それで、我孫子の女性コーラスグループの「道」に参加させてもらっていました。
その発表会にはいつも私も聴きに行きました。
しかし、この1年、彼女は病気のために参加できませんでした。
そのグループの発表会が4月にありました。
節子と一緒に聴きに行きました。
久しぶりにみんなに出会えて、よほどうれしかったのでしょう、辛かったはずなのに、私が心配するほど元気そうにみんなと話し合っていました。
そこでいろいろな人にも出会えました。
それがおそらく最後の外出でした。
たくさんの友人たちに囲まれて、コンサートを最後まで聴けてよかったと思いますが、思い出すだけで涙が出てきます。

彼女も歌った発表会を録音したテープやCDがたくさん残されています。
どうしても聴く気になれません。
しかし捨てる気にもなれません。
捨てることも出来ず、見ることも出来ないもの。
そういうものがたくさん残されています。
私もいまのうちに身の回りのものを捨てていこうと思っていますが、なかなかそれも難しいものです。

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2007/12/08

■節子への挽歌96:節子は「私の女」でした

「いい女だった」と言う話を書きましたが、もう少し書きます。
節子が「いい女」に育ったのは、実は私の働きかけが少なからずあったと自負しています。
誤解されないように付け加えますが、私を育てたのは間違いなく節子です。
節子と結婚していなかったら、私はかなり違った人間になっていたと思います。
同じように、節子もまた、違った人間になったはずです。
もちろん「素質」は、それぞれの固有のものでしょうが、私たちはお互いを育てあう関係でした。

これはなにも私たち夫婦に限ったことではないでしょう。
夫婦とはそういうものだと思います。
育ち方が良かったか悪かったかは何とも言えませんが、私たちはお互いに感謝しあっていました。
節子も私も、相手から実にたくさんのことを教えてもらったのです。
お互いに、とても出来の悪い生徒でしたが、まあ相互に合格点を出し合えるものでした。

「マイ フェア レディ」のイライザを例に出すまでもなく、人は愛する人によって変わります。
そして愛する人を変えていきます。
私たちが自らを変えられたのは、相手を愛していたからです。

もちろん長い人生ですから、いつもいつも夢中だったわけではありません。
時に愛が冷めた時期もありますが、それでもどんな時でも、お互いにかけがえのない存在だったことは間違いありません。
節子は私との離婚を考えたこともあるとよく話していましたが、気楽にそう言えるほど、私たちは仲が良かったのです。
いつもながら、好都合な解釈ですが。

ところで、節子の「出来上がり」はどうだったでしょうか。
私には「最高の女」でした。
たくさんの欠点も含めて、「最高の女」でした。
「完璧な女性」とか「素敵な女性」とかとは程遠い存在でしたので、
他の人からの評価は、とてもとてもだめでしょうね。
でも、繰り返しますが、私にとっては「最高」だったのです。
私にはそれで充分でした。
節子は私の女だったのですから。

「私の女」。問題発言ですね.
でも間違いなく節子は「私の女」でした。
私のための、まさにカスタムメイドの女性でした。
節子もきっと否定はしないでしょう。

私にとって、あんなにいい女房はいませんでした。
まあ、ほかには女房はいないので、当然なのですが。
節子はいつもそういって笑っていました。はい。

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■節子への挽歌95:「いい人」でもあり「いい女」でもありました

節子は「いい人」でしたが、私にはそれ以上に「いい女」でした。
節子に「修は女を知らない」と言われていたように、どんな人が「いい女」なのか、私には見分ける力はありませんが、節子を思い出すたびに、「いい女だった」と言いたくなる気分なのです。
それに、「いい人」と言ってしまうと、なんだか軽くて、それこそ可もなく不可もなし、という感じですので、やはりここは、「いい女だった」と言いたくなるわけです。

立場が逆だったらどうでしょうか。
節子は私のことを「いい男だった」とは絶対に言わないでしょう。
そこが私と節子の違いかもしれません。
私は節子にとっては、きっと「いい人だった」で終わってしまうような気がします。

でも、「いい人だった」といわれるのは、あんまり名誉ではないですね。
そんな気がします。
ですから、私が節子のことを「いい女だった」と思っていることを、節子はきっと喜んでいるでしょう。
生前に、この言葉を聞かせておきたかったと思います。
「いい女房だ」とは何回も言いましたが。

「いい人」「いい女房」「いい女」
「いい人」「いい旦那」「いい男」
みなさんたちはいかがですか。

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2007/12/07

■節子への挽歌94:私のすべてが節子への贈り物

贈り物の話です。
私は節子に指輪のプレゼントをしたことがないと以前書きましたが、
正確に言えば、一度だけあるのです。

私たちは結婚して一緒に暮らすことを決めた直後、結婚式は挙げずに、
出雲大社の神前で2人だけで誓いを交わそうと決めました。
当時のスタイルとしては、まあ先端的でした。
それが何だといわれそうですが。
型にはまった結婚式は私の性分にはあいませんでした。
結局は後で結婚披露宴をする羽目になったのですが、今日のテーマはそのことではありません。
贈り物がテーマです。

出雲大社には京都から夜行で向かいました。
その列車の出る前に、京都駅前の大丸でダイヤの指輪を買いました。
お金がなかったのでとても小さな指輪しか買えませんでした。
それが私の節子への唯一の贈り物です。
娘たちは、私が妻に贈り物をしないといつも非難していました。
節子は、修はそういうのがだめなのよといつも笑っていました。

しかし、私が節子に贈り物をしなかったわけではないのです。
いや、むしろ誰よりもたくさんの贈り物をしたという自負があるのです。

実は私のすべてが節子への贈り物だったのです。
気障な言い方だと思われるでしょうが、節子はそれをわかっていました。
まあ、節子にはありがた迷惑な贈り物だったかもしれません。
捨てるに捨てられませんから。
ですが、私のすべては節子のものになったのです。
人を愛するとは、そういうことだと私は思っていました。
節子と結婚して、私の生活は一変しました。

もっとも節子は、私よりもやはり指輪や帽子のほうがいいといっていました。
そのたびに私は、好きな指輪を買っていいよ、と言いました。
たまには花束を贈ってほしい、とも言っていました。
私は好きな花束をあげるから買ってきてよ、と節子に頼みました。

そんなわけで、節子は普通の意味でのプレゼントを私からはもらっていないのです。
しかし、私は何でももらえる状況をプレゼントしたわけです。
まあ、「何でも」というのがミソですが、ほしいことがあれば努力するつもりでした。
もちろん「物」はそう考えていませんでした。
物は物でしかないからです。

さて、みなさんはどちらがいいでしょうか。
時々、何か素敵なものをプレゼントしてくれる伴侶がいいか。
かなえられることは何でもかなえてやるよという言葉をくれる伴侶がいいか。
私は後者が絶対にいいと思いますが、節子は前者だったのでしょうか。
今にして思えば、私の考えはちょっとおかしいですかね。

実はプロポーズの仕方も結婚式も、今から思うとやはりちょっとおかしかったかもしれません。
節子がよくついてきてくれたなと思います。
もしかしたらストレスをためていたのかもしれません。
でもそうしたなかで、節子のライフスタイルが育っていった面もあるように思います。
出会った頃の節子は、まじめすぎるほどまじめな人だったですから。

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2007/12/06

■節子への挽歌93:家庭の中での私の位置づけにやっと気づきました

節子がいなくなったことで、家族の中における私の位置づけが一変したような気がします。もちろんこれは私の主観的な感じですが。
わが家は4人家族でした。
家族の中心は私たち夫婦、そして未婚の娘たちが同居していました。
娘たちには早く結婚して自宅を出ていってほしいと言い続けていた私たちは、節子の発病で意識が変わりました。実に勝手なものです。節子はとても複雑な気持ちだったと思いますが、娘たちが家にいることに感謝していました。
まあ、このあたりのことは書き過ぎると娘たちからクレームがつくのでやめておきます。
問題は私のことです。

節子がいた頃は、夫婦が家の中心、「主」で、娘たちは「従」、もしくは同居人だったのです。
娘たちにとってこの家は、いわば出て行くまでの臨時の住処だったのです。
極端な表現をすれば、私たち夫婦が「置いてやっていた」と言ってもいいでしょう。
ところが、節子がいなくなったら、こうした関係は逆転してしまいました。
私は主なる位置を追われてしまい、娘たちに養ってもらう存在になってしまったのです。
つまり、出ていく(彼岸に旅立つ)まで置いてもらっている存在は私になってしまったわけです。
娘たちにとっては私が「同居人」です。

もちろんこの家は私名義です。
しかし、私的所有権発想にあまり共感できていない私としてはそんなことは全く意味のないことで、事実関係として「誰が主で誰が従か」が問題です。
現状は明らかに私が「従」なのです。
だからどうしたと言うことでもないですし、従だから虐待されたり軽視されたりしているわけでもありません。
大事にされていますが、事実関係としての位置づけは一変してしまったのです。

しかし、もしかしたら「一変」したのではなく、これが以前からの事実だったのかもしれません。
節子は私の顔をたててくれて、いつも私を主たる座に置いてくれましたが、当時から私は主たる節子の付属物でしかなかったのかもしれません。
いや、そうだったのだと最近ようやく気づきました。
私がいかに節子に依存して生きていたかを、改めて痛感しています。
どうやら娘たちは、そうしたことを前から知っていたようです。
知らなかったのは私だけだったのです。

みなさん方はどうですか。

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2007/12/05

■節子への挽歌92:葬儀は人生で最も重要な儀式

3か月前の9月5日、節子の告別式でした。
節子は形式的なことにこだわるのが好きではなく、あまり仰々しい葬儀は好んでいませんでした。
しかし、節子の死があまりに突然だったので、私たち家族には考える間がありませんでした。
それで結局、世間的なスタイルに流されてしまったのですが、果たしてそれでよかったのかどうか、私の気持ちの中にはもやもやした気分がありました。
そんな時、安田喜憲さんの「一神教の闇」という本を読んでいたら、こんな主旨の文章に出会いました。

人がこの世での命を終えるときこそ、その人の人生の中でもっとも重要な瞬間なのではないか。その人生の重要な瞬間を全く簡素化してしまうようになってきている現代日本の世相は、どこか危ないものを含んでいる。(92頁)

そうだ、と思いました。
もやもやした気持ちをなくすことができました。
むしろ私の友人知人に知らせなかったことを少し後悔するほどです。

葬儀には予想を上回る人たちが来てくださいました。
葬儀社の人たちには100人以内にしますとお話し、訃報も節子の限られた友人たちにしか回しませんでした。
しかし、こうした情報は流れるものらしく、葬儀の日に斎場に行ってみると予想していなかった生花がたくさん届いていたのです。
その本数を知って、葬儀社の方は私が伝えていた予想人数を上回る人が来ると体制を組み替えていました。
実際に通夜には200人を超える人が来てくれました。
知るはずもない人まで来てくれました。
告別式に来てくださった方と合わせると300人近い人が来てくれたことになります。
しかも節子を知ってくださっている方がほとんどでしたので、節子も喜んでくれたと思います。
葬儀が終わった後も、遅れて訃報を知った方々がわが家まで来てくださいました。
こうして、節子の人生の最も重要な瞬間は多くの人たちに居合わせてもらえたのです。

私も、死後の葬儀はしたくないと思っていた一人です。
そろそろだなと「死期」を感じたら、節子に頼んで「お別れサロン」をやって、それで人生の幕を引き、その後は実質的に節子と2人だけの隠居にして数日で自らの意志で終わろうと考えていたのです。
人は自分の意志で死を迎えられると私は思っている人間です。
自殺という意味ではありません。念のため。
しかし、節子が先に行ってしまいましたので、その終わり方はもうできません。
どうしようかと思っていたのですが、安田さんの文章を読んで、葬儀をしてもらうことにしました。
できれば、生きているうちから少しずつ葬儀を始められればと思っています。
ただし、娘たちの負担にならないように、仕組みと資金はきちんと用意しておくつもりです。
一番大変なのは香典返しですので、それもしないですむようにしておこうと思います。

余計なことを書いてしまいましたが、結婚式よりも葬儀にこそ目を向けるべきですね。
これはもしかしたら、社会の行く末につながる話かもしれません。

節子はたくさんの人たちに送られて本当によかったです。
決して「幸せ」ではなかったですが(家族と別れることは幸せではありません)、寂しくはなかったでしょうから。
みなさんに本当に感謝しています。
ありがとうございました。

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2007/12/04

■節子への挽歌91:居なくなってしまった節子への贈りものが届きます

節子がいなくなってから、私は今まで以上に怠惰になりました。
年末になると節子はいつもお世話になっていた人たちに手紙を書いたり、お礼をしたりしていました。
しかし、私にはそういう気持ちがなかなか起きてきません。
義理を欠くことになるでしょうが、どうも気持ちが前に進まないのです。
節子に代わって贈る勇気が出てきません。
節子の不在を認めることになるからです。

もう居なくなってしまった節子への贈りものが届きます。
柿やリンゴが届き、ケーキが届き、車えびが届きます。
その一つひとつが節子とどうつながっているかをよく知っているために、届くたびに涙が出ます。
そして、なぜ節子ではなくて、私が受け取らなくてはいけないのかと無念さが込み上げてきます。
送ってきてくださった方々への礼状も出せずにいます。
悲しくて書けないのです。
全くどうしようもないほどの不甲斐なさです。
人間の本質はこうしたところに現れます。
改めて我ながら、その駄目さ加減を思い知らされています。

最近は、罪の意識から敗北感、劣等感、自己嫌悪、失望感、孤立感など、ありとあらゆるマイナス感覚を一身に背負っています。
冬の寒さがそれを増幅させます。
私を温めてくれるはずの節子なしで、この冬を越すことができるでしょうか。

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