カテゴリー「妻への挽歌1」の記事

2007/12/11

■節子への挽歌100:百か日

今日は節子が旅立ってから100日目です。
正式には、百か日法要を行うのですが、今回はお寺ではなく、自宅で節子を偲びました。
百か日は「卒哭忌」ともいうそうです。
「哭」は泣き叫ぶこと、「卒」は終わるという意味ですので、泣き明かしていた悲しみを卒業するという節目です。
しかし、そうプログラム通りに行くものではありません。
母親を亡くした娘たちの辛さや悲しみなどほとんど意に介することなく、この100日間、自分の悲しさと寂しさを正直に出し続けてきました。
そのおかげで、その悲しさと寂しさを日常化することができました。
娘たちに心から感謝しています。
節子がいなくなってから、実はどう暮らしていこうかという相談も娘たちには全くしませんでした。
ただ一言、「家庭のことはすべて任せて、私は隠居する」と宣言しただけです。
娘たちは、今は何を言ってもだめだと思ったのか、素直に受け入れてくれました。
そろそろ、しかし私もこれからのことを考えなければいけませんし、節子が残していったものを整理しなければいけません。
どこかから借金証書や隠し財産が出てくる可能性は、わが家の場合は皆無ですが、すべてをそのままにしておくこともできません。
勇を鼓して、私も前に進まなければいけません。

しかし早いもので、もう100日です。
この調子だと私が節子のところに行ける日も、あっという間に来るかもしれません。
ですから、私自身の身の回りの整理もしておくことも考えなければいけません。
早くまた節子に会いたいと、心の底から思います。

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2007/12/10

■節子への挽歌99:赤い糸

私と節子の出会いについては以前書きましたが、実はそれも予め決められていたことだったような気がします。
私たちは間違いなく「赤い糸」で結ばれていました。
その証拠にはなりませんが、1枚の写真があります。
実は私たちが結婚してかなり経過してから見つけた写真です。

節子と私は同じ職場にいました。
いわゆる職場結婚なのですが、50人くらいの職場で、係が違っていたため、以前書いた電車での出会いの前は、ほとんど話したこともありませんでした。
当時はまだ職場旅行というのがあって、50人全員で京都に旅行しました。
その時の写真です。。

Red

ちょっとぼけていますが、この写真を見つけたときには2人で驚きました。
なんと私たち2人が真ん中にいるのです。
前に並んでしゃがんでいるのが私と節子です。
いささか恥ずかしい写真ですが。
私はまだ入社して半年です。
周りにいる人たちは懐かしい顔ぶれなのですが、実は全員、私の係ではなく、節子の職場に近い人たちです。
どうしてここに私がいるのか不思議な組み合わせなのです。

この写真を見つけた時、節子は、やっぱり赤い糸で結ばれていたのね、ととても喜びました。
私もなぜかすごくうれしい気持ちになりました。
私はとても緊張している感じですが、節子はさりげなく私の脚に手を置いています。
みんなが私たちカップルを祝っているような感じです。
しかし、この写真から1年ほどは私と節子との交流はなかったのです。
電車で出会ったのは、この写真のちょうど1年後なのです。

ちなみに、この写真には節子の親友も一人写っています。
節子のお見舞いにも、そしてお別れにも来てくれました。
勝っちゃん、この写真は知らなかったでしょう。

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2007/12/09

■節子への挽歌98:節子と世界とどちらを選ぶか

もしメフィストテレスがやってきて、お前の魂をくれたら節子を戻してやると言われたら、私は喜んで魂をやるでしう。
おまえの生命との交換はどうだといわれても、躊躇なく承諾します。
そういう取引では、せっかく節子が戻ってきても、私とは会えないかもしれませんが、それでも承諾します。
メフィストテレスが信頼できればですが。
もし信頼できるメフィストテレスをご存知の方がいたら、ぜひ紹介してください。
節子が取り戻せるのであれば、心を悪魔に売り渡すことなどたやすいことです。
妻と良心とどちらが大切か。もちろん私には妻です。
地球と節子とどちらを選ぶかと言われても、躊躇なく節子を選びます。
利己的ですみません。

私にとって一番大切なものは節子です。
しかし人によっては伴侶ではないかもしれません。
自分が一番大切なものを得るために、人はけっこう悪魔に魂を売っています。
最近もそうした人たちがテレビや新聞をにぎわしています。
そうした報道を見ていると、みんな本当に大切なものに気づいていないなとつくづく思います。
一番大切なのは、生活を共にしているパートナーです。

妻がいなくなって、その大切さに改めて気づきました。
よく言われるように「人」という文字は、寄り添っている形です。
人は一人では生きていかないということでしょうか。

ところで、私には独身の友人知人が少なからずいます。
そうした人たちの生き方に、改めて驚異を感じます。
私も学ばなければいけません。
良心を悪魔に売り飛ばさないためにも。

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■節子への挽歌97:節子は歌が好きでした

節子は歌が好きでした。
でもちょっと音痴のところがあったような気がします。本人は認めませんでしたが。
それに高い音がきれいに出ませんでした。
でも歌がとても好きでした。
それで、我孫子の女性コーラスグループの「道」に参加させてもらっていました。
その発表会にはいつも私も聴きに行きました。
しかし、この1年、彼女は病気のために参加できませんでした。
そのグループの発表会が4月にありました。
節子と一緒に聴きに行きました。
久しぶりにみんなに出会えて、よほどうれしかったのでしょう、辛かったはずなのに、私が心配するほど元気そうにみんなと話し合っていました。
そこでいろいろな人にも出会えました。
それがおそらく最後の外出でした。
たくさんの友人たちに囲まれて、コンサートを最後まで聴けてよかったと思いますが、思い出すだけで涙が出てきます。

彼女も歌った発表会を録音したテープやCDがたくさん残されています。
どうしても聴く気になれません。
しかし捨てる気にもなれません。
捨てることも出来ず、見ることも出来ないもの。
そういうものがたくさん残されています。
私もいまのうちに身の回りのものを捨てていこうと思っていますが、なかなかそれも難しいものです。

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2007/12/08

■節子への挽歌96:節子は「私の女」でした

「いい女だった」と言う話を書きましたが、もう少し書きます。
節子が「いい女」に育ったのは、実は私の働きかけが少なからずあったと自負しています。
誤解されないように付け加えますが、私を育てたのは間違いなく節子です。
節子と結婚していなかったら、私はかなり違った人間になっていたと思います。
同じように、節子もまた、違った人間になったはずです。
もちろん「素質」は、それぞれの固有のものでしょうが、私たちはお互いを育てあう関係でした。

これはなにも私たち夫婦に限ったことではないでしょう。
夫婦とはそういうものだと思います。
育ち方が良かったか悪かったかは何とも言えませんが、私たちはお互いに感謝しあっていました。
節子も私も、相手から実にたくさんのことを教えてもらったのです。
お互いに、とても出来の悪い生徒でしたが、まあ相互に合格点を出し合えるものでした。

「マイ フェア レディ」のイライザを例に出すまでもなく、人は愛する人によって変わります。
そして愛する人を変えていきます。
私たちが自らを変えられたのは、相手を愛していたからです。

もちろん長い人生ですから、いつもいつも夢中だったわけではありません。
時に愛が冷めた時期もありますが、それでもどんな時でも、お互いにかけがえのない存在だったことは間違いありません。
節子は私との離婚を考えたこともあるとよく話していましたが、気楽にそう言えるほど、私たちは仲が良かったのです。
いつもながら、好都合な解釈ですが。

ところで、節子の「出来上がり」はどうだったでしょうか。
私には「最高の女」でした。
たくさんの欠点も含めて、「最高の女」でした。
「完璧な女性」とか「素敵な女性」とかとは程遠い存在でしたので、
他の人からの評価は、とてもとてもだめでしょうね。
でも、繰り返しますが、私にとっては「最高」だったのです。
私にはそれで充分でした。
節子は私の女だったのですから。

「私の女」。問題発言ですね.
でも間違いなく節子は「私の女」でした。
私のための、まさにカスタムメイドの女性でした。
節子もきっと否定はしないでしょう。

私にとって、あんなにいい女房はいませんでした。
まあ、ほかには女房はいないので、当然なのですが。
節子はいつもそういって笑っていました。はい。

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■節子への挽歌95:「いい人」でもあり「いい女」でもありました

節子は「いい人」でしたが、私にはそれ以上に「いい女」でした。
節子に「修は女を知らない」と言われていたように、どんな人が「いい女」なのか、私には見分ける力はありませんが、節子を思い出すたびに、「いい女だった」と言いたくなる気分なのです。
それに、「いい人」と言ってしまうと、なんだか軽くて、それこそ可もなく不可もなし、という感じですので、やはりここは、「いい女だった」と言いたくなるわけです。

立場が逆だったらどうでしょうか。
節子は私のことを「いい男だった」とは絶対に言わないでしょう。
そこが私と節子の違いかもしれません。
私は節子にとっては、きっと「いい人だった」で終わってしまうような気がします。

でも、「いい人だった」といわれるのは、あんまり名誉ではないですね。
そんな気がします。
ですから、私が節子のことを「いい女だった」と思っていることを、節子はきっと喜んでいるでしょう。
生前に、この言葉を聞かせておきたかったと思います。
「いい女房だ」とは何回も言いましたが。

「いい人」「いい女房」「いい女」
「いい人」「いい旦那」「いい男」
みなさんたちはいかがですか。

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2007/12/07

■節子への挽歌94:私のすべてが節子への贈り物

贈り物の話です。
私は節子に指輪のプレゼントをしたことがないと以前書きましたが、
正確に言えば、一度だけあるのです。

私たちは結婚して一緒に暮らすことを決めた直後、結婚式は挙げずに、
出雲大社の神前で2人だけで誓いを交わそうと決めました。
当時のスタイルとしては、まあ先端的でした。
それが何だといわれそうですが。
型にはまった結婚式は私の性分にはあいませんでした。
結局は後で結婚披露宴をする羽目になったのですが、今日のテーマはそのことではありません。
贈り物がテーマです。

出雲大社には京都から夜行で向かいました。
その列車の出る前に、京都駅前の大丸でダイヤの指輪を買いました。
お金がなかったのでとても小さな指輪しか買えませんでした。
それが私の節子への唯一の贈り物です。
娘たちは、私が妻に贈り物をしないといつも非難していました。
節子は、修はそういうのがだめなのよといつも笑っていました。

しかし、私が節子に贈り物をしなかったわけではないのです。
いや、むしろ誰よりもたくさんの贈り物をしたという自負があるのです。

実は私のすべてが節子への贈り物だったのです。
気障な言い方だと思われるでしょうが、節子はそれをわかっていました。
まあ、節子にはありがた迷惑な贈り物だったかもしれません。
捨てるに捨てられませんから。
ですが、私のすべては節子のものになったのです。
人を愛するとは、そういうことだと私は思っていました。
節子と結婚して、私の生活は一変しました。

もっとも節子は、私よりもやはり指輪や帽子のほうがいいといっていました。
そのたびに私は、好きな指輪を買っていいよ、と言いました。
たまには花束を贈ってほしい、とも言っていました。
私は好きな花束をあげるから買ってきてよ、と節子に頼みました。

そんなわけで、節子は普通の意味でのプレゼントを私からはもらっていないのです。
しかし、私は何でももらえる状況をプレゼントしたわけです。
まあ、「何でも」というのがミソですが、ほしいことがあれば努力するつもりでした。
もちろん「物」はそう考えていませんでした。
物は物でしかないからです。

さて、みなさんはどちらがいいでしょうか。
時々、何か素敵なものをプレゼントしてくれる伴侶がいいか。
かなえられることは何でもかなえてやるよという言葉をくれる伴侶がいいか。
私は後者が絶対にいいと思いますが、節子は前者だったのでしょうか。
今にして思えば、私の考えはちょっとおかしいですかね。

実はプロポーズの仕方も結婚式も、今から思うとやはりちょっとおかしかったかもしれません。
節子がよくついてきてくれたなと思います。
もしかしたらストレスをためていたのかもしれません。
でもそうしたなかで、節子のライフスタイルが育っていった面もあるように思います。
出会った頃の節子は、まじめすぎるほどまじめな人だったですから。

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2007/12/06

■節子への挽歌93:家庭の中での私の位置づけにやっと気づきました

節子がいなくなったことで、家族の中における私の位置づけが一変したような気がします。もちろんこれは私の主観的な感じですが。
わが家は4人家族でした。
家族の中心は私たち夫婦、そして未婚の娘たちが同居していました。
娘たちには早く結婚して自宅を出ていってほしいと言い続けていた私たちは、節子の発病で意識が変わりました。実に勝手なものです。節子はとても複雑な気持ちだったと思いますが、娘たちが家にいることに感謝していました。
まあ、このあたりのことは書き過ぎると娘たちからクレームがつくのでやめておきます。
問題は私のことです。

節子がいた頃は、夫婦が家の中心、「主」で、娘たちは「従」、もしくは同居人だったのです。
娘たちにとってこの家は、いわば出て行くまでの臨時の住処だったのです。
極端な表現をすれば、私たち夫婦が「置いてやっていた」と言ってもいいでしょう。
ところが、節子がいなくなったら、こうした関係は逆転してしまいました。
私は主なる位置を追われてしまい、娘たちに養ってもらう存在になってしまったのです。
つまり、出ていく(彼岸に旅立つ)まで置いてもらっている存在は私になってしまったわけです。
娘たちにとっては私が「同居人」です。

もちろんこの家は私名義です。
しかし、私的所有権発想にあまり共感できていない私としてはそんなことは全く意味のないことで、事実関係として「誰が主で誰が従か」が問題です。
現状は明らかに私が「従」なのです。
だからどうしたと言うことでもないですし、従だから虐待されたり軽視されたりしているわけでもありません。
大事にされていますが、事実関係としての位置づけは一変してしまったのです。

しかし、もしかしたら「一変」したのではなく、これが以前からの事実だったのかもしれません。
節子は私の顔をたててくれて、いつも私を主たる座に置いてくれましたが、当時から私は主たる節子の付属物でしかなかったのかもしれません。
いや、そうだったのだと最近ようやく気づきました。
私がいかに節子に依存して生きていたかを、改めて痛感しています。
どうやら娘たちは、そうしたことを前から知っていたようです。
知らなかったのは私だけだったのです。

みなさん方はどうですか。

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2007/12/05

■節子への挽歌92:葬儀は人生で最も重要な儀式

3か月前の9月5日、節子の告別式でした。
節子は形式的なことにこだわるのが好きではなく、あまり仰々しい葬儀は好んでいませんでした。
しかし、節子の死があまりに突然だったので、私たち家族には考える間がありませんでした。
それで結局、世間的なスタイルに流されてしまったのですが、果たしてそれでよかったのかどうか、私の気持ちの中にはもやもやした気分がありました。
そんな時、安田喜憲さんの「一神教の闇」という本を読んでいたら、こんな主旨の文章に出会いました。

人がこの世での命を終えるときこそ、その人の人生の中でもっとも重要な瞬間なのではないか。その人生の重要な瞬間を全く簡素化してしまうようになってきている現代日本の世相は、どこか危ないものを含んでいる。(92頁)

そうだ、と思いました。
もやもやした気持ちをなくすことができました。
むしろ私の友人知人に知らせなかったことを少し後悔するほどです。

葬儀には予想を上回る人たちが来てくださいました。
葬儀社の人たちには100人以内にしますとお話し、訃報も節子の限られた友人たちにしか回しませんでした。
しかし、こうした情報は流れるものらしく、葬儀の日に斎場に行ってみると予想していなかった生花がたくさん届いていたのです。
その本数を知って、葬儀社の方は私が伝えていた予想人数を上回る人が来ると体制を組み替えていました。
実際に通夜には200人を超える人が来てくれました。
知るはずもない人まで来てくれました。
告別式に来てくださった方と合わせると300人近い人が来てくれたことになります。
しかも節子を知ってくださっている方がほとんどでしたので、節子も喜んでくれたと思います。
葬儀が終わった後も、遅れて訃報を知った方々がわが家まで来てくださいました。
こうして、節子の人生の最も重要な瞬間は多くの人たちに居合わせてもらえたのです。

私も、死後の葬儀はしたくないと思っていた一人です。
そろそろだなと「死期」を感じたら、節子に頼んで「お別れサロン」をやって、それで人生の幕を引き、その後は実質的に節子と2人だけの隠居にして数日で自らの意志で終わろうと考えていたのです。
人は自分の意志で死を迎えられると私は思っている人間です。
自殺という意味ではありません。念のため。
しかし、節子が先に行ってしまいましたので、その終わり方はもうできません。
どうしようかと思っていたのですが、安田さんの文章を読んで、葬儀をしてもらうことにしました。
できれば、生きているうちから少しずつ葬儀を始められればと思っています。
ただし、娘たちの負担にならないように、仕組みと資金はきちんと用意しておくつもりです。
一番大変なのは香典返しですので、それもしないですむようにしておこうと思います。

余計なことを書いてしまいましたが、結婚式よりも葬儀にこそ目を向けるべきですね。
これはもしかしたら、社会の行く末につながる話かもしれません。

節子はたくさんの人たちに送られて本当によかったです。
決して「幸せ」ではなかったですが(家族と別れることは幸せではありません)、寂しくはなかったでしょうから。
みなさんに本当に感謝しています。
ありがとうございました。

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2007/12/04

■節子への挽歌91:居なくなってしまった節子への贈りものが届きます

節子がいなくなってから、私は今まで以上に怠惰になりました。
年末になると節子はいつもお世話になっていた人たちに手紙を書いたり、お礼をしたりしていました。
しかし、私にはそういう気持ちがなかなか起きてきません。
義理を欠くことになるでしょうが、どうも気持ちが前に進まないのです。
節子に代わって贈る勇気が出てきません。
節子の不在を認めることになるからです。

もう居なくなってしまった節子への贈りものが届きます。
柿やリンゴが届き、ケーキが届き、車えびが届きます。
その一つひとつが節子とどうつながっているかをよく知っているために、届くたびに涙が出ます。
そして、なぜ節子ではなくて、私が受け取らなくてはいけないのかと無念さが込み上げてきます。
送ってきてくださった方々への礼状も出せずにいます。
悲しくて書けないのです。
全くどうしようもないほどの不甲斐なさです。
人間の本質はこうしたところに現れます。
改めて我ながら、その駄目さ加減を思い知らされています。

最近は、罪の意識から敗北感、劣等感、自己嫌悪、失望感、孤立感など、ありとあらゆるマイナス感覚を一身に背負っています。
冬の寒さがそれを増幅させます。
私を温めてくれるはずの節子なしで、この冬を越すことができるでしょうか。

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2007/12/03

■節子への挽歌90:「節子、そろそろ戻ってきてもいいんじゃないの」

今日は3回目の月命日です。
この3か月、ほぼ四六時中、節子のことを考えています。
誰かと会って話している時にも、会議をしている時にも、講演をしている時にも、フッと節子の顔が浮かぶのです。
これほど一人の人を思い続けていた経験は私にはありません。
若い頃に好きになった人、その中にはもちろん節子もいるのですが、これほど思い続けたことはありません。

思い続けているといろいろな情景が浮かんできますが、そこでの新しい気づきがたくさんあります。
節子との世界はどんどん広がり、思いがとまることがないのです。
なかには気づきたくないこともあります。
いやむしろ気づきたくないことのほうが多い時期もありました。
そうした時期には、早く節子のところに行って慰めてもらいたいと思うほどでした。

いくら思い続けても、その思いが実体化することがないのが残念です。
「想念」を実体化してくれる「ソラリス」の世界に行けるのであれば、どんなにうれしいことでしょう。
「ソラリス」では、主人公クリスは亡くなった妻との再会を結局は拒否してしまうのですが、いまの私であれば、再現された節子との世界に埋没してしまうでしょう。
しかし、冷静に考えれば、私のいまの「想念」が創りだす節子と、実在した節子そのものとは別人であり、実体化した節子に埋没してしまうようなことがあれば、それは節子への裏切り行為でしかありません。

想念の実体化などを願うことなく、想念の世界で節子との世界を愉しみ悲しむのが節子への誠実さであることは間違いありません。
今日は、節子への思いを抱きながら、節子と一緒にゆっくりと過ごそうと思います。
しかし、節子の写真の前で、ついつい言葉が出てきてしまいます。
「節子、そろそろ戻ってきてもいいんじゃないの」
3か月たったのに、私はまだ自立できずにいるのです。
これでは節子もなかなか成仏できないかもしれません。
実は、こんな状況を知っているかのように、昨日、福岡の加野さんから電話があり、節子さんはちゃんとあなたの横に居るのだから、気をしっかり持つようにと言われました。
たしかにそんな気もするのですが、まだ未練がましくうろたえ続けているわけです。
困ったものです。

彼岸への1泊2日ツアーなどはないものでしょうか。

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2007/12/02

■節子への挽歌89:「もしもピアノが弾けたなら」

11月3日に献花台の前で、西川さんが節子にハーモニカーを聴かせてくれてから、もう1か月たちました。
その西川さんから、その時に私と会話したことの返事が返ってきました。
西川さんは時空を越えて会話をする人なのだと気がつきました。
西川さんはこう書いてきました。

お庭で演奏させていただいたときに、佐藤さんが、
「表現できる人」、または「表現方法を持っている人」、または「表現する人」
「…はいいですね」と言われたのです。
そのとき、佐藤さんの言葉に何の反応もしなかったと思います。
演奏直後は、どっかに行っていた私の意識が現世(!)に戻ってくるのに
ちょっと時間がかかって、ぼお~~っとしているからなのと、
「あれ、佐藤さんも表現者なんだけどな…」と思ったからでした。
たぶん、私は「表現技術を持っている人」と言ったような気がします。
「もしもピアノが弾けたなら」という西田敏行の古い歌がありますが、その時思い出したのが、その歌だったからです。
http://www.youtube.com/watch?v=zJOLvValJ64

もしもピアノが 弾けたなら
思いのすべてを 歌にして
君に伝えることだろう
雨の降る日は 雨のよに
風吹く夜には 風のように
晴れた朝には 晴れやかに

だけど僕には ピアノがない
君に聞かせる 腕もない
心はいつでも 半開き
伝える言葉が 残される

この歌詞の気持ちは、まさに私の気持ちでした。
詩や言葉や行動では伝えられない気持ちというものがあります。
音楽は、人の心から直接飛び出し、人の心に直接響きます。
私が「表現技術」といったのは、「楽器を演奏できる人」という思いでした。
しかし、西川さんが言うように、人はみな「表現者」です。
ピアノを弾けなくとも、心を響かせることはできたはずです。
ピアノが弾けないことを口実に、言い訳している自分に気づきました。

それにしても、西川さんの会話はまさにスローライフです。
対馬の村の対話もきっとそうだったのでしょうね。
見習わなければいけません。
節子の返事を急ぎすぎて期待している自分に気づきました。
来世で会う時に返事をしてもらえばいいのですね。
節子は必ず返事をしてくれるはずですから。

そういえば、仏教の時間感覚はとてもスローライフです。
弥勒が衆生を救いに来るのは、56億7千万年後なのですから。

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2007/12/01

■節子への挽歌88:当事者の身勝手なわがまま

実にわがままなのですが、今の私はコンプレックスの塊なのかもしれません。

先日、犯罪被害者の方の話がテレビで紹介されていましたが、その方は娘さんを殺害され、そのことで奥さんが精神的に病んでしまった結果、自殺してしまったそうです。
その方が、妻は、娘を殺された後、外部からの連絡も少なくなり、孤立感を高めたようだ、というような話をされていました。
その言葉に私もハッとしました。

節子の葬儀の後、たくさんの人が弔問にきたり、電話をかけてきたりしてくれました。
今もなお、献花に来てくれる人がいます。
誰かが来てくれるということは、節子のことが忘れられていないということです。
とてもうれしいことです。

しかし、毎日誰かが来るわけではありません。
実に勝手なことなのですが、誰も来ないと見捨てられた気がするのです。
相手の人は、電話していいものかどうか、あるいはわざわざ献花にいって迷惑ではないか、などとむしろ遠慮しているケースもあります。
実際に、来るのはかなり勇気が必要だったといった方もいました。
来ることばかりが、節子のことを思っているわけではありません。
しかし、その方がどんなに思っていてくれていても、当事者にとっては実感できません。
ですから実際の活動が途切れると孤独感が生まれるのです。

病気で妻を亡くした私の場合ですらそうですから、犯罪被害者の場合はもっと深刻なはずです。
声をかけるほうも難しいでしょうし、家族の孤立感も大きいはずです。
その犯罪被害者の奥さんの気持ちがよくわかります。
わがままといわれるでしょうが、当事者はそんなものなのです。

みんなそれぞれに問題をかかえています。
ですからよその家族の不幸ばかりを気にしていることはできないことは当然です。
しかし、被害者にしろ遺族にしろ、当事者はどうしても自分の不幸を中心に考えてしまうのです。
その温度差がどうしても出てきます。
孤立感が高まりだすととまらなくなる恐れもあるのです。
最近は、そうしたことを避けるためのセルフヘルプグループも増えてきていますが、それだけではたぶん問題は解決しません。
これは当事者になって初めてわかることかもしれません。

しかし、当事者の「わがままさ」はこれにとまりません。
来ないと薄情なと思うのですが、来たら来たでまたわずらわしいのです。
みんなに気にしていてほしいけれど、気にしすぎてはほしくない。
実に身勝手なわがままさです。

以前も書きましたが、どう対処しようと当事者は満足できないのです。
困ったものです。
私の場合は、しかし理想的な対応をしてくれた人が何人かいます。
いつかその方法を書きたいと思いますが、まだ今は書くことを躊躇します。

できるだけたくさんの人に、節子のことを時々思い出してほしいと思っています。
すごく自分勝手な願いなのですが、節子のために私がしてやれる数少ないことの一つだからです。
当然の事ながら、私はほぼ四六時中、節子のことを思い続けています。
今の私には、それが生きる意味の一つなのです。

そして同時に、
坂出市の事件も、光市の事件も、
友人知人の逝ってしまった家族のことも、
今、辛い現実に立ち向かっている友人たちのことも、
節子への語りかけの中で思いを馳せ、節子と話すようにしています。
こうした思いを馳せていることの表現の仕方は、
節子が逝ってしまった後、友人知人から教えてもらったことです。

相手に伝わらないままで、思いと馳せ続けることこそ大事だとわかっているのですが、
自分のことになると、まだそれを実感したいという身勝手さが首をもたげます。
そんなわけで、頭と気持ちはなかなか一致しませんが、
当事者の身勝手なわがままさから早く抜け出したいと思っています。

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2007/11/30

■節子への挽歌87:真夜中に目が覚めます

毎日ではないのですが、朝方5時頃に眼が覚めることが少なくありません。
頭が冴えて、いろいろなことを考えてしまいます。
もちろん節子のことです。
考えれば考えるほど、頭が冴えてきます。
闘病中のさまざまな情景をはっきりと思い出すこともあります。
時にはやりきれないほどに辛くなります。
楽しかった思い出を思い出すこともありますが、必ずといっていいほど、それはすぐに悲しさに転じます。もうそうした楽しさは私たちの前にはないことが、悲しさと寂しさを倍加させるのです。

声を出して節子と話すこともあります。
いくら声を出して呼んでも、節子の返事がないため、私が信じていた「輪廻転生」への疑問も生じそうです。
輪廻転生がないとすれば、私は生きる気力を完全に失いかねませんので、それはできるだけ考えないようにしています。

愛する人を失った人はみんなこうなのでしょうか。
それにしても、あまりにも辛い時間です。
節子がいた頃は、5時に眼が覚めるとベッドを離れて仕事をすることにしていました。
隣で寝ているとどうしても節子を起こしてしまうからです。
節子に気づかれないようにベッドを離れるのですが、いつも節子は「もう起きるの」と半分寝ながら声をかけてくれました。
しかし、節子のいない今はベッドを出る気にはなれません。
節子がいない世界で、やらなければならない急ぎのことなど何もないからです。

茫然自失しながら、節子と過ごす時間。
このブログに書いていることのほとんどすべてが、その時間に思いつくことです。
ブログに書くことができるので、私は自らの気を鎮めることができているのです。
そうでなければ、毎朝眼が覚めて考えることの罪の意識や後悔の念、あるいはこれから先の生きる力などの重さにへこたれて、朝、起き出せなくなってしまっているかもしれません。
きっと節子がこのブログを通して、私にいのちをあたえてくれているのでしょう。
節子は今もまだ、私を支えてくれているのです。
ありがとう、節子。
明日の朝はどんな話ができるかね。

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2007/11/29

■節子への挽歌86:「社会的弱者」のコンプレックス

最近、少し「負い目」を感ずるようになってしまいました。
妻を死なせた夫は、人生における敗残者ではないかという強迫観念です。
人生の途中で生命を失った妻もまた、人生の敗北者だったのではないかという思いもあります。
こんなことを書くと、死者への冒涜ではないかと思う人もいるかもしれませんが、妻を失った夫の気持ちはそれほどに揺れ動くものなのです。
「冒涜」という意識は全くないのですが、夫婦で旅行を楽しんでいる話を見聞すると、自分ながら嫌になるのですが、そういう気持ちがどこかに生まれてくるのです。
その複雑な気持ちは、なかなかわかってはもらえないでしょうが、そのコンプレックス、劣等感が自分の言動に影響を与えてしまっていることに気づいて、それがまたコンプレックスになっていくのです。

そうした敗残者や敗北者の感覚は、行き過ぎかもしれませんが、少なくとも夫婦という形に欠陥が発生したわけで、夫婦単位で考えれば、私たち夫婦は大きな障碍を持った夫婦と言うことは否定できません。
最近の言葉を使えば、「社会的弱者」ということになります。

この1か月ほど、そうした意識がとても強くなっているのですが、そのおかげで、改めて「社会的弱者」の気持ちが今まで以上にわかるようになった気がします。
さすがに私には「可哀想に」という言葉は向けられませんが、僻(ひが)みかもしれませんが、そういう「まなざし」を感ずることはないわけではありません。
たしかに「可哀想」なのですが、そういう「まなざし」はさらに気分をへこませてしまいます。
おそらくハンディキャップをもっている人たちは、こういう「まなざし」の中におかれているのだろうなと改めて感じました。

暗い話になりましたが、一度書いておきたいと思っていた話です。
そしてこれは決して「暗い話」ではないのです。
そのことへの気づきや体験によって、実は私の世界は大きく広がったからです。
節子への愛や感謝の気持ちもさらに高まりましたし、節子とのつながりも太くなったのです。

節子、ぼくらはもしかしたら人生に負けたのかもしれないけれど、それによって大きなものを得たのかもしれないね。

でも、こんな「負い目」を感ずること自体、もしかしたら私自身が人生に負けてしまっているのかもしれません。

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2007/11/28

■節子への挽歌85:事象としての死、経験としての死

昨日、柳田邦男さんの言葉を引用しましたが、思い出したことを今日も書きます。

柳田さんは、「3人称の死」と「2人称の死」という言葉で、死を語っています。
簡単にいえば、医者は生物学的な生命という視点から3人称的に「患者の死」を考えるが、患者にとっては言うまでもなく「1人称の死」である。
そのことを意識して、「精神的ないのち」の次元を重視した「2人称の死」として対応することが重要だというのです。

妻の死を体験したものとして、とても共感できる話です。
しかし、これは医者の問題だけではありません。
節子がいなくなってから、痛切に感ずるのは、
「事象としての死、経験としての死」ということです。
つまり当事者(夫婦、家族を含む)にとっての死とそれ以外の人にとっての死は全く違うものであるということです。

柳田邦男さん風にいうと、「いのちを共有」している人の死は生々しい自らの「経験」ですが、それ以外の人の死は、どんなに悲しくて寂しくても対象としての「事件」なのだということです。
こんなことを言うと、節子の死を悲しんでくれたたくさんの人の涙を裏切るようで申し訳ないのですが、お許しください。
節子の親友たちは、私以上に涙を出し、今でもとても悲しみ寂しがってくれています。
そのお気持ちを軽く受け止めているわけではありません。
もしかしたら私以上に節子への追悼の気持ちは強いかもしれません。

でもたぶん私が感じている死とは全く違うのだろうと思います。
注意しないと誤解されそうなのですが、どちらがどうだといっているわけではありません。
いのちに軽重がないように、いのちへの思いも軽重はないでしょう。
でも、「事象としての死」と「体験としての死」は全く異質なものではないかと思います。
ですから、私の気持ちは絶対に他の人にはわからないということです。
そして、節子の死は決して時間の経過の中で風化もしませんし、時が癒してくれることはないでしょう。
私が生きている限り、忘れることなどあるはずがないのです。
軽々に人の伴侶の死を語ることは戒めなければいけません。
それが体験者の正直な気持ちです。

少し時評にからめて付言すれば、
私たちはいま、あまりにすべてのことを「事象」の次元で捉えがちです。
たぶんそこからは未来は開けてこないような気がします。
このことはいつかまた「時評」のほうで書いてみたいと思います。

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2007/11/27

■節子への挽歌84:若い世代の夫婦観は「絆」だそうですが、60年代は「忍」

「佐藤さんたち夫婦は特別ですよ」。
そう言ってくださる人がいます。
通信教育のユーキャンの夫婦観に関する調査によれば、20代の夫婦観は「絆」に対して、60年代は「忍」だそうです。
しかし60代の私たちは、絆どころか異身一心でした。
忍だったらどんなによかったことでしょう。
先週お会いした初対面の人は、私の妻が亡くなって落ち込んでいることを知って、私を元気づけるためでしょうが、「自由を得たと思えばいいのですよ」といいました。
夫婦が忍の関係であれば、別れはうれしいことになるでしょうか。
決してそうはならないでしょう。

柳田邦男さんはこう書いています。
「家族同士には、他人とは異質の喜び、悲しみ、怒り、憎しみの感情がある。
そのことは精神的ないのちを「共有」していることを示すことにほかならない」(「犠牲‐わが息子・脳死の11日」)。

「精神的ないのちの共有」。
共感できる言葉です。
まさに私たち家族は、いのちを共有しています。いや正確に言えば、娘たちが20歳を過ぎてそれぞれの人生を歩みだすにつれ、家族は夫婦に戻っていくように思いますが、少なくとも夫婦はたぶんよほどのことがない限り、たとえ離婚しようが別居であろうが、そうなのではないかと思います。もし夫婦が「生活の共有」であるならば、当然のことながら「いのちの共有」でもあるはずです。
ですから、私たちは決して特別ではないのです。
おそらくどんなに仲の悪い夫婦でも、伴侶を亡くしたら私と同じ状況になるだろうと思います。
伴侶とは、夫婦とは、そういうものではないかと思います。
そうでなければ、あえて夫婦になる必要はないからです。

「忍」と「絆」。
違うようで、もしかしたら同じことなのかもしれない。
そんな気がします。

もっとも最近の夫婦は、必ずしも「生活の共有」を意味しないのかもしれませんので、これからはどうなるかはわかりません。
しかし、やはり「生活の共有」「いのちの共有」に支えられた夫婦関係こそが、社会の基盤であり続けるべきではないかと思います。
家族関係や夫婦関係は、もっと真剣に考えなければいけない「社会問題」だと思います。

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2007/11/26

■節子への挽歌83:ストイックな秋、平和につながる生き方

今年の秋は紅葉が美しかったのでしょうか。
私は一度も紅葉を見ませんでした。
紅葉が好きだった節子と一緒でなければ見ても悲しくなるだけだからです。
節子は紅葉とか桜が好きでしたから、紅葉はテレビですら見られないのです。
来年の春も桜を見る気にはならないでしょう。

節子がいなくなってから、私の生活はとてもストイックになりました。
私だけが楽しいことを体験することには何となく「罪の意識」を感ずるのです。
いや、「罪の意識」というよりは一緒に体験できない節子の不憫さが頭をよぎってしまうのです。それは同時に、愛する伴侶と世界を共有できないでいる自らの不憫さを味わいたくないからでもあります。
楽しいことが辛いことになるという、見事な価値転換が起こってしまうのです。
ですからできるだけ身を縮めて、ストイックな生き方に心がけているわけです。
それは決して残念なことでもなく、むしろそこにこそ節子と世界を共有しているという幸せを感じられるのです。
価値転換がここでも見事に働くわけです。

喪にふくすとは、こういうことかもしれません。
発想を膨らますのが好きな私としては、これこそが平和につながる生き方ではないかという気にまでなりそうです。
しかし、宮沢賢治がいうように、世界にあるたくさんの不幸を考えれば、ストイックに生きることこそ正しい生き方のようにも思います。

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2007/11/25

■節子への挽歌82:「さわやかな節子さん」

節子は転居前、民生委員をさせてもらっていました。
私が大きな福祉を目指すコムケア活動に取り組むだいぶ前からです。
民生委員の現場の仕事は家族にも話せないといって、時に悩みながらも話してはくれないこともありました。
いろいろと生々しい現場に直面することもあり、そうした時には何となく状況が垣間見えたりはしましたが。
なかにはかなり大変な問題もあったように思います。
いろいろな人に声をかけ、解決に取り組もうとしたのに、なかなかうまくいかず悩んでいたこともありました。

その民生委員の仲間だったHさんとSさんが献花に来てくださいました。
転居した時に民生委員は辞めていましたので、もう6年もたっていますが、それ以来もいろいろとお付き合いがあり、節子と3人で旅行にも行っているそうです。
いろいろと節子との楽しい話を聞かせてくださいました。
そして2人の口から何回か出てきたのが、「節子さんはいつもさわやかでした」という言葉でした。
「さわやか」
私は意識したこともなかった言葉です。
またひとつ、私の節子のイメージが豊かになりました。
「さわやかな節子」
そういえば、たしかに結婚前の節子は「さわやかさ」がありました。
まあ表現を変えれば、単純で素直なだけ、ともいえるのですが。
嘘のつけない子でした。

節子さんは辛いだろう病気のことも、自分の身体のことも、とても明るくすべてを話してくれていました。すごい人だと思っていました、とも言ってくれました。
節子は今年になってから、腎臓から直接カテーテルで排尿するようになっていました。
最初はすごいいショックだったと思います。
外から見てもわかるのですから。
でもそれも持ち前のアイデアでおしゃれな手づくりポシェットでちょっと見ただけではわからないようにしてしまったのです。
それで外出もできるようになりました。

Hさんは習字の先生でもあるのですが、節子はそこに通っていました。
カテーテルをつけたままです。
そしてみんなとのおしゃべりのなかで、そんなことまであっけらかんと話していたのだそうです。
どんな辛いことも明るく話す。
自分の弱さも隠し立てせずに話す。
そうした節子をお2人は「さわやかな」と表現してくれたようです。

隠しだてをしないのは、私たちの文化でした。
隠しても必ずいつかはわかるものだと、私たちは知っていたからです。
そして隠す気持ちがあると、人との付き合いは楽しくなくなることも知っていました。
積極的に自らの弱みを開いていくというのは、私の生き方でしたが、節子はそれに共感してくれたのです。
そして、私以上にそうなりました。

外に向かっては、どんなことでも明るく話すのが節子の良いところでした。
時々、私には辛さや悲しさを話すこともありましたが、でも私を悲しませないために、いつも私よりも明るくしていました。
たしかに節子は「さわやかな人」でした。

やっと気づいた「さわやかな節子」。
しかし、そのさわやかな節子がもういないと思うと悲しくて仕方がありません。
この悲しさは、たぶん誰にもわかってはもらえないでしょう。
「さわやかさ」の奥にある節子の思いを知っているだけに、悲しくて悲しくて仕方がありません。

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2007/11/24

■節子への挽歌81:優柔不断さと思い切りの良さ

節子が一緒に活動していた花かご会のみなさんが、我孫子駅前の花壇を整備してくれています。
季節の変わり目で、先週、全く新しくなりました。
その時、とった千日紅の花が節子のお墓に供えられた話は前に書きました。
そのお礼にメールをしたら、返事が返ってきたのですが、そこにこんな文章が書かれていました。

今夏の花はほとんどとってしまいました。
まだまだきれいに咲いている花もあるのですが、「公共の場にある花壇なので、季節ごとに思い切ってとってしまわないとね」と、節子さんとよく話したことを思い出します。

へえ、そんなことを話していたのかとちょっとうれしくなりました。
時々、私の知らない節子に会えるのです。

「思い切って」。
この言葉を節子がよく使っていたのを思い出しました。
節子はとても慎重で、むしろ優柔不断と思えることが多かったのですが、時には思い切って行動するタイプでもありました。
私が25年間勤めた会社を突然辞めると言い出した時にも、何も言わずに即座に受け入れました。
私の両親との同居が話題になった時にも、ほとんど間をおかずに自分から同居を買って出ました。
私は少し躊躇していたのですが。
自分が胃がん宣告を受けた時にも、それまでと全く同じように行動していました。
箱根で日産自動車のゴーンさんがいるのを見つけたら、英語も話せないのに突然近寄って「夫と一緒に写真を撮らせてほしい」といって、私を呼んだ時は驚きました。
物をとても大事にするタイプなのですが、なぜか時々、スパッと捨ててしまうこともありました。
私と節子が結婚する契機になった節子の手づくりセーター(おばけのQ太郎が刺繍されていました)も、ある時に捨てられてしまいました。
何で捨てたのか、と異議を申し立てたのですが、そんなものをとっていても意味がないでしょうというのです。
私以上に過去に興味がなかったのかもしれません。
そのくせ、日記を書くのは好きでした。

むすめたちは、節子が私のような夫を選んだことこそ思い切りがいい(但し間違った選択だった)といつも言っていましたが、本当によくまあ、私のような人と結婚したものです。
なにしろ私の話を聞いた節子の両親は、あわててわざわざ京都まで会いにきました。
親戚はすべて反対だったのです。
でも結婚してしまいました。
もっとも事情は私も同じで、私も最初は家族は反対でした。

話がちょっとそれてしまいましたが、時々、思い切りのいいところのあった人でした。
もっとも、身の丈よりも大きな話は判断できなかったのではないかという見方もあるのですが。

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2007/11/23

■節子への挽歌80:献花台に土の葉

庄原の原さんが「献花にかえて、葉っぱの土笛を」と言って、2つの土笛を送ってきてくださいました。
夏と秋の柿の葉で作ったものだそうです。
青葉と紅葉が見事に再現されていて、見ているだけで安堵される土笛です。
早速、献花台の上に置かせてもらいました。

原さんは、節子の闘病中にも元気をつけるためにいろいろな作品を送ってくれました。
そんな原さんなのですが、私も節子も実はまだお会いしたことがないのです。
残念ながら節子は今生では会うことはかないませんでしたが、来世ではきっとお会いできるでしょう。
私は来年になったら、会いに行きたいと思っています。
節子が私一人を置いていってしまったので、来年はいろいろとやらなければいけないことが多くなりました。

原さんとのつながりは、同じ広島の折口さんの紹介です。
ところが、折口さんにもお会いしたことがないのです。
折口さんは私のホームページ(CWSコモンズ)に折口日記を掲載してくださっている方です。
それにしても、会ったこともない者同志がどこかで心をつないでいく広がりが私の周りにはいろいろとあります。
逆によく会っていても心がつながりにくい関係もないわけではありません。
今回のようなことを経験するとそれがよくわかります。
人のつながりは不思議なものです。
魂の波長がそうしたつながりを決めるのかもしれません。
私もたった一度だけしかお会いしていないのに、ずっと心に残っていた人もいます。
人のつながりの不思議さを、節子はたくさん教えてくれましたが、
いなくなった後も感動させてくれることが少なくありません。

献花台の前で、土笛を吹いてみました。
先日の西川さんのハーモニカのようにはいきませんが、不器用な私の笛の音は節子にも届いたでしょう。
久しぶりにまた涙が止められなくなってしまいました。
久しぶりといっても、3日ほどなのですが。

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2007/11/22

■節子への挽歌79:「誰に対しても心やさしい奥様でしたね

節子の訃報を知った私の友人から手紙が来ました。
「誰に対しても心やさしい奥様でしたね」
親バカならぬ、夫バカですが、とてもうれしい言葉です。

近くにお年寄りが2人で住んでいるお宅があります。
昔からのお宅なのですが、いわゆる独居老人だったのですが、いまはお手伝いさん的な人が一緒に住んでいます。
2人ともとてもいい人なのですが、最近やってきたお手伝いさん的な人は近隣とのお付き合いもあまりありませんでした。
おそらく最初に声をかけたのは節子だったのではないかと思います。
節子はいつもあの人はきっとまだ近くの「あけぼの公園」にいったことがないのではないか、「水の館」はどうだろう。私が元気になったら自動車で一緒に我孫子を案内してやりたいと話していました。
結局、それは適えられなかったのですが、節子はいつもそんな調子で、誰かを喜ばせることを考えていました。
私が節子にこれほどほれ込んでしまっているのは、私の人生において実にたくさんの喜びを与えてくれたからです。まあ、たいした喜びではなく、ちょっとした「やさしい心配り」なのですが。でもそれが今の時代には欠けていますから、もらった人はとても節子が好きになるのです。

自動車で我孫子を案内できなかった、その人が先日、献花に来てくれました。
節子がいたらどんなに喜んだでしょうか。
節子だったらそうしたであろうことをさせてもらいましたが、その人はとても喜んでくれました。
私はもう10年以上運転をしていないので、自動車での案内は出来ませんでしたが、節子の思いは少しだけ果たせた気がしています。
その後、夜道を歩いていたら、その方から声をかけられました。
私も少し節子の生き方に近づいたかなとうれしくなりました。
人の幸せは、本当にとても小さなところにあるようです。

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2007/11/21

■節子への挽歌78:節子さんはきっと最後までがんばったのでしょうね

私たち夫婦の共通の知人である岡林さんから電話がありました。
年賀欠礼の手紙が読んで、驚いて電話をしてきてくれました。
「奥さんはがんばりやだったから、きっと最後までがんばったのでしょうね」
泣きながらそう話してくれました。
岡林さんとの出会いは、私たちにとっては最後の海外旅行となったイランのツアーでした。今からもう10年ほど前でしょうか、しばらく中止されていたイランに旅行できるようになった最初のツアーに夫婦で参加したのです。岡林さんは海外旅行仲間の小林さんとご一緒でした。2人とも私たちよりもひとまわり歳が上でしたが、すごく元気な人たちで、毎年、3~4回、海外旅行をしているベテランでした。
イランでの服装は女性の場合かなり厳しく、黒いベールで顔を含む全身を隠さなければいけませんでした。それで節子は、いろいろと工夫して独自の服をつくっていったのですが、それを岡林さんはなぜか細かく覚えていました。
10日ほどの旅だったと思いますが、なぜかその2人と節子は気があって、帰国した後も食事をしたりしていたのです。
私も一度、ご一緒しましたが、熟年女性の行動的な元気さを教えてもらいました。
もし私が先に彼岸に行ったら、きっと節子は岡林さんのように元気な熟年シニアになっていたでしょう。
しかし、その岡林さんもこの数年はいろいろあって病院通いなのだそうです。
節子の歳をきいて、ちょっと絶句しました。そして代わってあげたかったといいました。
私も本当に代わってやりたかったです。

岡林さんが最初に言ったことばが、「がんばったでしょうね」でした。
節子はよほどがんばりやさんに見えたのでしょう。
いろいろとお話を聞かせてくれました。
節子にこそ聴かせたい電話の内容でした。
節子がいなくなってしまったいま、こうやって節子の友人知人と話しているのがとても奇妙な感じです。

節子は、本当にちょっとした出会いを大切にする人でした。
そうした出会いから始まったお付き合いの人たちがたくさんいます。
そうした出会いに私もいくつか居合わせました。
節子は見ず知らずの初めての人の心を開かす名人でした。
私の友人知人には決して見せない、彼女のそのやさしさは名人芸と思えるほどでした。
いつかまたそうした出会いの話を書きたいと思います。

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2007/11/20

■節子への挽歌77:年賀欠礼のご挨拶を節子と連名で出しました

年末が近づくと年賀欠礼のはがきが届きだします。
悲しいことに今年は私が送り手になってしまいました。

年賀欠礼の挨拶の手紙がみんな同じ文章で定型化されていることにいつも違和感を持っていました。
自分ではそうした定型文は使ったことがありません。
今回ももちろん「私たち仕様」で書くことにしました。
もっとも私の友人知人には出状しようかどうか迷っています。
まだ節子の訃報を知らない夫婦共通の知人に、私と節子の連名で出状させてもらいました。

今日はその手紙文を掲載させてもらいます。
手紙の実物はPDF形式ですが、私のホームページに載せています。
ちなみに、告別式の会葬礼状49日法要の報告も、既定のものではなく、私たちならではの文章にしました。よかったら読んでください。
いずれも基本形です。相手によって少しずつ変えているものもあります。

いつか弔電について書きましたが、こうした手紙も自分の言葉で書くようにできないものでしょうか。
その文章を考える時間がとてもいい時間になるはずです。
私が先に逝ったとしても、節子はきっと自分の言葉で手紙を書いてくれたはずです。

こうした手紙のおかげで、いろいろな人から連絡をもらいます。
そして故人を思い出す時間が持てます。
それこそが供養ではないかと思います。
みなさんも、その時が来たら、ぜひとも自分の言葉で、自分のスタイルで、手紙を書くことをお薦めします。
大変ですが、そのおかげでたくさんの感激を体験できるはずです。

以下は今回の手紙文です。

<年賀欠礼のご挨拶>

今年も残すところ、あと1か月半になってしまいました。
平素のご無沙汰をお許しください。

今日はちょっと辛いお知らせのお手紙です。
親しくさせていただいた妻、節子が今年の9月に彼岸へと旅立ちました。
4年半ほど前に胃がんの手術をし、その後、順調に回復していたのですが、昨年10月に再発してしまいました。再発してからも前向きな闘病生活で、もしかしたら奇跡が起こるかもしれないというところまでがんばったのですが、残念ながら体力の限界を超えてしまったのです。
私にとっては、生きる意味を与えてくれる、かけがえのない伴侶でした。
これほどのかなしさは体験したことはありませんし、またこれからもないでしょう。
伴侶の死は、まさに自らの死と同じような思いがします。

節子が逝ってからもう2か月以上経過しますが、今なお節子がいない世界が実感できずにいます。不思議な感覚です。
ブログで節子への挽歌を書いて気を鎮めていますが、時間がたつほどに寂しさはつのります。
告別式での挨拶をホームページに載せました。
読むのが辛い内容ですが、節子のがんばりを読んでもらえればうれしいです。

発病後の節子は見事な生き方をしました。
しかし、みなさんにお会いできずに逝ってしまうことが、とても残念だったと思います。
最後は家族に見守られ安らかに息を引き取りました。
最後の寝顔は、私がいうのもおかしいですが、とても美しくやさしい顔でした。
節子を守れなかった自分が本当に悔しいです。

訃報をお知らせもせずに申し訳ありませんでした。
またこんな手紙をお届けすることもお許しください。

我孫子のほうに来る機会があればお立ち寄りください。
庭に小さな献花台をつくりました。

これまでのたくさんのご厚情が、節子の人生をとても豊かにしてくださっていたことを、節子に代わって感謝申し上げます。
ありがとうございました。

みなさまも、どうぞご自愛くださいますように。

不一

佐藤修(佐藤節子)

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2007/11/19

■節子への挽歌76:駅前花壇の花がお墓に供えられていました

昨日、節子のお墓に行ったら、駅前花壇に咲いていた花が飾られていました。
そういえば、先日、駅前花壇の模様替えがあったのです。
きっと花かご会のみなさんが節子に花を持ってきてくれたのでしょう。
お墓の場所もお話していなかったのに、みんなで探してくれたのでしょうか。
感激しました。
本当に節子の友人たちはやさしい人ばかりです。
わざわざお墓にまで花を持ってきてくださるとは節子は果報者です。

節子がお墓に入ってから、それまでは年に4~5回しかお墓参りはしていなかったのですが、週に2回は行くようになりました。
しかし、花かご会の人がわざわざ来てくださることを考えると、私も週2回などといわずに、もっと来ないといけないと思いました。
自転車で15分くらいで来られるのですから。

墓には私の父母が入っていますが、節子は父母のお気に入りでした。
きっと私よりも節子のほうが気楽で信頼できたはずです。
ですから父母は喜んでいるはずです。
節子も自分で選んだ墓なので、きっとまた一緒に仲良くやっているでしょう。

昨日気づいたのですが、初めて墓前で涙が出ませんでした。
般若心経も無事間違えずにあげられました。
時間がたつと癒されるという言葉に私は反発していましたが、癒されてしまったのでしょうか。
いや、そんなことはありません。
さびしさは日を追うたびに高まりますし、いまもちょっとしたことで涙が出ます。
でも突然に涙が出てくることはなくなりました。
やはり癒されてきているのでしょうか。

癒されて元気が出てくることを節子は望んでいるかどうか。
望んでいるはずがないと私は確信しています。
節子も私ほどではありませんでしたが、さびしがりやでもありましたから。

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2007/11/18

■節子への挽歌75:言葉の優しさの大切さ

昨日の続きのような話です。

節子が病気になってから、言葉に対して過剰に反応するようになりました。
当事者の節子は、私以上だったと思います。
そして節子がいなくなった後、私はさらに過剰に反発するようになりました。
今度は私が当事者になってしまったからです。

たとえば、そのひとつが、「節子さんは良い家族に囲まれて幸せでしたね」というような言葉です。
家族としてはとてもうれしい言葉です。
でもどこかに、「生き続けられなかった節子が幸せだったはずがない」という思いが浮かんできてしまうのです。
自分の性格の悪さ、言葉にひっかかってしまう狭量さを嫌悪したくなりますが、自然とそう思いが出てきてしまうのです。
「元気そうで良かった」と言われると、表面はそうでも元気ではないといいたくなり、「元気がないので心配だ」と言われると充分元気だと反発したくなり、「元気をだして」と言われると、出るわけないでしょうと言いたくなるのです。
だれも私の気持ちなどわかるはずがないし、わかってたまるかという気があるのです。その思いが、他の人の言葉を素直に聞けなくしているのでしょう。
そんなことで、もしかしたら失礼な対応をしてしまっているかもしれません。

しかし、このことはコミュニケーションやケアの問題を考えるための重要なヒントを含んでいるように思います。
まあ、そうやって物事を広げて考えてしまうのが、私の悪い性癖なのですが。

そうしたことを踏まえて考えるならば、闘病中の節子に対して、あるいは死を直前にした節子に対して、私の言葉はどうだったのかと反省しないわけにいきません。
節子は限界状況にあったと思いますが、私の言葉をどう受け止めていたでしょうか。
もちろん私たちは異身一心でしたから私への誤解はなかったと思いますが、もしかしたら私の言葉がさびしく響いていたかもしれません。
もう少し言葉を選べばよかったと反省しています。
でもまさかこんな形で別れが訪れるとは微塵も思っていなかったのです。

生きている以上、誰でもいつ別れが来るかもしれません。
言葉には注意したいと、改めて思い直しています。

皆さんは大丈夫ですか。
私のような辛い思いをしてほしくないと思います。

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2007/11/17

■節子への挽歌74:「とてちりてん」を観ていると節子を思い出します

NHKの朝の連続ドラマ「とてちりてん」をみていて、いつも節子を思します。
そして、ちょっとした場面で、涙が出てしまうのです。
妻を亡くした落語家が3年間、落語もせずに寝てばかりいる。
そのまわりで、主人公の家族たちのあたたかなつながりが展開されています。
家族の中心は主人公の母親です。
他にもさまざまな「つながり」が並行して、展開しています。
かなりコミカルな話なのですが、毎回のように私には涙があふれてきます。
人のつながりの哀しさ、喜び、あたたかさを感ずるからです。

以前だったら、そうは感じなかったと思いますが、
いまはちょっとした仕草や言葉から、その奥にある世界が感じられ、
それが私自身の世界につながってくるのです。
形はかなり違いますが、わが家にあった風景を見ているような気がすると同時に、
妻を思って何もできずにいる落語家の気持ちが、まるで自分の気持ちのように感じられるのです。
こんなに鮮やかに生きられたらいいなあ、という羨望の念も少し感じます。

私には、そうした潔さがかけていることを自覚していますので、なおのこと無念さもあるのです。
第一、こんなブログを書き続けることも、未練がましい小賢しさの現われです。
そう思うなら、そうしたらいいではないかとも思うのですが、そこまでふんぎれません。
未練がましく、社会との接点を持ち続けているわけです。
四六時中、妻を思って、寝てばかりいる落語家に敬意さえ感じます。
もしかしたら、節子も私にそうしてほしいと思っているかもしれません。

先週、久しぶりに知人に会いました。
私が、お話をさせてもらう場にわざわざ訪ねてきてくれたのです。
そして、鳩居堂のお線香などをもらいました。
10年以上もほとんどお会いしてもいなかった人です。
話をしていたら、実はその人のパートナーも闘病中なのだそうです。
なぜかとても心が通ずるのを感じました。

当事者の感受性は研ぎ澄まされます。
他の人にはなんでもない言葉に過剰に反応してしまうと同時に、
普段ならなんでもない言動に心が揺さぶられるのです。

節子は、しかし、私以上に感受性を研ぎ澄ませていたのでしょう。
それにきちんと対応できなかったことが悔やまれます。

節子に対しては、最後まで鈍感で終わってしまいました。
節子がいなくなって、2か月以上たって、初めてその鈍感さに気づきました。
そうした間違いを、きっとたくさんしているのでしょうね。

自分の愚かさに気づくたびに、節子の賢さに気づきます。
人の聡明さは、知識や論理ではなく、感性や素直さなのかもしれません。
今となって、やっと節子のほうが、私よりも聡明だったことに気づきました。
まあ、知識や論理は私のほうが格段に上のはずですが?、
そんなことは生きる上では、瑣末なことでしかありません。

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2007/11/16

■節子への挽歌73:人をつなげる発想は節子から学んだものでした

昨日、節子の友人が3人、献花にきてくれました。
お話を聞いていて、気づいたのですが、私が「人をつなげること」に価値を見出し、その活動に取り組んでいるのは、どうやら節子の影響だったようです。

今日、来てくださった皆さんは、私たちが6年前まで住んでいた地域の人たちでした。
そのお一人が、こんな話をしてくれました。
節子が自治会の班長だった時(当番制だったそうです)、同じ班の人たちに声をかけて自宅で集まりをやったのだそうです。
それまでもなかったことであり、その後もないそうです。
その方は、それを覚えていてくださいました。

そういえば、隣の空地でサツマイモを育てて、カレーライスパーティもしたわね、ともう一人の人が言いました。
ともかく節子はそういうのが大好きでした。
子ども会の会長を引き受けた時には、オリエンテーリングをやったことも覚えています。私もスタッフとして使われましたので。

6年前に今のところに転居してからも、節子はそうしたことをやりたがっていました。
私が自治会長を引き受けた時、私は班の皆さんに声をかけて自宅で集まりを持ちましたが、これはどうやら節子の影響を受けていたのです。
私は自分の発案だと思っていましたが、節子が仕向けたことだったのです。
わけです。
節子はその時にはもう闘病中でしたので、自分が中心にはなれないことを知っていました。そういえば、その集まりの日もお菓子を用意してくれていて、終わった後にいろいろとアドバイスされたことを覚えています。
節子が中心になっていたら、きっと大きな輪になっていたでしょう。
私にはそれができませんでした。

節子は人をつなげる名人でした。
いや、つなげるのではなく、人と付き合う名人でした。
但し、素直に自分を生きている人でないと、節子は付き合いたがりませんでしたが。
そのあたりは、見事な直観力を持っていました。

今日、来た人たちも、実は節子つながりだったようです。
節子が入っていたコーラスグループにMさんが参加し、その縁でAさんも入会し、そのお2人が春の発表会にYさんを招待し、その時はもうコーラスグループを続けられずに聴く側になっていた節子が会場で久しぶりにYさんに会ったのだそうです。
それがきっかけになって、今日はその3人が来てくれたのです。

いろいろと私が知らない節子のことをいろいろな人から教えてもらいます。
教えてもらう度に、節子に惚れ直します。
来世で節子に会って、そうした報告を早くしたいものです。

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2007/11/15

■節子への挽歌72:節子の私へのプレゼントは娘たちです

私からの節子への最後のプレゼントは「希望」でしたが、節子のプレゼントは何だったのでしょうか。
それは言うまでもなく、2人の娘です。
私が今も元気なのは、そして生きる気力を持続できているのは、娘たちのおかげです。

母親を亡くした娘たちの辛さや悲しみも大きいでしょう。
しかし彼らは、それ以上に私の辛さや悲しみが大きいのを知ってくれています。
いろいろな人からも、妻の死は格別なのだからお父さんを大事にね、と耳打ちしてもらっているようです。
ですから私に対して、とても気遣いしてくれています。
口にはあまり出しはしませんが。

それに彼らは、私の生活力のなさを知っていますし、
私が節子なしに生きていけないことも知っていてくれます。
私がいかに節子を愛していたかも知っています。
だからいろいろと気遣ってくれるのです。

そんなわけで、彼女が残してくれた2人の娘が、
いまは私に、いろいろな意味で生きる力を与えてくれています。
幸か不幸か、2人とも未婚なのです。
きっと私が生きる力をしっかりと回復するまで、
私を支えるようにと節子が残していってくれたのでしょう。
節子の良い面も悪い面も、彼らはしっかりと受け継いでいます。

しかし、節子への甘えを娘たちへの甘えに切り替えるわけにはいきません。
彼女らが早く出て行けるように、私も自立しなければいけません。
そうしないと節子に怒られそうです。
彼女らを早く追い出すことが、私の生きる意味なのかもしれません。
それができたら、私は節子のところに行きやすくなります。
節子からのプレゼントは、もしかしたら「宿題」と言い換えたほうがいいかもしれません。
私にとっては、かなりの難問なのですが。

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2007/11/14

■節子への挽歌71:私たち家族の節子への最後のプレゼントは「希望」でした

節子を守れなかったのは私の責任であり、いまから思うと本当にたくさんの悔いが残ります。
突き詰めて考えていくと、節子を殺したのは私かもしれないと思うほどです。
罪の意識で心身が震えてくることもありますが、
その時には私たち家族が節子に贈った最後のプレゼントのことを思い出すようにしています。
節子はそれをしっかりと受け取ってくれたと私は確信しています。

そのプレゼントは「希望」です。
希望こそは生きる力であり、生きる意味だと思います。
私たち家族は、最後の最後まで、節子が元気になると確信していました。
それが裏目に出てしまったおそれは否定できませんし、
それが私の最大の罪の意識の源泉でもあるのですが、
その一方で、節子が最後まで回復する希望を持ち続けていたことを思うと大きな安堵の念が沸いてくるのです。

節子はどんなに辛くても、家族と一緒に生き続けるという希望を持ち続けてくれました。
私と娘が、奇跡が起こったからきっと治るよ、よかったね、と声をかけた時に、
節子は確かに「うん」とうなづいたのです。
それは、節子が息を引き取る12時間前、意識が朦朧としだす直前でした。
最後まで節子は治ると信じていたのです。

節子が最後まで元気になる希望を持ち続けられたことを、私はとてもうれしく思います。
そしてその「希望」を贈ることができた私たち家族、
それをとても素直に受け取ってくれた節子のいずれもが、私の誇りでもあります。
その誇りと喜びが、私の罪悪感を相殺してくれるので、私は何とか生き続けられているのです。

節子への最後のプレゼントは「希望」でした。
すべての希望を贈ってしまったためか、今の私の心の中には「希望」があまり見つかりませんが、
節子の思い出がまたきっと私の希望を育てていってくれると思っています。

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2007/11/13

■節子への挽歌70:友からの節子への挽歌

短歌同人誌「地上」が送られてきました。
もう88年目を迎えている同人誌です。
送ってきてくれたのは節子の友人で、倉敷在住の友澤さんです。
友澤さんは、この同人の一人です。
今号に友澤さんは「友の笑み」と題して、7首の歌を投稿してくれています。
そのなかから3首だけ紹介させてもらいます。

前向きにがんばってますと闘病の文に明るき友逝ってしまいぬ
友の笑みに笑み返したり明け方の夢枕に立つ節子さん ああ
空港で会いしかの日の笑顔のまんま友がはるばる永遠の別れに

節子はもう20年以上前ですが、友澤さんを含む4人の友だちとヨーロッパ食文化の旅に招待されたのです。
食文化に関するエッセーの募集に応募し、それが入選したのです。
とてもぜいたくな旅をしてきたようです。
一緒に行った人たちとはすっかり仲良しになり、闘病中もたくさんのエールをもらいました。
その人たちがお見舞いに来てくださった時、私は絶対に節子を治しますから、と約束してしまいました。
でも約束は守れませんでした。
申し訳ない気持ちでいっぱいです。

同人誌の7首を節子に読んで聴かせました。
いろいろな人が今でもなお、節子のことを思い出してくれている。
私にはこんなうれしいことはありません。
節子と一緒に、この喜びを味わえないのが辛くてなりませんが。

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2007/11/12

■節子への挽歌69:いたるところに節子がいます

仏壇だけでは狭いと思い、主な部屋に節子の居場所をつくりました。
といっても、写真とちょっとした依代(よりしろ)をつくっただけですが。
そのためにどこにいっても節子がいる感じです。
ところがそれがまたなんとも奇妙な気分になります。
それぞれの節子が別人格を持ち出したのです。

部屋で仕事をしていて終わると「節子、今日はこれで終わりにするよ」と言って、下の仏壇の節子に「おやすみ」の挨拶をし、寝室に行って、節子戻ってきたよというようなことになるわけです。
なんだか急に、女房がたくさん出来たような気分です。
庭の献花台にも節子が宿っている気もします。
その上、お墓にも節子がいますし、実はポータブル節子もいるのです。
一夫多妻制になってしまいました。

それぞれの節子が喧嘩をしださないでしょうか。
いささか心配です。

書き方が少し不真面目に聞こえるかもしれませんが、それぞれが別人格化していくのを感じるのは事実です。
意識を集中しているとリアリティが生まれるものです。
しかし、これだけたくさんの節子がいるのに、さびしさは減じません。
返事がないからです。
いつか返事をしてくれるようになるでしょうか。
なるよと言ってくれる人もいるのですが。

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2007/11/11

■節子への挽歌68:「いつも前向きだったので、そんなに悪いとは思ってもいませんでした」

節子はいつも前向きでした。
辛さを家族以外の人にはあまり見せませんでした。
ですから、電話をかけてきた人は節子が病気であることさえ気づかなかったかもしれません。
辛そうにしているのに、電話に出ると声が変わるのです。
そして電話が終わると、休みたいと言いました。
人に会う前には鏡を見て、自らを鼓舞していました。
それも7月の中旬からは、できなくなってしまいましたが。

「いつも前向きだったので、そんなに悪いとは思ってもいませんでした」という方が少なくありません。
その話を聞くたびに、私自身もそう思い込んでいたのではないかという後悔が起こります。
本当に節子は前向きでした。
その一事だけでも、私は節子を尊敬し、節子に感謝しています。
いつも前向きの節子と40年、一緒に暮らせたことは幸せでした。
その節子を裏切らないように、私も前向きに生きようと思っていますが、
前向きとは何なのか、と考えると、そう簡単な話ではありません。
早く節子に会うようにするのも、間違いなく「前向き」の一つですから。

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2007/11/10

■節子への挽歌67:みんなの悲しみをわかちあう安堵感

今日は朝から雨です。
雨の日は悲しくなります。
雨の音が節子の涙に聞こえるのです。
そして灰色に覆われた空を見ていると目が離せなくなるのです。
灰色の雲の向こうに、節子はいるのではないかと思ってしまうのです。

もう25年くらい前でしょうか、初めてペルーのリマに着いた夜のことを時々思い出します。
3週間の南米旅行で私の印象に残ったのは、唯一このことでした。
深夜過ぎに空港に着き、ホテルに着いたのは確か夜中の1時過ぎでした。
空港からホテルまで、そしてホテルについてからも、私にはずっと泣き声が聞こえていました。
人の泣き声ではありません。リマの街全体が泣いているのです。
インカの涙としか思えませんでした。
この時に、「おそろしいほどの悲しさ」を初めて感じました。
一緒に行った人たちにも、それが聞こえていたかどうかはわかりません。
誰も私の話には共感しませんでしたので、私だけかもしれません。

ペルーでは、今ではほぼ砂山でしかないパチャカマの遺跡に行きました。
節子であれば、ただの砂と日焼きレンガではないかというでしょうが、
私にはそこで暮らしていた人たちの涙が聞こえてきました。
いのちの記憶は必ず残っているものです。
遺跡が好きなのは、そうした声を聴くと心が揺さぶられるからです。

灰色の空を見ていると、悲しくなる一方で、心が落ち着くのはなぜでしょうか。
きっとたくさんのいのちが悲しみをわかちあっているからでしょう。
今日はこの悲しさの中で、節子の思いに浸りたいと思っています。

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2007/11/09

■節子への挽歌66:献花台がにぎわってます

献花台にいろいろな人が来てくれます。
そのおかげで、私自身はなかなかお話しする機会がなかった人ともお話しする機会がもらえます。
節子の自慢になりそうですが、昨日来てくださった方は、
「節子さんのお人柄で呼び寄せられるのです」と言ってくださいました。
「奥さんの笑顔が忘れられません」と涙ぐんでくれた方もいます。
1年半前に転居してきたばかりでまだ知り合いもいない時に、
道で出会った節子が笑顔で声をかけたのだそうです。

私の書いた七七日法要の手紙を読んで、こういう心のこもった手紙は初めてでとても心に響きました、と来てくださった方もいます。
昨日ではないですが、わざわざ手紙を持ってきてくれる方もいます。
会葬御礼も七七日法要報告も、既定の様式がありますが、おそらくそうしたものは読まれずに捨てられます。
しかし、自分の言葉でかけば、それだけでみんなの心に響くのです。
そしてほんの少しかもしれませんが、ちょっと幸せな気持ちになることができるのです。
私の手紙は、特別のものではありません。
読んでもらえれば分かりますが、素直な駄文でしかありません。
だれでもが書ける文章です。
でも定型文があるために、みんな自分で書こうとはしないだけなのです。
それは死者への冒涜であり、悲しんでくださった方への無礼だと、私は思います。

昨今の葬儀のスタイルは基本から見直さなければいけません。
今回の体験で、改めてそう思います。
葬儀をしてくれた葬儀社のコンサルティングをしようかという気もしています。
節子が喜ぶかどうかが問題ですので、まだ申し入れはしていませんが、
節子が教えてくれたことは無駄にはしたくないと思っています。

私と節子の生き方が、みなさんにちょっとだけ「しあわせ」をもたらせれば、望外の喜びですし、節子にも喜んでもらえます。
いうまでもありませんが、節子の友人たちのほとんどは、どういう人か私にはわかっていません。
話しているうちに、ああそういう関係だったのかとか、節子はそういうふうに思われていたのかとか、いろいろのことがわかってきます。
私にとっては、節子との世界をさらに深めることにもなるわけです。
節子の友人たちの後ろにいる節子と出会えることは、とてもうれしいことなのです。

献花に来てくださる人たちと話していると、節子はとてもいい人生を過ごしていたのだなとうれしくなる一方で、そうした豊かな人生を続けられなかったことがますます不憫になってきます。
こんなにたくさんの友人たちに囲まれていたのに、節子はなぜこんなに早く旅立ってしまったのでしょうか。
無念で無念で仕方ありません。
抱きしめてやりたいほどに不憫です。

ところで、昨日はほかにも弔問客がありました。
キチョウです。
絵葉書のキチョウではありません。
ほんもののキチョウが献花台の周りを飛んでいました。
写真に撮り損なってしまいましたが、ちょっと幻想的な気分にひたることができました。

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2007/11/08

■節子への挽歌65:なんで元気な時に今のような生活をしなかったのか

私の生き方はやはり間違っていた、と最近つくづく思います。

節子が自宅療養するようになってから、私はすべての活動を中断し、自宅で節子と一緒に治療に取り組みました。
そして、節子が息を引き取った後、2か月間、ほとんど自宅で過ごしています。
それも節子のことを思いながら、ぼんやりと過ごすことが多いのです。

なぜこうした生活を節子の状況がまだそう悪化しない時にやらなかったのか。
節子がいなくなってから、いくら節子のために時間を割いても意味がないではないかと悔やまれます。

節子が病気になってから私はほぼビジネスの仕事はやめました。
しかし、まちづくり支援やコムケア活動はビジネスとは違って無責任にやめることができないと理屈をつけて、継続していました。
もちろん活動量は激減しましたが、意識の上では残っていましたから、自宅にいてもパソコンなどでの対応を結構していました。
それに関係者から相談があると断れずに出かけてしまいました。
節子はもちろん出かけてもいいよと言ってくれていましたが、本当は在宅していてほしかったのかもしれません。

節子の病状が悪化した後、あるいは節子が亡くなった後は、みんなも私を気遣ってくれて相談してこなくなりました。
だから今のような生活ができるのかもしれませんが、たぶん、そうではなく要するに私自身の時間使用に対する優先順位のつけ方が変わったのだと思います。
イラクで何が起ころうと、私は今ではデモにも行きません。
地元の市議選がまもなくありますが、私は誰にも協力しません。
大切なテーマの集まりでも、よほどの理由がないと参加しません。
いま私にとって最優先事項は節子の関係なのです。
節子の献花台に来てくださる方がいたら、原則として自宅にいます。
私がいて意味があるのかと娘から言われても、私には意味があるのです。

生活において、何を優先するか。
私は常にそれを意識してきましたが、もしかしたら間違っていたのではないかと反省しています。
もっともっと節子のために時間を割くべきでした。

私のような間違いを、みなさんは犯さないようにしてください。
後悔しても何の役にも立ちませんので。

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2007/11/07

■節子への挽歌64:鳥と花、そして蝶

節子は「鳥や花になってわが家にチョコチョコ戻ってくる」と書き残しました。
その文字を見ると、涙がとまりません。
思い出しただけでも、涙があふれてきます。
今も涙でキーボードが見えにくいです。

前にも引用した「無所有」の中にこんな文章が出てきます。

ある詩人の言葉であるが、「花と鳥と星は、この世で一番清潔な喜びを私たちに与えてくれる」というのである。だがその花は誰かのために咲くのではなく自らの喜びと生命の力で咲くのである。森の中の鳥は自分たちの何にもとらわれない自由な気持ちでさえずり、夜空の星も自分自身の中から出す光を私たちに投げかけるだけなのである。
この文章は、美しさとは内から染み出てくるものだということの説明として出てくるのですが、前に読んだ時には気にすることもなく読みすごし、全く記憶にも残っていませんでした。
しかし、昨日、読み直していてこの文章に出会った時にはなんだかうれしくなってしまいました。
星こそ出てきませんが、花と鳥は節子が残した言葉です。
本に感動するというのは、この程度のことなのかもしれません。

それはともかく、節子の話に戻れば、普通なら「花と蝶」ではないかと思うのですが、なぜか節子は「花と鳥」といいました。
なぜでしょうか。

今度、献花台をつくった場所に、鳥たちのための餌台が前からあります。
節子が作ったのです。
そこに果物などを置いておくのですが、小さな鳥がそれをついばんでいる時に、カラスやハトがくると節子は小鳥たちのためによく追いやっていました。
その餌台に節子は来ようとしているのかもしれません。
それともう一つ、わが家の近くの樹木で鶯(うぐいす)がよく鳴いています。
特に今年は長いこと鶯が鳴いていました。
それが、節子に鳥を選ばせた理由かもしれません。

ところで、昨日、ある人から絵葉書が届きました。

奥様のご闘病を知り、祈りの気持ちを添わせていただいてから今日まで、佐藤さんご家族のお姿は、本当に暖かい美しいものでした。その思いが形になった素敵な献花台に私は小さな蝶を捧げます。
秋風とキチョウの写真でした。
献花台に供えさせてもらいました。
07117
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2007/11/06

■節子への挽歌63:節子の写真を見ることができません

この4年間、節子の写真をたくさん撮りました。
旅行に行くたびにどっさりと写真を撮ってきました。
それ以前から、わが夫婦は写真が好きでした。
私は撮るだけでしたが、節子はそれをきちんと整理していました。
ですから、わが家にはたくさんの節子の写真があります。

一度、写真のことを書きました。
葬儀に遺影として使った写真よりも節子らしい写真があったと書きました。
しかし、その写真を毎日見ているうちに、やはりその写真も節子ではないような気がしてきました。
節子はもっとあったかでやさしかったと思えてなりません。

そこでもっといい写真を見つけようと、残っていた写真を見始めたのですが、
写真を見るほどに悲しくなり涙がとどめなく出てきました。
今年の正月には一緒に初詣にも行っています。
その節子がいないのです。
もう初詣にも一緒に行けません。
節子の好きだった箱根の写真も出てきました。
箱根には2人の思い出が山のようにあります。
最近はテレビで箱根が映ると無意識に目をそらしています。
ましてや箱根での節子の写真は見ることもできません。

写真を探すのはやめました。
何時になったら写真を見られるようになるのでしょうか。
節子が残したたくさんのアルバム。
なぜ私たちはこんなに写真を撮ってきたのでしょうか。
写真よりも、心の中にもっとたくさん残しておくべきでした。

そういえば、節子がいなくなってから、写真を1枚も撮っていません。

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2007/11/05

■節子への挽歌62:最初の出会い

節子と結婚することになったのは、いくつかの偶然の結果です。
当時、私は会社に入社したばかりでした。配属は滋賀の大津の工場でした。
毎週のように京都や奈良に出かけていました。とりわけ奈良が好きでした。
西ノ京や佐保路が大好きでしたし、東大寺も好きでした。
東大寺の三月堂の空間に座っているとなぜか時空を超えて生きている感じがしました。
その日も、一人で会社のある石山から電車に乗りました。
そこに、節子が友だちと乗っていました。
節子も友だちも、私と同じ会社の社員でしたので、面識はありましたが、それほど話をしたことはありませんでした。
2人とも、それぞれの親戚に遊びに行くところでした。

でまあ、気楽に誰か一緒に奈良に行かないかと誘ったのです。
節子はたまたま先方にはまだ連絡していなかったこともあって、その誘いに乗ってしまったのです。
それで2人で奈良に行くことになったのです。
これがその後を決めてしまったのです。

奈良は興福寺から東大寺の月並みのコースでした。
このコースは何度歩いても好きなコースでした。
そこで何を話したのか、結婚した後には2人とも思い出せなかったのですが、2人ともなにかとてもあったかなものを感じた1日だったことは間違いありません。
私が覚えているのは大仏殿の裏庭で1時間近く日向ぼっこしながら会話していた風景です。
初めての2人が一体何を話していたのでしょうか。
今となっては思い出せないのですが、節子は私の話がとても不思議な話で、どこまで信じていいのかどうかわからないので興味を持ったのだそうです。

それからいろいろありました。
たぶんこの調子で書いていったら1冊の本になるくらい、ドラマもありました。
そして、私は節子に夢中になってしまったのです。
節子は、しかし、私には夢中になりませんでした。
それでますます私が夢中になってしまったのかもしれません。

そのことが、その後もずっと尾を引きました。
私はいつも節子に言いました。
「私が節子を愛している、せめてその半分くらいでいいから、私を愛してほしい」
彼女の返事はいつも、
「考えておく」
でした。
それがもしかしたら、私が今なお、節子に夢中になっている理由かもしれません。

この挽歌は、愛したけれど愛されなかった男の、未練がましいプロポーズの続きなのかもしれません。
はい。

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2007/11/04

■節子への挽歌61:世界で5番目に幸せにします

節子からいつもからかわれていたことがあります。
結婚する時に、私が「結婚したら世界で5番目に幸せにする」と約束したことです。
私は生活信条として嘘はつかないことにしています。
「世界で1番」は無理だけど、5番目くらいなら何とかなるだろうと考えたわけです。
節子は、なんで「5番目」なのといつも笑っていました。
節子はたぶん、私がその約束を果たしたと思ってくれていたはずです。
時に「世界で1番幸せ」とも言ってくれました。
ちなみに私は節子のおかげで「世界で1番幸せ」になりました。
でも、それはお互いがいればこそであっての「5番目」であり「1番目」でした。

誰かから与えられる幸せはほどほどがいいです。
その幸せがずっと続けばいいのですが、その「誰か」がいなくなれば、その幸せはもろくも崩れてしまうからです。
最近まで、実は私はそう考えていました。
「世界で1番幸せな男」は、いまや「世界で1番不幸な男」になってしまった、と。

しかし、どうも違うようです。
「世界で1番幸せな男」は、「世界で1番幸せだった男」になってしまっただけの話です。いや、今もなお、「世界で1番幸せな男」なのかもしれません。

節子に向かって、毎日、こう話しています。
「節子のおかげで、幸せな人生だった」。
そういえば、節子も家族にそういう言葉を残してくれました。
「世界で一番幸せだったこと」が大切なことなのだと気づきました。
これからの人生は、そのおまけに過ぎません。
ですから、私はやはり「世界で1番幸せな男」なのです。

しかし、節子はどうでしょうか。
今でも「世界で5番目に幸せ」と思ってくれているでしょうか。

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2007/11/03

■節子への挽歌60:西川さんがハーモニカを吹いてくれました

今日は節子の月命日です。
節子と会えなくなってから、もう2か月もたってしまいました。
どこかで、でもまだきっと会えるという思いが残っているのが不思議です。

福岡の西川義夫さんが来てくれました。
再入院の前に自宅に見舞いに来てくださって、節子のためにハーモニカの演奏をしてくれた西川さんです。
西川さんは、この挽歌を読んでいてくれて、よくメールをくれます。
西川さんからのメールが、私をどんなに元気づけてくれたかわかりません。
こうした挽歌を書くことの無意味さは、書く本人が一番良く知っています。
しかし書き続けられたのは、西川さんを初めとした数人の方からのメールでした。
一人でも読んでいてくれる人の顔が見えれば書き続けられるものです。

西川さんは献花台の前で、2曲、ハーモニカを演奏してくれました。
「庭の千草」と「トロイカ」です。
トロイカは、愛する人を送る歌なのだそうです。
西川さんが、節子のためにこの2曲を選んでくれた気持ちがとてもうれしいです。
心のこもった演奏を聴いていたら涙が出てしまいましたが、不思議と2曲目には心が静まりました。
節子もきっと心和やかに聴いていたことでしょう。
ちょうど演奏が終わった時に、花かご会のみなさんが献花に来てくれました。
西川さんには無理をお願いして、もう1曲、演奏してもらいました。
2曲を厳選してきた西川さんには不本意だったと思いますが、
花かご会の皆さんにも聴いてもらって、多分節子はすごく喜んでいるはずです。
節子は、そういう人でした。
曲は「埴生の宿」でした。
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西川さんのブログにも今日の記事を書いてくださっています。
西川さんのお人柄がわかると思います。

節子が大喜びするだろうことが毎日起こっていますが、
一番喜んでいる節子がいないのがいつもとても不思議な気持ちです。
今日も西川さんと話していて、途中で節子のいないことに気づいてしまいました。
主役のおまえがいないでどうするの、と心の中で節子に話しかけました。
その途端に急に不安感が高まり元気がなくなりました。
西川さんには気づかれたかもしれません。いささか心配です。
西川さんが「ゆっくりもどればいい」と、(たぶん)言ってくれました。
ゆっくりと節子との新しい生活を育てていこうと改めて思いました。

しかし、本当にどうして節子はこんな大事な時に姿を現さないのでしょうか。
本気でそう考えている自分が、時に心配になります。

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2007/11/02

■節子への挽歌59:なかなか現実に向き合う勇気が出ませんでした

昨夜、Tさんからメールが来ました。

奥様の訃報を知ってから、なんどもメールをさせていただこうと思ったのですが、なかなか、書けませんでした。
以前、メールをさせていただいたときに、奥様からもメッセージを頂いていたのに、それがとても嬉しかったのに、なかなか現実に向き合う勇気が出ませんでした。
すいません。
「なかなか現実に向き合う勇気が出ませんでした」とあります。
私も節子が病気になって以来、「現実に向き合う勇気」を失っていたのかもしれません。
その結果、節子を救えなかったのではないかという罪の意識が消えません。
でも、実際にその場になるとそうなりがちです。
そうならなかった節子は強い人でした。
私にはとてもまねが出来ません。
このメールを読んで、節子の強さを思い出しました。
私よりも度胸のある、強い人でした。

Tさんは、以前、節子の「ひととき」の記事を読んでメールをくれた人です。
私たちの娘と同世代の女性です。

節子のおかげで、私もたくさんのことを学びましたが、今なお、いろいろな人からメールが届きます。
そのたびに、私にも新しい発見があります。
そして、どこかで誰かが、節子のことを知っていてくれると思うと、とても元気が出ます。
ご本人の了解を得ていないのですが、以前いただいたメールを紹介させてもらいます。

実は、私も奥様と同じ病気です。
「まさか、30代の自分が?」と思いましたが、「まさか」ではありませんでした。
昨年の夏に手術をしまして、9月の中頃から仕事復帰しています。
医師からは「完全に治ったとは言えない」と言われていますが、今のところ、元気に毎日を過ごしています。

時折、くじけそうになることもありますが、
「前向きに、前向きに」と自分を励ましつつ、毎日を送っています。
病気になってつらいことも多いですが、発見したこともたくさんあります。
自分自身が少し成長できたように感じています。
人間、どんな状態になっても学ぶことはあるのだなぁと再発見しています。

でも、私はまだまだ気づいていませんでした。
夫の気持ちです。自分の気持ちを支えるに必死で、横で支えてくれた夫の気持ちをあまり考えていなかったように思います。
佐藤さんの投稿を読んで、あらためて夫もつらかったことに気づいたように思います。
(中略)
大事なのは「感謝」ですよね。
大事なことに気づかせていただいてありがとうございます。
「いいことだけ日記」ステキなアイディアですね。
奥様によろしくお伝え下さい。

このメールを読んで、節子が「自分もがんばらなくちゃ」と言ったことを思い出します。
そしてがんばってくれました。
本当にがんばってくれました。
Tさんに節子のエールが届くことを確信しています。
節子は、みんなの悪いものをみんな持っていくからと言っていましたから。

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2007/11/01

■節子への挽歌58:節約家夫婦

今となっては悔いの残ることがたくさんあります。
たとえばそのひとつ。
2人で歩いていて、ちょっとおしゃれなお店に出会うと、2人ともちょっと入ろうかと迷うのですが、ほとんどの場合、ケーキでも買って帰って、自宅で娘たちと一緒に食べようとか、今度また娘たちと一緒に来ようとかいって、結局は入らないことが多かったのです。
夫婦ともに自宅が好きだったこともありますが、節約精神も大いに関係していました。
そのたびに娘たちは、私たちのことをケチンボだねと笑っていました。

私たちは2人とも本当にお金を使わない夫婦でした。
もっとも、その反面、とんでもない失敗で経済的に大きな損失をよくしたため、娘たちからは全く信頼されていませんでした。
実際に私の退職金の半分は無駄な買い物で見事に借金に変わってしまいました。
つまり、ケチンボの浪費家というわけです。
円天のようなものにはだまされませんが、買わなくてもいいものを買ったり、無駄なお金を払ったりすることもよくあり、私たち夫婦は娘たちからは「悪徳商人に最もだまされやすいタイプ」と思われています。
しかし、人に迷惑をかけなければ、だまされることも悪いことではありません。
それが私の考えです。
節子はそれには口では反対していましたが、実際は私よりも数多くだまされていたと思います。まあ、お互いにそう思っているだけですが。

そんなわけで、いつか行こうねと話していたおしゃれなお店の前を通ると、なんであの時に入らなかったのかと思って、また涙が出そうになります。
節約家夫婦の片割れとしては、複雑な気分です。

ちなみに、節子がいなくなった今、私は以前よりももっとお金を使わなくなりそうです。
ますます節約家になります。
無駄な浪費や出金もなくなるでしょう。
なにしろ私は生まれてからずっと、財布というものを持ったことがないのです。
お金がなくなると節子からもらっていました。
もうお金をくれる人がいなくなってしまったので、どうなるのでしょうか。
いささか心配です。

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2007/10/31

■節子への挽歌57:死んだのは私ではないのか

「シックス・センス」という映画を見た人はいるでしょうか。
恐ろしいほどに哀しい映画です。
自分が死んだことに気付かずに、愛する妻との関係を回復しようとする男の物語です。
最後に自分が死んでいることに気付き、素っ気ない対応に見えていた妻には自分が見えていなかったことがわかる結末は衝撃的でした。
この映画を観た時、恐ろしいほどの哀しさを感じました。
今にして思うと、節子との関係を予測していたからかもしれません。

先日、朝早く目覚めた時に、この映画のことが鮮明に思い出されました。
そして、もしかしたら、死んだのは節子ではなく私なのではないかと思いつきました。
もしそうであれば、どんなにか気が楽になるでしょう。
しかし、そう考えるのは難しいようです。

節子と私が違う世界に別れてしまったという事実が意味を持っているとすれば、私が死ぬのも節子が死ぬのも同じことです。
但し、娘たちにとっては全く違います。
子どもにとっての父親の存在は、母親とは全く違います。
子どもは親を超えていきますが、母親は超えてもなお、必要な存在のような気がします。

「シックス・センス」の場合は、自らの死に気付かなかったおかげで、生者の姿が見えました。
幸せなことです。但し、生者からは見えない存在になってしまいました。
その関係が正しければ、今回は節子が死んだことになります。
私にはどうしても節子の姿が見えないからです。
そして娘たちと私はコミュニケーションできるからです。

節子は時に勘違いし、粗忽なところがありましたから、もしかしたら自分が死んだことに気付いていない可能性はあります。
「シックス・センス」の主人公マルコム・クロウのように、私の隣で、その言動をみているのでしょうか。
そうあってほしいものですが、どうもこの数日の体験からして、その可能性も極めて少ないようです。

まあ、馬鹿げた話だと思うでしょうが、夜中に目覚めて、こんなことを真剣に考えているのです。
私の世界はいまや論理的ではなくなってしまっています。

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2007/10/30

■節子への挽歌56:結婚前は毎日詩を贈っていました

毎日、節子への思いを書いていますが、私たちの始まりも同じだったのです。
節子と結婚することになってから、私は毎日、節子に1篇の詩を書いて贈っていました。
毎日、恋人から詩がとどく。
普通なら喜ぶはずですが、節子はそれほど喜びませんでした。

節子に会った頃、私が一番好きだったのは、三好達治の「甃のうえ」でした。

あわれ花びらながれ
おみなごに花びらながれ
おみなごしめやかに語らいあゆみ
うららかの跫(あし)音 空にながれ
おりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるおい
廂々に
風鐸のすがたしずかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうえ
夢のような風景です。
私が当時憧れていた風景の一つです。

こういう詩であれば、節子も喜んだかもしれません。
しかし、私が創る詩は、これとは全く違ったものでした。
たとえば、「金魚が泣いたら地球が揺れた」というような、いささかシュールな詩でしたので、それをもらった節子はわけがわからなかったのかもしれません。
なかにはわかりやすいコミカルなものもありましたが、いつも、「わけがわからない」とあんまり喜んでくれませんでした。
それで1か月くらいで止めたような気がします。
その詩集は今もどこかにあるはずですが、節子も私も読み直すことはありませんでした。
今にして思うと残念です。

節子の友人が、このブログを節子さんにも読ませたい、といいました。
いやいや、節子が読んだら、また言うでしょう。
読むのが大変だから、もっと短くしてよ。
そして、このブログも1か月で終わったでしょう。
終わらずに続いているのは、節子が読んでいないからなのです。

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2007/10/29

■節子への挽歌55:友人の死

節子の死をこんなに悲しんでいますが、私は人の死を初めて体験したわけではありません。
両親の死も体験していますし、友の死も体験しています。
しかし、同居していた父母の死ですら、これほど引きずったことはありません。
親の死と妻の死は全く違います。

親しい友人の死も体験しました。
私のホームページには私よりも若い2人の死のことを書いたことがあります。
加瀬さん三浦さんです。
2人とも私は大好きでしたが、引きずりはしませんでした。
友の死は信じなければ信じないでも済まされるのです。
とりわけ三浦さんの死は今でも信じていないのです。

不思議といつまでも忘れられずに思い出す友人が一人だけいます。
東レ時代の友人の重久篤さんです。私の2年先輩です。
信頼しあっていた人ですが、もう10年ほど前に亡くなりました。
なぜだかわからないのですが、その重久さんのことをよく思い出します。
無性に会いたくなることがありました。

重久さんは節子とも顔見知りでした。
節子が娘たち2人と一緒に香港に旅行に行ったことがあります。
その計画を知った重久さんは、節子たちに親切にお薦めガイドを紙に書いてきてくれました。
お薦めのレストランも書いてありました。
それでわが家族の中では重久さんは、とても親切でよい人の評価を確立したのです。

節子が亡くなった後にも、重久さんのことをなぜか思い出します。
彼岸で、2人は会っているでしょうか。
もしそうとわかっていたら、重久さんに伝言を頼めばよかったです。
最後に会いにいけずに残念だったと。
見舞いに行こうと電話しようと思っていた、まさにその日に、重久さんの訃報が届いたのです。
それがずっと気になっているのかもしれません。
重久さんの笑顔が忘れられません。
一緒に仕事をしたかった人でした。
節子ともいろいろとこれから一緒に活動をしたかったのですが、2人とももういません。

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2007/10/28

■節子への挽歌54:「あれから40年」

一昨日、「そして40数年」と書きました。
そこで思い出したのが、「あれから40年」という、綾小路きみまろの言葉です。

闘病中に、笑いこそ免疫力を高めるということで、友人たちが綾小路きみまろのDVDやCDを送ってきてくれました。夫婦でそれをよく聴きました。
テレビでの放映も何回か観ました。
そこでよく出てくるのが、「あれから40年」でした。
結婚して40年もたつとこんなにも変化するという話を、綾小路きみまろは実に面白く話してくれるのです。
私たちはよく笑いました。
節子の免疫力向上には役立ったはずです。

ところで、私たちもまた結婚してから約40年です。
しかし、残念ながら綾小路きみまろの話とは全く違って、ほとんど40年前の気持ちと関係を維持していました。
いや、むしろ40年の関係が深みを育て、お互いへの思いは深くなっていたような気がします。
若い時のようなわくわくする気分はなくなっていたかもしませんが、一緒にいると幸せになる気分は強まりこそすれ弱まってはいませんでした。
まあ、多くの夫婦も本当はそうなのだと思います。
ちょっとした行き違いから、それに気づかないことが多いのかもしれませんが、別れがくれば必ずわかるはずです。
40年の歳月の重さは否定しようがありません。

熟年離婚が増えていますが、本当に残念な話です。
それではそれまでの自分の人生を否定することではないかと、私は思います。
夫婦の形はいろいろあります。
自分たちに合った夫婦の形が見つかれば、離婚などしなくていいはずです。
節子は彼岸へと行ってしまいましたが、私たちはもちろんまだ夫婦です。
しばらく会えないのが辛いですが、これもまた一つの夫婦の形だと思えばいいでしょう。
今日はちょっと理性的?な記事になりました。

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2007/10/27

■節子への挽歌53:「節子」が8回も出てきましたね

告別式の会葬の礼状には「節子さん」の名前が8回も出てきましたね」
節子の友人がそういいました。
一緒にいた娘が、会話の中にも「節子」がしょっちゅう出てくるんです、といいました。
そういわれると、そうですね。

このブログの記事でも「節子」は頻出しています。
節子が元気だった頃から、自宅では私は「節子」の名前を乱発していました。
何かあれば、すぐ「節子」でした。
本人がいた時はよかったのですが、いなくなった今も「節子」の名前ばかり呼んでいるので、娘たちにはかなり「うざったい」ようです。
もっとしっかりしてよ、と時に叱られています。

告別式のあいさつは、不思議なことに涙もださずに最後まで話せました。
あんな状況の中で、あれだけ話せるとは感心したと、皮肉ではなく、ある先輩から言われました。
あの時は本当に不思議でした。
しかし、それ以来、時間がたつほどにだめになってきています。
自宅で不安が高ずると、ついつい「節子」といってしまうのです。
そうすると少しだけ気持ちが静まります。
しかし、それを聞いている娘たちにはストレスがたまるようです。
気をつけなければいけません。

むすめが、気持ちが安定するハーブのサプリメントをくれました。
素直に飲んで見ました。
少し落ち着きましたが、「節子」というマジックワードほどには効き目はありません。
「節子」の丸薬はつくれないものでしょうか。

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2007/10/26

■節子への挽歌52:「いい出会い」

先週、会った人にまだ立ち直れないのだと話したら、その人が、「いい出会いだったのですね」と言ってくれました。
「いい出会い」。
別れがそんなに辛いのは、いい出会いの証拠だというのです。
彼は何回か、その言葉を繰り返しました。
もう1週間たちますが、その言葉がずっと頭から離れません。
「いい出会い」。
そうか、私と節子の出会いは「いい出会い」だったのだ。
そう思うととても幸せになります。
ここでの「出会い」とは最初の出会いの意味ではないでしょう。
最初も最後もなく、時間や空間を超えての「出会い」を意味しているような気がします。
そう言ってくれたのは、ハイデッガーの研究者ですから、それに間違いありません。

節子と私の出会いは、本当に偶然でした。
そして、最初に一緒に歩いたのが奈良でしたが、その日はお互いにまだ恋人でもなかったのに、不思議なくらい「あったかな思い出」に包まれているのです。
そして40数年。

少なくとも、私の人生がこんなにも楽しかったのは、間違いなく節子のおかげです。
奈良での、あの1日が、「いい出会い」を象徴していたのかもしれません。

そんなに「いい出会い」だったのですから、今回の別れも、きっと「いい出会い」に包摂されているのでしょう。
そう思うと少しだけ心が安らぎます。

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2007/10/25

■節子への挽歌51:懺悔

日数がたつほどに、節子がいなくなったことの辛さが高まってきます。
おそらく体験したことのある人たちからは、「時間がたつほど辛くなるからね」といわれていましたが、まさにその通りです。
きっと、このあたりで、後追いする人が出てくるのでしょうね。
それがよくわかります。

辛さが増してくると、自分を責めたくなります。
いろいろな見方はあるでしょうが、節子が死んでしまったという事実を考えれば、どんな言い訳も無意味です。
かけがえのない人を守れなかった責任は、すべて伴侶にあるでしょう。
だめな伴侶でした。
外部からは見えないことがたくさんあります。
それを懺悔したい気分です。
もっとも懺悔しても、誰にもわかってはもらえないかもしれません。
むしろ言葉にすると、真意が伝わらないような気もします。

いずれにしろ自己嫌悪に苛まれます。
涙を出せば、少し心が和みますが、これは自己満足かもしれません。
今頃涙を出すのであれば、なぜこうならないように尽力しなかったのか。
今から思えば、できることが山ほどありました。
それをやっていなかったのです。
節子に対して、誠実な対応をしていなかったことも山ほどあります。
節子は必ず治るという確信を持つことが、誠実さを失わせてしまっていた面もあります。
自分までもが、その言葉に振り回されて、現実をしっかりと見ようとしなかったのです。
自分のことしか考えていなかった自分が忌まわしく感じられます。

だめな夫だなと誰かに叱責されたい気持ちがある一方で、
もし実際に叱責されたら、やはり後を追いたくなるだろうなという不安もあります。
節子がいたら、止めてくれるでしょうが、残念ながらその節子がいないのです。
ですから、自分で自分を叱責するのが精一杯です。
この複雑な心境は、なかなかわかってもらえないでしょうが、きちんと残しておきたいと思って、書きました。

まわりに私のような立場の人がいたら、何もいわずに一緒に悲しんでやってください。
今、私がほしいのは、慈悲の慈ではなく、悲をシェアしてくれる人です。
ないものねだりなのはわかっているのですが。

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2007/10/24

■節子への挽歌50:生きる意味

ある人から、供養のために、33回忌まであなたは生きなくてはいけませんよといわれました。
その人は娘さんを亡くしていますが、その33回忌が107歳なのだそうです。
ですから大変だといっていましたが、「佐藤さんはまだ99歳だから大丈夫だ」といわれました。
残念ながら私は33回忌まで生きる勇気がありません。
33年も節子を一人にさせておくわけにはいきません。

亡くなった人の分まで生きなければといわれます。
もしかしたら、私も同じようなことをこれまで言っていたような気がします。
しかし、いま当事者になって初めてわかったのですが、そんな気にはまったくなれません。
さらにいえば、殉死の風習もまんざら悪いものではないというようなことも考えます。
風習にはそれぞれ意味があることを改めて思い知らされます。

私は殉死はもちろん、命をおろそかにすることはありませんが、あえて長生きもしたくありません。
しかし、節子がそうであったように、もし生きる意味があれば、つまり関係を絶つことを避けるべきであれば、凄絶な闘病も厭わないつもりです。

残念ながら、私はまだ、自分がこれから生きていく意味が見つかりません。
私にとっては、節子こそが「生きる意味」だったのです。
その節子がいなくなってしまった日から、私は何のために生きているかわからなくなってしまいました。
あえていえば、娘たちがまだ結婚していないので、彼女たちの家族の一員として生きていなければいけないということが当面の意味です。
彼女たちが、それぞれに独立していけば、私はまた「生きる意味」を失います。
「生きる意味」がなくなれば、人は自然に生きることを止められるようです。
イヌイットに関する文化人類学者の本で、そんなことを読んだ記憶があります。

もしかしたら、「節子の供養」がこれからの私の「生きる意味」かもしれません。
しかし、死者の供養のために生きるというのはどこかに矛盾がありそうです。
供養するくらいなら、早く自分も彼岸に行けばいい。
それが一番の供養ではないか。みなさん、そう思いませんか。

まあ、この問題はもう少し考えてみたいと思います。
この歳になって、まさか「生きる意味」を模索することになろうとは思ってもいませんでした。

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2007/10/23

■節子への挽歌49:花がまだ届き続いています

花がまだ届き続いています。
ホームページやブログで、「節子は花が大好きだった」と書きすぎているためではないかと娘たちから注意されました。

それにしても、本当に驚くほど、花が届きます。
いつか書きましたが、少なくなると届くのです。
昨日は近所のご夫妻がとてもおしゃれな花を持ってきてくれました。
子どもがお世話になったのに病気のことを知らなくてすみませんでしたと、会うたびに言ってくれていた人です。
節子がどんな世話をしたのかよく知りませんが、こちらのほうが恐縮してしまいます。
節子の人柄なのでしょうか。子どもに本当に好かれた人でした。

今日は滋賀の親友たちから花が届きました。
私以上に長い付き合いの親友たちです。
女性のつながりの深さには感心します。

そんなわけで、小さな仏壇が花で埋まっているのです。

Setsukohanaそれを見ていてハッと気づきました。
節子は「花になってチョコチョコ戻ってくる」と言い残しました。
もしかしたら、こうして届いている花は節子なのではないかと思えだしたのです。
そういう意識で花を見ると、最近は供花といいながらも、あったかでホッとするような色合いの花が多くなっています。
もしかしたら、この花は節子なのかもしれません。
花に囲まれているのは節子ではなく、節子が私たちを囲んでいたのです。

でも、幸いにわが家の庭の花も元気になってきました。
もう送っていただかなくても、持ってきていただかなくても、わが家の庭の花で献花できます。
節子もきっとわが家の庭の花になって戻ってきはじめるでしょう。

長いことありがとうございました。

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2007/10/22

■節子への挽歌48:節子のいない世界がまだ理解できません

節子の親友が、節子と一緒に旅行に行った時の写真のCDをもってきてくれていたのですが、見る気になれずにいました。
昨日、CDを開いてみました。
元気な節子の写真が出てきました。
「あの節子」でした。
葬儀に使った写真は、節子の生き生きした表情を伝えていませんでした。
それがずっと気になっていました。
しかし、節子のほかの写真は見る気にもなれませんでした。
写真を見るとどうしようもなくさびしくなるのです。

49日の前日、義姉が1年前に一緒に行った時の写真を送ってきてくれました。
真っ青な日本海を背景に、節子が灯台の柵の上に座って笑っている写真です。
1年前はこんなに元気だったのです。
その写真も凝視できないままでしたが、改めて見直しました。
「あの顔」が、そこにもありました。

とてもあったかで、とてもやさしくて、でもどこかに少しばかり哀しさもあって、その笑顔を見ているだけで、私は幸せになれました。元気ももらえました。
写真をプリントアウトして、手帳にはさみました。
パソコンの壁紙にも貼り付けました。
これで毎日何回も、節子の笑顔に対面できます。

でも、写真をいくら見つめていても、元気が出てきません。
出てくるのは涙だけです。
これまで以上に涙が出るようになってしまいました。
なにをやっても裏目に出ます。

私にとって一番必要ないま、その笑顔に出会えないのが不思議でなりません。
節子がいない世界に生きている自分が、まだ理解できずにいます。

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2007/10/21

■節子への挽歌47:節子が彼岸に行ってしまいました

七七日法要でした。
家族を中心に静かに見送りました。
菩提寺である真言宗のお寺に納めさせてもらいました。
私の両親と同じ墓です。
戒名は、慈花節操清大姉をもらいました。
ちなみに、節子は戒名は要らないといっていましたが、約束違反してしまいました。

節子はお墓も要らないといっていましたが、1年ほど前からやはりお墓に入りたいと言い出しました。
そして彼女が選んだのが、私の両親の墓でした。
きっと一人ではさびしかったのです。
私の両親は私たちと途中から同居していました。
途中からの同居だったので、節子は苦労したはずですが、とてもよくしてくれました。
両親は節子に深く感謝しているはずです。
私にはあまり感謝していないでしょうが。
私の親孝行は、節子と結婚したことだけでした。
節子も、修と結婚したことが私の親孝行の一つだったと言ってくれたこともがあります。
お互いの親にもとてもいい結婚相手だったのです。

節子が自宅を出て、彼岸に行ってしまったと思うととても寂しいですが、かといってこちらに引き止めていても困るのは節子です。
しかし、不覚にもまた泣いてしまいました。

法要の後、元気になったら一緒に行こう、と節子と約束していたレストランに行きました。
節子の親友だった人も来てくれたおかげで、涙なしの会食ができました。

それにしても、最近また、無性に涙が出るのです。
自分でも信じられないくらい涙が出ます。
涙が枯れるなどというのは本当でしょうか。

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2007/10/20

■節子への挽歌46:核家族での死、大家族での死

昨日の続きです。
生きることの意味が「関係」の中にあるとすれば、関係をたくさん持っている人生は豊かです。
人間関係には、快いものも不快なものもありますが、快不快はコインの裏表です。
ですから多様な関係をもっていることは人生の豊かさに通じます。
もちろん、たった一つの関係でも、深く深く育てていけば、それもまた豊かさに通じます。

わが家はまだ2人の娘が自宅に同居しています。
私の両親はもう既に亡くなっていますので、今までは4人家族でした。
その一人だった節子がいなくなり、いまは3人家族です。
家族の1/4がいなくなったということは、生活のうえでは大きな変化です。
もし家族が10人もいたら、変化はもう少し小さかったかもしれません。
数の問題なのかと思うかもしれませんが、間違いなく数は大きな問題です。

もちろん、家族の数とは関係なく、伴侶は一人ですから、かけがえのない関係です。
しかし、私に妻が10人いたら、これほどの衝撃を受けないでしょう。
10人も妻がいれば、私にとって、その一人は「かけがえのない存在」にはならないはずです。
娘たちが結婚してわが家を出ていたらどうでしょうか。
妻と2人だけの家族の一方がいなくなったら、その衝撃は大きいです。
そうでなかったことを感謝しなければいけません。
節子との別れは辛いですが、今の私は娘たちに救われています。

最近は核家族化が進んでいます。
核家族になったために祖父母の死に居合わせることがなくなり、子どもたちが死を実感できなくなったともいわれています。
たしかにそうでしょう。
今では死は日常的なものではなく、頭で想像する時代です。
そのため、ひとたび、死が現実のものになると、そのショックを緩和する仕組みがなくなってきています。
とりわけ老夫婦だけの家族では伴侶の死は残された者の生命をも奪いかねません。

大家族から核家族になってまだ半世紀少しです。
その咎(とが)がいろいろな形で出始めていますが、まだまだ出てきそうです。
そろそろ核家族文化を見直すべきではないかと、思います。

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2007/10/19

■節子への挽歌45:死と別れ

死と別れは全く違うものです、

節子は、死を恐れたことはありませんでした。
死にたくないとも言ったことがありません。
むしろ苦しい闘病生活の中で、早く死にたいというニュアンスの言葉は話していました。

節子が悲しがっていたのは、別れです。
私との別れ、娘たちとの別れ、友人との別れ、そして自分がやってきたこと、やりたかったこととの別れです。
がんの宣告を受けた時も、節子は死に対しては何の恐れも見せませんでした。
むしろ、人は必ず死を迎えるのだから、それは仕方がない、あなた(私のことです)こそ、そのことをしっかりと受け止めてよ、という感じでした。
しかし、その一方で、節子の無念さやさびしさは痛いほど伝わってきました。
そして悔しさも。
私たちは時々、悔しさで涙を流しました。

死がもたらす別れ。
それこそが、死を避けたいと思う最大の理由のような気がします。
もしそうであれば、生きるとは関係の中にこそ意味があります。
何回も書いてきていますが、生命は「つながり」です。
人と人、人と自然、人と文化などのつながりの中に。生命は息吹いています。
人と人の関係にこそ、生命の最大の価値があります。
死は、それを断ち切ってしまうわけです。

余計なことを書けば、それゆえに、別れがプラスの価値に転ずると思う時、人は死を選ぶのかもしれません。
しかし、それは誤解です。
ある部分に限れば、別れがプラスになることもありえますが、全体の人生の中では絶対にプラスにはなりえません。
人は追い込まれると、ある部分しか見えなくなるのです。
それは東尋坊で活動している茂さんからも教わりました。

私たちは、死に直面しないと、こうした関係の大切さを気づかないのかもしれません。
別れの驚くほど大きなさびしさに思いが至らないのかもしれません。
節子の、そのさびしさを私はどの程度共有できていたのでしょうか。
今にして思えば、私はだめな伴侶でした。
今頃、涙を流しても何の役にも立ちません。
だから辛いのです。

別れが来る前に、もっともっと関係を大切にしておけばよかった、と私はいま、つくづく思います。
気づくのが本当に遅すぎました。
節子との別れが実感できるようになるにつれて、そうした後悔が高まります。

私も、自分の死は全く怖くはありません。
死が悲しいのは別れが起こるからです。
娘たちのために、もう少し生きなければいけません。

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2007/10/18

■節子への挽歌44:「普通に暮らせることが一番の幸せ」

節子の口癖のひとつは、「普通に暮らせることが一番の幸せ」でした。
私も相槌をうっていましたが、いま思えば、その意味を全く理解していませんでした。
その一事をもってしても、私の生き方の不誠実さがよくわかります。

「普通に暮らせること」とは何なのか。
これは難しい問題ですが、節子の言いたかったのは、昨日と同じように今日もすごせるという意味でした。
このことは節子には大きな意味を持っていました。
台所に立てる時間が少なくなってきた頃、節子はとてもさびそうでした。
私はその寂しさをあまり深く思いやることができていなかったように思います。
また前のように食事をつくれるようになれるから、と言っていました。
元気付けるつもりだけではなく、本当に私はそう思っていました。
その時の節子のさびしさを理解しようとしていなかったのです。

明日は今日よりも良くなるようにと、私たちはついつい思いがちです。
でも大切なのは、昨日と同じように過ごせることが大事なのだと、ようやく私も気づきました。
宮沢賢治の「雨にも負けず」を読み直してみました。
不思議ですが、涙が止まりませんでした。
やっと賢治の気持ちが少しわかったような気がしました。

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2007/10/17

■節子への挽歌43:節子は手紙を書くのが好きでした

節子は手紙を書くのが好きでした。
手紙をもらうのも好きでした。
私はかなり早い時期からワープロやパソコンで手紙を書くようになりましたが、節子は手書きでなければ手紙ではないといっていました。
年賀状のあて先も一枚ずつ手書きでないとだめでした。
今年は体調が悪かったので、不承不承、あて先だけはパソコンを使いましたが、毎年、丁寧に宛先を自筆していました。書きながら相手の顔を思い出すのだそうです。

節子の闘病中に、友人たちからたくさんの手紙をもらいました。
彼女の手紙仲間からのものです。
絵手紙もあれば、俳画もあれば、写真付もあります。
節子はそうした手紙にとても元気づけられていました。
寝室の壁には、そうした葉書や手紙がたくさん貼り出されていました。
その手紙や葉書を見ていると、節子の闘病のことが生き生きと思い出されます。

思い出す。
この「思い出すこと」は私にとってはとても複雑です。
思い出したい一方で、思い出したくないのです。
楽しかった思い出や良い思い出だけに浸ればいいとアドバイスしてくれた人もいますが、悲しい思い出だけが辛いわけではありません。
楽しい思い出こそ、実は涙がでるのです。
闘病中の節子と、いつかこの辛さも笑いながら話せるようになるよ、と何回も話していました。
私はそう信じていましたが、節子はきっとそう信じていると私に思わせていただけでしょう。
私に対して、自分のことはよくわかるの、ともいいました。
その時の節子の気持ちは、今は痛いほどわかります。

手紙好きな節子も、毎日会っている私には手紙を出す機会がありませんでした。
ただ一度だけ私に葉書が届きました。
一緒に旅行に行っていた時、その旅行先から私のオフィス宛にこっそりと出していてくれたのです。
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一体、いつ書いたのでしょうか。
ほとんど一緒にいたはずなのですが、全く気づきませんでした。
受け取った時には、またやられたとすごく嬉しくなりました。
節子はこうしたちょっと「お茶目」なことで、サプライズを起こすことが大好きでした。
そういう節子が私は大好きでした。
私にとっては、節子は私の人生を豊かにし幸せにしてくれる魔法使いだったのです。
その時の葉書は今も残しています。

手紙好きな節子が、彼岸から私に手紙をくれるのではないかと密かに期待しています。
笑われるでしょうが、本当に期待しているのです。
節子ならきっとその方法を考えてくれるでしょう。
節子は私には何でもできる魔法使いでもあるのです。

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2007/10/16

■節子への挽歌42:世界における立ち位置も変わっていました

昨日、立ち位置のことを書きましたが、そのつづきです。
昨夜、娘たちと買い物に行きました。
娘たちが買い物をしている間、私は売り場の外のいすに座って待っていました。

いすで待っていると、しばらくして節子が姿を現してくれました。
しかし、もうその場面はないのです。
そんなことを考えながら、周辺を見渡しているうちに、見ている場所や印象が今までとは何か違っているような気がしてきました。
どこがどう違うのか説明できないのですが、奇妙に違うのです。
まわりの風景にリアリティを感じられず、自分がどこか違う世界にいるような気がするのです。
もしかしたら、節子の目で風景を見ているのかなと思いました。

私たちをおいて、世界は何もないように過ぎている。
私たちのさびしさなどは、きっと誰も気づいていない。
すぐ近くにこれほどの悲しさがあるのに、みんなとても幸せそうなのはなぜだろう。
宮沢賢治の、あの言葉「みんなが幸せにならないと自分も幸せになれない」を思い出したりしていました。
そして、気づきました。
私はこれまで、誰かの悲しさやさびしさを本当にわかっていたのだろうか、と。
いや、これまでではなく、今もわかっていないのではないか。

そう思い出したら、まわりの風景が一変してしまいました。
それぞれに、私と同じような「さびしさ」や「悲しさ」を背負っているのだろうなという気が、奇妙にリアリティをもって、わきおこってきたのです。
わかっていなかったのは、他の人たちではなく、自分だったのです。
すべての人たちがいとおしく思え、話しかけたくなる気持ちを感じました。

奇妙な言い方ですが、そこを歩いている人たちの向こう側が感じられるのです。
自分の居場所が少し落ち着いたような気がします。
節子の死によって、空間的な立ち位置ではなく、
もっと大きな位置変化、それこそ位相的な変化が起こっているようです。

しかし、身体はまだその変化についていけていないような気がします。
息苦しいほどの疲労感があります。
誰かと話していると、その疲労感は不思議に感じなくなるのですが。

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2007/10/15

■節子への挽歌41:夫婦の立ち位置と世界の豊かさ

なかなか節子が夢に出てこないので、2週間ほど前から節子のベッドで寝るようにしました。
1週間ほどしてから夢をみるようになりました。

ところで、そこで寝起きしだしてから、部屋の風景がかなり違うことに気づきました。
たかが1メートル北側に動いただけなのですが、雰囲気が全く違うのです。
こうした違いが毎日続いているとおそらく意識の面で大きな影響を与えることになるはずです。
まあベッドの位置などはさほど大きな違いではないかもしれませんが、生活における「立ち位置」の違いの蓄積は大きな違いになることを改めて実感しました。
立ち位置によって、視界や風景が変わりますから、人の意識も変わります。

夫婦の立ち位置の違いは、最近ではかなり小さくなっているのかもしれませんが、わが家は明らかに違いました。
立ち位置の違いがあることが、そしてその違いを認識しあうことが、お互いを支えあい、理解しあう上で効果的だったと思います。
昨今の男女共同参画議論は、そのたち位置の視点をあいまいにしている点が私には不満です。
違いを認識することなく、共同などという概念は生まれようがないと思うからです。

これまでは節子の立ち位置からの世界も私の一部でした。
節子の視野と風景も、私の世界を構成していました。
すべてをシェアしていたわけではありませんが、かなりの部分はシェアしていたと思います。
そういう感覚が、私たちにはかなり強くありました。
しかし、今はそれが失われ、私の世界はかなり単調になってしまいました。

これは単に伴侶を失った夫婦の場合だけに限りません。
組織が弱くなるのも、国家が弱くなるのも、同じことなのかもしれません。
節子の挽歌を書いているうちに、こうした大きな問題にもいろいろと気づきだしました。

さまざまな立ち位置を包摂する組織や社会。あるいは生き方。
これからはそうしたことが大切になっていくように思います。

寝る場所を替えてみて、気づいたことはたくさんあります。
ちょっと変えるだけで、世界は大きくなるものです。

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2007/10/14

■節子への挽歌40:「7年前を思い出します」

昨日、わざわざ遠くから献花しに来てくださった人がいます。
コムケアで接点のあった WithゆうのOさんです。
Withゆうは、「誕生死(流産、死産、新生児死亡)などで子供がお空にいる天使ママさん、天使パパさん」(WithゆうのHP)たちの会です。
「誕生死」という言葉もあまりなじみがないと思いますが、ぜひWithゆうのホームページを見てください。
こういう活動もあるのです。

Oさんは、我孫子から電車で2時間はかかるところにお住みのはずですが、
ブログを読んで、わざわざ来てくれたのです。
まさかOさんが来てくれるとは思っていませんでしたので、最初は誰なのか思い出せませんでした。
失礼してしまいましたが、とてもうれしく思いました。
今日の2人目の献花者になってくれました。

「佐藤さんのブログを読んでいると、7年前のことを思い出します」
それが彼女が来てくれた理由です。
その一言で、お互いの「悲しさ」を瞬時に共感できたような気がしました。
そして、悲しさは決して時が癒さないことも。
彼女がわざわざ来てくれた気持ちも、その一言で理解できた気がしました。

意外な人がブログを読んでいてくれ、いろいろな思いを持ってくださっているのです。
そろそろやめたらという友人もいますが、
「思いの尽きるまで書いてください」と投稿してくれた齋藤さんもいます。
書いているので安心しているという人もいます。
節子への挽歌(この名称は適切ではないかもしれませんが)は、これからも続けるつもりです。
適当にお付き合いください。

献花台の始まりの日に、こんなことが起こったことをとても感謝します。
今日はどんな人が来てくれるのでしょうか。
節子がまた新しい出会いを創ってくれるような気がしています。
やはり節子は、私にとっては最高の伴侶です。

Photo

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2007/10/13

■節子への挽歌39:献花台 Flowers for Life が完成しました

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節子の告別式でお話させてもらった「献花台」が完成しました。
タジェ-ル デ ジュン の作品です。
ちょうど今日から我孫子市の手づくり散歩市が始まるのですが、
わが家のジュンのタイル工房もその会場になります。
そこで、それに合わせて、献花台もオープンさせてもらうことにしました。
献花台の主旨は、私のホームページ(CWSコモンズ)に書きましたが、ちょっと長いですが、一部を引用します。

告別式では、ただただ節子への愛惜の思いで、節子への献花をイメージしていました。
しかし、自らに「献花」してもらうのは、節子の考えにはなじまないことに気づいたのです。
節子が望んでいるのは、みんなと一緒に花を愛(め)でることであり、花がみんなを幸せにしてくれることのはずです。
そこで、献花の対象を、節子ではなく、花そのものにしようと思います。
「花を献ずる」のではなく「花に献ずる」。
私たちの人生や生活、そして生命そのものに、元気や喜びを与えてくれる花に感謝しようというわけです。
花を愛でながら、花が大好きだった節子と一緒に、
花が咲きこぼれるような、気持ちの良い社会になるようにちょっとだけ思いを馳せる時間をつくる場にできればと思っています。
そのついでに、ちょっとだけ節子のことを思い出してもらえれば、うれしいですが。
またホームページのお知らせに、このことも載せました。
12日、13日は、私も自宅にいますので、お近くの方はお立ち寄りください。
我孫子市の手づくり散歩市もぜひ、ぶらっとおまわりください。
手賀沼もそう捨てたものではありません。

節子は、昨年、この散歩市でタイル工房に来てくださった方にケーキでおもてなしをさせてもらいましたが、今年もそれをとても楽しみにしていました。
節子が心残しだったことの一つが、そのことかもしれません。
その遺志を受けて、今年はジュンがケーキを焼きました。
展示の準備などで忙しい合間のケーキづくりだったので節子のケーキよりはほんの少しだけ出来が悪いかもしれませんが、節子の思いは十分に入っています。

ちなみに、献花台はとても小さいので、お花はわが家の庭の花を1本手折って供えていただければ結構です。
それに花に献ずる献花台ですので、できるだけ切花は少なくしたいと思います。
おそらくそれが節子の気持ちではないかと思います。
一番供えてほしいのは「花のような笑顔」です。
残念ながら私にはまだ無理なのですが。

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2007/10/12

■節子への挽歌38:ポジティブアクション

「迷ったら実行する」。
これが節子の生き方でした。
ある意味ではいさぎよく、ある意味では投げやりなのが、節子でした。
もしかしたら、私との結婚も、こうした発想で決めたのかもしれません。
節子は本当は体育系が好きだったのですが、あいにく私は体育系ではありませんでした。
私自身も実は体育系が好きですし、自分が体育系と反対であるとは思っていませんが、節子にはどうも反体育系に思えたようです。
夫婦喧嘩になると、本当は体育系の人と結婚したかった、と節子はよく言っていました。
私がさっぱりしていないというのです。私にはいささか不満ではありますが、まあ節子がそう言うのであればそうなのでしょう。

私の友人が苦境に陥ったことがあります。
その時に、節子はその人に「ポジティブシンキング」で行きましょうと手紙を書きました。なぜ節子が書いたのか覚えていませんが、その人からは、そうしますと返事がきました。
もしかしたら、その人もこの記事を読んでくれているかもしれませんね。
Nさん、今もポジティブシンキングしてますか。
私はいまはちょっと中途半端になっていますが。

迷って実行して、失敗したこともあります。
今回の闘病に関してもあったかもしれません。
しかし、ポジティブシンキングして失敗したのであれば、悔いは残らないと節子は言っていました。
そこまでいってこそ、本当のポジティブシンキングです。

がんが発見されてから、ポジティブシンキングを貫くのは大変だったと思います。
しかし、節子は最後まで貫き通しました。見事でした。
今の私の、ナヨナヨシンキング状態をみて、やっぱり修は体育系ではないなあ、結婚したのは間違いだった、と思っているかもしれません。
今度会うときが心配です。

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2007/10/11

■節子への挽歌37:今のわが家も節子のおかげで実現しました

現在、わが家は手賀沼が見える高台に建っています。
場所はとても恵まれています。
節子はとても気に入っていました。
この場所をさがし、ここにわが家を建てたのも節子のおかげです。
その経緯は、いかにも節子らしいのです。

数年前に、転居を決めました。
同居していた父母を見送った後、いろいろとあって、環境を変えたいと家族みんなが思い出したのです。
そんな時、節子が開発中のいまの場所を見つけたのです。
まだ開発途中で、売りにも出ていませんでした。
しかし、その場所が気にいった節子は、すぐに看板に書いてあった開発会社に電話したのです。
見上げた行動力です。
ところが、その土地は建売住宅用に開発しているということでした。

そこで諦めないのが、節子なのです。
節子は建売ではなく土地だけほしいと頼んだのです。
めちゃくちゃな話ですが、驚くことに、節子の熱意が先方に通じたのです。
開発会社の人が自宅にやってきました。
そして、後日、全区画を土地売りにすると連絡がありました。
問題は価格です。
残念ながらわが家には十分なお金がありませんでした。
価格もわからずに働きかけていたわけです。
まあ予算などあまり考えずに動くのもわが夫婦の共通点です。
手持ち資金を超えていたので、一時は諦めかけましたが、節子が気に入った土地です。
諦めるわけにはいきません。
後先考えずに購入を決意しました。
しかし、不思議なもので、結果的にはどうにかなってしまったのです。
経済的に考えて、なぜうまくいったのか、今もってわかりません。
娘たちからも全財産を提供してもらいましたが、それだけでは足りないはずだったのですが。

念のために言えば、節子は山内一豊の妻のような賢妻ではありませんでした。
節約家でしたが、金銭感覚はかなりいい加減でした。私よりもだめでした。
1円節約して、1000円無駄するタイプの、典型的な主婦でした。
家計簿などつけたことはなく、使ったものを記録しても意味がないという現実主義者?でもありました。
いや、怠惰だっただけかもしれませんが。

さて、自宅建設の話です。
節子も不思議がっていましたが、おかしなところから無理に借りることもなく、ともかく帳尻があったのです。

いずれにしろ、節子のおかげで私たちはいま、場所だけはとても良い所に住んでいます。
もっとも、住宅の設計は家族みんなで議論しすぎて疲れてしまった時に(わが家は完全に一人1票の家なのです)、私が勝手に構造を変えてしまったために、不満だらけの家になりました。
入居した日からリフォーム論議が出たほどですが、幸いにお金が払底していたので、さすがのわが家も動けませんでした。

また余計な事をかいてしまいました。
節子がいたら、検閲を受けて、ほとんどカットになりますね。
でも、節子はこのできの悪い家が大好きでした。
リフォーム計画ももっていましたが、それも含めて気に入っていたのです。
しかし、その家を十分に楽しむ間もなく、節子は逝ってしまいました。
節子には、もっとこの家を楽しんでほしかったです。
それが無念でなりません。

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2007/10/10

■節子への挽歌36:私のライフスタイルを変えたのも節子です

節子は私のライフスタイルにも大きな影響を与えました。
たとえば自動車。
私は学生の頃から自家用車反対論者でした。
自動車は基本的に公共交通システムに限定すべきだという意見でした。
ですから自分では運転免許もとらず、したがってわが家にはずっと自動車はありませんでした。
娘たちは子どもの頃、家に自動車がないので我が家は貧乏だと思っていたそうです。
そのおかげで、わが家の娘は今でもかなりの節約家です。

わが家に自動車を持ち込んだのは節子です。
当時、私は通勤に駅まで自転車を使っていたのですが、雨の日は大変でした。
その苦労をさせたくないという思いが、節子が運転免許をとろうと考えたきっかけだったそうです。
その話を聞いて、自動車文化反対論者の私も反対できませんでした。
節子が免許をとったら、娘たちもとりました。
それに伴い、わが家の行動範囲は一挙に変わりました。
世界が変わったのです。
そしていつの間にか、私が一番の利用者になったのです。
そして50歳近くになって、私も免許をとりました。
しかし、どうも運転は苦手で、事故もどきをよく起こしました。向いていないのです。
それで運転をやめました。それからもう10年以上たちます。

運転ができなくなってしまった節子はもう一度、自動車を運転したいといって、かなり体調が悪くなった今春、私を駅まで自動車で送ってくれました。
心配なので、横に娘が同乗しました。
節子はとてもうれしそうでした。
しかし、それが最後の運転になってしまいました。

何を書いても、最後は何だか悲しい話になってしまいます。
困ったものです。

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2007/10/09

■節子への挽歌35:所有と無所有はコインの表裏

節子が残していったものがたくさんあります。
まだ1回も着たこともない衣類や日用品も少なくありません。
そうしたものをどうしたらいいでしょうか。
衣服に関しては、娘にリサイクルショップに持っていくようにとお店まで教えていたそうです。節子らしいです。
しかし、残されたものを整理することはかなりの気力が必要です。
まだその気にはなれず、整理は手つかずです。
遺産のために親族の骨肉の争いが起こることもありますが、
遺産のみならず、何事も残すものは最小限にしておいたほうがいいのかもしれません。

これは節子の問題に限りません。
私自身も身の回りの整理をしなければと思い出しました。
とりわけ仕事関係の資料や書籍は残しすぎですし、生活用品も過剰に所有していることは明らかです。
これまでも何回か整理しようと試みたことはありますが、廃棄できませんでした。
しかし、今なら思い切って整理できそうです。

韓国の法頂師の「無所有」という本があります。
そこにこんな文章が出てきます。
何かを持つということは、一方では何かに囚われるということになる。
そのことに気づいた法頂は、こう心に決めたそうです。
その時から、私は1日に一つずつ自分をしばりつけている物を捨てていかなければならないと心に誓った。
物を所有するということは、物に所有されるというわけです。
主客の転倒、このことへの気づきが、私が会社を離脱した大きな理由でした。

19年前に、私は勤めていた会社を辞めました。
その時に、少しだけこうした思いを持っていました。
いろいろと捨てたつもりですが、いまなお物欲の世界に安住しています。

法頂は、さらにこうも書いています。
何も持たない時、初めてこの世のすべてを持つようになる。
これはとてもよくわかります。
私が理想と考えていることでもあります。
所有とは無所有であり、無所有とは所有である、というわけです。

節子と一緒であれば、無所有の世界に入りやすかったと思います。
すべてを捨てても、節子さえいれば大丈夫だったからです。
節子とそうした話を始めたのは4年半前です。
その直後に、節子の胃がんが発見されたのです。
そして節子がいなくなった。
私の人生設計は大きく狂ってしまったわけです。

しかし、今であれば、むしろすべてを捨てられそうです。
節子がいないのであれば、それ以外の何に未練があるでしょうか。
法頂さんを見習って、私も一つずつ捨てていこうと思います。
最後に残るのは何でしょうか。

ちなみに、この「無所有」という本はとても読みやすく、示唆に富んでいます。
みなさんにもお勧めします。
わがコモンズ書店を通して、アマゾンから購入できます。
ぜひどうぞ。

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2007/10/08

■節子への挽歌34:渡岸寺の十一面観音

昨日はいろいろな元気をもらったこともあって、今日は元気に目覚めるはずでした。
だめでした。

最近、夢をよくみます。
いつも道に迷う夢です。
そこで友人に会うことがあるのですが、なぜか通り過ぎていきます。
節子の気配は、時に感じますが、姿は見えません。
節子がいなくなった不安が投影されているのかもしれません。

今日の目覚めは特に不安でした。
せっかくの決意が鈍ります。
節子の笑顔を思い出すのですが、いつもと違い、それが逆効果なのです。
節子を守れなかったのは、やはり私の責任だという思いがぬぐえません。
それは間違いない事実ですから、否定しようがありません。
しかも、節子と私は一体の存在でしたから、責任の半分は節子にあるわけです。
だからこそ、悲しさも大きいのです。
節子を守ってやれなかったことの悲しさは、たぶん誰にもわかってはもらえないでしょう。
わかってたまるかという不遜な気分もあります。
ですから慰められるとなぜか腹立たしくなります。
むしろ誰かに責めてもらいたい気分です。

節子の死は、間違いなく私の誠意が不足していたからです。
だめな夫を選んだ節子の責任もありますが。
でもこれは謝ってすむ問題ではないのです。
やっとそれに気づきました。

こうした悲しさや怒りをどこに向ければいいのか。
医師へ怒りをぶつけることもできます。
そうした思いを持ったという人は少なくありません。
知人の医師は、医療訴訟におびえている医師が多いといっていました。
確かに今の医療界は、そうなってもおかしくありません。
人間が不在になりがちな仕組みになっているからです。

しかし、つまるところは、自らへの怒りなのです。
医師に怒りを向けたところで、問題は解決できないでしょう。
怒りと悲しみは同じものです。
渡岸寺の十一面観音の喜怒哀楽の11の顔が、それを示唆しています。
節子の霊前に、その写真がたまたまあります。
長沼さんが持ってきてくれたのです。
渡岸寺の十一面は慈悲よりも悪に重きを置いているといわれています。
暴悪大笑面が有名ですが、それがまたこの観音の慈悲のメッセージを強めています。
この地が浄土真宗の信仰の厚いところだからかもしれません。
どこかに親鸞を感じさせます。
不思議なのですが、渡岸寺の十一面観音は何回もお会いしたのですが、その憤怒の顔が思い出せません。
なぜか大笑面しか思い出せません。
憤怒の顔はなかったかもしれません。

供養がまだ不足しているようです。
今日は終日、節子とゆったりと過ごしたいと思います。
怒りが解ければいいのですが。

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2007/10/07

■節子への挽歌33:やれるときにやっておきなさい

「何でもやれる時に早目にやる」が節子の生き方でした。
何事も先延ばし、ぎりぎりにならないと動かない私の怠惰さが、節子は好きではありませんでした。
いつでもできることであればこそ、早くやるべきだというのが節子でした。
いつでもできるのであれば、急ぐことはないというのが私でした。
やるべきことから着手するのが節子でしたが、やらなくてもいいことから着手するのが私でした。
その2人が、よくもまあ40年以上も波長を合わせられたものです。

この頃、「やれるときにやっておきなさい」という節子の言葉がよく聞こえます。
私がこの1か月、何もせずに呆けているのが節子には気に入らないのかもしれません。
節子がいなくなってから、私の部屋も2人の部屋もそのままです。
必要な手続きは娘がしてくれましたが、私は何も手をつける気になれません。
もし娘たちがいなかったら、霊前で餓死していたかもしれません。
私には、それも一つの理想ですが、節子には迷惑な話でしょう。

できるだけ先に延ばそうというのは時間がある時の発想かもしれません。
節子の死で、私自身も半分の死を体験し、節子の言葉の意味が少しわかってきました。
つまりは、周りの人に迷惑をかけるなということなのです。
まあすぐには無理ですが、少しずつ生き方を変えようと思います。
いや、こういう発想自体がすでに「やれるときにやる」ということに反していますね。

早速、動き出しましょう。
なにしろ「やるべきこと」で「やれること」は山ほどありますから。
これからは私も、先延ばしの人生ではない生き方に変えようと思います。
先もあまりないことでもありますし。

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2007/10/06

■節子への挽歌32:「一日の旅おもしろや萩の原」

節子の習い事のひとつに習字がありました。
近くの東さんという先生のところに、月に2回、通っていました。
そこに行くことが、節子の大きな楽しみでもありました。
集まる人たちとの会話がとても楽しかったようです。
節子は本当にたくさんの良い友だちにいつも囲まれていました。

展示会にも出展させてもらっていましたが、その一つがいま、節子の霊前に置かれています。
花に埋もれていましたが、ちょっと花が少なくなったので目立つようになりました。
改めてじっくりと見せてもらいました。
Sho2
ここをクリックすると大きくなります。

節子のものは、今では何でもよく見えるのですが、節子らしい雰囲気を漂わせています。
「一日の旅おもしろや萩の原」
正岡子規の俳句です。
この俳句もまた、節子らしいものを選んだと思いました。
ところが、その話を娘にしたら、
この句は先生から与えられた句らしいよということでした。
いやはや、どうもすべてを節子に贔屓目に考えている自分に気づきました。
しかしまあ、節子らしい句ではあります。

節子はいろいろなことに挑戦する人でした。
わが家の玄関に飾っている油絵も節子の作品です。
いろいろのところに節子の作品が残っています。
いろいろなことに挑戦したということは、なにか一つのことに熱中しなかったということでもあります。
私と同じく、けっこう飽きっぽい面もありました。
でも私と違うのは、それぞれにまじめに取り組んだことです。
ですから作品がいろいろとあるのです。
そうした作品を見るたびに、寂しさを感じます。

作品を残すのも良し悪しです。

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2007/10/05

■節子への挽歌31:愛は煩悩、愛は涅槃

私は節子を愛しています。
過去形ではなく、現在も、です。未来も間違いなく、愛し続けています。

仏教では、愛は煩悩であり、執着の象徴です。
愛がある故に人は悩み悲しみ迷います。
今の私がそうかもしれません。

節子が息を引き取った数日後、愛する人を失ったことがこんなにも苦しいことなのかと思いました。
人を愛することなどやめればよかったと思うほどでした。
うっかり、娘にその気持ちを話してしまいました。
そうしたら娘から、でも愛することができたことの幸せもあったのだから、と言われました。その通りです。
人は本当に勝手なものです。反省しました。

いまは、愛する人を失った、という感覚はありません。
私にとっては、節子はまだ「愛する人」のままなのです。
愛の煩悩は捨てがたいですが、その一方で、煩悩を解き放してくれる愛もまたあるのです。

仏教では、自分をなくした絶対の愛を慈悲といっています。
しかし、私には慈悲という言葉はピンと来ません。明らかに違和感があります。
節子への愛が、煩悩を超えた絶対の愛であれば、きっと私の心もまた平安になるでしょう。
その愛は、もしかしたら、個人としての節子への愛ではなく、節子を通して得た普遍的な愛かもしれません。
私の涅槃は節子のなかに見えていたのかもしれません。

真言宗でよく読誦されるお経に、般若理趣経というのがあります。
松長有慶さんの入門書をまた読み始めました。
以前読んだ時とは全く違った印象で、スーッと心に入ってきます。
煩悩としての愛ではなく、涅槃としての愛が見つかるかもしれません。

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2007/10/04

■節子への挽歌30:愛する人の死が受け入れられないということ

節子の死を理解できていないことが、うまく伝わっていないかもしれません。
そんな気がしてきました。

節子が息を引き取る前、私たち家族はずっと節子に呼びかけていました。
まだ早い、もどってきてよ、と。
しかし、節子は息を引き取りました。
そんなに生々しい臨終体験をしながらも、なぜか節子の死に現実感がないのです。
写真を見ていると、今日にでもまた、あの明るい節子が戻ってきそうな気がするのです。
それが実に現実感をもっているのです。

節子にはもう会えないと頭は知っていますが、
節子にまた会えると心身が動いてしまうのです。
おかしな言い方になりますが、
会えるはずの節子になぜ会えないのかというのが寂しさの根底にあるのです。
もう会えない人であればあきらめられますし、時が寂しさを癒してくれるかもしれません。
しかし、節子はまだ私たちには存在しているのです。
だから毎日話しかけ、相談をもちこんでいるのです。
家族を亡くした人が、その人の居室をそのままにしておく気持ちと同じです。

よく、節子さんはいつもあなたと一緒にいますよ、といわれます。
私もそう思いたいし、事実、そういう気もしています。
しかし、それ以上に、節子はまだこの世に存在しているという感覚が強くあるのです。
そうした思い込みが、悲しさのショックを緩和してくれているのかもしれませんが、どうもそれだけではないような気がします。
つまり、そこにもっと大きな生命のメッセージがあるように思います。
おそらく愛する人を失ったことのある人にはわかってもらえるかもしれません。

私のこれまでの知識や論理体系は破綻しそうです。
生き方が変わるはずです。

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2007/10/03

■節子への挽歌29:伴侶の死は自らの半分の死

伴侶の死によって、私にとっては、2人でつくってきた私たちの世界の半分が失われました。
私が生きている世界の最も重要な要素は、私と節子でした。
その2人の心身の中に蓄積された記憶や体験が世界をつくっていました。
ですから、節子の死は、その半分が失われたことを意味します。
私の半分の死でもあるわけです。
もちろん節子の心身にあった記憶や情報は私の心身もシェアしています。
しかし、ホログラムがそうであるように、
情報源の一部が失われると世界の全体像はそのままであっても全体に希薄になるのです。

これはとても不思議な感覚です。
一見、何も変わっていないように見えるのに、実際にはどことなくエネルギーやオーラが違うのです。
ですから普通に行動していても、ある瞬間に突然に力が抜けるというか、違和感が出てくるのです。
まわりがぼんやりしてきます。

伴侶の死は自分の半分の死、ということは、いいかえれば伴侶の半分の生を意味します。
こう考えると、死とか生への考え方も変わってきます。
さらにいえば、そうした相関関係は、伴侶だけではなく、家族、仲間、社会へと広がっていきます。

華厳経にインドラの網という話が出てきます。
同じ題の宮沢賢治の小品もありますが、
インドラの網とは「場所的にも時間的にも遍在する、互いに照応しあう網の目」のことです。
生命はそうしたインドラの網目だと私は思っていますが、
個々の網目と網全体とはまさに一即多・多即一の関係にあり、
網目に変化があれば網全体が変わり、そのためにまた網目も変わるというホロニックな構造にあるように思います。
この文章を読んでいる読者の変化が、回りまわって私にも影響を与えてくるというわけです。
その変化は、網目の距離によって増減するでしょうが、
夫婦はほとんど同じように変化する不二の関係にあるのかもしれません。
少なくとも私たち夫婦はそうでした。

自らが死んでも、伴侶の中に半分は生きている、と節子は気づいていたでしょうか。
いや、私自身が本当に確信できているのかどうか。
正直に言えば、まだ完全には確信できていないのかもしれません。
でも節子が私の中に生きていることは間違いありません。

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2007/10/02

■節子への挽歌28:受け入れたくない現実を心身が拒否しているようです

告別式の挨拶でお話したように、1か月前の今日は、私にとっては人生で一番うれしい日と悲しい日を味わった日でした。
その日と同じように6時に目が覚めました。
節子がこの日はゆっくりとねむれて、みんなで喜び合ったことを思い出しました。
そして、突然に、私がまだ節子の死を全く理解できているような気がしてきました。
節子が死んだ、ということが私にはまだわかっていないのではないか。
そんな気がしてきました。

この1か月、私は立ち上がれずに、節子の霊前で無為に過ごしています。
いろいろな人が弔問に来てくださいましたが、その時は少し元気が出るものの、
少したつとまた無性にさびしくなり、みっともないほど立ち上がれずにいるのです。
私には節子の存在が大きすぎたようです。

あまりに存在が大きいがために、理解不能になっているのかもしれません。
理解してしまったら、私の生活が成り立たなくなる不安から、
私の心身が節子の不在を受け入れずに、拒否しているのです。
節子がいないなどと言うことは、私にはありえないことであり、理解できないことなのです。
会えなくて話せなくて抱くこともできない寂しさは実感できます。
しかし節子がこの世にいないことが、本当に理解できていないのです。
これはとても不思議な感覚です。
娘もまた同じ状況にあるようです。

しかし、節子はいつもいません。
話しかけても返事もしません。
夜、寝返りをうっても、そこにいないのです。
「いないはずがない節子がいない」。
その矛盾をどう受け止めていいのか、わからないのです。
だから頭がすごく疲れます。
そして、そんなことを考えていると、恐ろしいほどの悲しみが全身を襲います。
もしかしたら、節子はもういないのかもしれない。
そう確信する一歩前で、いつも私は思考停止してしまいます。
そうしたことを続けながら、もう一つの解釈にたどりつきました。
それは、節子の死ではなく、私たち2人の死です。

長くなるので、この続きは明日書きます。
その考えだと最近の異様な疲労感の理由が納得できるのです。

いま節子の霊前で書いていますが、パソコンなどしないで、もっとここに座っていてよと、いっているような気がしますので。
1か月前も、もっと節子にずっと付き添っていればよかったです。
安心し過ぎてしまったことがとても悔いになっています。

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2007/10/01

■節子への挽歌27:節子の皮肉や元気が出るユーモアが聞けません

節子はまじめな堅物で、自分が面白さに欠けた人間であることを自覚していました。
その点では私も同じでした。
2人の価値観はほとんど重なっていました。
しかし、節子は私と違って、死にそうな時でさえ周りを元気にするユーモアセンスももっていました。
その点では、私よりもおしゃれでした。
呼吸が困難で、見ていても苦しそうな闘病生活の最後の頃、あまりの苦しさに「コンスタン」という精神安定剤を飲んでいたのですが、あまり効き目がありませんでした。
医師と看護師が深刻に処置している時に、節子は「コンスタンを飲んでいるのにコンスタントに呼吸できない」とつぶやきました。
医師と看護師は、その言葉がすぐには理解できませんでした。
そばにいた娘が、「ここは笑うところですよ」と笑いを促して、やっと気づいてもらいました。
そんなやり取りが時々ありました。
深刻な場が、それで和らぐことが少なくありませんでした。
そのために、私は節子の深刻な状況を少し楽観視し過ぎたのかもしれません。
節子は、私たちを「看護」してくれていたのです。

私はそうした節子のユーモアがいつも好きでした。
私が落ち込んでいる時に、節子はいつも私を元気にする「魔法の一言」をかけてくれました。
彼女の語彙は決して多くはありませんでしたが、的確な表現で人を元気にしてくれました。どんなに辛い時にも、です。
節子との会話は、夫婦喧嘩の時でさえ私には快いものでした。
できればもう一度、節子と夫婦喧嘩をしたいものです。
平和好きの彼女は喧嘩は好きではありませんでしたが。
来世に行くまで、もう節子のおしゃれな皮肉や心和むユーモアが聞けないことが残念でなりません。

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2007/09/30

■節子への挽歌26:修は女性のことを本当に知らないのね

私は節子にほれ込んでいました。
最初からそうだったわけではありません。
節子への私のプロポーズの言葉は、「結婚でもしてみない」でした。
節子はなんと無責任なプロポーズだと思ったそうですが、不思議なことに当時の私のイメージからすると違和感がない言葉だったそうです。
誰でもよかったなどとはいいませんが、結婚とはそんなことだろうと思っていました。
私がプロポーズした時にも、節子には付き合っていた男性がいました。
しかし私にとってはそんなことはどうでもよく、プロポーズしたときにはただただ節子と一緒にいたかっただけです。
節子は私ほど私に惚れていたわけではありません。
惚れていたのは私です。
節子は押し切られて結婚してしまったのです。

その後、ずっと節子に惚れ続けていたわけでもありません。
まあいろいろとありましたし、節子は結婚を少しだけ後悔したこともありました。
親戚の反対を押し切っての結婚でしたから、私以外の人には言いませんでしたが。
私たちはどんな時も、お互いに正直でした。

私と節子が完全に世界をシェアしたのは、たぶん私が会社を辞めることを決めた頃です。
自分の納得できる生き方をするべきだと決めた私を、節子が何も言わずに全面的に支援してくれました。
2人で新しい世界を創りだそうと合意したのです。
専業主婦だった節子は苦労したはずです。
収入がなくなって、ただでさえ少なかった貯金がどんどんなくなっていくなかで、経済的にも不安が大きかっただろうと思います。
しかし、そんなことは一言も言いませんでした。
世間的な意味でのさまざまなものを捨てることに、節子は微塵も未練を持ちませんでしたし、私の身勝手な活動にも一言も異議を唱えませんでした。
退社した時に言ったのは、「25年間、家族のためにありがとう」という言葉でした。
以来、私にとって節子は「生きる意味」を与えてくれる人になりました。
そして私たちの人生は、まさに一つになったのです。
私たちほど信頼し合い、愛し合えた夫婦はないと自負しています。
まあ、それがなんだと言われそうですが。

節子が一番だと言葉にする私に、節子はよく、修は女性を知らなすぎるねと笑っていました。もっとすばらしい女性がたくさんいるのに、と。
そうかもしれません。
しかし、私には、節子のなかに、すべての女性がいたのです。
ですから、私はすべての女性を知っていると自負しています。
まあ、それがなんだと言われそうですが。

華厳の思想にある「一即多・多即一」のように、節子にはすべてがありました。
節子と話していると、世界が見えたのです。
そして自分自身も見えました。
節子は、私には鏡でもありました。

節子は私と一体でした。
ですから、節子がいなくなっても何も変わらないはずがなのですが、鏡に映る自分がいなくなってしまったことの意味はとても大きいです。
何も変わらないのに、何だかすべての存在感が急に希薄になってしまったのです。
いま、とても不思議な世界を、私は生きているような気がします。
時々、大きな不安が襲ってきます。
まあ、それがなんだと言われそうですが。

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2007/09/29

■節子への挽歌25:節子と抱き合えないことがまだ実感できません

節子がいないさびしさに自然と涙が出ることが少なくないのですが、
その一方で、未だに節子がいなくなったことが実感できないでいるのも事実です。
認めたくない現実は受け入れないのが人間かもしれません。

朝起きて最初に口に出るのが「せつこ、おはよう」です。
日中も自然と節子に話しかけることも多いです。
時折、表現できないような不安感に包まれることがありますが、節子の顔を思い出すと、次第に収まります。
節子とまた会えるのではないかという思いがあるのです。
荼毘の現場にいましたから、そんなことはありえないことはもちろん知っていますが、
にもかかわらず節子が突然ドアを開けて帰ってくるような気がしてなりません。

節子は私をおいて友人たちと3週間ほど旅行に出かけたことがあります。
まあ、そのときと同じような気が、どこかでしているのです。
節子とあまりに時間を重ねてきたおかげで、その不在に現実感を持てないのです。

旅行で留守にしているのと、違いはなんでしょうか。
節子の声が聴けないことです。電話がかかってこないのです。
しかし、一番の違いは、節子と抱擁しあえる日が二度とこないことです。

抱きしめることができず、抱きしめてもらえることができない。
いつでも抱擁しあえると思えば、抱擁しあう必要もないのですが、
それができないことを知ることは辛いことです。
その寂しさはどうしようもありません。

私が元気を失った時、節子はいつも私を抱きしめてくれました。
節子に抱かれていると、どんな不安も迷いもなくなりました。
こんなことをいうと笑われそうですが、私が自分の思うように生きられたのは、
何が起ころうと最後に節子に抱いてもらって慰めてもらえたからです。
どんな失敗も、どんなに辛くて悲しいことも、節子は忘れさせてくれました。
そうであればこそ、私には怖いものなどなかったのです。
でも今は違います。
元気がなくなっても、回復させてくれる「魔法の力」は失われました。
元気をなくさないように、静かに生きたほうがいいでしょうか。

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2007/09/28

■節子への挽歌24:夫婦が一緒に歩いているのを見ると嫉妬してしまいます

昨日、娘と一緒にスーパーに行きました。
節子が元気だった頃は、節子とよく一緒に買い物に行ったものです。
見境なく商品をかごに入れる私に、節約家の節子はいつも困っていましたが、
一緒に通っているうちに、私の方が節約家になりました。
そうしたら今度は品質や原産地をきちんと見るようにと指導されました。
節子から学んだことは少なくありません。
病気になってからは、あなたも一人で買い物できるようにならないといけない、とよく言われましたが、おかげで商品を選ぶポイントはだいぶ身につけました。

最近は夫婦で買い物をしている人が増えています。
そういう人たちを見ると、どうしても節子のことを思い出します。
なんで私の横には、節子でなくて娘なのだと思ってしまいます。
同じような世代の夫婦に出会うと、とても嫉妬してしまいます。
私たちも、そうありたかった、と思うのです。

私たちは本当に一緒で行動することが多かったです。
私がむしろ節子にくっついていたのかもしれませんが、そばに節子がいるだけで幸せでした。
もっとも節子は迷惑だったかもしれません。

一番、寂しくなるのは、旅行に行く夫婦を見かけた時です。
ついつい目をそらしてしまいます。
市川さんが、奥さんと一緒に、「同行2人」で、熊野古道に行きませんかと誘ってくれました。
奥さんと一緒。
そうか、節子はいつも私と一緒にいるんだった。
これからは嫉妬するのをやめようと、その時は思いました。
でもやはり仲のよさそうな夫婦を見るとうらやましさとさびしさにおそわれます。

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2007/09/27

■節子への挽歌24:時に癒してほしくはありません

また勝手なことを書きます。
悲しんでいる私を見て、「時が癒してくれますよ」と多くの人が言ってくれます。
そうかもしれません。
しかし、私自身は、「時になど癒してもらいたくない」と思っているのです。
時がたてば哀しさが消えるとは全く思っていませんし、なによりも、時に癒されたくなと思っているのです。
いいかえれば、この悲しさをずっと背負っていきたいと思っているのです。
慰めてくださる方々の思いやりには感謝していますし、そのことの正しさもわかってはいるのですが。
天邪鬼ですみません。
節子が知ったらまた始まったと苦笑いをすることでしょう。

現実はどうでしょうか。
実は日を経るにつれて、悲しさは大きくなってきています。
節子のいない生活に慣れることはあっても、悲しさや寂しさは小さくなることはありません。
むしろ節子のいないことを実感するたびに、悲しさは積み重なるのです。
辛さも日を経るたびに現実のものになってなってきます。

どうも私の場合は、時が癒してくれるのは無理そうです。
むしろ節子と別れたその瞬間の世界に永遠にいつづけたいというのが本音です。
時がたつほどに、節子との距離が遠のくようで不安でなりません。
時が癒してくれるような、そんな悲しさや寂しさであれば、私もそう辛くはないのですが。

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2007/09/26

■節子への挽歌22:危ういかもしれない話

「危うい話」シリーズです。

長く死体と暮らしていたとか、愛する人を食べてしまったとか、猟奇事件といわれる事件が時々起こります。
そうした事件は、私にはただ「おぞましい」だけで、事件のことを知ることさえ生理的に受け付けませんでした。

節子が遺骨になってしまってから、私は毎日、その遺骨をベッドの横に置いて寝ています。私にとっては、なんでもない話ですが、たぶん他の人からは猟奇性を感ずるかもしれません。
節子がまだ荼毘にふされる前に、その安らかな死に顔に私は何回も触れました。
弔問客があると、顔を見て触ってやってくださいなどと言ったこともあります。
隣にいた娘が、注意してくれるまでは、それが「異常なお願い」である事に気づきませんでした。私には息を引き取った後も、荼毘にふされて遺骨になってしまった後も、すべてが生きていた時と同じ、愛する節子なのです。しかし、他の人にはそうではない事に気づかなかったのです。
それを一歩進めれば、世に言う「猟奇事件」になりかねないことだと、最近気づきました。
ようやく、そうした事件を起す人たちの気持ちがわかったのです。
私がもっと強く節子を愛していたら、荼毘になどふさずに、ずっと一緒にいたかもしれません。食べはしなかったでしょうが、類する行為はしたかもしれません。

今も節子の遺骨や遺影の前で一人で考えていると、世の中の「常識」などどうでもいい、ただ節子と一緒にいたいという思いに駆られます。
そうするといつも、「みっともないことだけはしないでね」といつも言っていた節子の声が聞こえてきます。
「そうだ、そうだ」といっている娘たちの顔も浮かびます。
その声が、猟奇事件を予防しているのかもしれません。

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2007/09/25

■節子への挽歌21:先が見える愚かさ、先が見えない愚かさ

節子の死は主治医たちにはほとんど自明のことだったでしょう。
医学的知識を持っている医師たちには、先が見えていたのです。
先が見えていなかったのは、私と家族です。
医学的にはどうであろうと、節子は治るんだと確信していたのです。

医師に対する私の不満は、見えている先を絶対視して考えることでした。
生命体である人間は、それぞれ違う存在であり、医学の知見が絶対ではないはずです。
それにまだまだ生命体の不思議は解明されたわけではありません。
わずかばかりの知識で、判ったような気になっている医師は、私にとっては「愚かな」存在です。

先が見えるからといって、必ずしも的確な判断につながるわけではありません。
それは病気に限ったことではありません。
「先が見える愚かさ」に陥らないようにするのが、私の生き方でした。

しかし、愚かだったのは私のほうでした。
先を見ようとしなかったのです。
先が見えるが故に愚かな判断をすることは少なくありませんが、
先が見えないが故に愚かな判断をすることは、きっともっと多いでしょう。
先を見すえて、なおかつその「先のこと」に呪縛されない生き方をしなければいけません。
私もそう思っていたのですが、節子に関しては「先が見えない愚かさ」に陥ってしまっていました。
先を見すぎる医師への反発があったかもしれません。

そうした私の小賢しさは今回に限ったことではありません。
そうした私の言動を、節子はいつも笑いながら諭してくれました。
それなのに、私の、その小賢しさが、節子に必要以上の大変さを強要してしまったのです。
今回は諭すこともできずに、節子は耐えるのみでした。
私もまた、その間違いを許してもらう機会を失ってしまいました。

先が見えない愚かな人を伴侶に選んだ節子の不幸かもしれませんが、
その点では私たちは似たもの同志でした。
先を見るのではなく、先を創ろうとするのが、私たちの生き方でした。
そして残念ながら先を創れなかった。
無念です。

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2007/09/24

■節子への挽歌20:定型文の豪華な弔電はやめませんか

今日はちょっと社会時評の内容も含めて、節子への挽歌です。

節子の葬儀に関して、たくさんの弔電が届きました。
送ってくださった方々には感謝していますが、私はこの弔電の送り方にかなりの異論をもっています。
弔電にではなく、弔電の送り方やスタイルに、です。

せっかく弔電を送ってくださった方には大変失礼なことになりますが、今回はあえて書いておこうと思います。
問題は、弔電の多くが定型文だということです。
そして、弔電の文章を包むカバーが立派過ぎることです。
中には漆塗りのものもあります。
この2つは、私が最も嫌う文化を象徴しています。
せっかく送ってくださった皆さん、本当に申し訳ありません。
みなさんのお心遣いには微塵も疑いを持っていませんが、この文化は早くなくしたいと思っているのです。
お許しください。

今回、自分の言葉で電文を書いてきてくれた方はほんの数人でした。
告別式ではそのうちの2つを読み上げてもらいました。
しかし、郵政公社は、どうして定型文などを用意しているのでしょうか。
それさえなければ送る人は少しの時間、相手に思いを馳せるはずです。
商品を選ぶようなやり方は、弔電にはふさわしくありません。
郵政公社のコストダウンには寄与するでしょうが、日本の文化を壊すものです。
死者への冒涜ではないかとすら私には思えます。

さらに腹立たしいのが、電文を包むものが年々立派になってきていることです。
その一方で、電文が書かれる肝心の用紙は年々粗雑になってきています。
発想が完全に間違っています。
メッセージは軽視し、包装を立派にするのは、金銭至上主義の象徴です。
しかも、明らかに資源の無駄遣いです。
私はそうした弔電は廃棄しますが、その時にとても悲しい気分になります。
それを知っているために、弔電をもらった時にとても悲しくなります。

包装の立派さで弔意の重さが決まるのでしょうか。
そんなはずはありませんが、それがまさに今の社会の文化を象徴しています。
私が一番嫌悪する文化です。

意外だったのは、こうしたことに批判的なはずの信頼する友人が、一番立派な包装の弔電を送ってきたことです。
彼は女房のことを深く心配し、いろいろと応援してくれた人ですから、思いを込めたのだと思いますが、彼がまさかそんな選択をするとは予想もしていませんでした。
私のことを良く知っている彼なら、一番質素な包装を選べたはずです。
しかし、豪華さの段階がある以上、そうなってしまうのかもしれません。
私も一番質素なスタイルで送るのには躊躇するかもしれません。
他人のことをとやかく言える立場ではありません。

弔電のカバーは格差をつけずに、すべて同じにすべきです。
弔電に経済的な格差をつけるのは、極端に言えば、生命を差別化することです。
郵政公社の、そうした卑しい商売主義は正すべきです。
しかし民営化で、この方向はますます進むかもしれません。
心卑しい人たちが経営者になっていますから。
彼らの前歴を見ればそう思わざるを得ません。

弔電は喪主宛に届きます。
これにも違和感があります。
弔辞などは死者宛に読み上げられますが、弔電はなぜ家族に当てられるのでしょうか。
葬儀は死者のためのものではなく、残された人たちのためのものからかもしれません。
そのことにも私は違和感を持っています。
喪主宛には手紙がいいでしょう。急ぐこともありません。

今回の葬儀は、節子を親しく知っている人だけに伝えたのですが、こういう情報は見事に伝わるものです。
節子に会ったことのない人まで弔電をくれました。
それはうれしいことですが、私にはいささかの違和感があります。
こんなことをいうと、せっかく弔電を送ってくれた人は怒り出すかもしれません。
すみません。
送ってくれた人への不満をいっているのではありません。
そういう形になってしまう文化や仕組みを問題にしているのです。

告別日までに2人の方から手紙をもらいました。
ご自分の言葉で、私への弔意を書いてきてくれました。
私にはとてもうれしい手紙でした。
女房に読みか聞かせました。
とても心が和みました。

弔電の文化は、そろそろやめても良いように思います。
少なくとも私は定型文の弔電は打ちません。

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2007/09/23

■節子への挽歌19:いつになってもやめられません

まさか挽歌をこんなに長く書き続けるとは思っていませんでした。
そもそもこのブログのテーマはは社会の動きへの時評です。
しかもこの間、政治の世界は激変していますし、問題も多いです。
そんな時に、自分の世界に閉じこもって、いつまでも妻を語っていることに読者は辟易していることでしょう。

しかし、書き出すと次から次へと書きたいことが出てくるのです。
私が節子と見える形で話し合えるのはこの場だけだからです。
それに、読者からも毎日のように反応があるのです。
それでついつい調子に乗ってしまい、書き続けているわけです。
いっそのこと節子への挽歌のブログをつくろうかと思ったりもします。
節子のことなら、多分一生書き続けることができるでしょう。
しかし、それではせっかくの「時評ブログ」の意味がありません。
そろそろ時評に戻る必要がありますが、一挙には辛いので、少しずつ時評バージョンをふやして行く事にします。
うまく行けば、妻への挽歌とつなげられるかもしれません。

ブログを書き続けてきたのは、節子への思いを断ち切れないことが理由ですが、
読者からの反応も大きな理由です。
たとえばこんなメールをもらいました。

佐藤さんがどんなに奥様を大切に思っていらしたか、
そしてその奥様がどんなに素敵な方であったか、
言葉のひとつひとつから痛いほど伝わってきて涙があふれました。
奥様とは直接面識がないのですが、
親しい人が亡くなったときのような深い悲しみを感じました。
機会がありましたら奥様にもご挨拶させていただきたいと思います。
私もある会で(たぶん)一度しか会ったことのない人です。
文中の、「奥様がどんなに素敵な方であったか」に関しては、前にも書いたように、私にとってだけの素敵さでしかないのですが、私がとても嬉しかったのは、「機会がありましたら奥様にもご挨拶させていただきたい」というところです。
この人にとっては、節子はまだ生きているのです。
挨拶したいと言ってくださっているのですから。
私は、息を引き取った節子がまだ私の近くで生きつづけていると思っているのですが、そう思っている人が一人でも増えれば、こんなうれしいことはありません。
そんなわけで、節子への挽歌はこれからも書き続けるつもりです。

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2007/09/22

■節子への挽歌18:どんな看護も悔いが残るものです

節子は自宅で最後を迎えました。
献身的な看護だった、悔いなど残すことはない、奥様がうらやましいほどです、と多くの方々から慰められています。
たしかに私の娘たちはよくしてくれました。
とりわけジュンの言動は、親の私ですら頭がさがるほどのものでした。

しかし、私の看護は決して献身的でも誠実でもなく、実に悔いが残るものでした。
今朝も5時に目が覚め、節子への対応のことを思い出してしまいました。
声に出して彼女に謝りました。
外部から見れば誠心誠意を込めたものに見えるかもしれません。
仕事も一切やめ、節子に寄り添い、最後の1か月はほとんど同じ部屋で暮らしました。
節子は、そんな家族を気遣って、逆に入院するというほどでした。
節子がいつも「家族に感謝感謝」と友人たちに言っていたと後で節子の友人たちから聞きました。
そうしたことを総合すると、まあ「献身的な看護」に見えるかもしれません。

しかし、実態は悔いばかりが残る看護でした。
なにしろ「治す」という約束も守れなかったのですから。
馬鹿もほどほどに、と言われても、返す言葉もないほどです。
しかもそのことを節子は多分知っていたのですから。
結局は、私が看護していたのではなく、私が看護されていたのです。
そのことを知れば、私の看護がいかに問題が多いものだったことがわかるでしょう。

思い出すだけで元気がなくなります。

しかし、私たちのことを深く理解してくれているだろう友人が、こう書いてきてくれました。

私は、奥様と佐藤さんの闘いに、
そしてお二人の娘さんと共に闘われた日々に、
心から敬意を表します。
あなた方は、見事な闘いぶりであったと…。
私も、奥様のようでありたい…、
そして、佐藤さんのようでありたいと、
心から想っています。
私の後悔と罪悪感は消えることはないでしょうが、この一言で、とても気がやすめられました。

いうまでもありませんが、節子は私の看護には、皮肉(節子は皮肉が好きでした)は言うでしょうが、100%満足しているでしょう。
満足していないのは、私なのです。
看護もまた双方向的な関係なのです。
節子の看護にしっかりと応えられなかった自分が悔やまれてなりません。
私の看護は決して合格点はとれません。
当事者がいちばんよく知っているのです。

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2007/09/21

■節子への挽歌17:一緒に旅行に行けなくなってごめんね

昨年の今日、私たち夫婦は福井の芦原温泉で泊まっていました。
再発が確認される直前の旅行で、これが最後の温泉旅行になりました。
その時に、思いもかけず、東尋坊で自殺予防に取り組む茂さんと川越さんにお会いでき、とても思い出深い旅行になりました。
その旅行の帰り、若狭湾に面した河野で1時間近く夕日が沈んでいくのを見ました
あんなに時間をかけて、夕日を2人で見たのは初めてでしたが、その時はまさか1年後には節子が向こうに旅立つとは思ってもいませんでした。

再発して、旅行に行けなくなってしまってから、節子はいつも、私に「一緒に旅行に行けなくなってごめん」と言っていました。
節子は、夫婦一緒でないと私が遠出の旅行に行かないことを知っていたのです。
友だちと一緒に旅行にでも行ってきたらとも勧めてくれましたが、私が絶対に行かないことも知っていました。

私はともかく節子と一緒でないと、何をしても、どこに行っても、楽しくないのです。
私が節子に惚れていたからではありません。
節子は私の分身であり、体験を共有していないと落ち着かないからなのです。
ですから本当は仕事でも一緒したかったのですが、そこまでのわがままはさすがに強要できず、話を聞いてもらうことで我慢しました。
節子は私の仕事を知っておかねばいけないので、とても苦労したはずです。
なにしろ私の「仕事」は、何がなんだか本人でさえあまり理解できないほど多種多様、いや混沌としていましたから。それに常識的ではないことが多かったです。
しかしいつも話を聞いてくれました。
理解は期待しませんでしたが、共感はいつも期待し、節子の共感が得られないことがあれば仕事もやめるようにしていました。

一緒に旅行には行けないけれど、こんなに一緒にいられるからいいじゃないかというと、節子はすまなさそうな顔をしました。
しかし私は本当にそう思っていました。
節子は私よりも旅行好きでしたから、無念さは節子のほうがずっと大きかったはずですが。

やっとゆっくり一緒の時間を過ごせる年齢になったのに、看病でしか一緒にいられなくてごめんなさいと何回も私に言ったのが思い出されます。
その節子が、私をおいて一人で旅立ってしまいました。
どんな思いだったでしょうか。
私がいなくても大丈夫だろうかと心配です。
なにしろ私たちは、いつも2人でひとりでしたから。

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2007/09/20

■節子への挽歌16:死者は聖人になるものです

このブログを読んでいると、節子が才色兼備のすばらしい女性のように思われるかもしれません。
しかし事実は全くそうではありません。
私にはすばらしい妻でしたが、一般的な基準からすれば、欠点も多く美人でもありませんでした。
節子は嘘がきらいでしたから、節子の欠点もきちんと書いておかないと後で会った時にまた怒られます。

そう思って、節子の欠点を思い出そうとしました。
節子が元気なときには、すぐにたくさん出てきたのですが、実に不思議なことに出てこないのです。
性格の悪いところもあり、お互いに性格の悪さを言い合ったこともあるのですが、それが思い出せないのです。
自分に都合のいいことだけしか覚えていないことも私には不満でしたが、考えてみると私自身もそうですから、ことさらあげつらうこともないでしょう。
思い出していくと、彼女の悪いところは、実は私自身の悪いところなのです。
人は自分の欠点を他人に見るものですが、夫婦の場合はまさに相似対照の関係にあるものです。
ですから夫婦喧嘩は犬も食わないわけです。

節子は美人ではありませんでしたが、自分の顔が好きでした。
闘病中も、寝る前に鏡で自分の顔を見て、笑顔を作って自分をほめていました。
今日もがんばった、と。ベッドの横には、いつも手鏡がありました。
私も節子の顔がすごく好きでした。
息を引き取った時の節子は、まさに私が思っていた天使のようでした。
私が節子を美人だと心底思ったのは、そのときが初めてです。
もっとも天使が美人であるとは限りませんが。

今回は欠点を書く予定だったのに、またほめてしまっていますね。
困ったものです。
いまも節子の遺影を見ながら欠点を思い出そうとしているのですが、思い出すのは良いところばかりです。
どんな人も、死者になると聖人になるというのは本当のようです。

近くの人が、奥さんはこの地域の太陽のような人でした、と言ってくれました。
私たち家族にとっても、まさに太陽でした。
どんな欠点があろうと、すべてが私たちの力の源でした。
その節子の声がもう聞こえない。
節子と喧嘩もできません。愚痴もこぼせず、ほめてももらえない。
節子もきっとそう思っているでしょう。
早くまた、あの太陽のような節子に会って、冷え切った心身を温めてもらいたいです。

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2007/09/19

■節子への挽歌15:般若心経

私の1日の始まりは、妻の前で般若心経をあげることです。
節子がガンを再発して以来、寝る前に2人で唱えるようになった、にわか読経者ですが、妻を送った後は、毎朝一番に唱えています。
なかなか覚えられませんが、最近、ようやく暗誦できるようになりました。

節子が苦しくなっても最後まで一緒に声をだしていたのが、

依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
です。なぜか節子はその文章が好きでした。
私が最初に覚えたのは、それに続く、
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
です。
お互いに意味がわかってのことではありません。自然とそうなったのです。
今日、何とはなしに気になって、手元の「般若心経講義」という本で、その意味を調べてみました。
節子が唱和したところの大意は、
何物にも拘束されずに、囚われることなく、自由に生きることで、妄想からも解放され、不死の生命を得る、
というようなことらしいです。
私が最初に暗唱したしたところは、
すべての諸仏も般若の智恵により正しい覚りを得た、私たちもそうしなければならない、というような意味のようです。
このごろは頭がボーっとしていますので、正しく理解できているかどうかはわかりませんが。

節子と私の心に、最初に飛び込んできた、それぞれの経文は、それぞれにとてもぴったりのような気がしています。
やはり、私よりも節子のほうが、どうも先を進んでいたようです。

ところで、この話を市川覚峯さんに話しました。
市川さんは、「無罣礙、無罣礙故」は佐藤さんへのメッセージだというのです。
そうかもしれません。
いまの私は、節子には好きになってもらえないでしょう。
過去を振り返りすぎで、些末なことにこだわりすぎになっていますから。

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2007/09/18

■節子への挽歌14:とても「危うい話」

久しぶりに「危うい話」シリーズです。
このシリーズのファンもいるのです。
今日は「とても」危うい話です。

CWSコモンズにも書きましたが、先週、二七日の前日に、節子の旅の様子が入ってきました。
節子は、たくさんの花に囲まれたところで、心和やかに過ごしているそうです。
そして家族に感謝してくれているそうです。
彼岸への旅は順調のようです。

そのことを教えてくれたのは、私たち夫婦の知人です。
その知人は、先に見送った彼岸にいる娘さんから今日聞いたそうで、急いで電話してきてくれたのです。

その人は節子のことを心から気遣ってくれて、最後まで奔走してくれた人です。
娘さんも、私たちはよく知っていますが、40代で、母親を残して先立ちました。
母一人娘一人だったので、母親の悲しみは大きかったでしょう。
しかし幸いにも彼女たち(母子)は、いずれも不思議な能力を持っています。
娘の死後も、ある人の助けを借りて、母子の会話が続いているのです。
今日、娘さんの話を聞きにいったら、節子と会ったことを話してくれたのだそうです。
たくさんの花に囲まれた明るい場所。
私は節子の祭壇の置かれた部屋で電話を聞いたのですが、
まさにその部屋はお供えの花でいっぱいです。
節子はどこにいても花に囲まれているようです。

彼岸への旅に疲れて、戻ってきてほしいという気も、実は私のどこかにあるのですが、
まあ節子が楽しく旅を続けているのであれば、それもまたいいでしょう。
それに節子のことですから、旅の途中でもきっとたくさんの友人をつくることでしょう。
いささかの嫉妬も感じますが、うれしいお知らせです。

ちなみに、葬儀が終わった後に花が届くのは嬉しいですが、一挙に届くのが問題です。
ですから、今度私が花を送ることになったら、葬儀から少し間をおいて送ろうと思います。
時間が少し立てば、白いお供え花でなくてもいいですし。
これも体験から気づいたことです。
節子が教えてくれたことかもしれません。

<危ない話>シリーズ
少し危うい話
かなり危うい話
もしかしたら危うい話

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2007/09/17

■節子への挽歌13:白い花に囲まれた祭壇

節子が息を引き取って、半月たちますが、今も毎日のように花が届きます。
節子が花好きだったことを知っている友人が花を持参してくれたり、送ったりしてくれるおかげです。
花が届くのはとてもうれしいのですが、「お供え」の花なので、みんな同じ雰囲気です。
なかには近所の子どもが持ってきてくれた華やぐような花もありますが、それ以外は白い花が基調です。
華やかな花が届くのは場違いなのかもしれませんが、白い花ばかりに囲まれていると少し気分が沈みます。

葬儀の時に、節子は華やかな花で送られたいといっていました。
たくさんの生花を送ってもらえたのですが、今回は葬儀をお願いしたところの方針で、生花はすべて菊が基本でした。節子の希望を伝えましたが、だめでした。
当日、その会社の社長にそのことを話したら、少しだけユリを増やしてくれました。
菊は長持ちしますが、ユリなどはあまり持ちません。
娘の朝最初の仕事は節子の周りに飾られている花の整理です。
いつも元気な花に囲まれているようにこまめに枯れかけた花を抜いていますが、これは結構大変です。
葬儀場ではとてもフォローできないでしょう。心がなければできません。

白は心を清める色ですが、ずっとその中にいると気分が白くなります。
これは冗談ではなく、心の表情がなくなっていくということです。
そして無性にさびしくなります。
これがこの2週間、白い花に囲まれて過ごしてきた私の実感です。
そろそろもっと華やかな花がほしくなり、庭のひまわりと花虎ノ尾を飾りました。
祭壇の表情が少し変わりました。

節子は花が好きでしたが、私は節子に花を贈ったことはありませんでした。
ちょっと遅くなりましたが、花屋に花を買いに行こうと思います。
いつも私のまわりに花を置いてくれていた節子への、初めての花の贈りものです。
ちょっと気は重いのですが、節子にほめてもらえるかもしれませんので。

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2007/09/16

■節子への挽歌12:なぜこんなに寂しいのでしょうか

節子の二七日です。
伴侶がいないということの寂しさの大きさに驚いています。
同居している娘たちが、気をつかってくれますが、
節子の姿が見えないことの空白感はたとえようがないほど大きいです。
悲しいとか辛いとかいう以上に、心が安定しないのです。
私たちはお互いに空気のような存在でしたから、
いわば空気が薄くなってしまったような「酸欠」状態のような気もします。

以前から、節子は、私たちは寄り添いあいすぎているので、どちらかが欠けるとその後が怖いといっていました。
同感でしたが、まさか私が後に残るとは思ってもいませんでした。
それが節子の最大の心残りだったかもしれません。

節子は私のすべてを理解してくれていました。
良いところも悪いところも。
強いところも弱いところも。
清いところも卑しいところも。
正しいところもあざといところも。
ともかく節子は私のすべてを知り、受け入れてくれました。
それが私の生きる力の源泉になっていました。

自分のすべてを知っている人がいる。
そのおかげで、何が起こっても安心でした。
不安があろうと迷いがあろうと、すべて節子の笑顔が解消してくれました。
困ったことが起これば、それをシェアしてくれる人がいるということが、私が思いのまま生きてこられた理由です。

人が素直に生きることができるのは、自分を理解し、いつも見ていてくれる人がいるからです。
その人がいなくなったことが、きっと今の大きな寂しさの原因でしょう。
この寂しさは一生背負っていかねばいけません。
時間が癒すという人もいますが、節子でなければ癒せない寂しさです。

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2007/09/15

■節子への挽歌11:慰めのことば

妻がなくなって、いろいろな人から声をかけてもらいます。
「お気落としのありませんように」
「元気を出してくださいね」
「嘆いてばかりいることを節子さんは望んでいないよ」
「むすめさんたちのためにもしっかりしなければいけない」

ありがたいことです。
でも、私にはいずれも無理な話です。
気を落とすのは避けられませんし、
元気がなくなり、涙が出てくるのも仕方ありません。
しっかりなんかしていられません。
節子は私にとってはかけがえのない人だったのですから。
その節子と、もう話しあうこともできないし、抱き合うこともできないのですから。
元気を出せと言われても、無理なのです。
むすめたちには真実を知ってもらいたいです。
嘘はつかない、隠し立てはしない、がわが家の文化です。
私を慰めてくれるのでしょうが、私が悲しくなるだけです。

節子の闘病中も、いろいろと慰めの言葉をもらいましたが、
慰めにならないことも少なくありませんでした。
しかし、せっかくの善意と思いやりを考えると、
さすがの私でもそんなことはいえません。

私たちは、こういう間違いを結構しているのかもしれません。
慰めの言葉は難しいものです。
当事者の気持ちを踏まえなければなりませんが、そんなことはできるはずがないからです。
できることがないという認識で、考えなければいけません。

「思い切り泣いたらいい」
「ゆっくり休んでください」
こういう言葉はどうでしょうか。
これもこれでまた、泣いてばかりいられるか、休んでばかりいられるか、という気になるのです。

要するに、悲しんでいるときには、どんな言葉も慰めにはならないということです。
人間は本当に身勝手なものです。
いえ、私の性格が悪いのかもしれません。

しかし、そういうたくさんの人たちの励ましが、節子との会話のきっかけをつくってくれます。
そういう意味では、すべての言葉が励ましになっているのです。
どんな言葉でも、かけてもらえるとうれしいのです。
本当に人間は身勝手なものです。

今日はどんな言葉が届くでしょうか。
節子のおかげで、たくさんの人に気にかけてもらっていることを感謝しています。
私もだらしなく泣きながら、でも少しずつ新しい世界になじみ出しているのでしょう。

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2007/09/14

■節子への挽歌10:なぜ謝らないのかと節子はいうでしょう

節子は正義感の強い人でした。
彼女の信条は、嘘をつかない、迷惑をかけない、でした。
節子はまた、「非常識」な行為が嫌いでした。
私はけっこう「非常識な言動」が多い人でしたので、よく注意されました。
けんかになったことも少なくありません。
もっとも私の行う「非常識」と彼女が嫌いな「非常識」とは少しニュアンスが違いました。
彼女が許さなかったのは、並んでいる列を乱したり、電車の座席に座り方が悪かったり、道に吸殻やゴミを捨てたりすることでした。
私もそうした行為は許せない性格です。
もっと大きな問題もありました。

うまく書けないのですが、ともかく正義の人でした。
その矛先は政治家やタレントなどにも向けられていました。
食べ物を粗末にする番組にはいつも怒っていました。
パイの投げあいの場面を見ると本当に怒り出しました。
野球の優勝チームのビールの掛け合いなどは彼女の受け入れるところではありませんでした。
おかしな格好をして出てくるタレントも嫌いでした。
言葉遣いもうるさかったです。

間違ったことをしたのに謝らない人は大嫌いでした。
それもただ謝るのでは満足しませんでした。
私は思い込みが強い人間なので、よく間違いを犯しますが、間違いに気づいた途端に言動が豹変し、すぐに「ごめん」というタイプです。
しかし、節子は、そんな軽い謝り方はだめだといつも怒りました。
謝るなら心を込めろというのです。

安倍首相の記者会見を見ていた娘が、お母さんが見ていたら、安倍さんはどうして謝らないのだろうと言うねと言い出しました。
そういえば、朝青龍も謝らないですし、最近はみんな謝らなくなりました。
謝る文化が消えつつあるのでしょうか。

テレビの安倍さんをみながら、できもしないことを引き受けたらだめだよね、と娘たちと話していて、実は自分もその過ちをしてしまったことに気づきました。
節子を治すといいながら、治せなかったのです。

私はいま、毎日、節子に謝っています。
節子を守ってやれなかったことを心から悔やんでいます。
取り返しのつかない間違いでした。
一生謝り続けるつもりですが、まあ以前と同じく、軽い謝り方なので、節子は怒っているかもしれません。
ちなみに、謝るのは節子のためではなく、私のためなのです。
取り返しのつかない間違いも、すべて節子は許してくれるはずですから。
それも私たちのルールでした。

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2007/09/13

■節子への挽歌9:安倍首相に節子のつめの垢をせんじて飲ませたい

安倍首相が突然辞任しました。
そのことで節子と話し合えないのがとても残念です。
と言うのは、節子は安倍首相に不安を持っていたからです。
節子の小泉さん嫌いは私の影響がかなりありましたが、安倍さんへの不信感は私の影響は全くありません。
節子は安倍首相の言動に生活を感じなかったのです。
テレビでの話し方に最初から違和感を持っていました。
それは理屈ではなく直感でした。

節子は人生において、一度だけ、選挙を棄権しました。
それが先の参議院選挙でした。
病気で歩けなかったので投票所に行けなかったのです。残念がっていました。
当日の朝まで迷っていたのですが、とても行けるような状況ではありませんでした。
しかし、選挙結果には満足しました。首相続投には不満でした。

節子は選挙には必ず行きました。
選択基準は、生活感覚でした。そして、その人の誠実さでした。
節子はともかく「生活者」だったので、着飾った言葉は嫌いでしたし、実体を感じられない難しい言葉は好きではありませんでした。
理解できない言葉にはだまされませんでした。
私の話も横文字が多すぎるといつも批判していました。
生活者は言葉ではだませないのです。

節子は、安倍首相には首相としてのイメージが感じられないといっていました。
なぜ同世代の女性たちが安倍さんを支持するのかいぶかっていました。
節子は、安倍さんを首相として認めていなかったのです。
そして、その節子の予想通り、安倍首相は無責任に使命を投げ出しました。
生活者の直感は真実を見抜くものです。

私自身は、今回の辞任は何の驚きもなく受け止めました。
ただ政治が崩壊しているだけの話です。
自民党議員とそれを支援していた国民の共演でしかありませんし、予想されていたことですから。
驚いている人には、あなたたち(私たち)が演出したことでしょうといいたいです。

ただ、節子の闘病のがんばりに付き合ってきた私としては、こんななげやりな生き方をしている人間を見るとただ悲しくなるだけです。
節子のがんばりは何だったのか。
やりきれない気持ちです。

しかし、節子に比べると、安倍首相はとてつもなく可哀想な人なのかもしれません。
安倍首相に比べると、節子の人生は誠実で立派でした。

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2007/09/12

■節子への挽歌8:欽ちゃんは1日でいい、でも私は毎日。

欽ちゃん球団が、野球の全日本クラブ選手権で優勝しました。
欽ちゃんがテレビで嬉しそうに話しているのを見て、また節子のことを思い出しました。

欽ちゃんは今年の24時間テレビのランナーになって、走りました。
最後は辛そうでしたが、完走を果たしました。
そのテレビを闘病中の節子は見ていましたが、その終わりごろにフッとつぶやきました。
「欽ちゃんは1日がんばればいい。でも私は毎日がんばらないといけない」。
そう言って、テレビから目をはなしました。
その言葉は、私には忘れられません。

毎日がんばっている人がいます。
欽ちゃんは1日で完走できましたが、完走できずに毎日、走り続けている人がいます。
節子は完走できずに息を引き取りました。
節子さんも完走できたんだと慰めてくれる人がいるでしょうが、
完走できたかどうかは一緒に走っていた私にはよくわかります。
無念で辛いことですが、節子は完走できませんでした。
その事実は否定できません。

しかし、完走できなかったから努力が報われなかったというわけではありません。
努力やがんばりは、その行為自体によって報われていると私は思っています。
節子もそう思っているはずです。

節子は医師たちが驚くほどに気丈夫でした。
弱いところがある半面で、辛さに耐える人でした。
耐えながらも、弱音を吐くという素直さもありましたから、私は節子の弱さと強さをよく知っています。
にもかかわらず、いろいろと誤った判断をしてしまったことをいま悔いています。

欽ちゃんは1日でいい、でも私は毎日。
節子の、その時の思いを思い出すたびに、涙がとまらなくなります。
そして、そういう人たちが、節子の他にもたくさんいることを思い出します。
節子の言葉には、そういう人たちへの思いが感じられました。
節子はいつも、いろいろな人への思いを忘れない人でした。

節子は毎日をほんとうに真剣に走り抜けました。
完走はできませんでしたが、その毎日が彼女と私の誇りでした。
毎日がんばっている皆さんがもしいたら、ぜひとも節子のようにがんばってほしいと思います。
節子もそう思っているはずです。
そして仮に完走できなかったとしても、完走以上の大きなものを得ることができるように思います。

いまは何を見ても、何を聞いても、節子のやさしい顔が私の頭を覆ってしまいます。
ほんとうに、やさしくて強い人でした。

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2007/09/11

■節子への挽歌7:妻に風になってほしくありません

「千の風になって」は好きな歌の一つです。
闘病中の女房も好きでした。
しかし、私は死んだ後、風になりたいとは思っていません。
女房がどう思っていたかは残念ながら確認しませんでしたが、やはり風にはなりたくないと思っていたと思います。
なぜなら私たちは、輪廻転生を確信しているからです。
私は、来世でも今生の女房だった節子にプロポーズするつもりです。
もっともそれが受け入れられるかどうかは、残念ながら確実ではありません。
女房は生前、私の数回の提案に対して、「考えておく」としか言わなかったからです。

解脱という言葉があります。
仏教では解脱が目的ですが、私たちは解脱よりも輪廻転生を望んでいます。
解脱の前に、まだまだやり残したことが多いからです。

女房は息を引き取る少し前に、家族にこう書き残しました。
「花や鳥になってチョコチョコもどってくる」
その話を告別式の挨拶で、私から皆さんに紹介しました。
ところが、その直後、司会の人はなんと、
「千の風になって・・・」と語り出したのです。
この葬儀は失敗だったと、女房にとても申し訳なく思いました。
私が司会をすべきでした。
参列者のお一人は、メールでこう書いてきました。

式場の“担当者”が「千の風になって」と言ったときに、
私の神経の束を無遠慮にはじかれたような、強烈な違和感を感じました。
「喪主のご挨拶」で「花と鳥」とおっしゃったのに、「それでもプロか!」と、
身体が熱くなるような思いでした。
一人ならず、何人かの人が同じことを言ってきてくれました。

今回、やや気が動転していたせいか、葬儀を葬儀社の人に任せてしまいました、
途中、いろいろとトラブルもあり、少しは進め方を変えましたが、大人気ないという思いもあって、大筋は任せてしまったのです。
しかし、この言葉を聞いた時に、反省しました。
節子にとって、とても大切な場だったのにとんでもないことをしてしまった、と悔やみました。

千の風になるというのは、本人が言うべき言葉です。
本人以外の人が言うべき言葉ではありません。
ましてや、故人のことを全く知らない「担当者」が言うべきことではありません。

花や鳥になる、と、風になる、とは同じようなものではないかと思う人がいるかもしれません。
そんなことはありません。
もちろん「風」になりたい人もいるでしょう。
しかし、何になりたいかは、その人の人生に深くつながっているのです。
そんなこともわかっていない人に、葬儀の進行を任せたことが悔やまれてなりません。
葬儀は、やはり自分でしっかりと企画しないといけないですね。
葬儀関係の仕事をしている友人から、佐藤さんらしくない失敗ですね、といわれそうです。
恥ずかしいかぎりです。
言うまでもなく、今回の失策の責任は、私にあります。
妻に謝りました。

これからもまだまだミスが続きそうです。

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2007/09/10

■節子への挽歌6:突然の死

愛する人の死は、いつも突然にきます。
私の妻は4年前に胃がんの手術をしましたが、以来、常に死を意識していました。
彼女も、私も、です。
しかし、私自身は、絶対に死から守ろうと思っていました。
妻もまた、絶対に元気になると前向きに考える人でした。
ですから、2人とも死については一切考えないようにしていました。
特に私の場合は、冷静に考えれば、死がすぐ近くに来ている、その時まで、妻が元気になることを確信していました。念ずれば奇跡は起こる。
その確信が消えたのは、妻が息を引き取る数分前です。

突然に愛する人を失う事故や事件の報道を耳にするたびに、その無念さを、いつも思っていました。
最後の会話もできず、両者にとって、どんなにか無念だったことか。
しかし、長い闘病生活を耐えて、息を引き取った女房との別れもまた、最後の会話をする間もない、突然の別れだったのです。
愛する人との別れは、いつも突然なのです。

妻が、おそらく死を意識したのは8月の中ごろです。
死など、毛頭思いもしない、能天気な私のために、彼女はそれを意識の底に抑えたまま、生きる努力をしてくれました。
生きることは自分のためではない、愛する人のためなのです。
彼女がまだかなり元気だったころに、私にそう語っていました。
妻は私には人生の師でした。
生き方において、私はたくさんのことを教えてもらいました。
私が教えたことも決して少なくありませんが、本質的なことでは教えられることが多かったです。

妻が残してくれたさまざまなものを、むすめたちと少しずつ整理しだしました。
彼女もまた、突然の死だったことがよくわかります。
彼女の性格からすれば、死を予感して、きちんと身支度したかったのかもしれません。
しかし、あえてそれをせずに、思い込みが強い私に合わせてくれました。
治してやるなどという、できもしない約束に辟易しながらも、それが実現するように、がんばってくれたのです。
そして、突然の死。
突然だから耐えられているのかもしれませんが、無念でなりません。

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2007/09/08

■節子への挽歌5:静かな1日

妻が息を引き取って、6日目です。
やっと少し落ち着きました。
今日は4人の人が節子に会いに来てくれました。

お通夜、告別式には、あまりご案内をしなかったにも関わらず、たくさんの人が来てくださいました。
当初は、こじんまりとした見送りを考えていましたが、ちょっと大きくなってしまいました。
しかし、形だけではなく、心のこもったものになったと思います。
節子はきっと合格点をつけてくれるでしょう。
自宅に来てくださって、お見送りしてくれた方も少なくありませんでした。
告別式でお話したことを思い出しながら、私のホームページに再録しました。
よかったら読んでください。

妻の葬儀でしたので、私の知人友人には原則として連絡はしませんでした。
そのため、後から知った人も少なくないと思います。
ご連絡差し上げられなかった方々には、深くお詫びいたします。
これは節子の強い希望でもありました。

告別式が終わり、少しずつ訃報が広がっているようです。
今朝も花が届きました。
このブログやCWSコモンズのホームページを見て、知ってくださった方からのご連絡もあります。
それで、このブログも少しずつ書き続けることにしました。
しばらくは個人的な日記になるかもしれませんが、お許しください。

自宅で呆けています。
何かしていないと、涙が途絶えないのです。

お近くにきたらお立ち寄りください。
何も手がつかず、虚脱していますが、できるだけ自宅にいるようにしています。
11日はちょっとでかけますが。

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2007/09/06

■節子への挽歌0:私にとって人生で一番悲しい日

CWSコモンズに書いたように、信じがたく、残念なことですが、私にとってはかけがえのない妻が息を引き取りました。
気持ちが落ち着いたら書き込みを再開します。
医療も葬儀も悲しいことが多すぎました。
私の妻は「花や鳥」になりたいと言っていたので、最後にその話をさせてもらいましたが、
葬儀社に頼んだら、いま流行らしい風にさせられてしまいました。
さびしい時代だと思いました。

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